橋場日月(歴史研究家、歴史作家)

 信長が干ばつをきっかけとして弟の信勝を謀殺する以前、信長は妻の父を喪っている。美濃の斎藤道三だ。信長が道三の娘を正室に迎え、舅(しゅうと)の道三を後ろ盾にしたことについては第3回で述べた。その道三が、弘治2(1556)年4月、長男の義龍に討たれたのである。道三が義龍を嫌い、次男、三男をえこひいきしたことが直接の原因で、その背景には尾張に対してなどの外交方針をめぐる対立があったようだ。道三のバックアップによってようやく尾張での主導権を維持していた信長のこと、当然ながら窮地に立たされた道三を援護すべく美濃に出陣する。

 自分をかわいがり、信長が合戦におもむく際には美濃の兵を清洲城の留守番に貸してくれるなど、何かと便宜を図ってくれた舅。それを救うべく美濃におもむくなど、何とも絵にもドラマにもなる話ではないか。

 ところが、である。信長の人生を脚色しながら面白おかしく伝えた『甫庵信長記』はじめ、後世の軍記物はこのときの彼の行動にまったく触れていない。『武将感状記』では出陣そのものも道三戦死の後のこととし、「弔い合戦に出陣した信長は義龍が手ぐすねひいて待っているのを知ると気をのまれたのか、途中で引き返してしまった」などと記しているのが唯一の例で、その話自体もまったくさまにならないのだ。

 では、実際彼はどのように行動したのだろうか。『信長公記』によると、信長は道三救援のために一応出陣はしている。木曽川、飛騨川を渡って大良(現・岐阜県羽島市正木町の大浦あたり)の南辺りまで進んだ信長だが、彼はここで進軍をストップした。戸嶋東蔵坊という寺の敷地がその本陣とされたのだが、この本陣でちょっとした騒ぎが起こる。

 「境内のあちこち、堀や垣根からも銭が詰まった瓶が掘り出され、どこも銭を敷いたような具合だった」(同書、『太田牛一雑記』)

 当時、有力な寺は高利貸で莫大(ばくだい)な財産をため込んでおり、東蔵坊もそういう「財テク」で稼いだ金銭を地面に埋めて保管していたのだろう。今でも、中世にそうして埋められたまま忘れ去られた銭の瓶が、たまに発掘されている。

金華山(稲葉山)山頂にある岐阜城=4月23日、岐阜県岐阜市(本社ヘリから、門井聡撮影)
金華山(稲葉山)山頂にある岐阜城=4月23日、岐阜県岐阜市(本社ヘリから、門井聡撮影)
 問題は、なぜ信長が堀や垣根まですべて掘り返していたのか、ということなのだが、考えるまでもなく、本陣を堅固な要害に大改修し陣城に造り替えるためである。道三が布陣している稲葉山城北西の鷺山までは約14km。「こんなところで城作りにかまけ、油を売っている場合ではないぞ!」と誰もが余計な心配をしてしまう呑気(のんき)さではないか。

 そして、案の定、その間に道三は義龍との決戦に敗れ、首を取られてしまった。