安藤慶太(雑誌「正論」編集委員)

(平成23年8月発行『誰も書かなかった「反日」地方紙の正体』より)

 新聞には朝日、毎日、読売、日経、産経などの全国紙や都道府県ごとに地元紙と呼ばれる地方新聞がある。北海道の北海道新聞(本社・札幌市)や東北地方に拠点を置く河北新報(本社・仙台市)、中京圏を基盤にする中日新聞(本社・名古屋市、東京では東京新聞を発行)や中国新聞(本社・広島市)、西日本新聞(本社・福岡市)などのブロック紙といった分類を含め、これらを一般紙と称する。

 本稿で取り上げる共同通信というメディアは、これら様々な新聞社にニュースを提供する通信社である。もうひとつ日本には時事通信という通信社もあるが、ニュースの配信量、その影響力ともに共同通信が時事通信を抑えており、文字通り日本を代表する通信社といえるだろう。

 通信社のニュースといえば多くの読者は外電や海外ニュースをイメージしがちだ。むろん共同通信も世界各地に幅広く記者を派遣し、配信されたニュースにはこうした海外の出来事に関する記事も多数ある。だが、共同通信の配信記事はそれだけではない。

 多くの読者は自分の読んでいる新聞記事が、実はその新聞社の記者ではなく、共同通信の記者が取材、執筆し、出稿、配信した記事であるとは知らずに読んでいることが多い。共同通信という存在は一般読者には意外に知られていない。

 最近では、新聞社のインターネットサイトも多い。インターネット検索サイト、グーグルにはニュースの検索機能があり、キーワードごとのニュースを自在に集めることが可能である。検索で集められたニュースを眺めていると、別々の新聞社であるにも拘わらず、最初から最後まで全く同じ文章のニュースだったりすることがある。その大半が、実は新聞社のオリジナル原稿ではなく、通信社による配信記事なのだ。

 映像メディアからラジオ局まで、共同通信が配信するニュースは活字のニュースばかりではなく実に幅広い。

 本稿ではまず共同通信というメディアがどんなメディアで、新聞からみた存在感や影響力について紹介したい。

朝日や読売しのぐ部数


 《共同通信社は1945年、正確公平な内外ニュースを広く提供し、国民の知る権利に応えるとともに国際相互理解の増進に貢献することを目的に、全国の新聞社、NHKが組織する社団法人として設立。創立以来、国内、海外のニュースを取材、編集して新聞社をはじめ、民間放送局や海外メディアに記事、映像を配信している。日本語だけでなく英語や中国語でも配信し、アジアに軸足を置く日本を代表する総合国際通信社である》

 共同通信が自らこう説明するように、共同通信は公益法人として新聞、テレビなど様々なメディアを支える裏方のような役割を担ったニュース供給メディアである。ニュースの配信を受けるためには共同通信に加盟料を支払い「加盟社」となる必要がある。つまり、顧客であると同時に、共同通信のメンバーであり参加構成員といっていいだろう。現在、加盟社はNHKを含め56社、加盟社が発行する新聞は67紙に及ぶ。顔ぶれをみると、産経新聞社や日本経済新聞社のような全国紙や経済紙、それに、県紙と呼ばれる地方紙が都道府県ごとにほぼ1社ずつ加盟している。ただし、沖縄の琉球新報沖縄タイムズのように同一県内の2紙がともに加盟しているケースもある。

 朝日新聞と読売新聞は共同通信の加盟社ではないが、加盟社以外に外信記事と運動記事の一部の配信を受ける「契約社」があり、朝日、読売のほか東京スポーツなど10社13紙を発行している。またフジテレビやテレビ朝日、TBSなどのキー局をはじめ地方の主要な民間放送局108社が契約社として共同の配信を受けている。記事を配信する媒体の数、その発行部数や放送局の場合の視聴エリアを考えると、共同通信の影響力は朝日新聞や読売新聞といった巨大部数を発行する全国紙を凌ぐといえるかもしれない。

 共同通信はニュース供給のメディアだと述べたが、地方紙に供給されるニュースは海外ニュースだけではない。むしろ、地方紙にとっては国内ニュースの供給源という役割のほうが重く大きい。その意味で、共同通信は自ら発行媒体を持たないものの、地方紙への影響力は絶大といえそうである。

 地方紙はおおむね県庁所在地に本社を構え、県庁に手厚い取材部隊を置くのが常である。県下一円に広く取材網を広げ、郷土のニュースをどこよりも速く、さらに手厚く詳しく報じることを全国紙と競い合う。

 県政記者クラブの取材統括役、県政キャップといえば、いわば県庁の表裏を知り尽くし、知事や県幹部とも顔なじみで、地元政財界にも顔が利き、いずれはその地方新聞社の幹部になることが期待されている…こういう将来の重鎮または重鎮候補、エース記者が務める場合が多い。毎年、3月ごろになると、県庁の幹部人事を寸分の狂いなくいち早くスクープする。これが地方紙の大事な役割になっており、郷土に地盤を置く県紙の矜持であり、全国紙では追随できない典型的な報道である。

 ところが多くの地方紙は、首都東京での取材体制が極めて脆弱である。東京支社を構えて記者を数人配置しているが、彼らは全国ニュースを追っているわけでは必ずしもない。地元出身の政治家を回ったり、地元ゆかりのニュース発掘だったりもするが、全国ニュースは共同の配信記事に頼るのがほとんどである。

 選挙になると、選挙区ごとの当落判定が必要になる。地方紙にしてみれば、自分の都道府県の選挙区ならば、全国紙の手が届かない裏の裏の情報まで見据え、開票動向を占うことは可能だろうが、県境をひとつ超えると、そうはいかない。選挙の開票作業同様、選挙報道にミスは許されない。こうした全国規模での開票作業を束ね、集約し、処理していくのも共同通信の重要な仕事である。

 さらにプロ野球やサッカー、大相撲などのスポーツイベントを例に取れば、様々なスポーツイベントごとの記事や写真、記録の処理に至る細かなところまで共同の配信に頼ることになる。

デスク必見の出稿メニュー


 夕刊を発行する新聞の場合、午前8時過ぎには共同通信社から夕刊に提供するニュースの配信予定が全国の加盟社に配信される。その日、何時にどこで、どんな予定があるか。そのニュースバリューはいかなるものか。写真は配信できるか、原稿は予定では何行くらい予定しているか。新聞発行の締め切りを踏まえて、共同から「使っていい」との知らせがあれば、直ちに使用できる「予定稿」と呼ばれる原稿の配信もある。

 そうした克明なメニュー表を眺めながら、新聞作りの作業は進んでいく。予定に入れることのできない予測になかった突発的な事故、事件などが起こると、直ちにその「お知らせ」が加盟社に伝達される。共同からの出稿をめぐる連絡事項や伝達事項というのは例えば、こんな具合である。

 「共同通信から社会番外です。人気アイドルグループ○○のメンバー××が港区内で警視庁に○○容疑で逮捕されていたことがわかりました。記事三十行を○○時ごろ配信します」
 「外国人からの政治献金を受けていた○○衆院議員が議員辞職する意向を関係者に伝えたという情報があり、現在確認中です」 
 「先ほどお伝えしました○○氏の記者会見は予定された時刻になっても始まっていません」

 こうした連絡は四六時中続く。それは朝刊の編集時間帯になっても何ら変わらない。いったん配信した原稿でも状況がリアルタイムで進めば、手直しした原稿「差替」が再配信されてくる。

 また一つの事件であっても新聞に掲載する原稿は一本だけとは限らない。何本もの記事が必要な場合がある。

 例えば、平成23年春に京都大学で起こった入試不正事件で、仙台市の予備校生が逮捕された場面ではどんな原稿が必要となるか。

 まず一面には総括的な事実関係を伝える原稿「本記」が載るが、それだけでは物足りない。

 「一体、携帯電話でどのように入試問題をネットの掲示板に投稿できたのか」という観点でまとめた原稿も欲しい。また、捕まった人物がどんな予備校生だったのか、という観点の原稿も欲しい。関係者がどう受け止めているのか、表情をまとめた原稿も欲しい。京大だけでなく、早稲田、立教、同志社などの予備校生の受験した大学での合否をどうするのか、といった原稿も欲しい。

 事件にはネット社会の発展という背景があると思われるが、実はこれまでも似たようなカンニングが行われていたのではないか、という予測に立って取材してみる必要もありそうだ。また、このようなネットカンニングへの対策はいかにあるべきか。事件を識者はどのように見ているのか、という観点もあれば、使ってみたい。

 あるいはこういう観点もあろう。警察当局が発生から短時間で逮捕に踏み切った理由は何か。偽計業務妨害容疑での逮捕となったが、一体、偽計業務妨害とはどういうもので、立件に無理はないのか…。内幕ネタもあれば、検証記事もあろう。あるいは問題点を提起する原稿もあれば、予備校生が19歳の未成年である以上、少年事件という扱いになると考えられるため、これから予備校生の刑事処罰が具体的にどのように流れていくのかといった観点から観測記事を作ることも可能だろう。

 これら思いついたことを瞬時に判断しながら、新聞社のデスクは記者達に段取りをつけて取材を命じ、原稿を発注し、出稿が可能かどうかを見極め、紙面に何を盛り込むかを決めていく。当然、似たような作業は共同通信でもやっていて、一定の時間が経過すると、出稿メニューが配信される。多くの地方紙がそれを待っているからで、翌日の新聞を見て全国紙に見劣りがないように記事のクオリティや分量にも気を配っている。

 いずれにしても、新聞社のデスクはこのような共同からの出稿連絡に耳をそばだて、メニュー表を見ながら常に過不足がないかを判断し、実際に原稿を見ながら手直しすることで日々新聞を作っていくのである。

彼らが決めるニュースバリュー


 共同通信を「ニュース供給のメディア」「裏方の役割」と表現するのは一面を表してはいるのだが、必ずしも正確ともいえない。共同通信は、裏方ではあっても、決して下請けのような存在ではないからである。むしろ、共同通信がなければ新聞づくりはたちどころに行き詰まってしまうような存在であり、また本来、各社が独自に持つ編集方針にしたがって判断すべきニュースの価値づけ、軽重を決定づけるキャスティングボードを共同通信が握っている面があるからだ。

 霞ヶ関のある役人から「情報を流すなら共同通信一社に流せばいい。そうすれば結局は全ての新聞に同じ情報が載るからだ」とまで打ち明けられたことがある。

 共同通信が配信した記事が加盟社である産経や日経、東京新聞に載り、ほとんどの地方紙に載るというのであればそれは全く当然の話だが、朝日や読売は共同の国内ニュースの配信を受けていない。にもかかわらず、くだんの役人は「情報を流すなら共同通信一社に流せば全ての新聞に同じ情報が載る」というのである。それはなぜか。

 読売も朝日も共同通信の国内配信は受けてはいないが、様々な形で見ることは可能だからだ。例えば、霞ヶ関なら、多くの官庁が共同から配信された速報ニュースの端末を設置していて記者クラブに所属している記者が共同の記事を見ることは可能だし、また隈無く見るのは彼らの使命である。

 さらにいえば全国紙向けに配信してはいなくても、関係する新聞社が国内ニュースの配信を受けている場合もある。携帯端末を使って共同通信はごく手短に速報ニュースを配信しており、これによって共同がどんな記事を配信したのかを(細かくはわからなくても)知ることができる場合がある。

 配信された記事を見ながら、自分の新聞に記事を入れるか、入れないかを判断するのは加盟社ばかりではないのである。加盟していない社も加盟社と同じ様に、共同がどんなニュースを配信してくるか。それだけでなく共同がどの程度に扱うか、といった点に目を光らせているのである。

 東京本社から離れて、地方支局の勤務をしていると、しばしば頭を痛めるのがこの「共同配信」と「NHK」の動向である。支局レベルで全国ニュースとして処理せずに地域ニュースとして県版にニュースを載せようと判断したあとになって共同通信がにわかに騒ぎ出すことがあるのだ。

 配信された記事を見た本社から「共同から以下の内容の記事が配信されてきたが…」と問い合わせが入ることがある。本社にとっては共同配信が紙面作りのパイロットであり、羅針盤のようになっているからだが、共同の記事は迅速かつコンパクトで無駄がない反面、記事にするさい、こちらが頭を悩ませた微妙なニュアンスが捨象されていたり、逆に深入りを避けたりした部分をめぐり「針小棒大ではないか」「飛ばし気味ではないか」「一刀両断が過ぎるのではないか」「ずいぶん、思い切り良く書いたなあ」などと感じる場合がある。

 いずれも「間違いではないのだが…」という点が大前提の話だが、取材体制で見る限り、自前の支局の方が共同よりも手厚く、取材も網羅的だったりする(単なる独り善がりな思いこみである場合やこちらの取材不足だったということも無論ある)のだが、本社から見ると、共同の配信記事を先に見ているから、どうしてもそれに思考が支配される。

 本社からの問い合わせには支局が説明するのだが、あれこれ共同の記事にケチを付けてニュースバリューがそれほどでもないような言い訳に明け暮れる場面となることがままある。支局の取材内容を説明してもそれが、なかなか本社には受け容れてもらえないことも起こる。記事の中身にもよるのだが、共同の配信記事を黙殺するという判断は本社にとってはなかなか勇気がいるのだ。

 というのも、共同の配信記事は全国の多くの地方紙に掲載されるだけでなく、NHKや日経新聞などの大手メディアも目を通しているからである。結局、共同の原稿が採用されたりすると、「身内よりも共同を信じるんだな」と共同通信の影響力の大きさにあらためて恐れ入るのである。

 本社と支局とで判断がしばしば分かれる典型は、例えば気象をめぐって起こる様々なアクシデントだ。「○○で積雪のため、車両が国道に取り残されてしまった」などという場合だ。第一報がNHKだったりすると間違いなく大変な事態になる。時間が経つとやがて共同通信から「共同通信から社会番外です。○○で積雪のため、車両○台が国道に取り残されて立ち往生しています」などと連絡が入ってくる。すでにNHKはヘリコプターを飛ばして空撮を始め、それがスポット的なニュースとして全国に流れている、となると、もうこれは大変な事案である。

 ところが、これが支局から見れば「雪が降って道路がふさがるなど日常的に起こる光景だ。冬季には大量積雪で命を落とす人だっている。なぜ今回だけ、大騒ぎするのか。それは東京の勝手な感覚であって、そんなに騒ぐほどのことか」と至って冷静なニュース判断だったりする。

 その感覚もわからないではない。私自身も群馬に赴任したことがあるが、群馬にいる人にとっては、例えば、雷は日常的な気象事象である。ところが雷が予測を超えた場所に落ちたり、被害者が出たりするとたちまち大騒ぎとなる。「なぜ群馬に落雷が多いのか」という謎説きから始まって、地元で雷について研究をしている「雷博士」に取材したり、電力会社の雷対策などを盛り込んだりの原稿作りも余儀なくされる。地元の人にとっては周知の話であろうが、既に県版で何度も取り上げた同じ話であろうが出稿を求められる。「共同さんが騒ぎ過ぎなんですよ」という説明は、本社から見ればサボりの口実にしか聞こえない。それも癪(しゃく)の種である。湯水のようにニュースが送られる共同通信の原稿を目の当たりにして「それはニュースじゃない!」と言い張ったところで、とても本社としては同調できる気分にはなれないだろうし、地元にとってニュースでなくても地元でない人から見ればニュースなのだ。

 こんな具合で日々、ニュースの軽重を判断するさい、共同通信の判断で実質的に決まるケースは非常に多いというのは実感でもある。キャスティングボードを握っていると述べたのは、端的に言えば「共同が動くか否か」。これがニュースの扱いを決める決定的な要因となることもあるからだ。

配信される“要注意原稿”


 共同が配信した同じ記事が一斉に多くの地方紙に掲載される。このことの持つ意味は案外大きいのである。海外からのニュースには特派員名を記したり、記事の末尾に「共同」と表記したり、共同の配信とわかることがあるのだが、国内ニュースの場合、それはない。読者にすれば、共同の配信記事か新聞社の独自取材による原稿なのかわからないのである。

 新聞社の社説にも共同は大きな影響力を与えている。あくまで参考資料という扱いだが、社説の元になる記事についても共同は配信しており、そのまま使うことだって可能だ。現にそれぞれの社の社説原稿の枠(行数)にあわせて共同の原稿を下敷きにリライトしながら新聞社の主張が掲載されることは珍しくない。これは、共同よりも地方紙の見識が問われる事態なのだろうが、全国ニュースのニュース素材について取材の足場や機会が乏しい地方新聞にとっては
社説に至るまで共同なしには成り立たないようである。

 しかし、共同配信のニュースのなかには明らかに首を傾げてしまうものがあるのも確かである。特に次のような記事については要注意で臨むことにしている。

○北海道はじめ教育行政に関する記事、特に国旗国歌問題や道徳教育、教職員組合をめぐる様々な原稿
○教科書問題や歴史認識をめぐる記事
○領土問題をめぐる記事
○北朝鮮関連、最近では高校無償化策のうち、朝鮮学校への適用の是非をめぐる記事

 事例を挙げればきりがない。教育行政に関する原稿は、必ずしも文部科学省だけでなく、裁判所から出稿されるケースもある。

 いくつか実例を示そう。共同通信(朝日新聞などもそうだが)は竹島について、「日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)」という表記で配信している。決して「日本固有の領土でありながら、韓国に不法占拠されている竹島」という事実は表記しないのである。国会では今竹島に関する答弁を求められたさい「不法占拠」という表現を避ける閣僚が民主党政権下で続出、日本の立場を口にできないのは不見識ではないかと批判を受けている。

 「日韓両国が領有権を主張する竹島」という表記には国会における民主党閣僚同様、自分の立場をどこに置くか、という根本的な問題が横たわっている。決して間違いではないし、一見公平さを装っているが、その実、我が国の立場とはあえて距離を置いている態度でもある。我が国の立場というのは同胞の願いを踏まえて存在するもので、それと異なる場所に自分の身を置く態度は、所詮、他人事としてこの問題に向き合っているということである。

 ちなみに島根県の山陰中央新報は竹島についてどう表記しているか。

 「島根県は竹島(島根県隠岐の島町、韓国名・独島)の領有権の早期確立を目指し…」
「日韓両国で主張が異なる竹島(韓国名・独島)の領有権の早期確立に向け…」
「【ソウル共同】韓国教育科学技術省は3日、日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)に関し、小中高校で韓国の領有権を体系的に理解させるための教育指導書を作成し、全国の学校などに送付したことを明らかにした…」

 ざっとこんな具合である。自社原稿の場合、竹島が「島根県隠岐の島町」であると表記はしているが、基本的には共同が流す「日韓両国が領有権を主張する竹島」という表記もそのまま掲載されている。山陰中央新報にとって竹島はいかなる存在なのだろうか。

「糾弾造語」を散りばめて


 歴史認識に関する原稿にも気がかりな言葉遣いが度々出てくる。「南京大虐殺」「従軍慰安婦」「強制連行」といった戦後の造語が歴史的事実として表記されるのはもはや当たり前になりつつある。南京大虐殺はさすがにあまり見かけなくなったが「日本の植民地支配」という表記は依然出てくる。これは実に気がかりな言葉で、正しくは「朝鮮統治」であり、「台湾統治」だろう。こうした日本の名誉を貶めるために作られた「糾弾造語」がいとも簡単に新聞で表記される背景には、おびただしい左翼による裁判闘争を通じて法廷に持ち込まれてきた経緯があるからだが、メディア(この点についていえばもはや共同だけの問題ではない)だってこうした裁判闘争を盲目的に肯定し、むしろ自ら近づき、彼らの裁判闘争を事実上、後押ししてきたことは紛れもない事実である。彼らの使う「糾弾造語」のいかがわしさを嗅ぎ分けることなく、全く無警戒に歴史的事実として広めた責任は重いはずだが、その検証はなされているとは言い難い。

 同様の旧悪は、北海道教職員組合(北教組)の問題にもあてはまる構図といえる。北教組がいかに北海道の教育をダメにしてきたかという事実から意図的に目を背けてきたのはほかならぬ、メディアだったからである。

 道教委が学校現場を牛耳る北教組の横暴について不正は道教委に通報するよう定めた制度などを打ち出すと「密告制度」などと北教組と一緒になって批判的に取り上げる。露骨な組合への肩入れ、卒業式や入学式での国旗掲揚、国歌斉唱にメディアも一緒になって反対し続ける。文部科学省や道教委といった文教当局を頭から敵視し、教育政策を骨抜きし一律に挫くことに精を出す。そういう歪んだ見方こそが学校をダメにし、子供をダメにしてきたのではないか。

 共同の配信記事を見ていて気になる点を指摘したが、自衛隊や原発などに対しても「?」と思う記事は少なくない。平成23年3月、東日本大震災が発生し、多くの自衛官が被災地で復興のために奮闘しても、それを正面から取り上げる記事の配信量は至って少ないのである。原発の危険性を説く記事や東電の批判は湯水のように配信されても、文字通り、エネルギーのない日本のなかで原子力発電が国力を支えてきたという紛れもない事実が公平に伝えられているとは言い難い。

 計画停電に対する国民の不平不満はそのまま記事になる。が、なぜ計画停電をせざるを得ないかといえば原発が稼働できないことに端を発している。原発が動かなくなり、生産活動や経済活動に支障が出れば、それはそのまま日本の国力の減退に反映され、雇用や私たちの所得にも跳ね返る。地方紙のなかで経営が立ちゆかなくなるところだって出てくるかもしれないし、地域経済や国の経済が停滞することを余儀なくされる。

 ところが(この点については共同だけではないが)メディアのスタンスは原発や東電への批判的な報道ばかりが目立つ。東電の対応は私から見ても首を傾げる出来事はある。それは事実である。また被災者のなかには「もう原子力発電などこりごり」と思っている方も多数いるだろう。だが、そうした人であっても、これまで原子力発電の恩恵を受けていたのは紛れもない事実である。

 国民の原子力発電への不信やアレルギーを増幅させるための記事ばかりが新聞に掲載されていいはずはない。どこかに福島で失った電力源を今後、どうやって確保するのか、という視点があるべきだと思う。

 仮に日本で原発を止めると決断したとする。では然るべき規模で電力供給を保証できる有効、有力な代替エネルギーはあるのだろうか。あればそれを使えばいいだろう。だが、私には思い浮かばない。原発事故の怖さを目の当たりにしつつも、私たちは地震前の国力を取り戻すためには国力の源である電力をいかにして確保するか、という視点が不可欠であって、依然、原子力に頼らざるを得ない気がしてならないのである。原子力発電を葬れば済むほど簡単な話ではないはずであるが、そういう観点に立った共同の配信記事には未だ出会っていない。

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