旧杉山家住宅(大阪府富田林市)を出て、すぐ東側の一角に、白壁の大きな土蔵が建っていた。おそらく酒蔵なのであろう。この蔵に接するように、中2階建ての住宅が長々と続いている。

 「大阪府有形文化財 仲村家住宅」という案内板が掲げられていた。公開はされていない。

 見わたしたかぎりでは、旧杉山家よりも大きい。江戸期のままの区画を維持しているためであろう。同じ酒造業だった旧杉山家には、酒蔵らしきものものこっていなかった。

 江戸末期、子供たちのあいだで、こんな俗謡がはやった。

 「一に杉山 二に佐渡屋、三に黒さぶ金が鳴る」

 「二」の佐渡屋がこの仲村家である。「三」の「黒さぶ」は黒山屋三郎兵衛を名乗っていた木綿問屋で、興正寺別院の北側にのこっている「田守家」である。

 佐渡屋は寺内町を差配していた「八人衆」のひとりで、杉山家とは商売敵ということになる。18世紀末には杉山家を抜き、河内国最高の2135石もの酒造石高をほこったこともあった。主人は代々、「徳兵衛」を名乗っていた。

 この佐渡屋に、幕末の嘉永6(1853)年2月14日から3月末まで、のべにして22日間も、ひとりの若者が滞在した。

 長州藩士、吉田寅次郎、24歳。のちに「松陰」号を名乗り、倒幕に向けて動きだした長州藩の最大の思想家であり、行動家(アクティヴィスト)でもあった。

*  *  *

 「旅行は、実に彼の活(い)ける学問たりき」。明治の政論家、徳富蘇峰が明治26年に書いた名著『吉田松陰』の一節である。

 幕末維新の激動で、高杉晋作や久坂玄瑞ら松陰の門下生の多くは、死んでしまった。このため、松陰の名前も一時、歴史から消えかかった。

 それを発掘したのが蘇峰である。その点では、土佐の坂本龍馬と似ている。龍馬も行動家だったが、松陰の「行動」はもっぱら同志と知り合い、師を探すための旅であった。その足跡はハンパではない。

 嘉永3年の九州北部一帯の旅からはじまり、わずか4年間ほどで、中国地方はもちろん、京、大坂など畿内一帯、東海道、中央道、東北と、北海道と南九州をのぞく、日本の主要地域を、ほぼ踏破している。東北では竜飛崎まで足をのばし、新潟では佐渡島にもわたっている。
幕末には吉田松陰も滞在した仲村家住宅=大阪府富田林市
 畿内を訪れたのは大和五條に住む儒者、森田節斎の塾で学ぶためである。ところが節斎は松陰が訪れたとき、所用で佐渡屋に行く約束をしていた。

 松陰は五條から葛城山越えで富田林に入り、もっぱら佐渡屋で、節斎から厳密な文法に従った文章術の教えを受けた。萩にある家元には「節斎文律を論ずる精緻、毫厘(ごうりん)を析(ひら)き、而も大眼、全局を一視す、最も其の長ずる所なり」と感激したように書きおくっている。

*  *  *

 松陰は佐渡屋を「拠点」がわりにし、堺や岸和田まで足をのばした。行く先々で同じ志を持った武士たちと夜を徹して、論争した。

 節斎もいくぶんかは、持てあまし気味だったらしい。なにしろ駕籠(かご)に乗った節斎の横にぴたりと伴走し、質問しつづけたほどである。

 節斎が佐渡屋に長逗留したのは、同家の息子の結婚にまつわるモメ事を解決するためだったらしい。だが徳兵衛にとっては、節斎は「先生」だが、いつもぴたりとついてくる松陰はたんなる同伴者である。

 徳兵衛は文化的な造詣も深く、空海の書や雪舟の画なども収集していた。寺内町でも文化サロンのような場所で、さまざまな文人が出入りしていた。

 松陰について、佐渡屋の記録には、「長洲浪人吉田と申すもの」が長逗留したと記載されているだけである。

 下アゴがほそくとがり、つねに激したようなつり上がった細い眼をした若者は、佐渡屋の邸内でも異彩をはなっていたはずである。酒造りの職人などは、「けったいな、やっちゃな--」とウワサしあっていたかもしれない。

 大坂を離れた松陰は江戸にむかった。着いた直後、ペリーの黒船が浦賀に来航し、国交を開くことを求めた。松陰は驚愕(きょうがく)した。翌7年3月、伊豆・下田に再来航した米国艦船に乗り込もうとしたイキサツは、あまりにも有名なのではぶく。

 このとき、萩から江戸に向かう途中の京で、松陰は1年ぶりに節斎とあった。松陰の渡航計画にたいし、節斎は「暴挙」だと諭した。だが松陰は無視し、のちに「先生には二度と会うことはない」という手紙を送りつけた。少々、無礼な態度である。

 蘇峰は「彼は維新革命における、一箇の革命的急先鋒なり」と評した。節斎は、その革命性を見抜くことができなかったのであろう。

(福嶋敏雄) 

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