著者 栗林元(愛知県)

 小説内で描くキャラクターの心は、すべて作家の想像である。男も女も子供も大人も、場合によっては人間以外の生物ですらすべて作家の脳内の産物だ。だからこそ、作家は他人の気持ちを想像できる能力が必要なのである。

 常々感じていることがある。この他人の心を想像する力が、今の日本では衰えているのではないか?

 さて、桑田佳祐氏である。昨年の紅白歌合戦の曲を中継される前のパフォーマンスで、紫綬褒章をジーンズの尻ポケットから取り出してオークションにかけるような発言をした、として大きな非難を受けている。

 桑田氏は私の2歳年上のはずで、あの年代の人の天皇制や保守政党に対する感覚、平和観は理解できるし、一部共有もしていた(←過去形・苦笑)。だから私は、桑田氏が「叙勲を拒否」していればなんら問題はなかったと思う。叙勲をした上で、あのパフォーマンスは無いだろうと思うのだ。

 そもそも日本人にとって叙勲とはどのようなものなのか。

 私の父は77歳で他界したが、晩年は公立高校の校長を務めていたので、死後ではあるが、瑞宝小綬章を受けている。母は、父と一緒に苦労してきたので、その叙勲をことのほか喜んだ。「父さんの人生が報われた」とまで言った。よほどうれしかったのか、会う人毎に「叙勲、叙勲」と話すので、私は「先生がすべて叙勲するわけではない、大多数の人は叙勲とは無縁の人生を送っている。嫌みになるから、こちらから叙勲の話をするな」と少し手厳しい忠告をしたほどである。母も父も学校の教員で、いわゆる「リベラル」だった人である。その母にとってすら叙勲とは特別なことなのである。

 桑田氏が尻ポケットから出した勲章を、母は額装してテレビモニターの横のサイドボードに飾っている。そのテレビで、桑田氏の振る舞いを聞いた時、母は小さくため息をついた。

 権威を小馬鹿にするポーズを取って、アーチストとして受けを狙ったのであろう。だが、それは、名声とも富とも無縁に、社会に貢献する人生を送ってきた、無名の市井の叙勲者たちの人生そのものを小馬鹿にしていることになると、なぜ気づかなかっただろう。

 これは桑田氏だけの問題ではない。1970年代、平和を訴え自衛隊を違憲と主張する知識人・教員・芸術家たちの振る舞いは、自衛官の家族、特に子供たちがどのような気持ちになるかという想像力を欠いたものだった。

 体制に反対する知識人・ジャーナリスト・マスコミ・芸術家達に共通するのは、「目覚めている自分たちが、だまされている大衆を啓蒙してやる」という上から目線の傲慢さである。それが、他人の気持ちを想像する力の欠如につながっているのではないか。

 野党に票が入らないのは、投票率や選挙区の問題だけでなく、「リベラル」の傲慢さに対して多くの国民が反感を持っているからであると気づいてほしい。

 私は桑田氏の音楽が嫌いではないし才能も認めている。ただ、富と名声を得た彼が、無名の市井の日本人の感覚とは遠いところに立っていることがわかり、残念な気持ちになった。