検索ワード:マンガ/25件ヒットしました

  • Thumbnail

    記事

    仲間に「バカと言わせる強さ」ルフィが理想のリーダーになれた極意

    安田雪(関西大社会学部教授) 『ONE PIECE(ワンピース)』を題材に、最近のリーダーや組織について3つのポイントを語ってみたい。第1は「『バカ』と言える力」、第2は「スピーチ・アクト」、第3は「喪失の代償」である。 まずは、ワンピースについておさらいをしよう。ワンピースは、1997年から「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載が開始され、2017年7月現在、85巻までの単行本を出版、累計発行部数は3億5000万部を超えている。小学生から大人まで幅広い支持を得ており、「国民的漫画」と称されることもある。 紹介するまでもなく、主人公ルフィが海賊王を目指し、仲間とともにいくつもの冒険をしながら成長していく物語である。テレビ、映画、果ては歌舞伎にまで広がり、ファンはストーリーに一喜一憂するわけである。(C)尾田栄一郎/集英社・フジテレビ・東映アニメーションフジテレビ 土曜プレミアム『ワンピース エピソード オブ 東の海(イーストブルー)~ルフィと4人の仲間の大冒険!!~』8月26日(土)21時~ 「所詮、少年漫画の世界」「私には関係のない漫画」と考える方もおられるだろう。だが、ビジネス社会を担う大人にとっても、ワンピースから学ぶべきことは多いと私は考えている。現に、小学生時代にワンピースを愛読していた子供たちは、既に社会人として働き始めており、彼らはルフィ率いる海賊団「麦わらの一味」のような仲間のあり方を理想としているような世代でもある。 前回の衆院選では、当選こそしなかったが「ワンピースのような政治をしよう」と訴え、自民党から出馬した候補者さえいた。ともあれ、ワンピースという世界、ひいては主人公らのあり方にある種の魅力があるようだ。「ワンピース世代」とともに働き、生きていく私たちには、共感するか否かはさておき、まずは彼らを理解する必要がある。 ルフィには、仲間をまとめ、場合によっては敵さえも味方に変えてしまう魅力とリーダーシップがある。その源泉はやはり言葉と行為である。ルフィの「仲間力」やリーダーシップについては拙著で既に言及しているので、今回はそれらとは違った視点から、ワンピースにおけるリーダーシップについて話をしたい。まずは「バカ」と言える力についてである。 パワハラやアカハラの訴えや、モンスターペアレントなどが跋扈(ばっこ)し、「物言えば唇寒し」この時代だが、意外なことに、ワンピースの主要人物のセリフでは「バカ」が多用されている。ワンピースの主要人物たちは、かなりの頻度で、周囲の人々に「バカ」と言っているということである。これは、ゼミの学生がワンピースの主要登場人物のうち3人、すなわち主人公のルフィ、魅力的な女性航海士であるナミ、世界一の剣豪をめざすゾロを選び、そのセリフをテキストで書き出し、彼らの使う言葉の特徴を分析してくれた結果である。なぜ「バカ」と言えることが強いのか さすがに全巻・全セリフの入力と分析は不可能だったので、おおよそのワンピースという漫画の性格が固まってくるとされている第1話からアラバスタ編までの全セリフをデータ化し、テキストマイニング(文章解析)して分析してくれた結果である。テキストマイニングの技術や入力ルールの詳細は省くが、この主要メンバー3人にどのような言葉が多く使われているかを数え上げていくと、「海賊」「仲間」「船」「偉大なる航海」など、いかにも「ああ、ワンピースらしいなぁ」という言葉が頻出している。ところが、意外なことに頻出ランクが高いのが「バカ」という言葉なのである。 バカと相手に言える強さ、そして、それ以上に、バカと言われて、それを受け止められる力の問題である。京都や大阪では「アホ」といわれるのは愛情を感じるが「バカ」と言われると腹が立ち、東京では「バカ」と言われるのは耐えられるが、「アホ」と言われると腹が立つという俗説があった。これも上方芸人たちの活躍で、関東と関西での受け入れられ方はかわりつつあるようにも思う。 話を元に戻そう。ここで述べておきたいのは、関東・関西を問わず、礼儀作法は当然のことであるが、時には互いに「バカ」と言い合える余地や余裕も、組織における上下関係、リーダーと部下との間にあっても良いのではないか、ということだ。ただ「バカ」と言っただけでパワハラだと解釈されるような隙間のない組織やコミュニティーは、互いの信頼関係についてもう一度考えたほうが良いだろう。 第2のポイントは、スピーチ・アクト(言語行動)である。ルフィ、ナミ、ゾロのセリフを分析していくと、基本的に前向きでポジティブなセリフが多い。麦わらの一味のなかにはネガティブ思考の固まりのようなキャラクターもいて、私は彼に共感することが多いのだが、残念ながら彼は今回の分析対象外である。ルフィらの言語がポジティブかネガティブかということよりも、ここでは言語が行動そのものになっている、いわゆるスピーチ・アクトに注目したい。「海賊王に俺はなる」宣言が持つ意味 ルフィは「海賊王におれはなる!」と宣言して冒険の船出をするのだが、物語が進むにつれて、いつのまにか行為が海賊王と周囲が見なす(すなわち海賊としての懸賞金が桁外れに上がっていく)にふさわしくなっていく。ルフィは海賊王なのではなく、海賊王になると宣言することで、自らが海賊王としての行動をとっているのである。これは、スピーチ・アクトの典型的な一例である。すなわち、自分が何かを宣言することで、自分がそのものになる、周囲を巻き込みながらそういう状態を生成できるということである。 リーダーのありよう、組織のありようとして、自分が何者か、何者でありたいのか、どのような状態を望むのかを、明確に言語化することで他者を巻き込み、物事を実現させていく。宣言から始め、生き延び、責任を取るというありかたは、今の時代に適合的なリーダーの姿だと思う。 第3は、喪失の代償である。これはセリフの計量的な分析とは関係はなく、ワンピースに多く登場する、主人公らの「過去の記憶」についてである。 ワンピースには、大切な人を喪う光景が多々出てくる。最も象徴的なのが、ルフィにとっての最愛の兄エースの喪失である。自暴自棄になったり後ろ向きになったり、心身ともに苦悩した後、ルフィはついに立ち直る。だが、立ち直った後に、喪失の代償にルフィの中では、幼かったころに兄と過ごした日々が、金色の輝きを放ち続ける。 ナミであれゾロであれ、それぞれが大切な人と死別し、その人々との記憶を自分の中に閉じ込め、その記憶をエネルギーとして自己研鑽(けんさん)をし、前向きに日々を生きている。過去に対する恨みや憎しみは、根本的な問題を何も解決しない。失った人とのかけがえのない時間や思い出は、自己のなかで幸福の糧となり、生きることを肯定し、「なお生きよ」「なお先へ進め」と呼びかけてくる。喪失という大きな代償のかわりに、かつての幸福の記憶が人を支えるのである。 失敗や敗走、そして喪失を体験したリーダーは強い。リーダーに限らずとも、喪失を知った人々は、笑えることの喜びを知り、大きく成長する。そして、いつか、他者とともに夢をかなえ、他者を癒す力さえ持つに至るのだろう。 関心を持ってくださった方は、拙著『ルフィの仲間力』『ルフィと白ひげ-信頼される人の条件』(ともにアスコム)をお読みいただければ幸いである。

  • Thumbnail

    テーマ

    「麦わらのルフィ」に学ぶリーダーの極意

    はファンタジーの世界観だけではない、実社会を生きる私たちにも通じる共感があるからに他ならない。決してマンガと侮るなかれ。ワンピース世代が憧れる主人公ルフィの生き様には、日本のリーダー像を考える上で欠かせないヒントがたくさんある。

  • Thumbnail

    記事

    ヨコ社会が理想のワンピース世代も現実は赤犬か白ひげの選択しかない

    鈴木貴博(経営コンサルタント) 数年前になるが漫画「ONE PIECE(ワンピース)」に関連して『ワンピース世代の反乱、ガンダム世代の憂鬱』という社会論を書いたことがある。私を含む50歳前後の社会人はまだ十代の頃にガンダムに感化された。ガンダムの世界は縦社会の軍隊組織で、不条理であろうが上の命令に従わなければ社会や組織の中で生きていくことができない。 一方で今30歳前後の社会人が十代の頃に感化されたのが漫画「ワンピース」である。仲間を中心としたヨコ社会に生きて、自由を大切に考えるこの世代にとって、社会をとらえる枠組みは古い考え方とは相容れない。 ヨコ社会を信奉する世代にとって「ワンピース」に登場する理想のリーダーは主人公のルフィそのものだ。その特長は3つある。 まずビジョンは示すが無理強いや命令はしない。「海賊王にオレはなる!」「冒険をめざす」という感じで、この先、自分たちが何を目指してどう行動するのかをルフィははっきりと示す。しかし、仲間たちには何か訓練をしろとか、こう行動しろとか、具体的な命令を出すことは決してない。ビジョンに向けて一緒に進んでいくのが仲間だというのがルフィの一貫したスタンスだ。 次に物事の善悪や、やるやらないの判断を自分ではっきりと考えて、その答えを自分で示す。しかもそれがゆるぎない。ルフィは敵が巨大だからここは黙っておこうとか、そういったずる賢い判断は一切しない。ついていく仲間は大変だと思うが、そのルフィのスタンスに仲間もしびれ、仕方ないと言いながらついていく。(C)尾田栄一郎/集英社・フジテレビ・東映アニメーションフジテレビ 土曜プレミアム『ワンピース エピソード オブ 東の海(イーストブルー)~ルフィと4人の仲間の大冒険!!~』8月26日(土)21時~ 三番目に自分だけでは何もできない。だから仲間に頼るのがルフィのリーダーとしてのスタンスだ。船は操れない、料理はできない、けがや病気は治せない、壊れた船は修理できない。簡単に言えば戦う以外に何もできないルフィだからこそ、周囲の仲間にも自分の居場所ができる。言い換えれば、リーダーにできないことがあれば、支える仲間たちも自分の役割をそれぞれ実感できるのである。 さて、われわれが生きる実社会ではルフィとその仲間たちのように自由でさわやかに生きていくことはたぶん難しい。大半の人間は大人になって実社会がわかるようになると、ルフィのようには生きることができないこともわかってくる。 実社会にいる理想のリーダーに近い「ワンピース」の登場人物はルフィとは結構違う。 実社会で言えば誰がリーダーとしてふさわしいだろうか?  異論は結構あると思うが、もし会社組織のリーダーだったとしたらという前提でピックアップすれば、まずは赤犬(サカズキ)と白ひげ(エドワード・ニューゲート)、そして少し変わったところでリク王(リクドルド3世)がリアルリーダーとしては適任ではないだろうか? 赤犬は「ワンピース」に登場する最大組織・海軍の元帥で、海賊として要所要所で海軍を打ち破っていかない限り、ルフィたちの冒険は前に進まない。そのルフィから見れば赤犬はまさにラスボスといった存在にある。 その海軍のトップ赤犬は、いわゆるマキャべリスト的なリーダーである。組織をあやつるための権謀術数に優れ、恐怖と力とほんのわずかなインセンティブとで部下たちを動かす。海軍組織の上にいけばいくほど、構成員には元帥の怖さが身にしみている。 赤犬は「絶対正義」を掲げ、あらゆる海賊の芽を摘み取るという方針を打ち出すことで、組織の末端には考える暇を与えない。海軍こそが正義なのだから、細部は考えずに海賊を退治することだけを考えろというのが赤犬のやり方だ。リーダーの理想は「リク王」か 大きな目的のために中くらい以下の犠牲はやむを得ないと考える赤犬のスタンスも、現実社会とよく合致している。具体的なエピソードで言えば避難民であふれた船の中に政府にとっての危険分子が1名いる可能性があると考えたら、躊躇(ちゅうちょ)せずに船を撃沈させるのが赤犬だ。 危険分子1名が生き残ることでこの先どれだけの血が流されるかを考えたら、数百名の避難民の命を奪うことに迷いがない。ひどい話だが、グローバルな政治のリーダーは多かれ少なかれこのような判断、このような意思決定を下しているものだ。 「ワンピース」に登場する海賊団の最大勢力のトップ白ひげは、豪快な性格からファンも多いキャラクターだが、リーダーとしての特徴が力と恐怖にあるという点では、実は赤犬とよく似ている。 白ひげ海賊団は白ひげの直属部隊と、白ひげに敗れて傘下に加わった海賊たちからなる。過去の経緯では白ひげと戦い、一時は死を覚悟しながらも、白ひげに許されて船団に加わった海賊たちがたくさんいる。 大きなファミリーのトップとして彼らを庇護する白ひげだが、近づけば近づくほど、その存在の恐ろしさに刃向かう気力はみじんも出てこない。少し引いて白ひげのリーダーシップを見つめると、映画『ゴッドファーザー』のドン・コルレオーネの愛と暴力に満ちたリーダーシップはかぶってみえる。映画「ゴッド・ファーザー」の一場面 そもそも「ワンピース」の舞台は大海賊時代。力が何よりもモノを言う時代であり、その時代において大部隊を動かすことができるリーダーシップは、本来は恐怖と力を基盤に置く以外にはないのであろう。 ただ、例外もある。その代表がドレスローザの国民に愛される国王・リクドルド3世だとは言えないか。何よりも戦うことを嫌い、国同士の戦争には加担せず、理念で国を平和にたもとうとする。 その結果、より強い悪に国を奪われて、本人も国民もたいへんなつらい日々を送る。最終的にルフィらによってドレスローザが解放されるのだが、ガレキの山と化した国土の中で、国民たちはリク王に「もう一度、リーダーになってくれ」と懇願する。結果は出せなくても、国民はリーダーとして慕ってきたのだ。 現代社会は大海賊時代ではないが、それでも過去と比べてみれば混沌とした時代であることには間違いがない。実社会では海軍元帥・赤犬や海賊白ひげのようなリーダーたちが生き残っていく可能性が高い中で、理想としてはリク王のようなリーダーを求める気持ちが強い時代なのではないだろうか。 そして何よりもルフィのように圧倒的なパワーとエネルギーで仲間を導いてくれる、夢のようなリーダーの出現が何よりも期待される時代なのかもしれない。

  • Thumbnail

    記事

    「麦わらの一味」は理想のようで、実は若者の個性を奪う危険な組織

    常見陽平(千葉商科大学国際教養学部専任講師) やっぱり苦手である。「週刊少年ジャンプ」(集英社)の看板作品である『ONE PIECE(ワンピース)』だ。この作品、理解はできるが、まったく共感できないのである。 この作品が良い商品であることは間違いない。なんせ、約20年にわたって売れ続けているのである。TVアニメ化、映画化されたのは言うまでもなく、関連商品もよく売れている。海外にも広がっているという。ビジネスの世界においては、良い商品とは、売れている商品である。激しく売れているという点で、ワンピースは素晴らしい。 売れる理由もよく分かる。海賊という設定、「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」を求めて旅をするという世界観、ルックスがよくキャラ立ちしていてそれぞれが人生のビジョンを持っている登場人物たち、痛快な戦闘シーン、笑って泣ける人間ドラマ。深く作りこまれている作品だと思う。しかも、ずっと作品を続けやすいフォーマットになっている。前述したように、TV化、映画化、商品化、グローバル化により、「大ワンピース経済圏」が作られていく。売れるスパイラルになっているのである。この、売れる仕組み作りができている点においても素晴らしい。2012年3月、東京・六本木で行われた「ONE PIECE展」に出展された単行本第61巻の表紙を再現した模型 ただ、うがった見方をするならば、全てが確信犯的で、まるで勉強熱心な若手社員がさまざまなビジネス書を読みこんで書き上げた企画書を読んでいるような感覚に襲われる。同作品はちょうど、掲載誌である週刊少年ジャンプが発行部数1位という指標で講談社の「週刊少年マガジン」に負けた後に連載が始まった。この作品の貢献もあり、部数1位を奪還できた。ただ、このような背景からも考えると、同作品は『ドラゴンボール』終了後のプロジェクトX、プロダクトXだったようにも思えてくる。 週刊少年ジャンプに連載されている漫画の悪しき部分かとも思う。以前、漫画家を描いた作品『バクマン。』の映画版を見た。ジャンプとそこで描く漫画家、支える編集者を描いた作品だとも言える。同誌の特徴は、新人漫画家を発掘して専属にすること、編集者が作品に関わること、何よりも読者はがきによる人気ランキングを厳格に運用することが特徴である。若者の理想どころか「搾取組織」 『バクマン。』はある意味、ジャンプの自己批判、自らのパロディー化が面白いのだが、そしてこれ自体がフィクションではあるが、よくも悪くも「強い商品」を作りこもうという同誌の体質がよく分かるものである。中でもワンピースには何か、こう「作品」よりも「商品」の臭いを感じてしまうのだ。もちろん、エンタテインメントと芸術は完全にイコールなわけがなく、このように商業的であるがゆえに手軽に楽しむことができるわけであるが。 決定的に苦手なのは、ワンピースに登場するルフィとその仲間たちである。若者たちの中には、これを理想の組織だという人たちがいる。皆が夢を持ち、個性を発揮し、リスペクトしあっている。気持ちはよく分かるが、世の中のたいていの組織は、こんなに楽しくはないものである。いや、漫画の世界とは、現実社会であり得ないことを描くという場でもあり、人々の願望という意味では別によい。しかし、組織はこうあるべきだと盲目的に信じていたとしたら、なんて頭の中がお花畑なんだろうと思う。 もっとも、ベンチャー企業などでは、ワンピースをベンチマークして組織運営している企業が存在する。実際に公言している場合や、そうしないまでも裏テーマとして掲げているのだ。社員がビジョンを語り、個性を尊重する、仲間を大切にする、と。ただ、釈迦に説法ではあるが、それは別に社員を尊重しているようで、人材マネジメントの取り組みに他ならない。大事にされているようで、企業の目標達成、永続的な価値の創造と利益の追求のために酷使、搾取されているだけである。もちろん、企業に楽しくだまされるための演出だとも言えるし、大事にされていることを装うことで労働者は慰められるのだろうが。 組織は別に、あなたのために存在しない。本来、不愉快なものである。『僕たちはガンダムのジムである』(日本経済新聞出版社)という本に記したが、私はむしろ『機動戦士ガンダム』のホワイトベースの方が現実の日本企業に近いと思っている。なんとなく巻き込まれ、戸惑いつつも、組織に順応し、当事者意識を発揮し、居場所を見つけていくのである。 このワンピースという漫画が描いている組織は若者の理想のようで、夢、個性尊重による若者搾取組織だと私は捉えている。夢や仲間という言葉は美しいが、「絆」「愛」という言葉同様に、安っぽく消費されているのではないか。商品として楽しむのは結構だが、厳しい現実こそ直視したい。

  • Thumbnail

    記事

    漫画通の石破茂氏が「演説で台詞を拝借した」という漫画は?

    。面白く、しかも知識がつくというサラリーマンにピッタリの漫画を紹介する。 毎年のヒット作を表彰する『マンガ大賞』の発起人で、ニッポン放送アナウンサーの吉田尚記氏は、「投資本よりも、経済の仕組みが頭に入ってくる」として、『インベスターZ』(三田紀房、講談社刊)を推す。経済漫画といえば、サラリーマンや起業家が主人公というのがお決まりだが、同作の主人公は中学生だ。 「学校の“投資部”に所属する中学生が『投資は遊びだ。ゲームを楽しめ』といって、運用資金3000億円をバンバン動かす非現実的な設定ですが、内容は、ウォーレン・バフェット氏や堀江貴文氏らの実例を引用する本格派。漫画が投資の指南書の挿絵の役割を果たしてるから分かりやすい」 防衛相や自民党幹事長などを歴任し、漫画愛好家としても知られる石破茂・代議士は、『加治隆介の議』(講談社刊)と『黄昏流星群』(小学館刊)という、弘兼憲史氏の代表作を挙げた。石破茂前地方創生担当相(2012年12月撮影) 「政治漫画といえば『加治隆介の議』でしょう。連載が始まった1991年は、僕はまだ当選2回目。首相まで上り詰めた主人公・加治隆介は憧れだったなあ。『黄昏流星群』は、60~70代なら共感できる人が多い作品ですよ。同窓会でバッタリ会った学生時代の同級生と恋に落ちるなんて……いいよねぇ~。あっ、僕がそうだという訳じゃないですよ」 そんな石破氏が「もう一つ政治漫画を挙げたい」と熱弁を奮うのが『サンクチュアリ』(原作・史村翔、画・池上遼一、小学館刊)だ。 「『加治隆介の議』と違って主人公が総理になる直前で死んでしまう。かっこ良い台詞が読み所だな」 お気に入りは、当選1期目の主人公が先輩議員に「あんたは派閥の番頭になるのが目的で代議士になったんですか。あんたたち団塊の世代がナマクラだから、今の政治ができあがっちまったんだよ」と言い放つシーンだ。 「痛快だよね。こうありたいと思いますよ。出てくる台詞のいくつかは拝借して、演説で使った気がする。どれを使ったか? それはいえないな(笑い)」(石破氏)関連記事■『あしたのジョー』のラストをちばてつや氏が独自解説した書■SAPIO人気連載・業田良家4コマ漫画「オール民主党」■「ママの憧れ」 永作博美がベストマザー賞授賞式で見せた笑顔■SAPIO人気連載・業田良家4コマ「TPP後の世界」■呉智英氏が「70歳になる私が号泣した」と語る漫画は?

  • Thumbnail

    記事

    弘兼憲史氏が語る「もし島耕作が東芝の社長になったら…」

     東芝が経営危機に陥っている。決算発表を二度にわたって延期した末に、監査法人のお墨付きを得ないまま、2016年(4~12月期)決算を発表せざるを得なくなるという異常事態を迎えている。 カネもない、事業もない、責任を取る人間もいない……市場関係者の多くが「もはや万事休す」と見放すなか、東芝という会社に残ってほしいという気持ちは、かつての東芝の栄光の時代を知る者ほど強い。 『島耕作』シリーズなどで知られる漫画家の弘兼憲史氏は、かつて松下電器(現パナソニック)に勤務していた時代に、「泥臭い関西の松下に対して、東京のハイカラなイメージの東芝に憧れを抱いていた」と明かす。 「もし島耕作が、東芝の社長になったら」として弘兼氏はこう話す。取締役会で社長職を辞し会長職に退くことを発表するテコットの島耕作社長(2013年7月11日発売の講談社の週刊漫画誌「モーニング」から) 「漫画だったら、島耕作が自ら上場廃止を宣言して、株主には『多大なご迷惑をおかけするが、必ず立て直す』と訴える。それでまた再上場を狙って頑張る──という物語にはなるでしょうね。  島耕作シリーズの『社長』時代に考えていたのは、韓国の電機メーカー“ソムサン”に対抗するために、“ソラー”と“(島耕作の)初芝電産”を中心に日本の業界を再編して2社か3社にする構想です。 東芝も他の会社と合併するという手があるかもしれません。そうなると、大量リストラはやらざるを得ないでしょうが、誰かが悪者になって『将来のために、痛みは自ら背負っていく』という決断も、物語の中でならできるのです」  現実的な方法としては、弘兼氏は新たな分野への参入を挙げる。 「社長になった島耕作は、家電のノウハウを活かして農業に進出しました。実際にパナソニックはコンピューター制御のガラスハウスをつくっている。電機メーカーのノウハウで、人工の光を使って、コンピューター制御で野菜をつくる。原子力発電から出る温水を利用して温室栽培をするというアイディアもあります。農業も原発も国策。国と一体で、立ち直るのです」関連記事■ 島耕作の妻役で声優に挑戦の壇蜜「小2で読んだ。刺激的」■ 若き「島耕作」も学んだ裸踊りの宴会芸 著者は「半分実話」■ 弘兼憲史氏 「パワハラ時代こそ若者は宴会芸を使いこなせ」■ 社長から会長になった島耕作 引き続き夜も期待したいとの声 ■ 舛添、猪瀬、菅直人 なぜ墜ちた団塊は助けてもらえないのか

  • Thumbnail

    記事

    『少年ジャンプ』伝説編集長が語る「漫画雑誌は一度壊して作り直せ」

    篠田博之(月刊『創』編集長) 月刊『創』5・6月号マンガ特集を編集するにあたって、昨年、今年と白泉社の鳥嶋和彦社長を訪ねて話を聞いた。鳥嶋さんは2015年8月に同社社長に就任するまでは集英社に籍を置き、以前は『週刊少年ジャンプ』の名物編集長だった。白泉社は集英社の関連会社だ。 この春、白泉社発行の青年誌『ヤングアニマル』の連載『3月のライオン』が映画化されるなど、同社にとって大きな動きが起きているのだが、そうした話題にとどまらず、鳥嶋さんに聞いてみたいと思ったのは、いまマンガが多様化しているなかで、マンガの黄金時代と言われた20~30年前と今を比べてマンガの持つエネルギーがどう変わっているのかということだ。白泉社の鳥嶋和彦社長。『週刊少年ジャンプ』の名物編集長だった(古厩正樹撮影) その話に入る前に、まず白泉社の現状について聞いた。 「僕は社長になる時に目標を二つ言ったのです。営業利益を黒字化させることと、コミックス初版100万を達成すること。前者は昨年達成できたので、もう一つは、『3月のライオン』最新刊が特装版と合わせて80万だからもう一歩、年内に何とかしたい。でも今、マンガの初版100万は簡単じゃない。僕が編集現場にいたころの100万と今の100万は重さが違いますね」  鳥嶋さんは集英社にいた時代、編集現場を離れてからはデジタルやライツをめぐるビジネスに尽力していた。これからはマンガをめぐるビジネスを考える場合、デジタルとライツビジネスをきちっと回していかないといけない、というのが鳥嶋さんの持論だ。マンガ界はこの1年間で、ますます紙の雑誌が落込み、デジタルが伸びつつあるのだが、今の業界の方向性に必ずしも鳥嶋さんは同意しているわけではないらしい。かつてのマンガにはエネルギーがあった 「この機会にマンガ雑誌のあり方をもう一遍再定義してどうするかを考えなきゃいけないと思います。それがやっぱりどの出版社も出来ていない。マンガの作り方も、特に週刊誌がそうですけど、一話一話読ませる、ひいてはその雑誌を買わせる、という作り方がどこまで出来ているか。僕は今、ちばてつやさんやあだち充さんのかつての作品を読み返しているのですが、あの時代はマンガにエネルギーがありましたよね。確かに今は少子化とかデジタルどうのこうのという厳しい環境はあるのですが、でもそれは外部的要因に過ぎないのじゃないか。マンガが力を持っていた頃は雑誌の連載自体にライブ感、読者の反響があって作家がそれに引っ張られて描くといういい意味での双方向性があったと思います」 鳥嶋さんが「あの時代」というのは1980年代だろう。『週刊少年ジャンプ』は90年代前半がピークで、最高部数650万部超を記録した。当時の毎日新聞400万部をはるかに上回る部数だ。それが1995年、『ドラゴンボール』『スラムダンク』『幽遊白書』という三大人気連載が終了したのを機に一気に部数を減らしていった。その後、紙のマンガ市場は一貫して縮小を続けている。『週刊少年ジャンプ』はその中では健闘しているとされるが、部数は今や200万部を切ってしまっている。部数の減少が続くマンガ雑誌  確かに『ONE PIECE』などのように驚異的な人気を誇る作品はあるのだが、そうした一部の作品を除くと、ちばてつやさんやあだち充さんのピーク時のような勢いやエネルギーが失われているのではないか、というのだ。そのあたりについては異論もあるだろう。時代が変わったのだからそんなことを言っても無意味だという意見もあるかもしれない。ただ、マンガの黄金時代に現場でマンガの編集をやっていた鳥嶋さんの言葉だけに、その指摘は考えてみる価値がありそうな気もする。ただ、もちろん鳥嶋さんはこう付け加えるのも忘れなかった。 「言葉で言うのは簡単ですけどね。本当はもう一回その雑誌が必要なのかどうか問いかけて作り直す作業をやらなきゃいけないんじゃないか。今この厳しい時代に、そんなふうに壊しながら作り直すというのは相当難しいとは思いますけれどね」

  • Thumbnail

    記事

    人気連載が続々終了の『少年ジャンプ』はヒット作を育てられるか

     大手出版社の屋台骨を支えていると言われるマンガだが、名実ともにマンガ界のトップを走る『週刊少年ジャンプ』がこの1~2年、直面した危機と、それを集英社がどう乗り切ろうとしているか報告しよう。名実ともにマンガ界のトップを走る集英社の『週刊少年ジャンプ』 同誌が直面した危機とは、この1~2年、人気連載が次々と終了していったことだ。人気連載終了はもちろん本誌の部数にも影響し、『週刊少年ジャンプ』の部数は1年前の250万部から200万部に落ち込んだと言われる。しかし、それ以上に深刻なのは、連載終了した作品をまとめた単行本、いわゆるコミックスの新刊が出なくなることだ。初版360万部を誇る『ONE PIECE』のコミックスが年に何巻出るかで集英社の決算の数字が変わるというほど、大型作品の経営寄与率は高いのだが、『ONE PIECE』は安泰だといえ、それに続く初版数十万部の作品の連載が、この間、次々と終了した。 この1年間だけでも『暗殺教室』『BLEACH』『こちら葛飾区亀有前公園派出所』『トリコ』の4本、その前年には『NARUTO-ナルト-』『黒子のバスケ』が終了している。 つまり集英社の屋台骨を支えてきた人気作品のかなりのものがこの2年間でごっそりなくなってしまったのだ。集英社の次の決算が大きな打撃を受けていることは間違いないといえる。 ジャンプブランドを始め集英社のマンガ部門全体を統括している鈴木晴彦常務が、月刊『創』のマンガ特集の取材に対してこう語っていた。 「正直、かなりこたえました」 実は『週刊少年ジャンプ』は1995年に600万部超という驚異的な部数を誇っていたのだが、『ドラゴンボール』や『スラムダンク』『幽遊白書』という人気連載が次々と終了したのを機に部数が一気に落ち込んだ。それ以来、一貫して部数減が続いているのだが、この1~2年の人気連載終了は、その20余年前の悪夢を思い起こさせたというわけだ。 「ただ、もっとずるずると落ち続けるのではないかという不安もあったのですが、実際はそうでもなかった。あれだけ人気の連載が終了した割にはよく持ちこたえたと思います。よくふんばったなというのが率直な感想です」(鈴木常務) 一時期、集英社のマンガ部門関係者の顔は一様に暗かったといわれるが、この春、少し明るさが出てきたのは、危機を打開するための施策が少しずつ動き出し、明るい見通しが出てきたからだ。 「今年は『週刊少年ジャンプ』も新しい作品を育てないといけないし、正念場の年になると思います。『ジャンプスクエア』や、春に刊行予定の増刊『ジャンプGIGA』、それにマンガ誌アプリの『少年ジャンプ+』などを、どう連動させてコンテンツを作っていくか。新陳代謝が進むと思います」(同)  不動の地位を誇る『ONE PIECE』に続く作品といえば、不定期掲載の『HUNTER×HUNTER』を除けば、現在2位につけているのが『ハイキュー!! 』だ。そしてこの1年、急速に人気を伸ばしたのが『僕のヒーローアカデミア』だ。2016年春から始まったアニメ化で弾みがつき、2017年も4月からアニメの第2シリーズが放送されている。「『僕のヒーローアカデミア』のアニメは半年間放送予定で、おそらくコミックスが初版100万部を突破するでしょう。先ごろ発表された読売新聞社などが主催の「SUGOI JAPAN AWARD 2017」でも『僕のヒーローアカデミア』が、マンガ部門の1位に選ばれました」(同)期待は異例のゴルフマンガ 同じく4月からアニメが放送された作品としては『BORUTO―ボルト―NARUTO NEXT GENERATIONS』が挙げられる。『NARUTO』の主人公の子どもを描いた作品で、『週刊少年ジャンプ』に月1のペースで連載されている。 そのほか今人気上昇中なのが『ブラッククローバー』『約束のネバーランド』と『鬼滅の刃』。鈴木常務は、2017年中にその3作品を50万部タイトルにしたいという。 それ以外に期待がもたれているのは、『黒子のバスケ』を描いていた藤巻忠俊氏の新連載『ROBOT×LASERBEAM』だ。少年誌には異例のゴルフマンガだが、作品の評価が高く、連載第1回は『週刊少年ジャンプ』の表紙を飾っている。 「今年に入って次々と新連載を立ち上げ、“春の6連弾”と呼んでいるのですが、その6本目がこの作品です。3月に『黒子のバスケ』が映画化されることなどいろいろなタイミングも考えました。 考えてみれば、『週刊少年ジャンプ』はアンケート主義による競争原理を取り入れたり新人発掘のためにいろいろな試みをしてきたのですが、このところ『ハイキュー!!』にしろ『僕のヒーローアカデミア』にしろ、その作家にとって2本目3本目の作品で大ヒットするケースが目立つ。藤巻さんもデビュー作の『黒子のバスケ』が大ヒットしたわけですが、今回の2作目も期待できる。1作目を終えた作家が次をめざしてコンペを行い、2作目3作目でさらにヒットを出すという成長スタイルはこれから増えていくような気がします」(同) 『週刊少年ジャンプ』の今後を支える作品をどう作っていくかという課題をめぐっても今後いろいろな施策を考えているという。そのひとつが春に4カ月続けて発行される増刊『ジャンプGIGA』だ。 「4回の連載で手応えを見ようということで4回分を仕込んでもらっています。昔は『少年ジャンプ』の連載会議で掲載作品を全て決めるという1回勝負だったのですが、今は新人の発表の場として増刊を生かしていこうということです。 また『ジャンプスクエア』からも『プラチナエンド』『憂国のモリアーティ』など好調タイトルが出ています。デジタルの『ジャンプ+』からも、コミックスにして10万部を超える作品が次々と出始めています。それら4つの媒体から新しいコンテンツをどうやって生み出していくか、というのを今後は意識的に取り組んでいこうと思っています」(同)2018年に創刊50周年を迎える集英社の『週刊少年ジャンプ』(中央)  集英社では、2017年は『ONE PIECE』20周年、『ジョジョ』30周年であるほか、来年が『週刊少年ジャンプ』50周年に当たるため、7月から「創刊50周年記念 週刊少年ジャンプ展」など、周年企画が始まるという。 ちなみに2017年はライバルの講談社の『週刊少年マガジン』でも、『別冊少年マガジン』連載の『進撃の巨人』がアニメ第2期の放送や舞台化などで大きな期待を持たれているが、それに続く新作の大ヒットをどうやって生み出すかが大きな課題になっている。 また小学館の『週刊少年サンデー』も、一昨年、編集長交代に伴って連載の6割を入れ替えるという大手術を行い、ようやくその後の新連載からヒットの芽が見え始めているとはいえ、『名探偵コナン』に続く作品が出ていない現状は深刻だ。少年マンガ誌3誌とも、2017年は正念場の年といえよう。

  • Thumbnail

    記事

    「少年ジャンプ200万部割れ」を深刻に語るオトナたちへの違和感

    みならず単行本も長期低落が止まらず、確かにえらいことではありますが、いずれも紙の媒体での話です。何もマンガに限らず、週刊誌にせよ月刊誌にせよ、あるいは新聞なども含めたいわゆる旧来の紙媒体の「落日」はもはや構造的なものでしょう。マンガとて、紙媒体が売れなくなることはとうに予想されていたことであり、もちろんそれでメシを喰っている業界当事者たちも、ある程度は織り込み済みで電子書籍化その他、あれこれジタバタしてきているわけで、このニュース自体は「何を今さら」という感じは否めません。 ただ、そういう「マンガはもうダメかもしれん」的危機論にまつわって、案外まだきちんと問題にされていないこともあります。ここでは一つだけ、マンガを「読む」という習慣について考えてみようと思います。もはや国民的規模で当たり前になったかのように思える、この「習い性」自体が実は静かにそのあり様を変えていきつつある、そのことを述べておきます。 かつて子供のころ、マンガを退屈しのぎの「おもちゃ」として与えられたことから、「読む」作法を身につけた人たちの多くは、オトナになっていく過程で自然にマンガから離れてゆき、実際に読まなくなっていきました。その中で一部、10代も半ばを過ぎてもなお、マンガを読む人たちが一定数出現し始めたのはおおむね1960年代半ば、いわゆる団塊の世代がそれら青年期に差し掛かるようになったころでした。 それに見合って、それまで子供向けの少年誌、少女誌しかなかったマンガ専門誌に『ビッグコミック』(小学館)など青年向けの媒体も生まれ始めました。オトナになってもマンガを読む人たちが増えていくと、そのような人たちが「読む」に耐え得るマンガ作品も求められるようになりました。かくて「戦後ニッポンマンガ」市場はこのような経緯をたどり、その読者層の成長とともに大きく広がるようになっていきました。 当初は「テレビまんが」と呼ばれたアニメにしても、子供だけでなく青年の、さらにはオトナのものにもなっていく過程もまた、「戦後ニッポンマンガ」市場の拡大とおおむね軌を一にしていました。今の日本人、おおむね60代から下の世代ならば誰もがマンガを「読む」ことができる、そういうリテラシー(読解力)を実装するようになっている背景には、既にそのような「歴史」の過程が横たわっています。 もちろん、昨今の青年も当たり前にマンガを「読む」ことができます。それは確かなのですが、だからといって、少し前までの青年たちのように「読む」のかというと、どうやらそうでもないらしい。その「読む」の内実が変わってきているとともに、それ以前にまず習慣としてマンガに接する機会自体が少なくなってきているようでもあります。マンガを教養や文化として受け取らなくなった 身の丈の見聞に限ってみても、親がマンガを読み、お気に入りのマンガ本をそろえているような環境に育った青年ならば、早くからマンガを読むようになります。それも親から勧められた昔の作品なども糸口にしながら、マンガリテラシーを実装している印象があります。しかも、彼らは「読む」だけではなく、自分自身で「描く」ことにも抵抗がない。マンガのようなビジュアル表現を実際に描く技術の進展と広がりが、紙媒体のマンガが売れなくなっていったこの20年ほどの間に、それまでと違う能力を若い世代の間にも与えてきたようです。この辺りは商品音楽の聴き方、受容の仕方などとも共通している面があり、同時代的(シンクロ)現象とも言えるでしょう。 ただ、そんな今どきの青年は、マンガ「だけ」をひたすらに読んでいるわけではありません。生まれたときからアニメがあり、ゲームもある彼らにとっては、それら新たに出現したメディアを含む情報環境に育って社会化してきたわけで、マンガもまた情報環境における多様化したメディアコンテンツの一つに過ぎません。あくまで「マンガ『も』読める」というように、機会があれば読むけれど、だからといってマンガを特別なモノとして読むわけではないのです。 そしてなによりマンガをかつてのような「教養」や、活字を自明の前提に成り立っていたような「文化」として受け取る素地自体、既に希薄になっています。近年「マンガはもうダメかもしれん」論を深刻に語る人たちの口ぶりには、この「かつて切実な表現としてマンガを読んできた」世代感覚ならではの、どこか教養や文化として活字の「補助線」を自明の前提にしながら解釈しようとしてきた、その「習い性」ゆえの現状に対する根深い違和感がどこか必ず含まれているような印象があります。 かつてマンガを青年に、さらにオトナになっても読むような習慣を身につけ始めた世代が育った情報環境は、活字が良くも悪くも大衆娯楽の中心に成り立っていました。この当時、「マス」を対象とするラジオに代わる新しいメディアとして、テレビの存在感がひと際増しつつありましたが、それでも情報環境における第一次的なメディアは良くも悪くもやはり活字であるという現実が、それを支える価値観や約束事とともに厳然として生きている環境でした。だから、それら活字を「読む」ことこそが、彼らにとっての「読む」という作法の根幹を形成してきたところがあります。 「視聴覚教育」などと言われ、大衆社会化とともに活字以外の媒体がその社会的意味を意識されるようになっていったのもおおむねそのころでした。いわゆる映像、画像的な「ビジュアル」情報についての意味が、それまで標準設定とされてきた活字との関係で改めて問い直されるようになったのも、思えばその時代からだったわけです。マンガを「読む」こともまた、それが「読む」という動詞とともに人々に意識されるようになっていったことに象徴されているように、やはり活字の「読む」を前提に身につき、かつ社会的に浸透していったと考えていいでしょう。新たな環境から続々生まれてくるマンガ作品 けれども、そのような活字前提の「読む」習い性自体が昨今、決して当たり前のものではなくなっています。マンガに限ってみても、自分で描いた作品が同人誌も含めた紙媒体ではなく、ウェブ経由の発表手段が一般化していく中で、ウェブから読者を獲得することはごく当たり前になっています。また、そこから紙媒体に「進出」していくことも珍しくありません。 先日、第21回手塚治虫文化賞短編賞を受賞した『夜廻り猫』(作・深谷かおる)や、ウェブ経由で読者を獲得し自費出版までこぎつけた『巻きシッポ帝国』(作・熊谷杯人)など、すでにプロの描き手として実績ある作家も、同人作家や駆け出しのアマチュア作家などと「同じ土俵」で作品を発表して広く世間に問うことができる。そういう「開かれた」環境が準備されるようになってきていることの恩恵は大きいわけですが、同時にまた、それら新たな環境経由で生まれてくるマンガ作品には、これまでのマンガを「読む」作法からはなじみにくい、活字前提の「読む」とは別のところで成り立っている作品も徐々に増えています。 思えばマンガを取り巻く商品や市場環境自体、メディアミックスありきになって既に久しいです。アニメ、ゲーム、映画のみならず、いまやソーシャルゲームやプラモデル、トレーディングカードといったキャラクター商品群も加わり、広がりを見せています。 そんな中で育った今どきの青年は、活字中心に育った私たちの世代とは異なる「読む」作法をマンガに求めているのかもしれません。彼らは読み手としてだけではなく、消費者の立場からマンガの本質を理解しているはずです。彼らにとってのマンガの「教養」というのもまた、私たちの世代が蓄えてきた教養や文化とは別に、既に蓄積され始めているのかもしれない。私はそう感じています。

  • Thumbnail

    テーマ

    『少年ジャンプ』200万部割れの深層

    『週刊少年ジャンプ』の発行部数が200万部を割り込んだ。ジャンプはピーク時653万部に達し、マンガ雑誌の象徴といえるだけに衝撃が広がった。人気連載の相次ぐ終了に起因するとの見方が支配的だが、部数減の裏でマンガ全体の市場規模は昨年増加に転じた。いまマンガに何が起こっているのか。

  • Thumbnail

    記事

    デジタルファーストが功を奏す? 絶好調『ヤンマガ』攻めの戦略

     青年マンガ誌のトップを走るのが集英社の『週刊ヤングジャンプ』で、人気連載『東京喰種 トーキョーグール:re』の実写映画がこの7月、公開される。ヒロイン役の女優・清水富美加さんの突然の引退騒動で関係者はハラハラしたようだが、公開は予定通り。集英社としても、この映画化を機にコミックスの部数をおおいに伸ばしたいと期待しているようだ。青年マンガ誌のトップを走る集英社の『週刊ヤングジャンプ』と、ヤンジャンに次ぐ講談社の『週刊ヤングマガジン』 ただこの1~2年、青年誌で注目されているのは、『ヤンジャン』に次ぐ講談社の『ヤンマガ』こと『週刊ヤングマガジン』だ。一時期低迷していたのだが、このところ映像化やデジタルなど攻めの施策が奏功して次々と話題を提供しているのだ。 転機となったのは2015年に『監獄学園〈プリズンスクール〉』がアニメ化を機にコミックス全20巻で累計370万部という大増刷を成し遂げたことだ。また『新宿スワン』も2017年に映画のパート2が公開された。既に連載が終了しているためコミックスは大きくは売り伸ばしていないが、デジタルがよく売れているという。 「守りに入らず新しいことをやっていこうという姿勢が功を奏しているのでしょうね」 そう語るのは講談社の嘉悦正明・第四事業局長だ。攻めの姿勢とは映像化だけでなく、別冊やウェブサイトなどを次々と立ち上げて作品の掲載媒体を拡大させていることも含まれる。 『ヤングマガジン』編集部では『月刊ヤングマガジン』に続く別冊として2014年に『ヤングマガジンサード』を創刊。『亜人(デミ)ちゃんは語りたい』などのヒットが出ている。また『月刊ヤングマガジン』連載の『中間管理録トネガワ』もコミックスがよく売れている。 さらに最近注目されているのは、『eヤングマガジン』という無料のアプリに連載された作品から2016年、『食糧人類―Starving Anonymous―』『生贄投票』などコミックスのヒットが生まれていることだ。デジタルファーストのマンガが紙のコミックスでも売れたという事例だ。 第三・第四事業販売部の高島祐一郎販売部長が語る。 「『食糧人類』はコミックスの第1巻が初版1万5000部からスタートして累計22万5000部までいっています。これはなかなかないケースですね。第2巻は初版20万部ですが、デジタルを合わせると1・2巻累計で100万部くらい出ているのではないでしょうか。『生贄投票』もコミックス第1巻は初版2万部でしたが、デジタルで火がついて以降、紙のコミックスも第1巻が10万部を超えました」 増刊やデジタルを含め、作品のテイストにあわせたいろいろな媒体に連載を行い、それを紙のコミックスに落としこんでいくという戦略が奏功しているようだ。  別冊を次々と創刊し、さらにウェブサイトでも連載を立ち上げ、基幹雑誌の周辺にいろいろな作品発掘の機会を拡大していこうというのは、講談社のマンガ部門全体の基本方針だ。例えば『進撃の巨人』は『週刊少年マガジン』でなく、『別冊少年マガジン』の連載作品だ。本誌とちょっとテイストの異なるエッジの効いた作品を別冊で、という方針は、マンガそのものの多様化が進む中で、今のところ成功しているようだ。 前述した『ヤンマガ』の『食糧人類』や『生贄投票』もかなり異色の作品なのだが、そういうものがデジタルなどで人気を博し、コミックスで売り上げを伸ばすという状況に至っているのだ。そもそも『監獄学園〈プリズンスクール〉』にしても王道系とは異なるマンガで、深夜アニメで火が付いた。マンガやアニメの嗜好が多様化し細分化しているなかで、いろいろな作品をどう発掘してビジネスとして成立させていくか。いまマンガをめぐるビジネスはそういう時代に至っているといえる。

  • Thumbnail

    記事

    ブームこそ命『コロコロコミック』が切望する次の「妖怪ウォッチ」

    入れて楽しい雑誌を作っていこうと思っています」 雑誌が苦戦する出版界だが、子どもたちの間ではいまだにマンガ雑誌が娯楽の中心を占める。スマホの普及も上の世代ほどではないし、お小遣いの額も限られているので、いろいろなマンガが読めて付録もついているマンガ雑誌は貴重な存在なのだ。 児童誌の大きな特徴は、玩具やゲームを含めたブームと連動していることだ。3年前の「妖怪ウォッチ」大ブームの時は『コロコロコミック』も100万部を突破する勢いだった。そのブームが一段落した現状では、雑誌の部数もピーク時に比べると20~30万部落ちているという。 「それは児童誌の特徴であり想定内のことではあるのです。幸い、今の『コロコロコミック』の部数は、『妖怪ウォッチ』ブームの前よりは高いところにとどまっています。本来、編集部としてはブームが一段落する前に次のブームを仕掛けていかねばならず、今は『ベイブレード』と『デュエル・マスターズ』がそれに当たるのですが、残念ながら『妖怪ウォッチ』ほど大きなムーブメントに至っていないのが実情です」(佐上チーフプロデューサー) 「ベイブレード」は、もともとベーゴマをもとにタカラトミーが開発した玩具だが、過去2001年、2008年とブームになり、今回は第3期。「ベイブレードバースト」というシリーズだ。2015年夏にタカラトミーから玩具が発売され、7月から『コロコロコミック』でマンガ連載開始、2016年4月からはテレビ東京でアニメの放送が始まった。  「デュエル・マスターズ」はタカラトミー発売のトレーディングカードゲームと連動したもので、『コロコロコミック』では2014年4月号から現在のシリーズ「デュエル・マスターズVS」の連載が始まった。テレビ東京のアニメも昨年4月から始まっている。 そんなふうにゲームや玩具にマンガとアニメを連動させてブームを作り出し、マンガを読んでいないと学校で子どもたちが話題についていけないという状況を作り出す。そういう独特の手法が児童誌の大きな特徴だ。小学生読者にもデジタル化の波 小学生向けの市場は、中学生より上の世代のようにスマホの影響が見られないと前述したが、実はこの世代にもデジタル化の波は着実に押し寄せてきている。 「小学生は任天堂の3DSというゲーム機でユーチューブを見ているんですね。そこで私たちは2015年末から『コロコロチャンネル』という動画配信を始めました。『コロコロコミック』の編集者が新しいゲームやホビーの遊び方やマンガの描き方を説明するほか、アニメも見逃した子どもたちのために配信しています。毎日最低1本は何らかの動画を配信するという方針です。これが人気になっており、チャンネル登録者数が10万件を超えました。 『コロコロコミック』では20年以上前から、年に1回、1月にビッグアンケートという、設問が100くらいある詳細な読者アンケートをとっているのですが、今年の集計データを見ると、『これからやってみたいこと』の1位が動画配信でした。創刊40周年の節目を迎えた『コロコロコミック』 『将来なりたい職業』の1位が『本やマンガの仕事』で、これは大変嬉しい結果ですが、2位が『ゲームの仕事』、そして3位が『ユーチューバー』でした。ユーチューブは小学生たちにとって相当身近になっているのですね。 親のスマホを借りて子どもたちがスマホゲームで遊んでいるというのも目立ってきています。親も監視下にある場合は、子どもにスマホを使わせているのです。 『コロコロコミック』にとって、これまでウェブはマンガのPRやプロモーションのためという使い方でしたが、これからはデジタルのコンテンツで収益を上げることも考えていくことになるかもしれません。  昨年の夏から始めた『デジコロ』は、3DSのゲーム機の中でコンテンツを販売しているニンテンドーeショップに『コロコロコミック』のマンガ2作品を出品しているものです。『でんぢゃらすじーさん邪』と『ケシカスくん』で、それぞれマンガに着色をし、音声をつけて1話100円で販売しており、すでに20話くらいアップされています。制作に費用がかかって今のところは赤字ですし、子どもたちに課金というのはハードルが相当高い。当面は先々を見据えてじっくりと取り組んでいきたいと思っています」(同) 小学生向けの市場にもデジタルの影響がいろいろな形で出始めている。この傾向が今後ますます拡大していく可能性もある。今後、デジタルの波は、児童の娯楽市場にも大きな影響を及ぼすことになっていくのだろうか。

  • Thumbnail

    記事

    『逃げ恥』『東京タラレバ娘』変貌する女性マンガ

     今年も女性マンガを原作とする映画やドラマが次々と公開されている。さすがに似たような映画が続いてあきられもしているようなのだが、原作がある程度売れていると宣伝もしやすいし、何よりも低予算で作れるとあって、次から次へと量産されているのだ。 そうしたもののヒットの手本とされているのが、昨年秋にドラマが大ヒットした『逃げるは恥だが役に立つ』と、今年に入って放送されヒットした『東京タラレバ娘』だ。どちらも講談社の女性マンガ誌『Kiss』の連載だ。『Kiss』『BE・LOVE』 は、講談社の同じひとつの編集部なのだが、そこから生まれたコミックスが映像化で絶好調なのだ。4月からは『BE・LOVE』連載『人は見た目が100%』もドラマ化されたし。2016年は春に同誌連載の『ちはやふる』が映画化されてヒットした。人気漫画「東京タラレバ娘」 講談社第三・第四事業販売部の高島祐一郎販売部長がこう語る。 「女性もののコミックスは前年比で120%くらい行ったのではないでしょうか。昨年春に映画化された『ちはやふる』はトータルで150万部くらい重版がかかりましたし、秋にドラマがヒットした『逃げるは恥だが役にたつ』は120万部くらいの重版になりました。『逃げ恥』はもともとの部数がそう大きくなかったこともあり、ドラマスタートの前段階では各巻3万部くらい増刷をかけていましたが、放映開始以降はかけてもかけても足りなくなる。2週間に1回くらいのペースで増刷をしていました。『東京タラレバ娘』はもともと1巻から30万部を超えるベストセラー作品だったこともあり、ドラマ開始にあわせて各巻10万部増刷をかけました。最新刊の第6巻も初版30万部でスタートし、37万部を超えています」 講談社の少女マンガ誌『別冊フレンド』もこの1年ほど映像化でコミックスが売れている。2016年は『黒崎くんの言いなりになんてならない』が映像化で大きく売り伸ばしたが、今年も『PとJK』が3月から映画公開中で、全9巻それぞれ4万部くらいずつ増刷がかかっているという。 映像化で女性マンガが売れているのは小学館も同じだ。この1年の映像化についていうと、『プチコミック』の連載『はぴまり~Happy Marriage!?~』と『せいせいするほど愛してる』の2本が2016年ドラマ化。2017年に入ってからはフジテレビの月9で『突然ですが、明日結婚します』がドラマ化された。春からはもう1本、『恋がヘタでも生きてます』がドラマ化。また『Sho‐Comi』の『兄に愛されすぎて困ってます』(通称『兄こま』)が映画化される。 小学館第一コミック局の細川祐司チーフプロデューサーがこう語る。  「やはりドラマ化された作品は紙でもデジタルでも売れています。『突然ですが、明日結婚します』は視聴率とかいろいろ騒がれましたが、原作は増刷がかかっています。元々『プチコミック』の中でも人気作でした。『プチコミ』の作品はデジタルとの親和性が高いのが特徴ですが、ドラマの1話が終わった後にデジタルの売れ行きが跳ね上がる。反応は紙よりも分かりやすく出るかもしれません。昨年の『はぴまり』はAmazon プライム・ビデオでのドラマ化、『せいせいするほど』はTBSでした。『はぴまり』は、元々超ビックタイトルだったし、連載が終わっている作品でもあるので、映像化でものすごく増えたというのでなく、堅実に部数が乗ったという感じですね」ドラマや映画と親和性が高い女性マンガ 女性マンガとデジタルは親和性が高いと言われるが、小学館では以前から「エロかわ」と呼ばれる路線をとってきたサイト「モバフラ」のほかに、「&フラワー」というサイトがスタートする。 「今後は紙とデジタル両方に描く人もいれば、例えばデジタルに合っている作品といったケースも考えられます。去年『深夜のダメ恋図鑑』という『プチコミック』の作品が、デジタルのほうで火がついて紙に跳ね返ってきて、というケースもありました。単純に紙のマンガをデジタルに、というだけじゃない展開を今後考えていかなければならないと思っています」(細川チーフプロデューサー) 集英社の少女・女性マンガの映像化については、2016年は『YOU』連載の『高台家の人々』と『別冊マーガレット』連載の『青空エール』が実写映画として公開された。それぞれ原作者は森本梢子さんと河原和音さんだが、集英社の女性マンガの代表的なヒットメーカーだ。 2017年に入ってからは3月24日に『マーガレット』に連載されたやまもり三香さんの『ひるなかの流星』原作の実写映画が公開され、ヒットした。既に連載は終了しているが、13巻刊行されているコミックスを集英社では計50万部以上の重版をかけた。また児童小説「みらい文庫」やライト文芸「オレンジ文庫」からノベライズ単行本を刊行するなど、大きな取り組みを行っている。 また『ココハナ』で森本さんが連載している『アシガール』も人気が高く、映像化が期待されている。『別冊マーガレット』連載の『君に届け』など、コミックスの巻数を重ねても初版60万部を誇るヒット作品もある。 「女性マンガ誌は雑誌の部数は厳しいですが、デジタルが伸びており、紙の雑誌を補完しています。映像化については公開のタイミングもあるし、原作のコミックスに大きく跳ね返るケースもあればそうでないものもあります」 そう語るのは集英社の鈴木晴彦常務だ。  女性マンガ誌は部数も小さく、雑誌はもちろん赤字なのだが、この間、テレビドラマや映画化でコミックスが売れるというパターンが続いている。そうした映画やドラマを観て、原作を読もうという人が1巻からデジタルで読むというので、デジタルコミックの伸びも大きい。なかには紙のコミックスよりデジタルの売上の方が大きいという作品もある。「逃げるは恥だが役に立つ」の完成披露試写会に出席した(左から)大谷亮平、星野源、新垣結衣、石田ゆり子 少女・女性マンガのビジネスモデルは明らかに変わってきた。男性向けマンガももちろん映像化で伸びるというパターンはあるのだが、女性マンガは映像化との関係抜きには市場が成立しないほどドラマ・映画との親和性が高い。さすがに少女マンガ原作の映画は飽和になりつつあるのではとも言われるが、今年も次々と予告編が映画館で紹介されており、この傾向はしばらく続きそうだ。

  • Thumbnail

    記事

    『君の名は。』大ヒット後も続く劇場アニメの世界的ブーム

    ト10に入ったりしている。驚異的な実績なのだ。Ⓒ2016「君の名は。」製作委員会 その後、公開されたマンガ原作の劇場アニメ『聲の形』もヒット、さらにこれもマンガ原作の『この世界の片隅に』も異例の大ヒットとなっている。『この世界の片隅に』は、これまで子どもが対象とされたアニメには難しいとされた戦争をテーマにしたもので、それがこれほどヒットしたのは、アニメをめぐるこれまでの常識を塗り替えたとも言われている。 その後、2017年に入ってからも、『ドラえもん』『名探偵コナン』などの劇場アニメが大ヒットしているだけでなく、『モアナと伝説の海』『SING/シング』などのディズニーアニメも予想を超えるヒット。これは世界的な傾向なのだという。 いったいアニメをめぐって、いまどんな事態が起きているのか。 まずは『君の名は。』を製作した東宝の市川南取締役に話を聞くことにした。新海誠監督は根強いファンも抱えていたから、『君の名は。』はもちろん東宝としても期待していた作品だが、そうはいってもこれだけの大ヒットは予想していなかったという。  「私たちは興収目標を20億と立てていました。20億でもりっぱなヒットですよ。でも実際は最終的に250億まで行きそうです。今となっては後付けでここが良かったといった感想を多くの人が語っていますが、昨年は公開時期についても私たちはもう少し弱気で、アニメ映画の競争が激しい夏休みを避けて6月か9月にしてはどうかといった協議をしていました」 「実際には結局、8月末公開にしたのですが、最初は20代前後の、アニメを日常的に見ている人が足を運んでくれて、それがティーンエージャーに広がり、その後、キッズからシニアまで全世代に広がりました。宮崎アニメやディズニーアニメなどと同じ客層の広がりですね」活況の劇場アニメ 新海監督と東宝の関わりは前作の『言の葉の庭』からだが、『君の名は。』は公開も300館で、前作に比べると東宝としても大きな取り組みをしたといえる。 「前作の『言の葉の庭』は公開館数も少なく、興収1億5000万でしたが、東宝の映画企画部の川村元気プロデューサーが企画を進めていき、『次はもうちょっと大きくやりましょう。10倍は行かせないと』 『じゃあ、15億を目指そうか』と話していたんです。それまで関わっていた映像事業部だけでなく、公開規模の大きい作品を手掛ける映画営業部が配給を担当しました」(市川取締役) 前作の10倍という、当時としては大きな目標を掲げたものの、実際にはさらにその10倍以上の興収になったわけだ。その背景には劇場アニメをめぐる環境の変化があった。 「アニメ映画の客層が広がったというのは昨年指摘されましたが、実は以前からそうだったのが顕在化したということかもしれません。考えてみればジブリアニメは全世代が永年観てきた訳ですから、今のシニア層はアニメと実写を区別なく楽しむ時代になっているわけなんですね」(同) 劇場アニメが活況を呈しているというのは、そのほか『ドラえもん』や『名探偵コナン』が興収記録を塗り替えていることでもわかる。 「自分が子どもの頃に観たものに親になってもう一回、子どもを連れて行っている、二世代目に入っている、ということでしょうね。それと『名探偵コナン』などは中高生で来ていた人が大人になっても卒業せずに、ずっと観に来てくださっている。そういう現象が起きているんです。そういうファミリー向けのアニメだけでなく、アニプレックス配給の『ソードアート・オンライン』なども2月に公開して興収20億を超えるヒットです。もうマニア向けアニメとは言えないでしょうね。洋画のアニメについても、3月公開の『モアナと伝説の海』『SING/シング』も大ヒットしています。『アナと雪の女王』をピークに、子ども向けというよりデートで行く映画になっています。アニメを見る層がそれだけ拡大しつつあるというのは世界的傾向のようですね」(同) アニメにとって追い風なのは、日本のアニメが海外でも定評があり、大きなビジネスになりつつあることだ。『君の名は。』も海外展開が成功したという。「海外でも126カ国に配給しました。公開した日本を含むアジアの6カ国でそれぞれ興収1位を記録しています。中国、韓国、台湾などですね」(同) 昨年異例の大ヒットとなったもうひとつの劇場アニメが『この世界の片隅に』だ。『君の名は。』の興収には及ばないが、もともと3億を目標としていたら10億を超えるヒットとなった。アニメで戦争をテーマに掲げるという、それまではヒットするとは思われていなかった常識を覆したという点で特筆すべきケースといえる。Ⓒこうの史代・双葉社/「この世界の片隅に」製作委員会 真木太郎プロデューサーの話を紹介しよう。 「映画は昨年9月に完成して11月公開でしたが、テアトル新宿は連日立ち見で『入れない』と評判になりました。SNSでのつぶやきが爆発的になって、どんどん口コミが広まっていく。今年1月7日時点で公開は200館近くになっており、300館を超える勢いでした」ゴールデンタイムから撤収したアニメ 「コアなアニメファンというのは、実はあまり来ていないですね。お客さんは幅広い層がまんべんなく来ていますが、中心は30代、40代、50代じゃないでしょうか。60代のシニアも10%弱います」「僕たちのもともとの目標は興収3億円だったんです。『10億行ったら奇跡だね』『目指せ、奇跡の10億』なんて言っていました。でも実際には既に10億を超えています」 大人がアニメを観に映画館へ大勢足を運ぶという光景は、従来は考えられなかった。その意味では『この世界の片隅に』がアニメ映画の歴史にもたらした影響は極めて大きいといえよう。劇場アニメの客層が急激に拡大しつつあるという一方で、テレビアニメをめぐってはやや複雑な状況が起きている。 この何年か、キッズ向けのアニメは、フジテレビの『ONE PIECE』や日本テレビの『アンパンマン』など、ゴールデンタイムや夕方枠から次々と撤収し、午前の時間帯へ移っていった。   そうした流れを象徴する出来事が最近話題になった。毎日放送/TBS系が日曜午後5時に設けていたアニメ枠、いわゆる「日5(ニチゴ)」が廃止になったのだ。この枠は全国放送でクオリティも高く、アニメファンからは高い評価を得ていた。これまで放送された番組も『マギ』『ハイキュー!』『七つの大罪』『アルスラーン戦記』『僕のヒーローアカデミア』など強力なラインナップで、「日5」でアニメ化されるとヒットすると言われてきた。  そのアニメファンに定評のあった枠が突然廃止された。そして2016年4月からその「日5」で放送されていた『僕のヒーローアカデミア』の第2期が何と、読売テレビ/日本テレビ系の土曜夕方にこの4月から放送されている。アニメの1期と2期が異なる局から放送されるという、これは極めて異例の事態だった。 フジテレビとテレビ東京のアニメに顕著なのだが、実はテレビアニメも映画を含めた他のメディアとの連動を仕掛けたりと、戦略的な展開をしないといけない時代になりつつある。いずれにせよ、アニメをめぐる環境がいま、大きく変わりつつあるのは確かなようだ。

  • Thumbnail

    記事

    青年漫画誌・スピリッツが「社会派に転向」の理由

    を氏、高橋留美子氏、萩尾望都氏をはじめとする100名以上の漫画・原作者が参加した「がんばれクマモト!マンガよせがきトレイン漫画」を南阿蘇鉄道に走らせるという。 なぜ青年漫画誌でありながら、このような「社会派」な誌面づくりを行っているのか。昨年4月から、同誌編集長をつとめる坪内崇氏はこう言う。「『スピリッツ』は、エンターテインメント漫画誌。「日本国憲法特集号」が最初の試みでしたが、その時、社会や読者の興味・関心が高まるトピックがあれば、それを誌面にすればいいと考えています。漫画誌だから漫画作品以外を扱ってはいけないかと言えば、そんなことはまったくないわけで、かつての漫画誌はスポーツやコラムなどにも多くのページを割いていました。その原点に立ち戻ったと考えてもらえれば良いかと。 漫画作品だけでなく、特集企画というやり方で、今という時代とリンクする誌面を作ることで、現在の雑誌離れに少しでも風穴が開けられるかもしれないという思いはあります。また、毎週購読してくれている『スピリッツ』読者に次号も読みたいと思わせる気持ちを起こさせることや、これまで『スピリッツ』を読んだことがない方がコンビニや書店で表紙の見出しを見て、興味を持って手に取ってくれることも期待しています」「防災」と「復興」という特集については、編集部員から立案があった。坪内氏は「世の中について、もっと真面目に考えてみよう」という世間のムードを感じているからこそ、と受け取った。「ここ数年で相当、世界や社会の情況は変化しています。『面白ければいい、その場限りでいい、ではいけないんじゃないか』と皆が感じ始めていると思う。そんな読者のアンテナに突き刺さる特集企画や、漫画作品を発信していければ、きっと読者は雑誌ならではの面白さを改めて感じてくれるはずなんです。これからも特集号については『スピリッツ』にしかできない取り組みとして、継続していきたいと考えています」 雑誌・冬の時代だからこそ、各誌が知恵を絞って、読者へのアピールを考えている。『スピリッツ』の試みは、新たな読者を開拓できるだろうか。関連記事■ マルチグラドル今野杏南 おわん型G乳で積極アプローチ■ 現役JDグラドル・忍野さら「グラビア撮影は書道と同じ」■ バクステ朝倉ゆり ダンスで鍛えた美くびれ&美乳を披露■ 堀北真希 一時的に夫・山本耕史と離れ子供と北海道へ■ 愛子さまも? プリンセスを襲う拒食という「ロイヤル病」

  • Thumbnail

    記事

    アニメの歴史 1960年代手塚アニメは人手が足りず主婦が彩色

     『ウルトラマン』が放映された1960年代は、飛行シーンやミニチュア化された街並みの完成度など、特撮ドラマにおける映像技術のピークを迎えた時期だった。その一方、最高視聴率40%を記録した『鉄腕アトム』(1963年)を皮切りに、『エイトマン』(1963年)や『サイボーグ009』(1968年)など、後のテレビアニメに大きな影響を与えた作品の放映が次々始まる「アニメの第1次ブーム」でもあった。 その黎明期を支えた人物のひとりが、手塚治虫氏の専属アシスタント第1号として知られる笹川ひろし氏だ。笹川氏が語る。「私が監督した『宇宙エース』(1965年)はその中でも初期にあたる作品です。当時は人手が足りず知り合いの主婦に彩色を頼んだほどでした。 モノクロ作品とはいえ5色の絵の具を使うので、絵の具と塗る場所にそれぞれ番号を振って、それに合わせて塗ってもらっていました。私も漫画家になりたくて上京したのですが、自分の描いた絵に動きや音楽がつくのが楽しかった。『もう雑誌漫画はなくなる』『アニメの時代が来る』と確信したのもこの時期です」「鉄腕アトム」の原作者で漫画家の手塚治虫 =1987年3月8日、兵庫県尼崎市 手塚をはじめとしたアニメーターが様々な表現方法を次々に確立していくなか、アニメはさらなる進化を遂げた。通常30分の枠で使用されるセル画は4000枚ほどだが、『科学忍者隊ガッチャマン』(1972年)に至っては複雑なキャラクターの造形やメカニックを描き込むため1万枚も使用されることがあったという。 かつては単なる勧善懲悪に終始していたストーリーも、時代を映し出す内容へと変化していく。『科学忍者隊ガッチャマン』は、戦争や公害といった社会的な問題をテーマに据えた重厚なドラマを描き出すことで、それまでほとんど子供のみだったアニメのファン層を大人にまで広げた。 同作の紅一点・白鳥のジュンの声を担当した声優・杉山佳寿子氏が語る。「それまで特撮やアニメの女性は男性兵士を送り出す役割がほとんど。ジュンは男性メンバーと一緒に敵と戦う。当時、女性の権利向上が叫ばれていたことが背景にあったと思います」 弱きを助け、頑なに正義を貫いたテレビヒーローに胸ときめかせた昭和という時代。そこには、先の見えない現代を力強く生き抜くヒントが隠されているのかもしれない。■取材・文/小野雅彦関連記事■ 『けいおん!』大ヒット アニソンの次は「キャラソン」か■ 島耕作の妻役で声優に挑戦の壇蜜「小2で読んだ。刺激的」■ アニメに情熱注ぐ3人の女性を描く小説『ハケンアニメ!』■ 『トトロ』『宅急便』等を手掛けたアニメーター アニメの今昔語る■ 『妖怪ウォッチ』出演の武井咲 アニメ実写の融合にドキドキ

  • Thumbnail

    テーマ

    「こち亀」が日本人に愛され続けた理由

    秋本治氏の人気マンガ「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の連載が最終回を迎えた。単行本200巻はギネス世界記録に認定され、連載開始から40年の間、一度の休載もなかった偉業を称える声はやまない。「こち亀」はなぜ日本人に愛され続けたのか。その理由を読み解く。

  • Thumbnail

    記事

    原点は伝説のギャグ漫画 「こち亀」が警察ネタでヒットしたワケ

    区亀有公園前派出所』が連載四十年、単行本全二百巻を期に完結する。偉業である。単一作品で最も巻数の多いマンガとしてギネスブックにも認定された。国際的にも名声が高まることになるが、紹介・言及する時、この書名はどうするんだろう。『Kochira・・・』とそのまま長々と書いても、略称で『Kochi-Kame』としても、どっちみち外国人には通じないし、といっても『Hello,This is・・・』と英訳すればいいというものでもなかろう。なんだか嬉しい悩みがマンガ界に起きそうな気配だ。 四十年の長期連載というと、これに肩を並べるのは「ビッグコミック」連載のさいとうたかを『ゴルゴ13』ぐらいだろう。『ゴルゴ13』は、一九六八年連載開始だから四十八年の連載である。ただ、「ビッグ」は月二回刊誌(隔週刊誌とほぼ同義)だから、単行本は現在百八十巻ほどである。興味深いことに、両作品とも休載が一度もない。これもまた偉業の両雄と言えよう。(C)秋本治・アトリエびーだま/集英社 『こち亀』連載開始時、秋本治は当年二十四歳の新人マンガ家であった。事実上のデビュー作であり、それが代表作にもなっている。若い読者にはあまり知られていないことだが、連載当初、作者名は「山止(やまどめ)たつひこ」となっていた。単行本も古い版では六巻まで山止名義であり、この名義の単行本はマニアの間では珍重され、古書価も高くなっている。 作者名改正の理由として、山上たつひこから抗議があったからだとされている。「少年ジャンプ」第三代編集長、西村繁男の回顧録『さらばわが青春の「少年ジャンプ」』には、その経緯が次のように記されている。「このペンネームは、『少年チャンピオン』に連載され評判になっていたギャグ漫画『がきデカ』の作者山上たつひこをもじってつけたものだった。投稿原稿の一回こっきりのペンネームとして作者は考えていたが、入選作を掲載してみたら、読者の反応がすこぶる強いので、急遽連載にふみ切ったのである。しかし、山上氏より、まぎらわしいからとペンネームにクレームがつき、昭和五十二年の秋に、本名の秋本治に変更することになる」 山上たつひこからのクレームなるものがどの程度のものであったのか、文面からはよく分からない。作者当人はさほど気にもしていなかったが、編集部や出版社の版権管理部の強い意向が働いた可能性もある。というのも、秋本治名義に改正されている現行版『こち亀』第一巻でも、最終章名は「山止たつひこ笑劇場 交通安全76」のままだからである。長期連載の理由は初期設定の良さにあり ともあれ、秋本治自身は、当時驚異的人気を誇っていた山上たつひこ『がきデカ』を愛読し、一種のパロディー作品を描こうと思ったのだろう。新人マンガ家が尊敬する先輩マンガ家に憧れることは自然である。このことはギャグの作り方にも表れている。 『こち亀』の描線は、伝統的なギャグマンガの描線とは違い、劇画系の描線である。伝統的なギャグマンガ(ユーモアマンガ、ゆかいマンガなどと言った)の描線は、太さが均一で、省略法が多用され、輪郭線は閉じている。簡単に言えば、「略画」なのだ。 しかし、一九七〇年代前半に、劇画系の描線で描くギャグマンガが登場し、爆発的な人気を博した。山上たつひこの『がきデカ』であり、これとほぼ同時期の楳図かずおの『まことちゃん』である。ギャグ大王と呼ばれた赤塚不二夫でさえ『天才バカボン』などでわかるように、伝統的な描線であった。秋本治は、この点でも山上の系譜に属している。(C)秋本治・アトリエびーだま/集英社 『こち亀』長期連載の理由は、初期設定の良さだろう。主人公が型破りの警察官、両津巡査長である。巡査長とは警察官の階級で下から二番目、ただし正式な階級ではない。駆け出しの新人ならともかく、二十代後半か三十代初めとおぼしき両津は、出世に興味がないということになる。ただし、ギャンブルや酒、少年誌だから露骨には描けないが、加えて女に興味がある。感情むき出しで粗暴なふるまいをする半面、おっちょこちょいの好人物でもある。 これを取り巻くイケメンの伊達男の中川、鈍重な寺井、凶暴でヤクザまがいの戸塚・・・、連載数回でこれだけの役者をそろえた。どんな話でも演じさせられることになった。実際、その時ごとの流行物を巧みに取り込んだし、登場人物の入れ替えも適宜行っている。 掲載誌「ジャンプ」の発行部数は、『こち亀』開始時が百八十万部、それ以降伸びが著しく、一九九五年には、六百五十万部に達した。現在は二百二十万部前後である。しかし、『こち亀』は常にアンケートで中央値を確保し、全掲載作の基準作ともなっていた。瞬間値でトップを取るのも十分に栄誉だが、四十年間、時代の変化にふり回されず安定的に笑いを演出できたのは並みの才能ではない。秋本治は偉業を成し遂げたと言っていいだろう。 

  • Thumbnail

    記事

    正しく通俗であるがゆえにリアル 「こち亀」が日本人に教えたもの

    際大学人文学部教授) 通称「こち亀」。この短く端折った呼ばれ方こそが、今様読み物文芸としてのニッポンマンガの栄光である。 人気マンガ作品がこのように略して呼びならわされるようになったのは、概ね80年代末から90年代にかけてのころである。週刊『少年ジャンプ』の600万部以下、週刊誌でのマンガ商品がそのようなとんでもないオーダーで流通し消費されるようになった戦後ニッポンマンガのまさに黄金時代。そういう当時の情報環境があって初めて「スラダン」「ゴー宣」その他、人気を博したマンガ作品にこのような呼び方が当たり前にされるようになっていた。 連載開始以来今年で40年、ということは当時でもすでに20年ほどたっていたことになる。そして、その間必ずしも第一線の人気を維持し続けていたとは言えない作品が「こち亀」と呼ばれるようになったのも、毎週の人気投票で生き残りが決められる最も苛烈な『少年ジャンプ』という舞台で、今日までしぶとく粘りに粘って生き残っていたからに他ならない。まずはこのことを、あの両さん以下「こち亀」世界の住人たち、そして作者の秋本治さんのために喜びたい。「週刊少年ジャンプ」連載の人気漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が連載が終了すると明かされ、漫画の舞台となったJR亀有駅近くの両津勘吉像と写真を撮るファン=9月3日夕、東京都葛飾区 - とはいえ、すでにこの「こち亀」の終了をめぐっては、専門家も含めていろんな方がそれぞれの視点でコメントしている。ここでいまさら屋上屋を架すのも野暮、ということで一点だけ。「こち亀」はいま、この時期に自ら幕を閉じてみせることで、マンガが正しく「通俗」であることに改めて思い至らせてくれた、このことをちょっと述べておきたい。 足かけ十数年、延べ140本以上のマンガ作品を取り上げてきたテレビ番組『BSマンガ夜話』でも、「こち亀」は扱っていない。何度か候補にあがってはいたけれども、結局流れたのは、分量が多くて出演者がきちんと読み込むのが大変という物理的な制約とともに、やはりどこかで「連載」モノ、殊にこのような長期連載となったある種の国民的規模での「おはなし」が必然的に帯びざるを得ない、ある種の通俗性に対して敬して遠ざける意識がどこかで働いていたのかも知れない。そう言えば、「サザエさん」も取り上げていなかった。「ドラえもん」や「ゴルゴ13」は頑張って取り上げたのだけれども。「こち亀」もまた「意識されざる公教育」の果実 「連載」という形式での「おはなし」というのは、何も活字やそれに類する紙に印刷された媒体に限らず、寄席その他の生身の上演や口演における続きものなども含めて、どうやらわれらの社会にある時期以降、宿ってきたものだった。新聞や雑誌には連載小説があったし、それらは売り上げを左右する重要なコンテンツでもあった。 NHKの「朝ドラ」がいまだに「連続テレビ小説」と称していることを思い起こしてもらってもいい。それまで月刊だった子ども向け雑誌が週刊になり、活字主体の読み物など他のコンテンツと並べられていたマンガが独立した専門誌になっていったのは高度経済成長の始まるころ。ラジオもまた、戦前はともかく戦後はそれら続きものを主な武器にしてきたし、新しいメディアのテレビもまたその習性に従った。 新たな情報環境に宿る「連載」「続きもの」の「おはなし」は、そのようなわれらの日常、日々の暮らしの当たり前になってゆき、それらを介して浸透してゆく価値観や世界観、素朴な道徳や世を生きてゆく上での約束事といったものもまた、わざわざそうと意識せずともある種の「教養」として人々に共有されるようになっていった。それはわれらの社会における「意識されざる公教育」でもあったのだ。 そのように「連載」「続きモノ」としての「おはなし」をそれこそまるで空気のように、自然に当たり前に呼吸する、いや呼吸できる環境にわれわれは生まれ、育ってきたらしい。週刊誌のマンガ専門媒体が複数林立し、それらが最盛期には数百万部規模での市場を獲得、当然読み手もまたそのオーダーで編成されていった社会、そして時代というのがすでにあった。そのことの意味やとんでもなさについて、おそらく当のわれら日本人自身がいまだよく思い至っていない。「サブカルチャー」などという目新し気なモノ言いでひとくくりにして事足れりという考えなしが昨今、また事態をさらに不透明にしてゆき、同情薄い「分析」「解釈」「批評」のひからびたことばの手癖だけが得意げにそれらを後押ししてゆく。(C)秋本治・アトリエびーだま/集英社 けれども、確かなことがある。今回の「こち亀」終了をめぐって、メディアの舞台の外で、さまざまな人たちがさまざまにその「想い」を語っている。もちろん単行本を全部揃えているという人は少ないだろう。けれども、人生のある時期「こち亀」と出会ってそのことから何かを受け止めていっただろう、国民的規模での「意識されざる公教育」の果実は、全て見通すことはできずとも、間違いなくこの時代の眼前にある。 40年という年月、単行本にして延べ200巻という規模の「おはなし」の集積は、おそらく「研究」や「批評」「評論」の土俵に正当に乗せられるまでにはまだしばらくかかるだろう。だが、そんなことはどうでもいい。マンガは昔も今も、正しく「通俗」であり、通俗であるがゆえの「リアル」を静かに宿しながら眼前にたたずんでいる。「こち亀」がいま、自ら幕引きすることで思い至らせてくれたそのことは、あらゆる知的な言葉やモノ言いが軒並み煮崩れ、信頼を失いつつあるかに見える今、この時代の日本語環境において、それらの言葉の失地回復を志す立場にとっての福音にもなるはずだ。

  • Thumbnail

    記事

    「こち亀」連載終了の決断を支持する

    常見陽平(千葉商科大学 国際教養学部専任講師) 『こち亀』の連載終了が発表された。40年の長寿連載に幕 コミックス200巻で完結(まんたんウェブ) - Yahoo!ニュースhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160903-00000005-mantan-ent(C)秋本治・アトリエびーだま/集英社 著者の秋本治さん、スタッフの皆さんに感謝したい。お疲れ様でした、と。 まだ最終回を読んでいないからなんとも言えないのだが、良い決断だと思う。人気投票で強制終了なんてことがあり得る、生き馬の目を抜くような週刊少年ジャンプの競争社会において、これだけ続くのはスゴイことだ。もちろん、作品自体が続けやすいフォーマットだったということもあるのだけど。Twitter上では「200巻で終わるように綿密に調整されていたのではないか」との説も出ているが・・・。40周年、200巻で終わるという決断が素晴らしい。どんな終わり方をするのか。今から楽しみだ。 秋本治さんは『情熱大陸』にも登場したことがあり。両さんのようなキャラでは全然なく。物静かな職人タイプである。建築物を描く際などにはちゃんと取材に出かけ、カメラとビデオで両方、立体像を抑えるなどのこだわりも紹介されていた。沢山のスタッフとの協業も。 『こち亀』にピリオドをうつことによって、次の創作活動も始めるとのことで。結構な年齢なので、実は『こち亀』終了というのは、創作意欲の現れだとも言えるのだろう。漫画化人生も後期に入る中で秋本治さんが何を描きたいのか、何を伝えたいのか。期待したい。 ここからは、ファンとしての自分語りになる。40年も続いているだけに、作風は何度か変わっている。自分が漫画に熱中していた時期とも重なるのだが・・・。私は初期というか、50巻くらいまでの頃が好きだ。これも、だいたい2期くらいに作風がわかれ。最初はスーパーバイオレンスおまわりさん的だったのだが、だんだん人情おまわりさん風になり。漫画を読んで、お腹を抱えて笑った体験は、『こち亀』が人生で初めてだった。 でも、それは既存の警察官像をガラリと変えたものであり。漫画の中ではあるものの、こんな社会人がいていいんだと思ったりしたものだ。よく大学教員っぽくないと言われるのだけど、どこかで私は両さんみたいな人を目指しているのかもしれない。(C)秋本治・アトリエびーだま/集英社 両さんは、大人の趣味を紹介してくれる漫画でもあった。プラモデル、ラジコンなどで無邪気に遊ぶ様子は、当時は新鮮で。そうか、大人になっても遊びをやめなくていいんだと思った次第だ。大人になる、警察官になるということ自体が自由な人生の終わりではないのだと勇気づけられている。 サブキャラクターの秀逸だ。バイクに乗ると豹変する本田速人、キザな星逃田、五所川原の親分などがお気に入りのキャラだった。ゴルゴ13を真似したキャラ、後流悟十三の登場回も傑作だった。オリンピックのたびに覚醒する日暮熟睡男さんは、東京オリンピックを迎えることがなくなってしまい、そこは残念なのだが。 2005年から墨田区に住んでいる。葛飾区、荒川区、足立区、台東区が近く、まさに両さんエリアに住んでいる。住み始めた頃から、「両さんっぽい街だなあ」と感じていた。 歩いていると、たまに両さんとすれ違ったかのような気分になる。自分は両さんみたいな型破りな、人生楽しんでいる社会人になれているのかと、問いかけられているかのようだ(幸い、職務質問ではなく)。 その度に、私はこうつぶやく。「両さん、おかげ様で人生楽しんでいるよ。あなたにはまだまだかなわないけどね」と。連載は終わるけど、私と両さんの関係は続くのだ。(「陽平ドットコム~試みの水平線~」より2016年9月3日分を転載)

  • Thumbnail

    記事

    漫画通の石破茂氏が「演説で台詞を拝借した」という漫画は?

    。面白く、しかも知識がつくというサラリーマンにピッタリの漫画を紹介する。 毎年のヒット作を表彰する『マンガ大賞』の発起人で、ニッポン放送アナウンサーの吉田尚記氏は、「投資本よりも、経済の仕組みが頭に入ってくる」として、『インベスターZ』(三田紀房、講談社刊)を推す。経済漫画といえば、サラリーマンや起業家が主人公というのがお決まりだが、同作の主人公は中学生だ。 「学校の“投資部”に所属する中学生が『投資は遊びだ。ゲームを楽しめ』といって、運用資金3000億円をバンバン動かす非現実的な設定ですが、内容は、ウォーレン・バフェット氏や堀江貴文氏らの実例を引用する本格派。漫画が投資の指南書の挿絵の役割を果たしてるから分かりやすい」 防衛相や自民党幹事長などを歴任し、漫画愛好家としても知られる石破茂・代議士は、『加治隆介の議』(講談社刊)と『黄昏流星群』(小学館刊)という、弘兼憲史氏の代表作を挙げた。記者団の質問に答える石破茂氏=2014年8月、首相官邸(酒巻俊介撮影) 「政治漫画といえば『加治隆介の議』でしょう。連載が始まった1991年は、僕はまだ当選2回目。首相まで上り詰めた主人公・加治隆介は憧れだったなあ。『黄昏流星群』は、60~70代なら共感できる人が多い作品ですよ。同窓会でバッタリ会った学生時代の同級生と恋に落ちるなんて……いいよねぇ~。あっ、僕がそうだという訳じゃないですよ」 そんな石破氏が「もう一つ政治漫画を挙げたい」と熱弁を奮うのが『サンクチュアリ』(原作・史村翔、画・池上遼一、小学館刊)だ。 「『加治隆介の議』と違って主人公が総理になる直前で死んでしまう。かっこ良い台詞が読み所だな」 お気に入りは、当選1期目の主人公が先輩議員に「あんたは派閥の番頭になるのが目的で代議士になったんですか。あんたたち団塊の世代がナマクラだから、今の政治ができあがっちまったんだよ」と言い放つシーンだ。 「痛快だよね。こうありたいと思いますよ。出てくる台詞のいくつかは拝借して、演説で使った気がする。どれを使ったか? それはいえないな(笑い)」(石破氏)関連記事■ 『あしたのジョー』のラストをちばてつや氏が独自解説した書■ SAPIO人気連載・業田良家4コマ漫画「オール民主党」■ 「ママの憧れ」 永作博美がベストマザー賞授賞式で見せた笑顔■ SAPIO人気連載・業田良家4コマ「TPP後の世界」■ 呉智英氏が「70歳になる私が号泣した」と語る漫画は?

  • Thumbnail

    記事

    いつもそばにある「こち亀」は私たちの精神的支柱だった

    鈴木涼美(社会学者) オトコを街に例えるとして、分かりやすく六本木や霞が関や渋谷や歌舞伎町のオトコなんていうのは顔が浮かびやすく、当然、オンナとしてはそういう男たちに愛されたい。逆に北海道や大阪なんていうのもまたそれはそれでオンナとしては愛されて損はないというか好きなひとは好きという感じがしなくもない。蒲田とか綾瀬とかのオトコも私は個人的に嫌いじゃない。葛飾区っぽいオトコってどんなだろうか。中肉中背の郵便局員、あるいはスーパーの店員。さしずめそんなところであろう。JR亀有駅前にある制服姿の両さん像。横断歩道を挟んで背後にあるのがモデルとなった北口交番 こち亀の主な舞台は葛飾区である。葛飾区、響きからして冴えない区である。私は新聞記者時代、地方行政の取材をしていて担当は東京都と23区のいくつか。都庁担当の記者数人が23区をそれぞれ5~6区担当するのだが、当然話題が豊富な渋谷区や港区、千代田区や新宿区というのが記事も書きやすいし人気なわけで、次点としてスカイツリー建設中だった墨田区や、商店街振興なんかが暇ネタになる品川区、人口急増してこの時代に珍しく学校新設なんかがされてる江東区、待機児童ネタがつきない世田谷区、都の文化施設が結構あって何かと改修されたりする台東区なんかがあった。バランスがいいように、各自の担当は人気区が1~2個、次点が2~3個、などと分かれており、荒川区、足立区、葛飾区、江戸川区、杉並区など、別に住んでもいいけど記者的にはそんなに食指が動かない影の薄い区がおまけでくっついてくるというのが定石だった。 というわけで私は、渋谷・新宿・品川・世田谷のほかに葛飾区と大田区も担当することになり、生まれて数回目に京成線に乗って立石にある葛飾区役所なんかを訪問したりなんかした。東京って広いので、新宿スワンも東京、六本木心中も東京、こち亀も東京である。葛飾区に関する記事で、次年度予算の事業計画の他に書いた記憶のあるのが、亀有駅周辺に、区がこち亀の銅像を設置したという話と、それが何者かによって故意に破損されたという話である。で、亀有駅なんて一生降り立つことはないと思っていた駅で降りて銅像の写真を撮ったり、記者クラブへのおみやげにこち亀饅頭的な物を買ったりしたものである。葛飾区っぽいオトコではない葛飾区のオトコ 漫画には二種類あって、ひたすら引き込まれてやめられなくなるものと、常にそこにあって好きなときに手に取り好きなときにまたそこに置けるもの。後者の代表格であるように感じられるこち亀だが、それは単純に長く連載されていたとか、人が死なないとか、主人公が男前じゃないとか、ロマンチックラブがないとかっていうことではなく、おそらく葛飾区にカギがある。(C)秋本治・アトリエびーだま/集英社 こち亀は必ずしもほのぼのとした話ではない。そういう意味ではサザエさんやあさりちゃんとは大分異質である。過激で国際的な回もあるし、暴れるし、時空まで超える。しかし、次回には必ず冴えない葛飾区のさらにしみったれた亀有に戻っているのである。日常というのはそう簡単にそこから逃れられない退屈で平坦なものだし、多くの私たちにとってそれはとても冴えない。けれども一度そこから引き剥がされると急に心細くなり、平坦で退屈だった日常を懐かしみ、戻りたいと願う。離れてみるとその盤石さと力強さが愛おしくなるのである。 日常というのを地元、と置き換えることもできる。地元が表参道であるとかいうすかしたレア人間は別として、多くの人の地元はギラギラとした刺激もスラム街のようなひりひり感もない、退屈なものである。ただし、そこから離れるとなんだか駅前の原色の看板やパチンコ屋でタバコ吸ってるオジサンや公営住宅の脇の公園とかが妙に懐かしく、恋しく感じられる。日常というのは、地元というのは、まさに葛飾区なのである。冴えなくてつまらなくて、恋しい。 こち亀は別に平坦な日常のヒトコマを描いた作品ではないし、両さんも退屈なオトコではない。しかし、葛飾区という圧倒的に平坦な冠をつけることで、常にそこにある漫画として孤高の位置まで上り詰めている。両さんは冒頭で言う葛飾区っぽいオトコではない。野性的でエロくて暴れん坊である。ただし、葛飾区のオトコであることに変わりない。これが六本木や渋谷でなく、またちぇるちぇるランドやこりん星やナルニア国でないことは極めて重要である。さらに、舞台が派出所、つまり警察という、言ってみれば我々住民の日常を守るべく設置された国家機関であることも当然それをさらに強いものにする。 平坦な街を飛び出し、事件が起こり、退屈な日常をドラマチックに補完する。これはフィクションの大きな役割である。しかし、その根底に、私たちの日常よりもさらに安定した平坦で冴えない日常の時間が流れていること。これもまたフィクションのドラマチックさとは別の役割でもある。私たちの日常は退屈だが、同時に不安定であるのも確かだからである。つまらないくせに、失うとなかなか取り戻せないもの。それをノット・ドラマチックに補完するフィクション、私たちはこち亀の連載終了で、大きな精神的支柱を失うことになる。

  • Thumbnail

    記事

    「こち亀」原作者、秋本治さんに聞く両さん「無欠勤」の秘訣

     サンダル履きの警察官「両さん」が大暴れする週刊少年ジャンプ(集英社)の人気漫画「こち亀」こと「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が、連載30周年を迎えた。連載漫画は、読者アンケートで人気がなければ即打ち切りという厳しい世界。その中で30年も人気を保ち続けているのは驚異的だ。アイデアが尽きるということはなかったのか。作者の秋本治さん(53)に“長寿の秘訣(ひけつ)”を聞いた。(堀晃和) 「こち亀」の連載が始まったのは昭和51年9月。驚いたことに、ハードな毎週の掲載にあって、これまで一度も連載を休んだことがない。読者の熱い支持はもちろん、何よりも作者自身がネタに困ろうが、病気になろうが、描き続けないと、この偉業は達成できない。 「“貯金”をするのがコツです」と秋本さん。月に4週あれば、5週分を描きためる。そうすれば1週休める。奇策があるわけではなく、心の余裕を保つことが秘訣だという。秋本治さん これは、連載当初に担当編集者から受けたアドバイス。「ぼくは描くのが遅くて、時間がないとパニックになるんですよ」と笑う。以来、予定表を作って締め切りを前倒しで設定し、仕上げることにした。 「原稿と休みを“貯金”しておけば、万一倒れても大丈夫だし、作品も冷静に見られる。空いた時間にネタ探しの取材にも行けるでしょ」 そうはいっても、30年も続けていればネタに困るときがあるのでは-。「正月などの年中行事を軸に、下町の商店街の様子や、お巡りさんの生活などを入れると1年は埋まる。逆にアイデアを削るのが大変」だそうだ。 基本は下町を舞台にしたギャグ漫画だが、原則1話完結でアクションや恋愛などさまざまなジャンルを盛り込んでいる。例えば、弓道に凝ったときは、日本文化の良さを作品の中で伝えたことも。パソコンや携帯電話が登場すればいち早くネタにするなど常に最新事情を反映させてきた。時代設定も、郷愁を誘う昭和30年代から現代まで。世の中のあらゆる事象がネタとなる。読み切り形式なので、毎回違う話が読者を飽きさせない。 両さんのアイデアは、当時、映画「ダーティハリー」や、テレビドラマ「太陽にほえろ!」など刑事物がはやっていたことがきっかけ。交番のお巡りさんで、競馬もするし酒も飲む、本能のままに生きる警察官はそれまで誰も描いておらず、目立つと思ったのだそうだ。 連載10年、20年の節目では、続けていいのかと、自問したことも。だが、描いているうちに面白い素材が見つかり、まだまだやりたいと思うようになったという。 さて今回は-。「新たな展開が思いつく間は、描かせていただきたい」。「こち亀」ファンには何ともうれしい答えが返ってきた。

  • Thumbnail

    記事

    「センゴク」宮下英樹が語る真実の信長

     戦国乱世の革命児とのイメージが定着した織田信長だが、最新の研究ではこうした「破壊者」としての人物像を否定する学説に注目が集まっている。信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に仕えた戦国武将、仙石秀久の生涯を描いた人気漫画「センゴク」シリーズの著者、宮下英樹氏に自身が思う「真実」の信長像を大いに語ってもらった。 若手研究者として注目を集める金子(拓・東大史料編纂所准教授)先生の、「革新的なイメージの強い信長が、実は保守的だった」とする説は説得力があると思います。ちょっとニュアンスが難しいんですけど、例えば、スティーブ・ジョブズってあれだけ有名なのに、でも特に新しい発明してないじゃんみたいな。実は彼の凄さはもっと違うところにあって、信長についても同じことが言えるのかなと思う。そういう意味で凄さや新しさのニュアンスっていうのが難しくなってきたと思ってます。 昔は誰かが何かを為せば、全部が全部、新しいことをしてきたような受け止め方になっていたけど、最近はそんな新しいことしてないって否定的な見方も当たり前になってきた。でも、本当の新しさって、そこでもないっていうか、信長に関して言えば、彼がやりたかったことは、領土を拡大することだから、それ以外は政治的に何か新しいことをしないといけないわけでもなかったはずなんです。それを無視して、信長は大したことないっていうのはやっぱり違うと思う。宮下英樹氏=東京都文京区の講談社(瀧誠四郎撮影) 僕が描きたいのは、とにかく彼の苦労人の一面っていうか、もっと端的に言えば失敗がむちゃくちゃ多くて、失敗の連続の中で生き抜いた事実なんです。「信長公記」に書かれている信長の姿は、野営の中で鎧とか兜を枕にして寝るとか、ハンニバルのアルプス越えの苦労じゃないけど、部下のみんなに苦労しているところを見せてるところ。ルイス・フロイスも書いているように、誰よりも遅く寝て早く起きるみたいな。人一倍苦労しているからこそ、強権的なところも許されているってイメージが強いですね。 でも僕の漫画で描く信長は、苦労人というよりは破壊者っぽいですよね。実情として考えているのは、彼が分かった上で壊してるのか、木曽義仲みたいにただ闇雲に壊してるのかということです。足利義昭(室町幕府15代将軍)の追放のやり方一つをみても、田舎者が暴れて壊すというより、かなり慎重にやっているな、という感じがします。当時の書状や記録などを読んだんですが、実際はかなり慎重に宣伝しながら、時期を見計らってまさにこの瞬間というタイミングで義昭を追放している。信長という人物を考えたとき、壊すものと残すものの取捨選択が特にうまいっていう印象もありますね。いきなりメジャーを目指さなかった慎重さ 金子先生が最近提唱した学説では、信長が足利義昭を奉じた目的は、京都を中心とした畿内の秩序維持であり、将軍をサポートして自分が政を執り行うという意味だったそうです。言い換えれば、信長の目指した天下とは日の本の統一ではなく、畿内制圧だったという見方ですよね。これは難しい解釈なんですけど、やっぱり僕も金子先生の言う通り、信長が義昭を奉じた時点では、全国の大名に向けて日の本を統一する宣言をしようなんて考えてなかったと思います。当時の状況を考えれば、信長がそれを宣言した瞬間、全国の大名を敵に回してしまうことになる。信長はそんなつもりではなく、やっぱり「将軍家をサポートしますよ」という宣伝が大きな目的だったのかなと思う。義昭を奉じて以降は、少しずつ周囲を観察しながら「あっ、こいつも大したことないな」「京って言ってもまあ大したことないな」って肌で感じるようになり、少しずつ野心が大きくなっていったのだと思う。 東大史料編纂所の金子拓准教授は著書「織田信長 <天下人>の実像」で信長が早くから天下統一を意識していたという見方を否定。愛用していた「天下布武」印も天下取りの宣言ではなく、室町幕府・足利将軍家を助けて京を中心とした畿内統治への意志を示したものだという新たな信長像を提示している。織田信長 <天下人>の実像(講談社BOOK倶楽部)宮下英樹氏=東京都文京区の講談社 当時は、京都で数年間過ごして、それを維持できただけでも、過去にあまりないことだった。その時点で自分の能力にある程度の確信はできたのかなって感じですね。ちょっと単純かもしれないけど、僕はこの時代に生きた人をプロ野球選手みたいに考えているんです。例えば、高校で通用したら、次はプロでもやれて、さらにその上のメジャーへ行くみたいな。信長も最初からメジャーを目指すぐらいの気概がうっすらあったとは思うんですけど、それは自分の成長とともに段階を踏まないといけないし、誰だっていきなりは通用しないことも知っていた。 ましてや、京都のしきたりだって分かんないと壊しようもない。だからまずは京都のスタッフというか、松永弾正(久秀)とか、ああいう畿内の事情に精通した人物を集めて使ったというのは、信長が慎重にやっている表れでもある。比叡山の焼き討ちの時だって、ちゃんと周囲に相談して意見を聞いたりとか、一応念入りに下調べした上で実行した。彼の内面にはその慎重さと、いつかぶっ壊してやるという破壊的な部分がいつも同居している。すごく曖昧な見方になっちゃいますけど、自分が描いているよりはもっと理知的にやってる気がしますね。 ところが、ある時点までは慎重にやっていながら、突然急にキレてしまうことがあるんですよね。しかも感情的に。その時には、いろんな事が一気に進んでしまう。でも、彼は下調べした上でキレるから、一気に物事が進んでもそこまで大きな問題にはならない。何かを壊したときの反発が、いつも想像の範囲内で済むっていう感じなんです。もちろん、キレすぎて、「あっ、ちょっとやりすぎかも」っていう時も、たぶんあったと思いますけどね(笑)。裏切りの耐性が強権につながった裏切りの耐性が強権につながった 信長という人物像を考えるとき、まず思うのは、彼が「裏切り」に関する耐性が強いってところです。尾張の時代から裏切りにいっぱい遭ってきているし、その経験から事前察知というか、裏切りに対してあまり怖がらなくなったのは大きいですよね。ふつう1、2回裏切りに遭えば、次は慎重になっていくものなんですが、信長ってこの部分だけは全然慎重じゃない。裏切りにはさらに大きな裏切りで返すっていう耐性がある。 佐久間(信盛)に出した折檻状を読むと、信長はかなり起業家的な考え方があって、とにかくお金回り優先の家臣遣いだった。例えば、佐久間を責めた理由の一つは、褒美とかを貯め込んで家臣に分け与えないことだった。つまり家臣が内部留保を貯め込むみたいなことをとにかく嫌う。褒美を与えられたら与えられた分、すぐに部下に分け与えることを好む。あと寄騎って、企業にとっての派遣社員みたいなものなんですが、寄騎の武将を酷使するなとか、本当は使い勝手がいいはずなんだけど、それを酷使することも嫌う。ちゃんと自分の育てた家臣を前線に立たせて、そのサブとして寄騎を使えとか。それと、失敗した家臣もすぐに首にするんじゃなくて、ちゃんと挽回しろっていう、すごい合理的な起業家精神を持っている。『佐久間折檻状』 天正8(1580)年、信長が古参重臣の佐久間信盛に送った書状。19箇条からなる書状には、他の重臣に比べての武功不足や保守的な戦略など無為をあげつらわれ、信盛は高野山に追放された。織田・徳川討伐に動き始める武田信玄=「センゴク」8巻(C)宮下英樹/講談社 これも謎なんですが、当時の一般的な考え方として「家を残す」という思想があったはずなんですけど、信長はこの思想から部下を切り離すことに成功した。本来、大名というのは、いかに家中の感情をなだめていくのかが非常に重要な仕事でもある。(武田)信玄とかも、ちゃんと法律をつくって徹底的に順守させた。他にも、結城家っていうところも、やっぱり家臣が自分の家を守るためには裁判で黒を白にしちゃうぐらい極端なことをやっている。家臣の非を責めてすぐに切腹されたら困るし、だからこそ多くの大名が独自の法律をつくって、ちゃんと家臣をなだめたりしてたんですけど、信長は最期までそれやらずに済んだ。やっぱり家の思想から切り離したことが大きいんだと思うんですけど、それができたのは金銭力、つまり経済力があったからなんでしょうね。でも、根本的にはちょっと謎ですね。なんで信長だけ家臣の感情を無視しながら、あれだけ領土を拡げることができたのか。 それと当時は、武士がお金を扱うことを忌み嫌う風潮があった。だから銭勘定は商人にやらせたし、しかも経済学なんて学問もないからリテラシーだってほとんどない。でも信長は違った。他の大名と比べても、お金の扱い方は圧倒的に優れていた。歴史をひもとけば、鎌倉時代とかの荘官でも凄い羽振りのいい人って、その金回りが謎だったらしくて、結局は周りの人に妬まれて潰されるんですけど、荘官程度でもお金の扱い方次第で大名クラスの生活ができたというから、信長の時代もお金の扱い方一つでものすごい差がついたのだと思う。お金を使えるか使えないか、単に得意っていうだけで、信長は他の大名よりもすごく優位に立っていたはずです。 織田家は代々、荘官の家柄だった。商業地である尾張の津島で、しかも民間人と付き合っていたというのが大きかった。家老の子なのに庶民と付き合って、卑しいと思われていたお金の扱いを学んでいたなんて、当時の感覚では有り得ない。これは想像なんですけど、信長は荘官の時代からお金のリテラシーをどんどん学んでいったんだと思う。信長は室町オタクだった 関西の研究者の先生と話したりすると、もうちょっと関西の事情を考慮すべきだって教わることがあります。考えてみれば、尾張から来た信長が当時の都である京の秩序をいきなりは壊せない。ちょっとニュアンスが難しいですけど「自明性」というやつですよね。世の中はこんな風に成り立ってるという、あれです。この社会がどのように運営されているのか、というシステム。実はこのシステムを壊すのが一番難しい。安土に伺候する徳川家康への饗応に関して相談する織田信長(上段左)と明智光秀(同右)=センゴク一統記1巻(C)宮下英樹/講談社 さっきも言いましたが、信長は極めて慎重にやっていて、信長以前の歴史上の権力者がいずれも朝廷に取り込まれてきたということもよく知っていた。信長は朝廷に対し暦の改訂を求めていますが、これも自明性の一番大きなものですよね。日付を決めるというのは日常を支配することですから。ちょっとずつちょっとずつ朝廷ありきの社会の自明性を、取り込まれないように、あんまり入り込まないように変えていこうとした。 僕は、信長が京都に住まなかったのもその一つだと思うんです。信長はむしろ怖いぐらいに朝廷を見ていたと思うんです。将軍を追放しても何とか成り立つというか、京都の秩序を維持することができたけど、朝廷を壊したらもっと大きな問題が起きるんじゃないかって恐れを感じながら、でもどこかで壊そうとしてるっていうのはすごく感じますよね。だけどちょっとずつ、何を壊したいとか、朝廷権力というより、秩序の中心に成り立ってる社会の自明性を壊すことを極度に恐れていた気がします。 ただ、それでいて単なる欲望と言うか、損得によって邪魔なものを壊すのが信長の考え方だったから、朝廷が表立って邪魔しない限りはそんなに急いで壊そうとも思っていなかった。それが、いつの頃からか朝廷に対して感情的にキレてしまう。信長にしてみれば、「もう、こいつは要らねえな」と思った時は、いつでもすぐに壊せるだけの準備はしていたと思います。 もう一つ、僕のイメージなんですけど、信長は「室町オタク」だったと思うんです。これは以前、黒嶋(敏・東大史料編纂所助教)先生に聞いた話なんですが、信長が南蛮船を見に行った時に、細川京兆家の人と一色家の人を連れていっています。実は、かつて足利義満(室町幕府3代将軍)が外国船を見に行った時も、同じく細川京兆家と一色家の人を連れて出かけている。おそらく信長は義満にあやかって、同じようなメンバーで南蛮船を見に行ったんではないかと。 あと、安土城の絵画とかも、義満の趣味にあやかったりしています。信長は懐古主義だからこそ、ちゃんと理解した上で古いものを壊そうとしていた。僕にとってはむしろ、そっちの方がよっぽど超人的に見えちゃったりするんですよね。何も考えなしに壊す方がよっぽど馬鹿っぽくて、分かって壊すって方が悪魔的な感じがして、ちょっと過大評価かもしれないですけど(笑)。光秀の内面から読み解く本能寺の変光秀の内面から読み解く本能寺の変 信長を語る上で避けて通れない出来事といえば、やっぱり本能寺の変だと思います。日本史最大のミステリーといわれるだけあって、光秀の動機は研究者の間でも諸説分かれるぐらい謎に包まれています。僕はまず前提として「黒幕説」っていうのは、あまり信じていない。誰かがちょっとそそのかしたとか、その程度を黒幕とは思いたくない。本当に黒幕がいるのなら、信長がいなくてもよっぽど後ろ盾になるぐらいの力がないと。ちょっと秀吉とか義昭とかがそそのかしたぐらいで黒幕って言うのはどうなのかなと。(C)宮下英樹/講談社 仮にそそのかした事実があったとしても黒幕というのは、信長がいない後の権力をつかむほどの力がなければ現実的ではない。むしろ、光秀が嫌っている人物を殺させるぐらいの力がないと黒幕にはなりえないと思う。 もう一つ、歴史科学をどう使おうか、というのもありました。本来『センゴク』は文献に当たったりして歴史科学を重要視してますけど、歴史科学はどんどん更新されるじゃないですか。最近もね、本能寺の黒幕について斎藤利三説というものが出てますけど。僕の中ではあれもけっこう納得できる説ではあるんですが、もっと普遍的なものにできないかと思って、まず光秀の内面に迫ることを前提で描きました。 光秀は長い放浪の中でかなり「自明性」から外れた人になった設定にしたんです。「武士ってかくあるべし」という常識とは違う目線というか、そういう人ってのは「世の中がすべて作りごと」に見えてくるんですよね。例えば戦国時代は場合によっては、人を殺しても許されるじゃないですか。なんか曖昧なルールの中で生きているわけですよね。こういう挨拶をしなければならないとか、こういうしきたりがあるとか、こういう序列でとか。そこから外れて、当時の一般社会のルールから外れた目線を持ってるという意味でも、ある種の異能者なんです。もう一つの目を持ってるという描写はそういった意味で表現しました。 いま僕たちもこうやって会話を交わしているけど、でも社会のルールには則っているわけじゃないですか。どこか心の奥底では「馬鹿馬鹿しいやりとりしてるな」って思うことも、時にはある。腹が立ったら殴り合えばいいし、ここでお互いに唾を吐きかけてもいいはずなのに、それをせずになんか一定のルールを守っている自分と、どっかで「このくだらないやりとりは何?」って冷めた目を持っている自分がいる。織田信長(右)と明智光秀=「センゴク一統記」3巻(C)宮下英樹/講談社 それを光秀に当てはめてみると、信長に仕える前は幕府に仕えていましたが、意味があるのかないのかよく分かんないしきたりの中で生きてるんですよね。その最中に信長と出会ってなんとなく絶対的なものを見るというか、拠りどころとしてというか、「この人はなんか曖昧なルールの世の中で絶対的な頼るべきものを持ってる」という風に信奉していく。自分の中で「神」のような存在にしていくわけですよね。キリストの下にいた伝道師みたいなものですよね。何を置いてもまずはキリストを絶対と立てて、その中の善悪の中で生きていくというか。光秀にとっては信長ってそういう存在で、善悪の規範だったり、世の中にある曖昧なことをかっちり変えてくれる人なんです。 でも、自分の中で絶対神であったのが、時間の経過とともにちょっとずつそれが崩れていく。人は神様がいないって思った瞬間、パニックになるんですよね。神様がいないとしたら、じゃあ我々はどういう善悪基準で生きていけばいいんだって。誰もがうろたえるはずなんですけど、光秀もそういう状態に陥っていくっていう感じなのかな。 信長にしても、さっき言った拡大路線の中で限界が出てくる。領土拡大の限界とか、経済的限界とか、統治の限界とか。拡大したところでこれは終わらないし、いずれ自転車操業になる。光秀にしてみれば、自分の肉体的限界も迫り、近い将来、絶対的な信長がいなくなったら、自分はどう生きていけばいいのか。彼の中でパニックを起こす心理状態になる。 そして、その先に見たのはキリストと一緒で、死ぬことで絶対になるという発想です。きっと光秀もそういう答えにたどり着いたんだと思う。信長は死してこそ絶対神になるみたいな。よく言われますけど、ゲバラも死ぬことで神格化されちゃうから、実はなるべく殺害したくなかったとか。うまい例えが見つからないけど、光秀の中で本当は一番恐れていたはずの信長の死を、ある時を境にそこから急に死によって絶対視しようって考えるようになった。もちろん、信長を絶対視した政権をつくろうという光秀の内面は僕の勝手な妄想ですけど、漫画的な流れでみてもそういう流れの方がおもしろいですしね。センゴクに込めた想いセンゴクに込めた想い 本能寺の変で信長が横死し、政権が改変しました。これは言い換えれば、前政権に問題があったという意味でもある。前政権のやり方に問題があったのだから、それを改変するのが次の政権の役割ですよね。だからこそ、信長の次の政権を担当した秀吉は、何よりもまず信長の経済政策は危なかっしいと思ったはずなんです。後に政権交代した徳川家康も、秀吉のやり方とは違うことをやりました。これは山本七平さんの受け売りなんですけど、秀吉と家康の違いって、実は家康の方が官僚機構をちゃんとつくっていて、秀吉は「五大老五奉行」っていうのをつくったのに結果的にうまくいかなった。織田家の新たな政略を信長に上申すべく、帷幄で謀る羽柴秀吉、石田三成、黒田官兵衛ら=「センゴク一統記」2巻(C)宮下英樹/講談社 本来であれば、政治的には五奉行の権力を大きくすべきなのに、実際は五大老の権力の方が大きかった。でも、それをやったのが家康じゃないですか。自分が中心となり五奉行を抑えつけたのに、政権を担うことになった途端、家康は武断派を外してむしろ官僚機構を制度化した。その一方で藩ごとに政治を任せたり、ある程度は藩の中で自由に統制できる余地も残した。 そうやって考えると、秀吉の統治のやり方は家康とは真逆で、各藩を統制しすぎたことに加え、武断派を外せなかったっていうのが禍根として残ったんだと思う。政治的にはそういう部分で秀吉の限界がきっとあったんです。 それと、やっぱり百姓から天下統一まで成し遂げた人だから、どこか虚無的になっちゃうんだろうなあと。これは単純な見方なのかもしれないけど、プロ野球選手が日本でトップになってしまうと、「もうメジャーに行くしかない」みたいな。もちろん、秀吉には信長への憧れもあったでしょうし、信長が日の本統一後に夢見た征明も多少なりとは影響を与えていたと思います。 武士というのはすごく不器用な生き方しかできないから、一度戦いを始めたら、すぐには止められないなんてこともよくあったそうです。信長にしろ、秀吉にしろ、どこかにそんな生き急ぐみたいな気持ちがあったと思う。僕の漫画の主人公である仙石秀久にはむしろ、そんな感じを出していきたいんですよね。「センゴク」シリーズの主人公、仙石秀久(C)宮下英樹/講談社 彼は一般的にはあまり知られていない存在でしたが、すごく描き甲斐があるんです。善悪の尺度がよく分かんない時代でしたから、敵には嫌われていても、味方には慕われているということがよくあります。仙石自身にしても長宗我部家とか、島津家に嫌われて、信長になぜか好かれていたとか。まあ秀吉にも好かれていたし、徳川秀忠(江戸幕府2代将軍)にも好かれていましたしね。 半面、(ルイス・)フロイスには、ぼろくそ書かれてますよね。だけど、仙石が「悪」でフロイスが「善」であるかって一概には言えませんよね。フロイスだって、当時は日本の占領計画を密かに進めていたり、布教のために寺社をぶっ壊したりとかしてるんで。見方を変えれば、すぐに善悪が正反対になる仙石秀久というキャラは、どっちの顔も描くことができるから、描き甲斐があるんですよね。 もちろん、彼の人生そのものもおもしろいですよね。連載を始めた動機で言うと、それが一番大きいですね。復活劇というか、彼の場合は他の復活劇とはちょっと違う。大失敗してから呼ばれてないのに自分から戦場に行って、自分で武功を挙げて復活するんです。それは他の武将にないんですよね。立花宗茂みたいに自分から浪人になってその才能がもったいないって大名に召し抱えられる人もいますけど、仙石の場合はそういうのではなくて、呼ばれてもないのに自分で機会を求めていく。まあ、昔の仲間とかが集まっては来るんですけど、美濃時代の仲間が集まって復活するっていう、そういう人柄もちょっと好きですね。自分にも重なる部分 実を言うと、連載当初の僕はほんとにゲームぐらいの歴史の知識しかなくて。知識がないところから始めているから、より分かりやすく描こうってことだけ気を付けています。自分が面白いと思っていた人物はどんどん分かりやすく描くっていう風に。いまさらですけど「独眼竜政宗」って、こんなに面白いのがあるんだってぐらい疎いっちゃ疎くて。歴史の知識がない分、現代にある問題と照らし合わせたりして、人間の感情とか、知性のもつれみたいなものを想像するしかないんです。でも今となれば、それが逆に武器になっているのかなとも思っています。 歴史というのは、当事者性というか、どうしても結果だけをみて後知恵で語ることがあるじゃないですか。信長について言えば、後世の人は信長がすべて見通してやったっていうふうに見るけど、実はそうじゃない。その当時の葛藤とか苦悩とか、人知れず苦労してようやく解決策を見つけ出してきたはずなんです。 なぜこんな戦が起こり、この戦に勝つために大将はどう悩んでどう対処したか。もっと別の視点で言えば、戦を未然に防ぐ策はなかったのかとか。現代にもつながる教訓にしたいんですよね。できれば読者には一つのイベントごとに、どうやればこの戦を未然に防ぐことができたのか、まで想像を膨らませてほしいですよね。 仙石秀久っていう人物は、特別な才能に恵まれた人物じゃありません。自分の才能を発揮する場所を選べるような立場にはなかったと思うんです。当時、才能のない国人たちはもうどっちが生存の可能性が高いかで選ぶしかなくって、でも選んだ先によっては滅びてしまうことが当たり前だった。もちろん、武士の美学みたいな発想で奉公先を選んだ人もいたでしょうけど、仙石の場合は選んだからにはそこで突っ走るっていう考え方だったと思うんです。宮下英樹氏=東京都文京区の講談社 自分がここと決めたからには、ここで突っ走る。才能がなくて失敗してもいつか必ず取り返してみせる。そんな精神の持ち主というか、境遇というか、なんとなく自分にも重なるところがあるんですよね。(聞き手 iRONNA編集部、白岩賢太/川畑希望/溝川好男)宮下英樹(みやした・ひでき) 昭和51年、石川県七尾市生まれ。富山大工学部中退後、3年間のアシスタント生活を経て、平成13年にちばてつや大賞を受賞した「春の手紙」でデビュー。センゴクシリーズのほか、今川義元が主人公の「センゴク外伝 桶狭間戦記」などの作品がある。関連記事■ 突発説、単独犯行説、黒幕説…「主殺し」の真の動機は何か■ 家康は豊臣家を滅ぼすつもりではなかった?■ 安土城 信長の画期的な発想が随所に

  • Thumbnail

    テーマ

    「センゴク」宮下英樹が語る真実の信長

    織田信長とはどんな人物だったのか。多くの研究者や歴史ファンを虜にする彼の人物像は、いまだ多くの謎に包まれる。数々の古戦場や城跡を踏査し、膨大な資料を読み解いた独自の解釈が専門家をも唸らせる人気漫画「センゴク」の著者、宮下英樹氏に、自身が思う信長像を大いに語ってもらった。