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    元少年Aに出したメールに返信が来た 贖罪と更生の深さを考える

    碓井真史(新潟青陵大学大学院教授) 神戸児童連続殺傷事件の元少年Aに出したメールに、返信が来ました。彼の更新されたホームページ内での返信です。犯罪によって利益を得ることは、道義的に許されません。被害者は保護されるべきです。同時に、彼の更生には支援が必要です。元少年Aとのコミュニケーション 神戸連続児童殺傷事件の「元少年A」。彼の著作「絶歌」と彼のホームページ「存在の耐えられない透明さ」を読み、9月10日に彼にメールを出していました。その返信がありました。私個人へのメール返信ではなく、10月12日に更新されたサイトに返事が載っていました。 彼も私が書いたページ「元少年A公式ホームページ「存在の耐えられない透明さ」全文を読んで:酒鬼薔薇事件は今も続いているのか」を読んでくれていました。元少年Aに出したメール先月9月10日。次の内容のメールを元少年Aに出していました。「存在の絶えられない透明さ」ウェブマスター 様はじめまして。私は、新潟青陵大学にて心理学を担当しております碓井真史と申します。貴サイトに関しまして、マスメディアの方からの取材を受けた関係で、一般の人より一足早く、サイトとメールアドレスを知りました。ご著書とホームページを拝読いたしました。ご著書の出版に関しましては、様々な意見があります。出版に関しては、私も問題を感じざるを得ません。しかし同時に、ご著書を拝読し、心震える思いを持ったこともまた事実です。教育や少年司法に関わる人々には、ぜひ読んでもらいたいと感じました。ホームページも、興味深く拝見いたしました。インターネットは、たしかに自由な表現の場としては、良いものだと思います。「ギャラリー」にある、昆虫のようなものが、祈っているように見える絵が、私は気になりました。なめくじは、あなた自身の象徴なのでしょうか。メイキングは、普通の人にとってはかなり気持ちの悪い画像でしょう。「レビュー」を拝見し、私も「ひげよ、さらば」をアマゾンで注文しました。「NIGHT HEAD」は、私も当時テレビで見ていて、とても印象的なドラマでした。佐川一政さんに関するコメントも、納得させるものがあります。さて、ホームページとメールアドレスを公開すれば、様々な意見が寄せられるでしょう。批判的な意見が来ることもご覚悟の上かと存じます。犯してしまった犯罪事実は消えませんが、法的にはすでに終わっています。どうぞ、今後とも心穏やかに、そして優れた表現者としてご活躍されますことを、お祈りしております。新潟青陵大学 碓井真史(うすいまふみ)元少年Aからの返信 元少年Aからの返信は、「存在の絶えられない透明さ」の「告知」→「元少年Aの “Q & 少年A”」に掲載されていました。 昨日10月12日にアップされたようですが、私は先ほどマスメディアの方から連絡をもらって、初めて知りました。(補足10/15:現在このページにはアクセスできなくなっています。「元少年Aの有料ブロマガが「閲覧不能」に…運営元が凍結か」) 返信の内容は次のようなものです。 「~『彼は彼なりに深く反省し後悔していると思います。』『犯行当時の彼とは違い、今は人の優しさも彼なりに感じ取れるようになっているようです。』と書いてくださっていたことが印象的でした。普通、こういった行動を取れば「ほら見ろ、あいつは全然治っていないし、反省もしていない」という、判で押したような意見しか出ないものと思っていたのですが、碓井さんは人間全般への理解が他の人たちよりも一段深い方なのだなと、素直に感動したものです。」 「それにしても、「真史(まふみ)」ってユニセックスで美しい名前ですね。ご両親のネーミングセンスが素晴らしいです。」 このほかに、彼が感想を書いていた『ひげよ、さらば』に関しての話題や、人間の心の複雑さなどについての話題がありました。 彼の本の出版も、ホームページの開設も、「元少年Aの “Q & 少年A”」というコーナー名も、被害者ご遺族の心情を逆なでするようなものだと思います。彼の過去の犯罪行為自体、ほんのわずかも認めることはできません。 しかし、その上で、あえて誤解を恐れずに正直な気持ちを言うならば、私は彼からの返信を読んで、「好感」を持ちました。このようなメールのやり取りをすれば、その人と友人になりたいと思うほどです。もちろん、ほめられているといった単純な理由ではありません。歯の浮くようなお世辞を言われても、少しもうれしくありませんから。 彼は元凶悪犯罪者であり、またある意味とても注目されている有名人ですが、だからと言って不自然な虚勢や自己卑下がなく、まるで青年からもらったメールのようなナチュラルな印象を受けました。そこが好印象につながっているのかと思います。(もちろんその自然さが、無反省だという世間からの怒りにもつながるのでしょうが) 彼は、別の人からのメールにも返信しています。あるメールには次のようにありました。 「罪がこれから先も消えることはない。」「罪を一生背負って生きていくことを要求する。反省のなかで、自殺したところで、多くの人々及び、被害者遺族がご自身を許すはずがない」。 このメールに対しては、たった一言、「“禿同”です。」(激しく同意です)との返信がありました。個人的メールが公開された個人的メールが公開されたこと・ネット上で返信をもらったこと 自分が個人的にもらった手紙やメールでも、送り主に無断で勝手に全文公開などしてはいけません。彼もメールの公開に際しては、「一般の方に関しましては明らかにハンドルネームとわかる場合を除き頭文字表記or任意の呼び名」と書いています。 私と、フリーライターの方だけ、実名が出されています。彼としては、このような立場の人間の氏名所属は出しても良いと判断したのでしょう。 しかし職業は何であれ、私信ですから、ネット上でさらしてはいけません。個人的に書いた手紙が不特定多数に読まれれば、誤解を受けることもあるからです。ただし、今回のことに限って言えば、私はまったく不快には思っていません。そのことよりむしろ、返信があったことをうれしく思っているほどです。 元少年Aは、碓井に返信したいと思ったのでしょう。そして同時に、それもまた「表現」としての作品にしたかったのでしょう。みんなに、そのやり取りを読んで欲しいと思ったのでしょう。 このような彼の態度を、目立ちたがりとか、自己顕示欲とか、かまって欲しいのかとか言う人がいます。私は、少し違うと思います。もっと純粋に、ただ表現したい強い思いなのだと思っています。 その表現したい思いが、事件当時は、犯罪行為や犯行声明文になってしまったのでしょうか。今は、道義的な批判は受けるものの、合法的な表現手法になっているのかと思います。有料ブログ 彼は、有料ブログ(FC2ブロマガ)を始めました。上記ページに、購入ボタンが設置されています。これもまた、世間の非難を浴びることでしょう。ただ彼も、これで大金が得られるとは思っていないでしょう。(現在、このページはアクセスできない状態になっています。10/15) でも、自分が書いた文章がお金になることは、文筆家を目指す人にとっては、喜びです。彼は、表現し、自分の表現を認めてもらいたいのでしょう。そしてもちろん、生活もしていかなければなりません。贖罪と更生と 私が元少年Aにメールを出した目的は、もう二度と犯罪など犯さず立派に更生して欲しいとの思いからです。彼は、元凶悪犯罪者ですが、今は社会生活を送っているわけですから、私は著者、ウェブマスターとしての彼にに対する敬意を込めて、素直な感想と共にメールを出しました。 最も伝えたかったことは、メールの最後の段落です。このような活動をしていれば、世間からのバッシングを受けることになるだろうが、どうか精神的に不安定になることなく、社会生活を送って欲しいとの思いです。 彼に対する法的制裁は終了しています。だからマスコミも、犯罪者扱いはできません。しかし、人としての贖罪は続きます。けれども、だからといって彼が罪への思いで自殺してもよいなどとは思いません。そんなことで、ご遺族の心は癒されないでしょう。再犯はもってのほかです。彼には何としても更生してもらわなければなりません。社会に貢献し、働き、収入を得て、自立してもらわなければ困ります。 しかし同時に、被害者ご遺族は保護されなければなりません。今回の一連の出来事で、ご遺族は傷つかれています。社会としては、被害関係者の保護が第一です。そして同時に、元少年犯罪者の更生への努力も求められています。犯してしまった罪をつぐない,社会の一員として立ち直ろうとするには,本人の強い意志や行政機関の働き掛けのみならず,地域社会の理解と協力が不可欠です。出典:法務省保護局「更生保護とは」 本の出版によって得た大金を、被害者遺族に渡すべきだとの意見も多く聞かれます。けれども、犯罪被害者の会の弁護士さんお聞きしました。そんな本で得たお金を差し出されたりしたら、かえってご遺族は傷つくだろうと。 犯罪者は再犯を犯さず、更生することが必要です。しかし、更生した姿を見て苦しむ被害者や遺族もいます。加害者はただ元気に更生すればよいわけではありません。贖罪とつぐないの思いを強く持つこともまた、真の更生のためには不可欠なのでしょう。 更生と被害者保護。それは、とても両立が難しい問題です。それでも、私達はその両者を進めていかなくてはなりません。(Yahoo!ニュース個人より2015年10月13日分を転載)

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    少年Aは、更生していない

    。しかし、賛否両論の中、同書は初版十万部に続いて、五万部の増刷が決定された(六月十八日時点)。それは事件の遺族が「本の回収」を求める中での出版社側の“強行策”にほかならなかった。 私が「本に書かれていない」と言う「核心」とは何か。 それは、あの犯罪が果たして「人間の行為」だったのか、という根本的な問いかけにほかならない。神戸連続児童殺傷事件の元少年Aが出版した手記『絶歌』 人間というのは、恨みや怒りによって、時に人の道を踏み外して、絶対に犯してはならない「殺人事件」を引き起こすことがある。その理不尽な事件が日々、報道され、世間はそれに眉を顰める。しかし、酒鬼薔薇事件は、それとはまったく異なるものだった。恨みや怒りではなく、ただ快楽のために「殺すこと」を目的とした弱者抹殺の殺人行為だ。 人間と動物との決定的な違いは何か、と問われれば、私は「憐憫の情」と答える。生きるためにハンターとしてほかの生き物を捕食する動物には、憐憫の情がない。生きるために「食らうこと」に必死で、そんな情が入り込む余地は存在しない。 しかし、人間は、憐みの気持ちを持つ生き物だ。時に道を踏み外すことはあっても、それでも殺人事件という絶対悪に対してさえ、まだ人間的な理由がある。だが、Aは、自らが得る快楽のために殺すことだけを目的とした事件を起こした。そこには、人間が持つ憐憫の情というものが皆無で、それは今も変わっていない。事件から十八年が経ってなお、Aは本の出版によって、残された被害者遺族に想像もできないような無惨な苦悩と哀しみを新たに与えたのである。 一九九七年五月、酒鬼薔薇事件は起こった。神戸市須磨区の友が丘中学の正門前で、小学五年生の土師淳君(11)=当時、以下同=の切断された頭部が発見された。〈さあゲームの始まりです 愚鈍な警察諸君 ボクを止めてみたまえ ボクは殺しが愉快でたまらない 人の死が見たくて見たくてしょうがない 汚い野菜共には死の制裁を 積年の大怨に流血の裁きを〉 淳君の口には、〈酒鬼薔薇聖斗〉の名前で、そんな犯行声明文が咥えさせられていた。淳君は頭部を切断されただけでなく、口の両端を耳の近くまで切り裂かれ、両まぶたにバッテンの傷までつけられていた。『絶歌』には、〈この磨硝子の向こうで、僕は殺人よりも更に悍ましい行為に及んだ〉 としか触れられていない。それは、およそ「人間」の行為とは思えない。約一か月後に逮捕された十四歳の少年Aは、二か月前には小学四年生の山下彩花ちゃん(10)を金づちで殴り殺し、さらにその一か月前には、女児にハンマーで重傷を負わせていた。『絶歌』には、これらの事件に至るまでの「ナメクジの解剖」や、猫を殺すさまが、この上なく緻密な筆法で描きだされている。胸が悪くなるほどのリアルさであり、類いまれなAの筆力を感じさせる。 自分より弱いものを容赦なく殺す。しかも、それは何かの「儀式」に違いなかった。それは、彼が日記に残し、そして崇拝してやまなかったというバモイドオキ神への“生贄”でもあったのだろう。しかし、このバモイドオキ神への生贄と儀式についての記述はない。 人としての憐憫の情を持たず、弱者を抹殺し、世間が騒ぐさまを見て喜ぶ。サイコパス、言いかえればモンスターともいうべき異常犯罪者が、事件の真相をどう表現するのか。しかし、その「核心」には、一切触れられていなかったのである。 読み終えた私は溜息をつき、そして失望した。「祖母の死」と冒涜の儀式「祖母の死」と冒涜の儀式 Aが自ら転機としたのは、「祖母の死」である。どんな時でも味方で、優しく包んでくれた祖母の存在は、Aにとって絶対的なものだった。しかし、その死がすべてを暗転させた。 Aは小学五年の時に経験した祖母の死をこう記述している。〈眼の前にいるのは確かに僕が愛し、僕を愛してくれた祖母だった。冷たく固い、得体のしれない物体と化した、祖母だった。その口はもう二度と僕の名を呼ぶことはない。その手はもう二度と僕の頬を優しくつねってはくれない。 自分の内部から何かがごっそりと削り取られたのを感じた。確かな消失感が、そこにあった。僕はこの時はっきりと悟った。「悲しみ」とは、「失う」ことなんだと〉 祖母の死に対する衝撃と、その亡き祖母の部屋で知った電気按摩を用いた性の快楽。細かな描写は、読む側を引き込むに十分だ。〈祖母の位牌の前に正座し、電源を入れ、振動の強さを中間に設定し、祖母の想い出と戯れるように、肩や腕や脚、頬や頭や喉に按摩器を押し当て、かつて祖母を癒したであろう心地よい振動に身を委ねた。少年Aが収容されていた神戸少年鑑別所 何の気なしにペニスにも当ててみる。その時突然、身体じゅうを揺さぶっている異質の感覚を意識した。まだ包皮も剥けていないペニスが、痛みを伴いながらみるみる膨らんでくる。ペニスがそんなふうに大きくなるなんて知らなかった。僕は急に怖くなった。(略)僕は祖母の位牌の前で、祖母の遺影に見つめられながら、祖母の愛用していた遺品で、祖母のことを想いながら、精通を経験した。僕のなかで、“性”と“死”が“罪悪感”という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった。その後も、僕は家族の眼を盗んでは、祖母の部屋でこの“冒涜の儀式”を繰り返した〉 やがてその性的倒錯は「殺人」へと発展していく。Aは、弟の友だちでもあった淳君の殺害について、こう記述している。〈僕は、淳君が怖かった。淳君が美しければ美しいほど、純潔であればあるほど、それとは正反対な自分自身の醜さ汚らわしさを、合わせ鏡のように見せつけられている気がした。 淳君が怖い。淳君に映る自分が憎い。淳君が愛おしい。傍に居てほしい。淳君の無垢な瞳が愛おしかった。でも同時に、その綺麗な瞳に映り込む醜く汚らわしい自分が、殺したいほど憎かった。 淳君の姿に反射する自分自身への憎しみと恐怖。僕は、淳君に映る自分を殺したかったのではないかと思う。真っ白な淳君の中に、僕は“黒い自分”を投影していた〉 Aは、自ら三島由紀夫と村上春樹に傾倒していることを明かしているだけに、文体まで二人を真似ている。読みようによっては、自分の文章に自己陶酔しているようにも思える。“核心”には触れず“核心”には触れず しかし、それでいて核心部分には、Aは一切、踏み込んでいない。そして、自分が人間的な感情を取り戻していることを思わせる描写は、繰り返し出てくる。会社の先輩の家に招かれ、そこで子供たちの姿に衝撃を受ける場面はこんな具合だ。〈無邪気に、無防備に、僕に微笑みかけるその子の眼差しが、その優しい眼差しが、かつて自分が手にかけた幼い二人の被害者の眼差しに重なって見えた。 道案内を頼んだ僕に、親切に応じた彩花さん。最後の最後まで僕に向けられていた、あの哀願するような眼差し。「亀を見に行こう」という僕の言葉を信じ、一緒に遊んでもらえるのだと思って、楽しそうに、嬉しそうに、鼻歌を口ずさみながら僕に付いてきた淳君の、あの無垢な眼差し。耐えきれなかった。この時の感覚は、もう理屈じゃなかった。 僕はあろうことか食事の途中で体調の不良を訴えて席を立ち、家まで送るという先輩の気遣いも撥ね退け、逃げるように彼の家をあとにした。 自宅へ帰るバスの中で、僕はどういうわけか、涙が止まらなかった〉 しかし、そこまで犯行への悔恨を表現しておきながら、少年たちが持つ「なぜ殺人をしてはいけないか」という疑問に対して答える場面では、Aはこう記述するのである。〈大人になった今の僕が、もし十代の少年に「どうして人を殺してはいけないのですか?」と問われたら、ただこうとしか言えない。「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」 哲学的な捻りも何もない、こんな平易な言葉で、その少年を納得させられるとは到底思えない。でも、これが、少年院を出て以来十一年間、重い十字架を引き摺りながらのたうちまわって生き、やっと見付けた唯一の、僕の「答え」だった〉 自分自身が苦しむことになるから、やめておけ――それが、Aにとっては、「どうしても人を殺してはいけない理由」なのである。 なんと理不尽で手前勝手な論理だろうか。果たして、Aは更生したと言えるのだろうか。 淳君の父親、土師守さん(59)は、こんなことを語ってくれた。「私は、今回の出版で、淳は二度殺されたと思っています。本は読んでないし、読む気もありません。こういう本を出すということは、更生もしてないし、(病気も)治ってへんやろう、ということですよ。反省の気持ちもないことがよくわかりました。今まで、ずっと(命日が近づくたびに)手紙に書いて送ってきた内容も嘘だったということです。手紙を読むと、“こうあって欲しいな”という気が、どうしてもありました。それが、やっぱり、思った通りやったんやな、ということです。そういう意味では、逆の意味だけど、私の中でも区切りがつきました」 Aにとって、これだけは踏み外してはならなかった遺族への贖罪。遺族に無断で出した一冊の本は、酒鬼薔薇聖斗への長年にわたる治療と矯正教育が、見事に「失敗したこと」をなにより物語っている。(了) かどた・りゅうしょう 昭和33(1958)年、高知県生まれ。中央大学法学部卒。ノンフィクション作家。『なぜ君は絶望と闘えたのか』(新潮文庫)、『太平洋戦争 最後の証言』(角川文庫)、『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP)など著書多数。『この命、義に捧ぐ台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(角川文庫)で山本七平賞受賞。

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    週刊文春の餌食になった元少年Aが受けた代償

    が飛ばしまくっています。今回は、自己陶酔し、「酒鬼薔薇聖斗」というふざけた名前で、おぞましい猟奇殺人事件を起こした元少年Aへの直撃取材記事です。よくガス欠しないで突っ走るものだと関心するばかりです。記事タイトルが「元少年Aを直撃! 『命がけで来てんだろ? お前、顔覚えたぞ!』となっているように、文春記者は激怒した元少年Aから恫喝され、追いかけられた切迫感が伝わってくる記事でした。週刊文春の「元少年A」直撃取材で炎上 (1/2) - ITmedia ビジネスオンライン 元少年Aは、生き残りを賭けてスクープを追う週刊文春の恰好の餌食になったのですが、それはご遺族の感情を無視して「絶歌」を出版した代償だとしても、素顔の写真まで晒すというのは、正義に名を借りたリンチに等しいのじゃないのかという気もします。【衝撃】素顔を週刊文春に掲載された元少年A / 半年間で4回引越し! 女性セブンの報道で逃亡した事も判明 | バズプラスニュース Buzz+被害男児の遺体が発見された現場に供えられた花束 週刊文春の記事は、被害者ご遺族、土師守さんの「少年法を考える上で重要なのは、万引きなどの軽微な非行と、被害者が存在する傷害や殺人などの重大な非行を同列に扱うことは許されないということです。重大な非行に対しては現行の少年法は甘すぎると思います」という言葉を紹介し、「第二の少年A」が出現する前に、今こそ少年犯罪、矯正教育について、国民的議論が必要ではないかとしていますが、その通りだと思います。 キャスターの長谷川さんは、以前ブログで、誰しもいつ何時、加害者側の立場になる可能性を持っていること、ほんとうに犯罪をなくす、第二の元少年Aを生み出さないためにも出版を行ったことへの安易な批判はよくないとされていました。趣旨は理解できるとしても、いや、そうではなく、やはり批判されるべきだと思います。 社会が病んできている兆候があり、誰もが加害者になる可能性があるとしても感じるとしても、元少年Aの犯した犯罪のような極端な事例はあまり参考にならないように思えます。なにか、インフルエンザの予防が問われているときに、マラリア病の感染症状を知ったところで何が学べるのかと感じてしまいます。『絶歌』を批判する人に決定的に欠けている視点 : 長谷川豊 公式ブログ 『本気論 本音論』 ほんとに怖いのは、確率的にも元少年Aのような稀有で極端な犯罪ではなく、もっと日常のなかに潜んでいる、本人も自覚のない、そして回りも見逃しがちな心の病気のほうかもしれません。とくに他の人への気持ちへの無関心や一切無視するという病です。なかなか絶えない、いじめなどの問題がその典型ではないでしょうか。(2016年02月19日「大西 宏のマーケティング・エッセンス」より転載)

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    元少年A 直撃取材のたびに住居変えられる潜伏生活の秘密

     事件から18年目となる昨年6月に『絶歌』(太田出版刊)と題する手記を発表した「元少年A」に『週刊文春』(2月18日発売号)が直撃取材した。記者への発言や記者を追いかけ回す様子は、医療少年院での治療を経て2005年に“社会復帰”したAの更生を強く疑わせる内容だった。それに加え、新たな疑問も浮かび上がる。 Aの「機動的すぎる潜伏生活」に関する疑問だ。 昨年6月の手記出版以降、最初にAの暮らしに迫ったのは『女性セブン』(2015年7月30日・8月6日号)の報道だった。全国を転々としていたAが2010年から静岡県浜松市で暮らすようになり、手記出版直前の昨年4月に東京都内のマンションに居を移したことを報じた。Aとされる人物への直撃取材も行なっている。「その後、すぐにAはそのマンションから姿を消し、首都圏で転居を繰り返していたとされます。医療少年院を出てからも居所を常に把握していた当局も、Aの動きを追いかけるのに苦労するようになったようです」(警察関係者) 前述の週刊文春の記事では、昨年秋以降、神奈川県内のアパートやマンションをAが転々としていたと報じられており、昨年12月から暮らし始めたという東京都内のアパート近くで直撃取材が行なわれた。 そして、「やはりその直後から、暮らしていたアパートには姿が見えなくなった」(同前)というのである。 いくらAがメディアの追跡を逃れようとしているとはいえ、ここまで頻繁に住居を変えるのは容易ではない。手記が25万部のベストセラーとなり、数千万円の印税収入があったことを考えれば費用的には可能なのかもしれないが、移る先を探して確保し、荷物をまとめて移動するという作業だけでも、一人でやるには相当な労力が必要になる。なぜそんな芸当が可能なのか。まだ書きたいことがある 前出の警察関係者はこんな言い方をする。「名前を変えているので、引っ越しの際に気付かれて物件を借りられなくなることはない。新しい名前で旅券を所有していると見られているから、身分証には困らない。保証人不要のウィークリーマンションも今はいくらでもある。 ただ、メディアの直撃取材を受けてすぐに姿をくらませられるのは、暮らせる場所があらかじめ複数確保されていると考えるのが自然だろう。協力者がいれば、そうした準備や荷物の移動も難しくはない」 つまりAに支援者がいるのではないかとみられているのだ。「Aが暮らしていた部屋に出版関係者が出入りするところが目撃されている。手記の第2弾も計画されているのではないか」(同前) 本誌は、手記の発行元である太田出版の岡聡・社長にそうした支援の実態があるのか、直撃した。──Aが頻繁に居場所を変えるのを支援しているのではないか。「なにも申し上げることはありません」──Aが部屋を借りる際に保証人になったりしているのではないか。「コメントはありません」 何を聞いても、そう繰り返すのみだった。 支援の実態は明らかではないが、一方で専門家からは直撃取材を受けたAが見せた激しい反応について、懸念の声があがっている。犯罪者の心理に詳しい、臨床心理士の矢幡洋氏が解説する。「記者とのやり取りをみると、いまだに彼の過剰な攻撃性は矯正しきれていないといっていいでしょう。 また、記事からは彼の自己愛とそれに基づく演出が読み取れます。直撃取材を受けて、Aは実は喜んでいたのではないでしょうか。記者に声をかけられても最初は『違います』と微笑を浮かべていたといいますが、こうした余裕の笑みに自己愛や自己顕示的なものが感じられます。 その後の反応も、キレているようで、自分の見せ方を意識しながら行動している面もあります。わざと露悪的に振る舞って、少年Aという“ブランド”を作り、自著やメルマガを売る。犯罪ブランドを利用してもっと利益を得ようとしているのではないか」 たしかにAは手記出版後も、昨年8月に複数の出版社宛てに手記執筆の経緯を綴った長文の手紙を送りつけ、同時に自身の公式HP立ち上げを宣言した。以後、不定期でブログを更新するなど、目立とうとする意思を隠さない。 1997年に当時14歳だったAにナイフで腹部を刺されたものの、奇跡的に生還した被害女性・織田史子さん(仮名)の母親は静かにうなだれる。「Aにはとにかく、ただ真面目に静かに生きて、少しずつ償いを果たしていってほしいと思っています。なのになぜこんな風に目立とうとばかりするのか……」 Aを巡る環境は、本当にこのままでいいのか。関連記事■ 元少年A直撃記事に被害者女性「恐ろしさを感じました」■ メルマガ失敗もブログ開設の少年A 「更新待ってました」の声も■ 女性司会者Kも被害 手が込んだテレビ界のいじめの実態■ 巨人時代の清原 興奮剤入りコーヒーを後輩に飲ませていた■ 丸山和也氏に「不倫調査探偵事務所の女性と不倫」疑惑

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    例外的措置で本名を変えた元少年A 当時の名前の文字は使わず

     潜伏生活を続ける神戸連続児童殺傷事件の犯人・酒鬼薔薇聖斗こと元少年A(33才)は、自著の発刊に続き自身のHPを立ち上げ、2発目の“爆弾”を投下した今、騒然とした社会を眺めて昂揚が抑えられないでいるのか。「取り憑かれたように筋トレしているそうです。日課のランニングも、走り込む量が増えたとか。“世の中を再び騒がせた”という興奮で心がざわついて、体を動かさずにはいられないんでしょう」(Aを知る関係者) この3か月、日本中がAに振り回された。遺族と世間の猛反発を買った6月の『絶歌』出版騒動を皮切りに、8月末には複数の週刊誌宛てに手紙を投函。そしてこのたび公式ホームページまで開設した。 女性セブンに届いた手紙は、遺族への謝罪は一言もなく、手記の売り上げを伸ばしたいがゆえのプロモーションに終始していた。そして、Aはホームページで、ナメクジや全裸の自撮写真などおよそ一般人には直視することのできないおぞましい画像の発信を始めた──。 手記出版以降、Aの近況を追い続けた女性セブンは、2011年から静岡県浜松市に定住し、6畳一間のアパートで手記執筆に臨んでいたこと、今年4月に都内アパートに住居を移したことを突き止めた。 その過程で、現在の彼の本名も把握した。同姓同名者に配慮した上で、Aのイニシャルを公開する。現在の彼の名前はK.M.。医療少年院を退院後に改名したものだ。両親のどちらの姓を名乗っているわけではなく、名前も変えており、姓名ともに事件当時のものは一文字も使われていない。日本更生保護学会会長で犯罪学者の藤本哲也氏が語る。「日本では戸籍法があるので、姓を変えるのは非常に難しい。ただ、『姓を変更しないとその人の社会生活において著しい支障が出る』場合は、管轄の家庭裁判所に申し立てて、『姓の変更許可』を得ることができます」 Aの改名は、法務省の超例外的な措置だった。「法務省内で戸籍や国籍、公証を管理する民事局が極秘裏に主導して、出所前に改名に至ったといわれている。A以外にこんな処遇がなされた少年犯罪者を知りません。それだけの事件だったということでしょう」(ある国会議員)関連記事■ 創価学会二代目会長の戸田城聖氏 姓名判断に凝り何度も改名■ 元葉山エレーヌ 「石田みゆき」へ改名願うも局員制止で断念■ 広末涼子夫キャンドル・ジュン氏 妻の広末姓を名乗る理由■ 少年Aの手記 遺族の理解得られぬと別の出版社はお蔵入りに■ 酒鬼薔薇事件以降増えた「普通の少年」の犯罪防ぐ策に迫った書

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    清原和博の薬物報道はここがおかしい!

    元プロ野球選手、清原和博容疑者が覚醒剤事件で逮捕されてから1カ月余り。当初過熱したメディアの報道もひと段落したとはいえ、節目のたびにスキャンダル的に再び盛り上がる構図は従来と何も変わっていない。更生を促し、再犯を防ぐメディアの役割とは何か。ここが変だよ、ニッポンの薬物報道!

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    【茂木健一郎緊急寄稿】私が清原和博さんを「容疑者」と呼ばない理由

    清原和博容疑者 =2月4日、東京都千代田区(撮影・今野顕) 清原和博さんが覚醒剤の所持で逮捕された事件で、違法薬物の問題に社会的な関心が高まっている。これを機会に、日本における違法薬物規制、そして報道のあり方について、考えたい。 違法薬物の問題から見えてくるある一つの対立軸がある。それは、国のあり方を考える時に、「個人の自由」と、「社会の秩序」のどちらをより重視するかという価値観の問題である。 もちろん、個人の自由と社会の秩序は、必ずしも対立するものではない。ある程度の秩序がなければ、個人の自由は保証されない。17世紀に英国の思想家、トマス・ホッブズがその著書『リヴァイアサン』で展開した論によれば、そもそも、国家というものは個人の権利を守るために「社会契約」を通して形成されるものであり、刑罰が課される根拠もそこにある。 しかし、個人の自由と社会の秩序のどちらを重視するか、というニュアンスの差のようなものは、やはりある。そして、今後の文明のあり方を考える時に、この微妙なニュアンスが、実は大切だと感じる。 アジアは、違法薬物について厳しい地域だと認識している。中国やシンガポールなど、いくつかの国では、違法薬物を輸入しようとすると死刑が課せられる。私自身は死刑廃止論者であるが、それでも、もし仮に死刑が適用されるならば、殺人のような人の命を奪う犯罪に対してだろうと考えている。違法薬物も、社会に対して悪影響を与えるという意味では重大な犯罪につながるが、それにしても死刑を適用するというのは、個人的には行き過ぎだと思わざるを得ない。なぜアジアは違法薬物に対して厳しい態度をとるのか? なぜ、中国を始めとするアジアでは、違法薬物に対して厳しい態度をとるのだろうか? アヘン戦争に至る、中国の社会での薬物の蔓延などの経験も関係しているのかとも思うが、やはり本質的なのは、個人の自由と、社会の秩序のどちらを重視するかという価値観だろう。 中国などの国では、個人の自由よりも、明らかに社会の秩序を重視する価値観が主流である。違法薬物に関する犯罪に対する厳罰主義は、そのような思想の現れだと思う。 一方、欧米では、ホッブズの『リヴァイアサン』のような著作が出てくることからもわかるように、もともとは、個人の自由を重視する思想が有力である。社会の秩序は、あくまでも、個人の自由を実現するための手段としてある。社会の秩序自体が、崇高な価値であるわけでも、目的であるわけでもない。米経済学者のミルトン・フリードマン氏 薬物についての態度も異なる。私がかつて留学していた英国では、20年前から、主要な新聞が一面トップでマリファナの合法化を主張するなど、社会的な議論が巻き起こっていた。米国のレーガン政権に影響を与えたノーベル賞受賞の経済学者、ミルトン・フリードマン氏は、個人の自由を重視し、政府の介入を最小限にすべきだという立場であり、薬物も合法化してその使用の判断を個人の自由に任せるべきだと主張していた。 もちろん、フリードマン氏のような論は、米国においても必ずしも多数派ではない。それでも、有力な学者がそのような論を表明するあたりに、個人の自由を重視する思想的伝統を見る。 米国においては、「保守主義」とは、個人の自由の徹底を意味する。国家の秩序を最重視する中国の「保守主義」とは、そこが違う。 日本は、アジアと、欧米の中間に位置する、興味深くユニークな国である。日本における個人の自由と社会の秩序のあり方は、どうあるべきか。明治維新で欧米の思想を柔軟に取り入れた日本では、人権や自由などの思想が社会にある程度根付いている。その一方で、清原和博さんが逮捕されると一律に「清原和博容疑者」と報じるなど、罪を犯した人を「別扱い」することで社会の秩序を保とうとする、アジア的な傾向も見られる。 薬物で逮捕された芸能人が、公衆衛生や刑事罰の問題を超えて、社会的にバッシングされ、反社会的という烙印を押されてしまうことにも、個人の自由、権利よりも社会の秩序を重視する傾向を見てしまう。 果たして、それで良いのだろうか? 私には、大いに疑問なのである。 日本は、これから、どのような社会を目指すのだろうか。 私自身は、日本は、アジア的な伝統と、欧米のようなグローバルな普遍的な価値を志向する社会という、二つの動きの間に位置するユニークな国でありつづけて欲しいと考えている。何よりも、個人の自由を重視する思想がないと、ITや人工知能といった分野におけるイノベーションが起こらず、経済も発展しない。 中国の経済は、思想や言論の自由に対する抑圧的態度をとっている限り、行き詰まるだろうと私は考える。日本としては、個人の自由を重視する米国のやり方の、良いところは学ぶべきだろう。 私たちは、一体、これから何を求めるのか? 清原和博さんの薬物使用に関する報道や、世論のあり方を見ると、日本という国の課題も、希望も、見えてくるように思うのである。

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    正義ヅラするメディアの「洪水報道」に意味はあるか

    にも残らなくなることが心配だ。 洪水報道はいいが、問題はその先にある。なぜなら、今回のような麻薬常用事件は、それを犯した個人だけの問題ではなく、社会的な問題だからだ。個人の問題として片付けてしまう日本 “麻薬大国”のアメリカでは、薬物乱用による逮捕者が増えすぎて刑務所が足りなくなり、「どうすれば乱用者を減らせるか」という研究が進んだ。その結果、ヘロインやコカイン、覚せい剤などの麻薬常用者は、依存症に罹っているのと同じだから治療しなければならないとなって、治療施設が全米につくられることになった。麻薬が蔓延することで、社会は多大なコストを強いられるからだ。 しかし、日本ではこういう意識は薄く、乱用者は「厳罰主義」で服役させて終わりだ。社会から隔離してしまえば、それで問題が解決したことになっている。 だから、実際は麻薬が蔓延していても、一般人はそれに気がつかない。しかし、ここ数年でも、有名人の麻薬事件は多い。酒井法子、ASKA、小向美奈子などが相次いで逮捕されている。それなのに、メディアと大衆は、それを個人の問題として片付けてきた。 つまり、「クスリに負けたのは人間として弱いから」というわけだ。“ダメ人間”のレッテルを貼って、社会から追放して終わりというわけだ。  しかし、ホィットニー・ヒューストンやマイケル・ジャクソンを薬物乱用で失ったアメリカでは、これを個人の問題とは考えない。社会的な問題として、メディアも含めて解決法を探ってきた。 なにしろ、アメリカでは薬物乱用による死亡者が年間4万人を超え、交通事故の死亡者を上回っているからだ。これに対して日本は、2014年における薬事事犯の検挙人員は1万3121人(警察庁『平成26年の薬物・銃器情勢』)なので、死亡者は数百人と思われる。 しかし、だからといって、この問題を放置してはおけない。麻薬で捕まる人間の8割が、麻薬として最悪の覚せい剤事犯であり、水面下には検挙者の何倍、何十倍の潜在的な乱用者がいるからだ。覚せい剤ばかりではない。昨年まであれほど事件が起きていた「危険ドラッグ」も、いまは地下に潜って蔓延している。 アメリカでは数年前、テレビドラマ『ブレイキング・バッド』が大ヒットした。これは、肺がんで余命2年と宣告された高校の化学教師が、キャンピングカーの“キッチンラボ”で覚せい剤(メタンフェタミン)をつくる物語だ。  アメリカでは、ごくフツーの人間まで、覚せい剤をつくるのかと驚いた。 日本では、覚せい剤は製造されていない。清原容疑者の入手ルートが問題になっているが、たどっていけば必ず海外に行き着く。日本に流れ込む覚醒剤は、北朝鮮モノ、中国モノ、南米モノ、アフリカモノとさまざまあるという。先日も、鹿児島で末端価格にして70億円に相当する約100キロの覚せい剤を保持していた疑いで4人が逮捕されている。 このような暴力団がらみの闇ルートを断つことも大事だが、依存症に陥ってしまった人間を助けることも大事だ。アメリカには、薬物リハビリ施設が2000カ所ほどある。しかし、日本にはほとんどない。 そのうちの一つ、あの田代まさしも入所している「ダルク」の近藤恒夫代表が、次のようなことをテレビや新聞で言っていた。 「交通事故みたいなもの。誰でもなり得る」「クスリに負けた人間に、『どうしてそんなものに負けたんだ』と言うのは、薬物の怖さや依存症について知らないから」「クスリをやって捕まった人間に、『おまえはダメだ』と言ってもなんの意味もない」「薬物依存は病気。病気を治療するのは恥ずかしいことじゃない。彼らに必要なのは依存症から回復するための適切な助言と情報です」 これが、今回の事件の教訓だろう。 つまり、私たちの社会とメディアが問われているのは、清原容疑者がはたして社会に復帰できるかどうかだ。とくにメディアは、そこまで見据えた報道をしてほしいと思う。 もちろん、「禊(ミソギ)が済んだから」という復帰ではない。人間として復帰できるかどうかだ。ただ、一般大衆はそんなことはどうでもよく、この洪水報道が終われば、清原容疑者は「あの人はいま」で取り上げられるだけになるだろう。

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    【岡崎聡子獄中手記】薬物で服役して一番辛かったこと

    岡崎聡子さんは1976年モントリオール五輪に出場した元体操選手で、高校生の頃までは体操一筋の女性だった。2009年2月に覚せい剤使用で逮捕されたのだが、これが5度目。依存症と言ってよいだろう。ある意味では再犯率が高いと言われる薬物依存の怖さを体現しているケースだが、いったいそういう自分自身についてどう考えているのか。その2009年に獄中で書いてもらった手記だ。その後、彼女は刑期を終えて出所したが、現在もまた服役中だ。(『創』編集部)元体操選手の岡崎聡子 私の薬物での逮捕は今回で5回目。薬物を始めてから合計すると10年くらい、生きている時間の半分くらいを獄中で過ごしていることになります。私がオリンピックにも出場した元体操選手であるため、逮捕のたびに報道され、家族には大きな迷惑をかけてきました。私自身は実から出たサビと思っていますが、家族は本当にやりきれない思いをしてきたと思います。 女子刑務所に入って一番つらいのは、残された子どもが施設に入れられて淋しい思いをしているとか、そういう話が多いことです。何の罪もない子どもが一番の犠牲者かもしれません。最初の薬物体験はアメリカだった 私が最初に薬物を体験したのは、アメリカのロサンゼルスに、エアロビクスの勉強に行っていた時でした。最初はアメリカにいる時だけ使っていました。コカインもやるようになりました。そのうち日本でも、つきあっていたのが六本木の水商売の人だったこともあり、入手もできました。仕事が終わると一服、という感じで、アルコールと同じ感覚で使っていました。気持ちがパッと明るくなるし、活力も出る。もちろん性的な部分での快楽もありました。 ちょうどタバコやアルコールと同じで、薬物とは一度その効用を知ってしまうと、なかなか知らなかった頃には戻れないものだと思います。よく薬物依存者はいろいろな症状が出てくると言われますが、私の場合は精神的依存はありますが、身体面では何の影響も現れませんでした。恐らくその辺は個人差があるのではないでしょうか。刑務所での「薬物離脱教育」の実態 もちろん乱用の怖さはあると思います。お金と同じで、使っているつもりが逆に支配される。その結果、逮捕となれば一気に堕ちていく。それが、今の日本の覚せい剤使用者のなれの果てかもしれません。  女性刑務所は薬物犯が多いと言われますが、例えば平成7年の初犯工場(栃木)の頃は、雑居の6~7人のうち半数は薬物犯でした。初犯工場は年の若い薬物犯が多いのです。でも前刑の平成17年から約3年いた福島刑務所の雑居は、累犯と初犯の混成工場で、累犯は老人の万引き犯とかが薬物より多かったと思います。薬物犯は6人のうち2人とか、そのくらいでしょうか。身よりのない老人がすごく多かったのが印象に残っています。 刑務所での「薬物離脱教育」、昔は「薬物教育」と言いましたが、私は毎回必ず受けています。でも役に立っているかは疑問です。女子刑務所のほとんどの受刑者は仮釈放をもらって早く出たいという一心で受けています。仮釈放には「反省の情がある」ことが必要なのです。同じ房で「ねえ、おいら何したの? 何でこんなとこ入れられてるの? 誰も傷つけたわけでもないのに」と話している人が、薬物教育の場では「覚せい剤は人間をボロボロにするし、二度と手を出そうとは思いません」と「反省」を口にして、先生方を満足させている光景を何度も見てきました。  これを言うと驚く人もいますが、薬物については、法律違反といっても具体的にどこがどういう理由でいけないのか考えてみる価値はあると思います。だって心身がボロボロになるというのなら、アルコールでもっとひどいことになった人はいくらでもいます。なぜそれは犯罪とされないのでしょうか。 私は遠くない時期に刑が確定するでしょうし、刑務所に行く覚悟はできています。でも今の刑務所が更生施設といわれるのには疑問を感じます。それこそ「こんなものいらない」ではないかと思うところも多々あります。あの中で、本当に受刑者を更生させようという気持ちがお上にあるのか。疑問です。

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    薬物をめぐって日本で何が問われているのか

    は即決手続をとれば2週間後に裁判があって、その日に執行猶予が言い渡される。トータルで1カ月ちょっとで事件が解決してしまう。これでは、この人たちを野放ししているに過ぎない。そこで、民間の団体に業務委託して、任意の薬物テストを受けることを約束させ、その予後を観察する。強制力はないけれど、これは一つの方法かもしれません。 もう一つ、仮釈放には必ず保護観察がつきます。この期間、薬物事犯については定期的に保護観察所に行って薬物検査をさせる。併せて、薬物依存者用のプログラムをやって、2週間に1回程度のグループカウンセリングをやる。仮釈放するときには、遵守事項というのがついて、それに違反すると仮釈放が取り消され、刑務所に戻されることがあるのですが、薬物依存症者には特別遵守事項を付けて、薬物依存プログラムに参加することを義務付ける。2007年から執行猶予者の保護観察にも特別遵守事項が付けられることになったので、執行猶予でもプログラムをつけることができるようになりました。その後、更生保護法という法律ができて、二つの保護観察が一本の法律に規定されることになりました。私は、弁護士登録しているので、薬物の弁護のときには、保護観察付き執行猶予を求めて、再度の執行猶予を求める弁論をしています。裁判所は、なかなか慎重で、この制度をまだ活用してはいません。最大のハードル──今のお話だと、日本もできる範囲で手は打ちつつある、と。石塚 ただ、最大のハードルは、再使用した場合に犯罪になってしまうことですね。先ほども言いましたようにドラッグ・コートの場合には再使用というのは、回復のためのひとつのプロセスだと見るので、再使用には刑罰以外のサンクションを科すことで、プログラムを継続できるように処理しています。しかし、日本では、保護観察中に陽性の反応が出たら、公務員である保護観察官は、通報の義務があるので警察通報する。これでは、プログラムを中止するために薬物検査をしていることになってしまいます。 だから、一番の障害はここです。薬物依存が病気であることを認め、再使用は、回復するための一つのプロセスだという認識を社会が共有することが必要です。プログラムを続けている限りは、警察には通報しない。刑事上の罪は問わない。こういう条件さえ整えば、今の日本のシステムの中でも、ドラッグ・コート的なものは十分運用できます。 とりわけ日本で一番使える可能性があるのは、検察が起訴するかしないかを判断するときです。日本は起訴便宜主義を取っているので、検察の起訴裁量が非常に広い。だから、起訴判断に際して、プログラムに参加することを約束し、これをきちんと守ることができたときには、起訴猶予処分にする。裁判所と検察庁がしっかり協議して、きちんとした基準とルールを作れば、十分できることだと思います。薬物事犯についてではありませんが、かつて、昭和20年代には、このような試みがなされていたようです。起訴猶予に際して、一定の条件を付し、条件が充たされた場合には起訴しない。しかし、戦後の民主化の流れの中で、司法の恣意的な運用をもたらす可能性があるということでやめることになったようです。たしかに、いくつか問題はありますが、要は、関係者のやる気と熱意です。 もう一つ必要なことがあります。英米では、判決前に専門家による調査が行われます。アメリカでは保護観察官(プロベーション・オフィサー)がこれを担当します。日本では少年については、家庭裁判所の調査官が審判の前に調査をしています。警察官や検察官も捜査をしますが、被疑者・被告人に不利益な情報は集めてきますが、有利な情報を集めて裁判所に提出するようなことは皆無といっていいでしょう。彼らの仕事は刑事訴追ですから。当然といえば当然かもしれません。その人の処分を決めるに際して必要な情報をすべて集めることが必要なので、この種の専門調査官が判決前調査を行うシステムを構築する必要があります。日本は薬物についての認識が低すぎる日本は薬物についての認識が低すぎる──よく薬物犯罪は再犯率が高いと言いますが、基本的に追跡調査はやってないんですよね。石塚 してないです。日本では追跡調査がないので、厳密な意味での再犯率は分りません。再入率といって、刑務所に入っている受刑者の中で、かつて刑務所に入っていた人がどのくらいの割合でいるかを調べて、再犯率だと言っています。前科前歴をデータで調べてみても、同じようなことが明らかになりますが、窃盗で同種前科がある人の率よりも、薬物事犯で同種前科のある人の方が高いということで、薬物事犯は再犯率は高いと言われているようです。──薬物で刑務所を出たり入ったりする人について、社会でアフターケアをしなくてはいけないという考え方はあるんですか。石塚 あると思います。現実に薬物事犯を処遇している矯正や更生保護の分野では始まっています。ただ、それを法務省管轄でやっている限りは、司法が問題を抱え込むことになります。厚生労働省の医療と福祉の関係機関と協力して、総合的な対策を立てるべきです。縦割りでなく、横切り・斜め切りです。 そのために二つのアイデアがあります。一つは、薬物の単純な所持や使用の問題の解決を市町村レベルの自治体に任せることです。国はお金の支援をするだけ。市町村だと警察や司法の機関や権限を持っていないので、警察ではなく、福祉や医療の分野で対応せざるを得ません。もう一つは、NPOやNGOなど、民間の機関にプログラムのプロバイダーとして参加してもらうことです。市町村と民間が薬物に手を染めた人たちをサポートするシステムを創り、民間に業務を委託して、その費用を国が補助することにすればいい。刑事司法機関や刑務所での処遇にかかっている費用をこちらにまわして財源にします。処遇効果を総合評価して、より優れたプログラムを開発していくのです。アメリカの実証研究では、きちんとしたプログラムのあるドラッグ・コートは有効であるという評価が出ています。まあ、当然といえば当然で、ドラッグ・コート裁判官は、とても面倒見がいいですから。 ──日本の場合、司法を含めたシステムの変更も必要ですが、その前に、社会的な啓蒙がもっとなされないといけないとも思いますね。石塚 薬物についてみんなが知らなすぎます。麻薬といえばどれも同じで、快楽を求めて始めて、やめると禁断症状が出て……。薬物はそれぞれ効能が違います。乱用の仕方で依存の仕方も異なります。 きちんとした情報と正確な理解にもとづいて、治療や対応を考えるべきです。.(月刊『創』2009年11月号掲載記事に加筆)

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    清原を笑っている人々は汚物に群がる「ハエ」に等しい

    だけの数字です。要は、「捕まっていない人間はカウントされていない」のです。 私は推測ですが、覚せい剤事件を起こし、初犯ということで執行猶予が付いた人間の…7割…いえ、8割ほどはもう一度手を染めているのではないか?と推測しています。だって「再犯」で捕まっているだけで64.5%なのですから。 簡単に言うと、日本、覚せい剤に対して取り締まる気がないのですよ。 本気で取り締まろうと思えば、警察が本気を出せば覚せい剤事件なんて、もっと減らせるんです。 なのに、やる気がないのです。全く。再犯64%って、そういう数字です。一部の噂では、警察も暴力団組織と一部でつながっていて、大きな資金源である以上、黙認してるんじゃない?なんて噂もありますが、ホント、そう考えたくなります。アメリカの取り組み しかし、これがアメリカですと、あまりにも状況が違います。 アメリカはすぐ南にメキシコがあるものですから、違法麻薬とは、長年戦い続けてきた歴史があります。特に1981 年に就任したレーガン大統領は「麻薬との戦争 (War on Drugs)」政策っていうんですが、中毒治療のための予算を減らす一方で麻薬犯罪者の投獄を推し進めまくったんです。(その結果、アメリカ中の監獄が定員オーバーになるんですけど…) でも、そこで終わらないのがアメリカでした。 1989年なんですが、フロリダのマイアミにアメリカ初の「ドラッグコート」ってのを作るんです。 …何それって? いやいや!こういうことをちゃんと学んで報じるのがニュースの役割なんです。そもそも、清原の転落人生とか、ただの視聴率稼ぎですから!「ドラッグコート」ってのは…要は「麻薬中毒者に特化した裁判所」って感じだと思ってください。専門的に言うと「治療的法学(Therepeutic Jurisprudence )っていう理論を応用した場所なんですが、 そもそも、麻薬中毒者って「犯罪者」だけれど、同時に「被害者」じゃね? っていう発想から「ドラッグコート」では、裁判官の監督に基づいて「ドラッグ・トリートメント及びリハビリテーション」が専門的に実施されます。犯罪者にはなんと 「刑罰」と「治療」を選択させる 上、ちゃんと治療を選択した場合、懲役をさせない代わりに更生プログラムの参加を義務付けて、更生プログラムを終了したら「公訴を免除」されたり「薬物逮捕歴を抹消」されるという特典が用意されているんです。 ちなみに、2009年12月の時点で全米で2301ものドラッグコートが稼働しています。 なぜ日本にドラッグコートが作られないのか!? アメリカと日本では、あまりにも覚せい剤犯罪に対する取り組みへの真剣さが違いすぎます。日本人は「何かミスをした人間をバカにして笑いものにすることが大好き」な人たちが多いのですが、あまりにも下品で悲しい感性と言わざるを得ません。 今は下品なサイトなどで、私のことを「嘘つきだ」とか「謝罪しろ」とかネットに書き込んでいるだけの情けない人たちがそこそこいるようですが…私だって人間です。これだけの分量、これだけのコラムを書いていれば、当然、時としてはミスもあれば、間違いもあることでしょう。そこで大切なことは「きちんと認めて謝罪し訂正すること」だと思っています。 私は誠意をもってその対応をしたつもりですが、必死になって私をバカにして喜んでいる、トイレに落書きするしか能のない連中が結構いるでしょ?そういう人たちって、何か一つでも叩けるネタがあると飛びついて喜ぶんです。自分は何も出来ていなくても。そんな連中、汚物に群がるハエと同じレベルの連中だ。そんな寒い連中が 「清原の転落人生」とかをやってると喜ぶわけです。大喜びするんです。こっちにおいで~みたいな感じで。情けない限りです。そんな連中をテレビが相手にしてどうするんだ、と問いたい。 私は、清原容疑者を笑わない。 じゃあ、彼を笑蔑んでいるハエ軍団は彼と同じ実績を残せるのか?絶対に出来ないはずだ。そんな彼が何故落ちたのかを検証し、問題を解決するために動くべきだ。 清原容疑者は初犯なので執行猶予が付くことでしょう。あのスーパースターを、どうやって更生させて、どうやって再生させるのか。そこを考え・実行するのが「先進諸国」の姿勢です。今のままの日本のシステムだと、国として何の取り組みもされていないに等しく、再犯を促しているようにすら思えるほどです。 犯罪者は法廷で裁かれなければいけない。が!被害者であれば、送られる先は病院や厚生施設であるべきだ。 清原容疑者を叩いて喜んでいるうちは、日本の取り締まりは絶対に前進しない。私はそう断言します。もうどれだけそんな低レベルの報道が繰り返されているのか。その度に通り一遍のコメントをしていてもしょうがない。 清原容疑者を産んだのは、日本の「全く麻薬を取り締まる気のない国自体のシステム」だ。少なくとも私はそう考えています。((長谷川豊公式ブログ「本気論 本音論」 2016年2月7日分を転載))

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    中高年が覚せい剤にハマるワケ

    覚せい剤などに手を染めるのか、不思議な気もします。 でも、私にとっては、この大スターの姿が、覚せい剤事件を通じて出会った、多くの中高年の人たちと重なって見えてしまいます。私は近年、分別盛りの人たちが、たかが覚せい剤のために、家庭も仕事も、社会的な立場さえも投げ打ってしまう姿を頻繁にみてきました。最近、覚せい剤事件の検挙者のなかで、中高年層が占める割合がどんどん増えているのです。覚せい剤事犯県境者の年齢層※警察庁「平成26年の薬物銃器情勢」および同資料の過去年版のデータに基づいて、筆者がグラフ化したもの 中高年の覚せい剤事犯者の多くは、若いときから覚せい剤を使い、何度か逮捕され、服役もして、それでもまだ覚せい剤と縁が切れない人たちですが、その中に少数ながら、中高年になって、人生で最初の逮捕に遭遇する人たちもいます。 それまで着実に生きてきた人が、人生の折り返し点まで来て、覚せい剤事件を起こすに至ったケースでは、その背景に、中高年の辛さ、生きにくさが垣間見えることが多いものです。 会社の中核として、一家の主として、責任が重くなるいっぽう、体力や気力に陰りが見え始める40~50代の時期。若い頃なら乗り切れたはずの難局が、中高年になった今では果てしない困難に見えてしまうこともあります。そんなとき、心の隙間に覚せい剤が入り込んでしまうのです。きっかけとなったのは、会社内の異動、転職、新規事業の負担、業務不振、自営業者では資金難など。 しばらくの間、覚せい剤は、折れそうになった心を奮い立たせ、すり減った心身に開放感をもたらしてくれるように見えましたが、間もなく、彼らの心だけでなく、生活さえも変え始めます。薬効がきれた途端に襲われる苛立ちや、異常なまでの不機嫌、わけもなく増大する猜疑心、不安。活力をつけてくれるはずの覚せい剤が、いつの間にか、状況をもっと悪くしてしまうのです。 私が出会った人たちの話をしましょう。しかし、私が仕事で手掛けたケースを披露するわけにいかないので、ここで紹介するのは、良く似た複数の事例をまとめ、多少の脚色も加えた仮想事例です。転職のストレスが引き金になったAさんの場合50代のAさんは、それまで勤めた大手会社の業務縮小のため、中堅企業に転職したことで、生活が一変しました。管理職とはいえ、新規顧客の開拓に苦労し、連日の残業で疲れがたまり、不眠に悩むようになっていました。また、ボーナスが減額したことで、毎月の住宅ローン負担が増え、妻はパートの勤務時間を増やし、夫婦の間も気まずくなりました。そんなとき頭をよぎったのは、バンド活動に熱中していた若い頃に、時々使ったことのあるマリファナでした。そういえば、行きつけの店のマスターは、どうやらマリファナの愛好者らしいと思いつき、冗談半分で話してみると、意外にすんなり入手先の電話番号を教えてもらうことができました。紹介された相手に何度か会い、大麻を買った後、ふと「最近、気力がなくなって」と口にしたところ、相手の密売人が勧めてきたのが覚せい剤でした。Aさんは、これまで覚せい剤を使ったことがないので、最初はためらいましたが、相手はガラスパイプで使う方法を詳しく教えてくれ、パイプをおまけにつけてくれました。帰路、Aさんは車を人気のない大きな駐車場の奥にとめ、車内で初めての覚せい剤を使いました。その後、覚せい剤を使うのはいつも深夜、同じように車を走らせて人気のない場所を探したり、ときには家族が寝静まった後、トイレでパイプを炙ることもありました。最初は週末だけ、それもごく少量を使っていたAさんですが、間もなく使用回数も使用量も増え、1年ほど経った頃には常用するようになり、そして、薬効が切れた時の苛立ちや気分の落ち込みは、耐え難いほどになっていました。この頃のAさんは、人が変わったようだったと妻は言います。ひどく不機嫌で、家族に怒鳴り声をあげ、夫婦の溝は限りなく深くなっていました。会社でも、浮いた存在だったのではないかと妻はみていました。破局が訪れたのは、さらに1年ほど経ったときです。いつもの入手先の密売人から覚せい剤を買ってしばらく歩いたところで、いきなり警察官にとり囲まれました。実は、この密売人は、当人も気付かないまま警察の泳がせ捜査の対象になっていて、Aさんが買い受ける場面を警察官が遠巻きに監視していたのです。乗り切る活力がほしかったBさんの場合乗り切る活力がほしかったBさんの場合40代後半のBさんは、小さいながらも会社の社長として、忙しく飛び回っていました。新しい取引先を開拓したため、営業回りや接待が深夜に及ぶことが増え、出張も多くなり、疲れが抜けない毎日でした。また、多忙な割に利益が出ないことも彼を苦しめていました。ある日、出入りの業者と話しているときに「疲れる、すっきりしない」などともらしたら、相手は思わせぶりに声をひそめて「いいものがある」と言い始めました。この相手は、とかく薬物がらみの噂のある人物で、暗に覚せい剤を勧めているのだとピンときたものの、その場の勢いでその人物に「いいもの」を調達してくれるよう頼み、とりあえず10万円を渡しました。数日後、相手が届けてきたのは、透明袋入りの覚せい剤と注射器でした。画像はイメージです 実は、Bさん自身も、若い頃には多少ヤンチャな生活をしたこともあり、仲間に勧められて覚せい剤を使ったこともありますが、とりたてて深入りすることもなく、やがて家庭を持ち、父の会社を継いだころには、昔のつきあいもすっかり切れて、その後は薬物とも無縁に過ごしていました。 およそ20年ぶりの覚せい剤は、Bさんにとって衝撃でした。ざわざわと身体を駆け抜ける感覚、そして一気にみなぎってくる気力と活力、あたかもピンボケの白黒映画がカラーに変わったように、周囲の世界がくっきりと感じられました。実をいうと、久々の覚せい剤は彼の身体には強すぎたようで、心臓がバクバクして胸の痛みも感じたのですが、そうした不快な記憶はすぐに薄れてしまいました。 Bさんが、覚せい剤にのめり込むのに時間はかかりませんでした。やがて、接待を口実に外泊することが多くなり、出張も増えました。社員や家族の目の届かないところで、覚せい剤を使っていたのです。妻は、彼の変化を感じ取っていましたが、浮気を疑い、薬物とは考えてもみませんでした。怒りっぽくなり、妻に猜疑心いっぱいの目を向け、家を空けることが多くなっても、それでも浮気が原因だと思っていたのです。 しかし、突然、すべてが明らかになる日がやってきました。出張先で覚せい剤を使い、その数日を忙しく乗り切った後、車で会社へ戻る途中、耐えきれないほどのだるさを感じたBさんは、路肩に車をとめてひと眠りし始めました。覚せい剤の勢いで活動した後、その薬効が切れると、強い脱力感に襲われるのです。彼は気づかないまま深い眠りに落ち、そのまま10時間近くも眠り続けました。そんな様子を不審に思った近所の住人が「車の中で人が死んでる」と110番通報したのです。あわてて必死に言い訳するBさんでしたが、ベテラン警察官の目をごまかすことはできませんでした。薬物が絡むと複雑化する ところで、Aさん、Bさんともに、若い頃に多少の薬物経験があったことにお気づきでしょうか。それまでの人生で、まったく薬物と接点のなかった人が、中高年になっていきなり覚せい剤を使い始めることは、めったにないでしょう。若いころ、興味本位で薬物を使い始めたとしても、多くの人は、社会的に成熟するとともに、自然に薬物から遠ざかっています。実際、経験の浅いうちなら、大して苦労せずにやめることができるのです。 ところが、中高年になって薬物に手を伸ばすと、事情は大きく違ってきます。まず、何か理由があって薬物を求めている点です。活力を求める人、気晴らしを求める人、ときには現実からの逃避を願う人、それぞれに切実な気持ちがあって覚せい剤を手にしています。それだけに、使い始めると、エスカレートしやすく、また断薬する困難もはるかに増します。 いっぽう、体力はすでに下降し始めているため、若い頃に比べて覚せい剤の影響を強く受けることになります。本人が感じている辛さやストレスに、薬物のもたらす弊害が絡み合って、暴力、暴言、不機嫌、身勝手・・・、そんな振る舞いが家族や周りの人たちを巻き込み、事態が急速に悪化し始めるのです。 家族は、わけがわからないまま苦しみ、傷つきます。でも、家族こそ問題解決のキーマンなのです。次回は、妻の立場、家族の立場からこの問題を考えてみたいと思います。家族の胸に、もしかしたら薬物かもしれない、そんな疑いが浮かんだら、すでに解決に一歩近づいているのです。(弁護士小森榮の薬物問題ノートより2016年2月4日掲載分を転載)

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    江夏豊と同様に「一発実刑」で清原和博を蘇らせることはできないか

    そして、多くの者が、執行猶予中に再び覚せい剤に手を染めて有罪判決を受け、執行猶予が取り消され、新たな事件の懲役に、前の事件の懲役が加算され、かなり長期の受刑となる。いきなりの長期の服役で更生の意欲が失われてしまうことも珍しくない。 「初犯⇒執行猶予」「再犯⇒実刑・初犯の執行猶予取消」というお決まりのパターンが、かえって、覚せい剤事犯者の社会復帰を妨げているとも言える。 清原の場合も、数年前から覚せい剤の影響と考えられる奇行が目立っていたと言われており、覚せい剤への精神的依存性は相当高いと思われるが、初犯なので執行猶予となる可能性が高い。執行猶予であれば、服役はせず、社会内で生活できることになるが、もちろん、社会の表舞台で働けるわけはない。もともとの知名度の高さに加え、今回、これだけテレビで顔を露出させられた清原が、普通の社会人として暮らすことは困難であろうし、結局、どこかに閉じこもって失意のうちに時を過ごすことになる可能性が高い。そのうちに再び覚せい剤に手を染める、というパターンで再犯に及んでしまうことが強く懸念される。 江夏の成功例を見る限り、清原の場合も、初犯であっても、1年程度の実刑とし、一定期間矯正処遇を受けさせることが、逆に、社会復帰の可能性を高めることになるのではないか。 執行猶予を付するか実刑にするかは裁判官の裁量だ。覚せい剤事犯は、それ自体は一般的には被害者がいない犯罪であり、裁判官として初犯に実刑を言い渡すことに抵抗があるのは理解できる。しかし、本来、執行猶予は、社会内での処遇が本人の更生に資すると確信がもてる場合に言い渡されるべきだ。社会に戻ることで逆に再犯の可能性が高まると考えられるような場合にも、形式的・機械的に執行猶予の恩典を与えるのが果たして本人のためになるのだろうか。 清原を裁く裁判官に、球史に残る名投手江夏豊に一発実刑を言い渡した裁判官と同様の英断を望むことはできないだろうか。(「郷原信郎が斬る」2016年2月12日分を転載しました)

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    清原和博はなぜシャブに溺れたのか

    元プロ野球選手の清原和博容疑者が自宅で覚醒剤を所持していたとして警視庁に逮捕された。球界のスーパースターはなぜ覚醒剤に溺れ、転げ落ちてしまったのか。iRONNA編集部が満を持して総力特集でお届けする。

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    清原はこうやって逮捕された! 元警視庁麻薬刑事が明かす「薬物捜査」

    視庁は文春の報道があったころから、清原容疑者への内偵を進めていたことは間違いありません。しかし、薬物事件とはいっても捜査の流れは普通の事件と何ら変わりがない。今回の件で唯一「違い」があるとすれば、清原容疑者への身辺捜査を進めていることが周囲に漏れてしまうと、すぐにメディアに広まってしまうという捜査側の懸念ではないでしょうか。警察は清原容疑者を24時間体制でマークしていたようですが、行動確認はあくまで逮捕直近の話だと思いますし、捜査員は張り込む場所によってマークの緩急をつけていたと思います。覚せい剤所持で逮捕された元プロ野球選手・清原和博容疑者の自宅マンション前には、一夜明けても報道陣が詰めかけている=2月3日、東京都港区東麻布(寺河内美奈撮影) 薬物捜査は、対象の被疑者が覚醒剤(ブツ)を使用し、体内に残ったまま逮捕することが最も重要です。それは決定的な証拠があれば、被疑者を確実に公判請求、つまり起訴できるので、捜査する側にすれば、最も理想的な状況になるわけです。 それと、捜査員が行動確認する上で最も重要なのは、対象被疑者がいまどんな状態なのかを的確に見極めることです。被疑者は覚せい剤が体内に入っている状態なのか、それとも効果が切れかけているのか、あるいは完全に切れているんじゃないか。もちろん、それを見極めるのは薬物捜査のプロなんですが、これにはどうしても時間がかかります。さらに、その上で対象被疑者がブツを持っているかどうかを狙っているわけです。 昨夏、清原容疑者本人がテレビのバラエティー番組に出演し、薬物使用について否定したことがありました。このとき、警視庁は清原容疑者の逮捕寸前まで捜査を進めていながら、立件が立ち消えになったとも言われています。真偽のほどは定かではありませんが、もし仮に事実だとすれば、清原容疑者側に捜査の動きを察知され、内偵捜査を進めてもブツが付かないという状況が続き、検挙できなかった可能性があります。もしくは、しばらく泳がせておいて、清原容疑者へのマークが緩んだと思い込ませて隙を与えた上で、決定的な物証をつかんで今回の逮捕に至ったという可能性もあります。いずれにしても、被疑者を現行犯で逮捕した今回の捜査の手法は、最も理想的な流れだったと言えるでしょう。 覚醒剤事件の捜査では、捜査員が実際に検挙に踏み込む場合、ドアのチャイムを鳴らしたり、ノックをしたりすることなどはありません。捜査対象の自宅ドアの動きをずっと観察して、ドアノブが回ったところで一気に突入します。清原容疑者の自宅マンションに踏み込んだとき、本人は注射器やストローを手に持っていたそうですが、それはあくまで偶然であって、被疑者が覚醒剤を今まさに使う瞬間というか、そんな絶妙のタイミングを狙って、捜査員が検挙するのはやはり難しいでしょう。球界ではスターでも薬物事件では末端の人間 逮捕された被疑者は、警察の取り調べで使用の有無や入手経路などを徹底的に追及されます。覚醒剤密売組織の中枢への「突き上げ捜査」や「掘り下げ捜査」の端緒をつかむためです。清原容疑者のような末端乱用者が検挙されるケースはよくありますが、密売組織の中枢にたどり着くのは決して簡単なことではありません。警察内部では末端乱用者の摘発のことを「足を取る」と言いますが、足をたくさん取った上で同じ密売人にたどり着く手法は捜査の常道でもあります。 ただ、これまで数多くの有名人が薬物事件で逮捕されていますが、密売人まで特定できたケースはまれです。有名人を相手にするような密売人は口が堅く、人数自体も少ないので決して「音」を立てるようなことはしません。よくマスコミでは、著名な芸能人なんかが薬物事件で逮捕されるたびに「これにより芋づる式にほかの大物芸能人が捕まる」などと報じますが、逮捕された有名人からは密売相手の供述がほとんど取れないわけですから、そこまでたどり着けないというのが捜査の実情なんです。 清原容疑者は球界ではスターだったかもしれませんが、薬物事件では末端の人間にすぎません。一昨年、覚醒剤事件で逮捕されたASKAもそうですが、ここ最近薬物に手を染める有名人は押収量などを考えれば末端乱用者ということになります。有名人に限らず、一般人が絡んだ事件でも、警察は常に密売人の特定、つまり密売組織中枢の壊滅を目指して捜査を続けています。 これは余談ですが、私が携わった有名人の薬物事件に、平成4年ごろにある大物AV女優の覚醒剤事件を摘発したことがありました。当時、捜査員だった私たちが逮捕したとき、その女優は覚醒剤が体内に入った状態だったのを記憶しています。彼女は逮捕されたという事の重大性を理解していない状態で、ショックを受けている様子はあまり伺えなかったですね。ただ、このときはその後の捜査できちんと密売組織を特定することができましたが、何度も繰り返しになりますが、これはやはり特殊なケースだったのかもしれません。 清原容疑者ほどのビッグネームの逮捕をきっかけに、「薬物に手を染めた人間はいずれはこうなる」という薬物犯罪根絶の啓蒙につながることは間違いないでしょう。だからといって、警察の捜査が「有名人だけを狙い撃ちにする」なんてことは絶対にありません。薬物事件にかかわる捜査員の信念はあくまで「薬物根絶」だからです。有名人による薬物事件が起きれば、他にも同じようなケースはないか、当然捜査が行われて、別の有名人が浮上することだってあるかもしれません。 ましてや、所轄の警察署であれば、捜査員が警察本部の評価を意識するようなこともあり得るのかもしれませんが、今回は警視庁の組織犯罪対策5課の「特命班」が捜査しています。彼ら特命班は、芸能人が絡む薬物犯罪や特殊な内偵捜査を専門に行うスペシャリストです。捜査のターゲットに序列をつけるような捜査は絶対にしないと思います。 もし仮に有名人と一般人が同じタイミングで捜査対象になっていたとしても、彼らはきっと同時に動くんじゃないでしょうか。末端の乱用者が5、6人いても、組対5課は200人規模の組織ですから、よっぽどの大掛かりな事件でもない限り、捜査の人手が足りないなんて事態が起きることはないと思います。ただし、「有名人だからいつもより慎重に行おう」という意識はあります。今回のケースでは、特命班が慎重に慎重を重ねた結果、清原容疑者の逮捕にまでこぎつけたんだと思います。 「薬物乱用を絶ち切きろう」という言葉で表すのは簡単かもしれませんが、一度手を染めると抜け出せない人が多いのも実態です。覚醒剤などの薬物事件の再犯率は非常に高く、生半可な覚悟では決して抜け出せません。ただ、私の周りには薬物を止めて更生している人だっています。薬物から抜け出すのは、結局本人の意思次第なんです。 清原容疑者に関して言えば、一昨年の週刊誌報道によって球界だけでなく芸能界からも干され、経済的にも困っていたそうなんですが、今回の事件の背景には、転落した彼の生活環境とも密接なかかわりがあるような気がしてなりません。 彼は自身のブログで寂しい胸の内をつづっていましたが、一昨年秋に離婚し、2人の子供の親権を手放して孤独感にさいなまれ続けたことで、薬物に手を染めるようになったのかもしれません。ASKAも楽曲プロデュースが上手くいかず、追い込まれたことがきっかけでした。元タレントの田代まさしも、仕事がなくなった切迫感から繰り返し薬物に手を出すなど、芸能関係者の場合は特にこんなパターンでのめり込む人が多いですよね。(聞き手、iRONNA編集部・松田穣)よしかわ・ゆうじ 昭和31年、埼玉県出身。法大在学中に警視庁に入庁。少年、防犯、麻薬・拳銃担当刑事を歴任。警部補任官中、池袋署を最後に退職。「オフィスワイズ調査探偵事務所」を設立。薬物問題、少年問題に精通し「防犯コンサルタント」やテレビ・映画の「警察監修」などでメディアで活動中。

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    「最強」暴走族元リーダーが語る なぜ清原は薬物に手を染めたのか

    りましたが、その頃から薬物との関係があったのかもしれません。 プロ野球選手や格闘家、芸能人などの薬物事件は、今後もなくならない。今年に入ってNHKのアナウンサーが危険ドラッグ所持で逮捕されましたが、タレントだけでなく社員に対しても、テレビ局は薬物事案にかなり慎重になっています。山口組の分裂抗争が始まって以来、薬物の密売を働く暴力団でも、手をひく者が増えていると聞いているけど、そんなことはないんじゃないか。暴力団のシノギって今も薬物しかないんですから。 薬物を最初に覚えるのは外国に行ったときが多い。コカインにしても大麻にしても国内より入手しやすく手にする機会が頻繁にあります。1992年に他界した尾崎豊さんも学生のときに海外で覚えたといわれ、亡くなった事件では、薬物を売った人間が、尾崎さんにナフタリン等が入った薬物を渡し裸で暴れたといううわさが流れたことがありました。 「一度ハマると抜けられない」といわれている覚せい剤に手を染めてしまうと抜け出すのは大変です。現在、私は覚せい剤違法薬物撲滅運動家として薬物をやめたい人の相談に応じていますが、そんな私に「薬買うやつ紹介してくれ」と言ってくる組員もいるくらいです。薬物はどこでもある。薬物を断つには人間関係を含めた自分の周りとの関係を断つことが一番大切なんですが、それがいかに難しいことか。ただ、のりピーは大崎のジムがサポートして、今では完全に覚せい剤から立ち直ったと聞いていますよ。(聞き手、iRONNA編集部・溝川好男)なかの・じろー 1967年生まれ、東京都出身。 元暴走族中野ブラックエンぺラーのリーダー。19歳ごろ、某任侠団体組織に加入し、組幹部になる。現役ヤクザ時代は、東京拘置所を皮切りに通算17年に及ぶ服役を経験。裏社会にまつわる記事を書き始める。現在は完全にヤクザから足を洗い、ジャーナリスト、芸人、バンドなど多方面で活動している。 著書に『刑務所ぐらし』『刑務所の奇人変人』(道出版)、『歌舞伎町チンピラのココロエ』(第三書館)など。

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    清原和博容疑者 消えたブログにあった「不安定な文面」

    の間に保存し、撮影したブログを引用して、彼の最近の様子や不安定さをにおわせる記述を報じている。「何か事件が起きると、インターネット上に残っている関係者の痕跡を探すのは必須になっています。今回も清原容疑者逮捕の連絡を受けブログの保存を始めたのですが、始めて3か月あまりのブログなのに記事が約200本もあった。すべてを保存する前に、運営会社の措置だと思うのですが、ブログが削除されました。あと少しで全部を保存できたのに、悔しいですね。 2009年に首都圏連続不審死事件で逮捕された木嶋香苗被告のブログも大量に記事がありましたが、あのときは削除されるまでに時間の猶予がありました。最近は、事件関連のブログ削除がすごく早い印象です」(在京テレビ局情報番組AD)試合後、古巣、西武ドームのホームベースに一礼したオリックス・清原和博=2008年9月29日、西武ドーム(撮影・尾崎修二) 清原容疑者は昨年11月25日から「清原和博オフィシャルブログ」を始めている。初めての投稿は「午後3:33」。3並びの時間に合わせて初投稿した理由を「僕のラッキーナンバーは3番です。もちろん5番にも愛着はありますが…。あえて初心に帰りたいと思います。」と記していた。 日常の出来事や喜怒哀楽を素直につづったブログは次第に話題を集め、今年1月24日には『ワイドナショー』(フジテレビ系)に清原容疑者自身がブログの記事内容を説明するため生出演した。そして、”飲食店で怒りを鎮めるため灰皿を割った事件”の顛末について語った。ブログが世間の注目を集めるようになったのはこのときだったろうが、野球ファンは、昨年12月ごろからブログが更新されるたび不安を感じていた。 「書いてあることが、まるで思春期の女の子のような繊細さなんです。たとえば12月5日は夕方と深夜の2回、ブログを更新しています。夕方は、息子の野球の試合のためにグラウンドへ行ったら場所を間違えていたことがわかり、よその野球チームのお母さんがわざわざ電話して本当の場所を探してくれて親切にしてもらった、という内容でした。 それだけならいい話で終わるのですが、深夜に更新したブログは『眠れない』というタイトルで『親切 なんで親を切るて書くんやろう』でした。だから同じ月に、久しぶりに息子とキャッチボールをし、ダルビッシュ有投手がサプライズで来てくれて息子たちが大喜びしたのを『今日からサンタさんはいると信じよう』とか、食事をして息子と別れたら『涙が出た』『今、1人ぼっちで部屋にいる』と書いてあると、抒情的な話ではなく薬物依存症は本当かもしれないと疑っていたんです」(PL学園時代から清原ファンの40代男性) オフィシャルブログの運営会社が提示する規約には「社会倫理や法令に反するもの」を禁止事項として掲げており、それに違反した場合は「送信等をした内容の削除、本サービスの全部又は一部の利用停止、退会処分、その他当社が適切と判断する措置をとることができるものとします」とある。おそらく、今回の清原和博オフィシャルブログが3日午前から閲覧できなくなったのも、その規約にのっとった措置がされたと思われる。 捜査はまだ続行中で、清原容疑者が今後、どのような罪状で起訴され、償うことになるのかはこれから決まる。関連記事■ 清原和博容疑者逮捕の現場 TBSスクープの裏側■ 坂上忍 清原和博氏を前に「入れ墨問題」に言及した真意■ 息子が元チームメートの清原氏と清宮氏 対照的なサポート法■ 慰謝料なし離婚 シングルマザー・清原亜希を支える男性とは■ 清原和博氏 自宅差し押さえでウィークリーマンション転々か

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    「ニンニク注射」から始まった清原和博の依存症

    小林信也(スポーツライター) 清原逮捕のニュースに接し、胸の奥に穴があくような、悲しい気持ちに襲われた。 球界を代表する選手が社会的に非難される存在になる、こんな悲劇はあってはならない。だが、防ぐことができなかった。 まったく意外な知らせではなかった。恐れていたことが現実になった、そのようにも感じる。だからなお悔しく悲しい。 現役時代から、清原はニンニク注射を常用していることで知られていた。その成分が合法で、ドーピング違反に問われるものでないため、批判も咎めも受けなかった。私はその注射を実際に処方していた平石貴久ドクターから直接、ニンニク注射の効用とどんな場面で清原に注射を施したか、聞いたことがある。注射器を持つ平石貴久医師 巨人時代、膝などにケガを抱える清原選手は試合前に十分なウォームアップができない状態だった。終盤までフル出場できる体調でもない。だから、第一打席でホームランを打ちたい、それで自分の役割を果たし、存在をアピールしたい。ニンニク注射はその望みに叶っていた。うつとまもなく身体が熱くなり、精神的にも燃えてくる。平石ドクターは東京ドームに出向き、試合前にベンチ裏でニンニク注射をうったという。すると、第一打席にホームランを打つ確率がかなり高まったと話してくれた。 その行為は法律にもドーピング規定にも違反しないが、「おかしい」と思うのが自然ではなかっただろうか。その時から清原は「依存していた」、何かに依存して結果を出すことに執着していたと言うことができる。 今回の逮捕を清原の個人的な問題ととらえ、「転落した清原の心の闇」を探るような報道も出始めている。が、私はこれが清原個人の問題でなく、スポーツ界全体を覆う「依存症体質」という深刻な現象の発露だと感じている。誰もが覚醒剤にまでたどり着くとは言わないが、いまのスポーツ界が、依存症患者を量産する仕組みになっていることを、今回の出来事ではっきり認識する必要がある。 結果至上主義が引き起こす〈負のスパイラル〉。勝てば官軍。勝つために(活躍するために)、頼れるものは何でも利用する。 心技体を磨き、自分の内面を高め、覚悟を決めて実力を試す姿勢が失われつつある。 「そんなことはない、選手たちは懸命な努力と精進を積み重ねている!」と反論があるかもしれない。 その根性論自体、依存症ではないかと私は疑問を抱いている。 高校野球のチームはたいてい週6日は練習する。野球だけでなく、もっと幅広く経験を積み、社会を学ぶ必要のある高校生が、野球の世界に閉ざされ、視野を狭くされる。それを日本中の高校球児が強いられている(ほとんどは義務的にそうなっている)。これは、高校の指導者たちが、「毎日練習しなければ甲子園に行けない」という妄想に縛られているからであり、「脇目もふらず練習に没頭することが心技体を鍛える必須の姿勢だ」という観念に怯えている、あるいは美化して盲信しているからではないだろうか。少しクールに眺めれば、それは立派な「練習依存症」だ。「甲子園だけが目的ではない」はずなのに「甲子園が唯一絶対の目標」のように信じられて変わらない日本の高校野球も、「甲子園依存症」から抜け出せずにいる。野球に限らず日本のスポーツ界は、組織全体が依存症体質であり(多くの競技はいまオリンピックに依存している)、その中で育つ選手たちが依存に導かれるのはある意味、当然の成り行きだ。清原は結果が怖くて不安におののいていた 清原は現役時代、当然ホームランを打ちたかったに違いない。打たねばならない! 使命感にかられていた。打ってファンを喜ばせたかった。自分の実力を誇示したかった。これは清原に限らない。小学生、中学生、高校生も同じだ。活躍し、さらに上を目指すためには結果を出す必要がある。結果が出なければ、見捨てられる。結果が出ればチヤホヤされる。 本来なら、どうすれば打てるか? どうすれば自信を持って打席に立てるか? 技術を学び、不安を越える取り組みをするのが正道。ところが、考えれば考えるほど、わからなくなる。 単純な話、清原はその身体の中に、ホームランを打つ能力を秘めていた。それを信じて打席に立てばよかった。けれど、最近は野球の現場でもすぐ「よく考えろ」と言われる。考えることが優先順位の高いところに設定されている。本当は間違いだ。考えるより、身体に任せる方が次元が高い。頭で考えても、ホームランの打ち方は出て来ない。頭で考えると〈不安〉が浮かぶ。頭が生み出した不安を解消するには、何かに依存するしかない。このような負のスパイラルで、選手たちは依存症に陥ってしまう。そして、それに気づかない。 あの清原が、結果が怖くて不安におののいていたと、彼に親しい人間から聞かされたことがある。そうした不安を乗り越えるため、自分と向き合い、自分の心技体を磨くのが元来スポーツの目的だった。ところが、いまは乗り越える術を教えられる機会も少なく、依存の方向に安易に向かう。 小中高校の野球を指導する監督やコーチの多くが、プロ野球選手を真似て、ネックレスやブレスレットを愛用している。サプリメントやエナジードリンクなどを推奨する傾向もある。指導者が進んで依存症を受け入れているのだから(もちろん、それに気づいていない)、選手が導かれるのは仕方がない。 具体例を挙げるなら、打者たちがネクストバッターサークルでバットのグリップに吹き付ける粘着スプレーも、依存症グッズのひとつだと思う。 しっかり握れるよう、そのスプレーを使う。これは、技術がない証拠だ。剣の世界で〈手の内〉を学んでいる師から、「正しい握りで剣を握ると、自ずと手のひらがくっつく」と教えてもらった。それをバットで試すと、確かに何かを塗ったわけじゃないのに、素手とバットがピタッと吸い付く。こうした不思議な真実を学び、深さに目覚めることがスポーツの喜びであったはず。それが結果ばかりを求める風潮に支配され、安易な依存に走ってしまっている。 清原逮捕で、私たちは真剣に、いまスポーツ界が向かっている方向の誤りを自省し、本来のあり方に気づかなければならない。

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    清原和博容疑者逮捕の現場 TBSスクープの裏側

     2月2日の夜、元プロ野球選手でタレントの清原和博容疑者が覚せい剤所持の疑いで現行犯逮捕された。このとき、TBSだけが警察官に伴われて任意同行される場面を撮影していた。もっともセンセーショナルな場面をTBSに独占された同業他社は「ずっとマークしていたのに」と悔しがり、挽回のためにいま必死で独自ネタをとろうと走り回っている。報道陣に取り囲まれた、送検される清原和博容疑者の乗った乗用車(中央)=2月4日、東京・霞が関(寺河内美奈撮影) 「清原が警視庁に覚せい剤でマークされていることは知られていましたから、ずいぶん前から自宅だけでなく、行きつけのサウナ、銀座の店、常連の焼肉屋など姿を現しそうな場所の目星をつけて、折に触れて彼の動向を確認していました。TBSが今回、独占で同行される場面を撮れたのは、偶然なのか、独自ルートで情報をつかんでいたのか。とにかく悔しいの一言につきますよ」(在京テレビ局社会部記者) 清原容疑者の覚せい剤疑惑が初めて大きく報じられたのは、2014年3月13日号の『週刊文春』だった。それ以前から、関係者の間では何かまずい薬に手を出しているのではとの噂が広まっていたが、『週刊文春』で具体的に報じられたことをきっかけに、警視庁が捜査対象として清原容疑者への照準を定めたといわれている。 それ以来、清原容疑者については何度も「もうすぐ逮捕らしい」という話が出ては消え、の繰り返しが続いていた。今回の逮捕には、実は予兆があった。 「雑誌編集部やカメラマンへの情報提供が何件かあったんです。あるときなどは『●月●日●時ごろに▲▲で待て。清原があるものを買う場面を撮影できるぞ』とやけに具体的な内容でした。結局、思うような場面は撮れなかったらしいのですが、逮捕させてクスリを止めさせようと身近な人間に思われるほど清原は重症なのかもしれない、と部内で話題になりました」(中堅出版社編集部員) 薬物リハビリのために入院したこともあると噂された清原容疑者だが、結局、止められなかったようだ。今回の逮捕をきっかけに、周囲が願うようにクスリと縁を切れるか。関連記事■ 妻が出て行き清原和博邸がゴミ屋敷化 銀座ママ宅に入り浸り■ 清原和博が頬こけ激ヤセ 行きつけの韓国料理店が減量に協力■ 薬物疑惑報道の清原和博 妻・亜希さんがやつれていたとの声■ 清原亜希 小学校でのママカースト考えると離婚は正解との説■ 清原亜希 元夫に養育費支払わせるために仰天奥の手使用か

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    元恋人独占激白! 清原和博「転落人生」の全真相

    生島マリカ(作家) 私は清原さんの西武時代に1年間交際していたことがあります。彼と別れてからは兄弟のような友人関係で、時々ケンカもしていました。私のブログでは、1年くらい前から清原さんのことを書いていましたが、実は本人もそれをよく見てくれていました。彼からはブログに書くことを許されているのに、どうしても世間では「清原を利用して名前を売っている」みたいに受け取る人もいるんですよね。インタビューに答える生島マリカさん(溝川好男撮影) 私は友人なので、清原さんを擁護しているようにしか聞こえないかもしれませんが、これから話すことはすべて真実です。それだけはご理解ください。 2014年に覚醒剤疑惑の報道が週刊文春に出た「あの日」。私は清原さんを私の家にかくまっていました。あの日、週刊誌報道のことを知らなくて、たまたま彼に電話したら、「勘弁してくれ、文春見たか?」って。「見てない、何?」って言ったら、ワーッて興奮してて、取りつく島もない。  それで、私は「わかった。話を聞くから。ホテルオークラの別館のロビーにいるから拾ってよ」と彼に言ったら、しばらくして車で迎えに来ました。彼は車内でずっと「ありえへん」って頭を抱えていましたが、私も文春に目を通した後、冷静に「事情を聴かせなさい。クスリやってんの?」と聞きました。 すると、彼は「そんなことはやってへん!」と強い口調で答えていましたが、私が「過去にはどう?」と聞き返すと、「それはノーコメントや…」と多くを語ろうとしませんでした。それでも、私が「正月明けに病院に運ばれたっていうのはどういうこと?」ってしつこく聞いたら、前年末に出演したテレビの腕相撲大会での対戦相手が22歳ぐらいの若い子で、50歳前だった清原さんは「どうしても勝たなきゃいけない」と、対戦当日の1カ月くらい前から、コメや酒を一切抜いて糖を摂らなかったらしいんです。 そして収録が無事に終わって、解放感から思いっきり羽目を外して暴飲暴食してしまったら、血糖値が振り切って救急車で運ばれたと。でも、そのときは私自身も糖尿病を患っていて、過去に炭水化物ダイエットして成功した後、コメや酒を摂取して血糖値が境界線までいったことがあるから、嘘じゃないなと思ったんです。 私は清原さんに「そうやって本当のことを言えばいいじゃない」って言ったんですけど、彼は「マスコミは怖い。何を書かれるか分からへん。自分が正直に言ったことも全部うがってとられる」って怯えていたのをよく覚えています。「嫁はんが子供を連れて行方不明や!」 結局、その日はずっと彼と週刊誌報道の話をして、本当はお酒はよくないけど、先生から「ウオッカとテキーラは少しなら飲んでもいい」と言われてたらしく、彼はとにかくガブガブ、ぐでんぐでんになるまで飲んでつぶれてしまった。「家の前にはマスコミがいるし…」とも言っていました。第65回全国高校野球選手権大会、先制の2ベースを放ったPL学園1年生の4番打者・清原和博内野手=1983年8月19日 それから私の家に一晩泊めたんですけど、いったん帰宅した後、すぐにまた彼から電話がかかってきて、「嫁はんが子供を連れて行方不明や!」と、また取り乱していたんです。電話越しでワーッと泣いているから、「どうしたん?」って聞いたら、「連絡がつかない。どこ行ったかわからへん。子供が心配や」と叫んでいたんです。 それからもたびたび彼は連絡してきましたよ。「とにかく子供を連れ戻さなあかん」って。でも「ずっと連絡がとれへん」って、しまいには彼も精神的に病んだように落ち込んでいました。結局、3カ月ぐらい連絡がとれなかったみたいです。一切連絡が取れなくなり、子供が心配で精神的に弱り切っていたとき、あちら側が紙を持ってきて、「これに判を押さなければ子供に一生会えないぞ」って感じたらしく、清原さんはそれに全部判を押してしまった。彼は今でこそ後悔していますが、その時はこれさえ押せば、子供と会わせてもらえると思って押してしまった。 清原さんの子供は野球の才能があるらしくて、本人にしてみたら、子供だけが全ての希望だったんですよね。今回逮捕されるまで前科もなかったわけだし、自分はもう一回球界に復帰して監督になって、子供がプロ野球選手になったあかつきには、自分が指導するっていうのが彼の夢でした。 タトゥーについても、私は彼から聞きました。「(脚にある)二頭の龍は子供、ここ(胸)にある龍はオレや」と。実は彼のタトゥーにはそういう意味があったんです。図柄ははっきり覚えてないけど、三頭の龍が対角線上につながるように彫ってあったと思います。 清原さんは、プロ野球の指導者や監督になりたいという思いはめちゃめちゃ強かったんですよ。私も直接本人に聞いたことがあります。傍から見ると厳しく思えるかもしれないけど、本人は希望を捨ててなかったんですよ。それでも、なんていうのかな、現実の苦痛というか、そういうものを受け止めきれずに負けてしまった。ちゃんと分かっていたはずですよ、本人は。日曜日は彼にとって「魔の夜」 清原さんには「魔の日曜日」っていう言葉があるんです。なぜかというと、日曜日に彼は決まって子供の野球を見に行ってたでしょ? 子供たちは当然、「パパー」ってなついてくる。でも、子供を車で送った後は「ドーン」って落ちるわけですよ、一人になってしまうから。だから、日曜日は彼にとって「魔の夜」なんです。  でもね、みんな彼のことが心配だから、日曜日の夜は順番に知り合いの子たちが清原くんと一緒にご飯を食べてたんですよ。私もそうでした。いま思えば、清原さんを守る「チーム」みたいなものでしたけど、そのチームにいた子は4人ぐらいだったかな? 中には銀座のクラブの子もいて、捨てたもんじゃないよね。だって、彼女たちだって日曜日の夜は寂しいじゃないですか(笑)。 でも、ずっとは無理ですよ、清原さんは彼氏じゃないし。実を言うと、私は清原くんとあることで喧嘩したんで、昨年10月からは「お役御免」となってたんです。プロ通算250号本塁打を放ちガッツポーズを見せる西武・清原和博内野手=1994年5月4日 清原さんとの出会いは、私が22歳のころです。当時、私が働いていた大阪・北新地のお店に飲みに彼が来たんです。私は野球を全然知らなかったけど、清原さんほどのスターはさすがに知ってました。なにより、私の亡くなった親友の一人が清原さんの大ファンだったんです。彼がソファーに座ったら、ほかの女の子たちがみんな殺到したけど、私はそこまで興味がなかったから、その場は盛り上げ役に徹してたんですよね。 私はその夜、結局彼に名刺を渡してなかったのですが、次の日出勤したら清原さんから勤務先に電話がかかってきたんで、電話を取ると「清原です。昨日は楽しかったです」ってすごく真面目な声で言ってきたんですよ。「明日か明後日、関西に帰るんで、よかったらメシでも食わへん? 自分おもろいわ」と誘ってくれたから、「ええよ」と言って、一緒にご飯を食べに行ったのがきっかけでした。 私は今でも彼のいいことばかりを思い出すんです。清原さんが関西に来るときは、私が一人で住んでいたマンションにも寄るじゃないですか。私が肉じゃがを作って用意していたら、彼はよそで食事をして、お腹いっぱいなのに無理にでも全部さらって食べるんですよ。私は「もう残しー!」って言ってるのに、「おいしい、おいしい。お前がせっかく作ってくれたんだから、ありがとう、ありがとう」って言いながら食べてくれるんです。 私はそのマンションで当時は犬を2匹飼っていたんですけど、生まれたばかりの子だったから、とにかくやんちゃで、清原さんが来たらワーッと近寄っていくことがありました。私が「コラコラ、しんどいんだから向こう行きなさい」って叱ったら、「やめたれやー! かわいそうやんか」ってめちゃくちゃ怒られたんですよ。本当は清原さんもすごく疲れてるから、ごはん食べて早く寝たいはずなのに「そんなん気にせんでええから」と言って、ずーっと子犬の頭をなでてかわいがってくれてました。清原さんの正義感 他にもね、ミナミで歩いてた時なんか、先輩にどつかれてたりしてる後輩ホストをたまたま見かけたんです。彼は有名人なんやし、バレるからよせばいいのにわざわざ近づいて行って、その後輩を怒鳴ってた先輩も彼に止められて「清原や!」ってなって、ワーッと散ってましたね。彼のことを本当に知っている人間なら、彼が正義感を持っていることもみんな知ってますよ。  そうそう、こんなこともありました。清原さんが関西に来たら、よく2人で神戸でも遊んでたんです。ある日、オリエンタルホテルで待ち合わせしていると、「サインちょうだーい」ってファンが近寄って来るじゃないですか。それでも、彼はまず私のことを気遣って「サインして来たっていい? 子供なんやけど」と聞いてくるんです。 もちろん、私も「行ってきたり、行ってきたり」って言ったら「キャーッ」って子供もなるじゃないですか。そして、一人ひとりに一所懸命サインを書いているんです。一通りサインを書き終えて「行こか」になる。で、またまた子供が「サインしてー」って近寄って来る。今度は「俺はサインしたらなあかんねん。ごめんなごめんな」って言う割には、決まって何回も何回も立ち止まっては子供たちにサインをしていたんです。横浜戦で左中間へ16号3ラン本塁打を放つ巨人・清原和博内野手=2005年6月21日、静岡・草なぎ球場(撮影・江角和宏) だから、知らない人に「清原やー」みたいな感じで指さされたことに怒ったとかいうのがブログにも上がってましたけど、私は西武時代の清原さんしか知らないから、その話を聞いて意外だったんですよね。彼はどちらかといえば「そんなやつ、相手するな」って感じでしたから。  清原さんについては、西武時代から薬物をやっていたという噂もありますけど、私といるときは絶対にやってなかった。私のように夜の仕事をしていると、そういうお客さんも来るのでクスリをやっている人というのはなんとなく分かります。 私は所沢の彼の家にも行ってましたし、大概のことは分かります。毎週土曜日の朝に着いて、月曜日の午後には新幹線で帰る生活でしたから、彼がクスリに手を染めるようなことは絶対になかった。ただ、巨人に移籍後、「えっ」って思ったことがありました。おかしいっていっても精神状態の話で、本当に時々口からふぅーって魂が出るぐらい病んでるような感じだった。  2014年の週刊文春の報道が出たとき、持ち物検査も一応やりました。すると、本当にクリニック名の書かれたインシュリンの薬袋や診断書とかがあって、「これ、飲まなあかん」と。もういいのに、彼はわざわざ自分の泡だらけのおしっこも見せてきましたからね。実を言うと、彼がトイレに入っているとき、私は彼のかばんの中身も確認したんです。だけど、結局クスリにつながるようなものは何もなかった。いつも「死にたい、死にたい」って言っていた 清原さんが東京のマンスリーマンションに一人暮らししていたとき、一日中連絡が取れないことがあって、心配で大騒ぎしたことがあります。私が家まで訪ねると、「すまん、寝てたわー」ってひょっこり出てきたんですけど、彼に会うまでは「もう死んだんちゃうか?」って本気で思いました。いつも「死にたい、死にたい」って言ってましたから。  ある日、2人でご飯を食べている時に私、清原さんにこう言ったんです。「あんた死ぬつもりやろ?」って。清原さんはちょっと黙り込んで「何で分かるねん」って言ったかと思うと、突然ぶわーって泣き出しました。「分かるわ、あんた見てたら…」ってこっちまでもらい泣きして…。それでもう、みんなこれはやばい、このままやったら清原さん死んでしまうってなりました。週刊誌の記者に対してもこんな言い方したらなんですけど、「清原和博を殺したいんですか? あんたらもほんまに死なれたら後味悪いはずやで」と怒鳴ったこともあります。  清原さんとは、一番最後に会ったのが昨年10月2日です。そのときは少し元気になっていたような気がしたんですが、逮捕の一報を聞くまで、私は彼が絶対にやってないと信じていました。たとえ、おかしいなと感じたところがあったとしても、清原さん本人が「絶対にやってへん」と言うのなら、それを信じてあげることも大切だと思います。 一緒に飲んだ帰り道、彼は医者から処方された睡眠薬や精神安定剤を薬袋から取り出して飲むんですよ。私を先に送って家に帰って眠るまでの間、一人でいるのが耐えられへんと。私を降ろすときぐらいにいつも睡眠薬を飲んでいましたから、家に着くころにはちょうど眠たくなって、いい感じで寝られるそうなんです。送検される元プロ野球選手の清原和博容疑者=2月4日午前、東京都千代田区(福島範和撮影) 一度、覚醒剤で捕まってしまった以上、ほんとうに何もかも失ってしまったわけじゃないですか。なんなら、彼には自伝をもう一回書けという話ですけど、本人は書かないって拒んでいましたしね。もし、彼が更生して帰ってきたとしても、彼が抱えている心の闇はずっと深くなっているはずです。財産も子供も「清原和博」という、かつてのスーパースターの栄光を、彼はたった一度の過ちで失ったんですから。  もし、清原さんが更生して帰ってきたら、きっと彼は苦労すると思うけど、友人としてバックアップしていくつもりです。家人とも話したんですけど、清原さんが病院に入ったり、部屋を借りる際にはできる限り援助しようと心に決めています。そして、まずは清原さん自身が自分の生活を建て直す。  清原さんにとっての覚醒剤は、何もかも忘れたい「現実逃避」する唯一の手段だったのかもしれません。私は今でも彼のことを信じていますし、清原さんには一日も早く心身ともに元気になるよう、切に願ってやみません。(聞き手・iRONNA編集部、川畑希望、溝川好男)いくしま・まりか 1971年、神戸市生まれ。最終学歴小学校卒。在日2世。複雑な血筋の両親のもと、幼少期はお手伝いさんに育てられる。異母異父姉兄9人。生母の没後、父親の再婚を機に13歳で家を追い出され、単独ストリート・チルドレンとなる。その後、モデルに。秘書、北新地と銀座のホステス、クラブ経営などを経て3度の結婚と離婚を繰り返す。2012年夏、真言宗某寺にて得度。15年12月に著書「不死身の花: 夜の街を生き抜いた元ストリート・チルドレンの私」(新潮社)を発売した。

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    「容疑者M」宮崎学がすべて語ったグリコ・森永事件30年目の真実

    宮崎学(作家)グリ森事件? あれは顔が似てただけですよ グリコ・森永事件(以下、グリ森事件)と僕の関係は一言で言ってしまえば、犯人と顔が似てたということだけなんです。だから、僕とあの事件とは一切関係がない。今も公開捜査をすれば、いろんな情報がバーッと飛んでくる。グリ森事件についても、数ある情報の中の一つに過ぎなかったんだろうと思うんですよね。警察側に立って考えれば、寄せられた情報はみんな洗わざるを得ない。そんな状況下で、僕がかつて学生運動をやってたわ、実家はヤクザで解体屋をやってるわ、金はそれなりに儲かってた時代があって、派手な生き方もしていたという、警察が抱く犯人像に近い人物のタレコミが飛び込んできたもんだから、彼らが色めき立つのも容易に想像がつく。でも実際に情報を洗ってみると、僕に前科前歴はないんだけども、どうもコレは学生運動をやってて左翼っぽいぞと。警察はその辺りも疑っていたのかもしれません。でも、僕の見立てでは、グリ森事件にはちょっと反社会的な複数の人間がかかわっている。脅迫電話には子供や女性の声が出てきたりするからね。1人や2人じゃなかったよね。グリコ・森永事件 昭和59年3月18日に江崎グリコの社長が誘拐された事件に端を発する、一連の食品企業恐喝事件。「かい人21面相」を名乗る犯人グループは、その後、青酸化合物を混入した製品を店頭にばらまくとして、企業に現金などを要求。一方で報道機関に警察を揶揄する挑戦状を送りつけ、“劇場犯罪”という言葉を生んだ。犯人グループは60年8月に突然、終結宣言を出して動きを停止。平成12年2月に28件すべての事件で時効が成立し、警察庁指定事件で初めて未解決となった 「劇場型犯罪」の走りといわれたグリ森事件とは結局何だったのか。そもそも「劇場型犯罪」という括り方自体が間違ってると思う。あれは犯人がカモフラージュのために「劇場型」にしたわけで、犯罪を劇場化に仕立てて楽しむ犯罪者なんているはずがない。カネという最大の目的があるから罪を犯すわけで、愉快犯的にやるのは極めてリスクが高い。だから僕は劇場型犯罪という見方そのものが間違いで、何らかの経済的な犯行理由がそこにはあって、つまりカネのためにやったんだと思っています。劇場型にしたのは、あくまで犯行をカモフラージュして捜査をかく乱させるためだったにすぎない。劇場型とか言って、いまだ語り継がれていること自体、まだあの犯人グループの手の中で踊らされている、そんな気がしてならない。当時も今もマスコミや世間が劇場型犯罪だと思っている時点で、一生「犯人」にたどり着くことはないでしょうね。犯人のかく乱に、まだ乗せられてしまっていると言えるんじゃないかな。宮崎学氏 警察は金の要求とか受け渡し方法とか、警察のやり方で捜査をするわけじゃないですか。その時に「なんだろうコイツ? 本気で考えとるんだろうか」っていう捜査の見立てが、まず最初の大きな壁として立ちふさがる。あの種の恐喝事件は、金の受け渡しの時に犯人が逮捕されるというパターンが多いですから。犯人側にすれば、金の受け渡しはどうするか、金は要求しただけ出るとも限らないから、まずは多めにふっかけておけばいいとか、いろんなことを考えて要求したんでしょう。あの時も「現金10億円と金塊100キロ」なんて途方もない要求でしたからね。犯人グループは警察捜査の裏を読むというか、そういうことがわかっていた連中で、ある意味「商売人」だったんだろうなと思います。少し知識のある人間だったら、警察無線の傍受なんか簡単にできることも知ってるでしょう。警察は自分たちがやっている科学捜査は、犯人には全く知られていないとか、そもそも捜査をかく乱できるような連中じゃないと思っていたんでしょう。事実、江崎社長を真っ裸にして放り出したりするような結構手荒いタタキ(強盗事件)でしたからね。でも、それは明らかに初動捜査の見込み違いだった。犯人はかなり知的水準の高い人物という見立てでやっていれば、また違った局面になってたんだろうと思いますね。別にグリ森事件に限った話ではないけど、初動捜査のミスがずーっと後まで響いたわけですね。自宅にガサ、身を救った癖自宅にガサ、身を救った癖 公安警察というのは刑事警察とはタイプが随分違って、「なんでも根こそぎ」っていう考え方が根底にあります。「キツネ目の男」を尾行しておきながら、京都行き国電(現JR)の中で逮捕できなかったのは、犯人の後をつけていけば、いずれこいつが巣穴まで帰ってグループを一網打尽にできると踏んだからでしょう。組織犯罪ならその実態を解明して上から下まで丸ごとパクってしまえ、というみたいにね。それ対して刑事警察というのは、たとえグループであっても事件を犯したヤツを単独でもいいからパクればいいという発想です。同じ警察でありながら手法がまったく違う。例えるなら、水田で米を作っているのと、畑で大根を作っているのとは違うように、警察の中でも当然やっている分野が異なる以上、それぞれの捜査手法は違って然るべきなんです。犯罪というのはもともと非常に肉体的なものなんですね。人を殺すとか傷つけるとか、カネを奪うとか、人のモノを盗むとか。そもそも肉体の苦痛を伴うものなんです。ただ、グリ森事件は肉体的ダメージを与えない犯罪だった。精神的なダメージはあったかもしれないけど。そういう意味で、グリ森事件は犯罪の在り方そのものを変えた事件だったといえるのではないでしょうか。 グリ森事件では僕も容疑者扱いされました。青梅街道を挟んだところに警視庁中野警察署があったんですけど、当時はその向かい側に僕も住んでいました。実は事件後、警察が2回ほど自宅を訪ねて来ました。(京都の)実家の方にはすでに行ってたんでしょう。たぶん、中野に住んでいたころには尾行も付いていたんだと思います。そう、警察が自宅にやって来る半年ぐらい前から行動確認をしていたんだと思う。そして、しばらくして突然ガサ状(捜索令状)を持って自宅に踏み込んできたんです。ところが、ガサをしても事件に関わるモノは何にも出てこなかった。結局、警察も一度のガサであきらめたんでしょう。その後、本件でガサを受けることはありませんでした。キツネ目の男 「キツネ目の男」は、昭和59年6月28日夜の丸大食品脅迫事件で、国鉄高槻駅-京都駅間の普通電車の中で大阪府警の捜査員に目撃された不審人物。終始、現金持参人の行動を監視しており、府警は21面相の一味と判断して60年1月10日に似顔絵を公開した。当時の推定年齢は35-45歳。身長175-178センチで、がっちりした体格。薄いまゆ毛と、つり上がった目が特徴。捜査本部に約4400件の情報が寄せられ、うち約600人について捜査員が直接確認に出向くなど、最重要捜査項目とされた。 ただ、いま思い出しても一つだけ気になることがあります。国電車内で「キツネ目の男」が目撃され、警察が取り逃がしたときがあるでしょ? 実はガサの関係で警察が聞いてきたのは、その時の「アリバイ」なんですよ。当時、僕はひどく物忘れが激しいもんだから、何でも細かく手帳に書く癖があったんですね。それで、刑事に尋ねられた日時をパッと見たら、「ああ、この日はここにいましたよ」と答えたんです。今でもよく覚えていますが、あの日はとある大学の労働組合の勉強会に出ていたんです。刑事は僕の答えを聞いてすぐその場で無線連絡を取り、別の刑事がその大学に行って裏を取ってきたんです。もしあの時、僕がアリバイを証明できなければ、今ごろどうなってたかな? 僕は物忘れがひどいからメモを取る癖があったのが、結局は身を救ったという話なんですが、何が身を助けるか分からないもんだよね(笑)。その後も、雑誌なんかで犯人扱いされて、いろいろ書かれたりしたんだけど、あれ以降警察のマークがなくなったというのはよく覚えています。もちろん僕には事件には関与していないという身の潔白があるわけですから、警察による本件のガサにもかなり協力的だったと思いますよ(笑)。宮崎学氏愛用のスケジュール帳 グリ森事件を振り返ってみると、メディアでは僕のことを「容疑者M」とか、勝手に犯人扱いしてさんざん書かれました。でもね、僕自身、人権を毀損されているとか、あの当時も今も全然思っていないんです。もともと基本的人権とか名誉毀損という法的な利益を持ち得ない社会的階層にいるもんだと思ってましたから。逆にメディアがそう言うんだったら「勝手にそう言い続けろ! お前らはこっちの世界まで来れんのか」みたいに意地になってころもありました。僕は僕なりのやり方で「社会」に反撃してやろう。それが僕の『突破者』(1996年、南風社)の原点なんです。メディアに対する僕なりの反撃なんです。自分の名誉が毀損されたとか、そういう人権派的発想じゃない。そう言ってるお前たちは一体何者なんだ、そんな偉そうなこといえる人間なのかと、逆に僕が問うているんです。自身の人権が毀損されたからけしからん、ということは一度だって言ったことはない。「自由平等」や「博愛」っていう今の社会の原理が当然かのようにお前たちが思ってるんだったら僕はどうなるんだよ、と。 僕みたいに父親がヤクザの家族っていうと、いわゆる今の憲法の枠内から外れた存在だと思うんですよ。憲法の法の利益を受けれない存在。例えばヤクザだからということで携帯電話を買うのに申し込みの名前が違うだけで、警察はパクるというようなことをやってるわけでしょ。そんなこと、本当にありなのかと。現行憲法の利益から外れた社会的階層だって世の中にはたくさんいるんです。でも、警察は捜査対象がヤクザだったら無理筋でも何でも事件化して逮捕する。そんなご時世だから、ヤクザの家族は憲法の利益を受けられない存在なんだという認識が僕にはあるんです。裕福だった幼少時代、宮崎学の生い立ちとは学生運動のためだけに早稲田に行った 『突破者』でも書いているように、僕の家は裕福だったんです。だから小学生のころから家庭教師がついたわけですよ。家庭教師だった人は、京大入学と同時に共産党に入党した学生運動の指導者的存在で、父親は元海軍中佐、戦時中は駆逐艦の艦長をしていたそうです。僕はとにかく勉強嫌いがだったから、なかなか先生の言うことを聞いて勉強しなかった。ところがある日、そんな僕に「うちの近くの小学校で鉄棒やろう」と先生が言い出したんです。「おれ、鉄棒なんてできないよ」と言ったら「いや、簡単だよ」と。先生は予科練出身だから、ポーンと鉄棒に飛びついてググッとね、大回転をやって見せるんです。そりゃあもう、うおーっと思うじゃないですか。子供心にコロッとやられちゃって。そんな家庭教師が中学、高校とずっとついてくれた。その人は当時、左翼だったもんだから就職ができない。アルバイトして稼ぐしかないから、僕の家なんかの家庭教師をしたりして稼いでいたんでしょうね。 高校に入ったころぐらいのとき、その人からレーニンとかマルクス、いま思うと簡単でもないんだけど物事をどうみるかという基本的な知識と、いわゆるマルキスト的な歴史観を仕込まれた。高校時代にはもう完全に青年マルキストだと思い込んでいて、大学はどこが一番学生運動が盛んなのか、東大はちょっと難しそうだな、じゃ、早稲田だったらいいかと。勉強するためとか司法試験をやるために法学部に入るとかっていう意識は最初からなくて、学生運動をやるためにだけに早稲田に行ったんです。 大学で学生運動をやってると、警察のマークは結構ありました。大学1年の時、共産党系の運動の後ろの方にくっついるだけだから目立った存在ではないし、まだ警察も目をつけてないだろうと、こっちは勝手に思い込んでいた。そしたら早稲田まで歩いて通学するときに、明治通りと早稲田通りの交差点に交番があって、たぶん戸塚署かどっかの交番の人だと思うんだけども「おー宮崎、元気か?」って声をかけられるんですよ。「あー、これはもうバレてるなあ」。そんなことがありましたね。それと、もう一つは大学1年の12月、早稲田は150日間のストライキに入るわけですけど、その時に京都の自宅まで突然警察官がやって来て、僕のお袋からいろんなことを聞き出していくということもありました。「トップ屋」が一番活躍できた時代 僕は昭和40年に早稲田に入学して43年ぐらいにはもう中退してますからね。40年に第1次早大闘争、早稲田の150日間ストライキがあって43年が安田講堂、新宿の10・21騒乱事件でしょ。まさに学生運動のまっ最中の時代にいました。昭和45年から週刊現代のフリー記者(いわゆるトップ屋)になりましたが、フリーになってから3カ月後、一生忘れることができない事件がありました。いわゆる「三島事件」(編注:作家の三島由紀夫が自ら結成した民間防衛組織「楯の会」の会員4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込み、三島が自決)です。それから3年ぐらい週刊現代にいたけどね。当時、週刊現代が100万部の時代ですよ。いま思えば夢のような時代でね。週刊誌のトップ屋が一番活躍できた時代です。活字媒体も結構読まれていたし、今では考えられないですよね(笑)。宮崎学氏 そもそも週刊現代の記者になったのは、早稲田大学の先輩でゴリゴリの右翼だったちょっと変わった先輩がいらっしゃったんだけど、それが大東塾の塾長だった影山正治さん。影山さんとはなんか気が合ってね。影山さんが週刊現代の編集者を偶然知っていて「お前、これで生きていくんだったらあんまり縛られないところにいかないと。お前は反発するだろうから、思想信条の問題は別としてやってみれば」という話になって、それが記者人生のスタートだったんです。 当時は100人を超える取材記者がいました。みんなひと癖もふた癖もあって、右から左まで政治思想もさまざまだったけど、なぜかみんな仲は良かった。原稿料上げろとか、黒板作れとか、記者側の要求を会社側に伝える「記者会」という組織が各派であってね。主導権を握るためぶつかり合うのは、われわれ世代の左翼では当たり前の姿だったんだけど、週刊現代の記者連中は学生運動でみんな「負の経験」をしているから、「ここでセクトを張っても仕方ねえや」って、どこか達観したところがあった。だから、僕なんかが第1期書記長をやれた。同じく副会長は、もう亡くなってしまったけど、ノンフィクション作家の朝倉喬司です。彼は「黒ヘル」っていうか、アナキストの代表選手みたいな人だった。本来ならば、左翼の僕と朝倉は水と油の関係なんだけど、お互いセクトは張らずにものすごくうまくやれた時代でしたね。 昭和45年のころですから、学生時代にセクト間の争いをずっと見てきて、それが精神的な負の遺産みたいな気持ちというか、共通の認識みたいなものが僕らにはあったんです。だから、すべての物事を進めるにあたって、党派的、セクト的に考えること自体を否定した。右も左もないという、変な団結心みたいなものが芽生えていたのかもしれません。『突破者』は僕の異議申し立てです『突破者』は僕の異議申し立てです 市民が持つ民主主義的な権利も、市民じゃない人たちは持ち得ない、ある意味市民っていうのは「貴族」だと僕はみているわけです。だから市民になれない人たちを今の社会はどんどん生産しているわけですよね。例えば、学校から落ちこぼれた連中とか、離婚して生活保護を受けなきゃいけなくなった人、子供を学校に行かせられないっていう人も結構出てきている。格差社会は民主主義がたどるべき「宿命」みたいなものであるならば、平等でも公平でもない民主主義そのものが「格差」なんです。実は「差別」を前提として、今の民主主義は成り立っている。なぜ、こう言えるのか。それは、僕自身がいわゆる市民社会から落ちこぼれた人をたくさん見てきたからなんですよ。店頭から一斉に消えたグリコ製品。次々と撤去された 例えば、ヤクザになる連中のことを考えてみてください。市民社会にいれなくなって、ヤクザになってる人がやっぱり多いんです。それは学歴だとか、性格が荒っぽいとか、一つの職に長いこと就けないとか、性格とか、あるいは貧しい家庭に育ったとか、いろんな理由や背景があるとは思うんだけど、そんな人を拡大再生産している社会が今の時代なんだと思うんですよ。市民という、ぬるい貴族の人たちは分厚い層として存在しているんだけれど、その下にはさらに違った層も存在している。階層がある社会は存在そのものが公平ではないんだと思う。努力すれば上にいけるじゃないかという反論があるけど、努力すれば一番下の層が市民になれるという保証は何もないんです。どこまで行っても、「努力しないお前が悪いんだ」という理屈が絡んでくる。それは極めて差別的な今の社会を肯定する理屈であり、『突破者』はそれに対する僕の異議申し立てでもあるんです。 安倍政権になってから、僕は格差が一層広がったような感じがするね。自民党の政治家というのは、それなりの良識があって、公平な社会っていうものを彼らなりに考えていた。今は競争で勝ち抜けっていう社会で、安倍政権的にいえばお前たちの努力が足りないんだよと、バサっと切られちゃうけど、これまでの自民党っていうのはバサっという切り方はしていなかったと思う。その最たるものが田中角栄で、地方でも都市部と同じぐらいの水準にしようとか、いわゆる格差という問題を意識して彼なりの論理で解消していこうとした。ただ、実際には田中角栄の時代にも格差がどんどん広がったのかもしれないんだけど、「建前」としては格差を縮める努力はしようとしていた。小泉純一郎(元首相)以降ですよね、建前すらニッポンになくなっちゃったのは。 国家としての「体力」という視点で考えてみると、この国は非常に「弱い国」だと思う。国民は意識するしないにかかわらず、国のいろんな恩恵を受けているけれど、精神的恩恵というのもあると思うんですよ。これだけ格差が広がってきて、やっぱり今ね、あんまりテレビは見ない方なんだけど移民したいとか、外国に行きたいという欲求の中で、誰もが本来持っているはずの「郷土愛」みたいなものが希薄になってきているような気がするんです。人口の急激な減少だってそう。例えば六本木なんかは、少し飯倉寄りに行くと小学校があるんですが、来春で廃校になるんです。ということは、そこの卒業生にはもう母校すらなくなる。都市部だから当たり前と言えば当たり前なんでしょうけど、そういうものがあって郷土愛とか、自分が生まれた環境に対する感性が生まれてくるんだろうと思います。いま、日本の根底にあるべきものが、全部なくなってきているような気がしてならないですよね。 そういや、今年はグリ森事件が起きてからちょうど30年目なんだよね。時代はどんどん変わっているし、あの事件に関心がある人もだいぶ少なくなったと思うけど、あれだけ日本中を騒がせた事件でさえ未解決のまま終わってしまった。いずれ人々の記憶からも消えていくんでしょうけど、僕にとっては思い入れの強い事件の一つだったことに変わりはないですよ。いまごろ犯人は何をしてるかって? 死んだんじゃない? 死んだことにしておこう(笑)。それが一番いいんだと思います。(聞き手 iRONNA編集部、溝川好男)

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    ニッポンを変えた戦後犯罪史

    た戦後日本の70年は、日本人の価値観を変えた数々の凶悪犯罪を抜きには語れない。時代を色濃く映した重大事件は、ニッポンに何をもたらし、何を変えたのか。戦後犯罪史に残るあの事件を当事者や目撃者が振り返り、その深層に迫った。

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    「よど号事件」とは何だったのか 9人が味わった理想と現実

    椎野礼仁(編集者) 「よど号事件について執筆を」という編集部の依頼文の中に、いくつかの執筆希望項目があった。その最初が「過激なテロリストを生みだした社会背景」であった。うーん、ここで私は考え込んでしまう。“テロリスト”と言う言葉に、違和感を覚えるのだ。 実は、この違和感は、“よど号”だけについて感じるわけではない。政治的な事件で暴力性が伴うものをすべてテロという言葉で一括りする昨今の風潮に、「違うんじゃないかなぁ」というかすかな苛立ちを覚えるのだ。 本筋から離れるので、詳しくは書かないが、日本で言えば、1960年の、山口二矢という17歳の右翼少年による、日比谷公会堂壇上での社会党委員長・浅沼稲次郎への刺殺のように、ほかに手段を持たない(と思い詰めた)個人、ないし少数者が、暴力(多くは暗殺など)で政治目的を達しようとする行動がテロだ。圧倒的な専制政治を敷いたロシアの皇帝に対して、若き過激派グループが、その馬車に爆弾の投擲を企図する……そのような営為が典型で、今日の使われ方より、うんと意味が狭い。いや、意味が狭いというより、全く別の概念と思ったほうがいいだろう。 話しは戻る。日本で初のハイジャックをやり、北朝鮮に渡った彼ら・共産主義者同盟赤軍派の9人は、革命家たらんと志していたのであり、テロリストになろうとは、微塵も思っていなかったはずだ。 1970年の3月31日から4月3日にかけて起きた、日航機よど号を乗っ取ってピョンヤンに向かわせた事件が「よど号ハイジャック事件」だ。もっともこの頃は、ハイジャックという単語は誰もが知っている言葉ではなかった。現に、この半月ほど前に、赤軍派のリーダー塩見孝也を逮捕した警察は、彼の手帳の日付に書いてあったHJという文字の意味に気がつかず(?)、まんまと事件(赤軍派の側から言わせれば闘争だが)を成功させてしまう。 成功と簡単に書いたが、富士山上空で日本刀やピストル(オモチャだったが)などで武装した赤軍派9人が立ち上がってから、福岡板付空港にいったん着陸し、その後ピョンヤンと偽って着陸したソウル金浦空港での4日間の攻防については、まるで映画のような紆余曲折・攻防がたくさんあった。それらについては本がたくさん出ているので、興味のある方は当たっていただきたい。1970(昭和45)年3月31日、赤軍派の9人が羽田発福岡行きの日航機「よど号」を富士山上空でハイジャック、日本刀などで機長を脅し北朝鮮行きを強要した。福岡や韓国・金浦空港で乗客を解放した後、北朝鮮に亡命した。写真は福岡空港での女性や子ども、病人の解放。 とにもかくにも、ピョンヤンに渡った彼らの、その後である。 編集部の注文項目にも「われわれは明日のジョーである! という言葉を残し、出発した彼らの目的、彼らが味わった理想と現実」という一文がある。 彼らの目的は、説明しやすい。1970年3月という時期は、70安保闘争の最大の山場と言われた69年秋の佐藤(首相)訪米阻止闘争が、圧倒的な機動隊の力の前に敗北した後、取るべき次の戦略を巡って、ブント(共産主義者同盟のこと)の分裂が公然化した時期である。 図式的に言うと、この敗北状況を、再度大衆運動の立ち上げから作り直そうという「右派」叛旗派、さらなる暴力の先鋭化で突破しようとした「左派」赤軍派、その中間の主流派(?)という系統である。 赤軍派は、「大阪戦争」「東京戦争」を呼号した、火炎瓶を使って警察などを襲撃する69年秋の闘争で大量の逮捕者を出した。11月には大菩薩峠の「福ちゃん荘」では軍事訓練と称して集まった部隊が一網打尽になり、53人の起訴者を出した。 そんな中で、70年3月に起こしたのが「よど号ハイジャック」である。これは、リーダー塩見が唱えた「世界同時革命-国際根拠地論」に則った計画で、まず北朝鮮に渡り、自派の理論でキム・イルソンをオルグする。そして自分たちは、軍事訓練を受けて、秋には日本に戻り、日本革命運動に再参加する……。 若い読者にとっては、悪い冗談か誇大妄想としか思えないだろう。だが、私も含めて、当時新左翼運動に参加した人々にとっては、それなりにリアリティはないわけではなかった。それはベトナム戦争に反対する世界的な運動のうねりなどとの関連もあるのだが、これもまた、ここで詳しく触れる紙幅はない。 遠大な、ずさんな戦略であり、それに基づいた戦術ではあったが、そもそも当時の新左翼各派の戦術は、敗北が前提だった。「機動隊殲滅!」「佐藤訪米阻止」と叫んだところで、それが実現するなんて、誰ひとり思ってはいなかった。成功した戦術、崩れ去った戦略 ところが赤軍派のこの戦術は、成功したのである。彼らは、日本や韓国の権力者の思惑や妨害をはねのけて、当初の目的通り(きわめて非合法な手段で)ピョンヤンに渡ったのだ。しかし、戦略はもろくも崩れ去ったと言っていい。他力的に崩れ去ったというより、よど号赤軍自らが、その戦略を捨てたのだ。いや、それは日本からの見方で、彼らは、当時の言語で言えば「世界同時革命路線を総括し、止揚した」のだ。ピョンヤンに渡って1年が経過した頃の話だ。 『「拉致疑惑」と帰国』というタイトルのその本がある。いまもピョンヤンに残るよど号グループ6人(男性4人とその後彼らと結婚した女性2人)が書いた手記で、2013年4月に河出書房新社から出版された。その中で、現在のリーダー小西隆裕は、以下のように書く。 「そうした一年を超える歳月、その間の生活を通して、私たちは、自らの理論、路線への確信が大きく揺らいでくるのを覚えていた。それは赤軍派の理論、路線が朝鮮の現実にも日本の現実にも合っていないところからくる揺らぎだったと言える。理論の正否を問うとき、現実にあっているか否かは決定的だ。それはいかなる強弁をも許さない」(同書p38)。 「理論評価の基準を現実に求めると言ったとき、私たちにとって決定的だったのは、やはり日本国内の現実、私たち赤軍派壊滅の現実だった。そもそも、私たちのハイジャック作戦は、この作戦勝利によって鼓舞され強化されるに違いない国内の部隊と、朝鮮での軍事訓練で鍛えられて帰国する私たち遠征隊とのドッキングにより、秋の武装蜂起を成功させるためのものだった。その強化されるはずだった国内が、逆に、官憲の集中弾圧を受け壊滅状態に陥ってしまったというのだ」 赤軍派路線を総括・止揚した後の彼らの行動・生活については、その後、あまり伝わってこなかった。そんなこともあり、その後の我が国の新左翼運動になにか直接影響を与えるようなことはなかった。ただ、かの地に彼らが生きているということが、私たちの気持ちに微温を与えたのは確かだと思う。もちろん、新左翼内部からは、「彼らは主体思想に逆オルグされた」とか「スターリニストの軍門に下った」などの容赦ない言葉が投げかけられたりもしたのも事実である。 北朝鮮に渡った当時は、最年長の田宮高麿が27歳、最年少の柴田泰弘が16歳(ともに故人)だったが、長いピョンヤンでの生活の間に、全員が日本人女性と結婚し、子どもをもうけた。彼らは亡命者として北朝鮮に受け入れられたので、比較的自由な生活が保障され、亡命者パスポートで、日本との犯人引き渡し条約のない国へは渡航もし、その様子を日本の週刊誌(週刊プレイボーイ他)に寄稿したこともある。 1990年代には商社を起こし、日本から中古車を輸入し中国へ転売するなどして、かなり儲けたらしい。「今はもう中国でも日本の中古車需要はないですから、いいときにやめましたよ」とは、私が訪朝した時に小西が語った言葉である。 さて2000年代に入って、よど号グループの名前がしばらくぶりにマスメディアを賑わした。いわゆる「拉致疑惑」である。単に「拉致疑惑」と書くと、彼らが日本に潜入して、北朝鮮の工作員とともに日本人を連れ去ったかのような印象を持たれる方も多いかもしれない。そうではない。彼らに掛けられているのは、「ヨーロッパ拉致疑惑」である。 ヨーロッパに留学していた有本恵子さん(当時22歳)を、言葉巧みにだまして北朝鮮に誘ったという疑いで、警視庁は2002年に「結婚目的誘拐罪」という聞きなれない罪で、よど号グループの一人の逮捕状を取った。その後、グループの女性二人にも、石岡亨さん、松木薫さんの二人の「拉致」にかかわったとして、2007年にやはり「結婚目的誘拐罪」の逮捕状が請求され、今日に至っても更新され続けている。「やってないことの証明は難しい」 逮捕状請求のきっかけになったのは、よど号グループの最年少だった柴田泰弘と結婚した八尾恵の、ある裁判での証言だ。ロンドンで有本恵子さんと知り合い、よど号メンバーの安倍公博と北朝鮮の工作員に引き継いだという証言をしたのだ。 逮捕状請求の背景には、2冊の本の存在も大きい。1冊は、ジャーナリスト高沢皓司が1998年に出版した『宿命』であり、もう一つは2002年に八尾恵が書いた『謝罪します』だった。どちらも、よど号グループがヨーロッパに出入りし、在欧の日本人に接触する様子が書かれていた。二人は、結局、よど号グループと対立することになるのだが、この間の事情も複雑なので触れる余裕はない。 最後に彼らの立場を紹介しておく。 まず、ハイジャックに関しては確かに自分たちの罪であり、どんな大義があろうとも、暴力をもって人を拘束したり、恐怖を与えたり、命を危険にさらすようなことは間違いであった。それについては謝罪もするし、日本で裁判を受ける用意がある。 しかし、仲間の3人に掛けられているヨーロッパの拉致疑惑は、自分たちはまったく関わりがない。なので、逮捕状の取り下げと、これをはじめとするよど号グループの政治利用については、日本政府に謝罪を要求する。それが果たせた段階で帰国し、ハイジャックについての裁きを受ける。 これが、今の彼らの立場だ。こう書いたが、いまひとつ説明し切れないのが、「よど号を巡る政治利用」という箇所だ。日本とアメリカと北朝鮮の政治の渦の中で、よど号の人達の運命はさまざまに翻弄された。アメリカによる北朝鮮の「テロリスト支援国家」指定の理由に「よど号グループを匿っていること」が挙げられたこともある。結局、彼らの処遇はそのままで、アメリカはテロ支援国家指定解除に応じたのだが。 私はフリーの編集者をしている。上で紹介した彼らの手記『「拉致疑惑」と帰国』(河出書房新社)は、私が編集に携わった。その関係もあり、2012年から6回ほど、ピョンヤンの彼らのもとを訪ねた。 もちろん彼らには、結婚目的誘拐罪や、それ以外の時期の活動については、問いただした。答えはもちろん、上に書いた通りだが、私が受けた印象は、果たして彼らがそんなこと(ヨーロッパ拉致)をする必要があっただろうか、なかったのではないか、というものだった。 実は、6回の平壌訪問をもとに、私は講談社プラスα新書から『テレビに映る北朝鮮の98%は嘘である』と言う本を著した(2014年9月刊)。そこに、上のような印象を記したところ、アマゾンのレビューでは「エビデンスも示さずにそんなことを言っても駄目だ」という激しい批判を受けた。それは確かに言えることだが、前記の手記でよど号グループも書いているように、「やってないことの証明は難しい」。 私は、彼らに会い、彼らの説明を受け、思った通りを書いただけだ。エビデンスと言われても困る。では聞くが、その評者は何かエビデンスを持っているのだろうか。彼らについて書かれた著作や新聞の情報(ほとんどが公安警察情報だが)から、自分なりの印象を組み立てて確信としているだけだろう。だったら私の印象も、貴重な第1次情報なのであるから、判断材料の一つにしていただきたい。そう願うだけだ。 ひとつ、付け加えておくと、よど号グループは、結婚目的誘拐罪の逮捕状の撤回を求めて国家賠償訴訟を行なった。結婚目的誘拐罪は親告罪なので本来は被害者本人かその家族の訴えが必要なのだが、それが示されることもなく、また逮捕状請求の根拠も明らかにされることなく棄却された。 彼らは、ヨーロッパ拉致に関して、日本の警察の事情聴取には応じると言っている。そんな折にでも、当局が持っている捜査資料がすべて明らかにされれば、実は無実の「エビデンス」がそこに含まれているのではないか。ひそかにそんなことも考えている。

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    「カルト」は家庭に入り込んだ 社会から置き去りにされたオウム事件

    有田芳生(参議院議員) 地下鉄サリン事件から20年が経った今年は、一つの区切りゆえに、メディアでは例年に増して特集が組まれた。オウム真理教による一連の事件も、こうして消費されていき、いまでは関心の中心が教祖の死刑執行問題に矮小化されていく傾向にある。オウム事件が日本社会に突きつけた問題は解決されることなく、21世紀が進んでいく。この社会はオウム真理教を生み、育てた土壌を掘り返すことなく、いわば眼を閉じたまま、問題の根源を見ないようにしてきた。編集部から依頼されたテーマはオウム事件で何が変わったかというものだ。たとえば日本中に監視カメラが増えたことなど、警察や社会による「異物」に対する過剰警備や監視をあげることができる。しかしわたしの思いは変化よりも「変わっていないこと」にある。見えない、見ようとしない世界に重要な問題が潜んでいるのだ。オウム真理教の集会で信者を前に話す松本智津夫死刑囚=1990年10月、東京・代々木公園 まず捉えておかなければならないのは、オウム事件の歴史的意味だ。1994年6月27日の松本サリン事件を「予行演習」として起きた翌95年3月20日の地下鉄サリン事件とは、人類史においてはじめて都市部でサリンが散布されたことに注目しなければならない。ここからどう教訓を引き出すか。生物化学兵器への対策でもっとも機敏に反応したのはアメリカ議会だった。それに比べて被害当事国としての日本は、残念ながら鈍感だったと言わなければならない。警察当局による捜査は果断だったが、それ以外の多くの課題にどう取り組んだか。振り返って何かを示せるかといえば、犯罪に関わった信者の逮捕と裁判が大きく報じられたぐらいである。わたしの関心でいえば、信者の脱会に資するため、関係省庁連絡会議を設置したが、いつしか機能しなくなったことである。自然消滅だ。 カルト問題の専門家たちが、全国の保健所を活用して、信者の脱会に対応しようと準備していたにもかかわらず、政府からの問い合わせはなかった。サリンを浴びた者の治療に使う解毒剤の備蓄もここ数年でようやく整備されつつある。先進国に比べて20年近く遅れているのだ。日本で起きた事件であるのに、各分野での対応はあまりにも遅いといわざるをえない。わたしがもっとも重視かつ危惧しているのは、カルト(熱狂集団)対策である。世間の多くはいまでもこう思っているだろう――オウム真理教に入った者は、特別な人間であって自分たちとは関係がない、実行犯は凶悪な事件を起こして逮捕され、判決も出たのだから、あとは死刑囚に対する刑の執行が終われば、すべて完結する……。この認識は完全に間違っている。 結論からいえば、オウムに入った若者たちは、どこか遠い存在の特別な存在ではない。人生のそれぞれの課題を抱えながら、ふとした出会いでオウム真理教=カルトに入ったのだ。そして入信の動機を類型化すれば、いくつかの傾向がある。自分の体調を回復するためにヨーガの修行をする。足のO脚を改善したいという女性幹部もいた。教祖が宣伝のために利用した超能力を獲得したいという若者も多かった。自分が解脱し、信者を増やすことによって解脱者が増えていけば、この社会はよくなると思う幹部信者もいた。入り口ではそれぞれの動機から教団に入ったものの、組織の変質に伴い、凶悪事件の実行犯として出口を通過し、有罪判決をうけた信者たちがいた。入信動機の背景にある家族問題 わたしはオウム真理教に限らず、多くのカルト信者、元信者、その家族と会うことで、入信動機の背景に家族問題があると判断している。現代社会では虐待、DV(ドメスティックバイオレンス)をはじめとして家族間で問題が起きることがあり、しばしば報じられている。社会のもっとも基礎単位であり、本来なら「避難所」の機能を果たすべき場が機能不全に陥っているのだ。オウム裁判や信者への取材から、この家族問題がずっと気になってきた。たとえば教祖の側近だった上祐史浩氏(現在は「ひかりの輪」代表)。オウムの外報部長として弁明が饒舌なので、「あー言えばジョーユー」などと事件当時は揶揄されていた。かつてこの欄に寄稿したときに上祐氏が父親との関係で問題を抱えていたことや、坂本弁護士一家殺害事件の実行犯だった岡崎一明死刑囚も両親の不在があったことを指摘した(http://ironna.jp/article/1150?p=1 参照)。ある男性幹部は「いつまで教団にいるつもりなのか」と問うたとき「あの両親のもとには戻りたくない」と語っていた。 わたしは統一教会(最近名称を世界平和統一家庭連合に変更した)の信者や元信者たちから話を聞く機会も多かった。振り返ってみればこの宗教団体を取材をはじめて30年になる。信者たちは文鮮明教祖(2012年逝去)夫妻のことを「真のお父様」「真のお母様」と呼んでいた。実父母ではなく、教組夫妻が「まこと」だというのだ。その背景には――オウム信者もそうだが――一般的傾向として反抗期の欠如もあった。基本的な人間的資質として素直なのだ。誰にでもある親とのあつれき。そんなとき偶然にカルト教団と出会うことがある。いまでも東京都心の駅前では、「青年意識調査」などの街頭アンケートを取り、若者に近づく。システム化された勧誘コースのなかで、これまでにない親切な対応で接近し、精神のなかに入り込んでいく。ある有名人で統一教会に入り、合同結婚式に参加した女性からは、教団にずっと批判的だったと聞かされた。ではなぜ入信したのか。海外にいたために父の死に目に会うことができず落ち込んだとき、いちばん親切にしてくれた人たちに心を開いた。しかも「あなたがいい成果をあげることができたのは、お父さんのおかげなのだ」とも言われた。そうだと思いたかった。そしていつしかかつて批判的だった集団に入信していた。 カルトと家族問題。日本社会はこうした視点での分析や検討を全体として怠ってきた。宗教法人としてのオウム真理教は消えた。残存しているオウム後継団体の監視を強めようとも「外部」からの批判には限界がある。たとえオウム残党が消滅しても、免疫のない日本にはカルトがいくらでも侵入する。警察庁幹部は語った。「日本にどれぐらいカルトが入り込んでいるかはわかりません。事件が起きてから気がつくのです」。カルト問題は構成員の精神の「内部」から突破しなければ、問題の根本的解決に進んでいかない。地下鉄サリン事件などで社会が変わったのではなく、何も変わっていないところにこそ深刻な問題が隠されているのだ。半世紀あるいは世紀単位で見つめてみよう。オウム事件を経験した日本社会は、この20年で進歩したのだろうか。かりに死刑囚に対する刑の執行が行われようと、事件の背後に潜んでいた課題は残ったままなのだ。わたしは深い危惧をいだいている。

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    3億円強奪 似ているグリコ・森永事件の脅迫状

    一億総探偵」とした。だが、十一万人余りが容疑者リストに上ったという捜査にもかかわらず、戦後最大の迷宮事件になった。今、犯人はどこで何をしているのだろうか。 「犯人の知られざるアジトが国分寺市の恋ヶ窪にあった。そこで奪った現金をトランクから何かに積み替えたのだ」 三億円事件の発生からすでに二十五年余り。時効になった今も、特定の地名を挙げてひとつの確信にこだわり続ける元捜査員がいる。 事件二カ月後の昭和四十四年二月から四十五年五月まで警視庁捜査一課係長として特別捜査本部に詰めていた元同一課長、斎藤訓正=のりまさ=(六七)だ。「恋ヶ窪」とは、東京の西郊、国分寺市のほぼ中央部、JR中央線国分寺駅の西北部に位置しており、地名で言えば東恋ヶ窪と西恋ヶ窪に分かれる。 斎藤がその「恋ヶ窪」にこだわるのはなぜか。 三億円事件には、犯行の痕跡、遺留品が残された「現場」が四カ所ある=図参照。 第一現場は事件が発生した府中市栄町の府中刑務所裏の通称学園通り。犯行に使われた偽の白バイ、ハンチング、発煙筒の燃えがらなどが残されていた。第二現場はそこから約一・三キロ北に離れた国分寺市西元町の武蔵国分寺跡(本多家墓地)で、奪われた現金輸送車が乗り捨てられていた。 現金輸送車が出発した日本信託銀行国分寺支店から第一現場へ向かう途中で、輸送車見張り用の草色のカローラが発見されたのが第三現場。そして四カ月後の四月九日、長期間放置されていた濃紺のカローラ(逃走用)から、ジュラルミンの空トランク三個が発見された小金井市本町団地の駐車場が第四現場だ。 斎藤はこの四現場のほかに必ず犯人のアジトがあったと強調する。 「犯行現場離脱を急ぐ犯人は、第二現場から真っすぐ第四現場へ向かったというのが定説だが、いったんは小金井とは逆方向に向かったのを、近くの親子連れが目撃している。つまり、犯人は右折しても左折しても大差ないところへ行こうとしていた。それは地理的に恋ヶ窪しかない」 犯人の車を目撃したのは国分寺市東元町の農業、本多正一(七七)と達雄(四六)の親子。犯行当日の十日午前九時半ごろ、車で東へ向かっていた二人は、丁字路になった現場(図参照)で右(南)方向から方向指示器をつけずに突っ込んでくるカローラを見つけ、曲がり角の前に車を止めた。 十二月としては珍しい土砂降りで、辺りは暗い。達雄は、座高が高く顔の長い男がカローラの運転席に身体を斜めにするように座っていたのを記憶している。「一度は左折しようとしてわれわれの車にぶつかりそうになり、いったんバックし、今度は右折して猛スピードで去っていった」 斎藤は、この「出合い頭」をもっと重視するよう捜査会議で何度も主張した。しかし、発生直後の有力情報のはんらんや、捜査上の余裕が少ないとの理由でなかなか受け入れられなかったという。 しかし四カ月後、第四現場で発見された車内に残されたトランク内には親指大の泥が付いていたことが分かった。現金を抜き取った場所の土が付着したとしか考えられない。斎藤は、さらに推理を進める。 「真っすぐ小金井に向かったとすると、第二現場の本多家墓地のほかに泥が付く場所はないが、泥の種類が全く違った。恋ヶ窪のアジトで金を地面か大きな袋かにぶちまけた際、トランクに泥が入ったとは考えられないか」 泥は四十四年十月、警視庁科学捜査研究所で調査したところ、府中、小金井などのものとは明確に異なっており、泥中から見つかったケヤキなどの木の実や葉などから国分寺市の土と類似していた。また樹齢二十年以上の大きなケヤキがある場所だということも分かった。 さらに東京原子力産業研究所(川崎市)でアイソトープを使って精密鑑定した結果、翌四十五年三月末になって砂、鉄分の量が恋ヶ窪の雑木林のものと酷似していた。 恋ヶ窪地区は日本信託銀行国分寺支店に近い。当時はまだ、雑木林や空き地も多かった。また、府中刑務所からは約四キロしか離れておらず、第四現場にも車で七、八分でいける。 そうした事実を踏まえ、斎藤は「小金井に運んだカローラの中で現金をトランクから抜き取ったという説も根強かったが、車中は狭いし無理があった。恋ヶ窪のアジトで作業を済ませ、空きトランクごと小金井に捨てにいったのだ」と推理する。 捜査本部は遅ればせながら恋ヶ窪地区に重点を置き、大きなケヤキのある屋敷、学校などを中心に地取り、聞き込みを行った。だが「これというものは出なかった」(幹部捜査員)。 “アジト”はとうとう発見されなかった。捜査員の中にも「(恋ヶ窪重視論は)推測の域を出ないのでは」という声があった。 だが、「捜査初期は情報、捜査材料が多過ぎ、本当のポイントを見逃しかねない状態に陥っていた」という斎藤の胸中には、もう少し早く「恋ヶ窪」に目をむけていたらとの思いがよぎる。同時に「自分の捜査方針が正しかったのかどうか、今となっては分からない」ともいう。 【三億円事件】 昭和43年12月10日、日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車が東芝府中工場の従業員のボーナス2億9434万1500円を輸送中、府中市栄町の府中刑務所わきの路上で偽の白バイ警官に停止を命じられた。白バイ警官に化けた犯人は「支店長宅が爆破された。この車にも爆薬が仕掛けられたという情報があるので調べさせてもらう」と乗っていた運転手ら四人を下車させ、四人が避難したスキに現金を積んだ車ごと逃げた。事件は昭和50年12月10日、刑事時効、63年同日に民事時効を迎えた。派手な犯行と多数の遺留品派手な犯行と多数の遺留品 現金約三億円。昭和四十三年当時のこの金額は、現在では二十数億円に相当するという。加えて、白バイ警官を装った大胆な手口とオートバイ、車を使ったスピーディーな犯行である。日本の犯罪史の常識を覆すこの事件が起きたとき、海千山千のベテラン捜査員や事件記者たちは、どんな行動をとったのだろうか。 事件発生は昭和四十三年十二月十日午前九時二十分過ぎのことだった。火曜日の朝である。 その直後、警視庁記者クラブと産経新聞社会部デスク席を結んでいた通称“ガラガラ”と呼ばれる手回し式の直通電話が鳴った。 泊まり勤務明けで近くにいた中堅遊軍記者、細谷洋一(六一)=現日本工業新聞社社長=が、その電話をとった。 「府中で三億円が奪われたって? ばか言え。寝ぼけてるんじゃないか」 細谷は三百万円か三千万円の間違いだろうと思った。だが、よく聞くと輸送中のボーナスだという。それならありうるかと納得したが、それでもあまりの金額の大きさに、容易に信じられなかった。 「記者がこれだけびっくりしたんだから、警官だってびっくりしただろう」 社会部、整理部など、夕刊づくりが始まったばかりの編集局内は騒然となった。すぐさま取材班が組まれることになり、警視庁担当記者からの原稿を一面トップ用に書き換えた細谷も、現場キャップとして府中市へと向かった。 事件発生時の警視庁機動捜査隊長で、四十四年四月からは捜査一課長として事件の陣頭指揮をとった武藤三男(七六)=東京都国分寺市在住=は発生直後、無線で報告を受け、現場へ急行した。 「少なくとも警視庁管内でそんな事件が」と耳を疑ったという。 「犯人はいくら運ばれているかを承知して現金輸送車を狙った。状況からみてそれは間違いない。けどね、三億円なんて普通、強奪されるって考えられる額じゃなかったよ」 当時の武藤の月給が五、六万円。「仮に毎月十万円をもらうとしても年百二十万円、十年で一千二百万円、百年でやっと一億二千万円。ふとそんな計算もしてみた」三億円事件で犯人が放置した車とジュラルミンケース=昭和44年4月9日、東京・小金井市 だれもが強奪された金額の大きさに驚いた。しかしその一方で捜査員や取材記者たちの間にも、「犯人は年内にも検挙される」という一種の楽観論が発生直後からあったのも事実だ。 事件の派手さに加え、約百二十点にも上る遺留品があったからだ。 当時、警視庁捜査一課長代理で、四十九年三月からは同課長を務めた南雲寛治(七三)=埼玉県越谷市在住=も、事件発生を聞いたとき、「本当かよ」と驚きつつも早期解決を確信したという。 「捜査材料はたくさんあったし、真っ昼間に行われた大胆な犯罪で目撃者もいた。当初は年内解決だと、上司はもちろん所轄署の末端までその意気込みで頑張った」 このときの捜査一課係長で、後に五十年三月から時効(同年十二月十日)まで特別捜査本部キャップを務めた北野一男(七三)=東京都板橋区在住=も、「発生時は常識的に“これはいただきだ”という空気が現場にあった。刑事はみなおれがホシ(犯人)を挙げてやると張り切っていた」と回想する。 また、北野の前の特捜本部キャップで、名刑事として名声が高かった平塚八兵衛(故人)は五十年九月、産経新聞のインタビューにこう話している。 《今になって初動捜査の失敗がいろいろいわれているが、被害調書をとるにしても「ホシはじきにつかまる」といった軽い気持ちがあったようだ》 だが、発生から五年もたったあと捜査一課長となった南雲は、当初の見込みとは全く逆の展開で何とも「気が重い」状態で事件を引き継ぐことになる。 「いわゆる難事件。今後どう捜査を進めたらいいのか、見当もつかなかった」と南雲は振り返る。 奪われた巨額の金の行方もさっぱりつかめなかった。五十年五月から捜査本部に投入された石井千代松(六七)=東京都台東区在住=は、金が動きそうなところは微に入り細にわたりチェックしたと強調する。 「大変な金額を強奪した犯人がそれを捨てたわけはないが、百万円以上の金が動いた形跡がないんだ」 結局、延べ捜査日数二千五百五十五日、捜査費用約十億円(人件費を含む)をかけても、犯人は捕まらず、それどころか「十一万人以上の男を洗っても、容疑者らしい容疑者すらほとんど見つからなかった」という元捜査員もいる。 北野は慨嘆する。「この三億円事件で金の価値観が変わった。これが、後のバブルだか何だとかカネ、カネの世の中につながったんじゃないかな」 三億円事件が起こる以前、戦前戦後を通じて被害額が最高だった現金強奪事件は、昭和四十年九月、青森県弘前市の青森銀行弘前支店前で起こったひったくりで、被害額は三千百万円。多額とはいえ、三億円事件の十分の一。犯人は、約二カ月後に捕まった。 労働省によると、平成五年の大卒男子の初任給は平均十九万三百円と、事件発生の年の二万九千八十円から約六・五倍になった。また、犯行現場の東京都府中市栄町の地価公示価格は一平方メートル四十二万八千円で、犯行当時の一万九千円の実に二十倍以上となっている。すさまじかった取材合戦すさまじかった取材合戦 昭和四十三年十二月に起きた三億円強奪事件の捜査は、年が明けて四十四年になっても進展をみせず、新聞、テレビなどの取材合戦ばかりがエスカレートしていった。 ともに捜査の指揮をとった武藤三男(七六)、南雲寛治(七三)の両元警視庁捜査一課長はこう振り返る。 「毎晩、十一時か零時ごろ麻布の公舎に戻ると、新聞社の夜回りの車がズラッと並んで待っていた。各社とも、個別に(捜査状況など)聞きたいというんだが、一人三分でも二十人で一時間かかった」(武藤) 「帰宅後も、(新聞の)締め切り時間までは記者の相手をした。四六時中、寝かしてほしいと思っていた」(南雲) そうした日々が続いていたころ、毎日新聞が朝刊一面トップで“スクープ”記事を載せる。事件からちょうど一年後の四十四年十二月十二日のことだった。 《三億円強奪事件の東京・府中署捜査本部は、三多摩地区の運転免許所有者、仮名タイプ経験者を中心に捜査していたが、十一日夜になって府中市に住む元運転手A(二六)が容疑線上に浮かび、重要参考人として同夜から極秘に身辺捜査をはじめた》 毎日新聞は続けてこの日の夕刊でも、Aの重要参考人取り調べを報道。捜査本部が夜、Aを別件(脅迫容疑)で逮捕するに及んで、翌十三日付朝刊では写真入り実名報道を行った。 Aは犯行現場に近い小金井、国分寺両市内で牛乳配達のアルバイトをしていたほか、小金井市内のタクシー会社の運転手の経験があり、自動二輪車の運転もできた。身長は“犯人像”と開きがあったが、捜査本部はAをマークしていた。 “スクープ”を書いた元毎日新聞警視庁担当記者の一人は「あのとき、Aの身辺調査資料が(捜査本部の)警部補以上クラスの四、五人に配布されていた。本部幹部はみんなAに間違いないと確信していた」と証言、こう回想する。 「毎日新聞内部でも記事を載せるかどうか意見が分かれたのだが、結局ゴーサインが出た。新聞社という所はいったんやるとなると、冷静な者や慎重な意見は異端になってしまう」 捜査一課長としてA逮捕に踏み切った武藤は次のように明かす。 「Aさんに対しては極秘で四、五カ月間にわたって内偵していた。それが、明日にでも任意で呼んで事情聴取をやろうという晩に、毎日の記者がAさんの聴取の件を私にこと細かにぶつけてきた。知らないとも言えなかった」 一課係長だった斎藤訓正(六七)も、この日のことをよく覚えている。「家で寝ていたら、刑事部長(土田国保)から『もう毎日を抑えられない』と電話がかかってきた。私の見込みでは、あと少しの捜査でシロクロがつくはずだったのだが…」 武藤は、この段階でAの聴取をあきらめようかとも考え、土田に相談したというが、結局、任意同行は実行された。 別件逮捕の段階で産経新聞を含め各紙も実名報道したが、三億円事件への容疑の濃さの判断はまちまちだった。産経新聞の府中現場キャップだった細谷洋一(六一)=現日本工業新聞社長=はシロ説、クロ説を併記、見込みは五分五分とする記事を書いた。 「産経もAの周囲を調べていたが、現場の私たちは犯人とは違うと思っていた。ところが、警視庁記者クラブ担当はクロに近い感触を得ていた。現場キャップとしては板挟みになったわけで、ほとほと困った」 当時、自宅離れ屋にAを下宿させていた府中市の主婦(七六)は「刑事はもちろん、新聞社やテレビ局から何人も何人も記者が来て大変だった」と話す。 逮捕の数日前には、この主婦のところへ捜査員がAについて様子を聞きに来ていた。「それでAさんに『あなた疑われているみたいよ』と言ったんだけど、『そうですか』とすました顔だったわ」 捜査本部はAの供述内容、アリバイがあいまいだとして、長時間にわたり取り調べを続けたが、Aは犯行を否認した。自宅の捜索の結果からも、犯行に結びつく物証は得られなかった。 逮捕翌日の十三日午後、細谷は府中署のトイレで武藤と隣り合わせになった。顔色が青い。細谷がどうしたのかと聞くと、武藤は「三十分たったら発表する。まいった」とだけ語り、立ち去った。 同日夜、Aは釈放された。細谷は、そのときのことを思い浮かべながらこう言う。「事件当日、入社試験を受けに行っていたことが分かり、アリバイが証明された。私は(自説が正しかったので)涙を流して泣いた。事件が解決しなかったのに泣いたのは初めてだった」 別件逮捕は人権侵害、名誉棄損の問題に発展、写真入り実名で報じた各紙もそれぞれ反省を迫られた。読者からは、新聞は大々的に書き立てておきながら、釈放後は一転して警察捜査の人権軽視に話をすり替えた-という厳しい批判も受けた。 毎日新聞は十五日、社会部長署名で「『三億円事件』の反省」という釈明記事を載せた。 府中署は、市民からかかる抗議の電話への対応に追われた。斎藤らがAの実家を訪れ謝罪したが、捜査に対する世間の目は厳しくなり、非協力的な態度にぶつかることも多くなった。 細谷によると、「別件逮捕はそれまで珍しいことではなく、殺人事件など重要犯罪のときには常とう手段だったが、このとき以来やり方が変わった」という。 三億円事件はそれまで見逃されてきた警察捜査、犯罪報道の在り方を白日にさらし、その流れを変えるという副産物も生んだ。だが、ショックを受けたAはその後、仕事を転々とするハメに追い込まれ、今もその消息はよく分からない。3つの壁が捜査を阻んだ3つの壁が捜査を阻んだ3つの壁が捜査を阻んだ 昭和五十年十二月十日午前零時、三億円強奪事件は刑事上の時効を迎えた。四十三年十二月の発生以来、私生活を犠牲にして捜査してきた延べ十七万人の刑事たちの七年間は報われなかった。7年間の捜査実らず、時効当日を迎え三億円事件特別捜査本部の看板が外された=昭和50年12月10日午前0時、東京・府中署 最後の特別捜査本部キャップとなった元警視庁捜査一課管理官、北野一男(七三)は、このときのことを話すのはつらい、と言う。 「発生時も雨だったが、時効の日も雨だった。最後まで涙雨を降らせやがってと思っていたら、深夜にはみぞれ雪になった」 当時、捜査本部には、事件の解決を祈って岩手県の婦人が送ってくれた風鈴が夏からつるしっ放しになっていた。「なんか(芭薫の)“夏草や 兵(つわもの)どもが夢の跡”って感じだったよ」 それではどうして、複数の人に目撃され、百二十点にも及ぶ遺留品を残した犯人が、警察の大捜査網をくぐり抜けられたのだろうか。 事件を担当した元警視庁捜査一課長、武藤三男(七六)は、その理由として次の三点をあげる。(1)大量消費経済の発展という時代背景があり、遺留品に個性が少なかった(2)地取り、聞き込みが必要な捜査範囲が広すぎた(3)全盛期の大学紛争が捜査の妨げになった-がそうだ。 「(ハンチング、コート、発煙筒など)遺留品はどれをとっても盗品か大量生産されてどこででも手に入るものばかり。たどっても犯人とのつながりは途中で切れる。犯行現場を見ても、四つの『現場』のほか、犯行に使った道具(車、オートバイなど)を盗んだ日野市の団地、犯人が脅迫状(メモ参照)を送り付けた多磨農協のある府中市-と関連地域をあげればきりがなく、重点を絞れなかった」 平日の日中の犯行だったことや、現場付近に東京学芸大、東京経済大、東京農工大など大学が多かったことから、犯人像の一つに“学生”も浮かび上がった。しかし、「捜査方針として、組織的に学園に入ってやるのはまずい」と大学内での捜査をしないことが決まったという。 四十三年は大学紛争が吹き荒れ、東大、日大をはじめ、全国百十六大学で紛争が起きていた。当時はまだ、捜査のためキャンパスに入った私服刑事がリンチを受けるような時代だった。捜査員が大学に入れなかった裏には、そんな事情があった。 一方で、初動捜査の在り方を問題視する声も多い。当初、「これだけの事件、犯人は必ずどこからか浮かんでくるという楽観論が幹部にあった」(捜査員)ためか、「捜査はスタートが肝心」という原則が生かされていなかったというのだ。 初動捜査で見逃されたり、軽視されたりしたことの中でも、特に事件発生五日後、自宅で青酸化合物を飲み自殺したB少年(当時十九歳)の存在が捜査員らの心にひっかかっていた。 Bは「立川グループ」という五、六十人の非行少年グループのリーダー格だった。このグループは、東京都立川市のスーパーを発煙筒で襲撃したことがあり、銀行の現金輸送車を強奪する計画を話し合っていたことも分かっている。 さらに父親は当時、現職の白バイ警官で、当然Bも白バイの外見や構造に詳しい。乗用車の窃盗歴もあるほか、事件当日のアリバイもはっきりせず、土地勘もあった。 Bは自殺前から、捜査本部にマークされていた。しかし、自殺後にシロ(無関係)と発表され、その後、名刑事といわれた捜査本部キャップの平塚八兵衛(故人)らによって再び身辺捜査が行われたが、シロの判定は変わらなかった。 しかし、元警視庁捜査一課長の斎藤訓正(六七)は「立場上口に出せなくても、捜査員の多くはBへの疑いを捨て切っていないのではないか」と言い切る。また、同じく捜査員の石井千代松(六七)も「B犯行説は、時効直前の昭和五十年の時点でも強かった」と証言する。 ある捜査幹部は、Bが再度シロとされた時点で、当時の警視庁副総監から「本当にBじゃないのか」と電話で念を押されたという。 Bがシロとされたのは、三億円事件の犯人からだったとされている多磨駐在所へ脅迫状が郵送された四十三年八月二十二日には、東京・練馬区の東京少年鑑別所にいたこと。さらには、日本信託銀行国分寺支店に届いた脅迫状と筆跡も違っていたこと-などの理由からだったという。 しかし、これは犯人単独説でのみ成り立つ論で、複数犯であれば証明とはならない。 立川グループの仲間関係を調べたという石井は、Bには自殺する理由が見当たらないのが疑問だ、ともいう。 「どうしてそれまでは居つきもしなかった自宅で、しかも父親が隠していた青酸カリで自殺する? Bの仲間の話でも『自殺するようなやつじゃない』という点で一致していた」 それにしても、なぜ「状況的に最も疑わしい容疑者」(幹部捜査員)が自殺したことを、初動時に徹底的に究明しなかったのか。徹底さに欠けていたのは、Bの実家の家宅捜索すら行われなかったことでも分かる。 ある幹部捜査員は、当時の状況をこう説明する。 「Bの父親が警視庁関係者ということで、捜査が慎重になっていた。当時は捜査材料が多過ぎて、たとえBが真犯人でも、すぐに捜査を詰めなくても、いずれ他方面から浮かんでくると思っていたこともあったのだろう」 むろん、Bが「無実」と判定された事実は今も変わりはない。ただ、捜査員たちの間には「犯人でないにしても、きちっとつぶしておきたかった」との悔いが残った。そのことが、心理的にその後の捜査を逡巡(しゅんじゅん)させたことは否めないという。 【メモ】 犯人と思われる男は事件発生前の昭和43年の4月25日、5月25日、6月14日、6月25日、7月14日の5回にわたって府中市の多磨農協にあて現金を要求する脅迫状を送り付けている。また7月25日には同市の府中署多磨駐在所に「爆破する」との脅迫電話があり、その後脅迫状も届いた。毎月25日は東芝の給料日、6月14日は夏のボーナス日で、警察の動きを観察するためとも思われるが、多磨農協と東芝に直接関係はなく、目的ははっきりしない。さらに、事件直前の12月6日には、日本信託銀行国分寺支店に現金300万円を求め、「拒否した場合は東京・巣鴨の支店長宅を爆破する」という脅迫状を送り付けた。これが、現金輸送車強奪の際、運転手らが発煙筒の煙をダイナマイトと信じ、簡単に車を離れる伏線となった。似ているグリコ・森永事件の脅迫状似ているグリコ・森永事件の脅迫状 三億円強奪事件が刑事上の時効になったのは昭和五十年十二月十日。カウントダウンに入った九日深夜、各テレビ局は特別番組を組んだ。ニールセン調査によると、遅い時間帯にもかかわらず、視聴率は極めて高かった。 NHKが午後十時十五分から放映した「三億円強奪事件」は11・7%を記録した。前日の同時刻が1・2%だったことを考えると、実に十倍の数字だ。 民放でも日本テレビ「11PM『時効成立!』」(午後十一時十五分から)が8・3%、NET(現テレビ朝日)「ザ・23『時効!三億円事件』」(午後十一時十分から)が6・7%など-軒並み好成績だった(数字はいずれも関東地方)。 この異常なまでの三億円事件への関心を象徴するかのように、捜査関係者以外からも事件について、さまざまな推理が飛び出した。 「過激派による闘争資金集め」説や「左翼活動家が多数住む多摩地区を捜査しやすくするための警察内部犯行」説-などがその代表といえる。むろん、何の根拠もない。 三億円事件と十六年後の昭和五十九年に起きた「グリコ・森永事件」との犯人類似説をとなえているのが、直木賞作家の井出孫六(六二)だ。 井出は、ちょうど三億円事件が発生した時間、府中市の現場からわずか数百メートル離れたバス停で、当時勤めていた出版社に出勤するため国分寺駅行きのバスを待っていた。それ以来、事件への関心は人一倍強い。 「三億円事件の犯人が多磨農協に送った脅迫状と、グリコ・森永の“かい人21面相”が警察に送り付けた挑戦状(メモ参照)は論理構成が似ている。東京弁を河内弁に置き換えたらそっくり。時間の経過を考えたら、犯人の年齢だって一致するでしょう」 同一犯人といえるほどの論拠はないが、脅迫状によって犯行の“環境”づくりをするといった犯行計画の周到さに加え、犯人が(1)犯行現場の地理に詳しい(2)車の運転がうまい(3)緊急配備と大捜査(ローラー作戦)をくぐり抜けている-など両事件の共通点は多い。 そのグリコ・森永事件も未解決のまま、まもなく発生から十年を迎えようとしている。 ちなみに、三億円事件の十七日後の四十三年十二月二十七日には、京都市の国立近代美術館で開かれていたロートレック展の会場から名画「マルセル」が盗まれるという事件があった。 七年余りたった五十一年一月、大阪の会社員が「絵を預かっていた」と警察に届け出て、絵はフランスに返還されたが、すでに時効を過ぎており、この事件も迷宮入りとなっている。 犯罪の多様化、複雑化とともに、その捜査も転換を迫られようとしていた。 ともあれ、発生から二十年たった昭和六十三年十二月十日には民事も時効となり、事件は遠い出来事になった。もしも今、犯人が現れたらどうなるか。 警視庁の公式コメントは「(犯人が現れたら)所要の捜査を行うことになります」。とはいえ、捜査権は公訴を前提としているため、実際には任意で事情聴取をするぐらいしかできない、という。 犯人への課税の可能性はどうか。「法定申告期限は最高で七年。三億円事件の場合のような不労所得も課税対象だが、七年を過ぎるとうちの方では何もできない」(国税庁) 直接の被害を受けた日本信託銀行は「昔の話であり、取材はご勘弁いただきたい」と、コメントを拒否した。同銀行に被害額と同額の保険料を払った日本火災海上保険は「すでに公的には求償不能だが、犯人が判明した場合には、その時点で対処方法を検討したい」(大久保武史・海損部長)という。 かつて三億円事件の特別捜査本部があった府中署刑事課には、今も犯行に使われた偽白バイのナンバープレートが、縦約五十センチ、横約八十センチの額に入れて飾られている。 「時代が移り署員は変わっても、府中署は府中署。刑事らが自分たちの仕事の思い出を風化させず、いつまでも忘れないように残した、ということです」と村上邦昭副署長は話す。 署内に二十三年間以上にわたって保管されてきた偽白バイの本体は二年前に処分された。その際「現役捜査員の強い要望で、ナンバープレートだけは保存することになった」(同署OB)という。 三億円事件の犯人を追い続けた刑事魂は受け継がれている、ということだろうか。同署には、今も年に数件、「あいつが犯人じゃないか」と、情報提供の電話がかかってくる。 民事の時効が成立したちょうど同じころ、事件の関係者の一人が結婚した。被害者である日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車を運転していたC運転手である。 Cが他の三人の行員と一緒に事件に遭ったのは三十一歳のときだった。白バイ警官を装った犯人から「ダイナマイトが車に仕掛けられた」と脅された際、キーを抜かずに車を離れたことから、初期には犯人と“グル”ではないかと疑われたこともあった。 疑いはすぐに晴れたものの、Cはその後「事件が終わるまで結婚はできません」と二十年間、独身を貫き、結婚したときは五十歳を超えていた。 (文中敬称略)

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    サリン事件 作家・麻生幾氏が明かす「知られざる捜査の内幕」

     地下鉄サリン事件から3月20日で20年。事件の2日後には、山梨・旧上九一色村の教団施設へ強制捜査が入り、約2か月後、教祖・麻原彰晃(松本智津夫・現死刑囚)が逮捕された。現在、麻原ら幹部13人の死刑と5人の無期懲役が確定。裁判によって、東大を筆頭とした高学歴の教団幹部たちが、麻原の洗脳によって凶行へと突き進んだ過程が明らかになった。 強制捜査初日には2500人以上が動員されるなど、日本の公安・警察が全力で戦いを挑んだ歴史的事件。『極秘捜査』の著書がある作家・麻生幾氏が、知られざる捜査の内幕を明かした。 * * * 20年の月日が、これまで語ることを許されなかった記憶を溶かしてゆく。それは例えば、警察vsオウムの戦いもそうだ。語り尽くされた感がある言葉だが、20年前の、あの時の“壮絶”さは未だに多くのことが語られていない。家宅捜査を受けたオウム真理教教団施設では入り口にバリケードがめぐらされ、捜査員らが立ち往生する場面も(産経新聞社ヘリより)=1995年3月22日、山梨県上九一色村(当時) 3月20日の夜。地下鉄サリン事件発生の夜。東京・霞が関の警察庁。壮絶な思いで集まった幹部たちが、2日後に予定されている史上最大の強制捜査の最終確認を急いでいた。 その頃、都内のある場所で、公安警察官と協力者(モニター)との接線(セッセン)が密かにもたれた。オウム真理教の中枢に位置する男は、これまで繰り返してきた〈供述〉を口にした。「昨年(1994年)6月、土谷正美(現死刑囚)の実験棟でサリンを生成。一部を松本サリン事件で使用し、製造プラントは破壊した。しかし、その時生成したサリンは残っており、隠匿されている」 警察庁首脳部は、この〈供述〉を最もレベルの高い秘密に指定。〈供述〉はもとより、男の存在ですら、警察庁の数人の最高幹部しか知らされていなかった。 たった一人のモニターの〈供述〉は、警察庁の“オウムとの戦い”の極秘の基本方針となっていた。オウムは強制捜査後も、隠匿されたサリンを使い、数百台のサリン攻撃車両を都内に走らせ、空からはラジコンヘリによってサリン攻撃を行う──その前提に立ってすべての作戦を策定していった。強制捜査の約一ヶ月前から始まったオウム内部の協力者獲得の作業は壮絶だった。半年後には、麻原彰晃逮捕後の組織内部の権力闘争さえ把握した。 冒頭の会議と同じ時間、警察庁から車で5分もかからない築地警察署。そこでの光景も語られざる記憶だ。 地下鉄サリン事件の特別捜査本部が立ち上がり、数百名にも及ぶ捜査員が熱気渦巻く講堂に参集していた。 築地署刑事課長が、緊張した面持ちで決意を新たに語った最後にこう付け加えた。「××会社さんからのご厚意で、カップラーメンを膨大に頂いた。しかし、いずれも、豚の餌にも適さない消費期限切れのものだ! いいか、オマエらはブタ以下だ! 這いずり回って捜査に打ち込め」 警視庁捜査第一課生え抜きの課長の言葉に、捜査員たちはまさに獣(ケダモノ)の目をしていた。 刑事課長の傍らの雛壇で腕組みをする捜査第一課のK幹部こそ、獣そのものだった。彼は捜査第一課長の右腕として、サリン捜査の中核的存在となった。しかし、特捜本部を指揮しながら激しい胃の痛みに堪え続けた。病院に行く時間さえ惜しんで捜査に没頭した。そして麻原逮捕の数ヶ月後、末期癌であることが発覚。間もなくしてオウム捜査にかけた生涯を閉じた。 20年の月日を経て蘇る──語ることを禁じられてきた光景は、永田町、霞が関そして丸の内や大手町のビル群の屋上の映像だ。 警察は、それら日本の政経中枢の真っ直中に存在する全省庁と主要大手企業の担当者を必死に説得した。そして、電波ジャミング用のアンテナがビルの屋上に設置されていった。警察は恐れていた。オウム保有のサリン噴霧装置付きラジコンヘリが政経中枢を襲うことを。飛来に備えて操作電波を遮断するためのアンテナの存在は極秘とされた。 封印されていた20年の記憶は数多い。地下鉄サリン事件直後、逃亡したオウム幹部たちが向かった北陸の地。ちょうど同じ頃、北朝鮮工作船が北陸エリアへ向かったことを、政府機関は電波傍受していた──。 多くのことは私も語り尽くすことはできない。全容は〈オウムXファイル〉と密かに名付けられ、現在も、警察庁警備局の特殊組織犯罪対策室のスチール棚に眠っている。文・麻生幾(作家)

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    赤軍派、官邸襲撃・首相逮捕を狙う

    中から「革命戦争に向けた武装蜂起」を掲げる「赤軍派」が登場した。あまりにも過激なその行動は、「よど号事件」を経て「連合赤軍」を派生、十二人の仲間を殺した「山岳アジト事件」や「浅間山荘銃撃戦」を引き起こした。やがて赤軍派は四散してしまうが、「昭和元禄」といわれた高度成長社会に与えた衝撃は小さくなかった。共産同の分裂から誕生──武装蜂起を掲げ 「霞が関や永田町の政府中枢の一角を占拠して『人民政府』樹立を呼びかけ、三日間でも持ちこたえて玉砕すれば、政治闘争の局面も大きく流動化させることができるはずだと思った」 「赤軍派」元議長、塩見孝也(五二)=京大中退=は二十五年前をこう振り返る。 結成時からの赤軍派のリーダーで仲間からは「日本のレーニン」といわれた塩見が出所したのは平成元年十二月のこと。破壊活動防止法違反(予備・陰謀)などで懲役十八年の実刑判決を受け、未決拘置期間も含めて十九年九カ月に及ぶ獄中生活だった。 その二十五年前の昭和四十四年、日本国内は沖縄の返還交渉をめぐって揺れ動いていた。 この年、米国が「共産化を防ぐ」として南ベトナムに派遣した兵力は朝鮮戦争を上回る五十万人以上に達し、中でもB52戦略爆撃機をはじめとする沖縄駐留の米戦力が重要な役割を果たしていた。 日米安全保障条約に付属する交換公文では、日本からの米軍の戦闘作戦行動や、(核兵器持ち込みなど)重要な装備変更を両国政府の「事前協議」の対象としているが、社会党など野党勢力は沖縄返還を機に事前協議を骨抜きにしようとしている、として激しい政治行動を展開した。 さらに、「大学闘争」の勢いを再び拡大させようとする新左翼勢力は、日米首脳会談のため十一月十七日に予定された佐藤栄作首相の訪米実力阻止を叫んでいた。 だが、もっと破天荒なことを考えていたのが「共産主義者同盟(ブント)」内の、急進的な勢力が結成した共産同赤軍派だった。 東京・永田町の首相官邸を武装襲撃し占拠するという過激な計画だった。しかも、その際、「人民の名において」佐藤首相を“逮捕”することまで行動目標に含んでいたという。昭和44年11月5日、山梨県の山荘「福ちゃん荘」前で機動隊に逮捕された赤軍派学生ら。首相官邸を占拠する計画だった 塩見は今、「急進民主主義の極左路線(テロリズム)は間違いで、否定されなければならない」と言い切る。だが、当時の赤軍派はゲバ棒と火炎ビンで機動隊と渡り合っていた新左翼各派をはるかに超える「武闘路線」を突っ走ろうとしていた。 佐藤首相訪米に先立つ十月二十一日の「国際反戦デー」に向けて、鉄パイプ爆弾の製造に成功、都内の東京薬科大構内に約六十本を運び込んでいた。しかし、これを警視庁に押収されてしまい、爆弾闘争の火ぶたを切ろうというもくろみは失敗した。 それから約二週間後の十一月三日。東京から西に約百キロ離れた山梨県塩山市の大菩薩峠にある山小屋「福ちゃん荘」に、ナップザックなどを背負ったハイキング姿の若者たちが三々五々集まってきた。「ワンダーフォーゲルの合宿」という触れ込みだったが、全国の大学などから集められた赤軍派の学生だった。その数は約五十人。高校生もかなり含まれていた。 「10・21闘争の失敗は“軍事技術”の未熟さによるもので、それを克服するための軍事訓練が必要だと考えた」と塩見は総括する。そして、「政府中枢占拠は、この軍事訓練の結果をみて決めることになっていた」ともいうが、一方で赤軍派内部では、「首相官邸襲撃-占拠」の準備が着々と進められていた。 そのための武器として、再び強力な破壊力を持つ鉄パイプ爆弾が、福島医大や弘前大などの赤軍派学生によって秘密のアジトで大量に製造された。親せきなどが持つ猟銃をこっそり持ち出す作戦も練られた。オノやナイフなどの武器も集められた。 だが、その「首相官邸占拠」も結局は幻(まぼろし)に終わる。 この少し前から、公安当局は過激な武闘路線をとる赤軍派にようやく警戒を強めはじめ、割り出したメンバーの張り込みを続けていた。その監視の網に、千葉市内のアジトから大菩薩峠での軍事訓練に参加しようとした赤軍派学生がひっかかったのだ。 総武線から中央線を乗り継いで現場に向かう学生を千葉県警、警視庁がリレーして尾行。「福ちゃん荘」が突き止められた。十一月五日未明、政治局員二人も含めた五十三人が凶器準備集合罪容疑などでいっせいに逮捕された。 この知らせを塩見は、連絡場所にしていた都内の喫茶店で聞いた。「公安当局に簡単に尾行される未熟さを露呈したという恥ずかしさと、赤軍派は口先ではなく本気で武装蜂起しようとしていることが、これでわかってもらえるとも思った」と複雑だった。 赤軍派が結成されたのは四十四年五月のことだった。四月二十八日の「沖縄返還デー闘争」が、結局は圧倒的な警察力に封じ込められたという「総括」から、「関西ブント」を中心に生まれた。しかし、ブント内の反対派との抗争は激しく、七月には塩見ら赤軍派の四人が東京・駿河台の中央大に約二十日間も監禁されるという事件が起きる。 このとき、塩見とともに捕らえられた赤軍派の元政治局員、物江克男(四六)=当時、滋賀大生=は、監禁中に携帯ラジオで米国のアポロ11号が人類初の月面着陸に成功したニュースを聞いたのをいまでも鮮明に記憶している。 物江は「人類史が、そして社会が動いている」と奇妙な感動にとらわれた。しかし、物江にはそのとき、赤軍派やその後の自分の運命がどうなっていくのか、予測するすべもなかった。結成直後から死者出す凄惨なスタート結成直後から死者出す凄惨なスタート 昭和四十四年七月二十四日深夜、東京・駿河台にあった中央大学校舎の三階から同志社大生、望月上史=当時(二二)がコンクリートの中庭に転落した。頭部を割っており、新宿の病院にかつぎこまれたが、意識不明のまま二カ月後に死亡した。 望月は「革命戦争に向けた武装蜂起」という急進路線を叫び、共産主義者同盟(ブント)内部で激しい対立抗争を引き起こしていた「赤軍派」の指導部メンバーの一人。同派議長の塩見孝也(五二)ら三人と、反対派によって監禁されていた。すきを見て備え付けのホースで脱出しようとして滑り落ちたのだ。 ともに脱出した物江克男(四六)=当時滋賀大生=によると、望月は反対派のリンチで腕を激しく痛めていた。物江は望月と二人になったとき「脱出は無理だ。おれも残るから、塩見さんたちだけ逃そう」と提案したが、望月は「いったん決意したらやり切るしかない。それが政治だよ」といって受け付けなかったという。 二年半後には、派生した「連合赤軍」内の同志殺害で多くの犠牲者を出すことになる赤軍派は、結成直後から死者を出す凄惨(せいさん)なスタートを切った。 赤軍派は四十四年、「早急に軍隊を組織し、銃や爆弾で武装蜂起しなければならない」と過激な主張とともに登場した。ところが、その年の秋の「10・21国際反戦デー」での“蜂起”は不発に終わった。「首相官邸武装占拠」を狙って、山梨・大菩薩峠で行った軍事訓練も警察に察知され、集まった大学生や高校生ら五十三人の全員逮捕と、いいところがないままだった。 大菩薩峠での失敗から一、二週間後の四十四年十一月中旬、赤軍派指導部は早くも次の行動に移った。 「国際部長」の肩書を持つ元京大生が結婚したばかりだったのを利用し、新婚旅行と兼ねて、二人を米国、メキシコ経由でキューバに“密使”として送り出したのだ。 「世界は帝国主義時代から社会主義時代に向かう過渡期」だとする「過渡期世界論」の上に立って、社会主義国キューバのような「労働者国家」の内部に「武装根拠地」をつくり、そこでの闘争と軍隊建設を通じて「世界革命戦争」に向かおう-という独特の「国際根拠地論」を打ち出していた。 この理論をもとに活動の舞台を海外に求めようとしたのだが、裏返せば、日本国内での「蜂起路線」が挫折したことによる事実上の“国外転戦”であった。 キューバに派遣された元京大生が帰国したのは翌四十五年三月のことだった。「キューバ側は受け入れてくれる」との感触を得て、塩見自身の出国も含めてキューバ行きの検討が始まった。 しかし、指導部の大半には逮捕状が出ており、ハイジャックなどの強硬手段に出る以外、合法的に日本を出国するのは難しい。 そのうえ、検討がかなり煮詰まった同月十五日、すでに「首相官邸武装占拠」を図ったとして破壊活動防止法違反容疑で逮捕状の出ていた塩見が、都内のアジトを出たところで逮捕されてしまった。 最高指導者の逮捕で組織内は大きく動揺した。塩見も留置場から弁護士を通じて「すべてを白紙に戻すように」との意向を伝えたという。しかし、同派ナンバー2だった田宮高麿(五〇)=元大阪市立大生=は、塩見逮捕から半月後の三月三十一日、小西隆裕(四八)=元東大生=ら八人とともに羽田発福岡行きボーイング727型日航機「よど号」のハイジャックを決行し、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に渡った。1970年4月、北朝鮮関係者の要求で自分たちの武器を提示する赤軍派の学生ら =平壌(朝鮮通信=共同) そのほぼ一年後の四十六年二月、こんどは赤軍派結成当初からの幹部活動家だった元明大生、重信房子(四八)が出国に成功する。 元京大生、奥平剛士(イスラエル・テルアビブ空港乱射事件を起こして死亡)と婚姻届を出して新しい名前でパスポートを取得し、“新婚夫婦”として国外に脱出したのだ。重信は日本から仲間を呼んで「日本赤軍」を組織した。現在もパレスチナ・ゲリラとともに活動している。 北朝鮮に着いた田宮らはいずれキューバに向かう計画だったが、そのまま留め置かれ、北朝鮮の社会主義建設理論「主体思想」を叩(たた)き込まれ、これに同調していくことになる。そして、今は当時の赤軍の路線を「極左冒険主義」だったとして自己批判している。 現地で病死した吉田金太郎(事件当時、二十一歳)=元工員=と、昭和六十年にひそかに日本に帰国して生活しているところを同六十三年に逮捕されて現在拘置中の柴田泰弘(四〇)を除く七人が、いまも北朝鮮にとどまっており、小西らは貿易ビジネスにも従事しているという。 四年前に服役を終えた塩見は、すでに二回北朝鮮を訪れ、田宮らと二十年ぶりに再会した。 塩見によると、北朝鮮国籍の女性と結婚した一人を除いて田宮ら六人は北朝鮮に渡った在日朝鮮・韓国人などと結婚し、子供も全部で十七人いるが、ハイジャックの刑に服さない形での帰国を求める意思を変えていない。 塩見もこれら家族の日本帰国支援で積極的に動いている。しかし、日本政府との交渉による「無罪帰国」が事実上困難だと認めたうえで、「帰国して日本人民に尽くすのが筋だが、無罪帰国ができなければ、それもたかがしれている。それなら、北朝鮮にとどまって、日朝友好に尽くすほうがいいかもしれない」ともいう。 米国防省襲撃も夢見る米国防省襲撃も夢見る <赤軍派は最高指導者の元京大生、塩見孝也(五二)が逮捕されながらも、昭和四十五年三月、「国外に革命戦争の根拠地をつくる」として元大阪市大生、田宮高麿(五〇)らが日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に出国した。事件後、国内に残った指導部のメンバーが次々に逮捕され、組織は壊滅的な打撃を受けた。 このため、有力な活動家でありながら、前年夏の共産主義者同盟(ブント)内部の流血抗争に耐えられず「戦線離脱」していた元大阪市大生、森恒夫(当時、二十五歳)が指導者に浮上した。 森は幹部らの出国後に手薄になる赤軍派の国内指導体制を補うため、「よど号事件」の直前に説得され「一兵士から再出発する」と決意表明して復帰したばかりだった。その森に率いられた赤軍派が二年後、新左翼武闘派「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」獄外指導部の元共立薬科大生、永田洋子(四九)や元東京水産大生、坂口弘(四七)らとつくった「連合赤軍」で十二人もの同志リンチ殺人を引き起こすことになる。 それはともかく、「よど号事件」後の組織弱体化を阻止するため、赤軍派が打ち出したのが「PBM作戦」だった。P(ペガサス=天馬)は塩見ら獄中幹部の奪還、B(ブロンコ=北米西部に生息する野生馬)は国際根拠地の建設、M(マフィア)は革命資金奪取を意味した。 当時の「赤軍中央軍」幹部の一人は最近、産経新聞への証言で、このB作戦の一環として、米軍事機構の中枢であるワシントンの米国防総省(ペンタゴン)に対する武装襲撃まで含まれていたことを明らかにした。どこまで具体的に計画されていたかは不明だが、「世界革命戦争」を呼号していた赤軍派の特徴がよく示されている。 しかし、実際にはP、B両作戦は力量不足から実行に移されることはなく、森が指導する赤軍派は金融機関を狙ったM作戦にのめり込んでいく。 昭和四十六年二月二十二日夕、千葉県市原市辰巳台にある市原辰巳台郵便局に白マスクをした二人の男が押し入った。一人が居合わせた客ののど元にジャックナイフを押しあて、「静かにしろ」と叫んだ。局長らがひるんだすきに、カウンター内に入り込んだ別の男が手提げ金庫から現金約七十二万円を奪い、エンジンをかけたまま待機していた三人目の男が運転する車で逃げた。 M作戦第一号だった。同年七月二十六日の鳥取県米子市内の松江相互銀行米子支店まで六つの金融機関を襲撃し、計九百五十四万円を奪った。五月には横浜市南区の南吉田小学校前で、同校事務職員からバッグに入れていた教員らの給料三百二十一万円も強奪した。 最初のM作戦を実行部隊長として指揮した元同志社大生、大西一夫(四六)は「頭では『やらなければならない』と考えようとしても、後ろめたさは当然あって、『こんなアホな闘争やりたくない』とも思っていた」と振り返る。 赤軍派指導部はM作戦と並行して、「殲滅(せんめつ)戦」と称する警察官殺害の機会も必死で狙っていた。だから、大西は犯行から二カ月後にM作戦で逮捕されたとき、「こんな中途半端な形で終わってしまうのか」というむなしさと、「人を殺さずにすんだ」というホッとした思いが交錯したと告白した。 のちに「連合赤軍リンチ殺人事件」で逮捕される元弘前大生、植垣康博(四五)もM作戦に加わった。植垣はM作戦について「そうした闘いを通して武装闘争を行える能力を身につけなければ、とてもこれからの国家権力との攻防に耐え抜けないと思った」と、自己正当化していた当時の心境を手記(「兵士たちの連合赤軍」)に書いている。 同時に、M作戦ばかりの生活に「銀行強盗のプロみたいだなあ」と自分たちを揶揄(やゆ)し、「包丁一本、さらしに巻いて、銀行へ行くのも、ゲリラの修業…という替え歌を自嘲気味に作って不満をまぎらわせたりした」という。 植垣は昭和二十四年、「団塊世代」の一員としてお茶の産地で知られる静岡県金谷町で生まれた。手記によると、父親が農林省農場の場長という町の名士として特権的地位にあったことから、遊び仲間だった近所の貧しい子供たちに負い目を感じて育った。 昆虫採集や鉱物採集などに関心を持つ「野外派」だった植垣は、中学校時代から管理教育になじめず、自分の関心分野を独学するのが大好きだったという。 大学に入学したら思う存分学究的な授業が受けられると思っていた。が、大学の研究体制にも、学生の意欲のなさにも失望、日本の大学の在り方に強い疑問を抱くようになり、次第に学生運動にかかわるようになる。 植垣が大学に入学した翌年の昭和四十三年、日大や東大を頂点とする「大学闘争」が爆発し、全国大学の約八割にあたる百六十五校で紛争が起き、うち七十校でバリケード封鎖が行われていた。 しかし、大学臨時措置法の成立などで次々に機動隊が大学に導入されたことに加えて、新左翼勢力の主導権争いなども激化するにつれ、運動は混迷状態に入る。しかも、これに逆比例するように、植垣が誘われて入った赤軍派などの「武闘派」が過激な行動に走って孤立化し、自滅への道を歩み出すことになる。 M作戦のとき、大西二十四歳、植垣二十二歳だった。全共闘衰退とともに急進化全共闘衰退とともに急進化 昭和四十四年九月五日、東京・日比谷の野外音楽堂で開かれた全国全共闘連合結成大会に、共産主義者同盟(ブント)赤軍派は公の場として初めて「赤軍」と書いたヘルメット姿で登場した。同派と流血事件を起こしていたブント内の反対派学生と「入れろ」「入れない」の内ゲバとなった後、居座る格好で大会に参加する。 その前年の四十三年(一九六八年)、フランス、ドイツ、米国などで若者が社会変革やベトナム反戦などを叫んで反体制運動を展開していた。 国民総生産(GNP)が米国に次いで西側諸国で第二位となり、戦後社会構造の転換期にあった日本でもそれに呼応するように、学生運動が燃え上がる。日大や東大をはじめ全国の大学で結成された全学共闘会議(全共闘)はこの時代の学生運動を象徴するものとなった。赤軍派の急進的な武装闘争路線は、この全共闘運動の衰退の中から生まれてくる。 「抗議集会などでも、最初はハチマキを頭に巻いて校歌を歌ったりしていた。僕らは新左翼の運動スタイルなんかに縁がなかったから、どうやっていいか分からなかった」。日大全共闘に当時、生産工学部二年生として参加した滝川康益(四五)=現会社員=は笑う。 学生運動とは無縁とみられていた日大で四十三年五月、約二十億円の使途不明金疑惑、教授による裏口入学の謝礼五千万円の脱税などの不祥事が発覚した。これをきっかけに、営利優先のマスプロ教育や自治会活動さえ大学当局の意向を受けた体育会系学生らの暴力で妨害されるなどの“抑圧体制”に対するうっ積した不満が爆発した。「日大闘争」の始まりだった。 「職業的革命家などの力で闘われているのではなく、基本的にこのような普通のその辺にいくらでもいる学生によって起こり、闘われ、エスカレートし、現在に至っている」-当時、日大全共闘のある学生は日大闘争をこう表現した。 全共闘運動は当初、新左翼などの党派に属さないノンセクト(無党派)の学生たちを引きつけた。しかし四十四年一月、学生らが立てこもった東大の安田講堂が機動隊の手で“落城”。さらに、大学臨時措置法の成立でバリケード封鎖が次々に解かれていく。 同年九月、全国全共闘連合が結成されたとき、すでに多くの全共闘は新左翼諸党派の主導型になっていた。日比谷での結成大会にノンセクトとしてやってきた滝川は、盛んに叫ばれる政治スローガンに、仲間と「何か違うんだよな」と言い合ったのを覚えている。 赤軍派の大西一夫(四六)=当時、同志社大生=は「一般的には停滞しつつあった大衆運動としての全共闘に、党派が自分の“戦略”を持ち込んだことで、いっそうノンセクトが離れていった」という。 大西はベトナム戦争の激化につれ、「自分だけが安穏に暮らしていていいのか」という気持ちにかられ、反戦運動を通じて共産同の学生組織で活動するようになった。まだ全共闘運動は登場していなかった。 その後、赤軍派内で七人の政治局員に次ぐ中央委員にもなり、武装闘争を担ってきた。「社会変革を求める時代のうねりに自分なりにこたえようとしたことに間違いはなかった」と考えている。しかし、当時から「武装蜂起を社会変革のきっかけにするという『観念』や『思想』だけではやっていけないのではないか」との思いが消えなかった、と率直に語る。全共闘結成大会で社学同に襲い掛かる赤軍 法大全共闘で無党派で活動していた田中邦之(四六)=現喫茶店主=も、「新左翼党派の“信仰”の話はもうけっこうだ。観念で具体的な問題が救えるというなら、それは信仰にすぎない」という。田中は入学後ある新左翼党派に属したが、その後離脱した。 産業構造の変化などによる失業の増大、高齢化社会といった現実の問題を解決するのに必要なのは「イデオロギーではなく知恵」と主張、具体論を語り出すべきだという。 高度成長や団塊世代の登場に伴い、大学進学率は昭和三十五年から四十四年までの十年間で一〇・三%から二一・四%に倍増した。成長を維持しようとする産業界の要請に応じる形で大学生が“大量生産”された時代ともいえる。それに対する異議申し立てでもあった全共闘運動は「大学解体」や「自己否定」などの考え方を生み出しもした。 それから四半世紀が過ぎた。「一市井人」として沈黙してきた当時の「全共闘」世代の中には、今こそ語りはじめよう、という運動を進めているグループがある。 全共闘の中心的世代のえと=昭和二十二年生まれ=にちなんで名付けられた「プロジェクト猪(いのしし)」には、田中も参加する。事務局の前田和男(四六)によると、まず、全共闘に参加した人々にアンケートを実施し、「全共闘白書」としてまとめたいという。 全共闘運動の象徴的存在として日大全共闘結成時の議長、秋田明大(四七)がいる。秋田は全共闘から退いたあと沈黙を続け、今は郷里の広島県安芸郡で小さな自動車修理工場を営む。 その秋田が沈黙を破り、アンケートに答えてこういっている。 「私は昔、一人の日大生として全共闘運動に参加いたしました。戦いつかれ、そして自己の能力のなさからか、自己分解を起こして現在に至っております。過去の私も私、現在の私も私。できるなら、どんなぶざまな生活であろうと、私自身であり続けたいと想っております」「連合赤軍」で自滅の道たどる「連合赤軍」で自滅の道たどる 米国の女性社会学者、パトリシア・スタインホフは「日本赤軍」による「テルアビブ空港乱射事件」(昭和四十七年)に関心をもったことから長年、日本の学者も敬遠しがちな赤軍派の研究にあたっている。 そして、その著書「日本赤軍派」の中で、「赤軍派の主張が、国家権力との対決で挫折感を覚えていた学生たちに希望を与えた」と述べている。 赤軍派は、全共闘運動などの大学闘争や政治闘争が次第に衰退していた昭和四十四年に登場し、その行き詰まりを打開するため、先鋭な武装闘争路線を一気に進めた。 当時、彼らが主張していたのは「過渡期世界論」や「前段階武装蜂起論」という難解な理論であった。簡潔にいうと、(1)ロシア革命、中国革命で世界は革命戦争の時代に入った(2)世界革命戦争に向けて、日本で武装蜂起闘争を起こすべきだ-というものだ。 スタインホフは「赤軍派理論によれば、世界革命戦争はすでに始まっているから、果敢な実践によって大衆を目覚めさせるべきだし、海外の革命拠点で闘うこともできる」としたうえ、「革命というロマンチックな目的のために身をささげたいと熱望している人間には、一筋の希望の光となったのだ」と指摘する。連合赤軍・「あさま山荘」人質事件、ガス弾の猛攻で白煙に包まれた山荘 この理論によって、赤軍派は四十五年三月、日航機「よど号」ハイジャック事件を起こし、政治局員、田宮高麿(五〇)=大阪市立大=ら九人が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に渡った。さらにその一年後には、幹部の一人の重信房子(四八)=明治大=らが中東にひそかに出国、日本赤軍を結成することになる。 だが、国内に残った赤軍派のメンバーにとって、果たしてそれがスタインホフのいうように「一筋の希望の光」となったのかどうか。 「よど号事件」直前に逮捕された結成以来の議長、塩見孝也(五二)=元京大生=に代わって、この時期に赤軍派の獄外指導部を率いていたのは元大阪市大生、森恒夫=当時(二七)=(四十八年一月、東京拘置所で自殺)だった。その森には、武装闘争継続と組織維持という重圧がかかっていた。 森は、追い詰められるにしたがい、情勢とは無関係により強硬な“軍事路線”を打ち出して、さらに自分と組織をいっそう困難な状況に追い込んでいく。まるでアリ地獄にでもはまってしまったようだった。 赤軍派の元政治局員、物江克男(四六)=元滋賀大生=は、森のこうした心理には「コンプレックス」が影響していたとみている。 森は、赤軍派が結成時に同じ共産主義者同盟内の反対派と東京で流血抗争を起こしたとき、関西に戻ってしまい、そのまま闘争の前線から引っ込んでしまう。 半年後に田宮から呼び戻されて復帰するが、そのとき森は「一兵士からやり直す」といい、組織でははるかに下の若者と、駅頭でのビラ配りを黙々と務めた。 物江は「まじめな人間ほどブント(共産主義者同盟)の分裂という事態には耐えられなかったはずだ」と森に一定の理解を示すが、森自身はこれを「自分の弱さから敵前逃亡した」した、と強い負い目を感じていたようだという。こうしたコンプレックスが、より「極左的」な方針を打ち出す心理的要因だったのだろう、というのだ。 「よど号」事件から一年後の四十六年春から夏にかけ、森の率いる赤軍派は「革命資金奪取のためのM(マフィア)作戦」と称して金融機関強盗を繰り返して、公安当局の厳しい追及にあっていた。 M作戦の実行部隊にいた元赤軍派「兵士」によると、この過程で森は、別のある兵士の愛人として赤軍派と行動をともにしていた女性を「処刑」するよう命令を出したことがあった。M作戦にも協力していたその女性が、警察に情報をもらすことを警戒したためだという。 この「処刑」は、女性の愛人である赤軍派兵士が、女性が口を閉ざすことを納得する手段を講じることで結局、実行には移されなかった。しかし、赤軍派内で同志処刑の方針が出されたことは、それまでなかったことだ。当時の森の追い詰められた心境をよく示している。 これが、のちに赤軍派と「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」獄外指導部の元共立薬科大生、永田洋子(四九)や元東京水産大生、坂口弘(四七)らと結成した「連合赤軍」の山岳ベースで起きた十二人もの「同志殺害」の不吉な前兆だったということがわかるのは、それから数カ月後のことだった。 四十七年二月中旬、警察は、「連合赤軍」のメンバーが群馬県内の山岳ベースにこもっているとの情報を得て、大規模な捜索を開始した。捜索を察知して逃走した連合赤軍のメンバーのうち、坂口をはじめ元京大生、坂東国男(四七)、元横浜国大生、吉野雅邦(四五)ら五人が長野県軽井沢の企業保養所「あさま山荘」にたてこもった。 機動隊との十日間にわたる銃撃戦を行い、警察官二人と民間人一人を犠牲にした末、二月二十八日に逮捕された。その前後に残る十七人の連合赤軍メンバー全員も逮捕され、山岳ベースで行われた凄惨(せいさん)な同志リンチ殺人が発覚する。 この「連合赤軍事件」によって、沈滞に向かっていた新左翼運動からの大衆離れはいっそう、加速していった。そして赤軍派の時代もこれにより終わった。 (文中敬称略)

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    マスコミがはしゃいだ「菊池直子伝説」

    元オウム信者、菊地直子さんに対する逆転無罪判決には驚いた人が多かったと思う。考えてみればマスコミが報じてきた「菊地直子伝説」は、伝聞や推定による部分がかなりあるらしい。オウム報道とはいったい何だったのか。ここに彼女を手記を公開し、多くの人に考えてもらえれば幸いである。

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    元オウム信者は「当然」に有罪とするネット界の人々

    するマラソンの練習に明け暮れたり、土谷正実死刑囚の下で化学実験の下働きをしたりする立場だった。一連の事件で起訴された教団関係者の中では、末端信者の部類といえるだろう。」(江川紹子氏)「菊地直子無罪の理由 オウム信者取り調べ経験持つ弁護士解説」(NEWSポストセブン2015年12月10日)「「もちろん、菊地にも“何かやばいものを運んでいる”くらいの認識はあったのかもしれない。でもそれでは足りません。“殺人に使われるものを運んでいると、うすうす知ってやっていた”ということが証明できないと有罪にならない。そこまで立証するのは、オウム事件に限らず難しいことです」(落合洋司弁護士)」 17年も逃亡生活を送っていたことが有罪の(状況)証拠になりうるのかどうかですが、ネット界の人たちは、「有罪だから逃げていたんだろ」というのですから、このような発想ではとんでもない認定になりそうです。 江川氏は、この点についてかなり穏やかに論じています。「菊地被告は、薬品類を運んだ時点では、「何に使うのか知らなかった」と述べている。薬品の運搬を指示した中川智正死刑囚も、彼女には目的を告げていないと証言した。それでも、逃げている間に事件に関する報道を見聞きし、自分が運んだ薬品類で爆薬がつくられ、事件が起き、内海さんがひどい怪我をしたことを知った。当然、「罪の意識」は生じたろう。」 だから出てこれなかったということなのですが、私からしてみれば、あのときに出頭していたら、オウム憎しの風潮の中で、それこそ「それだけ」で有罪にされてしまいかねない状況と元オウム信者が感じていたとしても不思議はないし、むしろ当然の恐怖心だったのではないでしょうか。 痴漢えん罪でもそうですが、時折、やっていないなら堂々と弁明したらよいではないかという人がいますが、あまりに世間知らずです。 そのまま現場に居残ってしまえば、警察に引き渡され、無理にでも自白させられてしまいます。逮捕という扱いをされるからです。「もし痴漢に間違われたら「駅事務室には行くな」 弁護士が教える実践的「防御法」」(弁護士ドットコム) 疑われた方が無罪を立証しなければならないという現実があるにも関わらず、逃げたことをもって「有罪」というのはあまりに乱暴です。 元オウム信者は、特に警察とマスコミによって「走る爆弾娘」などというレッテルを貼られ、極悪非道の犯罪者であるかのように宣伝されていました。これで国民の間では、早々に「有罪」判決が下されていたのです。 この一連の捜査、報道がどうだったのかこそ検証すべきです。 それから裁判員裁判を持ち出すのは何度も繰り返してきたところですが、愚かなことです。 ましてや検察庁が「国民感覚から乖離」などというのはとんでもないことです。 検察庁は、裁判員裁判が破られた死刑判決に対しても上告の理由の中で「裁判員裁判」を理由に使いました。 そこまで言うのであれば、裁判員裁判に対する検察官の控訴、上告の制度はやめたらいいのです。自主的にやめてもらっても結構です。 それにしてもネット界の人たちは、何故、ここまで元オウム信者に対する「有罪」にこだわるのだろうかと不思議に思います。 無罪判決が確定した以降になると思いますが、逃亡の身に追いやったことについてはたとえ本人にも責任の一端があるとはいえ、ひどい結果を与えたのですから、国もマスコミも金銭補償も含め、相応の責任をとるべきでしょう。(弁護士 猪野 亨のブログ 2015年12月12日)

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    「なぜ無罪?」批判から読み解く菊地直子被告高裁判決

    紀藤正樹(弁護士) 東京都庁郵便小包爆発事件で、殺人未遂幇助の罪に問われた菊地直子被告の裁判で、平成27年11月27日、東京高裁は、懲役5年とした東京地裁の裁判員裁判による判決を破棄し、無罪判決を下した。地下鉄サリン事件から今年20年、一報を聞いた時はまずは驚くとともに、無罪判決は、弁護人の努力のなせる結果だと感じた。 職業裁判官に無罪判決を書いてもらうのは極めて難しい。刑事事件の実情を知る弁護士として、そして事件当時のオウム真理教の実態を知る者としては、犯行を計画遂行する幹部信者と犯行に利用された末端信者の状況を丹念に立証された結果の無罪判決ではないかと想像されたからだ。 もっとも判決を読んでみると「疑わしきは被告人の利益に」といった無罪推定の原則に一言も触れず、「経験則、論理則に照らせば、殺人未遂幇助の意思を認めるには合理的な疑いが残る」「テロ行偽を実行するという本件殺人未遂を幇助する意思はなかったとする被告人の供述を排斥することはできない」と言う消極的な理由に終始し、1審の裁判員裁判の判断を批判しているだけのように感じられた。オウム真理教・東京都庁郵便物爆発事件  裁判員裁判の判決公判 裁判長が読み上 げる判決に身じろぎせずに聞き入る菊地直 子被告(右)=6月30日、東京地裁 (イラスト・井田智康) 裁判に国民が期待するのは「真実」だろう。真実の実態を前提に、国民は今後の対策を立てることができるし教訓にもなる。しかし消極的な理由では、オウム真理教の起こした事件の実態に迫ることができず、裁判を税金で運営する国民の側は非常に不幸だ。被告人にとっても「証拠がないから無罪」と言われているようで、社会復帰の足かせにもつながりかねない。つまり今回の無罪判決はより良い未来につながらず、それが後味の悪さを感ずる原因となっている。 実際、今回の判決は、いくつか議論を巻き起こしている。その一つが、裁判員による判決を高裁の職業裁判官が真っ向から否定した点だ。高裁判決は、裁判員裁判でなされた認定を「原判決の判断は、その説示自体に経験則、論理則に反する不合理な点が少なからず見受けられる」「被告人に殺人未幇助の意思を認める根拠となる被告人の言動に関する井上証言の信用性を認めた理由も肯認できない」として批判した。 裁判員判決が有罪認定の根拠とした井上嘉浩死刑囚の証言に至っては、「不自然に詳細かつ具体的」「被告人が逮捕されて井上が被告人の関与について事情聴取を受けた時点でも事件から約17年を超えている」「むしろ記憶に残っていることは不自然であるとすらいえる」とまで述べている。 しかし1審の裁判員は、証人尋問をし、その表情や話しぶりを直接に見聞きしている。その裁判員の判断を簡単に覆してよいのだろうか。特に井上証言について、「約17年」の年月から見て「詳細かつ具体的」という理由でその信用性を否定したことは大きな議論を呼んでいる。最高裁は、平成24年2月13日の判決で「刑訴法は控訴審の性格を原則として事後審としており、控訴審は、1審と同じ立場で事件そのものを審理するのではなく、当事者の訴訟活動を基礎として形成された1審判決を対象とし、これに事後的な審査を加えるべきものである。 1審において、直接主義・口頭主義の原則が採られ、争点に関する証人を直接調べ、その際の証言態度等も踏まえて供述の信用性が判断され、それらを総合して事実認定が行われることが予定されていることに鑑みると、控訴審における事実誤認の審査は、1審判決が行った証拠の信用性評価や証拠の総合判断が論理則、経験則等に照らして不合理といえるかという観点から行うべき」「控訴審が1審判決に事実誤認があるというためには、1審判決の事実認定が論理則、経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要である」「このことは、裁判員制度の導入を契機として、1審において直接主義・口頭主義が徹底された状況においては、より強く妥当する」と判示している。 この事件は、1審無罪→高裁有罪→最高裁で逆転無罪としたケースである。対し今回は、1審有罪→高裁無罪→最高裁へという事件である。逆パターンだが、最高裁の基準は、今回の菊地高裁判決でもそのまま判断枠組みとして踏襲されている。問題は「1審判決の事実認定が論理則、経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要である」とする基準に照らし、今回の高裁判決の理由付けが「具体的」であったか否かという点だろう。 今回の高裁判決と同様の経過をたどったケースとしては、最高裁が、平成25年9月3日、1審の裁判員裁判の有罪判決を破棄し無罪とした高裁判決を維持して上告を棄却したというケースがあるが、この時、最高裁は、特に理由を付さなかった。 東京高検は、12月9日、判決を不服として最高裁に上告した。根拠としたのは、平成24年2月13日の最高裁判例違反だ。最高裁は、上記基準を維持しつつ判断をするのか、無罪推定との関係で上記基準に一部変更を加えるのかなど、有罪か無罪かの結論はともかく、説得力を持つ理由付けを付した未来につながる判決が出されるのが望ましい。注目に値する。

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    元オウム菊地直子被告が無罪確定なら犯人蔵匿で有罪の同居人はどうなる?

     オウム真理教による1995年5月の東京都庁郵便物爆発事件で、爆薬の原料を運んだとして殺人未遂等幇助(ほうじょ)罪に問われた菊地直子被告に対し、東京高裁(第二審)は先月27日、一審の有罪判決を覆して無罪を言い渡しました。検察側は今月9日に上告しましたが、上告棄却となった場合は無罪が確定します。この場合、菊地被告をかくまったとして有罪判決が下された高橋寛人元被告の罪の扱いはいったいどうなるでしょうか?高裁の無罪判決が破棄される可能性は? 菊地被告の起訴内容は、「山梨県内の教団施設から都内のアジトに爆薬の原料となる薬品を運び、爆発物の製造を手助けした」というものです。元教団幹部らが薬品から小包爆弾を製造して都庁に郵送。知事秘書室で爆発させ、都庁職員が重傷を負いました。報道などによると、裁判の焦点は「菊地被告が、爆発物の製造をすると知りながら、その原料となる薬品を運んだかどうか」にあるようです。この認識に対して、井上嘉浩死刑囚は「テロの計画を菊地被告は理解していると思った」などと証言していますが、一審と二審の判決の違いは、この井上証言の評価が分かれた結果と見る向きが多いのです。 元検察官で若狭・高橋法律事務所の坂根義範弁護士はまず今回の判決について、「判決書を見ておらず、詳しい証拠関係を知っている訳ではないので、一審二審それぞれの判決に対し、妥当不当といえる立場ではありません。しかし、両方ありうる判決であったと思います」と感想を述べています。そのうえで、上告については「今後、検察が提出する上告趣意書を見なければ判断できないが、二審(高裁)判決が破棄される可能性は『五分五分だ』」といいます 坂根弁護士は「報道によると、井上死刑囚の証言の信用性がかなり焦点になっているようです。井上証言、つまりこの証拠の評価が一審と二審で分かれた結果が判決に影響しました。証拠から導かれる『菊地被告人の認識』という事実認定に関して、重大な事実誤認があったといえるかどうかが鍵ですね」と指摘します。そのうえで、二審(高裁)判決破棄の可能性については、「二審判決の無罪理由を導く論理性や経験則などが、明らかにおかしいと言うに値する、説得力のある上告理由が書けたかにかかっています」と話しました。菊地被告が無罪の場合、犯人蔵匿罪は成立する?菊地被告が無罪の場合、犯人蔵匿罪は成立する? 菊地被告は平成7(1995)年5月に地下鉄サリン事件(不起訴処分)での殺人・殺人未遂容疑で、警察庁から特別指名手配されました。高橋寛人元被告は、特別指名手配犯の菊地被告と認識しながら同居し、かくまったとして犯人蔵匿(ぞうとく)罪に問われ、懲役1年6月、執行猶予5年が言い渡されています。ここで問題となるのが、無罪の人をかくまっても犯人蔵匿罪が成立するのかという点です。菊地直子元信者が潜伏していた相模原市緑区の住宅=11月27日夜 刑法第103条(犯人隠匿等)では、「罰金以上の刑に当たる罪を犯した者又は拘禁中に逃走した者を蔵匿し、又は隠避させた者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する」と規定しています。文理解釈すると、罰金以上の刑に当たる罪を犯した者、つまり犯人をかくまうと蔵匿罪が成立するということです。これを素直に反対解釈すれば、真犯人でない者をかくまった場合は罪にならないと解釈できます。 しかし、坂根弁護士は「このように解釈する学説もありますが、判例では採用していません。『罪を犯した者』には真犯人だけでなく、犯罪の嫌疑を受けて捜査または訴追されている者も含みます」と話し、その理由を説明します。「刑法第7章103条の保護法益からの観点です。立法趣旨は『刑事司法の作用を害する罪を罰する』ということです」。 本件では、菊地被告が警察の捜査対象(特別指名手配)になっているという客観的事実があるのにも関わらず、かくまっていました。結果的に真犯人ではなくても、少なくとも警察が容疑者を取り調べる機会を妨害したという意味で、刑事司法の作用を害していることになるのです。 さらに坂根弁護士は「指名手配犯が真犯人でなければ、取り調べや証拠調べの段階で無実だと分かる可能性もあります。(指名手配犯を隠すことで)その機会を警察が奪われてしまうと、真犯人へ捜査の目が向かなくなります。このように捜査をかく乱することにもなるので、真犯人でない者をかくまっても大きな意味では刑事司法を阻害していると解釈できます」と述べ、現状の法の運用を紹介しました。 実務的な理由として、「司法の円滑な運営」という趣旨もあるようです。「犯人蔵匿罪は真犯人の場合しか成立しない」となると、犯人とされる被告の裁判が終わるまで蔵匿罪の判決が下せないという事態が起こります。さらに、日本では仮に真犯人であっても、起訴猶予などの不起訴で終わる場合も多いので、「真犯人の成否が裁判で確定しないと犯人蔵蔵匿罪の成否を決められない」のは、いろいろと不都合があるようです。 東京高検は今回の高裁判決を不服として最高裁に上告しましたが、菊地被告の無罪が確定しても、高橋元被告の判決は覆らないようです。(ライター・重野真)

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    「最高裁、裁判員制度をやめますか?」の問いは論理の飛躍だ

    定され、無罪判決が下されました。 菊地直子被告、逆転無罪判決で釈放される オウム真理教の都庁小包爆発事件強盗傷害事件を想定して行われた、裁判員選任 手続きから判決までを再現した裁判員裁判の 模擬裁判。2013年5月23日、栃木県・宇都宮地裁 この判決に対しては、市民感覚を刑事裁判に反映させるための裁判員裁判なのに、それが高裁でプロの裁判官に否定されるとは裁判員制度そのものを否定するに等しいといった極端な意見が見られます。もちろん、この裁判では証拠の評価が中心的な問題であることは事実ですが、しかし、その前に裁判員裁判の評決の仕組みについて確認しておく必要があると思います。 裁判員裁判は、プロの裁判官3名と市民裁判員6名で裁判が行われます。そして、判決は多数決ですが、「裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見によ」らなければならない(裁判員法67条1項)とされており、単純多数決ではなく、条件付き多数決の仕組みがとられています。 したがって、意見が分かれたにもかかわらず有罪の結論とするためには、有罪の多数意見に少なくとも1名のプロの裁判官の意見が含まれている必要がありますので、(有罪の意見)プロ1名+市民4名=5名(無罪の意見)プロ2名+市民2名=4名の場合や、(有罪の意見)プロ1名+市民5名=6名(無罪の意見)プロ2名+市民1名=3名の場合、または、(有罪の意見)プロ1名+市民6名=7名(無罪の意見)プロ2名の場合は〈有罪〉となります。 このような条件付き多数決の仕組みは、刑事裁判の鉄則である「疑わしきは被告人の利益に」、つまり、有罪か無罪かが疑わしい場合には無罪という判断を下さなければならないという原則を保障するためです。だから、極端な場合ですが、(有罪の意見)市民6名(無罪の意見)プロ3名の場合は、いくら市民裁判員全員が有罪だと思っても、その判断はかたよっているということになり、市民感覚だけでの単純多数決原理で有罪とすることだけは避けて、慎重に判断して有罪の心証に至らなかった場合として〈無罪〉としようということなのです。 そして、このような評決の数については、評議において出された意見や内容とともに、「評議の秘密」(裁判員法70条1項)として守秘義務が課されていますので、菊池直子被告の第一審判決のときの評議が具体的にどのようなものであったのかは推測するしかなく、あくまでも仮定の話ですが、上のようにプロの裁判官の判断が分かれていた可能性も否定できないのです。 だとすると、プロの裁判官だけで構成されている高裁も判決は多数決ですので、一審二審を通じてプロの裁判官の判断としては、本件では「合理的な疑いを超える程度の有罪の証明」がなされておらず、有罪の確信に至ることができないケースと判断された可能性も否定できないのです。したがって、一審の裁判員裁判がプロの裁判官が行う控訴審で否定されたからといって、ただちに「最高裁、裁判員制度をやめますか?」と問うことには論理の飛躍があると言わざるをえません。(了)[証拠の評価について参考となる意見]元東京高裁部総括判事 木谷明弁護士の話元東京地検検事 落合洋司弁護士の話(Yahoo!個人より2015年12月4日掲載分を転載)

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    「走る爆弾娘」というレッテルに踊らされた20年の空白 

    京高裁が地裁判決(懲役5年)をくつがえし、無罪判決としたことが、さまざまな議論をよんでいる。「サリン事件にはかかわっていなかったにしても、都庁爆破事件で被害者がいるのだから、判決はおかしい」という意見は、その代表的なもので、俗耳に入りやすいものである。爆発物の材料を運んだのだから、危険な薬物だと知らなかったとしても責任があるというのだ。感情的にはそう判断されてとしてもおかしくない。オウム事件当時はまだこどもだった記者もいるほど、地下鉄サリン事件から20年という時間は、風化を生むだけの流れである。菊地被告についての当時の報道で、もっとも印象に残っているのは「走る爆弾娘」だ。第12回大阪国際女子マラソンで206位でゴールする 菊地直子(オウム真理教) =1993年1月31日、長居陸上競技場 なぜこんなレッテルが貼られたのか。それは被告がオウム教団のなかでマラソンランナーであったことと、オウム事件が結びつけられたからである。菊地被告は地下鉄サリン事件やVX事件でも指名手配されていた。逮捕まで17年間も逃走を続けていたのだから、自分でも犯罪にかかわっていることをと自覚していたはずだと世間の多くは思っていただろう。だがオウム裁判を振り返れば、菊地被告が凶悪事件にかかわっってはいなかったことがわかる。菊地被告についてはほとんど言及されていないのだ。サリン事件とVX事件では不起訴。起訴された都庁爆破事件の裁判でも中川智正死刑囚が、被告に専門的な化学知識はなかったと証言している。 教団末端信者であった菊地被告は、なぜに17年間も逃走を続けたのか。おそらく「こわかった」のだろう。自分は関与していないのに、地下鉄サリン事件やVX事件などで指名手配をされていたから、逮捕されたなら罪を着せられるのではないかと思ったのではないか。平田信被告が逃走を続けたのも、警察庁長官銃撃事件の犯人にされるという恐れがあったという。菊地被告の場合は、さらに加えて離れたくない男性がいたことも、出頭をためらわせた理由だと思う。凶悪組織だとはいえ、事件にかかわった信者はそう多くはない。そのなかでも事件を起こした信者と接点があったゆえに菊地被告に捜査の手が及んだ。 ここで高裁判断および検察による上告理由となったひとりの信者のことを想起する。井上嘉浩死刑囚である。ここで少し個人的な経験を紹介させていただく。井上という人物についてである。高校時代に信者となり、大学を中退して出家、教団のなかで「天才的修行者」と評価され、「諜報省」責任者として、数々の謀略事件を起こしている。地下鉄サリン事件が起きてから、私はある縁から井上のご両親と会うことになる。とくに父親とはなんども接触が続いた。井上が逮捕されてから書いた詩を見せてもらっただけではない。事件周辺についての手記も書きはじめていたのである。 井上手記はノンフィクション作品を読むようで、情景がリアルかつ詳細に描かれていた。事件当事者しか知りえない「事実」を知るのだから、これほど興味深いことはなかった。いずれ単行本にするという計画もあった。ひとことでいって「読ませる」のだ。オウム裁判のピークとなった麻原彰晃(松本智津夫)死刑囚との法廷対決は、まさに圧巻だった。麻原彰晃が精神に変調をきたすきっかけでもあった。麻原彰晃と同乗したリムジンでサリン散布の謀議が行われたことを証言したのだから、教祖と事件との結びつきを示す決定的証言でもあった。 ところがそれから20年近く。いまでも井上証言は詳細でリアルだ。そこで素朴な疑問がわいてくる。人間の記憶とはそこまで正確なのだろうかと。たしかに人生のなかには特別な出来事が記憶に鮮明に焼き付くことがある。誰もがそうした経験があるだろう。しかし井上証言は、ストーリーとして、具体的に物語るという特徴を持っている。たとえば井上に対して菊地被告が「がんばります」と語ったことが、裁判では事件への関与として重要な意味を持っていた。しかし教団での地位を知っていれば、末端信者が指導者のひとりに語った言葉として捉えれば、ごく自然なことである。しかも井上死刑囚と菊地被告の会話が事実かどうか、誰も証言者はいない。 無罪判決を出した東京高裁は、井上証言に疑問符をつけた。検察が上告したのは、ならば高裁でも井上死刑囚に証言を求め、検証すべきだというのが理由だ。おそらく上告審でも無罪判決は揺るがないだろうと私は判断する。それは雑誌『創』に掲載された菊池手記を読んだからだ。裁判の前提となる本人の証言は重い。http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20151129-00051947/ ここでもマスコミ報道の問題点が当事者の立場から吐露されているが、事件当時に「走る爆弾娘」とレッテルを貼ったことへの反省が、いまでも見られないことに驚かされた。記者は代われど、報道精神において、この20年、体質は変わっていないことは、もっと真剣に検証されてよい。 菊地直子裁判が問うているのは、裁判員裁判における被告人に対する世間の印象であり、それを作り上げるメディアの責任でもある。ある記者が作った「走る爆弾娘」という言葉は、テレビ、新聞、週刊誌、さらにはネットでも繰り返し広く流布していった。ところがいざ逮捕されると、地下鉄サリン事件でもVX事件でも不起訴、さらに都庁爆破事件では上告されたとはいえ高裁では無罪。わたしたちの社会は、「走る爆弾娘」という壮大なる「空白」に踊らされてきたことを、恥ずべきだろう。(一部敬称略)

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    【菊地直子独占手記】私が「走る爆弾娘」と呼ばれた非日常すぎる状況

    とでした。  「えっ、そうなんですか?」 私は全国指名手配されて逃げているうちに、自分が地下鉄サリン事件で使われたサリンの生成に、なんらかの形で関与してしまったのだろうと思いこんでしまっていました。しかし、よくよく思い出してみると、指名手配になった当時は「なんで私が?」「幹部と言われている人達とたまたま一緒にいたからかなあ?」などと思っていたのです。 後になってから、「あの作業がサリンと関係していたのだろうか?」と考えてみましたが、私と一緒にその作業をしていた人は、地下鉄サリン事件では逮捕されていません。「薬事法違反」で起訴されているだけでした。「それでは何が?」と考えても他に思いつきませんでした。結局、何がサリンと関係していたのかがはっきりしないまま、私は17年も逃げ続けてしまったのです。オウム真理教地下鉄サリン事件 地下鉄日比谷線の 築地駅前の路上に設置された救護所。多数の救急車 が詰めかけ、緊迫した雰囲気に包まれた=1995年3月 20日、東京・地下鉄日比谷線築地駅前 先生に「サリンの生成には関与していないのではないか」と言われて、ようやく気付いたのです。「ああ、私はサリンの生成には関わってなかったんだ。何がサリンと関係していたのかがわからなくて当たり前だったんだ」と。 私に地下鉄サリン事件の殺人・殺人未遂容疑で逮捕状が出たのは平成7年(1995年)5月16日のことです。地下鉄サリン事件が起きたのは、同年の3月20日のことです。事件が起きた直後、教団への強制捜査がせまった為に私が林泰男さんと逃走を始めたとか、八王子市内のマンションで潜伏していたなどの報道が一部でされていますが、それは正しくありません。逮捕状が出る直前まで、私は強制捜査の行われている山梨県上九一色村のオウム真理教の施設内で普通に生活をしていました。こんな事件を教団が起こすはずがないと思っていた私は、この騒動も直に収まると考えていて、まさかその後自分に逮捕状が出るなど夢にも思っていなかったのです(逃走生活が始まってからも、しばらくの間、私は地下鉄サリン事件は教団が起こしたものではないと信じていました)。 林泰男さん達との逃走が始まったのは、逮捕状が出た直後の5月18日のことです。逮捕状が出る直前に中川智正さんに東京都内に呼び出されていた私は、5月17日に都心の某マンションに行くように中川さんから指示をされました(中川さんはその指示を出した直後に逮捕されてしまいました)。マンションに一晩泊まった次の日に林さんがやってきました。お互い相手の顔と名前は知っていましたが、話をしたことはありません。 「じゃあ、行こうか」 と林さんに声をかけられ、 「どこに行くのかな?」 と思いながら、彼と一緒にマンションを出たのが、17年にわたる逃走の始まりとなりました。  逃走が始まったばかりの頃は、突然身に覚えのないことで全国指名手配になるという、あまりにも非日常すぎる状況に、現実が現実として感じられず、まるで映画の世界の中に迷い込んでしまったかのように感じた記憶が残っています。出頭する勇気は出なかった しばらくして、TVで私が「走る爆弾娘」と呼ばれるようになりました。自分が地下鉄サリン事件で指名手配になった時もそうでしたが、全くの寝耳に水の出来事です。 上九一色村にいた時に、中川さんに頼まれて八王子のマンションに薬品を運んだことがあったのですが、それが爆弾の原材料として使われたらしいということにこの時初めて気が付きました。 「大変なことになった。じゃあ、やっぱりサリンの生成にも関わったのだろうか?」。そうは思っても、出頭する勇気は出ませんでした。「きっと『知らなかった』と言っても信じてもらえない。私は地下鉄サリン事件の犯人として裁かれてしまうんだ」。そう思いこんでしまったのです。 私は高校卒業後、18歳の時にオウム真理教に出家しました。両親との関係はとても悪く、実家には絶対に戻りたくないと思っていました。一方、指名手配されて1カ月ぐらい後のことだったと思いますが、教団の「出頭するように」という呼びかけに応じなかった為、上祐史浩さんに除名処分にされてしまいました。私には帰る場所が無くなってしまったのです。これは、私がその後17年逃げ続けてしまった一つの要因にもなりました。警視庁で公開された菊地直子被告の逮捕直後の写真  紆余曲折の17年の末、私はとうとう逮捕されてしまいました。警察につかまれば暴力をふるわれてでも嘘の自白をさせられると思っていた私は、取調官の応対が思いの外、紳士的に感じられました。 「なんだ。こちらの言い分もちゃんと聞いてくれるんだ」 私の供述の都合のよい部分だけがマスコミに流されていることを知らなかった私は、不覚にもそう思ってしまいました。 しかし、その思いは突然裏切られることになりました。「地下鉄サリン事件について、まだ何も話していないじゃないか! まだ話していない事があるだろう!」 それまで穏やかだった取調官の態度が豹変し、私は怒声を浴びせられたのです。私を睨みつけるその目はまるで氷のようでした。 その瞬間、私の頭の中でいろんな思いが交錯しました。「地下鉄サリン事件についてと言われても、心当たりのありそうなものについてはもう話したのに。他に何を話せと言うのだろう?」「初日に『知らなかった』と話した時は信じてくれているように見えたのに」「『知らなかった』のだから、何が地下鉄サリン事件と関係があるかなんてわからないのに」「やっぱり信じてもらえないんだ」「17年間、『どうせわかってもらえない』と思っていたのは正しかった」「少しでも『わかってもらえるかも』と期待した私が馬鹿だった」……。 私は取調官に心を開きかけていたことを後悔しました。そしてこう言ったのです。 「『何も話していない』と言うのなら、もう本当に何も話しません」 そして二度と言葉を発することはありませんでした。 結局、私は地下鉄サリン事件では処分保留となり、起訴される事はありませんでした。続いて逮捕されたVX殺人事件でも処分保留になりました(この事件については、自分に逮捕状が出ていることすら知りませんでした)。そして、最後に逮捕された都庁小包爆弾事件で起訴されたのです。  起訴されて、湾岸署の留置所から東京拘置所に移った後、私は弁護人の先生が言っていた事が正しかったと知ることになりました。関係者の膨大な供述調書と裁判調書が差し入れられたからです。どのぐらい膨大な量かというと、ファイルにとじて30センチぐらいに平積みしたものが7山です。しかも、これは表と裏にそれぞれ調書4ページ分を縮小コピーしているので、実際には8倍の量です。つまり全部積み上げると、16・8mもの分量ということになります。このうち私の事に触れられているのはほんの一部なのですが、関係者の全ての調書を検察に開示請求したところ、このような量になってしまったのです。これらの調書から、私がサリン生成に関わっていないのは明らかでした。一審での有罪判決のショックと失望 また、厚生省(当時の教団の部署名)のメンバーのうち3人(私を含めると4人)が、地下鉄サリン事件で逮捕された後に釈放されていたこともわかりました。恐らく警察は事件の早期解決を図って、証拠が揃っていない人物にまで逮捕状を出したのでしょう。この3人はすぐに逮捕された為、私のように指名手配になることもなく、釈放されたことも大きく報道されていなかったので(もしくは全く報道されなかったのかもしれません)、私はその事に全く気付かなかったのです。もし気付けていれば、自分がサリン生成に関わっていなかったことにも気付けたかもしれません。 しかし、全ては後の祭りでした。「どうすることもできない」と私はあきらめてしまっていました。> 逮捕されて約2年後の昨年の5月、私の裁判(都庁小包爆弾事件)が始まりました。この裁判の一審では、私が教団内でどのような活動をしていたのかが詳細に審理されました。つまり私がサリン生成に関与していないということが明らかにされたのです。そして同年6月30日、私は懲役5年の有罪判決を受けました。起訴時の罪名は爆発物取締罰則違反ほう助と殺人未遂ほう助でしたが、爆発物を製造し使用することについては認識が認められず、ほう助罪は成立しないとされ、殺人未遂ほう助のみが認定されました。私はこれを不服として即日控訴しました。 この一審の有罪判決直後に、私はある報道を知ることになり、自分が今だに地下鉄サリン事件の犯人であると世間から認識されていることに気付きました。私は狐につままれたように感じました。私は地下鉄サリン事件では起訴されていません。加えて、サリン生成には関与していないことが裁判で明らかになったばかりです。傍聴席にはマスコミの専用席が設けられており、その席が割り当てられた司法記者クラブの人達は、私の裁判を通しで傍聴しているはずです。であるのにかかわらず、なぜ私が地下鉄サリン事件に関わったかのような報道が、その裁判の直後に流れるのでしょう。 裁判で有罪判決が下されたことのショックに加え、私はただただ失望を感じることしかできませんでした。 控訴審の準備を進めていた昨年の終わり頃、私は創出版・篠田編集長の『生涯編集者』という本を拘置所内から購入しました。その中に「ロス疑惑」で有名になった故・三浦和義さんの記事が載っていました。なんと彼はマスコミ相手に約500件もの裁判を起こし、そのほとんどに勝訴したというのです。初めてこれを読んだ時、「ふ~ん、すごいね」とは思いましたが、他人事でした。自分にこんなことができるとは想像できなかったのです。 ちょうどその頃、私は両親との関係に悩んでいました。両親は定期的に面会に来てくれていましたが、私には両親が自分をコントロールしようとしているようにしか感じられず、面会の度に強い恐怖を感じていたのです。「いったい何がこんなに恐怖なのだろう?」 この状態から抜け出したくて、私は幼少期の体験まで思い起こして、必死にその原因を探ろうとしました。そしてやっと、無意識的にある思考パターンに陥っていることに気付いたのです。そのパターンとは、「話してもどうせわかってもらえない」「わかってもらえなくて傷付くだけ」、だから「最初から話さない」、もしくは「一度話してだめだったらすぐにあきらめてしまう」というものでした。 そのことに気付いた時、私は初めて、傷つくことを恐れずに自分の思っている事を相手に伝えようと思いました。そう決意して面会したところ、それまでは全く伝わらなかったこちらの意思がすんなりと相手に伝わったのです。それは劇的な変化で、いったい何が起きたのかと呆然としてしまったほどです。 この時、伝わらなくて困っていたのは「週刊誌は読まないから差し入れないでほしい」という些細な内容でした(私の記事が載っていたわけではないのですが、読みたくなかったのです)。「入れないで」と言っているのに、「外の情報がわかった方がいいから」と親が差し入れをやめてくれなかったのです。しかし、私がそれをうまく断れないのは、「断ると相手に悪いから」という相手を思いやる気持ちから来るのではなく、「自分が傷付きたくない」という理由でしかなかったことに気付いたとたん、状況が一変したのでした。これ以降、親に対して「伝わらない」と感じることがどんどん少なくなっていきました。私にも三浦和義さんと同じことができるのではないか この体験を機に、私の中で世界の見え方が徐々に変化していきました。この世の現実というのは、心が作り出しているのではないかと思うようになったのです。親との関係で言えば、「親にわかってもらえない」という現実が先にあるのではなく、「傷付きたくない」「どうせわかってもらえない」という否定的な想念が先にあり、その想念が心に壁を作り、その壁が言葉を遮断し、言葉を発しているのにもかかわらず「伝わらない」という現実を生み出していたのではないかと思ったのです。 そこで初めて、私にも三浦和義さんと同じことができるのではないかという思いが湧いてきたのです。三浦さんの著書『弁護士いらず』(太田出版/現在絶版)には、「きちんと話せばきっと理解してくれる、という思いがあった」など肯定的な言葉が何度も出てきます。「私と正反対の考えで生きている人だったんだなあ。きっとこの信念こそが高い勝訴率を生み出した原因に違いない。私はずっと『どうせわかってもらえない』と思いこんでいた。その思いこみが、犯人とされることに甘んじる結果につながっていたのではないか。このままでは誰も真実を報道してくれない。だったら自分から声を上げよう。必ずわかってもらえると信じた上で、きちんと説明すれば、きっと今の現実を変えることができる。その過程で傷付くことがあったとしても、それでもかまわない」 私は次第にそう思うようになったのです。 私はそれまで、マスコミに対する極度の不信感から、徹底的に自分の報道から目を背けてきました。弁護士の先生との会話で自然に入ってきてしまうものはありましたが、特に週刊誌や新聞など紙媒体のものは、逃走中も含めてほとんど目にしていないのです。 私は初めてこれらと真正面から向き合う決意をしました。今までの自分の報道に全て目を通そうと考えたのです。そしてもし間違った報道があったならば、きちんと抗議をし、それでも間違いを認めてもらえないならば、法廷という公の場で第三者にきちんと判断をしてもらおう。そう思ったのです。 果たして裁判官が公正な判断をしてくれるだろうかという不安はありましたが、「最初から100%の結果が出なくてもいい。最初は10%か20%ぐらいしか伝わらなかったとしても、あきらめなければきっと伝わる。それに、何も行動を起こさなければ0%だけど、10%でも20%でも伝われば意味がある」と思ったのです。それは、自分の刑事裁判の体験から生じた思いでもありました。判決は「有罪」でしたが、裁判を傍聴していた(面識のない)方から、「本当に知らなかったんだなと思った」「(私の)証言に説得力があった」等のお手紙を頂いていたのです。 「裁判官には伝わらなかったけど、一部の人達には確実に伝わったんだ」 この体験は、「どうせわかってもらえない」と感じたことについては、最初から話さない癖のある私にとって、大きな成功体験になったのです。『週刊新潮』『週刊文春』『週刊実話』に送った内容証明 私はまず最初に週刊誌の記事を集め始めました。案の定、事実無根の記事ばかりでした。想定していたとはいえ、あまりにもひどい内容に意気消沈しましたが、気を取り直し、その中でも特にひどかった『週刊新潮』『週刊文春』『週刊実話』の三誌に内容証明郵便を送りました。 いち早く回答が返ってきたのは『週刊新潮』でした。その回答書の内容は抗議した記事の内容以上にひどいものでした。私はサリン生成に関わったと断定する記事を載せられたことと、最高で無期懲役もあり得るなどという量刑予想を載せられたことについて主に抗議をしたのですが、『週刊新潮』は、「サリン製造に関わった」と表現することには何ら問題がないと主張し、その根拠として、「(私が)土谷正実実さん率いる第二厚生省に移った事」と「第二厚生省の拠点である『クシティガルバ棟』でサリンが製造された事」を挙げてきました。そして、サリンがクシティガルバ棟で製造された事は、過去のいくつかのオウム裁判で事実として認定されていると主張してきたのです。 しかし、私の手元にある関係者の裁判記録では、クシティガルバ棟でサリンが生成されたのは、「93年(平成5年)12月~94年(平成6年)2月」です。これより後にクシティガルバ棟でサリンが生成されたという記録は一切ありません(95年3月に教団内でサリンが生成されたことがあったようですが、クシティガルバ棟とは別の施設でのことです)。一方、『週刊新潮』は記事の中で、「94年半ば、オウムが省庁制を定めた頃、『達成部』(私が所属していた部署名)は自然消滅。菊地は土谷正実率いる第二厚生省に移り、サリンの製造に関わるようになる」と、私が第二厚生省に移ったのは「94年半ば」だと明記しているのです。さらに回答書の中で「クシティガルバ棟は部外信者の立ち入りが禁じられた上」と書いています。サリンが作られた時期である「93年12月~94年2月」に「達成部」に所属していた私が、いったいどのようにして、部外信者の立ち入りが禁じられていた「クシティガルバ棟」で、サリン生成に関与することができたのでしょうか? 『週刊新潮』は、私が第二厚生省に移った時期については調べることができたのに、「クシティガルバ棟」でサリンが作られた時期については調べることができなかったのでしょうか? 私の手元の裁判記録では、「クシティガルバ棟」でサリンが生成されたことと、その「時期」については、セットで記録されています。『週刊新潮』がその「時期」について、裁判記録を調べはしたけれども見落としてしまったのか、それとも見たけれども見なかったことにしているのか、もしくはそもそも裁判記録など調べていなかったのかはわかりません。そのいずれであったとしても、きちんと裏付けを取らずに「(私が)サリン製造に関わった」ことを記事にしたのは明らかです。 さらに『週刊新潮』は、「小誌は貴殿が、サリン製造の認識を持って、この作業に従事していたものと確信しております」と私を犯人であると確信していると述べた上、私がこのような抗議文を送り付けてくるのは「一連のオウム事件への反省がないことの証左」だとして、私を激しく非難してきたのです。レッテルを否定することすら許されないのか 私はこれを読んでおかしいと思いました。もし私が実際にサリン生成に従事していてこのような抗議を行ったのなら、確かに「反省していない」と言われても仕方ありませんが、この件については完全な冤罪なのです。自分のやっていないことについて「やっていません」という権利すら、私にはないと『週刊新潮』は言うのでしょうか?  私はどんなに長くても、あとたった数年で外の社会に放り出されます。地下鉄サリン事件の犯人だというレッテルを貼られた上、社会でそれを否定することすら許されないとしたら、私はどのように生きていけばよいのでしょうか。私は『週刊新潮』に「お前には生きる権利がない」と言われているように感じました。 この回答書を呼んで深く傷ついた私は、声を上げて泣き出してしまいました。拘置所の職員さんが心配して声をかけてくれましたが、それに対して返事もできなかったのです。 以前の私なら「やっぱりわかってもらえない」と、ここであきらめてしまっていたでしょう。しかし、私は「あきらめない」と固く心に決めていました。こちらが冤罪であることを主張しても、相手側がきちんとした事実確認を行わないままに私を犯人だと決めつけ続けるのであれば、訴訟を起こすしかありません。 しかし、私はここで壁にぶち当たってしまいました。私は三浦さんにならって、マスコミ相手の民事訴訟を弁護士をつけずに本人訴訟という形で行おうとしていました。それが突然、あまりにも無謀なことのように思えてきたのです。抗議文を出しただけで、これだけ激しく攻撃されるのです。新潮社を訴えたとして、はたしてたった一人で最後まで闘えるのだろうか? と不安になったのです。 仮に弁護士に代理人を頼むとしたら、刑事裁判でお世話になっている先生に頼むのがベストです。他の先生に頼む場合、私がサリンの生成に関与していないことを一から説明しなくてはいけないからです。しかし、刑事裁判だけでも大変なのに民事までお願いしてよいのだろうか? 私はそう感じていて、「民事訴訟を起こすかもしれません」とは伝えていたものの、内容証明を出したことや、ひどい回答書が届いたことまでは説明していませんでした。「どうしてもあきらめたくない」という思いのもと、法律関係の本をひっくり返しながら、自ら訴状等書き上げてみましたが、どうしていいものか悩んでいるうちに数週間が経ちました。 そして、今年の5月1日のことです。弁護人の先生が飛んできました。 「菊地さんが内容証明を出したことが『週刊新潮』の記事になっているんですが……」 『週刊新潮』は、私が抗議文を出したことを、本誌の記事上でも批判してきたのです。その記事には、「届かぬ被害者の言葉」という見出しのもとに、「被害者の重い言葉を踏みにじる」などと書かれていました。私としてはそんなつもりは全くありません。事実を事実として正しく報道してもらいたかっただけなのです。私はこの記事にも大変落ちこみましたが、結果としてこれがきっかけとなり、刑事裁判でお世話になっている先生に民事訴訟の代理人となって頂ける運びとなりました。こうして私は新潮社を訴えることになったのです。

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    身内びいきの新潟日報よ、中傷ツイート記者の処分が甘すぎる

    おいて述べさせて頂くが、本件、新潟日報社の社としての責任を問う立場だ。同様に、先般の「ぱよぱよちーん事件」についてもエフセキュア社の社としての責任を問うてきた。しかしながらこれは、しばき隊として問うものではない。この点も併せて明確にしておきたい。前半においては、少し変わった論調であるが、後段においては社会的・道義的な責任を理詰めで説いている。後段まで是非、お読みください。ただ、それを述べるにあたって、私には言わねばならぬことがある。新潟日報の新本社ビル「メディアシップ」=新潟市 その大きな理由は、私が政治家であるという点に集約される。かつてのように保守活動家として言論活動を行うのであれば、私はしばき隊を軸として責めただろう。実際、横串をさして論じたほうが楽だ。話もわかりやすい。エフセキュアの件にせよ、web上でも激しいものだと分類されるだろうし、実効性の面においても高い効果を発揮したと思う。とは言え、実は、現在まで私が論じた話は、しばき隊ゆえ、という攻め方はしていない。 問うべきは、社としての責任であり、その中身は「社会的・道義的な責任」である。横串となる言葉は、コンプライアンス、CSR、ガバナンスである。この点は、政治家として徹底的に追及し続けたい。それは「しばき隊」として責めることとは、大きく異なる立場だ。敗走中の彼らを、私は政治家としては責めない。社としてのみを、その責任を問い続ける。保守活動家の目線 政治家として問うべきは「社としての責任」であり、社会的・道義的な責任であることは事実だ。しかし、保守活動家として述べさせて頂くなら、しばき隊として「撃たない理由」は異なる。本心を一言で表せば「なんてことをしてくれる!」という怒りだ、しばき隊側への怒りだ。ひどい言い方になるが、勝手に沈んでる場合じゃないぞ、と。私は、彼らとの公開討論を約束していた。恥ずかしながら、健康上の理由で当時からかなり体調が悪く、結果的には入院・手術となり、これは叶わなかった。 ネット上の左派系、対峙する陣営の指揮官クラスであると私は認めてきた。さあ、今から撃ちあおう、そういうタイミングである。双方が宣戦を布告し、戦端が開かれようとしていた。イメージなるが、海戦を行うべく、駆逐艦「小坪しんや」は、決闘の海域に進出していた。敵艦隊の名は、しばき隊。だが、待てど暮せど、敵艦が来ない。途中で機雷に接触し、勝手に沈んだという。私からすれば「おい待て!!」と文句も言いたくなる。 私は、今回、しばき隊を責めない。しばきたくないからだ。リスクを背負いつつ、現場を張ってきた自負がある。経験則になるが、気分の乗らぬ案件は手を出すべきではない。これは獣のカンに近いものだし、私の美学でもある。憲法は変えるべきだと思うが、憲法を破ろうとも思っていない。よって、憲法九条をも私は順守したい。赤旗の問題を取り上げた際も、徳永克子(共産党・行橋市議)から一年以上に渡り、延々と責められたという原因がある。九条をも遵守する以上、私は撃たれてから「ちょっと考えて」撃ち返す。私は、個人としてはしばき隊に撃たれていない。撃たれていない以上、私は撃つことは許されない。 ここで相手が落ち目の時に、時流に乗って叩くことは、私の美学に反する。しかも私が撃たれていないのに、だ。大破炎上中、機関も出力が上がらない敵艦がいたとしよう、私は、やはり撃てない。ドックに入渠して頂き、しっかりと修して頂きたい。完全な状態に戻って頂き、本調子を取り戻した上で、全力の彼らと撃ちあいたいのだ。その際、当然、撃沈されるのは私なのかも知れない。それでもいい。退却中の敵艦を後ろから撃つのは、私は嫌だ。 明らかに敵陣なのだが、エールを送りたい。赤壁の戦いでも曹操は敗走したが、なんとか落ち延びた。私は、是非、落ち延びて頂きたいと思う。そして、しっかりと名を明かした上で、平場で撃ちあおう。正々堂々と、だ。私は今までそうしてきた。議員になる以前より名を明かし、住所を明示し、ロビー活動に従事してきた。今度は、こちらと同じルール、土俵でやりあいたい。 とは言え、落ち延びることも楽ではないだろう。私は撃たぬと言ったし、実害を受けていない者は撃つべきではないと主張もするが、彼らは敵も多すぎる。例えば公開されたリストに記載されていた方々。彼らは正当に撃つべき権利を有する。私はこれを止める気はない。また、リスト記載者を「守る」という部分においては、本件に介入してきた。今回も同様に、政治家として「社としての責任を問う」立場だ。事実、そうしている。 保守の追っ手を彼らは果たして振り切れるのか。赤壁の曹操と同じぐらいに、状況は厳しいだろう。だが、是非、逃げて頂きたい。関羽気取りかと(双方の陣営から)怒られそうだ。乗っているのは赤兎馬ではなく車高の低いスカイラインだが。落ち延び、体制を整え、復活して頂きたい。名を明かした、対峙する陣営のロビイストとして、誇りある指揮官として。その際には、こちらも全力で行かせていただく。私が、自らの手で沈めたいと思っていたのだ、勝手に沈むんじゃない。なんとか生き残れ、そして同じ土俵で撃ちあおう。決闘の舞台で、私は待っている。 修羅の国と福岡は揶揄される。この名が適切かは評価する立場にないが、また自ら名乗ることもどうかとは思うが、仕方ない部分もあるのかな、とは思う。私は、修羅の国から来た普通の修羅だ。新聞でも大きく報じられたため、自らの自治体の恥をさらすが、一年ほど前に行われた行橋市長選においては、対立陣営の御兄弟より実弾320発、武器庫認定を受けて大問題になった。また先の九月議会、ほんの数か月前だが、工藤会にお金を渡すためという理由で、ゼネコンより数千万の工事をゆすった事件があり、しかも市発注の事業であったため委員会での審査となった。私は、所管委員会(総務委員会)の所属であるため、当該業者の指名停止を委員として求めた。 かつては走り屋であり、ネットで言うところの「いわゆるDQN」であったことを私は公開している。九州ということで、半島系の方も多い。日常的にもめてきており、そして議員になった今も決して安全な職場ではない。こんなことを言うと、保守からもしばき隊からも怒られそうだが、しばき隊よりも遥かに激しい連中が常に目の前におり、それが私の世界観なのだ。よくないことだとは思うが、なぜか彼らの写真を見て、どことなくシンパシーすら感じてしまった。普通においしく酒でも飲めそうだ、と。私は、もっと面倒な難処理案件だらけだ。  そんなわけで、彼らが「ある程度、激しい」からと言って、だからどうしたんだと常々思っていた。私は、行橋市議としても死ぬ危険性はあると思っている、サヨクの過激派の手以外で、だ。この町で、市民の側に徹底的に立つことは、容易な覚悟ではできない。福岡では発砲事件もよくニュースになる、あれももう慣れた。少なくともしばき隊は、銃火器は使わない。だったら「話せばわかる」層だろうと、そんな風に思っていた。対峙する陣営ではあるものの、その指揮官クラスとして遇し、直接やりあいたいと、そう思っていたのだ、修羅の国から来た普通の修羅としては。これがヘイトでなくて何がヘイトか 最後になる。社としての責任だ。これは「社会的・道義的な責任」である。この点は強く追及させて頂く。一気に論調が変わるが、この点は追及する必要がある。新潟日報社の件だが、上越支社の報道部長だ。これは許されて良いものではない。 安倍首相が学校を訪問している際の写真だろうか、それをTweetする際、「美少女に迫る異常者」である。これは首相の対するヘイトだ。また稲田議員に対しては「英霊の慰安婦こと、稲田朋美!」(原文ママ)と呼び、片山議員には「片山は自分からすすんでネトウヨの慰安婦になった!」(原文ママ)と侮辱。また「高市早苗 所属政党 ナチス」(原文ママ)とtweet。高市早苗「総務大臣」の所属政党は、自由民主党です。 もちろん、これが一般人の発言であっても許されるべきではない。左派はヘイトヘイトと口癖のように言うが、これがヘイトでなくて何がヘイトなのだろうか。彼らはよく自己批判とか総括とか言うが、是非、自己批判して総括して頂きたい。 問題なのは、新潟日報社の上越支社報道部長という役にあったことであろう。これは社としての報道方針を決め得る立場と、対外的にも理解されるポジションだ。これらは新潟日報社の公式見解なのだろうか。特に現職の総務大臣に対し「所属政党ナチス」は、報道に携わる者として如何なものかと思う。 特に許せないのは、民間人に対してのTweet。以下は、子を持つ母親に向けられた発言だ。『想像しろ。お前が本能に任せて性行為した、クズみたいな男と娼婦のお前の間に生まれた薄汚いガキ!明らかに人種差別主義者の子どもであり、生きてる価値はない!最大限の尊厳を与えてやる。それは、豚のエサになることだ!』 『(前略)このブス!お前の赤ん坊は豚のえさにするんだから…。で、お前とダンナが、その豚を喜んで食べるのな。そりや美味しいよ。お前の子ども食った豚だもん!お前とダンナ?うなぎの餌。あんたの頬から胸に抜ける。目玉から肛門に抜ける(笑)』 『豚って、なんでも食うらしいよ。野菜でも、人間でも(笑)。赤ん坊は柔らかいだろうね。』 以上発言は、いずれも原文ママ、である。私も子を持つ親であるが、「新潟日報社」は、上越支社報道部長の言動に対し、どのように対応をとられるおつもりか。これを民間人に対して吐いたことは、社会的・道義的責任が追及されるべきであると、政治家として述べさせて頂く。責任は、人事処分をもって公開されるのが筋だろう。詳細:新潟日報社(上越支社報道部長)坂本秀樹氏は、パブリックに批判されるべきだ。(小坪しんやのBlog)左派の責任、メディアの責任左派の責任、メディアの責任 左派こそ、これを徹底的に糾弾すべきだ。それができぬなら、無暗に憲法がどうだ等と述べるのはやめたほうがいい。話が軽くなり、意見自体が意見として認識されなくなるからだ。これは、一般人・民間人への威圧を持っての言論弾圧としか言えず、これを自らの陣営に対しては責めることができぬとなると、何が護憲かと指摘されるからだ。憲法を護るのは結構なことだし、私自身も遵守しようと思っているが(同じく改正したいと思っているが)護憲を掲げるならば、他者の憲法で保障された自由・権利に対しても配慮すべきだ。でなければ、その旗は降ろせ。憲法がかわいそうだ。 メディアに対しても思うことがある。テレビでも報道されたという。ただし、これらの、私が紹介したTweetは報じられていない。酔って弁護士に絡んだ程度の報道であり、その実態を報じているとは言い難い。身内びいきもここまでくると、ちょっとあり得ないと思う。 私には、これを述べる「権利」がある。かつて、SEALDsの皆様へと題してシリーズを報じたところ、メディアはスクラムを組んで私を叩いてくれたな? 随分と扱いが違うじゃないか。「同じ扱い」を求めているのみだ。私には、これを言う権利がある。 三菱樹脂事件の最高裁判例を踏まえ、学生が政治活動に参加する際に気を付けるべき点をまとめたものであった。徹底的に学生側に立った書き方を心がけ、かつ判例(三権分立のため政治分野が介入できない)があることを伝え、「過激派など、反社会的勢力」との混同を避けるように訴えたものだ。安保法制の是非には触れておらず、意見の誘導も行わぬよう配慮した。 まとめサイトを始め好意的に取り上げられ、炎上はしなかった。しかしながら、結果として、取材「攻」勢が多発。東京新聞、毎日、朝日もあったかな。西日本からも取材を受けた。弁護士ドットコム(これは日弁連だろうか)、J-castなどは取材すらせず全くの誤報を足れながす。yahooのヘッドラインに掲載され大きく名誉を傷つけられた。 報道状況を見るに「私とは随分と違う」のだ。私の場合は、言ってもいないことまで書かれ(しかも意図を真逆にとられて、だ)誰も謝罪すらしなかった。新潟日報社については、言ったことすら報じていない。詳細:SEALDsは共産党や中核派と混同されても仕方ない(iRONNA) 現在の報道状況は、身内びいきが過ぎると感じる。酔って言ってしまった程度の報道では足りぬ。先ほどの、実際のTweet内容を見て、世論がこれを許すと思うのか。メディアこそは常に政治に問い続けてきたではないか。だからこそ、ネット保守論壇からも言わせて頂こう。この程度の処分、異動程度で「世論が納得するのだろうか」と。 そして冒頭の繰り返しになるが、しばき隊は落ち延びて頂き、実名での活動に出てきて頂きたい。体制を整えた上で、正面から撃ち合おう。勝手に沈むんじゃない。

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    ろくでなし子独占手記「ぱよぱよちーん」騒動の全真相

    ろくでなし子 「新潟日報上越支社の坂本報道部長による高島章弁護士へのTwitterでの誹謗中傷事件について、ご意見をお願いします」 産経デジタル担当編集Kさんからこのような依頼を受けたのは、わたしも最近、しばき隊(通称レイシストをしばき隊)の一派の方々からTwitter上で誹謗中傷の集中攻撃を受けていたからだと思います。「壇宿六(闇のキャンディーズ)」のTwitter 「闇のキャンディーズ」という匿名で、新潟水俣病第3次訴訟の弁護団長を務める高島章弁護士を「はよ弁護士の仕事辞めろ」「うるせー、このハゲ!」などと罵っていた人が新潟日報の社員であり、しかも報道部長という管理職の方だったことに、わたしは少なからず衝撃を受けました。まだ入社したての若者ならともかく、それなりに年齢を重ね、部下を指導する立場でもある人が、まるで小学生のいじめのように大はしゃぎしていた……この国は本当に大丈夫なのかと、「ろくでなし子」と名乗るわたしでさえ、愕然としました。 この件について、既に報道されている坂本記者の弁によれば、「お酒を飲んでいたから」とのことでしたが、「匿名」という隠れ蓑に甘え、日頃のストレスを文句を言えそうな相手にひたすら撒き散らす行為に、報道人としての倫理観うんぬんよりも、大人としてどうなのかという疑念は尽きません。 実はこの事件から1週間ほど前のことですが、わたしも高島弁護士と同じような状況になりました。 事の起こりは、「はすみとしこ」さんという民族差別主義的なイラストを描く漫画家に対し、はすみさんのFacebook投稿に「いいね!」を付けたおよそ300人の個ちん情報(個人情報)を集めてリスト化したものを、「闇のあざらし隊」という匿名で活動していたしばき隊関係者とみられるKという人物が作成し、はすみさんの創作活動を妨げようとしたことでした。 わたしは、そのリストを作ったことで得意気になっているK氏の投稿を、どなたかのタイムラインで目にし、いくら「レイシズム」が憎いからといってもその人や賛同者に対し「個人情報を晒すぞ!」と脅す行為は「なにかがおかしい」と感じていました。 その後、K氏がとあるITのセキュリティ会社の幹部社員だったことを逆に暴かれ、その会社が販売しているソフトに対するamazon評価が大荒れし、一企業の信頼性にまで話が発展。K氏はその責任をとって退職に追い込まれたとか…。 さらに、晒し上げに執念をかけた人達が、K氏の過去のTwitterをさかのぼり、K氏がある女性に「ぱよぱよち~ん」とハートの絵文字付きで投げかけていた投稿をおもしろおかしく取り上げ、「ぱよちん音頭」なるものまで編み出し、お祭り騒ぎとなっていました。 わたしはK氏が気の毒な反面、自業自得でもあることと、パッと見が強面の印象のK氏が「ぱよぱよち~ん」と過去につぶやいていた事実に、おもわずクスリとしてしまいました。 「ぱよぱよち~ん♪」 なんて間抜けで愉快なフレーズでしょう。口にした途端、誰もが脱力感とほっこりとした楽しい気分にとらわれるはず。 そこで、わたしはおもわず自分のTwitter上でも「ぱよちん音頭でぱよぱよち~ん♪」と無邪気につぶやいてしまいました。わたしのフォロワーさんもこの間抜けなフレーズに反応し、一緒になってぱよぱよちんちんつぶやいていたところ、突然、しばき隊関係者かその一派であろう人たちから「その言葉を使うな!」「削除しろ!」とものすごい剣幕でわたしを威嚇するリプライをしてきました。しばき隊という人たち 実はしばき隊という人たちに関して、わたしはあまりよく知りませんでした。そのうちの一人であるN氏という人物は、ネット上にアップされていた写真を拝見しましたが、金属バットに釘を打ち込んだものを振りかざしている中途半端なヤンキーのような人、という印象でした。特に怖くもなかったんですけど、大勢で寄ってたかってわたしのTwitterに誹謗中傷を浴びせてきた行為はとても異常だと感じました。 彼らはわたしが自分のタイムライン上で「ぱよぱよちんちん」とつぶやいていただけで、レイシストと認定し、「ろくでなし子が逮捕された時に署名したり支援してやったのに、裏切りやがって!」と言っていました。それでもまだ、ぱよちんツイートをやめないわたしに対し、「ゴミ、クズ、カス、死ね」。果ては、わたしが活動できなくなるよう「アート界から抹殺してやる!」と、自分たちが本来敵視するレイシストのような矛盾したつぶやきをしている人もいました。 その様なわたしへの集団攻撃は1週間ほど続いたと思います。わたしの不当逮捕に対し、支援活動をしてくださったのでしたらそれについては心から感謝いたしますが、「支援してやったんだから俺たちの言うとおりにしろ!」というのは、なにかおかしい。支援とは、そのように支配的なものなのでしょうか?(ちなみに「K氏はろくでなし子に身銭を切って支援してやったんだぞ!」という方がいたので、ならばお礼を述べねばと思い、確認のために弁護団カンパ口座の通帳記録でK氏のお名前を探しているのですが、お名前が見当たりませんので、別名義で振り込んでくださったのでしょうか? 本当にありがとうございます) これら一連の騒動は「ぱよちん騒動」と呼ばれるようになり、その一部始終を見たネットユーザーの中には「一人の女性を集団でリンチしているおぞましい光景だ」 として、わたしを気の毒がる人もいましたが、わたしはもっと別のことを2つ考えていました。 まず一つは、この光景が今回だけに限らず、Twitter上でわたしがこれまで受けてきた「炎上」パターンの典型であることです。 わたしは自由につぶやきすぎるせいか、いつもTwitterで誰かに文句を言われています。ペッパイちゃんというセクハラをテーマにしたメディアアートを作ったアーティストの市原えつこさんが炎上していた時も、「ペッパイちゃん、おもしろいじゃん。」とつぶやいていただけで、Twitterで「フェミニスト」を自称する一部の女性たちから「性暴力に加担する人」に認定されてしまいました。 ペッパイちゃんは、実物を見ればわかるように、どちらかといえばセクハラをする側(主に男性)が恥ずかしくなるような、セクハラ行為の間抜けさを可視化する装置だとわたしは思ったので、おもしろいとつぶやいたのですが、その真意も無視され、あの時もひたすら罵倒され続けました。   また、わたしを罵倒する人の中には「ろくでなし子が逮捕された時に署名してやったのに!」と、今回と同じようなつぶやきをしている方々もいました。わたしは実際に性暴力に加担する行為など一切していませんし、単にペッパイちゃんを面白がっただけなのに「性暴力に加担した!」と冷静さを失って怒り出す人たちに「集団ヒステリー的なもの」を感じ、しばき隊関係者とみられる人たちに罵倒された今回のことよりも、じんわりと怖かったです。 それと二つ目は、「ぱよぱよちーん」で怒り出す一見怖そうな男性たちが、わたしを逮捕・起訴にまで追い込んだ警察当局や検察当局の人たちととてもよく似ていることでした。彼らも「まんこ」というくだらないテーマに対し、額に青筋を立てて必死になっていました。  わたしはよく、「ガサ入れの時に10人の刑事に取り囲まれても平気だったのはたいしたもんだ」とも感心されますが、いやいやそんなことはありません。そりゃ、見知らぬ強面のおじさんたちに取り囲まれたら、誰だって怖いでしょう。 それでも、そのおじさんたちが真剣になっているのが「まんこ」…。これほど間抜けなことはありません。 なので、わたしは逮捕拘留そのものがパロディや喜劇のようでおかしくて、今でも笑いがこみ上げてしまい、警察にひどくいじめられたという認識があまりないのです。連帯した集団ヒステリーはとても恐ろしい 今回の件でも「しばき隊にいじめられているろくでなし子がかわいそう」という人もいましたが、わたしはむしろ笑うところだと思っていましたので、どうかお気遣いなさらないでください。 ただ、笑うところであったとしても、「俺たちは絶対の正義だ」と信じ、「俺たちの意に背いた者はすべて敵で悪」であるから、そいつらには「手段を選ばず何をしても構わない」と思う人たちが連帯した集団ヒステリーはとても恐ろしいものです。 彼らに共通するのは、自分のことを正しいと信じて疑わないところです。自分は「正しい」から相手の間違いを粛清するのは許される、という考え方では、敵対関係や戦争しか生まれません。 人は誰でも間違うもの。絶対に間違わない人間などいません。 間違った人を「許さない」集団の共通意識は、その人の個ちん情報(※注・個人情報)まで晒し、退職や謹慎処分に追い込むことがあります。K氏は相手を許そうとしなかったため、自分が許されない立場に追い込まれました。個ちん情報の晒し合いをして、一体誰が得をするのでしょうか? 今回の件で、「しばき隊はろくでなし子に謝罪しろ」という人まで出てきましたが、 当事者でもない人たちから、そのような謝罪要求の声が強まれば、結局集団リンチにつながり、それこそ不毛です。だからもう、やめましょうよ…。 敵対関係にある人同士のおろかな個ちん情報の晒し合いよりも、真剣に怒っていることすらどうでもよくなれる魔法の言葉をみんなで一緒につぶやきませんか? ア、ソーレ、右も左も ぱよぱよちーん♪ あなたもわたしも ぱよぱよちーん♪♪♪

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    10分で読める、日本の暴力団の基礎知識

    園田寿(甲南大学法科大学院教授、弁護士)暴力団の歴史 「暴力団」という言葉は、法律上は、「その団体の構成員(その団体の構成団体の構成員を含む。)が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体」(暴力団対策法第2条第3号)と定義されていますが、一般には、いわゆるヤクザ(博徒・ばくと)集団と同様の意味で使われてきました。 ヤクザ組織自体は歴史的には古く、江戸時代後期にまで遡ることができます。現代でも、構成員相互で親分・子分・兄弟分の縁(擬制血縁関係)を結び、江戸時代の任侠道やヤクザ道などを標榜している団体も多く、断指や入れ墨、仁義など裏社会にのみ通用する独特の副次文化が残っており、しかもそれらの一部がいわば表の文化の一部をなしている場合もあります(日常生活で普通に「親分・子分」や「仁義」といった言葉が使用されることがあります)。暴力団のこのような特殊な精神構造からも、その問題の根はかなり深いといえます。 暴力団は、社会経済情勢の変化に伴って、その組織や活動形態を変化させてきました。 昭和20年代は、終戦直後の社会的混乱から、それまでに存在していた博徒・的屋(てきや)といった集団にさらに愚連隊と呼ばれる青少年不良集団が加わり、闇市等の利権を巡って対立抗争がくりかえされました。山口組総本部に入る車両。大勢の報道陣が集まった=9月1日、神戸市灘区 昭和20年代後半になり、社会的経済的秩序が回復するとともに、弱小の団体が淘汰され、暴力集団の再編が始まります。それまでは活動形態や収入源によって区別されていた暴力集団が、覚せい剤や芸能興行など、大きな利益を生む新たな利権に群がるようになり、各種の暴力集団の境界があいまいになっていきました。「暴力団」という呼称が社会に定着したのもこの頃でした。 昭和30年代後半になると、さらに暴力団の淘汰が進み、他団体との抗争において優位に立った一部の暴力団が、その組織力と安定した資金源を背景に地方に進出するようになり、その過程において大規模な抗争を繰り返し、弱小の団体をさらに吸収してその勢力を一層拡大していきます。 昭和40年代になると、暴力団に対する社会的関心も強くなり、警察の集中取締まり(頂上作戦)が展開され、首領・幹部を含む構成員が大量に検挙されましたが、昭和40年代後半には、服役していた彼らが相次いで出所し、組織の復活・再編が図られました。しかし、警察の取締まりが強化された結果、非合法的資金源にのみ依存していた中小の暴力団は壊滅的打撃を受けたものの、傘下団体からの上納金制度を確立した大規模な暴力団は、中小暴力団を吸収し、さらに大規模な広域暴力団へと組織化・系列化が進みました。 昭和50年代、暴力団の寡占化傾向が一層進み、一部暴力団は海外にその活動の場を求めていきました。また、「企業舎弟」や「経済ヤクザ」といった新しい言葉も生まれています。企業舎弟とは、「暴力団の影響下にあって企業の形をとって活動するメンバー又は組織」のことであり、表面的には合法的企業活動を行いながら、裏で暴力団幹部と結びつき、暴力団を資金面で支える存在となっています。また、経済ヤクザとは、非合法活動で巨額の利益を得た暴力団が、合法的企業を装い組織化された経済犯罪を行う集団のことです。これらは従来の「暴力団」という言葉ではとらえきれない面をもっており、暴力団の変貌した姿が新たな問題となっています。暴力団の推定年間収入は1兆数千億円、その大半は非合法手段によるものだと言われています。 平成以降、暴力団対策法(暴対法)(後述)が平成4年に施行され、暴力団対策は新たな時代を迎えます。暴対法とは、各都道府県の公安委員会が指定した暴力団(指定暴力団)を対象とし、その構成員による金銭や業務発注など不当要求を禁止する法律です。これにより、指定暴力団員がその所属する指定暴力団等の威力を示して行う不当な行為(27類型)が禁止され、それまで対処が困難であった民事介入暴力の取締りが効果的に行えるようになりました。公安委員会は、暴力団対策法に違反した指定暴力団等に対して、中止命令や再発防止命令を出し、その行為を中止させています。 この命令は行政命令ですが、命令に違反すると刑罰の対象となります。暴力団の現状暴力団の現状 平成25年末における暴力団員の数は、約58,600人であり、このうち2つ以上の都道府県にわたって組織を有する広域暴力団で、警察庁が集中取締りの対象としている(旧)山口組・稲川会・住吉会の3団体に所属する暴力団勢力(構成員および準構成員)は約42,300人であり、暴力団勢力全体の約7割にも及んでいます。この数字からも、とくに大規模な広域暴力団による寡占化の傾向が進んでいることが分かります。指定暴力団山口組総本部に家宅捜索に入る捜査員ら=10月2日午後、神戸市灘区 暴力団勢力が全検挙人員中に占める比率は、驚くほど高く、主要刑法犯に関しては、脅迫(25.09%)、賭博(40.6%)、恐喝(42.3%)、傷害(11.9%)、殺人(13.1%)等となっており、特別法犯に関しては、競馬法違反(50.0%)、自転車競技法違反(82.4%)、覚せい剤取締法違反(56.1%)、児童福祉法違反(24.6%)、職業安定法違反(40.2%)、売春防止法違反(31.8%)、麻薬取締法違反(31.8%)、大麻取締法違反(30.1%)等となっています(平成26版犯罪白書)。このような数字からは、まさに暴力団がわが国の犯罪の主要な供給源となっているといえるでしょう。 組織暴力団員による犯罪は、以前は暴力的な犯罪が大部分を占めていましたが、最近ではこの種の犯罪は一般に減少する傾向にあり、覚せい剤や麻薬等の非合法な物品の販売、あるいは売春や賭博、のみ行為等の非合法なサービスの提供に変わってきています(ただし、彼らの行為から暴力的要素がなくなったわけではありません)。さらに、政治活動や社会運動を仮装して企業をターゲットとして違法に利益を図る企業対象暴力事犯や、交通事故の示談、不動産をめぐるトラブルや債権取立等の市民の日常生活や経済生活に介入して、違法に利益を図る民事介入暴力事犯も重大です。 これは、この種の行為が大きな利益をもたらすこと、また、暴力団の周辺にこれを利用して利益を得ている国民層が存在すること、さらにこれらの犯罪が顧客の需要があって始めて成り立つものであり、被害が発生しにくく、発覚もしにくいといったような事情があるからです。このため、各集団が同じ利益に群がろうとする結果、暴力団同士の資金源をめぐる抗争の原因にもなります。組織暴力犯罪の対策および暴力団対策法組織暴力犯罪の対策および暴力団対策法 暴力団犯罪の対策として最も困難なことは、暴力団組織の内部においては、犯罪を重ねることによってその者の組織内での地位が上昇するという、犯罪促進的な秩序が出来上がっていることです。受刑による一般社会生活上の不利益・不名誉は、彼らにとってそれほど重大な問題とはなりません。しかし、暴力団構成員とくに首領・幹部の検挙が組織自体には大きな痛手となるのは明らかですから、警察による継続的な取締まりが暴力団犯罪に対する有効な対策であることは明らかです。また、組織自体の存続基盤を揺るがせるためには、資金源の根絶と構成員の補充を絶つことも必要です。 戦後における暴力団犯罪に対する主要な法規制としては、暴行罪・脅迫罪の法定刑の引き上げ、暴行罪の非親告罪化、証人威迫罪の新設、凶器準備集合罪の新設、銃砲刀剣類等所持取締法の制定、暴力行為等処罰に関する法律の部分的な刑の引き上げなどがあります。これらの法規制は、一定の効果をもたらしましたが、必ずしも十分なものとはありませんでした。それは、従来から暴力団の主要な資金源として、寄付・用心棒代・不当融資・示談介入・債権取立などがあり、彼らはこれらの行為を行うに際して、直接暴力を行使するよりも、表面的には穏やかな交渉や取引の形をとって行っていたために、それらを明確に犯罪行為としてとらえにくかったからであす。 さらに、暴力団の寡占化傾向が進み、暴力団が強大になってくると、彼らは「○○組」といった暴力団の名前を告げるだけで相手方を威嚇することができ、明確に脅迫や恐喝等の犯罪にならない方法で資金獲得活動を行うことがより容易になったのです。また、巨大な組織ほど下部組織からの上納金が多く、上部組織は自らの手を汚すことなく、莫大な利益を手にすることもできます。 そこで、このようないわば灰色ゾーンにある行為を禁止の対象とし、暴力団の資金源を根元から絶つ必要があること、また暴力団員の離脱を促進するような援助を行う必要があることなどから、平成4年3月に「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」(いわゆる暴力団対策法)が施行されたのでした。 暴力団対策法の基本的な構造は、次のようなものです。 すべての暴力団を規制対象とするのではなく、特定の暴力団を指定し(指定暴力団)、その暴力団員(指定暴力団員)に対して必要な規制を行います。 指定暴力団員が指定暴力団等の威力を示して行う、不当寄付金要求行為や不当地上げ行為、利得示談介入行為などの典型的な不当要求行為を禁止します。さらに、指定暴力団員による指定暴力団等の加入勧誘行為、指定暴力団の事務所等において付近住民に不安を与えるような一定の行為を禁止します。 上記の禁止行為には措置命令を発することが可能であり、さらに対立抗争時には指定暴力団事務所の使用制限を命じることもでき、これらの命令違反に対しては罰則が設けられています。暴力団対策法で禁止されている27の行為 平成26年末時点の全国の暴力団構成員と準構成員は、暴力団対策法施行後で最少となっています(平成27年版警察白書)。取り締まりの強化や暴力団排除活動の高まりによって、組織からの離脱が進んだと考えられます。しかし、他方で、暴力団に属さないグループによる不透明な資金活動が目立っており、資金獲得のための非合法な活動がいっそう巧妙化するおそれもあります。(了)(Yahoo!個人より転載)

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    山口組動乱、テロと化した近代ヤクザ

    日本最大の暴力団、山口組が分裂し、各地で抗争とみられる事件やトラブルが相次いでいる。警察当局は抗争の激化を食い止めようと徹底攻勢に打って出るが、テロ活動にも似た水面下での動きが絶えることはない。かつての抗争とは一線を画す近代ヤクザの「戦争」はどこへ向かうのか。

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    山口組分裂の衝撃とヤクザ社会の変貌

    前10時27分、神戸市中央区 神戸芸能社が日本の芸能界を席巻するのは1952年に発生した鶴田浩二襲撃事件が一つのきっかけである。鶴田は映画俳優としてデビューして以来、人気が急上昇、休暇をとる暇がないほどだった。マネージャーが鶴田の大阪公演に際し、田岡組長宅にあいさつに出向いたとき、田岡組長を激怒させる行為があった。それが原因で鶴田浩二は宿泊中の大阪の旅館で山口組の数人に襲撃された。 この事件は芸能界を震撼させ、以後山口組は日本の芸能界を席巻することになるのである。神戸芸能社は業界一のギャラを支払うということもあって、芸能人の多くが自ら出演依頼を願い出るというケースが増えた。 ヤクザ組織は儲けが確実な売れっ子芸能人の自前の公演をどうしてもやりたい。田岡組長はそこを狙って神戸芸能社が扱うタレントを巧妙に利用して地方のヤクザを影響下に引き込んでいく。もう一つの勢力拡張策はいうまでもなく、“ムチ”だ。敵対してくる組織は容赦なく踏み潰していった。1970年代半ば以前のヤクザの抗争事件で山口組の関係していないものはないほどである。阪神・淡路大震災でヘリも活用阪神・淡路大震災でヘリも活用、大規模な救援活動を展開 日本ヤクザと海外マフィアには決定的な違いがある。 それは日本のヤクザが街中に堂々と事務所を構え、代紋と組の名を掲げた看板を出し、地元に深く根を下ろしていることだ。さらに特筆すべきことは、日本のヤクザは大災害が起きたときには率先して組の総力を挙げて救援活動に乗り出す伝統がある。利益を上げるには手段を選ばないマフィアにはそういう習慣はない。 阪神・淡路大震災(1995年)に例を取ろう。震災直後に救援活動に乗り出したのは山口組であった。私は情報を得てすぐに山口組に連絡を取った。応対に出た幹部には「どうせ売名行為といわれるだけだから、救援活動のことは書かないでほしい」と断られた。そこで私は「どこも無視して書かないのだから、私に書かせてほしい」と粘って、やっと了解を取った。 私は取材の趣旨を説明した文書を作り、全直系組長宛てに送付し、救援活動についての詳細な回答を求めた。そしてその回答を見て、驚嘆した。救援物資については米や食料、衣類はもちろんのこと、乳児用のミルク、おむつ(年齢別に選別)、女性の下着、生理用品のほか、ほとんどあらゆる日用雑貨百種類以上にものぼった。それも細部にまで配慮が行き届いていた。女性の衣類や下着、生理用品については、なんと組員の妻や姉妹に「年齢別に何が一番いいか」を問いただして、品物を選んでいたのだ。 大災害では道路が陥没したり破壊されることが多い。そういうところは救援物資を積み込んだトラックは通行できない。山口組はその難関をどう解決したか。ヘリコプターを飛ばしたのである。上空から地上を走るトラックに「次の交差点は左の道が陥没している。右の道を通行せよ」というふうに指示を出したのだ。おかげで救援物資は被災地にどこの救援隊よりも早く届けられた。それらの救援活動にはざっと11億円を要したという。 このヤクザの救援活動を日本のマスコミはまったく無視した。警察情報の垂れ流しがお得意の日本のマスコミは、ヤクザの“義挙”は一切報じないのである。ある全国紙が小さく遠慮がちに「イギリスの大手紙がヤクザの救援活動を伝えた」と報じたのにはあきれるより、笑ってしまった。激しい抗争は起こり得ない状況 さて分裂した6代目山口組と神戸山口組は今後どういう行動をとるのか。かつての「山一抗争」(多くの死傷者を出した1984年4代目襲名をめぐる山口組と一和会の抗争)のように、骨肉相食む抗争には絶対にならない。このことは分裂後、長野県で死者が出る事件が起こったが、「個人的な問題」として双方が冷静に対処した一件や、秋田、富山、名古屋でのトラブルも抗争には至っていないことを見ても明らかである。 その背景には「暴力団対策法」の5度にもわたる改正強化、各自治体による暴力排除条例の施行があり、末端組織の犯罪でも組織トップの使用者責任が問われる強硬策が効果を挙げていることは間違いない。 双方の活動状況を見ると、神戸山口組の活動がやや目立つようである。その一つは直系組長の会費の問題だ。5代目山口組時代は65万円、一時約100万円になったが、6代目の現在は再び65万円に引き下げられている。5代目時代は直系組長の数が多かったので組運営も楽だったようだが、6代目になってその数が減ったので、組運営はぎりぎりらしい。 神戸山口組の会費は経費込みで40万円前後だと噂されている。あくまでも噂であって、正確な数字はわからない。双方とも「オトを出す」(銃撃)気配はないようだが、勢力伸長には力を注いでいる。「6代目山口組」VS「神戸山口組」「6代目山口組」VS「神戸山口組」、勢力比“7対3” 水面下では6代目山口組と神戸山口組の勢力差は7対3といわれているが、最近の情報では九州地区で神戸山口組に1000人が移ったという説がある。これもあくまでも噂である。 九州に本拠を置く中堅組織のある幹部に話を聞いた。 「分裂後、小さなトラブルはあったが、それ以上大きくはならなかった。マスコミは抗争が今にも起こりそうな報道をしているが、私に言わせれば、今後抗争は絶対に起きない。もし起きれば、双方のトップは総責任者として確実にもっていかれる。 最高幹部も過去の事件を掘り起こしたり、些細な罪状で拘留されるだろう。そんな事態になれば組はがたがたになる。これまでは大手組織が分裂したりすると周囲が緊張してざわついたが、今回の分裂はみんな冷静に見守っている。当たり前のことや。騒いではいかんという意見が圧倒的や。今後は二つの組織は共存共栄の道を歩むとわしは思う」ヤクザ人口激減の中で進行する“近代化” ヤクザ組織は急速に変わりつつある。これまでは本家を除籍された組織(除籍されるのは組長個人)はヤクザ社会で組としての交流ができず、孤立して消滅していくのが当たり前だった。だが今回の分裂では除籍された幹部が復帰したり、絶縁された組員が拾われたり、これまでタブーとされたヤクザ社会の戒律が公然と無視されている。さらに組長を処分されたヤクザ組織の組員に「いつでもうちに来ていいよ」と声をかける組もある。 これまでの分裂劇とはまるで違った状況がヤクザ社会に広がろうとしているのである。それは分裂や紛争が起きても、どちらの組からも独立した立場を堅持する組が続出することの予兆である。ある意味では、古い戒律を捨てるヤクザ近代化の始まりと言えるだろう。 ヤクザ人口も激減している。警察庁の調べでは2005年に86300人(準構成員を含む)だったものが、14年末には53500人に減っている。新たなワルが蔓延する社会に ただこれだけで安心はできない。ヤクザを辞めていった人間がどこに行ったかである。20年ばかり前、新宿に「破門通り」と呼ばれた一角があった。ヤクザ組織を破門、絶縁された連中の集まる場所だった。ほとんどが詐欺や恐喝、「事件仕事」(企業のもめ事や政治の抗争に介入して資金を得る)などの仕事で生きていた。ヤクザ社会を追われた人間はヤクザ以上にワルに変身していくのである。 ほかに強烈な新愚連隊が出現している。暴走族上がりの「関東連合」や中国残留孤児の2世、3世を中心に組織されている「ドラゴン」などが知られているが、名目を名乗らない数人単位のワル集団も出現している。彼らの手口は何でもありで、平気で刃物や金属バット、こん棒を使う。しかも彼らは暴対法の対象にはならない。六本木や歌舞伎町には海外マフィアもうろついている。今後はこれらの集団に対する対策が急がれる。(2015年11月記)いの・けんじ 1933年滋賀県生まれ。新聞・雑誌の記者・編集者などを経て、フリージャーナリストとして活躍中。その間、日本ジャーナリスト専門学校専任講師・評議員を務め後進の育成にもあたった。やくざ、右翼、総会屋などをテーマにした分野においては先駆者的な存在。主な著書に筑摩書房から刊行の『やくざと日本人』(1990年)、『日本の右翼』(2005年)、『山口組概論─最強組織はなぜ成立したのか』(2008年)、『テキヤと社会主義』(2015年)などがある

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    溝口敦が斬る 山口組内乱の実相

     [WEDGE REPORT]溝口 敦((ノンフィクション作家、ジャーナリスト) 山口組が8月末に分裂した。山口組としては31年前、一和会(山本広会長)が離反、分裂して以来のことである。 山口組本家(本部・神戸市)は70人余の直系組長を擁していたが、今回の分裂劇ではそのうち13人が叛旗を翻し、「神戸山口組」を別に立てた。反乱軍には組内最多の組員数を誇る山健組・井上邦雄組長(山口組の若頭補佐だった)、長らく山口組で総本部長を務めた宅見組・入江禎組長、かつて若頭補佐だった侠友会・寺岡修会長などの有名ヤクザが含まれている(山口組は8月27日、これら13人を絶縁・破門処分にした)。「俺んとこは水屋でも雑貨屋でもない」カネ集めの激しい六代目 袂を分かった主な理由は今の六代目山口組が行っているカネ集めの激しさにある。直系組長たちは毎月約100万円を月会費名目で本部に納めている。その他、本部によるミネラルウオーターや日用品の半強制的な押し付け販売もあり、直系組長である以上、最低でも毎月50万円は買うことになっている。神戸市街(iStock) たとえばミネラルウォーターである。1ケース24本入りが3120円(1本が130円の計算になる)、これを最低でも10ケースは買うという縛りを掛けていた。つまり毎月240本以上のペットボトルが各直系組に送られてくる。小売り店が仕入れるほどの量でありながら、なぜか値段は自販機並みに高い。直系組は組事務所に積み上がる水や雑貨の段ボール箱に「俺んとこは水屋でも雑貨屋でもない」と嘆息することになったわけだ。 山口組本部には直系組長たちが差し出す会費だけで毎月約7000万円が集まった。このうち約3000万円が月々、六代目司忍組長に渡っていたとされる。年間にすれば3億6000万円。その他、直系組長たちが拠出して中元や歳暮の時期、また司組長の誕生日祝いなどで各1億円ぐらいを集めて、司組長には年6億円ぐらいを渡していたらしい。また司組長は友好団体のうち双愛会、共政会、福博会、東亜会を後見し、これら団体からも中元や歳暮の時期に現金を贈られているようだ。なんやかやで年間10億円前後を集金していると見られる。 こうした収入は正確に税務申告され、納税されているのか。実は神戸山口組側の奥の手として、警察や税務署に対する証言の提供があるとされる。どれほどデータ的に裏付けできるのか疑問だが、少なくとも司組長の収入を熟知する立場にいたのはかつての山口組総本部長・入江禎氏だった。入江氏は前記したように神戸山口組に移っているから、司組長に遠慮する必要はないことになる。 今年6月、福岡県警は北九州市を牛耳る工藤會・野村悟総裁を所得税法違反容疑で逮捕した。工藤會では月に約2000万円の会費が集められ、その4分の1、約500万円が野村総裁側に渡されていたという(年額では6000万円)。一昨年までの4年間に約2億2000万円が渡り、おおよそ8800万円を脱税したとして、野村総裁は逮捕された。 脱税による暴力団トップの逮捕は警察にとっては大金星である。警察庁は「福岡でやれたことがよそでやれないわけがない。脱税でトップを挙げろ」と全国の警察に号令を掛けた。司組長の収入は野村悟総裁のより一ケタ違う。兵庫県警や大阪府警、愛知県警が神戸山口組側から提供される情報に飛びつき、「司組長を所得税法違反で逮捕」を狙うと予測するのは必ずしも妄想ではない。3代連続で名古屋系の組長が続く3代連続で名古屋系の組長が続く 分裂のもう1つの理由は弘道会による長期的な人事の壟断である。司忍組長--髙山清司若頭(東京・府中刑務所で服役中)--竹内照明若頭補佐という世代を異にする3人の弘道会出身者が今後3代に渡って山口組組長の椅子を独占する構えにあるらしい。名古屋市街(iStock) つまり髙山若頭の服役で山口組の若頭は実質的に空席であるため、近々竹内若頭補佐を若頭に据える動きがある。組長への道は若頭からというコースがふつうだから、六代目山口組組長が今の司氏、次の七代目が4〜5年後刑務所を出所することになる髙山氏、八代目が竹内氏というのはさほど突飛な観測ではない。 阪神地域の直系組長たちが、「山口組は神戸で発祥し、神戸で大を成した。弘道会による今後3代にわたる組長独占は神戸の山口組を名古屋の山口組に変質させてしまう」という危機感を持ったとしても不思議ではなかろう。 9月1日、山口組本部に直系組長たちを集めた定例会が開かれた。出席した直系組長の中にはもともと神戸山口組への移籍が確実視されている者も含まれ、明らかに従来の山口組が神戸山口組の切り崩しに成功したケースと見て間違いない。しかし、この日参加した直系組長たちが1カ月後、2カ月後、山口組を動かないかどうかは誰にも予測できない。 総じて暴力団世界では組を割って出た側が抗争に敗れる例が多い。山口組・一和会抗争では一和会が解散し、山本広会長が引退することで抗争が終結した。道仁会を出た九州誠道会も数年に渡る道仁会との激しい抗争の果て、最後は九州誠道会が解散することで抗争は終結した(が、その後浪川睦会という後身団体ができた)。 今回も山口組を割って出た神戸山口組の方が不利と一応はいえそうだが、そうとも言い切れない要素がいくつかある。 1つは抗争すれば、民法や暴対法の「組長の使用者責任」や、組織犯罪処罰法違反(組織的殺人など)で実行犯の組員ばかりか組長も逮捕され、あるいは損害賠償を求められる危険があるからだ。そのため法がまだ整備されていなかった山口組・一和会抗争時代とは異なり、両派の上層部は表向き抗争をやりたがらない。 2つ目は今回の分裂劇の特殊性である。普通は組を割って出た側が暴力団業界で孤立を余儀なくされる。所属していた組の親分から親子、あるいは舎弟の盃を受けながら、組を割って出るのはいわゆる「逆盃」であり、親分絶対の暴力団世界では認めにくい。しかし、他団体が見て、どちらが山口組らしい組織かといえば、弘道会支配の山口組より神戸山口組の方だろう。田岡一雄三代目組長時代のように戻す田岡一雄三代目組長時代のように戻す また神戸山口組も暴力団世界で孤立しないよう、すでに他団体に対して根回しに動いている。そうでなくても侠友会・寺岡修会長は侠道会(尾道市)池澤望と五分の兄弟分、山健組・井上邦雄組長は浪川睦会(福岡県)浪川政浩会長と兄弟分、かつては住吉会・加藤英幸総本部長(幸平一家総長、東京)と兄弟分の関係だったなど、他団体と親しい関係を続けている。すでに神戸山口組には、所属団体を飛び出して神戸山口組に加わるとか、今まで通りの交際を約束するとか、他団体も比較的友好的に対応している気配がある。神戸山口組は他団体の支援も受け、長期の抗争に耐えられるかもしれない。 神戸山口組に移ったかつての山口組直系組長がいう。 「今の山口組がやることは殺気立っている。たとえば福井の川内組・根本辰男組長が辞任を申し出ると、組事務所の所有名義を息子の名前にしているのが気に入らないと、罪過もないのに根本組長を破門して外に放り出し、組事務所を取り上げようとした。 とげとげしいだけの山口組が後5年もつかどうか分からない。われわれは山口組をなくすわけにいかないので立ち上がった。願いは、田岡一雄三代目組長時代のように和気藹々とした組に戻すことです」 いずれにしろここ1〜2カ月の間に両派の色分けが確定して、角突き合いが始まる。全国の繁華街では両派がシノギをめぐってぶつかり合い、経済戦から喧嘩出入り、抗争へと拡大しかねない。山口組は内乱の時代に入ったといえる。

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    山口組除籍の元組長が自殺「裏切り者と罵られ気に病んでいた」

    なき悲鳴が轟いた─。フリーライターの鈴木智彦氏がレポートする。 10月26日、長野県飯田市の組員銃殺事件に続き、山口組分裂で2人目の犠牲者が出た。「死体が見つかった! 殺しかどうかわからん」 山口組は一気に色めき立ったが、ネットを当たると既に報道されていた。暴力団筋の伝達スピードが遅かったのには理由がある。事件ではなく自殺だったのである。 通報した男性が大阪・浪速区のマンションにある暴力団事務所を訪れたのは、午後0時20分頃だったという。寝室として使っていた和室に入ると、布団を敷き、寝間着姿の元倉本組三代目・河内(本名は川地)敏之組長が倒れていた。胸に銃創があり病院に運ばれたが、すでに心肺停止状態だった。右手近くにリボルバーの拳銃が落ちており、争った形跡はなかった。 河内元組長は、10月半ば、山口組を除籍になったばかりだった。三代目倉本組は奈良市に本部を置く山口組の実力派組織(二次団体)で、いわゆる直参組長である。山口組分裂後は定例会を病欠しており、本部には代理を出席させていた。実際、体調は悪かったらしい。 もともと倉本組の初代は、今回、山口組を離脱した宅見組の出身である。河内元組長自身も宅見組・入江禎組長に恩義があったという。神戸山口組傘下組織事務所を訪れる関係者ら =10月8日、神戸市長田区(猿渡友希撮影) 「自分が組長になれたのは入江さんのおかげだと、なにかにつけて話していた。ハートのある人で、義理堅い性格だった。入江さんからは、神戸に来ないかと再三誘いをうけていたと聞く」(山口組直参組長) 出るか、それとも留まるか……山口組にすれば、これ以上、二次団体単位で移籍されてはたまらない。結果、河内元組長は除籍となったが神戸側に移ることなく身を引き、倉本組自体は山口組にとどまることで、形としては円満に山口組を辞めた。だとすれば自殺する必要はないようにみえる。山口組関係者がいう。「その後、河内元組長の下にいた組織の幹部が神戸山口組に走ったんです。ちょうどいい潮時と思って、カタギになろうとしていた若い衆もいたそうですが、彼らはこちらの倉心会に合流することになった。つまり、神戸側と六代目側に分かれることになり、自分が身を引いても問題は解決しなかった」 倉心会とは倉本組から分裂した組織である。倉本組は初代組長が亡くなった後、跡目を巡って内部闘争が勃発し、貴広会と倉心会に分裂した。貴広会側はその後、倉本組を名乗ることを許され、跡目となったのが河内元組長だった。山口組は二つの倉本組系列を、どちらも直参組織に取り立てることで混乱を終息させた。河内元組長は、山口組分裂の前から、自らも分裂劇を体験していたのだ。「事情を知らない人間から陰で裏切り者と罵られ、ずいぶん気に病んでいたらしい」 とある関係者は言う。山口組から詰められたのか、神戸側に非難されたのか、そのあたりは判然としない。いったんは神戸入りを決めたが、説得によって撤回したという可能性もある。山口組から離脱した神戸側から、裏切り者の汚名を着せられたのかもしれない。「自分の命で決着を付けた。男らしい結末」(独立団体幹部) 自殺を選んだ河内元組長に、おおむね好意的なのが、暴力団というものである。組織が分裂し、自殺者が出るのは珍しくない。2006年から足かけ8年続き、一般人を含む14人の死者を出した九州・道仁会の分裂抗争でも、最初の犠牲者は両者の間に挟まれ苦しんだ結果、自殺を選んだ玉名(熊本県)の組長だった。 大組織になればなるほど、対立軸とは無関係な人間が増える。憎しみを強制され、無理矢理踏み絵を踏まされる。抗争が勃発せず、にらみ合いを続ければ、これからも自殺者が出るだろう。 名古屋繁華街の飲食店をまとめあげた山口組若頭の「経営手腕」暴排条例対策で山口組 破門状は郵送からファクスに切り替え暴排条例で海外に拠点移す組織増えると山口組系企業舎弟証言38年ぶりに新創刊の山口組新報 俳句や川柳、釣り特集もあり山口組組長実子挙式 大物政治家や大スター列席の時代あった

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    山口組分裂で抗争本格化の可能性 ヤクザライター2氏が対談

    まった。10月6日正午過ぎ、長野県飯田市のホテル前で暴力団関係者の男性が頭部を拳銃で撃たれ殺害される事件が発生、山口組系傘下団体の幹部が逮捕された。男性は新組織・神戸山口組へ移籍しようとしており、トラブルになったという。本格的な抗争勃発に備え緊張が高まるなか、溝口敦氏(ノンフィクション作家)と鈴木智彦氏(フリーライター)、当代ヤクザライターの2トップが緊急対談した。──今回の射殺事件から本格的な抗争に発展する可能性はあるのか?溝口:今回の件では、ないと思います。殺したのは同じ組の兄貴分だそうですが、神戸山口組の見解は、移籍が完了していたわけではないから、六代目山口組系の組織内での“内紛”であるということで、神戸側が報復することは考えられない。男性が銃で撃たれたとみられる温泉施設の駐車場を調べる捜査員 =10月6日、長野県飯田市鈴木:殺しにまでなったのだから、実際には神戸側と盃を交わすなどの重大なアクションがあったはずですが、今回の事件はあまりにも偶発的すぎるので、双方ともここから火がついたらまずいと思っているはず。ただ、偶発的にせよこういう事件が起きるのは、マスコミの騒ぎが沈静化して年をまたいでからと思っていたから、案外早く起きたなという印象です。溝口:当面、お互いのシノギを侵食し合う「経済戦争」が起きて、その後に暴力による抗争になるはず。半年もすれば、何件か事件が起きるでしょう。鈴木:よく「抗争になりますか?」と聞かれるんですが、今回のことで抗争にならなかったら、もう暴力団じゃないっていうくらい、あり得ない事態ですから。──二人にとっても分裂は想定外の事態だった?溝口:私は昨年6月の時点で、直系組長のひとりから「我々は立ち上がります」と聞いていましたから。ただその時点では、分裂しようとしても途中で圧殺されるんじゃないかと危惧していましたが、分裂する今年8月末に近づくにつれて詳細な情報が入ってきて、「ああ、やったのか」と。鈴木:私は対立については聞いてたけど、本当に分裂すると思ってなかったからびっくりしました。山一抗争(*注)を見ても分かるように、分裂する側にはリスクしかないですから。【*注:1984年に竹中正久組長が四代目を襲名したことに反発した反竹中派が「一和会」を結成。竹中組長は一和会に殺害されたが、山口組の報復が激化。1989年の終結までに双方で25人もの死者を出した】溝口:分裂に踏み切れた要因は、司忍組長と竹内照明若頭補佐(司組長の出身母体である弘道会会長)が情報を把握してなかったか、あるいは軽く考えていたことで六代目側が対策を取れなかったことでしょう。それには、高山清司若頭の不在が大きい。 高山若頭が4000万円の恐喝事件で有罪となり上告を取り下げたのが去年の5月で、収監されたのが6月。分裂計画はその時期にスタートしています。神戸側は関係ないというでしょうが、時期的に符合するのは間違いない。鈴木:驚いたのは、山健組だけでなく宅見組までが参加したこと。どちらも山口組を代表する組織です。山健や宅見は、芸能人とのゴルフコンペ出席で後藤忠政組長が処分され(後に引退)、クーデターの芽が生じた2008年に、離反組を徹底的に潰した側だから、六代目もまさか出て行くわけがないとタカをくくっていたんじゃないでしょうか。名古屋繁華街の飲食店をまとめあげた山口組若頭の「経営手腕」暴排条例対策で山口組 破門状は郵送からファクスに切り替え暴排条例で海外に拠点移す組織増えると山口組系企業舎弟証言38年ぶりに新創刊の山口組新報 俳句や川柳、釣り特集もあり山口組組長実子挙式 大物政治家や大スター列席の時代あった

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    六代目山口組に待ち受ける「現代版兵糧攻め」

    務当局だったわけである。現在、これと同じことが世界規模で行われ始めているのである。 米国は911テロ事件以降、テロとの戦いを進めてきた。そして、テロ組織やテロ関連団体への金融制裁を中心とした新たな仕組みづくりを主導してきたわけである。この中心になったのが国際機関であるマネーロンダリングに関する金融活動作業部会(FATF)という組織なのである。もともと、この組織は国際的なマネーロンダリングに対応するために作られたものであるが、現在ではテロ対策も主な業務になっている。そして、FATFはマネーロンダリングに関する「40の勧告」とテロの関する「9の特別勧告」を定め、関係国に順守を求める活動を開始した。 米国はテロ対策として、独自に米国愛国者法とIEEPA法という2つの法律を成立させた。この法律は米国の安全保障に危害を加える人や組織の資産や銀行口座の凍結や没収を可能にする法律であり、テロ関係者と米国企業との取引を禁じる法律でもある。これは米国の国内法にすぎないわけであるが、これに反した場合、米国や米国企業、米国の金融市場や銀行と取引できなくなってしまうのである。そして、それは国際企業や銀行にとっての死を意味するものになるのだ。実際に秘密裏に北朝鮮との取引を行っていたバンコ・デルタ・アジアという銀行は、これが理由となり実質破綻状態になり国有化された。また、最近でもフランス最大の銀行であるBNPパリバが米国から1兆円近い制裁金と為替関連取引の1年間の禁止を命じられたわけである。 当然ながら、日本もFATFが求めるマネーロンダリング対策とテロ規制に対応する必要があり、この対応のために金融取引の際の本人確認厳格化とテロリストとの取引を禁じ、資産を凍結する事ができるテロ三法を成立させたわけである。また、現在すすめられている「マイナンバー制度」もFATFの求める本人確認厳格化のための道具の一つなのである。神戸山口組傘下の俠友会に家宅捜索に入る兵庫県警の捜査員=9月15日午前9時59分、兵庫県淡路市六代目山口組は国際的にはテロ組織 さて、暴力団の話に話を戻そう。米国がテロリストと指定し金融制裁の対象になった人や組織のリストを公開しているわけである。これを「SDNリスト」と呼ぶ。そして、米国は2011年7月「YAKUZA」という暴力団の総称と一部指定暴力団の幹部及び、その関連団体をこのリストに入れた。 そして、米国政府は徐々にその対象を拡大していった。2012年 六代目山口組と組長である篠田建市(通称司忍)など幹部2名をSDNリストにいれ、2013年にこれを拡大、そして、2015年4月21日 米国は六代目山口組組長の出身母体である山口組弘道会と竹内照明会長をSDNリストに入れた。つまり、六代目山口組とその幹部はテロ組織とテロリスト扱いになったわけである。ちなみに「住吉会」と「稲川会」もこのリストに掲載されている。 つまり、この段階で六代目山口組は国際的にはテロ組織であり、幹部はテロの主導者と同じ扱いになったわけである。これを受けて、日本政府としては早急な対応を行うことが急務になった。米国のSDNリスト掲載に掲載されることは国際テロリスト指定と同義であり、これを国内で放置しておけば国際的批難を浴びるからである。 しかし、日本は民主党政権の政治的混乱と東日本大震災による影響などからこれに対処できない状況が続いており、同時に法整備も著しく遅れていたわけである。そのため、日本の対応が国際社会から批判を受ける状況になりつつあったのであった。これを受けて、昨年11月日本政府が作った法律が先程述べたテロ組織などへの資金提供を禁じ、資産を凍結没収出来るテロ三法であり、この法律ができたことにより、警察当局としても動きやすい環境が出来たといえる。 そして、今回の暴力団壊滅作戦が始まったわけである。現在その中心となっているのは銀行口座の取得や不正利用であり、詐欺や本人確認法違反などにより暴力団の幹部が続々と検挙されているのである。そして、銀行口座を洗い出すことによる新たな検挙も始まっている。銀行口座には金の流れが記録されており、それだけで証拠になる。銀行口座にお金がある=何らかの所得があることを意味し、確定申告などによりきちんと納税されているかが次の焦点になるわけである。これで検挙されたのが工藤会総裁であり、下部団体からの上納金の一部を個人の所得とみなし脱税で検挙したわけである。 暴力団というのはピラミッド構造であり、暴力団員→三次団体→二次団体→一次団体という形で上納金が上がってゆく仕組みになっている。当然、一次団体に税務調査が入れば、その反面調査として二次団体や三次団体に税務調査が進むことになる。そして、暴力団フロント企業や関連企業の実体も暴かれることになるわけである。そして、暴かれると銀行口座が凍結され、資金が没収される事態になってしまうのである。 暴力団も、金がなければ何も出来ない。抗争にはお金がかかり、組の維持にもお金がかかる。当然、その構成員である暴力団員にも家族があり生活がある。この一連の捜査は、暴力団の金を止めることを目的にしており、「現代版兵糧攻め」といえるものなのである。 そして、日本最大の組織である六代目山口組を崩壊に導くことができれば、日本政府の国際的なメンツも立つ、このような情況の中で、今回の六代目山口組分裂は起きたわけである。その理由には、もともとの母体である神戸と六代目の出身である名古屋の争いもあるが、金の問題も大きいと言われている。暴力団二次団体、三次団体の多くが本部が求めてきた上納金を払えなくなりつつあるのだ。そして、これを考慮し分裂先である神戸山口組は、上納金を大きく下げる決断をしたと言われている。  また、今回のパリでのテロ事件を受けて、国際連携でのテロ取り締まりの強化とテロリストの監視強化と迅速化が決議され声明として出された。これにより、これまで以上の速度で、国際的にはテロ組織とされる暴力団の取り締まりは一層厳しくなるだろう。特に2つの山口組は分裂による抗争が懸念されており、警察庁の警戒最重点対象になっており、警察は威信をかけて、撲滅を進めることになるのだろう。

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    銭はグラウンドに落ちている

    巨人軍の現役選手が野球賭博に関与していたことが発覚し、球界はいま揺れに揺れている。その最中、今度は米大リーグ、ダルビッシュ有選手の弟が「胴元」として逮捕され、蔓延する「黒い霧」の悪夢にファンの落胆も大きい。反社会的勢力とのつながりはどこまで広がるのか。

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    野球賭博の温床はカネとオンナ  球界の貧しき夢が生み出す「黒い霧」

    、大きな関心事となった。 伝わり方に少し誤解があると感じるので確認しておく。ニュースで過去の『黒い霧事件』が持ち出された関係もあるだろう。黒い霧事件はプロ野球選手が八百長に関与し、賭けの対象となる試合で勝負を操作した事件だ。巨人選手が「八百長に関与した」と勘違いしている人たちが私の周りにもいる。今回は、非合法的な野球賭博に「賭けていた」事件であって、八百長ではない。だから「罪は軽い」と弁護する気はないが、「どうしてそんなことをやったのかねえ」と不思議に感じる人たちが理解するヒントにはなるだろう。「八百長が悪いのはわかっている。でも、賭けるだけならそれほど問題にならないと思った(あるいは、思わされた)」可能性がある。 十数年前まで、夏の高校野球などは普通に街中で賭けの対象になっていた。甲子園大会の開幕が近づくと、馴染み客の集まる居酒屋やラーメン屋あたりでは、当然のようにそれぞれの方式で賭けが行われていた。試合ごとに一喜一憂し、「誰が当たったか」で盛り上がるのは、むしろ微笑ましい夏の風物のひとつだった。金額の程度はあるにせよ、少額のお金を賭けて交流を深める習慣は、庶民にとっては生活の潤いであり、憩いでもあった。友人たちとゴルフに行って“握る”のも半ば常識だ。パチンコにしても、あうんの呼吸で成り立っているギャンブルのひとつ。日本社会にはそのように黙認された“賭博”が実際あるだけに、今回の当事者たちも最初からこのような大事件になる認識がなかったのではないだろうか。ある時期から少額でも違法だというプロモーションが行われ、ここ数年は高校野球の賭けも姿を消した(地下に潜った)感がある。野球賭博問題で新たに笠原将生、松本竜也が関与していたことが発覚し、会見に臨む巨人・久保博球団社長(左)と森田清司法務部長=東京・大手町の読売新聞本社 (撮影・山田俊介) 社会的にも、その賭けが大がかりで反社会勢力の資金源になっているかどうかが問題視される傾向と同様、野球協約上も、賭けの組織が反社会的勢力かどうか、その点が処分を決める分岐点になるようだ。普段から親しく付き合っている友人が、暴力団とつながりがあるかどうかを確かめる認識は薄かったのではないだろうか。 事件が発覚した直後、「これで野球くじの導入は難しくなった」、文部科学大臣のコメントが新聞等のメディアに載った。苦虫をかみつぶすような反応。平たく表現すれば、「あいつらのおかげで野球クジ導入がダメになった」という印象だった。世間の空気もそれに呼応し、2020年東京五輪の財源確保のために突然降って湧いた野球クジ導入は白紙に戻った感がある。文科相コメントに突っ込みを入れたメディアは知るかぎりないが、私はひどく滑稽な印象を受けた。 賭博に手を染めた悪人(巨人選手たち)のせいで、野球クジの導入が暗礁に乗り上げた……。 野球クジと野球賭博は、法律で認められているかどうか、その収益が反社会勢力の資金源になっているか公的機関の収入になるかの違いはあるが、同じギャンブルに違いない。国が胴元なら健全で、そうでなければ悪なのか? プロ野球がクジの対象になることを歓迎しない立場からすれば、今回の事件で野球クジ導入が見送られたら、不幸中の幸いという側面もある。 野球賭博問題の温床は、野球界の体質、目的設定にあると感じる。 「暴力団関係者と付き合ってはいけない!」 「賭博に関わってはいけない!」 いくらそのような教育をしても、選手たちの趣味、嗜好、普段の価値観やライフスタイルを変えない限り、本質的な改善にはつながらない。この人たちに染まってほしくない 私は、甲子園でヒーローになり、注目されてプロ入りした選手の母親と会ったとき、素直なつぶやきを聞いて言葉を失った経験がある。 入団契約後、寮や練習を訪ねた折りに先輩たちを紹介してもらう機会があった。いずれも有名な選手ばかりだったが、それまで自分たちが生活している社会では あまり会ったことのない雰囲気の若者たちだった。わかりやすく言えば、「手塩にかけて育てた息子が、こんな先輩たちみたいになってほしくない」、粗野で無教養、チャラチャラした印象の選手が大半だったというのだ。プロ野球での活躍を祈る一方で、 「あまりこの世界に長くいてほしくないなあ、この人たちに染まってほしくない、と思いました」 母親がつぶやいた。せっかく夢にまで見たプロ野球に入ったのに、現実は憧れとかけ離れた空気に満ちていた。それを聞いて、胸が痛くなった。 むさ苦しい髪の毛、モヒカン的なそり込み、ジャラジャラしたネックレス、だらしないユニフォームの着方、私服姿も清潔感がない……、チームの先輩たちの姿が目に浮かんだ。たしかに野球の技量は抜きん出ている。豪速球、長打力でファンを沸かせる。だが、人として尊敬できる選手と言えるだろうか。 親がわが子に「このような人物になってもらいたい」と惚れ込む選手がそれほど多くないのがいまのプロ野球の現実かもしれない。 最近のメディアはそれを「個性」と呼んで面白がる傾向もあるが、「プロ野球選手が子どもたちの模範となる存在」というイメージは幻想になりつつある。 なぜそのような選手が増えているのか。少年時代から野球に打ち込む目標が「甲子園」や「プロ野球」に集約され、「甲子園に出ればプロ野球に入れるぞ」「プロに入って活躍すれば金持ちになれるぞ」「野球選手はオンナにもてるぞ」、短絡的な動機付けが成功の褒美のように刷り込まれているのが要因ではないだろうか。 野球界だけでなく、日本中の大人たちも、そんな考えに支配されている。子どもが公園でキャッチボールをしていると、通りかかる顔見知りのおじさんたちが挨拶代わりに、「お、将来は5億円だな」などと、すぐお金の話をする。褒め言葉、社交辞令のつもりだろうが、子どもは高額年俸を頭に描いて公園で野球に熱中しているのではない。ところが日本の空気が知らずしらず、結果がすべて、成功の証は「カネとオンナ」に集約されていないだろうか。女子アナと結婚するプロ野球選手も多い。まるでそれが野球で成功した者のステータス、目指すゴールのようになっている。 一昨年の日本シリーズのときも巨人選手のスキャンダルが報じられた。一般の社会人より夜の街に繰り出す頻度も高そうだ。日々の目的が、野球でひと旗あげて「お金を儲け、オンナにもてる」、いかにも単純な思考に支配されている傾向は否めない。野球選手の楽しみといえば、試合が終わったら飲みに行くこと、そこで女性との出会いやひと夜の満足を得ることががんばった成果のようになっているとしたら、あまりに貧しい。もちろん、選手全員がそうだとは言わない。だが、年齢のわりに年俸は高いけれど心の貧しい選手たちが、残念ながら少なくない。 「高い年俸をもらえるようになったら、困っている人たちを助けるための施設を作りたい」 「経済的な理由で野球をあきらめる少年たちを支援する基金を作りたい」 などといった発言は、日本のプロ野球選手からはあまり聞かない。 「野球を通して人格形成を目指す」のはお題目にすぎず、実際には重視されていない。勝てば官軍、活躍すればその選手を利用してみんなが利益を共有しようと集まってくる。甲子園に出れば理屈抜きに評価され、プロ野球に入ればまたチヤホヤされる。人間的な深みや充実を問わない実状が日本の野球界を貧しくしている。今回の事件もそのような土壌を反映している。 この事件がプロ野球界に与える影響はそれほど大きいと思わない。というより、すでにプロ野球は深刻な凋落傾向にある。「巨人軍の選手は紳士たれ」といったフレーズも今回の報道の中で久々に持ち出されたが、巨人の選手が品行方正な紳士だと信じているファン自体がいまやほとんどいないだろう。そういう意味でも、影響が大きいと思わないのだ。 むしろ、旧態依然とした12球団の組織をどう改革するか。人々の嗜好やライフスタイルが多様化する中で、プロ野球を改めてどう活性化し、人々の日常生活とどうつながってエンターテインメント・ビジネスを盛り上げていくのか。懸命に新しい道筋を創らなければプロ野球は衰退の一途をたどるだろう。今回の事件は、そのような危機感のなさ、改革の機運の欠落を象徴する出来事とも言えるのではないか。 球団も野球界も、事件の当事者だけを悪人にし、彼らを断罪することで自分たちのクリーンさを強調する姿勢を感じる。当事者が悪人で、野球界は被害者という振る舞いはその通りかもしれないが、十分な認識ではない。野球界全体の姿勢を変えるきっかけにできなければ、後になって影響の大きさを痛感することにはなるかもしれない。

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    罪に問われる賭博とそうでない賭博 法律論から見た日本の矛盾

    すれば刑法上の責任も重くなりそうなのであるが、実はそう簡単でもない。 メジャーリーグ史上最悪の八百長事件「ブラックソックス事件」では、各選手は詐欺や業務妨害で起訴された。彼らは金を受け取ったところまでは事実認定されたが、結論としては、無罪になっている。損害の発生や因果関係、共同謀議の存在等が立証できなかったのである。 八百長というのは、法律的には立証が困難な犯罪なのである。 八百長をする選手からしても、わざとトンネルするとか、全部空振りするとか、あからさまなプレーをするわけにはいかない。「ばれない程度の八百長プレー」ということになれば、それは「法律上明白な実行行為」と認定されにくくなる。 野球もゲームの一種であり、その結果には偶然性も影響する。たとえば、わざと鈍いスイングをしたのが功を奏してボテボテの内野安打になる、真ん中に投げるつもりが外れて最高のコースに決まる、などの結果が生じた場合、それは、法律的には「八百長行為」と認定できなくなる。 野球における八百長は、成功させることが難しいのである。 実際、日本プロ野球史上最悪の八百長事件「黒い霧事件」では、八百長がされた3試合で、八百長を仕掛けた選手がいるチームが2回も勝利している。こうなると“法律的には”八百長しようがしまいが結果には影響がない、という結論になり、犯罪は成立しなくなる。 どの行為によっていかなる損害が発生したのか、法律的立証に不可欠なこの要素が、八百長事件では認めにくいのである。 以上から野球選手が野球賭博に手を出したとしても、刑法上の罪は重くなく、万が一八百長に加担したとしても、立証が困難なので重い罪に問われる可能性は低いという結論になる。 となれば、選手の責任は軽いのかといえば、そうではない。選手は、野球協約上、きわめて重い責任が問われる。八百長は「イメージ犯罪」と呼ばれることもある。 上記のとおり、八百長の罪を法律上立証することは難しい。しかし、八百長は、対象となった競技の信用性を著しく阻害する。競技のイメージ面に大きな打撃を及ぼし、その存在自体を危うくする。 今から45年前、プロ野球最悪の八百長事件である「黒い霧事件」の影響は甚大であった。栄光の歴史を持ち地元福岡でおおいに愛さされていた西鉄ライオンズは、観客が激減し身売りする羽目になった。 また1球団だけではなく、黒い霧事件の影響は、パリーグ自体が消滅寸前になるほどであった。なんとか存続したものの、イメージ悪化による人気低下はすさまじく、パリーグの試合には閑古鳥が鳴く時期が長く続いた。 名捕手野村克也が偉大な本塁打記録を打ち立てた試合、観客はわずか数千人、試合後野村は「花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」とコメントした。代名詞「月見草」誕生の裏には、黒い霧事件の影響による酷い人気低下があったのである。 また、本件のように八百長には至っていない場合でもあっても、野球賭博にはそのイメージが悪い大きな理由がある。それは、野球賭博の胴元には暴力団が絡んでいるという半ば周知の事実である。 野球賭博というのは、基本的に「ツケ」でなされる。客は、コワモテのヤクザだからこそ負け分をきちんと支払い、またそういう「負け分をきちんと回収できるヤクザ」だからこそ勝ち分もちゃんと支払ってくれるだろうと信用して賭けに参加するのだ。 さらに野球賭博には、賭け客を増やすための「ハンデ」という独特のルールが存在する。 たとえば、ソフトバンク対DeNAという試合があったとき、単純に勝ちチームを当てるだけなら、ソフトバンクに賭ける人が殺到する。 このような場合、ハンデがものを言う。たとえば、ソフトバンクからハンデ「2」が与えられた場合、試合結果がDeNAが1点差で負けたとしても、賭けのうえではDeNAの勝ちとなる。そうやって「魅力的なギャンブル」にするのだ。 ちなみにハンデは、実際はもう少しややこしく、「1.8」などと小数点付きで出されることが多い。ハンデ「1.8」の場合、ソフトバンクに賭けてソフトバンクが1点差で勝てば、賭けの上では負けなのだが、それは「8分負け」ということになり、10万円賭けていた場合2万円は払い戻される。 そうやっていわゆる「ニアミス効果」(外れなのだが当りに近付いたとプレーヤーが認識できる場面が多いほどのめり込みやすい賭博となるetcパチンコのリーチ)を生んでいるのだ。 「適正なハンデを出すこと」が、野球賭博の胴元には必要なのだが、これをするには相当な野球知識のある者(「ハンデ師」と呼ばれる)を雇う必要があり、これもやはり大きな組織でないとできないことになる。 結局のところ、野球賭博の胴元は、大がかりに非合法なことをできるコワモテだがある種の信用ある組織、ということになり、これは暴力団をおいて他にない。その道では、野球賭博の胴元はヤクザの中でもカネを持ち信用あるヤクザでないとできない、などと言われているともいう。 以上を踏まえ、野球協約は、野球賭博にきわめて厳格な態度を示している。 野球賭博をするだけで1年ないし無期の失格処分、それがもしも所属球団について賭けたのであれば、それだけで永久追放処分である。永久追放は、内部規則における“死刑”と同義だ。最高刑である。 しかし、ことの重大さを考えれば、その重さも妥当である。プロ野球は娯楽であり、興業の一種だ。イメージは何より大事である。そのイメージに甚大な被害を与え、その存在を危うくしかねない行為が、重罪として裁かれるのはやむを得ない。 結論として、本件各選手の責任は、刑法上は重いとは言いがたい。しかし、内部規則である野球協約上は“死刑”に相当するきわめて重い責任が科される可能性もある。 「黒い霧事件」のときは、当初は対象者も1人だけそこまでの騒ぎではなかったのだが、事がおさまるかと思ったときに、多数の関与者が発覚して大騒ぎになった。 私は、プレーオフシーズンになると早起きして帰りを早くするほど、プロ野球が大好きだ。今回の件が、黒い霧事件のように波及しないことを心から願っている。 今の日本は、合法的にできる賭博は山ほどある。スマホをいじるだけで馬券が買える時代である。宝くじ売り場というのは、賭博場である。駅前や国道沿いのパチンコ店は、年中無休だ。麻雀だって、仲間内でこっそりとささやかに賭けるくらいなら、警察はお目こぼししてくれる。今の日本には、手を出していい賭博と出してはならない賭博が存在するのだ。 野球賭博は、後者の典型である。くだんの選手たちにそれを教えてあげる人は周囲にいなかったのか、私はそれが残念でならない。 私は、今回のような事件が起きる原因のひとつは、賭博罪が曖昧なままで据え置かれていることだと考えている。 今の日本は、誰でも手軽に賭博ができる環境であるのに、一方で、賭博は犯罪だという建前もいまだ残っている。 そのようなグレーな状況のもと、みなが賭博と正面から向き合わないから、社会全体の賭博についての知識が欠如し、当然くだんの選手たちも知識がなく、つけ込まれるスキが生じてしまうのだ。 賭博とは何なのか。賭博から生じ得る問題は何なのか。やっていい賭博としてはならない賭博の境界線はどこか。その理由は何か。 これだけ賭博があふれかえっている世の中なのだから、本来そういう社会的教育が必要なのだ。しかし、これらはなされない。賭博は犯罪だ、という建前が残っているからである。 そこに賭博があるのにこれときちんと向き合わないというこの国の矛盾が国民的娯楽に打撃を与えるのだとしたら、こんなに悲しいことはない。 あえて同情的な見方をすれば、本件の各選手も、そういう矛盾が生んだ犠牲者の一人といえなくもない。

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    堕ちた球界の盟主、巨人野球賭博に潜む3つの火種

    れざるを得ない状況にまで事態は発展したといえる。 また今回の野球賭博問題の対応にあたっては、球団側の事件発覚後の対応に関しても、その認識の甘さが批判の対象となっている。高校野球においては、いち野球部員が起こした不祥事が発端となって、部全体の対外試合が自粛されるなどの処分が行われることは常である。実際、2005年の夏の甲子園では、当時すでに県代表として本選出場が決定していた高知県の明徳義塾高校が、部内での暴力や喫煙行為などの発覚によって出場を辞退した事は未だ記憶に新しい。 対して読売ジャイアンツは、新たに2選手の野球賭博への関与を発表した記者会見において行われた、翌日に予定されるドラフト会議に関する質問に対して「有望な新人を獲得するための唯一の手段であると思うので、球団としては参加させて頂く」などとコメントしており、実際に参加を強行した。球団としては、未だプロ野球を統括するNPBによる採決を待っている状況であり、それが判明してから関係者等の処分を改めて考えたいとしているが、全国の高校球児たちの「鑑」としてのプロ野球球団の「身の処し方」が改めて問われている事態であるといえる。プロ野球 巨人練習 練習前、円陣の輪の中で選手たちに話をする巨人・原辰徳監督(右)=10月6日午後、東京都文京区の東京ドーム(撮影・大橋純人) また気になるのが、本事件の今後の展開である。まず、本事件に関する暴力団等の関与であるが、現時点での球団発表では暴力団等の関与は未だなんら指摘されていない。これは、本件が未だ球団による自主的な内部調査に留まっており、その手法が選手への聞き取りと、彼らが使用していた携帯電話等の利用履歴の確認によるものであることに起因する。民間組織である球団としては、あくまで賭博に関わったとされる自組織内の3選手サイドからしか調査が出来ないのは当然であり、その背後関係にまで切り込めていない現状は仕方がないともいえる。 一方、メディア各社による報道では、球団はすでに警察への相談を始めているとの情報もある。最初に野球賭博への関与を報じられた福田聡志投手に関しては、すでに数百万円におよぶ借金があり、またその借金の取り立て人が球場に押しかけた事が事件発覚の発端となったと言われている。客観的にみるならば、この福田投手に関する単独事案だけを見ても、すでに警察が動くレベルの違法賭博事件となっており、その主体がプロ野球選手であるという社会的影響の大きさも考えると、これより警察による捜査が始まるのも時間の問題であると思われる。暴力団等の関与の有無に関しては、これら警察による捜査の進捗によって徐々に明らかになってゆくだろう。 次に気になるのが他球団への問題の波及である。ジャイアンツ以外の球団も今月冒頭に本問題が発覚した時点で独自調査を始めており、現時点では野球賭博への関与があった選手の存在は確認されていない。ただし、これらもあくまで各球団による所属選手への聞き取り調査などが中心となったものであり、強制力を伴うものではない。ここに警察による介入が行われ、特に背後に大きな違法賭博シンジケートのようなものの存在が明らかになった場合には、胴元側の顧客リストなどから芋ヅル式で他球団の選手の関与が判明する可能性はある。この点に関しても未だ予断を許さない状況である。 そして、最後の懸念が八百長事件への発展である。球団による現時点での調査では、今回野球賭博に関わった3選手の八百長行為、もしくはチーム内の他選手に対する八百長の持ちかけなどは確認されていない。一方、未だ記憶に新しい2010年に発覚した大相撲を舞台とした違法賭博事件では、当初「八百長はない」とされていたものが、調査が進み、事件が大規模化するにつれて続々と八百長疑惑が噴出した。結果的に、当時大関であった琴光喜関も含めて、約20名にもおよぶ現役力士の大量処分にまで至ることとなる。繰り返し論じてきたとおり警察による本格的な捜査の始まっていない現時点では、野球賭博問題は未だ事件の「入口」に差し掛かっているだけの状況であり、今後の展開次第ではこれが更なる大きな事件に発展する可能性は多分に残されている。 そして、最後に予見される本事件の余波が、プロ野球界の「外側」への影響である。現在、我が国には刑法で禁止される賭博等の例外として、スポーツ振興くじ(通称:totoくじ)が存在している。実は、totoくじを所管する文部科学省および与党自民党は、現在、サッカーのみに適用されている「合法の」スポーツ賭博であるtotoくじの適用範囲をプロ野球にまで拡大することを計画していた。これは2020年の東京オリンピックのメインスタジアムである国立競技場の開発費を捻出する為の措置であり、価格高騰で問題化した建設費の上昇分を、新たなtotoくじの導入で補てんしようとするものであった。 しかし今回、現役プロ野球選手による違法な野球賭博への関与が発覚したことで、その計画はすでに暗礁に乗り上げている。今月初め、福田投手が野球賭博に関わったとされた初期の報道時点で、すでに遠藤五輪相を含む複数の関係閣僚から「今の段階で(プロ野球への)くじの導入は難しい」などとするコメントが出されており、totoくじ法の改正はほぼ延期が確定してしまった状況だ。一方、totoくじの拡大が年内もしくは来春にできないとなれば、高騰する国立競技 場の建設費用をどこか別の場所から調達せざるを得ず、それが新たな「国立競技場問題」の火種となりかねない様相だ。全く個別の問題として発生した二つの問題が、根底では深く繋がっているというのは非常に皮肉な状況であるといえる。 いずれにせよ、今回の野球賭博問題は未だ様々に影響が波及する可能性が残されており、予断を許さない状況にある。これら問題を傍観するしかない我々としては、これ以上の事件の「炎上」がないことを祈りつつ、引き続き注視をしてゆきたいところである。

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    国際的に暗躍する八百長シンジケート 日本も対岸の火事ではない

    サッカー界に関しては国際的な枠組みの中で八百長への対処を行っている。それでも前出のような大規模八百長事件の発覚が後を絶たないのであって、スポーツ競技と八百長の関係が如何に根強いかがそこに伺えると言えます。5. 今、日本で最も危ないのは野球界 野球界はFIFAのような強い世界の競技統括団体の存在がなく、サッカーと比べると圧倒的に八百長に対する国際的な取り組みが遅れているのが現状です。では、国内の統括団体がそれに適切に対処しているかというと、基本的に各球団内の選手教育にその対策が預けられているのみ。読売ジャイアンツは毎年の若手選手向けのセミナーにて、野球賭博や八百長に関する教育を行っていたとしていますが、実態としてそれがどこまで実効性のあるものとして行われていたのか。。今回の球団内の騒動を見る限りは、それが適切に機能していたとはとても言えない状況にあります。 また、これは国際的なスポーツ賭博とは別の切り口となりますが、今回ジャイアンツの3選手が関わったとされる我が国の違法な野球賭博では、日本のプロ野球のみならず、高校野球の全国大会なども賭けの対象として大々的に扱っていることが知られています。と、するのならば、当然ながらプロのみならず、高校野球にも「好ましからぬ存在」から八百長が持ちかけられる可能性がある。高校球児たちにそのような違法な存在が直接アプローチするなどは論外ですが、例えば監督やコーチなどの意思決定に介入を行いなどというケースが容易に起こり得るといえましょう。 いずれにせよ、今、日本において最も八百長リスクの高いスポーツは野球界であることは間違いなく、今回の事件の発覚を機に業界全体で何らかの対処を行う必要が出てくるものと思われます。*1: 出所:"sports betting: commercial and integrity issues," European Gaming &Betting Association*2: 出所:"Is Illegal Sports Betting a $400 Billion Industry?"※「カジノ合法化に関する100の質問」2015年10月26日記事を転載しました。

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    ダルビッシュ弟は野球賭博に相当深く関与していた?

    団の存在を前提として捜査を行っているということ。上記のような短い報道でも、見る人が見ると「あぁ、この事件、野球賭博だけでは終わりそうにないな…」という予感をさせるものとなっています。 この先、スポーツ賭博における定番としては「違法賭博→暴力団の関与」からの八百長疑惑へとつながってゆくのが常ですが、今回の問題は最後の一段階までも踏み越えてしまうのでしょうか。。引き続き見守ってまいりたいと思います。 追伸:ちなみに、ネット上では「偉大な兄貴に泥を塗る行為」的な論調もありますが、私はあえてそういう論調は取りません。おそらく、そういう「偉大な兄貴が…」的な論が、人間を歪ませてゆく原因だと個人的には思うので。。※「カジノ合法化に関する100の質問」2015年10月27日記事を転載しました。

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    球界の黒い霧事件 最大のキーマン・永易将之の独占告白内容

    ・福田聡志投手の野球賭博関与問題は社会に大きな衝撃を与えた。そこで思い返されるのが46年前の「黒い霧事件」だ。そもそものきっかけは1969年10月、西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の永易将之(ながやす・まさゆき)投手が、球団の調査で「暴力団の野球賭博で八百長試合に関与した」と判断され、解雇されたことだった。 これを新聞が大きく報道。さらに渦中の永易が普段着のまま自宅を出て、そのまま失踪したことで、疑惑が疑惑を呼び、騒動は社会問題に発展する。最終的には、複数の逮捕者を出す事態となり、19名のプロ野球選手が永久追放・出場停止などの重い処分を受けた。 ここで本誌は球史に残るスクープ記事を掲載することになる。行方をくらませていた最大のキーマン・永易の独占インタビューを報じたのだ(1970年4月10日号。以下、カッコ内は記事より。誌面の都合により、一部編集してある)。 インタビューは本誌の協力ライター・大滝譲司氏によるもの。2週にわたって掲載され、その赤裸々な内容が大きな話題を呼んだ。まず、八百長をやったのかと迫る大滝氏に、永易は観念したように認めた。「そのために永久追放になったんですから、いまさら否定できないですね」 永易は「自分は八百長の首謀者ではない」としたうえで、こう語る。「(関係した八百長試合は)ほんの数えるほど。三試合ぐらいかな。成功したのは一回だけで、あとの二試合は失敗。(失敗したらカネは)もらいませんでした。成功したら二十万円です」「暴力団の人と、野球に関してはまったく関係ありません。(実際にカネを払っていたのは)関西の商人です。昨年、チームメイトの紹介で、神戸で飲んだのがきっかけで知り合った」 永易は大滝氏の質問に丁寧に答える。成功した八百長の試合(故意の敗戦)についても、詳細を以下のように語っている。「M投手の友人でHさんという人がいるんですが、この人が張本人なんです。Hさんは胴元ではなく、張る方なんですが、一昨年のシーズン中にM投手と知り合ってやりはじめたそうです。僕がはじめて持ちかけられたのは(八百長が成功しなかった)ロッテ戦で、Y投手から頼まれました。(成功した南海戦は)Y投手が僕にいってきたんです。確実にやるためにバッターもおさえてくれといわれて、僕が内野手のF選手をとめ(仲間に誘うこと)、YがM捕手とこれも内野手のM選手をとめました」「僕がF選手に話したのは試合の一日か二日前、二人で買い物へ行った帰りに御堂筋の喫茶店で話しました。Fははじめてだったらしくびっくりしていましたが、とにかく『一回だけ』ということでOKしたんです。それで、僕は預かっていた三十万円をわたしたら、Fは『そんなにいらない』といって十万円返してきて、結局二十万円受け取りました。Fは『不成功に終わったら返す』といっていましたが、成功したのでそのまま。彼は満塁のチャンスで三振しました」コミッショナーから事情聴取を受ける永易選手=東京都・銀座のコミッショナー事務局・委員長室 後に行なわれる記者会見で実名を暴露することになる永易は、この時点では匿名で語っている。永易は選手の名を口にすることを、最後までためらっていたからだ。「僕はほかの人に迷惑はかけたくありません。同じカマのメシを食って苦労してきた仲間に対する友情が僕にもあります。罪は僕ひとりでたくさん。そのためにがまんしてきたんですから……」 ただそのかわり、このインタビューは永易の口から衝撃の言葉を引き出した。 逃亡期間の生活費をどうしていたのか、貯金でもあったのかという大滝氏の質問を永易は否定。代わりに、ある組織から“口止め料”が払われていたことを明かしたのである。それはなんと、永易を解雇した西鉄球団だった。「オーナーをはじめ幹部の人から“一生面倒をみるから、つらいだろうけどがまんしてくれ”といわれました。稲尾(和久)監督も“がまんしてくれ。ワシもできるだけの努力はする”となぐさめてくれました」 口止め料の真相や永易がやった八百長試合の手口が詳細に明かされる。八百長発覚直後の10月中旬、永易は当時の西鉄オーナーとその自宅で面会し、こういわれたという。「『君には気の毒だが、チームのためを思って、君ひとりでかぶってくれ。そのかわり一生の面倒はみる。つらいだろうけどがまんしてくれ。とにかく二、三か月はかくれていてくれ』というようなことです」 そして11月上旬に100万円、同下旬にも球団本部長から50万円が渡された。「球団本部長と会ったんですが、そのときには当時の球団社長が電話口に出て『君には悪いことをした』と、泣いてあやまってくれました」 そうして西鉄側が永易に渡した金額は合計で550万円。西鉄は当初こそ、この証言を否定していたが、その後、東京地検特捜部の取り調べを受けたオーナーが渡したことを認め、辞任に追い込まれている。(文中一部敬称略)関連記事■ ガチンコ相撲の大乃国 八百長力士からリンチまがいの稽古も■ 大相撲八百長手口 地元力士に「知り合いの前で転んでやるよ」■ 八百長力士調査委 真相「分かるわけない」調査進展「0%だ」■ ガチンコ相撲の判別法 決まり手「河津掛け」「うっちゃり」■ 八百長告発・板井に近い元力士 暴力団と相撲賭博の関係暴露