ダメ押しがモンゴル文化に起因するというならば、日本の伝統文化の重要な一部である大相撲の精神として「それでよいのか」と問わねばならない。池坊氏のダメ押しについての見解は、貴乃花親方を批判した際、相撲は「礼に始まり礼に終わる」と言ったことと矛盾しているが、このことにご本人は気付いていないようだ。

 池坊氏の言葉からも、協会の意向に合わせる姿勢がうかがえる。そもそもこのように大相撲に対して見識のない人間が、理事の承認や解任に責任を持つ評議員会の議長に就くのはなぜなのだろうか。相撲協会の改革のために、外部委員を入れて設置された評議員会の人選は、誰がいかなる基準で行っているのだろうか。

2018年1月、日本相撲協会の臨時評議員会後、
記者会見に応じる評議員会の池坊保子議長(加藤圭祐撮影)
 このように一連の問題で明らかになった日本相撲協会の本質は、多くの人が指摘するように、問題が生じた際に内々でうやむやに収めようとする「閉鎖性」だ。また、外部批判をかわし内部告発を押さえ込もうとする「興行優先」の姿勢だ。この姿勢が、親方や力士の不適切な言動に対して、自浄機能が働かず悪を助長してしまうのであろう。

 こうした体質を象徴する例として、私は半世紀近く前の横綱玉の海の急逝を思い出す。死に至る経緯について私はさまざまな疑問を抱き、入院先の虎の門病院の大失態との意見もあったが、結局真相は報道されず「虫垂炎の手術は成功したが、肺血栓によって死亡した」との説明がいつの間にか定着してしまった。力士の虫垂炎の場合、術後の対応にことのほか気を付けなくてはならないことは、当時でも医者の間では知られていたはずだ。肺血栓は明らかに合併症であり、「虫垂炎の手術は成功した」とは言えないだろう。大病院と相撲協会との間に、何らかの裏取引があったのではないか、と私は勘繰っている。

 そして今回新たに発覚した春日野部屋の暴力問題は、相撲協会の閉鎖性や自浄能力のなさといった問題の根深さだけでなく、協会と大手メディアや官僚機構に代表される日本社会、さらには世間一般との奇妙な関係をも垣間見させている。貴乃花親方の不可解に思える言動にも、それなりの深い理由があることを感じさせる。