福島敏雄(産経新聞論説委員)


レーニンの驚愕


 ちょうど100年前の1914年8月はじめ、ロシアの革命家、ウラジーミル・レーニンは亡命先のスイスで、ドイツから届いた新聞を読み、驚愕(きょうがく)した。ドイツ社会民主党の議員団が、勃発したばかりの第一次世界大戦の軍事予算案に賛成の票を投じた、と書かれていたからだ。

 レーニンは当初、ドイツの参謀本部が流したニセ情報だと信じこんだ。ドイツ社会民主党は労働者の国際組織「第二インターナショナル」の中心組織だったからである。

 だが情報は真実だった。第二インターに加わっていたドイツの敵国、フランスやイギリスなどの社会主義政党も、なだれをうって戦争支持を表明した。レーニンは「第二インターは死んだ」となげいた。実際、第二インターはこのときをもって解体した。

 レーニンが、ニセ情報だと信じたのには理由がある。その2年前の1912年11月、戦争の危機がせまっているとき、第二インターはスイスのバーゼルで臨時大会を開き、「バーゼル宣言」を高らかに採択した。

 宣言は「戦争勃発の危機が差し迫ってきた場合、関係各国の労働者階級とその議会代表は次の責務を負う」という書きだしではじまる。

 責務とは、バルカン半島の危機による「狂気の沙汰の軍拡熱」を阻止し、すべての国の労働者は「戦争に反対して闘う」ことであった。そのうえで、「きたるべき戦争こそがプロレタリア革命と結びついているのだ」と続けた。

 レーニンは大戦のさなか、怒りにかられながら、パンフ『帝国主義論』を書いた。いたるところで、ドイツ社会民主党幹部の「惨憺(さんたん)たる破綻と背信行為」を口汚くののしった。

「パトリ」への愛


 レーニンが読みとれなかったのは、戦時において昂揚(こうよう)するナショナリズムであろう。民族主義とも愛国主義とも国家主義とも訳されるナショナリズムは、「近代の病」ともいわれる。ドイツをはじめとする「万国の労働者」は団結するどころか、あっさりとこの「病」におかされたのである。

 その病巣をさぐっていくと、ナショナリズムとは「対」の概念にあたるパトリオティズムにたどりつく。愛国主義と訳されたりもするが、「パトリ」とは、ネーションよりも狭い「郷土、故郷」といったほどの意味である。日本語では、お盆や正月などに帰省するさい、「クニに帰る」というときの「クニ」にあたる。

 この大戦をテーマにした戦争文学の代表作といえば、ドイツの作家、レマルクの『西部戦線異状なし』であろう。20歳の青年兵士は激戦のさなか、ふと故郷の風景を思い出す。

 「僕らの住んでいた町のうしろの野原には、小川に沿って年をへたポプラの並木が立っていた。(略)水の清い匂いと、風が鳴らすポプラの葉のメロディーは、僕らの空想を支配した。僕らはこういうものを殊(こと)に愛した」

 郷土愛と呼ばれ、戦争などの危機に逢着(ほうちゃく)したさい、だれもがふといだく健全な心情であろう。「国のために戦う」というときの「国」は、このパトリ(クニ)にちかい。作品の中で、主人公の同僚兵士が語っているように、「国家というものと故郷というものは、こりゃ同じもんじゃねぇ」のである。

世界中に広がった病原菌


 だが同じものではないのに、パトリは容易にネーションに向かって、発展的に収束されやすい。そのとき、ある転倒、屈折が起きる。べつの言い方をすれば、パトリが失われてしまったさい、ある代替装置が求められる。それが、とりあえずはナショナリズムという「病」だと呼んでおきたい。

 レーニンはこの「病」の深さを見落としていた。1917年10月、みずからが領導したボリシェビキ革命は、世界革命を志向していた。だがスターリンによって完成させられたとき、一国社会主義というナショナリズムに矮小(わいしょう)化されてしまった。

 1千万人もの戦死・戦病死者を出した第一次世界大戦は、ナショナリズムという「病原菌」を世界中にばらまいたという意味では、現在にいたるまで深い尾をひいている。

 とりわけナショナリズムをより偏狭化させた自民族中心主義(エスノセントリズム)は、世界各国で紛争や戦争をもたらしている。極東における、反日プロパガンダも例外ではない。