著者 茶阿弥(ブログ「日韓近代史資料集」管理人、九州在住)

はじめに


 我が国と韓国との間の竹島領有権論争における争点の一つとして語られる「太政官指令」、すなわち明治10年(1877年)3月に明治政府の最高国権機関である太政官が内務省からの問いに対して「伺之趣竹島外一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事」(伺いの趣旨の竹島ほか一島の件は本邦とは関係の無いものと心得るべし)と指示した指令文は、現在、多くの学者・研究者によって明治10年の時点で日本の政府が朝鮮の鬱陵島と共に今日の竹島に当たる島を「日本の領土ではない」(=朝鮮のものである)と判断したものと解釈されていて、それはほとんど「定説」となっているような状況にある。

 しかしながら、筆者は「太政官指令「竹島外一島」の解釈手順」と題する前回の寄稿においてこれに異議を唱え、その解釈は単に島根県が提出した書類である「磯竹島略図」を説明しているに過ぎないものであって太政官の意思としては全く証明されていないことを指摘すると共に、太政官指令が発出された際の一件書類からは太政官がどの島を想定して指令を発したのかを明らかにすることはできないので、したがって指令の直接の関係書類以外の書類やできごとから逆に指令が何を示していたかを探るべきだという主張を述べた。

 本稿では、その主張の最後の部分、すなわち太政官指令の直接の関係書類以外の書類やできごとから逆に太政官指令が何を示していたかを明らかにする検討を具体的に行い、指令は果たして今日の竹島を想定して「本邦関係無し」としたものであったかどうか、その結論に迫って見たい。

 なお、本稿の理解のためには前回の寄稿を先にお読みいただくのがいいのだが、とりあえず前回の寄稿のうち本稿の検討のポイントとなる三つの点を簡単に記しておく。

 すなわち、一つは、江戸時代の日本では朝鮮の鬱陵島は「竹島」と呼ばれ、今日の竹島に当たる島は「松島」と呼ばれていたこと。二つ目は、太政官指令が発される端緒となった島根県の質問書「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」に添付された絵図面「磯竹島略図」と説明書「原由の大略」によれば、島根県の質問にある「竹島外一島」とは「竹島」という名前の島と「松島」という名前の島のことであり、その「竹島」と「松島」とは地理を知る者が見ればまぎれもなく朝鮮の鬱陵島と今日の竹島を指しているのは明らかであること。三つ目は、一方でその当時に西洋から流入した地図では、測量の誤りに起因して、竹島(鬱陵島)の実際の位置から西北の方向(朝鮮半島に近い方向)に飛んだ位置に実際には島はないのに「竹島」(アルゴノート島)という島があるように表示され、実際に存在している竹島(鬱陵島)の位置には「松島」(ダジュレー島)という名前の島が表示されていた。そして今の竹島は描かれていなかったり、描かれている場合でもその名前として「松島」と表示したものはなかった。そういう、現実の島の配置とは異なる誤った地理情報が存在していた。以上の三点である。

 こういう状況の中で、太政官(及び太政官の指示を請求して回答を受け取った内務省)が、指令文にある「竹島外一島」というものを島根県が提出した磯竹島略図に描かれているとおりに鬱陵島とその手前にある岩礁―今日の竹島に当たる島―のことと正しく認識していた (以下「多数説」という) と見るのが妥当か、それとも当時存在していた誤った地図のために間違って認識していた (以下「少数説」という) と見るのが妥当かを、太政官指令以後の関係文書等を通じて明らかにするのが本稿の趣旨である。
「華夷一覧図」の日本部分。隠岐諸島の上方に「松シマ」「竹シマ」と記された竹島と鬱陵島が日本領として赤く塗られている(島根県提供)

検討対象一覧


 明治10年太政官指令というのは、日本海にある「竹島外一島」すなわち「竹島」と「松島」についてどう取り扱うべきかを明治政府が示したものだ。したがって、その内容を他の資料を通じて明らかにするとすれば、その資料というものは、指令と同じように政府、特に指令の当事者である太政官若しくは内務省が日本海にある「竹島」と「松島」についてどう取り扱ったかを示すものを取り上げるのが適切だろう。そういう観点から筆者が選んだ史料ないしできごとを、それを選んだ理由も含めてまず列挙して見たい。いずれも、筆者が竹島領有権論争に関連して見聞きする中から該当するであろうと考えたものである。

(1)『大日本府県分割図』(明治14年内務省作成)
内務省が作成した地図であり「竹島」と「松島」が描かれている。
(2)明治14年(1881年)内務省再指令関係文書
 ア 内務省の権大書記官の外務省あて照会文書
 内務省の書記官が明治10年太政官指令を変更するような政府決定があったかどうかを外務省の書記官に質問したもの。
 イ アに対する外務省の権大書記官の回答書
 ウ 明治14年(1881年)内務省指令
 島根県からの「松島に関して明治10年太政官指令は何か変更されたのか」という問いに対して内務省が「変更なし」と回答した指令
(3)内務省(地理局測量課)が明治15年8月に作成した「朝鮮国全図」
内務省が作成した地図であり「松島」が描かれている。
(4)明治16年全国通達
  内務卿から各府県長官あてに「松島」への渡航禁止を指示するもの。
(5)中井養三郎のリャンコ島編入及び貸下げ願いに対応した内務官僚の反応
  リャンコ島(=江戸時代に「松島」と呼ばれた島。今日の竹島。)を日本の領土としてほしいとの申請に対する内務省官僚の反応。

 以上の5件(細かく言えば7件)について以下検討する。

検討


(1)『大日本府県分割図』(明治14年内務省作成)
 明治14年に内務省は『大日本府県分割図』と題する地図を発行している。内容はその題名が示すように日本全国の府県をいくつかに分割して地理情報を表示した府県地図が中心だが、「大日本全国略図」という日本全体とその近隣地域をも含めた全体図も作られている。その全体図には「竹島」と「松島」が描かれているのだが、どのように描かれているだろうか。それは、実際には島は何もない位置(アルゴノート島の位置)に島を描いて「竹島」という名を付し、実際には鬱陵島が存在する位置には「松島」という名で島を描いている。今日の竹島はというと、全く描かれていない。そして、それら「竹島」と「松島」は全体図には描かれていても、府県地図のうちの地理的に近い「鳥取・島根・山口三県図」には描かれていない。つまり日本の領土とは認識されていないわけだ。

 この事実が多数説と少数説のどちらに符合するかは明らかだろう。「竹島」と「松島」の位置はまさしく西洋の間違った地図と同じだ。もし多数説が正しいのだとすれば鬱陵島の位置にある島を「竹島」とし、今日の竹島の位置にも島を描いてそれに「松島」という名を付してあるべきだが、実際は全くそういうことになっていない。

 この地図は明治14年に、すなわち太政官指令から4年後に内務省が作成した地図だ。指令から4年後の時点で内務省は「竹島」と「松島」に関しては西洋の誤った地図と同じ認識を有し、かつそれはいずれも日本領土ではないと考えていた。これはまさに少数説の状況だ。これに対して、内務省は明治10年には「竹島」と「松島」に関して正確に把握していたものの明治14年時点で西洋の誤った地図の影響を受けるに至ったと考えるのは難しいだろう。明治10年時点で既にこのような認識であったと考えるほうがよほど自然だ。

 
(2)明治14年(1881年)内務省再指令関係文書
 ここでは検討対象一覧の(2)に掲げた3件の文書が検討対象なのだが、その前提となる経緯を確認しておく必要がある。重要な部分なので、少し長くなるが資料を引用しながら説明したい。

 明治14年に、大屋兼助という人物から島根県令あてに「松島開墾願」が提出された。それをもとに、島根県令が内務省に質問したのが次の文書だ。(読みやすいように、原文を筆者が現代の言葉使いに改めた。これ以降の書類も同じ。なお、原文は島根県庁ホームページの「Web竹島問題研究所」の中の『「竹島外一島之儀本邦関係無之について」再考』の記事で読むことができる。)

日本海内松島開墾の儀について伺い

 当管内石見国那賀郡浅井邨士族大屋兼助ほか一名から松島開墾願いが提出されました。その対象の島は同郡浜田より海上の距離およそ83里の北西の方向にあり、無人の孤島でありますが、東京府の大倉喜八郎が設立した大倉組の社員片山常雄という者が木材伐採のため海軍省の第一廻漕丸にて本年8月にその島に渡航した際、右大屋兼助が浜田から乗り込んで同行して実地調査をしたところでは、東西およそ4~5里、南北3里余、周廻15~6里、ほとんどは山で海岸から山頂までは約1里半、雑木林や古木が密生し、その間には多くの渓流と平坦地があります。

 土地は肥沃で水利も良く、どこかの一部を開拓するだけでも数十町歩の耕地が得られ、その他にも海藻採取や漁業の利益など全島の経済的価値は大であります。移住開墾に適した地ですので浜田地方で賛同者を募って資金を集め、私財をもって荒れ地を開き眠れる利益を開発すべしとの志を抱いているようですが、その島は、去る明治9年の地籍調査の際に本県の地籍へ編入すべきか内務省ヘ伺いましたところ、同10年4月9日付けで書面竹島外一島の義は本邦関係無きことと心得るべしとの御指令がありました。ところが、前述したように、このたび大倉組が渡航して材木伐採をしているとのことですので、推察しますところ、明治10年4月の御指令はその後判断が変更されて本邦の領土内と定められたのでしょうか。その島がもし本邦の領土であるならば、大屋らの願いにつきましては、事業の予算の見積り、資金支出の方法及び一同の規約などを詳細に調査して改めてお伺いしたいと考えますので、別紙添付の上この件お伺いします。

  明治14年11月12日

島根県令 境二郎

 内務卿 山田顕義 殿

 農商務卿 西郷従道 殿


 島根県令からすれば、松島は4年前に内務省から本邦版図外という指示を受けていたのに、今、日本人がそこに行って木材伐採をしているという話なので、これはもしかしたら指令が変更されたのだろうかと疑問を感じ、内務省に質問をすることにしたわけだ。ところで、質問の対象は「松島」なのだが、その松島は上の文書中の説明を見れば現代の私たちはそれが今日の竹島(小さな岩礁)ではなくて鬱陵島(比較的大きな緑豊かな島)であることが分かる。ということは、県令自身が気づいているかどうかは別として、県令は実際には鬱陵島である島についてそれを「松島」と呼びながら「明治10年に内務省から本邦関係無きことと心得るべしとの指令を受けた島」と説明していることになる。これは島根県令が「松島」を西洋の誤った地図の表記に従って理解している可能性を示唆するものだが、太政官指令問題において解明すべきは太政官(及び内務省)の認識であって島根県令の認識ではないから、この事実は決定的なものとして引用することはできない。

 ところで、島根県からの質問を受け取った内務省でも、自分のところでは指令は何も変更していないから、ひょっとして外務省ルートで何か朝鮮国との新しい取り決めがあって松島は日本人が利用できるようになったのだろうかとの疑問を持ち、次の質問文書を外務省に送った。検討対象一覧の(2)アに掲げた文書である。

ア 内務省の権大書記官の外務省あて照会文書

島地第1114号

 日本海にある竹島松島の義は、別紙甲号のとおり去る明治10年に本邦とは関係無きものと定められ、以後そのように心得ておりましたところ、このたび島根県から別紙乙号のとおり申し出があったところによれば大倉組の社員が渡航して木材伐採をしているとのことです。ついては、その島について最近朝鮮国と何らかの交渉決定があったのか、一応承知いたしたく照会いたします。

明治14年11月29日

内務権大書記官 西村捨三

外務書記官 御中


 この質問文書には、状況をきちんと説明するために、明治10年太政官指令が「別紙甲号」として、また島根県令からの照会文(上述)が「別紙乙号」として添付された。このときの別紙甲号は次のようになっている。

別紙甲号

  日本海内竹島外一島地籍編纂方伺(外一島は松島なり

 竹島の所轄の件について島根県から別紙の伺いが提出されたので調査したところ、この島の件は、元禄5年に朝鮮人が島に来たことを契機として、別紙書類に要約したように、元禄9年正月の第一号「旧政府評議の趣旨」に基づき、二号「訳官へ達書」、三号「該国来柬」、四号「本邦回答及び口上書」などのように、結局、元禄12年までにそれぞれ協議が終了し、本邦とは関係無いものとされているようですが、領土の取捨は重大な案件でありますから別紙書類を添えて念のためにこのとおり伺います。

  明治10年3月17日  内務少輔

    右大臣殿       (添付書類は省略する


指令

 伺いの趣旨の竹島外一島の件は本邦と関係無きものと心得るべし

  明治10年3月29日

(下線は引用者=筆者による)

 これは、明治10年に内務省が太政官の確認を受けるために提出した伺文書の控えに、その回答として出された太政官指令を書き足したもの(正確に言うならそういう文書の写し)で、質問を受ける側の外務省が太政官指令とはどういうものなのか理解できるように添付された。ところが、本来の書類とは異なる点が2点ある。下線をひいた部分がそうなのだが、一つは「添付書類は省略する」とされたこと、もう一つは、本来の件名である「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」の後に「外一島は松島なり」という説明が書き加えられていることだ。この一言が書き加えられたのは、本物の太政官指令の一件文書には添付されている磯竹島略図その他の書類を省略したので、伺文書だけでは「外一島」が何という名前なのか分からなくなってしまうからそれを補うために書き加えられたわけだ。だから、内務省の照会文書の書き出しは「日本海にある竹島松島の義は、……」となっているのだがこの「竹島松島」は「竹島と松島の二島は……」という意味で書かれていることが分かる。

 ここに明治10年太政官指令の「竹島外一島」(竹島と松島)とはどの島を想定していたかという問題の答えが現れていることに読者は気づかれただろうか。

 内務省の書記官は外務省の書記官に対して、明治10年の太政官指令は「竹島」と「松島」を日本領外と指示していることを説明した上で「松島」について何か変更があったのかを尋ねた。ということは、ここで質問の対象となっている「松島」が内務省が太政官指令の「松島」と考えていた島だ。そしてその「松島」は、島根県の質問書に書かれていることから分かるように朝鮮の欝陵島だ。内務省が考えていた「松島」は鬱陵島だった。とするならば、「竹島」というのは実際には存在しない位置に描かれていた「竹島」(アルゴノート島)のことだったということになる。内務省は島が実在しない位置に「竹島」を表示し鬱陵島を「松島」と表示する西洋の誤った地図情報に従って「竹島」と「松島」を見ていたことが分かる。太政官指令の「竹島外一島」の答えはこんなところにあった。

 このように、現代の我々、特に鬱陵島や今日の竹島の地理情報を知る者は内務省が見ていた「竹島」と「松島」が何であったかを知ることができるのだが、このときの内務省自身の認識はどうだったのだろうか。「松島」というのは鬱陵島だということを知っていたのだろうか。「竹島」というのは実際には存在しないということを知らなかったのだろうか。そういう疑問を感じた読者もおられるかも知れない。その答えはこれまでの文書からは必ずしも明らかではないが、それは意外にも外務省の回答文書から明らかになる。

イ アに対する外務省の権大書記官の回答書

公第2651号

内務権大書記官 西村捨三 殿

外務権大書記官 光妙寺三郎

 朝鮮国の蔚陵島すなわち竹島松島の件に関する質問を拝見しました。この件は、先般、その島へ我が国から渡航して漁撈をする者があるとの趣旨で朝鮮政府から外務卿へ照会があったので調査したところ、実際にそのような事実が確認されたので既に撤収させ、今後そのようなことが無いよう禁止措置を取ったことを朝鮮政府に回答してあります。

 以上のとおり回答します。

明治14年12月1日


 外務省書記官の回答は、その島は日本人渡航禁止という取扱いで変更はないということ-つまり太政官指令を変更するようなことは生じていないこと-を伝えるものだが、ここではその結論もさることながら前置きの部分に注目していただきたい。

 内務省の書記官が、「竹島」と「松島」という二つの島が明治10年指令によって本邦領土ではないとされていることを示しながらそのうちの「松島」について質問したのに対して、外務省の書記官は「朝鮮国蔚陵島即ち竹島松島の儀についての御質問を拝見しました。」という書き出しで回答を返して来た。「竹島」と「松島」のとらえ方が変わっていることがお分かりいただけるだろう。「朝鮮国蔚陵島即ち竹島松島」というのは、「日本では竹島と言ったり松島と言ったりする朝鮮国の蔚陵島」という意味だ。なぜそう読めるかというと、その根拠の一つは文章自体だが、「蔚陵島」という一つの島がすなわち「竹島松島」だというのだから「竹島松島」も一つの島だと読むしかない。もう一つの根拠は-こちらの方が実質的な根拠だが-この時点で外務省は朝鮮の鬱陵島は日本では松島と呼ばれたり竹島と呼ばれたりしている島だということを確認して知っていたという事実だ。

 太政官指令は島根県~内務省~太政官というルートによるものだが、その当時、これとは別に外務省でも、「松島開拓の議」という「松島」開拓の建白書が提出されたことなどにより「松島」の開拓を許可していいものかどうかを、言い方を変えれば「松島」は日本のものなのか朝鮮のものなのか、それともいずれのものでもないのかを検討していたが、答えが分からない状況が続いていた。それが、最終的に海軍の「松島」実地調査によって「松島」とは朝鮮の鬱陵島であり日本ではもともと「竹島」と呼ばれていた島であること、つまり「松島=竹島=鬱陵島」という三名一島であることが確認されて、外務省はその事実を把握していた。(その経緯は外務省の北澤正誠という人物が明治14年(1881年)に取りまとめた『竹島考証』という冊子に詳しく紹介されている。『竹島考証』は現代の竹島領有権論争においてしばしば引用されるが、そこに記されている鬱陵島確認に至る経緯は、外務省は当時存在していた誤った地図に従って「竹島」と「松島」を把握していたが実地調査によってそういう地図が誤っていたことを知ったことを示している。ただし、外務省が太政官指令に関与していた形跡はないので、外務省の認識によって太政官や内務省の認識を直接に推定するわけにはいかない。)

 外務省がその事実を確認したのは明治13年のことだった。それで明治14年に内務省から質問を受けたときに上のような回答ができた。しかし、その回答の仕方は実に奇妙なのだ。内務省の書記官は別に「竹島」と「松島」の関係などを尋ねたわけではない。しかし、外務省の書記官は問われてもいないことをまず説明した。しかも、それは内務省の書記官が言ってきた内容を勝手に変えながら「あなたが尋ねたのはこの島のことですが」と言ったようなものなのだ。

 これが何を意味するかは明らかだろう。外務省の書記官は、質問に答える前に質問の前提を訂正したのだ。質問にある「松島」は朝鮮の鬱陵島であり竹島ともいうのが現実であって、内務省が認識している「竹島と松島」という二島認識は間違っているということを内務省にまず教えたのだ。
 
 内務省はこのときまで松島は鬱陵島であるという事実を知らなかった。これが外務省の回答文書から読み取れる真実だ。また、内務省は「松島」のほかに「竹島」という島があると思っていたわけだが、なぜそう思っていたのかというと答えは一つしかない。その当時の地図に描かれていたアルゴノート島に当たる「竹島」がその地図のとおりに実際にあるものと考えていたということになる。(また、内務省は、太政官指令を求める前の文献調査で竹島というのは朝鮮の鬱陵島であるという事実だけは確認ずみだったので、アルゴノート島に当たる「竹島」が実際にあると考えていたのであれば、同時にその竹島が朝鮮の鬱陵島だと思っていたことになる。)

 結局、内務省もその少し前までの外務省と同じように、「島名の混乱」を含んだ間違った地図に従って「竹島」と「松島」という島を理解していたこと、逆に言えば、現実の鬱陵島とその手前にある小さな岩礁―今日の竹島―のことを想定していたのではなかったということが外務省の回答文書からも証明される。

  説明が長くなった。要点のみを繰り返す。明治14年に、内務省は「竹島」と「松島」という二つの島が明治10年太政官指令によって本邦領土外とされていることを説明した上で、そのうちの「松島」について何か変更があったのかと外務省に質問した。外務省は、内務省が質問した「松島」は朝鮮の鬱陵島であり竹島でもあるという事実をまず指摘した上で取扱いに変更はない旨を回答した。この回答によって、内務省は指令の「松島」は実は鬱陵島であったこと、そのほかに別に「竹島」という島は無いことを知った。このことは、内務省は、太政官指令の「竹島外一島」というのは実在しない「竹島」(アルゴノート島)と実際には鬱陵島である「松島」を(それと気づかずに)想定していたことを明らかにしている。

ウ 明治14年(1881年)内務省指令
 上記イの回答を受けて、内務省は島根県に(おそらく)明治15年の1月に「書面松島の義は最前の指令の通り本邦関係無きものと心得るべし」との回答を送った。「質問のあった松島の件は明治10年太政官指令のとおり本邦関係無しであることに変更はない」ということだ。明治10年指令の時点では、内務省(及び太政官)は「松島」というのは「竹島=鬱陵島」とは別の島でありそれも本邦の版図外と考えていた(その理由は明らかではない)が、今回の回答指令を発する時点では、外務省の教示によって「松島」というのは「鬱陵島」であるという事実を分かっていた。しかし、どちらにしてもその「松島」が本邦版図外であることは何ら変わりはない。だから、前回の指令のとおりに本邦関係なしと心得よと指示したのは実に自然な回答だ。
 

(3)内務省(地理局測量課)が明治15年8月に作成した「朝鮮国全図」
この地図でも、実在の鬱陵島の位置の島が「松島」とされている。一方、(1)で述べた 『大日本府県分割図』(明治14年作成)では存在しない「竹島」も描かれていたが、それは消えている。つまり、内務省はこの二つの地図が作成されたその間のどこかで「アルゴノート島」の位置の「竹島」という島は存在しないことを知ったことが分かる。それまでは「竹島」と「松島」というものを西洋の誤った地図情報に従って理解していたのだ。この内務省の認識が変化した時期は、(2)イで述べたこと-内務省は明治14年12月1日付の外務省の回答文書によって「竹島」と「松島」に関する正しい知識を得た-という分析と矛盾しない。


(4)明治16年全国通達
太政官指令から6年後の明治16年3月31日付けで、内務卿から各府県長官あてに次の通達が出された。

北緯37度30分西経8度57分(東京天守台より起算)に位置する日本でいう松島(一名竹島)朝鮮でいう蔚陵島については、従前、日朝両政府の議定もあって日本の人民がみだりに渡航上陸することはできないので、心得違いの者無きよう各管下へ諭達するよう内達する。

明治16年3月31日

内務卿

各府県長官宛 親展


 これは、鬱陵島ははっきりとした朝鮮領土であるにも拘わらず多くの日本人が押しかけて山林の伐採や漁を行っていることに朝鮮政府から抗議が来ていたので、その対応として太政大臣三条実美の指示に基づいて内務省が全国の府県に向けて発した通達だ。

 この通達に関して太政官指令との関係でとりあえず注目すべきは、渡航禁止の対象が鬱陵島の一島であるという事実だ。もし多数説が正しいのであれば、本邦領土外(=朝鮮のもの)と判断した二つの島のうち鬱陵島だけを渡航禁止として今日の竹島のことに一切の言及が無いのははなはだ不自然である。多数説の見解に従うならば、今日の竹島を「松島」と称してそれも渡航禁止とすべきだったはずだが通達は今日の竹島にはふれておらず、「松島」という名前も鬱陵島に充てられている。

 少数説の立場からはこのことの説明は容易だ。かつて太政官指令は存在しない「竹島」と実際には鬱陵島である「松島」をそれと知らずに版図外と指示していたが、この通達を発する時点では「竹島」は存在せず「松島」こそが鬱陵島であることが判明していたので、改めて渡航禁止の通達を発するとすれば鬱陵島一島を対象とするのが当然である。この通達も明らかに少数説と符合するのであり、多数説とは全く合わない。


(5)中井養三郎の申請に対応した内務官僚の反応(明治37年)
 中井養三郎は島根県隠岐の漁師で、明治37年(1904年)に、その翌年の竹島領土編入のきっかけとなる「リャンコ島編入並びに貸下げ願い」を日本政府に提出した人物である。今日の竹島は、この当時はフランスの命名による「リアンクール」という名前に由来して日本ではリャンコ島と呼ばれていた。中井養三郎はリャンコ島でのアシカ猟を自身が統制したいとの考えから上記の申請を内務大臣、外務大臣、農商務大臣に提出した。

 中井の回顧によれば、出願先の一つである内務省の反応は、「内務省の当局者は、日露戦争を行っているこういう時期に韓国領地の疑いがある小さな不毛の岩礁を領土にして、事態を注目している諸外国に我が国が韓国併呑の野心を持っているのではないかという疑念を大きくさせるのは、領土に編入する利益が非常に小さいことに比べて決して簡単なことではないとして、何度説明しても願いは却下されそうであった。」というものだった。

 ここで「韓国領地の疑いがある」という言葉に注目してほしい。内務省の当局者は「その島は韓国の領土だ」とは明言せず、「韓国領地の疑いがある」という認識を示したわけだ。このことは多数説と少数説のどちらに合うだろうか。

 多数説によれば、リャンコ島は太政官指令で外一島(松島)として「本邦関係無し」と指示されていたことになる。「関係無し」と言う言葉ではあるがその実質は、徳川幕府が朝鮮国との交渉の末にその島は朝鮮のものだということを了承したので明治政府もそれを踏襲するという意味であることは、太政官指令を知る内務省の官僚なら分かっていただろう。つまりリャンコ島は明らかに朝鮮のものだということのはずだ。そういう指示を内務省は太政官から受けている。だから誰かが「リャンコ島編入並びに貸下げ願い」などというものを持ち込んで来たならば、それは明治十年に右大臣の御指令によって朝鮮領と決着ずみである。却下!」と門前払いにすべきだったろう。ところがこの内務官僚は、朝鮮の領土である可能性があるというあいまいな認識を示し、太政官指令を全く持ち出すことなく、領土編入が困難な理由をあれこれと説明している。申請を拒否したいのならば太政官指令を持ち出せば話はすぐに済むはずなのに、だ。こういう状況は、多数説とは矛盾している。

これに対して、少数説から見れば話は簡単だ。太政官指令は現在の竹島を想定したものではなかったのだから、内務省としては「リャンコ島編入並びに貸下げ願い」はこれまで所属の検討などしたことのなかった島について初めて持ち込まれた話だということになる。したがって門前払いをすることなく一応話を聞いたことは自然な対応だし、その中で「韓国領地の疑いがある」と思ったとしても別に不思議ではない。この件も少数説のほうが合うのである。

結論


 以上5件の文書あるいはできごとを見れば、これらはいずれも多数説では全く説明ができず、少数説であれば無理なく説明できる。いや、無理なく説明できるというにとどまらず、(1)で見たように内務省自身が誤った地図を作成していたし、(2)のイの外務省書記官の回答文書では、内務省が太政官指令の「松島」と捉えていた島は鬱陵島であったことが明示されている。これが答えなのだ。太政官指令にいう「竹島外一島」(竹島と松島)とは、鬱陵島と今日の竹島のことではなく、その当時の誤った地図に描かれていた「竹島」と「松島」、すなわち実在しない島と鬱陵島のことをそれと知らずに想定していたのだった。太政官指令の解釈の主流をなしている多数説はとんでもない間違いなのだ。

 それに、そもそも多数説というものは、内務省と太政官は、当時存在していた西洋の情報に基づく地図が誤りであること―具体的にいうと、そこに描かれている「竹島」というものは実際には存在しないこと、また「松島」とされているのが鬱陵島であることーを明治10年の時点で知っていたという前提に立つものだ。内務省と太政官は明治10年には正確な地理を知っていたというわけだ。外務省が実地調査によって明治13年に知るに至った真実を内務省はその3年前には知っていたということになるわけだが、多数説を唱える学者・研究者は誰も、内務省あるいは太政官がいつどのような調査・検討を経て正確な地理を知るに至ったのか全く説明しないし、これからも説明することなどできないだろう。なぜならば、そういうことが分かる資料など(少なくとも現在明らかになっている史料の中には)ないからだ。前回の寄稿で述べたように多数説を唱える人々はそもそも立証できないことを個人的な思い込みだけで主張しているのだが、それはまたそもそも立証できないことを前提とした主張でもある。

 以上のように明治10年太政官指令の後に明治政府が取った行動をつぶさに見ていけば、「外一島」とは今日の竹島ではなく鬱陵島であったのであり、多数派の主張は全く間違っていたことが明らかになる。太政官指令のことが初めて公に論じられたのは1987年のことだったとされるが、そのときの論文も磯竹島略図などを根拠として太政官は鬱陵島と今日の竹島を版図外と指示したという立場で書かれている。以来二十数年、そのような解釈が通説化し、韓国側ではもちろん一も二もなくこの見解を採用し、日本側でも多くの追従者が生まれた。だが、事実は異なる。明治10年太政官指令は今日の竹島について述べたものではなかったのだから、現在の竹島領有権論争には何の関係もない史料なのだ。太政官指令があるから日本の固有領土論は矛盾しているとか、日本の外務省は自己に不利な太政官指令には一切ふれずに都合のよい資料だけを紹介しているなどという批判は、それをいう者たちの前提自体が誤っているのだ。

 彼らのために、竹島領有権論争には本来テーマとする必要のないテーマが持ち込まれ、無用の混乱が引き起こされ増幅されて来た。だが、上記検討(2)でも引用したが、近年になって島根県竹島問題研究会の関係者からは新たな視点での見解も示されている。もう真実を理解すべき時期だろう。根拠のない主張を繰り返している多数派の人々が書く文章からは、島根県が提出した磯竹島略図や原由の大略に書かれている内容を自分が詳細に読み解くことが「歴史資料に忠実な解釈」であると自負しているような印象をしばしば受けるのだが、歴史上の事件を解釈するに当たっては自分ではなくてその時代の当事者たちが何をどう考えたのかを解明することこそが重要だということをもう少し考えて、本当の意味で歴史資料に真摯に向き合ってこの問題を再考されることを望みたい。