百田尚樹(小説家・放送作家)


映画「永遠の0」の上映後、
講演する原作者の百田尚樹氏
=東京都港区
 皆さん、こんにちは。百田尚樹です。映画が終わったら半分ぐらいお帰りになるのかなと思って、心配していたんですが、たくさん残っていただきまして、ありがとうございます。原作者の私が言うのもおかしいかもしれませんが、この『永遠の0』という映画は実に素晴らしい映画だと思います。私自身、何回も観て、何度も泣いています。監督の山崎貴さんが本当に見事に映像化してくださったおかげですから、遠慮なく褒めさせていただきます。

 さて、10月25日は、皆さん、何の日かご存知でしょうか。大東亜戦争中、フィリピンで日本海軍の神風特別攻撃隊が初めてアメリカの空母に突入した日です。関行男海軍大尉を中心とした零戦の敷島隊が突入した日です。19年10月25日。ちょうど七十年前の出来事です。

 『永遠の0』でも書いたのですが、「特攻」というのは最初、あくまで限定作戦だったんですね。日本は当時、完全に追い詰められていました。フィリピンを米軍に奪われれば、南方資源を本土に運ぶ連絡地を失うことになるから終わってしまう、完全に息の根を止められる。この頃、日本海軍は数々の主要空母や航空機を失い、もうほとんど残存勢力はなかったんですけれども、すべての兵力を投入してアメリカ軍のフィリピン上陸を阻止しなければならなかったんですね。

 そのいわゆるレイテ沖海戦では、日本は唯一残っていた大型空母「瑞鶴」をおとりにして、アメリカの主要な空母部隊を全部、引きつけて、その間に米軍上陸部隊を攻撃する作戦でした。つまり、瑞鶴はもう最初から沈む予定だったのですから、これもある意味、特攻です。実際、瑞鶴は沈み、多くの将兵が亡くなりました。

 日本海軍初の神風特攻隊は、おとり部隊がアメリカ軍の主要部隊を引きつけている間、上陸支援の護衛空母を攻撃し、1隻を撃沈、3隻を撃破という大戦果をあげました。これは日本海軍としては久しぶりの大戦果で、海軍上層部は舞い上がった。それで「特攻というのは実に効果的だ」ということになって、限定作戦だったはずの「特攻」がその後も継続されてしまった。その翌年の沖縄戦では、陸軍もあわせてもう何千機という特攻隊として突入させ、多くの命が失われました。

 私がなぜこの物語を書いたかと言いますと…という話をする前に、少し別な話をします。この映画の後ではちょっとやりにくいけど、私はいつも講演を楽しく聞いていただけるようにギャグをたくさんしゃべるようにしているものですから。

 ご存じの方も多いかもしれませんが、以前から朝日新聞を批判してきた私は、朝日から目の敵にされています。今年の8月5日に、朝日新聞は従軍慰安婦の強制連行をしたという吉田清治氏の証言を掲載した記事を取り消しましたが、私はこの機会に、さらに厳しく朝日を叩いていると、朝日がきっちり報復をしてきました。

 9月28日、旧社会党(現社民党)の元党首、土井たか子が死んだというニュースを見て、私がインターネットのツイッターで、拉致問題の存在すら認めることに否定的な言動をとってきた土井を批判して、「売国奴」と書いたときのことです。社民党の又市征治幹事長が記者会見で、「党をおとしめる誹謗中傷だ」「NHKの経営委員として不適格だ」と辞任を要求してきたことを、朝日新聞は、毎日新聞や東京新聞とともに書いて、私を批判してきたわけです。

 ただ、又市幹事長の発言の翌日に大々的に記事にしたのは毎日と東京で、朝日は一日遅れだったんですね。僕は初め、朝日はなぜ記事にしないのだろうと首を捻っていました。すると朝日新聞の記者が、私のところに電話をかけてきたんですね。

 「百田さん、ツイッターでこう言ったのはほんとですか?」

 僕はわざととぼけてやりました。

 「知らんがな」

 「いや、百田さんのツイッターに書かれてますけど。百田さんが書いたんですよね」。

 どうやら朝日の記者はビビっているようなのです。おそらく、もし僕ではなく、僕になりすました誰かが書いていたら、また誤報、捏造と批判されると思ったのでしょうか。

 もちろん僕が書いたんですけど、僕も意地悪だから「知らんがな、そんな。覚えてへんがな」と、さらにとぼけてやりました。すると、朝日の記者は「やめてください。そんなことを言うの、やめてくださいよ」と言うので、「そんなん、自分らで勝手に調べろ」と言ってやりました。

 朝日がどうするか楽しみにしていましたが、翌日、やっぱり朝日新聞には、きっちり記事が掲載されていました(笑)。実は、朝日の記者が「百田さん、何か言いたいことありませんか」と聞いてきた時に、こうも言っていました。

「言いたいことは特にないけど、社民党の又市に言うてくれ。『記者会見で辞任を要求するって、いったい誰に向かって言うとるねん。要求するんなら、わしに言え、あるいはNHK、政府に言え、国会に言え。なんやったら、国会に呼べ。国会でお前らと直接対決したる』と。それを書いてくれ」

 まあ、朝日新聞はその部分は全然、書いてくれませんでしたが。


拉致問題に冷淡だった土井たか子は許さん


日本人拉致の実行犯である辛光珠死刑囚ら
韓国人政治犯の釈放に関する要望書に、菅
直人や土井たか子の署名が記載されていた
 真面目な話、僕は土井たか子のことを本当に、許せない政治家だったと思っているのです。旧社会党―つまりいまの社民党―は、北朝鮮の朝鮮労働党と友党関係にありながら、拉致問題などないという北朝鮮のウソを長い間、そのまま受け入れてきたんです。党のホームページに「北朝鮮による拉致というのは創作である」という論文まで掲載していた。土井は、そのときの党首です。平成14年、北朝鮮が拉致を認めた時、土井はさすがにその対応の誤りを認めて謝罪しているんです。1989年には、土井は、拉致の実行犯で韓国で逮捕された辛光洙(死刑判決、後に恩赦で釈放)という男の釈放要望書にも名を連ねています。これが「売国奴」ではなくて何だというのです。

 さらに、僕が最も許せないのは、土井たか子が、自分たちを頼ってきた拉致被害者の家族の声に応えようともしなかったことです。

 ヨーロッパで拉致された石岡亨さんという方がいます。1988年に決死の思いで北朝鮮から日本にいる家族に手紙を書いたんですが、その手紙はある人からある人へと渡って、ポーランド経由で、同じくヨーロッパで拉致され、石岡さんと結婚していた有本恵子さんのご両親のところに、届けられたんです。これ奇跡的な出来事です。

 もしこんな手紙を出したことを北朝鮮当局に知られれば、石岡さんは粛清されるかもしれない。その手紙を日本に届けるために協力した人たちの命も危険にさらされる。それでも届けられた決意の手紙を手にした有本さんのご両親は、この年の9月、北朝鮮とパイプがあるといわれた旧社会党、土井たか子に、なんとかしてくれと頼みに行ったのです。当時、日本政府も、拉致はまだよくわからないという立場だったので、有本さんのご両親は、藁をもつかむ思いで土井を頼ったのだと思います。しかし、土井たか子は、それを門前払いにしてしまったのです。なんとひどいことをすると思いませんか。

 しかもこのとき実は大変なことが起こっていた恐れもあります。それはこの14年後に明らかになります。2002年、当時の小泉純一郎首相と安倍晋三官房副長官らが訪朝して、金正日に拉致の事実を認めさせました。このとき北朝鮮は拉致した人たちの情報も出してきたのですが、なんと石岡亨さんと有本恵子さんについては、1988年の11月に、お二人のお子さんも含めて家族三人がガス中毒で亡くなっていると言ったのです。

 ご両親が土井たか子に手紙のことで頼みに行ったのが、1988年の9月。この2カ月後に家族3人が突如として亡くなっているというんですね。もちろん、北朝鮮の出してきた情報は信じられない。石岡さんたちは生きていると僕自身は思うし、いまも生きていてほしいと思っています。けれども、もし北朝鮮の言う通り1988年の11月に亡くなっていたとしたら、その理由として考えられることはたった一つ。つまり石岡さんが手紙をこっそり日本に送ったという、この情報を北朝鮮が掴んだということです。じゃあ、どうして掴んだのか。そういうことを考えると、僕は怒りを抑えることができないのです。


無敵の戦闘機の真実の姿


 朝日新聞にしても、土井たか子にしても、反日の連中は、本当に何がしたいのかと怒りを覚えますが、その批判はさておき、『永遠の0』の話に戻りましょう。いうまでもなく、この映画は零戦の映画です。この零戦というのは、日本が生んだ傑作飛行機です。完成した昭和15年当時は、世界最高速レベルの飛行機であり、同時に世界のどの戦闘機にも勝る小回りの能力も持っていたんです。スピードと小回りというのは両立が極めて難しいのですが、それを実現したのが零戦でした。しかし、実は、僕は手放しでこれを傑作と言っていいのか、難しいところだと思っているんです。というのも、これほど、ある意味、人命を軽視している飛行機もなかったからです。
大日本帝国海軍 零式艦上戦闘機(零戦)特攻機。終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機として使用された
 零戦の防弾性能はゼロといっても過言でもないほど薄かったのです。搭乗員の操縦席の後ろは防弾用の鉄板がまったく入っていない。一発でも撃たれたら、機体に火がつく。そんな戦闘機だったのです。にもかかわらず、初め零戦が無敵の活躍だったのはなぜかというと、当時、零戦の搭乗員が世界最高の技量を持っていたからです。つまり零戦というのは、最高の技量を持った搭乗員が操縦したら、最高の性能を発揮できるという戦闘機だったんですね。

 ところが、戦争というのは、どうしても人が死にます。特に搭乗員は消耗度が激しく、次々と亡くなっていきます。一番、亡くなったのは、『永遠の0』でも描いたガダルカナルの戦いです。ラバウルの航空基地から1000キロ、米軍のいるガダルカナルを爆撃する一式陸攻を護衛して、現地で空中戦をして、そしてまた1000キロを帰る。そういう過酷な戦いが連日のように、行われたんですね。

 『永遠の0』の中で、主人公の宮部久蔵は「1000キロを行って、帰ってくることはできない」と言いました。しかし日本海軍は実際にそれをやったんです。ガダルカナルを取り返すために、当時の零戦の搭乗員に、往復2000キロの飛行を要求したわけです。

 現在の自衛隊のパイロットに聞いたのですが、戦闘機のパイロットが本当に集中力を持続できるのは、1時間半ぐらいだそうです。それを超えると、集中力が極端に落ちる。生理学的に必ずそうなるらしいです。ところが当時、零戦の搭乗員はガダルカナルまで往復6時間も乗り続けたんです。ガダルカナル上空で戦えるのは5分か10分。それ以上戦うと、帰りの燃料がなくなってしまう。一方、米軍戦闘機は燃料がタップリあるうえに現地で待ち構えているわけですから、どんな戦いでもできる。零戦は圧倒的に不利な上、自らを犠牲にしてでも、一式陸攻という爆撃機の護衛をしなければならない。行き帰りの飛行だって、どこで雲の合間から敵が襲ってくるかわからない。後ろから、雲の間から敵が来ないか。知らぬ間に敵に回りこまれていないか。そういう極限の緊張状況の中で、6時間飛び続けるんです。

 車だって6時間も一度もストップしないで運転なんてできません。もうヘトヘトになります。しかし当時の搭乗員たちは6時間飛び続け、命懸けの空戦もしているんです。当時の戦闘詳報も見ましたが、多いときは1週間に5回とか出撃してるんです。疲労困憊どころの話ではありません。

 私は、実際に宮部久蔵の時代、ラバウルで戦い、生き残った本田稔さんという元零戦の搭乗員の方とお話をしたことがあります。本田さんのおっしゃるには、おそらく実際に撃墜されて死んだ人よりも、途中で疲れ果て、海に落ちて死んでいった人のほうが多かっただろうということでした。連日の空戦で歩くのもしんどいほどでも、何とか出撃はする。しかし、帰りは、もうどうしても機中で寝てしまうのだそうです。本田さんは何度も、実際に海に落ちて死んでいった搭乗員を見たそうです。横に飛んでいる列機がそのまま、いつの間にか高度を下げてスーと落ちていく。「ああ、こいつ、寝てる」と思うけれども、当時の無線はとても使えたものではなくて、起こすこともできないのだそうです。

 僕は、本田さんに、その睡魔にどうやって打ち勝ったのか尋ねました。本田さんは、眠たくなったらドライバーで自分の太ももを突いて目を覚ましていたそうです。何度も何度も出撃するうち、傷が倦んで、穴が開いてしまった状態になるそうですが、もう末期になってくると、普通に突くくらいでは目が覚めない。だから、傷口にドライバーを突っ込んで、それをグリグリと捻じ込んで、その痛みで意識を取り戻したというのですから、壮絶な話です。ラバウルの基地にたどり着いても、もうとにかく疲れ果てて、操縦席から出ることもままならず、整備員とかに両脇を抱き抱えられて降りたこともあったといいます。

 そういう状況の中でね、ガダルカナルは半年間も戦うんです。昭和17年の8月から、ずうっと翌年の1月か2月まで、ガダルカナルの攻防戦をやるんですが、このときに日本の誇る、歴戦のベテラン搭乗員がほとんど亡くなったんです。日本は、そこでもう敗北が決定したわけです。


なぜパイロット達は死んだのか


 当時は、ラバウル行きの辞令を搭乗員が貰うと、片道切符と言われていたんです。私は『永遠の0』を書くために、いろいろ調べたのですが、その地獄の戦場でも、戦い抜いて、生き抜いて、生還したすごい搭乗員が何人もいたんです。先程、紹介させていただいた本田稔さんもその一人です。もう今、九十歳を超えていらっしゃいますが、本当に素晴らしい方で、まだまだお元気でいらっしゃいます。
ガダルカナル島の海辺を行進する日本陸軍部隊=1942年
 戦死された方の中にも素晴らしい搭乗員がたくさんいらっしゃいました。西澤廣義さんもその一人です。おそらく日本海軍で最高級技量の搭乗員の一人で、映画では登場しませんが、私は原作で書きました。

 すごいのは、西澤さんは小隊長なんですが、自分の後ろに連れている列機の二機も一度も落とされなかったのです。映画でラバウルからガダルカナルに初めて行く日が描かれていますが、この日、西澤さんは実際に出撃して、6機のグラマンを撃墜しています。とんでもない達人だったんです。

 地獄のガダルカナルを生き残った西澤さんは、昭和19年10月25日、関大尉が初めて神風特攻隊として突入する際、護衛を務めています。

 初めての特攻の話は冒頭に少ししましたが、関大尉は突入前に二度、出撃しています。一度目、二度目の出撃では敵空母を見つけられずに帰ってこなければならなかったため、海軍の上層部は、相当な腕の搭乗員を誘導と護衛につけるしかないと考え、わざわざ別の基地にいた西澤さんに白羽の矢を立てたのです。「おまえは敵空母まで関大尉を護衛して連れていけ。そして、そこで神風特攻隊の突入を見届けて帰ってこい」というわけです。西澤さんは三度目の出撃をした関大尉を、敵空母まで送り届け、そこで敵の飛行機を2機撃墜し、そして関大尉が突入するのを見届けて、その戦果を全部確認して、戻ってきました。

 しかし、その西澤さんの最期を思うと、あまりに悲しい。戻ってきた彼は翌日、命令で零戦をその基地に置いたまま、輸送機に乗って、クラーク基地に帰らなければならなかったのですが、その途中、その輸送機が敵戦闘機に撃墜され、彼もまた命を落とすわけです。日本の生んだ最高の戦闘機乗りが、こんな形で死んでしまったのです。当時の日本軍の戦い方を見ていると、もうなんという愚かな戦い方をしているのかと思います。

 零戦の製作についても愚かなことがいっぱいありました。例えば、零戦は三菱重工業の名古屋の工場で製造されていたわけですが、そこには飛行場がなかったんです。完成した零戦は配備先の各基地に飛ばして移動させるわけですが、そのために名古屋から約30キロ離れた岐阜の各務ヶ原の飛行場まで、わざわざ運んでいたのです。しかも、牛車で20何時間かけて運んでいたのです。当時、道が舗装されていなかったので、馬車で運ぶと、完成したばかりの零戦が揺れて壊れてしまうため牛車でのろのろ運んだというんですね。これが1945年の日本が降伏するまで続いたんです。信じられないでしょう。

 普通に考えると、飛行場のあるところに工場を建てるか、逆に工場の横に飛行場をつくるのが当たり前。もし離れていたとしたら、道路を舗装すべきなのに、それもされなかった。日本の省庁は、当時から全部、縦割りになっていて、工場もまた民間の三菱が経営しているので、一体化した効率的運用ができなかったようなんです。

 もっとひどいのは、零戦の品質が途中からどんどん落ちていったということです。

 零戦は、大東亜戦争中の米国の無骨な戦闘機グラマンなどとは違い、本当に美しい。どこを取っても直線がない。すべてが素晴らしい曲線なんです。最高性能を発揮するために、とことん堀越二郎が設計し尽くして、無駄のない曲線ができているわけですが、こんな飛行機は腕が良い職人、一流の職工でないとつくれなかったんです。それなのに、昭和17年ごろから、いわゆる赤紙、徴兵で、一流の職工もみんな兵隊として出征した。日本的な平等なのでしょうが、そうすると、その分、どんどん飛行機の品質が落ちていく。職人が足らなくなると、それを中学生で間に合わせようとする。中学生もいなくなってくると、今度、女子学生につくらせるようになる。当時は現在の教育とは違いますから、女子学生は工具なんか扱ったこともない。そういう人たちに一流の職工しかできない仕事をやらせるから、戦争の後半、昭和19、20年の零戦なんか、ひどかったそうです。部品が逆に付いていたり、すぐ落ちたりとか。ひどい飛行機がどんどん製造されていたんです。日本は、長期戦を戦うという体制がまったくできていなかったんです。


どこの国の報道機関なのか


 アメリカは逆です。計画的ですし、余裕もありました。戦争に勝つためには、もういかなることでもやる。それらはアメリカが建国以来、やってきたことですが、そこには極めて恐ろしい部分も秘められていたと私は思っています。

 英国からの移民が建国したときに、先に住んでいたインディアン―今はネイティブアメリカンと呼ぶようですが―そのネイティブアメリカンを騙して土地を奪い、西部に追いやりました。西部に金の算出が確認され、ゴールドラッシュになると、またそこでネイティブアメリカンを迫害し、追い出す。勇敢なネイティブアメリカンが戦うために抵抗を受けるわけですが、そうすると、まともに戦っては大きな被害を被るので、後方支援をする女性や子供を虐殺する。そんなことをされてきたネイティブアメリカンの歴史は悲惨です。

1945
空襲で焼け野原になった東京(神田上空から東南方向、
浜町、深川本所方面を望む)=1945年
 私は、これと同じことをアメリカがやったのが、東京大空襲、広島・長崎の原爆だったと思っています。アメリカは昭和20年の3月9日から10日にかけて東京に大空襲をするんですが、このときに狙ったのが一般民家の密集地帯です。これは主に日本の女性や子供の虐殺です。実際、このとき一夜にして10万人、死ぬのですが、その多くが女性であり未成年、子供たちでした。

 アメリカは事前に砂漠に日本の町をつくり、日本の家屋、木造建築物をつくって、家の中まで再現し、これらの家を燃やすにはどんな爆弾がいいか、何度も実験を繰り返していたんです。そうして、火の燃え広がりやすい風の強い日を選んで300機を超えるB29の大編隊に東京を襲わせたのです。その爆撃は、ただ建物の破壊が目的だったとは思えないものでした。最初、空襲警報で人々が防空壕に入ったときは、爆弾を落とさず、まず房総に抜ける。「なんだ、威力偵察だったのか」と安心して、空襲警報が解かれ、みな家に帰ったところを―ちょうど9日から10日に日付が変わったころですが、まさにそのときUターンしてきて爆弾を落としていったんです。凄まじい爆撃で10万人が死んだんです。私は絶対許せない。

 私はこの話を今年2月、東京都知事選に出馬した田母神俊雄氏の応援演説でしました。「東京大空襲は大虐殺や」とね。そうしたら、毎日新聞と朝日新聞が大騒ぎしました。共同通信は、米国のキャロライン・ケネディ駐日大使が「百田尚樹氏の発言でNHKの取材に難色を示している」などと報じました。正直、怒りを感じましたよ。彼らは一体、どこの国の報道機関なのですか。


百田尚樹に『永遠の0』を書かせたもの


 少し話がそれました。『永遠の0』で書きたい、描きたかったことはたくさんありました。その中で、一番描きたかったのは、生きるということの素晴らしさだったんです。

 よく現代人は、自分が何のために生きているのかわからないとか、自分の生きがいがわからないとか言いますね。若い人は「自分を探しに行く」とか言ってインドなど海外に行きますが、僕に言わせれば、インドに自分がおるのかという話です(笑)。20何年間、日本で見つけられなかった自分が、インドに行ってもおるわけがない。

 70年前、日本人はね、自分は何のために生きているのか、誰のために生きているのかということを、本当に切実に感じていた。自分の命は誰のためにあるか。そして自分は何のために生き延びるのか。生きるということは、どれほどすばらしいかということを、本当に知っていた。僕は、今の若い人たち、現代の人たちに、まずそれを知ってもらいたかったのです。

 私がこの『永遠の0』を書いたのは、ちょうど8年前、50歳のときでした。人生五十年ということを幼い頃から考えていましたから、50歳以降は違う人生を生きてみようと思って、テレビの放送作家という世界から活字の世界に飛び込んで、小説を書こうと決めたわけですが、ちょうど、そのころ、私の父親が、末期癌で余命半年の宣告を受けたのです。徴兵で大東亜戦争に行っていた親父は僕によく戦争の話をしましたが、その親父がもう半年で死ぬのかと思ったら、何か書かなければいけないと思ったんですね。『永遠の0』を書いたのには、そんな事情がありました。

 私の父親は大正13年生まれで、家は貧しかった。当時、日本人はみんな、貧しかったんですけど、父親も高等小学校を卒業してすぐ働きに出て、そこから夜間中学に通ったんです。13か14歳ぐらいから、ずっと働き続けて、そして二十歳のときに徴兵にとられました。運良く生きて帰ってきたんですが、戦後も、何もかも失った日本で苦労しました。戦前から勤めていた会社も潰れていて、昭和20年代は、いろんな職を転々とし、30年代にようやく大阪市の水道局の臨時職員になって、そこで一所懸命働いて、やがてそのうち、正職員になれた。そうやって私と3歳下の妹を、大学まで行かせてくれたんです。

 その親父がもうすぐ死ぬんか、あと半年で死ぬんかと思って…。その1年前に私の3人いる伯父―母の兄です―の一人も亡くなっていたんですが、やはり戦争に行っていました。伯父が他界し、今、親父が亡くなろうとしている。そうか。あの大東亜戦争を戦った人たちは今、日本の歴史から消えようとしてるんだなと。そう思った時、僕は筆を執らずにはいられなかったわけです。


父親と宮部久蔵 そして子供たちの世代


 僕は幼いときから、父親から、あるいは3人の伯父から、戦争の話をたっぷり聞かされていました。正月などで親戚が集まると、そういうところで、いろんな話を聞かされるわけですが、必ず戦争の話が出てくるのです。僕は昭和30年代の大阪に育ちました。10年ちょっと前はまだ戦争をしていたという時代ですから、普通の会話の中で戦争の話が出てきたんです。

 「お兄ちゃんはあのとき、どこにおったんや?」「ああ、俺はもうラバウルにおってな」「大変やったろう」。「大変やったぞ。もう戦争が終わってから、もう二年ぐらい帰ってこられんかった」とかね。「おまえ、どこやねん?」「俺はビルマや」「ビルマとか、すごかったらしいな」「すごいよ。うちの部隊、3分の1ぐらい死んだ」とか。そんな話をしょっちゅう聞いていました。

 おばちゃんたちも「戦地もすごかったけど、大阪もひどかったよ。もう爆弾、もうブワァーと空襲がすごくて、家、焼けるし、子供背負って逃げたんや」と、普通に話をしていました。学校の先生にも兵隊経験者がいました。近所のおっちゃん、おばちゃんも普通に戦争の話をしてきました。

 その頃の大阪にはまだ、建物や鉄道の壁といったところに、アメリカの機銃掃射の跡がたくさん残っていました。私は淀川の近くに住んでいたのですが、河川敷に大きな爆弾の跡でできた穴がたくさん残っていて、水が溜まっていました。僕らはそれを「爆弾池」と呼んで、筏を浮かべて遊んでいました。梅田や難波の繁華街に行けば、戦争で腕や足を失った傷痍軍人の方が、白い傷病服を着て歩道橋やトンネルにずらっと並んでいました。僕らそういうところを歩くと、お金を置いていったものです。これが日常的な光景でした。

 僕はそんなふうに育ってきたんですが、それから何十年か経って、僕に息子と娘ができたとき、親父は、僕にはあれほどたくさんした戦争の話を、僕の子供たちには一言もしなかったんです。そして、しないまま死んだ。僕の親父だけかと思って、いとこに伯父たちのことを聞いてみたら、やっぱり「そう言えば、そうやな。俺の親父や、おふくろも、結局、俺の子供にはまったく戦争の話はしないで死んだな」という答えが返ってきたんですね。ほかの多くの人に聞いても、みんな、そうでした。僕より下の世代になってくると、戦争の話をほとんど聞いてないんですね。
ミッドウェー海戦で炎を上げ沈没寸前の空母「飛龍」。4空母の中で最後まで戦い続けた(共同)
 親父たちが戦争の話をしなくなったのには、いろんな理由があると思いますよ。改めて嫌な話をする気がしなかったのかもしれないし、あの記憶を思い起こすのがつらかったのかもしれない。昭和20年代、30年代は、つらい思い出を共有している人がたくさんいたから話も通じたけど、そうでもなくなってくると、改めて話をする気も失せたのかもしれない。もう記憶そのものが薄れてしまったという人もいたのかもしれません。とにかく、そういうことにハッと気づいたとき、僕は、父親や伯父さんから、戦争の話を聞かされた世代として、次の世代にこの話を語り継ぐ義務があるんじゃないか。僕はそう考えたわけです。

 ですから、『永遠の0』の主人公、宮部久蔵は、ちょうど私の父の世代なんです。これは私がつくった架空の人物ですが、架空の人物と言いながら、実はいろんな実在の搭乗員の話を、総合して、つくり上げた男なんですね。

 そして、『永遠の0』の中に出てくる宮部の孫である姉と弟、「僕のお祖父ちゃんはどんなお祖父ちゃんでしたか」と聞いて回る2人の現代の若者ですが、これはちょうど私の子供の世代なんです。つまり、私は『永遠の0』という物語で、私の父親の世代と私の子供の世代、この二つの世代を結びつけたかったんです。

 それがうまくいったかはわかりません。ただ、この本は、戦争物、戦争の小説は売れないというのが出版業界の常識となっていた時代に、ベストセラーになりました。すごく若い世代に読んでいただいているんです。最初は60代以上の男性読者が多かったけれど、だんだん読者の年代が下がっていき、そして世代が下がるごとに、女性のファンが増えてきました。最近では20代、大学生、そして高校生。そういう人たちが読んでくれている。そういう人たちが『永遠の0』を読んで、それまで学校ではほとんど習ってこなかった歴史を知り、あの時代の日本人はどんな思いで生きていたのか、そして日本は世界を相手にどんなふうに戦って、そして、どんなふうに敗れていったのか、すごく知りたいと思っている。そういう若い人が増えているのを見ると、この物語を書いて本当に良かったなと思います。

 本が売れると、私ども、印税が入ってくるので大変嬉しいのですが(笑)、でも、この『永遠の0』に関しては、印税が入って嬉しいというのとは、違う喜びがあるんです。

 もちろん初めは、こんなに売れるなんて思っていませんでしたよ。小説家デビュー作として、この物語を書いた時、多くの出版社に持ち込んでも、ことごとく断られたんです。太田出版という小さな出版社が拾ってくれて、平成18年に発売され、その後、講談社文庫に入って、何年も何年もかかって、少しずつ売れていったのです。

 普通、ミリオンセラーになるような本はすぐ話題になって、発売1、2年で、バーンっと100万部を突破するわけですが、『永遠の0』が100万部を超えるまでには、5年か、6年かかったんですね。そして今年、400万部です。平成に入って、もっとも売れた本と言われている。出版界も非常に不思議に感じているようです。


戦争を戦った男達 日本を建て直した男達


 映画の中にも、戦後の日本を描いたシーンが少し出てきます。何もかも失って、みな、バラックに住んでいる。映画では大阪しか描いていませんけど、もう日本の当時、日本の都市、東京も名古屋も全部、そうだったんです。日本の大都市は、ことごとく破壊されていたんですね。

 東京は焼け野原に、ポツンポツンとビルが残っているだけ。しかも、その多くは中が焼けているという状態で、もう一発の爆弾を使うのも無駄だというぐらい、破壊され尽くされていたんです。ポツダム宣言受諾は昭和20年の8月ですけど、その三カ月前の五月の時点で、アメリカ軍は東京を爆撃目標リストから外したぐらい。それほど、破壊し尽くされていた。雨露をしのぐ家のない人は1000万人を超えていました。当時、8000万人だった人口のうち、300万人は死に、生き残った多くの人も家や食べる物がない。日本は世界最貧国でした。当時、占領軍が日本を調査したときの報告書に、どういうことが書かれていたかご存じですか。この国は50年経っても昭和5年当時の生活水準に戻るのが関の山だろうと書かれていたんです。それほど荒れ果てていたんです。

 しかし、その日本が20年かからないうちに、戦争で負けて19年目の昭和39年には、東京オリンピックを開いて、ホストとして、世界中の国を招いたんです。そして同じ年に当時、夢の技術といわれた新幹線開通を実現させた。米英やソ連など第二次世界大戦の戦勝国がなしえなかった、時速200キロで走る高速鉄道を、東京から大阪まで通したんです。これ、すごいことです。

 あの悲惨な状況の中で、どれだけ働いたら、こんなことができたのかと思います。先の東日本大震災のとき、すぐさま自治体や政府が避難所をつくり、食料を配給し、そして仮設住宅もつくりましたが、昭和20年当時、そんなことをしてくれる自治体も、政府も何もなかったんです。自分の家を焼かれても、家族を失っても、誰も補償してくれない。戦場から帰ってきた人たちは、仕事も何もない。家族はもう空襲で死んでいる。そういう状況の中でね、もう彼らは死に物狂いで働いたんですね。
 私は『永遠の0』を書いた後、戦後の日本を描いた『海賊とよばれた男』を書いたのですが、この二つの作品を書いてみて、遅ればせながら、改めて気づいたことがあります。それは、あの戦争を戦った男たちと、戦後を建て直した男たちは、実は同じ男たちだったということです。

 先ほど日本は戦争で300万人、死んだと言いました。広島・長崎の原爆と空襲で一般市民が約70万人、死んでいます。ですから、実際の戦闘で戦って、死んだ人は大まかに言って約230万人です。このうち、200万人が大正世代です。わずか15年しかない大正に生まれた男たちは約1340万人に過ぎない。1340万人のうち、200万人、死んだんです。平均すると6・7人に1人が死んでるんです。しかも、このほとんどが大正8年から15年という大正後半の生まれなんです。宮部久蔵も大正8年生まれです。私の父親も13年生まれ。ちょうどこの一番死んだ大正の後半世代に入っているんです。

 この大正の後半世代というのは本当に不幸な世代です。日本は昭和6年の満州事変から14年間、ほぼ常に戦争していました。この世代は、物心ついたときから日本が戦争していたことになる。子供時代、青春時代を送った日本は、どんどん悲惨な国になっていった。二・二六事件が起き、国家総動員法ができ、戦争に邁進していき、そういう中で彼らは十代を過ごし、そして二十歳になった。二十歳というのは本当に人生で最高のときですよ。若さもあり、恋もする。その人生最高のときを、彼らは戦場で過ごしたんです。その戦場も地獄の戦場です。きのうは先輩が死んだ。きょうは自分の弟分が死んだ。あすは自分が死ぬかもしれない。そういう中で戦っていたんです。

 戦争に負け、ボロボロになって日本に帰ってきても、「お国のために戦ってくれた兵隊さん、どうもお疲れさんでした。あとはゆっくり休んでください」と労ってくれる祖国は、どこにもなかった。祖国に帰ってきたら、戦場以上にひどいところだった。もう何もかもなくなっていた。そんな中で、彼らは日本を、祖国を一から建て直したんです。男と言いましたけど、女も同じです。200万人の男性が死んだということはね、200万人の女性が夫を失い、恋人を失い、あるいは兄や、弟を失ったということです。私の母親も大正15年生まれなんです。まだ元気にピンピンしてますが、ずいぶん結婚が遅かった。同世代の男は多くが、死んだからだと思います。


父母、伯父達…大正世代に手を合わせたい


 改めてそのことに気づいたとき、僕は大正世代のすごさに、深く感じ入りました。明治以降百何十年の中で、こんなに不幸な世代はないのですが、同時に、これほど偉大な世代もなかった。すばらしい世代です。私は、ありがとうございますと、手を合わせたいと思っています。私はいま58歳。もうすぐ60になります。この年まで生きて思うのは、伯父さん、父親、おふくろ、そういう僕の上の世代の人たちに、本当に豊かな日本、本当に素晴らしい社会に育ててもらったということです。深い恩を感じています。ですから、少しでも何か日本のためになりたい。日本のためはオーバーですが、小さなことしかできないにしても、何か世の中の役に立つことをして死にたいなと思っています。この日本にいて、この豊かさの上にあぐらをかいて、先人が残してくれたものをムシャムシャ食べるだけ食べて、腹一杯になったからもう死にますわと、そんな人生を過ごしたら、あの世で父親や伯父さんに顔向けできない。

 先人が残してくれた、この豊かな素晴らしい日本に、少しでも豊かさを上乗せしたい。あるいはこの豊かさを維持したまま次の世代に渡していきたい。そういうことを考えています。

 しかし、こういうのに足を引っ張るのが、慰安婦の強制連行があったなんていう捏造報道をした朝日新聞ですね(笑)。朝日を始めとする反日の連中は、日本をどうしたいのか。日本を沈めたいのか。日本にやってもない汚名を着せて、日本がひどい国であると世界に言って回りたいのか。

 しかし、そんなことを続けていれば、朝日新聞社は日本人から信用を失って、経営危機に陥りますよ。私は日本のためにがんばって、いろんなことをやりたいと考えています。その「いろんなこと」の中には、朝日新聞の廃刊も入っています(笑)。その日までがんばりたいと思います。きょうはどうも皆さん、ありがとうございました。

(講演を再構成して掲載しています)



 ひゃくた・なおき 昭和31(1956)年、大阪市生まれ。同志社大学法学部中退。放送作家となり、人気番組『探偵!ナイトスクープ』のチーフ構成作家に。平成18年には『永遠の0(ゼロ)』(太田出版、現在は講談社文庫に所収)で小説家デビュー。『海賊とよばれた男』(上・下、講談社)で、2013年本屋大賞を受賞。近著に『殉愛』(幻冬舎)、『フォルトゥナの瞳』(新潮社)。

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