ならば、貴乃花親方が目指す「抜本的改革」とは何だろうか。それは心技体を鍛え上げた力士が、堂々とぶつかり合って相撲の美を示すことができるよう、相撲部屋と一門の体制を強化し、いい意味での特権階級としての力士の意識をたたき込むことではないか。そして相撲部屋が機能しないときは、日本の伝統を守る特殊社会としての意識をもって協会が強い指導力を発揮することである。

 北の湖前理事長は常に「土俵の充実」を掲げていた。八角理事長も今回の問題を受けて、初場所で同じ言葉を掲げ、稽古の重要性を強調した。確かにその通りだが、掛け声だけでは実現しない。大相撲の伝統においては、あくまで相撲部屋が基本なのである。その重要性を私は著書『大相撲の心技体』で以下のように論じた。

 第1に、相撲部屋は、力士が鍛え抜かれた体と精神を持ち、すぐれた技芸を実現するための鍛錬の場である。第2に、相撲界特有の規範意識は、相撲部屋において親方の指導の下で身に付けるのが、最も効果的で意味がある。猛稽古を通じて勝ち取る特権階級の資格の意味及びそれに伴う社会的責任を力士に植え付けるのも、基本的に相撲部屋の役割であろう。第3に、相撲界と一般大衆との接点は、相撲部屋によって最も実質的に広げることができるはずである。

 心技体を鍛え上げた力士同士によるガチンコ勝負が、大相撲の基本であり魅力である。一方で大相撲には「儀礼文化」としての側面もあり、相撲ファンの期待、場所の状況や相手力士の調子、さらには相撲人生の流れによって、ときとして「なれあう」ことも大相撲に固有の一面である。古語の「なれやふ」とはひとつにする、互いに情が通じ合う、といった中立的な意味であり、共謀とも悪事とも無縁だったという。

 鍛えぬいた力士同士のガチンコ勝負が基本としてあったうえで、「なれあい」の技芸は伝統芸能としての大相撲の興行を支える一面といえる。ガチンコ勝負となれあいとのバランスは、各力士が自らの責任において取るべきことである。このようないわば「心の勘定」を、「金の勘定」によって置き換えてしまうのが、世間でいう八百長である。

 大相撲の世界は、世界のどのスポーツにも引けを取らない猛稽古によって支えられている特殊世界である。その中で強い精神と肉体を作り上げ、すぐれた技芸を身に付けた者が関取となる。関取は特権階級であり、さまざまな有形・無形の特典を享受するとともに、日本の伝統の重要な一部である大相撲を支え継承する社会的責任を持つ。

 力士であっても社会的常識がなくてはいけないのは当然のことである。その一環として「暴力はいけない」というのは、本来力士に対して言わずもがなのことなのである。心技体を鍛え上げた力士は、社会に対して範を示すべき存在であり、「暴力はいけない」といった世間並みの説教によって力士をおとしめてはいけない。