(産経新聞 平成7年12月20日掲載)
 「わたしたちの震災報道はまだ始まったばかりです」。神戸新聞社会部長の橋田光雄さん(49)は1年を振り返ってこう語った。阪神大震災では、なお多くの人々が不便な生活を強いられ、神戸新聞も臨時編集局での新聞づくりを余儀なくされている。橋田さんは全国的なメディアに対して、政府や世論を突き動かす震災報道の継続を訴えたいという。
大きなビルが大通りをふさいで横倒しになった=平成7年1月18日、神戸市中央区
 神戸新聞本社だったJR三ノ宮駅前の新聞会館は解体されてすでになく、跡地は駐車場として使われていた。神戸新聞の臨時編集局は、それより少し西へ行った神戸駅南口。市が再開発し3年前にオープンした「ハーバーランド」の高層ビルのひとつにある。

 臨時とはいえ、新しいビルのフロアだから、心地よさそうだ。15階の編集局には記者がワープロをたたく音、絶え間なく鳴る電話と日常が戻っている。ただ、被災した人々のことを踏まえ年賀状の自粛を呼びかける張り紙が、1月17日の震災を思い起こさせた。

 「日々ニュースを追いかけているといっても、漫然としがちな日常だった。それが震災でゼロになりました」。橋田さんは淡々と語りはじめた。神戸新聞にとってこの11カ月は「新聞づくりを根底から問い直された日々だった」という。

建物全体がめちゃくちゃに崩壊した三菱銀行兵庫支店=1月17日、神戸市兵庫区
 電話が使えず、ネタは文字どおり足で探す。被災地にどっぷりつかって被災者の話に何時間も耳を傾ける。報道にあたる神戸新聞自体が被災企業であり、記者自身が被災者だった。

 「メディアは多くの場合、安全な取材基地を確保して取材に当たり、大所高所から、ものを論ずるが、今回は違った。被災を共有することで被災者の目線という視点が自然に生まれた」と話す。従来の客観報道を超えた「生活情報に大きなスペースをさき、徹底的に被災者の立場に立つ」というスタンスが生まれた。
ライフラインが断たれ水や食料を求めて列をつくる被災者=平成7年1月18日、神戸市長田区(本社ヘリから)
 家が倒壊した社員も無事だった社員も、出社を家族に引き止められ、けんかして、それでも新聞をつくるため駆け回ったという。橋田さんも母を亡くした。

 震災の朝、一人暮らしの母のところに電話を入れ、呼び出し音がしたので、家はつぶれていないと判断、「どこかに避難しているだろう」と楽観して出社した。社会部長として一刻も早く現場を仕切らなければならない立場でもあった。

 「いま思えば、呼び出し音しかしなかったことを疑問に思うべきだった。どこかで自分をごまかしていた部分があったのかもしれません。高校の同級生からはあとで、『なぜ、母親のところにいかなかったのか。ばかやろう』としかられました。同居していたら…と後悔しています」

 神戸新聞では現在も震災関連記事が大きなスペースを占める。比較的被害の軽い地域の読者からは「震災報道はもういい」との声も寄せられるが、橋田さんは「被災地以外の人にも納得して読んでもらえるような普遍性のある震災報道が課題。日々のニュースのほかにこの地震がもたらしたもの、復興への問題点を提起したい」と話す。

 また、全国紙など、在京のメディアに対しては、一過性でない継続した震災報道を強く訴える。「北海道・沖縄開発庁長官がつとめた“震災担当大臣”がなくなり、中央が地方を見る目が冷たくなったと感じる。復興への道はまだまだこれから。政府のおひざもとにある在京紙には、とくに活発な報道、検証をお願いしたい」

 ところで、震災は神戸新聞に思わぬ副産物をもたらした。社員の結婚ラッシュである。総勢46人、若い記者が多い社会部の場合、今年5人が結婚、来年もすでに3人の結婚が決まっている。橋田さんはちょっぴりはにかみながら「神戸のほかの企業も結婚が目立つらしい。物質文明の崩壊を目の当たりにして、人と人とのきずなの大切さを痛感したんでしょう」といった。(長戸雅子)