嶋田隆司さん(漫画家 ゆでたまご)


相棒・中井君も僕も母子家庭やから高校卒業までにプロに!と切磋


 ドジで弱虫で、けっこう下品、でも友情を大切にし最後は「火事場のくそ力」で悪をやっつける-。そんなヒーローに小学生たちは夢中になった。社会現象にまでなった漫画「キン肉マン」の作者「ゆでたまご」は、大阪出身の嶋田隆司さんと中井義則さんの共同ペンネームだ。2人は「キン肉マン」でデビューし、今も描き続けている。

 ──お二人は大阪市立住之江小学校の同級生。家も近かったのですか

 嶋田 4年生の3学期に相棒が転校してきたんです。どうやら転校生も同じ団地に住んでいるみたいやってなって。通学のバスの中で転校生で分からないこと多いだろうからって、いろいろ教えて。そんな中で、自分が描いている漫画をみせたりしてたんです。

 ──漫画は小学生のころから描いていた?

 嶋田 ぼくはずっと描いていましたね。でも、中井君は漫画を読んだこともなかったみたいで。で、最初に見たのがぼくが大学ノートに描いていたキン肉マン。それみて「わあおもしろいな」って。普通はジャンプとかマガジンとか売っている雑誌をみて漫画を覚えるんですけど、彼の場合は初めが僕が描いたキン肉マンをみて、おもしろいなあって。それで自分もキン肉マンを描くようになったんですよ。

 ──2人の漫画は同級生の間で人気があったとか

 嶋田 「嶋田マガジン」とか「中井マガジン」みたいなものを作ってました。そしたらいろんなクラスに回覧されて、どこに行ったか分からないぐらい人気があったんです。

 ──プロになりたいと思ったのはいつごろ

 嶋田 小・中学校のときはほんとに好きで描いてただけで。中学3年生ぐらいからかな。で、とにかく、高校はデザイン科があるところがいいやろうと初芝高校を選んだ。漫画を描くためにいろんな道具があるんですけど、それが高いんですよ。でも授業のために必要なら親も出してくれるじゃないですか。そんな計算もあって。結局ぼくは、商業科のほうが女の子が多いって聞いて直前で変えちゃったんですけど。

 ──漫画は家で描いてた?

 嶋田 クラブ活動はせず、まっすぐ家に帰って描いてました。通学中は漫画の話ばっかりして。とにかく高校卒業までに漫画家にならないと、というのはありました。うちも中井君とこも母子家庭だったので、高校を卒業したら働きにいかないとアカンということになっていた。で、「週刊少年ジャンプ」に赤塚賞と手塚賞って2大漫画賞があるんですけど、その漫画賞に毎回送ってました。

 もうホント高校3年生のぎりぎりに赤塚賞の準入選をとったんです。そのときの作品もキン肉マン。で、読み切りをジャンプに載せたらめちゃめちゃ人気があって。それで、編集長と担当編集がわざわざ大阪まで来てくれました。学校で決まった就職を断ると次からそこから斡旋(あっせん)がなくなるかもしれないじゃないですか。だから断りを入れにきてくれて。それとまず、うちのお袋と中井君のお母さんの説得ということで。

 ──やっぱり反対?

 嶋田 大反対でした。

「読者人気1位をとりたい」 ジャンプ黄金期にライバルと激闘


 ──どうやってお母さんたちを説得したのですか

 嶋田 そのころ漫画家なんて社会的地位なんて、なかったですから。母親らは、言い方悪いですけど「やくざな商売や」って言って。就職したら月給もボーナスもある。なんにもない漫画家の世界に飛び込んで「大丈夫なんか」と。漫画家の世界っていうのは人気商売ですから人気がなかったらすぐ辞めさせられる。「そうなったとき次の仕事どうしてくれるんや」って。そしたらその当時の編集長、西村繁男さんっていうんですけど、「そのときは東京で就職探します」って。それでやっと許してもらえた。

 ──18歳でキン肉マンでデビュー。当時の「週刊少年ジャンプ」は黄金期を迎えつつあったときです

 嶋田 そうですよ。車田正美さんの「リングにかけろ」が一番人気があって、「あれに勝たないと」っていうのはありましたけど、なかなか勝てないんですよ。

 1年後に鳥山明さんが「Dr.スランプ」でデビューしてこれも強敵で。やっぱり絶えず1番とらないとダメ。でもやっぱり鳥山さんも強いし。それからのジャンプはすごかったですね。「キャプテン翼」の高橋陽一くんとか「北斗の拳」の原哲夫くんとかどんどんすごいのが登場してきて。毎回競争ですよね。同年代ですからね、みんな。負けられない。

 とにかく読者アンケートの1位が目まぐるしくかわって、ずっと1位って漫画ないんですよ。ちょっと油断すると1位をとれない。担当の編集者同士も仲悪いんですよ。

 原哲夫くんは近くに住んでたんで、打ち合わせが一緒の喫茶店になることがあるんです。そしたら向こうは、ぱっと出て行く。やっぱり打ち合わせを聞かれたくないんでね。すごい情報戦でしたよ。「北斗の拳が、次々週ぐらいにクライマックスもってくる」って情報入ったら、「じゃあぼくらは次の週にクライマックスをもっていってつぶしにかかろう」とか。だから、おもしろい物を描くというより、とにかく1位をとろうっていう。その一心でした。

 ──競争はアンケートの結果として表れる

 嶋田 アンケートの結果がよくなければ、ジャンプって切られます。ジャンプは当時の恒例だったんですけど、お正月号になると表紙に漫画家の紋付き羽織袴(はかま)着てばあっと写るっていうのがあって。とにかくそれに写りたくて、それがステータスだったんですね。で、ぼくらも、けして順調ではなくて人気がなかったころもあって。そのときは担当編集者から「君らは来年はこの中にいないよ」っていわれて、「それは終わらせられるってことやな」って感じた。あの表紙は発奮材料になりましたね。

 ──キン肉マンもアニメ化されてブームも巻き起こした。私が子供のころ「キンケシ(キン肉マン消しゴム)」を集める男子も多かった

 嶋田 仕事でこもってますからブームになっているというのを、わかんないですよね。ひたすら描いて。アニメもビデオに撮ってましたけど、毎回チェックしてなかったですね。ただあるとき、1人暮らしをしているアパートの近くのスーパーに行ったとき、そこのおもちゃ売り場で子供がぶわーって長蛇の列を作って何かを買ってるんですよ。ぼくもその列の中にはいって。そしたらキン肉マンのガチャガチャの列だったんですね。「え、こんな商品でてるの」って思って。

 そのときかな。鈴なりに並んでいる少年たちを見たときは、こうなんか興奮しましたね。自分たちが作ったもので何かすごいことが起こっているんやな、っていう。

小学校の落書きでキン肉マン誕生、熱血・根性より親しみあるキャラに


 ──ドジで親しみやすいキン肉マンのキャラクターはどうやって生まれたのですか

 嶋田 小学校の時に描いていた落書きですね。テストの答案用紙ってわら半紙じゃないですか。で、休み時間になると、裏に落書きしてた。コマにわってるんじゃなくて、自分で適当なストーリーをしゃべりながらキン肉マンの絵を描いていくんです。「キン肉マンが変身してオカマラスという怪獣と戦いました」とか。みんなゲラゲラ笑うんです。子供にとって、なんか筋肉っておもしろいですよね。ボディービルとかみたら笑うじゃないですか。そんな子供の感覚で描いていた。

 ──小学生で、オリジナルのキャラクターを作るのがすごい

 嶋田 まねをするのがいやで。女の子も漫画描いてるんですけど、まねやったりするんですよね。漫画クラブとかそういうのに入るのはいやでしたね。

 ──絵ははじめからこのイメージだったんですか

 嶋田 額の「肉」の字はなかったですけど。この肉は、ほんとに赤塚賞に出すときに最終的にどうしようかと。ここははじめ、ウルトラマンのビームがついていたんですよ。でもなにか絶対、特徴的なものをってずーっと考えて。締め切りぎりぎりに「じゃあこれ肉って付けよう」って。まさか今ね、教科書の偉人のおでこに「肉」とか「中」とか付ける遊びがはやるようになるとは思わなかったですね。

 ──みんなやってました。だいたいの子の教科書の伊藤博文の額には肉の字があった。キン肉マンの性格はどう考えたのですか

 嶋田 ぼくが読者だったころって、はやっていた漫画って「巨人の星」とか「あしたのジョー」みたいな、なんか熱血で根性もので。努力があってっていう感じのキャラクターが多かった。ウルトラマンもまじめじゃないですか。だから、そういうスーパーヒーローばっかりだと読者もなんか、あまりにも完成されすぎてていやなんじゃないかな、と思って。自分たちと同じような感じで親しみをもてるようなキャラクターにしたかった。

 キン肉マンはまず努力しない。で、ぜんぜん努力しないのに「火事場のくそ力」という訳の分からないパワーで相手をやっつけるって、子供ってそういうの好きやろうなって。まあそのうち、キン肉マンも成長して努力するようになるんですけれど。でもやっぱりあのスポ根漫画へのアンチテーゼみたいなところはありましたね。これからはそうじゃないんと、ちゃうかなと。

漫画家「ゆでたまご」の1人、嶋田隆司さん
 ──キン肉マンもまじめです

 嶋田 キン肉マンはとにかくまじめに描こうと。彼がまじめにやればやるほど笑えるっていう。彼は地球を守るために必死なわけじゃないですか。けど結局、街を壊したり迷惑かけてる。でもすごく日々は体を鍛えてて。そのキャラクターが連載して何年かたったときに「かっこいい」っていわれるようになったんです。ぼくらは、そういうふうに思って描いてなかったんですけど、たまたまウォーズマンに勝ってタイトルとって、コーナーマットでベルトを差し上げるっていうシーンがあるんですけど、そのシーンのときのファンレターが「キン肉マンってかっこいい」って。「えっ、こんなたらこ唇で団子っ鼻のやつがかっこよく思えるんや」

 そこからはなんとなく、キン肉マンのかっこよさも意識するようになりましたね。とにかくキン肉マンは逃げ腰で、いつも逃げようとするんですけど、戦って勝つときは、すごくかっこいい絵で。その二面性がよかったんじゃないですかね。おふざけするときは、思いっきり3等身とかになるんですけど、かっこよく勝つときはほんとに筋肉もリアルにしました。

東日本大震災を機にウェブで復活、日本を元気づけるためにやろうと


 ──キン肉マンは昭和62年、「週刊少年ジャンプ」での連載が終わります

 嶋田 やる気は十分だったんですよ。キン肉マンたちがタイムスリップする未来超人編っていう続きも考えていた。でも読者アンケートで1位がとれなくなってきたんですよ。ドラゴンボールとかが1位をとって。今思えば、人気ないといっても5位以内に入っているのにやめるのはもったいなかったけど、その当時の漫画家には美学があって。「思いっきり人気のあるうちにやめる」っていう。車田(正美)さんの「リングにかけろ」が終わったときも巻頭カラーで終わっていますし、ぼくらのキン肉マンも31ページの増ページで終わっています。一番後ろに載って終わっていくというのはかっこ悪いという時代でしたから。

 ──キン肉マンを超えるヒット作品がでないまま10年がたち、平成10年、週刊プレイボーイで「キン肉マンII世」の連載が始まりました

 嶋田 はじめは「キン肉マンを描いてもらえませんか」って話でした。でもそれは嫌だった。キン肉マンはもう書き終えた気持ちがあって。そしたら毎週のように来られて「じゃあ息子の話はどうですか」って。キン肉マンが年老いたころにまた地球に危機がおとずれるけどヨボヨボで地球が守れない。息子はいるが現代っ子で父の跡を継ぐ気持ちなんてない-。「そういうジェネレーションギャップを描いてもらえませんか」って言われて、おもしろいと思ったんです。それで読み切りを3回ぐらいやったら完売になるぐらいの反響で連載することに。アニメにもなって、キン肉マンの8年よりも長い13年の連載になりました。

 ──平成23年、ついに「キン肉マン」を再開。何があったのですか

 嶋田 ウェブの「週プレNEWS」で漫画を連載するので、目玉がほしいと言われたんです。本誌はもう漫画を扱わないと。最初はウェブコミックなんて誰が読んでいるか分からないし「ちょっとなあ」って思ってて。「キン肉マンをネットですることないでしょ」っていう腹立たしさもありました。中井君も「雑誌でやりたい」って反対だった。

 でも、そのとき東日本大震災が起きたんです。あのときネットのパワーみたいなのを感じたんですよね。ぼくもツイッターはやっていたので、キン肉マンのファンの方で被災された人とかとやりとりして。で、本は道路が寸断されていて届かないけど、ウェブだとみられる。「これは新しいかもしれないな」って。

 週刊誌も遠隔地だと届くのが遅れるけど、ウェブだともう出したその瞬間に全世界でみられるじゃないですか。で、殺し文句やったのが週プレ担当者の「今までゆでたまごって超人募集とかいろんなこと開発してきたじゃないですか。だからウェブのパイオニアになろうじゃないですか」って。それで落とされましたね。

 ──作品はキン肉マンで

 嶋田 それしかなかったです。被災地に行ったときも子供とかお年寄りを面倒みてるのが、キン肉マンの世代の35歳ぐらいの人が多かったんです。被災地で漫画教室をやったときも、「キン肉マン知っている人」って聞くとお父さんお母さんたちの手が挙がる。で、日本を元気づけるためにも、ウェブコミックが根付くためにも、やろうと。

 ──ウェブの反響は

 嶋田 最初は、なかなか広がらなかったんですけど、みんなタブレットとかiPhoneとか持つようになってそこからどんどん。月曜日にキン肉マンを更新するんですけど、今では、その直後にツイッターがキン肉マンの感想で埋め尽くされるようになりました。週プレのサイトにほかの漫画家の作品も増えています。

 ──コミックになれば即完売

 嶋田 ありがたいです。みんな、キン肉マンを待ってくれてたのにぼくらが描かなかったんやなって感じました。

通天閣と新世界100年でコラボ、育ててくれた町に恩返ししたい


 ──今、キン肉マンは大阪・新世界の100周年を記念する事業の盛り上げ役を担う公式キャラクターです。通天閣や商店街には、キン肉マンのフラッグや人形が飾られて、イベントも開かれています

 嶋田 通天閣と新世界が100年を迎えるということで、キン肉マンとコラボできないかと依頼があって。新世界は、ぼくら小さいときに遊び場のように行って、串カツ食べたりしていたところです。そこがぼくらの作品で協力してくれないかと。「そんないい話ないな」と喜んで引き受けさせてもらいました。

 ──記念事業は平成27年までの5カ年計画ですが、特にスタート時は新世界中にキン肉マンがいました

 嶋田 初日に行ったときはちょっと感激しました。大阪を出てからもう30年以上たってたんですけど、凱旋(がいせん)帰国したみたいな感じで誇らしかったです。だって、上京するときは大阪の人はぼくらのこと何も知らないわけじゃないですか。で、東京でちょっとずつ有名になっていって、で、今度は大阪に迎えられたっていうのがすごくうれしかった。ぼくらを育ててくれた町ですから、何か恩返ししたいと思っています。

 ──記念事業とコラボレーションする形で産経新聞とエースコックが作っているカップ麺「大阪ラーメン」の、キン肉マンバージョンが発売されました

 嶋田 大阪らしい企画でおもしろいなあと思ったのと、実はぼくはもう小さいときからエースコックのワンタンメンが大好きだったんです。朝食はいつも、ごはんとワンタンメンの溶き卵入りを食べてて。なのにぼくが上京してきた34年前は、ぜんぜん東京で売ってなくてそれで寂しくて。大阪のオカンから送ってもらってずっと食べてました。だから、エースコックさんから依頼をもらったというのもまたうれしくて。

 ──東京からみて、今の大阪はどうみえますか

 嶋田 ぼくはいまだに東京の食べ物があわないんで、大阪においしいもの食べに帰りますが、ただあれですよね。地元の住之江の商店街をみても今、シャッターが閉まってて元気ないなって。こんなとこやったかなって。東京はおいしいものぜんぜんないのに人はいっぱいいる。まねばっかりで、串カツだって今、東京でブームですよ。でも、なんでか本家が元気がない。それはすごい悲しいことです。大阪は力があるのに使い方が下手くそなのかな。

 ──キン肉マンも、大阪だからこそ生まれたキャラクターのような気がします

 嶋田 デビュー当時、大阪を出たら作品がつまらなくなると言われました。大阪に住んでいるからこそおもしろいんであって、できるだけそういう感覚はなくさないようにしてきた。

 大阪人のサービス精神というか。昔はギャグを10も20もいれるとかしてて、今はとにかく技をいっぱい入れていくっていう。そんなに入れなくてもいいんじゃないかってとこでも、ちょっとこらえ性がないんですよね。なんとか、おもしろがってほしい。そのへんは大阪人やなあと思います。

 いまでも僕らは、小学校高学年を読者ターゲットとして作品を描いていますが、実際は35歳から40歳ぐらいの人が見てくれています。ふつうはそんな小学生向けの漫画なんて読まないじゃないですか。でもその世代の人は小学生の当時に戻れるんでしょうね。「ああ、またゆでたまごがこんなアホなこと描いてるわ」って思ってほしい。ウェブが更新された日は、感想は突っ込みだらけですからね。そしてぼくらはまた、みんなから突っ込まれる作品を描いたろって思って。

 ──キン肉マン自身、突っ込みどころ満載のヒーロー

 嶋田 屁で空を飛ぶとかね。

(聞き手 中井美樹)