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    「東京目線」で福島を語るなかれ

    ていう合言葉があるんです」。福島の詩人がこの言葉に込めた意味とは何だったのか。東日本大震災から5年。メディアは日本を襲った未曽有の大災害とどう向き合い、何を伝えたのか。

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    地震と放射能を道連れに 明けない夜は無い

    目線ですね。物語の鋳型に当て嵌めないで、リアルタイムで実際に起きている本当のことを分かち合えるようなメディアであってほしい。最初の祭りは去ったのかもしれません。取材に来るメディアも減って、どんどん静かになって来ているし、5年という節目が過ぎると、さらに静かになっていくんでしょうね。今後はもっと内側から何か風を起こすというか、我々が自分達の力で発信していく努力をしていかなければならないと思います。  僕は詩人として福島のために言葉を見つけたいと思う。福島を語る言葉だったり、福島の人の想いを象徴する言葉だったり、トゲが抜ける言葉だったり、言葉を見つけたい。それをみんなと分かち合いたい。そういう文化を発信していきたいです。(聞き手・iRONNA編集部 川畑希望)わごう・りょういち 昭和43年、福島県生まれ。詩人、県立高校国語教諭。『AFTER』で中原中也賞。ほかの著書に『詩の礫』『ふるさとをあきらめない-フクシマ、25人の証言』『詩の寺子屋』など。3月9日に新刊『昨日ヨリモ優シクナリタイ』(徳間書店)が発売された。

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    遺体は撮るのか、撮らないのか? 東日本大震災と被災者家族の記録

    。 あの人たちはいま、どうしているだろうか・・・。普段はまったく違うジャンルの番組をつくっているが、メディアに生きるものとして、少しでも被災地のことを風化させずに伝えられればと、今回寄稿させていただいた。 戦争と震災・・・ふたつの大きな災いを経て、もうすぐ82歳となる母・武澤順子は、最近日記にこう綴っている。 「今度は『被災者』としてではなく、自分自身が、誰かのお役にたてるよう立ち上がらなければいけないと思う。それが震災で受けた多くの御恩に報いる道であり、『被災者としての誇り』でもある」*BS日テレにて「生きてやろうじゃないの!母と僕の震災日記」が放送決定*3月13日(日)11時55分から13時25分(90分)(メディアゴン 2016年3月11日分を転載)

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    国防も国益も頭になし 南シナ海「報道・発言」狂騒曲

    による賛成多数で可決成立した。「強行」でもなんでもない。「説明不足」と言うが、政府は何度も答弁した。メディアでも説明した。私は聞き飽きた。立野は五月二十六日放送の同番組でも同様のコメントを述べたが、南シナ海問題は「安保法制」と直接関係しない。そう拙著『護憲派メディアの何が気持ち悪いのか』(PHP新書)で指弾したが、彼の眼には留まらなかったようである。是非に及ばず。みたび朝日記事を借りよう。「現在でも自衛隊の護衛艦や航空機の警戒監視活動の範囲に法的制約はなく、南シナ海でも可能だ」。もう拙著はいいから、せめて朝日新聞くらいキチンと読んでほしい。「アメリカは世界の警察官ではない」――二〇一三年九月十日、オバマ大統領がシリア問題に関する米国民へのテレビ演説でこう明言して以降、中国による埋め立てが急ピッチで進んだ。ロシアもクリミア併合に踏み切った。もはや取り返しがつかない。 菅義偉官房長官は十一月五日「米軍の航行の自由作戦に自衛隊が参加する予定はない」と述べる一方、南シナ海での自衛隊の活動について「今後検討していくべき課題だ」と警戒監視活動の可能性を示唆した。 日本はどうすべきか。何ができるのか。前出朝日記事は「南シナ海まで行く余力も利点もない」と語る自衛隊幹部のコメントを援用しつつ「仮にP3C(海自哨戒機)が沖縄の基地から南シナ海に向かうとすると、飛行時間は片道約4時間。P3Cの平均的な航続時間は8~10時間で、現地での飛行は数時間に限られる」と書いた。事実その通りだが、後継機の最新哨戒機P1は航続時間や巡航速度が大幅に向上している。さらに言えば、東南アジアに給油ポイントをつくれば問題は解決する。十一月六日付朝日朝刊記事も借りよう。「海自が保有する護衛艦は47隻。一見、多いようだが、海自艦艇は尖閣諸島周辺の警戒、ロシアの動向の監視、北朝鮮のミサイル対応に加えインド洋・ソマリア沖の海賊対処も行う。訓練や定期修理もあり、やりくりに苦慮しているのが実態だ。/それでも海自は、現有の装備や能力で、米国の要請に精いっぱい応えようとしている。ソマリア沖で海賊対処に当たる護衛艦や哨戒機が日本と往復する際や、練習艦隊が定期的な遠洋航海に出向く際などに南シナ海に入り、自衛隊の存在感を示したり哨戒活動をしたりする。海上幕僚監部は、そんな案を検討している」 そのとおり。右の案は私も提案してきた。南シナ海を航行する際、わざとスピードを落とす。あるいは警戒監視に当たる米艦と併走する。せめてそれくらいしてほしい。 さらに停船や徘徊。日米共同軍事演習。あるいはヘリ搭載型護衛艦から哨戒機を発艦させる。もちろん「人工島」の12カイリ内で。そう実行できれば、名実とも海自版「航行の自由」作戦となる。 いずれも実施しないのなら、日本国はみたび「卑怯な商人国家」と堕する。「美しい国」とは程遠い。海賊対処に当たる護衛艦や哨戒機は南シナ海を通る。今後「人工島」12カイリ内を通航しないのなら、誰の目にもあえて避けたと映る。それでは中国の領有権を認めたに等しい。 現場の事情はそれなりに承知しているつもりだが、朝日の記者に泣き言を語るのは止めてほしい。工夫し努力して「余力」をつくるのが仕事であろう。「利点」がなくとも任務を遂行するのが使命ではないのか。 海は一つ。南シナ海で起こることは東シナ海でも起こる。日本政府は事態を傍観すべきでない。海自が南シナ海で活動すれば、間違いなく中国軍は対抗措置をとる。中国海空軍の高官が私にそう明言した。中国軍は自衛隊の動向を注視している。だからこそ、中国と世界の目に見える活動をすべきなのだ。今やらなければ、取り返しがつかない。 うしお・まさと 昭和35(1960)年生まれ。早稲田大学法学部卒業。旧防衛庁・航空自衛隊に入隊。早大大学院研修(法学研究科博士前期課程修了)、長官官房などを経て3等空佐で退官。帝京大准教授など歴任。東海大学海洋学部非常勤講師(海洋安全保障論)。『護憲派メディアの何が気持ち悪いのか』(PHP新書)など著書多数。

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    南支那海での振る舞いを「侵略」と呼ばない媚中報道の罪

    が、読者の間から聞こえてきそうだ。安全保障関連法への反対の声がそうだったように。国民を平和ボケさせるメディア国民を平和ボケさせるメディア そうした一国平和主義者達の特徴は、中国の脅威を見て見ぬ振りをすること。そうすれば日本は安泰でいられると思い込んでいる(思い込みたがっている)ようだが、そもそもそうした思潮を作り上げた元凶の一つが、中国の寛大な(中国に迎合した)毎日新聞を含むマスメディアである。 これらが拡大一方の中国の脅威の深刻さを明確に伝えていないため、国民はいつまで経っても平和ボケから覚醒できないでいるのだ。南シナ海・スプラトリー(中国名・南沙)諸島のファイアリークロス(中国名・永暑)礁を埋め立てて建設した飛行場で、着陸した中国の航空機の前で記念写真に納まる関係者ら=1月6日 では中国の脅威の「深刻さ」をいかに報じればいいのか。実はこれは簡単なことである。 たとえば今回の「なるほドリ」は「中国は南シナ海のほぼ全体の領有権を主張しており」とは伝えているが、それに加えて「領有権の主張」は虚偽であることを国際法の観点(歴史的経緯も含め)から解説すればいい。 そして「岩礁を一方的に埋め立てて『人工島』建設を進めました」との説明で終わるのでなく、それがアジア全体の平和を脅かす危険で不法な領土拡張、侵略の動きだと指摘すればいいのである。 そのようにすれば読者は、より問題の深刻さを理解することができることだろう。中国の島の接収の不当性を指摘しなければ意味なし もっとも毎日は、実はそうしたことをまったくやっていないわけではない。 十一月二十五日に掲載のコラム「木語」は次のように書き、中国が南支那海の島々の領有宣言を行ったのは戦後のことであると伝えている。中国が「南沙」の実測地図を作ったのは戦後、1947年以後だ。蒋介石政権が日本軍の占領していたパラセル(中国名・西沙)諸島や、日本領「新南群島」(スプラトリーの日本名)に軍艦を派遣して接収した。初めてこの地の島々を測量して南沙と命名した。主要な島には軍艦の名前から「太平島」「中業島」など中国名をつけた。このころ、南シナ海全域に「十一段線」(後に九段線)という線引きをして領有宣言した。 これであれば、中国側の「南海諸島(パラセル、スプラトリー諸島など)は古来中国領土であり、先祖が残したものであり、いかなる者であれ中国の主権や関連権益を犯そうとしても中国人民は承諾しない」(習近平主席)といった類の主張に対する反論にはなりに得る。 しかし、それでもまだ不十分なのだ。戦後の中国による「接収」が領有権の根拠たり得ないことを書かなければ、何の意味もないのである。自国を「侵略国」と断罪しても中国へは物言えないメディア 中国はもちろん「接収」は合法だと主張する。たとえば王毅外交部長は次のように説明する。 「中国はカイロ宣言、ポツダム宣言を根拠に、日本に不法に占領された南沙、西沙諸島を回収した」 要するに日本は「中国から盗取した領土を返還すべし」と謳うカイロ宣言の履行をポツダム宣言の受諾を通じて誓約したことで、これらの島々は中国領土に復帰したと、いう国際法上の主張である。 中国は台湾についても全く同じ主張をしているわけだが、しかしいずれも捏造宣伝だ。 事実を言えば日本は、スプラトリー諸島にしても台湾にしても、中国へは「返還」(割譲)していないのだ。実際には一九五二年に発効のサンフランシスコ講和条約に基づいてそれらを放棄しただけであり、その後の新たな帰属先は確定されなかったのである。 マスメディアは、この事実を明確にすればいいのである。ただそれだけで中国の「主張」は完全な作り話であることが実証されよう。 しかし、日本のメディアはそれができないのである。 なぜなら中国は、台湾とともに南支那海もまた「核心的利益」だと位置付け、それら問題に各国が容喙することを断じて許さない構えだ。そのような中国の怒りを恐れる日本メディアは、従来台湾に対してそうだったように、南支那海の島々についても「中国の領土ではない」と明言できないのだろう。 日本の過去の戦争については、自衛戦争という側面を無視して「侵略」と断罪したがるメディアだが、中国が現実に行っている領土拡張の動きに対しては、以上のような理由で「侵略」と報じないのだから有害極まりない。(「台湾は日本の生命線!」2015年12月22日分を転載)

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    清原和博の薬物報道はここがおかしい!

    元プロ野球選手、清原和博容疑者が覚醒剤事件で逮捕されてから1カ月余り。当初過熱したメディアの報道もひと段落したとはいえ、節目のたびにスキャンダル的に再び盛り上がる構図は従来と何も変わっていない。更生を促し、再犯を防ぐメディアの役割とは何か。ここが変だよ、ニッポンの薬物報道!

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    正義ヅラするメディアの「洪水報道」に意味はあるか

    同じようなことを繰り返してきたからだ。大きなネタがあれば、それで繰り返し記事、番組をつくる。それが、メディアの習性だ。また、これは視聴者、読者(一般大衆)の習性でもある。 今回のような有名人のA級スキャンダルは、一般大衆にとっては格好の話題だ。大衆は、有名人の“転落”をもっとも喜ぶ。スキャンダルとは転ぶことだ。 「転び方が大きければ大きいほどいい。メディアは大衆の嫉妬心で成り立っている。嫉妬心を掻き立てるネタを探せ」 と、よく言われたものだ。 要するに、今回のように転んでしまった有名人は、叩き放題になる。「いつからやっていたの?」「誰から買ったの?」「クスリ漬けになるとどうなるの?」「離婚した奥さんと子供たちは?」などと報道するたびに大衆は喜び、「やっぱりね」と満足する。大衆は常に自分は正しく生きているという“ありえない現実”を信じ込んでいるので、一度転落した人間を叩けば叩くほど満足する。 これは、ネットのほうがひどく、正義ヅラをして他人を糾弾“炎上”させることが日常茶飯事になっている。 このようなメディアの構造を批判する気はない。 ただ、こういう報道ばかりだと、やがて“炎上”が収まったとき、なにも残らなくなることが心配だ。 洪水報道はいいが、問題はその先にある。なぜなら、今回のような麻薬常用事件は、それを犯した個人だけの問題ではなく、社会的な問題だからだ。個人の問題として片付けてしまう日本 “麻薬大国”のアメリカでは、薬物乱用による逮捕者が増えすぎて刑務所が足りなくなり、「どうすれば乱用者を減らせるか」という研究が進んだ。その結果、ヘロインやコカイン、覚せい剤などの麻薬常用者は、依存症に罹っているのと同じだから治療しなければならないとなって、治療施設が全米につくられることになった。麻薬が蔓延することで、社会は多大なコストを強いられるからだ。 しかし、日本ではこういう意識は薄く、乱用者は「厳罰主義」で服役させて終わりだ。社会から隔離してしまえば、それで問題が解決したことになっている。 だから、実際は麻薬が蔓延していても、一般人はそれに気がつかない。しかし、ここ数年でも、有名人の麻薬事件は多い。酒井法子、ASKA、小向美奈子などが相次いで逮捕されている。それなのに、メディアと大衆は、それを個人の問題として片付けてきた。 つまり、「クスリに負けたのは人間として弱いから」というわけだ。“ダメ人間”のレッテルを貼って、社会から追放して終わりというわけだ。  しかし、ホィットニー・ヒューストンやマイケル・ジャクソンを薬物乱用で失ったアメリカでは、これを個人の問題とは考えない。社会的な問題として、メディアも含めて解決法を探ってきた。 なにしろ、アメリカでは薬物乱用による死亡者が年間4万人を超え、交通事故の死亡者を上回っているからだ。これに対して日本は、2014年における薬事事犯の検挙人員は1万3121人(警察庁『平成26年の薬物・銃器情勢』)なので、死亡者は数百人と思われる。 しかし、だからといって、この問題を放置してはおけない。麻薬で捕まる人間の8割が、麻薬として最悪の覚せい剤事犯であり、水面下には検挙者の何倍、何十倍の潜在的な乱用者がいるからだ。覚せい剤ばかりではない。昨年まであれほど事件が起きていた「危険ドラッグ」も、いまは地下に潜って蔓延している。 アメリカでは数年前、テレビドラマ『ブレイキング・バッド』が大ヒットした。これは、肺がんで余命2年と宣告された高校の化学教師が、キャンピングカーの“キッチンラボ”で覚せい剤(メタンフェタミン)をつくる物語だ。  アメリカでは、ごくフツーの人間まで、覚せい剤をつくるのかと驚いた。 日本では、覚せい剤は製造されていない。清原容疑者の入手ルートが問題になっているが、たどっていけば必ず海外に行き着く。日本に流れ込む覚醒剤は、北朝鮮モノ、中国モノ、南米モノ、アフリカモノとさまざまあるという。先日も、鹿児島で末端価格にして70億円に相当する約100キロの覚せい剤を保持していた疑いで4人が逮捕されている。 このような暴力団がらみの闇ルートを断つことも大事だが、依存症に陥ってしまった人間を助けることも大事だ。アメリカには、薬物リハビリ施設が2000カ所ほどある。しかし、日本にはほとんどない。 そのうちの一つ、あの田代まさしも入所している「ダルク」の近藤恒夫代表が、次のようなことをテレビや新聞で言っていた。 「交通事故みたいなもの。誰でもなり得る」「クスリに負けた人間に、『どうしてそんなものに負けたんだ』と言うのは、薬物の怖さや依存症について知らないから」「クスリをやって捕まった人間に、『おまえはダメだ』と言ってもなんの意味もない」「薬物依存は病気。病気を治療するのは恥ずかしいことじゃない。彼らに必要なのは依存症から回復するための適切な助言と情報です」 これが、今回の事件の教訓だろう。 つまり、私たちの社会とメディアが問われているのは、清原容疑者がはたして社会に復帰できるかどうかだ。とくにメディアは、そこまで見据えた報道をしてほしいと思う。 もちろん、「禊(ミソギ)が済んだから」という復帰ではない。人間として復帰できるかどうかだ。ただ、一般大衆はそんなことはどうでもよく、この洪水報道が終われば、清原容疑者は「あの人はいま」で取り上げられるだけになるだろう。

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    【茂木健一郎緊急寄稿】私が清原和博さんを「容疑者」と呼ばない理由

    茂木健一郎(脳科学者) 違法薬物が、違法とされることには、それなりの根拠、合理性があると私は考えている。 何よりも、違法薬物は、脳の回路を変えてしまう。通常ならば、努力したり、実際に身体を動かしたりしなければ放出されない「報酬物質」に類似の働きを持つ物質が、いとも簡単に脳内に出てしまう。つまり、薬物は、脳の回路が「ショート」するようなもので、そのことによって生じる依存症などの弊害は、無視できず、時に深刻である。 そのような害をもたらす薬物を提供して利を得ようとする人々に刑事罰が課されるのは、合理的だろう。また、使用する側に対しても、結果として自分自身や社会に悪影響を与えるから、国家が薬物の所持や使用を刑事罰の対象とすることは、一つのアプローチとしてはあり得るだろう。 もっとも、私自身は、ポルトガルが試みているように、薬物の使用、所持を非犯罪化して公衆衛生上の問題として扱うといったやり方にも、それなりの合理性があるし、より有効なケースもあると考えている。警視庁から送検される元プロ野球選手の清原和博容疑者 =2月4日、東京都千代田区(撮影・今野顕) 清原和博さんが覚醒剤の所持で逮捕された事件で、違法薬物の問題に社会的な関心が高まっている。これを機会に、日本における違法薬物規制、そして報道のあり方について、考えたい。 違法薬物の問題から見えてくるある一つの対立軸がある。それは、国のあり方を考える時に、「個人の自由」と、「社会の秩序」のどちらをより重視するかという価値観の問題である。 もちろん、個人の自由と社会の秩序は、必ずしも対立するものではない。ある程度の秩序がなければ、個人の自由は保証されない。17世紀に英国の思想家、トマス・ホッブズがその著書『リヴァイアサン』で展開した論によれば、そもそも、国家というものは個人の権利を守るために「社会契約」を通して形成されるものであり、刑罰が課される根拠もそこにある。 しかし、個人の自由と社会の秩序のどちらを重視するか、というニュアンスの差のようなものは、やはりある。そして、今後の文明のあり方を考える時に、この微妙なニュアンスが、実は大切だと感じる。 アジアは、違法薬物について厳しい地域だと認識している。中国やシンガポールなど、いくつかの国では、違法薬物を輸入しようとすると死刑が課せられる。私自身は死刑廃止論者であるが、それでも、もし仮に死刑が適用されるならば、殺人のような人の命を奪う犯罪に対してだろうと考えている。違法薬物も、社会に対して悪影響を与えるという意味では重大な犯罪につながるが、それにしても死刑を適用するというのは、個人的には行き過ぎだと思わざるを得ない。なぜアジアは違法薬物に対して厳しい態度をとるのか? なぜ、中国を始めとするアジアでは、違法薬物に対して厳しい態度をとるのだろうか? アヘン戦争に至る、中国の社会での薬物の蔓延などの経験も関係しているのかとも思うが、やはり本質的なのは、個人の自由と、社会の秩序のどちらを重視するかという価値観だろう。 中国などの国では、個人の自由よりも、明らかに社会の秩序を重視する価値観が主流である。違法薬物に関する犯罪に対する厳罰主義は、そのような思想の現れだと思う。 一方、欧米では、ホッブズの『リヴァイアサン』のような著作が出てくることからもわかるように、もともとは、個人の自由を重視する思想が有力である。社会の秩序は、あくまでも、個人の自由を実現するための手段としてある。社会の秩序自体が、崇高な価値であるわけでも、目的であるわけでもない。米経済学者のミルトン・フリードマン氏 薬物についての態度も異なる。私がかつて留学していた英国では、20年前から、主要な新聞が一面トップでマリファナの合法化を主張するなど、社会的な議論が巻き起こっていた。米国のレーガン政権に影響を与えたノーベル賞受賞の経済学者、ミルトン・フリードマン氏は、個人の自由を重視し、政府の介入を最小限にすべきだという立場であり、薬物も合法化してその使用の判断を個人の自由に任せるべきだと主張していた。 もちろん、フリードマン氏のような論は、米国においても必ずしも多数派ではない。それでも、有力な学者がそのような論を表明するあたりに、個人の自由を重視する思想的伝統を見る。 米国においては、「保守主義」とは、個人の自由の徹底を意味する。国家の秩序を最重視する中国の「保守主義」とは、そこが違う。 日本は、アジアと、欧米の中間に位置する、興味深くユニークな国である。日本における個人の自由と社会の秩序のあり方は、どうあるべきか。明治維新で欧米の思想を柔軟に取り入れた日本では、人権や自由などの思想が社会にある程度根付いている。その一方で、清原和博さんが逮捕されると一律に「清原和博容疑者」と報じるなど、罪を犯した人を「別扱い」することで社会の秩序を保とうとする、アジア的な傾向も見られる。 薬物で逮捕された芸能人が、公衆衛生や刑事罰の問題を超えて、社会的にバッシングされ、反社会的という烙印を押されてしまうことにも、個人の自由、権利よりも社会の秩序を重視する傾向を見てしまう。 果たして、それで良いのだろうか? 私には、大いに疑問なのである。 日本は、これから、どのような社会を目指すのだろうか。 私自身は、日本は、アジア的な伝統と、欧米のようなグローバルな普遍的な価値を志向する社会という、二つの動きの間に位置するユニークな国でありつづけて欲しいと考えている。何よりも、個人の自由を重視する思想がないと、ITや人工知能といった分野におけるイノベーションが起こらず、経済も発展しない。 中国の経済は、思想や言論の自由に対する抑圧的態度をとっている限り、行き詰まるだろうと私は考える。日本としては、個人の自由を重視する米国のやり方の、良いところは学ぶべきだろう。 私たちは、一体、これから何を求めるのか? 清原和博さんの薬物使用に関する報道や、世論のあり方を見ると、日本という国の課題も、希望も、見えてくるように思うのである。

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    「処罰から治療へ」 日本ダルクの近藤恒夫代表インタビュー

     日本ダルクは薬物依存からの回復に取り組んでいる民間団体で、1985年に近藤恒夫代表が西日暮里に開設した東京ダルクから発展したものだ。近藤さんは94年にそこを別のスタッフに任せて沖縄に渡り、沖縄ダルクを開設。97年には高知ダルクを開設して、98年に再び上京して、日本ダルクを開設した。 ダルクはスタッフが独立する形で各地に設立され、現在は全国で約60カ所に及ぶ。総本山というべき日本ダルクは、クリニックや弁護士事務所まで併設し、近藤さんがその代表を務めている。各地のダルクは、それぞれの代表に任せており、法人ではあるが独立採算制になっている。  「僕はピラミッド型組織が嫌いだから。ダルクは誰がやってもいいんです。たぶん、それがダルクが各地に広がった理由じゃないですか」(近藤代表)日本ダルクの近藤恒夫代表 薬物依存となってダルクに入寮する場合は毎月16万円を負担する。薬物の誘惑を断ち切るために、一人暮らしをやめ、ダルクで共同生活を送りながら回復のプログラムに参加する。16万円のうち6万円がダルクから生活費として本人に支給される。子どもが薬物依存となった場合は、入寮費は親が負担することが多いが、成人の場合は生活保護受給者も少なくない。16万円という金額は生活保護受給額を基準に決められているという。 ダルクの特徴は、近藤さんを始め、スタッフが基本的に元薬物依存者であることだ。患者がスタッフとしてフォローする側にまわる。つまり互助的な組織だ。 「実際に経験した者がアドバイスしてくれるから説得力も増すし、患者が回復すればスタッフに回ることで雇用が生まれる。それがよいことですね」(同) 芸能人などが薬物所持や使用で逮捕されると、テレビでコメンテイターが「刑務所に送って厳罰に処すべきです」とコメントする。しかし、これは、日本社会が薬物依存に対する理解が足りないことの現われだ。薬物依存はある種の病気だから、治療をせずに2~3年刑務所に閉じ込めておくだけでは、出所後、再犯に至るという悪循環を断ち切るのが難しい。  「刑務所に入っても悪化させるだけです。薬物依存は基本的に社会内処遇、つまり社会で治療を受けて治さないといけないのです。でもそのことへの理解が足りず、昔は裁判で治療の必要性を主張すると、裁判官が『ここは治療でなく裁く場なのだ』と言うこともありました。さすがに今はそういう裁判官はいませんが……」(同)薬物依存者は排除するだけではダメ アメリカなどではドラッグコートという仕組みがあって、法廷で薬物依存者に、処罰か治療かを迫り、処罰されるのが嫌なら治療に専念することを迫る。日本でもそれに対する研究は進んでいるが、そこへ至るのにはまだ段階があり、もう少し違った仕組みが考えられているという。「刑罰から治療へという考え方をダイバージョンと言うのですが、ドラッグコートとなると法律も変えないといけないので、今考えられているのは、検察が起訴するかどうか決める時に、治療に専念するなら起訴猶予にするという考え方を取り入れることです。これだったら現状でもできる。服役したり罰金を払うのが嫌なら治療して回復させるという考え方です」(同) 現状では薬物事件で逮捕された場合、初犯ならほぼ執行猶予がつくのだが、近藤代表に言わせると、何のフォローもなしに執行猶予をつける今のやり方では再犯に至るだけだという。ダイバージョンの考え方をもっと取り入れて行かないと薬物依存は防げないという。  「薬物依存者は排除するだけではだめなんです。排除されればまた薬物をやる。例えば職場や学校で薬物をやっているのを見つけた場合、日本ではまだすぐに解雇したり退学にしたりするでしょう。退学させるなら治療してからすればいいじゃないですか。うつ病になった人がいる場合は、その人をすぐに解雇したりしないでしょう。薬物だって基本的にはそれと同じなんです」(同) 回復への治療を受ける過程で、また薬物に手を出してしまう患者もいるが、ダルクはだからといって失敗だったと全否定はしない。薬物依存は「薬物は二度とやりません」と誓うのでなく、がんなどと同じように共存しながら使用しない期間を延ばしていくことで克服するという考え方だ。 ダルクの30年の歩みは、日本における薬物依存への取り組みの歴史でもある。今少しずつ司法において「処罰から治療へ」という考え方が浸透しつつあるのも、ダルクなどの働きかけがあったからだといえよう。 「正直言って、ダルクが30年ももつとは思いませんでしたがね」 近藤さんはそう言って笑った。  薬物事件の悲惨なところは、出所後、本人も「今度こそ立ち直る」と誓い、周囲も大変な思いをして応援していくのに、それを裏切ってまた逮捕されてしまうといったことの繰り返しであることだ。家族などが懸命になって更生に関わるのに、その努力が再逮捕で水の泡になるという深刻なことが何度も繰り返されるのだ。自分も周囲も崩壊することがわかっていながらなぜ再び薬物に手を出すのか、と誰もが思うのだが、そこが他の犯罪と違う、病気でもあるゆえんだ。 日本でも最近は処罰から治療へという考え方が、次第に浸透しつつある。日本における薬物依存との闘いは、まさに30年かかってようやく変わり始めたのだが、それはダルクの取り組みを抜きにはありえなかったろう。(月刊「創」2015年11月号掲載)

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    総力特集! 田原総一朗とは何者か

    テレビ朝日の名物討論番組『朝まで生テレビ!』で司会を務める田原総一朗といえば、80歳を超えた今も歯に衣着せぬ発言で番組を仕切り、圧倒的な存在感をみせる。「政治をテレビ化した」ともいわれる彼はいったい何者なのか。iRONNA編集部が総力特集で「田原総一朗」の人物像に迫る。

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    あのワクワク感をもう一度 「朝生」はリベラルと漂流し自壊した

    3年。防衛庁長官官房(現防衛省大臣官房)で防衛庁広報誌の編集長を務めていた。「自衛隊の顔」と呼ばれ、メディアに今より露出していた制服幹部(私)が最盛期の朝生で国連PKO派遣に積極発言した。発言内容は内外から評価されたが、出演したこと自体が部内で問題視された。かくて内示もなく解職され……等々、朝生との関わりは四半世紀近くにわたり、密度も濃い。失ったものも大きいが、得たものも少なくない。 いずれにせよ「多数出演した」当事者なので、これ以上の論評は避けたい。ただ一部「保守」の朝生批判には異論を表明しておこう。とくに電波停止に言及する批判には、はっきり異を唱える。アエラに言わせれば「保守優勢」の番組、それすら標的にするのは、おかしい。さらに言えば「リベラルの自壊」を喜ぶ「保守」は卑しい。そんな暇があるなら、自ら「タブーなき討論」に挑戦すべきであろう。 自由と「開かれた社会」を守り「その敵」と闘う。そこに保守の正統はある。ところが、今やどうだ。保守自ら「閉ざされた言語空間」を形成している。その狭い空間で互いを罵り合う。路上やネット空間で汚いコトバを吐き散らす。そんな連中を、多くの人が「保守」と呼ぶ。リベラルだけではない、保守こそ漂流し自壊した。私はそう思う。 来年、朝生は30周年を迎える。司会の田原は「『30年でひと区切り』と公言する」(アエラ)。なら、その後どうなるのか。地上波から名実とも「激論」が消えるのか。そうなら寂しい。私も覚えている、80年末から90年代前半のワクワク感を。 もし、朝生関係者に〝あの頃〟を取り戻す気概がないのなら、このiRONNAが「開かれた言語空間」になればよい。ここから「タブーなき激論」に挑戦してほしい。もし「いろんな」と名乗りながら特定の主張だけを掲載するなら、看板倒れではないか。そこに希望や展望はない。私は失望する。「自由と民主主義のために闘う正論路線」を掲げるフジサンケイグループこそ、勇猛果敢に挑戦すべきであろう。勇気をもって闘う、自由と民主主義の礎となる「開かれた言語空間」のために。本来の「正論」はそこから生まれる。 べつに堅苦しい話ではない。「闘う正論路線」はきっと、人をワクワクさせる。あの頃の朝生のように。あの頃を知る私たちは、こうも知っている。「楽しくなければテレビじゃない」(フジテレビジョン)(文中敬称略)

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    「反骨」の男、田原総一朗はテレビ界の妖刀だ

    中宮崇(サヨクウオッチャー) 田原総一朗=サヨク・反日という思い込みは、世間では未だ根強いようだ。たしかに彼のこれまでの言動を見てみれば、そういう勘違いも頷ける。 実際田原は、多くの自民党総理総裁のタマを取ってきた実績もある。1993年のテレビ朝日「サンデープロジェクト」において、政治改革への意気込みについて当時の宮沢喜一首相を「今の国会でやるのか」と厳しく問い詰め、宮沢から「政治改革は絶対やる。私は嘘はつかない」との言質を取り、結果として政権崩壊に追い込んだことなどはその代表例と言える。 しかし彼を単純に反日サヨクとみなすのは誤りである。例えば、サヨク連中から「ウルトラ右翼」とみなされている石原慎太郎を「文学者として尊敬する人物」と褒めそやしたことにより、それまで交流のあったサヨク文化人達から絶縁されたという話もあるのが田原という男だ。 「朝まで生テレビ」においても、2009年4月の放送で「極東国際軍事裁判は正しくない。戦勝国が戦敗国を裁くんだからこんなものは集団リンチ。ソ連は日ソ中立条約を破ってきた。あんなものは明らかに戦犯」などという、サヨク連中にとっては到底受け入れがたい認識を披露している。 この発言は別にその場限りの突発的な失言ではない。彼の意外な非サヨク的思想はその著書を読めば一目瞭然である。例えば、小泉訪朝により北朝鮮による拉致の事実が判明し、社民党をはじめとするサヨクによる「拉致は日米による捏造」との大嘘が判明する2年前の2000年に、田原は『日本の戦争』(小学館)という本を出版している。その中で彼は、サヨクが「軍部による暴走により国民が巻き込まれた」とみなす太平洋戦争について、「あの戦争が始まった原因は、軍部の暴走ではなく、世論迎合だった」と主張している。現在と違いサヨクの暴走がとどまるところを知らず「拉致は捏造」などという大嘘を平気でホームページに掲げることがまかり通っていたサヨク天国の時代のことである。これは極めて政治的に危険な姿勢である。サヨク連中からの様々な圧力もあったに違いない。サヨクの醜さを暴く最も辛辣な手法 ここから見えるのは、彼を表すには「反日」などではなく「反骨」という言葉こそふさわしいのではないかということだ。2010年に野中広務元官房長官が、内閣官房報償費(内閣機密費)をジャーナリストや評論家に一人当たり数百万単位の金を定期的にばらまいていたと証言したことがある。その際にも野中は、田原だけがその金を突き返してきたと述べており、これも田原の反骨精神の証左といえるかも知れない。 そんな反骨精神が最も発揮されるのが、原則的にライブで放映される朝まで生テレビであろう。自民党議員や保守系知識人へのツッコミが激しいことで知られる田原であるが、その矛先はサヨクに対しても容赦ない。2011年2月の放送では、日韓併合の不当性をまくし立てる日本共産党の笠井亮衆院議員に対し「この人は人間じゃない」との暴言を吐き、後日しんぶん赤旗から猛攻撃を受けている。 しかし録画番組や雑誌記事と異なり生放送という特性を大いに活かした田原は、笠井がギャーギャーとわめきたて他のパネリストの議論や発言を圧殺する醜い姿を全国のお茶の間に見せつけることにより、共産党やサヨク勢力の非民主的で暴力的な本性を知らしめることに成功した。 サヨクの醜さを暴く田原の手法が最も辛辣な形で観察できるのが、元東大教授で在日朝鮮人の姜尚中が出演する回においてである。一般に田原は、パネリストの都合の悪い発言を「はい!CM!」などと強引に遮りぶった切るということで定評がある。しかしなぜか、姜尚中の発言中にそのような「妨害」がなされることは極めてまれである。姜が北朝鮮の将軍様をいくら必死で擁護しようが、口汚く反日演説を垂れ流そうが、いつまでも長々と喋らせ続けるのが常である。 このような田原の姿勢は世間では「親北朝鮮」とか「ダブルスタンダード」などと批判されることが多い。しかし私はそうは思わない。なぜなら、姜のような無思慮な人物は滔々とさえずらせておけば、勝手にいくらでも失言を自ら吐いてくれるからだ。田原が強制的に実力行使せねば失言を引き出せぬ宮沢喜一等のような知性ある相手の場合と対応が異なってくるのは当然であり、それこそが田原の真骨頂と言える。 姜尚中といえば、「よく“北朝鮮が拉致をしたかもしれない”という報道があるけれど、“なぜ?何の目的で?”と、僕が聞きたいですね」など言い立てて拉致を否定してきたサヨクの首魁である。著書の中でも「ミサイルや『拉致疑惑』で正常化交渉は遅々として進まない」(『東北アジア共同の家をめざして』平凡社)等、拉致はあくまでもただの疑惑で、しかも日朝関係の「障壁」とまで呼び、北の将軍様のために拉致被害者を傷つけ貶めることに邁進してきた。06年11月25日の世界海外韓人貿易協会での講演では、「北朝鮮核問題や拉致問題を取り上げて北朝鮮を批判する日本の世論を変えねばならない。在日同胞たちが過去に日本に連れて来られたことに対しては何も言わず、冷戦時代の拉致ばかり話すというのは矛盾したことだ。私は横に横田夫妻がいても、これを言うことができる」と、「この人は人間じゃない」と言われても仕方がない発言を行ったと伝えられている。 しかし、姜のそうした異常性や非人間性が槍玉に挙げられることは殆ど無い。文字媒体や録画番組なら、第三者がマイルドに「編集」してその非人間性を覆い隠すことが可能であるからだ。しかし朝まで生テレビではそうは行かない。小泉訪朝により、姜が将軍様のために「拉致は疑惑に過ぎない」とプロパガンダに励んできたことが無駄になってしまった直後の03年1月の放送では、田原に突っ込まれて不用意に「五人の家族を(いったん北朝鮮に)帰す。どんな形でもよい。返す」と口走り、反省という言葉を知らぬサヨクや反日在日朝鮮人の邪悪さが白日のもとに晒された。 北朝鮮が核実験を強行し核による脅しを繰り返していた中、08年1月の朝まで生テレビにおいて姜尚中のお笑い発言を引き出した田原の功績は特に大きい。番組中姜は「三八度線の南側に、韓国に在韓米軍が今後長きにわたっていても、北朝鮮はそれに反対しない可能性がある」とそのご高説を披露したのであるが、なんとその翌日にこんなニュースが全世界を駆け巡った。「北朝鮮、在韓米軍の撤収を要求」 最早笑いを通り越して、敬愛する将軍様に裏切られてしまう姜のピエロぶりに涙さえ誘われる。 田原のツッコミにより姜が間抜けな「予想」を開陳し笑いものになるという現象は他にも多く、例えば06年9月29日放送の朝まで生テレビ「激論!安倍政権と日本の命運」では姜は「北朝鮮には、強硬姿勢を示すカードは無い」と断言したもの、その直後の10月9日は、北による初の核実験という暴挙が強行され、その「予想」能力の稚拙さ、あるいは息を吐くように嘘をついてまで北の将軍様に忠誠を尽くす在日朝鮮人学者の邪悪さが明らかとなった。 田原は切れ味の鋭い凶器である。なまくら刀ばかりがはびこるテレビ業界において、他に替え難い妖刀である。今後もバッサバッサと辻斬りに励んで頂きたいものだ。

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    来月末も、もう一杯。「朝生」は定期的に食べたいカツ丼だ

    いうのが朝ナマの最大の魅力の一つでもあり、また同時に欠陥でもある。それは繰り返すように、テレビは映像メディアであるがゆえに「本質的な部分」が蔑ろにされかねない、ということだ。 だから朝ナマを画像なしの音声だけで聞くと、何をか言わんや明鏡止水、パネリスト達の本心と本質、あるいは前述した支離滅裂な部分が途端に浮かび上がってきて興味深い。私は個人的にはテレビメディアよりもラジオメディアの方が好きだが、それはサウンドオンリーのメディアは、その話者の本質を隠すことが出来ないからだ。 田原氏が言うように、声の大きさや身振りで、朝ナマの討論の主軸は時として明後日の方向に飛んで行く時がある。これは音声だけを聞けばより明瞭になる。田原氏は司会者としてうまくコントロールしているが、完全には制御できていない。一度ラジオ専門の朝ナマも聴いてい見たいと思うところではある。”テレビディレクターを努め、活字の原稿を書いて、私はテレビの強さと弱さ、そして活字の強さと弱さが分かるようになった。たとえば、戦後ドイツは東西に分断されていた。そして冷戦が終わり、結局西ドイツに東ドイツが統合される形になるのだが、東ドイツの人間たちが、自分たちの時代遅れ、そして貧しさを強く感じたのはテレビのせいだった。(中略)たとえば『朝まで生テレビ!』の出演者たちの討論でも、言葉は表現のワン・オブ・ゼムであった。表情、目、そして声の高さ、強さ、大きさ、さらには身振り、手振りなど、テレビの表現手段は多様である。それに対して活字メディアでは、文字だけが表現手段であるが、それゆえにテレビとは比較に成らない緻密な理論の枝葉によって思考を深めることができる。また、テレビは具体的な映像が逆に邪魔になって、さまざまな出来事、事件などの抽象化という作業をやりにくい。この点でも文字だけのメディアの方が優れている。”(『田原総一朗 元祖テレビディレクター、炎上の歴史』別冊文藝春秋、2014年、P228) このように田原氏は、テレビメディアの利点と欠点を上げ、場合によっては活字メディアに軍配を上げている。「朝ナマは至高ではない」という自明を、きちんと踏まえている「素直さ」が田原総一朗氏の傑物たる由縁であろう。「朝ナマ」はカツ丼である 私はそういった意味で、『朝ナマ』という番組は田原総一朗氏が創ったカツ丼である、と思っている。どういう意味かといえば、地の文で説明すると冗長になるので、『カツ丼』と『童貞』をなぞらえた以下の漫画(『西武新宿線戦線異常なし』押井守原作、大野安之画、角川書店)の「とっつあん」なる人物の台詞を引用して代弁としたい。”「セイガクよ、初めての女ってのはな、ガキの頃に食ったカツ丼みてえなもんなんだ」「だからよ、そンときは、ああ旨い、この世にこんな旨いモンがあるのか! 生きててヨカッタ!…と思ったとしてもよ、手前の金で自由に食えるようになってみると、何故あれほど感動したのかわからねえ…不味くはねえがそれほどのモンじゃねえ。お前ェ不思議だとは思わねえか?」”(『西武新宿線戦線異常なし』) インターネットの動画には、『朝ナマ』を模倣したかのような各種のイデオロギーに偏向した「討論番組」が氾濫し、高校生レベルの粗悪な知識しか持ち得ないユーチューバーなるものが森羅万象の全てを3分とか5分でまとめようとする馬鹿げた動画が人気を博したり、それらしき社会派のブログやツイッター有名人がもてはやされたりする一方で、出版業界が空前の不況だというが、出版点数自体は全盛時代よりも激増している。 「タブーを斬る」だとか「解放区」だとかいう姿勢そのものは、『朝ナマ』出発当初よりも格段に「聖域」の幅が狭まった。そういう意味では、相対的に『朝ナマ』の影響力は低下している。 こんなことテレビで言ってしまってよいの?という不安と興奮が雑居した感覚は、最早あまりない。それは朝ナマよりも遥かに過激な言説がネットや雑誌(或いはムック)にあふれているからで、そういう意味で「初めて食ったカツ丼」(前掲)に『朝ナマ』は似ている。いざ自分の金でカツ丼が食えるようになると、「初めて食ったカツ丼」の感激は薄れ、焼き肉とか高い寿司とか小料理屋のもつ煮込みとか、そっちの方が美味いと思い、感激は薄れていく。 しかし、人間とは不思議なもので、原初的に出会った感激は、一旦は遠ざかるが、やがて一巡して戻っていくものだ。つまり、「ガキの頃に食ったカツ丼」が30歳や40歳のおとなになって、もう一度「やっぱり最高にうまい」と思う瞬間が訪れる、ということだ。何故だろう。多分それは、『朝ナマ』の歴史の蓄積だろう。インターネットの空間がどんなに『朝ナマ』の上を行く過激と解放度合いを謳っても、それは刹那である。齢30年の年季が入った親父の職人芸に戻っていくというのが、我々の本質というか母体回帰である。 そういう意味で、『朝ナマ』は、「毎日ではないけれども定期的に食べたいカツ丼」というのが適当だろう。来月末も、もう一杯。

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    好奇心と公平さ、そして流れを作る嗅覚 田原総一朗に後継者はいない

    テイナーとしての自信と実績故であろう。 田原氏の政治的立場も、日本政治の在り方を象徴している。日本のメディアが全般に左派的であった時代にはその真ん中にいたし、冷戦が終結し、東アジアの秩序が変化するにしたがって現実路線へと変化した部分はあっただろうと思う。その姿勢をして、時代の要請に応えたと見ることもできるであろうし、その変化を主導したと見ることもできるだろう。変化を嫌う層からも、左派からも、右派からも叩かれてきた。あそこまで左右両極から叩かれるのはホンモノだからだ。田原氏とは比ぶべくもないが、同じく左右から叩かれる私には、とても励みになる存在だ。 人間としての氏の魅力は、あふれ出るような好奇心に支えられていると感じる。年齢と精神のあり様を結びつけて論じることは、何らかのステレオタイプを前提としており、適切な考え方ではないかもしれない。が、とにかくお若い。好奇心を持ち続ける精神は老いないのだろう。 そして、おそろしくフェアだ。私自身、日本社会にあってこのような感覚はあまり体験したことがなく、戸惑うほどだ。議論するときは「田原さん」であり、「三浦さん」としてやっている。女性にも、若者にも、右翼にも、左翼にも、偏見がない。手加減もない。新しいと思えば取り上げるし、面白いと思えば鋭く突っ込んでくる。一瞬も気が抜けないし、とても、鍛えられる。第一線で名前を張ることの厳しさを体現している方だ。私の知る、次世代を担うであろう論客達からも深い尊敬を勝ち得ているのもそれ故であろう。 御歳81歳ということで、「後継者」について語られることもあるが、私は、それは存在しなくていいと思っている。世の中には、類型化できない才能や存在というものがある。そうした存在に対しては、後継を求めてはいけないのではないかと。それぞれ毀誉褒貶はあるかもしれないことを承知の上で敢えて申し上げるが、石原慎太郎にも、ウォーレン・バフェットにも、ルパート・マードックにも後継者はいない。田原氏もそのような存在だ。これからも田原氏と議論できる機会を楽しみにしている。

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    「朝生」のやらせ問題で一番ひどいのはテレビ局

     1日に放送されたテレビ朝日系「朝まで生テレビ!」に観覧者として出演していた大森昭彦大田区議会議員は、自民党所属であることを隠し、敢えて「建設板金業」の肩書きでもって、自民党安倍政権を持ち上げる発言をしました。 立場を明らかにしないのは、あからさまなやらせ発言としてネット上でも批判の声が多く上がっています。 驚いたことに、当のご本人は、全く無反省です。「「朝生」で肩書伏せて観覧し意見述べた大田区議「言う必要はない」」(スポーツ報知2016年1月2日)「自分は、工場の経営者として観覧したので、言う必要はないと考えていました」と答えた。「出演は問題ないと考えているか?」との問いには「はい」と断言した。」「大森氏は「下心を持って番組に参加はしておらず、国の政策が地方にどう関わっていくのかを知りたかった」。今後も、声が掛かれば観覧をしたいと考えているという。」 ここまで問題状況がわかっていないとはすごいと思います。 大森氏の発想は、自分は自営業者である、自営業者として経済政策について意見を述べた、その内容についての嘘偽りはない、政権を持ち上げるという意図もなければ自分が感じたことを述べたのだから問題ない、ということなのでしょう。 しかし、どの立場で発言するのかは極めて重要な場合があります。かつて問題になった原発問題に関して、九州電力が関連会社の社員らにやらせメールを送らせていたことが暴露されたのが2011年でした。 経産省が主催した「佐賀県民向け説明会」が生放送される中で、九州電力が関係会社の社員らに玄海原子力発電所2、3号機の再稼働を求めるメールを送らせていたというのですから、非常に悪質でした。 県民の意向が歪んだ形で表れるからです。 大森氏のやったことは、これと同じレベルです。 立場を隠すということは、見ている側、聞いている側にとっては、その人はあたかも「中立」という立場から判定しているように見えてしまうし、その誤解(錯覚)があることを知りながら敢えてその手段(肩書き)を選択しているのです。 従って、この大森氏のやったことは大問題であり、品格が問われるというべきものです。 もっともこの大森氏は、「アベノミクス」についての効果については否定する発言をしていました。「『朝まで生テレビ』に自民党区議が一般人装い出演! でも“自民党のサクラ”もアベノミクス効果は完全否定(笑)」(リテラ2016年1月3日)「上がっているという印象はないです。私だけではなくて、同業の人たちに聞いても、上がっているという印象はないかなと思います。やはりコストがかかったりしているところが波があるので、平均に慣らすと、やはり利益が上がっているという印象はちょっとないんじゃないか」「私の場合は街場の業者なんですよ。ゼネコンの方達と取引している業者とまあちょっと違うので、構造的にちょっと違いがあるので」「われわれの業界だけでいうと、(アベノミクスは)あまり効果的には伝わってないって印象ですよね」「直接アベノミクスというところでは、あまり感じてないんです、われわれは」 その意味では大森氏にとっては、正直な回答なのであり、持ち上げたという感覚ない、内容に問題はないということにつながるのですが、しかし、やはり自民党政権か民主党政権かという政権評価、そして自民党に軍配を上げた発言だからこそ問題なのです。 政権評価には、この「アベノミクス」の効果が関連して来ないのあれば、安倍政権の政策によって「民主党政権の時よりは、よくなったかなと、そういう印象はあります」ということには飛躍が出てきますし、立場を知れば誰もが持ち上げているという評価をするわけです。 そして、本当にそれが政権の違いによる効果であるならば、「だからオレは自民党なんだ」と言えばよいことです。 従って、大森氏が行ったことを正当化できる余地はありません。 とはいえ、観覧者にこのような自民党現職区議であることを知りつつ、その肩書きを隠して出演させていた局側が一番、ひどいと言えます。「今回もディレクターから依頼を受けて知人と観覧。ディレクターは、大森氏が区議であることを知っていたという。」(前掲スポーツ報知) 私も先日、この弁護士会主催のパレードに参加しました。「12・6 安保法制 秘密保護法 廃止! 参加してきました」 この会場で私は朝日新聞の記者にインタビューを受けたのですが、最初に自分は弁護士であり、この会の主催者側なので不的確であることを伝えました。もちろん、その後のインタビューはありません。そうあるべきものだと思います。単なる一参加者としてインタビューを受けるべきではないからです。 その登場させる人物の立場をわかりながら、それを敢えて秘匿し、それを1つの「声」として伝えることは、内容がどうあれ公正性に疑問符がつくのは当然です。 その意味では大森氏も同罪です。 今回の問題で、テレビ朝日、自民党はどのように対処するのかが問われます。曖昧にしてはいけません。(弁護士 猪野 亨のブログ 2016年1月3日分を掲載)

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    田原氏の「ジャーナリストの使命」という考え方は前時代の残滓だ

    木走正水 さて少しメディア論をさせてください。このSNSが普及した時代。情報発信はメディア・ジャーナリストの独占物ではなくなりつつあります。 考えてみれば一般大衆に情報発信するジャーナリストなど、教員や医師のように免許がいるわけでもなく、何の資格も必要としない職業なのであり、本来社会の誰でも情報発信可能なものである性質だったのが、新聞・ラジオ・TVと既存のマスメディアは、放送電波の免許や独禁法例外の新聞再販制度などで、幾重にも法により守られた選ばれた「特権階級」として情報発信を独占してきただけです。 旧来のメディアは限られた情報発信手段を独占し、新聞は「大衆」に情報を一方的に発行、TV・ラジオは「大衆」に情報を一方的に放送、情報は「特権階級」であるメディア・ジャーナリストから一般大衆に一方通行に発信されるものでありました。 彼らが情報発信の特別の能力を有しているわけでもなく単に法により守られた存在であり、自由競争ではなく独占的に発信手段を有しているだけの存在であったために、自分たちの利権を守るために日本では100以上の記者クラブが現存し、今現在も情報源の独占を何とか守ろうとあがいているのは、むしろ滑稽ですらあります。 記者クラブ制度などマスメディアが「特権階級」であったころの残滓にすぎません。 ネットの普及により情報の流れは革命的な変化をいたしました。WEB2.0の技術革新は、ネット上の情報発信を完全にインタラクティブな双方向性、すなわちネット参加者のすべての人に情報発信能力を与えたのです。 ネットメディアでは、情報発信者が起こした記事は、コメント欄、ツイッター、ブックマーク、トラックバック、あらゆる手段で読者の意見がぶつけられていきます。 アマゾンの商品レビューしかり、ネットメディアの記事ページしかり、ネット情報は完全に双方向性を有しており、リアルタイムに会話的に情報のキャッチボールが可能となった初めての媒体、それがネットなのです。 ネットでは情報発信はマスメディアの独占物ではなくなった、唯一の情報発信者としての「特権階級」だったマスメディア・ジャーナリストのその独占的「利権」が、インターネットにより今崩れ去ろうとしているわけです。 新聞などのマスメディアやジャーナリストがインターネットおよびそのユーザーに徹頭徹尾批判的であるのは、フランス革命時の貴族階級の大衆に対する反応とほぼ同値なのであり、自分たちが能力的に優れているから独占的に情報発信していたわけではなく単に法律に守られていただけの「裸の大様」であったことを今、マスメディアは痛感しています。 彼ら既存のマスメディアやジャーナリストはネットのメディアとしての特性を真に理解できていません。 放送や新聞発行といった一方通行の情報伝達手段にすっかり慣れているために、ネットでは情報が双方向で飛び交うことに戸惑ってばかりいます、ときにネットの匿名性や情報精度の玉石混淆なことを批判的に取り上げることはあっても、媒体としてのネットの優れた特性を正しく理解はできていません。メディアをリテラシーするということ 過日、「ヤフー知恵袋」が大学入試のカンニングに利用され大きな騒動となりましたが、大新聞はこぞって社説でネット批判を展開いたしました、「だからネットは信用できない」、「ネットユーザーのモラルの低下」うんぬん、勇ましく社説で語られていましたが、「ヤフー知恵袋」の事件が示していたのは、だからネットはだめなんだということではまったくなく、実は本質は真逆であり、ネットが情報発信の双方向性を持つ優れた媒体であるからこそ「ヤフー知恵袋」のようなリアルタイムサービスが実現しているのであり、優れた媒体であるからこそカンニングに悪用されたのであります。 誰かが疑問に思うことを発信し、その情報の不特定多数の受信者が「解決策」を提案する、リアルタイムなこのようなサービスは、既存の放送や新聞では逆立ちしても真似はできないのですが、新聞の社説ではそのようなネットのメディアとしての特性に対する言及は皆無であり、ただ表層的なネットおよびユーザー批判にとどまっていました。・・・ 最近メディアリテラシー教育の重要さが再認識されつつあります。私は、ネットの活用により誰もが情報発信者になりうる新たなるこの時代、氾濫する情報から有用な情報を選択し、かつ情報の真贋を見分けるのは、受け手側の情報リテラシー能力を高める以外に有効策は無いと考えています。 選ばれた「特権階級」であるマスメディアが情報発信を独占していた時代に戻ることはもはや不可能でしょう。朝日の従軍慰安婦に関する捏造報道はネット上では、ほぼ完全にトレース・検証されています。 ただ、マスメディアが報道しない情報でもネットでは得ることができますが、ネットを普段利用しない「情報弱者」には届かないという新たな問題も発生しています。 メディアをリテラシーするということは、多くの情報ソースを確保し、偏向する情報を我々自らが整理・理解する能力が問われます、ここで言う偏向する情報とは、TV・新聞・ラジオのマスメディアがある種の報道を沈黙することも含まれれば、ネットで氾濫する情報のその正誤を交通整理することも含まれます。 マスメディアの情報の中立性を疑うことはもちろん、ネットに溢れている情報の中立性もしっかり疑う必要があります。しかしここでいままでの既存メディアとちがい、新しい媒体としてネットの特性は、メディアリテラシーを重視するならば有効でありましょう。 既存メディアの情報の流れはメディアから視聴者・読者への一方通行であるのに対し、情報の流通の双方向性を有するネットでは、もし質の悪い情報であるならばすぐに読者から反論や疑問のコメントや意見が付くからです。 一方向に偏る議論ではなく多元的な議論を起こし、物事を複眼的に考察する、そのような視野の広い冷静な論考を可能にするのは、媒体としてはネットのほうがはるかに利便性があるといえましょう。 私たちは新聞・TVなどの既存メディアは一方的に情報を垂れ流すだけのメディアであることに気づいてしまいました。 マスメディアからの情報は受信するのみ許され、私たちが反論を発信する手段はありませんでした。 一方、ネットでは私たち自身が情報発信が可能である、参加者になれます。この決定的な媒体としての特性の違いをマスメディアや既存ジャーナリストは理解していません。彼らはもはや情報発信を独占する「特権階級」ではないのです。将来の「ジャーナリストの使命」は変質を余儀なくされる 情報発信がメディアやジャーナリストなどの「特権階級」の独占物であった昔は、その限られた情報が偏向していると社会に対して多大な悪影響を及ぼしたのは朝日新聞慰安婦ねつ造報道が好事例であります。 今、情報発信は世界中、限られたジャーナリストという「点」の発信からネットを通じて多くの不特定多数者による「面」の発信という、劇的変化が起こりつつあります。 この劇的な変化をマスメディアや既存ジャーナリストは理解していません。 BLOGOSにて既存ジャーナリストの代表格といってもよろしいでしょう、田原総一朗氏が「ジャーナリストの使命と「自己責任論」の先にある危険な風潮」と題したエントリーをしています。田原総一朗 2015年02月09日 13:06ISILによる日本人人質事件で考えた、ジャーナリストの使命と「自己責任論」の先にある危険な風潮http://blogos.com/article/105237/ 失礼してエントリーより抜粋。 「正解」の対応は、正直、僕にもわからない。ただ、ひとつ、何度でも言いたいことがある。人質となった後藤健二さんに対して、「危険な国に勝手に行ったのだから、自己責任だ」という意見がある。確かに自分の意思で行くのだから、自分の責任だろう。だが、ジャーナリストというのは、危険なところであっても行くものだ。現地に行かなければわからないことが、たくさんあるからだ。 今回の現場はシリアだった。紛争地域である。だが、たとえ国内であっても災害や事故が起こった危険な現場へジャーナリストは行くのだ。僕も、そうした場数はたくさん踏んできた。 そしてジャーナリストが、こうして危険と隣り合わせで取材した情報によって、視聴者や読者は真実を知る。みんなが、現実について考えるためのきっかけや材料を提示するのだ。僕たちは、こうやって民主主義の根幹を支えていると思っているのである。後藤健二さんを殺害したとする動画がインターネット上に投稿されたニュースを報じる大阪・ミナミの街頭ビジョン=2015年2月1日、大阪市中央区(沢野貴信撮影) 「ジャーナリストが、こうして危険と隣り合わせで取材した情報によって、視聴者や読者は真実を知る」とは、いかにも古い考え方であります、ジャーナリストだけが「情報発信」を独占していた古き良き時代の「残滓(ざんし)」ともいえましょう。 国内では3.11のときも御嶽山噴火のときも、ジャーナリストが現地入りする前に、すでに大量の情報がネットを通じて発信されていました。 それらの情報の中には、田原氏が主張する「だが、ジャーナリストというのは、危険なところであっても行くものだ。現地に行かなければわからないことが、たくさんあるからだ。」との貴重な情報、まさに、現地在住者だからこその視点のたくさんの貴重な情報が一般住民から発信されていました。 御嶽山噴火ではほぼ一般市民の情報発信だけでメディア報道は構成され最後まで現地にジャーナリストは不在でしたが私たちはなに不自由なく情報に触れることができました。 今回のISIL関連の情報にしても世界で起こっている事件に関しても、別に日本人ジャーナリストが現地にいなくても私たちはネットを通じてしっかりと情報収集が可能です。 ジャーナリストが一次情報発信を独占していた時代は終焉を迎えつつあります。これはネットの発達により世界中で情報発信者が「面」的に爆発的に膨らみつつある不可逆的な流れであります。この流れにあがなうことは不可能です。 田原氏のいう、危険な場所でもジャーナリストが情報発信をする「使命」ですが、そのような使命がかつてあったことは敬意をこめて認めるものの、現時点そして将来その「ジャーナリストの使命」なるものは、変質を余儀なくされることでしょう。 現地からの情報発信者がジャーナリストである必然性が失われつつあるからです。その意味で、「ジャーナリストの使命」という考え方そのものが、前時代の残滓(ざんし)なのだと感じています。(ブログ「木走日記」より2015年2月10日分を掲載)

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    「極端に言うと嫌いな人がいないんです」田原総一朗、原動力は好奇心

     現在77歳。テレビ・ラジオ出演、講演、公開講座、著作や連載の執筆と、田原総一朗さんの精力的な活動は衰えることを知らない。好奇心旺盛で何でもおもしろがる性格が、その原動力のようだ。「日本人男性の平均寿命が80歳と言われる今、70代はまだまだひよっこ」と自ら言い切る田原さんに、最近思う、「かけがえのないとき」を聞いた。 私の1日は、朝8時過ぎに起床し、トーストとちょっとした野菜サラダと紅茶程度の朝食を自分で作って食べながら、朝刊6紙に目を通すことから始まります。その後マンションの1階に下り、すぐさま6階まで歩いて階段を上るのを日課にしており、それが終わって一休みしたら、自宅から六本木のANAインターコンチネンタルホテルに移動。そこで1日7件から10件ぐらい、打ち合わせや取材などで人に会い、原稿は、その合間に書いたり、夜、自宅に帰って書いたり。地方に講演などで出かける以外、私の毎日は大体こんなパターンです。 そうした1日の中、ときどき1人になってじっくり考え事をする時間が必要になります。そんな時、私はトイレに入るんです。個室で便座のフタを下ろし、そこに20、30分じっと腰掛けていると、すごく落ち着けて、いいアイデアが浮かんだり、考えがまとまってくる。外国はトイレにフタがないことが多いでしょう。だから、海外へ行く際は、ちょうど便器の上に置けるぐらいのお盆を持っていくんです(笑)。トイレに座って考え事をするのは、それほど私にとって大事な時間なんですよ。インタビューに答える田原総一朗氏 私は今年で77歳。だから、やることなすこと全てがかけがえのない時間であり、かけがえのない行動だと思っています。ただ、これまでは70過ぎれば年寄りと思っていましたが、日本人男性の平均寿命が80歳、女性が86歳と聞いてからは、「70代はまだまだひよっこ。年をとって生きるというのは、80代、90代のことを言うのだ」と考えるようになりました。今は、80代をどう生きるか、90代をどう生きるかが、われわれ世代のテーマなんだと感じています。日本は、一応60歳が定年ですが、そんなのまだ若い。ひよっことも言えない年齢ですよ。相手が誰であれ必ず本音で話します よく「定年後に何をすればいいかわからない」という人がいますが、やることはいくらだってあるだろうと言いたい。年金が支払われて生活に困らないなら、ボランティア活動をすればいいじゃないですか。人が生きがいを感じられなくなる1番の理由は、世の中に期待されていない、人から頼りにされていないと感じるようになることなんです。ボランティアはまさに人から期待されていることを実感できるわけですから、自分が年を取らないためにもとても有効だと思います。 もう1つ、世の中の出来事に関心を持たなくなることも、早く年を取る要因じゃないでしょうか。定年までは仕事関係の付き合いがあるけれど、それがなくなると、たちまちどうやって人と付き合えばいいかわからなくなる。「それなら本を読んだり1人で楽しめる趣味を見つければいいじゃないか」という人もいますが、それではダメ。重要なのは、人と会って話すこと。それによって、自分に刺激を与えることだと思います。 私の唯一といっていい趣味は、人に会うこと。とにかく人と話すのが好きで、それが元気に仕事を続けられる原動力になっていると思っています。 人と話すときは、相手が誰であれ必ず本音で話します。建前の話はしない。政治家だろうと友人だろうと、初めて会う僕の著書やブログの読者だろうとそれは変わりません。中国で、ジャーナリストを集めてディスカッションをするときも、本音と本音をとことんぶつけ合う。途中でけんかになることもあるけれど、最後は理解し合って仲良くなれます。私が「中国は、経済は自由化されて競争しているのに、政治はいまだに共産党の1党独裁。そこに君たちは矛盾を感じないのか」といったことを平気で口にしても、「それでいいとは誰も思っていない」と言って、自分の考えを正直に話してくれますよ。 極端に言うと、私は嫌いな人がいないんです。批判はしても、嫌いなわけではない。「朝まで生テレビ」で、出演者と激論したり、相手を批判することがあるけれど、実は「ああ、こういう見方、考え方もあるのか」と面白がっているんです。要するに、おもしろがり人間なんですよ、私は。 以前ある女性誌で嫌いな文化人の3位になった時は、記念に取っておく分と人にあげる分を3、4冊まとめて買いました(笑)。おもしろいじゃないですか、そういうのって。 そうやって、何でもおもしろがるし好奇心も極めて旺盛なので、やりたいことは次から次へと出てきます。今は、雑誌やWEBの連載が月に10数本。ブログもあるし、30万人以上の人にフォローしてもらっているツイッターも続けている。テレビやラジオのレギュラーも月数本ありますが、これで満足ということがない。80歳になっても、90歳になっても、常に何か新しいことをやろうと考えていると思います。それが私の、「80歳を、90歳をどう生きるか」ということ。私の「かけがえのないとき」は、まだ当分続きそうです。

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    「テレビ局は公平を破る勇気を」 一部識者の煽動は浅薄なヒロイズムだ

    て視聴者に提供する様子が全く見られない。(中略)私は安全保障法案賛成と言っているわけではないが、マスメディアとは視聴者に公平な目で考えさせることが本来のあり方だと思う」「男性司会者が『メディアとして法案廃案を訴え続けるべきだ』と発言した。メディアがそんなことを言っていいのか」「『説明不足』などと報じているが、メディアが安保法案について詳しく説明したことがあったのか」…。 たしかに、安倍晋三首相を生出演させて説明させながら、キャスターと一部のゲストの「反安倍」ばかり印象づけた夕方の民放ニュースもあった。かつて、新設の消費税について政治家が説明するのを「聞く耳持たぬ」と芸能人らがまぜっ返した某局の演出も思い出す。この8月の「戦後70年安倍談話」にも「はじめから批判ありきの放送姿勢」を指摘する声がBPOに寄せられたという。 放送界の内外で相当多くの人が誤解している。NHKは政治的公平を厳守すべきだが民放局は偏向に構わず編集し主張してもよい、という通念だ。そんな区別はどこにも存在しない。「放送法」第4条には、守るべき義務が4項あるが、その第2項には「政治的に公平であること」と明示してあり、民放には厳格に適用されないなどとは書いてない。 放送事業者側も、約20年前、日本民間放送連盟(民放連)とNHKが共同で定めた「放送倫理基本綱領」に「多くの角度から論点を明らかにし、公正を保持」「事実を客観的かつ正確、公平に伝え」などの文言を明記した。浅薄なヒロイズムは論外 日本では、昭和26年以来、かなりの民放局が新聞社主導で誕生し育成された歴史的由来もあり、新聞の類推で民放のあり方を考える趣があるが、新聞には“新聞法”などはなく、開業から発行も「社論」の明示も一切、自由だ。放送は、有限の電波資源の割り当てを受けて開局を免許され放送法を適用される事業だ。 そこでまた放送人には誤解が生まれる。法を守って仕事したら萎縮して放送の活力が減ずる、と。放送人らしいセンスを欠き、個性的な工夫の楽しみを知らないことを告白した言だ。公平な両論併記でかえって放送は立体化し、厚みを増して盛り上がるのだ。一方のプロパガンダだけを取り次ぐのは最も安易、手抜きでしかない。 公平を破る勇気を持て、と一部識者が煽動(せんどう)するのは浅薄なヒロイズムと一笑に付せばよい。はねあがりからは情も理も生まれない。重心の低い、骨太な記者や制作陣が、確かな「自律の感覚」をもって生み出す放送こそ、国民の信頼を得、政治的教養を深めるためにも貢献できる。 日本の放送90年、民放65年。民放連の「報道指針」にも言う「節度と品位」を具(そな)えた電波へ。再出発する節目が訪れている。はが・やすし 昭和3年生まれ。北九州市出身。東京大学文学部国文科卒。東洋大学・法政大学助教授、東京工業大学教授(その間旧西独ルール大客員教授、NHK部外解説委員など)を経て現職。日本文化・日本語と現代政治を包括的に論究。NHK「視点論点」「ラジオ深夜便」に出演。「日本人らしさの構造」「売りことば買いことば」「言論と日本人」「日本人らしさの発見」ほか著書多数。

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    「恬として恥じず」朝日新聞は“再び”死んだ 

    員会でも見解が分かれ、報告書では「韓国の慰安婦問題批判を過激化させた」「吉田氏に関する『誤報』が韓国メディアに大きな影響を及ぼしたとは言えない」などの意見が併記されたと説明。国際社会に大きな影響があったとする杉山氏の発言には根拠が示されなかったと指摘した。 また、女子挺身隊と慰安婦を混同して報じた点について、朝日新聞社はおわびし、訂正しているが、20万人という数字について、「女子挺身隊と慰安婦の混同がもとになったとは報じておりません」と指摘した。慰安婦の人数については諸説あることを報じていることも伝えた。川村泰久外務報道官は文書を受け取った上で、「お申し入れの内容が詳細なので、精査させて頂きます」とコメントした〉“居直り強盗”という言葉が浮かんだ いかがだろうか。私は、品のない表現で大変申し訳ないが、“居直り強盗”という言葉を思い浮かべた。そして、こんな“子供の屁理屈”にも劣る言辞が通用すると「本気で思っているのだろうか」と考えた。少なくとも、自分たちが、根拠もなく慰安婦の強制連行を世界に広めたことに対して、反省のかけらもないことがわかる。 あらためて言うまでもないが、朝日新聞の報道の一例を示すと、1992年1月11日付朝刊1面トップで、朝日は、日本軍が慰安所の設置などに関与したことを示す資料が見つかった、と大々的に報じている。当時の宮沢喜一首相の訪韓わずか「5日前」にブチ上げられた記事である。 その中で朝日は「従軍慰安婦」の用語解説をおこない、〈太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は八万とも二十万ともいわれる〉と書いた。 しっかりと、〈挺身隊の名で強制連行〉と書き、〈その人数は八万とも二十万ともいわれる〉と記述している。また、翌12日付の社説でも〈「挺身隊」の名で勧誘または強制連行され、中国からアジア、太平洋の各地で兵士などの相手をさせられた〉と書いている。ジュネーブで開かれた国連女子差別撤廃委員会で、日本の立場を説明する杉山晋輔外務審議官=2月16日 これはほんの一例だが、朝日新聞は、長年の外部からの指摘に耐えかねて、ついに一昨年(2014年)8月5日、「検証記事」を掲げた。そのなかで、〈読者のみなさまへ〉と断って、わざわざ〈女子挺身隊は、戦時下で女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別です。当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました〉と、「混同」「誤用」を認めているのである。 杉山審議官の国連での発言は、もちろん、それらを踏まえたものだ。しかし、当の朝日新聞は、こともあろうに、これに対して「抗議」をおこなったのである。子供の屁理屈にもならない、というのは、〈20万人という数字について、「女子挺身隊と慰安婦の混同がもとになったとは報じておりません」〉と噛みついている点だ。 では、その〈20万人〉がどこから出てきたものなのか、〈女子挺身隊との混同〉でなければ「いったい何でこんな途方もない数字が出てきたのか」、それを自ら指摘・告白するのが、礼儀であり、大人というものである。〈慰安婦の人数については諸説ある〉という申し入れの文言は、明らかに「開き直り」というほかない。「法的措置を検討する」朝日新聞からの脅し 私は、自分自身の経験を思い起こした。2014年5月20日付で朝日新聞が、「吉田調書を入手」したとして、福島第一原発の現場の人間の「9割」が所長命令に違反して撤退した、と1面トップで報じた件だ。 吉田昌郎所長をはじめ、現場の多くのプラントエンジニアたちにも取材した私は、『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』というノンフィクションを2012年に出しているが、その取材結果をもとに、朝日の記事を「誤報である」と指摘した。公開された「聴取結果書(吉田調書)」 (一部モザイク加工しています) それに対して、朝日新聞は「報道機関としての名誉と信用を著しく毀損する」として、私に「謝罪と訂正」を要求する文書を送りつけてきた。そして、その文書の中には、要求に応じない場合は、「法的措置を検討する」という“脅しの文言”がしっかり入っていた。 私は、朝日新聞という報道機関が「自由な言論を封殺」しようとしたことに、一種の感慨が湧き起こった。自分たちに都合の悪いことに対しては、言論や表現の「自由な空間」を守るどころか、「圧殺する」という恐ろしい体質を同紙が持っていることがあらためてわかったからだ。 私は、これで逆に大いなる闘争心が湧き起こり、週刊誌、写真誌、月刊誌、新聞……等々で、自分にできる最大の論陣を張らせてもらった。その意味で、私に対する朝日の“脅し戦略”は、まったくの逆効果をもたらしたことになる。 幸いに3か月後の9月11日、朝日新聞は自らの「誤報」を認め、木村伊量社長が記者会見を開き、訂正・謝罪の発表と、社長退陣と編集幹部の更迭がおこなわれた。 私はその後、朝日新聞からの正式な謝罪を受けたが、今回の外務省への抗議は、「真実」を指摘された時の「開き直り」という点で、まったく「共通」のものであることがわかる。 今回の朝日の外務省への申入書には、自らつくった慰安婦報道に対する「第三者委員会」の委員の中には、朝日の報道が「国際的な影響を与えた」ということに「そうではない」と言っている人がいます、と書いている。なんと稚拙な論理だろうか。 岡本行夫、北岡伸一両委員は、はっきりと朝日の報道が韓国による批判に弾みをつけ、過激化させたことに言及しているが、波多野澄雄、林香里両委員は、「国際的な影響はない」との見解だった、というのである。 イタズラを怒られた駄々っ子が、「でも、ボクは悪くないって言ってる人もいるもん!」と、お母さんに必死で訴えているような図である。私は、昨年末に出た朝日新聞の元スター記者、長谷川熙さんの『崩壊 朝日新聞』の一節を思い出した。長谷川さんは半世紀以上務めた「朝日新聞」にいる記者たちのことを“パブロフの犬”だと書いて、その典型例の実名まで挙げている。 〈旧陸海軍について、いかなる虚偽の悪行が伝えられても、旧軍のことであれば、記者であるのにその真否を究明することなく、なんでも実話と思い込んでしまうその現象を私は、ロシアのパブロフが犬の実験で見つけた有名な生理反射(ベルの音と同時に犬に餌をやっていると、ベルの音を聞いただけで犬は、餌がなくても唾液を出すことをパブロフは発見した)になぞらえてみた。(略)そうした条件反射のまさに典型例が、吉田証言関係の虚報でとりわけ大きな影響を内外に及ぼしたと私が見る北畠清泰であり、そして一連の虚報を背景に、OBになってからではあるが、慰安所糾弾の模擬法廷の開催へと突き進んだ松井やよりである〉 事実をそっちのけに、“条件反射”のように「日本」を貶める朝日の記者たち。彼らは、朝日に言及した国連での杉山発言の中身を今回も「抗議の段階」でしか報じていない。都合の悪いことは、ねぐり続ける朝日新聞らしい姿勢というほかない。 本日の産経新聞には、その朝日新聞広報部のコメントとして、「記事と申入書に書いてある以上は、お答えできない」というものが紹介されていた。ただ、「溜息が出る」だけである。私は思う。朝日新聞が、再び「死んだ」ことは間違いない、と。※2016.1.20 門田隆将ブログ「夏炉冬扇の記」より転載。

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    朝日新聞よりひどい!テレビが報じた「従軍慰安婦」

    梶井彩子(ジャーナリスト)朝日謝罪から一年二カ月 朝日新聞の「誤報謝罪会見」から一年二カ月が経った。今夏にようやく産経新聞の取材を受けた植村隆氏は、相変わらず「慰安婦問題の拡大は自分や朝日のせいではない」「朝日が日韓関係をこじらせたのではない」と主張した。だが、朝日新聞がことさらに「朝鮮人慰安婦を強制連行した」との構図を強調して書き立ててきたことは論を俟たない。 新聞各社の「慰安婦報道」は縮刷版や記事データベースなどで検証可能であり、だからこそ朝日新聞は慰安婦報道に関する検証記事を発表、一部誤りを認めたのだろう。読者は忘れても、アーカイブはその足跡をすべて覚えているからだ。 では、テレビ番組はどうか。ネット普及以前に放送された番組はほとんど検証できず、稀に動画サイトに上がってもすぐに削除されてしまい、番組内容は出演者や視聴者の記憶に頼る部分が少なくなかった。 各放送局はいったい、慰安婦をどのように報じていたのか……。そこで行きあたったのが、横浜にある「放送ライブラリー」である。〈放送法の指定を受けたわが国唯一の放送番組専門のアーカイブ施設で、時代を伝えるNHK、民放局のテレビ・ラジオ番組、CMを一般に無料で公開〉している施設だ。 テレビ番組約二万本、ラジオ番組約四千本を保存し、約一万八千本を公開。特にドキュメンタリーや歴史、文化などの教養番組、大河ドラマ、各時代の代表的なバラエティ番組などが充実している。 「慰安婦」というキーワードで検索すると、以下の五つの慰安婦に関するドキュメンタリー番組が登録されている(ドラマ、ラジオは除く)。 (1)一九八二年三月一日放送 『11PM 韓国から見た日本〔2〕(シリーズ・アジアと共に生きる〔4〕)』日本テレビ放送網 (2)一九九二年五月三十日放送『特別番組 汚辱の証言 朝鮮人従軍慰安婦の戦後』九州朝日放送  (3)一九九二年八月十四日放送『NHKスペシャル 調査報告 アジアからの訴え 問われる日本の戦後処理』NHK (4)一九九六年九月三十日放送 『NNNドキュメント96 IANFU インドネシアの場合には』中京テレビ放送   (5)一九九七年十二月八日放送 『NNNドキュメント97 声閉ざされて、そして インドネシアの「慰安婦」たち 特集・戦争の時代に』中京テレビ放送   これらをすべて視聴したうえで、主に朝鮮半島の慰安婦について扱った1・2の番組に関し、内容を検証してみたい。まるで「啓発ビデオ」まるで「啓発ビデオ」(1)『11PM 韓国から見た日本〔2〕』 韓国・朝鮮半島とのかかわりを追った五回シリーズのうちの第四回で、従軍慰安婦のほか、樺太残留韓国人、BC級戦犯、在韓被爆者などの問題を取り上げており、その年の日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞を受賞している。 結論から言ってしまえば、この番組が五本のなかで最も杜撰、かつおどろおどろしい作りになっていた。ドキュメンタリーというよりも、運転免許更新の際に見せられる「交通事故予防啓発ビデオ」に近い。「事故を起こせば人生終了」といったトーンの、あれだ。 のっけから激しいBGMとともに、〈女子挺身隊という名の慰安婦〉と大間違いのテロップが画面の真ん中にドカンと現れる。 続いて元軍医の麻生徹男氏のインタビューが挟まれているが、麻生氏が「(隊内に梅毒が蔓延しないように)慰安所を設けるよう意見書を提出した」と話す場面に、〈慰安婦に関する軍への意見書が朝鮮女性連行につながった〉と、ここでも意図的なテロップを表示。麻生氏の「かなりどぎつい集めかたをしていますね」のコメントとともに、視聴者に強く印象づけている。 麻生氏はたしかに意見書を提出してはいるが、内容は花柳病(つまり性病)の蔓延に関する報告が主であり、なかでも特に強調しているのは「娼楼ではない慰安の場所」、つまり音楽や映画、スポーツなどの軍用娯楽施設の設置を求めるもので、強制連行とは何の関係もない。 麻生氏がこの番組に登場したのは、千田夏光氏の『従軍慰安婦』(一九七三年)の記述によるものだろう。千田氏は本のなかで、あたかも麻生氏が慰安所を考案した責任者のように書いている。ちなみに、本には「従軍慰安婦は挺身隊の名で集められた」との表現もある。 麻生氏は軍医として慰安婦らの身体検査を行っており、当時の写真や状況を『戦線女人考』にまとめている。そのなかで、「支度金千円を払って急遽集められた女性たちが慰安所に連れてこられた」と書き残している。 ところが千田氏は、『従軍慰安婦』に「レポートの結果として軍の目は当然のようにそこへ向けられていく。それは同時に、朝鮮人女性の怖るべき恐怖のはじまりでもあった。朝鮮半島が若くて健康、つまり理想的慰安婦の草刈場として、認識されていくことになるのだった」と書いたのである。 そのため、麻生氏は世間から「慰安婦強制連行の責任者」であるが如く受け取られてしまい、なかには麻生氏の娘の甘児都氏のところに「民族の恨みを晴らす」「責任者の娘としてどう思うか」などと言って押しかけて来たものもいたという。 甘児氏によれば、〈千田氏はこの件が誤りであり、今後誤解を招く記述はしないと(中略)謝罪してきましたので、三一書房と講談社に改訂を申し入れましたが、二社ともそのままで出版を続けています〉とのことだ(麻生徹男・甘児都『慰安婦と医療の係わりについて』)。 この番組のテロップも、千田氏の本に沿って「麻生氏が慰安所設置の意見書を出した」「それが強制連行につながった」とミスリードを行っている。朝日より先だった日テレ朝日より先だった日テレ 番組はその後、韓国放送公社制作の元慰安婦の女性を扱ったドラマ「従軍慰安婦 ポンスンの空」の映像を紹介。〈日本軍は行く先々で従軍慰安婦を連行していた〉〈女子挺身隊という美しい名のもとに一身を捧げる〉〈(しかし)現実は兵隊たちに一日何十回となく体を提供することだった〉と説明を述べたのち、ドラマの映像がそのまま流される。韓国最大野党がソウル中心部に掲げた日韓合意に反発する横断幕=1月27日(共同) 場面は戦場。日本兵の上官が「慰安所に並べ」と言うや否や、若い兵隊たちが慰安所内の女性に襲いかかる場面に「ギャーッ」と女性の悲鳴。 その次の場面では、兵隊にまぎれて行軍するチマチョゴリ姿の慰安婦。疲労で倒れる慰安婦を無理やり歩かせる日本兵が描かれている。「ヘイタイサン……ヘイタイサン……」と片言の日本語で兵隊に助けを求める慰安婦の姿が痛々しい。 このドラマは、元慰安婦のポンスンが戦後も実家に帰ることを許されず、売春観光に訪れる日本人観光客を相手に売春を強要される女性の代わりに殺人を犯し、投獄されて精神を病む……というストーリーだ。 八〇年代の日本人男性の「売春観光」と慰安婦の存在を結び付け、「今も昔も韓国人女性を蔑視する日本人」「その日本人によって精神病に追いやられたポンスン」を印象付ける。 たしかに、戦後の「売春観光」が慰安婦問題勃発の下地になっていた可能性はある。 だが、11PMのこのシリーズ自体は「ドキュメンタリー」というジャンルでありながら、内容はドラマの筋書きにすっかり乗っかっている。 さらに番組では〈しかし事実はもっと広く大きかった〉とのナレーションのあと、兵隊ではなく労働者の相手をさせられたという元慰安婦のインタビュー映像を挟む。暗い部屋に座る元慰安婦らしい女性のシルエットを映しつつ、証言が流れる。 「嫁入りの口がある、と騙された」 「日本人が引っ張ってきた」 「虐待に耐えられず四人が自殺」 「日本人は薄情」 三十四分の番組のうち慰安婦のパートは十四分程度だが、過剰なBGMや再現ドラマ、元軍医の証言と盛りだくさんの内容で、破壊力十分。だが、とても賞に値する番組とは思われない。 『11PM』は深夜のワイドショー番組で、一九六五年から九〇年まで続いた長寿番組。当初は硬派な番組だったが視聴率が取れず、麻雀や酒、お色気に至るまで幅広い話題を取り上げる番組に変貌を遂げた。 『韓国から見た日本』が放送されたのは「テコ入れ後」の一九八二年三月一日だが、この『韓国から見た日本』以外にも、一九七二年の沖縄の復帰を扱い、こちらも賞を受賞している。 一九八二年三月一日という放映日にも注目である。朝日新聞(大阪版)が吉田清治証言を初めて掲載したのは、一九八二年九月二日。日本テレビは、朝日新聞の吉田清治報道より半年も前に「従軍慰安婦の強制連行」を取り上げていたことになる。 しかも、早くもこの時点で「女子挺身隊と従軍慰安婦を混同」しており、植村隆記者の一九九二年の記事を先取りしている。 朝日新聞の「慰安婦報道」検証では、読売新聞は産経新聞に次いで「朝日批判」の色を強めていたが、ともすれば「朝日以上」の番組を系列のテレビ放送網が放映していたことを、読売関係者はご存知だろうか。朝日ソウル支局が協力朝日ソウル支局が協力(2)『特別番組 汚辱の証言 朝鮮人従軍慰安婦の戦後』 九州朝日放送のこの番組は、(1)に比べれば「ドキュメンタリー番組らしい」内容で、やはり「地方の時代」映像祭一九九二優秀賞受賞作だ。 主に元慰安婦の「文玉珠」を中心に描かれており、彼女が福岡の団体に招かれて来日、「戦後四十七年、ようやく重い口を開き始めた」という、まるで植村記者の金学順報道の見出しのようなトーンで彼女を追うドキュメンタリー。  番組放映日は、一九九二年五月三十日。植村記者の金学順記事は前年の八月十一日だから、この記事の影響するところは多かっただろう。九州朝日放送制作のこの番組のエンドロールにも、制作協力として「朝日新聞ソウル支局」が名を連ねている。 番組は文氏が日本で開催された慰安婦集会に登壇し、「平日は三十人から四十人、日曜には六十人から七十人の相手をさせられた」と語るシーンから始まる。 そして、すぐに韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)の尹貞玉代表(当時)が登場。尹氏は「慰安婦問題で日本は彼女たちを三度殺す」と述べ、「一、ひどいことをした。二、忘れられていた。三、謝罪がない」の三重苦を負わされていると発言。このまま謝罪がなく、日本人が日本の若者に慰安婦の事実を教えなければ「三度目の死となる」と述べる。 場面変わって、文氏の来日支援を行った慰安婦研究家の森川万智子氏。彼女は文氏の著作『文玉珠 ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私─教科書に書かれなかった戦争』(梨の木舎、九六年。新装増補版は二〇一五年)の構成と解説を担当している。番組では、福岡で「慰安婦一一〇番」という電話相談を受ける団体の代表として登場。「市民として過去を清算したい」と述べる。 この番組で文氏は、「十八歳でビルマへ行った。食堂に行けば稼げると言われた」と話す。文氏の本によれば、もともとキーセン学校に通っていた文氏は、一度、憲兵らに連れられて慰安婦になったが故郷に戻り、次は友人から「食堂で働き口がある」と聞いて行ってみたところ、実態は慰安所だった。が、「やはりそうか」と納得したという。「人間的な」兵士との交流 文氏は番組で、涙ながらに「夜明けまで相手をさせられて死にそうでした」と述べているが、文氏の本には意外な場面が描かれている。 それは慰安婦・文がヤマダ(仮名)という日本兵と懇意になるくだりだ。 〈わたしは一生懸命ヤマダイチロウの無事を祈った。二、三カ月して、前線からヤマダイチロウの部隊も戻ってきた。ヤマダイチロウは無事だった。すぐに慰安所にきた。 「ヤマダ上等兵、無事帰還いたしました」 ヤマダイチロウはわたしに向かって敬礼した。私たちは抱き合って喜んだ。そういう日はマツモト(という朝鮮人の男。慰安所の引率者)公認で、慰安所全体も大騒ぎになり、開店休業だ。さっそくわたしたち慰安婦も一円ずつ出し合って大宴会をしたのだった〉(文玉珠『「慰安婦」だった私』、補足は筆者) もちろん、過酷な記憶と楽しい記憶が共存することはありうるため、これを以て「慰安婦としての生活は悲惨ではなかった」とは必ずしも言えない。また、この本の内容は「真偽定かならぬ部分もないわけではない」(秦郁彦氏)との指摘もあるとおり、兵隊を蹴り飛ばした、刺し殺したなどの箇所もある。しかし、エピソードのすべてが創作とも思えない。封印された記憶 また、番組で文氏の「人間的な」兵隊との交流に全く触れていないのは不自然だ。文氏をことさら「かわいそうな被害者」としてだけ描いており、本にあるような人間性や女性としての逞しさ、明るさは番組からは全く感じられないのである。 番組では、元日本兵や軍関係者も証言者として登場する。 「九州の兵隊は慰安婦がいないと元気が出ない」 「(慰安所は)日本にもあった特殊飲食店の一環。悪いとは思わない」 「女は消耗品だから助けなくていいと言われた」 その後、さらに二人の慰安婦が登場。韓国・城南市の沈美子氏の証言。 「日本地図に刺繍しろと言われ、朝顔の刺繍を入れたら『桜を入れろ』と叱られ、日本の警察に焼きゴテを当てられた。気を失っている間に連行され、気がつくと福岡にいて、その後、『七番』と番号で呼ばれる慰安婦になった。先生になりたかったが日本に踏みにじられた」 ハルモニ食堂を経営する黄錦周氏。 「勤労挺身隊として紡績工場に行くのだと思ったら、樺太に着くなり服を脱げと急に言われた」封印された記憶 そして文氏が市民グループの手引きで来日し、集会で証言をする場面が流れる。 「大日本帝国国民となります、と言わされたのに、この仕打ちは酷い」 この発言には驚いた。番組制作側は、「大日本帝国=悪」だとしてこの発言を削らなかったのだろう。だが文氏の本の記述を読むと、また別の思いを感じ取る。 〈戦地の軍人たちの思いと、わたしたちの思いとは同じだった。ここに来たからには、妻も子も命も捨てて天皇陛下のために働かねばならない、と。わたしはその人たちの心持ちがわかるから、一生懸命に慰めて、それらを紛らしてあげるよう話をしたものだった〉(『同』) 番組内の元軍人の証言でも、慰安婦とのこんなやりとりが語られる。 「(軍が引き揚げるとき)慰安婦たちは『連れて行って下さい』と言っていた。『途中でお金が必要になったら、私たちがたくさん持っています』と言って、もう三文の値打ちもない軍票を見せていた。『死ぬ時は一緒に死にます』と泣きつかれて……」 涙を拭う元軍人。 この二つの場面には胸を打たれた。軍人と慰安婦の間には、戦地特有の一体感さえも生まれていたことになる。「戦地」に置かれた女性と男性の、悲しい「同志の心」だったのだろう。だが、いまや、それは日韓双方で語られることはなくなってしまった。日本大使館前で慰安婦像を囲み、慰安婦問題での日韓の最終合意に抗議する元慰安婦や支持団体のメンバーら=2015年12月30日、ソウル(名村隆寛撮影) 彼女たちの真の歴史を奪ったのは挺対協だけではない。朝日新聞などが「強制連行」を強調して報じたことにより、慰安婦になった本当の経緯や、戦地で生まれていた軍人と慰安婦の関係についての真相は「反日」の幕で覆い隠されてしまった。彼女らの真の証言を、朝日新聞や挺対協が封殺したと言っていいだろう。 もはや、元慰安婦たちが「あの頃、日本の軍人さんとどのような関係にあったか」「どんな雰囲気だったか」を率直に話すことはできまい。特に韓国では、「親日売国奴」の汚名を着せられかねない。 真の和解のための“よすが”になりえた共通体験だが、可能性は潰されてしまった。そして、「戦地でたしかに存在していた慰安婦と軍人の関係」は歴史の狭間に葬り去られることになる。「母に楽をさせたい」「母に楽をさせたい」 その後、番組は文氏が支援者に付き添われて下関郵便局を訪れ、野戦郵便局から貯金していたお金を返してほしい、と交渉する場面が流れる。日韓協定で決着がついている以上、日本側から個人にお金を払うことはできない、と断られるが、諦められない文氏の表情が大写しになる。 慰安婦が性奴隷ではなく、「高収入の売春婦」だった証として「慰安婦の収入明細」のように紹介される「文原玉珠」名義の貯金通帳明細は、この文氏のものだ。政府の調査でこの記録が出てきたのだが、たしかに文氏は二万六千円もの貯金をしている。当時の二万円は、現在の六千万円相当とも言われる(ただし戦地のインフレ率や軍票との関係により諸説ある)。 文氏は、本にこう書いている。 〈事務を仕事にしている軍人に、わたしも貯金できるか尋ねると、もちろんできる、という。兵隊たちも全員、給料を野戦郵便局で貯金していることをわたしは知っていた〉 〈どんなに働いても貧しい暮らしから抜け出すことができなかったわたしに、こんな大金が貯金できるなんて信じられないことだ。千円あれば大邱に小さな家が一軒買える。母に少しは楽をさせてあげられる。晴れがましくて、本当にうれしかった。貯金通帳はわたしの宝物となった〉(『同』) 貧しさのなかにあった文氏が、こつこつ貯めた財産だ。それが戻らないのは気の毒ではある。「カネをもらっていたのだから奴隷であるはずがない」という主張はたしかにそのとおりだが、結果として「母を思いながら、春をひさいで貯めたお金が手元に残らなかった」恨み、悲しみに寄り添う必要はあろう。 だが番組内でも説明があるように、補償関係はすべて日韓協定で「解決済み」となっているのである。 個人補償よりも国家の発展を選んだのは韓国政府である。もちろん、その国家の発展の恩恵を文氏も少なからず受けてはいるだろうが、やり場のない怒りがすべて日本に向いてしまっているのは、日本にとっても文氏にとっても不幸なことである。 一生懸命働いたのに、お金が残らなかった。母に楽をさせてあげられなかった……彼女にそんな思いがあったのだろう。その思いを「運動」のために利用した人々がいる。 女性たちの思いに報いようとしたのが、アジア女性基金だった。少しでも元慰安婦たちの心に寄り添い、生活を支援しようとした動きだったが、韓国側運動団体はこれに激しく反発。元慰安婦の女性たちに受け取りを拒否するよう圧力をかけた。 いまでこそ取り組みを評価している朝日新聞も、当時は韓国側の空気を慮ってか、この取り組みを必ずしも支持しなかった。彼女たちが「恨みを残したまま死ぬ」ように仕向けたのは誰だったのか。元慰安婦の涙元慰安婦の涙 番組では、支援者が開いた文氏の誕生日パーティの模様を映し出す。 「自分の誕生日も知らなかった私を祝ってくださってありがとうございます……」 文氏は涙にくれる。そして、「戦場から戻った軍人に呼ばれて同席した宴会のために覚えた」という歌を披露する。「生れ故郷を 何で忘れてなるもんか 昨夜も夢見て しみじみ泣いた そろそろお山の 雪さえ溶けて 白いリンゴの 花がちらほら ああ 咲いたろな」(「リンゴ花咲く故郷へ」正しくは“咲くだろな”) 故郷から遠く離れた戦地で、立場は違えど、軍人と慰安婦は、この歌を歌いながらともに故郷を思っていたのだろう。文氏が本に書いたような軍人との交流もあったからこそ、彼らが歌っていた歌を忌み嫌わず、懐かしく口にしたのではないか。 生死の行方も知れない戦争のさなか。いまよりもずっと貧しい時代だ。いまの価値観で善悪を判断することはできない。「連行されたに違いない」「軍人を恨んでいたに決まっている」とするのは、元慰安婦らの生きた足跡を、いまの価値観で全く別のものにしてしまう可能性がある。 番組終盤で再度、挺対協の尹氏が述べる。 「日本がやったことは韓国人の人格を貶め、日本人自身も失った。戦後処理をしなければ絶対に忘れません」 だが、慰安婦という職業についた女性に「賤業」のレッテルを貼り、さらには「日帝のために働いた女」として社会から排斥した韓国社会にも問題はなかったか。 番組に登場する元慰安婦・沈氏も、「結婚もできなかった。友人の家族を見ると辛い」と涙を見せている。 誕生日を祝われて涙を見せる文氏にも、元慰安婦として名乗り出たあとには、「お金のためでしょ」「もう付き合いをやめる」という電話があったそうだ。 いまも運動のためにだけ駆り出され、寒空の下、あるいはカンカン照りの路上で泣き、「悲惨な体験」を語ることのみを求められ、世界各国を「ドサ回り」させられている老女たちがいる。そんな姿を見るのは本当に心苦しい。 罪を犯したのは誰か 「少女の頃のことを忘れたくなかったから」とピンク色のチマチョゴリを着た理由を語る文氏。取材陣に手を振る姿を映して、番組は終わる。そこにいるのは、戦争という時代と苦労の人生を歩んだ一人の老女である。 和解は双方が目指さなければ決して成り立たない。 歴史には光も影もある。その双方を織り込み、「ありのままの体験を話すことで『和解』を果たす」道を取っていれば、日本人の多くは彼女たちとその人生に心からの深い同情を寄せられたはずだ。 だが慰安婦問題を運動に仕立て上げた人たちは、彼女らに「強制連行」の嘘をつかせ、日本人を恨ませ、生活の足しになるはずのお金を渡すことすら妨害した。そして互いの猜疑心は膨らみ、日本人からの女性たちに対する同情心さえ離反させてしまったのである。 朝日や「強制連行」派の学者、テレビ関係者、運動家は日本人の名誉を貶めただけでなく、このような元慰安婦たちから「真実の歴史」「生きた証」を奪い去った「罪」をも負っているのではないだろうか。かじい・あやこ 1980年生まれ。中央大学卒業後、企業に勤める傍ら「特定アジアウォッチング」を開始。「若者が日本を考える」きっかけづくりを目指している。月刊誌に寄稿の他、『韓国「食品汚染」の恐怖』や『竹島と慰安婦—韓国の反日プロパガンダを撃て』など日韓関係に関する電子書籍などを無料公開中。

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    メディアに正義はあるか

    安保法制や慰安婦問題で偏った意見ばかり垂れ流している大新聞、テレビ。しかも、言いっ放しで、自分たちの報道をろくに検証もしない。大マスコミの報道がいかにいい加減で、矛盾に満ちたものか、徹底検証してみようではないか。

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    朝日新聞の護憲論 あまりの「倒錯」に驚く

    岩田温(政治学者) 2月6日の社説で朝日新聞は、「首相の改憲論 あまりの倒錯に驚く」と題して、安倍総理の発言を取り上げて批判している。  『東京新聞』が噛みついたのと同じ発言だ。「憲法学者の7割が、9条の解釈からすれば自衛隊の存在自体が憲法違反のおそれがあると判断している」「この状況をなくすべきではないかという考え方もある」 さらに、この総理の答弁を引き出した稲田朋美政調会長の発言も取り上げている。 「現実に合わない9条2項をこのままにしておくことこそ、立憲主義を空洞化する」との発言だ。衆院予算委で質問する稲田朋美氏(自民) 、2月3日 私は、この稲田政調会長の指摘は、もっともだと考える一人である。稲田政調会長は政治家である限り、発言できないのかもしれないから、政治家ではない私が正直に言えば、吉田茂が、本来、「自衛戦争も出来ない」と解釈していた日本国憲法を、解釈の変更によって、自衛隊を持てるようにし、敵が攻めてきた際には戦えるように変更した時点で、厳密な意味において日本の立憲主義が終わっている。仮に日本の立憲主義を破壊した政治家がいたとするならば、それは安倍晋三ではなく、吉田茂である。 さて、『朝日新聞』の安倍批判が面白い。 まず、『朝日新聞』が行ったアンケートで63%の憲法学者が、自衛隊の存在を「憲法違反」「憲法違反の可能性がある」と答えた事実を認めている。 このアンケート結果は、随分正直なものだろうが、自衛隊が「合憲である」と断言できる憲法学者が殆どいないというところに日本の悲劇があるといってよいだろう。祖国を守る崇高な任務を引受けた自衛隊を「違憲だ!」「違憲かも知れない・・・」と解釈するということが異常な事態でなくて何であろうか。そして、現実には多くの国民が自衛隊を支持し、自衛隊を解体するような主張は、およそ現実離れした主張だと思われている。要するに、日本国憲法第九条第二項そのものがあまりに現実離れしており、憲法学者たちの解釈通りに解釈したら、自国の防衛すらままならないというのが現実なのだ。そして多くの国民は憲法学者の憲法解釈ではなく、現実に適った極めて「不自然な憲法解釈」を受け入れている。「戦力」も「交戦権」も否定した憲法を有しながら、「自衛隊」を保持できるという、極めて「不自然な憲法解釈」によって、日本はなんとか、自国を防衛してきた。『朝日新聞』は旗幟鮮明にすべきではないか? 『朝日新聞』は、自衛隊は違憲であるという憲法学者の見解を紹介しながら、、自衛隊の存在を否定したり、吉田茂の憲法解釈の変更を批判したりするのではなく、安倍内閣の批判へと進む。「多数の憲法学者と国民の反対を押し切り、集団的自衛権は行使できないとの歴代内閣の憲法解釈を、閣議決定だけで変えてしまったのは安倍内閣である。 自衛隊の存在と学者の見解とのへだたりを問題にするのであれば、安保法制を撤回するのが筋ではないか。「立憲主義の空洞化」を批判するなら、まずは我が身を省みるべきだろう。」 社説のタイトルが「首相の改憲論 あまりの倒錯に驚く」とあるが、私はむしろ逆に「朝日の護憲論 あまりの倒錯に驚く」とした方が相応しいと思う。衆院予算委員会で答弁に立つ安倍晋三首相 =2月4日午前、国会・衆院第1委員室(斎藤良雄撮影) 何故なら、「自衛隊の存在と学者の見解のへだたり」が生じたのは遠い過去の出来事だ。これは吉田茂の解釈変更に端を発する「見解のへだたり」だろう。この根本の部分に目を向ける必要があるのではないか、というのが安倍総理、そして稲田政調会長の議論の要点だ。それに対して、『朝日新聞』は、そうした「見解のへだたり」を無視した上で、集団的自衛権の行使容認のみを「違憲だ!」と騒ごうとしているのだ。本を正さずして末に走る議論と言ってよい。 「自衛隊すら「違憲」とみなされるのは、おかしいのではないか?」と多くの国民が思うだろうが、現実に『朝日新聞』のアンケートでは、憲法学者の63%が「憲法違反」「憲法違反の可能性がある」と答えているのだ。 『朝日新聞』は旗幟鮮明にすべきではないか?「我々は多数の憲法学者の見解を受け入れ、自衛隊を「憲法違反」「憲法違反の可能性がある」と考えている」と表明するのか、それとも、「多数の憲法学者が自衛隊を「憲法違反」「憲法違反の可能性がある」というが、それは極端な見解であるから、いくら大多数の憲法学者がそのような極端な憲法解釈をしても、そうした極論には与しないで自衛隊は合憲と認める」とするのか。 一体どちらなのか? 朝日新聞の自衛隊に関する憲法解釈が「倒錯」しているのは、自衛隊の存在に関しては、多くの憲法学者の主張を無視して、「違憲である!」と表明しないのに、集団的自衛権の行使容認に関してのみ、自衛隊違憲説を奉じる多くの憲法学者の主張を鵜呑みにして「違憲である!」と騒ぎ立てるからだ。 「自衛隊を違憲である」という人が「集団的自衛権の行使は違憲である」というのは、一貫していてよい。現実離れした主張ではあるが、「倒錯」してはいない。 だが、「政府の勝手な憲法解釈の変更を許すな!」「立憲主義を守り抜け!」と騒ぎ立てる人々が、吉田茂の解釈の変更によって作られ、多くの憲法学者が「違憲だ!」と主張している自衛隊の存在に関しては、否定せず、そして積極的に肯定もせず、口をつぐんでいるのは、まことにご都合主義的で、倒錯した「護憲論」と言わざるを得ない。※「岩田温の備忘録」2016年2月9日分を転載

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    “TBSの顔”「岸井成格」とは何者か

    や蔑視が生んだ恥ずかしい誤解である。 自衛官に対する差別的な偏見は、今年も健在だ。拙著最新刊『護憲派メディアの何が気持ち悪いのか』(PHP新書)で指弾したとおり、岸井は今年三月八日放送の「サンデーモーニング」で、いわゆる「文官統制」を是正した安倍政権をこう誹謗した。「総理大臣は最高指揮官なんですね。そうすると、軍人というのは命令に従う組織なんです。総理から言われたら、異を唱えるとか反対はできない。そういう組織なんです。それをチェックして『ちょっと待って下さい』と言えるのは文官しかいない。それを忘れてますよ」3月6日の衆院予算委員会で民主党議員から「シビリアンコントロール」について答弁する安倍晋三首相。後方右は中谷元・防衛相=衆院第1委員室(酒巻俊介撮影) これもすべて間違い。総理は「内閣を代表して」(自衛隊法七条)指揮監督できるだけ。「内閣がその職権を行うのは、閣議による」(内閣法四条)。このため、防衛出動には閣議を経なければならず、アメリカ大統領のような名実ともの「最高指揮官」ではない。また、自衛官は名実ともに「軍人」ではない。 許し難いのは後段だ。自衛官には服従義務があるが、文官なら総理の命令や指示を「チェックして『ちょっと待って下さい』と言える」らしい。岸井こそ重要な事実を忘れている。行政権は内閣に属する(憲法六十五条)。総理は内閣の首長である(同六十六条)。「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する」(内閣法六条)。 岸井流に言えば、全省庁の「最高指揮官」である。 岸井が特別扱いする「文官」も、法的な身分は国家公務員。ゆえに、「上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」(国家公務員法九十八条)。それを「チェック」して「ちょっと待って下さい」など、違法かつ不忠不遜な服務である。 さらに岸井は、安保法制で各種の「事態」が乱立している現状を「言葉の遊び」と揶揄し、こう述べた。「五つぐらいあるんですよ。新事態、存立事態とか武力行使事態とか周辺事態とかね」「事態とは何かと言うと戦争なんです。戦時体制ってことなんです。武器とか戦時体制って言葉を使いたくないんですね。だから言葉を変えようとするんですよ」聞きかじりで知ったかぶり バカらしいが、手短に訂正しておこう。岸井は、「集団的自衛権 事態がどんどん増える」と題した前日の三月七日付毎日社説を読んだのであろう。聞きかじりで知ったかぶりするから間違える。事実面での間違いに絞り、指摘しよう。 まず、岸井の言う「新事態」と「存立(危機)事態」は同じ概念である。そこから分かっていない。「武力行使事態」というが、そんな言葉もない。多分、「武力攻撃事態」と混同している。悲しいかな、最後の「周辺事態」だけが実在するが、岸井が何と言おうと「戦争」ではない。「戦時体制」とも違う。 法律上、周辺事態で自衛隊は武力行使できない。「武力による威嚇」すらできない。それを「戦争なんです」と断じるのは、暴論ないし妄想である。いわんや、「武器とか戦時体制って言葉を使いたくないんですね。だから言葉を変えようとする」との断定においてをや。もはや低俗な陰謀論にすぎない。 この日限りではない。前週の同番組でも、自衛官に対する差別的偏見が露呈した。「以前、防衛省を担当したことがあるんですが、中谷大臣の会見を聞いて『ああ時代が変わったな』と思いましたね。我々がいた頃は、まだ常識的に、非常に感覚的にアレかもしれませんが、文民統制とそれを補充する文官統制は、戦前の軍部のドクセイ(独裁? 独走?)に対する反省、とりわけ日本の場合、非常にそれが甚だしかったんで、それを担保するものだと感じてたし、また考えてたんですよね。 大臣は『まったくそうは思わない』っていうことですわね。そこは何でそういうことになってきたんだか。中谷大臣はアレ、自衛官出身ですから、ちょっとそういうとこあるかもしれませんけど。とにかくあの(以下略)」 きわめて差別的な暴言ではないだろうか。もし差別でないなら、「そういうとこ」とはどういうとこなのか、具体的に示してほしい。ついでに「アレ」の意味も教えてほしい。「CIA陰謀説」はオフレコ「CIA陰謀説」はオフレコ 事実関係も承服できない。かつて防衛庁長官官房広報課(対外広報)で勤務したが、私がいた頃は右のごとき「常識」や「感覚」はなかった。正確と公正を期すべく付言しよう。 以上の問題発言に先立ち、司会が「歯止めがなくなる」と誘導したにもかかわらず、田中秀征(福山大客員教授)は「制服組のほうが慎重であるということも十分ありえる」「戦前の軍の暴走のようになるかと言えば、そんなことはない」と抑制。 西崎文子(東大教授)も、「必ずしも軍人が好戦的で文民が平和的だとは思わない」とコメントした。せっかく両教授が示した見識を、以上のとおり、レギュラーの岸井がぶち壊した。 本来なら当たり前の話だが、派遣されるのは当の自衛隊。自身はもとより、同僚や部下を危険に晒す。高いリスクに加え、コストも負担する。必要な予算を捻出せねばならない。 自衛隊に限らず、軍隊はいったん命じられれば粛々と任務を遂行するが、基本的に慎重姿勢となる。威勢がいいのは、たいてい文官や政治家。そうでなければ、決まってジャーナリストである。リスクもコストも負わない軽佻浮薄な人々である。衆院本会議で民主党などが退席するなか安保関連法案が可決した=2015年7月16日午後、国会内 今年(二〇一五年)の終戦記念日、そのジャーナリストが集う「日本ジャーナリスト会議」で岸井が講演した。《「戦争法案」は衆院で強行採決された。戦後70年を迎え、安倍政権は若者たちを戦場へ送る方向へ突っ走っている。その実態、危険性などについて、ニュースの最前線から岸井氏が解説する》(同会議公式サイト) どんな連中を前に、どんな話をしたのか。聞かなくても想像がつく。念のため、講演録を検証しておこう。「安保法制とは何か。いつでもどこでも世界地球規模、どこへでも自衛隊を出します、と。アメリカから手伝ってくれ、助けてくれと要請があった時には自衛隊を出すんですね」「巻き込まれるどころじゃないんですよ。アメリカの要請があったら、積極的にアメリカがかかわっている紛争地や戦闘地域に送るんですよ!」 右を裏付ける事実は一切ない。平和安全法制(いわゆる安保法制)に該当条文はない。しかも土壇場の与野党合意により、「例外なく事前の国会承認」が前提条件となった。ゆえに「アメリカの要請があったら」ではなく、「事前に国会が承認したら」が正しい。 岸井は以下の見通しも披瀝した。「臨時(?)国会を延長と言いますか、先送りと言いますかね。この国会で一気に成立させないで、国民の反発が強すぎるから政権が倒れちゃうんじゃないの、それをやると、という判断がおそらく出てくるんだと思うんです。その空気は、いま自民党のなかにも芽生えつつある」 結果、そうならなかった。三つの野党を含む多数が賛成。通常国会で可決成立した。岸井は講演の最後をこう締めた。「最後に取っておきのオフレコです。安倍政治をずっと見ていて、思い出す言い伝えがある。「政権維持の三種の神器」。一がアメリカ、二、三がなくて四が財界、五がアンダーグラウンド人脈。これは生きているんです。(中略)なかでもアメリカは飛び抜けている。トラブったり何か問題があったりしたら、政権は必ずやられる。田中角栄さんがトラの尾を踏んだと言って話題になりました。いまの安倍さんがやっていることを見ると、まさにそのとおり。三種の神器ですよ。 そして右派、右翼、アンダーグラウンドのフィクサーに続いている。また三種の神器が甦ってきたな、大丈夫かこれで、という気がします。(中略) 風向きだけでなく、やや潮目も変わり始めているのかな、だからメディアもジャーナリズムの役割も大きくなっている。そういう感じがしています」 バカらしいが訂正しておこう。結果、そうならなかった。風向きも潮目も変わらず、可決成立。護憲派メディアは惨敗。その役割を終えた。 最大の問題は、田中角栄に関するくだりである。低俗な陰謀説を「取っておきのオフレコ」と語る神経は正常ではない。前出『保守の知恵』を借りよう。「アメリカの意志によって田中をロッキードで葬りさろうとした──そういう見方もあるが、俺の取材した中ではそうした事実はないし、これは一種のCIA陰謀説の一つだな」 こう語ったのは、他ならぬ岸井自身である。その二年後に、講演の最後を俗悪な「CIA陰謀説」で締める。これで生計が立つのだから、アンカー業とは気楽な商売だ。「拉致被害者を北に戻せ」「拉致被害者を北に戻せ」 いや、罪深い仕事と言うべきであろう。二〇〇二年十二月一日放送の「サンデーモーニング」で、誰が何をどう語ったか。翌々日付「毎日新聞」朝刊の連載コラム「岸井成格のTVメール」で振り返ろう。《私は「一時帰国の被害者5人をいったん北朝鮮に戻すべきです」と、一貫して主張してきた持論を繰り返した。/同席していた評論家の大宅映子さんは「私もそう思う」と同調した。/それが良識であり、国と国民の将来を考えた冷静な判断だろう。/私の知る限り、政府の強硬姿勢が世論の大勢とは到底思えない。/番組終了後も、田中秀征さん(元経企庁長官)は「政府が5人を戻さないと決めた時、背筋にゾッとするものを感じた」と率直に語っていた。勇ましい議論と感情論に引きずられる時の「この国」の脆弱さだ。(中略)「人はパンのみにて生きるにあらず」だ》2002年10月15日、帰国した北朝鮮による拉致被害者たち 拉致被害者やご家族、ご友人、支援者らがどう感じたか。想像するに余りある。いまからでも遅くない。関係者に謝罪し、放言を撤回すべきではないのか。『聖書』を引用して北朝鮮の主張を擁護するなど、もっての外。右聖句は「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と続く。 まず、悪魔(サタン)が「石をパンに変えてみよ」と誘惑する。イエス(キリスト)が『旧約聖書』を引き、右のとおり答える。 岸井に問う。「一時帰国の被害者5人をいったん北朝鮮に戻すべき」との主張こそ、サタンの誘惑ではないのか。少なくとも、『聖書』を論拠に公言すべきことではあるまい。引用を完全に間違えている。 岸井は二〇〇六年四月発行の対談本『これが日本の本当の話』(ロコモーションパブリッシング)でも、こう放言した。《彼らを一旦帰国させて向こうに残してきた家族とも話し合う。それを突っぱねていれば拉致問題の全面解決も遠のいて、最後には、「戦争するか」となっていく危険性が大いにある》 もはや確信犯と評すべきであろう。ここでは「聞き手」(元木昌彦)も共犯者。以下のとおり導入する。「テレビにハラが立っている。(中略)いくら孤立無援の国の独裁者だとはいっても、連日、“悪魔”のように言い立てるのは度が過ぎる」 私は右にハラが立つ。北朝鮮にハラが立つ。それが正常な感覚ではないのか。それを「悪魔のように言い立てるのは度が過ぎる」と独裁者を擁護する。 しかもタイトルは、「事実関係の検証をおろそかにして短絡的な報道に流れる今の風潮を危惧」。 具体例の一つに、「北朝鮮拉致被害者の扱いの問題」を挙げていた。他局のテレビ番組にハラを立てて「短絡的な報道」を危惧する前に、自ら発した言葉を検証してみてはどうか。常軌を逸した安保報道常軌を逸した安保報道 最近の安保法制批判も常軌を逸している。岸井らは、どんなに悲しい朝も日米両政府への批判は忘れない。邦人テロの悲報が流れた二月一日も、岸井は「サンデーモーニング」で英米への批判を語った。 先日(現地時間十一月十三日金曜夜)のパリでの惨劇を受けた十一月十五日放送の「サンデーモーニング」でも、「テロは許さないというのが欧米(の主張)だが、イラク戦争がそういうの(土壌)をつくっちゃった」「十字軍以来の憎悪の連鎖がある」と被害者(欧米)を責めた。 加えて「安保法制もできましたからね、(日本も)ターゲットになりやすい」と視聴者の不安を煽りながら、「今度の安保法制、危ないなと思った最初は、ペンタゴンのドンと言われる人たちを取材して」云々以下、趣旨不鮮明かつ検証不可能な話題を延々と続けた。肝心のテロ非難は番組最後の数秒だけ。いったい、どういう神経なのか。 その前週放送の同番組は、南シナ海問題を特集した。この日は西崎文子(東大教授)が留保を付言しつつも、「日米同盟を強化するのは基本的に良いことだと思う」。続けて田中秀征(福山大学客員教授)が、「人工島の十二カイリが領海だと認めれば、他の国もみんなやりますよ。国際法秩序、海洋法がまったく成り立たなくなる。アメリカの行動は正しいし、国際世論も賛成している。ここは絶対に譲ってはいけない」。パリ同時多発テロの現場の1つであるバタクラン劇場前に安倍晋三首相が手向けた花束=2015年11月30日朝、パリ(小野晋史撮影) この番組にしては珍しい展開になった。 ところが、司会者(関口宏)から「自衛隊の話がチラチラ出てきましたね」と振られた岸井が以下のとおり、いつもの流れに戻し、いつものレベルにまで質を落とした。「いや、一気に出てきましたね。特に新しい安保法制ができましたんでね、いつでもどこでも(新法が)施行されればですよ、アメリカの要請に応じて自衛隊を派遣するっていうことができるようになったわけです。 その前段階でアメリカが言っているのは、合同パトロールとか合同訓練をあの南シナ海でやりましょうっていう話があるんですよ、内々、そこへホントに出すのかどうかね。 そうすると、したたかな中国はおそらくアメリカに対する行動と日本の自衛隊に対する行動はおそらく分けてくると思うんです、分断を狙って。その時、本当に対応できるのか、とちょっと心配です」 この直後にCMへ。 せっかく西崎と田中が示した見識を木っ端微塵にぶち壊した。前掲拙著で詳論したとおり、「新しい安保法制」と南シナ海問題は直接関係しない。“古い安保法制”でも、要件を満たす限り「いつでもどこでも」自衛隊を派遣できる。 現に南シナ海でもどこでも、日米その他で共同訓練を繰り返してきた。掲載号発売中のいまも訓練中。岸井はまるで理解していない。批判すべき対象を間違えている 一週間前の同じ番組でも、同様の展開となった。NHK以下、他局が勝手にアメリカが中国の領有権を否定しているかのごとく報じるなか、TBSは正反対のスタンスで報じた(月刊『正論』一月号拙稿)。 この朝も「国際法では暗礁を埋め立てても領海と主張できないことになっているんですが、中国は」と解説し、埋め立ての現状を説明。「中国の海の軍事拠点ができるということになると、周辺の軍事バランスが一変してしまうのではと懸念されています」と紹介した。 司会の関口が、「(中国の主張や行動には)なんか無理があるように思うんですが、無理を続けてますね」と導入。それを岸井がこうぶち壊した。「私が一番気になっているのは、米軍の作戦継続のなかに、自衛隊の派遣による合同パトロールの検討に入ってるんですよね。 これは分かりませんよ。だけども日本や欧州に、あの~う豪州ですかね、オーストラリアに対しても要請するのかもしれませんけど、だけどこれはね、中国がそうなると、アメリカ軍と自衛隊に対する対応って分けてね、分断するような、そういうしたたかさが中国はあると思うんで、よほど派遣については慎重に考えないといけない」 日本語表現の稚拙さは咎めない。ここでも問題は、コメントの中身だ。 岸井に問う。牽制すべき対象は安倍政権による自衛隊派遣ではなく、中国による埋め立てや海洋進出の動きではないのか。岸井は批判すべき対象を間違えている。国際法や世界の常識を無視国際法や世界の常識を無視 九月十三日放送の同番組でも、こう放言した。「集団的自衛権という言葉が悪い。一緒になって自衛することだと思っている(国民がいる)が、違うんですね。他国(防衛)なんです。(法案を)撤回か廃案にするべき」「集団的自衛権」は国連憲章にも(英語等の公用語で)書かれた世界共通の言葉であり、岸井のコメントは外国語に翻訳不可能。国際法や世界の常識に反している。「悪い」のは「集団的自衛権という言葉」ではなく、彼の知力であろう。善悪を判断する知性を欠いている。 その翌週も凄かった。「どう考えても採決は無効ですね」「憲法違反の法律を与党が数の力で押し切った」と明言。こう締めた。「これが後悔になっちゃいけないなと思うことは、メディアが法制の本質や危険性をちゃんと国民に伝えているのかな、と。いまだに政府与党のいうとおり、日本のためだと思い込んでいる人たちがまだまだいるんですよ。 この法制ってそうじゃないんですよ。他国のためなんです。紛争を解決するためなんです。それだけ自衛隊のリスクが高まっていく(以下略)」。 まだ、批判報道が足りないらしい。どこまで批判すれば気が済むのか。新法制は「存立危機事態」の要件を明記した(その後の与野党合意で、例外なく事前の国会承認ともなった)。その経緯を無視した独善である。前述のとおり、外国語に翻訳不能な暴論である。もし、彼が本気で「自衛隊のリスク」を心配するなら、別のコメントになるはずだ。 よりリスクの高い国連PKO活動拡大の「本質や危険性をちゃんと国民に」伝えたはずだ。国連PKOが「日本のため」ではなく、「他国のため」ないし「紛争を解決するため」であり、「自衛隊のリスクが高まっていく」と訴えたはずである。 だが、岸井は決してそうは言わない。国民が自衛隊のPKO派遣を評価しているからである。視聴者に“受けない”論点を避け、「集団的自衛権」や「後方支援」だけを咎める。自らは安全な場所にいながら、「危険(リスク)を顧みず」と誓約した「自衛官のリスク」を安倍批判や法制批判で用いる。実に卑怯な論法ではないか。卑怯な「平和国家」論 十月十一日の同番組でも、岸井は「平和国家のイメージが損なわれるだけじゃなくて日本自身が紛争当事国になる」「テロのターゲットになるリスクも抱え込む」と視聴者の不安を煽った。 百歩譲って、そのリスクがあるとしよう。ならば訊く。リスクは欧米諸国に負担させ、自らは決して背負わない。そんな卑怯な「平和国家」とやらに価値があるのか。 岸井の説く「平和(主義)」は美しくない。不潔である。腐臭が漂う。 一九九二年六月九日、国連PKO協力法案が参議院を通過した。自衛隊のPKO派遣はここから始まる。その当時、翌朝の毎日新聞に岸井はこう書いた。「こうした政治の現状に目をつぶることはできない。不健全なシステムの中で決定されるPKO法案は、国民の信頼を得られないばかりか、国際的な理解を得ることもできないだろうということだ」 その後、どうなったか。自衛隊は見事に任務を完遂。PKO派遣に対する国民の理解は深まった。国際的にも高い評価を得ている。 そもそも「全国民を代表する選挙された議員」(憲法四十三条)で組織された国会を通過成立した法案なのに、「国民の信頼を得られない」と明記する感覚を共有できない。岸井の姿勢こそ、憲法と民主主義への冒瀆ではないのか。 以上の疑問は、すべて岸井の安保法制批判に当てはまる。“TBSの顔”がいくら「憲法違反」「採決は無効」と言おうが、事実と歴史が反証となろう。 今後、安倍政権の安保関連政策は(中国と北朝鮮を除き)内外から高い評価を得るに違いない。そうなったら岸井は何も言わず、きっと口を拭う。頬かむりを決め込む。PKO派遣についてそうしたように。 以上、すべてTBSの看板番組である。多くの視聴者が違和感を覚えたのであろう。 九月三十日、武田信二社長が「『一方に偏っていた』という指摘があることも知っているが、公平・公正に報道していると思っている」と会見した。社長は自局の番組を見ているのだろうか。 テレビは、「政治的に公平」「事実をまげない」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」を求めた放送法を順守してほしい。新聞一面広告で指弾さる新聞一面広告で指弾さる 同じ疑問を抱いたのは、私一人ではなかったと見える。「私達は、違法な報道を見逃しません。」──こう大書した意見広告が、十一月十四日付産経新聞朝刊に掲載された。九月十六日の「NEWS23」で、岸井アンカーが「(安保法案の)廃案」を主張した点を指弾した全面広告だ。 ただし、岸井の問題発言は右に留まらない。「廃案」どころか、九月六日の「サンデーモーニング」では、「潔く成立を断念し、一から出直すべき」「これを通すことは容認できない」とドヤ顔で明言した。その他、ほぼ毎週、言いたい放題を続けている。 どうせ岸井には馬耳東風であろう。NHKの「やらせ報道」を巡り、十一月九日の「NEWS23」で「不当な政治介入との指摘は免れない。そもそも放送法っていうのは権力から放送の独立を守るっていうのが趣旨ですから、その趣旨をはき違えないでほしい」とコメント。NHKではなく、逆に政府与党を批判した。 きっと、自身の「重大な違反行為」(意見広告)についても同様のロジックを掲げて逆ギレするに違いない。岸井の放言、暴言、暴走は留まるところを知らない。追記 なお今回、この原稿を書くに当たり、『WiLL』編集部から岸井編集特別委員(兼アンカー兼コメンテーターその他)にインタビューを申し込んだが、許諾を得られなかった。おそらく、前掲拙著などが災いしたのであろう。もし実現していれば、以上の諸点について見解を求める所存だったが叶わなかった。意見広告に対する番組での言及もない。残念である。(本文敬称略) 

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    政治がTV局に圧力 かつて久米宏のテレ朝やNHKは戦った

    しかし、テレビ局はそれに抵抗してきた。 自民党はスキャンダルで支持率が大きく落ち込んだ森内閣時代に「メディア規制3法案」と呼ばれた個人情報保護法案、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法案を推進したが、それに対して民放連、NHK、日本新聞協会、日弁連などがスクラムを組んで反対運動を展開した。 そして安倍氏が幹事長に就任すると、テレビ局と全面的にぶつかった。2003年総選挙で民主党が投票日の5日前に政権を取った場合の閣僚予定名簿を公表すると、テレビ朝日のニュースステーションが大きく報じた。安倍氏はそれを「政治的公平に反する」と批判して同社の選挙特番に党幹部の出演を拒否したのだ。第44回ギャラクシー賞のラジオ部門を受賞したフリーキャスターの久米宏 =2007年5月31日、東京・三田 (撮影・北野浩之) 自民党は当時から、党本部でキー局の番組を録画し、ワイドショーや報道番組での自民党と野党の取り扱い時間を比較して「公正性」をチェックする体制をとって圧力をかけた。それでも、テレビ朝日はキャスターである久米宏氏を降板させることはなかった。 NHKも戦った。第1次安倍内閣時代、総務大臣だった菅義偉・現官房長官がNHKに国際放送(短波)の番組で「拉致問題で日本政府の毅然とした姿勢を示す」という異例の命令を出した。放送法では国が費用を負担する国際放送について政府の命令を認めているが、政権が具体的な番組内容まで介入したのは初めてだった。このときNHKが加盟する日本新聞協会は「報道・放送の自由を侵すおそれがある」と重大な懸念を表明した。 それがいまやテレビ局は、先の衆院選前に自民党から「報道の公平・中立」を申し入れる圧力文書を突きつけられても「言論弾圧の証拠だ」と公表して反撃することさえできなくなった。 だから自民党からは完全に舐められ、自民党幹部は、古舘、岸井、国谷の3氏の降板も、「こちらがクビを切れといわなくても、各局の上層部が官邸の顔色をうかがって降板させてくれた」と笑っているのだ。関連記事■24時間テレビ 計33回の放送で合計募金総額は291億円超■顎関節症から復帰の日テレ宮崎アナ 妙なところで評価あがる■自民党執行部 党内やメディアに厳重な「言論戒厳令」を敷いた■SAPIO連載・業田良家4コマ漫画【1/2】「勝敗ライン」■「TV局を減らせ」と説く元業界人がTV界の現状を描いた書

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    櫻井よしこさんへエール!

    櫻井よしこさんは、あの優しい笑顔からは想像もできない、火のような怒りを持つジャーナリストである。また、どんな相手にも、どんなタブーに対しても、一度も怯んだことがない。あの優しい笑顔の奥に、どれだけの闘志と、正義感と、そして日本を愛する心を秘めているのか。

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    櫻井よしこ氏に聞く「これからの日本の進むべき道」

    んだ情報を出している。これが、若い人達をいたずらに不安に駆り立てている。間違っていると思います、今のメディアの伝え方が。」細川「正しい情報が得られないで、若い人達が、なんとなくそうなるのではないかという、感覚的なことや、印象論で反対しているというのが多いと思うんです。実際には、例えば中国が、日中の境界線にあるガス田でプラットフォームを作っている。そういう脅威が具体的にあるという中で、安保法制がやるべきことの一つだろうというふうに思います。やはり中国の動きだけではないけれども、日本を取り巻く国際情勢の中で起きていることに対して、きちんと対応を取ることが、今安倍政権が求められている、と考えた方がいいわけですよね。」憲法に書かれている価値観を体現している人は鳩山由紀夫さん 日本政府が公開した中国による東シナ海でのガス田開発の写真(防衛省提供)櫻井「そのとおりだと思いますね。国というものがどういった要素によって支えられているのかというと、まず経済力がないといけませんよね、そしてもう一つ、軍事力がないといけませんよね。どの国も経済と軍事という、この車の両輪に支えられて、その上に政治が成り立ち、外交が成り立っているんですね。日本はこの軍事という意味においては、本当に、実力があるかもしれませんけれども、法律的にこれを使うことができないようにしているわけで、それを今回少し緩めるというのは、今珠生さんがおっしゃったように、日本の周りの安全保障の環境がガラっと変わっちゃったわけでしょ、だって今までは、アメリカがとにかく守ってくれるという体制があった。ところがそのアメリカが、2年ほど前からですね、「もう僕たちは世界の警察官じゃないんだよ。」と、「だからみんな一人ひとり自分でやってよ」という風に、オバマ大統領が「アメリカは世界の警察官ではない。」という演説をしましたよね。「軍事介入はしない」という演説をしたわけですね。そしてそれを見た中国、そしてロシアが、アメリカが出てこないんであるならば我々にとって好都合だと、力による実行支配を強めていこうというので、このオバマ演説の半年後に起きたのが、クリミア半島の併合ですよね。ちょうどその頃から、南シナ海で中国が闇雲に、島の埋め立てを始めたわけですね。最初は、平和利用だとか、漁民のためとか、そしてアメリカに対しても、埋め立てた島を一緒に使いましょうなどと言っていたのが、ある程度埋め立てが終わってしまって、逆立ちしてもアメリカが止めることができないという時になったら、軍事使用も有り得ると、言い始めたわけですね。ちょうど同じ頃から、東シナ海の、さっき珠生さんが仰った、日中の中間線の、中国側ですけれども、ちょっと中国側に入ったところで、12もの新しいプラットフォームを作って、昔のものも合わせると16になったんですね。これは、軍事転用された場合は、日本にとっては大変な脅威になるんですね。だからそのことを考えるとですね、中国は尖閣諸島も取りに来ていますし、沖縄も、中国の領土だとも、そういった論文がどんどん出ていますね。そのようなことも考えると、アメリカが後ろ向きになり、中国がどんどん膨張し始めている、そのなかで、日本国を、そして日本国民をどう守るのかということになると、経済力だけではダメですから、ある程度力を使えるようにしておかなければならない。ただこの使い方は、さっきから繰り返し言いますけれども、「侵略」なんてことは絶対にできないようになっている。危ないことが起きた時に日本を守るという意味の抑止力を作るという意味で、安倍さんはなさっているんだと思います。このような状況のなかで、安保法制を変えようとしない内閣がいるとしたら、それこそ無責任だと思いますよ。」細川「そうですね。安保法制もそうですが、中国の問題も、それからクリミア半島併合したロシアも、北方領土への実効支配もどんどん強めて、韓国も竹島での実効支配を強めています。戦後70年経って、いろんなことが落ち着いたかのように、談話も発表されてですね、謝罪というのが一つの区切りもついて、良かったなと思う一方、でも日本は実は、意外にというか、気がつかないうちに、どんどん“侵略的”なことをされている。平和で70年来ましたけれども、そういうことに無関心でいた日本国民というのは、やっぱり行き着くところは、憲法の、過剰なまでの平和主義といいますが、そういったものが、大きく影響しているんだと思うんですね。」櫻井「戦後の価値観を、憲法に書かれている価値観を、もっともわかりやすく体現している人は、誰かと考えたら、鳩山由紀夫さんだと思うんです。韓国に行って、土下座をした。新聞が写真を載せましたけれども、あの方はこちらが謝り、こちらが平和的な態度をとれば何でも解決するという風に考えてらっしゃる。善意でああいうことをなさったと思うんですね。でもああいうことをなさっても、じゃあ韓国がどういうふうに譲ってくれるかということは、ないわけですよね。で、岡田克也さんも韓国に行って、二重外交した。先週は、安倍談話について、なぜ自分の言葉として、自身の思いとして「侵略」とか「反省」とかを安倍総理が言わなかったのかと言いました。その路線を辿って行くとこれも、鳩山さんの土下座に行き着くと思うんです。今私たちは、民主党、鳩山さんは元民主党ですけれども、民主党路線の、土下座をする方向にいくのか、それとも積極的平和外交でそれなりの役割を果たしながら、日本としての立場を守っていくのかの、この2つの選択だと思います。どっちを選ぶかと言われたら、答えは明らかです。」細川「そうですね。それがまさに、岐路っていうことになるんですけれども、謝るだけでもだめだし、きちんと国としての体制を整える、そういうことが、今日本が求められている、日本の国内ももちろん、国際社会でもそう。戦後70年を迎え、これからの子供達が生きていく社会は、そういうことを意識して、彼らのためにもそういう社会を今作ってあげる、大人たちが意識していかなければならないですね。」櫻井「まったく同感です。」(この記事は、ラジオ日本「細川珠生のモーニングトーク」2015年8月15、22日放送 の内容を、ゲスト本人の了解の下再現したものです)「細川珠生のモーニングトーク」ラジオ日本 毎週土曜日午前7時05分~7時20分ラジオ日本HP http://www.jorf.co.jp/index.php細川珠生公式HP http://www.cheering.net/tamao/#細川珠生ブログ  http://tamao-hosokawa.kireiblog.excite.co.jp/

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    櫻井よしこさんの心棒は驚きの強さとしなやかさ

    町田康(小説家、ミュージシャン)【本の話をしよう】 私は読み狂人、明け方から暮れ方、深夜深更にいたるまで読んで読んで読みまくった挙げ句、読みに狂いて黄泉の兇刃に倒れたる者。そんな読み狂人の私が考えるのは、人間の心棒、ということである。曲がったり折れたり、難しい これは読み狂人が20年くらい前にたてた仮説なのだけれども、人間が働いて銭を儲け、人と共同して生きていけるのは人間にある種の心棒が入っているからで、その心棒が入っていないと人はぐずぐずに崩れ落ち、あるいは、ガソリンスタンドの前においてある風船人形のように風をはらんで意味不明な動作を繰り返し、滅亡没落してしまうのではないか、と読み狂人は思うのである。 その心棒は生まれながらに入っているのではなく、言葉がわかるようになった後、親や学校の先生に入れてもらって初めて入る。どういうことかと言うと、向こうからバッグを持った女性が歩いてきたとする。そのバッグはとても素敵なバッグでどうしても自分も持ちたくなった。そこで、落ちていた棒を拾い、すれ違い様、女性の頭を棒で殴って昏倒せしめ、その隙にバッグを奪う、というようなことをする人はほとんどいない。なぜなら、「人を傷つけてはならない」「盗んではならない」という心棒を子供のうちに入れられているからである。皇室制度についてのヒアリングに臨んだジャーナリストの櫻井よしこ氏 しかし、心棒というものは難しいもので、グニャグニャのいい加減な心棒だったり、粗悪な心棒だったりすると、すぐに曲がったり折れたりして、「少しくらいなら殴ってもいいか」となるし、かといってやたらと太くて固く、容易に曲がらない心棒だと身体が突っ張らかって人の通行の邪魔になるなど、逆に世の中の迷惑になることもある。 また、ある年齢になると、心棒の維持・管理、経年劣化した心棒の補修・交換などを自分の責任でやらなくてはならなくなるが、それがうまくいかずに心棒が曲がることもあるし、誤って変妙な心棒を入れてしまうことだってある。読み狂人などはその口で、変な心棒が山ほど入って、あまりにもおかしげな格好になっているので、人目を避けて物陰を移動しているようなていたらくである。著名人にもある無名の時代 なんて私のことなどはどうでもよいが、そうして心棒のことを思ったのは、『何があっても大丈夫』を読んだからである。著者の櫻井よし子さんは著名なジャーナリストであるが、読み狂人が物心ついた頃には、既に著名で、著名ということはみなが知っているということで、したがってその人が著名になる過程を敢えて言う人もなく、また、いまのようになんでも検索する時代でもなかったので、読み狂人はいまにいたるまで、その人の経歴を知らぬまま、ときに新聞やテレビなどでその意見に耳を傾けてきた。 ところが、この自伝、または自伝的な作品を読むと、当たり前の話だが、著者にも無名の時代があり、さらには、学生時代、幼年時代もある。まあ、それを綴ってあるから自伝なのだけれども、驚いたのは、その心棒の強さとしなやかさで、普通の人間であれば、まず間違いなく心棒が屈折するような局面、はっきり言っていまの人間だったら、大曲がりに曲がってしまうような局面で屈折も屈曲もせず、心棒を維持して生きる様に驚く。また、小説家であれば、あるいは小説家でなくても、その苦しい様子を、大喜びで、これでもかというくらい執拗に、ブルース風味で描くところを、この本の場合、まったくそっち方面にいかないというのは、そうしないという心棒が作者に入っているからであるように思う。 というと、どんな心棒なのだろうか、と思うが、言って気持ちがいい、耳にして心地よい、しかし、グニャグニャで真の危機の際にはあまり役に立たない心棒が大量に流通消費されるいま、自伝であると同時に、この本を読んだ体験がひとつの心棒になるような感じも読み狂人にはあった。心棒を失した、グニャグニャのあほながら、あった。まちだ・こう 1962年、大阪府生まれ。81年、町田町蔵名義でパンクバンド「INU」のボーカリストとしてデビュー。96年には町田康として処女小説『くっすん大黒』(文芸春秋)で文壇デビュー。2000年に『きれぎれ』(文芸春秋)で第123回芥川賞受賞。近刊に橋本治らとのアンソロジー『12星座小説集』(講談社)。

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    「櫻井よしこ」は日本の宝

    のお粗末〉〈朝日新聞「人権報道」に疑義あり〉〈農協は農民の味方か敵か〉〈事実へのこだわりを忘れた巨大メディア〉〈年金資金を食い潰す官僚の無責任〉〈沖縄問題で地元紙報道への大疑問〉〈人権を弄ぶ人権派の罪〉……等々、今も思わず、読み込んでみたくなるものばかりだ。 私は、このシリーズが終わってからも、櫻井さんと共に、台湾の李登輝総統や、次の陳水扁総統、あるいは、まだソウル市長時代の李明博(のちの韓国大統領)といった要人のインタビューに赴くなど、貴重な体験をさせてもらった。真実を追求しようという櫻井さんの態度は一貫しており、いつも感心させられた。ドリーマーvsリアリスト 櫻井さんは、あの優しい笑顔からは想像もできない、火のような怒りを持つジャーナリストである。日本には、不幸なことだが、事実に基づかないまま、「日本」を貶めようという不思議な人々がいる。自分たちを「リベラル」と称し、過去の歴史を直視する、などと言いながら、実際には、真実を確かめることなく、日本を貶めることに邁進している人々である。 櫻井さんのように、真実を追求しつづけるジャーナリストには、そのことが、どうしても理解できない。しかし、彼らを追及することは、朝日新聞をはじめ巨大メディアを「敵にまわす」ことを意味する。 しかし、櫻井さんは、どんな「相手」に対しても、また、どんな「タブー」に対しても、一度も怯んだことがなかった。あの優しい笑顔の奥に、どれだけの闘志と、正義感と、そして日本を愛する心を、秘めているのかを思って、私はいつも勇気づけられた。ドリーマーvsリアリスト 櫻井さんの特徴は、その怒りと共に「繊細さ」と「優しさ」にある。どんな時も、きめこまかな気配りと、優しく繊細な視線を忘れないことだ。 血友病エイズ患者や北朝鮮拉致被害者のご家族のために、すべてを擲って協力する姿には、心を打たれる。 もう恒例となった日比谷公会堂でおこなわれる「北朝鮮拉致被害者救済のための国民大集会」で、いつも総合司会に立つのは、櫻井さんである。 何をおいても駆けつけて、ご家族と哀しみを共有するのが、櫻井さんだ。最も苦しんでいる方に、優しい言葉をかけ、哀しみを分かち合うことは、簡単なことではない。血友病エイズ患者や北朝鮮拉致被害者のご家族に対して、ここまで親身になって活動を支えようとするジャーナリストを、私はほかに知らない。記事に書くときだけ同情したふりをする新聞記者たちとの決定的な「差」がそこにある。 私は、今の日本は、「ドリーマー(空想家、夢想家)」と「リアリスト(現実を見る人)」との対立の時代だと思っている。 ドリーマーとは、現実には決して目を向けず、観念論や抽象論だけをふりかざし、いまだに「左」と「右」の対立でしか物が見えない単一思考の人間たちである。 彼らの特徴は、物事を自分の身に置き換えて考えることをせず、いつも他人事として突き放す点にある。日本にどんな危機が迫ろうが、観念論と抽象論に浸りきった彼らには、なんの関係もない。そのドリーマーが、マスコミで驚くほど多いことも、また事実だ。 そんな中で、真実を見つめる“勇気のジャーナリスト”櫻井さんの役割と責任は、増えることはあっても、減ることはない。年を経るごとに、その思いが強くなる。 日本がドリーマーたちによっておかしくなろうとする時、必ず立ちはだかってくれるのが、櫻井さんである。 多くの国民が、そのたびにハッとさせられているのではないだろうか。その意味で、櫻井よしこさんは、間違いなく“日本の宝”である、と私は思っている。かどた・りゅうしょう 1958年、高知県安芸市生まれ。中央大卒業後、新潮社に入社。週刊新潮編集部に配属され、以後、記者、デスク、次長、副部長を経て、2008年4月に独立。『甲子園への遺言—伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』(講談社)や『なぜ君は絶望と闘えたのか—本村洋の3300日』(新潮社)など著書多数。

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    櫻井よしこ氏 首相の靖国参拝正常に戻すのが日本を勁くする

    * * * 中韓の仕掛けてくる歴史認識批判だけでなく、それに追随する朝日新聞をはじめとするリベラルなメディアのまやかしに心を動かされることなく、それを正面から受けとめ論破する気持ちを持ちたいものです。 本当に恐ろしいのは、中国や韓国の歴史宣伝に惑わされて精神的に屈することです。日本人としての誇りを失うことが、日本国と日本人の平和と安全を危うくすることにつながると思います。終戦記念日を迎え、多くの参拝者が訪れた靖国神社の境内=東京・九段北 安倍晋三首相が、静かに、しかし堂々と靖国神社を参拝し、そのことを国民も靖国問題を深く考える契機としてほしいと思います。 参拝の時期は、8月15日でなくても一向にかまわないと思います。むしろ神道にとって大切な春と秋の例大祭(靖国神社では4月21~23日、10月17~20日に執り行われる)に参拝するほうが適切かもしれません。 思えばA級戦犯の合祀は1978年秋の例大祭の直前に行われ、新聞に報じられたのは1979年春でした。 時の大平正芳首相は1979年の春と秋、1980年の春にも靖国神社を参拝しましたが、中国や韓国の批判は一切ありませんでした。それどころか、1979年12月の中国訪問では中国側から大歓迎を受けました。 敬虔なクリスチャンである大平首相が例大祭に靖国神社を参拝したのは、靖国神社が宗教の枠を超えた大切な慰霊の場であり、参拝は日本の首相にとして当然の責務であると認識していたからでしょう。 その頃のように首相の靖国参拝を正常な状態に戻すことが、日本人が日本人らしさを取り戻し、日本を勁(つよ)くする第一歩だと思います。 安倍首相が今年、その大切な一歩を踏み出してくれることを大いに期待しています。関連記事■ 小林よしのりが靖国神社の本質を歴史を紐解きつつ熱く語る本■ 櫻井よしこ氏 首相の靖国参拝妨害者の存在はおかしいと指摘■ 神社本庁、新宗連、幸福の科学等首相の靖国参拝への見解紹介■ ブッシュ元大統領 靖国参拝申し出たが日本側が明治神宮変更■ 櫻井よしこ氏 靖国参拝を軍国主義に結びつける非難は間違い

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    櫻井よしこ氏 日本は軍事力より「利他の精神」で国際貢献を

     本来、外交上手だった日本人だが、近年は中国や韓国の暴走を許し、ロシアとの北方領土交渉も暗礁に乗り上げるなど、“敗戦”続きとなっている。ジャーナリストの櫻井よしこ氏が、日本が「強い外交」を取り戻すための処方箋を提案する。* * * ここまで外交下手になったいまの日本に外交力を取り戻すことはできるのでしょうか。  アメリカがオバマ政権の下で後退を続け、その隙をつく形で中国やロシアが影響力を増し、我々とは相いれない価値観に基づいた世界秩序の構築を目論んでいます。この両国の動きをよく見て、アメリカの消極姿勢が日本にもたらす負の影響の深刻さを認識すること、脅威の認識がまず第一に必要です。日本人の命を守るのは日本国政府でなければならない、日本国を守るのも日本国政府でなければならないという世界の常識に立ち戻ることです。 そのうえで、具体的にどのように外交力を再生していけるのかと考えれば、日本の根底を成してきた価値観を高く掲げ続けることだと思います。日本が国際的に貢献する方法は軍事力よりも、日本らしい価値観を活かすことです。  例えばODAは、「無駄遣い」と批判されることもありますが、その根底にある精神はとても日本的です。日本のODAは、現地に技術指導者を派遣し、現地の人材を雇用して彼らに技術を伝承し、育てるものです。「魚を与えるよりも魚の獲り方を教える」という理想的な貢献です。日本のODAに失敗例がないとは言いませんが、よく見れば、現地の人々の生活を向上させようという「利他の精神」が貫かれていると思います。  それに比して中国のODAは、お金は出すけれども技術は教えず、労働者も中国から連れていくために、現地の人々の技術修得にも雇用にもつながりません。それどころか中国人労働者がそのまま住み着いてしまい、現地の人々にとって脅威となっています。  かつて日本は台湾を植民地にしました。いまの価値観では植民地など肯定できませんが、それでもその当時、日本が台湾で真っ先にしたのは、学校作りでした。植民地統治を学校作りから始めた国は日本以外にはありません。そこに通底していたのが美しき「利他の精神」であり、そのことを感じとっているために、台湾の人々はいまも親日感情を抱いていると思います。  ノーベル医学・生理学賞を受賞した大村智・北里大学特別栄誉教授は「人のためにならなくては、といつも考えていた」と語りました。3年前にノーベル医学・生理学賞を受賞した山中伸弥・京都大学iPS細胞研究所所長もやはり「人のために」がモットーです。  利他の精神ゆえに台湾が親日的になったように、今後もそうした日本らしい価値観を基礎にした国際貢献を拡大していくことが肝要です。関連記事■ 尖閣問題で中国“漁民”を釈放すべきではなかったと李登輝氏■ 蓮舫大臣 北京留学で中国語上達せずバスケの練習に打ち込む■ 金美齢氏 馬英九政権続けば台湾は中国に吸収との危惧広まる■ 中国は自国の地図で「尖閣諸島は日本領土」と明記していた■ 日本統治下の台湾の風刺漫画で当時の日本への思いを解する本

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    ニフティ法務部長でも迷うネットの「削除要請」

    丸橋 透(ニフティ株式会社理事・法務部長) いわゆる「忘れられる権利」は、グーグルに検索結果の削除を命じた欧州司法裁判所判決を契機として注目され、主に検索エンジンに対し削除請求する局面で語られている。氏名など特定の人物を示す検索語により検索した結果であるタイトル、スニペット、検索先ウェブサイトのURLを非表示(又は当該ウェブサイトを検索対象からの排除)とすることを請求するものである。 しかし、EUの個人情報保護法制は検索エンジンに特化して個人データの消去(削除)権を定めている訳ではなく、あらゆる個人が一定の場合に自己の個人データの消去を請求する広範な権利を与えているものである。この消去請求権を強化するものがいわゆる「忘れられる権利」である。 プライバシー侵害により消去を求める場合、わが国の民事法制上の根拠は、個人の人格権に基づく妨害排除請求(差止請求)権である。このうち「忘れられる権利」の行使に相当するのは、自身の過去の犯罪、行政処分その他の不名誉な行状に関する報道やそのコピー、行状に対する論評記事に対して削除を求めるものといえよう。 削除を求める根拠は、犯罪、行政処分その他の行状に関する報道等が当時は合法だったとしても、時の経過があり当時の正当性は無くなっている、更正が妨げられている等、現時点では人格権を侵害しているというものである。 ニフティも検索サービスを提供しており、まれに検索結果の非表示を請求されることがあるが、ニフティに対する請求のほとんどは、ホームページやブログの記事に対する削除請求である。 プロバイダとしてのニフティは、裁判例やプロバイダ責任制限法ガイドライン等検討協議会の定める名誉毀損・プライバシー関係ガイドラインを参考にして日々削除請求に対応しているが、「忘れられる権利」の行使に相当する削除請求を認めるかどうかの判断は難しい。同ガイドラインに参照されている裁判例で直接参考になるのは12年前の傷害の前科をノンフィクション作品として取り上げたことが権利侵害にあたるとした「逆転」事件だけである。この事件の高裁判決は、犯行後相当の年月が経過し、犯人に対する刑の執行も終わったときは、その前科に関する情報は、原則として、未公開の情報と同様、正当な社会的関心の対象外のものとして取り扱われるべきであり、実名による犯罪事実の指摘・公表は、特段の事由がない限りプライバシーの侵害として許されないとする。削除「される」「されない」プロバイダの判断は そこで、ニフティでは、事件報道から3年の目安で削除の可否を一応判断しつつ、犯罪が重大かどうか、公人による犯罪や法令違反かどうか等を加味して正当な社会的関心が失われているかどうかを判断することとしている。ボーダーライン上の案件では、ブログ等の開設者に意見照会し、開設者からの反論を踏まえて判断するが、開設者が特に意見も無くニュース記事をクリッピングしていることも多く、その場合は、自主的に削除することが多い。以下、2事例を紹介する。 <削除された事例> 3年前に器物損壊罪で逮捕された請求者の氏名がブログ記事に掲載されていたことから、プライバシー侵害として削除請求があり、ニフティから開設者に対して意見照会を実施した。開設者が自主的に削除を行なわなかったことから、会員規約違反としてニフティにて当該記事の送信防止措置を行った。 <削除されなかった事例> ブログ記事に、インサイダー取引により逮捕された請求者の氏名、当時の勤務先が掲載されていたことから、プライバシー侵害として削除請求があった。請求者からは、逮捕後の刑事裁判にて懲役○年○月、執行猶予○年○月の判決が確定しており、当該記事があることで更生の妨げになっているとの主張があったが、逮捕からそれほど期間(1年半)を経過していないことから、ニフティでは削除は行わないこととした。 ニフティへの削除請求はフォームや文書により受け付けているが、2015年中の「忘れられる権利」の行使に相当するものはフォームでは約50件、その3割が削除され、文書では約30件、その半数が削除された。ニフティまたはユーザにより削除されなかったものは、当初の報道から3年を経過していないものが多く、その他は行政処分事実や重大犯罪に関する記事である。 いわゆる「忘れられる権利」に相当する人格権侵害の裁判例が少ない中、決して少なく無い過去記事の削除請求に対処するのは容易では無い。 しかし、EU型の広範な個人データの消去権をベースとして、わが国の「忘れられる権利」のルール化を検討するのは無理がある。時の経過という要素が共通だとしてもその他の法制度の状況が違いすぎるからである。 今後の裁判例の積み重ねにより、犯罪を含む過去の行状に対する正当な社会的関心が失われ忘れられるべき=削除されるべき条件についてより明確になることを期待している。できれば、名誉毀損・プライバシー関係ガイドラインに明記されるのが望ましい。それまでプロバイダとしては案件の一つ一つに迷いながら対処していく他は無い。裁判所の判断を仰ぐべき事案が多くなることも覚悟している。

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    15歳の少女はなぜ命を絶ったのか ネット検索で救われなかった人

    w)」が州知事の署名を受けて承認されている。同法は、FacebookやTwitterなどのソーシャルメディア大手に義務づけられており、2015年1月1日に施行されている。早速FacebookやTwitterは同法に対応したサービスを提供している。 検索結果によって苦しめられている若者は多い。たとえば次のような例が起きた。2013年、某飲食店のアルバイトA君は、冷蔵庫に入り込んだ写真をTwitterに投稿。A君の本名や在籍校などがすぐに突き止められ、炎上する騒ぎとなった。その結果店舗は休業、A君は解雇され、損害賠償請求される羽目になってしまった。A君はショックで引きこもり状態となったと言われている。 炎上事件を起こすと、“特定班”などと呼ばれるネットの住人たちによって個人を特定されてしまう。そして、本名や顔写真、在籍校、住所や家族などの個人情報をインターネット上に公開されてしまう。その結果、名前で検索すると炎上事件と個人情報が表示される羽目になる。事件から2年半経った現在も、A君の本名で検索すると炎上事件やA君の個人情報が表示されている。問題ある投稿はしない姿勢が大切 どのような若者達がこのような状態になるかご存じだろうか。炎上が起きるのは、上記のような“バイトテロ”以外にも、他人を盗撮したり、未成年飲酒をしたり、線路に立ち入ったり、キセル行為をしたりなどの違法行為、迷惑行為や他人が不快に思う行為などをした場合に起きることが多い。 しかし中には、レイプをした人の擁護ととれる発言をしただけで炎上し、内定取り消し処分されてしまった人もいる。動画配信をしていた時、ゲームの違法ダウンロードを告白してしまい、炎上して個人情報をさらされる羽目になった小学生もいる。確かに彼らは“悪いこと”をした。しかし、彼らは既に多くの罰を受けている。事件から数年経った今でも名前を検索すると炎上事件と個人情報が見つかる事態は、彼らの罪と見合うのだろうか。問題ある投稿はしない姿勢が大切 「忘れられる権利」が浸透することで、彼らが自分の過去から逃れられる可能性が出てくるのは喜ばしいことだ。ただし、「忘れられる権利」が徹底したとしても、残念ながらそれで彼らが完全に救われるとは限らない。たとえば次のような例がある。 カナダの15歳の少女アマンダ・トッドさんは、2012年9月にYouTubeに学校とFacebookでいじめを受けていた実態を告白する動画を投稿。その一カ月後、16歳の誕生日を前に自殺してしまった。彼女は中学1年生の時にウェブカメラでチャットをするようになり、そこで知り合った相手に褒められて、請われるままにトップレスになってしまう。1年後、知らない男性がFacebookを通じて彼女を脅迫し、トップレス写真をばらまいてしまったのだ。アマンダさんはショックでうつ病やパニック障害を患い、引っ越ししたがいじめは続いた。アマンダ・トッドさんを悼むFacebookページ アマンダさんの問題は、中学1年生の時に悪意を持った相手にトップレスの写真が渡ってしまい、多くの人にばらまかれたことから始まった。このように、写真などを個々人が保存・コピーしてしまうと、削除しても再アップロードされてしまい、いたちごっこ状態となってしまう。つまり、「忘れられる権利」だけでは、事実上消すことはできなくなってしまうのだ。 「忘れられる権利」が浸透するのは、炎上事件を起こした若者たちにとって救済措置になる可能性がある。しかし、それ以上に大切なのは、そもそも問題ある写真や投稿はしないなどの基本的な情報リテラシーを身に付けることだろう。現状でもプロバイダ制限責任法により削除依頼は可能なので、インターネット上からできる限り問題ある情報を削除する努力も必要だ。若者達が若気のいたりで問題ある投稿などをしないよう、周囲の大人は見守ってあげてほしい。

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    死んでも消えないネットの噂 知っておきたいネットの権利

    神田知宏(弁護士・弁理士) 最近、「忘れられる権利」に関する記事を目にする機会が増えました。ただ、権利の意味や使われ方は、記事によってさまざまです。 まず、この言葉が日本で注目され始めたのは2012年ころです。EUデータ保護規則案で提唱された「the right to be forgotten」が翻訳され紹介されました。権利の内容としては、個人に関するデータをインターネットから削除するよう求める権利であり、請求相手は、Google等の検索事業者には限定されていません。 次に日本で「忘れられる権利」が大きく報道されたのは、2014年5月13日のEU司法裁判所が出した判決です。この判決は、検索事業者であるGoogleに対する、検索結果の削除請求を認めています。判決内では「right to be forgotten」という表現も使われています。この判決と報道の影響により、日本でも「忘れられる権利」といえば、Googleなどの検索事業者に対し、検索結果を削除請求できる権利、と認識する人が増えたのではないでしょうか。 日本の報道では、これらに加え、企業・個人に対する名誉毀損情報、個人に対するプライバシー侵害情報といった、違法情報の削除請求権についても、「忘れられる権利」と表現されているケースがあるように思います。 このように、まだ定義がしっかり定まっていない「忘れられる権利」ですが、どの定義で使う人でも、基本的な考え方は同じです。この権利の説明では「人の噂も七十五日」が枕詞のように引用されています。かつては、どんな噂も75日も過ぎれば話題に上らなくなるから、人の噂をいちいち気にする必要はない、と言われていました。これに対し、インターネットは決して忘れません。データと記録媒体のメンテナンスさえしっかりしていれば、半永久的に記録が残ります。インターネット以前は、他人に自分の情報を忘れてもらい、また、自分も他人の情報を忘れることで、人間関係や社会生活がうまく回っていた側面があったと思います。しかし、今ではインターネットが忘れないことで、人間関係にも社会生活にも歪みが生じています。もちろん、インターネットに情報が残り続けることで、精神的・肉体的に被害を受けている人も珍しくありません。これらの問題を解決すべく考え出されたのが「忘れられる権利」なのです。「忘れられる権利」日本の法律上の扱いは? そのため、まだ議論は十分でないものの、インターネット時代において、人が人として生きていくために不可欠な「新しい人権」だと捉えて良いと思います。社会科の教科書で紹介される日も近いことでしょう。 では、日本の法律上「忘れられる権利」はどのように扱われているのでしょうか。インターネットの名誉毀損情報、プライバシー情報を削除する権利は、法律的には「人格権に基く妨害排除請求権としての差止請求権(削除請求権)」だと理解されており、ことさら「忘れられる権利」という概念を使うまでもなく、削除請求ができると考えられてきました。人格権の中には、名誉権、プライバシー権、氏名権など、人格に由来する多様な権利が含まれており、消したい情報によって、どれか1つまたは複数の人格権を選び、削除請求をすることになります。そのため裁判所の判決・決定にも、「忘れられる権利」という表現を使うものはなかったと思います。 ところが最近、社会から「忘れられる権利」を有する、と明示した裁判所の決定が登場しました(さいたま地裁平成27年12月22日決定)。おそらく、人格権の1内容として「忘れられる権利」を位置付けているものと考えられますが、その内容は明確には記載されていません。ただ、裁判所の中に「忘れられる権利」の考え方が浸透してきたことの証左だと思います。 ところで、忘れられる権利は、インターネットにおける「表現の自由」やインターネットを使う人の「知る権利」と対立関係にあります。なぜなら、インターネットで何かを表現したい人の「表現の自由」や何かを調べたい人の「知る権利」に対し、「忘れられる権利」を行使し、その情報公表、情報取得を制限することになるからです。そのため、忘れられる権利の行使を認めるのか(表現の自由、知る権利が後退するのか)、それとも行使を認めないのか(表現の自由、知る権利を優先させるのか)という利益調整が常に必要となります。たとえ「忘れられる権利」という概念を肯定したとしても、その先には、この利益調整を誰が担当するのか、どのような基準で利益調整をするのか、という未解決の課題が待っています。最終的には裁判所が判断することになるのでしょうが、近時、インターネットでの人権侵害事案が増加の一途にあると法務省が公表し、裁判所からも、インターネット情報の削除請求がここ数年で著しく増えたとの情報が出ており、すべての問題を裁判所の判断に委ねることには限界があると感じます。 今後、ますますインターネットが発達し、インターネットによる人権侵害に悩む人も増えて来るはずです。そんな人たちを1人でも多く救えるよう、「忘れられる権利」の定義や使い方を考えていく必要があると思います。

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    グーグル検索なんてなければよかった

    1日、グーグルの時価総額がアップルを超え、世界首位に躍り出た。69兆円もの企業価値はまさにアメリカンドリームだが、グーグルはいま大きな悩みも抱える。人に知られたくない過去をネット上から消し去る「忘れられる権利」だ。ネット時代の新しい人権は「グーグル帝国」に影を落とす。

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    「忘れられる権利」とはなにか? プライバシー概念をめぐる各国の争い

     [サイバー空間の権力論]塚越健司 (学習院大学非常勤講師) 前回の連載ではブラジルのネット憲法とインターネットガバナンスの問題を取り上げた(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3892)。世界ではインターネットの管理・情報の透明性をめぐる議論が加熱している。そんな中、ネット社会の覇権を握っていると言っても...。ネット上に残る個人情報を削除する権利 忘れられる権利(Right to be forgotten)を一言で表せば、ネット上に残る過去の個人情報を削除する権利と言える。それらの中には、自らアップした過去の日記や別れた恋人との情報など、自身で管理可能なものもあるが、中には自分では削除できず、またネットに拡散してしまう情報などもある。一度ネットに上がったものは消えることがないものも多く、削除を希望する人も多い。 欧州ではプライベート情報を管理するための議論が以前から盛んであった。今から20年近く前の1995年、EUは「個人データ保護指令」と呼ばれる個人情報を保護するためのルールを制定した。これらは当時においても高レベルの個人情報保護を約束するものであったが、その後2012年にはデータ保護指令を改定する「データ保護規則案」を提案。2013年に可決し、今後1、2年をかけて成立させる予定である。このデータ保護規則案にこそ、現在話題となっている忘れられる権利が明記されているのだ。忘れられる権利を認めたEU司法裁判所の判決 2014年5月13日、EU司法裁判所はGoogleに対して、Googleを訴えた原告のスペイン人男性の過去の情報を忘れられる権利として認め、彼に関する一部情報を検索結果から削除させる判断を下した。これは2013年に可決された「データ保護規則案」の成立を前に、忘れられる権利をEUが先取りした形になる。ドミニク・ペローさんが設計した欧州連合司法裁判所=ルクセンブルク 事件を簡単に説明しよう。このスペイン人男性は、16年前に社会保障費の滞納から自身の不動産が競売にかけられた過去をもつが、現在ではそうした問題は解決されている。だがGoogleで彼の名前を検索すると、現在でも16年前の記事へのリンクが検索トップにでてきてしまう。このことを彼は差し止めるために訴えを起こしたのだった。 EUの判決は、こうした情報がすでに過去のものかつ現在では不適切だとして、この記事へのリンクを削除するものだ。ちなみに新聞記事自体は削除されず、ウェブには残り続けるという点には注意が必要だ。ただし、Google検索に残らないということは、世界の片隅に投げ捨てられた石ころを手がかりなしに探すようなもの。基本的に関係者以外には彼の記事が参照されることはないだろう。 このEUの判断の後、5月30日にはGoogleは削除要請フォームを設置した。無論以前からGoogleには著作権侵害やクレジットカード番号等の犯罪にかかわるものなどに対する削除フォームが設置されていたが、EUの判決以後、より強力な個人情報削除に対応した形になる(ちなみに、EUの法に準じた削除フォームは、EU圏の人間にのみ適応される。詳しい削除要請方法は以下がわかりやすい http://gigazine.net/news/20140602-right-to-be-forgotten-tool/)。この削除要請フォームの設置後、一日で12000件を超える要請があった。 いずれにせよ忘れられる権利が今後社会に浸透し、世界中の企業・政府がそれを認めることになれば、リベンジポルノをはじめとした様々なトラブルに対し、世界中で柔軟な対応がなされるであろう。もちろん後々問題になるであろう情報・画像の取り扱いに関しては、これまで以上に注意しなければならないことは言うまでもない。ネットリテラシー教育は、未成年を中心に推進する必要がある。議論されるべき問題は?議論されるべき問題は? 忘れられる権利は個人にとっては歓迎すべきことだ。ただし議論されるべき問題もある。 (1)どこまでは忘れられる権利なのかについて。先ほどの事例はわかりやすいが、例えば犯罪歴がある人物が刑期が終わり出所している場合、忘れられる権利は適応されるべきだろうか? そしてそれは、事件の質(殺人なのか窃盗なのか、はたまた児童ポルノなのか)や社会的インパクトなどから考慮されるのか。さらに、政治家や芸能人といった公人の場合、知る権利や表現の自由の観点からしても、忘れられる権利として情報の削除を認めるか否かが問題となる。これらをすべて司法判断に任せるのは難しいが、現状では細かな判決の積み重ねが必要とされる。 (2)削除にかかるコストと創造性について。すでにGoogleをはじめとしたネット企業からは、忘れられる権利に関する反対の声があがっている。確かに個人の要求に一つひとつ答えていけば、膨大な作業が企業に負担をかけることになる。また労力や金銭的問題以上に、法によるイノベーションの阻害も問題となる。ビッグデータにみられるように、過去の検索履歴といった個人情報を武器に、企業は新しいビジネスや産業のイノベーションを繰り返す。忘れられる権利が広がれば広がるほど、ネットに関わる企業は、それらがイノベーション阻害だとして反対するだろう。 実際に先の「データ保護規則案」可決にあっては、EUのIT企業から多くの反対の声があがったのも事実だ。ただし、そうした反対を押し切ってEUが可決に踏み切ったのは、2013年にアメリカの監視行為を暴露したスノーデンの告発が背景にあったからだ。 さらに、忘れられる権利を含めたより広範な論点として、GoogleやFacebookをはじめとするネット企業が個人情報をどのように扱うかだけでなく、背景にあるアメリカに対する牽制としてEUが今回の司法判断に踏み切ったのではないか、と推測することも筆者は可能だと考える。なぜか。アメリカとEUインターネットガバナンスの差異 上記の通り、EUは個人情報保護に重きをおいた政策を展開しつつある。逆にアメリカは個人情報保護に関してはEUと異なる方向性を打ち出している。アメリカは2012年、オバマ大統領の署名入りで、「米国消費者プライバシー権利章典」と呼ばれる報告書を公開した。これによれば、アメリカはプライバシー保護に関してEUのように国家が強い規制をするものではなく、むしろ消費者が自由にプライバシー保護を選択できることに重きが置かれていることに特徴がある。 ネットでは検索履歴からユーザーの好みにあった広告を展開する行動ターゲティング広告があるが、ユーザーがそうした履歴から追跡されることを拒む「Do Not Track」(DNT)の権利をアメリカは認める。重要なのは、ユーザーはプライバシーを守ることも、逆にプライバシーをある程度解放させることで便益を得ることも、ユーザーの選択に任せるという方向なのである。 ただし、ユーザーがその都度選択することは難しい。むしろ、利用規約という読みきれない文書の中に注意書きをしたものに、我々が「はい」を押すことで、各企業は個人データをこれまで通り利用することができる。これもまた「ユーザーの選択」ということなのだ。したがってEUのように個人情報の保護重視でどちらかといえばビジネスに消極的なのに対し、アメリカの政策はビジネスに積極的であるがゆえに、個人個人に判断を委ねる、といった傾向にある(ちなみに、国家による法でも民間企業による自主規制でもなく、国家と企業が協力することでルールを維持する「共同規制」と呼ばれる考え方もある。いずれ本連載で議論したい)。ネット社会の権利をめぐるガバナンス 忘れられる権利のように、ユーザーの求めに応じて各企業が対応していくという個人情報保護の動きは今後も活発化するだろう。他方、これまで以上にユーザーの個人情報を利用したビジネスもまた展開されていくのも事実だ。プライバシーとビジネスや利便性はどちらも必要不可欠であり、いずれかを天秤にかけるものではない。とはいえ上述の通り、EUとアメリカの政策に全体的な方向性の違いが見出されるのも事実だ。 このように、ネット社会の権利をめぐる大国間の争いは水面下で生じている。では日本はどのような政策を取るのか。現時点では、忘れられる権利に関しては直接的にこれに該当する法はなく、周辺法の解釈によって運用される。さらに個人情報保護法はあるものの、どのような運用指針があるかもいまいち明確化されていない。 さらに言えば、EU型かアメリカ型か、どのような方向性を日本が打ち出すかも重要な論点となる。日本という国の基本的姿勢を世界にアピールする必要があるが、その際日本が独自に打ち出せる姿勢があるかどうか、またそうでなければEU/アメリカのいずれの方向性を取るのか。ネットに対する態度表明が求められるところであろう。

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    古舘伊知郎はこれから何をするのか?

    常見陽平(千葉商科大学 国際教養学部専任講師) 古舘伊知郎氏のテレビ朝日系「報道ステーション」降板が発表された。ネット上では、ジャーナリズムの危機だとか、これで批評型ニュースがなくなるとか、圧力じゃないかなど、様々な意見が飛び交っている。物事の変化について、その背景や文脈を読むことも、権力の監視も大事なのだが、もう12年も務めたこと、古舘伊知郎氏の年齢ももう60代となっていることなどを考えると妥当だとも思う。 ヤフトピに載ったスポニチアネックスの記事によると「現在の契約が終了する来年3月いっぱいで出演を終了したい」と申し入れがあり、テレビ朝日側は契約更新を打診して慰留したが、最終的には「新しいジャンルに挑戦したい」という本人の意思を尊重したという。とある。 勘ぐるのも自由だし、健全な批判精神は大事なのだが、「日本のジャーナリズムはこのままでいいのか問題」と、古舘伊知郎氏というタレントのキャリアの話は分けて考えるべきではないか。そして、「日本のジャーナリズムはこのままでいいのか問題」をジャーナリズムに関わる人間が論じるなら、それは評論家でも傍観者でも一般市民でもなく、当事者なのだから権力に屈しないジャーナリズムを自ら実践しつつ、建設的な意見を言えばいい。「報道ステーション」の降板が決まり笑顔で記者会見する古舘伊知郎氏=2015年12月24日、東京・六本木(斎藤浩一撮影) 私はむしろ、古舘伊知郎氏が「報道ステーション」から解き放たれることの可能性に期待したい。彼の言う「新しいジャンルに挑戦したい」という一言がとても気になっている。最近、諸事情で(趣味のためではなく)プロレスに関する資料を買い漁って読んでいるのだが、その際、彼のプロレスの実況のことを思い出した。 猪木がハルク・ホーガンのアックスボンバーを食らってベロ出し失神した際の「ここで猪木コール、猪木コール!ここで猪木コールだ!渇き切った時代に送る、まるで雨乞いの儀式のように、猪木に対する悲しげな、ファンの声援が飛んでいる!」などは、あまりにも有名だが(数々のプロレス本で、この結末というのは、誰も知らなかったそうで、古舘伊知郎氏はこのフレーズをとっさに考えたのだろうな、と思う。あるいはもともと考えていたフレーズが出てきたのか)、その他にも数々の名フレーズを生み出した。「人間山脈」「一人民族大移動」「過激なセンチメンタリズム」などの表現に、私は毎週興奮した。F-1の実況も当初、賛否を呼んでいたが、話題になったのは間違いない。 その後の「報ステ」だが時に波紋を呼びつつも、彼はこのポジションでいいのかといつも考えていたりしたものだ。いや、プロレス実況とは違い、すっかり大人の古舘伊知郎氏になっていたと思うのだけど。そして、これで批評型ニュースがなくなるという意見もあるのだが、彼は古舘伊知郎らしい仕事を「報ステ」でどれだけしたのだろうというのが、私には謎なのだ。いや、たまにしか見ないからあれなんだけど。 ベテランである彼が、これからどんな仕事をするのか、残りの人生で何をやるのかというのが気になっている。もっと言うならば、これは世の中全体の流れとも重なっている。高齢者の起業などが話題になる今日このごろ。私は「若者の可能性にかけろ」というもっともらしい言葉もいいのだけれども、このようなベテランが、余生で何を残すか(それこそ若い世代を応援することも含めて)ということに期待するのである。 というわけで、残り約3ヶ月で「報ステ」において彼が何をするのかと、その後の彼に期待している。それこそポスト田原総一朗論争なんてものもあったわけだが、彼が急浮上する可能性だってある。いや、田原さんと同じことなどできないのだけど、存在として、大化けすることだってあるわけで。参議院選に立候補するという展開も面白い。 ベテランに何かあるたびに、世の中終わった、昭和が終わった的なノスタルジーっぽい発言をする中高年を自分も含めて見かけるわけだけど、危機感、問題意識は大事だが、相手の気持ちと、自分のできることも考えようぜと思う今日このごろ。お疲れ様でした!(「陽平ドットコム~試みの水平線~」2015年12月24日分を転載 )

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    「もう一度見ようとは思わない面白い高級映画」スターウォーズ第7作

    古谷経衡(著述家)SW7は「高い店のうまい飯」 端的に『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(以下SW7)の印象を言ってしまえば、「高い店でうまい飯を食った」という感じ。公開翌日の2015年12月19日、東京都内とはいえ辺境にある映画館のレイトショーであるにも関わらず、客の入りは相当だった。SW7の興行的成功を直感した。それは後の報道でも裏付けられた。 さて私は通常、一回のディナーに1人1万円以上掛かるような「高い店」に行くのはあまり好きではない。それよりも、3,500円位の会計で満腹になる家族経営の非チェーンの居酒屋でチビチビとやるのが好きだ。「高い店」がダメで、「安い店」が良い、と言っているわけではない。『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』 (C) 2015Lucasfilm Ltd. & TM. All Rights Reserved ドン・キホーテのワインコーナでは売っていないワインをグラスにあけ、但馬や鹿児島で育った牛のステーキをわさび醤油で食べるのは最高の贅沢だと思う。多分そういう店は、空調も間接照明も眺望も第一級だ。いちいち野菜やデザートの産地をシェフから説明されると、なんとなく美味そうに感じる。私は富裕層ではないからよくわからないが、親父がこびりついた油でギトギトになった焼き台で焼いたねぎまや、店のママさんが作り置きしているポテトサラダとは、何から何まで訳が違うのだろうと思う。 でも私がこういう「高い店」があまり好きではないのは単に経済的な理由だけではなくて、「高い店がうまい」のはあたりまえの事だからだ。2人で入った店のディナーの会計が4万2000円なのに、デフレ飯系のチェーン店と満足感が同じだったら訴えられるだろう。「失敗がない」という安心感がある代わりに私たちはここぞというデートの時や何かしらの記念日に際して「高い店」に行き、そこで高い会計を払っているのだ。しかし、それは当たり前のことであって驚きは存在しない。 私が期待しているのは、3,500円という会計の割には大満足でき、また次の週末に一人で来たいと思わせるような大衆的で良心的な店だ。大衆的で良心的な店はグルメとは遠い、みたいな事をいう人間は単に「東京」とか「六本木」などという地名にステータスを感じているだけの田舎者にすぎない。 グルメとは「高い店でうまい飯を食う」ことであると私は定義しない。グルメとはある種の驚きである。よって「高い店でうまい飯を食う」のは当たり前のことであり驚きとは遠い。良心的な会計の中に至高の驚きを見つける事こそが真のグルメであり「食道楽」だと思う。 前置きが長くなったが、そういう意味では、SW7は、第一級の(高い原価の)素材を基に、最高の環境で提供された「高級料理店の高いディナーだ」。確かに、料理長は『LOST』を皮切りに『スタートレック(11作~)』『スーパー8』等で一躍世界的に名が知られるようになった気鋭、JJエイブラムス(以下JJ)。まだ40代後半の若さとはいえ、しっかり経験とヒットの実績を積んでいる。失敗はない。「ルーカスを否定しつつ、尊重する」という縛り「ルーカスを否定しつつ、尊重する」という縛り 素材にも金が掛かっている。帝国軍のTIEファイターがミレニアム・ファルコンを追尾する冒頭の戦闘シーンから始まり、終劇するまで兎に角「豪華」だ。「高い店でうまい飯」を食うのが好きな人にとっては最高の、映像的快感が連続する。 しかし、このSWという「高い店のうまい飯」には、縛りもある。それは、言わずもがなSWはルーカスが産み落としたという事実だ。SW7とJJはこの縛りから逃げることは出来ない。なぜなら、「父であり母である」ルーカスを否定すると70年代から世界中に熱狂的に存在するSWファンから袋叩きに合うし、かと言ってルーカスを尊重し過ぎると、これまた同様の人たちや「新しいファン層=顧客」から「新鮮でない、物足りない」としてバッシングされる。『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(C) 2015Lucasfilm Ltd. & TM. All Rights Reserved 「ルーカスを否定しつつ、尊重しなければならない」という、トリプルエックス級の難しい難題に挑んだのが、気鋭の料理長JJというわけだ。この、「否定しつつ尊重した上で、新しい創造を」みたいな、一見「海原雄山的難題」の解決は不可能にも思えるところだが、そこはさすがJJ、見事に調理している。 SW7のあらゆるところにルーカスの否定と尊重が垣間見える。ネタバレはまだ未見の読者諸兄に非礼なのでしないが、例えばファーストカットのスター・デストロイヤーの登場の構図だけは言わせてほしい。 その構図は、ルーカスとJJでは真反対である。SW4において、画面上からいきなり「ぬぅ」と登場し、観客の度肝を抜いた巨大な構造体=スター・デストロイヤーこそ、SWシリーズ全体の中でもっとも象徴的構図だが、これがSW7では反転している。つまりルーカスは上から、JJは下から船を登場させている。これは極めて意図的なカットだ。一瞬「ルーカスDisか?」と勘ぐるも、そこはJJ、きちんと本編で「リスペクト」のフォローを次々と繰り出している。 出て来るべきところには出て来るべき人物が登場し、やるべき場面ではやるべきことがなされている。きちんと随所で「ルーカス・リスペクト」の踏み絵を踏んでいくJJ。この微妙な綱渡り感覚は、やや慎重に過ぎるとしても画面的に不愉快にはならない程度である。このさじ加減は上手いと思う。 「ルーカスを否定しつつ、尊重しなければならない」という枠組みの中においてはJJは最高の働きをしたし、またそれには「金が掛かっている」から、やはりSW7の鑑賞は、2時間強、温泉にでも入っているような愉悦だった。 そう、だから私はSW7を「高い店でうまい飯を食った」と形容する。私にとってSW7は全然美味しいディナーだった。しかし冒頭から繰り返すように、「高い店がうまい」のは当たり前のことだし、それはグルメではない。そういう意味でSW7は、「次の週末にも一人でいこう」とは思わない店だ。そもそもルーカスは映画監督としてどうなのかそもそもルーカスは映画監督としてどうなのか ちなみに私はSW4(エピソード4)が公開された際、(全米1977年、日本78年)生まれていなかったから、スピーダー・バイクがタトゥイーンの砂漠の宙を疾走する特撮を見て世界中が熱狂した当時の観客の皮膚感覚を知らない。 1997年にはSW4~6の特別編が公開され、原盤から大きくCG技術が更新されたが、既にその時期日本では『新世紀エヴァンゲリオン』の熱狂的大ブームが列島を覆っており、更にスペース・オペラという意味では翌98年、90年代を代表するSFアニメ・シリーズの傑作である『COWBOY BEBOP』(渡辺信一郎監督)が燦然と登場してきた。SWは基礎教養として見なければならないという義務感と、相応の感慨はあったがそれ以上の何かを持ち得ないまま、99年の『ファントム・メナス(SW1)』へと劇場体験は続いていく。 つまり私が何を言いたいのかというと、日本製SFアニメの洗礼を全身に受けて青春を過ごした私にとって、SWにはそれほど大きな思い入れはない、ということだ。SW公開時には映画館に長蛇の列ができ徹夜組がでたと伝え聞くが、それを言うなら私だって97年の『エヴァ旧劇場版』(シト新生)に公開日の前日の深夜から11時間並んだ。 私にとってのSWは、『ロード・オブ・ザ・リングよりもベルセルク』『宇宙の戦士よりもガンダム』『ライトスタッフよりも王立宇宙軍』『ジェームス・キャメロンよりも押井守』という、やや偏愛的なドメスティック感覚と同じように、おおよそ好みで言えば「ド直球」の作品ではないのだが、それでも気鋭のJJが監督するというのだから事前期待は高まっていたのが正直なところだ。『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』 (C) 2015Lucasfilm Ltd. & TM. All Rights Reserved 今回、SW7は「高い店のうまい飯」だったが、高級店が高級店で在り続けるには努力が必要であるのと同じように、「高い店がうまい飯」を出すその裏側は、並大抵の努力ではないだろう。それは十分、画面から伝わってくる。 ルーカスの演出を私は決して上手い、とは思わない。SW以前のルーカス作品、『THX-1138』や『アメリカン・グラフィティ』にしても、ルーカス黎明期の作品とはいえ、傑作であるとは思えない。SWが大ヒットしたから後付で照射されただけであり、正直言って上手い監督は他にいくらでもいる。 ルーカスは全体的に編集のテンポが悪く、構成に無駄があり、構図も劇的ではない。SW4において傑出して印象に残る演出は前出のスター・デストロイヤーの登場場面くらいだ。私がSW全般に対し、やや冷めているのは致命的にこの部分が引っ掛かるからである。 そのような意味で、ルーカスと同時期にライバル視されたF・コッポラのほうが映画監督としてのレベルは比較に出来ぬほど上である。ルーカスはキューブリックの『2001年』にも影響を受けているとされるが、残念だがキューブリック・スタイルがSWに有意義に取り込まれているとは思えない。今回のJJに至っては、やや凡庸ではあるが会話シークエンスのテンポは悪くなく、構成もルーカスに比べれば遥かに筋肉質で引き締まっている。それはJJが優秀であるという以上に、ルーカスのレベルがそもそもあまり高くないからだ。 であるがゆえに、JJに課された「ルーカスを否定しつつ、尊重しなければならない」という縛りは、海よりも深い。ルーカスより「画期的に」上手く撮る実力は当然あるはずだが、それをやると文句を言われるという宿命は地獄だ。だから抑制的である。しかしあまりにも抑制的であっても批判される。そんな絶妙なエンジンの蒸かし加減を2時間強も「きちんと」続けるJJは、やはり凄いなと思う。 「高い店でうまい飯をくう」のも、たまには良いものだ。SW7、是非劇場で鑑賞されたい。

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    スター・ウォーズは 3代にわたる一家描く銀河系大河ドラマ

     全世界同時公開にみんな、浮き足立っている。「スター・ウォーズ フォースの覚醒」が公開されるからだ。どうしてこんなにみんなスター・ウォーズに魅了されるのか? その秘密とは?「スター・ウォーズ フォースの覚醒」共同インタビューに答えるJ・Jエイブラムス監督=2015年12月11日(宮川浩和撮影) 第1作『新たなる希望』が誕生した1970年代は、テレビドラマ『宇宙大作戦』(1966年から放送開始)や映画『2001年宇宙の旅』(1968年)などの流れを汲み、SFブームが到来していた。「そんな中で、SWが斬新だったのは、“SFなのに過去”という設定です」 と言うのは、『どっちのスター・ウォーズ』(中央公論新社)の著者で映画ジャーナリストの立田敦子さんだ。「作品の冒頭、“遠い昔、はるか銀河系の彼方で”というフレーズが流れますが、それは“SF=未来”という概念を覆す画期的なものでした」(立田さん・以下「」内同) というのも、これはメガホンをとったジョージ・ルーカス監督が、SWをおとぎ話のようにしたいと考えていたからだ。「過去を描くことで現実の話ではないと認識でき、その世界にハマることができたのも、ヒットの要因といえます」『宇宙戦争』のように外敵が攻めてくるストーリーではなく、内部分裂による抗争だった点も人の心に深く刺さったのではないかとも。「『銀河共和国』という国から、そのやり方に納得できないと悪に転じてしまったのがダース・ベイダーに象徴される『銀河帝国』。内部分裂は学校や会社など、どこにでもある問題だけに、共感されやすかったのかもしれません」 第1作が1977年に公開された当初は、全米のわずか50館のみの上映だったが、封切り後は口コミで評判が広がり、人気は拡大していく。そして1978年には日本でも公開され、映画館には連日大行列ができるほどの社会現象となった。 第1作目の主人公は若き騎士ルーク・スカイウォーカー。 「ただ、映画を見ると荒くれ者の宇宙海賊ハン・ソロなど、アンチヒーローでありながら、魅力的なキャラが登場します。特筆すべきは、何よりもダース・ベイダーの存在感。彼とルークの関係をひもといていくと、この映画が単なるSFではないことがわかります」 そして第1作目が記録的大ヒットしたことで、その後、30年前の話が作られ続編の製作が決定。第1作目はビデオソフト発売時にエピソード4と名前を変えることになった。従って、1からではなく、4、5、6と、物語が展開していく。 「エピソード4に加えて、続編のエピソード5『帝国の逆襲』(1980年)と6の『ジェダイの帰還』(1983年)で、ルークとダース・ベイダーの親子の物語が描かれます。そして、1999年から始まったエピソード1~3では将来を嘱望された若き騎士アナキン・スカイウォーカーが、暗黒卿ダース・ベイダーに転じた理由が明かされるのですが、才能あふれる若者が、愛する人を守るために悪の道に落ちていくのは、ドラマの設定としても普遍的なテーマ。そんなところも人々の心をとらえたのだと思います」 最新作ではエピソード6の30年後が舞台。ルークの子供たち世代が活躍し、ルークやレイア姫、ハン・ソロといったおなじみのメンバーのその後にも触れられるという。「こうしてみると、SWはまさに3世代の“スカイウォーカー家”を長期間で描いた銀河系大河ドラマ。家族の物語だったからこそ、人々の心をひきつけたのではないでしょうか」関連記事■ 【ジョーク】ウォール街を占拠するデモ隊とオバマのやりとり■ スター・ウォーズと21エモンの類似点 ゴンスケ=C-3POか?■ 日本と縁深い『スター・ウォーズ』新ヒロインはふなっしー好き■ 現役女子大生ビーチバレー坂口佳穂 チュートリアル徳井と対決■ ディズニーランド アニメがメインコンセプトではないのだ

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    「スター・ウォーズ」って作品、知ってる? 普通に楽しめばいいんだよ

    常見陽平(千葉商科大学 国際教養学部専任講師) 時はきた。明日からついに『スター・ウォーズ』の最新作が公開される。盛り上がっている感というか、盛り上げている感はある。先日、友人の結婚式で札幌に帰省したのだが、新千歳空港にはでかでかと、同作品のコーナーが設置されていた。東京の下町に住んでいるので、スカイツリー、ソラマチが近いのだが、やはりスター・ウォーズ関連の企画が。  関連する書籍も多数、出版されている。そういえば先日、NHK出版の編集者さんから『スター・ウォーズ論』(河原一久 NHK出版新書)を頂いた。感謝。雑誌でも『スター・ウォーズ』特集が組まれまくっている。どこに行っても同作品の話だらけだ。 私は『スター・ウォーズ』が大好きな人材である。いよいよ公開が迫ってきたわけで。しっかりと前売り券を握りしめ楽しみにしている。実に久々の新シリーズだし、映画作りの体制も大きく変わったわけだし、なんせあれだけ売れた作品なのでそりゃ話題になるだろうとは思うのだが、とはいえ、ここまで騒ぐのかと思ったりもする。いや、それくらい力が入っているということなのだけど。 オタクとまではいかないが、世代的に誰でも見る作品だし、テレビでも何度も放映されたし、自分でもDVDを全部持っていたりしたので(Blu-rayに買い換えるためにいったん全部売った後、買い直していないが)、何度も同作品を見ており、それなりに詳しいし、語りたいことはいっぱいある。2015年12月14日、米ハリウッドで行われたスター・ウォーズ先行上映で、映画館に飾られた看板(ゲッティ=共同) 奥の深い映画だと思う。よく論じられるのは、ダース・ベイダーとルーク・スカイウォーカーの親子関係だ。それがギリシア悲劇『オイディプス王』などに見られる「父殺し」の普遍性、息子が父を乗り越えるという形の典型的な関係だとされたりする。宇宙戦争を描きつつも、グローバルな政治経済を予感させるし、日本というか東洋的な世界観を感じたりもする。黒澤映画からの影響を指摘されたりもする(これは諸説あるが)。 だから、同作品のファンは熱く語りだすし、新作も楽しみにしているわけなのだけど、この熱量とか奥の深さが逆に面倒くさい雰囲気を作り出しているのではないかと思っている。いや、これは『スター・ウォーズ』に限らず、歴史があって、ヒットした作品には共通した特徴だと思うのだが。それこそ、私が関連書籍を書いた『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』だってそうだ。 ちょっと引いた視点でみると、各雑誌の『スター・ウォーズ』特集は首をかしげるものも中にはあり。理由は「誰のための特集か」が見えないからだ。同作品の入門なのか、オタク向けのものなのか。そして、ここまで知識がないと見てはいけないのかという空気まで作りだしているのではないか。なんというか、映画を盛り上げるための特集が「あぁ、面倒臭いな」という空気を逆に作り出していないだろうか。 まあ、この手の特集が組まれたり、煽ったりしているのは、実は『スター・ウォーズ』をちゃんと見たことがない人達というのが実は一定層、いるからだろう。例えば、今の大学生たちは90年代後半生まれなので、ちょうど幼少期に新シリーズ3部作が始まっているわけだが、やや彼らには早い作品であり。よっぽどの映画ファンではないと、実は『スター・ウォーズ』には熱くなかったりする。それでもダース・ベイダーなどのキャラは知っているわけで、見なくてもなんとなく知っているというのはすごい作品だなと思ったりもするのだが。コンテンツ・ビジネスではこのように、大ヒット作品でも世代的空白地帯があったりする。だから一生懸命煽るのだが、それが面倒くささを醸し出しているような。  『新世紀エヴァンゲリオン』×労働という本をこの秋に出したのだが・・・。この本で私が本当に言いたかったのは、前書き、1章、あとがきで書いたことで。何かというと、作品というのは神格化されていくのだが、所詮「ポップカルチャー」だということだ。だから、普通に楽しみましょうよ、ということだ。『スター・ウォーズ』なんてものは、それこそ「ポップカルチャー」だと思うのだ。まずは今までの物語が分からなくても、最先端の映像、宇宙船が飛び、戦士たちが剣や銃で戦う様子にドキドキしましょう、と。まずは興味があったら予習なんていいから映画館に行け、と。それくらいでいいのではないかと思う。 なんというか、一億総サブカル化の中で、ちょっと詳しくないと誰も何も言えず、楽しめない感じの中で、私は「興味があったら映画館に行って、普通に楽しもうぜ」と言いたいのだ。 というわけで、明日以降、見るのが楽しみだ。1999年のエピソード1の時は、初日の最初の回で見た気がするのだが、映画館で手拍子が起こったのだよな、最初の映像で。普通に楽しむよ。  僕ジムの文庫版よろしくね。(「陽平ドットコム~試みの水平線~」より2015年12月17日分を転載)

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    なぜ、今さら曙、サップに魔裟斗? 大晦日イベントは迷走か

    (THE PAGEより転載) 2015年の大晦日に地上波のテレビ放映を絡めた大型格闘イベントが復活する。 大晦日のテレビにボクシング以外の格闘技がコンテンツとされるのは10年ぶりだ。フジテレビ系は、PRIDEを大成功させたプロデューサーの榊原信行・実行委員長、高田延彦・統括本部長らが、立ち上げた『RIZIN(ライジン) FIGHTING WORLD GRAND PRIX 2015』。こちらは、29日との2日間のイベント、放映となる。TBS系は、「KYOKUGEN 2015」の番組内で、反逆のカリスマとして人気を博した元k-1王者の魔裟斗(36)対山本“KID”徳郁(38)との11年ぶりの再戦。 ライジンの方は、人類最強、60億分の1の男と評されたエメリヤーエンコ・ヒョードル(39)の復帰戦や、元大相撲・大関の把瑠都(31)の総合デビューなど盛りだくさんのカードや仕掛けが用意されている。だが一方で、12年ぶりの再戦となる曙(46)対サップ(42)を筆頭にIQレスラーとして、かつて格闘界をリードした桜庭和志(46)が、体重差のある実力派の青木真也(32)と対戦、世界のTKこと、高阪剛(45)の9年ぶりの復帰戦など、旬の過ぎた往年の人気選手の起用も目立つ。把瑠都の総合デビュー戦の相手も、K-1ファイターとしては、ビッグネームだが、全盛期は過ぎたジェロム・レ・バンナ(42)。大晦日の格闘技イベント、Dynamite!!でと打ち合うボブ・サップ(右)と曙。2015年の大晦日、このカードが復活する=2003年12月31日、ナゴヤドーム(森本幸一撮影) 榊原代表は、「どんなスポーツにもマスターズクラスがある。知名度があって活躍した選手が年をとったら追い出されてしまうような状況を何とかしたい。40歳を越えてもまだまだ現役で戦える選手はいるので、例えば、グローブを大きくするとか、打撃無しルールとか、工夫をすればいいし、ホイス・グレイシーもまだ戦いたくてしょうがないと言っていた」と、レジェンド対決を実現した理由を説明していた。レジェンドと呼ばれる伝説の選手にマスターズクラスという舞台を用意するのもライジンのコンセプトのひとつ。それでもコアなファンの間からは、「いまさら」という失望の声も少なくない。 魔娑斗対山本KIDも、04年の大晦日に瞬間最高視聴率31,6%を記録した伝説のカードだが、魔娑斗は6年前に引退した選手。UFCと契約している山本KIDは、“格闘イベントへの参加”とUFC側に説明して出場にごきつけたという話もある。スタンディング特別ルールと言えど、ミスマッチと言われても仕方がないだろう。 元k-1プロデューサーで、現在は、巌流島という格闘イベントを立ち上げ、隔月のムック本「大武道」の責任編集をしている谷川貞治氏も、こんな辛辣な意見を持っている。 「おそらくですが、一般の視聴者をかつての有名選手の名前で引き付けて視聴率につなげたいというテレビ局の意向でしょう。懸命に頑張られている主催者や、出場する選手には何の責任もないでしょうが、『ちょっと違うよな』というのが正直な感想です。10年前の再放送を見せられても、格闘界の復興にはつながらないし、意味はない。詳しくは知りませんが発表されているカードを見ても、何がやりたいかが見えてこないし、方向性がバラバラに迷走しているようにも思えます。 今回の大晦日が、格闘界の再興のきっかけになってくれればという期待感はありますが、過去の呪縛から解放されていませんね。私も考えていることですが、格闘界の再興のためには、UFCの路線でもない、もっと新しいア プローチをしていくべきだと思います。今人気の新日本プロレスは、脱猪木さんから新しい形で成功させていますし、人が集まっている新K-1も、昔のk-1とはまったく違うものです。その意味で、今回の年末の格闘イベントは、過去をなぞったものに見えます」 「曙-サップ」のカード実現をサポート、瞬間最高視聴率43パーセントを稼ぎ、怪物番組である紅白歌合戦に勝った経験を持つ谷川氏だけに、格闘家としての峠を過ぎたこのタイミングで昔の名前に頼った「曙-サップ」の再戦には複雑な心境なのだろう。 谷川氏は、「僕がプロデューサーをやっている頃は、大晦日という大きなイベントでは、時代の雰囲気をつかまえることが大事でした。今なら、テレビショーとして五郎丸歩を引っ張りだす、もしくは、ヒールとして清原和博をリングに上げるような仕掛けになるのでしょうが、10年前に比べてテレビの持つ力、取り巻く環境も変化しましたよね。局の予算もそうですし、テレビを見る人が減っています。どうアプローチしていくか、難しいのは事実ですが、迷走しているように見えます」と続けた。 かつてボビー・オロゴンらタレントをリングに上げてサプライズを起こした谷川氏らしい意見だ。 ただ、29日、31日と2日に渡って格闘技の“聖地”さいたまスーパーアリーナーで興行を打つライジンには、昔の名前に頼るカードだけでなく、魅力的なカードも組まれている。元女子レスリング世界王者、山本美憂の長男で、レスリングで五輪出場を狙っている山本アーセン(19)が総合に初参戦して、あのヒクソン・グレイシーの二男・クロン・グレイシー(27)と対戦。また世界のトップを走る総合格闘団体UFCも、注目しているヒョードルの復帰戦、1m88で93kgの体格で世界最強女柔術家と呼ばれるギャビ・ガルシア(ブラジル)もレスラーを相手に総合デビューするなど、柔道の元北京五輪金メダリストの石井彗が参戦するヘビー級トーナメントも含めて、注目のマッチメイクもある。 谷川氏も、「勝負論では、気になるのは、体重差があると言えど桜庭対青木ですね。寝技勝負になるのか、打撃になるのかわからない。また魔裟斗の試合も、一人の父親としてどういう姿を見せてくれるのかという点で注目しています」と言う。 確かにテレビ局の視聴率優先主義で組まれたと考えられるカードには、賛否両論あるだろう。UFCに圧倒され、新たなスターも不在で停滞気味だった日本の格闘界の再興の起爆剤になるかどうかもわからない。だが、喧々諤々の議論を起こし始め、テレビの地上波を巻き込み、再びインパクトを与えようとしていることには大きな意義があると思う。そういう賛否が、ネットやSNSを通じて議論として沸騰し始めれば、底辺から再ブームが生まれることにつながるかもしれない。 「格闘技の歴史は、大きな波を繰り返しているんですよね。沢村忠さんのキックボクシングや空手バカ一代の極真空手の大ブームがあって、その後、後楽園ホールでのキックの興行に、100人ほどしか人の集まらない時代を経て、再びK-1、プライドといううねりがありました。ハッキリ言って自爆してしまいましたが、あのままテレビ放映を維持できていれば、今の格闘界の流れも変わっていたでしょう。また、いつ大きなうねりが訪れてもおかしくない。そういう可能性を格闘技は秘めています」と、谷川氏。 先の読めないのがまた格闘技の魅力。はてさて大晦日の格闘イベントの結末や如何に。(文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)

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    軽減税率が新聞、テレビを自殺に追い込む

    で、社会保障に充てられるはずの財源は減り、財政の健全化も遠のく。そのわけを知りながら報道しなかった大メディアの罪はもっと重い。

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    軽減税率ありきの出来レースを批判できないメディアの大罪

    た。後は一気に対象品目の線引きをどうするか、という議論に矮小化され、「軽減税率」反対論は一部のウェブメディアに掲載されるのみだった。そして、「軽減税率」の対象にしっかりと新聞も入ったのだ。つまり、最初から「軽減税率」ありきだったのだ。官邸、与党、財務省、新聞業界すべてが、である。「四方良し」、ということなのだろうが、国民にとっては全くもって「良くない」政策はこうした決まった。 筆者が問題とするのは、新聞は最初から「給付案」反対だったとしても、テレビがそれを全く批判しなかったことだ。現在対象品目の線引きなどを面白おかしく報道し、毎度のことだが本質に全く迫らなかった。そもそも2017年4月に消費税率を引き上げることが出来るのか、といった議論もなかった。景気が後退していれば、2%引き上げなど出来るはずもなく、さすれば「軽減税率」もなくなる道理だ。そこまで考えて安倍政権が今回「軽減税率」を決めたなら、あっぱれと言うほかはないが、国民にしてみれば選挙対策の茶番に付き合わされただけで、いい迷惑どころか、怒らねばいけないところだ。 消費税増税は少子高齢化による膨大な社会保障費負担を軽減するために必須のものだ。安倍総理は2014年11月、総選挙の前、消費税再増税の延期を訴える記者会見でこう言い切った「消費税の引き上げは、我が国の世界に誇るべき社会保障制度を次世代に引き渡し、そして、子育て支援を充実させていくために必要です。」さらに続けて、「財政再建の旗を降ろすことは決してありません。国際社会において、我が国への信頼を確保しなければなりません」と。 この決意はどこへ行ったのか。選挙の為に税をもてあそぶ政府・与党を批判しないマスメディアには猛省を促したい。(注1)「消費税の社会保障目的税化」という財政規律」 http://web.econ.keio.ac.jp/staff/tdoi/c200511_2.pdf(注2)公明新聞 2015年11月6日 軽減税率は「給付」に勝る https://www.komei.or.jp/news/detail/20151106_18433

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    軽減税率という「藁」にすがりつく新聞メディア

    、消費税率の引き上げでさらなる減収に繋がることを危惧したからということなのであろう。考えてみれば新聞メディア、特に大手は消費税増税キャンペーンには乗っていたのに、自分のこととなると軽減税率とは、ずいぶん都合のいい話と思われても仕方がない。 新聞協会は、欧州を例にして、諸外国においては新聞については軽減税率が適用されていると主張してきている。確かに、欧州諸国においては、例えば、フランスは2.1%、スウェーデンは6%といったように、10%を超える付加価値税に対して、新聞について軽減税率を設けている。イギリスに至っては0で、軽減ではなく非課税である。(ただし、ブルガリアやスロバキアのように新聞について軽減税率を適用していない国もある。) しかし、ここで考えなければいけないのは、そもそも軽減税率の適用品目は国によって異なり、低所得者対策ということであれば、生活必需品が対象に含まれて当然だが、今回の我が国の場合は含まれていないということである。欧州諸国においては、何も新聞と生鮮食料品のみを軽減税率の対象としているわけではなく、他の生活必需品と一体で検討した結果そうなっているだけである。 また、欧州諸国で新聞を軽減の対象としたり、非課税としたりしている背景は、メディアの多元性の確保といったことがあると思われ、低所得者対策とは観点が異なるように思う。別の言い方をすれば、民主主義の発展に資する、情報源の多様性の確保と、メディア間の公正な競争の担保という観点からそうなっているということのようである。軽減税率は購読者数減の解決につながらない軽減税率は購読者数減の解決につながらない さて、今回の新聞への軽減税率の適用、新聞業界にとっては「藁をも掴む思い」ということなのだろうが、その藁を掴んで、藁しべ長者のごとく、新聞購読者数の増加を見込むことができるのだろうか。  端的に言って、増加するとは思われない。新聞の購読者数は年々減少する傾向にあり、特に若年層でその傾向が著しい。(もっとも、元々若年層での購読者は少ないのだが。)税率8%でそうなのだから、軽減といっても言い方を変えれば税率据え置きなのであり、価格が安くなるわけでもないところ、そんなことで読者が増えるとは到底思えない。(もっと言えば、低所得者は若年層に多いようであり、その若年層において新聞購読者数が少ないのに、低所得者対策とは、ますます根拠に乏しい結論であると言わざるをえない。) そもそも、メディア接触や情報コミュニケーションの在り方が変化しているのであるから、通信と放送の融合といった実態も踏まえて、新聞は抜本的な業態変革を図ることに注力すべきであると思う。軽減税率に血眼を上げている暇はないのではないか。(新聞の役割が完全に終わったとは言わないが、新聞社の役割の新しいカタチを模索すべきであろう。) 今回の軽減税率のもう一つの論点として、根拠の薄い軽減税率の適用と引き換えに、政権への協力を暗に約束させられたのではないかということがある。単純に考えて、軽減税率のような大きなメリットが与えられる一方、いつその適用から外されるかという緊張感が生まれれば、自ずと論調は政権寄りになり、メディアの監視機能やチェック機能は十分に機能しなくなることは容易に想像できる。もっとも、近年では、先にも触れたとおり、情報接触は多様化し、新聞によって意見が左右されるということはなくなってきているのではないかとも思う。特にネットメディアが発展している昨今においては、新聞が権力チェック機関としての役割を十分に果たせなくとも、他のメディアがこれに代わることは十分可能である。そうなれば新聞離れは更に進むことにもなろう。(自分で自分の首を絞める、ということになるか。) 大切なのは、メディアはどうあれ、ジャーナリズム、ジャーナリストであることであろう。 軽減税率という「泥縄」を掴んだ新聞メディア、溺れて沈む前にこうしたことに気づくのだろうか?(公式ブログ「政治・政策を考えるヒント!」より2015年12月17日分を転載)

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    軽減税率の適用が決まった新聞は自ら死を選んだ

    大西宏(ビジネスラボ代表取締役) 新聞メディアは、ニュースはインターネットでも、テレビでもいくらでも得ることができる時代のなかで、なぜ新聞なのか、どのような存在意義、新聞を購読する価値がなになのかを再構築する努力よりも、目先の利益で、軽減税率適用を働きかけ、政権の御用新聞となる道を選んだようです。 軽減税率の適用です。読売新聞が先頭にたって、新聞業界が求めてきたものです。 官僚的な理屈としては、ヨーロッパでも新聞は軽減税率が適用されているので、日本だけが特別なことをしているわけではないということですが、そもそも日本の新聞社は特殊です。放送にも資本参加し傘下におく、アメリカでは禁止されているクロスオーナーシップであり、しかも不動産事業など多角化し、プロ野球球団まで持っているのです。 財政の健全化のためには消費税増税が必要だと主張しておき、自らは逃げたのですから、口先だけのご都合主義で、いい加減だというだけでなく、それは権力に借りをつくり、ジャーナリズムとしては自ら死を選んだに等しいのです。 しかも、日本の特殊なサービスである、宅配だけの適用というのも奇妙な話です。橋下市長が、市長時代に、皮肉たっぷりに新聞記者に質問を投げかけ、記者が返答に困り、しどろもどろになったようですが、それこそ、もう自ら正論を主張できなくなってしまっている証拠です。橋下市長、新聞の軽減税率で記者を問い詰める 読売は沈黙、日経しどろもどろ... : J-CASTニュース 池田信夫さんの批判はさらに辛辣です。新聞業界は、200億円で買収されたことになると。その通りです。  新聞の軽減額はたいしたものではない。全国の日刊紙を合計しても200億円ぐらいで、政府が新聞を「買収」するコストとしては安いものだ。2016年1月からの通常国会では野党が、矛盾だらけの軽減税率について激しく批判するだろうが、「賄賂」をもらった新聞は政府を批判できない。何しろ最も理屈に合わない軽減対象が新聞なのだから。軽減税率というポピュリズムが政治を汚染する 200億円で新聞を「買収」した安倍政権 | JBpress(日本ビジネスプレス) そして、新聞社にとって不幸なことは、なりふりかわまず「買収」されてしまったことは、新聞メディアへの信頼は揺らぎ、さらに新聞離れを加速させることにつながっていくのです。 衰退から逃れるイノベーションには手をほとんどつけず、古い体質、古い仕組みのままで、現状維持をはかろうとしても、それはさらに悪い結果を呼びこむことになります。それは新聞メディアも批判してきたことではありませんか。そんな愚を新聞業界は犯してしまったのではないでしょうか。 (「大西宏のマーケティング・エッセンス」より2015年12月17日分を転載)

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    新聞に消費税の軽減税率を適応 インターネット時代では限界がある

    記事とに明確な線引きをすることは不可能になっています。ヤフーニュース個人などは、独立した形での新たなメディアといえます。デジタルの新聞記事との明確な線引きはまずできません。しかし、時代はこうした形式の新たなメディアも必要としています。インターネット時代だから出来ることでもあります。 軽減税率を利権的なものにしてはいけないでしょう。そうすることは、政府のメディアに対する介入にもつながる可能性があります。昨今、メディアの記事や姿勢に対しての政府の介入とも言える批判が問題となっています。軽減税率の適応などの要素が入ると、政府批判をするような「偏向した」メディアは対象外、といったことにもなりかねません。今の時代においては、メディアは時代の流れを読んだ挑戦と政府からの自由を確立するために、軽減税率などについては慎重な姿勢も必要です。(「児玉克哉のブログ『希望開発』」より2015年12月15日分を転載)

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    ステマ広告が「一億総バカ時代」をつくる

    ネット記事だと思ってみたら、実は広告だった-。こんな経験、誰もが一度はしたことがあるのではないか。いま、広告の表記が抜けた「ステルスマーケティング(ステマ)」と呼ばれる手法に厳しい目が向けられている。ステマ広告で「一億総バカ時代」になる日も遠くはない?

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    ステマ問題は燻るネット規制の口実になってしまうのか

    る“黒幕”たちの存在http://diamond.jp/articles/-/76611日本のウェブメディア「ステルスマーケティング」事情http://www.nippon.com/ja/currents/d00199/「ヤフージャパン一人勝ち」と「報道記事の買い叩き」がステマ横行の原因http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20151001-00050069/ 軽くおさらいをしますと、ステマがなぜいけないかは単純で、あるメディアがクライアントから資金や取材の便宜を図ってもらっているにもかかわらず、それを「広告」「PR」などと明記せず、客観的な記事を装いますと読み手は「これは中立な記事で、そのメディアが責任もって良いと思って取り上げているのだな」と誤認するようになります。これは、景品表示法上の優良誤認を導くものであって、ただちに違法である摘発の対象だというわけではありませんが、メディアを運営する上での倫理規定という観点では重要な問題であると言えます。 なかでも、最悪のケースは一部の法曹界や消費者団体が主張するようにアメリカFTC法第5条に該当するような「不公正又は欺瞞的慣行を規制するもの」に対する規制を敷くべきだという議論が現実化してしまうことであります。そこには日本の公正取引委員会の権限強化や集団訴訟(クラスアクション)の制定など、いままで我が国が取り組んでこなかった消費者保護のアプローチについてかなり踏み込んで話を進めようということになります。単純に、これらは消費者保護の観点から言えば大幅な規制強化であり、物議を醸すことは必須です。 あるいは、広告業界や通販業界が震撼していた「広告は勧誘か?」の議論もまた、最近の商法改正を踏み越えて大きくネット広告や取引の規制に類するものとなり、これも問題になり得ます。幸いにして、昨今の議論は「それはやりすぎでしょう」ということで少し冷静になったようにも感じますが、仮に広告は勧誘行為なのだとするならば、問題取引を広告に載せて消費者を騙す業者自体が損害賠償などの責任を負わされることはもちろん、その広告を仲介した広告代理店や、広告を掲載したメディア、場所を提供した業者などもクーリングオフ制度を乗り越えて賠償する義務を持つという、かなり強烈なアイデアです。「広告は勧誘」ならば掲載した責任はどこにある 例えば、過去に金融事案で「いつかはゆかし」や「毎月5万円で1億円を貯められる」などとして行政処分を受けたアブラハム・ホールディングス(当時)は、大量の交通広告で著名な俳優を起用して話題を喚起し、多くの顧客を集めることに成功しました。しかしながら、適法とはいえない金融商品を販売したかどで営業停止などの行政処分を受けることになってしまいました。これは、いままでは悪質な販売を行った業者の問題であって、その業者が起用した俳優や、広告代理店、あるいは掲載された電車や街頭のポスターなどの設置場所に責任を負わされることは原則としてありませんでした。 新聞社やテレビ局などでは、その公的な役割と大きな影響力の観点から、掲載するクライアントが自社メディアにとって望ましい存在かを審査するための広告考課というハードルがあります。本来であれば、悪質な業者が広告を掲載出来てしまうメディアは、結果的に広告掲載料を稼げたとしても消費者被害が多数発生するとその広告を掲載したことでメディアの価値を落としてしまうことになります。したがって、多くの人の目に触れる広告を掲載するにあたっては、クライアントをしっかりと調べ、選別する責任がメディアの側にはあることは、いままではメディアとしての職業倫理上の問題でした。 しかしながら、広告は勧誘、すなわち顧客を誘引する責任を法的に負う可能性があるとなると話は別です。また、先にも述べた米FTC第5条では、日本にはない「欺瞞的取引に対する広い解釈での認定」と、問題業者に対する高額な「懲罰的罰金」さらには認定された場合の消費者団体などからによる巨額の「集団訴訟」に直面することになります。 実例として分かり易いのは、米大手通信会社AT&Tが顧客獲得のために「速度無制限」などとして虚偽の広告で顧客を集めたとして問題となり、米FCC(連邦通信委員会)はAT&Tに対し懲罰的罰金を課すことになりました。【米国】「速度無制限」が嘘だとして通信会社に130億円の懲罰的罰金http://dailynewsonline.jp/article/982278/ また、米FTC第5条は、アメリカに存在しない個人情報保護規定とは別に、企業が収拾した消費者の個人に関する情報を、規約上の許可なく第三者に流用した場合、これを「欺瞞的取引」であるとして強く制裁する権限を米FTCに持たせています。 2012年8月、検索エンジン大手のGoogle社は、米Apple社の提供するブラウザsafariのサードパーティーcookie拒否の初期設定というベーシックな個人情報収集拒絶プロセスを回避して行動履歴を収拾していたとして、米FTCから総額2,250万ドルの懲罰的罰金の裁定をされています。他にもFACEBOOKやTwitterなど大手ICT企業だけではなく、バンクオブアメリカやHSBCなど金融業界、さらには米自動車メーカーやディーラー、タバコ会社、環境汚染を引き起こした海運会社など、さまざまな業界が対象となっていることが分かります。欺瞞的取引の宝庫「レ点商法」 日本の場合はICT業界、とりわけ、スマートフォンやインターネット上で運用される、広告あるいはポイントサービスなどでの個人に関する情報が非常に注目されます。簡単な話、ユーザーには確かめる術が乏しく、分かったころにはごっそり個人に関する情報を抜かれて広告に活用されたり、ターゲティングメール(ダイレクトメール)などに活用されてしまうことになり、広範囲に個人に関する情報がばら撒かれてしまうからです。しかも、リテラシーの低いユーザーが多数ネットを利用している実態があるため、気がつかないうちに個人に関する情報を大量に取得し丸裸にするアプローチで利鞘を稼ぐ悪質なICT企業は後を絶ちません。 極めつけは、俗に言う「レ点商法」といわれる月額固定支払いのサブスクリプション・サービスで不当な消費者被害が蔓延していることで、これは携帯電話のメガキャリア3社が「入会初月は無料ですから」などと契約者に持ちかけ、月額数百円ほどかかる不要不急のコンテンツサービスなどを本人の認識なく入会させてしまうことです。 消費者契約法上は、仮に契約時に本人確認を行っていたとしても、本人に入会したという意志がなければ場合によってはこれは無効の取引となり、遡及して返金の対象となる、法的リスクの高いビジネスです。ところが、大手キャリアにおいてはビデオ、マガジン、パスなどと銘打って欺瞞的取引の宝庫となっており、これらのモラルなき取引を繰り返し、消費者の無知に付け込むようなビジネスを大手企業が横行させている現状は厳しく考えていかなければなりません。 つまり、お金を貰っているのに中立なフリをして記事を読ませ、読者を騙す形で稼いでいる一部のメディアと同様に、今後問題となるのは「欺瞞的取引とは何か」というテーマでしょう。まさにステマはこの欺瞞的取引の入り口であり、基本となるべき詐欺行為に他なりません。それはゆくゆくはネットに対する重大な規制論に立ち入ってしまうことになり、いまネットに無知な消費者をカモることで利益を上げている企業ほど、問題に気づかされた消費者の怒りと共に過剰な規制を敷かれてしまうリスクを軽視しているように思えてなりません。 それは、一夜の春を謳歌した消費者金融が、悪意の受益者として遡及効が認められ、過去に遡っての過払い請求が認められて突然のグレーゾーン金利返還訴訟で灰燼に帰した事例を考えずにはいられません。 そして、これらの行政罰は国内事業者にしか及びません。消費者保護は大事だが、やりすぎればサービス事業者はリスクを回避するために海外に事業の拠点を移してしまいます。まさに、考えるべきことは事業者と消費者の按配をうまく調整する行政の機微にあるのだ、といっても過言ではありません。 誰もがネットを使えるようになったからこそ、安全なネット利用環境を整えることは、サイバー攻撃・犯罪へ対処する技術的、当局的アプローチもさることながら、消費者行政も基本に立ち返ってしっかりと議論を積み重ねて行くべきであろうと強く考える次第です。

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    ステマとは「捨て身のマーケティング」である

    のように定義していた。要するに広報の立場で情報発信する際は、ニュース価値があるかどうかを判断するのはメディアだし、情報伝達の決定権は企業にはないかわりに情報の信頼感が強いというものだ。商取引ではないので、お金も発生しない。記事を書くのは記者だから、少しでも記事に取り上げてもらえるよう、しかも好意的な文脈で書いてもらえるよう、取材対応など工夫していたものだった。 しかし、最近の広報のマニュアルを見てみると広報と広告の境界が曖昧になってきていることが目にとれる。広告・宣伝担当ではなく、広報がPR会社などを使うのは旧来どおりだが、自らお金をかけて話題をつくる動きが起こったのが、この一連のステマ騒動につながっているのではないか。 PR会社、広告代理店に過度に期待する動きもその温床になっていると言えるだろう。本来、PRや広告というのは商品・サービスを「売る」ということ以外の期待も大きいはずなのだが、売れるかどうか、そのために露出を最大化、最適化できるかどうかが問われ続けている。当たり前といえば、それまでだが、その弊害だったとも言えるだろう。 なんせ、2000年代前半と比べるとメディアも多様化した。それこそ影響力のある人のブログやTwitter、Facebookなども情報発信の手段となったし、なんせネットニュースが本格的に登場したのだ。旧来型のメディアではない、このような新興メディアにおいてのルールが確立されていない中でこのような騒動が起こっていったのだろう。スマホの普及でウェブが本当に「バカと暇人のもの」になった 2点目のスマホの普及についてである。ウェブ礼賛論に対する現場からの批判の声、問題提起として出版された『ウェブはバカと暇人のもの』(中川淳一郎 光文社 2009)はタイトルから内容まで実に秀逸なのだが、ウェブが本当にバカと暇人のものになったのは2010年台に入ってから、特に震災のあとだと見ている。この頃から、スマホが本格的に普及した。言ってみれば、これによりウェブがより大衆化した。そして、ネットニュースアプリの登場、それとソーシャルメディアの連動などにより、より「バカと暇人のもの」になったと言える。そのような今までほどリテラシーの高くない層に対してステマという手段は有効なものになってしまったのではないだろうか。 やや余談だが、私は前述した通りに初期からネットニュースで記事を書いているのだが、たまに「もうネットで記事を書くのは一切やめてしまおうか」と考える瞬間がある。というのも、記事のタイトルしか読まない連中、明らかに読解力の低い連中から批判をされるからである。もちろんスルーするのだが、いい加減、疲れてしまった。来年から、ネットニュースの連載は2本にしぼり、それぞれ月に1本ずつにした。もううんざりなのである。ネットニュースサイトが増えつつあり、「誰でも」とは言わないが新米のネットニュースライターが跳梁跋扈している状況でもある。こいつらと一緒にしてくれるなと思う瞬間もあるのも正直なところだ。 3点目のネットニュースの流通経路についてだ。ユーザーがスマホに移りつつあり、ニュースキュレーションアプリの影響力などが増してはいるものの、なんだかんだ言って、ヤフトピこと、ヤフートピックスの影響力は絶大である。PVを稼ぐためには、ヤフトピ狙いをしなくてはならない。もちろん、PR記事はヤフトピを狙えない。故に、普通の記事を装うようになるという構造がある。 このような論点をもとにして考える必要がある。規制を強化したところで、このような論点、構造を理解しなければならない。なお、ここで出た論点は以前、中川淳一郎氏、三田ゾーマ氏などと2015年7月にイベントをやった際に教えてもらった知見も含まれていることをお伝えしておく。 もちろん、明るい兆しもなくはない。紙媒体からネットへのシフトにより実力派ライターがネットで書く時代がきていると言える。ネットニュースに対する眼も肥えてきているのではないかと感じる。最近では、5,000字を超えるような長文記事も読まれているのも特徴だ。みんながステマについて、敏感にもなっている。 ステマを行うこと自体が、サイトや著者が自滅するキッカケになることを期待したい。ステマとは「捨て身のマーケティング」の略であり、であるがゆえに自滅を招くことがあるのだ、と。自浄作用を期待したいところだが、それは牧歌的な考えだろうか。 最後に、私の最新作『エヴァンゲリオン化する社会(http://www.amazon.co.jp/gp/product/4532262925/yoheycom-22)』と文庫化された『僕たちはガンダムのジムである(http://www.amazon.co.jp/dp/4532197821/yoheycom-22)』(ともに日本経済新聞出版社)をぜひ読んで頂きたい。このような劣化した日本社会の現実を描いている。これをステマと言うんじゃない。著者による、宣伝である。なんでもステマっていうのも違うと思うのだ。これも捨て身なのだが。

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    有効な規制の手立てないステマ、カギを握るのはTPP

    庁もその動向を監視し始めた」[2]などの報道が相次いだ。 他方、いわゆるネイティブ広告については、「メディアの形式・機能と一体感のあるデザイン、内容、フォーマットの広告」などと説明される場合があるが[3]、要するに、一般の記事と区別がつかない広告のことである。ニュース風の記事の題名の中に[PR]などと入っているものが典型的であるが、広告であることの表示が極めてわかりにくいものや、そもそも広告であることを表示しないものもあることから、平成26年頃から一般にも問題視され始めた。 メディアが中立的に記述、報じた記事については、消費者は当該メディアへの信頼度に応じてその記事中の評価を文字通りのものとして受け止めるが、[PR]等の記載がある場合、当該記事は中立的でないことが明らかであることから、消費者に読まれる(クリックされる)率は明らかに低下する。メディアにとっても、広告主にとっても、広告主から資金が提供され、そのため当然に広告主に有利なこと(又は広告主の競争者に不利なこと)しか書かれていない記事に「資金が提供されている」という関係性を明示しないインセンティブは非常に高い。 上記の通り広告であることを明らかにする物もあることから、ネイティブ広告のすべてがステルスマーケティングに該当すると認識されているものではないが、「消費者に宣伝と気付かれないように宣伝行為を行うこと」に該当するものもあるのではないかということである。 以下では、これらの事例を念頭に、ステルスマーケティングの規制をみていく。ステマはどう規制されているのかステルスマーケティングはどう規制されているのか(1) 景品等表示法等による行政規制 広告に対する最も中心的な規制は、不当景品類及び不当表示防止法(景品等表示法)である。景品等表示法は優良誤認(4条1項1号)や有利誤認(4条1項2号)を招く不当表示を禁止しているが、ステルスマーケティングと関係が深いのは優良誤認表示の禁止である。景品等表示法4条1項1号商品又は役務の品質、規格その他の内容について、一般消費者に対し、実際のものよりも著しく優良であると示し、又は事実に相違して当該事業者と同種若しくは類似の商品若しくは役務を供給している他の事業者に係るものよりも著しく優良であると示す表示であつて、不当に顧客を誘引し、一般消費者による自主的かつ合理的な選択を阻害するおそれがあると認められるもの 優良誤認禁止に該当した場合、消費者庁等は、資料提出要求や措置命令を行うことができる。消費者庁は、インターネット消費者取引に関する景品等表示法の運用基準[4]において「商品・サービスを提供する事業者が、顧客を誘引する手段として、口コミサイトに口コミ情報を自ら掲載し、又は第三者に依頼して掲載させ、当該『口コミ』情報が、当該事業者の商品・サービスの内容又は取引条件について、実際のもの又は競争事業者に係るものよりも著しく優良又は有利であると一般消費者に誤認されるものである場合には、景品表示法上の不当表示として問題となる」として、口コミサイトを用いたステルスマーケティングに関する見解を明らかにしている。 ただし、問題となるのは景品等表示法であることから、あくまで、「実際のもの又は当該商品・サービスを供給する事業者の競争事業者に係るものよりも著しく優良又は有利であると一般消費者に誤認される」かどうかが問題である。消費者庁の前記運用基準で挙げられている例でも、「広告主が、(ブログ事業者を通じて)ブロガーに広告主が供給する商品・サービスを宣伝するブログ記事を執筆するように依頼し、依頼を受けたブロガーをして、十分な根拠がないにもかかわらず、『△□、ついにゲットしました~。しみ、そばかすを予防して、ぷるぷるお肌になっちゃいます!気になる方はコチラ』と表示させること」というものがあるが、「十分な根拠がないにもかかわらず」という文言が入っている点がポイントである。つまり、「消費者に宣伝と気付かれないように宣伝行為を行うこと」だけでは景品等表示法違反にはならず、あくまで優良誤認表示に該当することが必要である。業界団体による自主規制の現状は(2) 民事的手段による規律 景品等表示法は行政規制であるので、基本的にはステルスマーケティングに晒される消費者が直接的に行使できるものではなく、消費者庁等の監督を待つことになるが、民事的手段によって、ステルスマーケティングを是正させることはできるか。 景品等表示法には、優良誤認表示違反について、適格消費者団体に差止請求権を認める規定がある(消費者団体訴訟)。これは、損害賠償請求を求めるものではなく、あくまで優良誤認表示の停止を求める請求であるが、理論上はあり得るであろう。もっとも、前述のとおり、「消費者に宣伝と気付かれないように宣伝行為を行うこと」だけでは景品等表示法違反にはならない。消費者庁等のように調査権限を持たない適格消費者団体が優良誤認表示に該当することを自ら主張立証することには困難が伴うであろう。 また、口コミサイトの運営者が、自らの口コミサイトがステルスマーケティングに用いられたことを理由に、ステルスマーケティング業者を訴えるという事例も現れてきている。楽天市場を運営する楽天株式会社が「楽天市場に出店している121店との間で、商品の売買を装い、店側に好意的な評価を月150件ずつ投稿する契約を月額8万円で締結。少なくとも約11万4千件の口コミを書き込んだ」として、システム開発会社「ディーシーエイト」を提訴したとされている[5]他、米国ではAmazon.com, Incが同様のステルスマーケティングを請け負っていた個人(クラウドソーシングサイトを利用していた)を訴えた例が認められている。 いずれにせよ、この場合の原告は消費者ではなく口コミサイトの運営者であり、コストも掛かることから、当該運営者に損害及び訴訟遂行能力がある必要がある。また、もちろんのこと、口コミサイト運営者自身がステルスマーケティング業者と通じていたり、これによる利益に預かっていたりするような場合には提訴するインセンティブ自体が存在しない。(3) 自主規制 以上のとおり、景品等表示法では単なるステルスマーケティングが規制されているわけではなく、優良誤認表示に該当する必要があるし、民事的手段による規律についても、消費者自身が簡便に行えるものは存在せず、適格消費者団体や、口コミサイト運営者による提訴も容易ではない。そこで、業界団体の自主規制が重要になってくる。 一般社団法人インターネット広告推進協議会(現・一般社団法人日本インタラクティブ広告協会、JIAA)は「ネイティブアドの概念や定義は曖昧なままで、広告主および媒体社においても混乱を来たしているのが現状で、広告主、媒体社・プラットフォーム事業者およびユーザー(消費者)の三者にとって好ましいものだとは考えがたい事態となっております」との認識から、平成26年8月から「ネイティブアド研究会」を立ち上げ、その成果として、平成27年3月には「インターネット広告掲載基準ガイドライン」についてネイティブ広告に対応する改訂を行った。インターネット広告掲載基準ガイドライン(10) 広告であることの明示広告掲載枠に掲載される広告は、一般に、広告が表示されることが明確であるが、媒体社が編集したコンテンツ等と混在したり、並列したり、リストの上位に広告として掲載される場合や、広告を中心とした特集記事や、いわゆるネイティブ広告等において、消費者等が媒体社により編集されたコンテンツと誤認する可能性がある場合や、広告であることがわかりにくい場合には、その広告内や周辺に、広告の目的で表示されているものである旨([広告]、[広告企画]、[PR]、[AD]等)をわかりやすく表示する必要がある。 これにより、JIAA加盟社は、ガイドラインにより、優良誤認表示に該当しなくとも、ステルスマーケティングに該当するような広告については「広告目的で表示されているものである旨をわかりやすく表示」するように広告掲載基準を策定するように推奨されることとなった。具体的には、広告主からの資金提供により掲載される記事については[PR]等の表示をすることとなろう。TPPでステマ規制が進む?TPPでステマ規制が進む? 以上みてきたとおり、景品等表示法による法的規制には、優良誤認表示に該当しなければならないというハードルがあり、民事的手段による規律も困難である。JIAAのガイドラインは、ステルスマーケティングを直接的に制限するものであり評価に値するが、JIAA加盟社以外への効果はなく、また、行政機関が直接的に執行できるものではないこと、JIAA加盟社以外がこれを守らないことにより利益を得るとすれば、自主規制に従う事業者から不満が生じること等の限界がある。 前述の消費者庁の運用基準では、米国において、「連邦取引委員会(FTC)が2009年12月に『広告における推薦及び証言の使用に関するガイドライン』 を公表しており、この中でFTCは、広告主からブロガーに対して商品・サービスの無償での提供や記事掲載への対価の支払いがなされるなど、両者の間に重大なつながり(material connection)があった場合、広告主のこのような方法による虚偽の又はミスリーディングな広告行為は、FTC法第5条で違法とされる『欺瞞的な行為又は慣行』に当たり、広告主は同法に基づく法的責任を負う、との解釈指針を示している。」との運用がなされていることが紹介されている。FTC法第5条は『不公正又は欺瞞的な行為又は慣行(unfair or deceptive acts or practices)』について広く違法とし、米国連邦取引委員会の監督権限を認めるものである。FTC法第5条に相当する規定があれば、我が国においてもJIAAの自主規制に従うとの表明がある事業者については同自主規制の違反について法的責任を問うことが可能である。TPP交渉が閣僚会合で大筋合意し、共同記者会見に出席した甘利TPP相(左)とフロマン米通商代表=10月5日、米アトランタ(共同) では、我が国において、景品等表示法の規定に加えて更にFTC法第5条に相当する規定が導入されることはあり得るか。ここで注目されるのが、平成27年10月5日に大筋合意されたとされる環太平洋パートナーシップ(TPP)協定における消費者保護規定である。TPPにおける消費者保護規定は電子商取引章(第14章)と競争政策章(第16章)にあり、内閣官房が公表している案文(日本語)によると内容は以下の通りである。TPP〇オンラインの消費者の保護(第14.7条)締約国は、オンラインでの商業活動を行う消費者に損害を及ぼし、又は及ぼすおそれのある詐欺的及び欺瞞的な商業活動を禁じる消費者の保護に関する法律を採用し、又は維持すること等を規定。○消費者の保護(第16.6条)各締約国は、詐欺的及び欺まん的な商業活動を禁止する消費者に関する法律等を制定し、又は維持すること、適当な場合には、詐欺的及び欺まん的な商業活動に関して相互に関心を有する事項について協力及び調整を促進すること等を規定。 いずれの内容にも『詐欺的及び欺瞞的な商業活動を禁じる』ことが含まれており、FTC法第5条の影響が見て取れる。今後、我が国もTPPの内容を国内法にするための立法の準備に入ると思われるが、上記の消費者保護条項が、景品等表示法の規定を超えて、我が国に対してもステルスマーケティング規制に有効なFTC法第5条相当の立法を要求するものであるのか、我が国では既に景品等表示法の規定で十分に『詐欺的及び欺瞞的な商業活動を禁じ』ているとの態度が取られ、それで収束するのか、現時点では判然としない。 しかしながら、ステルスマーケティングに対する決定的な方策が存しない中、自主規制の範囲で適当な慣行が形成されることもないとすれば、TPPをも理由に、ステルスマーケティング規制が進む可能性があることは留意しておくべきであろう[6]。[1] 産経新聞東京朝刊社会面・平成24年1月15日。[2] 産経新聞大阪夕刊一面・平成25年1月8日。[3] 一般社団法人インターネット広告推進協議会(JIAA)『最近のインターネット広告の動向と健全化の取り組み』消費者庁 インターネット消費者取引連絡会 第15回 資料 平成26年12月16日。[4] 消費者庁『インターネット消費者取引に係る広告表示に関する景品表示法上の問題点及び留意事項』(平成24年5月9日一部改定)[5] 産経新聞大阪朝刊一面・平成27年3月21日。[6] 本稿の執筆にあたっては山本一郎氏(イレギュラーズアンドパートナーズ株式会社)より有益な示唆を頂いた。

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    広告、ヘイトコメント問題に横たわる感情

    劣化すると考えたヤフーはついに契約解除をしたという。その後もヤフーは類似した手法を取っている他の契約メディアにも水面下で警告を出している。サーチナの契約解除とは別に、ヤフーはニュースに対するコメント機能のあり方について、ブログで説明をしている(http://staffblog.news.yahoo.co.jp/newshack/yjnews_comment.html)。 ヤフーニュースにはコメントがつけられるが、中にはヘイトコメントも多いのも事実であるが、それでも「みんなの意見」を重視して、24時間体制で巡回しているとのこと。その上でブログでは、ヘイトコメントにはより厳しくした基準であたっていくと宣言している。 ネット署名を求めるHP とはいえ、問題は簡単ではない。「不快な用語」「偏見に基づく人種差別」「極端で乱暴な言動によるレッテル張り」といったコメントに対する厳しい基準は必須であるが、線引きが難しいのも事実である。9月上旬にシリア難民に対する揶揄を目的としたイラストが大きな議論を呼んだ。Facebookに当該イラストを投稿した漫画家のはすみとしこ氏に対して、Facebookの規定(人種や民族、出身に対する差別発言を削除する)を根拠に、はすみ氏のアカウントの削除を求めるネット署名が行われているが、Facebookが削除に消極的な態度であることも、上記の問題が関係している。感情市場を今一度認識しなければならない感情市場を今一度認識しなければならない こうした明らかなヘイト発言が言論の自由として対処されないためには、法や企業の基準だけでなく、我々の感情と理性による価値への合意形成が必要となる。その時、我々は理性を使用しながらも、感情的な言説に意識的、無意識的に(少なくとも瞬間的には)反応してしまうことを理解しなければならない。さらに厄介なことに、ネイティブ広告もヘイトコメントも、ネットの発達とともにより容易にその内容の伝播を可能にする。 我々は我々自身が感情的な生き物であることを改めて認識しなければならない。そしてその際、「我々がより理性的になればいい」といった類の紋切り型の言説を繰り返すだけでは不十分である。感情には感情。ないしは感情があらゆる空間においてキーポイントであることを踏まえた上で制度設計をしなければならないのだ。こうした視点は以前もこの連載で取り上げた(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4508)。 本稿は事実の主として確認に多くの紙面を割いてしまった。これらの問題から、ネット上における我々の感情とその設計を論じるために、稿を改めてこの問題について広く考察したい。つかごし・けんじ 学習院大学非常勤講師。1984年生。専攻は情報社会学、社会哲学。著書に『ハクティビズムとは何か』(ソフトバンク新書)、共編著に『「統治」を創造する』(春秋社)、など。TBSラジオ『荒川強啓デイ・キャッチ!』月曜ニュースクリップ担当としてレギュラー出演中。