鞆滞在中の義昭は、毛利氏と連絡するため外交を担っていた僧侶、恵瓊(えけい)との関係を密にした。相変わらず義昭は精力的に活動し、上杉氏、北条氏らの有力大名に援助を呼び掛け、打倒信長の檄を飛ばし続けたのである。

 一方で、義昭が力を注いだのは、室町幕府再興の下地となる組織作りであり、手始めに毛利輝元に対して副将軍職を与えた。天正10(1582)年2月に書き残された吉川経安の置文(「石見吉川家文書」)には、「毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り(以下略)」と記されている。

 室町幕府再興を目指す義昭にとっては、将軍の存在をアピールする意味での副将軍であり、大きな意味があったのかもしれない。実は、副将軍については、この時代に実際に存在したのかしなかったのか、よくわからない職でもある。

 室町時代の最盛期、将軍の配下に管領が存在し、将軍の意を守護らに伝え、逆に守護らの意見を取りまとめて将軍に伝達するなどしていた。しかし、享禄4(1521)年に細川高国が摂津国大物(尼崎市)で横死して以後、基本的に管領は設置されていない。
毛利元就の孫、輝元像=山口県萩市・萩城跡
毛利元就の孫、輝元像=山口県萩市・萩城跡

 応仁・文明の乱以降、守護は自身の領国へ戻り、室町幕府の全国支配のコントロールはあまり効かなくなっていた。以後、将軍を支えたのは特定の大名たちで、義昭の場合でいえば、最初は織田信長であり、のちに毛利輝元になった。

 この頃、将軍を支えるのは単独の大名であり、それはかつての「管領」ではなく「副将軍」と認識されたのだろうか。同じような例は、義昭以前に歴代将軍を支えた大内義興や六角定頼などの例で確認できる。ところが、大内義興らには「副将軍」が与えられておらず、輝元に与えられた「副将軍」の意義はやや疑問であるといえる。

 自然に考えるならば、「副将軍」とは義昭が輝元に気を良くしてもらうために言い出したのかもしれない。しかし、注意すべきは輝元が副将軍に任じられたことを示す史料は、天正4年から6年後に成立した回顧談的なものに過ぎない。副将軍職を過大評価するのは、少々危険ではないだろうか。

 そして義昭の執念は、やがて「鞆幕府」という形で結実した。いちおう現役の将軍である義昭は、鞆に御所を構えて幕府を再興し、かつてのように多くの奉行衆・奉公衆を擁した。いうなれば幕府の必要条件を整えており、まさしく「鞆幕府」と言うべき存在かもしれない。ところで、「副将軍」の輝元以外の「鞆幕府」の構成員は、どうなっていたのだろうか。

 「鞆幕府」の構成員は、義昭の京都時代の幕府の奉行人・奉公衆、そして毛利氏の家臣、その他大名衆で占められていた。毛利氏のなかでは、輝元をはじめ吉川元春、小早川隆景、などが中心メンバーで、三沢、山内、熊谷などの毛利氏の有力な家臣も加わっていた。

 ここで重要なことは、彼ら毛利氏家臣の多くが義昭から毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)・白傘袋(しらかさぶくろ)の使用許可を得ていることである。そもそも毛氈鞍覆・白傘袋の使用は、守護や御供衆クラスにのみ許され、本来は守護配下の被官人には許可されなかった。本来、毛利氏の家臣が許されるようなものではなかったのである。