藤岡信勝(拓殖大学客員教授)
 1943年北海道生まれ。北海道大学教育学部卒業、同大大学院教育学研究科博士課程単位取得。東京大学教育学部教授などを経て、現在拓殖大学日本文化研究所客員教授。教育学(教育内容・教育方法)専攻。95年、教室からの歴史教育の改革をめざし「自由主義史観研究会」を組織。97年、「新しい歴史教科書をつくる会」の創立に参加。著書に『教科書採択の真相』(PHP新書)、共著に『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』(祥伝社)、『教科書が教えない歴史』(産経新聞ニュースサービス)など。

『週刊文春』の私のコメント


 発端は『週刊文春』2014年9月4日号(発売は8月28日)の特集記事のなかの、私の短いコメントだった。特集のタイトルは「朝日新聞『売国のDNA』」。私のコメントは「松井やよりと3人のホンダの遺伝子」という記事のなかにある。

 朝日新聞には、ホンダという3人の有名記者がいた。松井やよりが組織した女性国際戦犯法廷のNHK報道に安倍晋三・中川昭一の2人の政治家が圧力をかけたといって糾弾するスクープ記事を書いたのが、本田雅和記者。沖縄・西表島のサンゴに「KY」の文字が刻まれていたといって写真で報道したのが、本田嘉郎カメラマン。そして、かつての「朝日のスター記者」本多勝一氏。以上の三人である。本多氏について、『週刊文春』は次のように書いた。

 本多氏は、事実とかけ離れた『南京大虐殺三十万人説』を流布させた人物だ。71年に朝日紙上で連載した『中国の旅』でこう書いている。〈歴史上まれに見る惨劇が翌年二月上旬まで二カ月ほどつづけられ、約三十万人が殺された〉


 私のコメントは、「拓殖大学客員教授の藤岡信勝氏はこう呆れる」として次のように書かれている。

「この記事は本多氏が中国共産党の案内で取材し、裏付けもなく執筆したもので、犠牲者30万人などは、まったくのデタラメです」


 何の変哲もなく、面白味もないコメントに過ぎない。私は、こんなありきたりのコメントが問題にされるとは露とも思わなかった。

 『週刊文春』が本多氏に取材を申し込んだところ、今回の朝日の検証記事は「読んでいない」とし、南京事件の死亡者数については「私自身による調査結果としての数字を書いたことはありません」と答えたそうだ。

藤岡への公開質問状


 発売翌日の8月29日付で、『週刊金曜日』編集部から『週刊文春』編集部に配達証明郵便が届いた。「藤岡信勝様『週刊文春』へのコメントに対する公開質問状」と題されていた。

 私宛の公開質問状には、六つの質問が記されていた。その第一番目は、「約三十万人が殺されたとの記述は、本多編集委員の結論ではなく、姜眼福さんの体験の聞き取りであることをご存知ですか」となっている。以下、『中国の旅』の編注があるのを知っていたかとか、『週刊金曜日』の特定の連載記事を読んでいるかとか、私のコメントは正確に掲載されているかとか、何でこんな質問をするのだろうと首を傾げたくなるような質問が続いていた。最後の六番目の質問は、「藤岡さんは、南京事件の『被害者数』は何人であるとお考えですか」となっていた。

 これを受け取った『週刊文春』編集部は、細かい公開質問に私が答えるよりも、いっそのこと、『週刊文春』と『週刊金曜日』の両編集部立ち会いのもとで本多氏と私の公開討論を行い、それを両編集部がそれぞれの責任で記事にする、という企画を提案した。もちろん、事前に私に話があり、私は承諾した。

 この点について、本多氏は第一信で「藤岡氏は俺に公開討論を申し込んできました」と書いているが、間違っている。私が本多氏に公開討論を申し込んだのではない。公開討論を思いついて提案したのは『週刊文春』であり、私はそれに同意したという関係である。

 これに対する本多氏の回答は、公開討論は不正確になるので文書のやりとりによる討論にしたいというものであった。公開討論が「不正確」になるというのもよくわからない話だが、ともかく口頭による討論からは逃げた形である。

大虐殺派は公開討論拒否


 実際、大虐殺派は著書や論文では自信たっぷりにもっともらしいことを書きながら、口頭での討論を呼びかけても出てこない。もうそれだけで、本当は自信がないこと、自信めいた書きぶりは虚勢に過ぎないことがわかる。私が体験しただけでも二つのケースがある。

 私が代表を務めている自由主義史観研究会は1995年、お茶の水で南京事件について公開討論会を開いた。討論会は初めの企画では、大虐殺派、中虐殺派、「虐殺なかった」派の3人の代表的論者を呼んで論争するというものだった。

 私は大虐殺派の第一人者となっている笠原十九司氏に登壇を依頼したのだが、虐殺否定派の人物は学者ではないので同席できない、との返答だった。学者であろうとジャーナリストであろうと一般人であろうと、笠原氏から見て謬論を口にする者は徹底的に論破して懲らしめてやればよいではないか。出てこないのは、逆の結果になることを自覚しているのであろう。

 もう一つのケースは、2012年、河村たかし名古屋市長が南京事件はなかったのではないか、という発言をし、中国共産党に討論を呼びかけた時である。おおもとの中国共産党がそれ以来、南京事件について少しおとなしくなったのは、河村発言の影響があると考えられる。独裁国家の中国にとって、言論統制は権力の命綱である。

 この問題が起きたときにメディアでは河村バッシングが起こりかけたので、「新しい歴史教科書をつくる会」が中心となって、河村市長を支援する運動を展開した。その一環として、名古屋で開かれた集会に参加したことがあるのだが、それに先立ち、私は日本共産党名古屋市議団に公開討論を申し入れた。彼らは、河村市長の南京事件についての認識の誤りを糾弾する声明を発表していたからである。彼らはもちろん、私との公開討論は拒否した。

 こういう経験があったから、私は本多氏も100パーセント逃げるだろうと予想していた。そして、そのとおりになった。問題はその先である。文書による討論ならどうなのか。これも私は断られるだろうと予想したのだが、意外なことに、口頭での討論にかえて文書による討論にしたい、と『週刊金曜日』側が提案してきたのである。これは私にとっては意外であった。

文書による討論のルール


 もちろん、長年希望してきた機会であるから、受けて立つことはやぶさかではない。まして相手は、1971年以後の南京事件宣伝のおおもととなった本多氏である。相手に不足はない。

 誌上討論をすることで両サイドの意向が一致したので、ルールの検討に入った。まず分量だが、『週刊金曜日』側は一発言を400字詰め原稿用紙で6枚とし、誌面に交互に掲載するという案を提案した。しかし『週刊文春』側は、1、2回程度の記事としてまとめて載せるという考えだった。そこで2人の担当者が直接面会して協議し、結局、1回の発言は3枚(1200字)以内となった。やりとりは5往復とし、相手の書簡を受け取った側は5日以内に返信すること、討論が終わった最後に両者から同時に2枚の感想を寄せることになった。

 どのような形で掲載するかは、両誌の編集権に属する。私としては、長く丹念に書けるので『週刊金曜日』案のほうが有り難かったが、企画を思いついたのが『週刊文春』側だったためか、そちら寄りの結論となった。

 討論の第一信をどこから始めるかについては、両誌の見解は公開質問状に対する私の回答から始め、それを藤岡からの第一信とするというものであった。

 これについては、私には異論があった。公開質問状という形で先方は一回、発言しているわけである。だからそれを本多氏の第一信、それに対する私の回答を私からの第一信として扱うべきである、というのが私の主張である。

 もしそれができなければ、先方の公開質問に対する私の回答を討論とは別枠で行い、改めて討論を開始するという方法もある。こういう討論では、発言量をイーブンにすることが原則である。口頭ならば発言時間を全く同じにすべきだし、誌上討論ならば文字数を同じにすべきなのである。

 しかし両編集部とも、ディベートに関するこの公平の原則のもつ重要性にはあまり十分なご理解をいただけなかったようで、先方の公開質問状は議論の始まりのための別格として扱い、私が第一信で口火を切り、そのなかで公開質問状に回答するとともに反対に私からも質問をする、ということになった。そのように両誌は合意した。

 私は納得できなかったが、それに従った。なにしろ、多少のハンディキャップがあっても、私が勝つのは決まっているのである。

「A記者」の登場に仰天


 以上のような経過があったので、私の第一信はいきなり公開質問への回答から始まっている、本来、第一信は最初の立論の場であり、自己の主張を体系的に述べる場である。私の第一信を期待して読んだ読者のなかには、あまり格調が高くないことに失望した方もおられるに違いない。右のような事情があったことをご理解いただきたい。

 私が第一信を送ってから5日後に、本多氏からの第一信が届いた。私は普通にメールでテキストとして送ったのだが、本多氏は原稿用紙にワープロ打ちしたものをPDFファイルに落として送ってきた。これは字数の遵守に紛れがなく、編集部が手を加えたりしていないという証拠にもなるということであろう。これはこれで一つの考え方であり、異論はない。

 問題は、書かれている文章のほうである。本多氏は自ら文章を書かず、「発端が『週刊金曜日』なので、俺の担当A記者との対話を紹介することにしよう」と言って、そのあとは専ら「A記者」「本多」という発言者名をゴシックにした、雑誌の対談などと同じ形式の文書になっているのである。

 これには心底驚き、呆れた。私は本多氏との誌上討論には同意したが、正体不明の「A記者」なるものと討論することを承諾した事実はない。私は1人で相手は2人だから、変則タッグマッチとでも言うべき不公平な試合だ。極めて失礼であり、ルール違反である。

 両編集部が明文化したルールには「原稿は本人が書くこと」という項目はないが、それは当然の前提だから書かなかっただけである。「俺」という一人称も公的な場の発言として不適切で、相手を馬鹿にしている。もうこの時点で、私にはこの討論を拒否する十分な理由があり、この企画は水に流れてもおかしくはなかった。

 そもそも、「A記者」とは誰なのか。私の周りの読者から聞こえてきた声は三通りある。(1)本多氏の言うとおり、『週刊金曜日』の担当記者であろうという常識的な見方。もしそうなら、せめてその氏名を明らかにすべきである。(2)「A記者」なるものは実在せず、集団でこの論争に対処しているグループ名ではないかという推測。(3)そもそも、「A記者」は架空の創作された人物であるとする説。様々である。

 では、なぜ対談の如きこんな書き方をしたのか。私はSNSの一つであるフェイスブックをやっている。私の「友達」から今回の誌上討論について様々なコメントが寄せられている。この件についてもたくさんの投稿をいただいた。

 80歳を過ぎた本多氏はもう自分で文章を書けなくなっているのではないか、という説がある。その一方で、若い頃から本多氏の文章をほとんどすべて読んできたという方は、これが本多氏の流儀であり、本多氏はボケているどころか極めて頭脳明晰な状態である、と主張している。いろいろな見方があるものだと感心する。私にはどちらが事実に近いのか、知る由もない。

朝日的体質の卑怯・卑劣


 それにしても、卑怯であり卑劣である。後味がよろしくない。この不快感は何かに似ていると思ったが、最初は何だかわからなかった。しかし、数分後に私は気付いた。この不快感こそ、まさに朝日新聞の記事や社説を読んだあとのあの不快感と同質のものなのだ。「朝日のスター記者」本多勝一氏は、まさに朝日的体質を体現していたのである。

 こういう「A記者」なるものを登場させる手法の目的は明白だ。責任逃れである。本多氏は将来、誌上討論の発言で責任を問われかねない事態が生じるかもしれない。その時の保険として、本多氏自身ではなく「A記者」が言ったことにしておけば、逃げを打つことができる。政治家が「秘書が、秘書が」というのと全く同じである。

 今度の吉田清治証言の記事を取り消す時も、朝日新聞は責任逃れの策を様々に弄した。本多氏はなるほど、朝日新聞の一員であったのだと再認識させられた。

 私は討論を打ち切ることもできたのだが、せっかくの機会なので事のなりゆきを確かめることも意味があると考えた。それに何よりも、ご苦労されている両編集部、二人の担当者の努力を無駄にはしたくなかった。断っておくが、私は執筆者の本多氏にはいろいろな思いが生じるのは仕方がないとしても、『週刊金曜日』の担当編集者には、その公正で正確な仕事ぶりに感謝している。

 たとえば、書簡に小見出しを付けるのは各編集部の権限だが、『週刊金曜日』の担当者は、ゲラの段階で私に必ず確認を求めている。私の第一信には、編集部は「南京事件の/『被害者はゼロ』」という見出しをつけた。私は、この見出しでは南京事件の存在を前提にしている印象を与えるので、「南京事件はなかった/『被害者はゼロ』」と訂正するように求めたが、そのとおりにしていただいた。

 話が横に逸れたが、私は討論を続けるために、「A記者」の発言も含めて、書簡に書かれていることの全てを本多氏の発言として扱うことを宣言した。論理的には、それ以外に討論を続ける理由は考えられない。

 驚いたことに、本多氏の第三信では、「A記者」が「私の発言を本多さんの発言とみなすのは『捏造』ではないでしょうか」と言い、それに本多氏が「俺の発言とごっちゃまぜにしてもらっては困る。藤岡氏の史料に向き合う姿勢がわかりますね」と応じて、私の個人攻撃の切り口にまでしている。

 両者を独立の別人格とせよというなら、本多氏としか討論を承諾していない私は、本多氏の相槌だけを対象に議論をすることを強いられることになる。ちなみにある人の計算によると、本多氏の発言量は本多氏の書簡全体の10パーセントだそうである。これがどんなに馬鹿らしいことか、大抵の読者は呆れるのではないか。私は無視して、私の宣言を貫きとおしている。

人名の誤記をめぐって


 本多氏の卑劣さは、討論のなかですぐに表れた。前に引用したとおり、私宛の公開質問状の第一番目は、「約三十万人が殺されたとの記述は、本多編集委員の結論ではなく、姜眼福さんの体験の聞き取りであることをご存知ですか」となっていた。

 私は第一信で、「引用部分が姜眼福という人物の証言として書かれていることは知っていました」と答えた。しかしこのとき、『中国の旅』で問題の箇所を確かめた私はあることに気付いたのだが、それにはあえて言及しなかった。

 すると本多氏第一信で、冒頭に「A記者」が「藤岡氏は名前を間違っています。姜眼福は姜根福の誤りですね」と発言した。私の第一信は、先に述べた事情によって格調高いものにならなかったのだが、誤字の指摘から始まる本多氏の第一信は、それに輪をかけて格調の低いものとなった。

 ところで、これは私が間違ったのではなく、本多氏側がそもそも間違ったのである。『中国の旅』では、この43歳の港湾勤務者は、たしかに「姜根福」となっている。私はこれに気付いたのだが、なにしろ相手は『中国の旅』の著者である。最大のオーソリティーだ。だからひょっとして、本多氏が取材ノートを確かめたら人名の書き間違いだった、ということもありうる。第一、「眼福」のほうが意味をなす言葉ではないか。それで私は食い違いに気付いたが、先方の質問にあるとおりの人名で答えたというわけだ。

 したがって、間違っていたなら非は本多氏側にあるのに、私のほうが攻撃されている。不当なことである。

 ただ、私は第二信でこのことには反論しなかった。字数がもったいないから「細部の応接は次便以降に回します」とだけ書いて、触れなかったのである。

 さすがに見かねた『週刊文春』編集部が本多氏の第一信のあとに「付記」して、〈「姜眼福」という記述は、そもそも「週刊金曜日」編集部からの最初の公開質問状にあった通りの記述である〉と書いて下さった。

 その後、『週刊金曜日』編集部からは公開質問状の誤字の訂正の通知がきた。私は、謝罪が必要ではないか、と返信したところ、謝罪もメールで届いた。このあたり、吉田清治証言の朝日の対応を彷彿とさせる。

 だが私は、本多氏自身が私に謝罪する必要があると思う。なぜなら、本多氏は『週刊金曜日』の編集委員であり、自分の雑誌が犯した誤記を私がしたミスだと勘違いして私のいい加減さを攻撃する材料にしたのだから、氏自身が謝罪するのは当然なのである。私はそれを求めていくつもりだ。

 論争はまだ続いており、この小論では内容に立ち入ることはしなかった。『週刊文春』は後半を年内に一括して掲載し、『週刊金曜日』は一回ごとの往診復信を毎週掲載している。なりゆきを注目していただければ有り難い。