以上、村本氏の発言のポイントである沖縄県設置の位置づけを確認するため、沖縄県設置前の沖縄の地位について確認してきた。明治12年の外交文書にあるように、江戸時代の沖縄は薩摩の統治が隅々にまでおよび、江戸幕府の幕藩体制下にあった。しかし、幕府と薩摩藩の外交貿易戦略として、琉球を明や清との貿易拠点として活用するため、独立国の体裁をあえて保っていたのだ。朝貢や冊封はそれを行うための外交儀礼にすぎなかった。明国もそれを知っていたが黙認していたことも明らかになっている。

 でも、それは日本国が力で統治しているだけで、当の琉球の人たちは、本当は日本人でなかったかもしれないと思う方がいるかもしれない。しかし、実は沖縄の人たちが「日本人の中の日本人」であることを雄弁に物語る沖縄の歴史がある。それは、敗戦後の沖縄県「祖国復帰」の歴史だ。サンフランシスコ講和条約で日本の放棄した領土には、朝鮮半島、台湾、奄美、沖縄、小笠原諸島がある。その中で、祖国復帰運動が起きたのは奄美と沖縄だけである。もし、奄美や沖縄の人たちが日本人でないのなら、日本から独立するチャンスとして、復帰運動ではなく「独立運動」が起きたはずである。

1972年5月、沖縄県の新知事として佐藤栄作首相に
あいさつする屋良朝苗氏
 その沖縄県祖国復帰運動の最初から最後までリーダー的存在だった人物に、屋良朝苗(やら・ちょうびょう)氏がいる。屋良氏は戦前、台北で師範学校の教師をしていた。戦後は米軍統治下の沖縄で、群島政府の文教部長を務めた。日本政府でいう文部科学大臣である。しかし、戦争でほとんどの校舎が焼け、米軍による復興支援も不十分なため、教育に困難を感じるようになった。そこで、サンフランシスコ講和条約が公布された翌年、戦災校舎復興支援を求めて全国行脚を始めた。その時に衆院文部委員会に参考人として招致された屋良氏は、戦災校舎の復興支援を訴えるはずの場で沖縄県の祖国復帰を求めたのである。

 その心は、沖縄の子供たちに日本人としての教育を施したい。日本人としての教育をするからこそ、子供たちはすくすくと真っすぐ育つのだ。それをかなえるには沖縄が祖国日本に復帰するしかないというものだ。筆者が国会の議事録から発掘したこの演説は、今まで埋もれたままで全く世に出ていなかった。日本人が日本人としてあり続けるために、何が必要かを私たちに教えてくれる演説だ。

 この名演説を味わい、沖縄県祖国復帰の歴史の意義を感じ取っていただきたい。沖縄問題に関心を持ってくれた村本氏にもこの演説文をプレゼントする。どこかで、屋良氏の祖国復帰への身命を賭(と)した情熱をネタに使っていただければ幸甚である。