検索ワード:インターネット/34件ヒットしました

  • Thumbnail

    テーマ

    人生オワタ! バーチャル教育の危ない未来

    「脱 ふつう」。こんなキャッチコピーを掲げて4月に開校したネット通信制の「N高等学校」。不登校の生徒らも受け入れ、IT人材などの育成を目指すという。志はごもっともだが、「人間力」の育成を軽視した型破りなカリキュラムで本当に大丈夫なのか。「N高行ったら人生オワタ」なんてオチはありませんよね?

  • Thumbnail

    記事

    教育界に激震! 日本の受験エリートがN高を選ぶ日

    」と振り返る。 私はN高等学校(以下、N高校)の設立がそうなる気がしてならない。この学校は、日本初のインターネットによる授業で卒業できる、沖縄県が認可した正真正銘の私立の高等学校である。年に数日のスクーリングがあるが、スクーリング会場は沖縄だけでなく全国各地に配置される。設立者はカドカワとドワンゴが共同して造った学校法人角川ドワンゴ学園だ。 N高校のNはNet、New、Next、Necessary、Neutralなど多くの意味を含んでいる。 さて、N高校の出現がどれほど大きなインパクトを与えるかを考えてみよう。 以前ほど騒がれなくなったが、不登校は中学で多少の減少傾向が見られるものの、今なお教育界の大きな課題である。とりわけ中学校や高校の不登校問題は、進学や就職などに直結する問題として、本人や保護者を悩ませてきた。彼らにとってN高校の出現は大きな福音になるだろう。 N高校を除くほとんどの高校は学力で輪切りになった中学生が進学していく。ところが不登校中学生は実際の学力に比較して極端に内申点が低くなる(登校していないし、多くは定期テストも受験していないのだから当然だ)。その結果、彼らは自分の学力相応の高校に進学することがかなわないのである。その点、N高校はそもそも学力で輪切りにされた高校ではない。レベルに合わない退屈な授業を同級生に歩調を合わせて受ける必要がなくなるのだ。 高校生の不登校生徒にとって、1年に5日程度のスクーリングを除いて学校に通う必要がないのだから、より直接的な福音になるはずだ。 高校中退も教育界の課題の一つである。美容師や介護士といった資格を取るための要件になっている場合も多く、高校中退は中退者の人生を厳しいものにしていた。もちろん、彼らが人生を逆転させる道は今でも開かれているが、授業料の安価なN高校の誕生は、中退者が再チャレンジする背中を押してくれるだろう。ちなみに彼らがN高校に編入した場合には、中退するまでに取得した単位をカウントしてもらうことができる。 海外を飛び回るビジネスマンにとっても子弟の教育は大きな問題だ。多くの人達が、英語力を初めとして国際的に通用する人間に育てたいという欲求と、大学受験という日本人としては避けづらい課題をどうクリアするかの板挟みになって悩んでいる。そういう人にとってネット環境が整うならば、海外にいても日本の高校を卒業できるN高校は魅力的な選択肢である。「良いことずくめ」N高校への懸念 さらに、現状の高校システムに飽き足らない優秀な若者たちがN高校を選択する可能性もある。 まず受験エリート達だが、彼らは(とりわけ東京では)今でも高校と塾のダブルスクールを実践している。天下の受験エリート開成や麻布の生徒たちが、実は高校の授業に大きな期待をしていないのだ。日本の学歴社会、とりわけビジネスマンの世界では、どの大学の学部(大学院ではなく)を出たかが、一番大きな比重を占める。だとすれば、高校は負担が少なければ少ないほど良いと考える者が出てきても不思議ではなく、N高校に魅力を感じる者が出てくる可能性はあるはずだ(但し、高校人脈はエリート社会では意外と大切なので、現状で開成に受かる者にN高校をお勧めすることはしないが)。 よりN高校を選択する可能性が高いのは、いわゆる受験エリートではなく、プログラミングなどで高校離れした才能を発揮している子供たちだろう。N高校では、高校卒業資格を取得するための授業、大学受験のための授業などの他に、Javascriptやscalaといった現在Webプログラミング業界で主流になっている言語を学べる。大学に入ったらすぐに起業したいといった野望を抱く若者は少なくない。N高校に行けば、彼らは、高校に通う事で無駄にする膨大な時間を節約できる。 さて、良いことずくめのN高校のようだが、もちろん懸念がないわけではない。 まず、なんといっても生徒の学力水準がバラバラだと予測できる点だ。N高校サイドもそれは想定内であり、ホームページのFAQに入学者を選定する場合、「今現在の学力よりも、『将来こうなりたい』という意欲を重視します」と記している。となると、入学後にはしっかりとした個別サポートが必要になる。果たしてN高校の安い授業料でそれが本当に可能なのかいささか不安である。 高校に入学する頃というのは、自分の学力を顧みずに大きな夢を見るものだ。特に日本の場合、学力と自己肯定観が逆相関を示しており、不登校生徒や高校中退者の「俺、実はスゲーんだぜ」という幼児性万能感を温存する可能性が高い。学校には「去勢」=「万能であることを諦める」という社会的機能が存在するが、N高校にはその機能を期待できない。そういう意味で、N高校の卒業生が社会に適合できるのか不安が残る。 いずれにしても、N高校はスタートした。N高校が様々な意味で成功したならば、沖縄に続く県も出てくるだろう。そうなれば、時代にそぐわなくなりつつある我が国の教育システムに大きなインパクトを与える事は間違いない。 私としては今後のN高校を大きな期待と多少の不安を持ちつつ見守りたいと思っている。もりぐち・あきら 日本の教育評論家。95年~05年まで都内公立学校に勤務。偏差値で学力を測ることの妥当性と限界を明らかにした。紙媒体で初めてスクールカースト概念を紹介し、いじめとの関係を解明。著作に『日教組』(新潮新書)、『いじめの構造』(新潮新書)、『偏差値は子どもを救う』(草思社)などがある。

  • Thumbnail

    記事

    画一的じゃ日本人は「世界の役立たず」 将来の教育は実学しかない!

    北尾吉孝(SBIホールディングス代表取締役 執行役員社長) 今後の教育の在り方を構想するに此の21世紀、日本という国がどういう世界を創って行くのかが先ず第一にあり、その為どういう教育体制を敷いて行くのかを考えるべきでありましょう。 私には、日本人のスケールが年年小さくなってきているのではと感じられてなりません。それは、「日本教職員組合(日教組)」が多分に害を及ぼしてきた戦後日本の教育体制が、日本民族の特質や我国の歴史・伝統といったものを踏まえ、独創性を重んじた物の見方・考え方を育てるようなものになっていない、という部分に根本的な問題があるのだと思っています。 これまでも私は、日本の小中高を通じての所謂「暗記教育」に対し、当ブログでも度々批判的見解を述べてきました。それは、丸暗記というのを一概に否定するものでなく、要は暗記とテクニックで高得点を稼ぎ得る、英国社数理中心のペーパー試験偏重体制に大きな疑問を感じるからです。 ある意味答えのない問題に対し如何に答えを出して行くかというところで、その人の思考力や知恵といったものが最も顕れてくるわけです。教科書を絶対的基準として教科書の記載事項を暗記するだけで大体点数が取れるという画一化した教育から、日本は一刻も早く脱しなければなりません。 初代ドイツ帝国宰相のビスマルクも、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言っています。そういう歴史を学び一つの大きな歴史観を持って物を考えて行くという姿勢が、戦後教育の中で非常に御粗末に扱われ等閑になってきたのではと思われます。 嘗ても『歴史・哲学の重要性』(11年6月2日)につきブログを書いたことがありますが、私の経営の発想にあっても実は哲学や歴史から学ぶことが物凄くあります。現在のように歴史観を殆ど養い得ずオリジナリティを啓発し得ない教育が今後も続けられ行くようであれば、日本人の思考力や知恵といったものが十分に発揮され行くことはないでしょう。 歴史や哲学あるいは「人間如何に生くべきか」といった基本をきちっと学び、人物を育てるような教育体制を早急に確立して行かねばなりません。人間的魅力がどこから出るのかと言えば、社会性を十分に認識した上での正しい倫理的価値観を有した主体的な考え方や生き方です。そうした類を磨かねば、人間的な魅力は出ないのです。その魅力が出てきて初めて周りに人が集まるようになり、何らか事を成し遂げることも出来るようになるのです。一芸に秀でるような人材を創出せよ 此のグローバルの時代、日本民族固有の特質を無視してグローバルなど有り得ません。之をベースにしてこそ、日本はグローバルに貢献することが出来るのです。四海に囲まれた日本という島国はある意味隔離されており、日本人はそうした地理的な条件下で独特の文化と能力を持ち得ました。 日本の歴史を見るに、例えば漢字が百済を経て入ってくると、それを読み熟した上でその中国語に返り点を付け、日本語として読めるようにしてしまいました。更には漢字を変形してひらがなを作り出し、ポルトガル語等の外来語を表記するため、カタカナも発明しました。こうした外国文化を短時間で吸収・発展させる能力に、日本人は素晴らしいものがあります。 日本は、古来神道という八百万の神を崇拝するアニミズム的な宗教がありました。之は系統立ったものでありませんが、非常にフレキシブルで他の宗教が入って来ても、同化して取り入れてしまいました。日本人は、仏教も儒教もそうして取り入れたのです。また、奈良の大仏の鋳造技術は物凄く高度な技術の結晶ですが、それもアッという間に身に付けました。1543年に鉄砲が種子島に伝わりますが、それもまた瞬く間に当時世界一の鉄火器装備率にまで達してしまったとも言われます。 このように日本人は排他的にならず、異質なものを在来のものと混在させ、より良きものを作り出す能力に長けています。此の能力は、明治維新後も如何なく発揮されました。西洋にキャッチアップする過程もアッという間で、列強の一国となり日清・日露の戦いに勝ちました。そしてあの大戦の後何も無い状態から、GDP世界第二の経済大国にまでなってしまったというわけです。 日本人は色々なものを受容・変容し、消化・改善して発展させてきたのです。我々は、考えられないような能力を秘めた民族であります。だからこそ我国の歴史を見直してみるべきで、もう一度「ナショナル・ヒストリー」「ナショナル・トラディション」をちゃんと勉強し、それを踏まえて民族固有の特質を見出し、それを発揮させながら此のグローバルの時代、如何にして世界に羽ばたくかを考えねばなりません。 同時にまた此の21世紀、日本という国が創って行こうとする世界を支え行く人材の確保・育成という観点からは、常に教育は実学を中心に徹底すべきでありましょう。4年3ヶ月前のブログ『日本教育再考』でも指摘したように、日本の将来の産業構造が一体どういうものかを先読みし、ポスト・インダストリアル・ソサエティ(脱工業化社会)において一体何が大事になるかという観点で教育を捉え直し、そしてそうした大事なものを教育上優先するような体制を敷いて行くべきだと思います。 例えばデジタルの世界で述べるならば、今後益々「シンカ(深化・進化)」し更に大きな世界になって行くのは間違いありませんから、その世界の真髄を理解し本当にコンピューターを使い熟せるような人間が指導に当たり、実学として実用に供せられるようして行かねばなりません。 仮に私が文科相であったらば、第一に一芸に秀でるような人材を創出すべく、科目選択制を基本にし総花的教育をやめます。道徳・歴史・哲学(思想)といったものだけは、必修とします。第二に実学を基本とする、例えばIT関係の起業家や実業家をどんどん招聘して授業を行って貰うというような形にします。無能な教師により何の役にも立たない教育が行われるのでは、日本の将来が危ぶまれます。第三に成績優秀者には出来るだけ若い間に留学を少なくとも2年位はさせ、多様な文化の中で生活させます。 日本の英語教育というのは一言で言えば、リスニングもスピーキングも殆ど出来ない人間が英語教師として指導に当たり、死んだような文法を中心に教え試験ではペーパーテストだけを行うものでした。つまりこれまで日本では、死んだ学問として英語教育がなされてきたのです。そうした馬鹿げた教育と同じ轍を踏んではなりません。 上記したデジタルの世界のみならず、各分野でオリジナリティ溢れるものがどんどん創造されるような形にすべく、どうすれば良いかを考察せねばなりません。取り分け中学校以降こうした方向に基づいた教育を本格実施して行ったらば、様々な才ある人が新しい事柄に挑戦して行くようになるのではと今思う次第です。(公式ブログ『北尾吉孝日記』より2015年10月13日分を転載)■ 北尾吉孝氏の公式ツイッター 公式フェイスブック

  • Thumbnail

    記事

    N高の生徒たちが学べないままに訪れる「試練」

    渋井哲也(フリーライター) インターネットを通じた通信制高校「N高等学校」が開校した。出版大手のKADOKAWAとネット配信のドワンゴが経営統合したKADOKAWA・DWANGO(現・カドカワ)が出資する学校法人が運営する。「N」はNet、Next、Necessary、Neutralなどの意味を込めている。教育とエンタメ産業と結びついた点では興味深い。 教育は二つの面がある。一つは、市民社会で生きる上で必要となる共通教養を身につけることだ。いわば、標準化だ。この面を強調すると、画一的な学習になる。同じ教科書で、同じような方針で学ぶ。卒業をすれば、一般企業などで働く上で求められる教養や作法が身につく。 反面、個性を伸ばすことも教育の役割だ。人によって興味・関心の方向、能力も異なる。個性化を強調すれば、多様な学習、学びの場が必要になる。教科書は数ある情報の一つだ。N高校の場合、既存の教育にはないものを生み出す可能性を秘める。 標準化と個性化の両方を実現するためには、学校制度を緩やかにし、教育内容を多様化させる。そして子どもたちの選択範囲を広げることだ。N高校では、全日制と定時制、通信制とある高校の制度を利用する。かつ、個性を伸ばす教育の場として機能することが期待されている。「カドカワ」が設立した「N高等学校」のネット入学式であいさつする角川歴彦氏(左)=4月6日午後、東京・六本木 学びの場の多様化については、最近でも議論になった。不登校など、通常の学校になじめない子どもたちが通っているフリースクールがある。一言でフリースクールといっても様々な方針がある。現行制度の中でも、一定の条件を満たしたフリースクールに通った場合は、出席扱いになる。公的支援はないが、義務教育では卒業扱いになることが多い。 学校にもフリースクールにも通わず、保護者の判断で家庭で教育をするホームスクールという考え方もある。学校は保護者の教育権を代行しているが、保護者が直接、教育をする。義務教育では、ホームスクールの子どもたちは長期欠席となるが、宿題を提出するなどで卒業として扱われる。生徒の受け皿がまだまだ足りない こうしたフリースクールやホームスクールに法的な地位を定めようとしているのが「義務教育の段階における教育に相当する教育の機会確保等に関する法律案」だ。ただ、法案には様々な批判が当事者から寄せられた。例えば、現行の学校の問題点を放置したままと指摘されている。また教育計画を出して、認められなければならないという意味では、教育内容が学校と変わらない。「機会」だけを多様化したにすぎない。 かつて、自民党は「チャータースクール」を考えていた。90年代からアメリカで増えつつあった学校で、教員や保護者の発議で設立される特別認可の公立学校で、3000近く開校された。認可されると、公的な資金援助があるが、子どもが集まらない場合は閉校だ。 N高校の場合は、上記の法案とは違い、義務教育段階ではなく、チャータースクールとは違って、現行制度の利用だ。仕組みを大きく変えたわけではない。しかし、教育「内容」は、壮大な試みだ。クリエイターを育てる教育事業をしている「Vantan(バンタン)」と提携して、プログラミングを学ぶコース。また、KADOKAWAの文芸小説創作授業を無料で受講できる。ライトノベルやエンタメノベル作家の授業も受けられるコース。地方自治体と提携した職業体験もできるコース…と、多様なコースがある。 こうした独自の教育のなかで、心配な点があるとすれば、協調性かもしれない。一般的に全日制高校では学級運営をしたり、係などの分担がなされる。嫌なクラスメイトがいたとしても、一緒に過ごさなければならない。学習のほかに、付いて回るものが多く、“試練”をこなした後で卒業ができる。N高校は、そうした“試練”がない。年5回のスクーリングのときだけだ。代ゼミ等と提携したコースを選択すれば、毎日通学もできるが、クラス運営などの煩わしさはない。 この煩わしさは、日本的な既存の企業に就職する際、必ずついてくる。N高校で学んだ人たちの卒業後も、個性を発揮できる仕事に付ければ問題はない。しかし、将来、既存の会社の枠組みと同じ働き方であれば、会社内にいるだけでも苦痛の度合いが増してしまうのではないか。ストレスも他の子どもたち以上に感じる不安がある。個性的な教育を受けた子どもたちの受け皿がまだ足りない。

  • Thumbnail

    テーマ

    震災の「自粛」と「不謹慎」がなんか変

    「不謹慎狩り」という行為がネット上で横行している。熊本地震でも、被災地への支援や激励に対し、すぐに「不謹慎だ!」といちゃもんをつける人が増殖しているという。過度な自粛ムードもなんか変だが、むやみやたらと揚げ足取りで騒ぎ立てる連中の方が、よっぽど不謹慎だと思いませんか?

  • Thumbnail

    記事

    人はなぜ自粛するのか? 正義の味方を自称する「不謹慎狩り」の正体

    碓井真史(新潟青陵大学大学院教授) 悲劇的な事件事故や災害が起きると、「自粛」が行われる。自粛とは、自分から進んで、行いや態度を改めて、慎むことだ。自主的な行動なら別に構わないとも思えるが、堀江貴文氏は、震災発生後によく見られる過度な自粛に対して「馬鹿げた行為」と批判している。本田圭佑選手は「様々な分野で自粛のニュースを目にしますが僕は自粛するのは間違ってると思います」とコメントしている。 身近で不幸な出来事があったときに何かを自粛するのは、普通のことだし、必要なことだろう。だが、ここで問題にされているのは、過剰な自粛であり、また自粛と言うよりも世間の目を恐れての萎縮に近い自粛だろう。世の中に流れる奇妙な萎縮ムードは、なぜできあがるのだろうか。 人々は、なぜ自粛しようとするのだろうか。一つは、単純に自分が楽しむ気持ちになれないからだろう。悲劇的な報道を見れば、心は沈む。とても楽しい宴会やイベントなどはしたくないと感じるだろう。 もう一つは、「罪悪感」だ。罪悪感にも様々ある、たとえば「サバイバーズ・ギルト(生存者罪悪感)」。亡くなった人がいるのに、自分は生き残っている。そのときに感じる申し訳なさが、サバイバーズ・ギルトである。自分が生きていて、楽しむことに罪悪感を持ってしまう。被災地では大勢の人が困っているのに、パーティーや宴会でご馳走を食べ、大声で笑うことなどは、悪いことと感じてしまうことがある。 また罪悪感の中には、被災地で頑張っている人々に対する罪悪感もある。それは、「献身の三角形」と呼ばれている。被災地で苦しみながら懸命に生きようとしている人々がいる。そして被災者のために献身的に働いている自衛官や消防団の人がいる。それなのに何もしていない自分がいると感じると、自分も何かしなくてはならないと思う。これが、献身の三角形である。アパートの1階部分がつぶれ、取り残された人の救出活動を行う消防隊員ら=4月16日午前、熊本県南阿蘇村(桐原正道撮影) たとえば、日本テレビの「24時間テレビ」も同じ心理メカニズムが働く。苦労している障害者の皆さんがいる。司会者達は24時間眠らないで番組を進行させ、さらに24時間走り続けている芸能人もいる。頑張っている障害者、足の痛みをこらえながらゴールを目指すランナー。それを見たとき、自分も何かしなければならないと思う。そこで、募金活動が生まれるわけである。 同じ心理が災害報道に接する私達に起こると、募金活動をしようと思ったり、宴会やイベントを自粛しようと思ったりするのだろう。ノイジーマイノリティーの影響力 これらの自粛は、本当に自発的である。だが、さらに世間の目を気にしての自粛があるだろう。個人であれ、会社であれ、マスメディアであれ、世間の評判は大事である。無視はできない。社会の多数の人々が、宴会やお笑い番組をすべきでないと思っているなら、自粛も当然だろう。 しかし、実際は少数のクレームを恐れての自粛が行われている。だから、過剰な自粛になってしまう。少数のうるさい人々、ノイジーマイノリティーの影響力は、前にもまして大きくなっている。問題を起こさないように、クレームが来ないようにと思えば、率先した自粛が行われてしまうだろう。 しかし、多数派はそのくらいのことは良いと思っている。ただそれは、サイレントマジョリティーとして、あまり大きな声は上げない。その中で、ノイジーマイノリティーなど恐れないとする堀江貴文氏や本田圭佑選手が、過剰だ、馬鹿げていると声をあげるのだろう。 では、なぜある人々は、不謹慎だ自粛するべきだと大声をあげ、攻撃的な言動をとるのだろうか。これも、いくつかのことが考えられる。何種類かの人がいるのだろうし、また一人の人の心理にいくつもの面があるのだろう。 一つのパターンが、日ごろからストレスをためいている人たちである。人生が上手く行かず、イライラしている人は、どこかでストレス発散を考える。ただし、違法なことや乱暴なことはできないと感じている。 そのような人にとって、みんなで喪に服すべきなのに、自粛すべきなのにそうしていない人は、格好の攻撃対象になる。大企業やマスコミは、個人からの抗議電話なども決して切らずに最後まで話を聞く。反撃に出ることもない。これは、攻撃しやすい対象である。特に日ごろから大企業やマスコミを快く思っていない人たちにとっては、絶好のチャンスだろう。 人生が上手く行っていない人だけではない。むしろ管理職などを務めている地位の高い人々の中にも、自分こそが正しく、間違っている人に説教をすべきだと感じている人もいる。このような人々が、自粛こそ正しいと思えば、正義の味方のご意見番として、クレームをつけてくることになるだろう。 さらに、苦情をよこす人々の中には、心やさしい人もいるのだろう。この人々は、連日の災害報道を見て心を痛めている。共感し、同情し、本当に心身の調子をくずすほどにまでなっている。この状態を「共感疲労」と呼んでいる。自称「正義の味方」に錦の御旗を渡すな 人は、共感疲労に陥ると、気持ちが沈み、不眠や食欲不振になるだけではなく、人間関係に余裕を失う。自分がこんなに心を痛めているのに、報道番組を見て冗談を言うような人を見ると許せなくなる。水が欲しいと被災地の子どもが訴えている報道を見ながら、おいしそうにビールを飲んでいる人を見ると、無性に腹が立ってくる。 実は、今笑っている人もビールを呑んでいる人も、心配していないわけではなく、募金の呼びかけにも応じたりする人もいるだろう。今は、仕事の疲れを取り、明日も元気に働けるようにリラックスしているだけなのだが、共感疲労によって心が疲れていると、そのように考える心の余裕を失うのだ。このような共感疲労に陥っている人たちも、攻撃的に大企業やマスコミに文句を言う人たちだ。 様々な理由で人は、自粛せよと文句を言う。批判する人は感情的だと反論するが、感情は無視すべきではない。また感情的だからこそ、活動して経済を発展させるほうが被災者のためにもなるといった説明は通用しないだろう。 自粛する企業の側も、それは感情論であり、少数者の意見であることもわかってはいるだろう。しかしそれでも、対応に失敗すればバッシングの輪が広がってしまう危険性もある。そのリスクを考えれば、自粛していたほうが無難だと考え始め、結果的に過剰で馬鹿げたほどの自粛も生まれてしまうのだろう。 大災害発生時には、必要な自粛がある。そして不必要で過剰な自粛も起きてしまう。それを防ぐためには、悲しみを共有し、支援に積極的であることを示す必要があるだろう。個人の葬儀の場で、笑顔で昔話を語る人々もいる。それが許されるのは、本当は悲しみを共有しているとみんながわかっているからだろう。 経済活動は必要であり、元気を蓄えることは大切であり、沈んでいる日本で、多くの人が楽しみにしているドラマやお笑い番組がある。その活動や放送を守るためには、悲しみの共有を理解してもらうことだろう。そうすれば、共感疲労の人々からの怒りをやわらげることができる。正義の味方を自称する人に、錦の御旗を渡さないですむ。この企業やマスコミは、きちんと被災者と寄り添っているとわかってもらえれば、ノイジーマイノリティーの活動に多くの人々が惑わされるリスクも減るだろう。

  • Thumbnail

    記事

    熊本地震で「不謹慎厨」が大暴れ 長澤まさみも標的に

     ネットを独自にパトロールし「不謹慎だ」と注意してまわる人たちが増殖している。ネットスラングで「不謹慎厨(ふきんしんちゅう)」と呼ばれることもある彼らの行動は熊本地震発生以後、とくに活発化している。不謹慎厨の彼らがよくターゲットにするのは、芸能人など知名度がある人のSNSアカウントだ。 女優の長澤まさみは14日の夜、インスタグラムへ笑顔の写真を投稿したところ、投稿時刻が地震発生直後ということだけで「不謹慎」などとコメント欄に書き込まれ、投稿を削除した。モデルで女優の西内まりやは、福岡出身ということもあり被災地へ向けて応援メッセージや情報提供をTwitterで繰り返していたが、自撮りを添付した投稿に対して「不謹慎」だと批判を浴び、一部の投稿を消去した。モデルのダレノガレ明美は、地震関連情報を積極的にリツイートしたところ「指だけ支援か」と一部のネットユーザーから攻撃され炎上したが、「何を言われようと発信してきます」と今も130万人を超えるフォロワーへ向けリツイートを続けている。CM発表会に出席した長澤まさみさん=2015年10月15日午後、東京・恵比寿「最近は自然災害が起きると、必ずそういう騒がしい人がネットにあらわれる。そういう人たちの『不謹慎』の基準って、はっきりいってよくわからない。どの人もしつこくて面倒な人ばかり。不謹慎だといいたいためだけにTwitterのアカウントをとり、リプライを投げる。個人的にもそういうアカウントは片端からスパム報告しています」(20代女性・会社員) 残念ながら、スパム報告は受けつけられるが、それでアカウントがすぐに停止することはまずない。 5年前の東日本大震災のとき、首都圏を中心にあらゆる物事に自粛ムードが広まった。テレビから流れる番組がすべて何日も震災特番であることに嫌気がさし、震災情報を目にせずにすむ教育テレビやテレビ東京で気持ちが救われた。そして大規模イベント等が中止されるだけでなく、一般市民はレストランや居酒屋へ行くことすら控えたため消費が低迷する悪循環が生まれた。 そのため今では、堀江貴文氏が指摘したように、直接被災していない人間は、普段通りの生活をしながら支援をするのが災害時のあるべき姿といわれている。ところが、ネットにたびたびあらわれる「不謹慎厨」はおさまる気配がない。「僕は東日本大震災の被災地出身ですが、3月11日が友だちの誕生日だったらお祝いくらいしますよ。それを探し出して、わざわざ文句を言いに来るネットの不謹慎厨はどうかしている。『不謹慎』という言葉で世間がそう思うからやめろという言い方をするんじゃなくて、自分が気に入らないからと正直に書けばいいのに。卑怯ですよ」(19歳・男子大学生) ネットに増殖する「不謹慎厨」はどう扱えばよいのか。「まったく相手にせず無視するのが一番です。通知が止まなくてうるさいというなら、通知設定をオフにすればいい。彼らの本音は騒ぎたいだけ。『不謹慎だ』というためだけの匿名アカウントをつくってまでやってくる。そして、度を越したクレーマーぶりが顕在化したら、こまめに運営へ通報してください。砂漠で水を撒くような気持ちになるかもしれませんが、塵も積もれば山となるので、あきらめずに繰り返してください」(IT誌ライター) 理不尽極まりない要求を企業などに対して繰り返すクレーマーへの対処方法も、ある程度、形になるまで時間がかかった。不謹慎厨を封じこめられる日も、遠くないだろう。関連記事■ 佐々木俊尚氏 「自粛」「不謹慎」反対運動立ち上げを宣言■ 本格膣圧計・ペニス長大器をプレゼントしていた昔の女性誌■ 震災から2年経つもサザンの『TSUNAMI』歌うにはまだ抵抗多い■ 過度な自粛は欲望を抑圧する結果となり、精神面にも悪影響■ 日本が移住しやすくなれば外国人労働者流入し多様な人材育つ

  • Thumbnail

    テーマ

    グーグル検索なんてなければよかった

    1日、グーグルの時価総額がアップルを超え、世界首位に躍り出た。69兆円もの企業価値はまさにアメリカンドリームだが、グーグルはいま大きな悩みも抱える。人に知られたくない過去をネット上から消し去る「忘れられる権利」だ。ネット時代の新しい人権は「グーグル帝国」に影を落とす。

  • Thumbnail

    記事

    ニフティ法務部長でも迷うネットの「削除要請」

    丸橋 透(ニフティ株式会社理事・法務部長) いわゆる「忘れられる権利」は、グーグルに検索結果の削除を命じた欧州司法裁判所判決を契機として注目され、主に検索エンジンに対し削除請求する局面で語られている。氏名など特定の人物を示す検索語により検索した結果であるタイトル、スニペット、検索先ウェブサイトのURLを非表示(又は当該ウェブサイトを検索対象からの排除)とすることを請求するものである。 しかし、EUの個人情報保護法制は検索エンジンに特化して個人データの消去(削除)権を定めている訳ではなく、あらゆる個人が一定の場合に自己の個人データの消去を請求する広範な権利を与えているものである。この消去請求権を強化するものがいわゆる「忘れられる権利」である。 プライバシー侵害により消去を求める場合、わが国の民事法制上の根拠は、個人の人格権に基づく妨害排除請求(差止請求)権である。このうち「忘れられる権利」の行使に相当するのは、自身の過去の犯罪、行政処分その他の不名誉な行状に関する報道やそのコピー、行状に対する論評記事に対して削除を求めるものといえよう。 削除を求める根拠は、犯罪、行政処分その他の行状に関する報道等が当時は合法だったとしても、時の経過があり当時の正当性は無くなっている、更正が妨げられている等、現時点では人格権を侵害しているというものである。 ニフティも検索サービスを提供しており、まれに検索結果の非表示を請求されることがあるが、ニフティに対する請求のほとんどは、ホームページやブログの記事に対する削除請求である。 プロバイダとしてのニフティは、裁判例やプロバイダ責任制限法ガイドライン等検討協議会の定める名誉毀損・プライバシー関係ガイドラインを参考にして日々削除請求に対応しているが、「忘れられる権利」の行使に相当する削除請求を認めるかどうかの判断は難しい。同ガイドラインに参照されている裁判例で直接参考になるのは12年前の傷害の前科をノンフィクション作品として取り上げたことが権利侵害にあたるとした「逆転」事件だけである。この事件の高裁判決は、犯行後相当の年月が経過し、犯人に対する刑の執行も終わったときは、その前科に関する情報は、原則として、未公開の情報と同様、正当な社会的関心の対象外のものとして取り扱われるべきであり、実名による犯罪事実の指摘・公表は、特段の事由がない限りプライバシーの侵害として許されないとする。削除「される」「されない」プロバイダの判断は そこで、ニフティでは、事件報道から3年の目安で削除の可否を一応判断しつつ、犯罪が重大かどうか、公人による犯罪や法令違反かどうか等を加味して正当な社会的関心が失われているかどうかを判断することとしている。ボーダーライン上の案件では、ブログ等の開設者に意見照会し、開設者からの反論を踏まえて判断するが、開設者が特に意見も無くニュース記事をクリッピングしていることも多く、その場合は、自主的に削除することが多い。以下、2事例を紹介する。 <削除された事例> 3年前に器物損壊罪で逮捕された請求者の氏名がブログ記事に掲載されていたことから、プライバシー侵害として削除請求があり、ニフティから開設者に対して意見照会を実施した。開設者が自主的に削除を行なわなかったことから、会員規約違反としてニフティにて当該記事の送信防止措置を行った。 <削除されなかった事例> ブログ記事に、インサイダー取引により逮捕された請求者の氏名、当時の勤務先が掲載されていたことから、プライバシー侵害として削除請求があった。請求者からは、逮捕後の刑事裁判にて懲役○年○月、執行猶予○年○月の判決が確定しており、当該記事があることで更生の妨げになっているとの主張があったが、逮捕からそれほど期間(1年半)を経過していないことから、ニフティでは削除は行わないこととした。 ニフティへの削除請求はフォームや文書により受け付けているが、2015年中の「忘れられる権利」の行使に相当するものはフォームでは約50件、その3割が削除され、文書では約30件、その半数が削除された。ニフティまたはユーザにより削除されなかったものは、当初の報道から3年を経過していないものが多く、その他は行政処分事実や重大犯罪に関する記事である。 いわゆる「忘れられる権利」に相当する人格権侵害の裁判例が少ない中、決して少なく無い過去記事の削除請求に対処するのは容易では無い。 しかし、EU型の広範な個人データの消去権をベースとして、わが国の「忘れられる権利」のルール化を検討するのは無理がある。時の経過という要素が共通だとしてもその他の法制度の状況が違いすぎるからである。 今後の裁判例の積み重ねにより、犯罪を含む過去の行状に対する正当な社会的関心が失われ忘れられるべき=削除されるべき条件についてより明確になることを期待している。できれば、名誉毀損・プライバシー関係ガイドラインに明記されるのが望ましい。それまでプロバイダとしては案件の一つ一つに迷いながら対処していく他は無い。裁判所の判断を仰ぐべき事案が多くなることも覚悟している。

  • Thumbnail

    記事

    死んでも消えないネットの噂 知っておきたいネットの権利

    to be forgotten」が翻訳され紹介されました。権利の内容としては、個人に関するデータをインターネットから削除するよう求める権利であり、請求相手は、Google等の検索事業者には限定されていません。 次に日本で「忘れられる権利」が大きく報道されたのは、2014年5月13日のEU司法裁判所が出した判決です。この判決は、検索事業者であるGoogleに対する、検索結果の削除請求を認めています。判決内では「right to be forgotten」という表現も使われています。この判決と報道の影響により、日本でも「忘れられる権利」といえば、Googleなどの検索事業者に対し、検索結果を削除請求できる権利、と認識する人が増えたのではないでしょうか。 日本の報道では、これらに加え、企業・個人に対する名誉毀損情報、個人に対するプライバシー侵害情報といった、違法情報の削除請求権についても、「忘れられる権利」と表現されているケースがあるように思います。 このように、まだ定義がしっかり定まっていない「忘れられる権利」ですが、どの定義で使う人でも、基本的な考え方は同じです。この権利の説明では「人の噂も七十五日」が枕詞のように引用されています。かつては、どんな噂も75日も過ぎれば話題に上らなくなるから、人の噂をいちいち気にする必要はない、と言われていました。これに対し、インターネットは決して忘れません。データと記録媒体のメンテナンスさえしっかりしていれば、半永久的に記録が残ります。インターネット以前は、他人に自分の情報を忘れてもらい、また、自分も他人の情報を忘れることで、人間関係や社会生活がうまく回っていた側面があったと思います。しかし、今ではインターネットが忘れないことで、人間関係にも社会生活にも歪みが生じています。もちろん、インターネットに情報が残り続けることで、精神的・肉体的に被害を受けている人も珍しくありません。これらの問題を解決すべく考え出されたのが「忘れられる権利」なのです。「忘れられる権利」日本の法律上の扱いは? そのため、まだ議論は十分でないものの、インターネット時代において、人が人として生きていくために不可欠な「新しい人権」だと捉えて良いと思います。社会科の教科書で紹介される日も近いことでしょう。 では、日本の法律上「忘れられる権利」はどのように扱われているのでしょうか。インターネットの名誉毀損情報、プライバシー情報を削除する権利は、法律的には「人格権に基く妨害排除請求権としての差止請求権(削除請求権)」だと理解されており、ことさら「忘れられる権利」という概念を使うまでもなく、削除請求ができると考えられてきました。人格権の中には、名誉権、プライバシー権、氏名権など、人格に由来する多様な権利が含まれており、消したい情報によって、どれか1つまたは複数の人格権を選び、削除請求をすることになります。そのため裁判所の判決・決定にも、「忘れられる権利」という表現を使うものはなかったと思います。 ところが最近、社会から「忘れられる権利」を有する、と明示した裁判所の決定が登場しました(さいたま地裁平成27年12月22日決定)。おそらく、人格権の1内容として「忘れられる権利」を位置付けているものと考えられますが、その内容は明確には記載されていません。ただ、裁判所の中に「忘れられる権利」の考え方が浸透してきたことの証左だと思います。 ところで、忘れられる権利は、インターネットにおける「表現の自由」やインターネットを使う人の「知る権利」と対立関係にあります。なぜなら、インターネットで何かを表現したい人の「表現の自由」や何かを調べたい人の「知る権利」に対し、「忘れられる権利」を行使し、その情報公表、情報取得を制限することになるからです。そのため、忘れられる権利の行使を認めるのか(表現の自由、知る権利が後退するのか)、それとも行使を認めないのか(表現の自由、知る権利を優先させるのか)という利益調整が常に必要となります。たとえ「忘れられる権利」という概念を肯定したとしても、その先には、この利益調整を誰が担当するのか、どのような基準で利益調整をするのか、という未解決の課題が待っています。最終的には裁判所が判断することになるのでしょうが、近時、インターネットでの人権侵害事案が増加の一途にあると法務省が公表し、裁判所からも、インターネット情報の削除請求がここ数年で著しく増えたとの情報が出ており、すべての問題を裁判所の判断に委ねることには限界があると感じます。 今後、ますますインターネットが発達し、インターネットによる人権侵害に悩む人も増えて来るはずです。そんな人たちを1人でも多く救えるよう、「忘れられる権利」の定義や使い方を考えていく必要があると思います。

  • Thumbnail

    記事

    15歳の少女はなぜ命を絶ったのか ネット検索で救われなかった人

    橋暁子(ITジャーナリスト) 「忘れられる権利」をご存じだろうか。「忘れられる権利」とは、端的には、インターネット上の個人情報を検索結果から削除する権利のことを指す。2014年5月のEUの最高裁判所に当たる欧州司法裁判所が、Googleに対して個人名の検索結果から個人情報が含まれるリンクを削除する判決を言い渡している。 Googleの「透明性レポート」によると、削除依頼リクエストを処理し始めた2014年5月29日以来、削除のために評価した欧州におけるURLは129万8344件、受け取ったリクエスト総数は36万6959件(執筆時点)。このうち削除されたURLは42.3%であり、削除されなかったURLは57.7%となる。削除依頼は個別に評価する必要があり、公共に益する場合は削除しなくても良い仕組みだ。Googleの「透明性レポート」http://www.google.com/transparencyreport/removals/europeprivacy/ ただし注意が必要なのは、あくまで検索サイトでの検索結果から個人情報を削除できるのみで、ウェブページから該当する情報を削除できるわけではないということだ。なお、日本においては、2014年10月にGoogleが東京地方裁判所に検索結果の削除を命じる仮処分命令を発令している。 「忘れられる権利」はなぜ必要なのだろうか。10代20代の若者たちの実態から、考えていきたい。消えない過去に苦しめられる若者たち 近年、未成年が若気のいたりで露出が高い写真や不適切な投稿をする例が増えている。インターネット上にそのような写真や投稿をすると、自分の評判を傷つけ、就職や結婚の際に非常に不利な立場に立たされることになる。米国では、そのような若者を救済するための法律が誕生しているのをご存じだろうか。 米カリフォルニア州では、2013年9月に未成年が希望した場合に自分の過去の記録を削除できる、通称「消しゴム法(Online Eraser Law)」が州知事の署名を受けて承認されている。同法は、FacebookやTwitterなどのソーシャルメディア大手に義務づけられており、2015年1月1日に施行されている。早速FacebookやTwitterは同法に対応したサービスを提供している。 検索結果によって苦しめられている若者は多い。たとえば次のような例が起きた。2013年、某飲食店のアルバイトA君は、冷蔵庫に入り込んだ写真をTwitterに投稿。A君の本名や在籍校などがすぐに突き止められ、炎上する騒ぎとなった。その結果店舗は休業、A君は解雇され、損害賠償請求される羽目になってしまった。A君はショックで引きこもり状態となったと言われている。 炎上事件を起こすと、“特定班”などと呼ばれるネットの住人たちによって個人を特定されてしまう。そして、本名や顔写真、在籍校、住所や家族などの個人情報をインターネット上に公開されてしまう。その結果、名前で検索すると炎上事件と個人情報が表示される羽目になる。事件から2年半経った現在も、A君の本名で検索すると炎上事件やA君の個人情報が表示されている。問題ある投稿はしない姿勢が大切 どのような若者達がこのような状態になるかご存じだろうか。炎上が起きるのは、上記のような“バイトテロ”以外にも、他人を盗撮したり、未成年飲酒をしたり、線路に立ち入ったり、キセル行為をしたりなどの違法行為、迷惑行為や他人が不快に思う行為などをした場合に起きることが多い。 しかし中には、レイプをした人の擁護ととれる発言をしただけで炎上し、内定取り消し処分されてしまった人もいる。動画配信をしていた時、ゲームの違法ダウンロードを告白してしまい、炎上して個人情報をさらされる羽目になった小学生もいる。確かに彼らは“悪いこと”をした。しかし、彼らは既に多くの罰を受けている。事件から数年経った今でも名前を検索すると炎上事件と個人情報が見つかる事態は、彼らの罪と見合うのだろうか。問題ある投稿はしない姿勢が大切 「忘れられる権利」が浸透することで、彼らが自分の過去から逃れられる可能性が出てくるのは喜ばしいことだ。ただし、「忘れられる権利」が徹底したとしても、残念ながらそれで彼らが完全に救われるとは限らない。たとえば次のような例がある。 カナダの15歳の少女アマンダ・トッドさんは、2012年9月にYouTubeに学校とFacebookでいじめを受けていた実態を告白する動画を投稿。その一カ月後、16歳の誕生日を前に自殺してしまった。彼女は中学1年生の時にウェブカメラでチャットをするようになり、そこで知り合った相手に褒められて、請われるままにトップレスになってしまう。1年後、知らない男性がFacebookを通じて彼女を脅迫し、トップレス写真をばらまいてしまったのだ。アマンダさんはショックでうつ病やパニック障害を患い、引っ越ししたがいじめは続いた。アマンダ・トッドさんを悼むFacebookページ アマンダさんの問題は、中学1年生の時に悪意を持った相手にトップレスの写真が渡ってしまい、多くの人にばらまかれたことから始まった。このように、写真などを個々人が保存・コピーしてしまうと、削除しても再アップロードされてしまい、いたちごっこ状態となってしまう。つまり、「忘れられる権利」だけでは、事実上消すことはできなくなってしまうのだ。 「忘れられる権利」が浸透するのは、炎上事件を起こした若者たちにとって救済措置になる可能性がある。しかし、それ以上に大切なのは、そもそも問題ある写真や投稿はしないなどの基本的な情報リテラシーを身に付けることだろう。現状でもプロバイダ制限責任法により削除依頼は可能なので、インターネット上からできる限り問題ある情報を削除する努力も必要だ。若者達が若気のいたりで問題ある投稿などをしないよう、周囲の大人は見守ってあげてほしい。

  • Thumbnail

    記事

    「忘れられる権利」とはなにか? プライバシー概念をめぐる各国の争い

     [サイバー空間の権力論]塚越健司 (学習院大学非常勤講師) 前回の連載ではブラジルのネット憲法とインターネットガバナンスの問題を取り上げた(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3892)。世界ではインターネットの管理・情報の透明性をめぐる議論が加熱している。そんな中、ネット社会の覇権を握っていると言っても...。ネット上に残る個人情報を削除する権利 忘れられる権利(Right to be forgotten)を一言で表せば、ネット上に残る過去の個人情報を削除する権利と言える。それらの中には、自らアップした過去の日記や別れた恋人との情報など、自身で管理可能なものもあるが、中には自分では削除できず、またネットに拡散してしまう情報などもある。一度ネットに上がったものは消えることがないものも多く、削除を希望する人も多い。 欧州ではプライベート情報を管理するための議論が以前から盛んであった。今から20年近く前の1995年、EUは「個人データ保護指令」と呼ばれる個人情報を保護するためのルールを制定した。これらは当時においても高レベルの個人情報保護を約束するものであったが、その後2012年にはデータ保護指令を改定する「データ保護規則案」を提案。2013年に可決し、今後1、2年をかけて成立させる予定である。このデータ保護規則案にこそ、現在話題となっている忘れられる権利が明記されているのだ。忘れられる権利を認めたEU司法裁判所の判決 2014年5月13日、EU司法裁判所はGoogleに対して、Googleを訴えた原告のスペイン人男性の過去の情報を忘れられる権利として認め、彼に関する一部情報を検索結果から削除させる判断を下した。これは2013年に可決された「データ保護規則案」の成立を前に、忘れられる権利をEUが先取りした形になる。ドミニク・ペローさんが設計した欧州連合司法裁判所=ルクセンブルク 事件を簡単に説明しよう。このスペイン人男性は、16年前に社会保障費の滞納から自身の不動産が競売にかけられた過去をもつが、現在ではそうした問題は解決されている。だがGoogleで彼の名前を検索すると、現在でも16年前の記事へのリンクが検索トップにでてきてしまう。このことを彼は差し止めるために訴えを起こしたのだった。 EUの判決は、こうした情報がすでに過去のものかつ現在では不適切だとして、この記事へのリンクを削除するものだ。ちなみに新聞記事自体は削除されず、ウェブには残り続けるという点には注意が必要だ。ただし、Google検索に残らないということは、世界の片隅に投げ捨てられた石ころを手がかりなしに探すようなもの。基本的に関係者以外には彼の記事が参照されることはないだろう。 このEUの判断の後、5月30日にはGoogleは削除要請フォームを設置した。無論以前からGoogleには著作権侵害やクレジットカード番号等の犯罪にかかわるものなどに対する削除フォームが設置されていたが、EUの判決以後、より強力な個人情報削除に対応した形になる(ちなみに、EUの法に準じた削除フォームは、EU圏の人間にのみ適応される。詳しい削除要請方法は以下がわかりやすい http://gigazine.net/news/20140602-right-to-be-forgotten-tool/)。この削除要請フォームの設置後、一日で12000件を超える要請があった。 いずれにせよ忘れられる権利が今後社会に浸透し、世界中の企業・政府がそれを認めることになれば、リベンジポルノをはじめとした様々なトラブルに対し、世界中で柔軟な対応がなされるであろう。もちろん後々問題になるであろう情報・画像の取り扱いに関しては、これまで以上に注意しなければならないことは言うまでもない。ネットリテラシー教育は、未成年を中心に推進する必要がある。議論されるべき問題は?議論されるべき問題は? 忘れられる権利は個人にとっては歓迎すべきことだ。ただし議論されるべき問題もある。 (1)どこまでは忘れられる権利なのかについて。先ほどの事例はわかりやすいが、例えば犯罪歴がある人物が刑期が終わり出所している場合、忘れられる権利は適応されるべきだろうか? そしてそれは、事件の質(殺人なのか窃盗なのか、はたまた児童ポルノなのか)や社会的インパクトなどから考慮されるのか。さらに、政治家や芸能人といった公人の場合、知る権利や表現の自由の観点からしても、忘れられる権利として情報の削除を認めるか否かが問題となる。これらをすべて司法判断に任せるのは難しいが、現状では細かな判決の積み重ねが必要とされる。 (2)削除にかかるコストと創造性について。すでにGoogleをはじめとしたネット企業からは、忘れられる権利に関する反対の声があがっている。確かに個人の要求に一つひとつ答えていけば、膨大な作業が企業に負担をかけることになる。また労力や金銭的問題以上に、法によるイノベーションの阻害も問題となる。ビッグデータにみられるように、過去の検索履歴といった個人情報を武器に、企業は新しいビジネスや産業のイノベーションを繰り返す。忘れられる権利が広がれば広がるほど、ネットに関わる企業は、それらがイノベーション阻害だとして反対するだろう。 実際に先の「データ保護規則案」可決にあっては、EUのIT企業から多くの反対の声があがったのも事実だ。ただし、そうした反対を押し切ってEUが可決に踏み切ったのは、2013年にアメリカの監視行為を暴露したスノーデンの告発が背景にあったからだ。 さらに、忘れられる権利を含めたより広範な論点として、GoogleやFacebookをはじめとするネット企業が個人情報をどのように扱うかだけでなく、背景にあるアメリカに対する牽制としてEUが今回の司法判断に踏み切ったのではないか、と推測することも筆者は可能だと考える。なぜか。アメリカとEUインターネットガバナンスの差異 上記の通り、EUは個人情報保護に重きをおいた政策を展開しつつある。逆にアメリカは個人情報保護に関してはEUと異なる方向性を打ち出している。アメリカは2012年、オバマ大統領の署名入りで、「米国消費者プライバシー権利章典」と呼ばれる報告書を公開した。これによれば、アメリカはプライバシー保護に関してEUのように国家が強い規制をするものではなく、むしろ消費者が自由にプライバシー保護を選択できることに重きが置かれていることに特徴がある。 ネットでは検索履歴からユーザーの好みにあった広告を展開する行動ターゲティング広告があるが、ユーザーがそうした履歴から追跡されることを拒む「Do Not Track」(DNT)の権利をアメリカは認める。重要なのは、ユーザーはプライバシーを守ることも、逆にプライバシーをある程度解放させることで便益を得ることも、ユーザーの選択に任せるという方向なのである。 ただし、ユーザーがその都度選択することは難しい。むしろ、利用規約という読みきれない文書の中に注意書きをしたものに、我々が「はい」を押すことで、各企業は個人データをこれまで通り利用することができる。これもまた「ユーザーの選択」ということなのだ。したがってEUのように個人情報の保護重視でどちらかといえばビジネスに消極的なのに対し、アメリカの政策はビジネスに積極的であるがゆえに、個人個人に判断を委ねる、といった傾向にある(ちなみに、国家による法でも民間企業による自主規制でもなく、国家と企業が協力することでルールを維持する「共同規制」と呼ばれる考え方もある。いずれ本連載で議論したい)。ネット社会の権利をめぐるガバナンス 忘れられる権利のように、ユーザーの求めに応じて各企業が対応していくという個人情報保護の動きは今後も活発化するだろう。他方、これまで以上にユーザーの個人情報を利用したビジネスもまた展開されていくのも事実だ。プライバシーとビジネスや利便性はどちらも必要不可欠であり、いずれかを天秤にかけるものではない。とはいえ上述の通り、EUとアメリカの政策に全体的な方向性の違いが見出されるのも事実だ。 このように、ネット社会の権利をめぐる大国間の争いは水面下で生じている。では日本はどのような政策を取るのか。現時点では、忘れられる権利に関しては直接的にこれに該当する法はなく、周辺法の解釈によって運用される。さらに個人情報保護法はあるものの、どのような運用指針があるかもいまいち明確化されていない。 さらに言えば、EU型かアメリカ型か、どのような方向性を日本が打ち出すかも重要な論点となる。日本という国の基本的姿勢を世界にアピールする必要があるが、その際日本が独自に打ち出せる姿勢があるかどうか、またそうでなければEU/アメリカのいずれの方向性を取るのか。ネットに対する態度表明が求められるところであろう。

  • Thumbnail

    記事

    グーグルは本当に時代を牽引するリーダーなのか

    いないように思えます。 クラウド・コンピューティングへの移行によるIT業界構造の変化、IOT(モノのインターネット)がもたらす産業構造への衝撃、自動運転などへの流れが登場してきて、どれもが大きく時代を変えるパワーを秘めているとしても、まだ具体的にはどうなっていくのか、どの企業がこういったイノベーションのレースから飛び抜けリーダーになっていくのかが未確定だからです。時代の端境期なのでしょう。昨夏から公道で試験走行を開始した米グーグルの自動運転車(グーグル提供・共同) しかし確実に言えることは、アップルにはその次を拓く芽も見えず、成長に疑問符がつき始めていることです。 昨年の2015年に、時価総額の変化で印象的だったのは、グーグルがエクソンを追い抜いたこと、またアップルが業績は過去最高を記録しながら、株価が下がり続けたこと、またアマゾンのランクアップでした。 ちなみに、アップルの時価総額は、2015年の4月末の7,506億ドル(約88.4兆円)をピークに、12月末には5,869億ドル(約68.9兆円)となり、8ヶ月で19.5兆円、およそ20%強が消えてしまったのです。 2016年に入っても、アップルの時価総額の減少に歯止めがかからず、ついにグーグルに抜かれたという感じがなきにしもあらずです。 ではグーグルの次の成長エンジンはなにでしょうか。自動運転の車でしょうか。人工知能でしょうか。自動運転の世界は、グーグルのようなIT企業、自動車産業、センサーや制御、またナビなどのサプライヤーなど参加している企業が多く、グーグルが市場を支配できるとは限りません。 今、成長分野となってきたクラウド・コンピューティングのインフラやプラットフォームを提供するサービスでは、グーグルはアマゾンに大きく差をつけられ、マイクロソフトの後塵をも拝しています。結局、グーグルはさまざまな技術を生み出す素晴らしい企業だとしても、いまだに広告で収益を得る企業から抜けだしていません。 さて時価総額で時代を感じる象徴的なもうひとつの出来事は、ファイスブックがエクソンを抜いたことです。時価総額が、社会に対する貢献への期待感を映す指標だとすれば、もはや製造業はその舞台では脇役に過ぎなくなりました。製造業に求められているのは、モノづくり技術への過度なこだわりで、「製造業」を極めることではなく、業態の進化ではないでしょうか。(「大西宏のマーケティング・エッセンス」より2016年2月2日分を転載)

  • Thumbnail

    記事

    グーグル 元スーフリの男性へ7億円支払い発生の可能性あり

     6月25日、さいたま地方裁判所。大手検索サイト「グーグル」の検索結果で過去の逮捕報道が今も表示されるのは「人格権の侵害」だとしてグーグル米国本社に削除を求めた男性・A氏の申し立てに対し、同地裁が「削除」を命じた。これをきっかけに、グーグル、そしてITに強い弁護士の元には削除依頼が殺到しているという。また、A氏と同様の訴訟提起は近年急増している。2009年には東京地裁で33件(仮処分申し立て総数の約3%)だったが、2013年は711件(同約40%)と20倍に膨れ上がっている。 では、どんな人々が「俺の過去を消してくれ」と訴えているのだろうか。ネット上の記述によって重大な人権侵害や営業妨害が発生しているのであれば削除は当然であるが、中には個人や組織が自らの“黒歴史”を消したいがために削除請求するケースが少なくないという。 大手プロバイダ関係者によれば、過去に医療事故を起こしたある有名病院は、こんな主張で削除依頼を出している。 「病院名を検索すると、当時の医療事故の報道や関連する非難の書き込みも表示される。当時の担当医は既にいない。病院の評判を低下させ、経営にもかかわるので今すぐ消してほしい」 暴力団の元構成員や半グレ集団の元メンバーも削除請求を出している。 「自分の名前を検索すると、かつて所属していた組織の犯罪報道とリンクされる。今は組織と関係ない一般人なのだから、犯罪と関わりがあるように疑われる検索結果は出さないでくれ」(ある請求者) 前出の大手プロバイダ関係者は「痴漢や窃盗、薬物使用で逮捕された人物からの“犯罪歴を消せ”という依頼が増えている」と困惑する。 「彼らの中には削除に加えて“精神的苦痛を被った”などと損害賠償を請求してくるケースもあります」 そんな戸惑いを象徴する裁判が進行中だ。2003年に早大や東大の学生ら14人が準強姦罪で起訴された学生サークル「スーパーフリー(通称スーフリ)」による集団強姦事件で、かつて同サークルに入会していた男性が、事件とは無関係だったにもかかわらずグーグル検索でいまだに「事件に関与した元スーフリ幹部」と表示され名誉を傷つけられていると主張。米グーグル本社に対して検索結果の削除と慰謝料を求め、2012年に東京地裁に提訴した。 一審で男性側の主張は認められ、慰謝料30万円の支払いとともに検索結果の表示を禁じる判決が出た。ところがグーグル側の控訴を受けた2014年1月の東京高裁判決では男性の名誉毀損やプライバシー侵害は認定されず、逆転敗訴となった。「男性側は上告し、年内にも最高裁判決が出る予定です。判決とともに注目されているのは、男性が高裁判決前に、グーグル側が削除請求に従わなければ『1日につき100万円の制裁金』を支払うよう仮処分申請を出し、裁判所が認めていることです。仮に最高裁でグーグルが負ければ提訴から約700日分、約7億円もの制裁金を男性は手にする可能性がある」(ある司法関係者) 一連の訴訟に対する見解をグーグルに求めると、「係争中の案件も含まれるため、コメントは差し控えます」と回答した。ネットの削除問題に詳しい弁護士の神田知宏氏がいう。「個人の人格権を侵害するような過去をネット上から削除できる『忘れられる権利』は、罪を犯した人にもあると考えられています。ただし問題は権利を行使する人物が過去と決別し、本当に更生しているかどうか。この点が曖昧だと社会の理解は得られないままでしょう」関連記事■ 「グーグルで調べたことと違う!」と医師に文句つける患者■ 発売前から話題の情報機器「グーグルグラス」何ができるのか■ 元最高裁裁判官が日本の裁判所と裁判官の問題を告発した書■ グーグル評 かつては「旧弊破壊」で巨大化後「世を混乱させた」■ 小沢一郎氏「土地取引で強制起訴も無罪判決」全文を一挙公開

  • Thumbnail

    テーマ

    ステマ広告が「一億総バカ時代」をつくる

    ネット記事だと思ってみたら、実は広告だった-。こんな経験、誰もが一度はしたことがあるのではないか。いま、広告の表記が抜けた「ステルスマーケティング(ステマ)」と呼ばれる手法に厳しい目が向けられている。ステマ広告で「一億総バカ時代」になる日も遠くはない?

  • Thumbnail

    記事

    広告、ヘイトコメント問題に横たわる感情

    ref=rss)。 ネイティブ広告に対しては一般社団法人「日本インタラクティブ広告協会(JIAA、旧インターネット広告推進協議会)」でも議論されており、ネイティブ広告のガイドラインを作成し、広告表記や広告主の明示をするようにしている。ただし、実際には必ずしも守られていないものも多く、業界ルールであって法的拘束力はない(http://japan.cnet.com/marketers/interview/35062861/)。この問題では、サイバーエージェントが旧JIAAの会員企業であり、ガイドラインにも関わっていたこともあったことから大きな反響を呼んだ。ネイティブ広告にNOを突きつけたヤフー ネイティブ広告問題にいち早く着手した大手企業のひとつに、ヤフーが挙げられる。同社は7月30日のブログで、「Yahoo!ニュース」と記事提供契約を結ぶ一部のニュース提供社によるネイティブ広告(ヤフーは「ステマ」や「ノンクレジットのネイティブ広告」と呼ぶ)にたいして、「これらの行為について、積極的に排除し、撲滅したい」と述べた(http://staffblog.news.yahoo.co.jp/info/20150730.html)。 ヤフーはネイティブ広告を優良誤認として景表法違反に問われる可能性もある悪質な行為とみなし、読者や広告主、サービスそのものの信頼を損なうものだと説明し、それらの行為が発覚した場合はニュース配信契約を打ち切ると発表した。 ネイティブ広告を広告の新しい形であると主張していた一部の業界人に対して、ヤフーはNOを突きつける。当然といえば当然ではないか。消費者であるユーザーは広告と意識することなしに、消費行動の論理を埋め込まれていることになる。通常の広告は、それが消費行動の惹起であることを意識させるために広告である旨をクレジットする。ヤフーは従来から広告表記の有無にかかわらず記事広告やタイアップ記事の配信を禁止していたが、それらの存在を意図的に隠すノンクレジット広告はもはや広告というよりも一種の感情操作とも言える。 消費者が広告と思わないまま広告を見せられるということは、広告と消費者の間の信頼関係を損ねることになる。もちろん、広告と広告でないものの境界が曖昧であることは以前から指摘されており、その点に関しては個々に議論が必要である。いずれにせよ、企業倫理を問われることにもなりかねないところに、ヤフーの判断があったわけだ。(広告の表記問題については現在もさらに問題が拡大化しつつある。http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20151103-00051076/ 参照)。ヘイトコメントの感情的惹起にどう対処するかヘイトコメントの感情的惹起にどう対処するか ネイティブ広告問題が無意識の感情にかかわる誘導であると捉えるならば、ヤフーがその後発表したもうひとつのアクションは、意識的な感情操作への抵抗でもある。ヤフーは2015年9月3日、国内最大級の中国情報サイト「サーチナ」との契約打ち切りを発表した。ヤフーが提供する「ヤフーニュース」は月間約100億ページビューという圧倒的な数字をもつ国内最大のニュースサイトであり、掲載されるニュース記事も、新聞や雑誌、ネットニュースサイトなど、約200社、300媒体との配信契約をしている。 ヤフーはネットニュース界における最大手であるが、このページビュー数は、少なくとも人々の目に触れるという意味においては、数百万部の購読者数という世界的にもトップレベルの新聞社の影響力と比較しても引けをとらない。ヤフーのトップページに数時間ごとに入れ替わるトップニュースの閲覧数は、おそらく日本でもっとも読まれる記事のひとつと考えられるだろう。実際ヤフーから配信される記事は多くのユーザーが目にするがゆえに、定期的な記事配信の中止は打ち切られた側には大きな打撃となる。 ところで、10年以上続いたサーチナとの関係打ち切りの原因は何だったのか。ダイヤモンド誌が複数の関係者に取材したところによれば「当初は中国ニュースや金融情報を提供していたが、最近になって嫌韓や嫌中のニュースが増えて問題になっていた」とのこと(詳しくはhttp://diamond.jp/articles/-/78767を参照)。 もともと韓国や中国が日本を嫌っている、といったニュースは人気が高く、ヤフーニュースでも閲覧数ランキングそうしたニュースが多くなったこともあったという。もちろん個人の主義主張はそれ自体確保されなくてはならない。ただし、表現の自由が保障されているとはいえ、昨今のヘイトスピーチや難民に対する揶揄、中傷表現など、日本の言論を取り巻く環境が変わりつつある現状において、論理的にも無根拠なヘイト言説は、理性以前の感情に強く訴えかけている。嘘でも言い続ければ真実になる、と先人が述べたように、感情をフックにした言説は世論に大きく影響する。 だが、ページビューが収入につながるとはいえ、このままではニュースの品質が劣化すると考えたヤフーはついに契約解除をしたという。その後もヤフーは類似した手法を取っている他の契約メディアにも水面下で警告を出している。サーチナの契約解除とは別に、ヤフーはニュースに対するコメント機能のあり方について、ブログで説明をしている(http://staffblog.news.yahoo.co.jp/newshack/yjnews_comment.html)。 ヤフーニュースにはコメントがつけられるが、中にはヘイトコメントも多いのも事実であるが、それでも「みんなの意見」を重視して、24時間体制で巡回しているとのこと。その上でブログでは、ヘイトコメントにはより厳しくした基準であたっていくと宣言している。 ネット署名を求めるHP とはいえ、問題は簡単ではない。「不快な用語」「偏見に基づく人種差別」「極端で乱暴な言動によるレッテル張り」といったコメントに対する厳しい基準は必須であるが、線引きが難しいのも事実である。9月上旬にシリア難民に対する揶揄を目的としたイラストが大きな議論を呼んだ。Facebookに当該イラストを投稿した漫画家のはすみとしこ氏に対して、Facebookの規定(人種や民族、出身に対する差別発言を削除する)を根拠に、はすみ氏のアカウントの削除を求めるネット署名が行われているが、Facebookが削除に消極的な態度であることも、上記の問題が関係している。感情市場を今一度認識しなければならない感情市場を今一度認識しなければならない こうした明らかなヘイト発言が言論の自由として対処されないためには、法や企業の基準だけでなく、我々の感情と理性による価値への合意形成が必要となる。その時、我々は理性を使用しながらも、感情的な言説に意識的、無意識的に(少なくとも瞬間的には)反応してしまうことを理解しなければならない。さらに厄介なことに、ネイティブ広告もヘイトコメントも、ネットの発達とともにより容易にその内容の伝播を可能にする。 我々は我々自身が感情的な生き物であることを改めて認識しなければならない。そしてその際、「我々がより理性的になればいい」といった類の紋切り型の言説を繰り返すだけでは不十分である。感情には感情。ないしは感情があらゆる空間においてキーポイントであることを踏まえた上で制度設計をしなければならないのだ。こうした視点は以前もこの連載で取り上げた(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4508)。 本稿は事実の主として確認に多くの紙面を割いてしまった。これらの問題から、ネット上における我々の感情とその設計を論じるために、稿を改めてこの問題について広く考察したい。つかごし・けんじ 学習院大学非常勤講師。1984年生。専攻は情報社会学、社会哲学。著書に『ハクティビズムとは何か』(ソフトバンク新書)、共編著に『「統治」を創造する』(春秋社)、など。TBSラジオ『荒川強啓デイ・キャッチ!』月曜ニュースクリップ担当としてレギュラー出演中。

  • Thumbnail

    記事

    「自著を語る」や「商品テストの優良結果」はステマか? 

    高橋秀樹(放送作家/日本放送作家協会・常務理事)(メディアゴンより転載) 言論をなす世界の片隅にいる一人として、「広告ステマ」(ステルス・マーケティング)は、強欲資本主義が招くものであるということを考えてみたい。 ステルス・マーケティング(Stealth Marketing)とは、消費者に宣伝と気づかれないように宣伝行為をすることだと定義される。しかし、この定義だけで足りるのか。それを考えるのが本稿の目的である。 略称はステマ。アンダーカバー・マーケティング(Undercover Marketing)とも呼ばれる。 「墨衣の僧衣の下から銀鈍色の甲冑が覗いているようなものだ」と言えば平清盛の逸話を知っている人はわかりやすいだろうか。 上述の定義に沿ってみて行くと、昔から週刊誌や夕刊紙ではステマと判断されるものがあった。記者が体験して書いたような体裁の健康食品や観光地の記事。批判は当然あって、こう言う記事は、本文記事と活字を変え、冒頭に、小さな字で(PR)とつくようになった。 読んでから「だまされた」と気づく気持ちの痛手は大きかったが、これなどは注意して読めば分かる範囲であった。 ネット上では、誰もが自由に映画やテレビ評、書評を書けるようになった。これもステマと紛らわしいこともあるのが実態だ。ただし、評論は立派な文化的行為だからこれを安易にステマとは呼べない。 当該評論と作者著者・提供会社に利害関係が無いことが必要なのか。そうとばかりは言い切れまい。例えば、著者が「自作を語る」というような原稿を書いた時は、ステマだろうか? テレビにもステマ的行為はある。情報番組などで芸能人が出演して番組宣伝をすることはどうか。これをステマと判断されるのは番組にとっては得ではないので、最近は「番宣です」と、はっきり言う対応を取ることが多くなった。これはこれで良い傾向だ。 この「番宣」をCM総量の規制に数えるかどうかの問題はあるが、良い傾向だ。ここから分かるのは広告であることがステルス(隠されている)と言うことが問題だという認識だ。 ドラマなどの旅館観光地のロケタイアップはどうか。業界には「アゴ・アシ・マクラ」という隠語があってこれはロケ先の旅館、観光協会などが「アゴ=飲み食い・アシ=旅費・マクラ=宿泊代」を全部負担してくれることを言う。この場合は、タイアップだとをはっきり表示することが望ましいだろう。 隠す方法は巧妙だ。政治家のお説拝聴を唯々諾々と垂れ流すニュース番組。ドラマの中でイケメン俳優が何気なく使っている時計やアクセサリー。セットのインテリア。これらがステマではないとは言い切れない。 「けなしてある評論/批判的な批評」は「ステマではない」かといえば、必ずしもそうではないだろう。褒めようがけなそうが作品の認知度は上がる。実際には購入していないのに購入したと偽って書くレビューは完全にステマだが、これを見抜くのはなかなか難しい。 筆者は家庭向け総合雑誌「暮しの手帖」の愛読者だが、ここで行われる商品テストはどうだろうか? 商品は編集部が自ら購入し、細心の注意を払っているこのテストは、勿論ステマではないが、このなかで「成績の良かった商品」には大きな宣伝効果があることは明らかだ。この手法を悪意をもって利用する人がいないとも限らない。 ミシュランガイドは覆面調査員が調べるというが、他に多くあるグルメ雑誌はどうだろう。ネット上のグルメ情報サイトからは掲載料月に3万円を取られていると、ある料理店主から聞いた。 色々と考えを進めてゆくと、ステマというものは「広告であることを隠してやっている宣伝行為のこと」ではあるが、おこには精神的な側面が大きいことが分かる。その陰に潜んでいるには「これで儲けてやろう」という強欲資本主義だ。 いづにれにせよ、ステマが広告と商品自体の価値を貶めるとんでもない詐欺的行為と言うことだけは確かだ。

  • Thumbnail

    記事

    有効な規制の手立てないステマ、カギを握るのはTPP

    14日(注:平成24年1月14日)、分かった」[1]、「『人気商品を格安で落札できる』などとうたったインターネットのペニーオークション(ペニオク)をめぐり、落札できない仕組みなのに入札手数料として現金を詐取したとして、京都、大阪両府警が昨年12月(注:平成24年12月)、サイト運営者らを初摘発した。事件は、人気タレントらがブログに虚偽の『落札情報』を書き込んでいたペニオクの実態だけでなく、宣伝を巧妙に口コミに見せかける『ステルスマーケティング』(ステマ)の横行も浮き彫りにした。この手法は欧米では違法とされ、消費者庁もその動向を監視し始めた」[2]などの報道が相次いだ。 他方、いわゆるネイティブ広告については、「メディアの形式・機能と一体感のあるデザイン、内容、フォーマットの広告」などと説明される場合があるが[3]、要するに、一般の記事と区別がつかない広告のことである。ニュース風の記事の題名の中に[PR]などと入っているものが典型的であるが、広告であることの表示が極めてわかりにくいものや、そもそも広告であることを表示しないものもあることから、平成26年頃から一般にも問題視され始めた。 メディアが中立的に記述、報じた記事については、消費者は当該メディアへの信頼度に応じてその記事中の評価を文字通りのものとして受け止めるが、[PR]等の記載がある場合、当該記事は中立的でないことが明らかであることから、消費者に読まれる(クリックされる)率は明らかに低下する。メディアにとっても、広告主にとっても、広告主から資金が提供され、そのため当然に広告主に有利なこと(又は広告主の競争者に不利なこと)しか書かれていない記事に「資金が提供されている」という関係性を明示しないインセンティブは非常に高い。 上記の通り広告であることを明らかにする物もあることから、ネイティブ広告のすべてがステルスマーケティングに該当すると認識されているものではないが、「消費者に宣伝と気付かれないように宣伝行為を行うこと」に該当するものもあるのではないかということである。 以下では、これらの事例を念頭に、ステルスマーケティングの規制をみていく。ステマはどう規制されているのかステルスマーケティングはどう規制されているのか(1) 景品等表示法等による行政規制 広告に対する最も中心的な規制は、不当景品類及び不当表示防止法(景品等表示法)である。景品等表示法は優良誤認(4条1項1号)や有利誤認(4条1項2号)を招く不当表示を禁止しているが、ステルスマーケティングと関係が深いのは優良誤認表示の禁止である。景品等表示法4条1項1号商品又は役務の品質、規格その他の内容について、一般消費者に対し、実際のものよりも著しく優良であると示し、又は事実に相違して当該事業者と同種若しくは類似の商品若しくは役務を供給している他の事業者に係るものよりも著しく優良であると示す表示であつて、不当に顧客を誘引し、一般消費者による自主的かつ合理的な選択を阻害するおそれがあると認められるもの 優良誤認禁止に該当した場合、消費者庁等は、資料提出要求や措置命令を行うことができる。消費者庁は、インターネット消費者取引に関する景品等表示法の運用基準[4]において「商品・サービスを提供する事業者が、顧客を誘引する手段として、口コミサイトに口コミ情報を自ら掲載し、又は第三者に依頼して掲載させ、当該『口コミ』情報が、当該事業者の商品・サービスの内容又は取引条件について、実際のもの又は競争事業者に係るものよりも著しく優良又は有利であると一般消費者に誤認されるものである場合には、景品表示法上の不当表示として問題となる」として、口コミサイトを用いたステルスマーケティングに関する見解を明らかにしている。 ただし、問題となるのは景品等表示法であることから、あくまで、「実際のもの又は当該商品・サービスを供給する事業者の競争事業者に係るものよりも著しく優良又は有利であると一般消費者に誤認される」かどうかが問題である。消費者庁の前記運用基準で挙げられている例でも、「広告主が、(ブログ事業者を通じて)ブロガーに広告主が供給する商品・サービスを宣伝するブログ記事を執筆するように依頼し、依頼を受けたブロガーをして、十分な根拠がないにもかかわらず、『△□、ついにゲットしました~。しみ、そばかすを予防して、ぷるぷるお肌になっちゃいます!気になる方はコチラ』と表示させること」というものがあるが、「十分な根拠がないにもかかわらず」という文言が入っている点がポイントである。つまり、「消費者に宣伝と気付かれないように宣伝行為を行うこと」だけでは景品等表示法違反にはならず、あくまで優良誤認表示に該当することが必要である。業界団体による自主規制の現状は(2) 民事的手段による規律 景品等表示法は行政規制であるので、基本的にはステルスマーケティングに晒される消費者が直接的に行使できるものではなく、消費者庁等の監督を待つことになるが、民事的手段によって、ステルスマーケティングを是正させることはできるか。 景品等表示法には、優良誤認表示違反について、適格消費者団体に差止請求権を認める規定がある(消費者団体訴訟)。これは、損害賠償請求を求めるものではなく、あくまで優良誤認表示の停止を求める請求であるが、理論上はあり得るであろう。もっとも、前述のとおり、「消費者に宣伝と気付かれないように宣伝行為を行うこと」だけでは景品等表示法違反にはならない。消費者庁等のように調査権限を持たない適格消費者団体が優良誤認表示に該当することを自ら主張立証することには困難が伴うであろう。 また、口コミサイトの運営者が、自らの口コミサイトがステルスマーケティングに用いられたことを理由に、ステルスマーケティング業者を訴えるという事例も現れてきている。楽天市場を運営する楽天株式会社が「楽天市場に出店している121店との間で、商品の売買を装い、店側に好意的な評価を月150件ずつ投稿する契約を月額8万円で締結。少なくとも約11万4千件の口コミを書き込んだ」として、システム開発会社「ディーシーエイト」を提訴したとされている[5]他、米国ではAmazon.com, Incが同様のステルスマーケティングを請け負っていた個人(クラウドソーシングサイトを利用していた)を訴えた例が認められている。 いずれにせよ、この場合の原告は消費者ではなく口コミサイトの運営者であり、コストも掛かることから、当該運営者に損害及び訴訟遂行能力がある必要がある。また、もちろんのこと、口コミサイト運営者自身がステルスマーケティング業者と通じていたり、これによる利益に預かっていたりするような場合には提訴するインセンティブ自体が存在しない。(3) 自主規制 以上のとおり、景品等表示法では単なるステルスマーケティングが規制されているわけではなく、優良誤認表示に該当する必要があるし、民事的手段による規律についても、消費者自身が簡便に行えるものは存在せず、適格消費者団体や、口コミサイト運営者による提訴も容易ではない。そこで、業界団体の自主規制が重要になってくる。 一般社団法人インターネット広告推進協議会(現・一般社団法人日本インタラクティブ広告協会、JIAA)は「ネイティブアドの概念や定義は曖昧なままで、広告主および媒体社においても混乱を来たしているのが現状で、広告主、媒体社・プラットフォーム事業者およびユーザー(消費者)の三者にとって好ましいものだとは考えがたい事態となっております」との認識から、平成26年8月から「ネイティブアド研究会」を立ち上げ、その成果として、平成27年3月には「インターネット広告掲載基準ガイドライン」についてネイティブ広告に対応する改訂を行った。インターネット広告掲載基準ガイドライン(10) 広告であることの明示広告掲載枠に掲載される広告は、一般に、広告が表示されることが明確であるが、媒体社が編集したコンテンツ等と混在したり、並列したり、リストの上位に広告として掲載される場合や、広告を中心とした特集記事や、いわゆるネイティブ広告等において、消費者等が媒体社により編集されたコンテンツと誤認する可能性がある場合や、広告であることがわかりにくい場合には、その広告内や周辺に、広告の目的で表示されているものである旨([広告]、[広告企画]、[PR]、[AD]等)をわかりやすく表示する必要がある。 これにより、JIAA加盟社は、ガイドラインにより、優良誤認表示に該当しなくとも、ステルスマーケティングに該当するような広告については「広告目的で表示されているものである旨をわかりやすく表示」するように広告掲載基準を策定するように推奨されることとなった。具体的には、広告主からの資金提供により掲載される記事については[PR]等の表示をすることとなろう。TPPでステマ規制が進む?TPPでステマ規制が進む? 以上みてきたとおり、景品等表示法による法的規制には、優良誤認表示に該当しなければならないというハードルがあり、民事的手段による規律も困難である。JIAAのガイドラインは、ステルスマーケティングを直接的に制限するものであり評価に値するが、JIAA加盟社以外への効果はなく、また、行政機関が直接的に執行できるものではないこと、JIAA加盟社以外がこれを守らないことにより利益を得るとすれば、自主規制に従う事業者から不満が生じること等の限界がある。 前述の消費者庁の運用基準では、米国において、「連邦取引委員会(FTC)が2009年12月に『広告における推薦及び証言の使用に関するガイドライン』 を公表しており、この中でFTCは、広告主からブロガーに対して商品・サービスの無償での提供や記事掲載への対価の支払いがなされるなど、両者の間に重大なつながり(material connection)があった場合、広告主のこのような方法による虚偽の又はミスリーディングな広告行為は、FTC法第5条で違法とされる『欺瞞的な行為又は慣行』に当たり、広告主は同法に基づく法的責任を負う、との解釈指針を示している。」との運用がなされていることが紹介されている。FTC法第5条は『不公正又は欺瞞的な行為又は慣行(unfair or deceptive acts or practices)』について広く違法とし、米国連邦取引委員会の監督権限を認めるものである。FTC法第5条に相当する規定があれば、我が国においてもJIAAの自主規制に従うとの表明がある事業者については同自主規制の違反について法的責任を問うことが可能である。TPP交渉が閣僚会合で大筋合意し、共同記者会見に出席した甘利TPP相(左)とフロマン米通商代表=10月5日、米アトランタ(共同) では、我が国において、景品等表示法の規定に加えて更にFTC法第5条に相当する規定が導入されることはあり得るか。ここで注目されるのが、平成27年10月5日に大筋合意されたとされる環太平洋パートナーシップ(TPP)協定における消費者保護規定である。TPPにおける消費者保護規定は電子商取引章(第14章)と競争政策章(第16章)にあり、内閣官房が公表している案文(日本語)によると内容は以下の通りである。TPP〇オンラインの消費者の保護(第14.7条)締約国は、オンラインでの商業活動を行う消費者に損害を及ぼし、又は及ぼすおそれのある詐欺的及び欺瞞的な商業活動を禁じる消費者の保護に関する法律を採用し、又は維持すること等を規定。○消費者の保護(第16.6条)各締約国は、詐欺的及び欺まん的な商業活動を禁止する消費者に関する法律等を制定し、又は維持すること、適当な場合には、詐欺的及び欺まん的な商業活動に関して相互に関心を有する事項について協力及び調整を促進すること等を規定。 いずれの内容にも『詐欺的及び欺瞞的な商業活動を禁じる』ことが含まれており、FTC法第5条の影響が見て取れる。今後、我が国もTPPの内容を国内法にするための立法の準備に入ると思われるが、上記の消費者保護条項が、景品等表示法の規定を超えて、我が国に対してもステルスマーケティング規制に有効なFTC法第5条相当の立法を要求するものであるのか、我が国では既に景品等表示法の規定で十分に『詐欺的及び欺瞞的な商業活動を禁じ』ているとの態度が取られ、それで収束するのか、現時点では判然としない。 しかしながら、ステルスマーケティングに対する決定的な方策が存しない中、自主規制の範囲で適当な慣行が形成されることもないとすれば、TPPをも理由に、ステルスマーケティング規制が進む可能性があることは留意しておくべきであろう[6]。[1] 産経新聞東京朝刊社会面・平成24年1月15日。[2] 産経新聞大阪夕刊一面・平成25年1月8日。[3] 一般社団法人インターネット広告推進協議会(JIAA)『最近のインターネット広告の動向と健全化の取り組み』消費者庁 インターネット消費者取引連絡会 第15回 資料 平成26年12月16日。[4] 消費者庁『インターネット消費者取引に係る広告表示に関する景品表示法上の問題点及び留意事項』(平成24年5月9日一部改定)[5] 産経新聞大阪朝刊一面・平成27年3月21日。[6] 本稿の執筆にあたっては山本一郎氏(イレギュラーズアンドパートナーズ株式会社)より有益な示唆を頂いた。

  • Thumbnail

    記事

    ステマとは「捨て身のマーケティング」である

    常見陽平(千葉商科大学 国際教養学部専任講師) もう10年くらい、ネットニュースのライターの仕事をしている。サイバーエージェントが2006年に「アメーバニュース」を立ち上げた。友人の中川淳一郎が関わっていたので、私も参加した。彼はネットニュースの第一人者として知られているが、私はその彼の背中を見ながら今まで歩いてきた。 そんなネットニュース界の話題の一つといえば、「ステマ」だ。「ステルスマーケティング」の略である。要するに、本当は広告費をもらっている案件なのに、記事であることを装い、そのことを明記しない手法である。ステマが発覚して話題になったり、これに対する規制騒動が議論されている。 対策はしてしかるべきだが、そもそもこれが起こってしまう構造的な問題を理解しなければならない。おさえるべきポイントは3点だ。(1)「広告」と「広報」の変化(2)スマホの普及(3)ネットニュースの流通経路である。 まず、「広告」と「広報」の変化についてである。雇用・労働問題の論客として捉えられている私だが、実は20代の頃は、マーケティングや広報の仕事をしていた。それこそ意識高く『広告批評』(現在休刊)『販促会議』などの雑誌を熟読していたし、マーケティングや広報に関する実務書をよく読んでいた。出所:『会社をマスコミに売り込む法』(山見博康 ダイヤモンド社) 私が広報担当者だった2002年から2004年にかけて、広報の実務書として参考にしていた『会社をマスコミに売り込む法』(山見博康 ダイヤモンド社)には、パブリシティと広告を次のように定義していた。要するに広報の立場で情報発信する際は、ニュース価値があるかどうかを判断するのはメディアだし、情報伝達の決定権は企業にはないかわりに情報の信頼感が強いというものだ。商取引ではないので、お金も発生しない。記事を書くのは記者だから、少しでも記事に取り上げてもらえるよう、しかも好意的な文脈で書いてもらえるよう、取材対応など工夫していたものだった。 しかし、最近の広報のマニュアルを見てみると広報と広告の境界が曖昧になってきていることが目にとれる。広告・宣伝担当ではなく、広報がPR会社などを使うのは旧来どおりだが、自らお金をかけて話題をつくる動きが起こったのが、この一連のステマ騒動につながっているのではないか。 PR会社、広告代理店に過度に期待する動きもその温床になっていると言えるだろう。本来、PRや広告というのは商品・サービスを「売る」ということ以外の期待も大きいはずなのだが、売れるかどうか、そのために露出を最大化、最適化できるかどうかが問われ続けている。当たり前といえば、それまでだが、その弊害だったとも言えるだろう。 なんせ、2000年代前半と比べるとメディアも多様化した。それこそ影響力のある人のブログやTwitter、Facebookなども情報発信の手段となったし、なんせネットニュースが本格的に登場したのだ。旧来型のメディアではない、このような新興メディアにおいてのルールが確立されていない中でこのような騒動が起こっていったのだろう。スマホの普及でウェブが本当に「バカと暇人のもの」になった 2点目のスマホの普及についてである。ウェブ礼賛論に対する現場からの批判の声、問題提起として出版された『ウェブはバカと暇人のもの』(中川淳一郎 光文社 2009)はタイトルから内容まで実に秀逸なのだが、ウェブが本当にバカと暇人のものになったのは2010年台に入ってから、特に震災のあとだと見ている。この頃から、スマホが本格的に普及した。言ってみれば、これによりウェブがより大衆化した。そして、ネットニュースアプリの登場、それとソーシャルメディアの連動などにより、より「バカと暇人のもの」になったと言える。そのような今までほどリテラシーの高くない層に対してステマという手段は有効なものになってしまったのではないだろうか。 やや余談だが、私は前述した通りに初期からネットニュースで記事を書いているのだが、たまに「もうネットで記事を書くのは一切やめてしまおうか」と考える瞬間がある。というのも、記事のタイトルしか読まない連中、明らかに読解力の低い連中から批判をされるからである。もちろんスルーするのだが、いい加減、疲れてしまった。来年から、ネットニュースの連載は2本にしぼり、それぞれ月に1本ずつにした。もううんざりなのである。ネットニュースサイトが増えつつあり、「誰でも」とは言わないが新米のネットニュースライターが跳梁跋扈している状況でもある。こいつらと一緒にしてくれるなと思う瞬間もあるのも正直なところだ。 3点目のネットニュースの流通経路についてだ。ユーザーがスマホに移りつつあり、ニュースキュレーションアプリの影響力などが増してはいるものの、なんだかんだ言って、ヤフトピこと、ヤフートピックスの影響力は絶大である。PVを稼ぐためには、ヤフトピ狙いをしなくてはならない。もちろん、PR記事はヤフトピを狙えない。故に、普通の記事を装うようになるという構造がある。 このような論点をもとにして考える必要がある。規制を強化したところで、このような論点、構造を理解しなければならない。なお、ここで出た論点は以前、中川淳一郎氏、三田ゾーマ氏などと2015年7月にイベントをやった際に教えてもらった知見も含まれていることをお伝えしておく。 もちろん、明るい兆しもなくはない。紙媒体からネットへのシフトにより実力派ライターがネットで書く時代がきていると言える。ネットニュースに対する眼も肥えてきているのではないかと感じる。最近では、5,000字を超えるような長文記事も読まれているのも特徴だ。みんながステマについて、敏感にもなっている。 ステマを行うこと自体が、サイトや著者が自滅するキッカケになることを期待したい。ステマとは「捨て身のマーケティング」の略であり、であるがゆえに自滅を招くことがあるのだ、と。自浄作用を期待したいところだが、それは牧歌的な考えだろうか。 最後に、私の最新作『エヴァンゲリオン化する社会(http://www.amazon.co.jp/gp/product/4532262925/yoheycom-22)』と文庫化された『僕たちはガンダムのジムである(http://www.amazon.co.jp/dp/4532197821/yoheycom-22)』(ともに日本経済新聞出版社)をぜひ読んで頂きたい。このような劣化した日本社会の現実を描いている。これをステマと言うんじゃない。著者による、宣伝である。なんでもステマっていうのも違うと思うのだ。これも捨て身なのだが。

  • Thumbnail

    記事

    ステマ問題は燻るネット規制の口実になってしまうのか

    ることが分かります。欺瞞的取引の宝庫「レ点商法」 日本の場合はICT業界、とりわけ、スマートフォンやインターネット上で運用される、広告あるいはポイントサービスなどでの個人に関する情報が非常に注目されます。簡単な話、ユーザーには確かめる術が乏しく、分かったころにはごっそり個人に関する情報を抜かれて広告に活用されたり、ターゲティングメール(ダイレクトメール)などに活用されてしまうことになり、広範囲に個人に関する情報がばら撒かれてしまうからです。しかも、リテラシーの低いユーザーが多数ネットを利用している実態があるため、気がつかないうちに個人に関する情報を大量に取得し丸裸にするアプローチで利鞘を稼ぐ悪質なICT企業は後を絶ちません。 極めつけは、俗に言う「レ点商法」といわれる月額固定支払いのサブスクリプション・サービスで不当な消費者被害が蔓延していることで、これは携帯電話のメガキャリア3社が「入会初月は無料ですから」などと契約者に持ちかけ、月額数百円ほどかかる不要不急のコンテンツサービスなどを本人の認識なく入会させてしまうことです。 消費者契約法上は、仮に契約時に本人確認を行っていたとしても、本人に入会したという意志がなければ場合によってはこれは無効の取引となり、遡及して返金の対象となる、法的リスクの高いビジネスです。ところが、大手キャリアにおいてはビデオ、マガジン、パスなどと銘打って欺瞞的取引の宝庫となっており、これらのモラルなき取引を繰り返し、消費者の無知に付け込むようなビジネスを大手企業が横行させている現状は厳しく考えていかなければなりません。 つまり、お金を貰っているのに中立なフリをして記事を読ませ、読者を騙す形で稼いでいる一部のメディアと同様に、今後問題となるのは「欺瞞的取引とは何か」というテーマでしょう。まさにステマはこの欺瞞的取引の入り口であり、基本となるべき詐欺行為に他なりません。それはゆくゆくはネットに対する重大な規制論に立ち入ってしまうことになり、いまネットに無知な消費者をカモることで利益を上げている企業ほど、問題に気づかされた消費者の怒りと共に過剰な規制を敷かれてしまうリスクを軽視しているように思えてなりません。 それは、一夜の春を謳歌した消費者金融が、悪意の受益者として遡及効が認められ、過去に遡っての過払い請求が認められて突然のグレーゾーン金利返還訴訟で灰燼に帰した事例を考えずにはいられません。 そして、これらの行政罰は国内事業者にしか及びません。消費者保護は大事だが、やりすぎればサービス事業者はリスクを回避するために海外に事業の拠点を移してしまいます。まさに、考えるべきことは事業者と消費者の按配をうまく調整する行政の機微にあるのだ、といっても過言ではありません。 誰もがネットを使えるようになったからこそ、安全なネット利用環境を整えることは、サイバー攻撃・犯罪へ対処する技術的、当局的アプローチもさることながら、消費者行政も基本に立ち返ってしっかりと議論を積み重ねて行くべきであろうと強く考える次第です。

  • Thumbnail

    記事

    ネイティブ広告の指針が機能しないと「隠れ記事広告」が業界の普通になる

    ようという話なわけですから、ユーザー目線ですると精神的に気持ちが良いはずな話なわけはないですよね。 インターネット広告推進協議会という名称の組織であるJIAAが、ネイティブアドのガイドラインを作る、と聞くと、ネット広告業界の人たちが自分達に都合の良いネイティブアドをもっと売りやすくしようとしてるんでしょ、と誤解する人達が出てきても仕方が無い構造にある気はします。でも、実はこれ違うんですよね。ネイティブアドを推進したい一番のプレイヤーは実はメディア側。何しろネット広告の代表であるバナー枠がその地位を確実に失いつつあるわけです。 そもそもバナー広告のクリック率って年々低下していて平均で0.2%以下とからしく■参考:第2回:今の『ディスプレイ広告』の枠ってクズだよね!ワイルドな広告枠開発の提案だぜぇ~?! そもそも多くの人がバナー広告を無視する技術を体得してきているという話もあり。■参考: 「バナー広告には誰も関心を払わない」という科学的証明■参考:調査報告:インターネット広告は63%の人に無視されている さらにはアドネットワークの台頭でメディアが獲得できるアドの単価は下落する一方。アドテクノロジーの進化やリターゲティングの普及で、バナー広告が「誰に見せるか」を重視するようになったこともあり、メディアの質の重要性が薄くなっていることも影響は結構大きいようです。もはや企業メディアが、バナー広告枠の収入では生きていけなくなってきているわけです。ブログメディアで編集記事と見分けがつきにくい記事広告 そんな中、ネイティブアドが流行る前から日本のメディアで重宝されるようになっていたのが「記事広告」や「タイアップ」と呼ばれる手法。記事広告であれば、媒体の読者がどういう人かというメディアの質が改めて重要になりますし、記事広告を各媒体側の編集力で差別化できます。  自社にしかできないユニークな広告メニューと言うことで、バナー広告に比べるとある程度金額も維持できますし、コンテンツ価値も踏まえてCTRやCPAだけ重視する料金設定の罠から抜け出せる可能性もあります。 従来は記事広告は編集記事とは全く別の場所に掲載されることが多く、今でも大手メディアサイトはその方式ですが、Gizmodoのようなブログ系の媒体では普通に記事一覧の中に記事広告を混ぜるのが普通になってきて、だんだんと編集記事と記事広告の見分けがつきにくいパターンが増えてくるようになってきました。 で、ここに、「記事広告と明示しないで欲しい」という圧力がかかってくるケースが多いのが問題になるわけです。 広告の一般的な常識で言えば、広告は広告であることが明示されるのが必須というのは常識です。テレビCM枠は番組とは明確に切り替わったことがわかるように配慮されていますし、新聞の広告と記事欄は明確に分離されています。雑誌の記事広告においてもPRやADの表記は必須です。そういう意味では、ネット上の記事広告においても広告表記は必須なはずなんですが、何故か日本では広告表記をしないでくれというリクエストがまだまだ横行しています。 結局広告表示をすると反応が悪くなる、読者の印象が悪くなる、という思い込みがあるからそういうリクエストになるようなんですが。でも、これってある意味読者に対する背信行為ですし、言葉を選ばずに言うと読者に対する犯罪行為なんですよね。完全犯罪が成り立つ「隠れ記事広告」 でも、上述したようにメディア側もそういった圧力とは無縁のはずのバナー広告では生きていけないので、選択の余地がないケースもあるようで。企業側に広告明示をするなと言われて発注されて受けざるを得なくなったり。それで味をしめてメニュー化してしまったりと。残念ながらこうした「隠れ記事広告」が横行している背景があるようです。 さらにこうした「隠れ記事広告」で問題なのが、その発見の難しさ。一時期ステマ騒動として問題になった食べログのようなクチコミサイトへのやらせ投稿のような、サービスやサイトのユーザーがやらせ投稿をするケースと異なり。メディアやサービス自体が記事広告を記事広告と明示せずに記事のように素知らぬふりで投稿すると、関係者以外には判別のできない完全犯罪が成り立ちます。 そういう意味ではクチコミサイトへのやらせ投稿事業者なんてカワイイものです。メディア自体の隠れ記事広告は組織ぐるみの構造ですからね。内部告発でも無い限り発見不可能です。例えば、昨年10月にGunosyがおそらく広告として配信していたであろう記事を全く広告と明記せずに配信していたことが明らかになって炎上した事例がありましたが■この記事はまずいくらSNSでシェアされてもGunosyには掲載されないだろうな。Gunosyのiemoのバイラル記事がウザすぎる件。 こんな分かりやすくURLにタグらしきものが残っていて広告配信らしい行為が見えてしまうケースの方がむしろ希で、この記事の後にGunosyが仕組みを変えてこの怪しい配信が無かったことにしたように(もちろんGunosy側は無言を貫いているので実際に広告だったのかどうかの真実は闇の中ですが)、証拠が残らないように普通の記事の振りをして配信していれば外部の人間には一切証拠を見つけようがないわけです。 芸能人ブログのステマ投稿なんかも分かりやすい例ですよね。まぁ、ペニーオークションとかは明らかに使ってないだろ、というのが明確なのでステマなのが分かりやすいですが、実際問題芸能人が黙ってステマをしていても、どの記事がステマでどれが本音なのか読者からは判別できません。 この辺は鳴海さんが自らネタ(多分)として広告明記のないネイティブアドのメニューを販売していて「限りなく記事に近い形で読者に広告と悟られることなく出稿できます。」と明記しているように、バイラルメディアとかブログで個人でも簡単に実践できます。■ネイティブアド | @narumiストア だって金もらって記事書いてても、それを言わなければ誰にも分からないわけですからね。残念ながら企業運営メディアの記事広告ではなく「記事」の料金表が出回っているという噂もそこここで耳にしたりします。 こうなってしまうと、読者側もメディアの記事も何も信じられない未来になってしまうわけです。実際問題、すでにステマ騒動やネイティブアド周辺で様々なトラブルがあったこともあり、何かあったらすぐに「ステマだろ」とネタ突っ込みするのがすっかり普通になってしまいましたよね。 で、こうした「隠れ記事広告」が業界の普通になってしまうと、広告を広告明示すること自体の必要性すら分からなくなってしまう人が出てきてしまうわけです。 象徴的なのがこのブログ記事■ネイティブアドよ、死語になれ。 | CINRA, Inc. 杉浦太一のブログ この記事はCINRAという会社の社長さんのブログのようですが、おもいっきり自社のサイトであるCINRA.NETは90%がタイアップでお金もらって書いてるんだけど、広告ですと明示するとすべて台なしになっちゃうから、明示しませんという趣旨のことをカミングアウトしちゃってるんですよね。 ある意味CINRA.NETは90%の記事が「隠れ記事広告」でステマですというカミングアウトなんですが、この人からするとその価値観に何の疑いも感じていない模様。  お金をもらって記事を書くことは「記事広告」なのに、それを記事広告と読者に明示するジャーナリズムとしての責任を放棄することに一抹の罪悪感も感じてないわけです。結構オシャレでしっかりした製作会社さんみたいなんですけどね。インタビュー記事も別にちゃんとしてるから、胸張って「タイアップ」です、と言えば良いと思うんですけどね。自らの手で業界を無法地帯にしたいのか 実際ちゃんと記事広告明示している媒体においては、記事広告だから読まれないとか全然無いのが証明されつつあるんですけどね。あんなブログ書いちゃうと、インタビュー記事に載っている人が読者からすると広告としてインタビューされたのにそれを明示したくない人達に見えてしまう話になっちゃったりするんですけどね。残念です。 でも、さらに残念なことに実は、広告業界関係者の中にはこうした価値観の方が実はまだまだたくさんいるのが実態なので、この人が別に特殊だとも言えないわけです。■クライアントが記事広告の広告明示を希望しない■読者も記事広告なんて読みたくない この二つの背景だけ考えたら、まぁ記事広告を広告明示するのなんて誰も求めてないように見えて馬鹿らしいですよね。そういう意味で、タイアップ記事で広告明示をしないことの何が悪いの?と本気で議論になってしまう相手が、この業界には結構たくさんいることに、私もこの業界に入って正直一番ショックを受けました。 でも、ここの境界線をルーズにした瞬間に、読者からすると全てが信じられない世界になってしまうわけで。自らの手で自らが生きている業界を、無法地帯にして価値を下げてしまうんですよね。 まぁ、そもそもネットの情報は全部ウソだと思っている人もいれば、別にテレビだって全部やらせだろ、と思っている人もいるわけで、結局そういうことでしょ、と達観してしまうことは簡単かもしれないですが。これってあまりに悲しい未来だと思うわけで。 そういう意味で、ネイティブアド研究会がやっている啓蒙活動は、ネイティブアドの信頼性云々のレベルではなく、ネット広告やネットマーケティング、ひいてはインターネットにおけるコンテンツの信頼性を担保するための必須の活動だと思います。  その辺の私の価値観の話は。昔「ステルスマーケティングで短期的に儲かったところで、結局長い目で見ると自らの首を絞めているダイナマイト漁みたいなものだという話。」という記事でも書きましたが。 案外こういうことが未だにネットの信頼性があがってこない日本のネット業界において一番重要な活動だと思ったりします。 ちなみに、先程上に上げた■クライアントが記事広告の広告明示を希望しない■読者も記事広告なんて読みたくない のうち、後者については実はメディア側の勝手な思い込みであって、本当に面白い記事であれば広告と明示しても、読者はそんなに気にせず楽しんで読んでくれることがデータで証明されつつあります。 だから、あとはクライアント側が記事広告の広告明示をしないというのはユーザーに対する犯罪行為である、ということを理解してくれれば済むわけです。記事広告の広告明示をしない企画を提案するような広告代理店やPR代理店やメディアを出入り禁止にするようにしてくれれば、広告代理店やPR代理店側もそんなメニュー提案する必然性がなくなるわけで。 やらせがばれて炎上するリスクを考えたら、隠れ記事広告を使うメリットなんてたいして無いと思って頂けると思うわけです。  現在のネイティブアドの一般認識や、アングラ化しているステマ行為の実態についての噂を聞く限り、未来を楽観視できないのは正直なところですが。是非ネイティブアド研究会の皆さんには啓蒙を頑張って頂きたいと心の底から思います。(ブログ『tokuriki.com』より2015年4月9日分より転載)とくりき・もとひこ アジャイルメディア・ネットワーク取締役最高マーケティング責任者(CMO)。1972年生まれ。名古屋大学法学部卒。NTTで法人営業やIR活動に従事した後、2006年にアジャイルメディア・ネットワークの設立に参画。代表取締役社長を経て、14年から現職。WOMマーケティング協議会の事例共有委員会委員長などを務める。

  • Thumbnail

    記事

    ステマ騒動で業界が揺れる中、ウェブメディア編集長が考えていること

    うまでもないが、これらの問題が起きた当時、消費者庁の資料では「関係性の明示」がうたわれている(第7回インターネット消費者取引連絡会・口コミサイトに関する課題より 2012/12/5)。口コミサイトにユーザーが期待する「利用者の声」が「店舗運営者による宣伝広告(つまり自作自演)」として偽装されていれば、消費者に不利益が発生するため許されない、という事になる。 現在はこの問題が口コミサイトからウェブメディアに舞台を変えて、店舗運営者が広告主や代理店・PR会社に姿を変えて、全く同じ問題が繰り返されているように見える。ステマ排除のガイドラインのつくりかたステマ排除のガイドラインのつくりかた さて、ではステマを排除するためにはどうしたらよいのか。これはウェブメディア編集長として中々頭が痛い。 シェアーズカフェ・オンラインは外部の書き手が投稿する記事で成り立っているため、書き手に対するガイドラインはサイトの運営上、生命線となる。昨年末頃に作成して少しずつ改定しているが現時点のガイドライン・倫理規定は以下の通りで、公表もしている。1.記事内で取り上げる企業・個人から金品の受け取ること。2.三親等以内の親族が経営・勤務する企業を取り上げること。3.企業・個人などから報酬の有無を問わず、依頼されて記事を作成すること。4.執筆した記事を公開前にインタビュー相手や記事内で取り上げた企業に見せること。5.自身・自社の取引先を記事内で取り上げること(消費者としての取引は除く)。6.出資・株の保有・融資など、利害関係がある企業・個人およびその商品・サービスを記事内で取り上げる事。7.告知ページ以外で自身の扱う商品・セミナーを紹介・宣伝・売り込みを行うこと。8.関連リンクで自身・他者を問わず商品・サービスのページにリンクを張ること。●利用規約・広告表記について http://sharescafe.net/archives/31971848.html 一部例外などもあるが、上記のとおりかなり細かく規定している。一言で表現すれば「利害関係のある企業・個人を記事で取り上げること」を禁止している。特に3は通常のメディアが様々な企業やPR会社とつながりがある状況と比べれば、ありえないほど厳しい。 ただ、シェアーズカフェ・オンラインは主に士業や大学教授、経営者など専門家がマネー・ビジネス・経済等の情報発信をするメディアとして運営している。自分の経験から考えても専門家が記事を書く際に企業やPR会社、広告代理店との付き合いは一切必要ない。場合によっては有害ですらある。したがって、これらのルールはステマ防止であると同時に記事の品質を担保するためでもある。 例えばこのお店のおもてなしは素晴らしい、という記事は問題ないが、そのお店の経営者が書き手の親族や顧問先だったらどうか。この企業の経営手法は素晴らしい、という記事は問題ないが、もし書き手がその企業の株を保有していたらどうか。直接的に金品のやり取りが無くとも、到底客観的な記事とは言えない。 また、IT系のメディアならばメーカーから機器を借りてレビュー記事を書くことは普通にあると思うが、ウチのサイトの基準ではアウトだ。専門家が記事を書くために、企業から何かを借りる必要は無い。唯一献本による書評のみ特例で認めているが、これも献本である事を明記する必要があり、利害関係のある筆者の本は不可としている。 誤解を恐れずに言えば、記事の内容が中立・公正・公平である必要は無い。しかし客観性が無くなれば、それは有害な情報でしかない。各種メディアや報道機関、金融機関、上場企業等で働く人には、業務上に限らず日常生活であってもある程度の制限がかかる。それらを参考にした結果、こういったガイドラインになった。アマチュアリズムがステマを排除する メディアによって必要なガイドラインは異なると思うが、何をどのレベルまで禁止すれば良いか判断がつかないサイトには参考になる部分もあるだろう。そしてこのガイドラインの根っこにある考えは、「書き手以外の意思を記事に入り込ませない」ということになる。※なお、上記ガイドラインは配信先の要請で作ったものでは無く自主的に作成したものであり、配信先の規約・ガイドライン・契約とも一切関係ない。アマチュアリズムがステマを排除する 編集長である自分は、元々個人ブログを書き始めたことがウェブメディアへのかかわりのスタートとなる。「ブロガー上がりの編集長」という事で、他のメディア関係者とは出自がかなり異なる。なぜそんな人間が編集長をやれているのかと言うと、元々アマチュアであることがプラスに働いていると、最近になって気づいた。 個人でブログを書く際、何を書くか、どのように書くか、いつ書くか。これらは全て自分ひとりで決める。つまり記事に他人の意思が入り込む余地が無い。 個人ブログで蓄積したノウハウを元に立ち上げたシェアーズカフェ・オンラインも同じように運営している。書き手はガイドラインと編集長である自分の指示に従う限りは、何を書こうと自由だ。つまり、書き手には「書き手以外の意思」を記事には含めないように指導してきた。具体的にそのような表現でアドバイスをしたことは無いが、執筆指導や添削など、アドバイスの根っこには常にそういう考え方が無意識にあった。 この無意識を意識したのが、書き手がインタビュー記事を書いた時だ。どのように書いているのかと思っていたら、書き手から「インタビューの相手に記事が問題無いか事前に確認をしてもらったところ、NGを受けた箇所があったので書き直している」という報告があった。この報告を受けた際、極めて強い違和感、もっと言えば不快感を覚えた。なぜ公開前の記事を見せる必要があるのか?と。 メディアによって、インタビュー記事を確認させるかどうかは異なる。どちらが正しいという事は無い。ただ、自分の「ブログ道」から考えると、相手にNGを受けて書き直す事は他者の意見が記事に反映される事に他ならない。これが行くところまでいけばインタビュー相手にとって都合の良いことだけが書かれた宣伝記事になりかねない(この件は書き手が悪いのではなく、ガイドラインの整備不足が原因)。「俺のブログ道」という編集方針「俺のブログ道」という編集方針 記事に他人の意思が入り込むという状況を考えてもいなかった自分にとっては想定外の出来事だったため、この件を境に記事が広告にならないようにガイドラインを含めた倫理規定を作らねば、と考えるようになった。その結果出来上がったのが上で示したガイドラインだ。 つまりステマ騒動を受けてガイドラインを作ったのではなく「俺のブログ道」から外れる書き方は許さん、という極めて個人的な編集方針が結果的にステマ排除のガイドラインのベースになっている。ましてやお金を受け取った広告主の意思が記事に入り込むなどありえない、という事だ。この点を理解できない書き手は即刻クビにしている。 ステマと聞くとお金を受け取って記事を書いている、それを通常の記事として大手メディア等に配信している、というのが多くの人の理解だと思うが、やろうと思えば他にいくらでもやりようがある。より広く考えれば「読者のために書かれていない記事」を排除するには、ガイドラインや倫理規定としてここまで決めないといけないという事だ。 こういったガイドラインや編集方針が他のメディアや読者からどのように見えるかは分からないが、ステマは確実に排除できる。事細かに書いてあるので厳しいように見えるかもしれないが、自分にとっては当たり前の事しか書いていない。ステマは禁止です、と伝えても書き手が60人もいると正確に伝わらないため丁寧に書いているというだけのことだ。以下の記事も参考にされたい。■グーグルはなぜ新入社員に1800万円の給料を払うのか?http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/43503648.html■ライザップと行列ができる本屋の共通点 ~平凡な商品がバカ売れする理由~http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/43405362.html■KDDIがナタリーを買った理由。http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/40251898.html■就職活動を始めた大学生はNHKのお天気お姉さん・井田寛子さんに学べ。http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/34559984.html■就職活動中の女子大生のために、ゾゾタウンの企業研究を徹底的にやってみた。http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/37409548.html 何かを褒める記事を書くと、必ずと言って良いほど「金でも貰ってんのか?」「ステマ乙」といったうっとうしいコメントがSNSで書き込まれる。これは単純にそういった書き込みを行う人が自分自身の(お金でも貰わないと他人を褒めないという)価値観を表明しているだけなのだが、ステマを実際に行うメディアや企業、代理店があることも当然原因の一つだ。真面目に運営をしているメディアや書き手まで疑われる状況は、明らかに異常だ。早期にステマが無くなり浄化される事を望みたい。なかじま・よしふみ ファイナンシャルプランナー、シェアーズカフェ・オンライン編集長。1979年生まれ。2011年開業、翌年に開設した「シェアーズカフェのブログ」はFPとしてアクセス数日本一を誇る。現在は日経DUAL、アゴラ、ハフィントンポスト等で執筆中。その他新聞雑誌など多数の媒体で情報発信を行う。対面では住宅購入のアドバイスを得意とする。生命保険の販売や住宅ローンの仲介等を一切行わず、FP本来のスタイルで営業中。現在は各種士業や大学教授など、多数の専門家が書き手として参加するウェブメディアを編集長として運営。シェアーズ・カフェ:http://sharescafe.com/

  • Thumbnail

    記事

    仕掛け人が語る「ホウドウキョク」 ラジオに近いメディア

    番組発でネット拡散へ フジテレビは4月1日、インターネットなどを通じて新たな形でニュースを配信する専門局「ホウドウキョク」を立ち上げた。このプロジェクトリーダーを務めるのが報道局次長の福原伸治さん(52)だ。「テレビとネットの感覚を融合させた新しいメディアに育てたい」と語り、前例のない試みの船出を楽しんでいる。 プロジェクト第1弾は、スマートフォン(スマホ)、タブレット、パソコンといったマルチデバイス向けニュース番組の24時間生放送・生配信。スマホ向け放送局「NOTTV(ノッティーヴィー)」とフジの動画配信サービス「フジテレビオンデマンド(FOD)」上でスタートする。数々の話題番組を手掛けてきた福原伸治さん。「いい意味での緩さがフジテレビの良さ」と語る=東京・台場(斎藤浩一撮影) スタジオから最新ニュースを伝えていくのを基本として、テレビと同様、時間によって番組名や出演者が入れ替わるタイムテーブルを組む。ただ、「イメージはテレビよりラジオに近い」といい、ユーザーとの距離を近づける仕掛けを模索している。 「さまざまな情報端末が普及する中、テレビが時代遅れになってしまう危機感があった。既存のテレビニュースをただ24時間に延ばすのではなく、番組発の話題がネットで拡散していくような作りにしたい」 具体的には、平日夜には国際政治学者の三浦瑠麗さんをはじめとする論客を日替わりで招き、ニュースを深掘りしていく。また、深夜0時からは、各分野のプロがトーク番組を担当。水曜深夜には作家・歌人の加藤千恵さんと作家の羽田圭介さんが本について語り合うなど、文化やサブカルチャーの話題も充実させる。 「先を見通しづらい時代だからこそ、世の中の方向性を指し示すような羅針盤としてのニュースが求められている。若い世代から働いている世代まで、世の中の動きを前向きに考えたいユーザーに見てほしい」 各番組には、フジのアナウンサーや記者、解説委員もフル動員。軍事・安保分野が専門の能勢伸之解説委員が、その分野には詳しくないタレントと安全保障について語り尽くす番組も予定しており、「フジの専門記者をユーザーに認知してもらえれば」と期待する。 もっとも、フジ報道局を挙げた“総力戦”になるため、現場は試行錯誤の連続のようだ。「仕事は大変でも、面白いことをやれば受け入れてくれる人もいる。必ずしも合理的ではないことを面白がってくれるのはうれしい」と、充実した表情を見せる。 NOTTVもFODも有料契約が必要だが、ホウドウキョクの公式サイトでは番組のうち1日12時間程度を無料で配信する。初夏にはプロジェクト第2弾として公式サイトを拡充、データや番組アーカイブも充実させる予定。「第3弾はスマホアプリを出したい。時間や場所を選ばず、ニュースに触れられるサービスを進化させていく」と力を込める。常に新しく面白いことを 先進、先鋭-。福原さんの過去の仕事を振り返ると、そんな表現がぴったり当てはまる。 数多くの情報番組を手掛ける中、「これまで新しいこと、誰もやっていないことをやり続けてきたつもりです。会社がよく許してくれたなぁと思いますが…」と笑う。演出を担当した科学情報番組「アインシュタイン」(平成2年)や子供番組「ウゴウゴルーガ」(4年)では、CG(コンピューターグラフィックス)を使ったバーチャル(仮想)スタジオをいち早く導入。特に「ウゴウゴルーガ」では、「ミカンせいじん」をはじめとするCGキャラクターが人気を集めた。 「バーチャルスタジオで生放送をやったのは恐らく初めてでしょう。インターネットを使ってデータを転送したり、テレビ用のプロ機材に一般家庭用の機器をつないだり、制作側でもかなりチャレンジができましたね」 一方、インターネット連動ドラマ「秘密倶楽部o-daiba.com」(12年)では、ドラマのストリーミング配信にも挑戦するなどネット時代を先取り。「ビッグデータ」という言葉が一般化していなかった20年には、ブログを解析して近未来の流行を予測する情報番組「近未来予報ツギクル」も送り出した。 「番組ごとに、いろんなチップを置いてきた感覚はあります。最近、仕事で新しい人に会うと、昔の仕事を見てくれているケースが多くて、ありがたいですね」と手応えを語る。 これらの担当番組は、日本のネット文化を盛り上げてきた人たちにも多大な影響を与えてきた。特に、KADOKAWA・DWANGOの川上量生会長からは、動画サイト「ニコニコ動画」で使われているテレビのアイコンは、「ウゴウゴ-」のキャラ「テレビくん」からヒントを得たと明かされたという。 「過去の仕事が新しい仕事につながっている。ネットが一般化し、人間同士のつながりも変わって、面白い時代になりました」 デジタル、ITの最先端を見つめてきた自身にとって、「ホウドウキョク」は“まとめ”。「新しくて面白いことをやり続けたい。僕はそれだけなんです」と情熱を燃やしている。

  • Thumbnail

    記事

    Netflixが突きつける「ポスト・テレビ時代」のテレビ局経営

    相が違う。 しかし、今後テレビの役割はスポーツ・報道といったライブ放送に収斂され、ドラマなどの作品はインターネットでオンデマンド(自分の好きなときに)に見る習慣が増えていく。この前提で考えると、ドラマ制作集団としての民放テレビ局はNetflixの競合となる。コンテンツを消費者に売ることができるのか 今後インターネット上でお金を払ってでも見てもらえる作品を作れるか?これが、Netflixがテレビ局に突きつける最もラジカルな問いであろう。 日本の民放テレビ局は広告放送とは違った映像文法を新たに構築する必要がある。有料のコンテンツを制作し、それを売る仕組みにリソースを振り分ける必要があるのではないか。 スマートテレビやネット配信、VODといったサービスは、テレビ市場に突然変異のように生まれた過去と非連続な発展である。未来は現在の延長線の上にはない。テレビ局が今後も市場から必要とされるためには、成功経験を捨てた戦略転換が必要ではないか。しむら・かずたか 1991年、早稲田大学卒業、WOWOW入社。2001年、ケータイWOWOW代表取締役を務めたのち、情報通信総合研究所主任研究員。2014年よりヤフー。著書「明日のテレビ」(朝日新聞出版)「ネットテレビの衝撃」(東洋経済新報社)「明日のメディア」(ディスカヴァー・トウェンティワン)などで、いち早く欧米のスマートテレビやメディアイノベーションを紹介したメディア・コンテンツ研究の第一人者。5月に新刊「群像の時代」(ポット出版)が発売された。2000年米国エモリー大学でMBA、2005年高知工科大学で博士号取得。水墨画家アーティストとしても活躍。

  • Thumbnail

    記事

    「黒船来航」でテレビ局の戦国時代は加速する

    安倍宏行(Japan In-depth 編集長) ようやく、というべきか。テレビ局がいよいよインターネット戦略に本腰を入れ始めた。2015年はテレビにとって「ネット戦略元年」として記録されるだろう。ニュース専門ネットチャンネル 2015年一番のニュースは、この春のフジテレビの24時間ニュース専門ネット局「ホウドウキョク」の開局だろう。これまでもキー局のニュース専門チャンネルとしては日本テレビの「日テレNEWS24」やTBSの「TBSニュースバード」などがあったが、ネット専門に24時間オリジナルニュースコンテンツを流す試みは日本初だ。フジテレビ内のスタジオから記者、特派員、デスク、解説委員らが総動員でニュースを生解説する。 開局当初はスマートフォン向け放送局NOTTV2(ノッティービーツー)とフジテレビの動画配信サイト、FOD(フジテレビオンデマンド)の有料会員向けとしてスタートしたが、既に「ホウドウキョク」のホームページで無料コンテンツが視聴できる。無論スマホでも視聴可能だ。第2段階として無料コンテンツが増えていくという。既に過去放送分をアーカイブ化しており、様々なデバイスで検索して視聴できるようになっており、ニュースをスマホで持ち歩く時代を見据えている。 さて、他のキー局のネット戦略はどうなっているのか。テレビ朝日は今年3月、サイバーエージェントと共同出資による動画配信事業会社およびニュースチャンネル事業会社の設立で合意した。1社が定額制動画配信プラットフォーム事業を行う株式会社「Abema TV」であり、もう1社がニュースチャンネル事業を行うといい、スマホやタブレット向けに様々な番組を提供する予定だ。 TBSは2011年12月に日本経済新聞社と「新メディア」や経済・社会のグローバル化に伴い成長する「新市場」に焦点をあてた コンテンツの開発・提供などで業務提携することで合意。共同事業組合「日経・TBSスマートメディア」を設立し、2012年9月にスマホ向け新サービス「日経サプリ with TBS」の配信を開始し、TBSの番組に連動した経済解説動画などを配信しているが、あくまで単独の有料サービスに止まっており、ニュースのネット生配信にはなっていない。 フジテレビ「ホウドウキョク」の動きを他のキー局も注目している。テレビ朝日の報道局幹部は「(ニュースの配信は)正直どのプラットフォームがメインになるかわからない。もしかしたらFacebookのようなものになるかもしれない」とし、当面は全方位で臨む姿勢を示した。 また、日本テレビの経営戦略幹部は「うちも日テレNEWS24などのニュースコンテンツがある。フジテレビの『ホウドウキョク』が成功してくれれば、さらなるネット戦略拡大に向け、社内的に大義名分が出来る」と述べ、ニュースのネット配信の次の戦略を見据える。定額制動画配信サービス6月18日、サービス開始について報道陣に説明するネットフリックスのグレッグ・ピーターズ日本法人社長= さて、そのフジテレビがネット・メディア戦略の二の矢として6月に打ち出したのがアメリカ定額制動画配信サービス最大手、Netflixとのオリジナル番組の製作・配信だ。今年秋に、海辺のシェアハウスに同居する若い男女6人の恋愛模様を描いた人気番組「テラスハウス」の新作などを提供する。世界50か国に6200万人のユーザーを抱えるNetflixとフジとの協業だけに耳目を集めたが、ふたを開けてみれば資本提携ではなく、単なるコンテンツの共同製作。他局もNetflixと共同製作をやろうと思えばやれるわけで、基本的に資本関係にある日テレとHuluとの関係とは全く違う。 その日テレ・Hulu連合は、フジ・Netflixの発表に先立ち、初の地上波・ネット連動型共同ドラマ製作を手掛けていた。それが、唐沢寿明主演のアクションドラマ「THE LAST COP(ラストコップ)」第1話をまず地上波で放送し、第2話以降をHuluで配信するという初の試みだ。担当プロデューサーは「地上波ではいろいろな制約があって製作出来ないようなシーンもネットなら可能なのが魅力。時間的な制約もない。ドラマの製作者としてとてもチャレンジングだ」とオリジナル作品の持つ可能性に期待をかける。前出の日テレ幹部も「評判は上々。動画視聴者数も伸びている」と評価する。 とはいえ、今回の共同製作はあくまで話題づくりの側面が強い。真の狙いはあくまで、ネット動画配信を通じて地上波のリアルタイム視聴を増やすことにある。そうした狙いを、日本テレビは系列局に説明し、Hulu上にコンテンツ提供を依頼し、実際かなりの数の番組が系列局から提供されている。一見、日本テレビ本体と系列局、一体となってネット戦略にまい進しているかに見えるが、取材してみると系列局から日本テレビのHulu重視の戦略に関し不安の声が漏れ聞こえる。NHKを注視する民放各社 どういうことかというと、系列局はもともとキー局のバラエティ番組やドラマを購入し再放送を実施しているが、同じ番組がHuluでいつでも視聴できるということは、自局の視聴率低下につながるのではないかという懸念があるというのだ。また、キー局がいくらネットへの番組配信の目的が「リアルタイム視聴への回帰」にある、といっても、実際にネット配信によって地上波の視聴率が上がったこと示す確たるデータはない。また、ネットでの動画視聴は若年層の利用者が多い上、映画やドラマを視聴する人が多いことから、どこまで閲覧者がいるのか疑問との声もある。このままだと地方局弱体化につながるのではないかという不安ばかりが広がっているのだ。 とはいえ、テレビ朝日の幹部は「Huluは月額会費1000円弱、会員数100万人として年間100億円の収入となる。これだけあれば色んなことが出来る」と日本テレビ-Huluの今後の動きに神経をとがらせており、キー局の定額制動画配信サービス強化の動きは止まりそうもない。系列局との関係を維持しつつ、どうビジネス上のシナジーを生んでいくのか、先は見通せない。NHKを注視する民放各社 一方、民放各社が懸念しているのはNHKの動きだ。それは、NHKが今年1月に「NHKビジョン」を発表し、「公共放送」から、ネットを含めた「公共メディア」に進化すると宣言したからだ。2015年度からの新3カ年経営計画では、放送番組をネットでも同時に配信する「同時再送信」やネットを使った様々なサービスを拡充すると発表した。6800億円を超える巨額の収入があるNHKの動きが、民放の競争を阻害するのではないかとの懸念の声も強い。NHKのネット戦略が本格化してくるとさらに一波乱ありそうだ。 いずれにしてもようやく、テレビ局のネット戦略は端緒についたばかり。どの局もライバル局の動向を見ながら次の一手を探っている状態だ。ニュースのネット配信と、動画の定額制配信が、地上波のリアルタイム視聴回帰に貢献するかどうか、まだわからない。もっといえば、巨額の資本を持つNetflixがオリジナルコンテンツを作り始めたら日本のテレビ局は太刀打ちできるのか、不安視する向きもある。 現にNetflixは100億円の製作費をかけてオリジナル超大作ドラマ超大作『ハウス・オブ・カード 野望の階段』を製作した実績が有る。このドラマは、全米で2013年2月に一挙配信されるやいなや、たちまち大評判となり、ネットドラマとして初めて米放送業界で最も権威がある「エミー賞」3部門を受賞した。なにせ主演は映画「セブン」のケビン・スペイシー、そのクオリティは日本のドラマの比ではない。コンテンツメーカーとして君臨してきたテレビ局は、ネット戦略を加速しないとその座を奪われかねない。まさにテレビ局にとって“戦国時代”に突入したといえよう。

  • Thumbnail

    記事

    本質さえ忘れなければ新メディアは、旧メディアの敵ではない

    高橋秀樹(放送作家、日本放送作家協会常務理事) 「あれ? それTBSラジオだよね運転手さん?」 そうタクシーの運転手さんに声をかけたのは、愛媛県の新居浜にある別子銅山に行く途中のことであった。 「そう、愛媛のラジオ局よりずっと面白い。ラジコが出来てからこればっかり聞いてるよ」 60がらみの運転手さんは、うれしそうに答えた。「ラジコ」とはもちろんradikoのこと。ネットを通じて全国のラジオが聴けるサービスである。 タクシーのダッシュボードにあるカップホルダーにはスマホが挟まっており、そこから安住アナの声が聞こえてくる。旧メディアはであるラジオは、新メディアであるネットを利用して復活した。特にTBSラジオはターゲットを商店主や自営業者、農家など在宅する高齢者に絞ったことで、もう13年もトップを走っている。 小説家の小林信彦さん(83)は、「テレビはいろんな意味でうるさくて、ラジオしか聞かない」と、常々おっしゃっている。ラジオのことが褒めたいと思って、本稿を書き始めたわけではない。 「旧メディアが新メディアを敵だと思うのは見当違いだ」 と言うことが言いたいのである。 ずいぶん古い昔、テレビが始まった頃。寄席のテレビ中継をやろうとしたら、「テレビで、タダで噺を見せちまったら、寄席におタロ(お金)払って聞きに来るキンチャン(客)がいなくなるじゃねえか」と主張した噺家や席亭が居た。彼らにすれば、テレビは寄席の敵だった。新メディアであるテレビを利用することを考えなかった。それで、落語は長い低迷期にはいった。 「笑点」は続いていたけれど、あれは、落語の一側面でしかないし、そんなに面白いものでもない。最近落語が一過性のブーム((C)春風亭小朝)になって、しばらくの間一過性のブームが続くようになっているが、それは落語家が落語であることの本質を演るようになったからだ。 テレビではダメになったスポーツエンターテインメントもある。あれほど人気があった力道山やジャイアント馬場のプロレス、F1レース。プロ野球は、ジャイアンツがカネを頼んで選手を集めるようになって愛想を尽かされた。サッカーは「ガンバレ日本」でないと視聴率を取れなくなった。 これは、テレビでやったから飽きられたのではない。本質を忘れているからだ。 大相撲はお年寄りが多く観ているから、視聴率はよいが、白鵬ばかり勝っているのは相撲の本質ではない。白鵬には、大鵬の柏戸に当たる人がいない。 とまあ、本質さえ忘れなければ新メディアは、旧メディアの敵ではない。 テレビ対日本映画という新旧メディア対決もあった。あっさりとテレビが勝った。でも、日本映画は、長い低迷期を抜けたように思える。テレビでは出来ないことをやろう。テレビ局に入るのではなく、貧乏でもいいから映画をずっとやっていこうという監督が増えたからではないか。 逆に、今は、テレビが映画監督に頼っていることもよくある。 テレビとネットの関係を考える。ネットはテレビの敵だという人がいた。今もいる。それは間違いである。テレビ自体の視聴率が落ちたのは他メディア時代が到来したからだが、そのせいばかりにするテレビマンは考え違いをしている。 テレビがネットのまねをしているからイケないのだ。動画を集めてみせるコーナーは、ネットに任せておけばいいし、ひな壇に芸人を並べてずっとしゃべっている番組もネット動画の得意技だ。 テレビしか出来ないことは何だろう。それは「創る」ことだ。「稽古」することだ、これ以上は企業秘密だから言わない。 テレビゲームがいくら流行っても、レゴで遊ぶ人はいる。スマホがいくら全盛でも、ガラケーに戻す人はいる。手帳を使い続ける人はいる。電子書籍が場所を取らないと言っても、紙の本を棚に並べたい人はいる。紙の本が、本としての本質さえ失わなければ。(メディアゴンより転載)

  • Thumbnail

    記事

    中高年も地上波離れ BSに格安でCM出す方が反響大きい例も

     今秋、映画やドラマなどをインターネットを介して配信する米ネットTV最大手「ネットフリックス」が日本でサービスを開始する。これまでのように週1回、決まった時間にテレビの前に陣取ったり、録りためておいたりする必要はない。いつでも好きなだけ自分の都合でドラマや映画を堪能できるようになる。このサービスに対応したテレビも続々投入される。 一方、日本の地上波テレビは特に若年層の視聴者から見放されつつある。BS放送局幹部が話す。BS-TBS『吉田類の酒場放浪記』に出演している吉田類さん 「『吉田類の酒場放浪記』(BS-TBS)や『大杉蓮の蓮ぽっ』(BSフジ)などのBSのヒット番組は地上波から視聴者を奪う牽引役になっている。4月からBS放送でも視聴率調査が始まるが、人気番組だと6~7%は十分狙える。地上波を超える数字を叩き出す番組もいくつか出るはずだ」 CSやケーブルTVを契約する家庭も増え続けており、海外ドキュメンタリーやスポーツ・チャンネル、アニメ、映画、海外ドラマなどを主に見るという家庭も今や多い。 さらに地上波テレビ局から視聴者を奪っているのがインターネットだ。YouTubeなどの動画投稿サイトばかりでなく、アイドルや芸人が冠番組を持ち、多くの視聴者を獲得する「プロ」によるインターネット番組が増えている。 『Cheer Upバラエティ!しずる館』はお笑いコンビ・しずるがMCを務める今年1月スタートのネット番組。2月19日放送では、同時間帯で国内トップの視聴者数(3095人)を記録。YouTubeでも1か月で再生回数3万回を超えた。 動画共有サイト・ニコニコ動画を運営するニワンゴの生放送専用サイト「ニコニコ生放送」では、アイドルグループ・NMB48の冠番組『NMB48 アイドルらしくない!!』が人気だ。毎回メンバーのひとりが登場しファンと討論するなど、地上波ではできない番組作りが支持を集めている。 一つひとつの番組の視聴者数は地上波には及ばないが、ネット上にはそうした番組が無数にあり、ユーザーは好みに合わせて見ることができる。テレビを持たない若者が増えているのもうなずける。 総務省調査によると、2013年度のテレビ視聴時間(平日、リアルタイム)は2012年度に比べ16.4分(約9%)減。中でも40~50代の視聴時間が前年度比で40分も減少した。テレビ離れは若者だけでなく、中高年世代の「卒テレビ」が顕著なのだ。 視聴者が減ればテレビ番組の「商品価値」も下がる。広告代理店関係者の話だ。 「スポンサーにとって地上波にCMを出すメリットはどんどん減っている。料金は高いが全国にCMが流れることこそ地上波への出広の最大の理由だったが、BSに5分の1や10分の1の値段でCMを出したほうが商品への反響が大きいといったケースが増えている」関連記事■ 視聴率最高記録は『第14回NHK紅白歌合戦』の81.4%■ BS・CSのゴールデン帯総視聴率 NHK、フジ、TBS超える日も■ 地デジ化は世界のスタンダードに逆行 欧米では超マイナーだ■ フジ島田彩夏アナ「この春、エリートコースに乗った」と評判■ テレビ局儲けのテクニック「続きは有料で」の新たな手口登場

  • Thumbnail

    記事

    『学校でのドッジボールも禁止』ゼロリスク病と日本社会

     R25で記事になり、Twitter界隈で少し話題になったドッジボール論争。「痛いから嫌だ」「危険だから禁止したほうがいい」という気軽な意見が飛び交うTwitterならでは、みながわいわいと見解を述べ議論になっています。 学校にまつわる話題から町内会、電車でのマナーその他、あらゆる局面で人間同士の暮らし方の違いからくる誤解や違和感、不快といったストレスがネットに放流され、共感をされたり反論されたりいろんな発言の交差点になっているのは興味深い限りです。 これら、ちょっとした社会におけるストレスを見つけて「症候群」にしたり「違和感」を表明する仕組みはかねてからありました。いわゆる問題の再発見であり、症状の発明に近いこの現象は、ある意味で言葉を商売にする評論家や作家が世情を切り表現するための仕掛けとして、分かりやすい言葉を作り上げ、それに賛否が集まって論争になることで社会は問題そのものを消費していくプロセスになるわけです。 ネットでの議論が盛んになると、どうしても議論が極端な方向に行きがちです。例えば、学校の組体操が危険だ、子供の怪我が多いという話が出ると、みんな危険だからそのようなものは取りやめようという議論になります。メディアも、組体操の目的が何であって、そういう体操で怪我をした子供や保護者に話を聞きにいきひとつのパッケージに仕上げていきます。 社会が便利になると、昔からあるもので「何でこれってやってるんだっけ」というネタは大量に発掘されます。正月におせちを食べることは保存食のないころの風習だからとケチがつき、誰かが結婚することへのお祝いも現代社会の男女のあり方からすると結婚制度自体を見直すべきと問題が提起される社会になります。 ウェブで自由に意見を表出できることも含めて日本社会が成熟してきたからこそ、問題や権利や危険に敏感になり、解決するために意見を表明したり賛否を議論することに抵抗がなくなったのかもしれません。ゼロリスク病とでも言うべき敏感な層が増えてきたのも事実だと思いますが、個人的にはそういうゼロリスク病を患っている人こそ、高度に情報化された社会に必要なタイプなのではないかと思います。 世の中にはいろんな問題の種があって、それに対して敏感に感じ取れる人が分かりやすく問題を提起できれば、多くの人たちが「そういえば、そういう問題もあるな」と気づくのは当然のことです。そういうあまり光の当たらない事象を抉り出し、人々の裁定を行える環境で議論をすること自体が、私たちの求めた情報化社会だったのではないかと思います。 電車の中でのベビーカー使用にせよ、集合住宅でのゴミの出し方にせよ、決め事は人間同士が円満に社会で暮らしていくために必要だから行われ、マナーも最大公約数がそれが妥当であると感じるからみんなが守るのであって、その時代時代によって人の意識が変わり、うつろうのは大事なことです。むしろ、不満や不安や不快を感じて黙っているほうが今後の日本社会では割を食う世界になっていくのかもしれません。 いわゆるモンスター化をするような意見の表明の仕方でなければ、タブーなく何を言ってもまずは良いのでしょう。また、相手の意見を受け入れる気持ちを持ちながらも自説をしっかりと述べて議論を重ねることは意味のあることでしょう。そして、いまの日本には徐々にではありますがタブーなくきちんと意見を表出できる仕組みがたくさん出てきて、右も左も老いも若きも自分の人生観や価値観に照らし合わせて「これを言いたい」「伝えたい」ということが出てきて喋れる環境の恵みというのは本当に大事なんだと思うわけですよ。 逆に言うならば、ドッジボールが痛いし危険だというのは私の子供のころからみんなが思っていたことでした。スポーツとして楽しいと思える子は少数で、早々に当てられた大多数の子は外野でボールを回し合っているだけの競技だったというのは感じます。それでも、禁止するほど危険でもないだろう、いやあれはスポーツとして完成度が高いのだ、という意見が出れば、考えていることと違っても「そういう意見もあるのか」と納得しつつ「じゃあどうするのか」と話題の駒を進めていけばよいわけです。 恐らくは、こういうゼロリスク病的なこまごまとした議論を日本人が毎日消化しながら、少しずついろんな意見に慣れていき、考えを伝える練習をしていくことでもっと大きな国民的議論も醸成されていくのではないかと思います。いきなり街角で「集団的自衛権はどう思いますか」と質問されてしどろもどろになることを避けるためにも、日々の中で問題意識を持ち、一個一個の問題に自分の考えを固めて、言いたいことがあればどんどん意見をネットに出していくことで見えてくる形はあるだろうということですね。 ウェブでの議論は壮大な暇つぶしと思われがちですが、ただ総体で見ると意外と日本人の総意の方向性ぐらいまでは分かるような気がします。リスクが少しでもあれば何でも禁止にしたければそれも意見であろうし、それはやりすぎだろう、やる側が配慮すればそれでいいじゃないかというのも意見です。大事なことは、飽きずに考えを表明し続けることにあるんじゃないかと思うのですが、どうでしょうか。

  • Thumbnail

    記事

    NYタイムズが注目した「ネトウヨ」 憂うべき日米の行き違い

    からだ。 既に韓国の主要紙は後追い記事を書いた。NYTが日本の「ネトウヨ」に注目し、「規模は小さいがインターネット空間を通じて団結し、攻撃的な性向を見せ」「自国の暗い歴史を忘れてはいけないという日本人たちを脅かしている」云々(うんぬん)と紹介した。 韓国紙の一部に至っては、「今年7月、群馬県が県立公園にある『強制動員犠牲者追悼碑』の撤去を決定したのもネット右翼の攻勢によるもの」と断じていた。このNYT記事は日本よりも、韓国やワシントンの関係者の間で、ちょっとした騒ぎになっているらしい。 同様の対日批判はワシントンでも散見された。「朝日新聞批判に見られる如(ごと)く、安倍政権はネトウヨの脅迫を許容しているが、これは同政権の対韓政策だけでなく、日本人の礼節そのものを傷付けている」などという、およそ的外れの議論すらまかり通っている。これには筆者も黙ってはいられない。早速毎週書いている英文コラムで反論した。日米間の深刻な認識の行き違いが…=東京・元赤坂の迎賓館(代表撮影) ●NYTはネトウヨの多くが現状に不満を持つ若年失業者だと書いているが、それを証明する十分な資料はなく、実態はそれ以上に複雑だ。 ●普遍的価値の枠内であれば過去への向き合い方が国・民族によって異なるのは当然で、特定の国のやり方だけが正しいとする理由はない。 ●例えば、戦後日本の場合は、1950年の朝鮮戦争勃発による占領当局の対日政策変更が出発点となっている。日本人の礼節云々の議論などはおよそ的外れ。 ●米国人の一部にはこのような単純な事実を理解しない向きがあるが、この米国のナイーブさは大いに問題だ。 ●これとは別に、現在米国の識者の中には、日本の一部で新たな反米主義が芽生えているのではないかと懸念する向きがある。 ●しかし、民主主義の定着した日本でこうした懸念は無用。過ぎたるは及ばざるが如しというではないか。米国のナイーブさも、やり過ぎれば、逆に日米同盟にとって最も重要な、多くの常識的で健全な日本の保守主義者を疎外するだけだ。 ●ネトウヨと健全な保守主義者を混同する視点は、日米関係にとって良くないばかりか、多くの副作用をもたらす。米国が反米主義の再来を恐れるあまり、逆に反米主義者を作り出しているのだとすれば、皮肉としか言いようがない。 ●このような現象は、アジアだけでなく、最近の欧州や中東でも共通してみられる。 ●欧州やアジアの旧世界の国々はこうした米国の「ナイーブさの押し売り」傾向を尊重しつつも、裏で冷笑している。他方、こうした傾向を失えば、アメリカはアメリカではなくなってしまう。これもまた人類全体にとっては大きな悪影響がある。 これでまた多くの米国の友人を失うかもしれない。それでも、筆者は書かざるを得ないと考えた。多くの人々はいまだ気付いていないが、筆者には現在日米間で、僅かながらも、将来的には極めて重大な認識上の、または感情的な行き違いが深く潜行しつつあるのではないかという一抹の不安があるからだ。 確かに、表面上は日米同盟関係に懸念はない。しかし、両国が昔大戦争を戦い、勝者と敗者の関係に入って約70年たったことも否定できない。今の日本には、中国や韓国以上に、米国との政策面、認識面、更には感情面での再調整が必要ではなかろうか。これこそ筆者が今回のNYT記事を熟読すべきだと考える真の理由である。 みやけ・くにひこ 昭和28(1953)年、神奈川県出身。栄光学園高、東京大学法学部卒。53年外務省入省。中東1課長、在中国大使館公使、中東アフリカ局参事官などを歴任し、平成17年退官。第1次安倍内閣では首相公邸連絡調整官を務めた。現在、立命館大学客員教授、キヤノングローバル戦略研究所研究主幹。関連記事■ ネトウヨ批判の源流「排外・好戦的なのは大衆」という嘘にご用心■ 「小4なりすまし」擁護論も登場、炎上続く■ 三原じゅん子の「八紘一宇」発言 その本義とは…

  • Thumbnail

    記事

    デジタルタトゥーで人生台無し「ネットに匿名性はない」

     「デジタルタトゥー」。直訳すれば「電子的な入れ墨」だが、インターネット上に一度投稿されたログ(記録)はまるでタトゥーのように消えず、半永久的に残り続けることを表す造語だ。軽い気持ちで投稿した記述や画像が膨大な数のネットユーザーにまとめられ、瞬く間に拡散。不本意な投稿が残り続ける。軽率なワンクリックが人生を台無しにしてしまうこともあり、専門家はユーザーに警鐘を鳴らしている。 デジタルタトゥーの概念が唱えられたのは平成25年2月。米カリフォルニア州で開かれたさまざまな分野の専門家らが集まる大規模な講演会で、ベンチャー企業の役員が「人間は不死になった」との表現でこの造語を紹介した。 ヤフーやグーグルなど検索エンジンの検索履歴、サイトの閲覧先、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の位置情報や顔認識データ。ユーザーの思考回路や行動がネットに記録され、そのデータは書き込んだユーザーが死亡後も生き続ける「不死」の状態になるというのだ。 大阪、神戸の市営地下鉄では年夏、高校生の少年らが線路内に立ち入り、ピースサインをして楽しんでいる写真を短文投稿サイト「ツイッター」にアップして物議を醸した。写真の顔をモザイク処理することもなく、ネットユーザーが投稿者の顔や名前からすぐに身元を〝特定〟。少年らの個人情報は一瞬にしてネット上にさらされた。少年らはその後、鉄道営業法違反などの容疑で立件された。 最近、こうしたSNSやネット掲示板への軽はずみな投稿が目立つ。 コンビニで客の男がアイス用冷蔵庫に入り、自身の姿を撮った写真を投稿。テーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」(大阪市此花区)では複数の学生が裸でジェットコースターに乗る迷惑行為、飲食店では集団の男性客が全裸で席に座った場面の写真を投稿した。 度を越した行為によって休業に追い込まれる店もあり、悪質な行為をした投稿者らは威力業務妨害容疑で書類送検された。ある捜査関係者は「今や誰でも画像や動画を公開できる時代。ネット世界と現実世界の区別がつかず、やってはいけないことの線引きができていないのでは」と嘆く。 「ネットユーザーは、一つ行動を間違えれば人生を失いかねない」。そう警告するのは兵庫県情報セキュリティーサポーターの篠原嘉一さん(53)だ。 自身の投稿に注意するのは当然の自衛策だが、SNSに入力した住所、氏名、連絡先、勤務先などの個人情報は、設定次第では誰でも閲覧可能。犯罪組織に見られれば事件に巻き込まれる危険もあると指摘する。 SNSでは、投稿した場所が「~町付近」といった具合で公開される。スマートフォン(高機能携帯電話)ならGPS(衛星利用測位システム)機能で位置情報が分かる。パソコンでもネット上の住所「IPアドレス」で大まかな位置を把握でき、自宅だと住所が漏れる。さらに知人が投稿した画像に自身の顔が掲載され、顔認識(タグ付け)されてしまえば…。自ら個人情報を大公開しているのと同じだ。 特定されれば誹謗(ひぼう)中傷を受けたり、犯罪に利用されたりする恐れがある。篠原さんは「投稿した記述や画像は瞬時にまとめられ、それが集約されていくと特定につながる。データは半永久的に消えず、投稿者は心に傷を負う」とデジタルタトゥーの危険性を指摘した上で、こう警告した。 「もはやネットに匿名性などない。事件が起きてから後悔しても遅い」関連記事■ ネトウヨ批判の源流「排外・好戦的なのは大衆」という嘘にご用心■ 「小4なりすまし」擁護論も登場、炎上続く■ 三原じゅん子の「八紘一宇」発言 その本義とは…

  • Thumbnail

    記事

    ネットで「スイッチが入る」瞬間

     ネットでの印象と、実際にあったときの人柄や雰囲気が違う。私がよく言われる言葉です。どっちがどっちなのかは分かりませんが、私自身は白黒はっきり言いはするものの、基本的には対人関係において相手を立てる受身な性格です。 ネット人格と言われると、あたかも不思議なものだ、恐ろしいと感じられることも多いのですが、実際のところ、パソコンやスマホに向かってモノを書いていると、なるだけ相手に考えていることが誤解なく伝わるように、いつも以上にストレートに書き記そうとする傾向が強くあります。このあたりが、文字だけで伝わるネットのコミュニケーションから感じられる人格と、実際の私への評価が異なる大きな原因なのでしょう。 昨今、犯罪捜査や事件報道などで、その容疑者なり犯人なりの人となりをプロファイリングするとき、こういうネット上で書いている事柄を基準に、その価値観や思惑を読み解こうという姿勢が強くなってきました。報道や情報番組でコメンテーターをしていると、事件に関わりのあった人のLINEやTwitter、FACEBOOKなどのSNSでの公開された書き込みを手がかりに人物像に迫ろうという内容が多く見られます。直接対話できない人たちの考えを、公表された文字や文章から読み解こうというのは当たり前のことだし、それ自体は自然なことだと思います。 一方で、私たちが何気なく使っているSNSでの書き込みは、どこまでがその個人の性格そのものなのでしょうか。たとえば、FACEBOOKではその人それぞれのハレの場が写真つきで提示されたり、夜に食べた料理の画像や観た映画の感想、家族、結婚式、入学式などなど… その人の節目に関するものや、ありふれた日常の中のルーティンなど、さまざまな使われ方をしています。そこに書き添えるコメントや、誰かからの反応のメッセージなどもあわさって、誰か第三者に読まれるとは思っていないはずのコミュニケーションが詰まっています。 人それぞれの使われ方をしているSNSから読み解けるネット人格というのは、必ずその使われ方特有の文脈、コンテクストを持っています。ある人は頻繁に料理画像を上げ、別の人は綺麗事や自分の自慢話を継続的に掲載する、そういう文章から受ける印象だけで、かなりの部分が受け手の勝手な想像でネット人格を膨らませてしまっていることも多くあるように感じます。日常生活で何か出来事があり、憤怒している状態でついネットに愚痴を書いてしまう、それを他人が見て「この人は攻撃的な人だ」と早合点する傾向が強いのもまた、ネットの受け手の側の印象に左右されるということです。しかし、実際にはその人にはその人の暮らしがあり、そこで受けた感情があって、それを表に出したい、伝えたいという欲求があって書き込まれるものである以上、ネットで書かれている内容だけをもってネット人格を規定してしまうのもまた危険です。 パソコン通信から曲がりなりにも25年間ネット社会を見続けてきて、強く感じるのは人々の考え方や関わり方の多様性です。あまり類型を作ることもできないぐらい、さまざまな人たちがネットを利用し、コミュニケーションを積み重ねて社会を作り上げています。よそからポッとその人の書き込みを見て感じる印象だけでネット人格を論じるのはむしろその当人に対しておこがましいものであって、やはり本当のところ何を考えているのかについてはしっかりと本人とコンタクトを取り、何度か質疑応答をしてからでないと、なかなか肌感覚が掴めないぞ、ということでもあります。 断片的な情報をもって、その人の性格について分かった気持ちになるのは簡単です。ましてや、ネットのように限られた世界に記された文章だけで類推するのはお手軽ですし、ネット人格という言葉に代表されるようにいくらでも読みようはあります。しかしながら、ディスプレイを挟んで回線の向こう側にいるのは、ほとんどの場合が生身の人間です。たまにボットやAI、サクラもいるかもしれませんが、リアルの対面での人付き合いですら他人を真に理解することのむつかしさがある以上、ましてやネットをやというのは、きちんと想像するべきです。 逆に、家庭の事情や精神的な状態が理由で「ネットにしか居場所のない人」というのもかなりの数が存在します。ネットの中では声の大きい彼らのことを過大評価することもあるでしょうが、肥大化したネット人格の虚像というのは、リアルの問題が起きて、その人物が白日の下に晒されることがあると、だいたいおおよそどのような人間であるかが客観的に判断がつくのもまた事実です。 むしろ、いまあるネット人格やネットでのサイバーカスケイド的なもの、ひいてはネトウヨ。放射脳論争というのは、もちろん一つひとつの議論は大事だけれども、ネット内で騒ぎが大きくなっているからといってそこまで深刻に捉える必要もないのではないかと思います。また、ネットをやると性格が変わるというのは事実関係が逆で、もともとそういう対人コミュニケーションの様式を持っていた人が、ネットというツールを使うことで、解き放たれたのだと考えると、理解がしやすくなります。 ネットでの過激な論争や言い争いもそうですし、プライバシーの問題などでもだいたい似たような騒動が起こります。これは、リアル社会にネット社会が組み込まれていく過程なのだと割り切って、ネットでの情報削除基準やプライバシー法制もしっかり考えていくべきだと思っています。関連記事■ ネトウヨ批判の源流「排外・好戦的なのは大衆」という嘘にご用心■ 「小4なりすまし」擁護論も登場、炎上続く■ 三原じゅん子の「八紘一宇」発言 その本義とは…

  • Thumbnail

    記事

    「ネット後発組」が日本社会を後ろ向きに変えている

    古谷経衡(著述家)「ネット人格」とはなにか インターネット、特にツイッターやSNSを覗いていると、ネット上だけの人格=「ネット人格」を持っている人が少なくないことに気がつく。 この「ネット人格」とは往々にして二重人格のようなもので、殆どの場合は、「ツイッター上でものすごく攻撃的な言動を行っているが、実社会で対面すると、借りてきた猫のようにおとなしい」というもの。つまりネット上のみでの人格豹変だ。 またごく稀に、ネット上の攻撃的人格と、実社会のリアルな人格が全く一致する場合もあるが、これは別の意味でなにか深刻なメンタル面の問題を抱えている症例である場合が多く、ここでは詳述しない。 さて、この「普段はおとなしい(のように見える)人が、ネットのみで攻撃的な人格に豹変する」という「ネット人格」は、今や大きな社会問題になっている。 特定の民族、国家を口汚い言葉で呪詛する、所謂「ヘイトスピーチ」はいまや大きな問題になり、2014年からは法務省が「ヘイトスピーチ」根絶のための啓発週間を設けるまでに事態が進展した。安部首相もこの問題の解決のために必要な措置をとる姿勢を鮮明にしている。 「ヘイトスピーチ」をネット上で書き込む人々の多くは、実社会では仏のような微笑みを保ち、まさしく「温厚」の二文字が似合う中・高年の人々に多い印象がある。彼らは努めて常識人で、収入や社会的地位も比較的安定している。そういう人が、ネット上では見るに耐えない罵詈雑言を、主に隣国と隣接民族に向かって投げつけている姿を目撃してしまう事例は、一度や二度ではない。 「ネット人格」はなにもヘイトスピーチばかりではない。著書があり雑誌のコメントや新聞のインタビューなどに取り上げられるような著名人が、例えばツイッター上で、リプライ(他のユーザーへの返信)という形で、読むに耐えない罵詈雑言を放っている例を目撃してしまうことも、やはり一度や二度ではない。 彼らは平気で、ツイッター上で「死ね」「お前はクズ」「馬鹿は消えろ」などと書き込んでいる。更に踏み込めば、そういった罵詈雑言自体を「毒舌」として、ある種自分の個性というか、芸風にしてしまっている人もいる。私からすれば「死ね」は毒舌ではなく単なる誹謗でしかないが。  しかしこういったネット上の「毒舌」を駆使する著名人であっても、実社会ではやはり、これといって目立たない、「借りてきた猫のようにおとなしい」温厚な人が多い。やはりこの自称「毒舌」も「ネット人格」の一種だ。このような歪んだ「ネット人格」が形成される背景には、どのような理由があるのだろうか。「ストレス主因説」「格差主因説」はウソである 「ヘイトスピーチ」という単語が一般化する前の時代、長らく、ネット空間における差別的言説や罵詈雑言、誹謗中傷は、「現代社会のストレスや構造的ひずみ=格差がもたらしたもの」である、という「ストレス主因説」や「格差主因説」が採られてきた。 普段はおとなしい人が、ネットになると豹変する―。「きっと仕事が辛いのだろう」「奥さんや旦那さんと上手くいっていないのだろう」「実生活の貧困など不遇のはけぐちをネットに求めているんだろう」いずれも、「ストレス主因説」「格差主因説」を説明する典型である。 この説明は「ネット右翼」に関する言説でも、全く同じだった。「ネットで過激な民族主義的言説、排外主義的言説をする人々は、格差社会の中の貧困層であり、現実の憂さ晴らし、はけ口としてやっているのである」これが古典的な「ネット右翼」観であるが、実際には全く違う。「ネット右翼」は全般的に中産階級であり、貧困性とは無縁だ。 「コンクリートだらけの現代社会で人々の心が荒んでいる」とか、「情報化社会の進展の中で人と人とのふれあいが希薄になっている」などという、手垢のついた言説は、「ネット人格」形成の説明には全くなっていない。 その説明が正しいのであれば、1990年代から急速に普及してきたネット空間は、最初から差別的言説や罵詈雑言、誹謗中傷に溢れていなければならないが、そうではない。これらの「ネット人格」がもたらす弊害は、時代が経てば経つほど、ネットが普及するればするほど、盛んになっている。つまり、ネット空間が今ほど拡大していなかった、比較的初期の時代には、このような「ネット人格」の問題は、実際の問題としてそれほどクローズアップされていなかったのだ。90年代、「ネット人格」はさほど問題にならなかった 少なくとも1990年代後半からインターネットに触れている筆者が思うことは、この時代の、急速に普及していたとはいえまだ日本のネット人口がおおよそ1000万人に満たなかった時代、ネット空間における大きな問題というのは、「殺害予告などの犯罪示唆」「盗品や違法薬物売買などの実際の犯罪の中継」そして「援助交際など未成年女性をめぐる売春問題と成人男性の買春問題」と「高額な通信料やサイト利用料の請求=詐欺案件」、「ウイルス感染に拠る個人情報の流出」といった事案であり、「ヘイトスピーチ」や「誹謗中傷」に代表される「ネット人格」に関する問題は、ずっと後になって表面化してきた印象がある。 勿論、犯罪示唆や売買春、詐欺が現在のネット空間から根絶されたわけではない。が、プロバイダーや捜査機関の尽力により、かつてより明らかにその問題の比重は軽減された。 1990年代末期、筆者が高校生の時、グループ・チャット上で当時の、別クラスに居た疎遠の同級生を揶揄する書き込みを行ったことがあった。その揶揄の程度というのは、「◯◯君はアホですなあ」みたいな、半分親しみのこもった、現在のレベルで言うと一瞥して忘れられるような内容である。 ところが、その同級生が神経質なタチであったらしく、虫の居所でも悪かったのか、私の書き込みが当該プロバイダーに「荒らし行為」として通報された。すると、直ぐにプロバイダーが動き、すぐさま筆者のパソコンのインターネット接続ができなくなったのだった。 プロバイダーが、私のその揶揄の書き込みを「他人を不当に誹謗中傷し、また健全なネット空間の維持を妨げる行為を行ってはならない」みたいなニュアンスの、プロバイダーの会員規約に違反したとみなしたからである。 これは、同級生同士の冗談なのです、と私はプロバイダーに弁明を申し入れ、またその同級生側に詫びを入れ、彼からプラバイダーにも「感情の行き違いがあった」と説明することで、ようやく5日後くらいに接続不能が解除になったのだ。 1990年代末期、当時このぐらい、他人への誹謗中傷に対するペナルティーは厳しかった。ネット人口が少なく、よって一プロバイダーの会員数も少数で、監視要員(パトロール)がユーザー全員をカバーできる体制が、現在よりは、はるかに存在していた。現在のネット空間は、1000人の生徒をたった1人の教師が監督している超過密の環境だが、少なくとも当時は、30人学級だった、というイメージだ。ネットは危険なもの、という感覚の共有と欠如ネットは危険なもの、という感覚の共有と欠如 ゼロ年代前半、ファイル共有ソフトに感染したユーザーが、無自覚に自身のPC上のファイルを流失させてしまい、大騒動になった事例が幾つもあった。個人や社名がすぐさま特定された。ネットでの失態は、即、実社会でのリスクに転化された。 だからちょっとでも怪しいサイトにアクセするときは、「串を通せ」というのが常識的だった。串とは「プロクシ」(代理サーバー)の意で、場合によるが、ある程度、自分のIPアドレスを隠してサイトにアクセすることができる。 誰がどんな方法で、自分のネットサーフィンを観ているのかわからない。ネットは不自由で危険なものだった。それ故、ネットを安易に信頼したりしてはいけない。自身の情報を入力するなどもっての外である。他者を罵倒したり誹謗中傷するなど、最もリスキーなことであった。石橋を叩いて渡れの精神だ。ネットへの警戒心は徹底していた。 現在、ネット上での誹謗中傷は、名誉毀損訴訟という形で激増しているが、当時は民事事件になることなど殆ど無く、またそれが刑事的な性質であっても、警察の動きも鈍かった。それよりもまず第一に、プロバイダーからの処分を恐れたものである。 ところが現在、「ネット人格」として問題になる人々の多くは、串も通さずに、自宅のPCのIPアドレスのまま、「死ね」だの「クズ」だのの書き込みを行っている場合がほとんどだ。これは自宅のファックスから警察署へテロ予告を送信するくらい、愚かな行為だが、当人はその行為にリスクが有るとすら思っていないのである。「後発組」がもたらした「ネット人格」 現在、「ネット人格」に関連した様々な人格豹変の背景にあるのは、彼らが「ネット空間に参入した後発組」であることと密接に関連している。 2001年、21世紀に入ると日本のネット空間に革命が起こる。YAHOO!BBがADSLに参入し、専用モデムを無料で配布するなどの普及攻勢に出た。それまで、ISDN(最大64kbps)がネット普及の前衛だったものが、YAHOO!の登場により、一挙に通信速度が数百倍(接続環境による)に跳ね上がり、それまで韓国や台湾に後塵を拝していた日本のネット環境は一挙に世界最高水準への道をひた進むことになる。(本文と写真は関係ありません) こうして高速回線が整備されだしたゼロ年代中盤以降、登場してきたのはユーチューブや、ニコニコ動画といった動画サービスである。データ容量の莫大な動画がストレス無く再生できるようになったネットインフラの向上は、ネット人口の爆発にますます力を貸した。 それに伴って、かつて「デジタルデバイド(情報格差)」と呼ばれ、もっともネットの世界に遠いと看做された、概ね50歳以上の、比較的高齢の世代がネット人口に大量に流れ込むこととなった。 「ネット人格」を有する人々の中心年齢に関する信頼のできる調査の結果は乏しい。私がかつて調査したのは「ネット右翼」の平均年齢だが、もはや「ネット人格」はヘイトスピーチのみならず、民族性とは全く関係のない、他者の誹謗中傷や罵詈雑言など広い領域を含んでいることから、その算定は難しいものになっている。 ただ、皮膚感覚として思うのは、「ネット人格」は明らかに、1990年代中盤から、ゼロ年代初頭くらいまでの、「日本におけるインターネットの発展期」、つまりナロードバンド(低速度)、低ユーザー人口の時代を体感した経験のない、「後発組」の中・高年か、若しくはおもいっきり若年層のティーンの、そのどちらかに収斂されるのではないかという思いがある。ペナルティという想像力の欠如 つまり、インターネットでの発言は常にパトロールされていて、何か下手をすると、実社会でペナルティを受けるのだ、という実際的なリテラシーが育まれていない。そうした「比較的狭い空間に過ぎなかった」ネット空間の常識にふれることなく、高速かつ快適に、国民の大多数が参加しているインターネット空間を自明のこととして認知している、「後発参加者」によって占められているのではないか、という想像である。 日本のネット利用人口は1億人を超えたとされる。現在、「◯◯君はアホですなあ」程度の書き込みでプロバイダーに通報する人は居ないし、居たとしてもプロバイダーは何もしてくれないだろう。ユーザーが多すぎてパトロールが間に合わないし、実際には遥かに実害があり、悪質なフィッシング詐欺などの事例の解決や毎日寄せられるユーザーや弁護士や捜査機関などからのIP開示請求、削除要請への対応といった業務に忙殺されて、とても昔のようにはいかない。 よって「ネット人格」が引き起こす様々な弊害は、刑事事件になるか、民事事件として訴訟案件になるか、余程悪質で大規模な事例でもない限り、事実上野放しになっている。「ネット人格」による自称毒舌や誹謗中傷の痕跡は、そのまま残置される。「割れ窓理論」ではないが、ペナルティーなどない、と高をくくって、ますます「ネット人格」は増長する。 ネット空間で何をやってもペナルティーがない―。この感覚こそが、「ネット人格」形成の原因である。ネットでの発言はリスキーで、第三者から監視されているという皮膚感覚を有しないものが、平気で他者を呪詛し、人を傷つける言葉を書き込む。最近は動画配信でそれを映像として流して憚らないものも続出している。「不自由で発信リスクが眼前に存在してきた発展期のネット」を知らない、ティーンか中高年に二極化している印象がある。 ニコニコ生放送で性器を露出したり、性行為を生中継したり、犯罪行為を晒して逮捕されるユーザーは、ことさらティーンや20代が目立つ。他方、他民族を呪詛し、差別的言説を弄するユーザーは、中・高年に偏重している印象だ。無論、例外も多い。全部そうだと決めつけているわけではない。だが、ネットを万能だと思い込み、自分のネット上での行動がどのような結果を生むのかの想像力が希薄な「インターネット後発組」の存在は、確実に日本社会に後ろ向きの力を与えている。関連記事■ ネトウヨ批判の源流「排外・好戦的なのは大衆」という嘘にご用心■ 「小4なりすまし」擁護論も登場、炎上続く■ 三原じゅん子の「八紘一宇」発言 その本義とは…

  • Thumbnail

    記事

    三原じゅん子の「八紘一宇」発言 その本義とは…

    大原康男(国学院大名誉教授) 少々旧聞に属するが、3月16日の参院予算委員会において、多国籍企業に対する課税問題を取り上げた三原じゅん子参院議員(自民)が「現在の国際秩序は弱肉強食だ」と指摘した際に、「八紘一宇」という語に言及したことが論議を呼んでいる。『日本書紀』神武伝承がルーツ 漢和辞典によれば、「八紘」は「天地の八方の隅」の意で、転じて「全世界」を意味し、「宇」は「軒」または「家」を指す語で、「八紘一宇」は「世界を一つの家にする」というのが原義である。 三原議員はこれを「日本が建国以来、大切にしてきた価値観である」と述べ、この理念の下に「世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合えるような経済、税の仕組みを運用していくことを確認する政治的合意文書のようなものを、安倍晋三首相がイニシアチブを取り、世界中に提案していくべきだ」と主張したのだが、この発言が一部の報道やネットで問題視されたことが発端となった。 周知のように、もともと「八紘一宇」は『日本書紀』に記載されている第1代神武天皇の即位建都の詔の一節「八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、亦(また)可(よ)からずや」(原漢文)に由来する。したがって、本来は「八紘為宇」という四字熟語だったのだが、近代における在家仏教運動の先駆的唱導者として知られ、日蓮主義に立つ宗教団体・国柱会の創設者である田中智学が、これを基にしてより語感のよい「八紘一宇」という標語を工夫したことから広く世間に知られるようになった。 以上、この語の来歴を概略説明したように、「八紘一宇」は『日本書紀』の神武伝承がルーツだから、総じて国内の統合を強調する思想的文脈で語られてきたのだが、昭和前期にわが国の対外政策に関わる基本理念として用いられ、公文書にもしばしば登場するようになる。 たとえば、昭和15年に第2次近衛内閣が策定した「基本国策要綱」には「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国(ちょうこく)ノ大精神ニ基キ…」との一節があり、同年の日独伊三国同盟成立に際して発せられた詔書は「大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤輿(こんよ)ヲ一宇タラシムルハ…」という文書で始まっている(「坤輿」は「大地」の意)。さらに、翌16年4月から開始された日米交渉で日本側が提示した日米諒解(りょうかい)案でも「両国政府ハ各国並ニ各人種ハ相拠リテ八紘一宇ヲナシ等シク権利ヲ享有シ…」とある。論議が行われた「東京裁判」 こうした履歴があったためであろう、敗戦の年の12月15日に連合国軍総司令部(GHQ)が日本政府に交付した「神道指令」(国家神道を廃止し、国公立学校における神道の教育・研究を禁止することを主たる目的とする)において、「八紘一宇」は「大東亜戦争」とともに「軍国主義、過激ナル国家主義ト切リ離シ得ザル」語として公文書で使用することが禁止された。この見解を今もそのまま諾(うべな)って「アジア侵略を正当化する理念だった」(「東京新聞」平成27年3月19日付)などと断定する手合いがあちこちに見られる。 これは第二次大戦終結直後から連合国によって峻厳(しゅんげん)かつ徹底的に進められた“非ナチ化政策”の一つであるナチス・イデオロギーに関わるキーワード-たとえば「指導者民族(ヘレンフォルク)」「生存圏(レーベンスラウム)」など-の排除を範とした施策であろうが、この「八紘一宇」に関しては、これまでほとんど知られてこなかった実に興味深い事実がある。 先記した「神道指令」の作成に際して、GHQの草案起草者がこの語の意義について詳しく調査した形跡はない。ところが、いわゆる“A級戦犯”を裁いた「東京裁判」ではかなり突っ込んだ論議が交わされたことが、裁判の「速記録」から窺(うかが)われる。 それは「八紘一宇」に充てられた訳語が多様なことからも分かるが、eight corners of the world under one roof のような直訳は僅かで、概ね making the world one homeといった翻訳がなされている(参考 横溝光暉『東京裁判における八紘一宇』)。「侵略思想ではない」 最も注目すべきは判決文である。判決は「八紘一宇」は「帝国建国の理想と称せられたものであった。その伝統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命をもった人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかった」と明言しているからだ。 東京裁判で日本人弁護団の副団長を務めた清瀬一郎は、事実問題で立証に成功したのは「八紘一宇は侵略思想でないということ」のほかには一件あるだけだと回顧している。一方、裁判官においては日米交渉の出発点で提示された日米諒解案での「八紘一宇」の訳語である universal brotherhood が印象深かったかもしれない。 こうした経緯を鑑(かんが)みれば、「八紘一宇」が国策に利用された過去があったにしろ、その本義を踏まえた上で今日的な文脈で捉え直した三原議員の発言を頭から否定するのは、言論の封殺に繋(つな)がると言わざるを得まい。(おおはら やすお)関連記事■ 政治の「大義」とは何なのか■ 国民は知っている「ブレた」岡田氏■ 鳩山氏、菅氏、中川氏…政治家の自覚はないのか■ 河野洋平は戦後最も日本を貶めた政治家である

  • Thumbnail

    記事

    「小4なりすまし」擁護論も登場、炎上続く

    すまし、書き込みを行っていたことが判明した。安倍首相は「最も卑劣な行為」と激怒し、猛烈に批判したが、インターネットでは擁護論も登場し、炎上状態が続いている。 問題となったのは、20日夜に開設された「どうして解散するんですか?」という名のサイト。「小学4年生の中村」を名乗る人物が「しつもんです。ぼくにはさっぱり分かりません。あべそーりは『みんなに問い直すための解散だ』って言っていたけど、もんだいは一体なに?」などと、安倍政権批判を展開した。 民主党のマスコットキャラクター「民主くん」がツイッターで、「天才少年現る!」と紹介したことで、注目が一気に高まった。サイトの登録情報から露呈 ところが、書き込みの文章に4年生では習っていない漢字が多用されたり、サイト制作に高度な専門技術が駆使されていたりしたことから、「明らかに大人だろ」「サイト制作のプロの犯行だな」と、疑問の声が噴出。「中村君」は当初、「ぜんぶ小学校の友達でやりました」と強気の姿勢だったが、ネット民の一人がサイトの登録情報から推理の末、NPO法人「僕らの一歩が日本を変える。」が関係しているのではないかと指摘。“祭り状態”に突入した。 結局、22日になってNPO法人の代表理事を務めていた大学2年生、青木大和氏が「私が(個人的に)リプライ、コメントをしていました。皆さんに嘘をつく形となり、本当に申し訳ありませんでした」などと謝罪。サイト制作は、プログラマー経験がある友人のクリエイター、Tehu氏が行ったことも明らかにした。 小学生になりすましたことについては、「『面白い』と皆さんに受け止められ、より多くの方を巻き込んだ形で、今回の選挙の意義を語り合うことができるのではないかと思った」と説明した。 これを受けて、「民主くん」は24日、サイトの紹介ツイートを削除したうえで、紹介したことについて「ご迷惑をおかけしました」と謝罪。一方、安倍首相は25日、フェイスブックで「選挙目当ての組織的な印象操作ではないでしょうが」としながら、「批判されにくい子供になりすます最も卑劣な行為だ」と憤った。安倍首相も怒り心頭 だが、事態は収束しなかった。脳科学者の茂木健一郎氏はツイッターで、「反省、謝罪して、前に行ってほしい。日本にはこのような若者が必要」と擁護。米アップルの共同設立者の一人、スティーブ・ジョブズ氏も若い頃はいろいろやらかしたとして、「『やらかす』性行と、イノベーションを起こす能力には正の相関がある」と持ち上げた。 これに対し、「確かに、行動力は認めるよ」と賛同の声もあったが、「意図的に小学生のフリをしたのが悪質」「日本をこれから背負う20代の意見として発表すればよかった」などと批判の声が一層強まった。 また、青木氏が受験生の個性を重視して選考するAO入試で大学に合格していたことから、AO入試への批判にも発展。さらに、青木氏を指導したAO推薦入試専門塾の代表が突然、謝罪文を発表して「青木氏を利用した売名行為だ」と攻撃されるなど、混迷は続いている。