木村幸比古(霊山歴史館副館長)

 薩摩が動けば日本が変わる。その中心的存在が西郷隆盛であろう。上野の西郷像に示されるように、その熱いまなざしで世界を見つめている。身長は五尺九寸(178センチ)体重は三十二貫(120キロ)。首まわりは19インチで、洋行帰りの友人からの土産のワイシャツをよく着ていたという。血液型はB型で繊細な性格である。頭を丸めたきっかけは、かわいがっていた弟の吉二郎が戊辰戦争で戦死を知り、深く嘆きまげを切った。

 明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法公布の恩赦で、西郷の西南戦争の「逆臣」の汚名がそそがれ、正三位を受けた。

東京都台東区の上野公園にある西郷隆盛の銅像
(大井田裕撮影)
 西郷の銅像といえば、三銅像が有名である。明治31年(1898)に建立された上野の像は高村光雲作で、犬は後藤貞行が手がけた。銅像は吉井友実らが発起人となり、宮内省から500円、全国2万5千人から寄付金が寄せられた。

 鹿児島・城山のふもとにある陸軍大将姿の西郷像は昭和12(1937)年に完成、鹿児島出身の安藤照の作品である。安藤は渋谷の初代忠犬ハチ公も作っている。銅像建設計画があがるや、銅像の築山づくりに延べ3万4千人の県民が奉仕作業を行い、対岸の大隅半島から花崗(かこう)岩550個を運び入れた。2キログラムほどの小石は海岸から築山までの6キロの距離を、小中学生が横一列に並んで手渡しで運んだという。そして8年の歳月をかけ、県民総出で作りあげた軍服姿の西郷像は、歴史家の海音寺潮五郎も絶賛するほどの出来映えであった。

 近年では、鹿児島県霧島市溝辺町に建つ「現代を見つめる西郷隆盛像」がある。昭和52年(1977)に完成した像は古賀忠雄の作品である。関西鹿児島県人会の有志が発注したが、発起人の死去により10年近く富山県高岡の鋳造所で眠っていた。当時、鹿児島選出の迫水久常参院議員(元書記官長)の関係者から私に建設所の相談を受けた。はじめは西郷のゆかりの地の京都清水寺と協議したが、本堂の屋根より高かったため景観問題で断念した。そこで、私の勤務する霊山歴史館の裏山に設置する案が浮上したが、銅像を設置した場合の公園の広さ不足と、地震帯が走る地質のせいで、建設が不可となった。その後、鹿児島空港近くの旧溝辺町の最適の地に建った。

 実はもう一つ、上野の像の10年前の明治22(1889)年に西郷と親交があった嵯峨実愛(さねなる)の弟の植田楽斎が発起人となり、清水寺参道広場(清水寺駐車場)に馬上姿の西郷像の建設を試みた。工学士河合浩蔵の西洋風設計で、樺山資紀(かばやますけのり)と九鬼隆一の呼びかけに西郷従道も賛同していたので、西郷の未亡人イトも軍服姿の西郷像の原図を見ていたことになる。ところが植田が死去したために実現せず、幻の西郷像となった。