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    マスコミの罠にかかった自民党若手議員による勉強会

    番」、井上貴洋議員は「(マスコミの)スポンサーにならないこと」とコメント。さらに長尾敬議員が「沖縄のメディアは左翼勢力に完全に乗っ取られている」とすると、講師の百田氏は「沖縄の二つの新聞社は絶対つぶさなあかん。……沖縄のどっかの島でも中国にとられてしまえば目を覚ますはずだ」と答えた。 この辺はすでに報道されているので、どなたもご存じだろう。これについて、当然のことながらマスコミからは一斉の反発報道が展開された。言論の自由を弾圧するような言語道断の発言だ的な脈絡がそれだ。しかし、どうなんだろう?ここで議論されている「マスコミの現状」「現在のマスコミの本質」的なものについて、このメンバーのコメントは、その前提においては当たっていないこともないと考えることも可能だ(政治的なコメントについては、僕の立場からは全く容認できないことをお断りしておく)。そして、その構造それ自体が、今回の報道を生んでいるとも考えられる。「暴力団に『オマエは乱暴だ』と言ったら殴られた」的状況 そこで、今回はメディア論的に今回の勉強会を巡る構造を考えてみたい。衆院平和安全法制特別委員会で、自民党勉強会で相次いだ報道機関を批判する発言を野党側が厳しく追及。審議は一時中断した =26日午前、国会・衆院第1委員室(斎藤良雄撮影) まず、はじめにこの勉強会の出席者をヨイショしておこう。つまり、今回の議論について当たっている部分について評価してみよう。それは「マスコミがやっぱりどうしようもない状態にある」という認識だ。自らの視点からすれば都合のよい部分だけを報道し、そうでない部分は一切報道しないという認識。これは十分理解できる。そしてマスコミの「自らの視点」とは、煎じ詰めれば商業主義、つまり視聴率と発行部数、そしてリスク回避にたどり着く。その際の報道のポイントはスキャンダリズム。そのためには弱気をくじき、強気を助けることも厭わない。これに勉強会のメンバーは苛立ち、同様にこれに苛立っている百田氏を講師として招いたというわけだ。 ただし、この勉強会、きわめてマヌケなものであったことは否めないだろう。自らが批判する構造の中に入り込んで、その構造の餌食になっているのだから。たとえて言えば、暴力的な人間の前で「オマエは暴力的だ」と発言して殴られるようなものである。 つまり、こうだ。 前述したように、マスコミの基本的な立ち位置は、もはやスキャンダリズムとしよう。そしてそのことをこの勉強会メンバーが批判した。だが、それを、たとえ私的な勉強会といってもマスコミ報道に触れる形で開催される中で展開し、そこで「マスコミは広告収入がなくなるのが一番」だとか「マスコミのスポンサーにならないこと」なんて発言したら、そりゃ、スキャンダリズムの奴隷であるマスコミにとっては思う壺。一斉に報道して叩きはじめ、メディアイベント的にメディアを賑わすに決まっているし、事実、現在、これが物議を醸すに至っている。当然ながら、彼らはマスコミの餌食になってしまった。 もちろん、この勉強会ではそれ以外の内容も議論されたはず。だが、例によってそれらをマスコミが取り上げることはなかった。重要なのはスキャンダリズムだから、あたりまえだ。いつも通りのことをやられたのに過ぎない。つまり勉強会のメンバーは批判するマスコミの構造に従って自らが批判=バッシングされてしまったのである。その結果、会の代表で今回の勉強会を開催した木原稔青年局長はら一年間の役職停止処分を受けることになってしまった。何とも、お粗末と言わざるを得ない。墓穴を掘る百田氏の言い訳 百田氏はその後、「沖縄の新聞社はつぶすべき」的な発言をしたのは報道陣が退出し、一般には公開されない内輪の席での発言と弁明している。曰く、「飲み屋でしゃべっているようなもの」。ただし、声が大きいので外に丸聞こえになってしまい、それがマスコミの耳に入ったというわけだ。この弁明は「もう報道向けのものは終わったところで内輪話をやっているだけなので、それを報道するのは卑怯だ」というニュアンスだろうが、実はこれは自家撞着に陥っている。 そんなおおらかなジャーナリズムが通用したのは、もうとうの昔のこと(ただし、このおおらかさを利用して特ダネを取り出す辣腕記者がいたことも事実)。批判するマスコミは、しつこいようだが、今や先ずスキャンダリズムありき。それこそハイエナ的にスキャンダルになりそうなネタであればどんな手を使っても入手しようとする。ということは「内輪でやるので、これをネタにすべきではない」というモノノイイは通用しない。マスコミの構造を知っているのならば(あの批判からすれば知っていなければおかしい)、当然ながらこれに対する周到さがなければならないからだ。彼らはあまりに無防備。自分の言っていることが自分の身に降りかかってくることについての自覚がなかったのだ。他者への想像力の欠如は政治家の資質を疑わせる 国会議員、そして百田氏に共通する最大の欠点は「他者に対する想像力の欠如」だ。つまり、前述したように相手が暴力団とわかっていてケンカを売るような状況。だから批判した内容の形式に基づいて、彼らは一斉に批判=バッシングを受けてしまった。マスコミがこうやることがわかっているはずなのだから、この勉強会も完全にクローズドでやる、あるいはオープンでやる場合にはマスコミがどうやってこれを報道するのかを十分考えてからやらないといけない。 そして、こういった「他者に対する想像力の欠如」は、翻って政治家としての資質に疑問を投げかけるものとなる。この人たちはちゃんと国政が見通せているのか、有権者の意見を反映させる力があるのか……。今回の件は、それがないと言うことを「語るに落ちる」状態で証明してしまったことにならないだろうか。そして、そういった資質(「資質の無さ」という資質だが)が、結果として、今回の乱暴なコメントを生んでしまったともいえないだろうか? ちなみに百田氏だが、ま、これはこれでよろしいのではないか?彼は政治家ではないし、小説という「妄想(imagination)を芸術に昇華する」世界で生きているのだから(もちろん、政治の世界に入ってきてしまっては困るけれど。はからずも、今回はそういうことになってしまったので、というか最近はやたらと政治の世界にコミットメントしているので、ちょっと困るが)。問題は、これをことさらに登用する自民党だろう。ここにもまた他者への想像力の欠如が感じられる。物議系の百田氏を使えばどうなるかなんてことは、最初からわかっていなければならない。(ブログ「勝手にメディア社会論」より2015年6月28日分を転載)あらい かつや メディア研究者。関東学院大学文学部教授。ブログ「勝手にメディア社会論」を展開中。メディア論、記号論、社会心理学の立場から、現代のさまざまな問題を分析。アップル、ディズニー、バックパッカー、若者文化についての情報も。

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    慰安婦問題“虚偽情報”の流布 朝日の重大責任と「倒錯」

    可能性を示唆したと語っているが、総領事は真っ向から否定している。 記事の最後で、ゲルミス記者は「海外メディアへの外務省の攻撃は昨年あたりから、完全に異質なものになった。大好きな日本をけなしたと思われたくなかったので躊躇(ちゅうちょ)したが、安倍政権への最後のメッセージと思って筆をとった」と話したという。 朝日新聞は翌29日、この問題を「外務省の広報」「報道の自由を損なう」と社説で取り上げて、外務省を厳しく批判した。「メディア側に圧力と受け止められれば、対外広報としては失策だ」「いま起きているのは、外務省が率先して自国の印象を損なっているという倒錯である。根本的に考え直した方がいい」という。 連載第1回で述べた、欧米を中心とした日本研究家の認識のように、一旦流布してしまった慰安婦問題の虚偽情報は、容易なことでは修正されない。世界に流布してしまったのは、朝日新聞が吉田清治氏の虚偽証言など間違った報道を30年以上も放置し、外国、特に欧米のマスコミがそのまま広めてしまったからである。韓国による、対外宣伝も見逃せない。 しかし、問題はそれだけではない。その虚偽情報の拡散に対し、日本政府、具体的には外務省がそれを打ち消すための努力を、積極的にやってこなかったのも、極めて重要な原因である。 安倍政権の下で、遅まきながらも誤りを修正するための対外広報が始まったに過ぎないのだ。 朝日新聞は慰安婦問題の虚偽情報を流し、「率先して自国の印象を損なってきた」張本人である。本当なら、自ら外国マスコミの誤解と偏見を正す重大な責任があるのだ。しかし、朝日新聞は外務省の努力を真っ向から誹謗・批判する。驚くべき「倒錯」である。酒井信彦(さかい・のぶひこ) 元東京大学教授。1943年、神奈川県生まれ。70年3月、東大大学院人文科学研究科修士課程修了。同年4月、東大史料編纂所に勤務し、「大日本史料」(11編・10編)の編纂に従事する一方、アジアの民族問題などを中心に研究する。2006年3月、定年退職。現在、夕刊紙や月刊誌で記事やコラムを執筆する。著書に「虐日偽善に狂う朝日新聞」(日新報道)など。

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    左右両翼と闘う河合栄治郎の精神と朝日新聞の差

    平川祐弘(比較文化史家、東京大学名誉教授) 「教養主義者は嫌いだ!」 三島由紀夫が言い放った。1968年『批評』誌関係者の席でのことだ。その日は日沼倫太郎が三島の連載『太陽と鉄』を論じ「三島さん、あなたは死ぬべきだ」と思いつめたように叫ぶ。江藤淳主宰の『季刊芸術』の方が売れ行きがいい。そんな話も出ると三島は「江藤は才子だ」と言う。「それなら次号の『批評』は三島さんの責任編集で」と商売上手が提案すると三島が承知し散会した。大アジア主義にも冷静な目 小さくなっていた私は、自分が東大教養学部教養学科出身の教養学士だから、それで罵(ののし)られたかと錯覚した。だが、そんな私の履歴など三島が気にするはずがない。さては『批評』誌上で私が河合栄治郎(1891~1944年)を讃(たた)えたのが三島の癇(かん)にさわったのかと後になって気がついた。河合は「教養主義者」だからである。 だが戦前、自由主義のために戦った河合の「五・一五事件の批判」「二・二六事件の批判」は堂々たる論で、河合は東大教授の職を賭し、生命の危険をも顧みず軍部を批判した。しかし自決2年前の三島は『憂国』や『英霊の声』で二・二六事件で蹶起(けっき)した青年将校を描き、その心情に乗り移ろうとしていた。そんな三島は「教養主義者は嫌いだ」ったのだろう。 だが私は河合を尊敬する。白人の圧迫からアジア民族を解放しようという青年将校の間に強かった大アジア主義にふれて、『批評』にこんな河合の冷静な言葉を私は引いた。1月5日、記者会見する朝日新聞社の渡辺雅隆社長=東京都中央区(大西正純撮影) 「アジア諸国は独立を回復することを熱望することは確かである。然(しか)し日本の力を借りることには賛成しまい。何故(なぜ)なれば英米の宣伝により日本を誤解している点もあろうが、日本の過去の外交史が彼等(かれら)に疑惑を抱かしめるからである。英米を排して日本を代わりに引き込むならば、彼等は寧(むし)ろ英米の方を選ぶだろう。何故なれば日本の内部に於(おい)て同胞に対してさえ充分(じゅうぶん)の自由を与えていないのに、その日本から外国は充分なる自由を与えられることを期待しえないからであり、又(また)英米にはたとえ不徹底なりとも自由主義的思想が浸潤している。異民族を統御するに就いて彼等は日本人よりも妙諦を解しているからである。アジアの諸国に於ける日本の信用をば、吾々は決して過超評価してはならない」真の自由主義者の系譜 河合は昭和初年、プロレタリア独裁を肯定する左翼共産主義が盛んとなるやそれを批判した。が満州事変以後、青年将校が暴発し右翼国家主義が台頭するや今度は軍部専横を批判した。真の自由主義者は今でもそうだが、左右両面の敵と戦わねばならない。河合研究会で丸山真男が河合の衣鉢を継ぐ学者だと武田清子が言うから私は真っ向から反論した。右翼には手厳しいが左翼には甘い男が河合の思想的系譜に連なるはずはない。 河合は首相暗殺をはじめとする軍人の直接行動を敢然と否定した。なぜならそれは「国民と外国との軍に対する信用を傷つけ…軍人が政治を左右する結果は、国民の中には、戦争が果して必至の運命によるか、或(あるい)は一部軍人の何らかの為(ため)にする結果かと云(い)う疑惑を生ずるであろう」。しかし当時のマスコミは犬養首相を殺害した「純粋な」青年将校を「昭和維新の志士」と称揚した。暗殺者は死刑にもならず、日本は滅びた。思想の自由守り続けた粕谷 大学を追われた河合は自己の思想信条を懸け裁判に臨んだ。弁明は学術論文のごとく見事である。一旦は無罪となるが結局は敗訴する。だが日本は一党専制のナチス・ドイツや共産国とは違う。河合は罰金刑で戦争中も河合の学生叢書(そうしょ)は広く読まれた。私の姉は『学生と生活』を昭和14年に、兄は『学生と教養』を19年に古本で求めている。その年に河合は満53で早世した。生きていれば敗戦後は首相に推されただろう。私は戦後『学生に与う』を読み、溌剌(はつらつ)とした精気と明るさに驚いた。とても苦境に立たされた人の文章とは思えない。私は河合が説く「友情」や「自我」の言葉に酔いしれた。 1960年、マスコミは一斉に「安保反対」を叫び、国会包囲のデモ参加者を「純粋な」学生と称揚した。そんな時、まだ30代の粕谷一希(1930~2014年)は事態を冷静に見ていた。粕谷は『中央公論』の編集長に抜擢(ばってき)されるや周囲の突き上げにもかかわらず思想の自由を守り続ける。その勇気に私は感心した。後年、粕谷が評伝『河合栄治郎』(1983年)を書くに及んで合点した。粕谷も若くして河合を読み、闘う自由主義者の系譜に連なったのである。この夏死去したが編集者として後世に名をとどめるだろう。 では朝日の慰安婦検証記事の関係者はどうか。「朝日撤稿」は中国紙でも先日大きく報ぜられた。それなのに、若宮啓文氏は「朝日の報道によって国際世論に火が付いたという批判はおかしい」(文芸春秋10月号)とまだ言い張っている。こんな朝日の前主筆も後世に名をとどめるだろう。ただしその悪名によって。

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    国防を「悪玉視」して貶め続けた朝日 偏向の大罪

    権の暴挙を、跳ね返すことができるかどうか。 国会論戦に臨む野党ばかりではない。草の根の異議申し立てやメディアも含めた、日本の民主主義そのものが、いま、ここから問われる》 戦争にならないよう抑止力を高める。そのために集団的自衛権行使容認を閣議決定したのだ。抑止力を高めれば、わが国への侵略意図を未然に挫くことにつながる。“他国の戦争に加担する”ためでは断じてない。わが国と国民の生命を守るためなのだ。そういう論理を頭から全否定して始まる朝日新聞の報道こそむしろ“暴挙”ではないのか。 産経新聞は『「積極的平和」へ大転換』と大見出しをつけ、『首相「今後50年 日本は安全だ」』と題した記事で、閣議決定の目的を正確に伝えた。主張も《戦後日本の国の守りが、ようやくあるべき国家の姿に近づいたといえよう》と切り出し《反対意見には、行使容認を「戦争への道」と結びつけたものも多かったが、これはおかしい。厳しい安全保障環境に目をつむり、抑止力が働かない現状を放置することはできない》と書いた。わが国をとりまく安全保障環境は劇的に変化している。それに間断なく対処せねばならない。防衛体制に不備があれば当然それは是正する責任がある。 読売新聞も『集団的自衛権 限定容認』と、閣議決定内容を正確に伝え、田中隆之政治部長の『真に国民を守るとは』と題した記事があった。 《今回の見解にあるように一国では平和を守れない。日本が集団的自衛権を限定的に認め、対米連携を深めることが不可欠だ。それこそが真に国民を守る手段となる。時代にそぐわない憲法解釈を安倍首相が正したことは高く評価できる》 閣議決定の目的と主旨を正確に伝えている。社説でも《今回の解釈変更は、内閣が持つ公権的解釈権に基づく…いずれも憲法の三権分立に沿った対応であり、「立憲主義に反する」との批判は理解し難い》として解釈変更に何の問題もないと指摘している。 しかし、朝日新聞は、こうした冷静な報道を一顧だにしない。社会面に『不戦 叫び続ける』と題した記事を掲載、若者の「びびってます」とか元兵士の「限定的でも引きずり込まれる」といった声をちりばめて『列島 抗議のうねり』と牽強付会にあおるのだ。 日本列島が反対一色であるかのような記事だが、福井市のJR福井駅前での“市民団体”の呼びかけに応じて集まったのは、わずか「30人」だったらしい。これのどこが『列島 抗議のうねり』なのだろう? 日本列島が抗議のうねりに呑みこまる状況など一体どこに存在したのだろう。空自ヘリと取材ヘリ、ニアミスしたのは…平成19年空自ニアミスの報道 これだけではない。平成19年4月9日の朝刊ではこんな見出しが躍った。空自ヘリ、ニアミス墜落機の救助中 NHK取材ヘリと 見出しの横には『墜落機の救助中 NHK取材ヘリと』とある。ということは、墜落機の救助中の空自ヘリが取材中のNHKヘリに近づきすぎてニアミスを起こしたということになる。ところが本文を読んでみると… 《空自ヘリが遭難地点に侵入するために左旋回したところ、相手ヘリが右に旋回して急速に接近した》 つまり“相手ヘリ”が、空自ヘリに異常接近したのであって空自ヘリがニアミスをおかしたのではなかったのだ。本来この記事の見出しは、『NHK取材ヘリ、ニアミス』とすべきだろう。あたかも空自ヘリがNHKヘリにニアミスしたと読者が錯覚するような見出しを付けているのだ。NHKヘリはなぜか「相手ヘリ」として社名を隠し、空自ヘリを際立たせているところにも自衛隊への悪意が垣間見える。 しかもこの事故の隣には 持ち出し、イージス艦中枢情報も という見出しの海上自衛隊の情報漏えい事件の記事が併記されている。読者は「なんだ、航空自衛隊も不祥事をおこしたのか!」と瞬時に連想してしまう。実に巧妙な印象操作だと言わざるを得ないのだ。 そもそもこの遭難事故は、平成19年3月30日に鹿児島県徳之島で発生した救急患者の緊急空輸のため、那覇基地を飛び立った陸上自衛隊第101飛行隊(現・第15飛行隊)の大型輸送ヘリコプターCH47JAが徳之島の天城岳山中に激突して機長以下4名の隊員が殉職した痛ましい航空機事故があって、このとき陸自機の捜索・救難にあたったのが、同じ那覇基地にある航空自衛隊の那覇救難隊の救難ヘリUH60Jだったのである。 いずれにせよこの“ニアミス事故”なるものの非は、NHKの取材ヘリにある。朝日新聞の自衛隊を貶めようとする意図を感じざるを得ない。海自「おおすみ」と釣り船衝突 平成26年1月15日、瀬戸内海の広島沖を航行中の海上自衛隊輸送艦「おおすみ」に釣り船が衝突して釣り船の船長と乗客の2名が死亡するという海難事故が発生した。海上自衛隊輸送艦「おおすみ」と転覆した釣り船(手前右)=2014年1月15日午前、広島沖(本社ヘリから、山田哲司撮影) この事故を取り扱った読売新聞の見出しはこうだ。 衝突、同方向に航行中海自艦と釣り船 重体の船長死亡 ところが朝日新聞の見出しはこうなっている。 回避行動の状況調査へ 海自艦衝突 追い越す船に「義務」 海自艦と釣り船が衝突したのに、表記されているのはなぜか海自艦だけだ。これではまるで海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」に責任がある印象を読者に与えかねない。 この記事のリードも問題である。 《一方、安倍政権は過去に起きた自衛艦の事故の苦い経験を踏まえ、影響を最小限にとどめようと迅速な対応をアピールした》 書き手の悪意がにじみ出たおかしな書きぶりである。そもそも“迅速な対応”は褒められこそすれ、揶揄されることではないからである。逆に、対応が遅ければ、厳しく非難される。迅速に対応すると今度は「影響を最小限にとどめようとアピールした」。ここから安倍政権を叩いてやろういう魂胆が行間から読み取れる。始末に負えない書きぶりだ。 平成12年9月に石原慎太郎都知事(当時)の旗振りで実施された陸海空自衛隊を動員した災害派遣訓練“ビッグレスキュー”を取り扱った朝日新聞のいやみな批判記事は今も忘れられない。 一面には装甲戦闘車両の写真の下に『銀座上空に対戦車ヘリ』の見出しが躍り、銀座上空に物騒な対戦車ヘリが飛んできて軍事訓練したかのような記事となっている。 さらに社会面だ。『迷彩服だらけの首都防災訓練』と『大通り装甲車堂々』と見出しがあって『憂いあり』。いずれも白抜きの大きな文字だ。いったい何に対して、どんな憂いがあるというのだろうか? 誇大妄想も甚だしい。東京都の総合防災訓練。都営大江戸線による自衛隊部隊集結訓練で、地下鉄に乗り込んだ自衛隊員ら=2000年9月3日 迷彩服は自衛隊の制服だ。いったい何が問題なのか。装甲車は大通りを堂々と走行してはいけないのか。装甲車は人目をはばかるように移動せよというのか。 おまけに『憂いあり』の文字の下には『「治安出動」批判派デモ』なる小さな記事がぶら下がっている。自衛隊を動員した都心での災害派遣訓練がどうして「治安出動」に結び付けられて批判されなければならないのか。 どうも朝日新聞の記事には、読者を自らの偏った政治主張や特定イデオロギーに引きずり込もうとするいかがわしいトラップが随所に仕掛けられていると言わざるを得ない。気の毒なのは正確な事実が伝えられず公正な判断ができない読者である。海自「あたご」と漁船の衝突事故 コラムもやりたい放題である。 平成20年2月19日におきた海上自衛隊イージス艦「あたご」と漁船が衝突した海難事故について、平成20年3月3日の「ポリティカにっぽん」と題するコラムで、朝日新聞コラムニストの早野透氏はこう書いている。 《石破茂防衛相が「ハイテクの極致」とたたえるイージス艦、ハワイのミサイル防衛の訓練に疲れ、艦長が居眠りしている間に千分の一の「親子船」を撃沈してしまうとは!》 「艦長が居眠りしていた」などと、まるで任務中にコックリコックリと居眠り運転していたかのように書いている。だが、そもそも艦長は交代で就寝中だったのであって、訓練に疲れたせいでオペレーション中にうっかり居眠りしたのではない。艦長は、航海長に艦の運航の指揮を委任しており、就寝したことは何ら問題ではないのだ。「訓練に疲れ」という言葉が付け加えられ、これに続けて「居眠り」とある。これでは間違いなく誤解を誘発する書きぶりだ。 「親子船」という無条件に国民の同情を誘う言葉を使う一方で、自衛隊には「撃沈」なる言葉を使うのも首を傾げてしまう。そもそも「撃沈」とは、相手を沈める意図があって砲撃や雷撃・爆撃などの攻撃で沈没させることだ。イージス艦「あたご」に漁船を沈める意図など微塵もない。撃沈では決してないのだ。これはほとんど“捏造”の域といっていい。自衛隊の事故なら何を言っても構わないという空気に乗じたゆゆしきコラムである。中国国防費に対する記事も酷かった中国国防費めぐる報道 2010年(平成22年)の中国国防費に対する記事も酷かった。読売新聞(平成22年3月4日)はこんな見出しだ。中国国防費7・5%増2けた伸び21年止まり 開発費除外か これが朝日新聞になるとどうなるか。中国国防費 伸び鈍化10年は7・5% 22年ぶり1ケタ このニュースで読者に伝えなければならない最重要ポイントは、中国の国防費がこの年もまた7・5%も増えた客観的事実で次に兵器の開発費が除外されている可能性だ。これまで20年以上にわたって続いてきた国防費の前年度比2けたの伸び率が2010年は1けただったことは、単なる参考データでしかない。その意味で読売新聞の見出しは、このニュースの伝えるべきポイントを要領よくおさえている。 一方の朝日新聞は、参考データに過ぎない国防費の伸び率が1けただったことをまず強調し『中国国防費 伸び鈍化』と大見出しで『22年ぶり1ケタ』とアピールし、読者に、あたかも中国の軍拡がスローダウンしたかのような印象を与える記事となっている。 最も肝心な前年度比7・5%もの非常に高い国防費の増額については、『10年は7・5%』とだけ記載し、「増」の文字がない。これでは「7・5%」という数字が意味するところがよくわからないのだ。朝日新聞は「7・5%もの増額」という大幅な増額を巧みにごまかしたのである。ちなみにこの年のSACO関係費を除いた日本の防衛費は前年度比0・4%減だった。いかに中国の7・5%という伸び率が驚異的であるか。おわかりいただけよう。自衛隊と韓国軍のイラク派遣報道 自衛隊がイラクに派遣されたさいも朝日新聞は批判を繰り返した。平成19年5月16日の社説はこう述べた。 《英国ではブレア首相が世論の批判から退陣に追い込まれた。ブッシュ大統領も、米軍の期限付き撤退を条件とする予算案や決議を議会から突き付けられた。支持率は最低水準に低迷している。 そんな中で、日本では自衛隊の派遣延長がすんなりと国会を通っていく。これといった総括や反省もないままに、大義に欠ける、誤った米国の政策に参画し続ける。なんとも異様と言うよりない》 最後はこう結んだ。《政府はすみやかに自衛隊を撤収し、イラク支援を根本から練り直すべきだ》 ところが朝日新聞はこの同じ年の1月31日付の紙面で、イラク北部に派遣された韓国軍に対しては『復興支援 韓国がっちり』という見出しをつけ、こう言っているのだ。 《治安悪化で泥沼化するイラクで、唯一安全といえる北部クルド地域に2300人の部隊を駐留させる韓国が、軍と政府機関による復興事業を着々と進め、地元の信頼を勝ち得ている。すでに民間企業も進出するなど、治安の問題から南部サマワで十分な復興支援ができなかった日本との差を際立させている》 ちょっと待てよ!といいたい。あなた方は「大義に欠ける、誤った米国の政策に参画し続けている」と日本を批判したのではなかったか。なぜ韓国だけは“異様”でないのか。これは明らかにダブルスタンダードである。矛盾していることに自ら気づかないのだろうか。 記事には、『安全バックに事業次々』という小見出しがあった。 《韓国の民間人スタッフは全員、韓国軍基地内に居住。町へ買い物やレストランでの食事にも出かけるが、現地で雇った武装警護員を必ずつける。 さらに韓国軍も復興事業として学校54カ所、診療所11カ所、井戸200カ所を建設。基地内で開く自動車修理、コンピュータ技術から菓子料理までそろえた職業訓練コースは、月給110ドルがもらえる上、軍の送迎付きとあって市民に大評判だ。各地でテコンドークラブが作られ、韓国兵らが指導に当たっている。 ハウラミ・スレイマニア商工会議所会頭(32)は「韓国には本当に感謝している。投資促進にも非常に前向きだ。我々は先に来てくれた人を大切にしたい」と話す》 なぜ自衛隊と韓国軍のイラク派遣に対する評価がこうも違うのか。彼らの偏向こそ“異様”であり“異常”である。 朝日新聞は、イラクで自衛隊がどこの国の軍隊よりも歓迎され、そして感謝されていたことを知らないのだろうか。自衛隊はイラク南部サマワで病院や学校の建設、加えて橋や道路の整備を行なって地元イラクの人々からいたく感謝され、地元住民らによる自衛隊への感謝の意を表するためのデモ行進まで起きている。また自衛隊の撤収時には、地元住民が、自衛隊との別れを惜しんで涙したなどという感動のエピソードもある。朝日新聞はそんな数々の話をまったく耳にしたことがないのだろうか。否である。実は朝日新聞はこうした事実を知っているはずだ。なぜ書かないか。自衛隊を利するから書かなかったと私は考えている。海自イージス艦派遣めぐる報道 防衛報道、自衛隊報道における朝日新聞の恣意について述べてきた。最後に私自身の経験を話そう。かつて筆者は謝罪文を朝日新聞から書面で受け取ったことがあるからだ。 平成13年11月23日付の朝日新聞(西部本社発行版)に筆者のインタヴューコメントが掲載された。これは、世界を震撼させた9・11テロに端を発する対テロ戦争で海上自衛隊補給艦による多国籍軍艦艇へのインド洋上での燃料補給任務の護衛に海自イージス艦を派遣させるかどうかの問題が持ち上がったことへの筆者のコメントだった。 朝日新聞はわざわざ佐世保支局からインタヴューを取りに来た。私は記者に、相当時間を割いて海自イージス艦派遣の意義と問題点などを説明し、この記者もよく理解して帰っていった。筆者の主張の要旨はこうだった。 「洋上補給は、補給艦と受給艦が長時間真っ直ぐ並走せねばならず、そんなときに脅威が迫っても迅速な回避行動がとれない。そのため脅威をできるだけ遠くで発見しなければならず、したがって広域の上空および洋上監視ができるイージス艦がこの任務に最適である。 だがそもそもイージス艦の派遣がなぜ問題になるのか。国は、国家の命令によってインド洋に派遣される海上自衛隊の補給艦を全力を挙げて守らねばならないのだから、そのために必要なら、イージス艦であろうとなんであろうと必要な艦艇や航空機を総動員してでも守るべきだ。にもかかわらず派遣を命じた側の国会議員の中に、日本がイージス艦を派遣すると周辺諸国に脅威を与えるのではないかとか、集団的自衛権の行使はできないなどと言っている者もいるようだが、まず政府は、派遣される自衛官の命を守るために万策を講じることを最優先に考えるべきだ」 限られた字数に収めるため、掲載記事内容について記者と電話で文言や字数の調整などを繰り返した。短くなったが着地点を見出して私も納得した。ところが翌朝の新聞を見て仰天してしまった。 私のコメントは、『実績優先し 派遣迷走』という記事の中で、こう短く取り扱われていた。 《安全保障分野を得意とするジャーナリストの井上和彦氏(38)は、今回の派遣論議に自衛官の安全を考えた立場からの議論がなかったと批判する》 これではイージス艦の派遣に賛成なのか反対なのかすらわからない。ただ「批判」という最後の言葉の印象が強いため、反対しているようにも受けとれる。 私は猛然と抗議した。 その結果、次のような謝罪文が送られてきたのだった。 《先日は、ご多忙の中、取材に応じていただき、ありがとうございました。23日付、西部本社発行版(九州・山口)の第3社会面で掲載された記事の中に、井上様との取材の一部を使わせてもらいました。本紙を郵送させてもらいます。 編集の関係で短い扱いとなり、井上様のご意見を十分にくめなかった点があることは、否めません。お時間を取って頂きながら、ご不満を抱かれたことに、お詫び申し上げたいと思います。 今後とも、安全保障分野で取材をお願いすることもあると思います。こちらも、より細心の注意を払うようにします。今後ともよろしくお願いいたします》 私のコメントが朝日新聞の編集方針にそぐわず、最終段階でコメントの核心部分を外し、都合よくつなぎ合わせたのだろう。いずれにせよ、私の言いたかったことは闇に葬り去られたのだ。いのうえ・かずひこ 昭和38(1963)年、滋賀県生まれ。法政大学社会学部卒業。軍事・安全保障・外交問題などをテーマとしたテレビ番組のキャスター&コメンテーターを務める。著書に『東日本大震災秘録 自衛隊かく闘えり』(双葉社)『日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争』(産経新聞出版)など多数。関連記事■ 立憲主義を破壊する…わけがない解釈変更■ 朝日新聞、「角度つき」安全保障報道の系譜■ 「重く受け止めて」ないじゃないか! 驚愕の朝日・慰安婦社説

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    野党や一部メディアの安保論議は平和ボケにしか聞こえない

    に審議入りした。安倍晋三首相が、国民の生命と財産を守るための法制整備を訴えているのに対し、野党や一部メディアは「自衛隊のリスクが高まる」「戦争法案だ」などと批判している。米紙ニューヨーク・タイムズや、英紙フィナンシャル・タイムズの東京支局長を歴任した、英国人ジャーナリスト、ヘンリー・S・ストークス氏が、疑問点や問題点を語った。 クエーカー教徒である私は「平和主義者」だ。しかし、国家の平和や安定、国民の生命と財産を守るには、軍隊が必要だと思っている。軍隊は国家の独立を維持し、他国の侵害を抑止し、外交力を補完し、国内政情を安定化させる。国家存立の危機に、命を賭して任務を全うする軍人の存在はやはり欠かせない。 そうした観点からいうと、野党幹部や一部メディアによる「自衛隊のリスクが高まる」といった批判や指摘は、私には平和ボケにしか聞こえない。日本を取り巻く安全保障環境は激変しており、一般国民にリスクが波及する恐れがあるから、自衛隊に新たな役割が与えられるのである。 そして、「戦争法案」といったレッテル貼りは、自国の安全保障という極めて重大な問題を話し合う、国会の議論の基盤を壊す行為といえる。レッテル貼りをする政治家やジャーナリストは、活動家や扇動家に近いのではないか。平成24年2月、国連平和維持活動(PKO)のために到着した陸上自衛隊施設部隊の隊員らを、南スーダンの与党の副幹事長らが出迎えた=ジュバ(早坂洋祐撮影) 東シナ海や南シナ海の現状をよく見るべきだ。中国は1990年代以降、国防費を毎年10%前後増加させている。いまや、沖縄県・尖閣諸島の周辺海域には、中国艦船が連日侵入しており、日本の生命線である「シーレーン」も危うくなっている。中国や北朝鮮は日本向けに数百発のミサイルを配備しているとされる。 英国の軍人もそうだが、日本の自衛官も任官に当たっては「危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえる」といった宣誓をしている。国民や国家の危機にはリスクを恐れない。それが軍人である。 私は英国のボーディング・スクール(全寮制の寄宿学校)で学んだ。徹底した少人数制のもと、文武両道、厳しい全人教育をたたき込まれた。敷地内には、国家のために命を捧げた先輩たちの「忠魂碑」があり、その前を通る際は、脱帽して最敬礼していた。忠魂碑には「キャリー・オン」(後に続け)と刻まれていた。崇高な精神に続けということだ。 国会での議論を聞いていると、70年前の敗戦によって、日本人は「自国を守る」「国民の生命と財産を守る」といった独立主権国家としての気概を失ってしまったのではないかと感じてしまう。 ただ、私は知っている。4年前の東日本大震災で、数多くの自衛官や警察官、消防隊員らが、自らの危険を顧みず、被災者の救助・救出や、原発事故の対応に当たったことを。そして、彼らを「日本のために、被災者のために頑張ってください」と言って送り出した家族がいたことを。現場で体を張っている人々にこそ、日本人の精神が宿っているのだと感じた。 震災時、日本の政治は機能不全を起こしていた。現在の安全保障の議論を見ていると、危機が目の前に迫っているのに、永田町の住人だけが「井の中の蛙」で、時代の変化から取り残されている気がしてならない。 (取材・構成 藤田裕行)関連記事■ 左翼メディアよ、そんなに集団的自衛権が憎いのか■ 政治学者が考える憲法論議 政争の具ではいけない■ 文官が総理より偉い? 懲りずに安倍政権を中傷するメディア

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    アベさまのNHKへ変質か 首相の「早く質問しろよ」ヤジ黙殺

    のニュースヘッドラインをチェックしている」(官邸筋)といわれる。 政府スポークスマンとして世の動きやメディアがどんなニュースを重視するかを見るのは当然だろうが、実際は安保法制をめぐるNHKの忠犬ぶりに朝からテンションが上がって仕方ないのだろう。 国民の受信料で運営される「みなさまのNHK」の報道が、“アベさまのNHK”へと変質している。5月26日の衆院本会議の安保法制の代表質問をテレビ中継せずに批判されたのは序ノ口だった。衆院平和安全法制特別委で、民主党の辻元清美氏の質問中にやじを飛ばす安倍首相=5月28日午後 安保法制の国会審議が本格化した5月28日と29日、『おはよう日本』に不思議な報道があった。国会では連日論戦が行なわれているのに、最新の質疑の映像を使わず2日間とも同じ映像を使って安保法制の“ニュース”を流したのだ。 1日目(28日朝)は〈「後方支援」国会審議の焦点に〉のヘッドラインで、政府が周辺事態法を重要影響事態法に改正し、自衛隊による後方支援について地理的制約をなくそうとしていることを報じた。使われたのは前日(27日)の岡田克也・民主党代表の質問映像だ。岡田「もっと近くまで行ってやりたいのだけど、できなかったという意味なのか。だから『非戦闘地域』という概念を取り外し、現に戦闘が行なわれていない地域であればできるように変えたということか」安倍「現実の安全保障環境に即した合理的かつ柔軟な仕組みに整理し直した。活動に参加する自衛隊員のリスクを高めることは考えていない」──という論戦を報じた。 ところが、翌日(29日朝)の同番組でも〈安保法制 対立点浮き彫りに〉と題し、「おととい」というクレジット入りで同じ27日の岡田氏と安倍晋三・首相の質疑応答を流し、「対立点が浮き彫りになってきた」と“再放送”したのである。NHKは「28日」の国会質疑をスルーした。なぜか。 その日に起きたのが、安倍首相が辻元清美・民主党代議士に「早く質問しろよ!」とヤジを飛ばして国会が紛糾した“総理の品格”事件だった。 民放は当日のうちに首相のヤジを報じたが、NHKは当日夜の『ニュース7』『ニュースウオッチ9』で黙殺したうえ、翌朝はわざわざ古い映像を使って首相の失点を隠蔽したのである。 しかも、この日の安保法制のヘッドラインの順番は、「今いくよさん死去」より下に置かれ、「視聴者に安保法制の国会紛糾に関心を持たせたくない」と思っているような構成だった。 NHKが首相のヤジをようやく報じたのは29日に国会審議がストップしてからだ。さすがにその原因を報じないわけにはいかなくなったためだが、ヤジについては谷垣禎一・自民党幹事長の「挑発上手な人もいるので、挑発に乗らないように」という発言でしっかりフォローした。 一方で、国会で首相が非を認めて謝罪(6月1日)したことは当日の『ニュース7』でも、翌朝の『おはよう日本』でも報じなかった。視聴者の中には野党に非があると思い込んだ人もいただろう。関連記事■ SAPIO人気連載・業田良家4コママンガ【1/2】「集団的自衛権」■ 安保法案 官邸が想定する強行採決タイムリミットは6月19日■ 憲法改正へ向け安倍ブレーンが「公明党との連立解消」進言か■ 安保法案 成立の最大の障害は中谷防衛相の存在と官邸は懸念■ 防衛大卒業生25人が任官拒否 安保法制によるリスクも影響か

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    安保法制論議のカラ騒ぎ

    「戦争に巻き込まれる」「憲法を守れ」。安全保障関連法案に対するばかげた意見が世論をにぎわしている。文官統制も安保法制も十把一からげの護憲派マスコミに、「昔の名前」の面々が批判会見する唐突感。

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    参考人全員「違憲」は改憲へのチャンスである

    に対して「違憲」としたことが話題となっている。とりわけ、与党側が招致した学者が「違憲」としたことは各メディアにおいて大きく報道され、与党内にも衝撃が走ったそうだ。これを受けて、安保関連法案の改正に反対する護憲派や左派系マスコミは「憲法学者の声を無視するのか」「長谷部教授(与党側が招致した早稲田大学法学学術院教授)はよくやった」などと述べ、この法案の廃案に向けた動きを強めている。衆院憲法審査会に出席した参考人の(左から)早稲田大の長谷部恭男教授、慶応大の小林節名誉教授、早稲田大の笹田栄司教授=6月4日午前 普段、「学歴や職業で人を区別するのはよくない!」と叫び、原発問題の際には「専門家や大学教授を絶対視してはいけない!」と語る人々やマスコミが、「憲法学者」という権威に頼っている姿は何とも滑稽である。また、自分たちが招致した憲法学者が「違憲」の述べたことを大げさに騒ぎ立てる与党も情けないと思う。 私は、今回の事件をきっかけに与野党は、堂々と憲法改正の議論を行うべきであると思う。この法案における大きな問題は、憲法9条と矛盾し、我が国の安全保障の根幹を変えるような話題にも関わらず、これを解釈と法律のみで変えるということである。また、自衛隊がいつ、どこまでの実力を行使できるのかについての議論もまだまだ不十分であることも問題だ。こうした応急処置的で中途半端な議論で終わっては、この法案が目的としている安全保障の強化がむしろ後退してしまうのではないかと私は危惧する。 このようなことを防ぐためにも、「ネトウヨ」や「戦争法案」などと情けないレッテル貼りで終わるのではなく、堂々と改憲議論を行い、論戦を繰り広げることが我が国の安全保障と発展に向けた道になるはずだ。参考人全員「違憲」の騒動を改憲へのチャンスにできるかは、今後の改憲派の実力にかかっている。関連記事■ 左翼メディアよ、そんなに集団的自衛権が憎いのか■ 政治学者が考える憲法論議 政争の具ではいけない■ 文官が総理より偉い? 懲りずに安倍政権を中傷するメディア

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    朝日新聞、「角度つき」安全保障報道の系譜

    佐瀬昌盛(防衛大学校名誉教授)朝鮮戦争はじまる 昭和25年6月25日、突如として朝鮮戦争が勃発した。朝鮮半島ではその二年前、南で大韓民国の樹立宣言があり(8月15日)、後を追うように北に朝鮮民主主義人民共和国が誕生していた(9月8日)。日本の敗戦後、半島の北はソ連が、南は米軍が占領したが、それぞれに政権が生まれたので両占領軍はほどなく撤退していった。あとに残されたのは両大国による力の空白状態だった。 追いかけるように昭和30年1月、アチソン米国務長官が極東の安全保障環境に関する演説を行ない、西太平洋における米国の防衛線に言及した。それはアリューシャン列島、日本、沖縄、フィリピンを結ぶ線だとされた。その西方の朝鮮半島は、米軍に関する限り力の空白地帯となるわけだった。1950年6月の朝鮮戦争勃発直後、金浦空軍基地に到着したダグラス・マッカーサー元帥を迎える李承晩・韓国初代大統領(右) 同じ頃、欧州に向けてのワシントンの関心は全く違っていた。大戦が終結しても、東欧一帯を「解放」したソ連軍は撤退するどころか、東欧各国に順次、親ソ政権を樹立していった。逆に米軍はナチス・ドイツを打倒したあと、大西洋の彼方へと撤退した。つまり、冷戦の予感は米国には働いていなかった。国際連合が誕生し、その中核となる安全保障理事会では米、ソ、英、仏、中の五大国が――拒否権はもったものの――国際の平和のため協調していけると信じたのである。 ところがモスクワのこの一方的行動を前にトルーマン米大統領は有名な「ドクトリン」を発表(昭和22年3月12日)、西欧を「力の空白」地帯とはしない方針を明示した。冷戦のはじまりである。欧州と極東に対する米国の安保関心には注目すべきタイム・ラグがあった。と言うのも、アチソン演説を修正して、ワシントンが朝鮮半島にコミットするには、北による南の攻撃とそれがもたらした衝撃という高い授業料を払わなければならなかったからだ。 朝鮮半島での戦乱勃発は、日本統治の全権を有したに等しいマッカーサー元帥とGHQにとって大衝撃となる。わが国を占領していた在日米軍は急拠、仁川に上陸作戦を展開する。そしてソウルを目指して北上していった。では日本はどうなるのか。こんどはわが国が力の空白地帯化する懸念がでてきた。その空白を日本自身によって埋める必要はないのか。 欧州での冷戦開始、朝鮮半島への熱戦勃発、そして日本の安保問題という玉突き現象の結果、マッカーサー総司令部と吉田茂政権とは厄介な難題に直面する。米国の日本統治は民主化、非軍事化、非集中化の3D政策を追求してきたのだが、いまや二番目のDは変更を迫られる。そのうえ、日本政府はワシントンの朝鮮半島への反攻を支援しなければならない。それはどういう形で行なわれたか。 やや誇張して言えば、出撃する米軍のため臨時の軍需工場の役割を引き受けることだった。いわゆる「朝鮮特需」である。その一端を私ははからずも目撃した。当時、私は奈良市に住んでいたが、越境入学して大阪の住吉高校に通った。毎朝乗る近鉄線で布施駅近くを走る車窓から見ると、沿線近くの町工場の敷地に多数の砲弾がピカピカと輝いて並べられていた。聞くところによると、朝鮮戦争で米軍が使用するための下請け生産ということなので、妙な気がした。平和憲法を叩き込まれた高校生にとっては忘れ難い光景である。なんとなく「他人の不幸、鴨の味」といった感じだった。「国家警察予備隊」を創設せよ「国家警察予備隊」を創設せよ わが国の自衛隊の前々身たる警察予備隊は、朝鮮戦争なくしては生まれなかった。朝鮮動乱が始まってからちょうど2週間目の7月8日、日本占領の最高司令官たるマッカーサー元帥から一通の書簡が吉田茂首相に届けられた。それは「日本警察の増強に関する書簡」と題されており、7万5千人の「国家警察予備隊」の創設と海上保安庁定員の8千名増員を「許可」する、となっていた。 政府部内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。弱体だった警察力の強化こそ総司令部に求めていたものの、マッカーサー書簡が「許可」してきたのはそれとは違う。「許可」という形式になってはいたものの、その実態は「命令」であった。逆らうことはできない。真意を問い合わせた日本政府が得た説明は、国家警察予備隊とは従来の警察とは全く別組織の総理大臣直属の警察隊であり、事変、暴動などに備えて治安確保に当るものだから、機動力を備え、装備としては隊員にカービン銃を持たせるし、将来的には大砲や戦車も保有することになろう、というものだった。 問題はわが国の報道界がこれをどう扱かったかである。GHQは厳しい検閲制を敷いていた。日本に進駐してきた米軍は45年9月12日に新聞・ラジオの検閲を始めた、と「読売報知」(当時)が報じた(「読売」に改称されたのは後年)。それがあまりに厳格であったため、日本の新聞は畏縮した。「長い物には巻かれろ」だった。 この風潮の下、各紙の報道は大同小異の趣を呈するに至る。「朝日」の紙面も例外ではなかった。たゞ同紙の場合、他紙に先駆けて検閲のパンチを喰らった。9月20日の1面には次のような「社告」が掲載された。当時の事情を知るうえで興味深いので、全文を示す。〈朝日新聞東京本社はマックアーサー最高司令官の命令により本日十五、十六、十七日附掲載記事中マックアーサー司令部指示の新聞記事取締方針第一項「眞實に反し又は公安を害すべき事項を掲載せざること」に違反したものありとの理由によつて十八日午後四時より廿日午後四時まで新聞発行の停止を受けた。よつて十九日附および二十日附本紙は休刊の止むなきに至つたが、二十一日附は特に四頁に増頁して三日間における記事、寫眞を収載しました。 右御諒承願ひます。 昭和二十年九月廿日朝日新聞東京本社〉(表記は原文のまま) 一体どうして「朝日」はマッカーサーの逆鱗に触れてしまったのか。この件は同紙にとってのトラウマとなった。そのことは1995年7月に編纂された大部の「朝日新聞社史」から読みとれる。また、「朝日文庫」収録の「新聞と『昭和』」、上巻(2013年8月刊)にもこの「社告」の件が出てくる。つまり、同紙にとっては忘れ難い事件なのだろう。GHQが問題にしたのは9月15日付で掲載された鳩山一郎講話であった。鳩山は、米国が「正義は力なり」を標榜するのなら、「原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであろう」と語っていた。 検閲に引っかかったもう一つの記事は、翌々日の9月17日に掲載され、「求めたい軍の釈明/“比島の暴行”発表へ国民の声」と見出しが付けられていた。この見出しから記事内容を推定することは困難だろうから説明すると、日本進駐後の米軍兵士が各地で起こした暴行事件と大戦中に日本軍がフィリピンでみせた暴虐行為とを同列に論じることへの疑問を述べたものである。一方は平時、他方は戦時であったことを考えるならば、「朝日」記事の言い分にはもっともなところがあった。 のちに『閉された言語空間――占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋刊)を発表した江藤淳氏は、問題視された記事は後年首相となった石橋湛山が東洋経済新報社社長・主幹時代に書いたものだ、と詳しく考証している。いずれにせよ、GHQの高飛車の前に『朝日』は恭順の意を表するほかなかった。泣く子と地頭には勝てない。先掲の「社告」は敗戦国ジャーナリズムの屈辱の記念碑とも呼ぶべきものであった。 いずれにせよ、マッカーサー元帥の威光は絶対だった。それをいや応なしに日本人に教えたのは9月29日付の全国紙各紙に掲載された一枚の写真である。『朝日』はそれを「天皇陛下、マックアーサー元帥御訪問」と題して1面トップに掲げた。2日前の27日に昭和天皇はモーニング姿で元帥を米大使館に訪問された。迎えたマッカーサーは開襟の日常服、手を腰に回した悠然たるポーズで新聞写真を撮らせたのである。この写真は後年さまざまな出版物に繰り返し転載されたから、戦後報道写真中で最もよく知られた一枚だろう。日本国民に敗者の悲哀を味あわせたものとして、これを凌ぐ写真はあるまい。 回顧趣味に耽るのをやめて、先を急ごう。欧州での東西冷戦と日本での国内冷戦欧州での東西冷戦と日本での国内冷戦 米国には朝鮮戦争勃発の予感が働いていなかった。それだけにショックが大きく、対日占領政策は徐々にではなく、急激に右旋回した。日本はそれに振り回される。しかし同じころ、もうひとつの敗戦国であるドイツでは事情が違った。ここでは対ドイツ戦勝四国は東西に分かれて対立しはじめてからすでに久しかった。ヒトラーに対して勝利した英国の戦時指導者ウインストン・チャーチルが野党党首として訪米、ヨーロッパの東西の間に「鉄のカーテン」が降りたと有名なフルトン演説を行なったのは、欧州での大戦終結から数えてわずか10ヵ月後のことである。それは冷戦の告知となった。 東西冷戦の主要舞台となったのは、戦勝四国たる米英仏ソが分割占領したドイツである。東欧圏に順次、共産政権を擁立したスターリンは、ソ連占領地帯である東独地域にも類似の親共政権を持ち込んだ。かくて戦時大同盟は雲散霧消し、ドイツは東西冷戦の主戦場となってゆく。その過程を少し辿ってみることは、1940年代後半のわが国の問題を考えるうえで大いに参考になる。 ソ連が占領した東独ではモスクワの命令で、一九四九年秋になると軍隊類似の「待機警察」が設置されていたことが判明する。これが誘い水となり、西独でも軍備是非論が台頭する。1950年6月の朝鮮戦争の勃発よりかなり早い。当時の日本の新聞を繰ってみると、ヨーロッパでの、なかんずくドイツをめぐる冷戦機運については熱心に報道していたことが分かる。 同じ敗戦国たる日本とドイツを比較して気付くのは、欧州ないしドイツでの冷戦は東西両体制間に見られた現象であったのに対し、日本でのそれはいわば国内で戦われたという事実である。日本のこの国内冷戦を戦ったのは第一義的には国会に議席をもつ左右の政治勢力であった。なかで保守陣営では戦時中の因縁もはたらいていくつかの勢力の離合集散が絶えなかったが、左翼陣営の事情はさほど複雑ではなかった。要するに社会党と共産党の二系列があるということで説明がついた。 では報道界ではどうだったか。政党新聞は別として一般の新聞が自紙の党派性を否定するのは当り前のことである。一般読者を対象とするからだ。『朝日新聞』も例外ではなかった。1952年制定で今日なお生きている「綱領」は全体で四項から成っているが、その第一項はこうである。「一、不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す」。問題は、この綱領が制定された時期である。それは敗戦から7年目、まさに朝鮮戦争がきっかけとなってワシントンでは、軍事的に丸裸の日本を再軍備させるべきではないかとの議論が強まりつつある季節のことだった。『朝日』をはじめ新聞の多くが神経質そうに米国内の日本再軍備必要論をあれこれ報道していた。 それより先、1950年6月下旬には大統領により対日講和問題担当特使に任令されていたジョン・フォスター・ダレスが訪日、マッカーサー元帥との意見調整を始めていた。 まさにその機を捕えて「ダレス顧問に訴える」と題する社説が『朝日』に掲載された(6月25日付)。同紙はいう。 敗戦日本は完全に非武装化された。その日本の安全保障の方式としては国連に委ねる道もあれば、国連に代る「連合諸国」による保障など、いくつか考えられる。そのすべてが検討されるべきであるが、その結果としての選択を知りたい。それが示される場合、「日本が戦後決意しかつ連合諸国が希望して来たこの完全非武装の国は、はじめてその生き得る道を見出すことができる。それとは反対に、非武装地帯が、例えばある一国との盟約による武装によって守られるならば、事態は全く別の方向に走り出すであろう。我々はその意味で、この『完全非武装国の国際規約』の設定こそ、日本問題の解決のカギであることを唱道してきた」。『朝日』の願望表明はなお続く。「我々は、米国のもつ国際正義と高き理想主義が、何よりもまずこれをもって対日講和の第一原理として、連合諸国に呼びかけることを真剣に希望したい。我々は、それがまた、当面の東西緊張に緩和をもたらす一契機となることを疑わないのである」。 要するに『朝日』は、日本に引き続き非武装国家の道を歩み続けさせてほしいと訴えたのである。ひいてはそれが東西冷戦を緩和する一助になるのだから、との論理だった。各界からのダレス特使に向けられた要望は多種多彩であった。新聞各紙もさまざまな期待や注文を表明していた。しかし、「非武装国家の道を引続き歩ませてほしい」と要望したのは『朝日』一紙であった。 この社説は、「中立」を選ばせてほしいとは述べていなかった。もし「非武装」に加えて「中立」願望までもが表明されていたならば、それは当時の日本社会党内の左派勢力の声そのものだったはずである。その後の歩みを眺めるならば、社会党左派的な「非武装中立」論がいかに現実感覚を欠いていたかは明白だった。が、『朝日』もそれに劣らず非現実的な希望的観測に身を委ねていた。事実の規範性事実の規範性 1950年7月8日、マッカーサー元帥は吉田首相に書簡を送った。いわゆる警察予備隊の設置を命じるものである。『朝日』は即刻号外を出した。全文は以下のとおり。 国警七萬五千増員/マ元帥 吉田首相へ書簡 マックアーサー元帥は八日朝、吉田首相に書簡を送り国内警察力および海上警備力の充実を指令し、日本に国家警察予備隊約七万五千を設けることを許可した。なお現在の日本の警官総数は十二万五千名で、そのうち国家警察官は三万名である。 念のために言うと、この号外は縮刷版には収録されていない。正規の紙面ではなく号外だからである。私は通常、縮刷版を活用するが、念のためにデータベースを検索していてこの号外を発見した。驚いた。そこには「…を許可した」とあるが、本当の意味合いは「…を命じた」にほかならない。それにしても警察予備隊設置命令が号外扱いで報じられた事実は、それが如何に大ニュースであったかを雄弁に物語っている。 蜂の巣をつついたような騒ぎがはじまった。喧騒をきわめた新聞報道を紹介するかわりに、その後の経過をここでは昭和三六年に防衛庁から刊行された大部の「自衛隊十年史」に語らせよう。その冒頭「第一節 警察予備隊の創設準備」は、こう始まっている。総司令部を出るマッカーサー=1950年10月「二五年七月八日マ元帥の書簡を受領した政府は、この機会をとらえて早急にその実現を図ることとし、(中略)新しく設置される警察予備隊の性格が明らかでないこと、ことに従来の警察との関係についての疑問点を中心に、政府の意見を具して総司令部側と数回にわたって協議を重ね、その意向を十分に確かめた」(傍点引用者)。 傍点個所は意味深長である。不意討ちをくらった世間では号外騒ぎがもち上がっていたが、政府は待ってましたとばかり、「この機会をとらえ」たのだった。突発した朝鮮戦争で在日米軍が韓国へ派遣されたため、日本政府は治安の悪化を懸念し、警察力の増員を求めてGHQに打診していた。ところがマッカーサー元帥が命じてきたのは普通の警察力増強ではなかった。しかもその数たるや7万5000! 政府は度重ねて総司令部と協議、その結果、警察予備隊は従来の警察とは異なり、全組織が総理大臣直属の警官隊であること、またその使命は必要に応じ随時随所に出動し、治安確保のため重点的に運用されるものであることなどを確認した。自分たちが望んだものとはあまりにも違う。政府は喜んでいいのか、悲しんでいいのか。 これが、警察予備隊誕生にまつわる秘話である。ほどなく隊員募集が始まる。全国津々浦々に隊員募集のポスターが張り出される。そこには「平和日本はあなたを求めている」とのキャッチフレーズの下に鳩が羽ばたいていた。応募者採用試験は8月17日に全国一斉に行われたが、「募集期間がきわめて短期間であったにもかかわらず、予想以上の志願者が殺到した。すなわち、第一日においてすでに採用者の半数に近い応募者があり、締切当日には七万五〇〇〇人に対し約五倍にのぼる三八万二〇〇三名の応募者があった」(先掲「自衛隊十年史」)。『朝日』とてこの好評に目をつむることはできない。募集開始の2日後、「予備隊員の選考に慎重なれ」との社説が掲げられた。その出だしの一文はこうである。「警察予備隊の応募状況はすこぶる好評で、すでに二十万を突破し、全国各管区では第一次採用試験が始まっている」。なのに慎重な選考が必要だとはどういうわけか。ここで憲法九条が登場してくる。いわく、「終戦後、陸海空全軍隊が解体され、新憲法第九條に『陸海空その他の戦力は、これを保持しない』と宣言している建前からいって、日本が今日陸海空の軍備を保有しえないことはいうまでもない。」 募集を始めてはみたものの、志願者は少ないだろうと『朝日』は読みたかったらしい。ところが、結果は逆だった。事実の規範性が教えるところ、日本社会は警察予備隊員募集を歓迎したのである。それでも同紙はまだ半信半疑だったとみえる。右の社説掲載からほどなく、9月20日の紙面には「講和條約をどう思う?」と題して世論調査結果が発表された。そこに表われた国民の反応を『朝日』は信じたくなかっただろう。「日本も講和条約ができて独立国になったのだから、自分の力で自分の国を守るために、軍隊を作らねばならぬ」という意見があります。――そう前置をして、回答を求めた。結果はこうであった。 賛成    71% 反対    16% わからない 13% また、「もし軍隊をつくるとしたらあなたは志願兵制度と徴兵制度のどちらがよいと思われますか?」との設問もあった。志願兵制をよしとする声は五五%、徴兵制がよいとの答は二四%だった。ここでも軍配がどちらに上げられていたかは明白である。国民の大半が警察予備隊の発足を是認し、それが志願兵制であるべきだと考えていることは、疑いの余地がなかった。朝鮮戦争勃発後の日本国民の不安心理を『朝日』は完全に読み誤まっていたのである。これが最初のボタンのかけ違えだった。そのため、後年に高い授業料を払わされることになる。 しかし、ことあるごと読者にお説教したがるこの新聞は、他面で当時の全能者ともいうべきマッカーサー元帥に対しては信じ難いほど従順であった。同元帥は誇り高く、かつ野心的な将軍だった。やがてそれが仇となり、朝鮮戦争をどう進めるかでこの政治的軍人はトルーマン大統領と衝突する。それが原因で解任される。させ・まさもり 昭和9(1934)年、大連生まれ。東大大学院国際関係論専攻修士課程修了。ベルリン自由大学に留学後、東大教養学部助手、成蹊大助教授をへて防衛大学校教授。著書に『虚報はこうしてつくられた――核情報をめぐる虚と実』(力富書房)、『むしろ素人の方がよい――防衛庁長官・坂田道太が成し遂げた政策の大転換』(新潮選書)など多数。産経新聞社「国民の憲法」起草委員会委員。

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    立憲主義を破壊する…わけがない解釈変更

    えき・けいし 昭和24(1949)年生まれ。東大大学院経済学研究科博士課程単位取得。関連記事■ 左翼メディアよ、そんなに集団的自衛権が憎いのか■ 政治学者が考える憲法論議 政争の具ではいけない■ 文官が総理より偉い? 懲りずに安倍政権を中傷するメディア

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    集団的自衛権閣議決定 NHKの放送時間は政府側の言動に偏重

     NHKは、5月30日、中谷元・防衛相がシンガポールで開かれたアジア安全保障会議で南沙諸島の埋め立てなど海洋進出を活発化させている中国を批判する演説を行ない、カーター米国防長官が同調したことを時間をかけて報じ、「政府の進める安保法制を実現することが重要」と印象づけた。 しかし、同会議の基調演説では、開催国であるシンガポールのリー・シェンロン首相が「日中韓は戦争の過去を乗り越える必要がある」と厳しい注文をつけ、特に日本に対しては「過去の過ちを認識し、国民は右翼学者や政治家の極端な歴史解釈を拒否すべき」「慰安婦や南京事件に対する態度がはっきりしない」などと述べた。衆院平和安全法制特別委員会で書類を見ながら話し込む安倍晋三首相(右)と中谷元防衛相 そうしたアジア諸国の安倍政権への批判的な見方もしっかり伝えてこそ不偏不党の報道姿勢のはずだが、NHKは政権に都合の悪い話を完全に無視したのである。 NHK報道の偏向を計量的に分析した人物がいる。元NHKディレクターの戸崎賢二氏は昨年7月に政府が集団的自衛権行使を閣議決定するまでの『ニュースウオッチ9』を分析し、首相や政府側の言動が放送時間(167分)の約7割を占め、反対派の市民や識者の言動はわずか77秒しか報じられなかったと指摘した。戸崎氏が語る。「今のNHKは安倍首相の失点になる報道はカットする傾向が一段と強まっている。ヤジ問題以外にも、首相は共産党との党首討論でポツダム宣言について質問され、『つまびらかに読んではおりません』と答弁した。日本のリーダーが戦争責任を語るときにポツダム宣言をよく読んでいないというのは相当な問題発言だが、当日の『ニュースウオッチ9』ではそれも取り上げなかった」

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    フジテレビ、低視聴率の苦悩

    かつて視聴率三冠王の名を欲しいままにしたフジテレビの視聴率低下に歯止めがかからない。その原因は何なのか? 元フジテレビ解説委員の安倍宏行氏が「古巣」復活のカギを探る。

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    『フジテレビの視聴率低下は「8チャンネル」のせい』論を考察する

    った3つの理由■ 植村隆君、木村伊量君のようなやり方はいい加減やめなさい■ あの日を境に変わった私のメディア認識

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    テレビ番組の現場スタッフがBPOを過剰に恐れる理由

     政権、スポンサー、芸能事務所など、テレビ局はさまざまなタブーに配慮し、その顔色を窺いながら番組づくりを行っている。そのなかでも、現場の番組スタッフたちがいま、一番恐れているのは何か。 彼らの多くは「BPO」だと口を揃える。名前だけはよく聞くこの組織、一体なぜそんなに恐れられているのか。 BPO(放送倫理・番組向上機構)は、NHKと民放各社からなる民放連(日本民間放送連盟)が出資して2003年にできた任意団体で、「放送への苦情や放送倫理上の問題に対し、自主的に、独立した第三者の立場から迅速・的確に対応し、正確な放送と放送倫理の高揚に寄与することを目的」(BPO規約第3条)としている。NHK「クローズアップ現代」の問題で、BPOへの申し立て後に記者会見する男性(手前)=4月21日午後、大阪市 視聴者からの苦情や、取材対象者らによる人権侵害の申し立てをもとに、それぞれ10人程度の有識者からなる3つの委員会で番組について検証を行い、意見や要望などを通達する。ただし、これらには強制力がなく、テレビ局がそれをもとに独自に判断するだけだ。 しかし、このBPOをいま、テレビ局は過剰なまでに気にしているという。キー局の情報番組スタッフはこう話す。「BPOは検証のうえで『問題なし』とするケースも多いんですが、番組側は『BPOに申し立て』というニュースが報じられること自体を気にするようになっています。 ワイドショーや情報番組は主婦層がメインの視聴者になるので、スポンサーも保険会社や洗剤、化粧品などイメージ重視の企業が多い。そういった会社は、実は視聴率よりも番組イメージのほうにうるさい。『BPOに申し立て』と報じられると、それだけで番組イメージが損なわれるので、スポンサーが嫌がるんです。しばらく経って『問題なし』という結果だったとしても、それは新聞には小さくしか載りませんから。 だから、いまは『速報よりもウラ取り』が合言葉になっていて、視聴率が取れるスクープネタよりも、BPOで問題にされないように確実にウラ取りができる安全なネタが優先されるわけです」 テレビでは、BPOで審議されないように、先回りして問題になりそうな表現や演出を自主規制することが増えている。『ガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ系)がBPOで審議入りした際、ダウンタウンの松本人志は、「規制がなかったらアカンとは思うが、サービス精神からちょっとはみ出してしまうことをなしにしてしまうと、テレビは毒にも薬にもならなくなる」と危機感を示した。 ワイドショーのスタッフはこう言う。「ゴーストライター問題を起こした佐村河内守さんが、自身をネタにした『IPPONグランプリ』(フジテレビ系)についてBPOに人権侵害を申し立てたり、女子中学生とLINEして問題になった大阪府議が、『スッキリ!!』(日本テレビ系)でテリー伊藤に『キモい』と言われたことに申し立てしたり、批判される側がBPOを使ってそれを止めようとする傾向があり、番組側もそれを少なからず気にして歯止めをかけてしまいます」関連記事■フジTV・安藤優子の降板説広がる理由 夫の人事異動も関係か■フジ『グッディ』低迷 『ミヤネ屋』関係者笑い安藤降板説も■マスコミが騒ぎすぎなニュース1位■大河『花燃ゆ』 3人脚本家体制で主人公キャラ毎回変わる迷走■TV局トップが安倍氏と会食の理由 面倒臭いから付き合うだけ

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    「視聴率が取れないテレビ番組」でも放送される理由

    、明日の朝、考えることにしよう。・・・そんな毎日を繰り返しているテレビマンは筆者だけではあるまい。(メディアゴンより転載)関連記事■ 当たり前のことを言える時代 風向き変わり萎縮する左派言論人■ 古賀さんの降板に私が「もったいない」とつぶやいた理由■ 地方紙はローカルニュースだけでよい

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    ライバル『ミヤネ屋』に惨敗…『グッディ』主婦層にウケない訳

    ンを食っている。おかげで宮根さんの軽妙さがかえって目立つようになった。 焦った安藤さんは宣伝のため各メディアに露出を増やしているが、効果は現われていません。局内では早くも安藤さんの降板が囁かれ始めている」

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    テレビドラマを見ない大学生の「背伸び」しないライフスタイル

    藤本貴之(東洋大学総合情報学部准教授、メディア学者)「満遍なく見られていない」という事実 先日、筆者の研究室では大学生650人を対象に、現在キー局地上波で週1回放送されている連続テレビドラマ25番組の視聴回数を調査した(東洋大学・藤本貴之研究室調べ:http://mediagong.jp/?p=9828)。 視聴率では把握しづらい大学生の現実的な「視聴回数」の実数から、大学生のテレビの視聴傾向を「テレビドラマ」を通して分析するために実施した調査。しかし、「一週間でテレビドラマを一度も見ていない」と回答した大学生がおよそ6割にも達した。 視聴ランキングも順位こそつけられるが、その差も「誤差の範囲」といっても良い程度にしかついていなかった。いわば、「満遍なく見られていない」という事実が露呈したかたちだ。 本来の調査目的とは異なり、結果として、視聴傾向や分析ができるようなデータになっていないほどに「視聴されていない」という結果になってしまったように思う。 もちろん、男女比のばらつきや、大学生という限定的な世代を対象とした調査であることを考慮すれば、必ずしも我が国のテレビドラマの視聴傾向全体を示しているわけではない。ドラマの主要な視聴層である「女性」すなわち、女子大生をより多く対象としていれば、結果も少しは変わったかもしれない。 しかしながら、それらを考慮した上でも、圧倒的に「テレビドラマ」が見られていないという事実に変わりはない。「憧れ」を生み出したトレンディドラマ かつて、若者たちの流行や消費、価値観に大きな影響を与えてきたテレビドラマ。そこで扱われる商品や振る舞い、あるいは言動やファッション、時には住まいや人間観にまで、その影響は及んでいたはずなのに、だ。その面影は今回の調査からは垣間見えなかった。 トレンディドラマ華やかりし頃の90年前後を象徴するヒットドラマの数々は、それがそのまま若者たちのライフスタイルや消費生活・価値観形成と重なっていた。若者層をターゲットにしたテレビドラマこそ、当時の若者たちを「憧れの職業」「憧れの生活」を生み出し、それが「憧れの消費」という背伸びをさせていたわけだ。 そう考えれば、現在の日本のテレビドラマが大学生にほとんど視聴されていないという現実は、「テレビ離れ」といった、若者達のメディアへの接触傾向の変化という単純な評論には止まらない大きな問題を秘めている。 つまり、流行が生まれない、新しい文化が浸透しない。結果として、高度な消費が誘発されない、若者消費の衰退を加速させているように思うからだ。 もちろん、情報番組やバラエティ番組で美味しいスイーツや若者に人気のファストファッションが紹介され、それがちょっとした「行列」やブームになることはある。しかし、かつてのテレビドラマが作り出したような若者達に牽引される大きな消費にはつながらない。 トレンディドラマ世代であれば、荒唐無稽なライフスタイルに憧れる若者達が、多くの「高度な消費」を生んできた。20代で都会の高級高層マンションに住む、毎日違ったブランドスーツで通勤する、仕事帰りにいつもの仲間と高級バーでカクテルを飲む、彼氏がスポーツカーでデートに迎えに来る・・・。 このような所得と年齢、職業的実体を無視したライフスタイルは、テレビドラマというフィクションの世界であるからこそ成立していた。そして、子供が「ウルトラマン」に憧れるように、ドラマの中のライフスタイルに若者達が本気で憧れていたからこそ、高度な消費が誘因されていたのである。背伸びをしなくなった若者たち かつて、伝説のAV監督といわれた山下浩司(バクシーシ山下)氏は、次のように述べた。 (雑誌)『JJ』を読むこと自体がAVギャルへの第一歩なんですよ。物欲を煽るだけ煽って。手に入れる方法は買うしかないわけだから。そうすると金が必要になってくるわけで、そこでみんなAVギャルになっちゃうわけですよ。「私も女優にしてください」太田出版 1997 煽られた物欲とそこで成立するライフスタイル。そしてそこに対する「憧れ」こそが、判断を誤らせるほどの消費を若者の中に生み出してゆく。その是非はさておき、今日の若者達に、そこまでの強い物欲や消費欲、それを叶えようとする原動力となる「憧れ」は薄い。 つまり、若者達が背伸びをしないのだ。背伸びをする対象となるイメージ、背伸びの参考となる教科書を読まないのだから当然だ。 韓流カルチャーが、ドラマ「冬のソナタ」(韓国で2002年、日本では2003年放送)のヒットを契機として、急速に日本で受容され浸透していったように、私たちのライフスタイルの中に浸透しやすいテレビドラマのような身近で生活に密着したコンテンツから、文化そのものの受容へとつながる事例は少なくない。 逆に言えば、テレビドラマが見られなくなる、という現実は、そのようなドラマなどのコンテンツに付随していた高度な消費のチャンスが失われる、ということをも意味しているように思う。 もちろん、テレビ離れはドラマだけの話ではない。しかし、テレビドラマの影響力の低減は、若者層のテレビ離れと消費衰退をもっとも象徴的に表しているのではないだろうか。 そんな、若者のテレビ離れや低視聴率の背景には何があるのだろうか?誕生以来「テレビは低俗」誕生以来「テレビは低俗」 テレビゲーム、インターネット、携帯電話やスマートフォンが急速に普及してゆく中で、次第に接触率を低下させていったテレビが、その情報源、あるいはエンターテインメント装置としての存在価値が見出されづらくなっている。必ずしも多いわけではない若者達の資金の大部分が携帯電話や通信費に多くが消費される。 それに加えて、近年、テレビの「質的低下」を嘆いたり批判したり、そこから「マスゴミ」と断定するような論調も多い。これは、テレビのクオリティ劣化こそが、視聴者離れを加速させているという論理であるが、筆者には、この論調はあまり的を得ていないように感じる。 テレビを低俗なメディアと断じた大宅壮一による流行語「一億総白痴化」が生まれたのは、1957年2月のことだ。日本でのテレビ放送の開始が1953年のことであるから、テレビは誕生以来、低俗なメディアと言われ続けていることになる。 近年、「テレビの質的低下」がいくらさけばれようが、そもそも、スタートから低俗という認識だったのである(映画との比較を前提とした「質」の優劣なのだろうが)。 「テレビは低俗」「マスゴミ」と言われても、誕生から現在まで言われ続けていることと考えれば、いまさらの「マスゴミ」論は注目すべき指摘ではないだろう。 むしろ、そんなテレビであっても、インターネット上に氾濫する無数の動画や映像と比べてみれば、それが圧倒的に高いクオリティを持っていることに気づかされる。 テレビは低俗かもしれないが、インターネットの世界は、それ以上に「低俗」な世界が広がっている。「低俗」という言葉に語弊があるならば「最低限の質が保証されていない世界」と言い換えることができるかもしれない。「クオリティ」がテレビ離れを誘発した テレビの質が低下したと言われる今日でも、まだまだテレビのクオリティは高い。見方によってその評価・判断は別れることは承知の上でも、テレビは十分にクオリティメディアであると言えるだろう。 しかし、そんな「クオリティ」こそがテレビ離れを誘発している最大の原因となっているように思う。 まず何よりも、テレビは「時間と空間(=放送時間とテレビが置かれた部屋)」を拘束する装置である。しかし、現在の若者たちを見ていると、「見たいテレビ番組をいち早く見るために、放送時間にテレビの前に座ってスタートを待つ」ということはない。 もちろん、録画という方法に依存している場合もあるが、それができていなくても、どこかしらで見ることはできる。何より、例え見れなくても他に自分の娯楽を補完するものはいくらでもある。つまり、テレビの受像機と放送時間に何ら優位性はなくなっているのだ。 その一方で、良質な内容や高いクオリティで作られたテレビ番組には、視聴者を引きつける魅力があり、そこには、大きな力がある、という作り手の一方的な「願い」とも「思い込み」とも言える感覚があるように思う。 ただ、現実は違う。 クオリティが追求されてたものが若者達の視聴対象になるわけではない。高い質のテレビ番組であったとしても、多くの若者が、時間と空間の拘束を受けてまで、テレビを見るという選択はしないというのが実態だ。質と選択が無関係な時代になっているのである。 それに対し、ゴミ屋敷のようなワンルームアパートで毎日、何をするわけでもなくコンビニ弁当の食事風景や雑談をネット動画で生中継しているような動画が、万単位の視聴者を集めている現実がある。 なまじっかのテレビ番組よりもはるかに集金力や訴求力がある素人による素人コンテンツが存在しているのだ。巨大な予算をかけたテレビ番組が、事実上、そういった素人コンテンツに競り負けている現実が確実に存在している。 高画質・高音質の映像をお茶の間の大画面で観るよりも、「劣悪なネット動画の画質・音質」であっても「好きな時、好きな場所」で、スマホの狭小画面で視聴することを選択するのだ。 そういったクオリティでもなんら不満を持たないぐらいに、若者達のコンテンツに対する「質」への感覚は変化している。それがメディアへの接触スタイルの変化の根幹にあるように思う。 現在の若者達は、クオリティよりも、自分たちのライフスタイルに重きを置いた選択をしているにすぎない。よって、社会が判断や評価の基準にしてしまいがちが「メディアの質(クオリティ・オブ・メディア)」が、若者層にとっては、ほとんどなんの意味を持っていない、というのが現実なのだろう。猶予なきテレビの未来 皮肉なことに、若者に関して言えば、テレビ番組の質的な改善が視聴者回復にはつながらないように思う。もちろん、テレビ局や番組制作における意思決定層が、「テレビ時代を満喫してきた中高年層」であるということも要因の一つにはあるだろう。 そうなると、テレビはこのまま無限にそのクオリティを落とし、低俗さを加速させてゆくことでしか生き残れなくなってしまうのだろうか? しかし、少なくとも現段階では放送法に縛られた許認可業であるテレビ放送が、無限の質的低下や影響力の衰退を加速させることはないだろう。守られた「下限」はあるはずだから、影響力を復活させる猶予も可能性もはまだ十分にあるように思う。 それでもあと数年、あるいは10年程度のスパンで、若者層あるいはその予備軍である小中学生たちが若者になり、やがて大人へとなってゆく。完全にテレビに対する信仰心がなくなっている世代だ。もちろん、そういったライフスタイルの世代の増加に合わせて、メディアに接触するためのデバイスや環境も今からでは想像もできないような形式で登場してくるだろう。 そう考えれば、やはり、猶予はあるようでない。まさにギリギリの状態なのかもしれない。また、数年から10年後に現れてくるであろう環境や状況の明確な予測は誰もできないし、おそらく、そんな未来予測のほとんどがハズれてしまうはずだ。 しかしながら、筆者の観点から、ただ一つ言えることは、テレビというメディアが今後、議論・検討し、模索してゆくべき道は、現在、議論されているものとは全く別の視点と方向性、あるいは考え方からしか現れてこない、ということだ。 あらゆる未来予測はハズれるであろうが、この予測にはちょっと自信がある。関連記事■ 長谷川豊が考える テレビがつまらなくなった3つの理由■ あの日を境に変わった私のメディア認識■ 今こそNHK民営化議論を盛り上げませんか

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    フジテレビ、復活への道はあるか

    った3つの理由■ 植村隆君、木村伊量君のようなやり方はいい加減やめなさい■ あの日を境に変わった私のメディア認識

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    「右傾エンタメ」の嘘

    愛国心をくすぐる作品を「右傾エンタメ」というレッテルを貼って、日本の右傾化の象徴として危険視する朝日。「永遠の0」のような感動作や、「艦隊これくしょん」のような美少女ゲームまであげつらう魂胆とは何なのか。右傾エンタメの「嘘」を暴く。

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    「右傾エンタメ」批判の嘘

    古谷経衡(著述家)「右傾エンタメ」とはなにか「右傾エンタメ」という言葉が流通して久しい。この言葉は作家の石田衣良氏が考案したものとされている。かいつまんで言えば「その内容に右傾的なものを内包しているエンターテインメント作品」のことだ。「右傾的」の定義はともかく、一般に「右傾エンタメ」とは1型)旧日本軍や第二次大戦での日本の立場を美化・肯定的に捉えたもの=先の戦争の美化・肯定2型)旧日本軍の装備品等を作品中のモチーフにして、なおかつそれを否定的ではないエンターテインメントの文脈の中で扱ったもの=旧軍の装備品の美化 であるといえる。 代表的な事例として百田尚樹氏のヒット作『永遠のゼロ』は明らかに1型、旧日本軍の艦艇をモチーフにしたゲーム『艦隊これくしょん』(艦これ)は2型、魔法を扱う少女らが戦中世界(現実世界の歴史軸とは異なる)に於いて敵と戦うアニメ『ストライクウィッチーズ』は2型、第二次大戦時代に日本を含む各国で使われた戦車に美少女が搭乗するアニメ『ガールズパンツァー』(ガルパン)も2型のパターンである。 これら「右傾エンタメ」を否定的に観る人々は、このような「右傾エンタメ」の隆盛そのものが「日本社会の右傾化」であるとか「若者の右傾化の象徴」であるとかして否定的な視線を送っている。が、果たして本当なのか。 例えば「右傾エンタメ」という単語の誕生のキッカケとなったとされる『永遠のゼロ』は、ゼロ戦のエースパイロット・宮部久蔵(架空)とその孫をめぐるお話である。話の筋だけを観ると1型を踏襲した「右傾エンタメ」の様に思える。 たしかに原作小説の中には所謂「大東亜戦争肯定史観」の文脈が頻出するが、原作と同じく空前の大ヒットとなった映画版(山崎貴監督)では、こういった「東亜戦争肯定史観」が大幅に薄められ、原作での「大東亜戦争」という表現も「太平洋戦争」に置き換わっている。 主人公宮部久蔵が特攻に向かうまでのくだりでは、宮部は特攻作戦にまったく懐疑的であり、その辺りはボカされている。これは映画『男たちの大和』に共通するニュアンスであり、明らかに「反戦」を強調した内容で、実際この時期に発刊された週刊誌等の特集記事を読んでも、映画『永遠のゼロ』を鑑賞した20代の観客は、口々に「戦争っていけないと思いました」という感想を述べている。 要するにこのことから伺えられるのは、『永遠のゼロ』は「反戦・平和」の戦後民主主義の肯定とも解釈することができる。結果「旧日本軍や先の戦争を美化・肯定的に捉えた」作品とは遠い。1型の「右傾エンタメ」に捉えられがちな『永遠のゼロ』は、このような意味に於いて、実際には旧軍を肯定しているどころか、寧ろ「過ちは繰り返しませんから」に近い反省を述べているものであり、これは前述した『男たちの大和』で、長嶋一茂役の海軍大尉が、日本の科学軽視主義や大艦巨砲主義を批判して没していく処と瓜二つであり、実際には「右傾エンタメ」とは違っている。 よって『永遠のゼロ』の小説のほうは1型の右傾エンタメと呼べなくも無いが、日本アカデミー賞を総なめにした映画版の『永遠のゼロ』には右傾要素は存在しない。記録的な観客動員数を動員した同作の映画版のほうが、明らかに社会に与えるインパクトは大きなものがあっただろう。単純に映画的完成度が極めて高かったことが、本作の成功の原因である。日本が右傾化したから映画がヒットしたわけではない。「右傾要素」の不在 ところが「永遠のゼロは右翼作品である」というレッテルに凝り固まると、如何なる作品でもそれを右傾化作品であると色眼鏡で見てしまう。こと『永遠のゼロ』に関しては、その作者の百田氏が、保守的な言動をSNSや雑誌対談や著書の中で繰り返したり、2013年の東京都知事選挙で元航空幕僚長の田母神俊雄氏の応援演説に駆けつけるなど、保守系言論人としての旗色を益々鮮明にしたことから、「百田=右翼」のイメージが固着化され、実際には作品を読んでいない・映画を観ていない人々が「右傾エンタメ」の大合唱をはじめる流れが定着したように思う。つまり「右傾エンタメ」論は、作品批判ではなくイメージの産物である。 これに関連して、先に例示した例えば『艦隊これくしょん』は、右傾化を警戒する文脈の中で「若者の中で屈託のない旧軍礼賛のゲームが流行っていることを憂慮」や、またぞろ「若者の右傾化」などという見解の表明が散見されるに至ったが、それもこのゲームの実相を何ら分かっていない人々による色眼鏡だといえる。 このゲームには「艦隊を徐々に育成する」という戦略的要素があるので、それが純粋に楽しい、という層も多い。この要素はオンラインゲームの定番構造だ。ハードに依拠せず、純粋にブラウザゲームとして楽しめ、かつ優秀であったのが、ヒットの原因だ。 或いは『艦これ』をベースとした創作同人誌は現在隆盛の極みに達しているが、それらを検索すれば、およそこのゲームがどのようなユーザーに嗜好されているのかが一目瞭然だ。 要するに『艦これ』は旧軍の装備品をモチーフにしただけの美少女ゲームの一種であり、誤解を恐れずに言えば90年代から勃興した「ギャルゲー」の延長線上にある亜種である、と言うこともできる。 なぜならこのゲームの司令官「提督」はプレイヤーの分身であり、このゲーム構造自体、古典的な「ギャルゲー」の一人称世界・ハーレム世界の基本線を踏襲している、と見做す事もできるからだ(別にそれが悪いと言っているわけではない)。よって上記に上げた二次創作の中では、「提督」は男性として描かれ、ハーレム構造は更に補強されている。このような二次創作に流用される余地が多かったからこそ、このゲームが相乗的にヒットしたと見做すことができる。『艦これ』のユーザー層には政治性は無いし、ゲーム構造も既に述べたような、古くから存在しているこの手の美少女ゲームと巨視的には大差ない。旧軍の戦艦や駆逐艦などの装備品をモチーフにゲームを構成することと、先の戦争への評価は全く関係がない。それは『ストライクウィッチーズ』や『ガルパン』も同様である。 確かにそこに「否定的なニュアンスがない」という事をもってすれば2型の右傾エンタメということもできないわけではない。しかし純然たるゲームに一々、「先の大戦を反省し…」などという言葉の挿入はゲームバランスを狂わせるのは自明だ。そもそも政治性のない作品に、そのような政治的配慮を混入させること自体が政治的である。  つまり、現在「右傾エンタメ」と呼ばれているものの多くは、実際には想定される『右傾エンタメ』ではないし、それを受容するユーザーの側にも「右傾的な要素」を見出すことは出来無い。例えば『艦これ』の熱心なユーザーは自民党支持者なのか、といえばそのような傾向は全くないであろう。 むしろ、『艦これ』の二次創作(18禁同人誌)などを好むクラスタは、所謂「表現規制問題(”非実在性少年”をめぐる都条例問題)」や「児童ポルノ法」に反対の姿勢を鮮明にしていた場合が多かった。この場合、同法に明確に反対の姿勢を取っていたのは社民・共産・民主の一部などのリベラル勢力であり、党派的には「左派」であろう。どこに「右傾化」が存在するというのだろう。なぜ『ヤマト』を取り上げないのかなぜ『ヤマト』を取り上げないのか  私は、『右傾化エンタメ』とされる作品の筆頭に『宇宙戦艦ヤマト』の名前が上がってこないのが、不思議で仕方がない。『宇宙戦艦ヤマト』は御存知の通り第一次アニメブームの嚆矢となった作品であるが、同作のプロデューサーで著作権者(松本零士氏との裁判で確定)の西崎義展氏(2010年没)は、明らかに保守的思想を持っていた人物であり、『ヤマト』に際しても、「先の大戦で片道で帰ってこなかったヤマトを、SFの世界の中では地球に帰還させたい」という強い思いのもと、『ヤマト』の世界構築にこだわっている。 坊ノ岬沖に沈んだ旧軍の戦艦大和を宇宙船に改装して蘇らせ、ただ一隻ガミラス帝国に突入し、地球人類を救う『宇宙戦艦ヤマト』の世界観は、土台『永遠のゼロ』や『艦これ』と比較できぬほど「右傾エンタメ」であり、その型としては1型、2型の両方を含んでいるといえる。ヤマトが撃滅した相手はガミラス帝国で一見ナチス風に描かれているが、明らかに史実で日本を打ち負かしたアメリカそのものであり、『宇宙戦艦ヤマト』はSFにおける日米戦争の復讐戦である。『ヤマト』はテレビ版がシーリズ3作まで続き、劇場版も続々と制作された。無論、1974年の放送当時、『ヤマト』に対しては軍国主義的、の批判はあった。しかしそれはそれとして、SF作品としてのエンタメ性が勝り、『ヤマト』への頓狂な批判はなくなっていった。またそこには、1979年に『機動戦士ガンダム』が放送され、程なくリアルロボットブームが沸き起こり(第二次アニメブーム)、『ヤマト』ブームがかき消された感があった、ということも影響していよう。 ともあれ、現在指摘される『右傾化エンタメ』よりもはるかに政治的意味合いをもった『ヤマト』は、日本SFアニメの黎明期における金字塔として、歴史にその名を刻んでいる。「右傾エンタメ」を批判する勢力の側に立てば、往時の『ヤマト』ファンは、旧軍礼賛の軍国主義者であると非難されるべきだが、そのような機運はない。 要するに、アニメや漫画、映画やゲームといったカルチャー全般に疎い論者が、このような雑駁な「右傾エンタメ」論を展開しているのが事の真相なのである。「右傾エンタメ」よりも危ういもの このように現在、政治性からは寧ろ遠い作品群が「右傾エンタメ」と呼ばれて、見当違いの頓狂な批判の矢面に立たされている。が、私は真に憂慮するべき作品とは、彼らの網羅しない作品群の中にあると考えている。たとえばその最も重要なもののひとつは、2008年に漫画として刊行され、2009年にアニメ化されヒットした日丸屋秀和氏原作の『ヘタリア』である。 この作品は第二次大戦時代の世界各国(枢軸、連合、中立陣営)を擬人化した作品で、タイトルの『ヘタリア』とは、屁たれ(軟弱)とイタリアを掛けた造語である。つまり、第二次大戦時代においてイタリア軍が弱兵であったという故事を元に、国家を擬人化してパロディとした作品であるが、私は所謂「右傾エンタメ」よりもこちらのほうがよほど、批判に値すると思う。 この作品は、ファンの手でボーイズラブ風作品として認知され、旺盛な二次創作の対象となったが、様々な価値観をもった人々の集まりである国家や民族を、漫画的キャラクターとして擬人化し、国民や民族を強引に「個人の性格」に結びつけて展開しているものだ。 この、国家を「擬人化」させて単純化する、という世界観こそ、のちに跳梁跋扈することになるネット上の粗悪な世界観のベースの一つになったのではないか、と私は思う。つまり「韓国・中国は嘘つき国家」などの所謂「国や民族をひとまとめにして呪詛する」、いわゆる「ネット右翼的」言説の世界観の根底にある「国家の擬人化」という考え方のベースのひとつになっているのが、『ヘタリア』という作品の中心にある発想だ。 イタリア人は全員が女好きではないし、ドイツ人は全員が神経質ではないし、ソ連人は全員が酒乱ではない。日本人が全員几帳面で時間を厳守する人間ばかりではないのと同じである。どんな所にも、国家や民族レベルで多様性があるのは当然だ。それを無視して、国家というあまりにも大規模な単位を、いとも簡単に、印象によってひとりのキャラクターの中に「擬人化」するというこの単純性こそ、「国や民族をひとまとめにして呪詛する」粗悪な言説の根底を形成しているのではないか、と思う。 無論、『ヘタリア』自体には差別性や悪意はない。純粋に作品や二次創作を楽しむことに文句を言っているわけではない。ただし国家や世界を単純化してエンタメ化するという、こういった「擬人化」の悪弊は、明らかに近年目立っている。「韓国人は嘘つき」「中国人は物を盗む」「台湾人は親日家」、しかしどっこい現地に行ってみるとそんな事はないのは、当たり前のことだ。実際の中国人が「~アルヨ」とは言わないのと同様、国家や民族はたった一人のキャラクターに単純化することなどできない。「国や民族をひとまとめにして評価する」。この思考の根底にあるのが「擬人化」である以上、「右傾エンタメ」よりもこういった擬人化作品郡にこそ「無知性だ」の非難の声をあげても良いだろう(実際、『ヘタリア』ブームの折には、この作品の歴史考証の正確性という意味で、批判が起こった部分はあった)が、繰り返すように「右傾エンタメ」問題の本質とは、アニメや漫画、映画やゲームといったカルチャー全般に疎い論者が、このような雑駁な論を展開しているのが真相であるから、そもそもそういった視座がない。冒頭に上げた石田氏は、もしかしたら『ヤマト』も『ヘタリア』も、あまり観たり読んだりした経験が無いのかもしれない、とさえ疑う。 作品内容を咀嚼すらしないで、漠然と語られる「右傾エンタメ」論には説得力はない。「右傾エンタメ」は、このような理由で幻想であり、よってその存在も、批判の理屈も嘘だらけと断罪せざるを得ない。真に問題なのは、従来の「右傾エンタメ」に網羅されない作品群ではないか。関連記事■ 「ネット後発組」が日本社会を後ろ向きに変えている■ NYタイムズが注目した「ネトウヨ」 憂うべき日米の行き違い■ 松本零士 「ヤマト」は生きるために飛ぶ

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    石田衣良氏 「右傾エンタメ作品」ばかりが売れる社会を分析

     NEWSポストセブンの年始恒例企画、直木賞作家石田衣良氏へのインタビューをお届けする。「文化が寡占化する日本」。(取材・構成=フリーライター神田憲行)* * * 今の日本で嫌なのは文化的に寡占傾向が進んだということです。小説の世界でもアイドル、ドラマでも同じだと思います。誰かが何かを「面白い」と言えば、すぐ行列が出来ちゃう。行列の先になにがあるかわからないけれどとにかく並んでおくか、という貧しい時代のソ連のようですね。 たとえば僕がいる小説の世界で言うと、フロー(新刊)は売れてもストック(古典)が全く売れないんです。いま生きている作家でも死んだら途端に売れなくなります。あまり表に出てないですが、リーマンショック以降、作家の3分の1は厳しい状況ですよ。でも出版界全体の売り上げはピーク時の3分の1が落ちたところ。音楽CDのように半減していませんから、これからもっと落ちるかもしれない。石田衣良氏は文化の寡占化を憂う 原因みたいなのが二つあって、まず読者全体が「右ぶれ」しているな、という感想があります。去年、僕が選考委員している小説賞の最終候補のうち5編のうち2編が戦争末期のテーマだったんですよ。敵の女スパイを拷問してみたいな描写があって、みんなどうしちゃったんだろうと思いました。僕は「右傾エンターテイメント」と呼んでいます。 書く側からしても右傾エンターテイメントって、日本人の「古層」に響くところがあるんですよ。実は僕いま、ネットで軍国小説を連載しているんです。架空の近未来の軍国主義の日本が舞台で、主人公はそこの士官学校通っている。中途半端にセンチメンタルにおじいさんが国のために死んだという話を書くぐらいなら、徹底的に他の国を侵略して占領地にしてくらしていくしかない若い戦闘員たちの話を書いてみようと、極端に振れてみました。右傾エンターテイメントの世界に飛び込んでその禍々しさを書いてみると、「忠義を尽くす」とか戦闘シーンだとか、日本人てこういうの好きだよなとわかるんです。 編集者の意識も変わってきました。いまの若い編集者はすぐ「スタジオジブリの本を作りましょう」って言うんだって。いやいや違うんだ、お前がジブリにならなきゃダメだろうと(笑)。作家の中でも最近は自分の小説を「商品」と呼ぶ人がいますからねえ。僕はいわない。商品といえばそうなんですが、それだけに収まらない精神性とか魂みたいなのがこもっているから良いわけじゃないですか。僕は商品と強がっていわないといけないほど、読者のこと信頼していないわけじゃない。 文化的に寡占が進む二つ目の理由が、若い人が本当に疲れていることです。この間、若い人と話をしたんですが、彼がいうには毎日契約社員とかバイトしていると夜中に帰ってきて崩れるように寝るだけで、テレビとか映画をみる余裕がない。そういうなかで、もし見るとするなら癒やし効果があるもの。たとえば若い人に人気がある「ライトノベル」で多いパターンは、主人公は取り柄もないけれど女の子に続けて惚れられる。敵には無敵に勝つ。そんなのが今わりと売れています。ドラマの「半沢直樹」にしても、ある意味で「水戸黄門」なんですよ。リアルがあまりにも辛いので、本当に痛みを描いたドラマとかダメなんですよ。 それぐらいみんな疲れているんですね。その根っことヘイトスピーチと右傾エンターテイメントがつながっているんですよ。みんな生活の疲れが来ちゃっているんだなあという気がしますね。自分たちがこれだけ苦しいから、在日がもっと苦しめ、生活保護は許せん。グローバリズムは本当に辛いなあ。 そう言ってても仕方ないんで、日本は安全な社会という点では素晴らしいし、みんな無理してでもおもてなしで頑張るし、いいところはいっぱいある。来年も今年と変わらず、陽の当たるところと当たらないところの差がはっきりついていくだけの話です。その中である種の人々は浮かれているけれど、生活の苦しさも増していく。生きて行くには、難しいけれど自分のなかの戦う武器を作って、この社会全体のシステムをうまく利用する人間になるしかないと思う。 社会の坂道がどんどん急になっていく。全員が豊かになる社会はもうこない。その坂道に爪を立てていけるか、どうしがみつけるか這い上がっていか考えるしかない。もうこれが王道だという生き方はないんですよ。自分ができる範囲で頑張り、世界の潮流を捉まえて高く飛ぶことを考えるしかない。(談)関連記事■ みうらじゅんと宮藤官九郎が「友達と親友の境目」等語った書■ 踊る大捜査線好き男 彼女に「俺の海綿体、封鎖できません」■ 辻希美に加護亜依が「いつ大人になるんだろう」発言■ 石田衣良氏 40~50代でも日本女性は韓国女性より若く見える■ 石田エレーヌ 麺食べ終わったカップ麺に冷えご飯投入が好物

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    「艦これ」は歴史修正主義ゲームなのです?

     一昨年春に公開されてから3年目に突入し、提督(=プレーヤー)数300万人を誇るゲーム「艦隊これくしょん(艦これ)」。出る杭は打たれるものなのか、艦これに対する批判の声が一部でくすぶっている。「艦これは歴史修正主義」だというのだ。本当に艦これが歴史修正主義エンタメ作品なのか、実際にゲームをプレイして考えてみた。 艦これ批判記事で興味深かったのが先日、本と雑誌のニュースサイト・リテラに掲載された「『とうらぶ』をネトウヨと結びつけるのは妄想…でも『艦これ』アニメは明らかに歴史修正主義だ!」という見出しの記事だ。筆者は東池誠之氏。見慣れない名前だが、文章はしっかりしており、素人とは思えない。中堅~ベテランの編集者・記者の筆名ではないかと推察される。記事も単なる炎上狙いではなく、何かウラの意図もありそうだ。まずは記事の内容をみていきたい。 同じリテラのサイト上で以前に掲載された、日本刀を擬人化したゲーム「刀剣乱舞」の危険性を論じた記事を取り上げて《いったい『とうらぶ』の設定や構成のどこに右傾化の要素があるのか》と指摘し《サヨク界隈ではこの記事に限らず、こういう短絡的な決めつけをしばしば見かける》と一刀両断している。 返す刀で《これが『艦隊これくしょん』となると、話は別だ。少なくともアニメ版『艦これ』を見る限り、サヨクの偏見や妄想とはまったく関係なく、その底流に歴史修正主義があると考えざるをえない》と断じる。なにゆえ、底流に歴史修正主義があるといえるのか。アニメの流れを追い、ミッドウェー海戦を想起させる「MI作戦」に勝ってアニメ第1期が終わったことをもって《そこからはどうしても、負けた戦争になんとかして勝ち、敗戦の記憶を塗り替えようとする意志が伝わってくる》というわけである。 筆者の東池氏にとっては、前半でおおむね先の対米戦争の流れに沿っていたアニメ「艦これ」が後半に入って史実からずれていったことが、我慢がならなかったようだ。しかしこれはアニメの制作者側からすれば「そんなことを言われても…」という話であろう。歴史の流れに忠実にアニメを作って、それが面白いだろうか。これは娯楽作品なのである。そもそもMI作戦で史実通りに主力空母が軒並み沈む事態になってしまっては、アニメ第2期につながらなくなってしまう。商業的な観点からすれば、東池氏の指摘は言いがかりに過ぎないと断言できる。艦これで人気の駆逐艦、初雪・白雪・吹雪(左から)。姉妹艦だが、細部の微妙な違いがきちんと表現されている 東池氏はまた記事中で《戦争の悲惨さ、残酷さがまったく描かれていないところにも歴史修正主義との共通点がある》とのたまう。では歴史を題材にしたゲーム、例えば「信長の野望」シリーズや「三國志」シリーズで、そうした戦争の悲惨さはきちんと描かれてきたのだろうか。付言すれば、「三國志」では魏以外の国でも中華統一を実現できる可能性があるが、それはまさに歴史修正主義ということになるはずだ。こう考えてみると、東池氏の指摘はナンセンスだということが分かるはずだ。一体、ゲームやアニメに何を求めているのか。筋違いもはなはだしい。 ことのついでに、4月11日の朝日新聞朝刊「耕論」欄で「右傾化」とのテーマのもと、ゲーム「艦これ」が取り上げられていたことにも触れておきたい。そこでライター・評論家の「さわやか」氏は、艦これが愛国エンタメだとか右傾化の表れとは思わないとしながらも《イデオロギー的なものが抜け落ちているので、かえって不気味に見える》として《その真空状態にかえって拝外主義的な思想が入り込む危険性があります》などと指摘。挙げ句の果てに《戦争を扱うゲームやアニメのファンも「現実の戦争を描いたものじゃない」と開き直るべきではない。戦争賛美と見なされかねない作品だということを受け入れ、しかも自分たちはネトウヨとは違うとはっきり言えなくてはいけない》とゲームのプレイヤーやアニメの鑑賞者に求めている。一体これは何なのか。同様のことが「三國志」や「信長の野望」のプレイヤーにも要求されるのだろうか。また「自分たちはネトウヨとは違う」と誰にどうやって宣言しろというのか。ずいぶんと無茶な強要のように感じるのだが、読者の皆さんはどう読まれただろうか…。 さて話を戻して、東池氏の記事の末尾は《擬人化美少女に萌えるのは大いに結構だが、萌えているうちに「日本が敗戦したのは何かの間違いだった」なんていう自己慰撫的思想にはまらないようせいぜい気をつけていただきたいものである》との捨て台詞で締めくくられている。艦これのアニメを見て、あるいはゲームをプレイして、そうした思想にはまる人が本当に出てくるとは想像しがたい。300万の提督もずいぶんとバカにされたものだ。東池氏の記事こそ「サヨクの偏見や妄想」の類だと断言していい。 ところで著述家の古谷経衡氏が『「正義」の嘘』(産経新聞出版)の中で、映画「永遠の0」が「どちらかと言えば右寄りの話ではないか」との問いに対し「見ていない人がそういうふうに思って、そう言っているのではないですか」と答え、映画の具体的な内容に即して「永遠の0」が右傾化作品ではないことを論証している。同様に、アニメは実際に見てみる必要があるし(東池氏はアニメはきちんと見てはいるようだ)、ゲームなら体験してみる必要があるだろう。というわけで、ゲーム「艦これ」は右傾化作品ないし歴史修正主義作品なのかどうか、実際にプレイして確かめてみることにした。◇ さて人気のゲーム「艦これ」はすぐには参戦できず、現在は週に3回ほど、限られた時間に毎回数千人ずつしか新規参入ができない。4月下旬の金曜日夜になんとか鎮守府への着任を果たし、記者の艦これプレイが始まった。ゲームの最初に5択で自分の駆逐艦を選ぶが、私は電(いなづま)を選択。そこから出撃と艦船の建造を繰り返して、自分の艦隊を育てていった。東郷平八郎・連合艦隊司令長官の像(左)と記念艦三笠。マストにはZ旗がひるがえる=神奈川県横須賀市 先の大戦を振り返ってみても、制空権を確保することは最優先課題であり、航空母艦を建造すべく努めたところ、ゲーム開始4日目で正規空母「飛龍」を獲得。その破壊力たるや目を見張るものがあり、3つの海域を立て続けにクリアすることができた。 軍艦を擬人化した「艦娘(かんむす)」の名前は、そのまま先の大戦で活躍した日本軍の艦船の名前だ。しかし軍艦の名前を登場人物に流用した作品は以前にもあった。綾波、葛城、伊吹、青葉、日向、冬月…。そう、20年前にテレビ放映されたアニメ「新世紀エヴァンゲリオン(エヴァ)」である。そうした先例もあり、軍艦の名前を登場人名に流用しているからといって、ただちに右傾エンタメとはいえないだろう。 ただ考えてみるとエヴァは第3新東京市(箱根)を目指してくる「使徒」をひたすら「迎撃」する、いわば「専守防衛」アニメだった。こちらから攻めていくわけではないので必然的に「本土決戦」になり、戦闘の際に街がひとつ消えたりする被害も出ていた。専守防衛というきれいごとは、実際は国民に甚大な被害を強いるものなのだと、アニメを通して暗示していたのかもしれない。 一方で「艦これ」はひたすら、敵を求めてこちらから出撃していくゲームであり、エヴァと比べると好戦的な作品だ、という見方は成立するかもしれない。では艦これは侵略戦争作品なのかといえば、そうとは言い難い。前提として、敵方の「深海棲艦」が周囲の海を支配しており、艦娘たちは「迫りくる脅威から、海の平和を護るために」(ゲーム内での説明)戦っているとされている。形の上ではこちらから攻めていくからといって、ただちに侵略戦争とは言えないのだ。 さて普段の仕事もあり昼間にゲームをするわけにもいかないので、ひたすら夜戦主義で、退社後に連日連夜、「月月火水木金金」状態で激闘を繰り広げる。ただし戦いが連続すると艦娘にも疲労が蓄積して実力を発揮できないので、ひと戦闘終えていったん銭湯へ行って、自宅に戻ってまた戦闘…という形で適度に休憩を入れながらプレイする。 ただこのゲーム、戦闘がメーンなわけではない。あくまでも「艦隊育成型シミュレーションゲーム」であって、戦闘中は提督としては腕組みをして見守るだけだったりする。いかに強い艦隊を作って戦場に送り出すか、そのマネジメント能力が問われるゲームだといえるだろう。 そして戦闘にばかり注力していると、気がつくと資源が不足して損傷した艦娘の修理すらできない、という事態が発生する。各種資源は時間の経過とともに蓄積されるので、こういうときはゲームを一旦中断して待つのが一番。「果報は寝て待て」「待てば海路の日和あり」である。資源を貯めるためにも、週に2日くらいはプレイをしない「休艦日」を挟んだほうがいいかもしれない。それでも資源が足りないとなれば、第2、第3艦隊を「遠征」という名の「おつかい」に出して資源確保に努めねばならない。ゲームを進めていくほどに、資源の確保が戦争を継続する上でいかに重要かということを思い知らされることになる。近代戦争は総力戦なのだ。そして獲得した資源をいかに配分し有効に使うかが、提督の腕の見せどころになってくる。 そうこうしながら、ゲーム開始から2週間で序盤の難関とされる「沖ノ島海域」を突破(このときの旗艦は駆逐艦・電)。さらに2週間後には駆逐艦だけで出撃しなければならない「キス島撤退戦」もクリアした(このときの艦隊は特Ⅲ型駆逐艦4姉妹の暁、響、雷(いかづち)、電に加え、「呉の雪風、佐世保の時雨」といわれた幸運艦2隻)。ところでキス島撤退戦は、先の大戦での「キスカ島撤退戦」を下敷きにしているのは明らかだろう。実際にどんな作戦だったのかは将口泰浩著『キスカ島 奇跡の撤退』(新潮文庫)あたりを読んでいただくとして、ゲームでは駆逐艦のみの艦隊で敵の戦艦や重巡洋艦と戦わねばならない。それでもどうにか勝ててしまうわけで、わが駆逐艦「電」はこれまでに何度も、敵の戦艦や空母を一撃で沈める活躍をみせてきた。このあたりもまた、歴史修正主義だと言われてしまうゆえんだろうか。 この1カ月でかれこれ数百隻の敵艦を沈めてきたが、自軍で沈んだのは今のところ駆逐艦1隻のみだったりする。これは1度の戦闘で自艦が沈むことはなく(最悪でも大破止まり)、大破状態で進撃しない限りは沈没しないためだ。敵艦は一撃で沈むのに、この甘さは何だろうとも思うが、提督たちは不注意さえなければ自艦が沈むことはなく、安心してプレイできるようになっている。結果、たいていの提督は数百~数千隻の敵艦を轟沈させて自艦の沈没はほとんどないという、日本海海戦を超えるような大勝利を収めているはずである。これもまたごく一部の勢力からは「歴史修正主義だ」と言われそうな気が、しないでもない。 ところでこのゲーム、公開から2年余りが経過しているが、どう終わるのかが見えない。期間限定海域などもあって今のところ、いつまでもプレイが続けられるようなのだ。もっとも先の大戦は対米戦に限っても3年8カ月続いており、まだまだ先は長いと思うべきか。「終わりの見えない戦争に突入してはいけない」ということも、このゲームから学べる教訓かもしれない。そう考えるとこの作品、実は反戦ゲームなのかもしれない…と思えてくるのである。 かれこれ1カ月、艦これをプレイしながら考えてきたが私の感想としては「右傾化作品というには大甘」だ。このゲームにはまって、例えば「憲法9条改正は必要だ」と考えが変わるような提督は、まず現れないだろう。「艦これは歴史修正主義だ」などという雑音に惑わされることなく、提督はそれぞれ粛々とゲームを楽しめばいい。心配は不要だ。(産経新聞文化部 溝上健良) 関連記事■ 百田尚樹がどうしても伝えたかった「奇跡の世代」への熱い想い■ 柳田邦男に聞く 根強い零戦人気の本当の理由■ レイテ謎のUターン「栗田中将の名誉回復を」 証言集出版

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    「右傾エンタメ」を読むと本当に「軽い戦争」気分になるのか

     作家の石田衣良氏が朝日新聞紙上で、百田直樹氏の『永遠の0』、有川浩氏の『空飛ぶ広報室』、福田和代氏の『碧空(あおぞら)のカノン』などの小説を「右傾エンタメ」として総称してから、しばしばこの言葉を目にするようになった。特に『永遠の0』はその筆頭にあげられることがある。例えば最近出た笠井潔氏と藤田直哉氏の共著『文化亡国論』では、『永遠の0』は百田氏の思想的立場が全面にでた「右傾化」作品として挙げられている。 ただ笠井氏らは「右傾化」そのものよりも、大衆が持っていた従来の戦争のイメージが、それらの作品を読むことで無意識のうちに上書きされてしまい、「軽い戦争」のようなものに想像力が向かうことを警戒している。そしてこの「右傾化エンタメ」を読んで、「軽い戦争」気分に傾斜しやすいのは、笠井氏によれば日本が先の大戦で(沖縄以外)「本土決戦」しなかった、つまり「徹底的に負けなかった」ことに原因があるという。実はこれに類した主張はかなり多い。 例えば、古谷経衡氏は著作『クールジャパンの嘘』の中で、(沖縄戦はあったものの)本土決戦がないことが米国文化の受容に決定的な役割を果たしたことを指摘している。つまり面と向かって殺し合うことがなかったため、多くの日本人にとってアメリカとの戦争は一種の「天災」とでもいうべき見方になってしまった。そのためアメリカ文化の受容に心理的な抵抗がほとんどなかった、と古谷氏は指摘している。また村上龍も浅田彰や坂本龍一との対談の中で笠井氏や古谷氏らと同じ主張を展開していた(『EV.Cafe 超進化論』収録)。笠井氏らと古谷氏では論点がずれてはいるものの、「本土決戦」がなかったことが戦後の日本文化の受容のあり方に決定的だったとすることでは同じである。これを「本土決戦なき想像力」とでも名付けたい。 古谷氏の指摘は、さらに占領期の日本におけるアメリカ文化や価値観の流行が、占領軍の見えざる検閲や誘導の結果である、としている点でユニークである。つまりソフトパワー(文化戦略)の背後には、米国の圧倒的なハードパワー(軍事)の影響力が常に存在していた。この古谷氏の着眼点は興味深いものである。 だが、「本土決戦なき想像力」には別な視点もあるのではないか? ここで少し、古谷氏や笠井氏らの論点に自分なりに挑んでみたい。 一例だが、ドイツのように敵国兵士と面とむかって本土決戦をしても、(かっての敵国)文化の受容にはあまり支障をきたしてはいない。敗戦後の混乱期を抜けて、1950年代終わりから60年代初めにかけて西ドイツではジャズやロックン・ロール、ハワイアンなどがブームとなった。その中心的な役割を担ったのが、西ドイツ最初の「女性アイドル」といわれるコニー・フロベスだ。彼女は西ドイツ版の美空ひばりともいうべき存在で、ひばりが敗戦後に子役として天才的な歌声でブレイクしたのと同じように、コニーもまた8歳で最初のデビュー曲が大ヒットした。コニーは映画の中で軽快なダンスを踊りながら、米国で流行していたジャズ、ロックン・ロール、そしてハワイアンなどをドイツ語の歌詞で歌った。コニーは国民的なアイドルとしていまでもドイツ国民の中で語られている。 興味深いのだが、60年代後半から70年代にかけてのハード・ロックやパンク・ロックのブームでは、ドイツ語の歌詞ではなく、英語の歌詞をロック風の曲につけるのが西ドイツでは一般的になった。ドイツ語はロックに合わない、というのが「通説」だったらしい。しかし占領の記憶がいまだ残る時代(西ドイツの主権回復は55年)に、コニーが歌ったのは、ドイツ語の歌詞に米国でブームだったジャンルの音をつけたものだった。コニー以後も(西)ドイツでは、米国のポピュラー音楽を積極的に吸収しブームと化していった。インタビューに応じる歌手の南沙織=1971年7月23日、日比谷公園 日本ではどうだろうか? 例えば南沙織。彼女の出身地である沖縄は米国との激戦地であり、いまもその記憶は生々しい。南沙織は返還直前の沖縄から来た“日本の最初のアイドル”だった。 中森明夫氏は、論説「敗戦後アイドル論」の中で、この返還前であったにもかかわらず、「日本のアイドル」と称された、「南沙織」という虚構性(=アイドル性)に注目している。中森氏によれば、南沙織には「アメリカの影」が刻印されている。南本人は米軍基地文化の申し子であった。具体的にいえば、彼女の母親(沖縄出身の日本人)と再婚したのは基地で働くフィリピン人だった。そのため南沙織は基地で流れる米国音楽の洗礼をうけている。ビートルズ、ジャクソン・ファイブらが大好きであった。だが、他方で南沙織における米国基地文化の影響は、彼女をとりまく大人たちの事情で長く封印された。だが、南自身が決戦の場になった沖縄で、ほとんどわだかまりなく米国音楽を受容してきたことは、「本土決戦なき想像力」のこれもまた重要な例外ではないだろうか? さて今日の「右傾化エンタメ」は、笠井氏らのいうように「本土決戦なき想像力」ゆえに、「軽い戦争」というイメージを大衆に定着させてしまうのだろうか? いまもいくつかの事例で指摘したように、私には「本土決戦なき想像力」仮説自体がまだ十分に検証されているようには思えない。 むしろ「右傾化エンタメ」よりも、大衆が戦争に対して持つイメージは、「エンタメ」のような「現実」そのものによって更新されているように思えてならない。とくに湾岸戦争以来、テレビやネットなどで配信されている戦争や紛争の膨大な映像記録、それを見ることが日常化し、一部では「娯楽」とさえいえる状況にまで陥った環境そのものに、「軽い戦争」への傾斜を目視できるように思える。この点はさらに検討を加えなければならないだろう。関連記事■ 百田尚樹がどうしても伝えたかった「奇跡の世代」への熱い想い■ なぜ「高度成長」の考察が重要なのか■ 「ネット後発組」が日本社会を後ろ向きに変えている

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    沖縄で騒がれ出した「独立論」の正体

    拠点とする地方紙「八重山日報」に入社、22年から同紙編集長。イデオロギー色の強い報道が支配的な沖縄のメディアにあって、現場主義と中立を貫く同紙の取材・報道姿勢は際立っている。著書に『国境の島の「反日」教科書キャンペーン』(産経新聞出版)。関連記事■ 問われる「保守」のカタチ■ 何をよりどころに沖縄の将来を築いていくのか■  基地問題 「妥協の時は過ぎた」

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    亡国の「左傾メディア

    拠や事実を示さずに一知半解で政権批判を繰り返し、それでいて自分たちが喧伝した嘘は謝らない。一体、左傾メディアはこの国をどうしたいのだろうか。国なく人もない、亡国へと追いやるつもりなのか。

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    当たり前のことを言える時代 風向き変わり萎縮する左派言論人

    地位ある政治家が憲法が米国製の即席産物であるという「本当のこと」を指摘したならば、右翼だの反動だのとメディアの批判にさらされ、袋だたきに遭っていただろう。 また、2月26日の記者会見で東京裁判の法律的問題点について言及した自民党の稲田朋美政調会長はその後、産経新聞の取材に「以前は東京裁判を批判するなどあり得ない、という状況だった」と振り返った。 文芸評論家の江藤淳氏のいう戦後日本を長く覆ってきた「閉(とざ)された言語空間」はほころび、自由闊達(かったつ)な議論がかなりの程度、可能になってきたようだ。かつて「国益」も忌避衆院予算委員会で民主党の菅直人代表(左)の質問に答弁する小泉純一郎首相=2003年11月25日(小松洋撮影) 慰安婦問題もそうだ。かつては「従軍慰安婦」という言葉が戦後の造語であることを指摘するだけで、「慰安婦の存在を否定する人たち」と偏見に満ちたレッテルを貼られた。 軍や官憲による強制連行の証拠は見つかっていないという事実を述べると、元慰安婦の人権を無視する暴論だと反発された。平成8年に早大学園祭のシンポジウムを取材した際には、同様の趣旨を述べた藤岡信勝東大教授(当時)に学生らが「元慰安婦の前でも同じことが言えるのか」「教授の感性が許せない」などと罵声を浴びせ、議論にならなかったことが強く印象に残っている。 さらに現在では、野党議員も含めて国会で普通に外交上の「国益」が論じられているが、これも以前は利己的で自己中心的な用語として忌避されていた。 「国益を考えない援助はあるのか。ODA(政府開発援助)政策の中に国益の視点があるのは当然だ」 15年6月の参院決算委員会で、小泉純一郎首相(当時)が中国へのODA見直しに関してこう述べた際には永田町界隈(かいわい)で話題を呼んだ。それまでは国益を堂々と追求することについて、どこかうしろめたく思う風潮があったからだろう。検閲後遺症から回復 戦後の占領期、GHQはメディアに(1)東京裁判(2)GHQが憲法を起草したこと(3)中国-などへの批判や、「占領軍兵士と日本女性との交渉」などへの言及を禁じ、厳しく検閲していた。 この検閲の後遺症と身に染みついた自己規制から、日本社会は少しずつ回復してきた。ちょっと前までは特に保守系の言論に対し、甚だ不寛容な空気が支配的だったが、随分と自由度が増し、風通しがよくなったものだと実感している。 ところが逆に、左派系言論人、ジャーナリストらがこのところ「政権批判を自粛する空気が広がっている」などと盛んに吹聴している。政権を批判したら、ネット上で激しくバッシングされるのだそうだ。 彼らは、ちょっと風向きが変われば萎縮する程度の覚悟で、これまで言論活動をしてきたのかと少々驚いた。関連記事■ 「萎縮」が阻んだ拉致打開 今は北朝鮮に萎縮させるときだ■ 天敵記者は忘れない ドン・輿石の原罪■ 朝日、「吉田証言」記事取り消しの矛盾  男性の強制連行はそのまま

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    文官が総理より偉い? 懲りずに安倍政権を中傷するメディア

    「文官が自衛官を統制」がシビリアン・コントロール?潮匡人(評論家・拓殖大学客員教授)古舘、古賀の空虚な批判 政府は3月6日、いわゆる文官統制の廃止を閣議決定した。“背広組”の文官(防衛官僚)と“制服組”の自衛官が、共に対等の立場で防衛大臣を補佐できるよう防衛省設置法を改正する。政府与党は「切れ目のない安全保障法制」についても協議を重ねているが、両者は別次元であり、閣議決定のプロセスも別途進んできた。だが、護憲派マスコミはお構いなし。今も十把一からげに報じている。このため論点が「文官統制の廃止」以外に拡散するが、予めご了承いただきたい。 先月号の本誌「正論」で、ISIL(「イスラム国」)による邦人殺害を論じた(「敵はISより安倍政権!?」4月号)。先月に続き今回も「報道ステーション」(テレビ朝日系)にスタジオ生出演した古賀茂明(元経産官僚)には驚愕した(敬称略・以下同)。前回同様、中身はスカスカ。内容は幼稚、表現も拙い。期せずして同じ番組の、同一人物による、同趣旨のコメントを俎上に載せるが、目の敵にしているわけではない。彼に会ったこともないし、特段の興味もない。 番組では、いわゆる文官統制の廃止が閣議決定された3月6日の夜、古舘伊知郎キャスターが「武力攻撃事態法」と大書された立て看板風のフリップを指さしながら「こういう局面にならないと、この『武力攻撃』はできないんだという縛りがある」と解説(?)した。ここからして間違い。 法律の正式名称は「武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律」。その名のとおり「この法律は(中略)我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に資することを目的とする」(第1条)。善かれ悪しかれ「縛り」を定めた法律ではない(それは自衛隊法等)。「この『武力攻撃』はできないんだという縛り」云々も間違い。なぜならこの法律の「武力攻撃」とは「我が国に対する外部からの武力攻撃をいう」からである(第2条)。外部ではなく自衛隊のことが言いたいなら「武力行使」と表現せねばならない。 古舘キャスターは続けて「周辺事態法」と大書されたフリップを指さし「これは朝鮮有事の際を見据えて、周辺であることが起きた場合に、ここまでは武力行使はできませんよという縛りがやはりあった。今後どう変わるのか。この2点に絞って今日は考えてみます」と番組を導いた。これも間違い。右同様、名実とも「周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律」であり「縛り」を定めたものではない。第2条で「対応措置の実施は、武力による威嚇又は武力の行使に当たるものであってはならない」と明記しており「ここまでは武力行使はできませんよ」という法律でもない。 番組は「文官統制」廃止の閣議決定を取り上げ、古舘キャスターがこう導いた。 「というように、これ以外も色々あるわけですけど、色々な項目や色々な文言がドンドン動いてきているわけですね。古賀さんは全体を見渡してらして、どんなご意見をお持ちですか」――以上のとおり、同日閣議決定された「文官統制廃止」と関係ない法律を取り上げ、事実と異なる解説を加えたあげく「全体を見渡して」いるらしい古賀茂明に論評を委ねたのである。案の定、古賀は「文官統制」に一言も触れることなく、こう安倍政権を揶揄した。 「そうですね、安倍政権が始まってからですね。国家安全保障会議というのが出来ましたよね。それから特定秘密保護法っていうのが出来、それから武器輸出がほぼ全面解禁に近い形で解禁して、いまODAでも軍関係に使えるようにしようとかですね、ドンドンこう進んで、いま本丸の集団的自衛権の議論を細かく始めてるという感じなんですけど、なんか一個一個出てくるんですね。それぞれが非常に難しくて、言葉の定義の話になってきますね。常に。『なんかよく分かんないな』って思う人が多いと思うんですよ」繰り返された「I am not Abe」 よく分かっていないのは、古賀自身であろう。相変わらず、表現も拙い。 「そこが、実はその、なんでしょう、もう変わっちゃってるんじゃないかっていう、日本っていう国が。そういう話があって、実はある総理経験者の奥様が(略)ある大使館の大使の奥様と話をしてて『日本はとってもいい国だったのにね』という会話があるらしいんですよ」と反証困難な「らしい話」を始め、前回同様こう「安倍責任論」を開陳した。 アメリはテロに慣れている、日本は一番危ない国等々、看過できない暴言である。「そういう話をたくさん聞く」というが、事実なら友人関係や情報源を見直したほうがよい。ISIL対応を含め、安倍政権の外交・安全保障政策は世界中から支持ないし理解されている。例外はISILその他のテロ集団や一部の周辺諸国だけである。 しかし、古賀は2月12日の施政方針演説を論拠(?)に、こう独断と偏見を続けた。 「明治時代に富国強兵、殖産興業で欧米を見てですね(略)『あの時代は素晴らしかった。あの時代を思い出そうよ』というのが安倍さんの呼びかけなのかな、という風に理解したんです」「安倍さんは『そういう大国の中に日本も入れてくれ』ということをやりたいのかなっていうふうに見えちゃうんですね。でもそういう風に考えると、たしかに今やっていることは全部必要だよねと」――もはや妄想を通り越した病気である。 「まあ、またこういうことを言うと、なんか官邸とか、そういうところから色々怒られちゃたりして、ご迷惑がかかったりすると思うんですけど、日本が目指すべき道は、安倍さんのように列強を目指す道なのか、それとも、いやそうじゃない、今までやってきた日本の平和大国としての(以下略)」 「官邸とか、そういうところから色々怒られちゃたり」というのは、ISIL関連で「外務省は総理官邸に対し中東訪問自体を見直すよう進言していた」と報じた2月2日の放送のことを言っているのかもしれないが、政府は「怒った」のではなく、「事実無根」と抗議した。訂正も求めている。しかも、抗議したのは官邸ではなく外務省である(先月号拙稿)。なんであれ迷惑をかけた自覚があるなら、発言を慎むべきであろう。だが古賀は以下のとおり放言した。それも笑いながら。 「ですから安倍さんの道がいいと言う人は『I am Abe』ですよ。だけど『全然違いますよ』と、『平和大国目指すんですよ』と言う人は、僕はこの間も言って、ものすごく怒られちゃったんですけど『I am not Abe』ということを世界に発信しないと。(略)もうちょっと手遅れに近いのかもしれないんですけど、(略)皆さんで議論してほしいと思います」 ――等々、番組は7分40秒も古賀に独演させた。先月号と同じことを書く。「ご覧のとおり中身はスカスカ。表現も日本語として成立していない。(略)英語としても意味不明。あまりに幼稚すぎる」。ちなみに私は怒ってなどいない。ただただ呆れる。たぶんテレ朝も困っているのであろう。日曜朝にTBSが放言、暴言日曜朝にTBSが放言、暴言 民放中、テレビ朝日と並び護憲リベラルの双極をなすTBSは同夜どう報じたか。閣議決定された6日の「ニュース23」は「文官統制の廃止を容認する元背広組OB」として柳澤協二を「元防衛庁官房長」の肩書で起用。閣議決定に理解を示した柳澤のコメントだけを流した。その後VTRで「今後自衛官の発言力が増す可能性がある」とも指摘したが、スタジオ出演した藤原帰一(東大教授)が「シビリアン・コントロールの本来の趣旨から言えば」と原則論を語って閣議決定に理解を示し、イラク戦争を例に、実は本性的に戦争を嫌がる軍の背中を、逆に文民政治家が後押しするリスクを指摘、「そのほうがとても心配」ともコメントした。 藤原はISILによる邦人殺害問題で2月2日の「ニュース23」に出演した際も、岸井成格キャスターの“安倍責任論”を「それを考えることは我々にとって一番大事なことなのか。(略)問題はあちら(ISIL)にあります」と釘を刺した。テロ対処に「力の行使」が避けられない現実も認めた。同じリベラル派でも、古賀茂明とは、知性と見識において雲泥の差がある。 他方、4月8日朝のTBS「時事放談」では藤井裕久(元財務相)がこう発言した。 「集団的自衛権そのものを許すべきじゃないと思いますが、周辺がありますね。周辺事態法をどうするとか、国連決議が要らないとか。これ集団的自衛権の延長線上だと思います。根っ子の一番悪いのは集団的自衛権。つまり完全な、平等の軍備を持つということ。それは(憲法が?)許してない」 およそ意味不明だが、たぶん安倍批判なのであろう。事実、番組最後にも「安倍政策を是認してはダメだよ。日本の将来が危ない」と語った。(集団的であれ個別的であれ)自衛権は国際法上の自然権である。重要閣僚を務めた著名人が「そのものを許すべきじゃない」と明言するのは、世界でも日本だけである。それを司会者の東大教授(御厨貴)も止めない。隣の片山善博(元総務大臣)まで、安倍内閣が目指す掃海部隊の派遣を「いつか来た道」と批判した。いくら「放談」でも、度が過ぎる。脱力感を覚えるが、先に進もう。 同じ8日朝、同じTBS系列で全国放送された「サンデーモーニング」が凄かった。 「文官統制」を「文官(防衛官僚)を自衛官よりも上に位置づける考え方」と報道。その「根拠」として防衛省設置法第12条関連の政府答弁を紹介し「安倍政権の考え方は少し違うようです」「今後、自衛官の発言力が強まるおそれがあります」と報じた。自衛官の発言力が強まるのは悪いことなのか。 続けて司会者(関口宏)が「色んな暴走を食い止めるために、色々ね、先人たちがつけてきた知恵が一個一個取り外されちゃって、簡単に(自衛隊を?)動かせるようになってますかね」と導くと、涌井雅之(造園家・東京都市大学教授)がこう放言した。 「そうなんですね」「憲法で『内閣総理大臣並びにその他の国務大臣は文民を原則とする』と、こう書いてますね。それは何かというとやっぱり先の大戦の反省に基づいてるんですね。だから何重にもロックをかけて、軍事力を持ったいわゆる自衛隊、軍に歯止めをかける。ここだったんですけど、このブレーキをドンドン外してるという、非常に大きな問題ですね」 すべて間違い。そもそも古賀茂明同様のど素人に語らせるセンスを疑う。バカバカしいが訂正しよう。憲法は「文民を原則とする」などと書いてない。正しくは「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」(66条2項)。原則規定ではなく、例外を許さない。なぜ「文民」なのか。「先の大戦の反省」ではなく、憲法制定過程で行われた、いわゆる芦田修正が原因である。9条の芦田修正により日本国は軍を保有できる余地が生まれたのだが、そこで一部の連合国(中ソ)が、シビリアン・コントロールを明記するよう求めた。その結果である。詳しくは関連拙著に委ねるが、短く説明しておこう。文官は総理より偉いのか? 「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」(憲法9条)のなら、日本国に軍人はいなくなる。国民はみな文民となる。ゆえに「文民でなければならない」と明記する必要などない。実際、芦田修正以前の案文に文民条項はなかった。それが右の経緯で明記された。涌井らは以上の経緯を知らない。涌井はシビリアン・コントロールをクラウゼヴィッツの『戦争論』で説明する珍説も披露した。無視して先に進もう。続けて岸井成格がこう発言した。 「もう一つ重要な点は、総理大臣は最高指揮官なんですね。そうすると、軍人というのは命令に従う組織なんです。総理から言われたら、異を唱えるとか反対はできない。そういう組織なんです。それをチェックして『ちょっと待って下さい』と言えるのは文官しかいない。それを忘れてますよ」 「防衛省・自衛隊60周年記念航空観閲式」で栄誉礼を受ける安倍首相=2014年10月26日、空自百里基地(鈴木健児撮影) これもすべて間違い。「内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する」(自衛隊法7条)が、「内閣を代表して」指揮監督するに過ぎず、自衛隊を防衛出動させるにも、閣議や国家安全保障会議を経なければならない。米国大統領のような名実ともの「最高指揮官」ではない(が、みな誤解しているので咎めない)。自衛官は「軍人」ではないが、もはや目を瞑る。許しがたいのは後段だ。 自衛官は服従義務があるが、文官なら、総理の命令や指示を「チェックして『ちょっと待って下さい』と言える」らしい。 岸井こそ重要な事実を忘れている。行政権は内閣に属する(憲法65条)。総理は内閣の首長である(同66条)。「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基いて、行政各部を指揮監督する」(内閣法6条)。岸井流に言えば、全省庁の「最高指揮官」になる。岸井が特別扱いする「文官」も、法的な身分は国家公務員。国家公務員法は「上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」(98条)と明記する。それを「チェック」し「ちょっと待って下さい」など、違法かつ不忠不遜な服務である。 さらに岸井は安保法制で各種の「事態」が乱立している現状を「言葉の遊び」と揶揄しこう述べた。 「五つぐらいあるんですよ。新事態、存立事態とか武力行使事態とか周辺事態とかね」「事態とは何かと言うと戦争なんです。戦時体制ってことなんです。武器とか戦時体制って言葉を使いたくないんですね。だから言葉を変えようとするんですよ」 バカらしいが手短に訂正しておこう。岸井は「集団的自衛権 事態がどんどん増える」と題した3月7日付「毎日新聞」社説を読んだのであろう。聞きかじりの知識で知ったかぶりするから間違える。私は「言葉の遊び」とは思わないが、もはや客観的ないし事実面での間違いに絞り指摘する。 まず岸井のいう「新事態」と「存立事態」は同じ概念であり、三つしか例示されていない。他方「五つぐらい」でもないが、数には目を瞑る。「武力行使事態」というが、そんな言葉はない。きっと「武力攻撃事態」と混同しているのであろう。最後の「周辺事態」だけが現行法上実在するが、岸井が何と言おうと「戦争」ではない。「戦時体制」とも違う。前述のとおり周辺事態で自衛隊は武力行使できない。「武力による威嚇」すらできない。それを「戦争なんです」と断じるのは暴論ないし妄想である。いわんや「武器とか戦時体制って言葉を使いたくないんですね。だから言葉を変えようとする」との断定においてをや。もはや低俗な陰謀論にすぎない。 しかも、この日限りではない。3月1日の番組でも同様の展開となった。まず2月27日の中谷元防衛大臣の会見質疑が流れた。Q:(略)「文官統制」規定というのは戦前の軍部が独走した反省から防衛庁設置法ができた時に、先人の政治家達が作ったと考えられるかどうかという点を伺いたい。A:そういうふうに私は思いません。Q:思わない。A:思わない。Q:思わない。A:はい。Q:思わないですね。A:今までそういうふうに。(との答えを遮りながら・潮注記)Q:戦前の反省から作られたというふうに思わないのですね。A:そのように今までは、両方の補佐をしていただくということで機能してきたし、これからもそのように機能していくと。Q:戦前の反省からできた「文官統制」規定だというふうに思わないわけですね。防衛省公式サイト自衛官は差別してもいい?自衛官は差別してもいい? 公式記録からも、くどくど質問した記者(共同通信)の傲慢無礼な態度が推知されるが、番組は正反対の脈絡で紹介した。以下の発言者は岸井成格。冷笑を浮かべながら、こうコメントした。 「以前、防衛省を担当したことがあるんですが、中谷大臣の会見を聞いて、『ああ時代が変わったな』と思いましたね。我々がいたころは、まだ常識的に、非常に感覚的にアレかもしれませんが、文民統制とそれを補充する文官統制は、戦前の軍部のドクセイ(独裁?独走?)に対する反省、とりわけ日本の場合、非常にそれが甚だしかったんで、それを担保するものだと感じてたし、また考えてたんですよね。大臣は『まったくそうは思わない』っていうことですわね。そこはなんで、そういうことになってきたんだか。中谷大臣はアレ、自衛官出身ですから、ちょっとそういうとこ、あるかもしれませんけど。とにかくあの(以下略)」 表現の巧拙以前に、自衛官という職業ないし身分に対する蔑視が透けて見える。きわめて差別的な暴言ではないだろうか。日本国憲法第14条は「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と定める。民間人の岸井に「この憲法を尊重し擁護する義務」はないが、ぜひ尊重してほしい。もし差別でないなら、「そういうとこ」とは、どういうとこなのか、具体的に示してほしい。ついでに「アレ」の意味も教えてほしい。 事実関係の誤りも承服できない。かつて私も、防衛庁(長官官房)広報課(対外広報担当)で勤務していたが、私がいた頃は、右のごとき「常識」や「感覚」はなかった。 この日の問題発言は岸井だけではない。目加田説子(中央大教授)も「平和国家と銘打っている日本における自衛隊の位置づけという根本的な問題だと思うんですね。そもそも閣議決定で決めることではない」「納得できないですね」と発言した。すべて間違い。 内閣が国会に提出する法案について閣議決定するのは当然である。それが許されないなら、議員立法でしか法改正できなくなってしまう。まだ閣議決定されただけであり、これから国会で審議される。「決める」のは内閣ではなく、国会である。天下の中央大教授なのだ、しっかりしてほしい。 公正を期すべく付言しよう。以上の問題発言に先立ち。司会が「歯止めがなくなる」と誘導したにもかかわらず、田中秀征(福山大客員教授)は「制服組のほうが慎重であるということも十分ありえる」「戦前の軍の暴走のようになるかと言えば、そんなことはない」と抑制。続けて西崎文子(東大教授)も「必ずしも軍人が交戦的で文民が平和的だとは思わない」とコメントした。せっかく両教授が示した見識を、直後に目加田が損ね、レギュラーの岸井が2週連続でぶち壊した。TBSも困っているのではないか。文官も政治に代替できない 欧米に類例を見ない「文官統制」の発生は(保安庁、自衛隊の前身である)警察予備隊の発足に溯る。警察予備隊はGHQ(総司令部)民生局別室(CASA)の統制下にあった。CASAは米陸軍をモデルとして指導したが、当時日本側は理解できず、中央行政官庁組織として構想。このためCASAは「警察予備隊本部及び総隊総監部の相互事務調整に関する規定」の作成を指導し「Civilian Supremacy(文民優位)」の徹底を図ったが、CASAの二世通訳がこれを「文官優位(統制)」と誤訳。共産国を除き世界に類を見ない奇形はここから生まれた(宮崎弘毅「防衛二法と文民統制について」他参照)。米国防総省 他方「文民統制」の生みの親アメリカはどうか。ご存知のとおり「軍事に対する政治の優先」が貫徹されている。米国防次官や次官補らは政治任用(ポリティカル・アポインティー)された「文民」であり、公務員試験に合格した「文官」ではない。 しょせん「官僚は、政治を代弁することはできても、政治に代替することはできない」(廣瀬克哉『官僚と軍人』岩波書店)。(自衛官同様)民主的な手続で選出された政治家ではない。いくら「文官」が制服組を「統制」しても、政治が軍事に優先したことにはならない。3月6日に中谷大臣が答弁したとおり「文民統制における内部部局の文官の役割は、防衛大臣を補佐することであり、内部部局の文官が部隊に対し指揮命令するという関係にはない」(政府統一見解・衆院予算委)。一部のマスコミ報道は以上を弁えていない。 他方、「制服組」が閣議決定を手放して礼賛するのも筋違いであろう。なぜなら「内局優位の組織体制は、内局の広範な長官補佐権という権限のみによってささえられているのではなく、三軍対立という普遍的な現象のもたらす組織力学にも負っている」からである(廣瀬)。リベラルな学者(廣瀬)の偏見ではなかろう。昭和45年4月15日、当時の防衛庁長官(中曽根康弘)もこう答弁している。 「私は内局による統制というのは必要だと思っているんです。(略)三軍がばらばらにならないように、そういう意味で内局においてこれを統合するということは非常に大事な要素でもあるのです。そういう意味におけるシビリアンコントロールというのはある程度あるでしょう」(衆院内閣委) 利権やポスト、予算を奪い合う陸海空自衛隊(三軍)の調整役として(文官の牙城たる)内局が機能する限り、防衛省設置法を改正しても実質的な文官優位は揺るがない(と考える)。護憲派なら、そう批判すべきではないだろうか。 《「シビリアン・コントロール」という概念は、これまで決して満足に定義されてはいない》(ハンチントン『軍人と国家』原書房)――そう考えるのが国際標準である。同じ著者の『文明の衝突』(集英社)と違い、日本では存在すら知られていないが、欧米では(同書を批判したファイナー著『馬上の人』とともに)必読文献とされている。文民統制はテレビ人が一知半解で発言すべき分野ではない。最低でも以上の文献は読んでほしい。 日本のテレビは昔から変わらない。平成13年、小泉純一郎内閣の防衛庁長官として、現在の防衛大臣でもある中谷元代議士が就任した際も、組閣直後の「ニュース23」で筑紫哲也キャスターが「戦後、制服組が防衛庁長官に就いたことはない。シビリアン・コントロール上の問題がある」と批判した。 正しくは以下のとおり。「『文民』は『武人』に対する用語であり(中略)元自衛官は、過去に自衛官であったとしても、現に国の武力組織たる自衛隊を離れ、自衛官の職務を行っていない以上、『文民』に当たる」(政府見解)。そもそも「文民統制は、シビリアン・コントロールともいい、民主主義国家における軍事に対する政治の優先、または軍事力に対する民主主義的な政治による統制を指す」(防衛白書)。民主的に選ばれた衆議院議員が防衛庁長官や防衛大臣となることに「シビリアン・コントロール上の問題」などあるはずがない。それどころか文民統制の理想形である。14年後の今もなお、自衛官やOBへの差別的なコメントがテレビで流れる。先月号で指弾した誤報や放言を含め、暗澹たる気持ちになる。 かつて福田恆存はこう説いた(「防衛論の進め方についての疑問」)。 「軍の暴走は軍のみにその責めを帰し得ず、文民優位の護符一枚で防げると思ふのは大間違ひで、優位に立つ文民は軍と対等に渡り合へる専門家でなければならないのである」 諸外国と違い、日本には(防大以外)軍事を教える大学もなければ、学部もない。その意味でも、中谷大臣の再登板は意義深い。一部テレビ人の批判はまったく当たらない。くだらぬ中傷は無視するに限る。うしお・まさと 昭和35年生まれ。早稲田大学法学部卒業。旧防衛庁・航空自衛隊入隊。大学院研修(早大院博士前期課程修了)、航空総隊司令部、長官官房勤務などを経て3等空佐で退官。防衛庁広報誌編集長、帝京大学准教授等を歴任。国家基本問題研究所客員研究員。岡崎研究所特別研究員。民間憲法臨調代表委員。東海大学非常勤講師。『日本人が知らない安全保障学』(中公新書ラクレ)など著書多数。最新刊は『ウソが栄えりゃ、国が亡びる』(ベストセラーズ)。関連記事■ アキも悲しむ? 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    植村隆君、木村伊量君のようなやり方はいい加減やめなさい

    川村二郎(元朝日新聞編集委員) 朝日新聞社の社長、重役が代わり、新体制になった。新体制の評判はどうだろうと思っていると、親しい編集委員から、 「最近、社内ではやっているナゾかけがあるんですけど、ご存知ですか」と、メールがきた。 こういうナゾかけだそうである。 朝日の新体制とかけて、何と解く? ロシアの人形、マトリョーシカと解く。 そのココロは? 形が同じで、どんどん小粒になっていく。 作者は不明らしいが、 「作者に座ぶとん一枚」と、返信した。 別の編集委員からは、「会社の社長が代わって再建、再生するときは、新しい社長が自分の方針をまず明らかにして、それから社員に意見を求めるのがふつうです。ところが朝日新聞は、そうではない。社長が自分の考えははっきりさせないまま、社員に意見を求めようとする。社員としては、社長の考えがわからないまま意見を言えと言われても、困るわけですよ」 と、メールがきた。 こういうところがいかにも朝日新聞社的だと、私は思う。 自分の考えを言えば、その考え方が正しかったかどうか、結果はいずれ明らかになる。結果が出れば、責任を問われる恐れがある。朝日で偉くなる人は、責任を問われることを何よりもいやがる。責任を問われれば、出世に響くからだろう。自分の考えを言うことは、いわば“地雷原”に足を踏み入れることになる。君子、危うきに近寄らずとばかり、口をつぐむわけである。 その結果、編集の現場からカンカンガクガクの議論が消えて活気がなくなり、紙面が面白くなくなったことは、すでに本誌に繰り返し書いた通りである。朝日で出世したければ、沈黙こそが金なのである。 そういえば、渡辺雅隆新社長は就任直後の記者会見ではほとんどの質問に、 「(批判は)重く受け止めます」 と答えてすませたが、この答え方は判断を迫られた時の最も無難で重宝な、したがって見方によってはズルイ答えである。場合によっては、言論人としての資格を問われることである。メルケル来社に大喜び… 経済部の記者は、 「社長が中堅記者を10人ずつ2回に分けて集めて、話を聞く会をするそうです。どうせ、『私は社員諸君の意見を聞いていますよ』という、アリバイ作りのセレモニーのような気がしますけどね」と言ってきた。 彼が「アリバイ作りのセレモニーではないか」というのは、無理もないことだった。新体制がスタートした昨年十二月から、販売店に社長や重役が出向き、読者の声を聞く集まりをした。新聞の業界紙はその模様を報じていたが、それを読むと、わざとらしい写真がついていて、「読者の声には真摯に耳を傾けますよ」という、アリバイ作りといって悪ければ、“お芝居”という感じが強かった。中堅記者の声を聞くというのも、その延長線にあるのだろうと、カンのいい記者なら誰しも思うことだろう。 かと思うと、あるベテラン記者は、 「朝日新聞丸という船に乗っている私たち乗組員は、氷山に衝突寸前のタイタニック号に乗っているようでビクビクしているのですが、朝日丸の船長以下高級船員は、デッキでパーティーをやってます。現実を見るのは怖いので、現実は見ないようにしているのでしょう」と、メールをくれた。 これには解説が必要かもしれない。 デッキでパーティーとは、7年ぶりに訪日したドイツのメルケル首相が朝日新聞社を訪問したことを指すと思われる。高級船員たちは恐らく、 「メルケル首相はうちには来ても、読売にはゆかない。ドイツの首相は、日本を代表する新聞は朝日だと思っているんだよ」と自画自賛し、悦に入ったことだろう。ハシャグ姿が目に浮かぶようである。 実際、メルケル首相の朝日訪問を取材した週刊誌の知り合いの記者は、 「メルケル首相の案内役を務めた編集担当の西村陽一・取締役は得意満面、喜色満面でしたよ。西村さんは人前で笑顔を見せない人かと思っていましたけど、笑うこともあるんですね」と言っていた。読むに耐えない天声人語読むに耐えない天声人語 しかし西村・編集担当は、喜んでいる場合ではなかった。メルケル首相の来訪に合わせるように、2015年3月12日号の『週刊文春』で適菜収氏の「今週のバカ」という一ページの連載が、「受験生、読んではいけない『天声人語』」という見出しで、朝日新聞一番の看板コラムを批判した。最近の「天声人語」のどこがどうおかしいか、微に入り細をうがち、ユーモアというオブラートにくるんで笑いものにしたのである。 たとえば2015年2月22日の天声人語が高浜虚子の句〈春寒く子猫すりよる夕かな〉を引用して、 「飼うにせよ地域でかわいがるにせよ、責任が欠かせない。そんな一句と読み取りたい」と書いたことにふれ、「バカですか?」とからかった。 確かに2月22日の「天声人語」を読んだ読者の中には、高浜虚子の句のこの解釈にギョッとした人がいたはずである。私もその一人だった。 その翌日の「天声人語」が沖縄・辺野古の海に巨大なコンクリートブロックが投入されている記事を見て、『土佐日記』を書いた紀貫之が荒れる海に鏡を投げ入れた話を思い浮かべたと書いたことについては、 「完全にイカれていた」と書いた。 問題の「天声人語」は、私のように古典の素養のない人間が読んでも「コンクリートブロックと『土佐日記』の話はつながらないだろう」と思ったものだ。 「今週のバカ」は、 「(「天声人語」は)文章が下手とかイデオロギーに汚染されている以前の問題。偶然読んだ二日分がこれなので、バカな文章が日々垂れ流されているのだろう。朝日新聞は(「天声人語」を書き写すと=筆者注)『文章力・時事力が身につく!』と自画自賛していたけど、こんなの読んでいると、確実に大学に落ちるよ」と、“トドメ”を刺した。 このコラムを読んだ朝日新聞広告局の社員は、 「朝日の編集担当は、読んだんですかねえ。僕らでも『そうだ、そうだ』と思ったんですから、読者も『天声人語』を読まなくなるんじゃないですか。偉い人は『天声人語』を何とかしようとは、思わないんですかねえ」 と、メールで言ってきた。別の広告局の社員は、 「よその新聞のコラムの話なら、笑えるんですけど、朝日のことなので、とても笑う気になれません」と、やはりメールで言ってきた。 広告の社員は、「体制が変わっても『天声人語』が変わらなければ意味がない」と言いたいのだろう。 実は私自身、5、6年前に雑誌に「天声人語」に「ふと思う」という言い回しの多いことを指摘し、 「人間、そんなに都合よく『ふと思う』ことなど、あるものか」 と書いたことがある。「論旨も言葉遣いも粗雑で、読むに耐えない」と書いたこともある。中学や高校で講演を頼まれると「天声人語を書き写すことは余り勧めない」と話している。その手前、「天声人語」は毎日読み、「天声人語」批判には一通り目を通しているつもりだ。しかし、「今週のバカ」ほど辛辣で正鵠を射た批判は、読んだことがない。 『週刊文春』は現在、一番売れている週刊誌である。「今週のバカ」の影響は、無視できないだろう。それなのに、ドイツの首相が来社したといって自画自賛し、手放しでハシャイでいて良いのか? ベテラン記者が、 「デッキでパーティー」 と言った意味は、おそらくそういうことではないかと、私は理解している。メンツを保つための組織改変 このベテラン記者は、「調査報道」を売り物に生まれた「特別報道部」が人員削減したことを、 「自分から取材力のキバを抜いて、朝日新聞はいったい、何をするつもりなんでしょう」とも言ってきた。彼に言わせると、 「編集の幹部は社内で風当たりの強い『特別報道部』の看板を降ろしたかったようです。しかし看板を降ろすと『プロメテウスの罠』の功績まで否定することになりかねない。そこで看板は降ろさず、人員を減らすことにして、社内の批判をかわそうとしたようです。しかし、どう考えても実質的な解体ですよ」 ということになる。看板を降ろさなかったのは、メンツを保つためだというわけである。 その一方、不可解な人事が発表された。 東京本社の社会部長を務めたU君は何年か前、定年を待たずに朝日を退職し、大阪の朝日放送に転じた。そのU君が再び朝日新聞社に入社したのである。U君と年齢の近い記者は、 「他人の懐をのぞく趣味はありませんけど、U君は朝日を辞める時にそれなりの退職金を手にしたはずです。朝日放送を退社すれば、また退職金が入ったでしょう。朝日にもどって退職すれば、また退職金がもらえるんでしょうかねえ。そうだとすれば妙な話ですよね」 と言っていた。 U君が渡辺・新社長と同期の入社とあって、この人事には、社内で揣摩臆測が広がっているらしい。理由のはっきりしない人事は、社員の士気を下げるばかりである。 社員の士気と言えば、4月から出張の旅費規程が変わることが社内で話題になっているそうである。これまでは、たとえば1泊2日の出張なら、帰任日の2日目も1万円近い日当が支払われた。ところが4月からは、帰任日の日当をゼロにするというのである。帰任日はどんなに腹が空いても、食事は自腹ということになる。社員の士気が下がるのは、目に見えている。結局、池上コラム再開 ウソを謝らない木村前社長結局、池上コラム再開 ウソを謝らない木村前社長 年があらたまった1月下旬、ジャーナリスト池上彰氏のコラム『新聞ななめ読み』がほぼ半年ぶりに再開された。 池上氏は再開1回目に、朝日新聞の従軍慰安婦報道の誤りにふれ、 「朝日新聞は不良債権処理を先送りした銀行と同じで、誤りがわかった時点でさっさと訂正とお詫びをして、処理しておくべきだった。慰安婦問題を大きくした原因は、朝日の先送り体質にある」 と書いた。その通りである。 これを読んだ朝日の20代の記者からは、 「池上さんは去年、朝日に言論の自由を奪われたわけでしょう。ジャーナリストの名誉と誇りに賭けて、コラム再開を拒否してもらいたかったです」と、連絡があった。 その意気やよしと言いたいところだが、池上氏と朝日の間でどういう話し合いがあったかは、明らかではない。真相がわからない以上、口を挟むのは礼を失することになるだろう。 池上氏のコラム休載の問題で、私には気がかりなことが一つある。吉田調書についての会見を行う朝日新聞社の木村伊量社長(当時)=2014年9月11日、朝日新聞東京本社(早坂洋祐撮影)  昨年夏の朝日新聞社の記者会見で、当時の木村社長は、 「休載を命じたことはない」と言った。 私はそれを聞き、当時の杉浦信之・編集担当が社長の胸中を勝手に忖度し、休載にしたのだろうと思った。部下が上司の顔色をうかがい、「たぶん、上司はこうすることを望んでいるのだろう」と判断をする。後で判断が間違っていたとわかっても、上司は「部下のしたことです」と言って逃げることができる。詳述はしないが、私はそういう場面を何回か見てきた。朝日新聞では、さほど珍しいことではない。 ところが、第三者委員会の調査の結果、コラムの休載は、木村社長の決定であったことが明らかになった。木村社長は記者会見でウソをついたことになる。 木村前社長は、1日も早く会見を開くなりして、ウソをついたことを認め、謝罪すべきだろう。渡辺・新社長は、 「そうしないと木村さん、一生ウソつきのレッテルを付けられたままになりますよ」と、言うのが親切というものではないか。言論機関の社長が「ウソつきだった」というのでは、シャレにならない。末代までの恥だろう。 このことでもわかるように、朝日新聞が深刻な状態にあるのは、池上氏の指摘する「先送り体質」に加え、都合の悪いことには目をつぶり、具合の悪いことには取材に応じず、逃げ隠れする体質が原因の一つになっている。この体質と先送り体質は、ニワトリとタマゴのような関係にあり、どちらが先かは不明だが。 誤解のないように書いておくと、いついかなる時も逃げ隠れしない、まともな記者はいくらでもいる。OBになったが山田厚史君は、その一人である。彼は最近もアンチ朝日を売り物にするある月刊誌で、「朝日新聞は廃刊にすべし」と主張するジャーナリスト櫻井よしこさんと、正々堂々と渡り合った。 私は彼が新人記者のころから知っていて、編集委員になってからもつき合いがあった。決して卑怯な振る舞いはしない。顔にそう書いてある。 ところが困ったことに、敵を作ることを恐れず、誰に対しても言うべきことを言い、書いたものに対する反論、批判には自分で答えるこういう記者は、朝日では出世をしないことになっている。朝日新聞の一番の問題はそこにあるかもしれない。 昨年12月の、社長交代を決めた株主総会のことである。 株主総会では、歴代の社長が出席することが恒例になっていた。社長経験者にとっては、一種の晴れ舞台と考えられていたためかと思われるが、昨年末の総会には、1人も出席しなかった。社内事情に詳しい知人によると、 「従軍慰安婦問題は、歴代の社長で誰一人として無縁だった人はいない。総会に出ることは、針のムシロに座ることになる。総会で責任を追及されることはなくても、株主の冷たい視線にさらされるのは目に見えている。だから逃げたんでしょう」ということになる。社主「経営まかせて良いのか」 歴代社長の欠席が珍事なら、社主が質問に立ったことも珍事と言うより、はじめてのことだったらしい。ところが社主は社長に、 「経営をまかせて良いのか?」と質問し、軽く一蹴された。 社主は朝日新聞社のビルの建設を一手に受ける竹中工務店の竹中家の人たちと昵懇だそうで、朝日が大阪にタワーを建てることを決めると、 「大きな仕事をいただくのはありがたいが、タワーが朝日の経営を圧迫するのは目に見えている。考え直したほうがいいですよ」とアドバイスされたそうである。社主は、この話を親しい人にしている。 本気で朝日新聞の経営を心配するなら、株主総会でこの話を社長にぶつけるべきではなかったか。 ところが社主は、経営の核心を突く(と思われる)質問をしなかった。通り一遍の質問で言わばお茶を濁したのは、どういう考えからだったのか? 私には見当もつかないが、これも一種の逃げではないか? 私にはそう思われてならない。 新体制になって1カ月した2015年1月9日、朝日新聞の記者時代に「従軍慰安婦」に関する問題の記事を書いた植村隆君が、文芸春秋社と西岡力・東京基督教大学教授を名誉毀損で訴えたことには驚いた。 西岡教授が植村君の記事の間違いを指摘した文章と、文芸春秋社が『週刊文春』で報じた植村君についての記事によって名誉を傷つけられたというのが植村君の主張である。その結果、家族がいやがらせや脅迫を受け、危険を感じていることも訴えた。 私が驚いたのは、言論人なのに言論戦を挑まずいきなり裁判に訴えたことである。特に西岡教授に対して失礼ではないかと、私は考える。 西岡教授のお書きになった慰安婦報道の批判文は読んでいるつもりだが、私の見るところでは、植村君の記事は分が悪い。私のようなボンクラが読んでも、取材の甘さが目につく。事実かどうかは、裁判に訴える前に、言論で争うべきである。逃げ続けた植村君が今ごろ…逃げ続けた植村君が今ごろ… 尊敬するジャーナリストの先輩は、 「ジャーナリストのレゾンデートルは、批判に対して自分の筆で反論していくことです。言論人が法廷で正義を決めてもらうというのは、健全なジャーナリズムではない。もし言論に対する批判に対して訴えだしたら、訴訟が無限に起きるだろう」と、ある雑誌に語っていたが、まったくその通りである。 しかも植村君の場合、これまでも何回か、週刊誌の取材を受けた。言論で応える機会があったのである。しかし取材に応えず、週刊誌の記者に追われ、あたふたとタクシーに乗り込んで逃げる様子が、報じられている。見苦しいと言わざるをえない。そういうことをしておきながら裁判に訴えるのは、恥の上塗りと言うものではないか。 植村君が月刊誌『文藝春秋』に寄せた一文も読んだが、私には言い訳としか読めなかった。ジャーナリストの書いたものとはとうてい、思えなかった。あれだけのページを与えられるなら、なぜ西岡教授や櫻井よしこさんとの対談にしなかったのか?「週刊文春」の記事コピーを手に日本外国特派員協会の記者会見に臨む植村隆氏=1月9日午後、東京・有楽町の日本外国特派員協会 (川口良介撮影) もちろん、お嬢さんの写真がネットに載せられ、「売国奴の娘」などと書かれたり、いやがらせをされたり、脅迫されたりしていることには同情する。しかし、これは全て犯罪である。犯罪は警察にまかせるしかないではないか。 もう一つ不思議なのは、取材からは逃げ回っていた植村君がなぜ、一転して訴訟という手段に訴えることにしたのか?ということである。雑誌の記事によると、植村君には200人近い弁護士が“応援”に付いたようである。 悪意をもってみれば、頼もしい応援団が付いたことで植村君は風向きがアゲンストからフォローに変わったと判断し、態度を変えたのではないか?と思われる危険がある。実際、作文の教え子で記者になった若者の中には、 「もしかして植村さん、自分こそは言論の自由の旗手だと思っているんじゃないですかねえ」と言ってくる記者もいる。私は、 「そこまで言っては植村君がかわいそうだよ」と返事をしているが、こういう誤解を招くのは、植村君が言論戦を避けて、取材に対して逃げ隠れを続けたからである。記者は逃げたら終わり たびたび書いたことだが、新聞記者たる者は、書いたものに異論反論疑問が出た時は、決して逃げ隠れしないことである。 一度でもこれをすると、読者の信頼を失う。一度失った読者の信頼を書いたもので取り返すのは、至難の技である。 一度逃げ隠れしたジャーナリストは、一生、身を潜めて生きてゆくしかない。この屈辱に比べれば、過ちがわかった時はただちにお詫びと訂正をすることなど、何でもないことである。 植村君の書いたものについては、朝日新聞の第三者委員会は、 「縁戚関係者を利する目的で事実をねじ曲げた記事が作成されたとはいえない。しかし(記事が)強制的に連行されたという印象を与え、安易かつ不用意な記載があった」と、指摘している。 法廷の外では、勝負はついているのではないか。 植村君の行動について、朝日の社内でどういう評価がされているのか、私にはわからない。私が望むことは、朝日の記者諸君には植村君を他山の石として、記事についての批判や反論異論には耳を塞がず、逃げ隠れせず、堂々と振る舞ってもらいたい、ということである。特に局長、役員をめざす諸君には、そうしてもらいたい。 ペンは剣よりも強しと言う。しかし、都合が悪くなると逃げ隠れするペンでは、竹光はおろか割り箸にも勝つことができないだろう。かわむら・じろう 昭和16(1941)年、東京・本郷生まれ。慶應義塾大学卒業。39年、朝日新聞入社。社会部記者、週刊朝日編集長、朝日新聞編集委員などを歴任。退社後も、文筆家として執筆活動を続ける。本誌の昨年7月号から朝日新聞の本格批判を始めた。NPO法人日本語検定委員会顧問。著書に『学はあってもバカはバカ』(かまくら春秋社)など。関連記事■  朝日はなぜ嫌われるのか 傲慢トップと社内文書■ 朝日に引導を渡すことができるのは購読者自身である■ 「重く受け止めて」ないじゃないか! 驚愕の朝日・慰安婦社説

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    政権批判なら何でもいいのか トンチンカンな左派マスコミ

    金融政策の目的を勘違いした日銀批判は論外だ高橋洋一(嘉悦大学教授)金融政策の究極の目的は雇用にある 今年4月10日、テレビ朝日の『報道ステーション』(2014年11月24日放送)が「アベノミクスの効果が大企業や富裕層のみに及び、それ以外の国民には及んでいないかのごとく断定する内容」として、「公平中立」な番組作成を自民党に要請されたと報じられた。公平中立な番組作成が可能かどうかはともかく、アベノミクスや日銀の金融政策をめぐる報道には首をかしげることが多い。 たとえば2015年4月8日、黒田東彦・日銀総裁は金融政策決定会合の場で金融政策の現状維持を決定し、記者会見を開いた。企業については「前向きな投資スタンスを維持している」、個人消費は「全体として底堅く推移」と述べた。景気は「緩やかな回復基調を続けている」。輸出は「先行きも緩やかに増加」と語った。 加えて、日本では雇用が改善している。就業者数の推移(図1)を見ると、黒田日銀による「異次元緩和」を境に、就業者数が明らかに増加している。直近の2015年2月の就業者数は6322万人であり、対前年同月比で39万人増。3カ月連続の増加である(総務省統計局調べ)。雇用は、日本では金融政策の目標になっていないが、それを改善させたのは実質的には日銀である。なお、マネーストックと失業率は逆相関関係にあり、マネーストックが上がれば失業率が下がる。1970年以降のデータを見ると、マネーストックと失業率のあいだには高い逆相関が見られる(図2)。そして雇用が回復すれば、人手不足になっていずれ賃金が上がりだし、本格的な景気になる。 リーマン・ショックの翌年、2009年7月で5.7%にまで上昇していた日本の失業率は、直近の2015年2月には3.5%まで回復した。 雇用の改善は右派であろうと左派であろうと、等しく歓迎すべきことである。失業のない社会を望むのは経済学の目標だ。したがって、黒田総裁が「2年程度を念頭に、できるだけ早期に物価安定目標を実現する方針に変化はない」と述べたのも当然である。 ところが、左派マスコミは金融政策にともなう雇用の改善についていっさい報じなかった。4月4日付の『朝日新聞』『毎日新聞』『東京新聞』は軒並み、日銀が2年きっかりで2%のインフレ目標を達成しなかったことを批判した。『朝日』は「遠い 物価上昇2%」という見出しで次のように書いている。 消費者物価の上昇率は14年春、1%台前半まで上がったが、夏場以降、原油価格が落ち込んだあおりで、直近2月には0%まで鈍っている。2%の達成時期は見通せない状況だ。それでも日銀は「2年程度」や「2%」という目標を変えようとしない。期限を緩めることで、人々が日銀の宣言を信じなくなるのが怖いのだ(『朝日新聞』2015年4月4日付)。 まず「原油価格が落ち込んだあおりで」と未達成の理由を書いているのに、2%の目標未達は日銀のせいだ、というのが矛盾である。原油価格の低落はべつに日銀の責任ではないからだ。またこの記者は、金融緩和による雇用の改善というプラス要素に触れていない。のみならず、2%未達の真の理由である「消費税増税」というマイナス要素にも触れていない。偏向報道と呼ばれても不思議ではないだろう。『朝日新聞』はもともと財務省の掲げた消費増税10%に賛同した「御用新聞」の一つであり、8%増税のとき庶民の生活がいくら苦しくなろうと、「増税やむなし」とする記事を載せつづけた新聞である。財務省に迎合する報道を続けてきた手前、金融緩和の効果を認めてしまうと、「人々が朝日の報道を信じなくなるのが怖いのだ」。そして安倍首相を批判したい一心で、雇用の改善というプラス面を伏せた。しかし、結果として「何のために経済政策をするのか」という根本を見失っている。本末転倒である。 金融政策の究極の目的は雇用にある。私が小泉内閣で竹中平蔵・経済財政政策担当大臣の補佐官や第一次安倍内閣で内閣参事官を務めたとき、まず注目したのが雇用関連の統計だった。就業者数が良好であれば、それだけで経済政策は60~70点、及第点を付けることができる。 またヨーロッパの左派政党の政策を見ると、雇用が最も大きな柱であることがわかる。欧州社会党(Party of European Socialists、PES)や欧州左翼党(Party of the European Left、EUL)はいずれも雇用確保のための金融政策の重要性を訴え、欧州中央銀行(ECB)にインフレ目標政策を働きかけてきた。つまり、インフレ目標政策は左派の政策といってよい。ところが、日ごろ「格差の拡大」「弱肉強食」を批判する日本の左派マスコミだけが、日銀の金融政策にかみついているのはトンチンカンな光景である。消費増税の負の影響を正しく伝えるべき消費増税の負の影響を正しく伝えるべき 日本のマスコミは2%の目標未達の理由に消費税を挙げていないが、じつはそれは黒田総裁も同じである。今年4月8日の会見では「消費税の影響で実質雇用者所得が前年比でマイナスになっていたが、この春から影響はなくなる」と語った。雇用者所得への影響にとどまり、消費税が2%未達の原因とはいわない。これも不可解である。原油価格の変動や「金融緩和の効果がまだ波及していないから」という理由では、根本的な説明にならない。消費税の増税が与える負の影響を正しく伝えるべきだろう。 おさらいすると、消費税を8%にした直後、2014年5月の「消費水準指数」は対前年同月比でマイナス7.8%になった。東日本大震災が発生した2011年3月のマイナス8.1%以来の落ち込みで、最近33年間における最悪のマイナスが2011年3月だから、2番目に悪い数字である。まさに甚大な被害以外の何ものでもない。 マスコミの日銀批判に対して「消費税の増税が原因だ」「なぜ雇用が改善した事実を伝えないのか」という反論を日銀自身がすべきであり、証拠に基づく反証がなければ、マスコミとのあいだで延々と議論にならない応酬を重ねることになる。 ただし、市場関係者のなかに今年4月中の追加金融緩和を求める声があったが、これは株を買っている人のポジション・トークにすぎない。2015年4月時点で、日本の経済状況に追加の緩和を必要とする何らかの変化はなかったからだ。「あと一押し、金融緩和で株価を上げてもらいたい」という投資家の願望である。たしかに株価は景気を先取りする先行指標の一つであるが、金融政策の究極の目的はあくまでも雇用だから、これも本筋を見失った話だ。給付付き税額控除が最も簡単 以前から筆者が指摘しているように、消費増税による悪影響を払拭するためには、増税分を減税する「消費税の減税」を行なうのが最も正しい解だ。次善の策は、増税したぶんを他の景気対策で補うことである。 その次善の策について、経済学者がさまざまな自説を唱えている。ただし、そのアイデアが現実の政策となる前にはいくつも条件がある。 たとえば、今年3月に日銀審議委員に就任した原田泰氏(早稲田大学特任教授)は、国民に一人当たり7万円の基礎的収入を配るベーシック・インカム(BI)を主張している。格差対策や生活保護についていうなら、世界の趨勢はベーシック・インカムというより「給付付き税額控除」である。低所得者に対しては、消費税負担の増加分を何らかの補助金で支援するのが理屈上、正しい。そのためには給付付き税額控除が最も簡単な方法だ。 これは「負の所得税」と呼ばれる発想から生まれた政策の一つで、低所得者に対して税額控除しきれなかったぶんを一定割合、現金で払う制度である。欧州など消費税の先進国では、軽減税率の代わりにこの給付付き税額控除を行なっている。ちなみに日本の新聞は、紙面のなかでは財政破綻を言い募り、消費税の増税を主張しながら、新聞の利益になる軽減税率はちゃっかり政府に嘆願していた。業界のエゴである。 給付付き税額控除を正確に行なうには、所得と資産の捕捉を徹底しなければならない。そこで生きてくるのがマイナンバー(社会保障と税の共通番号)である。給付付き税額控除は、フローの所得で最低限の保障を賄うことだから、当人が働いて得た所得からはいくらか差し引かなければいけない。 この引くぶんを割り出すのが一苦労で、一律に現金を給付するには、各人がどれだけ働いて収入を得ているかを正確に把握しなければいけない。ベーシック・インカムの発想も、マイナンバーがなければ絵に描いた餅に終わるだろう。 日本では、2015年10月からマイナンバー制が開始予定である。市区町村が住民に通知し、日本に住むあらゆる人に12桁の個人番号が割り当てられる。2016年から国や地方自治体、健康保険組合が「社会保障」「税」「災害対策」の三分野について個人情報を管理できるようになる、という。マイナンバー導入で何が変わるかマイナンバー導入で何が変わるか 企業や個人がマイナンバーで銀行や証券の口座を開き、税務署が番号を照会すれば、入金から納税までのお金の流れをすべて把握することができる。 これまで日本では納税者番号制がなかったので、脱税が公然と放置されてきた。マイナンバー制を導入すれば、税金の未納分が一目瞭然となる。税逃れのないようにきちんと管理すれば、日本の税収は増え、消費税率の引き上げなど二の次、三の次であることがわかる。それほど消費税というのは脱税が多いのだ。米国の社会保障カードのサンプル たとえば日本の小売業者は、納入業者から商品を仕入れるときに負担する消費税額を、商品を売ったときに得る消費税額から引いている。しかしその際、納入業者からの納品書に消費税額が記されていない。事実上「言い値」になっているので、仕入れの際に小売業者が負担額を多く見積もれば、小売店の払う消費税額を減らすことができてしまう。 この納入システム上の欠陥によって取り逃がしている消費税は、およそ3兆円に上ると見られる。納品書に消費税額を明記してその額だけを控除できるようにするインボイス方式(税額伝票)に切り替えれば、消費税の徴収漏れを確実に防ぐことができる。 日本は現在、社会保険料で10兆円、脱税で5兆円、消費税で3兆円が未納だという。計20兆円近くの税金が支払われておらず、源泉徴収をされるサラリーマンをはじめとして、税金をまともに納めている国民は馬鹿を見つづけている。このような制度上の不備は即、変えなければならない。 これまで取り逃がしていた脱税分をマイナンバーで捕捉し、税金を集めるのは有効な財政政策である。消費税を増税する前に、個人が払う消費税と企業が払う法人税が「二重課税」になっている、という根本的な問題があることも浮き彫りになるだろう。 だが、財務省のいうとおりに「消費税率を上げなければ財政破綻する」と報じていた左派マスコミは、揃ってマイナンバーの導入に消極的だった。なぜか。 マイナンバー制に反対したのは、税金逃れをしている人や、仕事を増やしたくない役人を除けば「プライバシーの侵害にあたる」という左派の主張である。しかし、税や社会保障に関してプライバシーで壁をつくったら、徴税も行政サービスも成り立たない。プライバシーを盾に脱税される国のほうは堪ったものではない。 マイナンバーがプライバシーの侵害なのであれば、日本以上にプライバシーに敏感なヨーロッパ各国で納税者番号制がスタンダードになっているはずがない。現実に世界で行なわれている個人情報保護の工夫を、日本も取り入れればよいだけである。日本のマスコミは、まさか脱税を放置することが正義だと考えているのだろうか。テレビに新しいネタはない 基本的に、マスコミの問題は自分でデータに当たって調べないことにある。政府の予算書一つとっても、2000ページもあるから、面倒なのだ。その代わりに記者たちは財務省のレクチャーを受け、官僚のまとめたプリントを丸呑みする。情報統制というなら、自民党の中立要請よりも、財務省の「増税は未来への責任」とのプロパガンダのほうが、新聞やテレビによほど恐ろしい統制を施しているのだ。私は官邸経験のある数少ない官僚だったが、官邸が情報統制やテレビに圧力を掛けるなどという場面に出くわしたことはない。「事実に反する」という指摘をマスコミに対して行なったことはあった。 私が霞が関にいた時代、「マスコミの脳は小鳥の脳。容量に見合う情報だけ与えておけばいい」と囁かれていた。先述のように予算書の一部さえ読まずに記事を書くのが日本の記者だから、残念なことに右の言葉はさほど間違ってはいない。 私がテレビでコメントをするときの発言は、すべてエビデンス(evidence、証拠)に基づいている。テレビ番組に出て「なぜあのような発言をしたのか」と尋ねられても、必ず該当のデータや事実を提出して答えることができる。これはテレビで喋ろうと、雑誌に書こうと変わらない。反対に財務省時代には、コメンテーターの発言が事実とまったく異なるので、データを示して問い合わせをしたことがある。事実であればイエス、事実でなければノーで謝る、という単純明快な世界である。ところが大概の人はムニャムニャいったきり返答がない。 証拠や事実というのは、好き嫌いやイデオロギーの問題とはいっさい関係ない。たとえば原発問題に関して、「一刻も早く原発再稼働を」と「一刻も早く脱原発を」という意見があるが、私はどちらでもない。原子力とLNG(液化天然ガス)火力、石炭火力、石油火力、陸上風力、洋上風力、地熱、太陽光、ガスコージェネレーション(天然ガスを使った発電で生じた排熱を冷暖房や給湯などに使う仕組み)で発電した際のコストをそれぞれ円/kW時の数値で比較し、最も効率のよい発電方式をその都度選んでいけば、おのずと市場原理に基づいた解が出るからだ。 エビデンスのない日本のマスコミに「公平中立な番組作成」は無理だし、コメントする側もテレビ番組に出て自由に発言できる、と考えること自体がおかしい。スポンサーの制約や時間の制限があるから、コメントが途中でカットされることやまったく放送されないことも日常茶飯事である。そもそもテレビ番組は多くのスタッフと共同でつくっているので、コメンテーター一人だけのものではなく、一人の意向が通るはずもない。実際にスタジオに入ってみればわかることである。 私が主張を自由に述べる媒体はあくまでも個人名で責任を取れる著書や雑誌、ブログである。テレビ番組で語る内容は、本や論考の一部分を披歴するだけだから、基本的に新しいネタはない。これはテレビを視聴する側もある程度、割り引いて見たほうがよいと思う。出演を頼むテレビ局の側もその人が書いた本を見て依頼するわけだから、おのずと限界が生じる。限られた時間と設定のなかでコメントを流し、視聴率によって番組の方向性が決まるのがテレビであり、特有のシステムとして割り切って考えるべきだろう。たかはし・よういち 嘉悦大学教授。1955年、東京都生まれ。東京大学理学部数学科、経済学部経済学科卒。博士(政策研究)。1980年、大蔵省に入省。理財局資金企画室長、プリンストン大学客員研究員、内閣参事官などを歴任。2008年、退官。著書に、『日本人が知らされていない「お金」の真実』(青春出版社)ほか多数。関連記事■ 集団的自衛権は「正当防衛」だ■ [格差社会]どん底の貧困に救いはあるか■ 高橋洋一・ブラック企業も減る!アベノミクスの効果とは

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    NHK『クロ現』やらせは「特捜のプロ」に調べさせよ

    水島宏明(法大社会学部教授)このままだと受信料の無駄遣い 『クローズアップ現代』やらせ事件。私は自分自身もテレビで調査報道を行なってきた経験から、今回の問題は“疑惑の取材”を行なったN記者による確信犯的なやらせ・捏造があったとみている。そのため、N記者がかかわった過去の取材もはたして問題がなかったのか、徹底的に検証すべきだと思っている。すでに私の元にもN記者の取材についての問題だと思われる事案について情報が寄せられている。 さて、先日、NHKの調査委員会がこの問題で中間報告を発表した。 まだ中間報告で、最終的な結論ということではないが、いわゆる「やらせ」の事実があったかどうかについては、取材をしたN記者の発言と番組に「ブローカー」として登場した人物A氏の発言が真っ向なら対立している。「ブローカー」氏はN記者から演技するよう依頼されたと発言し、N記者は否定している。また、番組の中で、「ブローカー」の活動拠点とされる事務所に相談に訪れたことになっている「多重債務者」として登場する人物B氏は、N記者とは8、9年の知り合いだというが、この人物もN記者による演技の依頼はなかったと主張している。いわば両論併記で、それぞれの人物がこう言っている、と書いてあるだけだ。 それぞれの言い分は「食い違っている」ことだけを認定したらしい。 「真実」をどうしても追及しようという迫力はまったく感じられない。 この中間報告を読む限り、最終報告もこの調子で、それぞれがこう言っている、として、両論併記になるのだろう。それで「食い違っている」というだけでそれ以上は踏み込まないものと想像ができる。 おいおい。冗談ではない! 今回の調査費用で外部の弁護士らへの報酬も受信料から出ているのだ。真面目に調査をやってもらわないと困るのは視聴者だ。 確かに、調べているのはNHKの調査委員会で、弁護士も入っているものの、強制的な調査権はない。仮にN記者とB氏が口裏を合わせ、シラを切り続けたら、それ以上は踏み込めない。本当の意味での真実は永遠に闇に葬られる。NHKは外部の委員にも意見を聞いて最終報告を出すと言っている。 しかし、このままでは真実に近づくことができないままで終わる雲行きが濃厚なのだ。 では、真実はわからないままでおしまいなのか。 実はきわめて有効な打開策がある。 この種の取り調べに慣れている元特捜検事たちのチームを作ることだ。 実際、過去にそんな事例が民放にある。 2007年に発覚した関西テレビの『発掘!あるある大辞典2』の調査報告書だ。154ページにも及んだ徹底した調査だ。これに比べると、今回のNHKの『クローズアップ現代』の調査委員会は、中間報告とはいえ、わずが数枚のペーパー。あまりに調査する意欲に欠けたものだといわざるをえない。参照:「当然、科学的根拠や実験の正確性確保のためのガイドラインの作成など、自主的なルール作りがあって然るべきであったといえる」出典:「あるある大辞典」調査報告書 関西テレビの『発掘!あるある大辞典2』についての外部委員会による調査では、調査委員長は熊崎勝彦氏。弁護士で、元東京地検特捜部長、元最高検公安部長。様々な事件の容疑者を追いつめて自白させてきた特捜の中でもプロ中のプロである。 当時の委員の一人に聞くと、熊崎委員長の取り調べは迫力があるもので、ほぼ一方的に話しているのに、当初はシラを切っていたディレクターやプロデューサーたが彼に調べられると、次第に涙を浮かべて「申し訳ありませんでした」と罪状を認め、次々に「落ちていった」という。 また実際の調査には、熊崎氏のかつての子分の元検事たちが手足として調査チームに加わって、証拠固めをしていったという。 熊崎氏は現在、日本野球機構コミッショナーだ。 NHKが本気で今回の『クロ現』の疑惑について調べる気があるなら、「特捜のプロ」であるヤメ検の弁護士たちを起用することだ。 それも大掛かりな調査チームを編成させる。 それをしないのは、NHKが民放である関西テレビがやった程度にも真剣に取り組む意思がない、ということでもある。 だが、『クローズアップの現代』の問題は調べれば調べるほど、深い闇が次々に出てきそうだ。 ちなみに『発掘!あるある大辞典2』の事件では関西テレビの社長は引責辞任した。高い取材能力で知られるNHKなのに、民放の程度にも調査しないし、潔く責任を取る最高幹部もいないのか。民放ならすぐにバレたはず民放ならすぐにバレたはず 『クロ現』のやらせ疑惑で、NHKが民放よりも甘い点 第2弾。今回の『クローズアップ現代』でのやらせ・捏造疑惑。同じことをやろうとしても民放では難しかっただろうと思われる。 民放では難しく、NHKだからこそできたのではないのか、と思う。取材を行なったN記者が週刊誌で報道されている通りにやらせを主導したとしても、民放であればかなりの確率で周囲にバレていたといえる。 民放では、多くの場合は事前にバレて、やらせの放送は実現しない。 多くの人は疑問に思うだろう。 娯楽番組を流している時間の方が圧倒的に多い民放の方が「やらせ」が難しいなんてー。 実際、BPOが審議するような「やらせ」などの問題になる放送の多くはNHKよりも民放で起きているのも現実だ。 だが、報道の現場に関する限り、少なくともこの数年以内の間であれば、今回の『クロ現』のような大胆なやらせ行為は民放局では相当に実行が難しい。 一体なぜだろうか? 周囲のスタッフが止めるからだ。 民放ではこの数年ほどの間に、一人が「やらせ」「捏造」を意図したとしても、他のスタッフによる牽制や監視によって、それが防止しようとするメカニズムが働くように次第になってきた。 特に、関西テレビ、東海テレビ、日本テレビなど、比較的最近、BPOで審査されたり、その結果として「放送倫理違反」などを 指摘されたような局は、再発防止策をきちんと立ててあり、同じようなことがあった場合にどうすべきかを繰り返し研修している。 もちろん、それによって「2度と手は出しません」というふうに100%やらせがなくなるわけではない。 しかし、ある程度の効果は出てきてもいる。 2007年に関西テレビ『発掘!あるある大辞典2』で、データなどの情報が誇張されていたり、捏造されていたりしたことがわかった。 そこで関西テレビでは、この事件後に二度とやらせや捏造などをしないように、他局に比べてもくわしい「番組制作ガイドライン」を作成している。そこでは、やらせと虚偽・捏造出典:関西テレビ放送 番組制作ガイドライン(2012年改訂版) などについて、過去の実例が出ている。 また関西テレビでは外部講師などを招いて、報道や制作にかかわる社員やスタッフの放送倫理の向上を目的とする研修会を時折、開いていて意識の向上に努めている。 2012年11月末、同社のニュース番組は、大阪市の職員が規定に違反して兼業しているという実態を、そうした実態を知る告発者の 匿名インタビューを元に特集で放送した。ところがこのニュースのVTRに出てくる告発者のインタビューは、声は当人のものであったものの、その姿は撮影スタッフの1人のものであることが判明した。 外見だけであっても虚偽の映像を使ったものとして、BPO(放送倫理・番組向上機構)の放送倫理検証委員会から放送倫理違反とされた。  この事案は、あの『発掘!あるある大辞典』で問題を起こした関西テレビが再び不祥事、という意味ではかつての事件の教訓が生かされていないという批判を受けたが、他方で、撮影について違和感を抱いて問題を最初に指摘したのがカメラマンであったことから、『あるある事件後の教訓や研修が生きた、という評価する放送関係者も少なからず存在する。 他の民放でも記者やディレクターによる取材が放送倫理上、問題があると思われる場合、カメラマンならカメラデスクなどに報告するように指導されているテレビ局は多い。 つまり、NHK『クローズアップ現代』のようなケースで、仮に記者が確信犯で「やらせ」行為に加担していたとしても、カメラマンら他のスタッフがチェックして「おかしいのではないか?」と声を上げるケースが民放では実際に多いのに、なぜ今回『クロ現』ではそうならなかったのか、という疑問が生じることになる。おそらく民放、なかでも関西テレビだったら、記者が同じようなことをしてもカメラマンが上司に告発して、放送前に問題になって、止められていただろうと想像される。 筆者もNHKの報道番組制作におけるチェック体制の厳しさは民放の比ではなく、何重ものチェックが行なわれている実態を知っている。 それにもかかわらず、今回、『クロ現』でやらせや捏造にあたる行為が発覚したのはなぜなのか。 なぜNHKが放送前にチェックできなかったのかを今後も検証していかねばならない。 ただ、当該のN記者に関しては、以前、行なっていた取材についても疑わしい点が少なからず出てきている。 そうした点で、過去のN記者の取材に関しては、カメラマン、音声マンなどの撮影スタッフや関与した制作会社も含めて、徹底した調査をしていく必要があると思う。 ひょっとして、N記者に協力した制作会社があるのではないか。 そうしたところまで調査を広げないと、『クロ現』やらせ事件の全貌はわからないと思う。(Yahoo!ニュース個人より転載)関連記事■ 卑劣なプロパガンダ「サンモニ」の正体とは■ 「政治的公平」とかけ離れた偏向テレビが国民を惑わす■ 古舘氏はなぜいつも上から目線なのか?

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    今こそNHK民営化議論を盛り上げませんか

    大関暁夫(企業コンサルタント、実業家) 筑波大学のシステム情報工学科の視覚メディア研究室、NHKが写らないアンテナを考案したというニュースは実に興味深いです。なぜこのような研究が国立大学の教授指導の下で行われたのか、どうやら現状を見るにNHKの公共放送らしからぬそのおこないの数々に、「NHKを受診しない自由があってもいい」ということから研究開発されたもののようです。http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/158752 そもそも今このアンテナが話題になる背景は、以前から時折問題になりつつも一向に止まないNHKの不祥事体質にその体質を問う風潮があると思われます。特に現時点で大きな話題になっているのは、「クローズアップ現代」のやらせ問題。私は以前にもこのページで書いていますが、サラリーマン時代に勤めていた会社でプレス担当してNHKのやらせ取材の被害にあったことがあり、今回の事件もさもありなんという心鏡で受け止めております。http://www.sankei.com/entertainments/news/150409/ent1504090004-n1.html 私が被害を受けた事件はもう20年ほど前の古い話ではありますが、「おはようニッポン」という番組でとある都市銀行の女子行員が病死し過労死問題として遺族が勤務先の銀行を訴えたと言う事件があり、その関連で私がいた銀行の女子渉外の取材にNHKが来たと言うものです。 正直に取材趣旨を語って申し込まれれば恐らく断ったであろうテーマなのですが、NHKは私に「女子戦力の活用をテーマに番組を作っているので、積極的に取り組む御行を取材したい」と趣旨をごまかして申し込みをしてきました。女子渉外の一日を取材クルーが追いかけ私は立ち会ったのですが、「がんばっている姿をたくさん撮りたいので、こうしてくれ、ああしてくれ」とのリクエストを受けましたが(後から思えば完全やらせです)、その段階では取材趣旨を信じて疑いませんでした。ところが番組を見てびっくり、番組のテーマは「銀行女子行員の過労死問題を考える」。私が受けた取材は、銀行における女子渉外職の実態紹介として「午後3時には閉店する銀行女子行員のイメージとは程遠い、朝から晩まで過酷な労働環境で働かされる姿」としての取り上げだったのです。 当然NHKに強い抗議をしました。プロデューサーは自分たちの非を認め、翌週の番組内で「お詫びコメントを出す」と約束しましたが、実際に流されたコメントは「先週の放送内で一部取材上の不手際があり、取材先にご迷惑をおかけいたしました。この場を借りてお詫び申し上げます」という、全く何のことを詫びているのか分からないいい加減なものでした。私は引き続き強い抗議を続けましたが先方は「済んだこと」として聞く耳を持たず、これを受け当時の担当役員からは「もう終わりにして、NHKの取材を受けなければいい」という指示が出され、憤懣やるかたない終わり方をしたのです。 私はそれ以降、NHKの報道系特集番組取材の体質は平気でうそをつく取材体質であると信じて疑いません。管理職であるプロデューサーが、虚偽取材の件を「そう受け取られるなら」と非を認めながらも「我々の判断基準では通常許される範囲です」とハッキリ言っていたのですから。「この組織は腐っているな」と私は思いました。今回のやらせ問題にしても、過去に何回となく起きた似たような事件も、すべては組織の体質の問題です。会長の公私混同問題も含め、NHKの全ての不祥事は結局のところ公共放送という組織がはらむ甘え体質がその根底にあると思っています。 となれば今更ではありますが、NHKはなぜ民営化しないのか。そこを今一度この機会にこそ議論すべき問題なのではないかと思うのです。電波メディアがすべてスポンサーの意向で動く民間企業になってしまったら、災害時等の優先放送の確保ができなくなるというリスクをヘッジすることが目的であるのなら、3.11災害発生時の民放の対応を見ればコマーシャル自粛を含めてなんら問題はなかったと言えるのではないでしょうか。 また民間企業のみになることで報道がスポンサーの意向を踏まえ偏向されるリスクがあると言うのなら、放送方針が「日本政府と懸け離れたものであってはならない」と公言してはばからない会長の下でNHKを運営させることの方が、よほど大きなリスクがあるのではないでしょうか。また政府が民間放送局に圧力を掛けるかのような発言を繰り返す今の政府の方が、NHKの民営化リスクなど比べ物にならないほど危ない状況であるとも思うわけです。 筑波大学の研究室には申し訳ないですが、NHKが民営化すればNHKが写らないアンテナなど不要です。他のメディアはアンテナ開発の報道をする前に、なぜそういうものが開発されたのか、そこに焦点を当てNHKの民営化の要否についてしっかりと問題提起をするべきなのではないかと思うのです。 組織の体質は管理体制を根底から変えない限り、絶対に変わりません。民間組織で言えば資本の入れ替えであり、公共機関であれば民営化以外にないのです。このまま公共放送を続けるのなら、私が体験した事件から20年ほどが経とうとしても何も体質が変わっていないことからも、やらせやウソツキ取材は繰り返されることになるでしょう。この機会にこそ、NHK民営化議論を再燃させるべく世論を盛り上げていくべきではないかと私は思います。(ブログ『日本一“熱い街”熊谷発コンサルタント兼実業家の社長日記』より転載)関連記事■ 亡国の巨大メディア、NHKは日本に必要か■ あの日を境に変わった私のメディア認識■ テレビがつまらなくなった3つの理由

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    NHK「クロ現」やらせの裏側

    NHKの報道番組「クローズアップ現代」でやらせがあったと指摘されている問題で、NHKの調査委員会は28日、最終報告を取りまとめ「過剰演出があった」と認めた。事実のねじ曲げにつながる「やらせ」は否定したが、裏付け取材が不十分として担当記者を処分した。問題はなぜ起こったか。

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    「演出」と「ヤラセ」の間 なぜヤラセが起きるのか

    たりといった対応が行われてきた。 でも、なぜ、いつまでたっても番組のヤラセはなくならないのだろうか?メディア論的に考えた場合、これは二つの要因が考えられる。一つは制作側の問題、もうひとつは番組を制作する社会的文脈の問題だ。それぞれについて考えてみよう。業績原理に追われ、基準を喪失する 先ず制作側の問題。これは搾取の構造になっている点が問題だろう。制作自体は基本下請けの制作会社が行っている。ここでは制作費が大幅にカットされており、また制作日数もタイト。そういったなかで業績原理に基づいて制作会社は番組を制作しなければならない。で、当然、限られた予算と期日の範囲でよりオモシロイ、いいかえれば視聴率を稼げるコンテンツを作成することを余儀なくされる。こうなると「よい作品を作る」ではなく「とにかくウケりゃなんでもいい」みたいな心性が制作側に根付いてくる。しかも、忙殺されているがゆえに無意識のうちにこの感覚が定着する。そこで、ちょっと演出を踏み越えてヤラセの領域に手を伸ばす。そして、これがウケると、今度はこれを「やってもいい」ということになってしまう。 そう判断するのは自分、つまり制作会社のスタッフ自身なのだが、業績原理に振り回されているので、評価されたことがOKのサインとなり、以降における演出のデフォルト的な立ち位置になってしまうのだ。当然、ここで演出は一線を越え、ヤラセモードに突入する。そして、これがウケれば、さらにどんどんとヤラセの水準はアップしていき、気がつけばトンデモナイ領域に。いや、厳密には「気づく」ことはない。ズレていることの感覚は麻痺しているので、気づくのは、ヤラセが露呈して番組が打ち切られるときなのだから。ちょっと制作側を擁護するみたいな言い方になるが(もちろん、決して擁護できるものではないけれど)、ブラック企業で働いていたら、だんだん倫理基準がおかしくなっていってしまうのとほとんど同じ構造だろう(現在、テレビのコンテンツがこの「負のスパイラル」に陥っているように思えるのだけれど)。ヤラセは社会的文脈によって規定される もうひとつの社会的文脈の方だが、これは「演出―ヤラセ」という基準が社会的レベルでどんどんずれていくことによる。つまりかつては演出の領域だったものが、今やヤラセになってしまう社会状況が作られることで発生するというものだ。 そもそも演出―ヤラセという分類はきわめて恣意的なものと考えてよい。この線引きは社会的コードによってもたらされるからだ。かつてだったらヤラセとして大騒ぎになりそうな演出が堂々となされた例、しかもNHKがやった例があるのでこれをちょっとこれを取り上げたい。 番組は10月24日の「ニュースウオッチ9」。番組内ではウルトラマンの未公開映像が発見されたと言うことで、その特集が10分間近くにわたって組まれた。ゲスト出演はなんとウルトラマン。アンカーの大越健介とアシスタントアナウンサーの井上あさひが、くそ真面目な顔でウルトラマンにこの映像の状況についてインタビューする。井上が質問すると、ウルトラマンが応える返事はシュワッチとかだけ(あたりまえだが)。ところが、このシュワッチを大越が翻訳するのだ。そして肝腎の映像の特集が組まれた後、再びスタジオが映されるのだが、そこには肝腎のウルトラマンがいない。これに大越は「ウルトラマンさんは地球上に3分間しかいられないために、すでにお帰りになりました」と説明した。そして論評抜きでコーナーは終了、何事もなかったかのように次のコーナーに移っていったのだった。 ようするに、これは完全にヤラセである。架空の人物?にインタビューして、全て嘘で固めたのだから(未公開映像についてはもちろんヤラセではない)。だが、これはオモシロイというか、実にオシャレと解釈される。こんなおふざけを「皆様のNHK」がやった、しかも報道番組の中でなんてのは、20年前だったら言語道断でクレームの電話がバンバン来たのではなかろうか。ところが、そうならないどころか、かえって絶賛されたのである。そう、これはミエミエのヤラセであるという文脈が共有されているからこそ許されることなのだ。だから、このヤラセはヤラセでなく演出になる。 一方、微妙だった例を挙げてみよう。これは1996年、日テレが放送していた番組「進め!電波少年」の中の「猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅」というコーナーでの出来事。猿岩石という若手お笑いコンビ(一人は有吉弘行)がヒッチハイクのみで香港からロンドンまで旅をしたのだが、この旅の行程に疑義が投げかけられた。猿岩石はタイからミャンマーを抜けバングラディシュに抜け、さらにインドに向かったことになっているのだが、ミャンマーとバングラディッシュの国境は開いていないので、実際にはこれは不可能。ところがちゃんとインドまでたどり着いていたことにクレームがついたのだ。つまりヒッチハイクをしていない。 実際、猿岩石はここでは飛行機で移動しており、後にそのことが公表された(結局、飛行機はその他を含めると三回利用されている)。ただし、その時、プロデューサーの土屋敏男は完全に開き直った?コメントをしている。それは「バラエティなんだから」という発言。つまり「誰もドキュメント=ノンフィクションとは言っていない」と主張。日本テレビ氏家齊一郎社長(当時)も「(バラエティという)番組の性質上、倫理とか道義的な責任はないと考える」とコメントした。 これは、はっきり言って電波少年側の理屈がまったくもって筋が通っているのだが、社会的コードに抵触したため、それでも多くの非難を受けたのだった(とはいうものの、この後の特番で二人が飛行機乗り込む映像を流したりするという過激なこともやっていたが)。結局「演出」と「ヤラセ」はどこで線が引けるのか 結局のところ演出とヤラセの線引きは社会的コードからどの程度逸脱しているかによって決定すると言っていいだろう。つまり、それがウソであろうがなかろうが、そのことを視聴者側が肯定してしまっているものについては「演出」、そうでないものは「ヤラセ」に振られていく。だからこそ、きわめて曖昧、恣意的なものなのだ。 逆を言えば制作側としてはこの社会的コードが読めていないといけないということでもある。たとえば「電波少年」のように筋を通したとしても、許されないという文脈が世論を形成してしまうこともある。 ひょっとして、もし「ユーラシア大陸横断ヒッチハイクの旅」が今放送されていたとしたら、大バッシングを食らって番組打ち切りなんてことになっているかも知れない。現代は、それくらいイメージが優先する時代なのだから。その半面、ウルトラマンやミッキー、ガチャピンは完全なヤラセであるにもかかわらず、事実=演出として受け入れられてもいる。そう、こちらもまたイメージが優先する時代のたまものなのだ。虚実ない交ぜの中で演出とヤラセが偶有するのが現代のメディアなのである。 で、僕らとしてはどういうスタンスでこういったコンテンツを見るべきなのか?この答えは意外と簡単だ。全て「ヤラセ」として見ればよいのである。演出などしたつもりのない報道であったとしても、だ。そう、僕らにはこういったメディア・リテラシーが要求される時代なのだ。コンテンツというものはすべからく虚構であるという視点、重要なのではなかろうか。関連記事■ 古舘氏はなぜいつも上から目線なのか?■ 上重アナに悪気があるようには見えない■ テレビがつまらなくなった3つの理由

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    NHK『クロ現』やらせ ズレている中間報告の“焦点”

    水島宏明(法大社会学部教授) 週刊文春が報じているNHKの『クローズアップ現代』の「追跡“出家詐欺” ~狙われる宗教法人~」での”やらせ・ねつ造”疑惑。 NHKは9日午前、調査委員会による「中間報告」を発表した。 普通、「中間報告」というものは、あくまで最終的なものではないが、多くの調査委員会の「中間報告」は「最終報告」の方向性にきわめて近いのが通常だ。 そういう目で、この報告書を見てみる。 くわしくは全文を読んでほしい。NHKの報道番組「クローズアップ現代」で、いわゆる「やらせ」が指摘された問題で、同局は9日、調査委員会の中間報告を公表した。取材・制作を担当した職員11人と外部スタッフ3人から聞き取りをしたり、インタビュー素材や取材メモ等の資料を調べたりして事実関係をまとめた内容で、関係者の話が食い違う点などについては、「さらに事実関係を明らかにするための調査を進める」としている。全文は次のとおり。 出典:THE PAGE そうすると、この調査委員会が、いわゆる”やらせ疑惑”についての調査の結論を、「記者が直接、演技を頼んだ事実がないと言っている」「記者が活動拠点だと信じるに足りる理由があったと言っている」「相手をブローカーだと信じるに足りる理由があった」などとして、幕引きをはかろうとしているのではないかと疑わしくなってくる。 取材した記者、と取材を受けた当事者の一人(番組内で「出家を斡旋するブローカー」として紹介されたA氏)との話が「大きく食い違っている」ことを認めた上で、これまでの「検証ポイント」が列記されている。4月9日にNHKが発表した「クローズアップ現代」報道に関する中間報告 まだ「中間報告」にざっと目を通した段階だが、どうも「やらせ」「捏造」と言われるのを避けようという意図が文面からありありと感じられる。なんだか、報道現場の取材をよく知っている人物がかかわった文章とは思えず、弁護士の作文にしか見えないのだ。 通常、こうした報告書では何をもって「やらせ」や「捏造」かを”定義”するところから始まるのがこれまでのテレビ界での調査報告では行なわれてきたことだ。 ところがNHKの中間報告には、そうした”定義”がいっさいない。 「検証ポイント」では、●記者は演技の依頼をしたか という項目があり、「ブローカー」として登場したA氏は「演じるよう依頼された」と言っていることは中間報告も認めている。 この点については、記者は「演技の依頼はしていない」とし、番組内で「多重債務者」として紹介されたB氏(記者とは8、9年前からの知り合いだと中間報告にも書いてある)も「記者が演技の依頼をしたことはない」と話しているという。 中間報告では、「A氏の話と、記者及びB氏の話は大きく食い違っている」として、このポイントの結論にしている。 「やらせ」の定義が明記されていないことを考え合わせると、まるで、「演技の依頼」がなければ「やらせ」ではない、と言わんとしているのではないか、と推測する。 もちろん、「演技の依頼」をしていれば、「やらせ」だった、と明確に言えるのは子どもでもわかる理屈だ。 でも実際の「やらせ」はそれほど絵に描いたようには行なわれないのも実際だ。 この記述には、テレビ報道の取材が長かった私には大きな違和感がある。 記者本人ではなくても、記者と長いつき合いであるB氏がA氏に「演技の依頼」をした事実はないのか、あるいは、明示した言葉の上での「演技の依頼」がなくても「あうんの呼吸」での依頼がなかったのか、B氏が長いつきあいである記者と口裏を合わせる可能性はないのか、など、本来ならば検証するべきポイントが書かれていないからである。中間報告にも書いていないのであれば、ここは調査するつもりがないのかもしれない。 さらに、「検証のポイント」として、●撮影場所は「活動拠点であったか」 が挙げられている。 ブローカーの「活動拠点」で、「ブローカー」として登場したA氏と「多重債務者」として登場したB氏が「相談」している場面が番組には出てくる。 しかし、A氏はこの場所について、週刊文春の取材に自分は与り知らない場所だと答えている。 この中間報告では、記者がB氏を通じてこの場所を「活動拠点」だと思った、ということが確認され、「相談場所の設定に記者の関与は認められないが、(ナレーションで)『活動拠点』とコメントしたことは誤りであり、裏付けが不十分であった」とだけ記されている。 記者が仮に知らなかったとしても、「活動拠点」でない場所を「活動拠点」として報道してしまったら、それは「誤報」である。訂正しなければならないのが通常だ。また、B氏がこの場所をアレンジしたとしても、B氏にまかせてしまった時点で、この記者の資質は、事実を伝える職業人として欠けていることが明らかだと言わねばならない。B氏に「捏造」の意図があったとしても、それを確認することなく、そのまま撮影してしまったなら、「捏造」の報道をしてしまったことに変わりはない。 このほか、検証のポイントは、●A氏を「ブローカー」として伝えたことについて A氏本人は放送の後で「自分はブローカーではない」否定しているが、記者はA氏を「ブローカーに間違いないと思った」と調査委員会に答えている。ここでの結論は「記者の認識とA氏の主張は大きく食い違っている」。その他、●B氏が多重債務者であるのは事実か についてB氏について、NHKの職員弁護士が点検したところ、「多重債務者」といえる、という結論だった。 だが、今回の「中間報告」は肝心なところでの検証や認識が甘い!●指摘された場面の構成について 番組内での「ブローカー」A氏と「多重債務者」B氏の”相談”の場面について、実際の記者の取材プロセスの順番や構成と、放送された番組での順番や構成が違っていたことから、「中間報告」では「構成が適切さを欠いていなかったか」「選出が過剰ではなかったか」について、検証をさらに進める必要がある、としている。 だが、ここの部分を「中間報告」はあっさり書いているが。本当は「やらせ」「捏造」の重大ポイントだ。 記者は、番組内で相談が終わって去っていく返り際のB氏を走って追いかけて、「(出家詐欺に関与することは)犯罪につながる認識は?」と質問してインタビューしている。 記者は「8、9年前から」B氏を知っていると言う。 長年、知っている人に、まるで知らない人であるかのように直撃取材したように見せることを、報道現場では「やらせ」と言う。 あるいは、仮にB氏が多重債務者であったとしても、本気で出家詐欺に関する相談をするために訪れていないのであれば、それはシーンの 「やらせ」であり、「捏造」というものである。 ところが「中間報告」は、肝心なこの場面については、「やらせ」などを疑わず、「構成の適切さ」「演出が過剰」についてのみ、検証する方向が読み取れる文章になっている。 この場面の「検証」こそ、今回の”やらせ疑惑”の本丸のはずである。 そうだとしたら、きわめて中途半端な「検証」をやっている、といわざるをえない。 「中間報告」の1ページ目に書いてあるが、この場面の撮影は、「まずB氏がA氏に相談する場面」、続いてA氏のインタビュー、B氏のインタビューの順で撮影が行なわれた」と書かれている。 だとすれば、記者が後を追いかけて直撃インタビューしたようにみえた場面では、実はB氏はA氏のインタビューが終わるのを待っていて、その終了後に「先を歩くB氏を記者とカメラマンが走って追いかけて撮影した」ことになる。 こうした「構成」や「演出」は、マトモな報道番組ではありえない。 常識的に考えて、明確な「やらせ」ではないか。 なぜなら、こうした点に「ウソ」が混じってしまって明らかになると、視聴者がテレビ報道というものを信用してくれなくなるからだ。 重大な放送倫理違反である。 NHKには本当にお世辞ではなく、優秀な制作者や記者が多い。 心ある現場の記者やディレクター、プロデューサーたちは、こうした点をきちんと理解しているはずだ。 それなのに、なぜこのような、お粗末ともいえる「中間報告」が発表されてしまうのだろうか。 おそらく、問題の1つは、A氏が弁護士をつけて、NHKに「放送での訂正」を求めてきたために、NHKとしての対応が「弁護士主導の対応」になってしまったせいではないか。 現場取材の問題よりも、法律的に相手に勝つことや問題を矮小化しようとする「力学」が働いてしまっているような気がする。 もう1つの問題が、籾井勝人会長がトップに座るなかで、ハイヤーの利用問題などその他の問題と合わせて、「政治問題」になってしまっているからだろう。 テレビの報道現場にくわしい人間が読んだら、この中間報告の稚拙さは明らかだ。 だが、このままの委員会による調査が進めば、この後の「最終報告」での結論は以下のようになるだろう。 「A氏は『****』と主張したが、関係者のヒアリングをした結果は、記者とB氏の主張は『****』と大きく食い違っている。B氏と記者の主張は整合性が取れていることから、いわゆる『やらせ』には該当しない。ただ、一部で『不適切な取材や演出』があったことは反省し、再発防止に努めていく」 今後の調査が、こうした調査報道の分野のテレビ取材の経験を豊富に持つ人間がかかわって行なわれることを願うばかりだ。 実際、NHKという組織にはそうした人材が数多くいるのだから。関連記事■ 卑劣なプロパガンダ「サンモニ」の正体とは■ 「政治的公平」とかけ離れた偏向テレビが国民を惑わす■ 古舘氏はなぜいつも上から目線なのか?

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    古賀さんの降板に私が「もったいない」とつぶやいた理由

     テレビ朝日「報道ステーション」で、古舘伊知郎キャスターとコメンテーターの古賀茂明さんが、番組内で「バトル」を繰り広げたことが、大きな話題になった。ツイッターでは江川紹子さんや竹田圭吾さんが批判的見解を表明し、わたしもそれに賛同した。それに対して、藤原新也さんはご自身のブログ「Catwalk」で、降板騒ぎが起きてから古賀さんと数日間いっしょだったという知人から、江川、竹田、有田は「情けない」と電話で言われたと紹介した。藤原さんは古賀さんが官邸などの圧力があったことを示す根拠が弱いことを指摘しながら、「この古賀の発言を“私憤”と一蹴して、せっかくの問題提起を葬り去る動きは同意できかねる。なぜなら私はあれは公憤に見えたからである」と書いた。誤解のないように藤原さんの全文を読んでいただきたい。http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php なぜわたしは古賀茂明さんの言動に強い違和感を感じたのか。個人的なテレビ経験からそう思ったのだ。地下鉄サリン事件が起き、オウム真理教が強制捜査を受けた1995年3月22日から、「ザ・ワイド」(日本テレビ系)が番組を終了する2007年9月28日まで、わたしは12年半にわたって、テレビに出演していた。とくに「ザ・ワイド」は、1993年の統一教会問題からの付き合いで、地下鉄サリン事件以降は、月曜から金曜までレギュラーで出演していた。キャスターの草野仁さんからは、人間的な挙措についてだけでなく、テレビ番組のありように関しても多くのことを教えられた。 「わたしたちの仕事は日雇いのようなものですよ」 草野さんが番組の合間に何度かわたしにこう語ったことは印象的だった。キャスターには年間契約があるが、基本的にはテレビ局の意向が最優先される。もう必要ないと判断されれば番組は終わるだけだ。ましてやコメンテーターに契約などなかった。そうした意味で「日雇い」仕事なのである。橋下徹さんが弁護士として「行列のできる法律相談」などに出演して活躍していたときのことだ。ある日、「ザ・ワイド」にコメンテーターとして出演したことがあった。ところが橋下さんが「ザ・ワイド」に登場することは二度となかった。何か発言に問題があったということではない。番組としてさらに出演していただく必要はないと判断しただけのことだった。テレビ番組とはそういうものなのだ。 ましてや番組の改編期に、ゲストコメンテーターの変更があるのは当り前のことだ。草野仁さんとの想い出でいえば、番組には草野さんとは国家観の異なるコメンテーターも出演していた。草野さんに思うところもあっただろうと推測したものだ。わたしとてイラク戦争当時は、草野さんとは意見を異にしていた。それでも自分の見解を表明するときに、草野さんをストレートに批判するようなコメントはいっさいしなかった。 視聴者はスタジオでバトルが行われれば画面に食い入るだろう。激論は「面白い」からだ。「ザ・ワイド」でもディレクターやプロデューサーから、スタジオでの「異論反論」といった見せ場としての議論を求められたこともある。しかし「ザ・ワイド」の場合は、「主張のある番組」を視聴者に届けたいという草野さんの強い思いがあった。では、なぜバトルを避けたのか。それは基本的スタンスとして番組を守らなければならなかったからだ。 「ザ・ワイド」はオウム特番で36・7パーセントという驚くべき視聴率をあげたこともある。現場ディレクターやリポーターの地道で精力的な取材をもとに、整理された素材をスタジオで調理し、視聴者に問題のありかを伝えていった。いわば草野仁さんを司令塔とする総力戦だった。多くの関係者が番組に愛情を感じていただろう。番組を継続させるのは、視聴者に対する責任でもあった。 わたしは古賀茂明さんが、問われてもいないご自身の降板について、ルールを壊してまで語り出す姿を見て、まず思ったことは、スタッフが可哀相だなということだった。生放送とは「干物」ではなく「生もの」だ。そうである以上、日々さまざまな問題が生じる。「報道ステーション」とて問題が山積しているだろう。それは現場スタッフがいちばんわかっていることだ。究極の問題は「報道ステーション」が続いた方がいいのか、それとも無くなった方がいいのかである。 「わが亡きあとに洪水は来たれ」――古賀さんの暴発は、番組に対する建設的批判などではなく、ごくごく個人的な、しかも確たる根拠も示すことのない、憶測による発言であり、番組とスタッフへの思いやりをまったく感じさせなかった。 中東問題を問われて、個人的な降板について語るべきではなかった。それを前提として、番組の別の局面で語る機会があったとしても、官邸などからの圧力があって古賀さんが降板されたのならば、それは明確な根拠を持って発言するべきだった。それが公共放送でコメントする者の最低限の責任である。藤原新也さんの指摘するように、古賀さんが「私憤」ではなく「公憤」で発言したのなら、そこには番組スタッフの「良識派」を鼓舞激励するような方法を取るべきだった。 おそらく民放キー局は古賀さんを生番組で起用することを今後は避けるだろう。古賀さんのようなキャリアを持ったすぐれたコメンテーターが、テレビ番組には必要だ。どうして「戦略的撤退」を甘んじて引き受けることができなかったのだろうか。わたしがツイッターで「もったいない」と書いたのは、そうした思いからだった。「公憤」ではないなどと言うつもりはない。「私憤」に見えてしまうだけでも古賀さんだけでなく、番組とスタッフを深く傷つけてしまったのではないだろうか。 自民党は昨年11月26日付で、「報道ステーション」あてに「中立」を要請する文書を福井照・報道局長名で出した。そこには衆院解散後の昨年11月24日の放送が「アベノミクスの効果が大企業や富裕層のみに及び、それ以外の国民には及んでいないかのごとく断定する内容」と批判し、「意見が対立している問題については、多くの角度から論点を明らかにしなければならないとされている放送法4条4号の規定に照らし、同番組の編集及びスタジオの解説は十分な意を尽くしているとは言えない」とあった。 個別番組に対する要請はきわめて異例である。自民党には「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」とする放送法第3条などまったく視野にない。ここに自民党=安倍政権の強権的驕りがある。安倍晋三という政治家が番組内容にまで立ち入ることがあることは、これまでにもNHKに対して抗議したことなどでもよく知られていることだ。総理となったいま、安倍氏の意向はさまざまな回路で行使されているだろう。NHKでも深化している「忖度政治」が生まれる根拠である。視えるものもあれば視えないものもある。だからこそ「報道ステーション」をふくめて、テレビ局のスタッフは、萎縮することなく、政治からの介入に対して、硬軟取り混ぜて効果的に、断固として闘っていかなければならない。 「蛇のように聡く、鳩のように柔和に」(聖書)。

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    “古賀れたテープレコーダー”は止まらない!

    古賀れたテープレコーダー 「電波の私物化」とはまさにこのことだ。 3月27日放送のテレビ朝日「報道ステーション」での蛮行だ。 その時の放送内容の文字起こしがネット上に公開されているので、詳細はそちらを参照頂きたい。http://news.livedoor.com/article/detail/9941821/ 「サウジ主導の空爆続く 緊迫イエメン“宗教対立”」と題したニュースの中で、キャスターの古舘伊知郎が、その日のコメンテーターであった元経済産業省官僚古賀茂明にコメントを求めた途端に、約10分間にわたるその電波ジャックは始まった。 「そうですね。ちょっと、そのお話する前に、あの私、今日が最後ということでですね」とニュースをぶった切った古賀は、滔々とまくし立てた。その内容たるや、サウジもイエメンも何の関係もない、自らの保身のための思い込みを垂れ流すだけの、ユーチューブやニコニコ動画のオカルト陰謀論動画でさえ裸足で逃げ出すようなシロモノである。 「菅官房長官をはじめですね、官邸の皆さんにはものすごいバッシングを受けてきましたけれども」 などという私怨を口角泡を飛ばして恍惚としながら自らのノンストップトークに陶酔している古賀にたまりかねた古舘が「古賀さん、あの、ちょっと待って下さい」と割って入っても、壊れたテープレコーダーは止まらない。二度目に「ちょっと待って下さい!古賀さん!」と怒鳴られてからやっと、キョトンとした顔で目をぱちくりさせた古賀れたテープレコーダーは「は、はい?」と異音を発生させようやく停止する。 ポンコツおもちゃが沈黙したことに安心したのか、古舘まで中東のニュースのことなんぞどうでもよくなってしまったらしく、古賀に畳み掛ける。 「今のお話は、私としては承服できません」「古賀さんは金曜日に時折、出てくださって。大変、私も勉強させていただいてる流れのなかで。番組が4月から様相が変わっていくなかでも、古賀さんに機会があれば、企画が合うなら出ていただきたいと相変わらず思ってますし」「古賀さんがこれで、すべて、何かテレビ側から降ろされたっていうことは、ちょっと古賀さん、それは違うと思いますよ?」 しかし、古賀れたテープレコーダーは、再び大音響でがなりたてる。そしてそれに大人気なく真っ向から組み付く古舘。もはやニュース番組でも何でもない。古賀「でも。私に古館さん、言われましたよね。私がこういうふうになるっていうことについて『自分は何もできなかった。本当に申し訳ない』と」古舘「はい。もちろんそれは、この前お話したのは楽屋で。古賀さんにいろいろ教えていただいてるなかで、古賀さんの思うような意向にそって、流れができてないんであるとしたら、大変申し訳ないって、私は思ってる、今でも」 なんと楽屋の裏話まで持ち出す仁義なき戦いだ。ところが腐っても古賀れていてもテープレコーダーだ。こんな禁じ手まで飛び出した!古賀「私は全部録音させていただきましたので、もし、そういうふうに言われるんだったら、全部出させていただきますけれども」 そう言ってテープレコーダーに睨みつけられる古舘も引き下がらない。古舘「いや、こちらもそれは出させていただくっていうことになっちゃいます、古賀さん」 なんと、ある意味関係者がお互いに信頼関係を醸成してお茶の間に質の高いニュース番組をお届けする準備をする場であろう楽屋で、両者がお互い不信感も隠さず録音をしながら会話、いや、バトルをしていたのだと暴露してしまっているのだから、異常である。 その後もテープレコーダーの暴走は止まらない。別のニュースに話題が移行しても、中東紛争の犠牲者や日本の政局なんぞのことはどうでも良いと思っているらしく、自分の保身のみに汲々とする。古賀「(報道ステーションの)プロデューサーが、今度、更迭されるというのも事実です」古舘「更迭ではないと思いますよ?」古賀「いやいや」古舘「私、人事のこと分かりませんが、人事異動、更迭…これやめましょう?古賀さん」 それでも古賀れたテープレコーダーは止まらない。そればかりか、思い上がりも甚だしく、自らをマハトマ・ガンジーと同一視しているのか、ガンジーの名言を記したフリップまで用意してきてこうまくし立てる。古賀「ただ、言わせていただければ、最後に。これをですね、ぜひ。これは古館さんにお贈りしたいんですけど。マハトマ・ガンジーの言葉です。『あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである』と」「無意味」ではなく「有害」「無意味」ではなく「有害」 百歩譲って、テープレコーダーが公共の電波を私物化して喚いているオカルト陰謀発言が「無意味」な内容であるならば許そう。しかし、彼のやっていることは「無意味」なのではなく、「有害」なのだ。放送法にも明らかに抵触している。何も悪事を働かない普通の青少年に、万引きという犯罪を働く悪童が「オレサマがする万引きは無意味であるが、それでもしなくてはならない」などと言っているようなものだ。 古賀れたテープレコーダーはまだ止まらない。古賀「つまり、圧力とか自粛に慣れていってですね『ひとりでやったってしょうがない、ただ叩かれるだけだ』ということで、やっていないと、知らないうちに自分が変わってしまって、本当に大きな問題が起きているのに、気が付かないということがあるんですよと。これは私も、すごく今自分に言い聞かせていつも、生きているんですけれども。これは、みんなが考えていただきたいことだな、というふうに思っています。いろいろね、ちょっと申し訳ない、口論みたいになっちゃって。申し訳ないんですけれども、私が言いたかったのは、みんながやっっぱり、言いたいことはそのまま言おうと」 知ったこっちゃない。言いたいことがあるなら、法を犯して電波を私物化して喚くのではなく、ブログでもツイッターでもユーチューブでも、自由に使って一人でやるがいい。ところが古賀れたテープレコーダーにとっては、公共の電波を私物化できないことや、私物化に対して文句が来ることは、言論の自由の侵害ということになるらしいのだから、ただの幼稚な駄々っ子に過ぎない。 ところが、この異常な事件も、古賀れたテープレコーダーを持ち上げて反日に利用するサヨク勢力にとっては英雄的行為に見えるらしい。 例えば、反原発や反レイシズムを騙り全国で暴力テロや言論弾圧を引き起こしているサヨク暴力組織「レイシストをしばき隊」(現在は別の団体名を自称しているようだが、オウム真理教がアーレフだのひかりの輪だのと団体名を変えて摘発逃れを行っているようなものなので、旧称を用いる)は、設立者の野間易通がツイッターでこのように古賀を礼賛している。 「何の問題もないどころかすごいじゃんこれ。こんなもので電波の私物化とか言ってる竹田圭吾とかエガショーってほんとにジャーナリストかよ」 まぁ、図書館や書店に押しかけて脅し、自分たちの気に入らない本を排除してしまうという活動を行っている反民主主義テロ組織の言うこととしてはもっともというべきか。 その後古賀は、そうしたテロ組織や反日団体との結びつきを強め、各所で安倍政権批判を強めているが、そのような御仁が今まで週に一回とはいえ報道ステーションという公共の電波で反日陰謀論を垂れ流す「言論の自由」を与えられていたということ自体が異常である。そしてそうした異常な特権を与えられているサヨク勢力は、何も古賀一人ではないのだ。関連記事■ 卑劣なプロパガンダ「サンモニ」の正体とは■ くっだらねー! 猿芝居にイチャモンつけるクレーマーの正体■ 自らの過ちを省みぬサヨク・リベラル勢力の現状

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    森永卓郎氏 沖縄に米軍基地なぜあるかの解説収録ボツの理由

    にあふれて的確なコメントをする評論家たちも、テレビやラジオに出演する機会が減った。 また、安倍内閣がメディアを厳しく監視して、圧力を加えているという報道もなされている。ただ、私自身は安倍内閣から圧力がかかるということを経験していないし、テレビやラジオのスタッフに聞いても、評論家の選定に官邸が口出しをしているという事実はないようだ。それでは、なぜリベラルが干されているのか。私は、ニーズがなくなってしまったのだと考えている。 先日、文化放送の『大竹まこと ゴールデンラジオ』にゲスト出演した際、タレントの光浦靖子さんが私の相談に乗ってくれるという企画があった。私は、光浦さんに聞いた。「ボク、女性に全然もてないんですけど、何故ですか?」 光浦さんの答えはこうだった。「森永さんは、エロい匂いがするのと、“意見”を言うから嫌。例えば、池上彰さんだったら、世の中のことを分かりやすく解説してくれるから、一緒にご飯を食べに行きたいと思うけれど、森永さんの意見なんて聞きたくないもの」  光浦さんの返答は、ある意味で国民の声だ。国民が誰も論評を聞きたいと思わなくなってしまったのだ。ネットにすでに様々な意見が溢れるなか、わざわざテレビやラジオで聞きたいとは思わない。それよりも、世の中に遅れないように、分かりやすく、丁寧に教えてほしい。それがいまの国民のニーズなのだ。 その証拠に討論番組は視聴率が取れないから、どんどん減っている。一方、池上彰氏は、冠番組をいくつも持っている。池上氏の特徴は、やさしく解説するとともに、自分の意見を言わないということだ。いま求められているのは、意見ではなく解説なのだ。 リベラルが干されているという認識は、被害妄想だ。冷静に考えれば、干されているのは、右翼も同じだからだ。 いまメディアへの露出を増やそうと思ったら、一番重要なことは自分の意見を言わないことだ。ただ、私はそうしてまでテレビやラジオに出続けたいとは思わない。私は意見を言うために、出ているからだ。 もちろん、池上彰氏が売れている理由は、解説の能力が高いからだ。何年か前に「沖縄になぜ米軍基地があるのか」を解説するという収録があった。私はこう言った。「普天間にしろ、嘉手納にしろ、海兵隊の基地です。海兵隊は先遣部隊なので、そもそも日本を守る機能がありません。彼らが沖縄にいるのは、日本がアメリカに逆らった時に、真っ先に日本を占領するためです」。私の収録はボツになり、代わりに呼ばれた池上彰氏は、どこからも文句のこない、実にバランスのとれた解説をしたのだった。関連記事■ 紅白歌合戦 正月特番から大晦日に日程変更された意外な理由■ 元お天気お姉さん・甲斐まり恵の「アバンチュール」撮り下ろし■ さだまさしが愛をこめて描く深夜ラジオ小説『ラストレター』■ ヤ、ヤバ過ぎですって!甲斐まり恵 セクシーお姉さん衝撃撮■ 芸能界でもブーム広がるラジオ体操 永作博美やゆずも実践

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    マッド・アマノが激白! 「生本番バトル」古賀氏が明かしたタブー

    。私も呼びかけ人の一人として参加した。声明の趣旨は《権力側の「圧力」が顕在化するケースが少なくなく、メディアや言論人らの「自粛」が進んでいることに大きな危惧を覚える》、というもの。声明を発表した事務局には言論人ら2500名、一般人2500名、合計5000名を超える賛同の署名が寄せられている。 私は言論弾圧のパロディーを作って特派員協会で公開した。それは、オレンジ色の囚人服を着せられ、口に布テープの猿ぐつわを付けられている古賀さんが「批評の自由 I am Koga」と書かれたフリップを持ち、その横に黒装束の男が今にも処刑せん、とするもの。顔は出さないが、袖口にABEの名があるから正体は安倍首相であることは誰にも分かる。初めて会場でこの作品を目にした古賀さんはにわかには笑みを浮かべず、複雑な表情を見せた。作品を手にした写真を撮ろうとした記者に古賀さんは静かに断ったらしい。安倍首相からのクレームを気にしたのではなく、その場の雰囲気から“茶化し”は不似合いと考えたのだと思う。 古賀さんの“降板騒動”はテレビの裏で言論弾圧が行なわれていることを多くの人々に想像させた。メディアから今後、声がかからないことを覚悟の上の勇気あるパフォーマンスを私たちはどう受け止めるべきか。 原発事故一周年の2012年3月11日に福島の現地から放送された特番「報道ステーションSUNDAY」での古舘氏のメッセージは傾聴に値するものだった。 原子力ムラという村が存在します。都会はここと違って、まばゆいばかりの光にあふれています。そして、もう一つ考えることは、地域で主な産業では、なかなか暮らすのは難しいというときに、その地域を分断してまでも、積極的に原発を誘致した、そういう部分があったとも考えています。その根本を徹底的に議論しなくてはいけないのではないでしょうか。私はそれを強く感じます。そうしないと、今、生活の場を根こそぎ奪われてしまった福島の方々に申し訳が立ちません。私は日々の報道ステーションのなかでそれを追及しています。もし圧力がかかって番組を切られても、それは本望です。 なかなか、勇ましいコメントではないか。しかし、古舘氏は番組存続のため「古賀降板」を受け入れた。「古舘・報道ステーション」が安倍政権の軍門に下るとするなら、もはや「生バトル」も想い出遠い存在になりそうだ。

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    上重アナに悪気があるようには見えない

    livedoor.jp/hasegawa_yutaka/)より転載)関連記事■ 訂正、謝罪しないのはメディア共通の体質■ 実態は営利貪る吸血コウモリ、官と民を使い分ける巨大メディア■ 「清廉性」による内定取り消しはメディアの自殺行為だ

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    記者へのお礼に果物贈る議員秘書 「腐るから」と返品回避する

    している。それに記者サイドも易々と乗り、政治スキャンダルなどが報じられにくい癒着構造が生じている。 メディア関係者を取材すると、政治家と飲んだ際は「1万円程度は置いていく」(民放キー局記者)や「数回に1回は返礼で一席設けている」(大手紙政治部記者)といった反論も聞かれたが、接待側の議員サイドからはこんな証言が出てきた。自民党政調関係者が語る。 「時折、2~3人の記者と少人数での会合を持ったときなど、1万円程度の現金を置いていく記者もいる。しかし、こちらが予約する店は最低1人1万5000~2万円クラス。常にこちらが接待していることに変わりはない。他党のことは知らないが自民党では議員主催のオフ懇(オフレコ懇談会)は議員サイドが払うのが慣例。個人的な実感としては、政治家から奢られることに何の罪悪感も持っていない記者が大半だ」 記者に供されるのは飲食だけではない。小渕優子・前経産相が配ったとされる「下仁田ネギ」ではないが、地元の特産品が送られてくるケースもある。 例えば近畿地方のある自民党大物代議士は、番記者や懇意にしている政治部記者に、つい最近までお歳暮で地元特産品を欠かさず贈っていた。現役の国会議員秘書はこんな話を打ち明ける。「国会質問の手伝いをしてくれた記者へのお礼として、後日、記者の自宅に議員の地元選挙区の名産品である果物を贈った。果物なら、返そうとする相手にも“どうせ腐ってしまいますから”と強引に受け取らせることができる。『贈答品』名目で、議員の政治資金で処理した」 これが実態である。政治家と大メディア記者の「近すぎる関係」を目の当たりにしてきた元参院議員の平野貞夫氏は「私も記者を接待した経験がある」と明かした上で指摘する。「一連の新聞・テレビの政治資金追及報道は、とんだ茶番劇です。政治資金を叩きながら、その政治資金で自分たちも飲み食いしている。これが『政治とカネ』問題の本質です。本当に追及するべきは、この政治資金を介して権力とメディアが一体化している現実のはずなのに、自分たちもグルだから彼らは かむりを決め込んでいる」 そんな新聞記者たちが、“そろそろ政治資金追及はやめよう”といっているのだから、その動機、真意は推して知るべしだ。関連記事■ 国会議員 記者を高級クラブで接待し敵対候補の醜聞調査依頼■ 小渕優子は非難せず 大メディアの「小沢献金」批判は支離滅裂■ 江渡防衛相に政治資金疑惑 政党支部から自身に800万円寄付■ 西川農水相 「親族企業から物品購入」の政治資金私物化疑惑■ 小沢氏政治資金裁判 不動産購入の政治家は他にも多数いる

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    ISISに集結する世界のオタクたち?

    新井克弥(関東学院大学文学部教授)巧妙なISISのメディア戦略 ISIS(あるいはIS、ISIL、イスラム国)って、いったい何なんだろう?テロリスト集団?それにしては、規模が大きいような、支持層も多いような。そしてメディアを賑わしている。もはや日本のメディアがしばし表記するように”イスラム「国」”つまり国家なんじゃないんだろうか? こんなふうに思わせるほどISISのメディア戦略は巧妙だ。 たとえばISISの機関誌”DABIQ”。パッと見ですぐにわかるのは表紙に掲載されている写真の洗練具合だ。はっきりいって「よくできている」。これは中身のデザインやレイアウトを見ても一目瞭然で、観光ガイドかと思わせる出来だ。一般にテロリストと言えば、こういったことにはあまり頓着しないので、いかにもインディーズっぽい雑な編集になる(そして、それが「ならず者」のイメージを助長する)のだが、これは全く異なっている。 映像についても同様で、処刑映像についてもキチッと所定の位置にISISのロゴが付けられている周到さ。人質のイギリス人ジャーナリス、ジョン・キャントリー氏にやらせている「現地レポート」もBBCやCNNのそれにすら見える(実際、CNNでこのレポートの様子が流された時には、ナレーションがなければCNNの特派員による報告を彷彿とさせるものだった)。そして、この洗練されたメディアを使いながら「処刑」というセンセーショナルな映像をネットを使って世界配信してしまうのだ。すると、この残忍な映像も、なにやらあやしげな説得力=必然性を帯びているようにすら思えてしまうのだ。「イスラム国」とみられるグループがインターネット上で発表した「ジハーディ・ジョン」とみられる男の映像(動画投稿サイト「ユーチューブ」より) もちろん、これは演出、もう少し悪意を込めて表現すればトリックだ。ただし、ISISの「メディアの魔術師」としての能力を侮ってはいけない。こういったテイスト、テクスチャーは、翻って実際の組織以上にISISを大きく見せることに成功しているのだから。世界を相手に堂々と渡り合う方法をこういったメディア戦略で達成しているのだから。そして、世界各国の過激派がISISに賛同の意を示しているのだから。今やISISを巡って世界中が引っかき回されている、そんな印象をわれわれは受けてしまうのだ(少なくともメディア上では、この”引っかき回し”は紛れもない「事実」だ。そして、このメディア戦略で日本政府も見事に「引っかき回された」わけで)。こういったメディアの用い方が結果として、本ブログの冒頭に提示したISISのイメージを形成している。 現在、ISISの外国人戦闘員は1万5000人とも2万人とも言われている。もちろん、これもメディア操作による数値であるという可能性を踏まえなければいけないが、相当数に及ぶことは間違いないだろう。じゃあ、なんで、こんな過激な組織に世界中のあちこちの若者たちが集結するのか。ちなみにアルカイダの国際性はそれほどでもなかったこと(外国人部隊がISISばりに存在したという事実はない)を踏まえれば、これはきわめて不思議な現象だ。だが、これがメディア性、つまりこの10年間あまりのインターネットを軸とするメディア・テクノロジーの発達と、ISISのその巧妙なメディアの用い方に基づくと考えれば、案外納得がいくのではなかろうか。オタク的志向を充足させるインターネット。それがテロという「嗜好」に向かうと…… そのメディア性は二つ。一つはすでに展開しておいたISISのメディアの魔術師としてのメディア性だ。だが、そういった「洗練された」メディア戦略をやったところで、その思想が人々にリーチするということには必ずしもならない。つまりISISがプッシュするという必要条件の他に、このメディアを受け取ろうとする側のプル条件=これにアクセスしたくなる条件がなければならないからだ。その際、そこに大きく介在してくるのがインターネットだ。ISISはネット活動をするだけでなくYouTube、Twitter、facebookなどを巧妙に活用し、インターネットユーザーの若者たちがISISの情報にアクセスしたくなるようなインフラを構築している(例えばワールドカップ時にTwitterの検索窓に”#WC2014”とハッシュタグを打ち込むとISISの広告が出てくる、といった細かいことまでやっている)。 もちろん、こういったインフラを利用したところで、そう易々とISISに参加しようとする人間が登場するわけではない。ほとんどの若者はスルーするはずだ(実際、そうしている)。しかし、ごく一部の者がこの網に引っかかる。それはインターネットというメディアが備える特性に由来する。 インターネットは、言うまでも無く膨大な情報を抱えた海。任意に様々な情報にアクセスが可能になる。それがマイノリティに属する情報であったとしても、だ。例えば僕の例を挙げてみよう。僕の趣味の一つはワインだが、最近ではポルトガル・ワイン、しかもヴィーニョ・ヴェルデという早摘み弱発泡性ワインに凝っている。で、これは白やロゼなら現在ではデパートのワイン・コーナーなどで入手可能だが、これが赤となると限りなく難しくなる。ところが、この入手困難なマイナーなワインであってもネットで探せば情報は出てくるし、ほんの数軒だが日本でもこれを輸入しているネット通販業者を見つけることができる。でも、こんなものに興味関心を抱いている人間など、ごく一部のオタク(つまり、筆者(笑))に過ぎない。しかし、日本中を探せば存在するのだ。このネット通販で購入可能なヴィーニョ・ヴェルデの赤というのが、実は日本におけるこのワインの需要を示している。そして、こういったど「どマイナー」な商品の取り扱いはネット通販だからこそ初めて成立する代物だ。つまり、ニーズが広大な領域に、さながらスキルス性胃ガンのがん細胞、あるいはアメーバのように点在するのだけれど、市場がネットという空間横断的な電脳空間に置き換えられることでビジネスとして成立するニーズへと置き換えることが出来るのだ。ネットは空間に縛られない分、広大なマーケットを獲得可能にする。言い換えれば、ネットというのはオタクの嗜好に対応するメディアなのだ。 ISISも同じだ。こんな集団に興味を持つヤツなんか、実際のところはほとんどいないはずだ。ところが、ISISを知らしめるインターネットというインフラはワールドワイドだ(こういう連中を引きつけようと、ISISはちゃんと英語でプロパガンダしている)。だから、世界中のどこかでISISのテイスト、テクスチャーがツボに入ってしまう若者がいると存在することは十分に考えられる。 もちろん、これは何もこういった人間=若者たちに「認められたい欲求」があり、それにISISが抵触したからなんてこともない。ただ単に「おっ、ISIS、カッコイイ!」ってな具合で先ずは入っていく。で、最初のうちは、この残酷性と洗練性のミスマッチがオモシロイみたいな具合で、いわば「形」から入っていくのだけれど、これが次第に「内容」そして「思想」、さらには「行動」へと変化する。かつて社会学者の中野収は1960年代末に学生運動に入れ込んでいった学生たちを次のように語っている「学生たちは思想があってヘルメットとゲバ棒を装着するのではない。むしろヘルメットとゲバ棒を装着すると思想が生まれる。順序は逆なのだ」。これと全く同じことがISISへの参加にも起こる。つまり「カッコイイ」から情報にアクセスし続けると、今度はそのカッコよさから次第にISISの思想が浸透していって、気がついたらISISへの参加へと向かっていったなんてことになる。フィルター・バブルが助長するISISの勢力 こうなってしまうのは情報化社会、とりわけネット社会が作り上げる現実感覚の多様性というインフラに基づく。ネットにはあらゆる価値観がばらまかれている。Aという考え方について、それを否定するBという考え方があり、さらにこれを否定するCという考え方があり、さらにそれを……という具合に、価値観は限りなく展開されて、「これ」といったスタンダードな基準がない。となると、ユーザーたちはこういった情報の海、価値観の海から親密性に基づき任意に価値観をチョイスし、その価値観を補強するかたちで、それに適合的なデータを収集し始める。そうすることで自分だけの価値観が構築されていく。こういった「嗜好だけで作り上げられる価値観が構築される現象」「自分ループ」「情報のパーソナライズ」をE.パリサーはフィルター・バブルと呼んでいるが、ISISに入れ込んだ若者は、このバブルを補強しようとどんどんISISの情報にアクセスするようになる。そして、挙げ句の果てにはマスメディアで取り上げられる派手な映像やメッセージは、彼らにとっては自らの価値観をさらに補強する「すばらしいもの」にすら映っていくのだ。 もちろんこういった連中はスキルス性胃ガンのように世界中に点在しているので、それだけでは力は弱い。ところが、これはまさにスキルス性胃ガン。がん細胞ならぬISISオタクが、ネットを介して結集し、さらには外国人部隊としてISISに加わるような状態になっていけば、これは強力な力を発揮することになる。それが、現在のバカに出来ないISISという勢力を作り上げている。ガン細胞が胃を侵し、さらに生命までも駆逐していくということになりかねない。テロリストに対する対応として、ISISはもはや国家、そして戦争という対応の方が妥当? で、ひょっとしたら、これは新しい国家のあり方を提示しているのかもしれない。つまり「土地はないけど国家はある」。社会学では準拠集団という言葉を使うけれど、そして古くはユダヤ人コミュニティ、華僑、印僑が該当したが、これはそれのサイバー版。そうなるとISISは新カテゴリーとして「イスラム国」ということになってしまう。まあ、そんなことは認めたくはないが、ただし、対応の仕方として「ネオ国家」として考える必要、これだけはあるだろう。ただ単に「罪は償ってもらう」とか「テロリストは掃討すべき」といった次元では括ることの出来ない現状を理解するためにも(こういう言葉は、あくまで語っている側が「強者」、語られる側が「弱者」という前提があって初めて成立する。言い換えれば掃討可能という暗黙の前提の内に語ることが出来る「上から目線」。ところがISISについては、もはやそんなレベルではないことは、言うまでも無い)。ISISは、こういったメディア論的視点からも捉えられるべきだろう。(ブログ「勝手にメディア社会論」より)あらい かつや メディア研究者。関東学院大学文学部教授。ブログ「勝手にメディア社会論」を展開中。メディア論、記号論、社会心理学の立場から、現代のさまざまな問題を分析。アップル、ディズニー、バックパッカー、若者文化についての情報も。

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    新聞、テレビではわからないテロの脅威

    IS(イスラム国)による日本人殺害事件の報道で、日本の新聞、テレビなどの大メディアは、テロリストの宣伝活動に体よく利用されてしまった。欧米ではテロの報じ方についてガイドラインが存在するが、日本のメディアにはそれがない。メディアとテロの関係を危機管理の観点から明らかにする。

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    はたして軽率だったのか…戦場ジャーナリストの自己責任を考える

    渡辺武達(同志社大学社会学部教授)メディアと社会 ほんの少し前までメディアは、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」による日本人人質2人の惨殺で大騒ぎだったが、今は川崎市の中学生1年生殺害事件一色だ。メディアが「現在」を伝えるのは当然だが、それだけではジャーナリズムとしての社会的存在価値は半減してしまいかねない。加えて、オーディエンス(読者・視聴者)は、こうした悲惨な事件が連続して報道されると、生物としての受容・処理容量を超えてしまい、「情報不感症」となり、自己保全のため、深く考える内的回路を閉ざさざるを得なくなる。 その結果、多くの人が「またか…」という感慨だけを持ち、逆に現実から目をそらし、根本の問題を見失い、報道が逆効果にさえなりやすい。民主性維持のために 日本人人質事件では、戦場取材を行うジャーナリストと政府の国民保護の問題は民主制の維持に欠かせないアジェンダ(社会的検討項目)であるにもかかわらず、そのまま電光掲示板のように目の前を流れていってしまった。そのことは、マスメディアとリンクするネットにおいても同様である。 だからこそ、今回は社会情報環境の大きな問題の一つである、戦場ジャーナリストの自己責任とその支援体制の重大さを考えたい。 何よりも大事なのは、この検討は3つのことを前提にしなければ前に進めないということである。第1は、誰しも自分が直接経験するか、経験者から聞かされる以外のことは、メディアを通して知るしかないということ。第2は、権力を持つ者や国民・市民の付託を受けて仕事をする者には、付託者に対するアカウンタビリティー(社会的役割の自覚とその実行責任)があること。第3は、権力はチェックしなければ腐敗し、国民を軽視した行動を取りやすいという歴史的教訓を忘れてはいけないということである。「自己責任」に甘えず この大前提を認識して動くメディアとジャーナリストがしっかりと機能していれば、社会問題は致命傷になる前に修正できる。ところが、現在の社会情報環境では世俗受けするコメントが一人歩きしやすく、メディアも人々もそれを受け入れやすい。例えば、先のフリージャーナリスト、後藤健二さんのケースでいえば、自民党の高村(こうむら)正彦副総裁が2月4日に記者団に、「どんなに使命感が高くても、真の勇気ではなく蛮勇と言わざるを得ない」と語った発言だ。筆者の務め先の同志社大学の創立者、新島襄(にいじま・じょう)は国禁を犯して海外へ渡航して教育面から日本を変えようとした。坂本龍馬もやはり当時の「常識破り」の活動をした。誰もそうした行動をできるわけではない。シリア北部アレッポで取材活動中の後藤健二さん(中央)(インデペンデント・プレス提供) 確かに、後藤氏も「すべて自己責任」というメッセージを残したが、それに私たちは甘えてはいけない。メディアの報道と倫理についての古典的報告書で、1946年に出された『自由で責任あるメディア』(和訳・論創社刊)には、「日々の出来ごとの意味について、他の事象との関連のなかで理解できるように、事実に忠実で総合的かつ理知的に説明すること」とある。 高村氏の発言時にその場にいた知人記者によれば、高村氏は「後藤さんは優しく使命感が高く、勇気のある人だった」と強調したそうだが、どのような状況であっても、国家は国民を守ることに最善を尽くすべきである。ましてや政治家といえども、メディアやジャーナリストによって、多くのことを知ることができるのだから、軽々にジャーナリストを「軽率」と決めつけ、おとしめてはならない。(わたなべ・たけさと)関連記事■ あの日を境に変わった私のメディア認識■ ジャーナリストが権力を批判して何が悪いのか■ 史上最凶「イスラム国」の知っておくべきこと

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    テロリズムを「劇場化」するメディア報道

      テロリズムは、政治的目的のために爆弾や人質を利用して暴力的事件を起こし、社会や世間の注目を集め、メディアによって報道されることにより、自分たちのメッセージを世界にアピール、宣伝し、相手の政策を変更させたり、社会不安を拡大させて世論を混乱させたりすることを目的とした政治的コミュニケーションである。  今回のイスラム国邦人人質事件は、日本人の湯川遥菜氏と後藤健二氏が人質に取られ、日本政府による中東への2億ドルの人道支援が批判され、彼らの命と引き替えに2億ドルが要求されるという紛れもないテロリズムであり、これを実行した犯行グループをテロリストと呼ぶことは妥当である。  テロリズムはメディアによって報道されることが最初から計画の一部として組み込まれており、メディアが報道すればするほど、テロリストの目的は達成されることになる。  現代のテロリズムの特徴が無差別テロであるように、今回のイスラム国邦人人質事件でも、人質に取られたのはシリアに入国した民間軍事会社CEOの湯川遥菜氏とフリージャーナリストの後藤健二氏という一般人であった。  一般人が人質にされるテロリズムでは、一般人が標的となりうる現代社会というテロリズムの劇場が設定され、メディア報道を通じて、一般人がオーディエンスとしてそれを受容するという劇場型犯罪の構造をとる。「テロリズムは劇場である」といったのはブライアン・ジェンキンスであったが、彼が指摘した1974年の時代からその状況は変わっていない。  このテロリズムという劇場のなかで、イスラム国の標的となった日本人の一人である自分自身を人質と同一視することで「ストックホルム症候群」に陥り、イスラム国を非難するのではなく、それに敵対する日本政府を非難するメディア報道やオーディエンスの国民が発生したり、このテロリズムという劇場自体をドラマや映画などのスペクタクルのようにメディア報道し、それをオーディエンスとしてコンテンツ消費したりする国民が発生する。チュニスで博物館襲撃テロに巻き込まれ、決死の思いで脱出を図った観光客ら(ゲッティ=共同)  テロリズムは、それ自体が人々を魅了して目を奪われるキラーコンテンツである。メディアはテロリズムを報道すれば販売部数が上がり、視聴率がとれる。このように、歴史的にテロリストは自分たちのメッセージを世界に宣伝、アピールするためにメディアを利用しようとしてきた。  それに対し、メディアはジャーナリズムの社会的使命として、テロリズムを報道してきた。メディアの側がそのテロリズム報道で販売部数や視聴率を上げようとしなくても、ジャーナリズムの社会的使命を実践しようとするだけでテロリストの思惑に嵌り、その宣伝活動に荷担することになる。  このようなメディアとテロリズムの関係を、J・ボウヤー・ベルはメディアとテロリズムの「共生関係」と呼んだ。  イギリスのマーガレット・サッチャー元首相はIRA(アイルランド共和国軍)との闘争のなかで、「メディアはテロリストやハイジャッカーにパブリシティの酸素を供給するもの」としてメディア報道批判を展開したが、テロリズムに関する報道をコントロールすべきだという議論は、メディア報道管制論として欧米において古くから議論されてきた。 マスメディアの報道責任  はたして今回のイスラム国邦人人質事件において、メディアはイスラム国のテロリストをどのように報道しただろうか。  イスラム国を名乗る動画がインターネット上に掲載されて、そのメッセージの内容を詳細に報道することから今回の事件は始まった。テレビも新聞も雑誌もネットニュースも、イスラム国のメッセージを詳細に分析し、報道した。この時点で、すでにメディア報道はイスラム国のアピールに協力する宣伝機関の役割を果たしてしまった。  アメリカで1978年から16件の爆弾テロ事件を起こしたユナボマー(本名、セオドア・カジンスキー)が95年に新たな爆弾テロを計画し、ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストに対して自分の論文『産業社会とその未来』を掲載するよう要求した際、両紙は社内の議論の末、その論文を掲載した。  また、84年のグリコ・森永事件では「かい人21面相」を名乗る犯行グループが、グリコと森永の商品に毒を入れたという脅迫状のメッセージを両社とメディア各社に送りつけたが、この時、日本のメディアは各社議論の結果、社会に報道する責任を優先して脅迫状の内容を報道した。  当時の新聞やテレビ、雑誌といったマスメディアが中心であった時代には、テロリストが送りつけるメッセージは手紙やファックスなどのアナログメディアが中心であり、送りつけられる対象は、標的となっている組織やマスメディアに限られていた。そのため、マスメディアがそれを報道するかどうかという判断は極めて重要であり、報道すればテロリストの要求に屈したことになり、反対に報道しなければ一般市民はその事件の存在を全く知らないことになるという、現代とは異なる時代状況があった。  だからこそ、当時のマスメディアにはテロリズムを報道する際の慎重な姿勢が求められ、メディアとテロリストの間には緊張関係が存在したといえる。当時のテロリストはマスメディアを利用することに注力し、反対に自らの宣伝やアピールをメディア報道に依存せざるを得ない環境があった。  本来、メディアとテロリストの間には対立する緊張関係があったという前提と、テロリズムを報道すべきかどうかという社会的責任がマスメディアには存在していたということを忘れてはならない。国境越えるメディア戦略 国境越えるメディア戦略  それに対して、インターネットとソーシャル・メディアの時代である現代では、テロリストは自分たちのホームページを開設して情報発信したり、YouTubeやFacebook、Twitterなどのソーシャル・メディア上で自分たちのメッセージや動画を簡単に掲載したりすることができる。  イスラム国が日本人二人を人質にとったメッセージが掲載されたのもネット上であり、ソーシャル・メディア上であった。  ネットとソーシャル・メディアの登場により、テロリストと一般市民は直接繋がることができ、その間にテレビや新聞、雑誌といったマスメディアを媒介する必要がなくなったのである。これにより従来のマスメディアは、テロリストによって直接利用され、責任を問われる事態を免れたが、その反面、ネットやソーシャル・メディアに存在するテロリストのメッセージを葛藤せずにそのままコンテンツとして利用し、安易に報道するようになった。  テロリストがネットやソーシャル・メディアに掲載したものをマスメディアがそのまま報道することにより、そのメッセージをより広範囲に拡散することに貢献しているのである。  そういう意味では、現在のメディア環境においても、テロリストはソーシャル・メディアを使いながら、従来のマスメディアの報道を間接的に利用して自らの政治的主張を世界にアピールすることに成功している。  イスラム国は、YouTubeやTwitterなどのソーシャル・メディアを活用して、自分たちの政治的メッセージを世界に宣伝することに成功しているだけでなく、世界からカンパを集めることにより、資金として活用し、世界から若者をリクルートすることに成功している。  欧米諸国からも多くの若者を集め、そのなかにはテレビ局や新聞社などでジャーナリスト経験を持つものがいて、彼らがイスラム国の広報局に所属して人質の動画を編集し、ネット上でメッセージを発信している。  イスラム国は、組織のなかにメディアを活用するためのプロパガンダ機関を持っているのである。このように、現代におけるテロリストは多様なメディアを利用する情報戦、プロパガンダ戦を展開し、自分たちで世界にメッセージを発信するメディア戦略とメディア・リテラシーを持っている。  今回のイスラム国邦人人質事件でも、第一報以降、テレビや新聞、雑誌などにおいて連日、テロリズムに関する報道が大部分を占める集団的過熱報道(メディアスクラム)と呼ばれる現象が発生した。 事件は劇的に展開  新聞では連日、一面記事、総合面、政治面、国際面、社会面で人質事件の報道が続き、テレビニュースでもトップニュースや特集コーナーを人質事件が飾った。こうしてイスラム国によるテロリズムは、オーディエンスが注目するキラーコンテンツとなった。二つの高いビルが倒壊前の世界貿易センタービル(通称ツインタワー、2001年撮影)  イスラム国が提示した72時間という期限のなかで時間が刻々と過ぎるなか、人々はメディア報道に注目した。こうしてキラーコンテンツとなったテロリズムは、ジェンキンスが指摘したように劇場型犯罪として一般市民をオーディエンスとして巻き込み、劇的に展開する。  この現象は戦後テレビの登場とともに発生したともいえるが、1972年のあさま山荘事件では連合赤軍による10日間の人質立てこもり事件で、最後の強行突入までの10時間がテレビで生中継され、平均視聴率50%超を記録した。  95年のオウム真理教による地下鉄サリン事件では、オウム真理教関連の報道番組や特別番組が多数編成され、その多くが高視聴率を記録している。  また、2004年のイラク邦人人質事件では、3人の日本人がイラクの武装勢力サラヤ・アル・ムジャヒディンにより誘拐され、日本政府に対してイラクに派遣された自衛隊の撤退等を要求されたが、この時にも現在と同じような集団的過熱報道が発生した。  当時、人質に対する同情論と自己責任論で世論が二分され、イラクに自衛隊を派遣した日本政府がテロの原因であるとするメディアや研究者、評論家からの政権批判に繋がったことは記憶に新しい。  このイラク邦人人質事件におけるメディア報道と世論の反応は、今回のイスラム国邦人人質事件と非常によく似た傾向を示している。11年前に発生したイラク邦人人質事件の反省は、今回のイスラム国邦人事件でのメディア報道においてどう活かされたのだろうか。 東京五輪が危ない  このように、テロリストはテロリズムの宣伝効果を最大限に発揮させるために、また多くのオーディエンスを獲得するために、メディアを利用する戦略を構築する。よってテロリズムの標的になるのは、メディアイベントやランドマークである場合が多い。  2001年のアメリカ同時多発テロ事件で標的となったのは、アメリカのグローバル経済の象徴である世界貿易センタービルというランドマークであった。  また、72年の「黒い九月」事件でパレスチナ人過激派組織「黒い九月」が狙ったのは、テレビ中継されたメディアイベントであるミュンヘン・オリンピックであった。また、2013年に発生したボストンマラソン爆弾テロ事件で容疑者兄弟が狙ったのは、世界に生中継されたボストンマラソンであった。  こうしたメディアイベントには世界各国からメディアが集結し、テレビやネットを通じて世界に中継されているため、テロリズムの宣伝効果を高めるために重要な道具として利用される。  この意味においても、テロリズムとメディアイベントの間にも共生関係が発生する。2020年の東京オリンピックもテロリズムの標的になる可能性は高く、そのための危機管理体制の構築はすでに始まっている。  テロリスト、メディア、オーディエンスの三者からなるテロリズム報道というメディア・コミュニケーションのなかで、テロリストはよりオーディエンスからの注目を集めるためにテロリズムの手法を高度化し、そのインパクトを最大化するための大規模なテロ事件を計画し、メディアはそのテロリズムをより劇的に報道することにより、視聴率や売り上げ部数の拡大を目指すようになる。  そしてオーディエンスは、メディアが提供するテロリズムのコンテンツを利用し、消費することでテロリストの政治的メッセージを受容し、影響を受ける。こうしたテロリスト、メディア、オーディエンスにより形成される三角関係のなかで、テロリズムを軸に共生する負のスパイラルが拡大しているのが、現代のテロリズムの特徴である。 娯楽番組のように消費娯楽番組のように消費  このようにテロリズムをオーディエンスの問題として考えると、テロリズムは消費の対象となり、一連のニュース報道はドラマのように消費され、その劇場が終わった瞬間にテロリズムはオーディエンスの問題意識から消え去るという展開を繰り返してきた。  メディア報道によるテロリズムのキラーコンテンツ化は、こうして現実の社会問題としてのテロリズムと危機管理の問題を隠蔽する。  日本人の多くは、劇場における物語として人質の解放を喜び、または人質の殺害を悲しみ、事件の終わりを物語の終わりとして認識し、劇場を去ると同時に日常生活に戻ることですべてを忘れ去る。これはリスク消費社会における現代人の病理である。  この構造を創り出したのはメディアであり、ジャーナリズムであるともいえる。  80年代後半から指摘され、2000年代で定着した「メディア報道の娯楽化」「ニュースのソフト化」という傾向と、それに対する「ワイドショーの政治化」「娯楽番組の政治化」という傾向との相互作用により、報道番組とワイドショー、情報番組の垣根がなくなっているように、それを受容するオーディエンスのなかでも、テロリズムや政治的問題への関心が高まっている。  その一方で、意識のなかで報道の娯楽化、ニュースのソフト化が発生し、テロリズム等のニュース報道も娯楽番組と同じように消費する意識が常態化している。このように機能主義的に体制に回収される消費の論理のなかからは、政治的課題を解決するための実践的な行動は発生しない。地下鉄サリン事件で、地下鉄日比谷線築地駅前の路上で手当てを受ける被害者=1995年3月20日  さらに、テロリズムをジャーナリズムと政治の問題として考えると、地下鉄サリン事件のメディア報道においても日本政府と警察、公安の危機管理能力が問われ、批判の対象となった。また、イラク邦人人質事件においても、北朝鮮テポドンミサイル実験においても、日本政府の危機管理体制の甘さが露呈し、メディア報道の批判の対象となった。 タブーだった「危機管理」  このように、テロリズムなどの社会的危機が発生するたびに、日本の危機管理体制が不備であることが一部のメディアや研究者から批判されてきた経緯がある。  しかしながら、1995年の阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件を契機に、90年代以降、北朝鮮不審船事件と拉致問題の発覚、北朝鮮テポドンミサイル実験、アメリカ同時多発テロ事件など、繰り返される危機において、日本の危機管理体制の欠如がメディア報道で批判されるに至るまで、日本では「有事」や「危機管理」という言葉がタブーであったことを忘れてはならない。  日本において警察政策学会という学会が誕生し、そのなかにテロ対策研究部会が発足してテロリズムの学術的な検討が始まったのも98年のことであった。  これまで長い間、一部のメディア報道が日本の危機管理構築をタブー化し、東京大学をはじめとする日本の大学においてもテロ対策や危機管理というテーマの研究、教育はタブー視されてきた。その結果、日本における有事や危機管理のための法制度の構築は遅れてきたのである。  テロリズムや安全保障を全く学んでいない政治家や官僚、ジャーナリストを大量に生産してきたのが日本の教育制度であり、日本のメディア報道である。民主主義とシヴィリアン・コントロールにとって危機的な状態である。  テロリズムや戦争、紛争など政治的危機にかかわる法制度について、戦後の日本は政府とメディア、国民が「ハリネズミの恋愛」ジレンマに陥ってしまっている。90年代以降をみても、PKO法、通信傍受法、国民保護法、国家安全保障会議設置法、特定秘密保護法など数々の法制度において、テロリズムや戦争などの政治的危機に対する危機管理の論点から、合理的で理性的な議論が積み重ねられてきたとは言い難い不幸な歴史を繰り返してきた。  日本政府は常にメディア報道の批判を恐れて、危機管理構築のための十分な説明責任を果たしてこなかったし、一部のメディア報道もこうした法制度の構築に対して的外れな批判を繰り返してきた。メディアやジャーナリズムにとって、権力の監視機能は重要な役割であるが、テロリズムや危機管理の本質に根ざした批判や議論が十分になされてきたか、検証が必要である。大本営発表はいまも大本営発表はいまも  危機管理や安全保障の法案が国会に提出されたときにだけメディアは集中的に報道して批判し、国民はそのリアクションとして反対行動を起こすが、その法案が成立するとすぐに何もなかったかのように忘れ去られ、既成事実化していく日本の危機管理。テロ対応や危機管理の問題をタブーにしてきたメディア、ジャーナリズムが、こうしたテロリズムの議論を消費の対象に囲い込んできたという問題と結びついている。  こうして腰を据えた本質的な議論を避けてきた結果が、イスラム国邦人人質事件に対する日本政府の対応にも表れている。法制度を形だけ整備しても、それを運用する組織や能力が追いついていないのである。  危機管理や有事をメディアや大学がタブー視したことで実際の整備が遅れているという事実に対して、メディア報道や大学教育は責任をとるどころか、この状況に全く気づいていないように見えることが、日本の現代の危機の形である。  テロリズムや戦争といった政治的危機をどのように報道すべきか、メディアと政府の間で直接向かい合った議論が必要な時期を迎えている。メディア報道、ジャーナリズムこそが、権力の監視機能を担う民主主義にとって不可欠な要素であると認識するがゆえの提案である。  すでに現在のテレビや新聞などのマスメディアの報道機関は、テロリズムや戦争などの政治的危機の報道において機能硬直に陥っている。  たとえば、テロリズムや戦争といった危機事態においては一次情報のソースが政府に偏るため、マスメディアは政府の記者会見における発表情報に報道を依存せざるを得ない。この状態は「発表ジャーナリズム」という表現で批判されるが、これは太平洋戦争時代の大本営発表と基本的に同様の問題を抱えている。マスメディアはポーズとしての権力監視を看板に掲げていても、現状を改善しようとしない態度がこの実態を隠蔽している。 進んでいる欧米の議論  また、戦争や紛争などに関するマスメディア報道は、現地に入ったフリージャーナリストに依存せざるを得ない状況である。これは企業としてのコンプライアンス上、生命の危険がある地域に自社の記者を派遣できないとするマスメディアの対応からくるもので、「コンプライアンス・ジャーナリズム」と呼ぶべきものである。  その結果、戦場に入って報道するのはフリージャーナリストが中心となり、戦争、紛争やテロリズムの犠牲となる構造が発生している。今回のイスラム国邦人人質事件にも、このような事情が背景にある。  このように、テロリズムの問題をメディア、ジャーナリズムが克服するためには、数多く存在する問題を解決しなくてはならない。会見を開き、イラクで日本人がテロリストに拘束されたと発表する福田康夫官房長官=2004年4月7日、首相官邸  戦争やテロリズムなどの安全保障問題に関して、メディアと政府がどのような関係を構築すべきかについて欧米ではさまざまな研究や議論がなされてきたが、長年タブー視されてきた日本では議論が進んでいない。  危機事態における政府とメディアの関係には、①政府による検閲、②政府とメディアの調整、③メディアの自主規制の三パターンが存在する。  現代において、①検閲は北朝鮮や中国のような一部の国々、強権国家にしか存在しない。②政府とメディアの調整に関する代表例は、イギリスのDAノーティス制度(Defence Advisory Notice)である。  イギリスは戦争やテロリズムといった安全保障に関する報道に関してDAノーティスという制度を持っており、DPBAC(Defence, Press and Broadcasting Advisory Committee)という組織にBBCなどのテレビ局、デイリー・メールやガーディアンなどの新聞社、通信社やネット業者が参加し、国防省などの政府機関とともに安全保障に関する報道内容を検討して調整するという制度を1912年の第一次世界大戦以前から百年以上、維持してきた。  また、③メディアの自主規制の代表例はアメリカであるが、アメリカの新聞社やテレビ局などのマスメディアには、テロリズムについてどう報道するか、戦争における報道のあり方について膨大な報道ガイドラインが構築されている。  これは第二次世界大戦後、ベトナム戦争や湾岸戦争、イラク戦争など数多くの戦争を経験し、TWA847便ハイジャック事件やイラン米大使館人質事件など、数多くのテロリズムを経験してきたアメリカのメディアが歴史的に構築してきたものである。その歴史のなかで、アメリカはペンタゴン・ペーパー事件のような政府とメディアの対立を克服してきた。テロ報道体制の構築を  イギリス的な②政府とメディアの調整による協調・調整型を目指すべきか、アメリカ的な③メディアの自主規制による対立・克服型を目指すべきか、テロリズムや戦争など安全保障をめぐる政府とメディアの関係において、日本型のシステムが求められている。  残念ながら、日本にはイギリスのような調整型の制度も、アメリカのようなメディアの重厚な報道ガイドラインも存在していない。イギリス型を目指すべきか、アメリカ型を目指すべきか、または日本独自のシステムを構築するか、テロリズムや戦争などの危機管理をめぐる政府とメディアの議論を始めなくてはならない。  テロリズムの問題という一点をみても、日本の危機管理体制構築、研究としての危機管理学の構築は遅れていると言わざるを得ない。テロリズムや有事、危機管理の問題を決してタブー視することなく、民主主義におけるシヴィリアン・コントロールの観点からテロリズムの問題を考えるところから、オールハザード(ありとあらゆる危険を想定)で日本の危機管理を考察し、体制を構築すること、さらにはそれを研究する危機管理学の構築が求められている。 〈参考文献〉福田充『メディアとテロリズム』新潮新書(2009)、福田充『テロとインテリジェンス~覇権国家アメリカのジレンマ』慶應義塾大学出版会(2010)ふくだ みつる 1969年生まれ。日本大学大学院新聞学研究科、日本大学法学部教授。東京大学大学院・博士課程単位取得退学。博士(政治学)。コロンビア大学戦争と平和研究所客員研究員等を経て現職。専門はテロや災害など、メディアの危機管理。内閣官房等でテロ対策や危機管理関連の委員を歴任。著書に『メディアとテロリズム』(新潮新書)など。関連記事■  「アル=カーイダ3.0」世代と変わるグローバル・ジハード ■ あの日を境に変わった私のメディア認識■ 秘密保護法でバカ騒ぎ 左翼媒体と堕した進歩派マスコミ

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    なぜ、若者はイスラム国を目指すのか

    国には全体の約五五%が流れ、他の世俗的な組織に流れる者も少数ながらいるとされる。  一方、最近の欧米メディアの情報によると、外国人戦闘員で最も多いのはチュニジアの約3000人で、以下サウジアラビアの約2500人、モロッコの約1500人、ロシアの約800人、フランスの約700人、イギリスの約500人、トルコの約400人、ドイツの約300人、米国の約100人などとなっている。  他にもオーストラリアや中国、インドネシア、フィリピン、マレーシアなど多くの国からイスラム国の活動に参加しているとみられる。  では、彼らはいったいどのような動機でイスラム国に参加しているのか。昨今の情勢や論文などを分析すると、以下のような動機を導き出すことが可能だ。 ネットが組織拡大の一助ネットが組織拡大の一助  (1)シリアやイラクで発生する惨事をTVやネットを通して知り、弱者救済などボランティア精神を持って参加した者  (2)特に宗教的な過激思想に染まっておらず、単に強い冒険心で参加した者  (3)母国での社会経済的不満から、純粋にイスラム国などが掲げるサラフィージハード主義に染まった者  (4)母国での社会的不満以上に、宗教的な正義感と使命感から参加する者  (5)高額な給与に魅了された者   (6)訪れたものの、そこに溶け込めないが恐怖心から戦闘活動に参加せざるを得ない者  このようにみると、イスラム国はさまざまなバックグラウンドと動機を持った者たちの集合体であると考えられる。  また、外国人戦闘員の問題はイスラム国だけに言えるものではなく、AQAP(アラビア半島のアルカイダ)やアルシャバブなどのアルカイダ系組織にも多くの外国人、また欧米人が加わっていた。しかしなぜこのイスラム国には、いままでにない規模で多くの外国人が流入するようになったのか。  それにはシリア内戦の深刻化、イスラム国の多言語(英語、アラビア語だけでなく、フランス語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語、アルバニア語など)で発信するという広報戦略、イスラム国という名前の開放性、圧倒的な軍事的・財政的基盤などいくつかの理由が挙げられるが、その一つとしてグローバル化の拡大、深化が大きく影響している。  近年、グローバル化の影響は世界各地に拡がり、また安価な値段で国境を越え、無料でSNSなどを利用することができるようになったことから、グローバル化の影響を日常的に受ける世界人口も増加の一途を辿っている。  我々日本人はグローバル化の良い部分にだけ着目しがちであるが、当然のごとく、グローバル化においてはリスクも国境を超える。  それがアルカイダのような国際的なネットワーク、ブランドを有する存在を生み出し、さらには今回のように国家のコントロールが脆弱なスペースに入り込み、一定の土地を自らでコントロールする、イスラム国という存在を台頭させたといえる。 イスラム国建国を目指す  一方、ネットを通じてイスラム国への賛意を表すテロ組織も相次いでいる。  実際、バグダディが2014年6月にイスラム国の建国を宣言して以降、女子生徒を拉致して大きく報じられたナイジェリアのボコハラムやフィリピンのアブサヤフ、パキスタン・タリバンの一派、エジプトのアンサール・ベイト・アルマクディス、AQIM(イスラム・マグリブ諸国のアルカイダ)の分派とされるグループなどから「イスラム国への忠誠を誓う」とする宣言がインターネット上で発表された。  このようなイスラム過激派グループにとってサイバー空間は新しい聖域(safe haven)となっており、フェイスブックやツイッターなどのSNS、Youtubeなどの無料動画サイトなどを巧みに利用しながら連絡を取り合い、相互に存在感をアピールしている。  イスラム国は世界各国から賛同するメンバーを募集・リクルートし、またアブサヤフやボコハラムなど遠い地域のイスラム過激派へも影響力を拡大するなど、国境を超えたヒト・モノ・情報の流れを巧みに利用している。 「イスラム国」という名前にも、他の組織の賛同を得やすくする工夫が凝らされている。前身組織では「イラクのイスラム国」「イラクとレバントのイスラム国」という、範囲が限定された名前だった。だが、今回は範囲を限定しない「イスラム国」を名乗っている。  この名前は、南アジアや東南アジア、アフリカなど他の地域で活動し、同じようにイスラム国家の創設を目指すイスラム過激派からしてもより開放感がある名前と言える。  実際、イスラム国の建国が宣言された六月以降に、ボコハラムやアブサヤフ、マクディス等のイスラム過激派が忠誠を誓う宣言を行っている。 「イスラム国」の大元の由来は、一つに2003年のイラク戦争後に同国内でテロを繰り返すようになった「イラクのアルカイダ」(AQI)にある。その後、AQIが弱体化し、2006年10月に「イラクのイスラム国」(ISI)として登場。  さらに2013年4月からは、地域を限定した形で「イラクとレバントのイスラム国」(ISIL)と名乗っていた。その後、「イスラム国」と地域を限定しない名前を名乗るようになった。  由来となったAQIは、イラク国内でカリフ国家創設を目標とするイスラム教スンニ派武装勢力で、2004年4月にAQIの前身組織である「アル・タウヒード・ワル・ジハード」(al-Tawhid wal-Jihad)を率いるヨルダン人、アブ・ムサブ・ザルカウィによって設立され、2004年10月にはアルカイダのビンラディンへの忠誠を宣言した。  一般的には、イスラム国とアルカイダコアは対立的な関係にあると言われ、実際、アルカイダコアのトップ、アイマンザワヒリはイスラム国を破門している。また両者はイスラム国家建国に向けてのアプローチ、欧米への聖戦をどの程度重視しているかなどで根本的な違いが見受けられるものの、厳格なイスラム法に基づくイスラム国家の創設を目指している点では同じであり、両者の間には歴史的にも思想的にも多くの共通点、類似点があることは理解しておく必要がある。 テロ件数は増大  AQIは、2003年8月のイラク国連事務所爆破テロ事件や2004年10月の日本人青年殺害事件などに代表されるように、バグダッドをはじめモスルやティクリート、ファルージャなどイラク国内でテロを繰り返してきた。  さらには、2005年8月のイスラエル・アカバ湾に停泊中の米軍艦を狙ったロケット発射事件や同年11月のヨルダン・アンマンにおけるホテル爆破テロ事件など、イラク国外にも拡がった。  しかし、2006年6月に米軍の空爆でザルカウィが殺害され、翌年には米軍がスンニ派の部族勢力と自警団「覚醒評議会」を形成し、ISIに対する大規模な掃討作戦を行った。それによりISIは弱体化し、イラクのテロ事件数は2006年から2007年をピークに減少傾向に転じた。  だが、ISIは米軍のイラクからの撤退、宗派対立の激化などを背景に、バクダッドを中心に軍や警察、シーア派教徒を標的としたテロ攻撃を繰り返すなど、その活動を再び活発化させていった。そしてそれ以降、 イラク国内で発生するテロ事件数は近年、特に増加傾向にある。  たとえば2014年4月、米国務省公表の「2013年版テロ年次報告書」によれば、同年にイラク国内で発生したテロ事件総数は2495件で、パキスタンを抜いて世界ワーストとなり、犠牲者数と負傷者数もそれぞれ6378人、1万4956人と悲惨な数字となった。  2013年にISILと名前をリニューアルしていた組織は2014年、1月にイラク西部アンバル県にあるファルージャやラマディを、6月には北部モスルをそれぞれ制圧し、財政的、組織的、軍事的に強大化するための大きな切り札を得た。  その勢いに乗るように、モスルの制圧後は南下し、タルアファルやティクリートなどを制圧、首都バグダッド付近まで勢いを拡大するに至り、6月に「イスラム国」の建国を宣言した。  このような来歴をもつイスラム国だが、なかでもその“残虐性”には国際的な非難が集まっている。イラクでは少数民族ヤジディ教徒を迫害。さらにシリアで米軍主導の空爆が開始されるようになると、その報復としてイスラム国は8月20日と9月2日にシリア国内で拉致した米国人を一人ずつ、斬首によって殺害し、映像を公開している。組織拡大の「反動」 組織拡大の「反動」  しかし、イスラム国の今後には疑問も湧いてくる。たとえば言葉や文化、伝統が違う者たちが一定の期間の間に集結し、同じ目標に向かって問題なく行動できるものか。またバグダディ以下、複数の幹部が数万とも言われるグループを上手く統率・維持できるのか。  実際、今日のイラクにおいても、イスラム国は完全に優勢に立っているわけではない。イスラム国はバグダッドへの攻勢を強めてはいるものの、依然としてバグダッドをコントロール下に置くには至っておらず、またイラク軍の全勢力と比較しても、イスラム国が全面衝突でイラク軍に勝てる可能性は低い。バグダッド北方で「イスラム国」を攻撃するイラク軍(ゲッティ=共同)  全面衝突になれば、イランがイラク軍へさらなる支援をするだろう。また、民族構成上もイラクはシーア派が多数を占める国家であり、「シーア派政権打倒」を掲げるイスラム国の拡大には大きな壁がある。  さらにイスラム国はアルカイダが掲げるグローバルジハードや、初期のイスラム国家への回帰を目指す「サラフィー主義」を強く唱える者を抱える一方、世俗的な価値観を基本とし、単にイラク政治の改革を目指すに過ぎない地元スンニ派勢力も多く参加している。  よって彼らと関係を維持することは、イスラム国が領域を支配するうえで死活的に重要であるものの、それとどこまで関係を維持できるかは不透明だ。たとえばイスラム国が財政的に弱体化して戦闘員に十分な支払いができなくなり、内部から反イスラム国感情が高まって統率力が低下することも十分あり得る。 グローバル化のリスク  だがこれらを踏まえても、今日の国際テロ情勢は9・11テロ時より不透明な、不確実性を強く帯びたものとなっていることは明白だ。  アルカイダコアはビンラディンを筆頭に多くの幹部を失ったことで弱体化している一方、その他の組織や個々人による活動は活発化し、近年の脅威としての国際テロ情勢を形成してきたのはむしろ後者である。  たとえば米国は近年、米国の安全保障にとって最も直接的な脅威は9・11テロを実行したアルカイダコアではなく、イエメンのAQAPであるとしていた。  また、米国ランド研究所から2014年に発表された報告によると、アルカイダなどサラフィージハーディスト集団の数は、2010年の32から2013年には51と増加しているとされる。ヨルダン空軍による空爆(動画サイトYouTubeより)  各地に拡散して国際性を帯びるイスラム過激派や、冒頭で紹介したようなホームグローン・テロリストのような個々人による事件、それらを繋ぐネットワーク、さらにはそのブランドやイデオロギー……。  今日、我々は以前より対処することが難しいテロの脅威に直面している。我々はこのグローバル化社会のリスクというものを改めて認識しなければならない。  今後、国際社会によるイスラム国への圧力は一層増していくことが予想される。仮に米国を中心とする有志連合とイラク軍などが、イスラム国の破壊を目的とする軍事的な掃討作戦を全力で実行すれば、イスラム国は支配する領域を失い、軍事的・財政的・組織的に弱体化するだろう。  しかし我々が懸念しなければならないのは、イスラム国はもともと領域を持たない多国籍集団であり、国家のように支配する領域を失い、また組織的に破壊されたからといってその脅威は消えないことである。 「見えにくい脅威」という非国家主体から始まった存在でありながら、領域を支配するという「見える脅威」の要素を兼ね備えた組織、イスラム国。国際社会がイスラム国を物理的に弱体化させたとしても、今度はより「見えにくい脅威」として国際社会の前に存在することとなるだろう。  イスラム国やアルカイダなどは、国家以上に適応性(アダプタビリティー)と柔軟性(フレキシビリティー)に優れた脅威であることから、一旦破壊されても次に国家のコンロトールが脆弱なところ、また今後そうなる可能性がある場所を聖域として探すことになる。 闘いは長期化する  これは9・11以降のアルカイダがイエメンやソマリア、イラク、シリア、サハラ地帯などに拡散化しようとした経緯からも明らかであり、また場合によってホームグローンなど自らの国内にその細胞が芽生えるリスクもある。 オバマ大統領は、イスラム国との闘いは長期戦になるとの見方を示し、イラクとシリアで米軍主導の空爆を実施している。もし米国がイスラム国への対処で地上軍による攻撃を開始した場合、それによって米国にはイスラム国やアルカイダ特有の多くのリスクが生じることになる。  米国の地上軍投入は、言い換えればアルカイダトラップ(Al Qaeda Trap、前が見えない闘いに米軍が陥り、血を流すことになる罠)に米国がかかることを意味する。そのため、ソマリアやイエメンで実施している無人機による攻撃などの“light footprint strategy”(深い足跡を残さない軍事戦略)に沿ってIS軍事戦略を進めていくしかないのが現状だ(もちろん、今後の展開は予測が難しい)。  グローバル化のリスクが創出したイスラム国という産物──。これに対処することは簡単なことではない。わだ だいじゅ 1982年、岡山県生まれ。専門は国際政治学、国際安全保障論。清和大学と岐阜女子大学でそれぞれ講師は研究員を務める一方、東京財団で研究業務に従事、14年5月に主任研究員を務める日本安全保障・危機管理学会で奨励賞を受賞。“The Counter Terrorist Magazine”(SSI、フロリダ)や、"Counter Terrorist Trends and Analysys”(ICPVTR、シンガポール)などの国際学術ジャーナルをはじめ、学会誌や専門誌などに論文を多数発表、所属学会は日本防衛学会、日本国際政治学会、国際安全保障学会など。関連記事■ オウムの失敗に学んだ「イスラム国」と失敗に学ばない日本■  「アル=カーイダ3.0」世代と変わるグローバル・ジハード ■ 朝日新聞だけではない 戦後ジャーナリズムが陥っている偽善

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    朝日だけじゃない「反日地方紙」の正体

    首都圏や近畿圏を除けば、その地域で圧倒的な存在感を誇る地方紙というものが存在します。県内の政官財界に多大な影響力を持ち、その地域の人々にとっては、まさにゆりかごから墓場までお世話になる新聞なのです。それほど影響力のある紙面がまさに「反日一色」というのはなぜでしょうか?

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    言論封殺!「か」の字も許されない核アレルギー

    (中鉢久美子撮影) 元外務次官の村田良平氏は、平成20年に出版した著作『村田良平回想録』や翌21年のメディアでの発言は、そういう不誠実な政府見解はやめにして、もっと、まともな核論議をすべきではないかとの提起であった。一部メディアは次官経験者の村田氏による「核兵器の持ち込みについて日米間に密約があった」との発言をだけを取り上げ、「政府のウソ」として矮小化してしまった。 村田氏の守秘義務の危険を冒しての捨て身の発言は、もう姑息な政府答弁をやめて知的な誠実さ、高潔さを貫こうではないかとの提言である。この村田発言がきっかけとなって、民主党政権は核密約の存在を明らかにすべく有識者に依頼して外務省から資料を提出させた。しかし、その後の動きは、民主党による自民党政権時代の悪事を摘発するかのような方向にシフトしていく。 その結果に、新聞、テレビはいわば興奮状態でこれを報じ、もっぱら「国家のウソ」を論評していた。地方紙の中でも核問題に熱心な愛媛新聞の社説「核密約認定 現在進行形の問題と自覚せよ」は、その興奮が伝わってくる典型的な事例であった。 「あすは戦後現代史が塗り替えられる一日となるはずだ。冷戦時代に日米で交わされた四つの密約を検証していた外務省の有識者委員会が報告書を公表する。密約を否定し続けた政府は公式見解を見直す。長年の『国家のウソ』に一応の終止符が打たれる。認定される密約は、1960年の日米安全保障条約改定時の『核持ち込み』、朝鮮半島有事における米軍の『基地自由使用』、72年の沖縄返還時の『有事の核再持ち込み』の三つだ。国是である非核三原則を揺るがす報告内容は、日米安保の歴史の闇を浮き彫りにするにちがいない。沖縄返還後の軍用地の『原状回復費肩代わり』は『事実があった』としながらも、日本側の資料が破棄された可能性が高く、密約と断定しない見通しという」 こうして核密約の存在を、国是とする非核三原則に引き寄せていく。そして「核なき世界」に言及することで、いよいよ理想主義の陶酔の中へ踏み込んでいく。 「歴代の自民党政権は『密約はない』の一点張りで、国会答弁でも一貫して否定してきた。が、いずれも米国の情報公開や関係者の証言で明らかになっている真実である。『核なき世界』に向かおうとする現在。改定安保50年の節目。日米密約が『確かな史実』となる意味は決して小さくない。政権交代の大義のひとつが実ったとも言える」 非核三原則との矛盾に言及し、国是の形骸化を悲しむのは、このほかに西日本新聞、神戸新聞、新潟日報、山陽新聞、熊本日日新聞などが、ほぼ同じ論旨、同じ用語で政府を糾弾していた。 しかし、地方紙では珍しく北國新聞平成22年3月10日付社説が、政府のウソを批判しつつも、そうした密約が核の抑止効果があった事実を冷静に指摘していた。社説はまず、「相手のある外交では、表に出せない機密事項がつきまとうのも常であり、密約の存在をもって当時の外交、安保政策を全否定することもできまい」と述べる。 外交が水面下での激しい攻防の末に、合意文書に調印するのは常であり、これをすべて公表すれば互いのナショナリズムに火がついて収拾がつかなくなる恐れさえある。多かれ少なかれ秘密があるから守秘義務も存在する。そして、北國社説は「米国の『核の傘』に守られながら、核廃絶を唱える日本外交の矛盾を繕う一つの方便だったといえなくもない」と知的誠実さをみせている。 「外交の最大の目的が、国家・国民の安全と繁栄という国益の追求にあれば、同盟国との核密約を外交の過ちと批判して済むものではない。外交の光と影を正しく検証し、今後に生かすことが大事である。鳩山政権は非核三原則の堅持を強調しているが、冷戦構造が依然残り、核の脅威が高まる北東アジアにあって、日本の安全を守る核抑止力をいかに確保するかを考えることがなにより切実な課題である」 まったく同感である。 この密約は1960年代の終わりの沖縄返還交渉で、佐藤栄作首相の密使だった京都産業大学の若泉敬教授(平成8年に死去)が、著書『他策ナカリシヲ信ゼント欲ス』の中ですでに明らかにしていた。これに続く村田氏の意図を考えれば、「国家のウソ」が明らかにされたいま、日本の防衛にいったい何が必要なのかをタブーなしに論議すべきではないか。それこそが、「平成の開国」であろう。核オプションは放棄できない 実は、これら核密約をめぐる政府のウソは、もはや歴史的な意味しか持たないものであるという事実がある。というのは、平成4年(1992)に当時のブッシュ大統領が、日本に寄港する米空母、駆逐艦、原子力潜水艦にはもはや核兵器は搭載しないと発表していたからだ。核に代わって精密誘導ミサイルなどが進化して通常兵器の精度が飛躍的に向上してきたからだ。 つまり、92年からはもはや米艦船に核兵器は搭載されないと断言したのである。もちろん、日本に対してはいわゆる拡大抑止が効力を発揮しているが、それは日本に配備されている非核兵器システムであり、日本に寄港する必要のない弾道ミサイル搭載型原潜に装備された核兵器によってなのである。 かつては、米国は核兵器の配備にについて「肯定も否定もしない」という曖昧戦略をとり、他方で、日本は反核世論と非核三原則に縛られ、寄港問題を事前協議をせずに「暗黙の合意」として引き継がれてきた。 それは昭和39(1964)年の東京五輪のさなかに、中国が核実験を強行したときの日本のジレンマに陥ったことが大きく影響している。当時の佐藤栄作首相はライシャワー駐日米国大使と会談して、きわめて戦略的な発言で大使をあわてさせたことがある。 会談内容は、米シンクタンクの加瀬みき客員研究員が米国立公文書館で発掘した「日本国首相訪米関係資料」によって裏付けられている。ライシャワー大使から国務長官に充てた極秘文書では、この年の12月に、佐藤首相はライシャワー大使との会談で憲法改正の必要を何度も繰り返し、「もし相手が“核” を持っているのなら、自分も持つのは常識である」と述べたという。 ライシャワー報告はこれらを「二人だけの会談で持ち出すつもりと思われる」と指摘し、大統領がその準備をするよう示唆している。 ところが翌年1月の首脳会談では、佐藤首相はこの核保有論にはほとんど言及していない。米側文書には、ジョンソン大統領が「もし日本が防衛のためにアメリカの核抑止力を必要としたときは、アメリカは約束に基づき防衛力を提供すると述べた」とある。佐藤首相が「それが問いたかったことである」と語ったところをみると、首相の戦略意図が米国による「核の傘」を確実なものにすることにあったことが分かってくる。 佐藤と彼の密使として活躍した若泉敬氏らの書いた外交シナリオによる対米戦略交渉であったとしたら、極めて狡猾な外交である。彼らの外交力が米国の「核の傘」を確実なものに引きだしたといえまいか。 いずれにしても、当時のソ連は、こうした日米の外交努力のために米国の第七艦隊には、常に核兵器が搭載されていると信じていた。ソ連は米国の核兵器を恐れていたために、日本の安全保障のためには有効な抑止が働いていたということである。だからこそ、日本政府が米艦船の核搭載を否定するよりも、曖昧戦略を貫いていた方がよほど日本の安全保障のためになったということである。 多くの国では、「核の恐怖」を逃れるために独自の自衛策を講じている。大国は核保有によって抑止力を働かせ、もたない日本は米国の「核の傘」をさしかけてもらう。それでも間に合わなければ独自に核シェルターを持つしかない。 依然として核論議もゆるさない「不思議の国」にあっては、当面、北朝鮮の核の脅威を前に米国からの抑止を確実なものにする必要がある。日米首脳会談で「核の傘」を公式議題に取り上げ、当面、「北が計画を続ける限り日本は、核オプションを放棄しない」との表明が有用であろう。そのためにも、地方論壇が核にかかわる思考停止を放棄するよう期待したい。関連記事■ 亡国の巨大メディア、NHKは日本に必要か■ 秘密保護法でバカ騒ぎ 左翼媒体と堕した進歩派マスコミ■ 卑劣なプロパガンダ「サンモニ」の正体とは

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    沖縄県紙の市長選「介入」報道は許されるのか

    かし実際には事情は逆で、海警は市長選の間、市民に存在を誇示し続けたことになる。 中国要人の発言や官製メディアの報道を見ていると、中国当局は尖閣に関することは何でも綿密に情報収集している。市長選について無知だったとは考えにくい。海警が結局、市長選の期間をすっぽり覆うように尖閣海域に張り付いていたことを思うと、石垣市民に対する配慮ではなく、市民への威圧こそ、中国当局の狙いだったように思える。 こうした海警の挑戦的な動きも、市民が市長選で誰に投票するか判断する際の重要な材料になる。そうでなくても八重山日報は連日、海警の動向を報道している。紙面が選挙関係の記事でパンパンになっても、海警の記事を入れることだけは忘れなかった。 しかし他の県紙や地元紙は、市長選の期間中、海警の動向について全く報じず、わずかに琉球新報が、市長選が終わったあとに紙面の片隅で掲載しただけだった。自衛隊配備報道とは対照的な報道姿勢といえる。 海警は24時間体制で石垣市の行政区域を脅かし続けている。しかし地元のマスコミは、いつの間にか、これを当然視し、報道すらしなくなった。市民どころかマスコミさえ、海警の存在に「慣らされている」のかと思うと腹立たしい。 中国の王毅外相は3月8日の記者会見で、歴史問題を口実に日本を批判し「第二次世界大戦後の国際秩序を守る」「領土問題では一片の土地であっても必ず守る」と言明した。 尖閣をめぐり、日中の緊張局面が長期化することを改めて感じさせる重大な発言だったが、沖縄や八重山(石垣市、竹富町、与那国町)では全くと言っていいほど深刻に受け止められていない。 中国政府幹部の発言と海警の動きを重ね合わせれば、尖閣強奪を狙う中国の本気度が分かるし、この先10年、20年というスパンで、中国の圧力は強まる一方であることは容易に予想される。日本が世界平和の敵だと主張する宣伝戦も、自らの野心を正当化する口実であることは明らかだ。しかし現在のところ、沖縄や八重山からはマスコミも含め、中国のこうした動きを明確に批判する声も聞こえない。 沖縄タイムスは3月8日の社説で、自民党の石破幹事長が「将来的にはアジア版の北大西洋条約機構(NATO)が必要だ」と語ったことについて「中国を除外し、中国を封じ込めるという考えなのだろうか。危険な発想である」と述べている。八重山の住民にとっては、中国の脅威を直視しないマスコミの論調こそ危うい。文科省の是正要求に反発した竹富町 石垣市の隣にある島々、竹富町教育委員会が教科書選定のルールに従わず、独自の中学校公民教科書を採択し、使用している問題は、新たな局面を迎えた。文部科学省は3月14日、竹富町教委に対し、教科書採択のやり直しを求める是正要求を出した。是正要求は地方自治体の法令違反を正すための措置で、国が市町村に直接発動するのは全国で初めてになる。 竹富町の慶田盛安三教育長は「(教科書採択に対する)政治介入だ。文科省が態度を改めてほしい」と反発。是正要求に従わない構えを示した。 しかし町は地方自治法上、是正要求に従う義務を負っている。今後、不服申し立てや裁判闘争ということになれば、国と町が全面的な対決に突入することになる。 町が指摘されているのは、採択地区(この場合は石垣市、竹富町、与那国町でつくる八重山地区)では同一の教科書を採択するよう求める教科書無償措置法の違反である。 慶田盛氏は記者会見で「竹富町が教科書無償措置法に違反しているというなら、石垣市、与那国町も違法だ」と批判。さらに石垣市、与那国町が採択している育鵬社版について「現場教員が一番悪い(教科書)と評価した」と改めて教科書の内容に疑問を呈した。 しかし八重山教科書問題の焦点は、個々の教科書の是非ではなく、教科書無償措置法の違法状態解消を一刻も早く解消し、法治国家としての本来のあり方を回復する必要性という点に移っている。「問題は教科書の内容」(慶田盛氏)という発言自体、竹富町が現実を見ていないことを示す。 是正要求が年度末ギリギリの時期になったことについても、慶田盛氏は「大事な時期に現場が混乱する」と不満をあらわにした。だが文科省は義家弘介政務官が昨年3月に直接、町教委を指導して以来、1年間の「猶予期間」を町教委に与えてきた。最終手段である是正要求の発動を3月中旬まで持ち越したのは、逆に、町教委に最大限配慮した結果とも取れる。 違法状態の解消に努力する形跡がなかった沖縄県教委の責任も重大だ。法律論ではなく感情論で町教委の擁護を続け、教科書問題をイデオロギー闘争に矮小化させる原因をつくったといえる。 町に是正要求するよう文科省から指示されていた県教委は1月、逆に文科省に対し、竹富町だけ「八重山採択地区」から分離させることは可能か、と意見照会した。これが許されれば、町は八重山採択地区のルールに拘束されなくなり、堂々と東京書籍版の採択が認められることになる。しかし竹富町は人口4千人規模の小さな自治体であり、石垣市や与那国町から独立して、教科書選定のための調査、研究をする協議会を設置するのは難しい。 石垣市の教育関係者からは「竹富町を八重山採択地区から離脱させて、沖縄本島の採択地区にでも編入するつもりではないか」と呆れる声が出ていた。下村博文文科相は即座に採択地区の分割を否定した。 結局、県教委は責任回避に終始し、文科省の指示を無視して、竹富町に是正要求を出すことはなかった。その理由は、第一に竹富町を擁護し続けた自らの姿勢を正当化するためであり、第二には予想される主要マスコミからの攻撃を恐れたためだ、と思う。子どもに範を示すべき教育委員会が、むしろ違法行為の正当化に汲々としている。情けないというほかない。 仮に文科省が裁判闘争に持ち込んでも、主要マスコミは竹富町をジャンヌ・ダルク扱いするはずで、町は徹底抗戦するだろう。そうなると採択のやり直しを強制する手段はあるのだろうか。現行法上、この問題の決着はかなり難しい気がする。 竹富町のような事例が再発することを防ぐため、政府は3月、教科書無償措置法の改正案を国会に提出した。各自治体には「採択地区協議会の協議の結果に基づき、同一の教科書を採択する」義務が明文化される。つまり、各自治体は採択地区内で協議した結果に従わなくてはならず、竹富町のような自己主張は法律上も認められないということである。 また、採択地区の設定単位を、市町村単位に改めることも認める。法改正は2015年度の教科書採択から施行される見込みだ。 来年には次回の中学校教科書採択が控える。竹富町が続ける不毛な闘争より、重要性はそちらの方が大きくなりつつあるように思う。 中山氏が市長選で再選されたことで、八重山採択地区では今後も育鵬社の公民教科書を採択することがほぼ確実な情勢だ。さらに歴史教科書の変更も視野に入ってくる可能性がある。 国境の島々に問われてくるのは、他国に恥じない領土意識や歴史観を持つ子どもたちを育むということだ。法律と地域のルールに基づいた教科書を守る戦いは、沖縄や八重山を他国の脅威から守るための戦いでもある。なかあらしろ・まこと 昭和48(1973)年、沖縄県石垣市生まれ。琉球大学卒業後、平成11(1999)年に石垣島を拠点とする地方紙「八重山日報」に入社、22年から同紙編集長。イデオロギー色の強い報道が支配的な沖縄のメディアにあって、現場主義と中立を貫く同紙の取材・報道姿勢は際立っている。著書に『国境の島の「反日」教科書キャンペーン』(産経新聞出版)。関連記事■ あの日を境に変わった私のメディア認識■ 「政治的公平」とかけ離れた偏向テレビが国民を惑わす■ 琉球独立論の空虚

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    読者が知らない共同通信の強大な影響力

    福岡市)などのブロック紙といった分類を含め、これらを一般紙と称する。 本稿で取り上げる共同通信というメディアは、これら様々な新聞社にニュースを提供する通信社である。もうひとつ日本には時事通信という通信社もあるが、ニュースの配信量、その影響力ともに共同通信が時事通信を抑えており、文字通り日本を代表する通信社といえるだろう。 通信社のニュースといえば多くの読者は外電や海外ニュースをイメージしがちだ。むろん共同通信も世界各地に幅広く記者を派遣し、配信されたニュースにはこうした海外の出来事に関する記事も多数ある。だが、共同通信の配信記事はそれだけではない。 多くの読者は自分の読んでいる新聞記事が、実はその新聞社の記者ではなく、共同通信の記者が取材、執筆し、出稿、配信した記事であるとは知らずに読んでいることが多い。共同通信という存在は一般読者には意外に知られていない。 最近では、新聞社のインターネットサイトも多い。インターネット検索サイト、グーグルにはニュースの検索機能があり、キーワードごとのニュースを自在に集めることが可能である。検索で集められたニュースを眺めていると、別々の新聞社であるにも拘わらず、最初から最後まで全く同じ文章のニュースだったりすることがある。その大半が、実は新聞社のオリジナル原稿ではなく、通信社による配信記事なのだ。 映像メディアからラジオ局まで、共同通信が配信するニュースは活字のニュースばかりではなく実に幅広い。 本稿ではまず共同通信というメディアがどんなメディアで、新聞からみた存在感や影響力について紹介したい。朝日や読売しのぐ部数 《共同通信社は1945年、正確公平な内外ニュースを広く提供し、国民の知る権利に応えるとともに国際相互理解の増進に貢献することを目的に、全国の新聞社、NHKが組織する社団法人として設立。創立以来、国内、海外のニュースを取材、編集して新聞社をはじめ、民間放送局や海外メディアに記事、映像を配信している。日本語だけでなく英語や中国語でも配信し、アジアに軸足を置く日本を代表する総合国際通信社である》 共同通信が自らこう説明するように、共同通信は公益法人として新聞、テレビなど様々なメディアを支える裏方のような役割を担ったニュース供給メディアである。ニュースの配信を受けるためには共同通信に加盟料を支払い「加盟社」となる必要がある。つまり、顧客であると同時に、共同通信のメンバーであり参加構成員といっていいだろう。現在、加盟社はNHKを含め56社、加盟社が発行する新聞は67紙に及ぶ。顔ぶれをみると、産経新聞社や日本経済新聞社のような全国紙や経済紙、それに、県紙と呼ばれる地方紙が都道府県ごとにほぼ1社ずつ加盟している。ただし、沖縄の琉球新報と沖縄タイムズのように同一県内の2紙がともに加盟しているケースもある。 朝日新聞と読売新聞は共同通信の加盟社ではないが、加盟社以外に外信記事と運動記事の一部の配信を受ける「契約社」があり、朝日、読売のほか東京スポーツなど10社13紙を発行している。またフジテレビやテレビ朝日、TBSなどのキー局をはじめ地方の主要な民間放送局108社が契約社として共同の配信を受けている。記事を配信する媒体の数、その発行部数や放送局の場合の視聴エリアを考えると、共同通信の影響力は朝日新聞や読売新聞といった巨大部数を発行する全国紙を凌ぐといえるかもしれない。 共同通信はニュース供給のメディアだと述べたが、地方紙に供給されるニュースは海外ニュースだけではない。むしろ、地方紙にとっては国内ニュースの供給源という役割のほうが重く大きい。その意味で、共同通信は自ら発行媒体を持たないものの、地方紙への影響力は絶大といえそうである。 地方紙はおおむね県庁所在地に本社を構え、県庁に手厚い取材部隊を置くのが常である。県下一円に広く取材網を広げ、郷土のニュースをどこよりも速く、さらに手厚く詳しく報じることを全国紙と競い合う。 県政記者クラブの取材統括役、県政キャップといえば、いわば県庁の表裏を知り尽くし、知事や県幹部とも顔なじみで、地元政財界にも顔が利き、いずれはその地方新聞社の幹部になることが期待されている…こういう将来の重鎮または重鎮候補、エース記者が務める場合が多い。毎年、3月ごろになると、県庁の幹部人事を寸分の狂いなくいち早くスクープする。これが地方紙の大事な役割になっており、郷土に地盤を置く県紙の矜持であり、全国紙では追随できない典型的な報道である。 ところが多くの地方紙は、首都東京での取材体制が極めて脆弱である。東京支社を構えて記者を数人配置しているが、彼らは全国ニュースを追っているわけでは必ずしもない。地元出身の政治家を回ったり、地元ゆかりのニュース発掘だったりもするが、全国ニュースは共同の配信記事に頼るのがほとんどである。 選挙になると、選挙区ごとの当落判定が必要になる。地方紙にしてみれば、自分の都道府県の選挙区ならば、全国紙の手が届かない裏の裏の情報まで見据え、開票動向を占うことは可能だろうが、県境をひとつ超えると、そうはいかない。選挙の開票作業同様、選挙報道にミスは許されない。こうした全国規模での開票作業を束ね、集約し、処理していくのも共同通信の重要な仕事である。 さらにプロ野球やサッカー、大相撲などのスポーツイベントを例に取れば、様々なスポーツイベントごとの記事や写真、記録の処理に至る細かなところまで共同の配信に頼ることになる。デスク必見の出稿メニュー 夕刊を発行する新聞の場合、午前8時過ぎには共同通信社から夕刊に提供するニュースの配信予定が全国の加盟社に配信される。その日、何時にどこで、どんな予定があるか。そのニュースバリューはいかなるものか。写真は配信できるか、原稿は予定では何行くらい予定しているか。新聞発行の締め切りを踏まえて、共同から「使っていい」との知らせがあれば、直ちに使用できる「予定稿」と呼ばれる原稿の配信もある。 そうした克明なメニュー表を眺めながら、新聞作りの作業は進んでいく。予定に入れることのできない予測になかった突発的な事故、事件などが起こると、直ちにその「お知らせ」が加盟社に伝達される。共同からの出稿をめぐる連絡事項や伝達事項というのは例えば、こんな具合である。 「共同通信から社会番外です。人気アイドルグループ○○のメンバー××が港区内で警視庁に○○容疑で逮捕されていたことがわかりました。記事三十行を○○時ごろ配信します」 「外国人からの政治献金を受けていた○○衆院議員が議員辞職する意向を関係者に伝えたという情報があり、現在確認中です」  「先ほどお伝えしました○○氏の記者会見は予定された時刻になっても始まっていません」 こうした連絡は四六時中続く。それは朝刊の編集時間帯になっても何ら変わらない。いったん配信した原稿でも状況がリアルタイムで進めば、手直しした原稿「差替」が再配信されてくる。 また一つの事件であっても新聞に掲載する原稿は一本だけとは限らない。何本もの記事が必要な場合がある。 例えば、平成23年春に京都大学で起こった入試不正事件で、仙台市の予備校生が逮捕された場面ではどんな原稿が必要となるか。 まず一面には総括的な事実関係を伝える原稿「本記」が載るが、それだけでは物足りない。 「一体、携帯電話でどのように入試問題をネットの掲示板に投稿できたのか」という観点でまとめた原稿も欲しい。また、捕まった人物がどんな予備校生だったのか、という観点の原稿も欲しい。関係者がどう受け止めているのか、表情をまとめた原稿も欲しい。京大だけでなく、早稲田、立教、同志社などの予備校生の受験した大学での合否をどうするのか、といった原稿も欲しい。 事件にはネット社会の発展という背景があると思われるが、実はこれまでも似たようなカンニングが行われていたのではないか、という予測に立って取材してみる必要もありそうだ。また、このようなネットカンニングへの対策はいかにあるべきか。事件を識者はどのように見ているのか、という観点もあれば、使ってみたい。 あるいはこういう観点もあろう。警察当局が発生から短時間で逮捕に踏み切った理由は何か。偽計業務妨害容疑での逮捕となったが、一体、偽計業務妨害とはどういうもので、立件に無理はないのか…。内幕ネタもあれば、検証記事もあろう。あるいは問題点を提起する原稿もあれば、予備校生が19歳の未成年である以上、少年事件という扱いになると考えられるため、これから予備校生の刑事処罰が具体的にどのように流れていくのかといった観点から観測記事を作ることも可能だろう。 これら思いついたことを瞬時に判断しながら、新聞社のデスクは記者達に段取りをつけて取材を命じ、原稿を発注し、出稿が可能かどうかを見極め、紙面に何を盛り込むかを決めていく。当然、似たような作業は共同通信でもやっていて、一定の時間が経過すると、出稿メニューが配信される。多くの地方紙がそれを待っているからで、翌日の新聞を見て全国紙に見劣りがないように記事のクオリティや分量にも気を配っている。 いずれにしても、新聞社のデスクはこのような共同からの出稿連絡に耳をそばだて、メニュー表を見ながら常に過不足がないかを判断し、実際に原稿を見ながら手直しすることで日々新聞を作っていくのである。彼らが決めるニュースバリュー 共同通信を「ニュース供給のメディア」「裏方の役割」と表現するのは一面を表してはいるのだが、必ずしも正確ともいえない。共同通信は、裏方ではあっても、決して下請けのような存在ではないからである。むしろ、共同通信がなければ新聞づくりはたちどころに行き詰まってしまうような存在であり、また本来、各社が独自に持つ編集方針にしたがって判断すべきニュースの価値づけ、軽重を決定づけるキャスティングボードを共同通信が握っている面があるからだ。 霞ヶ関のある役人から「情報を流すなら共同通信一社に流せばいい。そうすれば結局は全ての新聞に同じ情報が載るからだ」とまで打ち明けられたことがある。 共同通信が配信した記事が加盟社である産経や日経、東京新聞に載り、ほとんどの地方紙に載るというのであればそれは全く当然の話だが、朝日や読売は共同の国内ニュースの配信を受けていない。にもかかわらず、くだんの役人は「情報を流すなら共同通信一社に流せば全ての新聞に同じ情報が載る」というのである。それはなぜか。 読売も朝日も共同通信の国内配信は受けてはいないが、様々な形で見ることは可能だからだ。例えば、霞ヶ関なら、多くの官庁が共同から配信された速報ニュースの端末を設置していて記者クラブに所属している記者が共同の記事を見ることは可能だし、また隈無く見るのは彼らの使命である。 さらにいえば全国紙向けに配信してはいなくても、関係する新聞社が国内ニュースの配信を受けている場合もある。携帯端末を使って共同通信はごく手短に速報ニュースを配信しており、これによって共同がどんな記事を配信したのかを(細かくはわからなくても)知ることができる場合がある。 配信された記事を見ながら、自分の新聞に記事を入れるか、入れないかを判断するのは加盟社ばかりではないのである。加盟していない社も加盟社と同じ様に、共同がどんなニュースを配信してくるか。それだけでなく共同がどの程度に扱うか、といった点に目を光らせているのである。 東京本社から離れて、地方支局の勤務をしていると、しばしば頭を痛めるのがこの「共同配信」と「NHK」の動向である。支局レベルで全国ニュースとして処理せずに地域ニュースとして県版にニュースを載せようと判断したあとになって共同通信がにわかに騒ぎ出すことがあるのだ。 配信された記事を見た本社から「共同から以下の内容の記事が配信されてきたが…」と問い合わせが入ることがある。本社にとっては共同配信が紙面作りのパイロットであり、羅針盤のようになっているからだが、共同の記事は迅速かつコンパクトで無駄がない反面、記事にするさい、こちらが頭を悩ませた微妙なニュアンスが捨象されていたり、逆に深入りを避けたりした部分をめぐり「針小棒大ではないか」「飛ばし気味ではないか」「一刀両断が過ぎるのではないか」「ずいぶん、思い切り良く書いたなあ」などと感じる場合がある。 いずれも「間違いではないのだが…」という点が大前提の話だが、取材体制で見る限り、自前の支局の方が共同よりも手厚く、取材も網羅的だったりする(単なる独り善がりな思いこみである場合やこちらの取材不足だったということも無論ある)のだが、本社から見ると、共同の配信記事を先に見ているから、どうしてもそれに思考が支配される。 本社からの問い合わせには支局が説明するのだが、あれこれ共同の記事にケチを付けてニュースバリューがそれほどでもないような言い訳に明け暮れる場面となることがままある。支局の取材内容を説明してもそれが、なかなか本社には受け容れてもらえないことも起こる。記事の中身にもよるのだが、共同の配信記事を黙殺するという判断は本社にとってはなかなか勇気がいるのだ。 というのも、共同の配信記事は全国の多くの地方紙に掲載されるだけでなく、NHKや日経新聞などの大手メディアも目を通しているからである。結局、共同の原稿が採用されたりすると、「身内よりも共同を信じるんだな」と共同通信の影響力の大きさにあらためて恐れ入るのである。 本社と支局とで判断がしばしば分かれる典型は、例えば気象をめぐって起こる様々なアクシデントだ。「○○で積雪のため、車両が国道に取り残されてしまった」などという場合だ。第一報がNHKだったりすると間違いなく大変な事態になる。時間が経つとやがて共同通信から「共同通信から社会番外です。○○で積雪のため、車両○台が国道に取り残されて立ち往生しています」などと連絡が入ってくる。すでにNHKはヘリコプターを飛ばして空撮を始め、それがスポット的なニュースとして全国に流れている、となると、もうこれは大変な事案である。 ところが、これが支局から見れば「雪が降って道路がふさがるなど日常的に起こる光景だ。冬季には大量積雪で命を落とす人だっている。なぜ今回だけ、大騒ぎするのか。それは東京の勝手な感覚であって、そんなに騒ぐほどのことか」と至って冷静なニュース判断だったりする。 その感覚もわからないではない。私自身も群馬に赴任したことがあるが、群馬にいる人にとっては、例えば、雷は日常的な気象事象である。ところが雷が予測を超えた場所に落ちたり、被害者が出たりするとたちまち大騒ぎとなる。「なぜ群馬に落雷が多いのか」という謎説きから始まって、地元で雷について研究をしている「雷博士」に取材したり、電力会社の雷対策などを盛り込んだりの原稿作りも余儀なくされる。地元の人にとっては周知の話であろうが、既に県版で何度も取り上げた同じ話であろうが出稿を求められる。「共同さんが騒ぎ過ぎなんですよ」という説明は、本社から見ればサボりの口実にしか聞こえない。それも癪(しゃく)の種である。湯水のようにニュースが送られる共同通信の原稿を目の当たりにして「それはニュースじゃない!」と言い張ったところで、とても本社としては同調できる気分にはなれないだろうし、地元にとってニュースでなくても地元でない人から見ればニュースなのだ。 こんな具合で日々、ニュースの軽重を判断するさい、共同通信の判断で実質的に決まるケースは非常に多いというのは実感でもある。キャスティングボードを握っていると述べたのは、端的に言えば「共同が動くか否か」。これがニュースの扱いを決める決定的な要因となることもあるからだ。配信される“要注意原稿” 共同が配信した同じ記事が一斉に多くの地方紙に掲載される。このことの持つ意味は案外大きいのである。海外からのニュースには特派員名を記したり、記事の末尾に「共同」と表記したり、共同の配信とわかることがあるのだが、国内ニュースの場合、それはない。読者にすれば、共同の配信記事か新聞社の独自取材による原稿なのかわからないのである。 新聞社の社説にも共同は大きな影響力を与えている。あくまで参考資料という扱いだが、社説の元になる記事についても共同は配信しており、そのまま使うことだって可能だ。現にそれぞれの社の社説原稿の枠(行数)にあわせて共同の原稿を下敷きにリライトしながら新聞社の主張が掲載されることは珍しくない。これは、共同よりも地方紙の見識が問われる事態なのだろうが、全国ニュースのニュース素材について取材の足場や機会が乏しい地方新聞にとっては社説に至るまで共同なしには成り立たないようである。 しかし、共同配信のニュースのなかには明らかに首を傾げてしまうものがあるのも確かである。特に次のような記事については要注意で臨むことにしている。○北海道はじめ教育行政に関する記事、特に国旗国歌問題や道徳教育、教職員組合をめぐる様々な原稿○教科書問題や歴史認識をめぐる記事○領土問題をめぐる記事○北朝鮮関連、最近では高校無償化策のうち、朝鮮学校への適用の是非をめぐる記事 事例を挙げればきりがない。教育行政に関する原稿は、必ずしも文部科学省だけでなく、裁判所から出稿されるケースもある。 いくつか実例を示そう。共同通信(朝日新聞などもそうだが)は竹島について、「日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)」という表記で配信している。決して「日本固有の領土でありながら、韓国に不法占拠されている竹島」という事実は表記しないのである。国会では今竹島に関する答弁を求められたさい「不法占拠」という表現を避ける閣僚が民主党政権下で続出、日本の立場を口にできないのは不見識ではないかと批判を受けている。 「日韓両国が領有権を主張する竹島」という表記には国会における民主党閣僚同様、自分の立場をどこに置くか、という根本的な問題が横たわっている。決して間違いではないし、一見公平さを装っているが、その実、我が国の立場とはあえて距離を置いている態度でもある。我が国の立場というのは同胞の願いを踏まえて存在するもので、それと異なる場所に自分の身を置く態度は、所詮、他人事としてこの問題に向き合っているということである。 ちなみに島根県の山陰中央新報は竹島についてどう表記しているか。 「島根県は竹島(島根県隠岐の島町、韓国名・独島)の領有権の早期確立を目指し…」「日韓両国で主張が異なる竹島(韓国名・独島)の領有権の早期確立に向け…」「【ソウル共同】韓国教育科学技術省は3日、日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)に関し、小中高校で韓国の領有権を体系的に理解させるための教育指導書を作成し、全国の学校などに送付したことを明らかにした…」 ざっとこんな具合である。自社原稿の場合、竹島が「島根県隠岐の島町」であると表記はしているが、基本的には共同が流す「日韓両国が領有権を主張する竹島」という表記もそのまま掲載されている。山陰中央新報にとって竹島はいかなる存在なのだろうか。「糾弾造語」を散りばめて 歴史認識に関する原稿にも気がかりな言葉遣いが度々出てくる。「南京大虐殺」「従軍慰安婦」「強制連行」といった戦後の造語が歴史的事実として表記されるのはもはや当たり前になりつつある。南京大虐殺はさすがにあまり見かけなくなったが「日本の植民地支配」という表記は依然出てくる。これは実に気がかりな言葉で、正しくは「朝鮮統治」であり、「台湾統治」だろう。こうした日本の名誉を貶めるために作られた「糾弾造語」がいとも簡単に新聞で表記される背景には、おびただしい左翼による裁判闘争を通じて法廷に持ち込まれてきた経緯があるからだが、メディア(この点についていえばもはや共同だけの問題ではない)だってこうした裁判闘争を盲目的に肯定し、むしろ自ら近づき、彼らの裁判闘争を事実上、後押ししてきたことは紛れもない事実である。彼らの使う「糾弾造語」のいかがわしさを嗅ぎ分けることなく、全く無警戒に歴史的事実として広めた責任は重いはずだが、その検証はなされているとは言い難い。 同様の旧悪は、北海道教職員組合(北教組)の問題にもあてはまる構図といえる。北教組がいかに北海道の教育をダメにしてきたかという事実から意図的に目を背けてきたのはほかならぬ、メディアだったからである。 道教委が学校現場を牛耳る北教組の横暴について不正は道教委に通報するよう定めた制度などを打ち出すと「密告制度」などと北教組と一緒になって批判的に取り上げる。露骨な組合への肩入れ、卒業式や入学式での国旗掲揚、国歌斉唱にメディアも一緒になって反対し続ける。文部科学省や道教委といった文教当局を頭から敵視し、教育政策を骨抜きし一律に挫くことに精を出す。そういう歪んだ見方こそが学校をダメにし、子供をダメにしてきたのではないか。 共同の配信記事を見ていて気になる点を指摘したが、自衛隊や原発などに対しても「?」と思う記事は少なくない。平成23年3月、東日本大震災が発生し、多くの自衛官が被災地で復興のために奮闘しても、それを正面から取り上げる記事の配信量は至って少ないのである。原発の危険性を説く記事や東電の批判は湯水のように配信されても、文字通り、エネルギーのない日本のなかで原子力発電が国力を支えてきたという紛れもない事実が公平に伝えられているとは言い難い。 計画停電に対する国民の不平不満はそのまま記事になる。が、なぜ計画停電をせざるを得ないかといえば原発が稼働できないことに端を発している。原発が動かなくなり、生産活動や経済活動に支障が出れば、それはそのまま日本の国力の減退に反映され、雇用や私たちの所得にも跳ね返る。地方紙のなかで経営が立ちゆかなくなるところだって出てくるかもしれないし、地域経済や国の経済が停滞することを余儀なくされる。 ところが(この点については共同だけではないが)メディアのスタンスは原発や東電への批判的な報道ばかりが目立つ。東電の対応は私から見ても首を傾げる出来事はある。それは事実である。また被災者のなかには「もう原子力発電などこりごり」と思っている方も多数いるだろう。だが、そうした人であっても、これまで原子力発電の恩恵を受けていたのは紛れもない事実である。 国民の原子力発電への不信やアレルギーを増幅させるための記事ばかりが新聞に掲載されていいはずはない。どこかに福島で失った電力源を今後、どうやって確保するのか、という視点があるべきだと思う。 仮に日本で原発を止めると決断したとする。では然るべき規模で電力供給を保証できる有効、有力な代替エネルギーはあるのだろうか。あればそれを使えばいいだろう。だが、私には思い浮かばない。原発事故の怖さを目の当たりにしつつも、私たちは地震前の国力を取り戻すためには国力の源である電力をいかにして確保するか、という視点が不可欠であって、依然、原子力に頼らざるを得ない気がしてならないのである。原子力発電を葬れば済むほど簡単な話ではないはずであるが、そういう観点に立った共同の配信記事には未だ出会っていない。関連記事■ 亡国の巨大メディア、NHKは日本に必要か■ 秘密保護法でバカ騒ぎ 左翼媒体と堕した進歩派マスコミ■ あの日を境に変わった私のメディア認識

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    地方紙はローカルニュースだけでよい

    なったときに、地方紙やブロック紙の、東京の通信社との関係も、見直されるだろう。関連記事■ 亡国の巨大メディア、NHKは日本に必要か■ 秘密保護法でバカ騒ぎ 左翼媒体と堕した進歩派マスコミ■ あの日を境に変わった私のメディア認識