小名木善行(国史研究家)

 相撲界でのトラブルが話題となっています。テレビの報道番組では、国会より、そして北朝鮮問題よりもこの相撲界のトラブルの話題でもちきりです。相撲はレスリングの興行でもなければ、勝敗を競うスポーツでもありません。神事としての奉納相撲がその起源となります。ですから、行司は神官の姿をしますし、掛け声も「はっけよい、のこった」です。

 これは易占いの「八卦(はっけ)良い」からきているという俗説がありますが、そうなると「のこった(残った)」の説明がつきません。それよりも、大和言葉の「はつき、よひ」を語源とするのが自然ではないでしょうか。これは「初の気は良い。だからがんばって残れ!」という意味の古い大和言葉です。「初の気」というのは、神々によって祝福を与えられているという意味ですから、もっとかみ砕いていえば、「神々の祝福が与えられているぞ。がんばって残れ!」といった意味になります。

野見宿禰
野見宿禰
 相撲の歴史は古く、『古事記』の葦原中国平定の神話にまでさかのぼります。建御雷神(たけみかつちのかみ)に出雲の建御名方神(たけみなかたのかみ)が「然欲為力競(ちからくらべをなすことをほっする)」と言って、建御雷神の腕をとって投げようとしたという神事が発端になります。

 この後、建御名方神が諏訪にお鎮まりになられて、諏訪大社の御祭神となられています。それが何百年前のことなのか、いまではまったくわかりませんが、少なくとも初代天皇であられる神武天皇が即位されたよりも古い時代ですから紀元前7世紀よりも、もっとずっと古い昔から続く、相撲はわが国の伝統神事となっているわけです。

 相撲の始祖とされているのは、野見宿禰(のうみのすくね)と当麻蹴速(とうまのけはや)の試合です。この試合は紀元前23年の垂仁天皇の時代にあった出来事です。野見宿禰は、天穂日命(あめのほひのみこと)の一四世の子孫と伝えられる出雲国の勇士です。このことは日本書紀に詳しく書かれています。

 第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)が即位して7年たった7月7日のこと、天皇の近習が、「當麻邑(とうまむら)に當摩蹶速(とうまのけはや)という名のおそろしく勇敢な人がいて、力が強く、日頃から周囲の人に国中を探してもわが力に比べる者はいない。どこかに強力者(ちからこわきもの)がいたら、死生を問わずに、全力で争力(ちからくらべ)をしたいものだ」と言っていると述べました。天皇はこれを聞くと、「朕も聞いている。當摩蹶速(とうまのけはや)は天下の力士という。果たしてこの人に並ぶ力士はいるだろうか」と群卿に問いました。一人の臣が言いました。「聞けば、出雲国に野見宿禰(のみのすくね)という勇士がいるそうです。この人を試しに召して蹶速(けはや)と当たらせてみたらいかがでしょう」

 そこで倭直(やまとのあたい)の先祖の長尾市(ながおち)を遣(つか)わして、野見宿禰を呼び寄せました。即日、両者は相対して立ち、それぞれが足を上げて相い踏み、激突して野見宿禰が當摩蹶速の肋骨を踏み折りました。またその腰骨を踏み折って殺しました。

 勝者となった野見宿禰には、大和国の當麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えました。野見宿禰は、その土地にとどまって朝廷に仕えました。(中略)

垂仁天皇の皇后であられた日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が崩御されたとき、殉死に代えて人の形をした土器を埋めることを提案したのも野見宿禰です。これが皆さまもよくご存じの埴輪(はにわ)の由来です。 

※原文・読み下し:『古典文学体系 日本書紀(上)』(岩波書店)、現代語訳:小名木善行

 さて、文中に7月7日という記述がありましたが、つい最近まで、毎年田植えが終わった7月に、全国で町や村の青年たちによる奉納神前相撲が行われていたのは、この野見宿禰の試合に依拠します。そしてこのときの試合で両者が足を挙げて四股(しこ)を踏んでいますが、これもまた現代まで続く相撲の四股そのものです。