幕末を駆け、時代を維新へと導いた吉田松陰。ご存じだろうか。松陰という先覚者をはぐくむ「揺籃(ゆりかご)」となったのは、彼が旅した雪深きみちのくの大地であり、そこでのさまざまな出会いと別れであったことを。南は勿来(なこそ)の関(福島県いわき市)から北は津軽半島まで、また後の東日本大震災の被災地を含む広範な地域を踏破した松陰。それでは、彼と盟友たちのみちのりをたどることにしよう。(東北特派員 関厚夫)


 「東北・北陸は土地広く山峻(けわ)しくして、古(いにしえ)より英雄割拠し、奸兇巣穴(かんきょうそうけつ)する。かつ西は満州に連なり、北はロシアに隣する。国家経営の大計に最も関わり、学ぶべき成功と失敗の歴史の地である。だが残念至極、自分はまだ東北を知らない」

 だから、ゆくのだ-。

 嘉永4(1851)年末(旧暦)、満21歳の吉田松陰は『東北遊日記』の冒頭にそう記している。
 松陰が奥州の起点・勿来の関を越えたのは翌年1月23日のこと。ここに至るために彼は、長州藩のエリートコースから逸脱するばかりか、藩主を見限る脱藩という大罪をおかしていた。

 旅の前半は雪また雪。《雪の深さ幾丈か測ることできず》とは会津から新潟に向かう山中の漢詩だ。

 そして佐渡へ。金山の採鉱現場を訪ね、頑健な者でも数年で「体が動かなくなるか、死に至る」という過酷な労働環境を知る。

 その後北上し、津軽では数々の義憤に駆られた。まずアイヌを人扱いせず酷使する悪徳商人がいた。また近年、津軽海峡を国籍不明の外国船が往来しているにもかかわらず、当局者は見て見ぬふりだったからだ。「黒船来航」は約1年半後のことである。

 松陰の旅は続く。

 盛岡城の西北にある厨川(くりやがわ)の古戦場では、源氏と戦って「実に八百年前」に滅亡した俘囚(ふしゅう)(帰順した蝦夷(えみし))の長、安倍氏を追想。その後南下し、平泉・中尊寺で奥州藤原氏をしのんだ。

 以降、南東に道を取り、石巻から塩竃(しおがま)神社、多賀城跡を経て仙台へ。松陰は当時、無名の若者で、見方によっては「お尋ね者」だった。しかし、みちのくはどこも彼に温かかった。仙台藩では藩校・養賢堂の学頭で、西洋学問所や庶民の教育所を開設した重鎮、大槻習斎が快く迎えた。

■ ■ ■

 松陰の本名は「矩方(のりかた)」。通称は寅(大)次郎。「松陰」は雅号である。彼は別に「二十一回猛士」という雅号を「松陰」以上に愛した。

 これは、生涯で21回の猛(「常識を覆す壮挙」とでも訳すべきか)を発する武士という意味である。松陰は、脱藩・東北行を猛の「第1回」とした。みちのくへの思いが史上の志士「松陰」を生んだといえようか。

 松陰はこの旅を10歳年上の熊本藩兵学師範、宮部鼎蔵(ていぞう)、また博覧強記の元盛岡南部藩士で3歳上の那珂通高(なか・みちたか)とともに計画。長州藩は当初、松陰の東北行を認めていたが、直前になって「不可」とした。

 同行する那珂が敵討ちを計画しており、松陰がそれに助太刀する覚悟であることを察知したからだとされる。松陰には脱藩するしか、友への誠を証明するみちはなかった。

■ ■ ■

 《宮部痛哭(つうこく)し、五蔵(ごぞう)(那珂の変名)五蔵と呼ぶこと数声、余(松陰)も亦(また)嗚咽(おえつ)して言ふ能はず。五蔵顧みずして去る》

 残念ながらNHK大河ドラマ『花燃ゆ』では割愛されたようだ。が、嘉永5年1月28日、福島県白河市郊外で、助太刀を申し出る松陰と宮部を振り切り、一人ゆく那珂。その描写は『東北遊日記』の絶唱である。

 しかし…。

 那珂いわく《屡(しばしば)機会を失》っている間に、南部藩の重臣だった敵(かたき)は失脚し、敵討ちはうやむやのうちに終わる。「武士の鑑(かがみ)」から一転、那珂は失望と中傷の的となった。

 那珂の後半生は数奇である。1859年、安政の大獄で松陰が刑死するのに前後して南部藩に復帰、藩校教授に登用される。そして戊辰戦争では藩参謀格として、皮肉にも松陰の弟子たちが率いる「官軍」と刃を交えた結果、幽閉される。《遺恨、勤王の心撤せず(中略)受ける逆臣の名》とはその無念を詠んだ漢詩である。

 その後、那珂は新政府の官吏に。「低い地位だったが、当時、文部省から出る教科書は一々那珂通高閲とあって、文部省の送り仮名の元祖だった」(金田一京助)ことで才能の片鱗(へんりん)をみせたが、明治12(1879)年、急逝した。51年と半年の生涯だった。

■ ■ ■

 松陰と那珂の交遊は年々薄くなっていった。しかし、郷土史家、高野豊四郎さん(70)は「那珂と松陰は後々も友情を保っていた。進む道は違ってしまったが、通高はひとすじに道を歩む松陰を終生、認めていたはず」と話す。

 松陰と那珂の「志士のみち」は対照的となったが、教育者としてはともに門弟に恵まれた。ご存じの通り、松下村塾からは幕末維新の英才が輩出。一方で「那珂門下」も偉才を発揮した。

 その一人が原敬である。「平民宰相」となる前年、故郷・盛岡で開かれた戊辰戦争後50年の追悼式典で、彼は「逆臣」とされた人々の無念を代弁する格好で、「(東北人の)勤王の心は昔も今も変わらない」などと述べたうえでこう断言した。

 《戊辰戦役は政見の異同のみ。当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり、其(その)真相を語るものなり》



◇ ◇ ◇


陽気で草木も芽が出たいと思うが「おめでたい」なり


 《不忠不孝の重罪人恙(つつが)なく今日帰着仕(つかまつ)り候》

 脱藩から東北行を経て故郷に送還された嘉永5年5月、妹婿となる小田村伊之助-ではなく、門下生に送った吉田松陰の手紙だ。同じころ宮部鼎蔵には「天気晴朗だが内心憂鬱、でも時に持ち前の諧謔(かいぎゃく)を発揮している」としたためている。
松陰の妹の文、後の楫取美和子
 諧謔とは滑稽、ユーモアのこと。松陰はどんな逆境にあっても、明るさを失わない人だった。

 「目というのは目玉の事ではない。目玉どもが元日から出たらろくな事ではあるまい。目というのは木の芽、草の芽の事じゃわい。冬至から一日一日と陽気(はるのき)が生ずるに従って草も木も萌(もえ)出づる。この陽気は物を育てる気で、人の仁愛慈悲の心と同様、天地にとっても人間にとっても好ましき気なり。ゆえに陽気が生じて草も木も芽が出たいと思うのが『おめでたい』なり」

 これは安政2年元日、獄中から末妹の文(ふみ)-ではなく長妹の千代にあてた手紙。「あけましておめでとう」を説き明かした一節だ。

 2歳下の千代は松陰と一番親しかった妹(文は13歳年下)。おそらく『花燃ゆ』の主人公「文」は、文と千代の2人を投影した人物像だろう。でも、「史実と違う」と目くじらをたてるのはやぼというもの。史上の名画『シンドラーのリスト』の名脇役「シュターン」も、実在した何人かの人物の「合作」とされる。

 少々横道にそれたが、最後にもう一つ、お正月にちなんだ松陰の別の手紙を。以下は、やはり獄中から千代にあてた一節である。

 「神前で柏手(かしわで)を打ち、立身出世や長命富貴を祈るのはみな大間違いなり。神と申すものは正直なる事、清浄なる事を好みたまう。それゆえ神を拝むにはまず己(おの)が心を正直にし、己が体を清浄にしてほかに何の心もなく、ただ謹み拝むべし。これを誠の神信心という」

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