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    誰がなんと言おうと、私は「文春砲」が許せない

    舛添要一(前東京都知事) 『週刊文春』に自らの不倫疑惑を報道されたことで、「責任を取って」小室哲哉氏が音楽界からの引退を表明した。これに対して、引退を惜しむファンをはじめとして多くの人々から、文春批判の声が上がっている。会見場に入る小室哲哉氏=2018年1月19日、 エイベックスビル(撮影・佐藤雄彦) 今回の件以外にも、これまでさまざまな有名人の不倫報道が週刊誌で流されて大きな話題となり、渦中の人物が世間のバッシングにさらされ、人生を大きく狂わせられる事態が続いてきた。世の中に「魔女狩り」のような空気が漂い、閉塞(へいそく)状態になっているのは愉快な話ではない。 第一に、有名人であれ無名人であれ、不倫といったプライベートなことは、配偶者や家族との間の問題である。他人が容喙(ようかい)してとやかく言う話ではない。妻の介護を含め家庭内の事情を、他人が詮索しても意味のないことである。 不倫などというものは、人間が生物である以上、古今東西どこにでもある話である。そうでなければ、文学作品の多くは成立すらしないであろう。かつては、芸人の浮気などは「芸の肥やし」だと、当然視する風潮が支配的であった。 何人かの国会議員もこの問題で指弾されたが、かつて三木武吉は「妾(めかけ)」に関する立会演説会でのヤジに対して「実は、4人ではなく5人おるのであります」と切り返して喝采を浴びたという。また、フランスでは、ミッテラン大統領が愛人との間に生まれた娘について質問されたとき、「それがどうした」と答え、質問した記者のほうが社会から批判を浴びた。浮気や家族など私的な事項についての質問を記者がすると、「それはあなたには関係ない話だ」と逆襲されて終わるのが常であった。 しかし、日本はもちろん、「大人の国」フランスでも、もはやそのような応対が許されるような時代ではなくなっている。アメリカの悪しき影響なのか、「非寛容社会」が到来したと言ってもよい。 第二に、このような時代風潮の背景には、いつまでも続くデフレ、そして格差の拡大がある。所得が増えれば、それは自分の欲する財やサービスの購入に向かい、他人の私事を詮索するような余裕などなくなる。しかし、今や消費に向かうべき熱情は鬱積(うっせき)してしまい、そのはけ口が有名人のバッシングに向かっている。格差は、貧しい者の豊かな者に対する怨嗟(えんさ)の情を生む。 戦後の高度経済成長時代には、人々は物質的豊かさを求めて全速力で走り、他人の生きざまをコメントする暇はなかったし、仰ぎ見るのはスターダムに登っていく芸能人や野球選手などの晴れ姿であった。そういう右肩上がりの繁栄の時代は終わり、低迷する経済に対する怨念が鎌首を持ち上げてきたのである。文春記者は「日陰者」である 第三に、格の違いが整合化された時代ではなくなったという点を指摘しておきたい。野球でも、1軍と2軍、プロ野球と草野球の違いは歴然としている。繁栄の時代には、週刊誌はマスコミの中では二流であり、いわば「日陰者」の立場にあった。堅気の人間は、そこに掲載された記事など信用せず、話題に上らせることすら恥だとされた。ところが、その週刊誌記事が大マスコミ以上に世の中を動かす時代になり、全国紙もテレビもその後追いに走るという奇妙な状況になってしまった。 テレビのワイドショーは、不況で制作費が不足しているのか、週刊誌報道を元ネタにして番組を作り、不倫スキャンダルを全国に広める役回りになり下がった。世間の人も、週刊誌を買えば400円程度の出費になるが、テレビは無料である。 「日陰者」が日の当たるところに出て、大手を振って公道を歩くような時代は尋常ではない。たとえは悪いが、極道がマスコミに出て自らの仁義を開陳するようなことがあれば、それはもはや極道ではない。 その点では、不倫疑惑を報じる週刊誌などはパパラッチと同じである。大義や正義があるわけではない。読者や視聴者の好奇心を刺激して金もうけをたくらんでいるだけの話である。しかも、パパラッチ以上に始末に負えないのは、検察官であるかのように正義を振りかざし、不倫の当事者を断罪しようとすることである。 取材した記者は、実名を公開し、顔を全国にさらすわけでもない。陰に隠れて書いている。だから「日陰者」なのであり、そう言われるのが嫌ならば、正々堂々とテレビの画面に顔を出し、名を名乗ればよいだけの話である。自分が他人を断罪できるほど、品行方正な道徳人とでも思っているのであろうか。 第四は、ネット社会の到来である。みんなが元気に前を向いて進んでいた高度経済成長時代には、インターネットは存在していなかった。今のツイッターと異なり、つぶやいても周りの数人にしか届かない。むろん、発信者が誰かもすぐ分かる。会見で芸能界引退を表明した小室哲哉氏=2018年1月19日、エイベックスビル しかし、今はネット全盛時代である。匿名でツイートする個人的意見や、偏向どころか嘘の情報が大手を振って世間に流れていく。そして、その真偽も確かめられないまま、世論形成に一定の影響力を持ってくる。フェイクニュースの大御所、トランプ米大統領が「フェイクニュース大賞」を発表するという皮肉な時代である。 今回の小室報道は、「文春砲」の成功に酔いしれた週刊文春が、大衆の反発を招き、逆噴射して自らに襲いかかったものである。小室氏の引退表明がなければ、そうはならなかったかもしれないが、週刊誌の居丈高な臆測記事でひとつの才能が消されていくことに、大衆は大きな怒りを感じたのである。金もうけ目当ての、この程度の不倫記事で優秀な人材が活躍の場を失われるような非生産的なことは、「もうやめたらどうか」という思いが、世の中の主流となってきているとすれば、それは健全な流れであろう。 第五に、日本は法治国家ではなく、相変わらず「空気」に支配される国だということである。日本国憲法31条は「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めてある。姦通(かんつう)罪があった時代ならいざ知らず、小室氏とその「愛人」は刑法を犯したわけでもない。それにもかかわらず、「法律の定める手続き」ではなく、週刊誌が作り出す空気や世論によって断罪されるとすれば、日本は法治国家の資格がない。 今回の騒動が、憲法が国民に保証する基本的人権の大切さをみんなに知らせたことの意義は大きい。

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    「文春砲」が許せない

    有名人の不倫スキャンダルを数々報じた『週刊文春』が逆風に立たされている。きっかけとなったのは、音楽プロデューサー、小室哲哉の不倫報道だった。「他人の不倫を暴いて誰が得するの?」「もう廃刊しろ」。スクープ連発で話題を集めた「文春砲」はなぜ批判の的へと一変したのか。その深層を読む。

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    『週刊文春』が完全に悪者扱いされるのは残念です

    佐々木博之(芸能ジャーナリスト) メディア批判というのは昔からあることです。これまで週刊誌が報じた不倫疑惑はかなりの件数になりますが、私の記憶では、今回の小室氏のように週刊誌側が非難されるケースはなかったように思います。 「なぜ他のタレントや政治家と違って今回の週刊文春の報道は批判を集めたか」といえば、端的に言うなら小室氏が引退したからです。それにより、小室氏が世間の同情を集め、かわいそうだ、となったからだと思います。  「妻はくも膜下出血で倒れた後、脳に障害が残ってしまい、その介護で大変な生活を送っている。才能が枯渇し、満足のいくような作曲ができなくなった。そういう中で、往診してくれる看護師に相談相手、話し相手になってもらっているだけ。何年も前から男性機能は働かず、肝炎を患い闘病中だった。肉体関係などあるわけがない。だけど騒動になった責任をとって、引退します」会見場に入る小室哲哉=2018年1月19日、東京(撮影・佐藤雄彦) この話が事実なら、彼を哀れまない人はまずいないでしょう。100%事実ならばですが、すべてのウラを取ることは難しいし、憔悴(しょうすい)しきった姿を見たら、「本当ですか?」と聞ける人は少ないでしょう。 「濡れ衣ではあるが、誤解されたのは不徳の致すところ。責任をとり引退します」 なんと潔い。濡れ衣を着せられ、言い訳せずに切腹したといわれている幕末の志士、田中新兵衛を思い浮かべてしまいます。実際は濡れ衣ではなかったという話もありますが、日本人はこういう話に弱いんです。 だから、「『週刊文春』はひどい! ありもしない不倫をでっち上げ、日本の音楽界に欠かすことはできない才能あふれる小室氏を引退に追い込んだ。許せない」「日本の大事なアーティストを引退に追いやった大罪は、どんな言い訳をしてもぬぐえるものではない」 などと『文春』バッシングが始まったのです。彼が引退せずに、釈明と謝罪だけならこんなことにはならなかったでしょう。 しかし、『文春』は小室氏に引退を迫ったわけじゃなく、何かペナルティーを与えたわけでもありません。不倫疑惑を報じただけです。報道によって引退に追い込まれた、という人もいるでしょうが、会見を思い出してください。 「曲作りに限界を感じた。前から引退を考えていた」と語っていました。となると、今回の報道が原因で引退するわけではないということです。 「謝罪会見のついでに…」という気持ちもあったのではないかと思いますが、彼のあざとさを指摘する声もあります。そこまでは考えたくないのですが、妻の病状、自身の病気を明らかにし、窮状を訴えた上で、潔く重罰を受けたように見せることで、同情を集め、バッシングを避けようとしたのではないか、と考える人がいるのも事実です。「文春が引退させた」に異議あり そもそも小室氏は不倫を否定したのだから、責任を取る必要もないだろうし、世間を騒がせた責任だとしても、引退までする必要はないと思うのは私だけではないでしょう。引退そのものは騒動のせいじゃないのに、世論がいつの間にか「『文春』が引退させた」と思うようになってしまったのは、納得がいきません。 また『文春』の記事には、小室氏と看護師が2人きりでお互いの家で長時間過ごしたり、腕を組んで歩いていたという描写があり、写真も撮られています。このことについては否定していないわけです。それが不倫行為、あるいは不貞を働いたといえるのか難しいところですが、たとえ肉体関係がなかったとしても、妻の留守中に自宅に女性を招き入れるというのはどうなんでしょうか。多くの女性は眉をひそめるだろうと思います。寝室で一緒に寝たとなると、「それくらいなら、許せる」という人はどれくらいいるのか。妻が正常な判断を下せない状態にあるのなら、なおのことやってはいけないことではないでしょうか。 それらも全てなかったことのように、『文春』が完全に悪者に見られているのは残念なことです。ただ、結果として小室氏の会見は大成功だったということになります。見事に不倫疑惑を払拭(ふっしょく)、世論を味方につけてしまったわけですから。これまでなされた、不倫疑惑釈明・謝罪会見のなかで、これほどうまくいった会見は記憶にありません。『文春』はまさかこんな事態になるとは考えてもいなかったでしょう。 あくまで芸能ニュースに限ってのことですが、週刊誌が不倫報道をするのは、その根底に「大衆は常に、芸能人の裏の顔を見たいと思っているはずだ」という妄想かもしれない、確信があるからです。普段テレビなどで見る姿とかけ離れた姿をとらえて報じることで、その大衆の要求に応えよう、すなわちその人たちに本を買ってもらおうという意図があるのです。普段の姿からは考えられないといえば、タレントのベッキーはその顕著な例でした。川谷絵音とのスキャンダルについての会見を終え退室するよう事務所関係者に促されるベッキー=2016年1月6日、東京(撮影・山田俊介)  あるいは、悪行とまではいかなくとも、芸能人のけしからんと思える行為を報じることによって、その芸能人が糾弾されたりすれば、極端な話、記者はまるで自分が悪を懲らしめる仕置き人にでもなったかのような「ちょっとしたヒロイズム」に浸れることがあるのも事実です。 小室氏の場合は「奥さんが大変なときに何をやっているんだ」と非難の声が上がり、「『文春』はよくやった!」となるはずだったんでしょうが、そのもくろみは見事に外れました。砲弾が逆にはね返されたという見方もできますが、とどのつまり「小室氏の方が一枚上手だった」ということじゃないでしょうか。不倫報道を続ける意義 さて、「不倫報道を週刊誌が続ける意義」についてですが、ちょっと曖昧な言い方になりますが、意義の位置づけによって異なるのではないかと思います。  結論から言えば、不倫報道は週刊誌的には意義があると思います。しかし社会的にはほぼないと思います。「ほぼ」というのは、ときどき意義がある場合もあるからです。  しかし、それを言ったら芸能ニュースなんてほとんど意義のないものばかりです。芸能ニュースではありませんが、テレビのニュースでときどき流れる、「中国の奥地で、子どもが壁の穴に首を突っ込み、抜けなくなったため、レスキュー隊が出動し、壁を壊して救出」といったたぐいのニュースも意義があるとは思えないのですが…。 だからといって、不倫報道を止めてしまえというのは賛成できません。その先に「報道の自由」が奪われてしまう危険性も感じてしまうからです  週刊誌は雑誌です。いろいろなジャンルの記事が掲載されていて、芸能記事はその一部です。芸能記事はスキャンダルばかりではありませんが、前述のように「芸能人の裏の顔」を報じたいとなれば、必然的にスキャンダルが多くなります。もちろん芸能人のスキャンダルを一切扱わない週刊誌もありますが、不倫をはじめ芸能人のスキャンダルを報道するのは、週刊誌の持つ性質上不可欠なことなのだと思います。 また、週刊誌はいわゆる商業誌です。売れなければ意味がありません。売れるためには読者が興味を持つ記事を掲載しなければなりません。三省堂書店神保町本店の雑誌売り場=2013年2月8日、東京都千代田区(山田泰弘撮影) 「不倫報道を続けることで部数を伸ばそうとしている」と指摘した方がいましたが、芸能人の不倫を報じたくらいで販売部数が極端に増え、売り上げが伸びるなんてことは、今の時代では有り得ません。確かにベッキーのときは売れたようですが、本当にまれなケースだと思います。 今、週刊誌を購入して読む人は少ないです。昔に比べたら売れなくなっています。芸能人の熱愛や不倫を報じても、それほど部数に影響しないということは、どの週刊誌も写真誌もとうの昔に気づいています。 ですから、今はどの週刊誌もウェブに活路を見いだしているわけで、そこにテレビが関わってきました。週刊誌はウェブ配信用に動画を撮影するようになり、その動画をワイドショーが買って流すようになりました。不倫報道でペナルティーを与えなければいい 今、ワイドショーが芸能スキャンダルを独自にスクープすることはほとんどありません。週刊誌報道を紹介するのみです。たまに当事者を取材するときもありますが、それも週刊誌報道が元になっているわけですから、ワイドショーが週刊誌に依存する割合はかなり大きいといえます。週刊文春に不倫疑惑を書かれたことを受けて開いた会見で芸能界引退を表明した小室哲哉=2018年1月19日、東京都(撮影・佐藤雄彦)  しかも自前で取材、撮影するよりはるかに低いコストで手間もかからずに映像を入手することができ、視聴率も上がるとなったら、こんなありがたいことはありません。週刊誌にとっても、本体が売れなくなった分をそこでカバーできているわけです。 もし、テレビが週刊誌の記事を紹介しなければどうなるでしょうか。最近の若者は芸能ニュースにそれほど興味がないし、週刊誌も読みません。ネットで芸能ニュースをチェックする年配の人も少ないと思います。となると、週刊誌の不倫報道を知るには電車の中吊り広告か新聞広告になります。報道の拡散は格段に狭くなるだろうと思います。 また、ワイドショーで芸能人の不倫疑惑が扱われるとき、コメンテーターが「不倫は当事者の問題だから他人がとやかくいうことではない」とコメントするのをよく耳にします。でしたら、最初から扱わなければいいだろうということにならないでしょうか。  話はそれますが、「不倫や浮気は犯罪じゃないんだから、そんなにたたくことはないだろう」という人もいます。その通りです。ですから、ペナルティーを与えることをやめればいい。小室氏は「引退は自分に与えた罰」みたいなことを語っていましたが、不倫したからといって、番組を降板したり、CMを中止したりするのをやめればいいんです。 考えてみてください。仮にベッキーが冷凍食品のCMに出演していたとします。彼女が不倫したからといって、それまでその食品を食べていた人が買うのをやめると思いますか? キャラクターの不倫で本当に商品のイメージダウンなどあるのでしょうか。 「テレビが不倫報道をしなくなったら日本が変わる!」なんて言っていた人がいましたが、そんな大げさなことではないでしょう。そもそも芸能人の不倫なんて、そんなに大騒ぎするほどの話ではないと思います。当事者以外には関係のないことですから、周りは1週間もたてば飽きてしまうし、その時にはまた新しい話題が出ますから。世の中、そんなものです。 テレビで不倫報道を扱わなければ、週刊誌も注目されず、大きな騒動にもならないと思います。『文春』を批判する人たちも、雑誌を買わなきゃいいし、読まなきゃいいんです。そうなって本が売れなくなったら、自然と芸能人の不倫が記事になることもなくなるでしょうね。 しかし、下世話な話に興味がある大衆がいる以上、そうなるとは思いません。バッシングを受けたくらいで『文春』は砲撃をやめることはないと思いますし、それで腰が引けてしまうほどやわじゃないです。それが週刊誌の矜持(きょうじ)だと思うのですが。

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    「不倫は社会悪」自分を良識派とみなす週刊誌と読者の薄っぺらさ

    佐伯順子(同志社大大学院教授、女性文化史研究家) 小室哲哉氏の引退会見がメディアで波紋を広げている。妻の介護に向き合う中、大人のコミュニケーションが取れる女性として担当看護師と親しくなり、これを「不倫」とする報道を受けて、引退会見へと発展した。小室氏以外にも、芸能界や政界の「不倫」報道によって売り上げ部数を伸ばした雑誌に対し、今回は逆に、報道側への批判が目立ち、編集側も想定外の逆風にとまどっているようだ。 なぜ、過去の「不倫」報道を受け入れた読者たちが、今回は一転して報道批判に回ったのか。その大きな理由の一つは、当事者が生活事情として「介護」を挙げた点にあろう。確かに、「介護」をどうするかは、現代日本において大きな社会的課題の一つである。ゆえに、会見に対する反響も、「不倫」よりもむしろ「介護」に関心が高まった傾向がみられ、私生活の背景を理解して、世間は情状酌量の余地を与えた。結婚外恋愛の報道の是非を問うよりも、介護や高次脳機能障害をめぐる議論が高まるという点で、これまでとは異なる展開をみせているのだ。 だが、ここではき違えてはいけないのは、「介護」や「障害」の有無と「不倫」の是非は、そもそも別問題であるということである。当事者が重なったために議論が錯綜(さくそう)しているが、私生活の苦労には、「介護」以外にも様々あり、「介護」や生活の苦労があるから、その癒しとしてなら「不倫」は正当化できるという風潮が生まれてしまうとしたら、明らかに間違っている。すべての既婚介護者が、それを理由に不倫をしているわけではないし、不倫どころか余暇の余裕もなしに介護に努めている女性、男性も少なくないのだ。 ただし、会見の締めくくり「なにか響けばいいな」に象徴されるように、彼の発言に社会的意義があるとすれば、彼が男性介護者であること、そしてその当事者の立場から、自身の介護体験を公的に赤裸々に語ったことである。その素直さは、少なからぬ男性が妻などの女性に介護を丸投げしがちな現状にあって、実にあっぱれである。記者会見で引退を表明し、涙を拭う小室哲哉さん=2018年1月、東京都港区 介護やケア役割は、日本の現状において、嫁や娘という女性に任せられがちであり、男性介護の当事者の「声」を幅広く共有できる機会は少ないだけに、大きな社会的意義がある。介護が女性役割とみなされがちなことは、それ自体も問題だが、男性にとってもまた問題であり、現状少数派の男性介護者は、気のおけない男同士で相談することもできず、孤立しがちである。 しかも、一部の医療従事者や薄情なタイプの家族であれば、「介護は苦労だし、本人も、心身が不自由で生きているくらいなら死んだほうがましですよね」という判断を下す危険性さえあるので、〈介護する/される〉〈ケアする/される〉行為の尊厳、そこから初めて見いだされる家族、あるいは人間同士の絆(まさに小室氏のいう「無償の愛」)の尊さをふみにじる例もある。小室氏が見いだした人間の絆 「女の子」のようになった妻に、むしろこれまでにない愛を見いだしたという小室氏は、家族のケア役割を担うことでしかわからない人間の絆を見いだしたのであるが、その思いを共有できる男性の友人を探すのは難しかった可能性が高い。 だからこそ、小室氏は、ケア自体を職掌とする女性看護師と思いを共有できたのであろうし、それが妻への思いとは別の精神的絆になったということは、他人の痛みに敏感な人間なら、十分理解できるはずである。 音楽という芸術活動の一部に関わってきた感受性の高い小室氏だからこそ、会見の中でその思いを、音楽ではないが、せめて言葉で表現したいという欲求にかられたのであろう。 昨今の地域社会には、高次脳機能障害の家族の交流機会や公的支援もあるが、職場と自宅との往復で、地域社会に溶け込む傾向も薄い(多くの)男性は、地域コミュニティーで悩みを共有するという解決手段を求めにくい。このため、仕事の忙しさを口実に家族のケアを怠り、それゆえに家族間の絆も薄れ、介護される側の命の尊厳を軽視する男性もままあるわけだ。 だが、小室氏が男性介護者としての役割を引き受け続けているのは、彼が仕事との両立の困難を口にしながらも、いわゆる自由業であり、日本社会の主流的ジェンダー観や組織的働き方から、比較的距離を置くことができる柔軟な立場にあったからであろう。音楽活動に取り組む小室哲哉氏 京都大のジェンダー研究者のグループで、まだ若い女性研究者が「乳母車を押すかわりに母の車椅子を押す人生でもいい」とつぶやいたので、感銘を受けた覚えがあるが、実際、赤子か老人かで体の大きさに違いがあるものの、自分で何もできず、心が子供のようになった身内をケアする営みは子育てに似ている。 子供の成長がうれしいように、心身が衰えた家族が、リハビリで文字通り一歩ずつでもよくなる姿を目にするのは、家族としてかけがえのない喜びである。高次脳機能障害の母を7年近く介護してきた筆者自身、そうなって初めてわかる人間の絆を切実に理解できる。 だが、このせちがらい世の中、介護を単純に負担としか考えない論調や、寝たきりでは生きている甲斐がないと決めつける、命の尊厳に対するきわめて薄っぺらい理解しかない浅はかな医療従事者(こうした発想は、根底では、障害者施設での殺人にも通じる、命に優劣をつける極めて危険な思想であり、偶然にも、期を一にして議論されている、強制不妊手術にも通じる問題である)も存在するので、小室氏の発言はその意味でも、介護という行為自体の尊厳を男性の側から世に問う重要なメッセージ性があったといえる。 会見からは、妻が音楽への興味を失ったことが小室氏にとっての失意をもたらしたことも伝わってきたが、音楽活動を共有してきた「同志」としての、結婚以前からのKEIKOさんとの関係の尊重は、妻の「価値」を家事・育児分担者としてしか認めない傾向が強い日本の(少なからぬ)夫たちの結婚観に比べれば、ジェンダー平等の観点からも、評価できる見解といえる。彼の発言から、妻の認知機能の低下により家事をしてくれなくなったから、「不倫」に走ったという実利的見解は、一切聞かれなかったのである。事例による報道の妥当性 さらに、「不倫」報道についていえば、倫理に反するとされる人間の行為には、殺人、窃盗など、姦通以外にも生死に関わる多くの犯罪、凶悪行為がある中、セクシュアリティに関わる結婚外恋愛のみが、「倫理にあらざること」=「不倫」とされるのは、立ち止まって考えればかなり極端な表現といえる。 江戸以前には不義密通と呼ばれていた姦通が、「不倫」と呼ばれるようになったのは、明治の「文明開化」期に、キリスト者や文明開化論者によって、一婦一夫が「人倫」の根本であると説かれたからであり、歴史的には決して古い言葉ではない。しかし、この表現に引きずられ、日本のメディアや世論がことさら強く「不倫」を非道徳的と認識している傾向は否めない。 歴史に照らせば、江戸時代以前の大名に側室がいたのは周知であり、経済的に余裕がある男性が妾を囲う現象は、明治期の尾崎紅葉の新聞連載小説『三人妻』、宮尾登美子の『櫂』、円地文子の『女坂』など、一夫一婦制が提唱された近代以降も描かれ続けている。 これらの事例で描かれる夫たちは、当然のごとく配偶者以外の女性と関係しており、一方で妻たちは耐える立場においやられているので、「不倫」に対する批判的報道は、こうした性についての二重基準を是正し、男女ともに配偶者に忠実であるべきという共通認識を提示する上では、一定の意義があると思われる。 ただし、私生活に過剰に介入する報道も、問題含みであることは確かである。夫婦関係に限らず、日本社会では戸籍が社会生活において重要な役割を果たしており、入籍=夫婦という枠組みが強固であるため、欧州のように、事実婚の出産に対しても寛容という世相にはない。 ゆえに、戸籍上の夫婦関係に対する背信行為については、メディアも一般市民も、必要以上に神経質になる傾向があり、情報の送り手も受け手も、自分たちの品行は差し置いて、「『不倫』は社会悪ですよね」と確認し、自分たちは「良識派」とみなして自己満足する、メディアと読者の共謀による「偽善の共同体」が形成されてしまいがちなのではないか。 振り返れば90年代には、『マディソン郡の橋』や『失楽園』のヒットで、逆に、不倫=純愛であるかのような風潮が蔓延したことがあった。こうした、「不倫」の過剰な美化については賛成できかねるし、配偶者への背信は、決して奨励されるべき行為ではない。愛人との旅行に公費が使われるような危険性に対しては、メディアは糾弾するのが妥当であるし、公人であれば私生活にわたる報道も覚悟せねばならない。 だが、過剰に私生活に干渉する報道もまた適切ではないので、事例によって報道の妥当性を、個別、慎重に見極める姿勢がメディアには求められる。 小室氏の例では、公費横領などの社会的不善を犯したわけではないので、当事者の小室氏自身は、男性介護者としての責務(女性なら多くの場合当然のように引き受けてきた任務)を粛々とまっとうされ、メディアもこれ以上騒がないことが、報道する側、される側、双方にとっての「人としての道」であると思われる。

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    芸能ゴシップ好き日本人にみる「文春逆炎上」の正体

    の声も少なからずあり、これはそれまでの文春砲の対象に向けられる視線と遜色ない。 私自身は、これまで別メディアで小室氏自身の心理にも言及してきたが、加えてお相手とされる看護師の女性には苦言を呈したい。看護師や、われわれのような臨床心理士もそうだが、医療や相談、カウンセリングに関わる対人援助職の多くは、患者やクライアントが悩みや不安を抱えたり、心身が弱っているときに仕事を通して接することがほとんどである。 そのような関係性の中では、患者からの好意を持たれやすいことはプロフェッショナルならば誰もが認識しているはずだ。そこには一線を引いて対応しなければならないというのは基本中の基本であり、常に留意しておかなければいけないところでもある。 もちろん、プライベートな関係性につながる人と人との出会いにもなりうることは否定しない。しかし、もし仮に看護師自身が患者に好意を抱いてしまったならば、担当を外れることが定石であり、それができなかった彼女は「プロ失格」と言われても反論の余地はないであろう。小室哲哉が「大好き」な日本人 少し話はそれたが、今回なぜ小室氏に対する批判が少なく、結果的に文春に対する風当たりが強くなったのか、それは日本国民における小室氏の存在の大きさに起因していることに他ならない。 小室哲哉氏はいうまでもなく1990年代にJ-POPを牽引(けんいん)した音楽プロデューサーであり、空前のヒットを生んだTRF、安室奈美恵、華原朋美、鈴木あみ、篠原涼子、globe、H jungle with tらを手がけ、間違いなく時代を体現する存在であった。関連CDの総売り上げは1億7000万枚以上を記録し、1996年にはオリコンシングルチャートのトップ5を独占したこともあった。 つまり、それだけ日本人は小室氏が「大好き」なのである。年代の差はあれど、生み出した曲の知名度や手がけた有名アーティストの人数からしても存在は絶大であり、他の文春砲をくらった芸能人・有名人とは、支持者の多さからみても格が違うともいえる。また、一般的な心理的傾向として過去の思い出は実態以上に美化される傾向があり、今回の件を通じて改めてノスタルジーに浸った日本人も多いはずだ。1996年11月、小室哲哉がプロデュースしたglobe、安室奈美恵の小室ファミリーが集結し、ライブを行った 米国の心理学者であるレオン・フェスティンガーが提唱した「認知的不協和」という概念がある。これは、人が矛盾する認知(考え方)を同時に抱えた状態を指すが、そもそも人は誰しも言動の整合性を保とうとする心性があり、矛盾や葛藤を抱えた状態はストレスにつながる。要するに、自己が一貫性を維持できていない状態は非常に「気持ちが悪い」のだ。 前述のように、小室氏を「大好き」な日本人が「小室氏の不倫」という嫌悪し攻撃に値するネガティブな事柄に向き合ったらどうなるか。「大好きな人を批判し攻撃する」というのは基本的に矛盾した言動である。たとえそれが自分の地位を相対的に高めるものだったとしても、潜在的にモヤモヤするのが普通なのである。 今回の場合、そのような認知的不協和を解消する方法は二つある。まず一つは、矛盾する二つの考えや行動のどちらかを変えることだ。つまり「小室氏を嫌いになって批判する」か、「小室氏を好きなまま批判しないことにする」のどちらかになることだ。前者の場合は、「嫌いな人を批判する」となり矛盾はなくなり、後者の場合も「好きな人を批判しない」となりモヤモヤすることはない。だが、小室氏は、前者を選ぶには世間にとって偉大すぎる存在なのだろう。今回の「文春逆炎上」の正体 もう一つは、「大好き」と「批判したい」という二つの矛盾する認知を両立することであり、これが今回の「文春逆炎上」の正体である。すなわち、「小室氏に対して好意的な感情を持ったまま、批判する感情は表出したい」、その気持ちの行き着く先が文春砲だったのだ。そして、介護に疲れた同情すべき、「大好き」な小室氏の助け舟にもなりうる批判を、憎むべき文春に向ける、という個人の一貫性・整合性を保った心理的ストーリーが完成したのである。 過去に文春砲にさらされたロックバンド、ゲスの極み乙女。のボーカル、川谷絵音氏は、この機に際してツイッターで「病的なのは週刊誌でもメディアでもない。紛れも無い世間」と投稿している。これが小室氏の騒動に関連したものだとすれば、「音楽業界の偉大な先人である小室氏は批判したくない、でも文春を攻撃するのは過去の自分を正当化しているとも取られかねない」という葛藤した心理が働いた末、第3の攻撃対象を見いだしたのかもしれない。2017年5月、約5カ月ぶりに活動を再開して行った復活ライブを終え、マスクをして会場を後にするゲスの極み乙女。の川谷絵音(撮影・早坂洋祐) またタレントのヒロミ氏も、フジテレビの番組内で「文春が悪いとは思わない」としたうえで、「世の中がスポンサーに言うとかして、(スキャンダルを報じられた芸能人が)テレビに出づらくなくなる。世の中の人たちでしょ、そうやって葬り去ってるのは」と言及しており、小室氏も文春も批判したくない矛盾した心理をこの発言で解消しているようにも見受けられる。 一部には「不倫報道にはもう飽きた」という声があるものの、文春砲に対する批判は小室氏に特異的なものであり、継続的な影響は限定的であると考えるのが自然だ。次の不倫報道が出た際には、これまで通り批判しやすい炎上芸能人・有名人が現れてくることだろう。また仮に、多少矛先がそれたとしても、どこかの誰かに対する批判は永遠になくならない、ということは明らかなことである。そうして人は一定程度の健全な自己を保っていくものなのだ。 しかし一時的であるにせよ、プライベートの報道のあり方や倫理観に一石を投じた小室氏の会見やその存在は、一つの問題提起として意義のあるものであった。また、先の見えない高次脳機能障害の家族に対する介護の現実や大変さについて身をもって世の中に伝えたことは、同じく壮絶な介護を過去に経験したり、そのただ中にいる人たちの思いを世間に代弁することにもなりうるという意味で、介護者として生きていくことを決めた彼の新たな功績と位置付けられるべきではないだろうか。

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    小室哲哉不倫報道論争 逃げ場を残すのは報じる側の矜持

    が行われたが、小室さんのケースほど“拒否反応”が強かったものはなかった。上智大学教授の碓井広義さん(メディア文化論)の話。「一昨年の1月のベッキーさんの騒動以来、不倫報道が急増したのは、週刊誌という活字メディアがネタを作り、テレビはそれを追いかけるだけでラクに視聴率が取れたから。一昔前なら“不倫は下世話”と躊躇したはずが、視聴率を稼げるコンテンツと見たテレビはワイドショーのみならず報道番組でも扱うようになった。この2年間は、“不倫報道バブル”といえる状況でした。しかし、小室さんの件で、このバブルも天井にさしかかり、冷静になりつつあるように感じます」KEIKOの気持ちは誰にもわからないKEIKOの気持ちは誰にもわからない「KEIKOさんはホッとしてるかもわからないよ」。情報番組でそう語ったのは演出家のテリー伊藤だ。 小室さんの妻で、『globe』のボーカル・KEIKO(45才)は、2011年10月にくも膜下出血で倒れ、現在もリハビリ中。小室さんは会見で、KEIKOが音楽に関心を持たず、小学4年生の漢字ドリルを楽しんでいる様子や、会話や集中力が続かないことなどを明かし、介護で心身ともに疲れ果てていると告白した。 テリー伊藤はこう続けた。「奥さんが倒れたとか、ご主人が倒れたとか、その時に旦那がまだ若いから“ちょっと他の人と遊んでもいいわよ”という気持ちを持っている可能性もありますよ。(中略)私、倒れているから、あなた浮気していいわよ、みたいなね(中略)それはもう、その夫婦にしかわからない」小室哲哉、KEIKO夫妻=2008年05月撮影 小室さんは今回の騒動をKEIKOに説明したが、どれだけ理解できているかわからないと語った。夫ですらそうなのだから、KEIKOが今思っていること、感じていることは、他人の誰にとっても想像にしかすぎない。「不倫」とは結局、夫婦の問題だ。もし他人やメディアが不倫を糾弾できるとしたら、それは“夫(妻)の立場に立つ”という建て前があってはじめて、“不倫は許せない!”と怒ることができるはずだ。 たとえば、渡辺謙(58才)の妻・南果歩(54才)は、発覚から半年以上経っても怒り心頭で夫に自宅の敷居をまたがせていない。上原多香子(35才)の夫・TENNさんは妻の不倫を知って自死を選んだ。夫婦の信頼を裏切った──それが周囲が不倫を追及する根拠だったのだ。 しかし、今回の場合はテリー伊藤が言うように、KEIKOの気持ちは誰にもわからない。小室さんへの信頼も揺らいでいないかもしれない。文春が「裏切り」と書いても、“裏切っているかどうか”は誰にもわからないところに、今回の不倫騒動の特徴がある。 ロンブー淳も自身のラジオ番組でこう話している。「KEIKOさんの今の気持ちを誰も推し量れないことを考えたら、他人が人の不倫をいいとか悪いとかジャッジを下すのはどうなのか」 ジャーナリストで、元週刊文春記者の中村竜太郎さんが指摘する。「日本で介護が必要な人は現在640万人で、小室さんと同じような立場の家族やお世話をする人はその何倍にもなります。だから、小室さんの苦労も、KEIKOさんの置かれた状況も身に染みてわかる。もしKEIKOさんに判断能力があって、小室さんと大人同士の会話ができる状態であれば、ここまで“報道が悪い”とならなかったのではないでしょうか」 小室さんが早々に引退したことも、他の不倫騒動とは一線を画す。ベッキーは最初の会見で“不倫していない”と嘘をついたし、今井絵理子議員(34才)は「一線を越えていない」という言い訳をして炎上した。「小室さん自身が会見で、60才を手前に音楽活動の限界を感じていたと話しているのだから、不倫疑惑だけが引退の理由ではない。しかし、小室さんの引退があまりにショッキングだったので、短絡的に“週刊誌が追い込んだ”となってしまっているところがある」(前出・中村さん)最後の逃げ場を残す 報じる側の矜持最後の逃げ場を残す 報じる側の矜持 フリーアナウンサーの高橋真麻は情報番組でこう問うた。「『もう書かなくていいのに、かわいそうだよ』という感情がこんなに出たのは久しぶり。税金で暮らしているとかじゃないから、政治家の汚職ならちゃんと暴いてほしいけど、芸能人の不倫をここまで書いちゃってどうなのかな」 宮崎謙介元議員(37才)や山尾志桜里議員(43才)、今井議員など、人格まで含めて有権者から判断されるべき公職の政治家と、複雑な恋愛事情さえ、時に“芸の肥やし”になるようなアーティストを同列に並べて断罪することに疑問を投げかける声も多い。 もちろん、小室さんに厳しい意見もあり、テレビでは、「介護疲れをしてたら不倫していいとは絶対ならない」(ジャーナリスト・木村太郎さん)、「引退がすべてのけじめにならないと思う」(坂上忍)という声も上がった。『週刊現代』元編集長の元木昌彦氏『週刊現代』元編集長の元木昌彦さんはこう言う。「週刊誌は創刊以来、不倫を含む『スキャンダル』と『メディア批判』は大きな柱。けしからんという声は昔からあるが、そこは揺るがない。文春だって引退させたいと思っていたわけではないだろうし、多少の批判で撤退するほど週刊誌はやわじゃない。これだけ不倫報道が注目されるニュースならば、今後も情報が手に入れば不倫報道は続くだろう」 とはいえ、週刊誌のスキャンダル報道にも“一線”があるはずだ。介護で追い詰められた小室さんの精神状態は、行き場をなくし、引退に至った。人間臭いスキャンダルを追うからこそ、人間の気持ちを理解し、最後の逃げ場は残しておく──それも報じる側の矜持だ。 高橋みなみの次のコメントが多くの人の心情を代弁するのかもしれない。「小室さんの会見を見てたら涙が出てきた。誰がこの会見を見て言葉を聞いて、責められるのだろうか。何が正義なのかわからない」関連記事■ globe・KEIKO ゆず・北川悠仁と本気で結婚したがっていた■ 記憶を取り戻したKEIKO 小室哲哉の呼びかけにglobe歌う■ 小室哲哉「不倫引退」への同情をどう滲ませるべきなのか■ 秋元優里アナも? 真面目な人ほど「車内」にハマる傾向■ 高岡早紀 ハワイ留学した17才次男のとんでもない問題に直面

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    なぜ週刊文春はLINEと組んだのか?

    スマホやタブレットでニュースを見る割合が格段に増え、スマホで見ることを前提にしたITベンチャー系新興メディアによるニュースアプリが相次いで登場、若者層の支持を得て急成長している。しかし、玉石混淆とも言えるニュースアプリが乱立する中で、ニュースを見る読者の目も肥えてきている。「質」が伴わないとアクセスは稼げなくなることは必定で、いかに他社にない独自性を出すかにかかっている。 「経済情報で、世界を変える」という目標を掲げて15年4月にスタートしたソーシャル機能を兼ね備えた、経済ニュースプラットフォームのニューズピックス「NewsPicks」。梅田優祐社長は「現在、会員ユーザー数(有料と無料の合計)は約200万人(昨年12月末)、その中で約3万人が有料課金ユーザー。1、2年後にはこの有料ユーザーを10万人に増やしたい」と強気の見通し。コンテンツについては「広告モデルのニュースサイトである限りは広告を意識せざるを得ないから、ジャーナリズムは成り立たない。広告やPVに左右されない有料コンテンツ(1日10本程度)の配信を重視していきたい」と話す。 同社は約90以上の国内外の経済メディアなどからの記事の提供を受けると同時に、東洋経済新報社出身の編集長を起用するなど編集スタッフを充実させている。これを生かして「NewsPicks」編集部が独自に取材する旬のトピックスなどの記事も配信、記事に対してその分野に詳しいユーザーがコメントを掲載する。また月曜日の朝に6回続きの話題のテーマや人物についての連載記事の予告を流す。ここまでは無料で読めるが、本編は有料。予告を流すことで有料購読を促す仕掛けだ。本編は昼休み時と帰宅後に読む時間がある9時ごろの時間帯に流す。ソフトバンクの孫正義氏がクローズアップされると、すぐに専門のライターに孫氏にフォーカスした長文の読み応えのある記事を書かせるなど、タイミングを逃さない。記事、図表、写真のスタイル、デザインはスマホの画面で見やすいように加工している。購読料は月額1500円(税込み)。購読を決めるスマホの手続きは1回か2回クリックするだけで完了、新聞社系サイトと比べると煩わしさがない。LINE株式会社のオフィスにある「LINE」のロゴ=東京都新宿区 LINEは、150社のメディアからニュースの提供を受け、「プッシュ型」で広告モデルを中心にラインニュース「LINE NEWS」を提供している。SNSブームを背景に「LINE NEWS」を見るアクティブユーザー数が10歳代から40歳代を中心に、月間利用者数が4600万人(昨年12月末)と急激に伸びている。 「やさしいニュース」というコンセプトの無料ニュースサイトだが、昨年12月に「週刊文春」と提携、今年1月から「文春砲」と呼ばれる特ダネを「文春」発売日の朝7時にLINEの有料サイトにアップするサービスを始めた。「文春砲」は昨年、芸能ニュースのスクープだけでなく、甘利明・前経済再生担当相や舛添要一・前東京都知事の「首」を取るなど、マスコミ界を揺るがせる報道ぶりが光った。LINEにとってはスクープ記事でサイトへのアクセス数が稼げ、「文春」はLINEのサイトに先行させて話題作りができる。週刊誌とSNSサイトの共同作戦といえる。 12年にスタートしたスマートニュース「SmartNews」は新聞、通信、雑誌など2000以上からニュース提供を受けているニュースアプリ。高速でカテゴリーごとの表示ができるなどスマホでの使い勝手の良さから、幅広く読者層を増やしている。広告モデルを展開、記事の提供先に読者を誘導し、広告収入をスマートニュースと提供先が分け合う形だ。スタッフに編集経験者は少ない。何千という記事の中からAI(人工知能)も使った機械がプログラムで記事を選ぶ仕組みだ。新谷学編集長に聞いた 松岡洋平マーケティング・ディレクターは「大量で多様な記事の中から人間が記事を選ぶ時間はない。有料無料を問わず、『よりたくさんの記事の中から、読者の反応などを見ながら機械が選んだ』記事を求める読者も多い。ニュースの見方もいろいろあり、スマホを使って短時間で心地よく見たいというニーズに答え、読者をさらに増やしたい」と話す。ITを使うことで、同じような内容に記事がダブった形でアップされることを防ぐことができるという。社員の6割以上がITエンジニアで、まさにエンジニアによって作られるニュースアプリだ。しかし、人権、差別問題と言った編集上の微妙な判断が求められる記事をAIが判断するのは難しい。大量の記事を機械がさばきながら、編集の質をいかに確保するかが、ここでも問われている。 ニュースサイトがどれくらい見られているかを示す数字として、ページビュー(PV)やアクセス数がよく使われる。しかし、実際に利用者が閲覧する回数よりも多めに表示されることも多く、注意する必要がある。PVの計算方法は、同じ人が10回閲覧しても、10人が1回ずつ閲覧してもページビューが10増えたように表示される。一方で、ユーザーが同一人物の場合には複数回閲覧しても1として数える手法もあり、ユニークユーザー数とも呼ばれる。LINEが言う月間アクティブユーザー数というのは、1カ月の期間内で同じ人が複数回アクセスしても1として数えるユニークユーザー方式で、「アクティブ」と付くのは、1カ月に1回以上利用していれば「アクティブに利用しているユーザー」とみなすという意味だ。 その場合でも、職場のパソコンでニュースを読んで、帰宅してから自宅のパソコンで同じニュースの続きを読んだ場合は、読んだ人間は同じでもアクセス数は2回にカウントされる。読む人は同じでも、パソコンやタブレット、スマホなど異なる端末からアクセスできる時代になっているため、厳密な意味での別人が何回アクセスしたかを調べるのは難しい。 また、検索エンジンが各サイトを巡回する際の機械的なアクセスや、ニュースアプリから自動的にコンテンツを拾ってきて何らかの処理をする人工知能のようなプログラムなども1人としてユーザー数に含まれる。このような、人間の代わりに自律的に動いてくれるプログラムを一般的にbot(ボット)と呼ぶ。有料サイトであれば契約数という確実な指標があるが、無料サイトの場合、botと人間を区別することが難しいため、正確な利用者数を把握するのは難しいのが現状だ。このため、月間アクティブユーザー数はサイトの規模を表す一定の指標にはなるが、算出方法の厳密な決まりがあるわけでなく、サイトによって計算方法がまちまちなことが多い。悪質な業者は、botを使って自社サイトの閲覧数を水増しすることで広告料を稼いでいる例もあるようだ。『週刊文春』 ニュースサイト間の競争がし烈になる中で、LINEとの提携に踏み切った「週刊文春」の新谷学編集長(52歳)にその狙いについてインタビューした。Q 「週刊文春」がネット(LINE)にスクープ記事を提供する理由はA 新谷編集長 昨年はスクープが多く出たので「週刊文春」は前年比較で10%伸びたが、私が編集長になった12年からみると、徐々に減ってきている。これまで予告記事はヤフーなどの無料サイトに提供してきたが、「文春」ブランドに注目が集まる中、新たな読者を増やしたいので、有料でスクープ記事を全文提供することにした。新規読者の開拓にはデジタルが最も有効だと考えた。Q LINEと提携した理由はA 提携先をどこにするかヤフーとLINEの両社と協議した。最終的にはLINEの方が「熱意」が感じられ、決断が速かった。20歳代から40歳代の女性が多いLINEの読者層はマーケットとしても魅力的だった。Q 有料で提供する狙いはA 無料のニュースコンテンツからは良質な記事は生まれない。いままでは、ヤフーなどプラットフォーマーがコンテンツを提供する側よりも力関係が上だったが、良いコンテンツを作れば向こうから「お金を払ってもいいから掲載させてほしい」と言って来るはず。これからは良質なコンテンツを武器にプラットフォーマーとの関係を正常化させたい。そうすれば取材費、人件費をかけたクオリティの高いコンテンツを提供し続けることができる。Q  LINEで見る料金を1回240円にした根拠はA 雑誌の価格が400円で、ネットの場合は印刷代や紙代が掛からないこと、特集しか読めないことなどを考えて決めた。コンテンツビジネスにおいては適正な価格設定が重要だ。Q 文春は自社のサイト「文春オンライン」を立ち上げたそうだがA 1月25日に開設した。当初は「月刊文藝春秋」「週刊文春」などのコンテンツの一部を無料で掲載するが、近い将来は課金ができるサイトを目指すべきだ。なかにし・とおる  経済ジャーナリスト  1948年岡山県生まれ。1972年共同通信社に入社、経済分野を取材し編集委員などを経て2010年に退職し、現在は経済ジャーナリスト。【訂正】BuzzFeed Japanに関する記事および、古田大輔・創刊編集長へのインタビューにつきまして、多数の間違いがありましたので、当該カ所につきまして、削除させていただきます。

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    共同通信「松吉」署名ツイートと山中教授「印象操作」の根深い病理

    、記事を読んだものに偏見(バイアス)が生じる可能性が高いものをいう。共同通信社が入る東京・港区の汐留メディアタワー=2009年5月撮影 共同通信が1月25日に配信し、当初は「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と題した記事が問題の「印象操作」である。ネット世界でもこの報道は批判の対象として論じられ、また一部の報道でも「印象操作」とするものがあった。なぜこの記事が「印象操作」かを、以下で簡単に説明したい。 京大iPS細胞研究所に所属する助教が作成し、専門雑誌に掲載された論文に不正が発見された。当初は外部からの通報から始まり、委員会を立ち上げて調査し、その不正を確かめた。研究所の所長である山中氏は記者会見の席上で謝罪したが、それは社会通念上からは妥当だったろう。 現在、大学を含む研究機関では研究者が不正を行わないことを厳しく求める研究者倫理の研修も行われている。ただし、単に研究者倫理だけを声高に求めても、研究者側に動機付けがないと問題の解消にはならない。例えば、期限付きの研究職の採用だと、その期限内で一定の研究成果を厳しく求められているケースが多いだろう。もし、その成果のハードルが研究環境や研究者の能力を超えるものであったならば、今回のような不正行為が生まれる可能性がある。今回の不正がどのような動機付けで行われたかは不明だが、論文不正は研究者倫理だけの問題ではない。 記者会見では、山中所長の責任や辞任の可能性について質問する記者がいて、そのことも報道で広まっていた。その中で今回の共同通信の報道があった。だが、筆者は記事を読んだときに、いったい何が問題なのかさっぱりわからなかった。 「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」の「科学誌」とはその不正論文が掲載された専門雑誌のことを指す。記事からの印象では、あたかも山中氏がその雑誌の創刊にかかわったことで「何か問題をはらむ」かのような印象をもたらすものだった。このような印象に誘導された人は筆者だけではない。多くの人たちが同様の印象を持った。 もちろん専門雑誌の創刊にかかわることと、今回の不正論文がその専門雑誌に掲載されたことには、全く関係がない。特に不正にかかわる因果関係もなんらない。だが、記事はそのような注記もなく、なにか問題があるかのように「匂わせた」のである。まさに「印象操作」といっていいだろう。「謝ったら死ぬ病」に感染したマスコミ この「印象操作」はネットを中心にして専門家や識者、そして一般の人たちから猛烈な批判を浴びた。一部報道によれば、共同通信側が「新たな要素を加えて記事を差し替えました。編集上、必要と判断しました」とのことで、ネット配信の記事のURLは同じまま、内容を大幅に書き換えた。この行為はおそらく多くの読者に不信を引き起こしただろう。また共同通信の配信を利用している地方紙では「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と見出しがそのままに大きく取り上げられた。ネット上の批判を知らない人たちにとって「印象操作」は放置されたままである。 だが、共同通信は今回の件で反省もなければ、もちろん山中氏や読者への謝罪もないままだ。経済評論家の上念司氏は今回の問題をうけて次のように指摘している。共同通信の山中教授を巡る印象操作記事で分かったこと。マスコミは「謝ったら死ぬ病」に罹っている。しかも、記事で批判する対象にも「絶対に間違えない」ことを強要し、謝罪、訂正はむしろ叩きまくり。まさに「謝ったら死ぬ病」の感染源だな。お前はアンブレラ社かと。上念司氏の公式ツイッター 実際に、共同通信が「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と題した記事は、上念氏が指摘するように、記者会見で謝罪した山中氏をさらに「叩く」要素があることは誰の目にも明瞭だろう。対して自社の記事については誤りを率直に認めない姿勢も今回はっきりしている。ちなみに「アンブレラ社」とは映画やゲームの『バイオハザード』シリーズで、ゾンビを生み出す根源となった企業名である。ゾンビものが好きな上念氏らしい表現といえる。京都市内で講演する京都大iPS細胞研究所の山中伸弥所長=2018年1月24日 もちろん「絶対に間違えない」「謝ったら死ぬ病」で表されるメディアの無謬(むびゅう)性へのこだわりは、なにも今回の共同通信の件だけではない。新聞やテレビなどのマスメディアでも陥りやすいだろうし、筆者を含め識者たちも陥りやすい罠ともいえる。今回の共同通信の件はその意味でも、公に意見を表明する者が深く教訓とすべきだろう。 前述のように、共同通信からはまだ何の反省の声もない。このことに関して、筑波大学の前田敦司教授が興味深い指摘をしている。共同通信といえば、こんな事件もあった。電通からカネをもらって特定の薬を持ち上げる記事を(広告とせず)配信していた。証拠を突きつけられるまでは否定。前田敦司氏のツイッター加計問題でもうかがえた「印象操作」 これは前田氏も参照している記事に詳細に書かれているのでそれをまず参照してほしい。記事を読めば、いかに共同通信の無謬性へのこだわりが強いかが少なくともわかるだろう。もし、報道記事がある程度の客観性を持つことを要求されるならば、無謬性はもっとも否定しなければならない態度である。常に反証可能性に開かれた態度でいなければならない。 筆者はこの山中氏に関する記事を共同通信の公式ツイッターで見た。そのツイートには「松吉」という署名があった。「松吉」はイニシャルなのか本名なのかはっきりしない。ただ、「松吉」の署名が記載されたツイートが参照している記事は多くなく、その意味では特に強調したい記事にこの署名が利用されているのだろう。 この「松吉」の署名記事で興味深い特徴があったので、加計学園問題を例として取り上げる。共同通信の記事から、具体的な加計学園問題の、そもそも「問題」が具体的に指摘されたことはないだろう。いままでも論点として提示されたものの根拠は、前川喜平前文部科学事務次官の証言だけである。「松吉」の署名ツイートでは、一貫して加計学園問題について徹底的に追求する姿勢が綴られ、また前川氏に関しては「官邸からすさまじいプレッシャーを受けながら、逆境をはね返した前川氏の内面の強さ、心の原点にスポットを当てた」とされる他の記者の署名記事を参照するものがあった。共同通信の公式ツイッターで、「松吉」署名のツイート 「官邸からプレッシャーを受けたとされながらも、『捨て身』の証言を行った前川氏。6月23日の日本記者クラブでの会見にそのヒントが隠されていました。(松吉)」というが、そのような前川氏の内面の「強さ」を報じることは、彼を政権批判の英雄として祭りあげることになりはしないだろうか。実際にこの記事が公表された前後は、前川氏をそのような政権批判のヒーローとして扱う人たちもいた。 そもそも「官邸からのプレッシャー」が本当にあったかなかったかも問題の大きな論点であろう。これが実際あったかなかったかでも大きく報道の「印象」は変わる。だが、その種の検証をこのツイッターの投稿も記事自体も行ってはいない。その意味で、この記事もまた「印象操作」に堕しているといっていいだろう。 今回の山中氏に関する報道は「印象操作」の氷山の一角なのだろうか。その点はより地道な検証が必要だろう。だが、ぜひ共同通信、またそれに限らずマスメディアはネットを含む世論の批判を柔軟に聞く耳を持つべきである。今回の山中氏についての報道とその後の対応は、その意味であまりにも頑迷だからである。

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    ウーマン村本よ、国民を「愚民視」しているのは誰か

    井上達夫(東京大学大学院法学政治学研究科教授) 2018年元旦に放映された「朝まで生テレビ!元旦スペシャル」(以下「元旦朝生」と略記)の中での、憲法9条と安全保障問題に関するウーマンラッシュアワー村本大輔の発言が、その後、ネット上で物議をかもしているということで、同じ番組に出演した私がオピニオンサイトiRONNAからコメントの寄稿を求められた。 ネットの「炎上」は無視するのが私の基本方針である。しかし、村本は番組後、ツイッターで「元旦朝生」での私の発言についてデマを流布し、それが発火剤となって「東大教授の井上が偉そうに庶民をばかにしている」という類の井上バッシングも高まっていることを人づてで知らされた。これは憲法9条問題に関する私の立場に対しての完全な誤解・曲解であり、これを放置することは、私の名誉が傷つくということ以上に、憲法改正問題に対する国民の的確な理解を妨げることになるので、一言、コメントを寄せることにした。 村本のデマとは彼のツイッターでの次の発言である。村本大輔(ウーマンラッシュアワー)ツイッターより井上達夫さんには、君は愚民だ、と。小林よしのりさんにも、愚民思想だ、と。そして高須先生には国賊だ、と言われた。ぜひ3人におれの愚民国賊根性を叩き直してほしい。――村本大輔(ウーマンラッシュアワー)‏@WRHMURAMOTO  私は村本に「君は愚民だ」などとは言っていない。「愚民」ではなく「愚民観」という言葉を私は使ったが、それは番組の終わり近くで私が村本に対して話した、次の発言においてである。村本君の発言の裏に、ある種の愚民観を感じるのね。国民はよく分からないからとか。君は一見、国民の目線に立っているようだけど、実は、上から目線で見ている。(自衛隊・安保の存在が、戦力の保有・行使を禁じた憲法9条2項に反することは)ちゃんと説明すれば小学生でも分かる。これ(愚民観)は護憲派と同じ。(護憲派は)憲法改正プロセスはなんとしても発動させたくない。なんとなれば、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が出てくる、日本は軍国主義に走る、と。日本の国民を信用していない。 上の発言から明らかなように、私は「村本は愚民だ」と言ったのではなく、まさに真逆のこと、「村本は国民の目線に立つふりをしているが、実は、国民に憲法のことなどよくわかるはずがないと、上から目線で国民を愚民視している」と言ったのである。 そして、より重要なことだが、憲法改正プロセスを発動させて、自衛隊・安保の現実と9条との矛盾の抜本的解決につき、国民投票で国民の審判を仰ぐ機会を国民に提供することをかたくなに拒否し続けてきた護憲派論客こそが、まさにこのような愚民観に立って、国民の憲法改正権力の発動を封じ込めてきたことを指摘したのである。彼ら護憲派は、愚民である国民に国民投票などさせたら、ひどいことになるぞ、9条だけが愚民たる国民が軍国主義へと暴走することの歯止めになっているのだ、と主張している。村本が「愚民観」を吐露した2点 私は『憲法の涙』(毎日新聞出版、2016年)、『ザ・議論!リベラル対保守究極対決』(小林よしのりとの共著、毎日新聞出版、2016年)、『憲法の裏側 明日の日本は……』(香山リカとの共著、ぷねうま舎、2017年)など、一般市民に向けた一連の著書や、テレビ討論で、このような護憲派の愚民観を、これまで繰り返し批判してきた。東京大学大学院法学政治学研究科教授の井上達夫氏 最近の一例を挙げよう。昨年6月13日のBSフジ「プライムニュース」で私と議論した、代表的な護憲派憲法学者の1人である石川健治(東大教授)は、私に対し、「でも、9条をなくしたら、日本は軍国主義に戻ります。そうしたら、表現の自由、政治的言論の自由も弾圧される。井上さんは好き勝手な言論ができてるけど、それは憲法9条があるおかげですよ」という趣旨のことを述べたが、これに対し、私は最近著で次のようにコメントしている。9条が何かしら重しになって、魑魅魍魎を、悪魔、デーモンを抑えつけている、と。そのデーモンとは何者か。もし、デーモンが出てくるとしたら、日本は民主国家なのだから、それは軍国主義に狂い暴走する国民自身でしょう。しかし、いまの日本国民が9条変えたら狂うはずだなどという愚民観を偉そうに説く石川は何様のつもりなのか。国民に憲法価値を発展させる能力などないから、「賢明なる憲法学者」のご託宣に従えという彼は、プラトン的哲人王でも気取っているのか。彼は国民を責任ある政冶主体としては認めていない。(前掲『憲法の裏側』164頁) 護憲派学者が愚民観をもつという私の主張を「元旦朝生」で村本が理解できたかどうかは分からない。しかし、この番組の中で、結果的に彼が、護憲派学者が喜びそうな愚民観を吐露したことは事実である。これに関し、2点、触れておこう。 第1に、村本が「自衛隊がなんで違憲なんですか」と質問したのに対し、私が「君は憲法9条2項を読んだことがあるのか」と聞くと、「ありません」と答えたので、私が「自分の無知を恥じなさい」と言った。これに対し、村本は、自分は普通の庶民の声を代弁しているのだとし、自分への批判をかわそうとした。これは実に卑劣な論点回避であるだけでなく、彼が庶民を愚民視していることを暴露するものである。村本の卑劣な「論点そらし」 村本は政冶漫才で「これの問題は何か知っているか」と、お笑いによる庶民の政治的啓蒙(けいもう)活動をしている。昨年末のテレビのお笑い番組「ザ・漫才」で日本の原発など重要な問題について、なかなか切れ味のある突っ込みギャクで聴衆を笑わせた。私もこれを見たので、「元旦朝生」の放映前の打ち合わせで私の隣に座った彼に、「あれ面白かったよ」と感想を述べた。こういう漫才による政治的啓蒙をやっている村本が、改憲論議の焦点になっている9条2項を読んだことがないと居直ったので、私はあぜんとして「自分の無知を恥じなさい」と戒めたのである。私は、いっぱしの啓蒙家を気取る村本個人が当然有すべき最小限の基本知識を欠くことを𠮟ったのであって、庶民の無知を侮蔑したのではない。しかし、彼は卑劣にも、自分個人が矢面に立たされるのを避けるために、庶民は9条2項など読んだことがないと論点をそらしたのである。お笑いコンビ・ウーマンラッシュアワーの村本大輔=2015年8月10日、東京・豊洲(今井正人撮影) しかも、この論点そらし自体が庶民をばかにしたものである。戦後憲法の柱の一つである戦力放棄を定めた憲法9条については、例外はあるかもしれないが、普通の庶民も、神学論争などといわれる学者・政治家の解釈論争のことは知らなくても、その条文くらいは中学・高校の社会科の教科書や授業で一度ならず読んだはずである。憲法論議が再燃している近年、テレビのお茶の間向けワイド・ショー番組やニュース番組でも、頻繁に、9条1項・2項の条文はフリップ・ボードで聴衆に見せられている。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という2項の条文を虚心坦懐(たんかい)に読み、これを自衛隊・安保という軍事的現実と比較するなら、学者・政治家などのエリートの詭弁(きべん)に毒されていない庶民は当然「何かおかしい」と思うはずである。 私はこの庶民の感覚こそが正しい、間違っているのは自衛隊・安保の現実と9条との矛盾を隠蔽してきたエリートたちの詭弁の方であると主張してきた。ところが、村本は庶民感覚から発せられるべき「なんで自衛隊が合憲なんですか」という問いを発せず、「なんで自衛隊が違憲なんですか」とエリートの詭弁に媚びた問いを発し、さらに、「9条の条文も読んだことのない庶民」というイメージを一般国民に重ねた。これは国民に対し失礼なだけではない。9条問題につき憲法改正国民投票で国民の審判を仰ぐことを拒否したい護憲派の憲法学者・知識人たちは、村本のこの庶民像を歓迎し、「そら見たことか、9条の条文すら読んだことのない国民に憲法改正国民投票などさせていいわけがない」と主張するだろう。「国民投票=愚民誘導」論を振りかざす村本 第2に、憲法改正国民投票が政治的アジェンダにのぼり、国民が主権者としての選択を迫られる立場に置かれると、それまで無関心だった人々ですら、真剣に自分たちで問題を考え議論するようになるということを、これまで世界中で行われてきた2500件以上の国民投票についてのデータを網羅的に収集し解説した最近の文献(今井一・他編著『国民投票の総て』[国民投票/住民投票]情報室、2017年)に基づいて私は指摘した。これに対し、なんと村本は「英国のEU離脱国民投票は、国民が離脱派のフェイク・ニュースにだまされてやったんでしょう」と言ったが、これは「国民投票は危険なポピュリズムの温床になるから、やめろ」と主張する護憲派エリート学者がよく行うのと同じ反論である。(iStock) 英国国民投票では投票前に、多数の国民が参加した公開討論やテレビ広告などで離脱派のEU分担金などに関する偽情報は徹底的に批判され、EU残留と離脱とのコストと便益に関する適切な情報が提供された上で、EU離脱派が勝利したこと、離脱派のフェイク・ニュースに国民がだまされたという主張の方が、負けた残留派が国民投票の後に流布させたフェイク・ニュースであることを前掲文献の調査報告に基づいて私は指摘した。EU離脱英国国民投票が離脱派による「愚民誘導」の結果だとする虚偽の情報を日本で流布させているのは、国民投票を危険なポピュリズムとして否定することで、9条をめぐる憲法改正国民投票の機会を国民から剥奪しようとしている護憲派学者たち、国民を愚民視する「エリート知識人」たちである。村本は、エリート知識人ぶって、「国民投票=愚民誘導」論を恥ずかしげもなく振りかざしている。国民を愚民視しているのは私ではなく、彼である。 国民を愚民視する護憲派のエリート主義を批判し、村本にもかかる愚民観があることを指摘した私を、愚民観に立つ権威主義者としてネット上で批判する村本は、私の発言と反対のデマを流して自己保身を図るデマゴーグである。しかし、残念なのは、ネットで動画投稿されている「元旦朝生」すら見ずに、あるいは見たとしても、議論内容を自分で理解しようとせずに、村本のデマを信じて私に反発するネット追従者たちである。もう村本の漫才をきいても笑えない 彼らは、反発する相手を間違えている。しかし、彼らの倒錯した井上バッシングは、護憲派にとっては、自分たちの欺瞞を暴露する「井上達夫という邪魔な存在」のメッセージに対して国民の耳をふさいでくれる、ありがたい現象だろう。私をネット上でバッシングしている輩の中にはこの種の護憲派もいるかもしれない。村本のネット追従者たちが、国民がエリートに誘導されるのではなく、自分たちで主体的に憲法問題を考え解決する民主的討議実践を促進したいと本当に望んでいるのなら、彼らがたたくべき相手は、私ではなく、護憲派知識人や、村本のような「庶民のふりして庶民を愚民視する政冶漫才師」である。お笑いコンビ、ウーマンラッシュアワー・村本大輔=2014年7月2日、大阪市中央区の吉本興業本社(撮影・山下香) 昨年末の『THE MANZAI』(フジテレビ系)でお笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」の漫才を初めて聴き、「これは面白い、この村本という男、なかなか才能がある」と思ったが、これからは村本の漫才を聴いても笑えなくなるだろう。残念至極である。 村本問題を越えて、9条と安全保障問題に関する私見にも簡単に触れておく。私は右の改憲派と護憲派双方の欺瞞を批判してきたが、護憲を標榜(ひょうぼう)しながら、政治的ご都合主義で憲法9条を歪曲(わいきょく)蹂躙(じゅうりん)してきた護憲派は、立憲主義に対する裏切りという点で、より罪が深いことを指摘してきた。護憲派の学者・政治家たちが、いかなる詭弁で憲法を蹂躙し、国民をだましてきたか、この欺瞞を是正する方途が何かについては、テレビのニュースや討論番組でも、一般国民に訴えてきたが、所詮、これらの媒体では断片的な発言しかできない。私の議論を十分理解してもらうためには、一般市民に向けて書いた前掲の一連の拙著を読んでいただきたい。 国民がエリートにばかにされ、誘導されないためには、テレビやネット上での「識者」や「タレント」の発言に短絡的に反応するのではなく、さまざまな立場の主張内容と論拠を十分理解した上で、批判的に検討し、自分の頭で熟慮する経験を積むことが必要だと私は考えている。 学界や論壇の中で研究活動・言論活動をしてきた私が60歳を過ぎて、一般市民を名宛て人にした上記のような著作を刊行するようになったのは、国民が「統治の客体」ではなく「統治の主体」になるための政治的自己啓発を支援したいという思いからである。政界・官界・司法界のみならず言論界でも日本のエリートたちは欺瞞化し堕落しており、国民自身が統治の責任主体として自己を成熟させない限り、日本はまともな立憲民主主義国家になれないという危機感が根底にある。憲法学者によるクーデターが起こっている 実際、立憲民主主義の擁護を標榜する護憲派の政治家・知識人たちが、国民の憲法改正権力の発動を封印することで民主主義を蹂躙しているだけでなく、憲法9条死文化に加担して立憲主義も蹂躙しているのである。護憲派はいまでは専守防衛・個別的自衛権の枠内では戦力の保有・行使を容認している。しかし、私が原理主義的護憲派と呼ぶ立場は、この枠内なら自衛隊・安保は違憲だけど政治的にOKだから違憲のまま凍結させろと主張する。違憲状態凍結が護憲だなどというのはカフカの不条理小説も顔負けの倒錯である。第3回中央委員会総会後に記者会見する共産党の志位和夫委員長=2017年12月3日午後、東京都渋谷区の党本部(川口良介撮影) この立場に立つ共産党の志位和夫委員長は、自衛隊は違憲だが、日本国民の圧倒的多数が、自衛隊がなくても大丈夫と思う日がくるまでは、これを存続させると公言している。日本人に多少とも現実感覚があるなら、こういう日はこないだろう。来るとは信じ難い日が来るまで自衛隊を存続させるということは、いつまでも存続させるということである。しかも違憲の烙印を押し続けたままで。こんな欺瞞がありえようか。 修正主義的護憲派と私が呼ぶ立場は、専守防衛・個別的自衛権の枠内なら自衛隊・安保は戦力の保有・行使を禁じる憲法9条2項に反しないから合憲だと主張する。世界4位か5位の武装組織である自衛隊が戦力でない、世界最強の戦力である米軍と日米安保の下で共同遂行する防衛行動が交戦権の行使ではないというのはあからさまな解釈改憲である。集団的自衛権行使を容認した安倍政権の解釈改憲を批判する資格は彼らにはない。 最近では、さらに度を越した解釈改憲論も木村草太のような護憲派憲法学者から出ている。それによれば、自衛隊・安保は存在そのものが9条2項違反であるが、国民の生命・自由・幸福追求権の保障をうたった憲法13条が、戦力の保有・行使に対する9条2項の禁止を専守防衛・個別的自衛権の枠内で例外的に解除しているという。戦力という最も危険な国家暴力に対する憲法的禁止の例外的解除を、戦力に一切ふれていない憲法13条に勝手に読み込むのは法解釈の枠を超えた妄説で、国民の憲法改正権力を簒奪(さんだつ)する憲法学者によるクーデターと言ってもよい。 しかも、これは護憲派の自滅を意味する。同じ理屈で安保法制支持者が集団的自衛権解禁を擁護することも可能だというだけではない。専守防衛・個別的自衛権の枠内なら戦力としての自衛隊も、自衛のための戦力行使も合憲であるとするこの13条代用論は、自衛隊に違憲の烙印(らくいん)を押し続けるという原理主義的護憲派の「封印」も、自衛隊は戦力(フルスペックの軍隊)ではないという従来の修正主義的護憲派の「封印」も破るものである。安倍政権も平和ボケしている 本来ならこんな13条代用論には護憲派から激しい批判が出てきて当然だが、新手の論法として黙認ないし是認されている。9条を変えないという結論さえ保持できれば、従来の護憲派が欺瞞的にせよ維持しようとしてきた「封印」ですら破っても、お構いなしなのである。護憲派が実は憲法破壊勢力だということの、これほど歴然とした証拠はない。 問題は護憲派だけではない。北朝鮮の核ミサイル問題がこれほど緊迫しているのに、安倍首相は、9条2項を残したまま3項で自衛隊を認知するという実に中途半端な安倍改憲案を提示した。2項が生きるということは、3項で承認された自衛隊は2項が禁止する戦力ではなく、2項が禁止する交戦権の行使もできないという現在の欺瞞と矛盾がそのまま残されるということである。日本も軍事衝突にいつ巻き込まれるかもしれない状況下で、こんなのんきな改憲案を首相が示唆する安倍政権は、護憲派と同様、平和ボケに陥っている。その根底には、「大丈夫、一朝事があれば、アメリカが日本を守ってくれる」という米国に対する幼児的願望思考がある。自民党新年仕事始めで挨拶する安倍晋三首相=2018年1月5日、東京(斎藤良雄撮影) 護憲派は、いかに死文化されようと9条があれば日本は守られると信じ、安倍政権とその支持者たちは、トランプのような危険で不安定な大統領を抱えていても米国に追従していれば日本は守られると信じている。 私は日本国民に言いたい。左右の政治家・知識人・運動家・ジャーナリスト・タレントたちのこんな嘘に従うのはもうやめよう。9条も米国も、日本と世界の平和を守れない。こんな幻想の保護膜から抜け出て、憲法と安全保障の問題を国民一人一人が自分たちの頭で考え、自分たちの手で立憲民主主義を発展させない限り、日本は自己を守ることも、世界秩序構築において主体的役割を果たすこともできない。国民を愚民視するエリートを信じてはいけない。しかしまた、己の無知に開き直らず、自己を批判し啓発する他者との議論から学び続けよう。そして憲法と現実の矛盾をいかに解決するか、その判断の権限だけでなく責任も国民自身にあることを自覚しよう。(文中敬称略)

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    ウーマン村本「炎上騒動」の内幕

    「尖閣を侵略されたら、白旗を挙げて投降する」。元旦に放送されたテレビ朝日系討論番組『朝まで生テレビ!』に出演したお笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」村本大輔氏の発言が波紋を広げた。トンデモ発言はなぜ飛び出したのか。番組共演者が初めて明かすウーマン村本「炎上騒動」の全内幕!

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    「無知だからテレビに出すな」ウーマン村本批判のこれは間違っている

    よほど関心を持って学問している人を除けば平均的な若者の質問にしばしば見られる現象だ。また、それを公にメディアを通じて質問することは勇気がいるに違いない。 従って、彼の質問に全く不快感をもたなかったし、これにどう答え、どのように考えるべきかを指摘するのは、われわれ専門家の責任であると思い接したつもりだ。その点で井上達夫教授や自分が村本氏に真剣に向き合ったことは、良かったのではないかと思う。特に、井上教授の指摘は適切で大変感心した。 ただ、村本氏はもっと大人だから、さらに勉強しておいてもよいと思うが、大学生でも入学当初の素養はある程度のことが多いと思うし、「あんな無知な質問をする人をテレビに出すな」という考えは全く間違っている。年齢に関係なく、どれほどの日本人が正しい知識を持っているかを考えたとき、多くはメディアの影響を受けたり、雑誌の知識だったり、他人からの耳学問だったりして本当のことをわかっていないことが多い。村本氏への注文 試しに高等学校教科書「日本史」や「政治」「安全保障」「憲法」に関する本を買って読んでみるがよい。どれくらい、そこに載っていることをわれわれ日本人が知っているのか。それを知らずして外国人の振る舞いを指摘したり、外国人に日本のことを説明したりすることの方が恐ろしい。 もし、村本氏に注文があるとすれば、少なくともメディアで活動している人なのだから、「朝生」がどんな番組であるかを知り、番組テーマについて少しは事前に勉強してくる姿勢は必要だろう。自分の意見が訂正されたら、どこがおかしいのかについて考えてから発言するくらいに配慮も必要だ。反省の余地は十分にあると思うが、自分の意見を堂々と主張して専門家に挑戦してくる姿勢は大いに評価できる。 この問題の本質は、われわれが、日本の「近現代史」や「政治」「安全保障」について正しく理解せずに物事を論じたり判断したりしていることにある。だから、学校教育に頼らず、社会教育をもっと盛んにして自分で勉強することが必要だ。 歴史や物事を知らないからテレビに出すな、時間の無駄だというのは暴言である。言論の自由を封じてはならない。特に、「朝生」にタブーはなく、本質的に取り組んできたところに特色がある。米映画「ドローン・オブ・ウォー」のトークショーを行った田原総一朗氏(左)と 森本敏氏 現世の人は日本の伝統文化、歴史、風習を正しく後世に引き継ぐことが必要であり、そのためには、日本人がアジアで何をしたかを知り、知ったうえで日本が果たすべき役割を考えつつ、過去の過ちを犯さないようアジアの人々に率直に向かい合う勇気も必要だ。 すべての人にとってバランスのとれたイデオロギー、思想信条、博愛主義、おもてなしの心を持つことが重要で、それが、日本人の良さにつながっていく。平和で安定した国家社会をつくるため努力することは現世に生きる人間の責任であると自覚すること、それに尽きるのではないかと思う。 若い人はもっと学んでほしい。その上で勇気をもって発言してほしい。人間は、社会のどんな地位に就き、豊かになるのではなく、いかに正しく人生を全うするのかを死の寸前まで考え、悩み、生きていくべきものである。

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    村本大輔さんへ「むやみに白旗を挙げてはいけません」

    の家の前の道路を勝手に封鎖してそこを通ろうとする人々から通行料を取ろうとした住人がいましたね。日本のメディアでも大きくとりあげましたが、その住人は、通行料を払おうとしない人に暴力まで振るいました。 平和に慣れている日本人の多くは、この場合その家の前を避けて通りますね。そうすれば平和は保てますから。しかし、その住人の隣の家の人はどうでしょう。生活しにくいはずです。もしも隣の住人が、自分の家の道路まで占領しようとしたらどうすればよろしいでしょうか。日本は法治国家ですから、警察に助けを求めたり、法に訴えたりすることはできます。 また、こんな場合はどうでしょう。村本さんがとても高価な腕時計をはめて街に出たところ強盗が時計を出せと威嚇(いかく)したとしましょう。こういうときも警察がいたら守ってくれるでしょう。 しかし、国際社会には、大ざっぱに言えば「警察」のない世界です。国際社会はルールがあるようでない世界。国際連合という機関が一応ありますが、まとまりもよくない上、自分独自の警察や軍隊をもたない。最近では、多国籍軍(いろんな国から寄せ集めた軍部隊からなる)からなる「国連軍」を組織して紛争に介入することはありますが、すべてをカバーできるわけでもなく、力もありません。スイスが武装している意味 もちろん、国際社会にも一応法律(各種国際条約など)というものはあります。海に関する取り決めといえば、基線(海岸線)から12海里(約22・2キロ)までは、誰も勝手に侵犯してはならない国の権利(主権)の及ぶ水域(領海)であると決めたりします。 しかし、このような法律をすべての国が守っているわけでもなく、ルールを破ったとしてそれを制止できる「力のある」機関がないですね。アメリカが「国際警察」のようにふるまうこともありますが、限界があります。 記憶に新しいと思いますが、2014年、ロシア軍はウクライナ南部のクリミア自治共和国を侵攻しました。しかし、国際社会は「制裁」を科すだけで何もできなかった。制裁に加わったのも一部の国です。 平和な世界は誰もが否定しないと思います。ただ、争いが嫌だから沖縄を隣の国にあげたとしましょう。そうすると、沖縄の領海に日本の船は勝手に入れません。それも平和のために避けて通るとしましょう。今度は、領海近くを通る日本の船に通行料を要求したらどうしましょうか。 それも紛争がいやだから「通行料」を払うとしましよう。今度は、通行止めにしたらどうするのか。命にかかわる食糧を運搬する船が足止めになったとしたらどうするのか。選択肢は二つしかないですね。奴隷になるか、飢えて死ぬかです。残念ながら、いまだに国際社会、国際政治では「力」がものをいう世界です。力があるからとしてルールや秩序を変えようとする国もいます。朝鮮半島問題を考える講演会で、基調講演する李相哲・龍谷大教授=2017年8月、大阪市北区(前川純一郎撮影) ですから、日本は軍隊を持たなくても、最低限、自分を守るための自衛隊を持つことにしました。しかし、自衛隊では日本の島々や我々の生活基盤を守れないことも考えられます。 そこで、互いに利益を共有できる相手、例えばアメリカのような国と同盟を組みました。このように「力」を備えておかないと、遠くにある島を取られるだけでなく、自分の暮らしを守れない可能性もあります。我々の日常生活に必要なエネルギーの供給路が絶たれてしまうことも考えられます。 つまり、現実世界、特に国際社会の現実というのは、綺麗事だけでは通用しないと思います。元旦の『朝生』では、「非武装中立論」についても語られましたが、非武装では中立は守れません。スイスという国が永世中立国としていられるのは世界でもっとも勇敢な民族であり(勇敢な民族としての伝統をもつ)全国民が自分を守ることのできる「武装」をしており、平和のためなら決然戦う意思を持っているからです。 村本さん、私の主張に納得いかない部分があったら忌憚(きたん)なく、ご指摘ください。

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    『朝まで生テレビ!』30年、若手論客が非常に頼もしい

    田原総一朗(政治評論家) 1987年にスタートした「朝まで生テレビ!」が、今年、30周年を迎えた。番組を始めた当時、冷戦の時代が終わるという気配がすでにあった。実際、2年後の89年、ベルリンの壁が崩壊、91年にはソ連が消滅している。 そのころ、僕は、左の人も右の人も同じテーブルで一緒に長時間、本気の討論をする番組をやったら、おもしろいんじゃないかと考えていた。「無制限一本勝負」の討論である。おまけに深夜番組は予算が少なく、出演者が始発で帰れるのも都合がいい。こうして「朝生」が誕生した。ジャーナリストの田原総一朗氏 「朝生」は、さまざまなテーマを扱ってきた。タブーはない。原発、部落、右翼、天皇論……。今はずいぶん語られるようになってきたが、以前はテレビで口にすることすらできないテーマばかりだった。 いちばん印象に残っているのは、88年9月の「朝生」だ。その頃、昭和天皇が体調を崩されいたため、日本中が「自粛ムード」におおわれていた。こんなときだからこそ、僕は「天皇論」をテーマに討論をしようと考えた。 当時のテレビ朝日の編成局長は小田久栄門さんだった。小田さんは番組のよき理解者だったが、その小田さんでも、「天皇論」をやることには猛反対した。僕は3回交渉して、3回とも断られた。 では「オリンピックと日本人」ならどうだと、僕は提案をした。ちょうど同じ月にソウルオリンピックが始まるからだ。小田さんは「いい企画だ」と応じてくれた。しかし、もちろん僕は最初から、そんなテーマをやるつもりはなかった。若手論客が頼もしい 「朝まで生テレビ!」は生放送だ。僕が「始まるのは夜中の1時過ぎですし、小田さんは寝ていますよね」と言うと、小田さんが「俺をだますのか」となった。そういう話し合いを4回やった。そして最後は、小田さんもだまされることを承知でOKしてくれた。 番組が人気を呼んだのは、大島渚さん、野坂昭如さんら、「無制限一本勝負」を、僕と一緒に本気で闘ってくれる出演者がいたからだろう。 そのひとりが、渡部昇一さんだ。70~80年代というのは、左翼、リベラルの論客全盛の時代だった。そんな時代に、渡部さんは保守であることを堂々と名乗って、番組にも何度も出演しくれた。彼の存在には畏敬の念を持っていた。 4月17日、渡部さんの訃報が飛び込んできた。渡部さんが亡くなられて非常に寂しい。ひとつの時代が終わったと僕は感じる。 しかし、時代は変わるものである。朝生30周年パーティーには、三浦瑠麗さん、駒崎弘樹さん、津田大介さん、荻上チキさん、古市憲寿さん…。若い論客たちがたくさん集まってくれた。彼らにはリベラル、保守、右、左であるといった色分けが、いい意味であまりない気がする。番組開始当初とは大違いだ。 考え方が柔軟だし、やるべきことをやろうという意欲も強い。彼ら若手の論客をたいへん頼もしく感じる。大島さん、野坂さん、渡部さんらは、旅立ってしまった。けれど、新しい論客たちとともに、これからも「朝生」をどんどんおもしろくしていきたいと思う。(2017年4月28日「田原総一朗公式サイト」より転載)

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    高須院長 ウーマン村本に「自分のツイッター見てるようだ」

    の高須克弥院長が世の中の様々な話題に提言するシリーズ企画「かっちゃんに訊け!!」。今回、2017年のメディア出演やネットで話題のウーマンラッシュアワーの漫才などについてお話をうかがいました。* * *──さて、2017年もそろそろ終わりますが、今年はどんな1年でしたか?高須:今年も快調な1年だったね。メディアに出ることがちょっと多くなったかな。ツイッターでワーワー喚いているもんだから、面白がる人が増えたのかも(笑い)。高須クリニックの高須克弥院長(納冨康撮影)──フジテレビ系『ワイドナショー』にも出演されていましたし、読売テレビの『そこまで言って委員会NP』にもたくさん出ていらっしゃいますね。高須:普通のテレビ番組には「この話題はやめてくれ」とか、「あの人の話はしないでくれ」とか、そういうタブーもあるようだけど、僕の場合は完全に好きなことを話しちゃってる。自分でも「こんなツイ廃老人を公共の電波に乗せて大丈夫なのか?」って思うくらいだもんな(笑い)。でも、変な規制をすることなく、自由にやらせてくれるのは、すごいよ。僕が出ている番組の制作サイドは、本当に筋が通っているな。まあ僕なんかを面白がるっていうのは、ネジが外れちゃってるのかもしれないけどね(笑い)。──テレビのタブーというと、最近はフジテレビ系『THE MANZAI』(12月17日放送)でウーマンラッシュアワーが披露した漫才がネットでも話題になっていました。ボケの村本大輔が、原発や安倍政権、小池百合子都知事、沖縄問題、北朝鮮問題などをイジる内容でした。高須:あれは僕も見たけど、面白かったね。そんなに難しいことを言っているわけではないけど、世の中のいろんな問題について気になったことを素直に言っているという感じなのかな。お笑い番組だと、言いたくても言えないこともあるんだろうけど、あの漫才ではそんなことを気にせずに、自由に自分の考えを発信していてよかったなあ。なんだか自分のツイッターを見ているみたいだったね(笑い)。自分が正しいと思うことを、好きなように話しているのはやっぱり面白い。──あの漫才は現在の政治に対する批判が含まれていると思うのですが、安倍政権を支持する立場の高須院長とは考えの相違もあると思います。彼が言っていたことは間違ってはいない高須:そうだね。でも、彼が言っていたことは間違ってはいないと思う。すごくフラットな意見だったと感じたよ。イデオロギーありきのものではなかったんじゃないかな。 僕はイデオロギーで戦いたいわけではないんだよ。政権を批判することが目的となっている意見に面白みは感じないけど、素直な意見であれば面白いと思う。彼が正しいと思ったことをそのまま発信することは、とても素晴らしいことだ。決して、安倍政権を倒したいという目的ありきで、発言したものではない。だからこそ、耳を傾けなければいけない意見なんだろうね。 僕だって、安倍政権の政策のすべてを支持するわけではないからね。おかしいと思ったら、素直にそう言う。自分のポジションを決めて、それに従ってものを言ってるわけではないからね。──院長は最近だと医療報酬の引き下げに対してツイッターで異論を唱えていましたね。高須:そう。高齢化で社会保障費が増え続けているのはわかるけど、2年連続で診療報酬が引き下げられるというじゃないか。主に医薬品などの「薬価」部分の引き下げで、人件費は引き上げられるみたいだけど、現状を見ている限りだと、近いうちに人件費の引き下げもありえそう。仮に人件費が微増しても、結局医療にかけられるお金は減るんだから、由々しき問題だよ。この傾向が続いたら、医者がボランティアになる時代がきてしまうかもしれない。そうなったら、日本人の健康は根底から崩れていくだろうね。 そもそも診療報酬を引き下げるということ自体が間違っている。ほかの予算を削ってでも、診療報酬はしっかり確保しなくてはいけないはず。医者の報酬を下げる前に、削るべきものはいくらでもあるよ。それこそ、役人と政治家の報酬を引き下げるべきだと思うね。そうだよ、役人と政治家の金を回して国民の健康を維持するべきだよ。 僕は前から言っているんだけど、もう参議院は廃止して貴族院を復活させたほうがいいと思うね。もちろん、貴族院の議員はボランティア。報酬が目的ではない人々だからこそ、私利私欲に溺れることのない正しい政策を作り出せる。何が目的で議員になったかわからない人々よりも、金持ち老人のほうが正しいはずだからね(笑い)。* * * ポジショントークではなく、自分の信念に従って“正しい意見”を発信する高須院長。もし貴族院ができたのであれば、ぜひとも議員になっていただきたいものです!【プロフィール】高須克弥(たかすかつや):1945年愛知県生まれ。医学博士。昭和大学医学部卒業、同大学院医学研究科博士課程修了。大学院在学中から海外へ(イタリアやドイツ)研修に行き、最新の美容外科技術を学ぶ。脂肪吸引手術をはじめ、世界の最新美容外科技術を日本に数多く紹介。昭和大学医学部形成外科学客員教授。医療法人社団福祉会高須病院理事長。高須クリニック院長。人脈は芸能界、財界、政界と多岐にわたり幅広い。金色有功章、紺綬褒章を受章。『ブスの壁』(新潮社、西原理恵子との共著)、『その健康法では「早死に」する!』(扶桑社)、『筋と義理を通せば人生はうまくいく』(宝島社)、『行ったり来たり 僕の札束』(小学館)など。最新刊は『ダーリンは71歳・高須帝国より愛をこめて』(小学館)。

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    拡散は「誰が言ったか」、炎上は「何を言ったか」である

    網尾歩 (ライター)  筒井康隆氏にツイッターを勧めたのは誰なのだろう。こうなることはわかっていたはずだ。 今に始まったことではないかもしれないが、ネット上ではしばしば、「何を言ったかではなく、誰が言ったか」と言われることがある。 例をいくつか挙げよう。たとえば人気のあるアイドルやタレントが一言「お腹空いた」とつぶやいただけで、そのツイートが何千、何万とリツイートされることがある。テレビによく出るメジャーなタレントであればまだわかる。(iStock) ツイッター上には人気のある一般人も多くいる。そのツイートのセンスから何万人もフォロワーのいる匿名の発信者がたまに存在する。一回「この人はセンスがある」と思われることに成功すると、あるフェーズからは何でもかんでもやたらリツイートされ始める。「春はウキウキするけどこの季節に頑張りすぎると疲れちゃう人もいるからほどほどにした方がいいって電車で隣に座った小学生が言ってた」「こんなに天気がいいのに彼が会社のお花見に行くって言うからスネてたんだけど必死で謝ってる顔がかわいくてすぐ許した……って夢を見た」「すぐおいしい、すごくおいしいってコピー、よく考えると深い」などといった他愛もないツイートが何千、何万とリツイートされているのを見かけたことはないだろうか。※例に挙げたのは架空のツイート。 リツイート回数が半端ないから面白いツイートなのだ。そう思ってリツイートする人もいるのだろうし、同じようにフォロワー数が多い人だから面白いと思ってフォローする人もいるだろう。だからリツイート数やフォロワー数というのは、いったん増え始めると加速度的に増える。 ブロガーや一部のライター、もしくはIT企業の若手たちの飲み会ではしばしば、「まず何者かにならなければ」「自分が何者かを世に認識してもらわなければ」という焦りの声が聞かれることもある。確かに一面で見れば、「何を言ったかではなく、誰が言ったか」の世界がそこにはある。 筆者もこれまで、基本的にネット上は「何を言ったかではなく、誰が言ったか」の世界だと思っていた。インターネットやSNSは新しいもののように思われているが、実は結局、構造としては旧来通りなのではないかと。書き手の時代ではなく、受け取り手の時代 しかし、今回の筒井康隆氏の炎上を見て、違う感想を持った。 筒井氏は4月5日にツイッター上でこうつぶやいた。「長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」。これは、筒井氏のブログ「偽文士日碌」の一文だ。筒井氏は炎上後にツイートは削除したが、ブログの記述は残ったままだ。作家の筒井康隆氏 韓国では出版社が筒井氏の著作について販売中止を決定するなど影響が出ているが、本人は朝日新聞の取材に対し、「あんなものは昔から書いています。ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう。本当はちょっと『炎上』狙いというところもあったんです」「ぼくは戦争前から生きている人間だから、韓国の人たちをどれだけ日本人がひどいめに遭わせたかよく知っています。韓国の人たちにどうこういう気持ちは何もない」と語ったという。 ツイッター上では筒井氏のファンと思われる複数のユーザーが、「これで騒いでいるのは筒井康隆を読んだことのない人たち」といったつぶやきをしていた。筒井氏の「ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう」という発言と同様の内容だが、これは反論する方にしてみれば、過去にどんな作品を作っていようが「ダメなものはダメ」「面白くないものは面白くない」だろう。批判者の全てが筒井氏の作品を読んでないという決めつけも乱暴な言い方。 また、筒井氏の読みが甘いのではないかと感じる部分がある。奢りと言ってもいいかもしれない。 前述した通り、ツイッター上の好意的な拡散に関しては「何を言ったかではなく、誰が言ったか」なのだが、反対にツイッター上の炎上に関しては「誰が言ったかではなく、何を言ったか」である。いくら筒井氏が過去にブラックユーモアにあふれた不謹慎な作品、もしくは反権威的な作品を書いていたところで関係ない。言い換えれば、発信者が「何を伝えたかったか」よりも、受け取り手が「どう受け取ったか」が重要である。このことが良いか悪いかはさておき、今現在、ツイッター上にこの空気があることは確かだ。 今や受け取り手の方が強いのだ。一昔前のように、作家の権威が通用しづらい。(そもそも今の10代は、ユーチューバーよりも作家に権威がある時代があったことを知っている人の方が少ないかもしれない)。余談ではあるが、だから多くの作家はツイッターをやらないし、やっても知名度に比べフォロワー数が多くないのではないかと感じている。 ちなみに、「誰が言ったかではなく、何を言ったか」でツイートが拡散される場面は他にもう一つある。デマツイートである。震災時などのデマは、発信者が誰だかわからなくても、大量に拡散されてしまうことがある。たいがいの場合、デマを指摘するツイートよりも、デマの方が多数拡散されてしまう。 「誰が言ったか」にしろ、「何を言ったか」にしろ、それだけ判断される風潮を嘆くのは容易い。「誰が何を言ったか」で判断される時代ではないことを知り、有象無象からどう叩かれても書くモチベーションを持つものだけが生き残れる時代だと感じる。モチベーションと言えば聞こえはいいが、図太さと鈍感さがあればそこそこ生き残れるのだとしたら、これほど悲しいことはない。

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    全国の社会部記者に教えたい「サボりのススメ」

    暇を取って旅行に行くことだった。2日、3日休みを取ることすらはばかられる「空気」があった日本のマス・メディアでは、考えられないことのように思えた。 二つ目は、社会部警視庁担当になってからの「365日夜回り美徳」の「空気」だ。「あいつ、盆も正月も(刑事の家)回ってるんですよ」が褒め言葉になり、キャップやサブ・キャップの覚えがめでたくなる。ところが、大きな事件が起きた。 これが三つ目になるのだが、金沢局から転勤してきたばかりの司法キャップが、過労で倒れ、そのまま亡くなってしまったのだ。ロッキード事件の一審判決を控え、取材やテレビ中継の準備、打ち合わせが連日行われ、その都度反省会と称する酒席が続いていたと聞いた。実は亡くなった当日の未明に、つまり元気な姿で彼を野川に近いNHK寮に送り届けたのが私だった。午前2時過ぎに警視庁からハイヤーに乗り込んだ直後にはもう爆睡していて、到着してもなかなか起きてくれなかった。異動疲れなんだろうなとその時思った。(iStock) 当時のNHKの異動は、年1回の大イベントで、連日名目を変えて、あるいはグループ別に送別会が行われ、しかも局外からもお呼びがかかる。上京してきたら、今度は待ってましたとばかり連夜の歓迎会で、身体的に過労のピークに達している。これが毎年繰り返されてきた。この事件を切っ掛けに、NHKでは異動時期の歓送迎会の自粛が言い渡され、実際に「今回は止めておこう」という「空気」が各局、各部署に流れ実行された。 私は、埼玉県新座市の寮に住んでいたが、夜回り報告で警視庁や渋谷の社会部に上がると毎晩午前1時を回っていた。その頃の社会部は、新聞社の締め切りの午前1時半が過ぎると泊まりのデスクや記者たち、夜回りから上がってきた記者たちが車座になって宴会が始まる。各自で出し合った金で一番下っ端が、局近くの酒屋に買い出しに出て、酒とつまみを買ってくる。酒を飲みながら先輩たちの活躍した取材話に耳を傾けるのはワクワクして愉しいものだった。これは自分を鼓舞する上でも、大いに役立った。だがこんなことを続けていては、あの司法キャップの二の舞になるとひそかに危惧した私は、究極の「事故管理」に乗り出すことにした。「記者の評価は特ダネ」 というのも、先の三つの教訓を精査してみた結果、「記者の評価は特ダネであり、取材の過程ではない」と考えるようになった。そこで誰にも知られず、休息の場を確保することにした。まず取材拠点の霞ヶ関、渋谷の放送センターにも近い場所に「アジト」を構築することにしたのだ。そこでいくつかの不動産屋を周り、一番安い物件を恵比寿の駒沢通りに近い東京恩寵教会付近に見つけた。 当時2万5千円の4畳半一間、ガス台一つ分の台所、バスなし(すぐ側に銭湯があった)、トイレ共同、戦後すぐに建てられたようなバラックのアパートだった。そこは隣の酒屋さんの所有で、表通りからは、酒の箱を山積みしていたり、ビールやカップ酒、ジュースの自動販売機がずらりと並んでいたりして、全く奥が見えない、まさに「アジト」だった。中古のエアコンを買うと夏でも熟睡できるようになった。ここでの暮らしが、その後思いがけない副産物を生むことになるのだが、とにかく「疲れたら眠る」を徹底した。2017年12月、リニア中央新幹線建設工事の入札不正事件で鹿島建設の家宅捜索に入る東京地検特捜部の係官ら(桐山弘太撮影) 3年目になると東京地検特捜部の担当になり、検事の官舎が恵比寿南の、それもアジトから2分の所にあり、副部長の石川達紘さんたちから、「小俣君は夜回りで午前1時過ぎまで張っていて、朝は7時前には自宅前に来ているけど、(健康の方は)大丈夫かね」と心配されたほどだ。地下鉄で霞ヶ関まで11分。まさに天国だった。 アジトは紆余(うよ)曲折があって、その後同じ恵比寿南のマンション、ジョギングができる駒澤大学近く、宮益坂裏の渋谷2丁目、目黒三田、西麻布と変遷を遂げた。とにかく他人の目は、気にしない。他人が責任を取ってくれるわけではないのだから。 夏休みはボブ・ウッドワードの(仕事はとにかく、休暇の取り方)を真似をして、車で北海道一周の旅をしたり、四万十川に遊んだり、京都大原や長野の木崎湖で過ごしてきた。潜水艦「なだしお」の海難事故の時は長野の大町温泉郷にいて、いまさら帰ってもスタートで遅れているんだからタイミングを見て…とばかり洞ヶ峠を決め込んだ。よく寝る記者は良い記者だ 後輩の中には、私が脱帽する優秀な記者がいて、いまはNHK編成の最高幹部になっているが、彼は強制捜査の最中でも、検察幹部に電話をかけて「今どこをガサ(家宅捜索)してるんですか」「逮捕容疑は、①特背(特別背任)? ②背任? ③別の容疑ですか」と平然と聞き、また「①に決まってる!」との回答をつかんでいた。一事が万事そうだったわけではないが、記者クラブで見ている限り、「大胆な奴っちゃなぁ」と私を震撼(しんかん)させた。つまり『パブロフの犬』のように電話をかければ、相手が応じてしまう習慣をつけさせることを後輩の彼から学んだ。 以後私も、取材先には「他社に夜回りしているところを見られるとまずいので、これからは電話にさせてください」と懇願した。顔が見えない分、声の抑揚で緊迫度をつかむ方法を体得した。その分移動せずに、取材先が帰ってきた頃を見計らって夜や朝に電話した。NHKの上田良一会長(宮川浩和撮影) 管理職になると、後輩たちに「サボる」ことを推奨した。渋谷の放送センター地下にある社会部の機材置き場にベッドを持ち込み、昼間でも寝に行った。後輩たちは、私の姿が見えないと「地下部屋だろう」と電話をしてきたし、彼らにベッドを取られると折り畳み式のビニールチェアを買ってきてそれでよく寝た。「よく寝る記者は、良い記者だ」という風潮を作りたかったからだ。 これを許してくれたのが、司法キャップであり、社会部長であり、編集主幹であり、報道局長だった井手上伸一さんだった。だから風邪をひいている記者が、取材に行けないように、配車係に電話して、ハイヤーのストップをお願いしたり、「風邪で来るヤツは(他人に風邪をうつすから)傷害致死だ!」と怒鳴ったりして、局やクラブに来づらくしたものだ。 さて長々とサボってばかりの生活を強調してしまったようだが、「サボる」ためには、批判されないように、仕事をするときは真剣、効率を考えて、工夫しながらよくやった。つまりやるべき時は集中してやる。ダラダラ続けない。「見切り千両」が口癖でもあった。手を抜くときは徹底してサボる、つまり「腹をくくる」ことだ。 結論は、仕事に緩急をつける。キャップやデスク、管理職は率先して「サボり方」を指南する。私のモットー<がんばりすぎない。ちょっとがんばる>ことが、記者生活を健康で、有意義なものにするはずだ。

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    31歳で過労死、佐戸未和さんの命を奪ったNHKに未来はあるか

    墜落事故 実は、私が運営しているNPO法人8bitNewsでは毎年大学生のインターンたちが就職でマスメディアに記者やディレクター、カメラマンなどとして就職していきます。今回の件もありNHKの地域局に配属されたインターンのことが心配になり先日メールでやり取りをしました。「大丈夫かい? 働きすぎていないかな? 身体あっての取材だから」と質問を送ると、元気な様子でこう返ってきました。「ありがたいことに、とても勤務時間など配慮してもらえているので、のびのび健康に仕事をしています」 本当に大切にしてほしいです。やる気に満ちた、思いのある職員たちがしっかり報道人としての使命を果たし続けることができる職場であってほしいと強く願います。 先日、亡くなった未和さんを学生時代から知る方にお話を伺いました。 未和さんは一橋大学に通っていた学生時代に、学生ラジオ局「BSアカデミア」のニュース班に所属していました。TBSキャスターとして活躍してきた下村健一さんなどが指導にあたったといいます。当時は大学4年生。下村さんはこう振り返っています。毎回僕のダメ出しを受けては悔しがり、うまくいくと満面の笑みを浮かべていた佐戸“みわっち”。念願叶ってNHK記者になってからも、取材相手からの信頼はとても厚かった。 出典:下村健一さんtwitterより 下村さんは2017年7月、メディアリテラシーを伝えるため絵本を出版しました。挿絵には現場から子どもたちにニュースを伝える女性が描かれています。笑顔でマイクを握るこの女性こそ佐戸未和さんです。「みわっちの報道に対する真摯な姿勢を次の世代に伝えたい」。下村さんの絵本には若くして命を落とした彼女への強い思いが込められています。米軍ヘリコプターが墜落した沖縄国際大学で消火作業する消防士ら=2004年8月、沖縄県宜野湾市 そうした中、この10月、沖縄県東村高江集落で米軍の大型輸送ヘリコプターCH53が炎上する事故が発生しました。実は未和さんは2004年8月に沖縄県の沖縄国際大学に墜落した米軍ヘリの事故について現場で取材しリポートを製作しています。「彼女が生きていたら、今回の事故をどのような目線で取材し発信していたのだろうか。きっと伝えたいことがたくさんあったに違いない」下村さんはかつて指導した元学生たちと共に当時のリポートを再び社会に発信することを決めました。BSアカデミアが解散されてからはお蔵入りになっていた貴重な映像です。 下村さんは、私が仲間と運営するニュースメディア「GARDEN」に当時の動画とそれに合わせた記事を寄稿してくれました。こちらに転載します。ぜひ見てみてください。未和さんが丁寧な取材で沖縄の米軍基地の問題を多角的な目線で発信しています。彼女の想いを再び今に。多くの人々に届くことを願っています。

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    記者はなぜ働きすぎるのか

    記者の現場にも「働き方改革」が押し寄せている。NHK女性記者の過労死は痛ましいが、世の中で起きる事象やネタは待ってくれない。そもそも相手があってこその取材記者。ライバル社を出し抜こうと思えば時間など気にしていられないのも事実である。はたして記者の働き方に正解はあるのか。

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    ネタのためなら24時間、取材記者に「働き方」はナンセンス

    なことだ。 過労死があっていいはずがなく、電通女子社員、NHK女性記者と相次ぐ若い世代の過労死には、メディアを仕事の場とする一人として言葉もない。 かつて高度経済成長時代、ビジネスを戦場に見立て、サラリーマンは「企業戦士」と呼ばれた。身体を壊す者、精神を病む者と〝戦場〟は死屍累々と化した。安倍晋三総理は「モーレツ社員という考え方自体が否定される日本にしていきたい」と発言しているが、これも大いに結構なことだ。 だが、「長時間労働=悪」という一律的、短絡的な考え方に、私は反対である。過労死したNHK女性記者は大変お気の毒だが、ことにジャーナリズムにおいて労働時間を長短で線引きすることは不可能だ。取材対象に〝夜討ち〟をかける途中で、「あっ、時間だ」と、Uターンしていたのでは仕事にはならない。 人に会って話を聞くというのがジャーナリストの基本的な仕事である以上、必然的に「相手の都合」に合わせなければならないし、取材を避けている渦中の人物を直撃するには、深夜早朝の張り込みは必須である。〝夜討ち朝駆け〟は取材の基本であり、「労働時間」に縛られていたのでは仕事にならないのだ。事情聴取を終えた日馬富士の車に殺到する報道陣=2017年11月、両国国技館 (大橋純人撮影) 40余年前、私が新卒で、のちに休刊したナイガイスポーツ新聞社に就職したとき、編集局長からこう言われた。 「記者とスポーツ選手は、親の死に目にあえないと思え」。記事は取材した当人しか書けないものであり、試合は当該選手しか出場できないということから、記者としての責任と自覚を持って仕事をせよ―という檄(げき)である。 若かった私は、そんなものかと聞き流したが、同社を半年で退社し、週刊ポストで10余年を専属記者として過ごしてフリーになってからのこと。「母危篤(きとく)」の知らせを受けるのだが、翌日、締め切りの原稿があり、郷里の広島へすぐに帰ることができなかった。 現在なら、新幹線の中で書いてメールで送ればすむが、当時はそんな時代ではない。徹夜で仕上げ、原稿を渡して新幹線に飛び乗ったが、数時間の差で死に目にはあえなかった。このとき「記者とスポーツ選手は、親の死に目にあえないと思え」という局長の言葉が脳裡(のうり)をよぎったことを覚えている。 ジャーナリズムとは、そういう職種であり、この考え方は40余年がたった今も変わらない。 思い返せば週刊ポスト記者時代は、それこそ24時間が仕事だった。張り込みは日常の取材活動で、芸能関係者はもとより政治家、スポーツ選手、評論家…、事件の渦中にある人たちを追いかけ、張り込み、取材を試みる。時間になったからそこで打ち切るようでは仕事にならない。もちろん締め切り時間のデッドラインまでトライする。労働時間は「自己裁量」 コメントを取るため、寝台列車に飛び乗って取材もする。 内部告発者を説得するため、未明から自宅近くに待機しておいて、早朝散歩のタイミングを狙って同行し、これを何日も繰り返す。反社会勢力の人間を取材するときは酒がつきもので、朝まで付き合って人間関係を構築する。 「あっ、時間だ」と言って席を立てば、相手は青筋を立てて怒り、取材にはならない。 1行のコメント、核心をつくコメントを取るために24時間を費やすのが記者の仕事であると同時に、手抜きして「無理でした」「不在でした」「取材拒否です」と言えば、それでも通る。 労働時間は「自己の裁量」に委ねられるのがジャーナリストという仕事であり、私は自己の経験から、一律に労働時間に上限を設けることに反対する。※iStock かの自民党筆頭副幹事長、小泉進次郎氏が4年前、こんな発言をしている。 東大の学園祭である五月祭で、投資家の瀧本哲史氏との対談イベントのあと、聴衆から「政治家を目指しているが、大切なモノは何か」と問われたときのこと。「体力が一番必要です」と笑顔で応じてから、こう答えている。 「『ウチの会社は週1日しか休みがないブラック企業だ』なんて話を聞きますが、政治家はもっとブラック(笑)。休みなんてない。なおかつ、衆議院には解散総選挙という抜き打ちテストもある。ある意味で非正規職の立場です。そういうリスクを納得して、政治の世界に入らないといけない。僕も政治家の家系だから想定しうる部分はありましたが、入ってみて、予想以上の大変さに日々襲われています。でも結局、自分で決めたことなんだから」(「週刊現代」2014・6・7号) 政治家をジャーナリストに置き換えれば、労働時間の長短で計れない職業であることがおわかりいただけるだろう。  現代社会は多様化の時代だ。性的マイノリティーの存在を認め、「みんなちがって、みんないい」という金子みすずの詩を引きながらも、「働き方改革」となると、「みんな同じで、みんないい」という大合唱になる。 多様性が叫ばれる一方、なぜ「労働時間」だけが一律に長短で論議されるのか。なぜ「みんなちがって、みんないい」という発想をしないのか。0か1かというデジタル時代が、物事の価値観を画一化しているように私には思えてならないのだ。

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    「日本の借金1108兆円」NHKの歪んだ報道が国民をさらに惑わす

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) たまたまNHKを見ていて非常に懸念を抱いたニュースがあった。「来年度予算案 1100兆円の借金 財政の先行き一段と不透明に」という記事で、インターネットでも読める。 簡単に要旨を書くと、政府予算案の規模が大きく、歳出が増加する一方で歳入では国債の発行額が3分の1を占めるのが問題と指摘する。そして、来年度末には国と地方を合わせた「借金」が1108兆円に上り、「先進国中最悪」になることに警鐘を鳴らすものである。報道は、このような財政状況が若い世代に将来不安をもたらしていると結んでいる。筆者から見れば、このようなNHKの報道こそが、財政状況へのゆがんだ認識を広めることで、若い世代に不安を与えていると思う。東京都渋谷区のNHK放送センター まず、どこがゆがんでいるのだろうか。それは政府の「1108兆円の借金」という見方である。単純に、日本の財政は借金=負債だけが存在するのではなく、資産も存在している。政府の持つ資産と負債を比較して、その上で事実上の「借金」を特定すべきである。負債の方が資産を上回っていれば、それを「純債務」と名付けよう。ただし、この純債務の大小だけがわかっても財政状況はまだ判断できない。だが、ここまでの議論を「政府のバランスシート問題」と名付けておく。 たとえ借金の方が資産よりも多くても、将来それが返済可能であれば問題はない。つまり返済できる金額と返済しなければいけない金額を比較して、それがほどほどのバランスであればまず問題はない。以下ではこの点を「政府のバランスシート問題」の観点から検討する。 政府の資産と負債を比較できるバランスシートを見る重要性は繰り返し指摘されてきている。今回のNHKニュースに代表されるような「政府の借金(負債)」の大きさだけに注目するのは全く妥当ではない。これでは国民が財政再建、増税路線、緊縮政策といった特定の政策に誘導されてしまうだろう。実際NHKニュースでも、いまのところ再来年に実施される消費増税が、教育無償化などに使われることよりも、むしろ国債償還という「借金」返済に使われるべきだとの趣旨として読むことができる。だが、そのような誘導はもちろん真実への誘導ではない。誤解への誘導である。「政府+日銀」の保有を無視するのか 政府のバランスシートの最新版は以下の通りである。 これを見ると平成27年度末で、政府の純債務はマイナス520兆円である。前年度よりも30兆円近く増えているし、ここ数年でもその傾向はある。だが他方で、この純債務と日本の名目国内総生産(GDP)を比較すると、名目GDPが同年度で531兆円なので約98%である。 さらに政府の概念をより広げてみよう。特に日本銀行との関係が重要である。数年前に日本経済新聞の紙上で、コロンビア大学のデイビット・ワインスタイン教授は、日銀の金融緩和政策を好意的に評価したうえで、日銀はその保有する国債を永久に所持できる(実際には償還期限がきたものから日銀のバランスシートから剥落)と指摘している。この考え方を採用すると、広義の政府、つまり統合政府は「政府+日銀」となる。両者のバランスシートのうち国債保有の関係だけをみると、日銀は現状で国債を438兆円保有している(営業毎旬報告12月20日)。参照:財務省 政府部門の最新のものは、2015年3月末までなので類推しなければいけない。いま年度ごとの純負債の増加額が、毎年度約30兆円としておくと、現時点の政府と政府関連機関の純債務は571兆円と考えられる。対して日銀の現時点の国債保有額が438兆円なのでこれを571兆円から引き算すると、統合政府の純債務は現状では、133兆円である。名目GDPは約540兆円としておこう。すると名目GDPと純債務の比率は、約25%になる。これは同様の推計をした2014年末の比率では、約41%なので大きな縮小である。 このような統合政府からみた見解を、どうもNHKは無視したいようである。NHKがなぜ無視したがるのか、記事には載っていないのでわからない。だがしばしば国の借金だけを強調する論者や政治家たち、マスコミが指摘しているのは「日本銀行のバランスシートを組み込んで、そのような財政膨張を弁護してもやはり財政の信認が失われる」というものだ。日銀の国債保有の「メリット」 この論点については、経済金融アナリストの吉松崇氏が論説「中央銀行のバランスシート拡大と財政への信認」(原田泰・片岡剛士・吉松崇編著『アベノミクスは進化する』中央経済社)で集中的に検討している。簡単に要旨だけ書く。日銀が「質的量的金融緩和」で多くの国債を保有している。日銀の保有する国債からは金利収入が発生する。他方で日銀当座預金には0・1%の金利がつき、この部分は民間銀行に支払われる(実際の日銀当座預金への金利適用は複雑だがここでは単純化する)。だから金利収入からこの0・1%を引いたものが、日銀の得る通貨発行益(シニョレッジ)となる。 吉松氏の解説の通り、この通貨発行益は、日銀の収益であると同時に、国庫に納付するため事実上の国の収益である。つまり通貨発行益がプラスで推移していくことは、日銀の国債保有が政府にとってもメリットがあり、狭い意味での政府の財政を安定化させることに寄与しているということだ。 なお、日銀の説明ではもっと単純に「日本銀行の利益の大部分は、銀行券(日本銀行にとっては無利子の負債)の発行と引き換えに保有する有利子の資産(国債、貸出金等)から発生する利息収入で、こうした利益は、通貨発行益」としている。2017年12月、記者会見する日本銀行の黒田東彦総裁(桐原正道撮影) 日銀の公式の説明通りだと、昨年度だと国債の利息収入(貸出金の利息収入は小規模なので無視する)は、1兆1800億円超である。今年度はそれ以上のペースで増加しているようだ。もちろん吉松氏が指摘している通り、この金額は財政の安定に寄与している。 さらに、日銀の国債保有は「インフレ税」の面でも政府の財政安定化に寄与している。もし日銀がインフレ目標を実現すれば、その実現の過程ないし実現後に、固定利回りの国債やその他の債券を保有している人たちは、名目金利が上昇し債券価格が低下することで「課税」されたことと同じ現象が生じる。これをインフレ税という。もちろん政府はこの分だけ、インフレになったことで国債の償還の負担が軽減される。このインフレ税の増加はもちろん政府の財政安定化に貢献するだろう。 ただし吉松氏も指摘しているように、通貨発行益もインフレ税も日本が事実上のデフレの間や、インフレ目標が達成され、しばらく金融緩和基調が続く間だけの「一時的な財政安定化」の効果しかもたない。もちろんそれでも大きな効果だ。ただし、さらに恒久的な財政の安定化は、インフレ目標の達成により経済成長が安定化し、税収が増えていくことで実現されていく。 要するに、日本の財政の維持可能性、つまり日本の財政危機は、きちんとした政府と日銀のマクロ経済政策の成功か失敗かに依存しているのである。今回のNHKに代表される「政府の借金」論の偏った報道こそが、この正しい政策の見方を誤らせ、ただの増税主義へ国民を誘導しかねないだろう。

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    日本人医師の快挙を黙殺 「報道しない自由」はなぜ行使されたか

    に権威のある雑誌『ネイチャー』が主催するジョン・マドックス賞を受賞したニュースから、改めて日本のマスメディアの特異な現象を目の当たりにした。いわゆる「報道しない自由」ともネットなどで批判される態度である。 ジョン・マドックス賞は、公益に資する正しい科学や根拠を、困難や敵意に直面しながらも、人々に広める努力をした人に与えられるものである。ジョン・マドックスは『ネイチャー』の編集長を長期間務めたことで有名で、その功績を記念して2012年から続いている賞である。ジョン・マドックス賞が日本人に与えられるのは初めてであり、『ネイチャー』のもつ権威と国際的な知名度からも、村中氏の受賞は報道の価値が極めて高いものだったろう。 だが、現時点で、新聞では産経新聞と北海道新聞のみが伝えただけである。テレビ媒体は筆者の知る範囲ではまったくない。他方で各種のネット媒体では広く関心を呼び、大きく取り上げられていて、何人もの識者やネット利用者たちが話題にしている。ただし産経以外では、新聞やテレビ系列のネット媒体に記載はない。 当の村中氏はこの機会に自身の貢献を、あらためてネットを中心に訴えているところだ。だがマスメディアの代表であるテレビと新聞の大半は沈黙したままである。まさに「報道しない自由」が行使されているといっていいだろう。 そもそも村中氏の貢献は何だったのだろうか。ジョン・マドックス賞のホームページによれば、子宮頸(けい)がんワクチン(ヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチン)について、科学的に正しい証拠に基づき多数の記事を書いたそのジャーナリストとしての功績に与えられている。(iStock) 子宮頸がんワクチンについては、世界保健機関(WHO)や医学界でその効果が認められているにもかかわらず、誤情報に基づく国民的キャンペーンによって、日本の同ワクチンの接種率は70%から1%に急減してしまった。村中氏は訴訟に遭遇し、また自身の社会的立場への恫喝(どうかつ)などに抗して、子宮頸がんワクチンの安全性の啓蒙(けいもう)に努めたことが直接の受賞理由である。村中氏は訴訟を含めてどのような困難に遭遇してきたかは、Buzzfeed Newsの記事が詳しい。また村中氏自身も受賞スピーチの中でその活動を伝えている。「報道しない自由」というコーディネーションゲーム 子宮頸がんそのものの情報は、国立がん研究センターの情報がわかりやすい。この情報によれば、年間の罹患(りかん)者数は1万人を超え、死亡者数も年間3千人近い。「年齢別にみた子宮頸がんの罹患率は、20歳代後半から40歳前後まで高くなった後横ばいになります。近年、罹患率、死亡率ともに若年層で増加傾向にあります」と記述にあることは注意すべきだろう。 子宮頸がんワクチンは、2013年に定期接種化されたが、痛み、記憶障害、運動障害を訴える人たちが現れたのを契機にして、新聞やテレビなどの大メディアではワクチン接種へのネガティブキャンペーンが生じた。これをうけて厚生労働省はワクチンの接種勧奨をとりやめたという経緯がある。 この事態に対しては、WHOは警鐘を鳴らし、また日本産科婦人科学会でも何度も接種勧奨の再開を表明している。つまり専門家集団ではワクチンの接種についてはその有効性について共通の理解があるようだ。スイス・ジュネーブにある世界保健機関(WHO)本部(IStock) 経済学者の高橋洋一嘉悦大教授は、ワクチンの接種には副作用があることを指摘しつつ、ただし「どのようなワクチンにも副作用があるが、それを上回るような効用がある場合、接種が許される。子宮頸がんワクチンの場合にはデータがあるので、副作用がデータから逸脱していたかどうかを、厚労省はより慎重にチェックすべきであった」と主張している。これはひとつの合理的な態度だといえるだろう。 ただし、ここではなぜ新聞やテレビで「報道しない自由」が生じたのかを考えたい。産経や道新だけが例外であった。道新は村中氏が北海道出身なので取り上げたともいわれているが、続報はない。これは一種のコーディネーション(協調)ゲームといえるだろう。 コーディネーションゲームとは、ゲームに参加するプレーヤーがみんな同じことをすることが全員のメリットになることをいう。ゲームとは、遊戯を指すのではなく、人のあらゆる相互作用、あらゆる社会的行動を指すことができる社会科学で主に利用されているワードだ。この場合のゲームは村中氏の受賞を伝えるか伝えないかのゲームである。そしてプレーヤーは、新聞やテレビということになる。ネット媒体はこのケースではゲーム外のプレーヤーともいえ、いわばマスメディアとネット言論は分断されているともいえる。典型的だった「VHS対ベータ」 コーディネーションゲームを考えるときに、しばしば持ち出される日本の事例としては「VHS対ベータ戦争」の帰結がある。VHSとベータとは、家庭用ビデオデッキの再生機器の名称だ。1980年代にどちらの規格がいいかで経済「戦争」が生じた。結果として国内ではVHS派が勝利し、ベータ派は負けた。だが、ベータの方が性能はいいとの評価は当時からあった。だがそのような評価は、みんながVHSを選ぶ前では意味を失っていた。(iStock) 確かに、みんながVHSの規格を選ぶと、それ以外の少数の規格をもつ人は友人同士のビデオの貸し借りでも不便だろう。レンタルビデオショップでも最初は両方あったが、次第にVHSのみが置かれるようになり、ベータ派はここでも不利だった。 このようにプレーヤー全員が同じ戦略を選ぶことで、その戦略の帰結が本当に社会的に望ましいか否かに関係なく、このコーディネーション(協調)が安定化してしまうことになる。例えば、日本では長く経済停滞が続いたが、それを打破しようという政策当事者はいまも少数派である。大多数はメディアも含めて、経済成長否定やただの財政再建論者のたぐいである。例えば、NHKの「日曜討論」などのテレビ番組に、デフレ脱却論者がでるケースはまれである。 むしろ、国際的にはデフレ脱却論が優勢で事実としても政策の有効性が認められているのに、テレビや新聞ではデフレ志向の論陣の方が圧倒的である。これは多数の前では多数に従うという、物事の良しあしを無視した現象の一例だろう。例えば、私の知人にも某経済系メディアに務める知人がいるが、彼は筆者の文化関係のつぶやきはリツイートやお気に入りをするのだが、立場上なのか経済政策の話題にはまったく反応しない。Twitterは私的な活動のはずだし、特に経済問題で意見の違いがあるわけではないのにも関わらずである。空気を読むとはそういうことなのかもしれない。 さて社会的帰結が望ましいにも関わらず、そうでない協調行動がとられてしまうと物事は厄介である。その安定性を突き崩すことはプレーヤーの数が多ければ多いほど難しいとされている。産経新聞も大メディアだし、ネット世論も今日かなりの威力をもつ。また海外からの今回の声もあるが、それらは「報道しない自由」というコーディネーションゲームの安定性を変更するほどではない。現時点では。 私見では、子宮頸がんワクチン接種反対派の意見も含めて、今回の村中氏の受賞や海外の事例を紹介することは、報道の多様性と意見の自由を担保とする観点からも重要だと思う。いまの新聞やテレビは、報道しない自由という悪いコーディネーションゲームに陥っている。 この悪い均衡、つまり「報道しない自由」を打ち破るには、ゲームのルール自体を変える必要がある。日本のマスメディアは率直にいって官庁の広報団体的な側面が強い。お上の意見に従う傾向が強いのだ。ならば、このあしき均衡はおそらく政治側からしか変更はできないだろう。それはそれでメディアの在り方として情けないことは確かだ。それでも、今回の一種の「外圧」は、この政治側のアクションを引き起こすひとつの契機かもしれない。

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    【倉持麟太郎独占手記】「公共性」を忘れた週刊誌報道に言いたいこと

    倉持麟太郎(弁護士) ジャーナリズム、報道の根拠たる表現の自由(憲法21条)には、一私人の表現行為とは異なり、あえて憲法が報道主体=マスコミに与えた特殊な役割がある。表現の自由の「公共的使用」の観点である。 一つは、権力を監視し、現権力に対する絶え間なき批判的吟味を繰り返し続けることにより、権力による正統性調達の再生産を常に促すことである。権力は、我々国民から正統性を付与されるために努力せねばならないのだ。我々一人一人には、日々の生活があり、権力に張り付いて常に監視し適切に情報を得ることはできない。だからこそ、国民が負託した権力を適切に運用しているかどうかを国民の代わりに常に監視する責務を課されたのが、マスコミが享有する表現の自由の内実の一つである。 もう一つが、あらゆる価値観が公的空間にあふれるべく、多様な情報を流通させることである。多様な情報があまねく社会に行き渡ることによって、我々は自分自身の善き生の構想をより「善く」する材料を得る。ひいては、民主主義的決定の際の人々の熟議と熟慮の一助となることで、その特定の社会の民主主義を円熟させる。公共空間をより豊か(rich)にするために、マスコミには表現の自由の行使にあたって厳しい自己規律が要求される。国会で報道陣に囲まれる山尾志桜里氏=2017年9月 そしてこれらマスコミの役割に通底しているのが、「公共性」という要素であり、だからこそマスコミの表現行為には、権力や民主主義という公共性に奉仕する専門職能集団として、特に憲法上の保護が及んでいるのである。 果たして、近時の新聞やテレビワイドショー及び週刊誌報道は、憲法が期待した目的に適っているのか。報道の自由の名の下に、まるで公共性を持たない報道を一方的、一面的に流し続けるさまは、自らを支える「報道の自由」と「公共性」を掘り崩し、自壊的であることにすら無自覚であることに恐怖すら覚える。 また、政府広報に堕している一部新聞・テレビは、憲法がマスコミに特に与えた公共的使用の責務に応えておらず、憲法典が課した表現の自由の公共的使用という責任からすれば、完全な「任務懈怠(けたい)」である。政府にも正規の広報はいるので、そのようなマスコミはぜひ心配せずに、今すぐ表現の自由の本意を理解し、権力監視に勤しんでもらいたい。 これから来る憲法改正論議についても、マスコミやジャーナリズムによる適切な情報の流通と共有が極めて重要となる。戦後日本社会を形作ったという意味でも最も「公共的」な議論の対象たる「憲法」について、報道はぜひそのレゾンデートル(存在意義)たる公共性を今一度追求してほしい。改憲=憲法「典」改正ではない さて、話題はその憲法自体の改正議論に移りたい。 憲法という法規範は、本来、全く相いれない価値観を大切にしている個人がそれぞれ「自分らしく生き」ながら「共生」を図るという、二律背反を克服するための極めて包容力の高い寛容な法規範のはずである。しかし、ひとたび憲法が議論の対象になると、激しい思想的分断を生んでしまう。日本国憲法が、戦後日本の公論・思想空間の分断を助長してしまっていたといっても過言ではないのである。 これからの憲法論議は、この分断を超える、分断を治癒する、誰も置き去りにしない憲法論議を涵養(かんよう)すべきである。 憲法の本来の包容力の源泉は、憲法を憲法たらしめている自由や権利、そしてそれを保障するための厳格な権力統制の仕組みといった普遍的価値である。憲法論議も、この価値を社会の中で実践するにはどうすべきか、という大命題からスタートすべきである。重要なのはこの憲法的な価値を守ることであって、「憲法典」という今ある成文憲法を守ることではない。これは、成文の憲法典を持たないイギリスでも「憲法改正」論議があることを考えれば、「憲法改正」=「憲法典改正」ではないということは容易に理解できるのではないだろうか。 今までの「改憲/護憲」の議論は、「日本国憲法」という特定の憲法「典」を改正するか否かに問題が矮小化され、いわゆる「改憲」VS「護憲」という教条主義的二項対立に膠着(こうちゃく)してしまう。改憲論議も、いわゆる憲法が掲げる諸価値や権力統制を強化するために改正が必要か否かという視点で進めていくべきである。 すなわち、憲法も国家統治のための「法」なのであるから、過度の思い入れなどの情念や、詩的・抒情(じょじょう)的な創作意欲などで改正の是非を議論すべきでないのはいうまでもない。国の政治の在り方や、これを構成する市民社会の自由及び権利について、どのような制度設計をすべきなのか、まずはこの大枠で大上段のビジョンが欠かせない。衆院本会議で所信表明演説する安倍晋三首相=2017年11月、国会(松本健吾撮影) 憲法はこの社会とは独立して真空状態では存在しえず、この社会を構想し規律する法規範である。憲法改正論議も、現代の生ける社会が抱える権利衝突や社会的病理現象に対して、憲法がどのような応答ができるのかという巨視的な視点から、個人の権利の拡充、権力均衡の回復、熟議民主主義の再興、等の大きなテーマや問題意識の設定から出発しなくてはいけない。この、テーマやビジョンの設定こそ、政治家の仕事である。 この、①政治哲学や国家ビジョンがあるからこそ、②そのテーマを実現するためにどのような改正項目が挙げられるかが俎上(そじょう)に上り、③挙げられた改正項目をどのように変えるかの提案から④具体的な条文案へと落とし込まれる。 このような思考の順序をたどれば、「憲法改正論」として議論すべきは、「憲法典」に限られない。いわゆる「憲法附属法」(法律や規則も含む)も含めた、壮大な「憲法改革」とでもいうべき一大工事となる。憲法を頂点とした法秩序全体と現実の社会との間を行き来し、これらを横断的に見渡した構想を掲げることこそ、「憲法改正」である。憲法は固有の役割を果たしているか 憲法を取り巻く公論が、憲法の役割や存在意義そっちのけの教条的二項対立に分断されている間に、憲法が保障する権利の網の目からこぼれている個人はいないか、この憲法が権力を縛った鎖は錆びていないか、我々の声を国家統治に通す「民主主義」という名のパイプは詰まり気味あるいは歪(いびつ)な形になっていないか。残念ながら、これらには悲観的な回答をせざるを得ないと考えている。 9条は交戦権と戦力を否定しながら、自衛隊を保有し、政府解釈でかろうじて縮減している“とされてきた”自衛権も、その政府解釈によって集団的自衛権の行使まで容認された。この点、国際法(国連憲章51条)上、主権国家には(個別的・集団的)自衛権の行使が認められていることは当然だが、国際法上適法に認められた武力行使が(個別的・集団的)自衛権であり当該武力行使が国際法上どのように評価されるかということと、国内最高法規である憲法によって特に自衛権の行使の範囲(武力行使の発動要件)を規律することは別である。「島嶼作戦」の訓練を披露する自衛隊員たち=2017年11月、那覇駐屯地 規律された要件の下で行われた武力行使が国際法上どのように評価されるか、それだけのことだ。憲法で自衛権の発動要件を主権国家がその国の事情で縛ることは国際法上の自衛権の存在を否定することにはならないし、当然、憲法で国際法上の自衛権を否定したり創設したりすることはできない。国際法至上主義の立場からこのことを意図的にミスリードして、「自衛権の規律は国際法でしかできない」という見解も存在するが、国家の主権を認め国内最高法規(=国民意思)で武力行使の発動を規律することの批判になっていない。  さて、国家最大の暴力たる軍について「無き者」にされている憲法では、軍について規律することはできない。軍を前提とした法秩序を前提としていないからである。軍の存在を真正面から認め、これを国会(シビリアンコントロール)、内閣(内閣の権能としての軍事の明記)、司法(軍法会議の創設)、財政(予算措置からの統制)という、統治規定の総力戦で統制していく。そして、9条の魂は「軍縮」なのだから、立法技術的視点は措(お)いても、その魂を刻み込むべきだ。 軍事こそ、統治の技術の粋を集めて規律すべき最優先最重要課題であり、これを放置しては「立憲主義」に悖(もと)る。 また、憲法の規定はいわば刑法でいう構成要件であり、合憲か違憲かの判断基準を提供する。しかし、判断基準だけでは、違憲の状態を是正できない。つまり、大事なのは基準違反の是正を担保する「実行力・執行力」である(民事では強制執行、刑事では刑の執行により担保されている)。これが伴ってこそ、法規範の実効性が生まれる。今までは、日本国憲法は、まさに「公正と信義」に信頼して運用されてきたため、細かく規定しなくてもその「行間」を「抜け穴」として行動する為政者は幸いにも現れなかった。 しかし、安倍政権の登場により、「行間」は「抜け穴」と読み替えられ、そのエアポケットで権力者は縦横無尽にふるまっている。「行間」の番人であった内閣法制局も今や人事を通じて骨抜き状態で機能していない。 現憲法ですら「違憲」と判断されうることにお構いなしなのだから、「違憲」のハードルを下げた(違憲と判断しやすくする)ところで、守られないという点では変わりない。すなわち、これを強制的に是正する「仕組み」が必要である。 具体的には、憲法裁判所の創設によって憲法の規範性・強制力を担保すべきである。司法官僚組織とは独立した憲法裁判所の創設は、最高裁改革にも着手することを意味し、ここに真の司法制度改革がスタートするだろう。最高裁と政権与党の間の、“法律に違憲判断をしない代わりに最高裁には手をつっこまない”という緩やかな「共謀」は、司法権の独立と権力統制機能を画餅にしつつある。このような改革案は、野党こそ提起できるものではないか。安倍改憲論は小手先 その他、「個人の権利保障の拡充」というテーマでは、その実行力の担保として今見た憲法裁判所の創設が挙げられるが、プライバシーや知る権利、LGBT(性的少数者)の権利についても議論すべきだ。「権力統制・権力均衡の回復」としては、9条を筆頭に、国会権能の強化と行政府の統制も議論せねばならない。先般問題となった委員会での質問時間の配分問題も、規則レベルだが、「改憲論議」の枠内で行うべきである。議会の不文律で重要なものは明文化すべきだ。2008年フランスの改憲議論や、近時のドイツでの議会改革の改憲論議でも規則改正や明文化の議論が活発に行われている。 また、日本固有の「権威と権力」の均衡を担う皇室制度についても、改憲論議の中心的課題であり、女性宮家の創設及び女性・女系天皇について皇室典範の改正論議は、改憲構想の中で語られるべきである。「熟議民主主義の再興」では、参議院改革、地方自治制度、選挙制度、国民投票制度(国民投票法含む)の再考、外国人の地方参政権など、多様な民意の反映のための制度構築の見直しをしなければならない。 また、「主権の回復」として、日米地位協定の改定も9条改正とセットで改憲論議に含まれるだろう。  以上は、憲法の保障する普遍的な価値や立憲主義を強化する改憲提案の一部でしかない。 これらから逃げた「改憲論議」は、小手先のまやかしであるし、安倍改憲(加憲)論はまさに小手先のコンセンサス重視の「欲望充足改憲」であり、まったくビジョンも一貫性も胆力もない(個別の問題点の指摘はすでに大幅にオーバーした紙幅の関係上別稿に譲る)。安倍加憲や立憲主義的改憲に対する態度決定は、「改憲派」や「立憲主義」を名乗る人々にとってのよきリトマス試験紙となるだろう。衆院本会議で所信表明演説する安倍晋三首相=2017年9月(宮川浩和撮影) 戦後70年の日本の歩みを肯定的に振り返りながら、安倍政権が登場した現代社会において、憲法を権力統制規範として甦らせ多様な価値観を奉ずる個人の権利をすべて抱擁する寛容な法規範として再定位するべきだ。改憲についての「政治的状況」や「タイミング」を重視する“護憲”的な言説ほど憲法を貶(おとし)めてはいないか。今だからこそ、運動論ではなく理論で戦うべきときではないのだろうか。 憲法の根源的な価値は「あなたがあなたであるということだけで尊重される」ということであり、人は誰しもがどこかを切り取れば少数者である。すなわち、誰もが憲法の当事者であることからすれば、改憲論議もすべて我々一人一人のものである。政治、市民、専門家、すべての知性を結集して、誰もが当事者の憲法改正を語れるプラットフォームの醸成をしていきたい。

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    倉持麟太郎手記「週刊誌のレゾンデートル」

    「報道はレゾンデートル(存在意義)たる公共性を今一度追求してほしい」。週刊文春に山尾志桜里衆院議員との「不倫疑惑」を報じられた弁護士、倉持麟太郎氏がiRONNAに独占手記を寄せた。あの騒動以来、沈黙を貫く倉持氏が初めて綴った「反論手記」。週刊誌ジャーナリズム、そして安倍改憲論への危機感とは。

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    「一億総ゲス社会」にどっぷりつかった日本人は地に堕ちた

    ーマ法王と故カストロ国家評議会議長(当時)の初会談だ。全世界の注目も集まろうというものだ。とりわけ米メディアの力の入れようったらなかった。CNNの人気アンカー、クリスティアン・アマンプール氏はぞろぞろと10数人はいようかという「おつき」を引き連れ闊歩(かっぽ)しているし、abcの重鎮アンカー、故ピーター・ジェニングス氏の姿も。アメリカキーテレビ局のキャスターは勢ぞろいだった。 それが、だ。クリントン大統領のスキャンダルが勃発(ぼっぱつ)した途端、米メディアの引き際がすごかった。一瞬のうちにハバナ市内から消え去り、アメリカへと戻っていったのだった。残された?われわれ日本メディアはその後淡々と法王のキューバ訪問を取材したのは言うまでもない。 結局、クリントン大統領は弾劾されなかった。とはいうものの、その権威と信頼は大きく傷ついた。そして、ルインスキー氏が失ったものも大きく、さまざまなバッシングも受けその後の人生設計は大きく狂ってしまった。代償はあまりにも大きかったのだ。不倫に寛容になった日本社会 さて、翻って日本だが、こんなに一部メディアがバンバン「不倫報道」に血道をあげているわりに、実は本人たちも周りの人も大して気にしていないんじゃないか?と思うようになってきた。芸能人なんてすぐ「禊(みそぎ)」が済んであっという間に画面に復帰するし。 政治家だって、先のイケメン(現在はイクメン)議員、すなわち宮崎謙介元衆院議員だが、ふとテレビをつけたらバラエティー番組のコメンテーターとして番組に出てしゃべっているではないか。 山尾志桜里衆院議員だって、本人は不倫を否定しているわけだし、ちゃんと選挙も勝ちました。ですので、その不倫相手と報じられている弁護士を政策顧問にしたってなんの問題もないでしょ、という態度だ。世間も、なんとなくなし崩し的にまあそうだよな、という感じになっている。人の噂も七十五日。こちらも風化するのは時間の問題という気がする。 何が言いたいかというと、実は日本人は騒いでいる割に意外と「不倫」を気にしていないのではないか、ということだ。単に興味本位で他人の私生活をのぞき見し、楽しんでいるだけなのではないか。実は日本社会は「不倫」に寛容なんじゃないか、と思い始めている自分がいる。 去年、ベッキー騒動の時、私はJapan In-depthにこう書いた。 ただ単に人の過ちを冷笑し、貶め、叩くだけ叩くという今のこの現状。テレビのワイドショーを見て、喜んでいるのは私達自身だ。「ゲス不倫!」と人を罵る前に、自分たちのゲスさ加減に気づくべきだ。「一億総ゲス社会」 人の不幸は蜜の味。そんな社会に私たちはどっぷりとつかっている。 確かに「一億総ゲス化」は着実にパワーアップし、かつ進化を遂げている。政治家の「不倫」はもはや道義的にどうこういう問題ですらなくなった。ただのエンターテインメントの一部でしかないのだ。エンタメというと聞こえがいいが、要は「芸能」。「政治家」は「芸能人」とほぼ同義語となり、その政治家がどのような政治信条を持っているのか、これまでにどのような政策を進めてきたのかなどということには誰も興味がないのだ。 興味があるのはスキャンダルだけ。現代人の欲求不満のはけ口を提供しているにすぎない。そんな存在に政治家は堕ちた、ということだ。それにテレビのワイドショーや政治バラエティーが加担している。2017年9月、愛知県尾張旭市での支援者を集めた会合を終え、報道陣に囲まれる山尾志桜里氏 こうした状況に甘んじている政治家も問題だが、しかし、だ。よーく考えてみたら、その政治家を選んでいるのは私たち有権者だし、ワイドショーを熱心に見て視聴率を上げているのも、私たち自身なのだった。 結局、ツケは自分たちに返ってくる。そう気づいたら暗澹(あんたん)たる気持ちを通り越して滑稽さすら感じる。嗚呼(ああ)、因果応報とはこのことか。

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    多額の取材謝礼を払っている? 週刊誌の嘘とホント

    によれば……」と文春の記事をそのまま流している。自社でウラも取らずに文春の記事を放送することについてメディアとしていかがなものかと批判するむきもあるが、どだい民放のマンパワーでは独自のウラ取りなんてとても無理である。 民放各局にも報道局という部署があって記者がいるが、これは正午前や夕方、さらに晩のニュース番組のための取材や原稿書きをするためにいるのであって、午前中や午後の情報番組のための人員ではない。文春が書いてくれ、ある程度、社会的に認知された記事であれば、一も二もなく飛びついてしまうのである。 文春側もしたたかなもので、最近ではテレビ各社に対して、「週刊文春によると」とのクレジットをしっかりつけるよう求めるだけでなく、画像や記事の使用料を取るようになったという。少なくない経費をかけて取材をしたわけだから、テレビ各局にタダ取りされてはかなわないということだろう。 ネットには「なぜ文春はスクープを連発するのか」という類いの記事が多く掲載されるようになった。週刊誌の記者による取材や制作過程に関心が高くなっていると思うと、たいへん喜ばしいことだが、一般に広がっているイメージのなかには誤りも多いので、この機会に指摘してみたい。①多額の取材謝礼を支払っている のっけからカネの話で恐縮だが、この誤解に対してはきちんと言っておきたい。文春がなぜ強いのかと書いたネット記事のなかにこう書いているものがあったからだ。 文春にかぎらず週刊誌はネタ元に対して多額の謝礼を支払っているとのイメージが世間では強いようだ。なかでも文春は他社よりも高額であると。だから、多くのネタが集まってくるのだという理屈だ。 私が知るかぎり、かつてある大手出版社の某週刊誌が大物芸能人と暴力団幹部が一緒に写った写真を入手するのに、百万円を超える謝礼を払ったことがある。担当編集者にオリジナルの写真を見せてもらいながらその額を教えてもらった時に、驚いた記憶がある。 ただし、これは今ではかなりレアなケースだと思う。第一、ネタをカネで買ってくれと言ってくるような人物は信用ならないことが多い。カネ欲しさに話をでっち上げるようなことだってするからだ。 かつてインタビューを受けてくれた相手から多額の報酬を請求されたことがあったが、きっぱり断ったことがある。そんな額、どうやっても経理の担当者が認めるわけがないし、そもそもインタビューが掲載されることであなたが主張したいことが一般読者にも伝わることになり、あなたにとってもプラスの影響が出るはずだ、そう説明した。相手も最後は納得してくれた(と思う)。繰り返しになるが、多額の取材謝礼を支払うなんてあり得ない。多くは我々記者が足で稼いだ成果だ。週刊誌はカネや圧力で記事を引っ込めるのか②週刊誌の記事は信用ならない 残念でならないが、一般にこう思われているのも事実だろう。たしかに週刊誌のなかには事実かどうかよりも、耳目をひく見出しで読者に読んでもらう、買ってもらうことが目的と化したようなひどい飛ばし記事も目立つ。ただ、文春には週刊誌業界では定評がある取材力の高い記者が多く、こうしたひどい記事を書かずとも記事になっていると思う。 一方で、文春も含む週刊誌は新聞やテレビに比べて、記事に書かれた側から訴えられることが多く、裁判所も取材する側に厳しく接することが多いために、敗訴することが少なくない。 だが、これは新聞やテレビが際どいネタを取材しなくなったことの裏返しでもあると思う。もちろん取材には万全を尽くすべきだが、格好のネタがあるのに取材をしようともしないというのでは話にもならない。 甘利氏の秘書らに金銭を渡していたと自ら名乗り出た告発者の場合、文春の記者に接触する以前に大手新聞社の社会部記者に同じ話をしていたことは我々の業界ではよく知られた話だ。この記者は告発者から話を聞いておきながら、それを上司に報告することもなく、そのまま放置していたという。同じ社の別の記者によると、どうもその記者は、告発者から話を聞いてピンと来ず、むしろ怪しいヤツと思ったからとも、どうせ社内でネタを潰されると思ったからとも説明しているそうだが、どちらにしても社会部記者としてかなり問題である。苦境の週刊誌業界でしのぎを削る「週刊文春」と「週刊新潮」 告発者の素性に疑問を持ったとしても、金銭授受の事実があったのであれば、それを調べてみるのが社会部記者たる者の最優先すべき仕事のはず。政治家がからむ案件で潰されるかも知れないと心配するのはそのあとだ。 その意味では、このネタに食らいつき、記事化までに半年もかけて取材を重ねた文春の記者は見事だというより他ない。週刊誌が信用ならない記事を書くのではなく、新聞やテレビが際どい記事をやりたがらないだけだ。③週刊誌はカネや圧力次第で記事を出したり引っ込めたりする これも多くの人から、「週刊誌ってそうなんでしょ?」と聞かれることだ。そのたびに「今どきそんなことする雑誌なんてありませんよ」とムキになって反論するが、なかなか信じてもらえない。 だが、こんなことをやってはおしまい。週刊誌だってメディアの端くれ、報じる意義がある、世間が求めている、だから報じるのであってカネや圧力で記事にする、しないを決めるなんてありえない。 新聞各紙は、毎年、元旦に特ダネを掲載するのが習わしになっている。今年も某大手紙が、中国でスパイと疑われ拘束されている日本人の動向についてスクープを打ってくるとの情報が事前に流れたが、実際には掲載されなかった。これをめぐってその新聞社の社内で政治部が社会部に圧力をかけたために掲載されなかったんだという、まことしやかな噂も聞こえてきたが、さすがにそんなことはないだろう。そんなことをすればメディアにとって自殺行為だからだ。 週刊誌だって同じ。そんな心構えでやっているつもりなのだが。

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    「首相の関与」は無理筋だった? 森友問題で一変した朝日新聞の責任論

    籠池氏に利益を供与する「忖度」をさせたという、マスコミや野党の批判の根源にもなっていたのではないか。メディアのミスリードにハマった国民 だが、実際には籠池氏の小学校には首相や首相夫人とのつながりを明らかに示す資料はなかった。だが、この森友学園問題が政治的に大化けする過程で、マスコミは籠池氏の発言をろくに検証することもなく、そのまま報道し続けた。その中で、あたかも新設小学校が「安倍晋三記念小学校」ではないかという印象を垂れ流すことに貢献したことは明白である。 例えば、朝日新聞は5月9日の記事で「籠池泰典・前理事長は8日夜、取得要望書類として提出した小学校の設立趣意書に、開設予定の校名として『安倍晋三記念小学校』と記載したことを朝日新聞の取材に認めた」と報じた。この記事によって籠池氏と安倍首相との「つながり」の濃さを信じてしまうというミスリードに陥った国民も多かっただろう。テレビなどもこの記事に似た報道を連日垂れ流し続けた。森友学園問題を取り上げた2017年4月2日付の朝日新聞社説 もちろん、朝日新聞はこの一方の当事者の発言を事実検証もせずに垂れ流した責任を取る気はさらさらない。むしろ最近では、どうも安倍首相への「忖度」が無理筋だと思ってきたのか、社説などでは、財務省のミスを追及する責任が首相にある、と論調を変化させている。 例えば、12月1日の社説「森友問題審議 無責任すぎる政府答弁」では、「責任は財務官僚にあり、自分は報告を信じただけ。そう言いたいのだろうか。だとすれば、行政府トップとして無責任な発言というほかない」と書いている。これは以下のように書き換えることができるだろう。 「責任は籠池泰典氏にあり、自社(=朝日新聞)は発言を信じただけ。そう言いたいのだろうか。だとすれば、言論の府としての新聞として無責任な発言というほかない」 実は朝日新聞と似たような報道を毎日新聞もしている。以下は毎日新聞の公式ツイッターでの発言である。「首相がすべきなのは、自身の関与がなかったとしても周辺に『そんたく』がなかったか徹底調査すること」。加計・森友問題の報道に関わってきた記者は指摘します。毎日新聞公式ツイッター(2017年11月16日) これまで散々「首相の関与」をあおってきた末のこの発言にはあきれるしかない。 だが、無責任な報道姿勢が改まることはないだろう。例えば、自民党の和田政宗議員が12月1日朝のブログで、「新しいメモ」でもないものをいかにも森友学園の不正を追及する新資料が発見された、といわんばかりの記事を掲載していると批判している。これはささいな問題に思えるかもしれないが、この種のミスリードの蓄積が「安倍首相は謙虚ではない」「安倍首相は人格的に好ましくない」といった印象へと導いていくのかもしれない。森友学園問題も加計学園問題についても、首相から発生する問題はいまだみじんも明らかになっていないのにである。「安倍擁護」の批判に応える 「われわれは知らず知らずに心の中で魔女裁判を行っているのではないか?」。このようなことを書くと毎度出てくるのが、安倍擁護をしているという批判である。経済政策や安全保障を含めて重大な問題がある中で、あくまで責任が全く明示されていない問題に過度にこだわることの愚かさを指摘しているのである。朝日新聞や毎日新聞に代表されるような無責任なマスコミの報道姿勢を追及することは、政権の政策ベースでの批判と矛盾することはない。実際に安倍政権の経済政策だけでも、前回の論考で消費税増税シフトを批判したように問題はある。報道によってミスリードされている世論の「魔女裁判」的状況の解消を願っているだけなのである。2017年11月、参院予算委で答弁する安倍首相 このようなマスコミの無責任な報道姿勢は、森友学園問題だけではない。朝日新聞がいまでも自社の誇り、もしくは売りにしているものに「天声人語」がある。いまでも入試のための必読アイテムだとか、文章の見本などと宣伝されていることがある。実際にはそんなものではない。 日本銀行の岩田規久男副総裁はかつて『福澤諭吉に学ぶ思考の技術』(2011年、東洋経済新報社)の中で、天声人語はいったい何が議論の本位なのか明示することなく、それを明示したとしても十分に論じることもなく終わってしまう悪い文章であると批判していた。まさに同意である。今回の森友学園問題も、いったい何が具体的な問題なのかわからないまま、「忖度」という議論になりえないものを延々と十分に論じることなく、一方だけの発言を恣意(しい)的に垂れ流していく。そのような朝日の報道姿勢が、そのメーン商品である天声人語にも明瞭だというのが、岩田氏の批判からもわかる。 岩田氏は、当時話題になっていた大相撲力士の野球賭博問題を絡めて以下のように書いている。 多くの日本人の責任の取り方は、福澤(諭吉)の言うように自己責任を原則とする個人主義とはかなり異なっている。自己責任を原則とすれば、裁くべきは法に照らした罪であり、世間が騒ぐ程度に応じて罪が変わるわけではない。メディアは力士が野球賭博をすると大騒ぎするが、普通の企業の社員がしても記事にもしないであろう。しかし、どちらも法を犯した罪は同じであるから、メディアがとりたてる程度で罪の重さが変わるわけではなく、同じように自己責任をとるべきである。 つまり法によらずに、メディアが「罪」をつくり出す風土にこそ現代日本の病理がある。

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    日馬富士騒動、ワイドショーの悪ノリが痛い

    テレビをつければ、連日連夜くだんの日馬富士騒動だが、各局のワイドショーは軒並み高視聴率だという。騒動とは無関係の元モンゴル人力士が「場外乱闘」まで繰り広げ、ワイドショーの悪ノリもここまで来るともはや「公害」である。このバカ騒ぎの元凶はテレビなのか、それとも視聴者か。

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    日馬富士騒動に便乗したワイドショーの「場外乱闘」がみっともない

    藤本貴之(東洋大学教授、メディア学者) 「日馬富士暴行問題」をめぐる一連の報道の中でひときわ目を引くのは、第三者の発言を借りた「臆測報道」の乱用だろう。 「関係者」「周辺」「元力士」「友人」「相撲に詳しい~」「~をよく知る」「相撲取材歴○○年」などと称する人たち(以下「関係者」)が、自分たちの立ち位置で、自分たちなりの発言をする。そして、当事者でもないのに、お互いの発言からさらなる推測をしたり、批判したり議論をする…という不可思議な構造である。ここぞとばかりに「関係者」が登場しては、さまざまに食い違う「真実」を語り出す。 騒動後、姿を見せない被害者、貴ノ岩関に対して「外傷とその後の騒動から、PTSD(外傷後ストレス障害)の可能性もあるから表に出ない」という見立てまでする医師さえ登場している。担当医でもないのに、いい加減にも過ぎる。 常識的な感覚があれば、この状況で貴ノ岩が精神的なストレスを抱えていることは、誰だって想像できる。騒動に便乗して、専門家風のスタンスで中身のないコメントをする意味がどこにあるのか。 貴乃花親方の心境に思いを馳(は)せたり、相撲協会理事たちの考えを代弁したり、貴ノ岩関の居場所についてまで推測し、それをテレビという公共の電波で臆面(おくめん)もなく語る相撲リポーターの姿にも辟易(へきえき)とさせられる。 自民党の伊吹文明元衆院議長まで「大横綱だからなんでもできると思い上がっているんじゃないか」と持論を展開する始末だ。政治家がコメンテーターのまねをしてマスコミの前で意見する問題ではない。  極めつけは、モンゴル出身の旭鷲山(元小結)が各局の情報番組で発言した騒動へのコメントと、それに対して繰り出された同じくモンゴル出身の朝青龍(元横綱)による批判だ。公私混同、目的不詳の「場外乱闘」としかいいようがない。もちろん、2人とも騒動の部外者であり、貴乃花親方や貴ノ岩関の本当の胸の内など知るよしもないだろう。記者会見する元小結旭鷲山、ダバー・バトバヤル氏=2017年11月、モンゴル・ウランバートル(共同) 貴乃花親方が鳥取県警の捜査を優先し、相撲協会からの聴取に協力的ではないということを批判したり、断片的にしか知りようのない貴乃花親方の挙動に意見する「関係者」たちの発言なども異様だ。明らかになっている事実は、暴行に対して被害届が出された、ということだけである。少なくともやり取りの是非について、第三者が勝手に臆測をめぐらせ、さも客観的意見であるかのように公言するものではない。 もちろん、貴乃花親方には監督責任者として相撲協会にも報告する義務はあろうが、そもそもそういった細かい議論こそ、貴乃花親方と相撲協会との間で部外者の理解を超えたナイーブな話があることは想像に難くない。どれも「関係者」たちが臆測で発言できるような類いのものではないはずだ。ジャニーズと協会の共通点 「関係者」と称する無関係な第三者たちの発言によって構成された「臆測報道」。このような異常状態を横行させる背景にあるのは、皮肉にも大相撲力士のコンテンツ力の高さがゆえだ。 例えば、最新の週間視聴率ランキング(11月20日~11月26日)を見ても、「大相撲九州場所12日目」は、関東地区で17.2%とスポーツ分野で堂々の1位だ。この数字は、全番組の中でも「笑点」に次ぐ5位である。 テレビ離れが進む今日にあってもなお、大相撲中継は、高位安定の「鉄板コンテンツ」であることに間違いない。中継技術も完成しているだろうから、番組制作にあたり改めて新しいアイデアを考え出す必要もなく、労力もかからない。近年、消滅しつつある「ながら視聴」にもまだまだ耐え得る貴重なコンテンツでもある。 大相撲中継が「本編」だとすれば、バラエティー番組や情報番組で扱われる大相撲ネタはいわば「スピンオフ」だが、このスピンオフでさえも本編に伍(ご)するほどのコンテンツ力を誇っていることは言うまでもない。力士を登場させるバラエティーやワイドショー番組は数多い。 エンターテインメントという観点から見ても、大相撲や力士は分かりやすく、扱いやすい素材だ。何より「相撲レスラー」のキャラクター性が明確であり、相撲に詳しくない人でも、力士がテレビに出てくれば、「あっ、この人はお相撲さんなんだ」とすぐに分かる説明不要のコンテンツなのである。2017年11月29日、引退会見を終え頭を下げる日馬富士=福岡県の太宰府天満宮(撮影・仲道裕司) 日馬富士や貴ノ岩含め、登場する力士や親方の名前を今回の騒動で初めて知った若い人は少なくないだろう。しかし、普段、大相撲中継などを見ておらず、個別の力士に興味がない人でも、相撲界全体の話題やスキャンダルには思わず関心を持ってしまう。われわれ日本人の中に、大相撲、力士というコンテンツへの関心が潜在的に刷り込まれている証左と言える。 この高いコンテンツ力が故に、無関係な「関係者」の臆測や場外乱闘でさえも、ワイドショーや情報番組にとっては決して小さくないニーズが生まれる。当事者からの情報が出てこない今回のようなケースであればなおさらだ。 もちろん「関係者」たちの無法地帯が生まれる理由は他にもある。 メディアにとって、大相撲のコンテンツ力の高さは、相撲協会に対する弱みにもなっている。ジャニーズ事務所のような大手芸能プロダクションとの関係にも似ているが、批判的な立場はとりづらいはずだ。コンテンツ力の高い相手に対しては、常に顔色を窺わざるを得ないのが今のテレビの宿命である。それがとりわけ閉鎖性が強いといわれ、他に代替がきかない相撲協会であれば過剰な「忖度(そんたく)」は必至だ。 それでも、スキャンダルであればあるほど関心が高まる大相撲ネタであるだけに、今回のような騒動は、テレビのワイドショーや情報番組ではあれば、多少のリスクを冒してでも扱いたいトピックだろう。 そこで利用されるのが「関係者」たちである。 「関係者」をカメラの前に座らせて、「よく知る第三者」として発言させることで、メディアとしての直接的な責任を回避しつつ、話題性の高い情報を発信できる。相撲協会にとって不都合であったり、気に食わない内容があったとしても、その責任は「関係者」にあるのだから、差別発言や放送禁止用語などを口にしない限り、番組自体が責任追及の対象にはなりづらい。 テレビは責任の外に置かれ、「関係者の発言」だけが、番組のスクープ、新事実として無責任に一人歩きをしてゆく。要するに無責任でスキャンダラスな発言を「関係者」と称する、出たがりの第三者に代弁させているだけではないか。それどころか、真偽不詳で臆測だらけで炎上発言をしてしまう「関係者」もまた、ワイドショーにとっては力士同様に便利なコンテンツなのかもしれない。国技でもないのに品格を求められ 日本の「国技」として認識される相撲ではあるが、他の伝統文化の業界に比べ、報じられるスキャンダルや問題は多い。親方の暴行による力士の死亡事故を含め、暴力問題、八百長疑惑などは枚挙にいとまがない。日本相撲協会も事あるごとに「力士の品格」を口にしては所属力士たちを律するが、そんなものどこ吹く風で、品格のない事件や騒動は後を絶たない。 その要因は、意外に思われるかもしれないが「相撲は日本の国技ではない」という事実にあると筆者は感じている。 より正確に表現すれば、相撲は、国旗国歌法のように法律で「国技」であると定められているわけではない。演芸や工芸でもないので、文化財保護法における「重要無形文化財」でもない。菊の紋章のように、慣例的に「日本の国章」になっている類いのものでもない。 つまり、大相撲を頂点とした相撲文化が、日本の「国技」であることを示す法的な根拠はないのである。2017年9月、両国国技館で行われた土俵祭(撮影・加藤圭祐) 一方で、多くの日本人は相撲が日本を代表する武道であり、わが国の象徴的な「伝統文化=国技」であるとして受け入れることにやぶさかではない。多くの国民から「国技」であるとイメージされ、そこで活躍する力士たちも、日本の伝統文化を継承する人気者であるにもかかわらず、「国技の継承者」としては明確に定められていないという矛盾がある。 国民からの「国技の継承者=国の代表」としての認識は、力士たちと相撲協会に大きな収益や知名度といった特権を与えている。対外的にも「国技」としての役割も存分に担わされているにもかかわらず、日本相撲協会という民間団体だけによってコントロールされているのが実態だ。  メディアにとっては検証や批判がしづらい大相撲の高いコンテンツ力。「国技」としてのイメージを担わされ、特別な立場を享受している事実。しかし、実は単なる民間の競技団体でしかないという大相撲の実態。この相容れない3つの重なりが生み出す矛盾にこそ、日本の伝統文化にもかかわらず、品格なき事件を生み出す要因があるのではないだろうか。 もっとかみ砕いて言えば、大相撲で活躍するモンゴル人力士たちの中に、日本の「国技」を支えてきた、という自負が生まれ、それが品格なき「増長」をも許してしまうのではないか。 連日過熱する日馬富士騒動だが、ワイドショーを中心としたマスコミは「関係者」たちによる臆測報道ばかりで、こういった問題に対して言及することはあまりない。相撲界を正常化させ、より発展させるために期待される役割は決して小さくない。 無関係な人たちによる無責任な想像力を楽しむことも節度を守れば必ずしも悪いとは言い切れないが、それよりもメディアが取り組むべき魅力的なテーマは、他にいくらでもあるだろう。

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    「若貴の母」藤田紀子のワイドショー発言だけは価値ある情報だった

    性と子供を甘くみる偏見を含んでいるが)向けの情報と低くみられかねないが、確かに「そこまで本気で公共のメディアで時間を使うべきものですか?」という話題について無駄に議論する例も少なくない。タレントの不倫問題について、延々と議論するのは最たる例である。 最近の例でいえば、日馬富士の暴行問題が一様に注目のテーマであった。国技として社会的な注目度も高い相撲界で起こった出来事だけに、ワイドショーが盛り上がるのも理解はできるが、どの局も同じような映像を使い、相撲ジャーナリストとタレントの組み合わせという、類似のメンバーで横並びの情報を流すことに果たして意義があるのかはオーディエンスの多くが疑問に思うところであろう。報道陣に囲まれる貴乃花親方=2017年11月、東京都江東区 ただ、ワイドショーの存在自体が無意味かというと、そうとは言いきれない。現在の多様化したメディアにおいては、かつては録画しなければその場限りの言動で消えて行った司会者やコメンテーターの発言が、ネット上に記事として再掲され、放送時間にテレビの前に座っていなくても、ワイドショーでの議論に接することができ、記録にも残るようになった。 つまり、ワイドショーの司会者やコメンテーターが「オピニオンリーダー的な位置づけ」で扱われる現象が、ネット環境の発達により高まっているのだ。ワイドショーをみているのは「どうせ女子供」という前提は通用しなくなり、より幅広い一般市民、老若男女に、ワイドショーの議論が影響を与える可能性が増えたのである。 また、ワイドショーには、専門家やジャーナリストを中心に構成される夕方から深夜にかけてのニュース番組にはない特徴がある。コメンテーターの顔ぶれには、市民目線を意識したいわゆる「ど素人」的なメンバーも含まれるので、コメントは玉石混交ではあるが、時に素人ならではの新鮮な疑問が飛び出し、いわゆる学識経験者らによる真面目な大新聞の社説よりも的を射た意見だと納得させられる場合もある。意外と有意義な「社会勉強」の場 今般の日馬富士騒動の例では、「貴乃花、若乃花を育てた母」というテロップとともに、ニュースの当事者である貴乃花親方の母親でもあり、相撲部屋の女将でもあった藤田紀子氏の、元女将の立場、母親の立場を絶妙に使い分けながらのコメントには、ユニークなものがあった。女優の藤田紀子(左)と息子でタレントの花田虎上 通常、メディア学においては、新聞や雑誌に頻出する「〇〇の母、妻」という肩書を、女性個人の主体性を尊重するのではなく、男性(夫や子供)の従属者とみなす呼称として批判するのであるが、今回の暴行問題においては、元相撲部屋の女将であるという藤田氏の独自の立場を認識させるために、必ずしもマイナスではなかったといえる。そして、母親という私的立場を併せ持つ独自の立場からの意見を引き出したワイドショーには一定の意義があった。 貴乃花部屋を謝罪に訪れた伊勢ケ浜親方と日馬富士を車の中で無視して走り去った貴乃花の態度は、大人げないと批判されるが、親方衆は場所中は会場に詰めているのだから、いつでも謝罪の機会はある、あれはむしろ伊勢ケ浜親方側のパフォーマンスだ、というコメントには、あからさまではないが、正論を主張しつつも母としての愛情がこめられていたように見えた。過去に自分自身も、息子たちの現役時代の家族関係を取りざたされ、まさにワイドショーを賑わせただけに、ワイドショーのネタとなった経験者の発言としても興味深いものであった。 テレビ局のコンテンツ制作力が低下したため、ワイドショーでお茶を濁しているという見方もあり、より大きく扱うべき北朝鮮との外交問題、福島原発の今後、震災復興などの深刻な社会問題を隠蔽しているという批判もあるが、素人の素朴な疑問から、専門的な知見まで、多様な意見をいい意味で取捨選択せずに(つまり、製作者側のバイアスがかかる可能性を減らして)流すことができるのは、ワイドショーの利点でもあろう。いわば、ネット情報に近いゲリラ性を有するのが、ワイドショーの言論である。 専門家や現役の業界関係者が、一般視聴者の目に見えぬ利害関係に縛られて教科書的、建前的な良識だけしか述べず、本音が別のところにある可能性も高いため、良い意味での井戸端会議的な談論風発で、社会通念や専門家の盲点をつく「正論」がワイドショーという場で引き出される可能性もある。 ただ、経歴詐称で姿を消すコメンテーターの例もあったように、コメンテーターが果たして本当に信頼できる人物なのか、専門家としての意見を述べているのか、専門外の立場から発言しているのかをオーディエンスはきちんと見極める必要がある。ワイドショーのコメンテーターがたとえ、その場限りのハチャメチャな意見を述べたとしても、それを批判し、良質な意見をそこから腑分けできるような、情報を読み解く力、高いメディアリテラシーがオーディエンスには求められる。 それさえ意識していれば、一見軽く見えるやりとりの中から、珠玉のコメントを自分なりに発見し、そこから社会を読み解くヒントをくみ取る場として、ワイドショーは意外と有意義な「社会勉強」の場となり得るのである。

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    「マスゴミの象徴」ワイドショーはどこへ行く

    碓井真史(新潟青陵大学大学院教授) テレビは娯楽だ。民放で言えば、コマーシャルを見てもらう代わりに、楽しいテレビ番組を提供しているとも言える。大昔の言葉で、テレビは「電子紙芝居」だなという表現もあったが、子どもたちが紙芝居に集まったように、人々はテレビの前に集まる。街頭テレビに群がる大勢の人々 ドラマあり、スポーツあり、お笑い番組あり。大勢の人がテレビの前に集まり、戦後のスタープロレス選手、力道山を応援し、オリンピックの日本チームに声援を送ってきた。試合会場に行かなくても、寄席に行かなくても、テレビなら全国どこでも気軽に楽しめる。 かつて「楽しくなければテレビじゃない」と豪語したテレビ局もあった。みんながテレビばかり見ていると、国民みんなが愚かになってしまうと「一億総白痴化」などと言って警鐘を鳴らした評論家もいた。 テレビはまた情報伝達ツールだ。テレビの発明は、グーテンベルクの印刷機の発明に匹敵する、人類史上の大発明だ。大量の情報やニュースが毎日流されている。情報伝達ツールの先輩にあたるのは新聞だ。ただし、新聞はテレビよりも格調高い。新聞の1面トップを飾るのは、ほとんどが政治経済ネタである。 政治経済の話なので、大見出しで書かれていることでも、庶民にはよくわからないこともある。最近は新聞を購読する人も減ってはいるが、かつてみんなが新聞を読んでいたときも、1面トップの難しい記事は読まず、まずテレビ欄を見たり、社会面やスポーツ欄から見たりする人も多かったことだろう。4コママンガを楽しみにしている人もいるだろう。その人たちももちろん新聞を購入した。 しかし、テレビはもっと自由だ。そしてシビアだ。番組冒頭から、難しい話題を難しい言葉で話す必要はない。やわらかい表現を使ってもいいし、やわらかい話題から入ってもいい。それに、番組の最初から面白くない話などされたら、視聴者はすぐに番組を変えてしまう。面白い興味深い話題になるまで待ってなどくれないのだ。 テレビは視聴者をつかむためにさまざまな番組を作ってきた。その中で生まれたのが「ワイドショー」だ。ワイドショーは、とても自由だ。ワイドショーを変えた「ワイドショー」 ワイドショーは1960年代に始まっている。放送時間はゴールデンタイムなど高視聴率が狙える時間帯ではない。むしろ、平日昼間のすきま時間とも言えるような視聴率が取りにくい時間帯に、ワイドショーは置かれた。だが、ワイドショーは次々大成功していく。スタジオ生番組、そして2時間程度の長時間、バラエティーに富んだ話題をスタジオトークでつないでいくワイドショーは、視聴者の心をつかんだのだ。 かつてのワイドショーといえば、芸能ニュースやゴシップネタが中心だったろう。だが、世の中は変わっていく。テレビも変わっていく。今までのいわゆるワイドショーでは、満足しない人々が出てくる。 その変化を生んだ番組の一つは、1999年に始まったフジテレビの『情報プレゼンター とくダネ!』だろう。「ワイドショーを超えたワイドショー」と銘打って、豊富な話題を取り上げていく。平日昼間に家にいる主婦なら、この程度の話題をこの程度に扱えばよいだろう。番組スタッフはそんなふうには考えず、今までのワイドショーを越えたいと考えたのだろう。フジテレビ系「とくダネ!」番組開始時に司会を務めた(左から)笠井信輔アナウンサー、メーン司会の小倉智昭キャスター、佐々木恭子アナウンサー=1999年 このコンセプトを視聴者は受け入れた。2001年にはこの時間帯の視聴率トップにおどり出る。その後10年近くは、視聴率トップの座を維持してきた。しかし、成功すれば他局もまねをし、またNHKの『あさイチ』が登場してきたことで、首位の座は明け渡していく。 いずれにせよ、視聴者はワイドショーに堅い話題も求めてはいる。しかし、そうは言ってもやはり娯楽性は無視できない。そして、テレビは自由だ。視聴者が求める話題、視聴率が取れる話題を求めるのは当然だ。そして時に、すべての話題がワイドショー化していく。 例えば、力士の暴力事件が大きな話題になり、人々の関心の的になれば、もちろんワイドショーはその話題を取り上げる。ニュース番組も新聞も同じ話題を取り上げるが、取り上げ方が違う。ワイドショーならジャンルを問わず、一番の話題として、最も関心度が高いテーマを取り上げることができる。 週刊誌も、読者が最も読みたがる話題を自由に取り上げられるが、さすがに雑誌のページの半分がその話題で占められることはないだろう。だが、ワイドショーならそれも可能だ。番組の始まりから力士暴力事件など一番話題のテーマを取り上げ、間で少し他のニュースやコーナーを行い、また力士暴力事件に戻ることも、しばしばある。ワイドショーこそ、テレビそのもの 各局で視聴率争いを行い、1分刻みの視聴率の変化に一喜一憂する。それがテレビだ。だから、うっかりすると、どのチャンネルのワイドショーもみんな同じテーマを取り上げることになる。しかも、今日も明日もあさってもだ。よほどその話題に関心を持つ人でないならば、うんざりすることもあるだろう。だが、別の話題にして視聴率が下がるようであれば、やはりこの話題を取り上げ続けるだろう。2017年11月、大相撲九州場所が行われている福岡国際センターで、役員室へ向かう貴乃花親方 ともかく話題を提供し続けなければならない。視聴率を取らなければならない。そうなると、同じような出演者(専門家)が、各局のワイドショーをはしごして出演することもある。少しでも他局のワイドショーより目立とうと思えば、センセーショナルな表現を取ってしまうこともある。 容疑者段階の人間を完全に犯人扱いし、ひどく侮辱することもある。おどろおどろしい表現で、必要以上に危機感をあおることもある。自殺の現場を生々しく撮影し、詳しい自殺方法を伝えてしまうこともある。これは、自殺予防の観点からすると大きな問題だ。 また少しでも新しい話題を提供しようと思えば、友人や知人、近所の人など雑多な人々にインタビューし、またスタジオに招くこともある。そこで価値ある情報が得られればよいが、不正確な情報を流してしまい、視聴者をミスリードする危険性もあるだろう。時には、内容が薄くなってしまうこともあるだろう。 テレビにとっては、わかりやすさは最重要事項の一つだ。わからないものは面白くない。わからなければ意味はない。テレビは、小学校4年生にもわかるように作ると語った人がいるが、確かにおじいちゃんも小学生も孫も一緒に楽しめるのがテレビだ。わかりやすいことは確かに大切だ。わかりやすく、そして意味あることが大切だ。時には、テレビで長々と放送されたものを見てもよくわからなかったものが、新聞記事を読んでわかることもある。ただし、集中してじっくり読まなければならないが。 マスコミのことを「マスゴミ」などと言って揶揄(やゆ)する人がいる。ワイドショーをばかにする人もいる。同じ放送局の中にも、事件現場に最初にワイドショーが入ってインタビューをすると「現場が荒らされる」と嘆く報道スタッフもいる。そういうこともあるのだろう。視聴率争いは激烈なのだから。 しかし、ワイドショーのスタッフたちも、心ある人々はもちろんよい番組作りを願っている。事件現場で、心のこもった思いやりあるインタビューをしようとしているリポーターのことも、私は知っている。 自由で楽しくてわかりやすい生放送。ワイドショーこそ、テレビそのものなのかもしれない。ワイドショーはどこに行くのか。それがテレビの未来像なのだ。

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    『スッキリ』阿部祐二「リポーターとは相手に拒絶される仕事」

    阿部祐二(テレビリポーター) 朝の情報番組『スッキリ!!』のリポーターとして活躍中の阿部祐二さん。どんな相手にもズバリと切り込む姿勢が臨場感のあるリポートにつながっているが、聞きにくいことを尋ねるストレスはないのだろうか。驚いたことに、「ストレスはほとんどない」と語る阿部さんの、ストレスとの向き合い方をうかがった。《取材・構成=林加愛、写真撮影=長谷川博一》 「事件です!」の決めゼリフとともにお茶の間に届けられる、迫力あるリポート。情報番組『スッキリ!!』のリポーターとして活躍する阿部祐二さんの取材は、エネルギッシュな臨場感に満ちている。日々全国を駆け巡るハードな仕事への姿勢も、どこまでも前向きでアクティブだ。「疲れたりストレスを感じたりすることはほとんどありません。周囲の仲間はよく、『次の休みが楽しみだ』と言うのですが、僕にはその気持ちがわからない(笑)。いつも仕事をしていたいし、動いていたいですね」 とはいえ、悲惨な事件や事故の関係者に話を聞くのは神経を使うはずだ。そうした場面でストレスを感じることはないのだろうか。「確かに、犯罪被害者など、苦しみの中にいる方々にとって、リポーターは『来てほしくない存在』です。怒りをぶつけられることも多々あります。しかし私たちは、その方々の言葉を伝えなくてはならない。ここで必要なのは、『本当の思い』に迫ることです。本当にそっとしておいてほしいのなら、それ以上は踏み込みません。でも、少しでも言いたい事がありそうならば問いかけます。表情やしぐさを見極めて、正しく気持ちをすくい取る。それができれば、必ず心を開いてくださいます」 確かに、対人関係のストレスは、相手の心が読めれば軽減できる。経験を積んだ今はどんな現場でも、相手の思いをほぼ正確に読み取れるという。「良いコメントを取れたときには、強い達成感があります。とくに、何人もの記者がすでに訪ねた取材先で、それまで誰も引き出せなかった言葉を引き出せたときは嬉しいですね。誰よりも真実に肉薄したコメントを取ろう、『阿部の取材は他とは違う』と言わせよう。そんな心意気で臨んでいます」最初は現場でうまく話せず落ち込んだ そんな阿部さんも、22年前にリポーターを始めた当時は、インタビューの「いろは」もわかっていなかった、と振り返る。「36歳で俳優からリポーターに転身したのですが、台本のない現場で何をしゃべっていいのか、当初はまるでわかりませんでした。初めての中継では、現場となった家の前で立ち往生。まったく言葉が思いつかず、その家の犬の名前を12回も呼んでしまう始末でした。当然、周囲には馬鹿にされました。『向いてないんじゃないの?』『俳優やってりゃいいのに』などなど、陰口もさんざん叩かれました」 しかし、そこで落ち込むかわりに、闘志を燃やしたのだ。「見返してやろう、と思いましたね。だから人の二倍も三倍も努力しました。自分に足りないのは情景描写の力だと思ったので、細かな描写にすぐれた小説を朗読。島崎藤村の『千曲川のスケッチ』を、何度も声に出して読みました。ほかにも新聞を5紙読んで知識をつけたり、インタビュー術の専門書を読んだりと、24時間すべてをスキル向上に注ぎ込みました」 課題を見つけ出し、努力して改善する。これが結局のところ、最も単純で有効なストレス解消法だ、と語る。「うまくできないこと、人に悪く言われること、納得できないことはいずれもストレスフル。ならばその原因を克服すればいい。昔も今も、そうして突き進んでいます。今年で58歳になりますが、今もまだまだ伸ばせるところは伸ばしたい。新聞記事の朗読や発声練習は日々欠かしません。最近は、時間を見つけて中国語と韓国語のレッスンもしています。英語でインタビューできるリポーターは僕のほかにもいるかもしれませんが、中国語と韓国語も、となるとどうでしょう。僕がいち早く身につければ、強い武器になるはずです」ストレスは「避ける」ではなく「超える」もの 走ることをやめず、ストレスは反骨心ひとつで「ねじ伏せる」。そんな阿部さんの目には、下の世代は「ヤワ」に映ることも多いという。「物事を無難に収めようとする人が多いですね。番組後の反省会を終えた若いスタッフがよく、『とくに問題ありませんでした』と報告してくるのですが、それこそ問題です。10人が10人、そこそこ賛同する番組なんてつまらない。批判的な意見もある中、何人かが熱烈に支持するような番組こそが面白いはずです。だから僕は『問題ナシで良しとするな!』と言うのですが、『阿部さんにはついていけません』なんて言われてしまう。彼らは衝突するのが嫌なのでしょう。でも、意見の食い違いや感情のぶつけ合いがあってこそ生まれるものもある。ストレスを避けてばかりいたら、その先には行けませんよ」 今は世の中全体が、ストレスを避け過ぎる傾向にある、と阿部さんは指摘する。「自分が傷つかないこと、人を傷つけないことばかり気にして、表立っては何も言わない。一見優しいように見えますが、憂うべき時代だと思います。そうしたコミュニケーションの中では、メンタルは弱くなります。褒められれば舞い上がり、叱られれば過剰に傷つく人がどんどん増えていくのです。つまりは皆、人の目ばかり気にしているのです。自分の評判に一喜一憂し、見た目を整えようとし、形から入ろうとする。やたらオシャレで小綺麗だけれど、中身が伴っていない人が増えている気がします」 阿部さんの価値観はその正反対だ。叱られることをいとわず、外見よりも中身を重視する。「僕は叱られると嬉しい、と感じます。問題点に気づかせてもらえないと、向上できませんから。若い人にも遠慮なく指摘してくれ、と頼んでいます。一方で外見には無頓着で、スタジオ入りの際のメイクもしません。見た目より、取材内容に注目してほしいからです。これはどんな仕事でも同じでしょう。大事なのは自分がどう見られるかより、どんな成果を提供するか、ということなのです」 こうして仕事の中身に注力することが、「どう見られるか」から生まれる不安やストレスを振り切る力となる、と阿部さん。「それには大前提として、仕事にやりがいを持ち、意義を感じていなくてはなりません。『この会社ならカッコよさそう』といったブランド志向だけで就職した人は、後々苦しい思いをするでしょう。それでも軌道修正は可能です。今いるところで必死にやりがいを探すか、見つからなければ転職してでも、自分のしたい仕事のできる場所に向かうことです。その場所でなら、ストレスを『避ける』のではなく、ストレスを『超える』モチベーションを持てるでしょう」 自身もそうしてキャリアを形成してきた。ここまでの道のりに、まったく悔いはないと語る。「僕は、仮に明日が来ないとしても後悔しないくらいの気持ちで仕事をして、日々全力を尽くしています。その毎日が、結果として明日へ前進する力の源になっています」あべ・ゆうじ テレビリポーター、俳優。1958年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部在学中にモデル、俳優デビュー。芸能活動のかたわら、家庭教師派遣会社も経営。96年にテレビリポーターに転身。数々のニュース番組やワイドショーに出演。情報バラエティ『スッキリ?』(日本テレビ系)レギュラーリポーターとして活躍中。英語が堪能で、海外取材や海外の著名人のインタビュー時には、通訳を介さず英語で会話する。関連記事■ 難局とは「経験値を上げるためのチャンス」だ!■ 今の日本が「ストレス社会」になった理由とは?■ 話題の家電ベンチャー起業家の「ストレス源をかわす処世術」

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    日馬富士暴行疑惑に見る角界文化と世間の常識の埋まらぬ溝

    日目から休場。福岡と東京を往復するなどせわしなく動き、身体を小さく縮めるようにうつむいて歩く姿を追うメディアでは、連日、様々な情報が飛び交っている。それにしても、次々と出てくるのは日馬富士の酒癖の悪さだ。 人によってお酒の酔い方は様々だが、量によって急性の症状が現れることを酩酊といい、その代表的な酩酊分類に「ビンダーの分類」というのがある。この酩酊分類によると、お酒を飲むと人が変わったように暴力的になって興奮してしまうのを、複雑酩酊と呼ぶ。酔ってくると抑制がはずれて気分が刺激されやすく、激しい興奮が起こり、それが抑えきれず、ちょっとしたことにでも過剰に短絡的に反応する状態だ。この時は、その人が抱えている複雑な感情意識が現れやすいといわれる。この状態の持続時間は長いが、状況に対する理解や意識は保たれている。日馬富士自身も酒癖の悪さは自覚していたはずだ。 稽古後に待ち構えたレポーターたちに囲まれた横綱は、「親方が…」と言うと、硬い表情のまま前を向き、口をつぐんで歩き出すが、「反論することは?」と聞かれると視線を下に落とした。それは、自分がやってしまったことへの罪の意識だけでなく、手を出したという事実があったからだろう。 九州場所について聞かれると、手を腰の辺りに回して足を止めた。この行動は、覚悟を決めここで口を開くしかないと思ったからかもしれない。だが同時に、自分がやってしまったこととはいえ、報道陣にあまり騒がれたくないという気持ちもあったのだと思う。 貴ノ岩のケガについてポツポツと切れ切れな言葉を絞り出すようにして、謝罪の言葉を口にした日馬富士。関係者に迷惑をかけているという思いが強いのだ。だが、そこに貴ノ岩に対する直接的な謝罪はなかった。自分が一方的に悪いのではない、そんな思いがどこかにあるのだろうか。「これ以上のことは…」と言葉を濁すと、口をしっかりと閉じた。再び歩き出した日馬富士だが、うつむいたまま口の端を噛んでいた。自分の酒癖の悪さとやってしまったことを悔やんでいるのだろう。 その後、伊勢ケ浜親方と一緒に貴乃花部屋に謝罪に出向いた日馬富士の足取りは重かった。うつむいたまま厳しい表情を見せて親方の後ろを歩く横綱。その前を顔色のない辛そうな顔で歩く親方は、部屋の前に停まっていた車に近付いていく。車の中には貴乃花親方が乗っていた。車の横に立った伊勢ケ浜親方が中を見ながら手を差し出そうとしたが、親方に構うことなく車はそのまま出てしまった。 去っていく車を見ながら茫然とする二人。「行っちゃったよ」「(貴乃花親方が)いたな」と言いながら、手首を触って、無意識に自分をなだめる伊勢ケ浜親方と、茫然と立ちすくむ日馬富士。すれ違いだったのは、親方が謝罪に行くと連絡していなかったためもあるが、なんとも不思議な光景だった。日馬富士の心の底に浮かんだ「諦め」 その後、伊勢ケ浜親方は電話や緊急理事会を含め、すでに3度、貴乃花親方に謝罪していたという報道が出た。だが、貴乃花親方は被害届を取り下げる気がなく、全面対決の構えだ。貴乃花親方が、伊勢ケ浜親方が車に近寄ったのに窓を開けることもなく発車させたのも、伊勢ケ浜親方が車に近寄っていく足取りが重かったのもそのためだが、貴乃花親方の対応にもいささか首を傾げしまう。 日馬富士はというと、走り去る車を目で追うことなく前を向いていたが、一瞬、貴乃花部屋の方に視線を送り、伊勢ケ浜親方の後についていった。車を目で追わなかったのは、諦めに似た感情が心の底に浮かんでいたように思える。また貴乃花親方の車ではなく、部屋の方に目を向けたところをみると、貴ノ岩の状態が気になっているのだろう。 ビール瓶で殴り、素手で数十発殴ったと報道されている日馬富士。ビール瓶で殴ったと聞けば、普通はそれだけで驚いてしまうし、どんな状況でも暴行は許されることではない。しかし、元相撲取りにこの問題について聞いてみると、こんな返事が返ってきた。「空のビール瓶で頭を殴るくらいの衝撃は、ガチンコで頭と頭がぶつかることに比べれば大したことはない」。また、さらに過激な発言だが「2週間のケガなんてケガのうちに入らない」とも言っていた。 相手は横綱で同じモンゴル出身ということもあるが、貴ノ岩も事を荒立てたくなかったのだろう。貴乃花親方には当初、転んだと伝えていたというし、翌日の巡業では土俵に上がり相撲を取っていた。日馬富士と握手して、一度は和解していたという証言もある。さらに、この問題について貴ノ岩から一任されている親方の行動が不可解すぎるという報道がある。貴乃花親方は今後、どう出るのだろうか。 横綱白鵬からは、ビール瓶では殴っていないという新たな証言も出てきて、日馬富士への任意の事情聴取も開始された今、果たして彼自身は真実をどう語るのか? そして貴ノ岩の今の状態、本意はどうなのか? 私たちが普段うかがい知れない、角界というある種特殊な社会の文化が、今回だけはちょっぴり明らかになるのかもしれない。関連記事■ 横綱昇進の日馬富士 素行の悪さで“ミニ朝青龍”と呼ばれる■ 秋場所で躍進の若手力士はいずれもガチンコ貴乃花グループ■ 白鵬が日本国籍取得を決意、これまでの波乱の経緯■ 貴乃花長男の結婚相手 清爽な雰囲気の黒髪美女の写真■ 「長男結婚」報道の貴乃花 理事長の座に現実味

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    トランプ“グルメ報道”合戦が象徴する新聞・TVの凋落

    日間(11月5日~7日)、NHKから民放全局、新聞紙面までジャックしたトランプ報道狂騒曲によって、大メディアの実態が浮き彫りになった。 「首脳会談の中身なんてどうでもいいんだ。トランプが食べたハンバーガーの店をすぐ突き止めろ!」 民放各局ではディレクターからそんな指示が飛び、テレビクルーは芸能人のように2人の首脳の姿を追いかけ、食べた料理と値段を報じ続けた。視聴率は正直だった。民放キー局の情報番組プロデューサーが語る。2017年11月、夕食会で安倍首相(右)と乾杯したトランプ米大統領=東京・元赤坂の迎賓館(AP=共同)「どの局もあのトランプならネタ満載だろうと特需を期待して番組を組んだが、ワイドショーは軒並み視聴率ダウン。夜のニュースも『報道ステーション』(テレビ朝日系)は1桁台、『NEWS23』(TBS系)は3%台でいつもより悪かった。“こんなはずじゃなかった”と、各局の制作部門はいま反省会をやってますよ」 “グルメ報道”合戦は新聞にも伝染した。読売新聞が、〈ニクい「おもてなし」 トランプ氏が親指立てて喜ぶ〉(7日付、夕刊)とハンバーガーに米国産アンガス牛が使われたことを報じると、朝日新聞は〈佐賀牛「トランプ特需」来る? 問い合わせ続々〉(8日付、デジタル)の見出しで、迎賓館での歓迎晩餐会で振る舞われた佐賀牛のステーキを記事化した。 いくら首脳会談の中身が乏しかったとはいえ、これでは読者や視聴者が“食傷”してしまう。 情報媒体としての新聞・テレビの著しい凋落は数字にはっきり表われている。日本新聞協会のデータによると、全国紙と地方紙を合わせた一般紙の総発行部数は2007年の4696万部から2016年は3982万部へとこの10年間で714万部もの急落。第2次安倍政権発足後の2013年からは毎年100万部前後のペースで部数が落ちている。凋落著しい朝日新聞 とりわけ凋落著しいのが朝日新聞だ。「慰安婦報道」の誤報問題(*注1)で批判を浴びた2014年度の1年間に64万部の激減に見舞われ、その後も部数減に歯止めがかからない。【*注1/朝日新聞が1982年から従軍慰安婦をめぐり「強制連行」があったとする吉田清治氏(故人)の証言を取り上げた記事について、2014年に「誤報」であったことを認めて記事16本を取り消した】 2013年4月には760万部あった朝刊部数はいまや624万部(2017年4月)。安倍政権下の4年間に136万部も落ち込んだ(日本ABC協会調査)。 危機的な部数激減は「反アベ」の朝日だけではない。憲法改正や安保政策で安倍政権と足並みを揃える論調を取ってきた読売も同じ4年間に986万部から881万部へと105万部の大幅な部数減となり、毎日、日経、産経を加えた有力5紙は「親アベ」「反アベ」の報道スタンスにかかわらず、減少傾向に歯止めがかからない。 当然、経営の屋台骨である広告収入は減る。朝日の2017年3月期決算(連結)は売り上げが4009億円で4年前から686億円落ち込み、営業利益は前期比41%ダウン。読売新聞東京本社も4期連続の減益となっている(東京商工リサーチ調べ)。 テレビ離れも確実に進んでいる。テレビ全体の総世帯視聴率(*注2)は「全日」(6時~24時)が2007年度の43.3%から2017年度上半期には40.3%に3ポイントのダウン。最も視聴者が多い「ゴールデンタイム」(19時~22時)の総世帯視聴率は同じ10年間で65.8%から59.9%へと5.9ポイントも下がった。平日の視聴時間(1日)はこの5年で184分から168分へと1日あたり20分近く減っている(総務省の調査による)。【*注2/調査対象の世帯で、どのくらいの世帯がテレビ放送を放送と同時に視聴していたのかという割合】 民放キー局の視聴率戦争はフジテレビの凋落が著しく、「健闘」とされる日本テレビも横ばいだ。 安倍晋三・首相は首相に返り咲いて以来、メディア対策を重視して新聞・テレビの経営トップと相次いで会食を重ねてきたが、大メディアと政権が接近するにつれて読者・視聴者が離れているのである。関連記事■ 朝日新聞「社外秘」資料入手 「3年で500億円減収」の衝撃■ 昭恵夫人の「パール接待」 メラニア夫人は何も購入せず■ イヴァンカ氏接待での“昭恵氏隠し”の意図は?■ 高須院長 元慰安婦同席の韓国に「日米にケンカ売る行為」■ しんぶん赤旗 部数が産経を超える日も近いとの見方

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    突出した朝日新聞のモリカケ報道「1172行」が意味するもの

    2016年の米大統領選では、共和党の大統領候補となったドナルド・トランプ氏が有権者の耳目を引こうと、メディアにニュース価値を提供するポピュリズム選挙を展開した。真偽のほどが不明な発言を連発、ネット上でも真偽不明なフェイクニュースがあふれ、共和・民主両陣営入り乱れて、世論操作に狂奔した。メディアによるフェイクニュース トランプ氏は、共和党予備選段階の討論会ではその過激な言動がテレビやSNSで拡散したが、民間のウェブサイト「ポリティファクト」によるファクトチェックでは、トランプ氏の発言7割程度が事実と異なるとされている。 情報発信者たる政治リーダーが、自ら真偽不明な情報を発してポピュリズムをあおり、ネット上でも真偽不明のニュースがあふれる現状の中で、権力を監視し、正確な情報を受け手に届ける責務を担ったマスメディアがファクトチェックの意義を重視したのは、自然な流れだったろう。公人による公的な場での発言には説明責任が伴う。その内容の真偽をデータに基づいて確かめていくのは、メディアの責務でもある。 しかし、日本では、メディアが流すニュース自体を「ファクトチェック」する必要がありそうだ。 衆院選では、希望の党の小池百合子代表が昨年7月の都知事選、今年7月の都議選で吹かせた「ポピュリズム」の風が吹くかに見えたがあえなく失速、都知事に専念するとしてあっけなく代表を辞任した。「ユリノミクス」をはじめとするカタカナ言葉も虚空に消えた。しかし、看過できないのは、政治リーダーによるフェイクニュースではなく、メディアによるフェイクニュースとも見まがうような情報操作だ。 もともと、米国では大統領選で、特定の候補を社説で支持したりする。「エンドースメント」と言われ、19世紀から続いている伝統で、ニュース部門とは別の編集委員会が決める。2016年の大統領選では、リベラルな論調で知られるニューヨーク・タイムズが社説で民主党のヒラリー・クリントン候補を支持した。ニューヨーク・タイムズ社 だが、日本では米国と違い、特定の政党を社説で支持するような「エンドースメント」は行われていない。「公正中立」「不偏不党」を標榜(ひょうぼう)して、新聞は記事を作成している。その意味で「日本の新聞はどれも似たような論調で、いったい有権者の判断基準になるのか」と米国の政治学者に言われたこともある。だが、今回の衆院選に関しては様相が違っていた。新聞による報道姿勢の違いがあまりに鮮明だったからだ。 突出した報道でネット上でも問題になったのが朝日新聞だ。安倍晋三首相も朝日新聞の突出ぶりを指摘した。10月8日に行われた党首討論会で、朝日新聞を名指しして、加戸守行・前愛媛県知事の証言について「次の日には全く(報道)していない」と指摘、「胸を張って(報道)しているといえますか」「国民はよくファクトチェックをしてほしい」と、わざわざ「ファクトチェック」という言葉を使って語気を強めた。 「全く」というのは言い過ぎた部分があったにせよ、前川氏の発言が大きく扱われ、加戸氏の発言を小さく扱っていたのは事実だ。「不偏不党」を標榜する朝日 朝日新聞が、森友・加計問題に執心していたことは、10月26日付の産経新聞「森友・加計問題 朝日は執念の断トツ1172行も…投票で重視は有権者8%」で明らかにされている。産経新聞による「ファクトチェック」だ。 産経新聞によれば、10月11日付~22日付の朝刊で、森友・加計問題に関する衆院選の記事は、毎日新聞が483行(1・2ページ分)、日本経済新聞が378行(0・6ページ分)、読売新聞が48行(0・1ページ分)だったのに対し、朝日新聞は1172行(2・2ページ分)と突出していた。 一方で、産経新聞はNHKが投開票日の22日に実施し、27万3千人以上が回答した出口調査で、森友・加計問題を投票で重視したとの回答は8%で、最も高かった「消費税率の引き上げへの対応」(29%)の約4分の1にとどまっていたことも指摘している。 読者が「これは反安倍のエンドースメントなんだ」と納得して朝日新聞の記事を読んでいれば、それはそれでいいだろう。記事に一定の方向性を盛り込むことを「角度をつける」というが、「角度をつけています」と言わずに、「公正中立」「不偏不党」を標榜しながら角度がついているというのは、メディアの矩(のり)を超えた情報操作のそしりをまぬかれまい。 もっとも、朝日新聞は角度をつけた世紀のフェイクニュース、いわゆる従軍慰安婦問題の「前科」があり、今日に至るまで国益を損なうような大誤報で「誤報ではないか」とずっと指摘され続けながら、そのファクトチェックを怠り、慰安婦問題は日韓関係の「トゲ」となって、歴代政権のくびきとなっている。それが狙いだったとしたならば、狙い通りなのかもしれないが、世界に対して「慰安婦の自社の報道をファクトチェックしたところ、虚偽でした」と、韓国のプロパガンダ攻勢で半ば歴史的事実にされようとしている慰安婦問題を、当事者として火消しに回るのが筋だろう。特集「慰安婦問題を考える」を2014年8月5、6両日付の朝刊に掲載した朝日新聞 メディアには権力を監視する機能も期待されているが、「エンドースメント」と「ストレートニュース」を分離しない、ということであれば、メディア同士で「角度がついた報道」をクロスチェックするしかないだろう。 「フェイクニュース」も「ファクトチェック」も、「権威を装ったニセモノ」と見透かされて、政治のはやり物として消え去っていくかもしれないが、政治家もメディアも「信頼」というもっとも大事な財産を失わないように、有権者は自戒を求め続けるしかあるまい。

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    「そんなもんスよ、日本なんて」あの朝日社説に感じた異質な疑問

    渡辺龍太(フリーニュースディレクター) 朝日新聞が慰安婦記事の誤報を認めてから、世間の朝日新聞に対する監視の目は厳しくなっています。それにも関わらず、朝日新聞は「記事に角度をつける」という演出をやめません。実際、多くの人によって朝日新聞の記事がファクトチェックされ、印象操作ではないかと指摘される事が、今も頻繁にあります。やはり、戦前から脈々と伝わる、事実を自社の主張に合わせてねじ曲げる記事の演出テクニックは今も健在なようです。それに加え、最近、あえてファクトチェックできないようなスタイルで書いたのではないかと感じさせられる異質な社説が、11月5日に掲載されていました。朝日新聞東京本社=東京・築地(産経新聞チャーターヘリから、桐原正道撮影) 問題の社説は、「政治の可能性 『そんなもん』を超えて」というタイトルです。 そこから、すでに曖昧でポエム調な雰囲気を醸し出していて、一流新聞の社説として違和感を覚えます。内容は学生らが民主主義などについて語る「Bottom Up Democracy」というイベントを見てきた朝日の記者が、記憶に基づいて感じた事だけを書いたエッセーです。 この社説は冒頭で、このイベントについて、次のように説明していました。 呼びかけ人に名を連ねたのは、2年前、安全保障法制への反対運動を展開した元SEALDs(シールズ)のメンバーや弁護士ら。高校生や大学生が次々と脚立にのぼり、民主主義や選挙についてそれぞれの思いを語る。投票に行こうと呼びかける。 この文章を読んだら、その後に続く内容が、「(左寄りの)若者が語る民主主義や選挙の大切さ」という内容なのだろうと感じる人がほとんどだと思います。しかし、そうではありません。この後に登場するのは、このイベントに登壇する立憲民主党の政治家たちのスピーチと、それを聞く若者たちの様子が書かれています。 普段、新聞を一字一句のレベルで精読している人は少数派です。多くの人は、流し読みに近い形で、テンポよく読んでいるはずです。そうなると、おそらく多くの人は、この文章を冒頭のイベント内容の説明の先入観から、政治に声を上げる若者たちの姿が書かれているのだろうと思いながら読んでいるだろうと推測できます。そのため、どれが政党の主張で、どれが若者の声なのか、読者に誤解を与える可能性のある文章の作りだと私には感じられました。誤解が生じないようにするには、引用した文章の最後に、記者としては、特に立憲民主党の政治家の話を聞く若者が印象に残ったという事を書くべきだと思いました。記者が勝手に推測した部分 では、立憲民主党の政治家の話を聞く若者について、書かれている部分も引用します。 主役はみなさん 結党1週間、立憲民主党の枝野幸男代表もマイクを持った。 草の根から声をあげていく、本当の民主主義をつくりましょう、主役はみなさんです――。 何事かと立ち止まる人。顔をしかめて通り過ぎる人。会場に背を向けて横断歩道の両端に立ち、渡ってくる人を見据えている若い男性2人組はおそらく、スカウトマン。派手めの女性にだけススッと近寄り、声をかけている。 ○○さん。後輩スカウトマンがふいに、先輩の名を呼んだ。「あいつ『主役はみなさん』とか言いながら、俺らのこと『草の根』ってディスりましたよ」 へえ。聞いていたのか。「草」「根」の語感から、下に見られたように感じたのだろう。「そんなもんスよ、日本なんて」 後輩の憤怒を受け流していた先輩は、枝野氏に続き脚立に乗った同党の福山哲郎幹事長が「まだ働かれているみなさんも、この大きなうねりにおつきあいを」と呼びかけると心なしかうれしそうな表情を見せた。 後輩よりも仕事熱心、声をかけ、無視され、肩でため息をつきつつ定位置に戻る先輩の右手にはなぜか、最低賃金1500円への引き上げを求めるグループが配っていたパンフレット「働き方改革のひみつ」がずっと、握られていた。 どんな言葉なら、彼らに届くのだろう。果たして政治は、そんな言葉を持っているか。いや、それ以前に、彼らのことがちゃんと見えているだろうか。 この文章に書かれている男性2人の情報を、整理してみましょう。まずは、事実と確定できる部分を見ていきます。記者が本人に確認したわけではありませんが、2人の行動から職業はスカウトマンと言えるでしょう。後輩らしき人物は、「草の根」という単語が分からない学力で、日本の政治家には失望しているような発言をしていました。先輩らしき人物は、後輩よりも仕事熱心な人物で、手には働き方改革のパンフレットが握られていました。 こうやって、事実だけに注目してみると、あまり政治色が強くない、よくいる歌舞伎町の若者のように見えなくもありません。例えば、街を歩いていると、必ずしも、自分の興味のあるパンフレットだけを受け取るわけではありません。絶妙なタイミングで渡されたら、思わず手にとって、しばらく、持ったままになってしまう事もよくあるはずです。 次に、記者が勝手に推測した事を見ていきましょう。後輩は草の根という言葉の語感から、政治家から下に見られたように感じて怒っているのではないかと推測しています。そして、先輩は立憲民主党の福山幹事長のスピーチに対して、うれしそうな表情を見せたと記者は主観で書いています。この文章から、記者は先輩が、立憲民主党に対して、何らかの希望を抱いているのではないかと推測しています。記者はなぜ取材しなかった? この記者の推測を事実に加えると、男性2人は、非常に政治に興味があるようにしか見えなくなります。それだけでなく、スカウトマンという職業の2人が、学力や収入が少ない「弱者」という立場に置かれている人たちに見えてきます。その結果、その弱者の若者が、現状の政治(自民党政治)に不満を持ち、立憲民主党に期待しているように見えてきます。 確かに、この社説は、記者が見て感じた事を書いただけの文章ですから、一般の記事のようにファクトの根拠が正確に求められる事はありません。しかし、積極的に意見を述べてはいない若者が、イベントの概要説明の冒頭部分からの文章構成と記者の推測により、明確な意見を持っているように読者に見せていることには問題があります。100歩譲って文章構成は偶然だとしても、記者の臆測を文章から排除したければ、スカウトマンと思われる2人組に記者が話を聞いて取材すればよかっただけです。(画像:iStock)  それをしなかったのには、ファクトチェックのしようがない状態を保ちつつ、「立憲民主党が、スカウトマンの若者に希望を託されている」という記事を書きたかっただけのように思えます。そうすれば、立憲民主党の支持者が多そうな読者に意外性とうれしさなどを感じさせる事ができ、記事の反応が良い事が容易に想像でき、動機も明快に見えてしまいます。 そうやって、記者に対する信頼を無くした上で、改めて社説を読み返すと、スカウトマンの2人の会話も実際に起こった出来事なのか疑問に感じられてしまいます。なぜなら、「俺らのこと『草の根』ってディスりましたよ」と言う後輩は、「草の根=俺ら」という事を理解する国語力があるわけです。その能力がある人が、草の根の意味が分からないという事があるでしょうか。草の根の意味が分からない人は、「草の根から声をあげていく」という言葉を聞いても、それが「俺ら」である事も分からないのが自然なのではないでしょうか。 また、スカウトマンが、あたかも最低時給が1500円に上昇する事に興味があるような雰囲気で文章が書かれていますが、非常に強い違和感を覚えます。なぜなら、スカウトマンという職業は、一獲千金を夢見て、稼ぎたいような若者がする職業だと思われるからです。普通のアルバイトよりも稼ぎたいとスカウトマンになる若者が、飲食やコンビニのアルバイトスタッフのように、最低時給に興味があるのでしょうか。大いに疑問です。 さて、この記事は、ツイッターで有田芳生議員がコメントするように、朝日新聞のコアなファンには非常に受けが良い文章のようです。(社説)政治の可能性 「そんなもん」を超えて:朝日新聞http://www.asahi.com/articles/DA3S13214074.html … 読みごたえがある政治家必読の論説です。路上の声をよく聞き取っているこの社説子は「きっとあの記者だろう」と推測してしまいました。とてもユニークです。 (有田芳生氏ツイッターより) 私は、これに対しても、非常に強い違和感を覚えました。それは、私は放送作家やニュース番組のディレクターとして取材をしてきましたが、ここまで絵に描いたように、記事的に都合の良い事は、なかなか起こらないからです。表情を記者が「憶測」で解釈 その観点から見ると、特に、この記事に登場するのが、一般的な若者でなく、政治に興味を持つだけで意外性のあるスカウトマンというのが、非常に出来すぎている気がします。しかも、今の20、30代は自民党支持者が多く、立憲民主党は割と高齢な人に支持されているのに、そのスカウトマンが立憲民主党に期待しているのです。このように、2重に意外な事が実際に起きたとは私には思えません。ですから、スカウトマンの「草の根と俺らの事をディスられた」という会話を、記者が本当に聞いたのか、私の感性では、どうしても疑いたくなってしまいます。 こうやって書くと、私こそ朝日新聞に憶測でイチャモンを付けていると感じる人もいるかもしれません、しかし、朝日には記事に角度をつけて演出してきた歴史があるので、私は正当な指摘をしていると思っています。 例えば、過去には慰安婦の記事だけでなく、朝日新聞のカメラマンが、自分の書きたい事が、都合よく起きないために、サンゴに自ら落書きをして、それを記事にした事件があった事もありました。福島市内での第一声で地元住民が握ったおにぎりを食べる自民党の安倍晋三首相=2017年10月10日、福島市佐原(松本健吾撮影) そういった過去の出来事に加えて、最近も、朝日新聞の印象操作ではないかと指摘された記事は、多々あります。例えば、福島産のおにぎりを食べる安倍総理の表情がこわばっていたという記事があります。実際に、総理がおにぎりを食べている映像を見ると、決して、こわばっていたようには見えません。偶然なのか、同じ手法で書いたのかわかりませんが、今回の社説にもスカウトマンの表情を記者が憶測で解釈する部分もありますし、非常に角度の付いている文章と感じられると言われても仕方ないと思います。 朝日新聞が慰安婦報道の誤報を認めて以来、数多くの人が、朝日新聞のファクトチェックを行なっています。ですが、もう、それだけでは十分で無いように感じます。 今回のような、ファクトの確認できない記事にも、なぜファクトが明示できない記事を新聞が書くのかと追求するべきです。そうしなければ、記者が頭の中で、あらゆる事を創作して書いたにも関わらず、ファクトチェックすらされない記事が世の中に流通してしまいます。その結果、事実では無い事を、事実だと思ってしまう国民が大量発生してしまうでしょう。以後、再びポエムだかエッセイだかよく分からない、ファクトが曖昧な記事が、朝日新聞に登場しない事を心から期待したいです。

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    朝日新聞に問う「国民の意思」はアンチ安倍しか認めないのか

    会の多数党を基盤とする政府を原則とするという考え方が確立された。民主主義のプロセスを破壊しようとしたメディア そして、日本国憲法では、議院内閣制が採用されて、衆議院の指名で首相が選ばれるようになった。その意味で、立憲主義とは総選挙で首相を決めるということをもって、その基本としているわけである。 現行憲法の下で、各政党は通常、首相候補を明示して総選挙を戦っている。その意味で、今回の総選挙で希望の党が明示しなかったことは非常に疑問があったのだが、少なくとも、自公は安倍晋三首相が与党過半数なら続投と明言したのだから、そういう結果が出た場合に、首相続投以外の選択をすることは立憲主義のプロセスを否定するものにほかならなかった。 さらに、過半数を割った場合でも、首班を誰にするか各党で話し合いが行われるのが普通だが、最優先の候補は第一勢力の代表だ。第一党といわないのは、自公のように連立を組んでいる、あるいは、連立を組むと明言している場合は、ワンセットとして扱うべきだからだ。例えば、ドイツでキリスト教民主同盟(CDU)とキリスト教社会同盟(CSU)はワンセットとして扱われている。 英国のメイ首相も6月の総選挙で保守党が過半数割れしたが、小地域政党の協力を得て続投しているし、スペインのラホイ首相も2回連続で過半数割れしているが同じく引き続き政権を担っている。英国議会の議事堂、ウェストミンスター宮殿(iStock) もちろん、自民党内の問題としては、自公で過半数割れすれば、勝敗ラインをそこに置いたがゆえに退陣論が出ることはあるだろうし、勝敗論として国民にそれを明示しているがゆえに、退陣することが国民への背信とはいえないというだけのことだ。こんなことも分からないなら、民主主義を論じる資格はない。 しかし、朝日新聞やそれと同傾向にあるマスメディアは、この民主主義のプロセスを破壊することに全力を挙げたのである。 特に、10月8日の日本記者クラブ主催の党首討論とそれを巡る報道はひどかった。ともかく行司のはずの司会進行役が、自らまわしを締めて戦う気全開だったからだ。その1人である毎日新聞の倉重篤郎氏は、自らこんなことを書いている。 日本記者クラブの企画委員という仕事をこの数年やらせていただいている。 同クラブで記者会見をしていただく方々のコーディネート役である。政治担当なので国政選挙や自民党総裁選のクラブ主催の討論会の際には、代表質問役の一人を仰せつかる。 重要な仕事だと思っている。国民が聞きたいことに質問の矢を絞る。何らかのニュースを引き出す。ことの本質にできるだけ迫る。毎回そういう思いで、やってきたつもりであるが、いつも終わった後で、あの時こう聞けばよかった、という後悔の嵐である。 10月8日の衆院選党首討論会もまた然(しか)り。私からしてみると大義のかけらもない安倍晋三首相によるこの解散政局に対し、その非道さの本質を突く質問ができたか。安倍氏から十分な答弁が得られたか。改めて自らに問うてみた。2017年10月17日「サンデー毎日」質問のなかに価値観を入れた この討論会で、倉重氏は「総理の友人が優遇されたことについて」と首相の答えを遮ってしつこく回答を求めた。加計学園は優遇されたのではないかという指摘があり、その有無が論争の種なのに、優遇されたということを前提にして、責任を取るかどうかの質問をするのは全共闘のつるし上げでもあるまいし、むちゃくちゃだった。私も敬愛していた立派なジャーナリストだったが、どうしたのだろうか。もはや、東京新聞のM氏並みといえばM氏に失礼かと思ったほどだ。2017年10月、党首討論会で討論する自民党の安倍晋三首相(左)と希望の党の小池百合子代表=日本記者クラブ(宮崎瑞穂撮影) さらに、倉重氏は「この解散は安倍さんの、安倍さんのための、安倍さんによる選挙だといわれている」とか、「50議席以上減っても居座るか」と尋ねていたが、質問のなかに価値観を入れてしまったら記者がプレーヤーになってしまう。「居座るか」でなく「退陣される可能性はないのか」と言うべきだろう。このような討論会が二度とあってはならないし、きちんとルールをつくるべきだと思った。 しかし、このようなアウェーで不公正な場でも安倍首相は冷静に対処した。その結果、朝日新聞デジタルは次のように報じていた。 (解説)勝敗ラインは・・・自公で「過半数」? 選挙につきものなのが、「勝敗ライン」。今回の衆院選では、定数465議席を各党がどう分けるかで、その後の政治情勢が大きく左右されます。 安倍晋三首相(自民党総裁)は党首討論で「政権選択選挙だ。過半数を維持すれば政権を継続する」と述べ、自民、公明両党で過半数(233議席)を得れば、引き続き政権を担えるとの認識を示しました。ただ、9月28日の解散時、自公はあわせて323議席ありました。自公で過半数というラインはあまりに低い、という印象です。 討論で記者は「(自民党が)50議席減なら(首相の)退陣論がある」と指摘し、現実的な勝敗ラインを引き出そうとしましたが、安倍首相はラインを引き上げることはしませんでした。 自公で憲法改正を発議するために必要なのは、定数の3分の2にあたる310議席。13議席減というラインです。また、自公あわせて63議席減だと、衆院で17ある常任委員長ポストを自公で独占したうえで委員の数でも過半数をおさえる「絶対安定多数」を割り込みます。そのほかにも、自公あわせて244議席という、「安定多数」というラインもあります。 こうした様々なラインのどこに落ち着くのか。安倍首相の去就、政権の安定、政権交代――。あらゆる選択肢が、こうした数字によって起こりえるのです。衆院選2017「衆院選 討論会」(2017年10月8日)「石破擁立」で与党分裂の不見識 あらゆる挑発に乗らずに、「自公で過半数」と言い切ったのだから、これで、自公が過半数を得たにもかかわらず、安倍首相が退陣したら公約違反ということになったとみるのが、普通の見方だ。 さらに、本当は「過半数を取ったらいうまでもなく続投します。また、過半数は取れなかったとしても、ほかに過半数を得た政党や連立を組むということで政策協定を結んでいる政党連合があれば、退陣せざるを得ません。しかし、そうでないならできる限り続投すべく努力をしたい。特に、自公合わせて比較第一勢力であれば、まず優先して連立や閣外協力をどこかいただけないか努力するのが筋だと思います」と言ってほしかったくらいだ。  アンチ安倍勢力のなかには、自公が過半数を得ても僅差なら、石破茂元幹事長を首相候補として担いで与党分裂を狙おうという輩もいたが、これもひどい不見識だった。 選挙のときと違う政党に移ったり、党内手続きを経ずに自党の党首と違う首班候補に投票することは、それこそ立憲主義に反する。その後に根本的な状況の変化がない限りは禁じ手である。かつて細川護煕内閣が誕生したときには、自民党で宮沢喜一内閣不信任案に賛成した小沢グループは新生党を結成し、不信任案に反対したもののその後は自民党の外で活動したいという武村グループは新党さきがけを結成して、それぞれ総選挙を戦った。それが民主主義というもので、彼らは選挙のあとになって自民党を離れたのではない。 だから、選挙で自公がどうなろうが、石破氏が自民党としての意向に基づかず、首班指名を受けることなど許されないはずだった。あるとしたら、どこも過半数を取らなかったときに、希望の党から「安倍首相には協力できないが、石破さんなら協力しても良い」という提案があって、自民党が党としてそれに乗ったときや、希望の党が過半数を制して「自党に適当な首班候補がいないので、石破さんどうですか」と持ちかけられたときくらいだった。ところが一部マスコミは、自公が過半数を得ても、石破氏らが首班指名で造反することを期待するようなことをいっていたが、これも立憲主義に反した期待だった。真の「立憲民主主義」とは さらに、選挙が終わってからも、朝日新聞などは選挙結果を国民の意思として認めないという論調を続けた。東京都中央区にある朝日新聞社東京本社(産経新聞社チャーターヘリから、納冨康撮影) 立憲民主主義とは、選挙で誰が過半数を占めたか、それが実現していなければどこが第一党かを尊重するということなのである。一般的な人気や大きな影響力を持つ人の意見、アンケートなどによる調査、得票率などといった意見集約方法の結果ではなく、唯一国会の議席の数、特に過半数を制しているかどうかをもって国民の意思とすることこそ、立憲民主主義なのだ。選挙の結果にかかわらず、「国民の意思が別のところにあるから無視しろ」というのは、まさにナチスやボリシェビキの論法だ。 「野党分裂型」の226選挙区は全289選挙区の78%を占める。結果は与党183勝、野党43勝と与党側の大勝だった。これに対し、「与野党一騎打ち型」の57選挙区では、与党39勝、野党18勝。分裂型に比べて野党側が善戦した。 野党が分散した最大の原因は、民進党の分裂だ。民進の前原誠司代表が衆院選前に小池百合子・東京都知事率いる希望の党への合流を表明。民進で立候補を予定していた人は希望、立憲民主党、無所属に3分裂した。 ただ、民進は前原執行部の発足以前、共産党や社民党などとの野党共闘を進めていた。昨年7月の参院選では、32の1人区で野党統一候補を擁立し、11勝という成果を上げていた。 そこで、「立憲、希望、共産、社民、野党系無所属による野党共闘」が成功していればという仮定のもと、朝日新聞は独自に、各選挙区でのこれらの候補の得票を単純に合算する試算を行った。その結果、「野党分裂型」226選挙区のうち、63選挙区で勝敗が入れ替わり、与党120勝、野党106勝となった。野党一本化なら63選挙区で勝敗逆転 得票合算の試算(2017年10月23日) 3年前の総選挙でも日本経済新聞が「衆院選分析 自民、得票率は48%どまり 議席占有率は76%」と報じたが、連立政権を組むための政策協定を結べずに政権を取れば、公約違反は必然となる。 だから、ワンセットでの政権公約を出した勢力のなかで最有力のグループが過半数を取りやすいような選挙制度になっているのが普通だ。イタリアでは第一党(政党連合)に過半数の議席を与えるようにしているし、スペインは、議会で過半数を形成できなければ、前政権が引き続き政権を担う仕組みだ。現政権を倒したいのなら、選挙の前に連立政権の政策合意をしなさいというだけのことである。 さらには、投票率まで問題にして、自公への投票は有権者の4分の1程度という論法も使われているが、棄権はあくまで白紙委任という意思表示であって、選挙への不参加ではないはずだ。ジャーナリズムの名に値するか疑問 最後に、フリーライターの山田高明氏がブログで「アゴラ砲に殺された民進党」という記事を書いているので、そのさわりを紹介しておきたい。 民進党は今現在、哀れなプラナリアのように四つの勢力に分裂して生き永らえている。今回の選挙結果が一連のプロセスの区切りだとしたら、「始まり」は何だったのだろうか。私はまさに八幡和郎氏による次の記事だったのではないかと思っている。「蓮舫にまさかの二重国籍疑惑」(2016年08月29日)フリー座 By 山田高明 Takaaki Yamadaという出だしに始まり、 誠実な対応によってのみ消火可能だったのに、彼女を露骨に援護射撃した朝日・毎日や左派系知識人の尻馬に乗ってか、同じ様に批判を排外主義や差別主義へとすり替えてしまった。だが、「赤いパスポートになるのが嫌だった」という本音を持つ人が、なんで日本の国会議員になろうと思ったのか、なってどう国家に奉仕する意志だったのか、誰であろうと疑問に思うのは、素朴な庶民感情として当然のことだ。興味深いことに、上のような現象は、これまで新聞・週刊誌やワイドショーなどのメディアが火付け役だった。ネットメディアから放たれた「実弾」がここまで政局を揺るがした例は、国内史上初めてのケースかもしれない。これはまた、ネットを通して大衆に広まった「野火」が、朝日・毎日といった既存メディアの権威と力をもってしても消火不能だったことを意味している。力関係の逆転とまでは言わないが、大衆による情報の拡大再生産がメディアの大衆操作力を打ち破った例として、ある種の歴史的な転換点だったのは間違いない。(中略) ここまで急激に民進党が衰退して離散を余儀なくされたのも、元はと言えば、八幡和郎氏が放った一発の「銃弾」がきっかけだったのかもしれない。フリー座 By 山田高明 Takaaki Yamadaで結んでいる。 山田氏は、アゴラや私が民進党をつぶしたようにいわれているが、もし、蓮舫氏が私の指摘を受けて代表選への出馬辞退をしておけば、私たちは民進党を創立早々の瓦解(がかい)の危機から救った救世主と言われて、自民党から恨まれていたはずだ。2017年10月、民進党参院議員総会を終え、記者の質問に答える蓮舫前代表 ジャーナリズムというのは、どの政権や党を「助けよう」とか「つぶそう」とかいう気持ちで行動するのは邪道だと思う。その意味でも、「最近の朝日新聞はジャーナリズムの名に値するか疑問だ」という言葉で締めくくっておきたい。

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    朝日新聞と嘘ニュース

    先の総選挙が終わってはや一カ月。政権与党に対する朝日新聞の論調は相変わらずである。「数におごることなかれ」「謙虚というなら行動で」…。安倍憎しがウリとはいえ、選挙の民意をこうまで否定されると、さすがに「嘘ニュースでは?」と疑念を持つ人もいるのではないでしょうか?

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    そっぽを向かれた朝日新聞とモリカケ報道

    レビと新聞の影響力は、インターネットの登場以来、「急落」しているのである。そのことを認めたくない既存メディアは、自分たちが「世論を左右している」と未だに思い込んでいるのだ。(iStock) テレビや新聞が、確かな情報を真摯(しんし)に国民に伝えつづけていたら、これほどの「影響力の低下」はなかっただろう。しかし、多くの国民がネットで幅広く情報を得ることができるこの時代に、ファクト(事実)に基づかない偏った報道をつづける既存メディアは、さすがに国民に「ソッポを向かれてしまった」のだと思う。 今年、気の遠くなるような時間を費やして国会で延々と取り上げられた森友・加計問題は、典型的なフェイク・ニュースに基づくものだった。あの豊中市の当該の土地は、かつて「大阪空港騒音訴訟」のまさに現場であり、そのため、どうしてもここを売却したくて仕方がない国が、周辺の土地を森友以上に値下げして手放していた事実がネット等では詳しく報じられた。 しかし、安倍政権に有利になるような情報は、テレビや新聞が一切、報じることはなかった。籠池氏と安倍首相が、実は一度も会ったこともなく、あの「お友だちへの国有財産の8億円値下げ」などということが、いかに事実に基づかない“印象操作”によるものだったかは、ネットで繰り返し報じられていた。具体性もなく観念論ばかり 加計学園問題もひどかった。5月17日付の朝日新聞の一面トップ記事から始まったこの問題は、その記事に出ていた文科省の内部文書なるものの写真が“加工”されていたことが判明するなど、多くの問題点がネット上で指摘された。 具体性もなく、観念論ばかりで、印象操作を必死でおこなったテレビや新聞は、当事者である加戸守行・元愛媛県知事の国会証言も報じず、国家戦略特区諮問委員会のメンバーたちの証言や記者会見もカットした。そんな偏向報道をもとに「モリ・カケ」を延々と問題化してきたマスコミや野党に対して、有権者はとっくに「愛想を尽かしていた」のである。 残念だったのは、“現実政党”になるはずだった小池新党(希望の党)が「第二民進党」となり、現実から「自ら遠去かっていった」ことである。「一院制」やら、「原発ゼロ」やら、思いつきとしか思えない聞こえのいい政策を打ち出した末に、財源問題で「企業の内部留保への課税」まで言い出してしまった。 私の周囲には、「こりゃ、だめだ」と思わず笑いだす人もいた。それはそうだ。自分の身に置きかえて考えてみたらいい。所得税も、消費税も負担している自分が、そのうえ、貯金にまで「課税」されたら、どうなるだろうか。そんな二重課税など、常識で考えても許されるはずがない。 こんな政策が罷(まか)り通ったら株式市場は大暴落し、たちまち日本経済はあの民主党政権時代に逆戻りしてしまうだろう。「希望の党も、結局、現実を見ることができない“空想政党”なのか」と、失望した人は多かったに違いない。 一方で、安保法制を「戦争法」と断じ、空想的平和主義、一国平和主義たちの集団である立憲民主党の躍進という意外な結果も見られた。立憲民主党とは、国民の総スカンを食った、あの「菅直人政権」の面々である。彼らに一体、何を期待するのか、と思う。 日本には、かつて55年体制下で「革新票」を投じつづけた一定の層がある。そこに、小池氏によって「排除された人々」という立憲民主党への同情が加わり、予想外の票を集めたのである。 希望の党は、今後、“泥船”から逃げ出し、もとの仲間のもとに走る面々が出ることが予想され、“茨(いばら)の道”が待ち受けている。しかし、思いつきで、耳ざわりのいい政策だけを並べて有権者に媚びようとした今回の失敗を反省して、ひたすらリアリズムを突きつめていくなら、まだブームを起こす可能性は残っている。ポイントは、日本維新の会と、どういう形で連携、もしくは合併を模索していくかにあるのではないだろうか。 今や自民党の最大支持層は、ネット世代である二十代を中心とする若年層になってしまった。朝日新聞が選挙終盤の10月17、18日の両日に実施した世論調査でも、比例区投票先を「自民党」と答えた世代は、圧倒的トップが「18~29歳」の41%であり、親の世代である「60代」の27%を大きく引き離していた。(iStock) 各社の世論調査も同様で、若者ほど自民党を支持していることが数字にはっきりと現われているのである。若者は冷徹なまでのリアリストであり、現実政党しか信じない。 就職もままならなかったあの民主党時代にだけは戻りたくない彼らを、安倍政権が今後もどう惹(ひ)きつけていくのか。朝鮮半島有事が刻々と近づく中、さまざまな面で「お手並み拝見」といきたい。(「門田隆将オフィシャルサイト」より2017年10月23日分を転載)

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    山尾志桜里に「むき出しの好奇心」で迫る報道は控えるべきか

    ちそうな言葉だ。神奈川新聞の記事を読むと、この文言通りに発言したのかどうかは定かではないが、山尾氏のメディア対応についての決意を読み取ることができる。 その決意とは、週刊誌で不倫疑惑を報じられた倉持麟太郎弁護士を政策顧問に起用するにあたり、男女の関係があったかどうかということを含め、今後は「『私』の部分に一定のライン」を引き、この件に関係するプライバシーは一切公表しないというものである。無所属で当選し、喜ぶ山尾志桜里氏=2017年10月、愛知県長久手市(安元雄太撮影) 「むき出しの好奇心」は、著名人のスキャンダルを追う週刊誌やワイドショーの取材の原動力になっているし、その背景には、何百万、何千万という一般読者や視聴者が、こうしたメディアコンテンツをチェックしている。著名人のプライベートな部分を知りたいという情動は多くの日本人によって共有されているのだ。 スマートフォンで著名人のスキャンダル記事をつい見てしまうことはないだろうか。ソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)に書き込みをしてバッシングに参加しなくても、炎上を眺めながら、たたかれている著名人への優越感、たたく側に属していることで得られるつかの間の全能感、一体感などを味わっているのであれば、山尾氏が忌み嫌う「むき出しの好奇心」をあなたも内に秘めているということになる。 それを断罪するつもりはない。筆者はテレビ局でワイドショー番組の担当をしていたときに「むき出しの好奇心」に突き動かされるように、芸能ネタ、事件ネタを探していたこともあるからだ。そのような欲望に応えることができるネタがウケることも十分に理解できるが、取材される側にとっては、メディアに追いかけられることが心理的負担になるのも確かである。 では、山尾氏が強い不快感を抱いた「むき出しの好奇心」に下支えされた取材や報道は控えるべきなのだろうか。 この問題を考えるにあたり、まず広い意味での「報道」の判断基準について述べたい。番組、あるいは週刊誌などで取り上げるべきトピックかどうかの判断基準は二つあると、筆者は考えている。一つは「一般の人が関心をもつもの」(一般の人が好奇心を刺激されるもの)、もう一つは「公共性があるもの」である。この二つの要件をクリアしたものが広い意味での「報道」に値する。ワイドショーであっても、好奇心を刺激するだけで公共性がない著名人のプライバシーを取材し放送することは許されないという考え方だ。 この判断基準はニュース番組や新聞記事にも適用できる。こうしたおカタいメディアには、「公共性があるもの」という点がより重視されるものの、「一般の人が関心をもつもの」という要素を度外視することはできない。取材側にも問題アリ では今回の山尾氏のケースは、報道するに値しないのだろうか。この点、山尾氏は倉持弁護士と「男女の関係」があったかどうかを聞かれたことに関して、次のように述べている。 私へのその問いは、どのようにして社会の役に立つのだろうか。政治家としての私を評価する上で、一体何の判断基準になるというのか。(「カナロコ by 神奈川新聞」11月7日) 政治家が不倫をしていたかどうかを、具体的に質問することにはニュース価値が全くないような言い方であるが、違和感がある。不倫をしているかどうかは、政治家を評価する上でひとつの判断材料になるはずである。 一般に有権者は、公表されている政治家が実現を目指す政策や政治姿勢だけで投票行動を決定するわけではない。家族観や社会観、それに人柄や生活信条なども含め人間性をトータルで判断しているのだ。山尾氏が不倫をしているかどうかということは、直接的ではないかもしれないが、彼女の家族観、ひいては政策に結びついていく可能性はないだろうか。 もしも万が一、山尾氏が不倫も含め自由な恋愛の形態を認めており、フランスのように結婚という制度にはあまり拘束されず、いわゆる事実婚が広く認められるような社会を望んでいるならば、それは有権者の投票行動に影響するに違いない。こう考えると、メディア側が夫以外と「男女の関係」があるのかどうか、それについてどう考えているのかという質問は、単なる興味本位ではなく、家族観や社会観につながっていく可能性があり、「公共性」がある質問であろう。山尾志桜里の不倫疑惑を報道する週刊文春=2017年9月14日 「むき出しの好奇心」については、もう一つ論点がある。山尾氏のケースでは、メディア側や一般の人の好奇心をあからさまに突き付けることで、彼女への大きなプレッシャーとなった場合にも取材は許されるのかということである。つまり、取材方法の問題だ。 山尾氏は、以下のようにメディアを批判している。 「男女の関係はあったのですか」「本当に関係はなかったのですか」。さらに「離婚はしたのですか」-。数多くの一般の人々が行き交う衆人環視の下、大きな声でしつこく繰り返し問われた。私はこれまで通り電車で通勤している。普通に考えてみてもらいたい。歩いていて、突然レコーダーを突き付けられ、そんな私的なことを問われる異常さを。(「カナロコ by 神奈川新聞」11月7日) 筆者もテレビ局での取材経験から、このような「突撃取材」をする側の論理や感覚はわからないでもない。事務所を通して取材申請をしても断られるのに決まっているから、本人を待ち伏せして質問を浴びせる。質問に答えようと答えまいと、相手のリアクションを撮影していれば、取材のエビデンスは確保できる。しかし、取材される側から見れば、山尾氏が指摘するように「異常」であることは確かだ。むき出しの好奇心が取材相手の日常の平穏を乱すおそれがある。 取材倫理の問題は難しい。対象者の迷惑にならないことを最優先にしてしまうと、取材活動は萎縮してしまう。公共性があり報道の価値がある取材であっても、あきらめざるを得ないことが多くなる。取材者としては一歩前に出て相手にアプローチしたいところだ。 一方で、熱を帯びた取材がエスカレートすると、平穏な私生活に勝手に侵入する「プライバシー侵害」になることもあるだろう。答えないのも自由 今回のケースは、見極めは難しいものの、取材されたのは国会議員という公人であるため、取材内容の公共性、取材目的の公益性の方が優先されるのではないか。山尾氏に迷惑をかけているのは確かだが、取材方法については公人としての受忍限度の範囲内だと思う。 では、突き付けられた質問には「答えなくてはならないのか」。この点、山尾氏は次のように述べている。 直後の記者会見などで私は「男女の関係はない」と答えたが、そうしたことを答える必要さえなかったと今は思う。(「カナロコ by 神奈川新聞」11月7日) 山尾氏の意見は理解できる。筆者はメディアが「取材するのは自由」だが、一方で山尾氏が「答えないのも自由」だと考えている。 取材との関連では、公人のプライバシーは一定程度、制約されると考えられる。このため、男女の関係があったのかどうかをメディア側が聞く姿勢は間違ってはいない。 しかし、プライバシーの権利に関しては「自分に関する情報をコントロールする権利」という広い解釈も有力になりつつある。そのため取材される側の山尾氏に「国会議員といえども男女の関係についてまで話す必要はない」といわれれば、「そうですか。わかりました」と認めざるを得ないと思う。 このように、メディアが不倫について「むき出しの好奇心」をもって取材するのは自由だが、一方で山尾氏が答えないのもプライバシー保護の観点から自由なのではないか。お互いの自由の衝突をどのように調整するのかは、当事者が個別具体的に対応していくしかない。 最後に、この問題を俯瞰(ふかん)してみよう。筆者は、山尾氏の不倫騒動をあまり深追いするのは、社会全体にとってはあまりプラスにならないと考えている。山尾氏が力をいれている憲法改正問題という重大テーマが目前に控えているからだ。国会に到着した民進党(当時)の山尾志桜里氏=2017年9月7日、国会内(福島範和撮影)  山尾議員が取り組もうとしている政策には「国家権力を縛り国民の人権を保障するための立憲的改憲提案で、安倍改憲を阻止する」がある。この政策を実現するにあたり本当に倉持弁護士の知見が必要であるならば、週4回といわず、毎日でもミーティングをしてみてはどうだろうか。そして新たな提案を練り、風雲急を告げる憲法改正の論議に一石を投じていただきたい。 ただ、政治家には主義主張の一貫性も求められている。山尾氏は、宮崎謙介議員(のちに辞職)の不倫に対しては批判していたのだから、件(くだん)の弁護士との不倫騒動にほっかむりを決め込むのはどうなのか。しゃべればしゃべるほど臆測が膨らみ、相手や自分の家族にさらに迷惑をかけるという事情も理解できるが、「他人に厳しく自分に甘い」という声が上がるのはやむを得ないだろう。 そんな政治家の「立憲的改憲提案」に有権者は、果たしてどの程度耳を傾けるのだろうか。今後もこの問題に注目したい。

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    「フェイクニュースの惨敗」メディアの腐敗が後押しした安倍一強

    年齢の回答が多くなる。「フェイクニュース民主主義」誰が正す? 高齢者の多くは、ワイドショーなど特定のメディアで情報を入手するため、先ほどの偏向報道の影響をうけやすいといわれている。また高年齢層ほど、自民党の支持者が大きく減少することも各種の調査で明らかである。このような一種の世代効果(あるいはワイドショー効果)とでもいうべきものが本当に存在するのかどうか。この点の解明は専門家の分析を待つしかない。もうひとつは、たとえ「疑惑」があるにせよ、それが確証されていない段階では、現在の自公政権の枠組み維持のほうにメリットを感じる有権者が多いということだろう。それを示すように、安倍政権への支持率はいまだ不安定だが、他方で今回の選挙でも自民の圧勝をもたらしている。これはなかなか賢い国民の選択だともいえる。 筆者はこの連載で繰り返しているように、両学園問題は言葉の正しい意味で、首相の責任ということに関してはフェイクニュースであると確信している。その理由は前回の論説で書いた通りだ。その一方で、このフェイクニュースによって政治状況が左右される「フェイクニュース民主主義」とでもいう事態には警戒感を強めている。残念ながら、今回の選挙によってもこの種のフェイクニュース民主主義の芽がついえたわけではない。今後も警戒を続けなければいけないだろう。 経済学では、市場はお金、人材、設備などといった資源を効率的に利用できる経済環境であるとされている。だが、環境問題などに典型的なように、市場活動の結果、社会的な害悪をもたらす事実や可能性が絶えず存在する。そのとき、市場活動に問題の解決をまかせることはできない。政府の介入余地が必要になってくる。これを「市場の失敗」といい、社会的に望ましい状態と現状とのかい離を表現するものである。 ただし、このときの政府はしばしば賢く、また社会的に望ましい状況にむけて改善するものだと、一種の性善説を前提にしていることが多い。だが、実際には政府はそのような存在ではない。さまざまな既得権益や利害対立をはらむ存在である。つまり「政府の失敗」が存在する。 この「政府の失敗」を正すものはなんだろうか。それが実際にはマスコミの役割だったはずだ。だが、マスコミ自体も「報道の失敗」を引き起こす。マスコミも権力機構であり、腐敗するのだ。このようなマスコミの腐敗、またはフェイクニュース民主主義への誘導を厳しく検証する必要がある。その役割は誰がするのだろうか。 衆院解散の検討を厳しく批判した、2017年9月19日付の毎日新聞社説(左)と2017年9月18日付の朝日新聞社説 それは国民自らの関与でなくてはならない。インターネットでのマスコミ監視や、マスコミに代替・補完するさまざまな活動かもしれない。もちろん話は最初に戻り、われわれの経済活動の根幹をなす市場も失敗する。試行錯誤が続くだろう。だが、その活動をあきらめてはいけない。現状のフェイクニュース民主主義がもたらす弊害は深刻だ。そしてそれゆえに、われわれは失敗を恐れず、常に政治とマスコミの両方を冷静に事実と論理で検証していかなくてはいけないだろう。

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    またしても選挙報道がひどかった

    だが、それにしても期間中にこれほど風向きがころころ変わった選挙も珍しい。その主因は言うまでもなく既存メディアの偏った選挙報道にある。罪深きはメディアか、それとも情報の受け手たる主権者のリテラシーか。

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    テレ朝、TBS「モリカケ報道」のどこが悪い

    山田順(ジャーナリスト) 今回の総選挙を主にマスメディアの報道から考えるというのが、本稿に与えられた命題である。しかし、そもそも現在の日本のマスメディアの選挙報道に、なにか大きな問題があるとは私は思っていない。やれ偏向報道だ、世論調査は操作されているなどとやかましいが、ネットメディアに比べたら、極めて常識的な範囲の中で報道が行われているのではなかろうか。 例えば、大新聞で言えば、安倍晋三首相が朝日新聞を嫌い、読売新聞を「御用メディア」とするのだから、そういう両極のメディアがあることが健全な証だと私は思う。そもそも、これまでマスメディアに要求されてきた「公正報道」ということ自体が間違っていたからだ。 ネットメディアが乱立し、ほとんどの国民がSNSを使っている現状で、公正報道を問うこと自体がおかしい。事実関係をゆがめたり、まったくの虚偽報道はあってはならないが、政治的に偏った報道はどんどんあるべきだろう。 朝日新聞、毎日新聞が「リベラル」を勝手に自認し、「平和」と「護憲」を訴えなかったら誰も見向きもしないし、部数も激減するだろう。逆に読売新聞と産経新聞が「体制擁護」に徹し、「首相と日本を守る」ための報道をしなかったら、読者は一気に離れるだろう。 テレビも同じだ。首相がことあるごとにTBSやテレビ朝日の報道番組に出演して、例えば「モリカケ問題」の潔白を訴え続けたら、両局は、それぞれTBSとテレビ朝日でなくなってしまうだろう。2017年9月、会談中に握手する安倍首相とトランプ米大統領=ニューヨーク(共同) 首相自らが「印象操作」と言うのだから、この状態は批判するようなことではない。なにしろトランプ「オレ様大統領」は自分がツイッターで言うこと自体が真実で、米主要メディアのワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズを「フェイクニュース」呼ばわりしたのだ。この世に「公正報道」など期待するのが無理というもので、そんなことをマスメディアがする必要もないのだ。国民全員が「ジャーナリスト」に? おバカな「地球市民」と、自分は庶民より利口だと思っている「小市民」は、いまもマスメディアに「公正報道」を求めている。しかし、なにが公正かと問えば、誰も答えられない。いまの日本にあるメディアで、いったいどこが「公正報道」ばかり行っているというのか。NHKと答えたら「それはブラックジョークですか?」と笑われるだろう。 そもそも現在のマスメディアは、近代国家の成立とともに誕生し、そこではジャーナリズムによって「権力監視」が行われるものとされてきた。「フリーダム・オブ・スピーチ(言論の自由)」と「フリーダム・オブ・プレス(出版の自由)」が保障され、新聞、雑誌、その後に登場したラジオ、テレビがそれを独占してきた。だからこそ、「公正報道」による「権力監視」がジャーナリズムの役割とされてきたのである。2017年2月、BPOの放送倫理検証委が公表したテレビの選挙報道を巡る意見書。右は記者会見する委員ら=東京都千代田区 しかし、ネット社会の現在は違う。SNSによって誰もが情報発信ができるし、ブログやネットメディアで記事を書ける。要するに、意図しようとしまいと、国民全員が「ジャーナリスト」となってしまったのだから「公正報道」など期待するほうが無理というものだ。 なにしろ、公正報道を心がけるように教育・訓練されてきたジャーナリストの記事と、取るに足らない自身の意見を書き連ねている「小市民」の記事が同列に並んでしまうのが、ネットメディアである。さらに、そこに最近では「プロ市民」によるプロパガンダ、偽ニュースを拡散するボットなどが登場し、なんでもありの世界になっている。 つまり、トランプ様のように言いたいことだけ言えばいいのが、この世界の最新ルールだ。そこにおいて、なぜ旧来のマスメディアだけが「公正報道」をしなければならないのか。 選挙報道において、マスメディアがもっとも尊重してきたのが、テレビの場合、放送法第4条にある「政治的に公平であること」「意見が対立している問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」だった。この公平の原則はこれまで「量」によって担保されてきた。報道の「質」で公平保たれたか 例えば、自民党総裁である安倍首相の演説を1分間流したら、共産党の志位和夫委員長の演説も1分間流すという「量による公平性」だった。これは、大新聞の紙面においても配慮されてきたことだ。なぜ、このように量を担保したかといえば、それは電波が希少だったからである。しかし、ネットのように無限のメディア空間ができてしまった現在、この理屈は成り立たない。 そこで、2月に放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は、テレビの選挙報道について「編集の自由が保障されている以上は、求められているのは出演者数や露出時間などの量的公平性ではない」とし、政治的公平性は報道の「質」で保つべきだとする意見書を公表した。「量」から「質」への転換である。したがって、今回の総選挙はテレビにとって報道の質を初めて問われることになった。 そこで、特にこの点を注視して報道を見てきたが、これまで大きく変わった点はそう見られなかったというのが私の見解だ。むしろ、各局は独自の姿勢に基づいて報道してもよかったのではないかと思う。 例えば、「希望」を「絶望」に変えた小池百合子東京都知事が大風呂敷を広げたにもかかわらず「敵前逃亡」してしまったことだ。初めから当日パリにいるつもりなら、なぜ民進党を巻き込んだのか。その国民をなめたやり方の無責任ぶりをもっと追及すれば、この国が抱えている政治的な問題がもっと明らかになっただろう。希望の党開票センターで、当確者の名前をボード張る樽床伸二代表代行(左)。右はテレビ中継で発言する細野豪志氏=2017年10月22日、東京都内のホテル(酒巻俊介撮影) また、日本の「リベラル」が実はリベラルではないこと、護憲とリベラルは一致しないことを立憲民主党の主張から導いてほしかった。リベラルが「改革・革新」を意味するなら、リベラルこそ改憲を唱えて社会を革新していく使命がある。それが、なぜ「平和憲法」といっても「日本の平和」ではなく「アメリカの平和」のために存在する第9条を変えてはいけないか。この摩訶(まか)不思議なリベラルをもっと解明してほしかった。 そして、選挙のために途切れてしまった「モリカケ問題」報道を、なぜこの期間に限ってほとんどやめてしまったのか教えてほしい。選挙結果と関係なく、「腹心の友」と「アッキー」は国民の前に出るべき義務から逃れられないはずだ。「すき好んでだまされる」情弱の人々 いずれにせよ、「大義なき選挙」「国難選挙」は終わった。この間、ネットを含めて膨大な情報が飛び交った。特にネット空間では、ネトウヨ、極右、リベラル、ネトサヨ、ネトサポなどの「血みどろ」の攻防が繰り広げられた。今や政権擁護のネット組織がギャラをもらってプロパガンダを流している、あるいは左翼系サイトを攻撃していることは広く知られている。また、テレビ報道では「電波芸者」と揶揄(やゆ)されるコメンテーターが「与党は正しい」コメントを流し続けた。 しかし、こうしたことすべてを批判するのはおかしい。なぜなら、繰り返し書くが「公正報道」はもはや無意味だからだ。したがって、こうした世界でたやすくだまされるとしたら、だまされた人間のほうが悪いのだ。雨の中、街頭演説に耳を傾ける有権者たち=2017年10月21日、東京都中野区 ネットの世界のプロパガンダには、本来、政治思想など存在しない。右も左もない。発信・運営する側はマネーで動いているからだ。 現在では、ビッグデータを人工知能(AI)で解析してプロパガンダがつくられている。例えば、トランプ大統領を誕生させたとされる英データ分析会社「ケンブリッジ・アナリティカ」は、ヘッジファンドの大物ロバート・マーサーが大金をつぎ込んでつくった。日本でも同じだ。ただ、日本の業者はいまのところ単におカネを得て、右や左に偏ったプロパガンダを製造し、さらに敵対サイトに書き込み攻撃をしているだけだ。だまされるほうがどうかしている。 よく、人は信じたいことを信じるといわれる。これは、ある意味で正しく、例えば左翼なら「政権は腐敗している」系の記事、右翼なら「日本は素晴らしい」系の記事ばかり喜んで読んでしまうという悲しい習性を持っている。これを「選択的接触」と呼ぶようだが、この傾向が強い人間ほど情弱であるのは間違いない。 要するに、情弱の人々というのは「すき好んでだまされる」のだ。果たして日本人はそれほど情弱ばかりなのだろうか。選挙結果を見て、考えてみることが大切だ。

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    「偏向報道だらけ」なら、なぜ自公が圧勝したのか

    ドア社長)が、なにかまぶしい日本の希望として喧伝された時代である。 当時(―すなわち12年前)のマスメディアにも、一定の基準はあったが、明らかに「小泉旋風」に肩入れした報道内容だった。しかしあれから12年がたち、「劇場政治」は一変した。この12年間、「劇場政治」に惑わされないだけの肥えた「目と耳と舌」を有権者は獲得した。有権者は馬鹿ではない。冷徹に現状を見つめている。池袋駅前で街頭演説を聞く有権者ら=2017年10月10日、東京都豊島区 メディアの側も、放送倫理・番組向上機構(BPO)を恐れてどちらか一方に偏った報道をしなくなった。いまだに一部ネット界隈では、例えば地上波テレビの〇〇局を「偏向報道!」と呪詛(じゅそ)するが、革新勢力からNHKやTOKYO MXが「右翼の偏向報道!」とデモ隊に包囲されるご時世である。12年前にはこんな様相はなかった。メディアはより公正、厳密になり、有権者は賢くなっている。 むろん、これが最適かどうかはまだわからない。しかし少なくとも、相対的に報道は中立性を強く意識するようになった。やおら公正なメディアの元、自公が信任されたのであれば、より安倍政権の民主的正当性は補強される。 アベは独裁者だ、という声にも、抗することのできる社会科学的根拠を有することができよう。いやはやよく言えばフェアーな、悪く言えば面白みのない時代になったものだ。しかしこのような時代だからこそ、イデオロギーの左右を超えて、客観体な数字をもとにした合理的な判断のできる識者が求められているのかもしれない。(文中一部敬称略)

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    TBS『サンモニ』の選挙報道はなぜやりたい放題なのか

    中宮崇(左翼ウォッチャー) 衆議院総選挙を控えた10月15日、「反日」「捏造(ねつぞう)」で定評のあるTBSの「サンデーモーニング」がまたやらかした。産経新聞はこのように報じている。 出演者が野党に投票を促すかのような発言があった。番組は放送法4条で「政治的に公平であること」を求められており、あらためて問題視されそうだ。出演した東京大学名誉教授の姜尚中氏は「見どころは選挙の中で野党のビッグバンが起きるかどうか。選挙後にどこが主導権を握るのか。投票先を決めてない54・4%の人は選挙に行かなければいけない。そして次回に何をするか賭けてみることが必要」とコメント」 産経ニュース 2017年10月15日  TBSやテレビ朝日による悪質な世論操作、選挙操作は今に始まったことではない。特に1993年の「椿事件」においては、「今は自民党政権の存続を絶対に阻止して、なんでもよいから反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようではないか」とテレビ朝日の取締役が臆面(おくめん)もなく言い放ったことで、国民に衝撃を与えた。TBSの報道姿勢に対するデモ行進=2017年9月9日、東京都港区 記事でも触れられているように、これに先立つ9月9日にTBS本社前で「TBS偏向報道糾弾大会・デモ」が行われた。この抗議集会でも特に名指しで批判されているのは「サンデーモーニング」である。 私が2006年に『天晴れ!筑紫哲也NEWS23』(文春新書)を書いた当時、「捏造TBS」の筆頭偏向番組といえば「筑紫哲也News23」であった。サンデーモーニングは日曜の朝という放送時間のせいか、仕事帰りのサラリーマンらのチェックが入りやすいNews23と比べて、その偏向ぶりはそれほど注目されてはいなかった。当時、私がNews23と並ぶほどの危険性を指摘しても、あまり反響は得られなかった。 しかしインターネットの普及により、日曜朝の放送をライブで見ていなくても放送内容のチェックが比較的容易になった現在、かつてはやりたい放題であったサンデーモーニングも今や厳しい批判を免れることはできない。 サンデーモーニングのこれまでの捏造・偏向事件をすべてまとめようとすると、本が一冊書けてしまうので、到底本稿のスペースではすべてを網羅することはできない。私はかつてある記事で、 「『馬鹿だ』。自分たちのずうずうしい街頭インタビューに足を止めて答えてくれた日本国民に言い放つテレビ番組がある。『東京オリンピックは辞退すべき』。五輪招致に喜ぶ日本の人々に向かって公共の電波で口角泡を飛ばしてプロパガンダするテレビ番組がある。『日本のロケットはゴミになる』。打ち上げ成功に湧き立つ人々をあざ笑うテレビ局がある」 と書いたことがあるが、そういう発言が毎週のように繰り返されている番組なのだ。「報道番組」とか「マスコミ」などとは到底言えない、ただの「反日プロパガンダ」であるとしか言いようがない、あきれたシロモノである。87年の放送開始以来すでに30年間、中国や北朝鮮の虐殺、独裁をスルーどころか時には応援しつつ、「日本の民主主義は終わった」「安倍独裁政治」などと罵るだけの無責任な番組をつくってきたのだから救いようもない。 しかも私は何度か指摘してきたが、司会の関口宏以外にも、レギュラーの「ゲスト」コメンテーターのほとんどは比喩的な意味でなく、文字通り関口が社長を務める会社と何らかの関わりがあるのである。本当に「意図的」でないのか そんな「利権番組」サンデーモーニングによる、毎週繰り返される卑劣なプロパガンダは枚挙にいとまがないが、最も有名なのは、やはりこれも2003年の選挙直前に発生した「石原発言テロップ捏造事件」である。TBSテレビ外観 当時、東京都知事の石原慎太郎の「私は日韓合併100%正当化するつもりはないが」という発言に「私は日韓合併100%正当化するつもりだ」という正反対のテロップをつけ、音声・映像もテロップに合わせるように「…つもりは…」と切って編集し、出演したコメンテーターたちもその映像やテロップに沿って都知事を批判した、世界のマスコミ史上類を見ない呆れた事件はもはや「伝説」と化している。いや、サンモニが愛する北朝鮮や中国にはいくらでもその類はあるが…。 この「事件」について、TBSは「意図的な捏造」であることは全く認めていない。しかし、一回や二回にとどまらず、毎週のように行われている捏造・偏向、反日プロパガンダを見れば、これが「意図的ではない」と言い張る人なんているのか。 サンデーモーニングの「意図」は、冒頭の姜尚中をいまだ出演させ続けていることだけでも十分証明可能である。姜尚中と言えば、2002年の小泉訪朝により北朝鮮が拉致犯罪を認めるその瞬間まで「共和国が拉致犯罪を行う合理的理由はない」として、この卑劣な犯罪の存在を否定してきたのは有名な話である。 そればかりか北朝鮮の拉致や核・ミサイル開発を批判する日本の対応を「文明国ではない」とまで言い放った人物である。これは日本テレビ系「爆笑問題のススメ」なるトークショーに出演した時の発言だ。 いわく「植民地になっていた国と正常な関係が結べないというのは、実はヨーロッパ的な基準からすると先進国ではないわけです」とのこと。いまだにこんなことを言い続けている人物なのだ。 それ以外にもトンデモ発言の例には枚挙にいとまがない。「(北朝鮮との)交渉による解決の可能性はより大きくなったと見るべきです」(週刊金曜日、1999年6月24日号)「5人の(ようやく帰ってきた拉致被害者)家族を(一旦北朝鮮に)帰す。どんな形でも良い。返す」(2003年元旦朝まで生テレビ)「防衛予算は4兆円も必要なのか」「北朝鮮がほんとうに脅威でしょうか」(「アジアから日本を問う」岩波ブックレット)「日本とはどうかというと、ミサイルや「拉致疑惑」で正常化交渉は遅々として進まない」(「東北アジア共同の家をめざして」平凡社)「よく“北朝鮮が日本を攻撃するかもしれない”という報道があるけれど、“なぜ?何の目的で?”と、僕が聞きたいたいですね」(日経ウーマン2003年9月号) こんな人物をいまだ出演させ続けているのが、TBSの「サンデーモーニング」なのである。なぜ抗議デモまで起きるのか。まともな良心の持ち主であれば、もはや説明の必要はなかろう。 これが今回の選挙でも野党に投票を促すかのような発言をした番組の正体なのだ。(文中一部敬称略)

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    テレビのやらせと同じ? SNSフォロワー数で煽った選挙報道のウソ

    藤本貴之(東洋大学教授・博士(学術)、メディア学者) 多くの議論と話題を振りまきつつ2013年に解禁された「インターネット選挙」も今回の衆院選で4回目を迎えた。しかし、有権者の多くが感じていることは「で、結局何だったの?」という拍子抜け感であろう。今回の総選挙は、スマホ・ネーティブ(初めて持った携帯がスマホ)世代である18歳が参加する初の総選挙ではあるが、何ら変化が起きているようにも見えない。候補者の選挙活動の様子を携帯電話で 撮影するスタッフ=2015年4月、大津市内 一方で、政党や候補者たちは、SNSでの情報拡散に躍起だ。また、それを後押しするように、SNSで得られる数値を指標にした動向分析に必死に取り組む選挙報道を見ると、筆者はある種の危機感すら覚える。 SNS情報の客観的な数値化と一般化は、その母集団が明確ではないため非常に難しい。世論とSNSの投稿動向を関連づけようとする分析も多いが、そのほとんどはこじつけや偶然の域を出ない。メディアにおいては都合のよい投稿だけを抽出して、「SNSでは…」という枕詞(まくらことば)を付けることで、フェイクニュースや意図的な偏向報道を「客観報道」にカムフラージュする古典的な手法もまだまだ現役で利用されている。 それらは「おおむねフェイクニュース」と言っても過言ではない。「SNSで挽回を図る」とか「SNSで優勢に」といった政党側の論調でさえ、そんなフェイクニュースをよりどころにしつつ、実際は単なる「願望」にすぎないことばかりだ。 本稿では、前回の参議院選挙の頃から急速に登場してきた、選挙の動向分析の新しい指標である「SNSから得られる数値」を選挙報道で利用することの無意味さと危険性について詳述したい。 今日、選挙報道で利用される「SNSから得られる数値」には大きく二つある。 まず、SNSアカウントのフォロワー数である。具体的には政党のTwitter公式アカウントのフォロワー数によって人気や勢いが計られる。 そして二つ目が「SNS上での言及数」である。FacebookやTwitterなどのSNSの投稿内で言及された政党名の総数でランキングをつけ、なにがしかの傾向や支持の変動を見いだそうとする。 これらをひとことで言ってしまえば、フォロワー数が多ければ支持者が多いのではないか、政党名の言及数が多ければ関心を持たれている(得票につながる)のではないか、という単純で楽観的な解釈である。しかしながら、多少なりともSNSを利用している人であれば、このSNSの数値による選挙分析に違和感を覚える人は少なくないはずだ。 フォロワー数で大騒ぎ 例えば、以下が10月20日現在のおおよその主要政党Twitter公式アカウントのフォロワー数である。(カッコ)内は解散時の衆議院議席数・党員数である。立憲民主党:18万3000(16人・/)自民党:12万8000(286人・約104万人)公明党:7万5000(35人・約46万人)共産党:4万(21人・約30万人)日本のこころ:4万(0人・約5000人)社民党:2万3000(2人・約1万5000人)日本維新の会:1万4000(15人・/)希望の党:1万2000(11人・/) 今現在の瞬間風速的な話題性の反映はあるが、少なくともその数値が現実の党勢や支持率と必ずしもリンクしているようには見えない。むしろ脈略(みゃくらく)のない数値といっても良い。 数値の違いも注意が必要だ。最大18万と最低1万程度ではその数値に大きな差があるように見えるが、1万から20万程度のフォロワー数の違いは100万オーダーのネットやSNSの世界では「ほとんど誤差」と言えるような数値である。テレビを賑(にぎ)わすような話題があれば、その程度の数値は瞬時に増減する。実際社会の投票動向を反映するとは言いがたい数値を比較して「抜いた、抜かれた」を報道していることになる。 参考までに同水準のアカウントをあげれば、「ほぼ日刊イトイ新聞」「NHKクローズアップ現代+」がそれぞれ約18万5000である。 SNSでの政党名の言及数なども選挙時の党勢を知るための参考にはならない。 もちろん、今日の社会においてSNSのフォロワー数や投稿での言及数が、話題の尺度になっていることは間違いない。特に芸能人やテレビ番組などでは、SNSでの言及数の広がりが視聴率と伍(ご)するほどに重要視されるようにもなっている。例えば、2016年のTBSドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」のヒットの要因は徹底したSNSマーケティングにあったことは有名だ。 しかし、このようなSNSによるマーケティングと情報コントロールがうまく機能するのは、あくまでも芸能人やテレビ番組のように、仮に賛否両論があったとしても、それが露出や知名度向上がビジネスへと直結するという場合に限られる。選挙時におけるネガティブな話題での言及数などは、マイナス以外何の価値も持っていない。今回の選挙には無関係な多くの政党名の投稿も含め、玉石混合で話題の尺度にはなっても、それが投票行動にリンクするような類いのものではないことは明らかだ。ネット戦術に依存する新設政党 例えば、10月2日に結成を表明した立憲民主党が、4日に開設した公式Twitterのフォロワー数が、わずか2日目にして自民党のフォロワー数(約12万人)を追い越した、というニュースが大きく報じられた。そのTwitterの勢いから、大手メディアまでもが党勢の「躍進」と表現した。中にはあたかも自民党の支持率や議席数にもリアルに影響するかのごとき表現すらあった。街頭演説で支持を訴える立憲民主党の枝野代表 =2017年10月17日、福島市 しかし、Twitterのフォロワー数は党員数ではないし、支持率でもない。開設2日で自民党のフォロワー数を抜き、10月15日には17万人を突破したものの、10月20日現在のフォロワー数は18万3200人。15日から20日までの伸びが1万人程度という現状を見れば、「躍進」というよりも、最初の数日でフォロワー数(元々の支持者+ネットウォッチャー層)の上限に達し、その後は平行線をたどっていると見るべきが妥当だ。ネット戦術に依存せざるを得ない新設政党と一定の基盤を持つ既成政党ではSNSに対する接し方がそもそも異なるのだ。 民進党からの分裂劇など、これまでになく混乱する「劇場型選挙」になった立憲民主党の場合、支持の有無とは無関係にウォッチングされる。そのような時事的な話題性に基づく短期間でのフォロワー数急増という現象は、SNSではよくあることだ。特に、今回の選挙のようなケースであれば、単に野党の選挙情報を知るためにフォローしているような人もかなりの数いるはずだ。 SNSとは今日、最も身近で最も簡単で最も手軽な情報収集手段である。そうであるからこそ、フォローという行為が必ずしも支持の表明という特別な意味を有しているわけではない。単に「情報を選別して受け取るための登録」という意味であることは非常に多い。 今回の衆院選では、SNS上の党名言及数において、立憲民主党が自民党にも届く勢いにまで伸びていることを理由に、党勢の躍進を報じているニュースは多い。 しかし、SNSでの政党名の言及数は全てが応援というわけではない。選挙時におけるSNSでの言及は、一部の著名人候補を除けば、必ずしも積極的な関心でも、プラスに働いているとも限らない。特に、Twitterの場合、その媒体特性を考えれば、短期間での急激な発言数の増加は、むしろネガティブな罵詈(ばり)雑言の拡散装置として機能の方が、肯定的な話題よりは多いと考えた方がよい。 例えば、「ハゲ暴言」でおなじみの豊田真由子氏は今年、Twitterで最も言及された政治家の一人だろうが、政治家として勢いがあるとは言い難い。今、Twitter上で最も話題になっている髪型は「金正恩ヘア」と言われているが、このスタイルが今年のファッション業界で流行するとも思えない。同様に、どういった内容や文脈であるかまでは加味されないSNSでの言及数という指標は、選挙報道や投票行動の参考にはなり得ないのだ。SNS万能論の勘違い SNSから抽出される数値は、選挙での意思決定を左右する支持のバロメーターというよりも、「ゆるい関心」のバロメーターと見るべきが妥当だ。だからこそ、芸能人やテレビ番組のような場合には人気のバロメーターとして機能するのである。むしろ、強く働くのは、ネガティブな反応が多いだろう。 特にそれまで地道にネットやSNSを駆使した政治活動を展開していたような政治家・候補者以外が、突如選挙シーズンになってから積極的なSNS戦略を展開したところで、それに突き動かされて一票を投じるほど、愚かなSNSユーザーが多いとは思えない。政党やメディアが考えているほど、SNSの使い方、使われ方は単純ではないのだ。 それでもなお、SNSから得られた「なにがしかの数値」を指標にし、大手メディアまでもがその数値から選挙の趨勢(すうせい)を見いだそうとするのはなぜか。 その理由として以下の二つをあげたい。ジャスミン革命後の自由をアピールするチュニジアの人々=2011年4月 まず一つ目が、SNSが若者層を中心に生活の一部として定着し、大きな影響力と情報伝播(でんぱ)力をもっているという事実が生み出す「あらゆる場面で影響力を発揮可能」というSNS万能論の存在だ。特に2011年のチュニジア民主化運動「ジャスミン革命」で、FacebookなどのSNSが運動の成功に大きな役割を果たしたことなどから、SNSと政治運動は親和性が高いと印象づけたことも大きい。 しかし、言うまでもなく、ジャスミン革命で利用されたSNSは、情報共有・情報拡散ツールとしてであり、マーケティングツールとしてではない。もちろん、ジャスミン革命からの数年で、SNSのあり方、使われ方も大きく変容しているので、「SNS=社会変革ツール」という認識はあまりにも古い。しかし、SNS万能論は選挙が始まるといたるところで散見される。 そして二つ目に指摘できるのが、印象操作や偏向報道のテクニックの一つとして利用しやすい、というメディアの側の都合である。リアリティーの薄いSNSのフォロワー数や言及数という数値を、客観データとして党勢を推し量る指標にする。それを意図的に利用することで、暗に特定政党の支持が急速に伸びている(あるいは追い抜かれている)という印象操作をすることも可能になるからだ。SNSの数値という有機的で明確ではない指標を自分たちなりの解釈で利活用することで、状況や「民意」はどのようにでも描けてしまう。数値を乱用することで人心を惑わす「おおむねフェイクニュース」と言っても良い。ネットの声は市民の声? 一応、統計データ、定量データとしての体裁を整えることができる分、悪質に感じる場合も多い。「あくまでもSNSに投稿され、言及された政党名の数でしかなく、内容は考慮されていない」と明言している良心的なメディアもあるが、あたかも「民意」の反映のように表現するメディアも少なくない。 このようなことが今後まかり通るようなことになれば、SNSの数値を利用したような「おおむねフェイクニュース」は、新しい偏向報道のテクニックの主要な一つになるだろう。 数値を使ったトリックはなかなか見破るのが難しい、ということも事実だ。冷静に見聞きすれば荒唐無稽な内容でも、数値化されて一覧にして提示されると、思わず信用してしまう数値化マジックは「おおむねフェイクニュース」の常とう手段でもある。衆院選最終日、「最後の訴え」に聞き入る聴衆ら =2017年10月21日、東京都新宿区 もちろん、SNSから抽出した情報から組み立てられる報道やニュースの怖さは、数値の利用だけに限った話ではない。SNSで検索した面白い(あるいは刺激的な)投稿のいくつかを抜き出して、「ネットではこんな反応もある」といった、「市民の声」として一般化して出すような場面を見ると、偏向報道を超えて、単なる捏造報道なのではないか、と感じることさえある。その「市民の声」を関係者が自作自演で作っていないとも限らない。 テレビの情報番組で「町の声」「市民の声」として取材に応じる一般人が、実は一般人ではなく、テレビ局が用意した役者だった、という問題が発覚する騒動は多いが、それよりも発覚リスクが低く、しかもテクニカルに作り込むことができる分、有権者や視聴者が被る不利益は大きい。 フェイクニュースよりも信ぴょう性がありそうな体裁をとるわかりづらい「おおむねフェイクニュース」が溢(あふ)れる今日。その狡猾(こうかつ)なテクニックに翻弄(ほんろう)されず、「情報の確からしさ」を検証し、情報を選別するには、何よりも有権者自身のリテラシー能力を高めることが必要だ。

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    小池百合子を持ち上げて地獄に落としたワイドショーの「ご都合主義」

    禁となってから既に4年がたった。何が変わって何が変わっていないのか。まず、変わった点は政党、政治家のメディア戦略が進化した。国会における討論はテレビ中継を意識したものとなり、国民からしてみればわかりやすいものとなった。大きなフリップを使い、テレビの視聴者が一目でわかるように各議員も工夫するようになった。 政党がインターネットを使いこなすようになってきたのも顕著だ。自民党の動画チャンネル「Cafe Sta」はその典型だ。生放送もあれば録画で見逃し視聴もできる。FacebookやTwitter、YouTube、ニコ生、FreshなどSNSや動画配信プラットホームがフルに活用されている。それ自体は悪いことではない。有権者は、より多くのメディアで政治関連情報に触れることができるようになったのだから。ポピュリズムを助長するテレビ 一方で、各メディアの役割はその分高まったかというと極めて懐疑的にならざるを得ない。テレポリティクスという言葉は使われなくなっても、テレビの役割は全く進化していないと言っていいだろう。いや、むしろ「ポピュリズム」を助長しているとしか思えないのだ。 とりわけ朝や昼過ぎのワイドショーに大きな問題がある。政治に多くの時間を割くこと自体は問題ない。むしろ好ましいことであろう。しかし、それはあくまで公平公正に扱っている限りにおいて、である。 特に、一部の局で「モリカケ問題」にほとんどの時間を割いたことに違和感を抱いた視聴者も多かろう。問題の本質がなんなのか、今でもわからない人が多いのではないか。 国家戦略特区そのものに問題があるのか、決定プロセスに問題があるのか、請託があったのか、国家公務員法に抵触する取引があったのか、国会議員の関与があったのか、地方議員の関与があったのか、一向にわからない。「オトモダチ」優遇が悪いといっても、世の中そんなことはごまんとあるわけで、やはり法的にどのような瑕疵(かし)があるのか明確にするのがメディアの役割だろう。 それを当事者の言うことを断片的に垂れ流すだけでは視聴者をミスリードするだけでなく、政局すら左右しかねない。本来テレビは慎重の上にも慎重を期すべきだろう。キャラが立つ人物が現れると出しまくり、潮目が変わると一斉に手を引くのがテレビの常套(じょうとう)手段だ。2017年3月、森友学園の籠池泰典前理事長を単独インタビューし、報道陣に囲まれる著述家の菅野完氏(中央)(宮崎瑞穂撮影) 一時、渦中の籠池泰典氏に単独インタビューを敢行した著述家の菅野完氏を出しまくっていたのはなんだったのか。また、あれだけワイドショーの常連だったTBS出身のジャーナリスト、山口敬之氏も暴行疑惑が持ち上がってから一切画面から姿を消した。その後の経緯は読者諸氏もご承知の通りだが、検察審査会が不起訴相当の判断を出したにもかかわらず、テレビで顔を見ることはない。全てはご都合主義なのだ。もうあぐらをかいている場合じゃない 小池百合子東京都知事についての報道も同じ構図だ。都知事選、千代田区長選、都議選と、「小池旋風」が吹いているときはそれほどでもなかったが、希望の党を立ち上げ、民進党の前原誠司代表と手を組んでから風向きがガラッと変わった。小池都政1年の検証はそっちのけで小池批判に舵を切った感がある。そこにはなんのポリシーもない。豊洲市場問題、オリンピック問題などどこかに消え去ってしまった。これでいいのか。2017年10月、パリへ出発する小池百合子東京都知事=羽田空港国際線ターミナル(宮崎瑞穂撮影) 北朝鮮問題しかり、だ。最大の脅威なら日本は安全保障をどうしたら良いのか、拉致問題をどう進展させるべきなのか、政治家に考えさせるような報道が必要だろう。 一部政党の消費税先送りや原発ゼロといったポピュリズム政策をちゃんと検証しているといえるだろうか。自民党の政策でも、消費税の使途変更で国の借金返済は遅れることが明白だ。政策ごとに各党の公約をちゃんと比較・評価して視聴者に届ける努力をしているだろうか。 そうした中、日本でも偽ニュースを検証する、ファクトチェックの動きがようやく出てきた。国内初の本格的な検証団体「ファクトチェック・イニシアチブ」が立ち上がり、その趣旨に呼応してネットメディアのBuzzFeed JapanやGoHoo、ニュースのタネ、そしてJapan In-depthらが参加し、総選挙に関する報道や政治家の発言などを検証し始めた。朝日新聞などマスコミにもその動きが見られた。これは健全なことであり、メディア同士のチェックもこれからますます進んでいくだろう。 こうした動きはメディアに対する国民の信頼を取り戻すことにつながることから歓迎すべきことだ。しかし、テレビはファクトチェックに熱心とは思えない。 報道以外の番組で批判が集まることも珍しくない中、自ら批判しその内容を公表することが、信頼回復につながり、評価が高まるということを理解すべきである。 もはやメディアは「第4の権力」などといってあぐらをかいている場合ではない。インターネット上で誰でもニュースを検証でき、その結果をSNSで拡散することが容易になった。ファクトチェックはますます進むだろう。 今後テレビはワイドショーやドラマ、バラエティーなども含め、発信する情報全ての品質管理を厳しくしていかねばならない。さもなくば、テレビだけ置いてけぼりを食らうのは間違いない。

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    安倍氏VSメディア イヤホン騒動など「ガキの喧嘩」の醜悪

     希望の党の失速で、見るべきところがほとんどなくなった総選挙報道。目立つのは安倍晋三首相と大メディアの“不毛な論戦”ばかりだ。 安倍首相ほど、メディアの好き嫌いがハッキリしている総理大臣も珍しい。今回の選挙戦を通じて「嫌い」なメディアがどこか、改めてはっきりわかった。 日本記者クラブの党首討論会(8日)で、朝日新聞の論説委員から加計疑惑について問われると、“朝日の報道こそおかしい”と色をなして反論した。「朝日新聞は先ほど申し上げた八田(達夫・国家戦略特区WG座長)さんの(加計の特区決定に一点の曇りもない、との発言の)報道もしておられない」 対する朝日は論説委員が「(報道)しています」と言い返すだけでなく、わざわざ翌朝の紙面で〈今年3月下旬以降に10回以上、八田氏の発言や内閣府のホームページで公表された見解などを掲載〉とやり返した。 もちろん、総理大臣の政策論を聞き、選挙記事を読んで投票先を決めたいと考える有権者にとっては、不毛な応酬でしかない。街頭演説を終え、聴衆に手を振る安倍首相=2017年10月、埼玉県上尾市 『NEWS23』(TBS系)での諍いもそうだ。きっかけは解散表明当日、同番組に出演した安倍首相が、“解散の大義”を延々と語っている最中に突然、「2人でモリカケ!」という音声が流れた一件だった。 「流れてしまったのは森友・加計問題に話題を移すよう指示する番組ディレクターの声で、キャスターの星浩氏が外していたイヤホンから音が漏れ、それをマイクが拾った。初歩的なミスだが、安倍首相は“敵失”がよほど面白かったのか、公示前日に再び同番組に出演すると、話題が森友・加計に及んだ時、わざわざ星氏に『イヤホンは大丈夫ですか』と当てこすってみせた」(TBS関係者) 政権に批判的なメディアには“口撃”を繰り返しているわけだ。田島泰彦・上智大文学部新聞学科教授はこう嘆く。 「権力者がメディアに監視され、批判的検証の対象になるのは当然のこと。安倍首相の対応はあまりに子供じみている。また、メディアの側も“報じたかどうか”といったレベルに合わせるのではなく、疑惑の本質を伝える報道に絞るのがあるべき姿ではないか」 与野党間のやり取りも、首相とメディアの諍いも、まるで「子供のケンカ」である。関連記事■ 「安倍ヤメロ!隊」完封するため最強「安倍応援団」組織登場■ 小池知事が来春国政復帰も まさかの自民復党シナリオ■ 安倍首相 11月のトランプ会談後に“禅譲”の可能性も■ 安倍首相「過半数は堅い」の報告も喜ばず 目標喪失原因か■ 公明中心に自民、希望連立の場合 山口総理誕生の可能性は?

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    メディア 解散で100億円の「総選挙特需」でウハウハ

     大メディアがこぞって解散総選挙を煽りまくっている。〈首相が解散権を行使し、衆院選に勝利することで、重要政策を遂行する推進力を得ようとすることは理解できる〉(読売新聞9月19日付社説)〈安倍首相による、安倍首相のための、大義なき解散である〉(朝日新聞9月20日付社説) 主張こそ正反対に見えるが、国民のために解散をやめろとは書かない。それもそのはずで、新聞・テレビなど大メディアにとって解散は100億円を超える「総選挙特需」が待っているからだ。 国政選挙には候補者のポスター代や公選ハガキ、選挙カーのレンタル費用やガソリン代から政見放送、新聞広告まで税金で負担する「選挙公営」という仕組みがある。安倍首相が衆院を解散し総選挙を行うと表明したニュースを報じるビジョン=2017年9月25日、大阪市北区(彦野公太朗撮影) 新聞広告に落ちる金額は巨額にのぼる。まず政党は比例代表名簿の登載者数に応じて税金で新聞広告が打てる。全国版の全面広告は読売で1回ざっと5000万円。 前回2014年総選挙の期間中(12日間)で国(中央選管分)が新聞社に出稿した比例代表候補の政党広告代のランキングと金額を見ると、【1】読売・5億5000万円【2】朝日・2億3700万円【3】中日・1億6400万円【4】北海道・8900万円【5】毎日・7500万円 ──など56社で総額15億円となっている。 これとは別に小選挙区の候補者(全国で959人)は1人につき5回分の新聞広告(1回誌面2段、幅9.6センチ)を税金で好きな新聞に掲載できる。 掲載料は最高額の読売(東京本社版)が1回約262万円(税抜き)。候補者1人が5回分すべて読売に広告を出せば1300万円を超える。東京ブロックの小選挙区には97人の候補者が出馬したから、新聞広告費は東京だけで10億円前後にのぼったと推計できる。それが全国の小選挙区で地方紙にも落ちる。 選挙公営の仕組みが新聞に有利なのは、広告費は候補者を通さずに国(選管)から新聞社に直接支払われることだ。候補者にとっても一定得票数に届かないと自腹になるポスター代やビラ代と違い、全額公費負担が保障されている。候補者は安心して血税を大新聞に注げるというわけだ。 テレビ局の選挙収入はもっぱら政党のテレビCMだ。放映料は「15秒のスポット広告」で300万円から500万円が相場とされ、こちらは選挙公営ではなく政党が支払う。前回総選挙が行なわれた2014年の各党の宣伝事業費は自民党が約20億円、民主党が約24億円で両党だけで44億円に達した。 財源は主に政党助成金であり、国民の税金から出されるのは同じだ。さらに2013年の参院選からは「資金力のない小政党や無所属候補も金をかけずに有権者に政策を訴えることができる」という触れ込みでインターネットでの選挙運動が解禁され、政党のバナー広告が認められた。 しかし、新聞・テレビ各社はこのネット選挙もビジネスチャンスとみて、自社ニュースサイトのトップ面や速報面に政党のバナー広告を呼び込む営業にも力を入れた。朝日新聞デジタルの場合、最高額の「ビルボードプラン」の料金はなんと1000万円である。 選挙特需は告示から投開票までの12日間でざっと100億円は超え、テレビは選挙の開票特番で多くのCM収入を稼ぐことができる。まさに大メディアにとって「選挙ほどおいしい商売はない」のである。関連記事■ 解散煽る大新聞・テレビ 税金から260億円選挙特需あるため■ ネット選挙広告 新聞社バナー広告は見る人半分でも料金6倍■ 国政選挙 新聞・TVには料金取りっぱぐれない重要かき入れ時■ 安倍晋三氏に総理再選を諦めさせる本当の勝敗ラインを検証■ 稲田朋美氏 地元のオジサマから「パンツ姿もいいねェ」

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    有権者をそそのかす報道ステーション「依存効果」の罠

    きく左右されているようだ。 例えば、公示前は小池新党への期待や、その後の同党と立憲民主党の話題が、各メディアともに激増していた。ところが選挙戦が始まると、これは一例だが、10月11日にテレビ朝日系「報道ステーション」で放送された党首討論では、森友・加計学園問題が内容全体の6割を占めていた。これは国民の選挙への関心とは大きくずれた問題設定であるといえる。例えば、その報道ステーション自身が9月31日・10月1日に実施した世論調査によれば、森友・加計問題など政権固有の「スキャンダル」を論点化したいと考えている国民はほとんどいないのである。 多くの国民の関心は経済政策、安全保障問題に集中している。その他の報道機関での世論調査でもほぼ同様の傾向がみられる。国民の関心では、森友・加計問題はもう争点ではなくなっているのだろう。それだけに報道ステーションの森友・加計問題への党首討論での過度な傾斜は異様にさえ思える。ちなみに同問題については、私はかなり早い段階に本連載で、安倍首相個人や政権の固有の問題ではない、その意味での議論は事実上フェイクであると指摘してきた。マスコミがあおりたい対決図式 現状では、関係者ともいえる国家戦略特区ワーキンググループの八田達夫座長から、朝日新聞など事実上のフェイクニュースをただす公開質問が出されているが、それに対して朝日新聞の応答はまったくない(参照:「岩盤規制」を死守する朝日新聞)。その他にも多くの識者・関係者らから同問題の報道姿勢について、マスコミに批判が加えられている。その意味では、上記した朝日新聞や報道ステーションなどの、あまりに政治的に過度に偏った報道姿勢が問われている局面ではないだろうか。マスコミのあり方が、実はいまの選挙でも問われている隠れた論争点かもしれない。 マスコミの多くは選挙における政策的論争点を、「消費増税(与党)vs消費税凍結(野党)」という対立図式であおりたいようだった。この図式がいかに誤っているかは前回の寄稿で解説した。 簡単にまとめると、現在の日本経済は総需要不足、つまり国民にお金が不足している状態である。過去20年の停滞期よりははるかに改善されているが、まだ不十分である。このはるかにましになった状況は、政府と日本銀行がデフレ脱却にコミットした持続的な金融緩和の成果である。財政政策は2013年こそ拡大基調だったが、それからは14年の消費増税や以降の財政緊縮スタンスであまり効果は発揮されていない。そのため金融緩和政策を否定する政党には、日本経済の改善をストップさせてしまうから評価はできない。また消費増税はそもそも2年後であり、そのときの経済状況に大きく依存する話である。 もちろん減税をいまの段階で決めることがベストだが、それでも金融緩和政策という経済回復の前提条件を否定してまでやるとすれば、それは単に倒錯した政策スタンスでしかない。つまり何が重要かは、「いまの段階でどんな政策をやるか」そして特に「金融緩和政策への姿勢」こそが問われる。2017年10月、党首討論会を終えた(左から)公明党の山口那津男代表、自民党の安倍晋三首相、日本共産党の志位和夫委員長、希望の党の小池百合子代表、立憲民主党の枝野幸男代表=日本記者クラブ(宮崎瑞穂撮影) その点から評価すれば、自公政権のスタンスは金融緩和政策の継続であり、この経済回復のための前提条件を満たしている。ただし2年後の消費増税を現時点で許容していることで、今後も大きな政策的争点になる。また財政政策については基礎的財政収支(プライマリーバランス)の2020年の黒字化目標を取り下げたため、目前の財政政策の制約がなくなり拡大スタンスを取りやすくなっている。もちろん取りやすくなっただけで実際にデフレ脱却のために財政政策も積極的にやるかどうかは厳しく今後も検証すべきだろう。少なくとも衆院選後の補正予算の構築が大きな経済政策上のテーマになる。一番の争点はやっぱりこれだ さて、対する与党の最大ライバルである希望の党、立憲民主党は公約を見る限り、現時点の経済政策については、緊縮スタンスと反リフレ政策(デフレ脱却政策の否定)を主にしている。そのためそもそもの経済回復の前提条件を満たす政策を、この両党は提起しえないでいる。せいぜい2年後の消費税を凍結するといっているだけだ。つまり、これから2年間は緊縮政策とリフレ政策の見直しを続けると明言しているのである。 確かに2年たてば「凍結」せざるをえないかもしれない。ただし、日本経済がどうにもならない危機的状況になっていて、政治的に「凍結」しないとその時の政権が持たなくなるからだ。その意味では、希望の党も立憲民主党もともに危機的な政党といえる。ちなみに各党の経済政策についての評価は、エコノミストの安達誠司氏とネット放送で徹底的に議論したのでそれを参照していただきたい。 以上書いた理由から、消費増税vs消費税凍結というのはニセの論点であり、むしろ経済政策全体をみていく必要がある。この常識的な観点が、マスコミの問題設定に誘導されるとみえなくなるおそれがあるだろう。 さらに投開票日が差し迫った選挙の論点は経済問題だけではない。やはり「北朝鮮リスク」こそが選挙で問われる本当のテーマであったろう。この点についてはあまり議論が盛り上がっていないというのが率直なところだ。だが北朝鮮リスクが今後、高まることはあれ低くなることがない情勢である。2017年10月9日、平壌駅前に設置された朝鮮労働党創建記念日の飾り(共同) 端的にいえば北朝鮮リスクが戦争状態にまでなるのか、それとも北朝鮮の政治体制の大きな変更になるのか、その選択になっている状況といえるかもしれない。そのときに日本はどのような状況におかれるのか。さまざまなシナリオが具体的に考えなければいけない局面だろう。例えば、難民問題をどうとらえるのか、国連軍が立ち上がったときに日本はどう関与するのかしないのか。北朝鮮リスクを客観的に考えることは今後ともに極めて重要になるだろう。

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    「NHKスペシャル」が象徴するジャーナリズムの劣化

    和田政宗(参議院議員、元NHKアナウンサー)(青林堂『日本の真実50問50答』より)Q日本のメディアは偏向しているのか? 私自身がメディアに在籍していた人間ですが、これは「どちらともいえない」というのが正直なところです。事実に基づいて公平・公正を欠くことなく中立な記事を書く社もありますし、事実をカットしたり、部分的に強調したり隠したりして都合のいい記事に仕立てたりする社もあります。いろいろなメディアがありますから、そこは情報を受け取る側にも見きわめが必要でしょう。 新聞でもテレビでも、報道に携わるジャーナリストは視聴者の目であり耳であるはずです。自分が取材して見たこと、聞いたことについて裏付けをとり、事実としてありのままに伝えることが本来の姿です。ところがそれができない、あるいは意図的にしない記者が増えている印象があり、私自身は大いに危機感を感じています。 平和安全法制…いわゆる安保法制が国民の大きな関心事になっていた頃、国会前では連日のように反対派による抗議運動が行われていました。朝から夜遅くまで大声を上げていた彼らの行動について、苦言を呈したことがあります。国会前で安保法案反対を訴え、声を上げる「SEALDs」の奥田愛基氏=2015年8月 「日本は民主主義がきわめて進んだ国で、こうしたデモも認められており、それを国会は許容しなくてはならない。でも夜遅くまでやっていると、近隣住民の方々には迷惑なんじゃないか」 次に別の話題として─「話は変わりますが」という言葉は挟みませんでしたが、「中国ではチベット・ウイグルの人々が銃で惨殺されている。とんでもないことが起こっている」という話をしました。 ところがこの私のコメントを毎日新聞の青木という記者が拾い上げ、都合良く切り貼りをして「和田がデモ隊に発砲しろと言った」という話にしたてたのです。実にとんでもない話です。 この記事は紙面よりも前に電子版に掲載されました。するとこれを見た日刊スポーツの政治担当の記者が「こんな記事では、和田さんの真意が伝わらない」と、私のコメントを全文に近い形でネット版に掲載してくれました。 沖縄の基地問題に関しては、沖縄タイムズが私のブログを転載引用して、取材もせずに記事にした、ということがありました。私がいたNHKでこんなことをしようものなら、担当記者は首が飛ぶでしょう。 このように、偏向しているかどうか、あるいはまともな取材記事を書いているかどうかは、記者個人の資質によっても左右されます。自浄作用が働く場合もありますから、いちがいに何ともいえません。ですがここで挙げた例のようにジャーナリストの質の低下は確実に起こっており、それがさらに加速していくことに私は危惧を感じているのです。そしてそれは、ジャーナリストとして以前に、過去に受けてきた教育の影響が色濃いと思っています。 別の項目でもお話ししましたが、私が育った地域というのは、ずいぶんと左寄りの教育が行われていました。国旗国歌をないがしろにするような、左へ向かう刷り込み教育が行われていたのです。それでいて、具体的な政治の話はタブーでした。 政治のことは、それを専門にしている政治家や学者がいるのだから、一般市民は考えなくても良い。それに素人が政治を考えたところで、何か変わるものでもない。専門家に任せておけば大丈夫なのだ…。 とにかく政治から遠ざけようとしていたのだな、ということは大人になってから判ることです。このような教育を受け続けていれば、政治というものに対して鈍感になっていきます。大学で法学部とか政治学科とかに身を置けば別でしょうが、そうでなければ政治というものをまったく知らない、まっさらな状態で社会に出ていくことになります。そんな人たちがメディアの世界に飛び込んでいくと、どうなるでしょうか。 今の日本では、民間で政治的な活動をしているのは左派の人が多く、あちこちで集会や抗議活動が行われています。そうしたところに取材に出かけ、話を聞いているうちに、知らず知らずに左派思想に染まっていく。そうしたことは現実に起きています。ただ、たとえ思想的に左寄りであったとしても、ジャーナリストである以上、記事にする際には中立の立場で、公平・公正を期さねばなりません。多くの記者たちはそうしているのですが、それができていない者もいる、というのが現状なのです。メディアへの政治圧力はあるのか 外部からの圧力・抗議に弱いということも、メディアの偏向を助長します。これはNHK時代に痛感したことです。NHKは組織として官僚的なところがあり、外部からの抗議が入ると、そうした意見も採り上げないといけない…というバイアスがかかったりするのです。中立の立場で番組を作ろうとはするのですが、左右それぞれの意見を扱うときに「抗議が来るかもしれない」という意識が働き、ついつい左寄りになってしまう、ということもあります。その理由はどうあれ、発信する記事や放送内容に偏りがあってはなりません。これはジャーナリストとして基本中の基本です。 今でも語りぐさになっているのが、NHKスペシャルのシリーズ「JAPANデビュー」の第一回放送です。これは日本の台湾統治を描いたドキュメンタリーなのですが、その内容は「日本の台湾統治は悪そのものだった」という視点から構成された、かなり偏ったものでした。放送当時、私は大阪放送局で見ていたのですが、番組が始まってから5分もしないうちに局内が「これはまずい」とざわつき始めたのを覚えています。 なぜこんな番組ができてしまったのか。制作中にセルフチェックは働かなかったのか。放送前に上司のチェックは通したのか。通したのであれば、なぜそこでスルーしてしまったのか。おそらく、左寄りか台湾について無知のスタッフが集まり、セルフチェックが緩い環境で制作が進み、放送前の上司の確認でも「問題なし」とされてしまったのでしょう。 まさにジャーナリズムの質の低下であるとしかいいようがありません。メディアには権力の監視という機能もありますから、論評などで反政権的な説を掲げることもあります。ですがそれを下支えするのは、地道な取材で得た事実の積み重ねです。そこが欠落したままで、つなぎ合わせの記事や結論ありきの事実をわい曲する記事ばかりを書いていては、日本のジャーナリズムの信頼は墜ちていくばかりです。Q メディアに対する政治圧力は本当にあるのか? たとえば、あるメディアが何らかの政治についてのニュースを流したとします。ところがそのニュースの内容がどうも事実と違う。ニセ情報を掴まされた可能性もある。そこで、私のような政治家でも自分や自身の所属する政党が対象のニュースであればメディアに対して、事実と違うと指摘したり、間違いない事実なのかどうかを確認することがあります。単なる問い合わせなのですが、時としてこれを「圧力」と表現する人たちがいます。東京・渋谷のNHK放送センター ジャーナリズムの独立性には大きな価値があり、それは基本的におびやかしてはならないものです。そして、テレビ・ラジオメディアについては放送法というルールがあり、その枠組みの中で、常に公正な報道を行う義務を負います。まともな政治家ならばそんなことは百も承知ですから、メディアに圧力をかけるなどということはありません。私がNHKに在籍していた頃も、そんな話は聞いたことがありません。 それでも、まれに「政治家から圧力を受けた」「暗黙の圧力を受け続けている」などと言い出す人たちがいます。もし本当に圧力を受けているのなら、そもそもそんな発言ができるはずがありません。また本当に圧力があったのならば、それを記事にして公開することがジャーナリズムの本質でしょう。 「○○○についての報道に関して、××× 議員からこのような圧力を受けた…」と、公開してしまえばいいのです。それもせず、ただ「圧力だ、圧力だ」と騒いでいるばかりで、事実関係もはっきりしない、具体的な内容も公開しない。これでは事実でないことを述べ立てて、騒いでいるようにしか見えません。 こうしたことがジャーナリズムに対する視聴者の信頼の低下につながることがわからないのでしょうか。ジャーナリストは毅然とした態度で、真実をしっかり伝えることに力を注いでほしいと思います。 わだ・まさむね 1974年、東京都生まれ。慶応大卒。1997年にアナウンサーとしてNHKに入局。2013年の参院選でみんなの党(当時)公認で出馬し初当選。著書に『戦後レジームを解き放て! 日本精神を取り戻す!』(青林堂)など多数。