小和田哲男(静岡大学名誉教授)





意外にも、川中島合戦の実態はほとんどわかっていない。
その理由は、基本史料となる『甲陽軍鑑』の評価にある。
現在流布する通説のベースとなった『甲陽軍鑑』は、実は明治時代に史料的価値を疑われた。
近年再評価をされてはいるが、事実誤認があることも明らかなのだ。
通説に対して今、どんな疑義が呈されているのか。

なぜ、両雄は戦い続けたのか


 軍師・山本勘助が献策した武田軍の「啄木鳥戦法」、上杉軍の車懸りの陣、武田信玄と上杉謙信の一騎打ち…。

 永禄4年(1561)の第4次川中島合戦は様々な名場面に彩られ、戦国合戦の中でも特に広く知られています。それだけでなく、死傷者が両軍あわせておよそ8000という戦国最大級の激戦でもありました。

 ところが意外なことに、川中島合戦がどのような戦いだったのか、実態はほとんどわかっていません。確実な史料が少なく、どこまでが史実なのか定かでないのです。それゆえ「啄木鳥戦法はなかった」など、現在に至るまで様々な説が提唱されており、戦国史上、「最も謎に満ちた戦い」といっても過言ではありません。

 では、川中島合戦とは何であったのか。まずは、信玄と謙信が干戈(かんか)を交えることになった背景からお話ししましょう。

 発端は、天文22年(1553)に遡ります。この年、信濃制覇を目指す信玄が、村上義清らを越後の謙信のもとに追い落としました。これを受けて謙信は、信濃諸将の旧領を回復すべく信玄との対決を決断します。以後、両雄は永禄7年(1564)に至るまで、川中島を舞台に5回も戦うこととなりました。中でも第4次が最激戦だったことから、一般に川中島合戦というと、この戦いを指します。

 不思議なのは、戦いが12年もの長きにわたったことでしょう。普通は1、2度戦って決着がつかなければ、同盟に踏み切るものです。なぜ、2人はそうしなかったのか。私は信玄の側に、大きな要因があると考えます。

 信玄は相模の北条氏康、駿河の今川義元と甲相駿3国同盟を締結しており、進むべき道は北と西しか残されていませんでした。そして山国・甲斐の領主である信玄には、海のある越後は魅力的であり、北進を決断したのでしょう。それに対して謙信は、本国の防衛もありますが、「義の人」らしく、信濃諸将を助けるべく信玄と戦い続けたのだと思います。

 川中島の地勢も、戦いを激化させることになりました。その名が示すように川中島は、千曲川と犀川に挟まれた中洲であり、信濃一といってもよい穀倉地帯でした。それだけに、信玄は是が非でも押さえたかったはずです。一方、謙信にすれば居城の春日山城まで約70キロの近距離であり、防衛上、決して欠くことのできない要地でした。

 こうした対立構造の中で、永禄4年の第4次合戦を迎えます。しかし、この戦いがとりわけ激戦となったのは、謙信の側に大きな要因があったでしょう。基本的には、第3次までは信玄が先に攻め、謙信がそれを押し返すという流れですが、この戦いに限っては謙信が先手を打っています。

 謙信の態度に変化をもたらしたもの。それはこれまで言及されてきませんでしたが、私は前年の桶狭間合戦が大きく影響したと見ています。この戦いで今川義元が討死したことにより、謙信は「甲相駿三国同盟を瓦解させる好機」と捉えたのではないでしょうか。だからこそ信玄との決戦直前に、小田原城に拠る北条氏康も攻めているのでしょう。第4次川中島合戦は、桶狭間と連動する戦国時代の大きなうねりの中で起きていたのです。

通説を生みだした『甲陽軍鑑』


 それでは、第4次川中島合戦はどんな経過を辿ったのか、一般に流布している通説に基づいて簡単にお話ししましょう。

 永禄4年8月14日、謙信は春日山城を出陣し、16日に妻女山に布陣。武田方の海津城の西に位置する小山で、城を見下ろせたといいます。軍勢は、1万3000でした。

 一方、海津城主・高坂昌信(春日虎綱)の煙火によって謙信出陣を知った信玄は、8月18日に甲府を出陣し、24日に妻女山西北の茶臼山に布陣しました(雨宮とも)。ここで上杉方の出方を見つつ、29日に海津城に入ります。軍勢は2万。ここからしばらくは、海津城の武田軍、妻女山の上杉軍の睨み合いとなります。


 膠着状態の末に先に動いたのは、武田方でした。山本勘助の献策による、いわゆる「啄木鳥戦法」で勝負に出るのです。1万2000の別働隊で妻女山を背後から奇襲、驚いて山を下りてきた上杉軍を、八幡原で待ち受ける 8000の本隊で挟み撃ちにする作戦です。9月9日夜、武田軍は行動を開始。高坂昌信率いる別働隊が妻女山の裏にまわり、信玄自らは本隊を率いて八幡原に向かいました。

 明けて9月10日早朝。武田軍本隊は、別働隊に追われてくるはずの上杉軍を待ち構えていました。ところが霧が晴れた時、目の前に現われたのは、隊伍を整えた上杉軍でした。

 前日、謙信は海津城の炊煙がいつもより多いことから武田軍の意図を見抜き、信玄と決戦すべく夜半密かに妻女山を下りていたのです。そして、いわゆる「車懸り」の陣で、攻撃を開始。車輪状の陣形でぐるぐると回り、常に新手で敵と戦うものといわれます。

 出し抜かれた武田軍本隊は押しに押され、武田信繁や山本勘助が討死。そして乱戦の中、謙信が信玄本陣に突入し、両雄は一騎打ちに及ぶのです。

 しかし午前10時ごろ、妻女山に向かっていた武田軍別働隊が八幡原に到着。これによって戦局が逆転し、謙信は兵を引くこととなりました。勝敗は「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」とされ、ライバル同士の名勝負として語り継がれることとなったのです。


 こうした通説は、基本的には『甲陽軍鑑』(以下、『軍鑑』)に依拠しています。江戸時代に甲州流軍学書として広く読まれ、それに様々な脚色が加えられて、現在のような流れになったものでしょう。

 しかし『軍鑑』という史料がありながら、なぜ、合戦の実像がわからないのか。それはこの書が、極めて複雑な性質を持つからに他なりません。江戸時代には権威を誇った『軍鑑』ですが、明治以降は「武田遺臣・小幡景憲が後世、高坂昌信に仮託して創作した偽書」などと批判に晒され、史料的価値がはとんど認められなくなりました。内容に明らかな事実誤認があり、また山本勘助が架空の人物と見なされていたからです。

 ところが近年の研究で、『軍鑑』は再評価されつつあります。国語学者・酒井憲二氏により、戦国当時の言葉遣いが使われていることが判明し、さらに平成20年に新史料が発見され、軍師か否かは別として、山本勘助の実在が確実となりました。もはや「後世の偽書」とはいえないのです。ただし難しいのは、史実と合致する部分がある一方で、やはり事実誤認もある点でしょう。史料として使える部分と、そうでない部分があるのです。

 第4次川中島合戦についていえば、武田信繁と山本勘助が討死し、多数の死傷者が出たことは史実と符合します。しかしこれも不思議なのですが、他の合戦と比べると両将の発給した感状が著しく少なく、細部までの虚実を明らかにできないのです。他にも、明確に不自然な部分があり、そのために『軍鑑』をベースにした通説に対し、今も様々な疑義が呈されているのです。

謎が謎を呼ぶ諸説


 特に疑問視されているのが、「啄木鳥戦法」です。真夜中とはいえ武田軍別働隊の動きを謙信に察知されないわけがない、信玄がそんな作戦を立てるだろうか、といった見方が古くからあります。また、迂回ルートでは時間がかかりすぎるという指摘もあります。

 私も迂回ルートとされる道を実際に歩いたことがありますが、道幅が狭く、夜中に大軍が移動するのは困難だと感じました。また不自然なのは、武田軍本隊より別働隊の方が人数が多い点です。これは明らかに合戦の常道に反しており、啄木鳥戦法については再検証の余地があるでしょう。

 念のため付言すると、『軍鑑』は「啄木鳥戦法」という名称は使用しておらず、別働隊の攻撃ルートも明示していません。通説の啄木鳥戦法は、後世の解釈によって創作された部分もあるのです。

 謙信の「妻女山布陣」も議論されています。敵勢力下の妻女山に布陣すれば、越後への退路を断たれる恐れがあり、謙信がそんな危地に赴くだろうか、というのです。また最近では、妻女山付近には武田方の城砦群があり、「それらを攻略して、上杉軍が妻女山に布陣するのは困難」とする見方も出されています。妻女山後方には鞍骨城、川中島西側には横田城などの城砦があったという指摘です。

 私が横田城跡を見た印象では、謙信が攻略できぬほどの城であったかどうかは正直わかりませんでした。一方、妻女山に登ると、当時つくられたものかはわかりませんが、曲輪を思わせる遺構もあり、妻女山布陣を完全には否定できないと思いました。

 両軍の死傷者が約 8000に及んだことも、疑問を呼んでいます。決戦の結果として、この数自体は妥当と思われます。しかし『軍鑑』が記した通りの白兵戦であれば、戦いの常識として、これほどの損害が出る前にどちらかが撤退するはずだというのです。そのため両軍は行軍中、濃霧のために意図せずして衝突し、大混戦の中で死傷者を増やしたのではないか、という「不期遭遇戦」説があります。

 これも史料では立証できないので、何ともいい難いものです。ただ以前、私は旅行会社の企画で合戦当日(新暦の10月28日)に、川中島を訪ねたことがありますが、その日の早朝、川中島は深い霧で覆われていました。それを踏まえると、霧の中の衝突は、可能性としては高いのかもしれません。

 これら以外に、地元に残された伝承にも興味深いものがあります。例えば、両軍の激戦地とされる八幡原の西側には旧川中島神社と陣馬公園があり、伝承によると合戦の際、両軍のいずれかが陣を構えたといいます。そうなると、戦いの状況も異なる可能性が出てきます。また飯山市では、謙信側の勢力圏だったにもかかわらず、「上杉軍が逃げてきて、川に架かる橋を切って落とし、武田軍の追撃を免れた」という伝承も残ります。

 こうして見ると、第4次川中島合戦がいかに謎に満ちた戦いかが、おわかりいただけることでしょう。桶狭間合戦や長篠合戦も諸説ありますが、それらに比べても、あまりにも全容が謎めいているのです。

 最後に、川中島合戦の歴史的意義についてお話ししましょう。戦いの実像がわからないとはいえ、第4次合戦で信玄と謙信が戦国最大級の死闘を演じたのは事実であり、その後も両者は戦い続けました。歴史に残る名勝負ですが、あえて酷な言い方をすると、両者にとっては痛恨の戦いともいえます。激闘の間に、織田信長の台頭を許してしまったからです。仮に信玄と謙信が同盟、もしくは和睦していれば、戦国史は大きく変わったはずです。

 一方で、どちらかが勝っていれば、その勝者が信長を圧倒していてもおかしくはありません。そうすると、織田、豊臣、徳川と受け継がれた天下人の系譜が変わっていたかもしれないのです。つまるところ、川中島合戦は単なる名勝負にとどまらず、現在に至るまでの日本史の流れを左右した、一大合戦というべきものだったのです。


おわだ てつお 1944年、静岡市に生まれる。1972年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、静岡大学名誉教授、文学博士。日本中世史、特に戦国時代が専門で、研究書『後北条氏研究』『近江浅井氏の研究』『小和田哲男著作集』(全7巻)などの刊行で戦国時代史研究の第一人者として知られている。また、NHK大河ドラマ「秀吉」、「功名が辻」、「天地人」、「江~姫たちの戦国~」の時代考証を務める。著書に『戦国の合戦』(学研新書)『名城と合戦の日本史』(新潮選書)『戦国軍師の合戦術』(新潮文庫)などがある。