篠原章(評論家・批評.COM主宰)

 しばしば、歴史を知ることは現在と未来を知ることだといわれる。その通りだと思う。ところが、私たちは往々にして歴史を知ろうとする作業を忘れ、特定の「歴史観」に縛りつけられてそこから動けなくなってしまう。そうなると、現在も未来も見通すことはできなくなる。

 たとえば、カール・マルクスの歴史観は「マルクス史観」あるいは「唯物史観」と呼ばれ、司馬遼太郎の歴史観は「司馬史観」と呼ばれるが、それらは一つの相対的な歴史観であって、歴史そのものではない。歴史の見方はきわめて多様であり、歴史的事実や歴史的真理は、さまざまな歴史観が共有する土台の部分に横たわっている。ところが、いつのまにか土台が忘れられて、歴史観同士の勢力争いのようなものが起こり、それはやがてイデオロギー闘争のようなものに変質してしまう。
 
 歴史観同士の争いが歴史の研究を進化させることも多いから、こうした争いを全面的に否定するつもりはないが、ひとたび勢力争いが起こると、次の段階で歴史の土台を捏造(ねつぞう)する人たちまで出てくる。自分たちの主張や歴史観に都合の良い歴史的事実のでっち上げだ。厄介なことに、歴史の捏造者たちは、自分たちの考え方こそ唯一の真理だと思いこんでいるから、捏造したことにすら気がつかない。
 
 こうした捏造や、その一歩手前の頑固な思いこみは、なぜか沖縄や朝鮮半島の近現代史研究の分野で頻発している。それも比較的最近になってからのことである。

 私は7年ほど前まで経済学や財政学を専門とする大学教員だったから、その時期は関連分野の歴史系学会にいくつも加入していた。私自身はマルクス史観とは一線を画す立場だったが、所属する学会の多くはマルクス史観が支配的だった。が、マルクス史観の研究者たちが自分たちの歴史観を押しつけてくることは稀だった。大部分の研究者は歴史的事実を尊重し、マルクス史観とはかけ離れた研究にも少なからぬ敬意を払っていた。
 
 こうした学会の仲間たちと、1990年代の半ばに「琉球処分」について議論したことがある。琉球処分とは、1872年の琉球藩設置に始まり、1879年の沖縄県設置で終わる「琉球併合」のプロセスのことを指している。
高麗文化の影響が色濃い首里城正殿
高麗文化の影響が色濃い首里城正殿
 マルクス史観やその落とし子ともいえるポストコロニアリズム(ポスト植民地主義)の歴史観を重視する研究者は、琉球処分は明治政府による「植民」であり、日本軍国主義の帝国主義的拡張政策の端緒である、といったようなことを主張していた。

 彼らの説明は理解できないものではなかった。琉球はそのとき明治政府により「植民地にされた」という側面はあるだろう。だが、それは本土が一方的に沖縄を搾取したことを意味しない。前時代的な生産力しか持たない封建社会「琉球」に対して、近代への扉を開く歴史的プロセス(封建制・身分制の廃止)だった、という側面も持っていたのである。

 私はその議論の場で、伊波普猷(いは・ふゆう)という琉球・沖縄研究の偉人の言葉を引き合いに出して、「琉球処分は、王制下で農奴のような暮らしをしていた人たちを解放する試みだったのではないか」と主張した。当時、私のこの主張はありふれたもので、同席した他の歴史研究者たちも「そんなことはわかっているよ」という態度だった。要するに琉球処分が、植民化という側面と近代化という側面を併せ持っていたことは、研究者の間で立場を超えて共有される了解事項だったのである。