ターザン山本!(元『週刊プロレス』編集長)
柳澤健(ノンフィクション作家)

BIデビュー50周年


──柳澤さんは『1976年のアントニオ猪木』(文藝春秋)、『1993年の女子プロレス』(双葉社)、『日本レスリングの物語』(岩波書店)、『1985年のクラッシュギャルズ』(文藝春秋)と、プロレスにかかわる本を書いてこられて、ついに今回のテーマは「世界の巨人」ことジャイアント馬場さんです。

 特に1960年代にアメリカで大成功を収めた馬場さんの姿を、当時の資料や証言から浮き彫りにさせています。今回、馬場さんを書こうと思ったキッカケは?

柳澤 僕のギターの先生で打田十紀夫さんという人がいるんですが、彼はジャイアント馬場の熱烈なファンなんです。

 2011年3月末、震災から半月くらい経った時に、打田さんとプロレスラーの渕正信さんと酒を飲む機会があった。プロレスラーと同席するのは怖いんですよね、絡まれたらどうしようとか思って(笑)。でも渕さんは凄く紳士で、僕の本も読んでくれていて「よく書けている」と誉めてくれました。その席で、打田先生にこう言われたんです。

 「今年は馬場さんと猪木のデビュー50周年。猪木の本やDVDはたくさん出ているのに、馬場さんの本が出ていないのはおかしい。柳澤さんに書いてほしい」

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プロレス ワールドリーグ戦 米国人プロレスラー、フレッド・ブラッシー(左)の胸元に逆水平を打ち込むジャイアント馬場(右)=昭和40年4月8日=
──なぜ、これまで馬場さんの評伝はなかったんですか?

ターザン 夫人の元子さんがいたからですよォ! 馬場さんと元子さんは一卵性双生児みたいに一緒の存在。だから、「馬場さんの全ては私が独占する」という考えなんです。別の人が馬場さんのことを書けば、自分だけの馬場さんではなくなってしまう。それが許せないんです。だから、あらゆる馬場さんの話は元子さんが封印してしまっている。書くとしたら、柳澤さんみたいに資料を集めてそこから検討していくしかないんですよ。

柳澤 元子さんに話を通すかどうか迷いましたね。元子さんに「馬場さんのノンフィクション本を書く」と言えば、絶対に介入してくる。原稿も全て見せろと言われて、ここを直せ、これは書くなと言われることが自明だったので、結局、元子さんには接触しないことにしました。

ターザン 僕も馬場さんとの様々なことを、『「金権編集長」ザンゲ録』(宝島SUGOI文庫)で書いた。『週刊プロレス』編集長をやっていたから、当時の馬場さんの裏側を全部知っている。こう言っていたとか、僕にお金をくれたとかね、全部書いちゃった。そうしたら、元子さんがカンカンになったんですよォ(笑)。

 僕としては、馬場さんは世間で言われているような「いい人」ではない。レスラーとして、ビジネスマンとして、“キラー”な顔を持っている。その“キラー”な部分を書くことで、馬場像をより豊かにしようとしたんだけど、元子さんには理解されなかったんだなぁ……。

柳澤 そりゃ無理ですよ(笑)。 


「外部は黙ってろ!」


──山本さんは柳澤さんの本を読んで、どんな感想を?

ターザン 『週刊大衆』連載中から読んでた。おもしろかったですねー!さっきも言ったように、柳澤さんは資料などで外堀を埋めていって本丸を攻めるスタイルで、これは非常に貴重です。やっぱり猪木さんや馬場さんに直接話を聞いちゃうと、逆にその人の言葉が絶対的なものになって、結局、イメージを覆すことはできなくなってしまいますからね。新しい猪木像、馬場像を作ることができるから、貴重な人材ですよォ。

 で、そのために柳澤さんは業界内の人間からは反発を買う。つまり彼らからしてみれば、「俺たちはこれだけ馬場や猪木を知っているのに、何も知らないやつがこんな本を書いてふざけるな」となるんですよォ。この本も、アメリカンプロレスに詳しい人たちからすると「柳澤は見たこともないし、行ったこともないのにこんなこと書きやがって!」となる。プロレスという小さな業界内ではよくある話です。

 たとえば、村松友視が1980年に『私、プロレスの味方です 金曜午後八時の論理』(情報センター出版局)を出した時、ファンはみんなこれを読んで大ブームになったのに、プロレス業界はこの本を無視した。なかったことのように扱った。

 当時、僕は『週刊プロレス』編集部のペーペーだった。編集長の杉山頴男さんはプロレス肌じゃなかったから、新聞広告でこの本を知って僕に取材に行けと命じたんです。村松さんは当時、『海』の編集部にいて、ちょうど大日本印刷で校了中だったからそこに行くと、村松さんが「いやー、絶対にプロレス業界から無視されると思っていた。君が来てくれたこと自体が驚きだよ」と目を丸くしていましたよ。

 それくらい、プロレス業界というのは外部の人間がプロレスについて書くことを許さないんですよ。

柳澤 だから、『週プロ』では僕の本はなかったことになってますよ。取り上げられたことがない。

ターザン 駄目な世界ですよォ、この業界は! くだらない!

柳澤 こういう村社会的なところは、どの業界にもありますけどね。たとえば、『文藝春秋』で立花隆さんが「田中角栄研究」をやった時、新聞記者は「記者はこんなことは誰でも知っている」と批判した。それと似ているかもしれませんね。

戦後が詰まっている


──柳澤さんは、ジャイアント馬場にもともと興味があったんですか?

巡業先で練習の合間に写真を撮るジャイアント馬場。左は、アントニオ猪木=昭和38年8月
柳澤 僕はアントニオ猪木のほうが好きだったから、まずは猪木さんのことを本にしたんですが、「なぜ猪木さんはモハメド・アリ戦をやったのか」「なぜこんな過激な行動をとったのか」を考えていくと、猪木さんのなかでジャイアント馬場がどれだけ大きい存在だったのかがわかってきたんです。

 僕に言わせれば、猪木さんと馬場さんはコインの裏表で、猪木さんを知るには馬場さんを知らないといけないし、馬場さんを知るには猪木さんを知らないといけない。『1976年のアントニオ猪木』と『1964年のジャイアント馬場』の2冊を読むと、日本のプロレスが猪木と馬場でできていることがよくわかると思います。それは僕がそういう構成をしたわけではなく、もともと日本のプロレスがそういう構造になっているということなんですよ。

ターザン たしかにそういうことが書かれているけれど、僕は実は全く別の見方をしているんです。書いた本人も気づいていないかもしれないけど、これは新しい視点を提供した極めて革新的な本なんですよォ!

 まず、力道山のプロレスは、敗戦のショックで打ちひしがれた日本国民の前で、空手チョップで外人レスラーをバッタバッタ倒すことで国民のストレスや鬱憤を晴らしてきた、と一般的に言われてきた。

──柳澤さんも「力道山のプロレスの根本思想は反米だ」と書かれています。

ターザン それは表層で、実は親米なんですよォ! 一から話すと、プロレスというものは日本の風俗の歴史のなかだけで語られているけど、プロレスには戦後そのものが詰まっている。そこを見ないと駄目なんです。

 日本の戦後は、誰が考えても日本、韓国、アメリカの三つの柱でなりたって続いてきた。これは誰も否定できないでしょう。力道山は戦前、半島から海峡を渡って日本に来て、相撲の世界に入る。ところが、強くなればなるほど、韓国人は大関、横綱になれないという不文律、理不尽なものに激突する。それに怒って力道山はチョンマゲを切り大相撲、すなわち日本そのものに三行半を突きつけたわけですよォ!

 じゃあ、相撲に変わるものは何かあるのか。たまたまアメリカに渡った時に一大娯楽、劇場空間として繁栄していたのがプロレスだったんです。力道山は勘がいいから、「これはワールドワイドなエンターテインメントだ」と察して、これを日本に輸入した。

 その結果、たまたま日本人対外国人の構図になって国民の鬱憤晴らしになったけれど、実はプロレスは、民族性を越えたアメリカ文明というものなんですよォ!

 さらに、ちょうどその頃にテレビが出現してきて見事にプロレスと合致した。平均視聴率64%は、日本テレビは一度も上回ったことがないんですよォ!

 さらに注目すべきは、タイトルになっている1964年という年です。

なぜ1964年なのか


──柳澤さんは、なぜ1964年に注目されたんですか?

柳澤 これまでの本を見ればわかると思いますが、「××年の○○」というタイトルは僕のトレードマークみたいになっていたので、今回もそうしようと思って(笑)。

 1964年は、馬場さんにとってはNWA、WWWF、WWAという日本で世界三大タイトルと言われているものに連続挑戦した年だということもあります。64年以前のジャイアント馬場はアメリカで活躍するレスラーで、64年以降はアメリカンプロレスを日本に持ち込んだレスラーと分かれますし。加えて言えば、63年末に力道山が刺されて亡くなったので、64年が大きな転機になるんですからね。

米国武者修行から凱旋帰国を果たし、力道山(左)と並んで笑顔で乾杯する=昭和38年3月
ターザン 1964年という年はどういう年か。東京オリンピックが行われ、東海道新幹線が開通し、いわば戦後の一つのピークの時です。さらに60年と70年の安保闘争の真ん中の時期とも言える。

 63年の末に、力道山はヤクザに刺されて死ぬ。韓国人の力道山は、アメリカ文明であるプロレスを輸入し、山口組などと組んで興行を行って日本を盛り上げ、そのヤクザに刺されて死んだ、という構図になるわけです。

 そんななかで、力道山を受け継ぐ形で馬場さんがアメリカから帰ってきた。ここからが第2の戦後になる。1970年の大阪万博で第2のピークを迎え、その直後の72年に馬場さんと猪木さんは袂を分かち、それぞれの団体を作って活動をすることになる。どうですか、見事に戦後とプロレスの動きがリンクしているんですよォ!

 馬場さんは新潟で野球をやっていて、巨人に入った。ところが、いくら2軍でいい成績をあげても全然1軍に上げてくれない。馬場さんは田舎者なんで、監督などにゴマスリができなかった。さらに、でかくて目立つから先輩選手がいい顔をしなかったんです。これも、力道山が角界で味わった挫折感と同じ。結局、風呂場でこけてケガをし、そこで力道山に拾われてレスラーになった。

 一方、猪木さんは戦後、一家でブラジルに渡ったけどうまくいかなくて、たまたまブラジルに来た力道山に拾われて日本に戻った。

 つまり、力道山は韓国─日本─アメリカ、馬場さんは新潟─東京─アメリカ、猪木さんは日本─ブラジルとコンパスがでかいんですね。このコンパスの広さによって、第1期、2期、3期と戦後の社会と合わせ鏡のようにしてプロレスは出来上がっていた。このことは、これまで一度も語られたことがなかった。これを柳澤さんは見事に書いたんですよォォ!

観客を巻き込むA猪木


──馬場さんに実際にお会いしたことはありますか?

柳澤 『週刊文春』のグラビアでは、一緒に写真に写ってますよ。それこそ花田さんが編集長の時に(笑)。1990年4月13日に行われた日米レスリングサミットを取り上げた時です。といっても話を聞きに行ったわけではなく、馬場さんとアンドレ・ザ・ジャイアントが並んでいるところに僕がそっと後ろから近づいて仰ぎ見ている、という写真ですが(笑)。大きさを示すための煙草の箱代わりになったんです。

ターザン アンドレも身長2メートルあって、馬場さんとは巨人同士でシンパシーを持っていたんだよね。アンドレが亡くなってから、アンドレが自宅で使っていた大きな椅子は馬場家に送られたそうですよ。

柳澤 いい話だなー。

──山本さんは当然、何度もお会いしていると思いますが、最初はいつですか?

ターザン 『週刊ファイト』にいる時ですね。『ファイト』は猪木べったりだったから、近づくのが大変だった。

──何で猪木さんべったりだったんですか?

ターザン そりゃ、売り上げが違いますもん。馬場さん、全日本プロレスを取り上げても全然売れないけど、猪木さんをやれば売れる。だから、猪木・新日本プロレスが8、馬場・全日本プロレスが2の割合で扱っていました。

──そんなに違うんですか?

ターザン 馬場さんのプロレスは予定調和のプロレスですからね。初めから勝負が見えているから、何を報じたってそれほどおもしろくない。

 だけど、猪木さんは殺し合いみたいなプロレスで、スキャンダルや事件もがんがん起こるなど予定調和を崩すんです。マスコミを利用するし、観客も巻き込んでいく。そりゃー、猪木さんのほうがおもしろいですよォ。

柳澤 有名なところでは、猪木さんと倍賞美津子夫妻が新宿・伊勢丹前でタイガー・ジェット・シンに襲われた事件ですね。リング以外の普通の街中でいきなり襲われるんだから。もちろん警察沙汰になった。はっきり言って、ヤラセの犯罪行為です(笑)。

ターザン ヤラセなのは誰でもわかるし、こんな破廉恥なことは誰もしない。だけどおもしろいし、ファンも喜ぶ。そういうことをどんどん仕掛けていくんですよォ、猪木さんは。馬場さんは絶対にそんなことをやらない。

柳澤 馬場さんは常識人ですからね。猪木さんがおかしいんです(笑)。

馬場と猪木の決定的な違い


ターザン 僕がプロレス業界に入った時に馬場さんに言われたのは、「ここは社会部の記者が来るところじゃないからね」。「追及したら駄目だよ」ということ。そりゃそうですよ。控え室に来たら全部見えているんだから、それを全部書くわけにはいかないでしょ。

柳澤 でも、山本さんは過激でしたよね。プロレス専門誌って業界誌で、当り障りのないことを書くものだったのに、業界最大手の新日本プロレスの夏の大会「G1クライマックス」について「冷夏のG1」と酷評したでしょう。普通、しませんよ。

ターザン 僕はしょっぱいことをやったらボロカスに書いてましたね。くだらない、つまらないと。

 馬場さんはとにかく王道を進んでいて、彼以外は邪道だった。だけど、猪木さんはその邪道をファンを巻き込んで突き進んで行った。この差は大きいですよォ。

ルー・テーズ(左)と力比べをするジャイアント馬場=昭和41年2月
柳澤 馬場さんは自分の団体にアメリカの一流選手を招くことができたけど、猪木さんの団体には二流、三流のレスラーしか来なかった。だけどその二流三流のレスラーを、世にも恐ろしい悪魔に仕立てあげるのがアントニオ猪木なんですよ。

 馬場さんは言ってみれば、一流ホテルにある一流レストラン。いい食材を使って、シェフが腕を振るって、値段もそれなりにするけど安定しておいしい料理。

 猪木さんは逆で、下町にある場末の汚らしい中華料理屋なんです。何が入っているのかわからないいかがわしさがあるんだけど、抜群にうまいチャーハンが出てくる。この二つを比べれば、熱狂的ファンを生むのはチャーハンのほうですよね。

 たしかにアメリカで成功したのは馬場さんだけで、日本プロレスに戻ってからもジャイアント馬場がエース、アントニオ猪木は二番手だった。それは最後まで崩れなかった。

 しかし、2人がそれぞれの団体を作ってからは逆転した。団体として、全日本プロレスが新日本プロレスに興行的に勝ったことは一度もない。

 その原因は、馬場さんは団体を作った時点で35歳、猪木さんは29歳と年齢が違った。それに馬場さんは、もともと成長ホルモンの異常分泌で巨人になったわけだから老化も早く、トレーニング不足だった。一方の猪木さんは練習大好き、人に見られるのが大好きという人。さらに先ほどから話しているように、猪木さんの過激なやり方のほうがファンが喰らいついてくる。

 山本さん流に時代とリンクさせて言うなら、70年代の初頭は全共闘運動などが消滅し、浅間山荘事件が起きるような若者たちの挫折の時代ですよね。曇り空の時代。そんな時代には、60年代から続く「明るく正しい」プロレスであるジャイアント馬場は合わなかった。

 正統派・馬場に噛みつく、反逆のヒーローのアントニオ猪木のほうがマッチしていた。この差は決定的なものだったんです。

G馬場の「いい世界」


──両方書いてみて、どちらが好きになりましたか?

柳澤 両方です(笑)。もともとは猪木さんのほうが好きでした。だから最初に書こうと思ったわけで。

 ノンフィクションですから、いいところも悪いところも書く。猪木さんの場合は、70年代は本当にかっこいいんだけど、80年代になると嫌な奴になるんです(笑)。でもしょうがないから、我慢しながら書いていく。で、書き終わってみると、「やっぱりこの人すごいんだな!」と思います。取材対象として何年も付き合っていくと、古女房みたいな感覚になるんですね(笑)。

 馬場さんにはそもそも興味なかった。僕は1960年生まれで、馬場さんの全盛時代は小学生。中高生の70年代半ばは、やっぱり猪木さんに夢中になっていましたから。

 でも今回、馬場さんのことを書いてみて「馬場さんという人はすごかったんだ!」と改めて分かりました。

──山本さんはどちらが?

ターザン 僕に限らず、100人プロレスファンがいたら、99人は猪木ファンですよォ! 残り1人が馬場さん。もし80年代に「私、馬場さんのファン」と飲み屋で言ったら、ボロカスに叩かれますよォ。それくらい差があった。

──でも、全日本プロレスも興行は成り立っていたんですよね?

柳澤 全日本プロレス自体は大して儲かっていなかったんですよ。馬場さんがアメリカに留まるか日本プロレスに戻るかを選ぶ時に、日本テレビが「君がいる限り、客が入っていなくても全部、面倒を見る」と条件を出して馬場さんを引き抜いた。だからプロレス興行で儲からなくても、日本テレビからの放映料でやっていけたんです。

 19985 1
新崎人生のロープ拝み渡りを慈悲の目差しで受ける
ジャイアント馬場  1998年5月 1日 東京ドーム 
──だけど、山本さんも最後は馬場さんに傾倒していきましたよね。

ターザン そうなんですよォ! プロレスファンとして、僕が最後の最後まで望んだこと。仕事なんかどうでもいい、本も売れなくていい。ただ馬場さんと食事をしてみたい、これだったんです。僕は猪木ファンだったために馬場さんの世界に近づけなかったけど、遠くから見て「あっちにはなんていい世界があるんだろう! 俺も入りたい!」、そう思っていたんですよォ!

──「いい世界」というのは馬場さんのプロレスではなく、馬場さんという存在ということですか?

ターザン そうです。あの存在と雰囲気。葉巻をくゆらせ、のんびりとレストランで食事をしているあの豊かな雰囲気がとにかくいいなぁ、と。

 何とか機会を得て、その世界に入ることができた。馬場さんとキャピトル東急の「ORIGAMI」──いつもここで食事をしていた──で食事をしたあの空間が、僕の最高の思い出なんですよォ!

──力道山、馬場、猪木のプロレスは時代の空気を凝縮させたもの、時代と合わせ鏡になったものと先ほどからおっしゃっていますが、現在のプロレスもそうですか?

ターザン そういう空気は全くないですね。

柳澤 猪木さんの引退、馬場さんの死去で変わりましたね。

──でも、新日本プロレスは好調です。

ターザン 僕から言わせれば、いまの新日はコンビニやファミレス、いわば“ファッション”みたいなものです。試合を見に行っても、すぐに忘れ去られてしまう。だけど猪木さんの試合は記憶に刻まれて、試合のあとは飲み屋で語り明かしたものです。その記憶がトラウマになっちゃったりね(笑)。

──柳澤さんは今後もいろいろ書かれていくかと思いますが、山本さんは何か書かれる予定はありますか?

ターザン 実は小説を書けという話がきています。

柳澤 おお、ついに具体的な動きが! 書いたほうがいいですよ、山本さん。天才なんだから。

ターザン もう構想は練ったんで、あとは書くだけ。書けるかな(笑)。

ターザン山本!氏と柳澤健氏(撮影:佐藤英明)
ターザンやまもと! 1946年、山口県生まれ。立命館大学文学部中国文学専攻中退。77年、『週刊ファイト』のプロレス担当記者になる。80年、ベースボール・マガジン社へ移籍し、87年、『週刊プロレス』の編集長に就任。96年、ベースボール・マガジン社を退社。以後、フリーのライターとして活躍。

やなぎさわ たけし 1960年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒。文藝春秋に入社し、『週刊文春』『Sports Graphic Number』編集部などに在籍。03年7月に退社し、フリーとして活動を開始。07年、デビュー作『1976年のアントニオ猪木』(文藝春秋)を上梓。


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