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    15歳の少女はなぜ命を絶ったのか ネット検索で救われなかった人

    w)」が州知事の署名を受けて承認されている。同法は、FacebookやTwitterなどのソーシャルメディア大手に義務づけられており、2015年1月1日に施行されている。早速FacebookやTwitterは同法に対応したサービスを提供している。 検索結果によって苦しめられている若者は多い。たとえば次のような例が起きた。2013年、某飲食店のアルバイトA君は、冷蔵庫に入り込んだ写真をTwitterに投稿。A君の本名や在籍校などがすぐに突き止められ、炎上する騒ぎとなった。その結果店舗は休業、A君は解雇され、損害賠償請求される羽目になってしまった。A君はショックで引きこもり状態となったと言われている。 炎上事件を起こすと、“特定班”などと呼ばれるネットの住人たちによって個人を特定されてしまう。そして、本名や顔写真、在籍校、住所や家族などの個人情報をインターネット上に公開されてしまう。その結果、名前で検索すると炎上事件と個人情報が表示される羽目になる。事件から2年半経った現在も、A君の本名で検索すると炎上事件やA君の個人情報が表示されている。問題ある投稿はしない姿勢が大切 どのような若者達がこのような状態になるかご存じだろうか。炎上が起きるのは、上記のような“バイトテロ”以外にも、他人を盗撮したり、未成年飲酒をしたり、線路に立ち入ったり、キセル行為をしたりなどの違法行為、迷惑行為や他人が不快に思う行為などをした場合に起きることが多い。 しかし中には、レイプをした人の擁護ととれる発言をしただけで炎上し、内定取り消し処分されてしまった人もいる。動画配信をしていた時、ゲームの違法ダウンロードを告白してしまい、炎上して個人情報をさらされる羽目になった小学生もいる。確かに彼らは“悪いこと”をした。しかし、彼らは既に多くの罰を受けている。事件から数年経った今でも名前を検索すると炎上事件と個人情報が見つかる事態は、彼らの罪と見合うのだろうか。問題ある投稿はしない姿勢が大切 「忘れられる権利」が浸透することで、彼らが自分の過去から逃れられる可能性が出てくるのは喜ばしいことだ。ただし、「忘れられる権利」が徹底したとしても、残念ながらそれで彼らが完全に救われるとは限らない。たとえば次のような例がある。 カナダの15歳の少女アマンダ・トッドさんは、2012年9月にYouTubeに学校とFacebookでいじめを受けていた実態を告白する動画を投稿。その一カ月後、16歳の誕生日を前に自殺してしまった。彼女は中学1年生の時にウェブカメラでチャットをするようになり、そこで知り合った相手に褒められて、請われるままにトップレスになってしまう。1年後、知らない男性がFacebookを通じて彼女を脅迫し、トップレス写真をばらまいてしまったのだ。アマンダさんはショックでうつ病やパニック障害を患い、引っ越ししたがいじめは続いた。アマンダ・トッドさんを悼むFacebookページ アマンダさんの問題は、中学1年生の時に悪意を持った相手にトップレスの写真が渡ってしまい、多くの人にばらまかれたことから始まった。このように、写真などを個々人が保存・コピーしてしまうと、削除しても再アップロードされてしまい、いたちごっこ状態となってしまう。つまり、「忘れられる権利」だけでは、事実上消すことはできなくなってしまうのだ。 「忘れられる権利」が浸透するのは、炎上事件を起こした若者たちにとって救済措置になる可能性がある。しかし、それ以上に大切なのは、そもそも問題ある写真や投稿はしないなどの基本的な情報リテラシーを身に付けることだろう。現状でもプロバイダ制限責任法により削除依頼は可能なので、インターネット上からできる限り問題ある情報を削除する努力も必要だ。若者達が若気のいたりで問題ある投稿などをしないよう、周囲の大人は見守ってあげてほしい。

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    グーグル検索なんてなければよかった

    1日、グーグルの時価総額がアップルを超え、世界首位に躍り出た。69兆円もの企業価値はまさにアメリカンドリームだが、グーグルはいま大きな悩みも抱える。人に知られたくない過去をネット上から消し去る「忘れられる権利」だ。ネット時代の新しい人権は「グーグル帝国」に影を落とす。

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    「忘れられる権利」とはなにか? プライバシー概念をめぐる各国の争い

     [サイバー空間の権力論]塚越健司 (学習院大学非常勤講師) 前回の連載ではブラジルのネット憲法とインターネットガバナンスの問題を取り上げた(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3892)。世界ではインターネットの管理・情報の透明性をめぐる議論が加熱している。そんな中、ネット社会の覇権を握っていると言っても...。ネット上に残る個人情報を削除する権利 忘れられる権利(Right to be forgotten)を一言で表せば、ネット上に残る過去の個人情報を削除する権利と言える。それらの中には、自らアップした過去の日記や別れた恋人との情報など、自身で管理可能なものもあるが、中には自分では削除できず、またネットに拡散してしまう情報などもある。一度ネットに上がったものは消えることがないものも多く、削除を希望する人も多い。 欧州ではプライベート情報を管理するための議論が以前から盛んであった。今から20年近く前の1995年、EUは「個人データ保護指令」と呼ばれる個人情報を保護するためのルールを制定した。これらは当時においても高レベルの個人情報保護を約束するものであったが、その後2012年にはデータ保護指令を改定する「データ保護規則案」を提案。2013年に可決し、今後1、2年をかけて成立させる予定である。このデータ保護規則案にこそ、現在話題となっている忘れられる権利が明記されているのだ。忘れられる権利を認めたEU司法裁判所の判決 2014年5月13日、EU司法裁判所はGoogleに対して、Googleを訴えた原告のスペイン人男性の過去の情報を忘れられる権利として認め、彼に関する一部情報を検索結果から削除させる判断を下した。これは2013年に可決された「データ保護規則案」の成立を前に、忘れられる権利をEUが先取りした形になる。ドミニク・ペローさんが設計した欧州連合司法裁判所=ルクセンブルク 事件を簡単に説明しよう。このスペイン人男性は、16年前に社会保障費の滞納から自身の不動産が競売にかけられた過去をもつが、現在ではそうした問題は解決されている。だがGoogleで彼の名前を検索すると、現在でも16年前の記事へのリンクが検索トップにでてきてしまう。このことを彼は差し止めるために訴えを起こしたのだった。 EUの判決は、こうした情報がすでに過去のものかつ現在では不適切だとして、この記事へのリンクを削除するものだ。ちなみに新聞記事自体は削除されず、ウェブには残り続けるという点には注意が必要だ。ただし、Google検索に残らないということは、世界の片隅に投げ捨てられた石ころを手がかりなしに探すようなもの。基本的に関係者以外には彼の記事が参照されることはないだろう。 このEUの判断の後、5月30日にはGoogleは削除要請フォームを設置した。無論以前からGoogleには著作権侵害やクレジットカード番号等の犯罪にかかわるものなどに対する削除フォームが設置されていたが、EUの判決以後、より強力な個人情報削除に対応した形になる(ちなみに、EUの法に準じた削除フォームは、EU圏の人間にのみ適応される。詳しい削除要請方法は以下がわかりやすい http://gigazine.net/news/20140602-right-to-be-forgotten-tool/)。この削除要請フォームの設置後、一日で12000件を超える要請があった。 いずれにせよ忘れられる権利が今後社会に浸透し、世界中の企業・政府がそれを認めることになれば、リベンジポルノをはじめとした様々なトラブルに対し、世界中で柔軟な対応がなされるであろう。もちろん後々問題になるであろう情報・画像の取り扱いに関しては、これまで以上に注意しなければならないことは言うまでもない。ネットリテラシー教育は、未成年を中心に推進する必要がある。議論されるべき問題は?議論されるべき問題は? 忘れられる権利は個人にとっては歓迎すべきことだ。ただし議論されるべき問題もある。 (1)どこまでは忘れられる権利なのかについて。先ほどの事例はわかりやすいが、例えば犯罪歴がある人物が刑期が終わり出所している場合、忘れられる権利は適応されるべきだろうか? そしてそれは、事件の質(殺人なのか窃盗なのか、はたまた児童ポルノなのか)や社会的インパクトなどから考慮されるのか。さらに、政治家や芸能人といった公人の場合、知る権利や表現の自由の観点からしても、忘れられる権利として情報の削除を認めるか否かが問題となる。これらをすべて司法判断に任せるのは難しいが、現状では細かな判決の積み重ねが必要とされる。 (2)削除にかかるコストと創造性について。すでにGoogleをはじめとしたネット企業からは、忘れられる権利に関する反対の声があがっている。確かに個人の要求に一つひとつ答えていけば、膨大な作業が企業に負担をかけることになる。また労力や金銭的問題以上に、法によるイノベーションの阻害も問題となる。ビッグデータにみられるように、過去の検索履歴といった個人情報を武器に、企業は新しいビジネスや産業のイノベーションを繰り返す。忘れられる権利が広がれば広がるほど、ネットに関わる企業は、それらがイノベーション阻害だとして反対するだろう。 実際に先の「データ保護規則案」可決にあっては、EUのIT企業から多くの反対の声があがったのも事実だ。ただし、そうした反対を押し切ってEUが可決に踏み切ったのは、2013年にアメリカの監視行為を暴露したスノーデンの告発が背景にあったからだ。 さらに、忘れられる権利を含めたより広範な論点として、GoogleやFacebookをはじめとするネット企業が個人情報をどのように扱うかだけでなく、背景にあるアメリカに対する牽制としてEUが今回の司法判断に踏み切ったのではないか、と推測することも筆者は可能だと考える。なぜか。アメリカとEUインターネットガバナンスの差異 上記の通り、EUは個人情報保護に重きをおいた政策を展開しつつある。逆にアメリカは個人情報保護に関してはEUと異なる方向性を打ち出している。アメリカは2012年、オバマ大統領の署名入りで、「米国消費者プライバシー権利章典」と呼ばれる報告書を公開した。これによれば、アメリカはプライバシー保護に関してEUのように国家が強い規制をするものではなく、むしろ消費者が自由にプライバシー保護を選択できることに重きが置かれていることに特徴がある。 ネットでは検索履歴からユーザーの好みにあった広告を展開する行動ターゲティング広告があるが、ユーザーがそうした履歴から追跡されることを拒む「Do Not Track」(DNT)の権利をアメリカは認める。重要なのは、ユーザーはプライバシーを守ることも、逆にプライバシーをある程度解放させることで便益を得ることも、ユーザーの選択に任せるという方向なのである。 ただし、ユーザーがその都度選択することは難しい。むしろ、利用規約という読みきれない文書の中に注意書きをしたものに、我々が「はい」を押すことで、各企業は個人データをこれまで通り利用することができる。これもまた「ユーザーの選択」ということなのだ。したがってEUのように個人情報の保護重視でどちらかといえばビジネスに消極的なのに対し、アメリカの政策はビジネスに積極的であるがゆえに、個人個人に判断を委ねる、といった傾向にある(ちなみに、国家による法でも民間企業による自主規制でもなく、国家と企業が協力することでルールを維持する「共同規制」と呼ばれる考え方もある。いずれ本連載で議論したい)。ネット社会の権利をめぐるガバナンス 忘れられる権利のように、ユーザーの求めに応じて各企業が対応していくという個人情報保護の動きは今後も活発化するだろう。他方、これまで以上にユーザーの個人情報を利用したビジネスもまた展開されていくのも事実だ。プライバシーとビジネスや利便性はどちらも必要不可欠であり、いずれかを天秤にかけるものではない。とはいえ上述の通り、EUとアメリカの政策に全体的な方向性の違いが見出されるのも事実だ。 このように、ネット社会の権利をめぐる大国間の争いは水面下で生じている。では日本はどのような政策を取るのか。現時点では、忘れられる権利に関しては直接的にこれに該当する法はなく、周辺法の解釈によって運用される。さらに個人情報保護法はあるものの、どのような運用指針があるかもいまいち明確化されていない。 さらに言えば、EU型かアメリカ型か、どのような方向性を日本が打ち出すかも重要な論点となる。日本という国の基本的姿勢を世界にアピールする必要があるが、その際日本が独自に打ち出せる姿勢があるかどうか、またそうでなければEU/アメリカのいずれの方向性を取るのか。ネットに対する態度表明が求められるところであろう。

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    古舘伊知郎はこれから何をするのか?

    常見陽平(千葉商科大学 国際教養学部専任講師) 古舘伊知郎氏のテレビ朝日系「報道ステーション」降板が発表された。ネット上では、ジャーナリズムの危機だとか、これで批評型ニュースがなくなるとか、圧力じゃないかなど、様々な意見が飛び交っている。物事の変化について、その背景や文脈を読むことも、権力の監視も大事なのだが、もう12年も務めたこと、古舘伊知郎氏の年齢ももう60代となっていることなどを考えると妥当だとも思う。 ヤフトピに載ったスポニチアネックスの記事によると「現在の契約が終了する来年3月いっぱいで出演を終了したい」と申し入れがあり、テレビ朝日側は契約更新を打診して慰留したが、最終的には「新しいジャンルに挑戦したい」という本人の意思を尊重したという。とある。 勘ぐるのも自由だし、健全な批判精神は大事なのだが、「日本のジャーナリズムはこのままでいいのか問題」と、古舘伊知郎氏というタレントのキャリアの話は分けて考えるべきではないか。そして、「日本のジャーナリズムはこのままでいいのか問題」をジャーナリズムに関わる人間が論じるなら、それは評論家でも傍観者でも一般市民でもなく、当事者なのだから権力に屈しないジャーナリズムを自ら実践しつつ、建設的な意見を言えばいい。「報道ステーション」の降板が決まり笑顔で記者会見する古舘伊知郎氏=2015年12月24日、東京・六本木(斎藤浩一撮影) 私はむしろ、古舘伊知郎氏が「報道ステーション」から解き放たれることの可能性に期待したい。彼の言う「新しいジャンルに挑戦したい」という一言がとても気になっている。最近、諸事情で(趣味のためではなく)プロレスに関する資料を買い漁って読んでいるのだが、その際、彼のプロレスの実況のことを思い出した。 猪木がハルク・ホーガンのアックスボンバーを食らってベロ出し失神した際の「ここで猪木コール、猪木コール!ここで猪木コールだ!渇き切った時代に送る、まるで雨乞いの儀式のように、猪木に対する悲しげな、ファンの声援が飛んでいる!」などは、あまりにも有名だが(数々のプロレス本で、この結末というのは、誰も知らなかったそうで、古舘伊知郎氏はこのフレーズをとっさに考えたのだろうな、と思う。あるいはもともと考えていたフレーズが出てきたのか)、その他にも数々の名フレーズを生み出した。「人間山脈」「一人民族大移動」「過激なセンチメンタリズム」などの表現に、私は毎週興奮した。F-1の実況も当初、賛否を呼んでいたが、話題になったのは間違いない。 その後の「報ステ」だが時に波紋を呼びつつも、彼はこのポジションでいいのかといつも考えていたりしたものだ。いや、プロレス実況とは違い、すっかり大人の古舘伊知郎氏になっていたと思うのだけど。そして、これで批評型ニュースがなくなるという意見もあるのだが、彼は古舘伊知郎らしい仕事を「報ステ」でどれだけしたのだろうというのが、私には謎なのだ。いや、たまにしか見ないからあれなんだけど。 ベテランである彼が、これからどんな仕事をするのか、残りの人生で何をやるのかというのが気になっている。もっと言うならば、これは世の中全体の流れとも重なっている。高齢者の起業などが話題になる今日このごろ。私は「若者の可能性にかけろ」というもっともらしい言葉もいいのだけれども、このようなベテランが、余生で何を残すか(それこそ若い世代を応援することも含めて)ということに期待するのである。 というわけで、残り約3ヶ月で「報ステ」において彼が何をするのかと、その後の彼に期待している。それこそポスト田原総一朗論争なんてものもあったわけだが、彼が急浮上する可能性だってある。いや、田原さんと同じことなどできないのだけど、存在として、大化けすることだってあるわけで。参議院選に立候補するという展開も面白い。 ベテランに何かあるたびに、世の中終わった、昭和が終わった的なノスタルジーっぽい発言をする中高年を自分も含めて見かけるわけだけど、危機感、問題意識は大事だが、相手の気持ちと、自分のできることも考えようぜと思う今日このごろ。お疲れ様でした!(「陽平ドットコム~試みの水平線~」2015年12月24日分を転載 )

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    「もう一度見ようとは思わない面白い高級映画」スターウォーズ第7作

    古谷経衡(著述家)SW7は「高い店のうまい飯」 端的に『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(以下SW7)の印象を言ってしまえば、「高い店でうまい飯を食った」という感じ。公開翌日の2015年12月19日、東京都内とはいえ辺境にある映画館のレイトショーであるにも関わらず、客の入りは相当だった。SW7の興行的成功を直感した。それは後の報道でも裏付けられた。 さて私は通常、一回のディナーに1人1万円以上掛かるような「高い店」に行くのはあまり好きではない。それよりも、3,500円位の会計で満腹になる家族経営の非チェーンの居酒屋でチビチビとやるのが好きだ。「高い店」がダメで、「安い店」が良い、と言っているわけではない。『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』 (C) 2015Lucasfilm Ltd. & TM. All Rights Reserved ドン・キホーテのワインコーナでは売っていないワインをグラスにあけ、但馬や鹿児島で育った牛のステーキをわさび醤油で食べるのは最高の贅沢だと思う。多分そういう店は、空調も間接照明も眺望も第一級だ。いちいち野菜やデザートの産地をシェフから説明されると、なんとなく美味そうに感じる。私は富裕層ではないからよくわからないが、親父がこびりついた油でギトギトになった焼き台で焼いたねぎまや、店のママさんが作り置きしているポテトサラダとは、何から何まで訳が違うのだろうと思う。 でも私がこういう「高い店」があまり好きではないのは単に経済的な理由だけではなくて、「高い店がうまい」のはあたりまえの事だからだ。2人で入った店のディナーの会計が4万2000円なのに、デフレ飯系のチェーン店と満足感が同じだったら訴えられるだろう。「失敗がない」という安心感がある代わりに私たちはここぞというデートの時や何かしらの記念日に際して「高い店」に行き、そこで高い会計を払っているのだ。しかし、それは当たり前のことであって驚きは存在しない。 私が期待しているのは、3,500円という会計の割には大満足でき、また次の週末に一人で来たいと思わせるような大衆的で良心的な店だ。大衆的で良心的な店はグルメとは遠い、みたいな事をいう人間は単に「東京」とか「六本木」などという地名にステータスを感じているだけの田舎者にすぎない。 グルメとは「高い店でうまい飯を食う」ことであると私は定義しない。グルメとはある種の驚きである。よって「高い店でうまい飯を食う」のは当たり前のことであり驚きとは遠い。良心的な会計の中に至高の驚きを見つける事こそが真のグルメであり「食道楽」だと思う。 前置きが長くなったが、そういう意味では、SW7は、第一級の(高い原価の)素材を基に、最高の環境で提供された「高級料理店の高いディナーだ」。確かに、料理長は『LOST』を皮切りに『スタートレック(11作~)』『スーパー8』等で一躍世界的に名が知られるようになった気鋭、JJエイブラムス(以下JJ)。まだ40代後半の若さとはいえ、しっかり経験とヒットの実績を積んでいる。失敗はない。「ルーカスを否定しつつ、尊重する」という縛り「ルーカスを否定しつつ、尊重する」という縛り 素材にも金が掛かっている。帝国軍のTIEファイターがミレニアム・ファルコンを追尾する冒頭の戦闘シーンから始まり、終劇するまで兎に角「豪華」だ。「高い店でうまい飯」を食うのが好きな人にとっては最高の、映像的快感が連続する。 しかし、このSWという「高い店のうまい飯」には、縛りもある。それは、言わずもがなSWはルーカスが産み落としたという事実だ。SW7とJJはこの縛りから逃げることは出来ない。なぜなら、「父であり母である」ルーカスを否定すると70年代から世界中に熱狂的に存在するSWファンから袋叩きに合うし、かと言ってルーカスを尊重し過ぎると、これまた同様の人たちや「新しいファン層=顧客」から「新鮮でない、物足りない」としてバッシングされる。『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(C) 2015Lucasfilm Ltd. & TM. All Rights Reserved 「ルーカスを否定しつつ、尊重しなければならない」という、トリプルエックス級の難しい難題に挑んだのが、気鋭の料理長JJというわけだ。この、「否定しつつ尊重した上で、新しい創造を」みたいな、一見「海原雄山的難題」の解決は不可能にも思えるところだが、そこはさすがJJ、見事に調理している。 SW7のあらゆるところにルーカスの否定と尊重が垣間見える。ネタバレはまだ未見の読者諸兄に非礼なのでしないが、例えばファーストカットのスター・デストロイヤーの登場の構図だけは言わせてほしい。 その構図は、ルーカスとJJでは真反対である。SW4において、画面上からいきなり「ぬぅ」と登場し、観客の度肝を抜いた巨大な構造体=スター・デストロイヤーこそ、SWシリーズ全体の中でもっとも象徴的構図だが、これがSW7では反転している。つまりルーカスは上から、JJは下から船を登場させている。これは極めて意図的なカットだ。一瞬「ルーカスDisか?」と勘ぐるも、そこはJJ、きちんと本編で「リスペクト」のフォローを次々と繰り出している。 出て来るべきところには出て来るべき人物が登場し、やるべき場面ではやるべきことがなされている。きちんと随所で「ルーカス・リスペクト」の踏み絵を踏んでいくJJ。この微妙な綱渡り感覚は、やや慎重に過ぎるとしても画面的に不愉快にはならない程度である。このさじ加減は上手いと思う。 「ルーカスを否定しつつ、尊重しなければならない」という枠組みの中においてはJJは最高の働きをしたし、またそれには「金が掛かっている」から、やはりSW7の鑑賞は、2時間強、温泉にでも入っているような愉悦だった。 そう、だから私はSW7を「高い店でうまい飯を食った」と形容する。私にとってSW7は全然美味しいディナーだった。しかし冒頭から繰り返すように、「高い店がうまい」のは当たり前のことだし、それはグルメではない。そういう意味でSW7は、「次の週末にも一人でいこう」とは思わない店だ。そもそもルーカスは映画監督としてどうなのかそもそもルーカスは映画監督としてどうなのか ちなみに私はSW4(エピソード4)が公開された際、(全米1977年、日本78年)生まれていなかったから、スピーダー・バイクがタトゥイーンの砂漠の宙を疾走する特撮を見て世界中が熱狂した当時の観客の皮膚感覚を知らない。 1997年にはSW4~6の特別編が公開され、原盤から大きくCG技術が更新されたが、既にその時期日本では『新世紀エヴァンゲリオン』の熱狂的大ブームが列島を覆っており、更にスペース・オペラという意味では翌98年、90年代を代表するSFアニメ・シリーズの傑作である『COWBOY BEBOP』(渡辺信一郎監督)が燦然と登場してきた。SWは基礎教養として見なければならないという義務感と、相応の感慨はあったがそれ以上の何かを持ち得ないまま、99年の『ファントム・メナス(SW1)』へと劇場体験は続いていく。 つまり私が何を言いたいのかというと、日本製SFアニメの洗礼を全身に受けて青春を過ごした私にとって、SWにはそれほど大きな思い入れはない、ということだ。SW公開時には映画館に長蛇の列ができ徹夜組がでたと伝え聞くが、それを言うなら私だって97年の『エヴァ旧劇場版』(シト新生)に公開日の前日の深夜から11時間並んだ。 私にとってのSWは、『ロード・オブ・ザ・リングよりもベルセルク』『宇宙の戦士よりもガンダム』『ライトスタッフよりも王立宇宙軍』『ジェームス・キャメロンよりも押井守』という、やや偏愛的なドメスティック感覚と同じように、おおよそ好みで言えば「ド直球」の作品ではないのだが、それでも気鋭のJJが監督するというのだから事前期待は高まっていたのが正直なところだ。『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』 (C) 2015Lucasfilm Ltd. & TM. All Rights Reserved 今回、SW7は「高い店のうまい飯」だったが、高級店が高級店で在り続けるには努力が必要であるのと同じように、「高い店がうまい飯」を出すその裏側は、並大抵の努力ではないだろう。それは十分、画面から伝わってくる。 ルーカスの演出を私は決して上手い、とは思わない。SW以前のルーカス作品、『THX-1138』や『アメリカン・グラフィティ』にしても、ルーカス黎明期の作品とはいえ、傑作であるとは思えない。SWが大ヒットしたから後付で照射されただけであり、正直言って上手い監督は他にいくらでもいる。 ルーカスは全体的に編集のテンポが悪く、構成に無駄があり、構図も劇的ではない。SW4において傑出して印象に残る演出は前出のスター・デストロイヤーの登場場面くらいだ。私がSW全般に対し、やや冷めているのは致命的にこの部分が引っ掛かるからである。 そのような意味で、ルーカスと同時期にライバル視されたF・コッポラのほうが映画監督としてのレベルは比較に出来ぬほど上である。ルーカスはキューブリックの『2001年』にも影響を受けているとされるが、残念だがキューブリック・スタイルがSWに有意義に取り込まれているとは思えない。今回のJJに至っては、やや凡庸ではあるが会話シークエンスのテンポは悪くなく、構成もルーカスに比べれば遥かに筋肉質で引き締まっている。それはJJが優秀であるという以上に、ルーカスのレベルがそもそもあまり高くないからだ。 であるがゆえに、JJに課された「ルーカスを否定しつつ、尊重しなければならない」という縛りは、海よりも深い。ルーカスより「画期的に」上手く撮る実力は当然あるはずだが、それをやると文句を言われるという宿命は地獄だ。だから抑制的である。しかしあまりにも抑制的であっても批判される。そんな絶妙なエンジンの蒸かし加減を2時間強も「きちんと」続けるJJは、やはり凄いなと思う。 「高い店でうまい飯をくう」のも、たまには良いものだ。SW7、是非劇場で鑑賞されたい。

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    スター・ウォーズは 3代にわたる一家描く銀河系大河ドラマ

     全世界同時公開にみんな、浮き足立っている。「スター・ウォーズ フォースの覚醒」が公開されるからだ。どうしてこんなにみんなスター・ウォーズに魅了されるのか? その秘密とは?「スター・ウォーズ フォースの覚醒」共同インタビューに答えるJ・Jエイブラムス監督=2015年12月11日(宮川浩和撮影) 第1作『新たなる希望』が誕生した1970年代は、テレビドラマ『宇宙大作戦』(1966年から放送開始)や映画『2001年宇宙の旅』(1968年)などの流れを汲み、SFブームが到来していた。「そんな中で、SWが斬新だったのは、“SFなのに過去”という設定です」 と言うのは、『どっちのスター・ウォーズ』(中央公論新社)の著者で映画ジャーナリストの立田敦子さんだ。「作品の冒頭、“遠い昔、はるか銀河系の彼方で”というフレーズが流れますが、それは“SF=未来”という概念を覆す画期的なものでした」(立田さん・以下「」内同) というのも、これはメガホンをとったジョージ・ルーカス監督が、SWをおとぎ話のようにしたいと考えていたからだ。「過去を描くことで現実の話ではないと認識でき、その世界にハマることができたのも、ヒットの要因といえます」『宇宙戦争』のように外敵が攻めてくるストーリーではなく、内部分裂による抗争だった点も人の心に深く刺さったのではないかとも。「『銀河共和国』という国から、そのやり方に納得できないと悪に転じてしまったのがダース・ベイダーに象徴される『銀河帝国』。内部分裂は学校や会社など、どこにでもある問題だけに、共感されやすかったのかもしれません」 第1作が1977年に公開された当初は、全米のわずか50館のみの上映だったが、封切り後は口コミで評判が広がり、人気は拡大していく。そして1978年には日本でも公開され、映画館には連日大行列ができるほどの社会現象となった。 第1作目の主人公は若き騎士ルーク・スカイウォーカー。 「ただ、映画を見ると荒くれ者の宇宙海賊ハン・ソロなど、アンチヒーローでありながら、魅力的なキャラが登場します。特筆すべきは、何よりもダース・ベイダーの存在感。彼とルークの関係をひもといていくと、この映画が単なるSFではないことがわかります」 そして第1作目が記録的大ヒットしたことで、その後、30年前の話が作られ続編の製作が決定。第1作目はビデオソフト発売時にエピソード4と名前を変えることになった。従って、1からではなく、4、5、6と、物語が展開していく。 「エピソード4に加えて、続編のエピソード5『帝国の逆襲』(1980年)と6の『ジェダイの帰還』(1983年)で、ルークとダース・ベイダーの親子の物語が描かれます。そして、1999年から始まったエピソード1~3では将来を嘱望された若き騎士アナキン・スカイウォーカーが、暗黒卿ダース・ベイダーに転じた理由が明かされるのですが、才能あふれる若者が、愛する人を守るために悪の道に落ちていくのは、ドラマの設定としても普遍的なテーマ。そんなところも人々の心をとらえたのだと思います」 最新作ではエピソード6の30年後が舞台。ルークの子供たち世代が活躍し、ルークやレイア姫、ハン・ソロといったおなじみのメンバーのその後にも触れられるという。「こうしてみると、SWはまさに3世代の“スカイウォーカー家”を長期間で描いた銀河系大河ドラマ。家族の物語だったからこそ、人々の心をひきつけたのではないでしょうか」関連記事■ 【ジョーク】ウォール街を占拠するデモ隊とオバマのやりとり■ スター・ウォーズと21エモンの類似点 ゴンスケ=C-3POか?■ 日本と縁深い『スター・ウォーズ』新ヒロインはふなっしー好き■ 現役女子大生ビーチバレー坂口佳穂 チュートリアル徳井と対決■ ディズニーランド アニメがメインコンセプトではないのだ

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    「スター・ウォーズ」って作品、知ってる? 普通に楽しめばいいんだよ

    常見陽平(千葉商科大学 国際教養学部専任講師) 時はきた。明日からついに『スター・ウォーズ』の最新作が公開される。盛り上がっている感というか、盛り上げている感はある。先日、友人の結婚式で札幌に帰省したのだが、新千歳空港にはでかでかと、同作品のコーナーが設置されていた。東京の下町に住んでいるので、スカイツリー、ソラマチが近いのだが、やはりスター・ウォーズ関連の企画が。  関連する書籍も多数、出版されている。そういえば先日、NHK出版の編集者さんから『スター・ウォーズ論』(河原一久 NHK出版新書)を頂いた。感謝。雑誌でも『スター・ウォーズ』特集が組まれまくっている。どこに行っても同作品の話だらけだ。 私は『スター・ウォーズ』が大好きな人材である。いよいよ公開が迫ってきたわけで。しっかりと前売り券を握りしめ楽しみにしている。実に久々の新シリーズだし、映画作りの体制も大きく変わったわけだし、なんせあれだけ売れた作品なのでそりゃ話題になるだろうとは思うのだが、とはいえ、ここまで騒ぐのかと思ったりもする。いや、それくらい力が入っているということなのだけど。 オタクとまではいかないが、世代的に誰でも見る作品だし、テレビでも何度も放映されたし、自分でもDVDを全部持っていたりしたので(Blu-rayに買い換えるためにいったん全部売った後、買い直していないが)、何度も同作品を見ており、それなりに詳しいし、語りたいことはいっぱいある。2015年12月14日、米ハリウッドで行われたスター・ウォーズ先行上映で、映画館に飾られた看板(ゲッティ=共同) 奥の深い映画だと思う。よく論じられるのは、ダース・ベイダーとルーク・スカイウォーカーの親子関係だ。それがギリシア悲劇『オイディプス王』などに見られる「父殺し」の普遍性、息子が父を乗り越えるという形の典型的な関係だとされたりする。宇宙戦争を描きつつも、グローバルな政治経済を予感させるし、日本というか東洋的な世界観を感じたりもする。黒澤映画からの影響を指摘されたりもする(これは諸説あるが)。 だから、同作品のファンは熱く語りだすし、新作も楽しみにしているわけなのだけど、この熱量とか奥の深さが逆に面倒くさい雰囲気を作り出しているのではないかと思っている。いや、これは『スター・ウォーズ』に限らず、歴史があって、ヒットした作品には共通した特徴だと思うのだが。それこそ、私が関連書籍を書いた『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』だってそうだ。 ちょっと引いた視点でみると、各雑誌の『スター・ウォーズ』特集は首をかしげるものも中にはあり。理由は「誰のための特集か」が見えないからだ。同作品の入門なのか、オタク向けのものなのか。そして、ここまで知識がないと見てはいけないのかという空気まで作りだしているのではないか。なんというか、映画を盛り上げるための特集が「あぁ、面倒臭いな」という空気を逆に作り出していないだろうか。 まあ、この手の特集が組まれたり、煽ったりしているのは、実は『スター・ウォーズ』をちゃんと見たことがない人達というのが実は一定層、いるからだろう。例えば、今の大学生たちは90年代後半生まれなので、ちょうど幼少期に新シリーズ3部作が始まっているわけだが、やや彼らには早い作品であり。よっぽどの映画ファンではないと、実は『スター・ウォーズ』には熱くなかったりする。それでもダース・ベイダーなどのキャラは知っているわけで、見なくてもなんとなく知っているというのはすごい作品だなと思ったりもするのだが。コンテンツ・ビジネスではこのように、大ヒット作品でも世代的空白地帯があったりする。だから一生懸命煽るのだが、それが面倒くささを醸し出しているような。  『新世紀エヴァンゲリオン』×労働という本をこの秋に出したのだが・・・。この本で私が本当に言いたかったのは、前書き、1章、あとがきで書いたことで。何かというと、作品というのは神格化されていくのだが、所詮「ポップカルチャー」だということだ。だから、普通に楽しみましょうよ、ということだ。『スター・ウォーズ』なんてものは、それこそ「ポップカルチャー」だと思うのだ。まずは今までの物語が分からなくても、最先端の映像、宇宙船が飛び、戦士たちが剣や銃で戦う様子にドキドキしましょう、と。まずは興味があったら予習なんていいから映画館に行け、と。それくらいでいいのではないかと思う。 なんというか、一億総サブカル化の中で、ちょっと詳しくないと誰も何も言えず、楽しめない感じの中で、私は「興味があったら映画館に行って、普通に楽しもうぜ」と言いたいのだ。 というわけで、明日以降、見るのが楽しみだ。1999年のエピソード1の時は、初日の最初の回で見た気がするのだが、映画館で手拍子が起こったのだよな、最初の映像で。普通に楽しむよ。  僕ジムの文庫版よろしくね。(「陽平ドットコム~試みの水平線~」より2015年12月17日分を転載)

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    なぜ、今さら曙、サップに魔裟斗? 大晦日イベントは迷走か

    (THE PAGEより転載) 2015年の大晦日に地上波のテレビ放映を絡めた大型格闘イベントが復活する。 大晦日のテレビにボクシング以外の格闘技がコンテンツとされるのは10年ぶりだ。フジテレビ系は、PRIDEを大成功させたプロデューサーの榊原信行・実行委員長、高田延彦・統括本部長らが、立ち上げた『RIZIN(ライジン) FIGHTING WORLD GRAND PRIX 2015』。こちらは、29日との2日間のイベント、放映となる。TBS系は、「KYOKUGEN 2015」の番組内で、反逆のカリスマとして人気を博した元k-1王者の魔裟斗(36)対山本“KID”徳郁(38)との11年ぶりの再戦。 ライジンの方は、人類最強、60億分の1の男と評されたエメリヤーエンコ・ヒョードル(39)の復帰戦や、元大相撲・大関の把瑠都(31)の総合デビューなど盛りだくさんのカードや仕掛けが用意されている。だが一方で、12年ぶりの再戦となる曙(46)対サップ(42)を筆頭にIQレスラーとして、かつて格闘界をリードした桜庭和志(46)が、体重差のある実力派の青木真也(32)と対戦、世界のTKこと、高阪剛(45)の9年ぶりの復帰戦など、旬の過ぎた往年の人気選手の起用も目立つ。把瑠都の総合デビュー戦の相手も、K-1ファイターとしては、ビッグネームだが、全盛期は過ぎたジェロム・レ・バンナ(42)。大晦日の格闘技イベント、Dynamite!!でと打ち合うボブ・サップ(右)と曙。2015年の大晦日、このカードが復活する=2003年12月31日、ナゴヤドーム(森本幸一撮影) 榊原代表は、「どんなスポーツにもマスターズクラスがある。知名度があって活躍した選手が年をとったら追い出されてしまうような状況を何とかしたい。40歳を越えてもまだまだ現役で戦える選手はいるので、例えば、グローブを大きくするとか、打撃無しルールとか、工夫をすればいいし、ホイス・グレイシーもまだ戦いたくてしょうがないと言っていた」と、レジェンド対決を実現した理由を説明していた。レジェンドと呼ばれる伝説の選手にマスターズクラスという舞台を用意するのもライジンのコンセプトのひとつ。それでもコアなファンの間からは、「いまさら」という失望の声も少なくない。 魔娑斗対山本KIDも、04年の大晦日に瞬間最高視聴率31,6%を記録した伝説のカードだが、魔娑斗は6年前に引退した選手。UFCと契約している山本KIDは、“格闘イベントへの参加”とUFC側に説明して出場にごきつけたという話もある。スタンディング特別ルールと言えど、ミスマッチと言われても仕方がないだろう。 元k-1プロデューサーで、現在は、巌流島という格闘イベントを立ち上げ、隔月のムック本「大武道」の責任編集をしている谷川貞治氏も、こんな辛辣な意見を持っている。 「おそらくですが、一般の視聴者をかつての有名選手の名前で引き付けて視聴率につなげたいというテレビ局の意向でしょう。懸命に頑張られている主催者や、出場する選手には何の責任もないでしょうが、『ちょっと違うよな』というのが正直な感想です。10年前の再放送を見せられても、格闘界の復興にはつながらないし、意味はない。詳しくは知りませんが発表されているカードを見ても、何がやりたいかが見えてこないし、方向性がバラバラに迷走しているようにも思えます。 今回の大晦日が、格闘界の再興のきっかけになってくれればという期待感はありますが、過去の呪縛から解放されていませんね。私も考えていることですが、格闘界の再興のためには、UFCの路線でもない、もっと新しいア プローチをしていくべきだと思います。今人気の新日本プロレスは、脱猪木さんから新しい形で成功させていますし、人が集まっている新K-1も、昔のk-1とはまったく違うものです。その意味で、今回の年末の格闘イベントは、過去をなぞったものに見えます」 「曙-サップ」のカード実現をサポート、瞬間最高視聴率43パーセントを稼ぎ、怪物番組である紅白歌合戦に勝った経験を持つ谷川氏だけに、格闘家としての峠を過ぎたこのタイミングで昔の名前に頼った「曙-サップ」の再戦には複雑な心境なのだろう。 谷川氏は、「僕がプロデューサーをやっている頃は、大晦日という大きなイベントでは、時代の雰囲気をつかまえることが大事でした。今なら、テレビショーとして五郎丸歩を引っ張りだす、もしくは、ヒールとして清原和博をリングに上げるような仕掛けになるのでしょうが、10年前に比べてテレビの持つ力、取り巻く環境も変化しましたよね。局の予算もそうですし、テレビを見る人が減っています。どうアプローチしていくか、難しいのは事実ですが、迷走しているように見えます」と続けた。 かつてボビー・オロゴンらタレントをリングに上げてサプライズを起こした谷川氏らしい意見だ。 ただ、29日、31日と2日に渡って格闘技の“聖地”さいたまスーパーアリーナーで興行を打つライジンには、昔の名前に頼るカードだけでなく、魅力的なカードも組まれている。元女子レスリング世界王者、山本美憂の長男で、レスリングで五輪出場を狙っている山本アーセン(19)が総合に初参戦して、あのヒクソン・グレイシーの二男・クロン・グレイシー(27)と対戦。また世界のトップを走る総合格闘団体UFCも、注目しているヒョードルの復帰戦、1m88で93kgの体格で世界最強女柔術家と呼ばれるギャビ・ガルシア(ブラジル)もレスラーを相手に総合デビューするなど、柔道の元北京五輪金メダリストの石井彗が参戦するヘビー級トーナメントも含めて、注目のマッチメイクもある。 谷川氏も、「勝負論では、気になるのは、体重差があると言えど桜庭対青木ですね。寝技勝負になるのか、打撃になるのかわからない。また魔裟斗の試合も、一人の父親としてどういう姿を見せてくれるのかという点で注目しています」と言う。 確かにテレビ局の視聴率優先主義で組まれたと考えられるカードには、賛否両論あるだろう。UFCに圧倒され、新たなスターも不在で停滞気味だった日本の格闘界の再興の起爆剤になるかどうかもわからない。だが、喧々諤々の議論を起こし始め、テレビの地上波を巻き込み、再びインパクトを与えようとしていることには大きな意義があると思う。そういう賛否が、ネットやSNSを通じて議論として沸騰し始めれば、底辺から再ブームが生まれることにつながるかもしれない。 「格闘技の歴史は、大きな波を繰り返しているんですよね。沢村忠さんのキックボクシングや空手バカ一代の極真空手の大ブームがあって、その後、後楽園ホールでのキックの興行に、100人ほどしか人の集まらない時代を経て、再びK-1、プライドといううねりがありました。ハッキリ言って自爆してしまいましたが、あのままテレビ放映を維持できていれば、今の格闘界の流れも変わっていたでしょう。また、いつ大きなうねりが訪れてもおかしくない。そういう可能性を格闘技は秘めています」と、谷川氏。 先の読めないのがまた格闘技の魅力。はてさて大晦日の格闘イベントの結末や如何に。(文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)

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    軽減税率ありきの出来レースを批判できないメディアの大罪

    た。後は一気に対象品目の線引きをどうするか、という議論に矮小化され、「軽減税率」反対論は一部のウェブメディアに掲載されるのみだった。そして、「軽減税率」の対象にしっかりと新聞も入ったのだ。つまり、最初から「軽減税率」ありきだったのだ。官邸、与党、財務省、新聞業界すべてが、である。「四方良し」、ということなのだろうが、国民にとっては全くもって「良くない」政策はこうした決まった。 筆者が問題とするのは、新聞は最初から「給付案」反対だったとしても、テレビがそれを全く批判しなかったことだ。現在対象品目の線引きなどを面白おかしく報道し、毎度のことだが本質に全く迫らなかった。そもそも2017年4月に消費税率を引き上げることが出来るのか、といった議論もなかった。景気が後退していれば、2%引き上げなど出来るはずもなく、さすれば「軽減税率」もなくなる道理だ。そこまで考えて安倍政権が今回「軽減税率」を決めたなら、あっぱれと言うほかはないが、国民にしてみれば選挙対策の茶番に付き合わされただけで、いい迷惑どころか、怒らねばいけないところだ。 消費税増税は少子高齢化による膨大な社会保障費負担を軽減するために必須のものだ。安倍総理は2014年11月、総選挙の前、消費税再増税の延期を訴える記者会見でこう言い切った「消費税の引き上げは、我が国の世界に誇るべき社会保障制度を次世代に引き渡し、そして、子育て支援を充実させていくために必要です。」さらに続けて、「財政再建の旗を降ろすことは決してありません。国際社会において、我が国への信頼を確保しなければなりません」と。 この決意はどこへ行ったのか。選挙の為に税をもてあそぶ政府・与党を批判しないマスメディアには猛省を促したい。(注1)「消費税の社会保障目的税化」という財政規律」 http://web.econ.keio.ac.jp/staff/tdoi/c200511_2.pdf(注2)公明新聞 2015年11月6日 軽減税率は「給付」に勝る https://www.komei.or.jp/news/detail/20151106_18433

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    軽減税率が新聞、テレビを自殺に追い込む

    で、社会保障に充てられるはずの財源は減り、財政の健全化も遠のく。そのわけを知りながら報道しなかった大メディアの罪はもっと重い。

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    軽減税率の適用が決まった新聞は自ら死を選んだ

    大西宏(ビジネスラボ代表取締役) 新聞メディアは、ニュースはインターネットでも、テレビでもいくらでも得ることができる時代のなかで、なぜ新聞なのか、どのような存在意義、新聞を購読する価値がなになのかを再構築する努力よりも、目先の利益で、軽減税率適用を働きかけ、政権の御用新聞となる道を選んだようです。 軽減税率の適用です。読売新聞が先頭にたって、新聞業界が求めてきたものです。 官僚的な理屈としては、ヨーロッパでも新聞は軽減税率が適用されているので、日本だけが特別なことをしているわけではないということですが、そもそも日本の新聞社は特殊です。放送にも資本参加し傘下におく、アメリカでは禁止されているクロスオーナーシップであり、しかも不動産事業など多角化し、プロ野球球団まで持っているのです。 財政の健全化のためには消費税増税が必要だと主張しておき、自らは逃げたのですから、口先だけのご都合主義で、いい加減だというだけでなく、それは権力に借りをつくり、ジャーナリズムとしては自ら死を選んだに等しいのです。 しかも、日本の特殊なサービスである、宅配だけの適用というのも奇妙な話です。橋下市長が、市長時代に、皮肉たっぷりに新聞記者に質問を投げかけ、記者が返答に困り、しどろもどろになったようですが、それこそ、もう自ら正論を主張できなくなってしまっている証拠です。橋下市長、新聞の軽減税率で記者を問い詰める 読売は沈黙、日経しどろもどろ... : J-CASTニュース 池田信夫さんの批判はさらに辛辣です。新聞業界は、200億円で買収されたことになると。その通りです。  新聞の軽減額はたいしたものではない。全国の日刊紙を合計しても200億円ぐらいで、政府が新聞を「買収」するコストとしては安いものだ。2016年1月からの通常国会では野党が、矛盾だらけの軽減税率について激しく批判するだろうが、「賄賂」をもらった新聞は政府を批判できない。何しろ最も理屈に合わない軽減対象が新聞なのだから。軽減税率というポピュリズムが政治を汚染する 200億円で新聞を「買収」した安倍政権 | JBpress(日本ビジネスプレス) そして、新聞社にとって不幸なことは、なりふりかわまず「買収」されてしまったことは、新聞メディアへの信頼は揺らぎ、さらに新聞離れを加速させることにつながっていくのです。 衰退から逃れるイノベーションには手をほとんどつけず、古い体質、古い仕組みのままで、現状維持をはかろうとしても、それはさらに悪い結果を呼びこむことになります。それは新聞メディアも批判してきたことではありませんか。そんな愚を新聞業界は犯してしまったのではないでしょうか。 (「大西宏のマーケティング・エッセンス」より2015年12月17日分を転載)

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    軽減税率という「藁」にすがりつく新聞メディア

    、消費税率の引き上げでさらなる減収に繋がることを危惧したからということなのであろう。考えてみれば新聞メディア、特に大手は消費税増税キャンペーンには乗っていたのに、自分のこととなると軽減税率とは、ずいぶん都合のいい話と思われても仕方がない。 新聞協会は、欧州を例にして、諸外国においては新聞については軽減税率が適用されていると主張してきている。確かに、欧州諸国においては、例えば、フランスは2.1%、スウェーデンは6%といったように、10%を超える付加価値税に対して、新聞について軽減税率を設けている。イギリスに至っては0で、軽減ではなく非課税である。(ただし、ブルガリアやスロバキアのように新聞について軽減税率を適用していない国もある。) しかし、ここで考えなければいけないのは、そもそも軽減税率の適用品目は国によって異なり、低所得者対策ということであれば、生活必需品が対象に含まれて当然だが、今回の我が国の場合は含まれていないということである。欧州諸国においては、何も新聞と生鮮食料品のみを軽減税率の対象としているわけではなく、他の生活必需品と一体で検討した結果そうなっているだけである。 また、欧州諸国で新聞を軽減の対象としたり、非課税としたりしている背景は、メディアの多元性の確保といったことがあると思われ、低所得者対策とは観点が異なるように思う。別の言い方をすれば、民主主義の発展に資する、情報源の多様性の確保と、メディア間の公正な競争の担保という観点からそうなっているということのようである。軽減税率は購読者数減の解決につながらない軽減税率は購読者数減の解決につながらない さて、今回の新聞への軽減税率の適用、新聞業界にとっては「藁をも掴む思い」ということなのだろうが、その藁を掴んで、藁しべ長者のごとく、新聞購読者数の増加を見込むことができるのだろうか。  端的に言って、増加するとは思われない。新聞の購読者数は年々減少する傾向にあり、特に若年層でその傾向が著しい。(もっとも、元々若年層での購読者は少ないのだが。)税率8%でそうなのだから、軽減といっても言い方を変えれば税率据え置きなのであり、価格が安くなるわけでもないところ、そんなことで読者が増えるとは到底思えない。(もっと言えば、低所得者は若年層に多いようであり、その若年層において新聞購読者数が少ないのに、低所得者対策とは、ますます根拠に乏しい結論であると言わざるをえない。) そもそも、メディア接触や情報コミュニケーションの在り方が変化しているのであるから、通信と放送の融合といった実態も踏まえて、新聞は抜本的な業態変革を図ることに注力すべきであると思う。軽減税率に血眼を上げている暇はないのではないか。(新聞の役割が完全に終わったとは言わないが、新聞社の役割の新しいカタチを模索すべきであろう。) 今回の軽減税率のもう一つの論点として、根拠の薄い軽減税率の適用と引き換えに、政権への協力を暗に約束させられたのではないかということがある。単純に考えて、軽減税率のような大きなメリットが与えられる一方、いつその適用から外されるかという緊張感が生まれれば、自ずと論調は政権寄りになり、メディアの監視機能やチェック機能は十分に機能しなくなることは容易に想像できる。もっとも、近年では、先にも触れたとおり、情報接触は多様化し、新聞によって意見が左右されるということはなくなってきているのではないかとも思う。特にネットメディアが発展している昨今においては、新聞が権力チェック機関としての役割を十分に果たせなくとも、他のメディアがこれに代わることは十分可能である。そうなれば新聞離れは更に進むことにもなろう。(自分で自分の首を絞める、ということになるか。) 大切なのは、メディアはどうあれ、ジャーナリズム、ジャーナリストであることであろう。 軽減税率という「泥縄」を掴んだ新聞メディア、溺れて沈む前にこうしたことに気づくのだろうか?(公式ブログ「政治・政策を考えるヒント!」より2015年12月17日分を転載)

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    新聞に消費税の軽減税率を適応 インターネット時代では限界がある

    記事とに明確な線引きをすることは不可能になっています。ヤフーニュース個人などは、独立した形での新たなメディアといえます。デジタルの新聞記事との明確な線引きはまずできません。しかし、時代はこうした形式の新たなメディアも必要としています。インターネット時代だから出来ることでもあります。 軽減税率を利権的なものにしてはいけないでしょう。そうすることは、政府のメディアに対する介入にもつながる可能性があります。昨今、メディアの記事や姿勢に対しての政府の介入とも言える批判が問題となっています。軽減税率の適応などの要素が入ると、政府批判をするような「偏向した」メディアは対象外、といったことにもなりかねません。今の時代においては、メディアは時代の流れを読んだ挑戦と政府からの自由を確立するために、軽減税率などについては慎重な姿勢も必要です。(「児玉克哉のブログ『希望開発』」より2015年12月15日分を転載)

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    ステマ広告が「一億総バカ時代」をつくる

    ネット記事だと思ってみたら、実は広告だった-。こんな経験、誰もが一度はしたことがあるのではないか。いま、広告の表記が抜けた「ステルスマーケティング(ステマ)」と呼ばれる手法に厳しい目が向けられている。ステマ広告で「一億総バカ時代」になる日も遠くはない?

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    ステマとは「捨て身のマーケティング」である

    のように定義していた。要するに広報の立場で情報発信する際は、ニュース価値があるかどうかを判断するのはメディアだし、情報伝達の決定権は企業にはないかわりに情報の信頼感が強いというものだ。商取引ではないので、お金も発生しない。記事を書くのは記者だから、少しでも記事に取り上げてもらえるよう、しかも好意的な文脈で書いてもらえるよう、取材対応など工夫していたものだった。 しかし、最近の広報のマニュアルを見てみると広報と広告の境界が曖昧になってきていることが目にとれる。広告・宣伝担当ではなく、広報がPR会社などを使うのは旧来どおりだが、自らお金をかけて話題をつくる動きが起こったのが、この一連のステマ騒動につながっているのではないか。 PR会社、広告代理店に過度に期待する動きもその温床になっていると言えるだろう。本来、PRや広告というのは商品・サービスを「売る」ということ以外の期待も大きいはずなのだが、売れるかどうか、そのために露出を最大化、最適化できるかどうかが問われ続けている。当たり前といえば、それまでだが、その弊害だったとも言えるだろう。 なんせ、2000年代前半と比べるとメディアも多様化した。それこそ影響力のある人のブログやTwitter、Facebookなども情報発信の手段となったし、なんせネットニュースが本格的に登場したのだ。旧来型のメディアではない、このような新興メディアにおいてのルールが確立されていない中でこのような騒動が起こっていったのだろう。スマホの普及でウェブが本当に「バカと暇人のもの」になった 2点目のスマホの普及についてである。ウェブ礼賛論に対する現場からの批判の声、問題提起として出版された『ウェブはバカと暇人のもの』(中川淳一郎 光文社 2009)はタイトルから内容まで実に秀逸なのだが、ウェブが本当にバカと暇人のものになったのは2010年台に入ってから、特に震災のあとだと見ている。この頃から、スマホが本格的に普及した。言ってみれば、これによりウェブがより大衆化した。そして、ネットニュースアプリの登場、それとソーシャルメディアの連動などにより、より「バカと暇人のもの」になったと言える。そのような今までほどリテラシーの高くない層に対してステマという手段は有効なものになってしまったのではないだろうか。 やや余談だが、私は前述した通りに初期からネットニュースで記事を書いているのだが、たまに「もうネットで記事を書くのは一切やめてしまおうか」と考える瞬間がある。というのも、記事のタイトルしか読まない連中、明らかに読解力の低い連中から批判をされるからである。もちろんスルーするのだが、いい加減、疲れてしまった。来年から、ネットニュースの連載は2本にしぼり、それぞれ月に1本ずつにした。もううんざりなのである。ネットニュースサイトが増えつつあり、「誰でも」とは言わないが新米のネットニュースライターが跳梁跋扈している状況でもある。こいつらと一緒にしてくれるなと思う瞬間もあるのも正直なところだ。 3点目のネットニュースの流通経路についてだ。ユーザーがスマホに移りつつあり、ニュースキュレーションアプリの影響力などが増してはいるものの、なんだかんだ言って、ヤフトピこと、ヤフートピックスの影響力は絶大である。PVを稼ぐためには、ヤフトピ狙いをしなくてはならない。もちろん、PR記事はヤフトピを狙えない。故に、普通の記事を装うようになるという構造がある。 このような論点をもとにして考える必要がある。規制を強化したところで、このような論点、構造を理解しなければならない。なお、ここで出た論点は以前、中川淳一郎氏、三田ゾーマ氏などと2015年7月にイベントをやった際に教えてもらった知見も含まれていることをお伝えしておく。 もちろん、明るい兆しもなくはない。紙媒体からネットへのシフトにより実力派ライターがネットで書く時代がきていると言える。ネットニュースに対する眼も肥えてきているのではないかと感じる。最近では、5,000字を超えるような長文記事も読まれているのも特徴だ。みんながステマについて、敏感にもなっている。 ステマを行うこと自体が、サイトや著者が自滅するキッカケになることを期待したい。ステマとは「捨て身のマーケティング」の略であり、であるがゆえに自滅を招くことがあるのだ、と。自浄作用を期待したいところだが、それは牧歌的な考えだろうか。 最後に、私の最新作『エヴァンゲリオン化する社会(http://www.amazon.co.jp/gp/product/4532262925/yoheycom-22)』と文庫化された『僕たちはガンダムのジムである(http://www.amazon.co.jp/dp/4532197821/yoheycom-22)』(ともに日本経済新聞出版社)をぜひ読んで頂きたい。このような劣化した日本社会の現実を描いている。これをステマと言うんじゃない。著者による、宣伝である。なんでもステマっていうのも違うと思うのだ。これも捨て身なのだが。

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    広告、ヘイトコメント問題に横たわる感情

    劣化すると考えたヤフーはついに契約解除をしたという。その後もヤフーは類似した手法を取っている他の契約メディアにも水面下で警告を出している。サーチナの契約解除とは別に、ヤフーはニュースに対するコメント機能のあり方について、ブログで説明をしている(http://staffblog.news.yahoo.co.jp/newshack/yjnews_comment.html)。 ヤフーニュースにはコメントがつけられるが、中にはヘイトコメントも多いのも事実であるが、それでも「みんなの意見」を重視して、24時間体制で巡回しているとのこと。その上でブログでは、ヘイトコメントにはより厳しくした基準であたっていくと宣言している。 ネット署名を求めるHP とはいえ、問題は簡単ではない。「不快な用語」「偏見に基づく人種差別」「極端で乱暴な言動によるレッテル張り」といったコメントに対する厳しい基準は必須であるが、線引きが難しいのも事実である。9月上旬にシリア難民に対する揶揄を目的としたイラストが大きな議論を呼んだ。Facebookに当該イラストを投稿した漫画家のはすみとしこ氏に対して、Facebookの規定(人種や民族、出身に対する差別発言を削除する)を根拠に、はすみ氏のアカウントの削除を求めるネット署名が行われているが、Facebookが削除に消極的な態度であることも、上記の問題が関係している。感情市場を今一度認識しなければならない感情市場を今一度認識しなければならない こうした明らかなヘイト発言が言論の自由として対処されないためには、法や企業の基準だけでなく、我々の感情と理性による価値への合意形成が必要となる。その時、我々は理性を使用しながらも、感情的な言説に意識的、無意識的に(少なくとも瞬間的には)反応してしまうことを理解しなければならない。さらに厄介なことに、ネイティブ広告もヘイトコメントも、ネットの発達とともにより容易にその内容の伝播を可能にする。 我々は我々自身が感情的な生き物であることを改めて認識しなければならない。そしてその際、「我々がより理性的になればいい」といった類の紋切り型の言説を繰り返すだけでは不十分である。感情には感情。ないしは感情があらゆる空間においてキーポイントであることを踏まえた上で制度設計をしなければならないのだ。こうした視点は以前もこの連載で取り上げた(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4508)。 本稿は事実の主として確認に多くの紙面を割いてしまった。これらの問題から、ネット上における我々の感情とその設計を論じるために、稿を改めてこの問題について広く考察したい。つかごし・けんじ 学習院大学非常勤講師。1984年生。専攻は情報社会学、社会哲学。著書に『ハクティビズムとは何か』(ソフトバンク新書)、共編著に『「統治」を創造する』(春秋社)、など。TBSラジオ『荒川強啓デイ・キャッチ!』月曜ニュースクリップ担当としてレギュラー出演中。

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    「自著を語る」や「商品テストの優良結果」はステマか? 

    高橋秀樹(放送作家/日本放送作家協会・常務理事)(メディアゴンより転載) 言論をなす世界の片隅にいる一人として、「広告ステマ」(ステルス・マーケティング)は、強欲資本主義が招くものであるということを考えてみたい。 ステルス・マーケティング(Stealth Marketing)とは、消費者に宣伝と気づかれないように宣伝行為をすることだと定義される。しかし、この定義だけで足りるのか。それを考えるのが本稿の目的である。 略称はステマ。アンダーカバー・マーケティング(Undercover Marketing)とも呼ばれる。 「墨衣の僧衣の下から銀鈍色の甲冑が覗いているようなものだ」と言えば平清盛の逸話を知っている人はわかりやすいだろうか。 上述の定義に沿ってみて行くと、昔から週刊誌や夕刊紙ではステマと判断されるものがあった。記者が体験して書いたような体裁の健康食品や観光地の記事。批判は当然あって、こう言う記事は、本文記事と活字を変え、冒頭に、小さな字で(PR)とつくようになった。 読んでから「だまされた」と気づく気持ちの痛手は大きかったが、これなどは注意して読めば分かる範囲であった。 ネット上では、誰もが自由に映画やテレビ評、書評を書けるようになった。これもステマと紛らわしいこともあるのが実態だ。ただし、評論は立派な文化的行為だからこれを安易にステマとは呼べない。 当該評論と作者著者・提供会社に利害関係が無いことが必要なのか。そうとばかりは言い切れまい。例えば、著者が「自作を語る」というような原稿を書いた時は、ステマだろうか? テレビにもステマ的行為はある。情報番組などで芸能人が出演して番組宣伝をすることはどうか。これをステマと判断されるのは番組にとっては得ではないので、最近は「番宣です」と、はっきり言う対応を取ることが多くなった。これはこれで良い傾向だ。 この「番宣」をCM総量の規制に数えるかどうかの問題はあるが、良い傾向だ。ここから分かるのは広告であることがステルス(隠されている)と言うことが問題だという認識だ。 ドラマなどの旅館観光地のロケタイアップはどうか。業界には「アゴ・アシ・マクラ」という隠語があってこれはロケ先の旅館、観光協会などが「アゴ=飲み食い・アシ=旅費・マクラ=宿泊代」を全部負担してくれることを言う。この場合は、タイアップだとをはっきり表示することが望ましいだろう。 隠す方法は巧妙だ。政治家のお説拝聴を唯々諾々と垂れ流すニュース番組。ドラマの中でイケメン俳優が何気なく使っている時計やアクセサリー。セットのインテリア。これらがステマではないとは言い切れない。 「けなしてある評論/批判的な批評」は「ステマではない」かといえば、必ずしもそうではないだろう。褒めようがけなそうが作品の認知度は上がる。実際には購入していないのに購入したと偽って書くレビューは完全にステマだが、これを見抜くのはなかなか難しい。 筆者は家庭向け総合雑誌「暮しの手帖」の愛読者だが、ここで行われる商品テストはどうだろうか? 商品は編集部が自ら購入し、細心の注意を払っているこのテストは、勿論ステマではないが、このなかで「成績の良かった商品」には大きな宣伝効果があることは明らかだ。この手法を悪意をもって利用する人がいないとも限らない。 ミシュランガイドは覆面調査員が調べるというが、他に多くあるグルメ雑誌はどうだろう。ネット上のグルメ情報サイトからは掲載料月に3万円を取られていると、ある料理店主から聞いた。 色々と考えを進めてゆくと、ステマというものは「広告であることを隠してやっている宣伝行為のこと」ではあるが、おこには精神的な側面が大きいことが分かる。その陰に潜んでいるには「これで儲けてやろう」という強欲資本主義だ。 いづにれにせよ、ステマが広告と商品自体の価値を貶めるとんでもない詐欺的行為と言うことだけは確かだ。

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    有効な規制の手立てないステマ、カギを握るのはTPP

    庁もその動向を監視し始めた」[2]などの報道が相次いだ。 他方、いわゆるネイティブ広告については、「メディアの形式・機能と一体感のあるデザイン、内容、フォーマットの広告」などと説明される場合があるが[3]、要するに、一般の記事と区別がつかない広告のことである。ニュース風の記事の題名の中に[PR]などと入っているものが典型的であるが、広告であることの表示が極めてわかりにくいものや、そもそも広告であることを表示しないものもあることから、平成26年頃から一般にも問題視され始めた。 メディアが中立的に記述、報じた記事については、消費者は当該メディアへの信頼度に応じてその記事中の評価を文字通りのものとして受け止めるが、[PR]等の記載がある場合、当該記事は中立的でないことが明らかであることから、消費者に読まれる(クリックされる)率は明らかに低下する。メディアにとっても、広告主にとっても、広告主から資金が提供され、そのため当然に広告主に有利なこと(又は広告主の競争者に不利なこと)しか書かれていない記事に「資金が提供されている」という関係性を明示しないインセンティブは非常に高い。 上記の通り広告であることを明らかにする物もあることから、ネイティブ広告のすべてがステルスマーケティングに該当すると認識されているものではないが、「消費者に宣伝と気付かれないように宣伝行為を行うこと」に該当するものもあるのではないかということである。 以下では、これらの事例を念頭に、ステルスマーケティングの規制をみていく。ステマはどう規制されているのかステルスマーケティングはどう規制されているのか(1) 景品等表示法等による行政規制 広告に対する最も中心的な規制は、不当景品類及び不当表示防止法(景品等表示法)である。景品等表示法は優良誤認(4条1項1号)や有利誤認(4条1項2号)を招く不当表示を禁止しているが、ステルスマーケティングと関係が深いのは優良誤認表示の禁止である。景品等表示法4条1項1号商品又は役務の品質、規格その他の内容について、一般消費者に対し、実際のものよりも著しく優良であると示し、又は事実に相違して当該事業者と同種若しくは類似の商品若しくは役務を供給している他の事業者に係るものよりも著しく優良であると示す表示であつて、不当に顧客を誘引し、一般消費者による自主的かつ合理的な選択を阻害するおそれがあると認められるもの 優良誤認禁止に該当した場合、消費者庁等は、資料提出要求や措置命令を行うことができる。消費者庁は、インターネット消費者取引に関する景品等表示法の運用基準[4]において「商品・サービスを提供する事業者が、顧客を誘引する手段として、口コミサイトに口コミ情報を自ら掲載し、又は第三者に依頼して掲載させ、当該『口コミ』情報が、当該事業者の商品・サービスの内容又は取引条件について、実際のもの又は競争事業者に係るものよりも著しく優良又は有利であると一般消費者に誤認されるものである場合には、景品表示法上の不当表示として問題となる」として、口コミサイトを用いたステルスマーケティングに関する見解を明らかにしている。 ただし、問題となるのは景品等表示法であることから、あくまで、「実際のもの又は当該商品・サービスを供給する事業者の競争事業者に係るものよりも著しく優良又は有利であると一般消費者に誤認される」かどうかが問題である。消費者庁の前記運用基準で挙げられている例でも、「広告主が、(ブログ事業者を通じて)ブロガーに広告主が供給する商品・サービスを宣伝するブログ記事を執筆するように依頼し、依頼を受けたブロガーをして、十分な根拠がないにもかかわらず、『△□、ついにゲットしました~。しみ、そばかすを予防して、ぷるぷるお肌になっちゃいます!気になる方はコチラ』と表示させること」というものがあるが、「十分な根拠がないにもかかわらず」という文言が入っている点がポイントである。つまり、「消費者に宣伝と気付かれないように宣伝行為を行うこと」だけでは景品等表示法違反にはならず、あくまで優良誤認表示に該当することが必要である。業界団体による自主規制の現状は(2) 民事的手段による規律 景品等表示法は行政規制であるので、基本的にはステルスマーケティングに晒される消費者が直接的に行使できるものではなく、消費者庁等の監督を待つことになるが、民事的手段によって、ステルスマーケティングを是正させることはできるか。 景品等表示法には、優良誤認表示違反について、適格消費者団体に差止請求権を認める規定がある(消費者団体訴訟)。これは、損害賠償請求を求めるものではなく、あくまで優良誤認表示の停止を求める請求であるが、理論上はあり得るであろう。もっとも、前述のとおり、「消費者に宣伝と気付かれないように宣伝行為を行うこと」だけでは景品等表示法違反にはならない。消費者庁等のように調査権限を持たない適格消費者団体が優良誤認表示に該当することを自ら主張立証することには困難が伴うであろう。 また、口コミサイトの運営者が、自らの口コミサイトがステルスマーケティングに用いられたことを理由に、ステルスマーケティング業者を訴えるという事例も現れてきている。楽天市場を運営する楽天株式会社が「楽天市場に出店している121店との間で、商品の売買を装い、店側に好意的な評価を月150件ずつ投稿する契約を月額8万円で締結。少なくとも約11万4千件の口コミを書き込んだ」として、システム開発会社「ディーシーエイト」を提訴したとされている[5]他、米国ではAmazon.com, Incが同様のステルスマーケティングを請け負っていた個人(クラウドソーシングサイトを利用していた)を訴えた例が認められている。 いずれにせよ、この場合の原告は消費者ではなく口コミサイトの運営者であり、コストも掛かることから、当該運営者に損害及び訴訟遂行能力がある必要がある。また、もちろんのこと、口コミサイト運営者自身がステルスマーケティング業者と通じていたり、これによる利益に預かっていたりするような場合には提訴するインセンティブ自体が存在しない。(3) 自主規制 以上のとおり、景品等表示法では単なるステルスマーケティングが規制されているわけではなく、優良誤認表示に該当する必要があるし、民事的手段による規律についても、消費者自身が簡便に行えるものは存在せず、適格消費者団体や、口コミサイト運営者による提訴も容易ではない。そこで、業界団体の自主規制が重要になってくる。 一般社団法人インターネット広告推進協議会(現・一般社団法人日本インタラクティブ広告協会、JIAA)は「ネイティブアドの概念や定義は曖昧なままで、広告主および媒体社においても混乱を来たしているのが現状で、広告主、媒体社・プラットフォーム事業者およびユーザー(消費者)の三者にとって好ましいものだとは考えがたい事態となっております」との認識から、平成26年8月から「ネイティブアド研究会」を立ち上げ、その成果として、平成27年3月には「インターネット広告掲載基準ガイドライン」についてネイティブ広告に対応する改訂を行った。インターネット広告掲載基準ガイドライン(10) 広告であることの明示広告掲載枠に掲載される広告は、一般に、広告が表示されることが明確であるが、媒体社が編集したコンテンツ等と混在したり、並列したり、リストの上位に広告として掲載される場合や、広告を中心とした特集記事や、いわゆるネイティブ広告等において、消費者等が媒体社により編集されたコンテンツと誤認する可能性がある場合や、広告であることがわかりにくい場合には、その広告内や周辺に、広告の目的で表示されているものである旨([広告]、[広告企画]、[PR]、[AD]等)をわかりやすく表示する必要がある。 これにより、JIAA加盟社は、ガイドラインにより、優良誤認表示に該当しなくとも、ステルスマーケティングに該当するような広告については「広告目的で表示されているものである旨をわかりやすく表示」するように広告掲載基準を策定するように推奨されることとなった。具体的には、広告主からの資金提供により掲載される記事については[PR]等の表示をすることとなろう。TPPでステマ規制が進む?TPPでステマ規制が進む? 以上みてきたとおり、景品等表示法による法的規制には、優良誤認表示に該当しなければならないというハードルがあり、民事的手段による規律も困難である。JIAAのガイドラインは、ステルスマーケティングを直接的に制限するものであり評価に値するが、JIAA加盟社以外への効果はなく、また、行政機関が直接的に執行できるものではないこと、JIAA加盟社以外がこれを守らないことにより利益を得るとすれば、自主規制に従う事業者から不満が生じること等の限界がある。 前述の消費者庁の運用基準では、米国において、「連邦取引委員会(FTC)が2009年12月に『広告における推薦及び証言の使用に関するガイドライン』 を公表しており、この中でFTCは、広告主からブロガーに対して商品・サービスの無償での提供や記事掲載への対価の支払いがなされるなど、両者の間に重大なつながり(material connection)があった場合、広告主のこのような方法による虚偽の又はミスリーディングな広告行為は、FTC法第5条で違法とされる『欺瞞的な行為又は慣行』に当たり、広告主は同法に基づく法的責任を負う、との解釈指針を示している。」との運用がなされていることが紹介されている。FTC法第5条は『不公正又は欺瞞的な行為又は慣行(unfair or deceptive acts or practices)』について広く違法とし、米国連邦取引委員会の監督権限を認めるものである。FTC法第5条に相当する規定があれば、我が国においてもJIAAの自主規制に従うとの表明がある事業者については同自主規制の違反について法的責任を問うことが可能である。TPP交渉が閣僚会合で大筋合意し、共同記者会見に出席した甘利TPP相(左)とフロマン米通商代表=10月5日、米アトランタ(共同) では、我が国において、景品等表示法の規定に加えて更にFTC法第5条に相当する規定が導入されることはあり得るか。ここで注目されるのが、平成27年10月5日に大筋合意されたとされる環太平洋パートナーシップ(TPP)協定における消費者保護規定である。TPPにおける消費者保護規定は電子商取引章(第14章)と競争政策章(第16章)にあり、内閣官房が公表している案文(日本語)によると内容は以下の通りである。TPP〇オンラインの消費者の保護(第14.7条)締約国は、オンラインでの商業活動を行う消費者に損害を及ぼし、又は及ぼすおそれのある詐欺的及び欺瞞的な商業活動を禁じる消費者の保護に関する法律を採用し、又は維持すること等を規定。○消費者の保護(第16.6条)各締約国は、詐欺的及び欺まん的な商業活動を禁止する消費者に関する法律等を制定し、又は維持すること、適当な場合には、詐欺的及び欺まん的な商業活動に関して相互に関心を有する事項について協力及び調整を促進すること等を規定。 いずれの内容にも『詐欺的及び欺瞞的な商業活動を禁じる』ことが含まれており、FTC法第5条の影響が見て取れる。今後、我が国もTPPの内容を国内法にするための立法の準備に入ると思われるが、上記の消費者保護条項が、景品等表示法の規定を超えて、我が国に対してもステルスマーケティング規制に有効なFTC法第5条相当の立法を要求するものであるのか、我が国では既に景品等表示法の規定で十分に『詐欺的及び欺瞞的な商業活動を禁じ』ているとの態度が取られ、それで収束するのか、現時点では判然としない。 しかしながら、ステルスマーケティングに対する決定的な方策が存しない中、自主規制の範囲で適当な慣行が形成されることもないとすれば、TPPをも理由に、ステルスマーケティング規制が進む可能性があることは留意しておくべきであろう[6]。[1] 産経新聞東京朝刊社会面・平成24年1月15日。[2] 産経新聞大阪夕刊一面・平成25年1月8日。[3] 一般社団法人インターネット広告推進協議会(JIAA)『最近のインターネット広告の動向と健全化の取り組み』消費者庁 インターネット消費者取引連絡会 第15回 資料 平成26年12月16日。[4] 消費者庁『インターネット消費者取引に係る広告表示に関する景品表示法上の問題点及び留意事項』(平成24年5月9日一部改定)[5] 産経新聞大阪朝刊一面・平成27年3月21日。[6] 本稿の執筆にあたっては山本一郎氏(イレギュラーズアンドパートナーズ株式会社)より有益な示唆を頂いた。

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    ステマ問題は燻るネット規制の口実になってしまうのか

    る“黒幕”たちの存在http://diamond.jp/articles/-/76611日本のウェブメディア「ステルスマーケティング」事情http://www.nippon.com/ja/currents/d00199/「ヤフージャパン一人勝ち」と「報道記事の買い叩き」がステマ横行の原因http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20151001-00050069/ 軽くおさらいをしますと、ステマがなぜいけないかは単純で、あるメディアがクライアントから資金や取材の便宜を図ってもらっているにもかかわらず、それを「広告」「PR」などと明記せず、客観的な記事を装いますと読み手は「これは中立な記事で、そのメディアが責任もって良いと思って取り上げているのだな」と誤認するようになります。これは、景品表示法上の優良誤認を導くものであって、ただちに違法である摘発の対象だというわけではありませんが、メディアを運営する上での倫理規定という観点では重要な問題であると言えます。 なかでも、最悪のケースは一部の法曹界や消費者団体が主張するようにアメリカFTC法第5条に該当するような「不公正又は欺瞞的慣行を規制するもの」に対する規制を敷くべきだという議論が現実化してしまうことであります。そこには日本の公正取引委員会の権限強化や集団訴訟(クラスアクション)の制定など、いままで我が国が取り組んでこなかった消費者保護のアプローチについてかなり踏み込んで話を進めようということになります。単純に、これらは消費者保護の観点から言えば大幅な規制強化であり、物議を醸すことは必須です。 あるいは、広告業界や通販業界が震撼していた「広告は勧誘か?」の議論もまた、最近の商法改正を踏み越えて大きくネット広告や取引の規制に類するものとなり、これも問題になり得ます。幸いにして、昨今の議論は「それはやりすぎでしょう」ということで少し冷静になったようにも感じますが、仮に広告は勧誘行為なのだとするならば、問題取引を広告に載せて消費者を騙す業者自体が損害賠償などの責任を負わされることはもちろん、その広告を仲介した広告代理店や、広告を掲載したメディア、場所を提供した業者などもクーリングオフ制度を乗り越えて賠償する義務を持つという、かなり強烈なアイデアです。「広告は勧誘」ならば掲載した責任はどこにある 例えば、過去に金融事案で「いつかはゆかし」や「毎月5万円で1億円を貯められる」などとして行政処分を受けたアブラハム・ホールディングス(当時)は、大量の交通広告で著名な俳優を起用して話題を喚起し、多くの顧客を集めることに成功しました。しかしながら、適法とはいえない金融商品を販売したかどで営業停止などの行政処分を受けることになってしまいました。これは、いままでは悪質な販売を行った業者の問題であって、その業者が起用した俳優や、広告代理店、あるいは掲載された電車や街頭のポスターなどの設置場所に責任を負わされることは原則としてありませんでした。 新聞社やテレビ局などでは、その公的な役割と大きな影響力の観点から、掲載するクライアントが自社メディアにとって望ましい存在かを審査するための広告考課というハードルがあります。本来であれば、悪質な業者が広告を掲載出来てしまうメディアは、結果的に広告掲載料を稼げたとしても消費者被害が多数発生するとその広告を掲載したことでメディアの価値を落としてしまうことになります。したがって、多くの人の目に触れる広告を掲載するにあたっては、クライアントをしっかりと調べ、選別する責任がメディアの側にはあることは、いままではメディアとしての職業倫理上の問題でした。 しかしながら、広告は勧誘、すなわち顧客を誘引する責任を法的に負う可能性があるとなると話は別です。また、先にも述べた米FTC第5条では、日本にはない「欺瞞的取引に対する広い解釈での認定」と、問題業者に対する高額な「懲罰的罰金」さらには認定された場合の消費者団体などからによる巨額の「集団訴訟」に直面することになります。 実例として分かり易いのは、米大手通信会社AT&Tが顧客獲得のために「速度無制限」などとして虚偽の広告で顧客を集めたとして問題となり、米FCC(連邦通信委員会)はAT&Tに対し懲罰的罰金を課すことになりました。【米国】「速度無制限」が嘘だとして通信会社に130億円の懲罰的罰金http://dailynewsonline.jp/article/982278/ また、米FTC第5条は、アメリカに存在しない個人情報保護規定とは別に、企業が収拾した消費者の個人に関する情報を、規約上の許可なく第三者に流用した場合、これを「欺瞞的取引」であるとして強く制裁する権限を米FTCに持たせています。 2012年8月、検索エンジン大手のGoogle社は、米Apple社の提供するブラウザsafariのサードパーティーcookie拒否の初期設定というベーシックな個人情報収集拒絶プロセスを回避して行動履歴を収拾していたとして、米FTCから総額2,250万ドルの懲罰的罰金の裁定をされています。他にもFACEBOOKやTwitterなど大手ICT企業だけではなく、バンクオブアメリカやHSBCなど金融業界、さらには米自動車メーカーやディーラー、タバコ会社、環境汚染を引き起こした海運会社など、さまざまな業界が対象となっていることが分かります。欺瞞的取引の宝庫「レ点商法」 日本の場合はICT業界、とりわけ、スマートフォンやインターネット上で運用される、広告あるいはポイントサービスなどでの個人に関する情報が非常に注目されます。簡単な話、ユーザーには確かめる術が乏しく、分かったころにはごっそり個人に関する情報を抜かれて広告に活用されたり、ターゲティングメール(ダイレクトメール)などに活用されてしまうことになり、広範囲に個人に関する情報がばら撒かれてしまうからです。しかも、リテラシーの低いユーザーが多数ネットを利用している実態があるため、気がつかないうちに個人に関する情報を大量に取得し丸裸にするアプローチで利鞘を稼ぐ悪質なICT企業は後を絶ちません。 極めつけは、俗に言う「レ点商法」といわれる月額固定支払いのサブスクリプション・サービスで不当な消費者被害が蔓延していることで、これは携帯電話のメガキャリア3社が「入会初月は無料ですから」などと契約者に持ちかけ、月額数百円ほどかかる不要不急のコンテンツサービスなどを本人の認識なく入会させてしまうことです。 消費者契約法上は、仮に契約時に本人確認を行っていたとしても、本人に入会したという意志がなければ場合によってはこれは無効の取引となり、遡及して返金の対象となる、法的リスクの高いビジネスです。ところが、大手キャリアにおいてはビデオ、マガジン、パスなどと銘打って欺瞞的取引の宝庫となっており、これらのモラルなき取引を繰り返し、消費者の無知に付け込むようなビジネスを大手企業が横行させている現状は厳しく考えていかなければなりません。 つまり、お金を貰っているのに中立なフリをして記事を読ませ、読者を騙す形で稼いでいる一部のメディアと同様に、今後問題となるのは「欺瞞的取引とは何か」というテーマでしょう。まさにステマはこの欺瞞的取引の入り口であり、基本となるべき詐欺行為に他なりません。それはゆくゆくはネットに対する重大な規制論に立ち入ってしまうことになり、いまネットに無知な消費者をカモることで利益を上げている企業ほど、問題に気づかされた消費者の怒りと共に過剰な規制を敷かれてしまうリスクを軽視しているように思えてなりません。 それは、一夜の春を謳歌した消費者金融が、悪意の受益者として遡及効が認められ、過去に遡っての過払い請求が認められて突然のグレーゾーン金利返還訴訟で灰燼に帰した事例を考えずにはいられません。 そして、これらの行政罰は国内事業者にしか及びません。消費者保護は大事だが、やりすぎればサービス事業者はリスクを回避するために海外に事業の拠点を移してしまいます。まさに、考えるべきことは事業者と消費者の按配をうまく調整する行政の機微にあるのだ、といっても過言ではありません。 誰もがネットを使えるようになったからこそ、安全なネット利用環境を整えることは、サイバー攻撃・犯罪へ対処する技術的、当局的アプローチもさることながら、消費者行政も基本に立ち返ってしっかりと議論を積み重ねて行くべきであろうと強く考える次第です。

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    ネイティブ広告の指針が機能しないと「隠れ記事広告」が業界の普通になる

    徳力基彦(アジャイルメディア・ネットワークCMO、ブロガー) 先月、JIAAのネイティブアド研究会のガイドラインが発表されて、各所で話題になっていましたが、昨日それに関連してCNETにネイティブアド研究会の長澤さんと長崎さんの長文インタビューが公開されました。■「ネイティブ広告」定義の真意–JIAAが語るこれからのメディアの在り方 長文のインタビュー記事ですが、ポイントが良くまとまっており、ネイティブアドの関係者の方はもちろん、メディアの記者やブロガーなど情報発信に携わられている方やネット広告に関係する方にとっては必読のインタビューだと思います。 個人的には長澤さんとはadtechのパネルディスカッションや書籍の対談など、何度もご一緒させて頂いているので、長澤さんがネット広告を本当に心の底から愛していて、一方でステマややらせがなかなか無くならない実態から、ネット広告の未来を心の底から憂いている方だというのは良く知っているので、以前からネイティブアド研究会の活動についてもお聞きしておりずっと影ながら応援しているのですが。 ネイティブアド研究会のガイドラインが発表されたタイミングでは、いろいろと曲解していたり、勘違いして反発している人達も多かったように見ています。 ネイティブアドについては以前に「「騙された気分」にさせないネイティブアドのポイントとは」というコラムを宣伝会議に寄稿したこともあるのですが、Facebookのスレッドにいろいろコメントをもらったこともあり、自分なりの考え方をまとめてみることにします。 そもそも「ネイティブアド」という概念自体が、元々は「コンテンツ」と「アド」は全く別のモノとして明確に分離されているべきであるという編集と広告の分離の常識に対して、コンテンツ部分にアドを出す、つまり編集部分に広告を混じらせてしまうという構造になっているので、当然、読者や視聴者からすると文脈的にステマややらせに近い構造の印象になるわけです。 だって、今まで広告が入るわけがない、と思っていた場所に広告を入れようという話なわけですから、ユーザー目線ですると精神的に気持ちが良いはずな話なわけはないですよね。 インターネット広告推進協議会という名称の組織であるJIAAが、ネイティブアドのガイドラインを作る、と聞くと、ネット広告業界の人たちが自分達に都合の良いネイティブアドをもっと売りやすくしようとしてるんでしょ、と誤解する人達が出てきても仕方が無い構造にある気はします。でも、実はこれ違うんですよね。ネイティブアドを推進したい一番のプレイヤーは実はメディア側。何しろネット広告の代表であるバナー枠がその地位を確実に失いつつあるわけです。 そもそもバナー広告のクリック率って年々低下していて平均で0.2%以下とからしく■参考:第2回:今の『ディスプレイ広告』の枠ってクズだよね!ワイルドな広告枠開発の提案だぜぇ~?! そもそも多くの人がバナー広告を無視する技術を体得してきているという話もあり。■参考: 「バナー広告には誰も関心を払わない」という科学的証明■参考:調査報告:インターネット広告は63%の人に無視されている さらにはアドネットワークの台頭でメディアが獲得できるアドの単価は下落する一方。アドテクノロジーの進化やリターゲティングの普及で、バナー広告が「誰に見せるか」を重視するようになったこともあり、メディアの質の重要性が薄くなっていることも影響は結構大きいようです。もはや企業メディアが、バナー広告枠の収入では生きていけなくなってきているわけです。ブログメディアで編集記事と見分けがつきにくい記事広告 そんな中、ネイティブアドが流行る前から日本のメディアで重宝されるようになっていたのが「記事広告」や「タイアップ」と呼ばれる手法。記事広告であれば、媒体の読者がどういう人かというメディアの質が改めて重要になりますし、記事広告を各媒体側の編集力で差別化できます。  自社にしかできないユニークな広告メニューと言うことで、バナー広告に比べるとある程度金額も維持できますし、コンテンツ価値も踏まえてCTRやCPAだけ重視する料金設定の罠から抜け出せる可能性もあります。 従来は記事広告は編集記事とは全く別の場所に掲載されることが多く、今でも大手メディアサイトはその方式ですが、Gizmodoのようなブログ系の媒体では普通に記事一覧の中に記事広告を混ぜるのが普通になってきて、だんだんと編集記事と記事広告の見分けがつきにくいパターンが増えてくるようになってきました。 で、ここに、「記事広告と明示しないで欲しい」という圧力がかかってくるケースが多いのが問題になるわけです。 広告の一般的な常識で言えば、広告は広告であることが明示されるのが必須というのは常識です。テレビCM枠は番組とは明確に切り替わったことがわかるように配慮されていますし、新聞の広告と記事欄は明確に分離されています。雑誌の記事広告においてもPRやADの表記は必須です。そういう意味では、ネット上の記事広告においても広告表記は必須なはずなんですが、何故か日本では広告表記をしないでくれというリクエストがまだまだ横行しています。 結局広告表示をすると反応が悪くなる、読者の印象が悪くなる、という思い込みがあるからそういうリクエストになるようなんですが。でも、これってある意味読者に対する背信行為ですし、言葉を選ばずに言うと読者に対する犯罪行為なんですよね。完全犯罪が成り立つ「隠れ記事広告」 でも、上述したようにメディア側もそういった圧力とは無縁のはずのバナー広告では生きていけないので、選択の余地がないケースもあるようで。企業側に広告明示をするなと言われて発注されて受けざるを得なくなったり。それで味をしめてメニュー化してしまったりと。残念ながらこうした「隠れ記事広告」が横行している背景があるようです。 さらにこうした「隠れ記事広告」で問題なのが、その発見の難しさ。一時期ステマ騒動として問題になった食べログのようなクチコミサイトへのやらせ投稿のような、サービスやサイトのユーザーがやらせ投稿をするケースと異なり。メディアやサービス自体が記事広告を記事広告と明示せずに記事のように素知らぬふりで投稿すると、関係者以外には判別のできない完全犯罪が成り立ちます。 そういう意味ではクチコミサイトへのやらせ投稿事業者なんてカワイイものです。メディア自体の隠れ記事広告は組織ぐるみの構造ですからね。内部告発でも無い限り発見不可能です。例えば、昨年10月にGunosyがおそらく広告として配信していたであろう記事を全く広告と明記せずに配信していたことが明らかになって炎上した事例がありましたが■この記事はまずいくらSNSでシェアされてもGunosyには掲載されないだろうな。Gunosyのiemoのバイラル記事がウザすぎる件。 こんな分かりやすくURLにタグらしきものが残っていて広告配信らしい行為が見えてしまうケースの方がむしろ希で、この記事の後にGunosyが仕組みを変えてこの怪しい配信が無かったことにしたように(もちろんGunosy側は無言を貫いているので実際に広告だったのかどうかの真実は闇の中ですが)、証拠が残らないように普通の記事の振りをして配信していれば外部の人間には一切証拠を見つけようがないわけです。 芸能人ブログのステマ投稿なんかも分かりやすい例ですよね。まぁ、ペニーオークションとかは明らかに使ってないだろ、というのが明確なのでステマなのが分かりやすいですが、実際問題芸能人が黙ってステマをしていても、どの記事がステマでどれが本音なのか読者からは判別できません。 この辺は鳴海さんが自らネタ(多分)として広告明記のないネイティブアドのメニューを販売していて「限りなく記事に近い形で読者に広告と悟られることなく出稿できます。」と明記しているように、バイラルメディアとかブログで個人でも簡単に実践できます。■ネイティブアド | @narumiストア だって金もらって記事書いてても、それを言わなければ誰にも分からないわけですからね。残念ながら企業運営メディアの記事広告ではなく「記事」の料金表が出回っているという噂もそこここで耳にしたりします。 こうなってしまうと、読者側もメディアの記事も何も信じられない未来になってしまうわけです。実際問題、すでにステマ騒動やネイティブアド周辺で様々なトラブルがあったこともあり、何かあったらすぐに「ステマだろ」とネタ突っ込みするのがすっかり普通になってしまいましたよね。 で、こうした「隠れ記事広告」が業界の普通になってしまうと、広告を広告明示すること自体の必要性すら分からなくなってしまう人が出てきてしまうわけです。 象徴的なのがこのブログ記事■ネイティブアドよ、死語になれ。 | CINRA, Inc. 杉浦太一のブログ この記事はCINRAという会社の社長さんのブログのようですが、おもいっきり自社のサイトであるCINRA.NETは90%がタイアップでお金もらって書いてるんだけど、広告ですと明示するとすべて台なしになっちゃうから、明示しませんという趣旨のことをカミングアウトしちゃってるんですよね。 ある意味CINRA.NETは90%の記事が「隠れ記事広告」でステマですというカミングアウトなんですが、この人からするとその価値観に何の疑いも感じていない模様。  お金をもらって記事を書くことは「記事広告」なのに、それを記事広告と読者に明示するジャーナリズムとしての責任を放棄することに一抹の罪悪感も感じてないわけです。結構オシャレでしっかりした製作会社さんみたいなんですけどね。インタビュー記事も別にちゃんとしてるから、胸張って「タイアップ」です、と言えば良いと思うんですけどね。自らの手で業界を無法地帯にしたいのか 実際ちゃんと記事広告明示している媒体においては、記事広告だから読まれないとか全然無いのが証明されつつあるんですけどね。あんなブログ書いちゃうと、インタビュー記事に載っている人が読者からすると広告としてインタビューされたのにそれを明示したくない人達に見えてしまう話になっちゃったりするんですけどね。残念です。 でも、さらに残念なことに実は、広告業界関係者の中にはこうした価値観の方が実はまだまだたくさんいるのが実態なので、この人が別に特殊だとも言えないわけです。■クライアントが記事広告の広告明示を希望しない■読者も記事広告なんて読みたくない この二つの背景だけ考えたら、まぁ記事広告を広告明示するのなんて誰も求めてないように見えて馬鹿らしいですよね。そういう意味で、タイアップ記事で広告明示をしないことの何が悪いの?と本気で議論になってしまう相手が、この業界には結構たくさんいることに、私もこの業界に入って正直一番ショックを受けました。 でも、ここの境界線をルーズにした瞬間に、読者からすると全てが信じられない世界になってしまうわけで。自らの手で自らが生きている業界を、無法地帯にして価値を下げてしまうんですよね。 まぁ、そもそもネットの情報は全部ウソだと思っている人もいれば、別にテレビだって全部やらせだろ、と思っている人もいるわけで、結局そういうことでしょ、と達観してしまうことは簡単かもしれないですが。これってあまりに悲しい未来だと思うわけで。 そういう意味で、ネイティブアド研究会がやっている啓蒙活動は、ネイティブアドの信頼性云々のレベルではなく、ネット広告やネットマーケティング、ひいてはインターネットにおけるコンテンツの信頼性を担保するための必須の活動だと思います。  その辺の私の価値観の話は。昔「ステルスマーケティングで短期的に儲かったところで、結局長い目で見ると自らの首を絞めているダイナマイト漁みたいなものだという話。」という記事でも書きましたが。 案外こういうことが未だにネットの信頼性があがってこない日本のネット業界において一番重要な活動だと思ったりします。 ちなみに、先程上に上げた■クライアントが記事広告の広告明示を希望しない■読者も記事広告なんて読みたくない のうち、後者については実はメディア側の勝手な思い込みであって、本当に面白い記事であれば広告と明示しても、読者はそんなに気にせず楽しんで読んでくれることがデータで証明されつつあります。 だから、あとはクライアント側が記事広告の広告明示をしないというのはユーザーに対する犯罪行為である、ということを理解してくれれば済むわけです。記事広告の広告明示をしない企画を提案するような広告代理店やPR代理店やメディアを出入り禁止にするようにしてくれれば、広告代理店やPR代理店側もそんなメニュー提案する必然性がなくなるわけで。 やらせがばれて炎上するリスクを考えたら、隠れ記事広告を使うメリットなんてたいして無いと思って頂けると思うわけです。  現在のネイティブアドの一般認識や、アングラ化しているステマ行為の実態についての噂を聞く限り、未来を楽観視できないのは正直なところですが。是非ネイティブアド研究会の皆さんには啓蒙を頑張って頂きたいと心の底から思います。(ブログ『tokuriki.com』より2015年4月9日分より転載)とくりき・もとひこ アジャイルメディア・ネットワーク取締役最高マーケティング責任者(CMO)。1972年生まれ。名古屋大学法学部卒。NTTで法人営業やIR活動に従事した後、2006年にアジャイルメディア・ネットワークの設立に参画。代表取締役社長を経て、14年から現職。WOMマーケティング協議会の事例共有委員会委員長などを務める。

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    ステマ騒動で業界が揺れる中、ウェブメディア編集長が考えていること

    長、ファイナンシャルプランナー) 先日からステルスマーケティング、いわゆるステマに関する騒動がウェブメディア業界で続いている。 7月30日、ヤフー!ニュースのスタッフブログが記事のフリをしたノンクレジット広告、つまり「ステマ」の排除を明確に打ち出した(編集コンテンツと誤認させて広告を届ける行為(ステルスマーケティング、いわゆるステマ)に対する考え ) また、9月1日にはウェブメディアのハフィントンポストが同じくステマと疑われる記事の排除をするために調査・管理チームを立ち上げた。そして過去の記事でステマ、もしくはPRを目的とすることが疑われる記事を削除したこと報告した(ハフポスト読者の皆様へ 2015/09/01)。 ステマ排除の動きは、ネット広告に関する業界団体のJIAAによるガイドライン策定ですでに固まりつつあったが、月間100億PVを超える日本最大のニュースサイト・ヤフーニュースや、大手ウェブメディアのハフィントンポストが明確に排除に乗り出したことを表明して、この動きを決定づけたと言える。 ただ、現状ではステマという言葉が一人歩きをしてしまい、そもそもステマとは何か? そしてステマの何が問題なのか?という事すら置き去りにされ、魔女狩りの様相すら呈している。 シェアーズカフェ・オンラインというウェブメディアを運営する編集長として、そして一人の書き手として、この問題を論じてみたい。ステマはなぜいけないのか 現在、ステマという言葉は本来の意味だけではなく、つまらない記事を批判する差別用語のような使われ方になっており、なんとも異常・異様な状況に見える。 当初、ステマとして問題視されたものはペニオク(ぺニーオークション)の詐欺事件による芸能人のやらせ(こんなに安く買えました!とブログに書き込むなど)や、一部口コミサイトで行われた、店舗運営者による自作自演の書き込みだった。ステマの本質である「広告であることを隠した広告」という問題のみならず、ペニオク事件では手数料を払わされるだけで実際には買えないという問題も重なり、大きな騒動に発展した。 ウェブメディアでステマを禁止する背景には、景品表示法など消費者を保護する法律が根拠になっている。つまり、広告で「この商品は質が良い」と読者・消費者に伝えることと、記事の中で同じ内容を伝えることには大きな違いがあり、より良い商品だと誤解させる可能性がある。これを「優良誤認」という。 法律を持ち出すまでもなくステマがろくでもない行為である事は言うまでもないが、これらの問題が起きた当時、消費者庁の資料では「関係性の明示」がうたわれている(第7回インターネット消費者取引連絡会・口コミサイトに関する課題より 2012/12/5)。口コミサイトにユーザーが期待する「利用者の声」が「店舗運営者による宣伝広告(つまり自作自演)」として偽装されていれば、消費者に不利益が発生するため許されない、という事になる。 現在はこの問題が口コミサイトからウェブメディアに舞台を変えて、店舗運営者が広告主や代理店・PR会社に姿を変えて、全く同じ問題が繰り返されているように見える。ステマ排除のガイドラインのつくりかたステマ排除のガイドラインのつくりかた さて、ではステマを排除するためにはどうしたらよいのか。これはウェブメディア編集長として中々頭が痛い。 シェアーズカフェ・オンラインは外部の書き手が投稿する記事で成り立っているため、書き手に対するガイドラインはサイトの運営上、生命線となる。昨年末頃に作成して少しずつ改定しているが現時点のガイドライン・倫理規定は以下の通りで、公表もしている。1.記事内で取り上げる企業・個人から金品の受け取ること。2.三親等以内の親族が経営・勤務する企業を取り上げること。3.企業・個人などから報酬の有無を問わず、依頼されて記事を作成すること。4.執筆した記事を公開前にインタビュー相手や記事内で取り上げた企業に見せること。5.自身・自社の取引先を記事内で取り上げること(消費者としての取引は除く)。6.出資・株の保有・融資など、利害関係がある企業・個人およびその商品・サービスを記事内で取り上げる事。7.告知ページ以外で自身の扱う商品・セミナーを紹介・宣伝・売り込みを行うこと。8.関連リンクで自身・他者を問わず商品・サービスのページにリンクを張ること。●利用規約・広告表記について http://sharescafe.net/archives/31971848.html 一部例外などもあるが、上記のとおりかなり細かく規定している。一言で表現すれば「利害関係のある企業・個人を記事で取り上げること」を禁止している。特に3は通常のメディアが様々な企業やPR会社とつながりがある状況と比べれば、ありえないほど厳しい。 ただ、シェアーズカフェ・オンラインは主に士業や大学教授、経営者など専門家がマネー・ビジネス・経済等の情報発信をするメディアとして運営している。自分の経験から考えても専門家が記事を書く際に企業やPR会社、広告代理店との付き合いは一切必要ない。場合によっては有害ですらある。したがって、これらのルールはステマ防止であると同時に記事の品質を担保するためでもある。 例えばこのお店のおもてなしは素晴らしい、という記事は問題ないが、そのお店の経営者が書き手の親族や顧問先だったらどうか。この企業の経営手法は素晴らしい、という記事は問題ないが、もし書き手がその企業の株を保有していたらどうか。直接的に金品のやり取りが無くとも、到底客観的な記事とは言えない。 また、IT系のメディアならばメーカーから機器を借りてレビュー記事を書くことは普通にあると思うが、ウチのサイトの基準ではアウトだ。専門家が記事を書くために、企業から何かを借りる必要は無い。唯一献本による書評のみ特例で認めているが、これも献本である事を明記する必要があり、利害関係のある筆者の本は不可としている。 誤解を恐れずに言えば、記事の内容が中立・公正・公平である必要は無い。しかし客観性が無くなれば、それは有害な情報でしかない。各種メディアや報道機関、金融機関、上場企業等で働く人には、業務上に限らず日常生活であってもある程度の制限がかかる。それらを参考にした結果、こういったガイドラインになった。アマチュアリズムがステマを排除する メディアによって必要なガイドラインは異なると思うが、何をどのレベルまで禁止すれば良いか判断がつかないサイトには参考になる部分もあるだろう。そしてこのガイドラインの根っこにある考えは、「書き手以外の意思を記事に入り込ませない」ということになる。※なお、上記ガイドラインは配信先の要請で作ったものでは無く自主的に作成したものであり、配信先の規約・ガイドライン・契約とも一切関係ない。アマチュアリズムがステマを排除する 編集長である自分は、元々個人ブログを書き始めたことがウェブメディアへのかかわりのスタートとなる。「ブロガー上がりの編集長」という事で、他のメディア関係者とは出自がかなり異なる。なぜそんな人間が編集長をやれているのかと言うと、元々アマチュアであることがプラスに働いていると、最近になって気づいた。 個人でブログを書く際、何を書くか、どのように書くか、いつ書くか。これらは全て自分ひとりで決める。つまり記事に他人の意思が入り込む余地が無い。 個人ブログで蓄積したノウハウを元に立ち上げたシェアーズカフェ・オンラインも同じように運営している。書き手はガイドラインと編集長である自分の指示に従う限りは、何を書こうと自由だ。つまり、書き手には「書き手以外の意思」を記事には含めないように指導してきた。具体的にそのような表現でアドバイスをしたことは無いが、執筆指導や添削など、アドバイスの根っこには常にそういう考え方が無意識にあった。 この無意識を意識したのが、書き手がインタビュー記事を書いた時だ。どのように書いているのかと思っていたら、書き手から「インタビューの相手に記事が問題無いか事前に確認をしてもらったところ、NGを受けた箇所があったので書き直している」という報告があった。この報告を受けた際、極めて強い違和感、もっと言えば不快感を覚えた。なぜ公開前の記事を見せる必要があるのか?と。 メディアによって、インタビュー記事を確認させるかどうかは異なる。どちらが正しいという事は無い。ただ、自分の「ブログ道」から考えると、相手にNGを受けて書き直す事は他者の意見が記事に反映される事に他ならない。これが行くところまでいけばインタビュー相手にとって都合の良いことだけが書かれた宣伝記事になりかねない(この件は書き手が悪いのではなく、ガイドラインの整備不足が原因)。「俺のブログ道」という編集方針「俺のブログ道」という編集方針 記事に他人の意思が入り込むという状況を考えてもいなかった自分にとっては想定外の出来事だったため、この件を境に記事が広告にならないようにガイドラインを含めた倫理規定を作らねば、と考えるようになった。その結果出来上がったのが上で示したガイドラインだ。 つまりステマ騒動を受けてガイドラインを作ったのではなく「俺のブログ道」から外れる書き方は許さん、という極めて個人的な編集方針が結果的にステマ排除のガイドラインのベースになっている。ましてやお金を受け取った広告主の意思が記事に入り込むなどありえない、という事だ。この点を理解できない書き手は即刻クビにしている。 ステマと聞くとお金を受け取って記事を書いている、それを通常の記事として大手メディア等に配信している、というのが多くの人の理解だと思うが、やろうと思えば他にいくらでもやりようがある。より広く考えれば「読者のために書かれていない記事」を排除するには、ガイドラインや倫理規定としてここまで決めないといけないという事だ。 こういったガイドラインや編集方針が他のメディアや読者からどのように見えるかは分からないが、ステマは確実に排除できる。事細かに書いてあるので厳しいように見えるかもしれないが、自分にとっては当たり前の事しか書いていない。ステマは禁止です、と伝えても書き手が60人もいると正確に伝わらないため丁寧に書いているというだけのことだ。以下の記事も参考にされたい。■グーグルはなぜ新入社員に1800万円の給料を払うのか?http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/43503648.html■ライザップと行列ができる本屋の共通点 ~平凡な商品がバカ売れする理由~http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/43405362.html■KDDIがナタリーを買った理由。http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/40251898.html■就職活動を始めた大学生はNHKのお天気お姉さん・井田寛子さんに学べ。http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/34559984.html■就職活動中の女子大生のために、ゾゾタウンの企業研究を徹底的にやってみた。http://blog.livedoor.jp/sharescafe/archives/37409548.html 何かを褒める記事を書くと、必ずと言って良いほど「金でも貰ってんのか?」「ステマ乙」といったうっとうしいコメントがSNSで書き込まれる。これは単純にそういった書き込みを行う人が自分自身の(お金でも貰わないと他人を褒めないという)価値観を表明しているだけなのだが、ステマを実際に行うメディアや企業、代理店があることも当然原因の一つだ。真面目に運営をしているメディアや書き手まで疑われる状況は、明らかに異常だ。早期にステマが無くなり浄化される事を望みたい。なかじま・よしふみ ファイナンシャルプランナー、シェアーズカフェ・オンライン編集長。1979年生まれ。2011年開業、翌年に開設した「シェアーズカフェのブログ」はFPとしてアクセス数日本一を誇る。現在は日経DUAL、アゴラ、ハフィントンポスト等で執筆中。その他新聞雑誌など多数の媒体で情報発信を行う。対面では住宅購入のアドバイスを得意とする。生命保険の販売や住宅ローンの仲介等を一切行わず、FP本来のスタイルで営業中。現在は各種士業や大学教授など、多数の専門家が書き手として参加するウェブメディアを編集長として運営。シェアーズ・カフェ:http://sharescafe.com/

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    政治色を強めていくのか 岐路に立つ流行語大賞

    新田哲史(「アゴラ」編集長、ソーシャルアナリスト) どうも新田です。わーい、ついに拙著のアマゾンにレビュー、それも分かりやすい敵意丸出しで書いていただきました。文面から某選挙の某陣営の内情に詳しい方のようで、大嫌いな私のためにお金を払っていただき、さらにブログの話題も提供いただき、ありがとうございました。本を持って来れば御礼にサインして差し上げますよー。ところで、早いものであすから師走。そういうわけで、毎年恒例の流行語大賞の発表が近づいてまいりました。 といっても、今年のノミネート語は先日も書きましたように、50語のうち4割近くを政治関連で占めたのが異例でした。「戦争法案」が候補に?流行語大賞、感じ悪いよねhttp://agora-web.jp/archives/1660561.html さすがにマスコミにも注目されまして、ノミネートから10日ほどして朝日でも取り上げていました。存立危機・早く質問しろよ… 国会発、流行語候補が続々(朝日新聞デジタル)http://www.asahi.com/articles/ASHCL5HDFHCLUTFK00F.html もちろん、私と朝日では考え方が対極的です。「安保法案」を「戦争法案」とレッテル貼りする等、安倍政権への批判・disりが目立ったことに私や松本さん等、アゴラ執筆陣は批判的。朝日は淡々と事実を書くことに徹しているようで、「戦争法案」の名付け親である福島センセの談話を取っており、沖縄知事に批判された菅長官の「上から目線」について記述を割いておりまして、まあ本当は「戦争法案」なり、「SEALDs」あたりの受賞を期待しているのでしょう。 選考委員会は、姜尚中(東京大学名誉教授)、俵万智(歌人)、鳥越俊太郎(ジャーナリスト)、室井滋(女優・エッセイスト)、やくみつる(漫画家)、箭内道彦(クリエイティブ・ディレクター)、清水均(『現代用語の基礎知識』編集長)で構成される。 (流行語大賞公式サイトより) まあ、ネット上でも散々指摘されておりますが、選考委員の面々から推して知るべしなわけです。記念撮影に応じる新語・流行語大賞の受賞者ら=12月1日、東京・帝国ホテル (撮影・桐山弘太) 実は昨年も、「集団的自衛権」が選ばれた時点で、産経新聞に大賞の「政治利用」を懸念する記事が出ておりました。去年の大賞はエレキテル連合の「ダメよ~ダメダメ」だったわけですが、このくだりが秀逸。 選考委員の漫画家、やくみつるさんは表彰式で「審査は中立的な立場で行ったが、大賞となった2つの言葉が並ぶと一定の意味をなす。興味深い」と指摘した。集団的自衛権の行使容認を閣議決定した首相に対し、「ダメよ~ダメダメ」と返す意味がふくまれている、とでもいいたかったのだろうか。 いやー、記者の村上サン。この皮肉を込めた書き方、一般紙のお堅い政治部記者とは思えない遊び心のある筆致がさえております。 流行語大賞のイベント運営の実態など興味もないので想像の域のことですが、受賞者のブッキングの調整時間を考えると、大賞は内定、あるいは少なくても大賞になる最終候補までは絞り込まれているはず。果たして、SEALDsがドヤ顔で出てきて一定層に違和感を残すのか、それとも五郎丸選手登場で国民の多数が納得の大円団になるのか。 展開によってはネットから「もうユーキャンの通信教育やめてケイコとマナブに乗り換える!」なんて運動につながったりしないのか、いろいろと今後の展開を読むところはございますが、これ以上、政治色を強めるのかどうか、岐路に立つ流行語大賞の成り行きを生温かく見守りたいと思います。(「新田哲史のWrite Like Talking」より2015年11月30日分を転載)

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    流行語を捏造して大衆に押し付けるサヨクの病理

     「現代用語のクソ知識」なる言葉がある。人気お笑い芸人の有吉弘行によって書かれた本のタイトルだ。言うまでもなく、「現代用語の基礎知識」のもじりである。ところが、今や「現代用語の基礎知識」の内容そのものが「現代用語のクソ知識」と化している。何しろ執筆陣の顔ぶれが異常すぎる。まるで反日サヨク活動家リストそのものなのだ。 例えば2016年度版の執筆陣を見てみよう。SEALDs(「反戦争法」国会前デモを行った団体)姜尚中(北朝鮮による拉致犯罪を「北朝鮮に動機はない」と否定した在日韓国人二世)谷川俊太郎(60年安保反対派詩人)森達也(「従軍慰安婦」の「強制連行」を認める映画監督)木村草太(安保法制を憲法違反とする法学者)鳥越俊太郎(安保法制を憲法違反とするジャーナリスト)内田樹(安倍政権を「独裁」と批判する武道家)高橋哲哉(護憲派組織「九条の会・さいたま」呼びかけ人)湯川れい子(「日本を捨てる」と発言する「マスコミ九条の会」呼びかけ人)現代用語の基礎知識とは(現代用語の基礎知識 特設サイト) 頭がくらくらしてくる。ここまで異様な人選では、もはや「現代用語の基礎知識」ではなく「変態サヨクのクソ知識」とでも言う他あるまい。 そんな「現代用語の基礎知識」の読者アンケートを元に毎年行われているのが、「ユーキャン新語・流行語大賞」なのだから、その実態たるや反日サヨクによるプロパガンダに過ぎぬであろうということも想像に難くはなかろう。そもそも選考委員が前述の姜尚中、鳥越俊太郎などの息を吐くように嘘をつくことも厭わず北朝鮮による拉致犯罪まで擁護する反日サヨク人士連中だと言うのだから、選考基準に公平もクソも無いのは当然と言える。 例年のノミネートや大賞を見ても「どこで流行していたの?」と首を傾げざるを得ない物が多い。2013年には「ヘイトスピーチ」「特定秘密保護法」が選ばれているし、2014年は「集団的自衛権」が大賞に選ばれた上に「ダメよ〜ダメダメ」という日本エレキテル連合なるお笑いコンビのギャグ?と合わせ「集団的自衛権ダメよ〜ダメダメ」と宣伝された。選考委員の鳥越俊太郎に至っては悪びれた風もなく堂々と、「特定秘密保護法から始まってアベノミクス、集団的自衛権、原発再稼働も、国民が反対しているにもかかわらず政府は少しずつ推し進めた。それに対して国民の気持ちを最もよく表すのが『ダメよ~ダメダメ』」と高らかに反日プロパガンダの勝利を宣言する始末だ。 この直後、これに呼応するようにサヨク勢力は一斉にこの反日プロパガンダの拡大のために決起した。北朝鮮による拉致犯罪を「拉致は創作」と主張し擁護してきた社民党の福島瑞穂は「今年の流行語大賞に『ダメよ~ダメダメ』『集団的自衛権』。これを合わせて『ダメよ~ダメダメ、集団的自衛権』。どう考えてもダメです。ダメなものはダメ」とツイッターにおいて発言。 民主党所属議員で北朝鮮との繋がりが深い有田芳生も「この並べ方がサイコー!『集団的自衛権』『ダメよ~ダメダメ』が大賞」と嬉々として述べた。使い古された反日プロパガンダ戦略 流行でも何でもない反日フレーズを「これこそ流行でござい!」と捏造し権威付け大衆に押し付けるサヨクによるこうした卑劣な手法は、流行語大賞だけに限ったことではない。彼ら息を吐くように嘘をつく連中のごく一般的な反日プロパガンダ戦略であり、過去にもいくらでも前科がある使い古されたものだ。 例えば朝日新聞は、そうした「流行捏造」の常習犯であり、捏造することを意味する「アサヒる」という言葉が存在している程だ。 ことの発端は、07年9月25日付の朝日新聞が辞任を表明した安倍総理について 「『アタシ、もうアベしちゃおうかな』という言葉があちこちで聞こえる。仕事も責任も放り投げてしまいたい心情の吐露だ。そんな大人げない流行語を首相が作ってしまったのがカナシイ」と書き立てたことであった。グーグルで検索してもさっぱりヒットしない「アベする」という言葉を「流行語」としてでっち上げた朝日の悪質な行為は各方面で厳しい検証と批判を受け、結果「アサヒる」という言葉が生まれることになった。 ところが朝日は「反省」という概念を持たぬらしく、2010年4月6日には再びこのように書き立て流行を捏造した。 「若い世代は新語を造るのがうまい。「与謝野(よさの)る」というのがあって、寝癖などで髪が乱れているのを指すそうだ。晶子の歌集「みだれ髪」に由来し、女生徒同士で「すごく与謝野ってるよ」などと言う」「その「与謝野る」に、仲間から抜けるという第2の意味が加わるかもしれない。晶子のお孫さんの与謝野馨元財務相が、自民党に離党届を出した。近く新党を立ち上げるそうだ。政治の閉塞(へいそく)を破る勢力をめざすという。その意気や良し」 このように、「流行」という「権威」を捏造し、大衆に対し自らの歪んだ思い込みを押し付けるというのは、サヨクの本能とでも言うべき一般的な病理なのである。 サヨクによるこうした流行の捏造には、アンケートもよく悪用される。その一つの例が、03年11月に当時の石原慎太郎都知事の再選を妨害する目的で行われたと言われても仕方がない、TBSサンデーモーニングによる「石原発言捏造テロップ事件」と連携して行われたサヨクによる「アンケート」である。当時の石原都知事の「日韓併合を100%正当化するつもりはない」という発言を捏造し「100%正当化するつもりだ」とのテロップを付けたこの驚くべき犯罪には実は続きがある。翌年4月には、サンデーモーニングの反日コメンテーターとして有名なばかりか司会の関口宏の経営するサンデーモーニング制作会社から仕事を受注する等で深い繋がりのある佐高信(評論家)、辛淑玉(人材育成コンサルタント)が主宰す る「プレ東京都知事選挙」なるホームページが開設された。更に付け加えれば、辛淑玉の所属するのは、朝鮮人経営というだけではなく、拉致犯罪の発覚以前か ら北朝鮮への闇送金が疑われているような組織のグループ企業なのだ。 表向きは、来るべき都知事選を予想する「ネット投票」を装ってはいるが、その実体は、明らかに、石原都知事再選の妨害工作であった。何しろ候補者に、立候補さえしていない元べ平連活動屋で作家の小田実なんてものまでノミネートされていたのだから、お里が知れるというものだ。 このホームページは当初、在日朝鮮人のメーリングリストや反日活動家、プロ市民の掲示板などでのみ宣伝された。ホームページに「投票結果は11日夜に最終集計し、マスコミ各社に流します」と書かれていたことからもわかるように、反石原グループだけで投票をして、都合の良い結果を出し、マスコミに流すつもりだったのである。実際、当初は、本選挙では石原に惨敗した樋口恵子がトップであった。流行を捏造する極めて単純なパターン ところが、この企みはネット投票開始直後に漏れ、2ちゃんねるなどのインターネット掲示板で宣伝された結果、反石原活動家以外にも多くの一般市民が投票し、樋口をたちまち引き離し、石原がトップに踊りでた。「プレ東京都知事選挙」の主催者は慌て、石原票のカウントを停止したり、石原の得票数を0に差し戻したり、ここでも捏造に躍起となっていたが、結局対応しきれず、ホームページは投票日前に閉鎖された。 ここまでお読みになられた読者は、こうしたサヨクによる流行捏造には極めて単純なパターンが存在することがわかるであろう。・自分だけの思い込みを「流行である」と平気で嘘をつく。・ずさんな嘘や捏造のため、簡単にその悪巧みがバレる。・嘘がバレても謝罪どころか反省さえせず言い逃れに終止し、懲りずに何度も同じ悪事を繰り返す。 サヨク連中というのはオツムの構造が単細胞で皆クローンのように同じらしく、実に見事なほどにこれらの症状を共有している。 これまでも何度も同じことを指摘してきたが、私は以前、本誌において、サヨクどもが「サイコパス」だと言える数々の症例http://ironna.jp/article/2184という記事を書いたことがある。そこでも引用したロバート・D.ヘア『診断名サイコパス―身近にひそむ異常人格者たち』(早川書房)という本には、次のような記述がある。 「サイコパスはナルシスティックで、自分の価値や重要性に関してひどく慢心したものの見かたをする。まったく驚くべき自己中心性と権利感覚の持ち主だ。彼らは、自分が宇宙の中心にいると思っていて、己のルールに従って生きることが許されている優秀な人間だと思っている」  「嘘つきで、ずるく、ごまかしがうまいのは、サイコパスの生まれもった才能だと言える。  想像力が貧困なのか、それとも自分のことしか考えていないためか、サイコパスは自分の正体が見破られる可能性に驚くほど無頓着か、見破られないと確信をもっているかに見える。嘘を見破られたり、真実味を疑われたりしても、めったにまごついたり気おくれしたりしない。あっさり話題を変えたり、真実をつくりかえて嘘のうわ塗りをする」 「サヨク」とは政治的イデオロギーではない、症状だ 「サヨク」とは政治的イデオロギーではなく、症状なのであると言わざるを得ない。彼らは自らの歪んだ思い込みを「グローバルスタンダード」と思い込み、それを認めようとせぬ敵をポルポトや毛沢東のように「人間じゃねぇ!たたっ斬る!」と差別・殺害宣告し虐殺粛清をためらわぬ連中なのだ。 2003年にスペースシャトルコロンビア号の空中分解事故で乗組員7名全員が死亡した際、佐高信が編集委員を務めるサヨク雑誌の「週刊金曜日」がこのような呆れた記事を掲載したことがある。 「地球上の約半数以上の人が「ザマアミロ、 天罰だ!」と喜んだに違いないが、誰もこんなハシタナイことは言わない。私だけが公言して憚らない」「イラクから見れば、アラーの祟りそのものなのである」 サヨクどもが「人権」だの「反差別」だのを普段偉そうに喚くくせに、平気で人の死を「ザマアミロ」と大喜びする人でなしの二枚舌であるというのは今更驚くべきことではない。ここで問題なのは、彼らサヨクが「地球上の約半数以上の人」も自分たち同様の人でなしであると思い込んでいるという信じられぬ厚顔無恥さである。本気でそう思い込んでいるなら、世間知らずの愚か者であるし、そうでないなら息を吐くように嘘をつく卑劣漢だ。いずれにせよ真面目に耳を傾けるべき輩ではない。 この週刊金曜日に見られるサヨク連中の卑劣さは特殊な物ではなく、911アメリカ同時多発テロにおいても、社民党議員原陽子が次のような発言を行っている。 「「ざまーみろっ」って思っている国だってきっとある、と思いませんか?」 品性下劣なサヨク連中が、人が死ぬのを「ざまーみろ」と思うのは自由だ。しかし連中の卑劣さは、無根拠に「オレサマだけでなくみんなだってそう思っているのだ!」と喚き散らし自らを正当化する点にある。流行語大賞を悪用した「流行語捏造」もそうしたサヨクに共通する邪悪な本能が具現化されたものの一つに過ぎない。 偉そうに「反差別」と喚きつつ人の死を「ざまーみろ」と大喜びし、敵を平気で「人間じゃねぇ!たたっ斬る!」卑劣なサヨクにとっては、イスラム教徒がどうなろうと知ったことではない。自らの欲望を実現するために利用する駒に過ぎない。「イスラム教徒はアメリカ人の死をざまーみろと祝っている」というサヨクの嘘を真に受けたアメリカ人が、無実のイスラム教徒に対し報復をしてしまう危険性などサヨクにとってはどうでも良いことなのだ。 現代サヨクのクソ知識と流行語大賞。サヨクどもが戦後数十年にわたり延々と積み上げてきた蛮行の集大成であるこの恒例行事が今後どのような捏造を重ねて行くか、目を離すことはできない。

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    流行語大賞、今年も感じ悪いよね

    今年の世相を反映した「2015新語・流行語大賞」が発表され、「トリプルスリー」と「爆買い」が年間大賞に選ばれた。候補となった言葉をみると、今年も相変わらず「政治的マイナスワード」のオンパレードだったが、もういっそのこと「サヨク大賞」とでも名前を変えてみてはいかが?

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    「流行語大賞」にもはや意味は無い

    れを毎年公開することに何の意味があるのか、私にはわからない。 多様化する社会の中にあって、もはやマスメディア主導型の「流行語」という概念そのものが陳腐化した、とまでは言うつもりはない。方やネット空間で使われる言葉の多くは、マスメディアが使用するフレーズを転写したものだからだ。マスメディアの力が社会に対して有意に低下したとは思えない。 とはいえ、2015年の「流行語」ノミネートをみても瞭然だが、この「流行語」にはやはり特有の「自閉性」を感じる。私が感じる違和感とはまさにこのことだ。なぜ「ISIL」はノミネートされていないのか 例えば世界中を騒がせた(震撼させ続けている)、「ISIL(いわゆるイスラム国)」がノミネートの中にすら入っていないのは何故だろうか。ちなみにこの言葉は2014年にはノミネートされていたが、続く今年には消えていた。当然だが「ISIL」の問題は2015年に入って消えたわけではない。手厳しく論評するのなら、実に刹那的で軽いノミネートだ。 国際的にトルコとロシアの緊張と西欧圏への大量の難民流入、そしてパリに続く新たなテロの脅威が連日報道されているのに、そういった単語もノミネートすらされていない。「日本の新語」というのだから日本国内に限ったものだという抗弁があるかも知れないが、ISILや露軍機撃墜は日本とは全く関係のない他人ごとと言い切れる人間が居るのだろうか?毎年12月に感じる「日本の閉塞感」 「流行語大賞」には、そうした特有の「自閉性」を感じる。グローバル、という言葉が日本国内でお題目のように唱えられていながら、毎年年末になると、そういった世界と遮断した内々だけの「流行語」を恒例行事として発表するその自閉的感覚に一抹の嫌悪感を感じる。清水寺で発表される「今年の漢字」や、紅白歌合戦に誰が出るとか出ないとかという話題は、安全で誰も不幸にさせない代わりに何の問題提起も有用な議論も生まれない。ただ、一定程度の多幸的な人々の溜飲を下げるために機能しているだけの存在のように感じる。爆破され、煙を上げるシリア中部パルミラ遺跡のバール・シャミン神殿。過激派組織「イスラム国」が8月25日、画像を公開した(共同) 作家の村上龍は、「イスラエルとヒズボラの戦闘が始まり、世界中のメディアが報道していた時、NHKの7時のトップ・ニュースは桜の開花を伝えていた」というニュアンスで、日本のマスメディアの異常性を指摘している。一方、先日パリで起こった凄惨なテロ事件も、特に日本のマスメディアは当初ほとんど具体的な報道をせず、NHKは相変わらずその日の相撲を報道していた。この感覚の鈍さは異常だと思う。私はその間、自室でずっとCNNを付けるより他になかった。こういった問題では、日本のマスメディアは明らかに国際水準から後れを取っている。毎年12月に感じる「日本の閉塞感」 マスメディアを糾弾しているのではないし、もっと日本国外の動きに敏感になれ、と言っているつもりもない。ただ私達の社会の中で、年末恒例行事として展開される各種の「行事」に対し、もっと懐疑的になっても良いと思う。私達は「流行語大賞発表」や「紅白歌合戦」を自明のこととして受け入れているが、そこに「鈍感さ」を感じる。想像力を失っているのではないか、と思う。こたつの中で紅白歌合戦を観ている最中にも、貧困やいじめで自殺する日本人が居る、という想像力が、「恒例行事」の洗礼の中で鈍感になっているように感じる。 「お前たち(韓国人)がマクドナルドのハンバーガーを食っている時、北の人民は飢えて死んでいる」とは、映画『シュリ』に登場する北朝鮮の特殊工作員が放つセリフだ。世界の悲惨さと冷酷さに敏感になるべきだ、と言うつもりはない。ハロウィンの馬鹿騒ぎを法律で規制しろ、と言うつもりもない。ただ、「なんとなく漠然と毎年年末になると行われる行事」に対して、無批判ではいけないと思う。人を安心させたり、溜飲を下げさせるだけの恒例行事には、もはや何の意味もない。 安心は向上心や危機への反応速度をスポイルさせると思う。「日本の閉塞感」というフレーズが定着して久しいが、真の意味での「日本の閉塞感」を感じるのは毎年12月だ。それとも単に、私の心がひねくれているだけなのだろうか。

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    とにかく明るい安村のネタ中BGM 制作の裏側を作曲者明かす

     ふくよかな体に肌色のパンツ一丁の姿、コミカルな音楽にのって全裸に見える際どいポーズを決め、「安心してください、穿いてますよ」で和ませる、とにかく明るい安村(33才)のネタ。今年の流行語大賞にノミネートされるなど大人気だ。このネタ中に、効果的に使われているのが音楽だ。テンポのいいリズムがネタをより面白くしている。いったいどんな経緯で、この曲が生まれたのか?『とにかく明るい安村全裸に見えるポーズソング』を手掛けた作曲家・藤井りょうはん氏(41才)に直撃した。――安村さんの曲を手掛けた経緯を教えてください。「安心して下さい、穿いてますよ」がトップテン入り。壇上で全裸?を披露するとにかく明るい安村=12月1日午後、東京都千代田区の帝国ホテル(撮影・大橋純人)藤井:ヤス(安村のこと)がコンビのアームストロングを解散してピン芸人になったあと、全裸に見えるポーズのネタを、ぼくに持ってきたんです。テレビでも言っていますけど、まゆゆ(AKB48)の写真集を見て思いついたと。それで「仕事や生活の動作で、パンツ1枚で全裸に見えるポーズをネタにしたいんだけど、それに音をつけてほしい」って。 最初ぼくはピンとこなくて。実際にやってもらって、納得したんです。すぐに2人で、ぼくの家にある作業部屋に行って、その場で一緒に作り上げたんです。コンピューターで打ち込みながら。――仕上がるまでの時間は、どれくらいでしたか?藤井:ひらめくまでは5、6分くらいなんですけど、バランスとか計算して、最終的には3日くらいかかりました。「カモン」からのシンキングタイムのリズムは、コミカルな感じと現代っぽいエレクトロを使いたい。でも耳に残るような感じにしたいなと思ったときに、シンプルが一番だろうねと。それでシンセサイザーの今の音に行きついたんです。――悩んだところはありますか?藤井:最後の決めの「ヘイ!」は、最後は締まる感じがいいよねって。パンツが隠れた時に決めた感じがいいと、最初はシンバルとかの音だったんですけど、なにか締まらないなとなった時に、言葉にしようって。 それでアメリカなどの方々にも分かり易いように狙って、2人で、「ナイス!」「イエス!」「オウ!」とか言って(笑い)。でもしっくりこなかった。でもヤスがライブをすぐやりたいと言っていたので、ベタなんだけど、「ヘイ!」という声を、とりあえず繋ぎとして入れたんです。 そうしたらライブで好評だったらしくて、それで浸透していって、そのままになったんです。本当は仮の音だから、もっとこだわろうと思っていたんですけど(笑い)。――二人三脚で作り上げたんですね。藤井:そうです。だからヤスのネタは、ぼくの大切な曲です。もちろんヤスのアイディアが一番ですけど、ぼくもアシストできたのは光栄です。ただ注文されただけじゃなくて、ばかばかしい、くだらなさも考えながら、アーティスティックな感じで作り上げたんです。 本当はもっと長かったんですけど、短い方がいいんじゃないかとか。番組のディレクターが、「安心してください」が一番、面白くて腹が立つんじゃないかって、作りながら決まりました(笑い)。 その言葉も、初めはスギちゃんみたいに、ワイルド系で言っていたんです。でも、もっと謙虚な感じの言葉にした方がいいって。スギちゃんとか秋山さん(ロバート)にかぶらないようにと考えましたね。芸人さんだと、小島よしおさんは天才的な音楽ですよ。――お笑いのリズムネタも聞くんですか?藤井:聞きます。ぼくは短い尺で完結するものを得意としているので。だから芸人さんのバックサウンドなどは自信があります。清人(バッドボーイズ)のピンライブの音楽とかナレーションとか、よくうちで録るんです。ぼくが自宅でパッケージにするから、スタジオ代もかからなくて(笑い)。――安村さんと仲良しなんですね。そもそもの出会いは?藤井:家族ぐるみの付き合いなんですよ。奥さんと子供だけでもよく来ます。そもそもは、『オロナミンCキモチスイッチCMバトル』で音楽を担当させていただいたときに、アームストロング時代のヤスに出会ったんです。 アームストロングは当時、あまり有名じゃなかったんですけど、ぼくと演出の人間とアームストロングでCMを作って、それで優勝したんです。アームストロングは優勝賞金200万円を受け取って、その賞金の一部をぼくにくれたんです。ヤスと相方の栗(山)ちゃんで15万円ずつ、計30万円くれて。義理堅いですよね。それが2007年で、10年近い関係ですね。――安村さんとのジョイントは、今後もありますか?藤井:実はヤスと、“球児”というバンドをする予定です。あいつは甲子園に出場している高校球児だったので。プロ野球選手を夢見て、今は叶わなくてサラリーマンや家業を継いだ人、学生時代に球児として頑張っていた人たちに対してアピールできるような、青春ソングになる予定です。 ギターとボーカルはヤス、ぼくはギターとプロデュース。4人グループにしようかなと思っていますが、まだ2人しか決まっていないんです。ヤスはずっとバンドをやりたいと言っていて、ギターがうまいんですよ。リズム感もあるし、声も張るし、感情豊かな声を出せるんですよね。面白いバンドができるんじゃないかなって。 あと2人のうち、ベースは心当たりがあるので、ドラムを募集中です。音楽的な技術より、優しくてハートがある人。ぜひ、ぼくのtwitterまでご連絡ください(笑い)。【藤井りょうはん】1974年8月28日生まれ。秋田県出身。作曲家、レコーディングミキサー。ABSC名義で『コレクション』などのシングルをリリース。『リンカーン』(TBS系)発の『どんだけぇ~の歌』(やす子&フジモン&新宿2丁目オールスターズ)の作詞作曲を手掛けるなど、主にバラエティー番組で活躍。乾布摩擦の動きと、安村の全裸ポーズが融合した『とにかく明るい乾布摩擦レッツダンス』を、YouTubeにて12月頃配信予定。関連記事■ とにかく明るい安村 裸芸ウケた背景に体型、オリジナル音楽■ 大沢樹生の親子じゃない訴訟 父子確率0%鑑定でも難しい裁判■ 福島みずほ氏「2016カレンダー」30円也 値段の意味は何か?■ キラキラネーム頭打ちか 古風な「子」や「太郎」に回帰傾向■ 西村賢太氏 ブスはコスプレするな騒動に「どうとも思わん」■ 第1子妊娠中のSHELLY コント番組登場で「胎教にもいい」■ 膨大な量の注釈も収録 33年後のなんとなく、クリスタル■ 木村拓哉 松たか子がひつまぶし平らげる姿に「この感じ久々」■ 千賀健永 Snow Man渡辺と週2会い、服の半分貸し出し中■ 嵐・相葉雅紀「弟の子を見てると家族を持ちたいなって思う」

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    流行語大賞「政治的キーワード多すぎ問題」を読み解く

    集長の清水均氏にインタビューをしたことがある。私自身、この賞を毎年楽しみにしつつ、一方で「所詮、マスメディアの陰謀ではないか?」「そもそも、流行っていたのか、本当に?」「知らないよ、そんな言葉」という印象を抱いたことがよくあったからだ。 1984年にこの賞が始まった時に、自由国民社の若手社員だった清水氏は「何も流行ってないよ!なのに流行語を決めるの?」と、いまいちノリきれない気分だったという。第1回で流行語部門・金賞を「◯金・◯ビ」という言葉が受賞した。確かに世間で話題にはなっていたが、彼はそれを「流行語」だとは思えなかったのだという。昭和40年代には「誰もが流行語だと思える強烈な言葉」が存在したが、そんなものが存在しているようには思えなかったと彼は語った。圧倒的な流行語を思春期に体感してからこそ、相対的に流行語であるとは思えなかったわけだ。まず、この「流行語大賞」は「国民的流行」というものが存在しない時代に始まったという事実を直視しなくてはならない。 はじめは取材にテレビカメラが1台もこなかったし、新聞関係の取材陣も現在の3分の1以下という状態だったという。潮目が変わったのは10年後の1994年くらいからだった。話題の受賞者、言葉があったこともあるが、特にお金をかけたわけでもないのに、盛り上がっていったという。賞の相対的な価値が増していったというわけだ。 そして、この賞自体、昔も今も、あくまで審査員が選ぶ賞なのだ。だから、生活者の実感値とずれることもあるだろう。ただ、単に検索された言葉ランキングと流行語は違うわけだ。そもそも、ここで扱っている言葉が本当に「新語」「流行語」なのかという点についても疑問が残るだろう。それは、この賞の性質によるものなのだ。 なお、この賞に選ばれるには、その年の『現代用語の基礎知識』に載っていることが条件だ。暮れにかけて盛り上がった言葉は選ばれないし、年初に盛り上がった言葉は選ばれづらいなどの傾向はある。 それこそ、これは芥川賞・直木賞やミシュランガイドに似ていると思う。もともと個別の営利企業が話題作りのために始めた賞が、だんだん権威を持ち、神格化されていった過程だ。だから、これらの賞やガイドにも選考結果に疑問を持つことがあることだろう。ただ、もともとの成立過程を抑えると印象は変わるのではないだろうか。 というわけで、一民間企業の賞が影響力を持ってしまったという問題が本質なのではないか。政治が多すぎるという声があったわけだが、たしかに日経MJのヒット番付などを見ても、他に入れるべき言葉はあったかどうかも疑問だ。逆にこれに対する抗議の声も含め、この賞の影響力と、国民の政治への関心が高まっているということのなのではないだろうか。

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    「1億総活躍社会」は今年の流行語大賞に絶対なって欲しくない言葉?

    高橋秀樹(放送作家/日本放送作家協会・常務理事)(メディアゴンより転載) 「1億総活躍社会」というのは官僚が考えそうな、そして、「それいいね」と、安倍首相が言いそうな、実にセンスのないスローガンである。 「プロパガンダは娯楽の顔をしてやってくるもの」であるが、娯楽の顔さえ装っていない生硬な言葉である。毎年この時期、「流行語大賞」のノミネートが話題になり始めると、絶対に大賞を取って欲しくない言葉というのが見つかる。 例えば、1998年おっぱいが売りの笑いのコンビらしき女子コンビ・パイレーツの「だっちゅーの」であった。他の芸人がこれ以上の言葉を生み出せなかったのも情けない。 「これがすごい!」と思われるのも笑いを業とする者が馬鹿にされたようで不愉快だった。でも結局、大賞を取った。大賞を獲るとテレビで繰り返し放送されるからそれがまた腹立たしさを増殖する。 今年はどうか。「五郎丸ポーズ」であろう。にわかラグビーファンが蔓延して、どこの忘年会でもこのポーズをしている上司に拍手をする・・・といったお追従を見せられるかと思うと今年の年末は酒を飲みに行くのやめようかとさえ思う。 では、「1億総活躍社会」はどうか。安倍首相が会場に賞状をもらいに来るという確約があるなら是非大賞をあげて欲しい。安倍首相(右から2人目)と加藤1億総活躍担当相(右)に、一人ひとりが輝き活躍できる社会の実現に向けて申し入れをする公明党の石田政調会長(左から2人目)ら=11月24日午後、首相官邸(斎藤良雄撮影) 「1億総活躍社会」は当初すぐに「一億玉砕」や「一億火の玉」が連想される言葉だとして、糾弾された。テレビを見ていると「一億総白痴」になると言われたりしたし、日本国民の大多数が自分を中流階級だと考える1970年代の「一億総中流」というのもあった。 中流とはお手伝いさんを常時ひとりは雇っておける家庭のことを言うのだという反論もあった。「一億総中流」は、人並みと言うくらいの意味で使われた。 「1億総活躍社会」について、11月10日の朝日新聞「わたしの紙面批評」で湯浅誠氏(2008年・年越し派遣村の村長という説明が一番わかりやすいだろう)が、興味深い論考を書いている。(以下、引用)「(『1億総活躍社会』について)安倍総理は『若者も高齢者も、男性も女性も、困難な問題を抱えている人も、また難病や障害を持った人々もみんなにとってチャンスのある世界をつくっていく』と訓示した。個人をターゲットに『さらにがんばってもらう』とは言っていない。(略)朝日はこの部分を翌日の朝刊で報じなかった。私はそのことに違和感を覚えた。権力監視はジャーナリズムの主要任務だが、それはただクサすこととはちがうだろう」(以上、引用) 湯浅氏の論考は「1億総活躍社会」において安倍首相が言葉通りのことをやっていくかどうかこれからマスコミは注視していくべきである。と言う意味を含むと筆者は理解した。 この「1億総活躍社会」を共生という言葉で実現しようとしている人々もいる。 人種も、性別も、性同一性障害の人々も、障害者も、宗教の違いも、金持ちも、貧困な者も、政治信条の違いもすべて乗り越えて、共に生きていこうとする社会が共生だ。英語ではインクルージョン(Inclusion)という。 筆者は少なくとも「1億総活躍社会」が安倍首相のいう意味と同じなら『共生』と言う言葉の方が好きである。言葉としてのインパクトは全然無いけど、真実には大抵インパクトは求められない。 以下、蛇足としての戯れ言としてお読みいただきたい。「1億総活躍社会」の中の言葉を入れ替えていろいろな言葉をつくってみた。・出演者総活躍番組・精神科医総活躍日本・官僚総活躍省庁・仁義総活躍任侠・AKBだけ総活躍テレビ・派遣社員総活躍大企業・米軍総活躍琉球・薬メーカー総活躍病院・モンサント総活躍TPP・国民の代表総活躍国会 あなたはどれを望みますか。

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    新語・流行語に見る2015年の 日本経済

    、地元に及ぶ経済効果は相対的に大きなものになる。今までは地域としてのまとまりにも欠けていたが、今年はメディアで「北陸」と呼ばれる機会が一気に増えた。北陸経済にとっては、数十年に一度の画期的な年であったことは間違いないだろう。つくづくツーリズムは「地方創生」の切り札的存在なのである。中国の「新常態」に振り回される中国の「新常態」に振り回される 今週16日に発表された7-9月期のGDP速報値は、予想通り▲0.2%(年率▲0.8%)と2期連続のマイナス成長であった。ただし、思ったほど悪い内容ではなかった。足を引っ張ったのは在庫投資の増加であって、その分を差し引けばプラスになる。前期はマイナスだった個人消費も+0.5%と大きめのプラスに転じている。この調子であれば、足元の10-12月期は再びプラスに戻ってくれそうだ。 そうだとすると、「1-3月期はプラス、4-6月期と7-9月期はマイナス、10-12月期になって再びプラス」と昨年と同じパターンを繰り返すことになる。つまり日本経済は、春から夏にかけてマイナスとなり、秋から冬にかけてはプラス成長なのである。 なぜそんなことになってしまうのか。昨年の場合は4月の消費増税後の反動で、夏場に在庫が積み上がり、それを捌くのに苦労することになった。今年は春以降の輸出の伸びが期待外れで、再び夏場に在庫が増えてしまったようである。円安、石油安の追い風があったとはいえ、製造業にとっては受難の年だったようだ。○実質/名目GDPの推移(内閣府) 思い起こせば、双日の社内でも春頃から急に「中国がおかしい」という声が飛び交ったものである。今年の春から夏にかけての「足踏み状態」は、中国経済の「新常態」(New Normal)が主犯であると見て良いのではないか。今の中国経済は、高速道路を時速120キロくらいで飛ばしていたクルマが、一般道に降りて80キロくらいで走行するようになったものである。ある意味、当然のことが起きているわけだが、車内も車外も大幅な減速に伴う異和感に戸惑いを隠せないでいる。 今年、中国が経済と外交の両面から打ち出した戦略が「一帯一路」であり、「AIIB(アジアインフラ投資銀行)」であった。後者については本誌でも何度も取り上げた通り、日米主導の「TPP」とともに今後のアジア外交に一石を投じるものとなった。 しかしこれらの政策は、つまるところ「投資を増やす」ことによって、中国国内の過剰生産力を解消することを目指している。いわばアクセルを踏んで、「時速100キロくらいに戻そう」としているようなものである。それでは、「中国経済を個人消費中心の健全な姿に近づける」という大目標からは遠ざかってしまう。 来年も、中国経済が「景気回復か、構造改革か」のどちらに向かうかによって、周囲が振り回される年となりそうである。日本型組織の病理~「白紙撤回」は可能か?日本型組織の病理~「白紙撤回」は可能か? 前号でも詳述した通り、日本企業は好業績にあっても賃上げや設備投資に向かわない、という「長期悲観」ムードに包まれている。雇用者数は確実に増えて、今年9月時点で5667万人と史上最高水準にある。しかるに雇用増は非正規社員が中心であって、「中高年社員の再雇用」が全体の増加に貢献しているようである。 そんな中で発覚したのが、「傾斜マンション」の問題である。日本企業の強さは本来「現場重視」にあったはずなのだが、建築工事の杭打ちでデータ改ざんが行われていたとあっては情けない話である。近年の日本の組織は過度に「セキュリティ重視」になっていて、そのためのペーパーワークが増え過ぎ、結果として現場を軽視する傾向にあるのではないか。あるいは団塊世代の熟練工が職場を「卒業」するにつれて、企業から貴重な暗黙知が失われつつあるのではないだろうか。 企業不祥事として話題となった東芝の不正会計処理事件では、各部門の業績改善を要請する「チャレンジ」なる言葉が話題になった。これまた純粋に、ホワイトカラー社員が「紙の上」で行った不正行為であったという点に病理があるように思える。もっとも製造業たるもの、VW社のディーゼル車のように「商品の偽装」を手掛けるよりはまだ罪が軽い、という見方もできるだろうが。 日本型組織が自縄自縛に陥って苦しむことは、別段、新しい話ではない。むしろ昔から延々と繰り返されてきたことである。この夏、「戦後70年」を機にリメイクされた映画『日本のいちばん長い日』は、太平洋戦争の最終局面をドラマ化している[4]。終戦の詔勅の一言一句をめぐって、閣僚たちが延々と議論を繰り返して時間を浪費するシーンは、今日の日本の組織を知るものとしてもまったく他人事ではない。「これと同じようなことを、自分もどこかでやったよな」などと感じた次第である。 一度決めたことをなかなか変えられない、あるいは撤退戦や被害の最小化が不得手、というのは日本の組織にありがちな短所である。その点で今年、新国立競技場や東京五輪のエンブレムが「白紙撤回」になったことは鮮烈な印象があった。安倍首相としては、新安保法制を通すための「見切り千両」であったのだろうが、政治的なダメージコントロールとしては成功と言えるだろう。 この手の決断は、ほかの分野でも可能なのかどうか。例えば高速増殖炉「もんじゅ」は、原子力規制委員会から運営主体変更の勧告を受けている。どういう対応をするのか、来年に向けての課題と言えるだろう。W杯の大番狂わせを演出した「Japan Way」W杯の大番狂わせを演出した「Japan Way」 2015年最大のポジティブサプライズは、ラグビーW杯における「ブレイブ・ブロッサムズ」(ジャパン)の快進撃であろう。特にスプリングボクス(南ア代表)から、ラストプレーの劇的な逆転で挙げた勝利は、現地でも「W杯史上もっとも衝撃的な結果」と報じられた。その結果、日本における多くのラグビーファンを覚醒させることとなった。南アフリカに向け羽田空港を出発するエディー・ジョーンズ前HC=11月4日午前 特に五郎丸歩選手が脚光を浴びていて、流行語大賞の候補には「五郎丸ポーズ」や「ルーティン」が入っている。しかし五郎丸氏本人が語っている通り、ここは「Japan Way」を入れるべきだっただろう[5]。エディ・ジョーンズ監督が提唱する「日本人の俊敏性や勤勉性を活かしたラグビー」のことである。と言っても、特段に新しいコンセプトではない。日本サッカーの代表チームが好調なときも、似たような試合ぶりを見せてくれる。 ところがラグビーの場合は、日本代表チームは顔つきからして多国籍なのである。なにしろキャプテンが、ニュージーランド生まれのリーチ・マイケル選手である(現在は日本国籍)。そのことに驚いた人は少なくなかっただろう。 移民や難民の問題をいつも避けているように見えながら、いつの間にかグローバル化しているのが日本社会である。大相撲の上位には日本人力士が居なくなって久しく、甲子園でもハーフの選手が活躍する時代である。 リーチ・マイケル選手に関するトリビアをご紹介しておこう。彼は今年7月から、東京都府中市でニュージーランドスタイルのカフェを経営している。店名は「+64」。この数字は、国際電話におけるニュージーランドの国番号である。きっと高校生で日本に留学して以来、何度も何度も家族に電話をかけたのであろう。 月日は流れ、Michel Leitch君は日本人リーチ・マイケル氏になった。その結果として、ブレイブ・ブロッサムズの勝利がある。まことに「日本式」ではないか。 ということで、本誌は「Japan Way」に2015年の新語・流行語大賞を進呈したい。[1] http://singo.jiyu.co.jp/[2] 昨年の大賞は「ダメよ~ダメダメ」だが、日本エレキテル連合をテレビで見かけなくなって久しい。今思い返しても、「今でしょ!」「お・も・て・な・し」「じぇじぇじぇ」「倍返し」の4作が同時受賞となった2013年は流行語大豊作の年であった。[3] エッセイストの酒井順子氏によれば、今年は「福山ロス」で傷ついた女性たちは、五郎丸選手の登場によって癒されたのだそうである(と、言われても筆者には確かめようがないのであるが…)。[4] あいにくだが、新作ではなくて1967年の白黒作品(岡本喜八監督)の方を見た。今の若い俳優さんたちが、あの時代を演じることは無理があると思う。終戦から22年目に作られたこの映画からは、時代の空気とともに痛切な反省の念が感じられました。[5] 11月19日、「GQメン・オブ・ザ・イヤー2015」の授賞式席上で、五郎丸選手が「違和感がある。ラグビー日本代表が4年間かかげてきた『Japan Way』が入ってほしかった」と語っている。

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    「サンモニ」「NEWS23」 護憲派テレビの何が気持ち悪いのか

    潮匡人(評論家)朝日の虚報は今日も続く 先日『護憲派メディアの何が気持ち悪いのか』(PHP新書)を上梓した。おかげさまで売れ行きは好調。発売早々、異例の大増刷となった。一般読者のあいだで護憲派メディアへの疑問や反発が高まっている証左でもあろう。拙著の主題は平和安全法制。いわゆる安保法案である。院内での乱闘騒ぎの末、9月19日に可決成立。同月末に公布された。今後、半年以内に施行される。 この法案をめぐり昨年来、護憲派マスコミが誤報や世論誘導を続けてきた。たとえば『朝日新聞』は朝刊1面のトップ記事でこう書いた。「自衛隊員は自らや近くの人を守るためにしか武器を使えなかったが、法改正で任務を妨害する勢力の排除や住民の安全確保にも使用が可能になった」(9月24日付) これでは「法改正」(平和安全法制整備)の意味が伝わらない。訂正しておこう。あえて記事を活かせばこうなる。 「自衛官は自己を守るためにしか武器を使えなかったが、法改正で近くの他人を守るためにも使用が可能になった(以下略)」 護憲派が信奉する新聞の1面トップにしてこの始末。9月22日付朝刊記事「安保法 自衛官OBの懸念」でも冒頭こう書いた。 「成立した安全保障関連法により、日本は集団的自衛権の行使が可能となるほか、海外に自衛隊を派遣して常時、他国軍を後方支援できるようになる。自衛官OBの中には、米国の戦争に巻き込まれる懸念や、リスクの増加を指摘する声がある」 法改正により「行使が可能となる」集団的自衛権は「存立危機事態」に限られる。きわめて限定的である。記事がそう明記しない理由は何か。同様に次の「常時」も針小棒大。最後に至っては論外。もし「自衛官OBの中に」そうした「懸念」や「声がある」としても、そうでない声も多数ある。実際にOBや現場の声を拾いながら「リスクの増加を指摘する」なら、記事の「集団的自衛権の行使」や「後方支援」ではなく、国連PKO(における安全確保業務)を例示すべきである。どう考えても、後者のほうがリスクは高い。事実ほぼ毎年、3桁の犠牲者を出している。 だが『朝日新聞』の「報道」は違う。法案の可決成立を受けた9月20日付朝刊1面のトップ記事でもこう書いた。「歴代政権が認めてこなかった集団的自衛権の行使を憲法解釈の変更によって容認したことに加え、自衛隊が他国軍を後方支援する際、自衛隊の活動地域をこれまでより拡大させることで、自衛隊のリスクが一層高まるとの指摘もある」 本気でこう勘違いしているなら、ジャーナリズムとして恥ずかしい。そうでなく意図的なら、じつに罪深い。国連PKOへの自衛隊派遣は、いまや国民世論の大半が理解し、賛成している。他方、集団的自衛権行使への理解は少ない。だからPKOを避け、集団的自衛権を指弾した。そういう意図であろう。ならば、本心から「自衛隊のリスク」を心配しているわけではない。 近い将来、自衛官は避け難いリスクに直面すると思う。先般「自衛官OB」として出演した番組でもそう明言した。ただし、私がOBとして(加えていえば、いまも防衛大学校生の父親として)「懸念」するリスクは「憲法解釈の変更」とは関係ない。本来ならいうまでもないが、集団的自衛権より個別的自衛権行使のほうが桁違いにリスクは高い。 護憲派が何でもかんでも「集団的自衛権」のせいにしたり、「戦争法案」とレッテルを貼ったり、「徴兵制の不安」を煽ったりしたせいで、実際の問題点が見えなくなってしまった。現場が抱くリアルな懸念や、実務上のリスクが伝わらなかった。いまなお現場の思いは国民に届いていない。暴走するテレビの演出暴走するテレビの演出 大学入試問題の出題率NO.1を誇る『朝日新聞』の「報道」にして連日この始末。テレビ報道はさらに酷い。とくにTBSが目立った。最近の報道に限り検証しよう。 9月13日放送の「サンデーモーニング」は、姜尚中(東京大学名誉教授)が「近代の歴史にも暴君征伐論があった。君主が酷いことをやったら、ひっくり返していい」と総理を「暴君」に例え「征伐」を奨励した。何の釈明もなく同席していた青木理(ジャーナリスト)が「立憲主義を無視する政権をこのまま存続させるべきなのか。その判断を僕らの側がする」と追従した。 さらに岸井成格コメンテーターが「集団的自衛権という言葉が悪い。一緒になって自衛することだと思っている(国民がいる)が、違うんですね。他国(防衛)なんです。撤回か廃案にするべき」と暴論を振りまいた。念のため付言すれば「集団的自衛権」は国連憲章にも(英語等の公用語で)書かれた世界共通の言葉であり、岸井のコメントは外国語に翻訳不可能である。国際法や世界の常識に反している。「悪い」のは「集団的自衛権という言葉」ではなく、彼の知力であろう。善悪を判断する知性を欠いている。 9月16の「ニュース23」も、藤原帰一(東京大学教授)が「瑕疵がある」と政府与党を批判。ここでも岸井コメンテーターが「審議不十分」と批判した。さらに石川健治(東京大学教授)が「法学的にはクーデター」と断じ「専制主義、非立憲」と断罪。岸井が「日本の民主主義は暗い」と総括した。すべて彼らの主義主張にすぎない。「暗い」のは日本の民主主義ではなく、彼らのコメントであろう。 法案の可決成立を受けた9月19日放送の「報道特集」では金平茂紀キャスター(TBS執行役員)が「過半数の国民が反対するなか、戦後70年『専守防衛』を貫いてきた安全保障政策が大転換しました。立憲主義と国のあり方はどう変わっていくのか。徹底検証しました」と導入した。正しくは政府が説明するとおり、今後も「専守防衛」が続く。べつに「大転換」でも何でもないが、彼らには馬耳東風。 番組は「自衛隊員家族 募る不安」と題し専用ホットラインへの「相談件数は2日間で35件に上った」と紹介した。「現役自衛隊員の両親」が「本当に引き戻したい。ほとんどの親はそうですね」とも語ったが、実態を反映していない。「ほとんどの親」は「引き戻したい」とまでは思っていない。もしTBSが報じたとおりなら、相談件数が2日間で35件に留まるはずがない。現役だけで24万人、両親はその倍もいるのだから。 自衛官と家族が感じているのは、こうした「報道」への反発である。国民の理解や支持なく派遣されることへの不安であり、乱闘騒ぎを起こした政治への不信である。それなのに、番組では山崎拓(元自民党副総裁)が「禍根を残した」が「政権交代すれば修復可能。解釈が戻る」とコメントした。こんな人物が自民党政権下の防衛庁長官だったのだ。正直、皆ウンザリしている。現場には平和安全法制への不満もあるが、誰も「政権交代」は望んでいない。民主党政権を懐かしむ隊員など一人もいまい。 翌20日放送の「サンデーモーニング」も凄かった。まずテロップで「安保法成立 海外で武力行使可能に」。だが、その可能性はまずない。なぜなら「例外なく事前の国会承認」となるからだ。そう与野党で合意され、閣議決定された経緯を無視した断定である(『夕刊フジ』10月第2週連載拙稿参照)。 まず司会者(関口宏)が「平和主義を空洞化させる動き」と導入。寺島実郎(多摩大学学長)が「国民の支持も理解もない法案」、田中優子(法政大学総長)が「長いあいだ議論したというが議論していない」と断じた。いずれも独断ないし偏見である。有名大学の学長や総長が何といおうが、事実は違う。第1次安倍政権以来議論してきたのだ。昨年7月1日の閣議決定以降だけでも1年以上かけた。これでも、まだ足りないのか。「自衛官のリスク」という口実「自衛官のリスク」という口実 さらに半田滋(『東京新聞』論説兼編集委員)が「憲法の制約が取り払われて、ほぼオールマイティで何でもできる。それは抑止力になるかもしれませんが、普通の国としてそのようなことをやるのは、憲法の要請するところなのか。立憲主義国家としていかがなのかと感じざるをえない」と批判した。「ほぼオールマイティで何でもできる」というが、自衛権行使要件は世界一厳しい。「普通の国として」というが、新法制下も日本は「普通の国」になっていない。ザックリいって半分以下である(論拠は月刊『正論』12月号拙稿)。 続けて2004年の「派遣された陸上自衛隊の内部映像」が流れ、元小隊長が「もう一歩踏み込んだ審議をやってもらわないと、派遣された自衛官はほとんど負傷するか戦死するか、どちらかだと思う」と語った。なぜ審議をしたら「戦死」がなくなるのか。意味不明である。ここでも半田が「南スーダンの自衛隊が武器をもって日本人NGOを救出できることになる。安保法案では合法だが、刑法の殺人罪や傷害致死罪で裁かれる可能性がゼロではない」と語った。本気でそう心配するなら、刑法や憲法の改正を主張すべきであろう。自衛隊を軍隊とし、軍法会議を設置すべきと訴えてはどうか。安保法案を批判するのは本末転倒の倒錯である。 さらに細川護熙(元首相)、小林よしのり(漫画家)、小林節(慶應義塾大学名誉教授)、「ママの会」、「シールズ」、佐高信(評論家)ら護憲派が次々登場。最後に岸井がこう締めた。「これが後悔になっちゃいけないなと思うことは、メディアが法制の本質や危険性をちゃんと国民に伝えているのかなと。いまだに政府与党のいうとおり日本のためだと思い込んでいる人たちがまだまだいるんですよ。この法制ってそうじゃないんですよ。他国のためなんです。紛争を解決するためなんです。それだけ自衛隊のリスクが高まっていく(以下略)」 岸井にいわせると、これでもまだ批判報道が足りないらしい。右は法案が「存立危機事態」の要件を明記した経緯を無視した独善である。外国語に翻訳不能な暴論である。もし彼が本気で「自衛隊のリスク」を心配するなら、前述のとおり別のコメントになるはずだ。たとえば国連PKO活動拡大の「本質や危険性をちゃんと国民に伝えて」ほしい。それが直接的には日本自身のためでなく「他国のため」「紛争を解決するため」であり「それだけ自衛隊のリスクが高まっていく」と視聴者に訴えてはどうか。だが護憲派は決してそうはしない。国民がPKOの自衛隊派遣を評価しているからである。受けない論点を避け、「集団的自衛権」や「後方支援」だけを咎める。自らは安全な場所にいながら、「危険(リスク)を顧みず」と誓約した「自衛官のリスク」を安倍批判で用いる。じつに卑怯な論法ではないか。 10月11日の「サンデーモーニング」も司会者が「しっかり議論されないまま法案が通っちゃったという感じですよね」と導入。田中秀征(福山大学客員教授)が「軍事力で貢献しなくてもノーベル賞でこれだけ貢献しているじゃないですか」「あれ(法制)は、はっきり撤回しないといけない。このまま実施なんか、できないですよ」。目加田説子(中央大教授)が「(オバマ大統領が「誤爆」と謝罪したのに)誤爆ではなく無差別攻撃。戦争犯罪に近い」と決めつけ米軍を誹謗し「秀征さんがおっしゃったように、そこに今後、日本が加担していく」「この法案は通ってしまったわけですけど、使ってはいけない。変えていかなければいけないと強く思います」。 日米の制服組(軍人)を犯罪者のごとく評する感覚は正常ではない。法案が与野党による賛成多数で可決された経緯も黙殺する。いったい何様のつもりなのか。 萱野稔人(津田塾大学教授)に続き、金子勝(慶應義塾大学教授)が「いまのご意見と同じ」「平和憲法を使って、したたかに外交を展開しないと日本の国益は守れない」と政権を批判。岸井が「平和国家のイメージが損なわれるだけじゃなくて日本自身が紛争当事国になる」「テロのターゲットになるリスクも抱え込む」と不安を煽って番組は終了した。「TBSは公平・公正」なのか「TBSは公平・公正」なのか 百歩譲って、そのリスクがあるとしよう。ならば聞く。リスクは欧米諸国に負担させ、自らは決して背負わない。そんな卑怯な「平和憲法」とやらに価値があるのか。「したたかな外交」とやらで守れる「国益」など、高が知れている。要するにカネで買えるものであろう。そこに死活的な意味はない。護憲派の説く「平和主義」は美しくない。不潔である。腐臭が漂う。 10月17日放送の「報道特集」は米軍普天間飛行場の辺野古移設を批判的に取り上げ、成蹊大学の教授に「安保法案に続いて、また非常に強引に政府が民意を無視するような形で政策を進めることになる。アメリカを含めた民主主義の先進国から見て『日本は本当に民主国家なのか』という疑問を投げつけられる」(武田真一郎)と真顔でコメントさせた。バカらしいので反論は略す。 後半の特集では、佐世保を「旧海軍の街の特異性」が残り「奇異に映る」街として沖縄と対照させた。翌18日放送の「時事放談」でも浜矩子(同志社大学教授)が安倍政権の「法廷闘争」を「ゴリ押しでいこうという発想自体そもそも政策運営をする資格はない」と毒づいた。同日の「サンデーモーニング」でも前夜の「報道特集」と同じ米総領事への「単独インタビュー」を使いながら日米両政府を批判。姜尚中が「沖縄は呻き声を上げている」。田中優子が「人権問題」。涌井雅之が「興味深く総領事の発言を聞いた」と皮肉を語り、岸井が「民意を無視して強行するのは、ありえない無理筋」と批判した。ならば、普天間問題をどう解決するのか。 以上すべてTBSの看板番組である(他は前掲拙著に譲る)。9月30日、武田信二社長が「『一方に偏っていた』という指摘があることも知っているが、公平・公正に報道していると思っている」と会見した。社長は自局の番組を見ているのだろうか。以上を「公平・公正」とするのは「民意」を無視した「ゴリ押し」であろう。放送事業に当たる資格がない。平和憲法を守れと訴える前に、テレビは「政治的に公平」「事実を曲げない」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」を求めた放送法を順守してほしい。 この秋、北朝鮮は弾道ミサイルを発射するであろう。核開発も止まらない。10月3日には、中国が新型弾道ミサイルを軍事パレードで披露。いわゆる「A2/AD(接近阻止・領域拒否)」能力と「対米核抑止力」を誇示した。だが、護憲派の視界は海外まで及ばない。北朝鮮でも中国でもなく、安倍政権を非難する。総理を「バカ」呼ばわりし、「早く病院に行って辞めたほうがいい」とわめく。学生を教え諭すべき教授(山口二郎・法政大)が「おまえ(首相)は人間じゃない、たたき斬ってやる」と叫ぶ。学生が「安倍を暗殺するしかない」とネット投稿する。「良識の府」が聞いて呆れる「良識の府」が聞いて呆れる 護憲派は学生らを持ち上げたが、いずれも侮辱罪(拘留又は科料)や脅迫罪(3年以下の懲役)に当たる違法な暴言である。 発言内容以前に法律上「何人も、国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域において、当該地域の静穏を害するような方法で拡声機を使用してはならない」(法第5条)。民間人に例外として許されるのは選挙運動や災害時の使用だけ(同前)。警察官は「当該違反を是正するために必要な措置をとるべきことを命ずることができる」(第6条)。「警察官の命令に違反した者は、6月以下の懲役又は20万円以下の罰金」が科せられる(第7条)。決して軽い罪ではない。 憲法を守れと叫ぶ前に、法律を遵守してほしい。私も被害者だ。ネット上の「ゴー宣道場」(小林よしのり代表師範)が「潮匡人って男は、見かけはサルだが中身はサル以下!!」と書いた。名誉毀損罪(3年以下の懲役)ないし侮辱罪が成立する。安倍政権や「保守」への批判なら、誰が何をしても許されるのか。 野党議員も例外でない。「平和主義」を語る前に、平和的に審議してほしい。ドサクサに紛れて自民党の大沼みずほ議員を引きずり倒し、投げ飛ばすなど論外。傷害罪(15年以下の懲役)ないし暴行罪(2年以下の懲役)が成立する。その罪は重い。動画で確認できた範囲で、自民党の吉川ゆうみ参議院議員以外、誰も助けようとも、制止しようともしなかった。本人の謝罪もなく両党幹部が“手打ち”。「良識の府」が聞いて呆れる。 民主主義を殺したのは安倍政権ではない。暴力や卑劣な実力(セクハラ作戦)を行使した野党である。安倍批判を合唱したマスコミである。 護憲派メディアの罪は重い。法案や与野党合意を報じるべき時間を割き、学生団体シールズらの絶叫を繰り返し放送した。女子高生の絶叫も垂れ流した。そもそも選挙権すらもたない高校生や10代の大学生らの無内容な連呼に報道価値があったのか。シールズの発起人はマスコミの寵児となったが、彼らに被選挙権はない。国会議員となる法的資格を欠く若造を国会に参考人として呼ぶ政党がある。テレビ番組に出演させる放送局がある。なんとも不思議な感覚ではないか。 もし、護憲派に知性や良識があれば、こうはならなかった。拙著も企画されなかった。もっと理性的な議論が交わされ、法案は継続審議や大幅修正を迫られたはずだ。悲しいかな、彼らはまだ気付いていない。自分たちの間違いに。愚かで幼稚な過ちを犯したことに。なんとも救い難い。 はたして、護憲派の辞書に「悔悟」や「懺悔」の文字はあるのだろうか。(文中敬称略)うしお・まさと 1960年生まれ。早稲田大学法学部卒。旧防衛庁・航空自衛隊に入隊。第304飛行隊、大学院研修(早大院法学研究科博士前期課程修了)、航空総隊司令部、長官官房勤務等を経て3等空佐で退官。聖学院大学政治経済学部専任講師、防衛庁広報誌編集長、帝京大学人間文化学科准教授等を歴任。拓殖大学(日本文化研究所)客員教授。公益財団法人「国家基本問題研究所」客員研究員。NPO法人「岡崎研究所」特別研究員。「民間憲法臨調」代表委員。東海大学海洋学部非常勤講師(海洋安全保障論)。『日本人が知らない安全保障学』(中公新書ラクレ)、『ウソが栄えりゃ、国が亡びる』(ベストセラーズ)など著書多数。最新刊は『護憲派メディアの何が気持ち悪いのか』(PHP新書)。関連記事■ 「反米論」は百害あって一利なし■ 急がれる「安保関連法案」の成立~憲法学者の変節と無責任を問う■ 元統合幕僚長・折木良一が語る いま行われるべき安全保障論議とは■ 中国は本気で「核戦争」を考えている■ 激しく変化する東アジアの安全保障情勢を読み解くには

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    テレビは放送法を守れ!

    放送法第4条には、「政治的に公平」「事実を曲げない」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」とある。しかし、最近の報道番組は、コメンテーターの意見を押し付け、「公平・公正」とはほど遠い内容だ。関係者に、猛省を促したい。

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    商売人に過ぎない護憲派メディアは必ず消滅する

    渡辺龍太(フリーニュースディレクター) 今年の9月に成立した安全保障関連法に関する報道で、護憲派メディアは真骨頂を発揮し、やれ『戦争法案だ!』とか、はたまた『徴兵制になる!』と大騒ぎしていました。そういった、政治に関して無知な読者・視聴者を、過剰に感情的にあおる様な報道に対し、強い疑問を持った人も多くいた事でしょう。中には、日本中の護憲派メディアは連携し、安保関連法を潰そうという意思を持っていた様にすら感じた人もいるかもしれません。しかし、本当はそうではなく、マスコミは政治の事には関心がなく、商売繁盛を願っているだけなのです。 さて、新聞やテレビというと、権力を監視するための正義の味方というイメージを持っている人が多いかもしれません。確かに、私もニュース番組制作の仕事をする以前は、メディアの存在の第一目的は、『多くの人々が知るべき事の真実を伝える』という事だと思っていました。しかし、実際に現場で働き始めて、そうではない事に気付きました。結局は、メディアも商売なんです。だから、一番大事なのは、『売上拡大』なのです。シンプルに言えば、メディアというのは、1人でも多くの顧客(視聴者・読者)が関心を持つ記事や番組を作り、それで売上を1円でも多くあげるという事をひたすら熱心に行っているだけの集団なのです。では、なぜ安保関連法を『戦争法案だ!』と大騒ぎする事が、メディアの商売繁盛につながるのでしょうか。その理由は安保関連法が多くの人にとって理解するには複雑すぎる内容で、かつ、読者・視聴者を感情的にあおる演出を加えやすく、簡単に多くの人に関心を持ってもらえる記事や番組を作りやすいトピックだからです。 実は、人は自分の良く知らない事に対して、積極的に理解しようという意欲を持っていません。そして、そういう自分の理解できない事を、感情的にだけ理解させてくれるコンテンツに、非常に強い興味を持つ性質があります。例えば、肩こりの湿布のテレビCMで『インドメタシン配合』と言われて、どれだけの人がネットでインドメタシンについて調べるでしょうか。おそらく、ほとんどの人は良くわからないまま、きっと肩こりに効く成分なんだろうと受け入れると思います。そして、CMに登場する今まで肩こりで暗い顔をしていた人が、肩に湿布を貼って『インドメタシンだから効果抜群!』と急にニコニコと元気になってしまうのを見たらどうでしょう。きっと、薬品や化学に対する知識がない人ほど、『インドメタシンっていう、肩こりに効くすごい成分があるらしい!』とワクワクして熱狂的に湿布の購買意欲がそそられるはずです。感情だけに訴えるニュースの演出方法は安上がり 護憲派メディアの安保関連法の報道も、この湿布のCMと全く同じ仕組みです。安保関連法について、抑止力とは何かというところから細かく解説しても、興味を持ってくれる人はわずかです。しかし、安保関連法案というのをインドメタシンの様な謎の言葉のままにしておきながら、『戦争につながる危険なものなんだ!』と感情的に強烈に訴えるとどうでしょう。それには、政治や外交に関する知識のない人であればある程、非常に強く安保関連法に関するニュースに食いついてしまうのです。また、この細かい事を伝えずに、感情だけに訴えるというニュースの演出方法は、とにかく安上がりなんです。やはり、安保関連法案の様な複雑な事を、分かりやすく解説しようとしたら、色々な事を調べるために時間とエネルギーがかなり必要で人件費がかさみます。でも、『安保法案は戦争につながる!』と感情的に騒ぐだけなら、圧倒的に簡単に手間いらずなのは想像に難くないはずです。お金をかけて、キチっとした報道をすればするほど儲からないとあれば、手を抜いて感情的な演出して儲けようと考えるのは、商売の鉄則から考ると自然な流れと言えるでしょう。 だからといって、金儲け主義の報道は良くないとメディアを責めたり、何らかの規制を作ろうとしても、護憲派メディアに象徴されるイイカゲンな報道がなくなる事は無いでしょう。あくまで、護憲派メディアも、世の中に需要があるから安保関連法案に異常に反対する報道を行ったにすぎません。言い換えれば、現在の多くの日本人の政治や外交に関する知識が、感情的な護憲派メディアの報道にしか食いつかないようなレベルでしかないという事なのです。しかし、人間は詳しくなるという方向にしか進みません。なので、時が経てば日本人の政治や外交に関する知識は上がり、護憲派メディアも自然消滅するはずです。 それが分かる例として、左翼メディアの権化といっても良い朝日新聞の1959年の天声人語があります。そこには『池のコイや金魚に残飯ばかりやっていると、ブヨブヨの生き腐れみたいになる。パンクズを与えていれば元気だ。米の偏食が悪いことの見本である。』とありました。現在の我々が読むと、ビックリする位に低レベルでインチキで、米を主食とする日本人の危機感をあおるだけの内容が書かれています。一方で、現在の朝日新聞は、ここまでヒドイ文章は決して書きません。では、この記事が書かれた約55年前と現在の間に、いったい何があったのでしょうか。朝日新聞自体には、特に何も変化はなかったはずです。ですが、日本人の栄養に関する知識が上がり、こんないい加減な記事に誰も興味を持たない世の中となったのです。これと同じように、長い歳月が必要かもしれませんが、多くの日本人が政治や外交についてより理解すれば、単なる商売人にすぎない護憲派メディアは需要が無くなって消滅するはずです。わたなべ・りゅうた 1984年大阪生まれ。高校を卒業後に渡米。映像制作や台本構成などを学ぶ。その後、帰国しNHKや民放で、海外向けの英語放送から国内向け 放送 まで、様々なニュース番組の制作に関わる。現在はそれらに加え、ネットニュース、書籍、有名タレントのメルマガやブログの企画プロデュースなどを 行い、商業メディアのマーケティングや売り上げと日々格闘している。また、ブログが各種サイトに転載され、ブログランキングで上位に入っている。

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    「1億総活躍社会」支持率38%は低い? ミスリードするメディアの罠

    藤本貴之(東洋大学総合情報学部准教授、メディア学者) 筆者が大学で担当する「メディアはデータをどのように伝えるのか?」をテーマにした授業がある。そこで「データは見せ方/見え方」でその印象が大きく異なる、といった「当然」の話をすると、意外にも驚く大学生が多い。  ネットメディアの台頭により、接触する情報源やメディアが多様化する中で、テレビや新聞などのいわゆる「既存メディア」「主要メディア」の影響力が低下している。 その一方で、メディアへの不信感や疑義を持つ層が増えているとはいえ、まだまだメディアを介して伝えられるデータに一定の客観性や信頼性を感じている層が少なくないことを実感する。  特に現在の大学生世代の若者層は、既存メディアへの不信感を強く持っているアラフォー以降世代(高校・大学時代に急激にネットメディアが拡大して世代)とは対照的に、意外にも情報を鵜呑みにしやすいのではないか、感じる瞬間は少なくない。もちろん、若さや経験不足なども加味した上でも、だ。  その背景にあるのは、現在の大学生世代がアラフォー以降世代よりも、コンピュータやインターネットとの「距離が遠い」という部分にあるように感じている。意外に思うかもしれないが、現在の10代、20代のコンピュータのリテラシー能力は予想以上に低い。  大学に入学してきた新入生たちと面談などをしていると、「自分の専用のパソコンを保有していない」と答える学生は意外と多い。むしろ「学校の授業ではやっている」、「家族で共有のパソコンが一台あって、親が使っていない時に利用できる」など、生活の中で接触する機会は必ず設けられているが、個人的にコントロールできているかと問われればそうではない、という印象だ。  もちろん、スマートフォンを中心としたネットに接続されたIT機器が生活の中に自然の浸透していったことで、「ネット利用を意識させることなく、ネット利用ができる生活環境」が構築されている、という現実はある。 かつてはパソコンでしかできなかったほとんどのことが、小なスマホ一つで全て事足りてしまう。しかも、現在の大学生世代は「初めても保有する携帯電話がスマホ」となる世代だ。パソコン保有を飛ばして、いきなり「モバイルコンピュータ(スマホ)の保有」になっているのだ。これでコンピュータのリテラシー能力が高まるはずはない。若者層の情報を検索し、検証する能力は社会の情報環境の変化とは裏腹に、驚くべきほど低い。 そういう現状に日々、直面しつつ感じることは、ジャーナリズムのあるべき姿の重要性だ。局部的であったり、偏った情報・データの提供や、ミスリードを誘導するような恣意的な表現などを見ると、現在の若者たちの生態を利用して「何かブーム」「社会の動き」を創作しているのではないか? と感じることもある。 未成熟な若者とその現在的な生態を利用した情報戦略には、いささか「情けなさ」を感じる。「メディアの矜持(きょうじ)」はいづこへ、だろうか。ミスリードの実例 もちろん、露骨な偏向報道やわかりやすいミスリードなら、むしろ話としては簡単だ。しかし、日本語という言語は、接続詞の使い方一つで、その印象を大きく変えてしまうことが問題をわかりづらくしている。  例えば、昨年財務省が求めて不採用になった公立小学校1年生での「35人学級」の見直し問題を事例にして大学生に考えてもらったことがある。 「財務省は、1学級40人体制に戻すことで教職員数が約4000人減り、人件費の国負担分を年間約86億円も削減できると試算」という報道と、 「財務省は、1学級40人体制に戻しても教職員数は約4000人しか減らず、人件費も年間約86億円しか削減ができないと試算」とではどう感じるか? 文字数は全く同じだ。もちろん使っている言葉もほぼ同一だ。違うのはわずかな言い回しだけだろう。 さらに付け加えれば、 「日本の小学校教諭の数は約42万人、2014年度の文部科学省文教予算は4兆964億円」 というひとつの客観情報を提供するだけで、その印象は更に変化する。前提となる情報の有無によってもその印象は更に異なる。 もう一つの例で考えてみる。 時事通信が11月実施した世論調査によれば(全国成年男女2000人・個別面接方式)、安倍内閣が重要政策とする「1億総活躍社会」の支持率は、「支持する・38.0%」、「支持しない・37.5%」であるという。 これを「賛否がほぼ拮抗」と伝えた。 さて、ここで不思議な感覚を覚える人は多いかもしれない。 「1億総活躍社会」というキーワードが発表された当初、メディアでは「理解できない」「曖昧」「意味不明」「全体主義的」「戦時中の玉砕をイメージ」などの批判が続出した。 ことさらに「具体的な策を持たない安倍政権が適当なキーワードでごまかしている。意味不明な総理大臣だ」という印象が持つた人は少なくないはずだ。実際、そのように報道されることも多いのだから、当然といえば当然だ。 しかし、結果として「拮抗」とはいえ、支持(38.0%)が不支持(37.5%)を超えている。これがデータから読み取れる客観的な事実だ。あの騒ぎは一体何だったのか。 表現という点からも見ても、「支持(38.0%)、不支持(37.5%)」を「拮抗」と表現するか、それとも「およそ4割の国民が支持」と表現するか、あるいは「支持率、4割に満たず」と表現するかによって印象を大きく変えることができる。 一般的には、政策の一つの支持率「およそ4割」という数値は決して批判されるほど低さではないように思う。もちろん、残り6割が全て不支持であればまた判断も異なるがそうではない。逆に言えば「4割近くが不支持」という表現もできる。 しかしながら、あそこまで大きな話題(?)となり、当初はかなりネガティブに揶揄されていたはずの「1億総活躍社会」の支持が4割という事実を考えると、発表当初のメディアの批判的な論調とその盛り上がりには違和感を持ってしまう。 逆に、かなり多くの反対があったはずの安保法制。こちらは安倍政権への不信任として国民的な政権批判・不信をも生み出し、安倍内閣否定が始まった・・・かに見えたが、まったくそんなことにはならなかった。 一時は不支持が支持を上回ったものの、現在の状態を見れば、安倍政権の支持・不支持の逆転も解消し、支持率も回復基調だと見られている。 安保法制を「戦争法案」と命名して騒いでいたあの盛り上がりを考えれば、安倍内閣は、「消費税並み」として史上最低の支持率だった2001年の森喜朗内閣ぐらいになってもおかしくなかったはずが、そうはなっていない。 これが意味していることは極めて単純だ。メディアによって報道されている「内容」が、現在進行形の「事実」や「世論」を、必ずしも正確に表現しているわけではない、ということだ。 メディアはその機能特性上、「ひとつの事実」あるいは「ひとつのトピック」を抽出し、拡大してゆくことで、マスとしての表現力と影響力を高める。そのため、話題になる(視聴率が取れそう、部数が伸びそう)「ひとつの事実」だけに大きな注目を集め、そこから全体が論じざるを得ない。しかし、視聴者や読者としては、大きく扱われる「ひとつの事実」が全てに写ってしまう。 ただ、ここでの問題は、抽出され、拡大された「ひとつの事実」が必ずしも「全体の事実」ではない、ということだ。 「キャベツが異常に値上がりした」ことで、キャベツ産業界隈で大きな問題が発生してからといって、それがすなわち日本全体の「生鮮市場が崩壊」になったり、「生活費の圧迫」や「食生活の危機」になるわけではないからだ。 これは「偏向報道」か否か、「悪意ある誘導」か否か、という問題ではなく、メディアが持つやむを得ぬ特性である。全ての情報を量質ともにフラットに並べることなどはできないからだ。 しかし、何を選択し、どれを拡大し、どう表現するか、はそのメディアの社風なり、経営戦略などから決定される。そこから、今自分たちが大きく表現すべき「ひとつの事実」を選択するのである。 発信されるメディアによって、それぞれその表現は微妙に(あるいは大きく)異なるが、多くの大学生(に限らず一般消費者)が、複数のメディア、複数の情報源からニュースを入手し、「確からしさ」の検証や「裏取り」をしているような人はほとんどいないだろう。 そうなると、自分が日常的に接しているメディアかの情報が圧倒的多数を占めるだろうし、その情報を(多少の疑いを持つにせよ)信じてしまう場合が圧倒的多数だ。 本来、メディアに期待される役割は「誘導」ではなく、「開示」だ。一般庶民では探知や収集の難しい様々な情報を、生活者に変わって収集し、分かりやすく提示(時に解説)をしてくれる機能・メカニズムがメディアであるはずだ。多くの視聴者がそのように理解するからこそ、「テレビ(or新聞)で紹介(or報道)されているのだから、間違いではないだろう」という認識にもなってきた。 近年、メディアやジャーナリズムのあり方が問われることが多い。最近では、「護憲派メディア」などという言葉も生まれ、その偏りを指摘されたり揶揄されることは多い。 しかし、その要因にあるのは、メディアの思想性というよりは、矜持(プライド)を失っていた戦略を選択しつつあるメディアへの不信感であるように思う。

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    リベラル論客 TVで干されたのではなくこれまでの偏重が異常

    数」だった一般国民が、インターネット、とりわけSNSの普及によって自らの意見を表明する手段を獲得し、メディアを批判するようになった。メディアが一番恐れているのはそうした一般国民の声であり、それと対峙する勇気はない。だから、メディアに「お願い」する政権を批判しているにすぎない。関連記事■ 自民政権が50年間達成できず民主政権が2年で達成できたこと■ オウム事件 1週間に40~50時間も各局から報道されていた■ 『報道ステーション』来春打ち切り説広がる 古舘降板発言も■ 皇太子ご成婚で白黒TV1000万台売り受信契約者200万人突破■ 三菱銀行人質事件 犯人射殺までの42時間視聴率42.3%

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    本当のタブーは政党批判より支持 前田武彦や高橋ジョージら

     テレビでの失言が世間で問題になるのはよくあること。そのなかには、世間的常識ではなく、あくまでテレビ独特のルールに反したということで、失言扱いされたものも少なくない。たとえば、政党批判はテレビの「タブー」だと言われている。政党批判がタブー扱いされるのは、放送法で「不偏不党」が定められており、政党からそれをもとに攻撃される危険性があるからだ。前田武彦氏 2000年6月の衆議院選挙特番『選挙ステーション2000』(テレビ朝日系)で司会の久米宏が、森喜朗首相(当時)の「無党派層は寝ていて欲しい」を受けて「投票に行かないと自民党が勝っちゃいますよ」と発言したことが、放送法違反ではないかと問題視された。この発言は次回2003年11月の衆院選で自民党幹部が同番組への出演拒否する事態にまでつながった。 とはいえ、このことで久米がテレビから消されたかといえば、そんなことはない。実は、テレビの世界で本当に問題視されるのは、このように政党を批判するよりも、むしろ褒めることなのだ。放送法の「不偏不党」は、特定の政党支持を表明した時のほうが問題視されやすいというのが、テレビ村の「掟」である。 タレント・司会者の「マエタケ」こと前田武彦は、1973年6月の参院選の補選で応援演説した共産党の候補者が当選した暁には、自身が司会する『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)で「バンザイ」すると公約し、当選後に決行。それが特定の政党を支持しているとしてフジサンケイグループ内で問題となり、前田は同年9月に番組を「勇退」する事態に追い込まれ、その後他局も含めて出演番組の大半を降板することになった。 同様に、タレント・歌手の高橋ジョージは2010年3月、ニュースバラエティ番組『サンデージャポン』(TBS系)の生放送中に、「俺は公明党支持」と発言。翌週で「卒業」することになった。 本当のタブーは、政党批判よりも政党支持なのである。関連記事■ 「NHK次期会長本命は東芝相談役だった」とジャーナリスト■ 国政政党14になりNHKが悲鳴 「夜は政見放送ばかりになる」■ 視聴率最高記録は『第14回NHK紅白歌合戦』の81.4%■ 「紅白ストリップ合戦」など画期的企画送り出した『11PM』■ 24時間テレビ 計33回の放送で合計募金総額は291億円超

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    エフセキュア問題は我が国の課題の縮図だ

    体に懐疑的になっています。2 左派(共産党や社民党などの主張に共産する人達)のレッテル貼りはメジャーメディアで報道されるが、右派がレッテル貼りは無視される はすみとしこ氏に限らず在日コリアンに批判的な人達に「レイシスト」のレッテルを貼ったのは左派も市民団体でした。私は特定の人達に対するステレオタイプの非難=レイシズムには一切与しません。しかし、今レイシストの烙印を押される人達が活動する前から今に至るまで、韓国本国はもちろん在日コリアンによる日本人全体への民族差別発言が繰り返されています。また、左派により自衛官や警察官に対する職業差別発言も堂々と行われています。こういった発言こそレイシズムだと思いますが、それを「レイシズム」として報道するマスメディアはほとんどありません。 また、安保関連法案制定時には安倍総理を「叩き切る」と表現した著名人や「安倍しね」というプラカードを掲げた人達に右派が「テロリスト」というレッテルを貼りましたが、それもまったく報道されていません。3 左派が違法不当な手法で敵を攻撃するときは黙認され、右派が同様の手法を取る時には厳しく糾弾される 右派が今回のK氏と同様の手法。例えば「安倍しね」プラカードにフェイスブックで「いいね」を押した人の「氏名」「学歴」「勤務先」などの個人情報をリスト化し、勤務先への通報を推奨したら、新聞やテレビは大騒ぎをするでしょう。しかし、K氏の行動は今のところMXTVを除き、まったく報道されていません。報道機関の「報道しない自由」が幅を利かせすぎている4 報道機関の「報道しない自由」が幅を利かせすぎている 多くの報道機関は民間企業ですから企業活動の自由として、何を報道するかについては自主決定できます。しかし、メジャーメディアの談合体質が酷すぎるために、全社が報道しないという暗黙の空気に包まれると、まるでその事件がなかったかのようになります。今回のエフセキュア問題がまさにそれです。 これは先進国のメディアの在り方として明らかに異常です。5 公共団体のソフト部門に「赤い利権」が食い込んでいる 利権と聞くと大多数の人は、保守政治家と役人及びゼネコンといった構図を思い浮かべるでしょう。そういう一面はありますが、ソフト部門、例えば「人権」「男女平等」といった部門では、明らかに思想的に左派の人達が、独占的に官公庁から受注しています。 エフセキュアはIT企業ですから本来、思想信条とは無縁のはずですが、今回の行動から見る限り、特定の思想に支配されている危険性を払拭できません。6 機密情報に対する国家意識が希薄 国家としてはともかく、国民感情として「韓国人」は日本を仮想敵国とみなしています。その韓国人や韓国系企業に我が国の機密情報や日本人の個人情報を見せ、触らせることは非常に危険です。ところが、韓国系企業との癒着が懸念されるエフセキュアが、防衛省関連やマイナンバー関連の仕事をしていることが判明しました。 また、マイナンバーが公布されれば多くの自治体で働いている在日コリアンも個人のマイナンバーに触れることが可能になります。 以上、これ以外にも様々な課題を提示してくれたエフセキュア問題。今後も注視していきたいと思います。 最後に、これに危機感を覚えた方は、是非、ご自身が住む自治体がITセキュリティをエフセキュア社に委託していないかチェックしてください。公文書の公開を求めれば、どんな人にもチェックが可能です。そして、万一エフセキュア社が受託していれば、それを議会で質問するよう保守系議員に働きかけてください。 私たち個人ができることは沢山あるのです。(『森口朗公式ブログ』より2015年11月10日分を転載)

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    身内びいきの新潟日報よ、中傷ツイート記者の処分が甘すぎる

    お読みください。ただ、それを述べるにあたって、私には言わねばならぬことがある。新潟日報の新本社ビル「メディアシップ」=新潟市 その大きな理由は、私が政治家であるという点に集約される。かつてのように保守活動家として言論活動を行うのであれば、私はしばき隊を軸として責めただろう。実際、横串をさして論じたほうが楽だ。話もわかりやすい。エフセキュアの件にせよ、web上でも激しいものだと分類されるだろうし、実効性の面においても高い効果を発揮したと思う。とは言え、実は、現在まで私が論じた話は、しばき隊ゆえ、という攻め方はしていない。 問うべきは、社としての責任であり、その中身は「社会的・道義的な責任」である。横串となる言葉は、コンプライアンス、CSR、ガバナンスである。この点は、政治家として徹底的に追及し続けたい。それは「しばき隊」として責めることとは、大きく異なる立場だ。敗走中の彼らを、私は政治家としては責めない。社としてのみを、その責任を問い続ける。保守活動家の目線 政治家として問うべきは「社としての責任」であり、社会的・道義的な責任であることは事実だ。しかし、保守活動家として述べさせて頂くなら、しばき隊として「撃たない理由」は異なる。本心を一言で表せば「なんてことをしてくれる!」という怒りだ、しばき隊側への怒りだ。ひどい言い方になるが、勝手に沈んでる場合じゃないぞ、と。私は、彼らとの公開討論を約束していた。恥ずかしながら、健康上の理由で当時からかなり体調が悪く、結果的には入院・手術となり、これは叶わなかった。 ネット上の左派系、対峙する陣営の指揮官クラスであると私は認めてきた。さあ、今から撃ちあおう、そういうタイミングである。双方が宣戦を布告し、戦端が開かれようとしていた。イメージなるが、海戦を行うべく、駆逐艦「小坪しんや」は、決闘の海域に進出していた。敵艦隊の名は、しばき隊。だが、待てど暮せど、敵艦が来ない。途中で機雷に接触し、勝手に沈んだという。私からすれば「おい待て!!」と文句も言いたくなる。 私は、今回、しばき隊を責めない。しばきたくないからだ。リスクを背負いつつ、現場を張ってきた自負がある。経験則になるが、気分の乗らぬ案件は手を出すべきではない。これは獣のカンに近いものだし、私の美学でもある。憲法は変えるべきだと思うが、憲法を破ろうとも思っていない。よって、憲法九条をも私は順守したい。赤旗の問題を取り上げた際も、徳永克子(共産党・行橋市議)から一年以上に渡り、延々と責められたという原因がある。九条をも遵守する以上、私は撃たれてから「ちょっと考えて」撃ち返す。私は、個人としてはしばき隊に撃たれていない。撃たれていない以上、私は撃つことは許されない。 ここで相手が落ち目の時に、時流に乗って叩くことは、私の美学に反する。しかも私が撃たれていないのに、だ。大破炎上中、機関も出力が上がらない敵艦がいたとしよう、私は、やはり撃てない。ドックに入渠して頂き、しっかりと修して頂きたい。完全な状態に戻って頂き、本調子を取り戻した上で、全力の彼らと撃ちあいたいのだ。その際、当然、撃沈されるのは私なのかも知れない。それでもいい。退却中の敵艦を後ろから撃つのは、私は嫌だ。 明らかに敵陣なのだが、エールを送りたい。赤壁の戦いでも曹操は敗走したが、なんとか落ち延びた。私は、是非、落ち延びて頂きたいと思う。そして、しっかりと名を明かした上で、平場で撃ちあおう。正々堂々と、だ。私は今までそうしてきた。議員になる以前より名を明かし、住所を明示し、ロビー活動に従事してきた。今度は、こちらと同じルール、土俵でやりあいたい。 とは言え、落ち延びることも楽ではないだろう。私は撃たぬと言ったし、実害を受けていない者は撃つべきではないと主張もするが、彼らは敵も多すぎる。例えば公開されたリストに記載されていた方々。彼らは正当に撃つべき権利を有する。私はこれを止める気はない。また、リスト記載者を「守る」という部分においては、本件に介入してきた。今回も同様に、政治家として「社としての責任を問う」立場だ。事実、そうしている。 保守の追っ手を彼らは果たして振り切れるのか。赤壁の曹操と同じぐらいに、状況は厳しいだろう。だが、是非、逃げて頂きたい。関羽気取りかと(双方の陣営から)怒られそうだ。乗っているのは赤兎馬ではなく車高の低いスカイラインだが。落ち延び、体制を整え、復活して頂きたい。名を明かした、対峙する陣営のロビイストとして、誇りある指揮官として。その際には、こちらも全力で行かせていただく。私が、自らの手で沈めたいと思っていたのだ、勝手に沈むんじゃない。なんとか生き残れ、そして同じ土俵で撃ちあおう。決闘の舞台で、私は待っている。 修羅の国と福岡は揶揄される。この名が適切かは評価する立場にないが、また自ら名乗ることもどうかとは思うが、仕方ない部分もあるのかな、とは思う。私は、修羅の国から来た普通の修羅だ。新聞でも大きく報じられたため、自らの自治体の恥をさらすが、一年ほど前に行われた行橋市長選においては、対立陣営の御兄弟より実弾320発、武器庫認定を受けて大問題になった。また先の九月議会、ほんの数か月前だが、工藤会にお金を渡すためという理由で、ゼネコンより数千万の工事をゆすった事件があり、しかも市発注の事業であったため委員会での審査となった。私は、所管委員会(総務委員会)の所属であるため、当該業者の指名停止を委員として求めた。 かつては走り屋であり、ネットで言うところの「いわゆるDQN」であったことを私は公開している。九州ということで、半島系の方も多い。日常的にもめてきており、そして議員になった今も決して安全な職場ではない。こんなことを言うと、保守からもしばき隊からも怒られそうだが、しばき隊よりも遥かに激しい連中が常に目の前におり、それが私の世界観なのだ。よくないことだとは思うが、なぜか彼らの写真を見て、どことなくシンパシーすら感じてしまった。普通においしく酒でも飲めそうだ、と。私は、もっと面倒な難処理案件だらけだ。  そんなわけで、彼らが「ある程度、激しい」からと言って、だからどうしたんだと常々思っていた。私は、行橋市議としても死ぬ危険性はあると思っている、サヨクの過激派の手以外で、だ。この町で、市民の側に徹底的に立つことは、容易な覚悟ではできない。福岡では発砲事件もよくニュースになる、あれももう慣れた。少なくともしばき隊は、銃火器は使わない。だったら「話せばわかる」層だろうと、そんな風に思っていた。対峙する陣営ではあるものの、その指揮官クラスとして遇し、直接やりあいたいと、そう思っていたのだ、修羅の国から来た普通の修羅としては。これがヘイトでなくて何がヘイトか 最後になる。社としての責任だ。これは「社会的・道義的な責任」である。この点は強く追及させて頂く。一気に論調が変わるが、この点は追及する必要がある。新潟日報社の件だが、上越支社の報道部長だ。これは許されて良いものではない。 安倍首相が学校を訪問している際の写真だろうか、それをTweetする際、「美少女に迫る異常者」である。これは首相の対するヘイトだ。また稲田議員に対しては「英霊の慰安婦こと、稲田朋美!」(原文ママ)と呼び、片山議員には「片山は自分からすすんでネトウヨの慰安婦になった!」(原文ママ)と侮辱。また「高市早苗 所属政党 ナチス」(原文ママ)とtweet。高市早苗「総務大臣」の所属政党は、自由民主党です。 もちろん、これが一般人の発言であっても許されるべきではない。左派はヘイトヘイトと口癖のように言うが、これがヘイトでなくて何がヘイトなのだろうか。彼らはよく自己批判とか総括とか言うが、是非、自己批判して総括して頂きたい。 問題なのは、新潟日報社の上越支社報道部長という役にあったことであろう。これは社としての報道方針を決め得る立場と、対外的にも理解されるポジションだ。これらは新潟日報社の公式見解なのだろうか。特に現職の総務大臣に対し「所属政党ナチス」は、報道に携わる者として如何なものかと思う。 特に許せないのは、民間人に対してのTweet。以下は、子を持つ母親に向けられた発言だ。『想像しろ。お前が本能に任せて性行為した、クズみたいな男と娼婦のお前の間に生まれた薄汚いガキ!明らかに人種差別主義者の子どもであり、生きてる価値はない!最大限の尊厳を与えてやる。それは、豚のエサになることだ!』 『(前略)このブス!お前の赤ん坊は豚のえさにするんだから…。で、お前とダンナが、その豚を喜んで食べるのな。そりや美味しいよ。お前の子ども食った豚だもん!お前とダンナ?うなぎの餌。あんたの頬から胸に抜ける。目玉から肛門に抜ける(笑)』 『豚って、なんでも食うらしいよ。野菜でも、人間でも(笑)。赤ん坊は柔らかいだろうね。』 以上発言は、いずれも原文ママ、である。私も子を持つ親であるが、「新潟日報社」は、上越支社報道部長の言動に対し、どのように対応をとられるおつもりか。これを民間人に対して吐いたことは、社会的・道義的責任が追及されるべきであると、政治家として述べさせて頂く。責任は、人事処分をもって公開されるのが筋だろう。詳細:新潟日報社(上越支社報道部長)坂本秀樹氏は、パブリックに批判されるべきだ。(小坪しんやのBlog)左派の責任、メディアの責任左派の責任、メディアの責任 左派こそ、これを徹底的に糾弾すべきだ。それができぬなら、無暗に憲法がどうだ等と述べるのはやめたほうがいい。話が軽くなり、意見自体が意見として認識されなくなるからだ。これは、一般人・民間人への威圧を持っての言論弾圧としか言えず、これを自らの陣営に対しては責めることができぬとなると、何が護憲かと指摘されるからだ。憲法を護るのは結構なことだし、私自身も遵守しようと思っているが(同じく改正したいと思っているが)護憲を掲げるならば、他者の憲法で保障された自由・権利に対しても配慮すべきだ。でなければ、その旗は降ろせ。憲法がかわいそうだ。 メディアに対しても思うことがある。テレビでも報道されたという。ただし、これらの、私が紹介したTweetは報じられていない。酔って弁護士に絡んだ程度の報道であり、その実態を報じているとは言い難い。身内びいきもここまでくると、ちょっとあり得ないと思う。 私には、これを述べる「権利」がある。かつて、SEALDsの皆様へと題してシリーズを報じたところ、メディアはスクラムを組んで私を叩いてくれたな? 随分と扱いが違うじゃないか。「同じ扱い」を求めているのみだ。私には、これを言う権利がある。 三菱樹脂事件の最高裁判例を踏まえ、学生が政治活動に参加する際に気を付けるべき点をまとめたものであった。徹底的に学生側に立った書き方を心がけ、かつ判例(三権分立のため政治分野が介入できない)があることを伝え、「過激派など、反社会的勢力」との混同を避けるように訴えたものだ。安保法制の是非には触れておらず、意見の誘導も行わぬよう配慮した。 まとめサイトを始め好意的に取り上げられ、炎上はしなかった。しかしながら、結果として、取材「攻」勢が多発。東京新聞、毎日、朝日もあったかな。西日本からも取材を受けた。弁護士ドットコム(これは日弁連だろうか)、J-castなどは取材すらせず全くの誤報を足れながす。yahooのヘッドラインに掲載され大きく名誉を傷つけられた。 報道状況を見るに「私とは随分と違う」のだ。私の場合は、言ってもいないことまで書かれ(しかも意図を真逆にとられて、だ)誰も謝罪すらしなかった。新潟日報社については、言ったことすら報じていない。詳細:SEALDsは共産党や中核派と混同されても仕方ない(iRONNA) 現在の報道状況は、身内びいきが過ぎると感じる。酔って言ってしまった程度の報道では足りぬ。先ほどの、実際のTweet内容を見て、世論がこれを許すと思うのか。メディアこそは常に政治に問い続けてきたではないか。だからこそ、ネット保守論壇からも言わせて頂こう。この程度の処分、異動程度で「世論が納得するのだろうか」と。 そして冒頭の繰り返しになるが、しばき隊は落ち延びて頂き、実名での活動に出てきて頂きたい。体制を整えた上で、正面から撃ち合おう。勝手に沈むんじゃない。

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    新潟日報記者の中傷ツイート全内幕

    新潟日報上越支社の報道部長が、匿名ツイートで弁護士を誹謗中傷する書き込みを繰り返していたことが発覚した。報道人にあるまじき卑劣な行為は決して許されるものではないが、一方でその思想信条や背後関係にも関心が集まっている。ネットの匿名性を悪用したこの手の「事件」はなぜ繰り返されるのか。

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    ツイッターで自滅する人間をどうすればよいのか

    を呟き、釈明・陳謝する事態になっている。ツイッター空間の中では「良くある」誹謗中傷を社会的地位のあるメディアの人間が行っていることが判明し批判が相次いだ。上越支社の報道部長は、「酔っていた」と陳謝したが、過去のつぶやきを総覧すると、その釈明も怪しくなる。つい先日には、自らの職権を利用して「ヘイト的」と見なされているアマチュアイラストレーターの投稿図版にFB上で「いいね」を押した人々の個人情報を不法に開示したとして、ある関係者に批判が集中し、物議をかもした。 なぜ彼らが、ツイッター空間でのみ「暴走」するのかの解明は、容易ではない。「匿名の空間だと、人は本性をむき出しにする」というのが有り体な説明だが、匿名であることと誹謗中傷の展開には、応分の相関関係はあるとは思うが、それが全てを説明していることにはならない。なぜなら、ネット上で実名を用い、他者を誹謗中傷した結果、訴えられたり逮捕されたりするユーザーの事例もまた、近年あとを絶たないからである。 結局のところ、ツイッター上で展開される誹謗中傷や罵詈雑言の解消のために、その理由を解明しようとする試みは不毛のように思える。この世界には一定程度、他者に対してどす黒い敵意を持っている人間が存在し、彼ら(或いは彼女ら)がたまたまツイッターという発信機を手にしていた、というのが、その理由の真実であろう。そういう連中には、ポジティブな意味での解決策というものは存在しない。なぜなら繰り返すように、この世界には他者に対して決して寛容になれず、他者を呪詛することに一定のカタルシスを見い出す「変人」が、ある程度の数、存在しており、それは多分時代が変わっても普遍的なものだろうからだ。結論としては、自滅を待つしか無い。ツイッターをどう使えばよいのか さてツイッターでの罵詈雑言や誹謗中傷を抑制することに画期的な解決方法はないにしても、なるべくそういった「騒動」から遠く、巻き込まれないように「自衛」する方策はある。もっとも簡単な方法は、ツイッターを辞める(アカウント削除)ことだ。この至極簡単な方法に多くの人々が気づいて、ツイッターアカウントを削除する人も、私の周辺にもいる。単純明快な自衛策だ。 かくいう私も、近年この方針に近づきつつある。とはいっても、ツイッターが退潮傾向にあると感じられるにせよ、いまだ国内で数千万のユーザーを保有している以上、宣伝や拡散のツールとしては重宝する人々も少なくはないのが実態だ。溜まりに溜まったポイントカードを簡単に棄てることの出来る人は、そんなに多くない。 そこで、ツイッターを快適に使う自衛策として、発信者がつぶやく際に、特に意識し、遵守すべき点を、私なりに提示したい。1) 猫と犬の話題(特に猫)2) 観たアニメ・映画・ドラマ、読んだ本や漫画の感想(ただし全否定はいけない)3) 今晩の夕食とランチの話題(ただし豪華であってはいけない)4) 商品やコンテンツの宣伝(ただしこれは宣伝である、と明示した上で行う) ツイートの内容として、この四項目を遵守する限りにおいて、自衛策は完全に機能する。他者に対しどす黒い敵意を持ったユーザーも、850円のハンバーグ・ランチと猫の写真に対してはイチャモンを付けることは出来ないし、発信者も「火達磨」になることもない。 ツイッターユーザーのすべてがこの四項目を守れば、罵詈雑言も誹謗中傷も存在しなくなるだろう。ただしそれが魅力的な空間であるか否かは別問題だが。

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    「赤ん坊を、豚のエサにしてやる」新潟日報サヨク記者の本性

    中宮崇(サヨクウオッチャー) またか。「お前の赤ん坊を、豚のエサにしてやる!」「こいつを自殺させるのが、当面の希望」などとサヨク活動屋がツイッターへ書き込みをしていることを知った時の第一印象である。 サヨクはよく「ネトウヨは卑劣にも匿名で差別やヘイトスピーチを行っている!」と喚き散らしているが、そのサヨク自身が赤ん坊を殺すなどという差別どころか凶暴な脅迫を匿名で行っているわけだから、まさにブーメラン、「お前が言うな」としか言いようがない。 この赤ん坊殺しのサヨクはツイッター上で「壇宿六(闇のキャンディーズ)」を名乗り、 国会前で「反戦争法デモ」と称する騒乱を引き起こしているSEALDs、レイシストしばき隊(現在はC.R.A.C.と改名)の関係者であることをかねてより表明していた人物だ。デモに動員された際に日当が支払われていた(しかしまだ自分には振り込まれていない)という喜びのツイートを行ったこともあり、プロフィールには「レイシスト、ファシスト排除!戦争法をぶっ潰せ!安倍はやめろ!自民党は民主主義の敵!日本に本当の民主主義を!」と、ご大層なことを掲げている真性のサヨクである。 サヨク連中が「反差別」だの「ヘイトスピーチ反対」だのと偉そうに叫びつつ、自分は平気で赤ん坊を殺せだのハゲだのブスだのと、ヘイトスピーチなどという横文字を使うこともおこがましい幼児レベルの差別を平気で行うこと自体も、「またか」である。自分の卑劣な差別性や暴力衝動を満たし正当化するために「人権」だの「平和」だのといった正義を騙り、他者を脅迫し、暴力行為で逮捕されるという症状は、こうしたサヨクに共通するものであるという事実はこれまでも指摘してきた通りだ。 しかし、この「赤ん坊殺し」のサヨクはとことん愚かであった。なんと間抜けにも、その実名がバレてしまったのである。 かねてよりサヨク報道で知られていたローカル紙「新潟日報」の報道部長という要職にある坂本秀樹記者こそが、匿名で「殺す」だのと日常的に敵を脅しまくっていた卑劣漢の正体だったのである。サヨクを気取る「闇のキャンディーズ」 きっかけは、あろうことか朝鮮総連の顧問弁護士という経歴を持つばりばりの人権派としても知られる高島彰弁護士に、サヨクを気取る「闇のキャンディーズ」が、「高島彰はネトウヨ!」「ハゲ!はよ弁護士やめろ」「今死ね!毒飲め!」「こいつを自殺させる」などと、執拗にツイッター等で脅迫したことだった。 なにしろ「反戦争法デモ」と称する国会前騒乱で敵を「人間じゃねぇ!たたっ斬る!」と白昼堂々「殺害宣告」するような連中である。インターネット上で気に入らぬ敵を「ネトウヨ」「反知性主義」などと恣意的にレッテルを貼り脅迫を行うことは、彼らにとっては日常的な「正義」の行為だ。そのため、まさか反撃を食らうとは想像もしていなかったのであろう。本来、お仲間であるはずの、しかもバリバリの武闘派弁護士を脅迫しておいて反撃を予想していないということだけでも十分間抜けである。 その上、赤ん坊殺しの闇のキャンディーズこと坂本秀樹記者は、高島弁護士についての情報を新潟日報記者としての職権を利用し入手していたばかりか、マスコミ関係者以外には入手することが困難なその情報を不用意にもツイッターに書き込んでしまっていたのだ。そのことに気付いた高島弁護士の調査により、卑劣な匿名脅迫者の正体がSEALDs、しばき隊から日当をもらっていたと自慢し、国会前デモを自紙で礼賛してきた新潟日報報道部長だという事実がバレてしまったのである。 既に主要全国紙の全てで大々的に報じられた事件なので、詳しい経緯については、以下をご覧頂きたい。「クソ馬鹿やろう」「弁護士やめれば」…新潟日報上越支社の報道部長、匿名ツイッターで弁護士に誹謗中傷繰り返す(産経新聞11月24日付)「しばき隊」構成員(実は新潟日報上越支局長)が新潟水俣病弁護団長に暴言→身元を割られ謝罪文を書かされる(ガジェット通信11月24付) 坂本秀樹記者の卑劣さは、その厚顔無恥な自作自演の書き込みにも見て取れる。なにしろ昨年7月4日には匿名で「新潟日報という新聞が、集団的自衛権行使に関し、反対の論陣を明確にして『地方から反対の声を!』と、社長名で訴えたらしい。もはや、地方から声を上げよう!」などとツイートしているのだ。自分が報道部長を務める新聞社の記事を、匿名で第三者のふりをしてヨイショするのだから、これは自作自演としか言いようがない。既に削除し証拠隠滅済みの彼のツイートの数々から考えると、今回に限らず、坂本記者は日常的にマスコミの職権を悪用し、このような卑劣な反日サヨク活動を行っていたと言わざるを得ない。  さて、ここで再び「またか」である。「反差別」を騙るサヨクが敵を平気で差別し脅迫するという行為自体、ありふれた症状なので「またか」なのではあるが、匿名でそのような卑劣な行為を行っておいて、間抜けにも実名や自作自演の事実がバレてしまうというのも、サヨクのオツムの弱さ故に頻繁に見られる症状であり、「またか」なのである。 例えば、今月だけでも、しばき隊関係者とみられる人物が匿名で「ネトウヨ」の個人情報を収集、ブラックリストを作成しネット上に公開したが、坂本記者同様にうっかりから逆にK氏という実名と身元が判明してしまう事件があったばかりだ。数百人の個人情報を“公表”したセキュリティー企業社員「本人の意思で退社」(産経アプリスタ11月6日付 つくづく「またか」である。このしばき隊関係者が勤務していたセキュリティー大手のF-Secure(エフセキュア)は、マイナンバー制度等に関連する個人情報を扱う仕事を受注している企業である。「F-Secureは『エフセキュアの社内のお客様情報や業務上知りえた個人情報が外部に漏えいしたという事実はありません』と噂を否定した」とあるが、ろくな社内調査も行ったとは思えず、到底信用に値しない言い逃れだ。「しばき隊関係者が職権を乱用し個人情報を不正に盗み取りネット上にばらまいた」という疑惑を払拭することはできない。 そればかりか、しばき隊は反省するどころか「幸いなことに、F-secureを辞めさせられたのはK氏だけでその他は全員無事。ほとぼりが冷めるのを待って、残留組が差別主義のネトウヨどもをしばき倒してくれるはず。今度は非公開で処刑する」と犯行予告&脅迫ツイートまで行い、他にも反日サヨク工作員がF-Secure社内に潜伏していることを示唆する始末だ。一部では、会社ぐるみの犯行であるとの憶測まである。まるでどこかで聞いたような話ではないか? そう、前述の新潟日報、坂本秀樹記者のケースと瓜二つなのだ。まさにK氏と坂本秀樹記者そのもの私は以前iRONNAで、サヨクどもが「サイコパス」だと言える数々の症例という記事を書いたことがある。そこから引用してみよう。 「サヨクがインターネット上の匿名性を悪用し、複数のアカウントを取得し、自分の投稿した手前勝手な主張に対して別アカウントで「凄いですね!感動しました!」などと自作自演で礼賛するというのは、極めてよく見られる症状だ。しかしそこは「想像力が貧困」なため、極めて簡単に自作自演がバレる」 まさにK氏と坂本秀樹記者そのものである。例えば、産経新聞記者が職権を乱用し敵の個人情報を盗み取り、卑劣にも身分を隠し匿名でネット上にそれをばら撒き、その上間抜けにも身元がバレてしまったという事件がこれまであったであろうか? 保守陣営や「ネトウヨ」には見られぬ、そうした厚顔無恥な事件が、サヨク陣営には極めて頻繁に見られる。その上、犯罪発覚後も問題を叱責するどころか「幸いなことに」などと擁護するような連中なのだから、ことはサヨクの一部の不届き者による特殊な蛮行と言うようなものではなく、サヨクそのものが持つ病的な本性と見るべきである。 特にこの2つの事件で重大なのは、サヨクは自らが信ずる歪んだ正義のためなら平気で職権を乱用し、個人情報を盗み取りばら撒くことをためらわない。しかも、お仲間もそれを批判するどころか礼賛し擁護するという事実だ。ここは、保守陣営が在特会のような「ネトウヨ」の蛮行に忠告や批判を加えることが多いという事実と全く対照的だ。サヨクには「自浄能力」という概念自体がなく、存在そのものが反社会的勢力であると言うしかない。 サヨクの自浄能力の無さは、反日マスコミとして名高い朝日新聞の数々の前科を見るだけでも明らかだ。1989年に記者自ら貴重なサンゴを破壊し「サンゴ汚したK・Yってだれだ」という自作自演の記事を書き散らした「珊瑚記事捏造事件」を筆頭に、朝日新聞関係者による自作自演事件は後を絶たない。09年には朝日新聞の校閲センター員が匿名でネット上に精神障害者差別や部落差別書き込みを行い、またもや間抜けにも身元がバレてしまうという同じような事件を引き起こしている。 ここで、ロバート・D. ヘア「診断名サイコパス―身近にひそむ異常人格者たち」(早川書房)から引用してみよう。 「サイコパスはナルシスティックで、自分の価値や重要性に関してひどく慢心したものの見かたをする。まったく驚くべき自己中心性と権利感覚の持ち主だ。彼らは、自分が宇宙の中心にいると思っていて、己のルールに従って生きることが許されている優秀な人間だと思っている」  「嘘つきで、ずるく、ごまかしがうまいのは、サイコパスの生まれもった才能だと言える。 想像力が貧困なのか、それとも自分のことしか考えていないためか、サイコパスは自分の正体が見破られる可能性に驚くほど無頓着か、見破られないと確信をもっているかに見える。嘘を見破られたり、真実味を疑われたりしても、めったにまごついたり気おくれしたりしない。あっさり話題を変えたり、真実をつくりかえて嘘のうわ塗りをする」 まさに、新潟日報の坂本記者らと同じサヨクそのものである。「自分が宇宙の中心にいると思っていて、己のルールに従って生きることが許されている優秀な人間だと思って」いて「自分の正体が見破られる可能性に驚くほど無頓着」であるからこそ、身分を偽り平気で卑劣な自作自演や脅迫を繰り返し、自らの間抜けさ故に簡単に身元がバレてしまう。 サヨクの一部が犯罪を犯しているのではない。サヨクそのものが犯罪的であり病的なのである。そして、自らの差別性や暴力性を満たすために「反差別」などの正義を騙る病的なサヨクを、高島章弁護士のような地道に活動を行っている真面目な左翼と混同するべきではないのだ。

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    江戸時代の男たちはおっぱいに興味なかった?!

     「謙虚を美徳としてきた日本人が、どうして男性器には見えを張るのでしょう? しかも局部をこれでもかと描き込んでいるのに、女性のおっぱいが雑なのはなぜ?」 永青文庫(東京都文京区)で開催中の日本初の本格的春画展と並行し、銀座の永井画廊でも春画展が開かれているが、そのオープニングパーティーで作家の岩井志麻子さんがこんな疑問を投げかけていた。「富久寿楚宇」葛飾北斎(部分)ミカエル・フォーニッツコレクション 見えを張ったのかどうかは別として、中世以降の絵巻物などで既に「大きさ比べ」をする様子が見られたりと、日本では性器を誇張して描くのが伝統だったようだ。かつて浮世絵春画を見た欧米人が、日本人男性の“ウタマロ”に驚嘆、長く誤解していたのは有名な話。 では女性の胸は―。改めて見てみると、局部にはとことん執着しているのに、胸はずいぶんあっさり描いている。乳首はポチッと描かれているだけで乳輪もない。海女に大蛸(おおだこ)が絡みつく、有名な北斎の春画「喜能会之故真通(きのえのこまつ)」でも、蛸の足は女性の乳首にクルッと巻き付いているが、肝心の胸は微妙に垂れていて、まるでセクシーでない。 岩井さんの疑問に対し、銀座春画展監修者である国際日本文化研究センター特任助教の石上阿希さんもこう答える。「この時代の人々はおっぱいには無関心なんです。明治時代くらいにならないと、乳首に色はつかないようです」。江戸の男は笑福亭鶴光さんのように、乳輪の色に注目しなかったようだ。 江戸文化に詳しく、このほど『春画入門』(文春文庫)を刊行した時代小説家、車浮代さんも「江戸の男は胸よりもヒップでしょう」と話す。「夏になれば女性の胸なんか透けて見えますし、風呂も混浴だからお互い見慣れてるんですよ」。結局、人は秘めたるものだからこそ、興味をひかれ、興奮するのだろう。 車さんによれば江戸時代、着衣の美人画こそ盛んに描かれたが、女性単体のヌードはめったにないという。「歌麿の肉筆画に、お風呂にひとりで入ろうとする女性の後ろ姿はありますが…」。これも美人画の一種であり、現代における「ヌードグラビア」的目的で描かれたものではないらしい。江戸時代の人々は、春画で異性の裸を愛でるというより、交わりのおかしな様子に笑ったりして楽しんでいたのだろう。 月亭可朝さんの有名な歌ではないが、江戸時代の女性の胸は、お父さんよりも赤ちゃんのためにあったようだ。(黒沢綾子)

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    春画なんかで騒ぐんじゃない!

    江戸期の浮世絵「春画」の記事掲載をめぐり、文芸春秋が週刊文春編集長を3カ月間休養させた対応に波紋が広がった。春画は芸術か、それともワイセツなのかー。日本初の展覧会でにわかに注目を集める春画ブームを契機に、この問題を改めて考えたい。

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    春画の週刊誌掲載「ポストはいいが文春なら問題」と呉智英氏

    られる場所は制限があってしかるべきです。 春画は表現物ですから、基本的には行政が介入すべきではない、メディアの側がそれを考えるべきでしょう。 その意味では、『週刊文春』はこれまで、過激なグラビアを掲載せず、穏健派の誌面づくりをしていた。その点が『週刊ポスト』とは大きく異なる。『ポスト』はずっとヌード、つまりポルノを掲載してきたわけですから、春画を掲載しても違和感はないでしょうが、『文春』は違う。一部の読者は家に持って帰れないと困惑したことでしょう。関連記事■ 仏文学者の鹿島茂氏「春画は時代を経て立派な芸術になった」■ スペインで国民的人気のポルノ男優 逮捕5日前の衝撃的な写真■ 春画は芸術かわいせつか? 週刊誌に掲載するのは是か非か?■ ポルノ産業1人あたり売り上げ 韓国が世界一、日本は2位■ 破廉恥教師 校内性行為で停職3か月、下半身露出が停職6か月

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    春画掲載の週刊誌で編集長が休養 ろくでなし子氏の見解は?

    性差別が隠されているのは明らかで、私が受ける海外からの取材では必ずその点を取り上げられるのに、日本のメディアはほとんど問題にしようとしません。 私が逮捕された時も、「あんなに風俗が発展して街中には性的なものがあふれてるセックス大国なのに、こんなことで逮捕する日本って、バカなの?」と、海外では面白おかしく報道されましたよ。今回の騒ぎも、海外メディアからすれば格好の“珍日本”ネタになりそうですね!関連記事■ 破廉恥教師 校内性行為で停職3か月、下半身露出が停職6か月■ ろくでなし子氏は「わいせつの3要件満たしてない」と弁護士■ ろくでなし子氏の逮捕 新たなる技術・3Dプリンターが原因か■ 女性器モチーフ作品をわいせつとするのは「日本の恥」と識者■ 仏文学者の鹿島茂氏「春画は時代を経て立派な芸術になった」

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    春画に文化的価値があるかどうかは警察が判断します

    園田寿(甲南大学法科大学院教授、弁護士)  はじめに 春画は、直接的な性表現がなされていることから、刑法175条に該当する「わいせつ図画」であるとされたこともありました(最高裁昭和48年4月12日判決〈国貞事件〉)。しかし、永青文庫で開催されている「春画展」が大好評であることもあって、マスコミで「春画特集」が取り上げられる機会が多くなっています。 喜びおおらか、春画展に来場者続々 永青文庫で国内初 そんな中、春画を掲載した週刊誌が警察から「指導」を受けるということがありました。 「春画」芸術か、わいせつか… 雑誌指導も微妙な“線引き” 芸術かわいせつか…「春画」の微妙な線引き 警視庁が、8~9月に口頭指導を行ったのは、「週刊ポスト」(小学館)、「週刊現代」(講談社)、「週刊大衆」(双葉社)、「週刊アサヒ芸能」(徳間書店)の4誌ですが、捜査関係者は、この「指導」について次のように述べています。警視庁保安課によると、指導した4誌は春画とは別に、ヌードや下着姿の女性のグラビア写真などを掲載していた。・・・「ヌード写真などもある誌上での掲載であり、(春画の)わいせつ性が強調されていると判断した」としている。捜査関係者は、今回の指導は、春画単体での評価ではないことを強調し、「春画は国際的な評価も高く、文化的・芸術的価値がある。春画そのものを問題にする気は全くない」と言い切る。・・・捜査幹部は「春画を描き写しただけのイラストでも、文化的価値がないと判断すれば、わいせつ物と判断する可能性もある。著名な画家の作品かなど総合的に考慮する」と話している。(太字は筆者)出典:産経新聞10月19日文化的価値があるかどうかは〈警察〉が判断する 文化的価値、すなわち作品の芸術性とわいせつ性の関係が最高裁で最初に問題になったのは、翻訳小説のわいせつ性が争われた〈チャタレー事件〉です。最高裁は、芸術性とわいせつ性は次元の異なる問題だから、芸術作品であってもわいせつだと判断してもよいとして、有罪にしました(最高裁昭和32年3月13日判決)。いかに文学的価値が高いものであっても、裁判所がわいせつだと判断することは構わないのだという趣旨です。 その後もこの方針は維持されますが、〈悪徳の栄え事件〉では、最高裁は、高い芸術性によってわいせつ性が薄まる(昇華される)ことはあるということを認めています(最高裁昭和44年10月15日判決)。ただし、この作品はわいせつだとしています。 作品の中にわいせつな箇所が少しでもあると、作品全体がわいせつだと判断されてしまうということはいかにも不合理ですから、芸術性の高さをわいせつ性の判断において考慮すべきであるという考えは妥当なように思えます。しかし、問題は、それを誰が判断するのかということです。最終的には裁判官の判断ですが、事件化するかどうかは警察官の判断であり、警察官が、当該作品が芸術かどうか、文化的価値があるかどうかを判定することになります。しかし、これは戦前の〈検閲制度〉につながるおそれのある発想であり、やはり問題ではないかと思います。 明治の初年から終戦まで、出版物はすべて事前に内務省(地方行財政・警察・土木・衛生・国家神道などの国内行政を担った中央官庁)に納本し、〈検閲〉を受けることになっていました。そして、政府にとって都合の悪い出版物は、削除や発売禁止の処分(発禁処分)を受けていたのです。言論や思想だけではなく、公序良俗を乱すものも対象とされ、春画の売買も禁止されました。日本の近代化という命題のもと、西洋文化を意識して日本国内の風俗の矯正が行われ、「性は恥ずかしいもの」という考えが広まっていったと思われるのです。この頃、人力車夫の裸さえも禁止されました。 今回の雑誌社に対する「指導」は、もちろん〈検閲〉ではありません(憲法21条2項で検閲は禁止されています)。しかし、継続して毎週定期的に出版される週刊誌ですから、このような警察の「指導」が将来の編集方針に何らかの影響を与えるおそれはないのかということを一読者としては心配するしだいです。 とくに、警察が文化的価値がないと認めれば、犯罪だと判断することもある、という点には、何か不気味なものすら感じるのです。掲載方法によって、春画はわいせつになる 次に、今回の警察の「指導」で注目すべきは、「ヌード写真などもある誌上での掲載であり、(春画の)わいせつ性が強調されていると判断した」としている点です。 このような考え方は、「相対的わいせつ概念」と呼ばれています。これは、当該作品の販売や広告方法、具体的な掲載方法、対象読者層など、作品が置かれている文脈が作品のわいせつ性に影響を与えるとする考え方です。 これも、一見、妥当なように見えますが、特定の人に対してだけ性的刺激・興奮を与えるようなものが逆に犯罪性を帯びる可能性があり、わいせつ概念が拡大的に適用されるおそれがあります。たとえば、成人には問題のないアダルトビデオであっても、未成年にとって性的刺激が強ければわいせつだと判断される可能性があります。ミロのビーナスも、それを見て欲情する人に見せれば、わいせつ物だとされてしまいます。わいせつは時代によって変わりますが(判例もそれは認めています)、それは一般の社会意識の変化が問題になっているのであって、読者に対する性的刺激度や印象によってわいせつを判断するという方法は、処罰の拡大につながる可能性があるのです。今回の警察の「指導」についても、以前から芸術雑誌には無修正の春画が掲載されており、それについて「指導」があったということは聞いていませんが、週刊誌への掲載はダメというのはどうなんでしょうか?(了) 園田寿「性表現について不快感を示す人びとの存在 ー春画展に寄せてー」そのだ ひさし 1952年生まれ。関西大学大学院修了後、関西大学法学部講師、助教授をへて、関西大学法学部教授。2004年からは、甲南大学法科大学院教授(弁護士)。専門は刑事法。ネットワーク犯罪、児童ポルノ規制、青少年有害情報規制などが主な研究テーマ。現在、兵庫県公文書公開審査会委員や大阪府青少年健全育成審議会委員、モバイルコンテンツ審査・運用監視機構(EMA)諮問委員会委員長などをつとめる。主著に『情報社会と刑法』(2011年成文堂、単著)、『インターネットの法律問題-理論と実務-』(2013年新日本法規出版、共著)、『改正児童ポルノ禁止法を考える』(2014年日本評論社、共編著)など。趣味は、囲碁とジャズ。

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    一流の職人らが見せる超絶技巧 春画は浮世絵最高峰の「総合芸術」

    時代小説家、江戸料理研究家) 9月中旬に『春画入門』(文藝春秋)という新書を上梓して以降、さまざまなメディアから「春画」に関するインタビューの依頼をいただくようになった。 著書を読んでから質問をしてくださる方ばかりではないので、「春画というのは江戸時代のエロ本ですか?」と尋ねられて、困惑することがある。 確かに、エロティックな図を扱っているという点に於いては、木版画によって制作された春画(ここでは艶本も含む)は「エロ本」に当たるのかも知れない。しかしそもそも、現代と江戸時代では性に対する認識と倫理観が違うため、決してイコールではない。歌川国貞筆「金瓶梅」(手前)など、鮮やかな肉筆春画の名品が並ぶ永青文庫で開かれている春画展=東京都文京区 明治になって、西洋的倫理観を上書きされるまでは、日本人は性に対して、今よりずっとおおらかな国だった。聖母マリアの処女性を尊ぶ欧米に対し、伊耶那岐命と伊耶那美命が交わることによって誕生したとされる我が国は、太古から「男女和合」を子孫繁栄につながる“目出度い”行為だと考えていた。よって春画における性器は、顔と同じサイズにまで誇張されており、春画の大多数の図柄は、さまざまなシチュエーションとバリエーションで、男女ともに活き活きと性を謳歌している。女性に性欲があることも当然と考えられていたため、女性がむし返し(複数回の性交)を迫る……といった図も多く残っている。   二〇〇五年に、世界一のコンドームブランドである英国のDurex社が調査発表した「世界各国のセックス頻度と性生活満足度(四十一カ国)」によれば、セックス頻度における世界の年間平均は百三回で、日本人は四十位・シンガポールの七十三回から大きく引き離されての最下位で、四十五回という結果だった(十年前のデータなので、現在はもっと少ないのではないかと推測される)。この結果は、江戸時代の人々からすれば禁欲生活を強いられているようなものである。断っておくが、私は何も、現代人に性を謳歌しようと推奨しているわけではない。性に対して、どちらかというと後ろめたさを持つ現代人の感覚で、江戸の性は推し量れないということを示しただけだ。 また春画は、大名までもが娘の嫁入り道具として持たせるなど、性の指南書としての役割ばかりか、「笑い絵」「勝ち絵」などとも呼ばれ、仲間内で見せ合って笑い楽しむものであったり、戦の弾除けに甲冑に仕込むものであったり、長持ちに入れて虫除けにしたり、蔵に置いて火事避けにしたり……といった用途も担っていた。余談だが、火災が起こった時、ただ一つ燃え残った蔵の中から、上方の浮世絵師・月岡雪鼎(せってい)の春画が出て来たからと、以降、雪鼎の春画には十倍の値がついたという記述が残っている。 さらに、春画における技術と名誉について、特筆せねばなるまい。 八代将軍・徳川吉宗により、享保の改革の一環として発布された「好色本禁止令」以降、春画は秘密裏に売買されるようになった。公に販売されている浮世絵版画は、検閲を通さずに販売できないため、図案や摺り色の数などが制限されてしまうが、最初から表に出さない春画は、いわば贅沢のし放題であった。二十色以上摺り色を重ねようが、金・銀・雲母(きら)などの高価な絵具(えぐ)を使おうが、どれほど精緻に版木を彫ろうがお構いなしである。 また、当時の錦絵(にしきえ)(多色摺り浮世絵版画)一枚の価格が十六文~四十八文(一文を二十五円で換算すると四百円~千二百円)だったことに対し、春画の価格は十倍以上もした。 つまり版元が豪華で高価な春画を売るには、有名絵師の絵でなければ顧客がつかず、それらの凝りに凝った彫摺(ちょうしゅう)は、一流の職人でないと対応できない。逆に言えば、絵師も彫師も摺師も“春画を依頼されてこそ一流”とみなされたわけだ。それが証拠に、名だたる絵師たちは、わずか十ヵ月弱の制作期間で消えた写楽を除いて、もれなく全員が春画を手がけている上、錦絵は現代の木版画職人によって再現できても、爛熟期の春画の再現は不可能と言われている。 このあたりの感覚が今と大きく違うところで、現代では、エロティックな商業印刷物は低俗と見られがちなことに対し、春画はいわば、当時の印刷物の頂点にあった。持っていることがステイタスで、自慢の種になったのだ。 浮世絵に関する講演会などをさせていただいた折に、私は必ず「春画を観ずして、浮世絵の本当の凄さは語れない」と訴えてきた。例を挙げるなら、美人画の髪の生え際などで確認できる、一ミリの間に髪の毛三本を彫り、目詰まりさせずに摺る技術。エッチングなどの凹版印刷ならまだしも、凸版印刷である木版画でこれを可能にするだけでも超絶技巧だが、春画ではさらに、あの不規則に曲がりくねったアンダーヘアでそれを実現させているのだから、驚嘆に値する。 技術面に特化すれば、『三源氏』と呼ばれる歌川國貞(三代豊国)の艶本の代表作『艶紫娯拾余帖(えんしごじゅうよじょう)』『吾妻源氏(あずまげんじ)』、『正冩相生源氏(しょううつしあいおいげんじ)』を、機会があれば是非ご覧いただきたい。そこに施された彫りの細かさやグラデーションの美しさ、高価な絵具を惜しみなく使った贅沢さ、よく見ると浮き上がって見えるエンボス加工等、重要文化財級の匠の技が注ぎ込まれている。 これはもはや、総合芸術品である。   

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    二元論では語れない春画が持つわいせつと芸術

    鈴木堅弘(京都精華大学非常勤講師) 絵画の認識において二元論的解釈は成り立たない  昨今、世の中が「春画は芸術か、猥褻か」の議論で騒がしい。事の発端は、東京の永青文庫で開催されている春画展をめぐる記事である。週刊文春の編集長が、同誌への春画記事の掲載により、編集上の配慮を欠いたとして三カ月休養の処分を受けた。また、警視庁が週刊誌四社に風紀を乱す恐れがある記事を自粛するように勧告するにいたった。こうした事態により、再び「芸術―猥褻」の二元論が加熱したのである(刑法では「わいせつ」表記)。 もっとも日本において、「芸術か、猥褻か」の議論は、近代以降、いつの時代でも途絶えることはなかった。「チャタレイ事件」(昭和二十八年)、「サド裁判」(昭和三十四年)、「国貞裁判」(昭和四十八年)と、作品への「芸術―猥褻」の解釈をめぐる裁判はくり返され、いずれも明確な答えが見出せないままに終わっている。 それもそのはずで、そもそも各個人の文化事物への認識は、このような相対的二元論の解釈に落とし込むことができない。この真理は、言語学者ソシュールの「言語記号は恣意的である」の言葉に象徴されるように、すでに文化記号論などによって理論的に実証されている。 たとえば、このことを単純化して言うならば、同じ絵画を複数の人が同時に見ても、その絵から読み取る意味は、各個人で異なる。あるいは、ある一人の人が、同じ絵画を過去と現在で二度見たとしても、その時々の状況や経験によって、絵画から受け取る〈意味〉が変わってしまうことはよくある。ピカソの絵を前にして、ある人はこれを芸術だと言い、別の人は落書きにしか見えないと言う。このような経験を、誰もが一度はしたことがあるであろう。 つまり各個人は、絵画を見る際、個々の経験や知識にしたがって、それぞれ異なった〈意味〉を読み取っていくのである。これはどのような絵画であれ、一枚の絵に描かれた表象はどれも記号表現の集積であり、観者がどの部分(記号)に焦点を絞るかは、基本的には各々の判断に委ねられることを前提とするからである。高い芸術性で注目を集めている「春画展」=東京都文京区の永青文庫 この理屈を春画で例えるならば、一枚の春画を目の前にして、ある人は、裸体のふちを流れるように引かれた線(ライン)の美しさに取り憑かれるかもしれないし、また別の人は、あからさまな性表現に気恥ずかしさを感じるかもしれない。また性器の表象が描かれていたからといって、それを「淫猥」と認識するのか、あるいは「笑い」と認識するのかは、各個人の経験や知識にしたがっていかようにも変わる。つまり誰しもが春画から芸術の意味を読み取るわけではないし、あるいはまた誰もが猥褻の意味を読み取るわけではない。 これは絵画をはじめ、文学、詩、映画など様々な作品は、そもそも記号の多層性によって多義的な意味を伝える原則にしたがって成り立っているからである。そして観者は、作品を目の前にしてそれら記号の多層性から、いかようにも意味を引き出してくることができるからである。 このように考えれば、誰もが、ある作品解釈を一つの認識のみに落とし込むことはできない。となれば当然、誰も、「春画は芸術か、猥褻か」の問いに明瞭な答えを見出すことはできない。春画は、各個人の経験や知識にしたがっていかようにも判断できるからである。かりに、この二元論的な落とし穴にはまった人がいるとするならば、その人は解釈の対岸を行き来する堂々めぐりをくり返すだけであろう。明治時代における美術と猥褻 そもそも、日本の春画を「美術(アート)か、猥褻(ポルノ)か」とみなす二元論的視座は、コインの表と裏のように同根表裏の関係にある。いうならば、〈美術〉という概念がその場に立ち現れなければ、相対的に〈猥褻〉という概念も立ち上がらない。そうなると、日本におけるこうした二元論の成り立ちは、〈美術〉の概念の成立史と綿密に重なっていることが推測できよう。 そこで、日本における〈美術〉の概念の成り立ちに着目するならば、「美術」という言葉は、明治六年(一八七三)頃、日本がウィーン万国博覧会への参加の際に、翻訳語としてはじめてつくられた。それ以降、美術の概念すら定まらないなかで、官僚機構を中心とした殖産興業と古器旧物の保護に関する美術政策が進められていき、官僚によって組織された最初の美術団体である竜池会が設立された。また明治十三年には内務省博物局により官展「観古美術会」が開催され、この美術展は視覚表現(絵画)のみを展示する初めての展覧会であった。こうした時代の流れのなかで、明治期の日本に〈美術〉への認識が徐々に浸透していったのである。 ところが、この美術概念の成立と浸透の歴史に春画が巻き込まれることになる。その最たる出来事が、明治二十年代から三十年代にかけて繰り広げられた「裸体画論争」である。いわゆる「西洋裸体画は芸術か、猥褻か」を問う画壇論争である。こうした論争は、江戸時代より続く旧来の文化的価値と、西欧から移植した新来の価値観が衝突するなかで引き起こされた。明治二十二年の山田美妙による「裸胡蝶論争」に始まり、明治二十八年の「黒田清輝の『朝妝』裸体画問題」、そしてこれらの論争に呼応するかたちで、新聞ジャーナリズムや美術雑誌において「裸体画は芸術か、猥褻か」の論争がしきりにくりかえされていった。 ところが、これらの論争は、どれも一見、裸体画における社会道徳上の問題を取り扱うように見せながら、実はその本意は「裸体画」から〈猥褻〉の認識を引き離すところにあった。この時期にこうした主張がくり返されたのも、日本の洋画家たちが、西洋裸体画を〈猥褻〉な表現とは一線を画す美術作品としていち早く世に認めさせる必要に迫られていたからである。それはまさに〈美術〉と〈猥褻〉を明確に区別し、前者に裸体画を結びつけ、確固たる美術概念を世の中に植え付けることを狙いとした。しかもそこには裸体画から猥褻の価値認識を引き離す際の相対的事物として、春画が利用されたのである。このことは、明治の洋画家中村不折の言葉からも、明確に知ることができる。 元来當局者がかく裸体に対して厳しい制限を設けるのは、春画と裸体画とを混同して居るのに原因すると思ふ。春画は猥褻を主としたもの、一方は神聖な目的の為めに書いたものを、味噌も糞も一所にするに到つては、殆ど何と評しやうもない。(中村不折『畫界漫語』〈明治三十九年〉) つまり、裸体画を新来の西欧の芸術表現として世に認知させるためには、旧来の日本の世俗表現である春画を猥褻の彼岸へと追いやる必要があったのだ。裸体画の芸術的な至高性をより強調するためには、相対的に春画をその地位へ落とし込まなければならなかったといえよう。こうして明治二十年代から三十年代にかけての時代に、春画は猥褻画と見なされるようになった。いわば、春画を猥褻の概念で捉える社会的慣習がつくられたのである。このようにみていけば、「美術か、猥褻か」という議論自体が、美術という近代概念(モダニズム)がその場に移入されてはじめて起こりうる問題である。言い換えるなら、〈美術〉という概念がその場に入ってこなければ、〈猥褻〉という概念もまたその場には立ち上がらない。くり返すが、双方の概念は表裏一体の関係にある。つまりこの議論自体が、すでに極めてモダニズム的な発想に基づいており、春画が盛行した江戸時代にはない考え方である。 展示とオリエンタリズムの亡霊 ところが現在の日本では、このモダニズム的な発想が、さらにねじれを起こしつつある。春画を〈美術(アート)〉の概念と結び付ける社会的慣習が形成されはじめている。その要因の一つとなったのが、二〇一三年にイギリスの大英博物館で開催された春画展であろう。同展覧会では、そのタイトル「Shunga sex and pleasure in Japanese art」が示すように、日本の春画を明確に美術作品と見なしている。ところが、考えてみれば、そもそも「アート」は、ヨーロッパという場でつくられた西洋概念である。しかも、その概念を西欧においては「他者」である日本の、前近代の産物である春画に当てはめる考え方に少なからず違和感を抱かざるを得ない。春画がアートであるのか、ないのかという議論はひとまず棚上げしたとしても、なぜ大英博物館の春画展において日本の春画が「アート」の範疇に組み込まれたのかという疑点は看過できない。 たとえば同展覧会では、日本の春画を理解するうえで「検閲」や「パロディ」の項目を立てた。にもかかわらず、その全体の枠組みとしては、春画を日本美術のなかに収めている。 ごく素朴に考えて、日本人が認識する美術作品のなかで、「検閲」の対象になったものがあるだろうか。それこそ黒田清輝の油絵『朝妝』であろう。しかしこの作品も、結局は美術作品として世相に認められた。また別の観点に準ずるならば、春画を検閲の対象として捉える行為そのものが、先験的に春画を猥褻と見なす眼差しを発端としているのではなかろうか。一方、パロディという考え方も、西欧からの借り物であるにもかかわらず、そうした見方を日本の美術作品にどれだけ当てはめて考えることができるだろうか。結局、春画を理解するうえで「検閲」や「パロディ」の見方を用いれば用いるほど、西欧が作り出した「美術(アート)」の範疇から遠ざかる。 大英博物館の春画展が示したこの矛盾を、いったい我々はどのように処理したらよいのであろうか。その疑問は尽きないが、一点、言えることは、西洋にとって他者である日本の春画が、ヨーロッパの主要博物館の「場」で、「アート」の範疇に組み込まれた背景には、西洋が東洋に抱く「オリエンタリズム」の亡霊を見ざるを得ない。「オリエンタリズム」とは、ずいぶんと使い古された言葉である。ただそこには、東方の珍奇でめずらしい事物に対する西欧が抱く好奇のまなざしがあり、その裏には、東洋の事物や価値観を自前の概念範疇に取り込む欲望が秘められている。このバイアスこそが、日本の春画を容易に「アート」の概念と結びつけさせ、自明の理の内に矛盾や違和感を隠し込んだにちがいない。しかもその他者への眼差しは、「芸術(アート)か、猥褻(ポルノ)か」の問いさえも立てることができない境地へと春画を引き上げた。 もっとも現在、西洋の主要な美術館や博物館は、諸地域の文化を地球規模の普遍的視座のもとに均一(グローバル)化する文化平行主義を展示に取り入れることで、従来のオリエンタリズム的思考を乗り越えようと試みている。ところが、この行為がかえって西欧において「オリエント」への見方を浮き上がらせてしまい、異質なもの、他者であるものを展示した美術館や博物館の革新性や中心性を指示することで終わってしまう。このことは、日本の春画展のキャッチフレーズ「世界が、先に驚いた。」からも明確に知ることができる。もっともこの皮肉は、そもそも諸地域の文化事物に対する認識は、境界や辺境を越えて均一化できるものではないことを前提とするがゆえに引き起こされる。つまり展示される諸地域の文化物は、それぞれの歴史や風土に依拠した文化的差異に基づき、けっしてグローバルかつ西洋的な概念範疇に閉じ込めることはできないのである。 その点で、大英博物館での春画展と、日本での春画展は、同じ展示という行為ながら、その意義は大きく異なる。日本での春画展示は、文化の当事者であるがゆえに、オリエンタリズムというバイアスの助けをかりることができない。われわれは面と向かって自らの過去の歴史と向き合わなければならず、もしその認識に矛盾点や違和感があれば、自己崩壊を招きかねない。つまり日本社会にとって春画は、「他者」ではないのだ。そのため当然、自らの歴史に潜む魅惑の秘め事に直面したときに、その文化を直視することへの躊躇と自問自答をくり返さざるを得ない。昨今の日本社会における「春画は芸術か、猥褻か」の問いは、そうした当事者ゆえの苦闘を端的に示しているのではなかろうか。 もちろん、この問いに答えを見出すことはできない。おそらく永青文庫は、そのことを百も承知で春画展を実施したであろう。彼らは日本社会が自らの歴史や文化に直面したときに生じる躊躇や戸惑いを乗り越える勇気をもって、春画の展示に踏み切ったにちがいない。その英断と実行は、他者である大英博物館の春画展とは、本質的に異なる。 最後に、この二元論的な問いに明確な答えを見出せないならば、われわれ自身が自らの目で、おのれの経験や知識を通じて、春画の本質を見定めなければならない。この愚問に、足もとをすくわれている時間(ひま)などないのだ。展覧会には期限がある。春画の実物を自らの目で見定めるチャンスは、限られている。そのことを忘れてはならない。

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    “顎クイ”のキスより進んでいる春画のやんごとない世界

    佐伯順子(女性文化史研究家) 三味線音楽や邦舞、浮世絵等の江戸文化は、歌舞伎や遊廓と密接な関係をもちながら発展してきた。遊廓は、芸能や茶、香、花を楽しむ、江戸の文化センターでもあったが、そこには男女の営みが含まれ、歌舞伎にも、男色という性の楽しみが背後に存在した。春画が隆盛を極めたのも、様々なエンタテインメントの底に性があったという、江戸文化の特色のひとつといえるかもしれない。 ただ、であれば美人画のように、遊女や遊廓を素材にした春画が多いかと思いきや、事実は逆に、妻や娘といった素人の女性が春画に多く登場するのも興味深い。江戸時代の女性といえば、窮屈な儒教道徳に縛られ、浮気をすれば厳しい処罰を受けるという一般的なイメージがあるかもしれないが、それは近松門左衛門の浄瑠璃や歌舞伎が描く一部のイメージにすぎない。もちろん、夫に管理される不自由な妻たちも存在したことは一面の事実であるが、芝居や浄瑠璃にとりあげられる女性たちは、武士の妻や裕福な町人など、限られた女性たちであり、江戸の市井の女性たちの多くは、パートナーと、またはイケメンの少年役者と、自由に逢引きを楽しんでいたことを、春画の表現は伝えてくれる。 江戸時代の女性たちの性生活は、その積極性によって特徴づけられるといわれる(田中優子『張型』)ように、春画には、自然な表情で悦びにひたる満足げな女性たちの姿が随所にみられる。遊女のように、金銭を媒介にして必ずしも好きではない相手と交わるのであれば、不本意な忍耐や抑圧の悲しみが払拭できない。だが、商売をぬきにして主体的に快楽を求める女性たちの悦びの姿を描くところにこそ、春画の真骨頂がある。人間の性愛を描いた春画を国内で初めて本格的に紹介する「春画展」=東京都文京区の永青文庫 春画の主題の多くが夫婦の交わりであることは、誰はばかることなく、こころと身体のコミュニケーションを満喫できる間柄であるからだろう。女性が微笑みながら男性に覆いかぶさっていたり、男性の顎に手をあてて接吻したりしている図のように、女性のリードがみられる絵柄もあり、男性優位の性関係ではない多様な逢引きのありさまが描きわけられている。現代の、男性主導のいわゆる“顎クイ”のキスよりも”進んでいる“(?)とさえいえるかもしれない。 春画の前書きでは、イザナミとイザナギの夫婦の交わりが引き合いに出され、人間の男女の交渉のむこうには、神々の姿が想定されている。そもそも日本の国土は、イザナミ・イザナギの神々の交合によって生まれたのであり、日本神話の源には、性の営みを神聖な行為として崇める「聖なる性」の信仰がある。 日本の宗教儀礼には今でも、男女の生殖器をご神体として担ぐ祭礼(愛知県・田縣神社など)や、男女の交わりを実演として含む芸能(奈良県・飛鳥坐神社など)が残されており、日本の信仰世界において、男女の仲をことほぐ心性は連綿と受け継がれている。これらの祭礼で崇められる生殖器は、県神社の男根のように巨大なものもあるが、春画に描かれる男女の秘部が人体に比して大きく、顔と同じくらいの大きさにデフォルメされている例があるのも、生殖器に聖なるパワーを期待する心性の表現ではなかろうか。 春画という用語は当時、一般的なものではなく、「笑い絵」と称されていたが、笑いにも民俗学的には招福の意味があり、江戸期の春画が、魔除けや戦勝祈願という、おまじない的な意味をもっていたのも、性のパワーが幸福を招くパワーにつながると信じられたからであろう。実際、天真爛漫に逢引きを楽しんでいる春画の男女の姿をながめると、つい微笑んでしまいたくなることもあり、幸福感がのりうつるような感情にかられることもある。 命を産む性の営みを神聖なものとみなし、豊穣への祈りと結び付ける発想は、イギリスの社会人類学者のフレイザーが『金枝篇』で紹介する「類感呪術」にも通じ、海外にもみられる心性である。そのような視点で眺めれば、春画もどことなく、やんごとないものに見えてくるのではあるまいか。やんごとない世界であるからこそ、美しい調度品や着物といった、凝った意匠で飾り立て、目にも美しい作品として世に送りだされたのである。有名な、タコと交わっている女性の姿も、エロチックでありつつ、タコの腕や足の曲線の造形が巧みであり、デザイン的にも秀逸である。愛する人との一夜をロマンチックに演出したいと思う気持ちは、江戸の男女も現代の恋人にも変わりはないと思われるが、現代の恋愛映画などのいわゆるベッド・シーンは、往々にして雰囲気の描写にとどめているのに対し、露骨な交合の場面を色彩豊かな図像にとどめた江戸の絵師たちの才能には感服するしかない。 十二枚一組という春画の形式が、一年十二か月の風物にのっとったものであり、四季おりおりの風情が豊かにおりこまれていると紹介されるように(山本ゆかり『春画を旅する』)、床の間の紅梅や戸外のホトトギスの声など、日本ならではの自然の彩が、男女の逢引きに興を添える。視覚的な美しさのみならず、薫りや鳥の音までをも伝える春画の表現は、まさに日本美術の粋のひとつであり、まぎれもなく、猥褻ではなく芸術なのである。

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    もういい加減「芸術かワイセツか」はやめようよ

    ない。あるいは、どうにでも答えられる問いである。書くのならそのことを書こうと思ってお引き受けした。 メディアは盛んにこの問いを口にするが、春画を目にして、いったい誰がこの問いを思い浮かべるだろうか。永青文庫を訪れて、歌麿なり北斎なりの絵の前に立って、「うーん、これは芸術だな、こっちはワイセツだな、するとあれはどっちだろう」などと悩んでいる人がいたらお目にかかりたいものだ。大英博物館「Shunga:sex and pleasure in Japanese art」(撮影 木下直之) そうではなく、「ワイセツかそうではないか」と考えながら見ている人はいるかもしれない。もし会場でそんな人を見かけたら、間違いなくそれは刑法175条と照らし合わせながら眺めている警察関係者だ。おそらく彼あるいは彼女の頭に、「芸術か否か」という問いはない。そんなことまで考え出したら、ますます判断に窮するからだ。もっと即物的に、性器が見えているか見えていないか、大きいかちょうどいいかなどと判断する。ちょうど昨年夏に、愛知県美術館の「これからの写真」展会場から鷹野隆大の作品撤去を命じた愛知県警のように。 わたしは若い頃に『美術という見世物』(今は講談社学術文庫で読んでいただける)という本を書いたくらいだから、それが「美術」であるとも「芸術」であるともそう簡単には判断しない。いや、できない。ある時代のある地域の人々がある造形表現を「美術」だとか「芸術」だとか判定してきたにすぎないと思うからだ。 一方の「ワイセツ」はもっと曖昧でもっと厄介だ。iRONNAがそれをカタカナで表記するのはなぜだろう。刑法は「わいせつ」とひらがなで表記している。編集部がひらがなでは猥褻感が足りないと思ったからかな。 それはある意味で正しい。ひらがなの「わいせつ」には、猥褻な感じがまるでないからだ。昔は刑法も「猥褻」と漢字で書いた。猥褻犯と書けば、いかにもいやらしい。それがひらがなに変えたのは、刑法の口語化の一環である。つい近年のことだ。 世の中わかりやすく、わかりやすくという方向に流れ、行政はやたらとひらがなの表記を好み、ひらがなの市町村までつぎつぎと登場、結果として猥褻まで何であるのかがわからなくなってしまった。警察が「わいせつ」というひらがな表記の概念を頭に浮かべながら、おそらくはマニュアルどおりにわいせつ物を取り締るのは喜劇としかいいようがない。「好色」を「猥褻」に変えたもの ここからは、「猥褻」と断然漢字で表記する。江戸時代には、つまり春画の全盛期にはこの言葉は使われていない。「みだら」とか「みだりがわしい」という表現はあったが(猥や淫はそこに登場)、春画・春本に対しては「好色」と呼ぶことが一般的だった。井原西鶴『好色一代男』のあの「好色」で、主人公世之介は話の最後に、好色丸を仕立て、たくさんの「枕絵(春画のこと。笑絵とも呼ばれた)」を積み込み、女護島に向かって船出する。 では、「好色」を「猥褻」に変えたのは誰の仕業だろうか。明治政府による法整備の段階で、「猥褻」は登場する。刑法(1880年制定の旧刑法)はフランス刑法をモデルにつくられたから、フランス語のobscéneの翻訳語として「猥褻」があてられた。ところが、明治になってもこの言葉は一般的に使われるものではなかった。中国語ではむしろ「淫猥」を使うと同僚の中国研究者から教えられた。つまり、文明開化の時代に、過去との断絶を強く意識して、「猥褻」なる言葉が選ばれたのだという。それが日本社会のルールとしてしっかりと根付き、今なお、猥褻をめぐる大騒ぎ(たとえばろくでなし子裁判)を繰り広げている。 余談だが、ろくでなし子さんの逮捕と起訴は不当だと思う。春になって公判が始まった時、思わず「税金の無駄遣いじゃのお」という菅原文太の台詞(「仁義なき戦い 頂上作戦」1973年)が思い浮かんだが、サド裁判を体験した澁澤龍彦が第1審最終意見陳述を「一言で申しますと、本裁判は、税金の無駄づかい以外の何ものでもないのではないかという、大へん空しい感じを受けるわけです。」という発言で始めていたことを知った(東京地方裁判所第17回公判、1962年8月2日)。 そんなわけで、去年から開講している「近代日本の性表現」という授業で、受講者にはまず「猥褻」の字が書けることを求めている。猥褻を論じるのなら、せめて漢字で論じようよ。 さて、「芸術」も「猥褻」も言葉が存在する以上、それらが指し示すものは当然ある。もちろん主観的にだが。問題はこれを二者択一の問いで済ませてよいのかだ。すぐにわかることだが、両者にはほかの組み合わせだってあるからだ。「芸術だから猥褻」、「猥褻だから芸術」、「芸術でありかつ猥褻」、「芸術でもなければ猥褻でもない」等々。かつて、愛のコリーダ裁判を経験した大島渚は、「ワイセツで何が悪い」と主張、二者択一は誤りと喝破した。 また、「わいせつコミック裁判」で知られる松文館裁判では、第1審で、「浮世絵ないし江戸時代や明治時代の春画は、それぞれに、著名な浮世絵作家の作品として、あるいは懐古一趣味に応える歴史的文物として、興味を抱かせるものであり、性行為の指導書も、夫婦を中心とする男女の性生活の充実に資するものであるなど、本件漫画本とは、読者が興味の対象とする目的及び内容を異にしており、専ら読者の好色的興味に訴えるものとはいえない。」(東京地方裁判所判決、2004年1月13日)という判決が出されている。こうした戦後の猥褻裁判をめぐる数々の議論を振り返れば、まるで振り出しに戻ったかのように、今さら「芸術か猥褻か」を持ち出すことは安直としかいいようがない。広く享受された芸術性 ところで、永青文庫での春画展が春画の芸術的な側面に強い光を当てていることは間違いない。とりわけ、永青文庫が旧熊本藩細川家に伝来した宝物を受け継ぐ博物館であることから、旧大名家に伝わる肉筆の絵巻を揃えた。そして、それら蔵の中に眠っていたものを明るみに出したことの意義は大きい。春画が庶民のものばかりでなく、上流階級のものでもあり、幅広い層に享受されたことを教えてくれるからだ。 肉筆の絵巻となれば一流の絵師に発注した贅を尽くしたものである。庶民向けに複数生産された版画とでは表現の質に雲泥の差がある。とはいえ、版画も選りすぐりの上質なものを集めている。鳥居清長の「袖の巻」や喜多川歌麿の「歌満くら」などを目にすれば、その絵画表現の高さに息をのむばかりだ。「春画の名品」を集めた本展は「世界に誇るべき美の世界」(リーフレットの案内文)をこれでもかこれでもかと見せてくれる。 展覧会場を訪れ、春画にはそのような実態があった。猥褻や卑猥などという表現で簡単に片付けられないものだということを知る一方で、そこに強い光を照射しているのは現代人の価値観によるのだということも自覚しなければならない。 こうも言い換えることができる。春画は女性にも喜ばれたという実態がある。それは近年の研究が明らかにした(たとえばアンドリュー・ガーストル『江戸をんなの春画本』平凡社新書、2011)。一方、それを「女子」のための春画ととらえることはあくまでも現在の評価である(たとえば「特集 恋する春画」『芸術新潮』2010年12月号や「女子のための入門 特集春画」『美術手帖』2015年10月号)。 何であれ光を当てれば陰に回るものがある。春画の芸術性が強調されればされるほど、美しいとはいえないもの、低俗なもの、低級なもの、下品なものが見えなくなる。貸本屋の手でぐるぐる流通し、結果的にぼろぼろになってまで読まれた春本もある。それらもひっくるめて春画の世界が広がっていたことも忘れてはならない。本物を見ることの意義 本展に先行して2013年秋にロンドンの大英博物館で開かれた春画展は、英語のタイトルをShunga:sex and pleasure in Japanese artとうたった以上、これまた「芸術」もしくは「美術」という枠組みの中に春画を収めた。しかし、それだけでは不十分と考えた企画者は、「春画と近代世界 Shunga and the modern world」というコーナーを展示室の最後に設け、春画を模した写真(ポルノグラフィーと呼んでよいだろう)や日本の兵隊がロシアの兵隊を犯しているようなあんまり趣味のよくない春画までをも展示した。永青文庫の春画展はこうした視野に欠けるが、会場のキャパシティという現実問題があるわけだから、それは仕方がない。これを突破口に、新たな観点から新たな春画の世界に光を当てる第2、第3の春画展が各地の博物館・美術館で開催されることを期待したい。福岡市美術館「肉筆浮世絵の世界・・・美人画、風俗画、そして春画展」(撮影 木下直之) もちろん、今の日本でそれが容易に実現するとは思えないものの、今年の夏に「肉筆浮世絵の世界・・・美人画、風俗画、そして春画展」を開催した福岡市美術館はひとつのモデルとなるだろう。会場の一隅に春画展示室を設け、力まずに淡々と、春画を見ずに浮世絵の世界を知るなかれと主張していた。公立美術館が春画を公開展示したという点では、永青文庫の春画展よりも画期的な出来事だった。 長い間、春画そのものが日陰の存在だった。1990年代に入って、出版物で春画が無修正で見られるようになっても、日本国内では本物を見る機会は極端に限られていた。閉ざされた扉を研究者が徐々に切り開いた。大英博物館の春画展は、日英合同の研究プロジェクトチームによって周到に準備された。研究に裏打ちされてこそ、春画の多様な世界が見えてくる。 本物を見ることの意義は表現の精度にふれるばかりでなく、形態を知ることにもある。かたちはそれがどのように享受されていたかを示すからだ。印刷物の図版ではなかなかわからない。 それを掲載したことで文藝春秋の社長が激怒し、『週刊文春』編集長に3ケ月の「休養」を命じたと伝わる北斎の「海女とタコ」の絵は、実は絵本(春本、艶本ともいう)なのである。紙面をびっしりと埋める詞書を読むと(もちろん研究者の助けを借りて)、海女がタコに一方的に犯されているのではなく、対等に張り合っていることもわかる。社長も、本物を見て海女とタコのバカバカしい会話に耳を傾けたうえで、それから激怒してほしかった。

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    「村上春樹が大江健三郎化する理由」を熱く考察してみる

    木走正水 固い時事ネタが続きましたので、今日は軽めなコラムということで、肩の力を抜いて読み流していただければ幸いです。 BLOGOSの記事で、作家の村上春樹さんが「原子力発電所ではなく、核発電所と呼びませんか?」とネットで呼びかけていることを知りました。川名 ゆうじ2015年04月06日 12:01「原子力発電所」ではなく、「核発電所」と呼びませんか? 村上春樹さんが呼びかけhttp://blogos.com/article/109523/ ソースはこちらのサイトですね。村上さんのところこれから「核発電所」と呼びませんか?http://www.welluneednt.com/entry/2015/04/03/173000 なるほど、確かに提案されていますです。これから「原子力発電所」ではなく、「核発電所」と呼びませんか? その方が、それに反対する人々の主張もより明確になると思うのですが。それが僕からのささやかな提案です。 まあ、確かに「原子力発電所」は英語で"Nuclear power plant"ですから直訳すれば「核力発電所」ですから、「核発電所」を呼称としてもよろしいかもですが、そんなこといったら、広島や長崎に投下された「原爆」も「原子爆弾」="Atomic bomb"でありますが、よりリアルに「核爆弾」="nuclear bomb"でもよろしいのかとなります。 でも、日本語では「原子力発電所」のほうが略して「原発」ですから「原爆」に語呂があってよりおどろおどろしいと思うのですが、いかがでしょう。 さてBLOGOSのコメント欄でも批判的意見が大半なのですが、最初のコメントで「こうして村上も大江化するわけだ」との指摘があり、思わず我が意を得たりと、膝を叩いて、お茶吹いてしまいました(苦笑) 今回はこのコメントをパクらせていただき、この深遠なるテーマ「村上春樹が大江健三郎化する理由」を熱く考察したいのであります。 ・・・ 実は当ブログでは「村上春樹の大江健三郎化」は6年前から注目していたのであります。脱原発法制定全国ネットワーク設立記者会見で発言する作家で代表世話人の大江健三郎さん=2012年8月22日、衆院第1議員会館 思えば「村上春樹の大江健三郎化」ですが、ここ最近顕著なのでありますが、ひとつのきっかけは、六年前の村上春樹「エルサレム賞」受賞スピーチに見ることができます。 少なからずの批判や反対を押してわざわざイスラエルの授賞式に参加した村上氏は、当時イスラエルのおこしたガザ攻撃への批判をおこなうのです。 この村上春樹さんのエルサレムスピーチでありますがタイトルは「壁と卵」、もちろん、当時国際的批判を浴びていたイスラエルのガザ攻撃を暗喩しているのであります、さすがノーベル証候補と噂される世界的人気作家であります、美味い表現をいたします。 村上氏は「私は常に卵側に立つ」、「その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます」と、強者より弱者の立場に立つことを強調されています。 それまであまり政治的主張を公(おおやけ)にしてこなかった村上氏の政治的主張を自ら発信するという「大江健三郎化」の始まりであります。(参考当ブログ過去エントリー)2009-02-23「壁(システム)と卵(人間)の共生」~村上春樹氏「壁と卵」スピーチからの一愚考http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20090223  帰国すると、村上氏は『文藝春秋』2009年4月号で、独占インタビュー「僕はなぜエルサレムに行ったのか」を掲載、そこで村上氏が「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖い」と強烈なネット批判をかまします、そして「あの村上春樹がネット批判」とネットがざわついたのであります。 「人は原理主義に取り込まれると、魂の柔らかい部分を失ってい」くと村上氏はいいます。 そして、シオニズムにせよイスラム原理主義にせよオウム真理教にせよ、それが宗教であれイデオロギーであれ、ある種の「原理主義」に魂を委譲してしまう人たちは、「原理原則の命じるままに動くようになる」ために、極めて扱いづらい危険な存在となっていくというのです。 「ネット空間にはびこる正論原理主義」について、村上氏は1960年代の学生運動を持ち出して「おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまった」と述べておられます。 村上氏がいう「ネット空間にはびこる正論原理主義」とは、「純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されて」しまうというわけです。(参考当ブログ過去エントリー)2009-03-15 ネット日和見主義者~当日記はD層(穏健右派)でありますhttp://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20090315 このあたりまでは、しかし、大江健三郎氏のような「九条を守れ」とか「原発即刻全面廃止」とか政治的自己主張をむき出しにはしていません、村上氏らしいオブラードのように文学的修辞をも忘れていませんです。 あれって思ったのは3年前です。 当時、日本政府と中国政府が尖閣を巡って厳しい外交宣伝戦を国連において展開しているそのときに、日本政府の背後から、銃弾が炸裂するように、思い切り国益に反する発言が続けざまになされていました。 その論陣に大江健三郎氏らに交じって村上氏が参戦していたので驚いたのであります。「韓国、中国が、もっとも弱く、外交的主張が不可能であった中で日本が領有した」(大江健三郎氏ら識者)「領土問題が国民感情の領域に踏み込んでくると、出口のない危険な状況を出現させる」(村上春樹氏)「自分たちに問題がなくても相手が問題と言っていることを解決するのがトップの役割。そのようなことは言ってもらいたくない」(経団連の米倉弘昌会長) 当時、当ブログでは「この3者に共通しているのは、日本社会の構成員でありながら日本社会を批判することを厭わない無責任なアウトサイダーだということ」と批判しています。(参考当ブログ過去エントリー)2012-09-30「利(益)は中国に有り」~尖閣で日本政府批判をする無責任なアウトサイダーたちhttp://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20120930 そして今回の「これから原子力発電所ではなく、核発電所と呼びませんか?」発言です。 もともとリベラル的立ち位置ではあったのですが、穏健リベラル派から正論原理主義的強硬リベラル派へと脱皮しようとしているのであります。(※ここでは「リベラル」を厳密なその言葉の定義ではなく日本で一般化している左派の同義語として使用します) 「村上春樹の大江健三郎化」であります。 ・・・ さて、左派にしろ右派にしろ、強硬派「正論原理主義」つまり「純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間」(村上氏)と穏便派「日和見主義」つまり「自分の言葉で誠実に語ろうとする人々」(村上氏)に分けることが可能です。 保守・リベラル、強硬派・穏健派の関係を下の図式のように整理してみます。■図1:イデオロギーと心情の分類 4つの層ですが、A層はリベラル強硬派、B層は保守強硬派、C層はリベラル穏健派、D層は保守穏健派と分類できます。 過激でときに攻撃的な正論原理主義者はA層(リベラル強硬派)とB層(保守強硬派)になり、穏健派はC層(リベラル派)とD層(保守派)になります。 ちなみに当ブログの自己評価はC層に近いD層(保守穏健派)かなと考えてます。 でこの表でおもしろいと思うのは、著者自身はD層(保守穏健派)と自己認識していますが、当然ながら隣接するB層(保守強硬派)とC層(穏健リベラル)とは、親和性があり、議論によっては隣の層の立場を取ることもしばしばながら、B層よりはC層の論説や考え方がすっきりくることが多いのです。 つまりこの表の左右の移動はそれほど心理的ハードルは高くないことを自覚しています。 いっぽう上下の移動はこれは心理的ハードルが高いのです。 ところで、正論原理主義は「純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす」のが得意な傾向があり、実はA層とB層も親和性があって、ちょっとしたきっかけでウヨがサヨになったりあるいは逆が起こったりするようです。 村上氏の指摘とおりバリバリの学生運動闘士がバリバリの企業戦士に転向したり、読売主幹のナベツネさんのように学生のとき共産党員だったバリバリリベラルが大新聞会長としてバリバリ保守論説を展開したりと、表の横方向のリベラルと保守のハードルは人にもよるのでしょうが、意外と高くない感じがします。 ・・・ さて、「村上春樹の大江健三郎化」であります。 明らかに村上氏は「C層リベラル穏健派」から大江健三郎氏が属する「A層リベラル強硬派」への道を歩んでいます。 上下の移動はこれは心理的ハードルが高いはずなのですが、村上氏はおそらく心理的にはかなり無理して自らの大江健三郎化を企てているように思えます。 村上春樹はなぜ政治的立ち位置で大江健三郎を目指すのでしょうか。 なぜか? 当ブログはその答えを、ズバリ「ノーベル文学賞」獲得にあると邪推しております。 これは当ブログだけの邪推ではありません。 評論家で作家の小谷野敦氏は、過去になぜ大江がノーベル賞を受賞できて村上が毎回落選するのか、その理由の一つに作家の「政治的な立ち位置」を挙げています。 「ノーベル賞委員会は、少し左寄りである」のだそうです。  さらに政治的な立ち位置も関係している。小谷野に言わせると「ノーベル賞委員会は、少し左寄りである」という。たとえば、アメリカで初めてノーベル文学賞を獲ったシンクレア・ルイスや、授与されたが辞退したサルトルも、社会主義的だった。日本では保守派と見られる川端康成も「その辺はぬかりなく、戦後は平和主義の仮面をかぶり続けた。ノーベル賞をとってしまうと地金が出て、(略)以後日本ペンクラブは右寄りに」なったという。 当時大江健三郎はペンクラブを一度退会しているのだが、その後またペンクラブが左寄りに戻ると、戻ってきて理事になっている。そして「1984年には反核声明を出すなどしているし、大江は原爆、沖縄などを問題視する平和主義者としてふるまい、ノーベル賞にこぎつけた」(参考記事)今年も落選!村上春樹はそもそもノーベル文学賞候補ではないとの説が!?http://news.livedoor.com/article/detail/9344101/ ・・・ 大江健三郎化を目論む村上春樹の狙いはズバリ、ノーベル文学賞獲得のためだと、当ブログは考えます。 今回は 深遠なるテーマ「村上春樹が大江健三郎化する理由」を熱く考察させていただきました。 え? どうでもいいって? 長文失礼しました(汗 ふう。(木走まさみず)