長谷川三千子(埼玉大学名誉教授)
 昭和21年、東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門は哲学。埼玉大学名誉教授。平成8年、著書「バベルの謎-ヤハウィストの冒険」で和辻哲郎文化賞受賞。共著に「ちょっとまって!夫婦別姓-家族が『元気の素』になる」など。 

 「勝てば官軍、敗(ま)ければ賊軍」-誰もがおなじみの古い格言ですが、これはいまなお真理である。平成25年6月3日付本欄で、櫻田淳氏はそう喝破しておられます。戦いに勝った者は、自分たちの「歴史認識」を掲げる権利をうる。それに不満があるなら次に勝てばよい。櫻田氏の提案は実に明快です。

「勝てば官軍」超えた問題


 もちろん櫻田氏は、だからすぐにも戦争をせよ、などと言っているのではありません。それは「経済、産業、技術上の優位の維持、さらには対外広報・文化・芸術・スポーツなどを通じた対外影響力の確保という意味の『競争』を含む」のだと氏は述べて、現在の安倍晋三政権が推し進めている「平成版『富国強兵』路線」は、そうした総合的な「勝ち」を目指すものであり、焦って〈歴史認識合戦〉などする必要はないのだ、と説いておられます。まことにもっともな見解といえるでしょう。

 ただし問題は、それがいかに途方もなく難しいものであるか、ということなのです。

 まず言うまでもなく、次に勝つための一番の柱となるのは軍事力であって、もし仮に世界最強の軍事力を持つ国になれば、実際に戦争をしなくても実質的に「勝つ」ことが可能となる、とさえ言えるわけですが、戦勝国が敗戦国にそんなことを許すはずがありません。わが国の憲法9条は、まさにそれを妨げるために占領者が与えたものであり、いまも日本はかつての戦勝国である米国に守ってもらって生き延びているのが現状です。最も肝心の軍事力という点で、わが国は「次に勝つ」どころのレベルではありません。

 ならば経済という分野ではどうでしょうか。例えば、かつて日本が経済において「独り勝ち」と呼ばれるような好成績を挙げていた時期がありました。しかし、その時、それを本当の「勝ち」につなげて、われわれ日本人が次の世紀の世界のあるべき形を自ら設計すべきだ、などと主張した人間がどれだけいたか? むしろそんな人が出てくるたびに、まわりの人たちは「シーッ、そんな思い上がったことを言うものじゃない」と必死で押さえ込んでいたのではなかったでしょうか?

敗戦国イコール戦争犯罪国


 事実、米国の立場になってみれば、自分たちが守ってやっている国が自分たちの富を存分に吸い上げて経済大国となり、それを鼻にかけて俺様づらをするなど、許せることではありません。経済において「次に勝つ」などということは初めから不可能だったのです。

 さらに対外広報ということになれば、わが国にはあらかじめ敗戦国としての地位にふさわしい広報しか許されていないという状況にある-これは昨今、イヤというほど思い知らされたところです。

 ならばわれわれは未来永劫(えいごう)「賊軍」の汚名を背負ったまま生きなければならないのでしょうか?

 このような窮地に立たされたときに有効なのは、われわれを窮地に追い込んでいる、その考え方の枠組み自体を明るみに出し、検分する、ということです。ここでもそれを実践してみましょう。

 実は、いまわが国を悩ませている〈敗戦国イコール戦争犯罪国〉という図式は、昔ながらの(ある意味では健全な常識とも言える)「勝てば官軍」とは次元の異なるものなのです。この図式は今から百年足らず前、第一次大戦の戦後処理において初めて登場してきたものなのですが、それは次のような論理で成り立っていました。

ベルサイユ条約の条項が元凶


 よく知られている通り、第一次大戦は、どうしてこんな大戦争になってしまったのか、歴史学者も首をひねっている戦争です。どこか一国のせいで起こったような戦争ではありません。ところが、戦勝国の英仏両国は、経済が疲弊していて莫大(ばくだい)な賠償金を欲していました。そこで、歴史上にも例(ため)しのない、自軍の戦費一切を支払わせる「全額賠償」を要求します。そして、その根拠として、敗戦国ドイツの侵略がこの戦争の原因だ、戦争責任はすべてドイツにあるのだ、と主張する。これがベルサイユ条約のいわゆる「戦争責任条項」(ウォー・ギルト・クローズ)として確定されるのです。

 これはもはや「勝てば官軍」といった無邪気な自己主張ではありません。当時の日米両国はこの途方もない不公正と欺瞞(ぎまん)に反対を唱えたのですが、英仏に押し切られてしまいます。そして、この不公正な図式は、第二次大戦の戦後処理において、もう一度繰り返されることになるのです。

 われわれは単に敗戦国として、このような不公正に異議を唱えているのではありません。これは人類史上の汚点であるばかりではなく、21世紀が引きずってはならぬ前世紀の遺物システムだ、というのが重要な点なのです。これは世界全体に根本的な知的欺瞞を強いるものであり、放置すれば、自らの不法な要求を「力」に任せて通そうとする国を防ぐことができなくなってしまうのです。

 〈歴史認識合戦〉をする前にやるべきことは、世界の知的欺瞞のベールをはぎ取ることでしょう。