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    米露を呑み込む中国の「一帯一路」 巨大利権に潜む習近平の大戦略

    テーマに北京で開かれた国際会議の記念撮影で手を振る各国首脳。前列中央右は中国の習近平国家主席、同左はロシアのプーチン大統領=5月15日(共同) 現状、そこには青写真があるだけで「一帯一路」の全体を把握することは難しい。ましてや成功か失敗かなどを議論する段階ではないのは言うまでもない。ただ、この会議ではっきり伝わってきたのは、中国が次の発展のためにも「一帯一路」の成功を不可欠と位置付けていることだ。同時に中国は、この構想を軌道に乗せるためにも国際社会との関わり方を変えていかなければならないという考えに至ったことも感じさせた。 例えば、「一帯一路」首脳会議で基調演説に立った習近平国家主席は「(シルクロードの)開拓事業に使われたものは、戦馬と長槍ではなく、ラクダのキャラバンと善意であり、頼りにしていたのは艦艇と大砲ではなく、宝船と友情だったのである」と平和の重要性を前面に出した。 会議には南シナ海の領有権をめぐって対立するベトナムやフィリピンからもトップが参加し、習氏の憂いを一つ晴らす材料となったのだが、習氏もそれにこたえるように、「他国の内政には干渉せず、社会制度と発展モデルの輸出もしなければ、それを他国に強要することもしない。中国は地政学ゲームのような古いやり方を繰り返すようなことはせず、安定を打ち破る小さなグループを作ることもせず、平和共存の大家族を築き上げる」と懸念の払拭に努めた。 こうした中国の姿勢は随所に見受けられ、首脳会議の前には「独断で進めるつもりはない」と耿爽報道官(5月5日の中国外交部の会見)が言及している。 この首脳会議には、直前になって米国が代表団を送ることが決まり、実際に代表団が参加したのだが、中国の準備は実に4月上旬の「マール・ア・ラーゴ」(トランプ大統領のフロリダ州にある別荘)における米中首脳会談にまでさかのぼる。 この米中首脳会談は、トランプ氏と習氏の個人間のつながりが生まれた会談として位置づけられているが、一方で中国側からの通商面での強い働きかけがあったことでも知られている。 事実、米中両国の合意の中には「双方は今後、一定期間の重点協力分野と努力目標を確定した。そして、二国間投資協定交渉を引き続き推進し、インフラ建設やエネルギーなどの分野での実務協力を模索し展開していく」(『人民網日本語版2017年4月8日』〈中米首脳会談 積極的シグナルを発信〉)とある。しかも、会談後には習氏が「中米貿易が協力を強化するということの前途には、大きな広がりがある。双方はこのチャンスを逃してはならない。中国は米国が『一帯一路』という枠組みに参加することを歓迎する」と語っている。米経済構想との親和性 この「一帯一路」構想が、実は米国にとってそれほど大きなストレスではないことは、この地域において米国が主導して進めてきた経済構想と「一帯一路」が一体化する方向で話し合いが進んできたことからも推測できる。 それがヒラリー・クリントン元国務長官の下で進められてきた「新シルクロード戦略」である。この「新シルクロード戦略」は、そもそもイランとロシアを分断し牽制(けんせい)する意味から生まれたもので、これに対するロシアの構想が「ユーラシア経済連合」である。 興味深いのは、この「ユーラシア経済連合」も「一帯一路」との一体化を進めていることだ。要するに国際政治の視点からみれば、米露の対立の場であったシルクロードが、比較的中間色の強い中国の「一帯一路」に吸収されるという構図が見て取れるということだ。 一帯一路は、従来モデルの経済発展に限界を感じた中国が、外にその活路を見いだしたことにあるが、考えてみれば次の「成長エンジン」として期待される国が集中している地域でもある。 中国がそこに旗を立てれば、行き場を失っているマネーが流れ込むことは予測できる。そして、一旦そうした流れができれば、この一帯の経済発展は中国だけで手当てできる規模ではないことは明らかだろう。 中国がこのところの見せる対外宥和(ゆうわ)に「ウィンウィン(win-win)」が強調されているのは、こうした背景があるからだ。 こうして政治的な壁を取り払いながら、今後は実を取る作業へと向かうことになるのだが、その先頭を走るのは貨物列車と各地のインフラの整備である。 2011年に中国は貨物鉄道の建設を完成させた。現在、浙江省の義烏から11の国29の都市を通ってスペインのマドリードまで、約18日で結んでいる。この貨物鉄道の開通で、いま中国-欧州間には百億ドルに相当する貨物が行き来するまでになっている。 具体的には、中国から工業製品が運ばれ、帰りにマドリードからオリーブオイルとワインを積んで戻る貨物列車だ。小ロットの運搬が可能な貨物列車の運行により、従来は中国との貿易には無縁であった各国の中小業者が貿易に参入するという効果を生んでいる。それにつれ、互いの利益のために税金や通関制度などでの共通化が劇的に進んでいる。 現状はそうした効果が、本線である義烏とマドリード間だけでなく、北はバルト三国のラトビアの首都リガからロンドン、イタリアのミラノ、西はイランのテヘラン、アフガニスタンのマザーリシャリフなどにも広がっていく可能性が指摘されている。カザフスタン・ホルゴスの〝陸の港〟。右は中国用の線路、左はカザフスタン用の線路=6月12日(共同) まだ始まったばかりの一帯一路を評価することは難しい。ただ、これを「失敗する」と決めつけてしまうのはあまりに早計だ。この構想の背後には、多くの利害共有者がいるという事実も見落としてはならないからである。

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    ロシア疑惑、トランプはいつまで持つか

    米連邦捜査局(FBI)長官の解任に始まったトランプ大統領の「ロシア疑惑」に注目が集まっている。最大の焦点は、トランプ氏の言動が弾劾訴追の対象となる「司法妨害」に当たるかどうかだが、次々と浮上するロシアとの深すぎる絆に憶測も広がる。追い詰められたトランプ政権。その命運やいかに。

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    ロシアゲート4つの疑惑、渦中のトランプが強気でいられる意外な事実

    前嶋和弘(上智大学総合グローバル学部教授) トランプ政権とロシアの関係をめぐる「ロシアゲート疑惑」が全米を揺るがしている。事実なら昨年の大統領選の正統性すら揺るがしてしまうという意味で、米国の歴史の中でも最大の疑獄に発展する可能性すらある。トランプ大統領のことを良く思っていない行政府内の職員からリークも連日続いている。それだけでも異常だが、ただ現時点では、あくまでもそのリーク情報に基づいたメディア主導の疑惑であった。1月22日、大統領就任直後にホワイトハウスで当時のコミー連邦捜査局(FBI)長官(右)と握手するトランプ氏(UPI=共同) メディア主導の中で、ようやくリアルな疑惑解明が動き始めている。6月8日のコミー前連邦捜査局(FBI)長官証言がそれだ。証言では、報道されていた一連の疑惑のうち、司法妨害に関係する疑惑の一端が初めて公になったのが、ロシアとの不適切な接触や選挙への介入疑惑など、コミー氏自身の口で肉付けし、それなりに生々しく語ったことは米国民にインパクトを与えたとみていいだろう。 ロシアとの関係が疑われているフリン前大統領補佐官(国家安全保障問題担当)の捜査について、2人だけの席での「フリンはいいやつだ。ほっといてやってくれ」という大統領のささやきは、コミー氏にとっては捜査中止の指令に他ならなかった。トランプ氏に否定的なリベラル派の多くは「コミー証言は真実。トランプ氏が言うような作り話どころではない」と怒りをにじませる。 それでもただ、コミー証言は過去の報道内容を大きく超えるようなものではかった。トランプ氏が捜査中止を要望しても、実際に捜査は続いたため、これだけで司法妨害は立証するのはやや難しい。トランプ氏を支持する保守層は「司法妨害でないことを確認した」と胸をなで下ろした。いってみれば、引き分けの結果となった。深すぎるロシアゲート疑惑の闇 ただ、ロシアゲートという米国史の中でも極めて深刻で重大な疑惑の全体像はあまりにも大きい。コミー氏の証言はあくまでも大きなパズルのごく小さなピースでしかなく、全容解明の手始めに過ぎないのだ。 ロシアゲート疑惑は複数のものであり、もし事実だとすると最も深刻な疑惑となるのが昨年の大統領選に対するロシアの介入疑惑である。民主党候補だったヒラリー・クリントン元国務長官の選挙戦を妨害しようと、民主党全国委員会などにロシアがサイバー攻撃を行ったり、クリントン氏を貶めるためのフェイクニュースを流したのではないかという疑惑である。この介入の際に、トランプ陣営が組織的に共謀したという事実がポイントとなる。もし、金銭の授受などの贈賄や、トランプ氏がロシアに何らかの弱みを握られ、恐喝されたような事実も今後明らかになるかもしれない。 2つ目の疑惑は、一連のロシアの選挙介入の捜査をしてきたコミー氏を辞めさせてしまったという、前述の捜査妨害(司法妨害)の疑惑である。これが今回のコミー証言の核心部分だった。 3つ目は、トランプ氏が5月にロシアのラブロフ外相とホワイトハウスで会った際、同盟国のイスラエルから得た秘密情報を同外相に渡してしまったという機密漏えい疑惑である。内容はイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)によるラップトップ型パソコンを使った航空機テロ計画の情報だったとされているが、これも本当なら「同盟国の情報を簡単に漏らすような国」というレッテルが張られ、同盟国からの信頼が薄れ、対テロ作戦を含む外交が大きく揺らいでしまう。 4つ目はまだオバマ政権が続いている大統領就任前にトランプ氏周辺がロシアと接触し、何らかの取引を行ったのではないかという二重外交疑惑である。 最初の2つに比べると、3、4つ目はやや深刻さは下がるものの、それでもロシアゲート疑惑の闇は非常に深い。 今後の疑惑解明は、議会と特別検察官に任命されたモラー元FBI長官の2つのルートで行われる。このうち、特にトランプ氏が恐れているのは、モラー特別検察官による捜査であろう。トランプ氏が疑惑を起訴すべきかを決める大陪審に召喚され、そこで偽証すれば、過去にクリントン元大統領が不倫問題の偽証で弾劾訴追されたように一発で罪に問われかねない。1998年11月、来日中の首相主催夕食会で、小渕恵三首相(右)から贈られた盆栽に笑顔を見せるクリントン米大統領(代表撮影) 各種世論調査を見ると、全体的にはトランプ氏の支持率は4割を割ることもあり、その支持基盤は極めて脆弱といえる。ただ、150日前後の支持率は、就任してやはりアマチュア的な政治手法で混乱した93年のクリントン氏と比較しても実は大差ない。さらに共和党支持者のトランプ氏への支持率は7割程度とまだかなり高い。政治的分極化を背景にしているため、この数字は93年当時の民主党支持者のクリントン氏の支持率よりもやや高いのである。米と世界が失う「大統領の威信」 議会側のポイントとなるのが、来年の中間選挙をめぐる民主党側と共和党側の思惑の違いであろう。共和党支持者の動きを見れば、ロシアゲートについて、トランプを擁護するのが共和党議員の行動の基本原理といえるが、疑惑がさらに出てくれば、このままトランプ擁護を続けると、来年の中間選挙で自分の議席も危なくなってしまう。まさに、民主党側にとってはこれが狙いであり、さらに次のパズルのピースとなる人物を探し出し、今後も時間をかけて喚問していくであろう。 下院の場合、弾劾を上院に訴追するには過半数が必要である。いまのところ、40議席程度共和党の方が多いため、民主党が全員弾劾に賛成するだけでなく、共和党から20人以上を弾劾賛成に引きずり込まないといけない。しかし、党議拘束がない米国の場合、議員は自由に動ける。5月初めに下院を通過した医療保険制度改革(オバマケア)代替法案では、共和党から10人以上が反対に回った。そう考えると、この数字の差は思ったほどではないとも言える。5月7日、米ボストンでキャロライン・ケネディ前駐日米大使(左)から「勇気ある人物賞」を授与されるオバマ前大統領(UPI=共同) 一方、上院の方は弾劾裁判を行う際、3分の2が賛成しなければならないため、ハードルは極めて高い。現在、共和党が52議席、民主党が48議席(無党派で民主党と統一会派を組む2人を含む)であり、下院と異なり全体の数も少ないため、共和党側から20人程度を弾劾賛成に持ってくるのは至難の業だ。 過去にも上院での弾劾裁判にかかった大統領は2人だが、実際の弾劾まで至ったことはない。むしろ、トランプ氏は弾劾される過程で自分への非難が連日続くことに嫌気が差して辞めてしまうシナリオの方が現実的かもしれない。かつて「ウォーターゲート事件」のニクソン元大統領は、下院司法委員会で弾劾勧告が出た段階で、下院の投票が行われる前に辞めてしまっている。いずれにしろ、現時点でトランプ氏の弾劾にはさまざまな疑惑解明が必要で、まだほど遠い状況であるといえる。 一方、ロシアゲートの最大の余波は政治の停滞に他ならない。国内政策なら、税制改革やインフラ投資といった日本経済にも影響する政策の実現が、民主党側の反対で一層遅れてしまう。さらに、トランプ外交の最大の目玉であったロシアとの協力も大きく後退する。ロシアとの外交交渉が遅れ、協力するはずだったIS(イスラム国)対策も進んでいない。また、北朝鮮問題が、外交的な解決を図ることになり、6カ国協議のような枠組みを作る場合にもロシアを引き入れにくくなっている。 ロシアゲートの闇が深く、疑惑解明に時間がかかる分、それだけ米国も世界も、失うものが少なくない。その中で最も大きいのは、「世界を牽引(けんいん)するアメリカの大統領」という威信なのかもしれない。

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    トランプとロシア新興財閥の「深すぎる闇」はどこまで解明できるか

    名越健郎(拓殖大学海外事情研究所教授) トランプ米政権の「ロシアゲート」疑惑をめぐって注目されたコミー前連邦捜査局(FBI)長官の議会証言は、トランプ大統領が捜査に圧力をかけていたことを示したが、決定的な情報はなく、想定の範囲内だった。今後の焦点はモラー特別検察官の捜査に移り、長期化が予想される。こうした中で、関与を全面否定していたロシアは釈明に動き始めた。捜査の焦点は、ロシアの選挙介入疑惑より、トランプ大統領とロシア新興財閥の「深すぎる闇」の解明に移るかもしれない。 プーチン大統領は6月4日、米NBCテレビとの会見に応じ、ロシアが米大統領選にハッカー攻撃を仕掛けたとの疑惑について、「政府機関は一切関与していないが、一部の愛国主義的なハッカー集団が西側の反露政策の報復として行った可能性はある」と述べ、初めてロシア側の介入を認めた。ロシアのサイバー攻撃については、米国の17の情報機関が一致して「攻撃があった」と結論づけており、これ以上の否定は困難とみなしたようだ。 一方で、「米国は他国の選挙結果に影響を及ぼそうと内政干渉してきた」「(得票総数が当選に結びつかない)米大統領の選挙制度自体を変えたらいいのではないか」「米国のような巨大な国の選挙結果をサイバー技術で変えられるはずがない」などと釈明。「現在米政界で起きているロシアコネクションの追及は、反ユダヤ主義を彷彿(ほうふつ)とさせる」と批判した。 プーチン大統領はこの後、米映画監督のオリバー・ストーン氏とも会見し、米議会でロシア非難の急先鋒(せんぽう)である共和党のマケイン上院議員について、「古い世界に住む政治家だが、国益のために全力を尽くす彼の愛国主義が好きだ」と述べ、天敵にエールを送った。さらに、「国際テロや貧困などグローバルな問題で米露は協力すべきだ」と訴えた。安倍晋三首相との共同記者発表で発言するプーチン大統領=4月27日、露モスクワ(共同) 7月7、8両日、独ハンブルクで行われるG20サミットで、プーチン、トランプ両大統領は初会談を行う予定であり、一連のプーチン発言は会談の成果を狙って、米世論を沈静化させる狙いがあるようだ。ロシアは欧州の一連の選挙にもサイバー攻撃を仕掛けたが、仏大統領選で期待した極右のルペン候補は惨敗。オランダ総選挙でも極右政党は敗退したほか、9月のドイツ総選挙もメルケル首相与党の勝利は動きそうもない。 親露派、トランプ大統領の登場で米露関係を改善し、欧州でも極右政党を躍進させ、一気に西側の対露包囲網を突破しようとしたプーチン戦略は破綻した。  主要国でロシアに手を差し伸べるのは安倍晋三首相だけだが、プーチン大統領が北方領土問題で安倍首相を冷たくあしらうのも不思議だ。安倍首相は6月のG7サミットで、ロシアとの対話を重視すべきだと対露融和外交を訴えたが、欧州首脳はそれを無視し、冷淡だったという。トランプ政権もロシアゲートが足かせとなって対露融和外交には動けず、欧米の対露制裁は長期化しそうだ。ロシアゲート疑惑の核心 もっとも、「米国の反露ヒステリーは、国民の危機意識を高めるだけに、来年3月の大統領選でプーチン大統領が再選を果たすには都合がいい」(モスクワ・タイムズ紙)との見方もある。クレムリンは欧米との対決姿勢を維持しながら、極度の関係悪化は防ごうとするだろう。 ロシアゲート疑惑の核心は、トランプ陣営が選挙戦でロシアと接触し、サイバー攻撃を依頼したかどうかにあり、これが判明すれば、国家反逆罪に当たり、弾劾の対象となり得る。しかし、過去半年間のFBIの捜査でも決定的証拠は見つかっていない。ロシアが捜査協力するはずもなく、解明は困難とみられる。ホワイトハウスの執務室で、プーチン大統領と電話会談するトランプ米大統領=1月28日、アメリカ(UPI=共同) むしろ、モラー特別検察官の捜査では、トランプ大統領とロシア新興財閥のドロドロした利権コネクションが浮き彫りにされ、それが決定打になる可能性がある。米国のメディアもこの部分の調査報道を行っているが、トランプ大統領のロシア関与は想像以上で、ロシア新興財閥がトランプ王国の資金源だった実態が判明しつつある。 米誌「ベテランズ・トゥデー」(2017年1月21日付)によると、トランプ大統領がモスクワに来るようになったのはゴルバチョフ時代の1989年で、ソ連指導部からモスクワとサンクトペテルブルクへのホテル建設を依頼された。エリツィン時代には、エリツィン後継の噂もあった実力者、レベジ安保会議書記(2002年にヘリコプター事故で死亡)と関係を深め、先行投資したこともある。しかし、ロシアの新興財閥は自国のホテル建設に関心がなく、むしろ米国にトランプ大統領が保有する不動産に積極投資し、実勢価格の何倍もの価格で購入するお得意様だったという。 トランプ大統領は2000年代初頭、アトランティックシティーのカジノ・ビジネスが破綻し、一時破産するが、その後トランプタワーの住居を高値で購入し、トランプ大統領を救ったのが、ロシアの企業や財閥だったという。トランプ大統領の子息、トランプ・ジュニア氏は「ロシア人は不釣り合いな価格でわれわれの資産を購入してくれた」と述べていた。 トランプ大統領は特に、プーチン政権と関係の深い新興財閥のアラス・アガラロフ、イルガム・ラギモフ、トフィク・アリフォフといった人物とディール(取引)を重ね、2013年にはアガラロフ氏の招待で、ミス・ユニバース・モスクワ大会を主催するため訪露。その際、高級ホテルで売春婦と不適切な関係を持ち、ロシア側に監視された-と元英情報機関幹部が報告書で告発した。 今後の捜査でロシア資金が選挙運動に使われていたことが判明すれば、政治資金規正法にも抵触する。トランプ大統領とロシア新興財閥の「闇の関係」の解剖が、今後のロシアゲート捜査の注目点になりつつある。

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    コミー証言は肩透かし? ロシア疑惑はトランプ辞任の引き金にならない

    中岡望(東洋英和女学院大客員教授、ジャーナリスト) トランプ米大統領は選挙で当選した時から、ロシアとの不適切な関係で疑われ、連邦捜査局(FBI)はロシア側が大統領選挙に介入した疑いで捜査を始めていた。さらに、トランプファミリーがロシア政府関係企業と密接で、利権が絡んでいるとの重大な疑惑も浮上。閣僚の中にもロシア政府と秘密裏に接触している事実が明らかになった。 こうした中でトランプ大統領のマイケル・フリン安全保障問題担当補佐官が辞任に追い込まれた。ホワイトハウスは同氏の解任はペンス副大統領に間違った情報を提供したためだと説明したが、その背景にはロシア・コネクションが捜査対象となっていたことに疑問の余地はなかった。「ロシア疑惑」はトランプ政権にとっての棘(とげ)だったといえる。 そして5月9日、トランプ大統領は突然、ジェームズ・コミーFBI長官の解任を発表した。コミー氏は、大統領選の投票日前に、もう終わっていると思われていたヒラリー・クリントン氏の私的メール使用問題の捜査を再開すると発表した人物だ。それがクリントン氏に対する有権者の信頼を大きく損ない、選挙戦最大の敗因になったと言われている。米上院情報特別委員会の公聴会に出席したコミー前FBI長官=2017年6月、ワシントン(AP) ゆえに、トランプ大統領にとってコミー氏は大統領選勝利の「最大の功労者」の一人であった。大統領就任後、トランプ氏は執務室でコミー氏に最大限の賛辞を送り歓迎した。2メートルを超えるコミー氏とハグし合うシーンは象徴的でもあった。コミー氏は、トランプ氏から何度もFBI長官に留まるように要請されたと、後日語っている。それなのに、コミー氏は突然の即刻解任の情報をメディアの報道で知ったという。 FBI長官の任期は10年である。フーバー初代長官が11年以上も長官の座にあり、その間に政治家や官僚の秘密情報を集め、隠然たる影響力を行使したことから、FBIの捜査の独立性を維持することも含め、任期が10年とされた経緯がある。 ただ、かつてビル・クリントン大統領は、セッションズ長官の公私混同が激しいことを理由に、レノ司法長官に彼がポストにふさわしくないとの書簡を書かせて、同長官を解任している。 今回もセッションズ司法長官と副長官にコミー氏が職責にふさわしくないという趣旨の書簡を書かせ、それを根拠に解任に踏み切った。FBI長官を解任するのは、大統領権限である。その限りでは、話はここで終わるはずであった。少なくともトランプ大統領は、そう考えていただろう。 だが、事態は予想外の方向に展開する。コミー氏は1月6日に初めてトランプ・タワーでトランプ次期大統領にFBIとして報告に赴いた時から、4月11日に電話で話をするまでの計5回の会談内容をメモに記録していたのである。 メモを取った理由として、コミー氏はトランプ大統領が人格的に信用できず、しかも二人の間で交わされた会話は誰も聞いていなかったため、もし将来問題になったとき、トランプ大統領が嘘をつくかもしれないとの不安からメモを残したという。 それは単に会話の記録だけでなく、トランプ大統領の表情や対応なども詳しく記録されている。コミー氏はそのメモを知人に託した。そして、ニューヨーク・タイムズ紙が「コミー・メモ」の存在をスクープしたのだ。「司法妨害があった」コミー証言の真偽 メモの中には、トランプ大統領がコミー氏に長官留任を餌に「個人的な忠誠」を示すことを求めたり、フリン前補佐官の捜査を中止するよう求めるなど、自分がFBIの捜査対象になっていないかを懸念するトランプ大統領の様子が詳細に書かれていた。 トランプ大統領は即座にメモが虚偽であると否定し、コミー氏を「嘘つき」と極めて厳しい口調で批判した。そして、コミー氏を解任したのは、彼が目立ちたがり屋で、FBIの機能を麻痺させているとし、執拗な個人攻撃を加えるなど泥仕合に発展した。その後、メディアで相次ぐスクープ報道があり、上院諜報特別委員会は、コミー氏を呼んで公聴会を開くことを決めた。 公聴会直前の6月8日、コミー氏は、大統領と二人だけの会談と電話での会話の内容を詳細に記した「陳述書」を委員会に提出した。その内容は驚くべきもので、トランプ大統領の発言や行動が詳細に書かれていた。 その中で、トランプ大統領がFBIの捜査中止を求めるような記述もあり、メディアは色めき立った。もし、大統領がFBIの捜査に介入したとなると、司法妨害(捜査妨害)の容疑が出てくる。司法妨害は、大統領弾劾の理由になり得るからだ。 米国では過去に、ニクソン大統領とクリントン大統領が司法妨害と偽証を根拠に弾劾に掛けられたことがある。ただ、ニクソン大統領は自ら辞任することで弾劾を免れたが、トランプ大統領に関してはホワイトハウスでの会談を録音していたとの報道もあった。ニクソン大統領が糾弾された最大の理由は、同様の盗聴を行ったことだった。そのため、コミー事件は「第2のウォーターゲート事件」に発展するのではないかと注目されている。 そして6月9日、上院諜報特別委員会でコミー氏の証言が行われた。午前10時から12時40分まで公開で証言が行われ、午後2時から非公開で証言が行われた。公聴会の最大の焦点は、トランプ大統領がフリン前補佐官の捜査を中止するようにコミー氏に「圧力」をかけたかどうかにあった。 ただ、委員の質問に対する答えはメモに書かれていた範囲を超えるものではなかった。コミー氏は、ロシアが大統領選挙に介入したのは事実であると証言。FBIのフリン前補佐官の捜査に関して、「トランプ大統領が私と交わした会話が司法妨害に当たるかどうかはっきりとは断定できない」としながらも、大統領の発言に当惑したと、その場の雰囲気を語っている。トランプ米大統領=2017年6月、マイアミ(AP) また、FBIはトランプ大統領が捜査対象になっていないことを本人に伝えたことも明らかにした。メディアは、コミー氏がトランプ大統領の司法妨害を認めるかどうかに注目していたが、その証言内容は曖昧なものであった。 こうしたコミー氏の証言に対してトランプ大統領は情報漏洩者と非難した。また、ホワイトハウスの弁護団は、コミー氏を情報漏洩で告訴する動きを見せた。これに対してコミー氏は、メモは機密情報ではないと、自分の行為は機密情報の漏洩には当たらないと反論している。「不支持率が60%」の異常事態 このように、諜報特別委員会の公聴会は非常に大きな関心を集めたが、結果的に内容に関しては「肩透かし」であったといえる。そのため諜報特別委員会は再度、コミー氏の召喚を検討しているとも伝えられており、まだまだコミー証言の波紋は続きそうである。 では、この一連の事態を国民はどう見ているのか。米紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』とNBCの共同世論調査(5月11日から13日に実施)では、コミー氏解任に関して回答者の29%が「支持する」、38%が「支持しない」、32%が「分からない」と答えている。今のところ、米世論は「支持しない」が多数派である。 ただ、党派別にみると、共和党支持者の58%が支持しているのに対して、民主党支持者の66%が容認できないと党派で評価が大きく分かれている。無党派では、支持は21%、不支持は36%であり、これが標準的なアメリカ人の評価といえる。  また、6月7日に『ワシントン・ポスト』とABCの共同世論調査の結果も発表された。調査はコミー氏の公聴会前(実施日は6月2日から4日)に行われたものである。調査では「トランプは2016年の大統領選挙にロシアが介入した可能性に関する捜査に協力していると思うか、あるいは捜査を妨害していると思うか」との問いに対して、全体の56%がトランプ氏は捜査妨害を行っていると答えている。政党別の支持者でみると、民主党支持者の87%、無党派の58%、共和党支持者の17%がトランプ氏の捜査妨害を肯定した。公聴会で証言するコミー前FBI長官=2017年6月 このようにトランプ大統領に対する信頼は大きく低下している。ただ、共和党支持者のトランプ支持が依然高いことも注目すべきである。トランプ大統領が強気の姿勢を取っているのは、こうした背景があるのかもしれない。  さらに、6月8日に行われたロイターの世論調査では、トランプ大統領支持が38%、不支持が58%であった。ギャロップの調査(6月8日)でも、同様に不支持率は58%、支持率は37%と、ロイター調査とほぼ同じ結果であった。ギャロップ調査では、3月28日に不支持率が大統領就任後最低の59%を記録したが、今回の調査結果はそれに続くものであった。政権発足後、4カ月余りで不支持率が60%というのは異常といっていい数字である。トランプの弾劾訴追はほぼ不可能 多くの国民の気持ちはトランプ大統領から離れつつある。政策面でも目立った成果は上がっていない。加えて、ホワイトハウス内の抗争や、ガバナンスの空洞化も起こっている。 では、トランプ弾劾は現実のものになる可能性はあるのだろうか。現状で考える限り、その可能性は低い。まず共和党と保守派のトランプ支持に揺るぎがみられないからだ。トム・コットン上院議員は「今回の出来事がトランプ辞任の引き金になることはない」と、共和党内の雰囲気を代弁している。ホワイトハウスへのパレードで、声援に応えるトランプ米大統領とメラニア夫人=2017年1月 保守派のジャーナリスト、レベッカ・バーグ女史も「コミー証言は共和党議員のトランプ支持が大きく変わる転換点になるとは思えない」と書いている。先の世論調査でも、共和党支持派の大多数がトランプを支持する結果だった。 さらに下院、上院ともに共和党が多数派を占めている。大統領を弾劾するには、下院の半数の支持を得て大統領を追訴する必要がある。それを受けて、最高裁首席判事を裁判官とする弾劾裁判が上院で開かれ、その3分の2の支持を得て弾劾が成立する。 ゆえに、下院で弾劾決議をする可能性は限りなくゼロに近い。仮にトランプ大統領が弾劾裁判に掛けられても、上院議員の3分の2が賛成することはまずないだろう。民主党やリベラル派がいかに大きな声を上げても、現実的にトランプ大統領を弾劾することは、ほぼ不可能な情勢と言わざるを得ない。 では、何も変化はないのだろうか。ポイントは2つある。トランプ大統領が政策面で大きな失敗をすることだ。その可能性はないわけではない。それが支持率をさらに低下させ、来年に中間選挙を控える共和党議員の中から、トランプ大統領の下では戦えないと考え始めた時、流れが変わるかもしれない。 さらに、コミー事件が拡大し、ロシアとの関係が安全保障問題を引き起こす事態になれば、共和党議員も考え直さざるを得ないだろう。中間選挙は平時であっても与党に不利である。不人気な大統領を要する選挙では、風の向きによっては、共和党は下院で過半数を失う可能性がないわけではない。それがトランプの強気を崩す潮目になる可能性は十分ある。

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    セッションズ司法長官の声色から分かること

    ションズ氏の証言」です。2017年6月13日、米上院情報特別委員会でジェフ・セッションズ司法長官は、ロシア政府とトランプ陣営が共謀していたのではないかという「ロシアゲート疑惑」に関して宣誓証言を行いました。本稿では、公聴会における同長官の議論の仕方及び表情や声のトーンといった非言語コミュニケーションに焦点を当てます。その上で、誰が公聴会の敗者かについて考えてみます。米上院情報特別委員会で証言するセッションズ司法長官=6月13日、ワシントン(ロイター=共同) 公聴会でマーティン・ハインリッチ上院議員(民主党・ネバダ州)は、セッションズ司法長官がロシアゲート疑惑の捜査に関与しないと表明した時、トランプ大統領は不満を漏らしたか質問を投げかけました。一部の米メディアは同大統領がロシアゲート疑惑から身を引くと発表した同長官に怒り、両氏の関係が不和になったと報道しています。同長官は、同大統領との私的な会話内容は明らかにしないと述べて回答を拒否しました。 セッションズ司法長官はその主たる理由に「司法省の伝統」を挙げて、長年にわたる同省の取り決めであると説明したのです。さらに、同長官は野党・民主党議員の質問に対して「思い出せない」と言い、トランプ大統領を疑惑から守りました。今回の公聴会における同長官のパフォーマンスは、翌日14日に71歳の誕生日を迎える同大統領へのプレゼントになりました。 元米上院議員で軍事委員会及び司法委員会等に所属していたセッションズ司法長官は、公聴会の冒頭、上院情報特別委員会のメンバーに対して「同僚」という言葉を用いて同情を買おうとします。民主党上院議員はその言葉に乗りませんでした。 まず、ロン・ワイデン上院議員(民主党・オレゴン州)がロシアゲート疑惑に対する捜査妨害は受容できないと主張しました。セッションズ司法長官がロシアゲート疑惑に対して不関与を表明したのにもかかわらず、身を引いていないと同議員は議論したのです。これに対して同長官は怒った目と表情を浮かべながら、声のトーンを高めて「不愉快だ」と強い口調で反論したのです。 次に、元検察官のカメイラ・ハリス上院議員(民主党・カリフォルニア州)です。ハリス上院議員は、「選挙期間中、ロシア人のビジネスマンと会話をしましたか」等の質問を矢継ぎ早にセッションズ司法長官に浴びせたのです。 しかも、ハリス上院議員はセッションズ長官が回答中に介入して、次の質問に移るのです。10分の持ち時間を与えられた同議員は、同長官から核心を引き出せないと判断すると、回答の途中でも即座に次の質問に移ったのです。このスキルは討論会の尋問で使用します。公聴会の敗者はだれか? ハリス上院議員は、実際は攻撃的に質問を投げかけているのですが、笑顔を浮かべているので視聴者には威圧的には見えないのです。同議員は、そこが優れていました。 南部アラバマ州生まれのセッションズ長官は、ハリス上院議員のスピードのあるコミュニケーションのペースについていけませんでした。苛立った表情の同長官は、次のように強いトーンで心境を語ったのです。 「あなたは私が嘘をついていると非難している。あなたは私を駆り立てるので神経質になってしまう」 にもかかわらず、ハリス上院議員は「トランプ陣営はロシア政府と連絡をとっていましたか」と同じペースで質問を続けました。同議員とセッションズ司法長官の激しい質疑応答を観察していた共和党の重鎮ジョン・マケイン上院議員(アリゾナ州)がリチャード・バー委員長(共和党・ノースカロライナ州)に、同長官に回答させるべきだと不満を漏らす場面がありました。結局、この公聴会で民主党議員はセッションズ長官からロシア政府とトランプ陣営の共謀及びトランプ大統領による司法妨害の決定的な証拠を引き出すことはできませんでした。 公聴会におけるセッションズ長官が繰り返す「思い出せない」という答弁に不信感を頂いた視聴者は少なくないでしょう。ただ、セッションズ長官の議論の仕方は巧みでした。1つ例を挙げてみましょう。2017年3月同長官はロシアゲート疑惑に関与しないと表明しました。ところが、同年5月コミー米連邦捜査局(FBI)長官解任支持の書簡に著名をしているのです。 これに対してセッションズ長官は、コミー氏がロシアゲート疑惑以外にも捜査を行っていたので、それらに基づいて同氏のリーダーシップ能力を判断したと議論しました。総合的に判断しますと、同長官の「限定的な勝利」であったかもしれません。3月20日、米下院の公聴会で証言するコミーFBI長官(ロイター=共同) 公聴会では、トランプ大統領の擁護派の急先鋒に立つトム・コットン上院議員(共和党・アーカンソー州)が存在感を示しました。同議員は、ロシアゲート疑惑はまるでスパイ小説ないしフィクション映画のようで、まったく根拠がないというメッセージを送ったのです。公聴会の前日、同大統領は与党・共和党上院議員をホワイトハウスに招き昼食を一緒にしています。その際、コットン議員は同大統領の左から2番目に着席しています。 前回の「トランプvs元FBI長官、公聴会の勝者は誰か?」で説明しましたが、2017年2月14日付の米ニューヨーク・タイムズ紙の記事は誤りであるとコミー前長官に証言させたのもコットン議員でした。トランプ大統領が同議員を自分の強力な応援団の一人であると捉えていることは間違いありません。 FOXニュースの人気番組「ハニティ」もトランプ大統領の熱烈な応援団です。「ハニティ」は、今回の公聴会を同大統領の大勝利であったと高く評価しました。そのうえで、ロシアゲート疑惑を「リベラル派による陰謀説」と断言しています。 今回の公聴会において、民主党議員はセッションズ長官を攻めきれませんでした。その点において同党議員が敗者と言えるかもしれません。 民主党議員にはジレンマが存在します。トランプ大統領はツイッターに、ロシアゲート疑惑は米国史上最大の魔女狩りであると繰り返し投稿しています。民主党議員が過度に攻撃的になると、同大統領の主張を正当化してしまうのです。今後、民主党議員は同大統領が仕掛けた魔女狩りの地雷を踏まないで、決定的な証拠を引き出す戦略が必要です。うんの・もとお 明治大学教授、心理学博士。明治大学政治経済学部教授。心理学博士。アメリカン大学(ワシントンDC)異文化マネジメント客員研究員(08~10年、12~13年)。専門は異文化間コミュニケーション論、異文化マネジメント論。08年及び12年の米大統領選挙においてオバマ陣営にボランティアの草の根運動員として参加。16年米大統領選挙ではクリントン陣営に入る。著書に「オバマ再選の内幕―オバマ陣営を支えた日本人が語る選挙戦略」(同友館)など多数。

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    トランプ弾劾はいかに? 過去に2回、不倫で訴追も

    樫山幸夫 (産經新聞前論説委員長) トランプ米大統領をめぐる一連の疑惑、“ロシアゲート”は、コミー米FBI(連邦捜査局)前長官の議会証言が、序盤のクライマックスだった。大統領が捜査に圧力をかけようとした形跡が色濃くにじんでいた。検察官は、トランプ氏自身も捜査対象に加えたとも伝えられている。一方、議会を含め米国内では、大統領を弾劾すべきだという強硬論が台頭してきている。トップをクビにする弾劾裁判―。有罪無罪もさることながら、その手続きが始まるだけで、米国の政治、社会が混乱するのは避けられない。米上院情報特別委員会の公聴会で証言するコミー前FBI長官=6月8日、ワシントン(ロイター=共同) 米国独立以来240年、実際に議会で弾劾裁判が行われたことは、これまで2回ある。いずれも「無罪」評決だったものの、大統領の政治的基盤を損ない、権威を大きく失墜させた。 トランプ氏について、弾劾の可能性を現時点で予測するのは早計だが、過去における「大統領の犯罪」を振り返りながら、今後の見通しを展望してみたい。 最初の弾劾裁判は南北戦争の直後1868年まで遡る。日本では明治維新の年だ。 第17代、アンドリュー・ジョンソン大統領は、有名なアブラハム・リンカーンの暗殺を受けて1865年4月に副大統領から昇格した。民主党員の上院議員でありながら、共和党のリンカーンからナンバー2に起用されたのは、南部と北部、民主、共和両党の和解を実現するにうってつけの人物とみられたからだ。 ジョンソン大統領は前任者の遺志を継ぎ、南北融和に心血を注いだが、南部への遺恨を捨てない議会共和党急進派は、これを苦々しく眺めていた。 1868年2月、ジョンソン追い落としのまたとないチャンスが訪れた。大統領は、当時の陸軍長官(今の国防長官)を、機密情報を自らの政敵に流していたのではないかという疑念から罷免した。 しかし、反大統領勢力は、前年に制定された政府高官の任免に関する法律に抵触するとしてこれを攻撃した。任命だけでなく、罷免にも議会の同意が必要なのに、大統領はそれをしなかったというのが理由だった。  大統領は、陸軍長官任命は、法律制定前のリンカーン時代であり、適用されないなどと反論したが、反大統領派は追及の手を緩めなかった。弾劾訴追するかどうかは下院で審議されるが、共和党が多数を占めていたことから訴追が決まった。  10日後、上院で史上初めての弾劾裁判が開始された。当時の定数54のうち、共和党は弾劾成立に必要な3分の2を超える42議席を確保していた。弾劾成立はだれの目にも明らかに映った。 ところが、起訴事実にあたる弾劾条項11項目の一つについての投票は、賛成35、反対19、3分の2を欠くことわずか一票という際どい結果で、否決されてしまった。クリントン氏のセックス・スキャンダル 権力争いによって大統領を追放することを潔しとしない共和党議員7人が党幹部の圧力をはねつけ、勇気ある造反を企てた結果だった。  10日後に行われた他の2項目の採決でも、賛成、反対同じ顔ぶれ、やはり一票差での否決だった。残りの条項については、もはや採決は見送られた。 こうして、ジョンソン大統領は劇的に弾劾を免れた。 米憲政史上初の弾劾裁判は、政争の色彩が強かった。戦争直後においては、革命騒ぎなど、多くの国で政治、経済、社会の混乱がみられたことは歴史を紐解けば明らかだろう。 それから時を経ること130年。1998年の弾劾裁判は趣が大いに異なっていた。“太平の世”とはいえ、あろうことか、大統領のセックス・スキャンダルが発端だった。 この不名誉な大統領はご存じ、ビル・クリントン氏。1993年から2001年まで在任した。今の若い人には、昨年の大統領選で惜敗したヒラリー・クリントン女史の夫君といったほうがわかりやすいかもしれない。沖縄サミットの開幕を控え、平和の礎前で演説するクリントン米大統領。右は稲嶺恵一知事=2000年7月21日、沖縄県糸満市 クリントン氏の弾劾裁判自体、1998年から翌年にかけてだから、知らない人、記憶が薄れてきている人も少なくないだろう。 筆者は当時ワシントン特派員として、この弾劾裁判、その訴因となったスキャンダルを最初から最後まで取材した。長い記者生活のなかでも忘れられない事件のひとつだ。 クリントン氏のスキャンダルというのはこうだ。 氏は、家庭を持つ身でありながら、就任前から多くの女性と浮名を流していた。ホワイトハウス入りしたのちは、何と、娘といっていい27歳も年下のホワイトハウスのインターン生と密かな関係をもった。それだけなら、道義的にはともかく、罪に問われることはない。しかし、前職、アーカンソー州知事時代のセクハラ事件で訴えられた裁判で、クリントン氏は、インターン生との関係を否定する証言をしてしまった。 このインターン生は、友人に大統領との関係を告白、その会話のテープが、州知事時代の土地取引疑惑などクリントン大統領の一連のスキャンダルを捜査していた当時の特別検察官の手に渡った。 特別検察官は、大統領に偽証の疑いありとして、本格的な捜査に乗り出した。1998年1月のことだ。 覚えている方も多いだろう。世界を驚愕させ、そして多くの人が眉をひそめたあの騒ぎを。 メディアが大統領とインターン生との具体的な“行為”の内容まで報じるに及んで、記事を新聞に掲載する側としては、表現、用語が低俗にわたらないよう、随分と苦労を強いられた。なぜ失職を免れたのか 大統領自身を含む関係者の大陪審への喚問、特別検察官の議会証言、捜査報告書の公表など、一年近くにわたった熱狂の末、下院本会議は98年12月、弾劾訴追を可決した。 訴追条項は、セクハラ事件で大統領が連邦大陪審で行った証言での偽証と、隠ぺい工作など証拠隠滅―だった。 弾劾裁判は翌99年1月から上院で始まり、翌2月12日に投票が行われた。 筆者は採決当日、議場に陣取って見守っていたが、事前の票読みで、いずれの条項も過半数を獲得できないだろうと予測されていたにもかかわらず、議場が異様な緊張感につつまれていたのをおぼえている。 採決は予想通り、いずれも、3分の2はおろか過半数にも届かず、大統領は「無罪」の評決を受けた。 この事件はスキャンダルが発端であり、それだけがことさら大々的に報じられたためか、日本でも、クリントン大統領は不倫によって弾劾裁判にかけられたと思っている人が少なくないだろう。しかし、そうではなく、司法妨害という深刻な犯罪で訴追されたことを理解する必要がある。 それにしても、証拠、証言などから有罪は濃厚だったにもかかわらず、なぜクリントン氏は失職を免れたのか。 当時、米上院民主党の長老だったロバート・バード議員の言葉が含蓄に富んでいる。「大統領の行為は、重大犯罪という弾劾の要件を満たすが、国の団結を守るために無罪評決に賛成した」―。その後に襲ってくる政治的、社会的混乱を防ぎ、国民の間に生じた対立を解消しようという政治的な判断で投票したという告白だ。反対票を投じた多くの議員も同様の認識ではなかったか。 クリントン氏は、こうした破廉恥な行為を暴露されたにもかかわらず、その後も高い支持率を誇った不思議な大統領だった。退陣後の2012年の調査でも「好感を持っている」という市民は6割を超えていたというから驚く。 ところで、弾劾といえば、1970年代に米国を揺るがせたウォーターゲート事件におけるニクソン大統領のケースを無視するわけにはいかない。佐藤栄作首相(右)と会談するニクソン米元副大統領 =1966(昭和41)年8月12日、首相官邸  1968年の選挙で当選した共和党のニクソン氏は72年に圧倒的な強さで再選された。しかし、この選挙中、陣営のスタッフが民主党選対本部に侵入する事件を起こし、その隠ぺいに大統領自ら関与したとして、下院司法委員会で弾劾決議がなされた。 ニクソン氏はその時点で辞職、弾劾裁判が行われることはなかったが、クリントン氏の弾劾裁判の際、共和党による遺恨晴らしだーなどとささやかれたこともある。トランプ弾劾という”政治ショー” さて、今回のトランプ大統領のケースに話を戻そう。 “ロシアゲート”を捜査しているミュラー特別検察官(元FBI長官)が、大統領も捜査対象としているーというニュースは今月15日、ワシントン・ポスト紙が報じた。 上院情報委員会でのコミー証言によると、大統領は、ロシアとの不適切な接触のために解任されたフリン前大統領補佐官(国家安全保障問題担当)の捜査に関して、「放っておいてくれ」と迫ったという。コミー氏は「大統領の指示と受け止めた」と証言している。フリン前大統領補佐官(ロイター=共同) コミー氏によると、大統領は他にも捜査への介入めいた言辞を弄したという。 ミュラー検察官は、大統領選挙でロシアの不正な干渉はなかったか、ロシアとトランプ陣営との癒着、不適切な接触がなかったかなどロシアゲート全般を捜査しているが、当面は、大統領のこれらの言動を捜査の核心に据えているという。 しかし、捜査の行く手は険しい。 トランプ氏側は、コミー証言によって「捜査妨害などなかったことがむしろ明らかになった」(共和党全国委員会)と強気の姿勢を見せている。 言葉のニュアンスは微妙であり、その場にいた者にしかわからない。しかもトランプ氏は“人払い”したうえで口を開いている。コミー氏の感じ方だけでは、大統領の捜査妨害を立証するのは容易ではないと指摘する専門家は少なくない。  「大統領の犯罪」が立証されても、現職にある間は刑事訴追されないから、それに代わる代償、制裁措置が弾劾だ。 すでに米議会は、民主党のベテラン、ブラッド・シャーマン下院議員(カリフォルニア州)が、捜査介入を具体的な理由として、他の議員にも弾劾へ同調するよう呼び掛けている。アル・グリーン議員(民主党、テキサス州)ら一部に賛成する動きがみられる。 これまで米国で、政府高官らのスキャンダルを捜査する目的で特別検察官が任命されたケースは16回。捜査に要した期間は平均で1100日を超えるという。 ミュラー検察官の捜査は始まったばかりであり、まさに「千里の道の一歩」だ。今後長い間にわたって、紆余曲折をたどることになろう。  仮に立証にたどり着いたとしても、上下両院いずれも共和党が多数を占める中で、下院での訴追決定、上院での有罪評決は現時点では、かなり困難といわざるを得ない。 トランプ弾劾といっても、政治ショーとしては面白いかもしれないが、実現へのハードルは高い。

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    コミー元長官の堂々たる公聴会は「さすがFBI」の一言

    前長官のコミー氏の公聴会について。* * * 先週、米議会公聴会でコミー前連邦捜査局(FBI)長官がロシア疑惑について証言した。公聴会を生中継した放送局は10局、日中とはいえ全米での視聴者は約1650万人という。 退任したばかりのFBI長官が証言する姿など、滅多に見られるものではない。日本で言えば、さしずめ警視庁長官や警察庁長官が証言するようなものだ。メディアの評価は期待通りだったというが、そもそもコミー氏は証言することをどう思っていたのだろう。米議会で証言する連邦捜査局(FBI)のコミー長官=5月3日(AP=共同) 公聴会に現れたコミー氏は、ダークな黒いスーツにえんじ色のネクタイを締めていた。見るからに重厚感があって落ち着いた印象。これは、黒は心理的な強さや重さを感じさせる色であり、えんじ色は大人らしさ、成熟をイメージさせるとともにクールさや理知的、大胆さを感じさせる色の効果でもある。 同じ赤系のネクタイでも、トランプ大統領や日本の失言大臣たちが好んで締める鮮やかな赤のネクタイとは印象がまるで違って見える。 席に着くやカメラのフラッシュが無数にたかれた。だがコミー氏はまるで動じる様子がない。表情ひとつ変えず、あごを上げ正面だけを見据えていた。宣誓を終えると、静かに座って椅子を何度か引き、袖口を直し、証言しやすい態勢を整えた。深く椅子に座り、背筋を伸ばす。堂々としたものだ。 質問する議員が変わる度に、その方向にまっすぐ身体を向け、背筋を伸ばして座る。時には椅子をずらし、机上のマイクの位置まで直す。落ち着いていなければ、ここまで気を使うことはできない。そしてこの動きは、きちんと耳を傾け、向き合って質問に答えますよという相手へのメッセージでもある。 コミー氏の仕草でよく見られたのは、机や膝の上で組まれた手の動きだ。親指を上げて手を組んだり、親指をこすり合わせたりしていた。組んだ手の親指を立てるのは、自分の考えや説明に自信があるからだといわれる。自分の感覚や主張には自信を持っていたが、少なからず公聴会の場で発言することにストレスを感じていたのだろう。親指をこすり合わせていたのは、そのストレスから心を静めよう、なだめようとしたからだ。 感情に合わせて動いたのは眉。「突然、解任された」と話した時は、額や眉間にシワが寄って、八の字のように眉が下がり、いまにも泣きだしそうな表情になった。「いつ解任されても仕方がない立場」と言いつつも、仕事に信念を持ち、残り6年の任期を全うする気でいたコミー氏には、我慢ならなかったであろう。FBIの真実はこれだ 二転三転する解任理由に混乱し懸念したと述べた途端、左眉が下がり右眉だけが上り、わずかに左肩をすくめた。この仕草は、理由に納得できないだけでなく、大統領への皮肉や批判を表しているように見て取れる。自分やFBIをありもしない嘘で貶めたと淡々とした口調で述べたが、その視線は鋭く前を見据えていた。この時感じた怒りは、かなりのものだったに違いない。 そして国民に対して「FBIは正直で、FBIは強く、FBIは常に独立性を保つ」とあごをわずかに上げて、これがFBIの真実だと強調した。大統領の発言を捜査打ち切りの指示と思ったという証言も重要だったし、会話をメモしたという証言も衝撃的だったが、それ以上にコミー長官は、公の場でFBIの名誉挽回をしたかったのかもしれない。 冒頭証言を終え、チェアマンが「ディレクターコミー(コミー長官)」と呼んだ瞬間、反射的に背筋を伸ばし姿勢を正したのも、FBIのトップに立っていた誇りがあったからだと思う。 反面、トランプ大統領には懐疑的だったと見える。メモを残した理由を「大統領の性格から、嘘をつくかも」と述べると、肩を下げ、眉も頬や口角も下がった情けなさそうな表情を見せた。自分の上司が、それもトップが嘘つきと確信した時のやるせなさや情けなさは、なんとも言い難い。それが一国の大統領だったのだから、その失望たるや相当のものだろう。 そんな大統領に求められたという忠誠には、「ロイヤルティー」という言葉を述べながら一瞬、両手の指を2本ずつ上げてクイクイッと曲げた。欧米でよく見る「いわゆる」という意味の仕草だ。忠誠を求められたことに疑問や反発を感じ、忖度する気にはならなかったと思われる。 ところが証言の最中は、言葉と相反する仕草や矛盾する表情は、まるで見受けられない。公聴会が行われた約2時間40分の間、用意された水を飲んだのは1~2度だけ。質問者が変わろうとも、どのような質問を受けても、姿勢も変わらず、身体が揺れることさえなかった。一瞬、戸惑ったり、言葉に詰まったり、感情がわずかに垣間見えた場面はあったが、コミー氏のボディランゲージには動揺や不安が一切表れなかったのだ。 それどころか、「大統領に忠誠を求められた際は、自分は動きもせず、口も開かず、表情も変えず、ぎこちない沈黙が続いた」と証言し、フリン前大統領補佐官の件については、大統領が執務室で他の人を人払いした時の状況や、その場にいたセッションズ司法長官の様子について、細かに証言したのだ。他人のボディランゲージを読み、それによって臨機応変に対応を変えている。さすがである。 FBIの長官までやった人物ならそれぐらい当然なのかもしれないが、訓練されている人間はやっぱり違うなあ。関連記事■ 【ジョーク】ヒラリー・クリントン氏が大統領目指すのはなぜ?■ 激ヤセのクリントン氏 1回数千万円の講演料で年収10億以上■ SAPIO人気連載・業田良家4コマ漫画【1/2】「根拠のないデマ」■ 【ジョーク】イラン大統領「オバマ無能」への対立候補の反応■ ヘーゲル米国防長官 訪韓時の朴大統領の日本批判に苛立った

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    落合信彦氏「トランプはFBIに追われ大統領職を放り出す」

     “ロシアゲート”疑惑が広がりを見せるなか、トランプ大統領はFBI長官を解任した。だが、長官解任によってむしろFBIは本気でトランプを追い詰めようとするのではないか。そう指摘するのはジャーナリストの落合信彦氏である。* * * こんな状況でも、日本の安全保障はまだ「アメリカ頼み」なのか。トランプが大統領職を放り投げる可能性が、いよいよ高まってきた。任期途中での辞任の可能性は本連載で昨年から指摘していた通りだが、事態はより深刻になっている。 5月9日、全米のテレビで「FBI長官、解任」の速報が流れた。その時、当のFBI長官ジェイムズ・コミーは出張でワシントンから離れ、西海岸のロサンゼルスにいた。ふとテレビを見たコミーは、「面白いイタズラだな」と呟いた。しかし直後、FBI本部に解任通知が届いていることを聞き、「イタズラ」ではないことを知らされる。米ワシントンのフーバービルにある連邦捜査局(FBI)本部 アメリカのメディアは、コミーが慌てて空港に駆けつけて専用機に乗り込み、ワシントンに向けて離陸する様子をライヴで報じた。そうするほどに、異例の事態なのだ。 1973年、ウォーターゲート事件の渦中にあったニクソンは、捜査を担当していた特別検察官たちを突如解任した。“土曜日の夜の虐殺”事件だ。 5月の突然のコミー解任で、ホワイトハウス前に集まった市民は「これは“火曜日の夜の虐殺”だ!」と叫び、トランプを批判した。トランプが、周辺へのFBIの捜査を妨害したのではないかと見られるからだ。 FBI長官の任期は10年。政権交代の影響を受けず中立な捜査ができるよう、長期に設定されている。任期途中で解任されるのは超異例である。「理由は単純だ。良い仕事をしていなかったからだ」 トランプは解任理由を聞かれ、そう語った。これこそ大統領お得意の「フェイク」だ。数多くの大統領を見てきた経験から言えば、トランプは限りなく「クロ」に近い。哲学内、歴史も知らない “ロシアゲート疑惑”は、驚くほどの広がりを見せている。トランプの娘婿のジャレッド・クシュナーは、2016年12月の政権移行のタイミングで、欧米の制裁対象になっているロシア政府系銀行の頭取と面会していた。ロシア駐米大使が面会を仲介したとされる。 大統領選でトランプの選対本部長を務めていたポール・マナフォートはウクライナの親ロシア派から75万ドルものカネを受け取った疑惑が取り沙汰されている。 大統領補佐官だったマイケル・フリンは駐米ロシア大使との近い関係が批判されて辞任に追い込まれたが、その後、ロシア系企業から5万ドル以上を受け取っていたことが明らかになった。 司法長官のジェフ・セッションズも大統領選挙中にロシア側と接触していたことが発覚した。 FBIは、これらを中心としたロシアのアメリカ大統領選への関与を洗っていた。その捜査の手が周辺へ迫り、焦ったトランプがコミーを解任したと見るのが自然だ。トランプの大きな勘違い しかし、トランプは大きな勘違いをしている。FBIは、長官ひとりのクビを切られたくらいで諦める組織ではない。むしろ本気でトランプを追い詰めようとするのではないか。 司法省は早くも、“ロシアゲート”を本格的に捜査するため、コミーの前任だったロバート・ムラーを「特別検察官」に任命した。フリンを辞めさせ、大統領上級顧問のスティーブン・バノンを国家安全保障会議の幹部会議から外すなど、側近を次々に飛ばしているトランプ。捜査が迫れば、今度は自ら職を放り投げて逃げ出すのが関の山だろう。 5月上旬には、トランプ本人がロシア外相のセルゲイ・ラブロフと非公開会談している様子を写した写真が公になった。その写真は表に出ないはずだった。ホワイトハウスの大統領執務室で、トランプはラブロフと笑顔で握手していた。アメリカはロシアに制裁を科しているはずなのに、ロシア側をにこやかに迎えている写真が出ることはあってはならないことだった。 大統領も側近たちも、ロシアとベッタリなのである。ロシア疑惑だけではない。最近のトランプは暴走を加速させている。政権発足から100日の節目を迎えた4月末には、ペンシルベニア州で集会を開いた。そこでトランプは「私の100日を語る前に、メディアの100日を採点してみよう」と語り出し、大統領批判を続ける記者たちを「非常に不誠実だ」と切り捨てた。 北朝鮮問題への対応も支離滅裂だった。「核開発を許さない」と言って空母カール・ビンソンを派遣したのに、1か月も経たないうちに「適切な環境下なら金正恩と会う」と言い出した。新聞は訳知り顔で「硬軟織り交ぜた対応で金正恩を揺さぶっている」と書いていたが、単にブレているだけだ。あの大統領には何の戦略もなく、ただ思いつきで喋っているだけなのだ。 日本人は、いざとなったらアメリカが北朝鮮をぶっ潰して守ってくれると思い込んでいるようだが、トランプは日本を守る気などまったくない。そもそも、東アジアの安全保障にコミットするつもりもないだろう。だから、「金正恩と会う」とか、「金正恩をアメリカに招待する」などと言えるのだ。 本連載の前号でも指摘したが、トランプの外交・安全保障政策には、まったく一貫性がない。娘のイヴァンカが「アサドは化学兵器で子供を殺している。アサドを攻撃すべきだ」と言えば、シリアを空爆する。軍が「北朝鮮に空母を派遣すべき」と言えば、カール・ビンソンを出す。 哲学がなく、歴史も知らないから、軍や側近の言うがままに操られているのだ。関連記事■ 元テレ朝・龍円愛梨氏 資金不足で選挙事務所借りられず■ 都民ファースト幹事長 野田ゴレンジャーとショーパブ会合■ 「SOD女子社員」シリーズ 本当に社員なのか?■ オバマ前大統領の超セレブ引退生活 金遣い荒い妻の意向も■ 無実の男性を痴漢にデッチあげた「中国人女性」の行状

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    露専門家によるトランプ“解剖”

    ニコライ・シェフチェンコ(ロシアNOW) ドナルド・トランプ氏の第45代アメリカ大統領就任式を前に、ロシアの専門家たちが改めてトランプとは何者かを理解しようとし、米国の内政および露米関係への影響を占った。 トランプとは何者か、そしてこの現象が露米関係をどう変えるのか?この問題はロシアの専門家たちを悩ましており、彼らは、同氏の奔放なツィターでの呟きやスキャンダラスな発言の霧を透かして、氏の素顔を見極めようと試みてきた。 ロシアのアメリカ専門家たちは、米国市民に劣らず就任式を待ち構えているが、式目前の1月18日に彼らは、モスクワの国際討論会「バルダイ会議」に集まり、議論を展開した。就任式で宣誓を終え、歓声に応えるトランプ米新大統領 =1月20日、ワシントントランプって何? ロシアの専門家らの関心を引く主な問題は、トランプとは何者かではなく、米国の政治構造の発展の文脈においてトランプとは何であるか、そしてこの現象が外交政策にどのように反映するか、という点にある。「トランプは歴史的必然性か、それとも歴史の破綻か」。モスクワ国際関係大学国際政治プロセス講座のイワン・サフランチュク准教授はこう問題を提起した。 米国におけるトランプの反対者たちとは異なり、ロシアの専門家らは次のような見方に傾いている。つまり、トランプが勝利したのは、ヒラリー・クリントン陣営の選挙戦略の誤りのためではなく、クレムリンが米大統領選に介入した結果でもない。トランプ勝利は、同氏がアメリカ社会の構造的な変動を捉えることができたためだ、と。 「トランプ氏は、アメリカ国民に対し、米国は敗北を喫しつつある、と言ってのけた人物だ」。こう言うのは、バルダイ会議のプログラムディレクターを務めるアンドレイ・スシェンツォフ・モスクワ国際関係大学教授。 スシェンツォフ教授の見解では、こういう強力で並々でない発言をするには、この候補者には「尋常でない勇気」が必要だったはずだという。 トランプ氏には、米国の支配層にとって具合の悪い問題を提起する能力がある、ということだが、これは、氏が別のエリート層の代表者であることで説明される――。こう考えるのはアンドレイ・ベズルコフ氏。氏はかつて米国から追放されたロシアのエージェントで、現在は露石油最大手「ロスネフチ」の社長顧問を務めている。経済大国としてのアメリカの再生こそがトランプ氏の主要なメッセージだ、と氏は考える。露米関係回復の困難さトランプ政権の顔ぶれと対露関係 将来の露米関係に及ぼすトランプ氏の影響は、米国の内政問題に劣らず専門家らを悩ませている。 「トランプ氏は、他のケースなら決してホワイトハウス入りしなかったような“スーパーヒーローチーム”を創るかもしれない。それは、高いキャリアを持ち、何よりも結果を出すことを目指し、これ以前には政治的野心を持たなかった、そんな人たちだ」。スシェンツォフ教授はこう言う。 露米関係を回復させるという課題が実際のところどれだけ実現困難かについては、専門家らは慎重な意見を述べる。モスクワの大統領府で記者会見したプーチン大統領=1月17日 「トランプ氏は、ロシアとプーチン大統領に対してひたすら好意的だったレトリックから、プラグマティックで現実的なそれに移行するだろう。このことを理解する必要がある」。マクシム・スチコフ氏は言う。氏はロシア国際問題委員会の専門家だ。 トランプ氏のレトリックは変化すると予想されるわけだが、これには落ち着いて対応する必要がある。なぜなら露米関係の複雑からして変化は避け難いからだと、同氏は述べる。 「肝心なのは、露米首脳間の良好な個人的関係を築くことにこだわらないことだ。似たようなことを我々はすでに、友人ボリスと友人ビル、友人ジョージと友人ウラジーミル、友人ドミトリーと友人バラクの間で経験してきている。これは、一定期間蜜月の幻想を作り出すが、その後で危機が生じて、露米関係を嘆かわしい状態に陥れる」。こう同氏は結んだ。 9日序盤のモスクワ証券取引所では、主要指標の一つであるMICEX指数は1.44%安の1939.66、ドル建てRTS指数は1.5%安の958.33まで下落した。ロシアの証券会社「ブロケルクレジットセルヴィス」がロシアNOWにこれを伝えた。 ところが、昼にかけて指標は回復し、その後1.5~1.7%高の2000まで上昇した。これはトランプ氏の勝利が伝わった後の世界の市場の反応とは逆である。専門家によれば、アメリカの外交政策が変わって不安定化するのではないかと世界の投資家が恐れたものの、ロシア的には制裁緩和の可能性を意味したのだという。最初の反応 ロシアの投資家の行動には時間差の影響があった。「ロシアの市場が始まったのは、原油、金、ドル、アメリカの株価指数先物の回復を背景に選挙結果が伝えられた後」と、ロシアのFX会社「テレトレード」の上級アナリスト、アレクサンドル・エゴロフ氏は説明する。そのために、ロシアの指標とルーブルの反応は大きくならなかった。投資家は高リスクから「安全な避難所」へ  国際的な投資家の最初の反応は、トランプ氏が選挙戦で示していた複数の公約から、多くの点でネガティブなものとなった。「トランプ氏がアメリカ大統領に選ばれたということは、金融市場の不確実性、それも長期的な不確実性の始まりを意味した」と、FX会社「eトロ」のパーヴェル・サラス・ロシア・CIS統括は話す。トランプ氏の行動は予測困難であることから、投資家はリスクの高い資産から「安全な避難所」へと移り、具体性を待っているという。 トランプ氏の経済公約およびいくつかの発言では、中国との貿易を制限していくことが示されていると、ロシアの大手証券会社「フィナム」の金融アナリストであるティムール・ニグマトゥッリン氏は話す。これ以外にも、欧州連合(EU)との自由貿易圏の創設に関する協議が止まるリスクもあるという。このような取り組みは、短期的にも世界経済の冷え込みを招きかねない。 「世界経済はここ10年で貿易障壁を低め、競争を高めて成長してきたことを考えると、アメリカ政府のこのような取り組みは逆行になる」と、ロシアの証券会社「オトクルィチエ・ブロケル」市場分析部の専門家、ドミトリー・ダニリン氏は話す。 長期的な見通し 中国、EUとは異なり、ロシアにとってトランプ氏の当選は、むしろプラスの変化を意味すると、専門家らは考える。ウクライナ情勢を受けて発動された経済制裁の緩和または解除は、ロシア経済に影響をおよぼす可能性があると、ロシアの投資会社「フリーダム・ファイナンス」取引部のイーゴリ・クリュシュネフ部長は考える。ロシアにより柔軟なトランプ氏は、経済制裁を延長しない可能性があり、早期解除に寄与する可能性もあるという。 「経済制裁の解除、または部分的、段階的な解除は、今後の可能性の一つ。ただ、今のところ、このシナリオの実現について話すのは時期尚早。解除の条件は近い将来、実施されそうにない」と、エゴロフ氏は慎重な見方をする。ニグマトゥッリン氏によれば、トランプ氏は選挙戦で、ロシア政府との対話を確立する必要性について何度も話していたという。 エゴロフ氏によると、いずれにしても、トランプ氏が候補者として発言した内容は、大統領としての具体的な動きとは異なるという。「一つ明らかなことがある。2017年は世界経済にとって変化の年になる。イギリスのEU離脱の問題があり、アメリカの政治の影響を受ける」とエゴロフ氏。(ロシアNOW  2017年1月20日分を転載)

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    プーチンとトランプが惹かれ合う理由

    ロタイプな「無教養で流されやすい貧困層」などではない。 トランプ勝利に喜色満面な人物の筆頭が、現在のロシア連邦を牛耳る「皇帝」ウラジミール・プーチン氏だという。トランプ米次期大統領(左)とプーチン露大統領「力」の信奉者 2013年、内戦真っ只中の中東、シリアでは、独裁体制を敷くアサド政権に対しての国際的な風当たりが日に日に高まっていた。ただ、シリアと軍事的、政治的に深いパイプを持つ(シリア西部の港湾都市・タルトゥースには内戦以前からロシア海軍が駐留)。プーチンは一貫してアサド政権を擁護、アメリカを含めた西側諸国との亀裂は深まるばかりだった。 当時、国務長官であったヒラリー・クリントンはオバマ大統領に幾度となく「シリア内の反体制派組織へ、本腰を入れた援助を向けるべきだ」と進言していたという。しかしオバマはそれを頑なに拒み続けた。まるで中東では何もしたくない、と言わんばかりの態度だった。その間に、シリア北東部のラッカ、さらにはイラクをまたいだ地域に過激派組織イスラム国(IS)が勃興、混乱は世界的に広がっていく。プーチンにとってこれは好機だった。西側の不干渉路線を眼光鋭い「熊」が見過ごす訳がなかった。手始めに、東欧のウクライナにおける騒乱に乗じ、クリミア半島を電撃的に自国へ編入して見せた。 ソビエト連邦崩壊以降、初となる国境線の変更が、武力により公然と断行されたのだ。1994年の国際合意は、何の意味も成さなかった(ブダペスト覚書。米、英、露、ウクライナ四カ国によるウクライナの領土保全を文書で確約、旧ソ連時代に残置されたウクライナ領内の核兵器を西側の経費負担で処分する代わり、クリミア半島はウクライナ領として侵してはならない旨明記)。 さらに、特殊部隊を差し向けられたウクライナ東部地域において、「ノヴォロシア連邦」が独立を宣言、政府軍との苛烈な戦闘は未だ継続中である。 プーチンの思惑通りか、アメリカが主導するロシアへの対抗策は経済制裁のみとなり、軍事介入は無かった。そして、先のシリアにおいてはアメリカのIS対応のもたつきを尻目に2015年に、ロシア空軍による本格的な空爆が開始される。 これによる多数の民間人の死者は数え切れないが、それでもISはじめ、ヌスラフロント(アル=カーイダ系の反政府武装組織)といった国際的なテロ組織の脅威が騒がれる中、ロシア介入に賛同する声も多く聞かれる。トランプ候補も、以上のようなユーラシア大陸におけるプーチンの影響力拡大路線に賛辞を送っている。

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    強欲ロシアと扶助する日本

    東漸に続き南下を狙うロシアと戦った日本。そのロシアの強欲さと、敵兵でも親身に助ける日本の人の好さは今も変わらない。盗人猛々しいプーチン王朝の本質を見誤ってはいけない。

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    プーチンと習近平、彼らはなぜ攻撃的外交という「夢」を見るのか

    はなぜここにきて米国と対立する危険性を冒してまで人工島の軍事化を急ぐのだろうか。北京で会談し握手するロシアのプーチン大統領(左)と中国の習近平国家主席=9月3日(タス=共同) 目を欧州に向ける。プーチン大統領が率いるロシアはウクライナのクリミア半島を編入する一方、北欧領域に潜水艦を派遣するなど軍事的プレゼンスを強めている。クリミア半島の併合宣言は欧米諸国の強い反発を呼び、対ロ制裁が実施中だ。にもかかわらず、プーチン大統領はクリミア半島から撤退する考えはないばかりか、ウクライナ東部の親ロ派勢力への影響力を強めている。 プーチン大統領は、クリミアが伝統的にロシア領土だったと主張し、国境線の不変更という原則を破ったことに対する国際社会の批判に対し一歩も引きさがる様子を見せていない。 ここで問題とすべき点は、なぜプーチン大統領は国民経済への悪影響も恐れずにクリミアの併合に乗り出したのか。なぜ中国の習近平国家主席は米国の反発を知りながら、人工島の軍事化に乗り出しているのかだ。厳密にいえば、なぜ「今」、両国は超大国・米国の反発を知りながら、国際法を無視してまで拡大政策、攻撃的外交を展開させるのか、という点だ。 冷戦時代のソ連共産党の外交を想起すれば、その疑問に答えを見つけることができる。ズバリ、敵が弱い時には強硬政策を貫徹する一方、敵が強いと分かれば、一歩後退し静観する政策だ。相手国が弱いと分かった時、ソ連共産党政権の攻撃性、野蛮性は特出していた。相手国の抵抗を容赦なく力で抑えた。なぜならば、相手が弱いからだ。一方、相手が自分より強いと分かれば、正面衝突を避け、一歩後退する。キューバ危機(1962年)を想起すれば理解できるだろう。 最近では、ソ連の解体は米国が軍事力、経済力で圧倒的に上回っていると理解したゴルバチョフ大統領(当時)がレーガン米政権の力の外交の前に屈服した例だ。レーガン米政権は最後まで力の外交(例・スターウォーズ計画)を緩めることなく、経済的に裨益していたソ連を圧迫したのだ。 それでは、ソ連解体の悪夢に悩んできたプーチン大統領がクリミア半島を併合し、シリア紛争でも米国側の反発を恐れず、反アサド政権派勢力に空爆を繰り返すのはなぜか。答えは、相手(米国)が弱いと分かったからだ。もう少し厳密にいえば、オバマ大統領を指導力のない大統領と判断したからだ。 同じことが言える。大国の地位の確立を願う習近平主席は、米国の力が弱ってきていることを知っているはずだ。だから、米国と正面衝突を回避しながらも、その拡大を慎重に進めているのだ。プーチン大統領も習近平主席も、オバマ大統領が平和を愛し、戦争を回避する大統領ということを知っている。 米国民の最大の関心は次期大統領選に移っている。オバマ大統領にはこの期間、次期大統領に負担となるような外交決定を下しにくいという事情もあるだろう。 プーチン大統領も習近平主席も「夢」を見る指導者だ。プーチン氏は解体した大国・ソ連を再び復興させたいという夢を、習近平主席は中国の大国化という「中国の夢」を見ている。 「夢」(野心)を待つ指導者の登場が世界の平和に幸福をもたらすか、それとも紛争と混乱を誘発させるだろうか。 いずれにしても、世界は「夢」を持つ露・中国指導者の登場に不安な眼差しを向けている。なぜならば、彼らの「夢」がマーティン・ルーサー・キング牧師の「夢」(I have a Dream)とは全く異質のものと感じているからだ。(公式ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より2015年11月10日分を転載)

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    「樺太って何?」 16世紀からの日本領も現在は死語!?

    、このように載っている。「からふと【樺太】東はオホーツク海、西は間宮海峡の間にある細長い島。明治八年ロシアと協約して全島を千島と交換、明治三十八年日露講和条約により北緯五○度以南は日本領となったが、第二次大戦後ソ連領土に編入。サハリン」 私としては、この記述には抵抗感がある。その理由は後述するし、「樺太」についてちょっとでも調べたことがあれば「自分もこのような記述には抵抗を感じる」という方が少なからず存在するものと確信する。 百科事典の性質も帯びた『広辞苑』は膨大な情報を扱うから「この記述は誤差の許容範囲内」と済ませていいものだろうか。 とはいえ、疑問符が付くこの記述さえ過去のものである。平成十年刊の第五版では「からふと【樺太】サハリンの日本語名。唐太」となる。 この第五版の記述に、私としては、抵抗感のようなものは抱けない。記載が少な過ぎる。ただただ「樺太」という地名が死語になったと感じてしまいそうになる。「感じてしまう」のではなく「感じてしまいそうになる」のだ。それは、私の意識の中で「『樺太』という地名が死語になった」と納得する寸前に、「『樺太』という地名は意図的に使われなくなったのではないのか」という疑義が生ずるからである。 この一例を挙げよう。気象庁ウェブサイト上には「『樺太』は用いない」という備考がある。何故、わざわざ、このような備考を設けているのであろうか。「北海道の北に位置する細長い島」を日本語名で「樺太」と呼ぶことに何か不都合があるのだろうか。あるとすれば、誰にどのような差し障りがあるのだろうか。 いや、この気象庁の件は、不都合や差し障りという類の話ではないのかも知れない。戦後に於いて、我が国が執ってきたあるいは執ってこざるを得なかった政策による、当然の帰結と考えることはできないであろうか。少し論じてみたい。 私は、昭和五十年代に小学校に通ったのだが、この時は、社会科の時間帯に皆で地図帳を広げる機会が度々あって、「北海道の北に位置する細長い島」が「樺太」と呼ばれていた記憶がある。 また昭和の終わり頃に、道行く外国人に世界地図を見せ「日本の範囲をマジックで括ってください」とお願いするテレビ番組があった。外国人の一人が、日本の範囲の中に樺太をも含む状態で我が国を括ったのだが、私は、それを見た進行役の関口宏が「樺太も含まれるのだ」という意味の発言をしたことを覚えている。  つまりは、昭和の終わり頃までは、「樺太」という地名は普通に使われていたものと推測される。ここ三十年の間に、「樺太」という地名を消し去ってしまう程の一大事はあったのであろうか。「大東亜戦争に於ける我が国の敗北」に匹敵するほどの大きな出来事はなかったように思える。 では、戦後、日本政府が執ってきたあるいは執ってこざるを得なかった政策が、ある種の社会現象を引き起こし、その現象が「樺太」を徐々に死語に追いやった(追いやろうとしている)という仮説を立て、話を進める。「日本は悪い」が「樺太」追いやる「日本は悪い」が「樺太」追いやる 戦後、我が国に進駐した連合国軍総司令部(GHQ)が行った言論統制は、「改革」という名の下で、戦勝国側に都合の悪いことは報道及び掲載を規制し、日本国民の脳裏には、学校教育などの場を通して「日本は悪い国であった」という一方的な考えが刷り込まれた。 もちろん、戦時下で過ちを犯してしまった先人もいるだろう。だからと言って、国民がそのような過ちの部分のみに焦点を当て、祖先の偉業を必要以上に否定してしまえば、結局のところ、後世に事実は伝わらない。歴史の歪曲が起こる。 このようなGHQの占領政策よって醸成されたのが、国民自身による「偏った歴史の見方」である。特に、ソ連が樺太を再併合し、ほかの戦勝国がそれを容認するうえで、日本国民が「日本は悪い国であった」と「偏った歴史の見方」をしていてくれることは、大変都合がよかった。 戦勝国側は、我が国によるアジア諸国に対する「植民地支配」を断罪する過程で、敗戦当時は歴とした日本本土であった樺太までも「植民地」と見なし、事実上、これをソ連に引き渡したのだ。 日本政府は、敗戦からサンフランシスコ講和条約に至るまでの間に幾度も、戦勝国側に対し「我が国が樺太を放棄させられることは不当である」という旨を伝えている。これは「植民地ではない日本本土たる樺太まで何故放棄させられなくてはいけないのか」という抗議と解していい。 同条約により、「日本本土」であった「樺太」は無理やり我が国から切り離された。とは言え、この条約は、樺太が最終的にどの国に組み込まれるか規定していない。尚且つソ連は、我が国の樺太放棄を定めたこの条約への署名を拒否した。ソ連は、サンフランシスコ講和条約への署名を拒否したにも関わらず、当時既に占拠し終えていた樺太の実効支配は継続したのである。 平成二十七年現在、ソ連の継承国たるロシア連邦が、何らの国際法にも基づかず樺太の不法占拠を継続している。樺太は今なお、国際法上「帰属未定地」なのである。樺太の北緯50度以南と得撫島以北の千島列島が帰属未定であることを示す地図(全国樺太連盟) 戦後発生した「日本は悪い国であった」という「偏った歴史の見方」は、いわば日本人の歴史に対する思考停止である。この「思考停止」が「樺太は『日露戦争で日本に収奪された土地』であるが、大東亜戦争敗戦による『日本帝国主義の終焉』に伴い、元々の持ち主であったソ連・ロシアに還された」という誤った認識も生み出した。 この誤認が、日本国民の樺太史に対する思考停止をも生み出し、結果として「樺太」という地名を徐々に死語に追いやった(追いやろうとしている)と考えることができる。「樺太」を死語にさせる別要因 樺太の歴史は、世間一般であまり語られることがない。それには、いろいろな原因があるだろう。前述した様な誤認などもあれば、「樺太史はややこしい」ということも一因と考えられる。樺太の歴史は、それを要約する(考える)時に多少骨が折れ、結果として、世間一般はそれを考えなくなった(なってきている)のではないか。 物事とは、ほんの少し骨が折れる限り、よほど関心の強い人たち以外は、それからドンドン遠ざかっていく。樺太史も例外ではない。樺太史は骨が折れるので、世間一般は敬遠するようになり、こうした現象が樺太史を埋没(風化)させ、結果として「樺太」を死語化させた(させている)別要因と言えるのではないか。 学者たちの多くは、このような側面には触れようとしないが、学習人口が減りつつある(と推定される)樺太史を考察するうえでは、こうした現実も、正面から見据えることが欠かせないと思われる。「樺太」の回復と風化の抑制「樺太」の回復と風化の抑制 「樺太」という地名の回復とその死語化の抑制は可能であろうか。不可能ではないと私は考える。ただし、それには若年層に樺太への関心を持ってもらう必要がある。とはいえ、それは容易ならざることである。 樺太について一定の知識をもつ人々が、若年層に伝える必要があるが、その際、伝えられる側の立場(理解力などさまざまな要素)を推し量ってやらないと、現実問題としてほとんど何も伝わらない可能性がある。 〝伝える側〟〝伝えられる側〟相互の努力・作用によって樺太という地名の回復とその死語化の抑制を図れるはずだ。表について多少補足すれば、「伝えられる側」は経験もなく、教育も受けていない若年層ということ。「樺太を直接知らない大人たち」は、「樺太について一定の知識を有する人々」と「若年層」のどちらにも属すと見なした。つまり、自身より樺太を知っている元樺太在住者などと接する時は「伝えられる側」となり、自身より知らない「小中学生以下」などと接する時は「伝える側」となり得るからだ。 長々と定義や補足を書いたが、一言で言い換えるならば、「樺太」という地名の回復とその死語化の抑制には「国民的な関心」が必要であるということになる。樺太の「事実」を列記してみる 私を含む「大人たち」をみても、樺太についての知識は、それぞれの経歴や立場によって千差万別なはずである。そこで、樺太について幾つかの事柄を列記してみる。なるべくわかりやすく書いてみるので、これらの中から樺太について何らかの話題性を見出し、若年層との話の種にしていただければと思う。■横線(北緯五十度線)の意味「北海道の北に位置する細長い島」の日本語名は「樺太」である。何種類もの地図や地図帳で、この島を詳しく見てみると、それらの中には、「樺太」の真ん中に「同島を南北で二分する様な横線」を入れているものが見受けられる。日本語で発行された世界地図には、この線が入ったものが比較的多い。ロシアとの「友好」「協力」ばかりで全樺太がまるで正当なロシア領のように表記する地図(北海道庁) この「樺太を南北に二分するような横線」を一般的には「(樺太上の)北緯五十度線」または「(樺太)国境」と呼ぶ。ご老人や幾分歴史を学んだ学生・生徒には、「北緯五十度線」と聞いた瞬間に、この「樺太上の北緯五十度線」を思い浮かべる人も少なからずいるはずである。■横線(北緯五十度線)の経緯 明治初期、当時のロシア帝国はヨーロッパ列強の一角を占め、強力な領土拡張政策を推し進めており、我が国の統治下にあった樺太も自国に併合しようと目論んでいた。 我が国は、樺太防衛のために手を尽くしはしたものの、強大な軍事力の前に力及ばず、結果として、同国に「(不毛の)北千島十八島と交換」という名目の下、事実上武力で樺太を併合されてしまった。 当時のロシア帝国は、明治後期になると、今度は日本全体をも植民地として吸収することを企て始め、(国力で劣る)我が国は、これを同国との対話によって防ごうと試みた。しかしながら、当時のロシア帝国の野心は収まることを知らず、明治三十七(一九〇四)年、緊張は極限に達し、日露戦争が勃発した。 ロシア帝国は、我が国を打ち負かせると確信していたようではあるが、現実には陸海とも我が国に叩き潰され、翌明治三十八年には、我が国との間に講和条約を結ばざるを得なくなったのである。日露戦争緒戦で大勝した帝国海軍連合艦隊(『日露海戦回顧写真帖』昭和10) この時の和平条件の一つが「ロシア帝国は樺太の南半分を我が国に割譲する」ことであった。この結果、樺太には、「日本に割譲する南半分」と「ロシア帝国が統治し続ける北半分」を明確に区別するため、北緯五十度線に沿って国境線を引くことが決せられた。 樺太の北緯五十度線地帯は当時、密林状態にあったので、日露両国は森林を十㍍幅で伐採して空間を造り、その空間を国境線としたのである。これが、地図上で「樺太を南北に二分するような横線(北緯五十度線)」が入った経緯である。■「割譲」ではなく「返還」 さて、前段で「ロシア帝国は樺太の南半分を我が国に割譲する」という一文がある。「割譲」という言葉に違和感を覚える方もいるはずである。何故ならば、日露講和に於けるこの「割譲」とは、実質的(歴史的)には「返還」「回復」に相当するからである。これは、我々日本人が明確に認識しておかねばならないことではなかろうか。 日露講和の際、我が国はロシア帝国に対し、事実として何を申し伝え、同国からどのような返答を得たのだろうか。わかりやすく端的に表現するならば、次のようになる。 我が国がロシア帝国との和睦に際し、同国に申し伝えた事実上の内容は「貴国が明治初期に我が国から実質的に武力で奪取した樺太を還していただけないだろうか」ということである。 この申し入れに、ロシア帝国は紆余曲折の結果「樺太の南半部だけを譲る(還す)」と応じてきたのである。 補足となるが、日露の役は、我々の先人方が自国の存亡を懸けて、止むを得ず始めた戦争である。先にも書いたように、ロシア帝国は明治後期に我が国を植民地にしようと企て、樺太を奪ったばかりか、満洲、朝鮮と南下を続け、我が国に迫っていた。ところが、自ら墓穴を掘り(陸海とも我が国に殲滅され)、かつて我が国から武力で奪い取った樺太のうち、南半分だけは還さざるを得なくなっただけの話である。「樺太回復期」と「樺太関連呼称」「樺太回復期」と「樺太関連呼称」 元樺太在住者などの樺太関係者の間では「北緯五十度線以南の樺太」が日本領として復帰していた明治三十八(一九〇五)年から昭和二十年(一九四五)年の四十年間を「樺太回復期」と呼ぶことがある。日露戦末期の明治38年7月9日朝、日本軍が樺太・九春古丹(大泊)に上陸した時、ロシアは街を焼き払って退却していた(『日露戦役海軍写真帖』明治39) 前述のとおり、実質的(歴史的)に考えた場合、樺太は日露講和により、その南半分のみが我が国に「割譲」ではなく「返還」された。これによって、樺太は北緯五十度線を以って、「日 本領」と「ロシア帝国領」に分けられたわけである。 その後、北緯五十度線以南を「南樺太」、以北を「北樺樺太」と呼ぶようになった。元樺太在住者の中には、「南樺太」とは五十度線以南の樺太の俗称であり、五十度線以南のみを指す場合でも、単に「樺太」と呼称するのが正しいとする指摘も根強い。 この樺太回復期に、北緯五十度線以北を以南と区別して呼ぶ必要があった場合、これを「薩哈嗹(サガレン)」とも呼称した。「樺太」については、呼び方一つを取っても、難しい側面があると思うので、簡潔に整理してみたい=表②。 樺太=「北海道の北に位置する細長い島」を意味する場合もあれば、状況などにより「北緯五十度線以南の樺太」のみを意味する場合もある。 南樺太=「北緯五十度線以南の樺太」のみを指す場合に用いる(用いることがある)。 北樺太=「北緯五十度線以北の樺太」のみを指す場合に用いる(用いることがある)。 薩哈嗹(サガレン)=樺太回復期  に北樺太を南樺太と特に区別して呼ぶ必要があった場合に用いた。一部文献では樺太全体を指すのに用いているが、樺太回復期に限れば「北樺太」と同義と考えていい。 多くの学者、特に史学者が樺太について述べる際、この様な呼称の違いを理解して自然に使い分けていると思うが、樺太を知らない人々、特に若年層にとっては、同島の呼び方一つを取ってみても、難解な面がある。学者方は、若年層に樺太を語る際、こうした点もぜひ踏まえていただきたい。■樺太呼称と露国号の変遷 樺太と北海道以南の日本との関わりは、出土品等から、七世紀前後に始まったものと推測されている。この長い歴史の中で、樺太の呼称は、江戸時代以降に限っても、幾度か変遷を遂げてきた。また、樺太から我が同胞を二度に渡り締め出し同島を併呑したロシアも、江戸時代以降に限ってもたびたび国号を変えてきた。 これらの史実も、世間一般には樺太史を難解にしている一因かも知れない。そこで樺太呼称とロシア国号の変遷もざっと整理してみたい。 尚、ロシアに先んじて樺太に進出したのは、我が国(松前藩)である。これは重要な史実なので後述もする。また、ロシアが十九世紀に入り突如として樺太の領有権を主張し始め、事実上武力併合したことも、我々日本人が留意すべき史実と思われる。 まず樺太の呼称変遷=表③=で、一口に「蝦夷地」と言っても、その範囲は時代と共に変化してきた。大和の朝廷の統治外にあった東国(東日本)が、蝦夷地と呼ばれていた。私が知る限り、厳格な時系列で蝦夷地の範囲を明確に示している文献は存在しない。よって、ここでは「蝦夷地」とは基本的に江戸時代の「北海道本島」と考えるが、場合により樺太と千島も含まれた。 江戸時代には、場合によって「北海道本島の概ね南半分と千島」を「東蝦夷地」と呼称したが、多くの文献は「北海道本島の太平洋側と千島を東蝦夷地と呼称した」としている。 また江戸時代には、場合によって「北海道本島の概ね北半分」と「樺太」を「西蝦夷地」と呼称したが、多くの文献は「北海道本島の日本海側と樺太を西蝦夷地と呼称した」としている。 江戸時代に樺太だけを指す際、蝦夷地の一部として「唐太(カラフト)」などと呼ばれていたが、幕府は文化六(一八〇九)年に正式名称を「北蝦夷地」に決した。元禄13(1700)年に松前志摩守矩広が江戸幕府に納めた藩領図(写本)。北海道の上方に小さく記載しているのが樺太。測量技術が未発達なため形状はあいまい 明治二(一八六九)年、探検家の松浦武四郎の考案で、明治政府は「蝦夷地」と「北蝦夷地」を、それぞれ「北海道」と「樺太」に改称した。 ロシアの国号の変遷をみる。江戸時代から大正中期までの国号は、細かくみればいろいろあるが、ここでは基本的に「ロシア帝国」に統一する。ソ連の前身国家である同帝国は、大正中期に共産革命により滅亡した。 大正中期から平成初期までの国号は、同じくここでは基本的に「ソ連」に統一する。正式には、「ソビエト社会主義共和国連邦」と邦訳される。ロシア帝国の継承国家であるが、平成初期に民主化によって崩壊した。これ以降の国号を、ここでは基本的に「ロシア連邦」とする。 ロシア帝国(及びその前身国家)は元来、欧州にあるウラル山脈西部で発祥した国家である。十七世紀以降、次々と北アジアを征服し、十七世紀後半には「東進」とも呼ばれる領土拡張の中で、清朝の勢力圏にも入り込むが撃退された。この後、清の勢力圏を避けるようにして、カムチャツカ半島や千島列島北部を併合。十八世紀終盤から十九世紀初頭には遂に、我が国の統治下にあった北海道や樺太に到達し、これらを併呑する兆しを見せ始めた。樺太の概略史樺太の概略史■我が国の「樺太経営」 前述のとおり、「樺太」と「北海道以南(の日本)」との関わりは、出土品などから、七世紀前後に始まったものと推測される。我が国(松前藩)は、樺太にその南部方面から最初に接触した国家であるが、松前藩及び松前氏の先祖がいつ頃から「樺太」の経営(進出)を始めたのかは不明な点も多い。これは、同藩がアイヌ貿易などで得られる利益を独占するため、樺太を含む蝦夷地に関する多くの事柄を外部(時の政権など)に隠していた事が一因と考えられる。しかしながら、遅くとも十六世紀終盤には、松前氏の先祖である蠣崎(かきざき)氏が、豊臣秀吉より、樺太を含む蝦夷地の支配権を付与されている。松前藩は十七世紀前半には、樺太と他の蝦夷地を内包した国絵領図(十五㌻参照)を作成し、これを江戸幕府に提出している。よって、我が国が、最も早く本格的に樺太に進出した国家である事に変わりはない=表④。■シナ王朝と先住民族の関係 周・秦から漢代までの編纂とされる地理書『山海経(せんかいきよう)』には「北倭起于黒龍江口=北倭(倭北部)ハ黒龍江口(河口)ニ起コル」、また一四七一年に朝鮮の領議政(首相)がまとめた『海東諸国記』にも「日本疆域起黒龍江北=日本ノ疆域(領域)ハ黒龍江ノ北ニ起コル」とあり、いずれも黒龍江(河口)より北、つまり樺太北端からが「日本(倭)である」としている。 シナ歴代王朝は、基本的に樺太の直接統治(本格進出)はしなかったが、元王朝だけは例外的に「樺太進撃」を行い、樺太の様子を史上初めて比較的詳しく記録した。十三―十四世に樺太先住民族を朝貢させるために武力で屈服させ、その進撃過程などで樺太について比較的詳しく書き記したのであった。元以降も樺太先住民は、明及び清王朝への朝貢や、大陸沿岸民族との交易などは、途中途切れながらも、十九世紀後半まで続けたが、それは主に樺太北部での北部での出来事であった。 こうしたシナ歴代王朝と樺太先住民の関係は、中華思想の華夷秩序に基づく「周辺の蛮族はみな皇帝に服する」といった程度のもので、直接的な支配や統治はなかった。■領有権を主張し始めたロシア 十九世紀半ば、シナ清王朝は英国との戦争に敗れ、弱体化の一途を辿(たど)る。これに目を付けたのがロシア帝国で、一八五八年に璦琿(アイグン)条約を結ばせた。武力で威嚇した不平等条約で、清国領だった黒龍江左岸を併合した。同時に樺太対岸地域から朝鮮にまで接する外満洲を清露の共同管理地とさせて実効支配を強めた=表⑤。 清朝は「全権使節が勝手に結んだ」として璦琿条約を認めなかったが、ロシア帝国は一八六〇年、同じく不平等条約の北京条約で外満洲を沿海州として併合したのである。樺太対岸地域がロシア領となり、シナと樺太先住民族の関係も途絶えた。 そしてロシア帝国は我が国に対しても、樺太は(清から奪った)樺太対岸地域の属領であるので「我がロシア帝国のものである」と滅茶苦茶なことを言い出したのである。■間宮林蔵の大陸渡航 松前藩は、前述のとおり対アイヌ貿易などの権益は、極力独占しておきたかったので、早い段階からロシア帝国の蝦夷地への南下には気付いていても、江戸幕府への報告を怠っていた。このため、幕府は松前藩の樺太を含む蝦夷地統治能力に疑問をもつようになる。幕府直轄で樺太調査に着手し、文化四(一八〇七)年には、同藩より蝦夷地の統治権を取り上げてしまった。正装して松前藩を訪れる領内のアイヌ酋長一家。従者に土産の干し鮭など担がせている(伝松前藩絵師小玉貞良) 松前藩が十七世紀前半に幕府に提出した地図に、樺太は島として描かれたが、世界的には大陸と地続きの半島という説が広まっていた。幕府は真相を明らかにするため、文化五年に松田伝十郎と間宮林蔵を樺太に派遣した。二人はいったん北海道の宗谷に戻り、間宮が単身で樺太に再渡航。越年して最終的に樺太北部と対岸の大陸の間を船で往復した。高橋是清 この踏査・渡航により、文化六年に樺太が島である事を明確に突き止めた。この功績により、間宮林蔵は歴史に名が刻まれ、海峡名にもなったのである。樺太を平和的に取り戻す■日露和親条約 ロシア帝国は、樺太や千島への武力攻撃を繰り返すなどしたうえで嘉永六(一八五三)年と翌年、日露国境画定などを目的として、我が国にエフィム・プチャーチン提督を派遣した。江戸幕府は、川路(かわじ)聖謨(としあきら)らを交渉役に任じ、長崎と下田で談判を行ったのである。 幕府は、樺太全島及び千島全島が領地であると認識していたが、実際は樺太全島及び南千島までの主張に留めた。樺太について川路は、条約本文の付録に「日本人並蝦夷アイヌ居住したる地は日本所領たるべし」と盛り込むことを主張。「蝦夷島」ではなく「蝦夷」としたことで、蝦夷地(北海道)ではなく「アイヌが住む樺太全島」の意を含み入れたのである。プチャーチンは一旦同意したが、まもなく日本側の意図に気付いて修正・削除を強硬に求めた。 その結果、安政元(一八五五)年に日露和親条約が調印され、樺太・千島の国境画定について次の取り決めがなされた。その内容は、樺太に関して「これまでの仕来りどおり」(これまでどおり樺太は少なくとも北部のラッカ岬辺りまでは日本領であり、そこに境を設けることはしない)とし、千島は「択捉島以南が日本領であり、得撫島以北がロシア領である」とされた。江戸幕府の基本的な主張は、近年樺太にやってきたロシア帝国には、樺太の領有権は全くないというものであった。 ところがロシア帝国は、前述のとおり、清からの黒龍江左岸・外満洲奪取に合わせ、早くも日露和親条約を反故にする兆しを見せる。安政六(一八五九)年には、軍艦数隻を率いたニコライ・ムラヴィヨフ総督を派遣して、樺太は「樺太対岸地域」の属領だから「我が帝国のもの」だと主張したが、幕府はこれを一蹴し、ムラヴィヨフ総督は退散した。■樺太島仮規則と樺太千島交換条約 我が国はムラヴィヨフ総督を駆逐したものの、ロシア帝国の樺太奪取の目論みは続く。慶応三(一八六七)年には、軍事力を背景として樺太島仮規則という仮条約を押し付けてきたのである。内容は「樺太は日露両国の共同管理地(雑居)である」というものであった。ロシア帝国は、仮規則を根拠として樺太を自国の流刑地と見なし、次々と囚人らを送り込んできた。 我が国が明治維新などによる動乱の前後も、樺太領有を巡る交渉を粘り強く続けたため、ロシア帝国は一時「樺太放棄」を考えたが、我が国の高官の中にも樺太放棄論者が存在することに気付くと態度を硬化させ、「樺太奪取に勝算あり」と踏むようになってしまった。我が国は、金銭を支払うので樺太から撤退してほしい旨をロシア帝国に伝えるなど、最後まで抵抗したが不調に終わった。 万策尽きた我が国は、明治八(一八七五)年、樺太千島交換条約を押し付けられ、樺太は「(不毛の)北千島十八島と交換」という名目の下、事実上武力でロシア帝国に奪われ、併合されてしまったのである。■日露戦争と日露講和条約 これも前述したが、日露の役とは、我が先人が自国の存亡を懸けて、止むを得ず始めた戦争である。ロシア帝国は樺太奪取後に続き、我が国を植民地にしようと企てたことで自ら墓穴を掘り(陸海とも我が国に殲滅され)、実質的に武力で奪い取った樺太の南半分だけは我が国に還さざるを得なくなっただけの話である。日露講和条約は、明治三十八(一九〇五)年に締結され、北緯五十度以南が我が国の領土に復帰した。■樺太回復期 我が国の領土に復帰した時期、樺太は「地獄の島(ロシア帝国の流刑地)」から「宝の島(我が国の開拓地)」に生まれ変わった。紙幅の関係でその詳細には触れないが、日本統治下 の樺太は、漁業や製紙業などにより目覚ましい発展を見せた。最盛期には人口が四十万人を大きく超え、島都豊原(とよはら)は市制を遂げた。第二の都市恵須取(えすとる)も市制施行寸前であったが、終戦直前にソ連が中立条約を無視して樺太に侵攻、不法占領したため、市制施行は幻に終わった。■国際法無視の不法占拠 大東亜戦争敗北により、樺太は無理やり我が国から切り離されたが、同島は歴史的に日本領である。然るべき国際機関で帰属が決められないまま、ロシアが不法占拠している事実を、我々日本人は忘れてはならない。国際法に則り正当に帰属が検討されれば、樺太が我が国に返還される可能性がないわけではない。 ならば我々は、樺太を平和的に取り戻す努力をする必要があるのではないか。現実的な手段として買収なども考えられるが、先ずは国民の合意が必要であり、そのために我々自身が樺太を思い出す必要がある。 ソ連を引き継いだロシア連邦は、北方領土問題について樺太・千島どころか四島ですら「領土問題は存在しない」と、ソ連時代以上に強硬になっている。その背景にはどんな狙いがあるのか、我々は警戒を怠ってはならない。たかはし・これきよ 昭和四十六年東京都生まれ。米国の高校、大学及び大学院に通い、主に数学研究科に在籍。帰国後の平成十三年から東京のコンサルティング会社で電子機器市場の分析を担当。幼少時から樺太に関心が強く、十八年に社団法人全国樺太連盟入会、二十五年から同連盟の樺太史広報を担当。著書に『絵で見る樺太史―昭和まで実在した島民40万の奥北海道』(太陽出版)及び『大正時代の庁府県―樺太から沖縄に置かれた都道府県の前身』(同)など。「樺太は、その歴史を知れば日本であることが分かる。百年、二百年かけても平和的に回復すべきであり、それにはまず日本国民への樺太史の広報啓発が不可欠」が持論。東京で沖縄の八重山日報を定期購読し、国境の島々の情勢にも日々目を配る。プロ野球東京ヤクルト・スワローズの熱狂的ファン。趣味は貼り絵作成と神社仏閣巡り。「お授けいただいた御朱印を見ると幸せな気分になる」

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    まやかしの霧が覆う樺太の歴史

    ロシアの武力威嚇によって掠め盗られた樺太。日露戦争で回復した南半は大東亜戦争後にロシアが不法占拠し続けるが、左翼勢力はこれを是とし、侵略された歴史を何が何でも隠そうとする。改めて日本の北方領域・樺太の歴史を振り返る。

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    樺太はこうして掠め盗られた!日本が受けた列強の領土侵奪

    まれるものではない。 本稿では、現在も我国外交にとっての懸案事項となっている北方領土問題に関連して、ロシアの南下以前に日本が「蝦夷地」をどのように管理していたのか、また日露両国間での国境画定がどのようになされたのかを、歴史的に振り返ってみたい。ロシア南下に江戸幕府が防衛体制 ロシア人が「奥蝦夷」地域に進出しはじめたのは、十八世紀半ば以降のことである。ロシア人の同方面への進出は、ベーリング海軍中佐の率いる探検隊がカムチャッカを基地として享保十七(一七三二)年におこなった東方調査を皮切りに、元文四(一七三九)年のスパルベング海軍中佐を隊長とする調査隊の活動を経て、次第に活発化して行った。 そして明和年間(一七六〇年代後半)を迎える頃には、ロシアは得撫島(うるつぷとう)以北の千島諸島を征服して「クリル諸島」と命名し、各島に酋長を置いて「一男一狐貢納の制」を定め、原住民に毛皮の貢納を命じた。また樺太については、安永九(一七八〇)年にラペルーズの率いるロシア探検隊の船二隻が沿岸調査に訪れたのを手始めに、寛政元(一七八九)年にも沿岸測量のためのロシア船来航があり、ロシアの領土的野心は十九世紀に入って顕在化することとなった。 こうしたロシアの南下政策に対して、仙台藩医の工藤平助は『赤蝦夷風説考』を天明三(一七八三)年に著し、蝦夷地の開発と対露貿易の促進を説いて、老中田沼意次(おきつぐ)に献上した。またこれに先立つ明和八(一七七一)年、長崎のオランダ商館長がベニョウスキー伯(カムチャッカから亡命したポーランド貴族)から受け取った書簡の中で、ロシアが蝦夷松前を攻撃するための陰謀を企てている旨の警告がなされたこともあり、幕府としても蝦夷地の現状を把握する必要に迫られていた。田沼は、天明五(一七八五)年に普請役山口高品らを巡検使として蝦夷地に派遣し、実情調査をおこなわせた。しかし翌天明六年に田沼が失脚すると、田沼を中心とした蝦夷地開発計画は中止のやむなきに至った。ただし巡検使の一員であった最上徳内はその後も単身で千島の調査を続け、大石逸平も樺太の調査を続行して情報収集に努めるなど、ロシアの蝦夷地進出に対する警戒は続いた。 田沼失脚後、老中首座となった松平定信は、寛政の改革を通じて田沼政治の粛正を図って行くが、蝦夷地の防衛についても、その開拓と防備を幕府主導で推進しようとしていた田沼の方針を大きく転換した。すなわち松平定信の打ち出した方針は、蝦夷地の防衛は藩領を持つ松前藩に任せ、幕府は津軽海峡以南を固めて有事に備えるというもので、これは当時の幕府の財力や軍事力から見て現実的な施策であった。ラクスマン一行が乗船した帆船エカチェリーナ号(根室市所蔵) こうした折柄、ロシアの女帝エカチェリーナ二世によって最初の遣日使節に任命されたラクスマン(陸軍中尉)が、寛政四(一七九二)年に日本人漂流民大黒屋幸(光)太夫・磯吉らを伴って根室へ来航し、漂流民送還と引き換えに通商を要求した。 幕府は松前に目付石川忠房・村上義礼を宣諭使として派遣し、ラクスマンとの交渉にあたらせた。石川ら宣諭使は、漂流民を受け取る一方で、ロシア使節に信牌(長崎入港許可証)と諭告書を与え、通商を求めるならば長崎に行くよう指示した。結果的にラクスマンは、日本との通商を開くという目的を果たせぬまま、寛政五(一七九三)年に退帆した。通商を要求する初のロシア遣日使節として根室に来航したラクスマン一行。左から3人目が光太夫、右端がラクスマン(天理大学附属天理図書館所蔵) 幕府はラクスマンの来航をうけ、海防掛を新設して松平定信をその職に任じ、鎖国以来初めてといえる海防政策に着手した。松平定信は寛政五年一月、蝦夷地関について次のように建議し、将軍徳川家斉の決裁を得た(渋沢栄一『楽翁公伝』)。・蝦夷地の支配は、従来通り松前藩に任せる。・蝦夷地に渡航するための陸奥沿岸の要衝を天領とし、そこに「北国郡代」を設置する。・有事の際は、南部・久保田両藩に出兵を命じて対処する。・洋式軍艦を四、五隻建造し、その半数を北海警備に充てる。 このような基本方針を踏まえ、幕府は、南部藩から三百七十九人、津軽藩から二百八十一人の兵力を動員し、松前警備を担当させた。しかし松平定信が同年七月に老中の職を退くと、こうした蝦夷地防衛の基本政策は中止の余儀なきに至った。ただし幕府としても、蝦夷地の防衛を具体化するための代案が必要であり、寛政十年には目付渡辺久蔵らに蝦夷地調査を命じて、新たな政策を立案するための情報収集に乗り出した。 これにより総勢百八十人に及ぶ調査隊が編成され、東西蝦夷地のほか択捉島・国後島への巡検が行われた。この時、択捉島に渡った近藤重蔵は「大日本恵登呂府(えとろふ)」の標柱を建て、同島が日本の領土であることを示した。翌寛政十一年、幕府は東蝦夷を上知して天領とし、南部・津軽両藩の兵力を駐屯させて外圧に備えるという施策に踏み切った。 次いで享和二(一八〇二)年、幕府は蝦夷地奉行(程なく箱館奉行と改称)を設置すると共に、東蝦夷地を「永久上知(あげち)」として、南部・津軽両藩に「永々駐兵」を命じた。こうして蝦夷地防衛の態勢を日本側が逐次整えつつある時、ロシア使節レザノフの来航を迎えることになった。ロシアは武力攻撃で日本を威圧ロシアは武力攻撃で日本を威圧 ロシア皇帝アレクサンドル一世により遣日全権使節に任命されたレザノフが、通商を求める国書を携えて日本に来航したのは、文化元(一八〇四)年のことである。レザノフは「露米会社」という、北太平洋において毛皮貿易や漁猟を行うための国策会社の支配人であり、かつて幕府がラクスマンに交付した信牌をもち、津太夫ら四人の漂流民を伴って長崎に入港した。 幕府側では、目付遠山景晋や長崎奉行肥田頼常、成瀬正定らが交渉にあたったが、その対応は冷淡で、遣日使節を半年以上もの間長崎に留め置いたのち、レザノフから出された修好・通商の要求を全て拒否し、翌文化二年に退帆させた。長崎に来航したレザノフ一行。右から2人目がレザノフ(東京大学史料編纂所所蔵) こうした日本側の態度に憤慨したレザノフは、千島・樺太方面での武力的な威嚇行動を企図し、海軍士官のフォヴォストフならびにダヴィノフに対し、その実行を指令した。 フォヴォストフは、文化三年九月に樺太の久春古丹を襲撃し、番人の拿捕や食糧の略奪を行った。続いて翌文化四年四月から五月にかけ、フォストヴォフとダヴィドフは択捉島の内保(ないぼ)や紗納(しやな)に対して同様の襲撃を行ったほか、樺太の於布伊泊(おふいとまり)や留多加(るうたか)でも襲撃を実行した。さらに礼文島沖における日本商船の拿捕・焼却や、利尻島への武力襲撃など、彼らの威嚇行動は「奥蝦夷」地域全体に及んだ。 幕府は文化四年、こうした「露寇」に対し、従来の南部藩・津軽藩に久保田藩・庄内藩を加えた三千人余の兵力を蝦夷地に派遣して警戒にあたらせ、「露船打払い令」を発して「オロシヤの不埒(ふらち)之(の)次第(しだい)に付、取締方きびしく致候条(いたしそうろうじよう)、油断なく可被申付(もうしつくべく)候」との姿勢を明らかにした。また松前藩に上知を命じ、その領地を陸(む)奥(つ)梁川に移して蝦夷地全域を幕府の直轄とする一方、箱館奉行を松前奉行に改組して蝦夷地を管轄させ、ロシアに対する海防強化を図った。 さらに文化五年には、仙台藩・会津藩の兵力が蝦夷地警備に加わり、守備兵の数は四千人余に拡大した。この時、千島の警備を担当したのは仙台藩で、択捉島に七百人、国後島に五百人の藩兵を派遣した。樺太の警備は会津藩が担当し、七百人の藩兵が派遣された(『通航一覧』第七)。 一方ロシア側では、日本との修好・通商を求める政府方針に反したものとして、千島・樺太方面で武力襲撃を敢行したフォヴォストフらを罰しており、その後「露寇」が発生することはなかった。こうした情勢を背景に幕府は蝦夷地の防衛体制を見直し、文化五年の末には、東蝦夷地の警備を担当する南部藩が択捉・国後の両島、西蝦夷地の警備を担当する津軽藩が樺太にそれぞれ藩兵を配置し、有事の際には久保田藩・富山藩へ出兵を命ずるという形に縮小した。また同年、間宮林蔵の調査により「間宮海峡」が発見され、樺太が島であることが確認された。翌文化六年、幕府は樺太を「北蝦夷」と改称した。安政6年に久春古丹に赴いた秋田藩蝦夷地御警衛目付の道中記にある「クシュンコタン湊ノ図」(写本、北大北方資料室所蔵) 文化八年には、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴロ―ニンを逮捕するという事件が起こったが、国後島沖でロシア側に拉致された高田屋嘉兵衛との人質交換が文化十(一八一三)年に成立し、これ以後日露関係はしばらくの間平穏となった。 かくて文政四(一八二一)年、幕府は蝦夷地を松前藩に還付することとし、それに伴って松前奉行を廃止、南部・津軽両藩にも蝦夷地から藩兵を撤収させた。旧領に復帰した松前藩は、蝦夷地の各地に十四基の台場と十一カ所の勤番所を設け、警備体制を整えて行った。 寛政年間(一七九〇年代)以降、千島方面におけるロシアの南下政策は日本側に阻まれ、得撫島以北の島嶼征服というラインに留まっていた。ロシアの東方進出を企てる皇帝ニコライ一世は、その矛先を日本の施政下にあった樺太へと転じ、同地域の占拠を露米会社に命じた。 東シベリア総督ムラヴィヨフを通じてこの指令を受けたバイカル号艦長ネヴェリスキーは、嘉永六(一八五三)年七月に樺太へ来航し、フスナイ河口に守備兵を駐屯させた。また陸軍少佐ブッセも、亜庭(あにわ)湾の久春古丹に上陸して駐兵を強行した。こうして樺太への足がかりを得たロシアは、従来からの要求であった通商の開始と、新たな要求となった樺太における国境画定という二つの課題を掲げて、日本に対する三度目のアプローチを試みることとなる。樺太全島領有の「前提」にスキ樺太全島領有の「前提」にスキ ニコライ一世はロシアの樺太進出を企てる一方で、アメリカが日本開国のため艦隊派遣を計画しているとの情報を得ると、海軍中将プチャーチンをロシア極東艦隊司令長官兼遣日大使に任命し、遣日艦隊の編成を急いだ。プチャーチンは、ロシアの首相ネッセリロ―デから老中に宛てた国書を携え、軍艦四隻を率いて嘉永六年七月に長崎へ来航した。 長崎奉行大沢定宅は、老中阿部正弘の指示を仰いで穏便に国書を受け取り、ロシア艦隊の速やかな退去を促したが、プチャーチンは六十日以内の幕府からの返書と、幕閣との接見を要求し、長崎からの退帆に応じなかった。 幕府は筒井政憲・川路聖謨(としあきら)らを露使応接掛に任命し、プチャーチンと交渉させるべく長崎に派遣した。長崎における日露間の会談は、嘉永六年十二月に五回にわたって行われたが、通商や国境画定をめぐる双方の主張には大きな隔たりがあり、容易に決着を見なかった。日露談判に当たった一人、川路聖謨 特に国境問題に関して、日本側は「択捉島ハ元来我所属タルコト分明ニシテ議論ノ余地ナク、樺太ハ各其所有ヲ糺シテ国境ヲ画定スヘク、『アニワ』湾駐屯ノ露国軍隊ハ我地ヲ奪ハントスルニ非スシテ外寇ニ備フルモノナリトノコトニ付境界確定アル上ハ之ヲ撤退セシムルヲ要ス」と主張したのに対し、ロシア側は「日本領ノ界ハ北ハ択捉島及樺太南部『アニワ』湾トス、樺太島上ノ分界ハ遅滞ナク両国官員会同シテ其所在地分ヲ画定」するとの姿勢を示し、結論は先送りとなった(「ロシア使節プーチャーチンと幕府大目付筒井肥前守政憲・勘定奉行川路聖謨との長崎日露交渉に関する文書(要旨)」)。 その要締は、千島における国境は択捉島と得撫島の間に画定することでほぼ合意したが、樺太については北緯五十度以南を自国領とする日本側の主張と、南端のアニワ湾を除く全島が自国領だとするロシア側の主張が対立したため、両国が官員を派遣して実地見分を行ったうえで画定する、ということになったのである。 その後、日露交渉の場は伊豆の下田へと移され、安政元(一八五四)年十一月に九カ条から成る「日露和親条約」が締結されることとなった。この条約によって、日本はロシアに対し箱館・下田・長崎を開港する(第三条)こととなり、あわせて日露双方が領事裁判権をもつこと(第八条)も規定された。 他方、領土問題(特に樺太における国境線画定)について、幕府は樺太全島が日本所領と認識しており、老中阿部正弘はその旨主張すべしとする訓令を川路らに発していた。そのため日露間での最終的な妥結に至らぬまま、次のような暫定的取り決めがなされることとなった。 第二条 今より後日本国と魯西亜国との境「エトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るへし「エトロプ」全島は日本に属し「ウルップ」全島夫より北の方「クリル」諸島は露西亜に属す「カラフト」島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす是迄仕来の通たるへし こうした弥縫(びほう)的な対応の背景には、松前藩に任されていた広大な蝦夷地の防衛が不十分で、ロシアのパワー・ポリティクスに対抗できるだけの態勢が日本側に整っていなかった、という現実的問題が存在していたことは否めない。 さらに長崎における日露会談に際し、ロシア側が示した「境界確定幷ニ露船ノ為二港ノ開港ヲ延期スルニ於テハ日本政府ニ容易ナラサルコト多カルヘシ」との外交的圧力もあいまって、結果的に日本側が一定の妥協を強いられたものともいえる。沿海州同様「雑居」で乗っ取り沿海州同様「雑居」で乗っ取りこのように日露和親条約の締結に際して樺太に国境を画定せず、「是迄仕来の通」という名目で未決着のまま先送りしたことは、その後の日露両国人の雑居という曖昧な状況をつくり出し、ロシア側へ樺太進出の口実を与えるものとなった。 この条約を締結した後、幕府は蝦夷地警備を強化する必要から、安政二年に再び松前藩から松前と江差の周辺を除いた東西蝦夷地の上知を行い、南部藩・津軽藩・久保田藩・仙台藩に蝦夷地警備のための派兵を命じた。このうち仙台藩が択捉島・国後島の警備を担当し、当時「北蝦夷」と呼ばれた樺太の警備は久保田藩が受け持つこととなった。 択捉・国後両島に派遣された仙台藩士達は、同地で越冬するにあたり多大の辛苦を舐め、寒冷地の孤島に所定の兵力を常駐させて継続的な警備を行うことの難しさを、朝野に示した。また樺太については、同地の日本人の多くが出稼ぎ漁民だったことから、久保田藩の兵力派遣は島に出漁者が渡航する夏季のみとし、冬季は留守の番人を置いて引き上げるという、従来の遣り方を踏襲した。 一方ロシア側は、安政四年に少数の兵力を樺太の久春内(くしゆんない)と真縫(まぬい)に送り込んで駐屯させ、日露両国人雑居の既成事実化に着手しはじめた。安政五(一八五八)年に「日露修好通商条約」が締結されると、幕府は蝦夷地警備のさらなる強化を図るため、それまでの五藩に会津藩と庄内藩を加えて七藩体制とし、それぞれの藩に蝦夷地を分与して警衛地を区分した。プチャーチンはこの条約を締結する際にも来日して幕府の応接掛と交渉したが、席上日本側が樺太の国境画定について提起すると、プチャーチンはそれに関する全権を委任されていないという理由で、樺太問題の協議に応じなかった。北方領域をめぐり強引な要求を押しつけたエフィム・プチャーチン 翌安政六年、東シベリア総督のムラヴィヨフは、樺太をロシアの領有とすべく、七隻の軍艦を率いて品川沖に来航した。幕府は若年寄の遠藤胤統(たねのり)以下、外国奉行堀利凞(としひろ)・村垣範正らを露使応接掛に任命し、対応にあたらせた。ロシア側は「条約既定(すでにさだむ)ル而(しかし)テ彊界(きようかい)(国境)ノ大事未タ決セス、頃日(けいじつ)我国支那ト約シ黒龍江ノ地ヲ割(さ)キ我ニ属ス(一八五八年璦琿(アイグン)条約)、薩哈連(さがれん)(サハリン)ハ則(すなわち)黒龍江ト同義ナリ宜(よろし)ク露国ニ属スヘシ、請(こ)フ宗谷海峡ヲ以テ両国の彊界ヲ為」すと樺太全島の領有を主張した。強圧的な欧米列強の艦隊への守りとなった台場の一つ品川台場 ロシアの強硬な態度に、日本側は「海峡ヲ以テ界ト為スハ我カ聞ク所ニ非ス…太賴加(たらいか)、幌古丹若(もし)クハ楠内以南ノ我属地タル事明ケシ請フ断然之ヲ以テ界ヲ定ン」と自らの領有を南部だけにすると譲歩しつつも「ロシアの全島領有」には反論して譲らなかった(『北海道志』巻之十七)。 日露双方の主張はここでも平行線を辿ることとなり、結果的にムラヴィヨフは目的を達することなく退帆した。ここにおいて幕府は、樺太の警備を久保田藩だけに任せる従来のやり方を見直し、文久元(一八六一)年には仙台藩・会津藩・庄内藩をこれに加えて、四藩が二年毎に年番で警備に就く体制とした。仮規則を盾に武力で実効支配仮規則を盾に武力で実効支配 文久元(一八六一)年、老中安藤信正は、正使竹内保徳・副使松平康直・監察京極高明以下十八人から成る使節を、開市開港延期交渉のためヨーロッパに派遣した。一行は翌文久二年、ロシアの首都ペテルスブルクにおいて、ロシア外務省アジア局長のイグナチェフと樺太の国境問題解決に向けた交渉を行った。ここでも日本側は、樺太の北緯五十度ラインに国境を設定することを主張したが、全島領有を図るロシア側は、宗谷海峡に国境を設けることを提案してこれを受け入れず、結局「各吏ヲ遣(や)リ島ニ会シテ議決スルヲ約シテ」交渉は打ち切りとなった。 続く文久三年には、ロシア側から樺太の国境画定問題について協議するための使節派遣を要請してきたが、「尊王攘夷」運動への対処という政治問題を抱える幕府側にその余裕がなく、「多事ヲ以テ遷延シテ果サス」という結果に終わった。 こうして樺太問題が先送りされる中、箱館奉行小出秀実(ほずみ)は、「露人唐太(からふと)ニ在リ米人ト互(たがいに)市ス速ニ彊界ヲ定メスンハ我之ヲ詰ルニ由ナシ…仮令(たとい)数歩ヲ譲リ境ヲ縮ルモ速ニ之ヲ決スルノ弊ナキニ若(し)カサルナリ」との建議を幕府に提出した。 これを重く見た幕府は、小出秀実と目付石川謙三郎を慶応二(一八六六)年にロシアへ派遣し、樺太の国境画定問題に関する交渉を行わせた。同年十二月、ペテルスブルクに到着した遣露使節一行はロシア皇帝に謁見し、翌慶応三年一月~二月にかけて外務省アジア局長のスツレモウホフと八回にわたる会談を行った。外国奉行竹内保徳(左から2人目)ら幕府遣欧使節団主要人員 この席上、日本側はそれまでの北緯五十度線に国境を定めるという主張から譲歩し、「山河ノ形勢ヲ点検シテ以テ議ヲ定(さだめ)ン」ことを提案したが、ロシア側は全島領有を主張してこれを拒否し、合意に達しなかった。 結局この交渉においては、両国の間で調印された「樺太島仮規則」にもとづき、樺太を日露両国人の雑居地として再確認するにとどまった。その内容は、第一条で「『カラフト』全島を魯西亜の所領とすへ」きことが示されながらも、第四条で日本側が「承諾難致節は『カラフト』島は是迄の通り両国の所領と致し置く」ものとされ、「両国の所領たる上は魯西亜人日本人とも全島往来勝手たるへし且いまた建物並園庭なき所歟(か)総て産業の為に用ひさる場所へは移住建物勝手たるへし」との仮議定が付け加えられた。 そしてロシアは、この仮規則を利用して樺太全島を実効支配するため、兵力の派遣と駐留を開始した。しかし日本側は、折からの明治維新に伴う政権交代の中で、こうしたロシア側の動きに対して有効な手立てを講ずる余裕がなかった。 かくて樺太における国境画定問題は、日本国内の政治的混乱に乗じて実効支配を強めたロシア側が一歩リードした形となり、誕生したばかりの明治政府は苦しい対応を迫られることになった。北海道防衛で無念の樺太放棄北海道防衛で無念の樺太放棄 新生の明治政府は樺太問題について、旧幕府がロシアとの間に締結した「樺太島仮規則」にもとづき、同地を日露両属とする立場を継承した。前記したようにロシア側は、「樺太島仮条約」を利用して兵力の駐留・罪人の流刑・開拓移民の奨励など、樺太の実効支配を強化する政策を進めており、明治初期には現地の日本人との間でさまざまな軋轢や衝突を生じるようになっていた(詳細は秋月俊幸「明治初年の樺太―日露雑居をめぐる諸問題―」参照)。樺太千島交換条約の締結交渉に当たった榎本武揚。幕末から欧州軍事事情などを見聞しただけにロシアの脅威を身に染みて感じていたか… ロシアの南下を警戒する日本政府は、明治二(一八六九)年に「蝦夷地」の名称を「北海道」と改めたのに続き、翌明治三年には「樺太開拓使」を設置してこれに備える方針を示したが、十分な対策を実施できる状況になかった。そのため日本政府は、樺太に駐在する官吏から再三にわたって軍隊の出動を要請されたにもかかわらず、武力衝突回避の視点から出兵を見合わせていた。 当時日本側は、樺太問題への対応を誤ればロシアの脅威が北海道にも及ぶとの懸念を有しており、「唐太ハ露人雑居ノ地須(すべか)ラク専(もつぱ)ラ礼節ヲ主トシ条理ヲ尽シテ事ニ従フヘシ卒爾(そつじ)軽挙シ以テ曲ヲ我ニ取ル可ラス或(あるいは)彼(かれの)非理(りあらざる)暴慢ヲ以テ加フル有ルモ必ス一人ノ意ヲ以テ挙動ス可カラス」という姿勢でこれに臨んでいたのである。 樺太開拓使の開拓次官となった黒田清隆は、日本側による樺太経営の現実と限界を踏まえて、明治四年に「樺太に対する建白書」を政府に提出し、「彼地中外雑居ノ形勢ヲ見ルニ、永ク其親睦ヲ全スル能ハス」との観点から樺太放棄論を示すに至った。 黒田はこの建白書で、明治初年から開始した樺太開拓の成果が挙がっていない現状を指摘し、「之ヲ棄ルヲ上策ト為ス、便利ヲ争ヒ、紛擾(ふんじよう)ヲ到サンヨリ一著を譲テ経界ヲ改定シ、以テ雑居ヲ止ムルヲ中策トス、雑居ノ約ヲ維持シ、百方之ヲ嘗試(しようし)シ、左(さ)支右吾(しゆうご)遂ニ為ス可ラサルニ至テ、之ヲ棄ルヲ下策ト為ス」とし、「樺太ノ如キハ姑(しばら)ク之ヲ棄テ、彼ニ用ル力ヲ移シテ遠ニ北海道を経理スル」ことを提案したのである。 日本政府もこうした黒田の意見を容れ、明治八(一八七五)年にロシアとの間で「樺太千島交換条約」を締結した。これにより、「樺太全島ハ悉ク魯西亜帝国ニ属シ『ラペルーズ』(宗谷)海峡ヲ以テ両国ノ境界トス」ることと、十八島から成る「『クリル』全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加(カムサッカ)地方『ラパツカ』岬と『シユムシユ』島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス」ることが定められた。 この条約に関しては当時においても、得撫島(うるっぷとう)以北の千島諸島を代償に、広大な樺太南部を割譲することへの異議が存在していた。しかし明治初期の日本には、樺太の実効支配を「力」で推し進めるロシアを排除し得るだけの国力が備わっておらず、幕末以来の「北門鎖鑰(ほくもんさやく=北方の守り)」という課題に、一定の譲歩を伴いつつ外交的手段で決着をつけざるを得なかったことは、ある意味必然であったといえよう。軍事圧力で領土侵奪した事実軍事圧力で領土侵奪した事実 十八世紀にはじまるロシアの北方領域での南下政策は、当時すでに日本の施政下にあった千島列島・樺太に対する、武力を背景とした外交的侵食という形で進められた。こうしたロシアからの圧力に、徳川幕府はくり返し外交努力を以て対応したが、「日露和親条約」や「樺太島仮規則」の締結を経て、結果的に択捉島以北の千島列島を手放し、樺太についても著しい主権侵害を蒙ることとなった。列強による不平等条約の一つ「樺太千島交換条約」の批准書              さらにロシアは、成立したばかりで政権基盤の固まっていない明治政府に対し、北海道さえ呑み込む勢いで樺太の全島領有化を迫り、「日露和親条約」で自国領とした千島列島を、元々の主権者だった日本側に引き渡すという、強圧的な交換条件を以てその要求を貫徹した。 アジアをめぐる近現代史のなかで、日本はシャム(タイ)と並ぶ、欧米列強からの侵略を受けなかった数少ない国の一つである、と言われることが多い。しかし北方領域における幕末・維新期の日露関係を仔細に見て行くと、この評価は必ずしも正鵠を射たものでないことが知られる。 すなわち、国家としての変革期で財政力・軍事力とも不安定だった当時の日本が、強権的なロシアの領土要求に対して外交的譲歩を強いられるなか、千島・樺太における主権と領土をロシアに侵食されて行った事実を、看過することはできないのである。  このような北方領域における日露関係の歴史を振り返り、その帰属をめぐって両国間で繰り広げられた、外交的攻防の史実を発信することが何より重要である。主要参考文▽献鈴木良彦『日露領土問題総鑑』(平成十)▽開拓使編『北海道志 上・下』(昭和四十八年)▽鹿島守之助『日本外交史 第一巻 幕末外交』(四十五年)▽同『日本外交史 第三巻 近隣諸国及び領土問題』(同)▽原剛『幕末海防史の研究』(六十三年)▽大熊良一『幕末北方関係史攷』(四十七年)▽秋月俊幸「明治初年の樺太―日露雑居をめぐる諸問題」(平成五年)あさかわ・みちお 昭和三十五年東京生まれ。五十九年日本大学国際関係学部卒業、平成二年同大学院法学研究科博士後期課程満期退学。十七年「江戸湾内海の防衛と品川台場」で軍事史学会「阿南・高橋学術研究奨励賞」受賞、二十年「品川台場にみる西洋築城術の影響」で博士号取得、同年軍事史学会理事、二十二年日本大学国際関係学部教授。幕末から明治維新までを中心とした政治・軍事・国際関係史が専門で、江戸の「海上の守り」であった品川台場も研究。著書に『お台場 品川台場の設計・構造・機能』(錦正社)、『江戸湾海防史』(同)、『明治維新と陸軍創設』(同)。共著に『日英交流史三 軍事』(東京大学出版会)、『ビジュアル・ワイド 明治時代館』(小学館)など。論文に「幕末の洋式調練と帯刀風俗」「辛未徴兵に関する一研究」「幕末・維新期における近代陸軍建設と英式兵学」など。

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    ロシアの海洋戦略と北方領土問題  日本は「上から目線」で向き合え

    ているように思える。あるいは、台頭する中国を牽制するためには日露関係の強化が必要という考えもあるが、ロシアも日中それぞれとの関係をバランスさせるだろう。 安易な妥協は日本の国益を損なう可能性がある一方、中国との関係を有利にする保証はどこにもない。そこで、今回は北方領土問題の本質がロシアの海洋戦略に関連していることを確認し、今後の日露関係について考えてみたい。「暖かい海」を目指してきたロシア 日本は北方領土を江戸時代から自国領としてきた。1855年の日露通好条約、1875年の樺太千島交換条約、1905年のポーツマス条約を通じて、ロシアは北方四島が千島列島の一部ではなく、日本固有の領土であることを確認してきた。実際に、1945年8月まで4島には1万人以上の日本人が居住していた。 ソ連は、第二次世界大戦終結直前に日ソ中立条約を一方的に破棄して北方四島を軍事占領した。その根拠として、ヤルタ協定の中の「千島列島はソ連に引き渡されること」という記述を挙げ、日本がポツダム宣言に基づいて降伏文書に調印するまでに行った占領は合法だと主張している。 これに対し、日本は北方領土がロシアによって「不法占拠」されていると主張している。まず、米ソ英の共通の戦争目標を列挙したに過ぎないヤルタ協定に法的拘束力はない。旧ソ連による北方領土の軍事占領は、日本の主権が「本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等<連合国>の決定する諸小島」と規定するカイロ宣言とポツダム宣言によっても正当化されない。加えて、サンフランシスコ講和条約で日本が放棄した南樺太及び千島列島をロシアが領有する法的根拠もない。 旧ソ連が国際法の裏づけを欠いてまで北方領土を軍事占領した主な理由は、軍事的なものだと考えられる。オホーツク海の出入り口に当たる北方四島周辺海域は、数世紀にわたって「暖かい海(不凍港)」を目指して南下を続けてきたロシア海軍が太平洋に出るために、極めて重要だからだ。国後水道の重要性と2島返還論国後水道の重要性と2島返還論 スターリン死後の「雪解け」を背景として、1956年の日ソ共同宣言では平和条約締結後の歯舞・色丹両島の返還が明記されたが、平和条約も在日米軍の撤退を条件とするなどソ連の軍事的な意図は明らかであった。その後も、冷戦の激化をうけて領土問題の存在を否定するなどソ連は強硬姿勢を続けた。 特に、ソ連は冷戦後期になってオホーツク海の「聖域化」を図るようになり、戦略ミサイル原子力潜水艦の通り道として北方領土周辺海域の重要性が高まった。70年代までに米ソの核戦力はパリティ(均衡)に達していたが、ソ連は地上配備の大陸間弾道ミサイル(ICBM)がアメリカの先制攻撃に対して脆弱なため、戦略原潜をオホーツク海(および欧州戦域ではバレンツ海)に常時配備し、長距離ミサイルでアメリカ本土を核攻撃できる態勢を整えた。そして、オホーツク海の戦略原潜を守るため、北方四島の要塞化とウラジオストックを母港とする太平洋艦隊の増強が進められた。 その中で、択捉島と国後島の間にある国後水道は十分な深さがあり流氷の影響も受けにくいため、大型の戦略原潜がオホーツク海と太平洋の間を移動するために重要な航路となった。ロシアが歯舞・色丹の2島返還を基本的な立場としているのは、これら2島を返還しても、国後水道の通航には影響がないからであろう。チャンスは90年代にあった 一方、冷戦が終わると、ロシアの態度に変化が見られ、1993年の東京宣言を経てロシア側から北方領土問題の解決に前向きな姿勢が見られるようになった。 その背景には、冷戦終結で北方四島の軍事的価値が低下し、一方で国力の低下を抑えるために、日本の経済支援を必要としたことが考えられる。おそらく、日本が最も有利な立場で領土交渉を進める余地があったのは90年代だろう。しかし、2000年代に入ってロシアの経済力が回復すると、領土問題で安易な妥協を拒む声が国内で強まり、北方領土の「ロシア化」を進めて、日本との交渉力を強化しようという動きが見られるようになった。 現在、ロシアはこれまで放置してきた北方領土の経済開発に力を入れ始めており、実効支配を強化している。2010年にはメドベージェフ大統領がロシアの大統領として初めて国後島を訪問し、その後も政治指導者による訪問が続いている。昨年7月には大規模な海軍演習を初めて択捉島で実施し、フランスから購入するミストラル級大型強襲揚陸艦2隻に加えて、対艦ミサイルを北方領土に配備する計画もある。そのような中で、ロシアは中韓にも北方領土の共同開発を呼びかける一方、日本との経済協力も模索している。 ロシアが北方領土の実効支配を強化する背景には、中国の存在がある。極東ロシアの人口は少ないが、隣の中国から労働力が流入しつつある。これにともなって、ロシアでは極東地域における中国の影響力の拡大に懸念が高まっている。 加えて、中国の北方海域での海洋進出にも警戒感が高まっている。2000年5月に中国海軍の情報収集監(砕氷艦)が津軽海峡を2日間かけて1往復半し、太平洋に抜けるという事例があった。2008年10月には、4隻の中国艦船が津軽海峡を通過して日本海から太平洋に抜けている。ロシア海軍はこの動きに衝撃を受けたと伝えられている。 地球温暖化の影響で北極海の海氷が溶けていることも見逃せない要素である。北極海の海氷は急速に縮小しており、新たな航路の開通と莫大な海底資源の開発が期待されているため、ロシアは北極海における存在感を強化している。北極海を担当しているのはロシア北方艦隊であるが、今後は太平洋艦隊にも北極海のパトロールを支援することが求められるであろう。実際、すでに北極海航路を通航する中国船の数が増え始めている。その際、北方領土周辺海域はやはりロシア海軍にとって重要な航路となる。(北極海については別稿も参照されたい)アジアにおける存在感の維持が課題アジアにおける存在感の維持が課題 他方、ロシアは老いゆく巨人である。原油価格の高騰により冷戦後に破綻状況にあった経済を立て直したが、それは産業競争力に裏づけられたものではない。ロシアは、BRICS諸国の中で2008年の国際金融危機から立ち直るのが最も遅かった。国民の平均寿命も短く、高齢化も進み、国力は今後も低下していくだろう。ロシアにとっては、国力が低下する中で、経済の成長センターとなったアジアにおける存在感を維持することが戦略上の最大の課題であろう。 ロシアがアジアでの影響力を維持するためには、ソ連崩壊後の財政難でスクラップ状態にある太平洋艦隊を再建しなければならない。ロシアは2010年に6780億米ドル相当の防衛支出計画を発表したが、その4分の1が太平洋艦隊の再建に充てられる。2020年までにロシアは新型の攻撃原潜、弾道ミサイル原潜、フリゲート艦、空母等を20隻導入する予定である。 しかし、ロシアの海軍力の近代化には大きな障害が残っている。ロシアの軍事産業は300万人を雇用しているが、軍事関連企業の25%は破綻状態にあり、保有する技術もソ連時代のものである。とても最新鋭の装備を生産することはできない。ロシアがミストラル級揚陸艦をフランスから購入するのは、ロシアにその建造能力がないからである。今後10年で20隻もの新鋭艦を国内で建造することも難しいだろう。 ロシアは日本との間に領有権問題が存在することを認めており、何らかの解決を望んでいることは間違いない。だが、圧倒的な通常戦力を誇るアメリカに対してロシアが大国の地位にしがみつくには、核戦力に依存せざるを得ず、オホーツク海は依然としてロシアの戦略的要衝であり続ける。他方、中国の海洋進出への警戒から、再び北方四島の軍事的価値を再確認しているだろう。 北方領土の戦略的重要性が高まる中で、ロシアが4島全面返還に同意することはまずないだろう。国後水道の戦略的重要性を考えれば、「面積二等分」や「3島返還」も現実的とは思えない。安易な妥協による解決は目指すべきでない とどのつまり、ロシア側は従来通り2島返還による決着を落としどころとすることに変わりはないはずだ。プーチン大統領のいう「引き分け」も2島返還とみて間違いない。日本がロシア側の動きに惑わされて妥協の姿勢を見せれば、それを逆手に取られ、一方的な経済支援だけをさせられてしまう公算が高い。日露関係の強化によって中国を牽制するとしても、1000億ドルに及ぶ中露の貿易額に比べて日露のそれは半分に満たず、中露の経済関係にくさびを打つことは容易ではない。 日本としては、あくまで不法に占拠されたすべての領土の返還を迫っていくべきだ。北方領土に関しては、4島の日本帰属をまずロシアに認めさせ、実際の返還の方法は柔軟に対応するという政府方針を維持すべきである。そうすることによって、同じく不法に竹島を占拠している竹島の問題も、尖閣諸島に対して国際法の裏づけのない主張を続ける中国に対しても日本の正当性が強化される。日本は国際法に基づいた領土問題の平和的解決を原則とし、これを揺るがすべきではない。 一方、ロシアの態度が戦略環境の変化によって大きく変化することも確かだ。資源輸出に大きく依存するロシアの経済にはいずれ限界が来る。そうなれば、北方領土の軍事的価値よりも、日本からの経済支援の方がロシアにとってより重要となるだろう。不法占拠状態が70年近くも続いてしまったが、今の段階で安易な妥協によって早急な解決を目指すことはない。「上から目線」でロシアと向き合うべきである。

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    北方領土問題 ロシアをどうやって位置づけるか

    換条約の評価に及びたい。 さて、現在、国際法上、どのような立場からしても不法であることが明瞭なのは、ロシアによる北方領土の占領である(アメリカによる沖縄の基地占領については最後に述べる)。これに対する国際法的な法理を正面にすえた異議をとなえない日本の外務省は決定的な職責違反を行っている。また私見では法学界、国際法学界も、この問題についてよるべき十分な仕事をし、必要な主張をしていないように思える。モスクワで開かれた対ドイツ戦勝70周年の記念式典で演説するロシアのプーチン大統領=2015年5月(ロイター=共同) 私は、以下の国際法的な事実は、歴史学界共通の見解である以上、小学校・中学校・高等学校で、社会科学・歴史学のカリキュラムのなかで、順次、学ぶべきものであると考えるが、それができないのは、それをやると外務省の行動が職責を果たしていないことが明々白々になるからであろうか。 まず第二次世界大戦における日本の降伏条件を構成する1943年の「カイロ宣言」には"The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the aggression of Japan. They covet no gain for themselves and have no thought of territorial expans"、つまり「三大同盟国は日本国の侵略を制止し、罰するため、今次の戦争を行っている。同盟国は自国のために利得をむさぼろうとするものではなく、また領土拡張の念も有しない」という「領土不拡張」原則が記されている。そして続けて、" It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914"(以下は中国との関係、省略), つまり、「同盟国の目的は日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取し、または占領したる太平洋における一切の島嶼を剥奪する」という形で日本の領土をどの範囲に限定するかを明らかにした。 しかし、アメリカ、イギリス、ソ連3国の首脳、ようするにルーズヴェルト・チャーチル・スターリンは、1945年2月、ソ連のヤルタで会談を開き、そこでスターリンがソ連の対日参戦の条件として千島列島の引き渡しを要求し、ルーズヴェルト・チャーチルがこれを認めて、ヤルタ秘密協定に盛り込まれた。そこには「三大国の指導者は、ドイツが降伏し、かつヨーロッパの戦争が終結して二・三ヶ月後、ソ連が左の条件にしたがい、連合国に与して日本に対する戦争に参加することについて合意した」として、(1)外蒙古の現状の維持、(2)1904年の日本の裏切りの攻撃(the treacherous attack)によって侵害されたロシア国の旧権利(樺太南部など)をあげ、さらに「(3)千島列島はソ連に引き渡される(shall be handed over)」という項目を付け加えた。ポーツマス条約における樺太の獲得 第二項目はポーツマス条約(日露講和条約、1905年)における樺太の獲得にふれたものである。それはカイロ宣言における「1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取し、または占領したる島嶼」という条項と異なるが、樺太は日露戦争の敗戦処理のなかでの領土獲得という側面をもつために、国際法上、一定の根拠をもつことになる(ただし、ポーツマス条約の問題性については後述)。 しかし、千島についての第三項目は、明らかにカイロ宣言に対する違反である。このヤルタ協定は密約として日本国には伝えられていない以上、これを降伏条件として日本国に要求することはできない。もちろん、日本の戦争が侵略戦争であったことは明らかであるが、しかし、その責任を問うことと、戦後処理が降伏条件との関係で法的な正当性をもつかどうかは別問題であって、このような秘密協定を潜り込ませたスターリン、そしてそれを容認したルーズベルト、チャーチルの行動は不当なものである。勝った側、さらに戦争において大局的な正当性をもったものが何をやってもよいということではないのである。ルーズヴェルトは原爆投下に消極的であったといわれ、ルーズヴェルトの死が原爆投下の促進要件になったといわれる。それは事実であろうが、ルーズヴェルトをむやみに誉めることはできない。彼にとってもアメリカの狭い国益が第一であったことはいうまでもない。ヤルタ密約に同意したルーズヴェルトの判断自体から問題にされなければならないことも明らかであろう(参照、武田清子『天皇観の相剋』)。 「カイロ宣言」が第二次世界大戦における日本の降伏条件を構成するというのは、ポツダム宣言において"The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine"、つまり「カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、また日本国の主権は、本州、北海道、九州ならびに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」と確認されているからである。もちろん、明らかなように、この条文の後半は実質上、ヤルタ秘密協定をうけた側面がある。わざわざ「本州、北海道、九州ならびに吾等の決定する諸小島」という用語をいれたことはスターリンの主張に対する曖昧な妥協であった。ポツダム宣言に「(アメリカ・イギリス・中国の)巨大な陸海空軍は西方より(中略)数倍の増強を受け日本国に対し最後的打撃を加へる態勢を整えた」とあるのは、ソ連の参戦を前提にしたものであるから、ルーズヴェルトとチャーチルはさかんにスターリンに媚びを売ったのである。 藤村信は「ヤルタ体制を結晶させたものは、あいまいな妥協であり、いかようにも解釈できる不明瞭な協定の文字である」と述べているが、ポツダム宣言の上記の条項は、その曖昧さを継承していたということになる(藤村信『ヤルター戦後史の起点』)。たしかに日本はポツダム宣言を受諾したが、右の曖昧な条文によって、カイロ宣言の領土不拡大原則と国際法上の原則をこえて、千島を放棄させられたことは容認すべきことではない。ドイツ・ポツダムでの首脳会議の合間に、スターリン・ソ連首相(左)の宿舎を訪問したトルーマン米大統領=1945年7月24日(AP) このヤルタ密約が前提となってサンフランシスコ条約(日本国との平和条約)が締結されたのはいうまでもない。その第二章 領域、第二条、(c)項に「日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある通りである。ヤルタ密約とそれを追認したサンフランシスコ条約の該当部分は、国際法上の不法行為であって、これの見直し・訂正を求めることは敗戦国とはいっても、日本国民の国際法上の権利であることは明瞭であろう。 もちろん、外務省は、北方四島の返還を要求はするが、それをヤルタ協定が国際法に反するという形では主張しない。ようするに、彼らには、ヤルタ→ポツダム→サンフランシスコという国際密約・協定などの全体を問い直そうという、外交官ならば当然にあるべき覇気と専門職としての自覚がないのである。 ポツダム宣言は原稿用紙4枚ほどにすぎない。それをその歴史的背景をふくめて「つまびらかに」読むことが国家理性の中枢にいる人間の最低の知的レヴェルというべきものであることはいうまでもない。昨年、本当に驚愕したのは「ポツダム宣言の内容をつまびらかにしない」という人を国家中枢にもっていることが明らかになったことであった。そして、最近、「歯舞、これ何だっけ」という人物が沖縄北方担当相であるという、悲しいあきらめをもったが、これらの発言は、職責的知識の欠如が中枢に存在することを示すのみでなく、そのような欠如が、政治的な立場の如何をとわず、きわめて一般的であることを期せずして明らかにしたといえるのかもしれない。 こういう現状を前提とすると、上記のような外務官僚への要求は過大なものということになるのかも知れないが、しかし、さすがに20年前まではいくら対米従属といってもそんなことはなかったのだから、外務官僚が職務怠慢の責めを受けることはやはり否定できないだろう。 これがアメリカによる沖縄の基地占領が国際法上の不法行為であるという問題提起をしないことと共通する問題であることはいうまでもない。戦争行為を直接に無法な土地占取・基地設置に連続させ居住者を追い出す、という沖縄におけるような行為は、国際法上認められていない。沖縄の基地は、サンフランシスコ条約第三条に根拠があることはいうまでもないが、これも違法なものでり、その違法性は沖縄の施政権返還協定によっても完全に解消された訳ではない。 サ条約の改定は、締結諸国全体との外交交渉を必要とし、それは日本側のアジア太平洋戦争に対する総括をふくめて全面的で根本的な態度を必要とする。その方向をとる決意なしには、サ条約第二条の千島放棄の規定の再検討はありえない。そもそも当時の自民党佐藤政府とアメリカがサ条約の改訂という道を取らなかったのは基地を確保するとともに、安保条約を日本全土に拡張するためであった。決定的な誤りを犯した明治政府 たとえば荒井信一氏の仕事が示すように、これらは歴史学においては周知の問題であって、いわずもがなのことであるが、最後に二点を述べたい。 第一に、沖縄の状況であるが、戦後に続いてきたすべての政権がサ条約の不法性を主張せず、それを容認し、沖縄を日本の国家意思として「引き渡し(handed over)」続けてきた。しかし、ともかくも施政権の返還によって、沖縄における不法行為は、国際法上の違反の形式をもつのは基地の占拠に極限されるに至ったということができよう。不法に占拠された基地までも法的な基礎をもつという形式をとっているのは不適法であることはいうまでもないが、しかし、日本の沖縄に対する国家意思が変わらないままでは、国際法上の異議提起は現実には成立しえない状況であり、その意味で施政権の返還の意味は重い。ここで国際法上の不法性が縮減されたことは否定できない。 これに対して、千島のソ連・ロシアによる奪取は、戦後処理のドサクサにおける奪取であって、これについては、日本の国民意思を代表すべき政治は、左翼であろうと右翼であろうと、保守であろうと革新であろうと、「敗戦国」としての正当な戦後処理を受ける国際法上の権利の問題として、サンフランシスコ条約の該当条項の削除を要求すべきものである。日本の戦後における政府は、それができない、それをする意思がない政府であり続けたのである。千島列島・占守島で行われたロシアの調査団による調査(関係者提供・共同) そのなかで、第二次大戦については、「せいぜい」、内向きの発言をするか、韓国・中国の歴史認識に異議をいうだけという姿勢である。「歯舞、これなんだっけ」という閣僚の発言は、そのなかでもたらされたものである。こういう口の裏まで透けて見えるということでは、領土問題に関する外交的な発言に説得力をもたせるのは無理というほかない。 むしろ千島の返還のためには、韓国と日本の関係はきわめて重大であって、しばしばいわれるように、両国を核として東アジア共同体を形成し、さらに中国・アメリカの賛同をえて、それらをバックとしてロシアに対して戦後処理の不法性を主張することこそが、日本外交にとっての本来の正道である。ロシアが北朝鮮の背後にいて利害優先の態度をとっていることも明瞭な事実であって、日本にとってロシア批判は、国内的な立場を越えて優先的な問題なのである。現在のプーチンのロシアが世界とユーラシアの平和にとってきわめて危険な存在であることはいうまでもない。ロシア批判を第一にせずに、中国・韓国の対日態度を論ずるというのは、少なくとも当面の外交上、国益上、真の実効のないことである。 第二の問題は、千島、そして樺太は、本来、日本民族ではない諸民族の領土であったという問題である。日本の「領土」問題において、北方においても、「琉球処分」と同じ種類の問題の検討が必要であることを示している。これは私の専攻する日本の前近代の歴史にも関わってくる。 まず千島については、最近の考古学的な研究によって、ウルップ島より北の北千島には「コロホウンクル(コロポックル)」と呼ばれた北海道アイヌとは言語を異にする民族が分布していた可能性が指摘され、それに対して択捉島以南は北海道アイヌのテリトリーのなかにあったといわれる(瀬川拓郎『アイヌ学入門』、講談社現代新書)。また樺太については、ギリヤーク(オホーツク人)の人びとの強い地であり、そこに北海道アイヌの人びとも古くから進出していたことは以前から明らかになっている。ユーカラが12世紀頃以降のアイヌとギリヤークの戦いを反映しているという金田一京助の盟友、知里真志保の説は有名であって、最近では支持者が多い(榎森進『アイヌ民族の歴史』、草風館。本書については保立『日本史学』人文書院を参照)。 私は、その意味で、徳川幕府が幕末・1855年(安政元年)に結んだ日魯通好条約は、北海道地方における実情を正確に反映していた可能性が高いと考える。つまり同条約は、択捉(えとろふ)島以南を日本領とし、また、カムチャッカ半島につらなる得撫(うるっぷ)島以北をロシア領としたこと、また樺太(サハリン)を民族混住の地とした。これは実情をふまえた賢い判断であった可能性が高い。 これに対して決定的な誤りを犯したのが、明治政府であって、明治政府は、せっかくの日魯通好条約を、北海道開発をロシアとの矛盾なく展開することを主目的として改訂し、1875年(明治8年)に樺太・千島交換条約を結んだ。これによって樺太全体がロシア領となり、ロシア領だった得撫島以北の千島が日本領となったのである。これは結果からいって、北海道開発による初期利益という衝動に動かされた愚策であったことは明らかである。明治国家は巨額の戦費を費やして日露戦争に「勝利」し、ポーツマス条約(日露講和条約、1905年)によって樺太を獲得したが、前記のように、これは戦争による領土獲得であると判断され、ヤルタ→ポツダムの経過のなかで、樺太南半部を放棄させられ、さらに全千島を、本来、北海道アイヌ民族のテリトリーとして北海道の一部であった、エトロフ・クナシリ・シコタン・歯舞(はぼまい)までをふくめて奪取されることになったのである。 これはようするに国家の資本主義化のなかで、アイヌ民族の大地(アイヌ・モシリ)を奪い、明治国家の中央集権化・軍事化の資金としようという動きであって、この乱暴な政策が、結局、この列島の北への視野と活動を大きく狭める結果となったのである。他民族を抑圧するものは、いつかしっぺ返しを受けることの好例である。この明治国家のアイヌ民族に対する罪過は、さまざまな意味で、つぐないきれない種類の罪過であったと思う。 以上は、サンダースの外交政策がどうなっていくかということを考えるなかで、世界戦略上、ロシアをどう位置づけるかがキーになるというところから、従来の知見をいちおう整理してみたものであるが、歴史学の側から「領土問題」、北方領土問題を考える基本はここにあることになる。この種の問題は、本源的に、単純な自民族中心のナショナリズムではすまないのである。(2016年2月18日「保立道久の研究雑記」より転載)

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    「南樺太返還期成同盟」という運動が存在した

    な御手紙をいただいております)。ソ連の樺太経営についてソ連の樺太経営について 樺太は、一八七五年後のロシアの時代には、単に流刑の島という形でしたが、明治三十八(一九〇五)年再び日本に帰属してからは、樺太の産業が大いに推進されました。 例えば、私の勤めておりました王子製紙が、時の政府から樺太の森林活用について、当時の藤原銀次郎社長に話があり、樺太にある針葉樹がスウェーデンやノルウェーにもあるということで、王子製紙の技術者をスウェーデンとノルウェーに派遣し調査の結果、樺太にあるエゾマツ、トドマツと同じようなもので紙を作っておりましたので、まず紙の工場を造ろうということになり、大正三年大泊にテストエ場を造りました。 第一次欧州大戦の時には、樺太でパルプができたために外国から買わなくてもよくなり、日本の製紙産業が発展していったといういきさつがあります。そういうことで徐々に大泊工場のほかに豊原、落合、知取、敷香、真岡、野田、泊居、恵須取という地域に工場がつくられました。 ところが終戦後になると、まったく様変りになりました。私、実は日本の朝日、毎日という新聞については克明に見て、こと樺太に関する記事はみんな切り抜いておりますが、たまたま昭和五十二年七月二十三日の朝日新聞、その他の新聞にも掲載されたのですが、ソ連が樺太の旧王子製紙九工場の改修を打診してきたという記事であります。それはソ連の代表が来日し、政府を通して王子製紙グループに申し入れ、王子製紙が視察団を派遣した、という記事です。大正11年のころの王子製紙豊原工場(王子製紙株式会社案内) ところが、五年後の今年の三月二十四日の朝日と毎日に出た小さな記事ですが、朝日新聞は非常にソ連寄りの考え方をもっていて、私としてはどういうことなのかわかりませんが、見出しなども非常にソ連寄りなのです。〝シベリアにだきこめ、ソ連攻勢活発化、米の圧力をはねつけて西側が色目を出している〟という記事があり、昭和五十二年にソ連が頼んできたけれども、日本から色よい返事がないので、逆にソ連から断ってきた、というふうになっておるのです。 ところで私は過去において王子の社員であったし、現在でも王子製紙関係の役員にもよく会っておりますので、このことについて聞いてみました。実際には、九工場のうち稼働しているのは四工場くらいであるけれども、相当のカネがかかるということです。ところがソ連はカネがないので、できた製品で返すから、とりあえずその工場を直してくれということです。 結局、樺太を昭和二十年に取っておきながら、王子製紙が残した九工場に改良を加えて、もっと設備のいいものにして能力を上げているのなら、私はソ連の経営批判はいたしません。不可侵条約を破って取った九工場をスクラップにし、四工場くらいをヨタヨタにして動かしているのにNHKは、そんな所はカットして一部分のみをニュースとして流しているのです。 現在、日本の製紙業界はご承知のようにカルテルを結んでもらって四苦八苦しております。大昭和製紙などは会社の財産の一部を処分して会社経営をやっていこうというくらい、日本の製紙業界は苦労しております。 紙は余っているのに、樺太の工場でできた紙を、これから五年か十年先になるのかわからないのを、製品で返しますといっても、どんなに馬鹿な日本人でも、日ソ親善だといっても、「はい、そうですか」とは日本政府といえどもいえないと思います。 ですから返事をしぶり、表面は王子製紙から断り、政府から難しいということをいっているのをふまえて、ソ連は逆に五カ年計画を変更したから依頼してきたことは延期する、という返事だということが朝日新聞と毎日新聞に載っておりますが、これがソ連寄りの記事になっているのです。 こういうことからいっても、ソ連はわれわれから樺太を取っておきながら何もできない、いわゆる樺太経営の能力がないのではないかということが言えると思うのです。 炭坑でいえば、王子、三井、三菱という日本の大手が、昭和二十年には樺太の国境近くにたくさん開発稼働していました。それから、石炭乾溜といって樺太に石炭から石油を作る工場(人造石油工場)が二つありました。この二つの工場もソ連が取っておりますが。これも多分、動いていないのではないでしょうか。炭坑については日本が近代的な坑道をつくって機械化したけれども、多分、機械が老朽化して思うように石炭が出ていないのではないでしょうか。 というようなことからいえば、私に言わせれば、いま地球の資源は人類のためにあるものであり、それを立派に活用する国が経営してこそ世界人類の幸福に貢献するのではないでしょうか。それを活用できず、スクラップにするような国が兵隊だけを置いて頑張っていて、世界の人々が許してくれないでしょう。そういうことからソ連には樺太を経営する能力はないというふうに私は断定しようという考え方でおるのです。 こういうことで樺太は、われわれのいた頃と比べればかなり駄目になっております。樺太で初の市となった豊原市の市政施行記念祝賀行列。大勢の市民が見物する中で、豊原駅前の目抜き通りを練り歩いた。写真は赤穂浪士討ち入りのいでたちで進む一団=昭和12年7月1日 電気でいえば、明治四十一年に初めて樺太の守備隊の中に電灯がついたのが、樺太に電灯がついた始まりです。日露戦争で日本に返ってくる前までは、ソ連は電灯もつけておりません。電灯は日本の軍隊が行って明治四十一年十月一日に初めてつけました。 こういういきさつで、樺太の電気事業は遅れましたけれども、終戦時には樺太全島に送電線を張り巡らせました。樺太はご承知のように寒いところですから、火力発電以外にはできないわけです。王子製紙の工場で使う電気のほかに、その町へ送るだけの余力の電気の設備を、例えば五万㌔㍗を使う町には十万㌔㍗が発生する発電設備をして工場を動かし、余力の電気を町に供給しておりました。それを樺太電気会社がやっていたということです。 全島に張り巡らした送電線により、どこの工場に故障が発生しても、他の工場から回すということで文明の利器を利用することができ、産業発達に大いに寄与する、ということをやってきたのです。 ところが、その電力でも、われわれがいた時とほとんど変りのないような状況で活用されているとは考えられません。このように、ソ連には樺太経営の能力がないということを申したいのであります。四島返還運動と南樺太返還期成同盟の立場四島返還運動と南樺太返還期成同盟の立場 北方領土四島返還の問題で、一時期は反発したことがありましたが、南樺太返還期成同盟創立当時の目的を達成するためにわれわれはいろいろなことをやりました。 平沢発言などに対しては、強力に反応して対策を立てました。それから、期成同盟創立二十六周年を迎えて、今年の六月十二日に総理府総務長官と外務大臣に陳情書を出しました。この陳情書は、樺太ならびに得撫島以北の千島帰属決定手段としての国際会議開催を、アメリカその他の国へ申し入れることを建議したものです。これはアメリカヘ参りました時に、もう日本の外務省も遠慮しているときではなく、そろそろサンフランシスコ条約の覚書条項を発動するようにという考え方で動いてもいいのではないか、と思われるようなニュアンスでしたので、この陳情書を出したわけです(資料4「外務大臣、総理府総務長官宛の陳情書」参照)。 それから、昭和五十六年二月四日にプラウダが、日本の学者でも北方領土は日本のものでなくロシアのものだと書いている、と新聞で報じておりましたので、これに対し、北方領土研究家西鶴定嘉氏の見解を得まして、反駁文を出しております。 要約しますと、松平定信が「ネムロは日本地にあらざれば」と言った意味は、ネムロはエゾ地(北海道)のうちで、日本地(本州島)と違って、天皇や将軍が住んでいる土地とは違うから、外国人を追い払うほど酷な扱いをしない、もし何かあったら長崎へ回しなさい、という命令が幕府から出ている、ということを鹿児島大の郡山教授が誤った見解を発表したのに対し、これに便乗し幕府自体もそういうことを言っていると、プラウダがとらえて報道したものを、日本の一部の新聞が発表したのです。これは重大な誤りなので、敢えて史実を解明して発表する事にした次第です。 また私どもとして一番のポイントは、昭和三十年六月から八月にかけて街頭署名運動をやりましたが、近年北方領土四島返還街頭署名運動が行われている時に、私どもが樺太返還の著名の街頭運動をするとすれば、北方領土四島返還の署名運動にブレーキがかかり、また邪魔になってはいけないということで、われわれは自重しておりまして、昭和三十六年六月以来、一度も街頭に立っておりません。 しかし、もう北方領土四島の返還運動とわれわれの樺太回復の国際会議開催の要請ということは別個の問題ではなく、並行して動くべき時期にきているのではないかということを私は申し上げたいのです。 私が今日敢えて遠慮せずに、心臓を強くしてこの席に参りましたのは、いわゆる樺太人の会以外で、この問題について話をさせていただくのは今日が初めての試みであり、誠に有意義であると考えたからであります。今日、このような機会を与えていただいたことは、私の一生の記念に残るものと、厚く感謝申しあげます。(※渡辺氏が昭和五十六年九月に東京・学士会館で行った講演録として平成十二年に改刷されたものを一部語句修正して全編収録した)(資料1)南樺太回復のために(資料1)南樺太回復のために■背景樺太は日本の真北に位置し、アジアの東北沿岸に併行する約六百㍄のやや細めの島です。今、ソ連邦に支配されているサハリンとは、中国名でサガレンのことで、日本では樺太と言われている。北海道に極めて近いこの島に日本は探検、交易、居住、開発の歴史を持っている。 帝政ロシアは東漸してシベリア沿岸地域の踏査を思いだし、十九世紀の初期に樺太に関心を持ち始めたが、一八四九年にはネヴエリースキーがこの地がアムール河口に横たわる島であること、それが戦略上重要であることを知るに至った。 これより先一八〇五年ロシアの探検家クルーゼン・シュテルンが樺太を海上から調査し、日本からこの地を奪い取ることを政府に進言している。一度極東に関心を持ち、樺太の重要性を知ったロシアは、これを掌中に入れるべく、日本に対して着々と圧力をかけてきた。 こうして一八七五年、サンクトペテルブルクで千島列島と引換えに日本は樺太島をロシアに譲渡してしまった。しかし降って一九〇五年の日露戦争におけるロシアの敗北後、日本は樺太の南半を回復した。この部分が樺太であって、先の第二次世界大戦でソ連に占拠されるまで、日本の完全な領土であった。豊原北方の落合町は樺太東線の敷香方面と栄浜支線の分岐駅で、目抜き通りは賑やかだ。雑誌「キング」や眼鏡店、用品店などが見える■樺太の意義 記憶は長く続かないが、南樺太の面積は関東七県と山梨県とを合せた面積とほぼ同じの千四百平方哩近くあったことを、日本人自身が想起しなければならない。 現在、事実上ソ連邦の軍隊に占領されているに過ぎないこの民族遺産をあきらめてよいものか。他国によって一国の領土が掠奪されたまま、うやむやになってしまうとしたら世界は闇である。 なるほど、先のサンフランシスコ平和条約で、日本は南樺太と千島列島の放棄を宣言したことは事実であるが、数世紀にわたる辛苦の結実を失うことは耐えられないことである。しかもこの放棄はソ連邦の手にあっさり引き渡したものではない。対日平和(サンフランシスコ)条約第二十五条も、日本はソ連のために何物も失なうものでなく、またソ連邦は日本領土のいかなる所も与えられるものでないことを明らかにし、この条約ではその帰属を決めなかった。 ソ連邦は南樺太を占領する、何らの権利も持っていないのである。■ヤルタ協定(極東密約) 以上のように問い詰めめられるとソ連は、一九四五年二月のヤルタ協定を持ち出す。ヤルタ協定とは、米国と英国の首脳がソ連邦に対して、対日戦争に参加することを受け入れるならば、日本が敗北した後、南樺太と千島列島を引き渡すことなどを取り決めたものであるが、これは日本の預かり知らない、第三国同士の密約である。 ある一国の領土がこのような方法で奪い取られるとしたら、世界の秩序は夜盗の跋扈に委せられたも同然である。果たせるかな、この協定の指導的当事者である米国は一九五六年九月七日の公式声明で、ヤルタ協定は当時の指導者たちが共通の目標を示した文書に過ぎず、領土移転のいかなる法律的効力をも持つものでないことを宣言している。 何人(なんぴと)もソ連の厚顔無法な行為には、ただただ義憤を感ずるであるだろう。■樺太千島交換条約 南樺太は元ロシアの領分であったのに、日本は戦争を仕かけてロシアから勝ち取ったのだというような、間違った考えを持っている者が少なくないが、これは全く事実に反するものである。むしろ反対に、樺太は元々日本の一部族であるアイヌ人の住んでいた所であります。アイヌに関する記録は一四八五年からある。 十七世紀の後半ロシアは東部シベリアおよびその沿岸を探索した結果、樺太に関心を持ち始めたが、その頃にはもうアイヌ人だけでなく、日本の内地人も住んでいた。 十八世紀の後半になると、ロシアはカムチャッカから千島に南進してきたが、樺太を直接に狙ってきたのは十九世紀に入ってからである。すなわち一八〇六年と一八〇七年の二回、ロシアの海軍将校らが日本人部落を襲撃した。この襲撃が帝政ロシア政府に公認されたものではなかったにせよ、ロシアの野心はもうはっきりしていた。 十九世紀の中頃からロシア政府は海軍力を動員して日本政府に着々と圧力をかけてきた。その頃、日本は政情が不安であり、一八六八年に王政復古となったが、維新に随伴するいろいろな問題を背負って危なっかしい状態にあった。 これより先、すなわち一八五五年に下田において日魯和親(通好)条約が結ばれ、千島の境界その他のことが決められたが、続いて一八六七年にペテルブルクで樺太島仮規則が取り交わされた。 この交渉の中で、ロシアは日本との境を自然の境界としての宗谷海峡にしようと提案したが、この点については日本の合意が得られず失敗した。しかしこの取り決めで、樺太は従来どおり日魯の境を定めず両国の雑居と決められた。 一八七五年、内外の諸問題で手一杯であった明治の新政府は、ペテルブルクで樺太千島交換条約を締結。この条約で日本は米粒ほどの十八島から成る千島列島と引き換えに広大な樺太全体をロシアに引き渡した。 このようなやり取りは、日本がこれ以上にロシアから武力圧力を受け、国を一層深刻な危険に陥れまいとする方針によるものであった。当時日本は他の諸問題に直面し、そのような危難に対する備えはなかった。結局日本は樺太島をあっさり(愚かにも)とロシアに引き渡してしまった。■日露戦争 それにもかかわらずロシアは飽くことを知らなかった。ロシアは一八五八年と一八六〇年における支那との条約で広大な沿海州を獲得し、その国境を朝鮮にまで南進させ、ついに朝鮮の内政にも干渉してきました。このような危機は、日本がたとえ微力であったにせよ、到底黙視することはできないものであった。 かくて一九〇四年、日本はやむなくロシアと対決することとなった。幸に日本は高価な犠牲を払いはしたが、大勝を博した。日露戦争の結果、日本は全樺太を占領してそこに軍政を敷き、間もなく民政を開いた。サンフランシスコ平和条約締結を記念して国会正門前にクスノキを植える吉田茂総理大臣。世は講和と主権回復に浮かれたが、樺太・千島と北方四島の問題は未解決のままだ=昭和26年11月 しかしポーツマス平和条約の談判において日本は、強硬なロシアとアメリカの圧力によって戦争を再開することもできず北緯五十度線以北を放棄することを余儀なくされた。この譲歩(損失)は、戦勝に酔っていた国民には到底納得できないことで、大衆の怒りは暴動と化し、東京では焼打事件を起したので戒厳令を施いて辛うじて鎮圧した。 ポーツマス条約はこのような状態で治まり、樺太は概ね一八七五年の樺太千島交換条約以前の状態に戻された。そして一九〇五年のポーツマス条約の取り決めは、革命後も全面的に効力を有することを一九二五年の日本とソヴィエトとの間の基本条約でソ連政府が承認している。■現状 日中平和条約が成立したと見る間に、米中が握手した。国際社会の流動は、今日をもって明日を卜(ぼく)することはできない。同様に今日、かつての日本領土の上にのしかかっている不法な力が決して恒久であり得ないことを信じる。 武力ではなく、信義と友情こそが、自主独立・同権互尊・共生共栄の秩序ある世界の絆である。このような世界が到来するとき、吾々の旧領土は必ず吾々の手に戻ってくる。しかしこのための、内外の世論をまとめるには、一世紀も二世紀もの歳月がいるかも知れない。それにもかかわらず吾々は日本民族の一環を担うものとして、民族の宿命を自覚し、南樺太回復のために撓ゆまない努力を続けるべきである。 昭和五十四年十一月 南樺太返還期成同盟、社団法人全国樺太連盟(資料2)平沢論文への公開質問(資料2)平沢論文への公開質問 米国の国際誌フォーリン・アフェアーズ秋季号に発表された平沢論文中「日本は国後・択捉島の問題を今世紀末まで凍結したまま残し、まずはソ連と平和友好条約を結ぶべきである」とする論旨は、わが北方領土回復に関する政府の統一方針に反し、これに結集されつつある国論を攪乱して日ソ外交の進展に重大な障碍をもたらすものと思う。 北方領土回復に関する国の方針は去る四十八年九月田中訪ソに先立ち、衆参両院においてそれぞれ超党一致で採決されたところで、その内容は周知のとおり歯舞・色丹・国後・択捉の一括回復を基礎として、日ソ平和条約を結ぶべきことであった。 この決議文が北方領土回復に関する全体を尽くしているとは言えないが、領土回復の最小不可譲の線がそこにあることは日本共産党も確認したところで、当時ソ連側が同党を非難したことも記憶されている。 この決議によって日ソ平和条約と北方領土との位置付けが固定され、領土回復の要求は全国民の叫びであって、ソ連側がいう一部復讐主義者の感情論でないことが明らかとなった。したがってソ連も「領土問題は解決済み」と言えなくなり、同年十月の日ソ共同声明の中に「…第二次大戦の時から未解決の諸問題…」といい代えられ、それについて四十九年中に話し合うことになっていた。豊原の北方100㌔余、樺太東線白浦駅にある機関区で樺太庁鉄道(昭和18年からは鉄道省)の職員 ところがソ連は都合にかこつけてわが要請に応ぜず、今日まで引き延ばし、その間、領土棚上げ諭を持ち出して四十八年の共同声明を反古にしようとする態度を示してきた。ソ連の対日不信は、日ソ中立条約の一方的破棄、条約無視の北方領土侵略にみられたが、またしても国家間取決めの信義を踏みにじろうとする。 そのときに当たって、場を外国誌に求めて、ソ連の代弁と受け取れる平沢論文が公にされた。平沢氏は日本政府がグロムイコ外相の訪日を促しそれを今年中に期待していたことを知っている。さらに国家の方針がどういういきさつでどう決まったか、そして一国の外交問題はまず内側から意見を統一し、それが確乎不動のものとなったら外部に展開すべきだということも熟知のはずである。 ところが平沢氏は敢えてこれらを顧慮することなく、ソ連(イズベスチャ)が得たりと歓迎する諭文を発表した。コラムニストに載ったグロムイコの領土問題を逆戻りさせようとする論文が、平沢凍結論に力を得たものでないといい切れないタイミングにあることは、まことに残念である。以下「凍結論」の流れにしたがい数点を指摘して論者におたずねし、併せて世論に訴えるものである。一、ヤルタ協定を生かしていること ヤルタ協定こそソ連の金科玉条とするところであるが、同協定は「当時の首脳が共同の目標を陳述した文書に過ぎないものと認め、その当事国による何らの最終的決定をなすものでなく、また領土移転のいかなる法律的効果をも持つものでない」ことは米政府の公式見解(一九五六)のとおり。況んや協定の局外にある日本の領土主権に法的効力を及ぼし得るものでないことは明白である。二、「二十の島から成る千島列島」という把握の仕方について これは論者の初めて用いる手法であるが、重大なことである。千島列島(クリルーアイランズ)とは明治八年(一八七五)の樺太千島交換条約の時から日露両国間で確認し合った、第一しゅむしゅ島……第十八うるっぷ島共計十八島のこと(条約第二款)であり、しかもそのことは安政元年(一八五五)の日魯通好条約(第二条)による「今より後、日本国と魯西亜国と境「エトロフ」島と「ウルップ」島との間に在るべし。「エトロフ」島全島は日本に属し「ウルップ」島、それより北の方「クリル」諸島は魯西亜に属す…」という取り決めを承けている。 以来今日まで百二十年、この概念は国内的にも国際的(条約上)にも変改されていない。論者はこれら日本のための史実を無視し。ソ連にくみする「…二十島」という概念を独断している。三、放棄の範囲について定義しなかったということについて 対日平和会議で吉田代表が初め千島の範囲を定義することなく放棄し、西村条約局長が国会で択捉・国後も含むと発言したことを今さらに引き合いに出すが、吉田代表は「会議」の第八回全体会議で「択捉・国後両島が日本固有の領土であることについては帝政ロシアも何ら異議をさしはしなかった」と述べて放棄の範囲を明かにしているし、西村発言については重光外相、下田条約局長が明快に択捉・国後は含まれないことを闡明(せんめい)し、認識の錯誤による西村発言を抹殺している(西村元局長も誤りを認めている)。四、国後・択捉が固有領土でないと認識されていること(実業の日本誌十一月号インタビュー)について 本来固有領土とは、一国が原始的にその版図として施政して来たところであろう。この意味から択捉・国後両島はいささかの疑問も容れない固有の領土である。この点については先の吉田演説もあり、国際問題として紛議の生じたことは未だかつてない島である。これを固有領土でないとすることは、二十島千島論と併せてその真意を訝(いぶか)らざるを得ない。五、四島一括返還ということは外務省?が考えるほど甘くないという論 外務省の考えということ自体、個人的な対立感を響かせるが、領土問題はとても難しい問題であることを、日本人は相手がソ連であるだけにみな知っている。しかしだから捨てよということは完全な敗北主義、少なくとも独立国家としての立場を忘れた事大主義と思われる。捨てよとは言わず二十五年凍結せよと言ったとの仰せなら、二十五年後にさらっと戻すという見通しは甘くないのか。六、現代の国際信義の大原則は領土不拡大方針である この大原則は大西洋憲章から流れてカイロ宜言(第一)に入り、さらにポツダム宣言(第八)に生かされている。この原則を無視して、独りソ連は西でも東でも領土の拡張を図っているが、これに対して極めて寛容な諭旨(地政学に基くソ連の堅い姿勢と規定してこれを尊重)と、やがて軍備もなくなり、資源平等の宇宙船時代に入る、だから国後・択捉などにこだわるな、という論者のいい分は右の大原則とどんな関係に立つのであろう。日ソ中立条約の調印前に笑顔で握手する松岡洋右外務大臣㊨とソ連のスターリン首相=昭和16年4月13日結び(返還同盟の主張) そもそも北方領土とは一九四五年八月の終戦まで日本の領土・領海であったところで、同年八月九日以来ソ連軍によって不法に占拠されている領域全体のことである。その中に択捉・国後等四諸島が入っていることはもちろん、南樺太とクリル・アイランズも含まれている。そして北方領土問題とはこれらの北方領土を、独立国家の生存権のひとつとしてその回復を図る政治課題のことである。 国後・択捉等四諸島の回復と並んで忘れてならないのは南樺太の回復である。南樺太の固有領土性は別添「南樺太を忘れるな」(詳しくは『日本と北方領土』によって立証している。この島に対する帝政ロシアの飽くことを知らない侵攻によって両国間に、約百年間紛議が続いたが、一九〇五年、ポーツマス条約によって、ついにその南半が原始開拓者である日本の手に戻されたのである。 以来四十年日露(ソ)の友好が続き、一九四一年(昭一六)には日ソ中立条約を結んで第二次世界大戦中も「相互不可侵」を誓い合っていた。 しかるに一九四五年八月八日ソ連はこの条約を一方的に破棄し、翌九日その軍隊は国境を越えてわが領土を侵略してきた。わが南面の戦局はいよいよ切迫し、樺太の防備は手薄になっていたので南樺太全域はたちまちにして占領された。 島民は累代の産を棄てて裸同然の姿で逐い散らされた。奥地から逃れ去る老幼婦女子の惨害は名状すべくもなく、白旗を掲げた軍使さえも銃殺されるという非道が各所で見られた。真岡郵便局の九人の乙女が崇高な殉職を遂げ、塔路太平炭礦病院の看護婦が逃れる途中、集団自決したのをはじめ、いたいけなわが子を道連れに死をもって日本人の誇りを守り抜いた日本婦人の多くの悲話は、この間に起ったのであった。 平和条約は戦争の結末を付けるものであるが、元々日本はソ連を相手とした戦争はしていない。仮にソ連軍の不法な侵攻を戦争とするならば、それの始末は 「戦」時占領の解除が真っ先である。領土その他に関することは、その上での外交交渉に俟(ま)つべきである。しかるにソ連は「戦」時占領を解かないばかりでなく、何の話し合いもなく国内法で日本領土の一部を自国領に編入した。力の暴挙というべきである。 われわれはこの原点に立って、対日平和条約諸国に訴えて「別の国際裁判」を誘起し、これを通じて南樺太を回復する方途を考慮しながら、択捉・国後等四諸島を早急に回復すべきであると主張するものである。 北方領土問題が一両年、五年十年で片づく問題ではあるまいが、目先の経済利益に押しやられる、論者のいう「小さな小さな」問題ではなくて、そこにこそ国家として民族としての長い長い命がかかっている、とわれわれは思っている。 以上、意を尽くさないところもあるが、本論に対する論者の明快な説明を期待し、併せてわれわれの主張を江湖に訴えるものである。 昭和五十年十一月四日(資料3)アメリカ政府に対する私どもの訴え=メッセージ(資料3)アメリカ政府に対する私どもの訴え=メッセージ わが南樺太返還期成同盟は、南樺太から引き揚げた四十万人の代表者によって一九四八年に組織された全国樺太連盟の、領土回復運動を受け持つ別動隊として一九五五年に発足し、今年で満二十五年になります。 第二次世界大戦に敗れた日本が、国際的に厳しく処理されたことはやむを得ないことでありました。しかしその処理とはかかわりなく、ソ連邦が日本の広汎な領域を戦時占領のまま一方的に自国領土に編入してしまったことは全く不法なことで、われわれの絶対に承服できないところであり、対日平和条約(二十五条)によっても否認されております。 このことは、ロンドンで日ソ交渉が行われていた一九五五年七月、日本からの照会に応じて寄せられた貴国の、次のご見解によって明らかにされております。すなわち、①(省略)②ヤルタ協定は、それに参加した連合国指導者の共同の目的を述べたものであって、それ自体最終的効力を有するものではない③ポツダム宣言は、日本の領土の最終決定は、宣言参加国の後日の考慮によるべきことを明示しているから、ソ連邦が単独かつ一方的に決定することはできない④連合国司令官一般命令第一号、連合国司令部訓令第六七七号、対日平和条約第二条は、いずれも領土の最終帰属を決定したものではない⑤南樺太および千島(クリルアイランズ)の最終的処分は決定されなかったので、これは国際協定によって決定される問題である―。 さらに日本が再照会したときも上記と同じご見解に立たれ「ヤルタ協定は領土の譲渡を目的としたものでないし、(領土移転の)効力を持つものでもない」「将来の国際協定こそ、南樺太と千島(クリルアイランズ)の究極的処理となるであろう」と断言されています。 これらの経過と国際法の理論を踏まえ、私どもは次のように主張し、南樺太回復運動の先頭に立っているのであります。 ①択捉島以南の領域は昔も今も完全な日本領土であるから、その領域の島々の一括返還が実現されることを条件としてのみ日ソ平和条約を締結すること。 ②南樺太と千島(クリルアイランズ)は対日平和条約で日本が放棄させられたものであるが、その帰属はまだ決まっていないから、正しい帰属決定が行われる国際会議開催を米・英等に訴えていく。 しかしこのことは現在の国際情勢から見て容易ならぬ課題で、貴国としても軽々に取り上げることはできないだろうし、私どもも短期間の運動で目的が達成されるとは考えていません。けれども、一国の領土が国際法の正しい方法によることなく、移動することは絶対にあり得ません。どの国の領土も民族のかけがえのない遣産であります。いずれの民族を問わず、領土を保全し、それが不法な横奪に遭ったら全民族の力を結集して回復に立ち向うはずであります。どんな方法をとるか、何年かかるかは国際情勢に左右されようが、衰亡する民族でないかぎり世紀を重ねても必ずや初志貫徹すべく頑張っているのであります。 現実の問題として樺太は遠くなり、その地名さえも知らない若者もあるのです。しかしそれだからこそ、樺太開拓の陣列に伍して樺太をつぶさに知っており、既に高齢ながら樺太回復運動に努力している私どもが、次代の国民に日本と樺太の関係と、本来樺太は国際法上いかにあるべきかを次代の国民に知らせるため、樺太生れの若い人々を中心とする樺太回復運動の国際的な土台を、われわれが活動力を有するうちに据えなければならないと思うのであります。 どうぞ私どもの訴えを全日本民族の声としてお受けとり下さいまして、何分のご支援を賜わりたいのであります。尚、日本と樺太の歴史的経済的関係については別紙リーフレットに概説しました。メッセージ手交後、口頭にて補足説明した資料の記録 この度、南樺太(千島十八島も同じこと)の帰属決定に関する問題について参上いたしました。今差し上げた書面にありますとおり、この問題には次の五つのポイントがあるのですが、基本的には対日平和条約第二条C項に関する結末を付けるべき国際会議を開かなければならないということが、四十八の連合条約国の課題として残っていることをご認識いただきたいのであります。樺太西線を北上した泊居の公立杜門小学校の校舎前に並んだ児童や教員ら   ①南樺太と十八の千島は日本が四十八の条約国に対しその領土権を放棄したものであるから、条約加盟国でないソ連邦によって支配されるいわれはない。旧日本領土に対するソ連の支配は力による掠奪に外ならない。そこに国際法上の権利原因は何もないから領土主権の移転という法律行為は存在しないと思うのです。 ②日本の旧北方領域の領土主権の移転に関する国際法は、対日平和条約唯一つでそれ以外には何もないのです。ソ連はヤルタ会談を理由とするが、世界のどのような権威といえども、一国の領土権をその宗主国の参加しない話し合いで動かすことは、絶対にできないはずです。 ③以上のことは貴国が一九五五年と一九五六年において、日本に与えた書面の中に明かにされておりますが、法律論としても、事実の経過から見ても完全に正しいのでありますから、今後ともそのご見解を堅持せられ、これを変更しないことはもちろん、ソ連が何らかの方法で現在の不法な支配を合理化しようとする兆候があるときは、一九五六年九月の声明と同趣旨の声明を出すなど、適切な措置をとられ対日平和条約締結のリーダーとしての権威を発褌していただきたい。 ④私どもの期待する国際会議の開催は、現在の国際情勢では困難としても、その課題の存在を銘記していただきたい。 ⑤南樺太と十八の千島(エトロフ、クナシリ、ハボマイ、シコタンは日本が放棄した領域外で法律上完全な日本領土)は、歴史的に見ても、民族の平等と公平の原理から見ても、日本に帰属するのが国際的に最も正しいと信じます―。 以上の点を踏まえ、条約加盟四十八カ国に私どもはこの御願書コピーを理解していただくために何等かの方法で通達願えるか、その御考えを御伺いしたい。                    昭和五十五年(一九八〇)四月十五日(渡辺・尾形)(資料4)南樺太返還期成同盟の陳情書(資料4)南樺太返還期成同盟の陳情書外務大臣    園田直殿総理府総務長官 中山太郎殿南樺太返還期成同盟総本部長 渡辺国武 内外多端の折貴大臣には益々ご健勝に日夜ご精励の御事心から慶祝し、且敬意を表する次第であります。当同盟は昭和三十年三月二十三日われらの郷土南樺太の日本復帰を宿題として結成され、ここに創立二十六周年を迎えたのでありますが、その間貴省(府)のご懇篤なご指導をいただきつつ、主として出版物により国の内外に亘り目的達成のための宣伝活動を行っているものであります。 申し上げるまでもなく、南樺太は千島とともに、先の対日平和条約締結のとき連合国に対して放棄したところでありますがその事後処理、つまり帰属先などのことは未決であり、しかも同条約は連合国でない(ソ連などの)いかなる国にも、何ものをも与えるものでないという規定(二十五条)をもっていることに照せば、同島は国際法上日本に帰属し得る状態に置かれているのであります。 私どもの主張と運動はまさにこの観点に立脚しているのでありまして、独り樺太引揚者のみならず、全日本人否全世界の人々の共鳴を得られる活動であると確信しているのであります。この点につきましては昨春私どもは、アメリカの国務省と同じく国連代表部を訪問し、運動の趣旨を訴えるとともに、対日平和条約二条C項や第二十五条の規定、および同国国務省の一九五六年九月七日声明に関する米国の現在の考え方を訊(ただ)しましたところ、国務省日本担当官は「アメリカの考え方は条約当時および声明当時と少しも変わっていない。あなたの考え方と一致している。この問題については日本の政府としても取り上げて然るべきものと思うし、アメリカ以外の連合国にも働きかけられ、成果が挙がってくることを期待する」というのでありました。 私どもはこの期待に応えて、カナダ、英国などの在日大使館を訪問して運動の趣旨を訴えて共鳴を求める段取りを進めているところでございますが、日本の政府としてもこの問題に一層のご理解と、日本民族を代表する代々の政府に、わが旧北方圈回復の責任がかかっているというご認識を深められますよう懇請します。蘭泊で満開となった桜。極寒の樺太にも春は訪れ、日本人の心を寄せる花は大地を彩る(『樺太写真帖』樺太庁編、昭和11) とは申しながらこの問題はわが国外交の基本に係るもので、俄(にわ)かに政府課題として取り上げることは四島回復と絡んで難しいことと存じます。しかしこの問題に関する国民運動が育つか育たないかは国家の重大な関心事でなくてはなりません。四島回復は絶対であり、当面この成功に努力すべきことは諭を俟(ま)たないところ、私どもも多年その運動の中心的な団体として活動して参りました。けれども南樺太はどうでもよいという態度・考え方は民族の重大な潜在権益を放棄するものであります。 この点、貴大臣をはじめ心ある日本人はすでに十分ご認識のところでありますが、わが南樺太の歴史と法的地位に対する理解と見識を欠く者も少くありません。 つきましては私どもの運動が深く根を下ろし、やがて全国民を動かすに足る民族運動体に成長し得るようご指導ご援助を蒙りたく、当面次の諸項について特段のご配慮を賜わりたく陳情致します。 ①樺太の正確な歴史的記録の保存と普及に努めること。巷間樺太についての浅薄・慾意な書きものが流布され、国民を誤らせるからである。 ②わが旧北方圈の歴史的、法的地位を国民教育の中に組み入れること。 ③旧日本領土の主権に変動を与えたものは、対日平和条約唯一つであって、それ以外のものによる領土権の異動はすべて不法なものであるということをすべての外交の基礎として置くこと。 ④政府首脳は、対日平和条約第二十五条後段の文書と一九五六年九月七日の米国務省の公式声明(日ソ交渉に対する米国覚書)の存在を常に念頭に置かれ、機会を見て、国務省声明中段に述べられてあるわが旧領土の帰属解決手段としての国際会議開催を、米国に申入れること。 昭和五十六年六月十二日わたなべ・くにたけ 明治三十七―平成十七。新潟県生まれ。父親が樺太で漁業関係の事業を始め七歳で大泊へ。大正十年旧制樺太庁(大泊)中学卒業と同時に王子製紙入社。昭和三年王子系列樺太電気設立と同時に出向。豊原の本社で営業部長の時に終戦。知人の機転で職場にスターリンの写真を掛けたことで北樺太・シベリア送りを免れた。邦人の疎開を手助けしながら自らも二十一年末新潟に疎開。東京で事業を興し、三十年全国樺太連盟傘下での南樺太返還期成同盟(五十年代後半に南樺太復帰同盟と改称)発足に参加。七十歳を過ぎて会長に就任し「樺太の帰属は平和条約調印国による国際協議で確定すべく米国に働きかけるのが筋」として、自費で米国など主要国を回るなど精力的に活動を展開した。晩年は仙台市の娘夫婦宅に身を寄せた。南樺太復帰同盟は現在休眠状態。

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    日本人はやはりロシア人が嫌いだ

    長谷川良(ウィーン在住ジャーナリスト) 「日本人はロシア人に対して不信感を捨てられないのだね」 ワシントンDCに拠点を置くシンクタンク、ピュー研究所(Pew Research Center)がロシアとプーチン大統領への好感度と信頼度に対する調査を実施したが、それによると、日本は調査対象国40カ国の中で4番目にロシアに対する「好感度が低い」という結果が出た。友人はそれを聞いて、先述のコメントとなったわけだ。 ピュー研究所は今年5月24日から27日の間、40カ国、4万5435人を対象にロシアとプーチン大統領への好感度、信頼度調査を実施した。その結果、ロシアへの嫌悪感が好感度より多い国は26カ国で、平均値は非好感度52%、好感度30%。プーチン大統領に対しては24%が「信頼する」一方、58%が「信頼できない」と答えている。 ロシアに対して最悪のイメージを持っている国はポーランドとヨルダンの両国で80%だ。そしてイスラエルの74%。その次に日本が73%と続いている。ドイツとフランス両国は共に70%で第5位だ。参考までに、ロシアに対する好感度が最も良い国はベトナムで75%でトップ、そしてガーナ56%、中国51%と続く。 ポーランドの場合、長い歴史の中でロシアから弾圧され、過去、プロイセン、ロシア、オーストリアに領土を分割され、国を失った悲惨な経験を味わっている。冷戦時代にはソ連の支配下に置かれ、弾圧された歴史もあるから、国民がロシアに対していいイメージを持てないのは理解できる。ヨルダンの場合、隣国シリアに対するロシアのアサド政権支持に対して、国民の反発が強い。シリアからの大量難民がヨルダンに殺到していることもロシアのイメージ・ダウンにつながっている。第2次大戦終結70周年の記念式典で披露された劇の一場面。ソ連兵が日本兵に銃を向けていた=2015年8月29日、ロシア・ハバロフスク(共同) 日本の場合、73%がロシアに対し悪いイメージをもち、好感をもっているのは21%に過ぎない。ポーランドと同様、日本も歴史的な理由を無視できない。ソ連が日ソ中立条約を反故して日本に侵入し、日本固有の領土である北方四島を不法占拠した。その一方、約60万の旧日本軍人や民間人をシベリアに抑留し強制労働に従事させ、6万人以上の抑留者が命を落とした。ソ連の後継国ロシアに対し、一般の日本国民が警戒心を解けず、批判的なのは当然だろう。 ちなみに、読売新聞電子版によると、ロシア政府は10日、「クリル発展計画」を発表したが、それによると、北方領土を含む千島列島の社会基盤の整備と産業振興のため来年から25年まで10年間、約700億ルーブル(約1500億円)を投資するという。また、メドヴェージェフ首相が近日中に北方領土の訪問を予定しているという。ロシアは不法占領地の既成事実化を急いでいるわけだ。 一方、プーチン大統領に対して、39カ国中、ベトナム(70%)と中国(54%)の2カ国だけが「信頼している」が過半数を超えた。平均は「信頼できない」が58%で、「信頼する」24%を大きく引き離している。特に、ウクライナのクリミア半島のロシア併合もあって、欧州のプーチン嫌いが突出している。例えば、スペイン92%、ポーランド87%、フランス85%、英国80%、イタリア77%、ドイツ76%と、いずれもプーチン大統領に対して「信頼できない」と答えている。日本はアジア地域ではオーストラリア(81%)に次いで、プーチン氏への不信感が強く、71%だ。 プーチン大統領の年内訪日が囁かれているが、不法占領の北方領土に対して、同大統領は「4島に対するロシアの主権は第2次世界大戦の結果」と主張し、返還する意思のないことを明らかにしている。それだけに、同大統領が日本を訪問したとしても、どれだけの成果が期待できるかは不明だ。8月は北方領土返還運動全国強調月間だ。 いずれにしても、戦後70周年を迎えたが、日本国民のロシアとプーチン大統領への不信感は想像以上に強いことが今回のピュー研究所の世論調査結果で明らかになったわけだ。(2015年08月13日「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より転載)

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    米大統領欺き北方四島をソ連に投げ与えた伝説的スパイの手法

    夫氏が新たに公開された機密文書から戦後秘史を読み解く『SAPIO』の連載から、今回は北方領土をソ連(ロシア)に売り渡した男を綴る。 * * * 去年の5月19日、ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相は、「北方領土は第二次世界大戦の結果、戦勝国ソ連の領土となった」と発言した。もちろん、これは純然たるプロパガンダだ。ソ連は、先の戦争のあとに、一方的に北方領土(南樺太、北方四島を含む千島列島)を不法占拠したが、それができたのは、ハリー・S・トルーマン米大統領が傍観したからだ。アルジャー・ヒス(Reuters/AFLO) なぜ米国がそうしたのか。大きな要因は米国務省内のソ連のスパイの一人アルジャー・ヒスの工作が功を奏したことにある。簡単にいうなら、ヒスが前代のフランクリン・ルーズヴェルト大統領を欺いて、北方四島(アメリカ側の呼称は南千島)をソ連に投げ与えさせたのだ。 以下では、そもそもヒスとはどんなスパイだったのか、北方四島を巡る米ソ間の密約においてどのような役割を果たしたのかを明らかにしよう。 1950年に米国で吹き荒れたマッカーシズム(*注)のなかで国務省の高官ヒスはソ連のスパイとしてやり玉に挙げられた。彼は「非米活動調査委員会」に喚問され、そこで共産主義のスパイだったことを否定したことに対する偽証の罪で懲役5年の刑を受けたが、実際にスパイだったかどうかは疑問視されていた。【*注:米国で起きた反共産主義運動。共産主義者とみなされた者に対し攻撃・追放が行われた】 ところが、1990年代にソ連側の機密文書などに基づきKGBなどの研究が進められた結果、実際にヒスは1930年代にソ連側にリクルートされたスパイだったことが分かった。いまでは機密文書の公開によってヒスをはじめとして多数のソ連のスパイが米政府官僚として働いていたことが立証されつつある。 米メリーランド州ボルチモアで生まれたヒスはハーヴァード大学法科大学院出身の弁護士だった。やがてヒスは、共産思想に傾倒しソビエト連邦軍(赤軍)参謀第四部のボリス・バザロフからスパイにリクルートされる。1933年、ソ連に流すための米政府の情報を得るため、それまで高給を得ていた弁護士の職を離れる。いくつかの公社勤務を経たのち、さらなる情報を得ようと1936年に国務省に入った。 ヒスは国務省内で順調に出世し、1944年には国務省特殊政治問題局長になり、翌年の2月に開催されたヤルタ会議の準備を担当した。米国はよりにもよってソ連のスパイに戦後秩序を決める首脳会談を取り仕切らせてしまったのだ。◆大統領に届かなかった勧告書 ヒスは北方四島にかかわる密約の協議においてなにをしたのだろうか。「ヤルタ極東密約」、つまり、対日参戦と引き換えにソ連に南樺太、千島列島、満州での利権を与える約束は、会議前年の1944年の12月14日にモスクワでヨシフ・スターリンと駐ソ米国大使アヴェレル・ハリマンの間で協議され、翌日に文書化されていた。 これに対し米国務省内部から、「北方四島は歴史的にも住民の居住実態からも北海道の一部とみなし、ソ連に引き渡す範囲から除くべき」とする異論が出された。それは12月28日にルーズヴェルト大統領に対する勧告書としてまとめられた。 ところが、上院外交委員会の有力者、カール・マント上院議員のチームが1955年に外交記録を調査したところ、ヤルタ会議中およびそれ以前に、ルーズヴェルト大統領がこの勧告書を読んだ形跡を見つけることができなかった。 事実、「ヤルタ会議文書」に入っている文書すべてに目を通してみても、国務省の件の勧告書およびその内容に関する言及は見られない。にもかかわらず、『米国外交文書集』のなかには、この勧告書はヤルタ会議前に行われた会議の文書の一つとして収められている。 つまり、この勧告書は、事前ないしはヤルタ会議の場で参照されるべき文書の中に含まれていなかったために、ルーズヴェルトの目に触れることなく、葬り去られてしまったのだ。  こうして、米国務省が「北海道の一部である」と結論づけた北方四島は、ソ連に引き渡す範囲に含まれてしまった。ルーズヴェルトの後を引き継いだトルーマンは、日本を降伏に追い込もうと原爆を投下したが、ソ連は予定を切り上げて日本の降伏前に参戦を果たした。 戦争が終わったばかりの時にソ連とことを構えたくなかったトルーマンは、ソ連が北方領土を火事場泥棒的に奪うのを傍観した。その後、ヤルタ極東密約は51年に米議会で破棄されソ連の北方領土に対する主張は根拠を失った。 北方領土は、戦争の結果ではなく、ヒスの工作によってかすめ取られたのだ。ソ連側の機密文書から明らかになったヒスの工作と不当性をラブロフ、およびロシアが認識していないはずはない。にもかかわらず、彼らは強欲にも北方四島を手放そうとしない。【Profile】■アルジャー・ヒス/1904年生まれ。米国の弁護士・元政府高官。米国務省職員として外交政策に携わり1945年のヤルタ会議を取り仕切った。1996年11月15日死去。■ありま・てつお/戦後史家。早稲田大学社会科学部・大学院社会科学研究科教授(メディア論)。著書に『歴史とプロパガンダ』(PHP研究所)、『原発・正力・CIA』(新潮新書)など。関連記事■ 米国務省 「北方四島は北海道の一部」との報告書提出の過去■ 米企業 東日本大震災30兆円巨大復興事業に大きな関心抱く■ 大前研一氏 北方4島は米国がソ連に“戦利品”として与えた■ 「スパイの世界に美男美女はほとんどいない」とスパイ事情通■ 「北方領土問題と竹島問題は無関係ではない」とロシア通指摘

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    米国務省 「北方四島は北海道の一部」との報告書提出の過去

     今年5月19日にロシアのラブロフ外相は、北方領土(択捉、国後、歯舞、色丹などの南千島)の返還を求める日本に対し、「敗戦国の日本には返還を求める権利はない」と、これを批判した。ロシアとの北方領土返還交渉が一向に進まぬ背景には、70年間影を落とし続ける「ヤルタ極東密約」の存在がある。米ソの思惑によって結ばれた密約を、社会学者の有馬哲夫氏が解き明かす。そして、その責任は当時の米・ルーズウヴェルト大統領にあると有馬氏は指摘する。  * * * なぜ北方領土がいまに至るまで不法占拠されているのだろうか。それは秘密・個人外交に走ったルーズヴェルトの責任だといえる。 1944年の米大統領選挙で再選を狙ったルーズヴェルトは、戦争終結のための巨頭会談を選挙戦の目玉にしたかった。そこで、いろいろ贈り物を用意してソ連のヨシフ・スターリンに会談をもちかけた。その一つが日本固有の領土である千島列島のソ連への引き渡しだった。ルーズベルト米大統領(左)とコーデル・ハル国務長官=「昭和」(講談社) しかし、米国務省は、南千島(北方四島)は住民の居住実態からして北海道の一部で、切り離すことができないという報告書をルーズヴェルトに提出していた。ところが大統領がこれを読んだ形跡はなく、千島全島をソ連に引き渡すという極東密約を、米国議会にはからずヤルタ会議で無断で結んでしまった。 この会議で、文書を用意し、管理する役割を担ったのは国務省特殊政治問題局長のアルジャー・ヒスだが、この国務省の高官はソ連のスパイであることが1950年の米国議会による調査で分かった。つまり、南千島はスパイによって奪われたのだ。 ルーズヴェルトが1945年4月12日に死去すると、急遽大統領職を引き継いだトルーマンは、前大統領が秘密・個人外交をしていたために、複雑な事情がわからず、とにかく前大統領の路線を引き継ぐと言明した。だから、米国はソ連が対日参戦したあと、千島列島全体を占拠するのを黙認した。 1951年になって、ようやく米国の議会や国民がこの密約の存在を知ることになって、自分のものでもない領土をソ連に与えるこの恥ずべき密約は、当然ながら破棄された。だが、ルーズヴェルトが勝手にしたこととはいえ、約束をたがえたうしろめたさから、この後も米国政府は、日本の立場を支持しつつも、ソ連を強く非難できない。 そして70年もの時が流れて、現在に至っている。しかし、極東密約が無効であり、日本が主権を放棄していない以上、北方領土を日本が要求するのは当然であり、すぐに返還されるべきなのだ。

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    北方領域へのロシア侵略と売国の徒

    北方領土四島だけでなく、帰属未定の樺太・北千島の不法占拠を続けるロシア。数年来の強硬姿勢は「これが戦後秩序だ」とする主張に、実は国際法上の根拠がないことの〝裏返し〟だという。そして日本にはロシアを利する勢力がある。

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    盗るだけ盗ったソ連の無法 ロシアの四島占拠に根拠なし

    カラフト」を知る』より有馬哲夫(早稲田大学教授)ことごとく根拠失う露首脳 平成二十七年八月二十二日、ロシアのドミトリー・メドヴェージェフ首相が択捉島を訪問し、これに対して日本政府が抗議した時、彼はこう述べた。「日本とは友好関係を望むが、ロシアの領土と関係づけてはならない」。彼が「ロシア領土」と強調しているのは、日本の北方領土(国後、択捉、色丹、歯舞)のことである。 同五月二十三日にもセルゲイ・ラブロフ外相が北方領土の返還を求める日本を次のように批判した。「日本は第二次世界大戦の結果に疑いを差し挟む唯一の国である。北方領土は第二次世界大戦の結果、戦勝国ソ連の領土となった。敗戦国の日本には返還を求める権利はない」北方領土について強硬発言を続けるドミトリー・メドベージェフ露首相=平成27年8月22日、択捉島の水産加工場 歴史的事実に照らして、メドヴェージェフやロシアの外務省関係者が言っていることは、まったくでたらめである。彼ら自身それを認識していることは、「第二次世界大戦の結果、戦勝国ソ連の領土となった」という抽象的な言い方をしているところに表れている。はっきりした根拠があるのなら、どの国際協定、あるいは二国間協定にもとづいて、そういえるのかはっきり言えばいいだろう。だが、ロシア側は、以下で詳しく述べていく理由によって、かえって窮地に陥るのでそれができないのだ。 「第二次世界大戦の結果」という言い方にも注目する必要がある。というのも、ここにもロシアの弱みが隠されているからだ。つまり、「第二次世界大戦によって」といえば、ソ連の対日戦争は、領土や利権目的の侵略戦争だったと認めることになる。事実、いわゆるヤルタ極東密約といわれるものによって、南樺太の「返還」、千島列島の引き渡し、満洲の利権獲得とひきかえに、日ソ中立条約に違反して、一方的に日本に戦争をしかけてきたのだから、まさに侵略戦争だったのだ。日本人にとって、ソ連による満洲侵攻ほど侵略戦争のイメージにぴったりなものはない。  ロシア側は、「アメリカとの約束」、つまりヤルタ極東密約に基づいて行ったものだと反論するかも知れないが、これもまたあとで詳しく述べる理由で、そうとはいえない。ここではっきりさせておくが、そもそもこの密約はフランクリン・ルーズヴェルト大統領がアメリカ議会に諮ることなく、秘密裡に結んだもので、「アメリカの約束」ではなく、「ルーズヴェルトの約束」でしかない。アメリカの政治制度を知っているソ連にその認識がないわけがない。そして、ソ連が恐れていた通りに、この「ルーズヴェルトの約束」は、アメリカ議会に破棄されて「アメリカの約束」になることはなかった。ロシアの侵略気付かせぬ占領政策ロシアの侵略気付かせぬ占領政策 そもそも、ソ連を含む連合国は、カイロ会議、ヤルタ会談、ポツダム会議で、日本の戦争を非難し、日本がこの手段によって奪った地域は返還させる、あるいは剥奪すると決議した。これと同じ論理で、一度も他国の領土だったことがない南千島を含む千島列島を得ることを目的としたソ連の対日戦争は侵略であり、それによって得た千島列島は日本に返さなければならないことになる。 こんな明白な歴史的事実に日本人が気付かないとすれば、あるいは気付きながらも「いまさら言っても仕方ない」と思っているとすれば、それはアメリカの占領軍が日本人に行った心理戦によって、日本は無条件降伏したのだという「無条件降伏史観」から抜け出せないからだろう。 中国、韓国の政府首脳は、歴史的事実を捻じ曲げる反日プロパガンダを行っているが、彼らが最大限に利用しようとしているのが、この「無条件降伏史観」、つまり「日本は無条件降伏したのだから、いまさらいっても仕方がない」という歴史観だ。「敗戦国の日本には返還を求める権利はない」というラブロフの言葉もまさにこれを突いたものだ。ヤルタ会談が行われたリバディア宮殿で並んで座る左からチャーチル英首相、ルーズベルト米大統領、スターリン・ソ連首相。「樺太・千島獲得」の極東密約でスターリンはほくそえむような表情だ 私たちが歴史の教科書で学んだように、日本はポツダム宣言を受諾し降伏した。だが、戦後教育がしっかり教えてこなかったのは、ポツダム宣言の正式名称は「日本の降伏の条件を定めた公告」で、日本はこれに定めた条件のもとに降伏したのであって、無条件降伏したのではないということだ。さらに、この公告が求めた無条件降伏は、日本軍に対してであって、日本政府でも日本国民でもなかった。したがって、日本軍が武装解除されたあとは、日本政府も国民も、ポツダム宣言の条件のなかで認められた権利を戦勝国に対して主張する権利を持っている。それらの権利とは、政体選択の自由(ポツダム宣言第一二条)、貿易の自由(第一一条)、領土保全(第八条)だ。敗戦日本にも適用の「領土保全」敗戦日本にも適用の「領土保全」 昭和天皇も東郷茂徳(当時外務大臣)ら重臣も、アメリカ側のスポークスマンである戦時情報局のエリス・ザカライアス大佐(本属は海軍)と国務長官代理のジョゼフ・グルーがラジオ放送を通じて大西洋憲章(いかなる国も前述の基本的権利を侵害されないとした)に言及しつつ次のように述べているのを何度か確認している。「日本が降伏しても、大西洋憲章にうたわれた権利は日本に保証される」。そこで、天皇と重臣たちは、ポツダム宣言を受諾しても国体護持が可能だと確信して、降伏に踏み切った。なにもかもあきらめて、すべてをなげだして、無条件降伏したのではない。 とくに最後の領土保全は、他国から取ったのではない本来の領土は、たとえ戦争に負けても奪われることはないということをいったものだ。したがって、ポツダム宣言の条件にしたがえば、「第二次世界大戦の結果」がどうあれ、ロシアは日本固有の領土である北方領土を奪うことはできない。日ソ中立条約に調印する松岡洋右外相。スターリン(右)も同席していた=昭和16年4月13日 戦後七十年もたったのだから、わたしたちはもう「無条件降伏史観」から抜け出さなければならない。そうすれば、ラブロフにつけ入られることなく、北方領土問題に対する意識がより高まり、ロシアが未だに北方領土を占拠していること、しかもロシアの領土として開発しようとしていることが、いかに許しがたいことかより強く認識するようになるだろう。 以下では、ロシアが「無条件降伏史観」を悪用してどのような詐術を行ってきたか、それらは歴史的事実とどのように違っていたのかを明らかにしたい。それによって、ロシアの嘘とごまかしを暴き、北方領土を「ロシアの領土」と呼ぶことがいかに不当であるかを証明したい。 これまでソ連・ロシアは「無条件降伏史観」を利用して、次の四つを理由としてあげて北方領土が「ロシアの領土」になったと日本人に思いこませようとしてきた。 ①ポツダム宣言(正式名称「日本の降伏を定めた公告」)を受諾し、降伏した。 ②一九四五年九月二日に戦艦ミズーリ号上で連合国と終戦協定を結んでいる。 ③サンフランシスコ平和(講和)条約を結び、南樺太および千島列島を放棄した。 ④日本が国連憲章第一〇七条敵国条項に当てはまる国である。 最初にこれら四つが北方領土を「ロシアの領土」とする根拠になり得ない理由を短く説明しよう。そのあとで、詳しい説明を加えていくことにする。ポツダム宣言が日本に履行を求めた「カイロ宣言」「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借(かしやく)ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼(とうしよ)ヲ剥奪(はくだつ)スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島(ほうことう)ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ日本国ハ又暴力及貪慾(どんよく)ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈(やが)テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎(もたら)スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ」※台湾では①中華民国が台湾の主権を有するという解釈②カイロ宣言自体の国際法上の有効性―に議論がある。ソ連はポツダム宣言主体から排除 まず①だが、ポツダム宣言の第八条は、降伏後の日本の領土を「本州、九州、四国、北海道および、われわれが決めた島々」としている。だが、ソ連代表ヨシフ・スターリンはこのポツダム宣言に署名していない。よってソ連は「われわれに」は含まれておらず、本州四島以外の島々について決める権利をもっていない。 よくソ連がポツダム宣言に署名しなかったのは、日本に参戦の意図を悟られないようにするためだったとまことしやかにいわれるが、これは誤りである。事実は、ソ連側もポツダム宣言の案を持ってきたのだが、トルーマンはこれに一瞥もくれずに、さっさと自分たちが用意したポツダム宣言を発表してしまったというものだ。参戦の意図を悟られないようにもなにも、米ソは袖を分かっていたのだ。 ポツダム会議の前の一九四五年七月十六日に原爆実験の成功の知らせを受けたトルーマンは、この悪魔の兵器を使えば、ソ連の参戦なしに日本を降伏させられると考え、原爆投下を決断すると同時にソ連を「われわれ」から排除した。したがって、ソ連はアメリカとの合意に基づいて対日戦争に入ったのではなく、勝手にそうしたのだ。降伏調印後も攻撃して領土侵奪降伏調印後も攻撃して領土侵奪 次に②だが、たしかに日本が同年九月二日にミズーリ号上で調印した降伏文書には、他の連合国と同様にソ連も調印している。だが、これは、連合国に対する日本軍の降伏などを布告しただけだ。引き続き発出された連合国最高司令官の一般命令第一号で、各地の日本軍の降伏先が定められ、このなかで交戦状態にあった樺太・千島などではソ連軍に降伏するよう命じた。しかし終戦協定としての同艦上での手続きは、領土について定めたものではない。これによって日本が認めたと見なせるのはせいぜい一時的占領だ。東京湾のミズーリ艦上で日本降伏の文書に署名したマッカーサー連合国軍最高司令官。続いて後方のデレヴィヤンコ・ソ連代表ら連合国各代表も署名した=昭和20年9月2日 そもそもソ連は他の戦勝国とは大きく違う点がある。それは日ソ中立条約に違反して、一方的に攻撃してきたという点だ。不法に戦争に加わったソ連を他の連合国と同じく戦勝国と呼んでいいのだろうか。事後に批准された国連憲章で合法と認められたという馬鹿げた記述を見かけるが、これが信じられるとすれば「無条件降伏史観」のなせる業だろう。罪を犯したあとで、それを無罪とする法律を事後に無理やり作っても、さかのぼってその罪を無罪にはできない。 また、ソ連は日本の降伏通告をほぼ無視して、軍事行動を取り続けた。日本はポツダム宣言を受諾する旨の通知を八月十四日にスウェーデン政府経由でソ連に送っているが、ソ連はこの通知を受け取ったあとも日本の軍民、とりわけ民間人に殺戮、暴行、強姦、略奪を大規模かつ組織的に執拗に行いつづけた。これは八月十五日以降軍事行動を即座に停止したほかの連合国と際立った対照を見せている。樺太・千島への南下侵攻を続けるソ連軍は8月29日に択捉島に上陸して日本側を攻撃。この後さらに南下を続けた さらに、ソ連は降伏文書に調印したあとでさえ、軍事行動をやめなかった。ソ連軍が歯舞群島に達したのは九月三日であり、千島列島全体を占拠したのは、九月五日だ。つまり、ソ連は日本の降伏文書に自ら調印したあとも、ほぼ無抵抗の日本の軍民に対して軍事行動を取り続け、千島列島全体の占領を完了させたのだ。 もっと根源的で私たち日本人が絶対忘れてはならないことは、日本が終戦を決意して仲介を依頼したとき、ソ連はのらりくらりと、時間稼ぎをして戦争準備を整え、矢尽き刀折れて落ち武者同然になった日本を、だまし討ちにしたということだ。降伏するもなにも、そもそも日本はソ連と戦う気などなかったのだ。ヤルタ密約は相手の米国が破棄 次に③だが、ソ連は、中国(共産党中国)と韓国とともにサンフランシスコ平和条約の締結国となっていない。日本はこの条約によって、南樺太と千島列島を放棄させられたが、それらの帰属は未定とされていて、ソ連に与えるとされていない。つまり、①②で見たように、やはりアメリカは、ソ連を自分と同等の戦勝国として認めておらず、したがって、千島列島どころか南樺太まで、ソ連の主権を認めていないのだ。現在でも正式な地図では、南樺太および千島列島は、ロシア領とは別の色になっていて、ロシアの領土とはされていない。 決定的なのは、一九五二(昭和二十七)年にサンフランシスコ平和条約をアメリカ上院が批准する際に、ヤルタ極東密約を破棄するとした付帯決議がなされていることだ。アメリカでは大統領が密約を結んでも、議会が承認しなければ無効なので、ヤルタ極東密約は「ルーズヴェルトの約束」のまま破棄されたことになる。したがって、サンフランシスコ平和条約の時点で、南樺太および千島の帰属が未定になったというより、もう一歩踏み込んで、ソ連の領土とする根拠が消えたのだ。 最後の④だが、ソ連・ロシアにとって最後の砦となっているのがこの国連憲章(第一七章)第一〇七条だが、その内容は「憲章のいかなる規定も、敵であった国の行動について責任を有する政府が戦争の結果としてとり又は許可したもの(休戦・降伏・占領などの戦後措置)を無効にし、又は排除するものではない」というものである。 読んで明らかなように、大戦末期の混乱で生まれた敗戦国(敵国)に不利な状態を国際連合が成立したあとも追認させようという戦勝国のエゴまるだしの取り決めだ。こんな取り決めでさえソ連の北方領土の不法占拠を正当化できない。 北方領土の場合、該当するのは、「占領」だが、ソ連は前に述べた経緯から「旧敵国の行動について責任を有する政府」とはいえない。事実、ソ連は日本が降伏したあと、日本の占領に加わることを要求したが、トルーマン大統領はこれを拒否し、かわりにイギリスに増派を求めた。 また、占領できる期限は、ポツダム宣言に明記されているように、占領目的が果たされるまでであって、そのあとは撤退しなければならない。事実、アメリカは占領目的である「軍国主義の排除と民主化」が実現できたとして昭和二十七年をもって占領を終結させている。したがって、ソ連もとっくの昔に北方領土から撤退していなければならなかった。 占領ではなく、領有だというなら、繰り返しになるが、ソ連は侵略国家だということになり、カイロ会議、ヤルタ会談、ポツダム会議で決議されたように、奪った領土は、奪われた国に返さなければならない。つまり、どっちにせよ、最小限でも北方領土は日本に返さなければならない。原爆実験成功でソ連参戦不要に原爆実験成功でソ連参戦不要に さらに詳しい説明を加えよう。なぜトルーマンはスターリンにポツダム宣言に署名させなかったかだが、それはトルーマンが大統領に昇格して以後の、とりわけポツダム会議中の状況の変化によるものだ。 一九四五年四月一二日にルーズヴェルトの死を受けて大統領職を引き継いだトルーマンは、当初前任者の方針をそのまま引き継ぐと内外に表明した。つまり、ソ連と結んだ協定(極東密約を含む)と無条件降伏方針を変更しないということだ。しかし、ドイツの降伏後、この二つの方針を見直すよう国務長官代理のジョゼフ・グルーが新大統領に強力に働きかけた。 陸軍長官のヘンリー・スティムソンも、多大の犠牲が予想される本土上陸作戦を避けるためにも、無条件降伏ではなく、天皇制存置を認めた条件付き降伏を日本に求めるべきだと主張を始めた。スティムソンの場合は、ヤルタ極東密約をそれほど問題視していなかった。約束なしでも、いずれソ連はそれらを手に入れると思っていたからだ。ホワイトハウスでトルーマン大統領と打ち合わせるスティムソン陸軍長官=1945年8月(AP) このような閣僚の動きを受けて、ポツダム会議に臨んだときのトルーマンの選択肢は、次のようになっていた。一つは、ソ連に対日参戦を求めて日本を無条件降伏させ、ヤルタ極東密約を守ること。もう一つは、ソ連に対日参戦を求めず、日本に皇室維持の条件付きで降伏を認めて早期に講和を結び、ヤルタ極東密約を無効にすること。 これに原爆実験の結果が絡んできて、選択肢が変化した。七月十六日にアラモゴードで原爆実験が成功したあとトルーマンが実際に選択したのは、ソ連の参戦前に原爆投下によって日本を無条件降伏に追い込み、ヤルタ極東密約を無効にすることだった。だから、ポツダム宣言から天皇制存置条項を削除したうえでソ連を「われわれ」から除外したのだ。 トルーマンの計算違いは、日本が降伏する前にソ連がアメリカに無断で満洲侵攻を始めてしまったことだ。奇妙なことに、ソ連は日本がポツダム宣言を「拒否」したことを満洲侵攻の理由としている。トルーマンは苦笑いしたことだろう。わざわざ仲間はずれにしたのに、ソ連側はそれを知りながら仲間だと主張しているのだ。これによってソ連はヤルタ極東密約の要件を満たし、その利権を要求できると思っていた。アメリカ議会が密約を批准すれば、そうなっただろうが、前にも述べた通りこれは否決された。仲間外れで盗るだけ盗ったソ連 思いがけないソ連の参戦によってトルーマンが陥ったジレンマが②に反映されている。アメリカは前述の経緯にもかかわらず、ソ連をミズーリ号上の調印式に加えた。ポツダム宣言のときは署名させないようにしたが、その後ソ連が日本と戦争を始めてしまった以上、降伏調印なのだから加えないわけにはいかない。また、トルーマンはソ連が千島列島全体を占領するのを黙ってみていた。彼からみて、せっかく戦争が終わろうとしているときに、敗戦国のちっぽけな島々のことでソ連とことを構えるのは賢明ではないからだ。だが、スターリンの北北海道の占領の要求は、断固撥ねつけ、その後も日本の占領にソ連軍を加えなかった。 スターリンもトルーマンのポツダムでの仕打ちが何を意味するかよく知っていた。だから、日本のポツダム宣言受諾による降伏の通告も、降伏文書調印も、一切無視して、できるだけ多くのものを日本から奪うことに専念した。トルーマンが約束をたがえようとしているのだから、力によってできるだけ多くの領土、資産、人員を日本から奪って、既成事実化しておこうということだ。満洲ハルビンに侵攻するソ連軍戦車。日本の降伏前にソ連が勝手に満洲に侵攻したのはトルーマン米大統領の計算違いだった… 当然ながら、アメリカ主導のサンフランシスコ平和条約にソ連は加わらなかった。それでなくともヤルタ極東密約は空文化していたのだが、この会議でアメリカがはっきりと破棄しにかかることが予想された。事実、一九五二年三月二〇日の上院で、次の付帯決議によってはっきりとヤルタ極東密約を無効とした。 「上院の助言と決議として、上院はこの条約(サンフランシスコ平和条約)の中には、日本と条約に定める連合国が南樺太やその周辺の島々、千島列島、歯舞、色丹、その他日本が一九四一年一二月七日まで領有していた領土に関する権利や名称や利益をソ連に有利に思われるように減少させたり、誤解させたり、権利や名称や利益がソ連のものであることに合意したとみなされるものはまったくないことを明言する。また、この条約やそれについての上院の助言と同意には、一九四五年二月十一日付の日本に関するいわゆるヤルタ合意に含まれるソ連に有利な条項をアメリカ合衆国が承認したと示唆するものはなにもない」 これによって、ヤルタ極東密約とソ連の領土的野心はとどめをさされた。さらにいえば、千島列島どころか、南樺太の占拠すら不法とされた。帰属を正当協議なら日本返還も 帰属を正当協議なら日本返還も  そもそも間宮林蔵の探検以後、江戸幕府が積極的に移民を送り込んだこともあり、住民の居住実態からしても、樺太はロシア固有の領土とはいえない。日露戦争は公平にみて防衛戦争だったし、南樺太も、得たというより「回復」したと考えることもできる。 たしかに日本は、サンフランシスコ平和条約でこの地域を放棄することに同意したが、ソ連にこの地域を引き渡すとはしていない。 したがって、この地域は、ロシア以外の国が委任統治したり、関係国との話し合いで、望ましいということになれば、再び日本の施政下に置いたりすることもありえる。 それにしても。なぜアメリカ議会がこんなにあとになってこのような決議をしたのかといえば、日本人には驚きなのだが、トルーマン政権がこの密約のことを隠していたからだ。アメリカは外交文書を「アメリカ外交文書」という本にまとめて公表しているが、ポツダム会議の巻が出版されたのは一九五二年だ。それまでルーズヴェルトもトルーマンも、自分がどんな外交をしたのか議会と国民に隠してきた。1945年2月、ヤルタ会談開始前にルーズベルト米大統領(右)の宿舎を訪ねたスターリン・ソ連首相。米議会は2人の「汚い密約」を認めなかった それで思い当たるのは、ポツダム会議でヴャチェスラフ・モロトフ外相から、日ソ中立条約を破って対日戦争に入るよう連合軍がソ連に要請する文書をもらいたいといわれたときの国務長官ジェイムズ・バーンズの対応だ。彼は「モスクワ宣言第五項と国連憲章第一〇三条、第一〇六条で正当化できるので、その必要はない」と答えた。笑えるのは、ソ連側がこの回答をもって対日戦争を正当化する根拠としていることだ。 バーンズおよびトルーマンの真意は、おそらくソ連の参戦はないのだから、日ソ間の協定を知りながら、ソ連に侵略戦争をすることを求める文書などに署名したくないということだ。これを残せば、アメリカ議会の追及を受けるのは必至だし、いずれ公文書として公開されて、孫子の代までアメリカ国民から後ろ指をさされることになる。一般のアメリカ人は、このような政治家や弁護士の「汚い取引」を最も忌み嫌う。 この二人とちがってモラルも良識もあるアメリカ議会は、やはりこの「汚い取引」をよしとしなかった。それどころか、とくに共和党議員は、ルーズヴェルトの秘密・個人外交を断罪し、返す刀でそれを引き継ぎ、隠したトルーマンも非難した。ここがアメリカの懐の深さで、ソ連、中国、韓国とちがうところだ。どうもアメリカ側でまともでなかったのは、政府首脳だけだったようだ。 現在のロシアにもまがりなりにも議会があるのだから、自らの権力強化のために、数千万人の自国民を処刑したり、収容所送りにしたりした独裁者スターリンを断罪したのなら、彼の個人・秘密外交も非難し、こんな密約を結んだことを恥じ、日本から奪ったものを返すと決議したらどうか。戦後処理と関係ない中共・韓国 ちなみに、中国と韓国の厚顔無恥な歴史捏造が目立つのでとくにいっておきたいのは、中国(共産党)と韓国も日本の戦後処理を決めたサンフランシスコ平和条約の加盟国となっていないということだ。 中国共産党は、日本と戦いはしたが、日本軍に追われて、延安周辺をさまよっていて国家の体をなしてなかった。また、この平和条約が締結されたときは、朝鮮半島でアメリカと戦っていた。ポツダム宣言の署名国で、サンフランシスコ条約の署名国となったのは、中華民国、つまり我々が台湾と呼んでいる国である。 韓国にいたっては日本と戦争すらしていない。だから、この国が主張するような戦勝国であるはずがない。現在の韓国人、北朝鮮人および在日朝鮮人は、明治四十三(一九一〇)年の日韓併合から終戦まで日本人だった。だから、ついでにいうが、戦時中彼らは日本人として動員されたのであって、世界産業遺産だろうがどこだろうが、朝鮮人として「強制労働」させられたのではない。 たしかに李承晩ら上海周辺にいた抗日グループは反日運動を行っていたが、これは「抵抗運動」とはいえても彼らが主張しているような「戦争」とは呼べない。サンフランシスコ平和条約をまとめたジョン・フォスター・ダレスもそう判断して、サンフランシスコ会議に戦勝国として参加したいという李承晩の要求をはねつけた。その前には、アメリカ国務省が竹島は韓国の領土だとする主張を根拠がないとして退けていた。  このようなアメリカに対する腹いせとして、海上自衛隊が発足を目前に控えた昭和二十七年一月一八日に国際法を無視して李承晩ラインを引き、竹島をその内側にとりこんだ。韓国は「われわれ」にもサンフランシスコ平和条約署名国にも入っていないのだから、これも侵略であり、不法占拠だ。中韓ほど歴史捏造しない露中韓ほど歴史捏造しない露 ここまでロシアの言い分をつぶしてくれば、なぜロシアが④など持ちだすのかわかる。ほかに出せるものがないからだ。そもそも、日本の戦後処理を決めたサンフランシスコ会議に参加して、はっきりとした協定を結んでいれば、④など持ちだす必要がなかったはずだ。協定を結ばなかった以上、ソ連には日本の戦後処理に関して、自らの権利を主張することはできない。実際、この平和条約では、南樺太と千島列島をソ連のものとはしなかった。権利を放棄したのだから、わざわざ与える必要はないということだ。 この敵国条項にしても、当該二国間で話し合い、合意に達すれば、返還を実行するうえで妨げになるわけではない。ロシアがこの条項をあげるのは、ようするに、日本の要求に応じたくないということだ。つまり、この条項があるから北方領土を返さないのではなく、返したくないからこの条項を盾にしているのだ。 もちろん、日本が敗戦国になったことを思い出させ、心理的ダメージを与えるという意図も含まれている。メドヴェージェフ首相がいうように、ソ連・ロシアが本気で日本と友好的関係を結びたいと思っていたなら、「敵国条項」などというおどろおどろしい名称の遺物を持ちだしたりしなかっただろう。北方領土をめぐり強硬発言を繰り返す露のプーチン大統領㊧とメドベージェフ首相。泥棒こそが自らの盗みの手口を知っている(AP) ただ、一つだけ救いを見つけるとすれば、ロシアは中国や韓国のように歴史の捏造に熱心ではないことだ。ラブロフらにしても、以前のほどにはヤルタ極東密約やポツダム宣言やサンフランシスコ平和条約や敵国条項のことはいわなくなった。それらをもって正当化できないという歴史認識を持っているからだろう。もともとソ連・ロシアの歴史学者は、もちろん研究者にもよるが、中国や韓国の同業者のような歴史とプロパガンダの露骨な混同はやらない。占拠の不法性を自ら認識 政治家にしても、確かにメドヴェージェフの北方領土視察は許しがたいが、このようなことをするようになったのは、ついこの数年のことだ。それまでは、これまでの歴史的経緯も踏まえて(彼らにとってそれどころでなかったことも加わるが)、あの傍若無人なソ連およびロシアが、それなりに自粛していた。これも、歴史とプロパガンダが混然一体となっている中国と韓国には認められない点だ。これら両国は歴史改竄を繰り返すので、要求がどんどんエスカレートし、話せば話すほど距離が開いていく。ロシアはこの点では、彼らよりましだと感じられる。 メドヴェージェフやラブロフの発言は、彼らの歴史認識というよりは、政治的意図が先に立ったものだろう。前述のように、本心では北方領土を占拠する根拠がないということを認識しているようだ。ただ、日本側がかならず食いついてくるので、日本を釣る外交カードとして使っている。今のところ、ロシアは他に有効なカードをもっていないので、これからも使ってくるだろう。ゆえに、このカードを手放すつもりはないだろう。 実際問題として、武力によって奪い取られたものを、平和的手段によって取り戻すことは至難の業だ。はっきりしていることは、奪われたものを取り戻すことは、日本単独ではできないということだ。何らかの形で、日本が他の複数の国と連携してロシアに圧力をかけられる国にならなければ、悲願は達成できないだろう。それまでは臥薪嘗胆するしかない。ありま・てつお 昭和二十八年青森県生まれ。五十二年早稲田大学第一文学部英文科卒業、五十九年東北大学大学院英文学専攻博士後期課程単位取得満期退学。同大教養部講師、助教授などを経て平成九年早大社会科学部(メディア研究)助教授、十一年から同教授。アメリカの占領政策と日本のマスメディアの関係を明らかにする研究に取り組む。また「メディアはすべて広告メディアである」という事実を踏まえ、広告が大衆文化の形成とどのようにかかわっていたのか、それにどのような今日的性格を与えたのかを歴史的に研究する。著書に『原爆と原発「日・米・英」核武装の暗闘』(文藝春秋)、『1949年の大東亜共栄圏―自主防衛への終わらざる戦い』(新潮社)、『「スイス諜報網」の日米終戦工作:ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか』(同)、『歴史とプロパガンダ』(PHP研究所)など。

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    ロシアが北方領土返還を拒むのはなぜか オホーツク海の戦略原潜が障害物だ

    榊原智(産経新聞 論説委員) 安倍晋三首相は、ロシアのプーチン大統領とのトップ会談を通じ、日本固有の領土である北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島)の返還を実現したい考えだ。しかし、安倍首相は執念を燃やしているのとは裏腹に、プーチン氏には応じる気配はみられない。  9月28日に国連本部で開かれた日露首脳会談は、平和条約締結に向けた対話の継続で合意した。だが、この会談の席上、プーチン氏から領土問題についての言及はなかった。10月8日にモスクワで再開された次官級協議でも議論は平行線をたどった。ロシアのラブロフ外相は折に触れて、領土交渉を拒否すると強調している。とりつくしまがないとはこのことだ。  ロシアはなぜ、北方領土の返還を拒むのか。領土に強欲な国家だからであることは歴史的に明らかだが、理由はそれに止まらない。1940年にスターリンによって併合されたエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国のソ連からの離脱、再独立がソ連崩壊(91年)へ影響を及ぼした例もある。  日本は、ロシアがかたくなに北方領土返還を拒む理由を理解し、それを突き崩していかなければならないのだが、その理由の筆頭に、軍事的理由を挙げることができる。  ロシアの核戦略上、北方領土が接するオホーツク海が極めて重要な位置を占めているのだ。これが、北方領土返還を嫌がる隠された理由である。  オホーツク海に潜むロシア太平洋艦隊所属の弾道ミサイル搭載原子力潜水艦(SSBN)は、米本土を核攻撃できる。ロシアにしてみれば、北方領土、とりわけ、オホーツク海に面する択捉島、国後島の2島を日本に返還することは、ロシアの戦略原潜の安全にとってマイナスになってしまうのだ。ソ連崩壊後初めて建造中の新世代の原子力潜水艦ユーリー・ドルゴルーキー(タス=共同)  これが北方領土問題をややこしくしている。  まずは、冷戦期に遡らなければならない。  陸上自衛隊の幕僚としてアメリカのシンクタンク、ランド研究所に留学し、冷戦末期の日本の対ソ防衛戦略を編み出したのが西村繁樹元防衛大教授である。その西村氏の著書『防衛戦略とは何か』(PHP新書)から引用したい。 「SSBNは、潜水艦の特性から海面下に潜むことができ、核戦争の最後まで生き残りを図ることができる。 このゆえ、米ソ戦の決をつけるべく最終的な核攻撃を行うか、この残存を梃子に戦争終結交渉に持ち込むか、最後の切り札の役割を担うのである。 ソ連の海軍戦略は、このSSBNの安全確保を最重要の柱として組み立てられた。この作戦構想は、その区域には何ものも入れない、いわゆる『聖域化(たとえばオホーツク海の聖域化)』であり、専門用語では『海洋要塞戦略』と呼ばれた。(略) 極東においても『海洋要塞戦略』の登場により、オホーツク海およびその周辺海域が、核戦略上の中核地域となるに至った」(38~39頁)  「地上戦に敗れるようなことがあっても、SSBNの安全が確保されるかぎり、第二次大戦のドイツや日本のように無条件降伏を押し付けられることもない。そのような要求には『相互自殺』の脅しをもって応えることができるからである」(44~45頁)アメリカへの「最後の切り札」  ソ連のアメリカに対する核戦略上の「最後の切り札」が、オホーツク海に潜む戦略原潜(SSBN)だった。そして、ソ連が崩壊してロシアになった今でも、この構図は基本的に変わらない。  『平成27年版防衛白書』は次のように指摘する。ロシアの核戦力の中で「SLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)を搭載したデルタⅢ級SSBNがオホーツク海を中心とした海域に配備されている。これら戦略核部隊については、即応態勢がおおむね維持されている模様」であり、2013年10月と14年5月の演習では、「デルタⅢ級SSBNがオホーツク海でSLBMを実射」している。  このとき、ロシア太平洋艦隊の戦略原潜はオホーツク海からロシア北西部のネネツ自治管区へ、ヨーロッパ方面の北方艦隊の戦略原潜はバレンツ海からカムチャッカ半島へ、それぞれSLBMを打ち込んだ。ネネツ自治管区はバレンツ海に面し、カムチャッカ半島はオホーツク海に面している。核戦争への対応能力をはかる大規模演習だ。いずれのときも日本政府は騒がず、大きく報道もされてこなかったことから、日本人は隣国ロシアがオホーツク海をこのように利用していることに気づいていない。  ロシアがオホーツク海に潜ませている戦略原潜は、ロシアにとっては、核大国である米国や中国と軍事的に対峙し、国家の存続をはかるための切り札である。もし、米国から全面的な先制核攻撃を受けても、オホーツク海の戦略原潜さえ生き残れば、米本土の大都市に報復の核の雨を降らせることができる。  このような核攻撃能力(第2撃能力)を持っている限り、ロシアは米国からの先制核攻撃を抑止することが期待できる。最悪の場合でも、無条件降伏せず、停戦交渉に臨むことができる。自国への核攻撃を防ぐとともに、ロシアは、自国を米国ともにらみあうことのできる「大国」とみなし続けられるのだ。  プーチン氏を含めロシア人は、日本人が想像する以上に、軍事優先の発想に立つ人々であって、オホーツク海の戦略原潜の意義はロシア軍部はもとより、ロシア政府の中枢にも認識されているに違いない。  ロシアにとって、核戦力は冷戦期に勝るとも劣らない重要性を持っているわけはもう1つある。ロシアの経済的弱体化、人口減によって、ロシア軍の通常戦力(非核戦力)がソ連軍当時と比べ格段に弱体化しているのだ。  たしかにプーチン氏は、ロシア軍特殊部隊を使って、きわめて巧妙にクリミアを手に入れ、ウクライナ東部を攪乱している。カスピ海に浮かぶ艦船からシリア国内へ巡航ミサイル攻撃をしてみせた。シリアへは陸海空軍を展開して、アサド政権に敵対する勢力に航空攻撃を行っている。鮮やかな手並みだが、あくまで限定的な新しいタイプの戦いを遂行しているだけともいえる。今のロシアに、米軍やNATO軍と正面きって戦う通常戦力はない。  だから、プーチン氏が、ウクライナ情勢をめぐり核攻撃の恫喝を行って世界から顰蹙をかったのだ。核の恫喝は、ロシアが米軍の介入自体や、米国製兵器のウクライナへの供与を恐れているからこその発言だった。日本人からすれば、米軍やNATO軍がロシア軍と戦うなど、それこそ想定外の話で、それはオバマ米大統領にとってもそうだろう。けれども、米軍やNATOから圧迫されていると感じているロシアは言葉による「核口撃」の1つもしたくなる精神状態にあるのだと思われる。それに比べ、強大な通常戦力を誇ったソ連の指導者は、プーチン氏のような核に依存する、露骨な言動をする必要はなかった。  ロシアが北方領土、とくにオホーツク海に面し航空基地もある国後島、択捉島を日本に返還すれば、自衛隊や米軍が潜水艦狩りに乗り出してきた場合、それを防ぐのに大きなマイナスがもたらされる。ことは虎の子の戦略原潜の安全にかかわるのだ。  共同通信は4月2日、「大演習で核先制使用想定 3月にロシア軍 抑止力高める狙いか 北方領土でも『戦闘』」との見出しのモスクワ電を配信した。それによると、「ロシア軍が3月中旬に実施した大規模演習の際、NATO軍や米軍とみられる仮想敵が、北極圏の島や北方領土を含む千島列島を攻撃し戦闘が起きた事態を仮定、核兵器の限定的先制使用の可能性を想定していたことが1日、分かった。(略)仮想戦場となった千島列島は、ロシア太平洋艦隊の戦略原潜が活動するオホーツク海を守る位置にあり、軍事的価値が増している」とある。  「北極圏」はバレンツ海を含むため、NATO軍が登場してもおかしくないが、オホーツク海方面は、米軍に加えて自衛隊も仮想敵視されていたことは容易に想像できる。  これは、冷戦時代ではなく、今年の話である。軍事優先のロシア人がやすやすと北方領土を手放すはずがないことがわかる。10月の日露次官級協議で、ロシアは北方領土を支配する歴史的正当性を唱えたようだ。日本は国際法や歴史的経緯に照らしても、北方領土は日本固有の領土だと主張している。ロシアの理屈は誤っており、日本の主張が真っ当であるのはもちろんだ。  北方領土は、終戦後のどさくさに、ソ連によって無法にも軍事占領された日本固有の島々であり、4島すべての返還を実現しなければならない。  そのために、オホーツク海を戦略原潜にとっての聖域としたいロシアの思惑をどう突き崩すのか。安倍首相や外務省は、このようなロシアの軍事戦略を把握した上で、北方領土を取り戻す算段をしているのだろうか。返還実現後の北方領土をめぐる軍事的取扱いはどうなるのか。オホーツク海をめぐるロシアの核戦略が、主として米国を向いていることから、米国にとっては自国防衛に関わる話となる。軍事の要素がからむ北方領土問題は複雑な上にも複雑なのだ。  深い思慮がないまま交渉を進めても、オホーツク海に面していない、択捉、国後と比べはるかに小さい色丹島、歯舞諸島をめぐる話に限られてしまいかねない。焦ってそのようなことで満足しては、私たちの世代は先達や子孫に顔向けできなくなる。  外交交渉によって、プーチン氏を翻意させ、4島返還につながっていくのが望ましいことは言うまでもない。ただ、本稿で指摘したように複雑な話であるのも事実だ。  それではどうするか。知恵を絞らなければならないが、返還実現のカギは、科学技術かもしれない。科学技術の進展で、戦略環境を激変させる方法だ。たとえばレーザー兵器である。将来技術が進み、レーザー兵器によって、発射され飛翔するSLBMなど核兵器の投射手段を容易に破壊できるようになれば、世界情勢自体が激変する。そのとき、ロシアにとって、オホーツク海ひいては北方領土の軍事的価値は大きく減ずることになる。これは夢想とまでは言えない。米軍の艦船などには一部、初歩的なものながらレーザー兵器の搭載が始まっている。北方領土の全面返還や、核の脅威の排除に向けて、日本も一肌脱いだらどうだろう。※「先見創意の会」コラムより転載。

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    功名心で国家を大きく損ねる 父祖の代から続く「鳩山・河野」コンビ

    条約を無視して対日侵攻し、樺太など北方領域を占拠し、七十万といわれる日本人捕虜を抑留使役したソビエトロシア。その国交回復を「命題」にした鳩山一郎と河野一郎が昭和三十一年十月に調印した日ソ共同宣言。双方のやり取りやソ連側の対応の変化について産経新聞は平成八年七月、独自入手した秘密資料などから具体的に報じた。そこでW一郎が、領土や七十万人への補償要求を切り捨てて、自らの命題を解決したことが改めて浮かぶ。 このため六十年経った今も、ロシアは北方領土や北洋漁業をめぐる強硬姿勢を崩さず、シベリア抑留の真相究明も進まない。さらにW一郎の手柄の一つとして加盟できた国連(連合国)は、今も日本を旧敵国としている。功名心に駆られた〝政治屋〟はいかに国や国民の利益を損じるか、の言い見本だ。 W一郎の孫や息子は今、公的な肩書を悪用して「尖閣は日本が盗んだ」「日本官憲の慰安婦の強制連行はあった」などと吹聴し続ける。この鳩山・河野コンビは今に始まったものではなく、六十年前から続く「売国の血筋」であることも教えている。 「旧ソ連対日交渉秘密文書を入手 『二島返還論』の真相 国後・択捉継続協議覆す」などと題した記事を再掲(一部修正)する。◇    ◇日本の政争につけこむ 昭和三十一年十月、ソ連との国交回復をうたった日ソ共同宣言の締結をめぐる首脳会談議事録やソ連共産党の指令書など秘密文書を産経新聞は入手した。ソ連側が歯舞(はぼまい)と色丹(しこたん)の返還を決定した経緯や、領土問題継続交渉を明記した草案をソ連側が強引に撤回したやり取りが判明した。 日ソ国交回復交渉は、自由党の吉田茂内閣の後を受けて二十九年十二月、日本民主党の鳩山一郎総裁が内閣を率いてから動き出した。 明らかになった秘密文書は、①三十一年六月に始まったロンドン交渉に関する文書②同九月の鳩山首相とブルガーニン首相との交換書簡③モスクワ交渉での河野一郎農相とフルシチョフ・ソ連共産党第一書記との四回に及ぶ会談議事録④同じく鳩山首相、河野農相と、ブルガーニン首相、ミコヤン副首相の会談議事録―など十四点。この中では、ロンドン交渉の前に、ソ連共産党幹部会の決定として「領土問題は解決済み」としていたソ連側が、交渉途中で歯舞、色丹の返還を打ち出した経緯が初めてわかった。日ソ共同宣言に署名する鳩山一郎㊧とブルガーニン㊨。鳩山は領土とシベリア抑留補償を切り捨てた=昭和31年10月19日、モスクワ 交渉では日本側全権で元駐英大使の松本俊一代議士が歯舞と色丹の返還をとくに強調したことなどから、ソ連側全権のマリク駐英大使は「日本側は歯舞と色丹を除いて国後、択捉両島の返還はあきらめている」との認識を持つに至った。 この報告を受けたソ連共産党幹部会は当初の決定を急いで変更し、歯舞、色丹の二島を返還することで日本との平和条約が締結されるとの強い期待を抱いた。言い換えれば、国後、択捉の返還をあくまで拒否しても日本側は譲歩する、と判断していたことがうかがえる。 しかし、三十年十一月の保守合同で誕生した自由民主党が四島返還を党議決定し、交渉は行き詰まった。翌三十一年五月、漁業交渉で訪ソした河野はブルガーニンとの会談を受けて、「二島返還、残りは継続協議」で党内の取りまとめに動く。 これに吉田派が強く反発し、米国も「北海道の一部である歯舞、色丹とともに、国後、択捉も日本固有の領土」との国務省の覚書を発表して牽制したことから、鳩山内閣としては二島返還による日ソ平和条約の締結がしにくくなった。 このため、鳩山は今回明らかになった同九月十一日付のブルガーニンあての書簡で、平和条約締結をあきらめ、「領土問題の交渉は継続協議」を条件に共同宣言の形で国交回復だけを図る方針に転換。だが、これを阻止しようとする反対派の主導で「二島返還、残りは継続協議」を国交回復の条件とする新党議を決定して勝手な交渉に枠をはめた。 領土問題を後回しにして国交回復を優先させる道を閉ざされた鳩山は、十月十二日にモスクワを訪問した。鳩山に代わってフルシチョフと会談を重ねた河野は、交渉が成功しなければソ連との国交回復に反対する吉田派ら反対勢力によって鳩山内閣が窮地に陥る、と懸命に訴えていたことが議事録でわかる。 河野はブルガーニンが五月の会談で「二島返還、残りは継続協議」を容認したとし、いわゆる〝密約〟をにおわせて迫ったが、フルシチョフは「解釈が違う」と拒否。ブルガーニンも「国後、択捉については話にさえならない」と継続協議を否定した。文書では明確な〝密約〟は見当たらないが、これをあてにしていた河野の期待は覆された形となった。 「歯舞、色丹の返還で領土問題は決着」との堅い姿勢を崩さないソ連側は、その返還時期を米国による沖縄返還と絡める揺さぶりを日本側にかけさえした。さらに、フルシチョフ自ら党幹部会に提案した共同宣言案の「領土問題を含む平和条約締結の継続協議」から「領土問題を含む」の撤回・削除を強硬に主張した。 この部分は日本にとって国後、択捉の継続協議を意味する一筋の光明だっただけに、河野は「すでに東京の了解を取ってしまった」と懸命に抵抗する。だが、それを文章化した自らの誤りと、日本側の意図に気付いたフルシチョフは「解釈をめぐる戦争の危険」という脅し文句まで使って押し切っていた。「政府に相談せず署名する」と河野「政府に相談せず署名する」と河野 河野 貴殿の考えはよく理解したので、領土問題で次の案を提起する。 「日本の希望に応じ、日本国の利益を考慮するソ連は、日本に歯舞群島と色丹島を引き渡す。ソ連と日本は両国間の国交回復後にも平和条約の締結交渉を継続し、戦争状態の結果、両国間で生じた諸問題の全面的な正常化を保証する」 島の引き渡しの時期については、今合意しなくともいい。 フルシチョフ 前半の歯舞と色丹の部分は、あまりよくできていない。ひどく明確すぎる形で述べられており、我々が即時返還しなければ、日本の世論はソ連政府が約束を破ったと見なしてしまう。 河野 受け入れられないのなら、貴殿の文案を提示してほしい。 フルシチョフ 我々の案は沖縄などの返還をめざす闘争の実質的、法的権利を日本に与えるものだ。大事なのは、我々の案による問題解決の結果、日本が米国に強い圧力をかけることができることだ。 河野 貴殿が提案するあらゆる案を検討する用意がある。鳩山と私は自分の政府に相談せず、文書に署名することにした。 フルシチョフ 我々は米国の管理下にある日本領土の返還をめざす闘争の展開のための好ましい政治環境を作ることしか望まない。我々はすでに歯舞と色丹を返還することにしたので、それに対する関心を失った。今の話は引き渡しそのものが日本のためになるというだけのものだ。 一九五六(昭和三十一)年十月十七日付のフルシチョフの党中央委幹部会あて報告書にはこうある。 「十六日に日本の農相河野と会談した。会談全部が領土問題に費やされた。議事録を送付する。終わりに、もう一度、本日十七日に会うよう申し入れがあり会談が行われた。河野は領土問題の文書草案を提出し、我々にも草案を出すよう要望した。 共同宣言草案に入れる領土問題の文書草案を諸君に提起する。同時に、共同宣言には書き込まず、口頭で日本側に伝えるテキストの草案も提起する。同志諸君がこの草案に同意すれば河野に渡す」 フルシチョフが言う共同宣言草案は次のとおり。 「ソビエト社会主義共和国連邦と日本国は、両国間に正常な国交関係が回復した後、領土問題を含む平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。同時に、ソ連は日本の要望にこたえ、日本の利益を考慮して歯舞群島および色丹島を日本に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島はソ連と日本との間の平和条約が締結され、米国の管理下にある沖縄その他の日本に帰属する諸島が日本に返還された後に実際に引き渡されるものとする」 さらに、文書化せず口頭で日本側に伝える文言案は「ソ連は米国の管理下にある沖縄その他の日本に帰属する諸島の解放を待たず、歯舞群島および色丹島をソ連と日本との間の平和条約が締結された後、実際に引き渡すことに同意する」だった。「意に反して領土提起」と鳩山 「意に反して領土提起」と鳩山  鳩山、河野、ブルガーニン、それにソ連副首相のミコヤンの会談は昭和三十一年十月十七日に行われた。 鳩山 私は政治的権限の公職追放が終わった二十六(一九五一)年九月からソ連との関係正常化を絶えず主張し、日本の世論が関係正常化を理解したという意味で成功した。今モスクワにいて、長年の主張を自分で実現できるのは大きな喜びだ。一年以上続く交渉が最終段階に入ったことも私の喜びだ。次の質問をしたい。 領土問題は最も困難で、双方が一番論議した問題である。我々は領土問題なしに関係正常化ができると考えていたが、我が党の中には我々の立場に激しく反対する吉田が率いるかなり大きなグループがある。このため、我々はモスクワに来てから、歯舞・色丹返還問題の再提起を余儀なくされた。繰り返すが我々はこの問題を意に反して提起している。 日本の国連加盟について。形式的なものはいらない。私は文言に力を見ておらず、実際面しか関心がない。ソ連政府が関係正常化の後、他国の加盟問題と関連させず、日本の加盟申請を支持するよう望む。貴殿がこの問題で日本に対して寛容で、国連の家族の一員になりたい希望を支持してくれると確信する。日ソ共同宣言調印を終えて帰国し、書斎でブルガーニンからの土産を孫に見せる鳩山一郎(左)。中央が上の孫、由紀夫=昭和31年10月、「音羽御殿」と言われた東京都文京区の豪邸 抑留者について。提示された名簿に含まれない日本人を捜すため、フルシチョフ氏は調査を続ける項目を入れることに同意した。そこで私は共同宣言草案に次の一項を要望する。消息不明の日本人に関しては、ソ連が領内にその日本人がいるかどうか調べるための措置をとる。 核兵器禁止と国際問題については、今交渉で我々は国交樹立に関係する問題しか討議していないので、こうした問題は正常な外交関係樹立後に討議、解決した方が有意義だと思う。 ブルガーニン 両国の異常な関係終結をめざす貴殿の努力を高く評価する。五一年以来、貴殿の活動を注視し、成功を祈ってきた。貴殿と会い、交渉に踏み出したことに大変満足している。貴殿のモスクワ訪問はソ日関係の歴史に残ると考える。河野氏の精力的な活動も高く評価する。これは外交辞令ではなく、閣僚全員が心から分かち合っている。 領土問題では多くの会談や会議を行った。平和条約締結時に歯舞・色丹を日本に返還してもいい、とすでに我々は主張した。この決定を下した時に我々は大変な決断をし、世論に大きな責任を負った。我々は平和条約の締結で両国関係を正常化したいという希望に導かれていた。 残念ながら日本側は平和条約は締結できないと表明した。日本には大きな選択肢がある。つまり平和条約草案、首相同士の交換書簡、グロムイコ同志と松本氏との交換書簡、フルシチョフ同志が述べた解決案を指針にできる。それらには、われわれの立場が詳しく述べられている。この問題ではいかなる譲歩もできないし、しない。 ソ連政府は、フルシチョフ同志と河野氏との会談に基づく次の二案を提起する…。 〈議事録の注釈・テキストが読み上げられる間、鳩山は再三、ソ連は平和条約締結時に歯舞と色丹を返還するのか、あるいは米国による沖縄などの返還も条件なのか、と聞いた〉 鳩山 この文書に米国の話が出ると、我々の立場が苦しくなる。それを避けたい。 ミコヤン 我々は今読み上げた案によって、米国の管理下にある(日本)領土の返還の闘いが容易になると考えた。鳩山・河野コンビの足元を見透かしながら交渉をロシア主導に進めたニキータ・フルシチョフ 河野 日本の課題を本当に容易にさせるのは、ソ連が国後と択捉(えとろふ)を返還してくれることだ。 ブルガーニン それについては話にさえならない。 ミコヤン 私はその島に行ったことがある。そこが純粋なロシア領であることがわかった。その引き渡しの考えは誰にもなじまない。 ブルガーニン 領土問題に関してはこれがすべてだ。われわれの立場は最終的で揺るがない。 日本の国連加盟について、正常な関係を回復した後に我々は約束、つまり日本の国連加盟を支持する。 抑留者について、処罰された捕虜を含め、抑留日本人を引き渡すための措置をとる。名簿にない日本人を捜すという日本の要請を追加することにも同意する。 国際問題と原水爆兵器禁止の問題では、関係正常化の際に両国政府がこれを確認すれば、この決定は全人類のためになると思うが、この項目を受け入れられないと考えるなら、我々は削除に反対はしない。 河野 我々代表団はこの項目に反対はしないし大きな意義があると考える。ただ、私たちは首相が述べたように別の時期、関係正常化後に扱いたいと思う。 鳩山 我々が関係正常化の結果、国際緊張を幾分かでも緩和させ、新たな戦争の勃発を阻止できれば、全人類の前に最大で最高の義務を果たすことになると考える。 ブルガーニン 同感だ。ソ日の関係正常化は国際関係の緊張緩和に大きく貢献し、我が国民だけでなく全世界の諸国民のためになる。我々の外交の基礎をなすのは、平和と友好への闘いである。 ミコヤン 日本にとって我々との交渉を終えたらすぐ中国とも関係正常化することは意味があると思う。足元見られた「お涙ちょうだい」足元見られた「お涙ちょうだい」  議事録でブルガーニンに述べているように、鳩山にとって日ソ国交回復は悲願でもあった。米国との関係構築を最優先した吉田茂総裁の自由党に対抗し、日本民主党を率いる鳩山は自主外交路線の一環としてソ連、中国との国交回復を主張。官僚派と党人派の対立でもあったが、それは保守合同後も変わらなかった。 スターリン死後、ソ連の最高指導者となったフルシチョフが進めた平和共存路線が、鳩山の期待を一層強めた。だが、米ソ間には一時的な緊張緩和の兆しが見えたとはいえ、ダレス国務長官のもとで対共産圏封じ込め外交を基本とする米国もまた、日本のソ連接近を警戒した。 このため、鳩山は平和条約締結をあきらめ、領土問題をすべて継続協議にして共同宣言で国交回復をめざすが、訪ソ直前になって政権与党の自由民主党は国交回復の条件として「歯舞と色丹の返還、残る二島は継続協議」の党議決定で手足をしばる。 これについて鳩山はブルガーニンとの会談で「交渉に激しく反対する吉田派」によって、いったんはソ連側に提案した領土棚上げの主張を変更せざるを得なくなったと嘆き、それは自らの「意に反して」いるのだとして理解を求める。 議事録はソ連の作成だが、一国の首相が国家の名の下になされた公式提案を、自分の考えとは異なると告白するのは極めて異常だ。 病身の鳩山に代わって交渉を取り仕切った河野もフルシチョフに「日本の内政がそれを強いている」と、党内で厳しい立場に置かれた事情に配慮するよう繰り返している。窮状を訴え、同情を引こうとしたのだろうが、冷徹な外交交渉でのこうした態度は危険でさえある。フルシチョフのペーパーナイフを「北方領土の代わり」として鳩山一郎に贈った河野一郎 鳩山が国交回復を達成したかった背景には党内事情ばかりでなく、①当時まだ多くの日本人抑留者が未帰還②日本の国連加盟にソ連が拒否権を発動している③大量の漁船拿捕など北方漁業の緊張―などがあった。 だが、ソ連側は鳩山内閣の弱い立場に同情するどころか、逆に足元を見透かして強気に出る。国家利益が掛かる外交ではこれが普通だ。この結果、ソ連側は自ら提案した草案の「領土問題を含む平和条約の締結交渉の継続」部分から「領土問題を含む」の削除を日本側に認めさせる。 「国交回復」を命題に掲げた鳩山らにとって、決裂覚悟の厳しい交渉などできるはずはなかった。この削除の見返りとしてソ連側は「提出した(抑留者)名簿以外に拘束している日本人はいない」という前日までの見解を、舌の根も乾かぬうちに撤回し、名簿以外にもいることを突然認めた。これがソ連外交であった。◇ 明らかになった交渉内容について記事の中で木村汎国際日本文化研究センター教授(現名誉教授)は「なぜフルシチョフによる『領土問題を含む』の文言削除申し出を拒絶しなかったのか。これを口実にソ連側は案の定、日ソ共同宣言は二島返還論にほかならないと主張するようになった」と指摘。W一郎の対応を「千載の悔いを残す行為」と批判する。さらに河野が鳩山内閣の苦境を伝え、鳩山の早期帰国のため調印式を一日早めることさえ求めたことを「我が方に締切時間があるという弱味を見せる稚拙な交渉。お涙ちょうだいの浪花節が通じることを前提とする姑息な交渉法」と切り捨てている。◇    ◇ 河野は、領土が懸かる重大な場で、こんなことまでしている。 豊田穣『鳩山一郎』などによるとフルシチョフとさしの会談で「そのペーパーナイフは大きくて美しく実に見事だ。それをくれないか」と言った。フルシチョフは驚いたような表情を見せたが「ダー、ハラショー」とナイフを渡した。会談後、河野は鳩山に「奴さんがこれを振り回すのでヤバくて仕方がないから分捕ってきましたよ。どうです、レーニンの写真が入っているでしょ。北方領土の代わりに総理に進呈しましょう」と鳩山に差し出した。鳩山はそれをそのまま受け取っている。 驚くことに翌日の会談で河野は「昨日もらったペーパーナイフは鳩山総理に進呈したので、僕のを記念にもらいたい」と頼み、フルシチョフからもう一本もらったという。 河野は、交渉に絡めてソ連が北洋水域から日本のサケ・マス漁業を締め出そうした際のブルガーニンらとの会談に、日本側通訳も付けず一人で臨み「漁業を認めてくれれば、代わりに国後・択捉返還要求は取り下げる」とした密約が取り沙汰される。 結局、ソ連は共同宣言から四年後の三十五年、日米安保条約が改定されると、歯舞・色丹の返還すら「日本領土から全外国軍隊の撤退を条件とする」と通告。共同宣言を日本の承諾なしに一方的に変更したのだ。 幕末・明治初頭の北方領域侵奪、日ソ中立条約を無視した対日侵攻と北方領域再侵奪に続く、国交回復交渉でのこの対応。ロシアロシアなら、日本も日本だった。目先の利益と己の功名心、そして浅はかな独善と、領土もペーパーナイフもいっしょくたにする感性の持ち主が、交渉の代表だった。W一郎の交渉とすら言えない交渉の結果が、今なお日本国民を苦しめている。その孫や息子の言動とともに。

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    党略で樺太を投げ棄てた日本共産党  ロシアを利するおかしな領土解釈

    外の放棄を決めたサンフランシスコ条約第二条C項の廃棄を通告すれば可能です」「日本共産党は、日露戦争でロシアから賠償として奪った南サハリン(樺太)を除き、日露間の正常な交渉で平和的に画定した領土である全千島列島の返還を求めます。どの政党よりも一番広い範囲の返還をソ連に求めていることになるのですよ」 質問者は「へえ、それはすごいね。共産党だからソ連の仲間だと思ったのに、そこまでものをいうんだね」「そんなに大きな広さの返還を求めているなんて、知らなかった」などと驚いていたように思う。 すると、候補者氏、さらに喜んでこう付け加えたものだ。「日本共産党は自主独立の党で、ソ連でもアメリカでも中国でも、どんな大国に対してもきっぱりものを言ってきましたから」 平成初頭までの党最高権力者、宮本顕治が打ち出していた「自主独立路線」と結びつけて、ソ連からの領土返還論を日本共産党は語っていたのだ。この「自主独立」は、不破哲三など党最高指導者が懐柔され、中国共産党政権の海洋覇権追求のような対外膨張主義にも一切もの申さなくなった最近の日本共産党が、口にしなくなって久しい。 私が候補者氏から「要求面積が最も広い返還」論を聞いた昭和六十年前後から、日本共産党は「四島返還を求める立場にも柔軟に対応する」と称し、毎年二月七日の「北方領土の日」の「北方領土返還要求全国大会」に参加するようになった。 その一方で、相変わらず「日本政府は、千島の南半分の国後、択捉と、千島に含まれない歯舞、色丹のみ返還を求めています。これは日本政府が、一九五一(昭和二十六)年に各国と結んだサンフランシスコ平和条約で千島列島を放棄するという重大な表明をおこないながら、五六年になって『国後、択捉は千島に含まれない』との見解を出し、歯舞、色丹と合わせ『北方領土』として返還を求め始めたからです。この立場は国際的には通用せず、日ロ間の交渉の行き詰まりと迷走の一因」(平成二十二年一月二十七日付赤旗「千島問題をなぜ『北方領土問題』と呼ぶ?」)など、「全千島返還」論を唱える自党のみの正しさを言い続けている。選挙目当てのご都合主義選挙目当てのご都合主義 当時、若さゆえに党の路線と「科学的社会主義」(マルクス・レーニン主義の言い換え)に頭をしばられていた私は、こうした日本共産党のやり方に疑問は持たなかった。しかしその後、国会論戦や政策準備のため、政府側のレクチャー(担当省庁職員による説明)聴取や資料調査を長期にわたって経験し、さらに党から離れるに至る中で見方が変わった。 自分なりの判断として「全千島返還」論など日本共産党の領土問題への主張と対応は「選挙目当てのご都合主義」にすぎないもの、と考えるようになったのである。 理由の第一は、平和条約締結へ向けたソ連・ロシアとの領土返還交渉の経過と到達点を全く無視した、非現実的な議論であることだ。宮本顕治元党中央委員会議長(右)と不破哲三前党中央委員会議長(左) ソ連時代、さらにソ連崩壊後はロシアのエリツィン、プーチン政権との交渉で、ともかくも昭和三十一年の日ソ共同宣言を出発点に領土返還交渉を行うという認識が、日露両国で共有されたのが到達点である。平和条約締結に向けて歯舞、色丹の「二島返還」は最低ラインで、後の問題は協議していくというものだ。 日本共産党の「全千島返還」論は、この到達点を帳消しにして一から交渉し直せというものに等しい。現段階では北方四島を含め全千島、南樺太を不法占拠ながら実効支配するロシアがこんな議論に応じることは、現実的にまったく考えられない。 日本政府が旧島民を含む国民世論を背景に交渉してきた到達点(不十分なものにせよ)に冷水をぶっかける議論が「全千島返還」論だ。こんな乱暴な主張は、政治的にどちらの国を利するものか明白である。 理由の第二は、日露間の領土形成の歴史的事実を覆い隠し歪めた議論が「全千島返還」論の底流にあることだ。まず、「南サハリン(樺太)は戦争でロシアから奪ったもの」とする解釈が、樺太をめぐる我が国とロシアの歴史の事実をまったく無視したデタラメである。 さらに「千島列島全体が一八五五年に江戸幕府と帝政ロシアが結んだ日魯通好(和親)条約と、七五年に明治政府と帝政ロシアが結んだ樺太・千島交換条約とにより、戦争ではなく平和的な交渉で日本領土として確定」(同)という説明は、幕末―明治初期の日露の力関係や帝政ロシアの帝国主義的ふるまいに目をつぶったもので不正確きわまりない。これらについては、後述する。北方領土をめぐる見解について説明する日本共産党のホームページ 結局、日本共産党の「全千島返還」論は、歴史の事実の中から選挙目当ての自己宣伝に都合のよいものを拾って、単純な理屈になるようつなぎ合わせたものとしかいいようがない。不勉強な候補者や議員でも有権者に説明しやすく加工した子供だましの「日露外交」論なのだ。 まあ、共産党員の身内で何を信じようが勝手だが、これをデマゴギーよろしく有権者の間へ広範に流布し、国政に影響を与えることは日露交渉に有害な影響を与えかねないし、現実にそうだったのではないかと、私は危惧している。樺太の開拓に先んじた日本樺太の開拓に先んじた日本 樺太という名前は、かつて東北地方から北海道、千島列島、樺太全域、カムチャツカ半島に至るまで分布・居住していたアイヌ民族の言葉でこの地を呼んだ「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ」(神が河口部に作った島)の中の「カラ・プト」が起源だ。 一方、ロシア側が現在用いている地名「サハリン」は、同地を清王朝時代にツングース系の満洲語で呼んだ「サハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ」(黒龍江河口の対岸の島)の最初の部分から来ている。これは、十八世紀に清朝がイエズス会修道士に命じて黒龍江沿岸を測地測量させた際に命名されたもので、「黒龍江(アムール川)河口にある島」という意味では、アイヌ語と共通だ。 南北約千㌔にわたり面積は北海道より小さい樺太は、もともと周辺国(大陸や半島の歴代王朝)には地形的つらなりから「倭・日本の一部」として認識されていた。日本による同地の活動で最も古くは、飛鳥時代に斉明天皇(五九四―六六一)が阿倍比羅夫(あべのひらふ)に行わせた蝦夷征伐に続く粛慎(しゆくしん)(黒龍江沿岸から樺太周辺にかけて生活していたツングース系狩猟民族)討伐とする説がある。「正保御国絵図」には樺太(上)や千島(右)などが書き込まれている 十三世紀は、モンゴル帝国(元)と樺太の原住民、それに日本(鎌倉幕府が蝦夷(えぞ)管領(かんれい)を配置し対応)が同地を軸に覇権を争った。一二六四年に元が樺太に軍勢を派遣し、彼らが「骨嵬(クギ)」と呼ぶ現地民を征服したが、八四年には「骨嵬」側が反乱。九七年には蝦夷代官(管領)の安藤氏が樺太原住民(アイヌ民族など)に加勢し、彼らを率いて大陸の黒龍江沿岸まで攻め入って元軍と交戦した。 結局、十四世紀になって「骨嵬」が元に朝貢するようになったが、その後も蝦夷地(北海道)を経由して日本との交流が継続された。 ロシアでの統一帝国(ロマノフ朝)成立が一六一三年であり、樺太周辺での日本の活動の起点を粛慎討伐に置くなら、これより千年近く先んじている。ロシア帝国がその勢力圏を黒龍江河口周辺に届かせ始めたのは一六四四年、同地に辺境討伐のコサック先遣隊が到達してからだ。 江戸時代に入っていたこの時期、松前藩が樺太について幕府に蝦夷地の北にある大きな島として地図を提出。これを含め各藩から提出された地図を基に幕府がまとめた日本全図「正保御国絵図」に樺太は描き込まれていた。 以後、松前藩を軸とした開拓の拠点づくりが進み、一七五二年には樺太での商取引から租税徴収を行う樺太場所(場所請負制度=米を作れない蝦夷地特有の租税徴収システム)が設けられた。一方、北海道太平洋岸と千島は、幕府直轄領とされたので、樺太は松前藩の領地経営の上で、重要な位置づけのものとなった。 以上の経過を見るなら、ロシアはもとより、周辺国よりも先駆けて日本は樺太の開拓に着手していたことがわかる。間宮林蔵の功績とロシアの膨張圧力間宮林蔵の功績とロシアの膨張圧力 ロシア帝国が樺太に対して領土的野心を示し始めたのは、十九世紀に入ってからだ。十八世紀後半にはヨーロッパの大国に数えられるに至ったロシア帝国は、シベリア開発に本腰を入れると共に太平洋岸への進出を図った。 その中で、鎖国政策をとっていた日本に開国と通商を求めるようになったが、文化三(一八〇六)年から四年にかけて、外交官ニコライ・レザノフ(一七六四―一八〇七)配下のロシア海軍艦船と将兵は、通商を日本から拒絶された報復として幕府直轄領の択捉島や松前藩領内の礼文島、樺太の留加多(るうたか)を武力攻撃した。 これを受けて、幕府は蝦夷地や千島、樺太(北蝦夷地)全体を直轄領とし(その後、文政四=一八二一=年に一旦すべてを松前藩に返還)、その防備のために秋田藩、弘前藩、仙台藩、会津藩への出兵を命じた。 一八〇八~〇九年には、ロシア海軍の礼文島襲撃の際に同地に幕吏として赴任していた間宮林蔵(一七八〇―一八四四)が樺太全域と黒龍江下流域の探検調査を実施。伊能忠敬(一七四五―一八一八)から測量技術を伝授された間宮は、享和三(一八〇三)年から伊能と共に蝦夷の測量・地図作製に参画した。その経験を生かして樺太の探検に取り組み現地の地勢を正確に把握するとともに、最北端までの全域踏破により樺太が完全な島であることを確認した。 この探検の際、間宮らは樺太最西端のラッカ岬に「大日本国国境」と刻んだ国標を設置している。これらは、本来、樺太に関する日本の領土的主張の歴史的根拠として不足のない事績であり、間宮の歴史的功績というべきものだ。 また、文化元(一八〇四)年以降、幕府は北蝦夷地のアイヌの住民数を把握(同年で二千百人)。以後明治八年まで、住民数は幕府・明治政府が掌握するに至っている。 幕末期が近づく十九世紀半ばには、東アジア進出へのロシア帝国の野心がいっそう強まり、引き続き江戸幕府への開国要求の機会を狙うとともに東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ(一八〇九―八一)は、海軍に樺太調査を命じ、一八四八年に初めて艦船によるタタール海峡(間宮海峡)の通航を実施。ムラヴィヨフは、樺太領有をめざす対日強硬論者で、その後も軍事力をちらつかせながら日本側に譲歩を迫り続けた。ニコライ・ムラヴィヨフ 安政元(一八五五)年末に日露和親条約が下田で締結された。千島については択捉島と得撫島の間に国境線が引かれ、樺太については「界を分かたず是迄(これまで)仕来(しきたり)の通(とおり)」とした。幕府は「これまでどおり日本領であり、国境を設けるようなことはしない」という認識で、ロシア人の居留も黙認した。このため安政六(一八五九)年にムラヴィヨフ自ら七隻の海軍艦隊を率いて江戸・品川に来航し、幕府との交渉で樺太はロシア領であると強硬に主張した。 以上のように、ロシア帝国は十九世紀の初めから後半にかけて執拗に日本側に軍事力を背景にした圧力をかけ続け、樺太をわがものとし、さらにそこを足場に日本本体にも進出する野心をあらわにしていた。 江戸まで押し掛けたムラヴィヨフの横柄な要求を、幕府は退けた。しかしながら、ロシア以外にも中国大陸や東南アジアに西欧列強(英、米、仏など)が帝国主義的に進出し、日本にも開国を迫る中、長い治世を鎖国状態で推移した江戸幕府は、あまりに非力であった。 こうした圧力下、樺太ではロシアの武力による支配が着実に広がり、日本側との摩擦が強まったので、慶応三(一八六七)年に幕府が国境画定交渉をロシアにもちかけるが、逆にロシアの新規進出を認めてしまう内容の「仮規則」を結ばされてしまう。これでロシアの支配が一層強まり、明治八(一八七五)年、樺太・千島交換条約で日本は樺太を放棄せざるを得なかったのである。日露講和会議が行われたアメリカ東海岸のポーツマス海軍工廠 当時の日本としては、自分のものである大きな島を、元々は自分のものだった小さな島と引き換えに泣く泣く手放したという感が強かったとされる。明治政府内も「北辺の樺太を手放して、北海道開拓に力を集中することが長期にわたる国益につながる」とする黒田清隆(開拓次官)らの「樺太放棄・北海道防衛」論と「日露が住み分ける国境を樺太に画定すべし」という副島種臣外務卿(外相)らの「住み分け」論に割れていた。加えて「征韓論」を主張する重鎮たちが下野するなど、新政府として基盤が安定しておらず、大国ロシアに屈せざるを得なかった。 これが、日本共産党の言うところの「戦争ではなく平和的な交渉で日本領土として確定」した樺太や千島に関する日露両国の経過だ。「平和的な交渉」が大国ロシアの軍事恫喝を背景にしていたことは、歴史の事実をたどれば誰にでもわかる。「南樺太割譲」は過小な失地回復「南樺太割譲」は過小な失地回復 樺太、千島をめぐる日露間の領土、国境変更がなされる次の機会は、明治三十八(一九〇五)年の日露戦争終結にともなうポーツマス講和条約だ。日本はロシアより北緯五十度を境に樺太南部の引き渡しを受けた。 日本勝利が確実となった同年六―七月にかけて陸軍第十三師団が樺太全域を占領した。これが八月からアメリカ東海岸のポーツマス海軍工廠で開始された講和会議で日本側有利をもたらす力のひとつとなった。それは元々日本が開拓した土地を取り戻したとして、日本史上初の近代戦に疲弊した国民を一面で喜ばせた。 ところが、同九月五日に調印された講和条約では「朝鮮での日本の優越権の承認」「ロシアが保有する東清鉄道の南満州支線及び租借地・炭鉱の日本引き渡し」「ロシアが清より与えられた関東州(遼東半島南部、旅順・大連など)の租借権の日本引き継ぎ」「日本による沿海州漁業権獲得」が南樺太回復以外の成果すべてであった。「戦争に勝ったというのに賠償金もとれず、元々日本のものであった土地の一部を返されただけだ」と、多くの日本国民が失望。「日比谷焼き討ち事件」の暴動にも発展した。覇権国家による戦争や侵略を防ぐための安保法制を「戦争をするための法律」とすり替える日本共産党。樺太を「戦争でロシアから奪った」と歪曲するのと同じだ(同党ホームページ) 講和による日本の獲得要件が、国民の希望とかけ離れていたのは、陸軍の奉天会戦や旅順攻囲戦、海軍の日本海大海戦など劇的な勝利とは裏腹に、武器弾薬確保や戦費調達に汲々として、これ以上の継戦は難しいというタイミングだったからだ。強気で要求を百%ロシアに呑ませられる状況ではなかった。 こうした中で樺太回復が南部にとどまったことが、国民に相当なマイナス意識を抱かせたことは、樺太千島交換条約から三十年の時点では間違いないだろう。歴史歪曲は国民的議論で克服を歴史歪曲は国民的議論で克服を 日露戦争の終結と講和まで俯瞰すれば、日本が「樺太の一部をロシアから戦争で奪った」といえる実態がないことは自然な歴史的理解だといえる。日本共産党の言い分は、樺太をめぐる日本とロシアの歴史に目をつぶるデタラメきわまるものだ。 その後、第二次世界大戦末期にソ連軍が「火事場泥棒」的に南樺太、全千島列島と北海道の一部である歯舞、色丹まで軍事侵攻して占領した昭和二十年までを見ても、南樺太の 領有が日本と帝政ロシア・ソ連との国家関係を阻害したことは一度もない。一九一七(大正六)年の社会主義革命でソヴィエト・ロシア共和国が成立し、日本は米英仏などと軍事干渉してシベリアに出兵したが、ソ連邦成立後の一九二二年までに撤兵。尼港(虐殺)事件の賠償保障で占領した樺太北部からも大正十四年の日ソ国交樹立に伴い撤退した。 以後、日本は昭和十年から満洲や朝鮮においてソ連やその衛星国(モンゴル人民共和国)が絡んだ国境紛争に何度か関与したが、樺太国境で武力紛争は生じなかった。それどころか、尼港事件の賠償として日ソ基本条約で取り決めた北樺太石油利権獲得で、日本はオハなど油田開発に資金をつぎ込んで事業を展開した。 日独伊三国同盟成立時にソ連側サボタージュで石油の積み出しが妨害されるなど紆余曲折があったものの、昭和十六(一九四一)年の日ソ中立条約締結を機に、油田と附帯施設すべてをソ連側に譲渡した。 以後、ソ連の日ソ中立条約廃棄通告が誤解に基づくと判明しながら、その有効期限内の昭和二十年八月九日に条約違反の対日宣戦を行ったことが決定的だった。日本が降伏条件を定めたポツダム宣言を受諾し、米戦艦ミズーリ号上で日本とソ連を含む連合国の各国代表が降伏文書に調印(九月二日)後も、ソ連は九月五日まで、最高指導者スターリンが宣言した「日露戦争の報復」を掲げた南樺太、千島列島、歯舞・色丹への軍事侵攻を停止しなかった。 結果として、樺太での真岡郵便通信局での九人の女性交換手自決や三船殉難事件(樺太からの婦女子避難船三隻がソ連潜水艦の攻撃で沈没)などをはじめ、南樺太で生活を営んできたアイヌ民族を含む日本国民は多くの死傷者を出した上に故郷を追い立てられたのである。 以後、樺太はソ連によってサハリン州とされた。日本政府は、公式にはソ連を引き継ぐロシア連邦との平和条約締結がされない限り、北方四島は日本固有の領土であり、樺太南部や千島列島(北千島)は帰属が画定していない地域としている。ただ、千島列島と南樺太はサンフランシスコ条約で放棄したとして、昭和三十一年の日ソ共同宣言以降、ソ連・ロシアとの返還交渉の対象にしたことはない。 しかし「南樺太は日本がロシアから戦争で奪った」とする日本共産党の言い分は、樺太開拓に命をかけた先人の事績に泥を塗り、存命者のある南樺太出身者(多くは北海道各地に避難し、再出発した)の心を傷つけるものだ。こんな虚偽の前提に立つ「全千島返還」論は、国民的議論の中で克服されなくてはならない。 歴史の事実の中での樺太をめぐる経緯、国民生活史の中での位置づけを明確にしてこそ、仮に返還交渉の焦点が北方四島であったにしろ、日本の歴史的主張の正当性を、ロシアを含め国際的に広く知らしめ交渉妥結へ進める道が拓かれるはずだ。しのはら・じょういちろう 昭和三十五年東京生まれ。五十九年立教大学文学部卒業。臨時教員などを経て六十年日本共産党職員に。平成七年党中央委員会に移り、党政策委員長で参院議員だった筆坂秀世氏ら三人の国会議員公設秘書を務める。KSD(中小企業経営者福祉事業団)事件や国後島「ムネオハウス」事件、川辺川ダムなど公共事業問題、沖縄の米軍射撃演習問題などの調査、論戦準備に従事した。十六年に党の査問を受けて除籍された後、政治評論や共産党批判を展開。主な著作に『いますぐ読みたい 日本共産党の謎』(徳間書店)など。ソ連、中国その他旧社会主義国の政治外交・軍事史や共産主義理論の研究・批判も続けながら国会・地方議員のアドバイザー、海外事業コンサルタントとしても活動している。

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    “宇宙人”鳩山元首相のクリミア訪問を最大限利用するロシア

    よいよ宇宙人になった」――。弟邦夫氏にそう酷評された兄の鳩山由紀夫元首相のクリミア半島訪問は、連日、ロシア主要メディアがトップニュース扱いで伝えた。昨年3月のプーチン政権による併合以来、世界の主要国で首脳経験を持つ大物政治家が現地を訪れたのは今回が初めて。新右翼政治団体「一水会」のリーダー、木村三浩氏やジャーナリストの高野猛氏らが加わった代表団を率いた元首相は行く先々で手厚い歓迎を受け、滞在中、日本国内での批判が伝えられると、クリミアへの移住の可能性まで口にした。 欧米が国際法違反と指摘し、ウクライナの領土一体性を侵害する発端となった昨年3月の住民投票について、元首相が「民主的な手続きだ」と評価してその正当性を認めたことは、日本と領土問題を抱えるプーチン政権へ誤ったシグナルを与えかねない。クリミアを訪問した鳩山由紀夫元首相(写真:ロイター/アフロ)一行を国賓級扱いで迎え入れ 鳩山サイドは用意周到にクリミア訪問を準備したようだ。露有力紙コメルサントによると、鳩山氏は昨年8月に訪問の希望を表明、クリミアの地元政府に手紙を送り、正式な招待を受け取った。3月の訪問となったのは、この時期に併合1年の記念行事が行われるため、「現地の人々と交流したい」と強く希望する鳩山氏自身が選択したのだという。 クリミアとの仲介役を果たしたのは、一水会の木村氏とみられる。木村氏は数回、現地入りを果たし、プーチン大統領と関係を持つ地元の政治リーダーたちと交流を深めていた。日本の政府要人や有識者とも関係を持つ木村氏は、日本きっての親露派として、ロシアの外交当局もその行動力を認めている。今回の鳩山氏のクリミア訪問実現について、木村氏は現地メディアに「歴史的な意義がある」と打ち明け、「日本の外交政策に影響を与え、変更するチャンスを与えるものだ」と自賛した。 クリミア地元政府のある幹部は「(鳩山元首相のような)高いレベルの政治家は大きな政治的重みを持つ。国際社会がその意見や立場を注視する」と言い、今回の招待を歓迎した。コメルサント紙は、訪問日程がロシア外務省の現地支部のもとで綿密に作成され、鳩山氏一行を国賓級扱いで迎え入れたことも伝えた。「美しすぎる検事総長」との面会も話題に「美しすぎる検事総長」との面会も話題に ロシアが孤立を深める中で、主要7カ国(G7)の首脳経験者の訪問効果を高めるために最善の策が錬られたのは、日本で知名度の高いナタリヤ・ポクロンスカヤ女史が代表団と面会する日程が組まれたことを見ても明らかだ。クリミア検事総長 ナタリヤ・ポクロンスカヤ氏(写真:Newscom/アフロ) 34歳の若さでクリミア共和国高等検察庁検事長の肩書きを持つポクロンスカヤ氏はその端正な容姿から日本でも「美しすぎる検事総長」として似顔絵や写真がネット上で紹介されている。ロシアでもクリミアの有名人の1人として注目を集め、髪型を変えただけでもメディアの話題に上る。ポクロンスカヤ氏は欧州連合(EU)の制裁対象リストに含まれているが、日本で人気を博していることは、クリミアでも広く知られていた。 ポクロンスカヤ氏は一行の滞在2日目、クリミア共和国指導部との会談の場に現われた。ポクロンスカヤ氏の同席は日本側のたっての希望で実現したのだという。現地通信社「クリムインフォルム」が会話のやりとりを事細やかに伝えている。 この会談の前に報道陣に「その美貌のファンだ」と答えた鳩山氏はポクロンスカヤ氏を前にこう述べた。 「あなたやあなたの活動について伝え聞いている。我々の代表団の中でも、あなたと会いたがっていた者が何人もいる。私も含めてだ。あなたがこの場にいてくれて私たちは幸せだ」 するとポクロンスカヤ氏はこう返答したという。 「あなた方が、(昨年3月にロシア編入の可否を問うた)住民投票がウクライナの法律と国際法に基づき行われたと指摘してくれたことは私にとって光栄なことだ。検事は常に法律の側に立つ。ところがキエフではそうではなかった。ウクライナで女性や子供たちが銃撃された際に国際社会が反応しなかったことは私を驚かせた」 席上では露日友好団体の地元支部のトップにポクロンスカヤ氏が就くことも提案された。鳩山氏は「もしポクロンスカヤさんがロシア側にいるのなら、日本では誰もが賛成するだろう」と持ち上げた。沖縄米軍基地についてクリミアで協力依頼?沖縄米軍基地についてクリミアで協力依頼? 高まる一方の鳩山非難をよそに、ツイッターやネット掲示板で盛り上がる日本国内の反応を見る限り、ポクロンスカヤ氏に焦点を当てた宣伝作戦は成功しているように思える。 ロシアではいま、対露制裁を科す欧米諸国内でも、ロシア寄りの政治家や有名人の発言は大きく取り上げられる状況にある。ロシアが経済的な苦境を極める中で、その傾向はますます顕著になっている。欧米に賛同者がいることを示すことで、プーチン政権の失態をうやむやにし、不満を抱くロシア国民の溜飲を下げる意味合いがある。 プーチン政権が統制下に置く主要メディアが取捨選択して、今回の鳩山氏の言動をどう報じたかを見れば、ロシアがいま何を欲し、外国からどう見られたいのかがわかる。いくつか紹介したい。「自分の目で見る。日本の元首相、クリミアへ到着」「日本の元首相:西側のメディアはクリミアについて一方的な情報しか与えない」(露国営紙ラシースカヤ・ガゼータ)「日本の元首相、クリミアの人々の暮らしぶりについての真実を日本国民に伝えるのを約束する」(全国放送NTV)「鳩山元首相『クリミアの人々は自分たちをロシアの一部と認識』」(ラジオ局ロシアの声)「日本の元首相:クリミアの住民投票は住民の現実の意思を反映している」(ロシア・トゥデイ)「日本の元首相は、クリミアの通りで戦車も貧困な人たちも目撃していないと言った」(タス通信)「日本はクリミアの発展に大きな貢献をすることができる-鳩山由紀夫」(露誌論拠と事実) 特に、ロシアと敵対する米国を批判する論評は強調されるきらいがある。鳩山氏は今回、クリミアで行われた記者会見で、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設について「米国政府の強い影響下にある」安倍政権が沖縄県に圧力をかけて強引に実現しようとしていることを強く批判してみせた。元首相クリミア訪問の関連記事で、一時的に菅直人氏の写真を「鳩山由紀夫氏」と伝えたロシアの国営通信社・タス通信。見分けがつかなかった? 鳩山氏は会見で「沖縄にこれ以上、米軍基地を作らせないようクリミアの方々にも協力して欲しい」と語ったが、この発言が辺野古移設問題になじみがないクリミアで報じられるのは異例なことだ。鳩山氏が米国の政策に反発する日本の政治家の1人であることがこうした報道の背景にある。 ロシア社会に影響力を持つロシア国営放送は鳩山一家とロシアのつながりをクローズアップし、鳩山由紀夫氏のことを「日本社会に迎合しない自立した政治家」と紹介して見せた。「宇宙人」とは真逆の肯定的な見方としては、確かに言い得て妙だ。 鳩山氏は訪問の最後で、「多くの国民は、間違った情報のもとに洗脳されてしまっている。洗脳された意見というものを変えることは簡単ではない」と語り、自分の目で見たクリミアの真実を語ることを誓ったが、実の弟に「兄は少なくとも日本人ではなくなった」と言われてしまっては元も子もない。 果たして、ロシアから帰国した後、鳩山氏は何を語るのだろうか?

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    最大の過ちだったヤルタ協定 歴史修正しているのは誰なのか

    袴田茂樹(新潟県立大学教授) 最近、ロシアの専門家たちとウクライナ問題で何回か議論し、次のような批判も受けた。「日本は遠いウクライナとは政治・経済関係もほとんどないのに、なぜ対露制裁に加わるのか。単なる先進7カ国(G7)への同調あるいは米国の圧力故ではないか」 私は次のように答えた。「そのことを否定するつもりはないが、別の側面もある。それはG7で日本だけが、ロシアに主権と領土保全を侵されているという意味で、ウクライナと共通の問題を抱えている。従って日本が最も主権侵害を批判する権利を有し、また義務もある。中国との間の尖閣紛争をエスカレートさせないためにも、わが国は主権侵害に毅然(きぜん)とした態度を取らざるを得ないのだ」最大の過ちだったヤルタ協定 岸田文雄外相はベルギーで1月20日に「ウクライナで起きていることも北方領土問題も力による現状変更だ」と指摘した。これに対し露外務省はこう批判した。 「軍国主義の日本こそがナチスドイツとともに、世界支配を目指して、第二次世界大戦前の“現状”を力で破壊し、多くの国を占領した。岸田発言は、その本質において歴史を転倒させ、大戦の原因と結果に対する一般に認められた理解を修正しようとしている」 菅義偉(すが・よしひで)官房長官は同22日の記者会見で、歴史の歪曲(わいきょく)だとの批判は当たらないと述べ、日本が1945年8月にポツダム宣言を受諾し、その後旧ソ連軍に占領されたと説明した。露側は9月2日を終戦日と主張するが、しかしソ連は、戦勝国の領土不拡大を謳(うた)い国連憲章の基礎にもなった大西洋憲章(41年)を支持した。またヤルタ協定(45年)でソ連は千島等の領有を認められたと主張するが、同協定に日本は参加せず、国際条約でもなく、戦勝国による力による領土変更だった。ブッシュ米大統領は2005年に同協定を「歴史上最大の過ち」としている。自らの行動を否定する論理 日本政府は、次の点もしっかり指摘して、歴史を修正しているのは露側だと反論すべきであろう。 露外務省が「大戦の結果に対する一般に認められた理解」と言う場合、北方四島が露領だという意味も含まれている。実は日露の平和条約交渉に関連して露政権が「北方四島に対するロシアの主権は、第二次大戦の結果だ」と主張したのは、プーチン大統領が05年9月27日に国営テレビで述べたのが初めてだ。米英ソ首脳が会談を行ったヤルタのリバディア宮殿 それまで日露両政府は1993年の東京宣言における「4島の帰属問題を解決して平和条約を締結する」との合意を前提に交渉していた。つまり4島の主権問題は未解決だということが共通の公式認識だった。ちなみにプーチン大統領は東京宣言を認めた2001年のイルクーツク声明(「平和条約交渉を東京宣言…に基づいて行う」)、03年の日露行動計画(「両国間の精力的な交渉の結果…東京宣言…を含む重要な諸合意が達成された」)に署名している。 このようにプーチン大統領自身が、4島の帰属問題が未解決だと認めていた。また、日露は1998年に「国境画定委員会」を創設しているが、当然、国境の未画定が前提だ。だからこそ今日まで平和条約交渉が行われてきたのだ。 最近ロシア側は、「南クリル(北方四島)が露領であるのは、第二次大戦の結果」と強調するが、ではなぜ北方四島の帰属をめぐる平和条約交渉を続けてきたのか。今日の露政府の論理は、自らのこれまでの行動を否定するものに他ならない。つまり、歴史を転倒させ修正しているのは、露側でありプーチン大統領自身である。日本批判の「戦勝記念日」 「軍国主義の日本こそがナチスドイツとともに…」の露外務省発言に関して付言しておきたい。日本はドイツと1940年に同盟を結んだ。にも拘(かかわ)らず41年に日ソ中立条約を締結して、独ソ戦の間も含め、それを守っていた。ソ連が対独戦に勝利した背景には、日本が中立条約を守っていたという要因があり、今日ではロシアの専門家たちも認める歴史的事実だ。 その中立条約を破って日本を攻撃し、日本の領土を獲得したのはソ連である。ここでも歴史を転倒させているのはロシア側である。 中露は共同で、戦勝70周年を祝おうとしている。両国の共通認識は、「歴史の修正は許さない」というものだ。もちろんこれは、日本批判でもある。しかし、ここに述べたようなロシア側の転倒した歴史認識を基に「歴史の修正を許さない」としてロシアが中国と歩調を合わせることは、日本としては到底、容認できない。 プーチン大統領は5月の戦勝記念日に中国の習近平国家主席とともに、安倍晋三首相を招待している。黙って招待を受けるとすれば、このようなロシアの歴史認識を日本は認めることになる。昨今ウクライナ情勢はさらに悪化しており、G7は対露制裁を緩和できる状況にない。招待にどう対応すべきか、おのずと明らかだろう。(はかまだ しげき)

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    樺太とロシアの非道・残虐

    世界で日本人ほど領土に淡白な国民はいない。無法侵攻したソビエトロシアが樺太で行った非道な住民虐殺と洗脳工作。シナ、朝鮮、ロシアという世界でも特異な国家にわが国は隣り合っていることを忘れることはできない。

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    「樺太の生き証人」が語った 非道ソ連の虐殺と姑息な洗脳教育

    しばらくは夜ごと露助が押しかけて「サケダワイ(出せ)」「ムスメダワイ」。僕ら中学生三人が覚えた片言のロシア語で防御しているうちに、地下壕とかあっちこっちに女はみんな隠した。 ──すぐ帰りましたか。 金谷 酔ってしつこく「出せ」と粘るから、ほかの皆が女を隠したのを見計らって中に入れると、その辺を探す。いないから腹立ちまぎれに自動小銃を撃ちまくる。天井や壁に。いやあ、恐かった。そして万年筆とか腕時計とか、日本製で質がいいですから、持ち去るんですよ。 ──盗んでいくわけですね。 金谷 彼らは「盗む」より「取り上げる」っていう感覚ね。ソ連軍の司令部は一応「日本人に危害を加えてはならない」という触れは出していたそうですけど、酒を飲むと二人以上で組んで来ましたね。 ──そういうソ連兵は元々囚人が多いんでしょう。 金谷 ええ、手の甲にね、四桁か五桁の数字が入ってる、刺青で。ふだんは陽気ですから、後で仲よくなって。「これ何?」って聞いたら、チョロマ(監獄)だって言うんです。凶暴なやつばかりじゃなくて、インテリ風のもいましたね。みんな傍若無人を働いた。勝ち戦で抵抗する人はいないんだから。 ──そうですよね。 金谷 あとでおふくろに聞いたら、北海道に疎開して樺太との音信が途絶え、いろんなデマが流れた。真岡はソ連軍の爆撃で全滅したなんて。「哲次郎を連れてくればよかった」と悔やんでいたそうです。勤労動員の〝ケガの功名〟 ──お父様のお仕事は。 金谷 福島から移住した祖父が、大泊の大きな金物問屋から暖簾分けしてもらい真岡に店を構えた。ところが昭和初頭の世界大恐慌で潰れちゃった。小樽高商(現小樽商科大)を出た親父は小学校の教員をしばらくやって、敷香(しすか)町にできた商業学校の初代校長になった。私が五歳の時。急成長した町なんですよ敷香は。王子製紙の東洋一の人絹パルプ(レーヨン用パルプ)工場ができて。 ──北の方ですよね。 金谷 とても大きな町で碁盤の目のようになってるんです。何たって王子製紙はね、樺太で九つ工場持って、昭和十六年統計では当時の日本のパルプ需要の四分の一を樺太でまかなってたんです。 ──お家はどのような? 金谷 そう、横綱大鵬の実家ボリシコ牧場の近くに住んでた。大鵬は生れてなかったけど、お父さんのボリシコさんは穏やかな人で、牛が二十頭くらいいて、牛乳やチーズ、バターやパンを作ってたんで、よくお使いに行った。お母さんは納谷さんっていって働き者だった。上のお兄さんは私より三つか四つ年上で、よく相撲取って遊びましたよ。 ──終戦時は真岡ですよね。 金谷 祖父が亡くなって昭和十八年に真岡に戻りました。親父は商工会議所で戦時下の経済統制の担当になりました。配給切符の裏に親父の判がありました。僕らは二年生から勤労動員されて真岡中学へはほとんど行かず、最後は内幌(ないほろ)炭坑で石炭運びです。そしたら八月十三日の夕方、トロッコに手を挟まれちゃった。不注意で。先生に「ひょう疽(そ)になったら大変だから真岡へ帰って治療しろ」と言われて帰ったのが十四日。治療を受けて翌日炭坑へ戻ろうと思ったら重大な放送があるって。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」。親父が「もう内幌へ行かんでいい」と。これ、戻ってたら親父と離ればなれでしたね。 ──紙一重でしたね。 金谷 その後、町内にご婦人は疎開していないから、隣近所の男たちが集まって、当番で飯を準備した。不思議なことに、どこからともなく食糧が出てくるんですね。米、砂糖、醤油、で、牛肉まで。十八、十九の晩は続けてすき焼きです。大人は久しぶりに酒も飲んだ。そして二十日の朝六時頃、朝食の支度をしようと思ったら、ドーンと来たんです。大砲の艦砲射撃。ゲーム感覚で避難民を攻撃ゲーム感覚で避難民を攻撃 ──どうしました? 金谷 親父は「家の前の防空壕はよして、とにかく遠くへ逃げよう」と。幅二十㍍くらいある大通りを皆で匍匐(ほふく)前進です。もうボンボン来るし、上陸して機関銃もバンバン来る。と、気が付いたら両隣の人がいない。後ろで倒れて動かないんですよ。私と親父は何とか逃げて豊真山道へ出た。他の人たちと隊を組んで樺太庁のある豊原まで歩いた。百㌔近く。途中、機銃掃射に追いかけられて。追っかけてくるんです。樺太にも螺(ら)湾(わん)蕗(ぶき)のような二㍍以上ある蕗が自生してて、その下に身を潜める。戦闘機を見ると二十㍍ほどの低空飛行だから操縦士が見えるんですよ。ニヤついてるように見えました。人殺しゲームを楽しんでたんですよ。 ──腹立たしいですね。 金谷 何とか飛び去って蕗の下か皆出てくるでしょう。でも逃げ込む前より少ない。何人かやられてるんですね。一緒に逃げていた若い夫婦の亭主が腸をぶち抜かれて、奥さんが、身重なんですけど、狂ったように「どなたか出刃包丁かナイフを持っていませんか」と。苦しんでかわいそうだから、ひと思いにということなんですど、「ありますよ」なんて誰も貸せませんよ。気の毒でしたね。めったに当たるものじゃないけど、当たる人がいたんですよね。 ──極限状態でしたね。 金谷 生きるか死ぬか、みんな。途中の畑で大根とか人参とか、黙っていただいた。翌朝、豊原に着いたら役所の人が避難先を振り分けている。私たちは豊原高等女学校。校舎だと思ったら校庭の蛸壺(たこつぼ)防空壕。一人しか入れないのが二百くらいあった。がっかりしながらも疲れてたから、死んだように眠った。極限状態で避難した豊原高女。敷地内に掘られた無数の蛸壺防空壕で休息をとったが…(同) ──その、蛸壺の中で。 金谷 中で。翌日午前十時ころかな、戦闘機が二機で来て機銃掃射。私の蛸壺へ土砂がゴロゴロッと入ってくるんですよ。やっとこさ這い出ると、豊原駅の方が真っ赤なんですよ。二㌔足らずだから親父たちが止めるのを振り切って見に行った。駅前は爆撃され、焼夷弾もあって火の海でした。記録では邦人の死者百人とか二百人とかですが、あれはもっと多かった。北の方から避難してきてた人が大勢集まってましたから。そういう人たちは名前なんかわからないですよ。避難民は上から見ても非戦闘員とわかるのに、標的にされたんです。八月二十二日ですよ。多数の避難民が集まった豊原駅や周辺はソ連軍の攻撃で火の海となり、多数の犠牲者を出した(同)樺太でも地上戦、そして最後の空襲 ──非道ですね。 金谷 内地で地上戦が行われたのは沖縄と樺太、そして最後の空襲を受けたのは樺太の豊原なんですよ。 ──日本人でも知らない人が多いですよね。 金谷 終戦の玉音放送から一週間も経ってんのに…ゲームのように避難民を掃射する。いや、許すべきじゃないですよ。でも、官庁の担当者も知らないし、わかっていない。 ──頭がよくてもね、判っていない。「樺太っていうのは日露戦争で南半分をロシアから割譲されたんでしょう」って平気で言うんです。 金谷 ロシアにしても中国、韓国にしても、領土については厳しく教育する。他国から奪ったものでさえ固有の領土だと教える。少なくとも日本は歴史の事実を教えるべきなのにしない。敗戦ボケですね。これは。人々の笑いがあふれ活気だった真岡停車場。駅前には円タクや乗合馬車が停まっている(同) ──敗戦ボケの原因に、GHQやソ連・中共の思想工作があるようですが、終戦後に樺太に抑留されて洗脳を受けたのですか。 金谷 終戦から二年間、樺太に抑留されました。ソ連は占拠した樺太の復興に日本人の労働力が必要だったこと、そして洗脳するためだったと思いますね。というのはね、ソ連軍政下の真岡で学校が再開された、中学、商業、女学校、工業なんかを集めて。教師はかつての中学や女学校なんかの先生の他に、見たこともないような人がいた。そして、何をしたといえば社会主義教育です。 ──ソ連も素早いですね。 金谷 そこに中学で習っていた歴史の先生もいて、終戦前は皇国史観だったのに、第一回の授業から何と唯物史観で始まったんですよ。戦時中はおくびにも出さなかったけど、密かに勉強していたんでしょうね。ショックっていうか、世界が変わってしまったような感覚でした。 ──社会主義はすばらしいと。 金谷 とにかく社会主義のいいところしか言いませんから。みんな平等で、自由でって。僕も魅力的に思ったことがありましたよ。ちょうど、どこからともなく左翼の雑誌や本が出てくるんです。僕はレーニンの著作も貪るように読みんで、まだ子供でわからないなりに、言ってることは大まかにつかめました。そういうの、いっぱいいましたよ、我々の仲間に。それがきっかけで、そちらの世界に入ったのもいたそうです。占拠直後から思想工作徹底占拠直後から思想工作徹底 ──洗脳成功ですね。 金谷 とにかく帝国主義と資本主義と社会主義の違いのようなものを切々と説明したり、日本の天皇制は「悪だ」と言って「お前たち人民は、搾取されているんだ」とね。 ──今の日本にもいますね(笑)。 金谷 でもね、だんだん露助の狙いが透けて見えて「こんなとこで、冗談じゃねえ」と思うようになった。歴史の、つまり社会主義の時間にテストがあったけど、私は白紙で出した。そしたら担任と学校担当のソ連軍少佐に呼ばれました。少佐は「お前は非常に不謹慎である。こんな調子では日本行きが再開しても、お前は帰すわけにはいかん」とカンカン。びっくりして「これから反省して勉強します」と答えて許してもらった。 ──緒にいた日本人の担任はどうだんたんですか。金谷 「金谷君、そんなことじゃだめだよ。今の時世をわかっとるか」って。仕方なしに言ってましたね。 ──それで勉強したんですか。 金谷 日本に帰れなくなったら大変と思い、次のテストまでに社会主義の教科書を一生懸命読んで百点取ったら、少佐はご機嫌でした。でも、これがきっかけで「こんな学校行ってられるか」という思いが強くなり、ほとんど行かくなかった。そのうちに日本への船が出るようになった。今考えても、もう二度とああいう体験はしたくないですね。 ──ソ連の軍人は学校に何人くらいいたのですか。 金谷 ソ連人は軍人ばかりで結構いました。授業をするのではなく学校を管理するために。しかるべき部屋にたくさん。北海道に移る際、皆そこから在校証明をもらったって言うんですよ。僕はほとんど行かなくなってからもらわなかったけど、まだ旧制だった滝川中学に行ったら編入してくれましたよ。 ──ソ連管理下の学校ではスターリンの肖像画なんかも…。 金谷 描かせられました。 ──描く? 金谷 スターリンの肖像をね、よく。「描け」って言うんですよ。「スターリンの写真をよく見て、このように描きなさい」って。みんな、しょうがないから描いてましたよ。 ──各教室にあったんですか。 金谷 ありましたよ。各教室に掲げられていました。まあ、僕らね、年の割に大人でしたね。「こういう場はこうしなきゃならんのだ」と割り切って応じていました。ソ連に抑留されスターリンの肖像の前で洗脳教育を受ける日本人男性」。まだ若い。「同志スターリン指導の下に我が祖国は新なる発展に邁進せん」の標語 ──そういう思想教育を真に受けて「共産主義はすばらしい」となった子は身近にいましたか。 金谷 何人かいました。ただ、そういう子とは会話はしませんでした。やっぱり家族が皆殺されちゃったような子は、頼るところもないまま、そういうことに傾倒してしまったんじゃないでしょうか。 ──日本兵は捕虜収容所に送られましたけど、お父さんはじめ非戦闘員の男性は、抑留されてやはり思想工作、洗脳を受けたんでしょうね。 金谷 いましたよ。戦後しばらくして「日本共産党の誰々は終戦時は樺太の中学生だった」とも聞いたことがある。思想教育がきっかけで、のめり込んだんじゃないですか。だけど大人については、もっとシビアでした。私の母方の祖父は銃殺されとるんです。豊原の機関区長をして、皇太子だった昭和天皇が樺太に行幸された際に車掌を仰せつかった。任務を恙なく終えると恩賜の拳銃をもらったんですよ。大事に桐の箱に入ったのを見たことがあります。戦時中からスパイがソ連に情報 ──それはそれは…。 金谷 ところが戦時中からソ連に通じたスパイがいて「日本の戦争協力一覧」を作って渡していたんでしょうね。祖父も入ってたし、真岡町の重鎮の名前もずらっと入ってる。ソ連軍が侵攻してきたその日に全員呼び出され、海岸に並べて銃殺されたんですよ。近所の方に聞いたら、祖父は中風か何かでふらふらで、足も弱っていたから、よろよろしながら連れて行かれたそうです。 ──お父さんは大丈夫でしたか。 金谷 父も真岡に戻って少しした夜にGPU(ゲーペーウー=ソ連の秘密警察)連行された。町の経済統制を担当したでしょ。幸い三、四日して帰ってきたけど、黒かった髪が真っ白でした。何も語りませんでしたが、拳銃をちらつかせて厳しい尋問があったようです。戦後五十年の時、真岡で鎮魂の碑を除幕したんです。親父は亡くなっていたけど、家族代表のつもりで祖父がどこへ埋められたか探したんです。近所の人の話を手掛かりに。でも地形も変わってわからなかった。 ──そうですよね。 金谷 いやあ…真岡郵便局の電話交換手の九人の乙女が、毒をあおったでしょう。あれと同じころに、祖父が銃殺されとるんですよ。もう五月雨のように町の要人は連れて行かれて、随所でやられてましたね。中には殺されないまでも、シベリアに連行されて強制労働させられた人もいるらしいです。 ──樺太で強制労働は? 金谷 ありました。「対象者はこういうもんだ」って通達が来て、「何月何日どこどこへ集まれ」と。行きますとね、漁港に揚がってくるニシンをさばくとか。塩蔵にするとか、そういう作業に従事されました。ほんのわずか日当が出たと思います。労働力の確保という目的のほかに、血気盛んな若い男子に余計なことを考えさせない、つまり反ソ的な行為をする暇を与えないという意味もあったと思うんです。ニシン漁などでにぎわっていたころの真岡港(同) ──ソ連兵は怖かったですか。 金谷 矛盾してるようですけど、ソ連の兵隊っちゅうのは、立場が変わるって一個人になると気のいい男が多いですね。僕らとずいぶん仲よくなりました。それでも、必ず党員っているでしょ、階級とは別に。目つきでわかる。密告の世界ですからから、あちこちに置いてある。恐ろしい世界です。就寝中に「反日親ソ」ささやく放送就寝中に「反日親ソ」ささやく放送 ──お父さんはどうしていたのですか。 金谷 何かね、友人と一緒に何か仕事の手伝いをしてたらしいんですが、カネがたまると「何月何日、船で脱出するぞ」と言われたことが二度ある。でもポンポン蒸気みたいな船で、夜中に出て必死に進んだはずなのに、明るくなったら港のそばにいたというのを結構聞いていた。海流で戻されちゃうんです。すぐ捕まって場合によったら銃殺、殺されなくてもシベリア送り。だから私ははっきり断りました、親父に。戦後しばらくたって、親父は茶飲み友達に私を指して「俺は、こいつに、実は二度ほど助けられた」と言うんで、何のことか聞いたら、脱出船のことだと言ってました。 ──洗脳に話を戻しますと…。 金谷 いよいよ樺太を後にする段になると、収容所へ二週間くらい入れられて、いろいろと検査受けるんですよ。思想面がどうの、色合いがどうのと、全部調べられる。昼間だけじゃないんです、それが。蚕棚のようなベッドに寝てますとね、毎晩囁くような女性の声で洗脳が始まるんです。おもしろいですね。 ──放送ですか。 金谷 放送。声を低めて「日本帝国主義は人民を搾取してどうのこうの」「資本家だけ富を独占し、あなたたちは搾取され苦しんだんです」ってね。「それに対して社会主義の何とかは」「ソビエトでは人民が平等に…」と。寝てる間に聞かされると印象に残ると言われるじゃないですか。僕は耳ふさいでいましたけどね。 ──一晩中ですか。 金谷 いつも途中で寝てしまいましたから、一晩中かどうかはわからない。でも一定の時間はやってましたね。他にも「耳障りだ」という人はいたけど、耳栓してるのがわかると怒られたから、わからないようにそっとしてたんです。 ──二週間続くと苦痛ですね。 金谷 それよりも参ったのはね、一週間目くらいに中学の担任だった先生が一緒に入っていて、同じ船に乗る予定だったんですけど「おお金谷君、お前はここに入ってる中学生を代表して、党と」、党っていうのはソ連共産党ね、「党とスターリンに感謝文を書け」って言うの。「冗談じゃありませんよ」と断りました。先生は「そうか」って一旦は引き下がったんですけど、その日のうちにまた私のいる部屋に来て「さっきの続きだけどな、やっぱりお前に書いてもらわんとだめだ」と言う。「どうしてですか」と聞くと、「いやいや、ソ連の担当官から、どうしても誰かに書かせろって俺が責められてんだ」って。私じゃなくてもいいんだけど、先生は教え子の私に頼みやすいから「俺の顔を立ててくれ」と。 親父に一部始終話したら「まあしょうがねえな。書け。ただしわかってるな、本心がわかるようなことは書いちゃいかんよ」と言うので、「書きますよ」と返事したら、先生は原稿用紙まで持ってきたんですよ。真岡「九人の乙女」は顔見知り ──何と書いたんですか。 金谷 おべんちゃらですよね。「おかげさまで、この約二年間、私が今まで体験したことのない世界を見せてもらいました。いろいろと教えてもらいました。大変感謝しています。日本へ帰ったら、天皇制を打破し、社会主義国家建設のために働くことを誓います」なんて調子でしたね。最後に署名して。 ──「おかげさまで」の前は「誰」を入れたのですか。 金谷 もちろん「ソビエト共産党、スターリン閣下」です(笑)。自分で書きながら、いやで仕方なかったんですけどね。しかし書かないと…。 ──船に乗せてもらえない。 金谷 そう、乗せてくれないか、先生が窮地に立たされるか。だから「ここまで来たら目をつぶれ」と自分に言い聞かせた。そこに船いるんですから。そしたら、収容所の掲示板に原稿を貼られちゃって参った。苦し紛れに書いたのをわかってる人もいたけど、やっぱり変な目で見る人もいて、ずいぶん尾を引きました。 ──船は大泊から? 金谷 いえいえ真岡から函館。ずいぶんかかりました。揺れるし。赤十字だから乗ってすぐおにぎり出してくれ、食べたかったけど船酔いで戻しちゃうから我慢した。函館に上陸したらケロッと治って無性に腹減って、食べましたよ。何とも言えない、あんなうまい握り飯はなかった。 ──そうでしょうね。 金谷 母親と弟が迎えに来てました、迎えにね。でも船から降りたのはまるで浮浪者の団体。まずヤンキーがね、米兵が全部検閲する。皆シラミだらけだから、収容所で。頭から背中からDDT(殺虫剤)ぶっかけられてね。でも、見るとスマートなんですね、米兵は。着てる服装もいいし。パン屋の旦那みたいな帽子かぶって。新鮮に見えました。 ──ソ連兵とは違いますか。 金谷 ソ連兵は野暮ったいったらありゃしない。 ──体格も貧弱なんですか。 金谷 いや、ソ連の方が頑丈でした。ボディ自体は。すごいですよ。やっぱりスラブの民族ですな。だけど身に着けてるものは粗末でした。靴下っちゅうものを持ってないんですよ。ご存じ? ──へえ。 金谷 戦時中で靴下なんか作ってる暇なかったんでしょう。彼ら長靴(ちようか)履いてるから、足を時々きれいにするのに脱ぐんです。すると足の周りを布で巻いてるの。合理的ですよ。前も後ろもないんだもん。風呂敷を巻き付けるようなもん。「なるほどな」と、僕らも参考にしました。暖かいし、汚れりゃ前も後ろもない。 ──話が戻りますが、真岡で郵便局の九人の電話交換手が自決しました。あのお姉さんたちと話ししたことなどはありますか。 金谷 ええ、知ってますよ。特に親しいわけじゃないけど、郵便局へ用事で行った時お目にかかって、たわいのない会話をした覚えはあります。僕らより五つ、六つ上でしたかね。おふくろは、その一人が知り合いの娘さんでよく知ってると言ってましたね。日本人が忘れてはならない真岡郵便局㊤で起きた電話交換手㊦の集団自決事件。交換手の9人の乙女はソ連軍が目前に迫っても邦人避難の通信確保のため任務を続け、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」と通信して青酸カリを呑んだ。ブレスト(交換手用ヘッドホン)と回線のプラグを握りしめた姿の遺体で発見された(稚内市の北方記念館所蔵)7人道連れに自決した教練の教官7人道連れに自決した教練の教官 ──ソ連の無法な侵攻の中で、避難のための通信網を最後まで守り、青酸カリを飲んで… 金谷 ひどかったですな。かわいそうに。豊原から戻った時に、そういう話が広まってました。信じられなかった、そういう光景はね。どんな思いで毒を口にしたのか…。 ──むごいですね。 金谷 むごいといえばね、痛烈な記憶は、中学に軍事教練の教官の将校がいて、五十代かな。息子が同級生で。よく教練の時に「シベリア出兵では敵の赤軍ゲリラを何人も斬った」と話していたけど、優しい人でとてもそんな風に見えないから「またほら吹いてる」って、僕ら本気にしなかった。ところが、八月二十日ね、真岡にソ連の艦砲射撃がドンと来た日。教官の家族は隣近所と一緒にこの日疎開する予定で、早朝から隣の奥さんが小さい娘を連れて相談に来てた。爆弾の音を聞いた教官はキッとなって、「奥さん、出ちゃいかん」と仏間か何かの部屋に閉じ込めちゃった。そして軍刀でバサッとやったんです、首を。それから自分の子供四人、小さい順に。奥さんもやって、最後に自分は腹掻(か)っ捌(さば)いてから頸動脈を斬ったって。 ──古式に則ったんですね。 金谷 そう、古式どおり。家に踏み込んだ露助のソ連兵もびっくりしたらしい。「これはサムライ、ハラキリだ」とね。八つの遺体を手厚く葬ったといいます。それを聞いて教官のシベリア出兵の話は本当だったんだと思いました。辱めを受ける前に自ら処したんですね。 ──いにしえの軍人ですね。 金谷 それから、八十歳を過ぎた今でも夢に見ることがあります。先ほども話したように、真岡に最初にドンと来た時、私が「防空壕入ろう」と言ったら、親父が「やめとけ」と言ったでしょ。とにかく防空壕じゃ危険だと。案の定、上陸したソ連兵は非戦闘員かどうかも確認せず、片っ端から防空壕に手榴弾(しゆりゆうだん)を投げ込んだんです。豊原から真岡に戻って、焼け跡整理が始まった。自宅前の防空壕を崩していったら中に死体が四つ。樺太といえども八月で日にちも経って腐乱してる。ものすごい異臭。顔は崩れてるけど「ああ、◯◯さんだ」ってわかりましよ。そんな防空壕をいくつも掘り起こしましたよ。 それを、家の前にいくつもありましたから。それ、みんなでやりました。今も夢に見る腐乱死体の片付け  ──遺体を運び出すのは?  金谷 私たちで運び出した。持つと崩れるんだけど、もう、マスクなんかないから口と鼻に手拭いを巻いて…。床下をコンクリートの地下壕にしている家があった。建屋は燃えちゃって、地下壕の入り口を引っ張り上げると異臭がバーッと来た。階段を下りると何人か死体があった。全部蒸し焼きですよ、上から。壁に引っ掻いた跡があり、死体は爪がない、取れてるの。もがいたんでしょうな。しかし、始末しなきゃいかんから持ち上げると崩れる。でも素手でやった。ソ連軍の命令だから。服は臭いでだめになった。十四歳の子供もやらされたんです。金谷さんたちより10年も遅れて樺太から避難した人たち。両手に子供を連れ、荷物がほとんどない人が多い=昭和32年8月1日、京都・舞鶴港 ──大変なことでしたね。 金谷 かと思うと地上でね、消防団の制服着て片付け作業をしてるおじさんがいた。これがナチの軍服に似てるってんですって。通りかかったソ連兵が、そのおじさんつかまえて、「シュラ(歩け)」って。おじさん何のことかわからず歩き出したら、後ろから「バン」と射殺。見ていた僕らに「片付けろ」ですよ。 ──へええ……。 金谷 まあ、条理、常識の世界じゃないですね。 ──ソ連がいかに非道なことをしたか日本人も知らされていない…。 金谷 そうです。樺太(南樺太)は帰属未定だから、国際機関で正当に協議して日本固有の領土として返還へ導こうという返還期成同盟も尻切れになり、樺太のことになるとソ連の非道を隠して「日露友好」ばかり言う。とも、国際法無視の非道行為はしっかり非難しなくちゃいかん。やっぱり、外務省ね、腰抜けなんです。真岡郵便局の九人の乙女を題材にした映画『氷雪の門』の上映中止の件も、ソ連の圧力に加えて、「ソ連を刺激したらいけない」っていう官民の過剰な遠慮があった。 ──そう、言論弾圧でしたね。 金谷 まあ、とにかく政府は樺太について無策すぎる。かすかな希望を次世代にかすかな希望を次世代に ──全国樺太連盟は平成三十二年度めどの解散を決めていますね。 金谷 樺太という存在を後世につなごうと我々やってきました。でも政府は何もしないし、一生懸命やっても届かない、僕ら元住民の声がね。そのうち皆年を取って、どんどん亡くなっている。今も真岡に残る王子製紙真岡工場の廃墟。南樺太が日本の領土であり、そこに暮らした人々の暮らし、活発な産業の様子を物語っている ──ソ連不法占拠から七十年。 金谷 今の事務所のすぐ近くに「樺太会館」というビルがあったのを売って何とか法人活動を続けていますが、それがなくなれば終わり。昔は寄附してくれた人や企業もいたけど、悲しいことに今は全然です。 ──日本遺族会も同じ状況ですね。 金谷 そうなんです。あまりに政府が何もしないし、国民にも「サハリンはロシアのもの」みたいに誤解が広まって、元住民の二世、三世ですら振り向かなくなりつつある。だってNHKがね、稚内から「はるかサハリンが見えます。中心地ユジノサハリンスクは…」ですから。「樺太」「豊原」と一言も言わない。領事館開設も影響も大きいですよ。 ──絶望的ですか? 金谷 いや、こんな中でも、たとえかすかでも、希望は捨てません。志のある次の世代がいる限り。 かなや・てつじろう 昭和六年樺太・真岡町生まれ。旧制真岡中学二年生で終戦を迎え、現地に二年近く現地に抑留される。終戦直後に北海道に疎開していた母や弟と再会。滝川町の旧制滝川中学(現滝川工業高校)三年に編入し、新制高校として卒業。三十一年横浜市立大学商学部卒業と同時に野村證券入社。三十四年同證券などが設立の東洋信託銀行に転籍し、六支店の支店長を歴任。六十一年定年退職で系列企業役員を経て、平成五年から三年間日本住宅金融の監査役を務めた。全国樺太連盟には昭和五十一年に入会し、千葉県支部長を経て平成十四年理事、二十二年から副会長。息子は病死し、娘に大学生の孫二人。「今は二つ下の妻と〝老老介護〟ですよ(笑)」。数少なくなった「樺太の生き証人」として講演やインタビューなどに積極的に応じている。

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    ロシア国家犯罪を検証せよ シベリア抑留は70万人、死者10万人だった

    より長勢了治(抑留問題研究者・翻訳家) 独裁者スターリンの非道 敗戦から七十年となった平成二十七年、ロシアは五年前に「第二次世界大戦終結記念日」と定めた事実上の対日戦勝記念日である九月二日に樺太と北方領土で記念式典や軍事パレードを行い、プーチン大統領は中国の習近平国家主席が主催する「抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利七十周年」記念式典に向かう途次、東シベリアのチタ市で「戦争犠牲者」の記念碑に献花した。 樺太と千島列島および北方領土を不法に占領した事実を覆い隠し、力による領土拡大を「大戦の結果」として合理化するとともに実効支配を誇示する狙いであろう。ロシアも中国同様、日本に歴史戦を挑んでいる。 ソ連軍は終戦直前の昭和二十年八月九日午前零時、日ソ中立条約を破棄して満洲に侵攻した。北朝鮮にも同日、北部沿岸に爆撃を始めた。樺太には八月十一日から北部国境方面にソ連軍が侵入した。千島列島への侵攻は遅く、終戦後の八月十八日に占守島(しゆむしゆとう)へソ連軍が上陸し、日本軍との間で大規模な戦闘となった。 日本が降伏した八月十五日以降もソ連が攻撃の手を緩めなかったのは満洲、北朝鮮、樺太、千島列島を完全に制圧することを狙っていたからだ。歯舞諸島の占領をもって北方領土の占領を完了したのは九月五日だったから、九月二日を対日戦勝記念日とするのも欺瞞であろう。 スターリンはルーズベルト、チャーチルとの昭和二十年二月のヤルタ会談で、ドイツ降伏後二、三カ月で対日戦に参戦し、見返りに樺太、千島列島、東清鉄道、大連、旅順を貢ぐよう約束させた。スターリンはこの密約どおり実行したわけである。 ヤルタ会談ではドイツに関して「国民資産の撤去」「ドイツの労働力の使用」を賠償として明記したことは周知である。スターリンが日本についても同様に考えたであろうことは容易に想像できる。ただし、日本は一方的に侵攻された側なので「賠償」を取られるいわれはない。東シベリア・チタでの戦勝70年行事で記念碑に献花するロシアのウラジミール・プーチン大統領=2015年9月2日(タス=共同) スターリンはすでにドイツ人を始め枢軸国側の捕虜を三百万人以上、国内に連行して使役し味をしめていたから、満洲侵攻後の八月二十三日、有名な「秘密指令九八九八号」を出して五十万人の日本人をシベリアへ連行するよう命じた。同時に満洲、北朝鮮の施設と物資を「戦利品」として大量に掠奪し国内へ移送した。 八月末から翌春にかけて六十万人以上の日本の軍民がソ連とモンゴルに移送され、長期間抑留された。いわゆる「シベリア抑留」である。連行先は、北は極北のノリリスクから南はトルクメニスタンまで、東はカムチャツカから西はウクライナまでほぼソ連の全土に及び、一部はモンゴルにも移送されたから地域的には「ソ連モンゴル抑留」がふさわしい。 ソ連占領地ではソ連軍による居留民に対する残虐行為が多発した。掠奪、暴行、強姦により居留民は塗炭の苦しみを味わった。とりわけ悲惨だったのは開拓民で、根こそぎ動員で男手のない老人と婦女子の集団がソ連軍や現地民に襲われ、陰惨極まりない逃避行を余儀なくされたのだ。 ソ連とモンゴルに連行、抑留された軍民にも悲惨きわまりない運命が待ち受けていた。日本兵はソ連軍が指定した四十四カ所の集結地収容所に集められ、順次列車や徒歩でソ連領へ移送された。満洲は九月ともなれば寒くなる。行軍中に斃(たお)れる者が出るし、列車から脱走する者も出たがソ連軍は容赦なく射殺した。 こうしてソ連への移送途中で、早くも数万人ともいわれる日本人が死亡したが実態は不明である。 ソ連兵は移送の時いつも「トウキョウ・ダモイ(帰国)」と嘘をついて日本人の逃走や反抗を防ごうとした。お人好しの日本人は「トウキョウ・ダモイ」を信じようとし、手もなくだまされた。ダモイの嘘はソ連に対する根深い不信感を日本人に残した。 こうして日本人は約二千カ所ともいわれる収容所に入れられた。シベリアや沿海州を中心として中央アジアやウクライナ、そしてモンゴルへ配置されたのである。収容所で日本人を待ち受けていたのが「シベリア三重苦」といわれる飢餓、重労働、酷寒(マロース)だった。飢餓、重労働、酷寒の三重苦飢餓、重労働、酷寒の三重苦 捕虜収容所に送られた日本人はまず住むところを確保することから生活が始まった。既存の施設を利用できたところもあるが、自分の手でバラックや半地下小屋(ゼムリヤンカ)を建てたり、幕舎(テント)でしのいだところも多かった。劣悪な住環境だった。 ソ連は官僚社会なので様々な基準や規則が定められており、捕虜用の給食基準もあった。帝国陸軍の基準と比べると品目により一割から三割ほど少なかったが、それでも基準どおり支給されれば、栄養失調という名の餓死でバタバタ斃れることはなかっただろう。 問題は当初、実際の給食がこの少ない基準の半分にも満たなかったことである。黒パン三百㌘に雑穀の粥(カーシヤ)、中身のない塩水のようなスープが一日の食事だった。ソ連は独ソ戦で農地が荒廃し、飢饉もあってソ連国民自身が飢えていたのだから仕方ないというが、それならポツダム宣言どおり日本へ直ちに送還すべきだっただろう。スターリンは捕虜の労働力がどうしても必要だったから、飢えさせてでも酷使し続けたのである。 スターリンが日本兵を抑留したのは戦争で荒廃した国民経済を復興するための労働力として使役するのが目的だったことは明らかである。日本人をシベリアと中央アジアに多く配置したのは、そこの労働力が不足していたからだ。 日本人はあらゆる作業に従事させられたが、主な作業は伐採と鉱山労働と建設(建物、道路、鉄道)だった。とりわけ伐採と鉱山労働が重労働で危険な作業でもあった。各作業に厳しいノルマが課され、達成できないと超過労働が強いられたり、減食されたりした。給食は基準(ノルマ)以下なのに労働はノルマの達成を強要された。それでいて賃金はほとんど支払われなかったから、まさしく「奴隷労働」にほかならなかった。 シベリアとカザフスタン、モンゴル高原は温暖な日本の気候とは比べられないほど寒い地域だ。ロシア人は寒冷な気候に慣れていたが、日本人はこの酷寒(マロース)に悩まされた。多くの人が凍傷にかかり凍死した人もいた。関東軍の軍装はシベリアでは役に立たなかったが、ソ連側から支給された毛皮外套(シューバ)、フェルト製防寒靴(ワーレンキ)の保温力は優れていた。 作業停止となる限界気温は収容所長の裁量に任されていたから日本人には耐え難いマイナス三十度から四十度くらいに設定された。時には限界気温以下でも作業出動させられた。日ソ国境紛争ではソ連の衛星国としてモンゴル軍が日本と戦い、日本軍捕虜を監視した=昭和14年のノモンハン事件 これがシベリア三重苦である。この三重苦に耐えられずに多くの人が犠牲になった。ただ、抑留者によってはこの三重苦よりも、後述するシベリア「民主運動」による吊し上げなどの同調圧力の方が苦しかったという。また、抑留者にとって最大の関心事は帰国(ダモイ)だったが、その見通しが立たないことも三重苦に匹敵するほどの不安と苦しみを与えた。 シベリアでは三重苦で一〇%を超える日本人が亡くなった。そのうえ、死者を鞭打つような屍体の扱いや埋葬方法が横行した。死体は死体置き場に運ばれるとすぐにカチカチに凍った。それを墓地に運び裸のまま埋葬する。ただでさえ凍土に穴を掘るのは並々ならぬ作業だったから、死者が増えると十人、二十人とまとめて埋葬することになる。深くは掘れないから薄く盛土すると狼や野犬が食い荒らした。 国際法が定める「丁寧に」「尊敬されるように」とはかけ離れた杜撰(ずさん)で冒涜(ぼうとく)的な埋葬である。ここにも共産主義が現れている。宗教を阿片だとして否定する無神論からすると屍体はただのモノにすぎないし、悼み弔う宗教的儀式も必要ないのである。共産党独裁国家の悪行 共産党独裁国家の悪行  なぜシベリア抑留がかくも苛酷なものとなったのか。それは抑留国がソ連とモンゴルという共産主義国家だったことが大きな要因である。 二十世紀は革命と戦争の世紀といわれ、共産主義が一世を風靡した。マルクス、エンゲルスが唱えた共産主義つまりマルクス主義は「階級のない完全に平等な社会」「個人の自由な発展」という永遠の理想を追求した。その実現のために階級闘争史観、暴力革命論、プロレタリア独裁論、唯物史観といったイデオロギーで武装した。 ロシアで世界初の共産主義革命としてのロシア革命が一九一七年に起きてソヴィエト連邦が成立し、ソ連の後押しで二番目の共産主義国家がモンゴルで誕生した。ソ連では革命直後から反対派を弾圧する「全ロシア非常委員会(チェーカー)」がつくられて血の弾圧(赤色テロル)を実行した。この組織は内務人民委員部(NKVD)、内務省(MVD)、国家保安委員会(KGB)などと名前を変えながら人民弾圧機関として一貫してソ連体制の維持を担った。ソ連復興の労働力として使役するため日本兵を抑留したスターリン=クレムリンの執務室 ソ連は理想を目指すとしながら、実態は一切の批判、異論を許さない共産党一党独裁国家だった。反対派、異論派は容赦なく弾圧され全国に設置された囚人収容所(グラーグ)に入れられ多大な犠牲者を出した。収容所群島の出現である。 西欧ではナチスドイツのホロコーストが絶対悪として糾弾され続けるが、それより遥かに多いおよそ一億人もの犠牲者を主にアジアで生み出した共産主義の巨悪にはなぜか寛容である。共産党独裁による悪行を過去のことと葬り去るのではなく、ホロコースト同様、世界史に残る残虐な事実としてさらに深く解明し、歴史に刻む必要があるだろう。その悪行のひとつがシベリア抑留である。 ソ連では捕虜収容所の管理を弾圧機関であるNKVD/MVDのグプヴィ(捕虜抑留者管理総局)が行った。グラーグとグプヴィは双子の兄弟のようなものだった。囚人管理の手法がそのまま捕虜管理に応用されたのである。このように共産主義と弾圧機関の組み合わせがシベリア抑留を非常に苛酷なものにしたのだ。 ソ連は労働力確保のためできるだけ抑留者のダモイを遅らせようとした。ポツダム宣言は「日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」と定めていたが、ソ連はこれを無視してダモイを遅らせた。満洲侵攻後、降伏した日本軍の武装解除を監視するソ連兵=昭和20年8月28日 それでも日本国内の帰還促進・支援活動の高まりを受けてGHQとソ連代表との交渉が始まり引揚に関する米ソ協定が結ばれたのは、抑留開始から一年四カ月経った昭和二十一年十二月。満洲などからソ連へ移送するのはわずか四カ月ほどで済んだのに、日本への送還は三年以上も時間をかけたのだ。昭和二十五年春までに四十七万人が帰国した。「囚人」として長期抑留「囚人」として長期抑留 しかし、ソ連には抑留者がまだ残されていた。「戦犯」とされて牢獄につながれた長期抑留者である。日本では東京裁判やBC級裁判のせいで戦犯というだけで非常に悪いイメージがつくられていた。だからシベリア抑留者のうち「戦犯」とされた人も同じ目で見られたが、これは大いなる誤解だった。この誤解や偏見がどれほどであったかは、シベリア抑留の研究書でありながら「戦犯」をまったく取り上げない本すら存在することが示している。 しかし、真実は「戦犯」とされた長期抑留者は無実の囚人であり、シベリア抑留の最大の犠牲者だった。 ソ連は「前職者」、すなわち警察官、憲兵、特務機関員、高級将校、司法関係者、満洲国協和会員、政府高官、ロシア語通訳というだけで「戦犯」容疑者と見なした。実際の犯罪行為ではなく平時の職務行為を犯罪と見なし、主にロシア共和国刑法第五十八条の「反革命罪」で有罪を宣告した。第五十八条はソ連の政治犯を裁いた有名な条項である。 罪状はスパイ行為や破壊行為、国際ブルジョアジー幇助などが多かった。取調べから判決まで一応裁判の形式は取ったが、実態はとうていまともな裁判に値するものではなかった。そもそも罪状からして本来の戦争犯罪ではなく「反革命罪」だったから、濡れ衣というほかないものだ。 有罪を宣告されれば、曲がりなりにも国際法で保護される「捕虜」からただの「囚人」待遇に転落し、監獄(チュリマー)か囚人収容所(ラーゲリ)へ送られる。つまりグプヴィからグラーグへの移動だ。昭和27年公開の映画「私はシベリアの捕虜だった」で再現されたソ連兵にムチ打たれて強制労働させられる日本兵捕虜の様子(川喜多記念映画文化財団提供) 長い苛酷な拘禁と労働を経て長期抑留者の帰国が始まったのは赤十字社協定により昭和二十八年十二月からであり、最後の長期抑留者がダモイしたのは日ソ共同宣言により昭和三十一年十二月二十六日のことだった。十一年に及ぶ苛酷な長期抑留だった。長期抑留者の総数は二千六百七十九人だった。 鳩山一郎首相と河野一郎農相がモスクワに乗り込んで署名したこの日ソ共同宣言では、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を返還するとして北方領土問題を先送りしただけでなく、第六条で「すべての請求権を、相互に、放棄する」ことに同意したことで、スターリンの大罪であるシベリア抑留に対する補償の請求権すら放棄してしまったことは外交的失策であろう。現地抑留や一般抑留もあった 以上は、いわゆる「シベリア抑留者(ソ連モンゴル抑留者)」のことで、法律上は「戦後強制抑留者」と定義された人たちのことである。しかし、これ以外にもシベリア抑留者に含めるべき人たちがいた。 平成二十七年四月二日、読売新聞は北朝鮮の興南にソ連軍が設置した第五十三送還収容所で死亡した日本人抑留者八百六十九人のソ連側の名簿を報じた。その後も興南第五十三収容所以外に元山第五十一収容所、大連第十四収容所、真岡第三百七十九収容所における抑留死亡者の名簿が報道された。 これらの収容所は日本人を送還するためソ連本国送還全権局が設置した送還収容所である。本国送還のため一時的に滞在する収容所だったので公式には「通過収容所」と命名された。厚労省もこの報道に押されるように所蔵する死亡者名簿を公表した。その数は二千百人以上に上る。 これはソ連とモンゴルに連行された抑留者以外の抑留日本人の存在に光を当てるもので、「抑留者」の再定義を迫るものといえた。 私はかねてソ連関係の「抑留者」を三分類すべきだと指摘してきた。 ①強制抑留者 ②現地抑留者 ③一般抑留者 ①の強制抑留者とは「ソ連軍支配地域(満洲、北朝鮮、樺太、千島、旅順大連地区)からソ連本土とモンゴルに連行・抑留された軍民」のことで、法律上は戦後強制抑留者と呼ばれる。「平和祈念事業特別基金等に関する法律」(昭和六十三年五月二十四日施行)および「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(シベリア特措法)」(平成二十二年六月十六日施行)では「昭和二十年八月九日以来の戦争の結果、同年九月二日以降ソヴィエト社会主義共和国連邦又はモンゴル人民共和国の地域において強制抑留された者をいう」と定義されている。 強制抑留者だけが慰労金や特別給付金の交付対象となった。また、政府が公式数字として掲げる「シベリア抑留者五十七万五千人、死亡者五万五千人」は、この強制抑留者だけを意味している。 ②の現地抑留者は、ソ連軍支配地域(満洲、北朝鮮、樺太、千島、旅順大連地区)でソ連軍が管理する収容所や病院に収容された軍民のことである。真岡、大連、元山、咸興(興南)の送還収容所を含み、今回、報道・公表された死亡者はまさしく現地抑留者である。現地抑留者の総数や死亡者数はまだほとんど未解明で実態は不明なままである。 ③の一般抑留者は、ソ連軍支配地域(満洲、北朝鮮、樺太、千島、旅大地区)でソ連軍が管理する収容所や病院には収容されなかったものの、ソ連軍によって国境を封鎖され一定期間(九カ月~四年)出国を事実上阻止され抑留された民間人である。  ・満洲=昭和二十一年五月から米軍と国府軍の協定で葫蘆島(ころとう)から帰国・北朝鮮=昭和二十一年十二月から米ソ引揚げ協定で帰国・樺太=昭和二十一年十二月から米ソ引揚げ協定で帰国・千島=昭和二十二年四月から米ソ引揚げ協定で帰国・旅大地区=昭和二十一年十二月から米ソ引揚げ協定で帰国 いずれの地区も協定帰国の前に命がけで脱出した人が多数おり、残った人も生きるため大変な苦労をした。非道な政策検証に法改正必要非道な政策検証に法改正必要 私は強制抑留者と現地抑留者を合わせて「シベリア抑留者(ソ連モンゴル抑留者)」と規定し、抑留者数約七十万人、死亡者数約十万人と推定した。公式数字と大きく異なるのは定義が違うことも一因である。 ここで重要なことは現地抑留者も強制抑留者と同じく、ソ連軍の侵攻によって捕えられソ連軍またはソ連内務省が管理する収容所(病院)に入れられて苛酷な扱いを受け多数の死者を出したことである。 どちらもスターリンの非道な政策の犠牲者なのだ。 厚労省が興南などの送還収容所での死亡者をつとに把握しながら公表しなかったのは、これらの現地抑留者が法律の対象になっていなかったからであろう。そうであれば、法律を改正して現地抑留者を含めるようにすべきである。 たとえば「ソ連軍が侵攻した昭和二十年八月九日から満洲から撤退した昭和二十一年四月十五日ころまでの間に、ソ連軍支配地域であった満洲、北朝鮮、樺太、千島、旅大地区において、ソ連軍とモンゴル軍により日本軍の捕虜または犯罪容疑者として拘束され、ソ連領及びモンゴル領並びにソ連軍支配地域内においてソ連軍またはソ連内務省またはモンゴル政府が管理する捕虜収容施設に強制抑留された日本人及び一部外国人」のように改正すればよい。 実はヴィクトル・カルポフは十八年前の先駆的な研究書『スターリンの捕虜たち』で現地抑留者を含めた死亡者数として通説の六万人を大きく上回る九万二千五十三人と公表していた。ソ連・モンゴルが六万六百七十人、ソ連支配地域三万千三百八十三人である。 このソ連支配地域こそ現地抑留者がいたところだ。改めてカルポフの歴史を見る眼の確かさを確認する想いである。ソ連兵監視の下で木材運搬の強制労働に追われる日本兵捕虜。写真は靖國神社に寄贈された シベリア特措法は特別給付金のほかに重要な項目として第十三条で「強制抑留の実態調査等」について定めている。具体的には次の三項目を基本方針に定めるとした。① 強制抑留中の死亡者についての調査② 強制抑留中死亡者の遺骨と遺留品の収集と送還③ 強制抑留の実態の解明に資するための調査 いずれもきわめて大事なことだが、この調査対象に強制抑留者だけでなく現地抑留者を含めるためにも法律の改正が必要である。未解明部分多い逆送者と現地抑留者 強制抑留者と現地抑留者の双方にまたがるのが一旦シベリアへ移送されながら、ソ連により病弱者として満洲と北朝鮮に逆送され厄介払いされた「逆送者」である。厚生省の『引揚げと援護三十年の歩み』によれば四万七千人いたとされる。 北朝鮮へ逆送された日本人は日ソの資料で約二万七千人と確定できるが、満洲への逆送者は確たる数字がまだ不明である。同書は、入ソ当初から昭和二十一年にかけて延吉、敦化、牡丹江、黒河に一万五千五百人が移送され、途中および到着後に多数の死傷者が出たと記している。 現地抑留者数およびその死亡者数については強制抑留者数と死亡者数以上に裏づける資料がきわめて少ないので今後の大きな課題である。現地抑留者を把握することが困難なのは前記分類③の「一般抑留者」と区別するのが難しいことにもよる。 同書はまた昭和二十一年四月時点で、逆送者一万五千五百人を含む七万五百人がソ連管理下の満洲の収容所と病院に残されていたと記し、その後の運命を次のように推定する。 ▽死亡者二万八千五百人▽昭和二十一年四月以降にソ連へ移送一万千三百人▽中共(中国共産党)軍に移管三万七百人 北朝鮮の現地抑留者については、昭和二十一年九月一日時点のソ連側資料で北朝鮮の収容所には三万千五百八十四人(うちソ連からの逆送者は二万六千七百二十三人)いた。逆送者以外に四千八百人余が元山、興南などのソ連軍収容所に残されたことになる。同じく遼東半島の旅大地区のソ連軍収容所には一万三千五百五十三人いた。 南樺太と千島には、約一万三千人が現地のソ連軍作業大隊に残され使役されたと厚生省の『満洲・北朝鮮:樺太・千島における日本人の日ソ開戦以後の概況』は記している。 資料の出所が違うが、単純に合算すると現地抑留者は十三万人近くになる。逆送者を除いても八万人以上である。 別のソ連側資料にも現地抑留者を示すと思われる数字がある。グプヴィの昭和二十一年四月一日時点の極東三軍管区における日本軍捕虜に関する調査資料では全部で約十万人が軍管区にいた。これはソ連軍が満洲から撤退する直前の数字である。 ◎ザバイカル・アムール軍管区(旧ザバイカル方面軍)▽チチハル第二収容所九十四人▽長春(新京)第三収容所千七百五十人▽チチハル第六SPL千八百五人▽佳木斯(ジャムス)第十五収容所三百五十一人▽ハルビンKA1収容所二百五十二人=計四千二百五十二人 ◎極東軍管区(旧第二極東方面軍)▽作業大隊九千百十七人▽南樺太三百八十五人▽千島列島二千七十九人=計一万千五百八十一人 ◎沿海軍管区(旧第一極東方面軍)▽軍収容所五万二千五百二十九人▽軍病院(収容所の)七千百四十七人▽前線作業現場二万四千四百五十三人=計八万四千百二十九人 【三軍管区合計】九万九千九百六十二人 地名が明示された数字は現地抑留者と判定できるが、その他も現地抑留者である可能性は高いであろう。 このうち、何人がソ連へ移送され、何人が現地で死亡し、何人が中共軍に引き渡されたのか。 現地抑留者はソ連軍が管理していた以上、国防省の公文書として詳細な資料が残されている可能性が高いので今後の新資料の発掘が望まれる。共産主義の独善が人権踏みにじる共産主義の独善が人権踏みにじる シベリア抑留が苛酷だったのは抑留国が共産党独裁国家だったことが大きな要因であったことは先に述べた。そのことを最もよく表すのがシベリア「民主運動」である。 共産主義はそもそも絶対的に正しいイデオロギーとして大衆に宣伝し、教化し、世界中に広めるという本質を持つ。ソ連は捕虜収容所にいる外国人捕虜にも思想教育し、共産主義イデオロギーを広めようとした。 シベリアの「民主運動」とはソ連当局およびアクチーヴ(活動家)が意図的に用いた用語であり、欧米の民主主義とは異質な共産主義的民主主義(プロレタリア民主主義)を意味した。共産主義国家はすべて共産党一党独裁で言論の自由のない全体主義国家だったから、本来の自由とか民主主義とは無縁である。 ソ連軍政治部はまず日本兵向けの宣伝紙「日本新聞」を発行して政治工作を始めた。編集長はコワレンコで、ソ連側スタッフに加えて浅原正基や相川春喜のような左翼運動経験者などが編集に携わった。強制収容所の重労働と栄養失調で疲労困憊になって休む日本兵捕虜たち 紙上で「日本新聞」友の会の結成を呼びかけて輪読会が組織された。そのうち「民主グループ」が生まれ壁新聞が発行された。リーダーは当初、知識人や左翼運動経験者が多かったし将校クラスもいた。 やがて「民主グループ」を地方で横断的に組織し、リーダーからインテリや将校が追放され出した。一方で政治学校や講習会が開かれてリーダーたるアクチーヴを養成した。 昭和二十三年になると当局は「反ファシスト委員会」の結成を呼びかけた。リーダーには若い労働者、農民層が選ばれ、将校は「反動」として追放。次第に運動が過激化し「批判会」や「吊し上げ」が横行した。反抗はもちろん傍観すら許されず、すべての人が運動に参加するよう強要され、収容所が同胞相食む陰惨な状況に陥った。この「民主運動」の同調圧力はシベリア三重苦より辛かったと述懐する人がいるほどだった。 ドイツ人捕虜の間でも政治工作が行われ「反ファシスト運動(アンチーファ)」が起きたが、同胞に強要することはなかったとされる。 しかし、この「民主運動」の同調圧力に最後まで妥協せず自己の信念を貫いた人が少数ながらいたことは特筆しておかねばならない。草地貞吾大佐や津森藤吉中佐、上村幹男中将などのサムライたちである。GHQの洗脳との共通性 私は自著でこのシベリア「民主運動」とGHQによる思想教育が同根であることを仮説として提示した。この二つを結びつけることに唐突な印象を持たれたかもしれないが、調べるほどに私には同時代の現象として共通性があると確信した。 産経新聞は平成二十七年六月八日付で「GHQ工作 贖罪意識植え付け」「中共の日本捕虜『洗脳』が原点」と報じた。GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だったジョン・エマーソンが戦争末期の昭和十九年十一月に中国の延安を戦時情報局(OWI)要員として訪問し、中国共産党が野坂参三元日本共産党議長を通じて日本軍捕虜に行った心理戦(洗脳工作)を聞いて、その手法をGHQの対日政策に取り入れたという。 この対日政策とは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」のことである。戦争罪悪感扶植計画――今日までマスコミ、教育界、政官界を拘束し続けている自虐的な歴史観の源泉である。 このWGIPについては二十七年に関通夫『日本人を狂わせた洗脳工作』(自由社)、ケント・ギルバート『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)、水間政徳『ひと目でわかるGHQの日本人洗脳計画の真実』(同)と相次いで刊行され、とみに関心が高まっている。 産経報道は、シベリア「民主運動」とGHQのWGIPが中共を介して結びついたことを明らかにし、私の仮説が裏づけられた。 中共の洗脳工作といっても、元々は共産主義特有の政治工作であり、共産主義の本家であるソ連に由来するものである。ソ連共産党は自国民を共産主義思想で教育、洗脳し、コミンテルンを通じて世界中に共産主義を広めようとしたのだ。 野坂参三は昭和六年にソ連に密入国してすぐにコミンテルンの仕事を始め、四年後にはコミンテルンの常任執行委員にまでなった。その裏で野坂が同志の山本懸蔵らを密告して粛清に追いやったことはよく知られている。野坂は『亡命十六年』で「私はモスクワで養成した日本人共産主義者を日本に相当数送ることができた」と語っており、コミンテルン流の洗脳工作に自信をみせている。中共の思想工作でデタラメ証言中共の思想工作でデタラメ証言 野坂は昭和十五年に中国に渡って延安で中共に合流し、毛沢東の支持のもと「日本労農学校」や「第二学校」で日本人捕虜の思想(洗脳)教育を始めた。これはシベリア「民主運動」に先行する日本人捕虜の思想教育である。思想改造された捕虜は昭和一九年二月に野坂が結成した「日本人民解放連盟」に入れて日本軍への宣伝、宣撫工作をやらせた。 中共と野坂参三は天皇制批判を「日本軍国主義者」批判に置き換え、君民一体の日本人を「悪い軍国主義者(軍閥、財閥)」と「だまされた日本人民」に分断し対立させた。この二分法を中共はその後一貫して日本批判に使っている。それだけではない。GHQも同じ二分法を利用して日本人を洗脳した。日本兵捕虜が抑留されたウクライナ東部ハリコフに残る第415収容所。現在は倉庫になっている 延安では軍国主義批判と共産主義思想の注入が続いた。洗脳の手法として自己批判と集団批判が重視された(シベリアと同じである)。こうして日本人捕虜に侵略者としての罪悪感、贖罪意識を植えつけて反戦兵士に仕上げた。やがて日本人全体を精神的捕虜にする狙いだったという。 昭和二十五年七月、スターリンは毛沢東との合意に基づきシベリア抑留者の中から中国に対する「戦犯」として九百六十九人を中国に引き渡した。彼らは撫順戦犯管理所に入れられ、ソ連とは違って衣食住で好待遇を受け、寛大に接遇されるなか巧妙で執拗な思想改造(洗脳)が行われた。日本人が他人の好意に弱いことを見抜いたうえでの好待遇である。これはもちろん延安での日本兵洗脳方法をさらに徹底したものだった。 「罪を認めれば寛大な処置を受けられ、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」という露骨な圧力のもとで自白(認罪)を迫られた。ソ連ですでに五年の苛酷な抑留を強いられた後のさらなる抑留であり精神的負担は非常に重い。こうした状況下での自白が任意のものとは到底いえない。 中共帰りの「戦犯」はほぼ半数が「中国帰還者連絡会(中帰連)」を組織して熱心な日中友好運動と日本軍の「悪行」の暴露を行った。中帰連が暴露した「三光作戦」や「中国人強制連行」などの日本軍「悪行」証言は虚偽であると検証されている(田辺敏雄『検証 旧日本軍の「悪行」』)。それでも中国に対する贖罪感、罪悪感は根強く日本社会に残る。洗脳の成果としてのリベラル派 エマーソンは日本に三度滞在経験のある日本専門家である。エマーソンらOWIのスタッフは延安での見聞を「延安リポート」として報告している。その主な内容は中共の八路軍による日本兵捕虜の扱いや野坂参三主導の日本人反戦捕虜による日本軍民への宣伝・宣撫工作であった。 産経報道によると、エマーソンは昭和三十二年三月に米上院国内治安小委員会で証言し「岡野(野坂)と日本人民解放連盟が行った活動の経験と業績が、対日戦争(政策)に役立つと確信した」と述べた。こうして野坂の延安での洗脳工作の手法はGHQの対日思想工作に取り入れられた。それがWGIPである。 GHQにはアメリカの戦略情報局(OSS、CIAの前身)にいたヘルベルト・マルクーゼやハーバート・ノーマンらの共産主義者やシンパが加わっていてGHQの占領政策に影響を与えたが、こうした共産主義者の人脈以外に、エマーソンを介して中共の洗脳方法が取りいれられるという二重の意味で共産主義が影響力を及ぼしていたわけである。 野坂参三は昭和二十一年一月には帰国しており、ノーマンの尽力で釈放されていた日本共産党の幹部徳田球一らとともにGHQを「解放軍」と位置づけて協力していくのである。 WGIPが日本人に広く定着して行った背景に共産主義者がいたことは重要な歴史的事実であろう。日本の左翼リベラルが最もよくWGIPに染まり、戦後思想をリードしたのも理由があったといえよう。昭和二十七年四月にGHQの占領が終わったあとは、日本人がみずからの手でWGIPを引き継いで完成していく。シベリア抑留の〝地獄〟の中で日本兵たちの命を支えた陸軍の防寒靴=東京・西新宿の平和祈念展示資料館 戦後の日本人は戦勝国からシベリアで、中国で、そして日本本土で共産主義的な思想教育(洗脳)を受けるという敗戦国民として痛苦な体験を余儀なくされた。シベリアではおおむね失敗し、延安と撫順では成功、日本本土では大成功だった。 戦後七十年、もう自らの手でWGIPの呪縛を解くべきであろう。◇ 本稿を脱稿したあとの平成二十七年十月十日、舞鶴引揚記念館が所蔵するシベリア抑留関係の資料五百七十点が「ユネスコ世界記憶遺産」に登録された。喜ばしいことで、これを機にシベリア抑留に関する理解が一層深まることを期待したい。遠隔地の人もこの資料を見られるよう主要都市での巡回展なども工夫すべきだろう。一方で、ロシアのユネスコ委員会オルジョニキーゼ書記が「政治利用だ」として登録申請の取り下げを求めたというが、申請資料の信憑性に大きな問題のある「南京事件」とは違って、シベリア抑留はロシア側でも広く研究されて事実関係が明らかになっている史実であり、しかもエリツィン大統領が来日時に謝罪もしている。日本政府は毅然とした対応をすべきである。ながせ・りょうじ 昭和二十四年北海道生まれ。昭和四十七年北海道大学法学部卒業後、三菱ガス化学入社。体調を崩して帰郷後の平成七年、四十五歳でロシア極東国立大学(現極東連邦総合大学)函館校でロシア語を学ぶ。シベリア抑留を研究するきっかけは、北大の恩師に翻訳第一弾としてロシア側の抑留資料を薦められたこと。さらに日露の膨大な資料に当り実態に迫った六百ページ余の大作『シベリア抑留全史』(原書房)を二十五年に刊行。近著に『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』(新潮社)。訳書に『二つの独裁の犠牲者』(P・ポリャーン著、原書房)、『スターリンの捕虜たち』(V・カルポフ著、北海道新聞社)、『ウクライナに抑留された日本人』(O・ポトィリチャクら著、東洋書店)など。事実を基に日本軍民抑留というロシア国家犯罪の追及と、抑留の検証・再定義に取り組んでいる。

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    北方領土にシベリア抑留 「対日戦勝者」ロシアの正当化

    く、甚大な人命の喪失と敗戦国として背負った代償の大きさは筆舌に尽くし難い。 他方、当時のソ連、そしてロシアを中心とするその継承国にとっても、第二次世界大戦(旧ソ連諸国では、「大祖国戦争」と呼ばれる。以後そのように記載する)の意味は非常に大きく、人命の喪失も甚だしかったとはいえ、戦勝国として大きな自信を得て、そこからいわゆる西側陣営との冷戦に突き進んでいった点で、その持つ「意味」は日本と大きく異なると言える。旧ソ連諸国にとっての大祖国戦争の意味と「勝利記念日」 ソ連にとっての大祖国戦争は、「独ソ戦」が主たるものだと言える。人類の敵であるナチス・ドイツによる「独ソ不可侵条約」を犯しての奇襲による熾烈な戦いに勝利したことは、生まれたばかりのソ連にとっては極めて大きな誇りとなった。しかも、ロシア人の60%が、ロシアは同盟国の支援がなくても単独でドイツに勝利できたと考えているという(ユーリー・レヴァダ分析センターが実施した世論調査による)。 そのため、各地に大祖国戦争を記念する記念碑やモニュメントが建設され(ただし、最近、エストニアやグルジアなど反ロシア的な諸国が、大祖国戦争のモニュメントを移動したり、破壊したりしており、それに対し、ロシアは激しく反発している)、現在でも毎年、ドイツに勝利した5月9日の「戦勝記念日」にはロシアはじめ、旧ソ連の数か国で独ソ戦勝利記念軍事パレードが華々しく行われる。また、ドイツが攻撃を仕掛けてきた1941年6月22日を記念し、ロシアはこの日を「記憶と悲しみの日」に制定している。このように、大祖国戦争は、ソ連が解体しても、ソ連諸国をつなぐ共通の誇らしい歴史の記憶であったと言える。 実際、バルト三国(反ロシア的なスタンスで知られる旧ソ連諸国。現在はEU加盟国である)も、ソ連の独ソ戦での活躍については高い評価をしているようだ。すなわち、ナチス・ドイツから欧州を解放したのはソ連であるという見方である。ただ、その直後のソ連の行動により、評価は短期間に一転するのであるが…。 このように、旧ソ連諸国では、大祖国戦争はドイツに対する勝利というイメージが強く持たれているが、ソ連時代には、もう一つの「戦勝記念日」があった。それは、9月3日の「対日本軍国主義戦勝記念日」(以後、「対日戦勝記念日」)である。一般的に「対日戦勝記念日」は、日本がソ連を含む戦勝国に対して降伏文書に調印した1945年9月2日にちなんで設定されることが多いが、ソ連や中国などは9月3日を対日戦勝記念日としていた。ソ連の場合は、降伏文書調印の翌日9月3日に戦勝記念式典を開いたことにその起源がある。 だが、「対日戦勝記念日」を祝う慣習はソ連解体後にはなくなっていた。このことは、旧ソ連諸国にとっては「対日戦」の意味はあまり重くなかったことの証左と言えるだろう。ロシアにとっての対日戦の意味の変化? しかし、2010年には「対日戦勝記念日」を復活させる議案がロシア連邦議会に提出された。ただし、事実上は「対日戦勝記念日」であるが、「第2次世界大戦が終結した日」としてその議論は進められた。そして10年7月14日に、9月2日を「第2次世界大戦が終結した日」とする法案を連邦議会が可決し、同月25日にメドヴェージェフ大統領が署名して、同法改正案は成立した。 実は、「対日戦勝記念日」の復活の動きは10年以上前からあり、ロシア連邦議会でもそのような動きが出たことがあったが、これまでは政府がそれを抑制してきた。しかし、昨年は、大統領府の会議で高い支持が得られたということで、大統領府が支援者となり、これまでとは異なる様相が見られるようになったのである。モスクワでの軍事パレード後、軍人らと握手するロシアのプーチン大統領(AP=共同) そして、昨年9月には、中露が第二次世界大戦での「対日戦勝65周年に関する共同声明」を出すに至る。メドヴェージェフ大統領は、9月26日から3日間の訪中を行い、1904~05年の激戦地だった大連・旅順口を訪問し、日ロ戦争および第二次世界大戦におけるソ連軍・ロシア人の犠牲者追悼行事に参加、北京で首脳会談を行なって共同声明を発表した。その共同声明は、ロシア(当時はソ連)と中国は軍国主義の日本およびファシズム政権のドイツに対して共闘した同盟国であり、対日戦勝の65周年をともに祝すという趣旨となるが、とくに、中露両国が第二次世界大戦の結果を同様に受け止め、その見直しはあり得ないことを盛り込み、両国が言うところの歴史の真実を共に守っていくことが重視されている。*注1 そのため、11月にはロシアのメドヴェージェフ大統領がソ連・ロシアの最高指導者としては初の北方領土訪問を行うに至り、以後、多くのロシアの重鎮たちが北方領土を訪問するようになった。 さらに、ラブロフ外相は今年の2月15日に、「日本が世界大戦の結果を正確に認めない限り、平和条約交渉は無意味だ」と対日牽制を行っている。ロシアは、北方領土がロシア領になったのは、第二次世界大戦の結果、つまり日本の敗戦によるものだという主張を従来からしており、改めて、日本に対して北方領土の返還主張をやめるよう示唆してきたと言える。 このような経緯から、去年よりロシアの対日姿勢が急に硬化したことが感じられるのである。 ただし、9月2日が「対日」という言葉を含まずに「第2次世界大戦が終結した日」と命名されたことには、日本への一定の配慮が感じられる。それは、2011年3月11日に、9月3日を「日本帝国主義者に対する勝利の日」と定める法案が提出された際に、圧倒的与党である「統一ロシア」が反対し、否決されていることからも明らかであるソ連は本当に戦勝者か? しかし、ここでソ連は本当に戦勝者であったのかという疑問が生じる。「対日戦」はソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄し、*注2 つまり国際条約に違反した形で、長い戦争で疲弊したところに原爆というとどめを刺されて死に体となった日本に対して、8月8日に宣戦布告。広島に続き、長崎に2発目の原発攻撃を受けた8月9日から、大規模な攻撃を開始し、千島列島・南樺太・北朝鮮全域・満州国を次々と制圧・占領。幸いに実現はしなかったが、日本敗戦の折には北海道の占領権まで主張するに至ったという、いわば火事場泥棒的な戦争であった。そして、そのことは、ロシア人も認めるところであり、実際「第2次世界大戦が終結した日」への支援の声はそれほど大きくないようだ。以下に、同記念日の制定に対するロシア世論の一部を紹介しよう。・日ソ戦争は、日本ではなくソ連の方から正当な理由なく攻撃を仕掛けた戦争である。・日本の敗戦によってソ連は南サハリンとクリル(千島)列島を取り戻した。しかし、その領土のすべては、必ずしも日露戦争(1904~05年)で失ったものではない。・日ソ戦争で戦死したソ連兵は約8200人。ドイツとの戦争における戦死者の数は数百万人単位であり、それと比べると桁違いに少ない。・対日戦争はよく計画され、実行されたものであった。しかし、国民の感情に火をつけるほどの「悲劇と栄光の出来事」とは言えない。そのため、国民の中にこれを記念しようという声は沸き起こっていない。(以上、コンスタン・サルキソフ「「対日戦勝記念日」制定にロシア国民の反応は?」、JP Press 2010年4月8日)(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/3179)より引用)*注1:拙稿「尖閣諸島問題は北方領土問題に影響するか?」ASAHI WEB RONZAシノドスジャーナル(http://webronza.asahi.com/synodos/2010092800001.html)を参照されたい。*注2:ソ連にとっては、ナチス・ドイツとその同盟国である日本からの東西両面からの攻撃を避けるため、日本にとっては北方の安全保障を確保するという相互の思惑のもと、1941年4月13日にソ連の首都・モスクワで調印されたもの。日ソ両国の相互不可侵及び、一方が第三国と軍事行動の対象となった場合の他方の中立等が取り決められていた。しかし、41年6月22日に、ナチス・ドイツがソ連に対して「独ソ不可侵条約」を破棄して奇襲攻撃(バルバロッサ作戦)をかけ、独ソ戦が開始されたとき、日本も対ソ連攻撃の準備をしたが、踏みとどまった経緯がある。だが、45年2月4日に、米・英・ソの首脳がヤルタ会談を行い、対独戦後処理とソ連の対日参戦についての密約である「ヤルタ秘密協定」を締結した。そして、それに従って、ソ連は対日参戦をするに至るが、ここで、ソ連は「日ソ中立条約」への違反を犯すことになる。実は「日ソ中立条約」の有効期限は5年間であり、その破棄には満期1年前の不延長通告を必要とするとの取り決めがあったが、その満期日は46年4月だった。だが、日本の敗戦の可能性が高まってきたのを受け、ソ連は45年4月5日に条約の不延長、すなわち条約が満期を迎える46年4月での破棄を通告してきたのである。確かに、条約を延長しない旨の通告はあったが、条約失効まで約8ヶ月を残す段階で、ソ連は対日宣戦布告をしたわけであり、それは間違いなく条約違反であった。ロシア側の「正当化」の論理 この背景には、ロシア首脳陣や一部のロシア人の、対日戦におけるソ連のスタンスの「正当化」の論理があるといえるだろう。 たとえば、ロシアのイタル・タス通信のゴロブニン東京支局長は、日本とロシアの第二次世界大戦の終わりごろについての解釈は大きく異なるという。彼は、「ロシアでは社会の多数の人々は、日本が当時、帝国でナチス・ドイツとの同盟国であり、旧ソ連を脅かしていたと考えている。だから、1945年8、9月の(旧ソ連の)作戦に対しても、この大枠で捉えている。つまり、日本が領土を失ったのは、正当な罰だという考え方だ。」(『産経新聞』2011年5月4日)と述べるが、この見解が日本の見方と大きく異なることは明白である。 また、同氏の主張が、上述のサルキソフ氏が述べるロシア人の世論と大きく異なっていることも興味深い。この違いの理由は何だろうか? イタル・タス通信は、ロシアの国営通信社であるので、もしかしたら、イタル・タス通信側が、政府の意をくんで、世論を創出しようとしているのかもしれない、というのは考え過ぎだろうか?シベリア抑留問題 他方で、第二次世界大戦の結果の如何にかかわらず、日本がロシアに対して強く主張し続けるべき問題がある。シベリア抑留問題である。 シベリア抑留とは、第二次世界大戦直後に、ソ連が多くの日本人を、日本に復員させることなくシベリアや中央アジアなどソ連各地に抑留して、非人道的な強制労働を行わせたものである。日本人抑留者のほとんどは、旧日本軍の軍人(主に関東軍だが、北朝鮮・樺太・千島などソ連が侵攻した地に展開していた陸海軍部隊も含まれる)だったが、民間人も含まれていたという。日本政府の推計によれば、抑留者数約56万人(約60万人以上という説もある)のうち、全ての抑留者の帰還が終わる1956年までに約5万3千人(約6万9千人という説もある)が死亡したという(日本政府が推計する抑留者や抑留死者数は、帰還者や家族の聞き取りを基にしたもので、少なすぎるという見解が多く出されている。なお、これまでロシアから返還された遺骨は2万柱である)。これは、氷点下70度になる場所もあったような極寒の地で満足な食事も与えられず、森林伐採や鉄道建設などの重労働で酷使されたためである。本稿では、その内容の詳細について述べる紙幅の余裕がないが、シベリア抑留については多くの著書があるので、それを参考にしていただきたい。 なお、日本人の旧ソ連での労働の質は極めて高かったとされている。たとえばウズベキスタン・タシュケントのナヴォイ劇場は日本人抑留者が建設したものであるが、大地震の際に、ナヴォイ劇場だけが無傷で残ったとして、日本人の仕事の質の高さが今でも言い伝えられている。*注3ナヴォイ劇場と記念碑(筆者撮影) このようなソ連の抑留や、捕虜の速やかな送還を明記した「ハーグ陸戦規則」にも、武装を解除した日本軍兵士の帰宅を定めた「ポツダム宣言」にも反するものだが、ソ連は長らく本問題に口を閉ざしてきた。だが、ソ連の最後の大統領だったゴルバチョフが初めて「哀悼」の意を表明し、ロシアの初代大統領エリツィンが初めて93年10月に正式に「ソ連全体主義の犯罪」だとして、正式に「謝罪」した(東京宣言)。だが、その後のプーチン、メドヴェージェフは言及を避けている。*注3:拙著『強権と不安の超大国・ロシア』光文社新書、2008年 を参照されたい。 そのような中で、戦後70年を迎える2015年を前に、シベリア抑留問題への対応が急務となっている。具体的には、抑留者や死亡者の身元確認を中心とした抑留の全体像の究明と抑留者への賃金未払い問題と補償問題である。 2009年7月にモスクワのロシア国立軍司公文書館でシベリア抑留に関する新資料が最大で76万人分が発見された。このカードには、抑留者の名前、生年、収容所異動歴などが記載されていた。全抑留者を網羅する規模の資料発見は初めてで、抑留者や死者の総数確定などに寄与すると期待された。上述の数字より抑留者の数が多い理由は、抑留者の多くが収容所を転々とさせられていたため、移動の際に複数の記録が生まれたことにあると見られている。そして、政府も8月5日には、「シベリア特措法」に基づく、基本方針を閣議決定し、対応が強化されている。 だが、今年の8月現在で、このロシア側の資料と日本側の資料の照合により、身元が確認されたのは2097人に過ぎず、身元は判明したが、埋葬地などが不明な抑留者の数も多いという。厚労省は、作業の迅速化のため、「照合ソフト」も開発し、なるべく早く埋葬地まで明らかにし、遺骨の収集まで進めていきたい意向を示している。やはり重要なのは当時の情報となるが、抑留者の中に生存者が少なくなっていることや、埋葬地の上に建設が行われていたりと、作業は思うように進まないという。今後、厚労省は、資料を誰でも閲覧できるように、死亡者名簿を国立公文書館に移すなど、情報収集に力を入れていくとのことだ。 また、近年、抑留者の「未払い賃金」問題の解決が急務となってきている。当時のソ連政府は抑留者に対して労働証明書を発行しなかったため、日本政府も彼らに賃金を支払わないままで現在に至っているのだ。本問題も、上述の抑留者の身元確認が前提となる。ロシアに補償金を支払わせろという声も一部で高まっている。続く戦後 このように、日本とロシア・旧ソ連諸国では、第二次世界大戦の受け止め方は全く異なる。それは単に結果としての「敗戦国」、「戦勝国」の違いだけではなく、日本が喪失したもの、つまり抑留者や領土に対する考え方にも大きく反映している。それらに対して、「戦勝国」であるロシアは、自分たちの振る舞いがまるで当たり前であるかのような態度を示す一方、日本人にとっては「戦後」がまだ続いていると言って良い。今後のロシアとの関係には、常にこの「第二次世界大戦」の理解の齟齬が絡み合ってくるが、当時のソ連が条約や国際法への違反行為を行ったのも事実だ。日本は、ロシアと歴史認識の違いの溝を埋めながら、真の「戦後」を終わらせるべく、辛抱強い調査や交渉を続けていくことが求められるだろう。

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    殉職した9人の乙女 北方の悲劇とまやかしの解放史観

    建っている。ソ連が昭和20年8月9日、日本に対して「解放戦争」をしかけた挙げ句の悲劇であった。 そのロシアは本年、事実上の対日戦勝記念日を制定し、そのサハリンで軍事パレードを行い、「勝利を祝うことは戦争の結果の見直しを許さないという警告である」と述べ、北方領土返還拒否の意思表明をした。そして中国とともに共同声明を発表し解放戦争史観を肯定した。 張作霖の爆殺など政府を無視して独走した日本の軍部に大陸の戦争についての重大な責任はある。しかし肝心の点は、だからといってソ連の対日戦を解放戦争と呼んでいいのか、という疑問である。わが国にも敗戦後、ソ連中国の解放戦争史観を尊重する人がいた。今もいる。 そうした人たちが裏で手をまわしたのだろうか、『氷雪の門』と題された樺太真岡で自決した9人の電話交換手を描いた映画は、昭和49年に製作されたにもかかわらず、「反ソ映画である」として上映を差し止め、「幻の名画」になってしまった。なぜ『氷雪の門』は封印されたのか。ソ連大使館と呼応して映画の上映さえストップできるほど外圧に弱い日本ならば、北方四島も南方の諸島も、力ずくで奪取できると専制国家の軍部や外交部が思いこむのはけだし当然だろう。映画やビデオはきちんと公開せねばならない。ソ連の南樺太(サハリン)侵攻を描いた映画「樺太1945年夏 氷雪の門」の一場面。「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」。最後の1本の電話プラグを引き抜き、電話交換手の女性9人は命を絶った (ⓒ「氷雪の門」上映委員会)ソ連軍でなくて良かった 敗戦後、私の代々木の家は占領軍に接収された。誰も同情しない。級友の3分の2は空襲で家を焼かれた。米国将校に目をつけられるような邸に住んでいたこと自体が贅沢と思われたからである。父は秋田に嫁いだ姉を呼び戻し妊婦がいるからと接収の先延ばしに成功した。しかし、甥が生まれ姉が秋田に帰ると家は接収された。それでも父は「アメリカに占領されてよかったな。ソ連に占領されたら即刻立ち退きだ」といったが、私も同感した。 東ドイツでは共産党指導者は「ドイツをヒトラーから解放したのはソ連軍のおかげだ」と解放戦争史観を宣伝したが、西ドイツの人は「アメリカに占領されてよかった」と思っている。敗戦直後のソ連軍の略奪やレイプがあまりにすさまじかったからである。「悪人の友をふり捨てて、善人の敵を招け」とは謡曲の詞だが、私は日本が自由主義陣営にとどまったことを良かったと思っている。 戦前戦後の歴史を通観して考える。わが国を暴走させた軍部の責任はまことに重大だ。だが、ヒトラー、スターリン、毛沢東などの独裁専制がなかっただけ、日本はまだしもよかった。私たちの国には強制収容所も粛清も吊し上げもなかった。その史実を率直に認めたい。 私は解放戦争史観に媚びる人が嫌いだ。真岡の電話交換手は義務感から職場に最後まで踏みとどまった。彼女らは工務の技術官に頼んで薬をもらった由だが、私の父が工面して入手したのと同じだ。万一に備えたのである。 碑文には「日本軍の命ずるままに青酸カリを飲んだ」とあるが、戦後日本にはこんなさかしらを書く人が多い。本当に軍に強制されたのか。こんな書き方は死者への冒瀆ではないか。人は国を守り、操を守るためには死を覚悟することもある。 (ひらかわ すけひろ)  

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    わかりやすい北方領土と我が国主権のお話

    本の領土としての記述がありました。つまり日本は、そこを日本の領土として認識していたということです。(ロシアは一方的に占領支配していただけです。) ところが、2009年夏、民主党が政権与党となり、鳩山由紀夫内閣が誕生しました。 鳩山内閣は国民に何も知らせないまま、「北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例」「財務省組織規則の一部を改正する省令」を改正し、南千島から先の中部千島、北千島の島々を帳簿から削除してしまったのです。 ですから平成22(2010)年4月1日からは、この広大なエリアは、日本国民が知らない間に、ロシアが占領し軍事的に実効支配する無主地となってしまいました。ひどい話です。 領土に関する話です。 本来なら国会審議が必要なことでしょう。 けれど当時の民主党鳩山総理は、国会審議を要しない「省令」レベルで、北方領土を勝手に日本の領土から外してしまったのです。 こんなことが許されるのなら、たとえば竹島にしても韓国が実効支配し、日本が課税台帳から削除すれば、国民が誰もしらないまま、竹島とその周辺海域は日本の領土から消えてなくなります。 そこで今日は、領土についてすこし詳しく見て行きたいと思います。このことを考えると、実はいろいろなことがはっきりと見えてきます。千島列島の夏 まず千島列島は、北海道の東側にある知床半島、根室半島の先から、ユーラシア大陸のカムチャッカ半島まで伸びている列島です。 一番北側の島々が北千島、まんなかあたりが中部千島、北海道寄りの歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島が、南千島です。 「北方領土」というと、多くの方がイメージしているのは、このうちの南千島(歯舞群島、色丹、国後、択捉)です。 けれど本当は、千島列島の「全部」が日本の領土です。 それだけではありません。樺太も南半分は日本の領土です。 そして、そこに日本の領土があるということは、その周辺の広大な海域が日本の領海である、ということです。 近年、その領海の海底には、豊富な海底資源(メタンハイドレード、レアアース)が眠っていることが明らかになりました。 従ってその広大な海域は、豊富な漁場としての値打ちを持つだけでなく、これからの日本や世界の資源エネルギーを語る上でもとても大切なエリアとなっています。北方領土はロシアが軍事占領しているだけ さて、南千島だけでなく樺太や北千島までと書くと、 「そんなことはない。昭和27年のサンフランシスコ講和条約で、日本は千島列島と樺太の南半分を放棄したではないのか」とおっしゃる方もおいでになるかもしれません。 なるほどサンフランシスコ講和条約で、日本はこのエリアに関する「すべての権利、権原及び請求権を放棄」しました。講和条約の第二条Cには、次のように記載されています。日本は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 「権利、権原及び請求権を放棄する」というのは、日本が当該エリアの領主としての権利、日本がその権利を得ることになった原因となった権利、および、そのエリアに関する租税等の請求権を放棄する、ということです。 このことは、ものすごく簡単に詰めていうと、領土としての「処分権」を放棄した、ということです。ちなみに「処分権を放棄」することは、「主権を放棄」することと、まったく意味が異なります。 わかりやすくたとえていうと、Aさんが自分が所有している(主権を持っている)携帯電話の処分を、Bさんに委ねたとします。 そのとき携帯電話は、 Aさん=所有者 Bさん=処分権者です。 Bさんが処分先をCさんと決めれば、Aさんは約束通りCさんに携帯電話の所有権移転の契約を締結し、携帯電話はCさんのものとなります。 領土の場合は、これを「割譲」といい、「割譲」には割譲するための「条約の締結」が必要です。 条約によって、晴れてその領土はCさんのものとなるわけです。 たとえば日清戦争のあとの下関条約で日本が台湾の割譲を受けたといったように、です。 ところが携帯電話の処分をBさんに委ねたものの、Bさんがその後、何もしなかったら、その携帯は誰のものでしょうか。 当然に携帯電話は、もとの所有者であるAさんのままです。 北方領土についてみると、日本は連合国に北方領土の処分権を委ねましたが、いまだ連合国は北方領土の処分先を決めていません。 決めたという条約もありません。 一方ロシアは、北方領土を実効支配していますが、サンフランシスコ講和条約にロシアははいっていません。 ということは北方領土は、単にロシアが軍事占領しているだけであって、条約に基づく本来の所有者(=主権者)は、日本のままということになります。 なにも欲張って言っているのではありません。 国際条約や法を大事にするという考え方でいけば、そういう結論にしかならないということなのです。 日本は、千島、樺太の処分権を、サンフランシスコ講和条約の相手国である連合国に提供しました。 けれど日本が処分権を放棄した後、千島、樺太が、どこの国のものになるのかは、サンフランシスコ講和条約には明記されていません。 加えて、いま千島・樺太を占拠しているロシアは、サンフランシスコ講和条約に参加していません。 つまり講和条約に基いて領土を受け取る当事者としての資格がありません。 ソ連は、千島、樺太を「軍事占領」していますが、日本とソ連(あるいは現ロシア)との間で、千島樺太に関する領土割譲の条約の締結はありません。 連合国側が、ソ連に対して千島樺太を売却もしくは譲渡したという記録もありません。(ヤルタ協定で密約があったと一時ソ連は主張していましたが、最終的にその主張をひっこめています。) つまり千島も樺太もいまだに日本の領土であり、当該領域の主権者は、実は「日本が保有したまま」ということになります。軍事占領は、主権の剥奪を意味しない もうひとつ申し上げると、ロシアが千島・樺太を軍事占領しても、領有権はそれだけでは移転しません。このことは、「イラクを米軍が軍事占領しても、イラクの領土が米国領になるわけではない」ことを見れば、簡単にご理解いただけようかと思います。 イラクのフセイン政権は、米国と戦争しました。イラクは破れ、フセイン政権も倒れ、米国はイラクを軍事占領しました。 しかし「米軍がイラクを占領した」という事実は、イラクが米国の領地になった、つまりイラクの主権者が米国になったということを意味しません。 世界中の誰も、そんなふうに思ってもいません。 「軍事占領」するということと、「領土の主権を得る」こととは、まったく異なることだからです。 ついでに申し上げると、同じことは大東亜戦争の終期においてもいえます。日本は連合国(代表は米国)が軍事占領しました。 けれど米軍は、日本を領有したわけではありません。あくまでも連合国軍の総司令部(GHQ)として、一時的な軍事占領をしただけです。 つまり日本の主権は日本にあります。ですから日本の軍事占領にあたって、GHQは、日本の主権は日本人にある、と宣言しています。 これが日本国憲法における「主権在民」の意味です。 つまり日本国憲法における「主権在民」は、連合国が日本を軍事占領するに際して、それが日本の領有を意図したものでなく、あくまでも一時的な軍事占領にすぎないことを宣言した文言、ということになります。 軍事占領は、主権の剥奪を意味しませんから(イラクの例に明らかです)、日本の主権は日本にあります。 そして日本に新たな独立政権が誕生する、もしくは元の大日本帝国に戻るとき、日本の主権は当該政権が担うことになる、そういう意味です。 従って「主権在民」は、「軍事占領」とセットの概念です。 主権在民(もしくは国民主権)を、軍事占領と切り離して考えると、非常におかしなことになります。 主権というのは、領土に関する排他的な絶対権だからです。 当然に交戦権をも含みます。 ということは、日本人のひとりひとりが日本の最高主権者ということになります。 日本人のひとりひとりが日本国の領土領海全部のオーナーです。 ということは、いまこれを読んでいるあなたのお隣のお宅は、あなたのものということです。 お隣さんがそれを認めないなら、あなたには交戦権があります(笑)。 要するに主権在民というのは、イラクを連合国が軍事占領して一時的に統治するけれど、あくまでイラクの主権者はイラクの民衆にありますよ、ということと同じ意味でしかないということです。 同様に日本国憲法というのは、日本が占領統治された期間における、「連合国占領統治領日本」のための一時的な軍事占領下における統治憲法であり、主権はあなたがた日本人にあるのですから、いずれ占領が解けた時点では、あなたがたの主権者となる政府もしくは君主とともに、その後の主権者や憲法を確定しなさいという意味のものでしかない、ということになります。 イラクの主権は、イラク国民が持っています。主権在民です。 占領統治下にあっても、日本の主権は日本国民がもっています。主権在民です。 なぜなら軍事占領と領土主権は意味が違うからです。 日本は戦後、GHQによる占領統治を受けましたが、日本は占領統治を受けただけで、日本が連合国の領土になったわけではありません。 そのことは昭和27年のサンフランシスコ講和条約の第一条に明確に書かれています。 そのサンフランシスコ講和条約には、「日本と連合国との戦争状態の終了」がうたわれています。 つまり、サンフランシスコ講和条約の発効の日まで、日本と連合国は「戦争状態」にあったのです。 そして「戦争状態が継続」していたから、講和条約で、日本と連合国は「戦争を終わらせた」と、これはそういう意味の言葉です。 すこし余計なことを書くと、では戦争をしていた当事者は誰なのか、という問題があります。 一方の当事者は米国に代表される連合国(United Nations)です。 そして戦争は、交戦相手があって、はじめて行われるものです。 連合国の相手国である戦争当事者は、間違いなく日本です。 そして戦争をしていたのは、江戸幕府の徳川政権でもなければ、豊臣秀吉政権でもありません。 さらにいえば、軍事占領下にあって占領憲法である日本国憲法を持つ「連合国軍統治領日本」の政権でもありません。 戦争をしていたのは、大日本帝国政権です。左はひまわり7号、右は8号が北海道や樺太付近を撮影した画像(気象庁提供) ということは、戦争をしたのも講和をしたのも、その戦争当事者は大日本帝国です。ですからサンフランシスコ講和条約に「全権」として調印文書に署名した吉田茂全権は、占領統治下の日本国憲法が規定する内閣総理大臣としてではなく、大日本帝国の君主である天皇の名代として署名しています。だから「全権」です。 そして日本がこの条約によって、あらためて独立国として主権を回復したということは、その時点で占領統治憲法は効力を失い、日本は大日本帝国憲法下の日本に戻ったということができます。なぜなら戦争は、占領統治日本としてではなく、大日本帝国として戦争していたからです。 講和条約を、占領統治下日本が締結したというのは、理屈が成り立ちません。占領統治下日本は、連合国の下部組織であり、そうなると双方代理にしかならないからです。日本国憲法が「占領統治憲法」としては有効でも、サンフランシスコ講和条約施行後は無効であるとする議論の根拠もここにあります。 ちなみに、朝鮮半島の場合は、サンフランシスコ講和条約の第二条Aで、日本は、朝鮮の独立を承認して、斉州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。とあります。日本は、朝鮮の独立を承認し朝鮮半島を領有する権原を放棄したのです。すなわち朝鮮半島は、独立した朝鮮のものです。 連合国が朝鮮半島の独立政権として認めたのは、大韓民国、つまり韓国です。従って国際法的には、北朝鮮は国家でなく「金一族という軍閥が実効支配するエリア」であるということになります。一方、台湾については、千島樺太と同じで、サンフランシスコ条約で、日本は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 とあります。つまり、台湾は日本の九州、四国、沖縄同様、日本一部でしたが、その処分権を連合国に委ねたわけです。 けれど台湾も、北方領土と同様、処分先が明記されていません。そしていまだに連合国も日本も、台湾の日本領土からの割譲条約を、どこの国とも締結していません。 台湾は、終戦直後に、蒋介石率いる支那国民党が軍事占領しましたが、いまなお軍事占領のままです。台湾の割譲条約は、日本と、いま台湾にいる蒋介石政権との間に結ばれていませんし、連合国が蒋介石政権を台湾政府として領土を割譲するという条約を締結した事実もありません。 台湾の場合は、戦後、蒋介石率いる国民党が、いわば進駐軍として台湾に入り込みました。そしていまなお、国民党は台湾に居座っています。これが何を意味するかというと、亡命政権である、ということです。 亡命政権としては、いまインドに亡命しているチベットのダライ・ラマ14世の政権があります。ダライ・ラマ14世は、中共政府の人民解放軍がチベットを軍事制圧後、インド北部のダラムサラに亡命して、チベット亡命政府を作っています。しかし、だからとって、インドのダラムサラが、ダライ・ラマ14世を主権者とするチベットの領土になったわけではありません。 同様に台湾には、いまもともと蒋介石が作った中華民国政権が居ますが、それは亡命政権であって、台湾が中華民国になったわけではありません。では、台湾の国際法上の領土主権者は、今現在どこにあるかといえば、答えは日本です。公式な千島、樺太の領有権者は日本 だいぶ話が脱線しました。北方領土に話を戻します。 そもそも日本が千島列島を領土としたのは、たいへん古い話です。江戸時代の元禄13(1700)年(赤穂浪士討入りの1年前)、この年松前藩が「全千島列島」を藩の知行地として幕府に届け出ました。 その後、ロシアの囚人たちが北千島に乱入してきたり、日本とロシアとの間で様々なトラブルがあり、安政元(1855)年、日本とロシアとの間で「日露和親条約」が締結されました。この条約によって、南千島を日本領、それ以北(中部千島、北千島)をロシア領とすることが定められました。要するに日本が南千島四島を領有する権原が確定したのです。 ところが日露和親条約で「樺太は日露混在の島」と、曖昧な取り決めをしたため、安政3(1856)年のクリミア戦争後、大量のロシア人が樺太に入り込み、日本人との間でトラブルが頻発するようになりました。この問題は、日本国内の政権が明治新政府に移ってからも尾をひきました。 そこで明治7(1874)年に榎本武揚が特命全権大使としてロシアに赴き、 (1) 日本は樺太を放棄する。 (2) 代わりに千島列島の全部を日本領とする。 という2点を要点とする「樺太千島交換条約」をロシアとの間で締結しています。明治8(1875)年5月7日のことです。 この条約は、両国が署名した地名をとって、サンクトペテルブルグ条約とも呼んでいます。 その後日本とロシアとの間には、明治37(1904)年に日露戦争が勃発しました。この戦後処理を行う条約が、明治38(1905)年9月5日に締結されました。これが、サンフランシスコ講和条約に記載されたポーツマス条約です。この条約によって、日本は樺太について、北緯50度以南を日本の領土としてロシアから割譲を受けています。(千島列島の全島は明治7年の時点ですでに日本領です)。前出のサンフランシスコ講和条約をもう一度掲載すると、日本は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。 となっています。日本は、千島列島と、樺太の南半分の「処分権」を、ここで放棄したわけです。サンフランシスコ講和条約に署名する吉田茂首相=1951年9月8日(共同) このサンフランシスコ講和の時点で、すでに千島と樺太は、ソ連が軍事的に実効支配していました。 これは軍事占領しているだけで、いまだ日本との間で領土の割譲条約が締結されていません。 また、サンフランシスコ講和条約にソ連は名を連ねていません。では「公式な千島、樺太の領有権者は誰なのですか?」といえば、答えは「日本だ」という答えにしかならないのです。 ですから平成17(2005)年には、欧州(EU)連盟の議会でさえも、日本の北方領土を日本へ返還するようロシアに求める決議を採択しています。 そうでなければ理屈がなりたたないからです。 サンフランシスコ講和条約締結後、60年も経ち、いまやソ連さえもなくなったにも関わらず、ロシアが樺太、千島を占領し続ける法的根拠はどこにもないからです。 加えて日本国政府は、この問題を軟着陸されるために、もともとの日本領である南千島のみだけでも、日本に返還するようにと、ソ連、そして現代ロシアに対して求め続けています。 そして麻生内閣の時代、麻生総理はロシアのプーチンとの対談し、この北方領土返還については、「我々の目の黒いうちに最終決着をしましょう」とまで、話を煮詰めてきていたのです。 ところが日本の国政が、民主党政権になるやいなや、鳩山民主党政権は、国民からまったくみえないところで、日本の税金台帳から、北方領土の記述を消してしまったわけです。 これこそ実にとんでもない、売国行為です。 とくに千島列島沖合は、北方漁業の大産地であり、我が国の食に書かせない領域です。 魚貝類は日本人にとっての貴重なタンパク源です。 最近では、韓国産の魚貝類が大量に日本にはいってきていますが、韓国産の海産物は大便によって汚染され、大腸菌等が基準値を大幅に上回ることから、いまや世界中、中国でさえも、いまや輸入規制品です。 要するに、本来なら海産物は日本産がいちばん安全なのです。 しかも千島列島産の海産物は、非常においしくて、量も豊富です。 だから終戦まで、千島列島最北端の占守島に、ニチロの海産物缶詰工場があったのです。 そこで作られた魚介類の缶詰が、遠く南方戦線にまで送られていたのです。 そういう我が国にとって大切な領土問題について、私達はもっと大切に考えて行かなければならないのではないか思います。 (「小名木善行 ねずさんの ひとりごと」2016年1月30日分を転載)

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    「昭和の参謀」瀬島龍三氏 日本兵シベリア売り渡し説の真偽

    で死亡したシベリアの悲劇について、瀬島氏は多くを語ることなく2007年にこの世を去った。関連記事■ ロシア紙「ロシアは北方領土を日本に返還すべき」コラム掲載■ 明治から昭和を馬と共に生き競馬界の礎となった者たちの物語■ 片岡愛之助 水野晴郎『シベリア超特急』最新作出演計画浮上■ 15万円防犯犬 人になつき過ぎ不審者から頭なでなでされる■ 森喜朗氏 父母眠るロシアに骨埋めると宣言しロシア聴衆感銘

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    大前研一氏 北方4島は米国がソ連に“戦利品”として与えた

     プーチン氏が大統領に返り咲いたロシアと日本の間には、遅々として進まない北方領土問題が横たわる。大前研一氏はこの北方領土について、日本人の間に「2つの誤解」が存在するという。以下、大前氏の解説である。 * * * 1つは、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、宣戦布告なしに北方領土に侵攻して占領した、というものだ。 たしかにソ連は1945年8月8日に日ソ中立条約の破棄を宣言したが、同条約に破棄や失効に関する規定はなかった。宣戦布告は「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」として条約破棄と同時に在モスクワの日本大使館に行なったと主張している。 そしてソ連軍は8月9日午前零時に戦闘を開始、11日には日露戦争で日本が奪った南サハリン(南樺太)に攻め込んだ。しかし、千島列島(クリル諸島)の択捉島と国後島、色丹島、歯舞群島を占領したのは、日本が無条件降伏して大本営が正当防衛以外の即時停戦命令を出した15日以降のことである。 しかも、ソ連がドイツ降伏後3か月以内に日ソ中立条約を破棄して対日参戦する見返りに、サハリン南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すことは、1945年2月に行なわれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、ソ連のヨシフ・スターリン書記長によるヤルタ会談の協定(ヤルタ秘密協定)で決まっていた。 それに従ってソ連は、ドイツが無条件降伏した5月8日の約3か月後、日本に宣戦布告したのである。 また、終戦直後にスターリンは、ルーズベルトの後を継いだハリー・S・トルーマン大統領に、北海道を南北に分割して北半分をよこせと要求している。しかし、日本をドイツのようにしたくないと思っていたトルーマンはこれを拒否した。 つまり、北方4島はソ連が侵略したのではなく、アメリカが“戦利品”としてソ連に与えたわけで、日本は4島を失った引き換えに北海道の南北分割を避けられたとも言える。これは当時のアメリカの公文書に残っている明確な事実だ。 もう1つの誤解、というか日本国民があまり知らない事実は、日本政府が「4島一括返還」を要求することになったいきさつである。実は4島一括返還は日本政府が自ら言い出したのではなく、1956年8月、アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官が日本の重光葵外相とロンドンで会談した際に求めたものだ。 当時、日本政府は北方領土問題について歯舞、色丹の2島返還による妥結を模索していたが、アメリカとしては米ソ冷戦が深まる中で日本とソ連が接近すること、とくに平和条約を結んで国交を回復することは防がねばならなかった。そこでダレスはソ連が絶対に呑めない国後、択捉も含めた4島一括返還を要求するよう重光に迫り、2島返還で妥結するなら沖縄の返還はない、と指摘して日本政府に圧力をかけたのである。 それ以降、日本の外務省は北方4島は日本固有の領土、4島一括返還以外はあり得ない、という頑迷固陋な態度を取るようになった。つまり、4島一括返還はアメリカの差し金であり、沖縄返還とのバーターだったのである。関連記事■ 北方領土問題はなぜ解決しないのか 佐藤優氏がその背景解説■ 北方領土に本籍置く人194名 「子供達に故郷だと伝えたい」■ ロシア紙「ロシアは北方領土を日本に返還すべき」コラム掲載■ 元外交官が「米国にとってネットは言論操作の場所」と説く書■ 「北方領土問題と竹島問題は無関係ではない」とロシア通指摘

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    「核戦争も辞さず」プーチンの深謀遠慮

    「核戦力を臨戦態勢に置く用意があった」。クリミア併合から1年、ロシアのプーチン大統領の発言は世界に衝撃を与えた。その後もクリミアに核爆撃機の配備を検討するなどロシアは軍拡路線をひた走る。しかし、強気のプーチン氏にも危うさは存在する。それは「砂の国」ロシアの宿命でもある。

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    核の恫喝を弄するプーチン戦術 愛国心鼓舞のデモンストレーションだ

    木村汎(北海道大学名誉教授) ロシアのプーチン大統領は、狼(おおかみ)少年なのか。核兵器の増強や実際の使用可能性をちらつかせて、米欧諸国を牽制(けんせい)しようとする発言が目立つ。 例えば今年3月15日、同大統領は語った。ロシアがウクライナ南部クリミアを併合したとき、ロシアは米欧の反対に備え自らの核戦力を臨戦態勢におく準備をしていた、と。まるで「鶏を割くに牛刀を用いる」に似た過剰防衛策である。単なる脅しにすぎないにせよ、米欧は呆気(あっけ)にとられた。 6月16日、大統領は再び衝撃的な発言を行った。ロシアは、今年中に新たに40基以上の大陸間弾道ミサイル(ICBM)を配備する、と。大統領は、なぜこのように核をめぐる過激発言を繰り返すようになったのか。対外用、対内用、さらには自身のサバイバルを図ることが狙いのようである。頼りうるのは軍事力だけ まず、対外的な誇示もしくは威嚇が、その目的だろう。現ロシアは、沈みゆく大国といってよい。人口、経済、ソフトパワーなど殆(ほとん)どの点で徐々に、だが確実に衰退してゆく存在である。唯一の強みだったエネルギー資源もシェール・ガスの開発、原油価格の下落傾向などによって、ロシアの大国復活を期待薄にする。結果として頼りうるのは軍事力だけになる。 ロシアの国防支出は2014年に、絶対額で米国、中国に次いで世界第3位。ロシアの国内総生産(GDP)は世界第8位以下だから、己の経済力を超える軍備増強を行っていることは明らかだ。実際、GDPに占める割合は4・5%で、米国(3・5%)、中国(2・1%)を上回っている。 兵器別でいうと通常兵器の分野で、ロシアは米国に到底敵(かな)わない。08年夏のロシア-ジョージア(グルジア)の「5日間戦争」は、ロシア第58師団の装備がジョージア軍のそれを上回る一方、ジョージア軍が米欧から提供されている装備に比べると、著しく劣っている事実を白日の下にさらした。ロシアのウクライナ東部への事実上の軍事介入も、ほぼ同様のことを暴露している。ロシアは、中国、インド、東南アジア諸国へ通常兵器を輸出する一方、フランスからはミストラル級強襲揚陸艦を輸入することに懸命になっていた。サバイバル確保のための言動 要するにロシアは、己が米国とほぼ対等なのが核兵器だけなので、同分野での優位を死守し、誇示することに躍起となるのだ。 プーチン発言は、ロシア国内向けのデモンストレーションでもある。クレムリンに復帰して以来、プーチン氏の内外政策の要となっているのは、米欧諸国がロシアのレジーム・チェンジ(体制変革)をたくらんでいるとみなすこと。そして、そのような外敵と闘うベストの手段として、ロシア国民の愛国心に訴える手法を選んでいる。 プーチン政権は、原油価格の低落傾向などによって、もはやロシア国民に対し2000年代はじめのような右肩上がりの物質的生活水準の上昇を保障しえなくなった。このことからも、同政権は己の統治の正統化根拠を、ロシア独自の伝統や文化といった精神的価値の尊重・維持へと転換した。 加えて、14年初めにはウクライナで「マイダン(広場)革命」が勃発し、一瞬のうちにヤヌコビッチ大統領が失脚へ追い込まれた。これは、明らかに米欧諸国の「使嗾(しそう)」によって起こった出来事。もしロシアが引き締め政策に転じなければ、何時(いつ)なんどき自らも同一の運命に見舞われないともかぎらない。プーチン氏はこう考えて、己のサバイバルを確保するためになりふり構わぬ言動を示すようになったのだ。事実認識間違えている宥和論者 プーチン政権によるクリミア併合、そしてウクライナ東部への介入は、ロシア国民のナショナリズムを高揚させ、プーチン個人の支持率を向上させることに役立つ。ひいては、18年の大統領4選を確実にすることにも貢献する。だが、核戦力の増強、ましてやその使用可能性をちらつかせるのは、国際政治上の禁じ手のはずである。 それにもかかわらず、プーチン氏はこのような「ウルチマ・ラティオ(最後の手段)」に訴えはじめた。それほどまでも追いつめられたロシア大統領は、次は一体何を仕出かすか、分かったものではない-。ひょっとすると、こう早とちりする者すら現れるかもしれない。そうなればまさにプーチン氏の思う壺(つぼ)だろう。それは、北朝鮮の歴代指導者たちが得意とするマッドマン(狂人)イメージの伝播(でんぱ)戦術に他ならないからである。 「手負いのクマ」を追い詰めると実に危険なので、プーチン氏のためにそろそろ何らかの脱出口を用意すべき段階に差しかかっている。このように説く宥和(ゆうわ)論者は、しかしながら、事実認識そのものを間違えている。 ウクライナ危機、ルーブル安、経済制裁など現ロシアを見舞っている諸困難は、プーチン氏の不適切な政策が招いた結果に他ならないからだ。つまり大統領自身が決断しさえすれば、明日にでも一挙に解決へ向かう事柄なのである。

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    鈴木宗男が説く 北方領土、まず二つ還してもらうのが現実的だ

    領土問題はない」と言っていたんです。だから日本は強く出たのです。 しかし平成3年、ソ連は自由と民主のロシアに変わりました。それから日本が段階的な解決論に方針転換したんです。つまり、四島の帰属が認められれば返還時期は差があってもいいと。そのことも勉強しないで、鈴木宗男は二島先行返還だとか二島ポッキリだとか国賊だとか言われました。 少なくとも鈴木宗男がやっていたときは、一番、島が近づいたんです。それが、私がいなくなってから島は離れてしまいました。特に小泉政権です。小泉さんは日ロ関係について過去の経緯も知らない。田中眞紀子外務大臣はもっと知らない。その結果、空白の日ロ関係10年になったわけです。本当に外交というのは積み重ねなんです。私の考えを実践していれば、もう四島は還ってきたと思います。ロシアのプーチン大統領(右)と会談する森喜朗首相=2001年3月25日(タス=共同) 私は、森総理時代の平成13年3月25日、イルクーツクでの森・プーチン会談、あのときが一番、島が近づいたときだと思っています。しかし、小泉政権になって、逆に島は離れていってしまった。そして今、安倍さんが解決へ意欲を見せていて、これに期待するしかないと思っています。 交渉を前進させるためにはどうすればいいか。やはり国家主権に関わる問題はトップの判断しかないんです。プーチン大統領は85%の世論支持があります。ロシアは大統領がこうだと判断すればそれで決まりです。あとは日本です。安倍さんのやる気と強い世論支持のあるプーチン大統領の力を生かすしかないと思っています。 やはり物事には順番があります。先に四島を還せと言ったら話し合いになりません。プーチン大統領もラブロフ外務大臣も、平和条約締結の後は日本に還すとした1956年の日ソ共同宣言は、日本の国会も批准し、ソ連の最高会議も認めた法的拘束力のある約束で、同時に平和条約がなくても日本に還すと公に話されております。ロシアの最高首脳がそう言っているわけですから、日本はこれに乗るべきです。 まず二つ還してもらう。残り二島については日本に帰属するかロシアに帰属するかを話し合う。これが現実的な判断だと思っています。要は、安倍さんがどういうカードを切るかにかかっていると思うんです。 そのためにも日本が、ウクライナ問題で欧米の考えに乗る必要はないのです。停戦合意ができた以上、もうロシアの経済制裁などしないと日本が言うべきなんです。 6月のG7首脳会議でも、本来、日本が経済制裁をやめようと口火を切るべきでした。そうする事によって、ロシアとの信頼関係が出来るのです。 安倍首相は「北方領土問題は国民全体の問題であり、ロシアとの交渉を進展させるためには、政府と国民とが一丸となって取り組む事が重要だ」と述べていますが、領土問題はお互いにギリギリのところで決断を下さなければ解決できない。その「ギリギリ」を理解したうえで、交渉を見守ることが大切です。そうして初めて政府と国民は一丸となって北方領土問題に取り組む事が出来るのです。 領土問題、なかんずく国家主権に関わる問題は、トップリーダー・最高首脳の判断でしかありません。 安倍首相も過半数の世論支持を得ており、プーチン大統領は85%近い世論支持があります。この強い二人のリーダーによる決断しか北方領土問題の解決はないと思います。 外交は積み重ねであり、相手があります。日本の主張だけが通り、ロシアの主張は通らない、これでは外交ではありません。 外交はお互いの名誉と尊厳がかかっております。国益の観点に立ち、お互い良かったと言える外交が、良い外交だと私は考えます。 安倍首相は、父上であった安倍晋太郎先生が政治家として、最後まで日ソ関係をダイナミックに進展させたいという、まさに体の張った情熱を一番そばで見てきたと思います。 是非とも、その安倍晋太郎先生の思いを安倍首相には、実現して欲しいと願ってやみません。

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    対露外交で得点狙う安倍首相に不安

    家、元外務省主任分析官) 水面下で日露関係が動き始めている。きっかけは、6月24日夜、安倍晋三首相がロシアのプーチン大統領にかけた電話だ。約30分の電話会談で、安倍首相は、<プーチン氏が年内に来日する方針を確認した。ウクライナ情勢に関して欧米と歩調をあわせる安倍首相は、ロシアが平和的、外交的な解決に向け、停戦合意の完全履行など建設的な役割を果たすよう要請した>(6月24日「産経ニュース」) 7月になって、クレムリン(ロシア大統領府)から、興味深い情報が流れてきた。ポイントは4点になる。 (1)プーチン氏は、安倍首相が電話をかけてきたことを、日露関係正常化に向けたステップとして高く評価している。安倍首相に対するプーチン氏の個人的信頼感は一層強化された。 (2)会談後、プーチン氏は訪日準備を行うとの方針を確定し、ロシア外務省に対して「日本外務省と協議せよ」と指示した。 (3)クレムリンでも訪日の時期とテーマに関する協議が始まった。関係省庁に対する資料要求も行われている。クレムリンは10月末から11月初頭のプーチン氏訪日を考えているが、具体的日程については日本側の提案を待っている。 (4)訪日では合意文書を作成しなくてはならない。経済的、政治的成果として何が達成されるか、またクリル諸島(北方領土)をめぐる交渉でどのような展望を見いだせるかが、現時点ではまったく明らかになっていない。プーチン氏訪日の狙い会談を前にロシアのウラジーミル・プーチン大統領(右)と握手を交わす安倍晋三首相=2014年11月9日、北京(共同) 今回の日露首脳電話会談を踏まえ、日本外務省もプーチン氏の訪日に向けた準備を始めている。もっとも、外務官僚は安倍首相の強いイニシアチブがあるから仕事をしているのであって、内心では「プーチン氏訪日が実現すると日米関係に悪影響が及ぶのではないか」ということを真剣に心配している。 事実、米国はホワイトハウスも国務省も日露接近を歓迎していない。むしろプーチン氏は、このあたりの事情をわかった上で、日米間にクサビを打ち込もうとしている。プーチン氏の狙いは、G7(先進7カ国)によるウクライナ問題をめぐるロシアへの制裁を解除させることだ。その上で、安倍首相のイニシアチブで、来年の伊勢志摩サミットにプーチン氏が出席し、G8への復帰を果たすことを狙っているのではないかと筆者はみている。 プーチン氏の訪日準備に踏み込むことによって、日本は米国との関係において、かなり面倒なリスクを負うことになる。 日本外務省は内部にさまざまな見解の相違があっても、首相官邸が明確な方針を定めれば、その方向に向けて動く。しかし、ロシア外務省の事情は異なる。ロシアの外交官は、日本との関係を前進させるためには、北方領土問題でロシア側が譲歩しなくてはならないと認識している。しかし、譲歩した場合にロシア外務省が負わなくてはならないリスクが大きすぎる。従って、ラブロフ外相を含め、上から下まで、北方領土問題については強硬姿勢を崩していない。ロビー活動が不可欠 北方領土問題で日本がクレムリンに直接アプローチして、パトルシェフ安全保障会議書記やセルゲイ・イワノフ大統領府長官ら、ロシア外務省の意思を覆すことができるプーチン氏側近を通じた権力中枢へのロビー活動が不可欠になる。NSC(国家安全保障会議)谷内正太郎事務局長には、その役割が期待されているのであろう。 歴代の日本政権をみていると、権力基盤が弱体化し始めると、外交で得点を稼ごうと考える。そのとき選ばれるのが北朝鮮かロシアだ。安倍政権の支持率も下がり始めている。日朝関係が劇的に改善する可能性は低い。このような状況で、安倍政権には、対ロシア外交での得点の可能性が実態よりも大きく見えているのかもしれない。不安を覚える。

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    ロシアが抱えるプーチン・リスク

    佐々木正明(産経新聞外信部)国民の前で吐露した苦悩 国家を率いて今年で15年になるロシアのウラジーミル・プーチン大統領の政治理念を垣間見る場面があった。 4月、大統領が国民の質問に直接答える毎年恒例の番組「国民の対話」での一幕。4時間にわたって繰り広げられた生放送の中で、アレクセイ・クドリン元財務相がかつての上司に厳しく立ち向かった。プーチン氏とはサンクトペテルブルク市政時代からの古い付き合いで、2008年までの第1、2期のプーチン政権のもとで国家財政を切り盛りした。今は閣外にいるが、プーチン氏に直言できる数少ない経済専門家だった。 番組の視聴率は60%にも達した。全土でおよそ数千万人の国民が見守る中、クドリン氏は司会者に促され、「こんにちは。ウラジーミル・ウラジールビッチ(尊敬をこめた呼び方)」と静かな物腰で切り出した。こうして二人のやりとりは始まった。 「あなたの最初の大統領任期のとき、経済成長率は7%を超えていましたね。石油価格が1バレル30ドルだったにもかかわらずです。しかし、現在の任期では成長率は1.5%に過ぎず、世界全体の成長平均より少ない。我々がどんなに頑張っても、2018年までの期間、私が予測する数値は非常に厳しいのです。古い経済システムが経済発展の潜在性をむしばんでいる。大統領、あなたは我々にどんな新しい発展モデルを創設してくれるのか?」 「アレクセイ・レオニードビッチ。私はあなたと長い間、一緒に働いてきた。それだけでなく、いまもとても友好的な関係にある。私はあなたの立場をよく理解している。あなたが予測した事柄は実際、起こりうることに非常に近い」 プーチン氏は最初、笑みを浮かべていた。時々、テレビカメラが映し出すクドリン氏も余裕の面持ちだった。しかし、会話が進むにつれ2人のゆとりは消え、次第に真剣な表情に変わっていった。 「君が描いている発展モデルの青写真はこうだろうね。ビジネスを改善するための環境づくりを行う。民間投資部門の改善を行う。もちろん、国家運営全体のシステムを大幅に改善する。政府も民間セクターも法治体制を確立しなくてはならない」柔道・世界選手権の観戦に訪れ、観客の声援に応えるロシアのプーチン大統領(中央)=2014年8月31日、露チェリャビンスク(共同) プーチン氏は身振り手振りをまじえながら「言うは行うより易し」として軽くクドリン氏の提言を諫めた。そうして、「非常に困難な課題なんだ」とも言った。強いリーダーであろうとするプーチン氏が国民の前で改革に踏み切ることの苦悩を吐露する場面は珍しい。2人の長年の仲があってこそ引き出された言葉とも言える。 クドリン氏はこれまでも、軍事費を含めた大幅な公費削減を実現すべきと主張してきた。年金システムを改革するため、定年年齢を引き上げるべきという具体策も提案した。全てはこの経済危機を乗り切るためだ。まさに今こそ「痛みを伴う改革が必要だ」と力説していた。会場が静まりかえる中、プーチン氏はクドリン氏に語りかけた。 「論理的にも君が言っていることは正しいよ。経済政策を完全にするためには頭脳が必要だ。でも、国民が我々を信頼してくれるためには、ハートが必要なんだよ。人々がどのように暮らしているのかを知り、改革がどのような影響をもたらすのかを感じなくてはならない。信頼が維持できれば、人々はこの状況に我慢してくれるだろう。でも、われわれが信頼を裏切れば、状況は1990年代初頭に逆戻りする。私はそう思っている」終焉を迎えた「プーチン流発展モデル」 プーチン時代とは、ソ連崩壊に始まる1990年代の危機で失った社会の安定と、国家のプライドを修復する期間だった。プーチン政権下で、主要輸出品の石油の値段が急騰して経済発展を遂げ、国民は豊かな生活を取り戻した。 しかし、多くのロシア国民が、ハイパーインフレと物不足に陥ったあの悪夢のような日々を忘れたわけではない。日本人にとっての戦後の焼け野原や東日本大震災後の国難のように、窮状を極めた90年代は、21世紀に生きるロシア人の原風景として今も刻まれている。何としてでも国家崩壊の間際にあった90年代に時計の針を戻したくないのだ。21世紀の国父が政治ショーで言った「信頼」と「我慢」の言葉は、リベラル派の論客の「痛みを伴う改革」の進言を打ち消し、政権の求心力を保つのに十分な役割を果たした。 ロシアは1991年の独立以来、いま4度目の経済危機を迎えていると言われている。2014年の経済成長率はプラス0.6%。さらに15年はマイナス4%にまで落ち込むとの予測が出ている。昨年の資本流出は1500億ドルを超え、予算不足から2018年W杯開催など主要プロジェクトさえも計画の後退を余儀なくされている。資源を外国に売って得た資金を国民の生活向上に使うという、この15年間の「プーチン流発展モデル」は終焉を迎えたとも指摘されている。 引き金を引いたのはウクライナ危機に伴う欧米の対露制裁と通貨ルーブル安、そして、原油価格の暴落というトリプルパンチだった。 しかし、以前から予兆は指摘されていた。 2008年のリーマンショックの後まもなくして、各国のアナリストからロシアは停滞期に向かうとの分析が出ていた。原因は資源依存型経済から脱却し、経済の多角化を図ることができなかったことだ。汚職体質、中央集権構造もビジネスの新規参入を阻み、そのひずみはすでにウクライナ危機が起こる前の2014年初頭には各地で現われていた。 振り返ると、プーチン氏はこの構造不況が確実に到来することをにらみ、第3期目に就任した2012年の時点で先手を打っていたように思える。ロシアには欧米型社会とは相いれない独自の伝統社会があると何度もアピールし、改革派の取り締りやメディア規制の強化、外国のNGOの締め出しのための法整備を進めた。そして、経済の低迷という政権の求心力を失いかねない状況から、人々の不満や関心をそらした。 すなわち、それは国民の愛国心を鼓舞し、冷戦時代と同様に敵国の脅威を鮮明にすることだった。国内の反体制派に対しては、ソ連時代に使っていた「裏切り者」を意味する「第五列」呼ばわりする。弾圧も進める。今年2月、クレムリンのすぐそばで何者かに暗殺されたボリス・ネムツォフ副首相(享年57)ももれなく「第五列」のレッテル張りをされた。そうして、あらゆる逆境の理由に「欧米がロシアを陥れようとしているのだ」という漠とした雰囲気を醸成した。 ところが、15年春を過ぎたあたりから、極端なルーブル安が緩和され、石油価格も上昇に転じた。このことからロシア国内でも強気の発言も飛び出すようになった。西側が試みる対露制裁は大きな打撃を与えない、というのだ。 6月19日、「ロシア版ダボス会議」と言われるペテルブルク国際経済フォーラムで、ロシア外務省人権・民主主義・法の支配問題担当のコンスタンチン・ドルゴフ全権代表は、会場に多くの外国の企業経営者らが参加した事から、「経済面などでロシアを孤立化させる試みは失敗しつつある」と語った。世界秩序の不安定化を引き起こした強気の姿勢世界秩序の不安定化を引き起こした強気の姿勢 こうした時代の空気はロシアで実施される世論調査で浮き彫りになっている。数々の調査で、如実な結果が出るのだ。ウクライナ危機勃発後、プーチン政権の支持率が8割を超えているのは日本でも度々報じられているが、他にもこんな数字がある。 昨年7月にウクライナ東部で発生したマレーシア機撃墜事件は81%が「ウクライナ軍の仕業」と答える。対して「ウクライナ東部の親露派勢力の仕業」は3%、「ロシア軍の仕業」はたった1%に過ぎない。 さらに別の質問でも、88%が「プーチン大統領の仕事を認める」とし、「プーチン批判の外国の報道は、ロシアを崩壊させるのが狙い」という問いも82%が「そうだ」と答える。あまりにも一方的な回答結果は、政権によるメディア支配が利いている証拠と言えよう。 5月末に発覚したFIFA汚職事件でも、プーチン氏はすぐさまテレビ局のインタビューに応じて、ブラッター会長を擁護した。ブラッター氏はウクライナ危機のあおりを受けて、ロシアが孤立化する中でも、ロシアを度々訪れ、欧米で広がるW杯ボイコットの動きを牽制した。ロシアにとって、初開催となる2018年W杯は経済再興、国威発揚の上で重要イベントだった。 「われわれは、W杯ロシア大会の実施を禁止するため、ブラッター氏にかけられた圧力を知っている。FIFAとロシアとの間に一切、特別な関係を持っていないブラッター氏の立場も知っている。スポーツと政治は分離されなければならないというのが彼の原則的な立場なのだ。ブラッター氏は、スポーツは政治に肯定的な影響を与え、対話、和解、何らかの解決策の探索のための場所にならなければならないと考えている。これは完全に正しい立場ではないか」 世界のサッカー界を震撼させたFIFA汚職事件では、スイス、ブラジルなど各国の治安当局が捜査に加わり、10人以上の幹部や関係者が立件された。プーチン氏は幹部の拘束について「非常に奇妙なものに見える」と続け、捜査を主導した米国の陰謀論を展開していった。 「拘束されたのは国際的なメンバーだ。そのうちの誰かが何かに違反したことは推測できても、米国には何の関係もない。彼らは米国の国民ではなく、何かが起きたとしても、それは米国の領土で起きたのではない。これは、自国の管轄を他国に広げるというあからさまな試みだ。ブラッター氏のFIFA会長再選を阻もうとする明白な試みであることは疑う余地もない。国際団体の機能原則に対する重大な違反ではないか」 経済不況の影響で遅れる大会準備でも、不測の事態があれば「米国カード」を切り出して免罪符とするに違いない。いわく「米国が邪魔したのだ」と。 ロシアがウクライナ危機に乗じて南部クリミア半島に軍部隊を派遣し、半島を併合した際、欧米はしきりにロシアの脅威を訴え、「新冷戦の到来」とも言われた。 ソ連時代と比べて支配領土が減少したクレムリンの失地回復主義に基づき、国際法違反や近隣諸国の批判をものともせず、力による国境線の書き換えに挑む。そのためには部隊派遣や武器供給に止まらず、ガス供給の停止や特殊要員による転覆工作、サイバー攻撃なども手段として用いる。プーチン政権の姿勢は北大西洋条約機構(NATO)同盟国や近隣諸国の安全保障政策をがらりと変更させた。 プーチン大統領は今年3月、国営テレビで1年前のウクライナの政権転覆時に「核兵器使用の準備を軍に指示した」とさえ語った。この発言に関連し、カーネギー財団モスクワ・センターのドミトリー・トレーニン所長は英誌エコノミストに対し、「大統領の望みは、核の脅しを本気だと思わせることだ」と述べた。トレーニン氏は、核戦争勃発の危険性は1962年のキューバ危機以来最も大きくなっているとも解説した。もう一つの「プーチン・リスク」 クレムリンが引き起こした事柄に伴う世界秩序の不安定化や経済の混乱を「プーチン・リスク」と名づけるなら、リスクの現実化に備え、もう一つ想定しておかなくてはいけない仮説がある。 それはプーチン大統領自身の健康問題である。単刀直入に言うなら、プーチン大統領が執務不能に陥った場合、ロシアはカオスに陥るのではないか。日本の外務省ロシアンスクールのある高官がこう言った。 「中国とロシアの最大の相違点は、為政者がたとえ倒れても後継者がそのまま引き継ぐ盤石な政治システムが存在しているのか、権勢を誇る為政者が倒れれば何が起こるか分からない政治システム上の危険性が存在しているのかという違いだ」 ロシア人の悪夢である90年代の混乱の要因の1つが、心臓病を患ったボリス・エリツィン元大統領の健康問題にあったことは論をまたない。そして、国家の扇の要であるプーチン氏の代わりになりうる絶対的な候補者は現在、どこにも見当たらない。 プーチン氏は側近であるドミトリー・メドベージェフ氏を一時的に大統領に添え、後継者として育てる思惑があったのだろうが、「大統領時代は何もしなかった」とも揶揄されるメドベージェフ氏では海千山千の政治家や、力の省庁出身者の「シロヴィキ」たちはついてこない。 一方で、冒頭のエピソードで登場したクドリン元財務相は経済政策には精通しているが、軍事・外交面では未知数だ。国民に人気のあるセルゲイ・ショイグ国防相はリーダーに忠実な政権の番頭のイメージが拭えない。それでは、この核大国を誰が率いるのか? 実は、プーチン氏はこの3年間で2回ほど、行方をくらましたことがあった。1回目は2012年秋。9月初めのアジア太平洋協力会議(APEC)に出席した際に、足を引きずる姿が確認されたが、その後も健康不安説は尾を引き、同10月下旬から11月上旬にかけて表舞台から姿を消し、外遊を延期した。ペスコフ大統領報道官は柔道の練習で、プーチン氏が脊椎を痛めたと発表したが、真相は今でもわからない。 2回目は今年3月。イタリアのマッテオ・レンツィ首相との会談の後、10日間、行方知れずとなった。このときは、健康不安だけでなく、大統領の恋人とされる新体操の元オリンピック選手、アリーナ・カバエワさんの出産に立ち会ったとする情報も飛び交った。さらに、クーデターによる失脚説や死亡説まで出た。大統領は再び国民の前に現われたが、行方をくらました理由をはぐらかしたままだ。 双方の機会とも、「プーチンのいないロシア」という現実を突きつけられた。しかも今年3月のケースでは、大統領府発表のプーチン氏の動静が必ずしも、発表当日の出来事ではないことも明るみになった。これまでも、発表日付のトリックを使い、執務不可能な日があった可能性は拭いきれないのだ。「砂の国」ロシアの宿命 プーチン氏は2000年の就任後、政敵を排除して大統領の座を盤石にしたが、それは石油価格の高騰で沈んだ経済が回復するという奇跡的な追い風を受けたからだ。次の大統領がそうした運の良い巡り合わせを受けるかどうかはわからない。 プーチン氏は今年で63歳になる。ロシア人の男性の平均寿命に近づく。もし、現時点で不測の事態が起こったとしたら、ロシアに新たなリスクが突きつけられる。ウクライナ危機での難しい舵取りが迫られる中で、肉体的にも精神的にもタフな素質がなければロシアのリーダーはつとまらないのだ。 新潟県立大学の袴田茂樹教授は広大な国土に他民族が共存するロシアは、そもそも砂のようにサラサラと流れ動く特性を持ち、帝国主義や共産主義のような「規範」で固め、一定の枠で固めなければ、国家としてまとまらない宿命を持っていると説いた。 プーチンという規範がなくなったとき、「砂の国」ロシアは果たしてどうなるのだろうか?影響はどのように世界に広まっていくのだろうか?そして、北方領土問題を抱える日本との関係は? 大統領は今日も精力的に世界のリーダーたちと渡り合い、積極的に広大な領土を渡り歩き、強いリーダーを演出している。しかし、皮肉なことに「プーチン・リスク」は時が経つにつれ、高まっていく。次回大統領選とW杯を同時に迎える2018年が、この問題がどうなるかを見極める1つの節目となる。

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    プーチン氏の年内招待は妥当か 領土棚上げがロシアの本音だ

    を阻止するには、対話やミンスク合意だけでは不可能と結論し、抑止力強化を真剣に考え始めた。領土棚上げがロシアの本音 この状況下で、日本政府の対露姿勢は一見逆向きに見える。確かに中国や近隣諸国との緊張関係を考えると、長期戦略として露との良好な関係構築は重要だ。しかし北方領土問題を抱える日本としては、露による他国の主権侵害に対して、本来はG7の他の国以上に、はっきり批判すべきだろう。 主権侵害問題で明確にシグナルを出さないと、将来、尖閣問題を「日中間の琉球問題」にエスカレートさせかねない。つまり露に対しては長期戦略としては安定を目指すが、個別問題では必要に応じ厳しく対応するという、メリハリの利いた高等戦略が必要なのだ。北方領土返還要求全国大会であいさつする安倍首相(中央)=2月7日午後、東京・日比谷公会堂 安倍政権がプーチン大統領訪日に拘(こだわ)る目的は、(1)北方領土問題の解決(2)中露の接近阻止(3)安倍・プーチン信頼関係の保持-だろう。その現実性を考えたい。 まず(1)について。第2次安倍政権になって、日露首脳間の信頼関係や政治・経済関係が過去最良になったときも、領土交渉はパフォーマンスだけで1センチも進まなかった。最近、ロシア外務省付属国際関係大学教授で日本問題の権威であるストレリツォフ氏と討議をしたが、彼は「交渉は単なるパフォーマンスで、領土問題の解決は不可能」と断言、そしてプーチン大統領が領土問題で対日譲歩したら政治的自殺になるとして、領土交渉を数十年あるいは無期限に凍結(棚上げ)すべきだと主張した。 これは露側の本音だ。冒頭に紹介したプーチン大統領の「解決可能」発言だが、彼は、「露だけでは何もできない。日本側の動き(譲歩)を待っている」とも述べた。つまり彼は具体策を持っての来日ではなく、まず日本側の譲歩や対露協力を見て、露側の対応を考えよう、ということだ。またもや、パフォーマンスだけなのか。日本をG7から切り離す (2)についてだが、中露接近の最大の原因は日本ではなく欧米の厳しい対露批判政策だ。欧米が対露姿勢を厳しくしているとき、これをチャンスと日本が対露協力を深めても中露関係に影響はなく、欧米の対日不信を強めるだけだ。 (3)の安倍・プーチンの信頼関係については、次の例を指摘しよう。独露の経済関係は日露よりはるかに深く、またメルケル首相はプーチン大統領と個人的信頼関係を構築した。しかし彼女は、必要な時には安倍首相よりずっと厳しい発言や行動をとる。それ故プーチンは彼女に一目置くのだ。露は単なる宥和(ゆうわ)姿勢は「弱さ」と見る。日本政府の対露宥和策は、好都合だが尊敬するわけではない。 プーチン大統領は、日本をG7から切り離して取り込む政策だ。しかし、領土問題の解決策はなく、訪日は彼自身ジレンマだ。 欧米と露の厳しい対立が強まっている現今、日本と米国との戦略関係の重要性を考えると、私は日本政府が米欧の対露戦略に逆らって年内にプーチン大統領を招待することの妥当性に強い疑問を抱く。日露間で「期待と失望」を繰り返さないためにも、今の国際状況での招待問題を考え直すのが日露両国のためではないか。

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    核兵器をちらつかせ NATO切り崩しを狙うロシア

    米国は断続的にしか意味ある反応をしていないと述べ、米国の対露対応に不満を表明しています。 すなわち、ロシアの政権に近い学者がパリのシンクタンクで、「我々は今やNATOと対決する核能力を持っている」と述べた。ロシアはウクライナでの対決を超えた問題になっている。 ロシアが核兵器を自慢するのは新しいことではない。しかし、米国がロシアはINF条約違反の巡航ミサイル実験をしたと抗議した2日後に、こういう発言をした、そのタイミングが問題である。デンプシー統合参謀本部議長が「プーチンはNATOを掘り崩す機会を狙っている」と指摘したことと合致する。 過去にノスタルジアを持つプーチンにとり、一つの前例がある。1980年始め、ソ連はそのSS-20配備に対抗して、米国が巡航ミサイルとパーシングを欧州に配備するのを阻止するのにほとんど成功した。今、ロシアは欧州の躊躇や意見不一致の表れを喜んでいる。 ある世論調査によれば、ドイツ、フランス、イタリアの世論はNATOの境界国がロシアに攻撃された場合、防衛することに反対している。ドイツが一番熱心でない。NATO条約5条(注:共同防衛義務条項)がふらついている。 ロシアは、「ウクライナのロシア侵略への西側の反応は世界平和を脅かす」という方向に話を持っていっている。プーチンの脅しが核の脅しになる中、オバマ政権がロシアを止めるいかなる軍事的対応もしていないことは、プーチンを元気づけているだろう。ウクライナへの武器供与は手遅れである。ロシアの隣国への重火器と米軍配備は、これら諸国の恒久的な基地要求への妥協策にしか見えない。 仏高官は「NATOが地域紛争でのロシア核についての対応を考えることは重要」としつつも、欧州への新しい米軍配備はありそうにないとしている。 オバマはウクライナでのロシアの侵略に立ち向かうと言うが、最低限のことしかしていないように見える。基本的な問題はNATOが核についての新しい路線を打ち出す道はないと言うことである。メルケルは選挙で負ける可能性があるし、核に反対のドイツがNATOやEUで指導力を発揮するのは無理である。 オバマ政権はモスクワを孤立させるのに成功したと言ってきたが、5月にロシアを訪問したケリーは対話の重要性を強調、プーチンが長時間討議に応じたことへのオバマの感謝の意を表明している。米国はまたロシアに半分強硬な姿勢を見せているが、どうなのか、と述べています。出典:John Vinocur,‘Putin’s Nuclear Plan Is Working’(Wall Street Journal, June 15, 2015)http://www.wsj.com/articles/putins-nuclear-plan-is-working-1434392929* * * この論説は、最近のロシアによる核兵器に関連した動きがNATOを分裂させる恐れがあり、ウクライナに関する欧米とロシアの対決に核兵器の要因を持ち込むことでプーチンはNATO分断に成果を上げている、と論じています。確かにそういう面もありますが、ロシアの政策の成果を過大評価している嫌いがあります。 プーチンは対独戦勝記念式典の演説で、ミサイル防衛を突破しうる新型大陸間弾道ミサイルを年間40基配備していくと述べ、これに種々の反応が出ています。しかし、これはSTART条約の範囲内である以上、大袈裟に反応する必要はありません。 中距離核ミサイルについても、INF条約からの脱退が宣言される場合はともかく、ある実験が条約違反かどうかは、通常の話し合いをすればいいのではないかと思います。この条約により中国などが中距離ミサイルを自由に配備する中で、米露だけは出来ないということになっており、これが不都合であるという指摘には一理あります。しかし、まだそういう問題が米露間で話し合われているわけでもありません。もしINF条約が廃棄される場合には、それにより極東配備SS-20が廃棄された経緯もあり、日本の安全保障にも大きな影響があるので、要注意です。 ロシアの核兵器増強は、世界情勢の健全化の見地から、望ましくないことですが、それに過剰に反応すると、かえってロシアの核兵器保有を最大限に活用する政策に効果を与える結果になります。ロシアは核兵器を保有していますが、衰退過程にある国家で、じっくりと対応していけばよいと思われます。ロシアの核使用ドクトリンも、安易に地域紛争に使うというようなものではありません。  オバマのウクライナ政策については、ケリー訪露は成果がなかっただけでなく、誤ったメッセージになった可能性が高いでしょう。オバマはもっとウクライナ問題を重大視すべきです。

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    ロシアの極東ターゲットは北海道だ

    本は軍事演習に驚いたが… ウクライナの領土であるクリミア半島を、軍事力であっという間に制圧し占領したロシア陸軍の機動部隊の威力は、世界の国々にとって新たな軍事的脅威になっているが、日本はいまだにその脅威に気がついていないようである。 2014年8月、ロシア海軍はこれまでにない大規模な訓練を実施し、日本周辺の極東太平洋地域で敵前上陸作戦を含む軍事訓練を展開した。ロシアがこのような大規模な軍事行動を行うことは、この数年来、中国についで軍事費を増やし軍事力を強化していることから予想されたことであった。 「日本政府は日本の北方領土の周辺で突然、ロシアが大がかりな軍事行動を展開したことに驚いているようだが、ロシアが軍事力を強化し続けていることにまったく気がつかなかったのだろうか」 アメリカ海軍の首脳がこう述べているが、ソビエトつまり現在のロシアというのは非常に分かりにくいだけでなく、時にはあっという間に変化してしまう国なのである。ロシア極東ウラジオストクの沖合に浮かぶルースキー島の山腹に設置された砲台。日本が仮想敵国だった。いまは博物館となり開放されている 「ソビエトはあと少なくとも50年は続くだろうと考えていた。これほど早くしかも突然、崩壊するとは思ってもみなかった」 世界的な戦略家であるヘンリー・キッシンジャー博士が私の番組に出演してこう述べたことがあるが、冷戦で敗れたソビエトがロシアとして大きく甦っていることに、アメリカのオバマ大統領とその側近も注意をはらってこなかった。 「アメリカがウクライナから、ロシア寄りの指導者を追放しようとした時、オバマ大統領はプーチン大統領が力で反抗してくるとは、予想もしていなかった」 チェイニー前副大統領がワシントンの記者団にこう言ってオバマ大統領を批判したが、たしかにロシアの変わり身の早さに気がついていないのは、日本だけではなかった。 こうしたロシアの軍事的な復活を目にして私が思い出すのは、ハドソン研究所で一緒に軍事問題を研究したアメリカのウイリアム・オドム陸軍中将のことである。オドム中将はカーター大統領の軍事顧問や、アメリカのスパイ組織の大元締めであるNSA国家安全保障局の長官をつとめ、陸軍士官学校、コロンビア大学、イエール大学でも教鞭をとった軍事問題の権威だった。冷戦時代にはソビエトとのタンク戦争の戦術的研究者として世界にその名を知られていた。 「ロシアは強力な軍事力を持ち軍事的に強い。これに比べて中国は軍事的に弱い。もっと言えば軍事的に強いロシアは経済が弱く、軍事的に弱い中国は経済が強い」 これはオドム中将がハドソン研究所の研究会の席上で言った言葉だが、軍事的に強いというロシアの基本的な性格を考えれば、プーチン大統領が軍事費を増やし軍事訓練を強化している今の状況は、ロシアの隣に位置する日本にとって脅威そのものと言える。大国として甦るロシア プーチン大統領は、冷戦後の混乱のなか、議会にたてこもった共産主義者たちや、酔いどれで汚職まみれの大統領エリツインに代わって新しいロシアを建設するために、ロシアのエリートが将来の繁栄を託して擁立した政治家である。 ロシアのエリート、そして国民の期待を担ってプーチン大統領が登場した2000年以来、ロシア経済は順調に拡大して来た。2000年のロシアの国民1人当たりの生産高は1771ドルだったが現在は1万4千ドル、およそ8倍になった。プーチン大統領は、日本はじめアメリカ、ヨーロッパ諸国との関係を良好に保って資本の流入に力を入れ、石油と天然ガスの生産高をサウジアラビア並みに増やしてロシアを資源大国にしたのである。 しかしながら2012年頃からプーチン大統領の弾圧的な国内政治姿勢を嫌って資本がロシアの外に流失し始めた。ちなみに2014年には、前半の6ヶ月だけで750億ドルの資本が逃げ出している。資本の流失はロシア経済の停滞をまねき、プーチン大統領の政治的な危機が、大統領の側近の間からも囁かれるようになった。 「プーチン大統領が軍事力強化に乗り出し、力でロシアの存在を世界に示そうと決意した理由は、国内経済の停滞からロシア国民の目をそらすことにあった」 ハドソン研究所のロシア問題専門家がこう言っているが、プーチン大統領はロシアの国営通信社であるイタルタスの記者に次のように述べている。「ロシアはこれから北極石油の開発に力を入れ、世界の資源国家としての立場を確立することによって、アメリカ、中国、日本に次ぐ経済大国の立場を確立するつもりである」 プーチン大統領はロシア国営のインターネット放送でも「ロシアの経済的立場を確立するために軍事力強化政策をとる」と述べているが、プーチン大統領が、日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国との対立をいとわず軍事力を強化し続けているのは、これまでのやり方ではロシア経済の拡大が先細りになるだけでなく、自らの政権の維持が困難になると懸念しているからである。 プーチン大統領は2000年に就任した当時は、外国から資本を取り入れるためにいわゆる微笑外交政策をとり、日本に対しても北方領土を返すという姿勢をちらつかせながら、森総理など歴代の首相を操って来た。だがロシアは、日本政府が気づかない間に変化をとげ、ついに日本周辺で敵前上陸をふくむ訓練というキナ臭い行動をとるところまで来た。 隣の大国ロシアは、昔から日本にとって脅威だったが、ソビエトが冷戦に敗れてその脅威は一時的に消滅した。ところがオドム中将が言う軍事的に強いロシアが大国として甦り、日本の脅威になりつつある。何よりも日本にとって危険なのは、外務省はじめ日本政府がその脅威についてまったく気がついていないことである。エネルギー戦略で軍事力強化エネルギー戦略で軍事力強化 プーチン大統領がウクライナを侵略したのは、ソビエト帝国の再建を夢みてのことだという見方が一般には有力で、アメリカの雑誌『タイム』は、「冷戦第二幕の始まり」などという特集記事も掲載している。ウクライナに対する軍事行動が、かつてソビエト連邦の有力国家であったウクライナを取り戻すためであったというのは、確かに分かりやすい解釈である。だがハドソン研究所の専門家たちは少し違う解釈をしている。 「プーチンがクリミアにある海軍基地を占領したのは、ロシアの黒海艦隊がその基地を自由に使えるようにするためだ。この基地を経由すれば、ロシア南部で生産される天然資源を、黒海から地中海への海上輸送路を使って、自由に運ぶことが出来る。狙いはウクライナの領土ではない」ロシア・黒海艦隊 ハドソン研究所の専門家は私にこう言ったが、ウクライナ制圧がプーチン大統領のエネルギー戦略を達成するためのものだったにしろ、ロシア軍特殊部隊の軍事行動は完璧だった。プーチン大統領は、特殊部隊に民間人の服装をさせ隠密行動をとらせたが、さらに巧妙だったのは、アメリカの誇る、衛星による監視体制を完全に騙しおおせたことである。 「ロシア軍がウクライナ侵略に動くという情報があったが、アメリカ軍はロシア軍の動きを探知することが出来なかった」 国防総省関係者がこう述べているが、後になって漏れてきた情報によると、世界中を監視しているコロラドの宇宙防衛司令部は、ロシア軍がどこにいるかまったく分からず、文字通り悲鳴をあげたという。当時プーチン大統領が陽動作戦として、ロシア軍にウクライナ国境付近で訓練を行わせていたため、アメリカの監視衛星は完全にめくらまされてしまったのだ。 大規模な軍隊を秘密裏に行動させるには厳しい訓練をしなければならない。アメリカの衛星が探知できない通信体制を維持することも必要である。ウクライナ侵攻にあたってプーチン大統領は、2万以上の大軍を動員したといわれるが、ロシア特殊部隊は完全な隠密行動をとることに成功した。 ウクライナのクリミア半島を軍事占拠する前の2013年1月、プーチン大統領は地中海でロシア海軍による大規模な軍事訓練をおこなった。主力になったのは空母「アドミラルクズネツォフ」を中心とする新鋭の機動艦隊で、ロシアがシリアに維持しているタルトス基地などから進出して来た艦艇と、ボスポラス海峡を越えて来た艦艇あわせて50隻以上が、冷戦時代にも見られなかったような大がかりな訓練を展開した。 私は冷戦の最中、「赤い潜水艦を追う」というNHKの特集番組を制作するためソビエトの潜水艦を世界中追い回したことがある。地中海ではナポリのアメリカ海軍基地から空母に同乗し、海底に潜むソビエト潜水艦を見つけたが、今やアメリカの艦隊は姿を消し、代わってロシアの強力な海上艦隊が地中海を制圧し始めている。 アメリカ軍の記録によるとロシア海軍は、2013年1月の大訓練の後も17回にわたって大がかりな訓練を展開した。プーチン大統領のエネルギー戦略にとって何よりも肝要なのは、黒海から地中海へかけての海上航路を制圧し、石油や天然ガスの新しい輸送ルートを確立することなのである。 ロシアから輸出される石油や天然ガスはその大半がドイツに運ばれている。私もテレビ番組のために詳しく取材したことがあるが、バルト海を越えてドイツに運び込まれたロシアの石油や天然ガスが、ヨーロッパの国々に売られている。このバルト海のルートは北方ルートとよばれている。ロシアはウクライナからポーランドを経由する南ルートを作ってはいるものの地理的に制約されている。プーチン大統領は、独自の石油天然ガス輸送ルートを黒海から地中海に確立してロシアの世界的な戦略的、経済的地位を確保しようとしているのである。やがてはアメリカと肩を並べる海上輸送体制を確保する野望を抱いている。 プーチン大統領のエネルギー戦略にとってもう一つ大切になってきたのは、北極の天然資源である。アメリカのエネルギー省のデータによっても、温暖化で北極の氷が溶け始めるとともに、地下にある石油や天然ガスなどの資源を開発する動きが活発になっている。世界の石油と天然ガスの30パーセント近くが北極海の底に眠っていると報告する資料もある。 そうした新しい天然資源地図のなかで、最も有利な立場にいるのがロシアである。地理的にもロシア領土の一部が北極圏にある。この地域には多くの油田が存在しているといわれる。その最大のものは、北極圏ぞいのシベリア西地方、さらに、東西のバレンツ海地方などのほか、サハリンにも広大な石油資源が眠っている。 アメリカエネルギー協会の情報によればロシアは、こうした大きな6つの石油天然ガス地帯の開発についてきわめて有利な立場にある。プーチン大統領は既に新鋭の砕氷船二隻を建造して北極圏に送り込んでいるほか、周辺の海上基地を強化しロシア艦隊を増強している。 プーチン大統領が2013年に地中海で、冷戦時代にもなかったような大規模な海軍訓練を展開したのにつづいて2014年8月、極東太平洋で上陸作戦をふくむ大がかりな演習を行ったのは、北極からの石油や天然ガスを輸送するための安定した航路を確立するためであった。 「北極からベーリング海を通り、日本列島ぞいに東南アジアに至るシーレーンはロシア経済を拡張するための、なくてはならないルートである。今後この海域のロシア太平洋艦隊を強化する」 プーチン大統領は、2014年はじめ、ロシアのテレビでこう述べたが、ロシア海軍は33隻の新しい艦艇を建造し、ウラジオストクを中心に太平洋艦隊を急速に強化する。 「プーチンによる太平洋艦隊強化の表れが、今度の極東太平洋における前例のない大規模な軍事訓練だ」 アメリカ海軍の首脳はこのように指摘している。プーチンは北方領土を返さないプーチンは北方領土を返さない ロシアがアジア極東の海軍力を増強し、日本とアメリカにとって新たな脅威になっていると懸念するアメリカ海軍の首脳が増えている。ラフェッド前海軍総司令官は、2011年3月、アメリカ上院歳出委員会の軍事小委員会でロシア海軍の脅威について警告した。この小委員会の内容は秘密になっている部分もあり全てが明らかではないが、私がよく知るラフェッド前総司令官周辺の専門家が次のように指摘している。 「プーチン大統領はアジア極東戦略を強化する重要な要素として日本との対決を明確にしているだけでなく、北方領土を日本に奪われないために海軍力を強化していると、アメリカ海軍関係者にもらしている」 アメリカ海軍専門家によると、プーチン大統領は今後、最新の原子力空母や潜水艦、戦車上陸用舟艇などを増強しウラジオストクに集結させる。またフランスから最新鋭のミストラル型強襲上陸用空母を4隻購入する計画をたて、そのうちの二隻をウラジオストクに配備することをすでに決めた。さらに、このミストラル型強襲上陸用空母に乗り込ませる海兵隊つまり、ロシアの海軍歩兵部隊の訓練をフランスに依頼している。 プーチン大統領はウラジオストクだけでなく、かつて日本領であった南樺太のユジノサハリンスクの海軍と空軍基地を増強している。さらに北方の千島列島先端にも太平洋艦隊のための海軍基地と空軍基地を作っているだけでなく、後方支援基地としてロシア本土沿岸地域に、数カ所の海軍基地と空軍基地を建造していることをアメリカ軍が確認している。 ウラジオストクから樺太、千島列島さらには、ベーリング海峡、ロシアの沿岸のロシア太平洋艦隊の基地が強化されたり、新たに作られたりすれば、日本にとって大きな脅威になる。とりわけ注目されるのはウラジオストクに配備される、ミストラル型空母を中心とする上陸用集団の強化である。アメリカ海軍の専門家はこう述べている。 「ロシアがウラジオストクを中心としてロシア太平洋艦隊を強化しているのは、軍事的に見るとアメリカの力の後退によって生じる力の真空をうめようとしているからである。この動きの背後には中国の軍事力拡大に対する警戒があるが、基本的には日本を敵視し、北方領土を返さないという決意の表明である」 ラフェッド前海軍総司令官の周辺にいる大佐クラスのなかには、次のような意見も出ている。 「ウラジオストクと樺太、千島の基地を自由に使うためには、ロシア太平洋艦隊が、津軽海峡や宗谷海峡をきままに行動することが必要だ。プーチンはロシアの歴史的な戦略構想に基づいて、北海道の占領も考えている」 ロシアの歴史的な戦略構想とは、第二次大戦後、北海道をソビエト領にしようとした当時のスターリン首相の野望をさしている。プーチン大統領は軍事力を増強してロシア拡大を敢行した独裁者ピョトール大帝や、失敗はしたものの世界的大艦隊を構想したソビエトのブレジネフ最高指導者も手本にしているといわれる。 1990年代、日本から資本を取り込むためにロシア政府の首脳が日本に積極的に近づき、北方領土返還をエサに日本との友好関係を作ろうとした時代は終わりを告げた。プーチン大統領が政治的立場を維持するために始めた軍事力拡大、太平洋から引くという弱気なオバマ大統領の政策から生じた力の真空、そしてアメリカにとって代わろうという中国の野望などがうずまき、極東太平洋における日本の安全は、いまや大きく脅かされている。 ソビエト帝国が崩壊した当時、ロシアは大混乱に陥った。そのロシアが資源大国となり、その資源を売って得た資本によって軍事力を拡大し、極東太平洋でエネルギー戦略を推し進めることになるとは、誰にも想像できなかったことである。 私はロシア専門家ではないが、テレビの番組を制作するにあたって国際情勢全般の動きを取材するため、ソビエト崩壊後のモスクワやウラジオストク、サンクトペテルブルクなどを取材したことがある。いまも印象に残っているのは、ロシアのヒトラーになるといわれたタカ派政治家ウラジミール・ジリノフスキーの言葉である。 「資源のない岩だらけの日本を侵略しようという気はまったくない」 それ以前、NHKの海外放送の責任者であった頃、私はモスクワ支局を通じてロシア政府に当時NHKの新技術であったハイビジョンを紹介し、ロシアの実力者であったアフロメーエフ陸軍参謀長に単独会見もしたが、当時の混乱したロシアと経済大国であった日本の間には、ある意味でたしかに蜜月時代が存在した。しかしながらロシアはすでに述べたように大きな変化をとげ、プーチン大統領は政治的に強硬姿勢をとらざるを得なくなっている。 いま日本の人々が留意すべきは、こうした状況のもとで西太平洋から後退しつつあるアメリカが、再びアジアに関心を持ち本当の意味での抑止力を行使するようになるには20年、30年の長い歳月が必要であるということである。フランクリン・ルーズベルト大統領から始まった、アメリカのアジアへの勢力拡大のサイクルはとりあえず終結期に入った。 そのアメリカの後を襲うべく、経済力をつけた中国が軍事力を拡大しているが、資源を中心とするロシア経済と軍事力の拡大は、中国のそれを上回る勢いである。しかもオドム中将が指摘したように、ロシアはもともと軍事的に強い国なのである。 中国は旧ソビエトが建造した古い空母を買い入れ、アメリカの技術を盗んでステルス戦闘機を作ったりレーダーを開発したりしているが一部、衛星技術で成功しているだけで、アメリカの専門家は中国の軍事力を高くは評価していない。 しかし、日本の国際戦略、外務省の外交、国民の憲法論争などを見ていると、その殆どが、いわば「張り子の虎」である中国の軍事的脅威に関心を奪われている。集団的自衛権構想にしても、中国の脅威とそれに対応する東南アジアの動きに呼応するものに過ぎないようだ。真に日本の安全を図ろうとするならば、もう一つの強力な敵、プーチン大統領のロシアがもたらす危機に対処する戦略を、ただちに構築しなければならない。ひだか・よしき 昭和10(1935)年生まれ。東京大学文学部英文科卒、東京大学新聞研究所を経て34年、NHK入局。ワシントン支局長、理事待遇アメリカ総局長、審議委員を経て退職。ハーバード大学客員教授、同大タウブマンセンター審議委員を経て現職。全米商工会議所会長顧問。テレビ東京で「日高義樹のワシントンレポート」を17年間製作。著書に『アメリカを知らない日本人』(講談社)、『オバマの嘘を知らない日本人』(PHP)など多数。関連記事■ 韓国の論理「日本にある物はすべて略奪された」 ■ あの日を境に変わった私のメディア認識■ クリミアと尖閣は表裏一体 日米同盟の緊密化が世界秩序を維持する

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    「冷戦後」の終わりの始まりを予感させたロシア危機

     2014年を振り返ったとき、重大な出来事としてロシアをめぐる危機があるだろう。米国の指導力低下や、中国の台頭とあわせて、過去25年間続いた冷戦後という時代の終わりの始まりを予感させたからだ。 ウクライナ政治的混乱から始まった危機は、住民投票を経たクリミアのロシア編入、ウクライナにおける内戦の激化、ロシアの要人を狙い撃ちにした米欧の制裁、ロシアのG8追放と徐々にエスカレートしていった。その後の原油安とルーブル安を、紛争とどこまで関連付けて理解すべきかは意見の分かれるところだろうが、ロシア国内に深刻な不況を招き、世界経済の大きなリスク要因となっていることは間違いない。 注意すべきは、エスカレートしているのが現場の実際の紛争なのか、国際社会の反応が引き起こしている化学反応の方なのかということである。クリミアの住民がロシアへの編入の過程で見せた反応から言えることは、この問題は日米欧のメディアがわかりやすく切り取るほどには単純でないということだ。複雑な歴史的な背景を持ち、現地の住民のアイデンティティーや、安全認識や、利害認識が複雑に絡み合う問題を、原則論で一刀両断するのはいつだって危険なことである。国際社会が拠って立つべき国際法や、国際正義という概念自体が本質的に多義的である場合には、特にそうである。 当初から明らかなことは、欧州にも米国にも、クリミアをめぐってロシアとの武力対決を本気で想定している人間はいないということだ。そういう意味では、新冷戦だとレッテルを貼り事態を煽っているのは、メディアのセンセーショナリズムであり、政治家のレトリックであり、茶番である。問題なのは、時にプロでさえ、だんだん問題の本質が見えなくなって、現場で起きている事態と、自分達の反応や思考パターンが作り出してしまった状況とを混同する傾向にあることだ。 だからこそ、我々が何より恐れるべきは、我々自身の無責任な冷戦思考である。冷戦思考には、様々な悪癖がある。かつて日米欧は、冷戦を戦い抜く戦略という美名の下に無益な戦いと犠牲者達を作り出し、独裁者やテロリストの不正義に目をつぶってきた。しかし、東欧や中央アジアをめぐるロシアの拡張主義というのは、一面の真実ではあっても、問題のすべてではないし、今般の紛争における主要な点でもない。 しかも、戦略論は、実際には戦略的にも破綻していることが多い。ロシアの協力が得られない中で、混沌が続く中東情勢や、いまだ政治的にも経済的にも脆弱な東欧諸国や、豊富な資源と不安定な民族/宗教構成を抱えた中央アジア諸国とどのように向き合うというのだろう。歴史的にロシアと強い関係を持ち、欧米にとっても日本にとってもいろんな意味で重要なベトナムや、モンゴルや、北朝鮮への影響はどのように考えるのか。足下でロシアを追い詰めている制裁がそこまで想定しているものとは到底思えない。ロシアとの協力可能性という、冷戦後の時代がもたらした果実を過小に見積もってはならないのである。 もちろん、ウクライナの主権尊重は重要である。第二次大戦後にほぼ確定した国家とその国境線を尊重すべきというのは、戦後社会の知恵だ。民族、宗教、資源などの現実をもとに国境線を引き直していては紛争が絶えないから、現実の利害を、国境線という国際法に無理やり合わせる必要があった。しかし、多くの識者も指摘するとおり、現実と国際法の齟齬があまりに大きくなった場合には、国際法=国境線の方を変えることも例外的には行われてきた。 日本の対応についても触れよう。気になるのは、一連の事態の進行のなかで「現実主義」を標榜する専門家に垣間見えた、欧米の論調に同調した冷戦ノスタルジーとも思える世界観である。冷戦時代の日本が、西側の一角として、ある意味、実際以上に重要視された牧歌的な時代の記憶から抜け切れないのかもしれない。現代は、グローバル経済の競争はより激しく、日本の重要性は相対的には低くなったけれど、それでも、冷戦の緊張よりはよほどマシな世界なのに。その大局観を忘れてはいけない。相変わらず、情報を完全に欧米に頼っていることも課題だし、欧米と寄り添うことを中心としたメディアの論調にも違和感がある。現政権が取った独自の行動や制裁は、毒にも薬にもならない程度のものである。そこに、理想や大義は感じられないが、うまく立ち回るという意味では大人な対応であると評価すべきだ。 さて、2014年は国内でも冷戦思考がキーワードになる年であったと思う。7月に閣議決定された集団的自衛権の行使容認と、それをめぐるヒートアップした左右両陣営の戦いのことを言っている。安全保障認識の変化をきっかけとして始まった議論は、例のごとく、憲法解釈の変更を巡る手続き論と、歯止めを巡る細かな法律論へと収斂してしまった。それは、日本という国が軍事力行使の基準をめぐって、実質的な議論が未だできない環境にあることを図らずも指し示している。確かに法治国家である以上、法律論が重要なのは当たり前だ。けれど、安全保障政策の本質は、どのような脅威認識を持ち、どのように安全保障体制を構築し、どのような事態においてなら犠牲を払って軍事行動に踏み切るのかという実質にこそ宿っている。日本は、いまだに特殊日本的な冷戦思考の中にいるのである。 仮に、日本で実質的な安全保障論議ができたとして、保守からリベラルまで、ウクライナ危機やシリア内戦、イスラム国に象徴されるような他人の紛争に軍事的に関わる気は毛頭ないのではないだろうか。それは、人権や自由のために介入も辞さないリベラルと、国益を狭く定義し武力行使に慎重な保守派の戦いという、欧米の構図とは全く異なる、平和主義国家日本の特性であろう。冷戦思考を乗り越えて実質で語ることができたならば、案外日本にもコンセンサスに近い安全保障認識があるはずなのだ。 2014年は、冷静後の果実を過小評価するかのような危うい冷戦思考の国際社会と、いまだに法律論でしか安全保障を語れない不毛な冷戦思考の支配が続く国内政治との対比が際立った年だったように思う。

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    ウクライナ停戦 米欧は対露圧力緩めるな

      ウクライナからの分離独立などを求める親露派は、ロシアの武器、兵力支援を得て政府軍の鎮圧作戦に抵抗し、約5カ月で民間人を含め2500人余が死亡した。 これ以上犠牲者を出さないためにも、双方は停戦を順守し、その間に最終的な政治解決を目指さなければならない。 北大西洋条約機構(NATO)首脳会議はウクライナ情勢をにらんで緊急展開部隊創設を決め、対露経済制裁に支持を表明した。 部隊は数千人規模で、同様にロシア系を抱えるバルト三国や、ポーランドなどにロシアが万一、軍事介入してくるような事態に2日以内で展開が可能だ。プーチン露政権への軍事圧力として働く。 首脳会議に結集した米欧諸国は軍事、制裁の2つの圧力を強め、親露派を武装解除し、ウクライナ東南部に侵攻したロシア軍を撤退へ追い込んでもらいたい。 制裁の実施主体である欧州連合(EU)、そして米国は対露追加制裁の準備を整えている。停戦合意により一時見合わせても、発動の構えは継続すべきだ。 今回の合意は、親露派がロシア提供の高性能兵器を大量に保持したままで、露軍もウクライナ進駐を続ける中での停戦である。 ウクライナのポロシェンコ大統領は「流血を止めるため、できることを全てしなければならない」と述べた。ロシアからの強力な親露派支援で形勢不利に立たされたウクライナ側としては、プーチン氏主導の停戦提案をのまざるを得なかったといえる。 ロシアと親露派に有利な現状の固定化を許してはならない。 そのため、合意にうたわれた欧州安保協力機構(OSCE)の停戦監視の下で、親露派の武装解除と露軍の撤退に加え、ロシアから親露派への武器、資金流入の停止を実現してほしい。 同時に、やはり合意された東部2州での地方分権の推進などをウクライナ政府と親露派、ロシア、OSCEなどが協議しなくてはならない。停戦はそうした政治決着への一歩にすぎない。 NATOは冷戦期、旧ソ連の脅威に対抗し西側の集団防衛に当たった。継承国ロシアのウクライナ侵略で、原点回帰を迫られた米欧同盟はその真価が問われる。(9月7日 「主張」) ---------------------------------------<関連ブログ>・ロシア軍、ついにウクライナに本格的侵略を開始 ──日本人はなぜ、ウクライナの次は北海道と戦慄しないのか (中川八洋・筑波大名誉教授 9月1日) http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2014/09/01/121725 保守の論客とされる中川八洋・筑波大名誉教授は、『ロシア隣接国が、もしロシアに対して断固たる和平を欲するならば、決してロシアと接触してはならない』としたうえで、現・安倍政権を『対ロ国防全面放棄主義』と批判している・服部倫卓のロシア・ウクライナ・ベラルーシ探訪(ブログ版) http://blog.livedoor.jp/httrmchtk/ ロシアNIS貿易会・ロシアNIS経済研究次長の服部倫卓氏が開設しているブログは、ロシア、ウクライナ、ベラルーシを中心とした旧ソ連圏に関する最新情報を常時収集・掲載している

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    毒ヘビVS毒サソリ ロシアとウクライナ

    ウクライナをめぐって世界が駆け引きを続けている。 欧米発の情報だけではウクライナ危機の実相は見えない。