世界情報に疎かったはずの日本人が、地球儀のニューヨークとワシントンをたちどころに指さした上に、船舶と鉄道とでは蒸気機関に違いがあるのか、パナマ地峡の開発状況はどうかなどと相次いで質問。さらには、最新式の大砲を目にするや、これはペグサン砲ですねと言い当てたという。

 鎖国下でありながら、なにゆえこれほどの最新情報を持っているのか、ペリー一行は驚いたに違いない。彼らが公式記録に書き留めたのもうなずけよう。

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琉球王国の首里を訪問するペリー
(出典「ペルリ提督日本遠征記(1857年版)」=霊山歴史館蔵).
 もちろん、オランダから情報が提供されていたこともあるが、ここでは幕末日本人による国際認識の事例として、嘉永3(1850)年に長州の萩から平戸、長崎、熊本に遊学した吉田松陰を取り上げてみたい。

 松陰は遊学先で清国やオランダから持ち込まれた文献の漢訳本を片っ端から読破するが、その一つにフランスの砲将ペグサンが著した『百幾撤私(ペキサンス)』がある。そこには蒸気船の優位性とともに、ペグサン開発のボンベ・カノン(ペグサン砲)が紹介されていた。

 従来の大砲は誤爆の危険もあり、軍艦に搭載する大砲の玉は内部に火薬を詰め込まない単なる鉄球だったが、新式大砲は火薬入りの玉を安全に発射できる。

 若き兵学者は刮目(かつもく)して筆録した。「葛農(カノン)蒸気船は何方の風にも、又風なきも、皆意に従ひて港内に出入し得るなり。…水浅けれども渡行すべく、檣(ほばしら)を建てず、帆を揚げず、近きに至らざれば認め難し。故に盆鼈葛農(ボンベカノン)を備へ、敵に一驚を食(くら)はしむべし」と。

 この時松陰は21歳、ペリー来航の3年前のことである。無名の若者がこれだけの情報を得ていたのだから、幕府の役人が知っていて当然なのである。

 異なる文明に接して衝撃を受けながらも、一方で可能なかぎりの最新知識を身につけて対応した幕末日本人の進取の気性。──われわれもあやかりたいものである。

(中村学園大学教授 占部賢志)

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