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    「時代は変わる」ボブ・ディランの受賞は文学と音楽融合の象徴である

    巽孝之(慶應義塾大学文学部教授) ボブ・ディランにノーベル文学賞受賞という知らせを受け取ったのは10月14日早朝、出張先のパリのホテルだった。パリ・ディドロ大学と日本文化会館を会場に開かれていた国際江戸川乱歩会議に出席中のことである。知らせを聞くやいなや閃いたのは、それがT・S・エリオット(1948年受賞)を除けば初のアメリカ詩人への受賞であること、黒人女性作家トニ・モリスン以来23年ぶりのアメリカ人の選出であること、そして乱歩と奇しくも同い年(1894年生まれ)にして終生エリオットを意識した我が国の学匠詩人・西脇順三郎がエズラ・パウンドの推挙によりノーベル文学賞候補に挙がっていたことだ。人種差別撤廃を求めるワシントン大行進で演奏するボブ・ディラン(右)とジョーン・バエズ=1963年、ワシントン 小説家の受賞で占められている印象の強い同賞だけに「ディランは文学か?」という疑問も強いようだが、電話取材には「ディランの歌詞は30年以上前からアカデミズムの場で『詩』として研究されてきたから、文学賞でも矛盾はない」と答えた。たとえば名曲「風に吹かれて」(1963年)は〈どれだけたくさんの道を辿れば人は一人前と呼ばれるようになるのだろう?〉〈どれだけ大砲の弾が撃たれればもう二度と撃たれないよう禁止されることになるのだろう?〉など多くの問いかけから成っているから、ここに公民権運動やベトナム戦争へのメッセージ色を読み取るのはやさしい。けれどもディラン本人は確固たる解答を出すことなくむしろ歌の聞き手、すなわち詩の読み手ひとりひとりを引き込み、じっくり考えこませる。そこにこそビート世代にも近い詩人としての深い思弁が広がっている。 もちろん、一般にはフォークロックの歌手として広く知られる人物だから、いったいなぜ音楽家が文学賞を獲るのか、異論を抱く向きが多いのもよくわかる。過去20年ほどのあいだに囁かれて来たアメリカ人のノーベル文学賞最終候補はトマス・ピンチョン、ドン・デリーロ、フィリップ・ロス、ジョイス・キャロル・オーツ、ノーマン・メイラー、コーマック・マッカーシー、アーシュラ・K・ル=グィンといった、いずれもアメリカ文壇を代表する面々だったのだから。もっとも20世紀には平均して10年にひとりの割合でアメリカ作家に授けられて来た同賞だけに、モリスン以降23年もの空白をいったいどのように巧みに埋めるべきか、選考委員会も頭を絞りに絞ったのは想像に難くない。 しかも、ノーベル文学賞は現役にして新作を発表し続けている才能に贈られるものであり、決して功労賞ではない。アメリカ前衛文学で大御所中の大御所といえば1960年代から2010年代に至る半世紀ものあいだ傑作長篇を書き続けているメタフィクション作家ピンチョンが順当だろうが、隠遁作家としても知られるため、仮に受賞を受諾しても授賞式をすっぽかす可能性がある。ピンチョンの代表作『重力の虹』のドイツ語訳で知られるオーストリア人女性作家エルフリーデ・イェリネクのほうが先にノーベル文学賞を受賞してしまったゆえんだ。受賞は選考委員会の苦肉の策か それでは、今回のディラン受賞は選考委員会が迷いに迷ったあげくの苦肉の策なのか? わたしは、必ずしもそうは考えない。たとえば戦後、批評家マルカム・カウリーが抜本的な再評価を行ない1946年に優れた傑作選を編んだからこそ、南部作家ウィリアム・フォークナーは1949年にノーベル文学賞に輝き、1955年には初来日を遂げて長野でセミナーを行い、以後の日本文学にも影響を与えている。1980年代には黒人文学研究の重鎮ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニアがそれまで活字化されていなかった黒人奴隷体験記を徹底調査してつぎつぎに編纂を始め、結果的に白人男性ばかりで構築されてきたアメリカ文学の正典を問い直したことも、1993年のモリスン受賞を導いているだろう。 それと同様、今回はボブ・ディラン研究で知られる音楽評論家のグリール・マーカスと黒人文学研究家のワーナー・ソラーズの共編『ハーヴァード大学版新アメリカ文学史』(2009年)が行なった「脱領域的理論実験」の成果を無視することはできない。1980年代このかた、新歴史主義やポスト植民地主義の風潮を受けた文学史の正典読み直しの風潮は、カリフォルニア大学リヴァーサイド校教授エモリー・エリオットが編纂した『コロンビア大学版アメリカ合衆国文学史』(1988年)から1994年、あたかも当時隆盛をきわめていた新歴史主義やポスト植民地主義に対応するかのごとく、ハーヴァード大学教授サクヴァン・バーコヴィッチがシリーズ化した『ケンブリッジ大学版アメリカ文学史』全8巻(2004年完結)までしきりに行なわれて来た。 そうした蓄積をじっくりふまえたうえで、2009年に刊行した『ハーヴァード大学版新アメリカ文学史』にはB5サイズで1200頁弱の規模の中に数々の実験を秘める。なにしろ、編者が黒人文学を中心に非白人系民族文学の研究で多大な業績と影響力を持つハーヴァード大学教授ワーナー・ソラーズと、カリフォルニア大学バークレー校ではアメリカ研究を専攻した文化批評家で、とりわけロック評論の領域で画期的な貢献を成して来たグリール・マーカスのふたりという取り合わせなのだ。狭義の文学研究と広義の文化研究、アカデミズムとジャーナリズムがしっかり手を組んだこと自体が衝撃である。 しかも本書は、単著にせよ共著にせよ植民地時代の文学から現代文学までを貫く時代順の縦糸「通史という物語」を放棄したうえで、あくまでアメリカ文学史上において重要な年号を任意に220選び出し(その中には任意の一年間にとどまらず、何らかの因果関係をもつ数年間も含まれる)、文学史上必要とあらば音楽史や美術史、ひいては映画史や科学技術史に絞った章までも横糸として自在に散りばめつつ「それぞれの年号が象徴する物語」を書くよう、多彩な執筆者に割り振ってみせた。文学史と音楽史は既に影響しあっていた かくも新鮮な構想のもとで、たとえば「1962年」の項目を担当したカリフォルニア大学デイヴィス校教授ジョシュア・クローバーはボブ・ディランが先輩歌手ウディ・ガスリーを礼讃する「ウディに捧げる歌」を作曲し本格デビューを飾った年であることを確認し、ディランの歌はピカソやガートルード・スタインの文化的影響力にも匹敵すると評価してやまない。「時代は変わる」で歌われているように、1960年代に登場したディランは既成の文化を崩壊させる要因となった。 ここで振り返ってみると、そもそもウディ・ガスリーといえばリンドン・ジョンソン第36代大統領がアメリカ国歌にしたらどうかとさえ提案したという名曲「この国は君たちの国」(1952年)で知られるけれども、彼自身の霊感源になったのが、のちの1962年にノーベル文学賞受賞作家となるジョン・スタインベックの名作『怒りのぶどう』(1939年)だったといういきさつがあったのを思い出す(拙著『アメリカ文学史-駆動する物語の時空間』(慶應義塾大学出版会、2003年)。 スタインベックがガスリーに影響を及ぼしただけではなく、ポップシンガーが主流文学者に逆影響を及ぼした可能性も、ここには確認されるだろう。文学史と音楽史は必ずしも昨今のラディカルな実験的理論が強引に融合させたものではなく、すでに二十世紀中葉において難なく相互影響し合っていたことの、これは最大の証左である。時代はすでに変わっていたのである。

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    いっそのこと賞を辞退したらいい ボブ・ディラン「文学」への抵抗感

    杉原志啓(音楽評論家、学習院女子大学講師)  まず、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞理由に「偉大なアメリカの歌の伝統の中に新たな詩的表現を創造した」とあるその「詩的表現」についてちょっと。 一年ほど前に再刊なったディラン71年初出の「散文体の現代詩」とでも評するほかはない小説『タランチュラ』がある。この作品には、およそ小説らしさがうかがえない。たとえば、「小説」に期待するような物語性なり語りの結末がほとんどまったく伝わってこないように。ひとつだけ例示してみよう。「陽焼けした国では冬は頭に雪をいただいてベッドの西で眠る/マドンナ。エホバの神殿のメリー。ジェーン・ラッセル。淫売のアンジェリーナ、これらすべての女たち、彼女たちの涙は大洋になれる」2011年2月、米ロサンゼルスで歌うボブ・ディラン氏(中央)(AP) どうだろう。このようにメタファーにつぐメタファーの連続の趣で、プロットらしいプロットはどこにもない。そもそもまた、ここでの「浮かんでいる平底商船のマリア」なんて章題からしてえらくシュールではないか。つまり全編ほとんどこれ式なんだから、これはもう「散文体の現代詩」の塊そのものとしかいいようがない。 ただ、彼の「現代詩」の謂を私なりに解釈するとこんなことになる。ディランは時間を止めて、みるものきくものをポップ・ソングのようにロマンチックな没入へ誘うような抒情詩人なんかじゃない。彼は、結論や目的のために前進するのではなく、慎重に観察するために目標を据えて歩んでいる。 いいかえるならディランは、抒情ではなくもっぱら叙事を紡ぐ現代詩なんだろう。つまり叙事詩では、各章ごとのおびただしい事象が、およそ時間軸をハナから捨象して、それぞれが並列かつ独立して語られ、その各部分の均整のうえに全体が整理統合された物語として描かれるように(E・シュタイガー『詩学の根本概念』)。『タランチュラ』はだから、かれのヒット・ソングのごとくどこから読んでもそれぞれ独立して鑑賞できるはずだ。「らしさ」のないディランの「自由」 また、レコードを含むディランにおける「詩」の題目は、その内容、その精神が、ことごとくアメリカ的なものを核にしている。この本の訳者、片岡義男の言を借りれば、たしかにディランの目をとおした、あくまでディランにとってのアメリカの「リアル」な日常をとらえたものだってことだ。1978年2月、日本武道館で熱唱するボブ・ディラン氏 およそ「詩」というのは、見ての通り誰でも創造できるわけではないし、誰でも享受できるわけでもない。たとえば読み手なり聴き手は、作品の意味を自分の力で解釈し、己の体験なり知識をもとにその意味を作り直さなければならない。だからそうした「詩」をもとにした楽曲を創るボブ・ディランと、みんなが愉しく、しかも一発で了解でき抒情的なポップ・ソングを作る作詞家との違いがある。だからまた、後者の楽曲の作り手だった頃のキャロル・キングの相方であるジェリー・ゴフィンが、ディランの「詩」を耳にした当初かく嘆いているわけだ。すなわち、「ポップスの作詞家と詩人の違いを思い知った。詩人となるほうがずっと難しい。本物の仕事だから。僕もそうなろうとしたけど、できなかった」(『魔法の音楽』)。 その意味で――つまり、たしかに文学の世界に近い楽曲を書きつづけてきて、かつヘタクソでも(とわたしは思う)自由にうたってきたディランのノーベル文学賞受賞に驚くような理由はない。ただ、わたしにはちょっとした違和感というか、抵抗感もある。 ご存じのとおり、ディランは非英語圏の日本でさえある種の神様扱いだ。その最大の要因のひとつは、わたしのみるところ、およそ通常の音楽家「らしさ」のないディランの「自由」な生き方にある。で、かつてわたしが長く教えを受けた亡き思想史家の坂本多加雄によると、そもそもそうした「らしさ」というのは、たとえば「音楽家」とか「教師」「会社員」といった社会的役割によって生じるんだとか。ところがいま、あらゆる領域でそうした「役割」にもとづく伝統的な「らしさ」が形骸化している。 その理由について、たとえばこんないい方がある。「母である前に妻でありたい。妻である前に女でありたい。女である前にひとりの人間でありたい」。むろんここに「父」や「夫」「男」などどんな「役割」を対応させてもいいんだが、いずれにしてもここでのポイントは、最後に「人間でありたい」という願望が登場するところだ。というのも、右のように「役割」を次々と否定した結果到達する「人間」とは、それぞれの行為・態度・振る舞い=「役割」から一切解放されたパーフェクトに「自由」な、いわばリバタリアン的な裸の個人的存在ということになるからである。 すなわち、改めて考えれば当然のことながら、「人間でありたい」というのは、こうした「自由」へのあこがれにほかならないというわけだ。実際、「人間らしく生きたい」なんて今日あまりに陳腐化しているキャッチだって、物質的な豊かな生活へのあこがれの表明であると同時に、やはりこの意味での「自由」を語ったものではないか。そしてここで、この意味での「自由」を体現し、あらゆる「らしさ」にとらわれない「現代詩」ロックの神様ボブ・ディランが出てくるのである。 わたしはだから、ディランがいっそ受賞を辞退してくれたら彼の「らしさ」が保たれると考えている(現時点ではその気配濃厚のようだが!)。そのほうが進歩的で反体制的だとか、アナーキーでカッコイイと思うからではない。文学やロック音楽の伝統的な「分」というか、「らしさ」をこれ以上壊してどうするんだというわけで。

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    ディランがいなければ、吉田拓郎は「文学者」になっていただろう

    ぼれるなんて、それまでの日本ではありえなかったことで、Jポップの礎を作ったと言っても過言ではない。 ノーベル賞受賞で、これまでディランに興味を持っていなかった人も聴くようになり、音楽ってすごいぞ、と再認識されるきっかけとなれば幸いである。音楽で「時代は変わる」のか? 答えは風の中である。

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    ボブ・ディランの文学性に疑義あり

    今年のノーベル賞の話題をさらった人といえば、誰もが文学賞に選ばれた米ミュージシャン、ボブ・ディランを挙げるだろう。受賞決定後も沈黙を続ける彼の動向に今も注目が集まるが、そもそも反戦、反体制を貫くディランの歌詞に高い文学性などあったのか。選考過程のみならず、文学賞の価値そのものに疑義ありだ。

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    孫引きディラン世代が考える なぜノーベル文学賞に選ばれたのか

    常見陽平(千葉商科大学 国際教養学部専任講師) きっかけは、みうらじゅんだった。彼は若い頃、家出をしたことがあるそうで。外でギターを弾きながら、ボブ・ディランを歌い、彼に一歩近づけた気になったとか。自宅に電話したところ、家出したと認識されていなかったそうで、普通に「帰ってきなさい」と言われるという結末。中学生の頃、そんなエピソードを宝島系の本で読んだのを妙に覚えている。みうらじゅんさん というわけで、私はボブ・ディランという人がいるということを、中学時代にみうらじゅんのエッセイで知った。その後、RCサクセションの問題作『COVERS』で、「風に吹かれて」の忌野清志郎による超訳日本語版を聴き、衝撃を受けた。もっとも、さらに衝撃を受けたのは、高校時代にレンタルCD屋で聴いたボブ・ディランだった。 何が衝撃かというと、最初は何がいいのかわからなかったのだ。オーケー、認めよう。当時の私は、ひたすら薄暗い刺激を求めロックに熱中していた。ボブ・ディランを楽しむには私は若すぎた。彼の音楽も私に理解されることを欲していなかったのだろう。と、毎年、ノーベル文学賞を受賞するのかどうかでそれなりに盛り上がる村上春樹風に書いてみる。でも、そんな感じだったのだ。 それよりも、著名人が影響を口にし、時にカバーするのがボブ・ディランであり。いわば、そんな「孫引きボブ・ディラン」で現在まで生きてきた。年齢を重ね、ボブ・ディランの魅力、影響力がわかり始めたのは、つい最近だ。いや、まだまだわかっていないのだと思う。ディランは賞を受け取るのか ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。朝日新聞の2016年10月14日付朝刊は、1面トップ記事で紹介している。いろいろ考えた。個人的には、嬉しい。とはいえ、ボブ・ディランが今、ノーベル文学賞を受賞する理由と、それが彼にとって良いことなのかどうかを考えてみる。前出の記事によると「偉大な米国の歌の伝統に新たな詩的表現を作り出した」「彼が偉大な詩人ということに尽きる」「彼の詩は歌われるだけでなく、読まれるべきものだ」などが受賞理由としてあげられている。2012年5月、大統領自由勲章の授与式典に出席したボブ・ディラン氏(左)とオバマ米大統領=ワシントン ただ、それだけだろうか?ボブ・ディランの歌が反戦歌として歌われた時代は、戦争の時代だった。現在はテロの時代である。国や地域の関係は緊張感のあるものになっている。彼の受賞というのは、平和を訴えるという意味もあるのではないか。なお、2016年10月14日11時30分更新の朝日新聞デジタル版の記事によると、彼には、まだ受賞の報告の電話がつながっていないらしい。彼が今回の受賞に対して、何とコメントするのかも気になっている。そもそも、賞を受け取るのかも。 個人的な孫引きボブ・ディランの最高峰は、この、みうらじゅんの自伝的小説だ。みうらじゅんといえば、肝心の漫画の方はこれくらいしか読めていないのだけど。内田裕也が「ロックンロール」と叫びつつ代表曲が「コミック雑誌なんかいらない!」しか浮かばないのと近いのだが。今日はこの本を読み返しつつ、ボブ・ディランについて考えてみることにする。風に吹かれつつ。(「陽平ドットコム~試みの水平線~」より2016年10月14日分を転載)

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    「ボブ・ディランは無礼で傲慢」と言うノーベル委員長こそ無礼で傲慢

    その見方はさまざまだ。 一方で、ノーベル文学賞を発表してから全く音沙汰のない状態に業を煮やしたのか、ノーベル賞選考の委員長・ペール・ベストベリィ氏は10月21日、ボブ・ディランに「無礼で傲慢だ」と苦言を呈した。 確かに、ミュージシャンとはいえ、ボブ・ディランも75歳の経験豊富な社会人だ。大きな受賞や国際的な栄誉に関しては、興味があろうがなかろうが、連絡ぐらいは受けてあげるのが「大人」というものだろう。 そう考えれば、ボブ・ディランに対して「いささか大人げないかな・・・」と感じる人は少なくないはずだ。しかし、ミュージシャンとしてのキャラクターや本人の嗜好性もあるのだから仕方がないよね・・・とも思える。評価の難しいところだ。 これには賛否両論あると思うので、ここではそれ以上の議論は要しない。 しかし、だ。そんなことよりも、ベストベリィ委員長の「無礼で傲慢だ」という苦言には呆れさせられる。 ノーベル賞は自分で応募するわけではない。もちろん、ロビイングするようなものでもない。さらに言えば、自分で取りたいとアピールするわけでもなければ、多額の寄付金という「貢献」で購入できるものでもない。 受賞するための条件や準備などが明記されているわけでもない。村上春樹の例を見るまでもなく、世論調査で1位になろうが、ブックメーカー(賭け屋)で1位予測をされていようが、そういった人気投票が受賞に反映されるわけでもない。 そもそもノーベル賞には「ノーベル賞候補」すら存在していないのだ。 ようは、ノーベル賞は、選考委員会が一方的に選んでいるだけに過ぎないわけだ。例えば、病理学者・山極勝三郎(1863〜1930)は4度のノーベル賞ノミネート(1925年、1926年、1928年、死後の1936年)を受けているが、「東洋人にノーベル賞は早すぎる」という意見が受賞できなかった要因の一つであるいう話は有名だ。【参考】ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞に見る「ビジネスモデルとしてのノーベル賞」の凄さ ノーベル賞に恣意性があったとしても、必ずしもそれが悪いわけではない。設立・運営の意図や経緯もあるのだから、選ぶ側にもルールやスタイルがあってしかるべきだ。ノーベル文学賞の決定機関であるスウェーデン・アカデミー だからこそ、連絡がとれないボブ・ディランに対して、ベストベリィ委員長が「無礼で傲慢だ」と言うことの方にこそ、「無礼で傲慢」を感じてしまう。自分たちが連絡をすれば、どんな人でも喜んで連絡に応じる、それが当たり前だ、とでも思っているのだろうか。そうであれば傲慢も甚だしい。ボブ・ディランには「勝手に選んでおいて、ウザいんですけど」と言う権利があることを忘れていないか。 ノーベル賞が世界最高峰の賞であることに疑いはない。だからこそ、予測困難で一方的に選ばれるという「神がかった幸運」をありがたく受け、また、それを名誉・栄誉として受賞者たちは誇るのである。「選ぶ人たち」が、わざわざ「自分たちの賞は世界最高峰の名誉です」なとど言わなくても、十分に世界最高峰なのだ。ノーベル委員長氏は何を焦っているのか。 今回のペール・ベストベリィ委員長の「ボブ・ディランは無礼で傲慢」発言は、「自分たちの賞は世界最高峰の名誉です」と自ら言っているようなもので、悲しいほど痛い。人気美人女優が「自分は美人です」と言うようなものだ。美人は自分を美人と公言しないからこそ価値があり、人気があるのだ。そして、言わなくても、十分に美人だし魅力的なのだ。 自分で自分のことを賛美するなど、単なる「痛い奴」ではないか。 ましてや「無礼で傲慢」発言だけならまだ救いようがある。しかし、「我々は待つ。彼が何と言おうと彼が受賞者だ」などという、フォローとも「連絡くださいメッセージ」ともつかない中途半端なコメントを続けているあたりが「痛さ」を加速させている。 「ボブ・ディランは無礼で傲慢」発言を受けて感じるノーベル賞への残念感。もちろん、こんなことでノーベル賞の価値を低く見たり、軽んじることはないし、あってはならない。 それでもなお、ボブ・ディランには、このまま「既読スルー」を徹して欲しいと期待してしまうのは、筆者だけではあるまい。【あわせて読みたい】ノーベル文学賞に反応しないボブ・ディランは「本物のロック」だボブ・ディランのノーベル文学賞受賞に見る「ビジネスモデルとしてのノーベル賞」の凄さ<三宅洋平氏落選>実態なき支持層が産み出した「選挙フェス」という都市伝説<コレジャナイ>東京五輪公式アニメグッズの絶望的なダサさ<尾木ママのブログはただの暴力?>なぜ尾木直樹氏のブログは炎上するのか

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    ディラン受賞、ノーベル文学賞作家が語る村上春樹落選の背景

    くれた物の見方、態度に大なり小なり、影響を受けてきたのかも知れない、と後になって感じた。 そもそも、ノーベル賞をはじめ何かを権威づけること、づけられることに背を向けるという姿勢(それでもしっかりもらうのだが)が、ディラン的世界の持ち味なのだ。 案の定、ディランは授賞決定のニュースが出てからこの方、「感激です。光栄です」とも「ありがとうございます」ともコメントを出しておらず、「ふん」といった態度を貫いている。 ディランについては次回のこの欄で書くとして、本題はノーベル賞作家のJ・M・クッツェー氏だ。 もしかしたらディラン氏の受賞を彼は予測していたのではないか、ということだ。というのも、授賞決定の10日ほど前、クッツェー氏とメールでやりとりした際、今から思えばそれを匂わせるようなことを語っていたからだ。 南アフリカ出身のクッツェー氏とは私がヨハネスブルクに滞在していた1995年から2001年にかけ何度かお目にかかっている。当時ケープタウン大学に勤めていた氏のファンだった私は、毎日新聞に月1度の割合でコラムを書いてほしいと頼みに行ったのが縁だ。彼が文学賞を取ったのは、私がアフリカを去った後のことだが、以後も決して偉ぶらず、こちらがメールを送ると、頭の良い人特有の、わずかな言葉で実に的確に応えてくれる。 今回のやりとりはこうだった。 ――過去のノーベル賞受賞作家に比べると、村上春樹氏の作品は「軽い」と語るスウェーデンの批評家がいます。こうした見方についてどう思われますか。 クッツェー氏は一通りプライベートなあいさつを書いた後、こう続けた。 「恥ずかしながら、村上春樹についての質問には答えることができません。なぜなら、彼を読んでいないからです」NYタイムズの書評者でも読んでいない ニューヨーク・タイムズのブックレビューに書評を書いている彼が読んでいない。そして、彼を含む歴代の受賞者には候補を推薦する権利があることを思うと、残念な答えであった。そこで、私はもう少し一般的な質問をした。 (1)スウェーデンアカデミーが選考する際の彼らの趣味についてうかがいたい。 以前、私が南アフリカに暮らしていた頃、ノーベル賞作家のナディン・ゴーディマ氏が当時読んでいたサルマン・ラシュディとジョゼ・サラマゴ(ノーベル文学賞受賞者)がいいと薦めてくれました。その時彼女は私に「今、どんな小説を読んでるの?」と聞いてきたので、実際そのとき読んでいたジョン・アーヴィングの名を挙げました。すると、彼女は「アーヴィング? 彼があなたのお気に入りなの?」と半ばあきれるような、軽蔑するような口ぶりでした。この時の彼女の表情こそまさに「アカデミーの趣味」を象徴していると私は思ったのですが、いわゆるエンターテイメントの匂いやイメージのある作品をスウェーデンアカデミーは評価しないのでしょうか。今年のノーベル文学賞をボブ・ディランと発表したスウェーデン・アカデミーのダニウス事務局長=10月13日、ストックホルム(AP) (2)ノーベル賞のローカル性について。 あなたが03年にノーベル賞を受賞した直後、私の勤める新聞に書いてくれた受賞報告のエッセーで、あなたは賞の創設者ノーベルの国際主義という理想とスウェーデンの知識人らによる評価、管理というローカル性の矛盾に触れていました。 ノーベル文学賞は国際的というより、国内的な賞だと、まだお考えになっていますか。 こんな長い質問を送ったのは、彼が新聞のためにエッセーを書いていたころ、私は最初の読者として常にこんなやりとりをしていたからだ。拙いながらも、こちらの意見を率直に言えば、必ずまじめに答えてくれる人だったからだ。 すると、本の催しでイタリアに出張していた氏から、1日置いてこんな返事があった。 「(1)ノーベル文学賞はその歴史を見ると、作家たちが現代よりも重んじられていた時代に創設されたものです。トルストイを見ると、彼は1910年に亡くなった時、世界でまあ最も有名な人物と言われていました。作家はその時代の思想(thought)に大きな衝撃(impact)を与えうると、アルフレッド・ノーベルは信じていました。スウェーデンアカデミーは今も、この精神にのっとって賞を与えると私は思っています。 (2)ノーベル賞の創設間もない頃、文学賞は不釣り合いなほど、スカンジナビア半島の作家にばかり与えられる傾向がありました。でも今は、賞の性質として特段どこかの国をひいきするようなことはなく、正当に国際的な賞だと見なされ得ると私は考えています」 二つ目の答えは、私の質問に問題があったのかもしれないが、返答から感じたのは、彼が受賞直後のように「科学、文学の分野で特段目立った人物を出していない北欧の人々による選考」という、当時のような皮肉めいた気持ちをすでに抱いていないということであった。少なくとも表面的には。 なぜ皮肉が消えたのかについては別の機会に考えるとして、わかりやすく、また面白いのは第一の答の方だ。そこにはキーワードが二つある。 「世界でまあ最も有名」と「時代の思想への大きな衝撃」だ。変わっていく文学賞 読んでいないクッツェー氏には村上作品が「大きな衝撃」をもたらしたかどうかを判断する術はないが、彼は村上氏についてというより一般論を語ったにすぎない。 それでも、短い一般論にさまざまな含み、裏の意味、時に皮肉が込められているのがクッツェー氏の文章である。それを前提に考えれば、私には次のようなニュアンスが込められているように思えた。 トルストイを例に20世紀初頭の賞の理念を語っているが、裏を返せば現代はそうでもないということ。 かつての作家たちは人々の間で今よりもはるかに重んじられ、大事にされ、世界中の人がその名を知るほど有名で、彼の作品が時代に大きな影響を与えた。だが、今、そんな作家がどこいるのだろうか、と。 さらに深読みすれば、メディアの発達のお陰で、人々は小説や詩などいわゆる文学だけでなく、他のジャンルからも大いなる影響を受け得る時代になった、とも語っている。 そう考えると、ボブ・ディランへの授賞は、この時のクッツェー氏の読み通りの結果と言えなくもない。 世界の誰もが知るほどの「まあ有名人」で、時代の思想に大きな影響を与えた人物という条件に、ディラン以上に合致する人が、いま候補に挙がっている世界中の作家たちの中に果たしているだろうか。いや、いない。それ以前に、いわゆる出版という形で売られる小説や詩が、上に挙げた条件を満たし得るだろうか。 さりげない表現の中に、人間の近未来のあり方をはじめ深い洞察が込められているのがクッツェー氏の魅力だが、氏はなんとなくディランへの授賞を、ディランに限らず、文学というジャンル以外で活躍する人への授賞を、読んでいたのではないだろうか。 もちろん、そんなことを問い掛けても、「いや、私は内部の人間ではないので、授賞の詳細を知り得る機会はありません」などと答えるだろうが、いずれにしても、私は彼の洞察、表現力にまたも感服せざるを得なかった。 当のディランの魅力については、次回、書かせていただければと思う。 (一部敬称略)

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    ノーベル文学賞に反応しないボブ・ディランは「本物のロック」だ

    ロックはない。 【あわせて読みたい】ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞に見る「ビジネスモデルとしてのノーベル賞」の凄さキンコン西野「制作者の頑張りなど客には無関係」結果で語れ<整理番号ぐらいでグダグダ言わない!>シーナ&ザ・ロケッツの35周年ライブに見たロックの神髄<追悼・ジョニー大倉さん>マッシュルーム・カットの矢沢永吉をリーゼントにさせた男<ギターが売れないのは若者の貧困の象徴>ロックお金のかかる中流階級の趣味だった

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    ノーベル文学賞は候補不足か ディランが限りなく広げた受賞対象

    岡本裕明(Blue Tree Management 株式会社 代表取締役) ボブ ディラン氏がノーベル賞をもらう時代になったか、と思うとノーベル財団もずいぶん変質化したと感じます。ノーベル賞のうち、自然科学部門は従前通り長年研究に従事してきた学者、研究者の功績をたたえるものが多いのですが、平和賞は割と驚くような受賞者が多かったのはご承知のとおりです。  しかし、文学賞についてはある程度著名な書籍として世界各国で翻訳され、広くその内容について認知され、共感されていることがかつての流れでありました。その点、ボブ ディラン氏はシンガーソングライターであり、歌を通じて世界にそのメッセージを伝えてきたという点で選考委員会が新しい切り口で臨んだということなのでしょう。今年のノーベル文学賞に選ばれたボブ・ディラン氏  いわゆる賞の選考委員会の選定方向は主に二通りあり、今までの流れを踏襲した流れで次の受賞者を探る保守的選出と今回のように全く新しい切り口にする場合があるかと思います。私も小さいながらもある団体の賞の選考委員を何度か務めましたが選考にあたり、例年通りの流れで考えると候補者がいるのか、そしていない場合、どういう発想の展開があるのか、と問答していました。とすれば、今年の文学賞は従前の候補者の中に絶対的強みを持つこれは、という候補がいなかった可能性があります。 村上春樹氏はこのところずっとその候補者の上位にあるようですが、今年も受賞を逃したとして話題になっています。彼とボブ ディラン氏の共通点は民主的で民の声に重きを置いていることに対して違いは時代の声の反映度かもしれません。  ディラン氏の受賞のキーとなった「風に吹かれて」の詩はどうなっているか、ウィキから拾ってみました。  「『どれだけの砲弾を発射すれば、武器を永久に廃絶する気になるのか』『為政者たちは、いつになったら人々に自由を与えるのか』『一人一人にいくつの耳をつければ、他人の泣き声が聞こえるようになるのだろうか』『人はどれだけの死人を見れば、これは死に過ぎだと気づくのか』というプロテスト・ソング風の問いかけと、『人はどれだけの道を歩けば、一人前と認められるのか』『山が海に流されてなくなってしまうのに、どのくらいの時間がかかるのか』という抽象的な問いかけが交互に繰り返されたあと、『答えは風に吹かれている』というリフレインで締めくくられる」(以上ウィキより)とあります。 明らかに反戦歌であり、当時数多くヒットした反戦歌ブームの中でも人々の心に強く訴えた曲の一つであります。今、なぜ、これが戻ってきたのか、私は時代背景がそうさせた気がしてなりません。 世界のあちらこちらで起こる不和、そして争いを我々現代社会は無抵抗で、一部の国家主導の戦いにとどめてよいのだろうか、という大きな提案をしているようにみえます。個人的にはノーベル賞選定委員会の一定の思想が入った新しい切り口と感じました。 とすれば、文学としてのポジションは今後、競争が激しくなり、音楽のみならず、あらゆる芸術を通じたメッセージがノーベル文学賞の対象になりうるとも言えます。ディランの歌は英語だから世界で支持された もう一点、私が思ったのは英語がノーベル賞受賞のキーになることです。ボブ・ディラン氏の歌は世界中に英語の歌として広まり、聴かれ、支持されてきました。それは英語故に理解されやすいということです。これが日本語でもドイツ語でも都合悪いのです。なぜなら、フォロワーが少なく影響力が少なくなる負い目があるからです。 ところで日本でノーベル経済学賞受賞者がなぜ生まれないのか、という報道でも英語による発信、学会での発表、学者間での派閥づくり、そしてその考え方のフォロワーづくりができる人が少ないから、とされていました。きっとそうなのでしょう。 自然科学は圧倒的研究があれば何語であろうとそれをフォローしますが、人文科学はアピールが全てなのかもしれません。その点において英語でプレゼンテーションできることがノーベル賞受賞には今後、大きなキーワードとなると思っています。 最後に村上春樹氏の件ですが、今回、受賞できなかったと分かったと同時に「なぜ受賞できないのか」という専門家の記事、ニュース等が噴き出してきたのにはびっくりします。応援しているのか、蹴飛ばしているのか、メディアの注目だけを集めたいのか、ずいぶん軽薄だと思ったのは私だけでしょうか?村上春樹氏 個人的には氏の作品の6-7割は読んでいると思いますが、最近の作品が今一つだったと感じたのは技巧的であったけれど村上春樹氏の描く主人公の若くも寂しい「僕」がノルウェイーの森と海辺のカフカの時代から成長していないからかもしれません。それと彼の作品に出てくる「僕」のイメージが独特のキャラクターを持たせ続けている点で好き嫌いが出やすいと同時にその背景を含めた理解の度合いに色が出るのかもしれません。 ノーベル賞がなんだ、という声もあるでしょう。日本は自然科学部門で素晴らしい実績を上げているではないか、とする声も多いでしょう。しかし、私も人文系の学部を卒業した者として頑張ってもらいたいのは当然であります。また来年に期待しましょう。(ブログ「外から見る日本、見られる日本人」より2016年10月14日分を転載)

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    子ども若者の「ボブ・ディラン」を見つけてあげよう

    田中俊英(一般社団法人officeドーナツトーク代表)「ディラン愛」を語ってしまう ボブ・ディランは変わったカリスマアーティストで、ディラン好きの人々のそれぞれの「ディラン愛」を聞いているだけでも、聞かされるほうは元気になってくる。たとえばこの、みうらじゅん氏へのインタビュー(【インタビュー】みうらじゅん ディランは「フォークの神様」でなく「ロック」)などもその一例で、ディランをいつもながら熱く語るうち、みうら氏も明るくなってくるし読んでる僕も元気になってくる。イラストレーターで作家のみうらじゅんさん たとえば僕の高校時代にAくんという僕以上の変人の友人がいて、高校を出て大学受験に3浪したあと大学生となり、そこからインド旅行に備えて僕が当時住んでいた京都市左京区の下宿に何ヶ月か居候していたのだが、インド資金を貯めるためにアルバイトしていた京阪電車地下工事(当時まだ京阪は地上を走っていた)仕事がつらくて、バイトから帰っていつもディランを歌っていた。 みうら氏インタビューにもある『血の轍』から、名曲「ブルーにこんがらがって」を、ギターをかきむしりつつタングル・アッピン・ブルー! とか叫びながら、「ディラン愛」を語る。 あのジョン・レノンも名曲「ゴッド」のなかで、思わず「ジンマーマン(ディラン本名)を信じない」と最後に叫んだりするのだが、肝心のボブ・ディランはいつも彼を叫んだり語ったりする人の前から通り過ぎていて、宗教3部作等の怪作をどんどん出していく。 そんなボブ・ディランのふるまいやありようが、その他大勢のカリスマアーティストとは違って、肩透かしというよりは「永遠の存在」のような雰囲気でディランを意識するものたち(みうら氏やAくんやジョン等、世界中何億人の人々。僕も)の記憶に積み上がっている。「文化」の共有の力「文化」の共有の力 ところでこの頃僕は、ひきこもりやニートの若者たちへカウンセリングするなかで、「君は好きな音楽はある?」と久しぶりに聞くようにしている。 これまでずっと、好きなアニメやゲームは聞いてきたが、音楽に関しては僕が若い頃のようにはいまの若者たちには「文化」として浸透しておらず、彼女ら彼らが愛聴する音楽があったとしてもそれはゲーム音楽だったりiTunesの上位のほうにあるヒットソングだけだったりするからだ。 「若者に音楽を伝え、共有すること」がいつの頃からか若者支援のなかでは有効性を失った。 アニメを共有すること(たとえばエヴァンゲリオン)は、互いの価値を確かめ合い、若者の中にある「マイナー性」(エヴァであれば自意識過剰や「世界系」価値)を確認し尊重することができる。 そして、その「アニメ愛」をてかがかりに、再び「他者とコミュニケーションすることは可能だ」と伝えることができる。シンジ君やアスカの苦しみに共感するのは君だけではなく、世の中にはそんな若者がたくさんいるんだよ、ちなみに目の前にいるこの僕(田中)もオジサンではあるが、恥ずかしながらアスカの叫びはわかる、と。 とかなんとか、僕は若者に話しかける。つまり、アニメやマンガを代表とする(映画やライトノベルも)「文化」の共有の力は、青少年支援では重要な鍵となる。 僕が不登校支援を始めた20年ほど前は、アニメだけではなく「音楽」もその文化支援の一角を占めた。当時はバンドブームの最後のほうでもあり、たとえばブルーハーツの「トレイントレイン」やフリッパーズ・ギターの「ナイフエッジカレス」などの青春の名曲で盛り上がった記憶がある。 弱いものたちが夕暮れ、さらに弱いものをたたく(「トレイントレイン」)。 このフレーズをともに聞くだけで、我々は支援者・クライエントの垣根を超えて、「社会からはみ出た者たち」として連携できたのだ。宇多田ヒカル宇多田ヒカル が、いつの頃からか、若者支援のなかで「音楽という文化」はそれほどそれほど力がなくなった。 そうやって諦めていたのだが、最近の宇多田ヒカルの曲を聞いて、また「音楽の力」を見直してもいいのでは、と僕は思うようになった。その経緯は少し前の当欄に書いた(花束は「生者」に贈られている~宇多田ヒカルと母)のでここでは省く。 その原稿にも書いたように、宇多田の歌を聞くという行為そのものが、亡き人々も含めた「他者」からの励ましになる。その励ましは静かな寄り添いというか語りかけでありそれほど元気ではないが、ポジティブな要素はもっている。  そんな音楽の力を、僕は久しぶりに感じることができた。それに加えて、今回のボブ・ディランへの注目だ。ディランはいま70代半ばではあるがバリバリの現役で、たくさんの作品をつくりつづけている。 相変わらず、1人だけいつも先を歩き、「ディラン愛」に燃える人々を語らせる。 みうら氏をはじめとして、そんな「ディラン愛」をもてた人は幸せだ。ディランに支えられ(ディランを支えたくなり)ディランについて人々と語りたくなる。 生涯で1人でもいいので、我々は「◯◯愛」できるアーティストを見つけることができると、それぞれの人生は強くなる。それは、アニメ監督や作家ではおそらく物足りず、詩ということばを駆使し、自分の声で歌い語りかける「音楽」、特にポップ・ミュージック(ロックやラップも含んだ広義のポップ)が最も効果がある。 自分の声で、自分のことばで、世界を、特に価値の形成に揺れる若者たちを励ます。それこそがポップ・ミュージックの最大の力だ。それぞれの「ボブ・ディラン」それぞれの「ボブ・ディラン」 残念ながら今という時代は、そのポップ・ミュージックの力と、若者は若者1人の力だけでは出会いにくいようだ。それはネットの拡大によりアーカイブも含めた超広範囲の作品の中から自分だけのアーティストに出会うことが難しいということが第一の理由だろう。 だから我々大人は(当欄のメイン読者は30代40代の方々のようです)、大きなお世話だと言われようが、それぞれが若者に聞いてほしいと思う「ボブ・ディラン」を紹介してもいいと僕は思う。その「ボブ・ディラン」は、最近のアーティストの誰かかかもしれないし小沢健二かもしれないしプリンスかもしれないしジャスティン・ビーバーかもしれないし宇多田ヒカルかもしれない。 若者からうっとおしがられようがなんだろうが、音楽という文化の力を見直したい。その後押しを、ディランは飄々としてくれているように僕は感じている。(2016年10月14日 Yahoo!ニュース個人「田中俊英 子ども若者論のドーナツトーク」より転載)

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    「たかがノーベル賞」的風土も重要 社会に役立たない研究に宝あり

    た。日本人の受賞は素晴らしいことでもあり、筆者にとっても出身の東大教養学部基礎科学科の後輩から、初のノーベル賞受賞者が出たことは本当に誇らしく思う。なぜ世界中の優れた学者が切磋琢磨している中で、大隅君が受賞できたのか。そのことについて同じ学科で勉学した一人として見解を述べたいと思う。 第二次世界大戦が終わり、世界中の学者が研究に没頭できるようになったのは戦争が終わってから10年ほどたったころであった。そのころ、30歳前後だった日本の優れた学者は大学を建て直し、研究を拡大し、主として米国や欧州との関係を深めていった。それからさらに10年、わが国の主要大学に入学した学生は苦心惨憺した教授陣の薫陶を受けることになる。花束を受け取り顔を見合わせる大隅良典・東京工業大教授と妻の萬里子さん ノーベル賞は学問の世界では「最高峰」と言われるが、しょせん欧米の社会のモノであり、その審査手法についても欧米の考え方、彼らが重要だと思う学会賞の取得歴、それに審査員との人間関係などの利害で決まる。そのため、過去には「日本語の論文しか出していなかった」日本の研究者が受賞を逸したという出来事もあった(1996年フラーレンの受賞)。 つまり、21世紀に入って日本人のノーベル賞受賞者が増えた原因としては、戦後、学問の世界にも自由で解放された雰囲気がみなぎり、優れた教授陣が若き学生を育て、積極的に欧米の学会に出席させたという、ノーベル賞の受賞に必要な活力が具現化されていたことが大きい。 例えば、大隅君の受賞にしても、本人の才能や努力は当然であるが、それに加えて、新しい分野の開拓を目指す「基礎科学科」という独特の理念による教育を受け、故今堀和友教授というノーベル賞級学者の研究室で学ぶことができたという恵まれた研究環境も大きかっただろう。 また、ノーベル賞の対象とする学問領域という意味では18世紀のニュートン以来、マックスウェル、ダーウィン、ギブス、アインシュタイン、キュリー、ボーア、ポーリング、ワトソン・クリックへと続いた基礎学問の世界は一段落し、それ以後は応用分野が花開いたことで、実務指向の日本人に有利となった側面もある。 ただ、今年の化学賞は基礎より応用研究が重視された結果だったが、基礎分野に優れた業績が多い中で当然違和感を覚えたし、本来であれば受賞者は欧米の3人ではなく、日本人ではなかったのかとの疑問すら感じる。そう、いまだ欧米が「強い」のである。 それでは日本人のノーベル賞受賞は今後も続くだろうか? ノーベル賞級の業績に達する人の多くが、大学教育を受けてから40年程度を要する。日本の大学研究と教育は1990年代に中央官庁と国の委員会に出席することを本務とする東大教授、それにマスコミが支配し、日本の学術研究は崩壊したと言っても過言ではない。その象徴事例として挙げられるのが、「役に立つ研究」を重視する世論と「国際的に活躍できる研究者の養成」の二つであろう。それが顕著に表れ始めたのが1990年ごろであるので、2020年以後は受賞者が減り、30年以後は日本人の受賞者はほとんど出なくなることも考えられる。たかがノーベル賞、されどノーベル賞 もともと学問(特にノーベル賞の受賞の対象となるような新しい概念を作り出す学問)というのは、研究を始めるとき、それが将来の社会に「役に立つか、立たないか」は誰も判定できない。現在の社会は過去の学問で成り立っているのだから、「新しい世界を開く知」が未来の社会に役立つことを他人に説得することは論理的にはあり得ない。オートファジーの研究で知られる東京工業大学の大隅良典栄誉教授 例えば、20世紀の初めにオンネスが発見した「超伝導現象」はそれまでの物性物理で明らかになっていた「低温ほど電気抵抗が下がるのは、原子核の運動が小さくなるからである」という常識を覆した。もし、オンネスが超伝導現象を発見する前の日に、現在の日本の文科省などが行っている「研究評価」が適用されていたら、直ちに研究は中止されたであろう。 現在、日本では「役に立つ研究」にしか研究資金は潤沢に出ず、その審査はノーベル賞を取れないような社交的な東大教授を中心として行われている。その結果として日本の研究資金の配分は極端に東大に偏している。 そしてもう一つ。今や日本社会では当たり前になっている「英語教育の充実」も致命的になるだろう。これもまた当然のことであるが、「国際的な活動」は「本来の学問」が優れていることが前提であり、特に機械や電気などの分野では「コミュニケーションに劣る学生」ほど優秀である傾向が強い。これはひとえに語学と研究とでは頭脳の構造が異なるからに他ならないが、だからこそ英語教育の充実が声高に叫ばれることは「内容のない口先だけの人材」を増やすことにつながりかねない。 そして、クールビズに代表されるように「皆が横並びにすること」に従わない人を不当に排除し、個人の自由までもいろいろな形で拘束することは、自由な発想と研究者の死後30年を経て評価されるはずであろう、本当の意味での学問の成果を潰すことにもなる。 繰り返しになるが、ノーベル賞はしょせん欧米の「産物」であり、研究を始めたばかりの若き研究者は「ノーベル賞を取るために」毎日を過ごしているわけではない。あくまで彼らの知的衝動が研究意欲を高めているのであり、言うまでもなく日本社会はそのことをいま一度、深く理解しておくべきである。「たかがノーベル賞、されどノーベル賞」という風土もまた学問の発展には必要なのである。

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    韓国がうらやむ日本人ノーベル賞の秘密

    ーベル医学・生理学賞の受賞が決まり、韓国紙は日本の基礎研究の実力を称賛した。なぜ日本人は毎年のようにノーベル賞を受賞できるのか。韓国もうらやむノーベル賞ラッシュの秘密を読み解く。

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    カネではタフな研究者は育たない 日本人がノーベル賞を取れる理由

    上昌広(医療ガバナンス研究所理事長) 大隅良典氏がノーベル生理学・医学賞を受賞した。日本人のノーベル賞受賞は三年連続。25人目だ。12年の山中伸弥氏、昨年の大村智氏と生理学・医学賞の受賞が続いている。日本の医学研究のレベルが世界で評価されたことになる。韓国では「日本を見習え」と議論されているらしい。一方、日本ではノーベル賞受賞者が出るたびに「もっと基礎研究に投資を」「若き研究者に活躍の場を」と有識者たちがコメントする。東京工業大学の大隅良典栄誉教授 私も、日本の将来を考えれば、基礎研究に投資すべきだと思う。ポスドクや助教たちの待遇は改善すべきだ。ただ、研究者が声高に待遇改善を叫んでも事態は改善しない。「俺たちは好きな研究をやるんだ。これは日本に大切なんだ。もっと税金をまわせ」と言っているだけで、周囲はしらけてしまう。社会保障費の切り詰めをやっている日本で、これ以上、基礎研究に回す税金などないというのが実態だろう。 我が国の研究者が考えなければならないのは、この状況でどうすべきかだ。高度成長期に国の財政が豊かだった時代のモデルは、もはや通用しない。私は、各自が置かれた境遇に適応できるタフな研究者を育てることだと思う。 この点で、私はノーベル生理学・医学賞を受賞した三氏の経歴に注目する。特に幼少期から大学院時代までの過ごし方だ。研究者に限らず、個人の価値観や実力は20代までにほぼ決まる。その間を、どのように過ごすかが重要だ。特に、この期間に、どのような集団に所属し、どのような人々に出会うかだ。私は、三氏に共通するのは文化レベルの高い環境で育ち、良き仲間に恵まれたことだと思う。 例えば、山中氏は東大阪市生まれ。父は同志社大工学部を卒業し、町工場を経営していた。教育熱心で、山中氏は大阪教育大附属天王寺中学・高校(大教大天王寺)へと進む。天王寺は四天王寺の略称である。四天王寺は聖徳太子が建立した七大寺の一つだ。摂津から和泉に抜ける交通の要衝として発展し、現在は近鉄の本拠である阿倍野駅、あべのハルカス、大阪市大病院などの施設が集中する。さらに周囲には、新世界や飛田新地も位置し、生々しい人間の営みを垣間見ることができる。 この地域からは様々な人材が生まれている。例えば、山中氏の同級生には世耕弘成・経産大臣がいる。学生時代、世耕氏が生徒会長、山中氏が副会長だった。世耕氏は「山中は無二の親友」という。世耕氏は近大のオーナー一族だ。近大マグロや受験者数日本一など、近年の繁栄をもたらした。政治家としてだけでなく、経営者としても一流だ。重ねた挫折が結果をもたらした山中氏 山中氏もそうだが、国との距離感が見事だ。資金集めも上手い。ジャスト・ギビング・ジャパンと連携し、2012年3月の京都マラソンに参加した際には、1000万円の寄附を集めた。政府に「研究費を増やせ」と言っているだけの有識者とは違う。大教大天王寺には、ソフトパワーを重視する伝統があるように感じる。社会への見せ方が上手い。山中・世耕氏の4年先輩には俳優の辰巳琢郎氏がいるが、彼など、その典型だろう。山中氏のメディア対応は見事だが、辰巳氏が大きな影響を与えている。 若いときの出会いは、相互に影響を与える。その証左に、このような仲間は共通の「表現型」を呈することが多い。山中・世耕・辰巳氏に共通するのは「ソフトイメージ」。「ゆるキャラ」系と言ってもいい。卒業生も認識しているようで、大教大天王寺の卒業生は、「男はソフト、女はしっかりものが多い」という。京都大学iPS細胞研究所所長の山中伸弥教授 ちなみに、同地区に存在する府立天王寺高校のイメージは全く違う。卒業生には、中村祐輔氏(医師・シカゴ大学教授)、岡田武史氏(元サッカー日本代表監督)、佐藤慎一氏(財務省事務次官)、加藤晴之氏(講談社)などがいる。イメージは大教大天王寺と正反対だ。 話を戻そう。山中氏は何度も挫折した。そして、それを乗り越えて、成功を掴んだ。その際、多くの仲間を引き入れ、自らを変革していった。体裁にこだわらず、柔軟に対応し、ネットワークで仕事をする。江戸時代、大名がいなかった大阪で発達した独自の商売人文化だと思う。山中氏は、大阪を体現した人物だ。 次は大村氏だ。私は、彼の特徴は強烈な反骨心だと思う。筆者は、その原型は、彼が育った韮崎という町にあると感じている。例えば、大村氏の母校である韮崎高校の卒業生には強烈な面子が並ぶ。元サッカー日本代表の中田英寿氏、元民主党幹事長の輿石東氏などだ。金丸信氏も、かつて教員を務めたという。みな徒手空拳で世界を切り開いた。引かれたレールを走るエリートではない。 韮崎は甲斐、信濃、駿河を結ぶ諸街道が交差する要衝で、古くから栄えた。江戸時代は幕府の直轄領だった。ところが、明治以降、薩長藩閥政治の元、憂き目をみる。韮崎に限らず、山梨県では自由民権運動が盛り上がった。明治時代、熊本出身の山梨県令藤村紫朗への批判の声があがった。根津財閥の創始者であり、現在の東武鉄道を立ち上げた根津嘉一郎(1860-1940)は、若き頃、自由民権運動に従事していたことが知られている。 根津嘉一郎が設立した教育機関は名門の武蔵中学・高校だ。同校では「現在も政府に依存せず、自ら道を切り拓け(武蔵高校OB)」と指導しているという。教育は固有の価値観を再生産することだ。武蔵の文化は、山梨の歴史・文化と密接に関係する。メディア対策が奏功した大村氏 大村氏の人生も挫折続きだった。当初、理科の教諭を希望したが、望みは叶わず、定時制高校に勤務した。そして高校教諭として働きながら、修士課程を修了する。研究者になった後は、個人的なツテを頼り、米国に留学する。そして、メルク・アンド・カンパニーと契約し、研究費を確保する。 北里大学時代には、財政が悪化した北里研究所を再建すべく、北里大学の教授職を辞して、研究所の理事に専念する。みずから経営学や不動産学を学び、経営を再建する。そして、89年には「北里研究所メディカルセンター(現北里大学メディカルセンター)」を立ち上げる。土地取得から地元医師会への説得までを独力でやったのは有名だ。母校山梨大に完成した自身の胸像を前に話す大村智さん あまり報じられていないが、ノーベル賞獲得に大きく貢献したのはメディア対策だ。ネイチャー誌編集部に所属していた英国人と契約し、積極的に外部に情報を出した。こんなことをする研究者は、私は大村氏以外にしらない。 大村氏の仕事の仕方は、山中氏とは対照的だ。自ら考え、自らコーディネートし、そして自ら行動する。権力に依存したり、迎合したりするところが一切ない。これは、山梨という土地柄の産物だろう。周囲に、同じような先達がいて、大村氏は自然とそのやり方を身につけたのだろう。 最後は大隅氏だ。私が、彼から感じるのは、「バランスのよさ」と「逆張り精神」だ。カミオカンデのような巨額の資金を要する研究は兎も角、アイデア勝負の生理学・医学賞で、東大卒業生がノーベル賞を取るのは難しい。官僚体質が濃く、同調圧力が強いためだ。 高校時代、「環境問題をやりたい」など、さまざまな希望をもって東大に入学した学生も、夏休みを越すと、将来の希望は「官僚になりたい」や「研究者になりたい」と言い出す。環境をやるなら、トヨタに就職して、新しいエンジンを開発するなど、幾らでも方法があるのに、環境省に入省するか、東大の研究室しか選択肢がないように感じるようだ。これでは、研究者として大成しにくい。バランス感覚が優れた大隅氏 大隅氏は違った。例えば、1963年に東大理科二類に合格した後、3年の進振では新設された教養学部の基礎科学科に進学する。そこから、彼のキャリアが始まる。高校時代は、化学をやりたいと考えていたのだから、大きな方向転換だ。私は、この方向転換が、大隅氏を成長させたのではないかと考えている。それは東大教養学部には旧制第一高等学校のリベラルアーツの伝統があるからだ。駒場キャンパスと本郷キャンパスを訪問された方は、その雰囲気の違いに驚かれるだろ。前者からは「学問の自由」、後者からは「国家」を意識せざるを得ない。 旧制第一高等学校が廃止され、教養学部前期課程に組み込まれるのは1950年だ。大隅氏が後期教養課程に進んだ1965年当時は、まだ旧制第一高等学校の教員が大勢残っていたはずだ。大隅氏は、彼らから学問について影響を受けたのではなかろうか。この手の方向転換は難しい。東大で生きて行くためには、権力と全面抗争は出来ない。また、権力に全面的に迎合すると、御用学者になるしかない。ノーベル賞など、夢のまた夢だ。彼のバランス感覚は、どこから生まれたのだろうか。妻の萬里子さん(右)と会見する東京工業大学の大隅良典栄誉教授 私は、彼の出身地に注目している。大隅氏は、福岡生まれで、地元の名門福岡高校を卒業している。福岡は特殊な町だ。中国・韓国と近く、古くから博多港が栄えた。国際感覚と商売人の感覚が身につく。さらに、黒田藩52万石の城下町でもあった。城下町と港湾・商業都市が近接する事例は、我が国では極めて少ない。港湾・商業都市の代表は、横浜、神戸、函館などだろう。このような都市は、野球やラグビーなど海外スポーツが盛んで、キリスト教関係の施設も多い。文化人や経済人は輩出するが、政治家や官僚は少ない。我が国の統治機構が武士文化の影響を受けているからだろう。 福岡は違う。大勢の政治家を輩出している。かつては広田弘毅、緒方竹虎、頭山満、最近は上田清・埼玉県知事は福岡市出身だ。福岡県なら、麻生太郎、舛添要一氏らがいる。日本医師会会長である横倉義武氏も福岡県出身だ。みな、個人ではなく、組織の動かし方を熟知している。黒田藩の伝統を引き継いだ、この地域固有の文化なのだろう。 大隅氏のバランスのよさは、彼が学んだ福岡高校の雰囲気とオーバーラップする。福岡市内には3つの名門高校がある。修猷館高校、福岡高校、筑紫丘高校だ。修猷館高校と福岡高校の関係は特に密接だ。福岡高校は、1917年、修猷館中学(当時)の寄宿舎の一部を仮校舎として開校した。いわば、兄弟校だ。現在も定期戦が行われている。人と違う「逆張り」の発想を恐れないことが重要 修猷館中学は、黒田藩の藩校に由来する。福岡高校も、その流れを汲む。ただ、両校の校風は随分と違う。友人の福岡県出身者は「修猷館は官僚的、福岡高校はバンカラ」という。確かに、筆者の実感とも通じる。筆者の専門領域では、福岡高校の卒業生には、中村哲・ペシャワール会医療サービス総院長や、藤堂省・元ピッツバーグ大学教授らがいる。みなさん、バンカラでバランス感覚がいい。統治機構とも上手く付き合う。このあたり大隅氏に通じる。東大や関連する組織で、ノーベル賞を取るには、このような能力が必要なのだろう。 今回のノーベル賞のニュースを受け、一部の研究機関や大学の予算は増えるだろう。ただ、私は、そんなことをしても、日本の科学は進歩しないと思う。政府が拠点を認定し、優先的に予算を振り分けても、「腐敗」が進むだけだ。若者たちは、同調圧力が強い環境で、自分でものを考えられなくなる。その象徴が、STAP細胞事件の理化学研究所、論文不正が続く東大医学部などだ。東京都文京区の東京大学安田講堂   筆者の母校である東大医学部の場合、問題を指摘されている教授の多くは、都内の某新学校の卒業生だ。この学校の卒業生は、極めて有能だ。課題を与えると、即座に解決する。与えられた課題を解決するのは、受験勉強と本質的に変わらないのだろう。ただ、自ら課題をセットできないように映る。「スーパー大学院生」として若いときにはチヤホヤされるが、自立した研究者や管理職には向かない。このような教授に指導される若手は不幸だ。 立派な研究をするには、人と違うことしなければならない。逆張りだ。しかしながら、逆張りは、言うは易く行うは難い。気まぐれで逆張りすれば、討ち死にするだけだ。逆張りするにはノウハウがいる。若者が、そのようなノウハウを身につけるのは、基本的には先輩や友人からだ。若者には具体的なロールモデルが必要だ。幸いにも、我が国には多彩なロールモデルがある。この多様性こそ、我が国から多くのノーベル賞学者が出ている理由の一つだ。 近年、東京一極集中が叫ばれている。メディアは「東京対地方」という単純な構図で議論しがちだ。問題があれば、「政府が支援すべきだ」のオンパレード。こんなことを言い続けている限り、日本は衰退する。世界と伍して戦うには、敵を知ると同時に、己を知らねばならない。そのために必要なのは教育だ。研究者を育てることは、子育てと似ている。ふんだんな教育費をかけて、小遣いをたっぷり与えても、他人と交流し、切磋琢磨しなければ大成しない。いま、研究者に求められるのは、金をねだることではない。大人の議論だ。

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    俺にもノーベル賞のチャンスはある! 湯川秀樹の背中を追った日本人

    岡本拓司(東京大学大学院総合文化研究科准教授) 2000年以降、日本人のノーベル賞受賞者(以下、物理学、化学、生理学・医学の自然科学3賞を指す)が増えていることが注目されている。日本人といっても国籍が日本ではない受賞者や、受賞対象となった研究が国外で行われた受賞者もいるが、日本で高等教育を受けた人々による日本で行われた研究が受賞する例が格段に増えていることは間違いない。 近年の受賞者が受賞対象となった研究を行ったのは、おおよそ1960年代から1990年代であり、戦後の復興から脱した日本が次の段階に向けた成長を遂げた時期であった。研究が行われた環境は個々の場合によって異なる。しかし、戦後、若干でも余裕が生じた時期に、能力のある若者が科学研究に進み、独創性に富む研究を行うようになったことの淵源は、日本の科学の歴史の中に見出すことができる。夏目漱石 日本が大規模に西洋由来の科学を導入するようになったのは明治維新後のことである。とはいえ明治初期は学習に忙しく、研究を志す若者が目立つようになるのは明治20年頃になってからであった。当時、ほとんどが外国語で書かれていた教科書を開けば、目に入るのは西洋人の名前ばかりであるから、日本人あるいは東洋人が果たして研究を行う能力を持つのかどうかさえいぶかしく、一生を研究に捧げようと決意するには勇気が必要であった。たとえば物理学者の長岡半太郎は、東洋人には独創的な科学研究を行う能力がないのではないかと考えたが、中国の古典を紐解き、オーロラや地磁気の発見は中国人が西洋人に先駆けて行っていることを見出したうえで、ようやく安心して物理学に進んだ。 長岡の場合は、東洋人も西洋人に負けない学術上の貢献を行いうることを見せたいという強い熱意を持っており、これが学問に進んだ動機の一つであった。明治半ばの学問を志す若者の間では、こうした意欲の持ち方は珍しくはなく、夏目漱石は英文で優れた著作を送り出し世界に問いたいとして英文学を専攻し、近代鳩山家の祖の鳩山和夫は法学をそのような場として選んだ。医学者の北里柴三郎がドイツ留学によって研鑽を積みたいと考えたのも学術で世界に知られた日本人がいないことを憂えてのことであった。 個別の学問への理解が進むと、しかし、世界に挑戦するのに適した領域と、そうではない領域があることが次第に気付かれていった。夏目漱石は年少の友人で物理学を志す寺田寅彦に、科学はコスモポリタン的性格をもつが英文学ではそうではないとロンドンから書き送り、鳩山和夫も国ごとの違いの大きい法学では世界規模での挑戦はできないと息子に語っている。世界を舞台にした競争や、西洋への挑戦は、どの学問分野でも行いうるというわけではなく、長岡の選んだ物理学や北里の進んだ医学、すなわち自然科学という領域においてより成立しやすい。山極勝三郎への評価で生じたノーベル賞への不信感北里柴三郎 もちろん、科学を生み育ててきた西洋の伝統は長く、日本からの挑戦は容易には成果を生まなかった。20世紀初めには、挑戦の成果を最もわかりやすく示すノーベル賞が誕生しており、北里柴三郎がその初回の賞に推薦されるなど、日本の科学者もごく初期から関わりは持っていた。しかし、受賞というかたちで挑戦の成果が現れることは、戦前期にはなかった。 戦前期でも、日本人が健闘した例はある。山極勝三郎が1915年に世界で初めて人工的に癌を発生させたのは最も顕著な研究であり、1925年に日本から、翌年にはドイツから、ノーベル賞への推薦があった。しかし、同系統とみなされた研究で1927年にデンマーク人がノーベル賞を単独で受賞し、1930年に山極が死去すると(死者にはノーベル賞は授与されない)、関係者は、これほどの業績も西洋人は評価しないのかと落胆した。東洋人に対しては偏見があり、学術上の評価もそうした偏見に左右されているのではないかともささやかれるようになった。 物理学賞については、長岡半太郎は長年にわたってノーベル物理学賞の選考委員会から推薦を依頼されていたが、1910年代から1938年に至るまでに彼が推薦したのはすべて外国人であり、この期間には彼が評価するに値すると判断できる研究者は、日本からは現れなかった。1940年になって長岡は初めて日本人の名前を挙げたが、そのときの候補者が湯川秀樹であり、推薦の対象とした研究は湯川の中間子論であった。この時点では湯川の理論は実験的な確証が得られていなかったが、1947年に宇宙線中に中間子が発見され、1949年に湯川は日本の科学者として初めてノーベル賞を受賞することになる。 1945年に太平洋戦争が終結したばかりであり、この戦争では日本は「科学戦」に敗れたとする指摘もまだ声高に唱えられていた時期であったから、1949年の湯川のノーベル賞受賞は国民全体に大きな自信を与えた。当時すでに日本の原子核・素粒子物理学は世界的水準にあったが、自身の能力を試したいと思う若者がこの領域にさらに流れ込んだ。2016年現在に至っても、日本のノーベル賞受賞者のうち6名(米国籍の南部陽一郎を含めれば7名)はこの領域、あるいは関連領域の研究者である。湯川の受賞を見て、素粒子物理学は無理でも物理学のその他の領域に、あるいは物理学ではなくともそれ以外の科学の領域に進んだ若者も多かったものと思われる。湯川の受賞で高まったノーベル賞への「信頼」 ほかの領域ではなく物理学で日本からの「挑戦」が成功した事情を理解するには、日本のみならず世界の状況をも考える必要がある。エックス線の発見などに端を発する、19世紀末から続いた物理学上の変革は、1930年代に至って量子力学という新しい基礎理論の誕生という帰結をもたらしていた。物理学研究を行うための枠組みはこれによって大きく変化し、17世紀末のニュートン力学の誕生に次ぐ変革がこの分野にもたらされた。湯川秀樹=昭和42年7月 基本的な規則の変更であったから、旧来の科学研究において長い伝統をもつ地域の人々が必ずしも有利なわけではなく、新たに科学研究に参加した地域の人々のほうが、新しい発想や方法に基づく研究で成果を挙げるという事態が生じた。そのような集団として目覚ましい躍進を遂げたのはアメリカの物理学者たちであったが、日本でも小規模ではあったが同様の事態が生じた。1937年に日本を訪れたニールス・ボーアに、湯川が自身の中間子論(発表は1934年)の構想を話したところ、ボーアは「新しい粒子が好きなんだね」と軽くあしらった。しかしボーアが日本を離れて間もなく、その中間子が前年に宇宙線中で発見されていたという報告がアメリカで行われ、湯川の理論は世界の研究者の関心を集めるようになる。 結果的には1936年に発見された粒子は中間子ではなかったが、上述のように第二次大戦後に湯川の理論は実験的確証を得てノーベル賞を受賞し、素粒子物理学は日本が高い国際競争力を誇る領域となった。さらに、日本人・東洋人であっても、有無を言わせぬ成果を挙げればノーベル賞の選考者はこれを評価するということも明らかになった。長岡の例で見たように、物理学賞や化学賞では、戦前に日本人が推薦された例は極めて少なく、物理学賞で本多光太郎と湯川秀樹、化学賞で秦佐八郎と鈴木梅太郎が候補になっているのみであるが、湯川が受賞して以降、1965年に朝永振一郎が物理学賞を受賞するまでに、朝比奈泰彦、外山修之、水島三一郎、山藤一雄が日本の科学者によって推薦されている。ノーベル賞に対する信頼や期待が、湯川の受賞によって高まったことがわかる。 明治期以降、日本の科学者が積み重ねてきた努力が、国際的な学問の潮流と相まって、ノーベル賞受賞という分かりやすいかたちでの成果が最初にもたらされたのが素粒子論、物理学においてであった。科学分野において突破口を開いたこの領域は日本の誇る研究分野であり続けている。同時に、湯川秀樹の受賞は、日本人も科学研究において第一級の成果を挙げることが可能であり、また優れた成果であれば日本人のものであっても公正に国際的評価が与えられることを明らかにした。1949年という時期にこのことが明示されたという事実は、日本の社会、特に知的能力に自信をもつ若者たちの間で、科学研究への期待と研究業績に対する国際的評価への信頼が回復し、その後も維持され続けていくうえで大きな意味を持ったと考えられる。

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    ノーベル賞 中村修二氏が語る 日本がイノベーションを起こすために

    【WEDGE REPORT】歴史を教える日本、最先端の知識を教えるアメリカ 私の所属するUCSB(カリフォルニア大学サンタバーバラ校)では、「大学教授たるもの、どんどん外へ出て、生きた知識を吸収し、それを学生に教えるべし」とされている。2014年ノーベル物理学賞を受賞した中村修二氏(写真:小平尚典) 「外へ出る」というのは、自分でスタートアップを立ち上げるとか、企業のコンサルティングをするということを指す。そうして得た最先端の知識を学生に教える。 教授自らがスタートアップに携わることは、UCSBに限った話でなく、アメリカでは一般的だ。そもそも工学部の教授の場合、ほぼ100%が企業に勤めた経験をもつ。 一方、日本の教授は、博士号を取得して、大学で助手からスタートして……と、外で活動をしていないことが多い。 そのため、講義は教科書中心となる。教科書というのは過去の話をまとめたもので、歴史の講義をしているようなものだ。これでは学生は最先端の知識を学べない。 この話を日本の大学教授にすると、「その通りです」と納得することが多い(苦笑)。日本の先生方も分かっておられるが、仕組みの問題なので、どうすることもできない。スタートアップが人を集めるワケスタートアップが人を集めるワケ アメリカの学生はトップ層でも卒業後、スタートアップに就職したり、スタートアップを起こしたりすることが一般的だ。日本のようにほぼ全員が大企業を目指すなどということはない。サンフランシスコ市内のカフェに集まるスタートアップの経営者たち。今シリコンバレー界隈では、ハードウェアスタートアップブームが訪れている(写真:小平尚典) 大企業へ勤めることと、スタートアップへ勤めることは、福利厚生等を含めて条件面で大差ない。ドクターなら1年目で1000万円も珍しくない。加えてストックオプションの魅力がある。 大企業であれば、ストックオプションの価値はそう変わらないが、スタートアップのストックオプションは、大化けする可能性を秘める。 こんなことができるのもベンチャーキャピタル(VC)によるスタートアップへの投資が活発だからだ。日本ではVCが少なく、スタートアップを起こした場合、主に銀行から借りることになるが、銀行は担保を求める。事業が失敗すれば、場合によっては親戚まで路頭に迷うことになる。 これでは新しいことに挑戦しようという若者が増えなくて当然だ。アメリカでは事業が失敗したとしても、基本的にVCが損をするだけだ。起業する側のリスクは日本より低い。 日本のように「銀行から何とかしてお金を借りてきた」という状況では、お金を使うことが惜しくなって当たり前だ。思い切ったことをできるはずがない。 私の経営するスタートアップでも、VCが気前よくお金を出してくれている。出張する場合、ビジネスクラスの利用も認められているし、格安ホテルに泊まる必要もない。そういったことを含めてVCはお金を出している。 初任給が一律同じ、というのもおかしい。アメリカではスキルに応じて一人ひとりの額が異なる。学歴だけで初任給を決めていることは、ロボット扱いをしていることに等しい。こんなことをしているから日本では大学で真面目に学ぶより、遊んでいたほうがトクということになってしまう。 企業の採用面接でも、真面目に勉強した学生より、「世界一周していました」という学生のほうが評価される傾向にある。これでは、人材の質が上がるわけがない。もっともこれは企業が大学に教育機能を期待していない表れでもある。人材の流動性低い日本人材の流動性低い日本 日本は人材の流動性が低いことも問題だ。アメリカでは色んな人材が集まってスタートアップをつくる。流動性が高いので、欲しい人材が集まりやすく、ありとあらゆる専門家を呼んできて、すぐに何でもできてしまう。 私のスタートアップでも「我が社へ来ませんか?」と次から次へと電話を掛けているが、それさえやれば、翌日には理想的なチームが出来上がる。大手企業の研究所長がスタートアップの一員になることも珍しくない。日本では考えられない。(写真:小平尚典) 一方、日本では1つの企業内で何でもやろうとする。これまで手掛けたことのない分野に進出する場合、企業内にスペシャリストはいない。どう考えても限界がある。 VCは日ごろ多くの人と会っているため、どこにどのような人材がいるのかよく知っている。そのため、VCに相談すれば、適切な人材を紹介してもらえる。VCはただ投資をしているだけでなく、スタートアップが育つのに重要な役割を果たしている。米へ留学させるべし米へ留学させるべし 日本がイノベーション大国になるためには、様々な仕組みを変えなければならず、大変な労力と時間がかかる。イノベーションを生むようになるための手っ取り早い方法は、若者がどんどんアメリカへ学びに来ることだ。孫正義氏など、日本で成功している経営者の多くは、アメリカで学んでいる。アメリカで学び、日本へ戻って起業すればよい。カリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)キャンパス内(写真:小平尚典) 日本は発明することと、良い製品をつくることに関しては、世界トップクラスだ。どこの企業も良い製品をつくる。ただし、それを世界のスタンダードにすることは、言葉のハードルがあり苦手だ。 世界に売ることを考えた場合、若者をどんどんアメリカへ留学させるべきだ。だいたい日本では企業が大学に期待していない(苦笑)。それだったらアメリカへ留学させたほうがよい。 それと、日本人の真面目さは誇るべきことだ。部品を発注すると、納期をしっかりと守り、完璧なものをつくってくれる。一方、アメリカでは、納期は2倍、3倍かかり、しかも、図面とはまったく違うものをつくってくる、ということが日常茶飯事だ(苦笑)。この真面目さは仕事をするのに普遍的に大切なことだ。 とにかく日本に必要なのはスタートアップの成功例だ。成功例は後進を育てる。成功例がある程度出たら、変わっていくだろう。(文:Wedge編集部 伊藤 悟)

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    なぜ日本人ノーベル賞は国立大出身者しかいないのか

    いことだし、スポーツ嫌いの私個人としては、オリンピックの金メダルよりはるかにうれしいことだ。 一時期ノーベル賞を取る人の数が少ないことが問題にされたことがあったが、毎年のように受賞者を出すようになり、この点では世界の先進国に肩を並べたといっていい(アメリカには遠いが、ヨーロッパのレベルには十分達している)。研究室で顕微鏡をのぞく、オートファジーの研究で知られる、東京工業大学の大隅良典栄誉教授=9月29日、横浜市緑区(寺河内美奈撮影) この理由については、いろいろな分析があるが、私は、やはり日本人の基礎学力の高さが大きいと考えている。 実際、現時点では、日本のノーベル賞受賞学者はすべて国立大学出身者だ。受験科目が多く、高い基礎学力がないと入学は難しい。 共通一次試験の導入で、覚え物の比率が増えたとか、オリジナリティーのある解答が求められることがなくなったなど、基礎学力重視の入試導入には批判が多かった。例えば数学だけがずばぬけてできるというような面白い人材が国公立の大学に入れなくなったという問題も指摘された。 しかしながら(もちろんこれが例外にならないとは限らないが)、すでに共通一次受験者の山中伸弥氏もノーベル賞を受賞している。 私が懸念するのは、ゆとり教育(中止されたとはいえ、まだ昔と比べるとカリキュラムはかなり薄い)や少子化で入試が簡単になったことによる日本人全体の基礎学力の低下である。昔は東大であれ、国立大学であれ、日本全国の秀才によるセレクションであったが、今は、一部の選ばれたものだけが参加する中学入試経験者によるセレクションになりつつある。そういう中からユニークな人材が育つのかと考えてしまうのだ。海外が真似する日本の初等中等教育 現時点でのノーベル賞受賞者は、圧倒的に公立高校出身者が多い。中学受験の経験者は山中伸弥氏(今後の傾向を占うことになるかもしれないが)と私の灘校の先輩、野依良治氏だけである。 日本の初等中等教育の評価は海外では驚くほど高い。 イギリスやアメリカで学力低下が問題にされた際も、手本にされたのは日本の初等中等教育である。そして、アジアの多くの国も、戦前から日本の初等教育のようなシステムになっている国(これらの国は日本に批判的だが、教育システムだけはいまだに日本流である)も、日本を手本に教育システムを構築した国が少なくない。 ところが日本では、教育改革と言えば、必ず初等中等教育の改革のこと、あるいは入試制度の改革のことを指す。 日本の研究レベルの高さが、日本人の基礎学力の高さに負うということへの反論の一つに、ならばなぜ東大出身者(大隅氏は東大卒だが)のノーベル賞が少ないのかとか、医学生理学賞を、なぜ偏差値が高いはずの医学部卒(山中氏は医学部卒だが)の人が取らないのかというものがある。 大隅氏はインタビューの中で自由な研究環境に恵まれたことに触れ、また、大隅氏に指導を受けた研究者たちからは、自由に研究をさせてくれたとか、学生に反論したことがないという賛辞の声が上がっている。 日本の理系学部で、このような伝統が残っているとしたら喜ばしいことだ。 ただ、少なくとも私の所属する医学の世界では、このような研究の自由な風土はかなり制限されている。要するに学会ボスが強すぎるのだ。 がんの放置療法で問題になっている近藤誠氏であるが、もともとは海外の論文で、あるステージまでの乳がんは、オッパイを全摘して大胸筋まで切る術式をしなくても、がんだけ切って放射線を当てるだけで、5年生存率が変わらないということを見つけ、国民の啓蒙のために、ある雑誌に提起したことが物議の始まりだった。メンツをつぶされた外科教授たちがこぞって近藤氏を排斥し、その術式を使うと上からにらまれるためか、日本ではほとんど普及しなかった。そして、これらの外科の学会ボスがみんな引退した15年後くらいになって、この術式が日本の標準術式になった。 教授に逆らうと、就職口でも不利になるし、研究の予算も回してもらえないシステムな上、一度、教授になれば、刑事事件でも起こさない限りクビにならない(ディオバン事件で、論文の改ざんを認めた東大教授がいまだに学会ボスとして君臨しているのだ)システムでは、教授の考えに逆らう研究はできない。彼らが引退するのを待つだけだ。 最近になり、日本ではコレステロール値が高い人や、やや太めの人のほうが長生きしているというような疫学データが次々出ているが、医学会の趨勢はそれをつぶそうとするばかりで、なぜそうなるのか、それが事実なのかの研究をやろうという機運にならない。 ノーベル賞というのは、後にその分野の科学の進歩に貢献する研究とか、人類に役立つ研究のほかに、旧来の仮説を覆すような研究に与えられるものだ。しかし、日本では、大隅氏のような人格者が上にいなければ、そのような研究は許されない。 私は、上の顔色を窺う研究者が、今後もっと増えることを懸念している。AO入試化の隠された事実 2021年の春入試から、東大を含めたすべての国公立大学の入試がAO入試化され、ほとんどの大学で入試面接が課される。 私が問題だと思うのは、このような流れにほとんどの国公立大学の教授たちは歓迎の方向になってはいるが、ある事実を隠蔽していることだ。 それは、海外の名門大学のAO入試では、教授たちとは独立した第三者機関であるアドミッション・オフィス(これがAOである)があり、面接は教授でなく面接のプロが行う。そうしないと教授に逆らわないおとなしい学生ばかりが入り、学校が活性化しないと思われているからだ。 こういうことは聞いたことがない人がほとんどだろうが、おそらく海外の学問事情にくわしい大学教授たちの中では知っている人が少なくないはずだ。 海外の成功事例を議論の対象にしないで、身内でなんでも決めてかかろうとする(都庁の役人と似ているように感じるのは私だけだろうが)入試面接など信用できないし、教授に逆らえないような人間ばかりが入学してくるような大学では、ノーベル賞が生まれるとは思えない。 大隅氏が留学を勧めるように、日本のノーベル賞学者のほとんどは海外で、自由な研究を経験してきた人か、大学よりヒエラルキーが緩い企業研究者だということを忘れてはならない。 ついでにいうと、日本の国立大学を出た人は基礎学力が高いせいか、海外の大学院で落ちこぼれるという話はほとんど聞いたことがないし、逆に海外で初等中等教育を受けた日本人や日系人がノーベル賞を取ったことはない。

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    韓国紙 日本人のノーベル賞受賞に「うらやましいばかり」

    コラム記事から、その傾向を分析した。* * * 韓国メディアの日本への“嫉妬”が如実に表れるのは、「ノーベル賞」関連の報道だ。 ノーベル物理学賞に赤﨑勇、天野浩、中村修二の3氏の受賞が決定した直後の2014年10月9日、『中央日報』(電子版)は社説で、〈1人のノーベル科学賞の受賞者も輩出できない韓国の立場としては、うらやましいばかりだ〉と、思わず本音をぽろり。 一方、2016年3月14日のネットニュース『マネートゥデイ』は、韓国が今年から、ノーベル賞の発祥国・スウェーデンの学術財団と交流事業を開始することを伝えた。その中で、〈日本のノーベル科学賞受賞の成果は、スウェーデン政府・ノーベル委員会・国家研究所・大学などを中心とした執拗なまでの科学外交と関連がある〉 と専門家の分析を引用し、日本が際立っているのは科学技術力ではなく“外交努力”であると、負け惜しみにも見える主張を展開した。 こうした論法を使い、韓国メディアはユネスコの世界記憶遺産にも噛みついた。昨年、中国の「南京大虐殺関連資料」が記憶遺産に登録されたことを巡り、日本政府はユネスコへの拠出金停止を検討。それを受け、『朝鮮日報』(電子版・2015年10月13日)の社説は、「ユネスコを脅迫する日本の品格」と題した社説を掲載した。〈韓国は1988年、中国は1985年と、日本より先に(世界遺産条約に)批准した(中略。日本は)金をちょっと出しているばかりに、世界を見下しているようだ。安倍政権の傍若無人ぶりは感じていたが、これほど品格がないとは思わなかった〉「金に物を言わせて尊大に振る舞う日本」と言わんばかりだが、言うまでもなく、日本政府が拠出金の停止を検討したのは中国側の資料が客観性に乏しく、審議の過程が不透明だったからだ。日本が不幸になったり不利になったりすると喜ぶ一方で、日本が主張するのは面白くないらしい。 韓国が「国家の品格」を保つためには、まずはメディアが「事実を客観的に伝える」という報道の大原則を学ぶ必要がありそうだ。関連記事■ 韓国「科学研究の本質を忘れノーベル賞に没頭」との指摘あり■ ノーベル賞の受賞者 日本は22人で中国は3人で韓国は1人■ ウリジナルで発明多数を主張の韓国 ノーベル賞は平和賞1人■ 「活版印刷」と「羅針盤」 韓国が起源は韓国人の間では常識■ 韓国では「独島」問題となると正論、常識はもはや通用しない

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    世界的科学者を育てた音楽教室

    早野龍五さん(東京大学教授)70年間、世界的演奏家を輩出し続けてきた異色の音楽教室 東日本大震災による東京電力福島第一原発の事故直後から、Twitterを通じて放射能に関する情報を発信し、人々の不安を和らげてくれた東京大学教授・早野龍五さん。福島県の子どもたちの内部被爆の調査と経過観察を続ける一方、原子物理学の第一線の科学者として、勤務する東京大学やスイスのCERN(欧州原子核研究機構)での研究に忙しく、常に世界を飛び回っている。早野龍五さん。50年ぶりに手に取ったヴァイオリンをコソ練中とか 2016年8月、早野さんは、音楽教育「スズキ・メソード」で知られる公益社団法人才能教育研究会の第5代会長に就任した。スズキ・メソードは、国内で最も歴史のあるヴァイオリンメーカー「鈴木ヴァイオリン」創業家に生まれた鈴木鎮一(しんいち、1898~1998)が、1946年に長野県松本市で設立した音楽教室である。 スズキ・メソードは、コダイ、ウォルフ、リトミックと並んで世界四大音楽メソッドの一つとも言われ、いまや世界46カ国で40万人の生徒が学んでいる。もっとも浸透しているのはアメリカで、30万人が学ぶ。発祥地の日本よりも世界で知られた音楽教育法といえるかもしれない。日本においては現在2万人弱の生徒が学んでおり、卒業生には桐朋学園学長を務めた江藤俊哉、里見弴の小説『荊棘の冠』のモデルになった諏訪根自子といったヴァイオリニストに始まり、パガニーニ国際コンクールやジュリアードコンチェルトコンクール、ロン=ティボー国際コンクールで上位賞を獲得する演奏家が数多いる。 実は早野さんも「スズキ・メソード」のヴァイオリン科卒業生であり、幼少時の音楽レッスンを通じて、科学者として必要な「非認知能力」――たとえば物事をやりぬく力や自制心―を身につけ、研究を続けるうえでの大きな力になったと発言して話題になっている。 情操を磨くだけではなく、人としての基礎力を身につけた音楽教室。いったい、どのようなレッスンを行っているのか。早野さんにお話を伺うと、70年前に打ち立てられたスズキ・メソード創設者・鈴木鎮一の教育哲学が、近年の幼児教育の研究結果を先取りしていたことがわかる。音楽家ではなく人を育てる音楽家ではなく人を育てる編集部:原子物理学の研究者として知られる早野さんが音楽教室を展開する才能教育研究会の第5代会長になられたと聞き、意外に思っていたのですが、子供の頃にスズキ・メソードでヴァイオリンを習っていらしたのですね。 スズキ・メソードの創設者・鈴木鎮一さんの著書『愛に生きる』の中に、早野さんのことが登場します。1959年、ウィーン・アカデミー合唱団がスズキ・メソード発祥の地、長野の松本音楽院を訪れたとき、指揮者のダビッド教授が小学校1年生の早野さんに独奏を指名した。そうすると「バッハのコンチェルトを弾きます」と言って立派な演奏を行い、合唱団の人々を驚かせたと。その5年後には、6歳~14歳までの10人の生徒がアメリカ17都市に演奏旅行に出かけ、それまでヴァイオリンの勉強は8、9歳からでないとできないと考えられていたアメリカに、大きな衝撃を与えたそうですね。早野さんはこの全米演奏旅行「10(Ten)Children」にも参加していらっしゃいます。5才の頃。松本の自宅にて早 野:私がスズキ・メソードでヴァイオリンを習い始めたのは、たしか4歳の時。当時は父の勤め先が信州大学だったので松本に住んでいたんです。たまたま鈴木鎮一先生の教育方針に心酔した父の友人が才能教育研究会の事務局にいたご縁で松本にあったスズキ・メソードに通うことになり、ほどなくして鈴木先生に直接指導を受けるようになりました。15歳になるまで続けましたから、11年あまりかな。 習っている間はほぼ毎週1回、鈴木先生のお宅にレッスンに伺っていたんだけど、高校に入った15歳のある日、鈴木先生に「今日で最後です。私は科学の道に進みたいので、音楽家にはなりません」とお伝えしました。編集部:えっ、全米演奏旅行にも参加した早野さんが辞めると聞き、鈴木先生はガッカリなさったのではないですか?早 野:いえ、それはありませんでした。なぜかといえば、鈴木先生にはもともと、「音楽家」を育てるおつもりは無かったと思うんです。つまり子供を、音楽を通じて「人」として育てるのであって、音楽家という特殊な人種に育てることを強調しなかった。 スズキは創立からの70年間、ヴァイオリンやピアノの国際コンクールでも受賞するような音楽家をたくさん輩出し続けてきました。でも音楽家にならずに、異なる道に進んだOB・OGもたくさんおられます。研究者、作家、棋士、弁護士……。様々な道に進んだ人が大人になり、「あの時スズキ・メソードでレッスンを続けていて良かったなあ」と振り返ってくれることが、鈴木先生が望まれたことではなかったかな、と思っています。子供の才能は「家庭で育てる」が基本子供の才能は「家庭で育てる」が基本編集部:日本にはさまざまな音楽教室が展開していますが、その多くは教室で講師と1対1になり、教則本を進めていくという方法が採られています。私が通っていた大手音楽教室もそうでした。スズキ・メソードの場合は、どのようなレッスン方法を採用しているんでしょうか?早 野:特徴の1つは、保護者、おもにお母さんにレッスンに随いてきてもらうということでしょうか。一緒にレッスンを受けたお母さんは、家に帰ってお子さんのレッスンを見る‘先生’になる。親子で練習を進めておき、また1週間後に講師のレッスンを受けます。 鈴木先生は、「子供は家庭で育つ」ということを、常に言っておられました。子供にとっての環境の大部分は家庭にあり、まずは家庭で、母語のように音楽を繰り返し聴き、弾き、聴き、弾く。音楽教室は、その基礎の上にあってこそ成り立つ場所です。 レッスン時間の最初は、よい演奏を聴くことから始まります。お父さんお母さんの母語を覚えるように、子供が自然に「あんな風に弾いてみたい」と思うことが大切で、子供自身が「うまく弾けた」と思うことができれば、達成した喜びで次のステップへ進むことができるでしょう。これが鈴木先生の仰る「母語教育法」です。 スズキの教則本の第一番は音階練習ではありません。誰でも知っている「きらきら星」です。これを耳で覚えた子供がまず曲を弾いてみて、先生や親が聴く。親だけではなく、ほかの生徒が一緒に聴いている場合だってあります。また子供が弾く、の繰り返し。楽譜を見ないで弾けるようになったら、次の曲に行くんです。ときどき、同じ曲に戻ることもありますよ。でもそうやって何度も何度も同じ練習を繰り返すので、時間が経ってもその曲を弾くことができるんです。 僕はこの前50年ぶりにヴァイオリンを持たされて弾いてみたら、当時の練習曲が何とか弾けたんです。自分でもびっくりしました(笑)。編集部:たとえ半世紀前であっても、一度習得したことはなかなか忘れないということですね。鈴木先生も「生まれて来る子供たちは初めから文化的な存在ではないが、文化の高い生活態度をもった家庭で育てれば、その子供は立派な教養を身につけた、文化人となりましょう」と仰っています。教育投資は早いほどいい教育投資は早いほどいい早 野:このところ、幼児教育に関して、教育投資のタイミングが話題になっています。有名なのはノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学の労働経済学者ジェームズ・ヘックマンの研究です。ヘックマンによれば、「就学後の教育の効率を高めるには、就学前教育が大切」で、彼の著書『幼児教育の経済学』には、子供に教育投資をしたタイミングや額と、その子供が大人になってからの犯罪率、大学をドロップアウトせず卒業できたか、などの関係を調査した結果がまとめられています。 この本で明確に述べられているのは、同じ教育投資をするなら、幼児教育に投資をすべきだということ。大学受験に投資するくらいなら、幼児のときに投資したほうがよい。なぜなら、幼児のときにきちんと教育された子は、犯罪率や大学中退率が低いという調査結果が出ているのです。 では、何を投資するべきか。算数・国語とか、学校の教育で計れるようなもの(認知的能力)に投資しても、結果的には意味がない。もちろん、入学以前に教科内容を習っていれば、学校に入った時点ではいい成績を取れるでしょう。しかしその優位差は、卒業する頃にはほとんど無くなってしまいます。 経済学分野では、人間の生産性に関する格差を「人的資本」という概念で説明してきました。この人的資本には「認知能力」と「非認知能力」があり、学校や塾でのIQテストに代表される認知能力に対して、「非認知能力」とは、個人特性、選好、自制心、情報処理能力などを指しています。いわば「性格」のようなものです。 ヘックマンは、この「非認知能力」を身に付けさせることにこそ、意味があると言っています。たとえばこの著書でも頻出する「GRIT」(やり遂げる力)。月曜はピアノ、火曜はバレエ、水曜は学習塾……と、毎日違う習い事をさせるくらいなら、子供が関心もったことを1つ選ばせてしっかり学ばせたほうがいいんです。編集部:習い事を通じて、人間としての基礎を躾けるということですね。だから進む道が音楽家であるか否かにかかわらず、根気よく努力できる大人に育つ。早 野:人格形成には、家庭での躾や環境が大きく影響します。音楽の場合は、繰り返し訓練を続けることを通じて、非認知能力を身につけることができるのだと思います。 あとは、自分に嘘をつかない子に育てるというのはとても大切です。編集部:音楽はスポーツのようにスコアが出るわけではないから、どこまで練習するかという判断は講師、そして最後は自分に任されますね。早 野:そうです。子供自身が「この曲はまだ弾けていないな、来週先生に会うまでに練習しておかないとまずいな」と、思えるようになるかどうか。自分に嘘をつかないことが、自分の性格といってもいいくらい身につくか。それがのちの人生にとって大事です。編集部:早野さんは、「困難を乗り越える力も音楽教室で身につけた」ということを仰っていますが、運指や楽譜の記憶といったスキル面だけではなくて、教室でのレッスン継続が、人格の根の部分を作るということでしょうか。早 野:たとえば難しい2小節がどうしても弾けないとしましょう。そうしたら、繰り返し繰り返しその2小節を弾きます。そうやって、自分ができるまで弾く。その厳しさを乗り越えられるかどうか。2008年、原子物理学分野の優秀な科学者に贈られる仁科記念賞を受賞した時の一枚。左はノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏。早野さんは自ら選んだ科学の道で、素晴らしい成果を挙げた スズキの研究科を出て卒業試験まで通った人の音楽的解釈や表現力は相当な高いレベルになることが実証されています。そうやってレッスンの中で困難を乗り越えてきた人なら、途中でスズキを辞めて音楽以外の道に進んでも無駄ではないでしょう。 僕の場合は中学生のときに、一生ヴァイオリンを弾くほど音楽が好きか、自分よりうまい人に比べて才能があるか、才能を磨くためにもっと訓練を厳しくできるか、といったことを深く考えました。そして僕は科学の道に行くことを決め、音楽を選ぶことはしなかった。でもそれは、相当に練習し、相当に弾いたから15歳で答えを出せたんです。 スズキでの厳しいレッスンと、自分に嘘をつかない練習を続けたからこそ、今の僕があると思っています。組織の硬直をほぐしたい―100年目に向けて組織の硬直をほぐしたい―100年目に向けて編集部:鈴木先生が創設した頃とは、時代背景が大きく変化しています。早野さんは第5代の新会長として、どんな組織を目指していかれるのでしょうか。早 野:僕は家元「鈴木鎮一」を襲名したわけじゃないし、ヴァイオリンからは半世紀離れていました。でも、会長になったからには、経営者として自分を育ててくれた会を良い方向に導きたい。 「才能教育研究会」は、元は「全国幼児教育同志会」という名称でした。「同志」という言葉からも分かるように、参加者がみなフラットな関係だった。それが70年経ち、会長や理事がいて、その下に会員がいるピラミッド型構造になっていってしまった。だから、まずはフラットな関係に構築し直したいですね。手始めに、全国支部にいる900人弱の講師と事務員に対して、サイボウズのアカウントを取るように指示しました。サイボウズはクローズドのSNSですから、サイボウズ上で対話ができるようになります。いまはTwitterと同じくらい呟いていますよ。2013年、スズキ・メソードの世界大会で講演中の早野さん それから今年度中に全国のすべての教室・支部を訪れる予定を組みました。僕が話すというよりは、講師の皆さんの話を聞きたい。この手法は、福島で住民の方々とのダイアローグを続けるなかで学びました。 スズキは、保護者も一緒にレッスンを受けてもらうというスタイルを続けてきましたが、いまはお母さんが仕事をしていることも多くて、その方法は難しくなってきました。集合住宅に住んでいる人も増えてきて、思い切り音も出せません。つまり70年経って時代が変わり、スズキ・メソードが実行しにくい世の中になっています。だから、鈴木先生の教えを実行し続けるには、社会の変化にわれわれが対応しなくてはならないんです。変えてはいけないものと変えるべきものを見極め、組織改革を進めていきたいと思います。編集部:時代が変化しても、音楽を通じて子供の人格形成に関わる基礎を育てたいという鈴木先生の思いがきちんと受け継がれているのですね。100周年を目指してがんばっていただきたいです。どうもありがとうございました。

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    オートファジーと遺伝子組み換え食品の「不都合な真実」

    。(中略)その分子レベルのメカニズムは東京工業大学の日本人科学者によって発見されましたが、近いうちにノーベル賞をとるといわれている大きな業績です〉 まるで大隅栄誉教授のノーベル賞受賞を「予言」していたかのような記述だが、オートファジー研究のどのような点が画期的なのだろうか。同書の著者である村上篤良氏(「一般社団法人 最先端医科学研究会」代表)は、こう解説する。「もともと細胞には、侵入してきたバイ菌や異物をファゴソームという消化用の袋に閉じ込めて分解酵素と混ぜることで消化分解し、外敵から身を守ると同時に細胞内でアミノ酸などの栄養素を取り出して利用する仕組みがあります。オートファジーは、その現象が外敵だけではなく、細胞自身の持つタンパク質などの分解・再利用にも使われていた点が驚くべき発見だったわけです。 この発見のずっと以前から、酵母菌は食物を与えなくてもある程度の期間、生き延びられることが知られており、“不老不死の菌”として研究されていました。オートファジーが発見されたことで、人間の細胞内でもタンパク質やアミノ酸の再利用システムが機能していることがわかり、医学や栄養学を根本から見直すきっかけになっています」 村上氏は同書で、生命が進化の過程でそうした機能を獲得したということは、それだけ生物の身体を形作るタンパク質やアミノ酸の合成が身体に大きな負担となるからだと指摘し、同書のテーマであるサプリメントの活用が人間の健康維持に重要であることを説いているのだが、同時にこれはある社会的テーマの再考を促す事実であると警告する。いつかの“割烹着リケジョ”の反省はないのか「これだけバイオテクノロジーが発展しているにもかかわらず、なぜか学校では教えていないことですが、実は人間の遺伝情報を記録しているDNAには2つの作られ方があります。原子や分子を一から組み立てて作る『デノボ合成』というやり方と、食物として摂取した動物や植物のDNAユニットを分解して再利用する『サルベージ経路』というやり方です。 赤ちゃんのうちはデノボ合成が8割くらいありますが、成長するにしたがってサルベージ経路の割合が増え、70歳くらいでほぼ0になります。つまり、人間は食べた動植物のDNAを再利用しなくては生きていけなくなるのです。オートファジーという機能があるのと同じ理由で、たんぱく質やアミノ酸を合成することは、生物にとってとてもエネルギーを大食いする大変な作業だからです」(村上氏) それ自体は人体の優れた機能であるが、心配もあるという。村上氏が続ける。「近年、懸念されている遺伝子組み換え食品が本当に人間の遺伝情報に影響を与えないかという問題です。これまでの科学的調査では、そうした影響はないとされていますが、食べた動植物のDNAが人間のDNAの材料になっているのですから、影響がないのは“たまたま”かもしれません。人間に取り込まれたら病気を引き起こすような食品中のDNAが、消化不良で塊のまま、荒れてデコボコの腸壁から吸収されてしまう可能性もないとはいえないのです。 例えばがん細胞は、遺伝情報のバグによって変異した人間自身の細胞です。大隅教授の快挙を祝福するだけで終わらず、この機会にそうした問題にも目を向けるきっかけになればいいですね」(村上氏) いつかの“割烹着リケジョ”の反省があるのかないのか、テレビや新聞は大隅氏のヒゲが似合っているとか、研究仲間が「七人の侍」と呼ばれているなどとお祭り騒ぎをしているが、せっかく一般には知られていない専門分野に注目が集まったのだから、我々の生活や健康に関わる問題に広く光を当ててもらいたいものだ。関連記事■ 祝ノーベル賞! iPS細胞の基礎から可能性までが分かる本■ 物理的刺激で再生医療応用へ 期待の「メカノバイオロジー」■ 車椅子が要らなくなる? 「STAP細胞」で何が実現されるのか■ アジア人の陰茎は10.2~14cm チンパンジーの8cmに勝つ■ 雌チンパンジーに性的刺激与える実験したら「もっと!」と要求

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    ノーベル賞ラッシュで人気の理系研究者 必要なのは「文系力」

    竹内健(中央大学理工学部教授) 日本人のノーベル賞の受賞が相次いでいるせいか、子供たちが将来就きたい職業として、理系の研究者が人気を集めているそうです(「将来就きたい職業に「研究者」 子どもの人気集める」)。 この調査結果によると、研究者に憧れる子どもが増加中。小学校を卒業した子どもたちに将来就きたい職業を尋ねた結果、「研究者(理系)」が男の子2位(9・8%)、女の子7位(4・1%)と上位に入ったそうです。 理系の研究者としては嬉しいですね。一昔前のイメージでは、理系の研究者はネクラ(この言葉も死語ですが)、決して良いイメージではなかったと思います。子供に憧れられたり、女性にもてたりするのとは対極の存在。社会とは隔絶されて、趣味に走っている変な人、というイメージだったでしょうか。 こうして理系の研究者になりたいという子供たちが増えているのはありがたいことですが、その一方、理系の研究者とはどんな仕事だと思われているのでしょうか。ひとり机に向かっていたり、白衣を着て実験室で好きな研究にひたすら邁進する、というイメージでしょうか。それは学部や大学院の学生として研究をしたり、組織の中で雇用される立場で研究する場合には合っているかもしれません。 しかし、大学であろうと企業であろうと、研究をリードする立場になると全く違います。資金のかからない理論的な研究でしたら、研究自体に集中することも可能かもしれませんが、実験などでお金を必要な研究ならば、まずは研究資金を獲得しなければ研究のスタートラインにさえつけません。学会発表するための旅費だって、自分で稼がなければいけないのですから。 実は研究に必要な人モノ金を集め、マネジメントすることこそが、研究者の重要な仕事なのです。研究できる環境を与えられた状態で、研究自体ができるのは当たり前。むしろ差がつくのが、研究するための環境を整え、研究組織をマネジメントする部分です。 iPS細胞の研究でノーベル賞を受賞された山中先生が研究費をカンパするために、マラソンに出ていたりしたのは、決して例外的なことではありません。山中先生ほど劇的なことをしないまでも、日々、研究費を集めるために提案書を書いたり、企業をまわっている、という理系の研究者は多いのではないでしょうか。 研究者は足で稼ぐ、営業職でもあるのです。資金獲得は努力賞はない弱肉強食の世界です。研究のアイデアがあるのは当たり前、それに加えてプレゼン、交渉力、対人関係など文系的な力が必須なのです。 私のような応用研究をしていると、研究成果を実用化する企業に研究チームに入ってもらえないと、研究提案も通りません。自分が好きなことを研究するというだけではなく、企業・社会の役に立つ技術は何かを考え、共同研究してもらえるように企業の方を説得する。日々そのようなことばかりです。大学の理系の研究者に必要な素養として、人モノ金を集めるマネジメント能力に加え、へこたれない精神力も大切です。 入試と違って資金の公募も、回数の上限はありません。数を打ち、落ちても提案し続ける気持ちの強さがある人が、最後は採択されます。ひょっとしたら、研究だけに集中したいのであれば、資金集めに奔走する大学教員よりも大企業の研究者の方が良いかもしれませんね。 ただ、名門企業もあっという間に傾く時代ですから、大企業の研究者もいつまで安泰かわかりません。研究者の実像は、テレビドラマほど劇的ではないにしろ、下町ロケットの主人公をイメージしてもらえば良いと思います。 最近は国の財政難を反映して、国家プロジェクトの公募の競争率は上がり、採択されても研究できる年数は減っています。この研究公募の面接に落ちたらもう研究できなくなる、という場面に追い込まれることも珍しくありません。 また、運よく公募に採択され、研究資金を頂けても厳しい進捗フォローを受けます。資金を出す側だって、有効にお金を使ってもらい、成果が出ないと困るのですから。研究者の日常とはこんな感じで自転車操業で走り回っていますので、落ち着いた環境で好きな研究だけしている、と想像している人が来ると「そんなはずでなかった!」と思うかもしれません。 前向きに考えると、理系の研究者の仕事は、自分のアイデア・夢を実現するために、自ら主体的に動いて人モノ金というリソースを集め、組織を作って研究をマネジメントする。これほど自分がやったことが、良くも悪くもそのまま自分にはね返ってくる世界、というのもそうないかもしれません。 理系的な研究だけでなく文系力も必要とされますから、まさに、自分という人間の総合力、ありのままが結果に反映されるのです。そういった主体的に生きることが好きな人にとっては、これほど面白い仕事も無いのではないでしょうか。(ブログ「竹内研究室の日記」より2016年2月2日分を転載)

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    なぜ村上春樹はノーベル賞を取れないのか

    ルキストと呼ばれる熱狂ファンのはしゃぎぶりは相変わらずだった。これだけ期待されながら、なぜ村上春樹はノーベル賞を取れないのか。

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    ノーベル文学賞はなぜ村上春樹に与えられないのか

    ないですね。今回のお題は「村上春樹とノーベル文学賞」。ずいぶん大きく出ました。日本の新人賞から世界のノーベル賞へ、とすれば次は宇宙でしょうか……と冗談はさておき、どうぞ此度もお手柔らかに。 さて、今回の依頼は正確には「毎年有力と言われるのに、村上春樹はなぜノーベル賞を取れないのか。他の受賞作と比べて受賞にふさわしいのかどうか」でした。残念ながらその問いには、前回以上に答えがありません。 『火花』のときには、あまりに身も蓋もないので「立派な文学者になりそうな小説家を、複数の選考委員が合議で選ぶ」とだけ書きましたが、数学の公式や歴史のテストと違って、文学の価値判断には「これをクリアしていればマル」とか「~年の出来事だ」のような計量しやすい基準がない。極端に、かつ平たく言えば「どれほど強くひとの心を打つか」かもしれませんが、それは一にも二にも「ひと」次第。あるひとなら号泣するお話が、別のひとにはわざとらしくて鼻白むだけ、ということもよくあります。「小説の書き方もテクノロジーのひとつ」と考えれば過去の蓄積や達成を踏まえた稀有な実験も生まれますし、リズムや音の運びがとんでもなく音楽的な(つまり、物語を語っているのに、まるで歌っているように感じる)作品は、身体に直接訴えかけてきますが、それらがどれだけすごいかは、なかなかいまこの世の中の価値観だけで決めることはできない。『銀河鉄道の夜』の宮澤賢治だって、『変身』のフランツ・カフカだって、作品の価値が大きく評価されたのは、彼らの死後ずいぶん時間がたってからです。その意味では、文学作品の普遍的な価値があるとしたら、ひとつは時間的にどれだけ遠く(未来)に届くか、でしょう。 ところがこれは、生きている僕たちにはせいぜい半世紀分くらいのことしかわからない。たとえば、半世紀前の1965年に登場した小説で今も私たちの記憶に残るのは、筒井康隆『時をかける少女』や井伏鱒二『黒い雨』などですが、前者はもはや映画のイメージが強いし、後者は教科書に載らなくなりました。時間の洗礼に耐えるのは、ことほどさように難しい。海外や前後の年に目を向ければ、ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』とか大江健三郎『個人的な体験』、ロアルド・ダール『チョコレート工場の秘密』などが出ています。これらの特徴は、翻訳されて読まれていることで、空間的にも遠く(海外)に届いた文学、ということになります。ふりかえって、「どれほど強くひとの心を打つか」も、言わば心の奥底まで届いたことと考えれば(たとえ目の前の一人の読者であっても)、「遠くまで行く強さ」こそが優れた文学の条件、としてもよいかもしれません。 とはいえこれは一般論、抽象的な話で申し訳ないですが、ノーベル文学賞については審査基準も公開されていなければ、誰が候補だったかも明らかにされないので、それ以上のことは(とくに、この短い枚数では)なかなか言えない。半世紀後に最終候補だけは公開されますから(たとえば2013年には、三島由紀夫が1963年の候補だったことがわかりました)、その意味でも、半世紀後に名前が出て誰だかすぐわかり、願わくばそのときにも読まれているだろう作家を選んでいるだろうことだけは想像できますが、それ以上のことはわかりません。専門的知識の量や比較対象の数など、選考にかけた人的・時間的コストの多寡による精度差こそあれ、そもそも賞などひとが決めるものですから、どんな賞でも作品そのものの価値に勝るものではない(とはいえノーベル文学賞は、他の諸分野の賞との緊張関係の大きさや、選考の対象とする作家や作品の多さ、かかわるひとの数、短い期間の商業性や娯楽性に惑わされずに普遍性とポリシーを重視している点で、稀有な賞ですが)。 村上春樹自身が、最近出した『職業としての小説家』という自伝的エッセイのなかで、かつてとり損ねた芥川賞について『村上春樹はなぜ芥川賞をとれなかったか』みたいな本が出るほど世間の人が気にするのはなぜか不思議だと語っていましたし、「(自分に意味あるものを生み出している手応えと、その意味を正当に評価してくれる読者がいれば)作家にとっては賞なんてどうでもいいもの」だと書いていますから、ノーベル文学賞について「なぜ取れないのか、ふさわしいのか」と問うことも、少なくとも本人にとっては余計なお世話でしょう(そもそも候補だったかどうかもわからないわけですから)。 ……というわけで「お題については以上で終わり」というしかないのですが、ここまで書いてきてひとつ、ぼくも不思議に思うことがあります。「村上春樹がノーベル賞を取れるかどうか」を、なぜ世間はこれほど気にするのでしょうか。小説家の村上春樹氏がノーベル文学賞受賞を逃し、発表用に展示していた看板を片付ける書店員=2015年10月8日午後、東京都新宿区の紀伊国屋書店(鴨川一也撮影) ここ数年(正確には、彼がフランツ・カフカ賞という、直近2年にその賞の受賞者が続けてノーベル文学賞を獲っていた賞をもらった2006年から次第に盛り上がり、イギリスのブックメーカーのオッズが一桁になったここ数年がピークですが)、毎年この時期になると日本のマスコミは、「今年こそ村上春樹がノーベル文学賞か!?」と大騒ぎをします。かつて村上さんが通った大学の学部で教えていて、若いころの村上さんも編集委員をしていた「早稲田文学」という文芸雑誌にかかわっているからでしょうか、ぼくのところにも「受賞したらコメントを」とか「番組で解説を」といった事前の依頼がたくさんあって、お仕事として引き受けながらもその熱狂をどこか不思議に思わずにはいられません。 さきほど書いたとおり、優れた文学作品であることの資格は、それが時間的にも空間的にも、そしてひとりの読者の心の中的にも、強く「遠く」に届くことです。少なくとも、国際的な賞かつ多ジャンルの業績を讃える「ノーベル賞」は、出版社や書店が主催する数々の賞とは比べようもなく、存在意義がその点にあります。だとしたら、「私たちの国の、私たちのよく知っているあの村上春樹が、今年こそ受賞するかも!」という期待のありかたは、そもそも賞のスタイルとあまり合っていない気がします。 もちろん、それを「お祭り騒ぎ」と考えれば、どんな理由であれ騒いで楽しむ側は自由にやればよい、ということはできます(マスコミはしばしば、そういう役目を担います)。オリンピックを例に考えれば、ときに対立の理由となるナショナリズムもそのようなカタチでの発露なら、ギスギスすることなく、試合後には異国や異文化のひとと親しく手を握って、試合前より仲良くなるよい機会かもしれません(事実、ノーベル文学賞を別の国のひとがとったからといって、その国を恨んだりはしませんよね)。また、文学作品の多くがまずは書き手の母語で書かれることを思えば、同じ言葉を母語とするひとたちが(必ずしも「母国語」でなくてよいのですが)、そのことを誇りと思うことも悪くないことだと思います。 けれど、先に書いたように「優れた文学」の条件を、「今ここ」からなるべく遠く離れたところに届くことと考えたり、ましてノーベル文学賞の性質から考えれば、毎年毎年、村上春樹の受賞の有無に一喜一憂するだけではやや本末転倒というか、ちょっともったいない気がします。村上さんの受賞に関心を持ったり期待したひとが、がっかりする反面、「私たちのよく知る村上春樹より先に賞をもらった作家はどんなひとで、どんな作品を書いたのだろう」と興味を持つきっかけになり、いままで読んだことのなかった作品を読むことができたら、それこそ、その作品が「遠くに届いた」ことになって、ノーベル文学賞も本望ではないでしょうか。 今年の受賞者である、ベラルーシのスベトラーナ・アレクシェービッチは、いわゆる小説家ではなくジャーナリスト、ノンフィクションの書き手ですが、すばらしく感動的な文章の持ち主です。戦争に巻き込まれた女性たちや子どもたちはどこでどう生きたのか、チェルノブイリの事故でヨーロッパを救うために亡くなった消防士や軍人たちの家族は、なにを感じなにに祈るのか。村上春樹の最高傑作『ねじ巻き鳥クロニクル』や地下鉄サリン事件を描いた『アンダーグラウンド』とも並べ読んで、私たちの「今ここ」と彼女たちの「遠いそこ」を結びつけることができれば、「祭りのあと」が空しくなることもなく、次の「祭り」までの時間を待てるかもしれませんね。 そうそう、書き忘れました。村上さんが「そういう本が出版されることが不思議」と書いていた『村上春樹はなぜ芥川賞をとれなかったか』という本は、正確には『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』というタイトルです(与えられなかったか、には受動と可能、ふたつの意味が入っています)。書いた本人が言うのだから、間違いありません。中身にはじつはそれほど村上春樹のことは書いていなくて(賞なんて、しょせんひとが与えるものですから)、そのことを分析するほかに、日本の近代の「小説」がどういう育ち方をしたかだとか、なぜ太宰治の「走れメロス」にひとが感動してしまうのかとか、夏目漱石の「坊っちゃん」の主人公はどうしておばあちゃんにメロメロなのか、といった話が書いてあります。 村上さんは「恥ずかしくてとても本人は買えません」と書いていましたし、ぼくも「村上春樹をきっかけにして、他の作品にも興味を持ってもらおう」と思ってそんな題をつけたので、村上さんにはちょっと申し訳なくて読ませられませんが、「毎年有力と言われるのに、村上春樹はなぜノーベル賞を取れないのか。他の受賞作と比べて受賞にふさわしいのかどうか」についてのヒントがもう少し欲しい読者の方は――ノーベル賞についてはその本には書いていないので、ほんとうは来年あたり出す『ノーベル文学賞はなぜ村上春樹に(以下略)』という続編を待っていただくしかないですが、それまでのあいだ――、手にとってみていただければさいわいです。 ではでは、またいずれお邪魔します。さようなら。

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    広がり始めた電子書籍市場 攻めるAmazon、村上春樹で挑む新潮社

    中西 享 (経済ジャーナリスト) 最近、電車の中でも専用端末やスマートフォンで電子書籍を読んでいる人を見かけるようになってきた。数年前から電子書籍を読むための専用端末などが販売され、紙との同時発売が増えたことなどから電子書籍の市場が徐々に拡大してきている。 しかし、市場の7~8割はコミックが占めており、雑誌や人気作家の小説などのジャンルにいかにして広げていくかが課題になっている。ノーベル文学賞に最も近いといわれている村上春樹の作品は、日本語では電子化されず紙のみで提供されており、読者層を増やすためには人気作家をいかに説得するかもポイントになる。「本格的な拡大期」 電子書籍の市場を調査しているインプレス総合研究所によると、2013年度は雑誌と書籍を合わせた電子書籍出版の市場規模が初めて1000億円を突破し、「本格的な拡大期に入った」と分析し、18年度には3340億円にまで伸びると予測している。だが、1兆6065億円(2014年)といわれる出版市場全体からみると13年度の電子書籍の売り上げは6%程度しかなく、電子書籍が既に3割以上になったといわれる米国と比べると割合が小さい。 手軽にいつでもどこでも読めるスマートフォンや専用端末の保有者が増えたことに加えて、電子書籍を配信する書籍ストアの取り扱いコンテンツが拡大し、携帯電話会社による定額制読み放題サービスなどが始まったことで読者の層が広がってきた。 専用タブレット端末「キンドル」を12年から日本で販売しているアマゾンの玉木一郎キンドル事業本部長は「『キンドル』で読める本は現在コミックを含めて30万冊を超える品ぞろえがあるが、これをさらに充実させ、価格については読者の納得感のある価格にしたい」と話す。6月30日に高解像度の新モデル『キンドル ペーパーホワイト』を発売、専用端末市場で攻勢を強めている。 同じく専用端末と電子書籍を販売している楽天の糸山尚宏Koboジャパン部マーケティンググループマネージャーは「文芸書を含めた電子書籍の総合書店を目指したい。市場規模は10倍以上ある」と、9000万人を超えた楽天グループ会員数を背景に強気の予想をする。 米国の場合、紙と比べて電子書籍の価格が半額以下になる「価格破壊」が起きたことで大きく伸びた。電子書籍は定価で販売しなければならない紙の書籍と違い、電子書籍ストアや出版社が値段を自ら決めることができる。だが日本の場合、人気のある新刊書はコミックを含めて紙と同じ値段で発売され、下がったとしても紙の7~8割で販売されるものが多い。「納得感」のある値決めをどのように決めるのかも重要な課題だ。増える紙と電子の同時発売 数年前は紙と電子を同時に出すと、「紙が電子に食われて売り上げが落ちる」ことを心配する出版社が多かったが、最近は「同時に出すことによる相乗効果」を期待するところが多くなっている。コミックは数年前から同時発売が当たり前になり、雑誌、単行本などのジャンルでも同時発売が増えてきている。 会社全体で電子化を推進している講談社は「同時発売にしたことで電子書籍の売り上げが増え、14年は13年と比較して電子書籍事業は6割伸びた。これからは宣伝ではないプロモーションを積極的に行い、SNS(ソーシャルネットワークシステム)なども使いながら、多くの人に発売されたことを気付いてもらえるような方法を考えたい」(吉村浩・デジタル・国際ビジネス局次長)と話す。昨年ヒットした小説では池井戸潤の「ルーズヴェルト・ゲーム」「鉄の骨」などが売れたという。 それでも新潮社で電子書籍を長年、手掛けてきた柴田静也開発部長は「コミックはまだ伸びる要素はあるが、文字ものは厳しいのではないか。大量の出版物が出る中で小さな電子画面に発売したことを知らせるのは不可能で、多くの本を並べて見せられる書店と比べて圧倒的に不利だ」と指摘する。昨年ヒットした本では、初版は1986年から92年にかけて刊行されたものだが、沢木耕太郎の「深夜特急」が良く出たという。 新潮社は同社のWebサイトで展開した村上春樹の質問&回答集「村上さんのところ」を、今年7月に紙と電子書籍で発売する。村上作品は英訳された電子書籍はあるが、日本語での電子化作品はこれが初めてという。小説の分野では作家の多くが作品の電子書籍化に抵抗感がなくなってはきているが、東野圭吾、宮部みゆきといった人気作家は依然としてヒット作品の多くは紙に限定している。このため、読者からは「読みたい本が電子化されていない」という不満がある。印刷、書店も試行錯誤する 印刷大手も電子書籍に積極的に取り組んでいる。08年以降に丸善やジュンク堂書店といった大手の本屋をM&A(企業の合併・買収)によりグループ傘下に入れてきた大日本印刷は、紙も電子も買えるハイブリッド型総合書店サービスを目指そうとしている。グループの書店やネットストアで本を買うと電子書籍用優待クーポンを提供するなどして、デジタル(電子書籍)とリアル(紙)の区別なく本をより多くの人に読んでもらおうという作戦だ。 これを実現するため大日本印刷はトゥ・ディファクトという会社を10年に設立、紙の本、電子書籍を買うとポイントがたまりさまざまなサービスの提供が受けられる「honto」会員の登録数が5月に280万人を突破した。 加藤嘉則トゥ・ディファクト社長は「18年までにはこれを1000万人にまで増やしたい」と話し、デジタルとリアルの両方の店舗を持っている強みを生かそうとしている。さらに今年4月には紀伊国屋書店と合弁で出版流通イノベーションジャパンという会社を設立、デジタルとリアルの両面でアマゾンにはない流通サービスを構築しようとしている。 凸版印刷は電子書籍の市場をつかもうと新会社Bookliveを11年に設立、レンタルショップのTSUTAYAと資本提携し、顧客に関するデータを活用しながら会員数を増やそうとしている。 95年からパソコンを使って電子書籍配信サービスを始めたパピレスは、07年から電子書籍のレンタルサービスを開始、昨年6月からは雑誌や実用書の中から好きな記事だけを40円~60円で読める独自のサービスも始めた。コミックでは読み始めると自動的にコミックが動き出す次世代コンテンツ「コミックシアター」もスタートさせ、コミック層を取り込もうとしている。 各社は電子書籍の利便性を知ってもらおうと新しいサービスを次々と提供しているが、いずれも試行錯誤の段階。電子書籍を出版する29社が加盟している日本電子書籍出版社協会の吉澤新一事務局長は「電子書籍はプロモーション、マーケティングの手法がまだ確立していない。世の中に認められるためには、例えば読み上げソフトが使えるなど、電子書籍ならではのものが必要ではないか」と指摘する。電子書籍にブレークスルーが起きるためには、さらなる工夫と努力が求められている。

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    村上春樹 32年前の「最高傑作」で日中関係暗示していたとの評

     惜しくもノーベル賞は逃したものの、村上春樹氏が現代の日本文学を代表する作家であることに違いはない。世界を惹きつける村上ワールドの魅力はどこにあるのか。作家で五感生活研究所の山下柚実氏が考察する。* * *「(領土問題は)安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑(にぎ)やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ」 朝日新聞(2012.9.28)に寄稿された村上春樹氏のエッセイは、国内のみならず、世界中で反響を呼びました。反日感情溢れる中国のツイッターにさえ、共感を含めコメントがたくさん書かれたそうです。複雑な歴史、錯綜する感情、政治的駆け引き、損得勘定。そんなにも対立する国家、こんがらがった領土問題を、手のひらの上に載せてみせる。読み手の腑に落とす。少なくとも、国際関係を理解できたかのように読者に飲み込ませる。それが、「安酒の酔い」というレトリック表現の力です。 複雑な出来事を、大論文や大演説ではない、別の言葉を使って表現する行為。  レトリックは、理解しがたい出来事に対して新鮮な見方やスリリングな接近の楽しさを与えてくれます。こんがらがった糸がするすると解けていくような心地よさも、感じさせてくれます。もはや、政治家の大演説やリーダーシップによって国際関係のねじれや対立を「収め」たり「理解」していく時代は終わろうとしているのかもしれません。村上氏の「書く技術」は、そのことを告げてはいないでしょうか。 この作家の魅力の一つは、レトリックがとびぬけて秀逸で斬新なこと。そして、描く対象と作家自身とが絶妙な距離を保っていることです。初期の『羊をめぐる冒険』から大ベストセラー『ノルウェーの森』、近作『1Q84』まで。数々の長編作品が世界中で話題を集めていますが、その真骨頂は、長い演説のようになりがちな恋愛長編小説よりも、むしろ、人と人、人と社会との関係を一瞬に、そして鮮やかに切り取る短編小説にこそ詰まっている――私はそう思います。  アジア・アフリカ会議、日中首脳会談を前に握手する安倍首相(左)と中国の習近平主席=2015年5月22日、ジャカルタ(共同) あなたにとって村上作品の最高傑作は何か?と聞かれたら、私は迷わずこう答えます。「中国行きのスロウ・ボート」(1980年4月 『海』)と。 大都会で、たまたま言葉を交わすことになった男と女。もう一度会いたいと念じて、人混みから必死に彼女の姿を捜し出し、連絡先を書き留めたのに、運命のいたずらでもう二度と会えなくなる二人。一人は中国人、一人は日本人。小説の終盤に、こんなフレーズが。「空白の水平線上にいつか姿を現すかもしれない中国行きのスロウ・ボートを待とう。そして中国の街の光輝く屋根を想い、その緑なす草原を想おう」 そして「友よ、中国はあまりに遠い」という言葉で、この小説は幕を閉じます。 32年前に書かれた一編の短い小説。日中関係についての早すぎた暗示を、もう一度じっくりと読み返し、噛みしめるべき時が来たのかもしれません。関連記事■ 官能作家歴30余年の巨匠がそのスタイルとノウハウを伝授■ 花村萬月氏が作家・文芸・出版界の一面を実名で綴った問題作■ ノーベル文学賞は地域の持ち回りか 村上春樹が受賞逃した理由■ 裁判員制度や電力問題に鋭い指摘する村上春樹のエッセイ登場■ 許永中、金丸信、小沢一郎らバブル後の経済事件をまとめた本

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    「村上春樹はノーベル文学賞をいつとるのか」についての考察

     今年もまた村上春樹氏はノーベル賞が獲れなかった。いつ獲るのか、可能性はあるのか。作家で人材コンサルタントの常見陽平氏が語る。* * * 2014年のノーベル賞の発表がありました。日本人では、ノーベル物理学賞を名城大学の赤崎勇教授、名古屋大学の天野浩教授、米カリフォルニア大学の中村修二教授が受賞しました。メディアでは、連日、このニュースでしたね。 ノーベル賞と言えば、毎回、「文学賞を受賞するのでは?」と話題になるのが、作家の村上春樹氏です。しかし、2014年のノーベル文学賞はパトリック・モディアノ氏でした。 この「村上春樹はノーベル文学賞をいつとるのか」問題について考えてみたいと思います。 前提として、私が村上春樹をどの程度、読んでいて、好きかという点について軽くふれておきましょう。結論から言うと「結構、好き」というレベルです。デビュー作『風の歌を聴け』から『スプートニクの恋人』まで、つまり2000年くらいまでの作品は全部読みました。ただ、『海辺のカフカ』以降はほぼ読めていません。嫌いになったわけではなく、全部、順番に読まないと悪いかなと思い、最近の作品は買っていても、読めていないのです。「なんだ、かなりのファンじゃないか」という声が聞こえてきそうですが、10代の頃は、文化系男子は好きでも嫌いでも村上春樹は読むものだったのです。 ただ、毎年この「今年こそ村上春樹がノーベル賞」という盛り上がりには、違和感を抱いてしまいます。 まず、言うまでもないですが、ノーベル文学賞は取ろうと思って取れる賞ではありません。日本人の受賞者は過去、2人しかいません。川端康成と大江健三郎です。1901年からの歴代受賞者の一覧を見ましたが、ロマン・ロラン、トーマス・マン、ヘルマン・ヘッセ、バートランド・ラッセル、アーネスト・ヘミングウェイ、ジャン=ポール・サルトルなどなど、そうそうたる顔ぶれが並んでいます。いや、文学素人の私が知っている人はこれらの人と、ウィンストン・チャーチル(第二次世界大戦の回顧録で受賞しています、本人は平和賞が欲しかったそうですが)くらいで、あとは、知らない人だらけでした。勉強不足ですみません。何が言いたいかというと、取ろうと思って取れる賞ではないのではないということです。 これもまた、よくあるツッコミではありますが、いつも「有力候補」という報道があるわけですが、本当に候補に入っていたのかどうかは、後になってみないとわかりません。カフカ賞などを受賞したが故に「有力候補」とされるのですが、根拠があるようでない話だと言えます。 そもそも論ですが、村上春樹はノーベル賞を欲しいと思っているのかという件が、私は大変に気になっています。もちろん、彼に聞いてみなければわかりませんけどね。初期〜00年くらいまでの作品のファンとしては、このような賞に関してどこかさめていて欲しいと思ったりもするわけです。もっとも、彼はデビュー作を始め、国内外で(最近では特に国外で)たくさんの賞をとっているわけですが。「エルサレム賞」授賞式後、ファンや報道陣に囲まれる作家の村上春樹さん=2009年2月15日、エルサレム(共同) そんなさめた意見を言う私ですが、とはいえ、とってほしいなと思う気持ちもあります。それは、彼の作品が認められたとか、日本人が受賞したとか、出版業界が活性化するとか、そういうことをこえて、「ノーベル文学賞を受賞した村上春樹が、世界に対して何を言うのか」という興味関心からです。2009年のエルサレム賞授賞式での壁と卵のメタファーのスピーチはあまりに有名です。ノーベル賞受賞ということをこえて、晴れの舞台で世界に対して村上春樹が何を言うのか。そういう興味ならあります。 村上春樹はまだ65歳。いや、もう65歳とも言えますが。まだまだチャンスはあります。「村上春樹はノーベル文学賞をとるのか」問題はいつも違和感を抱きつつ、彼の世界に対するスピーチをまた聞きたいと思うのでした。まずは、ずっと積ん読になっている『海辺のカフカ』を読むことにします。はい。関連記事■ ハードボイルドの名作『大いなる眠り』村上春樹の新訳で登場■ ノーベル文学賞は地域の持ち回りか 村上春樹が受賞逃した理由■ 日本で初めてワープロで執筆した作家とされる“文豪”は誰?■ 裁判員制度や電力問題に鋭い指摘する村上春樹のエッセイ登場■ 中国人作家のノーベル文学賞 国家ぐるみでの買収疑惑が浮上

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    ノーベル文学賞は地域の持ち回りか 村上春樹が受賞逃した理由

    ル文学賞を受賞した中国の作家、莫言氏 「これまでに中国国籍の作家で受賞した人はいませんでしたからね。ノーベル賞は人道主義的な作風の作家が取ることが多いのですが、莫言さんは中国の農民の生活を描き続け、一人っ子政策に批判的であるなど、その要件も満たしていました。 一方の村上さんも近年、『壁と卵』など積極的に社会的な発言をしていましたが、時期が早すぎました。大江さんが受賞してから18年しか経っていません。川端から大江までは26年、間が空いています。“ノーベル文学賞は地域の持ち回り”という説もありますから、そうしたバランスも見たのではないでしょうか」『壁と卵』とは、2009年2月に村上さんが行ったエルサレム賞の受賞スピーチのタイトルで、大きな話題を呼んだ。 当時、パレスチナとイスラエルの紛争が激化し、イスラエルはパレスチナのガザ地区に軍を投入。一般市民に多くの犠牲者を出したイスラエルは、世界から非難を浴びていた。村上さんに対しても「イスラエルの文学賞を受賞すべきではない」という批判があがったが、彼はあえて授賞式に出向き、こう語ったのだ。「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます」 壁と卵とは何のたとえなのか。村上さんはこう続けた。「爆撃機や戦車やロケット弾や白燐弾や機関銃は、硬く大きな壁です。それらに潰され、焼かれ、貫かれる非武装市民は卵です」──。パレスチナに対するイスラエルの攻撃を堂々と批判した村上さんの姿勢に、当のイスラエルの観客が喝采を送り、称えた。 村上さんはそれまでもノーベル文学賞の有力候補の1人だったが、こうしたスピーチを経て、さらに多くの読者を獲得し最有力候補として名前が挙がるようになった。関連記事■ 中国人作家のノーベル文学賞 国家ぐるみでの買収疑惑が浮上■ 日本で初めてワープロで執筆した作家とされる“文豪”は誰?■ 『1Q84』売れた理由は“ハングリー・マーケティング”と識者■ 美人芥川賞受賞者朝吹真理子氏 親族にはノーベル賞・野依氏も■ モサドの強みは世界を敵に回してでも生き残る国是と佐藤優氏

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    村上春樹氏の新刊買い占めでリアル書店は本当に活性化されるのか

    佐藤仁(情報通信総合研究所 副主任研究員) 紀伊國屋書店は2015年8月21日、日本を代表する作家である村上春樹氏の新刊『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング)の初版10万冊のうち9万冊を出版社から買い取り、自社店舗や全国の他の書店に供給することを発表した。2015年9月10日から販売を開始する。 ネット書店に対抗し、注目の新刊書を全国の書店に広く行き渡らせることによって『出版流通市場の活性化を行うこと』が狙いであるとして、リリース内でも『ネット書店に対抗する』ことを宣言している。 紀伊國屋書店は「紀伊國屋が独占販売するのではなく、大手取次店や各書店の協力を得て、注目の新刊書をリアル書店に広く行きわたらせ、国内の書店が一丸となって販売する新しいスキーム」としている。 紀伊國屋が2015年4月に大日本印刷と設立した合弁会社「出版流通イノベーションジャパン」が検討を進めている買切り・直仕入というビジネスモデルの一つのパターン。リアル書店は活性化されるのか? ピンポイントで購入したい本がある場合、その本を購入するのはネットの方が便利だ。 池上彰氏のような方が「リアルな書店に通って、そこに並んでいる本を見ることで世界が見えてくる」と説いても、忙しい人はそんなに頻繁にリアルな書店に通うことはできない。夜も10時くらいには閉店してしまうところが多い。 たしかにリアルな書店の新刊コーナーや興味ある棚を眺めるのは、世の中の流れもわかるし、楽しいことではある。しかし、忙しい人にとってはネットで書籍を購入して、都合の良い時間に職場なり自宅に配送してもらう方が遥かに楽で効率的である。 リアルな書店で村上春樹氏の新刊とともに、ついでに他の本も買ってみようという人もいるだろうが、それはネットでもできる。むしろネットの方が頼みもしないのに、勝手に『よく一緒に購入されている商品』や『おすすめ商品』が表示されており、ついつい見てしまう。これからも人気作家の新刊を買い占めていくのか? 今回は村上春樹氏のような有名作家だから、初版の90%を買い占めても、売り切れると見込んでいるのだろう。そして話題になれば、村上春樹氏の新刊がすぐに欲しい人は、最初からネット書店でなくてリアルな書店に足を運ぼうという人も多いだろう。 しかし、これからもリアルな書店は、有名作家が新刊を出すたびに『ネット書店への対抗』として、毎回このような『買い占め』を行うのだろうか。そうなると体力勝負になり、相当なリスクも伴うのではないだろうか。本当にリアルな書店は活性化されるのだろうか。書籍はどこで購入しても基本的には同じ 書籍はどこで購入しても基本的には同じである。それがネット書店であれリアル書店であれ、その中身が異なることはない。 これは書籍だけでなく、どのような商品にも当てはまる。例えば、ネットで『同じ商品』を購入する場合、アマゾンで100円のものが、楽天で1,000円もするようなことはない。そうなるとユーザーはいつも利用しているネットショップを利用することになる。なぜなら新規の登録など面倒な作業が不要だし、ポイントが溜まるからである。『同じ商品を購入するんだったら、いつも使っていて慣れていて、ポイントが溜まるショップで購入した方がお得でいい』ということになる。 村上春樹氏の新刊をリアルな書店で購入した人が、次に別の本を購入するときに、またリアルな書店で購入するだろうか。『いつものポイントがつくネット書店』に戻ってしまうのではないだろうか。 リアルな書店も新刊の『買い占め』でなく、もっと違うところで付加価値を出して、集客をした方が良いのではないだろうか。(『Yahoo!ニュース個人』より2015年8月24日分を転載)

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    村上春樹に似合うのは芥川賞ではなくノーベル文学賞だけだ

    石原千秋(早稲田大学教育・総合科学学術院教授) 10月8日、2015年のノーベル文学賞の発表があった。今年も村上春樹の受賞はなかった。 多くの人がそう思っているにちがいないが、ノーベル文学賞はノーベル民主主義普及賞みたいなところがあるから、独裁的な国で迫害でもされていないとなかなか受賞できないようだ。だから村上春樹の受賞は当分なくて、きっとみんなが「あれッ、村上春樹はやっぱり受賞するんだ」と思う頃にならないと、受賞しないと思う。もっとも、これはその頃には日本もいっぱしの独裁国家になっているだろうという意味では、最近少し怪しい風が吹いているが、とりあえずない。 僕には『風の歌を聴け』から『ノルウェイの森』までを論じた『謎とき 村上春樹』という新書がある。これは早稲田大学での講義を録音してもらって、本にしたものだ。依頼を受けたのがこの講義の3年目だったので、そろそろという気持ちになったのだった。そのあとも『ダンス・ダンス・ダンス』以降の小説を講義してそのノートもあるのだが、なんとなく本にする気にはなれないでいる。ただ、『ノルウェイの森』でふくらみすぎた「村上春樹の読者」を適正規模にまで縮小する試みが『ダンス・ダンス・ダンス』にはあったのだろうという確信だけはある。「羊三部作」を読んでいなければわからないところがあるのだから。 『海辺のカフカ』のわがままにもつきあったし(もっとも、蜷川幸雄演出の舞台の方がよかったような気がする)、遅れてきた世界系と揶揄されても『1Q84』も楽しんだ。ただ、そのころからやたらと村上春樹を論じる人が多くなって、僕は村上春樹の専門家ではないから、「ちょっと手に負えないなあ」と思うようになったわけだ。それに、ここ数年の小説は質が落ちてきているようにも感じるし、村上春樹が外国で行うスピーチが「正しすぎて」、どうもしっくりこないのだ。一方で、そのころから村上春樹が毎年ノーベル文学賞候補と見なされるようになってきた。 村上春樹文学に出てくる「正しい」という言葉には二通りの意味合いがありそうだ。一つは、『ノルウェイの森』に出てくる「正しさ」だ。 その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどうか、僕にはわからない。閉店後の書店内に並べられる村上春樹さんの長編小説「1Q84」の「BOOK3」=2010年4月15日、東京都新宿区の紀伊国屋書店 この奇妙な「正しさ」は、「僕って何」という問いを喚起するものだと言っていい。これを「純文学的正しさ」とでも呼んでおこうか。もう一つは、例は挙げないが『1Q84』のBOOK2までに14回出てくる「正しさ」で、ほぼ一般の「正義」という意味合いで使われている。これは「娯楽小説的正しさ」とても呼んでおこうか。僕が村上春樹のスピーチにしっくりこないのは、それが「娯楽小説的正しさ」に偏りすぎているからだと思っている。僕が村上春樹文学に読みたいのはどちらかと言えば「純文学的正しさ」だし、村上春樹のスピーチに聞きたいのも「純文学的正しさ」なのだ。世界の読者もそう思っているのではないだろうか。 村上春樹は、デビューから35年たった今でもほとんど文体の変わらない希有な作家だ。村上春樹文学の読者はいつも村上春樹の文体を読みたがっているだろう。これは、小説家として大変な強みだ。ただ、文体はただの器ではなく、文学そのものでもある。ある文体で書けることと書けないことがある。だとすると、村上春樹の文体では書けないこともある、と言うか、似合わないことがある。それが「娯楽小説的正しさ」なのではないかと思っている。村上春樹文学と暴力はよく指摘されるテーマだが、村上春樹文学の暴力は、あの文体ではなめらかすぎて暴力としての凶暴さのようなものをあまり感じさせない。これは大きな弱点でもある。村上春樹の文体は諸刃の剣なのである。 谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫。これまでノーベル文学賞を受賞したか候補に挙がっていたと言われる小説家の文学にはある共通点がある。それは、「日本」を感じさせ、かつ「女の体」を書いた小説家だったという点だ。大江健三郎にしても、「レインツリー」系の「地球に優しく」の日本版のようなテイストがなければ、ノーベル文学賞を受賞したかどうか。ところが、村上春樹文学は「女の体」と言えばほぼ「形のいい乳房」に局所化されているし、「日本」をほとんど感じさせないとは、外国人がよく言うことだ。だからこそ世界中で読まれているのだろうが、それは「日本文学」ではなく、「たまたま日本で書かれた文学」として、「世界文学」の土俵で勝負しなければならないことをも意味する。だから、村上春樹がノーベル文学賞を受賞するとしたら、「世界文学」として評価されたときだろう。 最新刊の『職業としての小説家』には「文学賞について」という章がある。この章を読むと、村上春樹が「芥川賞を取れなかった作家だということを気にしていると思われることを気にしている」ことがよくわかる。でも「ノーベル文学賞を取れなかった作家だということを気にしていると思われることを気にしている」小説家にはなってほしくはない。村上春樹の文体で奇妙な「純文学的正しさ」をもっと書いてほしい。それが「世界文学」だと思う。村上春樹に似合うのは芥川賞ではなく、ノーベル文学賞だけなのだから。

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    村上春樹作品の独語訳に関する一考察-論争となった英語版至上主義

    日地谷=キルシュネライト・イルメラ  村上春樹を世界的な作家にしたのは翻訳家の貢献が大きい。ドイツでは村上作品の英語版からの重訳に疑問の声も上がっている。ドイツにおける村上作品の翻訳事情に迫る。Copyright=Druckerei cpi14年1月にドイツで刊行された村上春樹氏の最新作 日本を代表する“グローバル作家”と評されている村上春樹氏が65歳の誕生日を迎える2日前の2014年1月10日、最新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のドイツ語版(Die Pilgerjahre des farblosen Herrn Tazaki)が発売された。13年10月に発売日が公表されて以来、ファンもマスコミもこの日を待ちわびていた。そして当日、全ては予想通りに進行していった。多くの書店では最も目立つ入り口付近に新刊が平積みにされ、電子書籍版も同日に発売。新聞の書評やラジオでの報道なども、318ページに及ぶ村上作品をむさぼり読もうとする読者の興奮をあおり、大きな盛り上がりを見せた。英語版に先駆けてドイツ語版が出版 村上氏の新刊の発売は、今や一大イベントになりつつある。もちろん、書店前に長蛇の列ができるJ.K.ローリングの『ハリー・ポッター』シリーズなどに比べると騒ぎは控えめだ。それでも、最近は発売に合わせて手の込んだプロモーションが行われており、村上作品の人気ぶりがうかがえる。あるいは逆に捉えるべきなのかもしれない。3部作『1Q84』の時は、第1部・2部の刊行に先駆けて、ドイツの読者のために特設サイトが設けられたのだが、そんな頭の良い販売戦略が、特に若い読者たちの村上熱を強力に押し上げたのだ、と。 注目すべきは、『1Q84』と『色彩を持たない~』のドイツ語版が、英語版に先駆けて出版されたことである。『色彩を持たない~』の英語版(Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage)の発売予定は14年の8月だが、多くの言語がこれに先行している。韓国語版は13年夏に、スペイン語版、ルーマニア語版、ハンガリー語版、ポーランド語版、セルビア語版、中国語版は13年秋に刊行済みだし、オランダ語版は14年1月に発売。日本語版の刊行から翻訳版の発売までのタイムラグは一作ごとに縮まってきており、これも村上氏が高い市場価値を持つ世界的に著名な作家である証左といえる。翻訳家が村上春樹を発掘 驚異的な出版ペースや発売地域の広がり、また今後も多くの作品の刊行が見込まれていることなどを考え合わせると、販売する側のマーケティングの巧みさには驚かされるばかりだが、村上文学の普及においてとりわけ重要な役割を果たしているのが翻訳家である。様々な言語で膨大な数のファンサイトが立ち上げられ、出版社が巧妙なプロモーション戦略を展開し(ポーランドでは鉄道駅に『色彩を持たない~』の自動販売機が設置されたという)、批評家たちが有力メディアで作品を絶賛あるいは酷評できるのも、翻訳版があればこそ。もちろん、日本的な味わいとグローバルなアピールを兼ね備えた村上文学が存在することが前提ではあるのだが、翻訳家がいなければ、彼は一介の日本人作家に留まっていたはずだ。その事実を、村上氏はこれまでいくつかの段階を経て学んできたと思う。 1980年代、海外ではまだほとんど知られていなかった村上氏を見出し、翻訳を試みたのは、各国の好奇心旺盛な翻訳家たちだった。ドイツでは、優れた翻訳家として知られていたユルゲン・シュタルフ氏が、「パン屋再襲撃」(85年)、「ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界」(86年)などの短編を翻訳し、87年から88年にかけて文芸誌に発表した。同じ短編を集めた英語版が出版される5年も前のことである。さらに91年、彼は若手翻訳者との共訳で、村上氏の初の長編小説『羊をめぐる冒険』を老舗出版社インゼルから刊行した。それらの作品はドイツの批評家の間で“驚くほどアメリカの香りがする”日本からの新鮮な声として好評を博し、さらに多くの村上作品を受け入れる素地を作った。村上氏を紹介するドイツの新聞 ところが、ドイツで初期の成功を収め、英語など各国語への翻訳が進むにつれて、村上氏はアメリカのエージェントを介してより厳格な手続きを求めるようになる。90年代前半のことだ。ちょうどその頃、ドイツではシュタルフ氏が短編集を企画していたが、英語版の版権が交渉中であることと、収録作品は自分で選びたいという村上氏の意向があったことから、ドイツ語への翻訳が認められず、企画は断念された。ドイツ人の好みに合わせて選ばれたその短編集が実現していれば、ドイツ語圏におけるその後の村上文学の受け入れられ方は違っていたかもしれないが、それは想像の域を出ない。なぜなら、『羊をめぐる冒険』の次にドイツで出版されたのは短編集ではなく、長編小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(85年)だったからだ。しかも『世界の終わり~』は、すでに89年から90年にかけて、数回にわたって文芸雑誌に抄訳が掲載されていたにもかかわらず、ドイツ語の完訳版が刊行されたのは91年の英語版発売の後だった。成功のカギを握る英語版 こうしたことを受けて、日本文学の関係者や出版関係者、そして読者の間には、「日本の作品が海外で成功するためには英語版が欠かせない」という奇妙な認識が広がっていった。エージェントでさえ、日本文学の翻訳版はほとんどが英語版を下敷きにしていると思い込んだほどだ。英語版を優先させるという村上氏の方策の影響は、本人の作品のみならず、日本文学全体にまで及んでしまったのだ。90年代、ドイツ語圏では日本文学ブームが起こっていたが、英語圏の出版社が興味を示さない作品については、版権交渉すらしたがらない日本のエージェントもあった。1990年から2000年にかけて日本の古典や近・現代作品32冊を出版した、ドイツの有名なシリーズ「日本文庫」でも実際に起こったことである。 村上氏が英語版を重視するのは、ある意味では当然かもしれない。彼自身、アメリカ文学の翻訳を手掛けているし、自分の作品中にアメリカ的要素を多く取り入れているからだ。しかしその後、なぜ『国境の南、太陽の西』(92年)と『ねじまき鳥クロニクル』(94年~95年)が英語版からドイツ語に翻訳されるようになったかの理由は明らかではない。『国境の南~』は、ドイツでは2000年に『危険な恋人(Gefährliche Geliebte)』のタイトルで刊行されたが、この作品はやがて文学界に大論争を巻き起こし、文学とメディアの関係を変えたとさえいわれることになる。論争となった英語版至上主義 村上氏はその頃すでに、ドイツの人気テレビ番組「文学四重奏団(Literarisches Quartett)」に作品が取り上げられるほど著名な作家になっていた。「文学四重奏団」は、有名な文芸評論家マルセル・ライヒ=ラニツキーと3人の批評家が、新しく刊行された文学作品について討論する番組で、ドイツだけでなくオーストリアとスイスでも生放送されていた。作品の質にまで及ぶ激しい意見の衝突が人気で、文学好きな視聴者に作品の読み方などを示してくれる番組としても定評があった。そんな番組に『国境の南~』は、非ヨーロッパ言語の文学としては初めて取り上げられることになった。なぜ“初めて”だったのかというと、出演者の中に原語を理解できる人がいない作品を取り上げることを“第1バイオリン役”のライヒ=ラニツキーが嫌がっていたからだ。 番組の中で、村上作品に対する見解は分かれ、議論は白熱した。やがて意見の対立を招いたエロティックな描写に話が及ぶと、出演者の一人から「英語版を底本として翻訳されている限り、原著のニュアンスを正確に汲み取るのは難しい」との意見が出される。議論はここでひとまず終了するのだが、後には重大な“置き土産”が残された。 この番組で取り上げられた作品は評価の良し悪しにかかわらず放送終了後に作品の売り上げ部数が増すのが常だったが、『国境の南~』も例外ではなかった。しかし同時に、作品が日本語でなく英語から翻訳されたことについて、出版社に激しい批判が寄せられ、その後大論争に発展したのである。「文学作品を原語以外から翻訳するのはプロの仕事とは言い難く、真摯な文学創造に対する侮辱だ」という意見には、誰もがうなずいた。英語版を各国語版の底本にした村上春樹 しかし、現在も村上作品を刊行している一流の出版社が、なぜ英語版からの重訳などという方法を選んだのだろうか?その時に発表された出版社の公式ステートメントやインタビュー、背景情報などを総合すると、著者の村上氏がそれを望んだということになる。それどころか村上氏には、より早くドイツの読者に作品を届けるためとの理由から、重訳を自ら推奨している節さえあった。幸い、村上氏のこの自己矛盾的姿勢がさらなる論争を引き起こすことはなかった。むしろより問題なのは、英語版の『国境の南~』と『ねじまき鳥クロニクル』には、村上氏の承諾を得た上で、アメリカの読者のために大幅な編集が加えられていたという事実である。 優れた翻訳作品においては、各言語の文化的なバックグラウンドに応じて編集が加えられることは珍しくない。もちろん、著者と出版社の承諾は不可欠だし、翻訳家には作品の内容や翻訳する言語の文化、読者の期待などに対する深い理解、そして十分な翻訳経験が求められる。ひるがえって村上氏の場合、アメリカ向けに編集された英語版を各国語版の底本とすることを、他ならぬ著者自身が望んだことになる。少なくともドイツではそう受け止められた。日本語からの新訳版が登場 そのエピソードから10年以上が過ぎた。2000年の「文学四重奏団」での村上論争が残した最大の“置き土産”は、村上作品を最も激しく批判した番組開始以来のレギュラー評論家が番組を去ったこと、そして1988年以来続いていた人気番組が、論争の翌年の2001年に幕を閉じたことだ。番組の終了は村上論争が原因だったというのが、もっぱらの見方である。 作品が多くの言語で読まれ、読者が世界中に広がっている今、村上文学の翻訳は新しい段階に入りつつあるようだ。そもそも「海外の読者にいち早く作品を届けるためには英語版からの重訳が効率的だ」という考え自体ナンセンスだった。最近の他言語での出版状況を見ればそれは一目瞭然であり、英語版重視の傾向は明らかに弱まってきている。2000年に英語版からドイツ語に翻訳された『国境の南、太陽の西』(左)と13年に日本語版から直接翻訳された同作品(右) 『国境の南~』は、ハードカバーやペーパーバックなど様々な形態で出版された後、13年になって初めて日本語からの翻訳版が新しいタイトル(Südlich der Grenze,westlich der Sonne)で刊行された。新訳版の登場に、読者はかつての論争を思い出し、再読した批評家たちは当時問題となった部分について「新訳によって著者の意図がより明確になり、性描写も実はそれほど過激ではなかった」と述べている。結局、たとえ読者からどんな反応があろうと、作品によりふさわしい形で出版し直すことの意義を出版社は認めたことになる。ドイツの読者たちも、再度買って読み直すほどの関心を持っているようだ。村上春樹は今や一つの“ブランド”である。読者は彼の作品の前を素通りすることなどできないのだ。ドイツでは原語からの翻訳が主流カット・メンシックのイラストで構成された『ふしぎな図書館』 初期作品の新訳に加えて、最近注目を集めているのはイラスト入りの短編である。12年、「パン屋襲撃」「パン屋再襲撃」の2篇をドイツ人画家カット・メンシックのイラストで構成した書籍がドイツで発売されたが、これは日本でも刊行された。13年には同じメンシックの挿画で『ふしぎな図書館(Die unheimliche Bibliothek)』の新版も出版されている。こうしたビジュアル・ブックの登場で、村上文学は故郷日本への逆輸入も含めた、グローバルな規模での新たなチャンネルを獲得したことになる。 ここで気になるのが、先に触れたテキスト改編の問題だ。英語版が底本として使われなくなったとしたら、各国語版のための編集はこれからどのように行われていくのだろう。それとも、最近の村上作品は海外市場を念頭に置いて執筆されているため、編集など必要ないものに仕上がっているのだろうか。日本文学や翻訳を研究する者にとっては非常に興味深いテーマである。 ちなみにドイツの翻訳出版物では、原語から直接ドイツ語に翻訳される作品が88%を占め、英語など他言語から重訳される作品は12%にすぎない。この割合は1868年から現在までほぼ一定しており、後者のパターンが用いられるのは、主にマンガ、犯罪小説、ミステリーなど大衆向けの出版物である。この数字をどう捉えるべきか、ドイツ語以外の言語の状況はどうなのかなど、十分に考察する必要があるだろう。(2014年1月4日、原文英語掲載) 日地谷=キルシュネライト・イルメラ  HIJIYA-KIRSCHNEREIT Irmela ベルリン自由大学フリードリヒ・シュレーゲル文学研究大学院長。文芸書の翻訳および日本文学、日本文化に関する著作を多数手がける。日本研究の成果が評価されて、1992年にドイツの学術界で最も権威あるゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ賞を受賞。東京のドイツ日本研究所所長およびヨーロッパ日本研究協会会長を歴任。

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    村上春樹のノーベル賞落選が「既定の事実」だったホントの理由

    黒古一夫(文芸評論家) 10月5日から始まったノーベル賞ウイーク、すでに医学・生理学賞を大村智北里大学特別栄誉教授が、物理学賞を昨年に引き続き梶田隆章東大宇宙線研究所長が受賞し、「科学」分野における日本の基礎研究・応用研究が世界水準にあると証明され、日本中が歓びに沸き立っている。村上春樹さんのノーベル文学賞受賞がかなわず、肩を落とす“ハルキスト”たち=2015年10月8日夜、北海道美深町 そんな「科学」分野におけるノーベル賞フィーバーに拍車をかけたのは、昨夜(8日)結果が発表された文学賞である(受賞者はベラルーシのスベトラーナ・アレクシェービッチ)。2006年にノーベル文学賞受賞の登竜門と言われるチェコのフランツ・カフカ賞を受賞して以来、イギリス政府公認のブック・メーカー(賭け屋)によって毎年のように予想される受賞者の上位にランクされ、出版不況や純文学衰退説が流れる文壇や文学愛好者(特にハルキストと呼ばれる村上春樹の熱狂的なファン)、更には「明るい話題」を求めるマスコミが「今年こそ絶対に受賞する」と大きな期待を寄せるということもあって、「村上春樹、今年も落選」の報は日本中を駈け巡った。 欧米以外の国々に暮らす作家がノーベル文学賞の候補者となる条件の一つに、その中心的作品のいくつかが英語をはじめとする欧米語に翻訳されていることがある、と言われている。その意味では、欧米各国語だけでなく中国語、韓国語、ベトナム語、スペイン語、トルコ語など約50カ国語に翻訳され、世界中に何千万人もの読者を持つ村上春樹が、毎年のようにノーベル文学賞の「候補」に挙げられてきたのは、先のフランツ・カフカ賞の後もエルサレム賞(イスラエル 09年)やカタルーニャ国際賞(スペイン 11年)などの国際的な文学賞を受賞していることも考えれば、当然と言っていいかも知れない。 にもかかわらず、なぜこれまで村上春樹はノーベル文学賞を受賞できなかったのだろうか。村上春樹が『風の歌を聴け』(79年)でデビューして、『ノルウェイの森』(87年)で爆発的な人気を博するようになった直後の1989年に『村上春樹――ザ・ロスト・ワールド』(六興出版刊)を上梓して以来、同じ1970年前後の「政治の季節」を経験した団塊の世代(全共闘世代)に属する作家として、私は同伴者意識を持って村上春樹の作品を読み続けてきた。そして、2007年には2冊目となる『村上春樹――「喪失」の物語から「転換」の物語へ』(勉誠出版刊)を上梓し、今年の7月には35年以上にわたる村上春樹文学を総括し、併せて最近の村上春樹文学の方向性を見失ったような、あるいは行きつ戻りつするような「迷走」ぶりを批判した『村上春樹批判』(日中同時出版 アーツアンドクラフツ刊)を上梓した。そんな私から見ると、村上春樹の「落選」は、大騒ぎするようなことではなく、納得できるものであった。ノーベル文学賞というのは、「人気」ではなく、その文学がどんなメッセージを内包しているかが重要だ、と思っているからである。村上春樹の文学はどんな「生きる指針」を示してきたのか つまり、何百万部も売れ、例えば中国での翻訳権が9800万円、韓国でのそれが1億数千万円であったと言われる『1Q84』(BOOK1~3 09~10年)の刊行から、発売1週間で百万部を売り上げたという『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(13年)や連作集『女のいない男たち』(14年)は「失敗作」だったと判断し、さらには「自伝的エッセイ」とされる『職業としての小説家』(今年9月)も、結局「自己弁解」に終始したエッセイではないかと思っていた私には、村上春樹のノーベル文学賞落選は「既定の事実」と言っていいものだったのである。 その理由についての詳細は、拙著『村上春樹批判』を読んで頂くしかないのだが、ここでその根幹の理由について簡単に記しておけば、その文学的特徴として指摘されてきた「村上春樹の文学は、ポスト・モダン文学だ」という評価と関係しているのだが、明治の20年代に成立したとされる日本近代文学の根底に存在してきた「人間(個人)は、いかに生きるべきか」という問い、それはまた社会的・歴史的存在である人間の生き方を問うということでもあったが、村上春樹の文学にはそれが欠如しているのではないか、ということである。つまり、高度に発達した資本主義社会(都会)に生きる人間の「喪失感」や「疎外感」、「孤独感」、「絶望感」を描くことに成功し、若者を中心に世界中に多くの読者を獲得した村上春樹であるが、ではそのような「喪失感」や「孤独感」などを内に抱いて生きる若者たちに対して、村上春樹の文学はどんな「生きる指針・ビジョン」を示してきたのか、ただその文学世界に存在するのは現状を「消極的」に追認するだけのものだったのではないか、ということである。 1994年にノーベル文学書を受賞した大江健三郎は、そのような村上春樹の文学的傾向について「村上春樹の文学の特質は、社会に対して、あるいは個人生活のもっとも身近な環境に対してすらも、いっさい能動的な姿勢をとらぬという覚悟からなりたっています。その上で、風俗的な環境からの影響は抵抗せず受身で受けいれ、それもバック・グラウンド・ミュージックを聴きとるようにしてそうしながら、自分の内的な夢想の世界を破綻なくつむぎだす」(傍点原文「戦後文学から今日の窮境まで」86年)と喝破していたが、この大江による(初期の)村上春樹文学の評価は、未だに有効性を失っていないと私は思っている。日本人ノーベル文学賞作家に相応しいのは誰か 村上春樹自身も、このような現在もなお有効な大江評価と同じようなことを、河合隼雄との対談『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(96年刊)の中で語っていた。村上春樹は、1995年に起こった阪神淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件を契機に、大江が言う「(社会に対して)能動的な姿勢をとらぬという覚悟」と同じ意味の「デタッチメント(社会的無関心)」であった文学傾向を転換させ、今後は「コミットメント(社会との関わり)」を主題にした作品を書く、と宣言していたのである。しかし、試みは壮大だったが結果は「失敗作」となった『1Q84』(1~3 09~10年)や、これもまた多くの批評家に「失敗作」と断じられた『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』や連作集『女のいない男たち』を見ると、60代になって村上春樹はまた初期の「デタッチメント」的作品に本卦還りしてしまっていて、「転換」は実現しておらず、その「迷走」ぶりこそノーベル文学賞から遠ざけられた原因になっているのではないか、と思わざるを得ない。 また、「エルサレム賞」の受賞式でパレスチナ(弱者)とイスラエル(強者)との争いが絶えないイスラエルに出掛けて行き、「壁=システム・権力(強者)」と「卵=個人(弱者)」との関係において、一人の作家として自分は「卵(弱者)」、つまりパレスチナの側に付くと言いながら、その後パレスチナとイスラエルの紛争(戦争)に関してどんな発言もせず行動もしない在り方や、東日本大震災(福島第一原発の爆発事故)直後の「カタルーニャ国際賞」の受賞スピーチ「非現実的な夢想家として」の中で、それまでの反核運動を否定するような「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」と断じながら、その後のフクシマの事態や原発再稼働問題について沈黙を守り続けてきたその「核」に対する姿勢も、村上春樹の「言行不一致」としてノーベル文学賞(候補)作家に相応しくないと判断されたのではないか、と思わざるを得ない。今回、1986年に起こったチェルノブイリ原発の事故について発言し続けてきたアレクシェービッチ受賞者になった理由を忖度すると、余計そのように思う。 更には、拡大する「貧富の格差」など様々な問題を抱える「日本」の作家でありながら、その作品世界が「日本の現実」に根差していないのではないかという問題もある。日本初のノーベル文学賞授賞者になった川端康成の文学が、あくまでも遅れて近代化した日本の自然と芸術(文化)との関係を考えざるを得なかった日本人の苦悩と哀しみを主題にしていたことを思い起こすと、村上春樹文学の「無国籍性」(世界文学の性格を持つ、とも言えるが)こそ欠点=弱点なのではないか、思わざるを得ない。 以上、村上春樹がノーベル文学賞を受賞できない理由をいくつか簡単に述べてきたが、ではもし次の日本人ノーベル文学賞作家に相応しいのは誰かということになると、私は文句なしにナガサキの被爆者であり、「被爆者」として生きざるを得なかった戦後の意味を問い続け、芥川賞はじめ川端賞、谷崎賞、野間賞、朝日賞など数々の文学賞を受賞している林京子を、その第1候補として挙げたいと思っている。

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    ノーベル平和賞に近い男 リビアのカダフィ大佐との交渉秘話

     「最もノーベル平和賞に近い男」と呼ばれるカナダ人をご存じだろうか。 日本での知名度は高くないが、世界がその動向に注目するダンディな紳士の名は、ヤンク・バリー氏(66)。弁舌さわやかな彼の口からは奇想天外な逸話が次々と飛び出す。この男、いったい何者なのか──。 現在、ヤンク氏は内戦状態のシリアからトルコを通ってブルガリアに逃れる難民のサポートを行なっている。彼らが難民申請するための費用やEU内第三国への移動費だけでなく、首都ソフィアにあるホテル2棟を難民の宿泊施設として買い取った。 「ブルガリア政府がシリア難民を受け入れられるのは、私が衣食住すべての資金を提供しているからさ。 なぜそこまでするかって? 私はユダヤ系カナダ人だが、ナチスドイツ時代、ブルガリア政府は迫害を受けた15万人のユダヤ人を救ってくれたんだ。その中には私の親戚が2人いた。だから、恩返しの意味もあるんだよ」(ヤンク氏) ヤンク氏がブルガリアの難民キャンプを訪れると、多くの子供たちが「お父さんが来た!」と駆け寄ってくるという。その姿は、第2次大戦中にナチスの強制収容所からユダヤ人を救出したドイツ人、オスカー・シンドラーを彷彿とさせる。 「欧米メディアでは『ユダヤ人のシンドラー』と呼ばれるね。嬉しいことに、私が助けたシリア難民の数(1218人)はシンドラーが助けたユダヤ人の数(1200人)を超えた。ブルガリアの有力政治家から、『国連と赤十字とユニセフを足してもあなたには到底かなわない』と言われたよ。 私は常々、世界的な慈善団体がいくつもありながら、なぜ貧しい人たちや難民を助けられないでいるのか疑問に思っている。彼らに寄付されたお金がすべて貧しい人たちに渡っているわけではない。だったら自分でやるしかないわけで、私は資金が尽きるまでシリア難民を支援し続けるつもりだ」(ヤンク氏) 彼を世界的な慈善事業家として有名にしたエピソードが「ベンガジ6」の救出だ。2006年、リビアのベンガジで出稼ぎ中のブルガリア人看護師とパレスチナ人医師計6名が、「子供たちを意図的にエイズ感染させた」との疑いをかけられ、リビア政府から死刑判決を受けた。「当時、私はアリの力を借りてリビアに乗り込み、カダフィ大佐と交渉した。カダフィは『リーダー』と呼ばれるのが好きな男だった。 私はアリのサイン入りボクシンググローブを彼にプレゼントした。それがとても気に入られて交渉の大きな武器になったんだ。今だから本当のことを言うけど、アリのサインを真似て僕自身が書いたものだったんだけどね(笑い)」(ヤンク氏) ヤンク氏の交渉は実を結び、2007年7月、6人の身柄はブルガリア政府に引き渡されたのだった。関連記事■ ブルガリア人 VIAGRAと同様の効果あるVAITAGRA開発■ モサドの強みは世界を敵に回してでも生き残る国是と佐藤優氏■ ヨーグルトを食べるとがん予防に役立つとブルガリア人研究者■ アルジェリア事件 人質犠牲でも英仏支持の理由を大前氏解説■ 時計の選択は“大人のたしなみ”の成熟度を物語る

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    習近平氏にノーベル平和賞報道 単なる憶測が引用で誤解生む

     中国共産党の最高指導者に就任した習近平・党総書記にノーベル平和賞が授与される可能性があるとの情報が飛び交った。その理由は習氏が昨年12月、北京で開かれた党の法制部門の会議で、主に思想犯の再教育を図る労働改造所の廃止について触れたからだというが、その発信源を探ってみると、意外なメディアが震源地だったことが分かった。 習氏にノーベル平和賞かという情報を日本語でいち早く伝えたのは、日本語の中国情報サイト「Record China」。2月22日付で、香港の中国系紙「大公報」の記事を引用する形で、「中国の新指導者・習近平氏、ノーベル平和賞の可能性――米メディア」との見出しを掲げ、「2013年2月21日、香港の大公報によると、中国の最高指導者・習近平(シー・ジンピン)氏にノーベル平和賞が授与される可能性があることを米インターナショナル・ビジネス・タイムズ中国版が報じている」との書き出しで伝えた。 そこで、2月21日付の大公報の記事を探してみると「習近平、労働改造所改革でノーベル平和賞受賞も」との見出しを掲げた記事が掲載されていた。この見出しだけをみれば、習氏のノーベル平和賞受賞がほぼ決まったかのような印象だ。 さらに、インターナショナル・ビジネス・タイムズという主に中国経済情報を発信しているウェブサイトの中国語版から元の記事を探してみると、大公報の記事は、20日付の同タイムズ中国語版をほとんど丸写しで報じていることが分かった。 また、タイムズの記事を読んでみると、実はタイムズが初めて習近平ノーベル平和賞受賞説を報じたのではなく、経済専門誌として名高い米「フォーブス」誌の電子版が報じていた。 同誌電子版から、その記事を探してみると、2月18日付で「How China’s President Is Earning A Nobel Peace Prize」という見出しの記事があった。直訳すると「中国の国家主席は、どのようにしてノーベル平和賞を得るのか?」という意味になる。筆者はラルフ・ベンコ氏という同誌の寄稿者で、経済専門家。 本当に習氏がノーベル平和賞を受賞する可能性があるのか。実はこの記事も中国の最近の法政改革について報じている米ニューヨーク・タイムズやロイター通信の記事の引用が主なのだが、その内容も、これまた中国国営の新華社通信の引用で、「司法部管轄下の労働改造所350か所に16万人が収監されている。2012年10月、強制的な労働による再教育が行われている実態について批判が高まり、最高人民法院(最高裁判所に相当)は制度を続けるとしても法を無視すべきではないとの見解を示した」というもの。 フォーブスの記事は「これについて習近平氏はいまだ態度を表明していないが、違法拘留と公開裁判権について談話を発表しており、『権力に対する規制と管理を強め、権力を制度の枠に入れる必要がある』と語った」としたうえで、ロイター通信を引用して「1月に、中国共産党新指導者による労働再教育制度の見直しが行なわれる可能性がある」と報じたことが根拠にして、「(そうなれば)ノーベル平和賞委員会も注目せざるを得ない。もし、習近平がこのような人道主義的な行為を続けていけば、同委員会もノーベル平和賞受賞を中国に授与することを正当化できる」などと仮定のうえに仮定を重ねて論じている記事だった。 しかも、3月5日からの年に1回の全国人民代表大会(全人代=国会)では「法制度改革は議題に入っていない」ことが明らかになっているので、中国政府による労働改造所改革は当面あり得ないことになる。 引用が重なるうちに、習氏がすぐにでもノーベル平和賞を受賞するような報道につながってしまったのだろう。関連記事■ 習近平氏に大きな爆弾 中国共産党元幹部23人が民主化を要求■ アラファト議長他 ノーベル平和賞の受賞者は平和を導いたか■ ノーベル平和賞・劉氏の妻 夫の投獄は「むしろホッとした」■ 櫻井氏「日本は中国の人権活動家に賞を創設して授与すべき」■ 中国人作家のノーベル文学賞 国家ぐるみでの買収疑惑が浮上

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    特許は個人から企業へ 議論が進む職務発明 

    ード(LED)の発明をめぐっても、個人と企業の「特許紛争」が大きな注目を集めたが、日本の研究者3人がノーベル賞に選ばれたのを機に、改めてわが国の特許制度について考えてみたい。  日本の特許制度は、発明者に対し「特許を受ける権利」が認められており、特許庁への出願後、新規性や進捗性などの要件審査を経て認められれば、特許権が与えられる。特許権は他人への譲渡も認められているが、最も典型的なパターンは、サラリーマンが職務上発明した特許を勤務先の会社規則等に従って権利を譲り渡し、発明者に代わって会社が特許を出願するケースである。  発明者にすれば、自分が考案した画期的な発明により、勤務先の企業が利益を得たのであれば、「相当の対価」として報酬を受け取るのは当然と考えるだろう。一方、会社側からみれば、研究資金や設備、同僚らのサポートなど十分な環境を整えた上で、万が一研究が失敗すればそのリスクも負うことになるのだから、職務発明の成果は企業に帰属すると考えるのも理解できる。  現行の特許法35条では、従業員に職務発明の権利を会社側へ譲渡させる勤務規則を定めることを許容する一方で、発明した従業員個人は「相当の対価」として報酬を受け取る権利を有すると定めており、実際には企業側と発明者本人の話し合いによって報酬額が決まることになっている。  ただ、この「相当の対価」をめぐる解釈が曖昧で、発明者本人にしてみれば「報酬額が少なすぎる」という不満も多く、結果的に会社の利益を全従業員でシェアすると考える会社側とは折り合わず、発明者個人が法廷の場に持ち込んで報酬額を会社と争うケースが増えている。  その代表的なケースとしてよく取り上げられるのが、今年のノーベル物理学賞に選ばれた米カリフォルニア大サンタバーバラ校、中村修二教授(60)の特許訴訟である。中村氏への報償金は2万円  中村氏は2001年、発明時に在籍していた日亜化学工業(徳島県阿南市)に対し20億円の支払いを求めて提訴。中村氏への発明の対価として日亜側が支払った報償金はわずか2万円だったが、2004年の一審東京地裁判決は日亜側に200億円の支払いを命じ、職務発明は企業の「財産」という考え方が常識だった日本の産業界にも大きな衝撃を与えた。中村氏の訴訟は2005年1月、日亜側が8億4千万円を支払うことで和解が成立した。  中村氏の裁判に前後して、サラリーマン技術者が「相当の対価」を求めて大手企業を訴えるケースが続出した。光ディスクの読み取り技術をめぐり日立製作所に1億6000万円超の支払いを命じる判決が最高裁で確定したほか、甘味料の開発で味の素が1億5000万を支払って和解するなどの事例が相次いだ。  一方、訴訟リスクや企業イメージの低下を回避するため、「相当の対価」を厳密に算定し、発明者への報酬額を決める企業も増え始めた。明治製菓は「発明考案取扱規程」と「薬品発明特別報償規程」という社内規定をつくり、特別報奨金として商品発売後5年間の売上利益の0.25%、特許譲渡額及び実施料では1%で最高5000万円の範囲で支給。武田薬品工業も全世界の売上高に応じて報奨金を支払う「実績補償制度」を導入し、2004年には3000万円の上限金も撤廃した。  こうした発明対価をめぐる社会情勢の変化に危機感を募らせたのが日本の産業界である。訴訟リスクを軽減させるために職務発明の特許が企業側に帰属するよう積極的に政府に働き掛けてきた。産業界の意向を背景に、安倍政権は2013年6月、成長戦略の一環として、知的財産戦略の方向性を示す知的財産政策に関する基本方針を閣議決定し、職務発明の特許を個人から企業に帰属させる検討方針を打ち出した。3月以降、特許庁の「特許制度小委員会」で議論が本格化。特許庁は、企業の従業員が発明した特許について、条件付きで企業に帰属させる方向で検討を進めており、近く特許法改正案を国会に提出する方針だ。  改正案では、特許権を企業に帰属する代わりに、発明した社員に見合った報酬を支払う仕組みを企業が整えるよう義務付けることなどが検討されているという。特許庁が9月に開いた有識者会議では、経団連の委員らが「(発明者への報奨を)法律で定めるのは企業と従業員の双方にとって有意義」と表明、発明者への報酬について法規定する考えを容認する姿勢に転じた。ノーベル物理学賞に選ばれた中村修二氏 発明は「会社のもの」で決着? サラリーマンの発明は「会社のもの」という流れが一気に加速しているが、労働団体や専門家からは反対の声や慎重論も出ている。「発明意欲がそがれ、優秀な研究者や技術者が海外に流出する」などが主な意見だが、中村氏も日亜を退社後に渡米し研究を続けている。  中村氏は受賞後のインタビューで「怒りがすべてのモチベーションを生み出す」と語り、「米国は研究者にとって自由がある。アメリカンドリームを追い掛けるチャンスがある。日本の会社で発明したとしても、ただボーナスをもらうだけ」と不満をぶちまけた。  一方、特許庁が2013年に実施したアンケートによると、発明に対する報酬などの社内規定がある中小企業は76%にとどまっている。特許法が改正されても発明した社員への「相当の対価」が経営リスクとなり、結果として企業競争力の低下につながるとの意見や、企業に特許を帰属させる条件として、企業側に発明者への報酬支払義務を課すことは企業の自主性という観点から弊害になるとの意見も根強くある。  特許の帰属をめぐる個人か企業かの議論は今後、発明者に報いる仕組みをどう定めるかが最大の焦点となる。発明者への報酬に関する算定ルールを特許庁が示せば、訴訟リスクの軽減につながる効果もありそうだが、すべての企業にルールを当てはめるのは現実的ではないとの指摘もある。発明者と企業の双方が納得できる新ルール制定にはまだまだ議論すべき余地がたくさんある。(iRONNA編集長 白岩賢太)

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    「奴隷ナカムラ」の成果が法改正論議の原点に

    、当時は開発者の境遇が悪い中小企業も多く、問題提起にはつながった」と評価する。 日亜化学は「日本人がノーベル賞を受賞し、受賞理由が中村氏を含む多くの日亜化学社員と企業努力によって実現した青色LEDであることは誇らしい」とコメントした。(板東和正)

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    青色LED訴訟 「和解決着」が意味するもの

    当然の結果だった和解決着  日亜化学と、元社員の中村修二カリフォルニア大(サンタバーバラ校)教授との間で戦われていた「青色発光ダイオード」裁判が、「8億4000万円和解」という予想外の結果で終わった。一審(東京地裁)の「200億円判決」や、一審判決後のテレヒや出版界での「中村修二フィーバー」から考えれば、この裁判闘争は日亜化学側の見事な逆転勝利と言っていいだろう。中村氏自身が、判決後の記者会見で、「100パーセント負けですよ」「日本の裁判制度は腐っていますよ」と興奮気味に怒りをぶちまけているぐらいだから、この裁判が中村氏側の全面敗北であったことに間違いはない。  では、なぜ、こういう結果になってしまったのか。なぜ、中村氏サイドは、高裁はもちろん、最高裁まで争おうとしなかったのか。実は、私は、この和解決着は当然の結果だったと思う。マスコミでは、裁判官が社会防衛的な意味から会社の経営的立場を考慮して無難な線で決着をつけたという批判的な解説が主流のようだが、私の考えは少し違う。  私の考えでは、この裁判には「特許問題」や「発明の対価問題」は別として、隠された問題点が二つあった。その一つは、「世紀の発明」と言われる青色発光ダイオードの開発を実質的には「誰が」やったかという問題、もう一つは、中村氏が理系の「文化ヒーロー」として繰り返してきた過激な日本の教育制度批判」や「日本的システム批判」の問題である。 私は、「大学入試を全廃しろ」「社員は会社の奴隷ではない」とか言うような、中村氏の粗雑な文化論や教育論にはかなり早くから疑問を感じていた。そこで、「中村発言」や「中村フィーバー」の原点である「青色発光ダイオード開発成功物語」そのものを、日亜化学側が一審判決後に公開した新しい詳細な内部データを元に検証してみたくなった。その結果わかったことは、「青色発光ダイオード開発は日亜化学の若い研究者たちの共同研究の成果」であって、「会社の反対を押し切って自分一人で開発した」という中村氏の「単独成功物語」にはかなり無理があるという事実であった。おそらく裁判官も弁護士も、私と同じように日亜化学側が公開した内部データを元に、青色発光ダイオード開発の本当の物語を知ったはずである。「青色発光ダイオード開発における中村氏の役割は、中村氏が大言壮語するほどでのものではない」。これが、一審判決直後は意気軒昂であった中村派の弁護士が、屈辱的とも言っていい和解案をあっさりと受け入れざるをえなかった背景であろう。  ところで、「青色発光ダイオード開発」には三つの「ブレイク・スルー」(「ツーフロー方式」「p型化アニール」「ダブルへテロ構造」)が必要だったが、中村氏は科学研究者としては、第一段階の「ツーフロー方式」(いわゆる「404特許」)以外では、さほど重要な役割を演じていない。実は中村氏の役割は、社内的には、国内外を飛び回って「青色発光ダイオード開発物語」を宣伝する広告塔的な色彩が強かった。その結果、中村氏の唯我独尊的な独特のキャラの影響もあって、社外や国外では「青色発光ダイオードを一人で開発した男」という「スター科学者」の虚像が一人歩きすることになったのである。しかし、実質的な研究開発の多くは彼の部下たち(妹尾、岩佐氏など)の手によってなされたのであった。ところが日本のマスコミの多くは、未だに中村氏の「青色発光ダイオードは自分独りの力で開発した」という「自作自演」的な自慢話を一方的に信じ込み、「日亜化学側の言い分」を黙殺した上で、中村応援のキャンペーンを繰り返している。マスコミこそ不勉強である。  いずれにしろ、この高裁での和解決着は、中村修二氏の「世紀の発明」物語の根拠の怪しさとともに、中村氏がテレビや書籍で大言壮語、悲憤慷慨した稚拙な「日本的システム批判」や「教育制度批判」も、口から出任せの空理空論だったことを間接的に立証したと、私は思う。中村氏は、高裁判決後の記者会見で、「これから研究生活に戻りたい」と発言している。大いに結構である。ついでに言わせてもらうならば、専門外の幼稚な教育論や文化論はほどほどに慎むべきであろう。いずれにしろ、中村氏の本来の専門分野での活躍を祈りたい。しかし無理だろうと私は思う。中村氏が批判し罵倒してやまない日本の集団主義的研究生活よりも、アメリカの大学の個人主義的研究生活の方が、より豊かな研究成果をもたらすだろうとは、私は思わないからだ。「集団主義」的、「協調主義」的な日本的システムの強さと豊かさに、中村修二氏が気付くのはそう遠い日ではあるまい。山崎行太郎(哲学者)「三田文学」に発表した『小林秀雄とベルグソン』でデビューし、先輩批評家の江藤淳や柄谷行人に認められ、文壇や論壇へ進出。「イデオロギー的思考から存在論的思考へ」をモットーに、文壇・論壇に蔓延する「予定調和的言説」の脱構築的解体を目指す。

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    サラリーマンの発明は誰のものか

    サラリーマンが発明した特許をめぐる議論が政府内で本格化している。青色発光ダイオード(LED)を発明した日本の研究者3人が、今年のノーベル物理学賞に選ばれたのを機に、わが国の特許制度について改めて考える。

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    発明対価問題 企業と技術者になお溝 「頭脳流出」歯止めへ対話必要

     CDやDVDなど光ディスクの読み取り技術の発明に関する特許訴訟の上告審判決で17日、日立製作所が元社員に支払うことが確定した約1億6300万円は、職務発明をめぐる訴訟では過去2番目の高額だ。日立は「報奨制度を変えても裁判所は次々と新たな判断材料を持ち出してくる」と不満を募らせている。多くの大手企業が技術者への報奨制度を導入・改善してきたが、今回の判決は、企業と技術者の間の溝が依然として埋まらない現状を浮き彫りにした。(田端素央) 「技術者は会社に、いくらまで発明対価を要求できるか」 こんな命題を産業界に投げかけた青色発光ダイオード(LED)裁判は、平成16年1月の一審判決で日亜化学工業に、開発者である中村修二氏に発明対価の一部として200億円(17年1月の控訴審和解で6億円に減額され、遅延損害金を含めて8億4000万円)を支払うよう命じた。 この判決が関係各方面に与えた衝撃はあまりに大きかった。 当時、企業側は「リスクを負わない社員が巨額報酬を求めるべきではない」と主張。これに対し、技術者は「報奨金は会社が勝手に決めた『ご褒美』にすぎない」と強く反発した。技術者が意欲を持たなければ、青色LEDなどの大発明は生まれないからだ。 国は技術者のそんな不満を「知財立国」戦略の妨げになると判断し、17年4月、特許法を改正。企業が発明対価を決める際は従業員と話し合い、対価に合理性を持たせるよう求めた。この結果、特許報奨金を支給する企業はすでに7割を超えたが、労働政策研究・研修機構の調べでは、報奨金の水準設定などで「問題点が残る」とする企業は44・5%に上っている。 今回、最高裁は「海外特許についても対価の請求が可能」などの初判断を示したが、日立には、これも不条理に映り、「発明を奨励する会社の意欲をそぐ判決だ」(平山裕之知的財産権本部長)と批判する。 一方で、技術者側も司法判断に満足しているわけではない。青色LED訴訟で中村氏は、和解金の算定根拠のあいまいさを指摘し、「日本の司法は腐っている」と言い捨てた。司法が企業と技術者の溝をさらに深めたようにも見える。 技術者にとっては、一部の企業が技術流出防止のため特許を公開しない「ブラックボックス」化を進めていることも、「特許の対価」が算定できない点で不利に働く。 ある電機大手では、報奨金が1件当たり最高で数千万円にとどまる。こうした待遇に嫌気がさした優秀な技術者は海外企業に次々に「ヘッドハンティング」されている。「頭脳流出」に歯止めを掛けるために、企業は、改正特許法が求めている「技術者との対話」を深めなければならない。                     ◇ 元日立研究員、米沢さん「技術者に勇気、福音」 原告の元日立製作所研究員、米沢成二さん(67)は17日、東京・霞が関の司法記者クラブで会見し、「日夜頑張っている企業で働く技術者を勇気づけ、日本の技術開発の活性化に福音となることを願う」と述べ、最高裁判決を評価した。 一方で、「本来なら個人が永年勤続した企業と裁判で争うのではなく、経済産業省、特許庁、法曹界が中心になって議論して決めるのが筋だったと思う」と指摘。さらに、「技術がグローバル化している中で、海外での特許登録分を別に扱うことは技術立国としてあり得ない」と語った。 代理人の升沢英俊弁護士は「技術者や技術者になろうという若い人たちに、目の色を変えさせるきっかけになる歴史的意味を持つ判決。海外での特許登録分を認めた以上のものがある」と述べた。

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    夢の技術 世界変えた3氏

    を上げ、窒化ガリウムを付着させると、高品質の窒化ガリウム結晶が成長していた。 一連の功績が評価され、ノーベル賞委員会が発表した授賞内容の資料は赤崎、天野両氏の連名だった。中村氏 新手法で量産化道筋 窒化ガリウムの結晶化は赤崎勇氏が成功していたが、時間がたつにつれ基板が熱くなって上昇気流が起こり、きれいな窒化ガリウムの結晶ができなくなってしまう課題があった。 高輝度青色LEDの量産技術を開発し、実用化への道筋をつけたのは中村修二氏。日亜化学工業に勤務していた平成元年、青色LEDの実現に必要な窒化ガリウムの研究を始めた。 従来の方法は反応装置内で、窒化アルミニウムの薄膜を表面に作ったサファイア基板にガリウムや窒素、水素を混ぜた原料ガスを約1千度で噴きつけ、基板上に結晶をつくっていた。 中村氏はさまざまな方法を検討した末、「上昇気流の発生をなんとか抑えることができれば、高品質結晶を長時間にわたって作り続けられるのではないか」と思いついた。 そこで、中村氏は基板の上から窒素ガスを、横からはガリウムと窒素、水素の高温ガスを吹き付ける方法を考案した。 反応装置内で、窒化アルミニウムの薄膜を作ったサファイア基板に原料ガスを吹き付けるまでは同じだったが、上昇気流を押さえつける工夫を加えたのだ。短期の米国留学で習得した技術に独自の改良を加えた「ツーフロー」と呼ばれる新しい結晶育成法だ。 実験してみると、2つの噴き出し口を使うことで、窒化ガリウム膜の結晶性は飛躍的に向上。中村氏は「(青色LEDの実用化は)この新手法が決め手になったといって過言ではない」と語った。