高橋史朗(明星大教授)

 2012年12月、『菊と刀』の著者ルース・ベネディクトの文書を研究するため、米ニューヨーク州のヴァッサー大学を訪れた。英国の社会学者ゴーラーと米国の文化人類学者ミードが『菊と刀』に与えた影響について研究するためである。わが国の戦後の教育改革をリードしたGHQの民間情報教育局の幹部は、対日心理戦を主導し、「精神的武装解除」という目的を達成するために、日本人の「国民性」に起因する侵略戦争への「反省」を促すという宣伝戦略を立てた。

 『菊と刀』と『新教育指針』(教師指導用マニュアル)とウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争贖罪(しょくざい)情報宣伝計画)がこの戦略遂行上、大きな役割を果たした。

 ベネディクトは戦時情報局の「国民性研究チーム」の一員として、「日本人の徹底抗戦の決意をくじく」ための対日宣伝のために、「菊と刀」に象徴される国民性の矛盾の解明を研究課題とした。日本人の国民性には「奇怪な矛盾」があると同チームは考えたが、その土台となり「バイブル」となったのが、ゴーラーの論文「日本人の性格構造とプロパガンダ」であった。

 米国の対日占領政策の骨格を決定した太平洋問題調査会の昭和19年12月の「日本人の性格構造」をテーマとする会議(ミードが調整役)で指導的役割を果たしたゴーラーが『菊と刀』に決定的な影響を与えた。

 家庭、学校、地域社会が教育の3本柱であったが、一体なぜ教育基本法から家庭教育が排除されてしまったのか。厳しい躾(しつけ)や罰を与える伝統的子育てによりトラウマが生じたという仮説に、フロイト理論に基づく強迫的な「神経症患者」(集団的な精神障害)という「劇的な概念」(ジョン・ダワー)が付け加えられ、それが「暴発」して侵略戦争になったという、とんでもない幻想が広がってしまったという背景があった。

 前述した会議を主導したゴーラーやミード、精神分析学者らの主張が「日本人の精神年齢は12歳」というマッカーサーの理論的根拠となり、『菊と刀』にも大きな影響を与えた。

 また、「新教育指針」は、戦争の原因は国民性、すなわち「日本人の物の考え方」の欠点にあったとして、封建的、非合理で独りよがりなどを強調し、このような「国民性」を「反省」して「改造」することを目指した。この「精神的武装解除」戦略はみごとに奏功し、日本人の美しい心、道徳の中核であった報恩感謝、義務、責任、名誉などの民族の価値観に巨大な疑問符が投げかけられ、自信と誇りを喪失し、「道義国家」日本は戦後、経済優先の「町人国家」になってしまった。

 この戦後の呪縛からの脱却、国民精神の復興なくして「美しい国・日本」の再生はない。日本の家族制度を男が女を支配する階層制度として捉え、「結婚とは、子供をもうけて“孝”を果たすこと」と捉えたベネディクトの家族観、結婚観には「ジェンダー」研究の先駆者ミードとゴーラーの影響があったと思われる。

 ベネディクト文書研究に加え、英サセックス大学のゴーラー・コレクション、米議会図書館にあるミード文書の研究、また、ベネディクトとは日米双方で対照的に評価されたヘレン・ミアーズの文書(米スワースモア大学所蔵)との比較研究調査のために数カ月渡英、渡米し、これらを集大成した第1次史料に基づく実証的研究の書を世に問いたい。