検索ワード:古谷経衡/62件ヒットしました

  • Thumbnail

    記事

    次世代の党 壊滅の意味とその分析

    古谷経衡(著述家)「一人負け」の次世代 第47回衆議院議員総選挙の結果が出揃った。自民党は改選前(293)からわずかに2議席減らして291議席。公明党は同じく4議席増の35議席。結果、自公の与党では改選前から2議席増の上積みとなった。しかも選挙区定数が5削減された事を考えると、「さらに増」と言えなくもない。自公政権にとっては「大勝利」である。 一方、民主党は海江田党首が落選という衝撃の事態に陥ったとはいえ、11議席増の73議席で「そこそこの数字」。苦戦が予想された維新は、1議席減の41議席を確保し「かなり善戦」。選挙のたびに「消滅」が危惧された社民党は現有2議席を死守して何とか「踏ん張」り、逆に共産党は改選前の3倍弱となる21議席を獲得して大きく躍進し、「大勝利」である。 そんな中、「自民党より右」を掲げて選挙戦を戦った次世代の党。改選前の19議席から、ほぼ10分の1の「2議席」にとどまり、社民党と同数となってしまうという壊滅的敗北を喫した。今次の選挙で「唯一の敗者」がいるとすれば、明らかに「次世代の党」というよりほか無い。誰が次世代の党を支持したのか 次世代の党は旧太陽の党の田母神俊雄、西村眞悟の両氏を公認し、さらに一時引退も噂された石原慎太郎氏も比例擁立したが、結果、比例で一議席も獲得することが出来ず、わずかに小選挙区で、元来地盤のある平沼(岡山)・園田(熊本)の両2名が当選したにとどまった。 「自民党の右に確固たる軸を作る」をスローガンに戦った次世代の党は、ネットでの広報活動を積極的に行うなど当初からネット重視を鮮明にした。 若い人たちは新聞やテレビよりも、インターネットでニュースを得ていると思う。我が党はネットでの人気は野党第1党だ。ネットでは若い人たちの保守化傾向は強い。従って次世代の党の支持も高いと思う 出典:「ネットでの人気は野党第1党だ」 次世代・山田幹事長 このように明らかに次世代の党は「ネット保守(ネット右翼とも)」を意識し、また彼ら(ネット保守)もそれに応える形で、「ネット保守」から広範な支持を集めたこと(それが若者かどうかは兎も角)は間違いない。 私は「ネット保守」を「2002年頃から登場し始めた、ネット上で保守的、右派的な言説を行う人々」と定義しているが、次世代の党を支持した人々は、明らかにこの「自民党より右」を謳った同党の主張に賛同するネット上の人々が多かった。 一方、「ネット保守」の対義語として私が使用する「保守」という言葉は、「自民党清和会が主張するタカ派的価値観」を支持する非ネットを出自とした伝統的な自民党支持層(産経・正論路線)のことを指す。 次世代の党の支持層の核となっているのは「ネット保守」だが、ネットの普及により「保守」と「ネット保守」が部分的に重複している場合がある。が、話がややこしくなるので次世代の党は「ネット保守」をその支持の中核にした、という前提で話を進めたい。「ネット保守」の中でも更に最右翼に支持された次世代 しかし、いきなり前提を翻すようだが今次の選挙では「ネット保守」の全てが次世代の党を応援していたわけではない。今次の選挙における、「ネット保守」の投票行動を概観するとおおよそ次のように成る。 「ネット保守」の多くは、基本的に憲法9条改正や外交安保政策でタカ派的傾向が強い、第二次安倍政権について好意的である。つまり、本来「ネット保守」はその投票先が自民党になるはずだが、「自民党より右」を標榜する次世代の党の誕生で、自民党支持でありながら次世代の党を支持する、という倒錯した状況が生まれることになった。 自民党を支持する「ネット保守」の少なくない数の人々は、上手一番左の「1型」、小選挙区も比例代表も自民に投票した。この投票行動は、ストレートに安倍政権への応援に成る。ただ、上図の「2型」「3型」の場合だと、小選挙区は自民だが比例は次世代、選挙区と比例の両方が次世代、という風に、「保守色」が強まるに連れて「次世代」の成分が高まっていく、という現象が見られた。 実際、在特会(在日特権を許さない市民の会)の元会長は、自身のツイッターで「小選挙区も比例も次世代」に投票した(期日前)ことを明かした(12月9日)。朝一期日前投票に赴き小選挙区・比例ともに次世代の党に一票を投じてきました。出典:桜井誠Twitter@Dronpa01(2014.12.9)「ネット保守」の中でも、更に右派色、保守色が強くなればなるほど、次世代の選択肢が増えていくことは興味深い。在特会に代表される、「ネット保守」の中にあって最も過激な「行動する保守」に親和性を感じてる人々の多くが、SNS上などでこぞって次世代の党応援を打ち出していたことからも、その傾向は伺える。「自公分離論」と「君側の奸理論」の瓦解 「自民党支持でありながら投票先は次世代」というこの矛盾を解決するために、考案されたのが「自公分離論(離間論)」である。 つまり、「現在、自民党と連立を組む公明党は憲法9条改正を妨害し、集団的自衛権の解釈変更を骨ぬきにしたので、邪魔な存在である。公明党に代わって次世代の党が連立入りすれば、公明党を追放し、自民党が持つ本来の”保守色”が発揮されるだろう」というものである。 この「自公分離論」は東京12区のから立候補した田母神俊雄元航空幕僚長も、同区の太田昭宏氏(公明党党首)と競ったときに、盛んに口にしていた言葉だ。この「自公分離論」によって、「自民党支持でありながら投票先は次世代」という矛盾の解決を一気に図ろうとした。しかし、どう考えてもこの理屈は無理筋であった。 安倍首相自身が「公明党と連立を解消して次世代をパートナーにしたい」と発言したことは一度もないばかりか、舛添都知事と共に自ら東京12区に乗り込んで太田氏を応援・激励した(2014年12月8日)。 「安倍首相は本当は、私と組みたいに決まっているが、周りの大臣や官僚が邪魔をして本心を言わないだけ」という、典型的な「君側の奸理論(善人の君主が、周囲の人間に騙されている)」こそが「自公分離論」だが、安倍首相自身の行動によって、脆くもこの理屈は瓦解した。タブーブタのウソと「穏健なネット保守層」の離反 また、次世代の党がPRのために製作した「タブーブタのうた」というネット上の広報ビデオも、各方面で物議をかもした。その中では「生活保護のタブー」と称して、「日本の生活保護なのに 日本国民なぜ少ない 僕らの税金つかうのに 外国人なぜ8倍」というフレーズが登場した。 日本の生活保護は、その97%が日本人世帯に支給されているのであって、「日本人は少ない」どころか、日本人の受給が圧倒的である。 「外国人なぜ8倍」というのは、次世代の党の公式見解では「在日コリアンの受給世帯の割合と日本人の保護人員を比べたのも」というものだが、そもそも人員と世帯を比較することはかなり無理がある。「外国人」と謳っているのに、実際に指し示すのは「在日コリアン」であり、その数字にも統計的な根拠はない。ちなみに、在日コリアンの生活保護受給世帯の割合は約14%と、全世帯の受給率3.1%の約4.7倍と成る。 確かにこれは高率だが、それなら「在日コリアンの受給率なぜ4.7倍」とするべきであって「外国人なぜ8倍」のフレーズの根拠はやはりない。4と8では全然違う。こういう細かいところに、政党の善悪を判断するバロメーターがある。有権者は冷静にその部分を見つめている。 このような「自公離間論」のそもそもの無理筋と、「タブーブタのうた」に代表される、「そもそも事実ではないことをタブーと称して、それに斬り込むという理論の乱雑さ」が影響して、「ネット保守」の少なくない一部は、従前通り「小選挙区も、比例も、自民党」という上図「1型」の投票行動を選んだ。 2014年2月の東京都知事選の折り、「史上初のネット保守独自候補」とされた田母神俊雄氏を支持した「ネット保守」の人々が、私の知る限り少なくない数「今回は次世代の党は支持できないので、順当に自民党に入れる」と回答している。 投票日の前日、12月13日に次世代の党の田母神候補は東京都・赤羽駅東口で演説を行った。寒風吹きすさぶ中、私も見に行った。明らかに、都知事選挙の時の熱気は失われていた。その後、太田候補が同じ場所で最後の演説を行ったが、支持母体の動員もあってか黒山の人だかりだった。 誰がどう観ても明らかに無理筋な「自公分離論」と、次世代の党の事実に正確ではない広報のやり方が、有権者を離反させていると感じた。「ネット保守=250万人説」の証明 私は2014年の2月10日に、都知事選挙の結果を独自に分析し、「日本全国のネット保守人口は約250万人(200万人~250万人の間)」とする論考を発表した。では、今回の衆院選挙では、「ネット保守」から広範な支持を受けたとされる次世代の党の得票数は幾らだったのだろうか。 全国の比例ブロックの次世代の党の獲得総数をまとめた所、その総数は「約141万票」であった。これでもなお、私の推計から60万票から100万票、開きがあるので「当たらずも遠からず」というところだ。 が、上記のように「小選挙区も、比例も自民」という「ネット保守」の中でも比較的穏健なクラスタが「離反」していることを鑑みると、「ネット保守(250万人)の半分強から3分の2が次世代に投票した」と仮定すれば、約120万~160万票の比例票ということになる。これが実際には141万票だったのだから「ほぼ私の推測の通り」だったということができると思う。 またこの予想では、「ネット保守は国会議員にして2~3議席分の勢力」としたが、今回、比例では獲得に至らなかったものの、小選挙区で次世代は2議席を獲得したから予想通りの結果である。 これが参院選の全国比例だった場合は、前回の参院選でほぼ同数(約126万票)で社民党が1議席を得ているので、投票率にもよるが恐らく次世代の党は1~2議席を獲得していたと思われる。こちらもほぼ、私の予想通りである。 「ネット保守」の全国的趨勢が、今回の選挙で改めて浮き彫りになったと言える。「自民党より右」の否定 今次選挙の唯一の敗者である次世代の党の獲得議席「2」が意味するものはなにか。それは端的に言えば「自民党より右」の存在を、有権者が明確に拒絶した、ということである。今次の選挙を通じて日本人が出した答えは、「安倍政権を積極的に全肯定はしないが、強く否定はしない。でもあんまり過激なのは駄目だよ。とりあえず2年じゃ分からないから、もうしばらくやってみては」という事に尽きると思う。 この中の「あんまり過激なのは駄目」というのは、「自民党より右」を標榜し、余りに現実の政治力学や事実ベースを無視した主張を繰り広げた、次世代の党の「余りにも過激な主張」へのNOとイコールだ。生活保護の不正受給は確かに許されるものではないが、事実に基づかない生活保護批判は、時として外国人一般への呪詛と読み取られる。 既に述べたとおり、「ネット保守」の中でも、右派成分が特に強い在特会に代表される「行動する保守」が、次世代の党への支持と親和性が高いことは既に述べたとおりだ。 次世代の党の支持者の全てが差別やヘイトスピーチを肯定している、と断定しているわけではないが、明らかに差別やヘイトスピーチと親和性の高い人々が、今回こぞって次世代の党を応援したことは、事実である。それに対するNOが、今回の選挙で有権者からつきつけられたのは、否定のしようのない事実だ。 安倍首相は、自身の発言として、「特定の外国人に対するヘイトスピーチには断固反対」の意見を明言している。実際、2014年11月には、法務省が「ヘイトスピーチ禁止の啓発活動」を開始し、主にネット上での差別的発言の禁止を周知している処である。更には、2014年12月11日には、京都市で在特会会員らが行った差別的な街宣に対する損害賠償の訴訟の上告審が、在特会の上告棄却(最高裁)という形で確定した。 事実に基づかない、粗悪で過激な差別の表現は、国をあげて取り締まり、抑制する方向性が現政権下で明確に示されている。差別を憎み、断固反対する「良心のネット保守」は、今回、次世代の党からこぞって離反した。また、そういった関係性を知らない大多数の有権者は、皮膚感覚として「自民党より右」を標榜する次世代の党を黙殺し、彼らに一票を投じようとはしなかった。「ネット保守」の実勢を読み違えた次世代 ネットの世界の、一部のクラスタによる熱狂的な支持を観て、「我が党はネットでの人気は野党第1党だ。ネットでは若い人たちの保守化傾向は強い。従って次世代の党の支持も高い」(前出・次世代の党、幹事長談話)のような「錯覚」に陥り、彼らの好むような、過激な保守色を次世代の党が全面に打ち出したことは容易に想像できる。 次世代の党は、そもそも維新の所属議員であった。橋下徹氏の個人的人気と相俟った「維新ブーム」が2012年の総選挙で沸き起こると、維新の躍進に乗じて、後に分離独立する「次世代の党」のメンバーが多数当選した。橋下人気・維新ブームに乗っかったに過ぎない次世代の党が、あくまでネット上に「保守の大票田」があると錯覚したのが、最大の間違いだと思う。 私が予想したように「ネット保守」はそもそも、そこまでの大勢力に至ってはいない。拙著『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)で指摘したとおり、「ネット保守」は若者ではなく、およそ40代とか50代の中高年層が主軸であって、「若者」の世界ではない。インターネット=若者という図式は、とっくの昔に瓦解した旧世界のネット観である。 ネットの実勢も、「ネット保守」の実勢も、全く読み違えた次世代の党が壊滅したのは必然といえる。有権者の多くは、「安倍政権には疑問はあるが、さりとて野党に期待すべき代案はない」という消極的な姿勢で、自民党に一票を入れたことは想像に難くない。 安倍政権を批判的に見る人は、「安倍政権は極右だ」などというが、それは行き過ぎである。有権者の多くは、たとえ消去法であっても、「自民党より右」を否定し、より現実的な安倍政権を普通の皮膚感覚で選んだ。少なくとも自民党の獲得議席は静かにそれを物語っている。示された日本人の良心~ネット保守は「国会議員2議席分」 今回の選挙で示されたのは、日本人の常識性と、穏健性と、逞しさである。「2年では、なんにも判断しようがないでしょう」という常識的な判断こそが、日本人の出した回答だ。そこには、殊更天下国家論や、事実に基づかない外国人攻撃が入り込む余地はなかった。 次世代の党の失敗は、「ネット保守」を過大評価しすぎたことに尽きる。 多分、都知事選挙の折、60万票を取った田母神候補が、単純に東京都の人口の10倍が日本人の人口ということで、600万票とか、700万票取れると考えていた(となると、比例での獲得議席は公明党と同等程度の20―30議席=自公分離論の誕生)のだと思う。しかし、実際の有権者は冷静に判断している。無理筋で極端な理屈は、常に日本人の「常識」から排除される。 「ネット保守(の中でも更に濃い人々)」の実勢が、「国会議員2人分」であることが判明した今、現有議席を維持した安倍政権は、何の気なしに、「ネット保守スルー」の政策を取り始めると予想される。 現状ですらヘイトスピーチ抑制の方向を示している安倍政権だが、「ネット保守」の票田が予想以上に少ないことが示されたので、躊躇なく「ヘイト規制法」などの立法を行う可能性がある(ただ私は、実効性などの観点から反対ではあるが)。 更に「行動する保守」などへの規制も、ますます進むことだろうと思う。ネット上で湧き上がる、時として差別的な言説の数々は、「日本人一般の常識から外れた、ごく一部の人々による行い」であることが確認された今、政権与党にとっての「ネット保守」の比重は、殆どゼロに近しいものとなったのだから。 安倍政権を100%信任したのではない。自民党に手放しでハンドリングを任せたわけではない。今次の選挙は、過去最低の投票率も相まって「消去法」での現政権支持だ。その中で、私は「現実的で穏健な保守」に期待する。 「自民党より右」を否定した有権者が望むのは、差別や民族呪詛に断固NOを発する、弱者にやさしい穏健で微温的な、常識的な感覚の「保守」の確立ではないのか。*参考「自民党より右は評価されるか」

  • Thumbnail

    テーマ

    自民党よ「一強多弱」でも 驕るなかれ

    自民党の「熱狂なき圧勝」で終わったアベノミクス選挙だが、「一強多弱」となった勢力図の中で、共産党の躍進に注目が集まった。自民、民主の二大保守政党アレルギーの受け皿となったとの分析もある。数の論理では圧倒的優位に立つも、驕るなかれ自民党。

  • Thumbnail

    記事

    自民党が勝ったわけではない 「普通の感覚」の勝利だ 

    古谷経衡(著述家)総選挙の結果を振り返る 総選挙が終わった。自民党が2議席減、公明党が4議席増で自公政権全体で2議席増と、当初「微減」も囁かれた自公政権にとっては現有議席を積み増す「大勝利」となった。一方、投票率は過去最低を更新した。  今回の選挙をどうみるべきか。それは「安倍政権を積極的に全肯定はしないが、強く否定はしない。でもあんまり過激なのは駄目だよ。とりあえず2年じゃ分からないから、もうしばらくやってみては」という事に尽きる。 要するに日本人は、微温的に「現実路線を選んだ」という事だ。 第二次安倍政権が発足してから未だ2年。アベノミクスの光と影、等と言われることが多いが、経済政策は安定的で統一的な政策が長く続いてこそ、遅効的にその効果が確認できるというもの。2年で経過時点ではそもそも判定のしようがない、というのが正直なところだ。 だから、私は今次の総選挙に「大義がない」とよく言われたことについては概ね同意だった。どう考えても争点が希薄だった。だって「たった2年で何を判断しろというのか」というのが、率直な感想だったからだ。 それでも政権与党が衆議院を解散し、国民に信を問うた。国民の側としては、「いまだ判断材料が足りず、よって黒とも白とも判断できないから、とりあえず継続してみたら」という、消極的だが微温的な現政権への信任という回答が返ってきた。「2年という時間で或る政権の良し悪しを判断するのは無理」というのは、至極現実的で常識的な判断だと思う。平成期、ほぼ1年毎に政権が変わってきた、これまでのあり方が明らかに異常だった。 政権への判断基準は、明らかに「政策」ではなく「失言」とか「イメージ」だった。或いは、世論と関係のない党内力学といった「政局」の結果だった。誠に不健康な政治情勢が続いた。常識のレンジ(間隔)の範囲内で ここに来てようやく有権者は、現実の皮膚感覚に見合った「普通の感覚」で、腰を据えて政治を見るようになってきた。今回の総選挙を一言で締めくくるとすれば、それは日本人が常識的に併せ持つ「普通の感覚」の勝利だといえる。「自民党より右」を標榜して選挙戦を戦った次世代の党が、壊滅的状況となり、野党の中で「一人負け」をしたことも、この「普通の感覚の勝利」を大きく証明することだと思う。 公明党をぶっ潰せ、とか外国人(在日朝鮮人など)の生活保護受給批判、などの主張は、政治的にニュートラルな多くの日本人にとっては「過激」と映った。一部のネット空有では「スタンダード」な言説であっても、市井の日本人にとってそれは普通ではない。 これだけネット社会が拡大し、細分化した「島宇宙」にようになっているネット空間の中の、とりわけ保守的な言説を選択して選挙戦で主張した(ように見える)次世代の党のやり方は、多くの日本人の「普通の感覚」からは乖離していた。 さらには、次世代の党の主張の中には、例えば生活保護に関してそもそも事実と異なる主張も散見された。有権者は冷静に、そのあたりの誠実さの有無を見抜いていたのだろう。全く賢く、常識的で、「普通の感覚」が有権者をして投票所に向かわせたと断言するよりほか無い。穏健な「保守」政権の継続を 安倍内閣の政策には、良い部分もあるが、と同時に様々な問題もある。しかし、だからっと言って、100点ではないから、を理由に使い捨てライターの如く、次から次へと首の挿げ替えを行っていては、「安定的で一貫性のある政策」を実行することは出来ない。だからとりあえず、「経過観察」を続けよう―。 この常識的な理屈が、有権者の中に共有されていた「普通の感覚」なのだ。有権者は、極端なものや過激を嫌い、常識的で微温的で穏健な「保守」を支持した。このことは、間違いのない議席となって今次選挙で証明されたのである。 どんどん、世の中の全てのサイクルが短くなっている。映画もアニメも短いものが好まれるようになった。短期間で結果を出すことが殊更強調されるようになった。 一日の長さは太古の昔から変わっていないのに、我々はより短いもの、より短い期間での判断を求めるようになっている気がする。物事がどんどん短くなり、人々は長いものや長いことに我慢ができなくなり、せっかちになっている。このような風潮は、確実に政治や政治家に、短期間での結果を求めがちな風潮に繋がっていると思う。 今次の選挙は、このような風潮に歯止めがかかった、と言える。腰を落ち着けて物事を判断しようという、当たり前の事に有権者は漸く気がついたのかもしれない。 これから発足するであろう、第三次安倍政権には、こういった「普通の感覚」を背に、極端でも過激でもない、常識的で微温的で穏健な「保守」政権として進んでもらいたいと思う。 今次選挙は、自公政権が勝ったのではない。日本人の中にある、「普通の感覚」が勝利したのだ。

  • Thumbnail

    テーマ

    若者は政治に何を望んでいるのか

    「若者と政治」。私たちの世代の政治観は、他の世代の方々にまで届いていない気がする―。そんな疑問を抱くのは、iRONNA特別編集長の山本みずき。今の若者は政治に何を望んでいるのか。投開票を明日に控えた衆院選を前に、改めて「若者と政治」というテーマを考えたい。

  • Thumbnail

    記事

    「若者の政治離れ」のウソ

    古谷経衡(著述家) 若年層の投票率は、「年齢の数字」と大差ない、とよく言われる。つまり25歳の投票率は25%前後、という意味だ。実際、2014年2月に行われた東京都知事選挙では、「20-24歳」の投票率はわずかに25.7%、「25-29」では28.38%に過ぎなかった。 第23回参議院通常選挙(2013)では、「20-24歳」の投票率は31.18%、「25-29歳」では35.41%と、軒並み60%を超えてくる50代以上の中・高年とくらべて、明らかに低いのが実態だ。 このことを踏まえて、「若者の政治離れ」とか、「若者の政治意識の希薄化」が叫ばれて久しい。まずこの前提が本当なのかどうか、疑ってみよう。 次のグラフは、公益財団法人「明るい選挙推進委員会」が公開している、年代別の「衆議院議員総選挙年代別投票率の推移」(http://www.akaruisenkyo.or.jp/070various/071syugi/693/)である。  これをみても分かるように、若者(特に20代)の投票率は、過去(1960年代)とくらべて、長期的に明らかに低下しているのが分かる。しかし注意しなければならないのは、全年齢における投票率は、過去から現在まで、ゆっくりと長期低下(特に平成期)している、という事実だ。 つまり、「投票しないこと」を「政治離れ」と定義するなら、「日本人全体の政治離れが進む中、特に若者についてはその度合いが大きい」という風に解釈するべきだ。ところが一方で次のような統計もある。日米英仏韓の主要5カ国の青年(18-24歳)のそれぞれ各1000人を対象に実施した国際的な意識調査である「世界青年意識調査」の最新統計(第8回・内閣府)によると、政治に「非常に関心がある」は日本=11.7%で、米国=16.4%に次いで高い数値であり、政治に「まあ関心がある」と合わせると日本=57.9%で、主要5カ国の中で最高であった(最低は英国の32.2%)。 このように、日本の若者は「政治には比較的強い興味を持っている」が、しかし「実際の投票行動には繋がっていない」という実態が浮かび上がるのである。 ここからは、「若者の政治離れ」ではなく、むしろ「若者の投票行動離れ」という現実が判明する。どうも、若者が政治に関心がないから投票所に行かない、のではなく「政治に関心はあるが、投票所には行かない」というのが正解に近いだろう。この原因は、まったく制度的な原因に求められると、私は考えている。 つまり、選挙システムそのものが、若者の要求に答えていないのではないか、という疑問が浮かぶ。例えば地方から上京して、一人暮しをしている大学生が投票行為に及ぶ場合、住民票の所在地に投票権利を有するため、一人暮しをしている(生活実態のある)現住所では投票ができず、住民票上の自治体の選挙管理委員会に「遠隔地投票」の手続きを申請しなければならない。 この手続は至極煩雑で、自治体によっても異なるが郵送によって申請しなければならない場合が多い。実際、私もこの制度を利用して遠隔地に投票したことがあるが、選挙管理委員自身も不慣れな場合も多く、書類をたらい回しにされ、危うく投票そのものの意欲が無くなりそうになった。 私が大学生だった時代、周囲の友人・知人の中で「政治には関心があるが投票所には行かない」という人間の、ほとんどすべての理由がこの「遠隔地投票」である。わざわざ元住所の住民票を請求したり、地域の選挙管理委員会に申請用紙を請求したりするのは、よほど奇特な人物ではない限り行わない。この硬直したいわば「住民票主義」のようなシステムを正し、生活実態の存在する自治体で投票行動が可能になるように、法改正するだけで、若者の投票率は随分と変わってくるだろう。 更には、硬直化した投票日や投票時間の問題がある。普通、投票日は日曜日の朝から夜の8時までであるが、それは「週末が休日であることが前提の、模範的な勤労者(サラリーマン)」のライフスタイルを中心とした考え方である。 これだけ非正規雇用が拡大し、若者の多くが親からの仕送り額の減少などに悩み、アルバイトなどを兼任している現在、若者のライフスタイルは多岐に及んでいることから、投票曜日と時間は拡大されて然るべきだ。 投票日数を二日間などに拡大し、24時間に近い形で開放すれば、これも若者だけではなく、全年齢において投票率は格段に向上するだろう。あるいは投票日を祝日にすることなど、法で別途定めるようにしても良い。 投票所の多くは市役所や小・中学校に設置されているが、地の利の不便な場合もある。可処分所得の減少で格差の犠牲になりがちな若年層は、必然自家用車の保有率が少なく、投票所への来所はかえって困難な場合もある。小・中学校の多くは、駅から遠い住宅地の中にあるからだ。 よって、既存の公的施設を転用した臨時投票所の増設や、空港や駅などJRや私鉄、航空会社と連携した投票所開設も有効ではないか。各所に電子認証端末を設置し、住民基本台帳カードによる本人確認が普及すれば、やはり投票率は劇的に改善されるだろう。 現代人のライフスタイルの多様化は、明らかに現行の投票制度から齟齬をきたしている。通販サイトで注文した商品がその日に届くことが当たり前になりつつある中で、投票システムだけは何十年も前の、ハガキ持参と鉛筆書きという、旧態依然としたものに留まっている。これだけ実態と制度が乖離しているのに、それが投票率に作用しないと考えるほうがおかしいと思う。「週末が休日であることが前提の、模範的な勤労者(サラリーマン)」という、日本人の生活や働き方のスタイルは、過去のものになりつつある。その証拠に、「期日前投票」の利用者総数は、選挙の毎に拡大の一途をたどる傾向がある。「日曜日に、決められた場所に、決められた時間に行くことができる人間」は、この世界の中でどんどんと減っている。 その変化に、システムは全く対応していない。「模範的な勤労者」が存在することを前提とした日本のシステムの弊害は、選挙制度にとどまるものではない。年金や健康保険など「模範的な勤労者」が強固に存在した時代に想定された制度の多くに、歪や問題が指摘されているのは周知のとおりである。 住基カード1枚を持って、ふらりと東京駅で投票してから、道後で温泉に浸かりながら選挙速報を観る。そのような時代が到来した時、「若者の政治離れ」というフレーズは消えてなくなっていることだろう。

  • Thumbnail

    記事

    二大政党制じゃなくてなぜ悪い!?

    古谷経衡(著述家) 日本では二大政党制というのは中々定着しない。「55年体制」に於ける自民党と社会党だって、二大政党制とは程遠かった。「二大政党」というには余りにも社会党の議席が小さすぎたし、そのせいで政権交代の可能性がなかった。アメリカやイギリスなどは、4~8年位のスパンで、明確に温度差のある二つの政党が交代を繰り返しているが、このようなダイナミック性が日本政治にはあまり観ることが出来ない。 私は日本において二大政党制が定着しないことは、全く悪いコトだと思わない。寧ろ、白黒をはっきりさせず、微温的な支持で政権が選択されること自体は、物事を常に中間で観るという志向が定着しているからで、健全な感覚に近いと思う。 アメリカの共和党や民主党は、個別の政策という以上に、明らかに人生観や倫理観の違いが本質的な対立点になっている。同性婚の是非、人工妊娠中絶の是非云々、というアメリカの保革の両極で熾烈な争点になりがちなイシューは、個別の政策というよりもそれらを支持する人々の宗教観を背景にしたものである。日本にはこのような、宗教観を背景とした人生や倫理を問う話題が、真っ二つに分裂し、そこに党派性が宿るという事例は、ほとんど観られない。 日本で見られる保革の両極による熾烈な激突は、例えば憲法「9条」問題に観ることができるが、実際には9条の改正については、自民党、維新の党、次世代党などが「改憲」、公明党が「加憲」、民主が「創憲」と、現状の国会における議席の、9割近い議席を占める各党が、現行憲法に対して何らかの形での変化を望んでいることからも、実際にはその方法論はともかく、「国論を二分する状態」になっているとは言いがたい。 日本における護憲政党はわずかに共産・社民・生活などの少数野党で、この全部を合計してもかつての社会党の議席にも遠く及ばない。日本の有権者は常に、極端で過激な主張を嫌い、中間的で微温的な意見に耳を傾けているからだ。 それでも、「もし二大政党制が日本で実現するとしたら」を想像するのは楽しい。日本で、両者が激突する熾烈なテーマというのは何だろうか。 例えば「モテ党」と「非モテ党」というのはどうだろうか。前者は異性に不自由しない人々の団体で「一夫多妻制法案」や「重婚解禁法案」を提出する。他方、異性にモテない後者の団体は、「童貞軽減税制」や「クリスマス禁止法」の制定を求める。国会内で大激論が交わされるのは必至だし、時として流血の事態にすら成るかもしれない。 更に進めば「猫党」と「犬党」というのも大きな対立点だ。基本的に猫や犬を飼っている人間というのは、自分の飼っている動物が「世界で一番カワイイ」と信じ込んでいる。そこへきて、「猫飼育優遇税制」、「犬飼育優遇税制」などが提起される。限られた予算を、犬と猫で奪い合うという骨肉の争い。こちらも大紛糾に成るだろう。 少し真面目な話に戻せば、「持ち家党」と「借家党」。これは大きな対立点になりうる。「持ち家党」は固定資産税の減免と住宅ローン減税を求める。持ち家のバリアフリー化や耐震診断や補強工事を100%国が助成せよと迫る。とにかく土地所有者に有利な法整備をどんどん提言する。自身が大家になる場合もあるから、所謂「敷金訴訟」などは、徹底的に大家側の味方だ。 一方、「借家党」は国による公営住宅の増設やURの入居審査の緩和、借地借家法の更なる弾力化と、特定優良賃貸住宅の入居基準の緩和と物件数の拡大などを要求する。「敷金訴訟」では、預けた敷金の倍額を慰謝料で払え、等という無茶苦茶な大家への濫訴も支持する。礼金や保証金を法律で禁止し、「更新料」を廃止し、家賃値上げ訴訟の場合、弁護士費用は無料にしろと主張する。違反した大家や仲介業者には熾烈なパナルティーを課す。とにかく借り主に有利な法整備をどんどん提言する。 恐らく、これこそが最も大紛糾に陥るのではないか。土地持ちの老人と、もたざる若者の間で本格的な世代間闘争が勃発し、全国各地で粗暴事件や訴訟が激増するだろう。 やっぱり、「二大政党制」は無い方がいい。

  • Thumbnail

    記事

    ジャーナリストが権力を批判して何が悪いのか

    古谷経衡(著述家) 朴槿恵大統領に対して名誉を既存するコラムを掲載したとして、名誉毀損(情報通信網法)違反で韓国検察に起訴された産経新聞社の加藤達也前ソウル支局長に対する初公判が、27日、ソウル中央地裁で行われた。 公判中の加藤氏にたいしては、現在、韓国検察が「出国禁止措置」を発して事実上の軟禁状態にある。 この事件は、日本のみならず「自由と民主主義」を標榜する世界の自由主義国家に強い衝撃を与えた。韓国はGDPが世界でも15位前後、G20にも出席し、アメリカや日本など西側の自由主義国家と軍事的にも政治的にも、強い関係を有する「西側の自由主義国家の一員」と観られてきた。その「西側の自由主義陣営」の一角である韓国が、自由と民主主義に逆行するような姿勢を鮮明にしたのが、今回の産経加藤氏に関する事件である。 今回の加藤氏への起訴は、「現政権(大統領)の名誉を傷つけた」という韓国検察の言い分が核心である。つまりここからは、「現在の権力者に対する批判的言説は一切許されない」という強い建国検察の意志を感じる。 加藤氏の弁護側は、今回の公判で「コラムに公益性があり、朴大統領を誹謗する目的はなかった」と主張し、一貫して韓国検察による主張に対向する姿勢を鮮明にしている。 しかしよく考えてみると、ジャーナリストが「時の権力者を批判する」のは当たり前のことであり、時としてそれが「誹謗」と呼ばれるようなニュアンスであっても、通常の自由主義国にあっては、そういった時の権力者(現政権)を揶揄し、批判的に論じることは「自由と民主主義」が確立された社会にあっては当たり前のことだ。 だから韓国検察の「朴大統領を誹謗した」という起訴理由そのものがジャーナリズムに対する挑戦であり、「誹謗したわけではない」という弁護側の主張も、たとえそれが法廷戦術の枠内で取られた仕方のない言説であっても、本来、筋論としては間違っている。 正確には、「ジャーナリストが権力者(朴槿恵)を批判・誹謗して何が悪いのか」というのが、加藤氏を弁護する上で、最も的確な理屈なのである。 いかなる権力者に対しても、かならず批判的精神でそれを見つめるのがジャーナリズムの役割である。韓国の法廷で弁護側が上記のような主張を行うことは、加藤氏を弁護する側にとってやむを得ないことだと思うが、本来であれば「朴槿恵という権力者を揶揄したり皮肉ったり批判したり、時として罵倒するのがジャーナリズムの本懐ではないか」と堂々と抗弁するのが、「西側の自由主義国家」で活動するジャーナリストの一致した見解のはずである。 だからこそ、今回の事件が世界の自由主義国家に衝撃を与えたのは、そのコラムに朴槿恵を誹謗する内容があったとか無いとか、そういうことではなく、「権力者に対する批判は一切許さない」という、その韓国のジャーナリズムに対する姿勢そのものなのである。 独裁国家や権威主義国家では、時の権力者を揶揄することも、批判することも無論タブーである。スターリンやフセインや毛沢東や金正日に対する批判的言説は、それが例え事実であろうとなかろうと、その度合の濃淡がどうであれ、一切黙殺され、その禁を破ったものは投獄され、処刑されている。 ニキータ・ミハルコフの映画に『太陽に灼かれて』という作品があった。1930年代のソビエトを舞台にした大粛清をテーマにしたものだ。主人公のコトフ大佐は、ロシア革命で功績のあったエリート将官だったが、ソビエト秘密警察「NKVD」にほとんど言いがかりのような理由で、「反スターリン気質」を疑われ、やがて連行される。 美しいロシアの大自然を舞台に描かれたこの作品は、「権力者を揶揄する、僅かな素振りを見せただけで」粛清の対象となり、実際に消えていった数多の人々の事実を照らしだし、スターリニズムと独裁体制の恐怖と不気味さに迫ったものである。 翻って、今回の加藤氏の起訴事案は、はからずもこの『太陽に灼かれて』を思い出した。時の権力者たる朴槿恵へのいささかの批判も許されず、軟禁され裁判を受けさせられるような国は、大粛清をやっていたスターリン時代と余り大差ない。 繰り返すように、事の本質は「加藤氏のコラムの中に朴槿恵を誹謗する内容が入っているか、そうではないのか」ということではない。 そのコラムの中に、韓国検察が主張する「朴槿恵を誹謗する内容」が存在していたとて、何の問題があるのだろうか。 加藤氏への起訴と初公判は、韓国が「西側の自由主義国家」として存続できるかどうか、その試金石になっている。結審したあと、無罪判決が下らなければ、それは「西側の自由主義国家」が普遍的に共有するジャーナリズム精神に対する重大な挑戦である。 「国境なき記者団」が発表する世界各国の「報道の自由ランキング」の最新版では、韓国は世界50位台(中位圏)に位置しているが、日本もこれと大差のない順位と評価されている。しかし、加藤氏の裁判の行方次第では、韓国のランキングは、明らかに世界の下位圏に転落するだろう。 我々は、「西側の自由主義国家」の一員として、ジャーナリズムの根幹に対する挑戦を断じて許してはならない。

  • Thumbnail

    テーマ

    愚かな韓国よ、目を覚ませ

    韓国の朴槿恵大統領に関するコラムをめぐり、名誉毀損で在宅起訴された産経新聞前ソウル支局長、加藤達也記者の初公判が27日、ソウル中央地裁で開かれ、加藤前支局長は起訴内容を全面的に否認した。真に守るべきは大統領の名誉か、言論の自由か。記者訴追の暴挙で非難を浴びる韓国にいま一度問う。

  • Thumbnail

    記事

    問われる「保守」のカタチ

    古谷経衡(著述家) 16日に投開票された沖縄県知事選は、普天間飛行場の辺野古への移設に反対する翁長雄志氏(前那覇市長)と容認派の仲井真弘多氏(現職)の接戦とみられたが、蓋を開けてみれば翁長氏が約36万票、仲井真氏が約26万票と10万票という大差で翁長氏が勝利した。 この事実は、普天間移設の是非で拮抗しているとみられた沖縄世論が、移設反対に大きく傾いていることを意味するものだ。 選挙前、「ネット上で右派的、国粋主義的な言動を行う人々」=通称「ネット右翼(ネット保守とも)」界隈では、基地移設容認を掲げる仲井真氏への支持が圧倒的に強いという状況であった。 彼らは、沖縄における反基地運動や集会を「反日左翼の仕業である」として、強い呪詛の対象として捉えている。加えて沖縄の米軍を「日本を護る存在」として捉え、在沖の米兵を悪者のように言うのは、「反日だ」と罵っていた。 加えて、米兵による犯罪に対する捉え方も様々である。1995年に起こった米兵3名による「沖縄少女暴行事件」では、加害者の米兵ではなく、被害者の少女の側の素行に問題があった、とする意見も、ネット上では盛んに喧伝されている。 在沖の米軍は日本を護る存在であり、米軍基地は日本に無くてはならない存在。それに対し反対するのは「反日」―。「ネット右翼」の在沖米軍と反基地勢力に対する評価は概ねこのようなものに終始している。 「ネット右翼」がこのように、時として過激な「反基地」「反米軍」への敵意を剥き出しにするのはなぜなのだろうか。「保守」と「ネット右翼」の違い 私は、「保守」と「ネット右翼」を区別して定義している。 まず「保守」とは、戦後日本の中で、全国紙「産経新聞」と、論壇誌「正論」を中心として(所謂「正論路線」)伝統的に自民党清和会(福田派)のタカ派的国家観を支持する人々の事を指す。言わずもがな、この「正論路線」のイデオロギー的骨子は「反共」と「親米」である。 これに対して「ネット右翼」は、こうした「保守」の自民党的出自とは違う、全く別の場所=インターネット空間から発生したクラスタである。特にゼロ年代の初頭、2002年の日韓ワールドカップ前後(反大メディア、嫌韓国)からその傾向が顕著となったものだ。 このように「保守」と「ネット右翼」はその出自からして全く異なっているにも関わらず、両者の主張は似通っている。なぜかといえば、現在「ネット右翼」の主張や見解は、「保守」の理屈にその多くが寄生しているからである。 これは例えば、「保守」の論客が「中国脅威論」を唱えれば、ネット右翼が「支那人けしからん」、「日米同盟強化」を唱えれば「米軍基地に反対する人間は全員反日」という理屈になってネット空間に排出されている。 前出した「ネット右翼」の在沖米軍に対する捉え方の多くは、保守のいう「米軍抑止力理論」に依拠している。ところが保守側は、「支那人がけしからん」「全部反日だ」などという過激で無思慮な物言いまではしていない。「米軍抑止力理論」には軍事的な裏付けがあるが、その部分はすっ飛ばして「沖縄が中国に占領される」などという突拍子のないタイトルのシュミュレーションのみが、なにか重大な根拠のようにネット空間を飛び回り、「反翁長」の潮流に結びついていた。 なぜ「コピー」ではなく「寄生」なのか。それは、実のところ「ネット右翼」の言説というのは、「保守」と目される人々が出版したり寄稿したりする本や雑誌の詳細を読むこと無く、そのヘッドライン(見出し)のみを観て自説に採用しているからである。「コピー」は原文を引用する場合があるが、「ネット右翼」はそもそも原文を読まず、「保守」の言う理屈のヘッドラインと目次だけを見ている。 だから本当は「中国脅威論」にも軍事的な分析や薀蓄が含まれているし、実際のチャイナ・ウォッチャー達の見識が縷縷含まれているのだが、そうした部分を一切無視してタイトルだけを拝借して「支那人けしからん」というふうになる。 まこと「保守」から発信される情報の、そのヘッドラインにだけに寄生する「ネット右翼」のこうした行為を、私は「ヘッドライン寄生(見出し寄生)」と名づけている。 「ネット右翼」は体系化された「保守」の理屈にそのまま寄生し、ヘッドラインだけをみて表現を過激に加工することで自身の理屈に採用しているきらいがある。 つまりネット上で盛んに米軍を擁護し、それに反目する人々を「反日」と呪詛する動きが見られるのは、「ネット右翼」が寄生している宿主である「保守」が、「親米」だからに他ならない。そしてその「親米保守」の言う、ヘッドラインのみに寄生して、粗悪な「反日」の言説がひとり歩きしているという情勢だ。問われる「保守」のカタチ ネット上には、「翁長氏が沖縄知事になれば、沖縄が中国の属国に成る」などといった俗説が百花繚乱である。翁長氏が知事になることが確定した今、「沖縄が中国の属国になる」が本当かどうかは厳密には分からないが、ネット上にある「中国の工作員が沖縄に忍び込んで、沖縄が人民解放軍に占領される」などという意見は突拍子もないシュミュレーションの一種であることは明らかだ。 たしかに、中国の軍事費は毎年二桁の増加をみせており、不透明な部分も多く指摘されている。中国人民解放軍は特に空軍力と海軍力の近代化を急いでおり、現代戦に不可欠な無人機の開発も怠っていない。国産の航空母艦4隻建造の観測もある。 南沙諸島、西沙諸島での中国軍とベトナム、フィリピンなどとの緊張と衝突は現実問題として起こっている。いまや世界第二位の経済大国になった中国に対し「中国脅威論」が展開されるのは無理からぬところだ。 その抑止力として、沖縄に米軍を存置させるのが、日本の安保政策にとって必要不可欠だ、という理屈は非常にわかる。しかし一方で、反基地運動を展開し、米軍に嫌悪感を示す人々を「反日、中国の手先」と決めつけるのは如何なものだろうか。 翁長雄志氏は、選挙戦の演説の中で「私は保守の政治家である」といった。本土の保守派が聞けば、「辺野古移設反対で日米同盟に亀裂がはいるというのに、何が保守だ!」と怒る人が大勢いる。しかし、その理屈はあくまで「親米保守」の理屈であり、多分翁長氏が言う「保守」の姿とは違っているのだろう。 一般的に「保守」とは、「伝統や文化を守り、育てていく姿勢」と理解されている。沖縄から基地をなくし、沖縄が先祖から受け継いだ伝統的な土地を回復する、という主張は、おそらく沖縄にとっては「最も保守的」で「ナショナリスト」的な立ち位置なのかもしれない。 沖縄戦末期の折、大田実中将は東京に向けた「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」とする決別電文を打電したことは余りにも有名である。 沖縄戦では、軍10万、民間人10万余の、軍民20万人が死んだ。 沖縄を本土決戦の時間稼ぎとする、という大本営の作戦計画の是非はともかく、沖縄と日本を護るために戦った20万の人々は、戦後の沖縄に「旧敵国」であった米軍の軍事基地を常設化することなのだろうか。 死者の気持ちを忖度するわけではないが、私は違うと思う。沖縄に対する「後世特別ノ御高配」とは、米兵に「銃剣とブルドーザー」で接収された沖縄の先祖からの土地を回復し、沖縄の古来からの伝統と文化を守る強い「保守的立場」ではないのか。 或いは、米軍基地の代わりに、強力な日本の軍隊を常駐させることも、重要な「後世特別ノ御高配」の一つであることは間違いないだろう。 そういった意味では、翁長氏への支持に、革新勢力だけではなく自民党の一部が分裂して、沖縄の保守勢力までもが翁長氏を支援した事実を、本土の保守は深刻に受け止めなければならない。 本土の「親米保守」にとっての「保守」とは日米同盟の維持と強化かもしれない。しかし、沖縄の「保守」とは、米軍基地の撤去と先祖から受け継いだ土地の回復だろう。この、沖縄と本土の「保守観」の違いが、いつも話をこじらせている。 本土の「親米保守」の理屈に寄生しているに過ぎない「ネット右翼」の無思慮な物言いが、時として沖縄の人々を傷つけていると感じる。或いは「ネット右翼」の上流に位置する保守が、例え体系的な理屈であっても、沖縄の「反基地・反米軍というナショナリズム」に対し、時として軽んじる発言を行うこともまた、沖縄県民の感情を傷つける場合があると感じる。 今回の沖縄県知事選挙は、辺野古移設を問うたもの以上に、「保守とはなにか」、という根源的な問いかけを行っている。沖縄にとっての「保守」とはなにか。沖縄にとっての「愛国心」とは。「保守のカタチ」がいま、沖縄から問われようとしている。*この原稿は”ポリタス「沖縄県知事選2014」から考える”へ寄稿した拙稿を元に、大幅に改変して加筆したものです。 

  • Thumbnail

    記事

    なぜ、台湾の若年層は韓国を嫌うのか~現地座談会から

    古谷経衡(評論家・著述家) あまりに激しく、そして根が深い台湾の嫌韓。いったいなぜなのか? 台北市内のレストランを借り切り、座談会を開催。若者層の声を聞いた。「台韓国交断絶」の衝撃 今秋、私は自身にとって初の本格的な歴史概説書となる『知られざる台湾の「反韓」』(PHP研究所)を上梓した。私たちは普段、「日韓関係」「日台関係」のことはよく見聞きする。韓国の反日感情とか、台湾の親日感情などの情報には、日本にいながらにして毎日のように接する。しかし「日本と相手国」という関係性を離れ、台湾と韓国という他国同士の関係性である「台韓関係」となると、途端に馴染みがなくなる。台湾と韓国は共に日本の隣国でありながら、いつもこの二国に対する切り口は日本を基軸とした関係性の視座がほとんどだった。台湾は韓国とどのような関係にあるのか、あるいは台湾は韓国をどのように捉えているかといった視点は、これまであまり存在していない。 2013年3月に開催された第3回WBC(ワールドベースボールクラシック)で、共に出場国であった台湾と韓国はB組で対戦した(台中インターコンチネンタル野球場)。台湾は韓国戦には敗北したものの、予選リーグを突破した。しかしこのとき、韓国選手のラフプレーが大きな問題になり、台湾国内で「反韓」の感情が沸き起こったことは、日本でも話題となった。「棒打高麗(韓国人を棒で叩き出せ)」のプラカードや、You Tubeにアップロードされた太極旗を破り捨てる女学生の動画が紹介され、このとき初めて私は「台湾には根深い嫌韓感情がある」という事実を知った。 WBCにおける一連の騒動についてある韓国紙は「台湾と韓国のあいだには恩讐がある」と表現した。前述のとおり、日本では嫌韓が激増しているものの、それを「恩讐」という言葉で表現する人は少ない。「恩讐」という表現には、表層的な感情とは違う、もっとシリアスなニュアンスが含まれている。この言葉の裏に存在する台湾と韓国の関係とは何か。台湾はなぜ、激しい「嫌韓」の国になっているのだろうか。私はそれを探るべく訪台した。 「台湾における嫌韓」を調査すると、まずこの二国の奇妙な国際的立ち位置が浮き彫りになった。冷戦下、台湾と韓国は軍事独裁(蒋介石=朴正熙)、反共主義、国連非加盟国、分断国家(両岸=南北)、日本統治時代を経験、という5つの項目で見事に共通している。この時代における韓国はアジアで唯一、台湾を国家として承認していた。「お互いに孤立した共通項をもつ国家」という親近感が背景にあった。 台湾政治大学で国際関係学の専門家である蔡教授に話を伺うことができた。教授はこのような冷戦期の「台韓関係」をきわめて友好的なもの、としたうえで、「恩讐」の原因となった大転換が訪れたと指摘する。1992年に行なわれた「台韓国交断絶」である。当時、韓国の盧泰愚政権は「北方政策」と呼ばれる容共姿勢に転換していた。冷戦時代に敵対していた中国、ロシアなど共産圏の国々との国交を確立し、それまで「反共の砦」とまで謳われた国策を大転換したのだ。つまりこの年、韓国は台湾を切り捨てて中国を承認するのだが、ここには台湾人にとって忘れられぬ屈辱的エピソードが存在している。 「台韓国交断絶」の直前まで、韓国政府要人は台湾を訪問し「韓国が台湾を見捨てることは断じてない。われわれの友好関係は続く」と公式に表明し、台湾人は「ならば安心だ」と胸をなで下ろした。にもかかわらず、実際の断交は同年8月24日に電撃的に行なわれた。とくにソウルにある駐韓台湾大使館は、韓国政府から「即日の強制退去」を言い渡され、大使館職員が泣く泣く青天白日旗を降ろし、着の身着のまま国外退去処分になった。国際慣習や礼儀を無視した韓国政府の強権によって、いっさいの台湾外交員が韓国から突然追放されたのである。トンデモ説への怒り 92年以降、台湾人の反韓感情は最悪の状態が続いたが、若い世代では徐々に当時の記憶は薄れている。蔡教授によれば「台湾の嫌韓」には、衝撃的な「台韓国交断絶」を記憶している中年以上の世代と、それを経験していない若年世代のあいだで同じ「嫌韓」とはいえ認識に違いがあるという。 これを受けて私は、台湾在住の日本人教師の方の協力を仰ぎ、台湾の青年層における嫌韓感情の実態を調査すべく大規模な座談会を開催した。6月某日、台北市内のレストランを貸しきって行なわれた座談会には、総勢18名の台湾人青年が集結した。台湾師範大学、台湾大学、台湾科学技術大学など、台湾で最もレベルの高い国立大学の卒業生や大学院在学生たちであり、22歳から32歳までの男女である。まさに「台湾の若手頭脳」ともいえる彼らの目に、韓国はどう映っているのか。 台湾師範大学大学院在学中の范嘉恩さん(24歳・男性)は、台湾においては韓国の整形文化が不気味に映る、と前置きしたうえで、台湾における韓国のイメージは、やはりWBCでの韓国側のラフプレーに対する不快感が大きいと語る。范さんが挙げたのは、中でも台湾野球界のスターでニューヨーク・ヤンキースでも活躍した“台湾のイチロー”こと王建民に対する韓国ネチズンの頓狂な主張だ。王建民は片親の祖先を韓国人にもつが、それを根拠に「王建民は韓国人である」とのトンデモ説に対し、国民的スターを侮辱されたような感じを受け、怒りを禁じえなかったという。このほかにも、「孔子は韓国人」などという無根拠な韓国ネチズンの「韓国起源説」が、台湾人の嫌韓感情を後押ししている、と分析した。対中輸出で争う台韓企業 同じく台湾師範大学大学院在学中の柏さん(30歳・女性)は、「台湾に留学している韓国人には良い人が多いが……」としたものの、台湾と韓国の産業競争問題に触れた。柏さんがとくに問題視するのは2010年に起こった「韓国三星(サムスン)電子による台湾企業密告事件」である。 日本ではあまり報道されなかったが、事件の概要はこうだ。サムスンがEUから、液晶ディスプレイパネルの価格談合(カルテル)を指摘されたのだが、リニエンシー制度(談合やカルテルに加わった企業において、最初に不正を自己申告した場合、その者だけがペナルティーを免れる内部告発制度)を利用し、同じくカルテルに参加した奇美電子など台湾電子企業4社を告発、自らはカルテルを主導したにもかかわらず、EUからの課徴金を逃れた、という事件である。要するにサムスンがEUと司法取引をして「共謀した」台湾企業を保身のために売った、という経済事件で当時、台湾メディアはサムスンを「モラルのない密告者」と非難したのである(奇美電子は台湾を代表する大企業だが、この事件でEUから330億円の制裁金支払いを命じられた)。 台湾と韓国の経済的ライバル関係については、台湾大学中華経済研究院主任研究員の馬道教授からも同様の話を聞くことができた。馬教授によれば、台湾はEMS(受注代行生産)で世界的な地位を確立しているが、近年はとくに最大の貿易相手国になっている対中輸出で、猛追する韓国企業と熾烈な争いを演じているという。サムスンによる台湾企業密告事件は、このような台湾と韓国の国際競争を背景としたものだが、それにしても「仲間を売る」という不義理を犯してまで自己の保身に走ったサムスンの事例は、台湾人のなかに根深い「反韓」意識を植え付けるに十分であった。実際、台湾では韓国企業がネット上での商品レビューで、善意の第三者に成り済ましたレビュアーが自社製品を過剰に持ち上げ、ライバルである台湾企業の製品を貶める投稿をし、虚偽の宣伝工作(ステルスマーケティング)を行なったとして大問題になった。 2013年には、前述のサムスンとその取引会社である「鵬泰」が台湾公正取引委員会からステマの罪科で、罰金の支払いを命じられるなど社会問題化した。商慣習やモラルを踏みにじる行為を繰り返す韓国企業に対する不信は、台湾社会のなかで臨界点を迎えつつある。「韓国のナショナリズムは怖い」 台湾師範大学大学院在学中の鄭さん(24歳・女性)は、とくに韓国にある男尊女卑的傾向に強い憤りを覚えるという。台湾はきわめて強い学歴重視社会で、若年層にとってはスキルアップと学位取得のための海外留学は珍しいことではない。留学先はヨーロッパが多く、その影響で台湾の若年知識階級はリベラル的発想が主流を占めている。女性の人権問題や男女の不平等といったイシューにとくに敏感になりがちな鄭さんにとっても、韓国における女性の地位の低さは、同じ女性としては看過できないという。 また台湾師範大学在学中の黄さん(23歳・女性)は、2014年4月に起こったセウォル号転覆事故のあと、韓国国営放送(KBS)のスタッフらが「韓国政府(青瓦台)から事故報道で政府批判を抑えるよう圧力を受けた」として一斉にストライキに入った事件を挙げ、「韓国には民主的報道倫理観が確立されていないのではないか」と両断する。大事故の際に政府が事故報道に都合の良いように介入するのはジャーナリズムそのものを歪める行為であり、先進国ではありえない現象である。台湾のメディアにも政府に配慮した報道はあるが、さすがに韓国のような情報統制はない。韓国人は彼の国の政府によって情報統制され、それが過度な反日の一因にもなっているのではないか、と分析する。これはきわめて正鵠を射た指摘といえよう。 台湾科学技術大学卒業後、現在メーカー勤務の呉さん(25歳・男性)は、韓国の異様なナショナリズムを問題視した。呉さんは「韓国をみていると、昔のナチスと同じだと思う」と述べた。国際的なスポーツ大会で沸き起こる韓国の異様なサポーターの興奮や、国を挙げた国威発揚は、明らかに行きすぎたナショナリズムであると断言する呉さんの意見には、多くの座談会同席者が賛同した。いわく「韓国のナショナリズムは怖い」「全体主義的で危険な感じがする」等々である。 一方で、韓国のそのような「民族の団結」が逆に羨ましいという意見もあった。韓国に比して台湾ではナショナリズムや愛国心は薄く、ヨーロッパ帰りの若年知識層にはリベラリズムの観点からそのような風潮を半ば警戒し、他方「ないものねだり」で肯定する声も少なくはなかった。 台湾師範大学大学院で美術講師を務める簡さん(31歳・男性)は、冒頭に記した「太極旗を破り捨てる台湾人女学生」の動画を引き合いに出し、「このような行為はたいへん幼稚な行動」と指摘する。嫌韓をことさらに報じるメディアの背景や歴史などをまず自己解析し、客観的な視点で韓国に対する評価を決定するべきであり、ネットの風潮や意見を軽々に信ずるべきでない、という簡さんの見解は、台湾の若年知識層の教養水準の高さを物語っている。 ともあれ、彼らが韓国に対してもつイメージは、「不公正な競争」「モラルの欠如」「非民主的な社会や制度」などに対する怒りと違和感である。この延長線上で彼らが中国にもつイメージは、「韓国のナショナリズムや不道徳をさらに増幅させた存在」として激烈な嫌悪の対象になっているのだ。 1992年の「台韓国交断絶」は、台湾社会に計り知れないほどのショックを与え、台湾が世界で最も先進的で最大の「反韓国家」に変わる直接の分岐点となった。その後、ゼロ年代に入り現在に至るまで、当時を直接知らない若年層に、国際的なスポーツ大会や企業競争などでの「韓国のモラル違反」によって新しい「嫌韓第2世代」が生まれ、その勢いは拡大を続けている。 日本の隣国である台湾は親日国であることに疑いはないが、この国のもう一つの側面である「反韓という恩讐」の背景を知るにつけ、私は東アジアの大きな歴史のうねりと、友邦から仇敵に変わった台湾と韓国の関係に深い感慨を覚えるのである。関連記事■米軍慰安婦像が米大使館前に建つ日/テキサス親父トニー・マラーノ■中国のこれからと日本が果たすべき役割/丹羽宇一郎■オバマの嘘・「尖閣を守る」を信じてはいけない/日高義樹

  • Thumbnail

    記事

    移民政策の本当の怖さ

    古谷経衡(著述家) 先日、「毎年20万人の移民受け入れ本格検討」として、安倍内閣が移民受け入れを容認し、移民政策の国策を転換する可能性について、ニュースになっていました。具体的には、 政府が、少子高齢化に伴って激減する労働力人口の穴埋め策として、移民の大量受け入れの本格的な検討に入った。内閣府は毎年20万人を受け入れることで、合計特殊出生率が人口を維持できる2.07に回復すれば、今後100年間は人口の大幅減を避けられると試算している。(中略)だが、移民政策には雇用への影響や文化摩擦、治安悪化への懸念が強い。しかも、現在は外国人労働者は高度な専門性や技術を持つ人材などに限定しているが、毎年20万人を受け入れることになれば高度人材だけでは難しい。単純労働に門戸を開く必要が出てくる。(2014.3.13 産経新聞) というものです。よく、移民を受け入れる際に大きな問題として懸念されるのは、上記の記事にあるように「移民によって日本人の雇用が圧迫される(雇用懸念)」「移民がつくるコミュニティや宗教的な違いが、日本人社会との軋轢を生む(文化摩擦、治安懸念)」という大きく二つに分けられると思います。 雇用懸念については、実際にヨーロッパ圏が旧植民地(英連邦のアフリカ、インド、フランスの旧植民地、ドイツや北欧のトルコ系、中東系)からの移民によって、現地の国民の雇用を圧迫している、というのは現実の問題として発生しています。 また、文化・治安懸念なども同様に欧州の多くの地域で問題になっています。この移民政策による反応は、例えばドイツのネオナチ、フランスの国民戦線など、極右政党の誕生と社会不安につながったり、スウェーデンではイスラム系住民への反目(モスク放火)など、実際に死者が出る事態に発展することも珍しくはありません。 こういった移民によって引き起こされる数々の社会問題や不安ですが、これらは移民政策の本当の暗部ではありません。例えば中南米に移民した日系移民は、現在、現地の社会に広く受け入れられ、社会的に成功している場合が多くあります(ペルーのフジモリ大統領や、ブラジル空軍のトップが日系人である例)。更に、現在移民を受け入れる側だった英仏独北欧の国々は、かつて自らが最大の移民排出国であったことを押えなければなりません。 欧州の各国、特にドイツ、アイルランド、イングランド、イタリア、オランダ、スウェーデンといった国・地域の移民が大量に流れこんで成立したのが、現在のアメリカだからにほかなりません。移民がすべて、移民先の国々で社会問題になる、というわけではないことに留意しなければなりません。19世紀の新興国・アメリカの労働力を形成した多くは、こういった「欧州」の中でも比較的所得の低かった、ドイツ系移民、アイルランド系移民によって支えられたのです。 では、移民が引き起こす最大の問題とは何でしょうか。それは移民の出生率が、異常に高いことです。例えば1990-1998年のフランスにおける合計特殊出生率(平均)は、フランス人女性が1.65、移民の女性が2.50と、実に1.5倍以上の開きがある、というデータがあります。つまり生粋のフランス人は一生に1人か2人の子供を生むのが普通ですが、移民はそれを大きく上回って3人近くの子供を産む、ということがこのデータからわかります。更にその3人がそれぞれ3人の子供を生むと考えれば、この違いが如何に大きなものかが分かるでしょう。 移民は一般的に所得水準が低く、また就業環境も劣悪な場合が多いです。そんな中で、唯一の娯楽としてのセックス、或いは将来、親を養うための食い扶持という意味で、出生率が突出して高くなるのは、フランスに限らず世界中の移民に当てはまることです。 これはどういう事を意味するのでしょうか。簡単にいえば、移民第一世代は移民先の国では、マイノリティだったけれども、二世代、三世代と代を重ねると、加速度的に移民の人口が増加していく、と言う事を意味しております。つまり、先の記事に当てはめると、毎年20万人の移民の第二世代、第三世代は、どんどんとその人口を拡大させていく、という事を意味しています。 現在、主にメキシコ(ヒスパニック系)の移民(不法を含む)人口が急増しているアメリカですが、ある試算によると、ヒスパニック系の増加によって2050年にはアメリカは非白人の国になる、と予想されています。もっと言えば100年後にアメリカはヒスパニックの国になるかも知れません。取りも直さず、その理由は生粋のアメリカ白人よりもヒスパニック系の出生率が圧倒的に高いためです。 移民による問題では、常に雇用不安と文化/治安懸念が言われますが、これは移民の第一世代についての話であって、本当の問題とは、移民の流入によって、その国の人口(人種)構成が将来、大きく変わる事にほかなりません。 いま、例えば20万人の移民を毎年受け入れたとしても、単純計算で10年で200万人ですが、その200万人が産んだ子供が、20年、30年後には日本人の出生率を大きく上回って増加する、ということが問題なのです。「単一民族」的、と言われる日本ですが、移民を大きく受け入れれば、第二世代以降の移民の代になって、日本の人種構成は大きく変わるでしょう。日本は日本民族だけの国ではなく成る日が来るかも知れません。 人種の違いが、日本の国の形を悪い意味で変える、とばかりは思いません。例えば中国系移民が畳の家に住み、インド系移民が剣道や茶道や古典芸能で活躍するとき、日本が伝統的に持っていた文化や価値観は、大きく違うエッセンスが加わり、発展するかも知れません。 文化の発展は、異民族との混合の歴史であるとは、古代ローマやヘレニズムの時代から普遍的な歴史の道のりかもしれないのです。移民の受け入れによって、二千年の日本の歴史は、大きく違ったものに変革されるでしょう。 しかし、私が一番気になるのは、果たして現在の日本人に、その覚悟はあるのかということです。日本人とは違う民族が移民してきて、その第二世代以降の子供達が、加速度的に増えていく。もしかしたら22世紀には、日本の3割とか4割の人間が、中国系とかインド系とかブラジル系の「日本人」が占めているかも知れない。 そういった「日本」の姿を、現在から想像して、「それでも良い」と判断するのなら、移民受け入れもひとつの手かもしれません。街中の神社仏閣が、モスクやヒンズー寺院に置き換わる。京都の寺の住職が韓国系移民になる。 多くの日本の精神的価値観、例えば「わびさび」とかいう価値観は、移民の価値観とエッセンスして別のものに変革されていくでしょう。日本人の精神文化は、移民が加わることで、もっと合理的で、もっと明確な輪郭を伴うものに、変化していくでしょう。それも「日本の未来の姿だ」と考えるのならば、反対はしません。 ただ、現在の安倍内閣の目指す移民についての方針には、そのような「想像力」が足りないような気がします。移民問題に大切なのは、当座受け入れた移民第一世代が引き起こす、雇用や治安や文化摩擦ではありません。彼らの子供の時代こそが、大切なのです。そのような「想像力」で、貴方は移民の子供の代に存在する、日本の姿を肯定することができますか。

  • Thumbnail

    記事

    朝日新聞の「構造的問題点」とは?

    古谷経衡(著述家)一連の朝日新聞による誤報問題の本質とは? 今年8月5、6日の朝日新聞による「慰安婦検証記事」から始まった朝日誤報に関する”事件”が、いよいよ「吉田調書」記事の取消しを含む、朝日新聞・木村伊量(ただかず)社長、杉浦信之編集局長ら首脳陣による緊急記者会見という前代未聞の事態に発展した。1989年の珊瑚礁損壊捏造事件以来、実に四半世紀ぶりに明るみになった「世紀の誤報」の連発に、朝日内外で激震が続いている。 木村社長による記者会見の生放送は、9月11日19時半から開始され、21時20分に終った。 この中で、「東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、福島第一原発にいた東電社員らの9割にあたる約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発に撤退した」とした「吉田調書」に関する記事について、杉浦編集局長は「当時、朝日新聞が独自に入手した吉田調書は、当時機密性の高いものであって、よって眼に触れる記者を原発事故報道に従前から従事している専門性の高い記者ら少人数に限定し、そのことが記者の思い込みと、チェック不足を招いた」と釈明した。 特に注目したいのは、つめかけた報道陣からの以下の質問である。朝日首脳陣に対する辛辣な質問の中でも”「吉田清治証言(慰安婦問題)誤報」を含めて、今回の吉田調書の誤報問題は、「朝日新聞が抱える構造的問題に依るものではないのか?」”との声が出たことだ。 木村社長は「(今回の誤報問題)が、一部の記者の資質によるものか、社が抱える構造的問題なのか、今後精査していきたい」という趣旨の回答を行った。これこそが今回の一連の誤報をめぐる問題の本質を指摘したものであると私は考える。 杉浦局長が会見で明言した、吉田調書の記事に携わった記者が、”原発事故報道に従前から従事している専門性の高い少数”だった、という部分が示すとおり、この問題は「一部の質の悪い、粗悪な記者による落ち度」ではなく、寧ろ逆の、「専門性を有する少数精鋭の記者ら」によってもたらされた誤報である、という事実である。これは何よりも、朝日新聞の構造的問題がこの一連の誤報問題の根幹にある、と考えて間違いはない。朝日新聞の構造的問題点とは”願望”である ではその「構造的問題」は何か。それは「原発事故では現場ですら収拾がつかなかったに違いない」(吉田調書)、「日本軍は悪いことをしたに違いない」(吉田清治慰安婦証言)、という、記者が有する特有の”願望”の存在にほかならない。 会見の質疑応答部分では、産経新聞の記者が「記事の方向性は既に決まっていて、それに沿った、都合の良い記事を書いたのでは?」という、問題の本質に関する質問が飛びだした。これについては「そのようなことはない」と朝日首脳陣による否定があったが、厳しい言い訳のように映る。 ここでいう”記事の方向性”とは、既に述べたように「現場の職責を放棄して、作業員が撤退した」(吉田調書)と、「日本軍が悪辣非道な犯罪行為を、組織的に植民地(朝鮮など)で行った」という既定路線であり、正しく「そうであって欲しい」という記者らの”願望”である。 これらを朝日首脳らは「記者の思い込み」と表現したが、「思い込み」という言葉には多分に「過失」というニュアンスが混ざっている。 例えば「単なる流れ星だが、さもUFOのように見えた」は「思い込み」だが、「単なる流れ星かもしれないが、あれはUFOに違いない」というのは願望である。どちらも誤認・誤報には違いないが、後者のほうがより強く観測者の「意図」が働いている。 この意図の部分は、「思い込み」ではなく「願望」と表現されるのが正確だ。吉田所長と吉田清治の証言の両者の誤報記事に共通するのは、この「願望」の存在に他ならない。”願望”が招いた誤報と歴史的悲劇 どんな報道機関でも、願望に基づく「誤報」は存在する。現在、この件で朝日を激しく叩いている産経新聞は、例えば2012年7月16、17両日に開催された陸上自衛隊第一師団の統合防災演習に際して、「東京都内の11区が(同演習への)協力を拒否した」とする記事を掲載した。 が、当該区役所などから事実誤認と抗議を受け、2012年7月25日付けで記事の撤回と”おわび”を掲載した。この件についての詳細検証記事はこちらを参照されたい。 これは当該記事を担当した記者が、「当該区役所の職員らには、反自衛隊思想の持ち主が居るに違いない」という”願望”を元にした観測記事であったことは疑いようもない。 願望に基づいた事実の観測は、産経だけではない。人間は誰しも、事実を願望で捉え、己の都合のよいように脚色する。「あの娘は自分のことが好きに違いない」という願望の中では、何の意味もない女性の一挙手一投足が、まるで自分への好意へのアピールと感じるのと同じように。 作家の半藤一利は、著書『ソ連が満州に侵攻した夏』(文藝春秋)で、日ソ中立条約を一方的に破って1945年8月9日にソ連が対日参戦した状況を、「政府・大本営の”願望”が招いた悲劇」と厳しく論評している。ソ満(満州)国境付近に向けてナチスを打ち破ったソ連軍部隊が対日参戦のために次々と抽出され、配備されているという前線からの偵察報告を一切無視し、政府・大本営は「ソ連が日本に宣戦布告することは無い」と判断した。 当時、マリアナ・沖縄が次々と米軍の手に落ち、最後の同盟国であったナチスも降伏。それに加えソ連参戦は、「日本の死」を意味していた。「(ソ連参戦は)あって欲しくない」「(ソ連参戦に)なっては困る」という日本の戦争指導者の願望が、ソ連軍への防御を怠ることになり、満州へのソ連侵攻、続いて起きた残留孤児の問題を惹起する悲劇の結末を迎えた。 或いは、1944年10月には、台湾沖に接近した米機動部隊に対して大打撃を与えた、という所謂「台湾沖航空戦」をめぐる大戦果報道があった。既に劣勢に立たされていた政府・大本営による「(米軍に)打撃を与えたい」「(米軍に)一矢報いているに違いない」という、貧すれば鈍するの”願望”に基づいた大本営発表を、新聞各社がそのまま一斉に報じた「世紀の大誤報」であった。実際には日本軍機は一方的に米軍に撃ち落され、米機動部隊の損害は軽微であった。 願望の前では、事実は往々にして無視され、脚色される、という歴史の教訓である。単なる”思い込み””取材不足のミス”で終わるな 今回、朝日新聞は「記事制作にあたった記者が少数であり、かつチェック体制が甘かった(杉浦編集局長)」として、「吉田調書」の誤報原因は、「(一部記者の)思い込み」によるものとして、あくまで「過失的なもの」というニュアンスを強調した。しかし、これは間違いであり、「思い込み」などではなく、取材した事実を知りながら、それを都合のよいように脚色した「願望」の結果であると断定せざるを得ない。 朝日新聞の一部記者の取材力が足りなかったとか、能力が低かった、というのが原因ではない。「吉田調書」(原発事故)、「吉田証言」(慰安婦誤報)は”願望”を元にした事実の観測が引き起こした”誤報”である。 杉浦編集局長は、「吉田所長の周辺や、原発作業員関係者への聴きこみ取材は行ったものの、吉田所長の証言を裏付ける証言は無かった」と今回の記者会見で回答している。これはその事実が存在しないにも関わらず、”願望”による筋書きを優先して、事実を都合の良いように脚色した何よりの証拠である。 「吉田調書」に関しても、「吉田清治」に関しても、当然「天下のクオリティペーパー」朝日新聞の記者が、全く裏付け取材なしで、記事に書き起したとは考えられない。「原発事故に精通した記者」による取材の結果、それらが根拠に乏しいものであることを予め分かっていたに違いないはずだ。しかしその事実は、”願望”の前に消し飛んだのである。 朝日新聞は、今回、読者の信頼だけではなく(かくいう私も購読者だが)、誤報に基づき世界から日本の評価が貶められたという事実を重く受け止め、この二つの大きな誤報問題を「一部の記者のミス」などではなく、「願望で事実を観測した結果の構造的問題」であると認め、信頼回復・再生への一里塚とするべきである。