七世 竹本住大夫(人形浄瑠璃「文楽」太夫(昭和21年~平成26年)人間国宝)
山折哲雄(宗教学者・評論家)
(文・構成 樋渡優子)

*「文楽」では、職業・職分をあらわす場合は“太夫”、人名は“大夫”と表記しますが、この対談では煩雑になるのを避け、住大夫師匠のご了解を得て、大夫に統一します。


人間、楽したらあかん


山折 このたびの文化勲章、まことにおめでとうございます。「文楽」では初めてと伺いました。

住大夫 亡き師匠がた・先輩がたを差し置いて、おこがましいです。文化庁の方からお電話を頂いたとき、「私、もう引退してまんねんけど……」と申し上げましたら、「それはわかっています」と言われました。

引退記念で出版された『人間、やっぱり情でんなぁ』
の表紙(文藝春秋刊)
山折 私はことし1月に、この国立文楽劇場の公演に伺って、お師匠さんの語りをお聴きしました。脂の乗り切った円熟の語りで、それからまもなくして、大夫を引退なさると聞いて、本当に驚いた次第です。

 今日は引退を記念して出されたご本『人間、やっぱり情でんなぁ』(文藝春秋)を精読して参りました。とくに昭和20年、30年代のお師匠さんの貧乏時代のすごさを通して、「文楽」が背負ってきた厳しい歴史というものに思いを致しました。

住大夫 文楽は戦後の昭和24年、組合問題がもとで三和会と因会の二つに分かれました。私は父親の先代住大夫とともに組合派の三和会に所属しましたが、いわゆる“独立劇団”になったわけです。

山折 因会のほうは、興行主の松竹派ですね。

住大夫 三和会、因会それぞれに中心となる方々はおられましたが、80人程度の一座が半分になってしまっては赤字続きです。昭和38年に大阪府と大阪市、NHK、関西の財界などが後押しする形で合同して、財団法人文楽協会ができましたが、それまで14年もの間、行動を別にしました。三和会は公演先を求めて、全国津々浦々まで1年の大半を巡業して回りました。経済的にも肉体的にもほんまにしんどい時代でした。山折先生はどちらのご出身ですか。

山折 いまは京都に住んでおりますが、出身は岩手県の花巻です。

住大夫 東北には三和会でよく公演に参りました。東京の上野を夜出発する鈍行列車に乗って行きました。

山折 たいがい仙台止まりだったとご本にありますね。

住大夫 仙台に朝5時か6時ごろ着いて、舞台用品や小道具を駅からその日の公演場所まで、大八車に乗せて自分たちで運び入れて、旅館で少し休憩したら、そのまま昼・夜公演。外題(演目)は昼四つ、夜四つです。

山折 それはすごいなあ。

住大夫 私ら若いのは、昼二つ夜二つ出て、真ん中のあいてる時間は舞台に出て、人形遣いの手伝いをしました。

山折 文楽には大夫と三味線、人形と三つの役割がありますが、大夫さんはふつうは客席から見て、舞台右手に張り出した場所で語っておられるわけですね。

住大夫 はい、正面の舞台では、人形遣いが人形を遣って芝居してます。文楽では、三人遣いと申しまして、人形のかしらを持つ主遣いと左手と足遣いの三人で一体の人形を動かしますが、戦後、二派に分かれてからは手不足で、人形遣いの数が足りまへん。

 「今ごろは半七つぁん、どこにどうしてござろうぞ」のお園のくどきで知られる「酒屋」(『艶容女舞衣』)のさわりでも、人形が仰山、出てきます。そのなかの動かん人形の左手や足を、僕ら大夫が黒衣に黒頭巾かぶって持ちましたけど、もうクタクタで、「人形の足よりこっちの足、持ってほしいわ……」と思うてました(笑)。

山折 即席の人形遣いに早がわりして。

住大夫 でもそれをやったおかげで、「人形はこの場面でこんな振りすんねんなぁ」とか、否が応でも大夫の語る浄瑠璃と三味線が、耳にはいってきます。これは大夫として、とても勉強になりました。

 そのかわり昼の部がすんで、夜の部までのあいだに楽屋で仮眠しました。ほんまは駆け出しが楽屋で寝るなどもってのほかですし、途中で寝たら、夜の部で語るとき、声が詰まります。ただ、毎日寝不足してるとわかってるので、三味線の喜左衛門師匠(二代目・野澤)がたが、「いまのうちに寝とき、寝とき」と言うてくださって……。

 声はガラガラになりますけど、そのガラガラ声で舞台に出るのが、また勉強でんなぁ。コンディションの悪いときに演ることが、ええ薬です。やっぱり人間、楽したらあきまへん。

山折 今回、本で初めて知ったのですが、大夫さんが座って語られているとき、爪先立ちだとは存じませんでした。その姿勢で長時間はつらいでしょう。

住大夫 初めは座れませんでした。語るとき大夫は、合びき(尻引き)をお尻に入れて、腰をぐっと伸ばして、足を爪先立ちにします。足の指先と腰と下腹に力をいれて、息をいっぱい吸うて、発声するんです。

山折 合びきとはどんなものですか。

住大夫 お風呂で使う小さな木の腰掛けみたいなもんです。

山折 ああ、わかりました。そうしないと声が出ませんか。

住大夫 というより、腰が決まりません。腰が決まらんと声が出ません。それと大夫は寝不足したら絶対にあきまへんねん。舞台でふらふらします。

山折 以前、永平寺で参禅の手ほどきを受けて、毎朝、1時間ぐらい、坐っております。その際、足の裏を上に向けて深くあぐらを組む結跏趺坐にしますが、尻には座布を敷きます。でも、あの座禅の座り方では声は出ません。腰をすっと落としてしまうと、声は出せなくなるのですね。

住大夫 はい、大夫は腰が伸びてます。何でもそうでしょうけど、体が二つ折りになったらあきませんな。息が出ぇへんし息が引かれへんし、やっぱり上半身の力を抜いて、胸を張って、腰を伸ばして息を出しませんと。

山折 それでマイクを通さずに、大ホールの隅まで声を届かせる。呼吸は腹式呼吸ですか。

住大夫 そうです。いまは腹式呼吸ができん大夫がいて、情けないですわ。「慌てて息引かんでも死なんから、もっとゆっくり息引け」と言いますけど。三味線がツトン、トン、トン、ジャーンときて、急に「ヒッッ」と息引くさかいにそれではいかんと。(太ももをゆっくり叩いて拍子を取りながら)ツトントントンジャーンと、浄瑠璃(大夫の語る物語)には“拍子”がなかったらあきません。

 文楽の大夫は役者さんとは違うて、せりふにあたる詞も節もぜんぶ一人で語りますので、変化をつけていきませんと、一本調子でいったらお客さんも退屈するし、自分もやりにくいです。

山折 息継ぎの問題はあらゆる芸能の基本のようですね。

浄瑠璃とリハビリ


山折 大夫さんは語っている途中で、心臓が止まることもあると聞きますが。

住大夫 脳に酸素が十分にまわらんようになります。大夫は心臓肥大が多いです。山折先生は、年はおいくつですか。

山折 83です。

住大夫 私は満90歳になりました。こうしてお見受けしてますと、先生は元気やなあ。ええ顔色ですわ。

山折 そりゃ若いですもん(笑)。お師匠さんより七つ下です。90といえば、師匠は親鸞聖人と同じお年ですよ。

住大夫 こっちは悪い上人ですけど(笑)。私が人生で、師とも兄とも慕ったお方に、薬師寺の高田好胤管長がおられます。大正13年生まれの同い年でんねん。

山折 ああ、生きておられたら、あのお方も90でしたか。

住大夫 住大夫になる前、私がまだ文字大夫を名乗ってた時分に、高田管長が「なあ文字さん、あんたの収入とわしの収入と、どっちが多い?」と訊かれました。「そりゃ管長のほうが多まっせ」と返事をしましたら、「なあ、坊主と芸人は金持ちになったらあかん。お客さんに金持ちになってもらい」と。

 ほんまにそのとおりでんな。とくに若いうちは裕福になったらあきまへんな。本気で努力せんようになります。いま、文楽にいる者らは結構すぎます。気楽すぎてあきまへん。

山折 NHKの「鬼の散りぎわ〜文楽・竹本住大夫 最後の舞台」や関西テレビのお師匠さんのドキュメンタリー番組を拝見しまして、あのお弟子さんに対する厳しい指導ぶりには、びっくり仰天です。何度見てもおどろきます(笑)。

住大夫 こないだ皇居に参内してのお茶会のときに、皇太子殿下が「きついリハビリ、トレーニングをしていらっしゃいますね。若い人の稽古が厳しいですねぇ」とおことばを掛けられました。「カメラが回ってますので、怒ったらあかんと思うてますねんけど、弟子が覚えへんさかいに、つい、『バカっ、どアホっ、目んで死ねっ』と言いまんねん」と申し上げましたら、雅子様がお笑いになられました。私は“文楽の鬼”と言われてます。

山折 アナウンサーの山川静夫さんがおっしゃったそうで。

住大夫 薬師寺の松久保(秀胤)長老がその前から、「文楽の鬼」と私を呼ばれてました。でもこの鬼も、2年半前に脳梗塞で倒れてからは駄目ですわ。

山折 しかし、みごとに回復されたではないですか。舞台に復帰されたのが倒れられてから、わずか半年後でしょう。

住大夫 病院の先生がたは「このお年でここまで回復しはったんは奇跡です」と言われました。80日間の入院中は、「もうあかんかいなぁ」「もういっぺん、舞台出たいなぁ」とそんなことばっかり思てました。ただ、リハビリが辛うて、言語のリハビリでは二度、泣きました。

 四十手前の若い女の先生に向かって、机たたいて、「先生、僕、なんでこんなことが言えまへんねん」と泣いたら、「岸本さん(師匠の本名)、感謝の念が足りませんよ。それだけ喋れてたらいいじゃないですか。あとはあなたの努力です」と本気で叱られて。

 初めは「ウ、イ、ウ、イ」「タタタ、テテテ、ツツツ」「パカラパカラパカラ」、これが言えませんでした。言えるようになってきたら、森外や芥川龍之介、太宰治の小説を読まされましたが、読まれしまへん。それで「先生、すんませんけど、浄瑠璃の本を持って来たらいきまへんか」と申し出ました。

山折 なるほど、自分に身近なもののほうがよろしいでしょう。

住大夫 「野崎村」(『新版歌祭文』)の床本(大夫の手書きの台本)を持っていって、先生には「これ見ておくれやす」と活版刷りの本を渡しました。浄瑠璃の本やったら、わりとすーっと言えまんねん。先生も驚いて、「すごいもんですねぇ。やっぱり体に染み込んではるんですねぇ」と言うてはりました。

山折 師匠が仰るとおりなんです。日本のことばは、もともと“語りの文学”から発していて、私は日本人の古典は、語りの文学だと考えております。芥川や太宰ではないんですよ。やはり日本の伝統ということでいえば、近松(門左衛門)の浄瑠璃に行くのではないでしょうか。

住大夫 吃又(『傾城反魂香』)という芝居がありまして、これは近松さんの作品です。又平は、腕はいいけど吃音の絵師です。その嫁はんのおとくがよう喋りまんねんけど、婿はんの又平のことを、「節のあることはどもり申さず」というくだりがあります。

 私も脳梗塞で口が不自由になってからも、浄瑠璃で三味線の節の付くところは割合、すっと言えます。詞(せりふ)の部分には三味線が付きませんので、「らりるれろ」が弱くなったりしてました。近松さんはあの時分から、えらいことを考えはったもんです。

近松は浄瑠璃らしくない


山折 ところが、師匠は“近松ぎらい”なんですね。

七世 竹本住大夫さん
住大夫 はい(笑顔で大きくうなずく)。

山折 こんどの本の中でも、近松についての部分はとても面白いところだと思いました。

住大夫 近松は読まして貰うぶんには、ええ文章です。きれいでねえ。ただ語るとなると「字あまり字足らず」で、解釈するのがむずかしいし、どう表現したらええか、ようわからんのです。

 ふつうの浄瑠璃は七五調で、「山あり川あり谷あり」の変化がありますけど、近松ものは変化がない。それをあえて変化をつけていこうとすると、近松らしい“匂い”が消えます。私はいたって覚えが悪いうえに不器用ですので、近松の作品には泣きました。

山折 ご本にありましたね。おそらく「この世の名残り、夜も名残り。死にに往く身をたとふればあだしが原の道の霜。一足ずつに消えて往く、夢の夢こそ哀れなれ」で有名な『曾根崎心中』の道行などを念頭におかれてお話しされたものと思いますが、近松の文章は七五調が薄いと。それは浄瑠璃、あるいは義太夫節本来の語りとは、ちょっと違うんだと師匠はおっしゃる。これは大夫でなければ出てこない鋭いご指摘だと、感心しました。

 江戸には常磐津、清元、新内などいくつかの浄瑠璃の伝統が残ってきたのに対し、上方では、竹本義太夫という大阪生まれの天才的な大夫が、大阪のことばで語った浄瑠璃である「義太夫節」ひとつに集約されたのでしたね。

住大夫 そうです。当時、上方にあった浄瑠璃の流派のいいところを義太夫師が取り入れられて、お一人で作り上げられた語りの型が、今日の私どもの「文楽」にまで300年間、伝わってきております。

山折 人形浄瑠璃は大夫さんの語りと三味線と人形の三つで成り立っていますが、この三者がまったく合致していてはよろしくない。少しずつずれているところがある。それがダイナミックな義太夫節を現出させる。これと近松のお話は関係するのだろうと思います。

 近松門左衛門という人は、竹本義太夫の語りと組んで次々にヒット作を送り出しました。近松は舞台にのせて上演するための脚本を書いているけれども、同時にいい文章、美しい文章を書こうという意識が相当強かったのではないかと思うのですが。

住大夫 仰せの通りと思います。近松研究をしたはる大学の先生に、「近松はんのはやりにくいでっせ、字余りの字足らずで」とお話ししましたら、「それは近松門左衛門が、大夫がいかにしてこの浄瑠璃を生かすか見てみたいと、そう考えて書いたんですよ」と答えられまして。「先生はまるで近松はんに会うてきたようなこと、言いなはるなぁ」と思わず言いそうになりました(笑)。

山折 ハハハ、実際に語られる身としては、切実な問題ですよね。そう簡単に言ってくれるなと。伝統的な浄瑠璃の文章らしくない近松の文章を、お師匠さんが義太夫節の語りにのせるご苦労たるや、大変なものがおありだったと想像します。それを“住大夫流”にして語っておられるのがね。

住大夫 いやいや、そこまで行ってまへん(笑)。

山折 残念ながら、私は師匠の語られる浄瑠璃をそうした聴き方までは出来ませんでしたけれど、“近松ぎらい”とは意味の深いことばだと思いました。

住大夫 ただ、いやなものほど、より以上に稽古しましたね。もとが不器用なので、人より稽古せんとあかんのですが、近松ものをつとめさせて貰うときは、一段と稽古稽古です。ずっと稽古していたら、だんだん“いや”が薄らいできます。もちろん好きまではいきませんけれどなぁ。

 私はなぜか、近松さんの「鬼界が島」(俊寛)や『心中宵庚申』で賞を頂いております。苦手な演目のときはいやな気持ちが薄らぐまで稽古に励みますけど、『菅原伝授手習鑑』の「桜丸切腹」みたいな哀れな話は、何度やらせて貰うてても、本を読むと涙が出てきます。

山折 「桜丸切腹の段」は、たしか4月の大阪での引退公演で語られた演目でしたね。

住大夫 あの話は出てくる人みな、かわいそうなんですわ。でも、演るほうとしては、「かわいそうやなぁ」と自分が泣いてる間はあきまへんな。そのかわいそうを通り越してしまうと、ちょっと近づいてくるとこがあります。

 自分が泣いたら、お客さんは泣いてくれまへんのです。稽古を積んでくるにしたがって、そこを通り過ぎたらしめたもんです。しかし、そこにいくまでに何十年かかります?

山折 30年、40年……もっとですか。

住大夫 私が「浄瑠璃ってようできてるなあ、浄瑠璃ってええもんやなあ」と思ったのは還暦すぎ、七世住大夫を襲名してからと思います。ほんまに気が付くのが遅いですわ(笑)。

語りが祈りに変わるとき


住大夫 これも近松ものですけど、昭和48年に初めて『女殺油地獄』をつとめましたとき、十代目の竹澤弥七師匠に三味線を弾いて頂くはずが、急に師匠が入院されて、先代の燕三兄さん(五代目・鶴澤)が代わり役をして下さることになりました。2人とも初役でしたので、「これは何としてでも稽古してもらわんとあかんで」と大慌てで、京都の市立病院に駆けつけました。

 「すんまへんけど、初役でなんにもわかりませんので、お稽古して欲しいのですが」と切り出すと、師匠は「私、入院してまんねん」と渋りはるんです。

山折 ふつうはそうでしょうねぇ(笑)。

住大夫 「お師匠はん、頼んますわ。明日きますので、お願いします……」「ほな、聴かせてもらいますわ」という話になり、あくる日、弥七師匠はベッドの上に座りはって、私らは地べたに坐ってお稽古が始まりました。病院なのであんまり大きな音さしたらいかんと、最初は小さな声でやってたのが、だんだん大きゅうなっていって、途中、看護士さんがなんども病室をのぞきに来はりましたが、何も言わずに、ドアを閉めていかはりました。

山折 それほど必死の形相だったのでしょう。個室ですか。

住大夫 はい、幸いなことに。稽古がすんで、「ありがとうございました。お師匠はん、すんまへんけど、明日もういっぺんきますさかいに」と言いかけると、弥七師匠が「もう堪忍しておくんなはれ。わて、入院中なんでぇ……」と渋りはるのを、「じゃあ、お師匠はん、明日また来ます」と、翌日また押しかけて行って。おそらく病室でお稽古して貰うたのは、私と燕三兄さんぐらいのもんです。

山折 お稽古をつけられた弥七師匠もすごいですが。

住大夫 私は覚えが悪うて、不器用で、声が悪うて、節回しが下手ときてますので、どの師匠がた、先輩がたにお稽古をつけて頂くときも、「もういっぺん、もういっぺん」と厚かましくいきまんねん。病院の先生でも同じことで、リハビリやってても、「すんまへんけど、先生、もういっぺんお願いします」で、すぐ時間超過してしまいますけど、やっぱり習い事は厚かましゅういかなあきまへんなぁ(笑)。

山折 そりゃ師匠の迫力でこられたら、たじたじですよ。

住大夫 いまでも在宅と病院に通いの両方で、リハビリを続けてます。引退してから休みがほとんどなく、疲れ果てて、こないだはリハビリを休ませてもらいましたが、倒れてから2年半で初めてです。

山折 畳の上で足にボールをはさんで、腹筋をやっておられたのをテレビで拝見しましたが、あの熱心さは「誠実さ」ですよ。本の中で、「私は大夫としては悪声で……」と繰り返しておられますが、私はある俳優のことを思い出しておりました。坂東妻三郎です。あの方も悪声といえば悪声ですね。

住大夫 はい、そう思いますね。

山折哲雄さん
 
山折 戦後、伊藤大輔監督が作った「王将」(昭和23年)の主演が坂妻でした。主役の将棋指しの坂田三吉です。女房小春が水戸光子、娘が三條美紀、ライバルの関根名人が滝沢脩という配役でしたが、映画のラストで、三吉は結局、関根名人に敗れ、しかし祝意を述べるため大阪から上京します。そのお祝いの席で国許の娘から電話がかかり、「お母さんが危篤だ」と聞くや三吉は、「受話器をお母さんの耳元に近づけなさい」と言って、おもむろに南無妙法蓮華経を唱え始めます。

 この南無妙法蓮華経が50回、60回と延々続くのですが、ひとつひとつの「南無妙法蓮華経」が、波ありリズムあり、長短あり、強弱ありでまったく飽きさせない……それが住大夫師匠の義太夫節の語りに重なるんです。映画の最後の場面で、女房の小春の目が開きますが、私はこれは“祈りの力”だと思いました。語りが祈りの力をもったとき、人の心を開き、人の心を救う。悪声とはすごい声のことだと私は解釈しています。

住大夫 坂妻さんはトーキーにいくのが一番遅かったんですね。戦時中も「無法松の一生」(昭和18年)に出たはりましたが、チャンバラ映画が多かった。あの声で、発声ではずいぶん苦労しはったんでしょうねえ。でも、私は「悪声でよかった」と思うてます。それがために声の使い方を勉強したり苦労したからこそ、68年、文楽の大夫をつとめられました。

山折 師匠のように、八十代でクライマックスの場面を語られた大夫はほかにおいでですか。

住大夫 いや、私が初めてと思います。声でいえば、薬師寺の高田管長、あのお方もお坊様として声はあまり良いほうではおられませんでした。あるとき、「管長、なんで大正13年生まれは声が悪いんでっしゃろな」と言いましたら、「お経は声であげるもんと違うで、心や」と、ご自分の胸をぽんぽんとたたかれました。声がええだけの坊さんは、仰山いるやろうと。

山折 そこに心が宿っていませんとね。「やっぱり情でんなぁ」なんですよ(笑)。最近のお経には迫力がないでしょう。それは美声のお坊さんのお経がない、ということではなくて、情がこもっていないお経では、人の心は打ちません。形式的に読み上げているだけではね。好胤さんはそれを言っておられたんでしょうね。

住大夫 あのお方がお経をあげられる始めに、拍手を打って、の花が咲くように両手を開かれるさまを見るたび、「やっぱり大僧正やなぁ」と思うたもんです。一度、共通の知り合いのお葬式が名古屋であって、管長にお供して私も行きました。

 管長は普段着の黒の衣で、迎える側のお寺のお坊さんたちはみな衣裳を着飾ってられましたが、「管長、どうぞこちらへ」と上座に通されたとき、その黒の衣で、立派なお衣裳の方々に混じって一人で座っておられましても、ぜんぜん見劣りせぇへんのです。えらいもんやなぁと思いました。

文楽にゆとり教育はない


山折 これは私の偏見かもしれませんが、いまの文学、芸術、学問の世界も力を失ってきている。それは日本の伝統的な文学である“語りの伝統”を忘れているからだと思うのです。目で鑑賞するものばかりで視覚中心、聴覚がおとろえてきている。これでは、語りの世界の立体感が理解できなくなります。たとえば「平家物語」は、文章を目で読んでいるだけでは、あの世界の躍動感は感じられませんでしょう。琵琶法師の語りと一緒に聞いたり読んだりしなければ、わからない。

 近松門左衛門の浄瑠璃も同じように、文章を読んで、それだけで理解しようとするわけです。みずからやろうともしない、聞く機会もない、語りの本筋がつかめない状況になっている。これが危機の根本だと私は考えています。日本人が“語りの伝統”を忘れたとき、歴史も芸術も文学も芸能も、危機に瀕していくのは当然のことだろうと思います。

住大夫 近ごろは日本古来の芸術文化がちょっと衰退してきて、私としては淋しいです。文楽の若い者たちにも、世界遺産や重要無形文化財に認めて頂いてるんやから、せめて芸の基本だけでも覚えて、それを後に伝えていってくれたらと思うんですけどねぇ。

 どの仕事でも基本がわからんかったらあきませんでしょう、学校の試験でもね。私は弟子たちに、もっと「人の話を聞け」というんです。商売柄、いろんな世界の方たちとお目にかかれますので、会社の社長さんでも商売人さんでも、いろんな苦労、努力しはった人の話を聞いて、それを芸の上にプラスにしていけと若い者に言うんですが、近ごろは人の話を聞きまへんな。

山折 戦後の教育で、個性個性といいすぎたんですよ。ろくな個性も出せませんのに。

住大夫 大夫でも個性を出すとこまでは、なかなか行き着きません。「文楽」は伝統芸能ですので、先輩がたから受け継いできたことを変えるわけにはいかんのです。いまでも入門者には、「文楽は遊びに来るとこと違うで。修業や勉強にくるとこで、就職とは違う。お金儲けはよそでやんなはれ」と言うてます。文楽では大昔からこう言われてきましたが、近ごろは文楽研修生を募集すると、主催が国立劇場ですので、「半公務員や」というような感じで応募してくる子もなかにはおります。

 それでも「文楽にはゆとり教育はない、バカ、アホ言うて怒るで」と言い渡しますが、まず師匠がた、先輩がたに芸を仕込んで貰うて、やがてお客さんに認めて頂けたら、お金は自然と回ってくる。高望みするな、まず基本を覚えて、基本に忠実に、素直にやること。素直にやってたら、60、70になったら自然と浄瑠璃が上手そうに聴こえる。へたが上手ぶってやるなと。

山折 60になるまで基本ですか。厳しい世界ですなあ。

住大夫 最近は若手会と銘打って、お客様にお越し頂いておりますが、「勉強会に入場料とるとはなにごとや。二合瓶に折り詰め出して、聴いて頂け」と怒ってます(笑)。もちろんいまの若い者たちも、好きで文楽に入ってきているのでしょうけど、その好きがどこまで好きか嫌いか、わかりまへんねん。「好きで選んだ道やないか。おまえらはプロやろ。もっと自分の仕事を好きになれ、下手の横好きでええから、もっと好きになれ」と言うんですが……。

山折 ご本にもありましたが、「好きなら好きでもっと好きにならなあかん」と。あれはすごいことばです。一所懸命になるには、「好きになる」ということが一番です。私も大賛成です。

 お師匠さんは、文楽に入門してくる若者の中でも、いまは大夫のなり手が少ないとお嘆きですが、文化的にも社会的にも行き詰って、日本人がこれからどこにいくべきか、これまでの反省も含めて、すこし流れが変わりつつあると感じます。

 とりわけ日本古来の“語りの伝統”を掘り起こし、取り戻す時期に来ております。いまだからこそ、日本の伝統を受け継いでいく文楽の大夫を育て、鍛え上げて行くときなのではありませんか。

住大夫 なんといっても大夫は文楽のかなめですさかいに、私がいま一番心配なのが、大夫の育成です。大夫はなかなか育ちません。文楽の鬼やといわれて、引退後も国立劇場からは「ご意見番としてまた来てくれ」と頼まれて、弟子たちの稽古のほか、本公演の舞台稽古も見ておりますけど、引退したらここまで忙しゅうなるとは思いもしませなんだ。おかげでぼける暇もおまへん。

山折 芸においては鬼手でも、こころは仏心ですよ。次からは、「鬼手仏心の師匠」と呼べとおっしゃったらどうですか(笑)。

住大夫 ハハハ。私にも仏心があると。

山折 次回は、日本文化と「文楽」の関わりやことばの問題についてもお話を伺いたいと思います。どうぞよいお年をお迎え下さい。

住大夫 おおきに。今日は初対面でしたけど、気安うお話しできました。またお目にかかります。

協力・国立文楽劇場



山折哲雄(やまおり・てつお)
宗教学者、評論家。1931年、サンフランシスコ生まれ。昭和6年(1954)、東北大学文学部卒業。昭和34年(1959)、東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教授、日文研名誉教授、白鳳女子短期大学学長、京都造形芸術大学大学院長、国際日本文化研究センター所長などを歴任。平成22年(2010)に南方熊楠賞、瑞宝中綬章を受賞。著書に『天皇と日本人』(大和書房)、『能を考える』(中公叢書)、『これを語りて日本人を戦慄せしめよ 柳田国男が言いたかったこと』(新潮選書)など多数。大正13年(1924)、大阪市生まれ。人形浄瑠璃「文楽」太夫(昭和21~平成26)・人間国宝・文化功労者・日本芸術院会員。大阪

七世 竹本住大夫(ななせい たけもと すみたゆう)
専門学校(現在の近畿大学)卒。父は六世竹本住大夫。昭和21年、二世豊竹古靱(こうつぼ)大夫(だゆう)(のちの豊竹山城少掾(やましろのしょうじょう))に入門し、「文楽」に入座して以来68年、“日本人の義理人情”を語りつづける。平成26年5月の国立劇場公演をもって引退。今秋、文化勲章を受章。27年1月下旬に、NHKドキュメンタリー「鬼の散りぎわ」も収めたDVD「人形浄瑠璃文楽 竹本住大夫引退公演」が発売される。




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