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    政権批判なら何でもいいのか トンチンカンな左派マスコミ

    金融政策の目的を勘違いした日銀批判は論外だ高橋洋一(嘉悦大学教授)金融政策の究極の目的は雇用にある 今年4月10日、テレビ朝日の『報道ステーション』(2014年11月24日放送)が「アベノミクスの効果が大企業や富裕層のみに及び、それ以外の国民には及んでいないかのごとく断定する内容」として、「公平中立」な番組作成を自民党に要請されたと報じられた。公平中立な番組作成が可能かどうかはともかく、アベノミクスや日銀の金融政策をめぐる報道には首をかしげることが多い。 たとえば2015年4月8日、黒田東彦・日銀総裁は金融政策決定会合の場で金融政策の現状維持を決定し、記者会見を開いた。企業については「前向きな投資スタンスを維持している」、個人消費は「全体として底堅く推移」と述べた。景気は「緩やかな回復基調を続けている」。輸出は「先行きも緩やかに増加」と語った。 加えて、日本では雇用が改善している。就業者数の推移(図1)を見ると、黒田日銀による「異次元緩和」を境に、就業者数が明らかに増加している。直近の2015年2月の就業者数は6322万人であり、対前年同月比で39万人増。3カ月連続の増加である(総務省統計局調べ)。雇用は、日本では金融政策の目標になっていないが、それを改善させたのは実質的には日銀である。なお、マネーストックと失業率は逆相関関係にあり、マネーストックが上がれば失業率が下がる。1970年以降のデータを見ると、マネーストックと失業率のあいだには高い逆相関が見られる(図2)。そして雇用が回復すれば、人手不足になっていずれ賃金が上がりだし、本格的な景気になる。 リーマン・ショックの翌年、2009年7月で5.7%にまで上昇していた日本の失業率は、直近の2015年2月には3.5%まで回復した。 雇用の改善は右派であろうと左派であろうと、等しく歓迎すべきことである。失業のない社会を望むのは経済学の目標だ。したがって、黒田総裁が「2年程度を念頭に、できるだけ早期に物価安定目標を実現する方針に変化はない」と述べたのも当然である。 ところが、左派マスコミは金融政策にともなう雇用の改善についていっさい報じなかった。4月4日付の『朝日新聞』『毎日新聞』『東京新聞』は軒並み、日銀が2年きっかりで2%のインフレ目標を達成しなかったことを批判した。『朝日』は「遠い 物価上昇2%」という見出しで次のように書いている。 消費者物価の上昇率は14年春、1%台前半まで上がったが、夏場以降、原油価格が落ち込んだあおりで、直近2月には0%まで鈍っている。2%の達成時期は見通せない状況だ。それでも日銀は「2年程度」や「2%」という目標を変えようとしない。期限を緩めることで、人々が日銀の宣言を信じなくなるのが怖いのだ(『朝日新聞』2015年4月4日付)。 まず「原油価格が落ち込んだあおりで」と未達成の理由を書いているのに、2%の目標未達は日銀のせいだ、というのが矛盾である。原油価格の低落はべつに日銀の責任ではないからだ。またこの記者は、金融緩和による雇用の改善というプラス要素に触れていない。のみならず、2%未達の真の理由である「消費税増税」というマイナス要素にも触れていない。偏向報道と呼ばれても不思議ではないだろう。『朝日新聞』はもともと財務省の掲げた消費増税10%に賛同した「御用新聞」の一つであり、8%増税のとき庶民の生活がいくら苦しくなろうと、「増税やむなし」とする記事を載せつづけた新聞である。財務省に迎合する報道を続けてきた手前、金融緩和の効果を認めてしまうと、「人々が朝日の報道を信じなくなるのが怖いのだ」。そして安倍首相を批判したい一心で、雇用の改善というプラス面を伏せた。しかし、結果として「何のために経済政策をするのか」という根本を見失っている。本末転倒である。 金融政策の究極の目的は雇用にある。私が小泉内閣で竹中平蔵・経済財政政策担当大臣の補佐官や第一次安倍内閣で内閣参事官を務めたとき、まず注目したのが雇用関連の統計だった。就業者数が良好であれば、それだけで経済政策は60~70点、及第点を付けることができる。 またヨーロッパの左派政党の政策を見ると、雇用が最も大きな柱であることがわかる。欧州社会党(Party of European Socialists、PES)や欧州左翼党(Party of the European Left、EUL)はいずれも雇用確保のための金融政策の重要性を訴え、欧州中央銀行(ECB)にインフレ目標政策を働きかけてきた。つまり、インフレ目標政策は左派の政策といってよい。ところが、日ごろ「格差の拡大」「弱肉強食」を批判する日本の左派マスコミだけが、日銀の金融政策にかみついているのはトンチンカンな光景である。消費増税の負の影響を正しく伝えるべき消費増税の負の影響を正しく伝えるべき 日本のマスコミは2%の目標未達の理由に消費税を挙げていないが、じつはそれは黒田総裁も同じである。今年4月8日の会見では「消費税の影響で実質雇用者所得が前年比でマイナスになっていたが、この春から影響はなくなる」と語った。雇用者所得への影響にとどまり、消費税が2%未達の原因とはいわない。これも不可解である。原油価格の変動や「金融緩和の効果がまだ波及していないから」という理由では、根本的な説明にならない。消費税の増税が与える負の影響を正しく伝えるべきだろう。 おさらいすると、消費税を8%にした直後、2014年5月の「消費水準指数」は対前年同月比でマイナス7.8%になった。東日本大震災が発生した2011年3月のマイナス8.1%以来の落ち込みで、最近33年間における最悪のマイナスが2011年3月だから、2番目に悪い数字である。まさに甚大な被害以外の何ものでもない。 マスコミの日銀批判に対して「消費税の増税が原因だ」「なぜ雇用が改善した事実を伝えないのか」という反論を日銀自身がすべきであり、証拠に基づく反証がなければ、マスコミとのあいだで延々と議論にならない応酬を重ねることになる。 ただし、市場関係者のなかに今年4月中の追加金融緩和を求める声があったが、これは株を買っている人のポジション・トークにすぎない。2015年4月時点で、日本の経済状況に追加の緩和を必要とする何らかの変化はなかったからだ。「あと一押し、金融緩和で株価を上げてもらいたい」という投資家の願望である。たしかに株価は景気を先取りする先行指標の一つであるが、金融政策の究極の目的はあくまでも雇用だから、これも本筋を見失った話だ。給付付き税額控除が最も簡単 以前から筆者が指摘しているように、消費増税による悪影響を払拭するためには、増税分を減税する「消費税の減税」を行なうのが最も正しい解だ。次善の策は、増税したぶんを他の景気対策で補うことである。 その次善の策について、経済学者がさまざまな自説を唱えている。ただし、そのアイデアが現実の政策となる前にはいくつも条件がある。 たとえば、今年3月に日銀審議委員に就任した原田泰氏(早稲田大学特任教授)は、国民に一人当たり7万円の基礎的収入を配るベーシック・インカム(BI)を主張している。格差対策や生活保護についていうなら、世界の趨勢はベーシック・インカムというより「給付付き税額控除」である。低所得者に対しては、消費税負担の増加分を何らかの補助金で支援するのが理屈上、正しい。そのためには給付付き税額控除が最も簡単な方法だ。 これは「負の所得税」と呼ばれる発想から生まれた政策の一つで、低所得者に対して税額控除しきれなかったぶんを一定割合、現金で払う制度である。欧州など消費税の先進国では、軽減税率の代わりにこの給付付き税額控除を行なっている。ちなみに日本の新聞は、紙面のなかでは財政破綻を言い募り、消費税の増税を主張しながら、新聞の利益になる軽減税率はちゃっかり政府に嘆願していた。業界のエゴである。 給付付き税額控除を正確に行なうには、所得と資産の捕捉を徹底しなければならない。そこで生きてくるのがマイナンバー(社会保障と税の共通番号)である。給付付き税額控除は、フローの所得で最低限の保障を賄うことだから、当人が働いて得た所得からはいくらか差し引かなければいけない。 この引くぶんを割り出すのが一苦労で、一律に現金を給付するには、各人がどれだけ働いて収入を得ているかを正確に把握しなければいけない。ベーシック・インカムの発想も、マイナンバーがなければ絵に描いた餅に終わるだろう。 日本では、2015年10月からマイナンバー制が開始予定である。市区町村が住民に通知し、日本に住むあらゆる人に12桁の個人番号が割り当てられる。2016年から国や地方自治体、健康保険組合が「社会保障」「税」「災害対策」の三分野について個人情報を管理できるようになる、という。マイナンバー導入で何が変わるかマイナンバー導入で何が変わるか 企業や個人がマイナンバーで銀行や証券の口座を開き、税務署が番号を照会すれば、入金から納税までのお金の流れをすべて把握することができる。 これまで日本では納税者番号制がなかったので、脱税が公然と放置されてきた。マイナンバー制を導入すれば、税金の未納分が一目瞭然となる。税逃れのないようにきちんと管理すれば、日本の税収は増え、消費税率の引き上げなど二の次、三の次であることがわかる。それほど消費税というのは脱税が多いのだ。米国の社会保障カードのサンプル たとえば日本の小売業者は、納入業者から商品を仕入れるときに負担する消費税額を、商品を売ったときに得る消費税額から引いている。しかしその際、納入業者からの納品書に消費税額が記されていない。事実上「言い値」になっているので、仕入れの際に小売業者が負担額を多く見積もれば、小売店の払う消費税額を減らすことができてしまう。 この納入システム上の欠陥によって取り逃がしている消費税は、およそ3兆円に上ると見られる。納品書に消費税額を明記してその額だけを控除できるようにするインボイス方式(税額伝票)に切り替えれば、消費税の徴収漏れを確実に防ぐことができる。 日本は現在、社会保険料で10兆円、脱税で5兆円、消費税で3兆円が未納だという。計20兆円近くの税金が支払われておらず、源泉徴収をされるサラリーマンをはじめとして、税金をまともに納めている国民は馬鹿を見つづけている。このような制度上の不備は即、変えなければならない。 これまで取り逃がしていた脱税分をマイナンバーで捕捉し、税金を集めるのは有効な財政政策である。消費税を増税する前に、個人が払う消費税と企業が払う法人税が「二重課税」になっている、という根本的な問題があることも浮き彫りになるだろう。 だが、財務省のいうとおりに「消費税率を上げなければ財政破綻する」と報じていた左派マスコミは、揃ってマイナンバーの導入に消極的だった。なぜか。 マイナンバー制に反対したのは、税金逃れをしている人や、仕事を増やしたくない役人を除けば「プライバシーの侵害にあたる」という左派の主張である。しかし、税や社会保障に関してプライバシーで壁をつくったら、徴税も行政サービスも成り立たない。プライバシーを盾に脱税される国のほうは堪ったものではない。 マイナンバーがプライバシーの侵害なのであれば、日本以上にプライバシーに敏感なヨーロッパ各国で納税者番号制がスタンダードになっているはずがない。現実に世界で行なわれている個人情報保護の工夫を、日本も取り入れればよいだけである。日本のマスコミは、まさか脱税を放置することが正義だと考えているのだろうか。テレビに新しいネタはない 基本的に、マスコミの問題は自分でデータに当たって調べないことにある。政府の予算書一つとっても、2000ページもあるから、面倒なのだ。その代わりに記者たちは財務省のレクチャーを受け、官僚のまとめたプリントを丸呑みする。情報統制というなら、自民党の中立要請よりも、財務省の「増税は未来への責任」とのプロパガンダのほうが、新聞やテレビによほど恐ろしい統制を施しているのだ。私は官邸経験のある数少ない官僚だったが、官邸が情報統制やテレビに圧力を掛けるなどという場面に出くわしたことはない。「事実に反する」という指摘をマスコミに対して行なったことはあった。 私が霞が関にいた時代、「マスコミの脳は小鳥の脳。容量に見合う情報だけ与えておけばいい」と囁かれていた。先述のように予算書の一部さえ読まずに記事を書くのが日本の記者だから、残念なことに右の言葉はさほど間違ってはいない。 私がテレビでコメントをするときの発言は、すべてエビデンス(evidence、証拠)に基づいている。テレビ番組に出て「なぜあのような発言をしたのか」と尋ねられても、必ず該当のデータや事実を提出して答えることができる。これはテレビで喋ろうと、雑誌に書こうと変わらない。反対に財務省時代には、コメンテーターの発言が事実とまったく異なるので、データを示して問い合わせをしたことがある。事実であればイエス、事実でなければノーで謝る、という単純明快な世界である。ところが大概の人はムニャムニャいったきり返答がない。 証拠や事実というのは、好き嫌いやイデオロギーの問題とはいっさい関係ない。たとえば原発問題に関して、「一刻も早く原発再稼働を」と「一刻も早く脱原発を」という意見があるが、私はどちらでもない。原子力とLNG(液化天然ガス)火力、石炭火力、石油火力、陸上風力、洋上風力、地熱、太陽光、ガスコージェネレーション(天然ガスを使った発電で生じた排熱を冷暖房や給湯などに使う仕組み)で発電した際のコストをそれぞれ円/kW時の数値で比較し、最も効率のよい発電方式をその都度選んでいけば、おのずと市場原理に基づいた解が出るからだ。 エビデンスのない日本のマスコミに「公平中立な番組作成」は無理だし、コメントする側もテレビ番組に出て自由に発言できる、と考えること自体がおかしい。スポンサーの制約や時間の制限があるから、コメントが途中でカットされることやまったく放送されないことも日常茶飯事である。そもそもテレビ番組は多くのスタッフと共同でつくっているので、コメンテーター一人だけのものではなく、一人の意向が通るはずもない。実際にスタジオに入ってみればわかることである。 私が主張を自由に述べる媒体はあくまでも個人名で責任を取れる著書や雑誌、ブログである。テレビ番組で語る内容は、本や論考の一部分を披歴するだけだから、基本的に新しいネタはない。これはテレビを視聴する側もある程度、割り引いて見たほうがよいと思う。出演を頼むテレビ局の側もその人が書いた本を見て依頼するわけだから、おのずと限界が生じる。限られた時間と設定のなかでコメントを流し、視聴率によって番組の方向性が決まるのがテレビであり、特有のシステムとして割り切って考えるべきだろう。たかはし・よういち 嘉悦大学教授。1955年、東京都生まれ。東京大学理学部数学科、経済学部経済学科卒。博士(政策研究)。1980年、大蔵省に入省。理財局資金企画室長、プリンストン大学客員研究員、内閣参事官などを歴任。2008年、退官。著書に、『日本人が知らされていない「お金」の真実』(青春出版社)ほか多数。関連記事■ 集団的自衛権は「正当防衛」だ■ [格差社会]どん底の貧困に救いはあるか■ 高橋洋一・ブラック企業も減る!アベノミクスの効果とは

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    NHK『クロ現』やらせは「特捜のプロ」に調べさせよ

    水島宏明(法大社会学部教授)このままだと受信料の無駄遣い 『クローズアップ現代』やらせ事件。私は自分自身もテレビで調査報道を行なってきた経験から、今回の問題は“疑惑の取材”を行なったN記者による確信犯的なやらせ・捏造があったとみている。そのため、N記者がかかわった過去の取材もはたして問題がなかったのか、徹底的に検証すべきだと思っている。すでに私の元にもN記者の取材についての問題だと思われる事案について情報が寄せられている。 さて、先日、NHKの調査委員会がこの問題で中間報告を発表した。 まだ中間報告で、最終的な結論ということではないが、いわゆる「やらせ」の事実があったかどうかについては、取材をしたN記者の発言と番組に「ブローカー」として登場した人物A氏の発言が真っ向なら対立している。「ブローカー」氏はN記者から演技するよう依頼されたと発言し、N記者は否定している。また、番組の中で、「ブローカー」の活動拠点とされる事務所に相談に訪れたことになっている「多重債務者」として登場する人物B氏は、N記者とは8、9年の知り合いだというが、この人物もN記者による演技の依頼はなかったと主張している。いわば両論併記で、それぞれの人物がこう言っている、と書いてあるだけだ。 それぞれの言い分は「食い違っている」ことだけを認定したらしい。 「真実」をどうしても追及しようという迫力はまったく感じられない。 この中間報告を読む限り、最終報告もこの調子で、それぞれがこう言っている、として、両論併記になるのだろう。それで「食い違っている」というだけでそれ以上は踏み込まないものと想像ができる。 おいおい。冗談ではない! 今回の調査費用で外部の弁護士らへの報酬も受信料から出ているのだ。真面目に調査をやってもらわないと困るのは視聴者だ。 確かに、調べているのはNHKの調査委員会で、弁護士も入っているものの、強制的な調査権はない。仮にN記者とB氏が口裏を合わせ、シラを切り続けたら、それ以上は踏み込めない。本当の意味での真実は永遠に闇に葬られる。NHKは外部の委員にも意見を聞いて最終報告を出すと言っている。 しかし、このままでは真実に近づくことができないままで終わる雲行きが濃厚なのだ。 では、真実はわからないままでおしまいなのか。 実はきわめて有効な打開策がある。 この種の取り調べに慣れている元特捜検事たちのチームを作ることだ。 実際、過去にそんな事例が民放にある。 2007年に発覚した関西テレビの『発掘!あるある大辞典2』の調査報告書だ。154ページにも及んだ徹底した調査だ。これに比べると、今回のNHKの『クローズアップ現代』の調査委員会は、中間報告とはいえ、わずが数枚のペーパー。あまりに調査する意欲に欠けたものだといわざるをえない。参照:「当然、科学的根拠や実験の正確性確保のためのガイドラインの作成など、自主的なルール作りがあって然るべきであったといえる」出典:「あるある大辞典」調査報告書 関西テレビの『発掘!あるある大辞典2』についての外部委員会による調査では、調査委員長は熊崎勝彦氏。弁護士で、元東京地検特捜部長、元最高検公安部長。様々な事件の容疑者を追いつめて自白させてきた特捜の中でもプロ中のプロである。 当時の委員の一人に聞くと、熊崎委員長の取り調べは迫力があるもので、ほぼ一方的に話しているのに、当初はシラを切っていたディレクターやプロデューサーたが彼に調べられると、次第に涙を浮かべて「申し訳ありませんでした」と罪状を認め、次々に「落ちていった」という。 また実際の調査には、熊崎氏のかつての子分の元検事たちが手足として調査チームに加わって、証拠固めをしていったという。 熊崎氏は現在、日本野球機構コミッショナーだ。 NHKが本気で今回の『クロ現』の疑惑について調べる気があるなら、「特捜のプロ」であるヤメ検の弁護士たちを起用することだ。 それも大掛かりな調査チームを編成させる。 それをしないのは、NHKが民放である関西テレビがやった程度にも真剣に取り組む意思がない、ということでもある。 だが、『クローズアップの現代』の問題は調べれば調べるほど、深い闇が次々に出てきそうだ。 ちなみに『発掘!あるある大辞典2』の事件では関西テレビの社長は引責辞任した。高い取材能力で知られるNHKなのに、民放の程度にも調査しないし、潔く責任を取る最高幹部もいないのか。民放ならすぐにバレたはず民放ならすぐにバレたはず 『クロ現』のやらせ疑惑で、NHKが民放よりも甘い点 第2弾。今回の『クローズアップ現代』でのやらせ・捏造疑惑。同じことをやろうとしても民放では難しかっただろうと思われる。 民放では難しく、NHKだからこそできたのではないのか、と思う。取材を行なったN記者が週刊誌で報道されている通りにやらせを主導したとしても、民放であればかなりの確率で周囲にバレていたといえる。 民放では、多くの場合は事前にバレて、やらせの放送は実現しない。 多くの人は疑問に思うだろう。 娯楽番組を流している時間の方が圧倒的に多い民放の方が「やらせ」が難しいなんてー。 実際、BPOが審議するような「やらせ」などの問題になる放送の多くはNHKよりも民放で起きているのも現実だ。 だが、報道の現場に関する限り、少なくともこの数年以内の間であれば、今回の『クロ現』のような大胆なやらせ行為は民放局では相当に実行が難しい。 一体なぜだろうか? 周囲のスタッフが止めるからだ。 民放ではこの数年ほどの間に、一人が「やらせ」「捏造」を意図したとしても、他のスタッフによる牽制や監視によって、それが防止しようとするメカニズムが働くように次第になってきた。 特に、関西テレビ、東海テレビ、日本テレビなど、比較的最近、BPOで審査されたり、その結果として「放送倫理違反」などを 指摘されたような局は、再発防止策をきちんと立ててあり、同じようなことがあった場合にどうすべきかを繰り返し研修している。 もちろん、それによって「2度と手は出しません」というふうに100%やらせがなくなるわけではない。 しかし、ある程度の効果は出てきてもいる。 2007年に関西テレビ『発掘!あるある大辞典2』で、データなどの情報が誇張されていたり、捏造されていたりしたことがわかった。 そこで関西テレビでは、この事件後に二度とやらせや捏造などをしないように、他局に比べてもくわしい「番組制作ガイドライン」を作成している。そこでは、やらせと虚偽・捏造出典:関西テレビ放送 番組制作ガイドライン(2012年改訂版) などについて、過去の実例が出ている。 また関西テレビでは外部講師などを招いて、報道や制作にかかわる社員やスタッフの放送倫理の向上を目的とする研修会を時折、開いていて意識の向上に努めている。 2012年11月末、同社のニュース番組は、大阪市の職員が規定に違反して兼業しているという実態を、そうした実態を知る告発者の 匿名インタビューを元に特集で放送した。ところがこのニュースのVTRに出てくる告発者のインタビューは、声は当人のものであったものの、その姿は撮影スタッフの1人のものであることが判明した。 外見だけであっても虚偽の映像を使ったものとして、BPO(放送倫理・番組向上機構)の放送倫理検証委員会から放送倫理違反とされた。  この事案は、あの『発掘!あるある大辞典』で問題を起こした関西テレビが再び不祥事、という意味ではかつての事件の教訓が生かされていないという批判を受けたが、他方で、撮影について違和感を抱いて問題を最初に指摘したのがカメラマンであったことから、『あるある事件後の教訓や研修が生きた、という評価する放送関係者も少なからず存在する。 他の民放でも記者やディレクターによる取材が放送倫理上、問題があると思われる場合、カメラマンならカメラデスクなどに報告するように指導されているテレビ局は多い。 つまり、NHK『クローズアップ現代』のようなケースで、仮に記者が確信犯で「やらせ」行為に加担していたとしても、カメラマンら他のスタッフがチェックして「おかしいのではないか?」と声を上げるケースが民放では実際に多いのに、なぜ今回『クロ現』ではそうならなかったのか、という疑問が生じることになる。おそらく民放、なかでも関西テレビだったら、記者が同じようなことをしてもカメラマンが上司に告発して、放送前に問題になって、止められていただろうと想像される。 筆者もNHKの報道番組制作におけるチェック体制の厳しさは民放の比ではなく、何重ものチェックが行なわれている実態を知っている。 それにもかかわらず、今回、『クロ現』でやらせや捏造にあたる行為が発覚したのはなぜなのか。 なぜNHKが放送前にチェックできなかったのかを今後も検証していかねばならない。 ただ、当該のN記者に関しては、以前、行なっていた取材についても疑わしい点が少なからず出てきている。 そうした点で、過去のN記者の取材に関しては、カメラマン、音声マンなどの撮影スタッフや関与した制作会社も含めて、徹底した調査をしていく必要があると思う。 ひょっとして、N記者に協力した制作会社があるのではないか。 そうしたところまで調査を広げないと、『クロ現』やらせ事件の全貌はわからないと思う。(Yahoo!ニュース個人より転載)関連記事■ 卑劣なプロパガンダ「サンモニ」の正体とは■ 「政治的公平」とかけ離れた偏向テレビが国民を惑わす■ 古舘氏はなぜいつも上から目線なのか?

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    今こそNHK民営化議論を盛り上げませんか

    大関暁夫(企業コンサルタント、実業家) 筑波大学のシステム情報工学科の視覚メディア研究室、NHKが写らないアンテナを考案したというニュースは実に興味深いです。なぜこのような研究が国立大学の教授指導の下で行われたのか、どうやら現状を見るにNHKの公共放送らしからぬそのおこないの数々に、「NHKを受診しない自由があってもいい」ということから研究開発されたもののようです。http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/158752 そもそも今このアンテナが話題になる背景は、以前から時折問題になりつつも一向に止まないNHKの不祥事体質にその体質を問う風潮があると思われます。特に現時点で大きな話題になっているのは、「クローズアップ現代」のやらせ問題。私は以前にもこのページで書いていますが、サラリーマン時代に勤めていた会社でプレス担当してNHKのやらせ取材の被害にあったことがあり、今回の事件もさもありなんという心鏡で受け止めております。http://www.sankei.com/entertainments/news/150409/ent1504090004-n1.html 私が被害を受けた事件はもう20年ほど前の古い話ではありますが、「おはようニッポン」という番組でとある都市銀行の女子行員が病死し過労死問題として遺族が勤務先の銀行を訴えたと言う事件があり、その関連で私がいた銀行の女子渉外の取材にNHKが来たと言うものです。 正直に取材趣旨を語って申し込まれれば恐らく断ったであろうテーマなのですが、NHKは私に「女子戦力の活用をテーマに番組を作っているので、積極的に取り組む御行を取材したい」と趣旨をごまかして申し込みをしてきました。女子渉外の一日を取材クルーが追いかけ私は立ち会ったのですが、「がんばっている姿をたくさん撮りたいので、こうしてくれ、ああしてくれ」とのリクエストを受けましたが(後から思えば完全やらせです)、その段階では取材趣旨を信じて疑いませんでした。ところが番組を見てびっくり、番組のテーマは「銀行女子行員の過労死問題を考える」。私が受けた取材は、銀行における女子渉外職の実態紹介として「午後3時には閉店する銀行女子行員のイメージとは程遠い、朝から晩まで過酷な労働環境で働かされる姿」としての取り上げだったのです。 当然NHKに強い抗議をしました。プロデューサーは自分たちの非を認め、翌週の番組内で「お詫びコメントを出す」と約束しましたが、実際に流されたコメントは「先週の放送内で一部取材上の不手際があり、取材先にご迷惑をおかけいたしました。この場を借りてお詫び申し上げます」という、全く何のことを詫びているのか分からないいい加減なものでした。私は引き続き強い抗議を続けましたが先方は「済んだこと」として聞く耳を持たず、これを受け当時の担当役員からは「もう終わりにして、NHKの取材を受けなければいい」という指示が出され、憤懣やるかたない終わり方をしたのです。 私はそれ以降、NHKの報道系特集番組取材の体質は平気でうそをつく取材体質であると信じて疑いません。管理職であるプロデューサーが、虚偽取材の件を「そう受け取られるなら」と非を認めながらも「我々の判断基準では通常許される範囲です」とハッキリ言っていたのですから。「この組織は腐っているな」と私は思いました。今回のやらせ問題にしても、過去に何回となく起きた似たような事件も、すべては組織の体質の問題です。会長の公私混同問題も含め、NHKの全ての不祥事は結局のところ公共放送という組織がはらむ甘え体質がその根底にあると思っています。 となれば今更ではありますが、NHKはなぜ民営化しないのか。そこを今一度この機会にこそ議論すべき問題なのではないかと思うのです。電波メディアがすべてスポンサーの意向で動く民間企業になってしまったら、災害時等の優先放送の確保ができなくなるというリスクをヘッジすることが目的であるのなら、3.11災害発生時の民放の対応を見ればコマーシャル自粛を含めてなんら問題はなかったと言えるのではないでしょうか。 また民間企業のみになることで報道がスポンサーの意向を踏まえ偏向されるリスクがあると言うのなら、放送方針が「日本政府と懸け離れたものであってはならない」と公言してはばからない会長の下でNHKを運営させることの方が、よほど大きなリスクがあるのではないでしょうか。また政府が民間放送局に圧力を掛けるかのような発言を繰り返す今の政府の方が、NHKの民営化リスクなど比べ物にならないほど危ない状況であるとも思うわけです。 筑波大学の研究室には申し訳ないですが、NHKが民営化すればNHKが写らないアンテナなど不要です。他のメディアはアンテナ開発の報道をする前に、なぜそういうものが開発されたのか、そこに焦点を当てNHKの民営化の要否についてしっかりと問題提起をするべきなのではないかと思うのです。 組織の体質は管理体制を根底から変えない限り、絶対に変わりません。民間組織で言えば資本の入れ替えであり、公共機関であれば民営化以外にないのです。このまま公共放送を続けるのなら、私が体験した事件から20年ほどが経とうとしても何も体質が変わっていないことからも、やらせやウソツキ取材は繰り返されることになるでしょう。この機会にこそ、NHK民営化議論を再燃させるべく世論を盛り上げていくべきではないかと私は思います。(ブログ『日本一“熱い街”熊谷発コンサルタント兼実業家の社長日記』より転載)関連記事■ 亡国の巨大メディア、NHKは日本に必要か■ あの日を境に変わった私のメディア認識■ テレビがつまらなくなった3つの理由

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    NHK「クロ現」やらせの裏側

    NHKの報道番組「クローズアップ現代」でやらせがあったと指摘されている問題で、NHKの調査委員会は28日、最終報告を取りまとめ「過剰演出があった」と認めた。事実のねじ曲げにつながる「やらせ」は否定したが、裏付け取材が不十分として担当記者を処分した。問題はなぜ起こったか。

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    「演出」と「ヤラセ」の間 なぜヤラセが起きるのか

    たりといった対応が行われてきた。 でも、なぜ、いつまでたっても番組のヤラセはなくならないのだろうか?メディア論的に考えた場合、これは二つの要因が考えられる。一つは制作側の問題、もうひとつは番組を制作する社会的文脈の問題だ。それぞれについて考えてみよう。業績原理に追われ、基準を喪失する 先ず制作側の問題。これは搾取の構造になっている点が問題だろう。制作自体は基本下請けの制作会社が行っている。ここでは制作費が大幅にカットされており、また制作日数もタイト。そういったなかで業績原理に基づいて制作会社は番組を制作しなければならない。で、当然、限られた予算と期日の範囲でよりオモシロイ、いいかえれば視聴率を稼げるコンテンツを作成することを余儀なくされる。こうなると「よい作品を作る」ではなく「とにかくウケりゃなんでもいい」みたいな心性が制作側に根付いてくる。しかも、忙殺されているがゆえに無意識のうちにこの感覚が定着する。そこで、ちょっと演出を踏み越えてヤラセの領域に手を伸ばす。そして、これがウケると、今度はこれを「やってもいい」ということになってしまう。 そう判断するのは自分、つまり制作会社のスタッフ自身なのだが、業績原理に振り回されているので、評価されたことがOKのサインとなり、以降における演出のデフォルト的な立ち位置になってしまうのだ。当然、ここで演出は一線を越え、ヤラセモードに突入する。そして、これがウケれば、さらにどんどんとヤラセの水準はアップしていき、気がつけばトンデモナイ領域に。いや、厳密には「気づく」ことはない。ズレていることの感覚は麻痺しているので、気づくのは、ヤラセが露呈して番組が打ち切られるときなのだから。ちょっと制作側を擁護するみたいな言い方になるが(もちろん、決して擁護できるものではないけれど)、ブラック企業で働いていたら、だんだん倫理基準がおかしくなっていってしまうのとほとんど同じ構造だろう(現在、テレビのコンテンツがこの「負のスパイラル」に陥っているように思えるのだけれど)。ヤラセは社会的文脈によって規定される もうひとつの社会的文脈の方だが、これは「演出―ヤラセ」という基準が社会的レベルでどんどんずれていくことによる。つまりかつては演出の領域だったものが、今やヤラセになってしまう社会状況が作られることで発生するというものだ。 そもそも演出―ヤラセという分類はきわめて恣意的なものと考えてよい。この線引きは社会的コードによってもたらされるからだ。かつてだったらヤラセとして大騒ぎになりそうな演出が堂々となされた例、しかもNHKがやった例があるのでこれをちょっとこれを取り上げたい。 番組は10月24日の「ニュースウオッチ9」。番組内ではウルトラマンの未公開映像が発見されたと言うことで、その特集が10分間近くにわたって組まれた。ゲスト出演はなんとウルトラマン。アンカーの大越健介とアシスタントアナウンサーの井上あさひが、くそ真面目な顔でウルトラマンにこの映像の状況についてインタビューする。井上が質問すると、ウルトラマンが応える返事はシュワッチとかだけ(あたりまえだが)。ところが、このシュワッチを大越が翻訳するのだ。そして肝腎の映像の特集が組まれた後、再びスタジオが映されるのだが、そこには肝腎のウルトラマンがいない。これに大越は「ウルトラマンさんは地球上に3分間しかいられないために、すでにお帰りになりました」と説明した。そして論評抜きでコーナーは終了、何事もなかったかのように次のコーナーに移っていったのだった。 ようするに、これは完全にヤラセである。架空の人物?にインタビューして、全て嘘で固めたのだから(未公開映像についてはもちろんヤラセではない)。だが、これはオモシロイというか、実にオシャレと解釈される。こんなおふざけを「皆様のNHK」がやった、しかも報道番組の中でなんてのは、20年前だったら言語道断でクレームの電話がバンバン来たのではなかろうか。ところが、そうならないどころか、かえって絶賛されたのである。そう、これはミエミエのヤラセであるという文脈が共有されているからこそ許されることなのだ。だから、このヤラセはヤラセでなく演出になる。 一方、微妙だった例を挙げてみよう。これは1996年、日テレが放送していた番組「進め!電波少年」の中の「猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅」というコーナーでの出来事。猿岩石という若手お笑いコンビ(一人は有吉弘行)がヒッチハイクのみで香港からロンドンまで旅をしたのだが、この旅の行程に疑義が投げかけられた。猿岩石はタイからミャンマーを抜けバングラディシュに抜け、さらにインドに向かったことになっているのだが、ミャンマーとバングラディッシュの国境は開いていないので、実際にはこれは不可能。ところがちゃんとインドまでたどり着いていたことにクレームがついたのだ。つまりヒッチハイクをしていない。 実際、猿岩石はここでは飛行機で移動しており、後にそのことが公表された(結局、飛行機はその他を含めると三回利用されている)。ただし、その時、プロデューサーの土屋敏男は完全に開き直った?コメントをしている。それは「バラエティなんだから」という発言。つまり「誰もドキュメント=ノンフィクションとは言っていない」と主張。日本テレビ氏家齊一郎社長(当時)も「(バラエティという)番組の性質上、倫理とか道義的な責任はないと考える」とコメントした。 これは、はっきり言って電波少年側の理屈がまったくもって筋が通っているのだが、社会的コードに抵触したため、それでも多くの非難を受けたのだった(とはいうものの、この後の特番で二人が飛行機乗り込む映像を流したりするという過激なこともやっていたが)。結局「演出」と「ヤラセ」はどこで線が引けるのか 結局のところ演出とヤラセの線引きは社会的コードからどの程度逸脱しているかによって決定すると言っていいだろう。つまり、それがウソであろうがなかろうが、そのことを視聴者側が肯定してしまっているものについては「演出」、そうでないものは「ヤラセ」に振られていく。だからこそ、きわめて曖昧、恣意的なものなのだ。 逆を言えば制作側としてはこの社会的コードが読めていないといけないということでもある。たとえば「電波少年」のように筋を通したとしても、許されないという文脈が世論を形成してしまうこともある。 ひょっとして、もし「ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅」が今放送されていたとしたら、大バッシングを食らって番組打ち切りなんてことになっているかも知れない。現代は、それくらいイメージが優先する時代なのだから。その半面、ウルトラマンやミッキー、ガチャピンは完全なヤラセであるにもかかわらず、事実=演出として受け入れられてもいる。そう、こちらもまたイメージが優先する時代のたまものなのだ。虚実ない交ぜの中で演出とヤラセが偶有するのが現代のメディアなのである。 で、僕らとしてはどういうスタンスでこういったコンテンツを見るべきなのか?この答えは意外と簡単だ。全て「ヤラセ」として見ればよいのである。演出などしたつもりのない報道であったとしても、だ。そう、僕らにはこういったメディア・リテラシーが要求される時代なのだ。コンテンツというものはすべからく虚構であるという視点、重要なのではなかろうか。関連記事■ 古舘氏はなぜいつも上から目線なのか?■ 上重アナに悪気があるようには見えない■ テレビがつまらなくなった3つの理由

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    NHK『クロ現』やらせ ズレている中間報告の“焦点”

    水島宏明(法大社会学部教授) 週刊文春が報じているNHKの『クローズアップ現代』の「追跡“出家詐欺” ~狙われる宗教法人~」での”やらせ・ねつ造”疑惑。 NHKは9日午前、調査委員会による「中間報告」を発表した。 普通、「中間報告」というものは、あくまで最終的なものではないが、多くの調査委員会の「中間報告」は「最終報告」の方向性にきわめて近いのが通常だ。 そういう目で、この報告書を見てみる。 くわしくは全文を読んでほしい。NHKの報道番組「クローズアップ現代」で、いわゆる「やらせ」が指摘された問題で、同局は9日、調査委員会の中間報告を公表した。取材・制作を担当した職員11人と外部スタッフ3人から聞き取りをしたり、インタビュー素材や取材メモ等の資料を調べたりして事実関係をまとめた内容で、関係者の話が食い違う点などについては、「さらに事実関係を明らかにするための調査を進める」としている。全文は次のとおり。 出典:THE PAGE そうすると、この調査委員会が、いわゆる”やらせ疑惑”についての調査の結論を、「記者が直接、演技を頼んだ事実がないと言っている」「記者が活動拠点だと信じるに足りる理由があったと言っている」「相手をブローカーだと信じるに足りる理由があった」などとして、幕引きをはかろうとしているのではないかと疑わしくなってくる。 取材した記者、と取材を受けた当事者の一人(番組内で「出家を斡旋するブローカー」として紹介されたA氏)との話が「大きく食い違っている」ことを認めた上で、これまでの「検証ポイント」が列記されている。4月9日にNHKが発表した「クローズアップ現代」報道に関する中間報告 まだ「中間報告」にざっと目を通した段階だが、どうも「やらせ」「捏造」と言われるのを避けようという意図が文面からありありと感じられる。なんだか、報道現場の取材をよく知っている人物がかかわった文章とは思えず、弁護士の作文にしか見えないのだ。 通常、こうした報告書では何をもって「やらせ」や「捏造」かを”定義”するところから始まるのがこれまでのテレビ界での調査報告では行なわれてきたことだ。 ところがNHKの中間報告には、そうした”定義”がいっさいない。 「検証ポイント」では、●記者は演技の依頼をしたか という項目があり、「ブローカー」として登場したA氏は「演じるよう依頼された」と言っていることは中間報告も認めている。 この点については、記者は「演技の依頼はしていない」とし、番組内で「多重債務者」として紹介されたB氏(記者とは8、9年前からの知り合いだと中間報告にも書いてある)も「記者が演技の依頼をしたことはない」と話しているという。 中間報告では、「A氏の話と、記者及びB氏の話は大きく食い違っている」として、このポイントの結論にしている。 「やらせ」の定義が明記されていないことを考え合わせると、まるで、「演技の依頼」がなければ「やらせ」ではない、と言わんとしているのではないか、と推測する。 もちろん、「演技の依頼」をしていれば、「やらせ」だった、と明確に言えるのは子どもでもわかる理屈だ。 でも実際の「やらせ」はそれほど絵に描いたようには行なわれないのも実際だ。 この記述には、テレビ報道の取材が長かった私には大きな違和感がある。 記者本人ではなくても、記者と長いつき合いであるB氏がA氏に「演技の依頼」をした事実はないのか、あるいは、明示した言葉の上での「演技の依頼」がなくても「あうんの呼吸」での依頼がなかったのか、B氏が長いつきあいである記者と口裏を合わせる可能性はないのか、など、本来ならば検証するべきポイントが書かれていないからである。中間報告にも書いていないのであれば、ここは調査するつもりがないのかもしれない。 さらに、「検証のポイント」として、●撮影場所は「活動拠点であったか」 が挙げられている。 ブローカーの「活動拠点」で、「ブローカー」として登場したA氏と「多重債務者」として登場したB氏が「相談」している場面が番組には出てくる。 しかし、A氏はこの場所について、週刊文春の取材に自分は与り知らない場所だと答えている。 この中間報告では、記者がB氏を通じてこの場所を「活動拠点」だと思った、ということが確認され、「相談場所の設定に記者の関与は認められないが、(ナレーションで)『活動拠点』とコメントしたことは誤りであり、裏付けが不十分であった」とだけ記されている。 記者が仮に知らなかったとしても、「活動拠点」でない場所を「活動拠点」として報道してしまったら、それは「誤報」である。訂正しなければならないのが通常だ。また、B氏がこの場所をアレンジしたとしても、B氏にまかせてしまった時点で、この記者の資質は、事実を伝える職業人として欠けていることが明らかだと言わねばならない。B氏に「捏造」の意図があったとしても、それを確認することなく、そのまま撮影してしまったなら、「捏造」の報道をしてしまったことに変わりはない。 このほか、検証のポイントは、●A氏を「ブローカー」として伝えたことについて A氏本人は放送の後で「自分はブローカーではない」否定しているが、記者はA氏を「ブローカーに間違いないと思った」と調査委員会に答えている。ここでの結論は「記者の認識とA氏の主張は大きく食い違っている」。その他、●B氏が多重債務者であるのは事実か についてB氏について、NHKの職員弁護士が点検したところ、「多重債務者」といえる、という結論だった。 だが、今回の「中間報告」は肝心なところでの検証や認識が甘い!●指摘された場面の構成について 番組内での「ブローカー」A氏と「多重債務者」B氏の”相談”の場面について、実際の記者の取材プロセスの順番や構成と、放送された番組での順番や構成が違っていたことから、「中間報告」では「構成が適切さを欠いていなかったか」「選出が過剰ではなかったか」について、検証をさらに進める必要がある、としている。 だが、ここの部分を「中間報告」はあっさり書いているが。本当は「やらせ」「捏造」の重大ポイントだ。 記者は、番組内で相談が終わって去っていく返り際のB氏を走って追いかけて、「(出家詐欺に関与することは)犯罪につながる認識は?」と質問してインタビューしている。 記者は「8、9年前から」B氏を知っていると言う。 長年、知っている人に、まるで知らない人であるかのように直撃取材したように見せることを、報道現場では「やらせ」と言う。 あるいは、仮にB氏が多重債務者であったとしても、本気で出家詐欺に関する相談をするために訪れていないのであれば、それはシーンの 「やらせ」であり、「捏造」というものである。 ところが「中間報告」は、肝心なこの場面については、「やらせ」などを疑わず、「構成の適切さ」「演出が過剰」についてのみ、検証する方向が読み取れる文章になっている。 この場面の「検証」こそ、今回の”やらせ疑惑”の本丸のはずである。 そうだとしたら、きわめて中途半端な「検証」をやっている、といわざるをえない。 「中間報告」の1ページ目に書いてあるが、この場面の撮影は、「まずB氏がA氏に相談する場面」、続いてA氏のインタビュー、B氏のインタビューの順で撮影が行なわれた」と書かれている。 だとすれば、記者が後を追いかけて直撃インタビューしたようにみえた場面では、実はB氏はA氏のインタビューが終わるのを待っていて、その終了後に「先を歩くB氏を記者とカメラマンが走って追いかけて撮影した」ことになる。 こうした「構成」や「演出」は、マトモな報道番組ではありえない。 常識的に考えて、明確な「やらせ」ではないか。 なぜなら、こうした点に「ウソ」が混じってしまって明らかになると、視聴者がテレビ報道というものを信用してくれなくなるからだ。 重大な放送倫理違反である。 NHKには本当にお世辞ではなく、優秀な制作者や記者が多い。 心ある現場の記者やディレクター、プロデューサーたちは、こうした点をきちんと理解しているはずだ。 それなのに、なぜこのような、お粗末ともいえる「中間報告」が発表されてしまうのだろうか。 おそらく、問題の1つは、A氏が弁護士をつけて、NHKに「放送での訂正」を求めてきたために、NHKとしての対応が「弁護士主導の対応」になってしまったせいではないか。 現場取材の問題よりも、法律的に相手に勝つことや問題を矮小化しようとする「力学」が働いてしまっているような気がする。 もう1つの問題が、籾井勝人会長がトップに座るなかで、ハイヤーの利用問題などその他の問題と合わせて、「政治問題」になってしまっているからだろう。 テレビの報道現場にくわしい人間が読んだら、この中間報告の稚拙さは明らかだ。 だが、このままの委員会による調査が進めば、この後の「最終報告」での結論は以下のようになるだろう。 「A氏は『****』と主張したが、関係者のヒアリングをした結果は、記者とB氏の主張は『****』と大きく食い違っている。B氏と記者の主張は整合性が取れていることから、いわゆる『やらせ』には該当しない。ただ、一部で『不適切な取材や演出』があったことは反省し、再発防止に努めていく」 今後の調査が、こうした調査報道の分野のテレビ取材の経験を豊富に持つ人間がかかわって行なわれることを願うばかりだ。 実際、NHKという組織にはそうした人材が数多くいるのだから。関連記事■ 卑劣なプロパガンダ「サンモニ」の正体とは■ 「政治的公平」とかけ離れた偏向テレビが国民を惑わす■ 古舘氏はなぜいつも上から目線なのか?

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    古賀さんの降板に私が「もったいない」とつぶやいた理由

     テレビ朝日「報道ステーション」で、古舘伊知郎キャスターとコメンテーターの古賀茂明さんが、番組内で「バトル」を繰り広げたことが、大きな話題になった。ツイッターでは江川紹子さんや竹田圭吾さんが批判的見解を表明し、わたしもそれに賛同した。それに対して、藤原新也さんはご自身のブログ「Catwalk」で、降板騒ぎが起きてから古賀さんと数日間いっしょだったという知人から、江川、竹田、有田は「情けない」と電話で言われたと紹介した。藤原さんは古賀さんが官邸などの圧力があったことを示す根拠が弱いことを指摘しながら、「この古賀の発言を“私憤”と一蹴して、せっかくの問題提起を葬り去る動きは同意できかねる。なぜなら私はあれは公憤に見えたからである」と書いた。誤解のないように藤原さんの全文を読んでいただきたい。http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php なぜわたしは古賀茂明さんの言動に強い違和感を感じたのか。個人的なテレビ経験からそう思ったのだ。地下鉄サリン事件が起き、オウム真理教が強制捜査を受けた1995年3月22日から、「ザ・ワイド」(日本テレビ系)が番組を終了する2007年9月28日まで、わたしは12年半にわたって、テレビに出演していた。とくに「ザ・ワイド」は、1993年の統一教会問題からの付き合いで、地下鉄サリン事件以降は、月曜から金曜までレギュラーで出演していた。キャスターの草野仁さんからは、人間的な挙措についてだけでなく、テレビ番組のありように関しても多くのことを教えられた。 「わたしたちの仕事は日雇いのようなものですよ」 草野さんが番組の合間に何度かわたしにこう語ったことは印象的だった。キャスターには年間契約があるが、基本的にはテレビ局の意向が最優先される。もう必要ないと判断されれば番組は終わるだけだ。ましてやコメンテーターに契約などなかった。そうした意味で「日雇い」仕事なのである。橋下徹さんが弁護士として「行列のできる法律相談」などに出演して活躍していたときのことだ。ある日、「ザ・ワイド」にコメンテーターとして出演したことがあった。ところが橋下さんが「ザ・ワイド」に登場することは二度となかった。何か発言に問題があったということではない。番組としてさらに出演していただく必要はないと判断しただけのことだった。テレビ番組とはそういうものなのだ。 ましてや番組の改編期に、ゲストコメンテーターの変更があるのは当り前のことだ。草野仁さんとの想い出でいえば、番組には草野さんとは国家観の異なるコメンテーターも出演していた。草野さんに思うところもあっただろうと推測したものだ。わたしとてイラク戦争当時は、草野さんとは意見を異にしていた。それでも自分の見解を表明するときに、草野さんをストレートに批判するようなコメントはいっさいしなかった。 視聴者はスタジオでバトルが行われれば画面に食い入るだろう。激論は「面白い」からだ。「ザ・ワイド」でもディレクターやプロデューサーから、スタジオでの「異論反論」といった見せ場としての議論を求められたこともある。しかし「ザ・ワイド」の場合は、「主張のある番組」を視聴者に届けたいという草野さんの強い思いがあった。では、なぜバトルを避けたのか。それは基本的スタンスとして番組を守らなければならなかったからだ。 「ザ・ワイド」はオウム特番で36・7パーセントという驚くべき視聴率をあげたこともある。現場ディレクターやリポーターの地道で精力的な取材をもとに、整理された素材をスタジオで調理し、視聴者に問題のありかを伝えていった。いわば草野仁さんを司令塔とする総力戦だった。多くの関係者が番組に愛情を感じていただろう。番組を継続させるのは、視聴者に対する責任でもあった。 わたしは古賀茂明さんが、問われてもいないご自身の降板について、ルールを壊してまで語り出す姿を見て、まず思ったことは、スタッフが可哀相だなということだった。生放送とは「干物」ではなく「生もの」だ。そうである以上、日々さまざまな問題が生じる。「報道ステーション」とて問題が山積しているだろう。それは現場スタッフがいちばんわかっていることだ。究極の問題は「報道ステーション」が続いた方がいいのか、それとも無くなった方がいいのかである。 「わが亡きあとに洪水は来たれ」――古賀さんの暴発は、番組に対する建設的批判などではなく、ごくごく個人的な、しかも確たる根拠も示すことのない、憶測による発言であり、番組とスタッフへの思いやりをまったく感じさせなかった。 中東問題を問われて、個人的な降板について語るべきではなかった。それを前提として、番組の別の局面で語る機会があったとしても、官邸などからの圧力があって古賀さんが降板されたのならば、それは明確な根拠を持って発言するべきだった。それが公共放送でコメントする者の最低限の責任である。藤原新也さんの指摘するように、古賀さんが「私憤」ではなく「公憤」で発言したのなら、そこには番組スタッフの「良識派」を鼓舞激励するような方法を取るべきだった。 おそらく民放キー局は古賀さんを生番組で起用することを今後は避けるだろう。古賀さんのようなキャリアを持ったすぐれたコメンテーターが、テレビ番組には必要だ。どうして「戦略的撤退」を甘んじて引き受けることができなかったのだろうか。わたしがツイッターで「もったいない」と書いたのは、そうした思いからだった。「公憤」ではないなどと言うつもりはない。「私憤」に見えてしまうだけでも古賀さんだけでなく、番組とスタッフを深く傷つけてしまったのではないだろうか。 自民党は昨年11月26日付で、「報道ステーション」あてに「中立」を要請する文書を福井照・報道局長名で出した。そこには衆院解散後の昨年11月24日の放送が「アベノミクスの効果が大企業や富裕層のみに及び、それ以外の国民には及んでいないかのごとく断定する内容」と批判し、「意見が対立している問題については、多くの角度から論点を明らかにしなければならないとされている放送法4条4号の規定に照らし、同番組の編集及びスタジオの解説は十分な意を尽くしているとは言えない」とあった。 個別番組に対する要請はきわめて異例である。自民党には「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」とする放送法第3条などまったく視野にない。ここに自民党=安倍政権の強権的驕りがある。安倍晋三という政治家が番組内容にまで立ち入ることがあることは、これまでにもNHKに対して抗議したことなどでもよく知られていることだ。総理となったいま、安倍氏の意向はさまざまな回路で行使されているだろう。NHKでも深化している「忖度政治」が生まれる根拠である。視えるものもあれば視えないものもある。だからこそ「報道ステーション」をふくめて、テレビ局のスタッフは、萎縮することなく、政治からの介入に対して、硬軟取り混ぜて効果的に、断固として闘っていかなければならない。 「蛇のように聡く、鳩のように柔和に」(聖書)。

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    森永卓郎氏 沖縄に米軍基地なぜあるかの解説収録ボツの理由

    にあふれて的確なコメントをする評論家たちも、テレビやラジオに出演する機会が減った。 また、安倍内閣がメディアを厳しく監視して、圧力を加えているという報道もなされている。ただ、私自身は安倍内閣から圧力がかかるということを経験していないし、テレビやラジオのスタッフに聞いても、評論家の選定に官邸が口出しをしているという事実はないようだ。それでは、なぜリベラルが干されているのか。私は、ニーズがなくなってしまったのだと考えている。 先日、文化放送の『大竹まこと ゴールデンラジオ』にゲスト出演した際、タレントの光浦靖子さんが私の相談に乗ってくれるという企画があった。私は、光浦さんに聞いた。「ボク、女性に全然もてないんですけど、何故ですか?」 光浦さんの答えはこうだった。「森永さんは、エロい匂いがするのと、“意見”を言うから嫌。例えば、池上彰さんだったら、世の中のことを分かりやすく解説してくれるから、一緒にご飯を食べに行きたいと思うけれど、森永さんの意見なんて聞きたくないもの」  光浦さんの返答は、ある意味で国民の声だ。国民が誰も論評を聞きたいと思わなくなってしまったのだ。ネットにすでに様々な意見が溢れるなか、わざわざテレビやラジオで聞きたいとは思わない。それよりも、世の中に遅れないように、分かりやすく、丁寧に教えてほしい。それがいまの国民のニーズなのだ。 その証拠に討論番組は視聴率が取れないから、どんどん減っている。一方、池上彰氏は、冠番組をいくつも持っている。池上氏の特徴は、やさしく解説するとともに、自分の意見を言わないということだ。いま求められているのは、意見ではなく解説なのだ。 リベラルが干されているという認識は、被害妄想だ。冷静に考えれば、干されているのは、右翼も同じだからだ。 いまメディアへの露出を増やそうと思ったら、一番重要なことは自分の意見を言わないことだ。ただ、私はそうしてまでテレビやラジオに出続けたいとは思わない。私は意見を言うために、出ているからだ。 もちろん、池上彰氏が売れている理由は、解説の能力が高いからだ。何年か前に「沖縄になぜ米軍基地があるのか」を解説するという収録があった。私はこう言った。「普天間にしろ、嘉手納にしろ、海兵隊の基地です。海兵隊は先遣部隊なので、そもそも日本を守る機能がありません。彼らが沖縄にいるのは、日本がアメリカに逆らった時に、真っ先に日本を占領するためです」。私の収録はボツになり、代わりに呼ばれた池上彰氏は、どこからも文句のこない、実にバランスのとれた解説をしたのだった。関連記事■ 紅白歌合戦 正月特番から大晦日に日程変更された意外な理由■ 元お天気お姉さん・甲斐まり恵の「アバンチュール」撮り下ろし■ さだまさしが愛をこめて描く深夜ラジオ小説『ラストレター』■ ヤ、ヤバ過ぎですって!甲斐まり恵 セクシーお姉さん衝撃撮■ 芸能界でもブーム広がるラジオ体操 永作博美やゆずも実践

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    マッド・アマノが激白! 「生本番バトル」古賀氏が明かしたタブー

    。私も呼びかけ人の一人として参加した。声明の趣旨は《権力側の「圧力」が顕在化するケースが少なくなく、メディアや言論人らの「自粛」が進んでいることに大きな危惧を覚える》、というもの。声明を発表した事務局には言論人ら2500名、一般人2500名、合計5000名を超える賛同の署名が寄せられている。 私は言論弾圧のパロディーを作って特派員協会で公開した。それは、オレンジ色の囚人服を着せられ、口に布テープの猿ぐつわを付けられている古賀さんが「批評の自由 I am Koga」と書かれたフリップを持ち、その横に黒装束の男が今にも処刑せん、とするもの。顔は出さないが、袖口にABEの名があるから正体は安倍首相であることは誰にも分かる。初めて会場でこの作品を目にした古賀さんはにわかには笑みを浮かべず、複雑な表情を見せた。作品を手にした写真を撮ろうとした記者に古賀さんは静かに断ったらしい。安倍首相からのクレームを気にしたのではなく、その場の雰囲気から“茶化し”は不似合いと考えたのだと思う。 古賀さんの“降板騒動”はテレビの裏で言論弾圧が行なわれていることを多くの人々に想像させた。メディアから今後、声がかからないことを覚悟の上の勇気あるパフォーマンスを私たちはどう受け止めるべきか。 原発事故一周年の2012年3月11日に福島の現地から放送された特番「報道ステーションSUNDAY」での古舘氏のメッセージは傾聴に値するものだった。 原子力ムラという村が存在します。都会はここと違って、まばゆいばかりの光にあふれています。そして、もう一つ考えることは、地域で主な産業では、なかなか暮らすのは難しいというときに、その地域を分断してまでも、積極的に原発を誘致した、そういう部分があったとも考えています。その根本を徹底的に議論しなくてはいけないのではないでしょうか。私はそれを強く感じます。そうしないと、今、生活の場を根こそぎ奪われてしまった福島の方々に申し訳が立ちません。私は日々の報道ステーションのなかでそれを追及しています。もし圧力がかかって番組を切られても、それは本望です。 なかなか、勇ましいコメントではないか。しかし、古舘氏は番組存続のため「古賀降板」を受け入れた。「古舘・報道ステーション」が安倍政権の軍門に下るとするなら、もはや「生バトル」も想い出遠い存在になりそうだ。

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    “古賀れたテープレコーダー”は止まらない!

    古賀れたテープレコーダー 「電波の私物化」とはまさにこのことだ。 3月27日放送のテレビ朝日「報道ステーション」での蛮行だ。 その時の放送内容の文字起こしがネット上に公開されているので、詳細はそちらを参照頂きたい。http://news.livedoor.com/article/detail/9941821/ 「サウジ主導の空爆続く 緊迫イエメン“宗教対立”」と題したニュースの中で、キャスターの古舘伊知郎が、その日のコメンテーターであった元経済産業省官僚古賀茂明にコメントを求めた途端に、約10分間にわたるその電波ジャックは始まった。 「そうですね。ちょっと、そのお話する前に、あの私、今日が最後ということでですね」とニュースをぶった切った古賀は、滔々とまくし立てた。その内容たるや、サウジもイエメンも何の関係もない、自らの保身のための思い込みを垂れ流すだけの、ユーチューブやニコニコ動画のオカルト陰謀論動画でさえ裸足で逃げ出すようなシロモノである。 「菅官房長官をはじめですね、官邸の皆さんにはものすごいバッシングを受けてきましたけれども」 などという私怨を口角泡を飛ばして恍惚としながら自らのノンストップトークに陶酔している古賀にたまりかねた古舘が「古賀さん、あの、ちょっと待って下さい」と割って入っても、壊れたテープレコーダーは止まらない。二度目に「ちょっと待って下さい!古賀さん!」と怒鳴られてからやっと、キョトンとした顔で目をぱちくりさせた古賀れたテープレコーダーは「は、はい?」と異音を発生させようやく停止する。 ポンコツおもちゃが沈黙したことに安心したのか、古舘まで中東のニュースのことなんぞどうでもよくなってしまったらしく、古賀に畳み掛ける。 「今のお話は、私としては承服できません」「古賀さんは金曜日に時折、出てくださって。大変、私も勉強させていただいてる流れのなかで。番組が4月から様相が変わっていくなかでも、古賀さんに機会があれば、企画が合うなら出ていただきたいと相変わらず思ってますし」「古賀さんがこれで、すべて、何かテレビ側から降ろされたっていうことは、ちょっと古賀さん、それは違うと思いますよ?」 しかし、古賀れたテープレコーダーは、再び大音響でがなりたてる。そしてそれに大人気なく真っ向から組み付く古舘。もはやニュース番組でも何でもない。古賀「でも。私に古館さん、言われましたよね。私がこういうふうになるっていうことについて『自分は何もできなかった。本当に申し訳ない』と」古舘「はい。もちろんそれは、この前お話したのは楽屋で。古賀さんにいろいろ教えていただいてるなかで、古賀さんの思うような意向にそって、流れができてないんであるとしたら、大変申し訳ないって、私は思ってる、今でも」 なんと楽屋の裏話まで持ち出す仁義なき戦いだ。ところが腐っても古賀れていてもテープレコーダーだ。こんな禁じ手まで飛び出した!古賀「私は全部録音させていただきましたので、もし、そういうふうに言われるんだったら、全部出させていただきますけれども」 そう言ってテープレコーダーに睨みつけられる古舘も引き下がらない。古舘「いや、こちらもそれは出させていただくっていうことになっちゃいます、古賀さん」 なんと、ある意味関係者がお互いに信頼関係を醸成してお茶の間に質の高いニュース番組をお届けする準備をする場であろう楽屋で、両者がお互い不信感も隠さず録音をしながら会話、いや、バトルをしていたのだと暴露してしまっているのだから、異常である。 その後もテープレコーダーの暴走は止まらない。別のニュースに話題が移行しても、中東紛争の犠牲者や日本の政局なんぞのことはどうでも良いと思っているらしく、自分の保身のみに汲々とする。古賀「(報道ステーションの)プロデューサーが、今度、更迭されるというのも事実です」古舘「更迭ではないと思いますよ?」古賀「いやいや」古舘「私、人事のこと分かりませんが、人事異動、更迭…これやめましょう?古賀さん」 それでも古賀れたテープレコーダーは止まらない。そればかりか、思い上がりも甚だしく、自らをマハトマ・ガンジーと同一視しているのか、ガンジーの名言を記したフリップまで用意してきてこうまくし立てる。古賀「ただ、言わせていただければ、最後に。これをですね、ぜひ。これは古館さんにお贈りしたいんですけど。マハトマ・ガンジーの言葉です。『あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである』と」「無意味」ではなく「有害」「無意味」ではなく「有害」 百歩譲って、テープレコーダーが公共の電波を私物化して喚いているオカルト陰謀発言が「無意味」な内容であるならば許そう。しかし、彼のやっていることは「無意味」なのではなく、「有害」なのだ。放送法にも明らかに抵触している。何も悪事を働かない普通の青少年に、万引きという犯罪を働く悪童が「オレサマがする万引きは無意味であるが、それでもしなくてはならない」などと言っているようなものだ。 古賀れたテープレコーダーはまだ止まらない。古賀「つまり、圧力とか自粛に慣れていってですね『ひとりでやったってしょうがない、ただ叩かれるだけだ』ということで、やっていないと、知らないうちに自分が変わってしまって、本当に大きな問題が起きているのに、気が付かないということがあるんですよと。これは私も、すごく今自分に言い聞かせていつも、生きているんですけれども。これは、みんなが考えていただきたいことだな、というふうに思っています。いろいろね、ちょっと申し訳ない、口論みたいになっちゃって。申し訳ないんですけれども、私が言いたかったのは、みんながやっっぱり、言いたいことはそのまま言おうと」 知ったこっちゃない。言いたいことがあるなら、法を犯して電波を私物化して喚くのではなく、ブログでもツイッターでもユーチューブでも、自由に使って一人でやるがいい。ところが古賀れたテープレコーダーにとっては、公共の電波を私物化できないことや、私物化に対して文句が来ることは、言論の自由の侵害ということになるらしいのだから、ただの幼稚な駄々っ子に過ぎない。 ところが、この異常な事件も、古賀れたテープレコーダーを持ち上げて反日に利用するサヨク勢力にとっては英雄的行為に見えるらしい。 例えば、反原発や反レイシズムを騙り全国で暴力テロや言論弾圧を引き起こしているサヨク暴力組織「レイシストをしばき隊」(現在は別の団体名を自称しているようだが、オウム真理教がアーレフだのひかりの輪だのと団体名を変えて摘発逃れを行っているようなものなので、旧称を用いる)は、設立者の野間易通がツイッターでこのように古賀を礼賛している。 「何の問題もないどころかすごいじゃんこれ。こんなもので電波の私物化とか言ってる竹田圭吾とかエガショーってほんとにジャーナリストかよ」 まぁ、図書館や書店に押しかけて脅し、自分たちの気に入らない本を排除してしまうという活動を行っている反民主主義テロ組織の言うこととしてはもっともというべきか。 その後古賀は、そうしたテロ組織や反日団体との結びつきを強め、各所で安倍政権批判を強めているが、そのような御仁が今まで週に一回とはいえ報道ステーションという公共の電波で反日陰謀論を垂れ流す「言論の自由」を与えられていたということ自体が異常である。そしてそうした異常な特権を与えられているサヨク勢力は、何も古賀一人ではないのだ。関連記事■ 卑劣なプロパガンダ「サンモニ」の正体とは■ くっだらねー! 猿芝居にイチャモンつけるクレーマーの正体■ 自らの過ちを省みぬサヨク・リベラル勢力の現状

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    上重アナに悪気があるようには見えない

    livedoor.jp/hasegawa_yutaka/)より転載)関連記事■ 訂正、謝罪しないのはメディア共通の体質■ 実態は営利貪る吸血コウモリ、官と民を使い分ける巨大メディア■ 「清廉性」による内定取り消しはメディアの自殺行為だ

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    記者へのお礼に果物贈る議員秘書 「腐るから」と返品回避する

    している。それに記者サイドも易々と乗り、政治スキャンダルなどが報じられにくい癒着構造が生じている。 メディア関係者を取材すると、政治家と飲んだ際は「1万円程度は置いていく」(民放キー局記者)や「数回に1回は返礼で一席設けている」(大手紙政治部記者)といった反論も聞かれたが、接待側の議員サイドからはこんな証言が出てきた。自民党政調関係者が語る。 「時折、2~3人の記者と少人数での会合を持ったときなど、1万円程度の現金を置いていく記者もいる。しかし、こちらが予約する店は最低1人1万5000~2万円クラス。常にこちらが接待していることに変わりはない。他党のことは知らないが自民党では議員主催のオフ懇(オフレコ懇談会)は議員サイドが払うのが慣例。個人的な実感としては、政治家から奢られることに何の罪悪感も持っていない記者が大半だ」 記者に供されるのは飲食だけではない。小渕優子・前経産相が配ったとされる「下仁田ネギ」ではないが、地元の特産品が送られてくるケースもある。 例えば近畿地方のある自民党大物代議士は、番記者や懇意にしている政治部記者に、つい最近までお歳暮で地元特産品を欠かさず贈っていた。現役の国会議員秘書はこんな話を打ち明ける。「国会質問の手伝いをしてくれた記者へのお礼として、後日、記者の自宅に議員の地元選挙区の名産品である果物を贈った。果物なら、返そうとする相手にも“どうせ腐ってしまいますから”と強引に受け取らせることができる。『贈答品』名目で、議員の政治資金で処理した」 これが実態である。政治家と大メディア記者の「近すぎる関係」を目の当たりにしてきた元参院議員の平野貞夫氏は「私も記者を接待した経験がある」と明かした上で指摘する。「一連の新聞・テレビの政治資金追及報道は、とんだ茶番劇です。政治資金を叩きながら、その政治資金で自分たちも飲み食いしている。これが『政治とカネ』問題の本質です。本当に追及するべきは、この政治資金を介して権力とメディアが一体化している現実のはずなのに、自分たちもグルだから彼らは かむりを決め込んでいる」 そんな新聞記者たちが、“そろそろ政治資金追及はやめよう”といっているのだから、その動機、真意は推して知るべしだ。関連記事■ 国会議員 記者を高級クラブで接待し敵対候補の醜聞調査依頼■ 小渕優子は非難せず 大メディアの「小沢献金」批判は支離滅裂■ 江渡防衛相に政治資金疑惑 政党支部から自身に800万円寄付■ 西川農水相 「親族企業から物品購入」の政治資金私物化疑惑■ 小沢氏政治資金裁判 不動産購入の政治家は他にも多数いる

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    ISISに集結する世界のオタクたち?

    新井克弥(関東学院大学文学部教授)巧妙なISISのメディア戦略 ISIS(あるいはIS、ISIL、イスラム国)って、いったい何なんだろう?テロリスト集団?それにしては、規模が大きいような、支持層も多いような。そしてメディアを賑わしている。もはや日本のメディアがしばし表記するように”イスラム「国」”つまり国家なんじゃないんだろうか? こんなふうに思わせるほどISISのメディア戦略は巧妙だ。 たとえばISISの機関誌”DABIQ”。パッと見ですぐにわかるのは表紙に掲載されている写真の洗練具合だ。はっきりいって「よくできている」。これは中身のデザインやレイアウトを見ても一目瞭然で、観光ガイドかと思わせる出来だ。一般にテロリストと言えば、こういったことにはあまり頓着しないので、いかにもインディーズっぽい雑な編集になる(そして、それが「ならず者」のイメージを助長する)のだが、これは全く異なっている。 映像についても同様で、処刑映像についてもキチッと所定の位置にISISのロゴが付けられている周到さ。人質のイギリス人ジャーナリス、ジョン・キャントリー氏にやらせている「現地レポート」もBBCやCNNのそれにすら見える(実際、CNNでこのレポートの様子が流された時には、ナレーションがなければCNNの特派員による報告を彷彿とさせるものだった)。そして、この洗練されたメディアを使いながら「処刑」というセンセーショナルな映像をネットを使って世界配信してしまうのだ。すると、この残忍な映像も、なにやらあやしげな説得力=必然性を帯びているようにすら思えてしまうのだ。「イスラム国」とみられるグループがインターネット上で発表した「ジハーディ・ジョン」とみられる男の映像(動画投稿サイト「ユーチューブ」より) もちろん、これは演出、もう少し悪意を込めて表現すればトリックだ。ただし、ISISの「メディアの魔術師」としての能力を侮ってはいけない。こういったテイスト、テクスチャーは、翻って実際の組織以上にISISを大きく見せることに成功しているのだから。世界を相手に堂々と渡り合う方法をこういったメディア戦略で達成しているのだから。そして、世界各国の過激派がISISに賛同の意を示しているのだから。今やISISを巡って世界中が引っかき回されている、そんな印象をわれわれは受けてしまうのだ(少なくともメディア上では、この”引っかき回し”は紛れもない「事実」だ。そして、このメディア戦略で日本政府も見事に「引っかき回された」わけで)。こういったメディアの用い方が結果として、本ブログの冒頭に提示したISISのイメージを形成している。 現在、ISISの外国人戦闘員は1万5000人とも2万人とも言われている。もちろん、これもメディア操作による数値であるという可能性を踏まえなければいけないが、相当数に及ぶことは間違いないだろう。じゃあ、なんで、こんな過激な組織に世界中のあちこちの若者たちが集結するのか。ちなみにアルカイダの国際性はそれほどでもなかったこと(外国人部隊がISISばりに存在したという事実はない)を踏まえれば、これはきわめて不思議な現象だ。だが、これがメディア性、つまりこの10年間あまりのインターネットを軸とするメディア・テクノロジーの発達と、ISISのその巧妙なメディアの用い方に基づくと考えれば、案外納得がいくのではなかろうか。オタク的志向を充足させるインターネット。それがテロという「嗜好」に向かうと…… そのメディア性は二つ。一つはすでに展開しておいたISISのメディアの魔術師としてのメディア性だ。だが、そういった「洗練された」メディア戦略をやったところで、その思想が人々にリーチするということには必ずしもならない。つまりISISがプッシュするという必要条件の他に、このメディアを受け取ろうとする側のプル条件=これにアクセスしたくなる条件がなければならないからだ。その際、そこに大きく介在してくるのがインターネットだ。ISISはネット活動をするだけでなくYouTube、Twitter、facebookなどを巧妙に活用し、インターネットユーザーの若者たちがISISの情報にアクセスしたくなるようなインフラを構築している(例えばワールドカップ時にTwitterの検索窓に”#WC2014”とハッシュタグを打ち込むとISISの広告が出てくる、といった細かいことまでやっている)。 もちろん、こういったインフラを利用したところで、そう易々とISISに参加しようとする人間が登場するわけではない。ほとんどの若者はスルーするはずだ(実際、そうしている)。しかし、ごく一部の者がこの網に引っかかる。それはインターネットというメディアが備える特性に由来する。 インターネットは、言うまでも無く膨大な情報を抱えた海。任意に様々な情報にアクセスが可能になる。それがマイノリティに属する情報であったとしても、だ。例えば僕の例を挙げてみよう。僕の趣味の一つはワインだが、最近ではポルトガル・ワイン、しかもヴィーニョ・ヴェルデという早摘み弱発泡性ワインに凝っている。で、これは白やロゼなら現在ではデパートのワイン・コーナーなどで入手可能だが、これが赤となると限りなく難しくなる。ところが、この入手困難なマイナーなワインであってもネットで探せば情報は出てくるし、ほんの数軒だが日本でもこれを輸入しているネット通販業者を見つけることができる。でも、こんなものに興味関心を抱いている人間など、ごく一部のオタク(つまり、筆者(笑))に過ぎない。しかし、日本中を探せば存在するのだ。このネット通販で購入可能なヴィーニョ・ヴェルデの赤というのが、実は日本におけるこのワインの需要を示している。そして、こういったど「どマイナー」な商品の取り扱いはネット通販だからこそ初めて成立する代物だ。つまり、ニーズが広大な領域に、さながらスキルス性胃ガンのがん細胞、あるいはアメーバのように点在するのだけれど、市場がネットという空間横断的な電脳空間に置き換えられることでビジネスとして成立するニーズへと置き換えることが出来るのだ。ネットは空間に縛られない分、広大なマーケットを獲得可能にする。言い換えれば、ネットというのはオタクの嗜好に対応するメディアなのだ。 ISISも同じだ。こんな集団に興味を持つヤツなんか、実際のところはほとんどいないはずだ。ところが、ISISを知らしめるインターネットというインフラはワールドワイドだ(こういう連中を引きつけようと、ISISはちゃんと英語でプロパガンダしている)。だから、世界中のどこかでISISのテイスト、テクスチャーがツボに入ってしまう若者がいると存在することは十分に考えられる。 もちろん、これは何もこういった人間=若者たちに「認められたい欲求」があり、それにISISが抵触したからなんてこともない。ただ単に「おっ、ISIS、カッコイイ!」ってな具合で先ずは入っていく。で、最初のうちは、この残酷性と洗練性のミスマッチがオモシロイみたいな具合で、いわば「形」から入っていくのだけれど、これが次第に「内容」そして「思想」、さらには「行動」へと変化する。かつて社会学者の中野収は1960年代末に学生運動に入れ込んでいった学生たちを次のように語っている「学生たちは思想があってヘルメットとゲバ棒を装着するのではない。むしろヘルメットとゲバ棒を装着すると思想が生まれる。順序は逆なのだ」。これと全く同じことがISISへの参加にも起こる。つまり「カッコイイ」から情報にアクセスし続けると、今度はそのカッコよさから次第にISISの思想が浸透していって、気がついたらISISへの参加へと向かっていったなんてことになる。フィルター・バブルが助長するISISの勢力 こうなってしまうのは情報化社会、とりわけネット社会が作り上げる現実感覚の多様性というインフラに基づく。ネットにはあらゆる価値観がばらまかれている。Aという考え方について、それを否定するBという考え方があり、さらにこれを否定するCという考え方があり、さらにそれを……という具合に、価値観は限りなく展開されて、「これ」といったスタンダードな基準がない。となると、ユーザーたちはこういった情報の海、価値観の海から親密性に基づき任意に価値観をチョイスし、その価値観を補強するかたちで、それに適合的なデータを収集し始める。そうすることで自分だけの価値観が構築されていく。こういった「嗜好だけで作り上げられる価値観が構築される現象」「自分ループ」「情報のパーソナライズ」をE.パリサーはフィルター・バブルと呼んでいるが、ISISに入れ込んだ若者は、このバブルを補強しようとどんどんISISの情報にアクセスするようになる。そして、挙げ句の果てにはマスメディアで取り上げられる派手な映像やメッセージは、彼らにとっては自らの価値観をさらに補強する「すばらしいもの」にすら映っていくのだ。 もちろんこういった連中はスキルス性胃ガンのように世界中に点在しているので、それだけでは力は弱い。ところが、これはまさにスキルス性胃ガン。がん細胞ならぬISISオタクが、ネットを介して結集し、さらには外国人部隊としてISISに加わるような状態になっていけば、これは強力な力を発揮することになる。それが、現在のバカに出来ないISISという勢力を作り上げている。ガン細胞が胃を侵し、さらに生命までも駆逐していくということになりかねない。テロリストに対する対応として、ISISはもはや国家、そして戦争という対応の方が妥当? で、ひょっとしたら、これは新しい国家のあり方を提示しているのかもしれない。つまり「土地はないけど国家はある」。社会学では準拠集団という言葉を使うけれど、そして古くはユダヤ人コミュニティ、華僑、印僑が該当したが、これはそれのサイバー版。そうなるとISISは新カテゴリーとして「イスラム国」ということになってしまう。まあ、そんなことは認めたくはないが、ただし、対応の仕方として「ネオ国家」として考える必要、これだけはあるだろう。ただ単に「罪は償ってもらう」とか「テロリストは掃討すべき」といった次元では括ることの出来ない現状を理解するためにも(こういう言葉は、あくまで語っている側が「強者」、語られる側が「弱者」という前提があって初めて成立する。言い換えれば掃討可能という暗黙の前提の内に語ることが出来る「上から目線」。ところがISISについては、もはやそんなレベルではないことは、言うまでも無い)。ISISは、こういったメディア論的視点からも捉えられるべきだろう。(ブログ「勝手にメディア社会論」より)あらい かつや メディア研究者。関東学院大学文学部教授。ブログ「勝手にメディア社会論」を展開中。メディア論、記号論、社会心理学の立場から、現代のさまざまな問題を分析。アップル、ディズニー、バックパッカー、若者文化についての情報も。

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    はたして軽率だったのか…戦場ジャーナリストの自己責任を考える

    渡辺武達(同志社大学社会学部教授)メディアと社会 ほんの少し前までメディアは、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」による日本人人質2人の惨殺で大騒ぎだったが、今は川崎市の中学生1年生殺害事件一色だ。メディアが「現在」を伝えるのは当然だが、それだけではジャーナリズムとしての社会的存在価値は半減してしまいかねない。加えて、オーディエンス(読者・視聴者)は、こうした悲惨な事件が連続して報道されると、生物としての受容・処理容量を超えてしまい、「情報不感症」となり、自己保全のため、深く考える内的回路を閉ざさざるを得なくなる。 その結果、多くの人が「またか…」という感慨だけを持ち、逆に現実から目をそらし、根本の問題を見失い、報道が逆効果にさえなりやすい。民主性維持のために 日本人人質事件では、戦場取材を行うジャーナリストと政府の国民保護の問題は民主制の維持に欠かせないアジェンダ(社会的検討項目)であるにもかかわらず、そのまま電光掲示板のように目の前を流れていってしまった。そのことは、マスメディアとリンクするネットにおいても同様である。 だからこそ、今回は社会情報環境の大きな問題の一つである、戦場ジャーナリストの自己責任とその支援体制の重大さを考えたい。 何よりも大事なのは、この検討は3つのことを前提にしなければ前に進めないということである。第1は、誰しも自分が直接経験するか、経験者から聞かされる以外のことは、メディアを通して知るしかないということ。第2は、権力を持つ者や国民・市民の付託を受けて仕事をする者には、付託者に対するアカウンタビリティー(社会的役割の自覚とその実行責任)があること。第3は、権力はチェックしなければ腐敗し、国民を軽視した行動を取りやすいという歴史的教訓を忘れてはいけないということである。「自己責任」に甘えず この大前提を認識して動くメディアとジャーナリストがしっかりと機能していれば、社会問題は致命傷になる前に修正できる。ところが、現在の社会情報環境では世俗受けするコメントが一人歩きしやすく、メディアも人々もそれを受け入れやすい。例えば、先のフリージャーナリスト、後藤健二さんのケースでいえば、自民党の高村(こうむら)正彦副総裁が2月4日に記者団に、「どんなに使命感が高くても、真の勇気ではなく蛮勇と言わざるを得ない」と語った発言だ。筆者の務め先の同志社大学の創立者、新島襄(にいじま・じょう)は国禁を犯して海外へ渡航して教育面から日本を変えようとした。坂本龍馬もやはり当時の「常識破り」の活動をした。誰もそうした行動をできるわけではない。シリア北部アレッポで取材活動中の後藤健二さん(中央)(インデペンデント・プレス提供) 確かに、後藤氏も「すべて自己責任」というメッセージを残したが、それに私たちは甘えてはいけない。メディアの報道と倫理についての古典的報告書で、1946年に出された『自由で責任あるメディア』(和訳・論創社刊)には、「日々の出来ごとの意味について、他の事象との関連のなかで理解できるように、事実に忠実で総合的かつ理知的に説明すること」とある。 高村氏の発言時にその場にいた知人記者によれば、高村氏は「後藤さんは優しく使命感が高く、勇気のある人だった」と強調したそうだが、どのような状況であっても、国家は国民を守ることに最善を尽くすべきである。ましてや政治家といえども、メディアやジャーナリストによって、多くのことを知ることができるのだから、軽々にジャーナリストを「軽率」と決めつけ、おとしめてはならない。(わたなべ・たけさと)関連記事■ あの日を境に変わった私のメディア認識■ ジャーナリストが権力を批判して何が悪いのか■ 史上最凶「イスラム国」の知っておくべきこと

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    新聞、テレビではわからないテロの脅威

    IS(イスラム国)による日本人殺害事件の報道で、日本の新聞、テレビなどの大メディアは、テロリストの宣伝活動に体よく利用されてしまった。欧米ではテロの報じ方についてガイドラインが存在するが、日本のメディアにはそれがない。メディアとテロの関係を危機管理の観点から明らかにする。

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    なぜ、若者はイスラム国を目指すのか

    国には全体の約五五%が流れ、他の世俗的な組織に流れる者も少数ながらいるとされる。  一方、最近の欧米メディアの情報によると、外国人戦闘員で最も多いのはチュニジアの約3000人で、以下サウジアラビアの約2500人、モロッコの約1500人、ロシアの約800人、フランスの約700人、イギリスの約500人、トルコの約400人、ドイツの約300人、米国の約100人などとなっている。  他にもオーストラリアや中国、インドネシア、フィリピン、マレーシアなど多くの国からイスラム国の活動に参加しているとみられる。  では、彼らはいったいどのような動機でイスラム国に参加しているのか。昨今の情勢や論文などを分析すると、以下のような動機を導き出すことが可能だ。 ネットが組織拡大の一助ネットが組織拡大の一助  (1)シリアやイラクで発生する惨事をTVやネットを通して知り、弱者救済などボランティア精神を持って参加した者  (2)特に宗教的な過激思想に染まっておらず、単に強い冒険心で参加した者  (3)母国での社会経済的不満から、純粋にイスラム国などが掲げるサラフィージハード主義に染まった者  (4)母国での社会的不満以上に、宗教的な正義感と使命感から参加する者  (5)高額な給与に魅了された者   (6)訪れたものの、そこに溶け込めないが恐怖心から戦闘活動に参加せざるを得ない者  このようにみると、イスラム国はさまざまなバックグラウンドと動機を持った者たちの集合体であると考えられる。  また、外国人戦闘員の問題はイスラム国だけに言えるものではなく、AQAP(アラビア半島のアルカイダ)やアルシャバブなどのアルカイダ系組織にも多くの外国人、また欧米人が加わっていた。しかしなぜこのイスラム国には、いままでにない規模で多くの外国人が流入するようになったのか。  それにはシリア内戦の深刻化、イスラム国の多言語(英語、アラビア語だけでなく、フランス語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語、アルバニア語など)で発信するという広報戦略、イスラム国という名前の開放性、圧倒的な軍事的・財政的基盤などいくつかの理由が挙げられるが、その一つとしてグローバル化の拡大、深化が大きく影響している。  近年、グローバル化の影響は世界各地に拡がり、また安価な値段で国境を越え、無料でSNSなどを利用することができるようになったことから、グローバル化の影響を日常的に受ける世界人口も増加の一途を辿っている。  我々日本人はグローバル化の良い部分にだけ着目しがちであるが、当然のごとく、グローバル化においてはリスクも国境を超える。  それがアルカイダのような国際的なネットワーク、ブランドを有する存在を生み出し、さらには今回のように国家のコントロールが脆弱なスペースに入り込み、一定の土地を自らでコントロールする、イスラム国という存在を台頭させたといえる。 イスラム国建国を目指す  一方、ネットを通じてイスラム国への賛意を表すテロ組織も相次いでいる。  実際、バグダディが2014年6月にイスラム国の建国を宣言して以降、女子生徒を拉致して大きく報じられたナイジェリアのボコハラムやフィリピンのアブサヤフ、パキスタン・タリバンの一派、エジプトのアンサール・ベイト・アルマクディス、AQIM(イスラム・マグリブ諸国のアルカイダ)の分派とされるグループなどから「イスラム国への忠誠を誓う」とする宣言がインターネット上で発表された。  このようなイスラム過激派グループにとってサイバー空間は新しい聖域(safe haven)となっており、フェイスブックやツイッターなどのSNS、Youtubeなどの無料動画サイトなどを巧みに利用しながら連絡を取り合い、相互に存在感をアピールしている。  イスラム国は世界各国から賛同するメンバーを募集・リクルートし、またアブサヤフやボコハラムなど遠い地域のイスラム過激派へも影響力を拡大するなど、国境を超えたヒト・モノ・情報の流れを巧みに利用している。 「イスラム国」という名前にも、他の組織の賛同を得やすくする工夫が凝らされている。前身組織では「イラクのイスラム国」「イラクとレバントのイスラム国」という、範囲が限定された名前だった。だが、今回は範囲を限定しない「イスラム国」を名乗っている。  この名前は、南アジアや東南アジア、アフリカなど他の地域で活動し、同じようにイスラム国家の創設を目指すイスラム過激派からしてもより開放感がある名前と言える。  実際、イスラム国の建国が宣言された六月以降に、ボコハラムやアブサヤフ、マクディス等のイスラム過激派が忠誠を誓う宣言を行っている。 「イスラム国」の大元の由来は、一つに2003年のイラク戦争後に同国内でテロを繰り返すようになった「イラクのアルカイダ」(AQI)にある。その後、AQIが弱体化し、2006年10月に「イラクのイスラム国」(ISI)として登場。  さらに2013年4月からは、地域を限定した形で「イラクとレバントのイスラム国」(ISIL)と名乗っていた。その後、「イスラム国」と地域を限定しない名前を名乗るようになった。  由来となったAQIは、イラク国内でカリフ国家創設を目標とするイスラム教スンニ派武装勢力で、2004年4月にAQIの前身組織である「アル・タウヒード・ワル・ジハード」(al-Tawhid wal-Jihad)を率いるヨルダン人、アブ・ムサブ・ザルカウィによって設立され、2004年10月にはアルカイダのビンラディンへの忠誠を宣言した。  一般的には、イスラム国とアルカイダコアは対立的な関係にあると言われ、実際、アルカイダコアのトップ、アイマンザワヒリはイスラム国を破門している。また両者はイスラム国家建国に向けてのアプローチ、欧米への聖戦をどの程度重視しているかなどで根本的な違いが見受けられるものの、厳格なイスラム法に基づくイスラム国家の創設を目指している点では同じであり、両者の間には歴史的にも思想的にも多くの共通点、類似点があることは理解しておく必要がある。 テロ件数は増大  AQIは、2003年8月のイラク国連事務所爆破テロ事件や2004年10月の日本人青年殺害事件などに代表されるように、バグダッドをはじめモスルやティクリート、ファルージャなどイラク国内でテロを繰り返してきた。  さらには、2005年8月のイスラエル・アカバ湾に停泊中の米軍艦を狙ったロケット発射事件や同年11月のヨルダン・アンマンにおけるホテル爆破テロ事件など、イラク国外にも拡がった。  しかし、2006年6月に米軍の空爆でザルカウィが殺害され、翌年には米軍がスンニ派の部族勢力と自警団「覚醒評議会」を形成し、ISIに対する大規模な掃討作戦を行った。それによりISIは弱体化し、イラクのテロ事件数は2006年から2007年をピークに減少傾向に転じた。  だが、ISIは米軍のイラクからの撤退、宗派対立の激化などを背景に、バクダッドを中心に軍や警察、シーア派教徒を標的としたテロ攻撃を繰り返すなど、その活動を再び活発化させていった。そしてそれ以降、 イラク国内で発生するテロ事件数は近年、特に増加傾向にある。  たとえば2014年4月、米国務省公表の「2013年版テロ年次報告書」によれば、同年にイラク国内で発生したテロ事件総数は2495件で、パキスタンを抜いて世界ワーストとなり、犠牲者数と負傷者数もそれぞれ6378人、1万4956人と悲惨な数字となった。  2013年にISILと名前をリニューアルしていた組織は2014年、1月にイラク西部アンバル県にあるファルージャやラマディを、6月には北部モスルをそれぞれ制圧し、財政的、組織的、軍事的に強大化するための大きな切り札を得た。  その勢いに乗るように、モスルの制圧後は南下し、タルアファルやティクリートなどを制圧、首都バグダッド付近まで勢いを拡大するに至り、6月に「イスラム国」の建国を宣言した。  このような来歴をもつイスラム国だが、なかでもその“残虐性”には国際的な非難が集まっている。イラクでは少数民族ヤジディ教徒を迫害。さらにシリアで米軍主導の空爆が開始されるようになると、その報復としてイスラム国は8月20日と9月2日にシリア国内で拉致した米国人を一人ずつ、斬首によって殺害し、映像を公開している。組織拡大の「反動」 組織拡大の「反動」  しかし、イスラム国の今後には疑問も湧いてくる。たとえば言葉や文化、伝統が違う者たちが一定の期間の間に集結し、同じ目標に向かって問題なく行動できるものか。またバグダディ以下、複数の幹部が数万とも言われるグループを上手く統率・維持できるのか。  実際、今日のイラクにおいても、イスラム国は完全に優勢に立っているわけではない。イスラム国はバグダッドへの攻勢を強めてはいるものの、依然としてバグダッドをコントロール下に置くには至っておらず、またイラク軍の全勢力と比較しても、イスラム国が全面衝突でイラク軍に勝てる可能性は低い。バグダッド北方で「イスラム国」を攻撃するイラク軍(ゲッティ=共同)  全面衝突になれば、イランがイラク軍へさらなる支援をするだろう。また、民族構成上もイラクはシーア派が多数を占める国家であり、「シーア派政権打倒」を掲げるイスラム国の拡大には大きな壁がある。  さらにイスラム国はアルカイダが掲げるグローバルジハードや、初期のイスラム国家への回帰を目指す「サラフィー主義」を強く唱える者を抱える一方、世俗的な価値観を基本とし、単にイラク政治の改革を目指すに過ぎない地元スンニ派勢力も多く参加している。  よって彼らと関係を維持することは、イスラム国が領域を支配するうえで死活的に重要であるものの、それとどこまで関係を維持できるかは不透明だ。たとえばイスラム国が財政的に弱体化して戦闘員に十分な支払いができなくなり、内部から反イスラム国感情が高まって統率力が低下することも十分あり得る。 グローバル化のリスク  だがこれらを踏まえても、今日の国際テロ情勢は9・11テロ時より不透明な、不確実性を強く帯びたものとなっていることは明白だ。  アルカイダコアはビンラディンを筆頭に多くの幹部を失ったことで弱体化している一方、その他の組織や個々人による活動は活発化し、近年の脅威としての国際テロ情勢を形成してきたのはむしろ後者である。  たとえば米国は近年、米国の安全保障にとって最も直接的な脅威は9・11テロを実行したアルカイダコアではなく、イエメンのAQAPであるとしていた。  また、米国ランド研究所から2014年に発表された報告によると、アルカイダなどサラフィージハーディスト集団の数は、2010年の32から2013年には51と増加しているとされる。ヨルダン空軍による空爆(動画サイトYouTubeより)  各地に拡散して国際性を帯びるイスラム過激派や、冒頭で紹介したようなホームグローン・テロリストのような個々人による事件、それらを繋ぐネットワーク、さらにはそのブランドやイデオロギー……。  今日、我々は以前より対処することが難しいテロの脅威に直面している。我々はこのグローバル化社会のリスクというものを改めて認識しなければならない。  今後、国際社会によるイスラム国への圧力は一層増していくことが予想される。仮に米国を中心とする有志連合とイラク軍などが、イスラム国の破壊を目的とする軍事的な掃討作戦を全力で実行すれば、イスラム国は支配する領域を失い、軍事的・財政的・組織的に弱体化するだろう。  しかし我々が懸念しなければならないのは、イスラム国はもともと領域を持たない多国籍集団であり、国家のように支配する領域を失い、また組織的に破壊されたからといってその脅威は消えないことである。 「見えにくい脅威」という非国家主体から始まった存在でありながら、領域を支配するという「見える脅威」の要素を兼ね備えた組織、イスラム国。国際社会がイスラム国を物理的に弱体化させたとしても、今度はより「見えにくい脅威」として国際社会の前に存在することとなるだろう。  イスラム国やアルカイダなどは、国家以上に適応性(アダプタビリティー)と柔軟性(フレキシビリティー)に優れた脅威であることから、一旦破壊されても次に国家のコンロトールが脆弱なところ、また今後そうなる可能性がある場所を聖域として探すことになる。 闘いは長期化する  これは9・11以降のアルカイダがイエメンやソマリア、イラク、シリア、サハラ地帯などに拡散化しようとした経緯からも明らかであり、また場合によってホームグローンなど自らの国内にその細胞が芽生えるリスクもある。 オバマ大統領は、イスラム国との闘いは長期戦になるとの見方を示し、イラクとシリアで米軍主導の空爆を実施している。もし米国がイスラム国への対処で地上軍による攻撃を開始した場合、それによって米国にはイスラム国やアルカイダ特有の多くのリスクが生じることになる。  米国の地上軍投入は、言い換えればアルカイダトラップ(Al Qaeda Trap、前が見えない闘いに米軍が陥り、血を流すことになる罠)に米国がかかることを意味する。そのため、ソマリアやイエメンで実施している無人機による攻撃などの“light footprint strategy”(深い足跡を残さない軍事戦略)に沿ってIS軍事戦略を進めていくしかないのが現状だ(もちろん、今後の展開は予測が難しい)。  グローバル化のリスクが創出したイスラム国という産物──。これに対処することは簡単なことではない。わだ だいじゅ 1982年、岡山県生まれ。専門は国際政治学、国際安全保障論。清和大学と岐阜女子大学でそれぞれ講師は研究員を務める一方、東京財団で研究業務に従事、14年5月に主任研究員を務める日本安全保障・危機管理学会で奨励賞を受賞。“The Counter Terrorist Magazine”(SSI、フロリダ)や、"Counter Terrorist Trends and Analysys”(ICPVTR、シンガポール)などの国際学術ジャーナルをはじめ、学会誌や専門誌などに論文を多数発表、所属学会は日本防衛学会、日本国際政治学会、国際安全保障学会など。関連記事■ オウムの失敗に学んだ「イスラム国」と失敗に学ばない日本■  「アル=カーイダ3.0」世代と変わるグローバル・ジハード ■ 朝日新聞だけではない 戦後ジャーナリズムが陥っている偽善

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    テロリズムを「劇場化」するメディア報道

      テロリズムは、政治的目的のために爆弾や人質を利用して暴力的事件を起こし、社会や世間の注目を集め、メディアによって報道されることにより、自分たちのメッセージを世界にアピール、宣伝し、相手の政策を変更させたり、社会不安を拡大させて世論を混乱させたりすることを目的とした政治的コミュニケーションである。  今回のイスラム国邦人人質事件は、日本人の湯川遥菜氏と後藤健二氏が人質に取られ、日本政府による中東への2億ドルの人道支援が批判され、彼らの命と引き替えに2億ドルが要求されるという紛れもないテロリズムであり、これを実行した犯行グループをテロリストと呼ぶことは妥当である。  テロリズムはメディアによって報道されることが最初から計画の一部として組み込まれており、メディアが報道すればするほど、テロリストの目的は達成されることになる。  現代のテロリズムの特徴が無差別テロであるように、今回のイスラム国邦人人質事件でも、人質に取られたのはシリアに入国した民間軍事会社CEOの湯川遥菜氏とフリージャーナリストの後藤健二氏という一般人であった。  一般人が人質にされるテロリズムでは、一般人が標的となりうる現代社会というテロリズムの劇場が設定され、メディア報道を通じて、一般人がオーディエンスとしてそれを受容するという劇場型犯罪の構造をとる。「テロリズムは劇場である」といったのはブライアン・ジェンキンスであったが、彼が指摘した1974年の時代からその状況は変わっていない。  このテロリズムという劇場のなかで、イスラム国の標的となった日本人の一人である自分自身を人質と同一視することで「ストックホルム症候群」に陥り、イスラム国を非難するのではなく、それに敵対する日本政府を非難するメディア報道やオーディエンスの国民が発生したり、このテロリズムという劇場自体をドラマや映画などのスペクタクルのようにメディア報道し、それをオーディエンスとしてコンテンツ消費したりする国民が発生する。チュニスで博物館襲撃テロに巻き込まれ、決死の思いで脱出を図った観光客ら(ゲッティ=共同)  テロリズムは、それ自体が人々を魅了して目を奪われるキラーコンテンツである。メディアはテロリズムを報道すれば販売部数が上がり、視聴率がとれる。このように、歴史的にテロリストは自分たちのメッセージを世界に宣伝、アピールするためにメディアを利用しようとしてきた。  それに対し、メディアはジャーナリズムの社会的使命として、テロリズムを報道してきた。メディアの側がそのテロリズム報道で販売部数や視聴率を上げようとしなくても、ジャーナリズムの社会的使命を実践しようとするだけでテロリストの思惑に嵌り、その宣伝活動に荷担することになる。  このようなメディアとテロリズムの関係を、J・ボウヤー・ベルはメディアとテロリズムの「共生関係」と呼んだ。  イギリスのマーガレット・サッチャー元首相はIRA(アイルランド共和国軍)との闘争のなかで、「メディアはテロリストやハイジャッカーにパブリシティの酸素を供給するもの」としてメディア報道批判を展開したが、テロリズムに関する報道をコントロールすべきだという議論は、メディア報道管制論として欧米において古くから議論されてきた。 マスメディアの報道責任  はたして今回のイスラム国邦人人質事件において、メディアはイスラム国のテロリストをどのように報道しただろうか。  イスラム国を名乗る動画がインターネット上に掲載されて、そのメッセージの内容を詳細に報道することから今回の事件は始まった。テレビも新聞も雑誌もネットニュースも、イスラム国のメッセージを詳細に分析し、報道した。この時点で、すでにメディア報道はイスラム国のアピールに協力する宣伝機関の役割を果たしてしまった。  アメリカで1978年から16件の爆弾テロ事件を起こしたユナボマー(本名、セオドア・カジンスキー)が95年に新たな爆弾テロを計画し、ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストに対して自分の論文『産業社会とその未来』を掲載するよう要求した際、両紙は社内の議論の末、その論文を掲載した。  また、84年のグリコ・森永事件では「かい人21面相」を名乗る犯行グループが、グリコと森永の商品に毒を入れたという脅迫状のメッセージを両社とメディア各社に送りつけたが、この時、日本のメディアは各社議論の結果、社会に報道する責任を優先して脅迫状の内容を報道した。  当時の新聞やテレビ、雑誌といったマスメディアが中心であった時代には、テロリストが送りつけるメッセージは手紙やファックスなどのアナログメディアが中心であり、送りつけられる対象は、標的となっている組織やマスメディアに限られていた。そのため、マスメディアがそれを報道するかどうかという判断は極めて重要であり、報道すればテロリストの要求に屈したことになり、反対に報道しなければ一般市民はその事件の存在を全く知らないことになるという、現代とは異なる時代状況があった。  だからこそ、当時のマスメディアにはテロリズムを報道する際の慎重な姿勢が求められ、メディアとテロリストの間には緊張関係が存在したといえる。当時のテロリストはマスメディアを利用することに注力し、反対に自らの宣伝やアピールをメディア報道に依存せざるを得ない環境があった。  本来、メディアとテロリストの間には対立する緊張関係があったという前提と、テロリズムを報道すべきかどうかという社会的責任がマスメディアには存在していたということを忘れてはならない。国境越えるメディア戦略 国境越えるメディア戦略  それに対して、インターネットとソーシャル・メディアの時代である現代では、テロリストは自分たちのホームページを開設して情報発信したり、YouTubeやFacebook、Twitterなどのソーシャル・メディア上で自分たちのメッセージや動画を簡単に掲載したりすることができる。  イスラム国が日本人二人を人質にとったメッセージが掲載されたのもネット上であり、ソーシャル・メディア上であった。  ネットとソーシャル・メディアの登場により、テロリストと一般市民は直接繋がることができ、その間にテレビや新聞、雑誌といったマスメディアを媒介する必要がなくなったのである。これにより従来のマスメディアは、テロリストによって直接利用され、責任を問われる事態を免れたが、その反面、ネットやソーシャル・メディアに存在するテロリストのメッセージを葛藤せずにそのままコンテンツとして利用し、安易に報道するようになった。  テロリストがネットやソーシャル・メディアに掲載したものをマスメディアがそのまま報道することにより、そのメッセージをより広範囲に拡散することに貢献しているのである。  そういう意味では、現在のメディア環境においても、テロリストはソーシャル・メディアを使いながら、従来のマスメディアの報道を間接的に利用して自らの政治的主張を世界にアピールすることに成功している。  イスラム国は、YouTubeやTwitterなどのソーシャル・メディアを活用して、自分たちの政治的メッセージを世界に宣伝することに成功しているだけでなく、世界からカンパを集めることにより、資金として活用し、世界から若者をリクルートすることに成功している。  欧米諸国からも多くの若者を集め、そのなかにはテレビ局や新聞社などでジャーナリスト経験を持つものがいて、彼らがイスラム国の広報局に所属して人質の動画を編集し、ネット上でメッセージを発信している。  イスラム国は、組織のなかにメディアを活用するためのプロパガンダ機関を持っているのである。このように、現代におけるテロリストは多様なメディアを利用する情報戦、プロパガンダ戦を展開し、自分たちで世界にメッセージを発信するメディア戦略とメディア・リテラシーを持っている。  今回のイスラム国邦人人質事件でも、第一報以降、テレビや新聞、雑誌などにおいて連日、テロリズムに関する報道が大部分を占める集団的過熱報道(メディアスクラム)と呼ばれる現象が発生した。 事件は劇的に展開  新聞では連日、一面記事、総合面、政治面、国際面、社会面で人質事件の報道が続き、テレビニュースでもトップニュースや特集コーナーを人質事件が飾った。こうしてイスラム国によるテロリズムは、オーディエンスが注目するキラーコンテンツとなった。二つの高いビルが倒壊前の世界貿易センタービル(通称ツインタワー、2001年撮影)  イスラム国が提示した72時間という期限のなかで時間が刻々と過ぎるなか、人々はメディア報道に注目した。こうしてキラーコンテンツとなったテロリズムは、ジェンキンスが指摘したように劇場型犯罪として一般市民をオーディエンスとして巻き込み、劇的に展開する。  この現象は戦後テレビの登場とともに発生したともいえるが、1972年のあさま山荘事件では連合赤軍による10日間の人質立てこもり事件で、最後の強行突入までの10時間がテレビで生中継され、平均視聴率50%超を記録した。  95年のオウム真理教による地下鉄サリン事件では、オウム真理教関連の報道番組や特別番組が多数編成され、その多くが高視聴率を記録している。  また、2004年のイラク邦人人質事件では、3人の日本人がイラクの武装勢力サラヤ・アル・ムジャヒディンにより誘拐され、日本政府に対してイラクに派遣された自衛隊の撤退等を要求されたが、この時にも現在と同じような集団的過熱報道が発生した。  当時、人質に対する同情論と自己責任論で世論が二分され、イラクに自衛隊を派遣した日本政府がテロの原因であるとするメディアや研究者、評論家からの政権批判に繋がったことは記憶に新しい。  このイラク邦人人質事件におけるメディア報道と世論の反応は、今回のイスラム国邦人人質事件と非常によく似た傾向を示している。11年前に発生したイラク邦人人質事件の反省は、今回のイスラム国邦人事件でのメディア報道においてどう活かされたのだろうか。 東京五輪が危ない  このように、テロリストはテロリズムの宣伝効果を最大限に発揮させるために、また多くのオーディエンスを獲得するために、メディアを利用する戦略を構築する。よってテロリズムの標的になるのは、メディアイベントやランドマークである場合が多い。  2001年のアメリカ同時多発テロ事件で標的となったのは、アメリカのグローバル経済の象徴である世界貿易センタービルというランドマークであった。  また、72年の「黒い九月」事件でパレスチナ人過激派組織「黒い九月」が狙ったのは、テレビ中継されたメディアイベントであるミュンヘン・オリンピックであった。また、2013年に発生したボストンマラソン爆弾テロ事件で容疑者兄弟が狙ったのは、世界に生中継されたボストンマラソンであった。  こうしたメディアイベントには世界各国からメディアが集結し、テレビやネットを通じて世界に中継されているため、テロリズムの宣伝効果を高めるために重要な道具として利用される。  この意味においても、テロリズムとメディアイベントの間にも共生関係が発生する。2020年の東京オリンピックもテロリズムの標的になる可能性は高く、そのための危機管理体制の構築はすでに始まっている。  テロリスト、メディア、オーディエンスの三者からなるテロリズム報道というメディア・コミュニケーションのなかで、テロリストはよりオーディエンスからの注目を集めるためにテロリズムの手法を高度化し、そのインパクトを最大化するための大規模なテロ事件を計画し、メディアはそのテロリズムをより劇的に報道することにより、視聴率や売り上げ部数の拡大を目指すようになる。  そしてオーディエンスは、メディアが提供するテロリズムのコンテンツを利用し、消費することでテロリストの政治的メッセージを受容し、影響を受ける。こうしたテロリスト、メディア、オーディエンスにより形成される三角関係のなかで、テロリズムを軸に共生する負のスパイラルが拡大しているのが、現代のテロリズムの特徴である。 娯楽番組のように消費娯楽番組のように消費  このようにテロリズムをオーディエンスの問題として考えると、テロリズムは消費の対象となり、一連のニュース報道はドラマのように消費され、その劇場が終わった瞬間にテロリズムはオーディエンスの問題意識から消え去るという展開を繰り返してきた。  メディア報道によるテロリズムのキラーコンテンツ化は、こうして現実の社会問題としてのテロリズムと危機管理の問題を隠蔽する。  日本人の多くは、劇場における物語として人質の解放を喜び、または人質の殺害を悲しみ、事件の終わりを物語の終わりとして認識し、劇場を去ると同時に日常生活に戻ることですべてを忘れ去る。これはリスク消費社会における現代人の病理である。  この構造を創り出したのはメディアであり、ジャーナリズムであるともいえる。  80年代後半から指摘され、2000年代で定着した「メディア報道の娯楽化」「ニュースのソフト化」という傾向と、それに対する「ワイドショーの政治化」「娯楽番組の政治化」という傾向との相互作用により、報道番組とワイドショー、情報番組の垣根がなくなっているように、それを受容するオーディエンスのなかでも、テロリズムや政治的問題への関心が高まっている。  その一方で、意識のなかで報道の娯楽化、ニュースのソフト化が発生し、テロリズム等のニュース報道も娯楽番組と同じように消費する意識が常態化している。このように機能主義的に体制に回収される消費の論理のなかからは、政治的課題を解決するための実践的な行動は発生しない。地下鉄サリン事件で、地下鉄日比谷線築地駅前の路上で手当てを受ける被害者=1995年3月20日  さらに、テロリズムをジャーナリズムと政治の問題として考えると、地下鉄サリン事件のメディア報道においても日本政府と警察、公安の危機管理能力が問われ、批判の対象となった。また、イラク邦人人質事件においても、北朝鮮テポドンミサイル実験においても、日本政府の危機管理体制の甘さが露呈し、メディア報道の批判の対象となった。 タブーだった「危機管理」  このように、テロリズムなどの社会的危機が発生するたびに、日本の危機管理体制が不備であることが一部のメディアや研究者から批判されてきた経緯がある。  しかしながら、1995年の阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件を契機に、90年代以降、北朝鮮不審船事件と拉致問題の発覚、北朝鮮テポドンミサイル実験、アメリカ同時多発テロ事件など、繰り返される危機において、日本の危機管理体制の欠如がメディア報道で批判されるに至るまで、日本では「有事」や「危機管理」という言葉がタブーであったことを忘れてはならない。  日本において警察政策学会という学会が誕生し、そのなかにテロ対策研究部会が発足してテロリズムの学術的な検討が始まったのも98年のことであった。  これまで長い間、一部のメディア報道が日本の危機管理構築をタブー化し、東京大学をはじめとする日本の大学においてもテロ対策や危機管理というテーマの研究、教育はタブー視されてきた。その結果、日本における有事や危機管理のための法制度の構築は遅れてきたのである。  テロリズムや安全保障を全く学んでいない政治家や官僚、ジャーナリストを大量に生産してきたのが日本の教育制度であり、日本のメディア報道である。民主主義とシヴィリアン・コントロールにとって危機的な状態である。  テロリズムや戦争、紛争など政治的危機にかかわる法制度について、戦後の日本は政府とメディア、国民が「ハリネズミの恋愛」ジレンマに陥ってしまっている。90年代以降をみても、PKO法、通信傍受法、国民保護法、国家安全保障会議設置法、特定秘密保護法など数々の法制度において、テロリズムや戦争などの政治的危機に対する危機管理の論点から、合理的で理性的な議論が積み重ねられてきたとは言い難い不幸な歴史を繰り返してきた。  日本政府は常にメディア報道の批判を恐れて、危機管理構築のための十分な説明責任を果たしてこなかったし、一部のメディア報道もこうした法制度の構築に対して的外れな批判を繰り返してきた。メディアやジャーナリズムにとって、権力の監視機能は重要な役割であるが、テロリズムや危機管理の本質に根ざした批判や議論が十分になされてきたか、検証が必要である。大本営発表はいまも大本営発表はいまも  危機管理や安全保障の法案が国会に提出されたときにだけメディアは集中的に報道して批判し、国民はそのリアクションとして反対行動を起こすが、その法案が成立するとすぐに何もなかったかのように忘れ去られ、既成事実化していく日本の危機管理。テロ対応や危機管理の問題をタブーにしてきたメディア、ジャーナリズムが、こうしたテロリズムの議論を消費の対象に囲い込んできたという問題と結びついている。  こうして腰を据えた本質的な議論を避けてきた結果が、イスラム国邦人人質事件に対する日本政府の対応にも表れている。法制度を形だけ整備しても、それを運用する組織や能力が追いついていないのである。  危機管理や有事をメディアや大学がタブー視したことで実際の整備が遅れているという事実に対して、メディア報道や大学教育は責任をとるどころか、この状況に全く気づいていないように見えることが、日本の現代の危機の形である。  テロリズムや戦争といった政治的危機をどのように報道すべきか、メディアと政府の間で直接向かい合った議論が必要な時期を迎えている。メディア報道、ジャーナリズムこそが、権力の監視機能を担う民主主義にとって不可欠な要素であると認識するがゆえの提案である。  すでに現在のテレビや新聞などのマスメディアの報道機関は、テロリズムや戦争などの政治的危機の報道において機能硬直に陥っている。  たとえば、テロリズムや戦争といった危機事態においては一次情報のソースが政府に偏るため、マスメディアは政府の記者会見における発表情報に報道を依存せざるを得ない。この状態は「発表ジャーナリズム」という表現で批判されるが、これは太平洋戦争時代の大本営発表と基本的に同様の問題を抱えている。マスメディアはポーズとしての権力監視を看板に掲げていても、現状を改善しようとしない態度がこの実態を隠蔽している。 進んでいる欧米の議論  また、戦争や紛争などに関するマスメディア報道は、現地に入ったフリージャーナリストに依存せざるを得ない状況である。これは企業としてのコンプライアンス上、生命の危険がある地域に自社の記者を派遣できないとするマスメディアの対応からくるもので、「コンプライアンス・ジャーナリズム」と呼ぶべきものである。  その結果、戦場に入って報道するのはフリージャーナリストが中心となり、戦争、紛争やテロリズムの犠牲となる構造が発生している。今回のイスラム国邦人人質事件にも、このような事情が背景にある。  このように、テロリズムの問題をメディア、ジャーナリズムが克服するためには、数多く存在する問題を解決しなくてはならない。会見を開き、イラクで日本人がテロリストに拘束されたと発表する福田康夫官房長官=2004年4月7日、首相官邸  戦争やテロリズムなどの安全保障問題に関して、メディアと政府がどのような関係を構築すべきかについて欧米ではさまざまな研究や議論がなされてきたが、長年タブー視されてきた日本では議論が進んでいない。  危機事態における政府とメディアの関係には、①政府による検閲、②政府とメディアの調整、③メディアの自主規制の三パターンが存在する。  現代において、①検閲は北朝鮮や中国のような一部の国々、強権国家にしか存在しない。②政府とメディアの調整に関する代表例は、イギリスのDAノーティス制度(Defence Advisory Notice)である。  イギリスは戦争やテロリズムといった安全保障に関する報道に関してDAノーティスという制度を持っており、DPBAC(Defence, Press and Broadcasting Advisory Committee)という組織にBBCなどのテレビ局、デイリー・メールやガーディアンなどの新聞社、通信社やネット業者が参加し、国防省などの政府機関とともに安全保障に関する報道内容を検討して調整するという制度を1912年の第一次世界大戦以前から百年以上、維持してきた。  また、③メディアの自主規制の代表例はアメリカであるが、アメリカの新聞社やテレビ局などのマスメディアには、テロリズムについてどう報道するか、戦争における報道のあり方について膨大な報道ガイドラインが構築されている。  これは第二次世界大戦後、ベトナム戦争や湾岸戦争、イラク戦争など数多くの戦争を経験し、TWA847便ハイジャック事件やイラン米大使館人質事件など、数多くのテロリズムを経験してきたアメリカのメディアが歴史的に構築してきたものである。その歴史のなかで、アメリカはペンタゴン・ペーパー事件のような政府とメディアの対立を克服してきた。テロ報道体制の構築を  イギリス的な②政府とメディアの調整による協調・調整型を目指すべきか、アメリカ的な③メディアの自主規制による対立・克服型を目指すべきか、テロリズムや戦争など安全保障をめぐる政府とメディアの関係において、日本型のシステムが求められている。  残念ながら、日本にはイギリスのような調整型の制度も、アメリカのようなメディアの重厚な報道ガイドラインも存在していない。イギリス型を目指すべきか、アメリカ型を目指すべきか、または日本独自のシステムを構築するか、テロリズムや戦争などの危機管理をめぐる政府とメディアの議論を始めなくてはならない。  テロリズムの問題という一点をみても、日本の危機管理体制構築、研究としての危機管理学の構築は遅れていると言わざるを得ない。テロリズムや有事、危機管理の問題を決してタブー視することなく、民主主義におけるシヴィリアン・コントロールの観点からテロリズムの問題を考えるところから、オールハザード(ありとあらゆる危険を想定)で日本の危機管理を考察し、体制を構築すること、さらにはそれを研究する危機管理学の構築が求められている。 〈参考文献〉福田充『メディアとテロリズム』新潮新書(2009)、福田充『テロとインテリジェンス~覇権国家アメリカのジレンマ』慶應義塾大学出版会(2010)ふくだ みつる 1969年生まれ。日本大学大学院新聞学研究科、日本大学法学部教授。東京大学大学院・博士課程単位取得退学。博士(政治学)。コロンビア大学戦争と平和研究所客員研究員等を経て現職。専門はテロや災害など、メディアの危機管理。内閣官房等でテロ対策や危機管理関連の委員を歴任。著書に『メディアとテロリズム』(新潮新書)など。関連記事■  「アル=カーイダ3.0」世代と変わるグローバル・ジハード ■ あの日を境に変わった私のメディア認識■ 秘密保護法でバカ騒ぎ 左翼媒体と堕した進歩派マスコミ

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    朝日だけじゃない「反日地方紙」の正体

    首都圏や近畿圏を除けば、その地域で圧倒的な存在感を誇る地方紙というものが存在します。県内の政官財界に多大な影響力を持ち、その地域の人々にとっては、まさにゆりかごから墓場までお世話になる新聞なのです。それほど影響力のある紙面がまさに「反日一色」というのはなぜでしょうか?

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    沖縄県紙の市長選「介入」報道は許されるのか

    かし実際には事情は逆で、海警は市長選の間、市民に存在を誇示し続けたことになる。 中国要人の発言や官製メディアの報道を見ていると、中国当局は尖閣に関することは何でも綿密に情報収集している。市長選について無知だったとは考えにくい。海警が結局、市長選の期間をすっぽり覆うように尖閣海域に張り付いていたことを思うと、石垣市民に対する配慮ではなく、市民への威圧こそ、中国当局の狙いだったように思える。 こうした海警の挑戦的な動きも、市民が市長選で誰に投票するか判断する際の重要な材料になる。そうでなくても八重山日報は連日、海警の動向を報道している。紙面が選挙関係の記事でパンパンになっても、海警の記事を入れることだけは忘れなかった。 しかし他の県紙や地元紙は、市長選の期間中、海警の動向について全く報じず、わずかに琉球新報が、市長選が終わったあとに紙面の片隅で掲載しただけだった。自衛隊配備報道とは対照的な報道姿勢といえる。 海警は24時間体制で石垣市の行政区域を脅かし続けている。しかし地元のマスコミは、いつの間にか、これを当然視し、報道すらしなくなった。市民どころかマスコミさえ、海警の存在に「慣らされている」のかと思うと腹立たしい。 中国の王毅外相は3月8日の記者会見で、歴史問題を口実に日本を批判し「第二次世界大戦後の国際秩序を守る」「領土問題では一片の土地であっても必ず守る」と言明した。 尖閣をめぐり、日中の緊張局面が長期化することを改めて感じさせる重大な発言だったが、沖縄や八重山(石垣市、竹富町、与那国町)では全くと言っていいほど深刻に受け止められていない。 中国政府幹部の発言と海警の動きを重ね合わせれば、尖閣強奪を狙う中国の本気度が分かるし、この先10年、20年というスパンで、中国の圧力は強まる一方であることは容易に予想される。日本が世界平和の敵だと主張する宣伝戦も、自らの野心を正当化する口実であることは明らかだ。しかし現在のところ、沖縄や八重山からはマスコミも含め、中国のこうした動きを明確に批判する声も聞こえない。 沖縄タイムスは3月8日の社説で、自民党の石破幹事長が「将来的にはアジア版の北大西洋条約機構(NATO)が必要だ」と語ったことについて「中国を除外し、中国を封じ込めるという考えなのだろうか。危険な発想である」と述べている。八重山の住民にとっては、中国の脅威を直視しないマスコミの論調こそ危うい。文科省の是正要求に反発した竹富町 石垣市の隣にある島々、竹富町教育委員会が教科書選定のルールに従わず、独自の中学校公民教科書を採択し、使用している問題は、新たな局面を迎えた。文部科学省は3月14日、竹富町教委に対し、教科書採択のやり直しを求める是正要求を出した。是正要求は地方自治体の法令違反を正すための措置で、国が市町村に直接発動するのは全国で初めてになる。 竹富町の慶田盛安三教育長は「(教科書採択に対する)政治介入だ。文科省が態度を改めてほしい」と反発。是正要求に従わない構えを示した。 しかし町は地方自治法上、是正要求に従う義務を負っている。今後、不服申し立てや裁判闘争ということになれば、国と町が全面的な対決に突入することになる。 町が指摘されているのは、採択地区(この場合は石垣市、竹富町、与那国町でつくる八重山地区)では同一の教科書を採択するよう求める教科書無償措置法の違反である。 慶田盛氏は記者会見で「竹富町が教科書無償措置法に違反しているというなら、石垣市、与那国町も違法だ」と批判。さらに石垣市、与那国町が採択している育鵬社版について「現場教員が一番悪い(教科書)と評価した」と改めて教科書の内容に疑問を呈した。 しかし八重山教科書問題の焦点は、個々の教科書の是非ではなく、教科書無償措置法の違法状態解消を一刻も早く解消し、法治国家としての本来のあり方を回復する必要性という点に移っている。「問題は教科書の内容」(慶田盛氏)という発言自体、竹富町が現実を見ていないことを示す。 是正要求が年度末ギリギリの時期になったことについても、慶田盛氏は「大事な時期に現場が混乱する」と不満をあらわにした。だが文科省は義家弘介政務官が昨年3月に直接、町教委を指導して以来、1年間の「猶予期間」を町教委に与えてきた。最終手段である是正要求の発動を3月中旬まで持ち越したのは、逆に、町教委に最大限配慮した結果とも取れる。 違法状態の解消に努力する形跡がなかった沖縄県教委の責任も重大だ。法律論ではなく感情論で町教委の擁護を続け、教科書問題をイデオロギー闘争に矮小化させる原因をつくったといえる。 町に是正要求するよう文科省から指示されていた県教委は1月、逆に文科省に対し、竹富町だけ「八重山採択地区」から分離させることは可能か、と意見照会した。これが許されれば、町は八重山採択地区のルールに拘束されなくなり、堂々と東京書籍版の採択が認められることになる。しかし竹富町は人口4千人規模の小さな自治体であり、石垣市や与那国町から独立して、教科書選定のための調査、研究をする協議会を設置するのは難しい。 石垣市の教育関係者からは「竹富町を八重山採択地区から離脱させて、沖縄本島の採択地区にでも編入するつもりではないか」と呆れる声が出ていた。下村博文文科相は即座に採択地区の分割を否定した。 結局、県教委は責任回避に終始し、文科省の指示を無視して、竹富町に是正要求を出すことはなかった。その理由は、第一に竹富町を擁護し続けた自らの姿勢を正当化するためであり、第二には予想される主要マスコミからの攻撃を恐れたためだ、と思う。子どもに範を示すべき教育委員会が、むしろ違法行為の正当化に汲々としている。情けないというほかない。 仮に文科省が裁判闘争に持ち込んでも、主要マスコミは竹富町をジャンヌ・ダルク扱いするはずで、町は徹底抗戦するだろう。そうなると採択のやり直しを強制する手段はあるのだろうか。現行法上、この問題の決着はかなり難しい気がする。 竹富町のような事例が再発することを防ぐため、政府は3月、教科書無償措置法の改正案を国会に提出した。各自治体には「採択地区協議会の協議の結果に基づき、同一の教科書を採択する」義務が明文化される。つまり、各自治体は採択地区内で協議した結果に従わなくてはならず、竹富町のような自己主張は法律上も認められないということである。 また、採択地区の設定単位を、市町村単位に改めることも認める。法改正は2015年度の教科書採択から施行される見込みだ。 来年には次回の中学校教科書採択が控える。竹富町が続ける不毛な闘争より、重要性はそちらの方が大きくなりつつあるように思う。 中山氏が市長選で再選されたことで、八重山採択地区では今後も育鵬社の公民教科書を採択することがほぼ確実な情勢だ。さらに歴史教科書の変更も視野に入ってくる可能性がある。 国境の島々に問われてくるのは、他国に恥じない領土意識や歴史観を持つ子どもたちを育むということだ。法律と地域のルールに基づいた教科書を守る戦いは、沖縄や八重山を他国の脅威から守るための戦いでもある。なかあらしろ・まこと 昭和48(1973)年、沖縄県石垣市生まれ。琉球大学卒業後、平成11(1999)年に石垣島を拠点とする地方紙「八重山日報」に入社、22年から同紙編集長。イデオロギー色の強い報道が支配的な沖縄のメディアにあって、現場主義と中立を貫く同紙の取材・報道姿勢は際立っている。著書に『国境の島の「反日」教科書キャンペーン』(産経新聞出版)。関連記事■ あの日を境に変わった私のメディア認識■ 「政治的公平」とかけ離れた偏向テレビが国民を惑わす■ 琉球独立論の空虚

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    言論封殺!「か」の字も許されない核アレルギー

    (中鉢久美子撮影) 元外務次官の村田良平氏は、平成20年に出版した著作『村田良平回想録』や翌21年のメディアでの発言は、そういう不誠実な政府見解はやめにして、もっと、まともな核論議をすべきではないかとの提起であった。一部メディアは次官経験者の村田氏による「核兵器の持ち込みについて日米間に密約があった」との発言をだけを取り上げ、「政府のウソ」として矮小化してしまった。 村田氏の守秘義務の危険を冒しての捨て身の発言は、もう姑息な政府答弁をやめて知的な誠実さ、高潔さを貫こうではないかとの提言である。この村田発言がきっかけとなって、民主党政権は核密約の存在を明らかにすべく有識者に依頼して外務省から資料を提出させた。しかし、その後の動きは、民主党による自民党政権時代の悪事を摘発するかのような方向にシフトしていく。 その結果に、新聞、テレビはいわば興奮状態でこれを報じ、もっぱら「国家のウソ」を論評していた。地方紙の中でも核問題に熱心な愛媛新聞の社説「核密約認定 現在進行形の問題と自覚せよ」は、その興奮が伝わってくる典型的な事例であった。 「あすは戦後現代史が塗り替えられる一日となるはずだ。冷戦時代に日米で交わされた四つの密約を検証していた外務省の有識者委員会が報告書を公表する。密約を否定し続けた政府は公式見解を見直す。長年の『国家のウソ』に一応の終止符が打たれる。認定される密約は、1960年の日米安全保障条約改定時の『核持ち込み』、朝鮮半島有事における米軍の『基地自由使用』、72年の沖縄返還時の『有事の核再持ち込み』の三つだ。国是である非核三原則を揺るがす報告内容は、日米安保の歴史の闇を浮き彫りにするにちがいない。沖縄返還後の軍用地の『原状回復費肩代わり』は『事実があった』としながらも、日本側の資料が破棄された可能性が高く、密約と断定しない見通しという」 こうして核密約の存在を、国是とする非核三原則に引き寄せていく。そして「核なき世界」に言及することで、いよいよ理想主義の陶酔の中へ踏み込んでいく。 「歴代の自民党政権は『密約はない』の一点張りで、国会答弁でも一貫して否定してきた。が、いずれも米国の情報公開や関係者の証言で明らかになっている真実である。『核なき世界』に向かおうとする現在。改定安保50年の節目。日米密約が『確かな史実』となる意味は決して小さくない。政権交代の大義のひとつが実ったとも言える」 非核三原則との矛盾に言及し、国是の形骸化を悲しむのは、このほかに西日本新聞、神戸新聞、新潟日報、山陽新聞、熊本日日新聞などが、ほぼ同じ論旨、同じ用語で政府を糾弾していた。 しかし、地方紙では珍しく北國新聞平成22年3月10日付社説が、政府のウソを批判しつつも、そうした密約が核の抑止効果があった事実を冷静に指摘していた。社説はまず、「相手のある外交では、表に出せない機密事項がつきまとうのも常であり、密約の存在をもって当時の外交、安保政策を全否定することもできまい」と述べる。 外交が水面下での激しい攻防の末に、合意文書に調印するのは常であり、これをすべて公表すれば互いのナショナリズムに火がついて収拾がつかなくなる恐れさえある。多かれ少なかれ秘密があるから守秘義務も存在する。そして、北國社説は「米国の『核の傘』に守られながら、核廃絶を唱える日本外交の矛盾を繕う一つの方便だったといえなくもない」と知的誠実さをみせている。 「外交の最大の目的が、国家・国民の安全と繁栄という国益の追求にあれば、同盟国との核密約を外交の過ちと批判して済むものではない。外交の光と影を正しく検証し、今後に生かすことが大事である。鳩山政権は非核三原則の堅持を強調しているが、冷戦構造が依然残り、核の脅威が高まる北東アジアにあって、日本の安全を守る核抑止力をいかに確保するかを考えることがなにより切実な課題である」 まったく同感である。 この密約は1960年代の終わりの沖縄返還交渉で、佐藤栄作首相の密使だった京都産業大学の若泉敬教授(平成8年に死去)が、著書『他策ナカリシヲ信ゼント欲ス』の中ですでに明らかにしていた。これに続く村田氏の意図を考えれば、「国家のウソ」が明らかにされたいま、日本の防衛にいったい何が必要なのかをタブーなしに論議すべきではないか。それこそが、「平成の開国」であろう。核オプションは放棄できない 実は、これら核密約をめぐる政府のウソは、もはや歴史的な意味しか持たないものであるという事実がある。というのは、平成4年(1992)に当時のブッシュ大統領が、日本に寄港する米空母、駆逐艦、原子力潜水艦にはもはや核兵器は搭載しないと発表していたからだ。核に代わって精密誘導ミサイルなどが進化して通常兵器の精度が飛躍的に向上してきたからだ。 つまり、92年からはもはや米艦船に核兵器は搭載されないと断言したのである。もちろん、日本に対してはいわゆる拡大抑止が効力を発揮しているが、それは日本に配備されている非核兵器システムであり、日本に寄港する必要のない弾道ミサイル搭載型原潜に装備された核兵器によってなのである。 かつては、米国は核兵器の配備にについて「肯定も否定もしない」という曖昧戦略をとり、他方で、日本は反核世論と非核三原則に縛られ、寄港問題を事前協議をせずに「暗黙の合意」として引き継がれてきた。 それは昭和39(1964)年の東京五輪のさなかに、中国が核実験を強行したときの日本のジレンマに陥ったことが大きく影響している。当時の佐藤栄作首相はライシャワー駐日米国大使と会談して、きわめて戦略的な発言で大使をあわてさせたことがある。 会談内容は、米シンクタンクの加瀬みき客員研究員が米国立公文書館で発掘した「日本国首相訪米関係資料」によって裏付けられている。ライシャワー大使から国務長官に充てた極秘文書では、この年の12月に、佐藤首相はライシャワー大使との会談で憲法改正の必要を何度も繰り返し、「もし相手が“核” を持っているのなら、自分も持つのは常識である」と述べたという。 ライシャワー報告はこれらを「二人だけの会談で持ち出すつもりと思われる」と指摘し、大統領がその準備をするよう示唆している。 ところが翌年1月の首脳会談では、佐藤首相はこの核保有論にはほとんど言及していない。米側文書には、ジョンソン大統領が「もし日本が防衛のためにアメリカの核抑止力を必要としたときは、アメリカは約束に基づき防衛力を提供すると述べた」とある。佐藤首相が「それが問いたかったことである」と語ったところをみると、首相の戦略意図が米国による「核の傘」を確実なものにすることにあったことが分かってくる。 佐藤と彼の密使として活躍した若泉敬氏らの書いた外交シナリオによる対米戦略交渉であったとしたら、極めて狡猾な外交である。彼らの外交力が米国の「核の傘」を確実なものに引きだしたといえまいか。 いずれにしても、当時のソ連は、こうした日米の外交努力のために米国の第七艦隊には、常に核兵器が搭載されていると信じていた。ソ連は米国の核兵器を恐れていたために、日本の安全保障のためには有効な抑止が働いていたということである。だからこそ、日本政府が米艦船の核搭載を否定するよりも、曖昧戦略を貫いていた方がよほど日本の安全保障のためになったということである。 多くの国では、「核の恐怖」を逃れるために独自の自衛策を講じている。大国は核保有によって抑止力を働かせ、もたない日本は米国の「核の傘」をさしかけてもらう。それでも間に合わなければ独自に核シェルターを持つしかない。 依然として核論議もゆるさない「不思議の国」にあっては、当面、北朝鮮の核の脅威を前に米国からの抑止を確実なものにする必要がある。日米首脳会談で「核の傘」を公式議題に取り上げ、当面、「北が計画を続ける限り日本は、核オプションを放棄しない」との表明が有用であろう。そのためにも、地方論壇が核にかかわる思考停止を放棄するよう期待したい。関連記事■ 亡国の巨大メディア、NHKは日本に必要か■ 秘密保護法でバカ騒ぎ 左翼媒体と堕した進歩派マスコミ■ 卑劣なプロパガンダ「サンモニ」の正体とは

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    地方紙はローカルニュースだけでよい

    なったときに、地方紙やブロック紙の、東京の通信社との関係も、見直されるだろう。関連記事■ 亡国の巨大メディア、NHKは日本に必要か■ 秘密保護法でバカ騒ぎ 左翼媒体と堕した進歩派マスコミ■ あの日を境に変わった私のメディア認識

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    読者が知らない共同通信の強大な影響力

    福岡市)などのブロック紙といった分類を含め、これらを一般紙と称する。 本稿で取り上げる共同通信というメディアは、これら様々な新聞社にニュースを提供する通信社である。もうひとつ日本には時事通信という通信社もあるが、ニュースの配信量、その影響力ともに共同通信が時事通信を抑えており、文字通り日本を代表する通信社といえるだろう。 通信社のニュースといえば多くの読者は外電や海外ニュースをイメージしがちだ。むろん共同通信も世界各地に幅広く記者を派遣し、配信されたニュースにはこうした海外の出来事に関する記事も多数ある。だが、共同通信の配信記事はそれだけではない。 多くの読者は自分の読んでいる新聞記事が、実はその新聞社の記者ではなく、共同通信の記者が取材、執筆し、出稿、配信した記事であるとは知らずに読んでいることが多い。共同通信という存在は一般読者には意外に知られていない。 最近では、新聞社のインターネットサイトも多い。インターネット検索サイト、グーグルにはニュースの検索機能があり、キーワードごとのニュースを自在に集めることが可能である。検索で集められたニュースを眺めていると、別々の新聞社であるにも拘わらず、最初から最後まで全く同じ文章のニュースだったりすることがある。その大半が、実は新聞社のオリジナル原稿ではなく、通信社による配信記事なのだ。 映像メディアからラジオ局まで、共同通信が配信するニュースは活字のニュースばかりではなく実に幅広い。 本稿ではまず共同通信というメディアがどんなメディアで、新聞からみた存在感や影響力について紹介したい。朝日や読売しのぐ部数 《共同通信社は1945年、正確公平な内外ニュースを広く提供し、国民の知る権利に応えるとともに国際相互理解の増進に貢献することを目的に、全国の新聞社、NHKが組織する社団法人として設立。創立以来、国内、海外のニュースを取材、編集して新聞社をはじめ、民間放送局や海外メディアに記事、映像を配信している。日本語だけでなく英語や中国語でも配信し、アジアに軸足を置く日本を代表する総合国際通信社である》 共同通信が自らこう説明するように、共同通信は公益法人として新聞、テレビなど様々なメディアを支える裏方のような役割を担ったニュース供給メディアである。ニュースの配信を受けるためには共同通信に加盟料を支払い「加盟社」となる必要がある。つまり、顧客であると同時に、共同通信のメンバーであり参加構成員といっていいだろう。現在、加盟社はNHKを含め56社、加盟社が発行する新聞は67紙に及ぶ。顔ぶれをみると、産経新聞社や日本経済新聞社のような全国紙や経済紙、それに、県紙と呼ばれる地方紙が都道府県ごとにほぼ1社ずつ加盟している。ただし、沖縄の琉球新報と沖縄タイムズのように同一県内の2紙がともに加盟しているケースもある。 朝日新聞と読売新聞は共同通信の加盟社ではないが、加盟社以外に外信記事と運動記事の一部の配信を受ける「契約社」があり、朝日、読売のほか東京スポーツなど10社13紙を発行している。またフジテレビやテレビ朝日、TBSなどのキー局をはじめ地方の主要な民間放送局108社が契約社として共同の配信を受けている。記事を配信する媒体の数、その発行部数や放送局の場合の視聴エリアを考えると、共同通信の影響力は朝日新聞や読売新聞といった巨大部数を発行する全国紙を凌ぐといえるかもしれない。 共同通信はニュース供給のメディアだと述べたが、地方紙に供給されるニュースは海外ニュースだけではない。むしろ、地方紙にとっては国内ニュースの供給源という役割のほうが重く大きい。その意味で、共同通信は自ら発行媒体を持たないものの、地方紙への影響力は絶大といえそうである。 地方紙はおおむね県庁所在地に本社を構え、県庁に手厚い取材部隊を置くのが常である。県下一円に広く取材網を広げ、郷土のニュースをどこよりも速く、さらに手厚く詳しく報じることを全国紙と競い合う。 県政記者クラブの取材統括役、県政キャップといえば、いわば県庁の表裏を知り尽くし、知事や県幹部とも顔なじみで、地元政財界にも顔が利き、いずれはその地方新聞社の幹部になることが期待されている…こういう将来の重鎮または重鎮候補、エース記者が務める場合が多い。毎年、3月ごろになると、県庁の幹部人事を寸分の狂いなくいち早くスクープする。これが地方紙の大事な役割になっており、郷土に地盤を置く県紙の矜持であり、全国紙では追随できない典型的な報道である。 ところが多くの地方紙は、首都東京での取材体制が極めて脆弱である。東京支社を構えて記者を数人配置しているが、彼らは全国ニュースを追っているわけでは必ずしもない。地元出身の政治家を回ったり、地元ゆかりのニュース発掘だったりもするが、全国ニュースは共同の配信記事に頼るのがほとんどである。 選挙になると、選挙区ごとの当落判定が必要になる。地方紙にしてみれば、自分の都道府県の選挙区ならば、全国紙の手が届かない裏の裏の情報まで見据え、開票動向を占うことは可能だろうが、県境をひとつ超えると、そうはいかない。選挙の開票作業同様、選挙報道にミスは許されない。こうした全国規模での開票作業を束ね、集約し、処理していくのも共同通信の重要な仕事である。 さらにプロ野球やサッカー、大相撲などのスポーツイベントを例に取れば、様々なスポーツイベントごとの記事や写真、記録の処理に至る細かなところまで共同の配信に頼ることになる。デスク必見の出稿メニュー 夕刊を発行する新聞の場合、午前8時過ぎには共同通信社から夕刊に提供するニュースの配信予定が全国の加盟社に配信される。その日、何時にどこで、どんな予定があるか。そのニュースバリューはいかなるものか。写真は配信できるか、原稿は予定では何行くらい予定しているか。新聞発行の締め切りを踏まえて、共同から「使っていい」との知らせがあれば、直ちに使用できる「予定稿」と呼ばれる原稿の配信もある。 そうした克明なメニュー表を眺めながら、新聞作りの作業は進んでいく。予定に入れることのできない予測になかった突発的な事故、事件などが起こると、直ちにその「お知らせ」が加盟社に伝達される。共同からの出稿をめぐる連絡事項や伝達事項というのは例えば、こんな具合である。 「共同通信から社会番外です。人気アイドルグループ○○のメンバー××が港区内で警視庁に○○容疑で逮捕されていたことがわかりました。記事三十行を○○時ごろ配信します」 「外国人からの政治献金を受けていた○○衆院議員が議員辞職する意向を関係者に伝えたという情報があり、現在確認中です」  「先ほどお伝えしました○○氏の記者会見は予定された時刻になっても始まっていません」 こうした連絡は四六時中続く。それは朝刊の編集時間帯になっても何ら変わらない。いったん配信した原稿でも状況がリアルタイムで進めば、手直しした原稿「差替」が再配信されてくる。 また一つの事件であっても新聞に掲載する原稿は一本だけとは限らない。何本もの記事が必要な場合がある。 例えば、平成23年春に京都大学で起こった入試不正事件で、仙台市の予備校生が逮捕された場面ではどんな原稿が必要となるか。 まず一面には総括的な事実関係を伝える原稿「本記」が載るが、それだけでは物足りない。 「一体、携帯電話でどのように入試問題をネットの掲示板に投稿できたのか」という観点でまとめた原稿も欲しい。また、捕まった人物がどんな予備校生だったのか、という観点の原稿も欲しい。関係者がどう受け止めているのか、表情をまとめた原稿も欲しい。京大だけでなく、早稲田、立教、同志社などの予備校生の受験した大学での合否をどうするのか、といった原稿も欲しい。 事件にはネット社会の発展という背景があると思われるが、実はこれまでも似たようなカンニングが行われていたのではないか、という予測に立って取材してみる必要もありそうだ。また、このようなネットカンニングへの対策はいかにあるべきか。事件を識者はどのように見ているのか、という観点もあれば、使ってみたい。 あるいはこういう観点もあろう。警察当局が発生から短時間で逮捕に踏み切った理由は何か。偽計業務妨害容疑での逮捕となったが、一体、偽計業務妨害とはどういうもので、立件に無理はないのか…。内幕ネタもあれば、検証記事もあろう。あるいは問題点を提起する原稿もあれば、予備校生が19歳の未成年である以上、少年事件という扱いになると考えられるため、これから予備校生の刑事処罰が具体的にどのように流れていくのかといった観点から観測記事を作ることも可能だろう。 これら思いついたことを瞬時に判断しながら、新聞社のデスクは記者達に段取りをつけて取材を命じ、原稿を発注し、出稿が可能かどうかを見極め、紙面に何を盛り込むかを決めていく。当然、似たような作業は共同通信でもやっていて、一定の時間が経過すると、出稿メニューが配信される。多くの地方紙がそれを待っているからで、翌日の新聞を見て全国紙に見劣りがないように記事のクオリティや分量にも気を配っている。 いずれにしても、新聞社のデスクはこのような共同からの出稿連絡に耳をそばだて、メニュー表を見ながら常に過不足がないかを判断し、実際に原稿を見ながら手直しすることで日々新聞を作っていくのである。彼らが決めるニュースバリュー 共同通信を「ニュース供給のメディア」「裏方の役割」と表現するのは一面を表してはいるのだが、必ずしも正確ともいえない。共同通信は、裏方ではあっても、決して下請けのような存在ではないからである。むしろ、共同通信がなければ新聞づくりはたちどころに行き詰まってしまうような存在であり、また本来、各社が独自に持つ編集方針にしたがって判断すべきニュースの価値づけ、軽重を決定づけるキャスティングボードを共同通信が握っている面があるからだ。 霞ヶ関のある役人から「情報を流すなら共同通信一社に流せばいい。そうすれば結局は全ての新聞に同じ情報が載るからだ」とまで打ち明けられたことがある。 共同通信が配信した記事が加盟社である産経や日経、東京新聞に載り、ほとんどの地方紙に載るというのであればそれは全く当然の話だが、朝日や読売は共同の国内ニュースの配信を受けていない。にもかかわらず、くだんの役人は「情報を流すなら共同通信一社に流せば全ての新聞に同じ情報が載る」というのである。それはなぜか。 読売も朝日も共同通信の国内配信は受けてはいないが、様々な形で見ることは可能だからだ。例えば、霞ヶ関なら、多くの官庁が共同から配信された速報ニュースの端末を設置していて記者クラブに所属している記者が共同の記事を見ることは可能だし、また隈無く見るのは彼らの使命である。 さらにいえば全国紙向けに配信してはいなくても、関係する新聞社が国内ニュースの配信を受けている場合もある。携帯端末を使って共同通信はごく手短に速報ニュースを配信しており、これによって共同がどんな記事を配信したのかを(細かくはわからなくても)知ることができる場合がある。 配信された記事を見ながら、自分の新聞に記事を入れるか、入れないかを判断するのは加盟社ばかりではないのである。加盟していない社も加盟社と同じ様に、共同がどんなニュースを配信してくるか。それだけでなく共同がどの程度に扱うか、といった点に目を光らせているのである。 東京本社から離れて、地方支局の勤務をしていると、しばしば頭を痛めるのがこの「共同配信」と「NHK」の動向である。支局レベルで全国ニュースとして処理せずに地域ニュースとして県版にニュースを載せようと判断したあとになって共同通信がにわかに騒ぎ出すことがあるのだ。 配信された記事を見た本社から「共同から以下の内容の記事が配信されてきたが…」と問い合わせが入ることがある。本社にとっては共同配信が紙面作りのパイロットであり、羅針盤のようになっているからだが、共同の記事は迅速かつコンパクトで無駄がない反面、記事にするさい、こちらが頭を悩ませた微妙なニュアンスが捨象されていたり、逆に深入りを避けたりした部分をめぐり「針小棒大ではないか」「飛ばし気味ではないか」「一刀両断が過ぎるのではないか」「ずいぶん、思い切り良く書いたなあ」などと感じる場合がある。 いずれも「間違いではないのだが…」という点が大前提の話だが、取材体制で見る限り、自前の支局の方が共同よりも手厚く、取材も網羅的だったりする(単なる独り善がりな思いこみである場合やこちらの取材不足だったということも無論ある)のだが、本社から見ると、共同の配信記事を先に見ているから、どうしてもそれに思考が支配される。 本社からの問い合わせには支局が説明するのだが、あれこれ共同の記事にケチを付けてニュースバリューがそれほどでもないような言い訳に明け暮れる場面となることがままある。支局の取材内容を説明してもそれが、なかなか本社には受け容れてもらえないことも起こる。記事の中身にもよるのだが、共同の配信記事を黙殺するという判断は本社にとってはなかなか勇気がいるのだ。 というのも、共同の配信記事は全国の多くの地方紙に掲載されるだけでなく、NHKや日経新聞などの大手メディアも目を通しているからである。結局、共同の原稿が採用されたりすると、「身内よりも共同を信じるんだな」と共同通信の影響力の大きさにあらためて恐れ入るのである。 本社と支局とで判断がしばしば分かれる典型は、例えば気象をめぐって起こる様々なアクシデントだ。「○○で積雪のため、車両が国道に取り残されてしまった」などという場合だ。第一報がNHKだったりすると間違いなく大変な事態になる。時間が経つとやがて共同通信から「共同通信から社会番外です。○○で積雪のため、車両○台が国道に取り残されて立ち往生しています」などと連絡が入ってくる。すでにNHKはヘリコプターを飛ばして空撮を始め、それがスポット的なニュースとして全国に流れている、となると、もうこれは大変な事案である。 ところが、これが支局から見れば「雪が降って道路がふさがるなど日常的に起こる光景だ。冬季には大量積雪で命を落とす人だっている。なぜ今回だけ、大騒ぎするのか。それは東京の勝手な感覚であって、そんなに騒ぐほどのことか」と至って冷静なニュース判断だったりする。 その感覚もわからないではない。私自身も群馬に赴任したことがあるが、群馬にいる人にとっては、例えば、雷は日常的な気象事象である。ところが雷が予測を超えた場所に落ちたり、被害者が出たりするとたちまち大騒ぎとなる。「なぜ群馬に落雷が多いのか」という謎説きから始まって、地元で雷について研究をしている「雷博士」に取材したり、電力会社の雷対策などを盛り込んだりの原稿作りも余儀なくされる。地元の人にとっては周知の話であろうが、既に県版で何度も取り上げた同じ話であろうが出稿を求められる。「共同さんが騒ぎ過ぎなんですよ」という説明は、本社から見ればサボりの口実にしか聞こえない。それも癪(しゃく)の種である。湯水のようにニュースが送られる共同通信の原稿を目の当たりにして「それはニュースじゃない!」と言い張ったところで、とても本社としては同調できる気分にはなれないだろうし、地元にとってニュースでなくても地元でない人から見ればニュースなのだ。 こんな具合で日々、ニュースの軽重を判断するさい、共同通信の判断で実質的に決まるケースは非常に多いというのは実感でもある。キャスティングボードを握っていると述べたのは、端的に言えば「共同が動くか否か」。これがニュースの扱いを決める決定的な要因となることもあるからだ。配信される“要注意原稿” 共同が配信した同じ記事が一斉に多くの地方紙に掲載される。このことの持つ意味は案外大きいのである。海外からのニュースには特派員名を記したり、記事の末尾に「共同」と表記したり、共同の配信とわかることがあるのだが、国内ニュースの場合、それはない。読者にすれば、共同の配信記事か新聞社の独自取材による原稿なのかわからないのである。 新聞社の社説にも共同は大きな影響力を与えている。あくまで参考資料という扱いだが、社説の元になる記事についても共同は配信しており、そのまま使うことだって可能だ。現にそれぞれの社の社説原稿の枠(行数)にあわせて共同の原稿を下敷きにリライトしながら新聞社の主張が掲載されることは珍しくない。これは、共同よりも地方紙の見識が問われる事態なのだろうが、全国ニュースのニュース素材について取材の足場や機会が乏しい地方新聞にとっては社説に至るまで共同なしには成り立たないようである。 しかし、共同配信のニュースのなかには明らかに首を傾げてしまうものがあるのも確かである。特に次のような記事については要注意で臨むことにしている。○北海道はじめ教育行政に関する記事、特に国旗国歌問題や道徳教育、教職員組合をめぐる様々な原稿○教科書問題や歴史認識をめぐる記事○領土問題をめぐる記事○北朝鮮関連、最近では高校無償化策のうち、朝鮮学校への適用の是非をめぐる記事 事例を挙げればきりがない。教育行政に関する原稿は、必ずしも文部科学省だけでなく、裁判所から出稿されるケースもある。 いくつか実例を示そう。共同通信(朝日新聞などもそうだが)は竹島について、「日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)」という表記で配信している。決して「日本固有の領土でありながら、韓国に不法占拠されている竹島」という事実は表記しないのである。国会では今竹島に関する答弁を求められたさい「不法占拠」という表現を避ける閣僚が民主党政権下で続出、日本の立場を口にできないのは不見識ではないかと批判を受けている。 「日韓両国が領有権を主張する竹島」という表記には国会における民主党閣僚同様、自分の立場をどこに置くか、という根本的な問題が横たわっている。決して間違いではないし、一見公平さを装っているが、その実、我が国の立場とはあえて距離を置いている態度でもある。我が国の立場というのは同胞の願いを踏まえて存在するもので、それと異なる場所に自分の身を置く態度は、所詮、他人事としてこの問題に向き合っているということである。 ちなみに島根県の山陰中央新報は竹島についてどう表記しているか。 「島根県は竹島(島根県隠岐の島町、韓国名・独島)の領有権の早期確立を目指し…」「日韓両国で主張が異なる竹島(韓国名・独島)の領有権の早期確立に向け…」「【ソウル共同】韓国教育科学技術省は3日、日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)に関し、小中高校で韓国の領有権を体系的に理解させるための教育指導書を作成し、全国の学校などに送付したことを明らかにした…」 ざっとこんな具合である。自社原稿の場合、竹島が「島根県隠岐の島町」であると表記はしているが、基本的には共同が流す「日韓両国が領有権を主張する竹島」という表記もそのまま掲載されている。山陰中央新報にとって竹島はいかなる存在なのだろうか。「糾弾造語」を散りばめて 歴史認識に関する原稿にも気がかりな言葉遣いが度々出てくる。「南京大虐殺」「従軍慰安婦」「強制連行」といった戦後の造語が歴史的事実として表記されるのはもはや当たり前になりつつある。南京大虐殺はさすがにあまり見かけなくなったが「日本の植民地支配」という表記は依然出てくる。これは実に気がかりな言葉で、正しくは「朝鮮統治」であり、「台湾統治」だろう。こうした日本の名誉を貶めるために作られた「糾弾造語」がいとも簡単に新聞で表記される背景には、おびただしい左翼による裁判闘争を通じて法廷に持ち込まれてきた経緯があるからだが、メディア(この点についていえばもはや共同だけの問題ではない)だってこうした裁判闘争を盲目的に肯定し、むしろ自ら近づき、彼らの裁判闘争を事実上、後押ししてきたことは紛れもない事実である。彼らの使う「糾弾造語」のいかがわしさを嗅ぎ分けることなく、全く無警戒に歴史的事実として広めた責任は重いはずだが、その検証はなされているとは言い難い。 同様の旧悪は、北海道教職員組合(北教組)の問題にもあてはまる構図といえる。北教組がいかに北海道の教育をダメにしてきたかという事実から意図的に目を背けてきたのはほかならぬ、メディアだったからである。 道教委が学校現場を牛耳る北教組の横暴について不正は道教委に通報するよう定めた制度などを打ち出すと「密告制度」などと北教組と一緒になって批判的に取り上げる。露骨な組合への肩入れ、卒業式や入学式での国旗掲揚、国歌斉唱にメディアも一緒になって反対し続ける。文部科学省や道教委といった文教当局を頭から敵視し、教育政策を骨抜きし一律に挫くことに精を出す。そういう歪んだ見方こそが学校をダメにし、子供をダメにしてきたのではないか。 共同の配信記事を見ていて気になる点を指摘したが、自衛隊や原発などに対しても「?」と思う記事は少なくない。平成23年3月、東日本大震災が発生し、多くの自衛官が被災地で復興のために奮闘しても、それを正面から取り上げる記事の配信量は至って少ないのである。原発の危険性を説く記事や東電の批判は湯水のように配信されても、文字通り、エネルギーのない日本のなかで原子力発電が国力を支えてきたという紛れもない事実が公平に伝えられているとは言い難い。 計画停電に対する国民の不平不満はそのまま記事になる。が、なぜ計画停電をせざるを得ないかといえば原発が稼働できないことに端を発している。原発が動かなくなり、生産活動や経済活動に支障が出れば、それはそのまま日本の国力の減退に反映され、雇用や私たちの所得にも跳ね返る。地方紙のなかで経営が立ちゆかなくなるところだって出てくるかもしれないし、地域経済や国の経済が停滞することを余儀なくされる。 ところが(この点については共同だけではないが)メディアのスタンスは原発や東電への批判的な報道ばかりが目立つ。東電の対応は私から見ても首を傾げる出来事はある。それは事実である。また被災者のなかには「もう原子力発電などこりごり」と思っている方も多数いるだろう。だが、そうした人であっても、これまで原子力発電の恩恵を受けていたのは紛れもない事実である。 国民の原子力発電への不信やアレルギーを増幅させるための記事ばかりが新聞に掲載されていいはずはない。どこかに福島で失った電力源を今後、どうやって確保するのか、という視点があるべきだと思う。 仮に日本で原発を止めると決断したとする。では然るべき規模で電力供給を保証できる有効、有力な代替エネルギーはあるのだろうか。あればそれを使えばいいだろう。だが、私には思い浮かばない。原発事故の怖さを目の当たりにしつつも、私たちは地震前の国力を取り戻すためには国力の源である電力をいかにして確保するか、という視点が不可欠であって、依然、原子力に頼らざるを得ない気がしてならないのである。原子力発電を葬れば済むほど簡単な話ではないはずであるが、そういう観点に立った共同の配信記事には未だ出会っていない。関連記事■ 亡国の巨大メディア、NHKは日本に必要か■ 秘密保護法でバカ騒ぎ 左翼媒体と堕した進歩派マスコミ■ あの日を境に変わった私のメディア認識

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    「みなさまのNHK」が泣いている

    反日偏向の報道が長年続いたかと思えば、会長が代わったとたん、今度は権力におもねる番組ばかりが流れる。公共放送として公平、公正に受信者の利益を考えるNHKでゴタゴタが相次いでいる。会長発言の波紋、経営委員の人事をめぐる憶測…。「みなさまのNHK」は一体どこへ消えたのか。

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    新聞、テレビには愛想が尽きた

    作為的な世論調査、“角度”をつけすぎる新聞、毒にも薬にもならない番組を垂れ流すテレビ……こんな新聞、テレビばかりでは国民がダメになる。マスコミよ、少しはためになることを報じなさい。

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    テレビがつまらなくなった3つの理由

    1.今の日本が息苦しくなっているから 27時間テレビで草なぎ君が、はるか昔の一件について質問されていました。 もう何年も前、草なぎ君は問題を起こし、ニュースになりました。 懐かしい。あれを朝から報じたのが僕でした。あの時の草なぎ君、本当に立派でした。 先週の事ですが、僕がメインキャスターを担当している番組「バラいろダンディ」内で神奈川県逗子海岸の「ある問題」を取り上げました。 そう。 テレビって、なんでつまらなくなったのか。 この二つを見ると、良く分かります。……………………………………… 古巣と袂を分かってからもう何度聞かれたか分からない質問。 「なんでこれ程にフジテレビはつまらなくなったのですか?」 フジテレビだけか? 確かに、古巣は視聴率的にも苦戦しているし、面白くない番組が増えたとは思う。 でも、古巣だけか?テレビ、全体に言えないか? 『昔よりも面白くない』って? 僕はせっかく辞めたのだし、そこのところは突き詰めていきたいと思っていた。「なぜ、つまらなくなったのか?」色々と語っている評論家や学者さんではわからない。内部を知る人間でなければ、実際に現場の人間がどれだけ一生懸命頑張ってるかなんてわからない。どれだけ才能のある人間がいるかなんてわからない。 でも一度飛び出して、周囲を見てみた。 『昔よりも面白くない』なんてもの、テレビ以外にもあふれてないか?先週お伝えした逗子海水浴場のニュース。 あまりにもお客さんの…特に若い男女のマナーが悪いという苦情が相次いだらしい。このままでは、安心して子供を連れて行けない、と。 逗子市は逗子の海岸を「日本一安全でマナーのいい浜辺」として利用できるようにしよう!と決断。結果…・酒はダメ・刺青は論外・音楽もかけちゃダメ 逗子海岸は今年施行された法律により、日本一、間違いなく「マナーが良く」「子供にも安心して楽しめる海岸」へと生まれ変わった。 そして、大きな問題が発生した。 海開きは7月1日。そこから2週間がたち、逗子海岸お訪れたお客さんは1万3千人。 去年の同時期は… 7万4千人だった。 なんと、客が激減。7分の1の客数では周囲の海の家や旅館は立ち回らない。そう。 地元の観光協会やホテルなどが逗子市を相手取って裁判を検討し始めたのだ! 一体何故? マナーがいい方がいいんじゃないのか? 親子で安心して遊べる方がいいんじゃないのか? しかし、行政が良かれと思ってやったことは、逗子海岸が「見捨てられた海岸」となる結果をもたらした。。 答えの一つはここにあるように思える。 人間は…もっともっと、リラックスして生きている。ダメなことはダメだ。が、その…ダメなことをしちゃうことも受け入れながら生きているのだ。人間はバカで、だらしなくて、だからこそ愛すべき存在で、だからこそ楽しさや苦しみがあるのだ。 人間が生きる生活には…本来もっと『のりしろ』があるべきなのだ。 そして、多くの人間はそんなこと、とっくの昔に知っていて、だから人間みんな、うまいことやりながら許し、許され、生きている。 ダメなことはダメだ。その通り。 が、実は人間はそうは言いながらもう少しリラックスして生きるものだし、ダメなことを許容しながら生きている。逗子海岸はそこをあまりにもきっちりと線引きをした。 やだよね。そりゃあ。そんな堅っ苦しい海岸。僕でもやだ。さすがに海なら酒くらい飲みたいし。 なので誰も行かなくなった。可哀想だが、逗子海岸周辺の海の家やホテルは経営はもはや成り立たないだろう。いくらなんでも客数7分の1位になると…もうやってはいけないだろう。可哀想だが、たたむところが続出するだろう。そして裁判も勝てないだろう。 逗子の海岸を良い方向に持っていこうと考えた行政に罪はない。事実、苦情は山ほど来ていたのだから。と、言うか、むしろ「安全な海を作りたい」の方がよっぽど正論だからだ。正論が…正論すぎて息苦しくなったのだ。 草なぎ君、本当に頑張っている。偉いと思う。 可哀想に、昔、もう何年も前の話。 草なぎ君はストレスでお酒をかなりの量を飲むようになった。そらそうだ。国民的アイドルグループの一員の重圧ってきっと並みの神経じゃ耐えられないはずだ。 で、酒に酔った草なぎ君は酔っ払い、あくまで彼が住んでいたマンションの「プライベートガーデン」内で素っ裸になったとのこと。 で、おまわりさんに怒られたってだけの話だ。 僕はこれが大きく報じられた時にどう考えても「何が悪いのか分からなかった」のだ。でもテレビでは偉そうな顔をしたコメンテーターが「彼は社会的影響が大きいのですから自覚が足りないとしか…」と責めたてていた。そんなもんか?そんな悪いか?今まで彼が残してきた功績、彼のお陰で受けた感動、それをぶっ潰すほどのもんなのか? 釈放された草なぎ君が会見をする、という。 しょうがない。取材に行く。気が進まないとはこのこと。でもしょうがない。仕事だし。会見場は300人の報道陣でごった返し。まぁそれはしょうがない。でも、深々と頭を下げる草なぎ君に… まぁ厳しい質問が相次いだ。「自覚はあるのか?」「引退は考えないのか?」「失望したファンには?」 だんだんイライラしてきた。何だってんだ?こいつら?そんな聖人君子に見えないぞ?僕も大概狂った人間だが、なんだかこいつらと一緒だと思われたくないんだが。 30分が過ぎたころ、手をあげて、思いっきりその流れを断ち切ってやった。 「早く復帰してほしい、と願ってるファンが沢山いますよ。ファンのために早く復帰しないとですね」40分間ほどの会見で、草なぎ君が唯一、微笑んで答えてくれた瞬間だった。他局、全部僕の質問の答えの所を使ってたけど、今度から使用料もらうからね。フリーになったのだし。 その後、僕たちスタッフは夜の街に繰り出し、100人の方々にアンケートを実施。その結果を翌日のスタジオで発表しておいた。 「今回の草なぎ君の一件に関して、街中でアンケートを取りました。『草なぎ君は活動自粛に入りますが、それについてどう思いますか?』」 答えは80%を超える人たちが「そこまでしなくていいと思う」と回答したのだった。そらそうだ。全然誰も怒ってなかった。 草なぎ君は国民的アイドルグループに所属しながら芸能記者たちの厳しい質問の嵐に、一切の原稿もなくすべて自分の言葉で答え続けていた。僕は立派だったと思う。僕のとくだね!の放送を見て、ネット上では「やっぱりフジはスマップに甘いわ」との批判が多数書き込まれていたが、悪かったな。あれ、僕がスタッフと一緒に考えて、そこまでの他のマスコミの報じ方が気持ち悪かったから、全マスコミに対して「お前らが言うほど、世間、怒ってないっつーの」 という皮肉を込めてやってやっただけだ。フジテレビの演出じゃないし。ただの僕のイヤミだ。 逗子の海岸もそう。 みんな、そこまでの正論、期待してないし。そこまで言われたら…もう、堅苦しいんだよね。 草なぎ君もそう。 みんな、全然怒ってなかったし。怒る訳ないし。酒飲んでの失敗くらい、みんなやってるだろ。僕、何回失敗したか分からんわい。でも、あれで何か月も謹慎させられるんだよね。 最近はテレビだけじゃなく、行政も何もかも、 「そこまで怒らんでも」ってことに対して、怒りすぎ、「そこまできちきちせんでも」ってことで、きちきちしすぎなんです。 会議室の中で考えちゃうと、それでいいって思っちゃうんでしょうね。 違うんだよなぁ。 人間ってもっともっとリラックスして生きてます。本当はいろんなこと出来るのに、なんだか形上の「正論」にあぐらをかいて、単に決まりを作って、単にあれもこれも辞めるって決めて安心することに甘えて。 テレビがつまらなくなったのも、今の日本が息苦しくなっているのも、原点は同じだと思う。 なので、僕は今いる職場でそこを叩き潰してやろうと思う。 TOKYO MX の、新しい僕の仲間と、批判にも正論にもビクともせずに、「楽しいテレビ」を貫いてやる! そう思っています。2.『興味深い』が不足しているから 先週の金曜日、東京弁護士会の弁護士先生相手にプレゼンのティーチングを行ってきました。 弁護士先生相手に偉そうに講義するとかどうなんだ?という気がしますが、とにかく…その中でも少し話をしたのが「日本語って結構ホワっとしてます」という話。 実は皆さんが日常的に使ってる「伝わる」っていう単語は、大きく分けると2種類の意味がありましてね…なんて話をしながら『伝える』っていうことはどういうことなのか?どういう練習があるのかって話をします。単純に、アナウンサー訓練を実際に皆さんに体験してもらったりするくらいですけどね。理論が分かってるだけで、けっこうコツをつかめる人もいらっしゃるので。 って話は良いとして、その中で例の一つとして出したのが「面白い」って日本語です。 『面白い』って日本語にも、実は大きく分けると2つの意味が存在します。そこを少し突き詰めると、先週も書いた「なんでテレビが面白くなくなったか?」という問いに対する答えの一つが見えてくるように思えるのです。 日本語で単純に「面白い」って言っても、シチュエーションによって2タイプの状況があります。・一つは「笑える」という状況。もう、コントとか見てゲラゲラ笑っちゃう。こういう状況だと、「面白い」って言います。・もう一つは「興味深い」ってことです。「注意が惹かれる」「思わず見ちゃう」的な。NHKの「ダイオウイカ特集」とか、一つの笑いもないのに思わず見ちゃうでしょ?「面白かった」なんて言っちゃうでしょ? 英語では、いくつもの単語がちゃんとあります。 笑えるシチュエーションでは多く使うのは『funny』ですね。 興味深いことは『interesting』と表現するのが一般的だと思います。 他にも、日本語では「面白い」って言うシチュエーションでも英語だと、「amusing」「comical」「enjoyable」…状況や年代によって使う単語が違ったりするそうです。僕もそこまで詳しくはないものの、驚くことに、英語の表現は日本語よりもけっこう詳しくニュアンスを伝えるものって意外とありました。(「敬語」って単語はないものの、敬語的な表現はありますしね。相手によってやシチュエーションによって単語が変わったり) で、この視点から分析してみると、日本のテレビってどうして「つまらない=面白くない」って言われ始めてるか、分かる気がするのです。 まず「昔のテレビは良いよね~」「昔は面白かったよね~」というご意見って、良く分かるし、そう言うのは簡単なんです。「今はだめだな!」的な。ですけど、じゃあそこまで、昔のテレビと今のテレビ、「本当に見てみると」違うかって話です。 いや、これはね、声を大にして言いたいんですけど… 皆さん、見てないでしょ?絶対。 見たら分かりますが…はっきり言って、そこまでのレベルの差って、正直…ないですよ?少なくとも僕はそう思います。時代にはそれぞれ、超ヒット番組って存在します。確かに。 「なるほど」とか、「ドリフ」とか、ええ、面白かったですよね。間違いないです。 じゃあ、「イッテQ」って面白くないですか?面白いですよね?笑えるし。思いっきり今の番組ですよね? 最近ではNHKさんでもコント番組とか始めてますけど、見てます?見てたらわかりますよね?今のコントも、はっきり言って「笑え」ますよね? 「つまらない」って言ってる人…見てない人、多いでしょ?実はね、「本当に見たら」けっこう笑える番組、今でも多いんです。「見れば」ね? じゃあなんでここまで「最近のテレビは面白くない」って言われるのか?はい。答えは簡単です。 2つ目の「面白い」の意味である「興味深い=interesting」が完全に不足してるからなんです。要は「見ようって気が起きない」から「興味ないよね」を一言で「面白くない」って言っちゃってるケースが多いんです。 昔のテレビは面白かった~!昔の人は偉大なんだ~!って言うのは簡単ですけど、僕は現場を知ってます。 今の若手達の苦労も才能も良く知ってます。内部にいるときには昔のテレビの過去素材を山のように見てきましたけど… そこまで、レベルの差なんてないですよ? むしろ、昔よりも今の方がずっとちゃんと作ってることも多いし、今でも十分昔と同レベル以上のものくらい、作れてますよ?バラエティー番組だけじゃなくて、僕のやってた情報番組ってジャンルなんて…昔の情報番組、めちゃめちゃよ(笑)?とんでもないテキトーな作り、してたりします。ホントに。 でも「つまらなく感じる」のです。興味がわかないから。理由はたった一つと分析します。 恐らく、答えは「慣れちゃった」だと考えます。 日本人、昔はテレビからいろんな刺激をもらったと思います。でも、その刺激に慣れちゃったんです。なので、新しいものを出してもらわないと「面白い(興味深い)」って感覚にならないと思います。ニュース自体はネットでもう内容知ってるしね。もし今、僕の古巣が「面白くない」って言われているのだとしたら、それはきっと、見たことのあるキャスト、見たことのあるスーパーの入れ方、見たことのある芸人さんの見たことのあるやり取りだらけなので、「飽きちゃった」んだと思われます。(ガチで面白くない番組も多いけど…) そしてその理由も、よく言われていることですけど、「芸能事務所とテレビ局が仲良くなりすぎている」ことが原因だと思われます。 これって、もっと具体的に言うべきだと思います。はっきり言わないと改善されないんです。ズバッと言いますと、 「『特定のテレビ局の上層部』が、『特定の芸能事務所』と仲良くなりすぎている」 ことが原因と言わざるを得ないんです。 僕は現在、芸能事務所とかに入ってないです。なので誰にも迷惑かけないのではっきり言いますけど、昔、僕がいた古巣ではある人物が、とても「いい役職」についたことがあったんですよね?もうね、はっきり言って時効だし、具体的に言わないと伝わりもしないので全部言っちゃいますけど、その人物は芸能事務所の大手、オスカーさんと大変「仲がいい」と言われている人物だったんですよね? で、その人が下がどう逆らっても逆らえない立場に着いた後… 僕も担当していた朝の情報番組のキャスターがオスカーの菊川怜さんに決まり、ゴールデンのバラエティーの司会(「アンビリバボー」)がオスカーの剛力彩芽ちゃんに決まり、直後の月9のヒロインも同じく剛力ちゃんに決定。 チャンネルを回すと、宣伝のため、バラエティー番組のゲストもオスカーだらけ。もうね、何だってんだ?って状況になったことがあったんですよね。現場、みんなドン引きで。 菊川さん、全然悪くないじゃないですか?剛力ちゃんも、一つも悪くないんです。でも、とくだね!のスタッフ、みんなが押してるアナウンサーは当然いて、中野美奈子が辞める時に、スタッフはその頑張ってるアナウンサーを司会者にしてあげたがってたんです。実際に視聴者人気も高かった。 でも、トップダウンで、菊川さんに決まっちゃった。 なんで?って。スタッフ、みんな「あぁ、あの人が押し込んだんだね」って言ってました。 いや、もちろん証拠も何もないし、そうだって決めつけてる訳じゃないですよ?ただ、それが合ってても、合ってなかったとしても、少なくとも、現場の温度感は完全に無視されたことは確かでした。菊川さんは言うまでもなく何にも悪くないけど、あの時の現場の雰囲気はどっちらけでした。まぁ、昔の話です。もう今はとってもいい感じだし、そうなったから言えてる話でもあるんだけど。 剛力ちゃんもそう。もともとダンスをやりたくて、歌をやりたくて芸能を目指したと聞いています。なのに着いた番組がバラエティー番組の司会と「ビブリア古書堂の事件簿」のヒロイン。 でも、月9のヒロインが出来るような実力なんて、あの当時の剛力ちゃんに「十分ある」とは言えない状況でした。可哀想に。こないだの「極悪がんぼ」で更新されるまで、それまでの月9の最低視聴率をマークしてしまっていました。 剛力ちゃん、現場では絶大に評判のいい女の子なのに。「礼儀正しい」「可愛い!」。会った人、みんな絶賛するくらいなのに、ネット上では「ごり押しアイドル」ってあだ名までつけられて…。バッシングを受けまくって。 こんな感じで、現場は何が何だか分からないまま、「顔」になるようなタレントさんを押し付けられちゃったりすることは多々あります。みんな頑張ってるのに、頑張ろうが何しようが、そこまでされちゃうとどうしようもない。 断っておきますと芸能事務所、悪くないと思います。単に営業してるだけだし。 でも、テレビ局のトップクラスの何人かって、絶対に責任取らないでしょ? ずっと同じ人がもう何年も変わらないんですよね。他の株式会社ではこうはなりません。バラエティーが失敗続きなら、バラエティーのトップの局長と執行役員は飛ばされないとおかしいんです。責任者なんだから。責任取るために高い給料、もらってんのに。でも、何故か飛ばされる人って「ちょっと下」の人たちなんです。トカゲと一緒。 ドラマがこけたんなら、ドラマの担当局長と役員は異動して当然なんです。でも異動しないんです。もう、何年も同じ顔ぶれだったりします。要所要所は。 なので、ずっと同じ人が上に居続ける状況が変わらないので… ずっと、同じようなタレントさん、同じような芸人さんが使われ続けます。 そら飽きますよね。視聴者は。そもそもテレビ以外にもネットには多種多様な選択肢が広がっているので。そっち見た方が「新しい感」が出るんです。それを日本語で「面白い(興味深い)」って言っちゃうんです。 ただ、それに今のテレビ業界は気付き始めていると僕は思っています。 今年の「27時間テレビ」、言われている通り、はっきり言って大成功でした。視聴率的には、僕はもっと取ってもおかしくないほどの内容だったと思います。多くの方が「もう来年からずっとSMAPでいい」とおっしゃってるのも分かる気がしますが、あの番組には「面白い」と思わせる仕掛けがあったのです。 番組最初に、5人に対し、今まで「タブー」と言われていた質問をぶつけるシーンがありました。 SMAPと言えば、お堅いジャニーズの中でも、ある意味「聖域」。あれもダメ、これもダメの典型タレントさんです。それでこそ守られているものが多いので、僕はそれはそれでいいと思うんですが、今年の27時間テレビは「その聖域を打ち破るんだ」という「演出」をかけた。 いや、実際は守ってんですよ?木村さんの結婚生活の話とか、やってないでしょ?要所要所は守ってんですけど、でも、演出としては「何かをやりそう」感を最初に打ち出した。みんなも忘れてそうな、昔の話とかまで持ち出して、「今までと違う=新しい」感を最初に植え付けた。つまり「興味をそそられる=面白い」感を出すことに成功したのです。 裏を返せば、たったこの程度で、「面白く(見てみたく)」なるんです。飽きさせない工夫。新しいものを取り入れ、見たこともない光景と聞いたことのない言葉を紡ぐ。 今「面白くなくなった」と言われるテレビですが、そんなことないと思う。 詳しく分析すれば、ほんのわずかで全部ひっくりかえせると、少なくとも僕は思っています。3.一部上場企業になったから 以前、僕は2回に分けて「テレビがつまらなくなったわけ」というタイトルでこのブログを書きました。 その1では、「テレビはさんざん批判されるけれど、そもそも社会全体が『自主規制』『自主規制』でつまらなくなっていないか?」と指摘しました。 その2では、「『面白い』には2種類の意味がある」ことを指摘し、「今の番組もちゃんと見れば実は笑えるし、昔よりもしっかりできているものが多い」「ただ、「面白い」と表現するもう一つの意味である『興味深い』が決定的に不足していると思う」と書かせていただきました。 どちらもとても反響があり、同意する方々もいれば、「いや!やっぱりつまらなくなっているだろ!」と反論する方々もいました。 じゃあ、本当にテレビがつまらなくなっているのだとして、昔よりも明らかに衰退していると仮定して、その原因を探ってみると、僕の中ではその原因は「一部上場企業になったから」という理由を挙げたいと思います。…話が飛びすぎてて訳わからない?確かに。 順を追って説明します。 まず、一部上場企業ってのは数多くある「株式会社」の中でも、かなりの「社会的責任」を要求される立場となります。社員は何人以上いなきゃいけないし、社員たちの福利厚生はどうこうで、定款には…なんて言い始めると、本当に見事に模範的な優秀な企業しかダメになっちゃうんですよね。 もちろん、その代わりと言っては何ですが、資金調達の方法をはじめ、社会的信頼も含め「一部上場企業だから」という安心感や安定感を得られるという利点もあります。ただ、一つ絶対的な特徴をいうと… 社会の模範たらなければいけない ということが挙げられるんですよね。好き勝手やるというよりは、社会の一員としていなければいけないというか…。 ここまで言うと、うすうす気づく方も多いと思うんですけれど、テレビ局が一部上場しちゃうと、今までのテレビじゃあいられなくなるんです。 それまでにテレビって、皆さんも知っての通りで…けっこう「何でもあり」なのが最大の魅力だったんですよね。もうね、問題の一つくらい、起こしてなんぼ!みたいな。問題が起きたら、その時に対処しようぜ!みたいな。 とにかくテレビが時代を作って、文化を作って、勢いがあって、大騒ぎして大笑いして…。水着着てポロリして…なんて、普通にゴールデンでやってましたもんね。 天照大御神の話ではないけれど、人って、心から笑ってる笑い声には引きつけられるんですよね。なんだか振り返ってしまうというか…。おいおい、どうしたんだ?なんだ?祭りか?みたいに。 でも、上場すると、そんな訳にはいかなくなった。 堀江さんには買収されそうになる可能性だってあるし、監査が入っても完璧な収支報告書を出せなければいけないし、昔みたいに経費使い放題でタクシー乗ってキャバクラ行って…なんてとても出来なくなって…。。社会的信用があるってことはそれだけのリスクと重荷ものしかかっていたわけで。会社の中で出世する人間も、とにかく「まとも」な人間しか出世しなくなっていきました。普通の人間。まともな人間。模範的な人間。 そんな人間がそんな会社を作るしかなくなっていったんです。視聴率はどんどん下がり、いつしかテレビは「つまらない」として語られるようになっていきました。 フジテレビの年末年始も視聴率が悪くて話題になってるみたいですけど、僕は少し違うとらえ方をしていて…はっきり言って紅白の裏なんて、捨てた方がいいじゃん。だって「紅白」と「笑ってはいけない」の裏よ?んなもん、金と時間かけるの、無駄ですって。「ワンピース」再放送でいいじゃん。あれはあれで見事な戦略だと思いますよ?だって所詮、365分の1でしょ?そのお金、他に回した方がいいってもんです。避けるとこを避けて、集中するべきところにお金を回すのなんて「経営戦略的には」大アリな話です。 経営戦略的にはね。視聴者がなんだか寂しい思いをするってだけで。 あくまで一般論で言えば、テレビってね、完全に狂った人間が作った方が圧倒的に面白いものが出来るんです。 もう、時代なんて無視して、文句なんて聞く耳を持たず、次の瞬間に何をやらかすかわからない人間が作らないと、テレビなんて何にも面白くないんですよね。少なくとも「興味はわかない」んです。 僕はキー局には「放送法」という縛りがある以上、もう、テレビは「昔みたい」に面白いのは無理だと思ってますし、逆にそれでいいんじゃないかって思っています。だって、そういう時代なんだし。時代が求めていると思うし。 バカでアホは見ていて楽しいときが多いです。でも、それだけでもいられなくなった。社会的責任は、大企業にはあるんです。そこはしょうがない。ただ、その2の時にも書いたけれど、本当にちゃんと見れば、まだまだテレビって面白いと思いますけどね?それでも、皆さんの中に「テレビ、つまんねー!」っていう人が多いのであれば、それは… テレビも大人になったってことだと思います。(長谷川豊公式ブログ『本気論 本音論』(http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/)より2014年7月28日、8月4日、2015年1月5日のエントリを転載)関連記事■ アナウンサーには「清廉さ」は間違いなく必要です■ 2015年は生き残りをかけて新聞が“二極化”する■ 日テレ内定取り消し騒動に見る「女子アナというガラパゴス」

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    朝日は世論調査を悪用している

    どうせ答えないからやめておこう」「言うだけ無駄だ」という態度は良くない。相手が無視したら、「どうしてメディアに出した公的な質問状に対して答えないのか」とたたみかけるべきです。「客観」を装った偏向 これは何も世論調査だけでなく、いま問題になっている慰安婦問題や領土問題などでも使える手法です。たとえば、朝日新聞に対して「産経新聞は河野談話に不備があったと報じている。これに対してどう思うか」と質問し続けるのです。 相手も何度も断っているうちに、「そろそろ応じたほうがいいのではないか」という声が社内からも上がってくるに違いない。購読者数に影響が出れば応じざるを得ないでしょうし、血気に逸って「俺が答える」と言い出す人も出てくるでしょう。そこで出て来た論点を一つずつ潰していく。こうやって環境を作っていくより方法はありません。 私のような専門家がいくつも本を出したり、記事を書いて「おかしいぞ」と言い続けることももちろん必要でしょう。幸い、多くの大学で私の著書をテキストに授業を行っているようですが、それでもなかなか国民の間に浸透していかない。 新聞社は意図的にやっているわけですから、読者のみなさんも客観のふりをして全く客観的でないという報道に騙されない力をつけなければなりません。そして、「偏向的な調査をするな」と指摘し続けていくことが重要です。たにおか いちろう 1956年、大阪生まれ。80年に慶應義塾大学法学部を卒業後、83年、南カリフォルニア大学行政管理学修士課程を修了、89年、社会学部博士課程を修了(Ph.D.)。大阪商業大学教授を経て、97年、大阪商業大学学長、05年、学校法人谷岡学園理事長。著書に『「社会調査」のウソ』(文春新書)、『データはウソをつく』(ちくまプリマー新書)など多数。関連記事■ 改めて呆れた本多勝一氏の卑劣な手口■ 朝日新聞攻撃の「ムラ社会」的構造■ 記事に「角度をつける」朝日新聞

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    あの日を境に変わった私のメディア認識

    「事実」と「報道」との乖離 平成22年11月4日を境に私のメディアに対する認識は一変しました。なぜそうなったかと言いますと、それまでは一視聴者であり一読者であった私の言動が、その日を境にテレビ画面や新聞紙面を賑わすようになったことで「本当の事実」と「事実として報道されるもの」との間に乖離があることを知り、メディア報道の真実が何たるかを肌で実感したからです。無論、これをもってメディア全てが分かったなどと大上段に振りかぶるつもりはありませんが、少なくとも、稀な経験をした者としての視点からメディアを語ることはできるようになりました。今回、それが一人でも多くの読者のリテラシー向上に寄与するのであればと思い筆を執った次第です。 私が関わったあの事件から三年が経ち、記憶が薄れている読者も多いと思いますので、まずは簡単な経緯を振り返っておきます。9月7日 中国漁船が、尖閣諸島沖の領海で海上保安庁の巡視船2隻に体当たりする9月8日 海上保安庁が中国漁船船長のみ、公務執行妨害の疑いで通常逮捕9月13日 船長以外の乗組員帰国。漁船返還9月25日 中国漁船船長、処分保留のまま釈放。中国政府手配のチャーター便により帰国。11月1日 6分50秒に短く編集された事件に関する映像が一部の国会議員にだけ公開されるYouTubeに投稿された、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件のビデオ動画 そして11月4日、私は、海上保安庁が撮影した約44分間の動画をインターネット上に誰でも閲覧できるようにアップロードしました。その結果、動画の内容そのものよりも私自身のことが暫くの間トップニュースとして世間を賑わせ、私は当事者としてメディアと関わるようになり、多くの事に気付かされるようになりました。以下、それらを具体例に基づいて述べていきます。 インターネットの普及によって多くの人が気づいてきたとは思いますが、メディアは、客観的に見て国民が知るべきことを必ず報道するとは限りません。全く報道しないケースもありますが、事案の重要性に反しさらっと報道して済ます場合もあります。それは、新聞であれば紙面の隅々まで読み込まなければ分からないくらい小さな記事を掲載し、テレビ(NHK)の場合なら、本来夜7時か9時のプライムタイムに全国ニュースで報ずべきところを、その前のローカルニュースで簡単に触れ、メインのニュースでは放送しないというような方法です。これはインターネットが発達したため、後から全く報道しなかったという批判を逃れるために言い訳程度には報道しなければと考えた上での行動なのかもしれません。 このような手法でたった1回報道されただけでは、全く報道されなかったのと大差なく、多くの人は気にも留めません。メディアも本当はどの程度の頻度で報道すれば、どれくらいの人々に伝わるかという事を知っているのです。その証拠に地震や台風、大雨などの災害報道は国民の生命に関わるので、予定されていた番組の内容を変更してまで繰り返し放送します(すこし横道に逸れますが、今日のデジタル放送技術やインターネットの普及状況を鑑みれば、公共放送を名乗るNHKは、災害情報など視聴者が必ず知るべき情報をパソコンのメールソフトにある「メールの開封確認」機能のように視聴者が受け取ったかどうかを確認するシステムなどを構築し、視聴者に対してできるだけ正確な情報を確実に伝達することも一考する価値はあるのではないでしょうか)。 話を元に戻しますと、確かに人間は自分の主張に沿う報道が少ないと「どうして報道しないのか」と不満を持ち、逆に自分の意に反する報道が頻繁になされると、「偏向だ」と、これまた不満を持つ厄介な生き物です。その上、日本の大多数のメディアはスポンサーによって経営が成り立っているため、絶対的に公正中立な報道など行えるはずもなく、視聴者、読者がある意味偏りを感じるのは仕方のないところなのです。 さらにメディア各社は営利企業であるため、報道材料を売り物になるか否かという価値判断で選んでいることも事実です。この点に関しては、我々が「つまらない記事は読まない」「つまらない放送は見ない」という事を徹底して行えば自然と良質な報道が行われるようになるので、私たちの自覚次第です。 問題は、メディア各社が自らは如何にも絶対的に公平中立であるように装い、ある一定の方向に世論を誘導するかのような報道を行っていることです。特定のスポンサーがないはずのNHKにおいてもそのような報道、しかも日本を貶めるかのような反日報道が行われていることは大問題であると言わざるを得ません。スポンサーである受信料を支払っている多くの日本国民の利益に反することを、もし意図的に行っているのであれば、NHKの存在意義に関わる大問題です。この点に関してはNHKに説明責任があり、疑惑を持たれるような放送はすべきではありません。 確かに受信料を支払っている多種多様な人たちの全ての意見を取り入れることは不可能であり、受信料を支払っている人たちの中には外国人もいるでしょう。しかし日本唯一の公共放送であるNHKは、最低限日本国民が知るべきことは放送しなければならず、逆に事実を曲げてまで日本人が特定の国に必要以上の好意または悪意を抱くような放送はすべきではありません。 いずれにしろ、ある特定の意図をもって報道する内容を選んだり、一方的なものの見方に偏って報道したりするようなことはあってはならないことですが、最近の各メディアの報道姿勢を見ていると、残念ながらそのようなことが行われている節が見て取れます。特に特定秘密保護法案に関し、メディア各社がやたらと「知る権利」という言葉を錦の御旗代わりに乱用しているのを見ると、自分たちが差配している「知る権利」を政府にとられるのが嫌だから反対しているような印象すら感じます。報道されなかった中国の「侵略合法化」の立法 では具体的に、あの事件に関し何が報道されなかったのかという事を検証していきます。私は、新聞、テレビ放送、雑誌などの全てに目を通すことは不可能なので、何が報道されなかったのかという基準を、自身の主観に置くことをあらかじめ申し上げておきます。また先に述べたように事案の重大さにもかかわらず、それに見合った報道がなされなかった場合も、全く報道されなかったと同様に扱わせていただきます。 まず漁船体当たり事件から6か月前の平成22年3月1日、中国は「中華人民共和国海島保護法」という法律を施行しました。一言でいえば「中国領土の住民のいない島は国が所有し、国務院が国を代表して所有権を行使する」という法律です。しかも中国は、平成4年に制定した「領海法」により尖閣諸島は中国領土であると定めています。つまり、中国はこの法律を施行することにより尖閣諸島全島を国有化したのです。この時、一部の新聞を除き、NHKをはじめとするメディアはこの事実を大きく報じることはありませんでした。 ところが、平成24年に我が国が尖閣諸島全5島のうち3島を国有化(既に1島は国有地)したときは、どうだったでしょう。同年4月に東京都の石原慎太郎知事(当時)が購入を表明した時点から大騒ぎを始め、中国の国有化の際の報道とは比べ物にならないくらいの過熱報道でした。 普通に考えれば、日本国内の土地を地方公共団体や国が買い取るという話と、他国が我が国の領土を勝手に国有化したという話では、後者の方を国民に広く正確に知らせるべき重要なニュースだと思うのですが、NHKをはじめとするメディアの認識は違うようです。 その結果、日本を侵略することを合法化するような法律を施行した張本人である温家宝首相(当時)が来日(平成22年5月)した際、政権与党の民主党のみならず何も事実を知らされていない日本国民の多くは、これ以上ない持て成しぶりでメディアも挙って日中友好をアピールしました。これでは中国側から見れば自分たちが尖閣諸島を国有化したことに、「日本国民は何の不満も抱いていない」「もっと過激な行動をとっても大丈夫かもしれない」という、ある種の誤解を抱かせたとしても不思議はありません。その結果が今日の日中関係に繋がっているのだとすれば、メディアの罪は大きいと言わざるを得ません。なぜならばメディアがこのときに日本国民に事実を知らせておけば火種の小さいうちに問題が顕在化し、今とは違う結果になっていた可能性が高いからです。 更に、この年の7月に中国は、もう一つ重要な法律を施行させました。それは「国防動員法」で、一言で表すと「有事の際に軍務を優先し、国家と軍が民間人や物資を統制する」という法律です。この法律が日本にどんな関係があるのかというと、二つの大きな問題があります。一つは中国本土に進出している日本企業が、有事の際に中国政府や軍の管理下に置かれ戦略物資の準備と徴用、軍関連物資の研究と生産に従事させられるということです。彼らの「有事」というのは規定が曖昧で、チベット、ウイグル、モンゴルをはじめとする少数民族の民主化運動に対する弾圧の際に利用される恐れもあります。これについてもメディアは企業の中国進出を煽る反面、法律施行当時、ほとんど報道しませんでした。 もう一つの問題は、この法律の対象者が中国の国内外に居住する18歳から60歳までの男性と、18歳から55歳までの女性であることです。当然、日本側が把握しているだけで70万人近い在日中国人も対象となり、仮に尖閣諸島を巡って日本と中国が衝突すれば、中国本土でしばしば発生する反日デモのような騒擾が日本各地で起こりかねません。現に平成20年に長野で行われた北京オリンピックの聖火リレーにおける暴動では、数千人の中国人が同一規格の中国国旗を集団で振りかざし、あたりかまわず暴行したことから考えても、決して杞憂ではありません。 にもかかわらずNHKをはじめとするメディアは、中国(本当はチベット)のパンダに関するニュースに比べ、日本の安全保障にとって重大な脅威となるこのような事実を積極的に報道しません。このような報道姿勢を続ける限り、NHKは日本で唯一の公共放送であるにもかかわらず、その目的である「公共の福祉と文化の向上に寄与する」に反するばかりか、放送法第4条第2項「政治的に公平であること」に違反していると疑われても仕方がないでしょう。漁船体当たり事件において報道されなかった事実 平成22年9月7日の漁船体当たり事件は、今なお突発的に起こったかのように報道されていますが、それは間違いです。この年は前述した2法案だけではなく、9月7日以前の客観的な数字を検証すれば、中国の尖閣諸島に対する領土的野心が露になってきた様子が明らかに読み取れます。その一つが、海上保安庁が発表した尖閣諸島付近の日本領海内での中国漁船に対する立ち入り検査の件数です。平成20年0件、平成21年1件であったのが、平成22年になると9月までに限っただけでも14件と激増しています。14件という数は少なく感じられるかもしれませんが、通常、海上保安庁の巡視船艇は尖閣諸島の領海内にいる中国漁船に対しては、単に領海外へ退去するよう求めるだけで、相手がそれに従えばそれ以上のことは行いません。度重なる巡視船艇の退去指示に従わないケースだけが立ち入り検査を受けるのです。つまり過去2年間はほとんどいなかった極めて悪質な漁船が、なぜか平成22年には急増したという事で、9月7日に巡視船に体当たりした漁船はそのうちの1隻にすぎなかったというわけです。 もう一つは、東シナ海の我が防空識別圏に国籍不明機(中国機)が接近すると、那覇の航空自衛隊が緊急発進してその航空機に向かいます。これをスクランブル発進と言います。この件数も平成19年から21年までは年間三十数件であったのが、22年には約3倍に跳ね上がりました。これらの数字を客観的に見れば、平成22年が単に中国漁船が巡視船に体当たりしただけの年ではないことが分かるのですが、私の知る限り、これらが体系的に報道されたことはありません。故に、多くの国民が中国の意図に気づかず、単なる乱暴狼藉に対する憤りで終わってしまってるのが現状です。 前置きが長くなりましたが、平成22年9月7日に起きた事件の報道がいかに間違っていたのかを今から説明していきます。 1、逮捕容疑に疑問を持たなかったこと 尖閣諸島久場島沖の日本領海内(北北西12キロ)で、中国漁船が漁網をあげていたのであれば「外国人漁業の規制に関する法律」(外規法)違反であることは間違いないのですが、逮捕容疑は「公務執行妨害」でした。外規法も公務執行妨害も懲役3年以下なのですが、罰金額に大きな差があります。外規法は400万円以下、公務執行妨害は50万円以下と8倍の開きがあります。しかも、外規法によれば、犯人が所有し、又は所持する漁獲物等を没収することができるようになっています。この逮捕劇は、あらかじめ軽い罪で幕引きを狙う意図があったのにもかかわらず、メディアは政府発表をそのまま垂れ流したにすぎません。このようなことは、少しでも密漁などの知識があれば分かるはずなのですが、全社揃って疑問を呈しないというのは知識がなかったのか、政府に言われるままの報道をしていたのかのどちらかです。もっと言えば、中国漁船が巡視船の停船命令に従わなかったという事実をつかんでいるのであれば「漁業法」、中国漁船が故意に巡視船に体当たりしてきたのであれば「往来危険」の疑いが濃厚であるにもかかわらず、日頃別件逮捕だとうるさいメディアが、当局発表の「公務執行妨害」容疑だけで納得していたのは何か理由があるのでしょうが、今も謎です。ちなみにこの中国漁船に積まれていたと思われる日本の領海内で違法操業することによって得た漁獲物(日本国民の財産)と漁船の船体は、本来没収すべきであったにもかかわらず中国に返してしまいました。しかし、これに疑問を呈するメディアも1社もありませんでした。 2、逮捕に要した時間が長すぎることに対する疑問 中国漁船が巡視船に1回目の体当たりをしたのが7日午前10時15分ころ、2回目の体当たりが同日午前10時56分ころ、中国漁船が停船して海上保安官が乗り込んでいったのが午後1時前であるにもかかわらず、中国人船長を逮捕したのはそれから約13時間後の翌8日午前2時3分でした。13時間もの間、漁船の船内で何が行われていたのかを追及することもなく、人権問題にうるさい日本のメディアがこの間逮捕もせずに中国人船長を拘束していたと思われることに対して何の疑問も呈しなかったことにも違和感を覚えざるを得ません。 3、9月8日の夕刻時点で船長以外の乗組員14人全員を立件しないとの報道 この報道がなされた時点では、漁船および乗組員は、石垣港に入港していなかったので、通訳もろくにいない洋上では十分な事情聴取を行えたとはとても考えられません。違法操業を一人で行うことは困難で、乗組員全員が共犯である可能性が高いにもかかわらず、早々と船長以外の乗組員全員の立件を見送るという事は、この事件は捜査機関が捜査を行う前から「最初に結論ありき」であったことが容易に推測できます。つまり、当時の政府首脳は犯罪事実に関係なく「逮捕者は最も軽い罪で一人」と決めた一方で「国内法を粛々と適用する」などと二枚舌を用いて国民を騙したのです。それなのにメディアは、それをそのまま垂れ流し国民を欺く共犯者として政府の広報機関と化していたのです。 4、「中国の反発必至」などといかにも日本が悪いことをしたかのような報道 わが国の領海内で起こった事件であるにもかかわらず、中国の顔色を窺うような反応で、尖閣諸島については「中国が領有権を主張している」などと、どこの国のメディアか分からないような表現で中国の肩を持ち、彼らが文句を言うのが当然だと言わんばかりで、中国漁船がいかに悪質であったかという報道はなされませんでした。その後の中国の反発に対しても、その傍若無人ぶりを批判するより「日本国民は冷静に」と呼びかけ、ひたすら日本側の自制を促すような、ここでも一体どこの国のメディアか分からない報道姿勢でした。 それが露骨に表れたのが10月2日に日本全国30都道府県で行われた「中国の尖閣侵略に抗議」する国民有志のデモに対する報道でした。事前に主催者側が国内外のメディアを問わず大々的に周知したので、中国を含む15カ国以上のメディアが配信したり報道したりしましたが、肝心の日本では、NHKをはじめとするテレビ局、新聞社ともに報道はおろか、まともに取材すらしませんでした。この「報道しない」という姿勢に多くの国民から非難が浴びせられたからか、あるいは中国国内でこのデモに反発した反日デモが起きたからか、10月16日以降の抗議デモについては報じられるようになりましたが、その内容は相変わらず日本側の対応に問題があるかのような印象でしかありませんでした。 この頃の日本のメディアは、日中が揉めたときに突如として中国国内に親日派が現れるというパターンどおりに、「中国における親日派(?)である胡錦濤が国内の強硬派から突き上げを食らって引くに引けなくなっている」「親日派(?)の胡錦濤は習近平に後継を譲り渡すために強硬姿勢を崩せない」などと、中国国内の日本側が勝手に創り出した親日派のために日本は強硬な態度をとらずに、中国の言い分を容れた方が国益になるというような、おかしな理屈で日本の世論を鎮めようと躍起になっていました。さらに、「中国から日本への旅行者が減った」「レアアースの輸入が止まって大変だ」などと、さも日本が中国を怒らせると日本経済が立ち行かないかの様な報道が繰り返しなされましたが、実際は日本から中国への渡航者数のほうが中国からの渡航者より2倍以上も多く、レアアースも相当量が日本国内に備蓄されていたので、膠着状態が長引けば長引くほど、日本より上海万博開催中の中国の方が困ったはずでした。なぜ「中国の尖閣侵略」という視点で報道できないのか 当時は、このように日本国内で「日本が悪いのだから中国の横暴もやむなし」というような報道がなされても、肝心の物的証拠が公開されないため、国外メディアも「本当は日本が悪いのではないか」という論調に変わっていきました。そのようなタイミングで、私が、その物的証拠をインターネット上にアップロードしたのですが、私がインターネットを選んだことや、当初海外メディアを選んだことについて色々と言われ誤解されているようですが、当時の私が最も恐れていたのは計画が事前に発覚することでした。日本のメディアを全く信用していなかったわけではないのですが、万が一という事を考え、0・001%でも発覚の可能性が低い方をと海外メディアを選び、最終的には自分ひとりで完結できる方法を選んだのです(余談ですが、事件後、私がメディアの取材を受けるようになってから複数のテレビ局の人に、「私が事前に○○さんのところに動画をもっていったら放送してくれましたか」と訊いたところ、「必ず放送した」と答えた人は一人もいませんでした)。 アップロード後、私が最も驚いたのは、その情報拡散速度の速さです。結果が出た今でこそ、良質な情報であれば「You Tube」にアップするだけで広がって行くというふうに言いきれますが、当時の私は、最悪の場合は数週間も誰にも気づかれず放置される恐れがあると思っていましたので、これは嬉しい誤算でした。 次に驚いたのが、あれだけ政府に映像を公開せよと迫っていたメディアが一斉に「国家機密を漏洩させたのはけしからん」「国の情報管理はどうなっているのか」というふうに、映像の中身はそっちのけで犯人探しに躍起になったことです。私は、当初からタイミングを見て名乗り出る予定でしたが、この異常な報道を見て「名乗り出る時期を誤ると問題が情報管理にすり替えられかねない」と危惧しました。結果はその通りになってしまいましたが、私は誰かに認めてもらおうと思っていたわけではないので、メディアの、まだ見ぬ私に対するバッシングなどは平気でしたが、ほとんどのメディアが問題の本質である映像の中身そのものに対しては「中国は、酷いことしますね~」程度の底の浅い議論に終始したことは残念でなりませんでした。 この事件については、前述のように海島保護法が施行されてからの中国の動きを見れば、偶然やってきた漁船が単に巡視船にぶつかっただけのものでないことは分かりそうなものですが、大手メディアでそのような観点で取り上げた人は私の知る限りはいませんでした。 本来NHKをはじめとする大手メディアは、この事件を「中国の尖閣諸島侵略」という視点で報道すべきであったのに、それが今でもなされていないために多くの国民がいまだに中国に対する真っ当な危機感を抱いていません。それどころか「日中関係が悪くなったのは当時の石原都知事が尖閣諸島を買い取ると言いだしたからだ」「日本が国有化したから中国が怒るのだ」という中国政府の言い分をそのまま信じこんでいる人も多く、日本は中国の情報戦に完敗していると言わざるを得ません。それは、公共の情報発信機関としてのNHKが「公共の福祉の向上に寄与する」という日本国民への役割を果たしていない事の証でもあります。 今から、それを具体的に指摘します。平成23年3月16日、中国国家海洋局所属の艦船が尖閣諸島の領海を侵犯し、その5日後の3月21日に中国国家海洋局の海監東海総隊責任者は、3月16日に行われた尖閣諸島周辺での海洋調査船の活動について「日本の実効支配打破を目的とした定期巡視」であると明言しました。この発言の趣旨は「今から定期的に中国公船が尖閣諸島付近をパトロールし、日本の実効支配を打破して自分たちが島を奪う」という事です。このような中国政府実行部隊高官の「侵略開始宣言」、受け取り方によれば「宣戦布告」ともとれるような発言に対して、NHKをはじめとする日本の大手メディアはそれに見合った報道を行いませんでした。多くの国民がこの事実を知らないため、その後の石原前都知事の尖閣買い取り宣言や日本政府の国有化が今日の日中関係悪化の原因だと思い込んでしまっているのですが、客観的な事実としては、この時点において既に今日行われている中国公船の尖閣諸島付近への常時派遣は決まっていたのです。 更に言えば、その翌月に石原都知事が「東京都が尖閣諸島を護る」と宣言したことによって中国公船はその後3か月もの間姿を現しませんでした。東京都の買い取り宣言は中国の尖閣侵略に対する抑止力になっていたことが分かります。むしろ、日本政府が買い取ると言いだしてから、再び中国公船が日本の領海内に侵入してくるようになったのです。決定的だったのが、8月に魚釣島に不法上陸した香港の自称活動家を無罪放免にしたことで、これが「日本政府は東京都と違って我々に何もしてこない」という中国政府の侮りに繋がって、9月11日以降、中国公船による尖閣諸島の領海侵犯の常態化をもたらしたのです。確かに国有化を機に中国公船が尖閣諸島付近に常駐するようになりましたが、それは日本国が買い取って中国のメンツがつぶれたという理由ではなく、東京都が購入すれば中国の出方次第で島に建造物を建てたり、船溜りをつくったり、何をするか分からないので慎重になっていたところ、日本政府が買い取ったので、ならば今までどおり何をしても大丈夫だと安心して領海侵入を繰り返すようになったという事です。このような事実を報道しないNHKをはじめとする日本メディアは中国の情報戦に加担しているのではないかと疑りたくもなります。国民の「知る権利」とメディアの恣意性 あの事件に話を戻すと、私がテレビを見ていて思わず笑ったのは、真顔で「この国家機密を誰が?」などと叫んでいるキャスターの背後の画面に、その国家機密が堂々と流れている光景です。私は思わず「わしが犯人やったら、あんたらも共犯なんやで」とテレビ画面に向かって突っ込んでしまいました。あれだけ多くの人がテレビ番組の制作にかかわっているのに、この矛盾に誰ひとり気づかないことが不思議でなりませんでした。私の口から言うのも何なのですが、この時私が行ったことは、本来メディアが取り組むべきことではなかったでしょうか。それを棚に上げての犯人探しは滑稽というか、私には茶番劇にしか見えませんでした。そして今、当時は映像の公開に反対し、情報漏洩には厳しく対処すると言っていた政治家や、自称ジャーナリストを含むメディアが、挙って「特定秘密保護法案」に反対しているのは喜劇を見ているようです。当時、誰が情報の隠蔽を追及して国家秘密に迫る様な取材をしたというのでしょうか。残りの映像を公開せよと強く迫ったメディアはあったでしょうか。いまだにあの動画は「誰が」「何のために」秘密にしたのかという事すら明確になっていない状態で「知る権利」などと叫んでいる人たちを見ると、つくづく日本は平和でおめでたい人たちが多いなと思ってしまいます。第5管区海上保安本部から出て記者に囲まれる一色正春・元海上保安官=2010年10月22日(甘利慈撮影) また、11月10日に名乗り出てから7日間、私は神戸の合同庁舎内に事実上拘束されましたが、この間、法的には拘束されていないはずの私に対してまともに取材を試みたメディアがあったでしょうか。当局には、私との接触を禁止する法的権限などないにもかかわらず、私の自宅に大勢で押しかけ、まるっきり事情を知らない家族を一歩も外出できないようにして、私がいる庁舎の駐車場を占拠するかのようにテレビの中継車を並べただけで7日間一体何をしていたのでしょう。私が24時間監視され、連日10時間以上の取り調べを強要されているにもかかわらず、当局の「本人の希望」という言葉を鵜呑みにして何もしてこなかったのではないでしょうか。常識的に考えれば、自らそのような境遇を望む人間が、いるはずもないことは分かりそうなものですが、まさか即座に解任した弁護士の言い分を、そのまま鵜呑みにしていたのであれば、驚きを禁じえません。 いずれにしろ、捜査当局が私とメディアの接触を極端に嫌がっていたことは事実であり、私が考えた方法をもってすれば接触は可能であったと思うのですが、誰一人そのようなことを試みることもなく、メディアは結果的に捜査当局の意に従ったようなことしかできなかったのです。後で知ったのですが、マスコミ各社は、それどころか当局がリークする虚偽も入り混じった私にとって不利な情報ばかりを垂れ流していたのです。表面上は精一杯取材しているふりをしながら、各社横並びで無理な取材はしなかったというのが当時の報道の実態なのです。ですからこの事件以降、私はテレビや新聞のニュースをそのまま信じないようにしています。 庁舎から解放されても、マスコミ各社の横並び姿勢は変わりませんでした。特にそれを強く実感したのは偶然入手した神戸海運記者クラブから第五管区海上保安本部宛の抗議文を読んだ時でした。そこには、本来毎月開かれるべきで定例記者会見が2カ月にわたって一度も開かれない海上保安庁側の言い訳として「現段階で記者からの質問に回答することができない」とだけ書かれており、それに対し記者会見を予定通り開催することを強く希望する、というような通り一遍の内容しか書かれていませんでした。本当に記者会見を開いて、日頃自分たちが錦の御旗としている「国民の知る権利」に応えようと思うのであれば、その記者会見を開かないという事自体を広く報じて問題にすべきだと思うのですが、結局は当局との馴れ合いで、とりあえず形だけ抗議しておこうというような印象しか受けませんでした。一方で現場の記者たちは私の自宅に手紙を入れるなど色々と工夫したようですが、当時はこちらから連絡を取ることはできなかったので、何らかの別の方法でやってくれればと思っていました。 私が退官した日、一斉にメディア各社が群がってきましたが、その質問は稚拙でどこの社も似たり寄ったり。自分から進んで話すことができない立場の私としては非常にもどかしく感じたことを覚えています。なにしろ、質問の内容が皆同じで予測できるわけですから、聞かれる前に答えていたくらいです。それに多くのメディアは、最初から頭の中で記事が出来上がっているのか、初めに結論ありきの姿勢で、私が意に沿わない答えをするとしつこく訂正を求めてきたものです。 私が自由にテレビや新聞を見ることができるようになってから、明らかにおかしいなと感じたのは、私が捜査対象になっている理由が「捜査情報を公表した司法警察員」であったことでありながら、事件の捜査情報である「私の取り調べ情報」がそのまま報道されていることでした。おそらく捜査当局がリークしたのでしょうが、これは、例えて言うと泥棒の取り調べをしている警察官が、その泥棒の財布から小銭を抜き取る様なものです。どうして皆このおかしな状況に気づかないのか不思議でなりませんでした。しかも、私が言っていないことを含む、私に不利になる様な情報ばかりが報道され、私にはそれに反論や弁明の機会すらなかったのです。このようなことは、この事件以外にも行われているはずです。私はその時、こうやって冤罪が作られていくのだなと実感しました。普段「冤罪はいけない」などと叫んでいるメディア自身が、その片棒を担いでいることを自覚してほしいものです。 私はこのような経験から、退官後にメディアのインタビューを受ける際、現場の記者に私のメディアに対する疑問をいろいろとぶつけてみるようになりました。すると現場記者のほとんどは、その場で私の意見に賛同するのですが、いざ世の中に発信される段階になると「なんだこれは!」と思うほど内容が変わっている事が多々あります。それについては、現場記者よりも会社のデスクに座っている人の方が偉く、映像を編集し直されたり記事を書き直されたりするのだと聞きましたが、直接取材をした人間より、社内の立場が強いからといって何も見ていない人間が、社の方針やその個人の考え方で報道内容を変えるようでは、誤報や偏向報道はなくなることはないと感じました。 最後に私がNHKの職員にインタビューを受けた時の話をしておきます。私は、「毎年NHKは8月になると戦争云々の似たような番組を放送するが、一体NHKの放送の原点は何ですか」と訊いたところ、「あの戦争は間違った戦争であり、二度とあのようなことをしないために戦前の日本を全否定することです」との回答でした。これはその一職員の考え方なのでしょうが、NHKに限らずマスコミ全体、というより戦後日本の自虐史観を真面目に勉強してきた高学歴の人たちに共通のある種の正義感なのだと思わされました。と同時に、事実に基づいた歴史教育の重要性を今更ながら感じたものでした。関連記事■ 中国大船団 自衛隊・機動隊で制圧せよ■ 左翼メディアよ、そんなに集団的自衛権が憎いのか■ なんとなく薄気味悪い 大河ドラマの「妹路線」

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    阪神大震災 メディアはどう伝えたか

    年を迎えた。震災を知らない神戸市民が4割を超えた今、震災の風化はこれからの課題でもある。この20年、メディアは何を伝え、これから何を伝えなければならないのか。

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    思い出とともに 阪神大震災20年

    泣く暇ない20年。でも考えん日はなかった ~ 志智キミ子さん(76)〈夫、志智勉さん=当時(58)=を亡くす〉がれきの中から見つけ出した2つのステンレスのポットでアイスコーヒーとガムシロップを作る志智キミ子さん=神戸市長田区御蔵通の喫茶店「ホワイト」(頼光和弘撮影) そろそろ店を開けようかという時間でした。私は2階におってね。ドーンというたなと思ったら、2階が下になっとった。息子らがつぶれた1階からお父ちゃん(勉さん)を見つけたんです。エプロンもしていました。 「勉さんが一生懸命やっとったんやから、もう一回頑張ってみたら」。田舎の弟に言われたのをきっかけに、お父ちゃんの親の代から始まった神戸市長田区の喫茶店を続ける決断をしたんです。それまでは、レジに立つくらいだったから、コーヒーのいれ方も一から勉強しました。 仮設住宅から街に出るたびにコーヒーカップを買いそろえました。震災の翌年にオープンしたときには、お父ちゃんの高校の同級生が集まってくれて、記念に写真を撮りました。 このポットは誰かが、見つけてくれたんでしょうね。1つは蓋(ふた)がないんです。よう残してくれた。ガムシロップや、アイスコーヒーを作るのに大事に使うてます。 あれから20年。あっという間やねえ。泣いてる暇もなかったわ。でもお父ちゃんのこと、考えん日はなかった。落ち着いたんかな。今の方が涙が出るわ。 17日は毎年、(勉さんの名前が刻まれた銘板がある)東遊園地に行きます。孫らが二十歳になるたびに連れていっています。お父ちゃんがおったら、喜んだやろうね。最愛の母の死…。悲しすぎて涙も出なかった ~ 片山秀和さん(60)〈母、片山サヨ子さん=当時(64)=を亡くす〉母のサヨ子さんが愛用していたかばん。片山秀和さんが命懸けで取り出した=兵庫県淡路市(頼光和弘撮影) 余震が襲う中、母が使っていたかばんを命懸けで取り出しました。中には、長財布やお守りのように持っていた木の札がありました。長財布には、父親とハワイ旅行をした際のドル紙幣が入っていました。 私の長男が幼いころ、田植えの苗を田んぼに投げて、遊んでいたことがあるんです。母は怒らずに、やさしく「上手に植えたね」と言うような心の広い人でした。花が好きで、よく部屋に飾っていました。 兵庫県北淡町(現淡路市)にある自宅の柱が外れて屋根が落ちました。消防団員が母を助け出したときには、体が冷たくなりつつありました。悲しすぎて涙が出ず、パジャマに何かを羽織っただけなのに、寒くなかったんですよね。前年末に初めて買った携帯電話で、親族に母の死を伝えました。 前日の夜、いつもより早く帰宅できました。母も起きていて、話をした後、日記に「家族全員、今日も無事に終わりました」と書いていました。その日記帳は、フランス人形と一緒にひつぎに納めました。 昨年、病気で入院しました。直前にかばんを手に取り、じっと見つめました。20日間も入院するので、きっと寂しかったんやね。娘の死無駄にしない。重たい足かせ引きずる覚悟 ~ 寺田孝さん(75) 〈長女、寺田弘美さん=当時(30)=を亡くす〉震災で亡くなった長女の弘美さんの遺影の前で、最愛の娘の声が録音されているカセットテープとレコード盤を見つめる寺田孝さん=神戸市長田区(頼光和弘撮影) 寝付けずうとうとしてると、いきなりグラッときました。倒れたたんすが右耳を直撃したけれど、命は助かった。近所の兄や姉の家に安否の確認に走り、神戸市長田区の娘のアパートに行くのが最後になってしまって…。着いたときには焼けてあれへんかった。 4日後、跡地を自衛隊の人に掘ってもらったら、遺骨が出てきて絶句しました。地べたに頭をこすりつけて、何回娘に謝ったか。 明るい子でした。小学生の頃、三宮であったのど自慢大会でアグネス・チャンの曲を歌って優勝。その歌声が録音されたレコードが宝物です。仕事が決まり、友達と就職祝いをしようという矢先やったそうです。 娘は火事の熱い中で亡くなったから、真夏を選んで、震災の翌年に四国霊場八十八カ所を巡りました。静かな山の中を歩いて札所を回ると、人生を振り返る機会にもなり、これまで、3回結願(けちがん)しました。地震で命を落とさないよう、震災の語り部もしています。 足を悪くして四国には行けないので、20年を機に、娘と静かに向き合おうかなとも思っています。(娘の死で)重たい足かせをはめられた。ずっと引きずっていく覚悟はできています。手書きメニューはがされへん。値段はそのままや ~ 上野数好さん(71)〈妻、上野美智子さん=当時(47)=を亡くす〉色あせた手書きメニュー。美智子さんが優しく上野さん親子を見守っているよう=神戸市東灘区の灘寿司(頼光和弘撮影) よう気がつく、優しい嫁やった。よう仕事もしよったで。震災の前から貼ってあるメニューも、丁寧に書いてるやろ。破れてるけど、はがされへん。だから今も値段はそのままや。 震災の日の夜中3時ごろ、神戸市東灘区の家でくつろいでいたら、大学生やった長男と電話しとった。スキーに行ったという長男に、「私も2月にフランスに旅行するよ」って。2人で行くと決めとったんや。その2時間後に地震や。 嫁は震災の2年ほど前に、自転車でこけて、当時は股関節のボルトを抜いたばかり。「階段を上がると痛い」って、1階で寝たんですわ。つぶれた家の下から遺体を出してもらった。数百メートル先の安置所まで、車で5時間ぐらいかかったわ。 つらかったな。2カ月ぐらい店を休んだかな。お客さんがシャッターに「大将、頑張ってよ」って貼り紙してくれて。家におったら酒ばかり飲むから、店を再開したんや。今は、長男と一緒に仕事しとる。でも、家に帰ったら1人やから、寂しくなるんや。 17日は仕事をしてから、近くの慰霊碑に行く。嫁は頑張り屋さんやったから「来んでいい。仕事しなさい」って言うと思うわ。活発な娘。もうお母さんになってたやろね ~ 大石博子さん(65)〈次女、大石朝美さん=当時(16)=を亡くす〉次女の朝美さんが着ていたカーディガン。今も大切に袖を通す=神戸市兵庫区 何年たっても、娘を思う気持ちは変わりません。今日は娘のカーディガンを持って東遊園地に来ました。去年の12月で36歳。「早くお嫁さんになりたい」って言ってたから、もうお母さんになってたやろね。 神戸市兵庫区の文化住宅で被災しました。たんすが倒れてきました。胸が苦しかった。助けられるのがあと30分遅かったら、私もだめやったかもしれない。 あの日、午前3時ごろに起きた主人が、宿題をしていた娘に「はよ寝えや」って言うたら、娘が隣の布団に入ってきたことは覚えてるんです。(家が崩れ、閉じ込められていたときには)無意識に手を握っとったんやけど…。 活発な娘でした。いまだに、中学校の先生や友達が家を訪ねてくれるんです。 お笑いコンビの追っかけをしていたことや、帰ってくると、間仕切りののれんを勢いよく手で払って入ってくる姿。いろいろな場面が思い出されて。 やっぱり、娘のことを忘れることはないわね。(文・吉田智香、写真・頼光和弘)

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    情報の空白埋める災害報道を

    西宮市の応急仮設住宅居住の被災者200人に「阪神大震災と新聞」をテーマとしたアンケートを実施して活字メディアの役割を問うた。結果によれば、震災当日から新聞を読むことができた人はわずか6%だった。それにもかかわらず、新聞の評価を下げた人が16%に対し、むしろ評価を上げた人は43%で、「信頼できる」「情報が残る」が主な理由だった。 東日本大震災でも、その被害の甚大さ故に情報の空白化と同様のことが起きていたと思う。しかし、この震災では津波を中心とした被害の大きさに加えて広域性と度重なる大きな余震などにより被害の全容が被災地の外にいても把握しにくかった。情報の空白化は不安を増大させ、風評被害など間接被害を発生させる。駅舎がつぶれ、電車が脱線した阪急伊丹駅=平成7年1月17日、兵庫県伊丹市 情報の空白化が自然災害の被害を拡大させた事例として、柳田邦男氏著による『空白の天気図』を思い出す。ここでは第二次世界大戦の敗戦によって台風予報には欠くことのできない洋上の気象観測データが得られないだけでなく、情報網も寸断されていた昭和20年9月17日に九州の南端に上陸した枕崎台風による被害の実態が取り上げられている。この台風は原子爆弾による被害を受けた直後の広島を情報の空白の中で直撃し、広島県で2千人以上の死者を出した。 記者たちは災害の発生直後から被災地に向かって走り出し、掘り起こしてきた情報を文字にして、新聞記事として被災地に返していく。直後には、被災の中心地でそれを読むことのできる人がたとえ数%だったとしても、信頼できる情報を、残る形で提供することによって、情報の空白を補い、風評などによる防ぎ得る被害を少しでも減らしていくことが活字メディアである新聞の使命といえよう。関連記事■ 被災者に何を伝えられたのか■ 発生から11時間ニュース伝え続けたNHKアナウンサー■ 徹底的に被災者の立場に立った神戸新聞

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    被災者に何を伝えられたのか

    にとって「原点」となる取材体験だった。 当時、建設業界紙にいた私は、ある違和感を覚えていた。震災後、メディアが神戸一色の報道となったのもつかの間、2月に入ると急にその報道が薄れていったからだ。しかも、業界紙各紙は2月1日付紙面のトップには「復興の槌音」という文字が踊ったりした。建設省(現・国交省)の専門紙記者クラブで、現地に誰も入っていないにもかかわらず、建設省からの情報を垂れ流していたのだ。崩れ落ちた家の前でうずくまる男の子=平成7年1月17日、神戸市兵庫区 そんな私が縁あって、黒田ジャーナルに転職し、すぐさま大阪に飛んだ。『週刊金曜日』で連載が決まっていたからだ。在阪ジャーナリストたちが体験し、見てきたものを出す、黒田ジャーナルにとっては願ってもない仕事だったのだが、取材スタッフは皆被災者でもあった。駒不足が懸念されていたところに、私が拾われた格好だった。 4月20日過ぎだったと記憶している。実際に住む家を決め、神戸に入ったのはゴールデンウィーク直前だった。以前も書いたが、「いまごろ東京から来て何が分かんねん」と現地の人から言われることもあったが、それでも倒壊した家屋と瓦礫だらけの通りを見たとき、声も出なかった。 JR神戸線「鷹取駅」南口を出て、東に数分歩くと、墓地があった。すべての墓石が倒れたままで、近くの電柱には家族の安否を知らせてほしいと願う貼り紙が揺れていた。穏やかな春の陽気に照らされた街並みは、「あの日」から時間が止まっているかのようにも見えた。決して、活気ある復興の槌音が聞こえているようには見えなかった。 続いて、向かったのは、神戸市最東端の東灘区だった。摂津本山駅と芦屋駅の中間に位置する森南町。東京メディアの報道の多くは、長田の火災が阪神大震災の象徴のような扱い方をしていたが、地震による倒壊の凄まじさでいえば、この森南町が著しかった。全壊は5割を超し、半壊、一部損壊も加えると97%にもなり、死者は81人におよんだ。空襲を受けたように焼け野原になった長田区。まだ建物から煙が出ている=平成7年1月18日、産経新聞社ヘリから この街の一帯が区画整理対象地域となっていたこともあり、取材のメインに置いた。お孫さんを亡くし、失意のどん底にあった呉服屋の主人やお寺の住職らに話を聞き、来る日も来る日もメモを取る目が涙で見えなくなった。一人の人間の死を見つめることは、家族や周囲のコミュニティーの歴史を掘り起こすことだ。決して忘れることは出来ないことだが、他人に話すまで傷が癒えていない方に何度も何度も会って確認する辛さ、一度で話をまとめられない己の未熟さを恥じる毎日だった。改めて、当時の『週刊金曜日』をめくると、この森南町のことを書いたのは7月28日号と8月4日号。実に、3カ月近く取材に費やしていたことが分かる。 また、当時批判の矢面に立たされていた神戸市役所についても取材を実施した。業界紙で行政取材を長くやっていた者としては、全職員が悪者にされるのも違和感があったからだ。そして出会ったのが、用地課の職員たちだった。仮設住宅の用地を確保するため、被災した家族を家に残したまま、寝食を忘れ市内を歩き回った男たちの奮闘を描いた。いわゆる左派系週刊誌で、行政マンをキレイに描くことは異例だった。決して読者からの評判は良くなかったが、後ろ指を指されながらも寡黙に職務を全うする人たちの足跡は残しておきたかった。 他にも数多くの人たちと出会い、語り合い、時に酒を酌み交わした。森南町の人や神戸市元職員などとは、今も年賀状のやり取りをする間柄だ。ここ数年、神戸に行く機会がなく、会えなくなって久しいので、ちょっと寂しい気もしている。 当時、他のメンバーの記事を見てみると、在日の人たちや被差別部落の人たちの苦難を描いたり、病院や消防隊の秘話、ボランティアに駆けつけた人たちなどを活写している。一貫しているのは、名もなき市井の人たちの奮闘や苦労、戦後50年で浮かび上がった制度の不備や欠陥を抉り取っていることだ。主人公は一人ひとりの市井の人たちであり、その歴史、バックボーンもつぶさに描くことが大切だと学んだ。懸命の捜索活動を続ける自衛隊員=1月23日、神戸市長田区 連載は5月19日号から12月22日号まで31回にわたって続けられ、96年1月12日号、19日号の2回にわたり「教訓と提言」を掲載。その後、三五館から『ドキュメント震災と人間』が出版された(現在は絶版)。 あの震災から20年。改めて振り返ると、こうやって書き連ねたものの、何を伝えられたのか、伝えきれなかったものが多いのではないかという自戒の念だ。東日本大震災の翌々日、かつて取材した神戸の関係者に電話したとき、「ごめんな、山ちゃん。ワシ、フラッシュバックを起こしそうになるからテレビが見られないねん」と、申し訳なさそうに話した。彼らが受けた心の傷は、今も深い。それを分からず、安易に電話した自分を恥じた。これからも機会があることに阪神大震災を取材していかなければいけないことを思い知らされた。関連記事■ 発生から11時間ニュース伝え続けたNHKアナウンサー■ 徹底的に被災者の立場に立った神戸新聞■ 情報の空白埋める災害報道を

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    発生から11時間ニュース伝え続けたNHKアナウンサー

    (産経新聞 平成7年9月12日掲載) 史上空前の大災害となった阪神大震災の発生直後から、11時間余にわたってニュースを伝え続けたNHKアナウンサーの体験記録「危機報道-その時、わたしは…」が関西書院(大阪市)から15日に刊行される。著者は現在、土・日曜夜の「ニュース7」を担当している宮田修さん(47)。当時、大阪放送局勤務の宮田さんが、その時々でカメラとマイクの前で何を考え、迷い、言葉にしたのかが克明につづられている。崩壊した阪急三宮駅ビル=平成7年1月17日、神戸市中央区 宮田さんは今年がアナウンサー生活25年目。北海道・旭川を振り出しに、「生ばかりやってきた」。だから自分が映っているVTRも「潔くない」と、これまで一本も手元に残してこなかった。しかし「今回だけは違う」と、録画テープを取り寄せた。 「“記念”という以上にどういう放送をしたのか、ほとんど覚えていない。自身で点検しなければ」と考えたからだ。放送内容の記憶がないのは「ほんの一言、不適切なことを口にすれば大変なことになる。一瞬の判断を重ね、完結させていったからではないか」と自己分析している。転覆した阪神電車。線路わきの民家は火の手が上がった=平成7年1月17日、神戸市東灘区(産経新聞社ヘリから) 大阪のローカル枠のキャスターとして局内で待機していた1月17日午前5時46分、突き上げるような揺れがあった。スタジオに飛び込んで「早くおれを撮れ」と叫ぶ一方、最初に何を言おうか考えたという。5時49分に発した第一声は「地震です」でも「気をつけてください」でもなく、いつものように「おはようございます」だった。 宮田さんは著書で、「私が冷静さを失ったらテレビの前の人たちはパニックに陥る危険性がある。笑顔はいけないが、まったく普段どおり始めようと思った。その後の私の放送のトーンを決める重要な一言であった」と書いている。 以後、スタジオに午後1時まで座り続け、わずかの仮眠の後、さらに午後7時から10時50分まで放送を続けたが、改めてテープを見ると「不満も残る」という。 世界中に配信された神戸局内の大揺れ映像は午前6時50分に突然入り、宮田さんはとっさに「棚の上のものがすべて落ちまして、激しい揺れを示しております。震度6を神戸では観測しております」とコメントを付けた。 「この場合『震度6』と言ったのは適切だった。しかし、ほかの情報は映像を見ればわかる。かつて3年間、神戸で勤務をしたことがあり、神戸局は市内のどこで、この部屋は何階にあるかなど、画面から知り得ない情報を伝えることができたのに」と反省する。橋脚が落下したが、間一髪のところで落下をまぬがれたバス=平成7年1月17日、兵庫県西宮市の阪神高速 ヘリコプターからは午前8時14分に初めて、阪神高速道路の高架橋落下をとらえた映像が入ったが、「不意を突かれ、しゃべり手の気迫が強烈な映像に凌駕(りょうが)された。ヘリのカメラマンに呼びかけることができたはずなのに、一瞬、映像に立ち向かっていく言葉を失ってしまった」と悔やむ。 「もっと伝えられたという思いもあるが、取材でつかみ得た事実以外は言わなかった。『おそらく』『と考えられる』といった言葉は絶対に避けた。災害報道が伝える情報はすべて生死にかかわるものだから」と宮田さん。 著書は、自分の考えや状況を言葉で表現せずに「この映像を見てください」と逃げてしまう“映像先行”の若い後輩アナたちに対し、「言葉で勝負する潔さ」を伝えたかったのだという。関連記事■ 徹底的に被災者の立場に立った神戸新聞■ 被災者に何を伝えられたのか■ 情報の空白埋める災害報道を

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    徹底的に被災者の立場に立った神戸新聞

    々が不便な生活を強いられ、神戸新聞も臨時編集局での新聞づくりを余儀なくされている。橋田さんは全国的なメディアに対して、政府や世論を突き動かす震災報道の継続を訴えたいという。大きなビルが大通りをふさいで横倒しになった=平成7年1月18日、神戸市中央区 神戸新聞本社だったJR三ノ宮駅前の新聞会館は解体されてすでになく、跡地は駐車場として使われていた。神戸新聞の臨時編集局は、それより少し西へ行った神戸駅南口。市が再開発し3年前にオープンした「ハーバーランド」の高層ビルのひとつにある。 臨時とはいえ、新しいビルのフロアだから、心地よさそうだ。15階の編集局には記者がワープロをたたく音、絶え間なく鳴る電話と日常が戻っている。ただ、被災した人々のことを踏まえ年賀状の自粛を呼びかける張り紙が、1月17日の震災を思い起こさせた。 「日々ニュースを追いかけているといっても、漫然としがちな日常だった。それが震災でゼロになりました」。橋田さんは淡々と語りはじめた。神戸新聞にとってこの11カ月は「新聞づくりを根底から問い直された日々だった」という。建物全体がめちゃくちゃに崩壊した三菱銀行兵庫支店=1月17日、神戸市兵庫区 電話が使えず、ネタは文字どおり足で探す。被災地にどっぷりつかって被災者の話に何時間も耳を傾ける。報道にあたる神戸新聞自体が被災企業であり、記者自身が被災者だった。 「メディアは多くの場合、安全な取材基地を確保して取材に当たり、大所高所から、ものを論ずるが、今回は違った。被災を共有することで被災者の目線という視点が自然に生まれた」と話す。従来の客観報道を超えた「生活情報に大きなスペースをさき、徹底的に被災者の立場に立つ」というスタンスが生まれた。ライフラインが断たれ水や食料を求めて列をつくる被災者=平成7年1月18日、神戸市長田区(本社ヘリから) 家が倒壊した社員も無事だった社員も、出社を家族に引き止められ、けんかして、それでも新聞をつくるため駆け回ったという。橋田さんも母を亡くした。 震災の朝、一人暮らしの母のところに電話を入れ、呼び出し音がしたので、家はつぶれていないと判断、「どこかに避難しているだろう」と楽観して出社した。社会部長として一刻も早く現場を仕切らなければならない立場でもあった。 「いま思えば、呼び出し音しかしなかったことを疑問に思うべきだった。どこかで自分をごまかしていた部分があったのかもしれません。高校の同級生からはあとで、『なぜ、母親のところにいかなかったのか。ばかやろう』としかられました。同居していたら…と後悔しています」 神戸新聞では現在も震災関連記事が大きなスペースを占める。比較的被害の軽い地域の読者からは「震災報道はもういい」との声も寄せられるが、橋田さんは「被災地以外の人にも納得して読んでもらえるような普遍性のある震災報道が課題。日々のニュースのほかにこの地震がもたらしたもの、復興への問題点を提起したい」と話す。 また、全国紙など、在京のメディアに対しては、一過性でない継続した震災報道を強く訴える。「北海道・沖縄開発庁長官がつとめた“震災担当大臣”がなくなり、中央が地方を見る目が冷たくなったと感じる。復興への道はまだまだこれから。政府のおひざもとにある在京紙には、とくに活発な報道、検証をお願いしたい」 ところで、震災は神戸新聞に思わぬ副産物をもたらした。社員の結婚ラッシュである。総勢46人、若い記者が多い社会部の場合、今年5人が結婚、来年もすでに3人の結婚が決まっている。橋田さんはちょっぴりはにかみながら「神戸のほかの企業も結婚が目立つらしい。物質文明の崩壊を目の当たりにして、人と人とのきずなの大切さを痛感したんでしょう」といった。(長戸雅子)関連記事■ 発生から11時間ニュース伝え続けたNHKアナウンサー■ 被災者に何を伝えられたのか■ 情報の空白埋める災害報道を

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    産経さんだって人のこと言えないでしょ?

    らに言えば、1月5日の朝日社長会見でも「編集」と「経営」をきちんと分離すると明言しました。これはマスメディアにとって永遠の課題ですよね。産経新聞だって編集権は独立しているでしょうけど、でも会社の危機になれば、そのときの社長が何を言うか分からないというのは有り得るわけでしょ。いや、きっとありますよね。あまり人のことを言っていられないわけですよね。 そういう意味でも、「経営」と「編集」の分離、あるいはどうしても経営にかかわる時には第三者を入れてきちんとオープンにするんだ、という姿勢は画期的なことだと思う。他の新聞社はできてないでしょ。他のテレビ局だってできてないと思うんですね。他にも訂正のコーナーを常設するというのは、これも画期的なことですよね。これまでどの新聞社も、なるべく訂正は載せたくない。たとえ載せても目立たないようにする。一面トップの大きな記事でも小さく訂正を載せるというのは、産経新聞でもあったと思いますけど、一連の問題を受けての朝日の対応は画期的なことではないかなと思う。 もちろん、本当にそうなるかどうかは分からない。これからやるっていうんだったら、じゃあ、こちらはそれを監視し批評をするという役割で「連載を再開しましょう」と決めました。1月5日の夜に申し上げたんですが、各社からは「コメントください、ください」とずっと追いかけ回されてました(笑)。現場の「屈辱感」が編集権の独立を担保する現場の「屈辱感」が編集権の独立を担保する 朝日の人と話していて、なるほどと思ったのは、今回の場合でいうと、編集部門は僕のコラムを掲載しようとしていたわけです。でも上層部、第三者委員会でいうところだと当時の社長ですよね。経営陣から載せるなと言われて、現場は抵抗したけど最終的に屈服しちゃったわけです。その「屈辱感」を現場の誰しもが持っている。こういうことが二度とあってはいけないという反省みたいなもの。実はそれが「編集権の独立」を担保するのではないかと言っている人がいて、なるほどなと思いましたね。(瀧誠四郎撮影) 逆に言えば、今後もし経営者が編集に介入しようとしたら、「第三者を呼ぶんだよ」「オープンにするんだ」という仕組みが朝日にはできたわけですから。これは経営者がうっかり編集に介入しようとすれば、オープンになってしまうと思ったら、それだけで歯止めになる。つまり、会社の体質うんぬんではなくて、歯止めをつけるとか、ブレーキをかける仕組みを朝日はつくったんですよね。 むろん、代が変わっても、その精神や仕組みが継承されるかどうかという懸念はあるわけですけど。あなた方も新聞記者である以上、自分が書いた記事について正当な理由もなく、上層部から「これはやめろ」と言われたら許せないはずです。屈辱ですよね。やっぱりそれに屈してしまったということは記者人生において、ものすごい汚点だと思うんです。朝日の人たちにとってみれば、今回のことにかかわった一人ひとりの記者人生においての汚点でもある。これからもトラウマになるかもしれませんけど、その反省から二度とそんな失敗はしないっていうことを思うことが大事なんじゃないかな。 これは他の新聞社の記者からも言われたんですが、「朝日のような対応はうちじゃできない」と。朝日の問題を受けて、ここのところいろんな新聞が訂正を大きくしたり、訂正の内容を分かりやすくしましたよね。そういやこの前、産経さんが朝日の件で江川紹子さんのコメントを無断で使ったことが問題になりました。あの後、産経新聞が記者を処分した経緯の記事がとっても分かりにくいと聞いたんですけど。なんで、どんなことをやったから処分になったかと書いてないんですよね。こんなことになれば、当然産経さんだって批判される側に立つ。 ましてや、朝日のことを散々叩いてきたわけでしょ。江川さんの件でなぜ処分したかまったく説明がないわけですよ。読者のことをまだ考えてないなと思いますよね。最近、日経新聞の訂正も非常に丁寧になりました。前はただ「訂正します」という言葉だったのに、最近は「お詫びして訂正します」に変わった。そういう意味でも、それぞれの新聞社が襟を正すようになったのは、とても良い事なんじゃないかな。 もちろん、これはあえてメディアにおける今回の朝日問題のプラス面を言えばですよ。ただ、その一方でマイナス面を言うと、やっぱり新聞に対する不信感が大きい。最初は朝日に対する不信感だったわけですけど、今度はそれをライバル紙である産経さんや読売なんかも激しく叩くわけでしょ。これも読者にしてみると、「本当に真実とか事実を追及するためのものなんだろうか」と思ってしまう。でも、すぐに販売店からチラシが入るわけですよ。「うちの新聞をとりましょう」と。それを見ちゃうと「あれ? 商売のためなんじゃないの」と思ってしまう。たとえ、そういうつもりがなかったとしても、きっと読者はそう思いますよね。 だから、今回の問題は結果的に新聞業界全体に対する不信感に広がっていったんじゃないかと思っています。朝日が部数を減らしてますけど、はたして読売さんや産経さんは増えてます? そういや毎日新聞は微増だと言ってましたね。減り続けていたのが微増ということは結構増えているということになるのかもしれないけど、たぶん朝日の購読を止めた人の多くがこれを機に新聞購読をやめたんじゃないかと思うんですよね。新聞業界全体が実はマイナスになっていると。そういう危機感を持った方がいいんじゃないかなと思いますね。だからこそ、今回の朝日問題は他の新聞社においても「他山の石」にしてほしいなと思います。「角度」をつけて記事をつくることとは「角度」をつけて記事をつくることとは そういえば、朝日の第三者委員会の報告について、産経新聞は朝日の過去の記事が国際的に悪い影響を与えたと、大きく報じていましたよね。それが見出しにもなっていたでしょ。産経は産経で「角度をつけて記事を書いているよな」と思いました。 それにしても「角度」をつけるっていう表現は不思議ですよね。かつて私が勤めていたNHKでもそんな言葉はなかった。ただ、よくあるでしょ。例えば、新聞記者が第二社会面トップぐらいというつもりで書いたら、突然デスクから「一社トップで行くぞ」とか、「一面で行くぞ」とか言われたりする。デスクからは「リード(前文)を工夫しろ」とか、「イーハンつけろ」とか言われません? きっとあるでしょ。今の若い人には意味が分からないかもしれないけど。 どんな記者だって、突然「トップにするぞ」と言われたら、「イーハンつけろ」と言われたらやるでしょ。なんとかでは初めてとか。世界初と言えないならアジア初とか。なんじゃそれ、みたいなのが時々ありますよね。 つまり、イーハンつけろよというのが、朝日でいうところの「角度をつける」ということなんでしょうね。でも、角度をつけるということは、ちょっと偏ってしまうことになるのかなとも思います。イーハンつけるということは、もう少しニュースバリューを際立たせろということですよね。でも「角度」という言い方は不思議だなと今でも思います(笑)。朝日の問題は「不良債権処理」と同じ1月5日、記者会見する朝日新聞社の渡辺雅隆社長(大西正純撮影) 朝日について言えば、一連の問題を訂正したり、お詫びする機会はあったはずなのに、それをずっと放置してきたという人がいます。これはものすごく、日本的な企業風土だと思うわけですよ。朝日だけではなくて、日本の企業だったらどこにでもある話。新聞社の感覚で言えば、大阪社会部が書いた記事だから、東京社会部は知らないよと。こんな経験あるでしょ? あるいは、過去に起きたことだし、なんで今さらほじくり返すの? みたいなことになる。当時書いた人が今、会社の上層部にいたら、その人の過去を掘り起こすことになってしまう。それはそっとしておこうとか、自分の時に問題にならなければいいから先送りするって、誰しもが思う感覚なんですよね。 バブル経済が弾けた後の日本の金融機関はみんなそれをやってきたわけですよ。バブルが弾けて、どんどん不良債権が積み上がり始めた。担保となった土地を早く処分すればいいのに、それを処分して不良債権だと切って捨てると、前任者が間違っていたということになる。たとえば、それをやった人が今は本社の偉い人になっていれば、こんなことをやると自分の出世に響いたりするから、自分の時だけは何事もなく、後に任せればいいやと思う。「先送り、先送り」といって気がついてみたら、不良債権がものすごいことになって、「飛ばし」にした。飛ばしにして、帳簿から消したでしょ。あれと同じですよ。  あるいは、不良債権の額をわざと低めに抑えたりして、実際に金融庁が調べてみると、どーんと額が増えましたよね。結果的に不良債権処理に失敗して金融破綻が深刻な問題にもなった。朝日新聞とそっくりだと思いますよ。いや、朝日新聞だけじゃなくて、日本の企業風土としてよくあることだと思う。むしろ、そっちの観点からこの問題を考えた方がいいんじゃないかと思います。 当然ながら、産経新聞にだってあり得るということです。もちろん、今のご時勢なら、すぐ膿を出す努力はするでしょうけど。昔は産経さんだって、誤報を出してもほっかぶりしたことがあるわけですから。それは朝日特有の問題とみてしまうのは間違いなんじゃないかな。日本的な企業風土として、どこでも有り得ることなんだよと考えた方がいいんじゃないかな。だからこそ、朝日が報じた吉田証言というのは「不良債権」そのものだったんですよ。不良債権の処理をしないで、放置している間にどんどんそれが膨らんでしまった。それが今回、やっと不良債権処理に踏み出したわけですよね。朝日新聞の国際的影響力とは朝日新聞の国際的影響力とは 朝日の問題で言えばもう一つ、一連の慰安婦報道が日本の国際的評価を貶めたという指摘があります。これについて第三者委員会の中で、本当にどれほど影響があったのかどうか、林(香里)先生が定量的に分析しています。■データから見る「慰安婦」問題の国際報道状況(朝日新聞デジタル)http://www.asahi.com/shimbun/3rd/2014122204.pdf データによれば、実は思ったほどの影響ではないという話になっていましたよね。あれがなかなか難しいのは、産経さんが日本を貶めたのは朝日の影響力が大きいと言えば言うほど、朝日新聞は国際的信用度が高いみたいに思えてしまう。朝日を叩くことがかえって、日本を代表する新聞という風に持ち上げられてしまって、これは痛しかゆしだなって感じがする。林先生が分析したデータを見ると、確かに言われているほどの影響力はないって結果なんですよ。あれはあれで結構、おもしろかったですけどね。 もちろん、報道の影響力というのは活字の面積やテレビで放映された時間だけで計れるものではありません。ごく小さな記事でも、人間の記憶に残ることだってあります。「強制連行した」という証言が日本国内でそれなりの衝撃を持って受け止められた部分が、海外ではどうなのかというのは実際のところよく分からない。別に朝日の影響力がなかったとは言いませんし、逆にどれだけあったのかと言えるだけの根拠を私は持っていないので。全くなかったはずではないけど、じゃあ、どれだけあったのかというのも、実はよく分からない。 ただ一つ言えるのは、「慰安婦」という言葉自体がひとり歩きしたという影響はあるわけでしょ。「女子挺身隊」が「慰安婦」とイコールの、あの間違いの方が大きいと思います。女子挺身隊を慰安婦と混同した部分に関しては、たとえば韓国では「慰安婦20万人説」っていう話まで出てきちゃうわけです。この責任はありますよね。明らかにね。強制性に関しての国際的な影響力っていうのは、私もそれを判断するだけの材料がないので自分としては言えませんけど、女子挺身隊と慰安婦を混同させたのはやっぱり問題だと思います。これは朝日の責任として、今後も国内外に向けて「実は間違っていました」ということを言い続けるべきだと思います。 この問題について、一読者として最も違和感があるのは、産経さんが「朝日はその責任をどうするんだ、どうするんだ」と追及してるでしょ。極論かもしれないけど、産経新聞が朝日に代わって世界にアピールすればいいんじゃないですか? 少なくとも私はそう言いたくなるんです。日本を代表する新聞としてきちんと論陣を張り、世界に向けて「朝日は間違っている」ということを発信すればいいじゃないですか。やはり言論をもって言論をということだと思うんです。読売さんだって、朝日は違うとかやっているわけでしょ。読売は読売できちんと論陣を張る。産経は産経でやる。また、毎日や東京もまた別のやり方をやればいい。それが本来のあり方じゃないですか。人を叩いている暇があったら、自分のところで誇りをもってやりなさいよと、私は言いたいですけどね。朝日を叩くなら言論を戦わせるべき朝日を叩くなら言論を戦わせるべき 私は昨年、週刊文春に「朝日のことを言えない新聞社やテレビ局だってあるんじゃないんですか?」という記事を書きました。過去には私の連載を突然打ち切った新聞社だってあるわけです。それは編集権の問題だから、私はそれについて誰にもとやかく言ってませんけど、たまたまその新聞社は組織内で鉄の結束があって、社員は誰も外部に漏らさなかった。だから、今まで知られないで来ただけの話でしょ。 かつて私がいたNHKにおいても、経営が編集に介入するというのはあって、みんなが地団駄を踏んで悔しがったこともあります。そんなことは、いろんなところであるんじゃないですか。週刊誌の広告掲載を拒否した新聞社だって他にもあるのに、朝日新聞が週刊誌の広告掲載を拒否したことだけが、けしからんと書くのは違うんじゃないですかということを言ったわけです。私は「朝日叩き」が悪いとはどこにも書いていない。自分たちだって過去に同じことをやっているのに、朝日だけを叩くというのは違うんじゃないかと思います。産経新聞に掲載された週刊新潮、週刊文春の広告と、朝日新聞の慰安婦問題に関する特集記事=8月28日 そういえば、週刊文春は「売国」という言葉を使って朝日の問題を報じましたよね。「売国」っていう言葉は、メディアとして使うべきではないと思います。光文社のフラッシュでは「朝日新聞の社長を国会招致せよ」という見出しをつけた。出版社が政治介入を積極的に求めるってどういうことですか。要はフラッシュの記事をめぐって何かあったときに光文社の社長を国会招致せよって言われたら、どんな気持ちになりますか? そこですよね、私が言いたいのは。だからこそ、言論には言論でやりましょうと常々思うわけです。 「メディアスクラム」とかよく言われますけど、メディアスクラムが問題になるのは、たとえば事件があった時の、一個人、いわゆる市井の人、一般の人に対してメディアが「ワーっ」と押しかけてやるっていうのは、やっぱり人権問題だと思います。でも、朝日について言えば、メディア界においてそれなりの権威がある。大企業に対しての過熱報道というのは、それはありですよね。ありって言い方は変だな。それについて、とやかく言うことはないんだろうと思いますよ。 新聞社の場合、そこに販売店が絡んでくるから、またちょっとおかしな話になってくるけど。読者からみれば、結局部数を増やしたいからだろうと見られちゃいますよね。そこでまた編集と経営の分離という観点からみると、経営者から「朝日を叩け、やれやれ」と言われて報道が過熱しているのではないか、と勘繰ってしまいますよね。 もちろん、新聞社だって民間企業だし、営利企業、株式会社なんだから当然といえば当然なんですけど。その一方で、読者は言論機関、報道機関として新聞をみているわけですよね。そこで疑いを持たれるようなことがあっちゃいけないと思います。 この問題に関して言えば、元朝日記者の植村隆さんがひどい個人攻撃を受けてしまった。そこら辺の経緯は私も良く分からないからコメントできないですけど、ただ植村さんが最初は神戸かなんかの大学の先生に決まっていたでしょ。あの時、週刊文春がそれを暴露した。あれはやりすぎだと私は思いましたね。こんなやつをとってもいいのか、この大学への抗議をみんなでやろうと、あたかも煽ったかのように思えますよ。 これについては週刊文春の責任が大きいと思います。植村さんが誤報したのだとしたら、それを追及されるのは当たり前ですが、だからといってその人の第二の就職先はここだと暴露する必要があるのか。それが結局、個人攻撃になっていったり、娘さんの写真がさらされたりみたいなことになっていっちゃうわけでしょ。ものすごくエスカレートする。逆に言えば、産経さんはこの件に一切関与していないにもかかわらず、なんとなく植村さんへの個人攻撃から娘さんの写真をさらすことまで、全部ひっくるめて朝日をバッシングしているのが、産経さんであるかのようにみられてませんか? 産経さんの誰かが書いていましたよね。うちはちゃんと分けているのに、全部ひっくるめて批判するのはおかしいって。そんな風になってしまったのは、これまた不幸なことだと思いますね。ラジオからテレビ、紙からネットへの変革ラジオからテレビ、紙からネットへの変革テレビ東京系選挙特番「池上彰の総選挙ライブ」の会見を行った池上彰氏=2014年12月2日 朝日の問題は、ネットでも特に注目を集めました。ネットを利用する人が情報収集する時にググると、産経の記事もネトウヨのブログも一緒になって出てきちゃうわけでしょ。並列で出てきちゃって、次々に読んでいると、どこで読んだかよく覚えてなかったりしたという経験だって誰しもきっとある。 新聞社の記事というのは、きちんと訓練を受けた記者が「プロ」として書き、さらにデスクが手直しして、校閲がもう一度チェックするという、何段階ものプロセスを経て世に出ますよね。 その一方で個人がやっているブログなんてのは、思い込みだったり、勝手な意見を随分出していますよね。ネットの世界では、それが一緒にされている危険がものすごくあると思うんですよね。 確かにインターネットができて誰もが記者になれる。みんなが情報発信できる。それはその通りなんですけど、結果的に取材をし、事実関係を確認し、報道することの恐ろしさって、我々は知ってますよね。間違えたらどれだけ大変なことになるのか。でもネットしかやらない人はそういう怖さを知らないわけでしょ。結局、人違いになったりして名誉棄損で訴えられたりっていうことがたびたび起きている。こういう時こそまさに「プロの力」というのが、ネットの中でもとりわけ必要だと思うし、今まさに問われているんだと思います。 ただ、ネットの記事っていうのはPV(ページビュー)を稼いで広告料をとるわけでしょ。週刊誌と同じですよね。一定の購読料とは別になってます。今、話をしていてふと気がついたんですけど、そもそも紙媒体とは根本のビジネスモデルが異なるのがネットメディアですよね。 メディアの歴史をひもとけば、民放テレビが始まったとき、ラジオ局がテレビを始めたんです。ラジオこそが本流だと思っていた連中は当時、テレビには誰も行きたがらなかった。当時のエリートコースの連中がみんなラジオに残って、上の評価がめでたくなかったり、はぐれ者がテレビに行かされたんです。そういうエリートじゃない、いろんな連中がいたことによって、テレビは活性化していくんです。だから、今の紙媒体とネットメディアって、かつてのラジオとテレビの関係に近いのかなとも思います。 テレビが出てきたときに、映画界では映画俳優をテレビに一切出さないという「五社協定」というのがあって、東映とか日活とか、5社が協定をして、映画俳優は一切テレビに出なかったんです。そうやってテレビを困らせようとしたわけですが、テレビ局は仕方がないから、自分たちでテレビドラマの俳優を発掘した。そこからみるみるテレビドラマの人気者が誕生していった。 いつしか映画が没落していき、結局は映画俳優も「テレビに出してください」という流れに逆転するわけです。明暗を分けるというか、新しく主役が代わるという時は、そういうことが起きるんだろうと思う。今はネットのルールというか、作法というのか、そういうものがまだ成熟していない。でも、これからきっと成熟していくのだと思う。いや既存メディアこそ、そういうものを積極的につくっていく役回りを担う必要があると思います。既存メディアが進む未来とは既存メディアが進む未来とは ただ、ネットユーザーの中には、ネットにこそすべての正しい情報がある。マスゴミは信用できない。ネットには真実があるみたいに、本気で思い込んでいる連中がいる。困ったもんですよね。すべて同列にみえてしまうっていうところが怖いですよね。そこが、まさに既存メディアが苦戦、苦闘していることでもあります。その中から何かルールなり、作法が生まれてくる。それを作っていかなければいけないんだろうと思います。なかなか見えてこないですけど。それはひょっとして我々のような古い、オールドメディアの連中だから分からないのかもしれない。もしかしたら、物心ついたころからインターネットでずっと慣れ親しんできた人たちが、また新しいものをつくるのかなとも思います。(瀧誠四郎撮影) それでも、既存メディアの将来について一つだけ言えるとしたら、これから紙の新聞ってのは必ず減っていきます。この先も減り続けると思ってます。でも、絶対になくならない。必ずどこかで止まるんですよ。逆に、日本の新聞の発行部数が異常に多すぎる。産経さんは少ない少ないって言うけど、いま160万部もあるんでしょ? ニューヨークタイムズやワシントンポストってどのくらいです? 100万部ちょっとでしょ。ニューヨークタイムズ、ワシントンポストに比べれば産経新聞ははるかに多いんです。だから1千万部なんて言っている新聞があるけど、実際はもうちょっと少ないんでしょうけど、世界規模でみると日本は異常なんですよ、あれ。 実はこれまでが異常だった。本当に紙のものをある程度きちんと読んでくれる人のレベルって、こんなにたくさんいるわけないですから。そういう意味では減りますよ、日本中の新聞すべてが。朝日も産経もまだまだ減りますよ。でもどっかで止まるんだと思っています。ちゃんと手に取って読んでくれる良質な読者をどうやって抱えていくのか。そして、紙では読まないけれど、ネットでは読んでくれる人をどれだけ取り込むのか。理想をいえば、ネットでも重要な記事やコンテンツは課金する流れができたらもっといい。 課金に関しては、ニューヨークタイムズも成功しているわけでしょ。日本だと日経新聞がとりあえず成功している。金儲けの部分だけはうまくいっているわけです。産経新聞だって正式名称は「産業経済新聞」なんですよね。経済ネタだけは課金をするような形とか。うまいやり方は正直分かりませんけど、あるいは産経ならではの正論なり、主張なりという部分は「お金を出して読んでください」みたいなこともできる。利益は出なくても赤字にはならないで済むようなビジネスモデルを考える。持続可能なものとしてね。いまどこの新聞社もデジタル部門はトータルとして赤字なんじゃないですか? 今後、その赤字をどれだけ減らしていくのか、そこで利益を上げようとしても現時点ではとても無理ですから。より良いビジネスモデルを模索する時期なんだと思う。やっぱりメディアというのは、結局は読者がお金を出してでも読みたいと思う記事をどこまで出せるかに尽きる。いま、新聞を定期購読をしている人っていうのは、その多くが惰性で取っているでしょ。でも、数は減っているとはいえ、キヨスクでお金を出して買ってくれる人もいるわけです。110円を出して産経新聞を買っている人が必ずいる。そこには買った人が読みたいなと思う記事があるからですよね。個人的な意見ですが、近い将来、ネットメディアでも100円を出してでも読みたいっていう記事がもっと増えればいいなと思いますけどね。(聞き手 iRONNA編集長、白岩賢太/川畑希望)池上彰(いけがみ・あきら) 昭和25年、長野県生まれ。元NHK記者。平成6年から11年間「週刊こどもニュース」のお父さん役を務めた。17年にNHKを退局し、フリージャーナリストに。 東京工業大学リベラルアーツセンター教授。近著に佐藤優氏との共著『新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方』(文春新書)。関連記事■ 井沢元彦より 言葉の凶器を弄ぶ「朝日人」たちへ■ 百田尚樹より 朝日論説委員と記者の皆さんへ■ やはり「本質」に踏み込まなかった朝日新聞「第三者委員会」

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    「政治的公平」とかけ離れた偏向テレビが国民を惑わす

    述べてきました。 新聞だけではなく、国民に伝える役割の大きさはテレビも同じです。ただ、新聞とテレビはメディアの性格として決定的な違いがあることは踏まえておかなければなりません。それは新聞がそれぞれ独自の主張を掲げていいのに対し、テレビは「政治的な公平」が法律で義務づけられているということです。 しかし、私からみると、たとえばテレビ朝日の「報道ステーション」と、TBSの「NEWS23」、「サンデーモーニング」の内容は「政治的に公平か?」と感じるので、今回はとくにこの3つの番組を取り上げて、テレビの政治報道のあり方について考えたいと思います。 まず、報道ステーションは2014年5月20日の放送で、自民、公明両党の与党協議が始まったことを受けて、公明党の山口那津男代表をスタジオに招いてインタビューをしました。問題は質問の仕方と内容です。 山口氏は集団的自衛権行使についてはまださまざまな疑問点があり、「しっかりと議論していきたい」という内容の発言をしたのですが、キャスターの古舘伊知郎氏は「だとすると憲法解釈変更というのは無理で、やっぱり正面突破の憲法改正でいくという順序立てはないですか」、「公明党は徹底的に納得できないと戦う決意はおありですか」、「どうも流れが逆にきているので、山口さんも幹部の方も頑張っていただいて、自衛隊員が死ぬかもしれないということと(戦後の)70年間の重みというものを前面に出そうと、会議の中で言ったらどうですか」などと質問しました。 これらは明らかに「集団的自衛権行使のための憲法解釈変更には反対だ」という古舘氏自身のスタンスが打ち出されており、それを山口氏の発言で裏付けようとする意図が働いています。ましてや公明党に「頑張っていただいて」と発言するのは、キャスターとして「政治的に公平な伝え方」をしていると言えるでしょうか。 また、NEWS23は5月19日の放送で、アンカーの岸井成格・毎日新聞特別編集委員が集団的自衛権行使のための憲法解釈変更に向けた政治スケジュールを説明したのですが、その中で今夏に内閣改造が行われると見られていることについて「うがった言い方をすると、(自民党の)野田聖子さんなんかの総務会にも慎重論、反対論があるんですよね。それから閣議決定するには公明党の太田昭宏国土交通大臣をどうするか、彼が反対したらできない。そういうことも含めて人事が焦点になってくるということなんです」と解説しました。 夏の内閣改造が報道された直後から言いふるされてきたことで、ここで改めて解説することかと思ったのですが、「安倍首相は人事で反対論を封じ込めようとしている」と視聴者に印象づけたかったのでしょう。問題だと思ったのはこれに続く発言で、岸井氏は「だけども一番大事なことは、これだけ重要なことを何で一内閣の閣議決定だけで決めちゃうんですか。それでいいんですか。いまだになんで急ぐのか分からない」と述べました。つまり、安倍政権で集団的自衛権行使のための憲法解釈変更はやるべきではないと主張したわけです。 古舘氏の質問も岸井氏の解説も、明らかに政治の、それも国民の意見が分かれているテーマについて、一方的な立場からの主張をしています。問題はこうした放送内容がテレビのニュース番組で許されるのかということです。 というのは、テレビの放送内容は放送法という法律で規制されているからです。同法4条はテレビの放送内容について「政治的に公平であること」と、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」を定めています。公正・中立な放送が義務づけられているのはNHKだけでなく、民放も同じなのです。 新聞は誰でも発行しようと思えばできるので、憲法21条の表現の自由(報道の自由)に基づいて、それぞれの社が独自に政治的な主張を掲げることを認められています。これに対して、テレビやラジオは限られた電波を国から割り当てられた事業で、誰でも放送できるわけではありませんから、法律で報道の自由に一定の制約が課され、政治的な意図をもった主張は掲げてはいけないことになっているわけです。活字と映像・音声という受け手に与える影響の違いも背景にあります。 しかし、古舘氏の質問や岸井氏の解説は、こうした放送法の規定に沿って政治的に公平な内容と言えるでしょうか。私は明らかに逸脱していると感じます。 「選挙で特定の政党や候補を応援しているわけではなく、集団的自衛権行使という政策についての主張だから問題はない」というかもしれませんが、集団的自衛権の行使については報道各社の世論調査でも明らかなように、国民の意見は「賛成」と「反対」に分かれています。政党の意見も分かれており、どちらかの主張にたって放送することは、結果的に特定の政党を応援したり、批判したりすることになります。 また、世論調査の結果を見ると、「どちらか分からない」という国民が多いようですから、それこそテレビの報道に求められているのは、特定の主張を打ち出すことではなく、「できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」によって、国民に理解を深めてもらうことであるはずです。 そもそも報道ステーションとNEWS23の放送内容は、集団的自衛権に限らず、原発や特定秘密保護法、首相の靖国神社参拝など、国民の意見が分かれる問題について「政治的な公平」を保って伝えているとは思えない点が多々見受けられます。 その大きな要因は、報道ステーションがコメンテーター(月~木用)に恵村順一郎・朝日新聞論説委員、NEWS23がアンカーに岸井氏を起用していることにあります。政治のニュースについて、前段部分でいくら賛成、反対両論を紹介して中立的な報道をしたとしても、締めくくりでコメンテーターやアンカーが特定の主張をすれば、視聴者に強い影響を与えることになります。 私が見ている限り、恵村、岸井両氏のコメントは、多角的に論点を明確にするというより、それぞれの新聞社の主張に沿った内容であることが多いように思えます。新聞社はそれぞれの主張を持っているわけですから、特定の社の記者1人がコメントを述べればそうなるのは明らかで、そうした番組構成そのものに問題があるのではないでしょうか。 新聞社の記者をコメンテーターにするなら、政治的な公平を考えて複数にするとか、どうしても1人をコメンテーターにするなら、新聞記者ではなく、有識者らに中立的な立場から論点の明確化にとどめて論評してもらうといった手法をとるべきでしょう。 一方、ニュースではなく、ワイドショーではありますが、もうひとつテレビ番組で政治の放送内容に問題があると感じるのは、TBSの「サンデーモーニング」です。 5月18日の放送ではやはり集団的自衛権行使の問題が取り上げられたのですが、コメンテーターとして出演した河野洋平元衆院議長は「総理はわが国を取り巻く環境は厳しいとしきりにおっしゃる。地球儀外交と称して世界中を飛んで歩かれるが、一番肝心の中国と韓国にだけは行かない、話もしない。どれが危機なのかを話し合う必要があるのに、そういうことをしないでただ危機をあおって、憲法の解釈を変えるという突拍子もない提案をするというのは理解できない」と反対意見を述べました。 慰安婦問題に関する河野談話について一切語らない河野氏の事実誤認に満ちた能弁ぶりには唖然(あぜん)としましたが、それはいいとしましょう。問題は他のコメンテーターもそろって集団的自衛権行使反対の立場からコメントしたことです。 その日の放送に限ったことではありません。この番組には毎回6人程度のコメンテーターが出演しているのですが、政治問題では全員がほとんど同様のスタンスでコメントをしています。こうした放送は視聴者にそのコメント内容が多数意見で、正しいと感じさせてしまう懸念があります。ワイドショーも国民の意見が分かれている政治問題についてコメントしてもらう場合は、賛成、反対のバランスをとって出演者を考えるべきではないでしょうか。 テレビ局側には「権力が暴走しないようにチェックするという観点から、放送内容が政権に対して批判的になるのは当然」という思いがあるのかもしれません。しかし、そればかりが先行して放送内容が偏ってしまったら、本来あるべき「政治的な公平」に反します。間違っても「世論を特定の方向に誘導しよう」という意図があってはなりません。 日本の政治は今、さまざまな問題で答えを出さなければならない時を迎えており、国民もそれらをどう考え、どう判断すべきなのか迫られています。それだけにマスコミがどう伝えるかが重要なのです。国民的な議論を深め、日本があるべき方向に進むために、新聞は情緒論ではなく、しっかりした取材にもとづいて論理的な主張を展開すべきですし、テレビの報道は、視聴者が問題の本質を正確にとらえて自由な立場から考えられるように、公平で多角的な論点を提供すべきではないでしょうか。 今回取り上げた3つの番組の放送内容や構成には、特定の政治的な意図が反映されていることは明らかです。「この程度なら問題ないだろう」という判断なのかもしれませんが、「問題だ」と思っているのは私だけではなく、すでにそう感じている視聴者も少なくありません。 3つの番組に限りませんが、各テレビ局は難しい政治状況を迎えた今こそ、政治報道のあり方について考え直してみる必要があるのではないでしょうか。「民放の公共的使命達成」を目的としている「日本民間放送連盟(民放連)」も政治報道がどうあるべきか、改めて基準を検討してもらいたいと思います。(高橋昌之)

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    卑劣なプロパガンダ「サンモニ」の正体とは

     「馬鹿だ」。自分たちのずうずうしい街頭インタビューに足を止めて答えてくれた日本国民に言い放つテレビ番組がある。「東京オリンピックは辞退すべき」。五輪招致に喜ぶ日本の人々に向かって公共の電波で口角泡を飛ばしてプロパガンダするテレビ番組がある。 「日本のロケットはゴミになる」。打ち上げ成功に湧き立つ人々をあざ笑うテレビ局がある。それが、 「捏造の人民公社」として定評があるTBSの中でも最先端を行く紅衛兵、関口宏の「サンデーモーニング」である。  注目されないサンモニ 1987年の放送開始以来27年間、日曜の朝8時から放映されているTBS「サンデーモーニング」の放送内容は酷い。どれくらい酷いかというと、捏造・歪曲報道の代名詞として以前からよく批判されている、「NEWS23」に負けないぐらい酷い。  2008年に長年キャスターを務めた筑紫哲也が死去して以来、NEWS23の捏造・反日体質は相当に影を潜め、かつての「捏造のツートップ」であったサンデーモーニングは今や「捏造のトップバッター」と成り上がった。 ところが、サンデーモーニングはNews23に比べてあまり注目されて来なかった。今や5%さえ割っているほど凋落したNews23の視聴率であるが、全盛期は15パーセント近くをキープしていた。それに比べサンデーモーニングはほぼコンスタントに15%超を維持しているから、見ている人間の数で言えばサンデーモーニングの方が多く影響力も上のはずなのであるが、03年に例の石原発言テロップ捏造事件が発生するまでは、ほとんど取上げられることはなかった。現に私も、NEWS23の放送を毎日録画し捏造・ 反日度合いをチェックしまとめ上げた「天晴れ!筑紫哲也NEWS23」(文春新書)など、NEWS23について書いてくれとの依頼を受けたことは数限りなくあるが、サンデーモーニングについて書いてくれと 言われたことは、石原発言テロップ捏造事件まで一度もなかった。 日曜の朝8時という時間帯の関係上、視聴者は働き盛りの中年層よりも、子育てに忙しい壮年層や高齢のリタイア組が多かったものと思われる。しかも当時は現在と違い、ツイッター等のインターネットツールの普及も限定的で、例え捏造の事実に気付いても即座にそのことを全世界に向かって発信することは比較的難しかった。しかも、現在のようにHDDレコーダー等の手軽な録画手段が存在せず、かさばるビデオカセットに一々番組を録画し保存・管理せねばならなかった時代である。NEWS23とサンデーモーニングを毎回録画し、過去2年分のカセットを保存していた私のような物好きはそうはいなかったはずだ。 現在は、そうした技術的な進歩のおかげもあり、証拠を確認しにくいため困難であったテレビ番組批評も格段にやりやすくなった。サンデーモーニングも、捏造等のおかしな放送をした途端ユーチューブやニコニコ動画等の動画共有サイトにおいて証拠映像が広く流布される世の中になっているおかげで、毎回自分で録画をしなくてもある程度の番組批評が可能になっている。  しかし敵もさるもの、かつてのような好き放題の捏造・反日放送に邁進すべく、そうした行為を「違法」と決めつけ、金と労力をふんだんに投入し動画を削除させたり内容証明を送りつける等の言論弾圧活動に大忙しなのが、自称「報道のTBS」の実態である。本当に「国民の知る権利」 とやらを大切に考えているのであれば、自ら率先して過去の放送のアーカイブを公開する等いくらでもやれることがあるはずなのだが、何しろ自分たちに捏造・反日報道に賛同しない視聴者を公共の電波を使って「バカ」と誹謗中傷して憚らないような連中である。こんな邪悪な嘘つきどもに良識なんぞ求めるほうがバカというものだ。  サンモニの癒着体質 サンデーモーニングでは支那や北朝鮮の虐殺や独裁をスルーどころか時には応援しつつ、「日本の民主主義は終わった」「安倍独裁政治」などと罵ることが大好きである。しかし関口宏のサンデーモーニングに匹敵する異様な「独裁」「癒着」番組を私は知らない。 サンデーモーニングには、司会の関口以外にも、 レギュラーのゲストコメンテーターが毎回数名、 ローテーションで顔を連ねるが、なんとそうした「ゲスト」コメンテーターのほとんどは、比喩的な意味でなく文字通り司会関口宏の配下なのだ。  関口は、自ら社長として「タレントマネージメント、テレビ番組企画プロデュースなど」を主な業務 とする「株式会社三桂」(資本金一千万円、本社東京都港区南青山)を経営している。「ゲスト」コメンテーターの多くは、実はこの会社に所属しているのである。浅井信雄(国際政治学者)、浅井愼平(写真家)、中西哲生(元サッカー選手、スポーツジャーナリスト)、涌井雅之(桐蔭横浜大学教授)。レギュラーコメンテーターだけでもこれだけの人間が、関口の会社に所属しているのだ。 範囲を女性アシスタントと女性レポーターにまで広げると、その数はさらに増加する。TBSサンデーモーニングは文字通り、関口とその配下の私腹を肥やすための番組と化しているのである。 このような、他のニュース・報道番組に類を見ない異様な体制こそが、サンデーモーニングの異常と言って良い捏造・反日姿勢を決定付けているのだ。  ところで、サンデーモーニングの報道姿勢の一つに、政治家の世襲批判がある。09年4月26日の放送に至っては、関口が「ずーっと世襲の総理大臣」といつもの世襲批判だけでは飽き足らず、「よほどいい職業なんだなー」と羨んで見せている。そんな関口の父親は俳優の佐野周二であり、関口のドラマデビュー作「お嬢さんカンパイ」では、なんと父親と共演までしている。そればかりか息子の関口知宏も俳優であるうえ、関口の会社の社員でもあるのだ。俳優ってのはよほどいい職業なんだなー。  石原発言テロップ捏造事件 サンデーモーニングによる毎週繰り返されるこうした卑劣なプロパガンダには枚挙にいとまがないが、そうした個々の事例を見ていく前に、なぜこの番組がここまで異常な行為を飽きもせず繰り返すのか、その原因となる体質を探るのが適切であろう。 その際どうしても避けて通れないのが、03年に発生した石原発言テロップ捏造事件である。  事件の三年後にようやく石原との和解に至った際、関口の言い放ったコメントを見れば、彼に反省の意図があるのかどうかは大いに疑わざるを得ない。日頃他人の失敗にはヒステリックにまで厳しく、それどころか成功したことにまで「宇宙のゴミにまたなるの?っていう心配……。ねぇ?だって結構ゴミが多いんですよ。ねぇ?」などとこじつけて噛み付くことに何の躊躇もない関口であるが、自らの不祥事には甘いことこの上ない。06年6月25日の放送で何とこうのたまったのだ。 「(ミステロップが)出ちゃうときがありましてね。まぁそりゃ都知事には大変申し訳なかったとは思いますが」 素直に「都知事、申し訳ございませんでした」と謝罪することは、日頃他人を公共の電波で「馬鹿」だのなんだのと差別しまくる選民思想に凝り固まったこの男には、よほど困難なことであるようだ。  そもそも「石原発言テロップ捏造事件」がいかなるものであったか、インターネット上の百科事典ウィキペディアから引用してみよう。 「2003年11月2日の放送で、当時東京都知事の石原慎太郎の「私は日韓合併100%正当化するつもりはないが、(以下略)」という発言に「私は日韓合併100%正当化するつもりだ」という正反対のテロップをつけ、音声・映像もテロップに合わせるように 「…つもりは…」と切って編集し、放送した。コメンテーター達もその映像、テロップに沿って都知事を批判した。しかし一方では、後枠『サンデージャポン』では普通に「つもりはない」と、石原の発言を出していた(岸井成格はこの発言の翌日に石原と面会したと発言していたが、テロップミスに気付いていなかった)。翌週の番組内にこの放送に関しての謝罪があったが、あくまでも「テロップミス」に対する謝罪であり、意図的ともいえる編集、及びそれらに基づいてなされた都知事批判に対する謝罪はなかった」 付け加えると、この事件の前に石原の息子宏高が衆院選に出馬しており、事件が起きたのは「偶然にも」投票日7日前という実に反石原陣営にとって「都合の良い」タイミングであった。左がサンデーモーニングで流れたテロップ。右が直後に放送されたサンデージャポンで流れたテロップ  このウィキペディアの記述を普通に読めば、事件が単なるミスではなく悪意ある意図的なものであるか、サンデージャポンに比べてコメンテーターは不勉強なバカぞろいかのどちらかである。日頃からサンデーモーニングの異常さを観察している者から見れば、その両方である可能性も高いと言わざるを得ない。もっとも、人間誰でも間違いはあるのであるから、ミスに気づいたら素直に謝罪し訂正すれば済むことだ。しかしサンデーモーニング関係者には、自らのミスを改める意志など毛頭なく、隠蔽体質と居 直り強盗気質が染み付いていると見える。そうでないのであれば、翌04年3月7日に「風をよむ」のコーナーで、自らの「失敗」を差し置いて図々しくも「”失敗”から見えるもの…」などという特集は組めなかったはずだ。  それがどれほど厚顔無恥で自分の失敗を棚に上げた非道徳的な内容であったか、少し詳しく見ていこう。コーナーでは、雪印集団食中毒事件、動燃によるもんじゅナトリウム漏れビデオ編集事件当時世間を騒がせていた事件のいくつかが「隠す… 失敗 不適切な対応…」とおどろおどろしい字幕で紹介される。鳥インフルエンザの発生を隠蔽し被害を拡大させた養鶏場浅田農産もバッシングの対象だ。ちなみに浅田農産の経営者夫妻は、この放送の翌日に自殺している。 驚くべきことに、石原発言捏造についての謝罪は全く見られず、ひたすら他者の「失敗」のみをそれこそ死に追い込むまであげつらい、工学院大学教授畑村洋太郎を引っ張り出してきて「想像力の乏しさ、専門知識の不足」などと批判させ、街頭インタビューでは一般市民に「倫理観がおとろえているんじゃないですか?」などと言わせ、関口に至っては 「失敗は恥じだという感覚も強いでしょ、日本人ってねー」などと醜悪極まりない発言をしてコーナーは終わった。  ついでながら、放送日より十日ほど前の2月27日には、オウム真理教の麻原彰晃被告に死刑判決が下されていたが、わざわざこの時期に「隠す… 失敗 不適切な対応…」などと特集を組むのであれば、 坂本弁護士一家殺害事件のきっかけとなったTBSビデオ事件についての「隠す」「不適切な対応」も当然取り上げるのが、正常な感覚というものであろう。もっとも、自分たちの失敗を隠したくなるのは 人間の性であるから、私も「サンデーモーニングが自らの不祥事を反省するまでは他人の失敗を批判する資格などない」とまで言うつもりはない。しかし、他の時期ならともかく、死者まで出した自分たちの不祥事が関連するニュースが二つまでも存在するこの時期を狙ってわざわざ他人の失敗のみをあげつらう特集を組むような連中に、「邪悪」や「異常」以外の相応しい言葉をみつけることは難しい。関係者全員、精神科医の診断を受けるべきレベルであろう。