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    ニッポンを変えた戦後犯罪史

    た戦後日本の70年は、日本人の価値観を変えた数々の凶悪犯罪を抜きには語れない。時代を色濃く映した重大事件は、ニッポンに何をもたらし、何を変えたのか。戦後犯罪史に残るあの事件を当事者や目撃者が振り返り、その深層に迫った。

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    「よど号事件」とは何だったのか 9人が味わった理想と現実

    椎野礼仁(編集者) 「よど号事件について執筆を」という編集部の依頼文の中に、いくつかの執筆希望項目があった。その最初が「過激なテロリストを生みだした社会背景」であった。うーん、ここで私は考え込んでしまう。“テロリスト”と言う言葉に、違和感を覚えるのだ。 実は、この違和感は、“よど号”だけについて感じるわけではない。政治的な事件で暴力性が伴うものをすべてテロという言葉で一括りする昨今の風潮に、「違うんじゃないかなぁ」というかすかな苛立ちを覚えるのだ。 本筋から離れるので、詳しくは書かないが、日本で言えば、1960年の、山口二矢という17歳の右翼少年による、日比谷公会堂壇上での社会党委員長・浅沼稲次郎への刺殺のように、ほかに手段を持たない(と思い詰めた)個人、ないし少数者が、暴力(多くは暗殺など)で政治目的を達しようとする行動がテロだ。圧倒的な専制政治を敷いたロシアの皇帝に対して、若き過激派グループが、その馬車に爆弾の投擲を企図する……そのような営為が典型で、今日の使われ方より、うんと意味が狭い。いや、意味が狭いというより、全く別の概念と思ったほうがいいだろう。 話しは戻る。日本で初のハイジャックをやり、北朝鮮に渡った彼ら・共産主義者同盟赤軍派の9人は、革命家たらんと志していたのであり、テロリストになろうとは、微塵も思っていなかったはずだ。 1970年の3月31日から4月3日にかけて起きた、日航機よど号を乗っ取ってピョンヤンに向かわせた事件が「よど号ハイジャック事件」だ。もっともこの頃は、ハイジャックという単語は誰もが知っている言葉ではなかった。現に、この半月ほど前に、赤軍派のリーダー塩見孝也を逮捕した警察は、彼の手帳の日付に書いてあったHJという文字の意味に気がつかず(?)、まんまと事件(赤軍派の側から言わせれば闘争だが)を成功させてしまう。 成功と簡単に書いたが、富士山上空で日本刀やピストル(オモチャだったが)などで武装した赤軍派9人が立ち上がってから、福岡板付空港にいったん着陸し、その後ピョンヤンと偽って着陸したソウル金浦空港での4日間の攻防については、まるで映画のような紆余曲折・攻防がたくさんあった。それらについては本がたくさん出ているので、興味のある方は当たっていただきたい。1970(昭和45)年3月31日、赤軍派の9人が羽田発福岡行きの日航機「よど号」を富士山上空でハイジャック、日本刀などで機長を脅し北朝鮮行きを強要した。福岡や韓国・金浦空港で乗客を解放した後、北朝鮮に亡命した。写真は福岡空港での女性や子ども、病人の解放。 とにもかくにも、ピョンヤンに渡った彼らの、その後である。 編集部の注文項目にも「われわれは明日のジョーである! という言葉を残し、出発した彼らの目的、彼らが味わった理想と現実」という一文がある。 彼らの目的は、説明しやすい。1970年3月という時期は、70安保闘争の最大の山場と言われた69年秋の佐藤(首相)訪米阻止闘争が、圧倒的な機動隊の力の前に敗北した後、取るべき次の戦略を巡って、ブント(共産主義者同盟のこと)の分裂が公然化した時期である。 図式的に言うと、この敗北状況を、再度大衆運動の立ち上げから作り直そうという「右派」叛旗派、さらなる暴力の先鋭化で突破しようとした「左派」赤軍派、その中間の主流派(?)という系統である。 赤軍派は、「大阪戦争」「東京戦争」を呼号した、火炎瓶を使って警察などを襲撃する69年秋の闘争で大量の逮捕者を出した。11月には大菩薩峠の「福ちゃん荘」では軍事訓練と称して集まった部隊が一網打尽になり、53人の起訴者を出した。 そんな中で、70年3月に起こしたのが「よど号ハイジャック」である。これは、リーダー塩見が唱えた「世界同時革命-国際根拠地論」に則った計画で、まず北朝鮮に渡り、自派の理論でキム・イルソンをオルグする。そして自分たちは、軍事訓練を受けて、秋には日本に戻り、日本革命運動に再参加する……。 若い読者にとっては、悪い冗談か誇大妄想としか思えないだろう。だが、私も含めて、当時新左翼運動に参加した人々にとっては、それなりにリアリティはないわけではなかった。それはベトナム戦争に反対する世界的な運動のうねりなどとの関連もあるのだが、これもまた、ここで詳しく触れる紙幅はない。 遠大な、ずさんな戦略であり、それに基づいた戦術ではあったが、そもそも当時の新左翼各派の戦術は、敗北が前提だった。「機動隊殲滅!」「佐藤訪米阻止」と叫んだところで、それが実現するなんて、誰ひとり思ってはいなかった。成功した戦術、崩れ去った戦略 ところが赤軍派のこの戦術は、成功したのである。彼らは、日本や韓国の権力者の思惑や妨害をはねのけて、当初の目的通り(きわめて非合法な手段で)ピョンヤンに渡ったのだ。しかし、戦略はもろくも崩れ去ったと言っていい。他力的に崩れ去ったというより、よど号赤軍自らが、その戦略を捨てたのだ。いや、それは日本からの見方で、彼らは、当時の言語で言えば「世界同時革命路線を総括し、止揚した」のだ。ピョンヤンに渡って1年が経過した頃の話だ。 『「拉致疑惑」と帰国』というタイトルのその本がある。いまもピョンヤンに残るよど号グループ6人(男性4人とその後彼らと結婚した女性2人)が書いた手記で、2013年4月に河出書房新社から出版された。その中で、現在のリーダー小西隆裕は、以下のように書く。 「そうした一年を超える歳月、その間の生活を通して、私たちは、自らの理論、路線への確信が大きく揺らいでくるのを覚えていた。それは赤軍派の理論、路線が朝鮮の現実にも日本の現実にも合っていないところからくる揺らぎだったと言える。理論の正否を問うとき、現実にあっているか否かは決定的だ。それはいかなる強弁をも許さない」(同書p38)。 「理論評価の基準を現実に求めると言ったとき、私たちにとって決定的だったのは、やはり日本国内の現実、私たち赤軍派壊滅の現実だった。そもそも、私たちのハイジャック作戦は、この作戦勝利によって鼓舞され強化されるに違いない国内の部隊と、朝鮮での軍事訓練で鍛えられて帰国する私たち遠征隊とのドッキングにより、秋の武装蜂起を成功させるためのものだった。その強化されるはずだった国内が、逆に、官憲の集中弾圧を受け壊滅状態に陥ってしまったというのだ」 赤軍派路線を総括・止揚した後の彼らの行動・生活については、その後、あまり伝わってこなかった。そんなこともあり、その後の我が国の新左翼運動になにか直接影響を与えるようなことはなかった。ただ、かの地に彼らが生きているということが、私たちの気持ちに微温を与えたのは確かだと思う。もちろん、新左翼内部からは、「彼らは主体思想に逆オルグされた」とか「スターリニストの軍門に下った」などの容赦ない言葉が投げかけられたりもしたのも事実である。 北朝鮮に渡った当時は、最年長の田宮高麿が27歳、最年少の柴田泰弘が16歳(ともに故人)だったが、長いピョンヤンでの生活の間に、全員が日本人女性と結婚し、子どもをもうけた。彼らは亡命者として北朝鮮に受け入れられたので、比較的自由な生活が保障され、亡命者パスポートで、日本との犯人引き渡し条約のない国へは渡航もし、その様子を日本の週刊誌(週刊プレイボーイ他)に寄稿したこともある。 1990年代には商社を起こし、日本から中古車を輸入し中国へ転売するなどして、かなり儲けたらしい。「今はもう中国でも日本の中古車需要はないですから、いいときにやめましたよ」とは、私が訪朝した時に小西が語った言葉である。 さて2000年代に入って、よど号グループの名前がしばらくぶりにマスメディアを賑わした。いわゆる「拉致疑惑」である。単に「拉致疑惑」と書くと、彼らが日本に潜入して、北朝鮮の工作員とともに日本人を連れ去ったかのような印象を持たれる方も多いかもしれない。そうではない。彼らに掛けられているのは、「ヨーロッパ拉致疑惑」である。 ヨーロッパに留学していた有本恵子さん(当時22歳)を、言葉巧みにだまして北朝鮮に誘ったという疑いで、警視庁は2002年に「結婚目的誘拐罪」という聞きなれない罪で、よど号グループの一人の逮捕状を取った。その後、グループの女性二人にも、石岡亨さん、松木薫さんの二人の「拉致」にかかわったとして、2007年にやはり「結婚目的誘拐罪」の逮捕状が請求され、今日に至っても更新され続けている。「やってないことの証明は難しい」 逮捕状請求のきっかけになったのは、よど号グループの最年少だった柴田泰弘と結婚した八尾恵の、ある裁判での証言だ。ロンドンで有本恵子さんと知り合い、よど号メンバーの安倍公博と北朝鮮の工作員に引き継いだという証言をしたのだ。 逮捕状請求の背景には、2冊の本の存在も大きい。1冊は、ジャーナリスト高沢皓司が1998年に出版した『宿命』であり、もう一つは2002年に八尾恵が書いた『謝罪します』だった。どちらも、よど号グループがヨーロッパに出入りし、在欧の日本人に接触する様子が書かれていた。二人は、結局、よど号グループと対立することになるのだが、この間の事情も複雑なので触れる余裕はない。 最後に彼らの立場を紹介しておく。 まず、ハイジャックに関しては確かに自分たちの罪であり、どんな大義があろうとも、暴力をもって人を拘束したり、恐怖を与えたり、命を危険にさらすようなことは間違いであった。それについては謝罪もするし、日本で裁判を受ける用意がある。 しかし、仲間の3人に掛けられているヨーロッパの拉致疑惑は、自分たちはまったく関わりがない。なので、逮捕状の取り下げと、これをはじめとするよど号グループの政治利用については、日本政府に謝罪を要求する。それが果たせた段階で帰国し、ハイジャックについての裁きを受ける。 これが、今の彼らの立場だ。こう書いたが、いまひとつ説明し切れないのが、「よど号を巡る政治利用」という箇所だ。日本とアメリカと北朝鮮の政治の渦の中で、よど号の人達の運命はさまざまに翻弄された。アメリカによる北朝鮮の「テロリスト支援国家」指定の理由に「よど号グループを匿っていること」が挙げられたこともある。結局、彼らの処遇はそのままで、アメリカはテロ支援国家指定解除に応じたのだが。 私はフリーの編集者をしている。上で紹介した彼らの手記『「拉致疑惑」と帰国』(河出書房新社)は、私が編集に携わった。その関係もあり、2012年から6回ほど、ピョンヤンの彼らのもとを訪ねた。 もちろん彼らには、結婚目的誘拐罪や、それ以外の時期の活動については、問いただした。答えはもちろん、上に書いた通りだが、私が受けた印象は、果たして彼らがそんなこと(ヨーロッパ拉致)をする必要があっただろうか、なかったのではないか、というものだった。 実は、6回の平壌訪問をもとに、私は講談社プラスα新書から『テレビに映る北朝鮮の98%は嘘である』と言う本を著した(2014年9月刊)。そこに、上のような印象を記したところ、アマゾンのレビューでは「エビデンスも示さずにそんなことを言っても駄目だ」という激しい批判を受けた。それは確かに言えることだが、前記の手記でよど号グループも書いているように、「やってないことの証明は難しい」。 私は、彼らに会い、彼らの説明を受け、思った通りを書いただけだ。エビデンスと言われても困る。では聞くが、その評者は何かエビデンスを持っているのだろうか。彼らについて書かれた著作や新聞の情報(ほとんどが公安警察情報だが)から、自分なりの印象を組み立てて確信としているだけだろう。だったら私の印象も、貴重な第1次情報なのであるから、判断材料の一つにしていただきたい。そう願うだけだ。 ひとつ、付け加えておくと、よど号グループは、結婚目的誘拐罪の逮捕状の撤回を求めて国家賠償訴訟を行なった。結婚目的誘拐罪は親告罪なので本来は被害者本人かその家族の訴えが必要なのだが、それが示されることもなく、また逮捕状請求の根拠も明らかにされることなく棄却された。 彼らは、ヨーロッパ拉致に関して、日本の警察の事情聴取には応じると言っている。そんな折にでも、当局が持っている捜査資料がすべて明らかにされれば、実は無実の「エビデンス」がそこに含まれているのではないか。ひそかにそんなことも考えている。

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    「カルト」は家庭に入り込んだ 社会から置き去りにされたオウム事件

    有田芳生(参議院議員) 地下鉄サリン事件から20年が経った今年は、一つの区切りゆえに、メディアでは例年に増して特集が組まれた。オウム真理教による一連の事件も、こうして消費されていき、いまでは関心の中心が教祖の死刑執行問題に矮小化されていく傾向にある。オウム事件が日本社会に突きつけた問題は解決されることなく、21世紀が進んでいく。この社会はオウム真理教を生み、育てた土壌を掘り返すことなく、いわば眼を閉じたまま、問題の根源を見ないようにしてきた。編集部から依頼されたテーマはオウム事件で何が変わったかというものだ。たとえば日本中に監視カメラが増えたことなど、警察や社会による「異物」に対する過剰警備や監視をあげることができる。しかしわたしの思いは変化よりも「変わっていないこと」にある。見えない、見ようとしない世界に重要な問題が潜んでいるのだ。オウム真理教の集会で信者を前に話す松本智津夫死刑囚=1990年10月、東京・代々木公園 まず捉えておかなければならないのは、オウム事件の歴史的意味だ。1994年6月27日の松本サリン事件を「予行演習」として起きた翌95年3月20日の地下鉄サリン事件とは、人類史においてはじめて都市部でサリンが散布されたことに注目しなければならない。ここからどう教訓を引き出すか。生物化学兵器への対策でもっとも機敏に反応したのはアメリカ議会だった。それに比べて被害当事国としての日本は、残念ながら鈍感だったと言わなければならない。警察当局による捜査は果断だったが、それ以外の多くの課題にどう取り組んだか。振り返って何かを示せるかといえば、犯罪に関わった信者の逮捕と裁判が大きく報じられたぐらいである。わたしの関心でいえば、信者の脱会に資するため、関係省庁連絡会議を設置したが、いつしか機能しなくなったことである。自然消滅だ。 カルト問題の専門家たちが、全国の保健所を活用して、信者の脱会に対応しようと準備していたにもかかわらず、政府からの問い合わせはなかった。サリンを浴びた者の治療に使う解毒剤の備蓄もここ数年でようやく整備されつつある。先進国に比べて20年近く遅れているのだ。日本で起きた事件であるのに、各分野での対応はあまりにも遅いといわざるをえない。わたしがもっとも重視かつ危惧しているのは、カルト(熱狂集団)対策である。世間の多くはいまでもこう思っているだろう――オウム真理教に入った者は、特別な人間であって自分たちとは関係がない、実行犯は凶悪な事件を起こして逮捕され、判決も出たのだから、あとは死刑囚に対する刑の執行が終われば、すべて完結する……。この認識は完全に間違っている。 結論からいえば、オウムに入った若者たちは、どこか遠い存在の特別な存在ではない。人生のそれぞれの課題を抱えながら、ふとした出会いでオウム真理教=カルトに入ったのだ。そして入信の動機を類型化すれば、いくつかの傾向がある。自分の体調を回復するためにヨーガの修行をする。足のO脚を改善したいという女性幹部もいた。教祖が宣伝のために利用した超能力を獲得したいという若者も多かった。自分が解脱し、信者を増やすことによって解脱者が増えていけば、この社会はよくなると思う幹部信者もいた。入り口ではそれぞれの動機から教団に入ったものの、組織の変質に伴い、凶悪事件の実行犯として出口を通過し、有罪判決をうけた信者たちがいた。入信動機の背景にある家族問題 わたしはオウム真理教に限らず、多くのカルト信者、元信者、その家族と会うことで、入信動機の背景に家族問題があると判断している。現代社会では虐待、DV(ドメスティックバイオレンス)をはじめとして家族間で問題が起きることがあり、しばしば報じられている。社会のもっとも基礎単位であり、本来なら「避難所」の機能を果たすべき場が機能不全に陥っているのだ。オウム裁判や信者への取材から、この家族問題がずっと気になってきた。たとえば教祖の側近だった上祐史浩氏(現在は「ひかりの輪」代表)。オウムの外報部長として弁明が饒舌なので、「あー言えばジョーユー」などと事件当時は揶揄されていた。かつてこの欄に寄稿したときに上祐氏が父親との関係で問題を抱えていたことや、坂本弁護士一家殺害事件の実行犯だった岡崎一明死刑囚も両親の不在があったことを指摘した(http://ironna.jp/article/1150?p=1 参照)。ある男性幹部は「いつまで教団にいるつもりなのか」と問うたとき「あの両親のもとには戻りたくない」と語っていた。 わたしは統一教会(最近名称を世界平和統一家庭連合に変更した)の信者や元信者たちから話を聞く機会も多かった。振り返ってみればこの宗教団体を取材をはじめて30年になる。信者たちは文鮮明教祖(2012年逝去)夫妻のことを「真のお父様」「真のお母様」と呼んでいた。実父母ではなく、教組夫妻が「まこと」だというのだ。その背景には――オウム信者もそうだが――一般的傾向として反抗期の欠如もあった。基本的な人間的資質として素直なのだ。誰にでもある親とのあつれき。そんなとき偶然にカルト教団と出会うことがある。いまでも東京都心の駅前では、「青年意識調査」などの街頭アンケートを取り、若者に近づく。システム化された勧誘コースのなかで、これまでにない親切な対応で接近し、精神のなかに入り込んでいく。ある有名人で統一教会に入り、合同結婚式に参加した女性からは、教団にずっと批判的だったと聞かされた。ではなぜ入信したのか。海外にいたために父の死に目に会うことができず落ち込んだとき、いちばん親切にしてくれた人たちに心を開いた。しかも「あなたがいい成果をあげることができたのは、お父さんのおかげなのだ」とも言われた。そうだと思いたかった。そしていつしかかつて批判的だった集団に入信していた。 カルトと家族問題。日本社会はこうした視点での分析や検討を全体として怠ってきた。宗教法人としてのオウム真理教は消えた。残存しているオウム後継団体の監視を強めようとも「外部」からの批判には限界がある。たとえオウム残党が消滅しても、免疫のない日本にはカルトがいくらでも侵入する。警察庁幹部は語った。「日本にどれぐらいカルトが入り込んでいるかはわかりません。事件が起きてから気がつくのです」。カルト問題は構成員の精神の「内部」から突破しなければ、問題の根本的解決に進んでいかない。地下鉄サリン事件などで社会が変わったのではなく、何も変わっていないところにこそ深刻な問題が隠されているのだ。半世紀あるいは世紀単位で見つめてみよう。オウム事件を経験した日本社会は、この20年で進歩したのだろうか。かりに死刑囚に対する刑の執行が行われようと、事件の背後に潜んでいた課題は残ったままなのだ。わたしは深い危惧をいだいている。

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    サリン事件 作家・麻生幾氏が明かす「知られざる捜査の内幕」

     地下鉄サリン事件から3月20日で20年。事件の2日後には、山梨・旧上九一色村の教団施設へ強制捜査が入り、約2か月後、教祖・麻原彰晃(松本智津夫・現死刑囚)が逮捕された。現在、麻原ら幹部13人の死刑と5人の無期懲役が確定。裁判によって、東大を筆頭とした高学歴の教団幹部たちが、麻原の洗脳によって凶行へと突き進んだ過程が明らかになった。 強制捜査初日には2500人以上が動員されるなど、日本の公安・警察が全力で戦いを挑んだ歴史的事件。『極秘捜査』の著書がある作家・麻生幾氏が、知られざる捜査の内幕を明かした。 * * * 20年の月日が、これまで語ることを許されなかった記憶を溶かしてゆく。それは例えば、警察vsオウムの戦いもそうだ。語り尽くされた感がある言葉だが、20年前の、あの時の“壮絶”さは未だに多くのことが語られていない。家宅捜査を受けたオウム真理教教団施設では入り口にバリケードがめぐらされ、捜査員らが立ち往生する場面も(産経新聞社ヘリより)=1995年3月22日、山梨県上九一色村(当時) 3月20日の夜。地下鉄サリン事件発生の夜。東京・霞が関の警察庁。壮絶な思いで集まった幹部たちが、2日後に予定されている史上最大の強制捜査の最終確認を急いでいた。 その頃、都内のある場所で、公安警察官と協力者(モニター)との接線(セッセン)が密かにもたれた。オウム真理教の中枢に位置する男は、これまで繰り返してきた〈供述〉を口にした。「昨年(1994年)6月、土谷正美(現死刑囚)の実験棟でサリンを生成。一部を松本サリン事件で使用し、製造プラントは破壊した。しかし、その時生成したサリンは残っており、隠匿されている」 警察庁首脳部は、この〈供述〉を最もレベルの高い秘密に指定。〈供述〉はもとより、男の存在ですら、警察庁の数人の最高幹部しか知らされていなかった。 たった一人のモニターの〈供述〉は、警察庁の“オウムとの戦い”の極秘の基本方針となっていた。オウムは強制捜査後も、隠匿されたサリンを使い、数百台のサリン攻撃車両を都内に走らせ、空からはラジコンヘリによってサリン攻撃を行う──その前提に立ってすべての作戦を策定していった。強制捜査の約一ヶ月前から始まったオウム内部の協力者獲得の作業は壮絶だった。半年後には、麻原彰晃逮捕後の組織内部の権力闘争さえ把握した。 冒頭の会議と同じ時間、警察庁から車で5分もかからない築地警察署。そこでの光景も語られざる記憶だ。 地下鉄サリン事件の特別捜査本部が立ち上がり、数百名にも及ぶ捜査員が熱気渦巻く講堂に参集していた。 築地署刑事課長が、緊張した面持ちで決意を新たに語った最後にこう付け加えた。「××会社さんからのご厚意で、カップラーメンを膨大に頂いた。しかし、いずれも、豚の餌にも適さない消費期限切れのものだ! いいか、オマエらはブタ以下だ! 這いずり回って捜査に打ち込め」 警視庁捜査第一課生え抜きの課長の言葉に、捜査員たちはまさに獣(ケダモノ)の目をしていた。 刑事課長の傍らの雛壇で腕組みをする捜査第一課のK幹部こそ、獣そのものだった。彼は捜査第一課長の右腕として、サリン捜査の中核的存在となった。しかし、特捜本部を指揮しながら激しい胃の痛みに堪え続けた。病院に行く時間さえ惜しんで捜査に没頭した。そして麻原逮捕の数ヶ月後、末期癌であることが発覚。間もなくしてオウム捜査にかけた生涯を閉じた。 20年の月日を経て蘇る──語ることを禁じられてきた光景は、永田町、霞が関そして丸の内や大手町のビル群の屋上の映像だ。 警察は、それら日本の政経中枢の真っ直中に存在する全省庁と主要大手企業の担当者を必死に説得した。そして、電波ジャミング用のアンテナがビルの屋上に設置されていった。警察は恐れていた。オウム保有のサリン噴霧装置付きラジコンヘリが政経中枢を襲うことを。飛来に備えて操作電波を遮断するためのアンテナの存在は極秘とされた。 封印されていた20年の記憶は数多い。地下鉄サリン事件直後、逃亡したオウム幹部たちが向かった北陸の地。ちょうど同じ頃、北朝鮮工作船が北陸エリアへ向かったことを、政府機関は電波傍受していた──。 多くのことは私も語り尽くすことはできない。全容は〈オウムXファイル〉と密かに名付けられ、現在も、警察庁警備局の特殊組織犯罪対策室のスチール棚に眠っている。文・麻生幾(作家)

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    3億円強奪 似ているグリコ・森永事件の脅迫状

    一億総探偵」とした。だが、十一万人余りが容疑者リストに上ったという捜査にもかかわらず、戦後最大の迷宮事件になった。今、犯人はどこで何をしているのだろうか。 「犯人の知られざるアジトが国分寺市の恋ヶ窪にあった。そこで奪った現金をトランクから何かに積み替えたのだ」 三億円事件の発生からすでに二十五年余り。時効になった今も、特定の地名を挙げてひとつの確信にこだわり続ける元捜査員がいる。 事件二カ月後の昭和四十四年二月から四十五年五月まで警視庁捜査一課係長として特別捜査本部に詰めていた元同一課長、斎藤訓正=のりまさ=(六七)だ。「恋ヶ窪」とは、東京の西郊、国分寺市のほぼ中央部、JR中央線国分寺駅の西北部に位置しており、地名で言えば東恋ヶ窪と西恋ヶ窪に分かれる。 斎藤がその「恋ヶ窪」にこだわるのはなぜか。 三億円事件には、犯行の痕跡、遺留品が残された「現場」が四カ所ある=図参照。 第一現場は事件が発生した府中市栄町の府中刑務所裏の通称学園通り。犯行に使われた偽の白バイ、ハンチング、発煙筒の燃えがらなどが残されていた。第二現場はそこから約一・三キロ北に離れた国分寺市西元町の武蔵国分寺跡(本多家墓地)で、奪われた現金輸送車が乗り捨てられていた。 現金輸送車が出発した日本信託銀行国分寺支店から第一現場へ向かう途中で、輸送車見張り用の草色のカローラが発見されたのが第三現場。そして四カ月後の四月九日、長期間放置されていた濃紺のカローラ(逃走用)から、ジュラルミンの空トランク三個が発見された小金井市本町団地の駐車場が第四現場だ。 斎藤はこの四現場のほかに必ず犯人のアジトがあったと強調する。 「犯行現場離脱を急ぐ犯人は、第二現場から真っすぐ第四現場へ向かったというのが定説だが、いったんは小金井とは逆方向に向かったのを、近くの親子連れが目撃している。つまり、犯人は右折しても左折しても大差ないところへ行こうとしていた。それは地理的に恋ヶ窪しかない」 犯人の車を目撃したのは国分寺市東元町の農業、本多正一(七七)と達雄(四六)の親子。犯行当日の十日午前九時半ごろ、車で東へ向かっていた二人は、丁字路になった現場(図参照)で右(南)方向から方向指示器をつけずに突っ込んでくるカローラを見つけ、曲がり角の前に車を止めた。 十二月としては珍しい土砂降りで、辺りは暗い。達雄は、座高が高く顔の長い男がカローラの運転席に身体を斜めにするように座っていたのを記憶している。「一度は左折しようとしてわれわれの車にぶつかりそうになり、いったんバックし、今度は右折して猛スピードで去っていった」 斎藤は、この「出合い頭」をもっと重視するよう捜査会議で何度も主張した。しかし、発生直後の有力情報のはんらんや、捜査上の余裕が少ないとの理由でなかなか受け入れられなかったという。 しかし四カ月後、第四現場で発見された車内に残されたトランク内には親指大の泥が付いていたことが分かった。現金を抜き取った場所の土が付着したとしか考えられない。斎藤は、さらに推理を進める。 「真っすぐ小金井に向かったとすると、第二現場の本多家墓地のほかに泥が付く場所はないが、泥の種類が全く違った。恋ヶ窪のアジトで金を地面か大きな袋かにぶちまけた際、トランクに泥が入ったとは考えられないか」 泥は四十四年十月、警視庁科学捜査研究所で調査したところ、府中、小金井などのものとは明確に異なっており、泥中から見つかったケヤキなどの木の実や葉などから国分寺市の土と類似していた。また樹齢二十年以上の大きなケヤキがある場所だということも分かった。 さらに東京原子力産業研究所(川崎市)でアイソトープを使って精密鑑定した結果、翌四十五年三月末になって砂、鉄分の量が恋ヶ窪の雑木林のものと酷似していた。 恋ヶ窪地区は日本信託銀行国分寺支店に近い。当時はまだ、雑木林や空き地も多かった。また、府中刑務所からは約四キロしか離れておらず、第四現場にも車で七、八分でいける。 そうした事実を踏まえ、斎藤は「小金井に運んだカローラの中で現金をトランクから抜き取ったという説も根強かったが、車中は狭いし無理があった。恋ヶ窪のアジトで作業を済ませ、空きトランクごと小金井に捨てにいったのだ」と推理する。 捜査本部は遅ればせながら恋ヶ窪地区に重点を置き、大きなケヤキのある屋敷、学校などを中心に地取り、聞き込みを行った。だが「これというものは出なかった」(幹部捜査員)。 “アジト”はとうとう発見されなかった。捜査員の中にも「(恋ヶ窪重視論は)推測の域を出ないのでは」という声があった。 だが、「捜査初期は情報、捜査材料が多過ぎ、本当のポイントを見逃しかねない状態に陥っていた」という斎藤の胸中には、もう少し早く「恋ヶ窪」に目をむけていたらとの思いがよぎる。同時に「自分の捜査方針が正しかったのかどうか、今となっては分からない」ともいう。 【三億円事件】 昭和43年12月10日、日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車が東芝府中工場の従業員のボーナス2億9434万1500円を輸送中、府中市栄町の府中刑務所わきの路上で偽の白バイ警官に停止を命じられた。白バイ警官に化けた犯人は「支店長宅が爆破された。この車にも爆薬が仕掛けられたという情報があるので調べさせてもらう」と乗っていた運転手ら四人を下車させ、四人が避難したスキに現金を積んだ車ごと逃げた。事件は昭和50年12月10日、刑事時効、63年同日に民事時効を迎えた。派手な犯行と多数の遺留品派手な犯行と多数の遺留品 現金約三億円。昭和四十三年当時のこの金額は、現在では二十数億円に相当するという。加えて、白バイ警官を装った大胆な手口とオートバイ、車を使ったスピーディーな犯行である。日本の犯罪史の常識を覆すこの事件が起きたとき、海千山千のベテラン捜査員や事件記者たちは、どんな行動をとったのだろうか。 事件発生は昭和四十三年十二月十日午前九時二十分過ぎのことだった。火曜日の朝である。 その直後、警視庁記者クラブと産経新聞社会部デスク席を結んでいた通称“ガラガラ”と呼ばれる手回し式の直通電話が鳴った。 泊まり勤務明けで近くにいた中堅遊軍記者、細谷洋一(六一)=現日本工業新聞社社長=が、その電話をとった。 「府中で三億円が奪われたって? ばか言え。寝ぼけてるんじゃないか」 細谷は三百万円か三千万円の間違いだろうと思った。だが、よく聞くと輸送中のボーナスだという。それならありうるかと納得したが、それでもあまりの金額の大きさに、容易に信じられなかった。 「記者がこれだけびっくりしたんだから、警官だってびっくりしただろう」 社会部、整理部など、夕刊づくりが始まったばかりの編集局内は騒然となった。すぐさま取材班が組まれることになり、警視庁担当記者からの原稿を一面トップ用に書き換えた細谷も、現場キャップとして府中市へと向かった。 事件発生時の警視庁機動捜査隊長で、四十四年四月からは捜査一課長として事件の陣頭指揮をとった武藤三男(七六)=東京都国分寺市在住=は発生直後、無線で報告を受け、現場へ急行した。 「少なくとも警視庁管内でそんな事件が」と耳を疑ったという。 「犯人はいくら運ばれているかを承知して現金輸送車を狙った。状況からみてそれは間違いない。けどね、三億円なんて普通、強奪されるって考えられる額じゃなかったよ」 当時の武藤の月給が五、六万円。「仮に毎月十万円をもらうとしても年百二十万円、十年で一千二百万円、百年でやっと一億二千万円。ふとそんな計算もしてみた」三億円事件で犯人が放置した車とジュラルミンケース=昭和44年4月9日、東京・小金井市 だれもが強奪された金額の大きさに驚いた。しかしその一方で捜査員や取材記者たちの間にも、「犯人は年内にも検挙される」という一種の楽観論が発生直後からあったのも事実だ。 事件の派手さに加え、約百二十点にも上る遺留品があったからだ。 当時、警視庁捜査一課長代理で、四十九年三月からは同課長を務めた南雲寛治(七三)=埼玉県越谷市在住=も、事件発生を聞いたとき、「本当かよ」と驚きつつも早期解決を確信したという。 「捜査材料はたくさんあったし、真っ昼間に行われた大胆な犯罪で目撃者もいた。当初は年内解決だと、上司はもちろん所轄署の末端までその意気込みで頑張った」 このときの捜査一課係長で、後に五十年三月から時効(同年十二月十日)まで特別捜査本部キャップを務めた北野一男(七三)=東京都板橋区在住=も、「発生時は常識的に“これはいただきだ”という空気が現場にあった。刑事はみなおれがホシ(犯人)を挙げてやると張り切っていた」と回想する。 また、北野の前の特捜本部キャップで、名刑事として名声が高かった平塚八兵衛(故人)は五十年九月、産経新聞のインタビューにこう話している。 《今になって初動捜査の失敗がいろいろいわれているが、被害調書をとるにしても「ホシはじきにつかまる」といった軽い気持ちがあったようだ》 だが、発生から五年もたったあと捜査一課長となった南雲は、当初の見込みとは全く逆の展開で何とも「気が重い」状態で事件を引き継ぐことになる。 「いわゆる難事件。今後どう捜査を進めたらいいのか、見当もつかなかった」と南雲は振り返る。 奪われた巨額の金の行方もさっぱりつかめなかった。五十年五月から捜査本部に投入された石井千代松(六七)=東京都台東区在住=は、金が動きそうなところは微に入り細にわたりチェックしたと強調する。 「大変な金額を強奪した犯人がそれを捨てたわけはないが、百万円以上の金が動いた形跡がないんだ」 結局、延べ捜査日数二千五百五十五日、捜査費用約十億円(人件費を含む)をかけても、犯人は捕まらず、それどころか「十一万人以上の男を洗っても、容疑者らしい容疑者すらほとんど見つからなかった」という元捜査員もいる。 北野は慨嘆する。「この三億円事件で金の価値観が変わった。これが、後のバブルだか何だとかカネ、カネの世の中につながったんじゃないかな」 三億円事件が起こる以前、戦前戦後を通じて被害額が最高だった現金強奪事件は、昭和四十年九月、青森県弘前市の青森銀行弘前支店前で起こったひったくりで、被害額は三千百万円。多額とはいえ、三億円事件の十分の一。犯人は、約二カ月後に捕まった。 労働省によると、平成五年の大卒男子の初任給は平均十九万三百円と、事件発生の年の二万九千八十円から約六・五倍になった。また、犯行現場の東京都府中市栄町の地価公示価格は一平方メートル四十二万八千円で、犯行当時の一万九千円の実に二十倍以上となっている。すさまじかった取材合戦すさまじかった取材合戦 昭和四十三年十二月に起きた三億円強奪事件の捜査は、年が明けて四十四年になっても進展をみせず、新聞、テレビなどの取材合戦ばかりがエスカレートしていった。 ともに捜査の指揮をとった武藤三男(七六)、南雲寛治(七三)の両元警視庁捜査一課長はこう振り返る。 「毎晩、十一時か零時ごろ麻布の公舎に戻ると、新聞社の夜回りの車がズラッと並んで待っていた。各社とも、個別に(捜査状況など)聞きたいというんだが、一人三分でも二十人で一時間かかった」(武藤) 「帰宅後も、(新聞の)締め切り時間までは記者の相手をした。四六時中、寝かしてほしいと思っていた」(南雲) そうした日々が続いていたころ、毎日新聞が朝刊一面トップで“スクープ”記事を載せる。事件からちょうど一年後の四十四年十二月十二日のことだった。 《三億円強奪事件の東京・府中署捜査本部は、三多摩地区の運転免許所有者、仮名タイプ経験者を中心に捜査していたが、十一日夜になって府中市に住む元運転手A(二六)が容疑線上に浮かび、重要参考人として同夜から極秘に身辺捜査をはじめた》 毎日新聞は続けてこの日の夕刊でも、Aの重要参考人取り調べを報道。捜査本部が夜、Aを別件(脅迫容疑)で逮捕するに及んで、翌十三日付朝刊では写真入り実名報道を行った。 Aは犯行現場に近い小金井、国分寺両市内で牛乳配達のアルバイトをしていたほか、小金井市内のタクシー会社の運転手の経験があり、自動二輪車の運転もできた。身長は“犯人像”と開きがあったが、捜査本部はAをマークしていた。 “スクープ”を書いた元毎日新聞警視庁担当記者の一人は「あのとき、Aの身辺調査資料が(捜査本部の)警部補以上クラスの四、五人に配布されていた。本部幹部はみんなAに間違いないと確信していた」と証言、こう回想する。 「毎日新聞内部でも記事を載せるかどうか意見が分かれたのだが、結局ゴーサインが出た。新聞社という所はいったんやるとなると、冷静な者や慎重な意見は異端になってしまう」 捜査一課長としてA逮捕に踏み切った武藤は次のように明かす。 「Aさんに対しては極秘で四、五カ月間にわたって内偵していた。それが、明日にでも任意で呼んで事情聴取をやろうという晩に、毎日の記者がAさんの聴取の件を私にこと細かにぶつけてきた。知らないとも言えなかった」 一課係長だった斎藤訓正(六七)も、この日のことをよく覚えている。「家で寝ていたら、刑事部長(土田国保)から『もう毎日を抑えられない』と電話がかかってきた。私の見込みでは、あと少しの捜査でシロクロがつくはずだったのだが…」 武藤は、この段階でAの聴取をあきらめようかとも考え、土田に相談したというが、結局、任意同行は実行された。 別件逮捕の段階で産経新聞を含め各紙も実名報道したが、三億円事件への容疑の濃さの判断はまちまちだった。産経新聞の府中現場キャップだった細谷洋一(六一)=現日本工業新聞社長=はシロ説、クロ説を併記、見込みは五分五分とする記事を書いた。 「産経もAの周囲を調べていたが、現場の私たちは犯人とは違うと思っていた。ところが、警視庁記者クラブ担当はクロに近い感触を得ていた。現場キャップとしては板挟みになったわけで、ほとほと困った」 当時、自宅離れ屋にAを下宿させていた府中市の主婦(七六)は「刑事はもちろん、新聞社やテレビ局から何人も何人も記者が来て大変だった」と話す。 逮捕の数日前には、この主婦のところへ捜査員がAについて様子を聞きに来ていた。「それでAさんに『あなた疑われているみたいよ』と言ったんだけど、『そうですか』とすました顔だったわ」 捜査本部はAの供述内容、アリバイがあいまいだとして、長時間にわたり取り調べを続けたが、Aは犯行を否認した。自宅の捜索の結果からも、犯行に結びつく物証は得られなかった。 逮捕翌日の十三日午後、細谷は府中署のトイレで武藤と隣り合わせになった。顔色が青い。細谷がどうしたのかと聞くと、武藤は「三十分たったら発表する。まいった」とだけ語り、立ち去った。 同日夜、Aは釈放された。細谷は、そのときのことを思い浮かべながらこう言う。「事件当日、入社試験を受けに行っていたことが分かり、アリバイが証明された。私は(自説が正しかったので)涙を流して泣いた。事件が解決しなかったのに泣いたのは初めてだった」 別件逮捕は人権侵害、名誉棄損の問題に発展、写真入り実名で報じた各紙もそれぞれ反省を迫られた。読者からは、新聞は大々的に書き立てておきながら、釈放後は一転して警察捜査の人権軽視に話をすり替えた-という厳しい批判も受けた。 毎日新聞は十五日、社会部長署名で「『三億円事件』の反省」という釈明記事を載せた。 府中署は、市民からかかる抗議の電話への対応に追われた。斎藤らがAの実家を訪れ謝罪したが、捜査に対する世間の目は厳しくなり、非協力的な態度にぶつかることも多くなった。 細谷によると、「別件逮捕はそれまで珍しいことではなく、殺人事件など重要犯罪のときには常とう手段だったが、このとき以来やり方が変わった」という。 三億円事件はそれまで見逃されてきた警察捜査、犯罪報道の在り方を白日にさらし、その流れを変えるという副産物も生んだ。だが、ショックを受けたAはその後、仕事を転々とするハメに追い込まれ、今もその消息はよく分からない。3つの壁が捜査を阻んだ3つの壁が捜査を阻んだ3つの壁が捜査を阻んだ 昭和五十年十二月十日午前零時、三億円強奪事件は刑事上の時効を迎えた。四十三年十二月の発生以来、私生活を犠牲にして捜査してきた延べ十七万人の刑事たちの七年間は報われなかった。7年間の捜査実らず、時効当日を迎え三億円事件特別捜査本部の看板が外された=昭和50年12月10日午前0時、東京・府中署 最後の特別捜査本部キャップとなった元警視庁捜査一課管理官、北野一男(七三)は、このときのことを話すのはつらい、と言う。 「発生時も雨だったが、時効の日も雨だった。最後まで涙雨を降らせやがってと思っていたら、深夜にはみぞれ雪になった」 当時、捜査本部には、事件の解決を祈って岩手県の婦人が送ってくれた風鈴が夏からつるしっ放しになっていた。「なんか(芭薫の)“夏草や 兵(つわもの)どもが夢の跡”って感じだったよ」 それではどうして、複数の人に目撃され、百二十点にも及ぶ遺留品を残した犯人が、警察の大捜査網をくぐり抜けられたのだろうか。 事件を担当した元警視庁捜査一課長、武藤三男(七六)は、その理由として次の三点をあげる。(1)大量消費経済の発展という時代背景があり、遺留品に個性が少なかった(2)地取り、聞き込みが必要な捜査範囲が広すぎた(3)全盛期の大学紛争が捜査の妨げになった-がそうだ。 「(ハンチング、コート、発煙筒など)遺留品はどれをとっても盗品か大量生産されてどこででも手に入るものばかり。たどっても犯人とのつながりは途中で切れる。犯行現場を見ても、四つの『現場』のほか、犯行に使った道具(車、オートバイなど)を盗んだ日野市の団地、犯人が脅迫状(メモ参照)を送り付けた多磨農協のある府中市-と関連地域をあげればきりがなく、重点を絞れなかった」 平日の日中の犯行だったことや、現場付近に東京学芸大、東京経済大、東京農工大など大学が多かったことから、犯人像の一つに“学生”も浮かび上がった。しかし、「捜査方針として、組織的に学園に入ってやるのはまずい」と大学内での捜査をしないことが決まったという。 四十三年は大学紛争が吹き荒れ、東大、日大をはじめ、全国百十六大学で紛争が起きていた。当時はまだ、捜査のためキャンパスに入った私服刑事がリンチを受けるような時代だった。捜査員が大学に入れなかった裏には、そんな事情があった。 一方で、初動捜査の在り方を問題視する声も多い。当初、「これだけの事件、犯人は必ずどこからか浮かんでくるという楽観論が幹部にあった」(捜査員)ためか、「捜査はスタートが肝心」という原則が生かされていなかったというのだ。 初動捜査で見逃されたり、軽視されたりしたことの中でも、特に事件発生五日後、自宅で青酸化合物を飲み自殺したB少年(当時十九歳)の存在が捜査員らの心にひっかかっていた。 Bは「立川グループ」という五、六十人の非行少年グループのリーダー格だった。このグループは、東京都立川市のスーパーを発煙筒で襲撃したことがあり、銀行の現金輸送車を強奪する計画を話し合っていたことも分かっている。 さらに父親は当時、現職の白バイ警官で、当然Bも白バイの外見や構造に詳しい。乗用車の窃盗歴もあるほか、事件当日のアリバイもはっきりせず、土地勘もあった。 Bは自殺前から、捜査本部にマークされていた。しかし、自殺後にシロ(無関係)と発表され、その後、名刑事といわれた捜査本部キャップの平塚八兵衛(故人)らによって再び身辺捜査が行われたが、シロの判定は変わらなかった。 しかし、元警視庁捜査一課長の斎藤訓正(六七)は「立場上口に出せなくても、捜査員の多くはBへの疑いを捨て切っていないのではないか」と言い切る。また、同じく捜査員の石井千代松(六七)も「B犯行説は、時効直前の昭和五十年の時点でも強かった」と証言する。 ある捜査幹部は、Bが再度シロとされた時点で、当時の警視庁副総監から「本当にBじゃないのか」と電話で念を押されたという。 Bがシロとされたのは、三億円事件の犯人からだったとされている多磨駐在所へ脅迫状が郵送された四十三年八月二十二日には、東京・練馬区の東京少年鑑別所にいたこと。さらには、日本信託銀行国分寺支店に届いた脅迫状と筆跡も違っていたこと-などの理由からだったという。 しかし、これは犯人単独説でのみ成り立つ論で、複数犯であれば証明とはならない。 立川グループの仲間関係を調べたという石井は、Bには自殺する理由が見当たらないのが疑問だ、ともいう。 「どうしてそれまでは居つきもしなかった自宅で、しかも父親が隠していた青酸カリで自殺する? Bの仲間の話でも『自殺するようなやつじゃない』という点で一致していた」 それにしても、なぜ「状況的に最も疑わしい容疑者」(幹部捜査員)が自殺したことを、初動時に徹底的に究明しなかったのか。徹底さに欠けていたのは、Bの実家の家宅捜索すら行われなかったことでも分かる。 ある幹部捜査員は、当時の状況をこう説明する。 「Bの父親が警視庁関係者ということで、捜査が慎重になっていた。当時は捜査材料が多過ぎて、たとえBが真犯人でも、すぐに捜査を詰めなくても、いずれ他方面から浮かんでくると思っていたこともあったのだろう」 むろん、Bが「無実」と判定された事実は今も変わりはない。ただ、捜査員たちの間には「犯人でないにしても、きちっとつぶしておきたかった」との悔いが残った。そのことが、心理的にその後の捜査を逡巡(しゅんじゅん)させたことは否めないという。 【メモ】 犯人と思われる男は事件発生前の昭和43年の4月25日、5月25日、6月14日、6月25日、7月14日の5回にわたって府中市の多磨農協にあて現金を要求する脅迫状を送り付けている。また7月25日には同市の府中署多磨駐在所に「爆破する」との脅迫電話があり、その後脅迫状も届いた。毎月25日は東芝の給料日、6月14日は夏のボーナス日で、警察の動きを観察するためとも思われるが、多磨農協と東芝に直接関係はなく、目的ははっきりしない。さらに、事件直前の12月6日には、日本信託銀行国分寺支店に現金300万円を求め、「拒否した場合は東京・巣鴨の支店長宅を爆破する」という脅迫状を送り付けた。これが、現金輸送車強奪の際、運転手らが発煙筒の煙をダイナマイトと信じ、簡単に車を離れる伏線となった。似ているグリコ・森永事件の脅迫状似ているグリコ・森永事件の脅迫状 三億円強奪事件が刑事上の時効になったのは昭和五十年十二月十日。カウントダウンに入った九日深夜、各テレビ局は特別番組を組んだ。ニールセン調査によると、遅い時間帯にもかかわらず、視聴率は極めて高かった。 NHKが午後十時十五分から放映した「三億円強奪事件」は11・7%を記録した。前日の同時刻が1・2%だったことを考えると、実に十倍の数字だ。 民放でも日本テレビ「11PM『時効成立!』」(午後十一時十五分から)が8・3%、NET(現テレビ朝日)「ザ・23『時効!三億円事件』」(午後十一時十分から)が6・7%など-軒並み好成績だった(数字はいずれも関東地方)。 この異常なまでの三億円事件への関心を象徴するかのように、捜査関係者以外からも事件について、さまざまな推理が飛び出した。 「過激派による闘争資金集め」説や「左翼活動家が多数住む多摩地区を捜査しやすくするための警察内部犯行」説-などがその代表といえる。むろん、何の根拠もない。 三億円事件と十六年後の昭和五十九年に起きた「グリコ・森永事件」との犯人類似説をとなえているのが、直木賞作家の井出孫六(六二)だ。 井出は、ちょうど三億円事件が発生した時間、府中市の現場からわずか数百メートル離れたバス停で、当時勤めていた出版社に出勤するため国分寺駅行きのバスを待っていた。それ以来、事件への関心は人一倍強い。 「三億円事件の犯人が多磨農協に送った脅迫状と、グリコ・森永の“かい人21面相”が警察に送り付けた挑戦状(メモ参照)は論理構成が似ている。東京弁を河内弁に置き換えたらそっくり。時間の経過を考えたら、犯人の年齢だって一致するでしょう」 同一犯人といえるほどの論拠はないが、脅迫状によって犯行の“環境”づくりをするといった犯行計画の周到さに加え、犯人が(1)犯行現場の地理に詳しい(2)車の運転がうまい(3)緊急配備と大捜査(ローラー作戦)をくぐり抜けている-など両事件の共通点は多い。 そのグリコ・森永事件も未解決のまま、まもなく発生から十年を迎えようとしている。 ちなみに、三億円事件の十七日後の四十三年十二月二十七日には、京都市の国立近代美術館で開かれていたロートレック展の会場から名画「マルセル」が盗まれるという事件があった。 七年余りたった五十一年一月、大阪の会社員が「絵を預かっていた」と警察に届け出て、絵はフランスに返還されたが、すでに時効を過ぎており、この事件も迷宮入りとなっている。 犯罪の多様化、複雑化とともに、その捜査も転換を迫られようとしていた。 ともあれ、発生から二十年たった昭和六十三年十二月十日には民事も時効となり、事件は遠い出来事になった。もしも今、犯人が現れたらどうなるか。 警視庁の公式コメントは「(犯人が現れたら)所要の捜査を行うことになります」。とはいえ、捜査権は公訴を前提としているため、実際には任意で事情聴取をするぐらいしかできない、という。 犯人への課税の可能性はどうか。「法定申告期限は最高で七年。三億円事件の場合のような不労所得も課税対象だが、七年を過ぎるとうちの方では何もできない」(国税庁) 直接の被害を受けた日本信託銀行は「昔の話であり、取材はご勘弁いただきたい」と、コメントを拒否した。同銀行に被害額と同額の保険料を払った日本火災海上保険は「すでに公的には求償不能だが、犯人が判明した場合には、その時点で対処方法を検討したい」(大久保武史・海損部長)という。 かつて三億円事件の特別捜査本部があった府中署刑事課には、今も犯行に使われた偽白バイのナンバープレートが、縦約五十センチ、横約八十センチの額に入れて飾られている。 「時代が移り署員は変わっても、府中署は府中署。刑事らが自分たちの仕事の思い出を風化させず、いつまでも忘れないように残した、ということです」と村上邦昭副署長は話す。 署内に二十三年間以上にわたって保管されてきた偽白バイの本体は二年前に処分された。その際「現役捜査員の強い要望で、ナンバープレートだけは保存することになった」(同署OB)という。 三億円事件の犯人を追い続けた刑事魂は受け継がれている、ということだろうか。同署には、今も年に数件、「あいつが犯人じゃないか」と、情報提供の電話がかかってくる。 民事の時効が成立したちょうど同じころ、事件の関係者の一人が結婚した。被害者である日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車を運転していたC運転手である。 Cが他の三人の行員と一緒に事件に遭ったのは三十一歳のときだった。白バイ警官を装った犯人から「ダイナマイトが車に仕掛けられた」と脅された際、キーを抜かずに車を離れたことから、初期には犯人と“グル”ではないかと疑われたこともあった。 疑いはすぐに晴れたものの、Cはその後「事件が終わるまで結婚はできません」と二十年間、独身を貫き、結婚したときは五十歳を超えていた。 (文中敬称略)

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    赤軍派、官邸襲撃・首相逮捕を狙う

    中から「革命戦争に向けた武装蜂起」を掲げる「赤軍派」が登場した。あまりにも過激なその行動は、「よど号事件」を経て「連合赤軍」を派生、十二人の仲間を殺した「山岳アジト事件」や「浅間山荘銃撃戦」を引き起こした。やがて赤軍派は四散してしまうが、「昭和元禄」といわれた高度成長社会に与えた衝撃は小さくなかった。共産同の分裂から誕生──武装蜂起を掲げ 「霞が関や永田町の政府中枢の一角を占拠して『人民政府』樹立を呼びかけ、三日間でも持ちこたえて玉砕すれば、政治闘争の局面も大きく流動化させることができるはずだと思った」 「赤軍派」元議長、塩見孝也(五二)=京大中退=は二十五年前をこう振り返る。 結成時からの赤軍派のリーダーで仲間からは「日本のレーニン」といわれた塩見が出所したのは平成元年十二月のこと。破壊活動防止法違反(予備・陰謀)などで懲役十八年の実刑判決を受け、未決拘置期間も含めて十九年九カ月に及ぶ獄中生活だった。 その二十五年前の昭和四十四年、日本国内は沖縄の返還交渉をめぐって揺れ動いていた。 この年、米国が「共産化を防ぐ」として南ベトナムに派遣した兵力は朝鮮戦争を上回る五十万人以上に達し、中でもB52戦略爆撃機をはじめとする沖縄駐留の米戦力が重要な役割を果たしていた。 日米安全保障条約に付属する交換公文では、日本からの米軍の戦闘作戦行動や、(核兵器持ち込みなど)重要な装備変更を両国政府の「事前協議」の対象としているが、社会党など野党勢力は沖縄返還を機に事前協議を骨抜きにしようとしている、として激しい政治行動を展開した。 さらに、「大学闘争」の勢いを再び拡大させようとする新左翼勢力は、日米首脳会談のため十一月十七日に予定された佐藤栄作首相の訪米実力阻止を叫んでいた。 だが、もっと破天荒なことを考えていたのが「共産主義者同盟(ブント)」内の、急進的な勢力が結成した共産同赤軍派だった。 東京・永田町の首相官邸を武装襲撃し占拠するという過激な計画だった。しかも、その際、「人民の名において」佐藤首相を“逮捕”することまで行動目標に含んでいたという。昭和44年11月5日、山梨県の山荘「福ちゃん荘」前で機動隊に逮捕された赤軍派学生ら。首相官邸を占拠する計画だった 塩見は今、「急進民主主義の極左路線(テロリズム)は間違いで、否定されなければならない」と言い切る。だが、当時の赤軍派はゲバ棒と火炎ビンで機動隊と渡り合っていた新左翼各派をはるかに超える「武闘路線」を突っ走ろうとしていた。 佐藤首相訪米に先立つ十月二十一日の「国際反戦デー」に向けて、鉄パイプ爆弾の製造に成功、都内の東京薬科大構内に約六十本を運び込んでいた。しかし、これを警視庁に押収されてしまい、爆弾闘争の火ぶたを切ろうというもくろみは失敗した。 それから約二週間後の十一月三日。東京から西に約百キロ離れた山梨県塩山市の大菩薩峠にある山小屋「福ちゃん荘」に、ナップザックなどを背負ったハイキング姿の若者たちが三々五々集まってきた。「ワンダーフォーゲルの合宿」という触れ込みだったが、全国の大学などから集められた赤軍派の学生だった。その数は約五十人。高校生もかなり含まれていた。 「10・21闘争の失敗は“軍事技術”の未熟さによるもので、それを克服するための軍事訓練が必要だと考えた」と塩見は総括する。そして、「政府中枢占拠は、この軍事訓練の結果をみて決めることになっていた」ともいうが、一方で赤軍派内部では、「首相官邸襲撃-占拠」の準備が着々と進められていた。 そのための武器として、再び強力な破壊力を持つ鉄パイプ爆弾が、福島医大や弘前大などの赤軍派学生によって秘密のアジトで大量に製造された。親せきなどが持つ猟銃をこっそり持ち出す作戦も練られた。オノやナイフなどの武器も集められた。 だが、その「首相官邸占拠」も結局は幻(まぼろし)に終わる。 この少し前から、公安当局は過激な武闘路線をとる赤軍派にようやく警戒を強めはじめ、割り出したメンバーの張り込みを続けていた。その監視の網に、千葉市内のアジトから大菩薩峠での軍事訓練に参加しようとした赤軍派学生がひっかかったのだ。 総武線から中央線を乗り継いで現場に向かう学生を千葉県警、警視庁がリレーして尾行。「福ちゃん荘」が突き止められた。十一月五日未明、政治局員二人も含めた五十三人が凶器準備集合罪容疑などでいっせいに逮捕された。 この知らせを塩見は、連絡場所にしていた都内の喫茶店で聞いた。「公安当局に簡単に尾行される未熟さを露呈したという恥ずかしさと、赤軍派は口先ではなく本気で武装蜂起しようとしていることが、これでわかってもらえるとも思った」と複雑だった。 赤軍派が結成されたのは四十四年五月のことだった。四月二十八日の「沖縄返還デー闘争」が、結局は圧倒的な警察力に封じ込められたという「総括」から、「関西ブント」を中心に生まれた。しかし、ブント内の反対派との抗争は激しく、七月には塩見ら赤軍派の四人が東京・駿河台の中央大に約二十日間も監禁されるという事件が起きる。 このとき、塩見とともに捕らえられた赤軍派の元政治局員、物江克男(四六)=当時、滋賀大生=は、監禁中に携帯ラジオで米国のアポロ11号が人類初の月面着陸に成功したニュースを聞いたのをいまでも鮮明に記憶している。 物江は「人類史が、そして社会が動いている」と奇妙な感動にとらわれた。しかし、物江にはそのとき、赤軍派やその後の自分の運命がどうなっていくのか、予測するすべもなかった。結成直後から死者出す凄惨なスタート結成直後から死者出す凄惨なスタート 昭和四十四年七月二十四日深夜、東京・駿河台にあった中央大学校舎の三階から同志社大生、望月上史=当時(二二)がコンクリートの中庭に転落した。頭部を割っており、新宿の病院にかつぎこまれたが、意識不明のまま二カ月後に死亡した。 望月は「革命戦争に向けた武装蜂起」という急進路線を叫び、共産主義者同盟(ブント)内部で激しい対立抗争を引き起こしていた「赤軍派」の指導部メンバーの一人。同派議長の塩見孝也(五二)ら三人と、反対派によって監禁されていた。すきを見て備え付けのホースで脱出しようとして滑り落ちたのだ。 ともに脱出した物江克男(四六)=当時滋賀大生=によると、望月は反対派のリンチで腕を激しく痛めていた。物江は望月と二人になったとき「脱出は無理だ。おれも残るから、塩見さんたちだけ逃そう」と提案したが、望月は「いったん決意したらやり切るしかない。それが政治だよ」といって受け付けなかったという。 二年半後には、派生した「連合赤軍」内の同志殺害で多くの犠牲者を出すことになる赤軍派は、結成直後から死者を出す凄惨(せいさん)なスタートを切った。 赤軍派は四十四年、「早急に軍隊を組織し、銃や爆弾で武装蜂起しなければならない」と過激な主張とともに登場した。ところが、その年の秋の「10・21国際反戦デー」での“蜂起”は不発に終わった。「首相官邸武装占拠」を狙って、山梨・大菩薩峠で行った軍事訓練も警察に察知され、集まった大学生や高校生ら五十三人の全員逮捕と、いいところがないままだった。 大菩薩峠での失敗から一、二週間後の四十四年十一月中旬、赤軍派指導部は早くも次の行動に移った。 「国際部長」の肩書を持つ元京大生が結婚したばかりだったのを利用し、新婚旅行と兼ねて、二人を米国、メキシコ経由でキューバに“密使”として送り出したのだ。 「世界は帝国主義時代から社会主義時代に向かう過渡期」だとする「過渡期世界論」の上に立って、社会主義国キューバのような「労働者国家」の内部に「武装根拠地」をつくり、そこでの闘争と軍隊建設を通じて「世界革命戦争」に向かおう-という独特の「国際根拠地論」を打ち出していた。 この理論をもとに活動の舞台を海外に求めようとしたのだが、裏返せば、日本国内での「蜂起路線」が挫折したことによる事実上の“国外転戦”であった。 キューバに派遣された元京大生が帰国したのは翌四十五年三月のことだった。「キューバ側は受け入れてくれる」との感触を得て、塩見自身の出国も含めてキューバ行きの検討が始まった。 しかし、指導部の大半には逮捕状が出ており、ハイジャックなどの強硬手段に出る以外、合法的に日本を出国するのは難しい。 そのうえ、検討がかなり煮詰まった同月十五日、すでに「首相官邸武装占拠」を図ったとして破壊活動防止法違反容疑で逮捕状の出ていた塩見が、都内のアジトを出たところで逮捕されてしまった。 最高指導者の逮捕で組織内は大きく動揺した。塩見も留置場から弁護士を通じて「すべてを白紙に戻すように」との意向を伝えたという。しかし、同派ナンバー2だった田宮高麿(五〇)=元大阪市立大生=は、塩見逮捕から半月後の三月三十一日、小西隆裕(四八)=元東大生=ら八人とともに羽田発福岡行きボーイング727型日航機「よど号」のハイジャックを決行し、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に渡った。1970年4月、北朝鮮関係者の要求で自分たちの武器を提示する赤軍派の学生ら =平壌(朝鮮通信=共同) そのほぼ一年後の四十六年二月、こんどは赤軍派結成当初からの幹部活動家だった元明大生、重信房子(四八)が出国に成功する。 元京大生、奥平剛士(イスラエル・テルアビブ空港乱射事件を起こして死亡)と婚姻届を出して新しい名前でパスポートを取得し、“新婚夫婦”として国外に脱出したのだ。重信は日本から仲間を呼んで「日本赤軍」を組織した。現在もパレスチナ・ゲリラとともに活動している。 北朝鮮に着いた田宮らはいずれキューバに向かう計画だったが、そのまま留め置かれ、北朝鮮の社会主義建設理論「主体思想」を叩(たた)き込まれ、これに同調していくことになる。そして、今は当時の赤軍の路線を「極左冒険主義」だったとして自己批判している。 現地で病死した吉田金太郎(事件当時、二十一歳)=元工員=と、昭和六十年にひそかに日本に帰国して生活しているところを同六十三年に逮捕されて現在拘置中の柴田泰弘(四〇)を除く七人が、いまも北朝鮮にとどまっており、小西らは貿易ビジネスにも従事しているという。 四年前に服役を終えた塩見は、すでに二回北朝鮮を訪れ、田宮らと二十年ぶりに再会した。 塩見によると、北朝鮮国籍の女性と結婚した一人を除いて田宮ら六人は北朝鮮に渡った在日朝鮮・韓国人などと結婚し、子供も全部で十七人いるが、ハイジャックの刑に服さない形での帰国を求める意思を変えていない。 塩見もこれら家族の日本帰国支援で積極的に動いている。しかし、日本政府との交渉による「無罪帰国」が事実上困難だと認めたうえで、「帰国して日本人民に尽くすのが筋だが、無罪帰国ができなければ、それもたかがしれている。それなら、北朝鮮にとどまって、日朝友好に尽くすほうがいいかもしれない」ともいう。 米国防省襲撃も夢見る米国防省襲撃も夢見る <赤軍派は最高指導者の元京大生、塩見孝也(五二)が逮捕されながらも、昭和四十五年三月、「国外に革命戦争の根拠地をつくる」として元大阪市大生、田宮高麿(五〇)らが日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に出国した。事件後、国内に残った指導部のメンバーが次々に逮捕され、組織は壊滅的な打撃を受けた。 このため、有力な活動家でありながら、前年夏の共産主義者同盟(ブント)内部の流血抗争に耐えられず「戦線離脱」していた元大阪市大生、森恒夫(当時、二十五歳)が指導者に浮上した。 森は幹部らの出国後に手薄になる赤軍派の国内指導体制を補うため、「よど号事件」の直前に説得され「一兵士から再出発する」と決意表明して復帰したばかりだった。その森に率いられた赤軍派が二年後、新左翼武闘派「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」獄外指導部の元共立薬科大生、永田洋子(四九)や元東京水産大生、坂口弘(四七)らとつくった「連合赤軍」で十二人もの同志リンチ殺人を引き起こすことになる。 それはともかく、「よど号事件」後の組織弱体化を阻止するため、赤軍派が打ち出したのが「PBM作戦」だった。P(ペガサス=天馬)は塩見ら獄中幹部の奪還、B(ブロンコ=北米西部に生息する野生馬)は国際根拠地の建設、M(マフィア)は革命資金奪取を意味した。 当時の「赤軍中央軍」幹部の一人は最近、産経新聞への証言で、このB作戦の一環として、米軍事機構の中枢であるワシントンの米国防総省(ペンタゴン)に対する武装襲撃まで含まれていたことを明らかにした。どこまで具体的に計画されていたかは不明だが、「世界革命戦争」を呼号していた赤軍派の特徴がよく示されている。 しかし、実際にはP、B両作戦は力量不足から実行に移されることはなく、森が指導する赤軍派は金融機関を狙ったM作戦にのめり込んでいく。 昭和四十六年二月二十二日夕、千葉県市原市辰巳台にある市原辰巳台郵便局に白マスクをした二人の男が押し入った。一人が居合わせた客ののど元にジャックナイフを押しあて、「静かにしろ」と叫んだ。局長らがひるんだすきに、カウンター内に入り込んだ別の男が手提げ金庫から現金約七十二万円を奪い、エンジンをかけたまま待機していた三人目の男が運転する車で逃げた。 M作戦第一号だった。同年七月二十六日の鳥取県米子市内の松江相互銀行米子支店まで六つの金融機関を襲撃し、計九百五十四万円を奪った。五月には横浜市南区の南吉田小学校前で、同校事務職員からバッグに入れていた教員らの給料三百二十一万円も強奪した。 最初のM作戦を実行部隊長として指揮した元同志社大生、大西一夫(四六)は「頭では『やらなければならない』と考えようとしても、後ろめたさは当然あって、『こんなアホな闘争やりたくない』とも思っていた」と振り返る。 赤軍派指導部はM作戦と並行して、「殲滅(せんめつ)戦」と称する警察官殺害の機会も必死で狙っていた。だから、大西は犯行から二カ月後にM作戦で逮捕されたとき、「こんな中途半端な形で終わってしまうのか」というむなしさと、「人を殺さずにすんだ」というホッとした思いが交錯したと告白した。 のちに「連合赤軍リンチ殺人事件」で逮捕される元弘前大生、植垣康博(四五)もM作戦に加わった。植垣はM作戦について「そうした闘いを通して武装闘争を行える能力を身につけなければ、とてもこれからの国家権力との攻防に耐え抜けないと思った」と、自己正当化していた当時の心境を手記(「兵士たちの連合赤軍」)に書いている。 同時に、M作戦ばかりの生活に「銀行強盗のプロみたいだなあ」と自分たちを揶揄(やゆ)し、「包丁一本、さらしに巻いて、銀行へ行くのも、ゲリラの修業…という替え歌を自嘲気味に作って不満をまぎらわせたりした」という。 植垣は昭和二十四年、「団塊世代」の一員としてお茶の産地で知られる静岡県金谷町で生まれた。手記によると、父親が農林省農場の場長という町の名士として特権的地位にあったことから、遊び仲間だった近所の貧しい子供たちに負い目を感じて育った。 昆虫採集や鉱物採集などに関心を持つ「野外派」だった植垣は、中学校時代から管理教育になじめず、自分の関心分野を独学するのが大好きだったという。 大学に入学したら思う存分学究的な授業が受けられると思っていた。が、大学の研究体制にも、学生の意欲のなさにも失望、日本の大学の在り方に強い疑問を抱くようになり、次第に学生運動にかかわるようになる。 植垣が大学に入学した翌年の昭和四十三年、日大や東大を頂点とする「大学闘争」が爆発し、全国大学の約八割にあたる百六十五校で紛争が起き、うち七十校でバリケード封鎖が行われていた。 しかし、大学臨時措置法の成立などで次々に機動隊が大学に導入されたことに加えて、新左翼勢力の主導権争いなども激化するにつれ、運動は混迷状態に入る。しかも、これに逆比例するように、植垣が誘われて入った赤軍派などの「武闘派」が過激な行動に走って孤立化し、自滅への道を歩み出すことになる。 M作戦のとき、大西二十四歳、植垣二十二歳だった。全共闘衰退とともに急進化全共闘衰退とともに急進化 昭和四十四年九月五日、東京・日比谷の野外音楽堂で開かれた全国全共闘連合結成大会に、共産主義者同盟(ブント)赤軍派は公の場として初めて「赤軍」と書いたヘルメット姿で登場した。同派と流血事件を起こしていたブント内の反対派学生と「入れろ」「入れない」の内ゲバとなった後、居座る格好で大会に参加する。 その前年の四十三年(一九六八年)、フランス、ドイツ、米国などで若者が社会変革やベトナム反戦などを叫んで反体制運動を展開していた。 国民総生産(GNP)が米国に次いで西側諸国で第二位となり、戦後社会構造の転換期にあった日本でもそれに呼応するように、学生運動が燃え上がる。日大や東大をはじめ全国の大学で結成された全学共闘会議(全共闘)はこの時代の学生運動を象徴するものとなった。赤軍派の急進的な武装闘争路線は、この全共闘運動の衰退の中から生まれてくる。 「抗議集会などでも、最初はハチマキを頭に巻いて校歌を歌ったりしていた。僕らは新左翼の運動スタイルなんかに縁がなかったから、どうやっていいか分からなかった」。日大全共闘に当時、生産工学部二年生として参加した滝川康益(四五)=現会社員=は笑う。 学生運動とは無縁とみられていた日大で四十三年五月、約二十億円の使途不明金疑惑、教授による裏口入学の謝礼五千万円の脱税などの不祥事が発覚した。これをきっかけに、営利優先のマスプロ教育や自治会活動さえ大学当局の意向を受けた体育会系学生らの暴力で妨害されるなどの“抑圧体制”に対するうっ積した不満が爆発した。「日大闘争」の始まりだった。 「職業的革命家などの力で闘われているのではなく、基本的にこのような普通のその辺にいくらでもいる学生によって起こり、闘われ、エスカレートし、現在に至っている」-当時、日大全共闘のある学生は日大闘争をこう表現した。 全共闘運動は当初、新左翼などの党派に属さないノンセクト(無党派)の学生たちを引きつけた。しかし四十四年一月、学生らが立てこもった東大の安田講堂が機動隊の手で“落城”。さらに、大学臨時措置法の成立でバリケード封鎖が次々に解かれていく。 同年九月、全国全共闘連合が結成されたとき、すでに多くの全共闘は新左翼諸党派の主導型になっていた。日比谷での結成大会にノンセクトとしてやってきた滝川は、盛んに叫ばれる政治スローガンに、仲間と「何か違うんだよな」と言い合ったのを覚えている。 赤軍派の大西一夫(四六)=当時、同志社大生=は「一般的には停滞しつつあった大衆運動としての全共闘に、党派が自分の“戦略”を持ち込んだことで、いっそうノンセクトが離れていった」という。 大西はベトナム戦争の激化につれ、「自分だけが安穏に暮らしていていいのか」という気持ちにかられ、反戦運動を通じて共産同の学生組織で活動するようになった。まだ全共闘運動は登場していなかった。 その後、赤軍派内で七人の政治局員に次ぐ中央委員にもなり、武装闘争を担ってきた。「社会変革を求める時代のうねりに自分なりにこたえようとしたことに間違いはなかった」と考えている。しかし、当時から「武装蜂起を社会変革のきっかけにするという『観念』や『思想』だけではやっていけないのではないか」との思いが消えなかった、と率直に語る。全共闘結成大会で社学同に襲い掛かる赤軍 法大全共闘で無党派で活動していた田中邦之(四六)=現喫茶店主=も、「新左翼党派の“信仰”の話はもうけっこうだ。観念で具体的な問題が救えるというなら、それは信仰にすぎない」という。田中は入学後ある新左翼党派に属したが、その後離脱した。 産業構造の変化などによる失業の増大、高齢化社会といった現実の問題を解決するのに必要なのは「イデオロギーではなく知恵」と主張、具体論を語り出すべきだという。 高度成長や団塊世代の登場に伴い、大学進学率は昭和三十五年から四十四年までの十年間で一〇・三%から二一・四%に倍増した。成長を維持しようとする産業界の要請に応じる形で大学生が“大量生産”された時代ともいえる。それに対する異議申し立てでもあった全共闘運動は「大学解体」や「自己否定」などの考え方を生み出しもした。 それから四半世紀が過ぎた。「一市井人」として沈黙してきた当時の「全共闘」世代の中には、今こそ語りはじめよう、という運動を進めているグループがある。 全共闘の中心的世代のえと=昭和二十二年生まれ=にちなんで名付けられた「プロジェクト猪(いのしし)」には、田中も参加する。事務局の前田和男(四六)によると、まず、全共闘に参加した人々にアンケートを実施し、「全共闘白書」としてまとめたいという。 全共闘運動の象徴的存在として日大全共闘結成時の議長、秋田明大(四七)がいる。秋田は全共闘から退いたあと沈黙を続け、今は郷里の広島県安芸郡で小さな自動車修理工場を営む。 その秋田が沈黙を破り、アンケートに答えてこういっている。 「私は昔、一人の日大生として全共闘運動に参加いたしました。戦いつかれ、そして自己の能力のなさからか、自己分解を起こして現在に至っております。過去の私も私、現在の私も私。できるなら、どんなぶざまな生活であろうと、私自身であり続けたいと想っております」「連合赤軍」で自滅の道たどる「連合赤軍」で自滅の道たどる 米国の女性社会学者、パトリシア・スタインホフは「日本赤軍」による「テルアビブ空港乱射事件」(昭和四十七年)に関心をもったことから長年、日本の学者も敬遠しがちな赤軍派の研究にあたっている。 そして、その著書「日本赤軍派」の中で、「赤軍派の主張が、国家権力との対決で挫折感を覚えていた学生たちに希望を与えた」と述べている。 赤軍派は、全共闘運動などの大学闘争や政治闘争が次第に衰退していた昭和四十四年に登場し、その行き詰まりを打開するため、先鋭な武装闘争路線を一気に進めた。 当時、彼らが主張していたのは「過渡期世界論」や「前段階武装蜂起論」という難解な理論であった。簡潔にいうと、(1)ロシア革命、中国革命で世界は革命戦争の時代に入った(2)世界革命戦争に向けて、日本で武装蜂起闘争を起こすべきだ-というものだ。 スタインホフは「赤軍派理論によれば、世界革命戦争はすでに始まっているから、果敢な実践によって大衆を目覚めさせるべきだし、海外の革命拠点で闘うこともできる」としたうえ、「革命というロマンチックな目的のために身をささげたいと熱望している人間には、一筋の希望の光となったのだ」と指摘する。連合赤軍・「あさま山荘」人質事件、ガス弾の猛攻で白煙に包まれた山荘 この理論によって、赤軍派は四十五年三月、日航機「よど号」ハイジャック事件を起こし、政治局員、田宮高麿(五〇)=大阪市立大=ら九人が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に渡った。さらにその一年後には、幹部の一人の重信房子(四八)=明治大=らが中東にひそかに出国、日本赤軍を結成することになる。 だが、国内に残った赤軍派のメンバーにとって、果たしてそれがスタインホフのいうように「一筋の希望の光」となったのかどうか。 「よど号事件」直前に逮捕された結成以来の議長、塩見孝也(五二)=元京大生=に代わって、この時期に赤軍派の獄外指導部を率いていたのは元大阪市大生、森恒夫=当時(二七)=(四十八年一月、東京拘置所で自殺)だった。その森には、武装闘争継続と組織維持という重圧がかかっていた。 森は、追い詰められるにしたがい、情勢とは無関係により強硬な“軍事路線”を打ち出して、さらに自分と組織をいっそう困難な状況に追い込んでいく。まるでアリ地獄にでもはまってしまったようだった。 赤軍派の元政治局員、物江克男(四六)=元滋賀大生=は、森のこうした心理には「コンプレックス」が影響していたとみている。 森は、赤軍派が結成時に同じ共産主義者同盟内の反対派と東京で流血抗争を起こしたとき、関西に戻ってしまい、そのまま闘争の前線から引っ込んでしまう。 半年後に田宮から呼び戻されて復帰するが、そのとき森は「一兵士からやり直す」といい、組織でははるかに下の若者と、駅頭でのビラ配りを黙々と務めた。 物江は「まじめな人間ほどブント(共産主義者同盟)の分裂という事態には耐えられなかったはずだ」と森に一定の理解を示すが、森自身はこれを「自分の弱さから敵前逃亡した」した、と強い負い目を感じていたようだという。こうしたコンプレックスが、より「極左的」な方針を打ち出す心理的要因だったのだろう、というのだ。 「よど号」事件から一年後の四十六年春から夏にかけ、森の率いる赤軍派は「革命資金奪取のためのM(マフィア)作戦」と称して金融機関強盗を繰り返して、公安当局の厳しい追及にあっていた。 M作戦の実行部隊にいた元赤軍派「兵士」によると、この過程で森は、別のある兵士の愛人として赤軍派と行動をともにしていた女性を「処刑」するよう命令を出したことがあった。M作戦にも協力していたその女性が、警察に情報をもらすことを警戒したためだという。 この「処刑」は、女性の愛人である赤軍派兵士が、女性が口を閉ざすことを納得する手段を講じることで結局、実行には移されなかった。しかし、赤軍派内で同志処刑の方針が出されたことは、それまでなかったことだ。当時の森の追い詰められた心境をよく示している。 これが、のちに赤軍派と「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」獄外指導部の元共立薬科大生、永田洋子(四九)や元東京水産大生、坂口弘(四七)らと結成した「連合赤軍」の山岳ベースで起きた十二人もの「同志殺害」の不吉な前兆だったということがわかるのは、それから数カ月後のことだった。 四十七年二月中旬、警察は、「連合赤軍」のメンバーが群馬県内の山岳ベースにこもっているとの情報を得て、大規模な捜索を開始した。捜索を察知して逃走した連合赤軍のメンバーのうち、坂口をはじめ元京大生、坂東国男(四七)、元横浜国大生、吉野雅邦(四五)ら五人が長野県軽井沢の企業保養所「あさま山荘」にたてこもった。 機動隊との十日間にわたる銃撃戦を行い、警察官二人と民間人一人を犠牲にした末、二月二十八日に逮捕された。その前後に残る十七人の連合赤軍メンバー全員も逮捕され、山岳ベースで行われた凄惨(せいさん)な同志リンチ殺人が発覚する。 この「連合赤軍事件」によって、沈滞に向かっていた新左翼運動からの大衆離れはいっそう、加速していった。そして赤軍派の時代もこれにより終わった。 (文中敬称略)

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    マスコミがはしゃいだ「菊池直子伝説」

    元オウム信者、菊地直子さんに対する逆転無罪判決には驚いた人が多かったと思う。考えてみればマスコミが報じてきた「菊地直子伝説」は、伝聞や推定による部分がかなりあるらしい。オウム報道とはいったい何だったのか。ここに彼女を手記を公開し、多くの人に考えてもらえれば幸いである。

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    元オウム信者は「当然」に有罪とするネット界の人々

    するマラソンの練習に明け暮れたり、土谷正実死刑囚の下で化学実験の下働きをしたりする立場だった。一連の事件で起訴された教団関係者の中では、末端信者の部類といえるだろう。」(江川紹子氏)「菊地直子無罪の理由 オウム信者取り調べ経験持つ弁護士解説」(NEWSポストセブン2015年12月10日)「「もちろん、菊地にも“何かやばいものを運んでいる”くらいの認識はあったのかもしれない。でもそれでは足りません。“殺人に使われるものを運んでいると、うすうす知ってやっていた”ということが証明できないと有罪にならない。そこまで立証するのは、オウム事件に限らず難しいことです」(落合洋司弁護士)」 17年も逃亡生活を送っていたことが有罪の(状況)証拠になりうるのかどうかですが、ネット界の人たちは、「有罪だから逃げていたんだろ」というのですから、このような発想ではとんでもない認定になりそうです。 江川氏は、この点についてかなり穏やかに論じています。「菊地被告は、薬品類を運んだ時点では、「何に使うのか知らなかった」と述べている。薬品の運搬を指示した中川智正死刑囚も、彼女には目的を告げていないと証言した。それでも、逃げている間に事件に関する報道を見聞きし、自分が運んだ薬品類で爆薬がつくられ、事件が起き、内海さんがひどい怪我をしたことを知った。当然、「罪の意識」は生じたろう。」 だから出てこれなかったということなのですが、私からしてみれば、あのときに出頭していたら、オウム憎しの風潮の中で、それこそ「それだけ」で有罪にされてしまいかねない状況と元オウム信者が感じていたとしても不思議はないし、むしろ当然の恐怖心だったのではないでしょうか。 痴漢えん罪でもそうですが、時折、やっていないなら堂々と弁明したらよいではないかという人がいますが、あまりに世間知らずです。 そのまま現場に居残ってしまえば、警察に引き渡され、無理にでも自白させられてしまいます。逮捕という扱いをされるからです。「もし痴漢に間違われたら「駅事務室には行くな」 弁護士が教える実践的「防御法」」(弁護士ドットコム) 疑われた方が無罪を立証しなければならないという現実があるにも関わらず、逃げたことをもって「有罪」というのはあまりに乱暴です。 元オウム信者は、特に警察とマスコミによって「走る爆弾娘」などというレッテルを貼られ、極悪非道の犯罪者であるかのように宣伝されていました。これで国民の間では、早々に「有罪」判決が下されていたのです。 この一連の捜査、報道がどうだったのかこそ検証すべきです。 それから裁判員裁判を持ち出すのは何度も繰り返してきたところですが、愚かなことです。 ましてや検察庁が「国民感覚から乖離」などというのはとんでもないことです。 検察庁は、裁判員裁判が破られた死刑判決に対しても上告の理由の中で「裁判員裁判」を理由に使いました。 そこまで言うのであれば、裁判員裁判に対する検察官の控訴、上告の制度はやめたらいいのです。自主的にやめてもらっても結構です。 それにしてもネット界の人たちは、何故、ここまで元オウム信者に対する「有罪」にこだわるのだろうかと不思議に思います。 無罪判決が確定した以降になると思いますが、逃亡の身に追いやったことについてはたとえ本人にも責任の一端があるとはいえ、ひどい結果を与えたのですから、国もマスコミも金銭補償も含め、相応の責任をとるべきでしょう。(弁護士 猪野 亨のブログ 2015年12月12日)

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    元オウム菊地直子被告が無罪確定なら犯人蔵匿で有罪の同居人はどうなる?

     オウム真理教による1995年5月の東京都庁郵便物爆発事件で、爆薬の原料を運んだとして殺人未遂等幇助(ほうじょ)罪に問われた菊地直子被告に対し、東京高裁(第二審)は先月27日、一審の有罪判決を覆して無罪を言い渡しました。検察側は今月9日に上告しましたが、上告棄却となった場合は無罪が確定します。この場合、菊地被告をかくまったとして有罪判決が下された高橋寛人元被告の罪の扱いはいったいどうなるでしょうか?高裁の無罪判決が破棄される可能性は? 菊地被告の起訴内容は、「山梨県内の教団施設から都内のアジトに爆薬の原料となる薬品を運び、爆発物の製造を手助けした」というものです。元教団幹部らが薬品から小包爆弾を製造して都庁に郵送。知事秘書室で爆発させ、都庁職員が重傷を負いました。報道などによると、裁判の焦点は「菊地被告が、爆発物の製造をすると知りながら、その原料となる薬品を運んだかどうか」にあるようです。この認識に対して、井上嘉浩死刑囚は「テロの計画を菊地被告は理解していると思った」などと証言していますが、一審と二審の判決の違いは、この井上証言の評価が分かれた結果と見る向きが多いのです。 元検察官で若狭・高橋法律事務所の坂根義範弁護士はまず今回の判決について、「判決書を見ておらず、詳しい証拠関係を知っている訳ではないので、一審二審それぞれの判決に対し、妥当不当といえる立場ではありません。しかし、両方ありうる判決であったと思います」と感想を述べています。そのうえで、上告については「今後、検察が提出する上告趣意書を見なければ判断できないが、二審(高裁)判決が破棄される可能性は『五分五分だ』」といいます 坂根弁護士は「報道によると、井上死刑囚の証言の信用性がかなり焦点になっているようです。井上証言、つまりこの証拠の評価が一審と二審で分かれた結果が判決に影響しました。証拠から導かれる『菊地被告人の認識』という事実認定に関して、重大な事実誤認があったといえるかどうかが鍵ですね」と指摘します。そのうえで、二審(高裁)判決破棄の可能性については、「二審判決の無罪理由を導く論理性や経験則などが、明らかにおかしいと言うに値する、説得力のある上告理由が書けたかにかかっています」と話しました。菊地被告が無罪の場合、犯人蔵匿罪は成立する?菊地被告が無罪の場合、犯人蔵匿罪は成立する? 菊地被告は平成7(1995)年5月に地下鉄サリン事件(不起訴処分)での殺人・殺人未遂容疑で、警察庁から特別指名手配されました。高橋寛人元被告は、特別指名手配犯の菊地被告と認識しながら同居し、かくまったとして犯人蔵匿(ぞうとく)罪に問われ、懲役1年6月、執行猶予5年が言い渡されています。ここで問題となるのが、無罪の人をかくまっても犯人蔵匿罪が成立するのかという点です。菊地直子元信者が潜伏していた相模原市緑区の住宅=11月27日夜 刑法第103条(犯人隠匿等)では、「罰金以上の刑に当たる罪を犯した者又は拘禁中に逃走した者を蔵匿し、又は隠避させた者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する」と規定しています。文理解釈すると、罰金以上の刑に当たる罪を犯した者、つまり犯人をかくまうと蔵匿罪が成立するということです。これを素直に反対解釈すれば、真犯人でない者をかくまった場合は罪にならないと解釈できます。 しかし、坂根弁護士は「このように解釈する学説もありますが、判例では採用していません。『罪を犯した者』には真犯人だけでなく、犯罪の嫌疑を受けて捜査または訴追されている者も含みます」と話し、その理由を説明します。「刑法第7章103条の保護法益からの観点です。立法趣旨は『刑事司法の作用を害する罪を罰する』ということです」。 本件では、菊地被告が警察の捜査対象(特別指名手配)になっているという客観的事実があるのにも関わらず、かくまっていました。結果的に真犯人ではなくても、少なくとも警察が容疑者を取り調べる機会を妨害したという意味で、刑事司法の作用を害していることになるのです。 さらに坂根弁護士は「指名手配犯が真犯人でなければ、取り調べや証拠調べの段階で無実だと分かる可能性もあります。(指名手配犯を隠すことで)その機会を警察が奪われてしまうと、真犯人へ捜査の目が向かなくなります。このように捜査をかく乱することにもなるので、真犯人でない者をかくまっても大きな意味では刑事司法を阻害していると解釈できます」と述べ、現状の法の運用を紹介しました。 実務的な理由として、「司法の円滑な運営」という趣旨もあるようです。「犯人蔵匿罪は真犯人の場合しか成立しない」となると、犯人とされる被告の裁判が終わるまで蔵匿罪の判決が下せないという事態が起こります。さらに、日本では仮に真犯人であっても、起訴猶予などの不起訴で終わる場合も多いので、「真犯人の成否が裁判で確定しないと犯人蔵蔵匿罪の成否を決められない」のは、いろいろと不都合があるようです。 東京高検は今回の高裁判決を不服として最高裁に上告しましたが、菊地被告の無罪が確定しても、高橋元被告の判決は覆らないようです。(ライター・重野真)

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    「なぜ無罪?」批判から読み解く菊地直子被告高裁判決

    紀藤正樹(弁護士) 東京都庁郵便小包爆発事件で、殺人未遂幇助の罪に問われた菊地直子被告の裁判で、平成27年11月27日、東京高裁は、懲役5年とした東京地裁の裁判員裁判による判決を破棄し、無罪判決を下した。地下鉄サリン事件から今年20年、一報を聞いた時はまずは驚くとともに、無罪判決は、弁護人の努力のなせる結果だと感じた。 職業裁判官に無罪判決を書いてもらうのは極めて難しい。刑事事件の実情を知る弁護士として、そして事件当時のオウム真理教の実態を知る者としては、犯行を計画遂行する幹部信者と犯行に利用された末端信者の状況を丹念に立証された結果の無罪判決ではないかと想像されたからだ。 もっとも判決を読んでみると「疑わしきは被告人の利益に」といった無罪推定の原則に一言も触れず、「経験則、論理則に照らせば、殺人未遂幇助の意思を認めるには合理的な疑いが残る」「テロ行偽を実行するという本件殺人未遂を幇助する意思はなかったとする被告人の供述を排斥することはできない」と言う消極的な理由に終始し、1審の裁判員裁判の判断を批判しているだけのように感じられた。オウム真理教・東京都庁郵便物爆発事件  裁判員裁判の判決公判 裁判長が読み上 げる判決に身じろぎせずに聞き入る菊地直 子被告(右)=6月30日、東京地裁 (イラスト・井田智康) 裁判に国民が期待するのは「真実」だろう。真実の実態を前提に、国民は今後の対策を立てることができるし教訓にもなる。しかし消極的な理由では、オウム真理教の起こした事件の実態に迫ることができず、裁判を税金で運営する国民の側は非常に不幸だ。被告人にとっても「証拠がないから無罪」と言われているようで、社会復帰の足かせにもつながりかねない。つまり今回の無罪判決はより良い未来につながらず、それが後味の悪さを感ずる原因となっている。 実際、今回の判決は、いくつか議論を巻き起こしている。その一つが、裁判員による判決を高裁の職業裁判官が真っ向から否定した点だ。高裁判決は、裁判員裁判でなされた認定を「原判決の判断は、その説示自体に経験則、論理則に反する不合理な点が少なからず見受けられる」「被告人に殺人未幇助の意思を認める根拠となる被告人の言動に関する井上証言の信用性を認めた理由も肯認できない」として批判した。 裁判員判決が有罪認定の根拠とした井上嘉浩死刑囚の証言に至っては、「不自然に詳細かつ具体的」「被告人が逮捕されて井上が被告人の関与について事情聴取を受けた時点でも事件から約17年を超えている」「むしろ記憶に残っていることは不自然であるとすらいえる」とまで述べている。 しかし1審の裁判員は、証人尋問をし、その表情や話しぶりを直接に見聞きしている。その裁判員の判断を簡単に覆してよいのだろうか。特に井上証言について、「約17年」の年月から見て「詳細かつ具体的」という理由でその信用性を否定したことは大きな議論を呼んでいる。最高裁は、平成24年2月13日の判決で「刑訴法は控訴審の性格を原則として事後審としており、控訴審は、1審と同じ立場で事件そのものを審理するのではなく、当事者の訴訟活動を基礎として形成された1審判決を対象とし、これに事後的な審査を加えるべきものである。 1審において、直接主義・口頭主義の原則が採られ、争点に関する証人を直接調べ、その際の証言態度等も踏まえて供述の信用性が判断され、それらを総合して事実認定が行われることが予定されていることに鑑みると、控訴審における事実誤認の審査は、1審判決が行った証拠の信用性評価や証拠の総合判断が論理則、経験則等に照らして不合理といえるかという観点から行うべき」「控訴審が1審判決に事実誤認があるというためには、1審判決の事実認定が論理則、経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要である」「このことは、裁判員制度の導入を契機として、1審において直接主義・口頭主義が徹底された状況においては、より強く妥当する」と判示している。 この事件は、1審無罪→高裁有罪→最高裁で逆転無罪としたケースである。対し今回は、1審有罪→高裁無罪→最高裁へという事件である。逆パターンだが、最高裁の基準は、今回の菊地高裁判決でもそのまま判断枠組みとして踏襲されている。問題は「1審判決の事実認定が論理則、経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要である」とする基準に照らし、今回の高裁判決の理由付けが「具体的」であったか否かという点だろう。 今回の高裁判決と同様の経過をたどったケースとしては、最高裁が、平成25年9月3日、1審の裁判員裁判の有罪判決を破棄し無罪とした高裁判決を維持して上告を棄却したというケースがあるが、この時、最高裁は、特に理由を付さなかった。 東京高検は、12月9日、判決を不服として最高裁に上告した。根拠としたのは、平成24年2月13日の最高裁判例違反だ。最高裁は、上記基準を維持しつつ判断をするのか、無罪推定との関係で上記基準に一部変更を加えるのかなど、有罪か無罪かの結論はともかく、説得力を持つ理由付けを付した未来につながる判決が出されるのが望ましい。注目に値する。

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    「最高裁、裁判員制度をやめますか?」の問いは論理の飛躍だ

    定され、無罪判決が下されました。 菊地直子被告、逆転無罪判決で釈放される オウム真理教の都庁小包爆発事件強盗傷害事件を想定して行われた、裁判員選任 手続きから判決までを再現した裁判員裁判の 模擬裁判。2013年5月23日、栃木県・宇都宮地裁 この判決に対しては、市民感覚を刑事裁判に反映させるための裁判員裁判なのに、それが高裁でプロの裁判官に否定されるとは裁判員制度そのものを否定するに等しいといった極端な意見が見られます。もちろん、この裁判では証拠の評価が中心的な問題であることは事実ですが、しかし、その前に裁判員裁判の評決の仕組みについて確認しておく必要があると思います。 裁判員裁判は、プロの裁判官3名と市民裁判員6名で裁判が行われます。そして、判決は多数決ですが、「裁判官及び裁判員の双方の意見を含む合議体の員数の過半数の意見によ」らなければならない(裁判員法67条1項)とされており、単純多数決ではなく、条件付き多数決の仕組みがとられています。 したがって、意見が分かれたにもかかわらず有罪の結論とするためには、有罪の多数意見に少なくとも1名のプロの裁判官の意見が含まれている必要がありますので、(有罪の意見)プロ1名+市民4名=5名(無罪の意見)プロ2名+市民2名=4名の場合や、(有罪の意見)プロ1名+市民5名=6名(無罪の意見)プロ2名+市民1名=3名の場合、または、(有罪の意見)プロ1名+市民6名=7名(無罪の意見)プロ2名の場合は〈有罪〉となります。 このような条件付き多数決の仕組みは、刑事裁判の鉄則である「疑わしきは被告人の利益に」、つまり、有罪か無罪かが疑わしい場合には無罪という判断を下さなければならないという原則を保障するためです。だから、極端な場合ですが、(有罪の意見)市民6名(無罪の意見)プロ3名の場合は、いくら市民裁判員全員が有罪だと思っても、その判断はかたよっているということになり、市民感覚だけでの単純多数決原理で有罪とすることだけは避けて、慎重に判断して有罪の心証に至らなかった場合として〈無罪〉としようということなのです。 そして、このような評決の数については、評議において出された意見や内容とともに、「評議の秘密」(裁判員法70条1項)として守秘義務が課されていますので、菊池直子被告の第一審判決のときの評議が具体的にどのようなものであったのかは推測するしかなく、あくまでも仮定の話ですが、上のようにプロの裁判官の判断が分かれていた可能性も否定できないのです。 だとすると、プロの裁判官だけで構成されている高裁も判決は多数決ですので、一審二審を通じてプロの裁判官の判断としては、本件では「合理的な疑いを超える程度の有罪の証明」がなされておらず、有罪の確信に至ることができないケースと判断された可能性も否定できないのです。したがって、一審の裁判員裁判がプロの裁判官が行う控訴審で否定されたからといって、ただちに「最高裁、裁判員制度をやめますか?」と問うことには論理の飛躍があると言わざるをえません。(了)[証拠の評価について参考となる意見]元東京高裁部総括判事 木谷明弁護士の話元東京地検検事 落合洋司弁護士の話(Yahoo!個人より2015年12月4日掲載分を転載)

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    【菊地直子独占手記】私が「走る爆弾娘」と呼ばれた非日常すぎる状況

    とでした。  「えっ、そうなんですか?」 私は全国指名手配されて逃げているうちに、自分が地下鉄サリン事件で使われたサリンの生成に、なんらかの形で関与してしまったのだろうと思いこんでしまっていました。しかし、よくよく思い出してみると、指名手配になった当時は「なんで私が?」「幹部と言われている人達とたまたま一緒にいたからかなあ?」などと思っていたのです。 後になってから、「あの作業がサリンと関係していたのだろうか?」と考えてみましたが、私と一緒にその作業をしていた人は、地下鉄サリン事件では逮捕されていません。「薬事法違反」で起訴されているだけでした。「それでは何が?」と考えても他に思いつきませんでした。結局、何がサリンと関係していたのかがはっきりしないまま、私は17年も逃げ続けてしまったのです。オウム真理教地下鉄サリン事件 地下鉄日比谷線の 築地駅前の路上に設置された救護所。多数の救急車 が詰めかけ、緊迫した雰囲気に包まれた=1995年3月 20日、東京・地下鉄日比谷線築地駅前 先生に「サリンの生成には関与していないのではないか」と言われて、ようやく気付いたのです。「ああ、私はサリンの生成には関わってなかったんだ。何がサリンと関係していたのかがわからなくて当たり前だったんだ」と。 私に地下鉄サリン事件の殺人・殺人未遂容疑で逮捕状が出たのは平成7年(1995年)5月16日のことです。地下鉄サリン事件が起きたのは、同年の3月20日のことです。事件が起きた直後、教団への強制捜査がせまった為に私が林泰男さんと逃走を始めたとか、八王子市内のマンションで潜伏していたなどの報道が一部でされていますが、それは正しくありません。逮捕状が出る直前まで、私は強制捜査の行われている山梨県上九一色村のオウム真理教の施設内で普通に生活をしていました。こんな事件を教団が起こすはずがないと思っていた私は、この騒動も直に収まると考えていて、まさかその後自分に逮捕状が出るなど夢にも思っていなかったのです(逃走生活が始まってからも、しばらくの間、私は地下鉄サリン事件は教団が起こしたものではないと信じていました)。 林泰男さん達との逃走が始まったのは、逮捕状が出た直後の5月18日のことです。逮捕状が出る直前に中川智正さんに東京都内に呼び出されていた私は、5月17日に都心の某マンションに行くように中川さんから指示をされました(中川さんはその指示を出した直後に逮捕されてしまいました)。マンションに一晩泊まった次の日に林さんがやってきました。お互い相手の顔と名前は知っていましたが、話をしたことはありません。 「じゃあ、行こうか」 と林さんに声をかけられ、 「どこに行くのかな?」 と思いながら、彼と一緒にマンションを出たのが、17年にわたる逃走の始まりとなりました。  逃走が始まったばかりの頃は、突然身に覚えのないことで全国指名手配になるという、あまりにも非日常すぎる状況に、現実が現実として感じられず、まるで映画の世界の中に迷い込んでしまったかのように感じた記憶が残っています。出頭する勇気は出なかった しばらくして、TVで私が「走る爆弾娘」と呼ばれるようになりました。自分が地下鉄サリン事件で指名手配になった時もそうでしたが、全くの寝耳に水の出来事です。 上九一色村にいた時に、中川さんに頼まれて八王子のマンションに薬品を運んだことがあったのですが、それが爆弾の原材料として使われたらしいということにこの時初めて気が付きました。 「大変なことになった。じゃあ、やっぱりサリンの生成にも関わったのだろうか?」。そうは思っても、出頭する勇気は出ませんでした。「きっと『知らなかった』と言っても信じてもらえない。私は地下鉄サリン事件の犯人として裁かれてしまうんだ」。そう思いこんでしまったのです。 私は高校卒業後、18歳の時にオウム真理教に出家しました。両親との関係はとても悪く、実家には絶対に戻りたくないと思っていました。一方、指名手配されて1カ月ぐらい後のことだったと思いますが、教団の「出頭するように」という呼びかけに応じなかった為、上祐史浩さんに除名処分にされてしまいました。私には帰る場所が無くなってしまったのです。これは、私がその後17年逃げ続けてしまった一つの要因にもなりました。警視庁で公開された菊地直子被告の逮捕直後の写真  紆余曲折の17年の末、私はとうとう逮捕されてしまいました。警察につかまれば暴力をふるわれてでも嘘の自白をさせられると思っていた私は、取調官の応対が思いの外、紳士的に感じられました。 「なんだ。こちらの言い分もちゃんと聞いてくれるんだ」 私の供述の都合のよい部分だけがマスコミに流されていることを知らなかった私は、不覚にもそう思ってしまいました。 しかし、その思いは突然裏切られることになりました。「地下鉄サリン事件について、まだ何も話していないじゃないか! まだ話していない事があるだろう!」 それまで穏やかだった取調官の態度が豹変し、私は怒声を浴びせられたのです。私を睨みつけるその目はまるで氷のようでした。 その瞬間、私の頭の中でいろんな思いが交錯しました。「地下鉄サリン事件についてと言われても、心当たりのありそうなものについてはもう話したのに。他に何を話せと言うのだろう?」「初日に『知らなかった』と話した時は信じてくれているように見えたのに」「『知らなかった』のだから、何が地下鉄サリン事件と関係があるかなんてわからないのに」「やっぱり信じてもらえないんだ」「17年間、『どうせわかってもらえない』と思っていたのは正しかった」「少しでも『わかってもらえるかも』と期待した私が馬鹿だった」……。 私は取調官に心を開きかけていたことを後悔しました。そしてこう言ったのです。 「『何も話していない』と言うのなら、もう本当に何も話しません」 そして二度と言葉を発することはありませんでした。 結局、私は地下鉄サリン事件では処分保留となり、起訴される事はありませんでした。続いて逮捕されたVX殺人事件でも処分保留になりました(この事件については、自分に逮捕状が出ていることすら知りませんでした)。そして、最後に逮捕された都庁小包爆弾事件で起訴されたのです。  起訴されて、湾岸署の留置所から東京拘置所に移った後、私は弁護人の先生が言っていた事が正しかったと知ることになりました。関係者の膨大な供述調書と裁判調書が差し入れられたからです。どのぐらい膨大な量かというと、ファイルにとじて30センチぐらいに平積みしたものが7山です。しかも、これは表と裏にそれぞれ調書4ページ分を縮小コピーしているので、実際には8倍の量です。つまり全部積み上げると、16・8mもの分量ということになります。このうち私の事に触れられているのはほんの一部なのですが、関係者の全ての調書を検察に開示請求したところ、このような量になってしまったのです。これらの調書から、私がサリン生成に関わっていないのは明らかでした。一審での有罪判決のショックと失望 また、厚生省(当時の教団の部署名)のメンバーのうち3人(私を含めると4人)が、地下鉄サリン事件で逮捕された後に釈放されていたこともわかりました。恐らく警察は事件の早期解決を図って、証拠が揃っていない人物にまで逮捕状を出したのでしょう。この3人はすぐに逮捕された為、私のように指名手配になることもなく、釈放されたことも大きく報道されていなかったので(もしくは全く報道されなかったのかもしれません)、私はその事に全く気付かなかったのです。もし気付けていれば、自分がサリン生成に関わっていなかったことにも気付けたかもしれません。 しかし、全ては後の祭りでした。「どうすることもできない」と私はあきらめてしまっていました。> 逮捕されて約2年後の昨年の5月、私の裁判(都庁小包爆弾事件)が始まりました。この裁判の一審では、私が教団内でどのような活動をしていたのかが詳細に審理されました。つまり私がサリン生成に関与していないということが明らかにされたのです。そして同年6月30日、私は懲役5年の有罪判決を受けました。起訴時の罪名は爆発物取締罰則違反ほう助と殺人未遂ほう助でしたが、爆発物を製造し使用することについては認識が認められず、ほう助罪は成立しないとされ、殺人未遂ほう助のみが認定されました。私はこれを不服として即日控訴しました。 この一審の有罪判決直後に、私はある報道を知ることになり、自分が今だに地下鉄サリン事件の犯人であると世間から認識されていることに気付きました。私は狐につままれたように感じました。私は地下鉄サリン事件では起訴されていません。加えて、サリン生成には関与していないことが裁判で明らかになったばかりです。傍聴席にはマスコミの専用席が設けられており、その席が割り当てられた司法記者クラブの人達は、私の裁判を通しで傍聴しているはずです。であるのにかかわらず、なぜ私が地下鉄サリン事件に関わったかのような報道が、その裁判の直後に流れるのでしょう。 裁判で有罪判決が下されたことのショックに加え、私はただただ失望を感じることしかできませんでした。 控訴審の準備を進めていた昨年の終わり頃、私は創出版・篠田編集長の『生涯編集者』という本を拘置所内から購入しました。その中に「ロス疑惑」で有名になった故・三浦和義さんの記事が載っていました。なんと彼はマスコミ相手に約500件もの裁判を起こし、そのほとんどに勝訴したというのです。初めてこれを読んだ時、「ふ~ん、すごいね」とは思いましたが、他人事でした。自分にこんなことができるとは想像できなかったのです。 ちょうどその頃、私は両親との関係に悩んでいました。両親は定期的に面会に来てくれていましたが、私には両親が自分をコントロールしようとしているようにしか感じられず、面会の度に強い恐怖を感じていたのです。「いったい何がこんなに恐怖なのだろう?」 この状態から抜け出したくて、私は幼少期の体験まで思い起こして、必死にその原因を探ろうとしました。そしてやっと、無意識的にある思考パターンに陥っていることに気付いたのです。そのパターンとは、「話してもどうせわかってもらえない」「わかってもらえなくて傷付くだけ」、だから「最初から話さない」、もしくは「一度話してだめだったらすぐにあきらめてしまう」というものでした。 そのことに気付いた時、私は初めて、傷つくことを恐れずに自分の思っている事を相手に伝えようと思いました。そう決意して面会したところ、それまでは全く伝わらなかったこちらの意思がすんなりと相手に伝わったのです。それは劇的な変化で、いったい何が起きたのかと呆然としてしまったほどです。 この時、伝わらなくて困っていたのは「週刊誌は読まないから差し入れないでほしい」という些細な内容でした(私の記事が載っていたわけではないのですが、読みたくなかったのです)。「入れないで」と言っているのに、「外の情報がわかった方がいいから」と親が差し入れをやめてくれなかったのです。しかし、私がそれをうまく断れないのは、「断ると相手に悪いから」という相手を思いやる気持ちから来るのではなく、「自分が傷付きたくない」という理由でしかなかったことに気付いたとたん、状況が一変したのでした。これ以降、親に対して「伝わらない」と感じることがどんどん少なくなっていきました。私にも三浦和義さんと同じことができるのではないか この体験を機に、私の中で世界の見え方が徐々に変化していきました。この世の現実というのは、心が作り出しているのではないかと思うようになったのです。親との関係で言えば、「親にわかってもらえない」という現実が先にあるのではなく、「傷付きたくない」「どうせわかってもらえない」という否定的な想念が先にあり、その想念が心に壁を作り、その壁が言葉を遮断し、言葉を発しているのにもかかわらず「伝わらない」という現実を生み出していたのではないかと思ったのです。 そこで初めて、私にも三浦和義さんと同じことができるのではないかという思いが湧いてきたのです。三浦さんの著書『弁護士いらず』(太田出版/現在絶版)には、「きちんと話せばきっと理解してくれる、という思いがあった」など肯定的な言葉が何度も出てきます。「私と正反対の考えで生きている人だったんだなあ。きっとこの信念こそが高い勝訴率を生み出した原因に違いない。私はずっと『どうせわかってもらえない』と思いこんでいた。その思いこみが、犯人とされることに甘んじる結果につながっていたのではないか。このままでは誰も真実を報道してくれない。だったら自分から声を上げよう。必ずわかってもらえると信じた上で、きちんと説明すれば、きっと今の現実を変えることができる。その過程で傷付くことがあったとしても、それでもかまわない」 私は次第にそう思うようになったのです。 私はそれまで、マスコミに対する極度の不信感から、徹底的に自分の報道から目を背けてきました。弁護士の先生との会話で自然に入ってきてしまうものはありましたが、特に週刊誌や新聞など紙媒体のものは、逃走中も含めてほとんど目にしていないのです。 私は初めてこれらと真正面から向き合う決意をしました。今までの自分の報道に全て目を通そうと考えたのです。そしてもし間違った報道があったならば、きちんと抗議をし、それでも間違いを認めてもらえないならば、法廷という公の場で第三者にきちんと判断をしてもらおう。そう思ったのです。 果たして裁判官が公正な判断をしてくれるだろうかという不安はありましたが、「最初から100%の結果が出なくてもいい。最初は10%か20%ぐらいしか伝わらなかったとしても、あきらめなければきっと伝わる。それに、何も行動を起こさなければ0%だけど、10%でも20%でも伝われば意味がある」と思ったのです。それは、自分の刑事裁判の体験から生じた思いでもありました。判決は「有罪」でしたが、裁判を傍聴していた(面識のない)方から、「本当に知らなかったんだなと思った」「(私の)証言に説得力があった」等のお手紙を頂いていたのです。 「裁判官には伝わらなかったけど、一部の人達には確実に伝わったんだ」 この体験は、「どうせわかってもらえない」と感じたことについては、最初から話さない癖のある私にとって、大きな成功体験になったのです。『週刊新潮』『週刊文春』『週刊実話』に送った内容証明 私はまず最初に週刊誌の記事を集め始めました。案の定、事実無根の記事ばかりでした。想定していたとはいえ、あまりにもひどい内容に意気消沈しましたが、気を取り直し、その中でも特にひどかった『週刊新潮』『週刊文春』『週刊実話』の三誌に内容証明郵便を送りました。 いち早く回答が返ってきたのは『週刊新潮』でした。その回答書の内容は抗議した記事の内容以上にひどいものでした。私はサリン生成に関わったと断定する記事を載せられたことと、最高で無期懲役もあり得るなどという量刑予想を載せられたことについて主に抗議をしたのですが、『週刊新潮』は、「サリン製造に関わった」と表現することには何ら問題がないと主張し、その根拠として、「(私が)土谷正実実さん率いる第二厚生省に移った事」と「第二厚生省の拠点である『クシティガルバ棟』でサリンが製造された事」を挙げてきました。そして、サリンがクシティガルバ棟で製造された事は、過去のいくつかのオウム裁判で事実として認定されていると主張してきたのです。 しかし、私の手元にある関係者の裁判記録では、クシティガルバ棟でサリンが生成されたのは、「93年(平成5年)12月~94年(平成6年)2月」です。これより後にクシティガルバ棟でサリンが生成されたという記録は一切ありません(95年3月に教団内でサリンが生成されたことがあったようですが、クシティガルバ棟とは別の施設でのことです)。一方、『週刊新潮』は記事の中で、「94年半ば、オウムが省庁制を定めた頃、『達成部』(私が所属していた部署名)は自然消滅。菊地は土谷正実率いる第二厚生省に移り、サリンの製造に関わるようになる」と、私が第二厚生省に移ったのは「94年半ば」だと明記しているのです。さらに回答書の中で「クシティガルバ棟は部外信者の立ち入りが禁じられた上」と書いています。サリンが作られた時期である「93年12月~94年2月」に「達成部」に所属していた私が、いったいどのようにして、部外信者の立ち入りが禁じられていた「クシティガルバ棟」で、サリン生成に関与することができたのでしょうか? 『週刊新潮』は、私が第二厚生省に移った時期については調べることができたのに、「クシティガルバ棟」でサリンが作られた時期については調べることができなかったのでしょうか? 私の手元の裁判記録では、「クシティガルバ棟」でサリンが生成されたことと、その「時期」については、セットで記録されています。『週刊新潮』がその「時期」について、裁判記録を調べはしたけれども見落としてしまったのか、それとも見たけれども見なかったことにしているのか、もしくはそもそも裁判記録など調べていなかったのかはわかりません。そのいずれであったとしても、きちんと裏付けを取らずに「(私が)サリン製造に関わった」ことを記事にしたのは明らかです。 さらに『週刊新潮』は、「小誌は貴殿が、サリン製造の認識を持って、この作業に従事していたものと確信しております」と私を犯人であると確信していると述べた上、私がこのような抗議文を送り付けてくるのは「一連のオウム事件への反省がないことの証左」だとして、私を激しく非難してきたのです。レッテルを否定することすら許されないのか 私はこれを読んでおかしいと思いました。もし私が実際にサリン生成に従事していてこのような抗議を行ったのなら、確かに「反省していない」と言われても仕方ありませんが、この件については完全な冤罪なのです。自分のやっていないことについて「やっていません」という権利すら、私にはないと『週刊新潮』は言うのでしょうか?  私はどんなに長くても、あとたった数年で外の社会に放り出されます。地下鉄サリン事件の犯人だというレッテルを貼られた上、社会でそれを否定することすら許されないとしたら、私はどのように生きていけばよいのでしょうか。私は『週刊新潮』に「お前には生きる権利がない」と言われているように感じました。 この回答書を呼んで深く傷ついた私は、声を上げて泣き出してしまいました。拘置所の職員さんが心配して声をかけてくれましたが、それに対して返事もできなかったのです。 以前の私なら「やっぱりわかってもらえない」と、ここであきらめてしまっていたでしょう。しかし、私は「あきらめない」と固く心に決めていました。こちらが冤罪であることを主張しても、相手側がきちんとした事実確認を行わないままに私を犯人だと決めつけ続けるのであれば、訴訟を起こすしかありません。 しかし、私はここで壁にぶち当たってしまいました。私は三浦さんにならって、マスコミ相手の民事訴訟を弁護士をつけずに本人訴訟という形で行おうとしていました。それが突然、あまりにも無謀なことのように思えてきたのです。抗議文を出しただけで、これだけ激しく攻撃されるのです。新潮社を訴えたとして、はたしてたった一人で最後まで闘えるのだろうか? と不安になったのです。 仮に弁護士に代理人を頼むとしたら、刑事裁判でお世話になっている先生に頼むのがベストです。他の先生に頼む場合、私がサリンの生成に関与していないことを一から説明しなくてはいけないからです。しかし、刑事裁判だけでも大変なのに民事までお願いしてよいのだろうか? 私はそう感じていて、「民事訴訟を起こすかもしれません」とは伝えていたものの、内容証明を出したことや、ひどい回答書が届いたことまでは説明していませんでした。「どうしてもあきらめたくない」という思いのもと、法律関係の本をひっくり返しながら、自ら訴状等書き上げてみましたが、どうしていいものか悩んでいるうちに数週間が経ちました。 そして、今年の5月1日のことです。弁護人の先生が飛んできました。 「菊地さんが内容証明を出したことが『週刊新潮』の記事になっているんですが……」 『週刊新潮』は、私が抗議文を出したことを、本誌の記事上でも批判してきたのです。その記事には、「届かぬ被害者の言葉」という見出しのもとに、「被害者の重い言葉を踏みにじる」などと書かれていました。私としてはそんなつもりは全くありません。事実を事実として正しく報道してもらいたかっただけなのです。私はこの記事にも大変落ちこみましたが、結果としてこれがきっかけとなり、刑事裁判でお世話になっている先生に民事訴訟の代理人となって頂ける運びとなりました。こうして私は新潮社を訴えることになったのです。

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    「走る爆弾娘」というレッテルに踊らされた20年の空白 

    京高裁が地裁判決(懲役5年)をくつがえし、無罪判決としたことが、さまざまな議論をよんでいる。「サリン事件にはかかわっていなかったにしても、都庁爆破事件で被害者がいるのだから、判決はおかしい」という意見は、その代表的なもので、俗耳に入りやすいものである。爆発物の材料を運んだのだから、危険な薬物だと知らなかったとしても責任があるというのだ。感情的にはそう判断されてとしてもおかしくない。オウム事件当時はまだこどもだった記者もいるほど、地下鉄サリン事件から20年という時間は、風化を生むだけの流れである。菊地被告についての当時の報道で、もっとも印象に残っているのは「走る爆弾娘」だ。第12回大阪国際女子マラソンで206位でゴールする 菊地直子(オウム真理教) =1993年1月31日、長居陸上競技場 なぜこんなレッテルが貼られたのか。それは被告がオウム教団のなかでマラソンランナーであったことと、オウム事件が結びつけられたからである。菊地被告は地下鉄サリン事件やVX事件でも指名手配されていた。逮捕まで17年間も逃走を続けていたのだから、自分でも犯罪にかかわっていることをと自覚していたはずだと世間の多くは思っていただろう。だがオウム裁判を振り返れば、菊地被告が凶悪事件にかかわっってはいなかったことがわかる。菊地被告についてはほとんど言及されていないのだ。サリン事件とVX事件では不起訴。起訴された都庁爆破事件の裁判でも中川智正死刑囚が、被告に専門的な化学知識はなかったと証言している。 教団末端信者であった菊地被告は、なぜに17年間も逃走を続けたのか。おそらく「こわかった」のだろう。自分は関与していないのに、地下鉄サリン事件やVX事件などで指名手配をされていたから、逮捕されたなら罪を着せられるのではないかと思ったのではないか。平田信被告が逃走を続けたのも、警察庁長官銃撃事件の犯人にされるという恐れがあったという。菊地被告の場合は、さらに加えて離れたくない男性がいたことも、出頭をためらわせた理由だと思う。凶悪組織だとはいえ、事件にかかわった信者はそう多くはない。そのなかでも事件を起こした信者と接点があったゆえに菊地被告に捜査の手が及んだ。 ここで高裁判断および検察による上告理由となったひとりの信者のことを想起する。井上嘉浩死刑囚である。ここで少し個人的な経験を紹介させていただく。井上という人物についてである。高校時代に信者となり、大学を中退して出家、教団のなかで「天才的修行者」と評価され、「諜報省」責任者として、数々の謀略事件を起こしている。地下鉄サリン事件が起きてから、私はある縁から井上のご両親と会うことになる。とくに父親とはなんども接触が続いた。井上が逮捕されてから書いた詩を見せてもらっただけではない。事件周辺についての手記も書きはじめていたのである。 井上手記はノンフィクション作品を読むようで、情景がリアルかつ詳細に描かれていた。事件当事者しか知りえない「事実」を知るのだから、これほど興味深いことはなかった。いずれ単行本にするという計画もあった。ひとことでいって「読ませる」のだ。オウム裁判のピークとなった麻原彰晃(松本智津夫)死刑囚との法廷対決は、まさに圧巻だった。麻原彰晃が精神に変調をきたすきっかけでもあった。麻原彰晃と同乗したリムジンでサリン散布の謀議が行われたことを証言したのだから、教祖と事件との結びつきを示す決定的証言でもあった。 ところがそれから20年近く。いまでも井上証言は詳細でリアルだ。そこで素朴な疑問がわいてくる。人間の記憶とはそこまで正確なのだろうかと。たしかに人生のなかには特別な出来事が記憶に鮮明に焼き付くことがある。誰もがそうした経験があるだろう。しかし井上証言は、ストーリーとして、具体的に物語るという特徴を持っている。たとえば井上に対して菊地被告が「がんばります」と語ったことが、裁判では事件への関与として重要な意味を持っていた。しかし教団での地位を知っていれば、末端信者が指導者のひとりに語った言葉として捉えれば、ごく自然なことである。しかも井上死刑囚と菊地被告の会話が事実かどうか、誰も証言者はいない。 無罪判決を出した東京高裁は、井上証言に疑問符をつけた。検察が上告したのは、ならば高裁でも井上死刑囚に証言を求め、検証すべきだというのが理由だ。おそらく上告審でも無罪判決は揺るがないだろうと私は判断する。それは雑誌『創』に掲載された菊池手記を読んだからだ。裁判の前提となる本人の証言は重い。http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20151129-00051947/ ここでもマスコミ報道の問題点が当事者の立場から吐露されているが、事件当時に「走る爆弾娘」とレッテルを貼ったことへの反省が、いまでも見られないことに驚かされた。記者は代われど、報道精神において、この20年、体質は変わっていないことは、もっと真剣に検証されてよい。 菊地直子裁判が問うているのは、裁判員裁判における被告人に対する世間の印象であり、それを作り上げるメディアの責任でもある。ある記者が作った「走る爆弾娘」という言葉は、テレビ、新聞、週刊誌、さらにはネットでも繰り返し広く流布していった。ところがいざ逮捕されると、地下鉄サリン事件でもVX事件でも不起訴、さらに都庁爆破事件では上告されたとはいえ高裁では無罪。わたしたちの社会は、「走る爆弾娘」という壮大なる「空白」に踊らされてきたことを、恥ずべきだろう。(一部敬称略)

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    身内びいきの新潟日報よ、中傷ツイート記者の処分が甘すぎる

    おいて述べさせて頂くが、本件、新潟日報社の社としての責任を問う立場だ。同様に、先般の「ぱよぱよちーん事件」についてもエフセキュア社の社としての責任を問うてきた。しかしながらこれは、しばき隊として問うものではない。この点も併せて明確にしておきたい。前半においては、少し変わった論調であるが、後段においては社会的・道義的な責任を理詰めで説いている。後段まで是非、お読みください。ただ、それを述べるにあたって、私には言わねばならぬことがある。新潟日報の新本社ビル「メディアシップ」=新潟市 その大きな理由は、私が政治家であるという点に集約される。かつてのように保守活動家として言論活動を行うのであれば、私はしばき隊を軸として責めただろう。実際、横串をさして論じたほうが楽だ。話もわかりやすい。エフセキュアの件にせよ、web上でも激しいものだと分類されるだろうし、実効性の面においても高い効果を発揮したと思う。とは言え、実は、現在まで私が論じた話は、しばき隊ゆえ、という攻め方はしていない。 問うべきは、社としての責任であり、その中身は「社会的・道義的な責任」である。横串となる言葉は、コンプライアンス、CSR、ガバナンスである。この点は、政治家として徹底的に追及し続けたい。それは「しばき隊」として責めることとは、大きく異なる立場だ。敗走中の彼らを、私は政治家としては責めない。社としてのみを、その責任を問い続ける。保守活動家の目線 政治家として問うべきは「社としての責任」であり、社会的・道義的な責任であることは事実だ。しかし、保守活動家として述べさせて頂くなら、しばき隊として「撃たない理由」は異なる。本心を一言で表せば「なんてことをしてくれる!」という怒りだ、しばき隊側への怒りだ。ひどい言い方になるが、勝手に沈んでる場合じゃないぞ、と。私は、彼らとの公開討論を約束していた。恥ずかしながら、健康上の理由で当時からかなり体調が悪く、結果的には入院・手術となり、これは叶わなかった。 ネット上の左派系、対峙する陣営の指揮官クラスであると私は認めてきた。さあ、今から撃ちあおう、そういうタイミングである。双方が宣戦を布告し、戦端が開かれようとしていた。イメージなるが、海戦を行うべく、駆逐艦「小坪しんや」は、決闘の海域に進出していた。敵艦隊の名は、しばき隊。だが、待てど暮せど、敵艦が来ない。途中で機雷に接触し、勝手に沈んだという。私からすれば「おい待て!!」と文句も言いたくなる。 私は、今回、しばき隊を責めない。しばきたくないからだ。リスクを背負いつつ、現場を張ってきた自負がある。経験則になるが、気分の乗らぬ案件は手を出すべきではない。これは獣のカンに近いものだし、私の美学でもある。憲法は変えるべきだと思うが、憲法を破ろうとも思っていない。よって、憲法九条をも私は順守したい。赤旗の問題を取り上げた際も、徳永克子(共産党・行橋市議)から一年以上に渡り、延々と責められたという原因がある。九条をも遵守する以上、私は撃たれてから「ちょっと考えて」撃ち返す。私は、個人としてはしばき隊に撃たれていない。撃たれていない以上、私は撃つことは許されない。 ここで相手が落ち目の時に、時流に乗って叩くことは、私の美学に反する。しかも私が撃たれていないのに、だ。大破炎上中、機関も出力が上がらない敵艦がいたとしよう、私は、やはり撃てない。ドックに入渠して頂き、しっかりと修して頂きたい。完全な状態に戻って頂き、本調子を取り戻した上で、全力の彼らと撃ちあいたいのだ。その際、当然、撃沈されるのは私なのかも知れない。それでもいい。退却中の敵艦を後ろから撃つのは、私は嫌だ。 明らかに敵陣なのだが、エールを送りたい。赤壁の戦いでも曹操は敗走したが、なんとか落ち延びた。私は、是非、落ち延びて頂きたいと思う。そして、しっかりと名を明かした上で、平場で撃ちあおう。正々堂々と、だ。私は今までそうしてきた。議員になる以前より名を明かし、住所を明示し、ロビー活動に従事してきた。今度は、こちらと同じルール、土俵でやりあいたい。 とは言え、落ち延びることも楽ではないだろう。私は撃たぬと言ったし、実害を受けていない者は撃つべきではないと主張もするが、彼らは敵も多すぎる。例えば公開されたリストに記載されていた方々。彼らは正当に撃つべき権利を有する。私はこれを止める気はない。また、リスト記載者を「守る」という部分においては、本件に介入してきた。今回も同様に、政治家として「社としての責任を問う」立場だ。事実、そうしている。 保守の追っ手を彼らは果たして振り切れるのか。赤壁の曹操と同じぐらいに、状況は厳しいだろう。だが、是非、逃げて頂きたい。関羽気取りかと(双方の陣営から)怒られそうだ。乗っているのは赤兎馬ではなく車高の低いスカイラインだが。落ち延び、体制を整え、復活して頂きたい。名を明かした、対峙する陣営のロビイストとして、誇りある指揮官として。その際には、こちらも全力で行かせていただく。私が、自らの手で沈めたいと思っていたのだ、勝手に沈むんじゃない。なんとか生き残れ、そして同じ土俵で撃ちあおう。決闘の舞台で、私は待っている。 修羅の国と福岡は揶揄される。この名が適切かは評価する立場にないが、また自ら名乗ることもどうかとは思うが、仕方ない部分もあるのかな、とは思う。私は、修羅の国から来た普通の修羅だ。新聞でも大きく報じられたため、自らの自治体の恥をさらすが、一年ほど前に行われた行橋市長選においては、対立陣営の御兄弟より実弾320発、武器庫認定を受けて大問題になった。また先の九月議会、ほんの数か月前だが、工藤会にお金を渡すためという理由で、ゼネコンより数千万の工事をゆすった事件があり、しかも市発注の事業であったため委員会での審査となった。私は、所管委員会(総務委員会)の所属であるため、当該業者の指名停止を委員として求めた。 かつては走り屋であり、ネットで言うところの「いわゆるDQN」であったことを私は公開している。九州ということで、半島系の方も多い。日常的にもめてきており、そして議員になった今も決して安全な職場ではない。こんなことを言うと、保守からもしばき隊からも怒られそうだが、しばき隊よりも遥かに激しい連中が常に目の前におり、それが私の世界観なのだ。よくないことだとは思うが、なぜか彼らの写真を見て、どことなくシンパシーすら感じてしまった。普通においしく酒でも飲めそうだ、と。私は、もっと面倒な難処理案件だらけだ。  そんなわけで、彼らが「ある程度、激しい」からと言って、だからどうしたんだと常々思っていた。私は、行橋市議としても死ぬ危険性はあると思っている、サヨクの過激派の手以外で、だ。この町で、市民の側に徹底的に立つことは、容易な覚悟ではできない。福岡では発砲事件もよくニュースになる、あれももう慣れた。少なくともしばき隊は、銃火器は使わない。だったら「話せばわかる」層だろうと、そんな風に思っていた。対峙する陣営ではあるものの、その指揮官クラスとして遇し、直接やりあいたいと、そう思っていたのだ、修羅の国から来た普通の修羅としては。これがヘイトでなくて何がヘイトか 最後になる。社としての責任だ。これは「社会的・道義的な責任」である。この点は強く追及させて頂く。一気に論調が変わるが、この点は追及する必要がある。新潟日報社の件だが、上越支社の報道部長だ。これは許されて良いものではない。 安倍首相が学校を訪問している際の写真だろうか、それをTweetする際、「美少女に迫る異常者」である。これは首相の対するヘイトだ。また稲田議員に対しては「英霊の慰安婦こと、稲田朋美!」(原文ママ)と呼び、片山議員には「片山は自分からすすんでネトウヨの慰安婦になった!」(原文ママ)と侮辱。また「高市早苗 所属政党 ナチス」(原文ママ)とtweet。高市早苗「総務大臣」の所属政党は、自由民主党です。 もちろん、これが一般人の発言であっても許されるべきではない。左派はヘイトヘイトと口癖のように言うが、これがヘイトでなくて何がヘイトなのだろうか。彼らはよく自己批判とか総括とか言うが、是非、自己批判して総括して頂きたい。 問題なのは、新潟日報社の上越支社報道部長という役にあったことであろう。これは社としての報道方針を決め得る立場と、対外的にも理解されるポジションだ。これらは新潟日報社の公式見解なのだろうか。特に現職の総務大臣に対し「所属政党ナチス」は、報道に携わる者として如何なものかと思う。 特に許せないのは、民間人に対してのTweet。以下は、子を持つ母親に向けられた発言だ。『想像しろ。お前が本能に任せて性行為した、クズみたいな男と娼婦のお前の間に生まれた薄汚いガキ!明らかに人種差別主義者の子どもであり、生きてる価値はない!最大限の尊厳を与えてやる。それは、豚のエサになることだ!』 『(前略)このブス!お前の赤ん坊は豚のえさにするんだから…。で、お前とダンナが、その豚を喜んで食べるのな。そりや美味しいよ。お前の子ども食った豚だもん!お前とダンナ?うなぎの餌。あんたの頬から胸に抜ける。目玉から肛門に抜ける(笑)』 『豚って、なんでも食うらしいよ。野菜でも、人間でも(笑)。赤ん坊は柔らかいだろうね。』 以上発言は、いずれも原文ママ、である。私も子を持つ親であるが、「新潟日報社」は、上越支社報道部長の言動に対し、どのように対応をとられるおつもりか。これを民間人に対して吐いたことは、社会的・道義的責任が追及されるべきであると、政治家として述べさせて頂く。責任は、人事処分をもって公開されるのが筋だろう。詳細:新潟日報社(上越支社報道部長)坂本秀樹氏は、パブリックに批判されるべきだ。(小坪しんやのBlog)左派の責任、メディアの責任左派の責任、メディアの責任 左派こそ、これを徹底的に糾弾すべきだ。それができぬなら、無暗に憲法がどうだ等と述べるのはやめたほうがいい。話が軽くなり、意見自体が意見として認識されなくなるからだ。これは、一般人・民間人への威圧を持っての言論弾圧としか言えず、これを自らの陣営に対しては責めることができぬとなると、何が護憲かと指摘されるからだ。憲法を護るのは結構なことだし、私自身も遵守しようと思っているが(同じく改正したいと思っているが)護憲を掲げるならば、他者の憲法で保障された自由・権利に対しても配慮すべきだ。でなければ、その旗は降ろせ。憲法がかわいそうだ。 メディアに対しても思うことがある。テレビでも報道されたという。ただし、これらの、私が紹介したTweetは報じられていない。酔って弁護士に絡んだ程度の報道であり、その実態を報じているとは言い難い。身内びいきもここまでくると、ちょっとあり得ないと思う。 私には、これを述べる「権利」がある。かつて、SEALDsの皆様へと題してシリーズを報じたところ、メディアはスクラムを組んで私を叩いてくれたな? 随分と扱いが違うじゃないか。「同じ扱い」を求めているのみだ。私には、これを言う権利がある。 三菱樹脂事件の最高裁判例を踏まえ、学生が政治活動に参加する際に気を付けるべき点をまとめたものであった。徹底的に学生側に立った書き方を心がけ、かつ判例(三権分立のため政治分野が介入できない)があることを伝え、「過激派など、反社会的勢力」との混同を避けるように訴えたものだ。安保法制の是非には触れておらず、意見の誘導も行わぬよう配慮した。 まとめサイトを始め好意的に取り上げられ、炎上はしなかった。しかしながら、結果として、取材「攻」勢が多発。東京新聞、毎日、朝日もあったかな。西日本からも取材を受けた。弁護士ドットコム(これは日弁連だろうか)、J-castなどは取材すらせず全くの誤報を足れながす。yahooのヘッドラインに掲載され大きく名誉を傷つけられた。 報道状況を見るに「私とは随分と違う」のだ。私の場合は、言ってもいないことまで書かれ(しかも意図を真逆にとられて、だ)誰も謝罪すらしなかった。新潟日報社については、言ったことすら報じていない。詳細:SEALDsは共産党や中核派と混同されても仕方ない(iRONNA) 現在の報道状況は、身内びいきが過ぎると感じる。酔って言ってしまった程度の報道では足りぬ。先ほどの、実際のTweet内容を見て、世論がこれを許すと思うのか。メディアこそは常に政治に問い続けてきたではないか。だからこそ、ネット保守論壇からも言わせて頂こう。この程度の処分、異動程度で「世論が納得するのだろうか」と。 そして冒頭の繰り返しになるが、しばき隊は落ち延びて頂き、実名での活動に出てきて頂きたい。体制を整えた上で、正面から撃ち合おう。勝手に沈むんじゃない。

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    ろくでなし子独占手記「ぱよぱよちーん」騒動の全真相

    ろくでなし子 「新潟日報上越支社の坂本報道部長による高島章弁護士へのTwitterでの誹謗中傷事件について、ご意見をお願いします」 産経デジタル担当編集Kさんからこのような依頼を受けたのは、わたしも最近、しばき隊(通称レイシストをしばき隊)の一派の方々からTwitter上で誹謗中傷の集中攻撃を受けていたからだと思います。「壇宿六(闇のキャンディーズ)」のTwitter 「闇のキャンディーズ」という匿名で、新潟水俣病第3次訴訟の弁護団長を務める高島章弁護士を「はよ弁護士の仕事辞めろ」「うるせー、このハゲ!」などと罵っていた人が新潟日報の社員であり、しかも報道部長という管理職の方だったことに、わたしは少なからず衝撃を受けました。まだ入社したての若者ならともかく、それなりに年齢を重ね、部下を指導する立場でもある人が、まるで小学生のいじめのように大はしゃぎしていた……この国は本当に大丈夫なのかと、「ろくでなし子」と名乗るわたしでさえ、愕然としました。 この件について、既に報道されている坂本記者の弁によれば、「お酒を飲んでいたから」とのことでしたが、「匿名」という隠れ蓑に甘え、日頃のストレスを文句を言えそうな相手にひたすら撒き散らす行為に、報道人としての倫理観うんぬんよりも、大人としてどうなのかという疑念は尽きません。 実はこの事件から1週間ほど前のことですが、わたしも高島弁護士と同じような状況になりました。 事の起こりは、「はすみとしこ」さんという民族差別主義的なイラストを描く漫画家に対し、はすみさんのFacebook投稿に「いいね!」を付けたおよそ300人の個ちん情報(個人情報)を集めてリスト化したものを、「闇のあざらし隊」という匿名で活動していたしばき隊関係者とみられるKという人物が作成し、はすみさんの創作活動を妨げようとしたことでした。 わたしは、そのリストを作ったことで得意気になっているK氏の投稿を、どなたかのタイムラインで目にし、いくら「レイシズム」が憎いからといってもその人や賛同者に対し「個人情報を晒すぞ!」と脅す行為は「なにかがおかしい」と感じていました。 その後、K氏がとあるITのセキュリティ会社の幹部社員だったことを逆に暴かれ、その会社が販売しているソフトに対するamazon評価が大荒れし、一企業の信頼性にまで話が発展。K氏はその責任をとって退職に追い込まれたとか…。 さらに、晒し上げに執念をかけた人達が、K氏の過去のTwitterをさかのぼり、K氏がある女性に「ぱよぱよち~ん」とハートの絵文字付きで投げかけていた投稿をおもしろおかしく取り上げ、「ぱよちん音頭」なるものまで編み出し、お祭り騒ぎとなっていました。 わたしはK氏が気の毒な反面、自業自得でもあることと、パッと見が強面の印象のK氏が「ぱよぱよち~ん」と過去につぶやいていた事実に、おもわずクスリとしてしまいました。 「ぱよぱよち~ん♪」 なんて間抜けで愉快なフレーズでしょう。口にした途端、誰もが脱力感とほっこりとした楽しい気分にとらわれるはず。 そこで、わたしはおもわず自分のTwitter上でも「ぱよちん音頭でぱよぱよち~ん♪」と無邪気につぶやいてしまいました。わたしのフォロワーさんもこの間抜けなフレーズに反応し、一緒になってぱよぱよちんちんつぶやいていたところ、突然、しばき隊関係者かその一派であろう人たちから「その言葉を使うな!」「削除しろ!」とものすごい剣幕でわたしを威嚇するリプライをしてきました。しばき隊という人たち 実はしばき隊という人たちに関して、わたしはあまりよく知りませんでした。そのうちの一人であるN氏という人物は、ネット上にアップされていた写真を拝見しましたが、金属バットに釘を打ち込んだものを振りかざしている中途半端なヤンキーのような人、という印象でした。特に怖くもなかったんですけど、大勢で寄ってたかってわたしのTwitterに誹謗中傷を浴びせてきた行為はとても異常だと感じました。 彼らはわたしが自分のタイムライン上で「ぱよぱよちんちん」とつぶやいていただけで、レイシストと認定し、「ろくでなし子が逮捕された時に署名したり支援してやったのに、裏切りやがって!」と言っていました。それでもまだ、ぱよちんツイートをやめないわたしに対し、「ゴミ、クズ、カス、死ね」。果ては、わたしが活動できなくなるよう「アート界から抹殺してやる!」と、自分たちが本来敵視するレイシストのような矛盾したつぶやきをしている人もいました。 その様なわたしへの集団攻撃は1週間ほど続いたと思います。わたしの不当逮捕に対し、支援活動をしてくださったのでしたらそれについては心から感謝いたしますが、「支援してやったんだから俺たちの言うとおりにしろ!」というのは、なにかおかしい。支援とは、そのように支配的なものなのでしょうか?(ちなみに「K氏はろくでなし子に身銭を切って支援してやったんだぞ!」という方がいたので、ならばお礼を述べねばと思い、確認のために弁護団カンパ口座の通帳記録でK氏のお名前を探しているのですが、お名前が見当たりませんので、別名義で振り込んでくださったのでしょうか? 本当にありがとうございます) これら一連の騒動は「ぱよちん騒動」と呼ばれるようになり、その一部始終を見たネットユーザーの中には「一人の女性を集団でリンチしているおぞましい光景だ」 として、わたしを気の毒がる人もいましたが、わたしはもっと別のことを2つ考えていました。 まず一つは、この光景が今回だけに限らず、Twitter上でわたしがこれまで受けてきた「炎上」パターンの典型であることです。 わたしは自由につぶやきすぎるせいか、いつもTwitterで誰かに文句を言われています。ペッパイちゃんというセクハラをテーマにしたメディアアートを作ったアーティストの市原えつこさんが炎上していた時も、「ペッパイちゃん、おもしろいじゃん。」とつぶやいていただけで、Twitterで「フェミニスト」を自称する一部の女性たちから「性暴力に加担する人」に認定されてしまいました。 ペッパイちゃんは、実物を見ればわかるように、どちらかといえばセクハラをする側(主に男性)が恥ずかしくなるような、セクハラ行為の間抜けさを可視化する装置だとわたしは思ったので、おもしろいとつぶやいたのですが、その真意も無視され、あの時もひたすら罵倒され続けました。   また、わたしを罵倒する人の中には「ろくでなし子が逮捕された時に署名してやったのに!」と、今回と同じようなつぶやきをしている方々もいました。わたしは実際に性暴力に加担する行為など一切していませんし、単にペッパイちゃんを面白がっただけなのに「性暴力に加担した!」と冷静さを失って怒り出す人たちに「集団ヒステリー的なもの」を感じ、しばき隊関係者とみられる人たちに罵倒された今回のことよりも、じんわりと怖かったです。 それと二つ目は、「ぱよぱよちーん」で怒り出す一見怖そうな男性たちが、わたしを逮捕・起訴にまで追い込んだ警察当局や検察当局の人たちととてもよく似ていることでした。彼らも「まんこ」というくだらないテーマに対し、額に青筋を立てて必死になっていました。  わたしはよく、「ガサ入れの時に10人の刑事に取り囲まれても平気だったのはたいしたもんだ」とも感心されますが、いやいやそんなことはありません。そりゃ、見知らぬ強面のおじさんたちに取り囲まれたら、誰だって怖いでしょう。 それでも、そのおじさんたちが真剣になっているのが「まんこ」…。これほど間抜けなことはありません。 なので、わたしは逮捕拘留そのものがパロディや喜劇のようでおかしくて、今でも笑いがこみ上げてしまい、警察にひどくいじめられたという認識があまりないのです。連帯した集団ヒステリーはとても恐ろしい 今回の件でも「しばき隊にいじめられているろくでなし子がかわいそう」という人もいましたが、わたしはむしろ笑うところだと思っていましたので、どうかお気遣いなさらないでください。 ただ、笑うところであったとしても、「俺たちは絶対の正義だ」と信じ、「俺たちの意に背いた者はすべて敵で悪」であるから、そいつらには「手段を選ばず何をしても構わない」と思う人たちが連帯した集団ヒステリーはとても恐ろしいものです。 彼らに共通するのは、自分のことを正しいと信じて疑わないところです。自分は「正しい」から相手の間違いを粛清するのは許される、という考え方では、敵対関係や戦争しか生まれません。 人は誰でも間違うもの。絶対に間違わない人間などいません。 間違った人を「許さない」集団の共通意識は、その人の個ちん情報(※注・個人情報)まで晒し、退職や謹慎処分に追い込むことがあります。K氏は相手を許そうとしなかったため、自分が許されない立場に追い込まれました。個ちん情報の晒し合いをして、一体誰が得をするのでしょうか? 今回の件で、「しばき隊はろくでなし子に謝罪しろ」という人まで出てきましたが、 当事者でもない人たちから、そのような謝罪要求の声が強まれば、結局集団リンチにつながり、それこそ不毛です。だからもう、やめましょうよ…。 敵対関係にある人同士のおろかな個ちん情報の晒し合いよりも、真剣に怒っていることすらどうでもよくなれる魔法の言葉をみんなで一緒につぶやきませんか? ア、ソーレ、右も左も ぱよぱよちーん♪ あなたもわたしも ぱよぱよちーん♪♪♪

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    10分で読める、日本の暴力団の基礎知識

    園田寿(甲南大学法科大学院教授、弁護士)暴力団の歴史 「暴力団」という言葉は、法律上は、「その団体の構成員(その団体の構成団体の構成員を含む。)が集団的に又は常習的に暴力的不法行為等を行うことを助長するおそれがある団体」(暴力団対策法第2条第3号)と定義されていますが、一般には、いわゆるヤクザ(博徒・ばくと)集団と同様の意味で使われてきました。 ヤクザ組織自体は歴史的には古く、江戸時代後期にまで遡ることができます。現代でも、構成員相互で親分・子分・兄弟分の縁(擬制血縁関係)を結び、江戸時代の任侠道やヤクザ道などを標榜している団体も多く、断指や入れ墨、仁義など裏社会にのみ通用する独特の副次文化が残っており、しかもそれらの一部がいわば表の文化の一部をなしている場合もあります(日常生活で普通に「親分・子分」や「仁義」といった言葉が使用されることがあります)。暴力団のこのような特殊な精神構造からも、その問題の根はかなり深いといえます。 暴力団は、社会経済情勢の変化に伴って、その組織や活動形態を変化させてきました。 昭和20年代は、終戦直後の社会的混乱から、それまでに存在していた博徒・的屋(てきや)といった集団にさらに愚連隊と呼ばれる青少年不良集団が加わり、闇市等の利権を巡って対立抗争がくりかえされました。山口組総本部に入る車両。大勢の報道陣が集まった=9月1日、神戸市灘区 昭和20年代後半になり、社会的経済的秩序が回復するとともに、弱小の団体が淘汰され、暴力集団の再編が始まります。それまでは活動形態や収入源によって区別されていた暴力集団が、覚せい剤や芸能興行など、大きな利益を生む新たな利権に群がるようになり、各種の暴力集団の境界があいまいになっていきました。「暴力団」という呼称が社会に定着したのもこの頃でした。 昭和30年代後半になると、さらに暴力団の淘汰が進み、他団体との抗争において優位に立った一部の暴力団が、その組織力と安定した資金源を背景に地方に進出するようになり、その過程において大規模な抗争を繰り返し、弱小の団体をさらに吸収してその勢力を一層拡大していきます。 昭和40年代になると、暴力団に対する社会的関心も強くなり、警察の集中取締まり(頂上作戦)が展開され、首領・幹部を含む構成員が大量に検挙されましたが、昭和40年代後半には、服役していた彼らが相次いで出所し、組織の復活・再編が図られました。しかし、警察の取締まりが強化された結果、非合法的資金源にのみ依存していた中小の暴力団は壊滅的打撃を受けたものの、傘下団体からの上納金制度を確立した大規模な暴力団は、中小暴力団を吸収し、さらに大規模な広域暴力団へと組織化・系列化が進みました。 昭和50年代、暴力団の寡占化傾向が一層進み、一部暴力団は海外にその活動の場を求めていきました。また、「企業舎弟」や「経済ヤクザ」といった新しい言葉も生まれています。企業舎弟とは、「暴力団の影響下にあって企業の形をとって活動するメンバー又は組織」のことであり、表面的には合法的企業活動を行いながら、裏で暴力団幹部と結びつき、暴力団を資金面で支える存在となっています。また、経済ヤクザとは、非合法活動で巨額の利益を得た暴力団が、合法的企業を装い組織化された経済犯罪を行う集団のことです。これらは従来の「暴力団」という言葉ではとらえきれない面をもっており、暴力団の変貌した姿が新たな問題となっています。暴力団の推定年間収入は1兆数千億円、その大半は非合法手段によるものだと言われています。 平成以降、暴力団対策法(暴対法)(後述)が平成4年に施行され、暴力団対策は新たな時代を迎えます。暴対法とは、各都道府県の公安委員会が指定した暴力団(指定暴力団)を対象とし、その構成員による金銭や業務発注など不当要求を禁止する法律です。これにより、指定暴力団員がその所属する指定暴力団等の威力を示して行う不当な行為(27類型)が禁止され、それまで対処が困難であった民事介入暴力の取締りが効果的に行えるようになりました。公安委員会は、暴力団対策法に違反した指定暴力団等に対して、中止命令や再発防止命令を出し、その行為を中止させています。 この命令は行政命令ですが、命令に違反すると刑罰の対象となります。暴力団の現状暴力団の現状 平成25年末における暴力団員の数は、約58,600人であり、このうち2つ以上の都道府県にわたって組織を有する広域暴力団で、警察庁が集中取締りの対象としている(旧)山口組・稲川会・住吉会の3団体に所属する暴力団勢力(構成員および準構成員)は約42,300人であり、暴力団勢力全体の約7割にも及んでいます。この数字からも、とくに大規模な広域暴力団による寡占化の傾向が進んでいることが分かります。指定暴力団山口組総本部に家宅捜索に入る捜査員ら=10月2日午後、神戸市灘区 暴力団勢力が全検挙人員中に占める比率は、驚くほど高く、主要刑法犯に関しては、脅迫(25.09%)、賭博(40.6%)、恐喝(42.3%)、傷害(11.9%)、殺人(13.1%)等となっており、特別法犯に関しては、競馬法違反(50.0%)、自転車競技法違反(82.4%)、覚せい剤取締法違反(56.1%)、児童福祉法違反(24.6%)、職業安定法違反(40.2%)、売春防止法違反(31.8%)、麻薬取締法違反(31.8%)、大麻取締法違反(30.1%)等となっています(平成26版犯罪白書)。このような数字からは、まさに暴力団がわが国の犯罪の主要な供給源となっているといえるでしょう。 組織暴力団員による犯罪は、以前は暴力的な犯罪が大部分を占めていましたが、最近ではこの種の犯罪は一般に減少する傾向にあり、覚せい剤や麻薬等の非合法な物品の販売、あるいは売春や賭博、のみ行為等の非合法なサービスの提供に変わってきています(ただし、彼らの行為から暴力的要素がなくなったわけではありません)。さらに、政治活動や社会運動を仮装して企業をターゲットとして違法に利益を図る企業対象暴力事犯や、交通事故の示談、不動産をめぐるトラブルや債権取立等の市民の日常生活や経済生活に介入して、違法に利益を図る民事介入暴力事犯も重大です。 これは、この種の行為が大きな利益をもたらすこと、また、暴力団の周辺にこれを利用して利益を得ている国民層が存在すること、さらにこれらの犯罪が顧客の需要があって始めて成り立つものであり、被害が発生しにくく、発覚もしにくいといったような事情があるからです。このため、各集団が同じ利益に群がろうとする結果、暴力団同士の資金源をめぐる抗争の原因にもなります。組織暴力犯罪の対策および暴力団対策法組織暴力犯罪の対策および暴力団対策法 暴力団犯罪の対策として最も困難なことは、暴力団組織の内部においては、犯罪を重ねることによってその者の組織内での地位が上昇するという、犯罪促進的な秩序が出来上がっていることです。受刑による一般社会生活上の不利益・不名誉は、彼らにとってそれほど重大な問題とはなりません。しかし、暴力団構成員とくに首領・幹部の検挙が組織自体には大きな痛手となるのは明らかですから、警察による継続的な取締まりが暴力団犯罪に対する有効な対策であることは明らかです。また、組織自体の存続基盤を揺るがせるためには、資金源の根絶と構成員の補充を絶つことも必要です。 戦後における暴力団犯罪に対する主要な法規制としては、暴行罪・脅迫罪の法定刑の引き上げ、暴行罪の非親告罪化、証人威迫罪の新設、凶器準備集合罪の新設、銃砲刀剣類等所持取締法の制定、暴力行為等処罰に関する法律の部分的な刑の引き上げなどがあります。これらの法規制は、一定の効果をもたらしましたが、必ずしも十分なものとはありませんでした。それは、従来から暴力団の主要な資金源として、寄付・用心棒代・不当融資・示談介入・債権取立などがあり、彼らはこれらの行為を行うに際して、直接暴力を行使するよりも、表面的には穏やかな交渉や取引の形をとって行っていたために、それらを明確に犯罪行為としてとらえにくかったからであす。 さらに、暴力団の寡占化傾向が進み、暴力団が強大になってくると、彼らは「○○組」といった暴力団の名前を告げるだけで相手方を威嚇することができ、明確に脅迫や恐喝等の犯罪にならない方法で資金獲得活動を行うことがより容易になったのです。また、巨大な組織ほど下部組織からの上納金が多く、上部組織は自らの手を汚すことなく、莫大な利益を手にすることもできます。 そこで、このようないわば灰色ゾーンにある行為を禁止の対象とし、暴力団の資金源を根元から絶つ必要があること、また暴力団員の離脱を促進するような援助を行う必要があることなどから、平成4年3月に「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」(いわゆる暴力団対策法)が施行されたのでした。 暴力団対策法の基本的な構造は、次のようなものです。 すべての暴力団を規制対象とするのではなく、特定の暴力団を指定し(指定暴力団)、その暴力団員(指定暴力団員)に対して必要な規制を行います。 指定暴力団員が指定暴力団等の威力を示して行う、不当寄付金要求行為や不当地上げ行為、利得示談介入行為などの典型的な不当要求行為を禁止します。さらに、指定暴力団員による指定暴力団等の加入勧誘行為、指定暴力団の事務所等において付近住民に不安を与えるような一定の行為を禁止します。 上記の禁止行為には措置命令を発することが可能であり、さらに対立抗争時には指定暴力団事務所の使用制限を命じることもでき、これらの命令違反に対しては罰則が設けられています。暴力団対策法で禁止されている27の行為 平成26年末時点の全国の暴力団構成員と準構成員は、暴力団対策法施行後で最少となっています(平成27年版警察白書)。取り締まりの強化や暴力団排除活動の高まりによって、組織からの離脱が進んだと考えられます。しかし、他方で、暴力団に属さないグループによる不透明な資金活動が目立っており、資金獲得のための非合法な活動がいっそう巧妙化するおそれもあります。(了)(Yahoo!個人より転載)

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    山口組動乱、テロと化した近代ヤクザ

    日本最大の暴力団、山口組が分裂し、各地で抗争とみられる事件やトラブルが相次いでいる。警察当局は抗争の激化を食い止めようと徹底攻勢に打って出るが、テロ活動にも似た水面下での動きが絶えることはない。かつての抗争とは一線を画す近代ヤクザの「戦争」はどこへ向かうのか。

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    山口組分裂で抗争本格化の可能性 ヤクザライター2氏が対談

    まった。10月6日正午過ぎ、長野県飯田市のホテル前で暴力団関係者の男性が頭部を拳銃で撃たれ殺害される事件が発生、山口組系傘下団体の幹部が逮捕された。男性は新組織・神戸山口組へ移籍しようとしており、トラブルになったという。本格的な抗争勃発に備え緊張が高まるなか、溝口敦氏(ノンフィクション作家)と鈴木智彦氏(フリーライター)、当代ヤクザライターの2トップが緊急対談した。──今回の射殺事件から本格的な抗争に発展する可能性はあるのか?溝口:今回の件では、ないと思います。殺したのは同じ組の兄貴分だそうですが、神戸山口組の見解は、移籍が完了していたわけではないから、六代目山口組系の組織内での“内紛”であるということで、神戸側が報復することは考えられない。男性が銃で撃たれたとみられる温泉施設の駐車場を調べる捜査員 =10月6日、長野県飯田市鈴木:殺しにまでなったのだから、実際には神戸側と盃を交わすなどの重大なアクションがあったはずですが、今回の事件はあまりにも偶発的すぎるので、双方ともここから火がついたらまずいと思っているはず。ただ、偶発的にせよこういう事件が起きるのは、マスコミの騒ぎが沈静化して年をまたいでからと思っていたから、案外早く起きたなという印象です。溝口:当面、お互いのシノギを侵食し合う「経済戦争」が起きて、その後に暴力による抗争になるはず。半年もすれば、何件か事件が起きるでしょう。鈴木:よく「抗争になりますか?」と聞かれるんですが、今回のことで抗争にならなかったら、もう暴力団じゃないっていうくらい、あり得ない事態ですから。──二人にとっても分裂は想定外の事態だった?溝口:私は昨年6月の時点で、直系組長のひとりから「我々は立ち上がります」と聞いていましたから。ただその時点では、分裂しようとしても途中で圧殺されるんじゃないかと危惧していましたが、分裂する今年8月末に近づくにつれて詳細な情報が入ってきて、「ああ、やったのか」と。鈴木:私は対立については聞いてたけど、本当に分裂すると思ってなかったからびっくりしました。山一抗争(*注)を見ても分かるように、分裂する側にはリスクしかないですから。【*注:1984年に竹中正久組長が四代目を襲名したことに反発した反竹中派が「一和会」を結成。竹中組長は一和会に殺害されたが、山口組の報復が激化。1989年の終結までに双方で25人もの死者を出した】溝口:分裂に踏み切れた要因は、司忍組長と竹内照明若頭補佐(司組長の出身母体である弘道会会長)が情報を把握してなかったか、あるいは軽く考えていたことで六代目側が対策を取れなかったことでしょう。それには、高山清司若頭の不在が大きい。 高山若頭が4000万円の恐喝事件で有罪となり上告を取り下げたのが去年の5月で、収監されたのが6月。分裂計画はその時期にスタートしています。神戸側は関係ないというでしょうが、時期的に符合するのは間違いない。鈴木:驚いたのは、山健組だけでなく宅見組までが参加したこと。どちらも山口組を代表する組織です。山健や宅見は、芸能人とのゴルフコンペ出席で後藤忠政組長が処分され(後に引退)、クーデターの芽が生じた2008年に、離反組を徹底的に潰した側だから、六代目もまさか出て行くわけがないとタカをくくっていたんじゃないでしょうか。名古屋繁華街の飲食店をまとめあげた山口組若頭の「経営手腕」暴排条例対策で山口組 破門状は郵送からファクスに切り替え暴排条例で海外に拠点移す組織増えると山口組系企業舎弟証言38年ぶりに新創刊の山口組新報 俳句や川柳、釣り特集もあり山口組組長実子挙式 大物政治家や大スター列席の時代あった

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    溝口敦が斬る 山口組内乱の実相

     [WEDGE REPORT]溝口 敦((ノンフィクション作家、ジャーナリスト) 山口組が8月末に分裂した。山口組としては31年前、一和会(山本広会長)が離反、分裂して以来のことである。 山口組本家(本部・神戸市)は70人余の直系組長を擁していたが、今回の分裂劇ではそのうち13人が叛旗を翻し、「神戸山口組」を別に立てた。反乱軍には組内最多の組員数を誇る山健組・井上邦雄組長(山口組の若頭補佐だった)、長らく山口組で総本部長を務めた宅見組・入江禎組長、かつて若頭補佐だった侠友会・寺岡修会長などの有名ヤクザが含まれている(山口組は8月27日、これら13人を絶縁・破門処分にした)。「俺んとこは水屋でも雑貨屋でもない」カネ集めの激しい六代目 袂を分かった主な理由は今の六代目山口組が行っているカネ集めの激しさにある。直系組長たちは毎月約100万円を月会費名目で本部に納めている。その他、本部によるミネラルウオーターや日用品の半強制的な押し付け販売もあり、直系組長である以上、最低でも毎月50万円は買うことになっている。神戸市街(iStock) たとえばミネラルウォーターである。1ケース24本入りが3120円(1本が130円の計算になる)、これを最低でも10ケースは買うという縛りを掛けていた。つまり毎月240本以上のペットボトルが各直系組に送られてくる。小売り店が仕入れるほどの量でありながら、なぜか値段は自販機並みに高い。直系組は組事務所に積み上がる水や雑貨の段ボール箱に「俺んとこは水屋でも雑貨屋でもない」と嘆息することになったわけだ。 山口組本部には直系組長たちが差し出す会費だけで毎月約7000万円が集まった。このうち約3000万円が月々、六代目司忍組長に渡っていたとされる。年間にすれば3億6000万円。その他、直系組長たちが拠出して中元や歳暮の時期、また司組長の誕生日祝いなどで各1億円ぐらいを集めて、司組長には年6億円ぐらいを渡していたらしい。また司組長は友好団体のうち双愛会、共政会、福博会、東亜会を後見し、これら団体からも中元や歳暮の時期に現金を贈られているようだ。なんやかやで年間10億円前後を集金していると見られる。 こうした収入は正確に税務申告され、納税されているのか。実は神戸山口組側の奥の手として、警察や税務署に対する証言の提供があるとされる。どれほどデータ的に裏付けできるのか疑問だが、少なくとも司組長の収入を熟知する立場にいたのはかつての山口組総本部長・入江禎氏だった。入江氏は前記したように神戸山口組に移っているから、司組長に遠慮する必要はないことになる。 今年6月、福岡県警は北九州市を牛耳る工藤會・野村悟総裁を所得税法違反容疑で逮捕した。工藤會では月に約2000万円の会費が集められ、その4分の1、約500万円が野村総裁側に渡されていたという(年額では6000万円)。一昨年までの4年間に約2億2000万円が渡り、おおよそ8800万円を脱税したとして、野村総裁は逮捕された。 脱税による暴力団トップの逮捕は警察にとっては大金星である。警察庁は「福岡でやれたことがよそでやれないわけがない。脱税でトップを挙げろ」と全国の警察に号令を掛けた。司組長の収入は野村悟総裁のより一ケタ違う。兵庫県警や大阪府警、愛知県警が神戸山口組側から提供される情報に飛びつき、「司組長を所得税法違反で逮捕」を狙うと予測するのは必ずしも妄想ではない。3代連続で名古屋系の組長が続く3代連続で名古屋系の組長が続く 分裂のもう1つの理由は弘道会による長期的な人事の壟断である。司忍組長--髙山清司若頭(東京・府中刑務所で服役中)--竹内照明若頭補佐という世代を異にする3人の弘道会出身者が今後3代に渡って山口組組長の椅子を独占する構えにあるらしい。名古屋市街(iStock) つまり髙山若頭の服役で山口組の若頭は実質的に空席であるため、近々竹内若頭補佐を若頭に据える動きがある。組長への道は若頭からというコースがふつうだから、六代目山口組組長が今の司氏、次の七代目が4〜5年後刑務所を出所することになる髙山氏、八代目が竹内氏というのはさほど突飛な観測ではない。 阪神地域の直系組長たちが、「山口組は神戸で発祥し、神戸で大を成した。弘道会による今後3代にわたる組長独占は神戸の山口組を名古屋の山口組に変質させてしまう」という危機感を持ったとしても不思議ではなかろう。 9月1日、山口組本部に直系組長たちを集めた定例会が開かれた。出席した直系組長の中にはもともと神戸山口組への移籍が確実視されている者も含まれ、明らかに従来の山口組が神戸山口組の切り崩しに成功したケースと見て間違いない。しかし、この日参加した直系組長たちが1カ月後、2カ月後、山口組を動かないかどうかは誰にも予測できない。 総じて暴力団世界では組を割って出た側が抗争に敗れる例が多い。山口組・一和会抗争では一和会が解散し、山本広会長が引退することで抗争が終結した。道仁会を出た九州誠道会も数年に渡る道仁会との激しい抗争の果て、最後は九州誠道会が解散することで抗争は終結した(が、その後浪川睦会という後身団体ができた)。 今回も山口組を割って出た神戸山口組の方が不利と一応はいえそうだが、そうとも言い切れない要素がいくつかある。 1つは抗争すれば、民法や暴対法の「組長の使用者責任」や、組織犯罪処罰法違反(組織的殺人など)で実行犯の組員ばかりか組長も逮捕され、あるいは損害賠償を求められる危険があるからだ。そのため法がまだ整備されていなかった山口組・一和会抗争時代とは異なり、両派の上層部は表向き抗争をやりたがらない。 2つ目は今回の分裂劇の特殊性である。普通は組を割って出た側が暴力団業界で孤立を余儀なくされる。所属していた組の親分から親子、あるいは舎弟の盃を受けながら、組を割って出るのはいわゆる「逆盃」であり、親分絶対の暴力団世界では認めにくい。しかし、他団体が見て、どちらが山口組らしい組織かといえば、弘道会支配の山口組より神戸山口組の方だろう。田岡一雄三代目組長時代のように戻す田岡一雄三代目組長時代のように戻す また神戸山口組も暴力団世界で孤立しないよう、すでに他団体に対して根回しに動いている。そうでなくても侠友会・寺岡修会長は侠道会(尾道市)池澤望と五分の兄弟分、山健組・井上邦雄組長は浪川睦会(福岡県)浪川政浩会長と兄弟分、かつては住吉会・加藤英幸総本部長(幸平一家総長、東京)と兄弟分の関係だったなど、他団体と親しい関係を続けている。すでに神戸山口組には、所属団体を飛び出して神戸山口組に加わるとか、今まで通りの交際を約束するとか、他団体も比較的友好的に対応している気配がある。神戸山口組は他団体の支援も受け、長期の抗争に耐えられるかもしれない。 神戸山口組に移ったかつての山口組直系組長がいう。 「今の山口組がやることは殺気立っている。たとえば福井の川内組・根本辰男組長が辞任を申し出ると、組事務所の所有名義を息子の名前にしているのが気に入らないと、罪過もないのに根本組長を破門して外に放り出し、組事務所を取り上げようとした。 とげとげしいだけの山口組が後5年もつかどうか分からない。われわれは山口組をなくすわけにいかないので立ち上がった。願いは、田岡一雄三代目組長時代のように和気藹々とした組に戻すことです」 いずれにしろここ1〜2カ月の間に両派の色分けが確定して、角突き合いが始まる。全国の繁華街では両派がシノギをめぐってぶつかり合い、経済戦から喧嘩出入り、抗争へと拡大しかねない。山口組は内乱の時代に入ったといえる。

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    山口組分裂の衝撃とヤクザ社会の変貌

    前10時27分、神戸市中央区 神戸芸能社が日本の芸能界を席巻するのは1952年に発生した鶴田浩二襲撃事件が一つのきっかけである。鶴田は映画俳優としてデビューして以来、人気が急上昇、休暇をとる暇がないほどだった。マネージャーが鶴田の大阪公演に際し、田岡組長宅にあいさつに出向いたとき、田岡組長を激怒させる行為があった。それが原因で鶴田浩二は宿泊中の大阪の旅館で山口組の数人に襲撃された。 この事件は芸能界を震撼させ、以後山口組は日本の芸能界を席巻することになるのである。神戸芸能社は業界一のギャラを支払うということもあって、芸能人の多くが自ら出演依頼を願い出るというケースが増えた。 ヤクザ組織は儲けが確実な売れっ子芸能人の自前の公演をどうしてもやりたい。田岡組長はそこを狙って神戸芸能社が扱うタレントを巧妙に利用して地方のヤクザを影響下に引き込んでいく。もう一つの勢力拡張策はいうまでもなく、“ムチ”だ。敵対してくる組織は容赦なく踏み潰していった。1970年代半ば以前のヤクザの抗争事件で山口組の関係していないものはないほどである。阪神・淡路大震災でヘリも活用阪神・淡路大震災でヘリも活用、大規模な救援活動を展開 日本ヤクザと海外マフィアには決定的な違いがある。 それは日本のヤクザが街中に堂々と事務所を構え、代紋と組の名を掲げた看板を出し、地元に深く根を下ろしていることだ。さらに特筆すべきことは、日本のヤクザは大災害が起きたときには率先して組の総力を挙げて救援活動に乗り出す伝統がある。利益を上げるには手段を選ばないマフィアにはそういう習慣はない。 阪神・淡路大震災(1995年)に例を取ろう。震災直後に救援活動に乗り出したのは山口組であった。私は情報を得てすぐに山口組に連絡を取った。応対に出た幹部には「どうせ売名行為といわれるだけだから、救援活動のことは書かないでほしい」と断られた。そこで私は「どこも無視して書かないのだから、私に書かせてほしい」と粘って、やっと了解を取った。 私は取材の趣旨を説明した文書を作り、全直系組長宛てに送付し、救援活動についての詳細な回答を求めた。そしてその回答を見て、驚嘆した。救援物資については米や食料、衣類はもちろんのこと、乳児用のミルク、おむつ(年齢別に選別)、女性の下着、生理用品のほか、ほとんどあらゆる日用雑貨百種類以上にものぼった。それも細部にまで配慮が行き届いていた。女性の衣類や下着、生理用品については、なんと組員の妻や姉妹に「年齢別に何が一番いいか」を問いただして、品物を選んでいたのだ。 大災害では道路が陥没したり破壊されることが多い。そういうところは救援物資を積み込んだトラックは通行できない。山口組はその難関をどう解決したか。ヘリコプターを飛ばしたのである。上空から地上を走るトラックに「次の交差点は左の道が陥没している。右の道を通行せよ」というふうに指示を出したのだ。おかげで救援物資は被災地にどこの救援隊よりも早く届けられた。それらの救援活動にはざっと11億円を要したという。 このヤクザの救援活動を日本のマスコミはまったく無視した。警察情報の垂れ流しがお得意の日本のマスコミは、ヤクザの“義挙”は一切報じないのである。ある全国紙が小さく遠慮がちに「イギリスの大手紙がヤクザの救援活動を伝えた」と報じたのにはあきれるより、笑ってしまった。激しい抗争は起こり得ない状況 さて分裂した6代目山口組と神戸山口組は今後どういう行動をとるのか。かつての「山一抗争」(多くの死傷者を出した1984年4代目襲名をめぐる山口組と一和会の抗争)のように、骨肉相食む抗争には絶対にならない。このことは分裂後、長野県で死者が出る事件が起こったが、「個人的な問題」として双方が冷静に対処した一件や、秋田、富山、名古屋でのトラブルも抗争には至っていないことを見ても明らかである。 その背景には「暴力団対策法」の5度にもわたる改正強化、各自治体による暴力排除条例の施行があり、末端組織の犯罪でも組織トップの使用者責任が問われる強硬策が効果を挙げていることは間違いない。 双方の活動状況を見ると、神戸山口組の活動がやや目立つようである。その一つは直系組長の会費の問題だ。5代目山口組時代は65万円、一時約100万円になったが、6代目の現在は再び65万円に引き下げられている。5代目時代は直系組長の数が多かったので組運営も楽だったようだが、6代目になってその数が減ったので、組運営はぎりぎりらしい。 神戸山口組の会費は経費込みで40万円前後だと噂されている。あくまでも噂であって、正確な数字はわからない。双方とも「オトを出す」(銃撃)気配はないようだが、勢力伸長には力を注いでいる。「6代目山口組」VS「神戸山口組」「6代目山口組」VS「神戸山口組」、勢力比“7対3” 水面下では6代目山口組と神戸山口組の勢力差は7対3といわれているが、最近の情報では九州地区で神戸山口組に1000人が移ったという説がある。これもあくまでも噂である。 九州に本拠を置く中堅組織のある幹部に話を聞いた。 「分裂後、小さなトラブルはあったが、それ以上大きくはならなかった。マスコミは抗争が今にも起こりそうな報道をしているが、私に言わせれば、今後抗争は絶対に起きない。もし起きれば、双方のトップは総責任者として確実にもっていかれる。 最高幹部も過去の事件を掘り起こしたり、些細な罪状で拘留されるだろう。そんな事態になれば組はがたがたになる。これまでは大手組織が分裂したりすると周囲が緊張してざわついたが、今回の分裂はみんな冷静に見守っている。当たり前のことや。騒いではいかんという意見が圧倒的や。今後は二つの組織は共存共栄の道を歩むとわしは思う」ヤクザ人口激減の中で進行する“近代化” ヤクザ組織は急速に変わりつつある。これまでは本家を除籍された組織(除籍されるのは組長個人)はヤクザ社会で組としての交流ができず、孤立して消滅していくのが当たり前だった。だが今回の分裂では除籍された幹部が復帰したり、絶縁された組員が拾われたり、これまでタブーとされたヤクザ社会の戒律が公然と無視されている。さらに組長を処分されたヤクザ組織の組員に「いつでもうちに来ていいよ」と声をかける組もある。 これまでの分裂劇とはまるで違った状況がヤクザ社会に広がろうとしているのである。それは分裂や紛争が起きても、どちらの組からも独立した立場を堅持する組が続出することの予兆である。ある意味では、古い戒律を捨てるヤクザ近代化の始まりと言えるだろう。 ヤクザ人口も激減している。警察庁の調べでは2005年に86300人(準構成員を含む)だったものが、14年末には53500人に減っている。新たなワルが蔓延する社会に ただこれだけで安心はできない。ヤクザを辞めていった人間がどこに行ったかである。20年ばかり前、新宿に「破門通り」と呼ばれた一角があった。ヤクザ組織を破門、絶縁された連中の集まる場所だった。ほとんどが詐欺や恐喝、「事件仕事」(企業のもめ事や政治の抗争に介入して資金を得る)などの仕事で生きていた。ヤクザ社会を追われた人間はヤクザ以上にワルに変身していくのである。 ほかに強烈な新愚連隊が出現している。暴走族上がりの「関東連合」や中国残留孤児の2世、3世を中心に組織されている「ドラゴン」などが知られているが、名目を名乗らない数人単位のワル集団も出現している。彼らの手口は何でもありで、平気で刃物や金属バット、こん棒を使う。しかも彼らは暴対法の対象にはならない。六本木や歌舞伎町には海外マフィアもうろついている。今後はこれらの集団に対する対策が急がれる。(2015年11月記)いの・けんじ 1933年滋賀県生まれ。新聞・雑誌の記者・編集者などを経て、フリージャーナリストとして活躍中。その間、日本ジャーナリスト専門学校専任講師・評議員を務め後進の育成にもあたった。やくざ、右翼、総会屋などをテーマにした分野においては先駆者的な存在。主な著書に筑摩書房から刊行の『やくざと日本人』(1990年)、『日本の右翼』(2005年)、『山口組概論─最強組織はなぜ成立したのか』(2008年)、『テキヤと社会主義』(2015年)などがある

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    山口組除籍の元組長が自殺「裏切り者と罵られ気に病んでいた」

    なき悲鳴が轟いた─。フリーライターの鈴木智彦氏がレポートする。 10月26日、長野県飯田市の組員銃殺事件に続き、山口組分裂で2人目の犠牲者が出た。「死体が見つかった! 殺しかどうかわからん」 山口組は一気に色めき立ったが、ネットを当たると既に報道されていた。暴力団筋の伝達スピードが遅かったのには理由がある。事件ではなく自殺だったのである。 通報した男性が大阪・浪速区のマンションにある暴力団事務所を訪れたのは、午後0時20分頃だったという。寝室として使っていた和室に入ると、布団を敷き、寝間着姿の元倉本組三代目・河内(本名は川地)敏之組長が倒れていた。胸に銃創があり病院に運ばれたが、すでに心肺停止状態だった。右手近くにリボルバーの拳銃が落ちており、争った形跡はなかった。 河内元組長は、10月半ば、山口組を除籍になったばかりだった。三代目倉本組は奈良市に本部を置く山口組の実力派組織(二次団体)で、いわゆる直参組長である。山口組分裂後は定例会を病欠しており、本部には代理を出席させていた。実際、体調は悪かったらしい。 もともと倉本組の初代は、今回、山口組を離脱した宅見組の出身である。河内元組長自身も宅見組・入江禎組長に恩義があったという。神戸山口組傘下組織事務所を訪れる関係者ら =10月8日、神戸市長田区(猿渡友希撮影) 「自分が組長になれたのは入江さんのおかげだと、なにかにつけて話していた。ハートのある人で、義理堅い性格だった。入江さんからは、神戸に来ないかと再三誘いをうけていたと聞く」(山口組直参組長) 出るか、それとも留まるか……山口組にすれば、これ以上、二次団体単位で移籍されてはたまらない。結果、河内元組長は除籍となったが神戸側に移ることなく身を引き、倉本組自体は山口組にとどまることで、形としては円満に山口組を辞めた。だとすれば自殺する必要はないようにみえる。山口組関係者がいう。「その後、河内元組長の下にいた組織の幹部が神戸山口組に走ったんです。ちょうどいい潮時と思って、カタギになろうとしていた若い衆もいたそうですが、彼らはこちらの倉心会に合流することになった。つまり、神戸側と六代目側に分かれることになり、自分が身を引いても問題は解決しなかった」 倉心会とは倉本組から分裂した組織である。倉本組は初代組長が亡くなった後、跡目を巡って内部闘争が勃発し、貴広会と倉心会に分裂した。貴広会側はその後、倉本組を名乗ることを許され、跡目となったのが河内元組長だった。山口組は二つの倉本組系列を、どちらも直参組織に取り立てることで混乱を終息させた。河内元組長は、山口組分裂の前から、自らも分裂劇を体験していたのだ。「事情を知らない人間から陰で裏切り者と罵られ、ずいぶん気に病んでいたらしい」 とある関係者は言う。山口組から詰められたのか、神戸側に非難されたのか、そのあたりは判然としない。いったんは神戸入りを決めたが、説得によって撤回したという可能性もある。山口組から離脱した神戸側から、裏切り者の汚名を着せられたのかもしれない。「自分の命で決着を付けた。男らしい結末」(独立団体幹部) 自殺を選んだ河内元組長に、おおむね好意的なのが、暴力団というものである。組織が分裂し、自殺者が出るのは珍しくない。2006年から足かけ8年続き、一般人を含む14人の死者を出した九州・道仁会の分裂抗争でも、最初の犠牲者は両者の間に挟まれ苦しんだ結果、自殺を選んだ玉名(熊本県)の組長だった。 大組織になればなるほど、対立軸とは無関係な人間が増える。憎しみを強制され、無理矢理踏み絵を踏まされる。抗争が勃発せず、にらみ合いを続ければ、これからも自殺者が出るだろう。 名古屋繁華街の飲食店をまとめあげた山口組若頭の「経営手腕」暴排条例対策で山口組 破門状は郵送からファクスに切り替え暴排条例で海外に拠点移す組織増えると山口組系企業舎弟証言38年ぶりに新創刊の山口組新報 俳句や川柳、釣り特集もあり山口組組長実子挙式 大物政治家や大スター列席の時代あった

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    六代目山口組に待ち受ける「現代版兵糧攻め」

    務当局だったわけである。現在、これと同じことが世界規模で行われ始めているのである。 米国は911テロ事件以降、テロとの戦いを進めてきた。そして、テロ組織やテロ関連団体への金融制裁を中心とした新たな仕組みづくりを主導してきたわけである。この中心になったのが国際機関であるマネーロンダリングに関する金融活動作業部会(FATF)という組織なのである。もともと、この組織は国際的なマネーロンダリングに対応するために作られたものであるが、現在ではテロ対策も主な業務になっている。そして、FATFはマネーロンダリングに関する「40の勧告」とテロの関する「9の特別勧告」を定め、関係国に順守を求める活動を開始した。 米国はテロ対策として、独自に米国愛国者法とIEEPA法という2つの法律を成立させた。この法律は米国の安全保障に危害を加える人や組織の資産や銀行口座の凍結や没収を可能にする法律であり、テロ関係者と米国企業との取引を禁じる法律でもある。これは米国の国内法にすぎないわけであるが、これに反した場合、米国や米国企業、米国の金融市場や銀行と取引できなくなってしまうのである。そして、それは国際企業や銀行にとっての死を意味するものになるのだ。実際に秘密裏に北朝鮮との取引を行っていたバンコ・デルタ・アジアという銀行は、これが理由となり実質破綻状態になり国有化された。また、最近でもフランス最大の銀行であるBNPパリバが米国から1兆円近い制裁金と為替関連取引の1年間の禁止を命じられたわけである。 当然ながら、日本もFATFが求めるマネーロンダリング対策とテロ規制に対応する必要があり、この対応のために金融取引の際の本人確認厳格化とテロリストとの取引を禁じ、資産を凍結する事ができるテロ三法を成立させたわけである。また、現在すすめられている「マイナンバー制度」もFATFの求める本人確認厳格化のための道具の一つなのである。神戸山口組傘下の俠友会に家宅捜索に入る兵庫県警の捜査員=9月15日午前9時59分、兵庫県淡路市六代目山口組は国際的にはテロ組織 さて、暴力団の話に話を戻そう。米国がテロリストと指定し金融制裁の対象になった人や組織のリストを公開しているわけである。これを「SDNリスト」と呼ぶ。そして、米国は2011年7月「YAKUZA」という暴力団の総称と一部指定暴力団の幹部及び、その関連団体をこのリストに入れた。 そして、米国政府は徐々にその対象を拡大していった。2012年 六代目山口組と組長である篠田建市(通称司忍)など幹部2名をSDNリストにいれ、2013年にこれを拡大、そして、2015年4月21日 米国は六代目山口組組長の出身母体である山口組弘道会と竹内照明会長をSDNリストに入れた。つまり、六代目山口組とその幹部はテロ組織とテロリスト扱いになったわけである。ちなみに「住吉会」と「稲川会」もこのリストに掲載されている。 つまり、この段階で六代目山口組は国際的にはテロ組織であり、幹部はテロの主導者と同じ扱いになったわけである。これを受けて、日本政府としては早急な対応を行うことが急務になった。米国のSDNリスト掲載に掲載されることは国際テロリスト指定と同義であり、これを国内で放置しておけば国際的批難を浴びるからである。 しかし、日本は民主党政権の政治的混乱と東日本大震災による影響などからこれに対処できない状況が続いており、同時に法整備も著しく遅れていたわけである。そのため、日本の対応が国際社会から批判を受ける状況になりつつあったのであった。これを受けて、昨年11月日本政府が作った法律が先程述べたテロ組織などへの資金提供を禁じ、資産を凍結没収出来るテロ三法であり、この法律ができたことにより、警察当局としても動きやすい環境が出来たといえる。 そして、今回の暴力団壊滅作戦が始まったわけである。現在その中心となっているのは銀行口座の取得や不正利用であり、詐欺や本人確認法違反などにより暴力団の幹部が続々と検挙されているのである。そして、銀行口座を洗い出すことによる新たな検挙も始まっている。銀行口座には金の流れが記録されており、それだけで証拠になる。銀行口座にお金がある=何らかの所得があることを意味し、確定申告などによりきちんと納税されているかが次の焦点になるわけである。これで検挙されたのが工藤会総裁であり、下部団体からの上納金の一部を個人の所得とみなし脱税で検挙したわけである。 暴力団というのはピラミッド構造であり、暴力団員→三次団体→二次団体→一次団体という形で上納金が上がってゆく仕組みになっている。当然、一次団体に税務調査が入れば、その反面調査として二次団体や三次団体に税務調査が進むことになる。そして、暴力団フロント企業や関連企業の実体も暴かれることになるわけである。そして、暴かれると銀行口座が凍結され、資金が没収される事態になってしまうのである。 暴力団も、金がなければ何も出来ない。抗争にはお金がかかり、組の維持にもお金がかかる。当然、その構成員である暴力団員にも家族があり生活がある。この一連の捜査は、暴力団の金を止めることを目的にしており、「現代版兵糧攻め」といえるものなのである。 そして、日本最大の組織である六代目山口組を崩壊に導くことができれば、日本政府の国際的なメンツも立つ、このような情況の中で、今回の六代目山口組分裂は起きたわけである。その理由には、もともとの母体である神戸と六代目の出身である名古屋の争いもあるが、金の問題も大きいと言われている。暴力団二次団体、三次団体の多くが本部が求めてきた上納金を払えなくなりつつあるのだ。そして、これを考慮し分裂先である神戸山口組は、上納金を大きく下げる決断をしたと言われている。  また、今回のパリでのテロ事件を受けて、国際連携でのテロ取り締まりの強化とテロリストの監視強化と迅速化が決議され声明として出された。これにより、これまで以上の速度で、国際的にはテロ組織とされる暴力団の取り締まりは一層厳しくなるだろう。特に2つの山口組は分裂による抗争が懸念されており、警察庁の警戒最重点対象になっており、警察は威信をかけて、撲滅を進めることになるのだろう。

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    野球賭博の温床はカネとオンナ  球界の貧しき夢が生み出す「黒い霧」

    、大きな関心事となった。 伝わり方に少し誤解があると感じるので確認しておく。ニュースで過去の『黒い霧事件』が持ち出された関係もあるだろう。黒い霧事件はプロ野球選手が八百長に関与し、賭けの対象となる試合で勝負を操作した事件だ。巨人選手が「八百長に関与した」と勘違いしている人たちが私の周りにもいる。今回は、非合法的な野球賭博に「賭けていた」事件であって、八百長ではない。だから「罪は軽い」と弁護する気はないが、「どうしてそんなことをやったのかねえ」と不思議に感じる人たちが理解するヒントにはなるだろう。「八百長が悪いのはわかっている。でも、賭けるだけならそれほど問題にならないと思った(あるいは、思わされた)」可能性がある。 十数年前まで、夏の高校野球などは普通に街中で賭けの対象になっていた。甲子園大会の開幕が近づくと、馴染み客の集まる居酒屋やラーメン屋あたりでは、当然のようにそれぞれの方式で賭けが行われていた。試合ごとに一喜一憂し、「誰が当たったか」で盛り上がるのは、むしろ微笑ましい夏の風物のひとつだった。金額の程度はあるにせよ、少額のお金を賭けて交流を深める習慣は、庶民にとっては生活の潤いであり、憩いでもあった。友人たちとゴルフに行って“握る”のも半ば常識だ。パチンコにしても、あうんの呼吸で成り立っているギャンブルのひとつ。日本社会にはそのように黙認された“賭博”が実際あるだけに、今回の当事者たちも最初からこのような大事件になる認識がなかったのではないだろうか。ある時期から少額でも違法だというプロモーションが行われ、ここ数年は高校野球の賭けも姿を消した(地下に潜った)感がある。野球賭博問題で新たに笠原将生、松本竜也が関与していたことが発覚し、会見に臨む巨人・久保博球団社長(左)と森田清司法務部長=東京・大手町の読売新聞本社 (撮影・山田俊介) 社会的にも、その賭けが大がかりで反社会勢力の資金源になっているかどうかが問題視される傾向と同様、野球協約上も、賭けの組織が反社会的勢力かどうか、その点が処分を決める分岐点になるようだ。普段から親しく付き合っている友人が、暴力団とつながりがあるかどうかを確かめる認識は薄かったのではないだろうか。 事件が発覚した直後、「これで野球くじの導入は難しくなった」、文部科学大臣のコメントが新聞等のメディアに載った。苦虫をかみつぶすような反応。平たく表現すれば、「あいつらのおかげで野球クジ導入がダメになった」という印象だった。世間の空気もそれに呼応し、2020年東京五輪の財源確保のために突然降って湧いた野球クジ導入は白紙に戻った感がある。文科相コメントに突っ込みを入れたメディアは知るかぎりないが、私はひどく滑稽な印象を受けた。 賭博に手を染めた悪人(巨人選手たち)のせいで、野球クジの導入が暗礁に乗り上げた……。 野球クジと野球賭博は、法律で認められているかどうか、その収益が反社会勢力の資金源になっているか公的機関の収入になるかの違いはあるが、同じギャンブルに違いない。国が胴元なら健全で、そうでなければ悪なのか? プロ野球がクジの対象になることを歓迎しない立場からすれば、今回の事件で野球クジ導入が見送られたら、不幸中の幸いという側面もある。 野球賭博問題の温床は、野球界の体質、目的設定にあると感じる。 「暴力団関係者と付き合ってはいけない!」 「賭博に関わってはいけない!」 いくらそのような教育をしても、選手たちの趣味、嗜好、普段の価値観やライフスタイルを変えない限り、本質的な改善にはつながらない。この人たちに染まってほしくない 私は、甲子園でヒーローになり、注目されてプロ入りした選手の母親と会ったとき、素直なつぶやきを聞いて言葉を失った経験がある。 入団契約後、寮や練習を訪ねた折りに先輩たちを紹介してもらう機会があった。いずれも有名な選手ばかりだったが、それまで自分たちが生活している社会では あまり会ったことのない雰囲気の若者たちだった。わかりやすく言えば、「手塩にかけて育てた息子が、こんな先輩たちみたいになってほしくない」、粗野で無教養、チャラチャラした印象の選手が大半だったというのだ。プロ野球での活躍を祈る一方で、 「あまりこの世界に長くいてほしくないなあ、この人たちに染まってほしくない、と思いました」 母親がつぶやいた。せっかく夢にまで見たプロ野球に入ったのに、現実は憧れとかけ離れた空気に満ちていた。それを聞いて、胸が痛くなった。 むさ苦しい髪の毛、モヒカン的なそり込み、ジャラジャラしたネックレス、だらしないユニフォームの着方、私服姿も清潔感がない……、チームの先輩たちの姿が目に浮かんだ。たしかに野球の技量は抜きん出ている。豪速球、長打力でファンを沸かせる。だが、人として尊敬できる選手と言えるだろうか。 親がわが子に「このような人物になってもらいたい」と惚れ込む選手がそれほど多くないのがいまのプロ野球の現実かもしれない。 最近のメディアはそれを「個性」と呼んで面白がる傾向もあるが、「プロ野球選手が子どもたちの模範となる存在」というイメージは幻想になりつつある。 なぜそのような選手が増えているのか。少年時代から野球に打ち込む目標が「甲子園」や「プロ野球」に集約され、「甲子園に出ればプロ野球に入れるぞ」「プロに入って活躍すれば金持ちになれるぞ」「野球選手はオンナにもてるぞ」、短絡的な動機付けが成功の褒美のように刷り込まれているのが要因ではないだろうか。 野球界だけでなく、日本中の大人たちも、そんな考えに支配されている。子どもが公園でキャッチボールをしていると、通りかかる顔見知りのおじさんたちが挨拶代わりに、「お、将来は5億円だな」などと、すぐお金の話をする。褒め言葉、社交辞令のつもりだろうが、子どもは高額年俸を頭に描いて公園で野球に熱中しているのではない。ところが日本の空気が知らずしらず、結果がすべて、成功の証は「カネとオンナ」に集約されていないだろうか。女子アナと結婚するプロ野球選手も多い。まるでそれが野球で成功した者のステータス、目指すゴールのようになっている。 一昨年の日本シリーズのときも巨人選手のスキャンダルが報じられた。一般の社会人より夜の街に繰り出す頻度も高そうだ。日々の目的が、野球でひと旗あげて「お金を儲け、オンナにもてる」、いかにも単純な思考に支配されている傾向は否めない。野球選手の楽しみといえば、試合が終わったら飲みに行くこと、そこで女性との出会いやひと夜の満足を得ることががんばった成果のようになっているとしたら、あまりに貧しい。もちろん、選手全員がそうだとは言わない。だが、年齢のわりに年俸は高いけれど心の貧しい選手たちが、残念ながら少なくない。 「高い年俸をもらえるようになったら、困っている人たちを助けるための施設を作りたい」 「経済的な理由で野球をあきらめる少年たちを支援する基金を作りたい」 などといった発言は、日本のプロ野球選手からはあまり聞かない。 「野球を通して人格形成を目指す」のはお題目にすぎず、実際には重視されていない。勝てば官軍、活躍すればその選手を利用してみんなが利益を共有しようと集まってくる。甲子園に出れば理屈抜きに評価され、プロ野球に入ればまたチヤホヤされる。人間的な深みや充実を問わない実状が日本の野球界を貧しくしている。今回の事件もそのような土壌を反映している。 この事件がプロ野球界に与える影響はそれほど大きいと思わない。というより、すでにプロ野球は深刻な凋落傾向にある。「巨人軍の選手は紳士たれ」といったフレーズも今回の報道の中で久々に持ち出されたが、巨人の選手が品行方正な紳士だと信じているファン自体がいまやほとんどいないだろう。そういう意味でも、影響が大きいと思わないのだ。 むしろ、旧態依然とした12球団の組織をどう改革するか。人々の嗜好やライフスタイルが多様化する中で、プロ野球を改めてどう活性化し、人々の日常生活とどうつながってエンターテインメント・ビジネスを盛り上げていくのか。懸命に新しい道筋を創らなければプロ野球は衰退の一途をたどるだろう。今回の事件は、そのような危機感のなさ、改革の機運の欠落を象徴する出来事とも言えるのではないか。 球団も野球界も、事件の当事者だけを悪人にし、彼らを断罪することで自分たちのクリーンさを強調する姿勢を感じる。当事者が悪人で、野球界は被害者という振る舞いはその通りかもしれないが、十分な認識ではない。野球界全体の姿勢を変えるきっかけにできなければ、後になって影響の大きさを痛感することにはなるかもしれない。

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    罪に問われる賭博とそうでない賭博 法律論から見た日本の矛盾

    すれば刑法上の責任も重くなりそうなのであるが、実はそう簡単でもない。 メジャーリーグ史上最悪の八百長事件「ブラックソックス事件」では、各選手は詐欺や業務妨害で起訴された。彼らは金を受け取ったところまでは事実認定されたが、結論としては、無罪になっている。損害の発生や因果関係、共同謀議の存在等が立証できなかったのである。 八百長というのは、法律的には立証が困難な犯罪なのである。 八百長をする選手からしても、わざとトンネルするとか、全部空振りするとか、あからさまなプレーをするわけにはいかない。「ばれない程度の八百長プレー」ということになれば、それは「法律上明白な実行行為」と認定されにくくなる。 野球もゲームの一種であり、その結果には偶然性も影響する。たとえば、わざと鈍いスイングをしたのが功を奏してボテボテの内野安打になる、真ん中に投げるつもりが外れて最高のコースに決まる、などの結果が生じた場合、それは、法律的には「八百長行為」と認定できなくなる。 野球における八百長は、成功させることが難しいのである。 実際、日本プロ野球史上最悪の八百長事件「黒い霧事件」では、八百長がされた3試合で、八百長を仕掛けた選手がいるチームが2回も勝利している。こうなると“法律的には”八百長しようがしまいが結果には影響がない、という結論になり、犯罪は成立しなくなる。 どの行為によっていかなる損害が発生したのか、法律的立証に不可欠なこの要素が、八百長事件では認めにくいのである。 以上から野球選手が野球賭博に手を出したとしても、刑法上の罪は重くなく、万が一八百長に加担したとしても、立証が困難なので重い罪に問われる可能性は低いという結論になる。 となれば、選手の責任は軽いのかといえば、そうではない。選手は、野球協約上、きわめて重い責任が問われる。八百長は「イメージ犯罪」と呼ばれることもある。 上記のとおり、八百長の罪を法律上立証することは難しい。しかし、八百長は、対象となった競技の信用性を著しく阻害する。競技のイメージ面に大きな打撃を及ぼし、その存在自体を危うくする。 今から45年前、プロ野球最悪の八百長事件である「黒い霧事件」の影響は甚大であった。栄光の歴史を持ち地元福岡でおおいに愛さされていた西鉄ライオンズは、観客が激減し身売りする羽目になった。 また1球団だけではなく、黒い霧事件の影響は、パリーグ自体が消滅寸前になるほどであった。なんとか存続したものの、イメージ悪化による人気低下はすさまじく、パリーグの試合には閑古鳥が鳴く時期が長く続いた。 名捕手野村克也が偉大な本塁打記録を打ち立てた試合、観客はわずか数千人、試合後野村は「花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」とコメントした。代名詞「月見草」誕生の裏には、黒い霧事件の影響による酷い人気低下があったのである。 また、本件のように八百長には至っていない場合でもあっても、野球賭博にはそのイメージが悪い大きな理由がある。それは、野球賭博の胴元には暴力団が絡んでいるという半ば周知の事実である。 野球賭博というのは、基本的に「ツケ」でなされる。客は、コワモテのヤクザだからこそ負け分をきちんと支払い、またそういう「負け分をきちんと回収できるヤクザ」だからこそ勝ち分もちゃんと支払ってくれるだろうと信用して賭けに参加するのだ。 さらに野球賭博には、賭け客を増やすための「ハンデ」という独特のルールが存在する。 たとえば、ソフトバンク対DeNAという試合があったとき、単純に勝ちチームを当てるだけなら、ソフトバンクに賭ける人が殺到する。 このような場合、ハンデがものを言う。たとえば、ソフトバンクからハンデ「2」が与えられた場合、試合結果がDeNAが1点差で負けたとしても、賭けのうえではDeNAの勝ちとなる。そうやって「魅力的なギャンブル」にするのだ。 ちなみにハンデは、実際はもう少しややこしく、「1.8」などと小数点付きで出されることが多い。ハンデ「1.8」の場合、ソフトバンクに賭けてソフトバンクが1点差で勝てば、賭けの上では負けなのだが、それは「8分負け」ということになり、10万円賭けていた場合2万円は払い戻される。 そうやっていわゆる「ニアミス効果」(外れなのだが当りに近付いたとプレーヤーが認識できる場面が多いほどのめり込みやすい賭博となるetcパチンコのリーチ)を生んでいるのだ。 「適正なハンデを出すこと」が、野球賭博の胴元には必要なのだが、これをするには相当な野球知識のある者(「ハンデ師」と呼ばれる)を雇う必要があり、これもやはり大きな組織でないとできないことになる。 結局のところ、野球賭博の胴元は、大がかりに非合法なことをできるコワモテだがある種の信用ある組織、ということになり、これは暴力団をおいて他にない。その道では、野球賭博の胴元はヤクザの中でもカネを持ち信用あるヤクザでないとできない、などと言われているともいう。 以上を踏まえ、野球協約は、野球賭博にきわめて厳格な態度を示している。 野球賭博をするだけで1年ないし無期の失格処分、それがもしも所属球団について賭けたのであれば、それだけで永久追放処分である。永久追放は、内部規則における“死刑”と同義だ。最高刑である。 しかし、ことの重大さを考えれば、その重さも妥当である。プロ野球は娯楽であり、興業の一種だ。イメージは何より大事である。そのイメージに甚大な被害を与え、その存在を危うくしかねない行為が、重罪として裁かれるのはやむを得ない。 結論として、本件各選手の責任は、刑法上は重いとは言いがたい。しかし、内部規則である野球協約上は“死刑”に相当するきわめて重い責任が科される可能性もある。 「黒い霧事件」のときは、当初は対象者も1人だけそこまでの騒ぎではなかったのだが、事がおさまるかと思ったときに、多数の関与者が発覚して大騒ぎになった。 私は、プレーオフシーズンになると早起きして帰りを早くするほど、プロ野球が大好きだ。今回の件が、黒い霧事件のように波及しないことを心から願っている。 今の日本は、合法的にできる賭博は山ほどある。スマホをいじるだけで馬券が買える時代である。宝くじ売り場というのは、賭博場である。駅前や国道沿いのパチンコ店は、年中無休だ。麻雀だって、仲間内でこっそりとささやかに賭けるくらいなら、警察はお目こぼししてくれる。今の日本には、手を出していい賭博と出してはならない賭博が存在するのだ。 野球賭博は、後者の典型である。くだんの選手たちにそれを教えてあげる人は周囲にいなかったのか、私はそれが残念でならない。 私は、今回のような事件が起きる原因のひとつは、賭博罪が曖昧なままで据え置かれていることだと考えている。 今の日本は、誰でも手軽に賭博ができる環境であるのに、一方で、賭博は犯罪だという建前もいまだ残っている。 そのようなグレーな状況のもと、みなが賭博と正面から向き合わないから、社会全体の賭博についての知識が欠如し、当然くだんの選手たちも知識がなく、つけ込まれるスキが生じてしまうのだ。 賭博とは何なのか。賭博から生じ得る問題は何なのか。やっていい賭博としてはならない賭博の境界線はどこか。その理由は何か。 これだけ賭博があふれかえっている世の中なのだから、本来そういう社会的教育が必要なのだ。しかし、これらはなされない。賭博は犯罪だ、という建前が残っているからである。 そこに賭博があるのにこれときちんと向き合わないというこの国の矛盾が国民的娯楽に打撃を与えるのだとしたら、こんなに悲しいことはない。 あえて同情的な見方をすれば、本件の各選手も、そういう矛盾が生んだ犠牲者の一人といえなくもない。

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    銭はグラウンドに落ちている

    巨人軍の現役選手が野球賭博に関与していたことが発覚し、球界はいま揺れに揺れている。その最中、今度は米大リーグ、ダルビッシュ有選手の弟が「胴元」として逮捕され、蔓延する「黒い霧」の悪夢にファンの落胆も大きい。反社会的勢力とのつながりはどこまで広がるのか。

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    堕ちた球界の盟主、巨人野球賭博に潜む3つの火種

    れざるを得ない状況にまで事態は発展したといえる。 また今回の野球賭博問題の対応にあたっては、球団側の事件発覚後の対応に関しても、その認識の甘さが批判の対象となっている。高校野球においては、いち野球部員が起こした不祥事が発端となって、部全体の対外試合が自粛されるなどの処分が行われることは常である。実際、2005年の夏の甲子園では、当時すでに県代表として本選出場が決定していた高知県の明徳義塾高校が、部内での暴力や喫煙行為などの発覚によって出場を辞退した事は未だ記憶に新しい。 対して読売ジャイアンツは、新たに2選手の野球賭博への関与を発表した記者会見において行われた、翌日に予定されるドラフト会議に関する質問に対して「有望な新人を獲得するための唯一の手段であると思うので、球団としては参加させて頂く」などとコメントしており、実際に参加を強行した。球団としては、未だプロ野球を統括するNPBによる採決を待っている状況であり、それが判明してから関係者等の処分を改めて考えたいとしているが、全国の高校球児たちの「鑑」としてのプロ野球球団の「身の処し方」が改めて問われている事態であるといえる。プロ野球 巨人練習 練習前、円陣の輪の中で選手たちに話をする巨人・原辰徳監督(右)=10月6日午後、東京都文京区の東京ドーム(撮影・大橋純人) また気になるのが、本事件の今後の展開である。まず、本事件に関する暴力団等の関与であるが、現時点での球団発表では暴力団等の関与は未だなんら指摘されていない。これは、本件が未だ球団による自主的な内部調査に留まっており、その手法が選手への聞き取りと、彼らが使用していた携帯電話等の利用履歴の確認によるものであることに起因する。民間組織である球団としては、あくまで賭博に関わったとされる自組織内の3選手サイドからしか調査が出来ないのは当然であり、その背後関係にまで切り込めていない現状は仕方がないともいえる。 一方、メディア各社による報道では、球団はすでに警察への相談を始めているとの情報もある。最初に野球賭博への関与を報じられた福田聡志投手に関しては、すでに数百万円におよぶ借金があり、またその借金の取り立て人が球場に押しかけた事が事件発覚の発端となったと言われている。客観的にみるならば、この福田投手に関する単独事案だけを見ても、すでに警察が動くレベルの違法賭博事件となっており、その主体がプロ野球選手であるという社会的影響の大きさも考えると、これより警察による捜査が始まるのも時間の問題であると思われる。暴力団等の関与の有無に関しては、これら警察による捜査の進捗によって徐々に明らかになってゆくだろう。 次に気になるのが他球団への問題の波及である。ジャイアンツ以外の球団も今月冒頭に本問題が発覚した時点で独自調査を始めており、現時点では野球賭博への関与があった選手の存在は確認されていない。ただし、これらもあくまで各球団による所属選手への聞き取り調査などが中心となったものであり、強制力を伴うものではない。ここに警察による介入が行われ、特に背後に大きな違法賭博シンジケートのようなものの存在が明らかになった場合には、胴元側の顧客リストなどから芋ヅル式で他球団の選手の関与が判明する可能性はある。この点に関しても未だ予断を許さない状況である。 そして、最後の懸念が八百長事件への発展である。球団による現時点での調査では、今回野球賭博に関わった3選手の八百長行為、もしくはチーム内の他選手に対する八百長の持ちかけなどは確認されていない。一方、未だ記憶に新しい2010年に発覚した大相撲を舞台とした違法賭博事件では、当初「八百長はない」とされていたものが、調査が進み、事件が大規模化するにつれて続々と八百長疑惑が噴出した。結果的に、当時大関であった琴光喜関も含めて、約20名にもおよぶ現役力士の大量処分にまで至ることとなる。繰り返し論じてきたとおり警察による本格的な捜査の始まっていない現時点では、野球賭博問題は未だ事件の「入口」に差し掛かっているだけの状況であり、今後の展開次第ではこれが更なる大きな事件に発展する可能性は多分に残されている。 そして、最後に予見される本事件の余波が、プロ野球界の「外側」への影響である。現在、我が国には刑法で禁止される賭博等の例外として、スポーツ振興くじ(通称:totoくじ)が存在している。実は、totoくじを所管する文部科学省および与党自民党は、現在、サッカーのみに適用されている「合法の」スポーツ賭博であるtotoくじの適用範囲をプロ野球にまで拡大することを計画していた。これは2020年の東京オリンピックのメインスタジアムである国立競技場の開発費を捻出する為の措置であり、価格高騰で問題化した建設費の上昇分を、新たなtotoくじの導入で補てんしようとするものであった。 しかし今回、現役プロ野球選手による違法な野球賭博への関与が発覚したことで、その計画はすでに暗礁に乗り上げている。今月初め、福田投手が野球賭博に関わったとされた初期の報道時点で、すでに遠藤五輪相を含む複数の関係閣僚から「今の段階で(プロ野球への)くじの導入は難しい」などとするコメントが出されており、totoくじ法の改正はほぼ延期が確定してしまった状況だ。一方、totoくじの拡大が年内もしくは来春にできないとなれば、高騰する国立競技 場の建設費用をどこか別の場所から調達せざるを得ず、それが新たな「国立競技場問題」の火種となりかねない様相だ。全く個別の問題として発生した二つの問題が、根底では深く繋がっているというのは非常に皮肉な状況であるといえる。 いずれにせよ、今回の野球賭博問題は未だ様々に影響が波及する可能性が残されており、予断を許さない状況にある。これら問題を傍観するしかない我々としては、これ以上の事件の「炎上」がないことを祈りつつ、引き続き注視をしてゆきたいところである。

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    川上哲治氏が「巨人で八百長選手いるか」と本誌に確認の過去

    ・福田聡志投手の野球賭博関与問題は社会に大きな衝撃を与えた。そこで思い返されるのが46年前の「黒い霧事件」だ。そもそものきっかけは1969年10月、西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の永易将之(ながやす・まさゆき)投手が、球団の調査で「暴力団の野球賭博で八百長試合に関与した」と判断され、解雇されたことだった。 これを新聞が大きく報道。さらに渦中の永易が普段着のまま自宅を出て、そのまま失踪したことで、疑惑が疑惑を呼び、騒動は社会問題に発展する。最終的には、複数の逮捕者を出す事態となり、19名のプロ野球選手が永久追放・出場停止などの重い処分を受けた。 ここで本誌『週刊ポスト』は球史に残るスクープ記事を掲載することになる。行方をくらませていた最大のキーマン・永易の独占インタビューを報じたのだ(1970年4月10日号)。 インタビューは本誌の協力ライター・大滝譲司氏によるもの。2週にわたって掲載され、その赤裸々な内容が大きな話題を呼んだ。まさに球界を揺るがした独占インタビュー。その裏には、未だ語られたことのないドラマがあった。 当時、現場にいた小学館OB・林四郎氏(当時週刊ポスト担当役員)が振り返る。「コミッショナー委員会の委員長で東大出身の憲法学者・宮澤俊義氏が小学館に来て、涙を浮かべて“プロ野球の選手が八百長をするとは信じられない”といってきた。“残念ながら事実です”と永易証言を説明すると、肩を落として帰っていきました。気の毒で仕方がなかった」 そしてもう1人、本誌編集部は、球界を代表する人物からの接触を受けている。巨人V9時代の名将・川上哲治監督だ。川上哲治氏「作家の五味康祐さんの紹介で、川上監督が会いたいといってきたので、赤坂の料亭で一席設けました。川上監督は“巨人軍の選手の中で八百長している選手はいないですね?”と尋ねられました」(林氏) その時、実は捜査関係者がマークする選手の中には、巨人軍の選手も2人含まれていたという。「今だから話せる話ですけどね。諸々の事情から、ここで名前を挙げるとマズイと判断し、“名前は出ていませんでしたね”と否定しておきました。すると川上さんはホッと安心したような様子でした」(林氏) 本誌のインタビュー後、八百長事件は永易の記者会見以降にも次々に発覚。文字通り「黒い霧」となっていく。 永易が実名を挙げた選手の中には、西鉄から中日にトレードされていたT投手も含まれていた。本誌は第2弾記事で、当時疑惑を指摘されて蒸発していたT氏を疑わしいと実名で報道。この記事で本誌は、T氏から名誉棄損で東京地検に告訴されたが、結局、T氏は野球賭博の捜査の過程で浮上したオートレースの八百長疑惑に関与したとして球界を永久追放された。本誌も不起訴処分となった。 さらに中日のエースだったO投手は、同じくオートレースに絡んで逮捕されるという事態にまで発展している。林氏が語る。「ある仕事で名古屋に行ったとき、Oさんがバーをやっているというので立ち寄ってみた。こちらの素性は明かさず飲んでいたんですが、カウンター越しの彼の寂しい背中を見たときは、これがとんでもない事件だったことを痛感させられました」 今回、野球賭博に関与した巨人の福田聡志投手が生まれる、はるか昔の話ではある。しかしその行為がどれだけ球界とファンを裏切り、自分自身をも貶めることなのか知るべきである。闇に手を染めてしまった永易の独占告白が伝える教訓は、今なお重い。(文中一部敬称略)関連記事■ 王貞治インタビュー他プロ野球逸話を満載した二宮清純氏の本■ 解任騒動の元巨人・清武英利氏が野球への思い綴った本が登場■ 江川卓、伊良部他プロ野球史上に残るヒール55人を紹介する本■ オリックス球団社長を11年務めた男が球界の舞台裏著した本■ 「江夏の21球」や「巨人はロッテより弱い」発言の真相描く書

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    球界の黒い霧事件 最大のキーマン・永易将之の独占告白内容

    ・福田聡志投手の野球賭博関与問題は社会に大きな衝撃を与えた。そこで思い返されるのが46年前の「黒い霧事件」だ。そもそものきっかけは1969年10月、西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の永易将之(ながやす・まさゆき)投手が、球団の調査で「暴力団の野球賭博で八百長試合に関与した」と判断され、解雇されたことだった。 これを新聞が大きく報道。さらに渦中の永易が普段着のまま自宅を出て、そのまま失踪したことで、疑惑が疑惑を呼び、騒動は社会問題に発展する。最終的には、複数の逮捕者を出す事態となり、19名のプロ野球選手が永久追放・出場停止などの重い処分を受けた。 ここで本誌は球史に残るスクープ記事を掲載することになる。行方をくらませていた最大のキーマン・永易の独占インタビューを報じたのだ(1970年4月10日号。以下、カッコ内は記事より。誌面の都合により、一部編集してある)。 インタビューは本誌の協力ライター・大滝譲司氏によるもの。2週にわたって掲載され、その赤裸々な内容が大きな話題を呼んだ。まず、八百長をやったのかと迫る大滝氏に、永易は観念したように認めた。「そのために永久追放になったんですから、いまさら否定できないですね」 永易は「自分は八百長の首謀者ではない」としたうえで、こう語る。「(関係した八百長試合は)ほんの数えるほど。三試合ぐらいかな。成功したのは一回だけで、あとの二試合は失敗。(失敗したらカネは)もらいませんでした。成功したら二十万円です」「暴力団の人と、野球に関してはまったく関係ありません。(実際にカネを払っていたのは)関西の商人です。昨年、チームメイトの紹介で、神戸で飲んだのがきっかけで知り合った」 永易は大滝氏の質問に丁寧に答える。成功した八百長の試合(故意の敗戦)についても、詳細を以下のように語っている。「M投手の友人でHさんという人がいるんですが、この人が張本人なんです。Hさんは胴元ではなく、張る方なんですが、一昨年のシーズン中にM投手と知り合ってやりはじめたそうです。僕がはじめて持ちかけられたのは(八百長が成功しなかった)ロッテ戦で、Y投手から頼まれました。(成功した南海戦は)Y投手が僕にいってきたんです。確実にやるためにバッターもおさえてくれといわれて、僕が内野手のF選手をとめ(仲間に誘うこと)、YがM捕手とこれも内野手のM選手をとめました」「僕がF選手に話したのは試合の一日か二日前、二人で買い物へ行った帰りに御堂筋の喫茶店で話しました。Fははじめてだったらしくびっくりしていましたが、とにかく『一回だけ』ということでOKしたんです。それで、僕は預かっていた三十万円をわたしたら、Fは『そんなにいらない』といって十万円返してきて、結局二十万円受け取りました。Fは『不成功に終わったら返す』といっていましたが、成功したのでそのまま。彼は満塁のチャンスで三振しました」コミッショナーから事情聴取を受ける永易選手=東京都・銀座のコミッショナー事務局・委員長室 後に行なわれる記者会見で実名を暴露することになる永易は、この時点では匿名で語っている。永易は選手の名を口にすることを、最後までためらっていたからだ。「僕はほかの人に迷惑はかけたくありません。同じカマのメシを食って苦労してきた仲間に対する友情が僕にもあります。罪は僕ひとりでたくさん。そのためにがまんしてきたんですから……」 ただそのかわり、このインタビューは永易の口から衝撃の言葉を引き出した。 逃亡期間の生活費をどうしていたのか、貯金でもあったのかという大滝氏の質問を永易は否定。代わりに、ある組織から“口止め料”が払われていたことを明かしたのである。それはなんと、永易を解雇した西鉄球団だった。「オーナーをはじめ幹部の人から“一生面倒をみるから、つらいだろうけどがまんしてくれ”といわれました。稲尾(和久)監督も“がまんしてくれ。ワシもできるだけの努力はする”となぐさめてくれました」 口止め料の真相や永易がやった八百長試合の手口が詳細に明かされる。八百長発覚直後の10月中旬、永易は当時の西鉄オーナーとその自宅で面会し、こういわれたという。「『君には気の毒だが、チームのためを思って、君ひとりでかぶってくれ。そのかわり一生の面倒はみる。つらいだろうけどがまんしてくれ。とにかく二、三か月はかくれていてくれ』というようなことです」 そして11月上旬に100万円、同下旬にも球団本部長から50万円が渡された。「球団本部長と会ったんですが、そのときには当時の球団社長が電話口に出て『君には悪いことをした』と、泣いてあやまってくれました」 そうして西鉄側が永易に渡した金額は合計で550万円。西鉄は当初こそ、この証言を否定していたが、その後、東京地検特捜部の取り調べを受けたオーナーが渡したことを認め、辞任に追い込まれている。(文中一部敬称略)関連記事■ ガチンコ相撲の大乃国 八百長力士からリンチまがいの稽古も■ 大相撲八百長手口 地元力士に「知り合いの前で転んでやるよ」■ 八百長力士調査委 真相「分かるわけない」調査進展「0%だ」■ ガチンコ相撲の判別法 決まり手「河津掛け」「うっちゃり」■ 八百長告発・板井に近い元力士 暴力団と相撲賭博の関係暴露

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    国際的に暗躍する八百長シンジケート 日本も対岸の火事ではない

    サッカー界に関しては国際的な枠組みの中で八百長への対処を行っている。それでも前出のような大規模八百長事件の発覚が後を絶たないのであって、スポーツ競技と八百長の関係が如何に根強いかがそこに伺えると言えます。5. 今、日本で最も危ないのは野球界 野球界はFIFAのような強い世界の競技統括団体の存在がなく、サッカーと比べると圧倒的に八百長に対する国際的な取り組みが遅れているのが現状です。では、国内の統括団体がそれに適切に対処しているかというと、基本的に各球団内の選手教育にその対策が預けられているのみ。読売ジャイアンツは毎年の若手選手向けのセミナーにて、野球賭博や八百長に関する教育を行っていたとしていますが、実態としてそれがどこまで実効性のあるものとして行われていたのか。。今回の球団内の騒動を見る限りは、それが適切に機能していたとはとても言えない状況にあります。 また、これは国際的なスポーツ賭博とは別の切り口となりますが、今回ジャイアンツの3選手が関わったとされる我が国の違法な野球賭博では、日本のプロ野球のみならず、高校野球の全国大会なども賭けの対象として大々的に扱っていることが知られています。と、するのならば、当然ながらプロのみならず、高校野球にも「好ましからぬ存在」から八百長が持ちかけられる可能性がある。高校球児たちにそのような違法な存在が直接アプローチするなどは論外ですが、例えば監督やコーチなどの意思決定に介入を行いなどというケースが容易に起こり得るといえましょう。 いずれにせよ、今、日本において最も八百長リスクの高いスポーツは野球界であることは間違いなく、今回の事件の発覚を機に業界全体で何らかの対処を行う必要が出てくるものと思われます。*1: 出所:"sports betting: commercial and integrity issues," European Gaming &Betting Association*2: 出所:"Is Illegal Sports Betting a $400 Billion Industry?"※「カジノ合法化に関する100の質問」2015年10月26日記事を転載しました。

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    ダルビッシュ弟は野球賭博に相当深く関与していた?

    団の存在を前提として捜査を行っているということ。上記のような短い報道でも、見る人が見ると「あぁ、この事件、野球賭博だけでは終わりそうにないな…」という予感をさせるものとなっています。 この先、スポーツ賭博における定番としては「違法賭博→暴力団の関与」からの八百長疑惑へとつながってゆくのが常ですが、今回の問題は最後の一段階までも踏み越えてしまうのでしょうか。。引き続き見守ってまいりたいと思います。 追伸:ちなみに、ネット上では「偉大な兄貴に泥を塗る行為」的な論調もありますが、私はあえてそういう論調は取りません。おそらく、そういう「偉大な兄貴が…」的な論が、人間を歪ませてゆく原因だと個人的には思うので。。※「カジノ合法化に関する100の質問」2015年10月27日記事を転載しました。

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    偽投稿でリベンジレイプ被害 その鬼畜ぶり示す現場証言も

     「リベンジポルノ」は、元交際相手の裸の写真や動画をインターネット上に載せる悪質な犯罪行為だが、写真の公開だけではない。「リベンジレイプ」を目的として、相手の住所や電話番号などを晒した上で、「私を犯してほしい」と誘う嘘の書き込みまで横行している。疑似レイプ愛好者が集う掲示板で個人情報を晒され、実際に被害に遭う女性もいる。〈C子、33歳。「襲われるのが好きな性欲旺盛なメス豚です。大勢の性奴隷になりたい」〉集団で性行為を行う「パーティー」への参加を募るインターネットのアダルト掲示板の書き込み 彼女は名前や住所だけでなく勤務先まで掲載されていた。勤務中の彼女を隠し撮りしたような写真も添付されていたことから、本人ではなく関係者が晒した可能性が高い。 裸の写真と〈沢山の男性に辱めを受けるために参りました…〉のコメントとともに、勤務する病院の名前や仕事用のメールアドレスを晒された女性もいた。彼女は病院のホームページに顔出しで紹介されており、その写真も貼り付けられていた。 疑似レイプ愛好家だとしても、勤務先をネットに公開するメリットはない。やはり何者かによる嫌がらせが疑われる。 この2人に取材依頼の連絡をしたが、いずれも返答はなかった。ネット事情に詳しいジャーナリストの渋井哲也氏がいう。「こうした悪質な書き込みは元交際相手や、一方的に好意を寄せていて付き合うことができずに僻んだ異性が行なうケースが多いと思われます。とくに元交際相手は、相手の住所や電話番号を知り、写真も持っている。嫌がらせをしやすい立場にある」 悪質な投稿により、会社を辞めざるを得なかったケースもある。 都内のキャバクラで働くD子さんは源氏名と本名、電話番号やLINEのID、さらにOLとして日中勤務する会社名が晒された。そして〈私はヤリマン。アナルセックスがしたい〉などと書き込まれた。D子さんが取材に応じた。「犯人はお客さんだと思います。3年近く指名してくれた50代の男性に“付き合ってくれないと店には来ない”といわれたけど、交際を断わったんです。掲示板に書き込まれたのはそれから1週間後。断定はできませんが、その人しか持っていないはずの私の顔写真とネットにアップされたものがそっくりなので、彼が犯人だと思う。昼の会社には副業がバレてクビに。文句をいおうと彼に電話したけど、すでに番号は変わっていました」 一方、掲示板を利用する男性側は、書き込んだ女性は疑似レイプを求めているものだと思い込んでいる。実際に疑似レイプの現場を訪れた男性がいう。「お互いにリアリティを求めているので、抵抗さえもプレイの一環だと捉えてしまいます。ある時、最初はプレイだと思っていたのに、鼻血が出るほど何度も平手打ちを食らい、“これはおかしい”と気づいた。彼女は震えていて、確認すると本人の書き込みではなかった。彼女はサイトの存在すら知らなかったのです」 女性は交際していた男性と別れた直後で、彼の復讐ではないかと話し始めたという。後日、本誌記者も事情を聞こうと彼女の自宅を訪れると、ドアに白いペンキのようなものがかけられた痕があった。掲示板には〈ホワイトデーに家のドアノブに精液をたっぷりかけておいて〉との書き込みがあった。すでに彼女は引っ越していた。※週刊ポスト2015年7月3日号関連記事■ リベンジレイプ被害者女性が悲痛告白 ネット掲示板に偽投稿■ リベンジレイプ ニセの投稿が元で女性が襲われるその実情■ 韓国の反日ネット掲示板 竹島スレで「日本のAV認めるべき」■ 日本AV好き中国人 ネットで「小澤マリアは俺の心の女神!」■ 中国のネトウヨ 「日本人の女はブスなので化粧品が発達した」

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    人気女子アナの写真流出 なぜ女性は写真撮影を許可するのか

     写真週刊誌『フライデー』(9月18日号)に、人気女子アナがあられもない姿で写っている不倫写真が掲載されたが、現役女子アナのこの手の写真が出回ることは初めてではない。 2009年7月、当時日本テレビの人気アナウンサーとして活躍していた夏目三久が被害に遭った。ベッド上で避妊具を手に微笑む写真が、『FLASH』に掲載されたのである。その後、彼女はフリーに転向したが、この出来事が無関係ではなかったといわれている。 こうした騒動は氷山の一角で、毎年のようにカップルのプライベートな写真や動画が流出している。今年5月にも、大手住関連メーカー勤務とされる男性の元から動画がネット上に流出して騒動となった。近年では「リベンジポルノ」として使われるケースもある。 行為中の撮影は男性がカメラを構えることがほとんどなので、被害者は女性ばかり。これだけ被害が増えても撮影を受け入れる女性がいるのには、理由があるはずだ。駒沢女子大学教授で、応用心理学者の富田隆氏は、こんな見立てをする。「メスには“見せたい”“見られたい”という性的欲求があります。ヒトが属する霊長類の性役割は、オスが能動的でメスは受動的。しかしメスが待っているだけでは種族が途絶えますから、オスに対してビジュアルでアピールする本能も持っている。 発情期のメスザルが、お尻を赤くしてオスを誘うのもそのひとつです。人間の女性の場合は、男を誘うだけでなく、見られる行為そのものに快感を覚える人もいるのです」関連記事■ 竹内久美子氏「女性器を舐められたい」は動物的な本能と解説■ 竹内由恵アナ他 テレ朝の人気女子アナがカレンダーで勢揃い■ 山岸舞彩アナの穴埋める杉浦友紀に「福井のスイカップ」の評■ カトパン「イメージが軽い」でアヤパンの後任の座を逃す■ オランウータンのオス メスをそ~っと抱く配慮しモテる

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    リベンジポルノを考える

    先日、人気女子アナの流出写真が週刊誌「フライデー」に掲載され、大きな波紋を広げた。単なる芸能スキャンダルという話題性ではなく、流出した写真が「リベンジポルノ」に当たるかどうか、いま大きな注目を集めている。性暴力か表現の自由か。リベンジポルノについて考える。

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    「忘れられる権利」とはなにか? プライバシー概念をめぐる各国の争い

    2013年に可決された「データ保護規則案」の成立を前に、忘れられる権利をEUが先取りした形になる。 事件を簡単に説明しよう。このスペイン人男性は、16年前に社会保障費の滞納から自身の不動産が競売にかけられた過去をもつが、現在ではそうした問題は解決されている。だがGoogleで彼の名前を検索すると、現在でも16年前の記事へのリンクが検索トップにでてきてしまう。このことを彼は差し止めるために訴えを起こしたのだった。 EUの判決は、こうした情報がすでに過去のものかつ現在では不適切だとして、この記事へのリンクを削除するものだ。ちなみに新聞記事自体は削除されず、ウェブには残り続けるという点には注意が必要だ。ただし、Google検索に残らないということは、世界の片隅に投げ捨てられた石ころを手がかりなしに探すようなもの。基本的に関係者以外には彼の記事が参照されることはないだろう。 このEUの判断の後、5月30日にはGoogleは削除要請フォームを設置した。無論以前からGoogleには著作権侵害やクレジットカード番号等の犯罪にかかわるものなどに対する削除フォームが設置されていたが、EUの判決以後、より強力な個人情報削除に対応した形になる(ちなみに、EUの法に準じた削除フォームは、EU圏の人間にのみ適応される。詳しい削除要請方法は以下がわかりやすい http://gigazine.net/news/20140602-right-to-be-forgotten-tool/)。この削除要請フォームの設置後、一日で12000件を超える要請があった。 いずれにせよ忘れられる権利が今後社会に浸透し、世界中の企業・政府がそれを認めることになれば、リベンジポルノをはじめとした様々なトラブルに対し、世界中で柔軟な対応がなされるであろう。もちろん後々問題になるであろう情報・画像の取り扱いに関しては、これまで以上に注意しなければならないことは言うまでもない。ネットリテラシー教育は、未成年を中心に推進する必要がある。議論されるべき問題は? 忘れられる権利は個人にとっては歓迎すべきことだ。ただし議論されるべき問題もある。 (1)どこまでは忘れられる権利なのかについて。先ほどの事例はわかりやすいが、例えば犯罪歴がある人物が刑期が終わり出所している場合、忘れられる権利は適応されるべきだろうか? そしてそれは、事件の質(殺人なのか窃盗なのか、はたまた児童ポルノなのか)や社会的インパクトなどから考慮されるのか。さらに、政治家や芸能人といった公人の場合、知る権利や表現の自由の観点からしても、忘れられる権利として情報の削除を認めるか否かが問題となる。これらをすべて司法判断に任せるのは難しいが、現状では細かな判決の積み重ねが必要とされる。 (2)削除にかかるコストと創造性について。すでにGoogleをはじめとしたネット企業からは、忘れられる権利に関する反対の声があがっている。確かに個人の要求に一つひとつ答えていけば、膨大な作業が企業に負担をかけることになる。また労力や金銭的問題以上に、法によるイノベーションの阻害も問題となる。ビッグデータにみられるように、過去の検索履歴といった個人情報を武器に、企業は新しいビジネスや産業のイノベーションを繰り返す。忘れられる権利が広がれば広がるほど、ネットに関わる企業は、それらがイノベーション阻害だとして反対するだろう。 実際に先の「データ保護規則案」可決にあっては、EUのIT企業から多くの反対の声があがったのも事実だ。ただし、そうした反対を押し切ってEUが可決に踏み切ったのは、2013年にアメリカの監視行為を暴露したスノーデンの告発が背景にあったからだ。 さらに、忘れられる権利を含めたより広範な論点として、GoogleやFacebookをはじめとするネット企業が個人情報をどのように扱うかだけでなく、背景にあるアメリカに対する牽制としてEUが今回の司法判断に踏み切ったのではないか、と推測することも筆者は可能だと考える。なぜか。アメリカとEUインターネットガバナンスの差異 上記の通り、EUは個人情報保護に重きをおいた政策を展開しつつある。逆にアメリカは個人情報保護に関してはEUと異なる方向性を打ち出している。アメリカは2012年、オバマ大統領の署名入りで、「米国消費者プライバシー権利章典」と呼ばれる報告書を公開した。これによれば、アメリカはプライバシー保護に関してEUのように国家が強い規制をするものではなく、むしろ消費者が自由にプライバシー保護を選択できることに重きが置かれていることに特徴がある。 ネットでは検索履歴からユーザーの好みにあった広告を展開する行動ターゲティング広告があるが、ユーザーがそうした履歴から追跡されることを拒む「Do Not Track」(DNT)の権利をアメリカは認める。重要なのは、ユーザーはプライバシーを守ることも、逆にプライバシーをある程度解放させることで便益を得ることも、ユーザーの選択に任せるという方向なのである。 ただし、ユーザーがその都度選択することは難しい。むしろ、利用規約という読みきれない文書の中に注意書きをしたものに、我々が「はい」を押すことで、各企業は個人データをこれまで通り利用することができる。これもまた「ユーザーの選択」ということなのだ。したがってEUのように個人情報の保護重視でどちらかといえばビジネスに消極的なのに対し、アメリカの政策はビジネスに積極的であるがゆえに、個人個人に判断を委ねる、といった傾向にある(ちなみに、国家による法でも民間企業による自主規制でもなく、国家と企業が協力することでルールを維持する「共同規制」と呼ばれる考え方もある。いずれ本連載で議論したい)。ネット社会の権利をめぐるガバナンス 忘れられる権利のように、ユーザーの求めに応じて各企業が対応していくという個人情報保護の動きは今後も活発化するだろう。他方、これまで以上にユーザーの個人情報を利用したビジネスもまた展開されていくのも事実だ。プライバシーとビジネスや利便性はどちらも必要不可欠であり、いずれかを天秤にかけるものではない。とはいえ上述の通り、EUとアメリカの政策に全体的な方向性の違いが見出されるのも事実だ。 このように、ネット社会の権利をめぐる大国間の争いは水面下で生じている。では日本はどのような政策を取るのか。現時点では、忘れられる権利に関しては直接的にこれに該当する法はなく、周辺法の解釈によって運用される。さらに個人情報保護法はあるものの、どのような運用指針があるかもいまいち明確化されていない。 さらに言えば、EU型かアメリカ型か、どのような方向性を日本が打ち出すかも重要な論点となる。日本という国の基本的姿勢を世界にアピールする必要があるが、その際日本が独自に打ち出せる姿勢があるかどうか、またそうでなければEU/アメリカのいずれの方向性を取るのか。ネットに対する態度表明が求められるところであろう。

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    リベンジポルノ 一筋縄ではいかない法規制の問題

    大学非常勤講師) 随分と間が空いてしまった本連載ではあるが、前回は昨年多発したTwitter犯罪自慢事件を取り上げた(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3179)。内輪のルールで行った悪ふざけが広く世間に拡散したために生じた事件ではあるが、前回も指摘したとおり、こうした悪ふざけは以前から日常的にあった行為であることが予想される。 インターネットの発展により、内輪発信のつもりが全体に拡散されることに無自覚な事件が多発する一方で、全体に拡散することを最初から意図した事件を今回は扱う。それが、国会でも議論が開始されつつある「リベンジポルノ」である。問題は山積みリベンジポルノとは リベンジポルノとは、過去に交際していたカップルの一方が、交際期間中に撮影した(撮影に合意したものもあれば、合意を得ずに隠し撮りしたものも含まれる)性的な画像や動画を多くの第三者に晒すことを目的としてネット上にアップする行為である。大抵はカップルが別れた後、元恋人に対する恨みを持った者が復讐(リベンジ)目的で行うものだ。 画像・動画をアップされた被害者の精神的苦痛は計り知れない。さらに悪質なものだと、加害者が被害者にポルノ削除の代わりに金銭を要求するケースもある。いずれにせよ、元交際相手が意図的に加害者になるという点で、以前ファイル共有ソフト「Winny」等で生じた、意図しない画像流出とは根本的に性質が異なる。 事件を取り巻く問題は山積みだ。まず、一度アップされた画像は回収不可能という問題である。友人限定のSNS等であればまだ拡散を防げる可能性もあるが、ポルノサイト等の第三者が閲覧可能なサイトにアップされたものは、半永久的に誰かの手に渡ったままとなり、常に世界のどこかのサイトにアップされてしまう怖れがある。 次に、報道に際しても慎重な態度が求められる。リベンジポルノ犯罪に関する報道は、例え匿名で事件を伝えたとしても、インターネットで検索すれば簡単に当該ファイルにたどり着けてしまう恐れがある。ただでさえ事件によってショックを受けた被害者を、報道が二重に傷つけてしまうのである(したがって、本稿では具体的な事例については言及しない)。訴えを起こしたりその報道によって逆に事件を有名にしてしまうことを、実際にそうした被害に陥ったアメリカの有名芸能人の名前を取って「ストライサンド効果」というが、こうした問題にマスメディアが敏感にならなければ、二次被害を恐れて被害者が声を挙げることができなくなってしまう。 最後に、スマートフォンで容易に情報発信が可能になったことが、根本的に事件の増加を引き起こしてしまっている。近年、リベンジポルノと似た構造をもち、英語圏で「セクスティング(sexting)」と呼ばれる問題がある。これは、sex(性ないし性行為)とtexting(携帯電話でメッセージを送る)をかけた言葉で、携帯でポルノ画像を相手に送る行為である。主に10代の少年少女が互いのポルノ写真を送りあうことが多いが、それを一方が学校内の友達に送ってしまい、被害者が学校に出られなくなるといった事件が多発しているという(詳しくはジャーナリストの小林恭子が以下で述べている(http://www.yomiuri.co.jp/it/report/20140331-OYT8T50203.html)。 こうした問題は、日本でもLINE等を通して生じており、実際に筆者も友人の高校教師からこの種のトラブルを聞いている。スマートフォンで簡単に実行できることや、また友人間の内輪ノリが、誰も送りたくないのにポルノを送らせてしまう、奇妙な空気を作り出してしまっている可能性が考えられる。 いずれにせよ、リベンジポルノもセクスティングも以前から存在していたであろうが、技術の発達によって画像の拡散が世界中に及ぶようになってしまったのだ(ちなみに前回指摘したように、技術発展故の事件の増加と、そもそもこうした行為を行う人々の習慣が存在し続けていることは別の問題である。内輪ノリの中で恋人のポルノを見せ合ったり、芸能人の写真を週刊誌に売ったりといった行為は以前から存在している)。法規制には表現の自由や行政権の拡大に関わる問題も リベンジポルノ問題はアメリカでも以前から議論されている。リベンジポルノの影響で職場や氏名を変更する例もあるアメリカでは、カリフォルニア州が昨年10月、撮影時には同意であってもその後意図的に画像をアップした者には、最高で禁錮6カ月、罰金1000ドルの罰金刑といった、リベンジポルノを禁止する法が成立した。同様の法はニュージャージー州でも成立している。 日本でも昨年夏や今年の2月に、リベンジポルノによる名誉毀損の疑いで逮捕者がすでに出ている。こうした動きの中、自民党が2月27日、リベンジポルノに関する新法制定を目指し平沢勝栄議員を委員長とした特命委員会を設置、今国会中の成立を目指すという。法案では、加害者への罰則規定やプロバイダへの当該画像の削除要求、さらに諸外国との条約を結ぶことも視野に入れている。 こうした法整備に賛成する読者も多いだろうが、そこには表現の自由や行政権の拡大に関わる問題もあり、一定の議論を求める声もある。 例えばデジタル時代の言論の自由を求めるアメリカのNPO団体「電子フロンティア財団」は、法制定には慎重にとの意見を述べている。日本でも近年、児童ポルノ禁止法改正に際し、児童ポルノに対する明確な定義が困難な以上、児童ポルノの所持を理由にした別件逮捕など、行政権力の肥大化や、ドラえもんのしずかちゃんの入浴シーンすらも放送禁止になるとの問題が大いに議論を呼んだ。 リベンジポルノでも問題は同じだ。例えば政治家のスキャンダルの暴露としてポルノ写真を掲載した際に、それが公益性があっても法を理由に掲載が不可能になるかもしれない。そういった意味で、単純な法規制にはいくつもの問題が付随していることを忘れてはならない。EUで議論 「忘れられる権利」とは? ではどうするべきか。まず日本の現行法上でも、わいせつ物公然陳列罪や、名誉毀損罪、ストーカー規制法や対象が18歳未満であれば児童買春・児童ポルノ禁止法等でも対処可能であることを忘れてはならない。またプロバイダに画像の削除を要請するプロバイダ責任制限法などもある。 とはいえ、現行法では画像の削除に1週間程度かかってしまうこともある。ネットに上がった画像は半永久的に残ってしまうことも多く、また海外サイトの場合、日本の法律が適応外になってしまうのが現状だ。したがって、迅速な対応を求めるため、また海外サイトへの対応のために、新法が議論されるのだと思われる。 では新法を制定することで、こうした問題は解決されるだろうか。世界中のポルノサイトから画像を取り除くためには、世界中の国家と条約を結ぶ必要があるが、現状では困難であろう。むしろこの種の条約はリベンジポルノに限らず今後も進められる必要がある。 より重要な論点として、画像削除までの時間短縮である。現状においても、各プロバイダやブログ運営・SNS運営企業等の規定では大抵、公序良俗に反するもの等については、掲載者の了承を得ずに削除するとの旨が書かれている。ただし人的作業に伴う高コストが対応を困難にしているために、法による迅速な対応の徹底が求められている。筆者としては、法規制によって各企業に命令される前に、企業による自助努力によって柔軟な対応を願いたい。あるいは現行のプロバイダ責任制限法等を改正し、画像削除までの時間を短縮させれば新法をわざわざ制定する必要はない。 一方EUでは、「忘れられる権利」についての議論が続いている。情報化の時代において、過去の過ちや見せたくないモノがネット上に残ることがある。これらは当時は個人の意志に基づいたものであるかもしれないが、人の意志は当然変わるもの。ネット上で自由に表現するために、現在とは違う過去の自分の情報を削除するための権利が忘れられる権利である。こうした権利が広く浸透していくことで、リベンジポルノに関する問題も緩和されていく可能性があるだろう(こうした問題に関しては、以下の記事が大変参考になる http://www.huffingtonpost.jp/2013/10/13/revengeporn_n_4093699.html)。リベンジポルノ改善に向けて「撮らせない」を徹底させる 法整備問題は今後も議論するとして、最後に我々がどういう対応ができるかを考えたい。まず大前提として、ポルノは撮らせないという常識を徹底させることだ。例えば文部科学省は今年3月、リベンジポルノを含めた様々なトラブル防止の目的で、高校生を対象とした「ちょっと待って!スマホ時代の君たちへ」(2014年版)(http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/ikusei/taisaku/1345380.htm)を公開している。 またリベンジポルノの被害者からは、交際相手の求めに応じることが愛だと感じているケースや、また送ることが当たり前という空気=圧力を感じて送ってしまうケースもある。無論、信頼や愛情とポルノ写真は別物だ。写真を撮らせることが非常識だという「常識」やそうした空気を社会に浸透させていく必要がある。さらに、写真を撮らせないだけでなく、写真を撮るという行為そのものが非常識な行為であるという認識を形成する必要があるように思われる。 以上のように議論してきたが、リベンジポルノに対する根本的な解決策はないのが現状である。誰にでも起こり得る問題であるが故に、まずは他人事ではないという認識を持つことからはじめよう。

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    リベンジポルノ 被害者・加害者にならないためにすべきこと

    小松原織香(日本学術振興会特別研究員) リベンジポルノで逮捕者が出て、事件報道がなされています。リベンジポルノとは、過去に撮った性的な写真や動画を、相手への嫌がらせ行為として公開することです。犯罪抑止の言説がこれから出てくると思いますので、先に書いておこうと思います。以下に、本文の要約を先に述べておきます。 私たちには性的な表現を楽しむ自由がある。しかしながら、性的な写真を合意なく撮ったり、許可なく公開することは性暴力にあたる。こうした行為で被害者に自衛を強いることは、加害者に「自衛しない被害者が悪いのだ」という行為の正当化を促し、犯罪を助長する。犯罪抑止のためには、加害者の責任に焦点を当てて「リベンジポルノは絶対に許されない」ということを啓発していくことが重要である。「写真を撮られた側は悪くない」 私たちには性的な表現を楽しむ自由があります。合意する大人同士であれば*1、セクシーな写真や動画を撮ったり、性行為を記録したりすることも自由です。何も悪いことはしていないし、もし警察がそれを阻むとすれば「検閲行為」になります。ハッピーな気持ちになって、性行為の最中に写真やビデオを撮ることに合意していたとしても、何も悪くありません。 また、撮影を断り切れなかったり、無理やり撮られたりしたりしたときも、撮られた側は何も悪くありません。性的な関係の中で、相手の要求を断るのはとても難しいことです。また、狡猾な撮影者はカメラを仕込んだり、不意打ちで撮影したりします。それを、防げなかったとしても撮られた側には責任はありません。 写真や動画は、「撮影に応じる自由」も「撮らせない自由」もあります。また、撮影された後に「データを処分してほしい」と思うこともあります。そのときには、そう主張する権利(肖像権)があります。その意思に反して勝手に撮影したり、撮影データを要求に応じて処分しなかったりする場合は、撮影者は被写体に対して権利の侵害を行っています。「写真を撮る側には重い責任がある」 私たちは、性的な写真やビデオを撮る自由がありますが、それには重い責任が伴います。合意なく他人に見せないために、撮影者はよく考えなければなりません。保管場所を限定したり、電子データを流出させないために対策をしたりする必要が生じます。もし、わざとでなくても、撮られた側の許可を得ずに、写真や動画が許可なく漏えいさせた場合、性暴力にあたります。厳重に管理し、常に撮られた側とデータをどうしていくのかを考えなくてはなりません。撮られた側と連絡が取れなくなる場合は、データを物理的に抹消したほうが良いでしょう。(個人情報保護の問題として考えてください) 一番良いことは、写真や動画は撮らないことです。性的な場面を目に焼き付けて、心で記憶しておくことが一番の安全策になります。撮られる側は、撮影の時には快く同意してくれたとしても、後から「処分してほしい」と要求してくることもあります。また、そのときは楽しい気持ちであっても、後から「嫌だった」「外に出されないか不安だ」と撮られた側が思うこともあります。こうした撮られた側に丁寧に寄り添う気持ちがないのであれば、最初から撮影はやめましょう。撮る側の責任は甚大であり、データを処分しない限り、一生背負うものになります。「許可のない写真の公開は性暴力にあたる」 撮られたが側に許可なく、写真や動画を公開することは性暴力にあたります。撮影に同意することと、公開を許可することは別の問題です。それがどんなに素晴らしい写真や動画であっても、撮られた側を傷つけた時点で、撮影者は性暴力加害者です。表現の自由があったとしても、暴力行為は決して許されることではありません。許可が取れない場合は、写真や動画を印刷媒体やネットなど公開の場所で、絶対に発表してはいけません。ブログやツイッター、匿名の掲示板など、どこにおいても許されません。悪意の有無を問わず性暴力です。 また、許可を得ずに写真や動画が公開してあると知った時には、すぐに非公開の措置をとってください。インターネット上であれば、管理会社などに連絡してください。公開されている写真や動画を面白がったり、転載したりすることも、性暴力に加担することになります。「被害者を責めることは、犯罪の正当化を助長する」 許可のない写真や動画の公開を見て、被写体になった人(被害者)を責めることは、犯罪の正当化を助長します。性暴力の加害者、またはそれを企んでいる人は、私たちの発言を聞いています。「撮影に同意した被害者が悪いのだ」という発言は、加害者の「撮影した側に責任はないのだ」「悪いのは被害者であって、加害者ではない」という意識を煽ります。多くの性暴力加害者は自己正当化し、「被害者が悪いのだ」と自分に言い聞かせ、時には「自分は悪くない」と信じ込んで犯罪行為に至っています。 こうした、加害者またはそれを企んでいる人には、私たちから「悪いのは加害者である」というメッセージを意図的に送る必要があります。「たとえ、被害者が撮影に同意していても、公開することは許されない」と繰り返し伝えなければなりません。「悪いのは加害者であって、被害者ではない」ということを強調することが犯罪抑止につながるでしょう。「リベンジポルノ」が「リベンジ」にならない社会のために 加害者が「リベンジポルノ」を公開する理由は、私たちの社会で性的な写真をばらまかれた側が苦しむことを知っているからです。実際に、現状では写真を撮られた側は、「撮らせたあなたが悪い」「危機意識が足りない」として、被害者叱責を繰り返されます。また、リベンジポルノを見た周囲の人たちも、面白がって拡散させ、写真や動画の回収を阻みます。つまり、被害者を苦しめているのは、加害者だけではなく、社会の側でもあるのです。被害者を保護・支援するのではなく、叱責したり弄んだりすることを「二次加害」と言います。 もし、リベンジポルノが公開されても、私たちが素早く削除や非公開の措置を取り、被害者を保護・支援すればリベンジポルノは「リベンジ」として機能しなくなります。逆に、二次加害を繰り返せば、加害者には「リベンジポルノは、相手に嫌がらせをする効果的な方法だ」と知らせることになります。リベンジポルノを阻止するための鍵は、被害者の自衛ではなく、私たちの対応です。「リベンジポルノを減らすのは、被害者の自衛ではない」 リベンジポルノが重大な問題であると考え、身近な人を被害から守りたいと思っているのであれば、自衛を勧めてはいけません。「写真や動画を撮らせてはいけない」と強く言えば言うほど、もし撮らせてしまった時に、その人はあなたに相談できなくなります。伝えるべきことは三点です。「あなたには、性的な写真を撮らせない自由がある」「許可なく写真を公開されたとしても、あなたには責任はない」「何か困ったことがあれば、すぐに相談してほしい」 上の三点を話す中で、「どんな人ならば撮影に応じて良いと思えるか」「撮影されてしまったらどうするか」「許可なく公開された時の被害者の恐怖や苦しみ」「被害者を責めるのではなく、保護や支援が必要だという考え」などについて、議論してみるのも良いと思います。一番大事なのは「あなたを心配していること」や「被害にあった時に助けたいと思っていること」を伝えることです。 逆に、加害者にしないためには、次の三点を伝えると良いと思います。「性的な写真を撮るときには、必ず許可をとり、無理強いしない」「データの保存や管理を徹底し、公開には必ず許可を取る」「何か困ったことがあれば、すぐに相談してほしい」 性的な写真や動画を撮った側も、保存や管理に困ることがあります。また、相手との関係が悪くなったときに、「復讐としてデータをばら撒きたい」と考えることもあるかもしれません。そういうときに、まず周囲に相談して止めてもらうことが重要です。「誰もがリベンジポルノの加害者・被害者になりえる」 ケータイ電話のカメラ機能が発達したため、気軽に鮮明な写真や動画を撮れるようになりました。性的な表現を気軽に撮影できますし、データを所持することも増えています。こうした中で「撮らせてはいけません」と繰り返しても、リベンジポルノは減らないでしょう。 むしろ、性的な写真や動画を撮影をする可能性を否定せず、「撮影したほうがいいのか」「撮影するときにはどうすればいいのか」「撮影した後どうすればいいのか」について、きちんと話をしていくことが必要です。「警察の防犯対策について」 この記事を書いたきっかけは、以下のようなTwitterでの警察の広報を見たことです。大阪府警察防犯情報【リベンジポルノに注意?】『画像を撮らせない、送らない』をしっかり守ってますか?相手に画像を撮らせないといっても、大好きな交際相手から求められると断りにくいという方も多いですよね。でも、他の人に見られないという保証はどこにもありません。絶対に画像を撮らせないようにしましょう!https://twitter.com/OPP_seian/status/600783305567379456 私が上で繰り返しように、このような脅しや要求は被害者叱責につながります。悪いのは加害者であるはずなのに、被害者に「撮らせないようにしましょう」と主張し、自衛を強いています。 警察の性犯罪に対するこうした防犯政策はについてはすでに牧野雅子「刑事司法とジェンダー」で研究報告が出ています。1960年代に取り入れられた「被害者防犯」の考えは、70~80年代に性犯罪に多く反映されました。しかしながら、防犯を促すどころか、被害者叱責を強めて被害届を出すことを阻み、暗数化をもたらしました。牧野さんは以下のように書きます。 性犯罪は暗数の多い犯罪である。しかし、防犯活動において、被害申告をさせやすいような対策をとるといった動きは全くなかった。むしろ、警察は防犯活動を通じて、性暴力被害者に対するスティグマを付与し、作られた被害者像を流布することで、そのスティグマを恐れる被害者に対して、被害申告をさせない風潮を作り出したといえよう。(38ページ) 以上のように、警察の「被害者防犯」の政策は非常に多くの問題をはらむものでした。しかしながら、現在も警察の内部では、是正が進められておらず「被害者落ち度論」が根付いていることが、上のツイートからもわかります。このような警察の広報を見ると失望しますし、こうした発言を受けてマスメディアが被害者叱責に乗じることも恐れます。 警察はいま、性犯罪対策を進めており、被害当事者を招いての研修も行っています。そうした取り組みは素晴らしく、被害者の視点から防犯政策を一新して欲しいと私も思っています。古い「被害者防犯」の考え方を払拭し、被害者に寄り添い、加害者を逮捕することが警察の役割でしょう。現場の警察官は率直に被害者のために仕事をしたいと思っている人も多く、性犯罪対策の取り組みが功を奏することを私も心から願っています。警察が変わらなければ、性暴力は減らない。このことを最後に繰り返しておきます。刑事司法とジェンダー作者: 牧野雅子出版社/メーカー: インパクト出版会発売日: 2013/03メディア: 単行本この商品を含むブログを見る*1:被写体が子どもの場合は、児童ポルノ法がありますので合意の有無にかかわらず、大人が性的な撮影することは性虐待にあたります。※この記事は小松原織香ブログ「キリンが逆立ちしたピアス」2015.05.23より転載しました。

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    司忍・六代目山口組組長が語っていた「弘道会の強さの秘密」

     司忍・六代目山口組組長、高山清司・若頭を輩出した組織としても名高い名古屋の「弘道会」。暴力団を40年にわたり取材してきた溝口敦氏は、新刊『抗争』(小学館101新書)の中で、1988年に司忍組長をインタビューした際、彼が語っていた弘道会の強さの秘密について、こう紹介している。(文中敬称略)* * *出所後、JR新神戸駅に到着した山口組六代目の篠田建市組長(中央)=2011年4月9日司「うちに強いというイメージがあるとしたら、結局、われわれが神戸から中京に入って行ったときには『なんや山口組? どこの組や?』いう時代だったでしょう。しかも警察の圧力、地元の団体の圧力にたえずさらされておった。 それからうちの一組で五つも六つも地元の組織とやり合って、ずーっと来てるから。今回みたいな大きな抗争(山口組・一和会抗争)になっても、手弁当で喧嘩するいう意識が残ってる。ゼニはないけど、握り飯食ってでも喧嘩やるぞという気持ちがあるから。うちは貧乏してる組だから、手弁当で『よっしゃ、喧嘩するんや』といういいとこは残っとるわね、田舎の出の人間が多いもんでね(中略)。 まあ極端にいえば、われわれ山口組の者が、日本全国どこも山口組の縄張りなんや、と。よそ様の費場所で飯を食わしてもらっとるんだという意識は、われわれは持ってないわけですな。開拓したとこは城なんやと、そういう気持ちでおるもんで、そこら辺のギャップというか、やっぱりあるわな」※溝口敦/著『抗争』より関連記事■ 暴排条例対策で山口組 破門状は郵送からファクスに切り替え■ 38年ぶりに新創刊の山口組新報 俳句や川柳、釣り特集もあり■ 名古屋繁華街の飲食店をまとめあげた山口組若頭の「経営手腕」■ 山口組組長実子挙式 大物政治家や大スター列席の時代あった■ 佐野眞一氏 山口組社内報の仕事誘われ心動かされた過去告白

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    宮崎学が解き明かす山口組分裂の全真相

    くなった。基本的にはやくざやってても食っていけないということです。 やくざの分裂騒ぎっていうのは抗争事件に発展するケースが多いんです。A組対B組という組がケンカするというのはもうない、A組が割れてA組1とA組2がケンカする。一番その形になったのが山一戦争です。山口組と住吉会がえいやーっで名乗り上げてけんかするっていう、そんなことはもうない。それをやると強化された暴対法などで、双方とも親分までパクられてしまう。使用者責任論で。そうして見ると今回も山口組の分裂ということですから、ある意味今風の分裂ではあるわけです。宮崎学氏 じゃ、なぜ分裂したのか。弘道会対山健組の対立がベースにあるとみるべきでしょう。出て行った人たちは反弘道会系の人たちでその旗頭が山健組。この対立は六代目体制寸前の五代目体制以降からの山口組の歴史に関係している。六代目体制が誕生するに当たり、山口組というのは関西の山健組がなんだかんだ言っても中心だった。人数は多いし、まして地元神戸だし、田岡さんの創設時から山健組というのは一番大きい組織です。神戸以外の組が親分になるってことにある意味ものすごい抵抗があった。それとその後の組運営の問題で弘道会と山健組はどんどん対立するようになって今回の事態になった。 対立した中身は何か。いろいろ言われているように事務所を名古屋に持っていくとか、その他の日常的なやくざとしての活動、弘道会が進めることに関して面白くないという意見や不満がずいぶん山健組サイドからあったようだ。それがずーっと煮詰まってきてここで出たということではないか。やくざをウオッチングしていればわかることだが、どっかでピストル撃ったり、人が死ぬことが付きまとうのがやくざの分裂で、甘いものではない。分裂ということはイコール抗争なんですよ。今回もすでに1回ピストルが撃たれているし、弘道会と山健組の小競り合いも起こっていると聞いている。これはもっとエスカレートしていって銃撃を含む抗争になっていくだろうと思う。なぜ、いま打って出たのか 井上邦雄(山健組)さんたちはなぜいまここまで踏み込んだか。処分されたメンバーを見たら、年配の長老の人たちにとっては、弘道会系が進出してきてだんだん片隅に追いやられていく危機感もあったのだろうと思う。それはポジション上の危機感ではなくて、現実のやくざの活動をしている中でずいぶん出てきていたと思う。ある競技場でもっているダフ屋の利権をめぐり、今までは平和的に共存していたが、分裂騒動が勃発したあと一方の利権一色になってしまったと聞いている。この問題が起こってからそういうのが出始めている。斜めからみると、縄張り争いをやっているということになるじゃないですか。今までは共存してやれていた。これだけ感情的なもつれになってくると人数の多い方は少ない方をやっつけてしまおうとする。メンバーから見ても今回の分裂は、弘道会が山健組の主導権を握って進めてきたこの何年間かの歴史の中で、自分たちがちょっと窓際に追いやられた、けしからんことだという危機感をもった人たちが反旗を翻したという構造ではないか。山一抗争のようになるのか 金を稼いでくる力というのは、最近のことはよくわからない、どれだけ入ったのかも分からないんだけども、山口組の歴史の中で弘道会はこの間急激に伸びた。山健組はそういう点では歴史が古い。初代の山本健一さんが三代目の番頭さんだったんだから。弘道会がナンバーワン、ナンバー2の独占体制に入る過程で、いろいろな経済行為に進出していったという話を聞いている。それも繁華街のバーやキャバレーのおしぼり売って高い対価をもらって用心棒代の代わりにしてるとか、そういうのは昔からあったことなんだけど、そんなことじゃないビジネス。彼らは基本的に金を持っている。これは合法、非合法で稼いだ金だと思う。もっている単位が結構大きい訳です。だからその金を回すことによって結構稼いでいるんじゃないですか。山口組のナンバーワン、ナンバー2を握ったら、それだけオファーもあるとみていいじんじゃないでしょうかね。 弘道会に限らず、東京の方のやくざも同じような形で金は稼いでいるんであって、弘道会が特別にそういう稼ぎ方をしているとは限らない。暴対法が出来て金を稼ぐのが難しくなっているから、極めて合法的に稼がなきゃいけなくなってきている。そういう一連の流れの中で、やくざの稼ぐシステムが大分変わってきていることは確かでしょう。しのぎは間違いなく東京が一番大きいが、あえて名古屋と大阪を比較したらパイとしては大阪の方が大きいのではないか。これから稼げる金がどちらが大きいか、ということで比較したら間違う。どちらの方がいま持っている金があるかということだろう。ただ、名古屋は金を持っているという噂は随分前から言われていることなんだけど。あそこまで伸びてくるということはある程度持ってるということなのでは。山一抗争のようになるのか 6:4の確率で進展していくように思われる。山口組系のやくざにとってのポリシーみたいなものがやはりあって、分裂イコール抗争なんです。まったくのイコール。分裂ということは敵が出来た、そいつら生かしておいてはいけないと両方とも思ってますよ。ピストルなどの銃撃戦とか、そういうことも考えてるんじゃないですか。山健組の歴史イコール山口組の歴史なんです。山口組の歴史の中で山健組が中心的な役割を果たしてきたのは確かです。弘道会が山口組の表舞台に登場したのはここ十数年の話。山口組の100年近い歴史があり、特に三代目、田岡さん以降は。山口組の歴史は山健組の歴史だったと言えると思う。山口組はおれたちが支えてきたんだ、という意識はものすごくありますよ、山健組の人たちは。メンタルのところで今回の騒動に影響している。「神戸山口組」という名称を使うとか使わないとか、あえて神戸と表現しているわけで名古屋ではないよという心ですよね。そういう点で神戸と山口組の歴史は自分たちが担ってきたんだという、神戸=山健組ですから、かれらの発想は。 篠田建市組長が6代目に就任した2005年以降、弘道会の影響力が強まったというのは山健組の影響力を落とし、敵をつくりながら影響力を高めてきた。パイの小さい中で弘道会が勢力を伸ばしてきたことは事実で、そのあおりを実体的にも精神的にも、山健組がプレッシャーを受け続けたというのも事実だろう。で、そろそろ限界に近くなってきたと考えたんではないか。大阪、神戸は警察が警戒していますね、今回の件で衝突が起きるのではないかと。全国に通達も出ています。だから、大阪、神戸ではむしろ衝突は起こりにくいんでは。むしろ岡山、京都とか、ちょっと離れたところでそれぞれの勢力がいるところ。そしてそれは起こらないですむということはないです、間違いなく。井上さんたちが旗揚げして、さあ今後は仲良くやりましょう、ということが通る世界ではないですから。お互いが不倶戴天の敵。どっかで衝突する可能性がどんどん高まっている。山一抗争のときとは今は背景が全く違います。山一抗争のときは暴対法も暴排条例もなく、権力が強引に介入して潰すということが出来なかった。いまは権力が介入しようと思えば幾らでも出来る時代です。(聞き手 iRONNA編集部 溝川好男)

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    山口組3代目、田岡一雄は「ヤクザを超えた男」なのか

    老たちも安定度の高い作業能力を確保するため、全港振の発足を歓迎した。 31年5月、神戸港を震撼させる事件が起こった。三井倉庫の第一次下請・上栄運輸(白井幸吉社長)の現場監督・花元義一の部下が砂糖の荷抜きを働いたのである。これを知った元請の三井倉庫は、花元の責任を厳しく追及した。「きちんと決着がつかん限り、お前のところへはもう仕事はやらぬ」といわれ、荷抜きを働いた部下は粛清された。事件は山口組の暴力事件としてかなり派手に報道されたが、港湾組織の深部については触れられなかった。これを機に立場の弱い第二次下請け業者間には団結して、一次下請に昇格しようという機運が高まるのである。その先頭に立ったのが田岡一雄で、一次昇格が実現するのだ。当時の田岡三代目は港の不条理と真剣に戦っていた。特に一次、二次の縦関係と不当な搾取を排除したことは港の近代化に大いに貢献した。それは田岡の功績でもある。 大マスコミは神戸芸能と甲陽運輸をあたかも山口組の資金源のごとく報じている。ここではっきりしておきたいのは、山口組と神戸芸能、甲陽運輸との関係である。 神戸芸能と甲陽運輸は山口組とは何の関係も無い。確かに神戸芸能は発足当時は、山口組の興行部だったが、昭和32年4月1日以降は資本金100万円の株式会社神戸芸能として生まれ変わった。甲陽運輸も同様である。 山口組は独立したヤクザ団体であり、企業に投資したり、会社を経営しているわけではない。正確に言えば山口組綱領を信奉し、任侠道を貫くことを目指すものたちが任意に結集した日本最大の任侠組織である。ただし日本国政府は山口組を暴対法(暴力団による不当な行為の防止等に関する法律施行令)によって「指定暴力団」に指定、組員の経済活動、たとえば証券市場への参入や、銀行口座の開設を禁止、ホテルの利用、マンションの購入も規制している。彼らと同窓会で一緒に飲んだことを理由に、公共工事から締め出された建設業者もいる。 田岡夫人のフミ子さんは、何が何でも山口組をつぶそうという警察の姿勢について、やんわりとこう反撃している。 〈主人が社長をしている神戸芸能社のほうも、会社の契約先へ、 「神戸芸能の荷(タレント)は扱わぬほうが好ましい」 とか、また、タレントさんに、 「神戸芸能とかかわりをもたぬほうが好ましい」 などといって、会社は警察の圧力で商売ができないようにされたのです。 警察に非協力な人たちは、あとから税務署のお見舞いを受けるのです。 神戸芸能社にはなんら行政指導はなく、主人は営業妨害で告訴すべく弁護士さんと相談いたしておりましたが、タレントさんも契約主も、警察の後難をおそれて証人になることをおそれ、やむなく会社は以来、開店休業の状態であります〉 それだけではなく〈いきつけの飲食店、料亭にも圧力がかかったほど〉だという。そんなところまで圧力をかけて何が得られるというのか。犯罪防止とは何の関係も無い。 〈こうして正業をとりあげられたわたしたちは、何を食して生活すればよろしいのでしょうか。 つねに、わたしたちは菊のご紋章あってこそ生きていける、といった古い考えを抱いております。山菱の代紋を強調するものでもなく、所詮(しょせん)またそれにかなうものでもないということは、あえて論を要しないことであります〉ともフミ子さんは訴えている。「山口組三代目 田岡一雄自伝」は皮肉に言えば日本の警察の陰湿な体質を見事に暴露した一冊とも受け取れる。二〇一五年五月(※徳間文庫カレッジ『完本 山口組三代目 田岡一雄自伝』 解説 より転載)  

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    「仁義なき戦い」広島代理戦争の真実

    組三代目 田岡一雄自伝』より》広島代理戦争 昭和三十八年四月、広島で火を噴いたいわゆる第二次広島抗争事件は、血で血を洗う殺戮(さつりく)戦であった。 すなわち、事件の起きた四月に一人、五月に二人、六月にも二人、九月には三人と、わずか半年の間で八人の男たちが命を奪われ、十四回の喧嘩(でいり)と十四人の負傷者とを数えている。やくざ抗争史のなかでも、これほど凄惨で複雑な背景をもつものはなかった。 抗争の原因は、広島の博徒・山村組(山村辰雄組長)と打越会(打越信夫会長)との勢力争いであるが、これは単なるやくざの勢力争いではなかった。敵味方、互いにデマや思惑が乱れ飛び、戦闘員は疑心暗鬼となって寝返ったり寝返られたりして、この事件をいっそう複雑怪奇なものとしたのである。 世間ではこの抗争事件をいつか「広島代理戦争」とよびはじめた。山村組をあと押しする神戸本多会と、打越会を支援する山口組という二大勢力が、遠隔操作によって両者を戦わせた代理戦争だというのである。が、そんな意志は断じてなかった。 そこで、事件の直接関係者である打越会会長・打越信夫に、第二次広島抗争事件を語らせた結果を総合すると……。 打越信夫の略歴。 打越信夫は大正九年一月五日、広島に生まれ、尋常高等小学校を経て陸軍に入隊。昭和十五年、満州北部・興安東省の斐徳甲斐部隊で約二年半、国境警備につく。その後、病気で戦時中に除隊し、同時に東京・高田馬場にあった大日本機械化義勇団に入団。そこで装甲車やトラックの運転をおぼえたが、このときの経験が後年、タクシー会社の経営に乗りだすことに役立っている。 戦後、広島へ帰った打越信夫は昭和二十一年、トラック二台を持って運送会社を始めるかたわら古物商を営む。このころから打越信夫は極道を指向し、広島市西部地区の中心地であった西広島駅前の闇市を根城にしてしだいに勢力をのばし、博徒・岡敏夫が岡組を結成すると同時に岡敏夫と舎弟の盃を交わし、岡組に参画している。 以来、打越信夫はめきめきと頭角を現わし「岡組の打越組」と呼ばれるほど力をつけてきたが、昭和二十五年、広島東の猿猴橋で起こった殺人事件で“広島に打越あり”とその名を高めた。 この事件は岡敏夫の舎弟・葛原一二三が岡組に反逆し、同時に打越信夫の若衆ともいざこざを起こしたことに始まる。そこで打越の若衆三名は、海の記念日の白昼、猿猴橋の下で葛原一二三を待ち伏せ、貸しボート屋の休憩所へつれ込んで射殺したのである。この事件で打越の名は広島やくざを震撼(しんかん)させた。 打越信夫はまた社交家で政治家的手腕の持ち主でもあった。昭和二十五年、広島カープ球団が発足すると同時に「鯉城後援会」を組織し、当時、カープの看板選手であった小鶴、金山、三村などと親交をもつ。それらの線で寿原正一代議士(自民)や運輸業界の顔役・関谷勝利代議士(自民)らとも近づき、昭和二十七年暮から昭和二十九年にかけて広島市の中央部に地盤を築き、紙屋町にタクシー会社を経営。たちまち既存のタクシー会社を吸収して、市内第三位の台数を保有するなど昇龍の勢いにあった。 第二次広島抗争事件は、この後に起こっている。 事件にはいるまえに、戦後の広島やくざの系譜を語らねばなるまい。終戦直後、広島では岡敏夫のひきいる岡組が地下帝国を築きつつあった。岡敏夫の舎弟には打越信夫、山本薫、葛原一二三、大西某らがおり、また直系若衆には網野光三郎、原田昭三、永田重義、進藤敏明、服部武、岩瀬忠雄、中村幹雄ら第二次広島抗争事件で世間を震撼させた錚々(そうそう)たる顔ぶれが控えていた。舎弟というのは兄弟分のことであり、若衆は子分のことである。 一方、呉市には山村辰雄のひきいる山村組が結成されていた。映画「仁義なき戦い」シリーズの金子信男の役が山村辰雄である。山村組は若衆頭の佐々木哲雄をはじめとして樋上実、美能幸三らがその屋台骨を支え、虎視眈々(こしたんたん)と勢力拡大のチャンスをうかがっていた。 呉にはそのほか初代・小原薫を組長とする小原組(二代目組長は実弟の小原光男)も堅陣を布き、山村組とたがいに覇を競っていた。打越信夫とやくざの系譜 当時、打越信夫は、岡組の重鎮として岡組舎弟・山本薫と兄弟分の盃を交わす一方、山村組の若衆頭・佐々木哲雄、小原組組長・小原薫とも縁組をもち“三兄弟”として親交をあたため、地下帝国での地盤を一歩一歩固めつつあった。 さらにこれらの兄弟分の周囲には、打越信夫から舎弟の盃を受けた“七人衆”がタカのような鋭い睨(にら)みをきかせていた。すなわち、第二次広島抗争事件で圧倒的な戦闘力と、血で血を洗う非情さをみせた網野光三郎、原田昭三、服部武、美能幸三、永田重義、進藤敏明、小原光男の七人の若手実力者たちである。 打越信夫の証言によれば、彼ら“七人衆”と舎弟の盃を交わしたのは、だいたい昭和二十五年から二十六年にかけての時期で、日本中が朝鮮戦争の特需に湧(わ)きたっていたころだとしている。 読者には、やくざの系譜というものがいささか煩雑(はんざつ)であろうが、こうした人脈をまず頭に入れておいてもらわないと、この抗争事件の本質がつかめないと思うので、もうすこしご辛抱願おう。 昭和三十六年十一月五日、打越信夫はさらに神戸山口組の実力者である安原政雄と兄弟分の盃を交わした。場所は神戸の料亭「寿楼」である。 山口組からは舎弟頭・松本一美、岡精義、安原武雄、松本国松、藤村唯夫、三木好美、若衆頭・地道行雄、山本健一、梶原清晴、山本広、中山美一らが出席し、打越信夫側からは取り持ちの岡敏夫をはじめ、岡組、山村組、海生組、横奥組、打越組などが列席し、ここに打越信夫は山口組という大きな後ろ楯をもったのである。 明けて昭和三十七年一月、博多事件(第二部・迅雷篇「夜桜銀次」以下参照)が起きると、打越組も山口組支援のため二月七日、博多へ応援部隊を派遣し、山口組傘下の旗幟(きし)を鮮明にした。 その年の五月、広島やくざは大きく揺れ動いた。 五月十一日、それまで広島に磐石(ばんじゃく)の睨みをきかせていた岡組組長・岡敏夫が引退したのである。 高血圧、糖尿病という健康上の理由であった。 岡組は解散し、同時に組員たちはこの日から呉の山村組に預けられ、山村辰雄の配下にくだった。 岡組の実質的な跡目は、山村辰雄によって引き継がれたのである。これによって、山村組は従来の構成員七十人から一挙に二百二十人の組員を擁(よう)する大組織となり、いまや山村組が広島を掌握した形となった。 山村辰雄の得意はその絶頂に達した。 旧岡組の持っていた広島の縄張りも、組員も、そっくりそのまま自分の懐(ふところ)へ転がり込んできたのである。〈これでわしゃ、山陽一の大親分じゃ〉 山村辰雄はおのれの得意をあちこちに吹聴(ふいちょう)して歩き、それは、いささか子供じみてもいた。 広島を制圧する者こそ山陽のゴッドファーザーであった。山村辰雄は喜々として旧岡組の幹部・服部武を若衆頭に任命して組の統一を計り、山陽道に号令する第一歩を大きく踏みだしたのである。 ――この事態のなかで一人おもしろくないのは、自他ともに岡組の後継者と目されていた打越信夫であった。 かつては、岡組とともに広島を二分していた打越組である。「岡の跡目は打越」と周囲からもずいぶん取り沙汰(ざた)され、自分もその気で貢献してきたつもりであった。 それが一挙に引っくり返された。トンビに油揚げをさらわれた格好である。「跡目は打越」という評価が高かっただけに失った面目も大きかった。面目を失うということが、この渡世ではどれだけ恥であるか、渡世に生きた者でなければわかるまい。打越信夫は重い衝撃を味わわねばならなかった。  「打越をわしの舎弟(兄弟分)にしてつかあさいだと?若衆(子分)にならしちゃってもええが、舎弟にいうてできるかい」 得意満面の山村辰雄のそんな鼻息さえ露骨に打越信夫の耳に伝わってきて、打越に血の涙をしぼらせた。崩れた力の均衡崩れた力の均衡 明暗ははっきり分かれたのだ。 打越信夫は八十数人の組員を擁(よう)するとはいえ、それをはるかに上回って巨大化した山村王国の重圧をひしひしと味わい、窮地に追い込まれていったのである。 だが、打越信夫の手中にはまだ切り札がしっかりと握られていた。拳銃で撃たれ、手当てを受けるため病院を訪れた山口組の田岡一雄組長(右から2人目)=昭和53年7月11日、兵庫県尼崎市 それは神戸山口組という強大な背景である。安原政雄との兄弟の縁組が継続するかぎり、いくら山村組でも下手に打越信夫に手出しできるはずはない。山口組こそ打越信夫の最大の頼みの綱であった。 山口組を後ろ楯に、いたずらに事を構える気はさらさらないが、しかし、負け犬になって尻尾を巻き、憐れみを乞う必要もない。打越信夫はそう判断した。 戦機は熟していた。 力の均衡はいまや危うい綱渡りとなって、一瞬の油断も許されぬ情勢にあった。 こんなとき、えてして情報は幾重にも屈折して飛び交うもので、それが火に油を注いだ。 抗争事件の前哨戦は、意外なところから意外な形で火蓋(ひぶた)を切った。 昭和三十七年六月二十七日。この日、山村組の網野光三郎、原田昭三、美能幸三の三人は久留米の浜田組二代目の襲名披露に出席するため、それぞれ若衆一人をつれて広島から小倉行きの飛行機、東亜航空コンベア機に乗りこんだ。 三日後の六月三十日、網野光三郎、原田昭三、美能幸三の三人は小倉工藤組の工藤玄治組長の舎弟・松岡武から奇妙な情報を伝えられた。 「打越はな、宇部の岩本組組長・岩本政治をさしむけて、福岡空港での帰途、あんたら三人を殺(や)れ、と命じたらしい。気をつけて帰られるがいい」 松岡武はそう、注意を促している。 三人は愕然(がくぜん)として顔を見合わせた。 旧岡組の網野も原田も、いまでは山村組に吸収されて山村組の構成員となっている。だからといって打越信夫に命を狙われる筋合はない。二人とも打越信夫とは舎弟の盃を交わしており、打越を兄貴として親交を保っている間柄ではないか。たまさか道で会っても、笑って歓談する仲である。〈その打越の兄貴がなぜおれたちの命を狙うのか……〉〈なぜなのだ――〉 三人は命を狙われることに対する怒りとともに、山村組と打越組とを取り巻く事態の複雑さに、いまさらながら暗然とする思いであった。 暗い予感が三人を襲った。 「危ない……。ぐずぐずできん。すぐ広島へもどろう」 三人の意見は一致した。 「そのほうがええ」 松岡武も口を添えた。 三人は翌日に控えた浜田組の二代目披露宴に出席することもなく、祝儀を松岡武に預けたまま、とるものもとりあえず広島に飛び立った。 広島へもどった三人は、その足で血相を変えて打越組に向かった。 途中、服部武の実弟・服部繁と永田重義の二人を加えた一行五人は、胸中煮えたぎるような怒りで、小刻みに身を震わせていた。 「打越というあんな男を兄貴分にもつとは恐ろしいことだ。それならこっちから盃を突っ返してやろうやないか」 五人は打越信夫に面会すると即座に、盃を水にするといい放った。 その声はぴーんと張りつめて殺気だっていた。ミステリアスな情報 一方、打越信夫は三人の暗殺説の出所が自分だときいて、身におぼえのない“黒い情報”にただ呆然(ぼうぜん)と立ちすくんでいた。 「このデマ情報はまったく根拠のないことで、とつぜんのことだし、びっくりするばかりだった。この裏にはだれか仕組んだやつがいる、と直感的に思った。しかし、そのときはそんな余裕はなかった。わたしは自分がだれかの罠(わな)にかかりつつある危険を知ったのだが……」 打越信夫はそう述懐する。 汚名はみずからの手でそそがねばならぬ。 夏の太陽が灼(や)けつくように暑い七月二日の真昼だった。打越組と山村組の危ういバランスを破壊しかねない“黒い情報”が飛び交うなかを、打越信夫は盟友の岡組組長・岡清登とともに真相究明に奔走していた。 〈――いったい、だれが、なんの目的でデマ情報を流したのか。徹底的に捜しだして殺(や)ってやるのだ!〉 身におぼえのない嫌疑をこうむった打越信夫のはらわたは煮えくり返っている。この、わずかな地鳴りは、やがて広島地下帝国を揺るがすほどの大爆発を誘発するであろう。 〈――これはどえらいことになるで……〉打越信夫の背筋に張りつめた緊張が走った。 噂(うわさ)の出所を確かめるべく打越信夫は山村組に立ち寄り、その足で元岡組組長・岡敏夫のもとへ赴(おもむ)いた。 岡敏夫はもともと打越信夫が神戸山口組の重鎮・安原政雄と結縁(けちえん)することを快く思わなかった人物である。日ごろから岡は広島やくざのモンロー主義を掲げて渡世を生きてきたスジ者であり、強大な山口組が広島を制圧することに危惧(きぐ)の念を抱いていた。 したがって彼は打越信夫と安原政雄の盃に極力反対であったが、美能幸三ら周囲の説得もあって不承不承(ふしょうぶしょう)縁組の取持ち役を買ったといういきさつがある。美能幸三の手記『仁義なき戦い』(サンケイ新聞出版局刊)によれば、盃を水にした五人は“福岡空港謀殺計画”をキャッチした際に岡敏夫を訪問、その経過を説明し、意見を求めている。 そのとき岡は五人に向かって明快な断をくだしている。 「すぐに盃を水にせい!」 ――打越信夫は岡敏夫に会って“黒い情報”の出所とそのいきさつについて詳細を確かめようとしていた。 だが、岡敏夫は、その件については打越信夫に曖昧(あいまい)な言葉しか与えなかった。 打越信夫は納得のいかぬまま胸にわだかまりを残し、そそくさと立ち去らねばならなかったのである。 すでに打越組はこのミステリアスな情報に翻弄(ほんろう)されていた。 疑惑がすっぽりと組員を包んでおり、組員たちは真相の究明を固唾(かたず)をのんで見守っていた。 さらに打越信夫にとって不幸なことは、この怪情報によって疑惑を一身に浴びている最中、もう一つの事件が並行していたことである。指をつめる 打越信夫の舎弟である宇部の岩本組(組長・岩本政治)系に青木組というのがある。光市に地盤をもつ博徒だが、その若衆が昭和三十七年七月一日、徳山市を根拠とする浜部組(浜部一郎組長)の組員を射殺するという事件が起きた。 浜部一郎組長は山村組幹部・樋上実の兄弟分であることから、この下部組織の対立抗争はそのまま打越組対山村組の確執における危険な火種となった。 打越信夫は事態を穏便に収拾すべく、みずからケンカの仲裁を買ってでたのである。 さっそく和解の地固めの会合が、広島市内八丁堀中ノ棚の喫茶店「巴堂」で開かれた。 出席者は打越信夫、岩本政治それに浜部一郎の兄弟分にあたる山村組・樋上実の三者会談である。 たがいにいい分はあったが、事件の解決をのぞむ熱意がどうやら三者の了解点まで達した。 これで事件は一応、落着したかにみえた。だれしもが二日後に険悪な事態を迎えようとは思いもしなかった。 その日、七月一日。打越信夫、岩本政治、樋上実の三人は改めて市内「寿司福別館」で仲直りの座をもち、酒を汲(く)み交わして歓談し、和解は完全に成立したと思えた。 だが、その会合がお開きになった夕方五時、宇部に帰る予定の岩本政治は徳山で途中下車し、そのまま目を血走らせて、単身、浜部組長宅に殴り込みをかけたのである。 岩本政治は殴り込むや、玄関口にいた浜部組の若衆にビンタを二、三発くらわせ、懐中にしのばせていた拳銃を三発発射して蹴散らし、宇部の岩本組事務所にもどったのである。 これを知って樋上実は激怒した。 「仲直りはやめや! 仲直りの舌の根も乾かぬうち、岩本のやつ、浜部を急襲しよって!」 まったく道理のとおらぬ襲撃である。 浜部はてっきり打越と岩本とがぐるになって、和解の話合いをすすめる一方、浜部組との抗争準備の時間稼ぎをしていた、と思いこんだ。 打越信夫は窮地(きゅうち)に立たされた。舎弟分の岩本が、兄貴分でしかも仲裁人である打越信夫を無視して暴走した格好になったからである。樋上実ははげしく打越信夫に詰め寄った。 「仲裁人の責任をとってもらおうか。しかも、岩本はあんたの弟分やないか」 正念場に立たされた打越信夫は、岩本に詫(わ)びを入れさせようと、当時の打越組若衆頭・山口英弘ら若衆二人をつれて説得に赴いたが、岩本は頑(がん)として首をたてにふらない。 「樋上がなんや。この岩本は一人になっても山村組を相手にケンカしたるで」 打越信夫の説得工作は失敗した。打越信夫はこの不始末の責任をとって詰め腹を切らねばならなくなった。二日後の七月三日午前十時ごろ、打越信夫は極道のしきたりとしてみずからドスを右手に、左小指を第二関節から切断。その小指を持って山村組に詫びを入れたのである。 岩本政治は身長一七二センチ、体重六三キロのひきしまった筋肉質の体躯(たいく)である。 打越信夫によれば、岩本は性格はおとなしいが、一度怒ると、やられてもやられても突っ込んでいく執拗(しつよう)な男だったという。人相は堅気タイプのやさ男で、昭和二十六年、打越信夫の舎弟になっている。 打越信夫は岩本政治をつぎのように評している。 「岩本が殺人罪で広島刑務所にはいっていたことがある。が、この間、岩本の親分である宇部の一松組組長・一松実男が、興行の木戸入場のもつれで甲斐組の若衆に殺される事件が起きた。その殺した男がおなじ広島刑務所にはいってきたのを知った岩本は、ひそかに復讐を企(くわだ)てた。たまたま刑務所内での相撲大会のとき、岩本は好機とばかり隠し持ったノミで相手を刺し殺したのです。度胸もあり、肚(はら)もすわっていて、その荒っぽさでは広島やくざも一目おいていた男でした」危機に立つ打越組危機に立つ打越組 “福岡空港謀殺説”に加えて、岩本組対浜部組の抗争事件の仲裁に失敗した打越信夫は四面楚歌(しめんそか)であった。あまつさえ小指を切断して山村組に詫びを入れなければならなかった。 打越信夫は、迫りくる山村王国の圧力をひしひしと感じざるをえなかった。 七月四日、打越組はさらに重大な窮地に立たされた。 この日、真夜中の零時五十分、打越組事務所で不吉な予感をかきたてる電話が鳴った。 岡清登からだった。 「いったい、なにが起こったのか……」 幹部FとMの二人は、岡清登に呼びつけられて人影まばらな夜の広島を車で疾駆した。 焦燥と不安が、寄せる波のようにじりじりと二人の胸をしめつけていた。 岡清登は、二人の到着を待ちかねたかのように、まず打越組組員であることを確かめると、こういい放った。 「いまな、山村組のところから連絡があったのだが、すぐ打越道場のバクチをやめさせてくれ、というてきてるのだ」 FとMは狼狽(ろうばい)した。 博奕打ちに賭場を閉鎖せよ、ということは“死ね”というのにもひとしい。糧道を断つことを意味するこの言辞は、あきらかに山村組の挑戦とも受けとれるのだ。 〈また、なにか裏で動きがあったのか……〉 FとMは不安げに顔を見合わせていた。 以心伝心であった。 この直感は、この渡世で生きる者だけが感知できる動物的な防衛本能といってよい。 バクチをやめろ、ということは組の運命を賭けた重大事である。二人は黙ってここを引きさがるわけにはいかなかった。 「バクチをやめろとおっしゃるのは、いったいどういうことです。それに、どうして美能らは舎弟盃を水にしたのか、あわせてその理由もおたずねいたします」 組の運命を賭けてFとMは、慎重に言葉を選んで岡清登に食いさがった。 岡清登はこの反撃の質問を軽くいなした。 「バクチをやめろ、というのは山村のいい分だ。もう一度、山村が小倉工藤組の松岡さんに連絡して真相をきいてみる、といっている。明日になったらすべてわかるだろう」 福岡空港謀殺説の核心も、ついに岡清登の口からきかれずじまいであった。 FとMはむし暑い夜をむなしく帰途についた。 打越組はこれからいったいどうなるのだろう。二人の胸中には複雑な思いがあった。 打越組事務所では組員全員が首を長くして二人の帰りを待ちわびていた。すでに時刻は午前五時をさし、夏の夜は白々と明けそめていた。 F、Mの報告に、組員の憤激は頂点に達した。着せられた濡れぎぬをなんとしても真犯人に叩きつけねばならなかった。 二人の報告がすむと組員全員で善後策を協議したが、その最中、ある人物を軸にこの架空の情報を整理していくと、奇妙に符合することが判明した。その人物というのはだれか……。 「その人物というのは美能幸三です」 打越信夫はそう断言するのだ。 「わたしが福岡空港で三人を暗殺せよ、と指令したとか、また打越道場のバクチを中止せよ、だのと、これはあきらかに山村組の挑戦と受けとれた。なかでも美能が絵を描いて打越組を解散させるつもりだったのだと思う。後日、死んだ原田昭三から直接きいたのだが、小倉工藤組の松岡さんに三人で会ったとき、美能は自分と松岡さんの二人だけで会談し、網野と原田は旅館の別室で待たされたという。このとき、美能が松岡さんに“われわれ三人は打越のさしむけた岩本に狙われている”とデマを吹き込んだことが、どうやら噂(うわさ)の発端らしい」 としているのだ。三代目舎弟盃 真相は美能幸三の策略的な動きからでたデマ情報だ、ということで打越組は殺気立った。 「美能はいったいなんのつもりだ。打越組をつぶす気か」 打越組の憎悪は美能幸三に集中した。 しかし、すでに五人の舎弟から盃を突き返された打越信夫の大きな打撃は、いまさら拭(ぬぐ)いきれるものではなかった。強敵(ライバル)山村組内の幹部・実力者たちと結縁していることによって、かろうじて力のバランスは保たれていたが、いまや打越信夫は完全に孤立化した感さえある。打越信夫にとって頼れるものはただひとつ、神戸の山口組のあと押しだけであった。 はたして、それから十日ほどたった七月十七日、打越信夫と兄弟分である山口組の重鎮・安原政雄が広島へ乗りこんできたのである。安原政雄の狙いは、いうまでもなく情勢不利な打越信夫の立場を挽回(ばんかい)すべく、てこ入れをはかることであった。 それには事態の悪化を防ぎ、あわせて打越組に戦力をつけるため、とりあえず水に流した舎弟の盃の復縁を取り持った。 さすが山菱の金バッジの威力は底しれぬものがあった。安原政雄の根回しは功を奏し、八月三日、安原政雄の仲介で市内の「清水旅館」に集まった網野光三郎、美能幸三、原田昭三は一方的に絶縁したことを打越信夫に詫び、舎弟盃を改めて受けることを承知したのである。 さらに三日後、山口県湯田温泉の「松政旅館」の一室で、打越信夫に強引に指つめをさせたことへの謝罪も含めて、美能、網野、原田ら、もと舎弟一同がふたたび打越信夫の盃を受けることを確認し、下関の合田組組長を仲裁人にたて、正式に手打ち式を挙行したのである。 打越信夫は有頂天だった。 それと同時に山口組の山菱のバッジの威力をまざまざと思い知り、三代目の直系若衆となることを強く望んだ。それは、打越信夫にとっては一日でも早ければ早いほどよい。そうなればさすがの山村組も手をだせなくなるであろう。 こうして打越信夫は山口組との“盃外交”にのりだす一方、八月八日、市内の料亭「魚久」で防府の田中組組長・田中清惣を舎弟に岩国中村組組長・中村展敏を若衆の系列に加え、巧妙に外堀を固めていった。 こうした打越信夫の神戸山口組への働きかけは、ついに九月二日、山口組三代目であるわたしの直系の舎弟盃を受ける段どりにこぎつけることにより、ようやく実をむすぶのである。これを契機に打越組を打越会に改称した。 いまや打越信夫は、広島やくざにあってあなどれぬ勢力として完全に息を吹き返しつつあった。 翌昭和三十八年二月十八日、離反していった元舎弟一同は、安原政雄のお声がかりで打越信夫との復縁を余儀なくされた。 この日、改めて山口組若衆頭・地道行雄、安原政雄、中森光義(名古屋鈴木組組長、昭和三十七年八月二十四日、打越信夫と兄弟の盃を交わす)の取り持ちで舎弟盃がふたたび交わされたのである。式場は市内「寿司福別館」であった。いならぶ山口組の大幹部が磐石(ばんじゃく)の睨みをきかせるなかで“旧七人衆”の服部、美能、小原、網野、永田、原田、進藤らは打越信夫を兄貴分とする盃を飲みほさねばならなかった。打越信夫は安堵(あんど)の胸をなでおろし、上機嫌であった。 〈すべてがうまくいった。これで山村組にふたたびくさびを打ちこむことができたのだ〉 勢力の回復はなった。広島戦争、火蓋(ひぶた)を切る広島戦争、火蓋(ひぶた)を切る 上機嫌の打越信夫は三日後の二月二十一日、晴ればれとして、沖縄へ観光旅行に旅立ったのである。 しかし、打越信夫がほっとしたのも束の間、事態はめまぐるしく変転していった。もともと錯綜(さくそう)した人脈で構成された広島やくざ地図は、それだけに一度均衡が破れると復元することは至難の業であった。打越信夫が沖縄観光旅行に浮かれていた同月二十七日、安原政雄、山本健一、松本一美ら山口組大幹部はある決意をもって広島を訪れていた。 三人は「観音山荘」に宿泊すると、打越会にこういい渡した。 「打越会若衆頭・山口英弘を破門せい!」 この唐突な至上命令に打越会内部は色めきたった。そして対策会議を続行中の翌二十八日、打越信夫が観光旅行から帰ってきたのである。 打越信夫は狼狽し、驚愕(きょうがく)した。山口英弘は信頼していた若衆頭であり、自分の片腕でもあった。 それを破門せい、とは……。〈――畜生、美能のやつ、また山口組のケツをかきおって〉 打越信夫は咄嗟(とっさ)にこれは美能幸三が描いた“絵”だと判断した。三代目山口組の山本健一若頭 「たしかあのころ、山村はうちの山口(英弘)の女房が経営しているバー『ラ・セーヌ』にときどき飲みにきておったようだ。愛人でもおったんやろ。それを知った美能が『山口英は山村組に情報を流している』と山口組幹部の山健(山本健一)さんなどに吹き込んだんだな。美能は山口英がいるかぎり頭を押さえられていたので、徹底的に山口英を嫌っていたのだ。それで山健さんらのケツをかいて山口英を破門に追い込んだんや」 打越信夫はそう解釈する。 山口英弘は裏切り者の汚名を着せられたまま破門となったが、これ以後、山村組も打越会も組内の粛清(しゅくせい)をめぐって紛糾(ふんきゅう)することになる。 打越信夫の話をつづけると、 「その後、山口組の安原さんと山健さんが『七人衆を舎弟にしたのだから、山村と手を切らせて一本立ちにし、打越会に入れるのが極道のスジやろ』といってきたのです。このことについては美能が強力にてこ入れしたのです。それで美能、進藤、網野、永田、服部が打越会にはいることになっていたのだが、交渉の結果、結局、美能しかはいらなくなった。すると山健さんが『それなら打越にこない他の者は破門せい』といって、美能を除く他の四人を破門にしたのです。これに対して山村は、逆に美能を山村組から破門にし、これでたがいに険悪な状態になっていったわけです」 つまり神戸山口組の大幹部がなかにはいって荒療治をしてから、広島やくざの分割地図も明確になり、山村組対打越会の対立の図式と人脈が整理されていったのである。 あとはそれなりの機会さえあれば、広島やくざの両雄が激突し全面戦争になることは火をみるより明らかであった。 昭和三十八年四月十六日、打越信夫夫人の父・大越作次郎氏が病没(四月十四日)したので打越会本葬を挙行。このとき、神戸はじめ山口組系各組から千人もの参列者が広島(宮島)へ繰り込んできた。山村組への威嚇(いかく)としては十分な効果をあげたのである。 本葬の翌日の四月十七日、広島戦争の火蓋は切って落とされた。 美能組若衆・亀井貢が呉市の繁華街、垣川通り八丁目の映画館「二劇」裏の路上で射殺されたのである。 これが、山村組対打越会の凄惨(せいさん)な戦いの幕あけである。銃弾飛び交う 美能組若衆・亀井貢は、その夜、自分が経営するスタンドバー「クインビー」にいた。 外からの電話で、亀井貢は店をでた。乗用車トヨペットコロナを運転して、店先から中通り方面へ二、三十メートルも走ったところで山村組の元中敏之、中畑良樹、上条千秋の三人と遭遇し、口論となった。 元中、中畑、上条の三人は山村組の行動派をもって鳴る樋上実の部下である。 亀井貢は元中と上条とに車から引きずりおろされ、背後から拳銃の台尻で後頭部を一撃された。 亀井はよろめいた。その直後、至近距離から数発の銃弾を見舞われ、乗用車の車体にべっとりと血のりを残して崩れ落ちた。 三人は風をくらって逃走した。午後十一時二十分。通り魔のような惨劇であった。 血まみれになって倒れていた亀井貢は通行人によって急報され、呉共済病院にかつぎ込まれたが、出血多量でまもなく死亡している。右胸部を撃ち抜いた一弾が命とりとなった。 これが広島代理戦争の発端だが、亀井貢はなぜ殺されたのか。 山村組幹部・美能幸三が打越会へ走ったため山村組を破門されたのが四月八日である。 殺された亀井貢も、もと山村組組員であったが、美能幸三とともに打越会へ走っている。 そのため山村組の行動派・樋上実一派から狙われた、というのが衆目の一致するところであった。 もともと美能幸三と樋上実とは山村組のなかでも対立関係にあったので、美能の裏切り行為に樋上が部下を使って襲わせた、とみるのである。 それを裏づけるように、襲撃の首謀者とみられていた樋上実は事件前日に呉からすでに姿をくらましており、警察は指名手配をかけた。四月二十九日夕刻、樋上実は立回り先の徳山市の映画館で逮捕され、元中敏之、中畑良樹、上条千秋の三名も五月十日、殺人容疑で逮捕されている。 亀井貢殺害のきっかけは美能と樋上との間の確執であったが、その確執は打越会対山村組の抗争を尖鋭化させ、そして、それは山口組対本多会の熾烈(しれつ)な血戦へとつながっていくのである。 両者の確執はついに血をみるに至った。 五月十六日、こんどは広島市に飛び火した。 この日、広島市南観音町二丁目で飲食店「やすべえ」を経営している安田正夫こと安昌奎さん(三十八歳)は、自動車解体業の前田文作さん(四十歳)ら五人とともに、通称中ノ棚とよばれる広島市の盛り場で夕方五時ごろから酒を飲んでいた。 そのうち、安田さんたちは近くの紙屋町タクシー事務所に打越信夫を訪問しよう、ということになった。 安田さんはかつて打越信夫の弟分として、広島市横川町一帯に勢力をもっていたスジ者である。 だが、いまでは足を洗って堅気の生活を送っていた。 安田さんは酒がはいった気安さから、打越信夫に挨拶(あいさつ)に立ち寄ろうとしたのである。一方、前田さんも職業柄、打越信夫を知っており、「じゃあ、ちょっと挨拶に」と軽い気持で仲間を誘い合っている。 安田さんを先頭に一行六人が、紙屋町タクシーの二階事務所へつながる階段を登ったのは午後五時五十分ごろである。 とつぜん、事務所から屈強な男たちが三、四人、気色ばんで駆け降りてきて、安田さんらの行く手に立ちふさがった。 「なんや、おまえらは」 「親分はおるかのう」 「!?……」 「親分に挨拶にきたんじゃけえ、通してつかあさい」 そんな短い会話が交わされている最中、降りてきた白のカッターシャツにマンボズボン姿のやせた角刈りの男が、いきなり拳銃を発射したのである。 安田さんは腹部に一発、銃弾を受けてその場に昏倒(こんとう)し、前田さんはおなじく左足を撃ちぬかれて二カ月の重傷を負い、近くの病院にかつぎこまれた。恐怖の平和都市恐怖の平和都市 ピストルを発射した男は打越会の組員・三橋巌夫である。 彼はてっきり山村組が殴り込みをかけてきたものと勘ちがいして、先制攻撃のつもりで拳銃を発射した、と自供している。 宵(よい)の盛り場のど真ん中で起こったこの殺人事件(安田さんは五月二十五日午前五時死亡)は、市民を驚愕させた。現場は電車通りから五十メートルほどはいった繁華街であり、問答無用と撃たれたのが一般市民であっただけに、衝撃的な事件として報じられた。 県警本部は五月二十五日、「暴力団犯罪一斉検挙本部」を設置して、二上本部長指揮のもとにきびしい態度で取り締まる方針を打ちだした。 が、山村組対打越会の抗争は取締本部を無視するかのようにすでに白熱化していた。すなわち、五月二十七日午前二時五十分ごろ、おなじ中ノ棚の盛り場で拳銃乱射事件をひき起こし、両者の抗争は一段とエスカレートしていった。 中ノ棚のバー「ニュー春実」の三階で野村英雄ら四人の打越会組員がトバク中、先ごろ打越会を破門された山口英弘が十数人の部下を引きつれ、乗用車二台で乗りつけてきたのである。 「ニュー春実」の三階の窓から顔をだした野村らと、路上の山口らが口論となって、たがいに拳銃の撃ち合いが始まった。 山口英弘は、かつて打越信夫の片腕として打越会若衆頭の要職にあった男である。同組員中にあって最大の子分二十五人を擁し、実戦派の闘将として打越会の大黒柱だったが、三月一日、打越会を破門されてからは兄弟分・樋上実のいる山村組に急速に接近し、はっきりと打越会に敵対する姿勢を示していたのだ。 深夜の繁華街でふたたび発生したこのピストル乱射事件は怪我人こそださなかったが、これではいつどこから流れ弾が飛んでくるともかぎらない。平和都市ヒロシマの名はたちまちにして無法都市、死の街と化し、血の抗争は「やられたら、やり返す」泥沼に突入していった。 もともと広島の盛り場は八丁堀の金座筋を境として東を山村組、西を打越会と分け合っていただけに、広島戦争は盛り場のど真ん中で火を噴いた形となった。 「ニュー春実」でのピストル乱射事件は、はたして「組のメンツにかけてもやられたら、やり返す」やくざの掟となって現われた。 六月十一日午前二時、山口英弘派アジトに近い宝町山陽高校西側の路上で、打越会組員と山口英弘派とが拳銃を撃ち合ったが、この抗争で、打越会・藤田逸喜が登山用ナイフで鼻と胸の二カ所を刺され、十七日死亡している。 二十一日夜から二十二日夕方にかけ、情勢はますます険悪となり、神戸の本多会、山口組をはじめ北九州、下関、防府、福山からぞくぞくと助っ人が広島の市街にはいり込んだという情報が流れ、その数は百人以上といわれている。 市内の盛り場は人通りもなく、家々ははやくから戸を固く閉ざし、市民たちはいつ突発するかわからぬ銃撃戦の不安におののいていた。 六月二十二日、広島県警本部は機動隊九百人を全員非常呼集するという、県警始まって以来の警備態勢を布き、ヘルメット、防弾チョッキで市内のパトロールにはいった。広島入りした組員たち 亀井貢殺害に端を発した山村組対打越会の抗争は、この段階では先制攻撃をしかけた山村組のほうに分(ぶ)があった。 打越会は後手、後手と回ってどうみても旗色が悪い。 戦闘員の数の上からみても、山村組の優位は動かず、このままでは打越会はじりじりと追いまくられていく情勢にある。 そんな危機感が日ましに濃くなって、神戸山口組の動きはにわかにあわただしくなってきた。 山口組大幹部・安原政雄は兄弟分の打越信夫と、それにつらなる美能幸三に強力なてこ入れをすべく、ひそかにその機会を狙っていたのだ。 安原政雄は七月八日、呉で行なわれる亀井貢の本葬にあたり、葬儀参列を名目に組関係者千五百人を呉に乗り込ませようとしていたのである。 地元や呉近郊の関係者を合わせれば、その数は優に二千人を越す大がかりな参列者となるであろう。 それだけでも山口組の大デモンストレーションとなる。他に比類をみない圧倒的な動員力をもって山村組に威圧を加え、もし一朝(いっちょう)ことあれば一気に山村組に決戦を挑むこともやぶさかではない。 だが、警察当局はいち早くこの情報を入手していた。抗争抑止に先手を打つべく、葬儀に先だつ七月五日午前七時前、呉署は八十人の署員を動員して葬儀主催者・美能幸三を傷害容疑で逮捕したのである。美能幸三を隔離することによって抗争の激化を阻(はば)もうという狙いであった。 しかし美能幸三の逮捕にかかわらず、亀井貢の本葬は予定どおり七月八日午後、呉市登町の妙法寺で行なわれた。 県下をはじめ神戸、北九州から山口組系関係者が六日午後から早くも広島入りし、当日の八日には約千人が大型貸切りバス十四台など車八十九台で呉入りし、その後もぞくぞくと集まり、総勢千七百人が集結している。この日、呉入りしたのは広島に本拠をおく打越会をはじめ、遠く東京から東声会、九州の石井組、神戸の山口組、大阪の一心会と、組関係の一流どころがつめかけ、山村組は完全に沈黙した。 動員された警官は千四百名に達した。白ヘルメットの武装警官隊と黒の喪服姿の組関係者とが、葬儀場でずらりと一列に相対し、奇妙なコントラストを描いていた。 山口組が圧倒的な動員力をみせた亀井貢本葬以後、広島は束の間、小康状態を保った。 ――あんなに大勢こられては、うかつには手をだせん。 そんなためらいが山村組の間に働いたことも事実だが、県警のきびしい警戒態勢、地元「中国新聞」の勇気あるキャンペーン、そして世論の高まりが両者の抗争を躊躇(ちゅうちょ)させた、といってよい。 七月二十八日、山村組を支援する神戸本多会の会長・本多仁介が引退し、副会長だった平田会の平田勝市が二代目・本多会会長として襲名した。 七月二十七日付「中国新聞」によれば、その引退襲名披露の案内状に特別賛助者、賛助者の名で大野伴睦自民党副総裁をはじめ、原健三郎衆議院副議長、中村幸八自民党副幹事長、野田武夫総務長官ら国会議員十四人のほか十府県の府県議・市議など九十三人が名をつらねている。火を噴くコルト 九月にはいると、両者の抗争はふたたび血をみた。 九月八日、広島市西部の繁華街である己斐町マーケットを根城にする西友会(組員四十八人)の会長・岡友秋は昼前、広島県安佐郡可部町の可部温泉にやってきた。 可部温泉というのは、国鉄可部駅から北へ三キロほどはいったひなびた温泉場である。 戦後できた鉱泉のわかし湯で旅館も四軒だが、温泉の少ない山陽道では利用客もかなり多い。 岡友秋はこの日、可部温泉の旅館「松福荘」で午後から行なわれる小学校の同窓会に出席するため、旧友十六人と昼前にやってきたのだ。 岡友秋は宿に着くとすぐ数人の旧友とつれだって、別館にある「松福荘」自慢の空中風呂へつかりにいった。 空中風呂は別館、新館の前庭に建ち、地上五メートル、直径六メートルの円型の総ガラス張りである。「松福荘」は、どの客室からも空中風呂の内部が見渡せるようになっている。 岡友秋がどっぷりと湯につかっているのを、新館の一室からみていた目つきの鋭い若い男がいる。山村組配下の吉岡信彦である。吉岡は前日夕方から「松福荘」に投宿し、計画的に岡友秋を待ち伏せていたのだ。 岡友秋は湯ぶねからでて体を拭いている。岡はやがて湯あがりのさっぱりとした顔で浴室をでてくるであろう。 吉岡は意を決したように、コルト45口径の八連発を懐(ふところ)にねじ込むと、黙って部屋をでた。 吉岡は新館の玄関前で、さりげない態度で岡友秋のでてくるのを待ち伏せた。 夏の終りを告げる蝉(せみ)しぐれが降りしきっている。腹巻のなかに、ずっしりと重い拳銃を握りしめながら、吉岡は喉の乾きをおぼえ、玄関前を行きつ戻りつしていた。 待つ間はなかった。空中風呂のある別館入口から岡友秋は衣類を小脇に抱え、下着一枚でこちらへやってくる。 別館から新館の玄関へはカギの手になっていて、そこに石灯籠(いしどうろう)が置かれてある。その石灯籠の陰から、吉岡は不意に岡友秋の前にぴたりと立ちふさがった。 「あんた、岡さんだな」 「――!?」 つぎの瞬間、吉岡のコルトが轟然(ごうぜん)と火を噴いた。 一瞬、岡の体がはじけ、数歩よろめいた。吉岡のコルトからはさらに五発が、よろめき歩く岡をとらえ、撃ち込まれた。 それでも岡は気丈であった。よろよろとすがるように新館の玄関方向に手をさしのべながら、力つきて玄関の前で昏倒した。 その岡友秋のこめかみめがけて、吉岡のとどめの一発が炸裂(さくれつ)した。岡は虚空をつかんだまま悶死(もんし)した。三十八歳の男ざかりであった。九月八日、午前十一時五十五分である。 吉岡はその場から裏山伝いに遁走(とんそう)したが、同日午後零時三十五分ごろ、安古市町の国道で非常警戒中の警官に逮捕されている。 岡友秋を狙った理由について吉岡は、 「岡に広島市民球場で殴られたことから復讐した」 と単独犯行を警察で主張しているが、吉岡は山村組の配下であり、一方の岡友秋は打越信夫の舎弟として打越会とのつながりは深い。 とくに岡友秋は美能幸三と親密な間柄にあり、美能とともに打越会へ走ったいきさつもある。そんなことから山村組とは敵対関係にはいり、亀井貢が殺害されたときは真っ先に呉へ乗り込んで美能組に肩入れをしている。 こうした背景が、山村組の憎しみを買った。そうみるのが妥当であろう。 いっとき平穏にもどった、とみられていた山村組対打越会の戦いは、岡友秋射殺事件をきっかけにふたたび激化し、ピストルの乱射からダイナマイトによる報復へと、さらにエスカレートしていくのである。激化する抗争激化する抗争 盟友・岡友秋が射殺されたことによって、打越会は猛然と反撃にでた。 九月十二日払暁(ふつぎょう)、山村組組長・山村辰雄の経営する広島市三川町のキャバレー「グランド・パレス」がダイナマイトで爆破されるという衝撃的な事件がもちあがった。 山村組の本拠は「グランド・パレス」である。 広島へ進出して以来、山村辰雄は呉へは帰らず「グランド・パレス」を根城に采配をふるっていた。店の前ではいつも数十人の組員が厳重に警戒し、細い階段をのぼりきった四階三十畳の広間には常時三十人の若い衆が詰め、山村辰雄もここに寝泊まりをしていた。 いってみれば「グランド・パレス」こそ山村組の最高作戦本部である。 その本部が爆破されたのだ。犯人はいうまでもあるまい。 爆発物はダイナマイトを十本ほど束ねた手製爆弾で、払暁ひそかに「グランド・パレス」の入口におかれていた。轟音(ごうおん)とともに爆発物は鉄枠入りのドアを吹き飛ばして壁に大きなひび割れをつくり、通路の天井にさがっていた蛍光灯六基と隣の映画館「リッツ」のウィンドーを破壊している。 怪我人はなかったが、ダイナマイトによるこの爆破事件は、山村組を震撼(しんかん)させるに十分であった。 ついで九月十九日の払暁、こんどは「グランド・パレス」から百五十メートルほど離れたところにある山村組幹部・原田昭三の経営する原田産業の事務所へ、またしてもダイナマイトが投げ込まれている。事務所の奥に寝ていた山村組組員三人には怪我はなかったが、木造モルタルの事務所は天井が落ち、ベニヤの板壁ははがれ、表玄関は吹き飛ばされた。 拳銃からダイナマイトへ。抗争は激化し、凄惨な殺戮(さつりく)戦へと突入していった。 原田昭三の事務所が爆破されて二日後の九月二十一日午後八時前、盛り場・流川町の東新天地広場付近で山村組、打越会の数人ずつがばったり遭遇した。 おりからの土曜日で宵の盛り場は人出も多く、殺し合いはその雑踏のなかで行なわれたのだ。 事件はまったく偶発的に起こった。路上で出会いがしらに両者が二言(ふたこと)、三言(みこと)ののしりあったかと思うと、もう拳銃の引き金を引いている。 連続して起こった数発の銃声とともに山村組組員・宮木敏明は右脇腹に一発、右肩に一発の銃弾をうけて倒れた。 つぎの瞬間、打越会の者は風を食らって逃げだしていた。あたりかまわず通行人をはじき飛ばしながら、遮二無二(しゃにむに)逃走する。 一人が逃げ遅れた。打越会組員・谷村祐八である。逃げるには逃げたが鈍足の悲しさで、たちまち追ってきた山村組の一人に背後から羽交締(はがいじ)めにされたと思うと、首筋に銃弾を撃ち込まれた。 谷村は口から血反吐(へど)を吐いて、かっと目をみひらいたまま、ゆっくりと路上に崩れ落ちていった。即死である。 瀕死(ひんし)の重傷をうけて血の海に転がっていた宮木も、二日後に病院で死亡している。 現場は繁華街。しかも、土曜日の宵である。 その路上で起こった惨劇は、広島市民を恐怖のどん底に叩きこんだ。 山村組も打越会も、そこが盛り場だという見境(みさかい)さえも失って、ひたすら血で血を洗うはげしい憎悪しかなかった。 県警本部は、ただちに数百人の警官を緊急配備させた。 商店はばたばたとよろい戸をおろし、通行人はとだえ、ものものしい武装警官の姿ばかりが目立った。 広島は死の街と化し、市民たちは家に閉じこもってじっと息を殺したままで、不気味な静寂が街全体をおおった。マイト爆発、拳銃乱射 山村組対打越会の、あくなき抗争を制圧すべく、県警本部は頂上作戦に踏み切った。 九月二十二日午後三時二十分、県警本部は山村辰雄、打越信夫以下両組関係者五人を暴行容疑で逮捕した。これを機会に一挙に両組織を壊滅させようという作戦である。 「これで広島も静かになるだろう」 山村辰雄、打越信夫の逮捕で警察も市民も安堵(あんど)の胸をなでおろした。 両方の組長をおさえておけば抗争は自然消滅するであろう。だれもが、そう思った。しかし、その見通しは甘かった。お互いの憎悪は、もはやぬきさしならぬところまできていたのである。 山村辰雄、打越信夫が逮捕された翌二十三日の午後九時半ごろ、神戸山口組事務所がダイナマイトで爆破された。 爆破箇所は事務所の地下便所付近で大事には至らなかった。山村、打越両組長の逮捕直後の事件だけに、県警側も色めきたった。 さらに、二十四日午前五時ごろ、広島市の鶴見橋西詰付近を走行中のタクシーから拳銃が発射されている。もし、流れ弾が一般市民に危害を与えていたらどうなったであろうか。 しかも、その早朝、呉市北迫町の山村辰雄宅の庭先にダイナマイト入りの罐(かん)が仕掛けられていた。導火線は途中で消えていて、爆破は未遂に終わっているが、暗闘はそれだけにとどまらなかった。 同日午前零時五十分ごろ、神戸本多会事務所前を黒塗り乗用車が徐行したと思うと、事務所内部へむけて猟銃弾が撃ち込まれた。広島戦争はまだまだ流動していた。 九月二十五日、呉市阿賀町に本拠をおく反山村組の小原組(小原光男組長)の組員五人が、山村組襲撃のため賀茂郡黒瀬町の山中で拳銃の発砲訓練をしていたことが発覚、翌二十六日、手入れを受けている。 捜査当局はそれまでに数十回におよぶ手入れで、山村、打越両組関係者を百十余名逮捕した。 両組の勢力はともに半減したかたちになってはいたが、しかし、不穏な抗争事件がいつまた火を噴いてもおかしくない状態にある。 「最後の一兵まで投じても戦う」という両者の対立は、もはや執念以外のなにものでもなかった。 不気味な鳴動は、はたして爆発の前兆であった。十月十三日、岡組(岡清登組長)の最高幹部・藤井幸一が射殺された。 その夜十時二十分ごろ、藤井は自宅裏の炊事場で顔を洗っていた。 その背後へ、音もなく黒い影が寄り添ってきた。 「幸ちゃん」 呼ばれて、藤井はふり返った。その瞬間、藤井幸一は至近距離から射たれている。 弾は腹部から臀部(でんぶ)を貫通し、藤井幸一は同夜十一時すぎ、付近の病院で絶命した。 藤井の親分・岡清登は、さきに可部温泉で射殺された西友会会長・岡友秋の実兄である。 岡兄弟はともに打越会派であっただけに、藤井を殺(や)ったのは当初、山村組かと推測されたが、藤井は息を引きとるまぎわに、 「野村に殺られた」 といっている。 野村というのは、打越会系河井組(河井勝治組長)の幹部・野村博である。 野村は、事件発生から三時間後に河井組長の自宅付近で逮捕された。広島戦争の終焉(しゅうえん)戦力後退 この事件は打越信夫にとっては衝撃であった。おなじ系列下の、いわば味方同士の反目から起きた殺害事件だからだ。 抗争の原因は両者の縄張り争いで、些細(ささい)なケンカをきっかけに殺しをひき起こしたのである。 〈こんなつまらんことで、内部分裂が起こらなければよいが……〉 打越信夫は、ひそかにそれをおそれた。 岡組も河井組も、つまらない争いごとで反目している場合ではない。当面の敵は山村組という地下帝国である。大同団結して鉄の結束がのぞまれるとき、この不測の事態はなんとも苦々(にがにが)しかった。 岡組対河井組の内部闘争に進展するかにみえたこの殺害事件は、警察の封じ込め作戦で暴発はまぬがれたものの、打越信夫にとっては薄氷を踏む思いがあった。 抗争は下火となった。 当局の強硬な取締りに、ようやく両者は出血の大きさを思い知らされるようになったからである。 どんな小さないさかいでも県警本部は容赦(ようしゃ)なく取締りにでて、そのつど両者の戦力は大きく後退させられた。 遅まきながら自戒の念が高まって、両者は一歩退き合って睨(にら)み合うかたちとなった。 だが、山村辰雄はその間に戦力と資金の立て直しを図っていた。 翌昭和三十九年五月二十日、山村辰雄は同志を糾合(きゅうごう)して政治結社「共政会」を発足させ、勢力の挽回(ばんかい)にでたのである。 その傘下に集まったのは、山村組二百五十人をはじめ、かつて宿敵関係にあった村上組百四十人を迎え入れ、さらに浜本組四十人、山口(英弘)組四十人、徳山の浜部組二十人などを加え、準構成員を合わせると傘下七百人という中国地方第一の大組織を結成したのである。 本部を広島市昭和町に設置し、会長の座には山村辰雄自身が坐った。副会長には村上組の幹部・村上正明を据(す)え、理事長、幹事長には服部武、山口英弘、栗栖照巳らの実力者が名をつらねた。 山村組は以前を上回る大勢力をもって、打越会との差を大きく開こうとしたのである。 一方、これに対して打越会は、たびかさなる抗争で山村組以上に戦力は逼迫(ひっぱく)し、組員百十人のほか友好団体は西の岡組、西友会、河井組の各二十人、美能組六十人、小原組百人、地道組二十人、計六団体三百六十人にすぎなかった。 それでも打越会は、広島市三川町の通りを境界線に山村側と鋭く対峙(たいじ)していた。 だが、力の均衡からみれば、やはり共政会を発足させた山村側に分(ぶ)があった。勢力は大きく開いた感があり、しかも共政会は力の差を背景にして、市内東部一帯の打越会の縄張りを侵食しはじめる一方、打越会から組員の引き抜きをはじめるなど攻勢にでてきた。 両者の間にまたしても険悪な空気が醸成(じょうせい)され、八月三十一日、血戦は再開された。 午前零時半すぎ、共政会山口(英弘)組の楠本富夫、西本義則らの三人がキャバレー「グランド・パレス」前でタクシーを降りようとしたとき、いきなり打越会の島田鞆夫、井上正三、沖扶美男の三人に襲撃されて拳銃四発を乱射された。 楠本はタクシー内で胸部二カ所を撃たれて即死。西本も車内で両腕を撃ちぬかれて三カ月の重傷を負った。 広島の盛り場でまたしても血の抗争がはじまった。殺傷された楠本も西本も、もともと打越会組員であったが、共政会に引き抜かれて打越会を去っていった者たちである。 「背広一着ぐらいで寝返った裏切り者め」 と島田らの反感を買い、たまたま事件発生の三十分前、路上で双方が口論となり、それが凶行に発展したのである。広島戦争の終焉(しゅうえん) この殺傷事件は両者の憎悪を如実に示したものであるが、十月三日、こんどは呉で共政会住吉組組長・住吉辰三が打越会系小原組組員に射殺されている。 その日の夕方、住吉辰三は近所の公衆浴場「衛生湯」からでてきた。 住吉辰三は共政会の実力者、服部武理事長の舎弟である。 組員七、八人であらたに住吉組を結成して間もなかったが、呉の新興勢力として住吉組の動向は注目されつつあった。 「衛生湯」から濡れタオルをさげ、ぞうり履(ば)きででてきた住吉は、ゆっくりと帰宅の途についた。 それを待ち伏せていたように「衛生湯」の横手から、一人の若い男が住吉のあとをつける。市電通りの坂道をのぼり、十五丁目停留所から右へ折れると住吉の自宅である。途中、若い尾行者は路上で待ち伏せていた二人組と合流し、三人で住吉殺害の機会をうかがっていた。 住吉は暗殺者に狙われていることなどつゆしらず、おそらく湯あがりの火照(ほて)った肌を秋風になぶらせ、いい気分であったろう。 市電通りから右へ折れ、上田ドレメ学院前まできたとき、住吉は背後から左背部、左後頭部に二発の凶弾を受けて即死した。午後五時すこし前であった。 広島戦争は、六年間の長きにわたって抗争をくり返したが、住吉辰三の殺害事件を最後に、流血沙汰(ざた)はようやく終りをつげる。 この間に中国地方五県警の扱った検挙者数はじつに三千二百六十五人、五千百七十三件であり、いかにはげしい抗争であったか、そしていかに徹底的な取締りであったかがわかる。 昭和四十年六月九日、山村は引退し、共政会二代目会長に服部武が就任した。 同年八月二十三日、打越信夫は侠道会会長・森田幸吉の世話で山口英弘と手打ちを行ない、ようやく両者の歩み寄りとなった。 共政会と打越会の手打ちが行なわれ、広島戦争に一応のピリオドを打っのは昭和四十二年八月二十五日(当時、共政会理事長は山田久)のことである。場所は広島市内の料亭「芙蓉別館」、世話人は海生逸一である。 打越信夫は熾烈(しれつ)、非情だった広島戦争をふり返ってつぎのように述懐している。 「広島戦争は終結までに六年を要したが、昭和三十八年から三十九年にかけての約一年間が抗争のピークであった。 その一年間で、わたしは戦費に一億円は使っていると思う。 山村組もうちも、戦闘服はカーキ色の作業衣だった。抗争当時の事務所の雰囲気は組員全員が血走っていて、目にはいるものすべてが敵にみえた。わたしの自宅付近は警察のジープが二台で、五、六人の警官がいつも偵察していたし、約一年間は当局に見張られていたように思う。 そのころは自宅には二十人、事務所のほうには五十人を常駐させていたので、出前のソバ屋まで恐がってはいれなかったほど殺気だっていた。 わたしも本当に夜、ゆっくり眠れた日は一日もない。 美能幸三が『仁義なき戦い』という本を書いているが、本人は抗争のもっともはげしいときに刑務所入りしているので、抗争そのものの事情についてはあまり知らないはずである。 それにだ、いくら不満のあった親分であろうと、あんなに親をけなしてはいかん。『泣いた』だの『押入れに逃げた』だのと、あれでは山村は踏んだり蹴ったりだ。あの本によって、広島のやくざ、ひいては全国の極道があんなものかと思われると恥ずかしい気がする」(※徳間文庫カレッジ『完本 山口組三代目 田岡一雄自伝』第三部 仁義篇より転載)  

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    「山一抗争」再び、名古屋VS大阪の代理戦争

    わけでもないが、その流れの中で1997年8月、新神戸駅前のホテルで宅見若頭が中野会系組員に射殺される事件が起きた。弘道会や宅見組による渡辺体制をないがしろにする行動に対して、不満が爆発したみたいなところが宅見若頭暗殺事件につながっていく、という流れがある。結果的にそれが契機となって、渡辺組長も現役のまま引退を強いられることになった。普通だったら亡くなってから代替わりが行われるのだが、亡くなる前に自らの意思に反して組長交代が行われ、そして6代目体制になると、弘道会が主導権を握るという流れになった。そうなってくると、弘道会がどんどん他の組の利権、経済活動に対して、蚕食し始める。言ってみれば、自らのテリトリーを広げていくようなことをやる。そして、意にそぐわない組長や組織を絶縁、破門という形で組織から強引に切り離していくというところをやったので、本流を自任する山健組の不満が爆発し、今回の組織離脱になったとみられる。 離脱組は新組織を結成し、「神戸山口組」を名乗るという情報がある。山健組だけじゃなく、大阪の2代目宅見組も追随するというのは、大きな城壁だ。今後、離脱する組がさらに増えたり、これまで破門、絶縁された組織が神戸山口組に参集し、神戸山口組の構成員の方が数が多くなるんじゃないかという見方もある。 経済活動であるしのぎについては、従来型の金融や地上げや土地管理もあるが、最近は違法行為を伴わないような、経済活動が主体になっている。ヤクザだからこういう仕事なんだということではなく、ごくごく一般の人たちがやるような、商品を輸入するとか、飲食店経営であるとか多岐にわたり、特徴みたいなのがない。暴力団対策法や暴力団排除条例の施行の絡みで、正規の構成員が前面に出ることはほとんどない。自分たちは裏に回って、ほとんど堅気の人間が経済活動するっていうのがここ最近の傾向だ。 山口組の中心を担ってきた名古屋の弘道会は、どんどん東京に進出していった。一番目立った所では、新宿・歌舞伎町のぼったくりバー。都条例の違反にあたる行為であり、今年、警視庁により一斉摘発されたが、弘道会の経営の店が多かった。東京は弘道会が席巻していたので、他の組織、団体が出ていけるような状況ではなかったのではないか。東京が一番、経済集積度が大きいから、東京に進出するかしないかというのは経済力の差になってあらわれてくる。 絶縁、破門をした組織がそのまま組の運営を続けていくということを考えると、処分を下した側にとってみると、完全にメンツをつぶされたことになる。加えて、神戸山口組なんて看板を掲げるとなると、これまた処分を下した側の顔に泥を塗ることになることになるから、普通でいったら山口組と一和会による抗争で25人の死者を出した「山一抗争」のような抗争に発展するのだが、もし万が一抗争劇に発展してしまうと、九州の工藤会のように「特定危険指定暴力団」という扱いになってしまう。そうなると、組事務所への立ち入りを禁止されたり、5人以上の組員が集まっていると、それだけで逮捕という状況になるし、そういったリスクをおかしてまでやるかどうかというところを考えると、抗争ができる環境ではないのではないか。 逆に言えば、抗争もしないまま相手に対し、そのままの状況を許してしまうとなると、弘道会、山口組にとっても、ヤクザとしてのメンツ丸つぶれということになって、今後に大きな影響を与えてしまうので、これはやらざるを得ない。ただ抗争をやってしまうとかなり大きなリスクを負うことになる。ここは悩ましいところだと思う。 可能性は低いと思うが、山口組との関係のある団体が間に入って仲裁するということがないわけでもない。かつて茨城県を拠点とする「松葉会」が同じような状況になった。激しい抗争が起こったわけではなく、他の団体が仲裁に入ったことがある。ただ、山口組は考え方も行動も関東の組織とは違うから、そういった共存路線になる可能性は低いと思う。山口組が共存の道を選んだ場合は、大きな組織が二つに割れてしまうので、間違いなく弱体化につながる。 警察としては、抗争となった場合は大きな批判を市民から浴びることになる。警視庁は関西方面に応援部隊を派遣しており、なんとかそれを抑える方向にいくのではないか。警察が目指すのは、抗争を起こさせないまま両方の動きを封じ込めていくことだろう。(聞き手 iRONNA編集部 川畑希望)

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    山口組「仁義なき分裂」の真相

    体の組長が「絶縁」や「破門」の処分を受け、離脱が決定的となった。山口組でいま何が起きているのか。抗争事件への発展はあるのか。仁義なき分裂騒動の真相に迫る。

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    「大阪戦争」山口組トップ狙撃事件の首謀者が真相激白

     日本最大の暴力団「山口組」のトップが狙撃される前代未聞の事件が37年前、京都のナイトクラブで起きた。事件の首謀者は、松田組系「大日本正義団」2代目会長だった吉田芳幸さん(72)。武闘派とまで呼ばれた親分だったが、後にキリスト教に回心し、神の教えを説く伝道者となった人物だ。裕福な家庭に生まれながらも、父親が経営していた会社の倒産で貧しい幼少期を送り、「日本一のヤクザになる」と極道の世界へ。山口組との熾烈(しれつ)な暴力団抗争を繰り広げた末に逮捕され、刑務所の中でさえ山口組関係者から常に命を狙われた。日本中を震え上がらせた抗争事件の裏に何があったのか。産経新聞の取材に対し、吉田さんが重い口を開いた。裕福な生活から極貧へ 「タンスの中にお金がたくさんあって、それを盗んでは友達にあげていた」 昭和18年1月、大阪府布施市(現東大阪市)でも屈指の資産家の家に生まれた。父親は糸工場の経営を番頭に任せ、ずっと家を留守にした放蕩三昧(ほうとうざんまい)。工場の経営はみるみるうちに傾き、小学3年のとき、倒産した。 「税務署の人が家にやってきて、全部持っていかれた。残ったのは火鉢だけ。冬も兄弟で薄い蚊帳(かや)をかぶって寒さをしのいでいた」 待っていたのは極貧の生活だった。1玉のうどんにしょうゆをかけ、それを家族で分け合って食べていたほど。3つ年が離れた兄の芳弘氏が新聞配達を始めると、自分も新聞配達や牛乳配達をしながら家計を助けた。一方、「不良とよくけんかをしたが、弱い者はいじめたりしない。正義のヒーローだった」とも振り返る。 そんなとき、芳弘氏が「不良をやめてヤクザになる」と言い出した。自分が進学した工業高校のラグビー部の先輩にも暴力団関係者がいた。 「ヤクザは美人を伴っていて、ワニ皮の財布の中に札束を入れていた」闇取引で巨万の富 腕っぷしには自信があった。仲間の一人が松田組の組員とけんかして、大阪・西成の組事務所に連れ込まれたと聞くや否や、仲間を助けたい一心で組事務所に乗り込んだ。 「ええ根性しとんのう」。たまたま居合わせた松田組系宮本組の親分に根性を買われ、「うちに来い」と〝スカウト〟され決心。高校を中退し、組事務所での下積み生活が始まった。 「おれは日本一のヤクザになってやる。どうせやるならトップだ」 そう心に誓い、夜も明けきらぬうちから大阪の中央卸売市場の青果店でアルバイトし、組事務所での「お務め」が終われば博打(ばくち)場で下足番をして稼いだ。市場で芳弘氏がけんかの末に刺されれば、“犯人”を捕まえて「ぼこぼこにいわせた」。 23歳の若さで家を建て、24歳になると「がま」と呼ばれる入れ墨を背中に入れた。「体を汚すということは親と縁を切るということ。親分は自分の親であり、一生ヤクザをするという気持ちの表れ」だった。 海外にも渡航し、拳銃や覚醒剤の闇取引で巨万の富を得た。「罪悪感はあるが、金を持っている方がヤクザは上。金もうけしたろと…」。極道の世界では何よりも金がものを言った。香港で高級時計の偽物を1つ3500円で仕入れると、日本では10万円で売れたという。「仇(かたき)は山口組3代目」 40年前の昭和50年7月26日、後に「大阪戦争」と呼ばれる暴力団抗争の火ぶたが切られた。賭場でのトラブルから、大阪府豊中市の喫茶店「ジュテーム」で、山口組直系佐々木組傘下の組員3人を、松田組傘下の溝口組組員らが射殺したのだ。山口組トップ狙撃事件について語る牧師の吉田芳幸さん。当時は武闘派と呼ばれ、山口組組員に射殺された兄の復讐のため、命を捨てる覚悟で山口組との“全面戦争”に踏み切ったという=大阪府東大阪市 報復合戦は熾烈を極めた。51年10月、大阪・日本橋の商店街で松田組系の大日本正義団の初代会長を務めていた芳弘氏が山口組系組員に射殺される。35歳だった。跡目は吉田さんが継ぎ、2代目会長に就いた。 「仇は組織の頂点。山口組3代目、田岡一雄組長。よし、全面戦争だ。このままでは絶対終わらせない」 吉田さんは復讐(ふくしゅう)を誓い、配下の組員らは芳弘氏の遺骨を懐中に忍ばせた。 ただ、山口組は当時で1万人超の組織。自分の配下の組員は約70人だった。「人数ではとても勝てないが、兄貴は日本一の組長だった…」。命を捨てる覚悟を固めた。 芳弘氏の死から2年近くの歳月を経たある日。京都・京阪三条駅前のナイトクラブ「ベラミ」に、田岡組長が立ち寄っているとの情報を得た。配下の組員と近くのマンションの一室を借りて網を張り、毎晩、作戦会議を繰り返した。 田岡組長のボディーガードは20~30人。それに対抗しようと、射撃が得意な組員を川に連れては水面に向かって撃たせた。組員らに客を装ってベラミに日参させたという。ベラミ事件の真相 「来ました!」 ついにその日が訪れる。53年7月11日、蒸し暑い夜だった。 店内に潜入していた鳴海清組員=当時(26)=から一報が入ると、吉田さんは「10分間待て」とだけ伝え、配下の幹部2人を車で向かわせた。 しかし、車はベラミに向かう途中でパンク。2人が約30分遅れて到着すると、ちょうど鳴海組員が店内から出てきたところだった。 「どないした! 殺(や)ったんか」。幹部が声を張り上げると、鳴海組員は「取った。手応えはあった」と話した。鳴海組員を車に乗せるまで、山口組の追っ手は来なかった。 銃弾は確かに田岡組長の首を貫通したが、奇跡的に一命を取り留めた。テレビニュースを見て復讐が失敗に終わったことを知った鳴海組員はその場で泣き崩れたという。 「あの2人が間に合っていたら、完全に取っていた(殺していた)だろう」。吉田さんは今でもそう思う。「1万人超組織」からの逃避 山口組の報復は執拗(しつよう)で残忍だったとされ、「捜索能力は警察よりも確実」と評されることもあった。にもかかわらず、逃亡先に選んだのは、山口組のおひざ元、神戸市だった。「一人でも多く殺して、死んでやるという思いだった」 鳴海組員はサングラスや帽子で変装し、神戸の夜を出歩いた。だが、大胆とも思える行動が影響したのか、鳴海組員はその年の9月17日、六甲山中(兵庫県)で腐乱死体で発見される。遺体には激しい暴行の痕があった。遺体の背中に残った入れ墨をもとに身元が特定された。 「自分の命をほって(捨てて)くれた。残念だと思うが、仕方がない」。吉田さんは静かに語る。この事件は未解決のままとなっている。 吉田さんは、警察と山口組関係者の追っ手から逃れるように隠れ家を岡山に移したが、兄弟分の組員に連絡をとったことで足がつき、ベラミ事件から3カ月後、大阪府警に殺人未遂容疑で逮捕された。「まだ戦う気だった。悔しかった」 警察は総力を挙げ、報復抗争にかかわった山口組の主要幹部ら282人を摘発し、傘下の7組織を解散させた。大阪戦争は53年11月、山口組が一方的に「抗争終結」を宣言し、終わりを迎えた。 吉田さんは懲役5年の実刑判決を受け、札幌刑務所に収監された。 北海道なら山口組の影響力が及ばないとみられたからだ。しかし、収監先が札幌刑務所という情報はすぐに広がり、山口組系の組員は札幌で次々と事件を起こし、約30人が札幌刑務所に送り込まれてきた。 「はじめから腹をくくっていたから、いつ殺されてもいいが、黙って殺されはしないぞ、と思っていた」 吉田さんは「五舎」と呼ばれる独居房から一歩も外に出ることが許されない生活を強いられた。キリスト教への回心 吉田さんは出所後、韓国へ渡った。事件前に知り合ったクリスチャンの韓国人女性に会うためだった。 女性は吉田さんの子を産み、育てていた。「刑務所を出てきたときには娘は幼稚園に上がっていた。妊娠していたとは知らなかった」。その後、吉田さんの人生は大きく変化する。 帰国後、結婚。「神さんは弱い者が頼るものや」と、クリスチャンの妻に暴力を振るったこともあった。かつては数十億円の現金を動かしていたのに、何をやってもうまくいかず、数百円にも事欠くありさまだった。 だが、「不思議なことに、妻が神に祈ると難問は次々に解決した」。病に伏せていた親類が一気に快方に向かうなど、数々の奇跡を目の当たりにした。「彼女は神様の声が聞こえる」と次第に考えるようになった。 そして「平穏な暮らしをしたい。夫をクリスチャンに」という妻の願い通り、40代半ばで極道の世界から足を洗った。数年後には自ら洗礼を受けた。新約聖書に出てくる悪党の「バラバ」に自分の姿を重ね合わせた。バラバは死刑が決まっていたが、悪の限りを尽くしたバラバに変わってイエスが罪を受けたとされたからだ。あらゆる悪に手を染めた自らを悔い改めた。 「私の場合、イエス様を信じたら、みんなも私を信じてくれるようになり、人生が変わった」 吉田さんは今、キリスト教の牧師、信徒代表の長老として、東大阪市の「ベタニヤチャーチ」をはじめ、世界各国で伝道を続けている。 大阪戦争から40年がたち、暴力団を取り巻く社会情勢は大きく変わった。 吉田さんは「ヤクザのときは自分の力や金がすべてだった」とつぶやき、自戒の念を込めてこう続けた。 「時代は変わった。あのままヤクザを続けていたら、今ごろまた刑務所の中か、もう死んでいたかもしれない」

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    名古屋繁華街の飲食店をまとめあげた山口組若頭の「経営手腕」

     司忍・六代目山口組組長、高山清司・若頭を輩出した組織としても名高い名古屋の「弘道会」。暴力団を40年にわたり取材してきた溝口敦氏の新刊『抗争』(小学館101新書)には、弘道会が名古屋で力を持った背景に高山の手腕があるとの地元組長の証言が紹介されている。(文中敬称略)* * *弘道会会長の高山清司被告=平成22年11月、京都市内 名古屋の繁華街である栄や錦には風俗店が密集し、地元勢のいい費場所だったが、おおよそバブル期には弘道会の管理下に入ったという。 「弘道会の若頭だった高山清司が考え出したことだが、飲食店や風俗店から月々組合費を集める。それをもともとその地を費場所にしていた地元組織に分ける。地元勢としては集める手間もトラブルも要らない。これはいいとなった。弘道会としても組合費からカスリを取れる。一挙両得のわけで、栄や錦三(錦三丁目)も弘道会の手に落ちたわけだ」(地元組長)※溝口敦/著『抗争』より関連記事■ 暴力団幹部 犬をバカにされ「わび入れろ」と怒鳴り逮捕される■ 司忍・六代目山口組組長が語っていた「弘道会の強さの秘密」■ 愛知おでん名店 絶品大根は八丁味噌つゆで煮込み1人1個まで■ 東北の避難所で暴力団が3万円入りの茶封筒配り住民を懐柔■ スガキヤ冷しラーメン 「マヨネーズと相性抜群」と同社広報

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    皆で考えましょう。子供の深夜外出、親の責任

     全容は分かっていませんが、痛ましい事件が私たちの心を痛めています。 大阪府寝屋川市の中学生の男の子と女の子、2人が巻き込まれている事件です。すでに女の子は、13日に高槻市内で無残な姿で見つかりました。もう1人の少年については、まだ行方が分からないというのが現状です。 こうした事件が起きても、私たちはこれからの捜査を見守っていくしかできませんが、なぜこのような残忍な犯行になったのかについては、警察が犯人をしっかりと検挙をして、そして今後の社会の教訓にしていく必要があると思います。 当然、事件は犯人が悪いわけです。これが大前提で、その上でこうした機会に考えなければならないことがあります。 テレビコメントなどでは遠慮されてなかなか発言は無いようですが、中学生などまだまだ小さな子供が真夜中に出歩くということについて、家庭も社会もそして地域も考える必要があると思います。 過去をあえて持ち出しますが、横浜市長を務めていた平成15年に”夜間外出禁止令”を提案したことがあります。 これは、当時の東京都・石原知事、埼玉県・上田知事など首都圏八都県市の首長が集まる首脳サミットで「子供達が夜間に出歩いて事件や事故に巻き込まれたりすることについて、親はもっと責任を持たなければいけない。そのためには親が子供をきちんと保護することについて罰則化も検討すべきではないか」と発言したものです。 これには伏線があります。 神奈川県や他のほとんどの自治体には当時から青少年保護育成条例というものがあり「午後11時から午前4時まで保護者は子どもを外出させてはならない」とされていました。 (ただし、例えば社会的慣例の盆踊りや、指導者がいるキャンプ、夜間学校の通学、早朝の行事などは例外にしています)ところが、この条例の存在は私の感覚ではほとんど誰も知りませんし、また、親の規範が崩れてきてもいました。 実際に、次のような例も多くありました。 子供が真夜中にうろうろしていたので警察官が保護する ↓ 保護した警察官が、親に電話を入れる 「お宅の息子さん(あるいは娘さん)を保護しています。ぜひご家庭で迎えに来てください。」 ↓ 親が電話口で答える 「こっちは今寝てるんです。うちの子がなんか悪いことしましたか?してないんだったらそのままにしておいてください。」 このような例は明らかに親としての責任を放棄しています。 私はこのような実態をよく見聞きしていたので、あえて八都県市首脳会議で「青少年の深夜の外出に対する保護者への罰則規定」を議題として挙げたわけです。結局、罰則などは設けることはありませんでしたが、私は罰則化が目的ではなく問題提起することによって世の中がもう一度、意識しなおすきっかけにしたかったのです。 今回の高槻市の事件がこのようなケースに該当するはわかりません。そして事態はこれからしっかりと解明していくしかありません。 ただし、私たちはこの事件も教訓に、まだまだ保護が必要な未成年を抱えている家庭、また地域のおいて、子供に外を出歩く時間でない時はしっかりとそう伝えていくことが必要だと思います。 今回私が本ブログで申し上げていることは、この事件で悲惨な状況に巻き込まれている保護者を責めるものではありません。 私には事件の全容はわかりません。 その上で私たち皆が、こうした機会に再度考えましょうと申し上げておきたいと思います。 まだ犯人は捕まっておりません。警察には一刻も早い逮捕をお願いします。※「中田宏公式WEBサイト」2015年8月21日より転載。

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    大阪中1殺害 子供保護強化の法整備を

    大西宏(ビジネスラボ代表取締役) 寝屋川市の平田さんと星野くんが山田容疑者に殺害された事件はほんとうに痛ましく、犯人の残虐さには怒りがこみ上げてきます。テレビに繰り返しおふたりの画像が流されていましたが、まだほんとうにあどけなく、そのことがなおさら事件の痛ましさを感じさせます。若くして命を奪われたおふたりに心からご冥福をお祈りします。 寝屋川市といえば、「火花」で芥川賞を受賞された又吉直樹さんや米国のレッドソックスで活躍している上原浩治投手の出身地です。「火花」のなかで頻繁にでてくる方言はまさに寝屋川市近辺でつかわれる北河内弁を感じさせています。もうずいぶん昔の話になりますが、この地域の子どもたちにラグビーを教えていたこともあって身近な地域で、肩肘の張らない、庶民的な土地柄でした。 それだからよけいに、心の隙も生まれたのでしょう。まだ幼いふたりが、無邪気に深夜の商店街を歩く姿、また近隣で子供たちが日常的に深夜に群れている様子が報道され、また猫爺なる人物も登場していましたが、そこに映されていたのは安全を信じきっている子どもたちの姿です。 しかし、この事件は、ほんとうに身近な、ごく日常の世界に潜んでいるという現実を思い知らせたのです。しかも、山田浩二容疑者は、2002年に同じ寝屋川市で、手錠をかけ男子中学生を車中に監禁し逮捕された過去、また男子高校生を粘着テープで縛り監禁し再逮捕された過去を持っていたとなると、誰もが安全だと信じている街に、ほんとうは危険が潜んでいたのです。大阪・高槻の中1殺害:容疑者、中高生監禁で02年に逮捕歴 - 毎日新聞 この痛ましい事件の詳細は今後の捜査であきらかになっていくのでしょが、子供の安全保護に対する対策強化の動きにつながってくれればと思います。今回の防犯カメラ画像を解析する捜査はたいへんな手間がかかったと思いますが、平田さんの遺体発見からは速いといえる逮捕につながりました。警察の捜査力が示されたと感じます。事件の全容もおいおい判明してくるのでしょうが、やはり事件は未然に防がないといけません。星野凌斗くんの遺体が発見された現場=8月24日午後、大阪府柏原市(甘利慈撮影) まだ幼い子供が深夜に保護者なしに街を彷徨するというのはどう考えても異常です。この種の事件だけでなく、炎天下の車中に子供を放置し、命を落とすという事件もありますが、親や社会の保護責任をより明確にする法律を整備する必要があるのではないでしょうか。諸外国にくらべ、保護責任を果たさなかった時の処罰も明確でないように感じます。 すくなくとも、深夜に子供だけで外出させることは親の保護責任の放棄でしょうし、深夜に子供がたむろしているのを目撃して通報しないのは社会の保護責任放棄じゃないかと思います。 しかし、法律でルール化しておかなけば、近隣の友達と一緒なら大丈夫と思ってしまいがちでしょうし、また深夜に子供を目撃してもおそらく通報する人はないと思います。 かつて中高生の監禁事件があり、その犯人がいまだに近辺に住んでいることを、おそらく周辺住民にどれだけ周知されていたかも疑問で、行政に周知徹底させる義務を追わせれば、また子供の保護強化につながります。ぜひ国と地方が連携して、家庭と社会が子供をまもることにとりくんでいただきたいものです 。(「大西 宏のマーケティング・エッセンス」2015年08月22日より転載)

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    無関心が問題、社会全体で子供を見守るべき 寝屋川事件の教訓

     大阪府寝屋川市で発生した2人の中学生殺害事件──。中学1年生の平田奈津美さん(享年13)と星野凌斗くん(享年12)の遺体が見つかり、契約社員の山田浩二容疑者(45才)が逮捕された。 山田容疑者と2人は8月13日明け方5時の京阪寝屋川市駅周辺で接触したとされる。そして、防犯カメラには、事件に巻き込まれる直前の2人の様子が映っていた。深夜の商店街を行ったり来たりしている奈津美さんと凌斗くん──。 子供の外泊や夜間外出は現代では決して他人ごとではない。事件を知って、「ウチも…」と感じた親は少なくないのではないか。国立鳴門教育大学の阪根健二教授(学校教育学)はライフスタイルの変化が大きな要因だと指摘する。「24時間営業のコンビニやファミレスの登場で子供のライフスタイルも変わり、子供が夜中に集う場所ができた。子供が夜中に外出しても社会的な違和感がなくなりつつある」 携帯電話やLINEの普及も環境を大きく変えた。「昔は一家に一台の固定電話しかなく、子供同士が連絡するには相手の自宅に電話をする必要があった。今は携帯やLINEで夜中でも手軽に連絡が取れるため、子供同士で集まれ、親が子供の動向を把握しきれない」(阪根教授) 今回の事件でも奈津美さんは深夜3時過ぎまで友達とLINEをしていたが、今時の中学生としては決してめずらしくない行為だ。今年2月に起きた神奈川・川崎の中1殺害事件でも、少年少女はLINEを駆使し、大人の知らないところで複雑な関係を築いていた。 女性の社会進出が進んだことやシングルマザーが増加したことも一因だ。40代のシングルマザーが証言する。「働きながら中学生の息子と小学校低学年の娘を育てていますが、夜9時を過ぎるなど帰りが遅くなる時にお金を渡して、“妹を連れてご飯を食べて先に寝てなさい”と言うこともあります。子供には悪いけど、働かないと食べられないので…」 塾通いなどで一般家庭でも子供の深夜外出のハードルが年々、低くなっている。「子供は中学生ですが、高校受験のために夜10時まで塾に通っています。普段は送り迎えしていますが、1人で帰らせる時もあります。本人が集中できるというので、深夜近くまでファミレスで勉強することも…。夜間に子供が外出することの抵抗感は少なくなっている」(40代主婦) 最大の問題は「大人の無関心」だと阪根教授は強調する。「コンビニ、携帯電話など、さまざまな要因が重なり、親が子供の深夜の外出に関知しづらくなり、子供が深夜徘徊していても、周囲の大人が注意しなくなった。今回の事件でわかるように、大人の無関心が最大の問題です。親だけでなく、社会全体で子供を見守る必要があります」 悲劇を繰り返さないためにも、今回の事件から学ぶことは多い。関連記事■ 小中学生 携帯電話の代金が最も高いのは中学2年生の5395円■ ママ友LINE事情 大企業夫持つ美人ママには即レスの傾向あり■ 名簿情報 30代、40代より、50代以上の高齢者が人気を集める■ 大人とは違う子供のうつ病の症例 暴力的になることもある■ 体中に絵の具塗る人間魚拓 持ち帰り可で一生の思い出になる

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    大阪中1殺害、なぜ事件は防げなかったのか

    痛ましい事件が起きるたびに、考えさせられることがある。なぜ事件は防げなかったのかと。大阪府寝屋川市の中学1年の少年少女が遺棄された事件もまた、社会に重い課題を突き付けた凄惨な事件だった。

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    中1が深夜に出歩くことの異常さ─子供を守る大人の責任とは

    石井昌浩(教育評論家、元国立市教育長) 夏休みが終わろうとする時、何とも悲しい事件が起きてしまいました。顔を粘着テープで何重にも巻かれ、両手を縛られた寝屋川市立中学1年の男女生徒の痛ましい遺体は、凄惨な犯行をもろに示しています。これからの長い人生を一瞬にして奪われた、年若い二人の無念と、残された家族の悲しみを思うと心が痛みます。 犯人は、なぜこんなむごたらしい事件を大都会の街中で起こせたのでしょうか。まだ警察の捜査と容疑者の取り調べが進行中ですから推測の域を出ませんが、多分、犯人は優しそうな物腰で言葉巧みに声をかけて車に乗るのを誘ったのだと思います。リラックスした雰囲気のまましばらく乗り回してから、突然本性を現して鬼のような恐ろしげな形相と野太い声で脅し上げ、恐怖で二人を身動きできなくさせ、抵抗不能な状況に追い込んだのではないでしょうか。星野凌斗(りょうと)くんの遺体が発見された現場で献花し、手を合わせる人ら=2015年8月24日午後、大阪府柏原市(甘利慈撮影) 死者に鞭打つようなことになるのですが、中学1年の子供二人が深夜に外を出歩くことの異常さが、犯人に付け入る余地を与えてしまったことは否定できないと思います。二人は、簡易テントを持ち出して何度か野宿をしていたと言います。24時間灯りの消えることのない街に慣れ親しんだ若者には、自らの身を危険にさらす闇が見えにくくなっていたのかも知れません。また、残された家族を責めるような形になるのですが、中1の我が子の深夜徘徊を日頃見過ごしていた家庭にもかなり問題があったのではないかと思います。今の時代、子供たちは無防備のまま雑多な情報にさらされ、矛盾に満ちた社会の本当の姿を教えられることもなく、いわば「お客様扱い」されたままで過ごしています。子供たちは、いきなり社会の荒波に投げ出され、もがくことになりはしないでしょうか。何と言っても子供の教育の基盤は家庭にあります。 このような悲しく卑劣な事件を繰り返させないために学校に何が出来るでしょうか。事件のアフターケアとして、いつも提案されるのは「心のケア」です。しかし、この考えに私は疑問をもっています。子供は大人が案ずるほどにはひ弱ではありません。癒し系の心のケアと並行して犯罪から身を守る心構えが大切ではないでしょうか。犯罪から身を守るすべを子供に教えるといっても容易なことではありません。防犯対策には大人に騙されない心構えを具体的に教えるのが効果的だと思います。その心構えを先生が担当するのは難しいと思います。先生という職業は普段、怪しげな人を相手にすることが少ないからです。普通の人を相手にしている先生が子供に注意を促したところで所詮パンチに欠けます。危ない人、時には犯罪者も相手にする警察の防犯係の専門家に教えて貰うのが一番でしょう。その際、何百人も体育館に集めてというスタイルではダメです。教室ごとにきめ細かく伝える必要があります。学校には、子供たちが自分の頭で筋道を立て、事態に即応してどうしたらいいかを考える、自立できる力を与えて欲しいのです。 防犯カメラ、特に時刻機能の付いた防犯カメラの映像の効果が犯罪捜査に有効なことは今度の事件でも立証されました。しかしまだ、抑止力としては必ずしも十分とは言えません。防犯カメラの抑止力の及ばないところは人間に頼って子供を犯罪から守る以外にないと思います。「家庭・学校・地域の連携」とお題目のように言われ続けていながら、家庭も学校も地域もそれぞれに難題を抱えていて自分の守備範囲だけで手一杯で、連携がうまく進んでいません。おまけに学校が知り得る情報は、昨今の個人情報保護の壁もあって制限が多く、家庭での子供の生活状況が把握しにくくなっています。プライバシー保護を理由に、最近では表札の無い家庭も珍しくありません。かつて一般に行われていた家庭訪問すら実施できない地域が増えています。地域の大人が子供に声をかけようという動きも高まってはいますが、しかし、下手に声をかけると「オヤジ狩り」にあって命まで奪われかねないケースもあり、情けないことに気軽に声をかけられないのが実態と言えましょう。 この2月、川崎市立中学1年の上村亮太君が多摩川べりで殺害された事件がありました。上村君の場合にも、「安全な居場所」がどこにも用意されていませんでした。携帯電話の無料通信アプリ「LINE(ライン)」などを活用してネット社会の中では濃密に子供同士がつながっているのですが、肝心の直接心を通わせる交流は乏しくなっています。おまけに、子供同士の交友関係は、大人が簡単に入り込めるほどのヤワなものではありません。子供同士の情報空間は外部に閉ざされ、密室化しています。小学生には「学童保育」などのそれなりの受け皿がありますが、中学生になるとまるで盲点のように、気軽に入れる居場所や施設が地域のどこにも見当たりません。今は、塾や稽古ごとにも通っていない中学生にとっては「ネット依存症」になりがちな誘惑に満ちた社会と言えます。 子供を守るのは大人の責任です。悲しいことに大人の社会には、油断するとトンデモナイ目に合う危険な落とし穴が隠されていることを子供に伝えなければなりません。子供にも危険を察知して身を守る覚悟を求める必要があります。「人間とは何か」「社会の一員としてどう生きていくのか」「何を求めて人生を生きるのか」について、自ら問いを立て、自ら考え、自ら答えを見いだす力を授けるのが子供を守る大人の責任ではないでしょうか。

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    中1殺害 お仕着せの安全では子供は守れない

    赤木智弘(フリーライター) 大阪府高槻市で女子中学生の遺体が遺棄されているのが発見された事件は、行動を共にしていたと思われていた男子中学生も、同府柏原市で遺体で発見されるという悲しい結末となった。 今回の事件は、そもそも中学生の男女が家を出て深夜に出歩いていたことを発端にしている。報道などによると、女子中学生はこれまでも友人たちとテントを張ったり駅前のベンチで夜を過ごすなどの外泊行為が常態化していたと言われている。学校の側も事態を把握はしていたが、特別な指導などはなかったという。 容疑者の男も逮捕され、今後事件の概要がハッキリして行くにつれ、徐々に「親や学校は何をしていたのか!」「子供が夜に外出なんてとんでもない!」という被害者や関係者批判の声が大きくなってきている。メディアではしたり顔の識者が「もっと家庭や学校が子供たちを守らなければいけない」などと話すのだろう。 しかし、そうした場当たり的な対応が、むしろ子供たちを危険に晒すのではないか。今回の事件を受けて、同じような状況にいる子供たちの安全安心を守れとばかりに、深夜の見回りなどによって、子供たちが無理矢理、家に連れ返されるようなことがあるのではないかと、僕は心配している。 まず、今の子供たちを取り巻く現状を簡単に説明しよう。 大前提として、殺人による被害者数は昭和30年ごろと比べれば大幅に減っている。戦後の統計を見ると、昭和30年の殺人事件被害者数は2119人だが、平成24年では383人となっている。人口10万人あたりの数値で見ても、昭和30年頃は2人以上が殺されていたが、ここ最近は0.4人以下になっている。 この傾向は子供(13歳未満)でも同じで、子供が殺人事件の被害者になる件数も、一貫して右肩下がりである。したがって、マスメディアでささやかれるような「私たちの子供の頃はこんな事件はなかった、最近の子供はいつも危険に晒されている」などというような事実は存在しない。中1女子殺害・遺棄事件で、大阪府警高槻署に集まった大勢の報道陣=2015年8月21日午後7時57分、大阪府高槻市(共同) また、今回の事件の容疑者は、被害にあった中学生男女とは面識がなかったと思われる。こうした事件が起きると必ずと言っていいほど「知らない人が子供を殺す。親の近くにいれば子供は安全なのだ」と主張する人が現れるのだが、平成25年の殺人における被害者と被疑者の関係性を見るに、53.5%が親族によって行われている。一方で面識無しなのは10.3%と、ほぼ1割である。また平成25年に殺人被害となった子供(13歳未満)は68人。うち、32人が両親等の虐待によって殺されている。 つまり、子供を一番殺しているのは両親であり「親元にいれば子供は安全」などということは、全く言えないのである。 さて。少し想像力を働かせてみて欲しいのだが、人が人を殺す理由とはなんだろうか? 少し考えてみれば「相手に強い恨みを持つから」という平凡な答えを導くことができるはずだ。そしてそれは子供を取り巻く環境においても同じである。子供に対して強い憎しみを抱きやすい人間は誰か。それは当然、いつも子供のそばにいる「親」である。だから、子供が親に殺される。 もちろん、いきなり殺すという段階などに飛ぶことはほとんどない。たいていの親は一時的に子供を嫌ったとしても、そのストレスを食事やショッピングで解消したり、自分のパートナーや周囲の信頼できる大人に相談して、子供のことを好きになったり、もしくは嫌いなままでも社会的役割として子供を育てていくことを選ぶのである。 じゃあ、一方で子供はどうか。今回の被害者の女子生徒も家庭内でうまく行っていなかったのだろう、小さな家出を繰り返して、親友たちと語らうなど、親や先生たちには話せないことを相談したりしていた。ただし、親友たちは決して適切なアドバイザーではなかった。問題は十分に解消されないまま、彼女は家出を繰り返し、やがて今回の不運に出会ってしまった。 こうした時に必要だったのは、決して彼女を家に帰すことではなかったし、学校が彼女に対して聞き取り調査をすることでもなかった。必要だったのは、親でもなく、学校でもない、信頼できる第三者としての大人であった。親や学校におもねるのではなく、必要とあれば親や学校に対峙して子供の側に立つことができる、そんな大人がいれば、彼女たちはもっと安全に家族との距離を保つことができたのではないかと思う。 しかし、こうした事件が起きてしまうと、たいていは「子供を親元や学校に閉じ込めろ!」という世論ばかりが大きく響く。その結果、家や学校と適切な距離を保つことのできない子供は、家出のような過剰な対応をしないと、逃げることができなくなってしまう。 近年では国や自治体でも、学校にスクールカウンセラーを配置するなど、子供の悩みを早いうちに聞き取り、解決しようと動いている。しかし、それはそれでやはり行政や学校寄りの大人にしか思えないという感は強いし、また制度として配置された大人を、子供が信頼してくれるかどうかといえば、保証などできるはずもない。 「信頼できる大人」は結局、子供たち自身が探すしかない。 そのためには、子供自身が別の大人と数多く接触することで、自分自身にとっての「信頼できる大人」を選別していくしかない。そうした反復をするには「子供を親元や学校に閉じ込めておけば安全安心」という風潮は邪魔である。子供を閉じ込めれば閉じ込めるほど、子供は限られた大人としか接触できなくなってしまう。その中に適切な大人がいなければ、子供は大人に恨みを貯めるしか無くなってしまう。それでは元の木阿弥だ。 そうならないためにも、大人たちは子供たちのために、子供たちが親や学校を含めたより多くの大人と会話できる環境を生み出していくしかないのである。 そうした中で、当然子供たちが信頼に値しない大人と出会うこともあるだろう、時には犯罪の被害に合うこともあるかもしれない。しかし、そうして多くの大人と接触する中で、子供自身が経験を積み、他人を見る目を養う事こそが、最終的に子供が納得した形で安全安心な応対を、自分の周囲に保つことができるようになれば、誰かの生み出したものではない、子供たち自身にとっての「自立した安全安心」という最良の状況に行き着くことができるのではないだろうか。 他人が考えたお仕着せの安全安心では、本質的な意味で子供を守ることなどできないと、僕は考えている。参考資料・殺人事件被害者数・平成26年版 犯罪白書 被害者と被疑者の関係・平成26年版 犯罪白書 児童虐待犯罪