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    杉村太蔵だから分かる 「公募で不倫を見抜けるわけがない!」

    杉村太蔵(元衆院議員、タレント) 自民党の候補者公募の審査や面接って、正直言って皆さんが想像しているような変わったことは何もないんですよ。私は2005年8月の郵政解散選挙で自民党のホームページを見て候補者を公募しているのを知り、応募しました。そう、小泉純一郎元首相が郵政民営化反対派への「刺客」として、たくさんの「小泉チルドレン」が誕生した、あの国政選挙です。公募の一次審査の際には、戸籍謄本や住民票、中退した筑波大学の在学証明といった最低限必要な書類はもちろん、私が高校時代に国体の少年男子ダブルスで優勝したときの表彰状まで、まとめて揃えて提出しました。 一次審査では課題論文もあったんですが、いざ面接になると、総選挙の争点が郵政民営化の是非だったこともあり、面接担当の自民党議員の方からは真っ先に郵政民営化と小泉構造改革についてどう考えているのかと聞かれたのを覚えています。あのときは自分なりに考えをまとめて意見を述べたんですが、私自身もともと郵政民営化には強い関心があり、小泉さんが「完全民営化」を謳っていても、ユニバーサルサービスの維持を法律で義務付けていることに問題があるのではとも思っていました。だから、面接では「東京・赤坂にある郵便局と、地方の過疎地にある郵便局が本当に一律のサービスでいいのか。これは非常に疑問だし、どうせ民営化するのなら極力縛りをかけない方がいいと思っています」みたいなことをお伝えしました。国会に初登院し、名札のスイッチを押す杉村太蔵氏=2005年9月21日(宮川浩和撮影) 郵政民営化に関しては、私も当時は証券会社に勤めていたので、かつて同僚や上司らと議論した経験を元にとうとうとしゃべりました。いま思えば、自分が金融業界で働いていたことも評価されたのかなと思っています。その他にも、面接官からは「議員になったら郵政民営化以外で何をしたいか?」という質問もありました。大学を中退し、新卒採用の壁に阻まれ、しばらくは派遣社員も経験したことがあったので、「いったんフリーターになると、正規雇用に這い上がるのが難しい。ここには構造的な問題があるんじゃないかと考えています。だから、私は国会議員になって若者たちの雇用環境を改善したい。当選した暁には、ぜひ厚生労働委員会に所属したいです」と結構、具体的に説明したんですよ。あのとき、もし自分が「教育改革をやりたいです!」みたいなことを話していたら、きっと候補者選びで不合格になっていたと思います(笑)。 公募に合格するまでには5回も面接審査があって、結構大変だったんですよ。面接では、安倍さんや武部さんといった当時の自民党執行部のそうそうたる顔ぶれもありましたね。私が受けた面接審査の中で、もう一つ印象に残っているのが「憲法」に関する質問でした。私は自由民主党の公認候補者として出馬を目指していたわけですから、結党以来の党是である憲法について聞かれるのは当たり前だし、公認候補が党是に従うのは当然です。もし郵政民営化には賛成の立場でも、憲法改正について否定的な完全護憲派では、自民党の国会議員は務まりません。面接の質疑応答では、憲法に関する意見もたくさん求められた記憶があります。ズバリ直球で女性関係を聞かれることなんてない 自民党から公認を得て国会議員になる場合、もっとも多い事例といえば、地方議会で活動していて地元の党支部や支援者たちからの推薦を受けて立候補するパターンと、党本部が公募して候補者を選定し擁立するパターンの2つがありますよね。例えば、前者のパターンに多くみられますが、党のTPP推進方針に反して、自分が出馬する小選挙区では「反対」を訴え、党の方針に反して当選する議員もいたりします。ただ、自民党というのは、いろんな意見を吸収できる度量の広い党ですから、必ずしも党の方針に反対したらダメだといっているわけではないんです。個別の政策であれば、党内でいろいろな意見があったとしても、ある程度は許容の範囲内なんです。  でも、憲法のように綱領で掲げる政策については違います。憲法改正について優先度の低い政治家はいるかもしれませんが、改憲に否定的な政治家が自民党議員として活動するのは有り得ない。だから、僕のときもそうでしたが、公募の面接で党の綱領や、立党宣言について聞かれるというのは、公認候補者としての最低限の確認レベルみたいなものなんじゃないですかね。いま、こうして当時を振り返ってみると、党が候補者を選定する際には、個々の政治理念をとにかく重視し、しっかり選んでいただけたんだなと思います。 よく国会議員が不祥事を起こすと、政治家の「身体検査」が問題になることがあります。でも、面接のときにズバリ直球で女性関係のことを聞かれることなんてないです。そんなこと有り得ないです。だって、一般企業の面接のときに「あなた不倫してますか?」なんてことを聞く採用担当者なんていますか。いくら清廉潔白が求められる政治家にだって、そんな非常識なことを面接で聞くことなんてあるわけがない。面接で聞かれることは、ごくごく常識的な質問ばかりです。まずは自民党の公認候補者として相応しい政治理念を持っているかどうか、面接の9割がそこへの関心です。あのときの公募は、たった2週間という短い期間でしたが、それでも党の執行部までフル回転して、より良い人材を発掘しようという熱意が伝わりました。僕みたいな人間でも、情熱があれば政治への道をつくってあげようという、そんな雰囲気もありましたね。 一般的に政治家になるためには、国会議員の二世・三世や議員秘書、官僚出身といった経歴がなければ、なかなか難しいといった印象がありますよね。裁判官や検事、弁護士であれば司法試験に合格すればなれるし、官僚であれば国家公務員試験といった入り口があります。でも、国権の最高機関である立法府に入るには、選挙で有権者の支持を得なければならない。一般人が党の公認を得て国政選挙に出馬するルートというのは、実は不明確なんですよね。だからこそ、どの政党も国民に対しては政治家になるための「門戸」を開いておいてほしいと思っています。誰だって政治家になるチャンスはあるという意識を根付かせることも重要だと思う。 そういえば、乙武洋匡さんの不倫騒動が話題になってますけど、それでも乙武さんが出馬するかどうかという質問については、今は「ノーコメント」とさせてください。時事的なことに関しては毎週日曜日の「サンデージャポン」(TBS系)が終った後に話すことにしているんですよ。私が国会議員を辞めて、人生最大のピンチを救ってくれたのは「サンジャポ」ですし、一番恩義を感じているんですから(笑)。(聞き手、iRONNA編集部・松田穣)すぎむら・たいぞう 1979年8月13日生まれ、北海道旭川市出身。筑波大体育専門学群中退。外資系証券会社に在職中の2005年に自民党の候補者公募に合格し、同年9月の衆院選に出馬し当選。10年7月の衆院選では同党から公認されず出馬を断念した。09年7月の参院選にたちあがれ日本から出馬したが落選。同年10月からTBS系「サンデージャポン」(日曜前10・0)に出演するなど、タレントとして活動中。血液型O。

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    共産党の候補者選びは、自民党とココが違う!

    筆坂秀世(政治評論家、元共産党政策委員長) いわゆる議員の「身体検査」というのは共産党には特にないと思う。プライバシーを調べて「おまえ、ああだろう、こうだろう」っていうのはたぶんない。たまたま耳に入ってくる話があれば別だろうけど、組織として「身体検査」をするというような習慣はまずない。共産党の場合、「私、立候補したいです」とか「選挙に出たいです」って、自分から言って立候補する制度というか習慣がそもそもないんです。あくまでもそれは全部、党が決定するんです。 たとえば、新宿区の区議会議員の場合、地区委員会の委員長を筆頭に常任委員がいます。「今度Aさんっていう人が引退するので、後の候補者に誰を立てようか。教師にいいのがいるが、教師をやめさせて落ちたらどうしよう。これは家庭の問題もあるから教師をやめさせてまで立てるわけにいかない」となった場合、「地域で熱心に活動してて地域に人望のある人がいる。この人に立候補してもうらおう」となって、この人に立候補の話をすることになる。つまり、いろんな党員の日常的な活動を目にして立候補者を決めているというわけです。 僕は最初、参議院の比例代表の候補者になったんですが、当時は党の国会議員の秘書をしていた。そのころ共産党は比例で当選するとしたらせいぜい5人ぐらいのもので、そこにたとえば25人立てるとすると、落ちても構わない人を指名するわけ。僕なんかもともと秘書だったわけだから落っこちたらまた秘書に戻して党本部の勤務にすればいいだけの話。立候補は、ある日選対局長に呼ばれて「今度選挙に出てくれ。心配しなくても絶対当選することないから」って具合だった(笑)。そのあと、「次は衆議院の東京1区から出てみてくれるか」ということになって、衆院選東京1区から3回出馬して3回とも落選。それで「10年ぐらいやったんで、もういいでしょう。もう充分御奉公したでしょう」と降りたんです。そしたら今度は「次の参院選でまた比例で出てくれ、今度は順位が上の方で、当選する可能性がある順位で」となって、ついに当選した(笑)。参院決算委員会で質問に立つ共産党の吉良佳子氏=参院第1委員会室 東京で吉良佳子って子が参議院で当選しましたが、彼女もそれまで都議選に出て落っこちてるんですよ。たぶん当時の東京都委員会の選対局長や都委員長が「なかなかいいじゃないか。今度、東京選挙区から参議院選挙に出そう」となって、本人に立候補の話をしたんでしょう。そうやって共産党は上が候補者を決めてくんです。普段の活動を見ていて「これなら話も演説もうまいじゃないか」とかね。池内沙織って子も参院選に出たり総選挙に出たりして、4回目で当選しましたよね。いま議員をやっている人だって、結構、落選経験を持ってます。書記局長の山下(芳生)君だってそう。落選してないのは志位(和夫・党委員長)さんくらいじゃないかな。 公募議員というのは共産党では考えられないよね。最近はどうか知らないけど、昔の共産党だったら公募なんてありえない(笑)。共産党に入党するのは、議員になる道として入る人はまず一人もいないんですよ。党員としての活動において、別に議員が偉いというわけではなくて、たとえば区議会議員より地区委員の方が偉い。昔だったら宮本顕治(元中央委員会議長)さんがバッジ着けてないときだって、宮本さんが一番偉かった。国会議員は宮本さんの指導下で動いていたし、そういう組織だからね。そもそも共産党というのは。公募議員はチルドレンと変わらない記者会見で議員辞職する意向を表明し、頭を下げる自民党の宮崎謙介衆院議員=2月12日午前、国会 自民候補とうわさされていた乙武(洋匡)さんの一件が話題になってますが、ちょっと騒ぎすぎかなという気がするけどね。ただ自民党にとっては参院選の目玉になるはずだったわけだから。もう出ないでしょう。あれで出るようだと大した度胸だと思うけど。共産党にももちろん不倫でやられた人はいますよ。それは男と女の社会だからね。ただ、あんまりそういう確率は低いよね。不倫で辞職した宮崎(謙介・前衆院)議員なんか「キジも鳴かずば撃たれまい」みたいな、育休で目立っちゃったからね。だから僕は文春にタレこみがあったんだと思うよ。何が育休だと(笑)。 公募議員っていうのは政党としてどうかと思う。民主党が党名を決めるのに世論調査をやって民進党になったけど、自民党もこれをあんまり馬鹿にできないと思う。だって大政党の自民党だったら、候補者ぐらい自前でつくれ、政権政党何十年やってるんだよと。人材を抱える企業とだって、役所とだって付き合いがあるわけだから。公募なんて議員にはある意味卑しさを感じる。選んでもらえれば、いまの自民党だったら勝てるというね。 国会議員になることを前提に政治のことを勉強していいわけがない。会社を立ち上げて成功した、金も結構ありますという人が公募で選ばれて、本当に国会議員になっちゃうわけでしょ。そもそも自由民主党になんで入りたいのか。自由民主党に入るのは国会議員になりたいから入るわけでしょ。たぶん国会議員落選したらすぐ抜けてますよ。党費なんて払う人もいない。要するに自分のことしか考えていないということではないのか。 自民党で選挙が強い人だって、やっぱり最初の頃はうんと苦労しているわけです。中選挙区で自民党とも、野党とも戦い、みんな這いつくばって地元を開拓して、自分の地盤を作り上げてきた。しかし、いまの小選挙区だったらそんなことしなくったって、自民党公認という金看板さえあれば、ほとんど勝てる。だから公募議員ってコツコツ努力していないもの。 金銭トラブルで自民を離党した武藤(貴也・衆院)議員も、宮崎議員も落下傘候補だった。地元で苦労したわけでも何でもないんだよ。政治家にとってドブ板というのはやっぱり大事なんだ。この街のことなら何でも知ってる、タクシーの運転手より詳しいんだというぐらいコツコツ歩く、そういう苦労をしていない。小選挙区とはもう党で決まっちゃう、そういう選挙制度なんだよ。「小沢ガールズ」だって民主党の看板さえあればだれでも当選出来た。ガーンと政権交代のような大きな変化があると、そういうチルドレンしか残らないわけ。今の自民党の公募議員っていうのはそれと変わらないんだよ。チルドレンとは呼ばれていないけど。なりたいからといって候補者にはなれない 共産党では自分でなりたいからといっても絶対、候補者になれないんです。「俺、今度参議選に出るから公認してほしい」って手を挙げたら「ちょっとこいつは変わりもんやな」となる。個人の希望でなんて絶対ありえない。共産党にとって、議員であるか、党本部の勤務員であるか、党本部の選対局にいるか、あるいは赤旗の記者やるかというのは、それぞれの任務分担なんです。党員として何らかの仕事をしなければいけないわけで、ある人は選対局の任務を与えられ、ある人は赤旗編集局で記者の仕事、ある人は国会議員の秘書、ある人は候補者になりなさいと言われる。それはあくまでも党内での党員の任務分担なんです。任務分担として議員をやってるわけです。未公開株をめぐる金銭トラブルを週刊誌に報じられ、記者会見する武藤貴也衆院議員=2015年8月26日午後、衆院第2議員会館 決めるのは党本部だけど、国会議員クラスになれば実際にはトップとかナンバー2が決めている。今なら委員長、書記局長クラスでしょう。僕らなんかでもだれを候補者にするかなんて相談は受けたことがない。共産党の人事というのはそんなものなんだよ。 例えば常任幹部会って最高の幹部が集まる会議があるんだけども、そこで「A候補にしようか、B候補にしようか」っていう議論はありません。選対局から提案があって東京は誰々、大阪は誰々と会議で発表される。それは委員長、書記局長が了承しているものだから。参議院の選挙区なんかは都道府県で勝手に決めるわけです。ただし、東京とか大阪とか京都とか、絶対獲りたいところはもちろんこれでいいかどうかって討議をするんだけれども、青森でだれ、石川で誰を立てるかってことは県任せですよ。 基本的に共産党員になれた時点で身体検査云々って話にはならないってこと。僕らが共産党に入った半世紀前はいきなり党員にはなれなかったんです。党員候補期間っていうのがあって、入党申込書に権力関係の有無とか、事件の前科であるとか全部書いて、長い入党の決意表明文を書いて、それが審査を通ったら、やっと党員候補になれた。労働者の場合は3カ月のお試し期間があって、正式の党員になる。 当時、僕がAという人を口説いて入党を決意させ党の会議に持っていくと、ほかの党員から「彼はまだ意識が弱い」「まだ共産党員のレベルに達していない」「もうちょっと鍛えてからにしよう」と。こういうことをホントにやっていた(笑)。なんたって革命運動の前衛政党、労働者階級の前衛が共産党だから。革命の司令部だからそんなの誰でも入れないんですよ。それが革命政党の本当の姿だと思いますよ。今は、共産党に入りたいといったら「喜んでー」って入れるかもしれないけどね(笑)。(聞き手/iRONNA編集部、溝川好男)

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    参院選出馬の今井絵理子氏 自民党は身体検査したのか

     7月の参議院選挙まで約半年あるにもかかわらず、早くも自民党の“目玉候補”として立候補を表明した今井絵理子氏(32)。人気音楽グループSPEEDのボーカルとして活躍する一方、聴覚障害のある長男(11)を持つシングルマザーとしても知られる彼女は、若い子育て世代を取り込む逸材として期待されている。 2月9日に自民党本部で開かれた出馬会見では、茂木敏充・選挙対策委員長が自ら「きょうは白い服で、『White Love』の通りではないか」とSPEEDのヒット曲に引っかけて彼女を紹介する異例の好待遇。そこで彼女は、「障害を持っている子供たち、そのお母さんたちが、より明るい希望を持てる社会作りをしたいなと思いました」 と出馬の理由を語り、「私は、政治は希望だと思います」と力強く表明した。第83回自民党大会で参院選候補者の今井絵理子氏(左)を握手で迎える安倍晋三総裁=3月13日、東京都港区(撮影・春名中) 甘利明・前経済再生相の辞任を皮切りに相次ぐ党内スキャンダルや失言連発で逆風が吹き始めた安倍自民にとって、今井氏の出馬は起死回生の一手といえよう。そんな今井氏は出馬直後、別の形でも騒がれた。「シングルマザー」という触れ込みの彼女には、実は交際相手がいたと複数の週刊誌で報じられたのである。そのお相手は俳優・徳重聡似の「イケメン」と評される、今井氏の地元・沖縄の同級生A氏だ。 沖縄県那覇市にある歓楽街、松山で飲食店のキャッチをしている男性に週刊誌を見せるとびっくり仰天。「あれ、Aじゃないですか。実物のほうがイケメンですけどね。顔がカッコいいだけじゃなくて、ゆっくりとした優しい口調で喋る人なんで、モテてました。今井絵理子と付き合って内地にいるとは知らなかったな」 A氏はこの界隈ではちょっとした有名人だったのである。というのも彼は、この地でほんの1年前まで、「風俗店」を経営していたからだ。同じ松山で飲食店を経営する古い友人が語る。「少女3人にみだらな行為をさせた」「Aは今井さんと同じ地元の学校を出てからLED電球を売る会社を立ち上げて社長になり、『俺はこのビッグビジネスの波に乗って儲ける』といっていたけどすぐ潰れた。それで風俗業界に詳しい人間と2人で数年前に松山で風俗店を始めたんです。店舗型のピンサロのような形態ですね。 その後、今井さんと同窓会で再会して、付き合いはじめたそう。今井さんはAが風俗店をしているのが嫌で、『自分と一緒に本土で暮らそう』といっていたらしく、頻繁に内地に行っては、働き先として福祉施設を紹介されたりしたらしい」 同じく松山でデリヘルを経営する彼の知人もいう。「Aに『地元の同窓会があるから、みんなで遊びに行く車が要る』といわれて、いつも女の子の送迎に使っているレンタカー屋で車を手配してあげたら、『今井絵理子が来ていて、親しくなってよくメールが来るんだ』と嬉しそうにいっていた。そのうちAは、『今井が内地に引っ越すようにいっている』というようになって、たびたび内地に行くのに渡航費を工面してやった。そのくせ、『今井に外車を買ってもらった』と自慢もしてきた(笑い)」「少女3人にみだらな行為をさせた」 しかし、今井氏と付き合って以降も、A氏は風俗店の経営から手を引くことはなかった。2015年3月、中学生を含む少女3人にみだらな行為をさせたとして、店員の男性と2人で風営法・児童福祉法違反の容疑で那覇署に逮捕されたのだ。当時の地元紙・沖縄タイムスにはこう報じられている。〈那覇市松山のテナントビルの一室で、14歳の女子中学生と16歳と17歳の無職少女2人を雇い、男性客相手にみだらな行為をさせた疑い〉 実際にその風俗店で働いていた元店員の男性は本誌の取材に、「中学生を雇っていたのは事実で、自分が逮捕されなかったのは本当に幸運だった」と振り返る。 釈放されたA氏は、ただちに風俗店を畳んだ。「今井さんがAを絶対連れて行くと強く決めたようで、昨年5月に沖縄から出て行く直前、Aが挨拶に来た。『これからはまじめになる』が最後の言葉だった」(前出・デリヘル経営者) A氏が「まじめ」になったなら何よりかもしれないが、それですべてチャラになったわけではない。彼は沖縄で風俗店のほかに、飲食店や貸金業にも手を出しており、そのために方々からカネを集めていた。その借金は、いまだに返されていない。前出の飲食店経営者は「裏切られた」と憤る。「貸金業でいいカモの客を握っているから、ガンガン儲かるといわれてAに100万円ほどを貸したところそのまま、内地に行って連絡先も変えてしまったから取り戻せない」 同じくデリヘル経営者もそれ以上の金額をA氏に提供したままだというが、彼の場合、「Aは優しすぎて失敗を重ねただけで、嫌いにはなれない」と同情的である。なるほど、人からモテる才能があることだけは間違いない。 東京に住む今井氏を訪ね、子供が出かけたことを確認してからインターフォン越しに話を聞いた。 ──Aさんが昨年3月に逮捕されたとの情報がある。「すみません。プライベートなことなので、事務所のほうに確認していただいて」──知っていたのか?「(しばらく沈黙の後)事務所に聞いてもらえますか?」 その後、今井氏の所属事務所から回答があった。「今井に確認したところ、『経営を譲渡した店で事件が起こったが、本人は不起訴になったと聞いています。それ以上の詳しいことは判らないです』とのことでした。また、本人のプライベートな問題については、回答を控えさせて頂きます」 沖縄にある今井氏の実家に住む父親は、「本人からAさんとの話は聞いている」というが、逮捕の過去については「えっ!? 初めて聞きました」と驚きを隠さず、記者に詳細を尋ねた。動揺した様子だったが、最後には「本人たちの問題でしょう」と述べていた。 もちろん、A氏と今井氏が「まじめ」に交際すること自体を否定するつもりはない。だが、今井氏が「シングルマザー」として子育て世代からの集票を見込んで出馬する以上、中学生を風俗店で働かせていたA氏の過去が、影響を与える可能性は高い。 そもそも自民党は、この“目玉候補”の交際関係について、しっかり「身体検査」(過去の発言や周辺関係も含めたスキャンダルなどの調査)をしたのだろうか。スキャンダル続出でイメージ回復に躍起になり、「SPEED出馬」させたのが裏目に出ているのかもしれない。関連記事■ 今井雅之さん 親友・中居のカラオケ中、トイレに逃げたことも■ 今井絵理子氏 逮捕された恋人のビジネス現場を訪れていた■ 自民候補・今井絵理子の恋人に児童福祉法違反で逮捕歴報道■ 松井秀喜氏の今年の抱負は「進」 バイクにまたがる姿も披露■ 今井雅之「どうしても出たい」と中居正広と最後の共演果たす

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    ショーンK「学歴詐称」に見るテレビの責任

    ・」 正直な感想である。ショーンKなる人気コメンテーターの学歴・経歴詐称問題のことだ。複数のレガシーメディアでコメンテーターや番組ナビゲーターなどを務めていた人物のスキャンダルだけに、世間はこの話題で持ちきりだ。 例によって、メディアは「池に落ちた犬は叩け」、とばかりにバッシングを繰り広げているが、実際、番組コメンテーターとして彼を出していたテレビはどうなんだ?と思わざるを得ない。彼を出演させていた責任はないのか?という素朴な疑問だ。「やっちまったか」という感想は、ショーンK氏に対して発したものではなく、彼を持ち上げ、番組に出し続けたテレビ局に対してのものだ。ショーン・マクアードル川上氏 そもそも有識者、文化人などのカテゴリーから選ばれる情報番組(ワイドショー)のコメンテーターはどのようにして選ばれているのか?ルールとか基準とかあるのだろうか?疑問に思う人もいるだろう。局によって違いはあるだろうが、基本は番組の責任者に権限がある。つまり、プロデューサーや編集長と呼ばれる人たちだ。 情報番組は毎日様々な分野のニュースを取り上げる。事件・事故などの社会部系ニュースから、政治関連ニュース、国際ニュース、経済関係ニュース、そして芸能人や政治家のスキャンダルなど、ありとあらゆるジャンルを網羅する。したがって、それらジャンル別にコメンテーターを用意する必要がある。まずは、レギュラーコメンテーターだ。番組によって同じ顔触れを毎日固定する場合もあるし、曜日ごとに変える場合もある。それに加え、日々の話題によって、スポットでコメンテーターを選び、番組に呼ぶのだ。 レギュラーコメンテーターの選出には、番組プロデューサー・編集長に権限がある。特に改編期などの入れ替え時期には入念に顔ぶれを決めるのが通例だ。番組スタッフ内で候補者を選び、何人かに絞る。最終的に、報道局内でオーソライズし、決定する。番組のキャスターともなると、視聴率にもかかわってくるので、社内における根回しが必要となってくる。編成局、営業局など他の部署の合意も必要だ。しかし、コメンテーターを選ぶ際にはそこまでの社内調整は必要とされないことが多い。「コメンテーターの経歴は調べないのか?」という疑問 レギュラーコメンテーターを選ぶにあたり必要とされる資質とは何か。経歴・学歴などのバックグラウンドはもちろんの事、知名度、権威、個性に加え、清新さ、話のうまさ、ルックスなどが上げられる。要は誰が見ても、「この人のコメントは心配ないだろう」という人が選ばれるのが普通だ。 一方、日々のニュースに関して呼ばれるコメンテーターについては、上記のようなことは言っていられない。何しろニュースは待ってくれない。あらゆるニュースが飛び込んでくる。そのニュースに関してコメントしてくれる人は誰なのか、担当ディレクターは電話をかけまくったり、ネットで検索しまくったりして、人を探すのだ。必死である。なにせ時間との勝負なのだ。見つかりませんでした、は許されない。時には社内の専門記者や解説委員にアドバイスを仰いだりする。一見の人を呼ぶより、社内の人間の“お墨付き”がある方が安心だし、パイプがあれば出演交渉もスムーズになるからだ。 さて、話をショーンK氏に戻そう。彼がどのような経緯でレギュラーコメンテーターに選ばれたのか小生は知らない。気づいたときはいつの間にか画面の常連になっていた。正直、知名度がある人ではなかったので、初めて彼を見た時は「誰?」という素朴な疑問を抱いたのは事実だ。番組として、他の情報番組の常連ではない、斬新でユニークな人を選ぼう、という意思が番組内で働いたものと思われる。 そうした時には、プロデューサーの声が大きい。何といっても番組のヒトモノカネを握っている権力者なわけで、彼がNoといったものはNoだし、YesといったものはYesなのだ。したがって、学歴・経歴詐称を行った人間をレギュラーコメンテーターに決定した責任は番組プロデューサーにある、と私は考える。 次の読者の疑問は、「コメンテーターの経歴は調べないのか?」というものだろう。答えは、Noだ。自己申告、もしくはネット上の情報以外に独自にその人の経歴を洗い直すことは通常しない。ある意味性善説にのっとっていると言ってもいいだろう。実は小生も経験がある。自分の担当する番組で準レギュラーとしてとある識者を推薦したのだ。立派な肩書・経歴だったし、疑う余地はなかった。当然、誰も異を唱えることはなかったし、プロデューサー含め反対はなかった。その人物のコメントは切れ味も鋭く、なるほど、と思うものが多かった。期待以上の仕事をしてくれたのだ。しかし、しばらくして突然、その人物の学歴詐称問題がネット上に出現した。結局、編集会議でその人物の出演は見合わせることを決定した。テレビに出るコメンテーターの学歴・経歴についてはこれまで精査されてこなかったのだ。自分も含め、この点は大いに反省しなければならないし、システムそのものを見直さなければいけない、と思う。 いずれにしても、これだけ大っぴらに詐称が行われていたことを見ると、今後、報道番組や情報番組に出演する人は全て、経歴や学歴にうそがないか、チェックする必要が出てきた。さもないと、テレビ局はとんでもないレピュテーションリスク(信頼性を毀損するリスク)を負うことになる。まるで、閣僚任命前の“身体検査”のようだが、仕方がない。 ニュースの中身を正しく理解し、深い洞察に基づいて視聴者に新たな視点を提供するようなコメンテーターがベストだ。急逝したジャーナリスト竹田圭吾氏のような人だが、そういう人は少ない。見てくれや喋りのうまさ、その時その時で話題になっているというだけで選ばれた人がコメンテーターとして画面に出ているのが実態だ。 情報番組はこれまで「視聴者の目線に沿った」人をコメンテーターとして選んできた。一般市民の目線でコメントしてくれる人を視聴者も受け入れ、楽しんできた側面は否めない。私たちはそこに「深さ」を求めてこなかった。しかし、現代はネット上に様々な情報が溢れている。誰もが瞬時に情報を入手できる今、視聴者の意識は大きく変化した。コメンテーターの発する言葉は瞬時に評価され、その評価はネット上に拡散されていく。適当なことを“喋くり倒して”いれば良い、という時代ではない。毎秒毎秒、“真剣勝負の世界”だと知るべきである。さもないと視聴者を愚弄することになりかねない。テレビ局が思っている以上に視聴者は情報を持っており、賢いのだ。 ショーンK氏が何故学歴・経歴を詐称するに至ったかについては筆者は知る由もない。しかし、彼を選び、番組に出し続けたメディアの責任は重い。彼を起用していたテレビ局やラジオ局がどのようなコメントを出すのか、視聴者は見ている。

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    自民党の候補者ネット公募 スキャンダル探し大会の怖れ

     今夏の参議院選挙では自民党の選挙戦略に大きな狂いが生じている。最大の誤算は本誌が報じた参院選の目玉候補、SPEED・今井絵理子氏の「婚約者の逮捕歴」問題だ。婚約者が昨年3月、児童福祉法違反で那覇署に逮捕され、処分保留で不起訴になっていたのだ。さらには、前回の総選挙における公認候補・武藤貴也氏や宮崎謙介氏らのスキャンダルも登場している。 これから参院選の本番を迎えると、候補者のスキャンダルがさらにクローズアップされる可能性が高い。 それというのも、自民党は今回、若者にアピールする狙いで初めてネットで参院選の候補者を募集し、ネット投票で最終的な公認を決める「オープンエントリー」を実施しているからだ。 公募条件は「日本の将来と私」「自分のまわりの1億総活躍社会」のいずれかのテーマで原稿用紙わずか1枚の論文提出。すでに受け付けを締め切り、内部審査で党大会前日の3月12日にファイナリスト約10人が発表され、それからPR活動を行なって5月のネット投票で上位の者が正式に参院選の候補者となる予定だ。ネット選挙の専門家が危険性をこう指摘する。第83回自民党大会で参院選必勝祈願のバンザイを行う安倍晋三総裁(中央)ら=3月13日、東京都港区(撮影・春名中)「これまでの自民党の公募に応募するには、自民党関係者の紹介が必要だったから事前にどんな人物なのかある程度はわかった。しかし、今回のネットのオープンエントリーには紹介は必要ない。中にはどこの馬の骨かわからない人も入ってくる。これまで以上に候補者の人物チェックができない仕組みなわけです」 そしてネット上で起きる異常事態をこう予測する。「一番心配なのは、ファイナリストが発表された後、ネット上ではほぼ間違いなく“あの候補は以前、民主党の公募に応募していた”とか、“こんな発言をした”といった粗探しが盛り上がること。公選法の規制は受けないから書きたい放題になる。 自民党の内部選考段階の身体検査には限界があるから、ファイナリスト全員が炎上するような事態になれば、せっかくの試みが自民党候補のスキャンダル探し大会と化す恐れがあります」 衆院議長経験者の大ベテラン、自民党の伊吹文明氏は二階派の総会で、若手議員の教育について、「10万票をもらって国会に出てきた人に、新たに人間教育をしなければいけないなんて言い出したら、日本の恥だ」と嘆いてみせた。 それはその通りなのだが、そんな「日本の恥」の国会議員を生み出し続ける候補者選びの杜撰さ、ザルすぎる候補者の身体検査を自民党はまず恥じるべきではないのか。関連記事■ マスコミが報じない参院選・ネット選挙の真相に迫った1冊■ 宮崎、武藤氏ら2012年組が誤算 自民党候補者公募の問題点は■ 衆院落選議員 参院へ鞍替え図るのは借金苦から逃れる側面も■ 嶋大輔が参院選候補者に浮上で加速する自民党の「ヤンキー化」■ 7月参院選 自民尋常なる上げ潮で野党が消える日になるか

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    乙武君を「ゲス不倫議員」と一緒にしてはいけない

    鈴木哲夫(政治ジャーナリスト) ここ最近、自民党議員の不祥事が続き、メディアなんかでも「自民党の『身体検査』が甘いのではないか」という指摘があります。ですが、公党の「身体検査」と乙武洋匡君の不倫スキャンダルをごちゃ混ぜにした議論は、本質的に間違っています。 『週刊新潮』が最新号で報じた乙武君の不倫スキャンダルは、彼が今夏の参院選でどの党から出馬するのか、公認をめぐるいざこざ、恨み辛みから編集部にリークされたのがきっかけだったと聞いています。乙武洋匡さん=2月29日午後、東京都新宿区(荻窪佳撮影) というのも、乙武君にはもともと前回の新宿区長選に出馬するという話があったのですが、ある理由で断念しました。 実は彼には国政の舞台で活躍したいという気持ちの方が強かった。だから、直近の国政選挙である参院選の出馬を決意したのですが、政治団体「日本を元気にする会」代表の松田公太氏と仲が良いこともあって、出馬するときは「元気にする会」からという覚書を松田氏と交わしていました。松田氏自身も改選でしたから、いまの状況では自身の選挙も厳しいのは当然分かっていた。だから、乙武君が出れば、知名度の高い彼とも選挙運動が連動できるし、乙武君自身も最初はそれでいいと考えていたようです。 ところが、事態は変わりました。第一次安倍政権の秘書官を務めた井上義行衆院議員が、松田氏のやり方に反発して離党したんです。それから「元気にする会」がゴタゴタしてしまって、乙武君も不安に思い始めたようなんです。 そこに、自民党が目をつけた。ある自民党議員が、乙武君の引き抜きのために積極的に動いたそうです。そして昨年12月7日、乙武君と菅義偉官房長官が会談し、今年4月に乙武君が東京選挙区から自民党公認候補として出馬会見するという段取りが正式に決まったんです。実を言うと、私もその情報は把握していました。自民党は乙武君を徹底的に調べていた そんなわけで、自民党は乙武君について昨年暮れから目をつけていたわけですから、彼の「身体検査」というか、彼の経歴については徹底的に調べています。では、彼の何を調べていたのかといえば、新宿区長選への立候補が取り沙汰されたとき、彼の周辺では金銭トラブルが起きたんです。これは乙武君自身の問題ではなく、仕事先とのちょっとしたトラブルでした。そういう情報も事前にキャッチして、官邸や自民党都連が中心になって彼の身辺を徹底的に調べ上げ、金銭トラブルは問題ないという結論になった。でも、不倫と言うのは、金銭トラブルとは趣が随分異なる。そもそも本人が隠してやっているわけですから、表に出にくい。それ以外の彼のいろんな噂については調べ上げていたんでしょうが、不倫の事実までは掴むことができなかったようです。 しかも、今回の不倫スキャンダルは乙武君のかなり個人的なことまで知っている人からのリークですから、自民党の「身体検査」が甘かったからというのはちょっと違うと思います。それでも一つ言えるのは、いまの自民党の調査能力は昔に比べると相当弱くなっていると思います。 自民党には「2012年問題」というのがあって、2012年に初当選した公募議員の顔触れをみれば分かりますが、『週刊文春』が報じた不倫疑惑で辞職した宮崎謙介元議員や、週刊新潮がセクハラ疑惑を報じた石崎徹議員らがいて、政治家としての資質や劣化が問題視される議員がゴロゴロいます。 自民党の歴史を振り返ってみると、候補者の公募というのは小選挙区制が導入されたことをきっかけに始まりました。党内には「ピカピカの履歴書」という隠語があるんですが、これは候補を誰にしようかと選んでいるときに、華々しい履歴書とか、有名大学を出たとか、アメリカの大学で資格をとったとか、商社勤務だったとか、そういう「ピカピカ」の経歴を持つ人物にころっと騙されてしまうんです。あと、忘れてはならない隠語が「イケメン」。小選挙区では当然1人しか通りませんから、万人に受けるイケメンがいい。もちろん、彼らの身体検査もしているんですが、それでもピカピカの履歴書とイケメンに目を奪われて「女に多少モテるのは仕方がない」と審査が甘くなる向きがあるんです。ましてや、奥さんも子供もいるような人物だったら、たとえイケメンでもそれなら安心だろうと、ますます調査が甘くなっているようです。飯島勲元秘書官の「身体検査」は凄い でも、中選挙区制の時は違いました。党の公認がほしければ自分で後援会をつくり、選挙資金をつくって無所属から這い上がらなければいけない。もし現職を落として当選したら、その後公認してやるっていうのが自民党の歴史だった。 議員一人ひとりが地域活動や選挙活動を一生懸命やって、這い上がっていくわけです。だから、地域の人も「あの人は頑張り屋さんだ」とか、「資金集めばかりをやっていて汚い人間だ」とか、「あいつは女にだらしないところがある」といった噂が自然と広がり、いつしか党本部の耳にも入る。叩き上げの候補者が公認を掴み取るというやり方だったからこそ、ごく自然な流れで「身体検査」ができていたわけです。 かつては派閥ごとに候補を育てていて、目が行き届いていました。小選挙区になり、公認の権限を党の執行部が握るようになると、派閥が弱体化し、チェックも甘くなる。そういったことが複合的に重なり、「身体検査」や候補者本人を見極める力が弱くなっていったわけです。飯島勲内閣官房参与(元首相秘書官)= 2014年4月14日、首相官邸(酒巻俊介撮影) 小泉(純一郎)総理を支えた飯島勲元秘書官は、情報収集やメディア戦略に長けていたことで知られています。まず第一に、飯島さんはエリート官僚だけでなく、現場で働くノンキャリアに対しても、分け隔てなく大事にしたからノンキャリアにもいっぱい人脈がある。キャリア官僚は政策に関しては優秀だけれど、「あの先生は自分の地元支援者から裏でお金をもらっている」といったブラック情報は必ずといっていいほど、子飼いのノンキャリアが仕入れてくるんです。 第二に、飯島さんは警察や公安調査庁とか、捜査能力のある役所にも強かった。 そして第三として、マスコミ、それも週刊誌やスポーツ紙にも強かった。普通は週刊誌の記者が議員会館を回っても「週刊誌は嫌いだ」とか、「すぐ悪口を書く」とか言って、国会議員や秘書官も相手にしないわけですね。でも飯島さんは、小泉さんが総理になる前から週刊誌の記者も事務所に招き入れ、一緒に酒を飲んだりして付き合いを深めていった。 ここ2、3年、安倍内閣のスキャンダルはほとんど週刊誌が発端だった。週刊誌はアングラな情報、男と女の話とか、噂の類といった情報には圧倒的に強い。こういった情報が飯島さんは自然に入ってくる人脈を築いていたんです。だから「身体検査」にも強かった。 いまの安倍首相の秘書官を飯島さんと比較すると、情報収集能力では明らかに劣っていますよね。安倍さんはどうしても大新聞社やテレビ局と付き合いがちになる。そうなると、なかなかアングラ情報は入ってこない。官邸の中で、週刊誌との付き合いがあるのは、官房長官の菅さんだけなんじゃないかな? そういう意味では、飯島さんは群を抜いて情報収集能力に長けた秘書官だったと思います。自民党の反撃 スキャンダルというのは、その時の政治状況によって全然変わってくるんです。政治家が同じスキャンダルを起こしても、辞める人と辞めない人がいるのはそのせいなんです。宮崎元議員は憲政史上初の不倫を理由に辞職した国会議員とか言われてますけど、彼がなぜ辞めなければならなかったのかは、安倍政権の施政方針をみれば一目瞭然です。安倍政権にとって女性の活躍は柱なんです。宮崎元議員は「イクメン議員」として注目されていたし、夏に国政選挙も控える中では「早く切った方がいい」という官邸の判断だったんでしょう。これは政権の危機管理であって、クビを切るべき時に切らずに広がれば、政権に大きなダメージを与える可能性もある。いまは週刊誌のスクープ合戦が続き、より危機意識を高める必要になったということでしょう。 今年に入り、甘利さんや宮崎元議員の問題が次々と表面化し、予算審議などへの影響もあって、自民党の国対(国会対策委員会)はとても苦労していた。そんなときに自民党は何をやったかというと、他党のスキャンダル探しをしていたんです。特に民主党のスキャンダル、金や女の話はないかって。でも、それは天に唾する話で、民主党のスキャンダルを見つけたところで、民主党はおとなしくなるかもしれないけど、世論は許さない。トータルで政治不信になって、自民と民主の支持率が落ちるのは間違いない。結局、表には出ませんでしたけどね。 乙武君の話に戻ると、彼は退路を断っていますし、いまも参院選にチャレンジしたいという気持ちを持っていると思う。だからこそ、色々批判はあると思うが、奥さんと共にコメントを発表した。 自民党は彼を最後の「目玉候補」と考えていた。ほぼ参院選の候補が決まり、4月に記者会見をするという流れをつくってきたのに、こんなことになってしまったから、目玉どころか彼が足を引っ張ってしまう「危険候補」として微妙な立場に変わってしまった。 乙武君だけ票が減るならいいけど、例えば東京選挙区から出馬するとして、同じ選挙区から中川雅治君が出ることが決まっていますから、二人の票の配分も変わってくる。どちらかが落選してしまうとか、乙武君の勝ち負けだけの問題では済まなくなるんです。 現時点では、乙武君の出馬が吉と出るか凶と出るのか、自民党にとっては難しい判断になるでしょうね。 参院選は、衆院選とは異なり選挙区が広いから、通常なら選挙の1年くらい前には候補者名を出さないと浸透しないのですが、彼の場合は知名度がありますから、出馬表明はギリギリでもいいわけです。当然、自民党は世論の動向を見極めながら決断するでしょうから、4月24日に行われる北海道補欠選挙の結果も考慮してから判断するのではないでしょうか。(聞き手/iRONNA編集部、川畑希望)すずき・てつお 1958年生まれ。早稲田大学法学部卒。ジャーナリスト。テレビ西日本報道部、フジテレビ報道センター政治部、日本BS放送報道局長などを経て、2013年6月からフリージャーナリストとして活動。20年以上にわたって永田町を取材し、与野党問わず豊富な人脈を持つ。テレビ、ラジオの報道番組でコメンテーターとしても活躍中

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    週刊文春に負けっぱなしの大メディア

    ベッキーの「禁断愛」に始まり、甘利大臣秘書の口利き疑惑、イクメン議員の不倫、そして最新号はショーンKの学歴詐称疑惑…。今年に入り、世間に衝撃を与えるスクープを飛ばしまくる『週刊文春』。新聞、テレビも後追いばかりの「文春砲」は流行語になりつつある。なぜ文春だけが「一人勝ち」するのか。

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    狂牛病化するメディア

    新井克弥(関東学院大学文学部教授) メディア(マスメディア)の劣化が酷い。いうならば狂牛病(狂メディア病?)=中身スカスカ状態だ。まあ、その原因はいくつかあるだろうが、インターネットの普及がその最たる要因であることは異論を挟まないだろう。ネット社会の出現によって、これまで普及していた諸メディアのコンテンツや機能が、ネットに奪われ、にっちもさっちもいかなくなっている。もはや一般人は新聞を読もうという気も、雑誌を買おうとする気も、ラジオを聴こうとする気も、テレビを見ようとする気も、どんどんと失せている。これらに積極的にアクセスするのは、インターネットリテラシーの低い高齢者だけだ。そこで、いわば「オールドメディア」は、苦し紛れに、こういった安定した視聴者、読者、リスナー層を確保し続けようと、コンテンツをどんどん高齢者向けにしていく。ただし、高齢者がいかに見続けてくれても、この世から真っ先に去って行く世代。そして、この高齢者層でさえも次第にインターネットリテラシーをそれなりに上げていく。だから、こんな「悪あがき」をやっていってもオールドメディアはジリ貧であることに変わりはない。 そして、このジリ貧が現在負のスパイラルを展開する要因にもなっている。客が取れないから実入りが減る→制作予算が低下する→制作費や給与が引き下げられる→優秀な人材がネット産業などに流れる→コンテンツの質の低下を招く→さらに客が取れないから実入りが減る→高齢者に依存する→尻すぼみになるといった具合に、とんでもない悪循環が続いているのだ。 で、ここで特に注目したいのがコンテンツの質の低下だ。もがくあまり、単なるスキャンダリズム、つまりイエロージャーナリズムや、第三者、もっというと素人による情報の流用という手段に出ていくのだ。で、とにかく儲かりゃ何でもやるというのが、今のメディアの図式なのだ。そして、ここにもネットの陰がちらつく。 至近の例を見てみよう。その1:甘利明内閣府特命担当大臣の辞任URへの口利き疑惑によって甘利は大臣辞任に追い込まれる。この授受が存在したこと自体は事実なのだが、問題は、この事実がスッパ抜かれるタイミングだ。金銭の授受があったのは2013年のこと。それを文春が報道したのが今年の一月。これはメディアがよくやる手で、こういったスキャンダルネタを寝かしておいて、大臣になった瞬間報道する。このほうが明らかに注目度が高い。言い換えれば、注目を浴びるのでオイシイからだ。大臣になった瞬間、政治資金不正疑惑が出るのは、こういったイエロージャーナリズム的な心性に基づいている。大臣になって権力を獲得したから、突然「悪代官」に豹変したわけではない。で、今回文春が、これ以上に悪辣なのが、すっぱ抜きがTPPの最中であったことだ。ご存じのように甘利はTPP旗振りの重要人物。ここで、甘利を引きずり下ろしたら、当然、TPPに大きな影響が出ることは確実(代わりが石原伸晃なら、なおさらか?)。これが、かつてのジャーナリズムだったら、さすがにこのへんは空気を読んでいたはずだ。つまり、TPPが一段落つくまでは報道を控える。いいかえれば、そんな余裕すらないほど、メディアは切羽詰まって自己中になっているということなんだろう。つまりメディアの劣化。そしてメディアは狂牛病化するその2:ベッキー問題 これは、他のところでも指摘されていることだが、この報道のアブナイところが全くスルーされている。言うまでもなくベッキーとゲス極の川谷絵音のトークが漏れていることだ(LINE開始当初のイメージキャラクターがベッキーだったのは、なんとも皮肉)。あたりまえの話だが、LINEのトーク内容を外部の人間が第三者が閲覧することは原則不可能だ。可能だとすればパスワード(ディバイス(スマホ、タブレット、PC等)のものと、LINEのもの)を知っている必要がある。どうして、そんなモノをスッパ抜いた文春が知っているのか?可能性としてウワサされているのが、川谷妻が文春にリークしたというものだが(まあ、可能性としてはいちばん、考えられる)、だとすれば、これはほとんどリベンジポルノと同じ構造になってしまう。しかもその場合、片棒を担ぐのが文春という図式になる。そしてプライバシーの侵害。倫理もへったくれもないわけで、やはりこれまたメディアの劣化。その3:SMAP問題 これはすでに以前、ブログに書いたこと(http://blogs.yahoo.co.jp/mediakatsuya/65983320.html)なので簡潔に説明しておくが、要するにメディアはSMAPを窮地に陥れたメリー喜多川をほとんど非難しなかった。理由は簡単で、ジャニーズの実質女王であり、メディア(とりわけテレビ)に絶大なる威力を持つ喜多川を攻撃したら、ジャニーズから恩恵を受け入れられなくなってしまうと恐れたからだ。カネのためなら権力にも平気で媚びるというジャーナリズムの風上にも置けないことを平気でやる。つまり「強きをくじき弱気を助く」の逆の図式。これまたメディアの劣化。その4:ネット依存Aーネット住民への無警戒 予算の低下、人材の質の低下が招いたのがメディアによるネット依存だ。一般人がアップした情報を取り上げ、これをメディアに掲載する。かつてコンビニの冷蔵庫にバイトが潜り込んだ事件やペヤングソース焼きそばやマックのハンバーガーへの異物混入などはその典型。これは摘発というものでもなく、個人が気がついてアップしたもの。かつてなら表に出ることはなかったものだ。これ自体は、まあ問題と言えば問題だが、結局これを拡散するのはメディアなのだ。そしてペヤングやマックいじめが始まる。 オリンピックのエンブレム問題も同様だ。この時、エンブレム自体は疑惑があったとしても証拠はない。これをネット住民(この場合、騒ぎたい一部の人間のことだが)が、一斉に非難を浴びせる。そして、これをメディアが拡散する。ネット上で収まっていれば大したことにはならないのだが、メディアは要するにマスメディア。不特定多数にプッシュ的に拡散するシステムを持つ。これによって、問題は一大事となる。この時、いわば魔女裁判+公開処刑が始まるのだ。結局、何の証拠もない状態で佐野研二郎のエンブレムは使用禁止になった。もし、仮にこのエンブレムが使えるモノか使えないモノかをメディアが議論するなら、エンブレム疑惑を騒ぐネット住民の片棒を担ぐのではなく、自らの足と頭を使って、確固たる証拠を示すべきなのだ。ところが、そんなことはやららない。カネはないし、頭もないし、時間もないから。 そして、その際に専らネタとして引用されるのがソーシャルメディア、とりわけ匿名によるモノだ。これらのほとんどは根拠に乏しい。匿名だから何書いても原則オッケーだからだ。そして、これについてもメディアは言質を採らず、スキャンダリズム、イエロージャーナリズムに基づいて、これを大々的に取り上げてしまう。つまり、メディアの劣化。 ちなみに天に唾するようだがBLOGOSなどのブログとりまとめサイトのエントリーをそのまま引用したりするのも、この「省エネ」「横流し」の典型的な手法の1つだ。ちなみに、ぼくが「天に唾する」と言ったのは、このブログをメディアがチェックして、僕にコメントを求めてきたりすることを指している。まあ、ブロガーのブログを引用したり、ブロガーにコメントや執筆を求めてきたりするのはよいけれど、その前に自ら勉強して、こちらからは「参考意見を聞く」ぐらいのことはやってほしい。ヘタすると丸ごと掲載したり、こっちの説明を全面的に採用するなんて輩も存在するのだ(そのまた逆で、自分が初めから表現したいことがあり、それに適合することをブロガーにたずねてくるなんてパターンもある。これもジャーナリズムからはほど遠いところにある営為と言えるだろう)。 そういえば、コメントを求めてきた局スタッフや記者に、思わず説教を垂れたなんてこともあったっけな?こんなことをやる僕を「ウルサイオヤジ」くらいに一蹴するパワーがあれば、まだいいのだけれど、素直に聞いてこっちが言ったことをそのまま掲載したり、何を言っているのかわからないらしく、困った顔をして目を白黒させたり。その5:ネット依存Bーネットコンテンツのコピペ ネットからのコピペも非常に多い。典型的なパターンがTVによるYouTubeの動画からの流用だ。この中から面白そうな、いや、閲覧数の多い動画(「面白い」の基準がわかっていないので、専ら閲覧数に頼っている?)をそのままコンテンツにしてしまうのだ。これを十数本程度取り上げ、スタジオ(会場)にひな壇を設けてタレントをならべ、適当にコメントさせれば、廉価、省エネ、簡単企画な、お手軽90分スペシャルの一丁上がりとなる。つまり、何の工夫もやっていない。コンテンツをネットに丸投げしているだけ。ただし、YouTubeをよく閲覧するネットユーザーは、その多くをすでにチェック済みなので、原則、こう言ったコンテンツはスルーする。そう、やっぱりメディアの劣化。そしてメディアは狂牛病化する なんでこんなことになるんだろうか? 実はこれ、構造的な問題だろうと、僕は踏んでいる。メディアに従事する人間は実のところ、こういうふうにとんでもないことをやっていることに気づいていない。「周りがあたりまえのようにやっているから、自分もやっているだけ」。経費が削られて仕事に忙殺させられるようになったのだろうか?仕事の処理、仕事をこなすことだけに追われる状況に追い込まれたメディア関係者は思考を停止させる。そして気がつけばカネの隷となっている。つまり経済原理がプライオリティーファーストとなってコンテンツ作りを推進するようになっている こうなると収益の悪化→ネット依存→コンテンツの劣化という負のスパイラルは無限の連鎖を発生させ、気がつけばマスメディアというシステムの脳はスカスカのスポンジ状に、つまり狂牛病ならぬ「狂メディア病」化するかもしれない。というか、そういった事態はとっくに始まっていると考えるべきなんだろうが。つまり既製の使い古された形式に情報を流し込むだけの作業がひたすら続く。 おそらく、というか、ほぼ確実にこれらオールドメディアはネットというニューメディア=ブラックホールに吸い込まれていくのだろう。いいかえればスカスカになった脳が今度はそのセル=形式それ自体も崩壊させていく……その日はそんなに遠くないと、僕は読んでいる。(ブログ「勝手にメディア社会論」より2016年2月15日分を転載)

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    出版不況、書店業界を救う手立てはないのだろうか

    酒井威津善(フィナンシャル・ノート代表 ビジネスモデルアナリスト) 先日、都内近郊に10店舗展開する芳林堂が自己破産した。2月5日に自主廃業した出版取次老舗の大洋社自主廃業による影響が大きいとのことだ。昨年起きた出版取次4位の栗田出版倒産など、数年前から出版関連企業が次々と閉鎖や廃業に追い込まれている。出版・書店業界はこのまま手を拱くしかないのだろうか?気がつけば街中から消えてしまった米屋や八百屋、酒屋と同じ運命をたどるしかないのだろうか?出版市場の現状 改めて確認すると、出版不況の文字通り、書店、出版社、取次など出版関連企業は極めて厳しい状況に置かれている。出版科学研究所によると、書籍の流通量を示す2015年の出版販売額は、1兆6,000億円を割り込み、前年比5.3%の減の1兆5,220億円にまで減少。1950年に調査開始以来、過去最大の落落ち込みとなっている。 現在の出版不況を引き起こしている原因や背景には、ネット通販や電子書籍の普及、活字離れ、人口減少(特に地方)などあると言われており、さらには、出版業界特有の慣習(再販価格維持制度や取次によるパターン配送など)が、その本来持っていた機能が裏目になりつつあり、結果刃が逆になって持ち主を傷つけ始めている背景もある。 こうした状況に対して、できるだけ短期的に改善する策はないのだろうか?出版不況を招く原因のうち、活字離れや人口減少、および業界慣習については残念ながら今すぐどうにかできそうにないが、顧客との接点がある書店に絞って何がしか手がないか考えてみたい。 ネットへのシフトという点で、同じような状況に追い込まれている業界がある。CD不況と言われ、窮地に立たされている音楽業界である。CDは、ネット配信や動画再生サイトにとって替わられ、日本レコード協会の統計情報によると、CD全体(シングル、アルバムの合計)は、2006年の2億9020万枚をピークに、昨年2015年では1億6783万枚と約42%も落としている。 音楽業界が取った対策は、動画サイトに専用のチャンネルを作り、そこへファンを集め、ライブへと誘導することだった。一般社団法人コンサート・プロモーターズ協会によると、2014年での公園回数は27,581回(前年比125.5%)、動員数は4261万人(同109.7%)となり、一定程度成果をあげている。 CDと同じ情報媒体である書籍も似たような手立ては考えられるだろうか?残念ながら、否である。書籍は音楽と違い、直接アーティストの歌声を聴きたいといった副次的な欲求対象がない。あえて言うなら、映画化やテレビのドラマ化があるが、それでは書籍流通の世界を出てしまうからだ。 音楽業界での取り組みが成果を上げているのは、動画サイトで繰り返し見たユーザーが、「臨場感のあるライブで歌声を聴きたい」「他の曲も聞いてみたい」という気持ちを抱かせることができたからに他ならない。つまり、顧客がその商品と触れる時間を大きく増やしたことに要因がある。 音楽と同様の手法は取れないにしても、書籍について顧客との接触時間を増やす手立てはないのだろうか?例えば、すでに存在するケースでは、カフェなどを書店に併設する仕組みがある。事例として蔦屋書店の代官山店が有名だ。リアル書店ならではの「強み」 書籍スペースを中心にして、周辺に飲食店やグッズ販売店を置き、店舗エリア全体でエンターテイメント性を打ち出す。顧客は、カフェスペースでコーヒーを飲みながら購入した本を読むことができる価値を提供し、本との接触時間を増やすことに成功している。 しかし、この方法には大きな問題がある。カフェやその他施設を併設するための資金だ。ツタヤのような大企業ならいざしらず、地方都市にあるような小さな書店では到底マネできない。書店単体で接触時間を伸ばす方法を考えなければならない。本との接触時間にはやはり、取り扱いタイトルを増やすしかないだろう。 もちろん、単純にタイトル数を増やすことはできない。営業面積は限られている。そこで、既存の店舗のまま取り扱いタイトルを増やす方法として、在庫保管用に使われているスペースを再利用できないだろうか。 例えば、書店のショールーミング化はどうだろうか?これはファッションの世界でゾゾタウンが試みたケースが有名だ。店舗に見本の服を置き、試着して気に入った顧客がWEBサイトで購入するという仕組みだった。驚きの方法だったが、インストアの売上に対して家賃などを課金している百貨店サイドからの抵抗に合い、うまく進んでいない。もちろん、書店でもエキナカや百貨店といったインストアの場合は難しいが、店舗として独立しているのであれば、そのような縛りはない。 書店でのイメージはこうだ。タイトルごとに1冊だけ見本としておいておき、立ち読みし、購入したいと思った顧客が、その見本をレジへ持っていく。レジでは、ISBNコードなどを利用して、購入者の自宅へ配送する。受け取りはネット通販同様に自宅でもコンビニでも選べるようにしておくといった流れだ。この仕組みによって得られるメリットは、在庫を削減した分だけ取り扱いタイトルが増やせるほか、出版社への在庫返品の手間が減ることなどもメリットとして考えられる。 しかしながら、この方法も現実的ではない。リアルの書籍ならではの「購入後すぐ読める」という価値を失うほか、「特定の書籍をアピールする平積み」ができない。さらには立ち読みしたあと、そのままスマホ経由で購入されてしまい、ネット通販の売上に自殺点を入れてしまう格好になる恐れも想像できるからだ。リアル書店ならではの「強み」 ここまで、本と似た性質を持つ音楽業界からのヒントや、カフェなどの併設、さらには在庫スペースを利用した取り扱いタイトルの増加などを洗い出してみたが、どれも現実的には難しい。 とはいえ、電子書籍との比較にはなるが「現物としての書籍」特有の価値は間違いなくあるはずである。それは「紙であること」だ。当たり前だが、ネット通販で扱われる書籍は手に取ることができない。数ページを読むことができる「立ち読み機能」が付いているときもあるが、書店でパラパラとめくるほうが、現時点では使い勝手が良いのは紛れもない事実だ。 またネット通販には、中身の確認を補完するためにカスタマーレビューもあるが、一時期問題として巷を賑わしたように、ステルスマーケティング(ステマ)による賛同レビューはいまだ散見され、全幅の信頼がおけない状況もまだ完全に解消されていない。紙ならでは強みがあるのは、現にアマゾンがリアル店舗を出していることもその証左だ。 残念ながらこうした強みを活かした手段はまだ見いだせていない。しかし、無類の本好きの一人として、これ以上書店が減り続けるニュースは聞くに堪えない。微力ながら引き続き打開策を模索していきたい。参考記事【就活で銀行を選ぶな!】 銀行のビジネスモデルが終焉を迎える日 (酒井威津善 ビジネスモデルアナリスト)http://sharescafe.net/47617542-20160125.htmlワタミが劇的な復活を遂げる可能性が低い理由 (酒井威津善 ビジネスモデルアナリスト)http://sharescafe.net/47314916-20151224.htmlネットフリックスに見るビジネスの視点(酒井威津善 ビジネスモデルアナリスト)http://sharescafe.net/47055631-20151129.htmlモノを売らずに、「センス」を売る新しいビジネスとは(酒井威津善 ビジネスモデルアナリスト)http://sharescafe.net/44389389-20150422.htmlユニクロがゾゾタウンを買収すべき理由。(中嶋よしふみ SCOL編集長)http://sharescafe.net/46947284-20151119.html

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    巨人・高木京介の球団会見の裏に駆け引きと御用メディアの存在

    プ記事が出る前に当事者側が発表して、本が出る頃にはインパクトが薄れてしまうことはよくある。これは、他メディアでの報道のされ方にも関わってくるからだ。スポーツ紙記者が語る。 「文春の発売日は木曜日ですが、前日の水曜日には“早刷り”がマスコミに出回ります。これを入手した後の会見だと我々は『文春の報道で』と書かざるを得ない。しかし火曜の夜であれば“自発的に”発表したものだから、文春が~と書く必要性は最小限になる」 しかも球団の会見が行なわれた夜7時頃は文春側にとって校了(記事を仕上げて印刷所に入れること)ギリギリのタイミングだった。前出・スポーツ紙記者が語る。 「高木の賭博関与について文春が巨人側に取材をし、回答(*注)があって約8時間後に巨人が会見することがわかった。文春側もこのタイミングで会見されるとは思っていなかったはず」【*注:その回答は「現在、調査中であり、事実関係が確定できていないため、球団所属選手の氏名等は慎重に扱うようお願いします」というものだった】 その結果、週刊誌に先んじて新聞・テレビは大きく報じ、雑誌発売前に一連のニュースが消費し尽くされることになった。 もちろん巨人とすれば、調査をした結果、事実が判明し、責任者の処分を含めていち早く発表するため、この日の会見となったとの立場だろうが、週刊誌に追及されてやむなく事実を認めたのではなく、自浄作用が働いたという印象を強めるため、タイミングをはかったとも見れる。一般読者(視聴者)には、ニュースの裏でこのような駆け引きと、それと知りつつ利用される御用メディアがあることを知ってほしい。関連記事■ 「江夏の21球」や「巨人はロッテより弱い」発言の真相描く書■ 解任騒動の元巨人・清武英利氏が野球への思い綴った本が登場■ 清武氏 日本S直前の会見は渡辺氏に指示撤回してもらうため■ 巨人OB・広岡達朗氏 高橋由伸監督擁立に「軽率で言語道断」■ 内川、多田野、一場、長野…2000年代ドラフトの事件振り返り

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    「ベッキー」スキャンダル報道、本当にこれでよいのか?

    それがそのまま公開されたらとんでもないことになりかねない発言をしているものだが、これまではそれが公のメディアに載るという場合には、記者や編集者によるある種の判断のふるいにかけられた。今回の『週刊文春』も、LINE上のやりとりを誌面にどの範囲でどう出すか、検討はしたに違いない。そして、今回の場合はプライバシーが流出したからといってベッキーや川谷が法的手段に訴えるといった状況になる可能性はほとんどないと判断したのだろう。慄然とする「私的会話がそのまま公開」 ここで思い出されるのは、1980年代半ばに写真週刊誌が大ブームになって、毎週のようにタレントのプライバシーがさらされていた時代、読者はそれを眺めて拍手を送っていたのだが、時代を経て次第にそのことに眉をひそめるようになっていったという歴史的経緯だ。30年前は読者が他人事として面白がって見ていたものが、そのうちにこんなふうにプライバシーが侵害されるのを許しているとそれがいつか自分の身にもふりかかりはしないかと、もう一方の側にも身を置いて考えるようになった。30年の歴史を経たその経過を私はある種の市民社会の成熟だと捉えているのだが、それにならって言うと、今回のLINE流出を市民が面白がって眺めていてよいのかと思わざるをえないのだ。 たぶん今回は、ひどい目にあった妻に同情するという市民感情が加わったために、そこまでやって復讐するのかという疑問が薄められてしまったのだろう。でも、よく考えてみれば、携帯でやりとりした私的会話がそのままこんなふうに公開されるということ自体、慄然とする事柄ではないだろうか。 ではそういう方法はどういう状況なら許され、どういう場合は許されないかというと、ジャーナリズムの世界では、その目的が権力者の不正を暴くといったものならOK、そうでない場合はまずい、という線引きがなされている。その意味では、『週刊文春』が最近放った甘利大臣スキャンダルの場合は、昨年10月から尾行や盗撮といった方法で取材を行っていたけれど、それは巨悪を暴くためとして当然容認される。しかし、ベッキースキャンダルの場合は、少し違う。何をやっても報道目的を考えれば容認されるというケースではないわけだ。 だからこのベッキースキャンダルにおけるLINE暴露については、もう少し異論が出され、議論が行われてしかるべきだと思う。なぜそれが見逃されてしまうかというと、ネット社会が拡大する過程で、プライベートと公の区別が曖昧になりつつあるからだろう。 本当はこのベッキースキャンダル報道をめぐっては、考えてみなければいけないいろいろな問題が提起されているように思える。現実には、なかなかそういう議論がなされないのが残念だ。 それからもうひとつ、芸能人のスキャンダルを報じるにあたって、週刊誌やワイドショーが、不倫問題となると、異様にいきりたち、正義や倫理を振りかざしてこれでよいのかという論調を張るのも、どうにも違和感を感じる。プライバシーに踏み込む危ない報道をする場合にも、「不倫はいけない」と声高に非難する「茶の間の倫理」がふりかざされることで全て正当化されような雰囲気になってしまう。ワイドショーは主な視聴者層が主婦だから、最後は「茶の間の倫理」を落としどころにしないといけないというのは業界でよく言われることだが、今回のスキャンダル報道にもそういう匂いを感じざるをえない。(Yahoo!個人 2016年2月5日分を転載)

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    週刊文春パクリのニュースが急増!フジもテレ朝も…テレビは大丈夫?

    ュースを見た時に私が思った疑問は「フジテレビは独自にウラを取ったのだろうか? もし取ってなければ他のメディアのパクリではないか?」というものだった。宮崎議員の「不倫」の事実についてウラを取った、というのであれば、他のメディアを引用せずに「宮埼議員が不倫していたことがFNNの取材でわかりました」と堂々とニュースにすればいい。それをやらなかったのは本当に自社でウラを取ったのかどうかあやしい。 想像するにフジテレビ報道局としては、ニュース原稿の「宮崎議員は周辺に対して女性との不適切な関係を認めているということです」が、自分の社で取材した内容でウラを取ったのだ、というかもしれない。しかし「周辺」という不明確な表現は「関係者」というのと同じで、一般的にかなり根拠としては薄弱なものである。「党の幹部」でも「派閥の幹部」でもない。これはテレビニュースの原稿の書き方としても根拠を明言できない、かなりいい加減な部類の原稿の書き方だということができる。 フジテレビはこの「FNNスピーク」の他にも朝の「めざましテレビ」のニュースコーナー、夕方の「みんなのニュース」、深夜の「あしたのニュース」とニュースのたびに同様のニュースを繰り返した。直撃したというだけの取材で「スクープ」 夕方の「みんなのニュース」では、もっともテレビ各社がしのぎを削る18時少し前の時間帯で放送した。 しかもこの時の見出しは、 フジ「みんなのニュース」タイトル「妻への裏切り…スクープ直撃 “育休議員”タレントと不倫報道」(2月9日) となっている。他のメディアの記事を元に議員を直撃したというだけの取材で「スクープ」という言葉を入れてしまうところがフジらしい。軽いというのか、謙虚さを知らないというのか・・・。 しかもお昼では不倫の内容については「スポーツニッポン」を引用していたのに、夕方以降はネットに公表された「週刊文春WEB」の内容を引用している。「みんなのニュース」のニュース原稿では、「週刊文春WEB」の「育休国会議員の“ゲス不倫” お相手は女性タレント」という文字をアップで映し、その見出しを原稿で読み上げ、「明日発売の週刊文春が報じた“衝撃の見出し”。臨月を迎えた妻がいるにもかかわらず、他の女性と密会。不倫疑惑が浮上しました」と続けた。「相手は34歳の女性タレントで宮崎議員は周辺に対してこの女性との不適切な関係を認めているといいます」。フジは宮崎議員、金子議員の夫婦を出産前に密着取材した映像を持っていて、その映像をふんだんに使っていた。宮崎議員が2月2日に育児セット一式をアカチャンホンポで買ってきた後で妻の金子議員に見せる場面や宮崎議員が台所で料理して横になる妻に渡す場面も映し出された。相手の女性タレントが身長168センチだということ(週刊誌の記事に書いてあった事実)などを加えた他、金子議員の出産直後に赤ん坊との対面を果たした後の宮崎議員の喜びの声など、フジテレビだけしか持っていない映像をこれでもかというほど見せつけた。 ただ、この段階では本人が公式に認めていないので「不倫疑惑」でしかない。それを週刊誌の記事に依拠した形では「ウラ取り」した、といえる状態での報道だったのだろうか。NHK、日テレを始めとする他のテレビ局は週刊誌などの報道があるという状態だけでは「ウラが取れていない」という判断をしたのだろう。結果的に報道したのは本人が記者会見で事実を認めて辞職を表明した3日後だった。 2月12日(金)、宮崎議員本人が記者会見して不倫の事実を認めて謝罪して、議員辞職を表明した。 結果として、フジテレビの報道は間違っていなかったことが証明されたわけだが、だからといってこれで良し、としていいわけではない。 今回のフジテレビの報道、そして他人の威を借りたような「スクープ」と表明するはしゃぎっぷりに「危うさ」を感じてしまった。 「ウラを取る」。 その基本を忘れるといつか足元をすくわれる。そんな印象を持った育休議員の不倫報道の「ニュース」だった。 「ウラを取る」のが原則のテレビニュースで「週刊誌をなぞっただけの報道」が最近、目立つ。週刊誌のパクリ報道をテレビがやってしまっている。自社で事実関係をウラ取りが十分できていない段階で報道しているケースはフジテレビだけではない。 フジテレビは情報の引用先を明示しているだけにまだマシともいえる。記者集団のプライドはどこへ テレビ朝日はもっとひどい。 きちんと明示しないままで引用しているのだ。 甘利明・経済再生TPP担当大臣(当時)の「政治とカネ」での実名告発を、まだ甘利大臣本人が謝罪辞任会見を行う1月28日の前にテレビ朝日「報道ステーション」は頻繁に週刊文春の記事をなぞりながら、報道した(1月20、21、25、26日放送)。特に1月20日の「報道ステーション」は、「あす発売の週刊誌 『甘利明大臣事務所に賄賂1200万円を渡した』」と字幕で説明し、ナレーションで「千葉県白井市にある建設会社の総務担当者が実米で告発。甘利大臣本人や事務所秘書が口利きのお礼として多額のカネを受け取ったという内容だ。一部の資金提供は甘利氏の収支報告書に載っていないという」と報道した。明らかに週刊文春の報道内容をくわしく引用しているのに週刊文春という表現はいっさいなかった。 後追い取材であってもテレビでくわしく伝えようとした意気込みはわかるものの、情報の出どころを隠しているのであれば、世間でいうところのパクリであることは間違いない。 テレ朝は、週刊文春の許可なく無断で引用したらしい。 また翌1月21日も週刊文春とは表記せず、「週刊誌」とだけ表現して同じ内容を報道した。 このことで週刊文春はテレビ朝日に対して抗議している。  「週刊文春WEB」にはその文章が掲載されている。 「週刊文春」が甘利大臣報道で「報ステ」に抗議「週刊文春」編集部は、1月20日・21日の甘利明大臣に関する放送に対し、22日、「報道ステーション」に抗議文を送った。「報道ステーション」では、1月20日、発売前の「週刊文春」記事「TPP立役者に重大疑惑 甘利明大臣事務所に賄賂1200万円を渡した」の内容を許可なく使用し報道。「週刊文春」記事である旨のクレジット、ナレーションは一切なかった。同日、NHKや民放各局も同内容を報じたが、番組内で表紙、記事を写した上で、クレジットの表記、ナレーションで明示していた。さらに1月21日には、番組トップで約15分にわたり、「週刊文春」記事を基にした甘利大臣の疑惑を詳細に報じたが、放送中、一度も「週刊文春」と明示することなく、「週刊誌」とだけ報じた。著作権法上、報道目的のための「引用」であれば許可は必要ないが、引用先を明示することが著作権法第48条に定められている。また、報道に携わる者の倫理として、視聴者に正確な情報を伝えるという観点からも、引用先を明示することが求められる。放送を受け、「週刊文春」編集部は、番組責任者の秦聖浩氏あてに抗議文を送り、謝罪と再発防止などを求めた。「週刊文春」編集部は、今後も甘利大臣に関する疑惑報道が予想されることから、1月26日午後5時までに回答を求めている。出典:週刊文春WEB テレビ朝日「報道ステーション」では、告発した建設会社の総務担当者・一色武氏の自宅をレポーターがたびたび訪問したものの、自宅には不在が続き、肝心の疑惑部分については週刊誌記事をなぞっただけの報道を繰り返した。 それにしても、フジテレビににしてもテレビ朝日にしても、「自分でウラを取る」というのが原則のはずのニュース報道の現場で、週刊誌記事をパクって、「ニュース番組」の中の「ニュース」を作っていく。しかもテレ朝などは引用先を明示せずに・・・ これは一体どうしたことだろう? 自分たちが「事実」を追い求める報道の仕事をする記者集団だというプライドも何もあったものではない。 世の中にはテレビなんかしょせんはそんなものだろうと想像している人が多いかもしれないが、実はかつてはこんな状態ではなかった。 テレビ局の中でも情報局などのセクションが管轄し、ゲリラ部隊として時に強引な取材も厭わないワイドショーならばそういう放送が多かった時代もあるが、そうした時代でも放送局の中の正規軍である報道局が管轄する「ニュース」では「ウラを取らないニュース」なんてありえなかった。 ところが最近は、正規軍であるはずの「ニュース」の中に、週刊誌情報まる写しの原稿が登場する。 これはネットニュースにウラを取っていないニュース原稿が蔓延しているせいなのか、「ウラを取る」のが習い性だったテレビも、現場では「ウラを取らない」場合も出てきた、ということなのだろうか。 だとしたら、これはとても危険な兆候だ。 今回は、甘利大臣も金銭の受け取りなどの事実を認めた上で辞任。 宮崎議員も不倫の事実を認めた上で辞職。 結果オーライという幕引きになった。 それでも「自分でウラを取らない」という報道のあり方は本来のものではない。 過去にはテレビ局が週刊誌など他メディアの報道等を信用し、自分でウラ取りを十分にせずに突っ走った結果、苦汁をなめることになった例がある。 1980年代の「ロス疑惑」をめぐる三浦和義氏をめぐるワイドショーの報道が典型だが、裁判の結果、多くのテレビ局の番組が名誉毀損の責任を問われることになった。 今回のケースを結果オーライで終わらせてはならない。 「自社でウラを取る」という原則。 これをないがしろにすると、また誤報や人権侵害などを引き起こしかねない。 テレビ局のデスクらは記者たちに問いただしてほしい。 「ウラは取ったのか?」と。(Yahoo!ニュース個人より2016年2月19日分を転載)

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    ジャーナリズムの危機を救う『週刊文春』をもっとリスペクトせよ!

    と思いますね」 スペクター氏に指摘されるまでもなく、今年になってからの『週刊文春』のスクープは、他のメディアを圧倒している。ベッキーとゲスの極み乙女のボーカル・川谷絵音との「不倫」、甘利明前経済再生担当大臣の「贈収賄」、“育休宣言オトコ”宮崎謙介議員の「不倫」と、立て続けにA級ネタが炸裂しているので、他のメディアが霞んで見える。不倫疑惑問題についての会見後に退席する宮崎謙介衆院議員=2016年2月12日午前、東京・永田町の衆院第2議員会館 この状況に、「文春のおかげで週刊誌が活気づいている」「文春はよく売れている」と言う人がいるが、私の見方はまったく逆だ。なぜなら、いまの文春の活況は、週刊誌ジャーナリズムの危機的状況を現しているからだ。 「文春の一人勝ち」の立役者は、言うまでもなく新谷学編集長である。彼が編集長になってからの『週刊文春』は、週刊誌の本来の使命、スクープ・スキャンダル報道を精力的に行ってきた。その結果、一般週刊誌(男性週刊誌4誌)のなかで部数トップを独走してきた。 しかし、週刊誌全体では、女性週刊誌も含めて部数減は止まらない。一口に「出版不況」と言うが、この直撃をもっとも受けているのは雑誌で、とくに週刊誌はここ数年大きく部数を落としている。 2015年の1年間に国内で出版された書籍と雑誌の売上高は1兆5000億円台まで落ち込み、32年前の水準に逆戻りしてしまった。市場規模がピークだった1996年の2兆6563億円の6割にも達していない。とくに雑誌は前年比8.2%減で、週刊誌に至っては同13.4%減と、もはや部数減に歯止めがからなくなっている。 したがって、このままいけば「やがてどこかが脱落(休刊)し、いずれ週刊誌はなくなるかもしれない」まで言われるようになった。 こうした部数減の原因は、誰もが指摘するように、ネットやスマホによる情報空間の変質で、読者の紙離れが進んだからである。いまや情報は、紙で仕入れるものではなく、ネット(デジタル)で仕入れる時代になった。しかも、ネットにおいては「情報はタダ」というフリーミアム文化が定着してしまっている。 となると、いくら週刊誌がスクープ・スキャンダル報道を続けても、部数は伸びず、リターンは得られない。もちろん、週刊誌を含めた紙メディアは、このリターン減をカバーするためにデジタル化にシフトするとともに、ネットのプラットフォームやニュース配信アプリなどへの記事の提供を行っている。しかし、そこから得られるリターンは微々たるものでしかない。 その結果、文春以外の週刊誌はスクープ・スキャンダル報道からほぼ撤退し、最近は企画記事ばかりになってしまった。張り込み、裏取り、ドブ板調査、直撃など、スクープ・スキャンダル報道は、企画記事よりはるかにコスト(お金)がかかるからだ。 しかし、本当の危機は部数減によって収益が減り、やがて週刊誌ビジネスが成り立たたなくなることではない。「週刊誌や新聞などの紙メディアがなくなっても、ネットがそれを代行してくれるから問題はないではないか」という意見もあるが、そんな単純な話ではない。 なぜなら、現在のネットメディアには、新聞や週刊誌などの紙メディアの機能を代行する力がないからだ。つまり、本当の危機は、週刊誌に限って言えば、週刊誌がなくなることではなく、週刊誌が培ってきたジャーナリズムが失われることだ。文春にひっくり返された!若き日の苦い経験 では、週刊誌が培ってきたジャーナリズム機能とはなんだろうか? 私はかつて約20年間、週刊誌の現場にいたが、そこで学んだことは多い。週刊誌ジャーナリズムは、一般大衆の限りない好奇心に基盤を置いて成立している。人間がいちばん好奇心を抱くのは他ならぬ人間自身であり、他人がなにをしているかが週刊誌ジャーナリズムの出発点だ。たとえば、この世の中には、美談や感動ストーリーが数多くある。しかし、それは本当だろうか? と疑いを持つところから、週刊誌の取材は始まる。この世の中のどんな事象、そして人間にも「ウラ」と「オモテ」があり、「ウラ」を暴いた時に、スクープやスキャンダルは成立する。  そして、それによって初めて一般大衆は本当のことを知る。つまり大きく言えば、市民の知る権利を週刊誌ジャーナリズムは代行している。 週刊誌ジャーナリズムを「イエロージャーナリズム」と呼んで非難する向きもあるが、たとえば文春報道がなければ、甘利前大臣はどうしていただろうか? 議員辞職した宮崎議員はどうしていただろうか? それ以前にも、中川郁子農水政務官が門博文議員との「ディープキス不倫」や「上西小百合議員の秘書同行“疑惑”旅行」など、みな週刊誌ジャーナリズムが機能していたから、明るみになった。衆院本会議を終え、記者団の質問に答える無所属の上西小百合氏=2015年4月7日午後、国会内 週刊誌の黄金時代は、1980年代である。この時代には写真週刊誌もあって、週刊誌同士がスクープ合戦を繰り広げていた。私もその渦中にいたので、毎日を「疑惑」「汚職」「熱愛」「不倫」「未婚の母」などのオンパレードなかで息つく暇もなく過ごした。 じつは私には、このときに苦い経験がある。当時、世間をさわがせた「ロス疑惑」事件というのがあった。私は『女性自身』編集部でデスクをしていたので、故・三浦和義を取材して記事にしたことがある。 1982年のことで、このとき、「ロサンゼルスで妻を暴漢に銃撃され半身不随にされたかわいそうな青年実業家がいる」という新聞報道があった。その青年実業家が帰国し、それにともないロスの病院に入っていた妻を日本の病院に移送することになったという。 それで私は、その移送先の神奈川県秦野市にある東海大学病院に彼を訪ねた。三浦和義は記事にしたいと言うとすぐOKしてくれ、「それならこれから東京に戻るので、クルマの助手席に乗ってインタビューしてくれませんか?」と言った。 いまでもよく覚えているが、このとき彼は切々と「いかに妻を愛してきたか」「いまは悲しみのどん底です」「なんとか助かってほしい」と、涙を流しながら語るので、私もついもらい泣きをした。ただ、聞きながら気が気ではなかった。感情を昂ぶらせて、運転を誤ったらどうしようと思ったからだ。それでも、テープとメモを取り、編集部に帰って記事を書いた。 その記事のタイトルは「この愛いつまでも」である。 この記事は女性読者にうけ、読者アンケートでも最上位に来た。三浦和義は「悲劇の愛妻家」となった。記事を書いた後に帰宅したとき、妻に「今日はほんとうにいい取材をした」と言った覚えがある。 ところが、1984年の正月、『週刊文春』を見て驚いた。目が点になった。「疑惑の銃弾」という特集記事で、事件は三浦和義の自作自演ではないかということが、徹底した取材で書かれていたからだ。この後、「ロス疑惑」は、あらゆるメディアで取り上げられ、美談はひっくり返ってしまったのである。 『週刊文春』のジャーナリズムは、いまもこのときの伝統を維持している。もちろん、この後、私も彼を追及する側になり、何本も「ロス疑惑」の記事を書いたが、最初のインタビュー記事が美談だったことがいつも引っかかった。彼にまんまと騙されたからだ。私は本当に若かった。 前記したように、この世の中にある美談の多くには「ウラ」がある。それを暴かなければ、ジャーナリズムとは言えない。その後、私も何本かスクープ、スキャンダル記事をやった。あるとき、財界の大物の愛人の存在をつかんで記事化しようとしたこともあったが、これは大手広告代理店によって潰された。文春「一人勝ち」の末に待ち受けるもの 私が最後にやったのは、松田聖子のNY不倫記事で、このときはNYに行き、相手のジェフ・ニコルスの告白に基づく記事を3週間連続で書いた。ただ、それ以後は異動になったこともあって、スクープ・スキャンダル報道からは遠ざかった。 しかし、いまやこれをやっているのは『週刊文春』だけだ。他の週刊誌はこの路線から降り、新聞もほとんどやらない。まして、テレビは一次報道をしなくなった。とすれば、これこそが、ジャーナリズムの本当の危機ではないだろうか? ところで、なにがスクープやスキャンダルかを決めるのは、週刊誌などのメディア側ではなく、大衆自身だ。かつて「不倫」は絶対に許されないことだったが、石田純一さんが「不倫は文化だ」と言ったために、いつの間にか「不倫」はカタカナの「フリン」になって、スキャンダル性が低下してしまった。ベッキーを大衆が許さなかったのは「不倫」ではなく、会見で「お友達」と嘘をついたことだ。「オモテ」と「ウラ」の顔の落差がありすぎた。女性からサイン攻めに会う俳優・石田純一(左)。長谷川理恵との不倫騒動に「許されないことです?」 さらに言えば、かつては「未婚の母」はスキャンダルだったが、いまは「シングルマザー」となって、むしろ同情を買うようになった。さらに、「同性愛」はスキャンダルではなくなり、「カミングアウト」しても、いまやほとんど関心を持たれられなくなった。 それでも、この世の中からはスキャンダルはなくならない。社会にはタブーが存在し続けている。そのタブーに果敢に挑戦することで週刊誌ジャーナリズムは、メディアの世界で重要な役割を果たしてきた。 私の経験から言うと、日本のジャーナリズムは、かつて新聞、テレビ(放送)、週刊誌(雑誌)の3者で成り立っていた。この3者は補完関係にあった。新聞が記者クラブの制約などによって書けないことを、週刊誌がスクープ・スキャンダル報道で補い、それをテレビが大きく取り上げて後追いすることで、事件や人物の全容が明らかになることが多かった。 だから、週刊誌の記者は、周囲から煙たがれ、ときにはガセネタをつかまされることがあっても、なんとか報われた。しかし、いまやどの週刊誌も、彼らの活躍に見合うギャラを払えなくなった。『週刊文春』だけが、部数トップの座にあるからなんとかこれを賄え、ネタも集められて「一人勝ち」している。 いまは、新聞、テレビ、週刊誌の3者にネットも加わって、メディアは4者になった。しかし、ネットは旧来のメディア3者に対して、なにを補完しているだろうか? ソーシャルメディアの普及で、誰でも情報発信できるようになったと言われている。それは事実だが、誰もが記者になれるわけではない。まして、週刊誌ジャーナリズムの機能をネットは代替できていない。 記者としての教育も受けず経験もないどこかの誰かが、スクープ・スキャンダル報道をできるだろうか? ネタがあれば、その裏取りのために関係者をあたらなければならない。本人を張り込み調査しなければならない。全国各地に足を運び、また、何日も何週間も取材に費やさなければならない。この費用を個人は賄えるわけがないし、ページビュー第一主義のネットメディアも賄う気はない。 もちろん、ネットの監視機能が発揮されて真実が明かされたことはある。「STAP細胞捏造疑惑」や「五輪エンブレム盗作疑惑」がその典型だが、それはデジタル上で検索された結果にすぎない。 このまま行けば、やがて新谷編集長と『週刊文春』は疲弊するだけになるだろう。文春に続く週刊誌、他メディアがないのだから、やがて疲れ切るのは目に見えている。 私は新谷編集長を知っているだけに、このことがもっとも心配だ。世の中にはスキャンダル、スクープはいくらでもあるが、その全部を1誌でカバーできるわけがない。 さらに、新谷編集長がいなくなり、週刊文春がおとなしくなってしまったら、どうなるかを考えてみてほしい。「彼がいる間はおとなしくしたほうがいいと思いますね」と言うスペクター氏のアドバイスを真に受けて“おとなしく”していた人は、“おとなしく”しなくなるだろう。しかし、それを報じるメディアはもうない。大きく言えば、社会から監視機能が失われる。 結果的に新聞やテレビも活況を失い、スペクター氏がテレビ番組で絶妙なコメントをする機会も減るだろう。この影響をもっとも受けるのは、私たち自身である。真実は暴かれなくなる。 最後に、ベッキーは文春を「センテンススプリング」と言ったが、文春の「文」は「文芸」の文で「文章」の文ではない。ベッキーも含めて、他メディアも私たちももっと文春をリスペクトすべきだ。『週刊文春』を「一部週刊誌」などと言うのは論外だ。

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    「日経記者はAV女優だった!」 私が受けた文春砲の洗礼

    鈴木涼美(社会学者) 週刊誌的洗礼、というのがあって、誰しも初めてはなかなか度肝を抜かれる。それは、それなりに慎重でそれなりに脇の甘い、フツウの一般社会人が「そんなことはさすがにしないであろう」とごくフツウの感覚で考えることをいとも簡単に飛び越え、少しでも見えた脇の甘さからこぼれ出るものを、サラッと攫っていく根性にある。(瀧誠四郎撮影) 以前、週刊文春出身の勝谷誠彦氏が週刊朝日の橋下徹氏に関する記事に対する意見を求められ「週刊誌記者としての訓練」という言葉を使っておられた。要は新聞記者になくて、週刊誌記者にあるものについて示唆していたのだと思うのだが、当時、大手新聞社記者というある意味では温室育ちの立場にあった私は、何故か甚くその言葉に感化され、それは一体何であるのか考えた。 当時の私のぬるい脳みそでは、危険なこともちょっと飛ばして書くくらいの度胸や、危険すれすれを見極める眼力くらいにしか想像力が及ばなかったが、今から再考するに、おそらくそれは一部に、或いは多くに嫌われることへの尋常ではない腹積もりなのではないかと思っている。これ、別に罵詈雑言めいた記事を書いて公人に嫌われるとか、書かないで欲しいプライベートに踏み込んで芸能人に嫌われるとかいうことだけじゃなく。 私が自分の身体をもって週刊誌的洗礼を受けたといえば、新聞社を退社した直後、週刊文春に「日経新聞記者はAV女優だった!」との見出しで経歴を書かれた時であろうか。私は雑誌発売のつい数日前に(というかもう明日校了です、という状態の時に)、同誌編集者と記者から直接電話がかかってきて、逃げ惑うに逃げられず取材を受けたのだが、当時はその強引な取材方法に、品のいい新聞記者としてはちょっと驚きもした。 まず、文春の文芸誌にいる付き合いのある編集者から、「文藝春秋」誌の編集に連絡先を教えていいか、という連絡があり(後で分かったのだが、その編集者さん自体もちょっとハメられていたようで)、月刊誌から連絡があると思い込んでいたところに週刊誌記者より電話。まるでフツウの日常会話のように「そういえば日経やめたんですね〜」「元AVだったんですよね?たしか」と会話が進み、気づけば掴まれていた事実の裏とり作業につきあっていた。「AVがバレて会社をクビになったんですか?」 記事が出ることが止められない状況であるならば、せめて事実確認をと思い、悩んだ末、歌舞伎町のバーガーキングで記者と合流し、自分的になんとなく差し支えない程度まで話した。うまいな、巧みだな、と思うのは、おそらくすでにそれなりの事実は十分掴んでいたのにも関わらず(記者クラブ仲間や友人のところへの取材で)、あえて事実と違うことをぶつけてきて、それは間違っている、という風にこちらが話を返してしまう環境をつくっていることだった。画像はイメージです こちらは、あきらかに嘘が記事になったらなんとなく困る気がして、必死に否定してしまう。「AVがバレて会社をクビになったんですか?」「いえいえ、とんでもないですよ」「そもそも整理部移動も過去がバレたせい?」「めちゃめちゃ自分の希望ですがな」「風俗でも働いたことあるんですか?」「それはさすがにないっす」と。それに、周辺取材の抜け目なさも見事だった。「都庁記者クラブでキャバ嬢ってアダ名でしたか?」「記者会見向うときにとく『ご出勤?』て言われてたんですか?」「電卓やICレコーダーをラインストーンでデコってましたか?」「そもそも◯◯テレビの◯◯記者と付き合ってましたか?」など。 でもまぁ、取材テクニックなどというものはそれこそ「週刊誌記者としての訓練」を経て身につけられるものであろうし、それこそ先輩編集や記者から受け継がれる技術もあるであろう。私は私なりに、新聞記者としての訓練は受けていたし、それがある程度は感覚で、ある程度はマニュアル的な伝統で習得できるものだという実感はあった。そんなことより驚いたのはその後の世間的な反応だった。 同記事は見出しこそちょっと古びたセンセーショナルめいていたが、中身は極めて抑制的で、綿密な取材に基づいた事実がほとんどだった。当然、一応の誠意をもって取材に応えた私や私の家族の懸命さも一役買ってはいたし、社長の不倫と情実人事報道の裁判以降、なんとなしにいがみ合っていたと思われる日経と文春の関係を思えばその記者の取材の執念もわからないではないが、株価を左右するほどでも、歴史に残るほどでもない記事でも綿密に取材する姿勢は基本的には記者としてはわりと共感できるものであった。嫌われる覚悟 にも関わらず、世間は「AV女優が新聞記者をするなんてけしからん」と言う以上に、「こんな下世話な記事を載せるなんて前近代的でけしからん」と文春に蔑視に近いような感想を述べてくれた。そして、そういうことを言うために同記事は結構な場所でとりあげられ、引用された。世間を騒がすほどのことではなかったけれど、反応を注意深く見ていた私は、そのとてもわかりやすく週刊誌的であり世間迎合的な記事を載せたことで、極めて週刊誌的で下世話であるという眼差しを甘んじて受けている文春が、やはりとても嫌われることを腹積もっているように見たのである。私や、私の家族や、日経社員にだけではなく、週刊誌的見出しに食い付き、雑誌を喜んで買う読者たちにである。 取材先や、記事が大枠として含んでいる対象に嫌われる覚悟は、記者になくてはならない素質ではあるが、時に読者にすら嫌われる覚悟を、どれだけの記者たちが心に止めているだろうか、と私はその時に思った。そして、その覚悟の代わりに彼らがもっている拠り所はなんなのだろう、と。 おそらくそれは、世間にある欲望を肩代わりしている自負なのではないだろうか。優等生的タレントの陰部を見てみたい、生真面目な政治家に黒さがほしい、といった、世間一般がむしろ胸中にもっている週刊誌的下世話な欲望を、あえて外から出して見せることで、世間は自分のそのような欲望を満たしながら、否定できる。週刊誌が代わりに体現しているその下世話さを、嫌いながら楽しめるのである。最近の文春の鮮やかなスクープ連発を見て、私は取材力やタレコミの多さ以上に、そういった週刊誌の宿命と命題のようなものが徹底された姿勢に、甚く感心している。

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    「猟犬の如し」伝説の記者、大下英治が語る文春魂

    大下英治(作家) わたしは「週刊文春」の特派記者、いわゆるトップ屋を十三年間続けた。そのわたしから見て、最近の新谷学編集長率いる「週刊文春」のスクープの連発は、目を見張らされる。 わたしが行きつけのクラブで飲んでいると、わたしがかつて「週刊文春」の記者であったことを知っていて、何人もがまるで探りを入れてくるかのように訊いてくる。 「来週の『週刊文春』のスクープは、何なの?」 それほど、毎週、世間をアッといわせる記事を連発している。 わたしの「週刊文春」時代も、これほどスクープ記事を連発したことはない。 現在「WiLL」の編集長をしている花田紀凱さんがデスク時代、土井たか子と北朝鮮問題などヒットすると、第二弾、第三弾…となんと十弾くらい続けることはあった。 田中健五編集長時代のことで、今だから打ち明けるが、田中編集長の家に銃弾が打ち込まれたことがあった。それも、田中編集長の寝ている頭上三十センチをかすめたのである。実に、スクープ記事も命がけなのだ。1978年12月29日付サンケイスポーツ1面 田宮二郎猟銃自殺 「白い巨塔」放送中の悲劇  わたしについていえば、昭和五十三年六月一日号『例のM資金にのせられた“クール・ガイ”田宮二郎の誤算』という記事も、話題をよんだ。田宮氏が、いわゆるM資金詐欺にひっかかっているというのだ。  M資金詐欺にひっかかる者は、後を絶たない。ロッキード事件に関連した大庭哲夫全日空前社長の他、富士製鉄、東急、TBSなど一流企業のトップがこの正体不明のM資金に踊らされている。田宮氏は、二千億円を無利子で借りられるというので、すでに大手商社に勤めていた兄弟を辞めさせ、いっしょに事業をやるというのだ。 わたしは田宮氏に会うと、五十億円かけて、世界の俳優の人形館をつくる、セメントの輸出など田宮コングロマリットをつくると声をはずませた。 実は、このネタ元は、田宮家の関係者からのものであった。このまま放っておくと、膨大な借金を背負い、田宮家が破滅する、とおそれ、記事になることで田宮氏が目を覚まし、傷が浅くてすむだろうということであった。 ところが、この記事が掲載された半年後の年の暮れ、田宮氏は猟銃自殺を遂げた。三越の岡田茂と愛人の関係を暴いた わたしは、三越の岡田茂と愛人のアクセサリーデザイナー竹久みちとの関係を暴いた。実は、この記事の発端は、昭和四十六年九月二日号の『岡田専務をめぐるとかくの噂』であった。 わたしはネタ探しのため、業界紙の編集と飲んでいると、ささやかれた。 「実は、三越の岡田茂専務が、パリ三越のオープンに愛人の竹久みちを連れて行った。ゴマスリ業者たちは、竹久におべっかを使っている。そのことが問題になり、労組で岡田専務をつるし上げた。それが外部に漏れ、いまや総会屋やブラックジャーナリズムが三越に推しかけ大騒ぎさ。それを『週刊A誌』が追ったが、結局、潰されてしまった。『週刊A誌』は女性誌を出しているから、三越の広告が出なくなるのを恐れたのさ」 わたしは、このネタを追い、記事にした。三越の岡田茂前社長が特別背任容疑で警視庁に出頭。被害を三越に与えたとして愛人の納入業者とともに起訴され、実刑判決を受けたが、最高裁上告中に死去。 それ以降、岡田茂氏については追い続けた。「週刊文春」昭和五十六年十二月三日号の『竹久みち邸の信也の密室パーティ』、さらに、岡田氏に海外に飛ばされた幹部の妻からの情報を元にした記事と何年にもわたって通い続けた。 岡田氏は、そのスキャンダルにもめげず、ついに社長に登りつめた。 その後、花田氏が「週刊文春」から「月刊文藝春秋」に移ってからも、昭和五十七年九月号に『竹久みちの野望と金脈』を発表。この記事は反響を呼び、岡田茂社長の退陣へとつながった。 さらに「月刊文藝春秋」昭和五十七年十一月号の『九月二十二日「三越岡田社長」取締役会』で、岡田社長が、幹部のクーデターで失脚する場面を克明に書いた。 「何故だ?!」 その瞬間、岡田社長の発した言葉は、流行語になったほどだ。 「週刊文春」昭和五十七年十月十四日号でも、『香港カトリーヌ』という記事を載せた。 岡田社長と竹久みちは、ついに逮捕された。 その他にも、『佐良直美とキャッシー、レズビアン報道』をはじめとするいくつかのスクープはあった。  が、現在の新谷編集長の「週刊文春」のように連発はなかった。 ということは、新谷編集長は、意図して、毎週かならず一本は、目玉になる右トップのスクープ記事をモノにしてみせる、という執念を抱いているからであろう。 わたしが、なかでも最も興味を抱いた新谷「週刊文春」のスクープ記事は、平成二十四年六月二十一日号の『小沢一郎「妻からの離縁状」』であった。わたしは、小沢一郎氏について九冊の単行本を出している。政治家の単行本では、もっとも多く描いた政治家でもある。 また、小沢夫人のコメントは、それまでわたしだけが記事にしていた。和子夫人との接触も何度かあった。 その和子夫人の離縁状が載るというのだ。これは、ニセモノかもしれない… そのスクープ記事の発表される前日のコピー記事が、ある人からわたしの手元に届いた。 「この小沢夫人の手記が本物かニセモノか、判断してほしい」 わたしは、そのコピーを読みはじめ、半分近くまで進み、思った。 〈これは、ニセモノかもしれない…〉 わたしの脳裏に浮かんだのは、「週刊新潮」平成二十一年二月五日号から四回にもわたっての『実名告白手記・私は朝日新聞阪神支局を襲撃した』の記事であった。まったくのガセネタで、伝統ある「週刊新潮」にあるまじきことで、驚いた。 〈わがふるさとともいうべき「週刊文春」が、まさか二の舞を…〉 芸能ネタと違って、天下の小沢一郎に関する記事でニセモノだとすると、「週刊文春」のダメージははかりしれない。 わたしがニセモノではないかと疑ったのは、小沢夫人の手記の運びがあまりに上手すぎたからだ。こんなに出だしから読者を惹きつけ読ませる手記が書けるのでは、週刊誌の記者はお手上げではないか、とすら思ったのだ。 この運びは、あきらかにプロの手によるものだったからである。 わたしの脳裏に、小沢一郎を叩き続けているライターの名が浮かんだ。 のちこの記事について、民主党の議員は、「和子夫人の手書きの一筆が載っているが、あきらかに筆跡が違う」とある週刊誌に書いていたほどである。 が、わたしは、さらに記事を読み進めるうちに、確信した。 〈これは、まぎれもなく本物だ〉 というのは、後半には、外部からの取材では決して掴めぬ、小沢夫人でなければ知りえないディティールがいくつもあったからだ。 では、前半にニセモノではないかと感じたこととの矛盾はどうなるのか。 わたしは、こう推理した。 仕掛け人が、小沢夫人に何度か執拗に接し、信頼させ、持ちかけた。 「あなたが、直接小沢さんを撃つかたちには決してしません。あなたが夫・小沢さんに対する不満を、わたしに話して下さい。それを、記事になるようにわたしがまとめます。ただし、記事ということでなく、あくまで小沢さんの地元の岩手のあなたの親しい人たち何人かへの私信の手紙として出すのです。おばあちゃんが死んで間もないおじいちゃんには、『おばあちゃんが死んでさびしいでしょう』と書き、お孫さんが生まれたばかりの家には、『初孫はかわいいでしょうね。わたしも早く見たく思います。ところで、わたしのことですが…』と愚痴めいて、本文に入れればいい。それだと、あくまで私的な愚痴で、小沢さんを奥さん自らの手で告発したことにはなりません。そのスタイルの手紙を、わたしが書きますから、奥さんが自分の字で写して下さい。その十人くらいに出した手紙を、もらった人の一人から『週刊文春』が手に入れた、というかたちを取ります。そうするかぎり、奥さんが直接に夫を告発したことにはなりません」描写が細かすぎる 小沢夫人が、その話に乗り、あの記事が成立した。何も筆跡を似せた手記などではない。あくまで本人の筆跡であろう。 最近の『宮崎謙介議員のゲス不倫』の二回目の記事に、かつてつきあっていた女性のコメントが、直接でなく、その友人が語るスタイルがとられていた。わたしはかつて自分がやってきたことと重ね合わせ、苦笑を禁じえなかった。 女性の友人のコメントにしては、下駄箱にあった別の女性のハイヒールなど、いくつかの描写が細かすぎるのだ。 本人が「わたしが直接コメントするのはいや」と言い張るので、「あくまで、あなたの友人が勝手にしゃべったことにします」という話し合いのもとに書かれたのであろう。 それにしても、手法はさておき、書かれている内容に間違いはないのだ。 その苦労は、並大抵ではあるまい。 わたしの行きつけのクラブで「週刊文春」のトップ屋の後輩と飲んでいるとき、その記者がポロリと漏らした。 「明後日、政界の大スクープがある…」 「標的は誰だ?」 「いえない」 「おい、先輩のオレにいえないのか。閣僚か?」 「そうだ」 「水臭いぞ、名前を言えよ」 「それは難しい」 「おい」 「白髪の多い人だ」 「じゃ、甘利じゃないか。内容は?」 「それはわたしの担当じゃないから、詳しくはわからない。その担当グループしかわからなくて、他の記事を追っている者には、編集部内でも、決してもらさないシステムになっているのだ」 編集部内でも、秘密はしっかり守られているようだ。  これだけの連発が続くには、「週刊文春」が記者をその気にさせ、働きがいを与えているからであろう。 わたしは、「週刊文春」のいわゆるトップ屋であった。「週刊文春」には、半分は社員記者、半分はわたしがそうであったように契約記者がいる。「首輪のない猟犬」と呼ばれ 実は、週刊誌の記者は、民事で告訴されるだけでなく、刑事で告訴される可能性もある。刑事で告訴される場合は、前科がつく。前科がつくと、のちのち社長になれないかもしれない。そういうリスクを回避するためにも、わたしがそうであったように、契約記者を半分入れておく必要もある。「首輪のない猟犬」などと呼ばれたものだ。 わたしは、むしろそれを誇りとしていた。それゆえ企画会議にネタを出すとき、自分に言いきかせたものだ。 「社員ではないのだから、総会屋であろうと、ブラックジャーナリストであろうと、そういう相手にも近寄り、日頃から飲み、危険スレスレの生ネタを取って来よう。新聞に出ている記事をひねくりまわした企画など出しはしないぞ」  「週刊文春」の連発されるスクープの陰には、わたしがかってそうであったようなトップ屋を働きやすくイキイキさせているからであろう。(瀧誠四郎撮影) わたしも、かつて、他の週刊誌から、金銭的には有利にするからと、何度か誘いがあったが、「週刊文春」から離れようとは思わなかった。 「『週刊文春』を離れるときは、プロの作家になる時だ」と思っていた。 それほど「週刊文春」は居心地が良かった。 最近、ある写真週刊誌の記者が、別の週刊誌に移った。その記者とは月に一回は飲んでいたが、その記者がわたしにこぼした。 「大下さん、すまない。週刊誌に移って、取材費がケチられるようになり、一緒に飲めなくなった」  わたしは、「週刊文春」にいたとき、ネタ元とのびのび飲めた。 いま、わたしは「週刊文春」の後輩のトップ屋とよく飲むが、その取材費の点でも、ケチられてはいないという。 スクープを連発し、完売がつづくと、取材費にも影響し、また新たなスクープにつながっていくのであろう。 わたしが「週刊文春」にいるころは、部数において「週刊新潮」を抜けなくて悔しかったが、いまや「週刊文春」はトップをひた走っている。この出版不況のなか、さらに部数を伸ばすことであろう。 時間をかけて執念深く追い続け、いざやれるとなると、五、六人でも人員を投入できる体制が整っているのであろう。 最近の週刊誌記者たちの中には、パソコンで「2ちゃんねる」などを見てネタとして拾ってきて、直接にネタ元に会わないことがある、と耳にしていた。 オーケストラの指揮者はあくまで、新谷編集長だが、走りまわるのは記者だ。その記者たちのネタの拾い方にも、「週刊文春」の記者は優れているのであろう。猟犬のたくましさは失われていないようだ。  わがふるさと「週刊文春」よガンバレ!

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    表現の場が理不尽に奪われたとき、元少年Aの「Xデー」はやってくる

    」(2月25日号)の記事「元少年Aを直撃」はネットでも話題となった。さすがに目を伏せてはいたものの、メディアで初めて、元少年Aの近影を晒した。近影はこれまで、自身が開設したホームページ「存在の耐えられない透明さ」で、顔を隠した格好で公開してきた。第三者による撮影では初めてだったのではないだろうか。ちなみに、この原稿を書いている3月2日現在、彼は、週刊文春の記事に関して、ホームページ上では何も語っていない。 本物だったのかどうかはわからないが、週刊文春記者の直撃では、「元少年A」だということを否定している。その上で、当人は「命がけできてんだろ。なあ。命がけできてんだよな。お前、そうだろう!」と答えている。本物ではないと見ることもできるが、仮に本物だとして、メディアの取材にこう答えてしまうのは「ネタ」を提供するようなものだ。不意打ちだったから、咄嗟に答えてしまったのかもしれない。しかし、「どう見られているのか?」を意識せざるを得ない注目の人物の言動とすれば、浅はかさを露呈してしまった。 そもそも、彼が再び猟奇的な殺人をする「Xデー」があり得るのかを考えると、現段階では可能性は低いと私は考えている。彼は『絶歌』(太田出版)で「自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの『生きる道』でした」(P.294)と述べている。つまり、彼には、出版という表現手段を得て、「元少年A」という表現者として、世間に登場したことになる。東京都内の書店に並べられた、神戸連続児童殺傷事件の加害男性が「元少年A」の名前でつづった手記「絶歌」 彼にとっては「書くこと」は「生きる道」だ。もちろん、『絶歌』の出版は賛否両論がある。事件の舞台となった神戸市の図書館では取り扱わないとの方針まで出た。出版という手段だったことも手伝って、表現したことがバッシングがなされた。出版への反対意見が強まれば、「書くこと」が制限され、「生きる道」を閉ざされる心配はあった。 しかし、「週刊文春」や「週刊新潮」、「女性セブン」に資料を送りつけてまで、彼自身はホームページの存在を知らしめた。表現の場を確保したことをアピールしたのだ。さらには有料のブロマガまで発行しようとした。私がメールで取材依頼をしたことへの返答もこのブロマガでなされた。表現するほどの欲求がないのかもしれない さすがに有料での情報発信は、『絶歌』への批判が消えていないタイミングでもあるため、批判が多かった。私は有料かどうかではなく、取材依頼をメールを断りなく、掲載されたことについて、少なくとも事前に公開することは教えて欲しかった。結局、サービス元が彼のブロマガの発行停止をした。 ただ、彼の「書く」場がなくなったわけではない。ホームページも当初から見ると、改良されており、更新されている形跡がある。ただし、『絶歌』出版に感じていた「書くこと」が「生きる道」といったほど、表現欲求に枯渇しているようには見えない。例えば、昨年12月25日のブログのエントリーがそれを物語っている。というのも、7月に美術館に行った話を12月にアップしているのだ。 そのエントリーには、こう書かれている。 物造りを生業とする人にとって、利き手が自由に使えないことはどれほどの恐怖だったろう…… たとえ手足を捥がれようと、常に何かを造らずにはいられない表現者という生き物の業に身震いがした。 彼なりに表現者への理解を示している。「常に何かを造らずにはいられない表現者」というのは、まさに『絶歌』を出版し、ホームページを作った彼自身の欲求に似ている。しかし、なぜ、5ヶ月前の話を書いたのか。想像すると、何かを表現したいという気持ちがないわけではないだろうが、「ネタ」が何もないのではないか。あるいは、表現するほどの欲求がないのかもしれない。 最新のエントリーも1月だ。しかも、読者の質問に答えつつも、12月に行った絵画展のことが書かれている。なぜ、12月に書かなかったのか。少なくとも、現段階では、表現欲求がそれほど高くはない。そして、読者の悩みについて、こう書いている。 あなたも僕と同じ表現者の端くれであるならば、今回のように辛く苦しく理不尽な事態に直面した時に、自らの苦悩の表出を他者に委ねるようなことはせずに、今こそ「チャンス」であると捉えてほしいのです。 自らの苦境を表現することで満たせていくことをアドバイスしている。もし、真にそう感じるのであれば、まさに、彼自身が『週刊文春』にされた行為に対して、「自らの苦悩を表出」すればいいはずだ。しかし、その場では乱暴に振舞っているが、表現欲求が揺さぶられているようには思えない。 彼はかつて、殺害した男児の首を校門に置いていた。彼にとってはそれが表現の手段だったかのような書き方を『絶歌』で書いている。彼の表現欲求が高まるときは、世間を騒がせたい欲求と似ている。だとすれば、ホームページなどで、表現しても表現しきれなくなったときにこそ、あるいは、表現しようとしてもその場が理不尽な奪われ方をしたときにこそ、「Xデー」がやってくるのではないかと思える。少なくとも今は、そこまで表出する何かを感じることができない。

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    元少年Aの「Xデー」はあるのか

    は賛否があったとはいえ、自己顕示欲がむき出しの彼の奇行からは、更生とはほど遠い一面もうかがえる。一部メディアでは「逮捕情報」まで飛び交う元少年A。Xデーはあるのか。

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    週刊文春の直撃に元少年Aが「命がけで来てんだな」と威嚇した意味

    篠田博之 (月刊『創』編集長)   スクープ連発で部数を伸ばしている『週刊文春』には最近敬意を表しているのだが、2月25日号(2月17日発売)の記事「元少年Aを直撃」については、疑問も含めていろいろ考えさせられる。 『週刊文春』のその記事は、神戸連続児童殺傷事件の元少年Aを直撃して、目伏せをした顔写真を公開したものだ。元少年Aの近影が公開されるのはこれが初めてだ。 元少年Aについては、昨年、『女性セブン』も直撃を行っているが、相手が否定しているから、それが本当に元少年Aなのかどうか曖昧だった。しかし今回の記事は、昨年の『絶歌』発売前後から250日にわたって彼を追跡してきたという経緯が詳細に書かれており、印象としては本物と考えてよいだろう。 記事によると、元少年Aは昨年9月末までは神奈川県のアパートに住んでいたが、突如そこをバッグひとつで慌てて退去。ウイークリーマンションで数週間過ごした後、12月に都内のアパートに入居した。ここを1月26日に『週刊文春』が直撃したのだが、そこも数日後に退去したという。マスコミの動きを含め周囲に何か気配を感じるとすぐに転居するということを繰り返しているらしい。 『週刊文春』は取材に応じてほしいという手紙を渡すために記者が直撃したようなのだが、相手は自分が元少年Aであることを否定。さらに記者が食い下がると、乗っていた自転車を地面に叩きつけて、こう言ったという。 「命がけで来てんだろ、なあ。命がけで来てんだよな、お前。そうだろ!」 自身がマスコミ報道によって身の危険にさらされるのだからお前も命がけで来てるんだろうな、と記者に詰め寄ったというのだ。これはなかなか象徴的だ。今回の『週刊文春』の記事を読んで思うのは、直撃して顔写真を載せるという行為をするにあたっての報道機関としての大義名分は果たして何なのだろうか、ということだ。それなしに、ただ犯罪を犯した人間を追い回しているだけでは、単なる「報道の暴力」だからだ。 いまの元少年Aというのは、少年法の精神によって更生を図るというのは具体的にどういうことなのか、身をもって示している実例だ。神戸児童殺傷事件について知っている者は誰だって被害者に同情し、犯人に怒りを覚えている。それにもかかわらず刑罰を科さず、元少年が更生することを保証するという試みが少年法で、それは現実社会において果たして有効なのかどうか。彼は刑事罰を免れる代わりに、その少年法の有効性を証明してみせる責任を負っている存在だ。 元少年Aが住居を転々として逃げ回るのは、へたをすると自分が集団リンチにさらされ、抹殺されかねないということを知っているからだろう。正直言うと、彼の怯え方はやや度を越しているようにも思えるのだが、そういう恐怖心を抱くのは決して杞憂ではない。一歩間違えればそうなる危険性はたぶんにあるといえよう。 そんなふうに元少年Aを社会がおいつめ、更生の機会を奪ってしまうのを少年法は戒めている。今回の『週刊文春』は敢えてその危険な領域にまで踏み込んでいるといえるのだが、それゆえにこそ、それなりの「報道する理由」は必要だ。 今回の『週刊文春』の記事においては、そういう問題があることを自覚して、いろいろと「なぜ報道するか」を説明しているのだが、それがどの程度説得力を持っているかについては、若干の懸念は感じざるをえない。たぶん同誌としては、今回、満を持して対象に直撃を行ったのだから、その当面の成果だけでも誌面化したいと思ったのだろう。何を何のために報道するのか 正月以来、連続してスクープを放っている『週刊文春』の進撃ぶりには敬意を表したいが、たぶんいつまでそれを続けられるのか、若干のプレッシャーを編集部は感じていることだろう。そこから、多少無理をしてでも話題性のある記事をという心理状態に陥ることは避けなければならない。 報道機関は、その報道が本当に重要だと思ったら、相手が傷つくのを知っていても敢えて記事にするという覚悟が必要だ。しかし、そのためには、いったい何を何のために報道するのかという自問は重要だ。 元少年Aは出版の話を持ち掛けた幻冬舎の見城徹社長への手紙の中で、本を出すひとつの理由を〈精神をトップギアに入れ、命を加速させ、脇目もふらずに死に物狂いで「一番肝心な」三十代を疾走してやろうと決めたのです〉と書いていた。 ただ現実には『絶歌』出版もさることながら、ブログの公開内容などを見ていると、『週刊文春』が今回書いているように、周囲に相談する人もおらず「糸の切れた凧」状態にあるように見える。死に物狂いで疾走していったいどこへ向かおうとしているのか確かに気になるのだが、だからといって放置すると危険だから追い詰めろという理屈が妥当性を持つとは思えない。 今回の『週刊文春』がひとつの問題提起を行ったという意図は認めたい。ただ元少年Aの「命がけで来てんだろうな」という問いに、今回の報道が応えることができているのかどうか。同誌編集部には自問してほしいし、我々も考えてみるべきだと思う。(2016年2月20日「Yahoo!ニュース」より転載)

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    「東京目線」で福島を語るなかれ

    ていう合言葉があるんです」。福島の詩人がこの言葉に込めた意味とは何だったのか。東日本大震災から5年。メディアは日本を襲った未曽有の大災害とどう向き合い、何を伝えたのか。

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    地震と放射能を道連れに 明けない夜は無い

    目線ですね。物語の鋳型に当て嵌めないで、リアルタイムで実際に起きている本当のことを分かち合えるようなメディアであってほしい。最初の祭りは去ったのかもしれません。取材に来るメディアも減って、どんどん静かになって来ているし、5年という節目が過ぎると、さらに静かになっていくんでしょうね。今後はもっと内側から何か風を起こすというか、我々が自分達の力で発信していく努力をしていかなければならないと思います。  僕は詩人として福島のために言葉を見つけたいと思う。福島を語る言葉だったり、福島の人の想いを象徴する言葉だったり、トゲが抜ける言葉だったり、言葉を見つけたい。それをみんなと分かち合いたい。そういう文化を発信していきたいです。(聞き手・iRONNA編集部 川畑希望)わごう・りょういち 昭和43年、福島県生まれ。詩人、県立高校国語教諭。『AFTER』で中原中也賞。ほかの著書に『詩の礫』『ふるさとをあきらめない-フクシマ、25人の証言』『詩の寺子屋』など。3月9日に新刊『昨日ヨリモ優シクナリタイ』(徳間書店)が発売された。

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    遺体は撮るのか、撮らないのか? 東日本大震災と被災者家族の記録

    。 あの人たちはいま、どうしているだろうか・・・。普段はまったく違うジャンルの番組をつくっているが、メディアに生きるものとして、少しでも被災地のことを風化させずに伝えられればと、今回寄稿させていただいた。 戦争と震災・・・ふたつの大きな災いを経て、もうすぐ82歳となる母・武澤順子は、最近日記にこう綴っている。 「今度は『被災者』としてではなく、自分自身が、誰かのお役にたてるよう立ち上がらなければいけないと思う。それが震災で受けた多くの御恩に報いる道であり、『被災者としての誇り』でもある」*BS日テレにて「生きてやろうじゃないの!母と僕の震災日記」が放送決定*3月13日(日)11時55分から13時25分(90分)(メディアゴン 2016年3月11日分を転載)

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    南支那海での振る舞いを「侵略」と呼ばない媚中報道の罪

    が、読者の間から聞こえてきそうだ。安全保障関連法への反対の声がそうだったように。国民を平和ボケさせるメディア国民を平和ボケさせるメディア そうした一国平和主義者達の特徴は、中国の脅威を見て見ぬ振りをすること。そうすれば日本は安泰でいられると思い込んでいる(思い込みたがっている)ようだが、そもそもそうした思潮を作り上げた元凶の一つが、中国の寛大な(中国に迎合した)毎日新聞を含むマスメディアである。 これらが拡大一方の中国の脅威の深刻さを明確に伝えていないため、国民はいつまで経っても平和ボケから覚醒できないでいるのだ。南シナ海・スプラトリー(中国名・南沙)諸島のファイアリークロス(中国名・永暑)礁を埋め立てて建設した飛行場で、着陸した中国の航空機の前で記念写真に納まる関係者ら=1月6日 では中国の脅威の「深刻さ」をいかに報じればいいのか。実はこれは簡単なことである。 たとえば今回の「なるほドリ」は「中国は南シナ海のほぼ全体の領有権を主張しており」とは伝えているが、それに加えて「領有権の主張」は虚偽であることを国際法の観点(歴史的経緯も含め)から解説すればいい。 そして「岩礁を一方的に埋め立てて『人工島』建設を進めました」との説明で終わるのでなく、それがアジア全体の平和を脅かす危険で不法な領土拡張、侵略の動きだと指摘すればいいのである。 そのようにすれば読者は、より問題の深刻さを理解することができることだろう。中国の島の接収の不当性を指摘しなければ意味なし もっとも毎日は、実はそうしたことをまったくやっていないわけではない。 十一月二十五日に掲載のコラム「木語」は次のように書き、中国が南支那海の島々の領有宣言を行ったのは戦後のことであると伝えている。中国が「南沙」の実測地図を作ったのは戦後、1947年以後だ。蒋介石政権が日本軍の占領していたパラセル(中国名・西沙)諸島や、日本領「新南群島」(スプラトリーの日本名)に軍艦を派遣して接収した。初めてこの地の島々を測量して南沙と命名した。主要な島には軍艦の名前から「太平島」「中業島」など中国名をつけた。このころ、南シナ海全域に「十一段線」(後に九段線)という線引きをして領有宣言した。 これであれば、中国側の「南海諸島(パラセル、スプラトリー諸島など)は古来中国領土であり、先祖が残したものであり、いかなる者であれ中国の主権や関連権益を犯そうとしても中国人民は承諾しない」(習近平主席)といった類の主張に対する反論にはなりに得る。 しかし、それでもまだ不十分なのだ。戦後の中国による「接収」が領有権の根拠たり得ないことを書かなければ、何の意味もないのである。自国を「侵略国」と断罪しても中国へは物言えないメディア 中国はもちろん「接収」は合法だと主張する。たとえば王毅外交部長は次のように説明する。 「中国はカイロ宣言、ポツダム宣言を根拠に、日本に不法に占領された南沙、西沙諸島を回収した」 要するに日本は「中国から盗取した領土を返還すべし」と謳うカイロ宣言の履行をポツダム宣言の受諾を通じて誓約したことで、これらの島々は中国領土に復帰したと、いう国際法上の主張である。 中国は台湾についても全く同じ主張をしているわけだが、しかしいずれも捏造宣伝だ。 事実を言えば日本は、スプラトリー諸島にしても台湾にしても、中国へは「返還」(割譲)していないのだ。実際には一九五二年に発効のサンフランシスコ講和条約に基づいてそれらを放棄しただけであり、その後の新たな帰属先は確定されなかったのである。 マスメディアは、この事実を明確にすればいいのである。ただそれだけで中国の「主張」は完全な作り話であることが実証されよう。 しかし、日本のメディアはそれができないのである。 なぜなら中国は、台湾とともに南支那海もまた「核心的利益」だと位置付け、それら問題に各国が容喙することを断じて許さない構えだ。そのような中国の怒りを恐れる日本メディアは、従来台湾に対してそうだったように、南支那海の島々についても「中国の領土ではない」と明言できないのだろう。 日本の過去の戦争については、自衛戦争という側面を無視して「侵略」と断罪したがるメディアだが、中国が現実に行っている領土拡張の動きに対しては、以上のような理由で「侵略」と報じないのだから有害極まりない。(「台湾は日本の生命線!」2015年12月22日分を転載)

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    国防も国益も頭になし 南シナ海「報道・発言」狂騒曲

    による賛成多数で可決成立した。「強行」でもなんでもない。「説明不足」と言うが、政府は何度も答弁した。メディアでも説明した。私は聞き飽きた。立野は五月二十六日放送の同番組でも同様のコメントを述べたが、南シナ海問題は「安保法制」と直接関係しない。そう拙著『護憲派メディアの何が気持ち悪いのか』(PHP新書)で指弾したが、彼の眼には留まらなかったようである。是非に及ばず。みたび朝日記事を借りよう。「現在でも自衛隊の護衛艦や航空機の警戒監視活動の範囲に法的制約はなく、南シナ海でも可能だ」。もう拙著はいいから、せめて朝日新聞くらいキチンと読んでほしい。「アメリカは世界の警察官ではない」――二〇一三年九月十日、オバマ大統領がシリア問題に関する米国民へのテレビ演説でこう明言して以降、中国による埋め立てが急ピッチで進んだ。ロシアもクリミア併合に踏み切った。もはや取り返しがつかない。 菅義偉官房長官は十一月五日「米軍の航行の自由作戦に自衛隊が参加する予定はない」と述べる一方、南シナ海での自衛隊の活動について「今後検討していくべき課題だ」と警戒監視活動の可能性を示唆した。 日本はどうすべきか。何ができるのか。前出朝日記事は「南シナ海まで行く余力も利点もない」と語る自衛隊幹部のコメントを援用しつつ「仮にP3C(海自哨戒機)が沖縄の基地から南シナ海に向かうとすると、飛行時間は片道約4時間。P3Cの平均的な航続時間は8~10時間で、現地での飛行は数時間に限られる」と書いた。事実その通りだが、後継機の最新哨戒機P1は航続時間や巡航速度が大幅に向上している。さらに言えば、東南アジアに給油ポイントをつくれば問題は解決する。十一月六日付朝日朝刊記事も借りよう。「海自が保有する護衛艦は47隻。一見、多いようだが、海自艦艇は尖閣諸島周辺の警戒、ロシアの動向の監視、北朝鮮のミサイル対応に加えインド洋・ソマリア沖の海賊対処も行う。訓練や定期修理もあり、やりくりに苦慮しているのが実態だ。/それでも海自は、現有の装備や能力で、米国の要請に精いっぱい応えようとしている。ソマリア沖で海賊対処に当たる護衛艦や哨戒機が日本と往復する際や、練習艦隊が定期的な遠洋航海に出向く際などに南シナ海に入り、自衛隊の存在感を示したり哨戒活動をしたりする。海上幕僚監部は、そんな案を検討している」 そのとおり。右の案は私も提案してきた。南シナ海を航行する際、わざとスピードを落とす。あるいは警戒監視に当たる米艦と併走する。せめてそれくらいしてほしい。 さらに停船や徘徊。日米共同軍事演習。あるいはヘリ搭載型護衛艦から哨戒機を発艦させる。もちろん「人工島」の12カイリ内で。そう実行できれば、名実とも海自版「航行の自由」作戦となる。 いずれも実施しないのなら、日本国はみたび「卑怯な商人国家」と堕する。「美しい国」とは程遠い。海賊対処に当たる護衛艦や哨戒機は南シナ海を通る。今後「人工島」12カイリ内を通航しないのなら、誰の目にもあえて避けたと映る。それでは中国の領有権を認めたに等しい。 現場の事情はそれなりに承知しているつもりだが、朝日の記者に泣き言を語るのは止めてほしい。工夫し努力して「余力」をつくるのが仕事であろう。「利点」がなくとも任務を遂行するのが使命ではないのか。 海は一つ。南シナ海で起こることは東シナ海でも起こる。日本政府は事態を傍観すべきでない。海自が南シナ海で活動すれば、間違いなく中国軍は対抗措置をとる。中国海空軍の高官が私にそう明言した。中国軍は自衛隊の動向を注視している。だからこそ、中国と世界の目に見える活動をすべきなのだ。今やらなければ、取り返しがつかない。 うしお・まさと 昭和35(1960)年生まれ。早稲田大学法学部卒業。旧防衛庁・航空自衛隊に入隊。早大大学院研修(法学研究科博士前期課程修了)、長官官房などを経て3等空佐で退官。帝京大准教授など歴任。東海大学海洋学部非常勤講師(海洋安全保障論)。『護憲派メディアの何が気持ち悪いのか』(PHP新書)など著書多数。

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    清原和博の薬物報道はここがおかしい!

    元プロ野球選手、清原和博容疑者が覚醒剤事件で逮捕されてから1カ月余り。当初過熱したメディアの報道もひと段落したとはいえ、節目のたびにスキャンダル的に再び盛り上がる構図は従来と何も変わっていない。更生を促し、再犯を防ぐメディアの役割とは何か。ここが変だよ、ニッポンの薬物報道!

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    正義ヅラするメディアの「洪水報道」に意味はあるか

    同じようなことを繰り返してきたからだ。大きなネタがあれば、それで繰り返し記事、番組をつくる。それが、メディアの習性だ。また、これは視聴者、読者(一般大衆)の習性でもある。 今回のような有名人のA級スキャンダルは、一般大衆にとっては格好の話題だ。大衆は、有名人の“転落”をもっとも喜ぶ。スキャンダルとは転ぶことだ。 「転び方が大きければ大きいほどいい。メディアは大衆の嫉妬心で成り立っている。嫉妬心を掻き立てるネタを探せ」 と、よく言われたものだ。 要するに、今回のように転んでしまった有名人は、叩き放題になる。「いつからやっていたの?」「誰から買ったの?」「クスリ漬けになるとどうなるの?」「離婚した奥さんと子供たちは?」などと報道するたびに大衆は喜び、「やっぱりね」と満足する。大衆は常に自分は正しく生きているという“ありえない現実”を信じ込んでいるので、一度転落した人間を叩けば叩くほど満足する。 これは、ネットのほうがひどく、正義ヅラをして他人を糾弾“炎上”させることが日常茶飯事になっている。 このようなメディアの構造を批判する気はない。 ただ、こういう報道ばかりだと、やがて“炎上”が収まったとき、なにも残らなくなることが心配だ。 洪水報道はいいが、問題はその先にある。なぜなら、今回のような麻薬常用事件は、それを犯した個人だけの問題ではなく、社会的な問題だからだ。個人の問題として片付けてしまう日本 “麻薬大国”のアメリカでは、薬物乱用による逮捕者が増えすぎて刑務所が足りなくなり、「どうすれば乱用者を減らせるか」という研究が進んだ。その結果、ヘロインやコカイン、覚せい剤などの麻薬常用者は、依存症に罹っているのと同じだから治療しなければならないとなって、治療施設が全米につくられることになった。麻薬が蔓延することで、社会は多大なコストを強いられるからだ。 しかし、日本ではこういう意識は薄く、乱用者は「厳罰主義」で服役させて終わりだ。社会から隔離してしまえば、それで問題が解決したことになっている。 だから、実際は麻薬が蔓延していても、一般人はそれに気がつかない。しかし、ここ数年でも、有名人の麻薬事件は多い。酒井法子、ASKA、小向美奈子などが相次いで逮捕されている。それなのに、メディアと大衆は、それを個人の問題として片付けてきた。 つまり、「クスリに負けたのは人間として弱いから」というわけだ。“ダメ人間”のレッテルを貼って、社会から追放して終わりというわけだ。  しかし、ホィットニー・ヒューストンやマイケル・ジャクソンを薬物乱用で失ったアメリカでは、これを個人の問題とは考えない。社会的な問題として、メディアも含めて解決法を探ってきた。 なにしろ、アメリカでは薬物乱用による死亡者が年間4万人を超え、交通事故の死亡者を上回っているからだ。これに対して日本は、2014年における薬事事犯の検挙人員は1万3121人(警察庁『平成26年の薬物・銃器情勢』)なので、死亡者は数百人と思われる。 しかし、だからといって、この問題を放置してはおけない。麻薬で捕まる人間の8割が、麻薬として最悪の覚せい剤事犯であり、水面下には検挙者の何倍、何十倍の潜在的な乱用者がいるからだ。覚せい剤ばかりではない。昨年まであれほど事件が起きていた「危険ドラッグ」も、いまは地下に潜って蔓延している。 アメリカでは数年前、テレビドラマ『ブレイキング・バッド』が大ヒットした。これは、肺がんで余命2年と宣告された高校の化学教師が、キャンピングカーの“キッチンラボ”で覚せい剤(メタンフェタミン)をつくる物語だ。  アメリカでは、ごくフツーの人間まで、覚せい剤をつくるのかと驚いた。 日本では、覚せい剤は製造されていない。清原容疑者の入手ルートが問題になっているが、たどっていけば必ず海外に行き着く。日本に流れ込む覚醒剤は、北朝鮮モノ、中国モノ、南米モノ、アフリカモノとさまざまあるという。先日も、鹿児島で末端価格にして70億円に相当する約100キロの覚せい剤を保持していた疑いで4人が逮捕されている。 このような暴力団がらみの闇ルートを断つことも大事だが、依存症に陥ってしまった人間を助けることも大事だ。アメリカには、薬物リハビリ施設が2000カ所ほどある。しかし、日本にはほとんどない。 そのうちの一つ、あの田代まさしも入所している「ダルク」の近藤恒夫代表が、次のようなことをテレビや新聞で言っていた。 「交通事故みたいなもの。誰でもなり得る」「クスリに負けた人間に、『どうしてそんなものに負けたんだ』と言うのは、薬物の怖さや依存症について知らないから」「クスリをやって捕まった人間に、『おまえはダメだ』と言ってもなんの意味もない」「薬物依存は病気。病気を治療するのは恥ずかしいことじゃない。彼らに必要なのは依存症から回復するための適切な助言と情報です」 これが、今回の事件の教訓だろう。 つまり、私たちの社会とメディアが問われているのは、清原容疑者がはたして社会に復帰できるかどうかだ。とくにメディアは、そこまで見据えた報道をしてほしいと思う。 もちろん、「禊(ミソギ)が済んだから」という復帰ではない。人間として復帰できるかどうかだ。ただ、一般大衆はそんなことはどうでもよく、この洪水報道が終われば、清原容疑者は「あの人はいま」で取り上げられるだけになるだろう。

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    【茂木健一郎緊急寄稿】私が清原和博さんを「容疑者」と呼ばない理由

    茂木健一郎(脳科学者) 違法薬物が、違法とされることには、それなりの根拠、合理性があると私は考えている。 何よりも、違法薬物は、脳の回路を変えてしまう。通常ならば、努力したり、実際に身体を動かしたりしなければ放出されない「報酬物質」に類似の働きを持つ物質が、いとも簡単に脳内に出てしまう。つまり、薬物は、脳の回路が「ショート」するようなもので、そのことによって生じる依存症などの弊害は、無視できず、時に深刻である。 そのような害をもたらす薬物を提供して利を得ようとする人々に刑事罰が課されるのは、合理的だろう。また、使用する側に対しても、結果として自分自身や社会に悪影響を与えるから、国家が薬物の所持や使用を刑事罰の対象とすることは、一つのアプローチとしてはあり得るだろう。 もっとも、私自身は、ポルトガルが試みているように、薬物の使用、所持を非犯罪化して公衆衛生上の問題として扱うといったやり方にも、それなりの合理性があるし、より有効なケースもあると考えている。警視庁から送検される元プロ野球選手の清原和博容疑者 =2月4日、東京都千代田区(撮影・今野顕) 清原和博さんが覚醒剤の所持で逮捕された事件で、違法薬物の問題に社会的な関心が高まっている。これを機会に、日本における違法薬物規制、そして報道のあり方について、考えたい。 違法薬物の問題から見えてくるある一つの対立軸がある。それは、国のあり方を考える時に、「個人の自由」と、「社会の秩序」のどちらをより重視するかという価値観の問題である。 もちろん、個人の自由と社会の秩序は、必ずしも対立するものではない。ある程度の秩序がなければ、個人の自由は保証されない。17世紀に英国の思想家、トマス・ホッブズがその著書『リヴァイアサン』で展開した論によれば、そもそも、国家というものは個人の権利を守るために「社会契約」を通して形成されるものであり、刑罰が課される根拠もそこにある。 しかし、個人の自由と社会の秩序のどちらを重視するか、というニュアンスの差のようなものは、やはりある。そして、今後の文明のあり方を考える時に、この微妙なニュアンスが、実は大切だと感じる。 アジアは、違法薬物について厳しい地域だと認識している。中国やシンガポールなど、いくつかの国では、違法薬物を輸入しようとすると死刑が課せられる。私自身は死刑廃止論者であるが、それでも、もし仮に死刑が適用されるならば、殺人のような人の命を奪う犯罪に対してだろうと考えている。違法薬物も、社会に対して悪影響を与えるという意味では重大な犯罪につながるが、それにしても死刑を適用するというのは、個人的には行き過ぎだと思わざるを得ない。なぜアジアは違法薬物に対して厳しい態度をとるのか? なぜ、中国を始めとするアジアでは、違法薬物に対して厳しい態度をとるのだろうか? アヘン戦争に至る、中国の社会での薬物の蔓延などの経験も関係しているのかとも思うが、やはり本質的なのは、個人の自由と、社会の秩序のどちらを重視するかという価値観だろう。 中国などの国では、個人の自由よりも、明らかに社会の秩序を重視する価値観が主流である。違法薬物に関する犯罪に対する厳罰主義は、そのような思想の現れだと思う。 一方、欧米では、ホッブズの『リヴァイアサン』のような著作が出てくることからもわかるように、もともとは、個人の自由を重視する思想が有力である。社会の秩序は、あくまでも、個人の自由を実現するための手段としてある。社会の秩序自体が、崇高な価値であるわけでも、目的であるわけでもない。米経済学者のミルトン・フリードマン氏 薬物についての態度も異なる。私がかつて留学していた英国では、20年前から、主要な新聞が一面トップでマリファナの合法化を主張するなど、社会的な議論が巻き起こっていた。米国のレーガン政権に影響を与えたノーベル賞受賞の経済学者、ミルトン・フリードマン氏は、個人の自由を重視し、政府の介入を最小限にすべきだという立場であり、薬物も合法化してその使用の判断を個人の自由に任せるべきだと主張していた。 もちろん、フリードマン氏のような論は、米国においても必ずしも多数派ではない。それでも、有力な学者がそのような論を表明するあたりに、個人の自由を重視する思想的伝統を見る。 米国においては、「保守主義」とは、個人の自由の徹底を意味する。国家の秩序を最重視する中国の「保守主義」とは、そこが違う。 日本は、アジアと、欧米の中間に位置する、興味深くユニークな国である。日本における個人の自由と社会の秩序のあり方は、どうあるべきか。明治維新で欧米の思想を柔軟に取り入れた日本では、人権や自由などの思想が社会にある程度根付いている。その一方で、清原和博さんが逮捕されると一律に「清原和博容疑者」と報じるなど、罪を犯した人を「別扱い」することで社会の秩序を保とうとする、アジア的な傾向も見られる。 薬物で逮捕された芸能人が、公衆衛生や刑事罰の問題を超えて、社会的にバッシングされ、反社会的という烙印を押されてしまうことにも、個人の自由、権利よりも社会の秩序を重視する傾向を見てしまう。 果たして、それで良いのだろうか? 私には、大いに疑問なのである。 日本は、これから、どのような社会を目指すのだろうか。 私自身は、日本は、アジア的な伝統と、欧米のようなグローバルな普遍的な価値を志向する社会という、二つの動きの間に位置するユニークな国でありつづけて欲しいと考えている。何よりも、個人の自由を重視する思想がないと、ITや人工知能といった分野におけるイノベーションが起こらず、経済も発展しない。 中国の経済は、思想や言論の自由に対する抑圧的態度をとっている限り、行き詰まるだろうと私は考える。日本としては、個人の自由を重視する米国のやり方の、良いところは学ぶべきだろう。 私たちは、一体、これから何を求めるのか? 清原和博さんの薬物使用に関する報道や、世論のあり方を見ると、日本という国の課題も、希望も、見えてくるように思うのである。

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    「処罰から治療へ」 日本ダルクの近藤恒夫代表インタビュー

     日本ダルクは薬物依存からの回復に取り組んでいる民間団体で、1985年に近藤恒夫代表が西日暮里に開設した東京ダルクから発展したものだ。近藤さんは94年にそこを別のスタッフに任せて沖縄に渡り、沖縄ダルクを開設。97年には高知ダルクを開設して、98年に再び上京して、日本ダルクを開設した。 ダルクはスタッフが独立する形で各地に設立され、現在は全国で約60カ所に及ぶ。総本山というべき日本ダルクは、クリニックや弁護士事務所まで併設し、近藤さんがその代表を務めている。各地のダルクは、それぞれの代表に任せており、法人ではあるが独立採算制になっている。  「僕はピラミッド型組織が嫌いだから。ダルクは誰がやってもいいんです。たぶん、それがダルクが各地に広がった理由じゃないですか」(近藤代表)日本ダルクの近藤恒夫代表 薬物依存となってダルクに入寮する場合は毎月16万円を負担する。薬物の誘惑を断ち切るために、一人暮らしをやめ、ダルクで共同生活を送りながら回復のプログラムに参加する。16万円のうち6万円がダルクから生活費として本人に支給される。子どもが薬物依存となった場合は、入寮費は親が負担することが多いが、成人の場合は生活保護受給者も少なくない。16万円という金額は生活保護受給額を基準に決められているという。 ダルクの特徴は、近藤さんを始め、スタッフが基本的に元薬物依存者であることだ。患者がスタッフとしてフォローする側にまわる。つまり互助的な組織だ。 「実際に経験した者がアドバイスしてくれるから説得力も増すし、患者が回復すればスタッフに回ることで雇用が生まれる。それがよいことですね」(同) 芸能人などが薬物所持や使用で逮捕されると、テレビでコメンテイターが「刑務所に送って厳罰に処すべきです」とコメントする。しかし、これは、日本社会が薬物依存に対する理解が足りないことの現われだ。薬物依存はある種の病気だから、治療をせずに2~3年刑務所に閉じ込めておくだけでは、出所後、再犯に至るという悪循環を断ち切るのが難しい。  「刑務所に入っても悪化させるだけです。薬物依存は基本的に社会内処遇、つまり社会で治療を受けて治さないといけないのです。でもそのことへの理解が足りず、昔は裁判で治療の必要性を主張すると、裁判官が『ここは治療でなく裁く場なのだ』と言うこともありました。さすがに今はそういう裁判官はいませんが……」(同)薬物依存者は排除するだけではダメ アメリカなどではドラッグコートという仕組みがあって、法廷で薬物依存者に、処罰か治療かを迫り、処罰されるのが嫌なら治療に専念することを迫る。日本でもそれに対する研究は進んでいるが、そこへ至るのにはまだ段階があり、もう少し違った仕組みが考えられているという。「刑罰から治療へという考え方をダイバージョンと言うのですが、ドラッグコートとなると法律も変えないといけないので、今考えられているのは、検察が起訴するかどうか決める時に、治療に専念するなら起訴猶予にするという考え方を取り入れることです。これだったら現状でもできる。服役したり罰金を払うのが嫌なら治療して回復させるという考え方です」(同) 現状では薬物事件で逮捕された場合、初犯ならほぼ執行猶予がつくのだが、近藤代表に言わせると、何のフォローもなしに執行猶予をつける今のやり方では再犯に至るだけだという。ダイバージョンの考え方をもっと取り入れて行かないと薬物依存は防げないという。  「薬物依存者は排除するだけではだめなんです。排除されればまた薬物をやる。例えば職場や学校で薬物をやっているのを見つけた場合、日本ではまだすぐに解雇したり退学にしたりするでしょう。退学させるなら治療してからすればいいじゃないですか。うつ病になった人がいる場合は、その人をすぐに解雇したりしないでしょう。薬物だって基本的にはそれと同じなんです」(同) 回復への治療を受ける過程で、また薬物に手を出してしまう患者もいるが、ダルクはだからといって失敗だったと全否定はしない。薬物依存は「薬物は二度とやりません」と誓うのでなく、がんなどと同じように共存しながら使用しない期間を延ばしていくことで克服するという考え方だ。 ダルクの30年の歩みは、日本における薬物依存への取り組みの歴史でもある。今少しずつ司法において「処罰から治療へ」という考え方が浸透しつつあるのも、ダルクなどの働きかけがあったからだといえよう。 「正直言って、ダルクが30年ももつとは思いませんでしたがね」 近藤さんはそう言って笑った。  薬物事件の悲惨なところは、出所後、本人も「今度こそ立ち直る」と誓い、周囲も大変な思いをして応援していくのに、それを裏切ってまた逮捕されてしまうといったことの繰り返しであることだ。家族などが懸命になって更生に関わるのに、その努力が再逮捕で水の泡になるという深刻なことが何度も繰り返されるのだ。自分も周囲も崩壊することがわかっていながらなぜ再び薬物に手を出すのか、と誰もが思うのだが、そこが他の犯罪と違う、病気でもあるゆえんだ。 日本でも最近は処罰から治療へという考え方が、次第に浸透しつつある。日本における薬物依存との闘いは、まさに30年かかってようやく変わり始めたのだが、それはダルクの取り組みを抜きにはありえなかったろう。(月刊「創」2015年11月号掲載)

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    来月末も、もう一杯。「朝生」は定期的に食べたいカツ丼だ

    いうのが朝ナマの最大の魅力の一つでもあり、また同時に欠陥でもある。それは繰り返すように、テレビは映像メディアであるがゆえに「本質的な部分」が蔑ろにされかねない、ということだ。 だから朝ナマを画像なしの音声だけで聞くと、何をか言わんや明鏡止水、パネリスト達の本心と本質、あるいは前述した支離滅裂な部分が途端に浮かび上がってきて興味深い。私は個人的にはテレビメディアよりもラジオメディアの方が好きだが、それはサウンドオンリーのメディアは、その話者の本質を隠すことが出来ないからだ。 田原氏が言うように、声の大きさや身振りで、朝ナマの討論の主軸は時として明後日の方向に飛んで行く時がある。これは音声だけを聞けばより明瞭になる。田原氏は司会者としてうまくコントロールしているが、完全には制御できていない。一度ラジオ専門の朝ナマも聴いてい見たいと思うところではある。”テレビディレクターを努め、活字の原稿を書いて、私はテレビの強さと弱さ、そして活字の強さと弱さが分かるようになった。たとえば、戦後ドイツは東西に分断されていた。そして冷戦が終わり、結局西ドイツに東ドイツが統合される形になるのだが、東ドイツの人間たちが、自分たちの時代遅れ、そして貧しさを強く感じたのはテレビのせいだった。(中略)たとえば『朝まで生テレビ!』の出演者たちの討論でも、言葉は表現のワン・オブ・ゼムであった。表情、目、そして声の高さ、強さ、大きさ、さらには身振り、手振りなど、テレビの表現手段は多様である。それに対して活字メディアでは、文字だけが表現手段であるが、それゆえにテレビとは比較に成らない緻密な理論の枝葉によって思考を深めることができる。また、テレビは具体的な映像が逆に邪魔になって、さまざまな出来事、事件などの抽象化という作業をやりにくい。この点でも文字だけのメディアの方が優れている。”(『田原総一朗 元祖テレビディレクター、炎上の歴史』別冊文藝春秋、2014年、P228) このように田原氏は、テレビメディアの利点と欠点を上げ、場合によっては活字メディアに軍配を上げている。「朝ナマは至高ではない」という自明を、きちんと踏まえている「素直さ」が田原総一朗氏の傑物たる由縁であろう。「朝ナマ」はカツ丼である 私はそういった意味で、『朝ナマ』という番組は田原総一朗氏が創ったカツ丼である、と思っている。どういう意味かといえば、地の文で説明すると冗長になるので、『カツ丼』と『童貞』をなぞらえた以下の漫画(『西武新宿線戦線異常なし』押井守原作、大野安之画、角川書店)の「とっつあん」なる人物の台詞を引用して代弁としたい。”「セイガクよ、初めての女ってのはな、ガキの頃に食ったカツ丼みてえなもんなんだ」「だからよ、そンときは、ああ旨い、この世にこんな旨いモンがあるのか! 生きててヨカッタ!…と思ったとしてもよ、手前の金で自由に食えるようになってみると、何故あれほど感動したのかわからねえ…不味くはねえがそれほどのモンじゃねえ。お前ェ不思議だとは思わねえか?」”(『西武新宿線戦線異常なし』) インターネットの動画には、『朝ナマ』を模倣したかのような各種のイデオロギーに偏向した「討論番組」が氾濫し、高校生レベルの粗悪な知識しか持ち得ないユーチューバーなるものが森羅万象の全てを3分とか5分でまとめようとする馬鹿げた動画が人気を博したり、それらしき社会派のブログやツイッター有名人がもてはやされたりする一方で、出版業界が空前の不況だというが、出版点数自体は全盛時代よりも激増している。 「タブーを斬る」だとか「解放区」だとかいう姿勢そのものは、『朝ナマ』出発当初よりも格段に「聖域」の幅が狭まった。そういう意味では、相対的に『朝ナマ』の影響力は低下している。 こんなことテレビで言ってしまってよいの?という不安と興奮が雑居した感覚は、最早あまりない。それは朝ナマよりも遥かに過激な言説がネットや雑誌(或いはムック)にあふれているからで、そういう意味で「初めて食ったカツ丼」(前掲)に『朝ナマ』は似ている。いざ自分の金でカツ丼が食えるようになると、「初めて食ったカツ丼」の感激は薄れ、焼き肉とか高い寿司とか小料理屋のもつ煮込みとか、そっちの方が美味いと思い、感激は薄れていく。 しかし、人間とは不思議なもので、原初的に出会った感激は、一旦は遠ざかるが、やがて一巡して戻っていくものだ。つまり、「ガキの頃に食ったカツ丼」が30歳や40歳のおとなになって、もう一度「やっぱり最高にうまい」と思う瞬間が訪れる、ということだ。何故だろう。多分それは、『朝ナマ』の歴史の蓄積だろう。インターネットの空間がどんなに『朝ナマ』の上を行く過激と解放度合いを謳っても、それは刹那である。齢30年の年季が入った親父の職人芸に戻っていくというのが、我々の本質というか母体回帰である。 そういう意味で、『朝ナマ』は、「毎日ではないけれども定期的に食べたいカツ丼」というのが適当だろう。来月末も、もう一杯。

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    あのワクワク感をもう一度 「朝生」はリベラルと漂流し自壊した

    3年。防衛庁長官官房(現防衛省大臣官房)で防衛庁広報誌の編集長を務めていた。「自衛隊の顔」と呼ばれ、メディアに今より露出していた制服幹部(私)が最盛期の朝生で国連PKO派遣に積極発言した。発言内容は内外から評価されたが、出演したこと自体が部内で問題視された。かくて内示もなく解職され……等々、朝生との関わりは四半世紀近くにわたり、密度も濃い。失ったものも大きいが、得たものも少なくない。 いずれにせよ「多数出演した」当事者なので、これ以上の論評は避けたい。ただ一部「保守」の朝生批判には異論を表明しておこう。とくに電波停止に言及する批判には、はっきり異を唱える。アエラに言わせれば「保守優勢」の番組、それすら標的にするのは、おかしい。さらに言えば「リベラルの自壊」を喜ぶ「保守」は卑しい。そんな暇があるなら、自ら「タブーなき討論」に挑戦すべきであろう。 自由と「開かれた社会」を守り「その敵」と闘う。そこに保守の正統はある。ところが、今やどうだ。保守自ら「閉ざされた言語空間」を形成している。その狭い空間で互いを罵り合う。路上やネット空間で汚いコトバを吐き散らす。そんな連中を、多くの人が「保守」と呼ぶ。リベラルだけではない、保守こそ漂流し自壊した。私はそう思う。 来年、朝生は30周年を迎える。司会の田原は「『30年でひと区切り』と公言する」(アエラ)。なら、その後どうなるのか。地上波から名実とも「激論」が消えるのか。そうなら寂しい。私も覚えている、80年末から90年代前半のワクワク感を。 もし、朝生関係者に〝あの頃〟を取り戻す気概がないのなら、このiRONNAが「開かれた言語空間」になればよい。ここから「タブーなき激論」に挑戦してほしい。もし「いろんな」と名乗りながら特定の主張だけを掲載するなら、看板倒れではないか。そこに希望や展望はない。私は失望する。「自由と民主主義のために闘う正論路線」を掲げるフジサンケイグループこそ、勇猛果敢に挑戦すべきであろう。勇気をもって闘う、自由と民主主義の礎となる「開かれた言語空間」のために。本来の「正論」はそこから生まれる。 べつに堅苦しい話ではない。「闘う正論路線」はきっと、人をワクワクさせる。あの頃の朝生のように。あの頃を知る私たちは、こうも知っている。「楽しくなければテレビじゃない」(フジテレビジョン)(文中敬称略)

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    好奇心と公平さ、そして流れを作る嗅覚 田原総一朗に後継者はいない

    テイナーとしての自信と実績故であろう。 田原氏の政治的立場も、日本政治の在り方を象徴している。日本のメディアが全般に左派的であった時代にはその真ん中にいたし、冷戦が終結し、東アジアの秩序が変化するにしたがって現実路線へと変化した部分はあっただろうと思う。その姿勢をして、時代の要請に応えたと見ることもできるであろうし、その変化を主導したと見ることもできるだろう。変化を嫌う層からも、左派からも、右派からも叩かれてきた。あそこまで左右両極から叩かれるのはホンモノだからだ。田原氏とは比ぶべくもないが、同じく左右から叩かれる私には、とても励みになる存在だ。 人間としての氏の魅力は、あふれ出るような好奇心に支えられていると感じる。年齢と精神のあり様を結びつけて論じることは、何らかのステレオタイプを前提としており、適切な考え方ではないかもしれない。が、とにかくお若い。好奇心を持ち続ける精神は老いないのだろう。 そして、おそろしくフェアだ。私自身、日本社会にあってこのような感覚はあまり体験したことがなく、戸惑うほどだ。議論するときは「田原さん」であり、「三浦さん」としてやっている。女性にも、若者にも、右翼にも、左翼にも、偏見がない。手加減もない。新しいと思えば取り上げるし、面白いと思えば鋭く突っ込んでくる。一瞬も気が抜けないし、とても、鍛えられる。第一線で名前を張ることの厳しさを体現している方だ。私の知る、次世代を担うであろう論客達からも深い尊敬を勝ち得ているのもそれ故であろう。 御歳81歳ということで、「後継者」について語られることもあるが、私は、それは存在しなくていいと思っている。世の中には、類型化できない才能や存在というものがある。そうした存在に対しては、後継を求めてはいけないのではないかと。それぞれ毀誉褒貶はあるかもしれないことを承知の上で敢えて申し上げるが、石原慎太郎にも、ウォーレン・バフェットにも、ルパート・マードックにも後継者はいない。田原氏もそのような存在だ。これからも田原氏と議論できる機会を楽しみにしている。

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    総力特集! 田原総一朗とは何者か

    テレビ朝日の名物討論番組『朝まで生テレビ!』で司会を務める田原総一朗といえば、80歳を超えた今も歯に衣着せぬ発言で番組を仕切り、圧倒的な存在感をみせる。「政治をテレビ化した」ともいわれる彼はいったい何者なのか。iRONNA編集部が総力特集で「田原総一朗」の人物像に迫る。

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    「反骨」の男、田原総一朗はテレビ界の妖刀だ

    中宮崇(サヨクウオッチャー) 田原総一朗=サヨク・反日という思い込みは、世間では未だ根強いようだ。たしかに彼のこれまでの言動を見てみれば、そういう勘違いも頷ける。 実際田原は、多くの自民党総理総裁のタマを取ってきた実績もある。1993年のテレビ朝日「サンデープロジェクト」において、政治改革への意気込みについて当時の宮沢喜一首相を「今の国会でやるのか」と厳しく問い詰め、宮沢から「政治改革は絶対やる。私は嘘はつかない」との言質を取り、結果として政権崩壊に追い込んだことなどはその代表例と言える。 しかし彼を単純に反日サヨクとみなすのは誤りである。例えば、サヨク連中から「ウルトラ右翼」とみなされている石原慎太郎を「文学者として尊敬する人物」と褒めそやしたことにより、それまで交流のあったサヨク文化人達から絶縁されたという話もあるのが田原という男だ。 「朝まで生テレビ」においても、2009年4月の放送で「極東国際軍事裁判は正しくない。戦勝国が戦敗国を裁くんだからこんなものは集団リンチ。ソ連は日ソ中立条約を破ってきた。あんなものは明らかに戦犯」などという、サヨク連中にとっては到底受け入れがたい認識を披露している。 この発言は別にその場限りの突発的な失言ではない。彼の意外な非サヨク的思想はその著書を読めば一目瞭然である。例えば、小泉訪朝により北朝鮮による拉致の事実が判明し、社民党をはじめとするサヨクによる「拉致は日米による捏造」との大嘘が判明する2年前の2000年に、田原は『日本の戦争』(小学館)という本を出版している。その中で彼は、サヨクが「軍部による暴走により国民が巻き込まれた」とみなす太平洋戦争について、「あの戦争が始まった原因は、軍部の暴走ではなく、世論迎合だった」と主張している。現在と違いサヨクの暴走がとどまるところを知らず「拉致は捏造」などという大嘘を平気でホームページに掲げることがまかり通っていたサヨク天国の時代のことである。これは極めて政治的に危険な姿勢である。サヨク連中からの様々な圧力もあったに違いない。サヨクの醜さを暴く最も辛辣な手法 ここから見えるのは、彼を表すには「反日」などではなく「反骨」という言葉こそふさわしいのではないかということだ。2010年に野中広務元官房長官が、内閣官房報償費(内閣機密費)をジャーナリストや評論家に一人当たり数百万単位の金を定期的にばらまいていたと証言したことがある。その際にも野中は、田原だけがその金を突き返してきたと述べており、これも田原の反骨精神の証左といえるかも知れない。 そんな反骨精神が最も発揮されるのが、原則的にライブで放映される朝まで生テレビであろう。自民党議員や保守系知識人へのツッコミが激しいことで知られる田原であるが、その矛先はサヨクに対しても容赦ない。2011年2月の放送では、日韓併合の不当性をまくし立てる日本共産党の笠井亮衆院議員に対し「この人は人間じゃない」との暴言を吐き、後日しんぶん赤旗から猛攻撃を受けている。 しかし録画番組や雑誌記事と異なり生放送という特性を大いに活かした田原は、笠井がギャーギャーとわめきたて他のパネリストの議論や発言を圧殺する醜い姿を全国のお茶の間に見せつけることにより、共産党やサヨク勢力の非民主的で暴力的な本性を知らしめることに成功した。 サヨクの醜さを暴く田原の手法が最も辛辣な形で観察できるのが、元東大教授で在日朝鮮人の姜尚中が出演する回においてである。一般に田原は、パネリストの都合の悪い発言を「はい!CM!」などと強引に遮りぶった切るということで定評がある。しかしなぜか、姜尚中の発言中にそのような「妨害」がなされることは極めてまれである。姜が北朝鮮の将軍様をいくら必死で擁護しようが、口汚く反日演説を垂れ流そうが、いつまでも長々と喋らせ続けるのが常である。 このような田原の姿勢は世間では「親北朝鮮」とか「ダブルスタンダード」などと批判されることが多い。しかし私はそうは思わない。なぜなら、姜のような無思慮な人物は滔々とさえずらせておけば、勝手にいくらでも失言を自ら吐いてくれるからだ。田原が強制的に実力行使せねば失言を引き出せぬ宮沢喜一等のような知性ある相手の場合と対応が異なってくるのは当然であり、それこそが田原の真骨頂と言える。 姜尚中といえば、「よく“北朝鮮が拉致をしたかもしれない”という報道があるけれど、“なぜ?何の目的で?”と、僕が聞きたいですね」など言い立てて拉致を否定してきたサヨクの首魁である。著書の中でも「ミサイルや『拉致疑惑』で正常化交渉は遅々として進まない」(『東北アジア共同の家をめざして』平凡社)等、拉致はあくまでもただの疑惑で、しかも日朝関係の「障壁」とまで呼び、北の将軍様のために拉致被害者を傷つけ貶めることに邁進してきた。06年11月25日の世界海外韓人貿易協会での講演では、「北朝鮮核問題や拉致問題を取り上げて北朝鮮を批判する日本の世論を変えねばならない。在日同胞たちが過去に日本に連れて来られたことに対しては何も言わず、冷戦時代の拉致ばかり話すというのは矛盾したことだ。私は横に横田夫妻がいても、これを言うことができる」と、「この人は人間じゃない」と言われても仕方がない発言を行ったと伝えられている。 しかし、姜のそうした異常性や非人間性が槍玉に挙げられることは殆ど無い。文字媒体や録画番組なら、第三者がマイルドに「編集」してその非人間性を覆い隠すことが可能であるからだ。しかし朝まで生テレビではそうは行かない。小泉訪朝により、姜が将軍様のために「拉致は疑惑に過ぎない」とプロパガンダに励んできたことが無駄になってしまった直後の03年1月の放送では、田原に突っ込まれて不用意に「五人の家族を(いったん北朝鮮に)帰す。どんな形でもよい。返す」と口走り、反省という言葉を知らぬサヨクや反日在日朝鮮人の邪悪さが白日のもとに晒された。 北朝鮮が核実験を強行し核による脅しを繰り返していた中、08年1月の朝まで生テレビにおいて姜尚中のお笑い発言を引き出した田原の功績は特に大きい。番組中姜は「三八度線の南側に、韓国に在韓米軍が今後長きにわたっていても、北朝鮮はそれに反対しない可能性がある」とそのご高説を披露したのであるが、なんとその翌日にこんなニュースが全世界を駆け巡った。「北朝鮮、在韓米軍の撤収を要求」 最早笑いを通り越して、敬愛する将軍様に裏切られてしまう姜のピエロぶりに涙さえ誘われる。 田原のツッコミにより姜が間抜けな「予想」を開陳し笑いものになるという現象は他にも多く、例えば06年9月29日放送の朝まで生テレビ「激論!安倍政権と日本の命運」では姜は「北朝鮮には、強硬姿勢を示すカードは無い」と断言したもの、その直後の10月9日は、北による初の核実験という暴挙が強行され、その「予想」能力の稚拙さ、あるいは息を吐くように嘘をついてまで北の将軍様に忠誠を尽くす在日朝鮮人学者の邪悪さが明らかとなった。 田原は切れ味の鋭い凶器である。なまくら刀ばかりがはびこるテレビ業界において、他に替え難い妖刀である。今後もバッサバッサと辻斬りに励んで頂きたいものだ。

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    「朝生」のやらせ問題で一番ひどいのはテレビ局

     1日に放送されたテレビ朝日系「朝まで生テレビ!」に観覧者として出演していた大森昭彦大田区議会議員は、自民党所属であることを隠し、敢えて「建設板金業」の肩書きでもって、自民党安倍政権を持ち上げる発言をしました。 立場を明らかにしないのは、あからさまなやらせ発言としてネット上でも批判の声が多く上がっています。 驚いたことに、当のご本人は、全く無反省です。「「朝生」で肩書伏せて観覧し意見述べた大田区議「言う必要はない」」(スポーツ報知2016年1月2日)「自分は、工場の経営者として観覧したので、言う必要はないと考えていました」と答えた。「出演は問題ないと考えているか?」との問いには「はい」と断言した。」「大森氏は「下心を持って番組に参加はしておらず、国の政策が地方にどう関わっていくのかを知りたかった」。今後も、声が掛かれば観覧をしたいと考えているという。」 ここまで問題状況がわかっていないとはすごいと思います。 大森氏の発想は、自分は自営業者である、自営業者として経済政策について意見を述べた、その内容についての嘘偽りはない、政権を持ち上げるという意図もなければ自分が感じたことを述べたのだから問題ない、ということなのでしょう。 しかし、どの立場で発言するのかは極めて重要な場合があります。かつて問題になった原発問題に関して、九州電力が関連会社の社員らにやらせメールを送らせていたことが暴露されたのが2011年でした。 経産省が主催した「佐賀県民向け説明会」が生放送される中で、九州電力が関係会社の社員らに玄海原子力発電所2、3号機の再稼働を求めるメールを送らせていたというのですから、非常に悪質でした。 県民の意向が歪んだ形で表れるからです。 大森氏のやったことは、これと同じレベルです。 立場を隠すということは、見ている側、聞いている側にとっては、その人はあたかも「中立」という立場から判定しているように見えてしまうし、その誤解(錯覚)があることを知りながら敢えてその手段(肩書き)を選択しているのです。 従って、この大森氏のやったことは大問題であり、品格が問われるというべきものです。 もっともこの大森氏は、「アベノミクス」についての効果については否定する発言をしていました。「『朝まで生テレビ』に自民党区議が一般人装い出演! でも“自民党のサクラ”もアベノミクス効果は完全否定(笑)」(リテラ2016年1月3日)「上がっているという印象はないです。私だけではなくて、同業の人たちに聞いても、上がっているという印象はないかなと思います。やはりコストがかかったりしているところが波があるので、平均に慣らすと、やはり利益が上がっているという印象はちょっとないんじゃないか」「私の場合は街場の業者なんですよ。ゼネコンの方達と取引している業者とまあちょっと違うので、構造的にちょっと違いがあるので」「われわれの業界だけでいうと、(アベノミクスは)あまり効果的には伝わってないって印象ですよね」「直接アベノミクスというところでは、あまり感じてないんです、われわれは」 その意味では大森氏にとっては、正直な回答なのであり、持ち上げたという感覚ない、内容に問題はないということにつながるのですが、しかし、やはり自民党政権か民主党政権かという政権評価、そして自民党に軍配を上げた発言だからこそ問題なのです。 政権評価には、この「アベノミクス」の効果が関連して来ないのあれば、安倍政権の政策によって「民主党政権の時よりは、よくなったかなと、そういう印象はあります」ということには飛躍が出てきますし、立場を知れば誰もが持ち上げているという評価をするわけです。 そして、本当にそれが政権の違いによる効果であるならば、「だからオレは自民党なんだ」と言えばよいことです。 従って、大森氏が行ったことを正当化できる余地はありません。 とはいえ、観覧者にこのような自民党現職区議であることを知りつつ、その肩書きを隠して出演させていた局側が一番、ひどいと言えます。「今回もディレクターから依頼を受けて知人と観覧。ディレクターは、大森氏が区議であることを知っていたという。」(前掲スポーツ報知) 私も先日、この弁護士会主催のパレードに参加しました。「12・6 安保法制 秘密保護法 廃止! 参加してきました」 この会場で私は朝日新聞の記者にインタビューを受けたのですが、最初に自分は弁護士であり、この会の主催者側なので不的確であることを伝えました。もちろん、その後のインタビューはありません。そうあるべきものだと思います。単なる一参加者としてインタビューを受けるべきではないからです。 その登場させる人物の立場をわかりながら、それを敢えて秘匿し、それを1つの「声」として伝えることは、内容がどうあれ公正性に疑問符がつくのは当然です。 その意味では大森氏も同罪です。 今回の問題で、テレビ朝日、自民党はどのように対処するのかが問われます。曖昧にしてはいけません。(弁護士 猪野 亨のブログ 2016年1月3日分を掲載)

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    「極端に言うと嫌いな人がいないんです」田原総一朗、原動力は好奇心

     現在77歳。テレビ・ラジオ出演、講演、公開講座、著作や連載の執筆と、田原総一朗さんの精力的な活動は衰えることを知らない。好奇心旺盛で何でもおもしろがる性格が、その原動力のようだ。「日本人男性の平均寿命が80歳と言われる今、70代はまだまだひよっこ」と自ら言い切る田原さんに、最近思う、「かけがえのないとき」を聞いた。 私の1日は、朝8時過ぎに起床し、トーストとちょっとした野菜サラダと紅茶程度の朝食を自分で作って食べながら、朝刊6紙に目を通すことから始まります。その後マンションの1階に下り、すぐさま6階まで歩いて階段を上るのを日課にしており、それが終わって一休みしたら、自宅から六本木のANAインターコンチネンタルホテルに移動。そこで1日7件から10件ぐらい、打ち合わせや取材などで人に会い、原稿は、その合間に書いたり、夜、自宅に帰って書いたり。地方に講演などで出かける以外、私の毎日は大体こんなパターンです。 そうした1日の中、ときどき1人になってじっくり考え事をする時間が必要になります。そんな時、私はトイレに入るんです。個室で便座のフタを下ろし、そこに20、30分じっと腰掛けていると、すごく落ち着けて、いいアイデアが浮かんだり、考えがまとまってくる。外国はトイレにフタがないことが多いでしょう。だから、海外へ行く際は、ちょうど便器の上に置けるぐらいのお盆を持っていくんです(笑)。トイレに座って考え事をするのは、それほど私にとって大事な時間なんですよ。インタビューに答える田原総一朗氏 私は今年で77歳。だから、やることなすこと全てがかけがえのない時間であり、かけがえのない行動だと思っています。ただ、これまでは70過ぎれば年寄りと思っていましたが、日本人男性の平均寿命が80歳、女性が86歳と聞いてからは、「70代はまだまだひよっこ。年をとって生きるというのは、80代、90代のことを言うのだ」と考えるようになりました。今は、80代をどう生きるか、90代をどう生きるかが、われわれ世代のテーマなんだと感じています。日本は、一応60歳が定年ですが、そんなのまだ若い。ひよっことも言えない年齢ですよ。相手が誰であれ必ず本音で話します よく「定年後に何をすればいいかわからない」という人がいますが、やることはいくらだってあるだろうと言いたい。年金が支払われて生活に困らないなら、ボランティア活動をすればいいじゃないですか。人が生きがいを感じられなくなる1番の理由は、世の中に期待されていない、人から頼りにされていないと感じるようになることなんです。ボランティアはまさに人から期待されていることを実感できるわけですから、自分が年を取らないためにもとても有効だと思います。 もう1つ、世の中の出来事に関心を持たなくなることも、早く年を取る要因じゃないでしょうか。定年までは仕事関係の付き合いがあるけれど、それがなくなると、たちまちどうやって人と付き合えばいいかわからなくなる。「それなら本を読んだり1人で楽しめる趣味を見つければいいじゃないか」という人もいますが、それではダメ。重要なのは、人と会って話すこと。それによって、自分に刺激を与えることだと思います。 私の唯一といっていい趣味は、人に会うこと。とにかく人と話すのが好きで、それが元気に仕事を続けられる原動力になっていると思っています。 人と話すときは、相手が誰であれ必ず本音で話します。建前の話はしない。政治家だろうと友人だろうと、初めて会う僕の著書やブログの読者だろうとそれは変わりません。中国で、ジャーナリストを集めてディスカッションをするときも、本音と本音をとことんぶつけ合う。途中でけんかになることもあるけれど、最後は理解し合って仲良くなれます。私が「中国は、経済は自由化されて競争しているのに、政治はいまだに共産党の1党独裁。そこに君たちは矛盾を感じないのか」といったことを平気で口にしても、「それでいいとは誰も思っていない」と言って、自分の考えを正直に話してくれますよ。 極端に言うと、私は嫌いな人がいないんです。批判はしても、嫌いなわけではない。「朝まで生テレビ」で、出演者と激論したり、相手を批判することがあるけれど、実は「ああ、こういう見方、考え方もあるのか」と面白がっているんです。要するに、おもしろがり人間なんですよ、私は。 以前ある女性誌で嫌いな文化人の3位になった時は、記念に取っておく分と人にあげる分を3、4冊まとめて買いました(笑)。おもしろいじゃないですか、そういうのって。 そうやって、何でもおもしろがるし好奇心も極めて旺盛なので、やりたいことは次から次へと出てきます。今は、雑誌やWEBの連載が月に10数本。ブログもあるし、30万人以上の人にフォローしてもらっているツイッターも続けている。テレビやラジオのレギュラーも月数本ありますが、これで満足ということがない。80歳になっても、90歳になっても、常に何か新しいことをやろうと考えていると思います。それが私の、「80歳を、90歳をどう生きるか」ということ。私の「かけがえのないとき」は、まだ当分続きそうです。

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    田原氏の「ジャーナリストの使命」という考え方は前時代の残滓だ

    木走正水 さて少しメディア論をさせてください。このSNSが普及した時代。情報発信はメディア・ジャーナリストの独占物ではなくなりつつあります。 考えてみれば一般大衆に情報発信するジャーナリストなど、教員や医師のように免許がいるわけでもなく、何の資格も必要としない職業なのであり、本来社会の誰でも情報発信可能なものである性質だったのが、新聞・ラジオ・TVと既存のマスメディアは、放送電波の免許や独禁法例外の新聞再販制度などで、幾重にも法により守られた選ばれた「特権階級」として情報発信を独占してきただけです。 旧来のメディアは限られた情報発信手段を独占し、新聞は「大衆」に情報を一方的に発行、TV・ラジオは「大衆」に情報を一方的に放送、情報は「特権階級」であるメディア・ジャーナリストから一般大衆に一方通行に発信されるものでありました。 彼らが情報発信の特別の能力を有しているわけでもなく単に法により守られた存在であり、自由競争ではなく独占的に発信手段を有しているだけの存在であったために、自分たちの利権を守るために日本では100以上の記者クラブが現存し、今現在も情報源の独占を何とか守ろうとあがいているのは、むしろ滑稽ですらあります。 記者クラブ制度などマスメディアが「特権階級」であったころの残滓にすぎません。 ネットの普及により情報の流れは革命的な変化をいたしました。WEB2.0の技術革新は、ネット上の情報発信を完全にインタラクティブな双方向性、すなわちネット参加者のすべての人に情報発信能力を与えたのです。 ネットメディアでは、情報発信者が起こした記事は、コメント欄、ツイッター、ブックマーク、トラックバック、あらゆる手段で読者の意見がぶつけられていきます。 アマゾンの商品レビューしかり、ネットメディアの記事ページしかり、ネット情報は完全に双方向性を有しており、リアルタイムに会話的に情報のキャッチボールが可能となった初めての媒体、それがネットなのです。 ネットでは情報発信はマスメディアの独占物ではなくなった、唯一の情報発信者としての「特権階級」だったマスメディア・ジャーナリストのその独占的「利権」が、インターネットにより今崩れ去ろうとしているわけです。 新聞などのマスメディアやジャーナリストがインターネットおよびそのユーザーに徹頭徹尾批判的であるのは、フランス革命時の貴族階級の大衆に対する反応とほぼ同値なのであり、自分たちが能力的に優れているから独占的に情報発信していたわけではなく単に法律に守られていただけの「裸の大様」であったことを今、マスメディアは痛感しています。 彼ら既存のマスメディアやジャーナリストはネットのメディアとしての特性を真に理解できていません。 放送や新聞発行といった一方通行の情報伝達手段にすっかり慣れているために、ネットでは情報が双方向で飛び交うことに戸惑ってばかりいます、ときにネットの匿名性や情報精度の玉石混淆なことを批判的に取り上げることはあっても、媒体としてのネットの優れた特性を正しく理解はできていません。メディアをリテラシーするということ 過日、「ヤフー知恵袋」が大学入試のカンニングに利用され大きな騒動となりましたが、大新聞はこぞって社説でネット批判を展開いたしました、「だからネットは信用できない」、「ネットユーザーのモラルの低下」うんぬん、勇ましく社説で語られていましたが、「ヤフー知恵袋」の事件が示していたのは、だからネットはだめなんだということではまったくなく、実は本質は真逆であり、ネットが情報発信の双方向性を持つ優れた媒体であるからこそ「ヤフー知恵袋」のようなリアルタイムサービスが実現しているのであり、優れた媒体であるからこそカンニングに悪用されたのであります。 誰かが疑問に思うことを発信し、その情報の不特定多数の受信者が「解決策」を提案する、リアルタイムなこのようなサービスは、既存の放送や新聞では逆立ちしても真似はできないのですが、新聞の社説ではそのようなネットのメディアとしての特性に対する言及は皆無であり、ただ表層的なネットおよびユーザー批判にとどまっていました。・・・ 最近メディアリテラシー教育の重要さが再認識されつつあります。私は、ネットの活用により誰もが情報発信者になりうる新たなるこの時代、氾濫する情報から有用な情報を選択し、かつ情報の真贋を見分けるのは、受け手側の情報リテラシー能力を高める以外に有効策は無いと考えています。 選ばれた「特権階級」であるマスメディアが情報発信を独占していた時代に戻ることはもはや不可能でしょう。朝日の従軍慰安婦に関する捏造報道はネット上では、ほぼ完全にトレース・検証されています。 ただ、マスメディアが報道しない情報でもネットでは得ることができますが、ネットを普段利用しない「情報弱者」には届かないという新たな問題も発生しています。 メディアをリテラシーするということは、多くの情報ソースを確保し、偏向する情報を我々自らが整理・理解する能力が問われます、ここで言う偏向する情報とは、TV・新聞・ラジオのマスメディアがある種の報道を沈黙することも含まれれば、ネットで氾濫する情報のその正誤を交通整理することも含まれます。 マスメディアの情報の中立性を疑うことはもちろん、ネットに溢れている情報の中立性もしっかり疑う必要があります。しかしここでいままでの既存メディアとちがい、新しい媒体としてネットの特性は、メディアリテラシーを重視するならば有効でありましょう。 既存メディアの情報の流れはメディアから視聴者・読者への一方通行であるのに対し、情報の流通の双方向性を有するネットでは、もし質の悪い情報であるならばすぐに読者から反論や疑問のコメントや意見が付くからです。 一方向に偏る議論ではなく多元的な議論を起こし、物事を複眼的に考察する、そのような視野の広い冷静な論考を可能にするのは、媒体としてはネットのほうがはるかに利便性があるといえましょう。 私たちは新聞・TVなどの既存メディアは一方的に情報を垂れ流すだけのメディアであることに気づいてしまいました。 マスメディアからの情報は受信するのみ許され、私たちが反論を発信する手段はありませんでした。 一方、ネットでは私たち自身が情報発信が可能である、参加者になれます。この決定的な媒体としての特性の違いをマスメディアや既存ジャーナリストは理解していません。彼らはもはや情報発信を独占する「特権階級」ではないのです。将来の「ジャーナリストの使命」は変質を余儀なくされる 情報発信がメディアやジャーナリストなどの「特権階級」の独占物であった昔は、その限られた情報が偏向していると社会に対して多大な悪影響を及ぼしたのは朝日新聞慰安婦ねつ造報道が好事例であります。 今、情報発信は世界中、限られたジャーナリストという「点」の発信からネットを通じて多くの不特定多数者による「面」の発信という、劇的変化が起こりつつあります。 この劇的な変化をマスメディアや既存ジャーナリストは理解していません。 BLOGOSにて既存ジャーナリストの代表格といってもよろしいでしょう、田原総一朗氏が「ジャーナリストの使命と「自己責任論」の先にある危険な風潮」と題したエントリーをしています。田原総一朗 2015年02月09日 13:06ISILによる日本人人質事件で考えた、ジャーナリストの使命と「自己責任論」の先にある危険な風潮http://blogos.com/article/105237/ 失礼してエントリーより抜粋。 「正解」の対応は、正直、僕にもわからない。ただ、ひとつ、何度でも言いたいことがある。人質となった後藤健二さんに対して、「危険な国に勝手に行ったのだから、自己責任だ」という意見がある。確かに自分の意思で行くのだから、自分の責任だろう。だが、ジャーナリストというのは、危険なところであっても行くものだ。現地に行かなければわからないことが、たくさんあるからだ。 今回の現場はシリアだった。紛争地域である。だが、たとえ国内であっても災害や事故が起こった危険な現場へジャーナリストは行くのだ。僕も、そうした場数はたくさん踏んできた。 そしてジャーナリストが、こうして危険と隣り合わせで取材した情報によって、視聴者や読者は真実を知る。みんなが、現実について考えるためのきっかけや材料を提示するのだ。僕たちは、こうやって民主主義の根幹を支えていると思っているのである。後藤健二さんを殺害したとする動画がインターネット上に投稿されたニュースを報じる大阪・ミナミの街頭ビジョン=2015年2月1日、大阪市中央区(沢野貴信撮影) 「ジャーナリストが、こうして危険と隣り合わせで取材した情報によって、視聴者や読者は真実を知る」とは、いかにも古い考え方であります、ジャーナリストだけが「情報発信」を独占していた古き良き時代の「残滓(ざんし)」ともいえましょう。 国内では3.11のときも御嶽山噴火のときも、ジャーナリストが現地入りする前に、すでに大量の情報がネットを通じて発信されていました。 それらの情報の中には、田原氏が主張する「だが、ジャーナリストというのは、危険なところであっても行くものだ。現地に行かなければわからないことが、たくさんあるからだ。」との貴重な情報、まさに、現地在住者だからこその視点のたくさんの貴重な情報が一般住民から発信されていました。 御嶽山噴火ではほぼ一般市民の情報発信だけでメディア報道は構成され最後まで現地にジャーナリストは不在でしたが私たちはなに不自由なく情報に触れることができました。 今回のISIL関連の情報にしても世界で起こっている事件に関しても、別に日本人ジャーナリストが現地にいなくても私たちはネットを通じてしっかりと情報収集が可能です。 ジャーナリストが一次情報発信を独占していた時代は終焉を迎えつつあります。これはネットの発達により世界中で情報発信者が「面」的に爆発的に膨らみつつある不可逆的な流れであります。この流れにあがなうことは不可能です。 田原氏のいう、危険な場所でもジャーナリストが情報発信をする「使命」ですが、そのような使命がかつてあったことは敬意をこめて認めるものの、現時点そして将来その「ジャーナリストの使命」なるものは、変質を余儀なくされることでしょう。 現地からの情報発信者がジャーナリストである必然性が失われつつあるからです。その意味で、「ジャーナリストの使命」という考え方そのものが、前時代の残滓(ざんし)なのだと感じています。(ブログ「木走日記」より2015年2月10日分を掲載)

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    「テレビ局は公平を破る勇気を」 一部識者の煽動は浅薄なヒロイズムだ

    て視聴者に提供する様子が全く見られない。(中略)私は安全保障法案賛成と言っているわけではないが、マスメディアとは視聴者に公平な目で考えさせることが本来のあり方だと思う」「男性司会者が『メディアとして法案廃案を訴え続けるべきだ』と発言した。メディアがそんなことを言っていいのか」「『説明不足』などと報じているが、メディアが安保法案について詳しく説明したことがあったのか」…。 たしかに、安倍晋三首相を生出演させて説明させながら、キャスターと一部のゲストの「反安倍」ばかり印象づけた夕方の民放ニュースもあった。かつて、新設の消費税について政治家が説明するのを「聞く耳持たぬ」と芸能人らがまぜっ返した某局の演出も思い出す。この8月の「戦後70年安倍談話」にも「はじめから批判ありきの放送姿勢」を指摘する声がBPOに寄せられたという。 放送界の内外で相当多くの人が誤解している。NHKは政治的公平を厳守すべきだが民放局は偏向に構わず編集し主張してもよい、という通念だ。そんな区別はどこにも存在しない。「放送法」第4条には、守るべき義務が4項あるが、その第2項には「政治的に公平であること」と明示してあり、民放には厳格に適用されないなどとは書いてない。 放送事業者側も、約20年前、日本民間放送連盟(民放連)とNHKが共同で定めた「放送倫理基本綱領」に「多くの角度から論点を明らかにし、公正を保持」「事実を客観的かつ正確、公平に伝え」などの文言を明記した。浅薄なヒロイズムは論外 日本では、昭和26年以来、かなりの民放局が新聞社主導で誕生し育成された歴史的由来もあり、新聞の類推で民放のあり方を考える趣があるが、新聞には“新聞法”などはなく、開業から発行も「社論」の明示も一切、自由だ。放送は、有限の電波資源の割り当てを受けて開局を免許され放送法を適用される事業だ。 そこでまた放送人には誤解が生まれる。法を守って仕事したら萎縮して放送の活力が減ずる、と。放送人らしいセンスを欠き、個性的な工夫の楽しみを知らないことを告白した言だ。公平な両論併記でかえって放送は立体化し、厚みを増して盛り上がるのだ。一方のプロパガンダだけを取り次ぐのは最も安易、手抜きでしかない。 公平を破る勇気を持て、と一部識者が煽動(せんどう)するのは浅薄なヒロイズムと一笑に付せばよい。はねあがりからは情も理も生まれない。重心の低い、骨太な記者や制作陣が、確かな「自律の感覚」をもって生み出す放送こそ、国民の信頼を得、政治的教養を深めるためにも貢献できる。 日本の放送90年、民放65年。民放連の「報道指針」にも言う「節度と品位」を具(そな)えた電波へ。再出発する節目が訪れている。はが・やすし 昭和3年生まれ。北九州市出身。東京大学文学部国文科卒。東洋大学・法政大学助教授、東京工業大学教授(その間旧西独ルール大客員教授、NHK部外解説委員など)を経て現職。日本文化・日本語と現代政治を包括的に論究。NHK「視点論点」「ラジオ深夜便」に出演。「日本人らしさの構造」「売りことば買いことば」「言論と日本人」「日本人らしさの発見」ほか著書多数。

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    「恬として恥じず」朝日新聞は“再び”死んだ 

    員会でも見解が分かれ、報告書では「韓国の慰安婦問題批判を過激化させた」「吉田氏に関する『誤報』が韓国メディアに大きな影響を及ぼしたとは言えない」などの意見が併記されたと説明。国際社会に大きな影響があったとする杉山氏の発言には根拠が示されなかったと指摘した。 また、女子挺身隊と慰安婦を混同して報じた点について、朝日新聞社はおわびし、訂正しているが、20万人という数字について、「女子挺身隊と慰安婦の混同がもとになったとは報じておりません」と指摘した。慰安婦の人数については諸説あることを報じていることも伝えた。川村泰久外務報道官は文書を受け取った上で、「お申し入れの内容が詳細なので、精査させて頂きます」とコメントした〉“居直り強盗”という言葉が浮かんだ いかがだろうか。私は、品のない表現で大変申し訳ないが、“居直り強盗”という言葉を思い浮かべた。そして、こんな“子供の屁理屈”にも劣る言辞が通用すると「本気で思っているのだろうか」と考えた。少なくとも、自分たちが、根拠もなく慰安婦の強制連行を世界に広めたことに対して、反省のかけらもないことがわかる。 あらためて言うまでもないが、朝日新聞の報道の一例を示すと、1992年1月11日付朝刊1面トップで、朝日は、日本軍が慰安所の設置などに関与したことを示す資料が見つかった、と大々的に報じている。当時の宮沢喜一首相の訪韓わずか「5日前」にブチ上げられた記事である。 その中で朝日は「従軍慰安婦」の用語解説をおこない、〈太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は八万とも二十万ともいわれる〉と書いた。 しっかりと、〈挺身隊の名で強制連行〉と書き、〈その人数は八万とも二十万ともいわれる〉と記述している。また、翌12日付の社説でも〈「挺身隊」の名で勧誘または強制連行され、中国からアジア、太平洋の各地で兵士などの相手をさせられた〉と書いている。ジュネーブで開かれた国連女子差別撤廃委員会で、日本の立場を説明する杉山晋輔外務審議官=2月16日 これはほんの一例だが、朝日新聞は、長年の外部からの指摘に耐えかねて、ついに一昨年(2014年)8月5日、「検証記事」を掲げた。そのなかで、〈読者のみなさまへ〉と断って、わざわざ〈女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別です。当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました〉と、「混同」「誤用」を認めているのである。 杉山審議官の国連での発言は、もちろん、それらを踏まえたものだ。しかし、当の朝日新聞は、こともあろうに、これに対して「抗議」をおこなったのである。子供の屁理屈にもならない、というのは、〈20万人という数字について、「女子挺身隊と慰安婦の混同がもとになったとは報じておりません」〉と噛みついている点だ。 では、その〈20万人〉がどこから出てきたものなのか、〈女子挺身隊との混同〉でなければ「いったい何でこんな途方もない数字が出てきたのか」、それを自ら指摘・告白するのが、礼儀であり、大人というものである。〈慰安婦の人数については諸説ある〉という申し入れの文言は、明らかに「開き直り」というほかない。「法的措置を検討する」朝日新聞からの脅し 私は、自分自身の経験を思い起こした。2014年5月20日付で朝日新聞が、「吉田調書を入手」したとして、福島第一原発の現場の人間の「9割」が所長命令に違反して撤退した、と1面トップで報じた件だ。 吉田昌郎所長をはじめ、現場の多くのプラントエンジニアたちにも取材した私は、『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』というノンフィクションを2012年に出しているが、その取材結果をもとに、朝日の記事を「誤報である」と指摘した。公開された「聴取結果書(吉田調書)」 (一部モザイク加工しています) それに対して、朝日新聞は「報道機関としての名誉と信用を著しく毀損する」として、私に「謝罪と訂正」を要求する文書を送りつけてきた。そして、その文書の中には、要求に応じない場合は、「法的措置を検討する」という“脅しの文言”がしっかり入っていた。 私は、朝日新聞という報道機関が「自由な言論を封殺」しようとしたことに、一種の感慨が湧き起こった。自分たちに都合の悪いことに対しては、言論や表現の「自由な空間」を守るどころか、「圧殺する」という恐ろしい体質を同紙が持っていることがあらためてわかったからだ。 私は、これで逆に大いなる闘争心が湧き起こり、週刊誌、写真誌、月刊誌、新聞……等々で、自分にできる最大の論陣を張らせてもらった。その意味で、私に対する朝日の“脅し戦略”は、まったくの逆効果をもたらしたことになる。 幸いに3か月後の9月11日、朝日新聞は自らの「誤報」を認め、木村伊量社長が記者会見を開き、訂正・謝罪の発表と、社長退陣と編集幹部の更迭がおこなわれた。 私はその後、朝日新聞からの正式な謝罪を受けたが、今回の外務省への抗議は、「真実」を指摘された時の「開き直り」という点で、まったく「共通」のものであることがわかる。 今回の朝日の外務省への申入書には、自らつくった慰安婦報道に対する「第三者委員会」の委員の中には、朝日の報道が「国際的な影響を与えた」ということに「そうではない」と言っている人がいます、と書いている。なんと稚拙な論理だろうか。 岡本行夫、北岡伸一両委員は、はっきりと朝日の報道が韓国による批判に弾みをつけ、過激化させたことに言及しているが、波多野澄雄、林香里両委員は、「国際的な影響はない」との見解だった、というのである。 イタズラを怒られた駄々っ子が、「でも、ボクは悪くないって言ってる人もいるもん!」と、お母さんに必死で訴えているような図である。私は、昨年末に出た朝日新聞の元スター記者、長谷川熙さんの『崩壊 朝日新聞』の一節を思い出した。長谷川さんは半世紀以上務めた「朝日新聞」にいる記者たちのことを“パブロフの犬”だと書いて、その典型例の実名まで挙げている。 〈旧陸海軍について、いかなる虚偽の悪行が伝えられても、旧軍のことであれば、記者であるのにその真否を究明することなく、なんでも実話と思い込んでしまうその現象を私は、ロシアのパブロフが犬の実験で見つけた有名な生理反射(ベルの音と同時に犬に餌をやっていると、ベルの音を聞いただけで犬は、餌がなくても唾液を出すことをパブロフは発見した)になぞらえてみた。(略)そうした条件反射のまさに典型例が、吉田証言関係の虚報でとりわけ大きな影響を内外に及ぼしたと私が見る北畠清泰であり、そして一連の虚報を背景に、OBになってからではあるが、慰安所糾弾の模擬法廷の開催へと突き進んだ松井やよりである〉 事実をそっちのけに、“条件反射”のように「日本」を貶める朝日の記者たち。彼らは、朝日に言及した国連での杉山発言の中身を今回も「抗議の段階」でしか報じていない。都合の悪いことは、ねぐり続ける朝日新聞らしい姿勢というほかない。 本日の産経新聞には、その朝日新聞広報部のコメントとして、「記事と申入書に書いてある以上は、お答えできない」というものが紹介されていた。ただ、「溜息が出る」だけである。私は思う。朝日新聞が、再び「死んだ」ことは間違いない、と。※2016.1.20 門田隆将ブログ「夏炉冬扇の記」より転載。

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    朝日新聞よりひどい!テレビが報じた「従軍慰安婦」

    梶井彩子(ジャーナリスト)朝日謝罪から一年二カ月 朝日新聞の「誤報謝罪会見」から一年二カ月が経った。今夏にようやく産経新聞の取材を受けた植村隆氏は、相変わらず「慰安婦問題の拡大は自分や朝日のせいではない」「朝日が日韓関係をこじらせたのではない」と主張した。だが、朝日新聞がことさらに「朝鮮人慰安婦を強制連行した」との構図を強調して書き立ててきたことは論を俟たない。 新聞各社の「慰安婦報道」は縮刷版や記事データベースなどで検証可能であり、だからこそ朝日新聞は慰安婦報道に関する検証記事を発表、一部誤りを認めたのだろう。読者は忘れても、アーカイブはその足跡をすべて覚えているからだ。 では、テレビ番組はどうか。ネット普及以前に放送された番組はほとんど検証できず、稀に動画サイトに上がってもすぐに削除されてしまい、番組内容は出演者や視聴者の記憶に頼る部分が少なくなかった。 各放送局はいったい、慰安婦をどのように報じていたのか……。そこで行きあたったのが、横浜にある「放送ライブラリー」である。〈放送法の指定を受けたわが国唯一の放送番組専門のアーカイブ施設で、時代を伝えるNHK、民放局のテレビ・ラジオ番組、CMを一般に無料で公開〉している施設だ。 テレビ番組約二万本、ラジオ番組約四千本を保存し、約一万八千本を公開。特にドキュメンタリーや歴史、文化などの教養番組、大河ドラマ、各時代の代表的なバラエティ番組などが充実している。 「慰安婦」というキーワードで検索すると、以下の五つの慰安婦に関するドキュメンタリー番組が登録されている(ドラマ、ラジオは除く)。 (1)一九八二年三月一日放送 『11PM 韓国から見た日本〔2〕(シリーズ・アジアと共に生きる〔4〕)』日本テレビ放送網 (2)一九九二年五月三十日放送『特別番組 汚辱の証言 朝鮮人従軍慰安婦の戦後』九州朝日放送  (3)一九九二年八月十四日放送『NHKスペシャル 調査報告 アジアからの訴え 問われる日本の戦後処理』NHK (4)一九九六年九月三十日放送 『NNNドキュメント96 IANFU インドネシアの場合には』中京テレビ放送   (5)一九九七年十二月八日放送 『NNNドキュメント97 声閉ざされて、そして インドネシアの「慰安婦」たち 特集・戦争の時代に』中京テレビ放送   これらをすべて視聴したうえで、主に朝鮮半島の慰安婦について扱った1・2の番組に関し、内容を検証してみたい。まるで「啓発ビデオ」まるで「啓発ビデオ」(1)『11PM 韓国から見た日本〔2〕』 韓国・朝鮮半島とのかかわりを追った五回シリーズのうちの第四回で、従軍慰安婦のほか、樺太残留韓国人、BC級戦犯、在韓被爆者などの問題を取り上げており、その年の日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞を受賞している。 結論から言ってしまえば、この番組が五本のなかで最も杜撰、かつおどろおどろしい作りになっていた。ドキュメンタリーというよりも、運転免許更新の際に見せられる「交通事故予防啓発ビデオ」に近い。「事故を起こせば人生終了」といったトーンの、あれだ。 のっけから激しいBGMとともに、〈女子挺身隊という名の慰安婦〉と大間違いのテロップが画面の真ん中にドカンと現れる。 続いて元軍医の麻生徹男氏のインタビューが挟まれているが、麻生氏が「(隊内に梅毒が蔓延しないように)慰安所を設けるよう意見書を提出した」と話す場面に、〈慰安婦に関する軍への意見書が朝鮮女性連行につながった〉と、ここでも意図的なテロップを表示。麻生氏の「かなりどぎつい集めかたをしていますね」のコメントとともに、視聴者に強く印象づけている。 麻生氏はたしかに意見書を提出してはいるが、内容は花柳病(つまり性病)の蔓延に関する報告が主であり、なかでも特に強調しているのは「娼楼ではない慰安の場所」、つまり音楽や映画、スポーツなどの軍用娯楽施設の設置を求めるもので、強制連行とは何の関係もない。 麻生氏がこの番組に登場したのは、千田夏光氏の『従軍慰安婦』(一九七三年)の記述によるものだろう。千田氏は本のなかで、あたかも麻生氏が慰安所を考案した責任者のように書いている。ちなみに、本には「従軍慰安婦は挺身隊の名で集められた」との表現もある。 麻生氏は軍医として慰安婦らの身体検査を行っており、当時の写真や状況を『戦線女人考』にまとめている。そのなかで、「支度金千円を払って急遽集められた女性たちが慰安所に連れてこられた」と書き残している。 ところが千田氏は、『従軍慰安婦』に「レポートの結果として軍の目は当然のようにそこへ向けられていく。それは同時に、朝鮮人女性の怖るべき恐怖のはじまりでもあった。朝鮮半島が若くて健康、つまり理想的慰安婦の草刈場として、認識されていくことになるのだった」と書いたのである。 そのため、麻生氏は世間から「慰安婦強制連行の責任者」であるが如く受け取られてしまい、なかには麻生氏の娘の甘児都氏のところに「民族の恨みを晴らす」「責任者の娘としてどう思うか」などと言って押しかけて来たものもいたという。 甘児氏によれば、〈千田氏はこの件が誤りであり、今後誤解を招く記述はしないと(中略)謝罪してきましたので、三一書房と講談社に改訂を申し入れましたが、二社ともそのままで出版を続けています〉とのことだ(麻生徹男・甘児都『慰安婦と医療の係わりについて』)。 この番組のテロップも、千田氏の本に沿って「麻生氏が慰安所設置の意見書を出した」「それが強制連行につながった」とミスリードを行っている。朝日より先だった日テレ朝日より先だった日テレ 番組はその後、韓国放送公社制作の元慰安婦の女性を扱ったドラマ「従軍慰安婦 ポンスンの空」の映像を紹介。〈日本軍は行く先々で従軍慰安婦を連行していた〉〈女子挺身隊という美しい名のもとに一身を捧げる〉〈(しかし)現実は兵隊たちに一日何十回となく体を提供することだった〉と説明を述べたのち、ドラマの映像がそのまま流される。韓国最大野党がソウル中心部に掲げた日韓合意に反発する横断幕=1月27日(共同) 場面は戦場。日本兵の上官が「慰安所に並べ」と言うや否や、若い兵隊たちが慰安所内の女性に襲いかかる場面に「ギャーッ」と女性の悲鳴。 その次の場面では、兵隊にまぎれて行軍するチマチョゴリ姿の慰安婦。疲労で倒れる慰安婦を無理やり歩かせる日本兵が描かれている。「ヘイタイサン……ヘイタイサン……」と片言の日本語で兵隊に助けを求める慰安婦の姿が痛々しい。 このドラマは、元慰安婦のポンスンが戦後も実家に帰ることを許されず、売春観光に訪れる日本人観光客を相手に売春を強要される女性の代わりに殺人を犯し、投獄されて精神を病む……というストーリーだ。 八〇年代の日本人男性の「売春観光」と慰安婦の存在を結び付け、「今も昔も韓国人女性を蔑視する日本人」「その日本人によって精神病に追いやられたポンスン」を印象付ける。 たしかに、戦後の「売春観光」が慰安婦問題勃発の下地になっていた可能性はある。 だが、11PMのこのシリーズ自体は「ドキュメンタリー」というジャンルでありながら、内容はドラマの筋書きにすっかり乗っかっている。 さらに番組では〈しかし事実はもっと広く大きかった〉とのナレーションのあと、兵隊ではなく労働者の相手をさせられたという元慰安婦のインタビュー映像を挟む。暗い部屋に座る元慰安婦らしい女性のシルエットを映しつつ、証言が流れる。 「嫁入りの口がある、と騙された」 「日本人が引っ張ってきた」 「虐待に耐えられず四人が自殺」 「日本人は薄情」 三十四分の番組のうち慰安婦のパートは十四分程度だが、過剰なBGMや再現ドラマ、元軍医の証言と盛りだくさんの内容で、破壊力十分。だが、とても賞に値する番組とは思われない。 『11PM』は深夜のワイドショー番組で、一九六五年から九〇年まで続いた長寿番組。当初は硬派な番組だったが視聴率が取れず、麻雀や酒、お色気に至るまで幅広い話題を取り上げる番組に変貌を遂げた。 『韓国から見た日本』が放送されたのは「テコ入れ後」の一九八二年三月一日だが、この『韓国から見た日本』以外にも、一九七二年の沖縄の復帰を扱い、こちらも賞を受賞している。 一九八二年三月一日という放映日にも注目である。朝日新聞(大阪版)が吉田清治証言を初めて掲載したのは、一九八二年九月二日。日本テレビは、朝日新聞の吉田清治報道より半年も前に「従軍慰安婦の強制連行」を取り上げていたことになる。 しかも、早くもこの時点で「女子挺身隊と従軍慰安婦を混同」しており、植村隆記者の一九九二年の記事を先取りしている。 朝日新聞の「慰安婦報道」検証では、読売新聞は産経新聞に次いで「朝日批判」の色を強めていたが、ともすれば「朝日以上」の番組を系列のテレビ放送網が放映していたことを、読売関係者はご存知だろうか。朝日ソウル支局が協力朝日ソウル支局が協力(2)『特別番組 汚辱の証言 朝鮮人従軍慰安婦の戦後』 九州朝日放送のこの番組は、(1)に比べれば「ドキュメンタリー番組らしい」内容で、やはり「地方の時代」映像祭一九九二優秀賞受賞作だ。 主に元慰安婦の「文玉珠」を中心に描かれており、彼女が福岡の団体に招かれて来日、「戦後四十七年、ようやく重い口を開き始めた」という、まるで植村記者の金学順報道の見出しのようなトーンで彼女を追うドキュメンタリー。  番組放映日は、一九九二年五月三十日。植村記者の金学順記事は前年の八月十一日だから、この記事の影響するところは多かっただろう。九州朝日放送制作のこの番組のエンドロールにも、制作協力として「朝日新聞ソウル支局」が名を連ねている。 番組は文氏が日本で開催された慰安婦集会に登壇し、「平日は三十人から四十人、日曜には六十人から七十人の相手をさせられた」と語るシーンから始まる。 そして、すぐに韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の尹貞玉代表(当時)が登場。尹氏は「慰安婦問題で日本は彼女たちを三度殺す」と述べ、「一、ひどいことをした。二、忘れられていた。三、謝罪がない」の三重苦を負わされていると発言。このまま謝罪がなく、日本人が日本の若者に慰安婦の事実を教えなければ「三度目の死となる」と述べる。 場面変わって、文氏の来日支援を行った慰安婦研究家の森川万智子氏。彼女は文氏の著作『文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私─教科書に書かれなかった戦争』(梨の木舎、九六年。新装増補版は二〇一五年)の構成と解説を担当している。番組では、福岡で「慰安婦一一〇番」という電話相談を受ける団体の代表として登場。「市民として過去を清算したい」と述べる。 この番組で文氏は、「十八歳でビルマへ行った。食堂に行けば稼げると言われた」と話す。文氏の本によれば、もともとキーセン学校に通っていた文氏は、一度、憲兵らに連れられて慰安婦になったが故郷に戻り、次は友人から「食堂で働き口がある」と聞いて行ってみたところ、実態は慰安所だった。が、「やはりそうか」と納得したという。「人間的な」兵士との交流 文氏は番組で、涙ながらに「夜明けまで相手をさせられて死にそうでした」と述べているが、文氏の本には意外な場面が描かれている。 それは慰安婦・文がヤマダ(仮名)という日本兵と懇意になるくだりだ。 〈わたしは一生懸命ヤマダイチロウの無事を祈った。二、三カ月して、前線からヤマダイチロウの部隊も戻ってきた。ヤマダイチロウは無事だった。すぐに慰安所にきた。 「ヤマダ上等兵、無事帰還いたしました」 ヤマダイチロウはわたしに向かって敬礼した。私たちは抱き合って喜んだ。そういう日はマツモト(という朝鮮人の男。慰安所の引率者)公認で、慰安所全体も大騒ぎになり、開店休業だ。さっそくわたしたち慰安婦も一円ずつ出し合って大宴会をしたのだった〉(文玉珠『「慰安婦」だった私』、補足は筆者) もちろん、過酷な記憶と楽しい記憶が共存することはありうるため、これを以て「慰安婦としての生活は悲惨ではなかった」とは必ずしも言えない。また、この本の内容は「真偽定かならぬ部分もないわけではない」(秦郁彦氏)との指摘もあるとおり、兵隊を蹴り飛ばした、刺し殺したなどの箇所もある。しかし、エピソードのすべてが創作とも思えない。封印された記憶 また、番組で文氏の「人間的な」兵隊との交流に全く触れていないのは不自然だ。文氏をことさら「かわいそうな被害者」としてだけ描いており、本にあるような人間性や女性としての逞しさ、明るさは番組からは全く感じられないのである。 番組では、元日本兵や軍関係者も証言者として登場する。 「九州の兵隊は慰安婦がいないと元気が出ない」 「(慰安所は)日本にもあった特殊飲食店の一環。悪いとは思わない」 「女は消耗品だから助けなくていいと言われた」 その後、さらに二人の慰安婦が登場。韓国・城南市の沈美子氏の証言。 「日本地図に刺繍しろと言われ、朝顔の刺繍を入れたら『桜を入れろ』と叱られ、日本の警察に焼きゴテを当てられた。気を失っている間に連行され、気がつくと福岡にいて、その後、『七番』と番号で呼ばれる慰安婦になった。先生になりたかったが日本に踏みにじられた」 ハルモニ食堂を経営する黄錦周氏。 「勤労挺身隊として紡績工場に行くのだと思ったら、樺太に着くなり服を脱げと急に言われた」封印された記憶 そして文氏が市民グループの手引きで来日し、集会で証言をする場面が流れる。 「大日本帝国国民となります、と言わされたのに、この仕打ちは酷い」 この発言には驚いた。番組制作側は、「大日本帝国=悪」だとしてこの発言を削らなかったのだろう。だが文氏の本の記述を読むと、また別の思いを感じ取る。 〈戦地の軍人たちの思いと、わたしたちの思いとは同じだった。ここに来たからには、妻も子も命も捨てて天皇陛下のために働かねばならない、と。わたしはその人たちの心持ちがわかるから、一生懸命に慰めて、それらを紛らしてあげるよう話をしたものだった〉(『同』) 番組内の元軍人の証言でも、慰安婦とのこんなやりとりが語られる。 「(軍が引き揚げるとき)慰安婦たちは『連れて行って下さい』と言っていた。『途中でお金が必要になったら、私たちがたくさん持っています』と言って、もう三文の値打ちもない軍票を見せていた。『死ぬ時は一緒に死にます』と泣きつかれて……」 涙を拭う元軍人。 この二つの場面には胸を打たれた。軍人と慰安婦の間には、戦地特有の一体感さえも生まれていたことになる。「戦地」に置かれた女性と男性の、悲しい「同志の心」だったのだろう。だが、いまや、それは日韓双方で語られることはなくなってしまった。日本大使館前で慰安婦像を囲み、慰安婦問題での日韓の最終合意に抗議する元慰安婦や支持団体のメンバーら=2015年12月30日、ソウル(名村隆寛撮影) 彼女たちの真の歴史を奪ったのは挺対協だけではない。朝日新聞などが「強制連行」を強調して報じたことにより、慰安婦になった本当の経緯や、戦地で生まれていた軍人と慰安婦の関係についての真相は「反日」の幕で覆い隠されてしまった。彼女らの真の証言を、朝日新聞や挺対協が封殺したと言っていいだろう。 もはや、元慰安婦たちが「あの頃、日本の軍人さんとどのような関係にあったか」「どんな雰囲気だったか」を率直に話すことはできまい。特に韓国では、「親日売国奴」の汚名を着せられかねない。 真の和解のための“よすが”になりえた共通体験だが、可能性は潰されてしまった。そして、「戦地でたしかに存在していた慰安婦と軍人の関係」は歴史の狭間に葬り去られることになる。「母に楽をさせたい」「母に楽をさせたい」 その後、番組は文氏が支援者に付き添われて下関郵便局を訪れ、野戦郵便局から貯金していたお金を返してほしい、と交渉する場面が流れる。日韓協定で決着がついている以上、日本側から個人にお金を払うことはできない、と断られるが、諦められない文氏の表情が大写しになる。 慰安婦が性奴隷ではなく、「高収入の売春婦」だった証として「慰安婦の収入明細」のように紹介される「文原玉珠」名義の貯金通帳明細は、この文氏のものだ。政府の調査でこの記録が出てきたのだが、たしかに文氏は二万六千円もの貯金をしている。当時の二万円は、現在の六千万円相当とも言われる(ただし戦地のインフレ率や軍票との関係により諸説ある)。 文氏は、本にこう書いている。 〈事務を仕事にしている軍人に、わたしも貯金できるか尋ねると、もちろんできる、という。兵隊たちも全員、給料を野戦郵便局で貯金していることをわたしは知っていた〉 〈どんなに働いても貧しい暮らしから抜け出すことができなかったわたしに、こんな大金が貯金できるなんて信じられないことだ。千円あれば大邱に小さな家が一軒買える。母に少しは楽をさせてあげられる。晴れがましくて、本当にうれしかった。貯金通帳はわたしの宝物となった〉(『同』) 貧しさのなかにあった文氏が、こつこつ貯めた財産だ。それが戻らないのは気の毒ではある。「カネをもらっていたのだから奴隷であるはずがない」という主張はたしかにそのとおりだが、結果として「母を思いながら、春をひさいで貯めたお金が手元に残らなかった」恨み、悲しみに寄り添う必要はあろう。 だが番組内でも説明があるように、補償関係はすべて日韓協定で「解決済み」となっているのである。 個人補償よりも国家の発展を選んだのは韓国政府である。もちろん、その国家の発展の恩恵を文氏も少なからず受けてはいるだろうが、やり場のない怒りがすべて日本に向いてしまっているのは、日本にとっても文氏にとっても不幸なことである。 一生懸命働いたのに、お金が残らなかった。母に楽をさせてあげられなかった……彼女にそんな思いがあったのだろう。その思いを「運動」のために利用した人々がいる。 女性たちの思いに報いようとしたのが、アジア女性基金だった。少しでも元慰安婦たちの心に寄り添い、生活を支援しようとした動きだったが、韓国側運動団体はこれに激しく反発。元慰安婦の女性たちに受け取りを拒否するよう圧力をかけた。 いまでこそ取り組みを評価している朝日新聞も、当時は韓国側の空気を慮ってか、この取り組みを必ずしも支持しなかった。彼女たちが「恨みを残したまま死ぬ」ように仕向けたのは誰だったのか。元慰安婦の涙元慰安婦の涙 番組では、支援者が開いた文氏の誕生日パーティの模様を映し出す。 「自分の誕生日も知らなかった私を祝ってくださってありがとうございます……」 文氏は涙にくれる。そして、「戦場から戻った軍人に呼ばれて同席した宴会のために覚えた」という歌を披露する。「生れ故郷を 何で忘れてなるもんか 昨夜も夢見て しみじみ泣いた そろそろお山の 雪さえ溶けて 白いリンゴの 花がちらほら ああ 咲いたろな」(「リンゴ花咲く故郷へ」正しくは“咲くだろな”) 故郷から遠く離れた戦地で、立場は違えど、軍人と慰安婦は、この歌を歌いながらともに故郷を思っていたのだろう。文氏が本に書いたような軍人との交流もあったからこそ、彼らが歌っていた歌を忌み嫌わず、懐かしく口にしたのではないか。 生死の行方も知れない戦争のさなか。いまよりもずっと貧しい時代だ。いまの価値観で善悪を判断することはできない。「連行されたに違いない」「軍人を恨んでいたに決まっている」とするのは、元慰安婦らの生きた足跡を、いまの価値観で全く別のものにしてしまう可能性がある。 番組終盤で再度、挺対協の尹氏が述べる。 「日本がやったことは韓国人の人格を貶め、日本人自身も失った。戦後処理をしなければ絶対に忘れません」 だが、慰安婦という職業についた女性に「賤業」のレッテルを貼り、さらには「日帝のために働いた女」として社会から排斥した韓国社会にも問題はなかったか。 番組に登場する元慰安婦・沈氏も、「結婚もできなかった。友人の家族を見ると辛い」と涙を見せている。 誕生日を祝われて涙を見せる文氏にも、元慰安婦として名乗り出たあとには、「お金のためでしょ」「もう付き合いをやめる」という電話があったそうだ。 いまも運動のためにだけ駆り出され、寒空の下、あるいはカンカン照りの路上で泣き、「悲惨な体験」を語ることのみを求められ、世界各国を「ドサ回り」させられている老女たちがいる。そんな姿を見るのは本当に心苦しい。 罪を犯したのは誰か 「少女の頃のことを忘れたくなかったから」とピンク色のチマチョゴリを着た理由を語る文氏。取材陣に手を振る姿を映して、番組は終わる。そこにいるのは、戦争という時代と苦労の人生を歩んだ一人の老女である。 和解は双方が目指さなければ決して成り立たない。 歴史には光も影もある。その双方を織り込み、「ありのままの体験を話すことで『和解』を果たす」道を取っていれば、日本人の多くは彼女たちとその人生に心からの深い同情を寄せられたはずだ。 だが慰安婦問題を運動に仕立て上げた人たちは、彼女らに「強制連行」の嘘をつかせ、日本人を恨ませ、生活の足しになるはずのお金を渡すことすら妨害した。そして互いの猜疑心は膨らみ、日本人からの女性たちに対する同情心さえ離反させてしまったのである。 朝日や「強制連行」派の学者、テレビ関係者、運動家は日本人の名誉を貶めただけでなく、このような元慰安婦たちから「真実の歴史」「生きた証」を奪い去った「罪」をも負っているのではないだろうか。かじい・あやこ 1980年生まれ。中央大学卒業後、企業に勤める傍ら「特定アジアウォッチング」を開始。「若者が日本を考える」きっかけづくりを目指している。月刊誌に寄稿の他、『韓国「食品汚染」の恐怖』や『竹島と慰安婦—韓国の反日プロパガンダを撃て』など日韓関係に関する電子書籍などを無料公開中。

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    メディアに正義はあるか

    安保法制や慰安婦問題で偏った意見ばかり垂れ流している大新聞、テレビ。しかも、言いっ放しで、自分たちの報道をろくに検証もしない。大マスコミの報道がいかにいい加減で、矛盾に満ちたものか、徹底検証してみようではないか。

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    朝日新聞の護憲論 あまりの「倒錯」に驚く

    岩田温(政治学者) 2月6日の社説で朝日新聞は、「首相の改憲論 あまりの倒錯に驚く」と題して、安倍総理の発言を取り上げて批判している。  『東京新聞』が噛みついたのと同じ発言だ。「憲法学者の7割が、9条の解釈からすれば自衛隊の存在自体が憲法違反のおそれがあると判断している」「この状況をなくすべきではないかという考え方もある」 さらに、この総理の答弁を引き出した稲田朋美政調会長の発言も取り上げている。 「現実に合わない9条2項をこのままにしておくことこそ、立憲主義を空洞化する」との発言だ。衆院予算委で質問する稲田朋美氏(自民) 、2月3日 私は、この稲田政調会長の指摘は、もっともだと考える一人である。稲田政調会長は政治家である限り、発言できないのかもしれないから、政治家ではない私が正直に言えば、吉田茂が、本来、「自衛戦争も出来ない」と解釈していた日本国憲法を、解釈の変更によって、自衛隊を持てるようにし、敵が攻めてきた際には戦えるように変更した時点で、厳密な意味において日本の立憲主義が終わっている。仮に日本の立憲主義を破壊した政治家がいたとするならば、それは安倍晋三ではなく、吉田茂である。 さて、『朝日新聞』の安倍批判が面白い。 まず、『朝日新聞』が行ったアンケートで63%の憲法学者が、自衛隊の存在を「憲法違反」「憲法違反の可能性がある」と答えた事実を認めている。 このアンケート結果は、随分正直なものだろうが、自衛隊が「合憲である」と断言できる憲法学者が殆どいないというところに日本の悲劇があるといってよいだろう。祖国を守る崇高な任務を引受けた自衛隊を「違憲だ!」「違憲かも知れない・・・」と解釈するということが異常な事態でなくて何であろうか。そして、現実には多くの国民が自衛隊を支持し、自衛隊を解体するような主張は、およそ現実離れした主張だと思われている。要するに、日本国憲法第九条第二項そのものがあまりに現実離れしており、憲法学者たちの解釈通りに解釈したら、自国の防衛すらままならないというのが現実なのだ。そして多くの国民は憲法学者の憲法解釈ではなく、現実に適った極めて「不自然な憲法解釈」を受け入れている。「戦力」も「交戦権」も否定した憲法を有しながら、「自衛隊」を保持できるという、極めて「不自然な憲法解釈」によって、日本はなんとか、自国を防衛してきた。『朝日新聞』は旗幟鮮明にすべきではないか? 『朝日新聞』は、自衛隊は違憲であるという憲法学者の見解を紹介しながら、、自衛隊の存在を否定したり、吉田茂の憲法解釈の変更を批判したりするのではなく、安倍内閣の批判へと進む。「多数の憲法学者と国民の反対を押し切り、集団的自衛権は行使できないとの歴代内閣の憲法解釈を、閣議決定だけで変えてしまったのは安倍内閣である。 自衛隊の存在と学者の見解とのへだたりを問題にするのであれば、安保法制を撤回するのが筋ではないか。「立憲主義の空洞化」を批判するなら、まずは我が身を省みるべきだろう。」 社説のタイトルが「首相の改憲論 あまりの倒錯に驚く」とあるが、私はむしろ逆に「朝日の護憲論 あまりの倒錯に驚く」とした方が相応しいと思う。衆院予算委員会で答弁に立つ安倍晋三首相 =2月4日午前、国会・衆院第1委員室(斎藤良雄撮影) 何故なら、「自衛隊の存在と学者の見解のへだたり」が生じたのは遠い過去の出来事だ。これは吉田茂の解釈変更に端を発する「見解のへだたり」だろう。この根本の部分に目を向ける必要があるのではないか、というのが安倍総理、そして稲田政調会長の議論の要点だ。それに対して、『朝日新聞』は、そうした「見解のへだたり」を無視した上で、集団的自衛権の行使容認のみを「違憲だ!」と騒ごうとしているのだ。本を正さずして末に走る議論と言ってよい。 「自衛隊すら「違憲」とみなされるのは、おかしいのではないか?」と多くの国民が思うだろうが、現実に『朝日新聞』のアンケートでは、憲法学者の63%が「憲法違反」「憲法違反の可能性がある」と答えているのだ。 『朝日新聞』は旗幟鮮明にすべきではないか?「我々は多数の憲法学者の見解を受け入れ、自衛隊を「憲法違反」「憲法違反の可能性がある」と考えている」と表明するのか、それとも、「多数の憲法学者が自衛隊を「憲法違反」「憲法違反の可能性がある」というが、それは極端な見解であるから、いくら大多数の憲法学者がそのような極端な憲法解釈をしても、そうした極論には与しないで自衛隊は合憲と認める」とするのか。 一体どちらなのか? 朝日新聞の自衛隊に関する憲法解釈が「倒錯」しているのは、自衛隊の存在に関しては、多くの憲法学者の主張を無視して、「違憲である!」と表明しないのに、集団的自衛権の行使容認に関してのみ、自衛隊違憲説を奉じる多くの憲法学者の主張を鵜呑みにして「違憲である!」と騒ぎ立てるからだ。 「自衛隊を違憲である」という人が「集団的自衛権の行使は違憲である」というのは、一貫していてよい。現実離れした主張ではあるが、「倒錯」してはいない。 だが、「政府の勝手な憲法解釈の変更を許すな!」「立憲主義を守り抜け!」と騒ぎ立てる人々が、吉田茂の解釈の変更によって作られ、多くの憲法学者が「違憲だ!」と主張している自衛隊の存在に関しては、否定せず、そして積極的に肯定もせず、口をつぐんでいるのは、まことにご都合主義的で、倒錯した「護憲論」と言わざるを得ない。※「岩田温の備忘録」2016年2月9日分を転載

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    “TBSの顔”「岸井成格」とは何者か

    や蔑視が生んだ恥ずかしい誤解である。 自衛官に対する差別的な偏見は、今年も健在だ。拙著最新刊『護憲派メディアの何が気持ち悪いのか』(PHP新書)で指弾したとおり、岸井は今年三月八日放送の「サンデーモーニング」で、いわゆる「文官統制」を是正した安倍政権をこう誹謗した。「総理大臣は最高指揮官なんですね。そうすると、軍人というのは命令に従う組織なんです。総理から言われたら、異を唱えるとか反対はできない。そういう組織なんです。それをチェックして『ちょっと待って下さい』と言えるのは文官しかいない。それを忘れてますよ」3月6日の衆院予算委員会で民主党議員から「シビリアンコントロール」について答弁する安倍晋三首相。後方右は中谷元・防衛相=衆院第1委員室(酒巻俊介撮影) これもすべて間違い。総理は「内閣を代表して」(自衛隊法七条)指揮監督できるだけ。「内閣がその職権を行うのは、閣議による」(内閣法四条)。このため、防衛出動には閣議を経なければならず、アメリカ大統領のような名実ともの「最高指揮官」ではない。また、自衛官は名実ともに「軍人」ではない。 許し難いのは後段だ。自衛官には服従義務があるが、文官なら総理の命令や指示を「チェックして『ちょっと待って下さい』と言える」らしい。岸井こそ重要な事実を忘れている。行政権は内閣に属する(憲法六十五条)。総理は内閣の首長である(同六十六条)。「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する」(内閣法六条)。 岸井流に言えば、全省庁の「最高指揮官」である。 岸井が特別扱いする「文官」も、法的な身分は国家公務員。ゆえに、「上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」(国家公務員法九十八条)。それを「チェック」して「ちょっと待って下さい」など、違法かつ不忠不遜な服務である。 さらに岸井は、安保法制で各種の「事態」が乱立している現状を「言葉の遊び」と揶揄し、こう述べた。「五つぐらいあるんですよ。新事態、存立事態とか武力行使事態とか周辺事態とかね」「事態とは何かと言うと戦争なんです。戦時体制ってことなんです。武器とか戦時体制って言葉を使いたくないんですね。だから言葉を変えようとするんですよ」聞きかじりで知ったかぶり バカらしいが、手短に訂正しておこう。岸井は、「集団的自衛権 事態がどんどん増える」と題した前日の三月七日付毎日社説を読んだのであろう。聞きかじりで知ったかぶりするから間違える。事実面での間違いに絞り、指摘しよう。 まず、岸井の言う「新事態」と「存立(危機)事態」は同じ概念である。そこから分かっていない。「武力行使事態」というが、そんな言葉もない。多分、「武力攻撃事態」と混同している。悲しいかな、最後の「周辺事態」だけが実在するが、岸井が何と言おうと「戦争」ではない。「戦時体制」とも違う。 法律上、周辺事態で自衛隊は武力行使できない。「武力による威嚇」すらできない。それを「戦争なんです」と断じるのは、暴論ないし妄想である。いわんや、「武器とか戦時体制って言葉を使いたくないんですね。だから言葉を変えようとする」との断定においてをや。もはや低俗な陰謀論にすぎない。 この日限りではない。前週の同番組でも、自衛官に対する差別的偏見が露呈した。「以前、防衛省を担当したことがあるんですが、中谷大臣の会見を聞いて『ああ時代が変わったな』と思いましたね。我々がいた頃は、まだ常識的に、非常に感覚的にアレかもしれませんが、文民統制とそれを補充する文官統制は、戦前の軍部のドクセイ(独裁? 独走?)に対する反省、とりわけ日本の場合、非常にそれが甚だしかったんで、それを担保するものだと感じてたし、また考えてたんですよね。 大臣は『まったくそうは思わない』っていうことですわね。そこは何でそういうことになってきたんだか。中谷大臣はアレ、自衛官出身ですから、ちょっとそういうとこあるかもしれませんけど。とにかくあの(以下略)」 きわめて差別的な暴言ではないだろうか。もし差別でないなら、「そういうとこ」とはどういうとこなのか、具体的に示してほしい。ついでに「アレ」の意味も教えてほしい。「CIA陰謀説」はオフレコ「CIA陰謀説」はオフレコ 事実関係も承服できない。かつて防衛庁長官官房広報課(対外広報)で勤務したが、私がいた頃は右のごとき「常識」や「感覚」はなかった。正確と公正を期すべく付言しよう。 以上の問題発言に先立ち、司会が「歯止めがなくなる」と誘導したにもかかわらず、田中秀征(福山大客員教授)は「制服組のほうが慎重であるということも十分ありえる」「戦前の軍の暴走のようになるかと言えば、そんなことはない」と抑制。 西崎文子(東大教授)も、「必ずしも軍人が好戦的で文民が平和的だとは思わない」とコメントした。せっかく両教授が示した見識を、以上のとおり、レギュラーの岸井がぶち壊した。 本来なら当たり前の話だが、派遣されるのは当の自衛隊。自身はもとより、同僚や部下を危険に晒す。高いリスクに加え、コストも負担する。必要な予算を捻出せねばならない。 自衛隊に限らず、軍隊はいったん命じられれば粛々と任務を遂行するが、基本的に慎重姿勢となる。威勢がいいのは、たいてい文官や政治家。そうでなければ、決まってジャーナリストである。リスクもコストも負わない軽佻浮薄な人々である。衆院本会議で民主党などが退席するなか安保関連法案が可決した=2015年7月16日午後、国会内 今年(二〇一五年)の終戦記念日、そのジャーナリストが集う「日本ジャーナリスト会議」で岸井が講演した。《「戦争法案」は衆院で強行採決された。戦後70年を迎え、安倍政権は若者たちを戦場へ送る方向へ突っ走っている。その実態、危険性などについて、ニュースの最前線から岸井氏が解説する》(同会議公式サイト) どんな連中を前に、どんな話をしたのか。聞かなくても想像がつく。念のため、講演録を検証しておこう。「安保法制とは何か。いつでもどこでも世界地球規模、どこへでも自衛隊を出します、と。アメリカから手伝ってくれ、助けてくれと要請があった時には自衛隊を出すんですね」「巻き込まれるどころじゃないんですよ。アメリカの要請があったら、積極的にアメリカがかかわっている紛争地や戦闘地域に送るんですよ!」 右を裏付ける事実は一切ない。平和安全法制(いわゆる安保法制)に該当条文はない。しかも土壇場の与野党合意により、「例外なく事前の国会承認」が前提条件となった。ゆえに「アメリカの要請があったら」ではなく、「事前に国会が承認したら」が正しい。 岸井は以下の見通しも披瀝した。「臨時(?)国会を延長と言いますか、先送りと言いますかね。この国会で一気に成立させないで、国民の反発が強すぎるから政権が倒れちゃうんじゃないの、それをやると、という判断がおそらく出てくるんだと思うんです。その空気は、いま自民党のなかにも芽生えつつある」 結果、そうならなかった。三つの野党を含む多数が賛成。通常国会で可決成立した。岸井は講演の最後をこう締めた。「最後に取っておきのオフレコです。安倍政治をずっと見ていて、思い出す言い伝えがある。「政権維持の三種の神器」。一がアメリカ、二、三がなくて四が財界、五がアンダーグラウンド人脈。これは生きているんです。(中略)なかでもアメリカは飛び抜けている。トラブったり何か問題があったりしたら、政権は必ずやられる。田中角栄さんがトラの尾を踏んだと言って話題になりました。いまの安倍さんがやっていることを見ると、まさにそのとおり。三種の神器ですよ。 そして右派、右翼、アンダーグラウンドのフィクサーに続いている。また三種の神器が甦ってきたな、大丈夫かこれで、という気がします。(中略) 風向きだけでなく、やや潮目も変わり始めているのかな、だからメディアもジャーナリズムの役割も大きくなっている。そういう感じがしています」 バカらしいが訂正しておこう。結果、そうならなかった。風向きも潮目も変わらず、可決成立。護憲派メディアは惨敗。その役割を終えた。 最大の問題は、田中角栄に関するくだりである。低俗な陰謀説を「取っておきのオフレコ」と語る神経は正常ではない。前出『保守の知恵』を借りよう。「アメリカの意志によって田中をロッキードで葬りさろうとした──そういう見方もあるが、俺の取材した中ではそうした事実はないし、これは一種のCIA陰謀説の一つだな」 こう語ったのは、他ならぬ岸井自身である。その二年後に、講演の最後を俗悪な「CIA陰謀説」で締める。これで生計が立つのだから、アンカー業とは気楽な商売だ。「拉致被害者を北に戻せ」「拉致被害者を北に戻せ」 いや、罪深い仕事と言うべきであろう。二〇〇二年十二月一日放送の「サンデーモーニング」で、誰が何をどう語ったか。翌々日付「毎日新聞」朝刊の連載コラム「岸井成格のTVメール」で振り返ろう。《私は「一時帰国の被害者5人をいったん北朝鮮に戻すべきです」と、一貫して主張してきた持論を繰り返した。/同席していた評論家の大宅映子さんは「私もそう思う」と同調した。/それが良識であり、国と国民の将来を考えた冷静な判断だろう。/私の知る限り、政府の強硬姿勢が世論の大勢とは到底思えない。/番組終了後も、田中秀征さん(元経企庁長官)は「政府が5人を戻さないと決めた時、背筋にゾッとするものを感じた」と率直に語っていた。勇ましい議論と感情論に引きずられる時の「この国」の脆弱さだ。(中略)「人はパンのみにて生きるにあらず」だ》2002年10月15日、帰国した北朝鮮による拉致被害者たち 拉致被害者やご家族、ご友人、支援者らがどう感じたか。想像するに余りある。いまからでも遅くない。関係者に謝罪し、放言を撤回すべきではないのか。『聖書』を引用して北朝鮮の主張を擁護するなど、もっての外。右聖句は「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と続く。 まず、悪魔(サタン)が「石をパンに変えてみよ」と誘惑する。イエス(キリスト)が『旧約聖書』を引き、右のとおり答える。 岸井に問う。「一時帰国の被害者5人をいったん北朝鮮に戻すべき」との主張こそ、サタンの誘惑ではないのか。少なくとも、『聖書』を論拠に公言すべきことではあるまい。引用を完全に間違えている。 岸井は二〇〇六年四月発行の対談本『これが日本の本当の話』(ロコモーションパブリッシング)でも、こう放言した。《彼らを一旦帰国させて向こうに残してきた家族とも話し合う。それを突っぱねていれば拉致問題の全面解決も遠のいて、最後には、「戦争するか」となっていく危険性が大いにある》 もはや確信犯と評すべきであろう。ここでは「聞き手」(元木昌彦)も共犯者。以下のとおり導入する。「テレビにハラが立っている。(中略)いくら孤立無援の国の独裁者だとはいっても、連日、“悪魔”のように言い立てるのは度が過ぎる」 私は右にハラが立つ。北朝鮮にハラが立つ。それが正常な感覚ではないのか。それを「悪魔のように言い立てるのは度が過ぎる」と独裁者を擁護する。 しかもタイトルは、「事実関係の検証をおろそかにして短絡的な報道に流れる今の風潮を危惧」。 具体例の一つに、「北朝鮮拉致被害者の扱いの問題」を挙げていた。他局のテレビ番組にハラを立てて「短絡的な報道」を危惧する前に、自ら発した言葉を検証してみてはどうか。常軌を逸した安保報道常軌を逸した安保報道 最近の安保法制批判も常軌を逸している。岸井らは、どんなに悲しい朝も日米両政府への批判は忘れない。邦人テロの悲報が流れた二月一日も、岸井は「サンデーモーニング」で英米への批判を語った。 先日(現地時間十一月十三日金曜夜)のパリでの惨劇を受けた十一月十五日放送の「サンデーモーニング」でも、「テロは許さないというのが欧米(の主張)だが、イラク戦争がそういうの(土壌)をつくっちゃった」「十字軍以来の憎悪の連鎖がある」と被害者(欧米)を責めた。 加えて「安保法制もできましたからね、(日本も)ターゲットになりやすい」と視聴者の不安を煽りながら、「今度の安保法制、危ないなと思った最初は、ペンタゴンのドンと言われる人たちを取材して」云々以下、趣旨不鮮明かつ検証不可能な話題を延々と続けた。肝心のテロ非難は番組最後の数秒だけ。いったい、どういう神経なのか。 その前週放送の同番組は、南シナ海問題を特集した。この日は西崎文子(東大教授)が留保を付言しつつも、「日米同盟を強化するのは基本的に良いことだと思う」。続けて田中秀征(福山大学客員教授)が、「人工島の十二カイリが領海だと認めれば、他の国もみんなやりますよ。国際法秩序、海洋法がまったく成り立たなくなる。アメリカの行動は正しいし、国際世論も賛成している。ここは絶対に譲ってはいけない」。パリ同時多発テロの現場の1つであるバタクラン劇場前に安倍晋三首相が手向けた花束=2015年11月30日朝、パリ(小野晋史撮影) この番組にしては珍しい展開になった。 ところが、司会者(関口宏)から「自衛隊の話がチラチラ出てきましたね」と振られた岸井が以下のとおり、いつもの流れに戻し、いつものレベルにまで質を落とした。「いや、一気に出てきましたね。特に新しい安保法制ができましたんでね、いつでもどこでも(新法が)施行されればですよ、アメリカの要請に応じて自衛隊を派遣するっていうことができるようになったわけです。 その前段階でアメリカが言っているのは、合同パトロールとか合同訓練をあの南シナ海でやりましょうっていう話があるんですよ、内々、そこへホントに出すのかどうかね。 そうすると、したたかな中国はおそらくアメリカに対する行動と日本の自衛隊に対する行動はおそらく分けてくると思うんです、分断を狙って。その時、本当に対応できるのか、とちょっと心配です」 この直後にCMへ。 せっかく西崎と田中が示した見識を木っ端微塵にぶち壊した。前掲拙著で詳論したとおり、「新しい安保法制」と南シナ海問題は直接関係しない。“古い安保法制”でも、要件を満たす限り「いつでもどこでも」自衛隊を派遣できる。 現に南シナ海でもどこでも、日米その他で共同訓練を繰り返してきた。掲載号発売中のいまも訓練中。岸井はまるで理解していない。批判すべき対象を間違えている 一週間前の同じ番組でも、同様の展開となった。NHK以下、他局が勝手にアメリカが中国の領有権を否定しているかのごとく報じるなか、TBSは正反対のスタンスで報じた(月刊『正論』一月号拙稿)。 この朝も「国際法では暗礁を埋め立てても領海と主張できないことになっているんですが、中国は」と解説し、埋め立ての現状を説明。「中国の海の軍事拠点ができるということになると、周辺の軍事バランスが一変してしまうのではと懸念されています」と紹介した。 司会の関口が、「(中国の主張や行動には)なんか無理があるように思うんですが、無理を続けてますね」と導入。それを岸井がこうぶち壊した。「私が一番気になっているのは、米軍の作戦継続のなかに、自衛隊の派遣による合同パトロールの検討に入ってるんですよね。 これは分かりませんよ。だけども日本や欧州に、あの~う豪州ですかね、オーストラリアに対しても要請するのかもしれませんけど、だけどこれはね、中国がそうなると、アメリカ軍と自衛隊に対する対応って分けてね、分断するような、そういうしたたかさが中国はあると思うんで、よほど派遣については慎重に考えないといけない」 日本語表現の稚拙さは咎めない。ここでも問題は、コメントの中身だ。 岸井に問う。牽制すべき対象は安倍政権による自衛隊派遣ではなく、中国による埋め立てや海洋進出の動きではないのか。岸井は批判すべき対象を間違えている。国際法や世界の常識を無視国際法や世界の常識を無視 九月十三日放送の同番組でも、こう放言した。「集団的自衛権という言葉が悪い。一緒になって自衛することだと思っている(国民がいる)が、違うんですね。他国(防衛)なんです。(法案を)撤回か廃案にするべき」「集団的自衛権」は国連憲章にも(英語等の公用語で)書かれた世界共通の言葉であり、岸井のコメントは外国語に翻訳不可能。国際法や世界の常識に反している。「悪い」のは「集団的自衛権という言葉」ではなく、彼の知力であろう。善悪を判断する知性を欠いている。 その翌週も凄かった。「どう考えても採決は無効ですね」「憲法違反の法律を与党が数の力で押し切った」と明言。こう締めた。「これが後悔になっちゃいけないなと思うことは、メディアが法制の本質や危険性をちゃんと国民に伝えているのかな、と。いまだに政府与党のいうとおり、日本のためだと思い込んでいる人たちがまだまだいるんですよ。 この法制ってそうじゃないんですよ。他国のためなんです。紛争を解決するためなんです。それだけ自衛隊のリスクが高まっていく(以下略)」。 まだ、批判報道が足りないらしい。どこまで批判すれば気が済むのか。新法制は「存立危機事態」の要件を明記した(その後の与野党合意で、例外なく事前の国会承認ともなった)。その経緯を無視した独善である。前述のとおり、外国語に翻訳不能な暴論である。もし、彼が本気で「自衛隊のリスク」を心配するなら、別のコメントになるはずだ。 よりリスクの高い国連PKO活動拡大の「本質や危険性をちゃんと国民に」伝えたはずだ。国連PKOが「日本のため」ではなく、「他国のため」ないし「紛争を解決するため」であり、「自衛隊のリスクが高まっていく」と訴えたはずである。 だが、岸井は決してそうは言わない。国民が自衛隊のPKO派遣を評価しているからである。視聴者に“受けない”論点を避け、「集団的自衛権」や「後方支援」だけを咎める。自らは安全な場所にいながら、「危険(リスク)を顧みず」と誓約した「自衛官のリスク」を安倍批判や法制批判で用いる。実に卑怯な論法ではないか。卑怯な「平和国家」論 十月十一日の同番組でも、岸井は「平和国家のイメージが損なわれるだけじゃなくて日本自身が紛争当事国になる」「テロのターゲットになるリスクも抱え込む」と視聴者の不安を煽った。 百歩譲って、そのリスクがあるとしよう。ならば訊く。リスクは欧米諸国に負担させ、自らは決して背負わない。そんな卑怯な「平和国家」とやらに価値があるのか。 岸井の説く「平和(主義)」は美しくない。不潔である。腐臭が漂う。 一九九二年六月九日、国連PKO協力法案が参議院を通過した。自衛隊のPKO派遣はここから始まる。その当時、翌朝の毎日新聞に岸井はこう書いた。「こうした政治の現状に目をつぶることはできない。不健全なシステムの中で決定されるPKO法案は、国民の信頼を得られないばかりか、国際的な理解を得ることもできないだろうということだ」 その後、どうなったか。自衛隊は見事に任務を完遂。PKO派遣に対する国民の理解は深まった。国際的にも高い評価を得ている。 そもそも「全国民を代表する選挙された議員」(憲法四十三条)で組織された国会を通過成立した法案なのに、「国民の信頼を得られない」と明記する感覚を共有できない。岸井の姿勢こそ、憲法と民主主義への冒瀆ではないのか。 以上の疑問は、すべて岸井の安保法制批判に当てはまる。“TBSの顔”がいくら「憲法違反」「採決は無効」と言おうが、事実と歴史が反証となろう。 今後、安倍政権の安保関連政策は(中国と北朝鮮を除き)内外から高い評価を得るに違いない。そうなったら岸井は何も言わず、きっと口を拭う。頬かむりを決め込む。PKO派遣についてそうしたように。 以上、すべてTBSの看板番組である。多くの視聴者が違和感を覚えたのであろう。 九月三十日、武田信二社長が「『一方に偏っていた』という指摘があることも知っているが、公平・公正に報道していると思っている」と会見した。社長は自局の番組を見ているのだろうか。 テレビは、「政治的に公平」「事実をまげない」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」を求めた放送法を順守してほしい。新聞一面広告で指弾さる新聞一面広告で指弾さる 同じ疑問を抱いたのは、私一人ではなかったと見える。「私達は、違法な報道を見逃しません。」──こう大書した意見広告が、十一月十四日付産経新聞朝刊に掲載された。九月十六日の「NEWS23」で、岸井アンカーが「(安保法案の)廃案」を主張した点を指弾した全面広告だ。 ただし、岸井の問題発言は右に留まらない。「廃案」どころか、九月六日の「サンデーモーニング」では、「潔く成立を断念し、一から出直すべき」「これを通すことは容認できない」とドヤ顔で明言した。その他、ほぼ毎週、言いたい放題を続けている。 どうせ岸井には馬耳東風であろう。NHKの「やらせ報道」を巡り、十一月九日の「NEWS23」で「不当な政治介入との指摘は免れない。そもそも放送法っていうのは権力から放送の独立を守るっていうのが趣旨ですから、その趣旨をはき違えないでほしい」とコメント。NHKではなく、逆に政府与党を批判した。 きっと、自身の「重大な違反行為」(意見広告)についても同様のロジックを掲げて逆ギレするに違いない。岸井の放言、暴言、暴走は留まるところを知らない。追記 なお今回、この原稿を書くに当たり、『WiLL』編集部から岸井編集特別委員(兼アンカー兼コメンテーターその他)にインタビューを申し込んだが、許諾を得られなかった。おそらく、前掲拙著などが災いしたのであろう。もし実現していれば、以上の諸点について見解を求める所存だったが叶わなかった。意見広告に対する番組での言及もない。残念である。(本文敬称略) 

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    政治がTV局に圧力 かつて久米宏のテレ朝やNHKは戦った

    しかし、テレビ局はそれに抵抗してきた。 自民党はスキャンダルで支持率が大きく落ち込んだ森内閣時代に「メディア規制3法案」と呼ばれた個人情報保護法案、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法案を推進したが、それに対して民放連、NHK、日本新聞協会、日弁連などがスクラムを組んで反対運動を展開した。 そして安倍氏が幹事長に就任すると、テレビ局と全面的にぶつかった。2003年総選挙で民主党が投票日の5日前に政権を取った場合の閣僚予定名簿を公表すると、テレビ朝日のニュースステーションが大きく報じた。安倍氏はそれを「政治的公平に反する」と批判して同社の選挙特番に党幹部の出演を拒否したのだ。第44回ギャラクシー賞のラジオ部門を受賞したフリーキャスターの久米宏 =2007年5月31日、東京・三田 (撮影・北野浩之) 自民党は当時から、党本部でキー局の番組を録画し、ワイドショーや報道番組での自民党と野党の取り扱い時間を比較して「公正性」をチェックする体制をとって圧力をかけた。それでも、テレビ朝日はキャスターである久米宏氏を降板させることはなかった。 NHKも戦った。第1次安倍内閣時代、総務大臣だった菅義偉・現官房長官がNHKに国際放送(短波)の番組で「拉致問題で日本政府の毅然とした姿勢を示す」という異例の命令を出した。放送法では国が費用を負担する国際放送について政府の命令を認めているが、政権が具体的な番組内容まで介入したのは初めてだった。このときNHKが加盟する日本新聞協会は「報道・放送の自由を侵すおそれがある」と重大な懸念を表明した。 それがいまやテレビ局は、先の衆院選前に自民党から「報道の公平・中立」を申し入れる圧力文書を突きつけられても「言論弾圧の証拠だ」と公表して反撃することさえできなくなった。 だから自民党からは完全に舐められ、自民党幹部は、古舘、岸井、国谷の3氏の降板も、「こちらがクビを切れといわなくても、各局の上層部が官邸の顔色をうかがって降板させてくれた」と笑っているのだ。関連記事■24時間テレビ 計33回の放送で合計募金総額は291億円超■顎関節症から復帰の日テレ宮崎アナ 妙なところで評価あがる■自民党執行部 党内やメディアに厳重な「言論戒厳令」を敷いた■SAPIO連載・業田良家4コマ漫画【1/2】「勝敗ライン」■「TV局を減らせ」と説く元業界人がTV界の現状を描いた書

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    櫻井よしこさんへエール!

    櫻井よしこさんは、あの優しい笑顔からは想像もできない、火のような怒りを持つジャーナリストである。また、どんな相手にも、どんなタブーに対しても、一度も怯んだことがない。あの優しい笑顔の奥に、どれだけの闘志と、正義感と、そして日本を愛する心を秘めているのか。

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    「櫻井よしこ」は日本の宝

    のお粗末〉〈朝日新聞「人権報道」に疑義あり〉〈農協は農民の味方か敵か〉〈事実へのこだわりを忘れた巨大メディア〉〈年金資金を食い潰す官僚の無責任〉〈沖縄問題で地元紙報道への大疑問〉〈人権を弄ぶ人権派の罪〉……等々、今も思わず、読み込んでみたくなるものばかりだ。 私は、このシリーズが終わってからも、櫻井さんと共に、台湾の李登輝総統や、次の陳水扁総統、あるいは、まだソウル市長時代の李明博(のちの韓国大統領)といった要人のインタビューに赴くなど、貴重な体験をさせてもらった。真実を追求しようという櫻井さんの態度は一貫しており、いつも感心させられた。ドリーマーvsリアリスト 櫻井さんは、あの優しい笑顔からは想像もできない、火のような怒りを持つジャーナリストである。日本には、不幸なことだが、事実に基づかないまま、「日本」を貶めようという不思議な人々がいる。自分たちを「リベラル」と称し、過去の歴史を直視する、などと言いながら、実際には、真実を確かめることなく、日本を貶めることに邁進している人々である。 櫻井さんのように、真実を追求しつづけるジャーナリストには、そのことが、どうしても理解できない。しかし、彼らを追及することは、朝日新聞をはじめ巨大メディアを「敵にまわす」ことを意味する。 しかし、櫻井さんは、どんな「相手」に対しても、また、どんな「タブー」に対しても、一度も怯んだことがなかった。あの優しい笑顔の奥に、どれだけの闘志と、正義感と、そして日本を愛する心を、秘めているのかを思って、私はいつも勇気づけられた。ドリーマーvsリアリスト 櫻井さんの特徴は、その怒りと共に「繊細さ」と「優しさ」にある。どんな時も、きめこまかな気配りと、優しく繊細な視線を忘れないことだ。 血友病エイズ患者や北朝鮮拉致被害者のご家族のために、すべてを擲って協力する姿には、心を打たれる。 もう恒例となった日比谷公会堂でおこなわれる「北朝鮮拉致被害者救済のための国民大集会」で、いつも総合司会に立つのは、櫻井さんである。 何をおいても駆けつけて、ご家族と哀しみを共有するのが、櫻井さんだ。最も苦しんでいる方に、優しい言葉をかけ、哀しみを分かち合うことは、簡単なことではない。血友病エイズ患者や北朝鮮拉致被害者のご家族に対して、ここまで親身になって活動を支えようとするジャーナリストを、私はほかに知らない。記事に書くときだけ同情したふりをする新聞記者たちとの決定的な「差」がそこにある。 私は、今の日本は、「ドリーマー(空想家、夢想家)」と「リアリスト(現実を見る人)」との対立の時代だと思っている。 ドリーマーとは、現実には決して目を向けず、観念論や抽象論だけをふりかざし、いまだに「左」と「右」の対立でしか物が見えない単一思考の人間たちである。 彼らの特徴は、物事を自分の身に置き換えて考えることをせず、いつも他人事として突き放す点にある。日本にどんな危機が迫ろうが、観念論と抽象論に浸りきった彼らには、なんの関係もない。そのドリーマーが、マスコミで驚くほど多いことも、また事実だ。 そんな中で、真実を見つめる“勇気のジャーナリスト”櫻井さんの役割と責任は、増えることはあっても、減ることはない。年を経るごとに、その思いが強くなる。 日本がドリーマーたちによっておかしくなろうとする時、必ず立ちはだかってくれるのが、櫻井さんである。 多くの国民が、そのたびにハッとさせられているのではないだろうか。その意味で、櫻井よしこさんは、間違いなく“日本の宝”である、と私は思っている。かどた・りゅうしょう 1958年、高知県安芸市生まれ。中央大卒業後、新潮社に入社。週刊新潮編集部に配属され、以後、記者、デスク、次長、副部長を経て、2008年4月に独立。『甲子園への遺言—伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』(講談社)や『なぜ君は絶望と闘えたのか—本村洋の3300日』(新潮社)など著書多数。

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    櫻井よしこ氏に聞く「これからの日本の進むべき道」

    んだ情報を出している。これが、若い人達をいたずらに不安に駆り立てている。間違っていると思います、今のメディアの伝え方が。」細川「正しい情報が得られないで、若い人達が、なんとなくそうなるのではないかという、感覚的なことや、印象論で反対しているというのが多いと思うんです。実際には、例えば中国が、日中の境界線にあるガス田でプラットフォームを作っている。そういう脅威が具体的にあるという中で、安保法制がやるべきことの一つだろうというふうに思います。やはり中国の動きだけではないけれども、日本を取り巻く国際情勢の中で起きていることに対して、きちんと対応を取ることが、今安倍政権が求められている、と考えた方がいいわけですよね。」憲法に書かれている価値観を体現している人は鳩山由紀夫さん 日本政府が公開した中国による東シナ海でのガス田開発の写真(防衛省提供)櫻井「そのとおりだと思いますね。国というものがどういった要素によって支えられているのかというと、まず経済力がないといけませんよね、そしてもう一つ、軍事力がないといけませんよね。どの国も経済と軍事という、この車の両輪に支えられて、その上に政治が成り立ち、外交が成り立っているんですね。日本はこの軍事という意味においては、本当に、実力があるかもしれませんけれども、法律的にこれを使うことができないようにしているわけで、それを今回少し緩めるというのは、今珠生さんがおっしゃったように、日本の周りの安全保障の環境がガラっと変わっちゃったわけでしょ、だって今までは、アメリカがとにかく守ってくれるという体制があった。ところがそのアメリカが、2年ほど前からですね、「もう僕たちは世界の警察官じゃないんだよ。」と、「だからみんな一人ひとり自分でやってよ」という風に、オバマ大統領が「アメリカは世界の警察官ではない。」という演説をしましたよね。「軍事介入はしない」という演説をしたわけですね。そしてそれを見た中国、そしてロシアが、アメリカが出てこないんであるならば我々にとって好都合だと、力による実行支配を強めていこうというので、このオバマ演説の半年後に起きたのが、クリミア半島の併合ですよね。ちょうどその頃から、南シナ海で中国が闇雲に、島の埋め立てを始めたわけですね。最初は、平和利用だとか、漁民のためとか、そしてアメリカに対しても、埋め立てた島を一緒に使いましょうなどと言っていたのが、ある程度埋め立てが終わってしまって、逆立ちしてもアメリカが止めることができないという時になったら、軍事使用も有り得ると、言い始めたわけですね。ちょうど同じ頃から、東シナ海の、さっき珠生さんが仰った、日中の中間線の、中国側ですけれども、ちょっと中国側に入ったところで、12もの新しいプラットフォームを作って、昔のものも合わせると16になったんですね。これは、軍事転用された場合は、日本にとっては大変な脅威になるんですね。だからそのことを考えるとですね、中国は尖閣諸島も取りに来ていますし、沖縄も、中国の領土だとも、そういった論文がどんどん出ていますね。そのようなことも考えると、アメリカが後ろ向きになり、中国がどんどん膨張し始めている、そのなかで、日本国を、そして日本国民をどう守るのかということになると、経済力だけではダメですから、ある程度力を使えるようにしておかなければならない。ただこの使い方は、さっきから繰り返し言いますけれども、「侵略」なんてことは絶対にできないようになっている。危ないことが起きた時に日本を守るという意味の抑止力を作るという意味で、安倍さんはなさっているんだと思います。このような状況のなかで、安保法制を変えようとしない内閣がいるとしたら、それこそ無責任だと思いますよ。」細川「そうですね。安保法制もそうですが、中国の問題も、それからクリミア半島併合したロシアも、北方領土への実効支配もどんどん強めて、韓国も竹島での実効支配を強めています。戦後70年経って、いろんなことが落ち着いたかのように、談話も発表されてですね、謝罪というのが一つの区切りもついて、良かったなと思う一方、でも日本は実は、意外にというか、気がつかないうちに、どんどん“侵略的”なことをされている。平和で70年来ましたけれども、そういうことに無関心でいた日本国民というのは、やっぱり行き着くところは、憲法の、過剰なまでの平和主義といいますが、そういったものが、大きく影響しているんだと思うんですね。」櫻井「戦後の価値観を、憲法に書かれている価値観を、もっともわかりやすく体現している人は、誰かと考えたら、鳩山由紀夫さんだと思うんです。韓国に行って、土下座をした。新聞が写真を載せましたけれども、あの方はこちらが謝り、こちらが平和的な態度をとれば何でも解決するという風に考えてらっしゃる。善意でああいうことをなさったと思うんですね。でもああいうことをなさっても、じゃあ韓国がどういうふうに譲ってくれるかということは、ないわけですよね。で、岡田克也さんも韓国に行って、二重外交した。先週は、安倍談話について、なぜ自分の言葉として、自身の思いとして「侵略」とか「反省」とかを安倍総理が言わなかったのかと言いました。その路線を辿って行くとこれも、鳩山さんの土下座に行き着くと思うんです。今私たちは、民主党、鳩山さんは元民主党ですけれども、民主党路線の、土下座をする方向にいくのか、それとも積極的平和外交でそれなりの役割を果たしながら、日本としての立場を守っていくのかの、この2つの選択だと思います。どっちを選ぶかと言われたら、答えは明らかです。」細川「そうですね。それがまさに、岐路っていうことになるんですけれども、謝るだけでもだめだし、きちんと国としての体制を整える、そういうことが、今日本が求められている、日本の国内ももちろん、国際社会でもそう。戦後70年を迎え、これからの子供達が生きていく社会は、そういうことを意識して、彼らのためにもそういう社会を今作ってあげる、大人たちが意識していかなければならないですね。」櫻井「まったく同感です。」(この記事は、ラジオ日本「細川珠生のモーニングトーク」2015年8月15、22日放送 の内容を、ゲスト本人の了解の下再現したものです)「細川珠生のモーニングトーク」ラジオ日本 毎週土曜日午前7時05分~7時20分ラジオ日本HP http://www.jorf.co.jp/index.php細川珠生公式HP http://www.cheering.net/tamao/#細川珠生ブログ  http://tamao-hosokawa.kireiblog.excite.co.jp/

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    櫻井よしこさんの心棒は驚きの強さとしなやかさ

    町田康(小説家、ミュージシャン)【本の話をしよう】 私は読み狂人、明け方から暮れ方、深夜深更にいたるまで読んで読んで読みまくった挙げ句、読みに狂いて黄泉の兇刃に倒れたる者。そんな読み狂人の私が考えるのは、人間の心棒、ということである。曲がったり折れたり、難しい これは読み狂人が20年くらい前にたてた仮説なのだけれども、人間が働いて銭を儲け、人と共同して生きていけるのは人間にある種の心棒が入っているからで、その心棒が入っていないと人はぐずぐずに崩れ落ち、あるいは、ガソリンスタンドの前においてある風船人形のように風をはらんで意味不明な動作を繰り返し、滅亡没落してしまうのではないか、と読み狂人は思うのである。 その心棒は生まれながらに入っているのではなく、言葉がわかるようになった後、親や学校の先生に入れてもらって初めて入る。どういうことかと言うと、向こうからバッグを持った女性が歩いてきたとする。そのバッグはとても素敵なバッグでどうしても自分も持ちたくなった。そこで、落ちていた棒を拾い、すれ違い様、女性の頭を棒で殴って昏倒せしめ、その隙にバッグを奪う、というようなことをする人はほとんどいない。なぜなら、「人を傷つけてはならない」「盗んではならない」という心棒を子供のうちに入れられているからである。皇室制度についてのヒアリングに臨んだジャーナリストの櫻井よしこ氏 しかし、心棒というものは難しいもので、グニャグニャのいい加減な心棒だったり、粗悪な心棒だったりすると、すぐに曲がったり折れたりして、「少しくらいなら殴ってもいいか」となるし、かといってやたらと太くて固く、容易に曲がらない心棒だと身体が突っ張らかって人の通行の邪魔になるなど、逆に世の中の迷惑になることもある。 また、ある年齢になると、心棒の維持・管理、経年劣化した心棒の補修・交換などを自分の責任でやらなくてはならなくなるが、それがうまくいかずに心棒が曲がることもあるし、誤って変妙な心棒を入れてしまうことだってある。読み狂人などはその口で、変な心棒が山ほど入って、あまりにもおかしげな格好になっているので、人目を避けて物陰を移動しているようなていたらくである。著名人にもある無名の時代 なんて私のことなどはどうでもよいが、そうして心棒のことを思ったのは、『何があっても大丈夫』を読んだからである。著者の櫻井よし子さんは著名なジャーナリストであるが、読み狂人が物心ついた頃には、既に著名で、著名ということはみなが知っているということで、したがってその人が著名になる過程を敢えて言う人もなく、また、いまのようになんでも検索する時代でもなかったので、読み狂人はいまにいたるまで、その人の経歴を知らぬまま、ときに新聞やテレビなどでその意見に耳を傾けてきた。 ところが、この自伝、または自伝的な作品を読むと、当たり前の話だが、著者にも無名の時代があり、さらには、学生時代、幼年時代もある。まあ、それを綴ってあるから自伝なのだけれども、驚いたのは、その心棒の強さとしなやかさで、普通の人間であれば、まず間違いなく心棒が屈折するような局面、はっきり言っていまの人間だったら、大曲がりに曲がってしまうような局面で屈折も屈曲もせず、心棒を維持して生きる様に驚く。また、小説家であれば、あるいは小説家でなくても、その苦しい様子を、大喜びで、これでもかというくらい執拗に、ブルース風味で描くところを、この本の場合、まったくそっち方面にいかないというのは、そうしないという心棒が作者に入っているからであるように思う。 というと、どんな心棒なのだろうか、と思うが、言って気持ちがいい、耳にして心地よい、しかし、グニャグニャで真の危機の際にはあまり役に立たない心棒が大量に流通消費されるいま、自伝であると同時に、この本を読んだ体験がひとつの心棒になるような感じも読み狂人にはあった。心棒を失した、グニャグニャのあほながら、あった。まちだ・こう 1962年、大阪府生まれ。81年、町田町蔵名義でパンクバンド「INU」のボーカリストとしてデビュー。96年には町田康として処女小説『くっすん大黒』(文芸春秋)で文壇デビュー。2000年に『きれぎれ』(文芸春秋)で第123回芥川賞受賞。近刊に橋本治らとのアンソロジー『12星座小説集』(講談社)。

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    櫻井よしこ氏 首相の靖国参拝正常に戻すのが日本を勁くする

    * * * 中韓の仕掛けてくる歴史認識批判だけでなく、それに追随する朝日新聞をはじめとするリベラルなメディアのまやかしに心を動かされることなく、それを正面から受けとめ論破する気持ちを持ちたいものです。 本当に恐ろしいのは、中国や韓国の歴史宣伝に惑わされて精神的に屈することです。日本人としての誇りを失うことが、日本国と日本人の平和と安全を危うくすることにつながると思います。終戦記念日を迎え、多くの参拝者が訪れた靖国神社の境内=東京・九段北 安倍晋三首相が、静かに、しかし堂々と靖国神社を参拝し、そのことを国民も靖国問題を深く考える契機としてほしいと思います。 参拝の時期は、8月15日でなくても一向にかまわないと思います。むしろ神道にとって大切な春と秋の例大祭(靖国神社では4月21~23日、10月17~20日に執り行われる)に参拝するほうが適切かもしれません。 思えばA級戦犯の合祀は1978年秋の例大祭の直前に行われ、新聞に報じられたのは1979年春でした。 時の大平正芳首相は1979年の春と秋、1980年の春にも靖国神社を参拝しましたが、中国や韓国の批判は一切ありませんでした。それどころか、1979年12月の中国訪問では中国側から大歓迎を受けました。 敬虔なクリスチャンである大平首相が例大祭に靖国神社を参拝したのは、靖国神社が宗教の枠を超えた大切な慰霊の場であり、参拝は日本の首相にとして当然の責務であると認識していたからでしょう。 その頃のように首相の靖国参拝を正常な状態に戻すことが、日本人が日本人らしさを取り戻し、日本を勁(つよ)くする第一歩だと思います。 安倍首相が今年、その大切な一歩を踏み出してくれることを大いに期待しています。関連記事■ 小林よしのりが靖国神社の本質を歴史を紐解きつつ熱く語る本■ 櫻井よしこ氏 首相の靖国参拝妨害者の存在はおかしいと指摘■ 神社本庁、新宗連、幸福の科学等首相の靖国参拝への見解紹介■ ブッシュ元大統領 靖国参拝申し出たが日本側が明治神宮変更■ 櫻井よしこ氏 靖国参拝を軍国主義に結びつける非難は間違い

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    櫻井よしこ氏 日本は軍事力より「利他の精神」で国際貢献を

     本来、外交上手だった日本人だが、近年は中国や韓国の暴走を許し、ロシアとの北方領土交渉も暗礁に乗り上げるなど、“敗戦”続きとなっている。ジャーナリストの櫻井よしこ氏が、日本が「強い外交」を取り戻すための処方箋を提案する。* * * ここまで外交下手になったいまの日本に外交力を取り戻すことはできるのでしょうか。  アメリカがオバマ政権の下で後退を続け、その隙をつく形で中国やロシアが影響力を増し、我々とは相いれない価値観に基づいた世界秩序の構築を目論んでいます。この両国の動きをよく見て、アメリカの消極姿勢が日本にもたらす負の影響の深刻さを認識すること、脅威の認識がまず第一に必要です。日本人の命を守るのは日本国政府でなければならない、日本国を守るのも日本国政府でなければならないという世界の常識に立ち戻ることです。 そのうえで、具体的にどのように外交力を再生していけるのかと考えれば、日本の根底を成してきた価値観を高く掲げ続けることだと思います。日本が国際的に貢献する方法は軍事力よりも、日本らしい価値観を活かすことです。  例えばODAは、「無駄遣い」と批判されることもありますが、その根底にある精神はとても日本的です。日本のODAは、現地に技術指導者を派遣し、現地の人材を雇用して彼らに技術を伝承し、育てるものです。「魚を与えるよりも魚の獲り方を教える」という理想的な貢献です。日本のODAに失敗例がないとは言いませんが、よく見れば、現地の人々の生活を向上させようという「利他の精神」が貫かれていると思います。  それに比して中国のODAは、お金は出すけれども技術は教えず、労働者も中国から連れていくために、現地の人々の技術修得にも雇用にもつながりません。それどころか中国人労働者がそのまま住み着いてしまい、現地の人々にとって脅威となっています。  かつて日本は台湾を植民地にしました。いまの価値観では植民地など肯定できませんが、それでもその当時、日本が台湾で真っ先にしたのは、学校作りでした。植民地統治を学校作りから始めた国は日本以外にはありません。そこに通底していたのが美しき「利他の精神」であり、そのことを感じとっているために、台湾の人々はいまも親日感情を抱いていると思います。  ノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智・北里大学特別栄誉教授は「人のためにならなくては、といつも考えていた」と語りました。3年前にノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥・京都大学iPS細胞研究所所長もやはり「人のために」がモットーです。  利他の精神ゆえに台湾が親日的になったように、今後もそうした日本らしい価値観を基礎にした国際貢献を拡大していくことが肝要です。関連記事■ 尖閣問題で中国“漁民”を釈放すべきではなかったと李登輝氏■ 蓮舫大臣 北京留学で中国語上達せずバスケの練習に打ち込む■ 金美齢氏 馬英九政権続けば台湾は中国に吸収との危惧広まる■ 中国は自国の地図で「尖閣諸島は日本領土」と明記していた■ 日本統治下の台湾の風刺漫画で当時の日本への思いを解する本

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    ニフティ法務部長でも迷うネットの「削除要請」

    丸橋 透(ニフティ株式会社理事・法務部長) いわゆる「忘れられる権利」は、グーグルに検索結果の削除を命じた欧州司法裁判所判決を契機として注目され、主に検索エンジンに対し削除請求する局面で語られている。氏名など特定の人物を示す検索語により検索した結果であるタイトル、スニペット、検索先ウェブサイトのURLを非表示(又は当該ウェブサイトを検索対象からの排除)とすることを請求するものである。 しかし、EUの個人情報保護法制は検索エンジンに特化して個人データの消去(削除)権を定めている訳ではなく、あらゆる個人が一定の場合に自己の個人データの消去を請求する広範な権利を与えているものである。この消去請求権を強化するものがいわゆる「忘れられる権利」である。 プライバシー侵害により消去を求める場合、わが国の民事法制上の根拠は、個人の人格権に基づく妨害排除請求(差止請求)権である。このうち「忘れられる権利」の行使に相当するのは、自身の過去の犯罪、行政処分その他の不名誉な行状に関する報道やそのコピー、行状に対する論評記事に対して削除を求めるものといえよう。 削除を求める根拠は、犯罪、行政処分その他の行状に関する報道等が当時は合法だったとしても、時の経過があり当時の正当性は無くなっている、更正が妨げられている等、現時点では人格権を侵害しているというものである。 ニフティも検索サービスを提供しており、まれに検索結果の非表示を請求されることがあるが、ニフティに対する請求のほとんどは、ホームページやブログの記事に対する削除請求である。 プロバイダとしてのニフティは、裁判例やプロバイダ責任制限法ガイドライン等検討協議会の定める名誉毀損・プライバシー関係ガイドラインを参考にして日々削除請求に対応しているが、「忘れられる権利」の行使に相当する削除請求を認めるかどうかの判断は難しい。同ガイドラインに参照されている裁判例で直接参考になるのは12年前の傷害の前科をノンフィクション作品として取り上げたことが権利侵害にあたるとした「逆転」事件だけである。この事件の高裁判決は、犯行後相当の年月が経過し、犯人に対する刑の執行も終わったときは、その前科に関する情報は、原則として、未公開の情報と同様、正当な社会的関心の対象外のものとして取り扱われるべきであり、実名による犯罪事実の指摘・公表は、特段の事由がない限りプライバシーの侵害として許されないとする。削除「される」「されない」プロバイダの判断は そこで、ニフティでは、事件報道から3年の目安で削除の可否を一応判断しつつ、犯罪が重大かどうか、公人による犯罪や法令違反かどうか等を加味して正当な社会的関心が失われているかどうかを判断することとしている。ボーダーライン上の案件では、ブログ等の開設者に意見照会し、開設者からの反論を踏まえて判断するが、開設者が特に意見も無くニュース記事をクリッピングしていることも多く、その場合は、自主的に削除することが多い。以下、2事例を紹介する。 <削除された事例> 3年前に器物損壊罪で逮捕された請求者の氏名がブログ記事に掲載されていたことから、プライバシー侵害として削除請求があり、ニフティから開設者に対して意見照会を実施した。開設者が自主的に削除を行なわなかったことから、会員規約違反としてニフティにて当該記事の送信防止措置を行った。 <削除されなかった事例> ブログ記事に、インサイダー取引により逮捕された請求者の氏名、当時の勤務先が掲載されていたことから、プライバシー侵害として削除請求があった。請求者からは、逮捕後の刑事裁判にて懲役○年○月、執行猶予○年○月の判決が確定しており、当該記事があることで更生の妨げになっているとの主張があったが、逮捕からそれほど期間(1年半)を経過していないことから、ニフティでは削除は行わないこととした。 ニフティへの削除請求はフォームや文書により受け付けているが、2015年中の「忘れられる権利」の行使に相当するものはフォームでは約50件、その3割が削除され、文書では約30件、その半数が削除された。ニフティまたはユーザにより削除されなかったものは、当初の報道から3年を経過していないものが多く、その他は行政処分事実や重大犯罪に関する記事である。 いわゆる「忘れられる権利」に相当する人格権侵害の裁判例が少ない中、決して少なく無い過去記事の削除請求に対処するのは容易では無い。 しかし、EU型の広範な個人データの消去権をベースとして、わが国の「忘れられる権利」のルール化を検討するのは無理がある。時の経過という要素が共通だとしてもその他の法制度の状況が違いすぎるからである。 今後の裁判例の積み重ねにより、犯罪を含む過去の行状に対する正当な社会的関心が失われ忘れられるべき=削除されるべき条件についてより明確になることを期待している。できれば、名誉毀損・プライバシー関係ガイドラインに明記されるのが望ましい。それまでプロバイダとしては案件の一つ一つに迷いながら対処していく他は無い。裁判所の判断を仰ぐべき事案が多くなることも覚悟している。

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    死んでも消えないネットの噂 知っておきたいネットの権利

    神田知宏(弁護士・弁理士) 最近、「忘れられる権利」に関する記事を目にする機会が増えました。ただ、権利の意味や使われ方は、記事によってさまざまです。 まず、この言葉が日本で注目され始めたのは2012年ころです。EUデータ保護規則案で提唱された「the right to be forgotten」が翻訳され紹介されました。権利の内容としては、個人に関するデータをインターネットから削除するよう求める権利であり、請求相手は、Google等の検索事業者には限定されていません。 次に日本で「忘れられる権利」が大きく報道されたのは、2014年5月13日のEU司法裁判所が出した判決です。この判決は、検索事業者であるGoogleに対する、検索結果の削除請求を認めています。判決内では「right to be forgotten」という表現も使われています。この判決と報道の影響により、日本でも「忘れられる権利」といえば、Googleなどの検索事業者に対し、検索結果を削除請求できる権利、と認識する人が増えたのではないでしょうか。 日本の報道では、これらに加え、企業・個人に対する名誉毀損情報、個人に対するプライバシー侵害情報といった、違法情報の削除請求権についても、「忘れられる権利」と表現されているケースがあるように思います。 このように、まだ定義がしっかり定まっていない「忘れられる権利」ですが、どの定義で使う人でも、基本的な考え方は同じです。この権利の説明では「人の噂も七十五日」が枕詞のように引用されています。かつては、どんな噂も75日も過ぎれば話題に上らなくなるから、人の噂をいちいち気にする必要はない、と言われていました。これに対し、インターネットは決して忘れません。データと記録媒体のメンテナンスさえしっかりしていれば、半永久的に記録が残ります。インターネット以前は、他人に自分の情報を忘れてもらい、また、自分も他人の情報を忘れることで、人間関係や社会生活がうまく回っていた側面があったと思います。しかし、今ではインターネットが忘れないことで、人間関係にも社会生活にも歪みが生じています。もちろん、インターネットに情報が残り続けることで、精神的・肉体的に被害を受けている人も珍しくありません。これらの問題を解決すべく考え出されたのが「忘れられる権利」なのです。「忘れられる権利」日本の法律上の扱いは? そのため、まだ議論は十分でないものの、インターネット時代において、人が人として生きていくために不可欠な「新しい人権」だと捉えて良いと思います。社会科の教科書で紹介される日も近いことでしょう。 では、日本の法律上「忘れられる権利」はどのように扱われているのでしょうか。インターネットの名誉毀損情報、プライバシー情報を削除する権利は、法律的には「人格権に基く妨害排除請求権としての差止請求権(削除請求権)」だと理解されており、ことさら「忘れられる権利」という概念を使うまでもなく、削除請求ができると考えられてきました。人格権の中には、名誉権、プライバシー権、氏名権など、人格に由来する多様な権利が含まれており、消したい情報によって、どれか1つまたは複数の人格権を選び、削除請求をすることになります。そのため裁判所の判決・決定にも、「忘れられる権利」という表現を使うものはなかったと思います。 ところが最近、社会から「忘れられる権利」を有する、と明示した裁判所の決定が登場しました(さいたま地裁平成27年12月22日決定)。おそらく、人格権の1内容として「忘れられる権利」を位置付けているものと考えられますが、その内容は明確には記載されていません。ただ、裁判所の中に「忘れられる権利」の考え方が浸透してきたことの証左だと思います。 ところで、忘れられる権利は、インターネットにおける「表現の自由」やインターネットを使う人の「知る権利」と対立関係にあります。なぜなら、インターネットで何かを表現したい人の「表現の自由」や何かを調べたい人の「知る権利」に対し、「忘れられる権利」を行使し、その情報公表、情報取得を制限することになるからです。そのため、忘れられる権利の行使を認めるのか(表現の自由、知る権利が後退するのか)、それとも行使を認めないのか(表現の自由、知る権利を優先させるのか)という利益調整が常に必要となります。たとえ「忘れられる権利」という概念を肯定したとしても、その先には、この利益調整を誰が担当するのか、どのような基準で利益調整をするのか、という未解決の課題が待っています。最終的には裁判所が判断することになるのでしょうが、近時、インターネットでの人権侵害事案が増加の一途にあると法務省が公表し、裁判所からも、インターネット情報の削除請求がここ数年で著しく増えたとの情報が出ており、すべての問題を裁判所の判断に委ねることには限界があると感じます。 今後、ますますインターネットが発達し、インターネットによる人権侵害に悩む人も増えて来るはずです。そんな人たちを1人でも多く救えるよう、「忘れられる権利」の定義や使い方を考えていく必要があると思います。