著者 田中一成(東京都)

 朝日が長年にわたり主導してきた新聞のあり方について、いま改めて是非が問われている。マスコミ、とくにその中心的存在である新聞の報道は、客観性と中立性を具備するものと信じられてきた。しかし、実際の記事や論評はどうであったか。私は新聞マニアとして、朝日、産経、日経の3紙を数十年にわたり購読してきた実感から、率直な感想を述べたい。

1)紙面を構成するページ枚数


 試みに平成26年12月17日に於ける、朝日新聞の紙面構成を見てみよう。当日の総頁数は38頁であるが、各頁は12段になっている。したがって全ページを段数に換算すると456段になる。またA5版の書籍に換算すると、頁数は304になる。つまり朝日の朝刊だけで、新書1冊分の大量情報が、毎朝配達されていることになる。では、その大量情報の内容はどうなっているのか。次の表は、それを分析したものである。

 この表を作成しながら私は、大きな疑問を抱いた。新聞は何故に、このような広い領域をカバーしなければならないのか?しかもその大半は、新聞本来のミッションであるニュース性を必要としない。例を挙げれば、生活、教育、文化、福祉欄だ。その一方では、専門紙と重複する分野もある。経済・株式、番組、地方、スポーツの各欄だ。これらを除いて新聞本来の特徴を発揮できるのは、わずかに総合、社会、国際およびオピニオンの4欄であろう。しかしこの4欄については、読者として大いに不満を表明しなければなるまい。

 第1の総合欄では、最も期待されるのが政治関連のニュースであろう。当然ながら記事の内容は、視野の広さと中立性が期待される。まず視野の広さについては、政治を政策の見地で報道し、政局的な見解を控える態度が望ましい。しかし、これに関する新聞の記事はどうであったか。嘗ては派閥や政治家の人事に関する政局記事が中心であった。そのため特定の政治家をマークする番記者というスペシャリスト?が、存在したほどだ。最近はかなり改善されているが、それに代わって、特定のイデオロギーや政党に肩入れする態度が顕著になった。先年、民主党が大勝した総選挙がその好例である。この選挙キャンペーン記事で見せつけた、朝日新聞社全グループを挙げての偏向ぶりは凄まじかった。朝日グループの政治偏向ぶりは今に始まったことではない。少なくとも政治に関心を持つ人たちは、この選挙で1993年に全国朝日放送(現・テレビ朝日)が引きおこした放送法違反の椿事件を想起したに違いない。

 第2の社会欄については、情報の多くを警察に依存している。そのくせゼスチャーとしては警察国家化への懸念を示さなければならない。最近でこそ影を潜めたが、嘗ては事件発生で警官が発砲したとき、記事の見出しは先ず「警官拳銃発砲!」であった。そもそも1億3000万人が生活する社会において、日常発生する事件の数は無数としか言いようがない。僅かな紙面でそれを網羅することは不可能であろう。当然ながら記者は、それを取捨選択して記事にする。それは一種の特権とも言えるであろう。その特権の行使に於いて、特に朝日には独自の思想に基づく偏りが見られる。

 第3の国際欄の記事については、朝日のみならず全ての新聞社に共通する問題がある。国際社会という極めて広範な領域での出来事を、一企業に過ぎない新聞社がカバーすることなど、とても出来ることではない。したがって記事の大部分を、国内外の通信社に依存せざるを得ない。社内で出来ることは、その取捨選択と若干の取材記事を付加するだけである。但しこの作業には、偏向記事を偽装するためのトリックを潜ませることができる。嘗て中国で、文化大革命が行われたときの朝日新聞の紙面には、「中国の街角には蠅が一匹もいない」と書かれていた。

 第4のオピニオン欄では、発言の自由を装いながら、特定の考え方を読者に押し付ける場合がある。とくに朝日は、その特権!をフルに活用している。特権の行使にもトリックが用いられる。例えば少数意見の扱い方である。対立する意見があって、その一方の極小の意見を支持したい場合は、両論を併記する。しかし構成比は隠蔽される。逆に自社意見への同調者が多い場合は、その人数と構成比が示される。また看板にしている『声』欄への投稿採択では、露骨なフィルターがかけられる。かつて私は、この新聞の偏向記事について意見文を投稿したことがある。しかし、それは二度とも採択されなかった。

 このほか、自説に副わない事件や事実を、記事にしないという”消極的な偏向”もある。この事例は極めて多いが、紙幅が足りないので省略する。

2)新聞の性格


 上述したように、新聞の編集で目立つのは記事項目の多様さである。この朝日新聞の事例では14項目に上るが、たぶん他紙も大同小異であろう。この多様さは、文藝春秋や中央公論などの月刊”総合雑誌”とよく似ている。違いは月刊ではなく日刊であることだ。その点を強調するならば、新聞紙というよりは、むしろ“雑紙”と称すべきだろう。

 本来の新聞、とくに一般紙を特徴づけるものは、この表でいえば総合と、社会、国際およびオピニオンの4欄に過ぎない。他の項目については、それぞれの専門紙があるのだから、一般紙が割り込む必要はあるまい。しかし、それではボリュームが足りない。不足の理由は、総合、社会、国際の三大分野に関する取材能力が不足しているからであろう。能力には質と量の両面があるが、とくに問題にすべきは質である。中でも総合欄については、主筆や編集長と称する看板記者が大いに腕をふるわなければならない。私の感想を言えば、この面に於ける朝日・産経の記事は大いに読み応えがある。ただし朝日については、特定のイデオロギーへの偏向が目立ちすぎる。国籍不明のコスモポリタリズムやアナーキズムに、毒されているのではないかと危惧させられる。

3)新聞の編集と解説


 購読者としては、本来は事実だけを知りたい。しかし事実の背景には、複雑な事情がある場合が多い。また金融経済や国際関係、法規など専門知識を要する場合も少なくない。従ってそれらについては、たんに事実だけでなく背景や前提となる知識が必要だ。その意味で、新聞が編集や解説をやってくれるので、大いに助かることになる。但しそれには、客観性と中立性を守って欲しい。実は私は、その面で朝日を充分に信用することが出来ない。前に述べたように、特定の政治グループやイデオロギーへの偏向を感じさせられるからである。

 このような不信感を取り除くにはどうしたらよいか。参考例として、私はインターネットで配信されるグーグルのニュースを挙げたい。この画面では、項目が発生順に羅列されるだけである。読者はその項目を選んで、クリックすれば詳細を読むことが出来る。グーグルは、新聞がやるような、印象付けの編集手法を用いない。ここで言う編集手法とは、見出しの表現、活字の大きさ、スペース、紙面のレイアウトなどである。これらの手法を用いることによって、新聞は巧みに自らの主観や価値観、イデオロギーを押し付けてきた。然しその一方では、報道の客観性や公平さをアピールするのである。私は朝日新聞が引きおこした今回の事件を好機にして、新聞編集と記事のあり方を見直すべきだと考える。

4)日本の新聞の特殊性


 欧米諸国の新聞と日本の新聞を比べると、かなりの相違を認めることができる。そのうちの幾つかを指摘したい。

 (1)商業性の隠蔽
 新聞は営利企業であるから利益を求めるのは当然だし、実際にその目的に副った経営を行っている。例えば上で示した朝日新聞の「紙面を構成するページ枚数」では、広告の全紙面に占める割合は48%である。つまり購読者は、料金を払って広告を読まされている。そのダブルプレイを認めるとしても、気になるのは、報道の公益性だけを声高にアピールするゼスチャーである。この傾向がとくに目立つ朝日新聞の経営実態をみると、以下の通りである。

       売上高 約4700億円
       経常利益 約170億円
       従業員数 約4640名

 一般に経営と従業員の緊張関係を緩和し忠誠心を維持する手段として、高賃金と福祉システムが用いられるが、上で見る朝日の実態もそれを如実に示している。つまり事業経営や経営管理の側面でみる限り、朝日は典型的な優良会社である。

 (2)読者の知的怠惰をもたらす宅配システム
 私の知人は、朝日と日経を半日かけて隅々まで読むという。それだけで、世の中の動きが全て把握できると思い込んでいる。しかし、新聞は自らのイデオロギーや偏向思想を巧みに隠蔽して、ひたすら公平さをアピールする場合が多い。それを信じる読者は、他紙と比較する気にもならないのだ。しかもその新聞は毎朝宅配されるので、わざわざ買いに行く必要がない。この日本独特の宅配システムは、新聞社と読者の両方に便利さをもたらす。しかし反面では、情報選択という知的行為を怠らしめるのである。この怠慢が続くと、読者はいつの間にか「習慣病」に冒される危険がある。肉体面での習慣病はよく知られている。しかし精神面での「習慣病」は、もっと恐ろしい。考える意思と能力を衰弱させるからである。それは一種の麻薬効果というべきであろう。

 (3)奇妙な思い込み
 嘗て朝日の編集者はニューズウイーク誌に、自社の編集方針を「反権力と啓蒙」と述べたことがある。しかし現在の民主主義国家の政治で、行使されている権力とは何だろう。それは特定の行政現場で行われている、意思決定機能と執行機能に過ぎない。何はさておき、意思決定のない行政があり得ないのは自明のことである。それに対し、反権力という大げさな表現で反対するのは、あまりにも幼稚な妄想であろう。嘗てのスターリンやヒトラーなどによる独裁国家の権力を、イメージしているのだろうか。もう一つの啓蒙については、思い上がりも甚だしい。この考え方に基づいて記事を書いているとすれば、それ即ち読者を見下していることになるではないか。

 (4)客観性を装う情報操作
 産経を除く日本の有力紙は、信奉するイデオロギーや政治的な偏向を、隠蔽する場合が多い。しかし記事を読めば意図は明らかになるのだから、隠す必要はないではないか。たとえば民主党が大勝した前々回の総選挙に於いて、朝日が露骨に行った民主党支持のキャンペーンは今なお記憶に新しい。また少数派意見の尊重という詭弁も多用される。たとえば朝日は自社説を強制するために、屡々このキャッチフレーズを用いて記事を書く。例えば、あるアンケートで回答者数が賛成100名、反対10名であったとする。それでも朝日が少数派に与する場合は、両者の意見を併記する。しかし賛成者と不賛成者の数は示されない。

 この他でも、いろいろな手段で情報の操作を行っている。嘗て私は、朝日批判の文章を二度にわたり声欄に投稿したが、何れも採択されなかった。また、意図的に記事にしない方法もあるらしい。嘗て私は、文京シビックホールで催された「新しい歴史教科書の会」の会合に出席したことがある。この時の参加者はおそらく1000名を越えていた筈だ。日本の歴史教育のあり方を憂慮する人たちの、素朴で熱気溢れる集会であった。しかし当日の朝日新聞は、そのことに全く触れていない。その代わり片隅の小さい囲みには『教科書の会に反対するグループのデモ』として、数十名の参加者があったことが記されていたのである。

 (5)エリート意識と特権意識
 文藝春秋2014年12月号の『朝日新聞若手社員緊急大アンケート』を読むと、この質問に応じた18名の回答は概ね謙虚で反省的であり、好感をもつことができる。しかし問題は、回答者が僅か18名に過ぎないことだ。役員や管理職を除いても社員の数は、3000名に達するはずだが、アンケートへの回答はこの程度である。実質的には、無視したことになる。全社に漲るエリート意識は、今なお健在ということなのか。嘗て取材に赴く記者達は、社旗を翻す社用車で事件現場に乗りつけていた。それはまるで、除け!除け!といった感じであった。まさか今なお、そのような特権意識をお持ちとは思えないが…。

5)朝日新聞のノウハウ


 (1)独特の表現手法
 朝日新聞の記事文章には、独特の臭みと味わいがある。一部の読者にとっては、それが好ましいらしい。その典型が「天声人語」であるが、嘗ては模範文として入試に出題されるほどであった。しかしこの新聞の主張や論旨は、しばしば韜晦そのものである。その点を鋭く指摘する泰郁彦氏は「歴史から目をそむけまい」とか「○○問題は柔軟な発想で」式の表現を、真意が汲みとれぬ曖昧で空疎な修辞だと批判している。

 (2)巧みな詭弁術
 朝日の記者達は、詭弁術ともいえる独特のノウハウを身につけている。事例としてWiLL-2015年1月号と2月号に連載された『「朝日問題」で問われる日本のジャーナリズム:大闘論4時間』を挙げてみよう。これはジャーナリストの櫻井よしこ氏と、元朝日新聞編集委員の山田厚史氏との間で行われた討論のうち、「吉田調書」を巡る部分である。やや長文になるが、問題の部分(2月号の54頁以降)を引用しよう。(敬称略)

山田 記事そのものについては、取り消しに値する誤りはなかったと思います。確かに「所長命令に違反 原発撤退」という見出しは誤解を招きましたが、内容は事故で指揮系統が乱れて所長の指示に反する集団行動が起きてしまった、という事実を書いたものです。

(中略)

櫻井 あの記事は、記者の反原発イデオロギーに沿う形で書かれたものであるとの疑惑を強く抱かざるを得ません。同じ日の二面に、担当記者が「再稼働論議 現実直視を」として次のように書いています。

 「暴走する原子炉を残し、所員の9割が現場を離脱した事実をどう受け止めたら良いのか」

 「吉田氏は所員の9割が自らの待機命令に違反したことを知った時、『しょうがないな』と思ったと率直に語っている」

 「命令違反」で「現場を離脱した」無責任な東電社員や下請け企業の従業員は信用できず、彼らが動かす原発の再稼働など絶対に許さない、という強い意思が読み取れます。

山田 櫻井さんがおっしゃるような「無責任な東電社員や下請作業者は信用できない」など、記事にはどこにも書いていませんよ。

(中略)

櫻井 山田さんのおっしゃることは朝日知識人の典型的な騙しの論理で、私はいま、お話を伺っていて正直、腹が立ちました。たしかに言葉のうえだけを見ると、「東電は信用ならない」とは書いていないかもしれません。しかし紙面全体を読めば、明らかに「東電は信用ならない。そんな彼らが動かす原発など絶対に許してはならない」との印象を受ける書き方をしています。9割が現場から逃げたという…。

山田 「逃げた」なんて書いていないじゃないですか。この記事のどこにそう書いてあるんですか?

櫻井 朝刊一面のトップで「所長命令に違反 原発撤退」「福島第一所員の9割」、二面では「葬られた命令違反」などの見出しを大々的に掲げ、「11年3月15日朝、第1原発にいた所員の9割にあたる約650人が吉田氏の待機命令に違反し、10キロ南の福島第2原発へ撤退していた」と書いた。事実上、「逃げた」と紙面全体で言っている。山田さんは言葉の字面だけを追って「書いていない」とおっしゃいますが、これはきわめて悪意のある印象操作だと断じざるを得ません。

山田 それは印象であって、印象で人を批判するのはよくない。

(後略)


 以上のようなやり取りが延々と続く。実はこの山田氏の論法こそ、私が先に3)新聞の役割で強調した「排除すべき編集手法」なのである。

結び


 長年にわたり疑問を抱きながらも私は、新聞とくに朝日を熟読してきた。しかし最近になって、この新聞が行ってきた記事・編集の実態を知った。そして今更ながら、なぜ朝日新聞がこのような偏った記事や論説を続けることができたのか、不思議でならない。その理由を解明しなければ、再び同じ過ちを犯すかも知れない。この不思議をもたらしたのは、何であったか。この短文を書き終えて私の脳裏に浮かんだ戯れ唄は、次の通りである。

幽霊の 正体みたり 枯れ尾花