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    「それでも私は東京新聞を辞めない」

    沖縄基地反対運動を一方的な立場から伝えたとして炎上した東京MXテレビ「ニュース女子」をめぐり、同番組で司会を務める東京新聞論説委員、長谷川幸洋氏がiRONNAに独占手記を寄せた。論説主幹との対立、言論の自由をめぐる左派との闘い…。一連の騒動の全内幕に迫った。

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    【長谷川幸洋独占手記】異論を封じる東京新聞と私は断固闘う

    長谷川幸洋(ジャーナリスト、東京新聞論説委員) 東京メトロポリタンテレビジョン(MXテレビ)の「ニュース女子」騒動とは何だったのか。番組を制作するDHCシアター(現DHCテレビジョン)が沖縄問題を再検証した続編をネットで公開して以来、騒ぎは沈静化した格好だ。だが、今回の騒動はマスコミとジャーナリズムについて深刻な問題を提起している。 それは事実確認よりも政治的スタンスを優先する左派ジャーナリズム、言論の自由をめぐる組織と個人の対立、さらにはネットと既存マスコミの乖離(かいり)といった問題である。ここでは、それらを深掘りしてみる。 ニュース女子問題自体はすでにあちこちで報じられ、私自身も「現代ビジネス」の連載コラム(《1》、《2》)のほか「月刊Hanada」5月号にも長文の総括記事を寄稿したので、ここでは簡単にする。 問題になった1月2日放送の沖縄特集は沖縄・高江のヘリパッド反対運動を取り上げた。市民団体が5万円を支給して「特派員」を募集していた件や反対派が高齢者の動員を呼びかけ、一部は日当を受け取っていた可能性を伝えた。地元住民は「反対派が救急車の通行も妨害した」と証言した。これらが反対派の逆鱗に触れた。沖縄県東村高江の米軍高江ヘリパッド建設に抗議する反対派とにらみ合う機動隊員ら。反対派による通行妨害や機動隊員に対する挑発行為も目立った=2016年12月21日 なかでも、反対派が格好の攻撃材料にしたのは「救急車妨害問題」である。たとえば、朝日新聞は地元消防本部が「そのような事実はない」と答えた、と報じた(1月18日付)。消防の否定発言などを根拠に毎日新聞や東京新聞なども「番組はデマ」と批判した。 ところが、あらためて番組スタッフが消防に取材すると、妨害はやはり本当だった。現地の消防署長は最初「妨害はなかった」と言いながら、質問を続けると「抗議活動側から邪魔されてるって見方も…なきにしもあらずですね」と認めたのだ。 反対派はヘリパッド建設現場につながる道路に多数の車を縱横に停車させて、一般車両が通行できないように妨害していた。だから、救急車も現場に急行できなかった。署長が「邪魔されてる」と言ったのは、そういう状況である。 なぜ、実態が間違って伝わったのか。検証番組はその点も消防署長に確かめた。「ストーリーありきの報道」 番組スタッフが「他のメディアにも同じように答えていたのか」と質問すると、署長は「そう細かくは回答していない」「(質問は)妨害があったかどうかストレートに聞いて、あるかないかだけ答えてます」と言った。さらに「それ以上の質問はなかったということか」と確認すると「ほとんど質問はないですね」という返事が返ってきた。 つまり、批判記事を書いた記者たちは消防が「妨害はなかった」と答えるとすっかり満足して、それ以上の質問はしなかったのだ。署長からしてみれば、反対派と賛成派が入り交じる現地で、片方に肩入れするような発言は避けたかっただろう。だからこそ、取材には細心の注意が必要だった。 これは最初にストーリーありき、で取材する記者が陥りがちな問題である。 批判する記者たちは「妨害があったのか、なかったのか」だけに関心を集中させて、できれば「なかった」という話を引き出したい。事実の究明よりも、最初に自分の思惑がある。だから「なかった」の一言が得られたら、それ以上は突っ込んで聞かなかったのだ。 2万円の日当問題についても、検証番組は「日当をもらった人がいる」という複数の住民の声を紹介した。「もらった」と言われた本人は取材を拒否したが、もらった人をかつて取材したジャーナリストの大高未貴氏のスタジオ証言も合わせて考えれば、反対派の一部にであれ、日当が支払われていたとみる蓋然(がいぜん)性は十分にある。 それでも現場の記者たちは取材しているだけ、まだましだ。お粗末なのは論説委員たちである。たとえば朝日新聞は社説で「事実に基づかず、特定の人々への差別と偏見を生むような番組をテレビで垂れ流す」と書いた(1月28日付)。 毎日新聞はどうかといえば、与良正男・専門編集委員(元・論説副委員長)が「問題の本質は…『ニュース女子』は、明らかに虚偽の内容が含まれ、特定の人々への偏見を助長した点にある」と自身のコラムに書いている(2月15日付)。 東京新聞は番組とは関係がないのに、深田実・論説主幹が私の出演を「重く受け止め、対処します」という奇妙な反省文を載せた(2月2日付)。その中で、やはり同じように「事実に基づかない論評が含まれて」いると書いた。 以上の3紙に共通するのは、いずれも「事実に基づかない」と指摘しておきながら、肝心のどの部分が基づかないのか、明示していない点である。論説委員たちは事実をきちんと取材したのだろうか。私は大いに疑問を持っている。メディア問題の識者なる人たちのデタラメさ 東京新聞の深田主幹には、その点を確かめた。すると「それは特報部がやっている」と答えた。特報部は反省文より前に番組を批判する記事を掲載しているので、それらの記事を信用したのだろう。だが、結果的には日当問題にせよ、救急車問題にせよ取材が十分だったとはいえない。 そもそも論説主幹が自分で取材せずに「反省文」を書いた姿勢自体が怠慢ではないか。事実関係の究明より前に自分の主張を優先する。これは朝日新聞の慰安婦報道批判で、さんざん指摘された「ストーリーありきの報道」と共通している。 事態がいっそう深刻なのは、問題が「言論の自由」に関わるレベルでも「ストーリーありきの論説」となっている点である。 当初のニュース女子自体に取材不足だった面があるのは、私も認める。ただし、それは番組の問題だ。私は番組の司会者であり、取材者ではない。ここが新聞との違いである。新聞は基本的に取材者が記事を書く。これに対して、テレビはチームであり番組と取材者は同じではない。 新聞に「司会者も責任を免れない」とコメントした識者もいる。そんなことを言えば、司会者は出演者の発言にも責任を持って、自分がすべて裏取りをしなければならなくなる。私はメディア問題の識者なる人たちのデタラメさを見た思いがした。彼らは現場を知らないで、モノを言う無責任な人種である。 ニュース女子騒動は言論の自由をめぐって「組織と個人の対立」問題も提起した。私は東京新聞の報道や社説が反対派にいくら心情を寄せていようと、私個人がそれと異なっていても何ら問題はないと考える。それが、私の「言論の自由」にほかならないからだ。 ところが、世の中にはそう考えない人々がいる。深田主幹が反省文で私に「対処する」と世間に公言し、実際に私を論説副主幹からヒラの論説委員に降格したのは「副主幹という立場で出演したのが問題」という理由からだった。 論説副主幹は東京新聞の論調に縛られなくてはいけないのか。もしそうであれば、副主幹はいつでもどこでも東京新聞の論調に沿って書いたり、喋らなければならなくなる。「社の意見が違うことがあってはならない」というなら、東京新聞は北朝鮮と同じだ。「もう君には社説を書かせない」 私は2014年秋まで社内の論説会議でも大方の論調と違う論を語っていた。ところが、そのころを境に会議には出席せず、意見も言わなくなった。なぜか。この際、はっきり言おう。当時の論説主幹から「もう君には社説を書かせない」と通告されたからだ。 そのとき以来、それまでは2カ月に一度くらいのペースで順番が回ってきていた日曜付大型社説の執筆当番からも外された。私は「おかしい」と思ったので、社の最高幹部に事情を訴え「どうしたらいいか」と尋ねた。 最高幹部は「論調が違う君の主張だって、他の委員と順番で書けばいい」と言ってくれた。だが、ヒラ取締役の論説主幹は「いくら最高幹部だって、それはオレが絶対に許さない」と私に断言した。私は唖然(あぜん)としたが、言い争うことはしなかった。以来、会議には出席していない。 つまり、東京新聞は今回の騒動が起きるずっと前から、私の社説執筆を許さず社内で異論を封じてきたのだ。 異論をどう扱うべきかについて、東京新聞は何度も興味深い社説を書いている。たとえば、自民党結成60周年をテーマにした社説(2015年11月15日付)だ。総裁選で野田聖子衆院議員が推薦人を集められず立候補断念に追い込まれた件で、こう主張していた。「議論を自由に戦わせるよりも、異論を認めず『一枚岩』のほうが得策という党内の空気である」「国民の間に存する多様な意見に謙虚に耳を傾ける。それこそが自民党が国民政党として再生するための王道である」 もう1つ、安倍改造内閣の発足ではこう書いた(2014年9月4日付)。「安倍政権の面々には、国民の声に耳を傾ける謙虚さを持ってほしい」「自らの主張のみ正しいと思い込み、国民の中にある異論を十分にくみ取って、不安に思いをめぐらせたと言えるのだろうか」「異論封じが強まる気配すら感じる」 自民党には「異論を尊重せよ」と上から目線で訴えながら、自分たち自身はどうなのか。まったくチャンチャラおかしい。こういうダブルスタンダードが左派マスコミの典型である。「自らの主張のみ正しいと思い込む」という言葉は、そっくりそのままお返ししよう。 それでも社外のメディアに執筆するコラムやテレビ、ラジオその他で、私は完全に自分の「言論の自由」を確保してきた。東京新聞に対する批判を含めて、である。会社もそういう私のスタンスを容認していた。 それどころか「東京新聞論説副主幹」の肩書でテレビに出るのを望んでいたのは、むしろ会社側なのだ。首都圏でマイナーな東京新聞の宣伝になるからだ。そういう事情で、これまで私は会社から注意も叱責もされず、論説副主幹の肩書で外の仕事を続けてきた。使い分けられた私の人事 「論調が違うなら会社の肩書を使うのはやめてほしい」とネットで公言している東京新聞記者もいる。それは会社に言うべきだ。今回の騒動でも、なぜ論説委員への降格にとどまっているかといえば、そんな事情で会社は私を真正面から処分するつもりがないからである。 ただし、会社がどう考えようと、肩書は私の重要な個人情報であり、それをどう扱うかは私が決める。他人が私の肩書にあれこれ言うのは、余計なお世話だ。一記者にすぎない自分の考えが東京新聞の論調と勘違いしているなら、思い上がりというものだろう。 そもそも今回の私の人事は、会社の規定で言えば「処分」でもなんでもない。通常の人事だ。むしろ定年を過ぎているのに、7年間も副主幹を務めているほうが異例だった。 だが、社外的には「対処する」と公言して「処分」の体裁をとった。つまり、社内向けと社外向けで使い分けている人事なのだ。なぜ、そうなのか。社外には処分の形にしないと、反対派の手前、格好がつかないとみたからである。 これは、まったくサラリーマンの事なかれ主義そのものだ。言い換えれば、形だけ反対派に迎合したにすぎない。私は、そういう信念のなさ、事なかれ主義こそが言論の自由を危うくすると思っている。だいたい主幹は「そこは阿吽(あうん)の呼吸で」とか「大人の対応で…」としか言えなかったのだ。見識も何もあったものではない。 「言論の自由」は、それを脅かす者たちから戦い取るものだ。戦いはいつでも、どこでもある。右であれ左であれ、安易な迎合主義こそが言論の自由を奪っていく。そんな自由の本質を深田主幹と、反省文の掲載を認めてしまった東京新聞はまるで分かっていない。 「東京新聞と意見が違うなら、会社を辞めて出ていくべきだ」という主張もある。私はそういう考えにもくみしない。異論こそが議論の健全さを担保すると思うからだ。社内の会議に出ていなくても、私のコラムや発言は社内で広く読まれ、知られている。 辞めてしまうのは簡単だが、私が辞めていれば、そもそも今回の騒動も違った形になっていただろう。ニュース女子騒動がジャーナリズムの問題を洗い出したと思えば、つくづく辞めずに良かったと思う。私には、いつかこういう事態が起きるという予感もあった。今後も私から辞めることはない。みんなネットで知っていた こう言うと「結局、会社にしがみついているのか」と言う人もいる。それには「まったく世間知らずですね(笑)」の一言だ。他に言葉はない。 ついでに一言、加えよう。与良正男・毎日新聞専門編集委員は先のコラムで「どうしても納得できない正反対な社説が掲載される事態になったら、論説委員を辞するくらいの覚悟はある」と書いている。 これには「まあ、ご立派な覚悟だこと」と感心するほかない(笑)。同時に、私は「こういう大層な台詞を吐く輩に限って、まったく信用ならない」と思っている。これは本当に戦った経験のある人間にしか、分からない直感だ。「まずは戦ってみてから言ってくれ」と申し上げる。 さて、最後にネットとマスメディアの乖離についても書いておこう。ネットの世界では、ニュース女子が伝えたような問題はとっくに知られていた。 一例を挙げれば、取材の妨害だ。ジャーナリストの青木理氏は「サンデー毎日」の連載コラムで「高江は反対運動が激化し、危険でメディア取材ができない」という問題についても「完全なデマ」と書いている。 青木氏はネットで「高江、暴力」と検索してみるべきだ。すると反対派が取材者を威嚇し嫌がらせしたり、一般人の車両を勝手に検問する映像がいくつも出てくる。この一例をもってしても、青木氏の指摘のデタラメさが分かる。 新聞やテレビが報じないから、青木氏は知らなかっただけかもしれない。そうだとすれば、ジャーナリストとして、まったくお粗末だ。沖縄問題に関心がある人はみんなネットで知っていた。それほどネットとマスメディアの情報が乖離している。 左派メディアは綺麗事(きれいごと)と建前が大好きだ。沖縄についても、反対派は口を開けば「人間の尊厳をかけた戦い」などと言う。左派メディアがそういう綺麗事ばかりを報じてきたから、ニュース女子がちょっと疑問を呈したら、反対派がすっかり逆上してしまった。 その意味で左派メディアの罪は重い。反対派に迎合して、都合の悪いことは報じない。そういう姿勢では、やがて左派メディア自身が読者、視聴者の信頼を失っていくに違いない。いや、もうとっくに失い始めているのだ。

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    東京新聞「社内言論の自由」はどうなっているのか

    篠田博之(月刊「創」編集長) 1月2日に東京メトロポリタンテレビジョン(MXテレビ)で放送された番組「ニュース女子」をめぐり、その番組内容が「沖縄ヘイト」だったとして大きな波紋を広げている。BPO(放送倫理・番組向上機構)が既に審議を始めており、いずれ何らかの見解が出されるだろう。また、当のMXテレビも検証番組を後日放送する予定のようだ。 問題の番組を制作したDHCシアター(現DHCテレビジョン)は3月13日に検証番組をネットで放送したが、基本的に1月2日の番組は「問題ない」というスタンスだった。この検証番組がMXテレビで放送されなかったのは、BPOが審議を行っている時期に、その対象となっている番組を正当化するような放送はマズいと同局が考えたためだろう。 この問題について、月刊『創』では香山リカさんが3月号、4月号で取り上げているし、私も「東京MXテレビ『沖縄ヘイト』と東京新聞めぐる議論」という記事を4月号で書いた。「ニュース女子」の司会を東京新聞論説委員(当時は論説副主幹)、長谷川幸洋氏が「肩書付き」で務め、東京新聞にも問題が飛び火しているためだ。 私は東京新聞で20年以上も連載コラム「週刊誌を読む」を執筆していることもあって、この問題は当初から気になっていた。「ニュース女子」のどこが問題なのかということと、その騒動が飛び火した形の東京新聞の問題とは分けて考えなくてはいけないのだが、東京新聞にとってもこれはいささか深刻だと思う。 発端となった「ニュース女子」の番組については、放送後早い時期にネットで見ていた。とにかく番組を見て、あまりにひどい内容に驚いた。沖縄の基地建設反対運動の人たちを悪意をもって揶揄し中傷するもので、ネットではよく見られる典型的な沖縄ヘイトだ。機動隊員ともみ合うヘリパッド建設反対派の市民ら=2016年12月、沖縄県東村高江 制作側はそうではないと言っているようだが、これが「沖縄ヘイト」に当たらないのならいったい何が、という感じだろう。今回は、地上波がそれを放送したことで大きな問題になったわけだ。しかも、波紋を広げたのは司会を長谷川氏が務め、ジャーナリストの須田慎一郎氏がコメンテーターになっていたからだった。 この番組については、市民グループなどからも批判や抗議の声が上がり、日刊紙では朝日や毎日、そして東京新聞も早い時期から批判を展開した。例えば、1月7日の東京新聞特報面では「『沖縄ヘイト』まん延」と題して「ニュース女子」を批判。また11日付の特報面は「MXテレビ『ニュース女子』の中傷報道に批判 『沖縄ヘイト』堂々と カンパの思い踏みにじる」と題して、沖縄の基地反対派には日当が出ているといった「ニュース女子」での言説を検証取材し反論していた。 ただ、後に問題になったのは、これらの記事の中で長谷川氏が「ニュース女子」の番組司会者をしていたことに全く触れていなかったことだ。当初は長谷川さんに触れなかった東京新聞 最初にその点に触れたたのは、1月22日付の特報面「本音のコラム」での山口二郎法政大教授だった。次のように書いてあった。 「二十日の特報面でこの問題を詳しく検証したことには拍手を送りたい。しかし、一つ気になることがある。あの番組では、本紙の論説副主幹なる人物が司会を務め、デマや中傷を止めようとしなかった。(以下略)」 「本音のコラム」は何人かの筆者が執筆しているのだが、続いて1月27日付の同コラムで作家、佐藤優さんが正面からその問題に斬り込んだ。内容は以下の通りだ。 「深刻なのは、長谷川幸洋氏がこの番組の司会を務めていたことだ。司会は番組の構成にも関与しているはずだ。長谷川氏は『東京新聞論説副主幹』という肩書で出演していた。論説副主幹は、社論を形成する立場にいる。本紙は多くの読者に読まれている新聞の中では、沖縄の現状をできるだけ深く、虐げられている人々の立場を伝えるという報道姿勢を取っている。その新聞社の論説幹部が、事実と異なる内容で沖縄ヘイト(憎悪)言説を、地上波で拡散していることは看過できない」 「長谷川幸洋氏が、沖縄ヘイト番組に関与したことについて本紙は社論を明らかにすべきだ。『東京新聞』が沖縄に対して示している「理解」の本気度が問われている」 その間にも特報面では25日付で「MXも沖縄中傷番組制作 DHCシアター居直る」と、「ニュース女子」を制作しているDHCシアターを批判する記事を載せていた。ただ、そこでも長谷川氏についての言及はなかった。 そして、東京新聞が一面に「『ニュース女子』問題 深く反省」と題する深田実論説主幹の一文を掲載したのは2月2日付だった。「論説主幹・深田実が答えます 沖縄報道 本紙の姿勢は変わらず」という見出しで、初めて長谷川氏について触れていた。 「他メディアで起きたことではあっても責任と反省を深く感じています。とりわけ副主幹が出演していたことについては重く受け止め、対処します」 同日、東京新聞は「『沖縄ヘイト』言説を問う」という連載をスタートさせた。第1回に登場したのはジャーナリストの津田大介さんで、MXテレビの対応を批判し、同局の出演を拒否したことを明らかにしていた。ヘイト批判を続けてきた安田浩一さんも同局の番組への出演を拒否した。出演番組で「ニュース女子」批判をしようとしたが、許されなかったためだという。 さらに東京新聞は2月2日の「読者部だより」で、榎本哲也読者部長がこの問題をめぐって読者からいろいろな批判が寄せられていることを明らかにした。「厳しいご批判や、本紙の見解表明を求める声は、読者部にいただいた電話やファクス、メールや手紙だけでも二百五十件を超えました。重く受け止めており、きょうの一面に論説主幹の見解を掲載しました」としている。東京新聞朝刊1面に掲載された「『ニュース女子』問題 深く反省」と題した記事 しかし、その論説主幹の謝罪文に、長谷川さん自身の見解が載っておらず、「重く受け止め、対処します」というのも、どう対処するのか具体的に書かれていない、と批判する意見が他紙で紹介された。東京新聞も批判した長谷川さん 当の長谷川さんは、6日にコメンテーターを務めるニッポン放送のラジオ番組で、「東京新聞は何の関係もないのに、なんで『深く反省』するのか。私から辞めることは500%ありえません」などと、2日の謝罪文に反発を表明した。また10日には講談社のウェブサイト「現代ビジネス」に「東京新聞の論説主幹と私が話合ったこと」と題して内情を暴露した。 それによると、深田論説主幹の反省文が掲載される3日前の1月30日朝、深田主幹から会社に呼び出され、人事異動の内示を受けた。論説副主幹をはずれるという人事だったが、処分という趣旨ではなかったという。 ところが1日夜、翌日掲載される反省文のゲラを見たら、通常の人事異動でなく処分になっていたので、「処分であれば受け入れられない」と主幹に訴えた。「主幹は処分かどうかという点について『そこは大人の対応で…』とか『あうんの呼吸で…』などとあいまいに言葉を濁していた」。翌日以降、「あらためて私が問い詰めると『副主幹という立場で出演したのが問題だ』と『処分』の意味合いが含まれていることを認めた」という。 もちろんここでの長谷川さんの記述が正確なのかは深田論説主幹にも確認しないと分からない。ただ少なくとも、2日の東京新聞に掲載された反省文に長谷川氏が納得していないことは明らかだ。ちなみに長谷川氏は「自分は管理職に向いておらず論説副主幹を降りるのは全く構わない。しかし、処分というのでは納得できない」という言い分である。 結局、長谷川氏は論説副主幹の任を解かれたのだが、本人はその後、まとまった論考を月刊『Hanada』5月号に発表した。その『Hanada』5月号で長谷川氏は「『言論の破壊者』と批難された私」と題して、自身を批判しているジャーナリストや有識者の名前を挙げ、徹底反論している。 批判の対象は、津田大介さんや青木理さん、山口二郎法政大教授、そして香山リカさんらだ。香山さんについては、『創』の連載記事を取り上げ、根拠を示さずに「番組を『ひどい』とか『正真正銘のヘイト番組』などと決め打ちしている」と非難している。「ニュース女子」に対し、抗議の記者会見をする「のりこえねっと」の辛淑玉共同代表(右)ら いささか驚いたのは、長谷川氏が東京新聞をも強く批判していることだ。記事によると、長谷川氏は「人事発令後、深田主幹と人事を批判するコラムを東京新聞の『私説』という小欄に書いた。それはゲラになって送られてきたが、掲載前日の三月七日午前になって深田主幹から電話があり、留守電で『君の私説は使わない』と通告された」という。「ニュース女子」もひどすぎる! そして、それを受けてこうも書いている。「一連の経過は、東京新聞が言論の自由を守るどころか、左翼勢力の代弁者になり果ててしまった事態を物語っている」。そして末尾はこう結ばれていた。「元左翼の私としては、情けなく思うと同時に、左翼の行く末にあらためて絶望感を深くする」。長谷川氏は処分を受けた後も、東京新聞を自分からは辞めないと言明していたようだが、何やらこの一文は、東京新聞への「決別宣言」のように見える。東京MXテレビが入るビル=東京都千代田区  一連の騒動は、メディアが抱えるいろいろな問題を浮き彫りにしたといえる。MXテレビが大きな批判にさらされながら態度を曖昧にしているのは、番組を制作したDHCシアターの背後にいるDHCが同局の大口スポンサーであることが影を落としているのは明らかだろう。 そして東京新聞をめぐって特報部と論説の間、また論説内部の関係がいまいち分かりにくいのは、新聞社における「社内言論の自由」の問題が関わっているためだ。 これまでマスメディアに在籍しながら個人として発言してきたジャーナリストが、社の見解と個人のスタンスが異なって問題になったケースはいくらでもある。だが、その時に「社内言論の自由」を主張してきたのはリベラル派が多かった。今回はやや逆のケースで、こういうケースがこんな風に目立つのも言論報道をめぐる時代の変化を反映したものだろう。かつて故・筑紫哲也さんが朝日新聞に在籍しながら市民運動・革自連の選挙を応援して処分を食らったこともあった。 長谷川氏は一時期、テレビ朝日系の「朝まで生テレビ」などに出演していたし、記者クラブ制度などを批判してきた論客だ。週刊誌のコラムなど、私も愛読していた。近年は安保法制などで東京新聞のスタンスと異なる発言が目についていたが、そういう政治的スタンスの問題とは別に、今回は「社内言論の自由」を主張しているのだろう。 だからこの件、MXテレビの番組そのものの批判と長谷川氏の問題とは少し「区別」して議論しなければいけないと思う。ただ、残念なのは「ニュース女子」がいささかひどい番組だったために、そういうきちんとした議論が起きにくい状況になっていることだ。 「ニュース女子」をめぐる論争は拡大しつつある。青木理さんや金平茂紀さんらは週刊誌の連載コラムでこの番組を批判。さらに『週刊金曜日』が3月17日号で「デマを斬る!メディアとヘイト」と題する大きな特集を組んでいる。特集の巻頭は、辛淑玉さんと青木理さんの対談だ。この問題、対立は深まるばかりだが、BPOがどんな見解を出すのか注目される。

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    熊本地震で「ヘイトデマ」を流す輩は去れ!

    「朝鮮人が井戸に毒を入れたって本当ですか?」。最大震度7を記録した熊本地震をめぐり、こんな心ないツイートがまたも飛び交った。一世紀前、デマが人々を暴徒化させた関東大震災の悲劇を忘れたのか。大災害に便乗し、たとえ面白半分に「ヘイトデマ」を流す輩であっても、決して許してはならない。

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    国会でヘイトデマを追及します! 熊本地震で噴出した日本社会の病理

    をつけたものもあった。 ネット世界は悪意あふれるパンドラの箱を開けてしまった。東日本大震災当時より、ヘイトスピーチの書き込みは増えている。しかし、この5年間で大きな違いがある。悪質な書き込みのアカウントを記録し、ツイッター社に削除を求める書き込みが増え続けているのだ。問題を厳しく指摘されたため、慌ててアカウントを削除する者も多かった。イタチごっこのようではあっても、デマや暴言を許さないという動きは、確実に広がりつつある。 その起動力はここ数年にわたって路上で、そしてネットでまき散らされているヘイトスピーチ(差別煽動表現)に真正面から対峙してきた人たちの蓄積された効果的な行動にある。陰湿に続けられるヘイトスピーチや特定個人への誹謗や中傷は、いまだやむことはない。それに対する批判はもちろん、ツイッター社、Google、YouTubeなどへの削除要請も行われてきた。なかには法務局に対して人権救済の申し立てを行うことで、行政当局が動き、ネットからの削除を実現したケースもある。 わたしも参議院法務委員会などで差別などネット上の問題発言を法務省が積極的に取り上げ、是正すべきだとなんども追及してきたが、いまだプロバイダーの消極姿勢などで、事態の改善が図られない残念な現状がある。虐殺の歴史を思い返さなければならない ヘイトスピーチに対する法整備を求めて、いま国会では与野党を超えて、問題解決の動きが急速に進んでいる。わたしたち民進党(当時は民主党)、社民党、 無所属で提出した人種差別撤廃施策推進法案では、ネット上での差別と煽動をプロバイダーなどへの指導を介して、解決していく道筋を示した。与党案ではネット問題が入っていないが、この課題もこれからの協議事項だろう。実際のところ、問題ある映像や書き込みへの対処は、会社の倫理規範によって大きく異なっているのが現状だ。ここでも民間業社への啓発と教育が求められている。 実感としていえば、ツイッター社の対応はこれまでに比べて迅速にはなっている。しかし管理規約のなかに差別的表現は許されないと規定し、指摘があればただちに削除するなどの対応を取らなくてはならないだろう。その実現を求めてヘイトスピーチに反対する有志たちのグループ「差別反対東京アクション」は、署名運動を進めている。本来なら企業イメージの向上のためにも、表現に関わる民間事業者は率先して国際人権基準を取り入れる必要が 熊本地震をきっかけに、この日本社会の病理が匿名個人を介して噴出している。かつて関東大震災時のデマが実際に在日朝鮮人、東北人、社会主義者などの虐殺を引き起こした歴史を思い返さなければならない。 現在のネットでの悪質でたわいないようなデマや煽動でも、被害当事者には暴力そのものなのだ。歴史の時間は進んでも日本社会のジメジメとした陰湿な差別の土壌はいまだ連続している。ましてや現実とは思いもよらぬきっかけで、何事かを引き起こすことがあるのだ。暗澹たる思いにうなだれることなく、ひとつひとつの悪意を双葉のうちに摘み取らなければならない。その機敏な行動は、今回の被災にあたって、いまこの瞬間にも続いているのである。

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    「朝鮮人が井戸に毒」に大騒ぎするネトウヨとブサヨどもに言いたい!

    小坪慎也(行橋市議会議員) まず結論から述べるが、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマが飛び交うことに対しては仕方がないという立場である。これは左派(いわゆる人権派)に対しての牽制というか、私のポジションを明示するものだ。次にネット上の保守論壇に対しても苦言を述べさせて頂く。「仮に井戸に毒が投入された」として、騒ぐべき状況であるなら別の問題がある。画像はイメージです 地方議員として言わせて頂くが、上水道が整備されており現在は「井戸水はかなり減った」のである。井戸水は余り関係ない。だから毒を入れられても問題ない!と言いたいわけではない。上水道は非常に便利だが、インフラとしての脆弱性も併せ持つと言いたいのだ。井戸水よりも災害に弱い。 地震発生時には、蛇口をひねっても水は出ないだろう。なぜなら水道管は破裂しており、水が来ていないからだ。当然である。井戸水であればどうにかこうにか水を飲めるだろうが、上水道が整備されつくした現代、むしろ水の入手は難しい。 言いたいことはわかると思う。「井戸に毒が!」というデマにおいて、現実的に恐怖を感じたものは「防災リュック(ペットボトル2本程度の水)を準備していない者だと思う。この準備は誰であってもするべきで、準備がないから狼狽えるのだ。私はそれが情けない。 震災発生時においては、それなりの長期間、自らの物資で生き抜く必要がある。その部分においては残念ながら行政は助けとなることはできない。自衛隊であってもだ。ペットボトルの水2本、これすら常備できていない日本人のほうが問題だと思う。自助、共助、公助 自助、共助、公助。この言葉は聞いたことがあると思う。もしなければ目の前の便利な箱(パソコン)、もしくは板(タブレット・スマホ)などで、検索エンジンを活用して頂きたい。自助とは、家族を含む自らを助けること。被災時の第一段階になる。例えば揺れている瞬間、または津波が襲ってくる、まさにその時のこと。自らの身は、自分自身で守る必要がある。自助においては、行政などはまったく役に立たない。立てないのだ。災害発生直後から数時間、非常に大きな災害の場合は当日が自助(自ら身を守る)になるはずだ。  共助とは、近隣が互いに助けあって身を寄せ合う期間。自然発生的に集まった避難所、例えば公共施設に逃げ込んだ時期がここにあたる。早ければ当日において共助の形態に移る。非常に大きな災害の場合は、これが2日、3日となるだろう。ヘリコプターに向けてSOSなどとメッセージを発信する場合もあるかも知れない。自助におけるサバイバルを耐え抜き、皆で身を寄せ合ったとしても、実は安心できない。この時点でも自らの物資でやりくりするしかないからだ。 最後に出てくるのが公助である。自衛隊、そして警察や消防、これら行政による公的な支援を公助と言う。早ければ翌日の早朝には公助に移行していく。公助のフローまで辿り着ければ、ほぼ助かったと言っていいと思う。今回の熊本の地震の場合、翌日には自衛隊の炊き出しがスタートしていた。公助まで辿り着ければ、あとは行政がなんとかしてみせる。ここまでを自助、共助で生き残って頂きたい。「井戸に毒」があろうがなかろうが、どうせ飲めない 余談になるが、これは政治分野では常識であり、自主防災組織の設置をはじめ常識となりつつある。少なくとも行橋市ではそうだ。知らない市民もいるとは思うが、区長会(いわゆる自治会)をはじめとしてレクチャーや説明会を再三行ってきており、地域が一体となって動けると思う。若い方には伝わりきっていないかも知れないが、校区のベテラン勢には周知され尽くしており、実際に機能するところまで来ていると考えている。 偉そうに御託を述べるのが議員の仕事ではない。私は「自助・共助・公助」の概念が、一定層には浸透していると断言する覚悟がある。防災を所管する総務委員会において、私は常任委員として仕事をしてきた。行政をチェックし、それらの動きが正しく動作できるよう、日頃から訴えてきたからだ。断言する覚悟を持てるよう、努力してきたからだ。ネット上では一般的ではないかも知れないが、これは各自治体でも同様のことだと思う。リアルでは年配の自治会の役員を通じ、これは常識となりつつあるはずだ。公助まで生き残れ! 「自助・共助」の期間においては、自らの物資でやり繰りするよりない。公民館をはじめとした防災拠点(防災倉庫)には一定量の物資はある。熱湯を入れるだけで白米になるアルファ米だって、行橋市は作り方を市民に教えてきた。自衛隊にも協力を受け、機動車にも来てもらった。とは言え、最初の数時間、下手すれば一日の間、水が飲めない可能性はある。画像はイメージです 皆様の命をつなぐ、ゴールとなるべき「公助」の制度設計にも余念はない。ちゃんと制度設計されている。だからこそ公助まで生き残って欲しい。その中において水は重要物資だ。ペットボトルで2本程度の水は絶対に必要。水道管は破損し、水は出ないと思う。上水道は便利なインフラには違いないが、災害発生時の脆弱性も内包しているのだから。2、3食分の携帯食料もあればさらに良い。包帯にも使える布も便利だ。夜を超える場合を考えれば、布は貴重である。このあたりは(防災リュックに詰めて)車に乗せっぱなしでもいいだろう。それこそ様々な便利グッズが販売されている。 冒頭で触れた「井戸に毒」だが、何を恐れるのか意味がわからない。自らが水を携帯しているならば、何も恐れることはない。というよりも、被災時に「そこらへんの水」を飲むのだろうか?と問いたい。私は工場で働いていたが、便利な世界を作るために様々な危険物質も扱ってきた。パソコン、スマホにタブレット。燃費のいい車。それらの高性能は部品を作るためには、かなりの劇薬も使っている。どこにどんな物資があるかわからない。 このあたりの技術の進歩は、本当に便利になっているのか(現場にありつつも)疑問を感じている立場だが、いざ災害が発生した場合、「そこらへんの水をそのまま飲む」ことは避けたい。毒を投入される以前に、私は危ないと思っている。私は、自らが携行したペットボトルの水を飲む。 水は重要だ。怪我をすれば傷口の洗浄にも使える。本当に水は必要なものだ。牧歌的な昭和の時代とは違うのだ。「井戸に毒」があろうがなかろうが、どうせ飲めない。もちろん井戸に毒を入れるなんてことはあってはならないが、デマに乗った方や怒っている方は、まさか飲むつもりだったのだろうか。私にはそちらのほうが信じられない。外の人を恐れるのは仕方がない外の人を恐れる 「朝鮮人が」というあたりに人権派は怒っているようだ。そして争点化しようとしているように感じる。私は、被災時において外の人を恐れるのは仕方ないし、当然のことだと受け入れている。極限状況になればそうなることが自然だと考えるためだ。疑われるのは「外の人」である。もっとも身近な外の人が朝鮮人というだけだろう。そのことに目くじらを立てても仕方ない。良いとか悪い以前に、仕方がないというスタンスである。 これはコミュニティの維持に関わる内容ゆえ、気をつけて論じたい。生き残るためには、自助のあとの共助も重要なのだ。それは多くの場合、地域コミュニティになる。情けない話になるが、給食費がなくなった場合、疑われるのは転校生となる場合もあるだろう。「決して良いことではない」が、共助(自らが属するコミュニティ)を重視すれば、結果的にそうなる。良いとか悪いではなく、仕方ないものだと受け止めている。公民館の入り口に掲示された、給水などの情報を知らせる張り紙=4月15日、熊本県益城町共助を守る 外の人が疑われる理由だが、長年その地で生きて行くわけではないためだ。極限状況下においては暴発リスクが高いと推定されるからだろう。やぶれかぶれになって何をするかわからない。これは朝鮮人が、ではなく。引っ越してきたばかりの人、相互に深くは知らない人物という意味である。不安も募る被災時には、その傾向は強まるのだろう。 モラルや道徳を説く立場ゆえ、私はこれを本当は否定したい。だが、災害発生時においては、真剣に想定するほどにその側面が出てくる可能性が否定できない。例えば食料がギリギリであった場合、皆で少しずつ分け合ったとしよう。いよいよ足りなくなった際、やはり地域になじんでいなかった者が暴発する危険性は否定できない。これで共助という支えが破壊された場合、公助まで辿り着けない。外の人を恐れることは、自然なことでもあり、共助を守る上では必要なものだと考えている。誉められはしないけれども。 よって、身近な「外の人」を恐れたとして、それは外の人なのだから仕方ない。通常時であれば異なる意見も述べたいが、いざ災害発生となった場合には、「コミュニティが外の人を恐れること」は、少なくとも知識としては身に着けておいて損はないと思う。 前述の「異なる意見」という部分について少しだけ述べておく。治安に不安がある場合は、自警団も組むべきだろう。やるべきだと考える。それが共助を守るために必要で、公助に辿り着く手段であればなすべきことだと考える。一人でも生き残って欲しいからだ。しかし、疑心暗鬼から罪なき者を処断する・リンチしてしまうリスクも存在する。そうはなって欲しくないが、災害発生時の極限状況ゆえ、どう転ぶかはわからない。被災直後被災、直後 ネット保守にも苦言がある。被災直後の私の動きを述べる。私はまだ仕事中で、まさに陳情を受けていた。けたたましくなる携帯のアラート。数秒おいて、意味を知った私はドアの鍵を開けた。後輩には火元のチェックを命じ、建物内にいた者には屋外に出るように指示した。山もない広い駐車場であったため。屋外に出ると、防災無線より「おおじしんです」の連呼。ここで発生した災害の内容が地震であることを知る。 揺れが来たのは、それから数秒後のことだ。建物の外壁と、周辺の高いもの(電柱など)を見据え、警戒。 まず恐れたのは津波。この時点では、揺れが収まった直後であり震源もわからない。高いところに移動するように指示、この時点で嫁と子供に避難を指示する電話を入れる。理由は、家族の元には戻れないから。 万が一の道路破損を想定しつつ、最短経路で市役所に。選挙が終わってまだ4日だが、私は市議会議員だ。委員会変えの前ゆえ、いまだ総務委員会の委員である。防災を管理する四階フロアに滑り込んだのは8分後。この時点で副市長は庁舎に来ていた。続いて職員がどんどん揃っていく。誰しも家族が家にいるはず、不安なはず。画像はイメージです このあたりで震源が熊本であること、日本海側であることが判明。また津波の危険がないことを知る。行橋市は海に面しており、まさに私の母校、地元は海の傍の漁村である。場合によっては高台に逃げるよう公用車を走らせる必要だってあったし、万が一そうなれば公用車を行って返すだけの時間的な余裕があるかを知る必要があった。議員に決定権があるわけではないが、人が足りないなら私が行くしかないと思っていた。日本海側であったため、それは行う必要がなかった。 同時に行われていた調査は、漏水。水が漏れていないかのチェックのみならず、建物の損壊の把握もできる。浄水場と排水のメーターの動きを見れば、大きく破損している場合には数字でわかる。これが大きく変わっていた場合には(水道の破損のみならず)建物の破損も疑うべきだ。これも大丈夫だった。 その次に市民からの電話対応、何か壊れたり水が道路から出ていた場合には通報が入る。逐次、入ってくる情報を聴きながら状況を把握。30分も経つころには、報道からの取材も入りはじめる。何か壊れませんでしたか?など。行橋市を守るという「自助」の目途がたつと、熊本の状況に気になってくる。市内の物資で送れる物がないか、向こうには何が必要だろうかと備蓄の確認も併行して行う。この時点までが一時間程度だろうか。 私には小さな娘がいる。嫁のことも気になる。だけど帰れない。迷わず向かったのは、家ではなく庁舎だ。職員たちだって同じだ。不安がる家族を家において、庁舎にあがった。揃った議員も私だけではない。私のあとに来た議員は、すでに防災服に身をつつみ安全靴で来た。自衛隊だけじゃない、私たちだって公助の一部なのだというプライドがある。「朝鮮人が井戸に毒を!」というデマ。ふざけるな 地方公務員がバカだとか、地方議員はバカだとか、好きに言えばいいけれども、こっちはこっちでプライドを持って職責をまっとうするまで。私だって命を守る砦である。逃げることは、許されない。「皆様を守ります!」とマイクで叫び、私は公職にあるのだから。 その時に「朝鮮人が井戸に毒を!」というデマ。ふざけるなと言いたい。こっちは仕事をしているんだ、家族を置いて、エレベーターより速いからと階段を駆け上り。息を切らせて走りまくってるんだ。備蓄の水すら持たず、ごちゃごちゃとやかましい。これは保守にも言わせて頂くし、謎の争点化を試みる左派・人権派にも言わせて頂きたい。うるさいのだ、こっちは必死でやっている。ちょっと考えればわかるだろう、と。地方議員の在り方 北九州市議会議員の上野照弘(てるひろ)氏の投稿。翌日の12時過ぎには以下が投稿されている。行政は対応を済ませ、それを議員が報じている点に着眼して頂きたい。【熊本地震に対する応援隊の派遣】北九州市上下水道局、北九州市管工事協同組合は昨夜発生した熊本地震に対し、応援隊を結成。給水車、給水タンク、ボトルドウォーター、給水袋などをもって、合計12名が被災地に向けて出発しました。がんばってください! 翌日の昼には、すでに他自治体からの公助の支援が始まっているのだ。のみならず、これを議員がSNSで告知する安心感はどれほど暖かいことだろう。コメント欄には追加情報が続々と掲載されていく。【熊本地震への北九州市の対応状況】 (消防局)緊急消防援助隊 7隊31名 出動済 (保健福祉局・病院局)災害派遣医療チーム 34名 出動済 行橋市は、政令市の北九州に比較してここまでの人員はもたない。羨ましいな、とも思った。北九州で足りねば、うちも動くだろうと準備と覚悟。そう思った端から各地の地方議員から電話が大量に。九州の状況はどうか、足りていないものはあるか、うちの自治体から出せるものはこれとこれと・・・。驚くことに20自治体ほどの議員から。ブログで得た人脈だが、さながら地方議員の総合商社のようである。保守に求めること こちらに連絡が集中したのには別の理由もある。熊本に直接の連絡を入れると災害救助の迷惑になる可能性があるため、できるだけ近くの、かつ当事者ではない場所から情報を取ろうとしたのだ。私も熊本への直接の連絡は控えた。現地の情報が欲しいと思っていたら、鳥栖市の同志のある市議は陸路ですでに熊本に入っていた。物資の面では、自衛隊も出ているし私たちが首をつっこむ話ではないな、と知った。各地においては、心の準備で静観した議員も多数いると思う。 上野照弘(てるひろ)北九州市議だが、私とタメである。現役の漁師でもあり、熱い男。私と同じく「やりすぎる」場合もあり、ネットでは批判の対象となる場合もある。似た境遇ということもあり、ファーストネームで呼び合う、または「兄弟!」と呼ぶ仲だ。彼がこういう投稿をしてくれたことは、本当に心強いし、これぞ地方議員の在るべき姿だと思った。保守に求めること 「朝鮮人が井戸に毒」などと大騒ぎする前に、他になすべきことはないのか。恐らく徹夜で編成された北九州市の応援隊、その出発を伝える上野くんの投稿。拡散すべきはこちらではないか? イイネは130ほど、シェアはたったの8件。実力をもって助けに行くという「安心を伝えるための動き」は拡散されず、謎のデマに乗ってどうするのか。私は保守の議員かも知れないが、常にネットの保守と同じ動きをするわけではない。最前線の地べたをはいずりまわってきたんだ、同志は皆そうだ。地方議員、ナメんな! と言いたい。皆様は、私たちが守ります!と胸を張っていいたい。 保守に求めることは、そしてSNSの在り方について思うことは、「もうちょっと、しっかりできんのか」という話だ。弾は目の前にあるではないか、自治体は動いている、同志の上野は動いた、これを拡散することで「誰かの安心」につなげたいとは思わないのか? これこそが本当の保守がなすべき動きだと私は考える。 そうだな、と思って頂けた方は、少し遅いかもしれないけれども以下の投稿をシェアしてください。なすべきことは、これだと思います。(FB:上野照弘 https://www.facebook.com/teruhiro.ueno/posts/1055396797869057?pnref=story )

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    日本人がソウルの井戸に毒? 震災をネタにする「バカッター」の心理

    てラッキー」そう考えて、書き込んだのだとぼくは見ている。 彼らに対して「そのような嘘を流すな」とか「ヘイトスピーチをするな」などと言っても無駄である。彼らは「ネタをネタと分からない方が悪い」と自分勝手に考え、批判を見下すだけなのだから。 だから、ぼくは彼らに対してこういう評価をする「とてもいたたまれない」と。 震災でみんなが大変なときに、ユーモアはとても重要である。それで緊張した気持ちが少しでも和らぐなら、SNSにちょっとばかり不謹慎なネタを書くことも被災地支援という考え方もできるだろう。 しかし「朝鮮人が井戸に毒を投げた」というネタは、まず被災者にとって全く面白くない。だって単なる危険情報だから。次に当然、日本に暮らすいわゆる在日の人たち、さらには帰化した人たちにとっても、単に不愉快な話でしかない。そしてなにより、こうした学校の教科書に載っているレベルの話を「面白いネタ」として意気揚々と書き込んでいる人がいるという、その現実に、そんじょそこらの日本人であるぼくたちはひどくガッカリさせられるのである。 ちなみに「朝鮮人が井戸に・・・」を書いていた人の1人が、それがネタであると強調しようとして、後から書いた渾身のネタがこれである。「日本人がソウル市の井戸に毒を入れまくっているそうです!」 はああああ……。と大口開けて首を90度傾けるしかないではないか。 震災という非常時に、わざわざ多くの人たちに向けて、こうした誰も笑わないし面白くもなんともない「ネタ」を、悪気もなくやってしまう、彼らの「いたたまれなさ」こそ問題なのである。 ヘイトスピーチだとかデマがどうのこうの以前に、悪意まるだしで、ネタとしても全く笑いどころがない、こんなどうしようもないことを匿名とはいえ、自分で書いていて、多くの人に見られて、彼らは恥ずかしく無いのだろうか? 多分恥ずかしくないのだ。でも彼らは恥ずかしくなくとも、そんなものを見せられたこちらが恥ずかしいのだ。 彼らの中では、とても立派なネタなのであろうが、そんな粗末なネタを「どうだ!」とばかりに見せつけられても、こちらはただ、いたたまれないのである。

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    震災を悪用し被災者を愚弄 サヨクプロ市民どもこそ「人間」じゃない

    中宮崇(サヨクウオッチャー) 大きな被害を出した熊本地震も、サヨクプロ市民どもや野党にとっては反日工作のための格好のネタに過ぎない。何しろ、地震発生から一時間も経たぬうちに、官邸機能を麻痺させ自衛隊派遣でも阻止したいのか、ツイッターに嬉々としてこんな投稿がなされたのだ。@MisaoRedwolf: 今首相官邸に電話した(03-3581-0101)。誰がでたか相手はわからないが、名前を名乗って川内原発を停めてくれと話したら「その件については改めて連絡ください」と言い残し一方的に電話をガチャっと切られた@MisaoRedwolf: 補足説明をすると、電話にでた人は最初は丁寧に受け答えをしていたが、原発の話しをしはじめたところ慌てたように「その件についてはまた連絡を」と一方的に電話を切られた、ということです。九州電力川内原発1号機(左)と2号機=4月6日午前、鹿児島県薩摩川内市 このサヨクプロ市民のお粗末で邪悪な脳みそには、反日活動のために政府の救援活動を妨害することしか思いつかなかったようで、被災者の苦悩など微塵も考慮に値しないらしい。 このミサオ・レッドウルフなる人物の名を記憶している読者もおられるかも知れない。東日本大震災以降毎週官邸前で反原発デモと称する騒乱を引き起こしていた「首都圏反原発連合」のメンバーであり、2012年 8月22日にはまんまと首相官邸への進入を果たし、当時の民主党野田総理首相との面会を成功させている。 この団体にはSEALDsの奥田愛基等のサヨクプロ市民・団体も参加しており、その実態は「首都圏反日連合」とでも言ったほうが適切であろう。 社民党が夏の参院選において公認を与えている増山麗奈も、早速次のようにツイートした。@renaart: 熊本、九州の皆様地震は大丈夫でしょうか。被害が最小限になるように祈っています。原発はもういらない。地震のたびにこんな風に心配しなければならない原発はもう廃炉にしなければならない。もう誰の故郷も電力会社や、原発利権に縛られた日本政府、与党議員などに、奪われたくない 増山はこれまでにも数々の暴言を繰り返しており、国民に向かって「ジジババはもう安楽死むかっていけばいい(注:原文ママ)」「てめえら豚はうすぎたねえプルトニウム米でも喰ってな!」と放言したような人物なので、この薄汚い豚をずっとウォッチしてきた私にとっては、今回のこの程度の暴言はむしろ可愛く見えてしまう。思わず呆れた“親分”のツイート このような人物の公認を取り消さぬことに対して、社民党には多くの批判が寄せられている。しかし社民党の党首である福島瑞穂自身が増山と意見を同じくするのか、増山の公認が取り消される気配は全くない。そればかりか地震発生から2時間後、官邸を含め日本中が被災者救援に躍起になっている中、福島瑞穂自身がなんとこんな呆れたツイートをしているのだ。@mizuhofukushima: 大好きな全国各地のママたちと。カラフルで、パワーがあって、幸せオーラと優しさに満ちていてハッピー!全国各地で会ったママと一同に会えて、ハッピー! このツイートとともに投稿された画像には、福島瑞穂が「せんそうのどうぐつくるのやめよう」とでかでかと書かれた垂れ幕とともに写っている。 社民党は2002年の小泉訪朝のまさにその瞬間まで北朝鮮による拉致犯罪を「韓国安全企画部や産経新聞のデッチ上げ」とホームページにおいて主張し続けたことで知られている。当時社民党に所属していた福島は、このでっち上げについて謝罪するどころか、なんとその一ヶ月後に天使のコスプレをして政治資金集め集会を行っている。その際にも拉致被害者の神経を逆なでするかのように天使の羽と輪をつけました。「『天使』というよりも『みなしごハッチ』のようだ」という声もありましたが、けっこう好評でほっとしました。おひとりおひとりにきちんと挨拶が出来ずにすみませんでした。 また、神楽坂女声合唱団の有志の仲間達も歌って下さって本当にありがとうございました。サンキュウ!などとメールマガジンで発言し顰蹙を買った。つまり昔から一貫してそういう無神経な御仁なのであろう。 東日本大震災において醜態を晒し下野に追い込まれた民主党の残りカスである民進党も、被災者のことなどそっちのけで被災者バッシングに忙しかった。そのあまりにも呆れた暴虐ぶりは、新聞沙汰にまでなっている。4月15日付けの産経ニュースはこう報じる。民進党、「自民議員がデマ」ツイートを削除 枝野幹事長ぶら下がり詳報「個人の見解を職員が書き込んだ」http://www.sankei.com/politics/news/160415/plt1604150033-n1.html民進党は15日午前、熊本県を震源とする最大震度7の地震に関連して党公式ツイッターに投稿された「(東日本大震災発生直後に)一部の自民党の有力議員が原発対応についてデマを流して政権の足を引っ張ったのも有名な話です」との書き込みを削除した。枝野幸男幹事長は国会内で記者団に「党の見解ではない個人の見解を職員が書き込んだ」と削除の理由を説明した。 記事では相当にマイルドに書いているが、実際は民進党担当者が被災者や有権者に「なんで?」などと喧嘩腰の口調で畳み掛けており、イメージ低下を恐れた民主党残党がツイートを消して証拠隠滅に走ったのも頷ける。 しかも枝野幸男幹事長の言い逃れと実態とは全く乖離しており、現時点でもなお民進党は被災者や有権者をコケにし続けているようで、批判者を次々と「ブロック」という名の粛清を行い続けている。現に次のようなツイートも見られる。@Monzen_inari: 民進党の問題となったツイートに私は担当の公表をすべきではないかとリプライを送りました。それに対して民進党はこのような対応をしてきました。こんな政党に何ができるのですか? http://twitter.com/Monzen_inari/status/720681646089867264/photo/1 野党やプロ市民団体だけ見てもこのケダモノぶりである。ヒラ戦闘員どもの鬼畜ぶりは目を覆わんばかりだ。興味のある、そして鬼畜どもの悪逆非道ぶりに心を壊されぬ自信がある読者は以下のまとめをご覧頂きたい。「熊本の地震で真っ先に「原発が」と騒ぐ(&喜ぶ)人々」http://togetter.com/li/962648 昨年8月30日、SEALDsが国会前で行った集会にて、山口二郎法政大教授は「安倍に言いたい、お前は人間じゃない。たたっ斬ってやる!」 と殺害宣告を行った。 今こそこの鬼畜なサヨクプロ市民どもに言ってやるべきだ。「震災を悪用し被災者を愚弄するお前たちこそ人間じゃない」と。

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    「安倍政権のせい!」とはしゃぐ進歩人とヘイトデマで煽る人が重なる

    見舞われた方々の事を最優先に行動している」ということで“退庁”したままだったらしい。残念なことだ。 ヘイトスピーチ的な書き込みは、少なくともそれほどひどかったとは思えない。むしろ、目立ったのは、便乗しての保守派攻撃だ。 なにしろ、パリの同時テロのときも、流れ弾が寿司屋にも飛んできたことを材料に、「安倍政権のせいで日本料理屋が襲われた」とはしゃぎ回った「進歩的」な人が非常に多かった。しかも、かなりの社会的地位もいたからあきれた。 今回も震度4でしかなかった川内原発を危ないから直ちに止めろとか、不安を煽る流言飛語が目立った。 一方、十分でなかったかと思うのは、日本語が出来ない外国人への情報提供だ。もし、首都圏での巨大地震のことを想定するなら、一方、旅行者も含めて、多様な言語の人がネットを通じて正しい情報を得ることが出来るか対策を考えるべきだろう。 外国人を誹謗するような流言を流す愚か者はどうせいるのだから、どのように「嘘である」とすばやく情報を流せるか考えておくことのほうが大事だ。 しかし、一方、大災害時は、不法在留者にとってなりすましなどのチャンスではあるし、日本人的なモラルから外れる外国人がそこそこいるかもしれないことを心配することは杞憂とまでは言えない。 そのあたりに対して対策をとっておくことが、かえって、いわれなき不安や噂が流布されないためにも大事なことであることは否定してはいけないと思う。

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    エフセキュア問題は我が国の課題の縮図だ

    森口朗(教育評論家、東京都職員) エフセキュアの社員だったK氏が、エフセキュアの顧客であるフェイスブックの個人情報をリスト化し、拡散したとして大問題になっています。ここには、我が国の喫緊の課題が凝縮されており、全ての日本人にとって他人事とは思えないので、今の段階で論点を整理しておきたいと思います。その前に事件概要を(事件概要)エフセキュアの社員であるK氏は、同時に「しばき隊」やその後継団体に所属する左派活動家だった。一方、はすみとしこ氏という漫画家が今年になって一部でブレイクしたが、そのマンガが難民や在日コリアンに批判的だったために別の一部の人達から「レイシスト」というレッテルを貼られていた。K氏はフェイスブックで、はすみとしこ氏に「いいね」を押した人達の、学歴や勤務先といった個人情報をリスト化し、インターネット上で拡散し、活動家仲間と共にリスト化された人達への個人攻撃(勤め先への情報提供や個人宅訪問)を推奨した。ところが、K氏自身も様々なところで自分の情報を書いていたために、エフセキュアの社員であることが突き止められた。ネット市民がエフセキュア本社の社長に事件の概要を伝えたところ社長は対処することを明言し、エフセキュアはK氏を自主退社(おそらく)させることで事件の収束を図ろうとした。その後のネット市民の調査によりエフセキュア日本法人の社長が、韓国系ITセキュリィ企業の社長であったことが判明した。 この問題で明らかになった我が国の課題を大きいと思える順に列挙していきたいと思います。1 暴力的で独善的な人が「平和」や「人権」を大声で叫ぶために、真っ当な人達がこの言葉に嫌悪感を感じてしまう 話が大きすぎると感じるでしょうが、私はこれが最も深刻な課題だと思っています。世界がIS(イスラムステイト)や共産主義国の拡大を許さないのは、まさに「平和」と「人権」を重んじるからですが、日本では刺青を見せ付けて他人を脅すような人間が「平和」や「人権」を叫び、朝日新聞や地上波TVがそれを当然のように報道するために、ここに共感できない人が、この概念自体に懐疑的になっています。2 左派(共産党や社民党などの主張に共産する人達)のレッテル貼りはメジャーメディアで報道されるが、右派がレッテル貼りは無視される はすみとしこ氏に限らず在日コリアンに批判的な人達に「レイシスト」のレッテルを貼ったのは左派も市民団体でした。私は特定の人達に対するステレオタイプの非難=レイシズムには一切与しません。しかし、今レイシストの烙印を押される人達が活動する前から今に至るまで、韓国本国はもちろん在日コリアンによる日本人全体への民族差別発言が繰り返されています。また、左派により自衛官や警察官に対する職業差別発言も堂々と行われています。こういった発言こそレイシズムだと思いますが、それを「レイシズム」として報道するマスメディアはほとんどありません。 また、安保関連法案制定時には安倍総理を「叩き切る」と表現した著名人や「安倍しね」というプラカードを掲げた人達に右派が「テロリスト」というレッテルを貼りましたが、それもまったく報道されていません。3 左派が違法不当な手法で敵を攻撃するときは黙認され、右派が同様の手法を取る時には厳しく糾弾される 右派が今回のK氏と同様の手法。例えば「安倍しね」プラカードにフェイスブックで「いいね」を押した人の「氏名」「学歴」「勤務先」などの個人情報をリスト化し、勤務先への通報を推奨したら、新聞やテレビは大騒ぎをするでしょう。しかし、K氏の行動は今のところMXTVを除き、まったく報道されていません。報道機関の「報道しない自由」が幅を利かせすぎている4 報道機関の「報道しない自由」が幅を利かせすぎている 多くの報道機関は民間企業ですから企業活動の自由として、何を報道するかについては自主決定できます。しかし、メジャーメディアの談合体質が酷すぎるために、全社が報道しないという暗黙の空気に包まれると、まるでその事件がなかったかのようになります。今回のエフセキュア問題がまさにそれです。 これは先進国のメディアの在り方として明らかに異常です。5 公共団体のソフト部門に「赤い利権」が食い込んでいる 利権と聞くと大多数の人は、保守政治家と役人及びゼネコンといった構図を思い浮かべるでしょう。そういう一面はありますが、ソフト部門、例えば「人権」「男女平等」といった部門では、明らかに思想的に左派の人達が、独占的に官公庁から受注しています。 エフセキュアはIT企業ですから本来、思想信条とは無縁のはずですが、今回の行動から見る限り、特定の思想に支配されている危険性を払拭できません。6 機密情報に対する国家意識が希薄 国家としてはともかく、国民感情として「韓国人」は日本を仮想敵国とみなしています。その韓国人や韓国系企業に我が国の機密情報や日本人の個人情報を見せ、触らせることは非常に危険です。ところが、韓国系企業との癒着が懸念されるエフセキュアが、防衛省関連やマイナンバー関連の仕事をしていることが判明しました。 また、マイナンバーが公布されれば多くの自治体で働いている在日コリアンも個人のマイナンバーに触れることが可能になります。 以上、これ以外にも様々な課題を提示してくれたエフセキュア問題。今後も注視していきたいと思います。 最後に、これに危機感を覚えた方は、是非、ご自身が住む自治体がITセキュリティをエフセキュア社に委託していないかチェックしてください。公文書の公開を求めれば、どんな人にもチェックが可能です。そして、万一エフセキュア社が受託していれば、それを議会で質問するよう保守系議員に働きかけてください。 私たち個人ができることは沢山あるのです。(『森口朗公式ブログ』より2015年11月10日分を転載)

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    なぜ私はあのツイートを発信したのか

    つぶやいた。これに北海道新聞をはじめ一部の反日マスコミが食いついてきた。言葉尻を捕えて「差別発言」「ヘイトスピーチ」とヒステリックに非難を繰り返した。 しかし、なぜか彼らは私が追及するアイヌ官製談合については黙殺を決め込むのである。上田文雄市長が記者会見で不正に陳謝してもベタ記事扱い。この事件がアイヌ利権というパンドラの箱を開くことになることを恐れたのか。 思えば札幌市役所では12年間の上田市政で数えきれないほどの不正が摘発され、職員が逮捕された。下水道工事を巡る官製談合で局長級の幹部職員が自殺する事件もあった。書類のねつ造、つじつま合わせ、業者同士の談合、幹部への付け届け、セクハラなど、札幌市役所は「何でもあり」、いわば不正の総合商社とも言われている。アイヌ発言について記者会見する札幌市議会の金子快之議員(当時)=2014年8月29日、札幌市 私は議員になって市職員の仕事ぶりを見るうちにすぐ札幌市役所の体質に気付いたが、これらの不正が道内の新聞、テレビで取り上げられることはない。市役所の一角には大勢の報道記者が常駐しているが、彼らはただ市の報道発表をコピペで流しているだけ。目の前の不正に目をつぶるマスコミに果たして存在価値はあるのだろうか。 アイヌ官製談合で市から刑事告発された業者「クルーズ」は、実は上田文雄・前市長と深い関係にある。このことは上田氏自身が私の質問に対する議会答弁で認めている。 上田氏は「クルーズ」から自身の著書を発刊しているほか、上田氏の政治資金収支報告書には「クルーズ」の名前がたびたび登場する。官製談合が始まった平成15年といえば、上田氏が市長に初当選した年である。それから、不正が発覚して上田氏が引退するまで3期12年間にわたって官製談合が続いた。上田氏の市長在任期間とアイヌ官製談合は期間がピタリ符合しているのである。 上田氏は談合への直接の関与は否定しているが、市政のトップとして上田氏の責任は極めて重いと言わざるを得ない。 官製談合とは普通は官が私腹を肥やすために業者と共謀するものである。しかし12年間にわたり組織的に談合が繰り返されたとなると、不正の目的は職員の私利私欲ではなく、他の組織の目的に従ったと考えざるを得ない。道警の今後の捜査で事件の全容が解明されることを望むものである。議員の本分とはなにか 「アイヌ民族はもういない」とのツイートには予想外の反響があった。私は真実を述べただけなのだが、時に真実ほど冷酷なものはない。同僚の議員からは「差別者」と罵られ、市議会の総意として議員辞職勧告決議を受けた。 しかし私が問題提起したのはアイヌ民族の存在ではなく、アイヌを騙る札幌市役所の不正だ。議員辞職どころか、市政のチェックは議員の本分ではなかろうか。 実は札幌市のアイヌ施策の不正は官製談合に止まらない。住宅貸付や市営住宅、生活保護、職員人事、健保不正請求、宗教団体の関与など様々な疑惑がささやかれている。これらの不正を正すため議員として職責を全うすれば、利権の立場からは「差別者」のレッテルを貼られ職務を妨害される。 彼らは利権を守るために必死だが、こちらも命懸けだ。なぜ私が危険を冒して得にもならない不正の追及をするのか。それは税の使途の監視は納税者から付託を受けた議員の本分だと信ずるからである。 しかし、春の市議選で有権者の審判は悲惨なものであった。私が得た得票数はわずか5315票と、得票総数の5%にも満たない数字だった。アイヌを騙る左翼たち そもそも、アイヌ民族は本当にいまもいるのだろうか。この根源的な問いにまだ答えは出ていない。道内ではアイヌ文化の振興を名目に国民の税金でラジオ・アイヌ語講座が開かれている。アイヌ語の公用語化や小中学校でアイヌ語教育を求める動きもある。しかし、アイヌ語を話し、アイヌ古来の生活を営む人々には私はついぞお目にかかったことがない。 ツイッター事件の時、いくつかの団体が「謝罪しろ」と抗議文をもって集団で私のもとにやってきた。名刺を見ると、労働組合、女性団体、慰安婦活動家、歴史研究家など、アイヌとはあまり関係のなさそうな人たちだ。不思議なのは、たいがいアイヌの衣装をまとった方がひとり借り物のように付いてきて、その傍らには「報道」と社名不明の腕章を巻いたカメラマンも同行しているのである。私に抗議文を手渡すシーンをパチリと写真に収め、日々の活動成果としてどこかに掲載するのだろう。 反原発、反自衛隊、反アベノミクスと政治的主張も私と相反するのが彼らの特徴である。しまいには九州の部落解放同盟やスウェーデンの学者からも抗議文が届いたが、「この人たちはアイヌとどういう関係なのか」と誠に不思議に思ったものである。 一方で肝心かなめの札幌アイヌ協会からは今のところ、なにも抗議は受けていない。要するに、ただ単にアイヌを騙って左翼が騒いでいるだけ。これが問題の構図なのではなかろうか。 平成20年に「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が国会で可決された。それ以来、アイヌが北海道の先住民族だと思っている方が多い。しかし、これは間違いだ。『第2回(仮称)古代の里整備基本構想検討委員会』(札幌市ホームページ)より アイヌ文化が成立したのは13~14世紀のことで、それよりずっと以前から札幌に人が住んでいたことが分かっている。札幌市内で出土する土器、石器はアイヌ文化期よりさかのぼること数万年前のものである。この時代の人たちはもちろんアイヌではない。 アイヌが北海道の先住民族でないことは歴史年表を見れば誰の目にも明らかなのだ。にもかかわらず、一遍の国会決議が日本の歴史を簡単に上書きしてしまった。「和人(日本人)がアイヌの人々を殺し、土地を侵略し、言葉や文化を奪った」として、政府はいま償いを求められている。 従軍慰安婦や南京大虐殺と同じく、まったくいわれのないことだ。 歴史は勝者が書き換えるものと考えれば、わが国の歴史は敗戦でアメリカに大きく塗り替えられた。平成の日本は「アイヌ民族」のプロパガンダ戦にいま再び敗れたのかもしれない。選挙に敗れた私はこう思うようになった。 ツイッターでの私のつたない発言をきっかけに、この問題への国民の関心が高まり、わが国の正しい歴史を取り戻す道につながることを願うばかりである。関連記事■ 「右翼」「排外主義」狂奔するレッテル貼り■ 法規制の是非「自由は無制限ではない」「表現の自由を死守せよ」■ 反ヘイトの問題と選挙における議論の幅

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    金子氏ツイッター問題から見る民族政策の責任

    ・ジュネーブで国連の人種差別撤廃委員会が開かれた。日本の広範な差別状況が審査され、中心議題の一つは「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)であった。 ヘイトスピーチとは特定の弱い立場にある集団に憎悪をあおる差別表現だが、日本政府は表現の自由との関係で規制が難しいと説明した。委員会では、これは差別を助長する明確な「暴力」であって表現の自由ではなく、法的に規制すべきだとの意見が相次いだ。北海道・旭川 知里幸恵「アイヌ神謡集」 アイヌのチセ(住居)を 再現した「アイヌ文化の森 伝承のコタン」 (北海道鷹栖町) アイヌ民族は、日本政府が北海道に植民地主義を展開する中で一方的に抑圧され、差別の対象となってきた。開拓使設置以来の強制同化政策の中で独自の文化や言語、伝統的な宗教や価値観を奪われ、否定されてきた。 民族学者が使う「民族」の一般的定義を悪用した金子氏の発言は、アイヌ民族の脈々と流れる「民族意識」と、文化や伝統を取り戻そうとする努力を否定する「暴力」で「憎悪表現」に当たる。 自民党は「憎悪表現」への対応を検討するプロジェクトチームを設置した。身内の問題にどう対処するかでその質が問われることになるだろう。 ちなみにアイヌ民族は現在、法律の上では何一つ権利を保障されておらず、「利権を行使しまくっている」などという金子氏の主張は全くの事実無根だ。■ ■ もう一つは、日本政府のアイヌ民族政策そのものの責任である。 平成9年に「北海道旧土人保護法」が廃止され、「アイヌ文化振興法」が制定された後、20年には「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が衆参両院で採択された。この決議はアイヌ民族が差別され、貧窮を余儀なくされた歴史を一定程度認め、前年に採択された「国連先住民族権利宣言」に沿って総合的な政策の確立を明記した。21年には内閣官房にアイヌ政策推進会議が設置され、今日に至っている。 しかし、推進会議設置後の政策の流れは、アイヌ文化の継承や国民への啓発に重点が置かれ、その前提になる「北海道開拓」と呼ばれた植民地政策とアイヌ民族との歴史的関係性の政府による検証や、この検証に基づく権利回復の問題は、一貫して棚上げにされてきた。 そしてアイヌ民族にとっての総合的な政策の必要性は、政府に都合のよい文化政策の推進にすり替えられてきた。金子発言は、文化に偏重した政策の「産物」ともいえる。 あらためてアイヌ民族政策の必要性の確立に向けて、政府が責任を持って歴史を検証することが、今回のような「憎悪表現」防止のためにも不可欠と言えるだろう。 納税者への説明が必要だと金子氏は言う。税金を使うと、こうした本末転倒の誤解も生じる。昭和59年にアイヌ民族自らが主張した「民族自立化基金」のような、民族政策の独自財源が検討されてよい。うえむら・ひであき恵泉女学園大学人間社会学部教授。昭和31年、熊本県生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科修士課程修了。専門は国際人権法と先住民族の権利。57年に人権団体「市民外交センター」を設立し、代表を務める。著書に『先住民族の「近代史」』(平凡社)、『知っていますか?アイヌ民族一問一答』(解放出版社)、『世界と日本の先住民族』(岩波書店)など。関連記事■ 「右翼」「排外主義」狂奔するレッテル貼り■ 生きづらさと右翼と左翼 そして名指されていない99%の私たち■ 反ヘイトの問題と選挙における議論の幅

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    アイヌ民族の「権利確立」を 鈴木宗男の10年

    鈴木宗男(「新党大地」代表) 平成17年8月18日、北海道の地域政党(リージョナルパーティー)新党大地を立ち上げた。 立党の綱領の1つに、差別と偏見にあってきた「アイヌ民族の先住民としての権利確立」を謳った。何故「アイヌ民族」かと言うと、当時小泉政権の政治姿勢は新自由主義で、「強い者が善」、「弱い者は悪」という、格差の広がる過度な市場原理主義、競争主義で国民がやる気を失っていた。(今もその傾向にあるが) 新党大地を旗揚げした鈴木宗男氏(右から2人目)と発起人の歌手、松山千春(右)ら=札幌市内のホテル(撮影・高橋茂夫)2005年8月18日  私は、政治は恵まれない人の為にある。政治は弱い人の為にあると、小さい時から考えてきた。私自身反省しなければならないのは、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗政権では、党副幹事長、国務大臣、内閣官房副長官、党総務局長と権力の中枢にいると前しか見ていなかったきらいがある。 国策捜査に遭い、ふと立ち止まって考えた時、前だけじゃなく横も、特に後ろを、いや声なき声を聞くのが、政治の原点だ、初心に立ち返ろう、と決意した。 私が小さい時、友達の中にはアイヌ人を見て毛深い、臭い、とか蔑視、差別的発言をした者が沢山いた。アイヌ人は静かに黙って聞いていたが、大変な屈辱と忍従だったと思うものである。私なりの正義感で失礼なことを言った者には、「そういう発言はいけない」「やめろ」と注意したことを覚えている。今振り返っても、もっと強く厳しく仲間を指導、すべきだと反省が先に立つ。 私自身、天国と地獄を経験した者として、一からスタートしようと考えた時、一番先に思いついたのがアイヌ民族の権利確立、子どもの頃の思いだった。 私も十分恵まれた裕福な生活ではなく、人並みの生活だったが、アイヌ民族の皆さんの生活は、時には好奇の目で、時には見せ物の様にされていた光景が甦り、私の頭に何とかしなくてはならないという炎がともったのである。 それがアイヌ民族の権利確立を訴えるスタートとなったのである。平成17年9月11日の総選挙で、国会に復帰し、新党大地は鈴木宗男たった1人の衆議院議員であったが、質問主意書を提出し続けた。平成17年10月3日に、第1回目の質問主意書を提出した。次のようなものである。 それから、アイヌ民族に関する質問主意書は30本にのぼった。 この答弁書はじめ、その後の質問主意書でも、政府は一貫して「先住民族の定義は国際的に確立しておらず」と言ってきた。私は「歴史の事実」として、根気よく、粘り強く闘い続けた。 そして、ついに政府は、平成20年5月12日に提出した「先住民族の定義及びアイヌ民族の先住民族としての権利確立に向けた政府の取り組みに関する第3回質問主意書」に対し、平成20年5月20日の政府答弁書にて「アイヌの人々は、いわゆる和人との関係において、日本列島北部周辺、取り分け北海道に先住していたことは歴史的事実であり、また、独自の言語及び宗教を有し、文化の独自性を保持していること等から、少数民族であると認識している。」と答弁している。 更に念押しの為、次の質問主意書を出した。 「少数民族」という表現から、「先住民族であるとの認識の下に」と先住民族と明確に認めさせたのである。 平成20年6月6日、衆参両院において全会一致で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」がなされた。 国会議員1人でも、経験と知恵があれば、歴史をつくれることを、私は証明することができた。差別と偏見にあい、苦渋の歩みをされてきたアイヌ民族に、私はこれからも生涯政治家として、共に価値観を共有しながら歩んで参りたい。 自民党会派所属の、金子快之前札幌市議が「アイヌ民族はいない」という暴言、いや、頭に虫の入ったような発言をされたが、とんでもない頭づくりである。 そもそも金子元市議は勉強不足である。平成20年6月6日、衆参両院で全会派一致して国会決議がなされたのである。また、私の質問主意書に「日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族である」と閣議決定による答弁書で明確にアイヌ民族について「先住民族」と認めていたのだ。 自民党政府で認めたことを自民党所属会派の金子元市議が「アイヌ民族はいない」というのは論外である。 こうした輩がまだいることに唖然としながらも、まだまだアイヌ民族の権利確立は道なかばと、深く反省しながら21世紀は環境の世紀にと言われるが、自然と一番共生してきたアイヌ民族の歴史、文化を生かしていきたいと、決意するものである。関連記事■ 反ヘイトの問題と選挙における議論の幅■ 法規制の是非「自由は無制限ではない」「表現の自由を死守せよ」■ 当たり前だよ「わが軍」発言

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    小林よしのり×香山リカ アイヌと差別をめぐる対決対談

    とんでもないお金をもらっているんじゃないか」といった言葉が飛び交っています。 2014年11月には、ヘイトスピーチデモがアイヌにも矛先を向けた。アイヌを自認する人に対してもツイッターで「お前もなりすましているんだろう」とか「おいしい思いしやがって」「税金泥棒」「帰れ」といった言葉が投げつけられています。ヘイトスピーチがアイヌに対しても攻撃を拡大している。そういった人たちが拠り所にしているのが、小林さんなんです。小林 なんでわしが(笑)。香山 ご本人にそのつもりはなくても、いわゆる小林チルドレン、小林グランドチルドレンといったような人たちがあふれ返っています。「従軍慰安婦」や在日朝鮮人などの問題と同じように、日本の誇りを傷つけている原因がここにあるんじゃないか、あるいは特権を享受して不正を働いている、その資格もない人までがなりすましているといったような特権妄想ですね。そうした排外主義の対象がアイヌになっているといった印象です。 そうした現状を鑑みると、私としては小林さんには、「アイヌは民族である」そして「先住民族である」ということを認めていただかない限り、今日は帰れません。小林 ムチャクチャなこと言うなあ(笑)。香山 私は今日、それを認めていただくために来ました。そうしないとこの騒動は収まらない。対談する香山リカ氏(左)と小林よしのり氏小林 どういう話の回路なわけ?(笑)香山 逆に聞きたいのですが、なぜアイヌが民族であると問題なのですか? もちろん日本国民であるという前提で、なおかつアイヌ民族であり、先住民族であるということで、何の不都合があるのでしょうか?小林 わしも元々はアイヌ民族っているかと思ってたのよ。で、アイヌ協会(元ウタリ協会。2009年に名称変更)にインタビューの依頼をしたのよ。「誇りあるアイヌ」っていうタイトルにするつもりだから話を聞かせてくれと。香山 小林さんがアイヌに関心をもったきっかけは、2008年の「アイヌ民族を先住民族とすることを求める国会決議」ですよね。小林 それよりもっと前に、中曽根康弘が「日本は単一民族だ」と発言して、非難を受けて発言を撤回させられている。だから多民族国家なのかなあと思っていた。 アイヌだという人たちがいるんだったらその生活を見ておくべきだし、知っておかなければならないと、わしは思ったのよ。それでアイヌ協会に取材を依頼したんだけど……。『わしズム』『日本のタブー』で描いたアイヌ香山 ちょっと確認したいのですが、『わしズム』や『日本のタブー』によると、国会決議を受けて、「これは特権が発生するのでは」と思って北海道に行ったと書かれているのですが。小林 そういう順番で書いてた?香山 そうですよ。国会で満場一致で議決された。そこで「特権が発生するのだろうか」と疑問をもって調べるようになり、北海道に行った、となっています。小林 漫画は取材の後に書いているからそう書いたのかもしれないけれど、最初の時点では特権のことなんてわからなかったよね。でも、国会決議をさせるということは、「(アイヌ民族は)いる」と言うことによって、それなりのお金が出されるわけでしょ? 何かの予算をつけるという話になるんだろうな、と。香山 「いる」というか、これは「先住民族である」ということを認めたわけですけどね。それはさておき、国会決議に対して、どちらかというと否定的に疑問を持たれたということですね?小林 それは思うね。香山 どうしてそう思われたんですか?小林 国会議員が、アイヌっているのかいないのか、知ってるはずがない。明確にそれを論理で説明できる人間がいるわけがない。だから偽善だということはわかった。香山 でも国会決議の前年に、国連で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が出されましたよね。だから国会議員も何も知らないわけではないと思いますが、でも小林さんとしては、ちょっとにおったわけですね?小林 におったね。何かおかしい、偽善っぽいなと思った。ただ、それでもアイヌ民族がいるならば「誇りあるアイヌ」として、国民の中で容認していく方法を考えようと思って、アイヌ協会に取材を依頼したんだけど。で、事前に向こうから渡されたテキストも読んで「さあ」という時に、向こうから断ってきたんですよ。「小林よしのりに対する不信のため」という理由で、取材を受けないと。香山 私はアイヌ協会の回し者でも何でもないですが、ひとつ私が思うのは、『ゴーマニズム宣言』や『戦争論』などを出された小林さんが、もし私が勤めている精神科の病院に取材に来たいとおっしゃったとしますよね。 そしたら、ちょっと私は警戒すると思うんです。今度は何か精神病に関する不正があるとか書こうとしているんじゃないかな、とか。小林さんだけでなく、これまでも先住民族のことを熱心に研究されてきた方も一緒に来るということであれば、「まあどうぞ」となったかもしれないですが。小林 アイヌ協会というのは公的な機関でしょ。わしに対して何か疑問があったとしても、わしを説得しなきゃだめなんじゃないの?香山 もちろん取材を受けた方が良かったとは思うけれど、小林さんを警戒した、及び腰になった気持ちは、わからなくもないです。小林 だったらもう、わしがどのような発言をしようと、後で抗議して潰すということもできないよね。あるいは本を出した時点でも、反論はできたはずだよね。香山 それは自分も反省しています。今こうやって言うんだったらその時に反論していればって。小林 だからね、経緯をまとめるとこういうこと。わしのスタッフの時浦君は北海道出身だけど「アイヌの人に会ったことがあるか」と訊いたら全然ないという。会ったこともない、見たこともない、何も知らないのに、国会決議までされている。これは何なんだ、だったらわしが北海道に行って取材しよう、その結果を漫画に描こうとなるわけだよね。ところが先方が取材を拒否したために「これはヤバいことがあるのか」と、当然こっちも猜疑心がわいてしまう。 で、実際に北海道に行った。アイヌの血が混じっているという人にも会った。でも実際には、誰もアイヌ語はしゃべれない。アイヌ語でものを考えているわけでもない。親のどちらかがアイヌ系であるというだけ。それも、ハーフやクオーターどころではない。もっと血は薄まっていると。 まあそれはそうだよな。アイヌの絶対数が少ないんだから、アイヌという民族が純血で保てるわけがない。和人との混血を重ねていけば、もう何百分の一しかアイヌの血は残らない。それでもアイヌ民族だと言い張る。これは一体何なんだろうと思ったわけですよ。アイヌ民族っていうのは何なんだろうと。「ない」と結論せざるをえない。「民族とは何か」というそもそもの問題「民族とは何か」というそもそもの問題香山 経緯はわかりましたが、これはそもそも、「民族とはなにか」という話になっていくと思うんです。小林 うん、そうだね。香山 小林さんは民族というものを、ご著書に描かれているような、髭をたくわえて昔ながらの真正さとでも言うのかな、昔から変わらぬ姿でずっと暮らしている、すごく確立された共同体で、言葉もアイヌ語だけというようなものだけを民族と定義されていると思うのですが。小林 わしはそもそも民族主義というものが嫌いなのね。それを言い始めたら「わしは熊襲じゃない?」とか「いや、隼人じゃない?」「朝鮮系かもしれない」とかキリがない。でもそれは今、全部和人に包摂されているわけでしょ? 何で括るかといったら「国民」しかないのよ。それなのに「自分は和人ではない、アイヌ民族だ」と言うからには、何をもってそう言うのか? もはや姿も違う、風習も違う、アイヌ語もしゃべれないのに。香山 佐藤知己氏の論文「アイヌ語の現状と復興」には、「アイヌ語話者の正確な人数を知ることは極めて困難である」とあります。なぜ出てこないかというと、差別されるから隠している方が多いんです。小林 あなた、アイヌ語をしゃべれる人に会ったことあるの?香山 ありますよ。小林 アイヌ語でしゃべってたの?香山 日常会話はアイヌ語ではしないですよ。でもバイリンガルというか、アイヌ語も話せるという人です。秘伝じゃないですけど、ずっとアイヌ語を大事にしてきたという方はいますよ。小林 「います」って、それをちゃんと証明してもらわなきゃ困るわけよ。じゃあ、知里真志保って人知ってる?香山 もちろん知ってますよ。小林 天才的な言語学者ですよ、アイヌ系のね。彼が1930年代にすでに「アイヌはいない」と言ってるよね。香山 「いない」ではなく「アイヌ系日本人」ですが、知里真志保がどういう文脈でそれを発したかを考えていただきたいんです。私は知里真志保さんの他の文章や、古いNHKの番組でそうした発言をされている映像を見せてもらったことがあるんです。 当時アイヌは非常に差別されていました。アイヌの生活や文化を向上させたい、アイヌだから劣等だということを否定したい――そういう趣旨だったと思います。 歌人の違星北斗もまさにそうで、書簡などを研究している人によると、「アイヌだから」とけなされたりすることに対抗して「同化しかない」「アイヌはいない」などと言っている。いわば地位向上のためのニュアンスであって、単純に「アイヌなんてもういないんですよ」という感じとはずいぶん違うと思うのですが。小林 いや、それは違うんじゃない? 知里真志保が『アイヌ民譚集』の中で書いた文章を読むと、全くそのようには書かれてないよ。 「生活の凡ゆる部門に亘つて、『コタンの生活』は完全に滅びたと云つてよい。四十歳以下の男女は勿論のこと、五十歳以上の男子と雖も、詩曲・聖伝の如き古文辞を伝へ得る者は殆ど無い。纔かに残つてゐる数人の老媼たちですら、今では全く日本化してしまつて、其の或者は七十歳を過ぎて十呂盤を弾き、帳面を附け、或者はモダン婆の綽名で呼ばれる程にモダン化し、或婆さんは英語すらも読み書くほどの物凄さである」 こう書いてあるのね。あなたね、歴史のことを考える時には第一次史料、第二次史料、第三次史料っていう形で、ちゃんと紐解かなきゃいけないの。香山 もちろんそうですよ。小林 あなたが言ってるのは一次史料でもない、二次史料でもない。単なる噂話を言ってるだけ。香山 私だって元の史料を読みましたよ。当たり前じゃないですか。 私が言いたいのはその背景に、差別に対して、あるいは自分たちの生活水準が低いことに対するひとつのレジスタンスがあるのではないかということです。小林 勝手に解釈したわけね。香山 勝手にじゃないですよ。知里は、「過去のアイヌ」は本来のアイヌ文化を背負っていたのに、「現在のアイヌ」には「侮蔑と屈辱」がつきまとっている、と言い、差別に警告を発しています。 民族かどうかの認定を何によって行うか小林 差別は実際、ずっとあったんだよ。けれども民族の話は別でしょ。クオーターからさらに何分の一、何分の一ってなっていったときに、民族って成立する?香山 民族の学術的な考え方は、そういうふうに血が何割入っているというような考え方をすると複雑になるし危険なので、客観的な判定と、本人の帰属意識という主観的な判定と、双方を見るということです。小林 自分がアイヌと言ったらアイヌなら、わしもアイヌということになってしまう。香山 それは違います。極端な政治学者なんかは、主観的な帰属意識だけでよいと言っている人もいます。しかしそれではあまりにも曖昧なので、客観性と主観性両方で判定するんです。小林 じゃあ客観性って何なの?香山 アイヌ協会に自己申告して認められるのもそのひとつですよね。小林 何だそれ! アイヌ協会がポンと判を押して「アイヌだ」と言ったらアイヌなの?香山 違います。最後まで聞いてくださいよ。アイヌ協会の定款によると、本人の入会申込書をもとに理事会での決議で決まります。戸籍を含めての審査と聞いています。主観性と客観性ですね。この両方で判定します。小林 戸籍が客観性なのね?香山 それしかないですからね、今のところ。昔は、彼らのネットワークがありますので、そういう噂なんかも判断材料にしたこともあったようです。「あの人は違うよ」とか「あの人は確かにこの集落にいた」とかですね。それも参考にしつつ、ということです。「誰もあの人知らないよ」というような場合は認めない。小林 戸籍が客観性だというのはきわめておかしいですよ。戸籍を遡っていくとなったら、わしだって隼人かもしれない。香山 ご存知のようにアイヌの場合は「旧土人」と戸籍に記されていたわけです。小林 じゃあ客観性というのは戸籍であったり、「あの人あの辺に住んでいたよ」とか、「あの人アイヌ系だよ」といった噂とか、その程度っていうわけだな。あと自分がアイヌだと言えばアイヌになると。香山 アイヌ協会の会員になるということです。アイヌ協会の会員になるということとアイヌであることは必ずしもイコールではないと思いますよ。協会員じゃなくても自分はアイヌ民族だと思ってる人もいると思います。小林 うん、協会員じゃなくてもアイヌ系だと思ってる人はいるよ。香山 それはアイヌ民族ではないんですか?小林 民族じゃないね。砂澤陣っていうわしの知り合いがいる。砂澤ビッキというアイヌの美術家の息子なんだけど、彼は自分のことをアイヌ民族だとは言わない。『対決対談!「アイヌ論争」とヘイトスピーチ』(創出版)香山 でもそれはアイヌの人たちの総意ではないですよね? アイヌ民族だというアイデンティティを持っている人に、私は会ったことがありますよ。「言えない」とか「これは誰にも言ってない」という方もいます。小林 なんでそこで、血が100分の1になろうと自分はアイヌ民族だと言い張るの?香山 それはアイデンティティなんだから、こちらが決めることではないんじゃないですか?小林 自分が決めればいいというだけの話?香山 主観的な帰属意識を大事にしようというのが、民族というものに対する今の世界的な定義ですね。小林 そんな主観的な話で日本は多民族国家だとか言ったって、どうにもならないよね? もう同化していてアイヌの血が100分の1になっていても、まだアイヌ民族だというアイデンティティを維持したいと思う人間の心理って何なんだろう。そこが問題だよ。(以下、興味ある人はブックレット『対決対談!「アイヌ論争」とヘイトスピーチ』をご覧下さい)関連記事■ 生きづらさと右翼と左翼 そして名指されていない99%の私たち■ 法規制の是非「自由は無制限ではない」「表現の自由を死守せよ」■ 反ヘイトの問題と選挙における議論の幅

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    「アイヌ論争」とヘイトスピーチ

    イヌ民族の存在に否定的な漫画家、小林よしのり氏と、北海道出身の精神科医、香山リカ氏の対談は、アイヌとヘイトスピーチをめぐる論争の本質をつく内容である。両氏の意見を通して、この問題を改めて考えたい。

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    宮司がブログでヘイトスピーチ

    山本莉会 (プレスラボ)ネット上に横行する差別的発言「言論の自由」はどこまで許されるか ヘイトスピーチがなくならない。中韓関連のニュースが流れるたび「ネトウヨ(ネット上で右翼的な言動を行う人々)」がネットのコメント欄や掲示板に集まり、罵詈雑言を書き込んでゆく。 例えば昨年9月にあったこんなニュース。台風で増水した川に流されていた男児をたまたま通りかかった中国人留学生が助けたというニュースだが、2ちゃんねるでは「よくやった! ありがとう!」、「日本人の一人として感謝を。」というコメント以外に 「こいつが突き落としたんだろ 中国人のクズさったらねえぜ、こいつをたたき殺すべきだ」 「お前ら本当にだまされやすいな 一人が子供を投げ込み、もう一人が助ける。 二人いれば自演できることだろ?」 などと書き込まれている。 また、11月4日にYahoo!ニュースに掲載されたRecord Chinaの「日韓アウトドア市場に減速傾向、新天地・中国の開拓に期待―中国メディア」という経済記事のコメント欄では 「日本人に来てほしいなら来てほしいと素直に言ったら? 俺は絶対に行かないけどね」 「日本各地に韓国語のオルレとかキムチ悪い名前が付いてるのがムカつくわ」 など、過剰な反応とも言えるコメントが並んでいる。こういったコメントは、中国や韓国に関するニュースには必ずと言っていいほど書き込まれる。 書き込んだユーザーらは「言論の自由」ととらえているのかもしれないが、根拠もない人種的差別発言と受け取られても仕方ない。 昨今、こうしたヘイトスピーチは横行している。驚くのは、世界遺産として認定されている吉水神社の宮司さえ公式ブログ上で差別的な発言を行っていることだ。 「中国が日本に観光で来て、鳥インフルエンザ菌をばら撒いて帰る! 中国人が触った所は必ず消毒」(2014/1/28のブログより) 「卑劣で野蛮な「中国共産党一党独裁国」をこの地球から駆逐しよう!」(2014/5/13のブログより) 「他国の迷惑を顧みないシナ人ども。」(2013/12/2のブログより) なお、この宮司はブログを紹介したJ-CASTの取材に対し「たまたま中韓の話題がホットだから問題にしているだけであって中韓に対する恨みは無いしヘイトスピーチをしているとは思っていない」と話したという。「差別的発言」に囲まれて育った子どもへの影響は 近いはずの隣国・中韓と日本の間には、慰安婦問題や特別永住権に関する論争、竹島(独島)や尖閣諸島をめぐる問題など、社会的な問題が数多く存在する。それらの解決なしに両国が心の底から和解することは難しいのかもしれないが、あてつけのように日本にいる外国人へ差別的発言を繰り返したりヘイトスピーチを行ったりしても、何一つ解決には結びつかない。国の政治体制の在り方に疑問を呈したり、自分に対して迷惑をかけた特定の誰かを恨んだりするならまだ理解できるが、日本に住む全ての外国人に対して誹謗中傷を浴びせるのはいささかやりすぎた行為なのではないだろうか。 「ネトウヨ」と言われる彼らから反感を買うとは思うが、筆者は中国とのクオーターだ。日本籍を持ち、日本に住んでいるが、子どものころから日本でヘイトスピーチを受けることは多かった。 また、旅行で中国へ行けば中国でも日本人に対するヘイトスピーチを受ける。筆者は幼少のころから何度か中国へ足を運んでいるが、子どもながら日本人に対する蔑称で呼ばれるのはいい気がしなかったものだ。 どちらの国でも、子ども相手に大人が平然とした顔でヘイトスピーチを繰り返しているのが現状だった。そして悲しいことに、中傷を受け続けると、人はヘイトスピーチに慣れてしまうのだ。筆者は、今ではネットや街中でヘイトスピーチに出くわしても、悲しみや怒りといった感情すら抱かなくなってしまった。 しかし一方で、街中のヘイトスピーチやネット上の中韓叩きを見るたびに、これを見た子どもたちはどう感じるだろうかと思う。外国人の子どもはもちろん、彼らと学校で机を並べる日本人の子どもたちについてもだ。 ヘイトスピーチを行う人にとって、差別的な発言を「言論の自由」と言うのは自身の行為を正当化するために必要なことなのかもしれない。しかし、それを見た子どもたちへの影響を考えたときに正しい行為とは思えない。今の子どもたちが私のような悲しい大人にならないことを切に願う。

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    正義とは何か「反ヘイト」という名の差別

    在日韓国人らへの憎悪をあおる「ヘイトスピーチ」を根絶するため、日本政府に具体的な対策を求める決議を韓国国会が採択した。決議は韓国に批判的な日本の保守運動や政治家までも、一部の極右団体と無理に結び付ける印象操作との懸念も拭えない。「反ヘイト」という名の差別が広がる現実。正義とは何か。

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    橋下市長vs在特会にみるエンタメ報道

    れた橋下徹大阪市長(A)と「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の桜井誠会長との面談の一部である。ヘイトスピーチは倫理違反 20日夕のテレビニュースや、翌21日の各紙朝刊はそれを「怒号飛び交い10分足らずで終了」「一触即発の雰囲気」などと報じた。 動画配信サイトで確認できるが、両者の面談の前には桜井氏が取材に押し寄せたマスコミ各社を前におよそ5分間、「君たちは記者としてきているのだから、撮影場所の約束ぐらい守れ!だからゴロツキメディアなんだ、それ以外の所で私を撮るな!」などと面罵する場面もあった。また、在特会の関係者がこの面談の数日後、別の場所での反対者への暴力行為で逮捕された。在特会は東京の新大久保や大阪の鶴橋などのコリアンタウンにおける数百人規模のデモを主導。面談で橋下(はしもと)徹大阪市長(左)に詰め寄る「在日特権を許さない市民の会」(在特会)の桜井誠会長=2014年10月20日、大阪市北区の大阪市役所(榎本雅弘撮影) 京都では、京都朝鮮第一初級学校(京都朝鮮学園運営)近くで、在特会のメンバーらが生徒たちを北朝鮮のスパイ呼ばわりするなどの街宣活動を連続して行ったため、学園側は2009年12月に京都地方裁判所に提訴。1審判決は、日本も加盟する人種差別撤廃条約を根拠に「表現の自由を超えたもので、差別に当たる」「平穏な授業を困難にし、学校の名誉を損なった」とし、在特会に対し、約1220万円の損害賠償と学園周辺での街宣活動禁止を命じ、今年7月の2審の大阪高裁でも、その判決が追認された。 今回の面談をめぐる報道では、メディア的に問題も残る。ユネスコ(国連教育科学文化機関)が1978年に採択したメディアの社会的役割についての宣言の正式名称は「平和と国際理解の強化、人権の拡大、人種差別・アパルトヘイト・戦争扇動への反対のためのマスメディアの貢献に関する基本諸原則」である。ヘイトスピーチ(憎悪表現)が、社会的コミュニケーションの倫理違反であり、「言論・表現の自由」には当たらないことは国際的合意であり、報道の基本なのだ。ご都合主義のエンタメ志向 その類似規定は日本新聞協会やその加盟各社の倫理規定にもある。にもかかわらず、メディアは、両者の面談を「プロレス観戦」のように「客観・事実」報道するだけで、「政治に興味はない、政治家はもっともげす、言論の自由を認めよ」という桜井氏の矛盾を批判せず、その責任放棄をしている。加えて、面談前の桜井氏によるメディア批判の場面には、テレビも新聞もどこもふれていない。しかし、ネットではオープンだから、マスコミから離れる人たちが出てくる懸念もある。 また、橋下市長が在特会と正面から向き合おうとしたことは評価できるし、その主張の大枠は首肯できる。だが、在特会と同じレベルで議論を行ったことは、市長職をおとしめることになる。 なぜそうなってしまったかといえば、橋下氏も桜井氏も数多くある政治的課題、日本社会の問題について、社会的に妥当な優先順位をつけず、自分の都合で一点突破主義を採用。メディア側もそうした活動のほうが記事や映像にしやすく、オーディエンス(読者・視聴者)にもエンタメとして好まれる部分があるからだろう。 そのやり方は、小泉純一郎氏が首相時代にやった郵政民営化を問うだけの総選挙に有権者も乗っかった騒ぎとも共通している。(SANKEI EXPRESS)

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    「右翼」「排外主義」狂奔するレッテル貼り

    小浜逸郎(評論家)こはま・いつお 昭和22(1947)年、横浜市に生まれる。横浜国立大学工学部卒業。思想、教育論など幅広く批評活動を展開。国士舘大学客員教授。著書に『弱者とは誰か』(PHP新書)、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書)など多数。 ここ2、3カ月の間、「在日特権を許さない市民の会」(略称「在特会」)のヘイト・スピーチなるものがずいぶんと話題になっています。この盛り上がりの主なきっかけは二つあるようです。一つは、朝日・毎日・東京・中日などの反日・反安倍政権メディアが、山谷えり子国家公安委員会委員長と元・在特会メンバーとのツー・ショットをネタに、保守政権と「ヘイト・スピーチをしてきた差別主義・排外主義的団体」との癒着を表すものとしてさかんに攻撃してきたこと、もう一つは、橋下徹大阪市長と在特会会長・桜井誠氏との会談で双方罵倒のやり合いに終始し、10分足らずで決裂してしまったこと。 これらに関する私の第一印象を述べます。前者について。攻撃の仕方が単に閣僚と「ヘイト・スピーチ差別主義団体」とのツー・ショットという現象だけをとらえた非難に集中していて、そもそも在特会がどんな主張をしてきたのか、その正当性のいかんを問うような記事がまったく見当たらない点がおかしい。またヘイト・スピーチが刺激的・攻撃的であるというだけの理由で「悪」と決めつけてよいものかどうかも気になるところです。 後者について。興奮して吠える桜井氏も桜井氏ですが、それ以上に大都市の市長という重要な公職身分にありながら、いつもの橋下氏の品格のなさを再確認する思いでした。またそれとは別に、橋下氏が「大阪でそういうことやるな、国会議員に言え」と何度も繰り返していたのが印象的でした。なるほど大阪は全国で突出して在日韓国・朝鮮人が多い地域ですから、市長としては「過激な」仕方で在日特権問題を露出させられることに伴う混乱を政治的に恐れたのでしょう。しかし彼の挑発的な性格がかえって裏目に出たようです。なお在日特権問題についての彼の考え方の是非については後に触れます。 さて一見センセーショナルなだけにみえるこれらの事件の背景には、じつはたいへん複雑で厄介な問題が存在しています。本稿では、これをできるだけ思想的に掘り下げてみることにしましょう。在日特権という厳然たる事実 まず私が知りえた限りでは、在日特権は存在します。その最も顕著なものは、生活保護に関する優遇措置です。一番新しいところで、2014年の厚労省の調査によると、生活保護率は全体平均が千世帯のうち17世帯であるのに対して、在日韓国・朝鮮人は142世帯という突出した数字になっているそうです。約8・4倍ですね。もちろんこの資金の源は日本国民の税金です。また国民年金加入者で40年間保険料を納めた場合の老齢基礎年金は月額6万6千円ですが、65歳の生活保護受給額は月額12万円であり、これがそのまま永住外国人にも適用されるわけですから、永住外国人の無年金者が日本人の国民年金加入者よりも多額の受給を受けるという逆転現象も起きています。 少しさかのぼって2008年時点では、在日韓国・朝鮮人のうち生活保護を受けている人は3・9%、これは日本人1・2%の3・25倍に相当します。なお在日韓国・朝鮮人は1991年に制定された入管特例法によって特別永住者と呼ばれるようになりました。そこで、同じ2008年時点で生活保護を受けている人の割合を、一般永住者(外国人)のそれと比較してみますと、特別永住者が一般永住者の約4・46倍と計算されます。 2014年の調査と2008年の調査で数字が大きく異なっているのは、前者が世帯単位、後者が個人単位であることが主たる理由と考えられます。生活保護は世帯単位で支給されますが、世帯単位のほうが倍数が大きくなるということは、在日の人たちが世帯分離の操作(たとえば偽装離婚など)を日本人よりも多く行って、よりたくさんの給付を受けられるようにしている可能性が考えられます。ちなみに、だいぶ古い資料ですが、1995年のSSM調査研究会による社会階層と社会移動全国調査によると、在日韓国・朝鮮人の方が日本人よりも収入が高くなっているそうです。 次に、在日韓国・朝鮮人は、通名使用が認められているので、いくつもの通名を使用することが可能であり、これを犯罪に悪用すれば捜査の妨害をしやすいという点も見逃せません。現に過去にそのような例がいくつもあったそうです。また、他の外国人ならば犯罪を犯したらどんな軽犯罪でも本国に強制送還されるのに、在日韓国・朝鮮人は、入管特例法によって、内乱罪のような例外を除いて、強制送還されない規定になっています。これは一般の外国人と比較しての特権というべきで、要するに日本人と同等の扱いを受けるということでしょう。さらに、同じく他の外国人と比較しての特権ですが、出入国に当たっては日本人用のゲートを使うことができるので、めんどうなチェックを受けないで済みます。法的には外国人でありながら外国人扱いされないわけですね。このことは、安全保障上の問題点を孕みますし、また密輸などの犯罪にも利用することができます。韓国での在日差別韓国での在日差別 こうして在日韓国・朝鮮人にはいくつかの特権が与えられていることは明らかですが、これらの特権は、かつては植民地人が受けていたさまざまな社会的差別の歴史によって当然(あるいは仕方ない)とみなされていました。しかし現在では、法的にも就業面でも結婚面でもほとんど差別らしい差別は見当たらず、また収入面の格差も見られません。指紋押捺もなくなりましたし、帰化しようとすればそれほどの面倒な手続きもいりません。さらに2008年には自民党によって帰化手続きをさらに簡略化するための法案が作られています。 ちなみに帰化の実績は90年代に急増し、1万人を超える年もありました。1950年以来60年間に、帰化者の累計はほぼ30万人近くに達すると推計されます。80年代末には70万人いた在日の人たちは、現在約50万人に減っているので、この減少には90年代以降の帰化者の累積が大きく貢献しているとみていいでしょう。 では、いまも韓国・朝鮮籍を維持している人たちがなぜ本国に帰ろうとしないのか。それにはいくつかの理由が考えられます。韓国政府は在日韓国人の本国帰還を非常に嫌っており、密入国者の送還を拒否したこともあります。在日の人たちもそれを知っているのです。在日の人たちを差別しているのは、日本ではなく韓国なのですね。また北朝鮮は、ご存知の通りの状況ですから帰国を望む人はほとんどいないでしょう。日本にいる方が生活も保障されるし就業機会もあり居心地がいいのです。おまけにいまほとんどの在日の人たちはすでに二世、三世、四世であり日本語が母国語ですから、メンタリティーは日本人と変わりません。在日の人たちの多くは、本音では日本国籍がほしいのだと思います。 また1950年時点で在日の半数近くが密入国者だったという有力な説もあり、戦前から自由選択で来日した人の割合も多く、戦時徴用された朝鮮人はわずか245人だったという政府の公式発表もあります。戦前からの密航、済州島四・三事件での虐殺を逃れての密航、ヴェトナム戦争時の徴兵を逃れての密航が三つの大きな密航といわれていますが、それ以外にも経済的理由での密航者が相当数いると考えられます。ということは、朝鮮の苛酷な生活実態に比べて日本がいかに魅力的に見えたかということの証拠でもあるわけです。 さてここからが問題ですが、日本でずっと暮らしたいが帰化はしようとしない人たちのなかには、在日としての特権を手放したくないという動機を持つ人がかなりの割合で含まれるという推測が成り立ちます。もちろん、先祖伝来の民族アイデンティティを守りたいという純粋な思想的立場の人もいるでしょうが、それは以上述べてきたことから考えて、現在ではどうみても少数派でしょう。 誤解を避けるために断わっておきますが、私はけっして、個々の在日の人たちの動機を歪んだもの、醜いものとして非難するためにこの指摘をしているのではありません。ある特権や利権が目の前にあるときにそれを手に入れようとするのは、人間の自然な傾向です。問題は、そういう特権を許す制度や制度の運用の仕方にあるというべきでしょう。そのかぎりでは、橋下市長の「国会議員に言え」という発言は正しいのです。 もう一つ指摘しておくべきことがあります。差別の実態がほとんど消滅して、しかも特権を手にしているのに、「かつてあった差別」をタテにしてそれを利用しようとする団体は、民団や総連に限らず、正当な反差別団体が不当な利権団体に堕落した姿を示しているのです。一部の同和団体関係者と同じで、要するに実態のなくなった「弱者」「被差別者」の看板を聖なるものとして振りかざし、公共機関から利権をむさぼり取ろうとしているわけです。その傾向をかぎつけているかぎりでは、桜井誠氏をはじめとした在特会の主張は正しいのです。ただし、「朝鮮人は朝鮮半島に帰れ!」などの「ヘイト・スピーチ」は、汚い言葉だからいけないのではなく、むしろその声をかける対象と、メッセージに示された解決の方向性とが不適切だと言えるでしょう。これについてもあとで触れましょう。「ヘイト」の下品な暴力 新聞、テレビの上品な暴力「ヘイト」の下品な暴力新聞、テレビの上品な暴力 さて、「ヘイト・スピーチ」という概念ですが、これをただ「ヘイト(憎悪)」的だからという理由だけで「悪」と考えるのは、思考停止だと私は思います。いかに下品だろうと、そうするだけの根拠が同時にきちんと示されていれば、その主張には耳を傾けるべきです。こんなひどい相手は潰すしかなく、相手を潰すのに有効だと思える時には「ヘイト」もありです。ただし、戦術的に見てそうしないほうが得策だという判断が成り立つ場合は避けたほうがいいでしょう。上品ぶるのもまた一つの手です。現に、言論機関という社会権力を手にしているマスメディアは、上品で穏やかに見える「言論」という手段によって、じつは底知れないほどの大きな暴力をふるっていることがあります(例:朝日新聞)。 そういう可能性があることを、今回の在特会問題を書きたててきた反日メディアの記者たちが自覚しているとはとうてい思えません。ヘイト・スピーチ規制を議案として取り上げようという機運が起きた時に、自民党の一部に、国会前の左翼デモ(反原発や反集団的自衛権)もその対象にしようという動きがあり、反日メディアはそれをとんでもないこととしてごうごうと非難しました。さて、私はこの件に関して別に自民党や在特会の肩を持つわけではないけれど、左翼デモの叫びや左翼議員の野次などのなかにもけっこうヘイト・スピーチに属するとみなせるようなたぐいがあるのは事実ではないでしょうか。 ところで、なるべく暴力は振るわないほうがいいというのは、文明生活の共通了解になっていて、その了解が公式的には無条件に正しいとされているために、今度はその了解の範囲内で、口汚い罵りはよくないということになりました。だんだんお上品で紳士的になっていくのが文明社会の建前のようです。それはそれでまあ結構なことですが、こういうことがあるのです。 公式の表現がお上品で紳士的になっていくと、単に表現の形式がそうなっていくだけではなくて、その内容にも変化がもたらされます。言葉が抽象的になり、玉虫色になり、八方美人的になり、衛生無害になり、優等生的になっていく。結局、本音はますます引っ込んできれいごとばかり言うようになる。国際舞台での首脳会談などにはそれを感じさせるものが多いですね。あれはもちろん、背後に周到な戦略を隠している場合が多いのですが、聞かされる方は、言葉だけをとらえてもただのきれいごとを並べているとしか思えません。微妙なニュアンスをかぎつけつつ他の情報もできるだけ動員してその本音を憶測するほかないのです。 たとえば、政治家のちょっとした失言が大げさに問題にされて辞任にまで追い込まれます。私自身も、あれは戦術上拙いなと思うことがよくあります。しかし、人は気づいているでしょうが、政治家の失言には、たいてい正直な本音が出ています。そうしてけっこう本当のことを言っていることが多いのです。ヘイト・スピーチがそれと同じだとは言いませんが、公式的な言論が持つ無意識の抑圧性に対するガス抜きの意味を持っているという点では共通しています。 在特会の人たちはおそらく、韓国政府や在日団体の言い分なら何でも聞いてしまう戦後日本の自虐性に苛立っているのでしょう。この自虐性は左翼だけではなく、保守政治家やマスメディア、行政担当者、要するに権力を持っている人たちにも共通している。だからこそ苛立ちはいよいよエスカレートする。その苛立ちが「ヘイト・スピーチ」として現れる――これは心情としては理解できるところがあります。権力者たちが取り澄まして隠している下半身を露出させた。そういう問題提起の意味がこの団体にはあったと思います。朝日新聞の失敗を隠すため朝日新聞の失敗を隠すため ところで、ここで反日メディアが問題にしているいわゆるヘイト・スピーチは、単に口汚い言葉の暴力だからいけないのではなく、排外主義的で、民族差別的だからいけないのだという反論があるでしょう。一見もっともな言い分ですが、こう主張する人たちが、ただ頭から「在日は差別されている弱者だ」と決め込んで、現在の実態を正しく把握しようとしないのはおかしいと思います。事実はすでに述べたとおり、在日の人たちは普通の日本人に比べて特に弱者であるわけではありません。もちろん、だからといって「朝鮮人は朝鮮半島に帰れ!」式の言い分が正しいとは言えません。それは主張として間違っているし、何の解決も示唆しません。何しろ彼らは帰るにも帰れないのですから。また在日の人たちは、折からの嫌韓ムードの高まりによって、いわれなきとばっちりを受けている側面もあるでしょう。そういうことが在特会の一連の言動によって助長されるとすれば、人間として許されることではありませんね。 しかし一方、反日メディアがなぜ、在特会と山谷氏との関連性や、「カギ十字」によく似たシンボルマークを掲げた団体と高市早苗総務大臣との関連性を、単なる写真というイメージによってかくも執拗に植え付けようとしているのか、これもまた、ヘイト・スピーチに負けず劣らず、いや、それよりも数段狡猾な戦略だと言えます。彼らの動機は明らかです。要するに朝日新聞のみっともない大失敗によって敗色が濃くなったので、慌てて次なる反権力テーマを探し当て、そこへ向かって申し合せたように(じっさい申し合わせているのかな)エネルギーを集中させているのです。安倍政権は右翼、差別主義者、排外主義者やネオナチ団体とじつは結託している!――このイメージ操作に成功すれば、朝日の失敗は多少とも国民の目からぼかされることになる、というわけでしょう。 民主党は負ける、反原発運動も伸び悩み、特定秘密保護法案アンチキャンペーンも効果なし、集団的自衛権閣議決定の阻止もままならず、そこへもってきて朝日の不祥事です。左翼メディア、ここは一発新規巻き返しとばかりに格好の攻撃材料を探り当てたと踏んだのでしょう。これは、中央に対する闘争に敗北すると、やれ沖縄だ、三里塚だ、アイヌだ、女性だ、薬害エイズだと、次々に新しい「弱者」なるものを見つけ出してはそこに政治闘争課題を移していったかつての左翼の手法と同じ構造です。 これらに課題がないと言っているのではありません。反権力、反国家組織延命のためにそれらを利用する手口が、じつは真に問題当事者のことを考えているのではないというところが問題なのです。繰り返しますが、写真で同席していたなどのイメージ戦術は、反日メディアが常套手段として用いるじつに卑劣で姑息な方法です。これは、団体の言い分の妥当性をなんら検討しないのですから、言論機関としての役割を果たしていない自殺行為と言えましょう。卑劣な攻撃を恐れるあまり事なかれ主義に陥る政治卑劣な攻撃を恐れるあまり事なかれ主義に陥る政治 しかしそれはそれとして、じつはこれから述べることが、本稿の最も重要な点です。反日メディアの攻撃方法が卑劣だとして、では彼らが指摘する「現政権と在特会とのつながり」という問題は、まったく根も葉もない妄想にすぎないでしょうか。現実の舞台裏については私は知りません。ここでは、あくまでも思想的な関連という意味で、つながりが皆無とは言えないだろうということを指摘しておきたいのです。 政治家たちは政治的な理由から、こうした民間団体と自分とは無縁だと強調します。その配慮も理解できなくはありませんが、実際には、在特会の主張のうちのまともな部分、つまり、在日韓国・朝鮮人が種々の特権を手にしているという主張は事実なのですし、その不公平性と日本国民がこうむる不利益とは、自民党内でも問題とされているはずです。だからこそ、先述のような帰化促進のための法案が構想されたりもするわけです。 こうした関連性をまったくないものとして、在特会のほめられない行動の部分だけを根拠に、私たちとは無縁だとして切り離すことは、「臭いものには蓋」の事なかれ主義ではないでしょうか。在特会その他の団体は、トカゲのしっぽとして切られて、いっそう過激化するかもしれません。むしろ政界ではなかなか公にしにくい本音の部分を在特会が代弁して問題提起している事実を堂々と認めて、それではどうすべきかというように議論を発展させるべきだと私は思います。 この問題についての二つの参考例を出して、それについて私見を述べましょう。一つは、10月22日にTBSラジオで放送された「荻上チキ・Session22『在日韓国・朝鮮人の戦後史』」という番組で拾われている橋下徹氏の考え方です。ちなみにこの番組には二人のゲストスピーカーが出てきて「在日問題の歴史的経緯」をしきりに強調していながら、ほとんどは制度史的な側面の説明に終始していて、戦争直後の混乱期に密入国者や治安攪乱者や犯罪者がいかに多かったかとか、現在、在日の人たちが具体的にどれだけの特権を手にしているかなどの現実的な問題にはまったく触れておらず、橋下氏や在特会を批判するために仕組まれたとしか思えない偏向番組です。 さて橋下氏はこの中で、「いろいろな歴史的経緯のもとに特別永住者制度がもうけられたので、それを根こそぎ否定することはできないが、同和対策事業と同じで、ある程度時間が経つと特別視することはかえって差別を生む。すでに現在では日本も韓国も主権独立国家として互いに認めているのだから、通常の外国人と同じに扱うようにじっくり時間をかけて永住者制度のほうに一本化すべきである」という趣旨のことを述べています。この橋下氏の見解には、前半は完全に同意できます。しかし後半は、在日の人たちが実質的には日本人であるとか、じつは日本を離れたくないと思っている人が多数であるといった現状を十分踏まえたものとは思われません。 もう一つは、本誌前号(12月号)掲載の衆議院議員・次世代の党の桜内文城氏の論文「遵法精神なき外国人への生活保護支給を憂う」です。氏は次のように述べています。 《私達は外国人を排除するために外国人への生活保護の適用をなくすべきだと主張をしているのでは決してありません。むしろ逆で、法律に基づかない行政判断に依らずに、外国人の保護は立法府の審議を経た別の法律できちんと根拠づけてやりましょうといっているのです。私達が提案し、成立を目指しているのは外国人緊急支援法(仮称)という法律です。生活保護は国民のための制度であるから外国人をその対象にはしない。しかし、生活保護とは別に急に外国人が生活に困った場合には生活保護に準じる措置を一定期間に限って認める。そういう法律を作って、法的根拠があるなかで外国人の保護を図っていく。》 この考え方にも一定の説得力があります。橋下氏の理念を生活保護という具体的問題に反映させるならば、その限りで整合性を示していると言えるでしょう。しかしこの場合にも、在日の人たちを本国の韓国・朝鮮人と同等の外国人とみなしており、その特殊性を考慮していないという問題点があります。氏は同論文の中で、「日本に帰化して国籍を取得するならば、いざ知らずそういう日本に敵意を持っている国家の国籍を持ち、忠誠を誓うなり、帰属意識を持っているわけでしょう。(中略)何でそういう国の人々(中略)を日本の税金で保護しなければならないのでしょうか。」と訴えていますが、これは必ずしも当を得ていません。いま在日の人たちのほとんどは、すでに二世、三世、四世であり、特に韓国の場合に言えることですが、本国に対する忠誠意識や帰属意識などほとんど持っていないと思います。しかも韓国からは差別されており、日本での永住以外に道はないというのが大方のところでしょう。私は何人か在日韓国人を知っていますが、彼らのうちに韓国への明確な帰属意識、忠誠意識を見出すことはできませんでした。 ただ、在特会のまともな主張の部分を取り上げず、その乱暴なパフォーマンスの部分だけをメディアに突かれて、その団体とは無縁であるかのように振る舞う政治家たちに比べれば、この二つの主張は、彼らの問題提起をよくくみ取っていると評価できます。戦後レジームからの真の脱却戦後レジームからの真の脱却 そこで結論です。これは私なりの提案ということになります。そのための要点は、・嫌韓ナショナリズムにはそれなりの根拠があることを認めるが、その感情を在日問題にそのまま反映するのは筋が違うということ。・同時に在日としての特権は極力なくしていくべきこと。・しかし、朝鮮が旧植民地であったという特殊性に鑑みて、一般外国人と同じ永住者とみなす方向性を取ることの困難を認識すべきこと。 以上三点を軸に、在日の人たちの処遇を政治的にどうすべきかを考えると、主力を帰化促進政策の方向に置き、かつ一方で、帰化を望まず在日としてのアイデンティティを大切にしたい人には、そのための選択肢も残しておく。ただしその場合に、これまでの特権は認めないということになるでしょう。しかしこの提案は、在日の人たちの帰属意識に関する推定に基づく部分を含むので、こういう政策を取る前に、政府が在日の人たちの生活意識などについて綿密な調査研究に乗り出すことが条件です。いずれにしても、反日メディアも在特会も、本国人と在日の人たちを混同するという誤りに陥っています。前者はその自虐意識において、また後者は在日がすでにほとんど日本人である実態を見ないという点において。この両方の見方から自由にならないかぎり、戦後レジームからの真の脱却は望めないでしょう。

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    反ヘイトの問題と選挙における議論の幅

     ネットでは大きな問題として取り上げられる傾向の強いヘイトスピーチや反ヘイト活動ですが、実際に選挙の情勢調査をしていると有権者が重視する話題の上位には入ってこないマイナーな問題に留まっています。 唯一、近畿圏や東京の一部の選挙区ではヘイトスピーチの問題が少し争点として頭を出してきているかな? という程度で、それ以外のブロックでは「この問題は大事だ」とする層は4%以下の取るに足らない問題と見られます。これはヘイト関連だけでなく、LGBTや動物愛護、難病支援といったマイノリティに対する政策は取り組んでも議員にとっては票にならない分野であり、ヘイトの問題に積極的に取り組んでも利点はないと思われがちです。 しかしながら、当事者にとっては極めて切実な問題であり、日本で適法に暮らし納税をしている外国籍や帰化した日本人にとっては、身に迫った差別に直面しているわけですから、どういう形であれ法的な救済を求める声は大きくなっていくでしょう。実際に、大手全国紙の各候補者アンケートでは、憲法で認められた表現の自由を制限してでもヘイト関連の対策は国として採っていくべきだ、という意見を回答する層が幅広く見られました。 問題は、これらの差別の対象となってしまっているマイノリティの人々そのものではなく、その人々を具にしての民族主義的なヘイトスピーチと、それに対する反ヘイトという市民グループが暴徒化して、極右と極左で文字通り殴り合いになってしまっていることです。ここまで来ると、単なる暴動の前兆であって、その理由が差別を巡っての争いであったとしても過激派のゆりかごのような状態を危惧するのも当然のことでしょう。  反ヘイト名乗る「男組」幹部ら8人逮捕 右派系男性への暴行容疑(産経ニュース 2014/7/16)  この襲撃とされるものが、実際どのような状況で発生したのか定かではありませんが、今回は国民の審判における争点とはならずとも次回の国政選挙がもし行われるとしたら重大な問題として前面に出てくる可能性は否定できません。 その背景には、自らの暮らしを良くする為にどう努力しても改善の兆しが見えないという低所得者の「諦め」と、広がる格差の中での「犯人探し」が進んでいった結果があり、暴力的な形での差別行動の激化に繋がっているとも考えられます。  ヘイト側も反ヘイト側も、その主たる参画者の素性がもっと明らかになっていけば効果的な対策の採り方もかなり見えてくるのかもしれませんが、これらの暴動の根幹には貧困と格差拡大、そして将来に対する絶望のようなものがあるのだとすると、いくらヘイト方面を取り締まっても予備軍は次々と出てくるだけにも思えます。 結局は、日本社会が将来への展望を失った結果として、いろんな病理が明らかになってくるのだと考えるほかないのではないでしょうか。

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    日本人の「社会の心」はどこへ

    流」という言葉が巷で踊ったが、2000年代以降、格差社会などが叫ばれるようになった。また、昨今では「ヘイトスピーチ」や「専業主婦志向の若い女性たち」など若者の保守化を思わせるニュースを聞く一方、海外の名門大学に留学する若者たちもいる。この20年間、日本人が世の中をどう見て、そこから何を感じとってきたのか――。それを大きな視野で見たものを「社会の心」と呼び、その変化についてまとめた『現代日本の「社会の心」』(有斐閣)を上梓した計量社会学が専門の吉川徹・大阪大学大学院人間科学研究科教授に話を聞いた。本多カツヒロ (ライター)『現代日本の「社会の心」――計量社会意識論』(吉川 徹 著、有斐閣) ――まず本書では現代の日本人の心を探るために、1985年と現在を比較されています。なぜバブル真っ盛りのこの年なのでしょうか?吉川:今の時代認識として、終戦の1945年から昭和が終わる90年代までが”昭和”として一括りにされる傾向があります。だから”戦後初”や”戦後最大”というように、45年以降、この国ではずっと”戦後”と言い続けています。これはひとつには、メディアがそういった言説を発することが要因になっています。まあ、若い人たちにとっては、昭和についてのリアリティがないので仕方ないのかもしれませんが。 しかし、リアルタイムでその時代を生きた世代にとっては、細かい時代の区切りがあり、たとえば高度成長期とバブル期では全く違うわけです。ただ、その右肩上がりの時代を今さら延々と語るわけにはいかないですし、一点印象深い時代で区切ろうと。それが1985年で、バブル景気の少し前なのです。この年は昭和の終わりに近いポイントで、なおかつ今を見るための絶対ゼロ点として描きやすいと思ったからです。 実際に、今の霞が関や永田町の人たちにとっても、85年は絶対ゼロ点になっていて、その時代から良いところを継承し、そこを起点に考え始めているところはあると思います。――なるほど、85年は日本経済も好調で、ここ20年の不景気と比較しやすい。その頃はちょうど「1億総中流」なんて言われた時代ですが、実はそうではなかったと本書で指摘されています。 吉川:高度経済成長期を経て、東京大学の先生からメディアまでが「1億総中流」や「国民の9割が中流」と言うなかで、自分の家も隣の家も確かに豊かになっていたのがこの時代です。そうした豊かさの時代変化が意識のデータにも現れているとすれば、一見つじつまが合うように思いますよね。しかしよく見直すと、そういう結果が出るようにデータを読み誤ってしまっていたところがあるのです。 もし、本当に高度経済成長が原因となってどんどん国民の意識が「中」になっていたのならば、格差社会になれば今度は上下にわかれていくはずなのですが、実際にはその後のデータは何の変化も示しません。――でも、その時代を生きていた人たちは総中流だと思っていましたし、だからこそ、あの時代は良かったと。これはメディアの力が大きかったのでしょうか? 吉川:確かに表面的にはそうでしたが、私はメディアの報道に大きく左右されるような表面的な世論の動きを語っているわけではありません。 これは本書を書いた理由でもあるのですが、現在のように予測の難しい新しい出来事が次々に起きると、時代の大きな動きには目が行きにくくなりがちです。たとえば世の中がハードウェアとソフトウェア、そしてアプリから成り立っていると考えてみます。ハードウェアとして、日本社会の経済や政治などのインフラや組織と呼ばれる部分があります。ここについては「閉塞している」だとか「雇用が流動化している」といった、どう変化しているかという事実に基づいた議論があります。他方で、実際に人の目に触れるアプリに相当するものとしては「ヘイトスピーチ」や「若い女性たちの専業主婦志向」といった社会の現象が見えている。 しかし、その間にあるソフトウェア、「社会の心のプラットフォーム」と呼んでいますが、ここについては誰も語らないし、仕組みが説明されないまま放っておかれている。だから、何が起こるかわからなくなって、メディアの報道によって右往左往するのです。社会学者はその点について、社会の構造と社会関係や社会意識のあり方の関係をきちんと論じるのが役割です。 そのように社会を見ていくと、85年は、日本人の社会の心が根拠なくポジティブだった。それを本書では「幻影的平準化状況」と表現しています。つまり、「1億総中流」で、みんな豊かで平等な社会になったという明るい気持ちを社会全体が共有していたということです。それに対し現在は「覚醒的格差状況」と呼ぶべき時代状況にあります。要するに今の日本人はその当時の酔いから醒め、正確に社会のしくみを理解できるようになっているということです。よく、「あの時代は良かった」といわれるのは、酔っていれば何も考えなくて済みますから、気持ちが良かったというだけのことだと。あの時代は本当に平等だったのではなく、実在する格差に、一人ひとりが目配りをしていなかっただけだと言えるでしょう。――つまり、今の時代、色々なものがよく見えるようになっているということですね。 吉川:報道を見ると、今は日本社会の状態について「ネガティブな側面」や「システムの齟齬」を指摘して、やたらと「〇〇問題」という取り上げ方をされがちです。しかし、85年当時は、実際にはさまざまな問題がありましたが、そこに目が向けられることがほとんどありませんでした。なぜそのようにのんびりしていたのかといえば、日本人の一人ひとりが自分の頭で判断していなかったからです。 たとえば、夫が大企業で働き、労働組合に加入している専業主婦のような場合、その労働組合が支持している政党の政策の中身ついて、いちいち判断しているわけではなかったのではないでしょうか。ただ、夫の会社の利益にもなるし、現状で日本がうまくまわっているのだから、政党が掲げる主義を信じて選挙で投票しようと単純に考えがちだったのだと思います。――それはまさに本書に書かれている権威主義ともつながるのでしょうか? 吉川:そうですね。権威主義に限らず、「伝統的か近代的か」という基準の上に様々な物事が乗っていました。それは仕事のみならず、家族の形態や子育ての方法にも当てはまります。たとえば、当時、「紺ブレ」や「トラッド」などというコンサバな服と、カジュアルな服が共に流行っていましたが、紺ブレを好む人たちは伝統を重んじ、カジュアル系を好む人たちは革新的な新しいものを好んでいたというようにふり返ることができます。こうした流行でさえ「伝統的か近代的か」という大きなプラットフォームの上に乗っていたので、その枠組みを使って社会現象が解釈できたのです。しかし、最近ではそのように単純な理解はできなくなっています。――わずか20年ほどでなぜそんなに変わってしまったのでしょうか? 吉川:それは85年当時と比べ、日本人の中核となる世代が入れ替わったことと、日本人の教育水準が高くなったことが大きいと私は考えています。85年にはまだ国民の半数近くが戦前の教育を受けた人びとで、義務教育卒の人が全体の3割以上いました。しかしその後「大学進学は当たり前」と考える世代が労働力の中心となり、旧世代と入れ替わったことが大きい。最近では、子供の学力が低下しているとよく話題になりますが、実はOECDの調査では、日本人の成人の学力は世界で1位です。現在の日本は国民全体のリテラシーが高まり、知識欲が高い状況になったので、それに伴って雇用や経済の状況や社会のしくみが変わってきたのは当然のことです。――学歴に関しては、ある人の行動を知るには、その人の学歴が重要だと書かれています。これはどういうことでしょうか? 吉川:その人の生活の様子や、「社会の心」がどうなのか考えるとき、一昔前なら年齢によって大きな考え方の傾斜がありました。戦前生まれや戦中生まれの祖父母の世代とは受けた教育も、戦争体験も全く違うというような状況です。しかし、高度経済成長後の日本人はそれなりに豊かな水準で、変化の少ない暮らしを継続してきましたから、団塊の世代とその孫を比べてみると、世代ごとの人生経験の違いによる傾斜が以前ほど大きくはありません。 また、職業に関しても、一昔前ならば、終身雇用でずっと同じ会社で働いている人の愛社精神が強い、というように仕事がアイデンティティとなり、その職業らしい人になりやすかった。でも、現在いわれているように仕事も会社もどんどん変わるとなると、そうはなりにくい。 また、この国には欧米諸国のような白人とそれ以外のエスニシティや、カソリックとプロテスタントというような強烈な社会集団の境界がありません。さらに言えば、イギリスやフランスほどには階級がハッキリしているわけでもない。 そうしたときに、何が人の行動を予測する要素となるかを、この30年間で見比べると、世代や仕事などは指標として弱くなって、学歴の影響力だけが伸びているのです。言い換えれば、お金や仕事の問題は、こと日本社会においては、学歴をベースにしてそのうえに乗っているのです。社会のハードウェアの根幹に学歴があって、学歴以外のものが人の行動を予測する力を強くもたないのが現代日本社会の特徴です。 そしてもうひとつジェンダーへの目配りも大切です。一昔前には男女間にあってはならないような違いがありましたが、その男女の違いは今、学歴の水準をはじめとして多くの点で、時代を追うごとに小さくなっています。だから私の調査したデータでは、現在では若い女性の考え方は男性よりも先進的で、文化的な活動の部分ではむしろ女性のほうが積極的になっています。――学歴で明確に好みがわかれるものはありますか? 吉川:プレミアム商品です。お金を持っている人が買うのかなというイメージがありますが、このコトバに反応しているのは、お金があるかどうかや会社で昇進したかどうかではなく、それらの要因の影響力をコントロールしても、大卒層がプレミアム商品を好む傾向が残ります。逆に非大卒層はこの言葉には強く反応しません。つまり、「プレミアム」は消費者の中から大卒層を選び出すはたらきをもつキーワードになっているのです。 だたしこれは、現代の大卒層の好みや判断力によるもので、かれらが一定の主義に基づいて行動しているためではありません。たとえば、団塊の世代では、主義ということが第一の優先事項でしたので、大卒で右翼的思想を持つ人は少なく、大学生はだれもが学生運動に参加するというのがお決まりのことで、環境保護運動や無農薬食品の購入などもその延長線上にありました。しかしこれは結局、その世代はたとえ大卒層であっても、自分自身の判断を停止して、特定の主義に寄りかかって行動する面をもっていたということです。 一方、現在の大卒層は、政党の党首が口にするようなこと程度ならば、自分でも考えられると思っているから、既成の主義に従うわけではなく、選挙の度に自分の判断で投票する政党を変えるのです。だから政権が揺れてしまう。それに比べ、現在の非大卒層のほうは、依然として政治のことをわかりやすく整理して誰かに提案してほしかったり、お任せしたいという傾向が強いのです。――出版後の反響はどうでしょうか? 吉川:私の年齢プラスマイナス3歳くらいの方々から「激奨」されています。ただ、この本を本当に読んで欲しいのは、それよりもっと若い世代の人たちです。若い人たちには、この本に着想を得て、自分なりの続きを考えて欲しいと思います。それこそこの本をプラットフォームとして、今の現象を読み説き、言説の深まりが出てくれれば嬉しいですね。

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    ネトウヨ批判の源流「排外・好戦的なのは大衆」という嘘にご用心

    青山学院大学教授 福井義高知識人こそ最も簡単に プロパガンダに心奪われる  ジャック・エリュール反EU勢力躍進の衝撃 5月下旬にEU加盟各国で行われた欧州議会選挙で、既成政党のみならず主流メディアも一体となって行ったネガティブ・キャンペーンにもかかわらず、EU統合推進反対派が大きく票を伸ばした。英仏では既成政党を抑え、ナイジェル・ファラージュ党首率いる英国独立党(UKIP)とマリーヌ・ルペン党首率いる国民戦線(FN)がそれぞれ3割近く得票し、第一党となった。こうした「右」の政党だけでなく、ギリシャなどでは「左」の反EU政党も躍進した。 反EU政党は、英国独立党やドイツのための選択肢(AfD)などEU懐疑派と、国民戦線やオーストリア自由党(FPO)など「極右」に二分されることが多い。既成政党や主流メディアから見て、その主張の中身やスタイルがぎりぎり許容範囲に入るのが懐疑派、逸脱するのが「極右」ということなのだろう。 たとえば、反移民といった場合、英国独立党がEU拡大で増大する東欧からの貧しい白人労働者の流入を強調するのに対し、国民戦線は中東アフリカからの非白人移民抑制を鮮明にしている。こうした力点の相違が懐疑派と「極右」を区別する基準と思われる。 英国の独自性を尊重しつつ、小さな政府及び自由貿易を志向する英国独立党は、現在の保守党以上にマーガレット・サッチャー首相時代の保守党に近いとすらいえ、非白人にも支持を呼びかけるなど、国民戦線など「極右」と一線を画すことに努めている。 しかし、英国独立党の躍進は内紛で自滅した「極右」英国国民党(BNP)支持層取り込みによる部分が大きいし、結局、非白人が多数を占めるロンドンで得票率が大幅に低かった(労働党の半分以下で保守党にも及ばない第三位)ことからわかるように、非白人に英国独立党支持者はほとんどいないと思われる。一方、「極右」国民戦線も、従来指摘されてきた反ユダヤ的傾向のマイナス・イメージを払拭するため、ルペン党首は前党首である父ジャン=マリー・ルペンと異なり、親イスラエルを標榜している。拍子抜けするほど穏当な「極右」の主張 それでは一体、「極右」国民戦線はどのような主張を行っているのであろうか。その政策大綱(Notre Projet)で明らかにされているEUや移民に関する具体的主張は、極端な意見というよりも、意外(?)に「普通」なのである。 まず、通貨統合が各国経済にダメージを与えているので、ユーロを廃止し独自通貨に回帰すべきという主張は、その実現可能性はともかく、経済合理性にかなっている。西村淸彦日本銀行副総裁(現東京大学教授)が講演(2012年3月5日)で指摘しているように、「ユーロが導入されたのは、最適通貨圏の前提条件が満たされたからではなく…メンバー国のアイデンティティを維持したままでも最終的には経済条件が本当に『収斂』するはず」という根拠薄弱な希望的観測に基づいたものであり、案の定、「貿易や金融を中心とした様々な不均衡(インバランス)が蓄積し…為替レートが調整される余地がないなかで、適切な調整メカニズムを欠いていたために、債務危機へとつながっていった」。 つまり、正統的経済理論の立場から見て、ユーロに経済合理性はないということである。本来、モノの移動の自由すなわち自由貿易と通貨統合は無関係であり、伝統的に経済合理性を重んじる英国はユーロに参加せず、独自通貨ポンドを維持している。 次に、移民については、全面禁止ではなく現状の年間二十万人を一万人に抑え、同化政策を進めることで、フランスのアイデンティティを強化することを訴えている。既成政党や主流メディアは移民排斥論と非難するものの、国民戦線が共和制モデル(modele republicain)の再確認と呼ぶこうした主張は実際、一昔前まで自由主義者や(反共)社会民主主義者の間でも常識であった。 たとえば、二十世紀を代表する法哲学者ハンス・ケルゼンによれば、「多数決原理の適用には、いわばある自然的な限界が設けられている。多数と少数とがお互に調和しなければならぬとすれば、お互に意思が疎通しえなければならない。…多数決原理は民族的に単一な団体(ein national einheitlicher Korper)の内部においてのみ完全な意味をもつ」(『デモクラシーの本質と価値』1929年第二版)。 また、ケルゼンの友人で同じくオーストリア出身の大経済学者ヨーゼフ・シュンペーターも、デモクラシーが機能するのは、「重要なあらゆる利害関係者が、実際上なんらの異議をも唱えることなしに(practically unanimous)祖国に対する忠誠と現存社会の構造的原理に対する忠誠とを誓う場合だけである」といっている(『資本主義・社会主義・民主主義』1950年第三版)。 ケルゼンやシュンペーターという、本来の意味での「リベラル」すなわち政治的自由主義者が、こうした不朽のデモクラシー論を書いた20世紀前半と今で状況が大きく変わったわけではない。多文化共生推進論者のロバート・パットナム・ハーバード大学教授は2007年に、移民流入が共同体の社会的連帯感、異なるグループ(人種)間はもちろん、同じグループ内の連帯感も低下させることを示した実証研究を、長年の逡巡の結果、学問的良心から公表に踏み切り、学界に大きな衝撃を与えた(『スカンジナビアン・ポリティカル・スタディーズ』30巻2号)。 黄色いフランス人、黒いフランス人、褐色のフランス人がいれば、それは素晴らしいことだ。その存在は、フランスがすべての人種に開かれ、普遍的使命を持つことを示す。ただし、その数がほんの少数(petite minorite)に過ぎない場合に限られる。さもなければ、フランスはもうフランスでなくなる。我々は何にも増して白色人種の、ギリシャ・ラテン文化の、そしてキリスト教の欧州の民なのだ。 これはルペン党首でも他の「極右」政治家でもなく、二十世紀フランス最大の英雄にして今に続く第五共和制の父であるシャルル・ドゴールの大統領在任中の言葉である(アラン・ペールフィット『それがドゴールだった』未邦訳)。 さらに、移民の経済効果については、当該問題研究の第一人者であるジョージ・ボージャス・ハーバード大学教授が米国経済に与える影響を次のように総括している。 移民が全体として既存国民に与える影響は小さい(GDP0・2%増)ものの、それとは桁違いの所得再配分(GDP3%)をもたらす。具体的には移民労働と競合する労働者の賃金が特に低下する一方、移民労働を利用する企業や個人が大きな利益を受ける(2013年4月移民研究センター報告)。英国経済への影響に関しても、年金等財政メリット論の全面否定も含め、2008年に英上院経済問題特別小委員会が同様の見解を明らかにしている。要するに、移民受入策とは所得格差を拡大する、極論すれば貧困化促進策なのである。既成保守政治家は「言うだけ番長」 現在のEU拡大・統合推進や大量移民受入は、戦後欧州再建を主導したドゴールらが健在の時代には考えられない、一般大衆にとって益なきエリートの暴走といえる。そして、この暴走を抑えるどころか、結果的に追随してきたのが既成保守勢力なのだ。なお、ここでは「エリート」を政治、経済、教育あるいは言論で指導的役割を担う、少なくとも欧米ではいわゆるリベラルが主導権を握る社会階層の意味で使っている。 2005年、パリ郊外の移民居住地域での事件を発端にフランス全土に広がった大規模暴動の際、ニコラ・サルコジ内相はその強硬姿勢で人気を博し、2007年には大統領に選ばれた。しかし、国民の期待に反し、大統領在任中、なんら有効な移民規制策を実行することができなかった。 また、英国で1997年から2010年まで続いたトニー・ブレア及びゴードン・ブラウン労働党政権によって推進された移民受入拡大策(13年間で200万人以上)からの転換を期待されたデービッド・キャメロン保守党(連立)政権も、移民規制を唱えはするものの、やはり実効性ある手段をとるまでには至っていない。 欧州の既成保守政治家は、移民規制を求める世論に同調する発言はするものの実行は伴わない「言うだけ番長」なのだ。 今回の反EU政党の躍進は、具体的政策への支持というより、エリートの裏切りに対する根拠ある抗議というべきだろう。グローバル化について行けない愚かな大衆の間で排外思考が高まっているというような見方は見当はずれも甚だしい。BBCのヒュー・スコフィールドがいうように、「望まない結果を無視するのであればデモクラシーは無意味である」(2014年5月26日BBCインターネット版)。好戦的なのは大衆ではない たとえば、「移民などの『外』の存在、あるいは共通通貨ユーロをスケープゴートにすれば、信頼を取り戻せるのか。大衆迎合的な人気取りの政治が前世紀の欧州にもたらしたのは、戦火だったことを忘れてはならない」という朝日新聞の梅原季哉欧州総局長の見解(5月27日朝刊)などはその典型である。ネトウヨ批判との類似性は明らかであろう。 とはいえ、デマゴーグのプロパガンダに左右され、排外・好戦的主張に飛びつく大衆の危険性というのは、知識人による大衆批判の定番である。今回の欧州議会選挙の結果についても、こうした視点からの論評が、欧州のみならず日本でも目につく。 しかし、本当に「危険」なのは大衆なのだろうか。実は、知識人が偏愛する大衆社会論は、リチャード・ハミルトン・オハイオ州立大学名誉教授が『大衆社会、多元主義及び官僚制』(未邦訳)で総括しているように、驚くほど実証的根拠に乏しい、一種の「物語」に過ぎない。 たとえば、1964年のトンキン湾事件を機に本格化した米国のベトナム軍事介入を米国民はどのように見ていたのか。介入時の1964年と反戦機運が高まった1968年でエリートと大衆の見方がどう変わったのかを、ハミルトン教授の世論調査に基づく実証研究(『抑制する神話』(未邦訳))を用いて作成したのが次頁の表1である(「わからない」という回答は除外して計算)。 全体では強硬策(stronger stand)の支持率が1964年の49%から1968年の37%に低下し、戦争が長引くにつれ厭戦あるいは反戦気分が高まったことが見て取れる。しかし、エリートと(下層)大衆では当初、戦争への態度が大きく異なっていた。 まず、職業で分けて見ると、上層ホワイトカラー(専門職・管理職)の強硬策支持が55%から38%と大幅に低下したのに対し、非熟練労働者・失業者は38%から35%で、最初から強硬策支持率が低く、変化は誤差の範囲といえる。 次に、学歴で分けて見ると、大卒以上の強硬策支持が58%から33%とやはり大幅に低下したのに対し、中卒以下(就学年数8年以下)は32%から33%で、最初から強硬策支持率が低く、変化はこれまた誤差の範囲といえる。なお、現在と違い当時は大学進学率が低かったので、大卒というのはかなりのエリートであったことにご留意いただきたい。 つまり、職業で見ても学歴で見ても、庶民は最初から軍事介入に積極的ではなく、当初、「正義」の戦いに熱狂したのはエリートであることがわかる。しかも、庶民の見方が安定しているのに対し、エリートは意見を大幅に変え、ある意味、戦況が悪化した1968年になって、やっと庶民の「素朴」な考えに追い付いたのである。 なぜエリートは豹変したのか。実は、当初、大半の新聞や雑誌が軍事介入に積極的であったのに、1968年の時点では逆に介入批判が基調となっていた。大衆社会論の主張とは逆に、メディアに操作されたのは上層中産階級であり、大衆はほとんどそうした影響を受けなかったのである。要するに、「風」に弱く、プロパガンダに左右されるのは「学のある」エリートなのだ。自己欺瞞に長けたエリート  世界民主化の使命感に燃えるエリートの一部を除けば、米国では孤立主義的傾向が根強いことを考えると、厭戦気分濃厚な大衆と好戦的エリートという組み合わせは、ベトナム戦争が特異というわけではなく、むしろ普遍的現象である。 米国の政治支配層や主流メディアからは保守ポピュリスト勢力として否定的に扱われているティーパーティー運動が次の大統領選挙の共和党候補として期待するランド・ポール上院議員(ロン・ポール元下院議員の息子)は一貫して軍事介入に懐疑的であるのに対し、リベラル知識人が支持する民主党最有力候補ヒラリー・クリントン前国務長官は名うての対外強硬論者である。 実は欧州も事情は変わらない。反EU政党は基本的に、「人道」を旗印とする米国主導の他国への軍事介入に批判的である。主流メディアに排外的と批判される「極右」国民戦線も反欧州というわけではなく、パリ―ベルリン―モスクワを基軸とする主権国家を構成単位とする汎欧州連合(Union paneuropeenne)を提唱し、欧州外の対立に関しては均衡・仲介勢力(puissance d'equilibre et de mediation)を目指すとしている。いずれにせよ、反EU政党が好戦的でないことだけは確かである。 そもそも、ハミルトン教授が指摘しているように、第二次大戦後、著名な政治社会学者シーモア・マーチン・リプセット(『政治のなかの人間』)らの影響で見方が逆転するまで、少なくとも第一次大戦が始まるまでは、好戦的なのは上流及び上層中流階級というのが社会的共通認識であった。 要するに、好戦的であることがプラスの価値であった弱肉強食の帝国主義全盛時代には、エリートが好戦的であることが堂々と主張されたのに対し、反戦平和がプラスの価値として確立した第二次大戦後は、根拠もなく大衆に比べエリートは平和的とみなされるようになったわけである。しかし、実際は帝国主義時代と同じく、エリートの好戦的傾向は変わっていない。 とはいえ、やはり大衆の方がエリートより閉鎖的で排他的ではないのかという疑問を持たれる向きもあろう。確かに今日、欧米で表立って多文化共生を否定するエリートは少ない。ただし、建前と本音の使い分けが巧みなのが、これまたエリートの特徴である。デービッド・シキンク・ノートルダム大学准教授らの実証分析によれば、子供の教育に関して、白人は学歴が高くなるほど白人比率の高い学校を選ぶ(『エスニック・アンド・レイシャル・スタディーズ』2008年31巻2号)。プロパガンダに弱いエリートと政治に無関心な大衆 なぜエリートはプロパガンダに左右されやすいのだろうか。この点に関しては、半世紀以上前に公刊された『プロパガンダ』(未邦訳)で、ジャック・エリュールが説得的かつハミルトン教授らの実証分析と整合的な見方を提示している。 知識と教養を誇るエリートは確かに多くの情報に接して、それを吸収しようとする。とはいえ、そのほとんどは真偽を自ら確かめることができない、二次情報に過ぎない。エリートの自負ゆえ、政治経済文化全般の重要とされる問題に「自分」の意見がないことに我慢できない一方、現代社会は複雑であり、事実を冷静に吟味し判断することなど、限られた少数の問題以外不可能である。それゆえ、重要な問題にお手軽な「解決」を提供するプロパガンダは、エリートにとって魅力的なのだ。 もちろん、エリートは自分にはプロパガンダなど無効だと信じている。そして、それこそが最大の弱点となる。エリートはこの根拠のない自信と優越感を利用され、容易にプロパガンダに取り込まれてしまう。 エリートに強硬論が支配的だった1960年代半ば、すでにベトナム戦争には勝てないと確信していたコンラッド・ケレンは、『プロパガンダ』英語版序文でこう指摘した。知識人たるエリートは「自分たちは『独自に判断』できると考える。彼らは文字通りプロパガンダを必要とするのだ。」 だからといって、単純な大衆礼賛論も根拠がない。大衆のプロパガンダに対する耐性は、政治的無関心と表裏一体である。この問題に関する実証研究が盛んな米国の例でいえば、2000年大統領選挙前の世論調査で、上下両院で多数党はどちらかという二択問題(でたらめに答えても正解率50%)の正解率は、下院が55%、上院が50%であった(イリヤ・ソーミン『デモクラシーと政治的無知』未邦訳)。 プロパガンダに弱くイデオロギーに囚われたエリートと政治に無関心な大衆。この現実を前にしては、左右の知識人が口角泡をとばすデモクラシー論が空虚に響く。秘密投票は自由の最後の砦  デモクラシーのモデルとされる米国でさえ、大多数の国民は政治には無関心であり、シュンペーターがいうように「民主主義という言葉の意味しうるところは、わずかに人民が彼らの支配者たらんとする人を承認するか拒否するかの機会を与えられているということのみである。」 とはいえ、「真」のデモクラシーからは程遠くとも、秘密投票による政権交代の可能性が存在することは、支配される者すなわちほとんどの国民にとって、大きな意味を持つ。 確かに、日常とは直接関係のない政治問題についてはよくわからなくても、「自分の個人的な観察のもとにある事柄や新聞によって伝えられるものではなしに自分の熟知しているもの」に関しては、「できうるかぎり合理的に活動しようとする意向や合理性へのたえざる要求がみられ」る。 エリートが推進する大量移民受入がもたらす治安悪化や賃金低下といった現実、だからといって口先だけの既成保守政治家も頼りにならないという現実は、難しい政治問題ではなく、まさに「個人的な観察のもとにある事柄」である。素直に実感を吐露すると人種差別主義者と糾弾される今日、自由の最後の砦である秘密投票で、多くの欧州国民は「王様は裸だ」と叫んだのである。 本当に「支配者たらんとする人を承認するか拒否するかの機会」である国政選挙を念頭に、欧州議会選挙結果を受けて早速、フランソワ・オランド仏大統領はEU統合推進抑制論を唱え、大統領選時の重要公約であった外国人への地方参政権付与もあっさり撤回した。英国でも、移民急増で不利益を被っている伝統的支持層への配慮を求める公開書簡を労働党七議員がエド・ミリバンド党首に送った。こうした新たな動きは、大衆迎合というよりも、デモクラシーが欧州でまだ完全には機能不全に陥っていないことを示しているのではなかろうか。福井義高昭和37年(1962年)京都生まれ。東京大学法学部卒業。カーネギー・メロン大学Ph・D。国鉄、JR東日本勤務などを経て、平成20年より現職。専門は会計制度・情報の経済分析。著書に『会計測定の再評価』(中央経済社)など。

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    在日外国人はエセ反差別提唱者とは距離を置くべきである

    以上に、周囲の素敵な人々と付き合うほうが大事でした。 周知のとおり、「在日特権を許さない市民の会」のヘイトスピーチと、それに反対する人々のデモ衝突が各所で起きています。 これ、実は私が朝鮮学校に通っていた中学2年生の時に脳内で起きていた光景ですが、これが「引き寄せの法則」でよくいう「思考の現実化」なのかと驚いた次第です。まさか今頃になって目の当たりにするとは思いませんでしたが。朝鮮学校の先生が言っていた「悪いほうの日本人」のテンプレみたいな人々がワラワラ出てきてニヤけてしまいましたし、特に蝶ネクタイは想定外で、思わず声を出して笑いました。  しかし、実はそこまで笑えません。 「朝鮮人を殺せ」、この言葉が当事者にとっていかに脅威的か、筆舌に尽くしがたいです。平気なふりをしていても、やはり悲しく、恐ろしい。これを生で聞いた当初は顔では笑っていても、生命を脅かされるような恐怖を感じ、鼓動が乱れ手足は震え、全身から汗がにじみ精神がかき乱され、周辺をグルグルと徘徊してようやく気を落ちつけていました。元横綱・朝青龍がファンから殺人予告を受けた際、「俺が殺してやる」と殺人予告し返した事件がありましたが、そんなメンタルが強い人間はめったにいません。 出自に関わる差別とヘイトスピーチは絶対悪であり、在特会が「在日特権」という虚構を経典とする教条的カルト集団であることは疑う余地がありません。このカウンターとして立ちはだかったのが「レイシストをしばき隊(現C.R.A.C)」であり、彼らの登場によりレイシズムとヘイトスピーチが異常なものであることが市民の意識に強く焼き付けられることになりました。 試しに在特会側の主張を静聴しますと、一理ある部分もありますが大筋はトンデモ感溢れるもので、ここに差別感情が加味されて手に負えないのがわかります。これが頼んでもないのに毎週路上に出てきてしまうのですから、カウンターデモをせざるを得ない状態になっています。明らかに、無慈悲な鉄槌が下されるべきです。 しかし、一方で「カウンターデモ側」の一部の分子はレイシストを制圧するためにたびたび暴力事件を起こしたり、ネット上で反対意見を持つ人を見つけては「サブカル」などという言葉を用いて言論弾圧するなど過激な手法が目に余るようになり、批判も増えています。一説では最近、在特会との裁判で、在特会側の傍聴人に暴行を加えたという情報もあります。このような、暴力団によって治安が維持されているような状態は健全ではないと思います。ヤクザAをヤクザBが鎮圧したからといって、ヤクザBを素直に支持できるでしょうか? こうした暴力的な方法論については既に多くの人が論理的に指摘をしていますが、私はさらにこのムーブメントに賛同したり関わっている一部の人物の思想について疑問視しています。それは「どっちもどっち論」などという生ぬるいものではありません。「証拠」をもって問いかけたいと思います。 まず前提として在日コリアンは、朝鮮学校通学歴の有無にも大きく左右されるところがありますが、さまざまな民族構成要素(言語、血筋、生活習慣、地域の共通性、共同体意識など)のうち共有するものが少なく、その立場や志向性、自己形成の過程は千差万別です。帰化をしていないだけで内面は日本に帰順している人、またはその逆もいます。ニューカマーもいます。そのため外野が在日コリアン社会について語る場合、その中の一側面だけを抜き出して賛美したり、こき下ろしたりするのは間違いです。 その理由と背景を主に2つ挙げます。 在日コリアンは南にルーツを持つ人が99.9%、北にルーツがある人は0.1%ですが、約2000万人の離散家族を生んだ朝鮮戦争に翻弄され、南出身でありながら北を支持した人、またその逆もいます。長年、北を支持していた人が南の故郷にいる家族が危篤であると聞き、最期を看取るため泣く泣く朝鮮総連を脱退した例もあります。このように在日であっても本国、そして南北を完全に切り離して論じることは不可能です。 アイデンティティの拠り所もさまざまです。国家と民族観は別であるという指摘もありますが、若い世代でも本国の人たちと感情や立場を部分的に共有することで、アイデンティティを保とうとする人も明らかに存在します。本国の人と交流が深まるほど、彼らが大切にしている事柄――例えば政治理念や歴史認識、国家観など――を同意はできないまでも、尊重したいと思うようになります。そこで人間関係が構築されるからです。それは北であろうと南だろうと同じです。 ところがです。 最近、海外にお住まいで「反差別論客」と世間に認識されているであろう方がネットニュース上で、「ヘイトスピーチをぶっ壊せ」と言いつつ「北朝鮮はネタ国家」という意趣のヘイトスピーチを行っているのを目撃したうえ、さらに「カウンターデモ」の指導者からは直接、ネット上で「サブカルライター」「箱庭で生きているのか」などという聞き捨てならない発言を受けたのです。 「正体見たり」と言ったところでしょうか。 仮にも反差別を標榜しておきながら、差別から保護する対象が属する状況や精神世界を否定するような罵りやレッテル貼りを行うのは理解に苦しみます。特に、北朝鮮問題のライターとして活動している私に「サブカルライター」とは「北朝鮮=サブカル」とおっしゃっているも同然ですし、「箱庭」というのも首を傾げます。数十万人の在日コリアンが、数十万通りの努力と方法で自己の地位向上に努めるのは、暴力的カウンター行為に劣るとでも言うのでしょうか? 被差別階級の全員が表に立って「痛み」を一身に引き受けなければいけないのでしょうか?  さて、ここでは実際に「ネタ国家」で「サブカル」であるかどうかは論点ではありません。 互いの違いを尊重するのが、アンチレイシズムの原則です。私も個人的にイスラム教が苦手ですが、アラブ系の人に対し「お前らの宗教はサブカル」だなどと言いません。よく知りもしないのに、「シーア派はいいけど、スンナ派はネタ宗派」なんてことも言いません。 このような人々のいう「在日の友人」とは、一体誰のことでしょう。実在しているのでしょうか? おまけに、レイシストの矢面に立っている朝鮮学校のコンセプトを否定していることにもなりますが。 知識不足から来るものであったとすれば、認識を改めて頂きたいと思います。 後に知るところによると、どうやら彼らにとって「サブカル」の定義は「何も行動しない傍観者」とのことですが、そうやって語彙を歪曲して用いた責任を、相応に取って頂いた次第でございます。日本人なら、もしくは日本で育ったなら、今後は日本語を正く使っていただきたいものです。まあ、日本語じゃないんですけどね。そして私は生まれながらの当事者であり傍観者ではありませんので、いずれにしろ意味が通りません。 そして朝鮮学校および在日コリアン社会でも当然ながら、イジメや差別主義者は存在します。 そんな中「いやいや、あんたも日本人差別してるだろ」と思う場面もありましたし、一部の人たちが同胞に対しソーシャルレイシズムを行う場面も見てきました。私も受けたことがあります。同族であろうとも容姿、職業、性別、学歴、パーソナリティなど差別の下部カテゴリは無数にあることを実体験から学んだだけに、民族・人種差別に「のみ」固執する人を懐疑的に見てしまうのです。「偽善者&レイシストに国境なし、真に粉砕すべき者は誰であるのか皆さんも既にご存知だと思います。もちろん、自分自身にも差別感情がないと言えば嘘になりますので、偽善で隠すのではなく上手く折り合いをつけていきたいと思っています。 ともかく、危険思想を隠し持つ人と共闘するのは正しい生存方式ではありません。特に在日コリアンは1950年代、日本の政争に加わり破壊活動を行った数万人のせいで、その他大勢の普通の人までもが不利益を被りました。「血のメーデー事件」(1952年)で日本共産党の前方部隊として火炎ビンを投げていた在日本朝鮮統一民主戦線の二の舞になることはありません。時代が違っても本質は同じだと思います。そもそも、レイシストなどをまともに相手すると、逆に彼らをますます先鋭化・理論化させ、より立派なレイシストに育成してしまうことになります。 さて、長々と語ってしまいましたが私ごとき一介の旅ライター、リバタリアンの遊び人、このような話題に言及するのは最初で最後とし、通常の活動に戻らせていただきます。ちなみにこの駄文については、賛同などより「お前に言われなくても、とっくに知ってるわ!」という批判をいただけると大変うれしく思います。

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    メディアの「中韓叩き記事バブル」 映し鏡としてのヘイトスピーチ

    い」という排他的な態度を取る日本人も、当然のことながら一定数生まれることになります。場合によっては、ヘイトスピーチや在日韓国人の人たちに対する排斥デモに参加する人も出てくるでしょう。読まれれば読まれるほど、そのような予備軍が増えるのは当然とも言えます。 他国に目を転じると、日本に限らず多くの国で移民に対する反対運動が起きていることが分かります。ドイツでもデンマークでもスウェーデンでも、抜き差しのならない規模で、移民に対して地元民が抗議運動をするケースはたくさん報じられています。中には、文字通り民族主義的な政党が支持を集め、極右政党が大躍進して政治的に大きな影響を及ぼす事態になり、反EU的な活動にまで結びついているフランス国民戦線やイギリス独立党といった政党が、無視できないレベルにまで成長してきました。 翻って、日本の場合はヘイトスピーチ問題は単体の社会問題として捉えられ、どちらかというと表現の自由や人権問題の枠組みで解釈されることが多くあります。もちろん、差別的な言動は許されるものではなく、社会の責任としてきちんと制限をかけるのは大事なことです。 一方で、以前はネットの中だけでわいわいやってきたネトウヨの一般化が始まり、これらのデモに参加する層の広がりを細かく見ていくと、日本社会や政治に対する不満や、思うような職に就くことのできない貧困問題がリンクしていることは確実です。娯楽としての排斥主義的な嫌韓や反中が、実際には包括的な社会問題に結びついて閉塞感とセットになってきていることは言うまでもありません。 政治的な枠組みを用い、差別や人権という概念を持って社会問題を解き緩和を試みても、肝心のメディアやネットでこれだけの燃料がくべられていてはなかなか収集はつかないかもしれません。それら日本と中韓の対立を煽る記事が読まれ、買われる理由というのも、隣国がいかに酷いかという記事に一定の溜飲を下げたいという読み手の側からの需要があるからです。 例えばここで、あってはならないことですが日本と改めて中国韓国が国益面で対立し、抜き差しならない事件や事案が発生すると、国民感情的に中韓に対する合理的な譲歩ができなくなってしまいます。それこそ日露戦争で現実的な終戦処理をした小村寿太郎のような歴史が繰り返されるのではないかと心配になるわけですね。 国が貧乏になると、国民は自然と内向きになり、より弱い者を叩くという現象を起こしがちなので、無理なくガス抜きをしつつ対応して行く以外方法はないのではないでしょうか。 ヘイトスピーチというのはあくまで「症状」であり、原因というのは貧困や国民としてのプライドなど、社会と本人の関わりの中に見出すことができます。いくらヘイトスピーチそのものを「差別的だ」と押さえ込んだところで、本来の意味の解決には程遠い結果しか出ないのではないか、と強く危惧します。

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    ヘイトスピーチは表現の自由といえるのか

    ディアの言論の自由を封殺しようとしている一方、日本では在日韓国人や北朝鮮人などに抗議する排他的活動「ヘイトスピーチ」に対し、自主規制をかけようとする動きが出ている。本当の自由の有無で、社会が好転する例ではないか。

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    対韓国ヘイトスピーチ 歴史捏造やメディアへの鬱憤が伏線か

    偏った報道を続けていますが、集団的自衛権に関する常軌を逸した報道はまさにその典型です。 韓国に対するヘイトスピーチが行なわれるようになったのも、中国や韓国の横暴と歴史のねつ造に加え、それを後押しするような国内メディアへの鬱憤もあるのではないでしょうか。 しかし、苦言を呈すれば、相手を批判する時には明白な事実と、冷静さをもって行なうべきです。中国や韓国と同じ土俵に乗るのでは、国際社会から「日本も同じ」と見られかねません。 サッカーW杯でサポーターがごみ拾いをし、世界中から賞賛されたように、公共の精神や美徳は今も日本人のなかに強く残っています。そうした優しさもたしかに国柄のひとつの側面ですが、ただ優しいだけでは、日本が置かれたこの困難な状況を生き抜くことはできません。 聖徳太子は日本が隋の属国にされかねない厳しい局面において、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という隋との対等性を明記した国書を送りました。これは単に冒険主義から発した行為ではなく、隋から見て高句麗の背後にある日本国を敵にはできないという冷静な分析に基づくものでした。 そして国書の前段では、隋の煬帝に対して最大級の賛辞を贈っています。外交儀礼を守りながら日本国の主張を堂々と展開することは、国家としての強い自立心がなければ成し得ないことです。 日本が古来から有してきた価値観に気づくことができれば、その気づきは自ずと自信と誇りにつながっていきます。自身に対する信頼をしっかりと身につけることが出来れば、危機に直面しても、義のために堂々と相手に立ち向かうこともできるようになります。鎌倉時代の武士たちが元寇の折、日本国を守るために敢然と立ち向かったように。だから、私はこう声を大にして言いたいのです。 日本人よ、優しさとともに雄々しさを身につけよと。※SAPIO2014年9月号

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    法規制の是非「自由は無制限ではない」「表現の自由を死守せよ」

     街宣活動で在日外国人への差別をあおるなどのヘイトスピーチ(憎悪表現)が問題となっている。国連の人種差別撤廃委員会が8月、日本に対しヘイトスピーチの問題について、責任ある個人や団体を捜査し、必要な場合は起訴するよう要請した。こうした声を受け、自民党では法規制を含めた対策の検討が始まっている。ヘイトスピーチに対する法規制は必要か否か、元法政大教授の五十嵐仁氏とジャーナリストの木村太郎氏に見解を聞いた。(溝上健良) ≪五十嵐仁氏≫ヘイトスピーチ法規制の必要性について語る五十嵐仁・元法政大教授 --法規制の必要性について 「ヘイトスピーチは大きな問題で、規制するのは当然の話だ。東京・新大久保ではデモの影響で商店に経済的な損害も出ており、京都の朝鮮学校へのデモでは子供が恐怖心を抱くなど具体的な被害が発生している。これは言論による暴力そのもので、放置されれば人種や民族、宗教にもとづいて少数派が差別されて当然であるかのような、自由度の低い社会になってしまう危険性がある」 --国連の人種差別撤廃委員会から日本は法規制を求められている 「国外から指摘される前に法規制をやるべきだった。指摘されてなお問題が解決できていないというのも情けない。何らかの形でヘイトスピーチを根絶せねばならず、法規制なしでもなくなれば結構だ。ただ現実には“言葉の暴力”は野放し状態になっている。現行法で対処できていないわけで、そうであれば新たな法規制が必要だろう」 --言論の自由との兼ね合いは 「ヘイトスピーチを『個人または不特定多数に対して、人種、民族、宗教などの属性にもとづいて差別し、排除や憎悪をあおり立てる言動』などと定義し、取り締まる対象を明確に限定することが必要だ。これには大音響のデモの他、ネットの書き込みやプラカードも含まれる。出版物の出版禁止ということもあり得るだろう。乱用や適用拡大による言論の自由侵害をどう防ぐかは、法規制のある欧州諸国を参考にすればよい」 --デモ行進中、ヘイトスピーチが確認されたらどう対処すればよいか 「在特会(在日特権を許さない市民の会)のように問題となるデモを行っている集団は、指定暴力団やアレフのように団体指定をしてデモ行進を禁止すべきだ。また、それ以外の集団がデモ中にヘイトスピーチを始めた場合、デモを中止させることはあり得るだろう。集会・結社の自由の例外ということになるが、自由を侵害する者を規制しなければ自由は守れない。公共の福祉を侵害するような自由を排除することによって、自由で民主的な社会は守られる」 --法規制で、例えば「移民反対」といった言論が規制される恐れは 「そうならないよう、ヘイトスピーチの定義を限定し明確にする必要がある。今の在特会でも『日韓断交』のような政治的な主張はありうる話で、それまで拡大適用されないような定義が必要になる。あいまいな部分については、最終的には裁判で争えばいい」 --最近、在特会の主張は以前よりおとなしくなっているようだ 「社会的な批判の高まりでヘイトスピーチがなくなるのが一番いい。その意味では、新たな法規制を検討すること自体にも一定の効果が期待できる」 ≪木村太郎氏≫ヘイトスピーチ法規制の是非について語る木村太郎キャスター(蔵賢斗撮影) --ヘイトスピーチの現状について 「まず最初に断っておきたいが、在特会がやっているようなヘイトスピーチに対してはいいとは思わないし、大反対だ。それとは別に、新たな法規制でヘイトスピーチを取り締まるということには異論がある。自分の職業を考えても、表現の自由は民主主義社会で一番大事なものだと思う。国連の人種差別撤廃委員会では『言論の自由の枠を超えている』などと指摘されるが、そんなことはありえない」 --ではどう対処すべきか 「歯止めをかける法律は現にある。京都の朝鮮学校をめぐる裁判では民事で原告の朝鮮学校側が地裁・高裁で勝っている。刑事でも侮辱罪や威力業務妨害罪で有罪確定している。これは実際に被害が生じた場合は、今ある法律で十分対処できるという事例だ。悪口も言論の自由の範囲内で、悪口をすべて取り締まるということはあってはならない。実際に被害があった場合に、救済する法は整っているといえる」 --日本は国連の委員会から法整備を求められているが 「国連の立場と日本の立場とは異なっていていい。国連憲章を通読しても『民主主義』とは一言も書いてない。国連は民主主義を啓蒙(けいもう)する組織ではないわけで、そこは日本の価値を大事にして構わない。表現の自由は民主主義にとって一番大事な価値だろう。仮に法規制するとして、どう線引きするのか。どこまでがヘイトでどこまでOKなどと線引きできるわけがないし、したとすれば民主主義を危うくすることにもなりかねない。そこはリベラルの人も同じ意見ではないかと思う」 --特定団体のデモを禁止したり、デモを途中で中止させたりすることは 「それは集会・結社の自由を定めた日本国憲法に完全に抵触する。そう軽々しく言ってもらいたくない話だ。表現の自由をしっかり守らねば民主主義が成り立たなくなってしまうだろう。少しでも表現の自由を規制するような法律を作ってしまうと、民主主義はそこから崩れていきかねず、新たな法規制はやってはいけない」 --仮にデモでヘイトスピーチが行われた場合、事後に罰すべきだと 「名誉毀損(きそん)行為があった場合にはどんどん被害を親告すればいい。仮にそれで取り締まれないとしたら、今ある法律の運用がまずいということだ」 --ヘイトスピーチを定義するときに「少数派に対する差別をあおるような言動」などとされる傾向があるが 「例えば、韓国人に対する差別はダメでそれ以外に対してはOKなどということになれば、韓国人はむしろ『何で自分たちだけ特別扱いするのか』と怒るのではないか。『自分たちだって反論できるよ』と。仮に私自身が外国人だったら怒りますよ」【プロフィル】五十嵐仁 いがらし・じん 昭和26年、新潟県生まれ。63歳。法政大大学院博士課程単位取得満期退学。法政大大原社会問題研究所に入り、平成8年から教授。20~24年、同研究所所長。現在は同研究所名誉研究員。 【プロフィル】木村太郎 きむら・たろう 昭和13年、米国生まれ。76歳。慶応大法学部卒。NHKに入り海外特派員やキャスターを経て63年、フリーに。フジテレビ系「スーパーニュース」で昨年3月までコメンテーターを務めた。