検索ワード:メディア/414件ヒットしました

  • Thumbnail

    記事

    日本人医師の快挙を黙殺 「報道しない自由」はなぜ行使されたか

    に権威のある雑誌『ネイチャー』が主催するジョン・マドックス賞を受賞したニュースから、改めて日本のマスメディアの特異な現象を目の当たりにした。いわゆる「報道しない自由」ともネットなどで批判される態度である。 ジョン・マドックス賞は、公益に資する正しい科学や根拠を、困難や敵意に直面しながらも、人々に広める努力をした人に与えられるものである。ジョン・マドックスは『ネイチャー』の編集長を長期間務めたことで有名で、その功績を記念して2012年から続いている賞である。ジョン・マドックス賞が日本人に与えられるのは初めてであり、『ネイチャー』のもつ権威と国際的な知名度からも、村中氏の受賞は報道の価値が極めて高いものだったろう。 だが、現時点で、新聞では産経新聞と北海道新聞のみが伝えただけである。テレビ媒体は筆者の知る範囲ではまったくない。他方で各種のネット媒体では広く関心を呼び、大きく取り上げられていて、何人もの識者やネット利用者たちが話題にしている。ただし産経以外では、新聞やテレビ系列のネット媒体に記載はない。 当の村中氏はこの機会に自身の貢献を、あらためてネットを中心に訴えているところだ。だがマスメディアの代表であるテレビと新聞の大半は沈黙したままである。まさに「報道しない自由」が行使されているといっていいだろう。 そもそも村中氏の貢献は何だったのだろうか。ジョン・マドックス賞のホームページによれば、子宮頸(けい)がんワクチン(ヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチン)について、科学的に正しい証拠に基づき多数の記事を書いたそのジャーナリストとしての功績に与えられている。(iStock) 子宮頸がんワクチンについては、世界保健機関(WHO)や医学界でその効果が認められているにもかかわらず、誤情報に基づく国民的キャンペーンによって、日本の同ワクチンの接種率は70%から1%に急減してしまった。村中氏は訴訟に遭遇し、また自身の社会的立場への恫喝(どうかつ)などに抗して、子宮頸がんワクチンの安全性の啓蒙(けいもう)に努めたことが直接の受賞理由である。村中氏は訴訟を含めてどのような困難に遭遇してきたかは、Buzzfeed Newsの記事が詳しい。また村中氏自身も受賞スピーチの中でその活動を伝えている。「報道しない自由」というコーディネーションゲーム 子宮頸がんそのものの情報は、国立がん研究センターの情報がわかりやすい。この情報によれば、年間の罹患(りかん)者数は1万人を超え、死亡者数も年間3千人近い。「年齢別にみた子宮頸がんの罹患率は、20歳代後半から40歳前後まで高くなった後横ばいになります。近年、罹患率、死亡率ともに若年層で増加傾向にあります」と記述にあることは注意すべきだろう。 子宮頸がんワクチンは、2013年に定期接種化されたが、痛み、記憶障害、運動障害を訴える人たちが現れたのを契機にして、新聞やテレビなどの大メディアではワクチン接種へのネガティブキャンペーンが生じた。これをうけて厚生労働省はワクチンの接種勧奨をとりやめたという経緯がある。 この事態に対しては、WHOは警鐘を鳴らし、また日本産科婦人科学会でも何度も接種勧奨の再開を表明している。つまり専門家集団ではワクチンの接種についてはその有効性について共通の理解があるようだ。スイス・ジュネーブにある世界保健機関(WHO)本部(IStock) 経済学者の高橋洋一嘉悦大教授は、ワクチンの接種には副作用があることを指摘しつつ、ただし「どのようなワクチンにも副作用があるが、それを上回るような効用がある場合、接種が許される。子宮頸がんワクチンの場合にはデータがあるので、副作用がデータから逸脱していたかどうかを、厚労省はより慎重にチェックすべきであった」と主張している。これはひとつの合理的な態度だといえるだろう。 ただし、ここではなぜ新聞やテレビで「報道しない自由」が生じたのかを考えたい。産経や道新だけが例外であった。道新は村中氏が北海道出身なので取り上げたともいわれているが、続報はない。これは一種のコーディネーション(協調)ゲームといえるだろう。 コーディネーションゲームとは、ゲームに参加するプレーヤーがみんな同じことをすることが全員のメリットになることをいう。ゲームとは、遊戯を指すのではなく、人のあらゆる相互作用、あらゆる社会的行動を指すことができる社会科学で主に利用されているワードだ。この場合のゲームは村中氏の受賞を伝えるか伝えないかのゲームである。そしてプレーヤーは、新聞やテレビということになる。ネット媒体はこのケースではゲーム外のプレーヤーともいえ、いわばマスメディアとネット言論は分断されているともいえる。典型的だった「VHS対ベータ」 コーディネーションゲームを考えるときに、しばしば持ち出される日本の事例としては「VHS対ベータ戦争」の帰結がある。VHSとベータとは、家庭用ビデオデッキの再生機器の名称だ。1980年代にどちらの規格がいいかで経済「戦争」が生じた。結果として国内ではVHS派が勝利し、ベータ派は負けた。だが、ベータの方が性能はいいとの評価は当時からあった。だがそのような評価は、みんながVHSを選ぶ前では意味を失っていた。(iStock) 確かに、みんながVHSの規格を選ぶと、それ以外の少数の規格をもつ人は友人同士のビデオの貸し借りでも不便だろう。レンタルビデオショップでも最初は両方あったが、次第にVHSのみが置かれるようになり、ベータ派はここでも不利だった。 このようにプレーヤー全員が同じ戦略を選ぶことで、その戦略の帰結が本当に社会的に望ましいか否かに関係なく、このコーディネーション(協調)が安定化してしまうことになる。例えば、日本では長く経済停滞が続いたが、それを打破しようという政策当事者はいまも少数派である。大多数はメディアも含めて、経済成長否定やただの財政再建論者のたぐいである。例えば、NHKの「日曜討論」などのテレビ番組に、デフレ脱却論者がでるケースはまれである。 むしろ、国際的にはデフレ脱却論が優勢で事実としても政策の有効性が認められているのに、テレビや新聞ではデフレ志向の論陣の方が圧倒的である。これは多数の前では多数に従うという、物事の良しあしを無視した現象の一例だろう。例えば、私の知人にも某経済系メディアに務める知人がいるが、彼は筆者の文化関係のつぶやきはリツイートやお気に入りをするのだが、立場上なのか経済政策の話題にはまったく反応しない。Twitterは私的な活動のはずだし、特に経済問題で意見の違いがあるわけではないのにも関わらずである。空気を読むとはそういうことなのかもしれない。 さて社会的帰結が望ましいにも関わらず、そうでない協調行動がとられてしまうと物事は厄介である。その安定性を突き崩すことはプレーヤーの数が多ければ多いほど難しいとされている。産経新聞も大メディアだし、ネット世論も今日かなりの威力をもつ。また海外からの今回の声もあるが、それらは「報道しない自由」というコーディネーションゲームの安定性を変更するほどではない。現時点では。 私見では、子宮頸がんワクチン接種反対派の意見も含めて、今回の村中氏の受賞や海外の事例を紹介することは、報道の多様性と意見の自由を担保とする観点からも重要だと思う。いまの新聞やテレビは、報道しない自由という悪いコーディネーションゲームに陥っている。 この悪い均衡、つまり「報道しない自由」を打ち破るには、ゲームのルール自体を変える必要がある。日本のマスメディアは率直にいって官庁の広報団体的な側面が強い。お上の意見に従う傾向が強いのだ。ならば、このあしき均衡はおそらく政治側からしか変更はできないだろう。それはそれでメディアの在り方として情けないことは確かだ。それでも、今回の一種の「外圧」は、この政治側のアクションを引き起こすひとつの契機かもしれない。

  • Thumbnail

    テーマ

    倉持麟太郎手記「週刊誌のレゾンデートル」

    「報道はレゾンデートル(存在意義)たる公共性を今一度追求してほしい」。週刊文春に山尾志桜里衆院議員との「不倫疑惑」を報じられた弁護士、倉持麟太郎氏がiRONNAに独占手記を寄せた。あの騒動以来、沈黙を貫く倉持氏が初めて綴った「反論手記」。週刊誌ジャーナリズム、そして安倍改憲論への危機感とは。

  • Thumbnail

    記事

    【倉持麟太郎独占手記】「公共性」を忘れた週刊誌報道に言いたいこと

    倉持麟太郎(弁護士) ジャーナリズム、報道の根拠たる表現の自由(憲法21条)には、一私人の表現行為とは異なり、あえて憲法が報道主体=マスコミに与えた特殊な役割がある。表現の自由の「公共的使用」の観点である。 一つは、権力を監視し、現権力に対する絶え間なき批判的吟味を繰り返し続けることにより、権力による正統性調達の再生産を常に促すことである。権力は、我々国民から正統性を付与されるために努力せねばならないのだ。我々一人一人には、日々の生活があり、権力に張り付いて常に監視し適切に情報を得ることはできない。だからこそ、国民が負託した権力を適切に運用しているかどうかを国民の代わりに常に監視する責務を課されたのが、マスコミが享有する表現の自由の内実の一つである。 もう一つが、あらゆる価値観が公的空間にあふれるべく、多様な情報を流通させることである。多様な情報があまねく社会に行き渡ることによって、我々は自分自身の善き生の構想をより「善く」する材料を得る。ひいては、民主主義的決定の際の人々の熟議と熟慮の一助となることで、その特定の社会の民主主義を円熟させる。公共空間をより豊か(rich)にするために、マスコミには表現の自由の行使にあたって厳しい自己規律が要求される。国会で報道陣に囲まれる山尾志桜里氏=2017年9月 そしてこれらマスコミの役割に通底しているのが、「公共性」という要素であり、だからこそマスコミの表現行為には、権力や民主主義という公共性に奉仕する専門職能集団として、特に憲法上の保護が及んでいるのである。 果たして、近時の新聞やテレビワイドショー及び週刊誌報道は、憲法が期待した目的に適っているのか。報道の自由の名の下に、まるで公共性を持たない報道を一方的、一面的に流し続けるさまは、自らを支える「報道の自由」と「公共性」を掘り崩し、自壊的であることにすら無自覚であることに恐怖すら覚える。 また、政府広報に堕している一部新聞・テレビは、憲法がマスコミに特に与えた公共的使用の責務に応えておらず、憲法典が課した表現の自由の公共的使用という責任からすれば、完全な「任務懈怠(けたい)」である。政府にも正規の広報はいるので、そのようなマスコミはぜひ心配せずに、今すぐ表現の自由の本意を理解し、権力監視に勤しんでもらいたい。 これから来る憲法改正論議についても、マスコミやジャーナリズムによる適切な情報の流通と共有が極めて重要となる。戦後日本社会を形作ったという意味でも最も「公共的」な議論の対象たる「憲法」について、報道はぜひそのレゾンデートル(存在意義)たる公共性を今一度追求してほしい。改憲=憲法「典」改正ではない さて、話題はその憲法自体の改正議論に移りたい。 憲法という法規範は、本来、全く相いれない価値観を大切にしている個人がそれぞれ「自分らしく生き」ながら「共生」を図るという、二律背反を克服するための極めて包容力の高い寛容な法規範のはずである。しかし、ひとたび憲法が議論の対象になると、激しい思想的分断を生んでしまう。日本国憲法が、戦後日本の公論・思想空間の分断を助長してしまっていたといっても過言ではないのである。 これからの憲法論議は、この分断を超える、分断を治癒する、誰も置き去りにしない憲法論議を涵養(かんよう)すべきである。 憲法の本来の包容力の源泉は、憲法を憲法たらしめている自由や権利、そしてそれを保障するための厳格な権力統制の仕組みといった普遍的価値である。憲法論議も、この価値を社会の中で実践するにはどうすべきか、という大命題からスタートすべきである。重要なのはこの憲法的な価値を守ることであって、「憲法典」という今ある成文憲法を守ることではない。これは、成文の憲法典を持たないイギリスでも「憲法改正」論議があることを考えれば、「憲法改正」=「憲法典改正」ではないということは容易に理解できるのではないだろうか。 今までの「改憲/護憲」の議論は、「日本国憲法」という特定の憲法「典」を改正するか否かに問題が矮小化され、いわゆる「改憲」VS「護憲」という教条主義的二項対立に膠着(こうちゃく)してしまう。改憲論議も、いわゆる憲法が掲げる諸価値や権力統制を強化するために改正が必要か否かという視点で進めていくべきである。 すなわち、憲法も国家統治のための「法」なのであるから、過度の思い入れなどの情念や、詩的・抒情(じょじょう)的な創作意欲などで改正の是非を議論すべきでないのはいうまでもない。国の政治の在り方や、これを構成する市民社会の自由及び権利について、どのような制度設計をすべきなのか、まずはこの大枠で大上段のビジョンが欠かせない。衆院本会議で所信表明演説する安倍晋三首相=2017年11月、国会(松本健吾撮影) 憲法はこの社会とは独立して真空状態では存在しえず、この社会を構想し規律する法規範である。憲法改正論議も、現代の生ける社会が抱える権利衝突や社会的病理現象に対して、憲法がどのような応答ができるのかという巨視的な視点から、個人の権利の拡充、権力均衡の回復、熟議民主主義の再興、等の大きなテーマや問題意識の設定から出発しなくてはいけない。この、テーマやビジョンの設定こそ、政治家の仕事である。 この、①政治哲学や国家ビジョンがあるからこそ、②そのテーマを実現するためにどのような改正項目が挙げられるかが俎上(そじょう)に上り、③挙げられた改正項目をどのように変えるかの提案から④具体的な条文案へと落とし込まれる。 このような思考の順序をたどれば、「憲法改正論」として議論すべきは、「憲法典」に限られない。いわゆる「憲法附属法」(法律や規則も含む)も含めた、壮大な「憲法改革」とでもいうべき一大工事となる。憲法を頂点とした法秩序全体と現実の社会との間を行き来し、これらを横断的に見渡した構想を掲げることこそ、「憲法改正」である。憲法は固有の役割を果たしているか 憲法を取り巻く公論が、憲法の役割や存在意義そっちのけの教条的二項対立に分断されている間に、憲法が保障する権利の網の目からこぼれている個人はいないか、この憲法が権力を縛った鎖は錆びていないか、我々の声を国家統治に通す「民主主義」という名のパイプは詰まり気味あるいは歪(いびつ)な形になっていないか。残念ながら、これらには悲観的な回答をせざるを得ないと考えている。 9条は交戦権と戦力を否定しながら、自衛隊を保有し、政府解釈でかろうじて縮減している“とされてきた”自衛権も、その政府解釈によって集団的自衛権の行使まで容認された。この点、国際法(国連憲章51条)上、主権国家には(個別的・集団的)自衛権の行使が認められていることは当然だが、国際法上適法に認められた武力行使が(個別的・集団的)自衛権であり当該武力行使が国際法上どのように評価されるかということと、国内最高法規である憲法によって特に自衛権の行使の範囲(武力行使の発動要件)を規律することは別である。「島嶼作戦」の訓練を披露する自衛隊員たち=2017年11月、那覇駐屯地 規律された要件の下で行われた武力行使が国際法上どのように評価されるか、それだけのことだ。憲法で自衛権の発動要件を主権国家がその国の事情で縛ることは国際法上の自衛権の存在を否定することにはならないし、当然、憲法で国際法上の自衛権を否定したり創設したりすることはできない。国際法至上主義の立場からこのことを意図的にミスリードして、「自衛権の規律は国際法でしかできない」という見解も存在するが、国家の主権を認め国内最高法規(=国民意思)で武力行使の発動を規律することの批判になっていない。  さて、国家最大の暴力たる軍について「無き者」にされている憲法では、軍について規律することはできない。軍を前提とした法秩序を前提としていないからである。軍の存在を真正面から認め、これを国会(シビリアンコントロール)、内閣(内閣の権能としての軍事の明記)、司法(軍法会議の創設)、財政(予算措置からの統制)という、統治規定の総力戦で統制していく。そして、9条の魂は「軍縮」なのだから、立法技術的視点は措(お)いても、その魂を刻み込むべきだ。 軍事こそ、統治の技術の粋を集めて規律すべき最優先最重要課題であり、これを放置しては「立憲主義」に悖(もと)る。 また、憲法の規定はいわば刑法でいう構成要件であり、合憲か違憲かの判断基準を提供する。しかし、判断基準だけでは、違憲の状態を是正できない。つまり、大事なのは基準違反の是正を担保する「実行力・執行力」である(民事では強制執行、刑事では刑の執行により担保されている)。これが伴ってこそ、法規範の実効性が生まれる。今までは、日本国憲法は、まさに「公正と信義」に信頼して運用されてきたため、細かく規定しなくてもその「行間」を「抜け穴」として行動する為政者は幸いにも現れなかった。 しかし、安倍政権の登場により、「行間」は「抜け穴」と読み替えられ、そのエアポケットで権力者は縦横無尽にふるまっている。「行間」の番人であった内閣法制局も今や人事を通じて骨抜き状態で機能していない。 現憲法ですら「違憲」と判断されうることにお構いなしなのだから、「違憲」のハードルを下げた(違憲と判断しやすくする)ところで、守られないという点では変わりない。すなわち、これを強制的に是正する「仕組み」が必要である。 具体的には、憲法裁判所の創設によって憲法の規範性・強制力を担保すべきである。司法官僚組織とは独立した憲法裁判所の創設は、最高裁改革にも着手することを意味し、ここに真の司法制度改革がスタートするだろう。最高裁と政権与党の間の、“法律に違憲判断をしない代わりに最高裁には手をつっこまない”という緩やかな「共謀」は、司法権の独立と権力統制機能を画餅にしつつある。このような改革案は、野党こそ提起できるものではないか。安倍改憲論は小手先 その他、「個人の権利保障の拡充」というテーマでは、その実行力の担保として今見た憲法裁判所の創設が挙げられるが、プライバシーや知る権利、LGBT(性的少数者)の権利についても議論すべきだ。「権力統制・権力均衡の回復」としては、9条を筆頭に、国会権能の強化と行政府の統制も議論せねばならない。先般問題となった委員会での質問時間の配分問題も、規則レベルだが、「改憲論議」の枠内で行うべきである。議会の不文律で重要なものは明文化すべきだ。2008年フランスの改憲議論や、近時のドイツでの議会改革の改憲論議でも規則改正や明文化の議論が活発に行われている。 また、日本固有の「権威と権力」の均衡を担う皇室制度についても、改憲論議の中心的課題であり、女性宮家の創設及び女性・女系天皇について皇室典範の改正論議は、改憲構想の中で語られるべきである。「熟議民主主義の再興」では、参議院改革、地方自治制度、選挙制度、国民投票制度(国民投票法含む)の再考、外国人の地方参政権など、多様な民意の反映のための制度構築の見直しをしなければならない。 また、「主権の回復」として、日米地位協定の改定も9条改正とセットで改憲論議に含まれるだろう。  以上は、憲法の保障する普遍的な価値や立憲主義を強化する改憲提案の一部でしかない。 これらから逃げた「改憲論議」は、小手先のまやかしであるし、安倍改憲(加憲)論はまさに小手先のコンセンサス重視の「欲望充足改憲」であり、まったくビジョンも一貫性も胆力もない(個別の問題点の指摘はすでに大幅にオーバーした紙幅の関係上別稿に譲る)。安倍加憲や立憲主義的改憲に対する態度決定は、「改憲派」や「立憲主義」を名乗る人々にとってのよきリトマス試験紙となるだろう。衆院本会議で所信表明演説する安倍晋三首相=2017年9月(宮川浩和撮影) 戦後70年の日本の歩みを肯定的に振り返りながら、安倍政権が登場した現代社会において、憲法を権力統制規範として甦らせ多様な価値観を奉ずる個人の権利をすべて抱擁する寛容な法規範として再定位するべきだ。改憲についての「政治的状況」や「タイミング」を重視する“護憲”的な言説ほど憲法を貶(おとし)めてはいないか。今だからこそ、運動論ではなく理論で戦うべきときではないのだろうか。 憲法の根源的な価値は「あなたがあなたであるということだけで尊重される」ということであり、人は誰しもがどこかを切り取れば少数者である。すなわち、誰もが憲法の当事者であることからすれば、改憲論議もすべて我々一人一人のものである。政治、市民、専門家、すべての知性を結集して、誰もが当事者の憲法改正を語れるプラットフォームの醸成をしていきたい。

  • Thumbnail

    記事

    「一億総ゲス社会」にどっぷりつかった日本人は地に堕ちた

    ーマ法王と故カストロ国家評議会議長(当時)の初会談だ。全世界の注目も集まろうというものだ。とりわけ米メディアの力の入れようったらなかった。CNNの人気アンカー、クリスティアン・アマンプール氏はぞろぞろと10数人はいようかという「おつき」を引き連れ闊歩(かっぽ)しているし、abcの重鎮アンカー、故ピーター・ジェニングス氏の姿も。アメリカキーテレビ局のキャスターは勢ぞろいだった。 それが、だ。クリントン大統領のスキャンダルが勃発(ぼっぱつ)した途端、米メディアの引き際がすごかった。一瞬のうちにハバナ市内から消え去り、アメリカへと戻っていったのだった。残された?われわれ日本メディアはその後淡々と法王のキューバ訪問を取材したのは言うまでもない。 結局、クリントン大統領は弾劾されなかった。とはいうものの、その権威と信頼は大きく傷ついた。そして、ルインスキー氏が失ったものも大きく、さまざまなバッシングも受けその後の人生設計は大きく狂ってしまった。代償はあまりにも大きかったのだ。不倫に寛容になった日本社会 さて、翻って日本だが、こんなに一部メディアがバンバン「不倫報道」に血道をあげているわりに、実は本人たちも周りの人も大して気にしていないんじゃないか?と思うようになってきた。芸能人なんてすぐ「禊(みそぎ)」が済んであっという間に画面に復帰するし。 政治家だって、先のイケメン(現在はイクメン)議員、すなわち宮崎謙介元衆院議員だが、ふとテレビをつけたらバラエティー番組のコメンテーターとして番組に出てしゃべっているではないか。 山尾志桜里衆院議員だって、本人は不倫を否定しているわけだし、ちゃんと選挙も勝ちました。ですので、その不倫相手と報じられている弁護士を政策顧問にしたってなんの問題もないでしょ、という態度だ。世間も、なんとなくなし崩し的にまあそうだよな、という感じになっている。人の噂も七十五日。こちらも風化するのは時間の問題という気がする。 何が言いたいかというと、実は日本人は騒いでいる割に意外と「不倫」を気にしていないのではないか、ということだ。単に興味本位で他人の私生活をのぞき見し、楽しんでいるだけなのではないか。実は日本社会は「不倫」に寛容なんじゃないか、と思い始めている自分がいる。 去年、ベッキー騒動の時、私はJapan In-depthにこう書いた。 ただ単に人の過ちを冷笑し、貶め、叩くだけ叩くという今のこの現状。テレビのワイドショーを見て、喜んでいるのは私達自身だ。「ゲス不倫!」と人を罵る前に、自分たちのゲスさ加減に気づくべきだ。「一億総ゲス社会」 人の不幸は蜜の味。そんな社会に私たちはどっぷりとつかっている。 確かに「一億総ゲス化」は着実にパワーアップし、かつ進化を遂げている。政治家の「不倫」はもはや道義的にどうこういう問題ですらなくなった。ただのエンターテインメントの一部でしかないのだ。エンタメというと聞こえがいいが、要は「芸能」。「政治家」は「芸能人」とほぼ同義語となり、その政治家がどのような政治信条を持っているのか、これまでにどのような政策を進めてきたのかなどということには誰も興味がないのだ。 興味があるのはスキャンダルだけ。現代人の欲求不満のはけ口を提供しているにすぎない。そんな存在に政治家は堕ちた、ということだ。それにテレビのワイドショーや政治バラエティーが加担している。2017年9月、愛知県尾張旭市での支援者を集めた会合を終え、報道陣に囲まれる山尾志桜里氏 こうした状況に甘んじている政治家も問題だが、しかし、だ。よーく考えてみたら、その政治家を選んでいるのは私たち有権者だし、ワイドショーを熱心に見て視聴率を上げているのも、私たち自身なのだった。 結局、ツケは自分たちに返ってくる。そう気づいたら暗澹(あんたん)たる気持ちを通り越して滑稽さすら感じる。嗚呼(ああ)、因果応報とはこのことか。

  • Thumbnail

    記事

    多額の取材謝礼を払っている? 週刊誌の嘘とホント

    によれば……」と文春の記事をそのまま流している。自社でウラも取らずに文春の記事を放送することについてメディアとしていかがなものかと批判するむきもあるが、どだい民放のマンパワーでは独自のウラ取りなんてとても無理である。 民放各局にも報道局という部署があって記者がいるが、これは正午前や夕方、さらに晩のニュース番組のための取材や原稿書きをするためにいるのであって、午前中や午後の情報番組のための人員ではない。文春が書いてくれ、ある程度、社会的に認知された記事であれば、一も二もなく飛びついてしまうのである。 文春側もしたたかなもので、最近ではテレビ各社に対して、「週刊文春によると」とのクレジットをしっかりつけるよう求めるだけでなく、画像や記事の使用料を取るようになったという。少なくない経費をかけて取材をしたわけだから、テレビ各局にタダ取りされてはかなわないということだろう。 ネットには「なぜ文春はスクープを連発するのか」という類いの記事が多く掲載されるようになった。週刊誌の記者による取材や制作過程に関心が高くなっていると思うと、たいへん喜ばしいことだが、一般に広がっているイメージのなかには誤りも多いので、この機会に指摘してみたい。①多額の取材謝礼を支払っている のっけからカネの話で恐縮だが、この誤解に対してはきちんと言っておきたい。文春がなぜ強いのかと書いたネット記事のなかにこう書いているものがあったからだ。 文春にかぎらず週刊誌はネタ元に対して多額の謝礼を支払っているとのイメージが世間では強いようだ。なかでも文春は他社よりも高額であると。だから、多くのネタが集まってくるのだという理屈だ。 私が知るかぎり、かつてある大手出版社の某週刊誌が大物芸能人と暴力団幹部が一緒に写った写真を入手するのに、百万円を超える謝礼を払ったことがある。担当編集者にオリジナルの写真を見せてもらいながらその額を教えてもらった時に、驚いた記憶がある。 ただし、これは今ではかなりレアなケースだと思う。第一、ネタをカネで買ってくれと言ってくるような人物は信用ならないことが多い。カネ欲しさに話をでっち上げるようなことだってするからだ。 かつてインタビューを受けてくれた相手から多額の報酬を請求されたことがあったが、きっぱり断ったことがある。そんな額、どうやっても経理の担当者が認めるわけがないし、そもそもインタビューが掲載されることであなたが主張したいことが一般読者にも伝わることになり、あなたにとってもプラスの影響が出るはずだ、そう説明した。相手も最後は納得してくれた(と思う)。繰り返しになるが、多額の取材謝礼を支払うなんてあり得ない。多くは我々記者が足で稼いだ成果だ。週刊誌はカネや圧力で記事を引っ込めるのか②週刊誌の記事は信用ならない 残念でならないが、一般にこう思われているのも事実だろう。たしかに週刊誌のなかには事実かどうかよりも、耳目をひく見出しで読者に読んでもらう、買ってもらうことが目的と化したようなひどい飛ばし記事も目立つ。ただ、文春には週刊誌業界では定評がある取材力の高い記者が多く、こうしたひどい記事を書かずとも記事になっていると思う。 一方で、文春も含む週刊誌は新聞やテレビに比べて、記事に書かれた側から訴えられることが多く、裁判所も取材する側に厳しく接することが多いために、敗訴することが少なくない。 だが、これは新聞やテレビが際どいネタを取材しなくなったことの裏返しでもあると思う。もちろん取材には万全を尽くすべきだが、格好のネタがあるのに取材をしようともしないというのでは話にもならない。 甘利氏の秘書らに金銭を渡していたと自ら名乗り出た告発者の場合、文春の記者に接触する以前に大手新聞社の社会部記者に同じ話をしていたことは我々の業界ではよく知られた話だ。この記者は告発者から話を聞いておきながら、それを上司に報告することもなく、そのまま放置していたという。同じ社の別の記者によると、どうもその記者は、告発者から話を聞いてピンと来ず、むしろ怪しいヤツと思ったからとも、どうせ社内でネタを潰されると思ったからとも説明しているそうだが、どちらにしても社会部記者としてかなり問題である。苦境の週刊誌業界でしのぎを削る「週刊文春」と「週刊新潮」 告発者の素性に疑問を持ったとしても、金銭授受の事実があったのであれば、それを調べてみるのが社会部記者たる者の最優先すべき仕事のはず。政治家がからむ案件で潰されるかも知れないと心配するのはそのあとだ。 その意味では、このネタに食らいつき、記事化までに半年もかけて取材を重ねた文春の記者は見事だというより他ない。週刊誌が信用ならない記事を書くのではなく、新聞やテレビが際どい記事をやりたがらないだけだ。③週刊誌はカネや圧力次第で記事を出したり引っ込めたりする これも多くの人から、「週刊誌ってそうなんでしょ?」と聞かれることだ。そのたびに「今どきそんなことする雑誌なんてありませんよ」とムキになって反論するが、なかなか信じてもらえない。 だが、こんなことをやってはおしまい。週刊誌だってメディアの端くれ、報じる意義がある、世間が求めている、だから報じるのであってカネや圧力で記事にする、しないを決めるなんてありえない。 新聞各紙は、毎年、元旦に特ダネを掲載するのが習わしになっている。今年も某大手紙が、中国でスパイと疑われ拘束されている日本人の動向についてスクープを打ってくるとの情報が事前に流れたが、実際には掲載されなかった。これをめぐってその新聞社の社内で政治部が社会部に圧力をかけたために掲載されなかったんだという、まことしやかな噂も聞こえてきたが、さすがにそんなことはないだろう。そんなことをすればメディアにとって自殺行為だからだ。 週刊誌だって同じ。そんな心構えでやっているつもりなのだが。

  • Thumbnail

    記事

    「首相の関与」は無理筋だった? 森友問題で一変した朝日新聞の責任論

    籠池氏に利益を供与する「忖度」をさせたという、マスコミや野党の批判の根源にもなっていたのではないか。メディアのミスリードにハマった国民 だが、実際には籠池氏の小学校には首相や首相夫人とのつながりを明らかに示す資料はなかった。だが、この森友学園問題が政治的に大化けする過程で、マスコミは籠池氏の発言をろくに検証することもなく、そのまま報道し続けた。その中で、あたかも新設小学校が「安倍晋三記念小学校」ではないかという印象を垂れ流すことに貢献したことは明白である。 例えば、朝日新聞は5月9日の記事で「籠池泰典・前理事長は8日夜、取得要望書類として提出した小学校の設立趣意書に、開設予定の校名として『安倍晋三記念小学校』と記載したことを朝日新聞の取材に認めた」と報じた。この記事によって籠池氏と安倍首相との「つながり」の濃さを信じてしまうというミスリードに陥った国民も多かっただろう。テレビなどもこの記事に似た報道を連日垂れ流し続けた。森友学園問題を取り上げた2017年4月2日付の朝日新聞社説 もちろん、朝日新聞はこの一方の当事者の発言を事実検証もせずに垂れ流した責任を取る気はさらさらない。むしろ最近では、どうも安倍首相への「忖度」が無理筋だと思ってきたのか、社説などでは、財務省のミスを追及する責任が首相にある、と論調を変化させている。 例えば、12月1日の社説「森友問題審議 無責任すぎる政府答弁」では、「責任は財務官僚にあり、自分は報告を信じただけ。そう言いたいのだろうか。だとすれば、行政府トップとして無責任な発言というほかない」と書いている。これは以下のように書き換えることができるだろう。 「責任は籠池泰典氏にあり、自社(=朝日新聞)は発言を信じただけ。そう言いたいのだろうか。だとすれば、言論の府としての新聞として無責任な発言というほかない」 実は朝日新聞と似たような報道を毎日新聞もしている。以下は毎日新聞の公式ツイッターでの発言である。「首相がすべきなのは、自身の関与がなかったとしても周辺に『そんたく』がなかったか徹底調査すること」。加計・森友問題の報道に関わってきた記者は指摘します。毎日新聞公式ツイッター(2017年11月16日) これまで散々「首相の関与」をあおってきた末のこの発言にはあきれるしかない。 だが、無責任な報道姿勢が改まることはないだろう。例えば、自民党の和田政宗議員が12月1日朝のブログで、「新しいメモ」でもないものをいかにも森友学園の不正を追及する新資料が発見された、といわんばかりの記事を掲載していると批判している。これはささいな問題に思えるかもしれないが、この種のミスリードの蓄積が「安倍首相は謙虚ではない」「安倍首相は人格的に好ましくない」といった印象へと導いていくのかもしれない。森友学園問題も加計学園問題についても、首相から発生する問題はいまだみじんも明らかになっていないのにである。「安倍擁護」の批判に応える 「われわれは知らず知らずに心の中で魔女裁判を行っているのではないか?」。このようなことを書くと毎度出てくるのが、安倍擁護をしているという批判である。経済政策や安全保障を含めて重大な問題がある中で、あくまで責任が全く明示されていない問題に過度にこだわることの愚かさを指摘しているのである。朝日新聞や毎日新聞に代表されるような無責任なマスコミの報道姿勢を追及することは、政権の政策ベースでの批判と矛盾することはない。実際に安倍政権の経済政策だけでも、前回の論考で消費税増税シフトを批判したように問題はある。報道によってミスリードされている世論の「魔女裁判」的状況の解消を願っているだけなのである。2017年11月、参院予算委で答弁する安倍首相 このようなマスコミの無責任な報道姿勢は、森友学園問題だけではない。朝日新聞がいまでも自社の誇り、もしくは売りにしているものに「天声人語」がある。いまでも入試のための必読アイテムだとか、文章の見本などと宣伝されていることがある。実際にはそんなものではない。 日本銀行の岩田規久男副総裁はかつて『福澤諭吉に学ぶ思考の技術』(2011年、東洋経済新報社)の中で、天声人語はいったい何が議論の本位なのか明示することなく、それを明示したとしても十分に論じることもなく終わってしまう悪い文章であると批判していた。まさに同意である。今回の森友学園問題も、いったい何が具体的な問題なのかわからないまま、「忖度」という議論になりえないものを延々と十分に論じることなく、一方だけの発言を恣意(しい)的に垂れ流していく。そのような朝日の報道姿勢が、そのメーン商品である天声人語にも明瞭だというのが、岩田氏の批判からもわかる。 岩田氏は、当時話題になっていた大相撲力士の野球賭博問題を絡めて以下のように書いている。 多くの日本人の責任の取り方は、福澤(諭吉)の言うように自己責任を原則とする個人主義とはかなり異なっている。自己責任を原則とすれば、裁くべきは法に照らした罪であり、世間が騒ぐ程度に応じて罪が変わるわけではない。メディアは力士が野球賭博をすると大騒ぎするが、普通の企業の社員がしても記事にもしないであろう。しかし、どちらも法を犯した罪は同じであるから、メディアがとりたてる程度で罪の重さが変わるわけではなく、同じように自己責任をとるべきである。 つまり法によらずに、メディアが「罪」をつくり出す風土にこそ現代日本の病理がある。

  • Thumbnail

    記事

    日馬富士騒動に便乗したワイドショーの「場外乱闘」がみっともない

    藤本貴之(東洋大学教授、メディア学者) 「日馬富士暴行問題」をめぐる一連の報道の中でひときわ目を引くのは、第三者の発言を借りた「臆測報道」の乱用だろう。 「関係者」「周辺」「元力士」「友人」「相撲に詳しい~」「~をよく知る」「相撲取材歴○○年」などと称する人たち(以下「関係者」)が、自分たちの立ち位置で、自分たちなりの発言をする。そして、当事者でもないのに、お互いの発言からさらなる推測をしたり、批判したり議論をする…という不可思議な構造である。ここぞとばかりに「関係者」が登場しては、さまざまに食い違う「真実」を語り出す。 騒動後、姿を見せない被害者、貴ノ岩関に対して「外傷とその後の騒動から、PTSD(外傷後ストレス障害)の可能性もあるから表に出ない」という見立てまでする医師さえ登場している。担当医でもないのに、いい加減にも過ぎる。 常識的な感覚があれば、この状況で貴ノ岩が精神的なストレスを抱えていることは、誰だって想像できる。騒動に便乗して、専門家風のスタンスで中身のないコメントをする意味がどこにあるのか。 貴乃花親方の心境に思いを馳(は)せたり、相撲協会理事たちの考えを代弁したり、貴ノ岩関の居場所についてまで推測し、それをテレビという公共の電波で臆面(おくめん)もなく語る相撲リポーターの姿にも辟易(へきえき)とさせられる。 自民党の伊吹文明元衆院議長まで「大横綱だからなんでもできると思い上がっているんじゃないか」と持論を展開する始末だ。政治家がコメンテーターのまねをしてマスコミの前で意見する問題ではない。  極めつけは、モンゴル出身の旭鷲山(元小結)が各局の情報番組で発言した騒動へのコメントと、それに対して繰り出された同じくモンゴル出身の朝青龍(元横綱)による批判だ。公私混同、目的不詳の「場外乱闘」としかいいようがない。もちろん、2人とも騒動の部外者であり、貴乃花親方や貴ノ岩関の本当の胸の内など知るよしもないだろう。記者会見する元小結旭鷲山、ダバー・バトバヤル氏=2017年11月、モンゴル・ウランバートル(共同) 貴乃花親方が鳥取県警の捜査を優先し、相撲協会からの聴取に協力的ではないということを批判したり、断片的にしか知りようのない貴乃花親方の挙動に意見する「関係者」たちの発言なども異様だ。明らかになっている事実は、暴行に対して被害届が出された、ということだけである。少なくともやり取りの是非について、第三者が勝手に臆測をめぐらせ、さも客観的意見であるかのように公言するものではない。 もちろん、貴乃花親方には監督責任者として相撲協会にも報告する義務はあろうが、そもそもそういった細かい議論こそ、貴乃花親方と相撲協会との間で部外者の理解を超えたナイーブな話があることは想像に難くない。どれも「関係者」たちが臆測で発言できるような類いのものではないはずだ。ジャニーズと協会の共通点 「関係者」と称する無関係な第三者たちの発言によって構成された「臆測報道」。このような異常状態を横行させる背景にあるのは、皮肉にも大相撲力士のコンテンツ力の高さがゆえだ。 例えば、最新の週間視聴率ランキング(11月20日~11月26日)を見ても、「大相撲九州場所12日目」は、関東地区で17.2%とスポーツ分野で堂々の1位だ。この数字は、全番組の中でも「笑点」に次ぐ5位である。 テレビ離れが進む今日にあってもなお、大相撲中継は、高位安定の「鉄板コンテンツ」であることに間違いない。中継技術も完成しているだろうから、番組制作にあたり改めて新しいアイデアを考え出す必要もなく、労力もかからない。近年、消滅しつつある「ながら視聴」にもまだまだ耐え得る貴重なコンテンツでもある。 大相撲中継が「本編」だとすれば、バラエティー番組や情報番組で扱われる大相撲ネタはいわば「スピンオフ」だが、このスピンオフでさえも本編に伍(ご)するほどのコンテンツ力を誇っていることは言うまでもない。力士を登場させるバラエティーやワイドショー番組は数多い。 エンターテインメントという観点から見ても、大相撲や力士は分かりやすく、扱いやすい素材だ。何より「相撲レスラー」のキャラクター性が明確であり、相撲に詳しくない人でも、力士がテレビに出てくれば、「あっ、この人はお相撲さんなんだ」とすぐに分かる説明不要のコンテンツなのである。2017年11月29日、引退会見を終え頭を下げる日馬富士=福岡県の太宰府天満宮(撮影・仲道裕司) 日馬富士や貴ノ岩含め、登場する力士や親方の名前を今回の騒動で初めて知った若い人は少なくないだろう。しかし、普段、大相撲中継などを見ておらず、個別の力士に興味がない人でも、相撲界全体の話題やスキャンダルには思わず関心を持ってしまう。われわれ日本人の中に、大相撲、力士というコンテンツへの関心が潜在的に刷り込まれている証左と言える。 この高いコンテンツ力が故に、無関係な「関係者」の臆測や場外乱闘でさえも、ワイドショーや情報番組にとっては決して小さくないニーズが生まれる。当事者からの情報が出てこない今回のようなケースであればなおさらだ。 もちろん「関係者」たちの無法地帯が生まれる理由は他にもある。 メディアにとって、大相撲のコンテンツ力の高さは、相撲協会に対する弱みにもなっている。ジャニーズ事務所のような大手芸能プロダクションとの関係にも似ているが、批判的な立場はとりづらいはずだ。コンテンツ力の高い相手に対しては、常に顔色を窺わざるを得ないのが今のテレビの宿命である。それがとりわけ閉鎖性が強いといわれ、他に代替がきかない相撲協会であれば過剰な「忖度(そんたく)」は必至だ。 それでも、スキャンダルであればあるほど関心が高まる大相撲ネタであるだけに、今回のような騒動は、テレビのワイドショーや情報番組ではあれば、多少のリスクを冒してでも扱いたいトピックだろう。 そこで利用されるのが「関係者」たちである。 「関係者」をカメラの前に座らせて、「よく知る第三者」として発言させることで、メディアとしての直接的な責任を回避しつつ、話題性の高い情報を発信できる。相撲協会にとって不都合であったり、気に食わない内容があったとしても、その責任は「関係者」にあるのだから、差別発言や放送禁止用語などを口にしない限り、番組自体が責任追及の対象にはなりづらい。 テレビは責任の外に置かれ、「関係者の発言」だけが、番組のスクープ、新事実として無責任に一人歩きをしてゆく。要するに無責任でスキャンダラスな発言を「関係者」と称する、出たがりの第三者に代弁させているだけではないか。それどころか、真偽不詳で臆測だらけで炎上発言をしてしまう「関係者」もまた、ワイドショーにとっては力士同様に便利なコンテンツなのかもしれない。国技でもないのに品格を求められ 日本の「国技」として認識される相撲ではあるが、他の伝統文化の業界に比べ、報じられるスキャンダルや問題は多い。親方の暴行による力士の死亡事故を含め、暴力問題、八百長疑惑などは枚挙にいとまがない。日本相撲協会も事あるごとに「力士の品格」を口にしては所属力士たちを律するが、そんなものどこ吹く風で、品格のない事件や騒動は後を絶たない。 その要因は、意外に思われるかもしれないが「相撲は日本の国技ではない」という事実にあると筆者は感じている。 より正確に表現すれば、相撲は、国旗国歌法のように法律で「国技」であると定められているわけではない。演芸や工芸でもないので、文化財保護法における「重要無形文化財」でもない。菊の紋章のように、慣例的に「日本の国章」になっている類いのものでもない。 つまり、大相撲を頂点とした相撲文化が、日本の「国技」であることを示す法的な根拠はないのである。2017年9月、両国国技館で行われた土俵祭(撮影・加藤圭祐) 一方で、多くの日本人は相撲が日本を代表する武道であり、わが国の象徴的な「伝統文化=国技」であるとして受け入れることにやぶさかではない。多くの国民から「国技」であるとイメージされ、そこで活躍する力士たちも、日本の伝統文化を継承する人気者であるにもかかわらず、「国技の継承者」としては明確に定められていないという矛盾がある。 国民からの「国技の継承者=国の代表」としての認識は、力士たちと相撲協会に大きな収益や知名度といった特権を与えている。対外的にも「国技」としての役割も存分に担わされているにもかかわらず、日本相撲協会という民間団体だけによってコントロールされているのが実態だ。  メディアにとっては検証や批判がしづらい大相撲の高いコンテンツ力。「国技」としてのイメージを担わされ、特別な立場を享受している事実。しかし、実は単なる民間の競技団体でしかないという大相撲の実態。この相容れない3つの重なりが生み出す矛盾にこそ、日本の伝統文化にもかかわらず、品格なき事件を生み出す要因があるのではないだろうか。 もっとかみ砕いて言えば、大相撲で活躍するモンゴル人力士たちの中に、日本の「国技」を支えてきた、という自負が生まれ、それが品格なき「増長」をも許してしまうのではないか。 連日過熱する日馬富士騒動だが、ワイドショーを中心としたマスコミは「関係者」たちによる臆測報道ばかりで、こういった問題に対して言及することはあまりない。相撲界を正常化させ、より発展させるために期待される役割は決して小さくない。 無関係な人たちによる無責任な想像力を楽しむことも節度を守れば必ずしも悪いとは言い切れないが、それよりもメディアが取り組むべき魅力的なテーマは、他にいくらでもあるだろう。

  • Thumbnail

    テーマ

    日馬富士騒動、ワイドショーの悪ノリが痛い

    テレビをつければ、連日連夜くだんの日馬富士騒動だが、各局のワイドショーは軒並み高視聴率だという。騒動とは無関係の元モンゴル人力士が「場外乱闘」まで繰り広げ、ワイドショーの悪ノリもここまで来るともはや「公害」である。このバカ騒ぎの元凶はテレビなのか、それとも視聴者か。

  • Thumbnail

    記事

    「若貴の母」藤田紀子のワイドショー発言だけは価値ある情報だった

    性と子供を甘くみる偏見を含んでいるが)向けの情報と低くみられかねないが、確かに「そこまで本気で公共のメディアで時間を使うべきものですか?」という話題について無駄に議論する例も少なくない。タレントの不倫問題について、延々と議論するのは最たる例である。 最近の例でいえば、日馬富士の暴行問題が一様に注目のテーマであった。国技として社会的な注目度も高い相撲界で起こった出来事だけに、ワイドショーが盛り上がるのも理解はできるが、どの局も同じような映像を使い、相撲ジャーナリストとタレントの組み合わせという、類似のメンバーで横並びの情報を流すことに果たして意義があるのかはオーディエンスの多くが疑問に思うところであろう。報道陣に囲まれる貴乃花親方=2017年11月、東京都江東区 ただ、ワイドショーの存在自体が無意味かというと、そうとは言いきれない。現在の多様化したメディアにおいては、かつては録画しなければその場限りの言動で消えて行った司会者やコメンテーターの発言が、ネット上に記事として再掲され、放送時間にテレビの前に座っていなくても、ワイドショーでの議論に接することができ、記録にも残るようになった。 つまり、ワイドショーの司会者やコメンテーターが「オピニオンリーダー的な位置づけ」で扱われる現象が、ネット環境の発達により高まっているのだ。ワイドショーをみているのは「どうせ女子供」という前提は通用しなくなり、より幅広い一般市民、老若男女に、ワイドショーの議論が影響を与える可能性が増えたのである。 また、ワイドショーには、専門家やジャーナリストを中心に構成される夕方から深夜にかけてのニュース番組にはない特徴がある。コメンテーターの顔ぶれには、市民目線を意識したいわゆる「ど素人」的なメンバーも含まれるので、コメントは玉石混交ではあるが、時に素人ならではの新鮮な疑問が飛び出し、いわゆる学識経験者らによる真面目な大新聞の社説よりも的を射た意見だと納得させられる場合もある。意外と有意義な「社会勉強」の場 今般の日馬富士騒動の例では、「貴乃花、若乃花を育てた母」というテロップとともに、ニュースの当事者である貴乃花親方の母親でもあり、相撲部屋の女将でもあった藤田紀子氏の、元女将の立場、母親の立場を絶妙に使い分けながらのコメントには、ユニークなものがあった。女優の藤田紀子(左)と息子でタレントの花田虎上 通常、メディア学においては、新聞や雑誌に頻出する「〇〇の母、妻」という肩書を、女性個人の主体性を尊重するのではなく、男性(夫や子供)の従属者とみなす呼称として批判するのであるが、今回の暴行問題においては、元相撲部屋の女将であるという藤田氏の独自の立場を認識させるために、必ずしもマイナスではなかったといえる。そして、母親という私的立場を併せ持つ独自の立場からの意見を引き出したワイドショーには一定の意義があった。 貴乃花部屋を謝罪に訪れた伊勢ケ浜親方と日馬富士を車の中で無視して走り去った貴乃花の態度は、大人げないと批判されるが、親方衆は場所中は会場に詰めているのだから、いつでも謝罪の機会はある、あれはむしろ伊勢ケ浜親方側のパフォーマンスだ、というコメントには、あからさまではないが、正論を主張しつつも母としての愛情がこめられていたように見えた。過去に自分自身も、息子たちの現役時代の家族関係を取りざたされ、まさにワイドショーを賑わせただけに、ワイドショーのネタとなった経験者の発言としても興味深いものであった。 テレビ局のコンテンツ制作力が低下したため、ワイドショーでお茶を濁しているという見方もあり、より大きく扱うべき北朝鮮との外交問題、福島原発の今後、震災復興などの深刻な社会問題を隠蔽しているという批判もあるが、素人の素朴な疑問から、専門的な知見まで、多様な意見をいい意味で取捨選択せずに(つまり、製作者側のバイアスがかかる可能性を減らして)流すことができるのは、ワイドショーの利点でもあろう。いわば、ネット情報に近いゲリラ性を有するのが、ワイドショーの言論である。 専門家や現役の業界関係者が、一般視聴者の目に見えぬ利害関係に縛られて教科書的、建前的な良識だけしか述べず、本音が別のところにある可能性も高いため、良い意味での井戸端会議的な談論風発で、社会通念や専門家の盲点をつく「正論」がワイドショーという場で引き出される可能性もある。 ただ、経歴詐称で姿を消すコメンテーターの例もあったように、コメンテーターが果たして本当に信頼できる人物なのか、専門家としての意見を述べているのか、専門外の立場から発言しているのかをオーディエンスはきちんと見極める必要がある。ワイドショーのコメンテーターがたとえ、その場限りのハチャメチャな意見を述べたとしても、それを批判し、良質な意見をそこから腑分けできるような、情報を読み解く力、高いメディアリテラシーがオーディエンスには求められる。 それさえ意識していれば、一見軽く見えるやりとりの中から、珠玉のコメントを自分なりに発見し、そこから社会を読み解くヒントをくみ取る場として、ワイドショーは意外と有意義な「社会勉強」の場となり得るのである。

  • Thumbnail

    記事

    「マスゴミの象徴」ワイドショーはどこへ行く

    碓井真史(新潟青陵大学大学院教授) テレビは娯楽だ。民放で言えば、コマーシャルを見てもらう代わりに、楽しいテレビ番組を提供しているとも言える。大昔の言葉で、テレビは「電子紙芝居」だなという表現もあったが、子どもたちが紙芝居に集まったように、人々はテレビの前に集まる。街頭テレビに群がる大勢の人々 ドラマあり、スポーツあり、お笑い番組あり。大勢の人がテレビの前に集まり、戦後のスタープロレス選手、力道山を応援し、オリンピックの日本チームに声援を送ってきた。試合会場に行かなくても、寄席に行かなくても、テレビなら全国どこでも気軽に楽しめる。 かつて「楽しくなければテレビじゃない」と豪語したテレビ局もあった。みんながテレビばかり見ていると、国民みんなが愚かになってしまうと「一億総白痴化」などと言って警鐘を鳴らした評論家もいた。 テレビはまた情報伝達ツールだ。テレビの発明は、グーテンベルクの印刷機の発明に匹敵する、人類史上の大発明だ。大量の情報やニュースが毎日流されている。情報伝達ツールの先輩にあたるのは新聞だ。ただし、新聞はテレビよりも格調高い。新聞の1面トップを飾るのは、ほとんどが政治経済ネタである。 政治経済の話なので、大見出しで書かれていることでも、庶民にはよくわからないこともある。最近は新聞を購読する人も減ってはいるが、かつてみんなが新聞を読んでいたときも、1面トップの難しい記事は読まず、まずテレビ欄を見たり、社会面やスポーツ欄から見たりする人も多かったことだろう。4コママンガを楽しみにしている人もいるだろう。その人たちももちろん新聞を購入した。 しかし、テレビはもっと自由だ。そしてシビアだ。番組冒頭から、難しい話題を難しい言葉で話す必要はない。やわらかい表現を使ってもいいし、やわらかい話題から入ってもいい。それに、番組の最初から面白くない話などされたら、視聴者はすぐに番組を変えてしまう。面白い興味深い話題になるまで待ってなどくれないのだ。 テレビは視聴者をつかむためにさまざまな番組を作ってきた。その中で生まれたのが「ワイドショー」だ。ワイドショーは、とても自由だ。ワイドショーを変えた「ワイドショー」 ワイドショーは1960年代に始まっている。放送時間はゴールデンタイムなど高視聴率が狙える時間帯ではない。むしろ、平日昼間のすきま時間とも言えるような視聴率が取りにくい時間帯に、ワイドショーは置かれた。だが、ワイドショーは次々大成功していく。スタジオ生番組、そして2時間程度の長時間、バラエティーに富んだ話題をスタジオトークでつないでいくワイドショーは、視聴者の心をつかんだのだ。 かつてのワイドショーといえば、芸能ニュースやゴシップネタが中心だったろう。だが、世の中は変わっていく。テレビも変わっていく。今までのいわゆるワイドショーでは、満足しない人々が出てくる。 その変化を生んだ番組の一つは、1999年に始まったフジテレビの『情報プレゼンター とくダネ!』だろう。「ワイドショーを超えたワイドショー」と銘打って、豊富な話題を取り上げていく。平日昼間に家にいる主婦なら、この程度の話題をこの程度に扱えばよいだろう。番組スタッフはそんなふうには考えず、今までのワイドショーを越えたいと考えたのだろう。フジテレビ系「とくダネ!」番組開始時に司会を務めた(左から)笠井信輔アナウンサー、メーン司会の小倉智昭キャスター、佐々木恭子アナウンサー=1999年 このコンセプトを視聴者は受け入れた。2001年にはこの時間帯の視聴率トップにおどり出る。その後10年近くは、視聴率トップの座を維持してきた。しかし、成功すれば他局もまねをし、またNHKの『あさイチ』が登場してきたことで、首位の座は明け渡していく。 いずれにせよ、視聴者はワイドショーに堅い話題も求めてはいる。しかし、そうは言ってもやはり娯楽性は無視できない。そして、テレビは自由だ。視聴者が求める話題、視聴率が取れる話題を求めるのは当然だ。そして時に、すべての話題がワイドショー化していく。 例えば、力士の暴力事件が大きな話題になり、人々の関心の的になれば、もちろんワイドショーはその話題を取り上げる。ニュース番組も新聞も同じ話題を取り上げるが、取り上げ方が違う。ワイドショーならジャンルを問わず、一番の話題として、最も関心度が高いテーマを取り上げることができる。 週刊誌も、読者が最も読みたがる話題を自由に取り上げられるが、さすがに雑誌のページの半分がその話題で占められることはないだろう。だが、ワイドショーならそれも可能だ。番組の始まりから力士暴力事件など一番話題のテーマを取り上げ、間で少し他のニュースやコーナーを行い、また力士暴力事件に戻ることも、しばしばある。ワイドショーこそ、テレビそのもの 各局で視聴率争いを行い、1分刻みの視聴率の変化に一喜一憂する。それがテレビだ。だから、うっかりすると、どのチャンネルのワイドショーもみんな同じテーマを取り上げることになる。しかも、今日も明日もあさってもだ。よほどその話題に関心を持つ人でないならば、うんざりすることもあるだろう。だが、別の話題にして視聴率が下がるようであれば、やはりこの話題を取り上げ続けるだろう。2017年11月、大相撲九州場所が行われている福岡国際センターで、役員室へ向かう貴乃花親方 ともかく話題を提供し続けなければならない。視聴率を取らなければならない。そうなると、同じような出演者(専門家)が、各局のワイドショーをはしごして出演することもある。少しでも他局のワイドショーより目立とうと思えば、センセーショナルな表現を取ってしまうこともある。 容疑者段階の人間を完全に犯人扱いし、ひどく侮辱することもある。おどろおどろしい表現で、必要以上に危機感をあおることもある。自殺の現場を生々しく撮影し、詳しい自殺方法を伝えてしまうこともある。これは、自殺予防の観点からすると大きな問題だ。 また少しでも新しい話題を提供しようと思えば、友人や知人、近所の人など雑多な人々にインタビューし、またスタジオに招くこともある。そこで価値ある情報が得られればよいが、不正確な情報を流してしまい、視聴者をミスリードする危険性もあるだろう。時には、内容が薄くなってしまうこともあるだろう。 テレビにとっては、わかりやすさは最重要事項の一つだ。わからないものは面白くない。わからなければ意味はない。テレビは、小学校4年生にもわかるように作ると語った人がいるが、確かにおじいちゃんも小学生も孫も一緒に楽しめるのがテレビだ。わかりやすいことは確かに大切だ。わかりやすく、そして意味あることが大切だ。時には、テレビで長々と放送されたものを見てもよくわからなかったものが、新聞記事を読んでわかることもある。ただし、集中してじっくり読まなければならないが。 マスコミのことを「マスゴミ」などと言って揶揄(やゆ)する人がいる。ワイドショーをばかにする人もいる。同じ放送局の中にも、事件現場に最初にワイドショーが入ってインタビューをすると「現場が荒らされる」と嘆く報道スタッフもいる。そういうこともあるのだろう。視聴率争いは激烈なのだから。 しかし、ワイドショーのスタッフたちも、心ある人々はもちろんよい番組作りを願っている。事件現場で、心のこもった思いやりあるインタビューをしようとしているリポーターのことも、私は知っている。 自由で楽しくてわかりやすい生放送。ワイドショーこそ、テレビそのものなのかもしれない。ワイドショーはどこに行くのか。それがテレビの未来像なのだ。

  • Thumbnail

    記事

    『スッキリ』阿部祐二「リポーターとは相手に拒絶される仕事」

    阿部祐二(テレビリポーター) 朝の情報番組『スッキリ!!』のリポーターとして活躍中の阿部祐二さん。どんな相手にもズバリと切り込む姿勢が臨場感のあるリポートにつながっているが、聞きにくいことを尋ねるストレスはないのだろうか。驚いたことに、「ストレスはほとんどない」と語る阿部さんの、ストレスとの向き合い方をうかがった。《取材・構成=林加愛、写真撮影=長谷川博一》 「事件です!」の決めゼリフとともにお茶の間に届けられる、迫力あるリポート。情報番組『スッキリ!!』のリポーターとして活躍する阿部祐二さんの取材は、エネルギッシュな臨場感に満ちている。日々全国を駆け巡るハードな仕事への姿勢も、どこまでも前向きでアクティブだ。「疲れたりストレスを感じたりすることはほとんどありません。周囲の仲間はよく、『次の休みが楽しみだ』と言うのですが、僕にはその気持ちがわからない(笑)。いつも仕事をしていたいし、動いていたいですね」 とはいえ、悲惨な事件や事故の関係者に話を聞くのは神経を使うはずだ。そうした場面でストレスを感じることはないのだろうか。「確かに、犯罪被害者など、苦しみの中にいる方々にとって、リポーターは『来てほしくない存在』です。怒りをぶつけられることも多々あります。しかし私たちは、その方々の言葉を伝えなくてはならない。ここで必要なのは、『本当の思い』に迫ることです。本当にそっとしておいてほしいのなら、それ以上は踏み込みません。でも、少しでも言いたい事がありそうならば問いかけます。表情やしぐさを見極めて、正しく気持ちをすくい取る。それができれば、必ず心を開いてくださいます」 確かに、対人関係のストレスは、相手の心が読めれば軽減できる。経験を積んだ今はどんな現場でも、相手の思いをほぼ正確に読み取れるという。「良いコメントを取れたときには、強い達成感があります。とくに、何人もの記者がすでに訪ねた取材先で、それまで誰も引き出せなかった言葉を引き出せたときは嬉しいですね。誰よりも真実に肉薄したコメントを取ろう、『阿部の取材は他とは違う』と言わせよう。そんな心意気で臨んでいます」最初は現場でうまく話せず落ち込んだ そんな阿部さんも、22年前にリポーターを始めた当時は、インタビューの「いろは」もわかっていなかった、と振り返る。「36歳で俳優からリポーターに転身したのですが、台本のない現場で何をしゃべっていいのか、当初はまるでわかりませんでした。初めての中継では、現場となった家の前で立ち往生。まったく言葉が思いつかず、その家の犬の名前を12回も呼んでしまう始末でした。当然、周囲には馬鹿にされました。『向いてないんじゃないの?』『俳優やってりゃいいのに』などなど、陰口もさんざん叩かれました」 しかし、そこで落ち込むかわりに、闘志を燃やしたのだ。「見返してやろう、と思いましたね。だから人の二倍も三倍も努力しました。自分に足りないのは情景描写の力だと思ったので、細かな描写にすぐれた小説を朗読。島崎藤村の『千曲川のスケッチ』を、何度も声に出して読みました。ほかにも新聞を5紙読んで知識をつけたり、インタビュー術の専門書を読んだりと、24時間すべてをスキル向上に注ぎ込みました」 課題を見つけ出し、努力して改善する。これが結局のところ、最も単純で有効なストレス解消法だ、と語る。「うまくできないこと、人に悪く言われること、納得できないことはいずれもストレスフル。ならばその原因を克服すればいい。昔も今も、そうして突き進んでいます。今年で58歳になりますが、今もまだまだ伸ばせるところは伸ばしたい。新聞記事の朗読や発声練習は日々欠かしません。最近は、時間を見つけて中国語と韓国語のレッスンもしています。英語でインタビューできるリポーターは僕のほかにもいるかもしれませんが、中国語と韓国語も、となるとどうでしょう。僕がいち早く身につければ、強い武器になるはずです」ストレスは「避ける」ではなく「超える」もの 走ることをやめず、ストレスは反骨心ひとつで「ねじ伏せる」。そんな阿部さんの目には、下の世代は「ヤワ」に映ることも多いという。「物事を無難に収めようとする人が多いですね。番組後の反省会を終えた若いスタッフがよく、『とくに問題ありませんでした』と報告してくるのですが、それこそ問題です。10人が10人、そこそこ賛同する番組なんてつまらない。批判的な意見もある中、何人かが熱烈に支持するような番組こそが面白いはずです。だから僕は『問題ナシで良しとするな!』と言うのですが、『阿部さんにはついていけません』なんて言われてしまう。彼らは衝突するのが嫌なのでしょう。でも、意見の食い違いや感情のぶつけ合いがあってこそ生まれるものもある。ストレスを避けてばかりいたら、その先には行けませんよ」 今は世の中全体が、ストレスを避け過ぎる傾向にある、と阿部さんは指摘する。「自分が傷つかないこと、人を傷つけないことばかり気にして、表立っては何も言わない。一見優しいように見えますが、憂うべき時代だと思います。そうしたコミュニケーションの中では、メンタルは弱くなります。褒められれば舞い上がり、叱られれば過剰に傷つく人がどんどん増えていくのです。つまりは皆、人の目ばかり気にしているのです。自分の評判に一喜一憂し、見た目を整えようとし、形から入ろうとする。やたらオシャレで小綺麗だけれど、中身が伴っていない人が増えている気がします」 阿部さんの価値観はその正反対だ。叱られることをいとわず、外見よりも中身を重視する。「僕は叱られると嬉しい、と感じます。問題点に気づかせてもらえないと、向上できませんから。若い人にも遠慮なく指摘してくれ、と頼んでいます。一方で外見には無頓着で、スタジオ入りの際のメイクもしません。見た目より、取材内容に注目してほしいからです。これはどんな仕事でも同じでしょう。大事なのは自分がどう見られるかより、どんな成果を提供するか、ということなのです」 こうして仕事の中身に注力することが、「どう見られるか」から生まれる不安やストレスを振り切る力となる、と阿部さん。「それには大前提として、仕事にやりがいを持ち、意義を感じていなくてはなりません。『この会社ならカッコよさそう』といったブランド志向だけで就職した人は、後々苦しい思いをするでしょう。それでも軌道修正は可能です。今いるところで必死にやりがいを探すか、見つからなければ転職してでも、自分のしたい仕事のできる場所に向かうことです。その場所でなら、ストレスを『避ける』のではなく、ストレスを『超える』モチベーションを持てるでしょう」 自身もそうしてキャリアを形成してきた。ここまでの道のりに、まったく悔いはないと語る。「僕は、仮に明日が来ないとしても後悔しないくらいの気持ちで仕事をして、日々全力を尽くしています。その毎日が、結果として明日へ前進する力の源になっています」あべ・ゆうじ テレビリポーター、俳優。1958年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部在学中にモデル、俳優デビュー。芸能活動のかたわら、家庭教師派遣会社も経営。96年にテレビリポーターに転身。数々のニュース番組やワイドショーに出演。情報バラエティ『スッキリ?』(日本テレビ系)レギュラーリポーターとして活躍中。英語が堪能で、海外取材や海外の著名人のインタビュー時には、通訳を介さず英語で会話する。関連記事■ 難局とは「経験値を上げるためのチャンス」だ!■ 今の日本が「ストレス社会」になった理由とは?■ 話題の家電ベンチャー起業家の「ストレス源をかわす処世術」

  • Thumbnail

    記事

    日馬富士暴行疑惑に見る角界文化と世間の常識の埋まらぬ溝

    日目から休場。福岡と東京を往復するなどせわしなく動き、身体を小さく縮めるようにうつむいて歩く姿を追うメディアでは、連日、様々な情報が飛び交っている。それにしても、次々と出てくるのは日馬富士の酒癖の悪さだ。 人によってお酒の酔い方は様々だが、量によって急性の症状が現れることを酩酊といい、その代表的な酩酊分類に「ビンダーの分類」というのがある。この酩酊分類によると、お酒を飲むと人が変わったように暴力的になって興奮してしまうのを、複雑酩酊と呼ぶ。酔ってくると抑制がはずれて気分が刺激されやすく、激しい興奮が起こり、それが抑えきれず、ちょっとしたことにでも過剰に短絡的に反応する状態だ。この時は、その人が抱えている複雑な感情意識が現れやすいといわれる。この状態の持続時間は長いが、状況に対する理解や意識は保たれている。日馬富士自身も酒癖の悪さは自覚していたはずだ。 稽古後に待ち構えたレポーターたちに囲まれた横綱は、「親方が…」と言うと、硬い表情のまま前を向き、口をつぐんで歩き出すが、「反論することは?」と聞かれると視線を下に落とした。それは、自分がやってしまったことへの罪の意識だけでなく、手を出したという事実があったからだろう。 九州場所について聞かれると、手を腰の辺りに回して足を止めた。この行動は、覚悟を決めここで口を開くしかないと思ったからかもしれない。だが同時に、自分がやってしまったこととはいえ、報道陣にあまり騒がれたくないという気持ちもあったのだと思う。 貴ノ岩のケガについてポツポツと切れ切れな言葉を絞り出すようにして、謝罪の言葉を口にした日馬富士。関係者に迷惑をかけているという思いが強いのだ。だが、そこに貴ノ岩に対する直接的な謝罪はなかった。自分が一方的に悪いのではない、そんな思いがどこかにあるのだろうか。「これ以上のことは…」と言葉を濁すと、口をしっかりと閉じた。再び歩き出した日馬富士だが、うつむいたまま口の端を噛んでいた。自分の酒癖の悪さとやってしまったことを悔やんでいるのだろう。 その後、伊勢ケ浜親方と一緒に貴乃花部屋に謝罪に出向いた日馬富士の足取りは重かった。うつむいたまま厳しい表情を見せて親方の後ろを歩く横綱。その前を顔色のない辛そうな顔で歩く親方は、部屋の前に停まっていた車に近付いていく。車の中には貴乃花親方が乗っていた。車の横に立った伊勢ケ浜親方が中を見ながら手を差し出そうとしたが、親方に構うことなく車はそのまま出てしまった。 去っていく車を見ながら茫然とする二人。「行っちゃったよ」「(貴乃花親方が)いたな」と言いながら、手首を触って、無意識に自分をなだめる伊勢ケ浜親方と、茫然と立ちすくむ日馬富士。すれ違いだったのは、親方が謝罪に行くと連絡していなかったためもあるが、なんとも不思議な光景だった。日馬富士の心の底に浮かんだ「諦め」 その後、伊勢ケ浜親方は電話や緊急理事会を含め、すでに3度、貴乃花親方に謝罪していたという報道が出た。だが、貴乃花親方は被害届を取り下げる気がなく、全面対決の構えだ。貴乃花親方が、伊勢ケ浜親方が車に近寄ったのに窓を開けることもなく発車させたのも、伊勢ケ浜親方が車に近寄っていく足取りが重かったのもそのためだが、貴乃花親方の対応にもいささか首を傾げしまう。 日馬富士はというと、走り去る車を目で追うことなく前を向いていたが、一瞬、貴乃花部屋の方に視線を送り、伊勢ケ浜親方の後についていった。車を目で追わなかったのは、諦めに似た感情が心の底に浮かんでいたように思える。また貴乃花親方の車ではなく、部屋の方に目を向けたところをみると、貴ノ岩の状態が気になっているのだろう。 ビール瓶で殴り、素手で数十発殴ったと報道されている日馬富士。ビール瓶で殴ったと聞けば、普通はそれだけで驚いてしまうし、どんな状況でも暴行は許されることではない。しかし、元相撲取りにこの問題について聞いてみると、こんな返事が返ってきた。「空のビール瓶で頭を殴るくらいの衝撃は、ガチンコで頭と頭がぶつかることに比べれば大したことはない」。また、さらに過激な発言だが「2週間のケガなんてケガのうちに入らない」とも言っていた。 相手は横綱で同じモンゴル出身ということもあるが、貴ノ岩も事を荒立てたくなかったのだろう。貴乃花親方には当初、転んだと伝えていたというし、翌日の巡業では土俵に上がり相撲を取っていた。日馬富士と握手して、一度は和解していたという証言もある。さらに、この問題について貴ノ岩から一任されている親方の行動が不可解すぎるという報道がある。貴乃花親方は今後、どう出るのだろうか。 横綱白鵬からは、ビール瓶では殴っていないという新たな証言も出てきて、日馬富士への任意の事情聴取も開始された今、果たして彼自身は真実をどう語るのか? そして貴ノ岩の今の状態、本意はどうなのか? 私たちが普段うかがい知れない、角界というある種特殊な社会の文化が、今回だけはちょっぴり明らかになるのかもしれない。関連記事■ 横綱昇進の日馬富士 素行の悪さで“ミニ朝青龍”と呼ばれる■ 秋場所で躍進の若手力士はいずれもガチンコ貴乃花グループ■ 白鵬が日本国籍取得を決意、これまでの波乱の経緯■ 貴乃花長男の結婚相手 清爽な雰囲気の黒髪美女の写真■ 「長男結婚」報道の貴乃花 理事長の座に現実味

  • Thumbnail

    記事

    トランプ“グルメ報道”合戦が象徴する新聞・TVの凋落

    日間(11月5日~7日)、NHKから民放全局、新聞紙面までジャックしたトランプ報道狂騒曲によって、大メディアの実態が浮き彫りになった。 「首脳会談の中身なんてどうでもいいんだ。トランプが食べたハンバーガーの店をすぐ突き止めろ!」 民放各局ではディレクターからそんな指示が飛び、テレビクルーは芸能人のように2人の首脳の姿を追いかけ、食べた料理と値段を報じ続けた。視聴率は正直だった。民放キー局の情報番組プロデューサーが語る。2017年11月、夕食会で安倍首相(右)と乾杯したトランプ米大統領=東京・元赤坂の迎賓館(AP=共同)「どの局もあのトランプならネタ満載だろうと特需を期待して番組を組んだが、ワイドショーは軒並み視聴率ダウン。夜のニュースも『報道ステーション』(テレビ朝日系)は1桁台、『NEWS23』(TBS系)は3%台でいつもより悪かった。“こんなはずじゃなかった”と、各局の制作部門はいま反省会をやってますよ」 “グルメ報道”合戦は新聞にも伝染した。読売新聞が、〈ニクい「おもてなし」 トランプ氏が親指立てて喜ぶ〉(7日付、夕刊)とハンバーガーに米国産アンガス牛が使われたことを報じると、朝日新聞は〈佐賀牛「トランプ特需」来る? 問い合わせ続々〉(8日付、デジタル)の見出しで、迎賓館での歓迎晩餐会で振る舞われた佐賀牛のステーキを記事化した。 いくら首脳会談の中身が乏しかったとはいえ、これでは読者や視聴者が“食傷”してしまう。 情報媒体としての新聞・テレビの著しい凋落は数字にはっきり表われている。日本新聞協会のデータによると、全国紙と地方紙を合わせた一般紙の総発行部数は2007年の4696万部から2016年は3982万部へとこの10年間で714万部もの急落。第2次安倍政権発足後の2013年からは毎年100万部前後のペースで部数が落ちている。凋落著しい朝日新聞 とりわけ凋落著しいのが朝日新聞だ。「慰安婦報道」の誤報問題(*注1)で批判を浴びた2014年度の1年間に64万部の激減に見舞われ、その後も部数減に歯止めがかからない。【*注1/朝日新聞が1982年から従軍慰安婦をめぐり「強制連行」があったとする吉田清治氏(故人)の証言を取り上げた記事について、2014年に「誤報」であったことを認めて記事16本を取り消した】 2013年4月には760万部あった朝刊部数はいまや624万部(2017年4月)。安倍政権下の4年間に136万部も落ち込んだ(日本ABC協会調査)。 危機的な部数激減は「反アベ」の朝日だけではない。憲法改正や安保政策で安倍政権と足並みを揃える論調を取ってきた読売も同じ4年間に986万部から881万部へと105万部の大幅な部数減となり、毎日、日経、産経を加えた有力5紙は「親アベ」「反アベ」の報道スタンスにかかわらず、減少傾向に歯止めがかからない。 当然、経営の屋台骨である広告収入は減る。朝日の2017年3月期決算(連結)は売り上げが4009億円で4年前から686億円落ち込み、営業利益は前期比41%ダウン。読売新聞東京本社も4期連続の減益となっている(東京商工リサーチ調べ)。 テレビ離れも確実に進んでいる。テレビ全体の総世帯視聴率(*注2)は「全日」(6時~24時)が2007年度の43.3%から2017年度上半期には40.3%に3ポイントのダウン。最も視聴者が多い「ゴールデンタイム」(19時~22時)の総世帯視聴率は同じ10年間で65.8%から59.9%へと5.9ポイントも下がった。平日の視聴時間(1日)はこの5年で184分から168分へと1日あたり20分近く減っている(総務省の調査による)。【*注2/調査対象の世帯で、どのくらいの世帯がテレビ放送を放送と同時に視聴していたのかという割合】 民放キー局の視聴率戦争はフジテレビの凋落が著しく、「健闘」とされる日本テレビも横ばいだ。 安倍晋三・首相は首相に返り咲いて以来、メディア対策を重視して新聞・テレビの経営トップと相次いで会食を重ねてきたが、大メディアと政権が接近するにつれて読者・視聴者が離れているのである。関連記事■ 朝日新聞「社外秘」資料入手 「3年で500億円減収」の衝撃■ 昭恵夫人の「パール接待」 メラニア夫人は何も購入せず■ イヴァンカ氏接待での“昭恵氏隠し”の意図は?■ 高須院長 元慰安婦同席の韓国に「日米にケンカ売る行為」■ しんぶん赤旗 部数が産経を超える日も近いとの見方

  • Thumbnail

    記事

    「そんなもんスよ、日本なんて」あの朝日社説に感じた異質な疑問

    渡辺龍太(フリーニュースディレクター) 朝日新聞が慰安婦記事の誤報を認めてから、世間の朝日新聞に対する監視の目は厳しくなっています。それにも関わらず、朝日新聞は「記事に角度をつける」という演出をやめません。実際、多くの人によって朝日新聞の記事がファクトチェックされ、印象操作ではないかと指摘される事が、今も頻繁にあります。やはり、戦前から脈々と伝わる、事実を自社の主張に合わせてねじ曲げる記事の演出テクニックは今も健在なようです。それに加え、最近、あえてファクトチェックできないようなスタイルで書いたのではないかと感じさせられる異質な社説が、11月5日に掲載されていました。朝日新聞東京本社=東京・築地(産経新聞チャーターヘリから、桐原正道撮影) 問題の社説は、「政治の可能性 『そんなもん』を超えて」というタイトルです。 そこから、すでに曖昧でポエム調な雰囲気を醸し出していて、一流新聞の社説として違和感を覚えます。内容は学生らが民主主義などについて語る「Bottom Up Democracy」というイベントを見てきた朝日の記者が、記憶に基づいて感じた事だけを書いたエッセーです。 この社説は冒頭で、このイベントについて、次のように説明していました。 呼びかけ人に名を連ねたのは、2年前、安全保障法制への反対運動を展開した元SEALDs(シールズ)のメンバーや弁護士ら。高校生や大学生が次々と脚立にのぼり、民主主義や選挙についてそれぞれの思いを語る。投票に行こうと呼びかける。 この文章を読んだら、その後に続く内容が、「(左寄りの)若者が語る民主主義や選挙の大切さ」という内容なのだろうと感じる人がほとんどだと思います。しかし、そうではありません。この後に登場するのは、このイベントに登壇する立憲民主党の政治家たちのスピーチと、それを聞く若者たちの様子が書かれています。 普段、新聞を一字一句のレベルで精読している人は少数派です。多くの人は、流し読みに近い形で、テンポよく読んでいるはずです。そうなると、おそらく多くの人は、この文章を冒頭のイベント内容の説明の先入観から、政治に声を上げる若者たちの姿が書かれているのだろうと思いながら読んでいるだろうと推測できます。そのため、どれが政党の主張で、どれが若者の声なのか、読者に誤解を与える可能性のある文章の作りだと私には感じられました。誤解が生じないようにするには、引用した文章の最後に、記者としては、特に立憲民主党の政治家の話を聞く若者が印象に残ったという事を書くべきだと思いました。記者が勝手に推測した部分 では、立憲民主党の政治家の話を聞く若者について、書かれている部分も引用します。 主役はみなさん 結党1週間、立憲民主党の枝野幸男代表もマイクを持った。 草の根から声をあげていく、本当の民主主義をつくりましょう、主役はみなさんです――。 何事かと立ち止まる人。顔をしかめて通り過ぎる人。会場に背を向けて横断歩道の両端に立ち、渡ってくる人を見据えている若い男性2人組はおそらく、スカウトマン。派手めの女性にだけススッと近寄り、声をかけている。 ○○さん。後輩スカウトマンがふいに、先輩の名を呼んだ。「あいつ『主役はみなさん』とか言いながら、俺らのこと『草の根』ってディスりましたよ」 へえ。聞いていたのか。「草」「根」の語感から、下に見られたように感じたのだろう。「そんなもんスよ、日本なんて」 後輩の憤怒を受け流していた先輩は、枝野氏に続き脚立に乗った同党の福山哲郎幹事長が「まだ働かれているみなさんも、この大きなうねりにおつきあいを」と呼びかけると心なしかうれしそうな表情を見せた。 後輩よりも仕事熱心、声をかけ、無視され、肩でため息をつきつつ定位置に戻る先輩の右手にはなぜか、最低賃金1500円への引き上げを求めるグループが配っていたパンフレット「働き方改革のひみつ」がずっと、握られていた。 どんな言葉なら、彼らに届くのだろう。果たして政治は、そんな言葉を持っているか。いや、それ以前に、彼らのことがちゃんと見えているだろうか。 この文章に書かれている男性2人の情報を、整理してみましょう。まずは、事実と確定できる部分を見ていきます。記者が本人に確認したわけではありませんが、2人の行動から職業はスカウトマンと言えるでしょう。後輩らしき人物は、「草の根」という単語が分からない学力で、日本の政治家には失望しているような発言をしていました。先輩らしき人物は、後輩よりも仕事熱心な人物で、手には働き方改革のパンフレットが握られていました。 こうやって、事実だけに注目してみると、あまり政治色が強くない、よくいる歌舞伎町の若者のように見えなくもありません。例えば、街を歩いていると、必ずしも、自分の興味のあるパンフレットだけを受け取るわけではありません。絶妙なタイミングで渡されたら、思わず手にとって、しばらく、持ったままになってしまう事もよくあるはずです。 次に、記者が勝手に推測した事を見ていきましょう。後輩は草の根という言葉の語感から、政治家から下に見られたように感じて怒っているのではないかと推測しています。そして、先輩は立憲民主党の福山幹事長のスピーチに対して、うれしそうな表情を見せたと記者は主観で書いています。この文章から、記者は先輩が、立憲民主党に対して、何らかの希望を抱いているのではないかと推測しています。記者はなぜ取材しなかった? この記者の推測を事実に加えると、男性2人は、非常に政治に興味があるようにしか見えなくなります。それだけでなく、スカウトマンという職業の2人が、学力や収入が少ない「弱者」という立場に置かれている人たちに見えてきます。その結果、その弱者の若者が、現状の政治(自民党政治)に不満を持ち、立憲民主党に期待しているように見えてきます。 確かに、この社説は、記者が見て感じた事を書いただけの文章ですから、一般の記事のようにファクトの根拠が正確に求められる事はありません。しかし、積極的に意見を述べてはいない若者が、イベントの概要説明の冒頭部分からの文章構成と記者の推測により、明確な意見を持っているように読者に見せていることには問題があります。100歩譲って文章構成は偶然だとしても、記者の臆測を文章から排除したければ、スカウトマンと思われる2人組に記者が話を聞いて取材すればよかっただけです。(画像:iStock)  それをしなかったのには、ファクトチェックのしようがない状態を保ちつつ、「立憲民主党が、スカウトマンの若者に希望を託されている」という記事を書きたかっただけのように思えます。そうすれば、立憲民主党の支持者が多そうな読者に意外性とうれしさなどを感じさせる事ができ、記事の反応が良い事が容易に想像でき、動機も明快に見えてしまいます。 そうやって、記者に対する信頼を無くした上で、改めて社説を読み返すと、スカウトマンの2人の会話も実際に起こった出来事なのか疑問に感じられてしまいます。なぜなら、「俺らのこと『草の根』ってディスりましたよ」と言う後輩は、「草の根=俺ら」という事を理解する国語力があるわけです。その能力がある人が、草の根の意味が分からないという事があるでしょうか。草の根の意味が分からない人は、「草の根から声をあげていく」という言葉を聞いても、それが「俺ら」である事も分からないのが自然なのではないでしょうか。 また、スカウトマンが、あたかも最低時給が1500円に上昇する事に興味があるような雰囲気で文章が書かれていますが、非常に強い違和感を覚えます。なぜなら、スカウトマンという職業は、一獲千金を夢見て、稼ぎたいような若者がする職業だと思われるからです。普通のアルバイトよりも稼ぎたいとスカウトマンになる若者が、飲食やコンビニのアルバイトスタッフのように、最低時給に興味があるのでしょうか。大いに疑問です。 さて、この記事は、ツイッターで有田芳生議員がコメントするように、朝日新聞のコアなファンには非常に受けが良い文章のようです。(社説)政治の可能性 「そんなもん」を超えて:朝日新聞http://www.asahi.com/articles/DA3S13214074.html … 読みごたえがある政治家必読の論説です。路上の声をよく聞き取っているこの社説子は「きっとあの記者だろう」と推測してしまいました。とてもユニークです。 (有田芳生氏ツイッターより) 私は、これに対しても、非常に強い違和感を覚えました。それは、私は放送作家やニュース番組のディレクターとして取材をしてきましたが、ここまで絵に描いたように、記事的に都合の良い事は、なかなか起こらないからです。表情を記者が「憶測」で解釈 その観点から見ると、特に、この記事に登場するのが、一般的な若者でなく、政治に興味を持つだけで意外性のあるスカウトマンというのが、非常に出来すぎている気がします。しかも、今の20、30代は自民党支持者が多く、立憲民主党は割と高齢な人に支持されているのに、そのスカウトマンが立憲民主党に期待しているのです。このように、2重に意外な事が実際に起きたとは私には思えません。ですから、スカウトマンの「草の根と俺らの事をディスられた」という会話を、記者が本当に聞いたのか、私の感性では、どうしても疑いたくなってしまいます。 こうやって書くと、私こそ朝日新聞に憶測でイチャモンを付けていると感じる人もいるかもしれません、しかし、朝日には記事に角度をつけて演出してきた歴史があるので、私は正当な指摘をしていると思っています。 例えば、過去には慰安婦の記事だけでなく、朝日新聞のカメラマンが、自分の書きたい事が、都合よく起きないために、サンゴに自ら落書きをして、それを記事にした事件があった事もありました。福島市内での第一声で地元住民が握ったおにぎりを食べる自民党の安倍晋三首相=2017年10月10日、福島市佐原(松本健吾撮影) そういった過去の出来事に加えて、最近も、朝日新聞の印象操作ではないかと指摘された記事は、多々あります。例えば、福島産のおにぎりを食べる安倍総理の表情がこわばっていたという記事があります。実際に、総理がおにぎりを食べている映像を見ると、決して、こわばっていたようには見えません。偶然なのか、同じ手法で書いたのかわかりませんが、今回の社説にもスカウトマンの表情を記者が憶測で解釈する部分もありますし、非常に角度の付いている文章と感じられると言われても仕方ないと思います。 朝日新聞が慰安婦報道の誤報を認めて以来、数多くの人が、朝日新聞のファクトチェックを行なっています。ですが、もう、それだけでは十分で無いように感じます。 今回のような、ファクトの確認できない記事にも、なぜファクトが明示できない記事を新聞が書くのかと追求するべきです。そうしなければ、記者が頭の中で、あらゆる事を創作して書いたにも関わらず、ファクトチェックすらされない記事が世の中に流通してしまいます。その結果、事実では無い事を、事実だと思ってしまう国民が大量発生してしまうでしょう。以後、再びポエムだかエッセイだかよく分からない、ファクトが曖昧な記事が、朝日新聞に登場しない事を心から期待したいです。

  • Thumbnail

    記事

    突出した朝日新聞のモリカケ報道「1172行」が意味するもの

    2016年の米大統領選では、共和党の大統領候補となったドナルド・トランプ氏が有権者の耳目を引こうと、メディアにニュース価値を提供するポピュリズム選挙を展開した。真偽のほどが不明な発言を連発、ネット上でも真偽不明なフェイクニュースがあふれ、共和・民主両陣営入り乱れて、世論操作に狂奔した。メディアによるフェイクニュース トランプ氏は、共和党予備選段階の討論会ではその過激な言動がテレビやSNSで拡散したが、民間のウェブサイト「ポリティファクト」によるファクトチェックでは、トランプ氏の発言7割程度が事実と異なるとされている。 情報発信者たる政治リーダーが、自ら真偽不明な情報を発してポピュリズムをあおり、ネット上でも真偽不明のニュースがあふれる現状の中で、権力を監視し、正確な情報を受け手に届ける責務を担ったマスメディアがファクトチェックの意義を重視したのは、自然な流れだったろう。公人による公的な場での発言には説明責任が伴う。その内容の真偽をデータに基づいて確かめていくのは、メディアの責務でもある。 しかし、日本では、メディアが流すニュース自体を「ファクトチェック」する必要がありそうだ。 衆院選では、希望の党の小池百合子代表が昨年7月の都知事選、今年7月の都議選で吹かせた「ポピュリズム」の風が吹くかに見えたがあえなく失速、都知事に専念するとしてあっけなく代表を辞任した。「ユリノミクス」をはじめとするカタカナ言葉も虚空に消えた。しかし、看過できないのは、政治リーダーによるフェイクニュースではなく、メディアによるフェイクニュースとも見まがうような情報操作だ。 もともと、米国では大統領選で、特定の候補を社説で支持したりする。「エンドースメント」と言われ、19世紀から続いている伝統で、ニュース部門とは別の編集委員会が決める。2016年の大統領選では、リベラルな論調で知られるニューヨーク・タイムズが社説で民主党のヒラリー・クリントン候補を支持した。ニューヨーク・タイムズ社 だが、日本では米国と違い、特定の政党を社説で支持するような「エンドースメント」は行われていない。「公正中立」「不偏不党」を標榜(ひょうぼう)して、新聞は記事を作成している。その意味で「日本の新聞はどれも似たような論調で、いったい有権者の判断基準になるのか」と米国の政治学者に言われたこともある。だが、今回の衆院選に関しては様相が違っていた。新聞による報道姿勢の違いがあまりに鮮明だったからだ。 突出した報道でネット上でも問題になったのが朝日新聞だ。安倍晋三首相も朝日新聞の突出ぶりを指摘した。10月8日に行われた党首討論会で、朝日新聞を名指しして、加戸守行・前愛媛県知事の証言について「次の日には全く(報道)していない」と指摘、「胸を張って(報道)しているといえますか」「国民はよくファクトチェックをしてほしい」と、わざわざ「ファクトチェック」という言葉を使って語気を強めた。 「全く」というのは言い過ぎた部分があったにせよ、前川氏の発言が大きく扱われ、加戸氏の発言を小さく扱っていたのは事実だ。「不偏不党」を標榜する朝日 朝日新聞が、森友・加計問題に執心していたことは、10月26日付の産経新聞「森友・加計問題 朝日は執念の断トツ1172行も…投票で重視は有権者8%」で明らかにされている。産経新聞による「ファクトチェック」だ。 産経新聞によれば、10月11日付~22日付の朝刊で、森友・加計問題に関する衆院選の記事は、毎日新聞が483行(1・2ページ分)、日本経済新聞が378行(0・6ページ分)、読売新聞が48行(0・1ページ分)だったのに対し、朝日新聞は1172行(2・2ページ分)と突出していた。 一方で、産経新聞はNHKが投開票日の22日に実施し、27万3千人以上が回答した出口調査で、森友・加計問題を投票で重視したとの回答は8%で、最も高かった「消費税率の引き上げへの対応」(29%)の約4分の1にとどまっていたことも指摘している。 読者が「これは反安倍のエンドースメントなんだ」と納得して朝日新聞の記事を読んでいれば、それはそれでいいだろう。記事に一定の方向性を盛り込むことを「角度をつける」というが、「角度をつけています」と言わずに、「公正中立」「不偏不党」を標榜しながら角度がついているというのは、メディアの矩(のり)を超えた情報操作のそしりをまぬかれまい。 もっとも、朝日新聞は角度をつけた世紀のフェイクニュース、いわゆる従軍慰安婦問題の「前科」があり、今日に至るまで国益を損なうような大誤報で「誤報ではないか」とずっと指摘され続けながら、そのファクトチェックを怠り、慰安婦問題は日韓関係の「トゲ」となって、歴代政権のくびきとなっている。それが狙いだったとしたならば、狙い通りなのかもしれないが、世界に対して「慰安婦の自社の報道をファクトチェックしたところ、虚偽でした」と、韓国のプロパガンダ攻勢で半ば歴史的事実にされようとしている慰安婦問題を、当事者として火消しに回るのが筋だろう。特集「慰安婦問題を考える」を2014年8月5、6両日付の朝刊に掲載した朝日新聞 メディアには権力を監視する機能も期待されているが、「エンドースメント」と「ストレートニュース」を分離しない、ということであれば、メディア同士で「角度がついた報道」をクロスチェックするしかないだろう。 「フェイクニュース」も「ファクトチェック」も、「権威を装ったニセモノ」と見透かされて、政治のはやり物として消え去っていくかもしれないが、政治家もメディアも「信頼」というもっとも大事な財産を失わないように、有権者は自戒を求め続けるしかあるまい。

  • Thumbnail

    記事

    朝日新聞に問う「国民の意思」はアンチ安倍しか認めないのか

    会の多数党を基盤とする政府を原則とするという考え方が確立された。民主主義のプロセスを破壊しようとしたメディア そして、日本国憲法では、議院内閣制が採用されて、衆議院の指名で首相が選ばれるようになった。その意味で、立憲主義とは総選挙で首相を決めるということをもって、その基本としているわけである。 現行憲法の下で、各政党は通常、首相候補を明示して総選挙を戦っている。その意味で、今回の総選挙で希望の党が明示しなかったことは非常に疑問があったのだが、少なくとも、自公は安倍晋三首相が与党過半数なら続投と明言したのだから、そういう結果が出た場合に、首相続投以外の選択をすることは立憲主義のプロセスを否定するものにほかならなかった。 さらに、過半数を割った場合でも、首班を誰にするか各党で話し合いが行われるのが普通だが、最優先の候補は第一勢力の代表だ。第一党といわないのは、自公のように連立を組んでいる、あるいは、連立を組むと明言している場合は、ワンセットとして扱うべきだからだ。例えば、ドイツでキリスト教民主同盟(CDU)とキリスト教社会同盟(CSU)はワンセットとして扱われている。 英国のメイ首相も6月の総選挙で保守党が過半数割れしたが、小地域政党の協力を得て続投しているし、スペインのラホイ首相も2回連続で過半数割れしているが同じく引き続き政権を担っている。英国議会の議事堂、ウェストミンスター宮殿(iStock) もちろん、自民党内の問題としては、自公で過半数割れすれば、勝敗ラインをそこに置いたがゆえに退陣論が出ることはあるだろうし、勝敗論として国民にそれを明示しているがゆえに、退陣することが国民への背信とはいえないというだけのことだ。こんなことも分からないなら、民主主義を論じる資格はない。 しかし、朝日新聞やそれと同傾向にあるマスメディアは、この民主主義のプロセスを破壊することに全力を挙げたのである。 特に、10月8日の日本記者クラブ主催の党首討論とそれを巡る報道はひどかった。ともかく行司のはずの司会進行役が、自らまわしを締めて戦う気全開だったからだ。その1人である毎日新聞の倉重篤郎氏は、自らこんなことを書いている。 日本記者クラブの企画委員という仕事をこの数年やらせていただいている。 同クラブで記者会見をしていただく方々のコーディネート役である。政治担当なので国政選挙や自民党総裁選のクラブ主催の討論会の際には、代表質問役の一人を仰せつかる。 重要な仕事だと思っている。国民が聞きたいことに質問の矢を絞る。何らかのニュースを引き出す。ことの本質にできるだけ迫る。毎回そういう思いで、やってきたつもりであるが、いつも終わった後で、あの時こう聞けばよかった、という後悔の嵐である。 10月8日の衆院選党首討論会もまた然(しか)り。私からしてみると大義のかけらもない安倍晋三首相によるこの解散政局に対し、その非道さの本質を突く質問ができたか。安倍氏から十分な答弁が得られたか。改めて自らに問うてみた。2017年10月17日「サンデー毎日」質問のなかに価値観を入れた この討論会で、倉重氏は「総理の友人が優遇されたことについて」と首相の答えを遮ってしつこく回答を求めた。加計学園は優遇されたのではないかという指摘があり、その有無が論争の種なのに、優遇されたということを前提にして、責任を取るかどうかの質問をするのは全共闘のつるし上げでもあるまいし、むちゃくちゃだった。私も敬愛していた立派なジャーナリストだったが、どうしたのだろうか。もはや、東京新聞のM氏並みといえばM氏に失礼かと思ったほどだ。2017年10月、党首討論会で討論する自民党の安倍晋三首相(左)と希望の党の小池百合子代表=日本記者クラブ(宮崎瑞穂撮影) さらに、倉重氏は「この解散は安倍さんの、安倍さんのための、安倍さんによる選挙だといわれている」とか、「50議席以上減っても居座るか」と尋ねていたが、質問のなかに価値観を入れてしまったら記者がプレーヤーになってしまう。「居座るか」でなく「退陣される可能性はないのか」と言うべきだろう。このような討論会が二度とあってはならないし、きちんとルールをつくるべきだと思った。 しかし、このようなアウェーで不公正な場でも安倍首相は冷静に対処した。その結果、朝日新聞デジタルは次のように報じていた。 (解説)勝敗ラインは・・・自公で「過半数」? 選挙につきものなのが、「勝敗ライン」。今回の衆院選では、定数465議席を各党がどう分けるかで、その後の政治情勢が大きく左右されます。 安倍晋三首相(自民党総裁)は党首討論で「政権選択選挙だ。過半数を維持すれば政権を継続する」と述べ、自民、公明両党で過半数(233議席)を得れば、引き続き政権を担えるとの認識を示しました。ただ、9月28日の解散時、自公はあわせて323議席ありました。自公で過半数というラインはあまりに低い、という印象です。 討論で記者は「(自民党が)50議席減なら(首相の)退陣論がある」と指摘し、現実的な勝敗ラインを引き出そうとしましたが、安倍首相はラインを引き上げることはしませんでした。 自公で憲法改正を発議するために必要なのは、定数の3分の2にあたる310議席。13議席減というラインです。また、自公あわせて63議席減だと、衆院で17ある常任委員長ポストを自公で独占したうえで委員の数でも過半数をおさえる「絶対安定多数」を割り込みます。そのほかにも、自公あわせて244議席という、「安定多数」というラインもあります。 こうした様々なラインのどこに落ち着くのか。安倍首相の去就、政権の安定、政権交代――。あらゆる選択肢が、こうした数字によって起こりえるのです。衆院選2017「衆院選 討論会」(2017年10月8日)「石破擁立」で与党分裂の不見識 あらゆる挑発に乗らずに、「自公で過半数」と言い切ったのだから、これで、自公が過半数を得たにもかかわらず、安倍首相が退陣したら公約違反ということになったとみるのが、普通の見方だ。 さらに、本当は「過半数を取ったらいうまでもなく続投します。また、過半数は取れなかったとしても、ほかに過半数を得た政党や連立を組むということで政策協定を結んでいる政党連合があれば、退陣せざるを得ません。しかし、そうでないならできる限り続投すべく努力をしたい。特に、自公合わせて比較第一勢力であれば、まず優先して連立や閣外協力をどこかいただけないか努力するのが筋だと思います」と言ってほしかったくらいだ。  アンチ安倍勢力のなかには、自公が過半数を得ても僅差なら、石破茂元幹事長を首相候補として担いで与党分裂を狙おうという輩もいたが、これもひどい不見識だった。 選挙のときと違う政党に移ったり、党内手続きを経ずに自党の党首と違う首班候補に投票することは、それこそ立憲主義に反する。その後に根本的な状況の変化がない限りは禁じ手である。かつて細川護煕内閣が誕生したときには、自民党で宮沢喜一内閣不信任案に賛成した小沢グループは新生党を結成し、不信任案に反対したもののその後は自民党の外で活動したいという武村グループは新党さきがけを結成して、それぞれ総選挙を戦った。それが民主主義というもので、彼らは選挙のあとになって自民党を離れたのではない。 だから、選挙で自公がどうなろうが、石破氏が自民党としての意向に基づかず、首班指名を受けることなど許されないはずだった。あるとしたら、どこも過半数を取らなかったときに、希望の党から「安倍首相には協力できないが、石破さんなら協力しても良い」という提案があって、自民党が党としてそれに乗ったときや、希望の党が過半数を制して「自党に適当な首班候補がいないので、石破さんどうですか」と持ちかけられたときくらいだった。ところが一部マスコミは、自公が過半数を得ても、石破氏らが首班指名で造反することを期待するようなことをいっていたが、これも立憲主義に反した期待だった。真の「立憲民主主義」とは さらに、選挙が終わってからも、朝日新聞などは選挙結果を国民の意思として認めないという論調を続けた。東京都中央区にある朝日新聞社東京本社(産経新聞社チャーターヘリから、納冨康撮影) 立憲民主主義とは、選挙で誰が過半数を占めたか、それが実現していなければどこが第一党かを尊重するということなのである。一般的な人気や大きな影響力を持つ人の意見、アンケートなどによる調査、得票率などといった意見集約方法の結果ではなく、唯一国会の議席の数、特に過半数を制しているかどうかをもって国民の意思とすることこそ、立憲民主主義なのだ。選挙の結果にかかわらず、「国民の意思が別のところにあるから無視しろ」というのは、まさにナチスやボリシェビキの論法だ。 「野党分裂型」の226選挙区は全289選挙区の78%を占める。結果は与党183勝、野党43勝と与党側の大勝だった。これに対し、「与野党一騎打ち型」の57選挙区では、与党39勝、野党18勝。分裂型に比べて野党側が善戦した。 野党が分散した最大の原因は、民進党の分裂だ。民進の前原誠司代表が衆院選前に小池百合子・東京都知事率いる希望の党への合流を表明。民進で立候補を予定していた人は希望、立憲民主党、無所属に3分裂した。 ただ、民進は前原執行部の発足以前、共産党や社民党などとの野党共闘を進めていた。昨年7月の参院選では、32の1人区で野党統一候補を擁立し、11勝という成果を上げていた。 そこで、「立憲、希望、共産、社民、野党系無所属による野党共闘」が成功していればという仮定のもと、朝日新聞は独自に、各選挙区でのこれらの候補の得票を単純に合算する試算を行った。その結果、「野党分裂型」226選挙区のうち、63選挙区で勝敗が入れ替わり、与党120勝、野党106勝となった。野党一本化なら63選挙区で勝敗逆転 得票合算の試算(2017年10月23日) 3年前の総選挙でも日本経済新聞が「衆院選分析 自民、得票率は48%どまり 議席占有率は76%」と報じたが、連立政権を組むための政策協定を結べずに政権を取れば、公約違反は必然となる。 だから、ワンセットでの政権公約を出した勢力のなかで最有力のグループが過半数を取りやすいような選挙制度になっているのが普通だ。イタリアでは第一党(政党連合)に過半数の議席を与えるようにしているし、スペインは、議会で過半数を形成できなければ、前政権が引き続き政権を担う仕組みだ。現政権を倒したいのなら、選挙の前に連立政権の政策合意をしなさいというだけのことである。 さらには、投票率まで問題にして、自公への投票は有権者の4分の1程度という論法も使われているが、棄権はあくまで白紙委任という意思表示であって、選挙への不参加ではないはずだ。ジャーナリズムの名に値するか疑問 最後に、フリーライターの山田高明氏がブログで「アゴラ砲に殺された民進党」という記事を書いているので、そのさわりを紹介しておきたい。 民進党は今現在、哀れなプラナリアのように四つの勢力に分裂して生き永らえている。今回の選挙結果が一連のプロセスの区切りだとしたら、「始まり」は何だったのだろうか。私はまさに八幡和郎氏による次の記事だったのではないかと思っている。「蓮舫にまさかの二重国籍疑惑」(2016年08月29日)フリー座 By 山田高明 Takaaki Yamadaという出だしに始まり、 誠実な対応によってのみ消火可能だったのに、彼女を露骨に援護射撃した朝日・毎日や左派系知識人の尻馬に乗ってか、同じ様に批判を排外主義や差別主義へとすり替えてしまった。だが、「赤いパスポートになるのが嫌だった」という本音を持つ人が、なんで日本の国会議員になろうと思ったのか、なってどう国家に奉仕する意志だったのか、誰であろうと疑問に思うのは、素朴な庶民感情として当然のことだ。興味深いことに、上のような現象は、これまで新聞・週刊誌やワイドショーなどのメディアが火付け役だった。ネットメディアから放たれた「実弾」がここまで政局を揺るがした例は、国内史上初めてのケースかもしれない。これはまた、ネットを通して大衆に広まった「野火」が、朝日・毎日といった既存メディアの権威と力をもってしても消火不能だったことを意味している。力関係の逆転とまでは言わないが、大衆による情報の拡大再生産がメディアの大衆操作力を打ち破った例として、ある種の歴史的な転換点だったのは間違いない。(中略) ここまで急激に民進党が衰退して離散を余儀なくされたのも、元はと言えば、八幡和郎氏が放った一発の「銃弾」がきっかけだったのかもしれない。フリー座 By 山田高明 Takaaki Yamadaで結んでいる。 山田氏は、アゴラや私が民進党をつぶしたようにいわれているが、もし、蓮舫氏が私の指摘を受けて代表選への出馬辞退をしておけば、私たちは民進党を創立早々の瓦解(がかい)の危機から救った救世主と言われて、自民党から恨まれていたはずだ。2017年10月、民進党参院議員総会を終え、記者の質問に答える蓮舫前代表 ジャーナリズムというのは、どの政権や党を「助けよう」とか「つぶそう」とかいう気持ちで行動するのは邪道だと思う。その意味でも、「最近の朝日新聞はジャーナリズムの名に値するか疑問だ」という言葉で締めくくっておきたい。

  • Thumbnail

    テーマ

    朝日新聞と嘘ニュース

    先の総選挙が終わってはや一カ月。政権与党に対する朝日新聞の論調は相変わらずである。「数におごることなかれ」「謙虚というなら行動で」…。安倍憎しがウリとはいえ、選挙の民意をこうまで否定されると、さすがに「嘘ニュースでは?」と疑念を持つ人もいるのではないでしょうか?

  • Thumbnail

    記事

    そっぽを向かれた朝日新聞とモリカケ報道

    レビと新聞の影響力は、インターネットの登場以来、「急落」しているのである。そのことを認めたくない既存メディアは、自分たちが「世論を左右している」と未だに思い込んでいるのだ。(iStock) テレビや新聞が、確かな情報を真摯(しんし)に国民に伝えつづけていたら、これほどの「影響力の低下」はなかっただろう。しかし、多くの国民がネットで幅広く情報を得ることができるこの時代に、ファクト(事実)に基づかない偏った報道をつづける既存メディアは、さすがに国民に「ソッポを向かれてしまった」のだと思う。 今年、気の遠くなるような時間を費やして国会で延々と取り上げられた森友・加計問題は、典型的なフェイク・ニュースに基づくものだった。あの豊中市の当該の土地は、かつて「大阪空港騒音訴訟」のまさに現場であり、そのため、どうしてもここを売却したくて仕方がない国が、周辺の土地を森友以上に値下げして手放していた事実がネット等では詳しく報じられた。 しかし、安倍政権に有利になるような情報は、テレビや新聞が一切、報じることはなかった。籠池氏と安倍首相が、実は一度も会ったこともなく、あの「お友だちへの国有財産の8億円値下げ」などということが、いかに事実に基づかない“印象操作”によるものだったかは、ネットで繰り返し報じられていた。具体性もなく観念論ばかり 加計学園問題もひどかった。5月17日付の朝日新聞の一面トップ記事から始まったこの問題は、その記事に出ていた文科省の内部文書なるものの写真が“加工”されていたことが判明するなど、多くの問題点がネット上で指摘された。 具体性もなく、観念論ばかりで、印象操作を必死でおこなったテレビや新聞は、当事者である加戸守行・元愛媛県知事の国会証言も報じず、国家戦略特区諮問委員会のメンバーたちの証言や記者会見もカットした。そんな偏向報道をもとに「モリ・カケ」を延々と問題化してきたマスコミや野党に対して、有権者はとっくに「愛想を尽かしていた」のである。 残念だったのは、“現実政党”になるはずだった小池新党(希望の党)が「第二民進党」となり、現実から「自ら遠去かっていった」ことである。「一院制」やら、「原発ゼロ」やら、思いつきとしか思えない聞こえのいい政策を打ち出した末に、財源問題で「企業の内部留保への課税」まで言い出してしまった。 私の周囲には、「こりゃ、だめだ」と思わず笑いだす人もいた。それはそうだ。自分の身に置きかえて考えてみたらいい。所得税も、消費税も負担している自分が、そのうえ、貯金にまで「課税」されたら、どうなるだろうか。そんな二重課税など、常識で考えても許されるはずがない。 こんな政策が罷(まか)り通ったら株式市場は大暴落し、たちまち日本経済はあの民主党政権時代に逆戻りしてしまうだろう。「希望の党も、結局、現実を見ることができない“空想政党”なのか」と、失望した人は多かったに違いない。 一方で、安保法制を「戦争法」と断じ、空想的平和主義、一国平和主義たちの集団である立憲民主党の躍進という意外な結果も見られた。立憲民主党とは、国民の総スカンを食った、あの「菅直人政権」の面々である。彼らに一体、何を期待するのか、と思う。 日本には、かつて55年体制下で「革新票」を投じつづけた一定の層がある。そこに、小池氏によって「排除された人々」という立憲民主党への同情が加わり、予想外の票を集めたのである。 希望の党は、今後、“泥船”から逃げ出し、もとの仲間のもとに走る面々が出ることが予想され、“茨(いばら)の道”が待ち受けている。しかし、思いつきで、耳ざわりのいい政策だけを並べて有権者に媚びようとした今回の失敗を反省して、ひたすらリアリズムを突きつめていくなら、まだブームを起こす可能性は残っている。ポイントは、日本維新の会と、どういう形で連携、もしくは合併を模索していくかにあるのではないだろうか。 今や自民党の最大支持層は、ネット世代である二十代を中心とする若年層になってしまった。朝日新聞が選挙終盤の10月17、18日の両日に実施した世論調査でも、比例区投票先を「自民党」と答えた世代は、圧倒的トップが「18~29歳」の41%であり、親の世代である「60代」の27%を大きく引き離していた。(iStock) 各社の世論調査も同様で、若者ほど自民党を支持していることが数字にはっきりと現われているのである。若者は冷徹なまでのリアリストであり、現実政党しか信じない。 就職もままならなかったあの民主党時代にだけは戻りたくない彼らを、安倍政権が今後もどう惹(ひ)きつけていくのか。朝鮮半島有事が刻々と近づく中、さまざまな面で「お手並み拝見」といきたい。(「門田隆将オフィシャルサイト」より2017年10月23日分を転載)

  • Thumbnail

    記事

    山尾志桜里に「むき出しの好奇心」で迫る報道は控えるべきか

    ちそうな言葉だ。神奈川新聞の記事を読むと、この文言通りに発言したのかどうかは定かではないが、山尾氏のメディア対応についての決意を読み取ることができる。 その決意とは、週刊誌で不倫疑惑を報じられた倉持麟太郎弁護士を政策顧問に起用するにあたり、男女の関係があったかどうかということを含め、今後は「『私』の部分に一定のライン」を引き、この件に関係するプライバシーは一切公表しないというものである。無所属で当選し、喜ぶ山尾志桜里氏=2017年10月、愛知県長久手市(安元雄太撮影) 「むき出しの好奇心」は、著名人のスキャンダルを追う週刊誌やワイドショーの取材の原動力になっているし、その背景には、何百万、何千万という一般読者や視聴者が、こうしたメディアコンテンツをチェックしている。著名人のプライベートな部分を知りたいという情動は多くの日本人によって共有されているのだ。 スマートフォンで著名人のスキャンダル記事をつい見てしまうことはないだろうか。ソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)に書き込みをしてバッシングに参加しなくても、炎上を眺めながら、たたかれている著名人への優越感、たたく側に属していることで得られるつかの間の全能感、一体感などを味わっているのであれば、山尾氏が忌み嫌う「むき出しの好奇心」をあなたも内に秘めているということになる。 それを断罪するつもりはない。筆者はテレビ局でワイドショー番組の担当をしていたときに「むき出しの好奇心」に突き動かされるように、芸能ネタ、事件ネタを探していたこともあるからだ。そのような欲望に応えることができるネタがウケることも十分に理解できるが、取材される側にとっては、メディアに追いかけられることが心理的負担になるのも確かである。 では、山尾氏が強い不快感を抱いた「むき出しの好奇心」に下支えされた取材や報道は控えるべきなのだろうか。 この問題を考えるにあたり、まず広い意味での「報道」の判断基準について述べたい。番組、あるいは週刊誌などで取り上げるべきトピックかどうかの判断基準は二つあると、筆者は考えている。一つは「一般の人が関心をもつもの」(一般の人が好奇心を刺激されるもの)、もう一つは「公共性があるもの」である。この二つの要件をクリアしたものが広い意味での「報道」に値する。ワイドショーであっても、好奇心を刺激するだけで公共性がない著名人のプライバシーを取材し放送することは許されないという考え方だ。 この判断基準はニュース番組や新聞記事にも適用できる。こうしたおカタいメディアには、「公共性があるもの」という点がより重視されるものの、「一般の人が関心をもつもの」という要素を度外視することはできない。取材側にも問題アリ では今回の山尾氏のケースは、報道するに値しないのだろうか。この点、山尾氏は倉持弁護士と「男女の関係」があったかどうかを聞かれたことに関して、次のように述べている。 私へのその問いは、どのようにして社会の役に立つのだろうか。政治家としての私を評価する上で、一体何の判断基準になるというのか。(「カナロコ by 神奈川新聞」11月7日) 政治家が不倫をしていたかどうかを、具体的に質問することにはニュース価値が全くないような言い方であるが、違和感がある。不倫をしているかどうかは、政治家を評価する上でひとつの判断材料になるはずである。 一般に有権者は、公表されている政治家が実現を目指す政策や政治姿勢だけで投票行動を決定するわけではない。家族観や社会観、それに人柄や生活信条なども含め人間性をトータルで判断しているのだ。山尾氏が不倫をしているかどうかということは、直接的ではないかもしれないが、彼女の家族観、ひいては政策に結びついていく可能性はないだろうか。 もしも万が一、山尾氏が不倫も含め自由な恋愛の形態を認めており、フランスのように結婚という制度にはあまり拘束されず、いわゆる事実婚が広く認められるような社会を望んでいるならば、それは有権者の投票行動に影響するに違いない。こう考えると、メディア側が夫以外と「男女の関係」があるのかどうか、それについてどう考えているのかという質問は、単なる興味本位ではなく、家族観や社会観につながっていく可能性があり、「公共性」がある質問であろう。山尾志桜里の不倫疑惑を報道する週刊文春=2017年9月14日 「むき出しの好奇心」については、もう一つ論点がある。山尾氏のケースでは、メディア側や一般の人の好奇心をあからさまに突き付けることで、彼女への大きなプレッシャーとなった場合にも取材は許されるのかということである。つまり、取材方法の問題だ。 山尾氏は、以下のようにメディアを批判している。 「男女の関係はあったのですか」「本当に関係はなかったのですか」。さらに「離婚はしたのですか」-。数多くの一般の人々が行き交う衆人環視の下、大きな声でしつこく繰り返し問われた。私はこれまで通り電車で通勤している。普通に考えてみてもらいたい。歩いていて、突然レコーダーを突き付けられ、そんな私的なことを問われる異常さを。(「カナロコ by 神奈川新聞」11月7日) 筆者もテレビ局での取材経験から、このような「突撃取材」をする側の論理や感覚はわからないでもない。事務所を通して取材申請をしても断られるのに決まっているから、本人を待ち伏せして質問を浴びせる。質問に答えようと答えまいと、相手のリアクションを撮影していれば、取材のエビデンスは確保できる。しかし、取材される側から見れば、山尾氏が指摘するように「異常」であることは確かだ。むき出しの好奇心が取材相手の日常の平穏を乱すおそれがある。 取材倫理の問題は難しい。対象者の迷惑にならないことを最優先にしてしまうと、取材活動は萎縮してしまう。公共性があり報道の価値がある取材であっても、あきらめざるを得ないことが多くなる。取材者としては一歩前に出て相手にアプローチしたいところだ。 一方で、熱を帯びた取材がエスカレートすると、平穏な私生活に勝手に侵入する「プライバシー侵害」になることもあるだろう。答えないのも自由 今回のケースは、見極めは難しいものの、取材されたのは国会議員という公人であるため、取材内容の公共性、取材目的の公益性の方が優先されるのではないか。山尾氏に迷惑をかけているのは確かだが、取材方法については公人としての受忍限度の範囲内だと思う。 では、突き付けられた質問には「答えなくてはならないのか」。この点、山尾氏は次のように述べている。 直後の記者会見などで私は「男女の関係はない」と答えたが、そうしたことを答える必要さえなかったと今は思う。(「カナロコ by 神奈川新聞」11月7日) 山尾氏の意見は理解できる。筆者はメディアが「取材するのは自由」だが、一方で山尾氏が「答えないのも自由」だと考えている。 取材との関連では、公人のプライバシーは一定程度、制約されると考えられる。このため、男女の関係があったのかどうかをメディア側が聞く姿勢は間違ってはいない。 しかし、プライバシーの権利に関しては「自分に関する情報をコントロールする権利」という広い解釈も有力になりつつある。そのため取材される側の山尾氏に「国会議員といえども男女の関係についてまで話す必要はない」といわれれば、「そうですか。わかりました」と認めざるを得ないと思う。 このように、メディアが不倫について「むき出しの好奇心」をもって取材するのは自由だが、一方で山尾氏が答えないのもプライバシー保護の観点から自由なのではないか。お互いの自由の衝突をどのように調整するのかは、当事者が個別具体的に対応していくしかない。 最後に、この問題を俯瞰(ふかん)してみよう。筆者は、山尾氏の不倫騒動をあまり深追いするのは、社会全体にとってはあまりプラスにならないと考えている。山尾氏が力をいれている憲法改正問題という重大テーマが目前に控えているからだ。国会に到着した民進党(当時)の山尾志桜里氏=2017年9月7日、国会内(福島範和撮影)  山尾議員が取り組もうとしている政策には「国家権力を縛り国民の人権を保障するための立憲的改憲提案で、安倍改憲を阻止する」がある。この政策を実現するにあたり本当に倉持弁護士の知見が必要であるならば、週4回といわず、毎日でもミーティングをしてみてはどうだろうか。そして新たな提案を練り、風雲急を告げる憲法改正の論議に一石を投じていただきたい。 ただ、政治家には主義主張の一貫性も求められている。山尾氏は、宮崎謙介議員(のちに辞職)の不倫に対しては批判していたのだから、件(くだん)の弁護士との不倫騒動にほっかむりを決め込むのはどうなのか。しゃべればしゃべるほど臆測が膨らみ、相手や自分の家族にさらに迷惑をかけるという事情も理解できるが、「他人に厳しく自分に甘い」という声が上がるのはやむを得ないだろう。 そんな政治家の「立憲的改憲提案」に有権者は、果たしてどの程度耳を傾けるのだろうか。今後もこの問題に注目したい。

  • Thumbnail

    記事

    「フェイクニュースの惨敗」メディアの腐敗が後押しした安倍一強

    年齢の回答が多くなる。「フェイクニュース民主主義」誰が正す? 高齢者の多くは、ワイドショーなど特定のメディアで情報を入手するため、先ほどの偏向報道の影響をうけやすいといわれている。また高年齢層ほど、自民党の支持者が大きく減少することも各種の調査で明らかである。このような一種の世代効果(あるいはワイドショー効果)とでもいうべきものが本当に存在するのかどうか。この点の解明は専門家の分析を待つしかない。もうひとつは、たとえ「疑惑」があるにせよ、それが確証されていない段階では、現在の自公政権の枠組み維持のほうにメリットを感じる有権者が多いということだろう。それを示すように、安倍政権への支持率はいまだ不安定だが、他方で今回の選挙でも自民の圧勝をもたらしている。これはなかなか賢い国民の選択だともいえる。 筆者はこの連載で繰り返しているように、両学園問題は言葉の正しい意味で、首相の責任ということに関してはフェイクニュースであると確信している。その理由は前回の論説で書いた通りだ。その一方で、このフェイクニュースによって政治状況が左右される「フェイクニュース民主主義」とでもいう事態には警戒感を強めている。残念ながら、今回の選挙によってもこの種のフェイクニュース民主主義の芽がついえたわけではない。今後も警戒を続けなければいけないだろう。 経済学では、市場はお金、人材、設備などといった資源を効率的に利用できる経済環境であるとされている。だが、環境問題などに典型的なように、市場活動の結果、社会的な害悪をもたらす事実や可能性が絶えず存在する。そのとき、市場活動に問題の解決をまかせることはできない。政府の介入余地が必要になってくる。これを「市場の失敗」といい、社会的に望ましい状態と現状とのかい離を表現するものである。 ただし、このときの政府はしばしば賢く、また社会的に望ましい状況にむけて改善するものだと、一種の性善説を前提にしていることが多い。だが、実際には政府はそのような存在ではない。さまざまな既得権益や利害対立をはらむ存在である。つまり「政府の失敗」が存在する。 この「政府の失敗」を正すものはなんだろうか。それが実際にはマスコミの役割だったはずだ。だが、マスコミ自体も「報道の失敗」を引き起こす。マスコミも権力機構であり、腐敗するのだ。このようなマスコミの腐敗、またはフェイクニュース民主主義への誘導を厳しく検証する必要がある。その役割は誰がするのだろうか。 衆院解散の検討を厳しく批判した、2017年9月19日付の毎日新聞社説(左)と2017年9月18日付の朝日新聞社説 それは国民自らの関与でなくてはならない。インターネットでのマスコミ監視や、マスコミに代替・補完するさまざまな活動かもしれない。もちろん話は最初に戻り、われわれの経済活動の根幹をなす市場も失敗する。試行錯誤が続くだろう。だが、その活動をあきらめてはいけない。現状のフェイクニュース民主主義がもたらす弊害は深刻だ。そしてそれゆえに、われわれは失敗を恐れず、常に政治とマスコミの両方を冷静に事実と論理で検証していかなくてはいけないだろう。

  • Thumbnail

    テーマ

    またしても選挙報道がひどかった

    だが、それにしても期間中にこれほど風向きがころころ変わった選挙も珍しい。その主因は言うまでもなく既存メディアの偏った選挙報道にある。罪深きはメディアか、それとも情報の受け手たる主権者のリテラシーか。

  • Thumbnail

    記事

    テレ朝、TBS「モリカケ報道」のどこが悪い

    山田順(ジャーナリスト) 今回の総選挙を主にマスメディアの報道から考えるというのが、本稿に与えられた命題である。しかし、そもそも現在の日本のマスメディアの選挙報道に、なにか大きな問題があるとは私は思っていない。やれ偏向報道だ、世論調査は操作されているなどとやかましいが、ネットメディアに比べたら、極めて常識的な範囲の中で報道が行われているのではなかろうか。 例えば、大新聞で言えば、安倍晋三首相が朝日新聞を嫌い、読売新聞を「御用メディア」とするのだから、そういう両極のメディアがあることが健全な証だと私は思う。そもそも、これまでマスメディアに要求されてきた「公正報道」ということ自体が間違っていたからだ。 ネットメディアが乱立し、ほとんどの国民がSNSを使っている現状で、公正報道を問うこと自体がおかしい。事実関係をゆがめたり、まったくの虚偽報道はあってはならないが、政治的に偏った報道はどんどんあるべきだろう。 朝日新聞、毎日新聞が「リベラル」を勝手に自認し、「平和」と「護憲」を訴えなかったら誰も見向きもしないし、部数も激減するだろう。逆に読売新聞と産経新聞が「体制擁護」に徹し、「首相と日本を守る」ための報道をしなかったら、読者は一気に離れるだろう。 テレビも同じだ。首相がことあるごとにTBSやテレビ朝日の報道番組に出演して、例えば「モリカケ問題」の潔白を訴え続けたら、両局は、それぞれTBSとテレビ朝日でなくなってしまうだろう。2017年9月、会談中に握手する安倍首相とトランプ米大統領=ニューヨーク(共同) 首相自らが「印象操作」と言うのだから、この状態は批判するようなことではない。なにしろトランプ「オレ様大統領」は自分がツイッターで言うこと自体が真実で、米主要メディアのワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズを「フェイクニュース」呼ばわりしたのだ。この世に「公正報道」など期待するのが無理というもので、そんなことをマスメディアがする必要もないのだ。国民全員が「ジャーナリスト」に? おバカな「地球市民」と、自分は庶民より利口だと思っている「小市民」は、いまもマスメディアに「公正報道」を求めている。しかし、なにが公正かと問えば、誰も答えられない。いまの日本にあるメディアで、いったいどこが「公正報道」ばかり行っているというのか。NHKと答えたら「それはブラックジョークですか?」と笑われるだろう。 そもそも現在のマスメディアは、近代国家の成立とともに誕生し、そこではジャーナリズムによって「権力監視」が行われるものとされてきた。「フリーダム・オブ・スピーチ(言論の自由)」と「フリーダム・オブ・プレス(出版の自由)」が保障され、新聞、雑誌、その後に登場したラジオ、テレビがそれを独占してきた。だからこそ、「公正報道」による「権力監視」がジャーナリズムの役割とされてきたのである。2017年2月、BPOの放送倫理検証委が公表したテレビの選挙報道を巡る意見書。右は記者会見する委員ら=東京都千代田区 しかし、ネット社会の現在は違う。SNSによって誰もが情報発信ができるし、ブログやネットメディアで記事を書ける。要するに、意図しようとしまいと、国民全員が「ジャーナリスト」となってしまったのだから「公正報道」など期待するほうが無理というものだ。 なにしろ、公正報道を心がけるように教育・訓練されてきたジャーナリストの記事と、取るに足らない自身の意見を書き連ねている「小市民」の記事が同列に並んでしまうのが、ネットメディアである。さらに、そこに最近では「プロ市民」によるプロパガンダ、偽ニュースを拡散するボットなどが登場し、なんでもありの世界になっている。 つまり、トランプ様のように言いたいことだけ言えばいいのが、この世界の最新ルールだ。そこにおいて、なぜ旧来のマスメディアだけが「公正報道」をしなければならないのか。 選挙報道において、マスメディアがもっとも尊重してきたのが、テレビの場合、放送法第4条にある「政治的に公平であること」「意見が対立している問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」だった。この公平の原則はこれまで「量」によって担保されてきた。報道の「質」で公平保たれたか 例えば、自民党総裁である安倍首相の演説を1分間流したら、共産党の志位和夫委員長の演説も1分間流すという「量による公平性」だった。これは、大新聞の紙面においても配慮されてきたことだ。なぜ、このように量を担保したかといえば、それは電波が希少だったからである。しかし、ネットのように無限のメディア空間ができてしまった現在、この理屈は成り立たない。 そこで、2月に放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は、テレビの選挙報道について「編集の自由が保障されている以上は、求められているのは出演者数や露出時間などの量的公平性ではない」とし、政治的公平性は報道の「質」で保つべきだとする意見書を公表した。「量」から「質」への転換である。したがって、今回の総選挙はテレビにとって報道の質を初めて問われることになった。 そこで、特にこの点を注視して報道を見てきたが、これまで大きく変わった点はそう見られなかったというのが私の見解だ。むしろ、各局は独自の姿勢に基づいて報道してもよかったのではないかと思う。 例えば、「希望」を「絶望」に変えた小池百合子東京都知事が大風呂敷を広げたにもかかわらず「敵前逃亡」してしまったことだ。初めから当日パリにいるつもりなら、なぜ民進党を巻き込んだのか。その国民をなめたやり方の無責任ぶりをもっと追及すれば、この国が抱えている政治的な問題がもっと明らかになっただろう。希望の党開票センターで、当確者の名前をボード張る樽床伸二代表代行(左)。右はテレビ中継で発言する細野豪志氏=2017年10月22日、東京都内のホテル(酒巻俊介撮影) また、日本の「リベラル」が実はリベラルではないこと、護憲とリベラルは一致しないことを立憲民主党の主張から導いてほしかった。リベラルが「改革・革新」を意味するなら、リベラルこそ改憲を唱えて社会を革新していく使命がある。それが、なぜ「平和憲法」といっても「日本の平和」ではなく「アメリカの平和」のために存在する第9条を変えてはいけないか。この摩訶(まか)不思議なリベラルをもっと解明してほしかった。 そして、選挙のために途切れてしまった「モリカケ問題」報道を、なぜこの期間に限ってほとんどやめてしまったのか教えてほしい。選挙結果と関係なく、「腹心の友」と「アッキー」は国民の前に出るべき義務から逃れられないはずだ。「すき好んでだまされる」情弱の人々 いずれにせよ、「大義なき選挙」「国難選挙」は終わった。この間、ネットを含めて膨大な情報が飛び交った。特にネット空間では、ネトウヨ、極右、リベラル、ネトサヨ、ネトサポなどの「血みどろ」の攻防が繰り広げられた。今や政権擁護のネット組織がギャラをもらってプロパガンダを流している、あるいは左翼系サイトを攻撃していることは広く知られている。また、テレビ報道では「電波芸者」と揶揄(やゆ)されるコメンテーターが「与党は正しい」コメントを流し続けた。 しかし、こうしたことすべてを批判するのはおかしい。なぜなら、繰り返し書くが「公正報道」はもはや無意味だからだ。したがって、こうした世界でたやすくだまされるとしたら、だまされた人間のほうが悪いのだ。雨の中、街頭演説に耳を傾ける有権者たち=2017年10月21日、東京都中野区 ネットの世界のプロパガンダには、本来、政治思想など存在しない。右も左もない。発信・運営する側はマネーで動いているからだ。 現在では、ビッグデータを人工知能(AI)で解析してプロパガンダがつくられている。例えば、トランプ大統領を誕生させたとされる英データ分析会社「ケンブリッジ・アナリティカ」は、ヘッジファンドの大物ロバート・マーサーが大金をつぎ込んでつくった。日本でも同じだ。ただ、日本の業者はいまのところ単におカネを得て、右や左に偏ったプロパガンダを製造し、さらに敵対サイトに書き込み攻撃をしているだけだ。だまされるほうがどうかしている。 よく、人は信じたいことを信じるといわれる。これは、ある意味で正しく、例えば左翼なら「政権は腐敗している」系の記事、右翼なら「日本は素晴らしい」系の記事ばかり喜んで読んでしまうという悲しい習性を持っている。これを「選択的接触」と呼ぶようだが、この傾向が強い人間ほど情弱であるのは間違いない。 要するに、情弱の人々というのは「すき好んでだまされる」のだ。果たして日本人はそれほど情弱ばかりなのだろうか。選挙結果を見て、考えてみることが大切だ。

  • Thumbnail

    記事

    「偏向報道だらけ」なら、なぜ自公が圧勝したのか

    ドア社長)が、なにかまぶしい日本の希望として喧伝された時代である。 当時(―すなわち12年前)のマスメディアにも、一定の基準はあったが、明らかに「小泉旋風」に肩入れした報道内容だった。しかしあれから12年がたち、「劇場政治」は一変した。この12年間、「劇場政治」に惑わされないだけの肥えた「目と耳と舌」を有権者は獲得した。有権者は馬鹿ではない。冷徹に現状を見つめている。池袋駅前で街頭演説を聞く有権者ら=2017年10月10日、東京都豊島区 メディアの側も、放送倫理・番組向上機構(BPO)を恐れてどちらか一方に偏った報道をしなくなった。いまだに一部ネット界隈では、例えば地上波テレビの〇〇局を「偏向報道!」と呪詛(じゅそ)するが、革新勢力からNHKやTOKYO MXが「右翼の偏向報道!」とデモ隊に包囲されるご時世である。12年前にはこんな様相はなかった。メディアはより公正、厳密になり、有権者は賢くなっている。 むろん、これが最適かどうかはまだわからない。しかし少なくとも、相対的に報道は中立性を強く意識するようになった。やおら公正なメディアの元、自公が信任されたのであれば、より安倍政権の民主的正当性は補強される。 アベは独裁者だ、という声にも、抗することのできる社会科学的根拠を有することができよう。いやはやよく言えばフェアーな、悪く言えば面白みのない時代になったものだ。しかしこのような時代だからこそ、イデオロギーの左右を超えて、客観体な数字をもとにした合理的な判断のできる識者が求められているのかもしれない。(文中一部敬称略)

  • Thumbnail

    記事

    TBS『サンモニ』の選挙報道はなぜやりたい放題なのか

    中宮崇(左翼ウォッチャー) 衆議院総選挙を控えた10月15日、「反日」「捏造(ねつぞう)」で定評のあるTBSの「サンデーモーニング」がまたやらかした。産経新聞はこのように報じている。 出演者が野党に投票を促すかのような発言があった。番組は放送法4条で「政治的に公平であること」を求められており、あらためて問題視されそうだ。出演した東京大学名誉教授の姜尚中氏は「見どころは選挙の中で野党のビッグバンが起きるかどうか。選挙後にどこが主導権を握るのか。投票先を決めてない54・4%の人は選挙に行かなければいけない。そして次回に何をするか賭けてみることが必要」とコメント」 産経ニュース 2017年10月15日  TBSやテレビ朝日による悪質な世論操作、選挙操作は今に始まったことではない。特に1993年の「椿事件」においては、「今は自民党政権の存続を絶対に阻止して、なんでもよいから反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようではないか」とテレビ朝日の取締役が臆面(おくめん)もなく言い放ったことで、国民に衝撃を与えた。TBSの報道姿勢に対するデモ行進=2017年9月9日、東京都港区 記事でも触れられているように、これに先立つ9月9日にTBS本社前で「TBS偏向報道糾弾大会・デモ」が行われた。この抗議集会でも特に名指しで批判されているのは「サンデーモーニング」である。 私が2006年に『天晴れ!筑紫哲也NEWS23』(文春新書)を書いた当時、「捏造TBS」の筆頭偏向番組といえば「筑紫哲也News23」であった。サンデーモーニングは日曜の朝という放送時間のせいか、仕事帰りのサラリーマンらのチェックが入りやすいNews23と比べて、その偏向ぶりはそれほど注目されてはいなかった。当時、私がNews23と並ぶほどの危険性を指摘しても、あまり反響は得られなかった。 しかしインターネットの普及により、日曜朝の放送をライブで見ていなくても放送内容のチェックが比較的容易になった現在、かつてはやりたい放題であったサンデーモーニングも今や厳しい批判を免れることはできない。 サンデーモーニングのこれまでの捏造・偏向事件をすべてまとめようとすると、本が一冊書けてしまうので、到底本稿のスペースではすべてを網羅することはできない。私はかつてある記事で、 「『馬鹿だ』。自分たちのずうずうしい街頭インタビューに足を止めて答えてくれた日本国民に言い放つテレビ番組がある。『東京オリンピックは辞退すべき』。五輪招致に喜ぶ日本の人々に向かって公共の電波で口角泡を飛ばしてプロパガンダするテレビ番組がある。『日本のロケットはゴミになる』。打ち上げ成功に湧き立つ人々をあざ笑うテレビ局がある」 と書いたことがあるが、そういう発言が毎週のように繰り返されている番組なのだ。「報道番組」とか「マスコミ」などとは到底言えない、ただの「反日プロパガンダ」であるとしか言いようがない、あきれたシロモノである。87年の放送開始以来すでに30年間、中国や北朝鮮の虐殺、独裁をスルーどころか時には応援しつつ、「日本の民主主義は終わった」「安倍独裁政治」などと罵るだけの無責任な番組をつくってきたのだから救いようもない。 しかも私は何度か指摘してきたが、司会の関口宏以外にも、レギュラーの「ゲスト」コメンテーターのほとんどは比喩的な意味でなく、文字通り関口が社長を務める会社と何らかの関わりがあるのである。本当に「意図的」でないのか そんな「利権番組」サンデーモーニングによる、毎週繰り返される卑劣なプロパガンダは枚挙にいとまがないが、最も有名なのは、やはりこれも2003年の選挙直前に発生した「石原発言テロップ捏造事件」である。TBSテレビ外観 当時、東京都知事の石原慎太郎の「私は日韓合併100%正当化するつもりはないが」という発言に「私は日韓合併100%正当化するつもりだ」という正反対のテロップをつけ、音声・映像もテロップに合わせるように「…つもりは…」と切って編集し、出演したコメンテーターたちもその映像やテロップに沿って都知事を批判した、世界のマスコミ史上類を見ない呆れた事件はもはや「伝説」と化している。いや、サンモニが愛する北朝鮮や中国にはいくらでもその類はあるが…。 この「事件」について、TBSは「意図的な捏造」であることは全く認めていない。しかし、一回や二回にとどまらず、毎週のように行われている捏造・偏向、反日プロパガンダを見れば、これが「意図的ではない」と言い張る人なんているのか。 サンデーモーニングの「意図」は、冒頭の姜尚中をいまだ出演させ続けていることだけでも十分証明可能である。姜尚中と言えば、2002年の小泉訪朝により北朝鮮が拉致犯罪を認めるその瞬間まで「共和国が拉致犯罪を行う合理的理由はない」として、この卑劣な犯罪の存在を否定してきたのは有名な話である。 そればかりか北朝鮮の拉致や核・ミサイル開発を批判する日本の対応を「文明国ではない」とまで言い放った人物である。これは日本テレビ系「爆笑問題のススメ」なるトークショーに出演した時の発言だ。 いわく「植民地になっていた国と正常な関係が結べないというのは、実はヨーロッパ的な基準からすると先進国ではないわけです」とのこと。いまだにこんなことを言い続けている人物なのだ。 それ以外にもトンデモ発言の例には枚挙にいとまがない。「(北朝鮮との)交渉による解決の可能性はより大きくなったと見るべきです」(週刊金曜日、1999年6月24日号)「5人の(ようやく帰ってきた拉致被害者)家族を(一旦北朝鮮に)帰す。どんな形でも良い。返す」(2003年元旦朝まで生テレビ)「防衛予算は4兆円も必要なのか」「北朝鮮がほんとうに脅威でしょうか」(「アジアから日本を問う」岩波ブックレット)「日本とはどうかというと、ミサイルや「拉致疑惑」で正常化交渉は遅々として進まない」(「東北アジア共同の家をめざして」平凡社)「よく“北朝鮮が日本を攻撃するかもしれない”という報道があるけれど、“なぜ?何の目的で?”と、僕が聞きたいたいですね」(日経ウーマン2003年9月号) こんな人物をいまだ出演させ続けているのが、TBSの「サンデーモーニング」なのである。なぜ抗議デモまで起きるのか。まともな良心の持ち主であれば、もはや説明の必要はなかろう。 これが今回の選挙でも野党に投票を促すかのような発言をした番組の正体なのだ。(文中一部敬称略)

  • Thumbnail

    記事

    テレビのやらせと同じ? SNSフォロワー数で煽った選挙報道のウソ

    藤本貴之(東洋大学教授・博士(学術)、メディア学者) 多くの議論と話題を振りまきつつ2013年に解禁された「インターネット選挙」も今回の衆院選で4回目を迎えた。しかし、有権者の多くが感じていることは「で、結局何だったの?」という拍子抜け感であろう。今回の総選挙は、スマホ・ネーティブ(初めて持った携帯がスマホ)世代である18歳が参加する初の総選挙ではあるが、何ら変化が起きているようにも見えない。候補者の選挙活動の様子を携帯電話で 撮影するスタッフ=2015年4月、大津市内 一方で、政党や候補者たちは、SNSでの情報拡散に躍起だ。また、それを後押しするように、SNSで得られる数値を指標にした動向分析に必死に取り組む選挙報道を見ると、筆者はある種の危機感すら覚える。 SNS情報の客観的な数値化と一般化は、その母集団が明確ではないため非常に難しい。世論とSNSの投稿動向を関連づけようとする分析も多いが、そのほとんどはこじつけや偶然の域を出ない。メディアにおいては都合のよい投稿だけを抽出して、「SNSでは…」という枕詞(まくらことば)を付けることで、フェイクニュースや意図的な偏向報道を「客観報道」にカムフラージュする古典的な手法もまだまだ現役で利用されている。 それらは「おおむねフェイクニュース」と言っても過言ではない。「SNSで挽回を図る」とか「SNSで優勢に」といった政党側の論調でさえ、そんなフェイクニュースをよりどころにしつつ、実際は単なる「願望」にすぎないことばかりだ。 本稿では、前回の参議院選挙の頃から急速に登場してきた、選挙の動向分析の新しい指標である「SNSから得られる数値」を選挙報道で利用することの無意味さと危険性について詳述したい。 今日、選挙報道で利用される「SNSから得られる数値」には大きく二つある。 まず、SNSアカウントのフォロワー数である。具体的には政党のTwitter公式アカウントのフォロワー数によって人気や勢いが計られる。 そして二つ目が「SNS上での言及数」である。FacebookやTwitterなどのSNSの投稿内で言及された政党名の総数でランキングをつけ、なにがしかの傾向や支持の変動を見いだそうとする。 これらをひとことで言ってしまえば、フォロワー数が多ければ支持者が多いのではないか、政党名の言及数が多ければ関心を持たれている(得票につながる)のではないか、という単純で楽観的な解釈である。しかしながら、多少なりともSNSを利用している人であれば、このSNSの数値による選挙分析に違和感を覚える人は少なくないはずだ。 フォロワー数で大騒ぎ 例えば、以下が10月20日現在のおおよその主要政党Twitter公式アカウントのフォロワー数である。(カッコ)内は解散時の衆議院議席数・党員数である。立憲民主党:18万3000(16人・/)自民党:12万8000(286人・約104万人)公明党:7万5000(35人・約46万人)共産党:4万(21人・約30万人)日本のこころ:4万(0人・約5000人)社民党:2万3000(2人・約1万5000人)日本維新の会:1万4000(15人・/)希望の党:1万2000(11人・/) 今現在の瞬間風速的な話題性の反映はあるが、少なくともその数値が現実の党勢や支持率と必ずしもリンクしているようには見えない。むしろ脈略(みゃくらく)のない数値といっても良い。 数値の違いも注意が必要だ。最大18万と最低1万程度ではその数値に大きな差があるように見えるが、1万から20万程度のフォロワー数の違いは100万オーダーのネットやSNSの世界では「ほとんど誤差」と言えるような数値である。テレビを賑(にぎ)わすような話題があれば、その程度の数値は瞬時に増減する。実際社会の投票動向を反映するとは言いがたい数値を比較して「抜いた、抜かれた」を報道していることになる。 参考までに同水準のアカウントをあげれば、「ほぼ日刊イトイ新聞」「NHKクローズアップ現代+」がそれぞれ約18万5000である。 SNSでの政党名の言及数なども選挙時の党勢を知るための参考にはならない。 もちろん、今日の社会においてSNSのフォロワー数や投稿での言及数が、話題の尺度になっていることは間違いない。特に芸能人やテレビ番組などでは、SNSでの言及数の広がりが視聴率と伍(ご)するほどに重要視されるようにもなっている。例えば、2016年のTBSドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」のヒットの要因は徹底したSNSマーケティングにあったことは有名だ。 しかし、このようなSNSによるマーケティングと情報コントロールがうまく機能するのは、あくまでも芸能人やテレビ番組のように、仮に賛否両論があったとしても、それが露出や知名度向上がビジネスへと直結するという場合に限られる。選挙時におけるネガティブな話題での言及数などは、マイナス以外何の価値も持っていない。今回の選挙には無関係な多くの政党名の投稿も含め、玉石混合で話題の尺度にはなっても、それが投票行動にリンクするような類いのものではないことは明らかだ。ネット戦術に依存する新設政党 例えば、10月2日に結成を表明した立憲民主党が、4日に開設した公式Twitterのフォロワー数が、わずか2日目にして自民党のフォロワー数(約12万人)を追い越した、というニュースが大きく報じられた。そのTwitterの勢いから、大手メディアまでもが党勢の「躍進」と表現した。中にはあたかも自民党の支持率や議席数にもリアルに影響するかのごとき表現すらあった。街頭演説で支持を訴える立憲民主党の枝野代表 =2017年10月17日、福島市 しかし、Twitterのフォロワー数は党員数ではないし、支持率でもない。開設2日で自民党のフォロワー数を抜き、10月15日には17万人を突破したものの、10月20日現在のフォロワー数は18万3200人。15日から20日までの伸びが1万人程度という現状を見れば、「躍進」というよりも、最初の数日でフォロワー数(元々の支持者+ネットウォッチャー層)の上限に達し、その後は平行線をたどっていると見るべきが妥当だ。ネット戦術に依存せざるを得ない新設政党と一定の基盤を持つ既成政党ではSNSに対する接し方がそもそも異なるのだ。 民進党からの分裂劇など、これまでになく混乱する「劇場型選挙」になった立憲民主党の場合、支持の有無とは無関係にウォッチングされる。そのような時事的な話題性に基づく短期間でのフォロワー数急増という現象は、SNSではよくあることだ。特に、今回の選挙のようなケースであれば、単に野党の選挙情報を知るためにフォローしているような人もかなりの数いるはずだ。 SNSとは今日、最も身近で最も簡単で最も手軽な情報収集手段である。そうであるからこそ、フォローという行為が必ずしも支持の表明という特別な意味を有しているわけではない。単に「情報を選別して受け取るための登録」という意味であることは非常に多い。 今回の衆院選では、SNS上の党名言及数において、立憲民主党が自民党にも届く勢いにまで伸びていることを理由に、党勢の躍進を報じているニュースは多い。 しかし、SNSでの政党名の言及数は全てが応援というわけではない。選挙時におけるSNSでの言及は、一部の著名人候補を除けば、必ずしも積極的な関心でも、プラスに働いているとも限らない。特に、Twitterの場合、その媒体特性を考えれば、短期間での急激な発言数の増加は、むしろネガティブな罵詈(ばり)雑言の拡散装置として機能の方が、肯定的な話題よりは多いと考えた方がよい。 例えば、「ハゲ暴言」でおなじみの豊田真由子氏は今年、Twitterで最も言及された政治家の一人だろうが、政治家として勢いがあるとは言い難い。今、Twitter上で最も話題になっている髪型は「金正恩ヘア」と言われているが、このスタイルが今年のファッション業界で流行するとも思えない。同様に、どういった内容や文脈であるかまでは加味されないSNSでの言及数という指標は、選挙報道や投票行動の参考にはなり得ないのだ。SNS万能論の勘違い SNSから抽出される数値は、選挙での意思決定を左右する支持のバロメーターというよりも、「ゆるい関心」のバロメーターと見るべきが妥当だ。だからこそ、芸能人やテレビ番組のような場合には人気のバロメーターとして機能するのである。むしろ、強く働くのは、ネガティブな反応が多いだろう。 特にそれまで地道にネットやSNSを駆使した政治活動を展開していたような政治家・候補者以外が、突如選挙シーズンになってから積極的なSNS戦略を展開したところで、それに突き動かされて一票を投じるほど、愚かなSNSユーザーが多いとは思えない。政党やメディアが考えているほど、SNSの使い方、使われ方は単純ではないのだ。 それでもなお、SNSから得られた「なにがしかの数値」を指標にし、大手メディアまでもがその数値から選挙の趨勢(すうせい)を見いだそうとするのはなぜか。 その理由として以下の二つをあげたい。ジャスミン革命後の自由をアピールするチュニジアの人々=2011年4月 まず一つ目が、SNSが若者層を中心に生活の一部として定着し、大きな影響力と情報伝播(でんぱ)力をもっているという事実が生み出す「あらゆる場面で影響力を発揮可能」というSNS万能論の存在だ。特に2011年のチュニジア民主化運動「ジャスミン革命」で、FacebookなどのSNSが運動の成功に大きな役割を果たしたことなどから、SNSと政治運動は親和性が高いと印象づけたことも大きい。 しかし、言うまでもなく、ジャスミン革命で利用されたSNSは、情報共有・情報拡散ツールとしてであり、マーケティングツールとしてではない。もちろん、ジャスミン革命からの数年で、SNSのあり方、使われ方も大きく変容しているので、「SNS=社会変革ツール」という認識はあまりにも古い。しかし、SNS万能論は選挙が始まるといたるところで散見される。 そして二つ目に指摘できるのが、印象操作や偏向報道のテクニックの一つとして利用しやすい、というメディアの側の都合である。リアリティーの薄いSNSのフォロワー数や言及数という数値を、客観データとして党勢を推し量る指標にする。それを意図的に利用することで、暗に特定政党の支持が急速に伸びている(あるいは追い抜かれている)という印象操作をすることも可能になるからだ。SNSの数値という有機的で明確ではない指標を自分たちなりの解釈で利活用することで、状況や「民意」はどのようにでも描けてしまう。数値を乱用することで人心を惑わす「おおむねフェイクニュース」と言っても良い。ネットの声は市民の声? 一応、統計データ、定量データとしての体裁を整えることができる分、悪質に感じる場合も多い。「あくまでもSNSに投稿され、言及された政党名の数でしかなく、内容は考慮されていない」と明言している良心的なメディアもあるが、あたかも「民意」の反映のように表現するメディアも少なくない。 このようなことが今後まかり通るようなことになれば、SNSの数値を利用したような「おおむねフェイクニュース」は、新しい偏向報道のテクニックの主要な一つになるだろう。 数値を使ったトリックはなかなか見破るのが難しい、ということも事実だ。冷静に見聞きすれば荒唐無稽な内容でも、数値化されて一覧にして提示されると、思わず信用してしまう数値化マジックは「おおむねフェイクニュース」の常とう手段でもある。衆院選最終日、「最後の訴え」に聞き入る聴衆ら =2017年10月21日、東京都新宿区 もちろん、SNSから抽出した情報から組み立てられる報道やニュースの怖さは、数値の利用だけに限った話ではない。SNSで検索した面白い(あるいは刺激的な)投稿のいくつかを抜き出して、「ネットではこんな反応もある」といった、「市民の声」として一般化して出すような場面を見ると、偏向報道を超えて、単なる捏造報道なのではないか、と感じることさえある。その「市民の声」を関係者が自作自演で作っていないとも限らない。 テレビの情報番組で「町の声」「市民の声」として取材に応じる一般人が、実は一般人ではなく、テレビ局が用意した役者だった、という問題が発覚する騒動は多いが、それよりも発覚リスクが低く、しかもテクニカルに作り込むことができる分、有権者や視聴者が被る不利益は大きい。 フェイクニュースよりも信ぴょう性がありそうな体裁をとるわかりづらい「おおむねフェイクニュース」が溢(あふ)れる今日。その狡猾(こうかつ)なテクニックに翻弄(ほんろう)されず、「情報の確からしさ」を検証し、情報を選別するには、何よりも有権者自身のリテラシー能力を高めることが必要だ。

  • Thumbnail

    記事

    小池百合子を持ち上げて地獄に落としたワイドショーの「ご都合主義」

    禁となってから既に4年がたった。何が変わって何が変わっていないのか。まず、変わった点は政党、政治家のメディア戦略が進化した。国会における討論はテレビ中継を意識したものとなり、国民からしてみればわかりやすいものとなった。大きなフリップを使い、テレビの視聴者が一目でわかるように各議員も工夫するようになった。 政党がインターネットを使いこなすようになってきたのも顕著だ。自民党の動画チャンネル「Cafe Sta」はその典型だ。生放送もあれば録画で見逃し視聴もできる。FacebookやTwitter、YouTube、ニコ生、FreshなどSNSや動画配信プラットホームがフルに活用されている。それ自体は悪いことではない。有権者は、より多くのメディアで政治関連情報に触れることができるようになったのだから。ポピュリズムを助長するテレビ 一方で、各メディアの役割はその分高まったかというと極めて懐疑的にならざるを得ない。テレポリティクスという言葉は使われなくなっても、テレビの役割は全く進化していないと言っていいだろう。いや、むしろ「ポピュリズム」を助長しているとしか思えないのだ。 とりわけ朝や昼過ぎのワイドショーに大きな問題がある。政治に多くの時間を割くこと自体は問題ない。むしろ好ましいことであろう。しかし、それはあくまで公平公正に扱っている限りにおいて、である。 特に、一部の局で「モリカケ問題」にほとんどの時間を割いたことに違和感を抱いた視聴者も多かろう。問題の本質がなんなのか、今でもわからない人が多いのではないか。 国家戦略特区そのものに問題があるのか、決定プロセスに問題があるのか、請託があったのか、国家公務員法に抵触する取引があったのか、国会議員の関与があったのか、地方議員の関与があったのか、一向にわからない。「オトモダチ」優遇が悪いといっても、世の中そんなことはごまんとあるわけで、やはり法的にどのような瑕疵(かし)があるのか明確にするのがメディアの役割だろう。 それを当事者の言うことを断片的に垂れ流すだけでは視聴者をミスリードするだけでなく、政局すら左右しかねない。本来テレビは慎重の上にも慎重を期すべきだろう。キャラが立つ人物が現れると出しまくり、潮目が変わると一斉に手を引くのがテレビの常套(じょうとう)手段だ。2017年3月、森友学園の籠池泰典前理事長を単独インタビューし、報道陣に囲まれる著述家の菅野完氏(中央)(宮崎瑞穂撮影) 一時、渦中の籠池泰典氏に単独インタビューを敢行した著述家の菅野完氏を出しまくっていたのはなんだったのか。また、あれだけワイドショーの常連だったTBS出身のジャーナリスト、山口敬之氏も暴行疑惑が持ち上がってから一切画面から姿を消した。その後の経緯は読者諸氏もご承知の通りだが、検察審査会が不起訴相当の判断を出したにもかかわらず、テレビで顔を見ることはない。全てはご都合主義なのだ。もうあぐらをかいている場合じゃない 小池百合子東京都知事についての報道も同じ構図だ。都知事選、千代田区長選、都議選と、「小池旋風」が吹いているときはそれほどでもなかったが、希望の党を立ち上げ、民進党の前原誠司代表と手を組んでから風向きがガラッと変わった。小池都政1年の検証はそっちのけで小池批判に舵を切った感がある。そこにはなんのポリシーもない。豊洲市場問題、オリンピック問題などどこかに消え去ってしまった。これでいいのか。2017年10月、パリへ出発する小池百合子東京都知事=羽田空港国際線ターミナル(宮崎瑞穂撮影) 北朝鮮問題しかり、だ。最大の脅威なら日本は安全保障をどうしたら良いのか、拉致問題をどう進展させるべきなのか、政治家に考えさせるような報道が必要だろう。 一部政党の消費税先送りや原発ゼロといったポピュリズム政策をちゃんと検証しているといえるだろうか。自民党の政策でも、消費税の使途変更で国の借金返済は遅れることが明白だ。政策ごとに各党の公約をちゃんと比較・評価して視聴者に届ける努力をしているだろうか。 そうした中、日本でも偽ニュースを検証する、ファクトチェックの動きがようやく出てきた。国内初の本格的な検証団体「ファクトチェック・イニシアチブ」が立ち上がり、その趣旨に呼応してネットメディアのBuzzFeed JapanやGoHoo、ニュースのタネ、そしてJapan In-depthらが参加し、総選挙に関する報道や政治家の発言などを検証し始めた。朝日新聞などマスコミにもその動きが見られた。これは健全なことであり、メディア同士のチェックもこれからますます進んでいくだろう。 こうした動きはメディアに対する国民の信頼を取り戻すことにつながることから歓迎すべきことだ。しかし、テレビはファクトチェックに熱心とは思えない。 報道以外の番組で批判が集まることも珍しくない中、自ら批判しその内容を公表することが、信頼回復につながり、評価が高まるということを理解すべきである。 もはやメディアは「第4の権力」などといってあぐらをかいている場合ではない。インターネット上で誰でもニュースを検証でき、その結果をSNSで拡散することが容易になった。ファクトチェックはますます進むだろう。 今後テレビはワイドショーやドラマ、バラエティーなども含め、発信する情報全ての品質管理を厳しくしていかねばならない。さもなくば、テレビだけ置いてけぼりを食らうのは間違いない。

  • Thumbnail

    記事

    メディア 解散で100億円の「総選挙特需」でウハウハ

     大メディアがこぞって解散総選挙を煽りまくっている。〈首相が解散権を行使し、衆院選に勝利することで、重要政策を遂行する推進力を得ようとすることは理解できる〉(読売新聞9月19日付社説)〈安倍首相による、安倍首相のための、大義なき解散である〉(朝日新聞9月20日付社説) 主張こそ正反対に見えるが、国民のために解散をやめろとは書かない。それもそのはずで、新聞・テレビなど大メディアにとって解散は100億円を超える「総選挙特需」が待っているからだ。 国政選挙には候補者のポスター代や公選ハガキ、選挙カーのレンタル費用やガソリン代から政見放送、新聞広告まで税金で負担する「選挙公営」という仕組みがある。安倍首相が衆院を解散し総選挙を行うと表明したニュースを報じるビジョン=2017年9月25日、大阪市北区(彦野公太朗撮影) 新聞広告に落ちる金額は巨額にのぼる。まず政党は比例代表名簿の登載者数に応じて税金で新聞広告が打てる。全国版の全面広告は読売で1回ざっと5000万円。 前回2014年総選挙の期間中(12日間)で国(中央選管分)が新聞社に出稿した比例代表候補の政党広告代のランキングと金額を見ると、【1】読売・5億5000万円【2】朝日・2億3700万円【3】中日・1億6400万円【4】北海道・8900万円【5】毎日・7500万円 ──など56社で総額15億円となっている。 これとは別に小選挙区の候補者(全国で959人)は1人につき5回分の新聞広告(1回誌面2段、幅9.6センチ)を税金で好きな新聞に掲載できる。 掲載料は最高額の読売(東京本社版)が1回約262万円(税抜き)。候補者1人が5回分すべて読売に広告を出せば1300万円を超える。東京ブロックの小選挙区には97人の候補者が出馬したから、新聞広告費は東京だけで10億円前後にのぼったと推計できる。それが全国の小選挙区で地方紙にも落ちる。 選挙公営の仕組みが新聞に有利なのは、広告費は候補者を通さずに国(選管)から新聞社に直接支払われることだ。候補者にとっても一定得票数に届かないと自腹になるポスター代やビラ代と違い、全額公費負担が保障されている。候補者は安心して血税を大新聞に注げるというわけだ。 テレビ局の選挙収入はもっぱら政党のテレビCMだ。放映料は「15秒のスポット広告」で300万円から500万円が相場とされ、こちらは選挙公営ではなく政党が支払う。前回総選挙が行なわれた2014年の各党の宣伝事業費は自民党が約20億円、民主党が約24億円で両党だけで44億円に達した。 財源は主に政党助成金であり、国民の税金から出されるのは同じだ。さらに2013年の参院選からは「資金力のない小政党や無所属候補も金をかけずに有権者に政策を訴えることができる」という触れ込みでインターネットでの選挙運動が解禁され、政党のバナー広告が認められた。 しかし、新聞・テレビ各社はこのネット選挙もビジネスチャンスとみて、自社ニュースサイトのトップ面や速報面に政党のバナー広告を呼び込む営業にも力を入れた。朝日新聞デジタルの場合、最高額の「ビルボードプラン」の料金はなんと1000万円である。 選挙特需は告示から投開票までの12日間でざっと100億円は超え、テレビは選挙の開票特番で多くのCM収入を稼ぐことができる。まさに大メディアにとって「選挙ほどおいしい商売はない」のである。関連記事■ 解散煽る大新聞・テレビ 税金から260億円選挙特需あるため■ ネット選挙広告 新聞社バナー広告は見る人半分でも料金6倍■ 国政選挙 新聞・TVには料金取りっぱぐれない重要かき入れ時■ 安倍晋三氏に総理再選を諦めさせる本当の勝敗ラインを検証■ 稲田朋美氏 地元のオジサマから「パンツ姿もいいねェ」

  • Thumbnail

    記事

    安倍氏VSメディア イヤホン騒動など「ガキの喧嘩」の醜悪

     希望の党の失速で、見るべきところがほとんどなくなった総選挙報道。目立つのは安倍晋三首相と大メディアの“不毛な論戦”ばかりだ。 安倍首相ほど、メディアの好き嫌いがハッキリしている総理大臣も珍しい。今回の選挙戦を通じて「嫌い」なメディアがどこか、改めてはっきりわかった。 日本記者クラブの党首討論会(8日)で、朝日新聞の論説委員から加計疑惑について問われると、“朝日の報道こそおかしい”と色をなして反論した。「朝日新聞は先ほど申し上げた八田(達夫・国家戦略特区WG座長)さんの(加計の特区決定に一点の曇りもない、との発言の)報道もしておられない」 対する朝日は論説委員が「(報道)しています」と言い返すだけでなく、わざわざ翌朝の紙面で〈今年3月下旬以降に10回以上、八田氏の発言や内閣府のホームページで公表された見解などを掲載〉とやり返した。 もちろん、総理大臣の政策論を聞き、選挙記事を読んで投票先を決めたいと考える有権者にとっては、不毛な応酬でしかない。街頭演説を終え、聴衆に手を振る安倍首相=2017年10月、埼玉県上尾市 『NEWS23』(TBS系)での諍いもそうだ。きっかけは解散表明当日、同番組に出演した安倍首相が、“解散の大義”を延々と語っている最中に突然、「2人でモリカケ!」という音声が流れた一件だった。 「流れてしまったのは森友・加計問題に話題を移すよう指示する番組ディレクターの声で、キャスターの星浩氏が外していたイヤホンから音が漏れ、それをマイクが拾った。初歩的なミスだが、安倍首相は“敵失”がよほど面白かったのか、公示前日に再び同番組に出演すると、話題が森友・加計に及んだ時、わざわざ星氏に『イヤホンは大丈夫ですか』と当てこすってみせた」(TBS関係者) 政権に批判的なメディアには“口撃”を繰り返しているわけだ。田島泰彦・上智大文学部新聞学科教授はこう嘆く。 「権力者がメディアに監視され、批判的検証の対象になるのは当然のこと。安倍首相の対応はあまりに子供じみている。また、メディアの側も“報じたかどうか”といったレベルに合わせるのではなく、疑惑の本質を伝える報道に絞るのがあるべき姿ではないか」 与野党間のやり取りも、首相とメディアの諍いも、まるで「子供のケンカ」である。関連記事■ 「安倍ヤメロ!隊」完封するため最強「安倍応援団」組織登場■ 小池知事が来春国政復帰も まさかの自民復党シナリオ■ 安倍首相 11月のトランプ会談後に“禅譲”の可能性も■ 安倍首相「過半数は堅い」の報告も喜ばず 目標喪失原因か■ 公明中心に自民、希望連立の場合 山口総理誕生の可能性は?

  • Thumbnail

    記事

    有権者をそそのかす報道ステーション「依存効果」の罠

    きく左右されているようだ。 例えば、公示前は小池新党への期待や、その後の同党と立憲民主党の話題が、各メディアともに激増していた。ところが選挙戦が始まると、これは一例だが、10月11日にテレビ朝日系「報道ステーション」で放送された党首討論では、森友・加計学園問題が内容全体の6割を占めていた。これは国民の選挙への関心とは大きくずれた問題設定であるといえる。例えば、その報道ステーション自身が9月31日・10月1日に実施した世論調査によれば、森友・加計問題など政権固有の「スキャンダル」を論点化したいと考えている国民はほとんどいないのである。 多くの国民の関心は経済政策、安全保障問題に集中している。その他の報道機関での世論調査でもほぼ同様の傾向がみられる。国民の関心では、森友・加計問題はもう争点ではなくなっているのだろう。それだけに報道ステーションの森友・加計問題への党首討論での過度な傾斜は異様にさえ思える。ちなみに同問題については、私はかなり早い段階に本連載で、安倍首相個人や政権の固有の問題ではない、その意味での議論は事実上フェイクであると指摘してきた。マスコミがあおりたい対決図式 現状では、関係者ともいえる国家戦略特区ワーキンググループの八田達夫座長から、朝日新聞など事実上のフェイクニュースをただす公開質問が出されているが、それに対して朝日新聞の応答はまったくない(参照:「岩盤規制」を死守する朝日新聞)。その他にも多くの識者・関係者らから同問題の報道姿勢について、マスコミに批判が加えられている。その意味では、上記した朝日新聞や報道ステーションなどの、あまりに政治的に過度に偏った報道姿勢が問われている局面ではないだろうか。マスコミのあり方が、実はいまの選挙でも問われている隠れた論争点かもしれない。 マスコミの多くは選挙における政策的論争点を、「消費増税(与党)vs消費税凍結(野党)」という対立図式であおりたいようだった。この図式がいかに誤っているかは前回の寄稿で解説した。 簡単にまとめると、現在の日本経済は総需要不足、つまり国民にお金が不足している状態である。過去20年の停滞期よりははるかに改善されているが、まだ不十分である。このはるかにましになった状況は、政府と日本銀行がデフレ脱却にコミットした持続的な金融緩和の成果である。財政政策は2013年こそ拡大基調だったが、それからは14年の消費増税や以降の財政緊縮スタンスであまり効果は発揮されていない。そのため金融緩和政策を否定する政党には、日本経済の改善をストップさせてしまうから評価はできない。また消費増税はそもそも2年後であり、そのときの経済状況に大きく依存する話である。 もちろん減税をいまの段階で決めることがベストだが、それでも金融緩和政策という経済回復の前提条件を否定してまでやるとすれば、それは単に倒錯した政策スタンスでしかない。つまり何が重要かは、「いまの段階でどんな政策をやるか」そして特に「金融緩和政策への姿勢」こそが問われる。2017年10月、党首討論会を終えた(左から)公明党の山口那津男代表、自民党の安倍晋三首相、日本共産党の志位和夫委員長、希望の党の小池百合子代表、立憲民主党の枝野幸男代表=日本記者クラブ(宮崎瑞穂撮影) その点から評価すれば、自公政権のスタンスは金融緩和政策の継続であり、この経済回復のための前提条件を満たしている。ただし2年後の消費増税を現時点で許容していることで、今後も大きな政策的争点になる。また財政政策については基礎的財政収支(プライマリーバランス)の2020年の黒字化目標を取り下げたため、目前の財政政策の制約がなくなり拡大スタンスを取りやすくなっている。もちろん取りやすくなっただけで実際にデフレ脱却のために財政政策も積極的にやるかどうかは厳しく今後も検証すべきだろう。少なくとも衆院選後の補正予算の構築が大きな経済政策上のテーマになる。一番の争点はやっぱりこれだ さて、対する与党の最大ライバルである希望の党、立憲民主党は公約を見る限り、現時点の経済政策については、緊縮スタンスと反リフレ政策(デフレ脱却政策の否定)を主にしている。そのためそもそもの経済回復の前提条件を満たす政策を、この両党は提起しえないでいる。せいぜい2年後の消費税を凍結するといっているだけだ。つまり、これから2年間は緊縮政策とリフレ政策の見直しを続けると明言しているのである。 確かに2年たてば「凍結」せざるをえないかもしれない。ただし、日本経済がどうにもならない危機的状況になっていて、政治的に「凍結」しないとその時の政権が持たなくなるからだ。その意味では、希望の党も立憲民主党もともに危機的な政党といえる。ちなみに各党の経済政策についての評価は、エコノミストの安達誠司氏とネット放送で徹底的に議論したのでそれを参照していただきたい。 以上書いた理由から、消費増税vs消費税凍結というのはニセの論点であり、むしろ経済政策全体をみていく必要がある。この常識的な観点が、マスコミの問題設定に誘導されるとみえなくなるおそれがあるだろう。 さらに投開票日が差し迫った選挙の論点は経済問題だけではない。やはり「北朝鮮リスク」こそが選挙で問われる本当のテーマであったろう。この点についてはあまり議論が盛り上がっていないというのが率直なところだ。だが北朝鮮リスクが今後、高まることはあれ低くなることがない情勢である。2017年10月9日、平壌駅前に設置された朝鮮労働党創建記念日の飾り(共同) 端的にいえば北朝鮮リスクが戦争状態にまでなるのか、それとも北朝鮮の政治体制の大きな変更になるのか、その選択になっている状況といえるかもしれない。そのときに日本はどのような状況におかれるのか。さまざまなシナリオが具体的に考えなければいけない局面だろう。例えば、難民問題をどうとらえるのか、国連軍が立ち上がったときに日本はどう関与するのかしないのか。北朝鮮リスクを客観的に考えることは今後ともに極めて重要になるだろう。

  • Thumbnail

    記事

    「NHKスペシャル」が象徴するジャーナリズムの劣化

    和田政宗(参議院議員、元NHKアナウンサー)(青林堂『日本の真実50問50答』より)Q日本のメディアは偏向しているのか? 私自身がメディアに在籍していた人間ですが、これは「どちらともいえない」というのが正直なところです。事実に基づいて公平・公正を欠くことなく中立な記事を書く社もありますし、事実をカットしたり、部分的に強調したり隠したりして都合のいい記事に仕立てたりする社もあります。いろいろなメディアがありますから、そこは情報を受け取る側にも見きわめが必要でしょう。 新聞でもテレビでも、報道に携わるジャーナリストは視聴者の目であり耳であるはずです。自分が取材して見たこと、聞いたことについて裏付けをとり、事実としてありのままに伝えることが本来の姿です。ところがそれができない、あるいは意図的にしない記者が増えている印象があり、私自身は大いに危機感を感じています。 平和安全法制…いわゆる安保法制が国民の大きな関心事になっていた頃、国会前では連日のように反対派による抗議運動が行われていました。朝から夜遅くまで大声を上げていた彼らの行動について、苦言を呈したことがあります。国会前で安保法案反対を訴え、声を上げる「SEALDs」の奥田愛基氏=2015年8月 「日本は民主主義がきわめて進んだ国で、こうしたデモも認められており、それを国会は許容しなくてはならない。でも夜遅くまでやっていると、近隣住民の方々には迷惑なんじゃないか」 次に別の話題として─「話は変わりますが」という言葉は挟みませんでしたが、「中国ではチベット・ウイグルの人々が銃で惨殺されている。とんでもないことが起こっている」という話をしました。 ところがこの私のコメントを毎日新聞の青木という記者が拾い上げ、都合良く切り貼りをして「和田がデモ隊に発砲しろと言った」という話にしたてたのです。実にとんでもない話です。 この記事は紙面よりも前に電子版に掲載されました。するとこれを見た日刊スポーツの政治担当の記者が「こんな記事では、和田さんの真意が伝わらない」と、私のコメントを全文に近い形でネット版に掲載してくれました。 沖縄の基地問題に関しては、沖縄タイムズが私のブログを転載引用して、取材もせずに記事にした、ということがありました。私がいたNHKでこんなことをしようものなら、担当記者は首が飛ぶでしょう。 このように、偏向しているかどうか、あるいはまともな取材記事を書いているかどうかは、記者個人の資質によっても左右されます。自浄作用が働く場合もありますから、いちがいに何ともいえません。ですがここで挙げた例のようにジャーナリストの質の低下は確実に起こっており、それがさらに加速していくことに私は危惧を感じているのです。そしてそれは、ジャーナリストとして以前に、過去に受けてきた教育の影響が色濃いと思っています。 別の項目でもお話ししましたが、私が育った地域というのは、ずいぶんと左寄りの教育が行われていました。国旗国歌をないがしろにするような、左へ向かう刷り込み教育が行われていたのです。それでいて、具体的な政治の話はタブーでした。 政治のことは、それを専門にしている政治家や学者がいるのだから、一般市民は考えなくても良い。それに素人が政治を考えたところで、何か変わるものでもない。専門家に任せておけば大丈夫なのだ…。 とにかく政治から遠ざけようとしていたのだな、ということは大人になってから判ることです。このような教育を受け続けていれば、政治というものに対して鈍感になっていきます。大学で法学部とか政治学科とかに身を置けば別でしょうが、そうでなければ政治というものをまったく知らない、まっさらな状態で社会に出ていくことになります。そんな人たちがメディアの世界に飛び込んでいくと、どうなるでしょうか。 今の日本では、民間で政治的な活動をしているのは左派の人が多く、あちこちで集会や抗議活動が行われています。そうしたところに取材に出かけ、話を聞いているうちに、知らず知らずに左派思想に染まっていく。そうしたことは現実に起きています。ただ、たとえ思想的に左寄りであったとしても、ジャーナリストである以上、記事にする際には中立の立場で、公平・公正を期さねばなりません。多くの記者たちはそうしているのですが、それができていない者もいる、というのが現状なのです。メディアへの政治圧力はあるのか 外部からの圧力・抗議に弱いということも、メディアの偏向を助長します。これはNHK時代に痛感したことです。NHKは組織として官僚的なところがあり、外部からの抗議が入ると、そうした意見も採り上げないといけない…というバイアスがかかったりするのです。中立の立場で番組を作ろうとはするのですが、左右それぞれの意見を扱うときに「抗議が来るかもしれない」という意識が働き、ついつい左寄りになってしまう、ということもあります。その理由はどうあれ、発信する記事や放送内容に偏りがあってはなりません。これはジャーナリストとして基本中の基本です。 今でも語りぐさになっているのが、NHKスペシャルのシリーズ「JAPANデビュー」の第一回放送です。これは日本の台湾統治を描いたドキュメンタリーなのですが、その内容は「日本の台湾統治は悪そのものだった」という視点から構成された、かなり偏ったものでした。放送当時、私は大阪放送局で見ていたのですが、番組が始まってから5分もしないうちに局内が「これはまずい」とざわつき始めたのを覚えています。 なぜこんな番組ができてしまったのか。制作中にセルフチェックは働かなかったのか。放送前に上司のチェックは通したのか。通したのであれば、なぜそこでスルーしてしまったのか。おそらく、左寄りか台湾について無知のスタッフが集まり、セルフチェックが緩い環境で制作が進み、放送前の上司の確認でも「問題なし」とされてしまったのでしょう。 まさにジャーナリズムの質の低下であるとしかいいようがありません。メディアには権力の監視という機能もありますから、論評などで反政権的な説を掲げることもあります。ですがそれを下支えするのは、地道な取材で得た事実の積み重ねです。そこが欠落したままで、つなぎ合わせの記事や結論ありきの事実をわい曲する記事ばかりを書いていては、日本のジャーナリズムの信頼は墜ちていくばかりです。Q メディアに対する政治圧力は本当にあるのか? たとえば、あるメディアが何らかの政治についてのニュースを流したとします。ところがそのニュースの内容がどうも事実と違う。ニセ情報を掴まされた可能性もある。そこで、私のような政治家でも自分や自身の所属する政党が対象のニュースであればメディアに対して、事実と違うと指摘したり、間違いない事実なのかどうかを確認することがあります。単なる問い合わせなのですが、時としてこれを「圧力」と表現する人たちがいます。東京・渋谷のNHK放送センター ジャーナリズムの独立性には大きな価値があり、それは基本的におびやかしてはならないものです。そして、テレビ・ラジオメディアについては放送法というルールがあり、その枠組みの中で、常に公正な報道を行う義務を負います。まともな政治家ならばそんなことは百も承知ですから、メディアに圧力をかけるなどということはありません。私がNHKに在籍していた頃も、そんな話は聞いたことがありません。 それでも、まれに「政治家から圧力を受けた」「暗黙の圧力を受け続けている」などと言い出す人たちがいます。もし本当に圧力を受けているのなら、そもそもそんな発言ができるはずがありません。また本当に圧力があったのならば、それを記事にして公開することがジャーナリズムの本質でしょう。 「○○○についての報道に関して、××× 議員からこのような圧力を受けた…」と、公開してしまえばいいのです。それもせず、ただ「圧力だ、圧力だ」と騒いでいるばかりで、事実関係もはっきりしない、具体的な内容も公開しない。これでは事実でないことを述べ立てて、騒いでいるようにしか見えません。 こうしたことがジャーナリズムに対する視聴者の信頼の低下につながることがわからないのでしょうか。ジャーナリストは毅然とした態度で、真実をしっかり伝えることに力を注いでほしいと思います。 わだ・まさむね 1974年、東京都生まれ。慶応大卒。1997年にアナウンサーとしてNHKに入局。2013年の参院選でみんなの党(当時)公認で出馬し初当選。著書に『戦後レジームを解き放て! 日本精神を取り戻す!』(青林堂)など多数。

  • Thumbnail

    記事

    朝日新聞はいっそ夏の甲子園を「ビジネス」と割り切った方がいい

    む。そして、さらにそれを破るチームが出れば、そのチームに敬意を払い、チームの中に優秀な選手がいれば、メディアの盛り上げに便乗し、そのチームに関心を抱き、応援する。いつしか決勝戦までたどりつき頂点の闘いを賛美する。 高校野球ではここまでが限界だが、五輪ではそれがさらに国境を超えた友情を表現し、究極的にナショナリズムを超えた人間の調和への信頼が芽生える。2016年8月10日、リオ五輪男子体操総合で金メダルを獲得、銀メダルのウクライナのオレグ・ベルニャエフ(手前)と健闘をたたえあう内村航平(甘利慈撮影) リオ五輪体操個人総合での内村航平の大逆転劇を想起する。内村はトップと0・901点差で迎えた最終種目の鉄棒でパーフェクトな演技を見せ、大逆転を果たす。ここでわれわれは大いに感動し、この「奇跡の逆転」にこの上ない至福を得た。しかし、その思いは、記者会見での「ジャッジがあなたを好きだからではないか」というメディアからの質問で水を差された。冷静に対応した内村だが、この記者に対して金メダルを争った2人の選手が反論する。「ジャッジは公平であり、いつも内村は高得点を得ている」「最後の鉄棒は筆舌に尽くしがたい素晴らしいものであった。彼と競い合えることが喜び」と語ったのである。2人はウクライナと英国の選手である。これを目の当たりにした視聴者が学ぶことは大きい。自国の選手の勝利だけでなく、頂点を目指して努力するアスリートに国境を超えた声援を送るであろう。 ことほど左様に五輪と高校野球の構造は相似しているが、その根本において決定的な違いがある。 五輪にあって高校野球にないものとは何か。「○○ファースト」が流行する昨今、一瞬躊躇(ちゅうちょ)するが、あえて言えば、それは「選手第一主義」である。すべては選手を大切にすることから始まる。なぜなら選手は世界平和構築の使者であるからだ。頂点を目指す闘いの中で、自らを鍛え、「努力する喜び」を知り、「より速く、より高く、より強く」(オリンピックモットー)を目指し、人間の限界に挑む姿を示す。それがあらゆる垣根を越えて、人と人とが結び合える可能性を現実化するという思想である。故にベストパフォーマンスを出せる競技会場、選手村、アクセス、食事などを整えることに精力が傾けられる。なぜ優勝しても表彰台に立てないのか 高校野球の根本原則を担う日本学生野球憲章には、「野球が人間形成の手段であり、友情、連帯、フェアプレーを理念とする」と書かれている。五輪憲章がIOCの使命としている「スポーツを通じた青少年教育奨励とフェアプレー精神の確立」と相通じるものだ。 しかし、五輪でうたうアスリートである球児たちは、高校生であり、教育を受ける者として扱われる。球児は高野連の思いにかなった行動規範に収まる限りで大事にされる。礼儀、全力疾走での守備からベンチへの帰還、諦めないプレーがそれだ。 話は若干それるが、わが子の小学校運動会に行くたび疑問に思うことがあった。五輪に長く携わってきた人間にとって、とても違和感のある光景があった。それは表彰式である。金メダルがないとか、立派な表彰台がないことではない。栄誉を受けるべき児童たちが、校長先生から賞状を受け取るときの形である。校長は高台に立ち、グラウンドレベルにいる児童に賞状を渡すのである。 五輪では表彰台が用意され、その上に上るのはアスリートである。そして、どんな偉いIOC委員でも国際競技連盟(IF)役員でも、もちろんIOC会長でも、IF会長でも下から上の選手にメダルを掛けるのである。アスリートは主催者の上にある。それがスポーツへの信仰であり、敬意なのだ。甲子園の閉会式で優勝旗を渡される優勝校のキャプテンが表彰台に立つことはない。あくまでもグラウンドレベルである。第99回全国高校野球選手権大会の開会式で、優勝旗を返還する作新学院の添田真聖主将=8月8日、甲子園球場 もし、高校野球で主役である選手たちを第一に考えるのであれば、すべての運営方式を変革する必要があるのではないか。まず主催者はベストパフォーマンスを出せる環境づくりに集中すべきだろう。もう100年以上も続いてきた伝統ではあるが、高校野球の新たなスタジアムを考案してもいい。そこがこれから100年の聖地になるようなスタジアムを考えてもいいのではないか。「真夏の風物詩」を無くす必要はない。選手としての球児がその能力を発揮できる環境を作るということである。財源確保こそ五輪に学べ 教育ということに主眼を置くならば、IOCが着手し奏功しているユース五輪の発想で、試合以外で選手が交流できる場を作ることも考えられる。新しいスタジアムには選手村が付属していて、決勝大会にエントリーされた47校(今は49校だが)の選手たちが、大会期間中、プライバシーを守られながら、そこで寝食をともにし、主宰者が設ける文化プログラムや教育セッションに参加できる。あるいは大会終了後の何日かを交流と教育のプログラムに充てることも可能だ。2016年8月21日、リオ五輪閉会式で、五輪旗を持つ東京都の小池百合子知事。中央はIOCのトーマス・バッハ会長(共同) 泥と汗に塗(まみ)れて、白球を追いかけ、負ければ涙で土を持って帰る球児から、高校野球を通じて、知識と技術を学び、野球を楽しみ、心の財産を蓄えて故郷に帰る人材が育っていくのではないか。 スタジアムには最新最高の設備が投入されるだろう。日本学生野球憲章の目的とする「学生野球は、教育の一環であり、平和で民主的な人類社会の形成者として必要な資質を備えた人間の育成」が達成される。 「それにはお金がいくらあっても足りない」と言われるかもしれない。財源確保にこそ、五輪のマーケティング手法を学んで取り入れればいいのではないか。入場券料に頼っている現在の資金調達プログラムを根本から見直せば、早朝から夕刻まで試合を放映しているNHKからは巨額の放映権料を獲得できる。主催である朝日新聞社は後援に回り、大会スポンサーを募ることもできる。考えてみれば、高校野球を主催運営することで、朝日新聞は多くの「利益」を得ているであろう。ならば、高校野球発展のために、朝日新聞からの寄付をいただくのも一考かもしれない。春の選抜大会を主催する毎日新聞社は、夏は後援という立場である。全てのメディアを対象に高校野球教育プログラムにスポンサーシップを募ることもできるだろう。 全国高校野球選手権大会が「各校がそれぞれの教育理念に立って行う教育活動の一環として展開されることを基礎」(日本学生野球憲章より抜粋)とするのであれば、まさに教育に力点を置き、それが高校野球でなければ実現できないということを実践的に表現しなければならない。 五輪のモットーである「より速く、より高く、より強く」は、ラテン語の訳だが、これは比較級を表す。つまり、優勝者になることではなく、自分の限界に挑む志を示すものだ。常に自分の力の限りを尽くして、勝利を目指さなければならない。しかし、勝利を得ればいいのではない。自分の限りを尽くさなければならない。たとえ勝利が得られないとしても、自分の力のより一歩先を目指さなければならない。「勝利至上主義」のように誤解されるこのモットーの真意は、勝利至上主義を超えることなのである。 そして、このモットーを最も心に留めてほしいのは、高野連であり、そして朝日新聞なのだとつくづく思う。

  • Thumbnail

    記事

    朝日新聞 高校野球地方大会のたび購買部数が大幅増

     高校野球の甲子園大会に出場が決まると、高校はかかる費用が莫大なため、金策に走り回る。OBが多く、寄付金が多く集まる高校はまだよいが、歴史の浅い私立高では、出場するたびに学校経営が逼迫する“甲子園貧乏”に陥ることもある。そうした出費を覚悟してでも多くの高校が甲子園を目指すのは、見返りとして膨大な広告効果を期待しているからだ。高校野球 早実対日大三 試合開始前からイチョウ並木までチケットを求める観客の列が続いた=4月27日神宮外苑(撮影・川並温美)「ある九州の私立高校は、定員割れだった入学希望者の倍率が甲子園出場の翌年に4倍に跳ね上がった。さらにOBがプロ野球に進めば、野球部への入部が飛躍的に増える」(スポーツジャーナリスト) 文部科学省によれば、平成27年度の私立高校の授業料などの年間合計金額は約72万円。1学年300人の高校ならば、2億1000万円以上の収入となる。定員割れせず、毎年この収入を確保できるのは「甲子園出場のおかげ」だという高校も少なくないのである。 そうした恩恵を誰よりも受けているのが、夏の大会を主催する高野連(日本高校野球連盟)と朝日新聞である。 昨夏開催された第97回大会の収支決算をみると、入場料収入は約4億4900万円。支出は約3億3900万円で、差し引き約1億1000万円の剰余金が出ている。これを高野連を中心とする委員会で運用する。 この剰余金は全国高校軟式野球選手権大会関係費に500万円、少年野球振興補助金として100万円など、様々な補助金に充てるとされている。高野連関係者は「公益目的以外で使うことができないようにするため基金を設けているが、13億円以上の資産を保有する超優良組織といえる」と明かす。高野連とともに夏の大会を主催する朝日新聞は、拡販ツールとして甲子園を利用する。 地方大会が始まると、地方版の紙面に各高校のメンバー表を掲載するなど、独占的に情報を扱える。試合経過も詳しく報じられるため、高校野球ファンの購買部数が大幅に増えるという。孫が甲子園に出るので購読を始める年配者も少なくなく、地域によっては2割増しになる販売店もあるという。 間もなくプレイボールを迎える夏の甲子園。大金を、いや優勝旗を故郷に持ち返るのはどこの代表校になるのだろうか。関連記事■ 高校野球のお宝展示される甲子園歴史館 現在特別展を開催中■ 地域別にみる高校野球トリビア 鳥取県が日本一を誇るのは?■ 週刊誌「不倫メール」スクープ後に高野連理事の名が消された■ 夏の甲子園 大会通算戦績で最も強い地域は近畿で勝率は.596■ 高校野球で舌禍の“やくざ監督”「喉元過ぎれば熱さ忘れる」

  • Thumbnail

    記事

    「スクープよりも訂正出すな」私が読売記者を辞めた本当の理由

    策が優れている」は、システムの解説でしかない。歴史的な背景にさかのぼって考える必要がある。 戦時中のメディア統制は、いわゆる「一県一紙」による新聞業界の寡占体制を生んだ。1938年から新聞用紙の配給が統制され、1940年から新聞社の統廃合が進んだ。その結果、1938年に848紙あった日刊紙は、4年後の1942年にはわずか54紙に激減した。 一方、経営サイドからすれば、上からの新聞統合は同業他社との過当競争で共倒れになるリスクを避け、経営基盤を安定化させるのに役立った。戦前は朝日、毎日の二強に対し、読売は大きく後塵(こうじん)を拝していたが、1938年には100万部を突破し、徐々に三強体制が築かれていく。 戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は宣伝工作に有利なメディアの寡占体制を温存した。事前検閲に加え、各新聞社が設置した世論調査部門を通じ、米式民主主義を植え付けるために利用した。戦後に受け継がれた新聞業界の寡占体制は、大量発行部数モデルを生むゆがんだ市場の土台を提供した。 現在、日刊紙の数は117種しかない。他の先進国と比較すれば、新聞大国の内実が質の面ではお寒い状況であることに気づく。しかも、五大全国紙が市場の半分を占めている現状は、言論の多様性という点から、大国の栄誉ではなく憂慮と呼ぶのがふさわしい。 報道の自由はメディア間の競争と不可分だ。競争がなければ自由を追求する精神は育たない。メディアの寡占体制は、報道の自由への責任をないがしろにする根本的な病根を抱えている。読売の部数トップは販売戦略 日本の新聞は1950年代から70年代の高度経済成長期、寡占体制を背景に大きな成長を遂げた。各地に販売店を設け、世界で最も完備したきめ細かい宅配購読システムを構築した。印刷、通信技術の向上や交通網の発達もあいまって、日本のどこでも出勤前の朝6時には各家庭に朝刊が届けられる。 これを後押ししたのが当時の一億総中流意識だ。生活レベルも単一化し、各家庭が「お隣が読んでいるなら」と競って新聞を購読した。小中学校でも、新聞記事の論評や社説の書き写しが宿題として出され、大学入試には社説がしばしば使われた。 読売新聞の発行部数は1977年、朝日新聞を抜いて業界トップの720万部に達し、1994年には念願の1000万部を突破した。戦前を含め、社会の流れを機敏に察知し、販売戦略に生かしてきたのが読売新聞である。読売新聞東京本社=東京都千代田区 留意すべきは、記事内容によって発行部数トップになったのではないという点だ。これもまた市場の落とし穴である。 市場にはさまざまな商品が存在するが、販売している者が商品を理解していないケースはほとんどない。だが新聞販売に関して言えば、勧誘員が新聞を熟読し、内容をセールストークとしているという話は聞いたことがない。何が書いてあるかではなく、トイレットペーパーや洗剤などの景品で読者を釣るのである。当時、販売店主が「白紙でも売ってやる」と豪語したエピソードは顕著な例だ。多くの読者もまた、内容を問わず、習慣や景品の多寡で購読契約書にサインすることが常態化した。 では、編集の現場で何が起きたか。大量発行部数を支えるのは、際立った論調ではなく、だれもが受け入れられる均質な内容である。他紙と同じようなことを書いていればそれでよい。こうして、リスクの伴う特ダネよりも、1社だけ記事を落とす「特落ち」を極度に恐れる横並び意識がはびこった。 固定契約による販売と編集の分断は、編集の独立を担保するメリットもある。駅売りで、夕刊タブロイド紙やスポーツ紙のように、内容とかけ離れた派手な見出しをつける必要がない。だが、独立はまた読者との乖離(かいり)を生む。 特ダネは主として社会の不正義や権力による不正を告発する形をとる。メディアの主な存在意義が、知る権利を通じた権力の監視にある以上、それは必然的な結論だ。世界をみても、一大スクープが権力による隠蔽(いんぺい)を暴き、時代変革のきっかけを作った事例は、新聞史上の栄誉として語られている。 裏を返せば、特ダネを重んじない新聞社は、権力チェックの責任をも放棄したことになる。その結果、内にあっては事なかれ主義が、外に対しては権力にすり寄る事大主義が根を下ろす。寡占体制によるなれ合い、読者不在の事なかれ主義と事大主義が、報道機関の使命を有名無実化している構造的な欠陥がうかがえる。ボツにされた「特ダネ」記事 私は27年間、読売新聞に身を置き、2015年6月、「特ダネ記事がボツにされた」ことを理由に辞職した。ボツ扱いされた私の特ダネはその後、月刊誌『文藝春秋』2015年8月号に掲載された。私はそれ以前にも、「安全」を名目にした意味不明な特ダネ執筆禁止令や緊急帰任令を受けた。報道機関としてあるまじき事態だ。私は自分が辞表を書くに至った経緯は拙著『習近平暗殺計画 スクープはなぜ潰されたか』(文藝春秋)で言い尽くしたので、これ以上は触れない。 私は在籍中、編集幹部が「特ダネは書かなくてもいいから、訂正は出すな」と平気で口にしているのを聞いてあぜんとした。こうした後ろ向きの体質は社内全般に行きわたり、記者の手足から頭の中までを縛っている。 失敗を恐れて特ダネを軽視し、特落ちを恐れる体質は、読売新聞に在籍する者であれば、目をふさぎ、耳を閉じない限り、だれもが体感している。それを口外してはならないことも、無意識のうちに自覚している。事なかれ主義が極まり、独裁国家顔負けの情報統制が敷かれているのだ。 世界最大発行部数の裏に、「見ざる聞かざる言わざる」を心得とし、羊の群れのように黙って草を食(は)んでいる光景がある。決して誇張ではない。自由ではなく盲従が、責任ではなく追従が、ジャーナリズムの土台をむしばんでいる。 インターネットの発達により、従来の経営モデルが重大な挑戦を受けている中、改革や革新ではなく、リスクを恐れる事なかれ主義が蔓延(まんえん)しているのは不幸である。と同時に深刻なのが、「共食い現象だ。全体のパイが増えない以上、他社の失策に乗じ、なりふり構わず読者を奪おうとする発想が生まれる。なれ合いの市場はそもそも健全なルールを欠いているため、仁義なき戦いに転ずるのは必然だ。狭隘(きょうあい)な自己都合でそろばんをはじき、強い者には媚び、弱者には鞭打つ事大主義が巣食っている。 顕著な例が、2014年8月、朝日新聞が従軍慰安婦報道や東京電力福島第一原発事故「吉田調書」の誤報で対応に手間取り、社長が辞任に追い込まれた際、読売新聞が行った過剰な批判キャンペーン記事だ。連載記事は「徹底検証 朝日『慰安婦』報道」(中公新書ラクレ)として出版までされた。海外支局にも「有効活用してください」と1冊が送られてきて、私はあきれた記憶がある。朝日新聞東京本社=東京都中央区(本社チャーターヘリから、桐原正道撮影) 日本国憲法は戦前の言論統制の反省から、第21条で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と定める。新聞や雑誌、テレビで構成される日本新聞協会は新聞倫理綱領の中で、「新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである」と明言し、各メディアはこれに準じた独自の報道指針を作っている。もちろん、真実の報道がその核心であることに変わりはない。事なかれ体質が顕著な読売新聞 こうした法制度や自律的な取り組みには、戦時中、政府・軍による厳格な言論統制に対し、新聞各社が当局に迎合し、自主検閲の愚行に陥った反省がある。当時は各社が、当局の検閲方針にかなうよう報道の事前審査部門を社内に設立し、事実上の自主検閲を行った。発刊停止や新聞紙の配給停止による制裁によって、経営が成り立たなくなることを恐れた自己保身の結果である。戦時中、当局の検閲に抵抗し、発刊停止となった新聞は1社もない。委員会で答弁する前川喜平・前文部科学事務次官=2017年7月、国会・参院第1委員会室(斎藤良雄撮影) 時代背景は異なるが、現在の読売新聞における事なかれ体質は、ちょうどこうした自己規制のメカニズムと重なる。経営の保守主義は、報道姿勢、さらには論調の保守主義につながる。その延長線上に、前川喜平・前文部科学事務次官に関する読売新聞の「出会い系バー」報道と、その批判にこたえ、逆に火に油を注いだ社会部長名の釈明記事がある。 権力に迎合し、真実の追求を妨げる報道に加担し、しかも臆面もないその態度は、読者不在の事大主義が凝縮されたものだ。政治の迷走から生まれた安倍首相の独り勝ち現象と、寡占体制下の部数至上主義を堅持する読売新聞の事大主義は、自由や多様性を排除し、不公正な寡占状態を維持する点でつながっている。 ゆがめられた新聞市場が機能不全を起こせば、報道の自由も国民の知る権利も絵に描いた餅でしかない。自由がないがしろにされ、真実が隠蔽された時代の反省から、戦後の日本メディアはスタートした。時計の針を逆戻りさせるような事態に対し、危機感を抱かずにはおられない。 最後に、こうした現状を招いた責任を1人の政治家や新聞社1社に押し付けても、何も変わらないことを注意喚起したい。歴史的経緯を振り返れば、日本の社会全体が反省を迫られていることは明らかだ。 「新聞に書いてある」の殺し文句は、読者の側にも、独立した精神を欠いた事なかれ主義や事大主義が潜在していることを暗示する。いくら読売バッシングをしても、ストレス発散で終わるしかない。読売問題の中に社会の投影を写し見る理性的な思考こそが求められている。 7月12日、61歳で亡くなった中国のノーベル平和賞受賞者、劉暁波氏はこう言い残している。「歴史に対して責任を負うことにおいて最も重要なのは、ただ他人を責めるだけではなく、自己反省をすることである」 この言葉を肝に銘じることが、彼に対する真の弔いとなる。

  • Thumbnail

    記事

    読売新聞が安倍政権の「御用メディア」になってどこが悪い!

    なにかの間違いでないか?」と話題になっている。 新聞協会賞とは、通信、放送を含めたいわゆる旧来のマスメディアが「全体の信用と権威を高めるような活動を推進することを目的として設けられた」(日本新聞協会HPより)もので、その編集部門には各社の代表的なスクープがエントリーされる。 となると、安倍晋三首相に「自民党総裁としての考え方は、相当詳しく読売新聞に書いてありますから、ぜひそれを熟読していただいてもいいのでは」と国会答弁で言われたことで「御用新聞」のレッテルを貼られたことが、読売としては本当に「栄誉」だと考えていることになる。さらに、それによって、マスメディア全体の「信用と権威」を高めることに貢献したと考えていることになるが、それでいいのだろうか。 また、こうした一国の首相のインタビュー記事がスクープに値するのかどうかも疑問だが、読売はこれこそが今年の日本のマスメディアの中で胸を張って自薦できるスクープだと考えていることになるが、それでいいのだろうか。 というわけで、以上2点に絞って「なにかの間違いではないか」という理由を考えてみたい。 まず、御用メディアであるが、これはメディア自身がそのような選択をしなければそうはならない。読売の場合、明らかにそういう選択をして、常に現政権寄り、現政権擁護のための記事づくりをしてきたのは間違いない。 それは、加計学園問題で「総理のご意向」証言をした前川喜平・前文科省事務次官の下半身スキャンダルを報じたことで明らかだ。このスキャンダル記事は、5月22日朝刊の社会面で「前川前次官 出会い系バー通い 文科省在職中、平日夜」と題されて報じられたが、前川氏が実際に「総理のご意向」文書が確実に存在していることを記者会見で証言したのは、なんとそれから3日後の5月25日だった。内閣委員会連合審査会で答弁する前川喜平前文部科学事務次官=7月10日(斎藤良雄撮影) さらに、記事の内容はただのリークで、まったく裏取りをしていないことが、その後の週刊文春記事で暴露されてしまった。この文春記事では、前川氏と3年間で30~40回会ったという「A子さん」ばかりか、「A子さんから前川氏を紹介された女性」、「前川氏とA子さんが通っていたダーツバーの当時の店員」も証言者として登場していた。そして、A子さんやほかの女性たちと前川氏との間に売春、援助交際などがなかったこと、前川氏はお小遣いを渡して生活や就職などの相談に乗っていたことが明らかにされていた。 つまり、読売の「前川記事」は、御用メディアという批判以前に、記事の体を成していないものだった。私もかつてメディアの最前線にいたから、記事を書く場合は、その当事者には必ず直(じか)当たりすることを、上司から厳しく命じられていた。「首相インタビュー」のどこがスクープなのか 「否定されてもいいから直撃しろ。しないで記事を書いてはいかん」と言われたものだ。しかし、あの読売記事は、こうした基本的なことを怠っていた。前川氏本人にさえ当たっていないのである。したがって、その後、この記事が批判されるのは当然だった。 ところが6月3日、読売は紙面で、原口隆則社会部長の「次官時代の不適切な行動 報道すべき公共の関心事」と題する反論コメントを掲載した。原口氏は、記事に対する批判に対して「こうした批判はまったく当たらない」とし「買春を目的とするような客が集まる店に足しげく通っていたのである。我が国の教育行政のトップという公人中の公人の行為として見過ごすことができない」と述べたのだ。 要するに、読売は社会正義のためにこうした報道をしたと言いたかったのだろうが、問題はそこにあるのではない。 では次に「御用新聞」としての「名声」を高めた「首相インタビュー」記事についてみてみよう。これのどこがスクープなのだろうか。加計学園問題・閉会中審査で挙手する安倍晋三首相=7月24日(斎藤良雄撮影) 安倍首相にとって、憲法改正は悲願であるから、これを明言することはなにも目新しいことではない。すでにビデオメッセージも出すことになっていたのだから、ほぼそれと同内容の記事がメッセージ公開より早く出たからといって、なにか特別な意義があるのだろうか? かつて私は、スクープには2種類あると教えられた。一つは「抜きスクープ」。他メディアを出し抜いて先に報道することで、これはやがて明らかになることを、ただいち早く報道しただけにすぎない。つまり、取材先とベッタリになれば、やがて向こうから恩着せがましくネタを振ってくる。 もう一つは、いわゆる「特ダネ」で、これはそれまで誰も知らなかった事実を初めて報道することだ。スクープは「掘る」という意味だが、掘って新事実を発掘したということで、スクープといえば、やはりこちらの方がはるかに価値がある。 しかし、読売が新聞協会賞に応募した「首相インタビュー」は、このどちらにも当たらないだろう。 このように、読売が「御用メディア」と化してしまったので、新聞をはじめとする既存マスメディアへの批判が高まっている。マスメディアは偏向し、信用できないというのだ。識者の中には、こうした状況を憂い高邁(こうまい)なジャーナリズム論をぶつ方々が本当に多い。 しかし、現在の日本のメディア空間は、そんなに嘆かわしいことになっているだろうか。ネット民たちが言うように、マスコミは「マスゴミ」に成り下がってしまっただろうか。 私はそうは思わない。むしろ、いまのメディアの状況は、かつて私が経験してきた、既存マスメディアだけの時代より、はるかによくなっていると思う。 ネットに関して言えば、サヨク、ネトウヨなどは別として、多数のネットメディア、フェイクニュース、拡散ボット、ブログ、そしてSNSとなんでもあるので、これらがマスメディアを補完し、リテラシーさえあれば、この海の中から「事実」「真実」にたどり着くことができる。メディアが偏向してどこが悪い ネットが進展して、新聞をはじめとする既存メディアは大きく変わってしまった。昔は、メディアとジャーナリズムは同義で、それは近代民主国家の成立とほぼ同時にスタートしたから、メディアは民衆側に立って権力を監視するという役目を担っていた。 「言論の自由」(フリーダム・オブ・スピーチ)が、これを支えてきた。ただし、これは訓練されたジャーナリストというプロの仕事だったので、彼らは使命感を持って、この仕事に取り組んできた。  しかし、いまやネットでは誰でも情報発信ができる。誰もが「言論の自由」の恩恵のもとに、真実や事実と関係なく、言いたい放題言えるし、右だろうと左だろうと、ヘイトスピーチだろうとおかまいなしにアップ、拡散できる。最近では人工知能(AI)が発達し、人間ではないツイッターボットなどが、嘘か本当かわからないことを拡散している。 こんな自由なメディア空間が出現したことは、かつてなかった。こうなると、既存マスメディアも変わらざるをえない。「権力監視」「中立報道」「不偏不党」などということは言っていられなくなった。「加計学園」問題を報じる新聞各紙の7月26日付朝刊=7月26日(山田哲司撮影) 古代ローマの時代、シーザーが言った「多くの人は見たいと欲することしか見ない」が真実なら、これを実践するしかなくなった。既存マスメディアも、右なら右、左なら左と、はっきりと自分自身を色分けするようになったのである。 したがって、読売が御用メディアに徹するという姿勢は間違っていない。産経が常に保守、右の言論をリードしてきたように、読売がそれをやれば、ライバルの朝日との違いははっきりするので、やらない手はない。朝日は、リベラルと反日をやりすぎて、ついに慰安婦のような妄想、捏造(ねつぞう)記事をつくってしまった。それに比べれば、読売の与党リークの記事はたいした問題ではない。 世の中の多くの人間は、自分の頭で物事を考えることを嫌う。パンとサーカスがある限り「お上」などどうでもいいのである。そもそも、この世の中に完全な中立などないのだから、メディアが偏向してどこが悪いのだろうか。 これまで、日本のメディアの論法はどこも同じ、五十歩百歩だった。例えば、政権に対するスタンス、論調ということで見ていくと、どの新聞もほとんど同じで、次のような表現であふれていた。 重要法案の審議--------時間をとって論を尽くせ 重要法案で与野党妥協-----法案は骨抜きだ 重要法案の与党単独可決----強行採決だ、独裁だ 官僚に任せる---------丸投げではないか 官邸主導で進める-------独裁では、一強の弊害だ 首相の決断先送り-------決められない政治 首相の決断----------なぜ急ぐ、もっと慎重に 支持率上昇----------人気取りの政策が多い  支持率下落----------国民の声に耳を傾けよ  これでは、記事は定型化し、ロボットでも記事が書けてしまう。ところが最近は違ってきた。産経、読売ははっきりと右となり、朝日、毎日は以前に増して左となった。日経は政権批判をせず、東京は徹底して政権批判をしている。マスゴミ度ランキングを作ってほしい こうなると、例えば次のようなランキングをつくって、各紙の立ち位置をマトリックスにできるのだから、読者にとってはありがたい。 御用メディア度ランキング、マスゴミ度ランキング、スクープ度ランキング、偏向度ランキング(右、左)、誤報ランキング(誤報率)、フェイク度ランキング、発表もの記事率、スクープ(特ダネ)比率、月間訂正記事数ランキング-etc. 私としては誰かが、上記のような項目をつくり、それを指数化してくれることを願っている。そうすれば、メディアを「食べログ」のように指数化、評価し、好きなメディアを思い切り楽しめるだろう。  ドナルド・トランプ米大統領は、いまもなお世界のメディアをうそつき呼ばわりしている。彼にとっては、自分のツイッター以外はみなフェイクニュースである。米CNNテレビのロゴが重ねられた人物をドナルド・トランプ米大統領が殴りつける映像=7月2日(本人のツイッターから) 「国民はもう誰もメディアを信用していない」とツイートし、米CNNやワシントン・ポストを「フェイクニュース」と宿敵扱いし、英BBCは「ふざけたメディア」と罵倒している。ならば、日本の読売や朝日もぜひ仲間に入れてほしいが、残念ながら、彼は日本などに興味はない。 もはや、なにが真実で、なにが嘘かメディアではわからなくなってしまったこの時代、最後に新聞などの既存マスメディアにお願いしたいことがある。右や左と論調が傾くのはけっこうだが、一つだけ守ってほしいことがある。 それは、やはり事実を徹底究明してほしいということだ。ネットメディアやブログ、SNSでは、プロとしての教育も受けず経験もない書き手が、書きたい放題書きまくり、政治勢力のつくったボットが大量にフェイクニュースを拡散しているのだから、なおさらプロの腕を見せて事実報道に徹してほしい。 既存メディアの記者たちは世界中同じで、腕に「プレス」という腕章を巻いて現場に出かけている。もちろん、腕章なしの潜伏取材も多い。この「プレス」は「フリーダム・オブ・プレス」のプレスだ。このプレスに誇りを持ってほしい。 「フリーダム・オブ・プレス」を支えるのは、公正や正義である。これを持って事実を明らかにしてほしい。「右か左か」「保守化かリベラルか」「政権寄りか反政権か」などどうでもいい。人は「見たいと欲することしか見ない」というが、本当に見たい、知りたいのは「事実」だけである。

  • Thumbnail

    テーマ

    読売新聞よ、このままでいいのか

    正を明言した安倍首相インタビューを今年の新聞協会賞に応募していたことが明らかになり、ネットでは「忖度メディア」との批判も飛び交う。世界最大の発行部数を誇る大新聞に何が起こっているのか。

  • Thumbnail

    記事

    新聞協会賞に「首相インタビュー」読売のスクープ応募がみっともない

    安倍宏行(Japan In-depth編集長) 「忖度(そんたく)」メディアなんて、とんでもない名前を頂戴したものだ。読売新聞さんのこと。5月22日の「前川前文科次官 出会い系バー通い」報道がそれだ。「中曽根康弘先生の白寿を祝う会」で談笑する安倍晋三首相(右)と発起人の渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆=5月15日(宮川浩和撮影) タブロイド紙でもあるまいし、目を疑った読者も多かったろう。安倍政権が連日加計学園問題で野党から責め立てられていた時期である。官邸の意向を忖度して書いたとみられても仕方ないではないか。 そもそも放送法の縛りがない新聞は、その論調が右か左かはっきりしている。朝日新聞と産経新聞が真逆にいるのは誰でも知っていることだし、読売新聞が保守寄りであることに誰も異論はないだろう。しかし、今の読売新聞はあまりに政権寄りではないか、と首をかしげざるを得ない。その理由の一つが前川喜平前文科次官の「出会い系バー通い」報道なのだ。 確かに官僚、それも文科省の前トップが、いくら社会勉強だからといって頻繁にそうした店に通うことに違和感を覚える人は多かろう。しかし、それと加計学園問題とは別だ。誰が見ても前川氏に対する人格攻撃に見える。 人格攻撃とは、相手をおとしめるために相手のあらを探して行われることが多い。もし、それをやれば、人格攻撃をした方に何か後ろめたいことがあるのではないか、と痛くもない腹を探られるから、普通はやらない。それでも、なおかつそうした手法を取るということは、相手を消し去りたいくらいの「何か」があるのではないか、と勘繰られて当然だ。だからこうした「怪文書」的な手法はもろ刃の剣といえる。慎重に扱うべきであることは言をまたない。 「出会い系バー通い」報道で、報道する価値があるとすれば、そこに犯罪性があったかどうか、その1点に尽きる。しかし、結局犯罪性は出てこなかった。読売新聞は、政権に忖度して報道した、とみられても仕方がない。 それどころか、前川氏が会っていた複数の女性から、就職や家庭の問題で相談に乗ってもらってよかったなどという証言が週刊誌で報道されるに至り、前川氏に対する印象操作は全く裏目に出てしまった。あの忖度報道は一体何だったのか。ちゃんと裏を取って書いたのか、と疑われても仕方がない。だからこそ慎重に扱うべきであった。政権の足を引っ張ることになっていることに気付かないのか。「忖度」だけじゃない、もう一つの問題報道 さらに、読売新聞は憲法記念日にあたる2017年5月3日朝刊1面に「憲法改正2020年施行 9条に自衛隊明記 安倍首相インタビュー」を掲載した。これをもって同新聞は新聞協会賞に応募しているという。 安倍首相は5月8日の予算委員会で、民進党の長妻昭衆議院議員から改憲に関する真意を問いただされると「自民党総裁としての考え方は、相当詳しく読売新聞に書いてありますから、ぜひそれを熟読していただいてもいいんだろう(と思う)」と発言した。ここでも読売新聞は安倍自民党総裁の意向を忖度して記事を書いた、との印象を強く国民に与えたことになった。一国の権力者の意向をそのまま記事にして掲載することを読者は「スクープ」と捉えるだろうか。 政権のメディアへの介入や干渉が取り沙汰されて久しいが、だからこそ少しでも読者に疑われるような報道は慎重に扱わねばならない。身を律して慎重の上にも慎重を期すことが重要だ。さもないと御用新聞とのレッテルを貼られることになりかねない。それは新聞の死を意味するのではないか? 一方で政権打倒に血道を上げるような報道にも国民は辟易(へきえき)している。森友学園問題にしろ、加計学園問題にしろ、結局のところ何が問題だったのか、よくわからないというのが正直なところだろう。些末(さまつ)な報道に終始し、問題の本質を掘り下げる報道がなされたとは言い難い。 「忖度」報道以外にもう一つ問題報道がある。それが「印象操作」報道である。東京都議選の最終日、秋葉原で安倍氏が候補者応援演説を行っていた最中に起きた「安倍辞めろ」コールと安倍氏の「こんな人たちに負けるわけにはいかない」発言報道も私はバランスを欠いていたと思っている。7月1日、都議選の自民党候補の街頭演説会場で、「安倍やめろ!」と書かれた横断幕を掲げる人たち=東京・秋葉原 現場にいた人間なら誰でもわかるが、当初は「安倍、安倍」と安倍氏への応援コールしか聞こえなかったのだ。それが、安倍氏が演説を始めると一部の集団が一斉に「安倍辞めろ」コールを始めたのが実際だ。全体からしたら10分の1にも満たない人数の集団だった。その集団はどういう団体が組織したものなのかという検証は大手メディアでは全くなされなかった。それを詳細に報じたのは実はネットメディアであった。微に入り細をうがって、どのようなメンバーが含まれていて彼らが過去どのような活動に参加していたか、まで詳しく調べ上げていた。ユーザーから常にチェックを受ける既存メディア この例でわかるとおり、ネットメディアの台頭とSNSで情報の拡散が容易になったことにより、既存大手メディアの記事は絶えず一般読者から検証されている。それに気付いていないとしたら既存メディアは相当危機的な状況にあると言わざるを得ない。6月20日、築地市場の豊洲移転問題で会見する小池百合子都知事(桐原正道撮影) 豊洲市場問題で、フジテレビの報道番組「新報道2001」は市場の柱が大きく傾いている、と報じたが、ネットメディアからそれはカメラの「広角パース(ゆがみ)」によるものでは、との指摘を受けると同時に、写真の加工疑惑まで報じられ、結局フジテレビは訂正に追い込まれた。どちらの例も、大手メディアがどこまで意図的だったかはわからないが、結果として「印象操作」に加担したことになってしまう危険をはらんでいる。 これまで既存メディアが独占してきた報道は、今や全ての読者、視聴者によって絶えずファクトチェックされる時代に突入した。既存メディアはこれまで以上に慎重に裏取りを行い、そうした検証に堪えうる報道をしなければならない。 何が問題の本質か、掘り下げた報道が足りないと感じている人は多いのではないか。「忖度」報道も「印象操作」報道も、国民のメディアに対する信頼を毀損(きそん)すると同時に、国民をミスリードしかねない、という二重の意味において罪は重い。 メディアは、権力に「忖度」したり、「印象操作」をしたりするのではなく、読者・視聴者の真の報道を求める気持ちにこそ「忖度」すべきであろう。さもなければ、既存メディアがネットメディアに取って代わられてもおかしくない。すでに去年あたりから大手新聞社から若手の優秀な記者がネットメディアに続々転職している。中には完全寄付方式の調査報道メディア「ワセダクロニクル」を立ち上げた朝日新聞出身の渡辺周編集長のような人物まで出始めた。これで危機感を抱かなければもはや新聞・テレビの明日はない。

  • Thumbnail

    記事

    日本の新聞記者はいつから「倒閣ビラの活動家」になったのか

    見せつづけた。 しかし、これらの「ファクト(事実)」とは一体、何だったのだろうか。事実にこだわるべきメディアが、「主義・主張(イデオロギー)」、それも、「安倍内閣打倒」という目的に向かって、報じるべきファクトを報じず、国民を一定の方向に導くべく狂奔した毎日だった。 嬉々として、これをつづける記者たちの姿を見て、「ああ、日本の新聞記者はここまで堕ちたのか」と失望し、同時に納得した。 私は今週、やっと新刊の『奇跡の歌 戦争と望郷とペギー葉山』(小学館)を上梓した。締切に追われ、ここしばらくブログを更新することもできなかった。しかし、産経新聞に〈新聞に喝!〉を連載している関係上、毎日、新聞全紙に目を通してきた。 私は今、来年に刊行する政治がらみのノンフィクション作品のために、かつての大物政治家たちの「回想録」や「証言集」を読み始めている。そこには、多くの新聞記者が登場してくる。大物政治家たちは、彼ら新聞記者の「見識」を重んじ、新聞記者に意見を求め、自分が判断する時や、大きな決断が必要な際に、大いに参考にしている。そのことが、大物政治家たちの証言集の中に随所に出て来るのである。 しかし、今の新聞記者にそんなことは望むべくもない。記者がどこまでも追及しなければならないファクトを置き去りにし、「政権に打撃を与えることだけ」が目的の報道を延々とつづけているからである。 会ったこともないのに、天皇や安倍首相が幼稚園を訪問したというデタラメをホームページに掲載し、ありもしない「関係」を吹聴して商売に利用してきた経営者による「森友問題」は、国会の証人喚問にまで発展した末、安倍首相の便宜供与という具体的な事実は、ついに出てこなかった。 問題となった森友学園の土地は、伊丹空港への航空機の侵入路の真下に位置している。かつて「大阪空港騒音訴訟」の現場となったいわくつきの土地である。「騒音」と建物の「高さ制限」という悪条件によって、国はあの土地を「誰か」に買って欲しくて仕方がなかった経緯がある。 そのために、破格の条件でこれらの土地を売却していった。現在の豊中給食センターになっている土地には、補助金をはじめ、さまざまな援助がおこなわれ、“実質的”には100%の値引きとなっている。都合の悪い「ファクト」は報じない また、森友学園と道ひとつ隔てた現在の野田中央公園となっている土地にも、いろいろな援助がおこなわれ、“実質”98・5%の値引きが実現している。それだけ、国はこのいわくつきの土地を「手放したかった」のである。学校法人「森友学園」が小学校用地として取得した大阪府豊中市の国有地=7月27日 森友学園には、地中に埋まっているごみ処理費用としての値引きをおこなって、実質86%まで値下げをおこなった。しかし、前者の二つの土地に比べれば、実質的な値引きは、まだまだ「足らなかった」と言える。これは、新聞をはじめ、マスコミならすべて知っている事実だ。 だが、新聞は、この土地の特殊な事情や、ほかの二つの土地のことに「全く触れず」に、ひたすら安倍首相が「関係の深い森友学園の経営者・籠池氏のために破格の値引きをおこなった」という大キャンペーンをくり広げた。 そして、証拠が出てこないことがわかるや、今度は「忖度」という言葉までひねり出して「疑惑」を継続報道した。国民に不信感を抱(いだ)かせる抽象的なことは書くが、それに都合の悪い「ファクト」は、いっさい報じなかったのである。 加計問題も、図式は同じだ。12年前の小泉政権時代の構造改革特区時代から今治市の民主党(当時)県議の働きかけによって、加計学園は獣医学部新設に動き始めた。だが、新聞はそのことには、いっさい触れず、加計学園は、安倍首相の友人が理事長を務めており、「加計学園に便宜をはかるため」に、「国家戦略特区がつくられ」、獣医学部の「新設が認められた」とされる疑惑をつくり上げた。 森友問題と同じく、ここにも、「憶測」と一定の政治的な「意図」が先行した。そこに登場したのが、天下り問題で辞任した文科省の前川喜平前事務次官である。前川氏は、「行政が歪められた」という告発をおこなったが、抽象論ばかりで具体的な指摘はなく、文科省内の「総理のご意向」や「官邸の最高レベルが言っている」という文言が記された内部文書がその“根拠”とされた。 しかし、現実には、公開されている国家戦略特区の諮問会議議事録でも、文科官僚は獣医学部の新設が「必要ない」という理由を何も述べられなかったことが明らかになっている。そして、いわば「議論に敗れた」ことに対して、文科省内部での上司への弁明の文書ともいうべきものが、あたかも「事実」であるかのように報道され、テレビのワイドショーがこれに丸乗りした。 これらの報道の特徴は、ファクトがないまま「疑惑は深まった」「首相の関与濃厚に」という抽象的な言葉を並べ、国民の不信感を煽ることを目的としていたことである。 ここでも都合の悪い情報は報道から除外された。前述の加計学園が12年も前から手を挙げていて、それが今治選出の県議と加計学園の事務局長が友達だったことからスタートしていたことも、国会閉会中審査に登場した“当事者”の加戸守行・愛媛県前知事によって詳細に証言された。 愛媛県が、鳥インフルエンザやBSE、口蹄疫問題等、公務員獣医師の不足から四国への獣医学部の新設を要請し続けたが、岩盤規制に跳ね返され、やっと国家戦略特区によって「歪められた行政が正された」と語る加戸前知事の証言は具体的で、文科省の後輩でもある前川氏を窘(たしな)める説得力のあるものだった。 しかし、多くの新聞は、ここでもこの重要な加戸証言を黙殺した。自分たちがつくり上げた疑惑が、虚構であることが明らかになってしまうからである。新聞は、前川氏の証言だけを取り上げ、逆に「疑惑は深まった」と主張した。 ついに稲田防衛相の辞任につながった南スーダンの日報に関する報道も、「隠ぺいに加担した稲田防衛大臣」という一方的なイメージをつくり上げた。自衛隊の南スーダンの派遣施設隊の日報は、今年「2月6日」には存在が明らかになり、新聞各紙も防衛省の公表によって、「2月7日付夕刊」から大報道していた。「活動家」になり果てた記者 黒塗りの機密部分もあったものの、日報は公開され、国民はそのことをすでに知っていた。それから1週間後の「2月15日」に防衛省で開かれた会議で、日報を隠蔽することなどは当然できない。しかし、新聞をはじめ、ほとんどのマスコミは、すでに日報が公表されていた事実にいっさい触れず、あたかも「すべてが隠蔽された」という印象報道をおこなったのである。南スーダンPKO派遣部隊の日報=2月 事実を報じ、その上で、批判をおこなうのがジャーナリズムの使命であり、責任であることは言うまでもない。しかし、哀しいことに日本の新聞記者は、いつの間にか「政治運動体の活動家」になり果ててしまったのだ。 外交評論家の岡本行夫氏が、朝日新聞の慰安婦報道をめぐる朝日社内の「第三者委員会」の委員となり、2014年暮れに発表された報告書に記したこんな文章がある。〈当委員会のヒアリングを含め、何人もの朝日社員から「角度をつける」という言葉を聞いた。「事実を伝えるだけでは報道にならない、朝日新聞としての方向性をつけて、初めて見出しがつく」と。事実だけでは記事にならないという認識に驚いた。 だから、出来事には朝日新聞の方向性に沿うように「角度」がつけられて報道される。慰安婦問題だけではない。原発、防衛・日米安保、集団的自衛権、秘密保護、増税、等々。 方向性に合わせるためにはつまみ食いも行われる。(例えば、福島第一原発吉田調書の報道のように)。なんの問題もない事案でも、あたかも大問題であるように書かれたりもする。 新聞社に不偏不党になれと説くつもりはない。しかし、根拠薄弱な記事や、「火のないところに煙を立てる」行為は許されまい。ほかにも「角度」をつけ過ぎて事実を正確に伝えない多くの記事がある。再出発のために深く考え直してもらいたい。新聞社は運動体ではない(一部略)〉 明確に岡本氏は、「新聞社は運動体ではない」と述べていたが、残念ながら、新聞の実態はますます悪化し、いまや「政治運動体」そのものと化し、もはや、“倒閣運動のビラ”というレベルにまで堕ちているのである。 メディアリテラシーという言葉がある。リテラシーというのは「読み書き」の能力のことで、すなわち「読む力」と「書く力」を表わす。情報を決して鵜呑みにはせず、その背後にどんな意図があり、どう流されているものであるのかまで、「自分自身で判断する能力」のことをメディアリテラシーというのである。 新聞を筆頭とする日本のマスコミがここまで堕落した以上、日本人に問われているのは、このメディアリテラシーの力であることは疑いない。幸いに、ネットの発達によって玉石混淆とはいえ、さまざまな「ファクト」と「論評」に人々は直接、触れることができる。 どうしても新聞を読みたい向きには、政治運動体の機関紙と割り切って購読するか、あるいは、真実の情報はネットで仕入れた上で、その新聞の“煽り方”を見極め、これを楽しむ意味で読むことをお勧めしたい。(「門田隆将オフィシャルサイト」より2017年7月30日分を転載)

  • Thumbnail

    記事

    出会い系報道に前川氏「クオリティ紙・読売が書くとは…」

     獣医学部の新設で安倍晋三首相の意向が働いたのではないかという“加計学園疑惑”。そのキーマンである前川喜平・前文部科学事務次官について、読売新聞は5月22日、「前川前次官 出会い系バー通い」と報じた。 前川氏は読売報道から3日後となる25日付の朝日新聞朝刊と同日発売の『週刊文春』でインタビューに応じ、〈総理のご意向〉文書が実際に文科省内でやり取りされたものであることを認め、その日のうちに会見も開いた。5月25日、記者会見を終え、汗をぬぐいながら席を立つ前川喜平前文科事務次官(右)(福島範和撮影) 一方、同日午前の官房長官会見で菅義偉氏は、前川インタビューの内容を受けた上で、文書について「文科省が行なった調査で存在は確認できなかった」と従来の見解を繰り返した。さらに前川氏の辞任経緯について、「当初は責任者として辞意も示さず地位に恋々としがみついていたが、世論の批判に晒され、最終的に辞任された」と厳しく非難し、その言葉を各紙が報じた。“絶妙なタイミング”でのネガティブ報道や官房長官の非難を受けてなお、実名証言に踏み切った心中を前川氏はこう語った。「私はもう誰にも監督されていないし、天下りもしていない。生まれて初めて自由になった気持ちで振り返ったとき、現職中にかかわった仕事で、『これはおかしい』と思いながら行政がねじ曲げられるのを黙認してしまった反省がある。それを国民は知る権利があると考えた。処分された逆恨み? 天下り問題はひとえに文科省が悪かった。私が責任を取って辞めるのは当然、恨んでなどいるはずがありません」 前川氏は自らに対するネガティブ報道がこの時期に相次いだことをどう受け止めたのか。本誌のインタビューはその点に踏み込んだ。──出会い系バーに通ったという報道は事実か。「行ったのは事実です。だけど買春も、ましてや未成年との淫行もしていない。彼女たちに食事をおごって身の上を聞いた。家庭内の虐待で中学生の頃に家出し、友人と住所不定の生活をしている子がいました。そのバーで男を捕まえたら一晩過ごし、お金ができればネットカフェに泊まる。ああいうところに流れ着く子を見て、学び直しを経済的にサポートする仕組みが必要だと思い知りました。別の女性の話からは通信制高校の実態も知ることができた」読売報道を官邸の圧力と感じたか?──読売は「前川氏は取材に応じなかった」と。「メールで質問は来ましたが、答えてもちゃんと報じないだろうと思って答えませんでした。読売の記事に『値段の交渉をしていた女の子もいる』と話す女性のコメントが出ていますが、そんな記憶はありません」──読売報道を官邸の圧力と感じたか。「正直、取材のメールが来てもあの読売新聞が実際にこんなことを書くとは考えていなかった。日本を代表するクオリティ紙ですよ。しかも、書いてしまったら威嚇にならない。実際に記事が出た時には、やはり当惑しました」(読売新聞グループ本社広報部は買春バー通い報道と〈総理のご意向〉文書の関係について「記事掲載の経緯についてはお答えしていません」と回答)。 核心の加計疑惑に質問が及ぶと、中立公正であるべき行政が歪められたという思いを口にする。「一番おかしいのはこの規制緩和に『確たる根拠』がないことです。文科省が大学設置認可権という国民から与えられている権限を行使し、私大の新学部が設置されれば、税金から私学助成金が出て、国民負担が発生する。獣医師は現状で足りているとされているので、文科省の認可基準で獣医学部は一般的に『設置不可』となっています。 特例を設けるのなら、確たる根拠が必要ですから、新たな分野でどういう人材需要があるのかという『需給見通し』を具体的に明らかにするためにも、農水省や厚労省抜きでは決められないと主張した。 だが、規制改革の所管省庁である内閣府は『トップダウンで決めるからそれに従え』というスタンスで、獣医学部新設のためにクリアすべきと定めた条件(2015年6月閣議決定)を満たしているのか、明らかにしようともしませんでした。安倍首相が議長の国家戦略特区諮問会議で決定するから、文科省は責任を負う必要がないという姿勢です」(前川氏) その経緯が残されたのが、〈総理のご意向〉文書だったわけだ。「文科省専門教育課の課長が内閣府に足を運んだとき、地方創生推進事務局の審議官からいわれた言葉です。(内閣府の側は否定しているが)私は自分の部下の報告を100%信じている」 前川氏はそう言葉を継いだ。関連記事■ 前川前文科次官 出会い系バー通いを官房副長官が注意してた■ ムロツヨシ 本名が明かせない理由と猫が飼えない理由■ 皇族の買い物事情 百貨店の外商が主流、Amazonもご利用■ 菊川怜 明かされる夫の過去に「知りたくなかった」と脱力感■ AKB最終候補者が出会い喫茶に潜入 露骨な交渉の一部始終

  • Thumbnail

    記事

    メディア、安倍政権に取り込まれ不利な情報は流さぬ状況に

    法改正論をめぐる安倍晋三・首相の答弁は野党から「国会軽視」との批判を浴びた。だが、この発言は政権と大メディアとの関係の変質を示唆するある種の「予告」だったのではないか。自民党の若手議員がこう驚いている。5月8日、衆院予算委の集中審議で、質問に答弁する安倍晋三首相(斎藤良雄撮影)「総理のいうように読売新聞を熟読することにした。すると2週間後(5月22日)に社会面に前川喜平・前文部科学事務次官の(出会い系バーに出入り)記事が出た。ああ、あの言葉には深い意味があったんだと感じた」 牽強付会な見方とは言い切れない。「憲法9条改正」の具体案を語った安倍首相の憲法インタビューは渡辺恒雄・読売新聞グループ本社主筆と会食した2日後(4月26日)に行なわれ、憲法記念日に読売が1紙独占で報じた。その読売紙面に前川氏の出会い系バー通いが掲載されたのだ。 服部孝章・立教大学名誉教授(メディア法)はそこに権力とメディアとの関係の大きな変化があると見る。「安倍首相が再登板以来、力を入れてきたのがメディア対策だ。首相が大手紙や民放キー局の社長や会長と相次いで会食して手なずける一方、2014年の総選挙前には側近の萩生田光一氏を通じて民放各局に“報道の公平中立を守るように”という圧力文書を配って恫喝もした。そのアメとムチの結果、いまや大メディアは政権にすっかり取り込まれ、安倍政権に不利な情報があっても報じなくなった。 今回の読売の前川氏の報道は、さらに進んで、メディアが政権にとって都合の悪い人物のネガティブキャンペーンにまで加担する関係になったように見える。安倍政権の問題を明らかにしようとすれば、新聞にスキャンダル情報をリークされて社会的にダメージを受けるという印象が植え付けられる。日本社会にとって非常に危険な兆候です」 逆に朝日新聞のように政権批判をすれば、ネットで“言論テロ”と批判され、安倍首相がそれに「いいね!」を押す。これでは現場の記者はますます萎縮する。 そうした傾向は、「安倍首相ガンバレ」という森友学園の園児たちの映像が報じられて批判が高まり、首相が各社の官邸詰め記者を集めて中華料理を振る舞った今年2月の「赤坂飯店の夜」から顕著になってきた。 安倍首相が「読売を熟読せよ」と軽口を叩いたのは、大メディアの幹部も記者も自家薬籠中のものにしたという自信から――そう考えると、朝日新聞以外の複数の新聞・テレビが文科省内部文書を入手しながら、報道に積極的でなかったという奇妙な状況の裏がよく読み解けるのである。 獣医学部の新設で首相の意向が働いたのではないかという加計学園疑惑で「総理のご意向」文書を本物と認めた前川氏はこう語った。「取材をお受けしたのは、『これは国民が知らなければならないことだ』と思ったからです。もちろん『在職中に正しい方向に戻すために力を尽くすべきだったのではないか』とのご批判は甘んじて受けます。文科省の後輩たちにも申し訳ない思いです。 しかし、天下り問題で文科省が失った信頼を少しでも取り戻すためにも、いうべきことをいわなければいけないと決意したのです」 政権が道を違えていないか。監視役に徹するメディアの役割が、改めて問われている。関連記事■ 出会い系報道に前川氏「クオリティ紙・読売が書くとは…」■ AKB最終候補者が出会い喫茶に潜入 露骨な交渉の一部始終■ ムロツヨシ 本名が明かせない理由と猫が飼えない理由■ 前川前文科次官 出会い系バー通いを官房副長官が注意してた■ 菊川怜 明かされる夫の過去に「知りたくなかった」と脱力感

  • Thumbnail

    記事

    「加計ありき」で発狂するワイドショーの安倍叩きがヒドすぎる

    かというと、この件には具体的な問題が不在だと、私が思っているからだ。しばしば新聞やワイドショーなどのメディアでは、「加計ありき」という言葉を聞く。これは安倍晋三首相と加計学園の理事長が友人関係にあり、そのため獣医学部新設について優遇されたという疑惑があるという。 では、どんな具体的な「疑惑」なのだろうか? そしてそれは違法性があったり、あるいは政治的、道義的責任を発生させる「問題」なのだろうか? 具体的ならば一言で表現できるはずである。だが、繰り返されるのは「加計ありき」というおうむ返しと、なんの実体も伴わない「疑惑」のバーゲンセールである。 「疑惑」を持つことは結構である。実際に政府にはさまざまな権力が集中していて、それをチェックするのは政治家やメディア、そしてなによりも私たち国民の責務である。だが、その「疑惑」は少なくともある程度の具体性を持たなければならない。7月24日、衆院予算委の集中審議で、答弁に立つ和泉洋人首相補佐官(左)と前川喜平前文部科学事務次官(斎藤良雄撮影) 例えば、「総理のご意向」を書かれた文部科学省の内部メモである。出所がいまだにはっきりしないこの内部メモには、和泉洋人首相補佐官から「総理の口から言えないから」としてスピード感を持って取り組むように、と前川喜平前文科事務次官に伝えたとある。どうも「総理の口から言えないから」の存否が論点らしい。前川氏はそのような発言があったとする一方、他方で和泉氏は否定している。 しかしそもそもこの文言があったとして、何か重大な法律違反や不公平な審議が国家戦略特区諮問会議の中で起こったのであろうか。むしろ規制緩和のスピードを速めることは、国家戦略特区のあり方でいえば正しい。ましてやその内部メモには、加計学園に決めよ、という誘導を示すものは何もない。だが、多くの報道は、なぜかこの点を飛び越えてしまい、「加計ありき」のシナリオとして読み込んでいる。「ありき」論者たちの思い込みである。 ちなみにこの内部メモが作成された段階では、京都産業大も候補として残っていたのだから、「京産大ありき」や「加計も京産大もありき」の可能性さえも、「ありき」論者たちの読み込みに付き合えばありえるだろう。だが、もちろん「ありき」論者たちは、加計学園の加計孝太郎理事長が安倍首相の「お友達」なので、「加計ありき」だと証拠も論理的根拠さえもなく、断定するわけである。およそ良識外だ。ニュースの消費は「娯楽の消費」 連日のように新聞やワイドショーなどのテレビ番組が、このような実体のおよそ考えられない良識外の「疑惑」を2カ月にわたり流し続けてきた。他にもさまざまな要因があるだろうが、安倍政権の支持率はがた落ちである。ワイドショーなど既存メディアの権力の強さを改めて実感している。7月25日、参院予算の集中審議で、民進党・蓮舫代表(右下)の質問に答弁する安倍晋三首相(川口良介撮影) 加計学園「問題」の真偽については、筆者も以前この論説などで書いた。また当サイトでも他の論者たちが実証的に議論しているだろう。ここでは、主に森友学園「問題」や加計学園「問題」などで明らかになってきた、ワイドショーなどマスメディアの報道の経済学について簡単に解説しておきたい。 経済学者でハーバード・ビジネス・スクールのマイケル・ジェンセン教授が、1976年に発表した「報道の経済学に向けて」という野心的な論文がある。通常の経済理論では、財やサービスに対する消費者の好み自体には無関心である。ある特定の好みを前提にして、単に価格の高低にしたがって需要と供給が一致することで現実の取引が決まると考える。だが報道の経済では、ニュースという「財」そのものが消費者の好みを作り出すことに特徴がある。ここでいうニュースは、政治、経済、芸能などの中身を問わない多様なメディアが提供する広告宣伝以外のサービス総体を指す。 ジェンセン氏は、ニュースの消費は、「情報」の獲得よりも、エンターテインメント(娯楽)の消費であると喝破する。つまりテレビなどの「報道」は、ディズニーランドで遊ぶことや、または映画や音楽鑑賞、アイドルのライブで沸き立つことと同じだということだ。これは慧眼(けいがん)だろう。日本のようにワイドショー的な「報道」方法が主流ではなおさらのことだ。 ジェンセン氏は、この報道=娯楽、という視点から、どんなニュースが消費者の好みを作り出し、また消費者は実際にそれを好むかを主に3点から解説している。1 「あいまいさへの不寛容」…ニュースがもたらす「疑問」「問題」よりも、単純明快な「解答」をニュースの視聴者は求める。証拠と矛盾していても、また複雑な問題であっても、単純明快な「答え」が好まれる。ニュースの消費者の多くは、科学的な方法を学ぶことにメリットを見いだしていない。つまり学ぶことのコストの方が便益よりも大きいと感じているのだ。そのためニュースの消費は、いきおい、感情的なもの、ロマンチシズム、宗教的信条などが中核を占める。単純明快な二元論を好む消費者2 「悪魔理論」…単純明快な二元論を好む。善(天使)VS悪(悪魔)の二項対立で考える傾向が強い。極端なものと極端なものを組み合わせて論じる報道が大好きである。特に政府は「悪魔」になりやすく、政府のやることはすべて失敗が運命づけられているような報道を好む。まさにいまの「学園シリーズ」の報道はこの図式にあてはまる。「天使」は前川喜平氏なのだろうか。「悪魔」は安倍首相であることは間違いないだろう。その友人や知人は「悪魔」の一族なのだろうか。 また対立する意見や見解を明らかにするよりも、「人間」そのものやゴシップを好む。それが「面白い」娯楽になるからで、それ以外の理由などない。戦前も朝日や毎日などの大新聞は、政治家や著名人のスキャンダルを虚実ないまぜにして取り上げては、政権批判につなげていた。このような悪しき人物評論については、戦前もかなり批判があった。政策の議論よりも政治家の「人間性」という実体のわからないものに国民の関心が向き、それで政策の評価がなおざりになるのである。3 「反市場的バイアス」…市場的価値への嫌悪をニュースの消費者は持ちやすい。例えば規制緩和や自由貿易への否定的感情がどの国も強い。例えば、今回の加計学園「問題」は、規制緩和が敵役になっているといっていい。規制緩和は、国民全体の経済的厚生を改善するのだが、それよりも規制緩和は、むしろ国民の利害を損なうものとしてニュースの消費者から捉えられるという。今回も既得権側の日本獣医師会や、また文科省などの官僚組織、そしてそれを支援する政治家たちの方が、安倍政権の批判者たちには人気のようである。 ジェンセン氏の報道の経済学はいまの日本の政治状況、そして報道のあり方を考える上で示唆的である。しかし、いまの日本の報道が、もし真実よりも「娯楽」の提供を中心にするものだったとしたらどんなことがいえるのか。その答えは簡単である。現在、新聞やテレビなどの企業群が、報道の「公正中立」などを担保として持つさまざまな特権が、国民にとってアンフェアなものだということだ。 さまざまな遊園地や映画館、そしてアイドルたちも政府から優遇的な規制を受けてはいない。それと同じように、日本の報道機関は、いまのような「娯楽」中心の報道を重ねるかぎり、政府からのさまざまな優遇措置を保証する国民が納得する根拠はない。軽減税率の適用除外、再販売価格維持の見直し、記者クラブ廃止、新聞とテレビのクロスオーナーシップ禁止、新聞社の株式売買自由化などが検討されるべきだ。今回の新聞やワイドショーなどテレビの「学園シリーズ」をめぐる報道は、日本の報道のあり方を再考するまたとない機会になっている。

  • Thumbnail

    テーマ

    「テレビなくても受信料」NHKに怒り心頭

    「不道徳、不誠実…この声を、NHK様にお届けしよう」。離婚騒動でワイドショーをにぎわす女優、松居一代さんもブログで書いていましたが、趣旨は違えど、思いは同じです。NHKがテレビなし世帯を対象に「ネット受信料」の新設を検討しているようです。こんな暴挙、許してもいいんですか?

  • Thumbnail

    記事

    公共放送の自覚なきNHKに「ネット受信料」の議論は早すぎる

    杉江義浩(ジャーナリスト) NHKがテレビを所有せずにネットで番組を受信する世帯にも、ネット受信料を新設するという中間答申案を6月に取りまとめ、それに対する批判や議論が高まっています。 議論を整理すると、全く異なる二つの論点が、ごっちゃ混ぜになって語られていることに気づきました。一つはNHKの番組を受信できる世帯に義務化されている、受信料制度そのものの是非を問う論点。もう一つは高度に進化したデジタル環境において、放送と通信をどうすみ分けるか、あるいはどう融合するかという論点です。この二つの論点を混同しないように切り分け、順に論じていきたいと思います。 一つ目の論点、受信料制度については、私は確固たる信念があります。受信料制度は必要不可欠です。NHKが受信料で支えられているべき最大の、そして唯一の理由は「国家権力からの独立」です。NHKのクライアントは、時の政権ではなく、あくまで視聴者一人一人であるべきです。常に視聴者を利する方向で、番組やニュースは編集されなければいけません。政府を利する方向で編集されてしまったら、それは国営放送です。 NHKの予算は税金でまかなって国営放送にしてしまえばよい、などと軽々しく口にする人には、国家権力が放送を牛耳る恐ろしさについて、想像力が欠如していると言わざるを得ません。ミサイルの発射実験をするたびに、笑顔で金正恩労働党委員長をたたえる、朝鮮中央テレビの女性キャスターの映像を思い浮かべてください。国営放送になるということは、あのような権力者の宣伝機関になり果てるということを意味しています。それを避けるために受信料制度があるのです。 では、実際にNHK職員が制作現場で、国営放送ではなく公共放送であることを十分に自覚し、政権に忖度(そんたく)することなく視聴者目線で日々の仕事に従事しているのか、と問われたら、私は力強く首を縦にふることは難しい気もします。NHKの役職員それぞれの、ジャーナリストとしての矜持(きょうじ)に期待することしかできないからです。NHKが構造的に、時の政権に影響を受けやすい脆弱(ぜいじゃく)性を持った組織であることは、iRONNAの別の記事に書いたとおりです。記者会見で質問に答えるNHKの上田良一会長=東京都渋谷区(宮川浩和撮影) それでも私たちは、決して安くはない受信料をNHKに支払わなければなりません。さすがに最近は少なくなりましたが、今述べたような「編集権の独立」という概念ではなく、もっと単純に、民放やネットは無料なのに、なぜNHKだけが受信料を取るのだ、と批判する人も昔はけっこういました。そういう人は「情報には対価が必要」という基本的なことを理解していないのです。 私だって支払わなくてよいのなら「WOWOW」を無料で見たいし、大手新聞社のデジタル版も無料で購読したいです。しかし、情報には対価が必要だと理解しているから、納得して支払っているのです。この話をすると、WOWOWには加入するかしないかの選択肢があるのに、なぜNHKには選択肢がないのだ、と必ず聞かれます。放送と通信は相反する概念 私は世の中には視聴者にとって「見たい番組」と「見るべき番組」があると思っています。視聴者が見たい番組のみを集めたのがWOWOWです。名作ドラマやスポーツ中継、有名アーティストのライブなど、徹底して「見たい番組」を追求しています。一方、NHKは「見るべき番組」も放送します。 学校放送など教育番組も含まれるかもしれません。国会中継や政見放送を面白いと思って見る人は少ないでしょう。でもこれらは国民の知る権利として「見るべき番組」です。いざというときに役立つ情報は、広くあまねく提供されるべきで、それを担うのがNHKの重要な役割の一つではないでしょうか。 「ぐらりときたらNHK」とよく言われますが、地震を感じたときに、思わずNHKの総合テレビをつけて、地震の規模と震源地を確かめた経験はありませんか。NHKには公共放送としての使命があります。手話ニュースも、乳幼児と母親のための番組も放送します。こういった公共の福祉に寄与する放送は、いわゆる商業目的の「PayTV」ではできません。そもそもの目的が違うのですから、NHKと動画配信サービスを比較しても意味がありません。 動画配信サービスの話が出たところで、二つ目の論点である、高度デジタル社会における、放送と通信の関係についてお話ししたいと思います。 今回の議論の中では、テレビを所有せずにネットのみでテレビ番組を視聴する、という状況をどう捉えるかも論点になっています。ですから今は仮に地上波やBSで視聴する現状のNHK受信料制度には納得している、という前提で話を進めさせてください。※写真はイメージ もともと放送と通信は相反する概念です。放送とは一カ所から不特定多数に向かって拡散する情報伝達です。原点は巨大なスピーカーだといえます。区市町村の防災放送を、あるいは小中学で各教室や運動場に響き渡る校内放送を思い浮かべてください。秘密はなく、誰もがいや応なく聞かされます。 一方、通信とは個人から個人に向けた、非公開で秘密を原則とする情報伝達です。原点は郵便です。親書の秘密や通信の秘密が守られ、電話やインターネットも通信に含まれます。不特定多数に向けて公開される放送とは、その理念からして通信が融合することはないと、長らく考えられてきました。しかし、通信網の量的変化が、質的変化をもたらして、新しい時代に入ったようです。 ご存じのようにテレビの放送はこれまで、地上波アナログ、BS、地上波デジタルといった具合に、主に電波の使い方や伝送技術に関して進化してきました。電波という自然界において物理的に限りのある資源を、ラジオやテレビだけではなく警察無線や船舶無線、携帯電話、Wi-Fiなどで周波数を分け合って、いかに効率的に配分するか、が大きなテーマでした。スマホでテレビは放送として不完全 問題は伝送技術が、限られた電波の配分、という枠組みを超えて、増やしたければいくらでも増やせる、インターネットの光ファイバー網に乗ったとき、それは通信なのか放送なのかという論点です。もし放送と定義されるなら、その時は放送法が適用されることになりますから、熟慮が必要です。それはもはや放送であると定義してよいのではないか。というのが今の私の考えです。 技術的には、ハイビジョンのテレビ番組を、パソコンやスマホにリアルタイム配信することは難しくありません。個人的にはスマホの小さい画面でサッカーの試合を見る気にはなれませんが、小さい画面でも十分楽しめる、という人もいるでしょう。民放の番組をスマホで見るアプリも既に出回っていますから、たっぷりコマーシャルを見せられるのさえ我慢すれば、番組を楽しむことは今でもできます。※写真はイメージ パソコンに至っては、私の場合27インチの5K解像度のモニターを使っていますから、フルHDの番組をオンデマンドで見ると、テレビより鮮明かと思えるほどです。これでテレビの放送番組をリアルタイムで見られるようになるのなら、テレビなんか必要ない、と考える人が続出することも、あるいは考えられます。 そこで受信料収入で成り立っているNHKが、テレビではなくネットで放送を見る人たちからも受信料を得る仕組みを作っておこう、と先回りして中間答申案を出したのも理解できなくはありません。 ただし、既存のテレビでの受信が、画面サイズに多少の差こそあれ、テレビの機種にかかわらずほぼ一定の品質で誰もが簡単に放送を楽しめるのに対して、ネット経由の受信はインターネット環境やデバイスの種類によって、品質に極端な違いが生じることは考慮しなくてはならない課題です。  小さなスマホでしか番組を見られない人が、高解像度大画面のモニターで番組を見ている人と、同じように受信料を取られるとしたら、納得がいかないでしょう。放送番組はある程度大きな画面サイズのテレビで視聴することを前提に作られていますから、番組中の小さな字幕などはスマホでは読み取れません。これではNHKの放送として定義するには不完全だということになります。 また、放送というからには受信者側に手間をかけさせてはいけません。起動に時間がかかったり、デスクトップ画面が出たり、アプリケーションを選択したり、といったお年寄りに難しい操作性ではだめです。自治体からの防災放送のように、誰もがスイッチ一つでパッと番組を受信できなければ、放送とは定義できません。 私自身はネット経由でリアルタイムのテレビが見られるようになったとしても、テレビ番組はパソコン画面上ではなく、あくまでもテレビ受像機で見たいと思っています。なぜなら気持ちを切り替えたいからです。やりかけの仕事や、SNSの画面などさまざまな情報であふれているパソコンの画面では、純粋にテレビ番組を楽しめる気分には、とてもなれそうにありません。 Apple社の創設者、故スティーブ・ジョブズ氏は、テレビとコンピューターの画面の違いについて、こう述べています。 「テレビを見るとき、人間の脳はリラックスする。コンピュータースクリーンを見るとき、人間の脳は覚醒する」 まさにその通りだと思います。技術的に放送と通信の垣根が取り払われても、人間の脳はテレビとパソコンに異なる情報を求めています。ということは、テレビはテレビの形態のまま4K、8Kへと進化すると考えられます。ゆるぎない信頼性がNHKの生命線 伝送ルートが地上波でも、ケーブルテレビでも、インターネットでも、関係ありません。誰もが簡単なリモコンによるチャンネル操作で、それなりのサイズの画面で瞬時に放送番組が見られるなら、それはもうテレビと呼ぶべきでしょう。 ぐらりと揺れたら、お年寄りでもスイッチ一つですぐに地震速報のニュースが見られる。最低限それくらいの操作性をテレビは満たしている必要があります。そういったデバイスが世に出回ったときに、始めて受信料を課金すればよいのではないでしょうか。 伝送ルートにこだわるのは、技術者の発想です。視聴者は番組がどんなアンテナによって受信されようと気にも止めていません。気にするのは映像の品質と操作性、そして何よりもコンテンツ(放送番組の内容)が満足できるものであるかどうかが、最も重要事項なのはいうまでもないことです。※写真はイメージ 前半にも書きましたが、NHKの視聴者は安くはない受信料を対価として支払い、それに見合うだけの公共放送としてのサービスを受けているかを、シビアに考えています。公共放送は、コンテンツ販売業者ではないので、単に「今の朝ドラはつまらないから受信料は払いたくない」といったレベルの話ではありません。常に政府から独立した報道機関として、視聴者を利するジャーナリストの立場で番組作りをしているという、ゆるぎない信頼性を確保しているかどうかが生命線なのです。  NHKが独立した公共放送としての信頼性を失い、国営放送と同じではないか、とそしりを受けるようなことが度重なれば、ネット受信料どころか地上波の受信料さえ収納する根拠を失うでしょう。 受信技術の如何(いかん)を議論する暇があったら、まず顧客である視聴者からの信託にしっかりと内容面で対応できるレベルの、独立した中立公正な取材・編集体制が機能しているかどうかを、真っ先に議論するべきです。

  • Thumbnail

    記事

    相次ぐ不祥事に巨額マネー、肥大化するNHK「もう一つの貯金箱」

    小田桐誠(ジャーナリスト) ひとり暮らしの学生や若いサラリーマンを中心に、テレビ受像機やパソコンを持たない世帯が増えている。ワンセグ放送受信機能付きのケータイに続きタブレット端末やスマートフォン(スマホ)が普及し、「テレビ視聴はタブレットあるいはスマホで」が日常になりつつあるのだ。 「受信料の公平負担は社会の要請だ。タブレットでもスマホでも放送を受信できる端末を所有している場合、NHKとの受信契約が生じ、受信料を支払わなければならない」がNHKのスタンスである。 だが、受信契約・受信料徴収に訪れるNHKの委託を受けた業者の職員や地域スタッフに「NHKの番組を見るためにスマホを持っているわけではない」「そもそもタブレットでNHKは見ない」と素朴な意見をぶつける若者が後を絶たない。 放送法やNHKの放送受信規約を読み込み、インターネットでNHKの集金スタッフを追い返す方法を学んでいる若者の中には、「法律では“設置”と“携帯”の用語を区別して使っている。スマホは携帯するものであって受信設備の設置に当たらない」などと断固拒否する。 放送法第64条第1項の「協会(NHK=筆者注)の放送を受信することができる受信設備を設置した者は、協会と受信契約をしなければならない」とあるからだ。全国各地では、この受信契約をめぐっては裁判で争われている。NHKが勝訴する場合もあるが、第一審で敗訴し控訴することもある。就任会見で記者の質問に答えるNHK・上田良一新会長=1月25日午後、東京都渋谷区神南のNHK(宮川浩和撮影) ケータイやスマホでの放送の受信を含めた受信料制度の今後のあり方について、今年1月25日付で会長に就任した上田良一氏(元三菱商事代表取締役副社長執行役員)は、2月27日に会長の諮問機関として「NHK受信料制度等検討委員会」(座長=安藤英義・専修大学教授)を設置。諮問第1号「常時同時配信の負担のあり方について」、諮問第2号「公平負担のあり方」、諮問第3号「受信料体系のあり方」の検討を始めた。 6月27日、検討委員会は第1号の答申案をまとめ同日に開かれた経営委員会に提出した。第2号、第3号も7月末には答申案を公表する予定だ。原案の柱では、テレビを持たずネット同時配信のみを利用する世帯について別の受信契約を新設すること。支払いは世帯単位。スマホなどでネット受信アプリのダウンロードなどの手続きを済ませた者を対象とする、としている。どうなるネット受信料? ネット受信料金については、現行の地上放送と同額(口座振替2カ月払いで2520円)とする案が有力だという。「地上波より安くするとテレビよりもネットでの視聴が増えてしまう」との懸念に加え、営業の現場からは「アンテナやケーブルなどで設置が確認しやすいテレビと異なるケータイやスマホは、今時持っていない人がいないのが常識とはいえ『持っているでしょ』と決めつけるわけにもいかない。地上波よりも安くすれば契約が取りやすいわけでもない」との声が上がっている。 また、民間放送事業者は「ネット常時同時配信は、NHKがネット事業をさらに強化することにつながり、将来的に通信分野に進出していく可能性も想定される。放送法に基づくNHKの通信分野へ進出することが許されるのか、許されるとすればどんな限度を設定すべきかも考える必要がある」とその巨大化を警戒する(編注:放送法によりNHKの業務範囲は制限されており、現行法上はNHKのすべての番組をインターネットで同時配信することはできない)。 NHKの上田会長は、7月6日の定例会見での「同時配信は(付随業務ではなく)本来業務という認識か」との質問に、「NHKとしては放送が太い幹で、インターネット活用業務は放送を補完し効果を高めるものであるという考え方に変わりはない」と強調した。 放送による受信料収入で成り立つNHKが、通信の一形態であるネット事業にどの程度の費用をかけるのか。その妥当性も厳しく検証されなければならないだろう。小泉純一郎元首相=4月6日、東京都中央区(寺河内美奈撮影) NHK経営陣にとって、ネット受信者との契約・受信料徴収以上に悩ましいのが職員の犯罪・不祥事だ。 2004年、『NHK紅白歌合戦』元チーフプロデューサーによる6200万円の詐欺罪、編成局エグゼクティブプロデューサーら2人のカラ出張による約320万円の不正受給、前ソウル支局長による総額4400万円の経費水増し請求などが相次いで発覚した。架空の飲食費の請求もあった。 これを受け、小泉純一郎内閣の竹中平蔵総務相の下で、受信料の値下げ、経営委員会の理事会(執行機関)に対する監督権限・ガバナンス(企業統治)の強化などを内容とする「政府・与党合意」がまとまった。2006年6月のことである。だがそれ以降も、NHK本体や関連団体・子会社の職員の犯罪・不祥事は絶えることはなかった。止められない不祥事 窃盗未遂や建造物侵入に加え、勤務時間中に全国の放送局を結ぶ報道用端末にアクセスして知り得た特ダネをもとに、インサイダー取引をしていた30歳前後の記者やディレクターもいた。2013年10月には、「音響のプロフェッショナル」として国内外から高い評価を受けていたNHK放送技術研究所の主任研究員が、業者に架空工事を発注する見返りに百数十万円の物品を受け取っていたことが明らかになった。 倫理・行動憲章の策定、報道局内の一定の範囲内での株取引の禁止、職員教育・研修の徹底など、そのたびに対策を打ち出すのだが、あとは殺人事件で職員が逮捕・有罪ともなれば、ほぼすべての刑事・経済犯がそろいかねないありさまだ。しかも年代や所属部署、肩書を問わないから始末に負えない。 「NHKにはグループ企業を合わせて約1万6500人の職員がいるのですから、そりゃあ不届き者もいますよ。みんながみんな身ぎれいで犯罪や不祥事に無縁とはいきません。憲章に署名させ、何かの誓約書を書いてもらってもゼロにならないのですから」 NHK理事経験者がこうため息交じりに話せば、現在関連会社の役員を務める報道局出身者も「打つ手なし」といった表情で次のように語った。「NHKと名がつくすべての法人・団体・企業の職員にGPS機能の付いた業務用端末を持たせて24時間監視するわけにもいきませんでしょう。監視のための職員確保も難しい(笑)。何よりもそんなことをすれば職場の雰囲気がギスギスしてきます」 今年1月には、横浜放送局の営業部勤務の40代職員が、受信料の過払い分を視聴者に払い戻すように装った架空の伝票を作り、部の運営費から現金を引き出し数十万円着服していた事案が発覚した。しかもその職員が自殺しただけではなく、それらの事実を約3カ月間公表していなかったことも明らかになった。同月13日、閣議後の記者会見で、高市早苗総務相はNHKをこう批判している。4Kと8Kのチャンネルを割り当てられた放送事業者の首脳に認定証を手渡す高市早苗総務相=1月24日午後、総務省 「ガバナンスを強化するこれまでの取り組みが不十分だった」 今年2月には、初任地の甲府放送局から山形放送局酒田支局へ異動した28歳(当時)の記者が、両県での婦女暴行事件の容疑者として逮捕されている。NHKの営業部門の職員は、「おカネにまつわる不祥事に次いで視聴者の受信料支払いストップの理由になるのが、放火や暴行、強制性交といった重犯罪です」と頭を抱える。 NHK内には、「2019年にはネットの同時配信を始めたいが、その時期やネット受信料の実現にも影響するのでは」と先行きを心配する向きもある。不祥事の裏では… ガバナンスが低空飛行を続ける一方で、絶好調なのが受信料収入と財務体質である。5月11日の定例会見で上田会長は、2016年度の決算速報と営業業績を発表した。事業収入は、計画を56億円上回る7073億円(うち受信料収入は6769億円)で、事業収支差金で280億円の黒字になった。 営業実績を見ると、契約総数が51万4000件増(計画比102・9%)で4030万件に、BS契約は69万3000件増えて(同109・9%)2018万件となった。BS契約については2015年度実績が78万件増(同130・0%)で、BS契約の大幅増加が受信料収入増につながっているのが分かる。 2017年度の計画は、契約総数50万件、BS契約60万件の増加を見込んでいる。「BS契約割合(BS受信可能件数に占める契約数)51%を目指す」(5月11日の定例会見)と上田会長の鼻息は荒い。世帯・事業所の契約総数、BS契約ともに順調に増え続けていけば、そう遠くない将来に受信料収入1兆円も見えてくるだろう。 子会社からの受取配当金や全国に散らばる職員寮の固定資産売却益などの「その他の事業収入」も増え続けている。 上田会長は、7月6日の定例会見で「子会社11社の株主総会がすべて終了し配当が確定した。去年配当に関する考え方を見直し、前年度に続き大型の配当を実施した。その結果84億1千万円で、このうちNHKが受け取る総額は56億3000万円といずれも過去最高となった。関連会社の放送衛星システムの配当金を含めると、配当総額は88億6000万円で、NHKの受取額は56億5000万円」と胸を張った。 2016年度の事業収支差金280億円のうち、80億円を新放送センターの建設積立資金に回し、これで積立残高は1707億円になった。繰越金残高は957億円に達している。子会社の内部留保も948億円あり、NHK本体にとっては「もう一つの貯金箱」になっている。潤沢すぎる建て替え資金 6月27日に開いた経営委員会で放送センター建て替え工事担当の大橋一三理事が説明したスケジュールは次のようなものである。 まず、その日にホームページ上で業者募集を開始する。7月26日には参加申請を締め切り、業者からの提案書提出期限は12月20日。落札では技術提案、入札価格、コストを総合的に評価する総合評価落札方式を採用する。そこでは、費用だけではなく技術提案を重視。コストについての参考額は600億円で、NHKが事業運営していく上での目安の数字になる。 入札に当たっての予定価格は改めて設定するが、入札に参加しない業者に積算させ、来年春には確定したいと考えている。600億円には、放送設備は含まれていない。これは将来の放送内容が不確定なためで規模や価格は見通せない。放送設備は既存設備の更新という形で段階的に整備するため、全体でならせば減価償却費を原資とする従来の設備投資の範囲内で原則対応することになろう。 2014年度の収支予算と事業計画の説明資料によれば、放送開始100周年に当たる2025年に運用開始を想定。近年の民間放送事業者の新社屋建設コストなどを参考に試算し、総額3400億円と見込んでいる。費目はざっくりと、建物経費が1900億円、番組制作設備や送出・送信設備などに1500億円とはじいた。 大橋理事が説明したように、放送設備は更新という形で段階的に整備するため、初期の設備費はぐっと圧縮され1000億円を下回るかもしれない。仮に総額3000億円とすれば、すでに2011年度から始めた建設積立資金が1707億円ある。 2017年度から運用開始前年度まで8年間あり、毎年100億円ずつ積み立てれば800億円だ。この金額は、2010年度以降の契約総数とBS契約の伸びを見れば、そう難しい目標ではない。なにしろ2015年度は278億円もの繰り入れを実施しているのだから、年150億円平均の積み立ても可能ではないか。957億円に達した繰越金残高も増えていくだろう。もう放送センター建て替え資金は用意できたも同然だ。 もともとNHKの財務体質は健全だ。オンライン上で公開しているここ数年の連結財務諸表などを参考に、その財務体質の特徴的な点を見ていこう。 テレビ放送開始前の1950年前後、各都道府県に建設した放送局が順次建て替えの時期を迎えていることもあって、NHKの事業収入に占める減価償却の比率が実は10%を超えている。上場平均、放送業平均とも4%台で、通常7%を超えると過大であるといわれている。そんな常識からすれば、NHKの事業収入と比べた減価償却費の割合は超過大と言っても良い。巨額内部留保の存在 耐用年数で決まってくる減価償却の中でも、建築構造物は、償却年数が長く劣化が緩慢なので、受信料収入・その他事業収入が安定的に増え続けているNHKといえども加速度償却(加速償却ともいい、耐用期間の初期に大きな割合の償却をする減価償却の方法)は行いにくい。NHK放送センターの看板=2011年4月24日、東京都渋谷区 だが、製品のモデルチェンジが速い固定資産である機械・装置はそれが可能だ。電子機器の割合が急増し数年で新規モデルが登場する機械・装置の耐用年数は見積もりにくく、かなりの主観が伴うといわれる。NHKの場合、取得原価に対する償却進捗(しんちょく)率は80%(2016年度は81・4%)を超えている。 償却進捗率は固定資産の減価償却の進展割合を示すもので、償却の進展具合だけではなく資産の古さも確認できる。進捗率が小さい会社は体力がないということになるが、50%以上あれば良好水準といわれる。ちなみにトヨタ自動車の償却進捗率が66・5%だから、NHKの償却進捗率がいかに良好な水準にあるのかがよく分かる。 有形固定資産も過大だ。先に述べたように電子技術のイノベーションの進行が速いこともあってか、有形固定資産への投資は右肩上がり。同局では、総資産に占める有形固定資産の比率が45%以上を占める。日経経営指標ではこれらの比率が算出されていないので比較できないが、NHKの有形固定資産は明らかに多いと言っていいだろう。 巨額の投資ができるのも、減価償却費を早期に多額計上できるのも、キャッシュフローが潤沢だからである。事業活動による(=営業)キャッシュフローは、毎年1000億円超の水準で安定的に推移している。 高い自己資本比率もNHK財務の特徴の一つだ。すでにご承知のように、最近、財務安定性を計る指標として、自己資本比率が最も重視されるようになった。NHKは、2006年に62%だった自己資本比率を2016年度末に65・6%にまで高めている。 残りの34・4%が負債だが、2011年11月11日の経営委員会の議事録によれば、260億円あったNHKの有利子負債はこの3年間でゼロになっている。2016年度682億円の現金預金があり、これまた2425億円弱の短期保有有価証券(同年度)、985億円超の長期保有の有価証券(同)があるのだから、そもそも有利子負債を負う必要がないのである。 財務・年度の収支情報を公開すれば、年度単位の必要な支出と将来のリスクに備えた一定の内部留保を超えた額(収入)は本来徴収してはいけないという、いわゆる受信料積算の根拠となっている「総括原価主義」が崩れかねないと考えているならば、大きな間違いである。 契約拒否や受信料の長期滞納者に対する民事手続きの強化、簡易裁判所・地方裁判所での訴訟合戦を経て、受信料の支払いも法的義務化へ。4K・8Kハイビジョンの普及など課題が山積する中で、子会社を含め巨額の内部留保(金融資産)を抱えるNHK。まずはその財務実態について広く情報公開し、視聴者に丁寧に説明責任を果たすとともに、早急に適正かつ公正な受信料体系を示すべきだろう。

  • Thumbnail

    記事

    こんなNHKに黙ってカネを払うくらいなら裁判で争ってやる!

    う、当たり前の企業活動と消費者主権が実現されるべき時が来ている。 これについて私が代表理事を務める「メディア報道研究政策センター」は、平成24(2012)年、NHKが受信者を特定し受信者のみに課金することが今や技術的に可能であるにもかかわらず、それを放置してNHKを見ていない者を含めたテレビの所有者全部から受信料を強制徴収することを定めた放送法64条1項は、憲法29条(財産権)および84条(課税の要件)に違反するとして、東京地裁に告訴した。 これに対する判決は驚くべきもので、NHKの受信を希望する者にのみ課金した場合、NHKの財源が不足して公共放送の享受を国民に保証できなくなる可能性があるから、放送法64条1項は公共の福祉に反せず違憲とはいえない、というものであった。慰安婦問題を流布した番組 スクランブル放送や視聴時間制の受信料徴収で財源を不足させたくなかったら、NHKは視聴者が喜んで見たくなるような魅力的な番組づくりに努力すべき、というのが事業者として当然であるし、視聴者は見たくもなく見てもいない番組に代金を支払わなくて良いというのも、消費者主権の常識であろう。 NHKが受信料強制徴収の論拠としている64条は、いわば視聴者側に課せられた義務規定といえる。これに対して、民放も含めた放送各社に対する義務規定として4条がある。放送法4条は、公序良俗に反しない報道や政治的中立、事実に反しない報道、論争のある問題の公平な報道、等を定めている。しかし、NHKの報道の中にはこの規定に違反しているものが少なくない。 以下では、論争の余地もなく逃れようもないNHKの違反番組の事例を挙げて、いかにNHKが自分たちに都合の良い64条のみを振り回して、4条を踏みにじっているかを明らかにしていくことにしよう。以下のNHKの放送法違反事例に関しては、『これでも公共放送かNHK!』(小山和伸著/展転社)に依拠している。 まずは1996年に放映されたNHK教育の番組「51年目の戦争責任」に注目したい。古い事例になるが、今日なおいわゆる慰安婦問題は全く沈静化しておらず、それどころかソウルや釜山の日本大使館・領事館前に慰安婦像なる建造物が、事実に反する碑文とともに設置され、その設置場所も韓国内にとどまらず既にアメリカに複数設置されており、さらにオーストラリアなどへもこれを波及させようとの画策がはたらいている。従って、21年も前に報道されたこの番組の悪意は、決していまだ色あせてはいない。「NHK番組改変問題」に関する会見に臨むNHKの松尾武元放送総局長(左)=2005年1月19日(大山文兄撮影) 事実に反する慰安婦強制連行が流布される潮流を作ったのは、朝日新聞とNHKの報道であった。最初のきっかけとなったのは吉田清治著『私の戦争犯罪』だが、平成7(1995)年に著者自身がその虚偽記述を認めている。その本人の自供から19年もたった後、朝日新聞は強制連行記事について撤回し謝罪した。しかしながら、NHKは歴史資料を改竄(かいざん)までして強制連行説を裏付けた詐欺番組について、いまだに撤回も修正も謝罪も一切していない。 この番組においてNHKは、「陸支密大日記」(防衛省防衛研究所蔵)という史料を改竄(かいざん)して紹介し、慰安婦強制連行を軍が指示していた証拠が出てきたと報じた。しかし同史料は、慰安婦の募集に当たっている業者の中に、ことさら軍との関係があるかの如く吹聴して、甘言をろうしたり中には誘拐まがいの方法で女性を集めるような悪徳業者がいるので、軍は憲兵や警察と協力してしっかり取り締まらなければならない、という趣旨の通達文である。NHK番組改竄の真実 NHKは、この史料文中の「慰安所設置」「従業婦等ヲ募集」「募集ノ方法誘拐ニ類シ」「派遣軍ニ於テ統制」「関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋」等を巧みに切り貼りして、軍が警察などと連係して誘拐に類する方法で婦女子を集めるよう指示していた証拠だと、ゲストの吉見義明中央大学教授の解説とともに報道した。 同史料のコピーを持っていた私は、番組直後に電話によって抗議した。番組担当のプロデューサーは当初「テレビ画面は限られているので全文をそのまま映すことはできなかった」などと言い訳したが、40分にわたる論争の末に番組の不公正を認めた。翌日、この経緯に基づき受信料支払いを拒否する旨、当時の川口幹夫会長あてに内容証明郵便を送付し、以来受信料の不払いを続けている。当番組の放映時期が、吉田清治著者自身の虚偽本告白の翌年であることからも、番組製作の悪意を知ることができる。「NHK番組改変問題」で会見するNHKの石村英二郎・放送総局副総局長=東京都渋谷区(栗橋隆悦撮影) しかし実は、くだんの吉田著書の虚偽性は早くも平成元(1989)年、同著の韓国語版出版と同時に済州島の郷土史家金奉玉氏によって暴かれている。もしこの時点で、メディアがこの事実を正確に報道していれば、「戦後50年」に向けて加熱の一途をたどった反日運動や慰安婦賠償請求、河野談話などの動きは大きく変わったものになっていたかもしれない。しかし、反日メディアはこの事実を決して伝えようとはしなかった。 2001年に放映された番組「ETV2001 問われる戦時性暴力」は、バウネット・ジャパンなる市民グループが主催した、裁判形式による集会「女性国際戦犯法廷」を極めて好意的に紹介したものである。NHKスタジオの番組司会者は、弁護士無しで検事役が史実に反する旧日本軍の慰安婦強制連行や性奴隷制度を一方的に糾弾するこのえせ法廷集会について、「裁判形式上問題があるにせよ」と前提にしつつも「旧日本軍の蛮行を改めて問いただす意義」を強調した。 まじめな事実検証からほど遠い集会の肯定的・支持的な報道は、放送法4条の3「報道は事実を曲げないですること」に違反している。もしNHKが、「性奴隷制度の存在を前提とした団体の集会という事実を報道しただけだ」と逃げを打ったとしても、逆の立場の集会を同等に報道していない限り、同法4条の2「政治的に公平であること」および、同法4条の4「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」に違反していることは明らかである。沖縄を「捨て石」NHKの偏向姿勢 月刊『正論』に「一筆啓誅NHK」を連載していた元高校教師の本間一誠氏からの情報によれば、NHKは平成29年6月23日からの「沖縄全戦没者追悼式~沖縄県糸満市・平和記念公園」のNHK総合テレビ中継の冒頭、「沖縄は本土防衛のための捨て石とされ…」とのナレーションを流したという。本間氏によれば、昨年、一昨年の同式典でのナレーションは「沖縄は本土防衛のための最前線と位置づけられ…」であったという。ここに、反日偏向意志の増長は明らかであろう。沖縄全戦没者追悼式「平和の礎」の前で祈る人たち=23日、沖縄県糸満市の平和祈念公園(門井聡撮影) 日本軍11万6400人が連合国軍54万8000人を迎え撃った3カ月に及ぶ激闘の沖縄戦、あるいは航空・水上・水中特別攻撃に散華した4000人におよぶ若き命のどこを取って、沖縄が捨て石にされたというのであろうか。確かに、地上戦において沖縄住民の戦没者は、日本軍人とほぼ同数の9万4000人にのぼる。これは、米軍急襲に際して兵民分離がなされなかった悲劇ではあるが、戦時国際法に違反する米軍の都市爆撃による民間人の犠牲は、同様な悲劇を全国各都市で生んでいる。特段に沖縄を捨て石と表現する合理性はなく、NHK報道の偏向姿勢が如実に表れているといえよう。 朝日新聞の反日偏向に嫌気がさして購読を止めれば、もちろん購読料は取られない。しかしどんなにNHKを嫌って視聴しなくても、受信料強制徴収はやむことがない。自らの支払う受信料によってさらに悪質な反日偏向番組が作られていくという精神的苦痛が、良識的な国民を苦しめている。 今も全国各地でNHK受信料不払い裁判が起こされている。裁判結果はNHKの勝訴だが、それでもNHKの告訴を受けて立つ視聴者は後を絶たない。彼らは異口同音に訴える。「うそまでついて日本の悪口を放送し続ける、こんなNHKに黙って金を払うくらいなら裁判で被告になって、言いたいことを言ってやりたい」と。こうした法廷闘争が奏功してか、最近の判決では「NHKが編集の自由の下に偏った価値観に基づく番組だけを放送し続けるならば…視聴者の側から放送受信契約を解除することを認めることも一つの方策と考える余地がないではないと言い得る」という東京高裁判断を得ている。  もしNHKがネット配信での受信料請求を始めるというのであれば、裁判件数の急増と裁判所判断の行方に覚悟をもって臨まなければならないであろう。

  • Thumbnail

    記事

    NHK、新会長就任で雰囲気一変も「数字」求められるように

     籾井勝人前会長の退任後、NHKに変革が起きている。新企画にどんどん取り組み、“テレビ界視聴率ナンバー1”の座を貪欲に狙っているのだ。1月に上田良一氏が新会長に就任して以来、NHK内部の雰囲気は一変した。1月25日、就任会見に臨む上田良一NHK会長「これまでは幹部たちが籾井さんの顔色を窺ってばかりで、局内には萎縮ムードが漂っていた。しかし、上田会長は“現場介入はしない”という方針のようで、局内の風通しがよくなりました。 たとえば、1月19日放送の内村光良(52)のコント番組『LIFE!』に、綾瀬はるか(31)がドラマ『精霊の守り人』のコスチュームで出演してコントをやりましたが、これが大ウケで、上田会長も絶賛していたといいます。これまでの“縦割り”のNHKでは考えられなかったことです」(NHK関係者) 視聴率が営業成績に大きく影響する民放と違い、国民からの受信料で支えられているNHKは視聴率と無縁のように思えるが、最近はそうでもないらしい。NHKの若手ディレクターがいう。「民放以上に視聴率を気にしています。いまは受信料徴収を厳しくしているため、視聴者に『これだけ良い番組があるのだから受信料を払ってください』とアピールしなければならない。上層部からは常に“数字”を求められています」 そんなNHKにとって最大の敵となるのが3年連続視聴率三冠王の日本テレビだ。前出・NHKディレクターがいう。「昨年上半期のゴールデンタイム(※1)はウチが視聴率11.8%で11.6%の日テレに勝った。2016年の全日(※2)平均でも0.9ポイント差と肉薄した。高視聴率が期待できる朝ドラや大河ドラマはBSでも放送しているため、そちらに流れてしまった視聴者も多い。それを含めれば、実質ナンバー1はウチだと思います」 NHKと日テレの“テレビ界最強”を懸けた戦い。現在攻勢を仕掛けているのはNHKだ。【※1/19~22時の間の平均視聴率のこと。視聴率が最も高い時間帯】【※2/朝6時から深夜24時までの間の平均視聴率のこと】関連記事■ フジTV社員「数字取れるのはサザエさんとスマスマ位」と消沈■ 「篠原涼子>米倉涼子」のギャラ格差 直接対決で異変発生■ テレビドラマ キャスティングが第一で面白くするのは二の次■ 米倉涼子『ドクターX』第二弾の現場でも幸運の焼肉弁当配る■ ドラマ視聴率 月9も水10も日9も「10%超えがやっと」の現実

  • Thumbnail

    記事

    NHK 政権の空気読む「静かな籾井さん」が局内に多数存在

    期を満了し、職員らに見送られるNHKの籾井勝人前会長。右端は上田良一会長 上智大学教授の田島泰彦氏(メディア論)はNHKの報道姿勢をこう批判する。「NHKの報道は、政府の仕掛けに率先して乗った読売新聞のケースとは別の問題を孕んでいる。情報を入手した場合、事実を事実として伝えるのがジャーナリズムの最低限のルールですが、NHKは肝心の部分だけを黒塗りにしており、視聴者からすれば、なにを報じているか分からない。 ではなんのための報道かといえば、政府に対してNHKが『情報は持ってるけど報じませんよ』と自らのスタンスを示すため。視聴者より政府に伝えることを優先したのですから、公共放送としてあるまじき態度です。権力を監視するというジャーナリズムの基盤が歪み、極めて危うい状況になりつつある」 NHKに黒塗りにした理由などを質した。「個別の編集材料や取材の過程などについては、お答えを差し控えますが、ご指摘のあったニュースに関しては、NHKの独自取材によるものも含めて随時、お伝えしています」(広報局) さて、この回答は誰に伝えるためのものだろう。関連記事■ 厚労省の圧力で「消えた年金」と書くのを止めた大手メディア■ 『南方週末』問題報じたNHK 検閲で海外放送が一時真っ黒に■ 朝日の視線の先にあるのは権力者の顔色や大新聞仲間との関係■ 雑誌スクープ後追いの新聞「一部で報じられた」等の表現横行■ 権威に弱い新聞は大誤報しても“俺たちも被害者”と開き直る

  • Thumbnail

    記事

    どれもこれも嘘ばかり、感情で動く「無責任メディア」の北朝鮮報道

    さんと放送時間の大半を割いて「ICBM発射」の意義を語った。あの時点で「ICBM」と断じたのは、マスメディアでは私だけ。日本政府も翌日まで明言できず、「分析中」と言葉を濁し続けた(防衛相の会見など)。 そもそもニュースの扱いが小さい。小さすぎる。発射当日夕刻には、北朝鮮が「ICBM火星14型発射に成功」と「特別重大報道」したにもかかわらず、同夜のNHK「ニュース7」もトップ項目は「台風と前線」だった。同様に「ニュースウオッチ9」のトップも「台風3号」。なぜ、みな過小評価したのか。それがICBMとは思わなかったから。そういう次第であろう。北朝鮮のミサイルが日本の排他的経済水域(EEZ)内の日本海に着水したことを報じるNHKニュース=2017年7月4日、東京都内(AP) 他方、世界の主要メディア(と当局)は大きく扱った。米韓両国は言うに及ばず、北朝鮮のICBMが届かないイギリスの公共放送BBCもトップ項目で詳しく報じた。例外は日本だけ。 ところが、翌5日に至り、それらが一変する。理由は単純だ。アメリカ連邦政府がようやく「ICBM発射」(国務長官)と認めたからである。その途端、反米論調で知られる新聞や番組も含め、みな一斉に「ICBM」と報じ始めた。日本政府も例外でない。脱力感を覚える。 過去ずっと、こうだった。北の「火星12型」が発射された今年5月も、今回と同様の展開をたどった(詳しくはアゴラ関連拙稿)。今年4月のバカ騒ぎも思い出す。マスコミが重用する「識者」やジャーナリストらは、みな4月15日や4月25日を「Xデー」と断じ、危機を煽(あお)った。知り得るはずのない「米軍の最高機密」を論拠にした猛者もいる。私は一貫して異論を唱えたが、NHK以下多くの主要メディアは聞く耳を持たなかった。識者は無責任な放言ばかり 結局、4月15日にも4月25日にも、何も起きなかった。4月の軍事挑発は私が予測したとおりイースター(復活祭)の朝、5月も予測どおり米メモリアルデー(戦没将兵追悼記念日)となった。同様のことは2013年にも、2009年にも、2006年にも起きた。一貫してそう主張してきたが、日本の政府とマスコミには馬耳東風。関係国の当局者だけが耳を貸した(詳しくは前掲拙著)。 みな口をそろえて「ICBM発射はアメリカにとってレッドライン(越えてはならない一線)」と断言してきた。主要メディアとも7月5日までそう断定してきた。NHKも例外でない。今回、北朝鮮はその「レッドライン」を越えた。 当然アメリカが軍事行動を起こすはずだが、発射から数日経った今も、その兆候は見えない。「レッドラインは(ICBMが届く)アラスカではなく東海岸」との釈明まで出始めたが、開いた口が塞がらない。 要は「Xデー」同様、「レッドライン」をめぐる報道もフェイク(偽物)だった。北朝鮮関連報道自体フェイクだったと評してもよかろう。それなのに、テレビ画面に映る「識者」らの顔は、いつまで経っても変わらない。代わり映えしない。出す方も、出る方もどうかしている。ここまで予測と分析を間違えておきながら、恥じることを知らない。破廉恥きわまる。朝鮮中央テレビが放映した、ICBM「火星14」発射実験の写真(共同) 今回「また潮が危機を煽った」云々の批判を受けた。事実関係のみ反論しておく。やれXデーだ、レッドラインだと危機を煽ってきたのは、連日ワイドショーなどでコメントしてきた著名な「識者」やジャーナリストのみなさまである。私ではない。私は事実と今後の予測を述べただけ。 もし、それが「危機を煽った」ように聞こえたなら、失礼ながら事実を直視できないからか、あるいは私の予測を受け入れ難い〝良心〟(感情)があるからなのか。どちらにしても私の責任ではない。 ICBM発射当日、私の長女(自衛隊員)は航空自衛隊の主力戦闘機F-15DJに搭乗飛行していた。もし今後、拙著の予測どおり展開するなら、そのとき、隊員は「危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえ」なければならない(自衛隊法)。 最近まで危機を煽ってきたのは、そうしたリスクを背負う気概すらない無責任な連中である。どいつもこいつも放言しているだけではないか。彼らの眼には、自分が見たいものしか映らない。私は見たくもない現実を直視している。彼らと私では、そこが決定的に違う。 北朝鮮の脅威は核や弾道ミサイルだけではない。いま最も警戒すべきはテロ・ゲリラ攻撃である。本来なら軍隊たるべき自衛隊が対処すべきだが、残念ながら、戦後日本では警察(または海上保安庁)が対処の任を担う。 案外知られていないが、交番の警官が着用しているのは防弾チョッキではない。防刃ベストである。そのとき、私の次男(警察官)が凶弾に倒れるかもしれない。その私が今回、危機を煽ったなど、聞き捨てならない。 拙著の予測は外れてほしい。もうこれ以上、当たってほしくない。ひとりの父親としては、心からそう願っている。きっと誰よりも、その思いは強い。

  • Thumbnail

    記事

    田中眞紀子の秘書暴行をスッパ抜いた上杉隆「17年目の反省文」

    上杉隆(メディアアナリスト) 豊田真由子議員の秘書に対する暴行を報じた『週刊新潮』の記事を読んで思い出したのは2000年、田中眞紀子議員の取材をしていたときのことだ。2001年8月、外務省講堂に職員を集め、人事問題などについて訓示する田中真紀子外相(早坂洋祐撮影) 鳩山邦夫事務所を退職したばかりの私は、毎週末、新潟に通い詰め、約6カ月間、永田町で噂になっていた同議員の秘書への「暴行」を取材していた。 取材結果は想像を超えるものだった。朝から晩まで議員に罵倒され続け、退職に追い込まれた者。買い物のおつりをくすねたと誤解され肉体的な被害を受けた者。失敗の反省を紙に書かせて、正座しながら大きな声で繰り返し朗読させられた者。 どの元秘書に取材しても、予想を超える「暴行」の証言ばかりで、取材する側の私の方がすっかり気分を悪くしてしまった。 記事は、2001年の『週刊文春』新年合併号に8ページにわたって掲載された。直後から私自身への猛烈な批判が待っていた。いわく「作り話だ」「陥れるための記事だ」 時はちょうど眞紀子ブームの全盛期。アンケートでは総理大臣にしたい政治家ナンバーワンの人気を誇る政治家への批判ということもあって、当初、すべてのメディアが「そんなバカな話があるはずがない」と決めつけ、後追い取材をするメディアもなかった。 ところが、その4カ月後、小泉政権で田中眞紀子氏が外務大臣に就任すると、外務省内で同様の騒動が起き続け、メディアの状況も一変、産経新聞が一面で私の記事を紹介する形で報じたのを皮切りに、議員秘書への「暴行」がようやく世に問われることになったのだ。 いま思えば、当時の永田町では、議員による秘書への「暴行」「虐待」などは決して珍しい話ではなく、テレビや新聞などでは報じられない「闇の世界」が日常化していた。 多くの政治記者たちも議員による秘書への暴行話を見たり聞いたりしながらも、それがあまり問題視される時代ではなかったのだろう。 実際、他の議員事務所を取材した当時の私自身も、軽度の「暴行」は容認していた気がする。 私が議員秘書として鳩山邦夫事務所に入った1994年は、まだ国会議員の秘書稼業は丁稚奉公(でっちぼうこう)的な色合いを深く残しており、忠誠心を持って議員に仕え、ときに身代わりとして自己犠牲すら厭(いと)わない秘書こそが優秀な秘書とされている時代だった。 たとえば、「経世会」(旧田中派)の秘書会の大先輩が、議員のスキャンダルが報じられた後、自ら命を絶ったという話も「秘書の鏡」として美談になって語られていた時代だった。鳩山邦夫の秘書時代 当時の国会議員は、主に「官僚派」と「党人派」に別れ、とくに後者は自らも議員秘書時代に鍛えられた経験から、同じ厳しさを秘書に求める傾向にあったように思う。 私のボスである鳩山邦夫議員も、田中角栄首相の秘書を務めた「党人派」であり、その例に漏れず、厳しいルールを自らの秘書たちに強いていた。2009年8月、総選挙の決起集会で演説する,、福岡8区から出馬した鳩山邦夫元総務相=福岡県久留米市内のホテル 私自身も入所して3カ月間は一切、家に帰ることはなかった。というのも、勤務時間は午前7時から深夜23時が定時で、土・日、祝日は一切なく、新人は誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く帰らなければならないというルールが徹底されていた。 それ以上に、私たち若手秘書は、鳩山代議士の自宅に寝泊まりして、朝は掃除やゴミ捨て、夜は家族が寝るまで夜回りの記者などの対応を担当し、結局、鳩山家のお手伝いさんの部屋か、事務所に寝泊まりするのを余儀なくされていたのだ。 入所1年後、運転随行秘書になった私はより厳しい労働環境に置かれた。盆も暮れもない。軽井沢の別荘で鳩山代議士と二人っきりで過ごす2週間は、私にとっては逃げ場のない苦役だった。 初めて休みをもらったのは秘書になって1年半がたったある夏の日、父が急逝した翌日のことだった。それまで本当に1日たりとも、休みがなかった。 そうした厳しい世界を経験した秘書仲間、同僚や先輩や後輩たちがいまバッジを付けている。自民党の2回生が問題となっているが、その中にもかつての秘書仲間はいる。当時永田町で育った議員や秘書の多くは、いまだに古い永田町文化をひきずっているように思う。 もちろん、それで免罪されるわけではない。だが、時代の変化に対応できない議員が「自民党2回生」に集中していると断じるのは、早計にすぎるのではないかと思う。 問題を起こした議員が「自民党2回生」に多いというのはたまたまだろう。3回生にも、4回生にもその種の問題議員はいるし、また自民党だけではなく、野党にも間違いなくそうした議員は存在する。 すなわち、安倍チルドレンだけの問題ではなく、永田町全体の問題であり、その一端は、それを知っていて見て見ぬふりをしてきたメディアの報道姿勢にもあると私は思う。 実際、罵倒を繰り返して、言葉の「暴行」を繰り返す議員を、日頃、永田町で取材している政治記者たちが知らないはずはない。 仮に知らないとしたら、よほど愚鈍か、あるいはスタジオでご高説を垂れる取材をしないテレビコメンテーターや政治評論家の一団に違いない。いまの秘書は恵まれている さて、こうした関係は議員と秘書の間だけではないだろう。私が知っているだけでも、役人に向かって「絶叫暴行」を繰り返す議員や秘書は少なからずいたし、制作子会社のスタッフに「暴行」を続けるテレビ局の社員も複数知っている。 つまり、日本社会全体に存在している相対的弱者に対する「イジメ」が、より目立つ形で、永田町で噴出したのが今回の「絶叫暴行」事案だと言った方が正確なのかもしれない。 元国会議員秘書経験者からすれば、いまの秘書は恵まれていると思う。定時には帰宅することができるし、休日も保証されている。思えば、それは当然のことだが、わずか20年前とはいえ、どうしても自分自身の経験を基準とし、厳しい目を持ってしまう。 人はそうやって自分の経験からしか物事を見られないのだろう。おそらく、私の先輩秘書も、私たち後輩に対して同様の気持ちを抱いていたに違いない。 秘書稼業の厳しさは、生きてきた時代が規定する。そう考えると、時代によって議員と秘書の関係も変わるに違いない。 鳩山事務所を退所した1999年から3年間、私は米国の新聞社(ニューヨーク・タイムズ)に働いた。その際、米国の議員と秘書の関係も知ることになる。米国のように、公費で20人も秘書を雇える制度ならば、秘書は秘書、本来の秘書業務に専念させることも可能だろうと実感した。2月19日、地元の埼玉県朝霞市長選で万歳三唱する豊田真由子衆院議員(菅野真沙美撮影) しかし、公設秘書を3人しか置けない日本の現行制度では、選挙というものがある以上、とりわけ衆議院では、議員と秘書の雇用関係に、法律や常識の枠では収まらない厳しい現状が発生するのも無理もないという考えに至ってしまう。 豊田議員をかばうつもりはない。だが、彼女の事務所以上に、ひどい扱いを受けている秘書が存在するのは紛れもない事実だし、そうした状況を許してきた永田町の慣習を無視して、いまの私には、ひとり彼女だけを追及する気にはなれない。 あの田中眞紀子議員を追及して、議員辞職まで追いつめたジャーナリストの反省として、誰かひとりをスケープゴートにしてつるし上げても何も変わらないと知っている。そうした報道は、社会に進歩も発展ももたらさないことを、私たちはこの20年間の報道で学んだはずだ。 政治部を中心とするテレビ・新聞は、自分たちの不都合も含めて、今回のことを俯瞰的に調査・報道してもらいたい。大局を持って今回の「暴行」事件を報道・分析すれば、きっとその先に、議員と秘書の健全な関係が待っているに違いない。

  • Thumbnail

    テーマ

    中居正広の裏切りとジャニーズへの「忖度」

    まさに「忖度」の世である。国民的アイドルグループ元SMAPメンバーの事務所契約終了がスポーツ紙などで報じられ、独立派と目されていたリーダー、中居正広のジャニーズ残留が決まった。他の3人への「裏切り」とも揶揄されたが、どうやら芸能界特有の複雑な事情もあったようで…。

  • Thumbnail

    記事

    「義理と人情」日本的価値観を体現したSMAP解散劇

    れをノーベル経済賞経済学者のトーマス・シェリングは「心の消費」の活動として分析している。テレビなどのメディアで目にする様々な偶像(アイドル)に、自分と切っても切り離せないものを感じることで、アイドルに生命を吹き込む。その心の消費がさまざまな人々のネットワークで強固に結びついたときに、アイドルはアイドルを超えて、国民の統合にさえなるのだろう。打算だけでは図れないSMAPが持つ日本的価値観 矢野によると、ジャニー喜多川はアメリカの視線で日本の芸能人を見るべきだと考えていたという。ジャニー喜多川は、アメリカの芸能人とは「芸術家」のことであり、その活動は社会的に尊敬されているという。SMAPは、このジャニー喜多川の願いを超えて、日本の文化の根幹にさえなった、と言ったらおおげさだろうか。 SMAPのCMや出演番組が、「ポスト団塊ジュニア」の消費モデルとなったことは、その世代に完全に属するライターの速水健朗らの分析によって明らかにされている(速水他『大人のSMAP論』宝島社新書)。SMAPのメンバー自体の多くは、正確にはこのポスト団塊ジュニアよりも若干上の世代だ。つまり「兄」としてポスト団塊ジュニアたちの生活モデルとなったのだろう。SMAPが日本の文化の根幹になるに際して、日本の人口でも団塊世代に次いで巨大な層であるポスト団塊ジュニアを魅了した点は大きいだろう。 他方で、SMAPはまた旧来の日本的価値観ともいえる「義理と人情」にも大きく規定されている(松谷創一郎『SMAPはなぜ解散したか』SB新書、にも同様の指摘がある)。これは今回の5人の去就が必ずしも経済的合理性、よりわかりやすくいえば打算だけではまったく測れないことにもある。 今回、事務所を出ていく3人は、観測報道が正しければ、彼らを成功に導いた功労者のひとり、飯島氏と行動をともにする、という。ただでさえ独立することは、日本の閉鎖的な芸能市場では困難に直面する。しかも誰がどうみても今回のSMAP解散劇は、またジャニーズ事務所の内紛であった。その意味では、芸能界での「忖度」が強く働き、出ていく3人の芸能活動を著しく制約してしまうかもしれない。1989年1月7日、新元号「平成」を発表する小渕恵三官房長官=首相官邸 だが、あえて彼らがその選択をとったのは、「義理と人情」であったろう。また残るふたりの思いも、また同様だと、筆者は信じている。出ていく3人と同じく、残るふたりもまた彼らを育ててきたジャニーズ事務所への「義理と人情」ゆえに残ったのかもしれない。あたりまえだが、人は打算のみでは生きてはいない。そしてそのことを、SMAPは平成の世を通して、私たちに訴え続けてきたではないか。 平成の世もまもなく終わる。そして組織の中のSMAPもまもなく完全に終わる。だが、SMAPは平成を超えて、その先ノムコウを行くだろう。