コメントを取るため、寝台列車に飛び乗って取材もする。
 内部告発者を説得するため、未明から自宅近くに待機しておいて、早朝散歩のタイミングを狙って同行し、これを何日も繰り返す。反社会勢力の人間を取材するときは酒がつきもので、朝まで付き合って人間関係を構築する。

 「あっ、時間だ」と言って席を立てば、相手は青筋を立てて怒り、取材にはならない。

 1行のコメント、核心をつくコメントを取るために24時間を費やすのが記者の仕事であると同時に、手抜きして「無理でした」「不在でした」「取材拒否です」と言えば、それでも通る。

 労働時間は「自己の裁量」に委ねられるのがジャーナリストという仕事であり、私は自己の経験から、一律に労働時間に上限を設けることに反対する。
※iStock
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 かの自民党筆頭副幹事長、小泉進次郎氏が4年前、こんな発言をしている。
 東大の学園祭である五月祭で、投資家の瀧本哲史氏との対談イベントのあと、聴衆から「政治家を目指しているが、大切なモノは何か」と問われたときのこと。「体力が一番必要です」と笑顔で応じてから、こう答えている。

 「『ウチの会社は週1日しか休みがないブラック企業だ』なんて話を聞きますが、政治家はもっとブラック(笑)。休みなんてない。なおかつ、衆議院には解散総選挙という抜き打ちテストもある。ある意味で非正規職の立場です。そういうリスクを納得して、政治の世界に入らないといけない。僕も政治家の家系だから想定しうる部分はありましたが、入ってみて、予想以上の大変さに日々襲われています。でも結局、自分で決めたことなんだから」(「週刊現代」2014・6・7号)

 政治家をジャーナリストに置き換えれば、労働時間の長短で計れない職業であることがおわかりいただけるだろう。

  現代社会は多様化の時代だ。性的マイノリティーの存在を認め、「みんなちがって、みんないい」という金子みすずの詩を引きながらも、「働き方改革」となると、「みんな同じで、みんないい」という大合唱になる。

 多様性が叫ばれる一方、なぜ「労働時間」だけが一律に長短で論議されるのか。なぜ「みんなちがって、みんないい」という発想をしないのか。0か1かというデジタル時代が、物事の価値観を画一化しているように私には思えてならないのだ。