【時空を超える偉人たちの一声 辞世のうた 田中章義】

身はたとひ

武蔵の野辺に朽ちぬとも

留め置かまし大和魂


どんな時代のどんな将軍よりも、どんな業績を成したどんな総理大臣よりも、今の日本人が忘れるべきでない男がいるとしたら、それは吉田松陰なのではないだろうか。

 1830(文政13)年8月4日、萩城下松本村に長州藩士の次男として生まれてから、1859(安政6)年10月27日に亡くなるまでに、松下村塾の主宰者として、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、山田顕義(あきよし)らを育てた松陰。ここでは単に文学や机上の学問のみならず、登山や水泳も実施していた。

吉田松陰と2人の弟子の久坂玄瑞、高杉晋作を
取り上げた修身教科書
 自ら東北から九州まで足を伸ばして、現場現場を己の両目で見つめた松陰は、「飛耳長目(ひじちょうもく)」の実践者として知られている。飛耳長目とは、いかなる時も情報を収集し、然るべき未来の判断材料として役立てよ、という意味だ。

 「百年の時は一瞬に過ぎない」「志を立て、それをもって万事の源と為せ」「志を実践していくためには人と異なることを恐れてはならない」「君たちよ、どうかいたずらに時間を過ごすこと勿(なか)れ」等、松陰の遺した言葉は今も古びることなく、胎動を続けている。

 そんな松陰が幕府の大老・井伊直弼が推進した安政の大獄によって、捕らえられ、斬刑に処されたのが1859年10月27日だった。

 自らの死を覚悟した松陰は、その前日に友人や弟子たちに向けて遺書『留魂録(りゅうこんろく)』を書いた。「身は~」の歌はその冒頭に置かれたものだった。時に、本人が語り遺した三十一文字(みそひともじ)は、どんな長い評伝にも優り、人格と人柄を偲ばせる。

 松陰は翌日(死の当日)、「吾(われ)今、国の為に死す。死して君親(くんしん)に背(そむ)かず。悠々たる天地の事、鑑(かがみ)照らす明神(めいしん)あり」という言葉も遺している。

 家族あてには『永訣書』も綴り、この中に記された「親思ふ心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」という歌も、辞世の歌として名高い。

 今一度、思い返したい。これらの歌を詠んだとき、吉田松陰はまだかぞえ年歳だったのだ。あの時代、20代・30代の青年たちが国を思い、世を思いながら、生命がけで事にあたろうとしていたのだった。こうした人々が本気で歩んでくれたからこそ、今の日本が存在している。

 松陰の首を斬った人は明治17年まで生き、この時の松陰の様子を語り継いでいる。「悠々と歩み、首を斬る私たち役人たちにすら、御苦労様ですと一礼をしてくれました」。あまりに毅然とした立派な態度に思わず心を揺さぶられたそうだ。
 たなか・あきよし 歌人・作家。1970年、静岡生まれ。第回角川短歌賞受賞。國學院大學神道文化学部和歌講座講師。TVコメンテーターも務める。


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