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    高山善廣の悲劇を繰り返さないために昭和のプロレスから学ぶべきこと

    小林信也(作家、スポーツライター) 試合中の事故で療養中のプロレスラー高山善廣の症状が重く、首から下がまひして現状では回復が難しいと伝えられ、ファンならずとも多くの人が心を痛め、衝撃と波紋が広がっている。 高山善廣は今年5月4日、DDT豊中大会(大阪府)の試合直後に救急搬送され、頸髄(けいずい)損傷および変形性頚椎(けいつい)症の診断と発表されていた。高山は回転エビ固めをかけに行って失敗し、頭からマットに落ちた上に相手レスラーの全体重が首と頭にかかる形になり、動けなくなった。 今回の発表を受け、レスラー仲間からさまざまなメッセージが発せられている。 この問題を特集したTOKYO MXテレビの番組に出演した人気レスラー蝶野正洋は、「リング上の事故は使う側がルールを作らないと止まらないと思う」と語った。 今回の事故だけでなく、プロレス界はある時期からリング上での事故が増えている。 2009年6月、人気レスラーでプロレスリング・ノアの代表取締役でもあった三沢光晴の事故は衝撃的だった。バックドロップを受けて頸髄離断、心肺停止状態となり、その夜に亡くなった。ノア・小橋建太復帰戦タッグマッチで、三沢光晴(右)のエルボーを受ける高山善廣=2007年12月2日、日本武道館(撮影・荒木孝雄) 00年4月には福田雅一(新日本プロレス)が死亡。女子プロレスでも1997年8月にプラム麻里子(JWP)が、99年3月に門恵美子(アルシオン)がリング渦で亡くなっている。 こうした事故は、日本のプロレス界の「変化」「風潮」がもたらした背景がある。技が過激化したこともあるが、一方には、「プロレスはリアルか、フェイクか、エンターテインメントか」という、常に語られる(あるいは見る側の心の奥にある)素朴な思いに対するプロレスラーの挑戦とプライドのようなものが絡み合っている。 日本のプロレスの歴史は力道山に始まり、ジャイアント馬場、アントニオ猪木らが受け継いで、ひとつの時代を築く。街頭テレビで日本中が熱狂したと言われる時代は知らないが、試合と試合の間に電気掃除機が登場し、マットをきれいに掃除する風景でもおなじみだった日本プロレス中継は、男性だけでなく、中年以上の女性たちにも人気が高かった。 「四の字固め」のザ・デストロイヤー、「頭突き」のボボ・ブラジル、「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリック、バックドロップが得意な「鉄人」ルー・テーズら、個性が明快な敵役との対決がファンの心をかきたてた。激しくほのぼのした、あのころのプロレス 「日本人」対「外国人」という対決の構造も明確だった。多くのファンの中には、「このダイナミックな勝負は、お互いの呼吸がなければ成立しない」という認識はあって、「だからプロレスは面白くない」という批判にはつながらなかった。当時のプロレスには、リアルかどうか、といった議論を遙かに上回る魅力と吸引力があったからだろう。そして、時代も、大衆も、そうした昂奮(こうふん)とストレス解消を求めていた。 昭和31年に生まれた私の世代は、小学校の高学年になると当たり前のように「プロレスごっこ」に興じた。雪国だったから、降り積もった新雪の上に友だちをバックドロップで投げる光景は珍しくなかった。 プロレスごっこをすると、とくに大技になればなるほど、攻め手ひとりの力では成し得ない。技を受けるレスラーの呼吸もなければ、ファンが昂奮し、感嘆する鮮やかさは生まれないと体感する。だから、と非難するのでなく、それこそがプロレスの深さだと子ども心に了解した。もちろん、ささやかな葛藤もあるにはあるが、その了解がなければプロレスは成立しないと理解したのだと思う。その辺の機微を見事に表現し、プロレスの見方に新しい自信を与えたのが、作家・村松友視の人気作《私、プロレスの味方です》だった。 当時のプロレスには、激しさの一方に、どこかほのぼのとする空気もあった。 極悪ガイジンレスラーの凶器攻撃、口の周りを血だらけにして高笑する「吸血鬼」フレッド・ブラッシーの姿には慄然(りつぜん)とした。その怖さは半端でなかったが、実際に日本人レスラーは死ななかったし、毎週、元気な姿をテレビで見ることができた。 ところが、「暗黙の了解」の了解を打破する動きを売り物に台頭する勢力が現れた。その先鋒(せんぽう)が、ずっとジャイアント馬場の二番手のような立場に甘んじていたアントニオ猪木だ。あのころ、私自身も猪木のファイトに衝き動かされた。その挑戦をワクワクする思いで見つめた。(もしかして、猪木のプロレスは本気なんじゃないか) そんな幻想を抱いた。そして、その幻想がもしや真実かと思わされる瞬間の鋭い昂奮は、それまでのプロレスにない新しい地平だった。モハメッド・アリと闘ったのも、猪木がリアルに強いことを証明するひとつの階段だったろう。1976年6月26日、格闘技世界一決定戦でモハメド・アリ(右)とアントニオ猪木が対決=日本武道館 しかし、83年6月、後に「猪木舌出し失神事件」と称される事故が起こった。人気レスラーのハルク・ホーガンとの試合。ロープの外のエプロンサイドと呼ばれるエリアに立っていた猪木に、ホーガンが得意技のアックスボンバーを見舞った。腕を水平にして首筋に叩き込む技。リング下に落ちた猪木は、ファンが予想した動きとはまったく別の雰囲気を醸し出した。立ち上がらない、反応しない。やがて、緊急事態が宣言され、猪木の救急処置が行われた。舌出し失神事件の「罪」 舌出し失神事件と呼ばれるのは、窒息を防ぐため、猪木の舌を引き出したからと言われる。この事件には諸説あって真相はわからないが、素直なプロレスファンだった私にとって、プロレスとの訣別を感じたターニングポイントでもあった。振り返れば、あの日以来、無邪気にプロレスを見ることができなくなった。「暗黙の了解」を打破する方向に動き出せば、猪木の事故のような出来事が起こるのは必然。その方向に立ち入ってはいけないという警鐘だったかもしれない。日本のプロレス界はそれを自覚できなかった。むしろ、馬場・猪木以後のスター選手群雄割拠の時代となり、より過激な方向に向かった。 その代表は、有刺鉄線デスマッチであり、その鉄線に電流まで流されるようになった。 リング上で展開される技もより過激を求められ、過激な技を受けることを相手レスラーも求められる風潮がエスカレートしていた。新日本プロレスのノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチで、長州力(上)のさそり固めから逃れるために自ら有刺鉄線に手をのばす大仁田厚=2000年7月30日(荒木孝雄撮影) 過激化し、リアルを求めざるを得なかった背景には、総合格闘技の隆盛もあっただろう。K-1などの人気が沸騰し、一時はプロレスの影は薄かった。その存亡さえ危ぶまれた。そうした事情も一方にあるだろう。 アメリカでは、WWEという勢力が人気を得ている。完全にストーリーがあり、配役があり、さまざまなドラマや設定の上でプロレスが展開される。リアルを追求するのでなく、エンターテインメントを追求した結果の集大成ともいえる形だ。日本でもCSテレビなどを通じて人気がある。 またアメリカのプロレス界では、頭部や首筋への攻撃を基本的には禁止、危険な技も規制されているという。パイルドライバー(脳天逆落とし)といった大技は、雪の上のプロレスでよく登場したダイナミックな技だが、相手を高く持ち上げ、頭や首でなく背中から落としてやると、見た目の豪快さと裏腹に、受け身も取りやすく、ダメージは小さい。アメリカのレスラーたちはこうした工夫を凝らしているという。 蝶野の発言は、こうした規制を含んだ指摘だろう。また、心身が不十分な状態でも無理矢理出場する選手が少なくない現状の中、主催者がレスラーの健康状態を把握し、リングに上がれる状態でなければ出場を認めないなどの規則も必要だと訴えている。 それ以上に、力道山、馬場、猪木の系譜をしのぐ、明るくダイナミックでドラマチック、レスラーとファンが新たな感動と昂奮を共有できる新しいプロレスの創造。その方向に敢然と舵(かじ)を切ることこそ、根本的な急務だと感じる。 安心して見られるプロレスと言ったら誤解されそうだが、ハラハラしながらも心の奥底では安心を持って見ている…。それがまさに、リアルとエンターテインメントのギリギリの“プロの水準”ではないのだろうか。

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    疲れない男、棚橋弘至のモチベーション向上メソッド

    棚橋弘至(新日本プロレス所属プロレスラー)「自分しかいない」使命感がやる気の源 自ら“百年に一人の逸材”と標榜する強烈なキャラクターに加え、独自のマーケティング戦略で、人気・業績が低迷していた新日本プロレスを立て直したのが、棚橋弘至選手だ。 これまでにないタイプのプロレスラーである棚橋氏は、過酷な戦いの日々の中でも決して「疲れない」「落ち込まない」男としても知られている。その強靭なモチベーションの源泉はどこにあるのだろうか。 「2006年に初めてIWGPヘビー級王者になったときに考えたのは、新日本プロレスを変えようということでした。当時プロレスの人気は下火。売上げは年々落ちているのに、危機感を持っている人間が非常に少ない。それどころか『地上波の放送が深夜になったから仕方ない』とか『1回見てもらえれば魅力に気づいてもらえる』といった言い訳ばかりが聞こえてきました。じゃあ見てもらう努力をしているかといえば、していなかった。 そんな中で『プロレスはもう古い』とか『痛そう』といったイメージを変え、新しいファンを獲得するためのプロモーションができるのは、自分しかいない。その使命感で、僕は新日本プロレスの改革に取り組み始めました。ポーズをとる新日本プロレスの棚橋弘至=2013年11月18日、 東京・世田谷区の新日本プロレス道場(荒木孝雄撮影) ただ、やはり『プロレスはかくあるべし』というイメージを持っているオールドファンが多い世界なので、改革しようとするとアンチも増えました。僕は見た目がどちらかというとチャラチャラしていますし(笑)。だいたい3、4年は“アレルギー反応”が続きましたね。 でも、業績が下がっているのに、同じことをやっていても状況が良くなるわけがない。絶対自分が正しいという確固たる信念がありましたから、どんなにブーイングされても凹みませんでしたね。頑固なんですよ。 実は、プロモーションをしていく上での一番の難敵は、アンチではありません。アンチ棚橋ということは、プロレスに関心がある人ですから。僕のことを嫌いなぶん、対戦相手を応援するのでプロレス全体にとってはプラスになります。本当に難しいのは、プロレスに無関心な人をいかに振り向かせるか、です」 無関心な層に向かって情報を発信し、振り向いてもらうというのは困難な作業だ。大抵はスルーされてしまう。そこでもモチベーションが折れなかった秘訣は、強い確信だった。 「プロレスに興味・関心を持っている人は、日本人のせいぜい10%。ということは、残り90%の無関心な人こそが、新日本プロレスにとってのビジネスチャンスだからです。 そう考えて、たとえ相手にされなくても『下手な鉄砲』を数多く撃ち続けました。幸い、ラジオや雑誌といった媒体でプロモーションの企画が取れたのですが、それさえも無理になったら駅前でサンドイッチマンをやろうと思っていましたから。ここまで覚悟を決めてプロモーション活動に打ち込めたのは、『情報は伝わらない』ということが身にしみてわかっていたからでもあります。 地方会場での試合後、コンビニなどに立ち寄ると、僕に気づいて『あれ、棚橋選手、なんでここにいるんですか?』と声をかけてくださる方がいます。 ということは、公式HPや選手のブログ、ツイッターなどで何度も告知しているにもかかわらず、僕を知っているくらいのプロレス好きな方にさえ、当日近くで興行があるという情報が伝わっていないわけです。ましてや、プロレスファンでない人に至っては……という話です。 だからこそ、残り90%のビジネスチャンスにリーチするためには繰り返し繰り返し情報を伝える作業をしなければいけないし、それでも情報は伝わらないものなんだと痛感しました。この感覚がベースになっているので、プロモーションをしていくうえでの覚悟を持てるのでしょうね」モチベーションは2段階でマネジメント 仕事に対する使命感、待っているチャンスと困難への冷徹な認識。それに加えて、棚橋氏は独自のモチベーションの理論でやる気を高めていく。 「モチベーションには2種類あると、僕は考えています。 1つ目は、幸せのハードルを下げることによって得られるモチベーションです。 プロレスの世界では、若い頃に1人で海外遠征に行くという伝統があります。たとえばメキシコに行くと、地方巡業では自分で移動して、ホテルを取って、さらに次の仕事も取ってこなくてはいけない。そこまでしてもファイトマネーはすごく低くて、怪我をしたら何の保障もない。そういう環境を経験すると、日本は恵まれているなと痛感するわけです。 日々の仕事の中でも、昨日まで談笑していた仲間が怪我で突然いなくなる、といったことがこの世界では日常茶飯事です。長い巡業になると、控え室が唸っている選手だらけで、まるで野戦病院のようになっている……といったこともよくあります。 こんなふうに、厳しい環境、大変な思いをしている人をたくさん見ているからこそ、『今日も食べられた』『試合ができた』『朝、ちゃんと起きられた』といったことに心から幸せを感じることができる。『自分は恵まれているな』と感謝できる。すると、モチベーションはあっという間に上がります。 このように、ある意味では自分より恵まれていない人に目を向けることによって得られるのが第一のモチベーションです。 そのうえで、今度は自分より頑張っている人、自分より結果を出している人などを見ることによって、『よし、もっと頑張ろう』と思う。これが第二のモチベーションです。 このように、モチベーションには2種類ある。モチベーション向上も2段階で行なうといいでしょう」 もちろん、こうしてモチベーションを上げて仕事に取り組めたとしても、結果はそう簡単にはついてこない。すると、いったんは盛り上がったモチベーションもしぼみがちだ。こうしたピンチにも、棚橋氏は極めてロジカルに対処する。 「すぐに結果が出ない努力が、実は大きな意味を持っている、という経験は、誰でも大人になる前にしているはず。わかりやすい例が学校の勉強で、『こんなの、社会に出てからいつ使うんだよ』と思っていたけれど、大人になった今では『もっと勉強しておけば良かった』と思う……そんなことはよくありますよね。 僕自身の経験で言えば、プロ野球選手になりたくて筋トレに取り組んだことや、大学卒業の肩書きを手に入れたことが、全く違うプロレスラーの道に進んだ今、役に立っています。 同じことは、今やっていることについても言えるはず。たとえすぐには結果につながらなくても、長期的に見たら必ず必要なことなんだと。そう考えれば、やる気は出てくるはずです」自分に声援を送ればやる気が湧いてくる自分に声援を送ればやる気が湧いてくる さらに棚橋氏は、プロレスラーならではのモチベーション向上メソッドを伝授してくれた。 「僕たちプロレスラーは、試合中にどんなにダメージを受けても、息が上がっていても、観客席からコールが沸き起こると不思議と立ち上がれるものなんです。『棚橋! 棚橋!』というコールには、『棚橋、立ち上がってくれ』というお客さんの期待が込められているからです。人に期待されるということは、そのくらい大きな喜びであり、モチベーションを上げてくれることです。 僕が考えたのは、『普通は他人から受ける期待を“自給自足”できないか?』ということです。 どうしても仕事がうまくいかずモチベーションが下がったとき、あるいは疲れてもうダメだ、と思ったとき、内なる『棚橋コール』を起こす。『お前はそんなもんか?』『まだいけるだろう』と自分に期待する。これが『期待の自給自足』です。「IWGPインターコンチネンタル選手権試合」でチャンピオンになった 棚橋弘至。2014年1月4日、東京ドーム(荒木孝雄撮影) 振り返ってみると、試合で『棚橋コール』がまったく起きなかった時代もあったので、それだけに僕にはファンの声援=期待に対する飢餓感が強いのでしょうね。そして、期待に応えたいという思いも。お客さんをガッカリさせたくないし、自分自身にもガッカリしたくない。この思いがあるからこそ、内なる『棚橋コール』がよく効くのかもしれません」 ここまでやっても結果が思いどおりにならないときは、もちろんある。プロレスに限らず、どんなビジネスでも失敗はつきものだ。そこでも棚橋氏には明確な方針がある。 「僕と他の選手との一番の違いは、切り替えの上手さですね。失敗すると落ち込むのは誰でも一緒です。僕は落ち込んでいる時間が極端に短い。落ち込んでいる時間があったら、道場に行ってバーベルを1回上げたほうが自分のためになりますから。どんな世界でもそうでしょうが、切り替え上手な選手はやはり上に行きますよ。 では、気持ちを切り替えるために具体的にはどうするか。僕は試合に負けたときなど、次の日に即、ブログを更新するようにしています。 もちろん、負けた悔しさを忘れることはできません。ここでいったんしまっておく、というイメージです。 そのうえで、次にその相手と試合をするときにはしまってあった悔しさをひっぱり出してくる。すると、試合が盛り上がるということですね」 「期待の自給自足」「悔しさは、引きずらないけど忘れない」。次々と名言を繰り出す棚橋氏は、言葉にも強いこだわりを持っている。 「実は、先日失敗してしまったんです。2月の王座防衛戦を発表したときに、『ド派手に防衛したいと思います』と言ってしまった。ここは『ド派手に防衛します』と言い切らなくてはいけなかったところでした。日頃から若手には『言い切れよ』と言っているのに(笑)。 言葉遣いが無意識の部分に与える影響がどの程度かは、わかりません。でも、思っていることを言い切らないと。『頑張りたいと思います』という人に仕事は振れないでしょう? 『絶対やります』と言うから期待されるし、仕事を任される。エネルギーのある言葉を選んで使っていくことは、モチベーションを高めるためにも重要なことです」<取材・構成:川端隆人 写真撮影:永井 浩>たなはし・ひろし 1976年、岐阜県生まれ。1998年、入門テストに合格。1999年、立命館大学法学部を卒業後、新日本プロレスに入門。同年デビュー。2003年、初代U-30王者。2006年、IWGPヘビー級王座を初戴冠。2009年、11年プロレス大賞MVP。2014年、第7代IWGPインターコンチネンタル王者に。第45代、47代、50代、52代、56代、58代IWGPヘビー級王者。著書に、『棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか』(飛鳥新社)など。関連記事■山本昌・野球界最年長投手のやる気の源とは?■孫正義はなぜ「未来」を予測できるのか?■冨山和彦-結果を出す人の「やる気」の出し方■やせたい人は、今夜もビールを飲みなさい―メタボが気になる方に朗報!■やせたい人は、1日3杯のコーヒーを飲みなさい~健康新常識

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    棚橋弘至は力道山と猪木を超えられるか

    棚橋弘至(新日本プロレス所属プロレスラー)学生プロレスは「俺の原風景」 プロレスを好きになったのは高校生の頃。深夜に地上波で放送されているプロレス中継を弟と一緒に観るようになったのがきっかけです。(瀧誠四郎撮影) そのころ一番印象に残っているのが、全日本プロレスの小橋健太(当時)VS米国人レスラー、スティーブ・ウィリアムスの試合(1994年9月3日、日本武道館)です。ウィリアムスは「殺人バックドロップ」という強烈な必殺技があるのですが、それを何発くらっても小橋さんは立ち上がるんです。ファンの一人として、「ああ、もうこの技をくらったらダメだな…」ってイメージしながら観ていたんですけど、それを返した時のカタルシス。うわっ、プロレスラーっていうのは俺たちの想像を軽く超えるんだって、鳥肌が立ちました。 僕は高校では野球をやっていたのですが、あまり上手くもないし、自分に自信が持てないでいた。プロレスについて調べているうちに、毎試合ケロッとした顔でリングに上がっているレスラーたちが、実は年間130試合以上こなしていることを知り、精神的にも、肉体的にも超人的なレスラーに、強い憧れを抱くようになっていった。僕もプロレスラーになったら、自分に自信が持てるんじゃないか。そうぼんやり考えることもありました。 プロ野球選手にはなれないことは分かっていたので、最初はプロスポーツを取材する記者を目指し、立命館大学の法学部に進学しました。それでも、プロレスへの道を諦められなかった僕は、入学後すぐにプロレス同好会の門を叩きました。プロレス同好会は、文字通りプロレス好きの集まりです。仲間とはいつもプロレスの話をしたり、試合を観に行ったりしていたのですが、僕らが実際にプロレスをやるのは年に一回の学園祭だけ。 晴れの舞台である学園祭でのリングでは、ひょろひょろで貧弱な学生が必死に頑張る姿をアピールしたり、「いま、この選手は攻めてますけど、実は単位はとれてません。留年が決まりました!」とかいう実況解説があったりして、いわゆる「学生プロレス」ならではの世界観を楽しんでいました。 それでも初めてリングに立った時は、ただひたすら嬉しかったし、楽しかった。だから、学生プロレスは僕にとっての原風景なんです。プロレスって、辛さとか怖さとか、どこか暗い面もあると思うのですが、僕にとってのプロレスは、まず楽しいことっていうのが根っこにある。思えば、学生プロレスの経験は良い方向に働いていると思いますね。「この筋肉は両親の仕送りでできている」(瀧誠四郎撮影) プロレス同好会での活動と並行し、自主的に筋トレとアマチュアレスリングに励んだ結果、大学入学前に65キロだった体重は、わずか1年で80キロまで増えました。もしかしたらプロレスラーになれるんじゃないか。その思いは、肉体の変化とともに大きくなり、本格的にプロレスラーを目指すようになりました。 大学二年の時、初めて新日本プロレスの入門テストを受けたのですが、その年は二回受けて二回とも不合格。それでも三年の時には受かりました。すぐに大学を辞めて入門するつもりだったのですが、大先輩である長州力さんに「ちゃんと大学を卒業してから来い!」と言われてしまって…。なんか拍子抜けしたのと同時に、単位がギリギリだったこともあり、あと一年で卒業できるだろうかと急に不安になりました。卒業までの残り一年で58単位をとらなければならないのに、履修登録の上限は60単位。この一年間はすべて授業に出席し、必死に勉強して、なんとか卒業することができました。 卒業時、体重はすでに90キロになっていました。体は日々つくらなければならないので、とにかく食べて、プロテインも買わないといけない。親からは毎月仕送りをしてもらっていたのですが、大体二週間くらいで食い尽くしてしまう。学食に行けば、定食と丼とツナ缶とバナナ、みたいな感じで一食千円くらい食べていました。アルバイトもしていましたが、実家に電話してお金がなくなったと言うと、追加で母親が仕送りをしてくれて。そう、僕の筋肉は両親の仕送りでできているんです(笑)。 両親は、いつもやりたいようにやらせてくれて、慈しんで育ててくれた。プロレスラーになることについても一切、反対しませんでした。卒業式の次の日、東京行きの新幹線に乗り込む時、父親は「どうせやるなら日本一になって来い」と声をかけてくれた。この言葉はその後、いろんな場面で僕の背中を押してくれました。中西学にSTF を見舞う蝶野正洋(左)、後ろは武藤敬司、右端はスティング 大阪府立体育会館 1997年12月8日(榎本雅弘撮影)    新日本プロレスは1972年、当時トップレスラーだったアントニオ猪木さんが旗揚げしたプロレス団体です。僕が99年に入団した当時は、武藤敬司さん、蝶野正洋さん、橋本真也さんという3人のレスラーが「闘魂三銃士」と称され、人気を博していました。所属レスラーは、レスリングや柔道、ラグビーなどのスポーツで輝かしい成績を残したエリート揃い。 現場監督だった長州さんが、大の学生プロレス嫌いだということを知って、自分は学生時代の経歴をひた隠しにしていました。それでも、何の取り柄もなかった僕が猛者を押しのけて活躍できたのは、誰よりも努力して努力を苦にしなかったことと、誰よりも志が高かったこと、そして他のエリートと違って、ちやほやされず決して驕らなかった、ということもあったと思います。練習生時代は体重が減るのが普通ですが、僕はサプリメントなどをうまくとり入れて、デビューまでの半年で12キロ増やすことができました。 新日本プロレスは、体重100キロ未満の「ジュニアヘビー級」、それ以上の「ヘビー級」の二階級制です。身長181センチ、レスラーとしては決して体が大きくはない僕がヘビー級の道を選んだ理由は、僕と体格が変わらない藤波辰爾さんが、ビッグバン・ベイダーら超重量級選手にひるむことなく立ち向かった姿に、プロレスの一番の魅力を感じていたからです。言うなれば、「小よく大を制す」ですね。そして、団体のトップに立つには、ヘビー級にならなきゃいけない、というこだわりもありました。 僕がプロレスラーとして大きな体を目指すのには理由があります。それは、トップ選手というのは、常にプロレスというジャンルの外を見て、ジャンルを超えていかなければならない存在だと思っているからです。まったくプロレスに興味がない人の目に映った時、プロレスのトップ選手がどんな体をしているのか、どんな人物なんだ、というところをしっかり見せなければならない。だからこそ、僕はもっと大きくなることを目指して日夜トレーニングに明け暮れています。新日本プロレスに対する恩 鈴木健想と戦う棚橋弘至 後楽園ホール 2002年9月17日 (荒木孝雄撮影)  新日本プロレスは2000年代に入ってから、主力選手が次々と退団し、観客も減るなど、苦しい時代が続きました。総合格闘技なども台頭し、競争相手が増えたのに、旧態依然で進化していなかった。当時の新日本プロレスは、まさに自滅の道を進んでいたんです。 かくいう僕自身も、02年11月28日に交際中の女性とトラブルになり、刃物で刺される事件に巻き込まれました。こんなスキャンダルがあっても、新日本プロレスは僕にレスラーとしての道を残してくれた。新日本にはすごく恩義を感じています。 自分で言うのもなんですが、他の所属レスラーと比べても、僕の新日本に対する恩は桁が違うんです。普通で終わる人生が普通で終わらなくなったと思いましたし、リングの上でも言いましたが、僕が背負った業なので全部背負って生きていく。そして、新日本プロレスも僕が背負う。事件を通して誓ったこの決意は、今もずっと変わりません。 事件後、メキシコ遠征で出会ったのが、メキシコのプロレス、ルチャ・リブレ。ルチャは国技であり、会場には小さな子供から、女性、おじいちゃん、おばあちゃん、年齢性別関係なく、みんながプロレスを楽しんでいて、日本もこうだったらいいなと心底思った。かつて日本でも毎週金曜夜8時に全国ネットのプロレス中継があり、お茶の間でプロレスを楽しむ時代がありました。大人が夢中になっているものは、子供も興味を示すものだし、家族みんなが楽しんでいた。 それが、放送が深夜時間帯に移り、プロレス好きな人たちだけが観る状況に変わっていった。子供の目に触れることなく、女性ファンも遠ざかっていく。プロレスを取り巻く状況はどんどん悪くなり、プロレスは怖いとか、痛そうとか、負のイメージばかりが広がっていった。まず、何から変えていこうかと考えたとき、真っ先にプロレスのイメージをぶっ壊さなければならないと思った。 猪木さんが提唱した強さを追求する「ストロングスタイル」とは一線を画し、子供や女性も楽しめるプロレスを目指して、現代風のファッションや爽やかさだったり、アスリート的な肉体だったり、従来のプロレスを知らない多くの人に向けて発信し続けました。とはいえ、これまで培ってきた新日本プロレスの伝統との闘いでもあったので、ファンのアレルギー反応は凄まじかったです。試合中のブーイングも多く、「棚橋は新日らしくない」とか「チャラい」とか。まあ、僕は割とケロッとしていた方なので、自分を貫き通しましたけど。そんな逆風のような状況の中で、従来のプロレスの高い壁をぶっ壊して、誰でも観に来てもらえるような状況をつくっていくのに必死でした。最近はそういった苦労も少なくなりましたが、これからもずっと継続していきたいと思っています。 こうして振り返ってみると、新日本は低迷の時代もありましたが、テレビ朝日が地上波放送を続けてくれ、2005年からユークスさん、2012年からはブシロードさんが親会社になり支えてくれて、スターが生まれる状況をキープできたのは、ある意味ラッキーでした。地道なファンサービスや広告、プロモーションなどの戦略が功を奏して、2013年には全国各地で満員札止めとなり、新日本はようやく長い低迷から脱することができました。会場を訪れる女性や子供もどんどん増えています。「俺が新しいパイを持ってくる」「俺が新しいパイを持ってくる」(瀧誠四郎撮影) 僕がプロレスの世界に入ってからも、プロレスの団体はどんどん増えました。ファンの数が変わらなくて、団体が増えれば、当然奪い合いになるし、いつしか団体も淘汰される。以前、猪木さんと対談した時に、「いつまでも俺がつくったパイを取り合うなよ」と言われたんですね。猪木さんは、決まってプロレスファンの人口をパイ生地にたとえて表現しますけど、そのときは「俺が新しいパイを持ってきますよ!」と豪語したんです。 いま、他団体にも良い選手がいっぱいいますが、スターが生まれる状況にはない。これからのプロレス界は、スターが生まれる土壌にしていかなければならないのですが、それは口では簡単に言えても、実現させるのが最も困難な作業だと思います。僕も新日本に入って、普通に練習していたら、いつかはスターになれるんだろうなとぼんやり思っていたんですけど、現実は「やばい、このままじゃスターになれない」と焦ることが多かった。だから、まずは新日本からスターが生まれる土壌をつくっていくことに力を入れました。新日本プロレス「レッスルキングダム9」IWGPヘビー級選手権 オカダ・カズチカ(下)にハイフライフローを見舞う棚橋弘至=2015年1年4日、東京ドーム(荒木孝雄撮影)  プロレスラーというのは、やっぱり夢を与える存在でなければならない。怪我をしたら終わりだし、引退後がまったく見えない職業じゃないですか。アメリカでは、WWEのプロレスラー、ザ・ロックがハリウッドスターになった。 プロレスラーになったら有名になって、テレビにも出られて、収入もあって、というところを僕が見せていかないといけないと思っています。そうなることで、プロ野球選手になりたいとか、サッカー選手になりたいのと同じように考える子供たちが増え、やっとメジャースポーツと肩を並べることができると思うんです。「プロレスラーになったら、棚橋みたいになれる」。そう思われるような存在になりたいですね。 プロデビューから今年で16年。新日本プロレス最高峰のタイトルであるIWGPヘビー級王座の最多戴冠7回、最多連続防衛回数11回、そして通算最多防衛28回という、前人未到の記録を打ち出すことができました。《8月16日、棚橋は新日本プロレス最強レスラーを決める「G1クライマックス」で、8年ぶり2度目の優勝を果たした。優勝決定戦の相手は共に看板選手として団体を支え続けたライバル、中邑真輔。得意技であるトップロープからのダイビングボディープレス「ハイフライフロー」で中邑をマットに沈め、両国国技館に集まった一万人のファンを魅了した》新日本プロレス・G1CLIMAX(クライマックス)25 優勝決定戦 中邑を破り優勝、ロープに登って ポーズを決める棚橋弘至=2015年8月16日 両国国技館 (荒木孝雄撮影)  いまは、オカダ・カズチカとか内藤哲也とか、若手の勢いが良くて、追われる立場になっていますが、実はプロレスに世代交代っていうのはないんです。猪木さんなんか、世代交代もしないまま去っていったでしょ。長州さん、藤波さんもそう。世代交代はプロレスの歴史上、一度もないんです。トップのまま、みんなそのまま去っていっちゃうから。だから、ジャンルが縮小していったという側面もあります。それでも僕は、世代交代される側の覚悟があります。本当にかなわないと思うやつが現れたら、ですが。 いま、一線で頑張っている選手はもっと自信を持ってほしい。過去の名選手や偉大なレスラーが残した言葉は、もちろん説得力があるし、実績もあるから素晴らしいと思います。ただ、僕たちが言っていること、やっていることが今のプロレスの最前線なんですよ。先輩たちへのリスペクトは必要だと思うけれど、遠慮することはない。 昔プロレスを観ていた方は、猪木さん、藤波さん、長州さんという、かつてのプロレスのイメージをずっと抱いていると思います。それでも、いまの若い子たちは、そういう過去のスターレスラーを知らない。猪木さんは知らなくても、棚橋は知っているという状況なので。いまではイメージを壊す作業すらいらなくなった。となると、僕らにとっては、よりプロレスを知ってもらうという作業の方に集中できる。時代の移り変わりを感じています。でもね、新しいファンを広げながら、やっぱり昔好きだった人にも帰ってきてほしい。そういう人には僕、「おかえり」って言いますね。「闘魂」を捨てた男 力道山先生が遺し、猪木さんが受け継いだ「闘魂」という遺伝子を受け継いでいるかという質問には、僕は「受け継いでいない」と答えます。猪木さんの退団後も、野毛(東京都世田谷区)にある新日本プロレスの道場には、猪木さんのパネルが掲げられたままだったんですが、そろそろ外してもいいんじゃないですかと言って外させたんです。言うなれば、俺は闘魂を捨てた男なんですよ。 そもそも時代背景が違いますから。力道山先生は戦後日本の復興のダイナミズムの真っただ中を生き抜いてこられましたし、猪木さんはブラジルに移民して日本に帰って来たというアイデンティティーみたいなものがあったわけじゃないですか。僕らにはそういうものがないですから。普通の家に生まれて、普通の家で育って、何不自由なく大きくなってきた世代じゃないですか。二人の魂は、受け継ぎようがないですよ。新しい、闘う理由っていうのは自分で見つけていかなきゃいけないと思っています。(瀧誠四郎撮影) ただ、形は違えど、力道山先生も猪木さんもプロレスに対する偏見との闘いだった。猪木さんが異種格闘技戦をやったのは、プロレスというジャンルの社会的地位を高めたいからだった。僕も社会的地位を高めたいとは思っていますけど、モハメド・アリ戦に代表される猪木さんのような異種格闘技戦などの方法論ではなく、もっと違った形で有名になりたいと思っています。 「プロレスは面白いよ」というイメージをどんどん広めていくことが先決ですし、他人から自分が好きなものを「面白いね」と共感してもらえるとやっぱり嬉しいじゃないですか。いま、プロレスを応援してくれている人たちと全くプロレスに興味がなかった人たちが「プロレスって面白いよね」「そうだね」っていう風に、日常の中で自然に語ってもらえるように、ジャンルをでかくすることが、僕にとってのプロレスの闘いでもあります。 プロレスはこれから、力道山先生や猪木さんが活躍した黄金時代より、もっと輝くと思います。なぜなら、力道山先生や猪木さんのころは、日本人の8、9割がプロレスを知っていたじゃないですか。それに比べて、今はほとんどの人が本当のプロレスの良さを知らないんです。これは逆転の発想かもしれませんが、知らない人が多いってことは、それだけチャンスが隠されていることの裏返しでもあります。プロレスは輝きを取り戻すのではなくて、もっと輝き続ける。僕はそう信じています。(聞き手 iRONNA編集部 川畑希望)たなはし・ひろし  昭和51(1976)年、岐阜県生まれ。平成11年、立命館大学法学部卒業後、新日本プロレスに入門。キャッチフレーズは「100年に1人の逸材」。類まれな肉体美と全力投球のファイトスタイルが人気を集める新日本プロレスのエース。第45・47・50・52・56・58・61代IWGPヘビー級王者。同王座の最多戴冠記録(7回)、通算最多防衛記録 (28回)保持者。著書に『棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか』(飛鳥新社)など多数。

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    プロレスは死んだのか

    61年前のきょう、2月19日は日本プロレス界の夜明けとなった。戦後ニッポンのヒーロー、力道山が米国人レスラーを相手に死闘を繰り広げた一戦に日本中が熱狂した。それから幾度もブームが去り、いま再びプロレス人気に復活の兆しがみえるという。このブームは本物なのか。

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    ジャイアント馬場には戦後が詰まっている

    ターザン山本!(元『週刊プロレス』編集長)柳澤健(ノンフィクション作家)BIデビュー50周年──柳澤さんは『1976年のアントニオ猪木』(文藝春秋)、『1993年の女子プロレス』(双葉社)、『日本レスリングの物語』(岩波書店)、『1985年のクラッシュギャルズ』(文藝春秋)と、プロレスにかかわる本を書いてこられて、ついに今回のテーマは「世界の巨人」ことジャイアント馬場さんです。 特に1960年代にアメリカで大成功を収めた馬場さんの姿を、当時の資料や証言から浮き彫りにさせています。今回、馬場さんを書こうと思ったキッカケは?柳澤 僕のギターの先生で打田十紀夫さんという人がいるんですが、彼はジャイアント馬場の熱烈なファンなんです。 2011年3月末、震災から半月くらい経った時に、打田さんとプロレスラーの渕正信さんと酒を飲む機会があった。プロレスラーと同席するのは怖いんですよね、絡まれたらどうしようとか思って(笑)。でも渕さんは凄く紳士で、僕の本も読んでくれていて「よく書けている」と誉めてくれました。その席で、打田先生にこう言われたんです。 「今年は馬場さんと猪木のデビュー50周年。猪木の本やDVDはたくさん出ているのに、馬場さんの本が出ていないのはおかしい。柳澤さんに書いてほしい」プロレス ワールドリーグ戦 米国人プロレスラー、フレッド・ブラッシー(左)の胸元に逆水平を打ち込むジャイアント馬場(右)=昭和40年4月8日=──なぜ、これまで馬場さんの評伝はなかったんですか?ターザン 夫人の元子さんがいたからですよォ! 馬場さんと元子さんは一卵性双生児みたいに一緒の存在。だから、「馬場さんの全ては私が独占する」という考えなんです。別の人が馬場さんのことを書けば、自分だけの馬場さんではなくなってしまう。それが許せないんです。だから、あらゆる馬場さんの話は元子さんが封印してしまっている。書くとしたら、柳澤さんみたいに資料を集めてそこから検討していくしかないんですよ。柳澤 元子さんに話を通すかどうか迷いましたね。元子さんに「馬場さんのノンフィクション本を書く」と言えば、絶対に介入してくる。原稿も全て見せろと言われて、ここを直せ、これは書くなと言われることが自明だったので、結局、元子さんには接触しないことにしました。ターザン 僕も馬場さんとの様々なことを、『「金権編集長」ザンゲ録』(宝島SUGOI文庫)で書いた。『週刊プロレス』編集長をやっていたから、当時の馬場さんの裏側を全部知っている。こう言っていたとか、僕にお金をくれたとかね、全部書いちゃった。そうしたら、元子さんがカンカンになったんですよォ(笑)。 僕としては、馬場さんは世間で言われているような「いい人」ではない。レスラーとして、ビジネスマンとして、“キラー”な顔を持っている。その“キラー”な部分を書くことで、馬場像をより豊かにしようとしたんだけど、元子さんには理解されなかったんだなぁ……。柳澤 そりゃ無理ですよ(笑)。 「外部は黙ってろ!」──山本さんは柳澤さんの本を読んで、どんな感想を?ターザン 『週刊大衆』連載中から読んでた。おもしろかったですねー!さっきも言ったように、柳澤さんは資料などで外堀を埋めていって本丸を攻めるスタイルで、これは非常に貴重です。やっぱり猪木さんや馬場さんに直接話を聞いちゃうと、逆にその人の言葉が絶対的なものになって、結局、イメージを覆すことはできなくなってしまいますからね。新しい猪木像、馬場像を作ることができるから、貴重な人材ですよォ。 で、そのために柳澤さんは業界内の人間からは反発を買う。つまり彼らからしてみれば、「俺たちはこれだけ馬場や猪木を知っているのに、何も知らないやつがこんな本を書いてふざけるな」となるんですよォ。この本も、アメリカンプロレスに詳しい人たちからすると「柳澤は見たこともないし、行ったこともないのにこんなこと書きやがって!」となる。プロレスという小さな業界内ではよくある話です。 たとえば、村松友視が1980年に『私、プロレスの味方です 金曜午後八時の論理』(情報センター出版局)を出した時、ファンはみんなこれを読んで大ブームになったのに、プロレス業界はこの本を無視した。なかったことのように扱った。 当時、僕は『週刊プロレス』編集部のペーペーだった。編集長の杉山頴男さんはプロレス肌じゃなかったから、新聞広告でこの本を知って僕に取材に行けと命じたんです。村松さんは当時、『海』の編集部にいて、ちょうど大日本印刷で校了中だったからそこに行くと、村松さんが「いやー、絶対にプロレス業界から無視されると思っていた。君が来てくれたこと自体が驚きだよ」と目を丸くしていましたよ。 それくらい、プロレス業界というのは外部の人間がプロレスについて書くことを許さないんですよ。柳澤 だから、『週プロ』では僕の本はなかったことになってますよ。取り上げられたことがない。ターザン 駄目な世界ですよォ、この業界は! くだらない!柳澤 こういう村社会的なところは、どの業界にもありますけどね。たとえば、『文藝春秋』で立花隆さんが「田中角栄研究」をやった時、新聞記者は「記者はこんなことは誰でも知っている」と批判した。それと似ているかもしれませんね。戦後が詰まっている──柳澤さんは、ジャイアント馬場にもともと興味があったんですか?巡業先で練習の合間に写真を撮るジャイアント馬場。左は、アントニオ猪木=昭和38年8月柳澤 僕はアントニオ猪木のほうが好きだったから、まずは猪木さんのことを本にしたんですが、「なぜ猪木さんはモハメド・アリ戦をやったのか」「なぜこんな過激な行動をとったのか」を考えていくと、猪木さんのなかでジャイアント馬場がどれだけ大きい存在だったのかがわかってきたんです。 僕に言わせれば、猪木さんと馬場さんはコインの裏表で、猪木さんを知るには馬場さんを知らないといけないし、馬場さんを知るには猪木さんを知らないといけない。『1976年のアントニオ猪木』と『1964年のジャイアント馬場』の2冊を読むと、日本のプロレスが猪木と馬場でできていることがよくわかると思います。それは僕がそういう構成をしたわけではなく、もともと日本のプロレスがそういう構造になっているということなんですよ。ターザン たしかにそういうことが書かれているけれど、僕は実は全く別の見方をしているんです。書いた本人も気づいていないかもしれないけど、これは新しい視点を提供した極めて革新的な本なんですよォ! まず、力道山のプロレスは、敗戦のショックで打ちひしがれた日本国民の前で、空手チョップで外人レスラーをバッタバッタ倒すことで国民のストレスや鬱憤を晴らしてきた、と一般的に言われてきた。──柳澤さんも「力道山のプロレスの根本思想は反米だ」と書かれています。ターザン それは表層で、実は親米なんですよォ! 一から話すと、プロレスというものは日本の風俗の歴史のなかだけで語られているけど、プロレスには戦後そのものが詰まっている。そこを見ないと駄目なんです。 日本の戦後は、誰が考えても日本、韓国、アメリカの三つの柱でなりたって続いてきた。これは誰も否定できないでしょう。力道山は戦前、半島から海峡を渡って日本に来て、相撲の世界に入る。ところが、強くなればなるほど、韓国人は大関、横綱になれないという不文律、理不尽なものに激突する。それに怒って力道山はチョンマゲを切り大相撲、すなわち日本そのものに三行半を突きつけたわけですよォ! じゃあ、相撲に変わるものは何かあるのか。たまたまアメリカに渡った時に一大娯楽、劇場空間として繁栄していたのがプロレスだったんです。力道山は勘がいいから、「これはワールドワイドなエンターテインメントだ」と察して、これを日本に輸入した。 その結果、たまたま日本人対外国人の構図になって国民の鬱憤晴らしになったけれど、実はプロレスは、民族性を越えたアメリカ文明というものなんですよォ! さらに、ちょうどその頃にテレビが出現してきて見事にプロレスと合致した。平均視聴率64%は、日本テレビは一度も上回ったことがないんですよォ! さらに注目すべきは、タイトルになっている1964年という年です。なぜ1964年なのか──柳澤さんは、なぜ1964年に注目されたんですか?柳澤 これまでの本を見ればわかると思いますが、「××年の○○」というタイトルは僕のトレードマークみたいになっていたので、今回もそうしようと思って(笑)。 1964年は、馬場さんにとってはNWA、WWWF、WWAという日本で世界三大タイトルと言われているものに連続挑戦した年だということもあります。64年以前のジャイアント馬場はアメリカで活躍するレスラーで、64年以降はアメリカンプロレスを日本に持ち込んだレスラーと分かれますし。加えて言えば、63年末に力道山が刺されて亡くなったので、64年が大きな転機になるんですからね。米国武者修行から凱旋帰国を果たし、力道山(左)と並んで笑顔で乾杯する=昭和38年3月ターザン 1964年という年はどういう年か。東京オリンピックが行われ、東海道新幹線が開通し、いわば戦後の一つのピークの時です。さらに60年と70年の安保闘争の真ん中の時期とも言える。 63年の末に、力道山はヤクザに刺されて死ぬ。韓国人の力道山は、アメリカ文明であるプロレスを輸入し、山口組などと組んで興行を行って日本を盛り上げ、そのヤクザに刺されて死んだ、という構図になるわけです。 そんななかで、力道山を受け継ぐ形で馬場さんがアメリカから帰ってきた。ここからが第2の戦後になる。1970年の大阪万博で第2のピークを迎え、その直後の72年に馬場さんと猪木さんは袂を分かち、それぞれの団体を作って活動をすることになる。どうですか、見事に戦後とプロレスの動きがリンクしているんですよォ! 馬場さんは新潟で野球をやっていて、巨人に入った。ところが、いくら2軍でいい成績をあげても全然1軍に上げてくれない。馬場さんは田舎者なんで、監督などにゴマスリができなかった。さらに、でかくて目立つから先輩選手がいい顔をしなかったんです。これも、力道山が角界で味わった挫折感と同じ。結局、風呂場でこけてケガをし、そこで力道山に拾われてレスラーになった。 一方、猪木さんは戦後、一家でブラジルに渡ったけどうまくいかなくて、たまたまブラジルに来た力道山に拾われて日本に戻った。 つまり、力道山は韓国─日本─アメリカ、馬場さんは新潟─東京─アメリカ、猪木さんは日本─ブラジルとコンパスがでかいんですね。このコンパスの広さによって、第1期、2期、3期と戦後の社会と合わせ鏡のようにしてプロレスは出来上がっていた。このことは、これまで一度も語られたことがなかった。これを柳澤さんは見事に書いたんですよォォ!観客を巻き込むA猪木──馬場さんに実際にお会いしたことはありますか?柳澤 『週刊文春』のグラビアでは、一緒に写真に写ってますよ。それこそ花田さんが編集長の時に(笑)。1990年4月13日に行われた日米レスリングサミットを取り上げた時です。といっても話を聞きに行ったわけではなく、馬場さんとアンドレ・ザ・ジャイアントが並んでいるところに僕がそっと後ろから近づいて仰ぎ見ている、という写真ですが(笑)。大きさを示すための煙草の箱代わりになったんです。ターザン アンドレも身長2メートルあって、馬場さんとは巨人同士でシンパシーを持っていたんだよね。アンドレが亡くなってから、アンドレが自宅で使っていた大きな椅子は馬場家に送られたそうですよ。柳澤 いい話だなー。──山本さんは当然、何度もお会いしていると思いますが、最初はいつですか?ターザン 『週刊ファイト』にいる時ですね。『ファイト』は猪木べったりだったから、近づくのが大変だった。──何で猪木さんべったりだったんですか?ターザン そりゃ、売り上げが違いますもん。馬場さん、全日本プロレスを取り上げても全然売れないけど、猪木さんをやれば売れる。だから、猪木・新日本プロレスが8、馬場・全日本プロレスが2の割合で扱っていました。──そんなに違うんですか?ターザン 馬場さんのプロレスは予定調和のプロレスですからね。初めから勝負が見えているから、何を報じたってそれほどおもしろくない。 だけど、猪木さんは殺し合いみたいなプロレスで、スキャンダルや事件もがんがん起こるなど予定調和を崩すんです。マスコミを利用するし、観客も巻き込んでいく。そりゃー、猪木さんのほうがおもしろいですよォ。柳澤 有名なところでは、猪木さんと倍賞美津子夫妻が新宿・伊勢丹前でタイガー・ジェット・シンに襲われた事件ですね。リング以外の普通の街中でいきなり襲われるんだから。もちろん警察沙汰になった。はっきり言って、ヤラセの犯罪行為です(笑)。ターザン ヤラセなのは誰でもわかるし、こんな破廉恥なことは誰もしない。だけどおもしろいし、ファンも喜ぶ。そういうことをどんどん仕掛けていくんですよォ、猪木さんは。馬場さんは絶対にそんなことをやらない。柳澤 馬場さんは常識人ですからね。猪木さんがおかしいんです(笑)。馬場と猪木の決定的な違いターザン 僕がプロレス業界に入った時に馬場さんに言われたのは、「ここは社会部の記者が来るところじゃないからね」。「追及したら駄目だよ」ということ。そりゃそうですよ。控え室に来たら全部見えているんだから、それを全部書くわけにはいかないでしょ。柳澤 でも、山本さんは過激でしたよね。プロレス専門誌って業界誌で、当り障りのないことを書くものだったのに、業界最大手の新日本プロレスの夏の大会「G1クライマックス」について「冷夏のG1」と酷評したでしょう。普通、しませんよ。ターザン 僕はしょっぱいことをやったらボロカスに書いてましたね。くだらない、つまらないと。 馬場さんはとにかく王道を進んでいて、彼以外は邪道だった。だけど、猪木さんはその邪道をファンを巻き込んで突き進んで行った。この差は大きいですよォ。ルー・テーズ(左)と力比べをするジャイアント馬場=昭和41年2月柳澤 馬場さんは自分の団体にアメリカの一流選手を招くことができたけど、猪木さんの団体には二流、三流のレスラーしか来なかった。だけどその二流三流のレスラーを、世にも恐ろしい悪魔に仕立てあげるのがアントニオ猪木なんですよ。 馬場さんは言ってみれば、一流ホテルにある一流レストラン。いい食材を使って、シェフが腕を振るって、値段もそれなりにするけど安定しておいしい料理。 猪木さんは逆で、下町にある場末の汚らしい中華料理屋なんです。何が入っているのかわからないいかがわしさがあるんだけど、抜群にうまいチャーハンが出てくる。この二つを比べれば、熱狂的ファンを生むのはチャーハンのほうですよね。 たしかにアメリカで成功したのは馬場さんだけで、日本プロレスに戻ってからもジャイアント馬場がエース、アントニオ猪木は二番手だった。それは最後まで崩れなかった。 しかし、2人がそれぞれの団体を作ってからは逆転した。団体として、全日本プロレスが新日本プロレスに興行的に勝ったことは一度もない。 その原因は、馬場さんは団体を作った時点で35歳、猪木さんは29歳と年齢が違った。それに馬場さんは、もともと成長ホルモンの異常分泌で巨人になったわけだから老化も早く、トレーニング不足だった。一方の猪木さんは練習大好き、人に見られるのが大好きという人。さらに先ほどから話しているように、猪木さんの過激なやり方のほうがファンが喰らいついてくる。 山本さん流に時代とリンクさせて言うなら、70年代の初頭は全共闘運動などが消滅し、浅間山荘事件が起きるような若者たちの挫折の時代ですよね。曇り空の時代。そんな時代には、60年代から続く「明るく正しい」プロレスであるジャイアント馬場は合わなかった。 正統派・馬場に噛みつく、反逆のヒーローのアントニオ猪木のほうがマッチしていた。この差は決定的なものだったんです。G馬場の「いい世界」──両方書いてみて、どちらが好きになりましたか?柳澤 両方です(笑)。もともとは猪木さんのほうが好きでした。だから最初に書こうと思ったわけで。 ノンフィクションですから、いいところも悪いところも書く。猪木さんの場合は、70年代は本当にかっこいいんだけど、80年代になると嫌な奴になるんです(笑)。でもしょうがないから、我慢しながら書いていく。で、書き終わってみると、「やっぱりこの人すごいんだな!」と思います。取材対象として何年も付き合っていくと、古女房みたいな感覚になるんですね(笑)。 馬場さんにはそもそも興味なかった。僕は1960年生まれで、馬場さんの全盛時代は小学生。中高生の70年代半ばは、やっぱり猪木さんに夢中になっていましたから。 でも今回、馬場さんのことを書いてみて「馬場さんという人はすごかったんだ!」と改めて分かりました。──山本さんはどちらが?ターザン 僕に限らず、100人プロレスファンがいたら、99人は猪木ファンですよォ! 残り1人が馬場さん。もし80年代に「私、馬場さんのファン」と飲み屋で言ったら、ボロカスに叩かれますよォ。それくらい差があった。──でも、全日本プロレスも興行は成り立っていたんですよね?柳澤 全日本プロレス自体は大して儲かっていなかったんですよ。馬場さんがアメリカに留まるか日本プロレスに戻るかを選ぶ時に、日本テレビが「君がいる限り、客が入っていなくても全部、面倒を見る」と条件を出して馬場さんを引き抜いた。だからプロレス興行で儲からなくても、日本テレビからの放映料でやっていけたんです。新崎人生のロープ拝み渡りを慈悲の目差しで受けるジャイアント馬場  1998年5月 1日 東京ドーム ──だけど、山本さんも最後は馬場さんに傾倒していきましたよね。ターザン そうなんですよォ! プロレスファンとして、僕が最後の最後まで望んだこと。仕事なんかどうでもいい、本も売れなくていい。ただ馬場さんと食事をしてみたい、これだったんです。僕は猪木ファンだったために馬場さんの世界に近づけなかったけど、遠くから見て「あっちにはなんていい世界があるんだろう! 俺も入りたい!」、そう思っていたんですよォ!──「いい世界」というのは馬場さんのプロレスではなく、馬場さんという存在ということですか?ターザン そうです。あの存在と雰囲気。葉巻をくゆらせ、のんびりとレストランで食事をしているあの豊かな雰囲気がとにかくいいなぁ、と。 何とか機会を得て、その世界に入ることができた。馬場さんとキャピトル東急の「ORIGAMI」──いつもここで食事をしていた──で食事をしたあの空間が、僕の最高の思い出なんですよォ!──力道山、馬場、猪木のプロレスは時代の空気を凝縮させたもの、時代と合わせ鏡になったものと先ほどからおっしゃっていますが、現在のプロレスもそうですか?ターザン そういう空気は全くないですね。柳澤 猪木さんの引退、馬場さんの死去で変わりましたね。──でも、新日本プロレスは好調です。ターザン 僕から言わせれば、いまの新日はコンビニやファミレス、いわば“ファッション”みたいなものです。試合を見に行っても、すぐに忘れ去られてしまう。だけど猪木さんの試合は記憶に刻まれて、試合のあとは飲み屋で語り明かしたものです。その記憶がトラウマになっちゃったりね(笑)。──柳澤さんは今後もいろいろ書かれていくかと思いますが、山本さんは何か書かれる予定はありますか?ターザン 実は小説を書けという話がきています。柳澤 おお、ついに具体的な動きが! 書いたほうがいいですよ、山本さん。天才なんだから。ターザン もう構想は練ったんで、あとは書くだけ。書けるかな(笑)。ターザン山本!氏と柳澤健氏(撮影:佐藤英明)ターザンやまもと! 1946年、山口県生まれ。立命館大学文学部中国文学専攻中退。77年、『週刊ファイト』のプロレス担当記者になる。80年、ベースボール・マガジン社へ移籍し、87年、『週刊プロレス』の編集長に就任。96年、ベースボール・マガジン社を退社。以後、フリーのライターとして活躍。やなぎさわ たけし 1960年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒。文藝春秋に入社し、『週刊文春』『Sports Graphic Number』編集部などに在籍。03年7月に退社し、フリーとして活動を開始。07年、デビュー作『1976年のアントニオ猪木』(文藝春秋)を上梓。関連記事■金沢克彦編集長が語るプロレス誌「ゴング」復刊の真相■男たちの聖域になぜ? プロレス会場に女性が殺到する理由■プロ野球球団は増やせるのか 経済学の「視点」改めて議論■松井秀喜の「真実」 長嶋茂雄との師弟関係■産経さんだって人のこと言えないでしょ?

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    男たちの聖域になぜ? プロレス会場に女性が殺到する理由

    DDTプロレスリング兼新日本プロレス所属の飯伏幸太選手 投げ技あり、パンチやキックありのスピーディーな熱戦が繰り広げられるプロレスの聖地・後楽園ホール(東京・文京区)。 いま観客席で目立つのは、コアな男性ファンではなく若い女性たちである。ボンボンで飾り付けたレスラーの名前入りうちわを振りかざす様子は、さながらアイドルのコンサートのようだ。お目当てと思しき茶髪のイケメンレスラーが関節技を決められて苦悶の表情を浮かべると、「キャー!」と悲鳴が上がる。 しかしそのイケメンは見事な逆転勝利を収めた。レフェリーに手を上げられると、観客席からは黄色い声とともに拍手喝采。花道を引き揚げるレスラーを見送るリングサイドでは、感激のあまり涙を浮かべる女性客の姿もあった。 最近のプロレス会場は20~30代を中心に女性客が殺到している。彼女たちプロレス好き女子は腐女子(美少年同士の恋愛を描いた漫画やアニメなどの作品を好む女性のこと)になぞらえて「プ女子」と呼ばれる。新日本プロレスリング(新日)の実況を担当するフリーアナウンサーの清野茂樹氏が語る。「プ女子は2年前から増えてきました。年齢層は30代が多く、2~3人のグループで来る女性が多いですね」 現在、新日のオフィシャルファンクラブ会員のうち4割を女性会員が占め、対前年度比約120%増だという。 別団体でも増殖していて、例えばDDTプロレスリングでは、「会場の男女比は半々。レスラーのサイン会や撮影会に女性が殺到しています」(広報)という。 プ女子を公言する有名人も少なくない。タレントでは眞鍋かをりや二階堂ふみ。そして先ごろ直木賞を受賞した作家・西加奈子氏もプロレス好きとして知られる。西氏は受賞会見でプロレス好きを記者から問われ、「むちゃくちゃ勇気をいただいています」と熱弁を振るって話題になった。 また、新日本プロレスが作った女性ファン専用のコミュニティプロジェクト「もえプロ女子部」には、エッセイストの能町みね子氏や犬山紙子氏などの文化人らも名を連ねている。 男たちの“聖域”になぜ、女性が足を踏み入れるようになったのか。その背景には女の“カッコイイ”基準の変化があるようだ。 本誌はプロレス女子会に潜入取材し、彼女たちのリアルな声を拾った。プロレスにハマった理由として彼女たちがまず挙げるのはレスラーの肉体美だ。観戦歴8年の30代OLはこう話す。「大胸筋が発達して二の腕も太いレスラー体型が好き。でも、パンツの上にお肉が乗っているのがミソ。男臭さとくまのプーさんみたいな安心感との共存がいいんです」 同じレスラー体型でも女性たちのこだわりは奥が深い。「上腕二頭筋と三頭筋のこぶが触り心地よさそう。ボクサーの筋肉は勝つためのものだけど、レスラーは“コスチューム”としての筋肉。棚橋弘至選手(新日)の必殺技ハイフライフローは最高です。大きな体がコーナーから飛び立つときの筋肉の躍動感がたまりません」(20代学生)「私は首派。太いほどいい。ボクサーみたいに筋が見えるとダメ、脂肪でコーティングしてなきゃ」(30代主婦) そして時折見せる表情に、「かわいさ」や「エロさ」を感じている。「レスラーって見た目だけでオラオラ系に見えるから、普通のことをしてるだけでもかわいく見えちゃう。ツイッターで“カルボナーラ食べました”とか、“イカが好き”とかつぶやくだけで“かわいい!”って思えるんです」(30代OL)「倒れ込んだときの背中に流れる汗に男のセクシーを感じます。汗だくでハアハアいっているのを見ると、ついいろいろと想像してしまう(笑い)」(40代主婦)関連記事■A.猪木氏「俺なら命がけで拉致問題を解決してみせる」と宣言■新日・中邑真輔 芸術としてのプロレスが認知されると嬉しい■プロレス好き女子急増 韓流スターに飽きた層を取り込んだ説■「プ女子」犬山紙子と鈴木詩子 プロレスの楽しみ方を語る■「プロレス女子」急増でブーム再来

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    プロレスはもはや「老人ホーム」になった

    媚びるプロレスになってないか 実は最近、プロレスを観てないんですよ。でも、昨年は初めてIGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション=総合格闘技とプロレスの団体)の年末興行が札止めになったんですね。ただ、テレビとの連携というか、それがなかなかうまくいかなかった…。やっぱり、日本のテレビの力はすごいんですね。今はインターネットも出てきたけど、まだまだテレビには勝てない。あんまり観てないんであれだけど、最近のプロレスでただひとつ気になっていることがあるとしたら、それはプロレスがあまりにファンに媚びるようになってしまったこと。棚橋弘至(新日本プロレス所属)あたりはある意味、自分たちの方向性と「戦いがロマンだよ」という姿勢を貫いてはいるんだけど、最近はただただ格闘技ファンに媚びるプロレスになっているのでは、という複雑な思いもある。(瀧誠四郎撮影) 格闘技の興行の世界はそんなに甘くはない。宗教じゃないけど、観客はある意味信者みたいなもので、一人のレスラーの魅力にひかれてくるみたいな関係が理想なんだと思う。「お願いします! 次の試合に来てください!」って客に媚びているだけじゃ、ファンは寄って来ない。お客ほど薄情なものはないというのは興行の常識。もし嫌になったら次は来ないわけですから。 これは私の持論なんだけど、興行の世界にも通じる「環状線理論」というのがあります。環状線には6号、7号、8号があって、環状6号線というのは、ファンに対して何も宣伝しなくても3千人収容の後楽園ホールがいつもいっぱいになるくらい、熱心にプロレスを観に来てくれるファンのことを指す。環状7号線というのは、両国国技館とか、日本武道館とか1万人以上収容できる会場をいっぱいにするために、東京スポーツとかプロレスの雑誌とか、もっと言えば日刊紙とかにも、興行の話題を取り上げてもらって観に来てくれるファンのことを言います。8号線というのは言うなれば東京ドーム。5万人規模の会場をいっぱいにするには、無関心層というか、誰かに強く誘われてやってくる人にも我々のメッセージを届けなければならないんです。 この外側にいる大多数の人を振り向かせるにはどうしたらいいのか。それは対戦カードであったり、いろんな人が興味を持つというか、普段はプロレスを観ていないけど、「わっ!今度はすごいよ」ってなるような仕掛けが必要になる。私の場合はもっと世界へ、という思いの方が強いんだけれども、こないだ北朝鮮でプロレス興行をやったように、世界に向けて発信するような仕掛けが今のプロレスにはあまりない。格闘技世界一、プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのムハマド・アリ(米国、背中)とプロレスラーのアントニオ猪木が対決。マットに寝そべりアリを挑発する猪木(左) =東京都千代田区の日本武道館 1976年6月26日 新しいピザパイを持ってきてくれよ もちろん、俺が現役でやっていた時代とは違って、ファンは多様化していますから。個人の嗜好が多様化していく中で好みもいろいろ分かれる。俺らの世代からすると「今のプロレスなんて冗談じゃねえよ」という思いを抱く人もいるでしょうが、それはそれでファンがいたりするのもまた事実。女子プロレスなんかもある意味では、いや別に否定的じゃないけど、「プロレスラーは俺らだ!」みたいな気持ちが昔はあった。一時、男子のプロレスを抜いて女子の方が人気が出てきたときもあるし、北朝鮮でやった興行でもすごく人気があった。当たり前なんだけど、俺らからみてどうだ、じゃなくて、結局はファンが選ぶことなんでね。これは政治の世界でも全く同じことが言える。ただ、そこにしっかりした信念がなくなると、ただただ尻尾のない凧じゃないけど、フラフラフラフラして。それは決してプロレスの世界だけではなくて、政治の世界でも同じ。俺らが信念を持って発信し続けなければいけない。 それと、今のプロレスが昔ほどのブームにならなくなった最大の理由が、テレビとの関係だと思う。もちろん、プロモーターとかプロデューサーの力という話にもなるんだけど。例えば、ボクシングで言えば、(モハメド)アリがいたときはやはり全盛だった。でも、アリという存在がいなくなって、その後もそれなりのスターはいたんだけど、昔よりもヘビー級は衰退していると思います。 プロレスの世界だってそうです。プロレスラーは100メートル先から見てもプロレスラーだと分かる、24時間プロレスラーでなければいけないという人もいましたけど、昔は外国人選手でもとんでもないのがいた。(タイガー・)ジェット・シンもいたし。アンドレ・ザ・ジャイアントなんて、それこそ笑い話だけど、昔の街の顔役どもが3人集まって喧嘩しているところに、アンドレが近づいてくると、3人とも急に肩を小さくして尻尾を巻いて逃げてしまった。そんな話はほかの選手にだっていっぱいある。日本人選手をみても、馬場さんは馬場さんであれだけでかかったし、坂口もでかかったしね。あの時代は街中でファンが「あっ長州だ!」「あっ藤波だ!」とかいって、大はしゃぎするくらいプロレスラーの存在感は大きかった。 スターを作ることがいかに大事か。強くもないのに強そうに見せて、にわかに勝たしたりというのは、客は見抜きますから。それでも、ただ若いだけでファンがつく場合もあるけど、それはほんとに小さなコップの中の、もっと小さな世界にすぎない。 私はいつもプロレスのことを「ピザパイ」に例えるんだけど、俺らの時代にはでっかいピザパイが既に用意してあって、みんながそれを食いかじっちゃって、どんどん小さくなっていく。じゃあ、もう一個新しいピザパイをもって行くよっていう選手が生まれてくれると一番いいんだろうけど、今は小さく小さくなったピザパイを食い合っている。だから、まあそこそこ客が入れば、彼らはそれで満足して喜んでいる。それはそれでしょうがないんだけど、俺らが望むものは、誰かが新しいピザパイを持ってきてくれよということに尽きる。 ちょっと前には、K-1(キックボクシングイベント)であったり、総合格闘技みたいなものが人気を集めたけど、今やすっかりブームが過ぎ去ってしまった。なんていうのかな、ファンの意表をつくというのか、そのへんを仕掛けていけるプロモーターというか、あるいは選手も含めてこの世界に現れれば、今のプロレスも大きく変わるんだと思う。ただ、残念ながら世界中を見渡しても、スターと呼べる存在がみんな小さくなってきちゃったんだよね。こいつが出れば、黙っても客がいっぱいになるみたいな。昔はフリッツ・フォン・エリック、鉄の爪とか、ポスター1枚で札止めになってしまうほどのスターがいた。今は昔とは比べものにならないくらい情報化の時代だし、決して嘘はついてないけど、プロモーションとしては、5のものを10に膨らますくらいの宣伝が必要なのに、それができなくなってしまった。今回のイスラム国による人質事件にも通じる話じゃないですか。外務省は、自分たちの無能さというのか、何にもしていないというか、チャンネルがないというのを世界に露呈してしまってさ。ストロング小林に卍固めを決めるアントニオ猪木「力道山イズム」が日本プロレスの原点 話が少しそれちゃったけど、これからも「スター」と呼べるようなレスラーは出てくるとは思う。ただ、力道山や木村政彦さんとかいた時代のように、我々の師匠の「力道山イズム」というか、彼らの精神というのは、日本のプロレスの原点なんだと思っています。力道山が置かれた生活環境、彼が朝鮮人だったとか、いろんなものを背負って繰り出す空手チョップの破壊力というのは、それはもうケタ違いだった。そのへんの凄さというのは、筋肉の大きさとかそういう問題じゃない。 彼の精神というか、心の中からほとばしってくるような魂の叫びが、空手チョップの破壊力の源だった。確かに、今とは時代背景が違うから、彼のような精神力を維持するのは難しいかもしれないですけどね。 それでも、昔は剣豪が一人出歩いて道場破りとかやってたわけですよね。それは極端な例かもしれないけど、命を賭けるじゃないけど、それぐらいの気迫を持った選手が現れれば、ファンだって本能で分かるんじゃないかな。計算なんかしなくても、人がびっくりすることをやろうという、この発想が今のプロレスには必要なんだと思う。残念ながら、そっぽを向いた人の首ねっこつかんででも振り向かせてやるぞという気迫が感じられない。 政治だってそう。なかなかパフォーマンスはできないじゃないですか。ただ、政治家なんてのは、結果的には大政党に入って、何かの役につくかしかない。総理になる人は選ばれたわずかな人しかいないけど、大臣くらいだったら運がよければ、時の総理に好かれればなれるじゃないですか。人が生きている限り、俺らはどこの世界にいても同じなんです。 また話がそれちゃったけど、やっぱり今のプロレスにもスターが出ればいいね。みんなやっぱり、プロに入った以上は高給をとりたいわけでしょ。聞くところによると、自分はプロレスが好きだから、ギャラなしでも、飯だけ弁当だけでいいみたいな選手が最近はいるらしい。もちろん、いろんな選手がいてもいいんだけど、やっぱりスターっていうのはカッコよくなければいけない。観客よりも自分の夢だけみたいな。ただプロレスが好きなだけで、その日の飯のタネでしかないみたいな、そういうときもあるんだけど、実際俺がアメリカ修行したときはそうだったしね。でもプロである以上、選ばれた人というか、そこに何か線引きがないと。素人だって、プロレス研究会とかあるし、やろうと思えば、みんなプロレスごっこはできるわけだからね。 まあ、プロレスへの思いは今もいろいろあるけど、プロレスラーは夢を送り続けるというかね。今は若い人に希望がないとかいうけど、それは俺たちが子どものときだってそう。戦後の廃墟の中で、力道山が一人戦って俺たちに生きる力を与えてくれた。だから、プロレスがどんな形になろうと、今の若いレスラーはみんな日本のプロレスの原点というものをしっかり勉強して受け継いでいってほしい。国にも憲法があるように、プロレスにもきちっとした何か筋の通ったものがあることを忘れないでほしい。ファンが一番見たいのはやっぱり戦いなんだから。 そういや、最近は女性のプロレスファンが増えているらしいね。俺らの時代は、女性のファンなんてほとんどいなかったんですよ。いや、いたかもしれないけど、表に出てこなかった。それが今じゃ、若い女の子が後楽園ホールとか、追っかけみたいに訪れる。 そうそう、この間マララという女の子と会ってきたんですけど、彼女はあんな片田舎の、俺らの時代にあった田舎の田舎の山奥みたいなところから出てきた女の子がね、銃撃されて世界的なニュースになった。彼女は自分が撃たれたことをきっかけに、世界平和の尊さを訴えたんだけど、何か自分に与えられた使命のような強いメッセージが世界中の人々の心をひきつけた。 これからプロレスがブームを起こすには、ちゃんとした強いメッセージが必要ですよね。ひとつにはテレビの力も必要なんだけど、女性のファンが増えているのであれば、それは大きなチャンスでもある。今の若い女性はプロレスラーに男の強さを求めているのかもしれないけど、女性の本能みたいなものを揺さぶっているのだとしたら。もっと言うと、アフリカの草原で、一つの遺伝子を残すために戦うというか、プロレスの根底にあるものはやっぱり「本能」なんだと思う。プロレスはまだ死んでいない いま国会でも少子化の問題とかよく議論になります。もうちょっと本音でズバリ言えば、女性はやっぱり自分の遺伝子を残したいと思うだろうしね。娯楽が増えたとか、そうじゃなくて、やっぱり一番元気のいい若い時に遺伝子を残したいと思っているんじゃないかな。なんて言うのかな、なんだか分からないけど、リングの上からも強いメッセージを送ってくれよと。裸になっちゃダメだけど、いやほとんど裸になってるけどさ(笑)。この人の子供だったら欲しいって思えるくらいのね。 今の時代、プロレスが死んでしまったという人もいるけど、俺はまだ死んでいないと思っている。とはいえ、もはや「老人ホーム」みたいになったのかもしれないけどね。海外戦略というか、日本のプロレスはもっと大きな器になってほしい。中国でも興行が始まるみたいだけど、もしかしたら戦後ニッポン以上のブームになるかもしれません。 正直、もうプロレスに自分の遺伝子を残そうとも思っていない。早く猪木の名前なんか消してくれるといいんだけど、なかなかそういう風にならない。自分は自分の得意の分野で突っ走って行く。砂漠に残した足跡と言ってね。風が吹いたら、その足跡が消えちゃうんだけど、ただそこには歩いたという痕跡っていうか、それは魂なのか、きっと何かが残るでしょうからね。 政治も同じことですよ。きれいごとばっかりいって、本質は、一番大事なことは何なのかと。いつも批判的なことばかり言っても仕方ないし。これからもプロレスはなくならないと思うんですよ、絶対に。なくならないけど、もっと爆発するような、何か息吹というのかな、それを巻き起こしてくれる選手が出てくれたらいいなと思います。(聞き手 iRONNA編集長 白岩賢太/川畑希望) アントニオ猪木参院議員。1957年に一家揃ってブラジルに移住。1960年、ブラジル遠征中の力道山にスカウトされ、日本プロレスへ入門。同年9月30日、東京・台東体育館における大木金太郎戦でデビュー。ジャイアント馬場との"BI砲"で黄金時代を築いた。1972年1月、新日本プロレスを設立。3月6日に東京・大田区体育館で旗揚げ戦を行なった。1973年12月には、NWFヘビー級王座を獲得。また、"ストロングスタイル"を提唱し、異種格闘技戦に積極的にチャレンジ。プロボクサーのモハメド・アリをはじめ、空手家のウィリー・ウィリアムス、柔道家のウィレム・ルスカらと激闘を繰り広げた。1994年5月より「イノキ・ファイナル・カウントダウン」を開始。1998年4月4日、東京ドームにおけるドン・フライ戦で、38年間のレスラー生活にピリオドを打った。現在は、 IGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)の代表取締役会長を務めている。関連記事■金沢克彦編集長が語るプロレス誌「ゴング」復刊の真相■ジャイアント馬場には戦後が詰まっている■プロ野球球団は増やせるのか 経済学の「視点」改めて議論■松井秀喜の「真実」 長嶋茂雄との師弟関係■産経さんだって人のこと言えないでしょ?

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    金沢克彦編集長が語るプロレス誌「ゴング」復刊の真相   

    プロレス冬の時代 月刊、別冊時代まで遡れば39年という歴史を誇り、1984年5月に週刊化されたプロレス専門誌『ゴング』が休刊の憂目に遭ったのは、2007年3月のこと。 インターネットの普及に伴い、1990年代半ばから始まった出版不況、さらに総合格闘技バブルの影響によるプロレス冬の時代……このダブルパンチをもろに受け、『ゴング』1本で勝負していた会社サイド(日本スポーツ出版社)が経営難に陥り、結局ギブアップせざるをえなかった。 ただし、格闘技ブームにも陰りが見え始め、2000年代後半にはついにバブルがはじけた。その一方で、2005年11月、新日本プロレスの筆頭株主であったアントニオ猪木がゲーム会社『ユークス』に株式を譲渡し新日本を去っている。ユークスの子会社となり倒産の危機を免れた新日本プロレスは徐々に息を吹き返し始めた。 さらに、劇的変化が訪れる。2012年1月、トレーディングカードゲームの販売を軸にエンターテインメント業界で時代の先端をいく『ブシロード』が新たな親会社となり、同社の木谷高明オーナーがカードゲームのCMに積極的にプロレスラーを起用したり、新日本の柱となる興行(1・4東京ドーム大会、8月の『G1 CLIMAX』など)に数千万単位の宣伝費をかけるパブリシティ&プロモーションを展開。新日本を全面支援した。息を吹き返した新日と『ゴング』の復刊 プロレス(新日本プロレス)に復活の兆しが見えてくるなか、私がゴングの商標問題を知ったのが、同年の秋口。いま現在、ゴングの版権がどうなっているのか調査したところ、商標権が宙に浮いている格好だった。 私はすぐさま編集プロダクション『ペールワンズ』代表である井上崇宏氏に連絡を入れた。井上氏とは彼が総合格闘技『PRIDE』の大会パンフレットを制作している頃からの付き合いであり、この10年ほど仕事で何度も関わってきた。 井上氏は2011年12月からプロレス&格闘技専門書籍『KAMINOGE』を月刊で発行し、軌道に乗せてきた実績がある。それでも、向上心と好奇心の塊りのような井上氏は『ゴング』という老舗ブランドに並々ならぬ興味と執着心を持っていた。 それを知っていたから、彼にだけその事実を報告したのだ。井上氏はやる気満々。 「ボクがいろいろと出版社に当たってみます。『ゴング』というブランド名があれば、今なら動いてくれるところがあるんじゃないかと思うので。もし、この話が実現したらそのときは金沢さんが編集長をやってください。まだ老けこむトシじゃないですよ。一緒にやりましょうよ」 「いや、べつに老けこんじゃいないけど(笑)、雑誌の編集から離れて長いしね。まあ、そのときになったら前向きに考えてみるから」「ボクの中で編集長は金沢さんしか頭にないから、絶対にやってもらいますからね!」 ポジティブ志向の井上氏は威勢がよかった。私の場合、躊躇しているというより実感がまるで沸いてこないというのが正直なところ。 実際に、1999年1月~2004年10月の5年9カ月、『週刊ゴング』の編集長を務めた経験がある。これは過去6人の編集長のなかで最長期間となる。しかも、私が編集長を務めていた時期は、出版不況、格闘技バブル、新日本プロレス暗黒時代ともろに被っている。それでいながら、私の編集長時代には実売数で初めて競合誌の『週刊プロレス』を上回るという実績だけは残していた。 当時いつの間にか、私には『GK』(=ゴング金沢)なる愛称が定着してしまった。2005年12月に会社を辞めフリーになってからも、それ以降ゴングが休刊してからも、なぜかGKの愛称だけは消えることがなかった。GKとはなんの略称なのか知らないビギナーファン、それどころかゴングの存在さえ知らない若い世代のファンにまでGKと呼ばれる。 井上氏もそれを知っていたからこそ私をゴングの顔に据えたかったのだろう。「男気で勝負しましょう」2015年1月23日に発売されたゴング1号(徳間書店) 復刊へ向けゴングがようやく本格的に動き出したのは、2013年の春から。半年間も苦戦した要因は、(新日本)プロレス人気が目に見えて復活してきたうえに、ゴングというブランドに惹かれた出版社は複数あったものの、実際に既存のプロレス専門誌の実売数を知って腰が引けてしまったから。 想像していたよりも実売数は低く、これでは利益が上がらないという結論が出てしまうのだ。そんな中、別ジャンルの人がもっとも熱心に考えてくれた。TSUTAYAグループのなかでアイビーレコードを主宰する酒井善貴社長。レコード業界のヒットメーカーである酒井社長は、長州vs藤波“名勝負数え唄”やタイガーマスクに熱狂した世代だが、かねてより出版にも興味を持っていた。 「金儲け云々ではなく、男気で勝負しましょう!」と言ってくれた。 アイビーレコードのラインから発売元も徳間書店と決まった。同年6月、ゴング復刊0号の発売が正式決定。交渉をまとめてくれた井上氏は「決まりました。金沢さん、勝ち戦をしましょう!」と一言。すでに私も腹を決めていたし、“勝ち戦”というフレーズがなんとも気にいった。 結果的に、昨年9月9日に発行されたゴング復刊0号は売り切れ店続出の人気となった。それを受けて、今年1月23日発売のゴング創刊号も好調な売れ行きを示し、3月からの月刊化も決定している。 ネット社会にあって新規ファンが日々増えていく現状で、ファンが紙媒体に求めているのはなにか? それを考えたとき、雑誌が表現すべきものは、デザイン・写真の格好よさと、より深い読み物だろう。読み捨てにはできない雑誌。本棚に飾っておきたい雑誌。マニアからビギナー層まで惹きつける雑誌。そのコンセプトは、間違いではなかったと実感している。「四位一体」で前進する新日 そこで、現状のプロレス界である。どんなに見応え、読み応えのある雑誌を作ろうとも、肝心のマーケットに活気がなければ、需要はついてこない。現状で、ゴング復活を成し遂げられたいちばんの要因は、新日本プロレス人気の復活にある。 なぜ、新日本が奇跡の復活に成功したかといえば、現場(リング上)、商品(レスラー)、売り手(フロント)、コンテンツ(テレビ朝日をはじめとしたメディア)が一体となって、変化をおそれず前進したから。まず、リング上では世代交代に成功した証拠として、若くてルックスのいいスター選手が次々とトップに躍り出てきた。無論、彼らは強さと技術も兼ね備えているから、作られたスターではない。 この10年、冬の時代から新日本を支えてきた棚橋弘至、中邑真輔が不動の二大エースとなり、そこに驚異の若者・オカダ・カズチカが参入した。24歳で頂点を極めたオカダは、まだ27歳。比較的選手寿命の長いプロレス界において、あと10年はバリバリのトップで活躍できることだろう。 同じく、タイガーマスク以来の身体能力を誇る飯伏幸太(32歳)が業界初の2団体所属(新日本&DDT)選手として、さまざまなリングで観客を魅了している。 リング上の選手が若返っていけば、観客もそれに比例する。この2年で、いわゆる“プロレス女子”と称される女性ファン、小学生・中学生のちびっ子ファンが急増した。親子連れも多く目にするようになった。おそらく、10年前と比較すると会場に集う観客の平均年齢は5歳以上若返ったろうし、その半分は女性ファンが占めている。 会場における女性ファンのノリは、人気ミュージシャンのコンサート会場のようでもあるし、少年ファンから見たプロレスラーの存在は仮面ライダーや戦隊もののヒーローが実際にリングで闘っている感覚に近いのかもしれない。プロレスの聖地・後楽園ホールは毎回チケットが完売、両国国技館もいっぱいに埋まる。首都圏ばかりではなく、札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、福岡と全国の大会場もつねに超満員となっている。他団体はどう続く コンテンツ面でいうなら、いま唯一地上波で放送しているテレビ朝日の『ワールドプロレスリング』は土曜深夜の30分枠。そのハンデを埋めるために、昨年12月1日から新日本&テレ朝の共同事業として『新日本プロレス(NJPW)ワールド』という動画配信サービスが開始された。これは月額999円で、現在行なわれている新日本の試合がほぼ毎回ライブで視聴できるうえ、1970年代~1990年代の名勝負も観戦できる。 若いファンからすれば、名前と写真でしか知らないアントニオ猪木、藤波辰爾、長州力、タイガーマスク、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也ら時代を彩ったレジェンドたちの名勝負をいつでも視聴できる。これらのコンテンツをパソコン、スマホで手軽に観られるのだ。12月1日のサービス開始から1カ月半で、すでに会員は2万人を突破。今夏には目標である10万人にとどくかもしれない。 このように、現状では新日本プロレスの独走状態。はたして他団体がそこにどう続いていくのか? それがいちばんの課題となるだろう。中量級の選手たちがスピード感溢れる闘いを展開するドラゴンゲート、デスマッチ路線の大日本プロレス、エンターテインメント路線を確立させたDDTは、すでにインディー団体という括りを超え固定客をしっかりと掴まえている。それとは反対に、かつて新日本と並ぶメジャー団体と称された全日本プロレス、ノア、全日本から分裂した武藤率いるWRESTLE‐1は苦戦状態。プロレス界全体の底上げのためにも、奮起を促したいところである。関連記事■産経さんだって人のこと言えないでしょ?■ジャイアント馬場には戦後が詰まっている■プロレスはもはや「老人ホーム」になった■松井秀喜の「真実」 長嶋茂雄との師弟関係■プロ野球球団は増やせるのか 経済学の「視点」改めて議論