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    川上哲治氏が「巨人で八百長選手いるか」と本誌に確認の過去

    ・福田聡志投手の野球賭博関与問題は社会に大きな衝撃を与えた。そこで思い返されるのが46年前の「黒い霧事件」だ。そもそものきっかけは1969年10月、西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の永易将之(ながやす・まさゆき)投手が、球団の調査で「暴力団の野球賭博で八百長試合に関与した」と判断され、解雇されたことだった。 これを新聞が大きく報道。さらに渦中の永易が普段着のまま自宅を出て、そのまま失踪したことで、疑惑が疑惑を呼び、騒動は社会問題に発展する。最終的には、複数の逮捕者を出す事態となり、19名のプロ野球選手が永久追放・出場停止などの重い処分を受けた。 ここで本誌『週刊ポスト』は球史に残るスクープ記事を掲載することになる。行方をくらませていた最大のキーマン・永易の独占インタビューを報じたのだ(1970年4月10日号)。 インタビューは本誌の協力ライター・大滝譲司氏によるもの。2週にわたって掲載され、その赤裸々な内容が大きな話題を呼んだ。まさに球界を揺るがした独占インタビュー。その裏には、未だ語られたことのないドラマがあった。 当時、現場にいた小学館OB・林四郎氏(当時週刊ポスト担当役員)が振り返る。「コミッショナー委員会の委員長で東大出身の憲法学者・宮澤俊義氏が小学館に来て、涙を浮かべて“プロ野球の選手が八百長をするとは信じられない”といってきた。“残念ながら事実です”と永易証言を説明すると、肩を落として帰っていきました。気の毒で仕方がなかった」 そしてもう1人、本誌編集部は、球界を代表する人物からの接触を受けている。巨人V9時代の名将・川上哲治監督だ。川上哲治氏「作家の五味康祐さんの紹介で、川上監督が会いたいといってきたので、赤坂の料亭で一席設けました。川上監督は“巨人軍の選手の中で八百長している選手はいないですね?”と尋ねられました」(林氏) その時、実は捜査関係者がマークする選手の中には、巨人軍の選手も2人含まれていたという。「今だから話せる話ですけどね。諸々の事情から、ここで名前を挙げるとマズイと判断し、“名前は出ていませんでしたね”と否定しておきました。すると川上さんはホッと安心したような様子でした」(林氏) 本誌のインタビュー後、八百長事件は永易の記者会見以降にも次々に発覚。文字通り「黒い霧」となっていく。 永易が実名を挙げた選手の中には、西鉄から中日にトレードされていたT投手も含まれていた。本誌は第2弾記事で、当時疑惑を指摘されて蒸発していたT氏を疑わしいと実名で報道。この記事で本誌は、T氏から名誉棄損で東京地検に告訴されたが、結局、T氏は野球賭博の捜査の過程で浮上したオートレースの八百長疑惑に関与したとして球界を永久追放された。本誌も不起訴処分となった。 さらに中日のエースだったO投手は、同じくオートレースに絡んで逮捕されるという事態にまで発展している。林氏が語る。「ある仕事で名古屋に行ったとき、Oさんがバーをやっているというので立ち寄ってみた。こちらの素性は明かさず飲んでいたんですが、カウンター越しの彼の寂しい背中を見たときは、これがとんでもない事件だったことを痛感させられました」 今回、野球賭博に関与した巨人の福田聡志投手が生まれる、はるか昔の話ではある。しかしその行為がどれだけ球界とファンを裏切り、自分自身をも貶めることなのか知るべきである。闇に手を染めてしまった永易の独占告白が伝える教訓は、今なお重い。(文中一部敬称略)関連記事■ 王貞治インタビュー他プロ野球逸話を満載した二宮清純氏の本■ 解任騒動の元巨人・清武英利氏が野球への思い綴った本が登場■ 江川卓、伊良部他プロ野球史上に残るヒール55人を紹介する本■ オリックス球団社長を11年務めた男が球界の舞台裏著した本■ 「江夏の21球」や「巨人はロッテより弱い」発言の真相描く書

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    リベンジポルノを考える

    先日、人気女子アナの流出写真が週刊誌「フライデー」に掲載され、大きな波紋を広げた。単なる芸能スキャンダルという話題性ではなく、流出した写真が「リベンジポルノ」に当たるかどうか、いま大きな注目を集めている。性暴力か表現の自由か。リベンジポルノについて考える。

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    偽投稿でリベンジレイプ被害 その鬼畜ぶり示す現場証言も

     「リベンジポルノ」は、元交際相手の裸の写真や動画をインターネット上に載せる悪質な犯罪行為だが、写真の公開だけではない。「リベンジレイプ」を目的として、相手の住所や電話番号などを晒した上で、「私を犯してほしい」と誘う嘘の書き込みまで横行している。疑似レイプ愛好者が集う掲示板で個人情報を晒され、実際に被害に遭う女性もいる。〈C子、33歳。「襲われるのが好きな性欲旺盛なメス豚です。大勢の性奴隷になりたい」〉集団で性行為を行う「パーティー」への参加を募るインターネットのアダルト掲示板の書き込み 彼女は名前や住所だけでなく勤務先まで掲載されていた。勤務中の彼女を隠し撮りしたような写真も添付されていたことから、本人ではなく関係者が晒した可能性が高い。 裸の写真と〈沢山の男性に辱めを受けるために参りました…〉のコメントとともに、勤務する病院の名前や仕事用のメールアドレスを晒された女性もいた。彼女は病院のホームページに顔出しで紹介されており、その写真も貼り付けられていた。 疑似レイプ愛好家だとしても、勤務先をネットに公開するメリットはない。やはり何者かによる嫌がらせが疑われる。 この2人に取材依頼の連絡をしたが、いずれも返答はなかった。ネット事情に詳しいジャーナリストの渋井哲也氏がいう。「こうした悪質な書き込みは元交際相手や、一方的に好意を寄せていて付き合うことができずに僻んだ異性が行なうケースが多いと思われます。とくに元交際相手は、相手の住所や電話番号を知り、写真も持っている。嫌がらせをしやすい立場にある」 悪質な投稿により、会社を辞めざるを得なかったケースもある。 都内のキャバクラで働くD子さんは源氏名と本名、電話番号やLINEのID、さらにOLとして日中勤務する会社名が晒された。そして〈私はヤリマン。アナルセックスがしたい〉などと書き込まれた。D子さんが取材に応じた。「犯人はお客さんだと思います。3年近く指名してくれた50代の男性に“付き合ってくれないと店には来ない”といわれたけど、交際を断わったんです。掲示板に書き込まれたのはそれから1週間後。断定はできませんが、その人しか持っていないはずの私の顔写真とネットにアップされたものがそっくりなので、彼が犯人だと思う。昼の会社には副業がバレてクビに。文句をいおうと彼に電話したけど、すでに番号は変わっていました」 一方、掲示板を利用する男性側は、書き込んだ女性は疑似レイプを求めているものだと思い込んでいる。実際に疑似レイプの現場を訪れた男性がいう。「お互いにリアリティを求めているので、抵抗さえもプレイの一環だと捉えてしまいます。ある時、最初はプレイだと思っていたのに、鼻血が出るほど何度も平手打ちを食らい、“これはおかしい”と気づいた。彼女は震えていて、確認すると本人の書き込みではなかった。彼女はサイトの存在すら知らなかったのです」 女性は交際していた男性と別れた直後で、彼の復讐ではないかと話し始めたという。後日、本誌記者も事情を聞こうと彼女の自宅を訪れると、ドアに白いペンキのようなものがかけられた痕があった。掲示板には〈ホワイトデーに家のドアノブに精液をたっぷりかけておいて〉との書き込みがあった。すでに彼女は引っ越していた。※週刊ポスト2015年7月3日号関連記事■ リベンジレイプ被害者女性が悲痛告白 ネット掲示板に偽投稿■ リベンジレイプ ニセの投稿が元で女性が襲われるその実情■ 韓国の反日ネット掲示板 竹島スレで「日本のAV認めるべき」■ 日本AV好き中国人 ネットで「小澤マリアは俺の心の女神!」■ 中国のネトウヨ 「日本人の女はブスなので化粧品が発達した」

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    人気女子アナの写真流出 なぜ女性は写真撮影を許可するのか

     写真週刊誌『フライデー』(9月18日号)に、人気女子アナがあられもない姿で写っている不倫写真が掲載されたが、現役女子アナのこの手の写真が出回ることは初めてではない。 2009年7月、当時日本テレビの人気アナウンサーとして活躍していた夏目三久が被害に遭った。ベッド上で避妊具を手に微笑む写真が、『FLASH』に掲載されたのである。その後、彼女はフリーに転向したが、この出来事が無関係ではなかったといわれている。 こうした騒動は氷山の一角で、毎年のようにカップルのプライベートな写真や動画が流出している。今年5月にも、大手住関連メーカー勤務とされる男性の元から動画がネット上に流出して騒動となった。近年では「リベンジポルノ」として使われるケースもある。 行為中の撮影は男性がカメラを構えることがほとんどなので、被害者は女性ばかり。これだけ被害が増えても撮影を受け入れる女性がいるのには、理由があるはずだ。駒沢女子大学教授で、応用心理学者の富田隆氏は、こんな見立てをする。「メスには“見せたい”“見られたい”という性的欲求があります。ヒトが属する霊長類の性役割は、オスが能動的でメスは受動的。しかしメスが待っているだけでは種族が途絶えますから、オスに対してビジュアルでアピールする本能も持っている。 発情期のメスザルが、お尻を赤くしてオスを誘うのもそのひとつです。人間の女性の場合は、男を誘うだけでなく、見られる行為そのものに快感を覚える人もいるのです」関連記事■ 竹内久美子氏「女性器を舐められたい」は動物的な本能と解説■ 竹内由恵アナ他 テレ朝の人気女子アナがカレンダーで勢揃い■ 山岸舞彩アナの穴埋める杉浦友紀に「福井のスイカップ」の評■ カトパン「イメージが軽い」でアヤパンの後任の座を逃す■ オランウータンのオス メスをそ~っと抱く配慮しモテる

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    「忘れられる権利」とはなにか? プライバシー概念をめぐる各国の争い

    2013年に可決された「データ保護規則案」の成立を前に、忘れられる権利をEUが先取りした形になる。 事件を簡単に説明しよう。このスペイン人男性は、16年前に社会保障費の滞納から自身の不動産が競売にかけられた過去をもつが、現在ではそうした問題は解決されている。だがGoogleで彼の名前を検索すると、現在でも16年前の記事へのリンクが検索トップにでてきてしまう。このことを彼は差し止めるために訴えを起こしたのだった。 EUの判決は、こうした情報がすでに過去のものかつ現在では不適切だとして、この記事へのリンクを削除するものだ。ちなみに新聞記事自体は削除されず、ウェブには残り続けるという点には注意が必要だ。ただし、Google検索に残らないということは、世界の片隅に投げ捨てられた石ころを手がかりなしに探すようなもの。基本的に関係者以外には彼の記事が参照されることはないだろう。 このEUの判断の後、5月30日にはGoogleは削除要請フォームを設置した。無論以前からGoogleには著作権侵害やクレジットカード番号等の犯罪にかかわるものなどに対する削除フォームが設置されていたが、EUの判決以後、より強力な個人情報削除に対応した形になる(ちなみに、EUの法に準じた削除フォームは、EU圏の人間にのみ適応される。詳しい削除要請方法は以下がわかりやすい http://gigazine.net/news/20140602-right-to-be-forgotten-tool/)。この削除要請フォームの設置後、一日で12000件を超える要請があった。 いずれにせよ忘れられる権利が今後社会に浸透し、世界中の企業・政府がそれを認めることになれば、リベンジポルノをはじめとした様々なトラブルに対し、世界中で柔軟な対応がなされるであろう。もちろん後々問題になるであろう情報・画像の取り扱いに関しては、これまで以上に注意しなければならないことは言うまでもない。ネットリテラシー教育は、未成年を中心に推進する必要がある。議論されるべき問題は? 忘れられる権利は個人にとっては歓迎すべきことだ。ただし議論されるべき問題もある。 (1)どこまでは忘れられる権利なのかについて。先ほどの事例はわかりやすいが、例えば犯罪歴がある人物が刑期が終わり出所している場合、忘れられる権利は適応されるべきだろうか? そしてそれは、事件の質(殺人なのか窃盗なのか、はたまた児童ポルノなのか)や社会的インパクトなどから考慮されるのか。さらに、政治家や芸能人といった公人の場合、知る権利や表現の自由の観点からしても、忘れられる権利として情報の削除を認めるか否かが問題となる。これらをすべて司法判断に任せるのは難しいが、現状では細かな判決の積み重ねが必要とされる。 (2)削除にかかるコストと創造性について。すでにGoogleをはじめとしたネット企業からは、忘れられる権利に関する反対の声があがっている。確かに個人の要求に一つひとつ答えていけば、膨大な作業が企業に負担をかけることになる。また労力や金銭的問題以上に、法によるイノベーションの阻害も問題となる。ビッグデータにみられるように、過去の検索履歴といった個人情報を武器に、企業は新しいビジネスや産業のイノベーションを繰り返す。忘れられる権利が広がれば広がるほど、ネットに関わる企業は、それらがイノベーション阻害だとして反対するだろう。 実際に先の「データ保護規則案」可決にあっては、EUのIT企業から多くの反対の声があがったのも事実だ。ただし、そうした反対を押し切ってEUが可決に踏み切ったのは、2013年にアメリカの監視行為を暴露したスノーデンの告発が背景にあったからだ。 さらに、忘れられる権利を含めたより広範な論点として、GoogleやFacebookをはじめとするネット企業が個人情報をどのように扱うかだけでなく、背景にあるアメリカに対する牽制としてEUが今回の司法判断に踏み切ったのではないか、と推測することも筆者は可能だと考える。なぜか。アメリカとEUインターネットガバナンスの差異 上記の通り、EUは個人情報保護に重きをおいた政策を展開しつつある。逆にアメリカは個人情報保護に関してはEUと異なる方向性を打ち出している。アメリカは2012年、オバマ大統領の署名入りで、「米国消費者プライバシー権利章典」と呼ばれる報告書を公開した。これによれば、アメリカはプライバシー保護に関してEUのように国家が強い規制をするものではなく、むしろ消費者が自由にプライバシー保護を選択できることに重きが置かれていることに特徴がある。 ネットでは検索履歴からユーザーの好みにあった広告を展開する行動ターゲティング広告があるが、ユーザーがそうした履歴から追跡されることを拒む「Do Not Track」(DNT)の権利をアメリカは認める。重要なのは、ユーザーはプライバシーを守ることも、逆にプライバシーをある程度解放させることで便益を得ることも、ユーザーの選択に任せるという方向なのである。 ただし、ユーザーがその都度選択することは難しい。むしろ、利用規約という読みきれない文書の中に注意書きをしたものに、我々が「はい」を押すことで、各企業は個人データをこれまで通り利用することができる。これもまた「ユーザーの選択」ということなのだ。したがってEUのように個人情報の保護重視でどちらかといえばビジネスに消極的なのに対し、アメリカの政策はビジネスに積極的であるがゆえに、個人個人に判断を委ねる、といった傾向にある(ちなみに、国家による法でも民間企業による自主規制でもなく、国家と企業が協力することでルールを維持する「共同規制」と呼ばれる考え方もある。いずれ本連載で議論したい)。ネット社会の権利をめぐるガバナンス 忘れられる権利のように、ユーザーの求めに応じて各企業が対応していくという個人情報保護の動きは今後も活発化するだろう。他方、これまで以上にユーザーの個人情報を利用したビジネスもまた展開されていくのも事実だ。プライバシーとビジネスや利便性はどちらも必要不可欠であり、いずれかを天秤にかけるものではない。とはいえ上述の通り、EUとアメリカの政策に全体的な方向性の違いが見出されるのも事実だ。 このように、ネット社会の権利をめぐる大国間の争いは水面下で生じている。では日本はどのような政策を取るのか。現時点では、忘れられる権利に関しては直接的にこれに該当する法はなく、周辺法の解釈によって運用される。さらに個人情報保護法はあるものの、どのような運用指針があるかもいまいち明確化されていない。 さらに言えば、EU型かアメリカ型か、どのような方向性を日本が打ち出すかも重要な論点となる。日本という国の基本的姿勢を世界にアピールする必要があるが、その際日本が独自に打ち出せる姿勢があるかどうか、またそうでなければEU/アメリカのいずれの方向性を取るのか。ネットに対する態度表明が求められるところであろう。

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    リベンジポルノ 一筋縄ではいかない法規制の問題

    大学非常勤講師) 随分と間が空いてしまった本連載ではあるが、前回は昨年多発したTwitter犯罪自慢事件を取り上げた(http://wedge.ismedia.jp/articles/-/3179)。内輪のルールで行った悪ふざけが広く世間に拡散したために生じた事件ではあるが、前回も指摘したとおり、こうした悪ふざけは以前から日常的にあった行為であることが予想される。 インターネットの発展により、内輪発信のつもりが全体に拡散されることに無自覚な事件が多発する一方で、全体に拡散することを最初から意図した事件を今回は扱う。それが、国会でも議論が開始されつつある「リベンジポルノ」である。問題は山積みリベンジポルノとは リベンジポルノとは、過去に交際していたカップルの一方が、交際期間中に撮影した(撮影に合意したものもあれば、合意を得ずに隠し撮りしたものも含まれる)性的な画像や動画を多くの第三者に晒すことを目的としてネット上にアップする行為である。大抵はカップルが別れた後、元恋人に対する恨みを持った者が復讐(リベンジ)目的で行うものだ。 画像・動画をアップされた被害者の精神的苦痛は計り知れない。さらに悪質なものだと、加害者が被害者にポルノ削除の代わりに金銭を要求するケースもある。いずれにせよ、元交際相手が意図的に加害者になるという点で、以前ファイル共有ソフト「Winny」等で生じた、意図しない画像流出とは根本的に性質が異なる。 事件を取り巻く問題は山積みだ。まず、一度アップされた画像は回収不可能という問題である。友人限定のSNS等であればまだ拡散を防げる可能性もあるが、ポルノサイト等の第三者が閲覧可能なサイトにアップされたものは、半永久的に誰かの手に渡ったままとなり、常に世界のどこかのサイトにアップされてしまう怖れがある。 次に、報道に際しても慎重な態度が求められる。リベンジポルノ犯罪に関する報道は、例え匿名で事件を伝えたとしても、インターネットで検索すれば簡単に当該ファイルにたどり着けてしまう恐れがある。ただでさえ事件によってショックを受けた被害者を、報道が二重に傷つけてしまうのである(したがって、本稿では具体的な事例については言及しない)。訴えを起こしたりその報道によって逆に事件を有名にしてしまうことを、実際にそうした被害に陥ったアメリカの有名芸能人の名前を取って「ストライサンド効果」というが、こうした問題にマスメディアが敏感にならなければ、二次被害を恐れて被害者が声を挙げることができなくなってしまう。 最後に、スマートフォンで容易に情報発信が可能になったことが、根本的に事件の増加を引き起こしてしまっている。近年、リベンジポルノと似た構造をもち、英語圏で「セクスティング(sexting)」と呼ばれる問題がある。これは、sex(性ないし性行為)とtexting(携帯電話でメッセージを送る)をかけた言葉で、携帯でポルノ画像を相手に送る行為である。主に10代の少年少女が互いのポルノ写真を送りあうことが多いが、それを一方が学校内の友達に送ってしまい、被害者が学校に出られなくなるといった事件が多発しているという(詳しくはジャーナリストの小林恭子が以下で述べている(http://www.yomiuri.co.jp/it/report/20140331-OYT8T50203.html)。 こうした問題は、日本でもLINE等を通して生じており、実際に筆者も友人の高校教師からこの種のトラブルを聞いている。スマートフォンで簡単に実行できることや、また友人間の内輪ノリが、誰も送りたくないのにポルノを送らせてしまう、奇妙な空気を作り出してしまっている可能性が考えられる。 いずれにせよ、リベンジポルノもセクスティングも以前から存在していたであろうが、技術の発達によって画像の拡散が世界中に及ぶようになってしまったのだ(ちなみに前回指摘したように、技術発展故の事件の増加と、そもそもこうした行為を行う人々の習慣が存在し続けていることは別の問題である。内輪ノリの中で恋人のポルノを見せ合ったり、芸能人の写真を週刊誌に売ったりといった行為は以前から存在している)。法規制には表現の自由や行政権の拡大に関わる問題も リベンジポルノ問題はアメリカでも以前から議論されている。リベンジポルノの影響で職場や氏名を変更する例もあるアメリカでは、カリフォルニア州が昨年10月、撮影時には同意であってもその後意図的に画像をアップした者には、最高で禁錮6カ月、罰金1000ドルの罰金刑といった、リベンジポルノを禁止する法が成立した。同様の法はニュージャージー州でも成立している。 日本でも昨年夏や今年の2月に、リベンジポルノによる名誉毀損の疑いで逮捕者がすでに出ている。こうした動きの中、自民党が2月27日、リベンジポルノに関する新法制定を目指し平沢勝栄議員を委員長とした特命委員会を設置、今国会中の成立を目指すという。法案では、加害者への罰則規定やプロバイダへの当該画像の削除要求、さらに諸外国との条約を結ぶことも視野に入れている。 こうした法整備に賛成する読者も多いだろうが、そこには表現の自由や行政権の拡大に関わる問題もあり、一定の議論を求める声もある。 例えばデジタル時代の言論の自由を求めるアメリカのNPO団体「電子フロンティア財団」は、法制定には慎重にとの意見を述べている。日本でも近年、児童ポルノ禁止法改正に際し、児童ポルノに対する明確な定義が困難な以上、児童ポルノの所持を理由にした別件逮捕など、行政権力の肥大化や、ドラえもんのしずかちゃんの入浴シーンすらも放送禁止になるとの問題が大いに議論を呼んだ。 リベンジポルノでも問題は同じだ。例えば政治家のスキャンダルの暴露としてポルノ写真を掲載した際に、それが公益性があっても法を理由に掲載が不可能になるかもしれない。そういった意味で、単純な法規制にはいくつもの問題が付随していることを忘れてはならない。EUで議論 「忘れられる権利」とは? ではどうするべきか。まず日本の現行法上でも、わいせつ物公然陳列罪や、名誉毀損罪、ストーカー規制法や対象が18歳未満であれば児童買春・児童ポルノ禁止法等でも対処可能であることを忘れてはならない。またプロバイダに画像の削除を要請するプロバイダ責任制限法などもある。 とはいえ、現行法では画像の削除に1週間程度かかってしまうこともある。ネットに上がった画像は半永久的に残ってしまうことも多く、また海外サイトの場合、日本の法律が適応外になってしまうのが現状だ。したがって、迅速な対応を求めるため、また海外サイトへの対応のために、新法が議論されるのだと思われる。 では新法を制定することで、こうした問題は解決されるだろうか。世界中のポルノサイトから画像を取り除くためには、世界中の国家と条約を結ぶ必要があるが、現状では困難であろう。むしろこの種の条約はリベンジポルノに限らず今後も進められる必要がある。 より重要な論点として、画像削除までの時間短縮である。現状においても、各プロバイダやブログ運営・SNS運営企業等の規定では大抵、公序良俗に反するもの等については、掲載者の了承を得ずに削除するとの旨が書かれている。ただし人的作業に伴う高コストが対応を困難にしているために、法による迅速な対応の徹底が求められている。筆者としては、法規制によって各企業に命令される前に、企業による自助努力によって柔軟な対応を願いたい。あるいは現行のプロバイダ責任制限法等を改正し、画像削除までの時間を短縮させれば新法をわざわざ制定する必要はない。 一方EUでは、「忘れられる権利」についての議論が続いている。情報化の時代において、過去の過ちや見せたくないモノがネット上に残ることがある。これらは当時は個人の意志に基づいたものであるかもしれないが、人の意志は当然変わるもの。ネット上で自由に表現するために、現在とは違う過去の自分の情報を削除するための権利が忘れられる権利である。こうした権利が広く浸透していくことで、リベンジポルノに関する問題も緩和されていく可能性があるだろう(こうした問題に関しては、以下の記事が大変参考になる http://www.huffingtonpost.jp/2013/10/13/revengeporn_n_4093699.html)。リベンジポルノ改善に向けて「撮らせない」を徹底させる 法整備問題は今後も議論するとして、最後に我々がどういう対応ができるかを考えたい。まず大前提として、ポルノは撮らせないという常識を徹底させることだ。例えば文部科学省は今年3月、リベンジポルノを含めた様々なトラブル防止の目的で、高校生を対象とした「ちょっと待って!スマホ時代の君たちへ」(2014年版)(http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/ikusei/taisaku/1345380.htm)を公開している。 またリベンジポルノの被害者からは、交際相手の求めに応じることが愛だと感じているケースや、また送ることが当たり前という空気=圧力を感じて送ってしまうケースもある。無論、信頼や愛情とポルノ写真は別物だ。写真を撮らせることが非常識だという「常識」やそうした空気を社会に浸透させていく必要がある。さらに、写真を撮らせないだけでなく、写真を撮るという行為そのものが非常識な行為であるという認識を形成する必要があるように思われる。 以上のように議論してきたが、リベンジポルノに対する根本的な解決策はないのが現状である。誰にでも起こり得る問題であるが故に、まずは他人事ではないという認識を持つことからはじめよう。

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    リベンジポルノ 被害者・加害者にならないためにすべきこと

    小松原織香(日本学術振興会特別研究員) リベンジポルノで逮捕者が出て、事件報道がなされています。リベンジポルノとは、過去に撮った性的な写真や動画を、相手への嫌がらせ行為として公開することです。犯罪抑止の言説がこれから出てくると思いますので、先に書いておこうと思います。以下に、本文の要約を先に述べておきます。 私たちには性的な表現を楽しむ自由がある。しかしながら、性的な写真を合意なく撮ったり、許可なく公開することは性暴力にあたる。こうした行為で被害者に自衛を強いることは、加害者に「自衛しない被害者が悪いのだ」という行為の正当化を促し、犯罪を助長する。犯罪抑止のためには、加害者の責任に焦点を当てて「リベンジポルノは絶対に許されない」ということを啓発していくことが重要である。「写真を撮られた側は悪くない」 私たちには性的な表現を楽しむ自由があります。合意する大人同士であれば*1、セクシーな写真や動画を撮ったり、性行為を記録したりすることも自由です。何も悪いことはしていないし、もし警察がそれを阻むとすれば「検閲行為」になります。ハッピーな気持ちになって、性行為の最中に写真やビデオを撮ることに合意していたとしても、何も悪くありません。 また、撮影を断り切れなかったり、無理やり撮られたりしたりしたときも、撮られた側は何も悪くありません。性的な関係の中で、相手の要求を断るのはとても難しいことです。また、狡猾な撮影者はカメラを仕込んだり、不意打ちで撮影したりします。それを、防げなかったとしても撮られた側には責任はありません。 写真や動画は、「撮影に応じる自由」も「撮らせない自由」もあります。また、撮影された後に「データを処分してほしい」と思うこともあります。そのときには、そう主張する権利(肖像権)があります。その意思に反して勝手に撮影したり、撮影データを要求に応じて処分しなかったりする場合は、撮影者は被写体に対して権利の侵害を行っています。「写真を撮る側には重い責任がある」 私たちは、性的な写真やビデオを撮る自由がありますが、それには重い責任が伴います。合意なく他人に見せないために、撮影者はよく考えなければなりません。保管場所を限定したり、電子データを流出させないために対策をしたりする必要が生じます。もし、わざとでなくても、撮られた側の許可を得ずに、写真や動画が許可なく漏えいさせた場合、性暴力にあたります。厳重に管理し、常に撮られた側とデータをどうしていくのかを考えなくてはなりません。撮られた側と連絡が取れなくなる場合は、データを物理的に抹消したほうが良いでしょう。(個人情報保護の問題として考えてください) 一番良いことは、写真や動画は撮らないことです。性的な場面を目に焼き付けて、心で記憶しておくことが一番の安全策になります。撮られる側は、撮影の時には快く同意してくれたとしても、後から「処分してほしい」と要求してくることもあります。また、そのときは楽しい気持ちであっても、後から「嫌だった」「外に出されないか不安だ」と撮られた側が思うこともあります。こうした撮られた側に丁寧に寄り添う気持ちがないのであれば、最初から撮影はやめましょう。撮る側の責任は甚大であり、データを処分しない限り、一生背負うものになります。「許可のない写真の公開は性暴力にあたる」 撮られたが側に許可なく、写真や動画を公開することは性暴力にあたります。撮影に同意することと、公開を許可することは別の問題です。それがどんなに素晴らしい写真や動画であっても、撮られた側を傷つけた時点で、撮影者は性暴力加害者です。表現の自由があったとしても、暴力行為は決して許されることではありません。許可が取れない場合は、写真や動画を印刷媒体やネットなど公開の場所で、絶対に発表してはいけません。ブログやツイッター、匿名の掲示板など、どこにおいても許されません。悪意の有無を問わず性暴力です。 また、許可を得ずに写真や動画が公開してあると知った時には、すぐに非公開の措置をとってください。インターネット上であれば、管理会社などに連絡してください。公開されている写真や動画を面白がったり、転載したりすることも、性暴力に加担することになります。「被害者を責めることは、犯罪の正当化を助長する」 許可のない写真や動画の公開を見て、被写体になった人(被害者)を責めることは、犯罪の正当化を助長します。性暴力の加害者、またはそれを企んでいる人は、私たちの発言を聞いています。「撮影に同意した被害者が悪いのだ」という発言は、加害者の「撮影した側に責任はないのだ」「悪いのは被害者であって、加害者ではない」という意識を煽ります。多くの性暴力加害者は自己正当化し、「被害者が悪いのだ」と自分に言い聞かせ、時には「自分は悪くない」と信じ込んで犯罪行為に至っています。 こうした、加害者またはそれを企んでいる人には、私たちから「悪いのは加害者である」というメッセージを意図的に送る必要があります。「たとえ、被害者が撮影に同意していても、公開することは許されない」と繰り返し伝えなければなりません。「悪いのは加害者であって、被害者ではない」ということを強調することが犯罪抑止につながるでしょう。「リベンジポルノ」が「リベンジ」にならない社会のために 加害者が「リベンジポルノ」を公開する理由は、私たちの社会で性的な写真をばらまかれた側が苦しむことを知っているからです。実際に、現状では写真を撮られた側は、「撮らせたあなたが悪い」「危機意識が足りない」として、被害者叱責を繰り返されます。また、リベンジポルノを見た周囲の人たちも、面白がって拡散させ、写真や動画の回収を阻みます。つまり、被害者を苦しめているのは、加害者だけではなく、社会の側でもあるのです。被害者を保護・支援するのではなく、叱責したり弄んだりすることを「二次加害」と言います。 もし、リベンジポルノが公開されても、私たちが素早く削除や非公開の措置を取り、被害者を保護・支援すればリベンジポルノは「リベンジ」として機能しなくなります。逆に、二次加害を繰り返せば、加害者には「リベンジポルノは、相手に嫌がらせをする効果的な方法だ」と知らせることになります。リベンジポルノを阻止するための鍵は、被害者の自衛ではなく、私たちの対応です。「リベンジポルノを減らすのは、被害者の自衛ではない」 リベンジポルノが重大な問題であると考え、身近な人を被害から守りたいと思っているのであれば、自衛を勧めてはいけません。「写真や動画を撮らせてはいけない」と強く言えば言うほど、もし撮らせてしまった時に、その人はあなたに相談できなくなります。伝えるべきことは三点です。「あなたには、性的な写真を撮らせない自由がある」「許可なく写真を公開されたとしても、あなたには責任はない」「何か困ったことがあれば、すぐに相談してほしい」 上の三点を話す中で、「どんな人ならば撮影に応じて良いと思えるか」「撮影されてしまったらどうするか」「許可なく公開された時の被害者の恐怖や苦しみ」「被害者を責めるのではなく、保護や支援が必要だという考え」などについて、議論してみるのも良いと思います。一番大事なのは「あなたを心配していること」や「被害にあった時に助けたいと思っていること」を伝えることです。 逆に、加害者にしないためには、次の三点を伝えると良いと思います。「性的な写真を撮るときには、必ず許可をとり、無理強いしない」「データの保存や管理を徹底し、公開には必ず許可を取る」「何か困ったことがあれば、すぐに相談してほしい」 性的な写真や動画を撮った側も、保存や管理に困ることがあります。また、相手との関係が悪くなったときに、「復讐としてデータをばら撒きたい」と考えることもあるかもしれません。そういうときに、まず周囲に相談して止めてもらうことが重要です。「誰もがリベンジポルノの加害者・被害者になりえる」 ケータイ電話のカメラ機能が発達したため、気軽に鮮明な写真や動画を撮れるようになりました。性的な表現を気軽に撮影できますし、データを所持することも増えています。こうした中で「撮らせてはいけません」と繰り返しても、リベンジポルノは減らないでしょう。 むしろ、性的な写真や動画を撮影をする可能性を否定せず、「撮影したほうがいいのか」「撮影するときにはどうすればいいのか」「撮影した後どうすればいいのか」について、きちんと話をしていくことが必要です。「警察の防犯対策について」 この記事を書いたきっかけは、以下のようなTwitterでの警察の広報を見たことです。大阪府警察防犯情報【リベンジポルノに注意?】『画像を撮らせない、送らない』をしっかり守ってますか?相手に画像を撮らせないといっても、大好きな交際相手から求められると断りにくいという方も多いですよね。でも、他の人に見られないという保証はどこにもありません。絶対に画像を撮らせないようにしましょう!https://twitter.com/OPP_seian/status/600783305567379456 私が上で繰り返しように、このような脅しや要求は被害者叱責につながります。悪いのは加害者であるはずなのに、被害者に「撮らせないようにしましょう」と主張し、自衛を強いています。 警察の性犯罪に対するこうした防犯政策はについてはすでに牧野雅子「刑事司法とジェンダー」で研究報告が出ています。1960年代に取り入れられた「被害者防犯」の考えは、70~80年代に性犯罪に多く反映されました。しかしながら、防犯を促すどころか、被害者叱責を強めて被害届を出すことを阻み、暗数化をもたらしました。牧野さんは以下のように書きます。 性犯罪は暗数の多い犯罪である。しかし、防犯活動において、被害申告をさせやすいような対策をとるといった動きは全くなかった。むしろ、警察は防犯活動を通じて、性暴力被害者に対するスティグマを付与し、作られた被害者像を流布することで、そのスティグマを恐れる被害者に対して、被害申告をさせない風潮を作り出したといえよう。(38ページ) 以上のように、警察の「被害者防犯」の政策は非常に多くの問題をはらむものでした。しかしながら、現在も警察の内部では、是正が進められておらず「被害者落ち度論」が根付いていることが、上のツイートからもわかります。このような警察の広報を見ると失望しますし、こうした発言を受けてマスメディアが被害者叱責に乗じることも恐れます。 警察はいま、性犯罪対策を進めており、被害当事者を招いての研修も行っています。そうした取り組みは素晴らしく、被害者の視点から防犯政策を一新して欲しいと私も思っています。古い「被害者防犯」の考え方を払拭し、被害者に寄り添い、加害者を逮捕することが警察の役割でしょう。現場の警察官は率直に被害者のために仕事をしたいと思っている人も多く、性犯罪対策の取り組みが功を奏することを私も心から願っています。警察が変わらなければ、性暴力は減らない。このことを最後に繰り返しておきます。刑事司法とジェンダー作者: 牧野雅子出版社/メーカー: インパクト出版会発売日: 2013/03メディア: 単行本この商品を含むブログを見る*1:被写体が子どもの場合は、児童ポルノ法がありますので合意の有無にかかわらず、大人が性的な撮影することは性虐待にあたります。※この記事は小松原織香ブログ「キリンが逆立ちしたピアス」2015.05.23より転載しました。

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    山口組3代目、田岡一雄は「ヤクザを超えた男」なのか

    老たちも安定度の高い作業能力を確保するため、全港振の発足を歓迎した。 31年5月、神戸港を震撼させる事件が起こった。三井倉庫の第一次下請・上栄運輸(白井幸吉社長)の現場監督・花元義一の部下が砂糖の荷抜きを働いたのである。これを知った元請の三井倉庫は、花元の責任を厳しく追及した。「きちんと決着がつかん限り、お前のところへはもう仕事はやらぬ」といわれ、荷抜きを働いた部下は粛清された。事件は山口組の暴力事件としてかなり派手に報道されたが、港湾組織の深部については触れられなかった。これを機に立場の弱い第二次下請け業者間には団結して、一次下請に昇格しようという機運が高まるのである。その先頭に立ったのが田岡一雄で、一次昇格が実現するのだ。当時の田岡三代目は港の不条理と真剣に戦っていた。特に一次、二次の縦関係と不当な搾取を排除したことは港の近代化に大いに貢献した。それは田岡の功績でもある。 大マスコミは神戸芸能と甲陽運輸をあたかも山口組の資金源のごとく報じている。ここではっきりしておきたいのは、山口組と神戸芸能、甲陽運輸との関係である。 神戸芸能と甲陽運輸は山口組とは何の関係も無い。確かに神戸芸能は発足当時は、山口組の興行部だったが、昭和32年4月1日以降は資本金100万円の株式会社神戸芸能として生まれ変わった。甲陽運輸も同様である。 山口組は独立したヤクザ団体であり、企業に投資したり、会社を経営しているわけではない。正確に言えば山口組綱領を信奉し、任侠道を貫くことを目指すものたちが任意に結集した日本最大の任侠組織である。ただし日本国政府は山口組を暴対法(暴力団による不当な行為の防止等に関する法律施行令)によって「指定暴力団」に指定、組員の経済活動、たとえば証券市場への参入や、銀行口座の開設を禁止、ホテルの利用、マンションの購入も規制している。彼らと同窓会で一緒に飲んだことを理由に、公共工事から締め出された建設業者もいる。 田岡夫人のフミ子さんは、何が何でも山口組をつぶそうという警察の姿勢について、やんわりとこう反撃している。 〈主人が社長をしている神戸芸能社のほうも、会社の契約先へ、 「神戸芸能の荷(タレント)は扱わぬほうが好ましい」 とか、また、タレントさんに、 「神戸芸能とかかわりをもたぬほうが好ましい」 などといって、会社は警察の圧力で商売ができないようにされたのです。 警察に非協力な人たちは、あとから税務署のお見舞いを受けるのです。 神戸芸能社にはなんら行政指導はなく、主人は営業妨害で告訴すべく弁護士さんと相談いたしておりましたが、タレントさんも契約主も、警察の後難をおそれて証人になることをおそれ、やむなく会社は以来、開店休業の状態であります〉 それだけではなく〈いきつけの飲食店、料亭にも圧力がかかったほど〉だという。そんなところまで圧力をかけて何が得られるというのか。犯罪防止とは何の関係も無い。 〈こうして正業をとりあげられたわたしたちは、何を食して生活すればよろしいのでしょうか。 つねに、わたしたちは菊のご紋章あってこそ生きていける、といった古い考えを抱いております。山菱の代紋を強調するものでもなく、所詮(しょせん)またそれにかなうものでもないということは、あえて論を要しないことであります〉ともフミ子さんは訴えている。「山口組三代目 田岡一雄自伝」は皮肉に言えば日本の警察の陰湿な体質を見事に暴露した一冊とも受け取れる。二〇一五年五月(※徳間文庫カレッジ『完本 山口組三代目 田岡一雄自伝』 解説 より転載)  

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    宮崎学が解き明かす山口組分裂の全真相

    くなった。基本的にはやくざやってても食っていけないということです。 やくざの分裂騒ぎっていうのは抗争事件に発展するケースが多いんです。A組対B組という組がケンカするというのはもうない、A組が割れてA組1とA組2がケンカする。一番その形になったのが山一戦争です。山口組と住吉会がえいやーっで名乗り上げてけんかするっていう、そんなことはもうない。それをやると強化された暴対法などで、双方とも親分までパクられてしまう。使用者責任論で。そうして見ると今回も山口組の分裂ということですから、ある意味今風の分裂ではあるわけです。宮崎学氏 じゃ、なぜ分裂したのか。弘道会対山健組の対立がベースにあるとみるべきでしょう。出て行った人たちは反弘道会系の人たちでその旗頭が山健組。この対立は六代目体制寸前の五代目体制以降からの山口組の歴史に関係している。六代目体制が誕生するに当たり、山口組というのは関西の山健組がなんだかんだ言っても中心だった。人数は多いし、まして地元神戸だし、田岡さんの創設時から山健組というのは一番大きい組織です。神戸以外の組が親分になるってことにある意味ものすごい抵抗があった。それとその後の組運営の問題で弘道会と山健組はどんどん対立するようになって今回の事態になった。 対立した中身は何か。いろいろ言われているように事務所を名古屋に持っていくとか、その他の日常的なやくざとしての活動、弘道会が進めることに関して面白くないという意見や不満がずいぶん山健組サイドからあったようだ。それがずーっと煮詰まってきてここで出たということではないか。やくざをウオッチングしていればわかることだが、どっかでピストル撃ったり、人が死ぬことが付きまとうのがやくざの分裂で、甘いものではない。分裂ということはイコール抗争なんですよ。今回もすでに1回ピストルが撃たれているし、弘道会と山健組の小競り合いも起こっていると聞いている。これはもっとエスカレートしていって銃撃を含む抗争になっていくだろうと思う。なぜ、いま打って出たのか 井上邦雄(山健組)さんたちはなぜいまここまで踏み込んだか。処分されたメンバーを見たら、年配の長老の人たちにとっては、弘道会系が進出してきてだんだん片隅に追いやられていく危機感もあったのだろうと思う。それはポジション上の危機感ではなくて、現実のやくざの活動をしている中でずいぶん出てきていたと思う。ある競技場でもっているダフ屋の利権をめぐり、今までは平和的に共存していたが、分裂騒動が勃発したあと一方の利権一色になってしまったと聞いている。この問題が起こってからそういうのが出始めている。斜めからみると、縄張り争いをやっているということになるじゃないですか。今までは共存してやれていた。これだけ感情的なもつれになってくると人数の多い方は少ない方をやっつけてしまおうとする。メンバーから見ても今回の分裂は、弘道会が山健組の主導権を握って進めてきたこの何年間かの歴史の中で、自分たちがちょっと窓際に追いやられた、けしからんことだという危機感をもった人たちが反旗を翻したという構造ではないか。山一抗争のようになるのか 金を稼いでくる力というのは、最近のことはよくわからない、どれだけ入ったのかも分からないんだけども、山口組の歴史の中で弘道会はこの間急激に伸びた。山健組はそういう点では歴史が古い。初代の山本健一さんが三代目の番頭さんだったんだから。弘道会がナンバーワン、ナンバー2の独占体制に入る過程で、いろいろな経済行為に進出していったという話を聞いている。それも繁華街のバーやキャバレーのおしぼり売って高い対価をもらって用心棒代の代わりにしてるとか、そういうのは昔からあったことなんだけど、そんなことじゃないビジネス。彼らは基本的に金を持っている。これは合法、非合法で稼いだ金だと思う。もっている単位が結構大きい訳です。だからその金を回すことによって結構稼いでいるんじゃないですか。山口組のナンバーワン、ナンバー2を握ったら、それだけオファーもあるとみていいじんじゃないでしょうかね。 弘道会に限らず、東京の方のやくざも同じような形で金は稼いでいるんであって、弘道会が特別にそういう稼ぎ方をしているとは限らない。暴対法が出来て金を稼ぐのが難しくなっているから、極めて合法的に稼がなきゃいけなくなってきている。そういう一連の流れの中で、やくざの稼ぐシステムが大分変わってきていることは確かでしょう。しのぎは間違いなく東京が一番大きいが、あえて名古屋と大阪を比較したらパイとしては大阪の方が大きいのではないか。これから稼げる金がどちらが大きいか、ということで比較したら間違う。どちらの方がいま持っている金があるかということだろう。ただ、名古屋は金を持っているという噂は随分前から言われていることなんだけど。あそこまで伸びてくるということはある程度持ってるということなのでは。山一抗争のようになるのか 6:4の確率で進展していくように思われる。山口組系のやくざにとってのポリシーみたいなものがやはりあって、分裂イコール抗争なんです。まったくのイコール。分裂ということは敵が出来た、そいつら生かしておいてはいけないと両方とも思ってますよ。ピストルなどの銃撃戦とか、そういうことも考えてるんじゃないですか。山健組の歴史イコール山口組の歴史なんです。山口組の歴史の中で山健組が中心的な役割を果たしてきたのは確かです。弘道会が山口組の表舞台に登場したのはここ十数年の話。山口組の100年近い歴史があり、特に三代目、田岡さん以降は。山口組の歴史は山健組の歴史だったと言えると思う。山口組はおれたちが支えてきたんだ、という意識はものすごくありますよ、山健組の人たちは。メンタルのところで今回の騒動に影響している。「神戸山口組」という名称を使うとか使わないとか、あえて神戸と表現しているわけで名古屋ではないよという心ですよね。そういう点で神戸と山口組の歴史は自分たちが担ってきたんだという、神戸=山健組ですから、かれらの発想は。 篠田建市組長が6代目に就任した2005年以降、弘道会の影響力が強まったというのは山健組の影響力を落とし、敵をつくりながら影響力を高めてきた。パイの小さい中で弘道会が勢力を伸ばしてきたことは事実で、そのあおりを実体的にも精神的にも、山健組がプレッシャーを受け続けたというのも事実だろう。で、そろそろ限界に近くなってきたと考えたんではないか。大阪、神戸は警察が警戒していますね、今回の件で衝突が起きるのではないかと。全国に通達も出ています。だから、大阪、神戸ではむしろ衝突は起こりにくいんでは。むしろ岡山、京都とか、ちょっと離れたところでそれぞれの勢力がいるところ。そしてそれは起こらないですむということはないです、間違いなく。井上さんたちが旗揚げして、さあ今後は仲良くやりましょう、ということが通る世界ではないですから。お互いが不倶戴天の敵。どっかで衝突する可能性がどんどん高まっている。山一抗争のときとは今は背景が全く違います。山一抗争のときは暴対法も暴排条例もなく、権力が強引に介入して潰すということが出来なかった。いまは権力が介入しようと思えば幾らでも出来る時代です。(聞き手 iRONNA編集部 溝川好男)

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    山口組「仁義なき分裂」の真相

    体の組長が「絶縁」や「破門」の処分を受け、離脱が決定的となった。山口組でいま何が起きているのか。抗争事件への発展はあるのか。仁義なき分裂騒動の真相に迫る。

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    「山一抗争」再び、名古屋VS大阪の代理戦争

    わけでもないが、その流れの中で1997年8月、新神戸駅前のホテルで宅見若頭が中野会系組員に射殺される事件が起きた。弘道会や宅見組による渡辺体制をないがしろにする行動に対して、不満が爆発したみたいなところが宅見若頭暗殺事件につながっていく、という流れがある。結果的にそれが契機となって、渡辺組長も現役のまま引退を強いられることになった。普通だったら亡くなってから代替わりが行われるのだが、亡くなる前に自らの意思に反して組長交代が行われ、そして6代目体制になると、弘道会が主導権を握るという流れになった。そうなってくると、弘道会がどんどん他の組の利権、経済活動に対して、蚕食し始める。言ってみれば、自らのテリトリーを広げていくようなことをやる。そして、意にそぐわない組長や組織を絶縁、破門という形で組織から強引に切り離していくというところをやったので、本流を自任する山健組の不満が爆発し、今回の組織離脱になったとみられる。 離脱組は新組織を結成し、「神戸山口組」を名乗るという情報がある。山健組だけじゃなく、大阪の2代目宅見組も追随するというのは、大きな城壁だ。今後、離脱する組がさらに増えたり、これまで破門、絶縁された組織が神戸山口組に参集し、神戸山口組の構成員の方が数が多くなるんじゃないかという見方もある。 経済活動であるしのぎについては、従来型の金融や地上げや土地管理もあるが、最近は違法行為を伴わないような、経済活動が主体になっている。ヤクザだからこういう仕事なんだということではなく、ごくごく一般の人たちがやるような、商品を輸入するとか、飲食店経営であるとか多岐にわたり、特徴みたいなのがない。暴力団対策法や暴力団排除条例の施行の絡みで、正規の構成員が前面に出ることはほとんどない。自分たちは裏に回って、ほとんど堅気の人間が経済活動するっていうのがここ最近の傾向だ。 山口組の中心を担ってきた名古屋の弘道会は、どんどん東京に進出していった。一番目立った所では、新宿・歌舞伎町のぼったくりバー。都条例の違反にあたる行為であり、今年、警視庁により一斉摘発されたが、弘道会の経営の店が多かった。東京は弘道会が席巻していたので、他の組織、団体が出ていけるような状況ではなかったのではないか。東京が一番、経済集積度が大きいから、東京に進出するかしないかというのは経済力の差になってあらわれてくる。 絶縁、破門をした組織がそのまま組の運営を続けていくということを考えると、処分を下した側にとってみると、完全にメンツをつぶされたことになる。加えて、神戸山口組なんて看板を掲げるとなると、これまた処分を下した側の顔に泥を塗ることになることになるから、普通でいったら山口組と一和会による抗争で25人の死者を出した「山一抗争」のような抗争に発展するのだが、もし万が一抗争劇に発展してしまうと、九州の工藤会のように「特定危険指定暴力団」という扱いになってしまう。そうなると、組事務所への立ち入りを禁止されたり、5人以上の組員が集まっていると、それだけで逮捕という状況になるし、そういったリスクをおかしてまでやるかどうかというところを考えると、抗争ができる環境ではないのではないか。 逆に言えば、抗争もしないまま相手に対し、そのままの状況を許してしまうとなると、弘道会、山口組にとっても、ヤクザとしてのメンツ丸つぶれということになって、今後に大きな影響を与えてしまうので、これはやらざるを得ない。ただ抗争をやってしまうとかなり大きなリスクを負うことになる。ここは悩ましいところだと思う。 可能性は低いと思うが、山口組との関係のある団体が間に入って仲裁するということがないわけでもない。かつて茨城県を拠点とする「松葉会」が同じような状況になった。激しい抗争が起こったわけではなく、他の団体が仲裁に入ったことがある。ただ、山口組は考え方も行動も関東の組織とは違うから、そういった共存路線になる可能性は低いと思う。山口組が共存の道を選んだ場合は、大きな組織が二つに割れてしまうので、間違いなく弱体化につながる。 警察としては、抗争となった場合は大きな批判を市民から浴びることになる。警視庁は関西方面に応援部隊を派遣しており、なんとかそれを抑える方向にいくのではないか。警察が目指すのは、抗争を起こさせないまま両方の動きを封じ込めていくことだろう。(聞き手 iRONNA編集部 川畑希望)

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    「仁義なき戦い」広島代理戦争の真実

    組三代目 田岡一雄自伝』より》広島代理戦争 昭和三十八年四月、広島で火を噴いたいわゆる第二次広島抗争事件は、血で血を洗う殺戮(さつりく)戦であった。 すなわち、事件の起きた四月に一人、五月に二人、六月にも二人、九月には三人と、わずか半年の間で八人の男たちが命を奪われ、十四回の喧嘩(でいり)と十四人の負傷者とを数えている。やくざ抗争史のなかでも、これほど凄惨で複雑な背景をもつものはなかった。 抗争の原因は、広島の博徒・山村組(山村辰雄組長)と打越会(打越信夫会長)との勢力争いであるが、これは単なるやくざの勢力争いではなかった。敵味方、互いにデマや思惑が乱れ飛び、戦闘員は疑心暗鬼となって寝返ったり寝返られたりして、この事件をいっそう複雑怪奇なものとしたのである。 世間ではこの抗争事件をいつか「広島代理戦争」とよびはじめた。山村組をあと押しする神戸本多会と、打越会を支援する山口組という二大勢力が、遠隔操作によって両者を戦わせた代理戦争だというのである。が、そんな意志は断じてなかった。 そこで、事件の直接関係者である打越会会長・打越信夫に、第二次広島抗争事件を語らせた結果を総合すると……。 打越信夫の略歴。 打越信夫は大正九年一月五日、広島に生まれ、尋常高等小学校を経て陸軍に入隊。昭和十五年、満州北部・興安東省の斐徳甲斐部隊で約二年半、国境警備につく。その後、病気で戦時中に除隊し、同時に東京・高田馬場にあった大日本機械化義勇団に入団。そこで装甲車やトラックの運転をおぼえたが、このときの経験が後年、タクシー会社の経営に乗りだすことに役立っている。 戦後、広島へ帰った打越信夫は昭和二十一年、トラック二台を持って運送会社を始めるかたわら古物商を営む。このころから打越信夫は極道を指向し、広島市西部地区の中心地であった西広島駅前の闇市を根城にしてしだいに勢力をのばし、博徒・岡敏夫が岡組を結成すると同時に岡敏夫と舎弟の盃を交わし、岡組に参画している。 以来、打越信夫はめきめきと頭角を現わし「岡組の打越組」と呼ばれるほど力をつけてきたが、昭和二十五年、広島東の猿猴橋で起こった殺人事件で“広島に打越あり”とその名を高めた。 この事件は岡敏夫の舎弟・葛原一二三が岡組に反逆し、同時に打越信夫の若衆ともいざこざを起こしたことに始まる。そこで打越の若衆三名は、海の記念日の白昼、猿猴橋の下で葛原一二三を待ち伏せ、貸しボート屋の休憩所へつれ込んで射殺したのである。この事件で打越の名は広島やくざを震撼(しんかん)させた。 打越信夫はまた社交家で政治家的手腕の持ち主でもあった。昭和二十五年、広島カープ球団が発足すると同時に「鯉城後援会」を組織し、当時、カープの看板選手であった小鶴、金山、三村などと親交をもつ。それらの線で寿原正一代議士(自民)や運輸業界の顔役・関谷勝利代議士(自民)らとも近づき、昭和二十七年暮から昭和二十九年にかけて広島市の中央部に地盤を築き、紙屋町にタクシー会社を経営。たちまち既存のタクシー会社を吸収して、市内第三位の台数を保有するなど昇龍の勢いにあった。 第二次広島抗争事件は、この後に起こっている。 事件にはいるまえに、戦後の広島やくざの系譜を語らねばなるまい。終戦直後、広島では岡敏夫のひきいる岡組が地下帝国を築きつつあった。岡敏夫の舎弟には打越信夫、山本薫、葛原一二三、大西某らがおり、また直系若衆には網野光三郎、原田昭三、永田重義、進藤敏明、服部武、岩瀬忠雄、中村幹雄ら第二次広島抗争事件で世間を震撼させた錚々(そうそう)たる顔ぶれが控えていた。舎弟というのは兄弟分のことであり、若衆は子分のことである。 一方、呉市には山村辰雄のひきいる山村組が結成されていた。映画「仁義なき戦い」シリーズの金子信男の役が山村辰雄である。山村組は若衆頭の佐々木哲雄をはじめとして樋上実、美能幸三らがその屋台骨を支え、虎視眈々(こしたんたん)と勢力拡大のチャンスをうかがっていた。 呉にはそのほか初代・小原薫を組長とする小原組(二代目組長は実弟の小原光男)も堅陣を布き、山村組とたがいに覇を競っていた。打越信夫とやくざの系譜 当時、打越信夫は、岡組の重鎮として岡組舎弟・山本薫と兄弟分の盃を交わす一方、山村組の若衆頭・佐々木哲雄、小原組組長・小原薫とも縁組をもち“三兄弟”として親交をあたため、地下帝国での地盤を一歩一歩固めつつあった。 さらにこれらの兄弟分の周囲には、打越信夫から舎弟の盃を受けた“七人衆”がタカのような鋭い睨(にら)みをきかせていた。すなわち、第二次広島抗争事件で圧倒的な戦闘力と、血で血を洗う非情さをみせた網野光三郎、原田昭三、服部武、美能幸三、永田重義、進藤敏明、小原光男の七人の若手実力者たちである。 打越信夫の証言によれば、彼ら“七人衆”と舎弟の盃を交わしたのは、だいたい昭和二十五年から二十六年にかけての時期で、日本中が朝鮮戦争の特需に湧(わ)きたっていたころだとしている。 読者には、やくざの系譜というものがいささか煩雑(はんざつ)であろうが、こうした人脈をまず頭に入れておいてもらわないと、この抗争事件の本質がつかめないと思うので、もうすこしご辛抱願おう。 昭和三十六年十一月五日、打越信夫はさらに神戸山口組の実力者である安原政雄と兄弟分の盃を交わした。場所は神戸の料亭「寿楼」である。 山口組からは舎弟頭・松本一美、岡精義、安原武雄、松本国松、藤村唯夫、三木好美、若衆頭・地道行雄、山本健一、梶原清晴、山本広、中山美一らが出席し、打越信夫側からは取り持ちの岡敏夫をはじめ、岡組、山村組、海生組、横奥組、打越組などが列席し、ここに打越信夫は山口組という大きな後ろ楯をもったのである。 明けて昭和三十七年一月、博多事件(第二部・迅雷篇「夜桜銀次」以下参照)が起きると、打越組も山口組支援のため二月七日、博多へ応援部隊を派遣し、山口組傘下の旗幟(きし)を鮮明にした。 その年の五月、広島やくざは大きく揺れ動いた。 五月十一日、それまで広島に磐石(ばんじゃく)の睨みをきかせていた岡組組長・岡敏夫が引退したのである。 高血圧、糖尿病という健康上の理由であった。 岡組は解散し、同時に組員たちはこの日から呉の山村組に預けられ、山村辰雄の配下にくだった。 岡組の実質的な跡目は、山村辰雄によって引き継がれたのである。これによって、山村組は従来の構成員七十人から一挙に二百二十人の組員を擁(よう)する大組織となり、いまや山村組が広島を掌握した形となった。 山村辰雄の得意はその絶頂に達した。 旧岡組の持っていた広島の縄張りも、組員も、そっくりそのまま自分の懐(ふところ)へ転がり込んできたのである。〈これでわしゃ、山陽一の大親分じゃ〉 山村辰雄はおのれの得意をあちこちに吹聴(ふいちょう)して歩き、それは、いささか子供じみてもいた。 広島を制圧する者こそ山陽のゴッドファーザーであった。山村辰雄は喜々として旧岡組の幹部・服部武を若衆頭に任命して組の統一を計り、山陽道に号令する第一歩を大きく踏みだしたのである。 ――この事態のなかで一人おもしろくないのは、自他ともに岡組の後継者と目されていた打越信夫であった。 かつては、岡組とともに広島を二分していた打越組である。「岡の跡目は打越」と周囲からもずいぶん取り沙汰(ざた)され、自分もその気で貢献してきたつもりであった。 それが一挙に引っくり返された。トンビに油揚げをさらわれた格好である。「跡目は打越」という評価が高かっただけに失った面目も大きかった。面目を失うということが、この渡世ではどれだけ恥であるか、渡世に生きた者でなければわかるまい。打越信夫は重い衝撃を味わわねばならなかった。  「打越をわしの舎弟(兄弟分)にしてつかあさいだと?若衆(子分)にならしちゃってもええが、舎弟にいうてできるかい」 得意満面の山村辰雄のそんな鼻息さえ露骨に打越信夫の耳に伝わってきて、打越に血の涙をしぼらせた。崩れた力の均衡崩れた力の均衡 明暗ははっきり分かれたのだ。 打越信夫は八十数人の組員を擁(よう)するとはいえ、それをはるかに上回って巨大化した山村王国の重圧をひしひしと味わい、窮地に追い込まれていったのである。 だが、打越信夫の手中にはまだ切り札がしっかりと握られていた。拳銃で撃たれ、手当てを受けるため病院を訪れた山口組の田岡一雄組長(右から2人目)=昭和53年7月11日、兵庫県尼崎市 それは神戸山口組という強大な背景である。安原政雄との兄弟の縁組が継続するかぎり、いくら山村組でも下手に打越信夫に手出しできるはずはない。山口組こそ打越信夫の最大の頼みの綱であった。 山口組を後ろ楯に、いたずらに事を構える気はさらさらないが、しかし、負け犬になって尻尾を巻き、憐れみを乞う必要もない。打越信夫はそう判断した。 戦機は熟していた。 力の均衡はいまや危うい綱渡りとなって、一瞬の油断も許されぬ情勢にあった。 こんなとき、えてして情報は幾重にも屈折して飛び交うもので、それが火に油を注いだ。 抗争事件の前哨戦は、意外なところから意外な形で火蓋(ひぶた)を切った。 昭和三十七年六月二十七日。この日、山村組の網野光三郎、原田昭三、美能幸三の三人は久留米の浜田組二代目の襲名披露に出席するため、それぞれ若衆一人をつれて広島から小倉行きの飛行機、東亜航空コンベア機に乗りこんだ。 三日後の六月三十日、網野光三郎、原田昭三、美能幸三の三人は小倉工藤組の工藤玄治組長の舎弟・松岡武から奇妙な情報を伝えられた。 「打越はな、宇部の岩本組組長・岩本政治をさしむけて、福岡空港での帰途、あんたら三人を殺(や)れ、と命じたらしい。気をつけて帰られるがいい」 松岡武はそう、注意を促している。 三人は愕然(がくぜん)として顔を見合わせた。 旧岡組の網野も原田も、いまでは山村組に吸収されて山村組の構成員となっている。だからといって打越信夫に命を狙われる筋合はない。二人とも打越信夫とは舎弟の盃を交わしており、打越を兄貴として親交を保っている間柄ではないか。たまさか道で会っても、笑って歓談する仲である。〈その打越の兄貴がなぜおれたちの命を狙うのか……〉〈なぜなのだ――〉 三人は命を狙われることに対する怒りとともに、山村組と打越組とを取り巻く事態の複雑さに、いまさらながら暗然とする思いであった。 暗い予感が三人を襲った。 「危ない……。ぐずぐずできん。すぐ広島へもどろう」 三人の意見は一致した。 「そのほうがええ」 松岡武も口を添えた。 三人は翌日に控えた浜田組の二代目披露宴に出席することもなく、祝儀を松岡武に預けたまま、とるものもとりあえず広島に飛び立った。 広島へもどった三人は、その足で血相を変えて打越組に向かった。 途中、服部武の実弟・服部繁と永田重義の二人を加えた一行五人は、胸中煮えたぎるような怒りで、小刻みに身を震わせていた。 「打越というあんな男を兄貴分にもつとは恐ろしいことだ。それならこっちから盃を突っ返してやろうやないか」 五人は打越信夫に面会すると即座に、盃を水にするといい放った。 その声はぴーんと張りつめて殺気だっていた。ミステリアスな情報 一方、打越信夫は三人の暗殺説の出所が自分だときいて、身におぼえのない“黒い情報”にただ呆然(ぼうぜん)と立ちすくんでいた。 「このデマ情報はまったく根拠のないことで、とつぜんのことだし、びっくりするばかりだった。この裏にはだれか仕組んだやつがいる、と直感的に思った。しかし、そのときはそんな余裕はなかった。わたしは自分がだれかの罠(わな)にかかりつつある危険を知ったのだが……」 打越信夫はそう述懐する。 汚名はみずからの手でそそがねばならぬ。 夏の太陽が灼(や)けつくように暑い七月二日の真昼だった。打越組と山村組の危ういバランスを破壊しかねない“黒い情報”が飛び交うなかを、打越信夫は盟友の岡組組長・岡清登とともに真相究明に奔走していた。 〈――いったい、だれが、なんの目的でデマ情報を流したのか。徹底的に捜しだして殺(や)ってやるのだ!〉 身におぼえのない嫌疑をこうむった打越信夫のはらわたは煮えくり返っている。この、わずかな地鳴りは、やがて広島地下帝国を揺るがすほどの大爆発を誘発するであろう。 〈――これはどえらいことになるで……〉打越信夫の背筋に張りつめた緊張が走った。 噂(うわさ)の出所を確かめるべく打越信夫は山村組に立ち寄り、その足で元岡組組長・岡敏夫のもとへ赴(おもむ)いた。 岡敏夫はもともと打越信夫が神戸山口組の重鎮・安原政雄と結縁(けちえん)することを快く思わなかった人物である。日ごろから岡は広島やくざのモンロー主義を掲げて渡世を生きてきたスジ者であり、強大な山口組が広島を制圧することに危惧(きぐ)の念を抱いていた。 したがって彼は打越信夫と安原政雄の盃に極力反対であったが、美能幸三ら周囲の説得もあって不承不承(ふしょうぶしょう)縁組の取持ち役を買ったといういきさつがある。美能幸三の手記『仁義なき戦い』(サンケイ新聞出版局刊)によれば、盃を水にした五人は“福岡空港謀殺計画”をキャッチした際に岡敏夫を訪問、その経過を説明し、意見を求めている。 そのとき岡は五人に向かって明快な断をくだしている。 「すぐに盃を水にせい!」 ――打越信夫は岡敏夫に会って“黒い情報”の出所とそのいきさつについて詳細を確かめようとしていた。 だが、岡敏夫は、その件については打越信夫に曖昧(あいまい)な言葉しか与えなかった。 打越信夫は納得のいかぬまま胸にわだかまりを残し、そそくさと立ち去らねばならなかったのである。 すでに打越組はこのミステリアスな情報に翻弄(ほんろう)されていた。 疑惑がすっぽりと組員を包んでおり、組員たちは真相の究明を固唾(かたず)をのんで見守っていた。 さらに打越信夫にとって不幸なことは、この怪情報によって疑惑を一身に浴びている最中、もう一つの事件が並行していたことである。指をつめる 打越信夫の舎弟である宇部の岩本組(組長・岩本政治)系に青木組というのがある。光市に地盤をもつ博徒だが、その若衆が昭和三十七年七月一日、徳山市を根拠とする浜部組(浜部一郎組長)の組員を射殺するという事件が起きた。 浜部一郎組長は山村組幹部・樋上実の兄弟分であることから、この下部組織の対立抗争はそのまま打越組対山村組の確執における危険な火種となった。 打越信夫は事態を穏便に収拾すべく、みずからケンカの仲裁を買ってでたのである。 さっそく和解の地固めの会合が、広島市内八丁堀中ノ棚の喫茶店「巴堂」で開かれた。 出席者は打越信夫、岩本政治それに浜部一郎の兄弟分にあたる山村組・樋上実の三者会談である。 たがいにいい分はあったが、事件の解決をのぞむ熱意がどうやら三者の了解点まで達した。 これで事件は一応、落着したかにみえた。だれしもが二日後に険悪な事態を迎えようとは思いもしなかった。 その日、七月一日。打越信夫、岩本政治、樋上実の三人は改めて市内「寿司福別館」で仲直りの座をもち、酒を汲(く)み交わして歓談し、和解は完全に成立したと思えた。 だが、その会合がお開きになった夕方五時、宇部に帰る予定の岩本政治は徳山で途中下車し、そのまま目を血走らせて、単身、浜部組長宅に殴り込みをかけたのである。 岩本政治は殴り込むや、玄関口にいた浜部組の若衆にビンタを二、三発くらわせ、懐中にしのばせていた拳銃を三発発射して蹴散らし、宇部の岩本組事務所にもどったのである。 これを知って樋上実は激怒した。 「仲直りはやめや! 仲直りの舌の根も乾かぬうち、岩本のやつ、浜部を急襲しよって!」 まったく道理のとおらぬ襲撃である。 浜部はてっきり打越と岩本とがぐるになって、和解の話合いをすすめる一方、浜部組との抗争準備の時間稼ぎをしていた、と思いこんだ。 打越信夫は窮地(きゅうち)に立たされた。舎弟分の岩本が、兄貴分でしかも仲裁人である打越信夫を無視して暴走した格好になったからである。樋上実ははげしく打越信夫に詰め寄った。 「仲裁人の責任をとってもらおうか。しかも、岩本はあんたの弟分やないか」 正念場に立たされた打越信夫は、岩本に詫(わ)びを入れさせようと、当時の打越組若衆頭・山口英弘ら若衆二人をつれて説得に赴いたが、岩本は頑(がん)として首をたてにふらない。 「樋上がなんや。この岩本は一人になっても山村組を相手にケンカしたるで」 打越信夫の説得工作は失敗した。打越信夫はこの不始末の責任をとって詰め腹を切らねばならなくなった。二日後の七月三日午前十時ごろ、打越信夫は極道のしきたりとしてみずからドスを右手に、左小指を第二関節から切断。その小指を持って山村組に詫びを入れたのである。 岩本政治は身長一七二センチ、体重六三キロのひきしまった筋肉質の体躯(たいく)である。 打越信夫によれば、岩本は性格はおとなしいが、一度怒ると、やられてもやられても突っ込んでいく執拗(しつよう)な男だったという。人相は堅気タイプのやさ男で、昭和二十六年、打越信夫の舎弟になっている。 打越信夫は岩本政治をつぎのように評している。 「岩本が殺人罪で広島刑務所にはいっていたことがある。が、この間、岩本の親分である宇部の一松組組長・一松実男が、興行の木戸入場のもつれで甲斐組の若衆に殺される事件が起きた。その殺した男がおなじ広島刑務所にはいってきたのを知った岩本は、ひそかに復讐を企(くわだ)てた。たまたま刑務所内での相撲大会のとき、岩本は好機とばかり隠し持ったノミで相手を刺し殺したのです。度胸もあり、肚(はら)もすわっていて、その荒っぽさでは広島やくざも一目おいていた男でした」危機に立つ打越組危機に立つ打越組 “福岡空港謀殺説”に加えて、岩本組対浜部組の抗争事件の仲裁に失敗した打越信夫は四面楚歌(しめんそか)であった。あまつさえ小指を切断して山村組に詫びを入れなければならなかった。 打越信夫は、迫りくる山村王国の圧力をひしひしと感じざるをえなかった。 七月四日、打越組はさらに重大な窮地に立たされた。 この日、真夜中の零時五十分、打越組事務所で不吉な予感をかきたてる電話が鳴った。 岡清登からだった。 「いったい、なにが起こったのか……」 幹部FとMの二人は、岡清登に呼びつけられて人影まばらな夜の広島を車で疾駆した。 焦燥と不安が、寄せる波のようにじりじりと二人の胸をしめつけていた。 岡清登は、二人の到着を待ちかねたかのように、まず打越組組員であることを確かめると、こういい放った。 「いまな、山村組のところから連絡があったのだが、すぐ打越道場のバクチをやめさせてくれ、というてきてるのだ」 FとMは狼狽(ろうばい)した。 博奕打ちに賭場を閉鎖せよ、ということは“死ね”というのにもひとしい。糧道を断つことを意味するこの言辞は、あきらかに山村組の挑戦とも受けとれるのだ。 〈また、なにか裏で動きがあったのか……〉 FとMは不安げに顔を見合わせていた。 以心伝心であった。 この直感は、この渡世で生きる者だけが感知できる動物的な防衛本能といってよい。 バクチをやめろ、ということは組の運命を賭けた重大事である。二人は黙ってここを引きさがるわけにはいかなかった。 「バクチをやめろとおっしゃるのは、いったいどういうことです。それに、どうして美能らは舎弟盃を水にしたのか、あわせてその理由もおたずねいたします」 組の運命を賭けてFとMは、慎重に言葉を選んで岡清登に食いさがった。 岡清登はこの反撃の質問を軽くいなした。 「バクチをやめろ、というのは山村のいい分だ。もう一度、山村が小倉工藤組の松岡さんに連絡して真相をきいてみる、といっている。明日になったらすべてわかるだろう」 福岡空港謀殺説の核心も、ついに岡清登の口からきかれずじまいであった。 FとMはむし暑い夜をむなしく帰途についた。 打越組はこれからいったいどうなるのだろう。二人の胸中には複雑な思いがあった。 打越組事務所では組員全員が首を長くして二人の帰りを待ちわびていた。すでに時刻は午前五時をさし、夏の夜は白々と明けそめていた。 F、Mの報告に、組員の憤激は頂点に達した。着せられた濡れぎぬをなんとしても真犯人に叩きつけねばならなかった。 二人の報告がすむと組員全員で善後策を協議したが、その最中、ある人物を軸にこの架空の情報を整理していくと、奇妙に符合することが判明した。その人物というのはだれか……。 「その人物というのは美能幸三です」 打越信夫はそう断言するのだ。 「わたしが福岡空港で三人を暗殺せよ、と指令したとか、また打越道場のバクチを中止せよ、だのと、これはあきらかに山村組の挑戦と受けとれた。なかでも美能が絵を描いて打越組を解散させるつもりだったのだと思う。後日、死んだ原田昭三から直接きいたのだが、小倉工藤組の松岡さんに三人で会ったとき、美能は自分と松岡さんの二人だけで会談し、網野と原田は旅館の別室で待たされたという。このとき、美能が松岡さんに“われわれ三人は打越のさしむけた岩本に狙われている”とデマを吹き込んだことが、どうやら噂(うわさ)の発端らしい」 としているのだ。三代目舎弟盃 真相は美能幸三の策略的な動きからでたデマ情報だ、ということで打越組は殺気立った。 「美能はいったいなんのつもりだ。打越組をつぶす気か」 打越組の憎悪は美能幸三に集中した。 しかし、すでに五人の舎弟から盃を突き返された打越信夫の大きな打撃は、いまさら拭(ぬぐ)いきれるものではなかった。強敵(ライバル)山村組内の幹部・実力者たちと結縁していることによって、かろうじて力のバランスは保たれていたが、いまや打越信夫は完全に孤立化した感さえある。打越信夫にとって頼れるものはただひとつ、神戸の山口組のあと押しだけであった。 はたして、それから十日ほどたった七月十七日、打越信夫と兄弟分である山口組の重鎮・安原政雄が広島へ乗りこんできたのである。安原政雄の狙いは、いうまでもなく情勢不利な打越信夫の立場を挽回(ばんかい)すべく、てこ入れをはかることであった。 それには事態の悪化を防ぎ、あわせて打越組に戦力をつけるため、とりあえず水に流した舎弟の盃の復縁を取り持った。 さすが山菱の金バッジの威力は底しれぬものがあった。安原政雄の根回しは功を奏し、八月三日、安原政雄の仲介で市内の「清水旅館」に集まった網野光三郎、美能幸三、原田昭三は一方的に絶縁したことを打越信夫に詫び、舎弟盃を改めて受けることを承知したのである。 さらに三日後、山口県湯田温泉の「松政旅館」の一室で、打越信夫に強引に指つめをさせたことへの謝罪も含めて、美能、網野、原田ら、もと舎弟一同がふたたび打越信夫の盃を受けることを確認し、下関の合田組組長を仲裁人にたて、正式に手打ち式を挙行したのである。 打越信夫は有頂天だった。 それと同時に山口組の山菱のバッジの威力をまざまざと思い知り、三代目の直系若衆となることを強く望んだ。それは、打越信夫にとっては一日でも早ければ早いほどよい。そうなればさすがの山村組も手をだせなくなるであろう。 こうして打越信夫は山口組との“盃外交”にのりだす一方、八月八日、市内の料亭「魚久」で防府の田中組組長・田中清惣を舎弟に岩国中村組組長・中村展敏を若衆の系列に加え、巧妙に外堀を固めていった。 こうした打越信夫の神戸山口組への働きかけは、ついに九月二日、山口組三代目であるわたしの直系の舎弟盃を受ける段どりにこぎつけることにより、ようやく実をむすぶのである。これを契機に打越組を打越会に改称した。 いまや打越信夫は、広島やくざにあってあなどれぬ勢力として完全に息を吹き返しつつあった。 翌昭和三十八年二月十八日、離反していった元舎弟一同は、安原政雄のお声がかりで打越信夫との復縁を余儀なくされた。 この日、改めて山口組若衆頭・地道行雄、安原政雄、中森光義(名古屋鈴木組組長、昭和三十七年八月二十四日、打越信夫と兄弟の盃を交わす)の取り持ちで舎弟盃がふたたび交わされたのである。式場は市内「寿司福別館」であった。いならぶ山口組の大幹部が磐石(ばんじゃく)の睨みをきかせるなかで“旧七人衆”の服部、美能、小原、網野、永田、原田、進藤らは打越信夫を兄貴分とする盃を飲みほさねばならなかった。打越信夫は安堵(あんど)の胸をなでおろし、上機嫌であった。 〈すべてがうまくいった。これで山村組にふたたびくさびを打ちこむことができたのだ〉 勢力の回復はなった。広島戦争、火蓋(ひぶた)を切る広島戦争、火蓋(ひぶた)を切る 上機嫌の打越信夫は三日後の二月二十一日、晴ればれとして、沖縄へ観光旅行に旅立ったのである。 しかし、打越信夫がほっとしたのも束の間、事態はめまぐるしく変転していった。もともと錯綜(さくそう)した人脈で構成された広島やくざ地図は、それだけに一度均衡が破れると復元することは至難の業であった。打越信夫が沖縄観光旅行に浮かれていた同月二十七日、安原政雄、山本健一、松本一美ら山口組大幹部はある決意をもって広島を訪れていた。 三人は「観音山荘」に宿泊すると、打越会にこういい渡した。 「打越会若衆頭・山口英弘を破門せい!」 この唐突な至上命令に打越会内部は色めきたった。そして対策会議を続行中の翌二十八日、打越信夫が観光旅行から帰ってきたのである。 打越信夫は狼狽し、驚愕(きょうがく)した。山口英弘は信頼していた若衆頭であり、自分の片腕でもあった。 それを破門せい、とは……。〈――畜生、美能のやつ、また山口組のケツをかきおって〉 打越信夫は咄嗟(とっさ)にこれは美能幸三が描いた“絵”だと判断した。三代目山口組の山本健一若頭 「たしかあのころ、山村はうちの山口(英弘)の女房が経営しているバー『ラ・セーヌ』にときどき飲みにきておったようだ。愛人でもおったんやろ。それを知った美能が『山口英は山村組に情報を流している』と山口組幹部の山健(山本健一)さんなどに吹き込んだんだな。美能は山口英がいるかぎり頭を押さえられていたので、徹底的に山口英を嫌っていたのだ。それで山健さんらのケツをかいて山口英を破門に追い込んだんや」 打越信夫はそう解釈する。 山口英弘は裏切り者の汚名を着せられたまま破門となったが、これ以後、山村組も打越会も組内の粛清(しゅくせい)をめぐって紛糾(ふんきゅう)することになる。 打越信夫の話をつづけると、 「その後、山口組の安原さんと山健さんが『七人衆を舎弟にしたのだから、山村と手を切らせて一本立ちにし、打越会に入れるのが極道のスジやろ』といってきたのです。このことについては美能が強力にてこ入れしたのです。それで美能、進藤、網野、永田、服部が打越会にはいることになっていたのだが、交渉の結果、結局、美能しかはいらなくなった。すると山健さんが『それなら打越にこない他の者は破門せい』といって、美能を除く他の四人を破門にしたのです。これに対して山村は、逆に美能を山村組から破門にし、これでたがいに険悪な状態になっていったわけです」 つまり神戸山口組の大幹部がなかにはいって荒療治をしてから、広島やくざの分割地図も明確になり、山村組対打越会の対立の図式と人脈が整理されていったのである。 あとはそれなりの機会さえあれば、広島やくざの両雄が激突し全面戦争になることは火をみるより明らかであった。 昭和三十八年四月十六日、打越信夫夫人の父・大越作次郎氏が病没(四月十四日)したので打越会本葬を挙行。このとき、神戸はじめ山口組系各組から千人もの参列者が広島(宮島)へ繰り込んできた。山村組への威嚇(いかく)としては十分な効果をあげたのである。 本葬の翌日の四月十七日、広島戦争の火蓋は切って落とされた。 美能組若衆・亀井貢が呉市の繁華街、垣川通り八丁目の映画館「二劇」裏の路上で射殺されたのである。 これが、山村組対打越会の凄惨(せいさん)な戦いの幕あけである。銃弾飛び交う 美能組若衆・亀井貢は、その夜、自分が経営するスタンドバー「クインビー」にいた。 外からの電話で、亀井貢は店をでた。乗用車トヨペットコロナを運転して、店先から中通り方面へ二、三十メートルも走ったところで山村組の元中敏之、中畑良樹、上条千秋の三人と遭遇し、口論となった。 元中、中畑、上条の三人は山村組の行動派をもって鳴る樋上実の部下である。 亀井貢は元中と上条とに車から引きずりおろされ、背後から拳銃の台尻で後頭部を一撃された。 亀井はよろめいた。その直後、至近距離から数発の銃弾を見舞われ、乗用車の車体にべっとりと血のりを残して崩れ落ちた。 三人は風をくらって逃走した。午後十一時二十分。通り魔のような惨劇であった。 血まみれになって倒れていた亀井貢は通行人によって急報され、呉共済病院にかつぎ込まれたが、出血多量でまもなく死亡している。右胸部を撃ち抜いた一弾が命とりとなった。 これが広島代理戦争の発端だが、亀井貢はなぜ殺されたのか。 山村組幹部・美能幸三が打越会へ走ったため山村組を破門されたのが四月八日である。 殺された亀井貢も、もと山村組組員であったが、美能幸三とともに打越会へ走っている。 そのため山村組の行動派・樋上実一派から狙われた、というのが衆目の一致するところであった。 もともと美能幸三と樋上実とは山村組のなかでも対立関係にあったので、美能の裏切り行為に樋上が部下を使って襲わせた、とみるのである。 それを裏づけるように、襲撃の首謀者とみられていた樋上実は事件前日に呉からすでに姿をくらましており、警察は指名手配をかけた。四月二十九日夕刻、樋上実は立回り先の徳山市の映画館で逮捕され、元中敏之、中畑良樹、上条千秋の三名も五月十日、殺人容疑で逮捕されている。 亀井貢殺害のきっかけは美能と樋上との間の確執であったが、その確執は打越会対山村組の抗争を尖鋭化させ、そして、それは山口組対本多会の熾烈(しれつ)な血戦へとつながっていくのである。 両者の確執はついに血をみるに至った。 五月十六日、こんどは広島市に飛び火した。 この日、広島市南観音町二丁目で飲食店「やすべえ」を経営している安田正夫こと安昌奎さん(三十八歳)は、自動車解体業の前田文作さん(四十歳)ら五人とともに、通称中ノ棚とよばれる広島市の盛り場で夕方五時ごろから酒を飲んでいた。 そのうち、安田さんたちは近くの紙屋町タクシー事務所に打越信夫を訪問しよう、ということになった。 安田さんはかつて打越信夫の弟分として、広島市横川町一帯に勢力をもっていたスジ者である。 だが、いまでは足を洗って堅気の生活を送っていた。 安田さんは酒がはいった気安さから、打越信夫に挨拶(あいさつ)に立ち寄ろうとしたのである。一方、前田さんも職業柄、打越信夫を知っており、「じゃあ、ちょっと挨拶に」と軽い気持で仲間を誘い合っている。 安田さんを先頭に一行六人が、紙屋町タクシーの二階事務所へつながる階段を登ったのは午後五時五十分ごろである。 とつぜん、事務所から屈強な男たちが三、四人、気色ばんで駆け降りてきて、安田さんらの行く手に立ちふさがった。 「なんや、おまえらは」 「親分はおるかのう」 「!?……」 「親分に挨拶にきたんじゃけえ、通してつかあさい」 そんな短い会話が交わされている最中、降りてきた白のカッターシャツにマンボズボン姿のやせた角刈りの男が、いきなり拳銃を発射したのである。 安田さんは腹部に一発、銃弾を受けてその場に昏倒(こんとう)し、前田さんはおなじく左足を撃ちぬかれて二カ月の重傷を負い、近くの病院にかつぎこまれた。恐怖の平和都市恐怖の平和都市 ピストルを発射した男は打越会の組員・三橋巌夫である。 彼はてっきり山村組が殴り込みをかけてきたものと勘ちがいして、先制攻撃のつもりで拳銃を発射した、と自供している。 宵(よい)の盛り場のど真ん中で起こったこの殺人事件(安田さんは五月二十五日午前五時死亡)は、市民を驚愕させた。現場は電車通りから五十メートルほどはいった繁華街であり、問答無用と撃たれたのが一般市民であっただけに、衝撃的な事件として報じられた。 県警本部は五月二十五日、「暴力団犯罪一斉検挙本部」を設置して、二上本部長指揮のもとにきびしい態度で取り締まる方針を打ちだした。 が、山村組対打越会の抗争は取締本部を無視するかのようにすでに白熱化していた。すなわち、五月二十七日午前二時五十分ごろ、おなじ中ノ棚の盛り場で拳銃乱射事件をひき起こし、両者の抗争は一段とエスカレートしていった。 中ノ棚のバー「ニュー春実」の三階で野村英雄ら四人の打越会組員がトバク中、先ごろ打越会を破門された山口英弘が十数人の部下を引きつれ、乗用車二台で乗りつけてきたのである。 「ニュー春実」の三階の窓から顔をだした野村らと、路上の山口らが口論となって、たがいに拳銃の撃ち合いが始まった。 山口英弘は、かつて打越信夫の片腕として打越会若衆頭の要職にあった男である。同組員中にあって最大の子分二十五人を擁し、実戦派の闘将として打越会の大黒柱だったが、三月一日、打越会を破門されてからは兄弟分・樋上実のいる山村組に急速に接近し、はっきりと打越会に敵対する姿勢を示していたのだ。 深夜の繁華街でふたたび発生したこのピストル乱射事件は怪我人こそださなかったが、これではいつどこから流れ弾が飛んでくるともかぎらない。平和都市ヒロシマの名はたちまちにして無法都市、死の街と化し、血の抗争は「やられたら、やり返す」泥沼に突入していった。 もともと広島の盛り場は八丁堀の金座筋を境として東を山村組、西を打越会と分け合っていただけに、広島戦争は盛り場のど真ん中で火を噴いた形となった。 「ニュー春実」でのピストル乱射事件は、はたして「組のメンツにかけてもやられたら、やり返す」やくざの掟となって現われた。 六月十一日午前二時、山口英弘派アジトに近い宝町山陽高校西側の路上で、打越会組員と山口英弘派とが拳銃を撃ち合ったが、この抗争で、打越会・藤田逸喜が登山用ナイフで鼻と胸の二カ所を刺され、十七日死亡している。 二十一日夜から二十二日夕方にかけ、情勢はますます険悪となり、神戸の本多会、山口組をはじめ北九州、下関、防府、福山からぞくぞくと助っ人が広島の市街にはいり込んだという情報が流れ、その数は百人以上といわれている。 市内の盛り場は人通りもなく、家々ははやくから戸を固く閉ざし、市民たちはいつ突発するかわからぬ銃撃戦の不安におののいていた。 六月二十二日、広島県警本部は機動隊九百人を全員非常呼集するという、県警始まって以来の警備態勢を布き、ヘルメット、防弾チョッキで市内のパトロールにはいった。広島入りした組員たち 亀井貢殺害に端を発した山村組対打越会の抗争は、この段階では先制攻撃をしかけた山村組のほうに分(ぶ)があった。 打越会は後手、後手と回ってどうみても旗色が悪い。 戦闘員の数の上からみても、山村組の優位は動かず、このままでは打越会はじりじりと追いまくられていく情勢にある。 そんな危機感が日ましに濃くなって、神戸山口組の動きはにわかにあわただしくなってきた。 山口組大幹部・安原政雄は兄弟分の打越信夫と、それにつらなる美能幸三に強力なてこ入れをすべく、ひそかにその機会を狙っていたのだ。 安原政雄は七月八日、呉で行なわれる亀井貢の本葬にあたり、葬儀参列を名目に組関係者千五百人を呉に乗り込ませようとしていたのである。 地元や呉近郊の関係者を合わせれば、その数は優に二千人を越す大がかりな参列者となるであろう。 それだけでも山口組の大デモンストレーションとなる。他に比類をみない圧倒的な動員力をもって山村組に威圧を加え、もし一朝(いっちょう)ことあれば一気に山村組に決戦を挑むこともやぶさかではない。 だが、警察当局はいち早くこの情報を入手していた。抗争抑止に先手を打つべく、葬儀に先だつ七月五日午前七時前、呉署は八十人の署員を動員して葬儀主催者・美能幸三を傷害容疑で逮捕したのである。美能幸三を隔離することによって抗争の激化を阻(はば)もうという狙いであった。 しかし美能幸三の逮捕にかかわらず、亀井貢の本葬は予定どおり七月八日午後、呉市登町の妙法寺で行なわれた。 県下をはじめ神戸、北九州から山口組系関係者が六日午後から早くも広島入りし、当日の八日には約千人が大型貸切りバス十四台など車八十九台で呉入りし、その後もぞくぞくと集まり、総勢千七百人が集結している。この日、呉入りしたのは広島に本拠をおく打越会をはじめ、遠く東京から東声会、九州の石井組、神戸の山口組、大阪の一心会と、組関係の一流どころがつめかけ、山村組は完全に沈黙した。 動員された警官は千四百名に達した。白ヘルメットの武装警官隊と黒の喪服姿の組関係者とが、葬儀場でずらりと一列に相対し、奇妙なコントラストを描いていた。 山口組が圧倒的な動員力をみせた亀井貢本葬以後、広島は束の間、小康状態を保った。 ――あんなに大勢こられては、うかつには手をだせん。 そんなためらいが山村組の間に働いたことも事実だが、県警のきびしい警戒態勢、地元「中国新聞」の勇気あるキャンペーン、そして世論の高まりが両者の抗争を躊躇(ちゅうちょ)させた、といってよい。 七月二十八日、山村組を支援する神戸本多会の会長・本多仁介が引退し、副会長だった平田会の平田勝市が二代目・本多会会長として襲名した。 七月二十七日付「中国新聞」によれば、その引退襲名披露の案内状に特別賛助者、賛助者の名で大野伴睦自民党副総裁をはじめ、原健三郎衆議院副議長、中村幸八自民党副幹事長、野田武夫総務長官ら国会議員十四人のほか十府県の府県議・市議など九十三人が名をつらねている。火を噴くコルト 九月にはいると、両者の抗争はふたたび血をみた。 九月八日、広島市西部の繁華街である己斐町マーケットを根城にする西友会(組員四十八人)の会長・岡友秋は昼前、広島県安佐郡可部町の可部温泉にやってきた。 可部温泉というのは、国鉄可部駅から北へ三キロほどはいったひなびた温泉場である。 戦後できた鉱泉のわかし湯で旅館も四軒だが、温泉の少ない山陽道では利用客もかなり多い。 岡友秋はこの日、可部温泉の旅館「松福荘」で午後から行なわれる小学校の同窓会に出席するため、旧友十六人と昼前にやってきたのだ。 岡友秋は宿に着くとすぐ数人の旧友とつれだって、別館にある「松福荘」自慢の空中風呂へつかりにいった。 空中風呂は別館、新館の前庭に建ち、地上五メートル、直径六メートルの円型の総ガラス張りである。「松福荘」は、どの客室からも空中風呂の内部が見渡せるようになっている。 岡友秋がどっぷりと湯につかっているのを、新館の一室からみていた目つきの鋭い若い男がいる。山村組配下の吉岡信彦である。吉岡は前日夕方から「松福荘」に投宿し、計画的に岡友秋を待ち伏せていたのだ。 岡友秋は湯ぶねからでて体を拭いている。岡はやがて湯あがりのさっぱりとした顔で浴室をでてくるであろう。 吉岡は意を決したように、コルト45口径の八連発を懐(ふところ)にねじ込むと、黙って部屋をでた。 吉岡は新館の玄関前で、さりげない態度で岡友秋のでてくるのを待ち伏せた。 夏の終りを告げる蝉(せみ)しぐれが降りしきっている。腹巻のなかに、ずっしりと重い拳銃を握りしめながら、吉岡は喉の乾きをおぼえ、玄関前を行きつ戻りつしていた。 待つ間はなかった。空中風呂のある別館入口から岡友秋は衣類を小脇に抱え、下着一枚でこちらへやってくる。 別館から新館の玄関へはカギの手になっていて、そこに石灯籠(いしどうろう)が置かれてある。その石灯籠の陰から、吉岡は不意に岡友秋の前にぴたりと立ちふさがった。 「あんた、岡さんだな」 「――!?」 つぎの瞬間、吉岡のコルトが轟然(ごうぜん)と火を噴いた。 一瞬、岡の体がはじけ、数歩よろめいた。吉岡のコルトからはさらに五発が、よろめき歩く岡をとらえ、撃ち込まれた。 それでも岡は気丈であった。よろよろとすがるように新館の玄関方向に手をさしのべながら、力つきて玄関の前で昏倒した。 その岡友秋のこめかみめがけて、吉岡のとどめの一発が炸裂(さくれつ)した。岡は虚空をつかんだまま悶死(もんし)した。三十八歳の男ざかりであった。九月八日、午前十一時五十五分である。 吉岡はその場から裏山伝いに遁走(とんそう)したが、同日午後零時三十五分ごろ、安古市町の国道で非常警戒中の警官に逮捕されている。 岡友秋を狙った理由について吉岡は、 「岡に広島市民球場で殴られたことから復讐した」 と単独犯行を警察で主張しているが、吉岡は山村組の配下であり、一方の岡友秋は打越信夫の舎弟として打越会とのつながりは深い。 とくに岡友秋は美能幸三と親密な間柄にあり、美能とともに打越会へ走ったいきさつもある。そんなことから山村組とは敵対関係にはいり、亀井貢が殺害されたときは真っ先に呉へ乗り込んで美能組に肩入れをしている。 こうした背景が、山村組の憎しみを買った。そうみるのが妥当であろう。 いっとき平穏にもどった、とみられていた山村組対打越会の戦いは、岡友秋射殺事件をきっかけにふたたび激化し、ピストルの乱射からダイナマイトによる報復へと、さらにエスカレートしていくのである。激化する抗争激化する抗争 盟友・岡友秋が射殺されたことによって、打越会は猛然と反撃にでた。 九月十二日払暁(ふつぎょう)、山村組組長・山村辰雄の経営する広島市三川町のキャバレー「グランド・パレス」がダイナマイトで爆破されるという衝撃的な事件がもちあがった。 山村組の本拠は「グランド・パレス」である。 広島へ進出して以来、山村辰雄は呉へは帰らず「グランド・パレス」を根城に采配をふるっていた。店の前ではいつも数十人の組員が厳重に警戒し、細い階段をのぼりきった四階三十畳の広間には常時三十人の若い衆が詰め、山村辰雄もここに寝泊まりをしていた。 いってみれば「グランド・パレス」こそ山村組の最高作戦本部である。 その本部が爆破されたのだ。犯人はいうまでもあるまい。 爆発物はダイナマイトを十本ほど束ねた手製爆弾で、払暁ひそかに「グランド・パレス」の入口におかれていた。轟音(ごうおん)とともに爆発物は鉄枠入りのドアを吹き飛ばして壁に大きなひび割れをつくり、通路の天井にさがっていた蛍光灯六基と隣の映画館「リッツ」のウィンドーを破壊している。 怪我人はなかったが、ダイナマイトによるこの爆破事件は、山村組を震撼(しんかん)させるに十分であった。 ついで九月十九日の払暁、こんどは「グランド・パレス」から百五十メートルほど離れたところにある山村組幹部・原田昭三の経営する原田産業の事務所へ、またしてもダイナマイトが投げ込まれている。事務所の奥に寝ていた山村組組員三人には怪我はなかったが、木造モルタルの事務所は天井が落ち、ベニヤの板壁ははがれ、表玄関は吹き飛ばされた。 拳銃からダイナマイトへ。抗争は激化し、凄惨な殺戮(さつりく)戦へと突入していった。 原田昭三の事務所が爆破されて二日後の九月二十一日午後八時前、盛り場・流川町の東新天地広場付近で山村組、打越会の数人ずつがばったり遭遇した。 おりからの土曜日で宵の盛り場は人出も多く、殺し合いはその雑踏のなかで行なわれたのだ。 事件はまったく偶発的に起こった。路上で出会いがしらに両者が二言(ふたこと)、三言(みこと)ののしりあったかと思うと、もう拳銃の引き金を引いている。 連続して起こった数発の銃声とともに山村組組員・宮木敏明は右脇腹に一発、右肩に一発の銃弾をうけて倒れた。 つぎの瞬間、打越会の者は風を食らって逃げだしていた。あたりかまわず通行人をはじき飛ばしながら、遮二無二(しゃにむに)逃走する。 一人が逃げ遅れた。打越会組員・谷村祐八である。逃げるには逃げたが鈍足の悲しさで、たちまち追ってきた山村組の一人に背後から羽交締(はがいじ)めにされたと思うと、首筋に銃弾を撃ち込まれた。 谷村は口から血反吐(へど)を吐いて、かっと目をみひらいたまま、ゆっくりと路上に崩れ落ちていった。即死である。 瀕死(ひんし)の重傷をうけて血の海に転がっていた宮木も、二日後に病院で死亡している。 現場は繁華街。しかも、土曜日の宵である。 その路上で起こった惨劇は、広島市民を恐怖のどん底に叩きこんだ。 山村組も打越会も、そこが盛り場だという見境(みさかい)さえも失って、ひたすら血で血を洗うはげしい憎悪しかなかった。 県警本部は、ただちに数百人の警官を緊急配備させた。 商店はばたばたとよろい戸をおろし、通行人はとだえ、ものものしい武装警官の姿ばかりが目立った。 広島は死の街と化し、市民たちは家に閉じこもってじっと息を殺したままで、不気味な静寂が街全体をおおった。マイト爆発、拳銃乱射 山村組対打越会の、あくなき抗争を制圧すべく、県警本部は頂上作戦に踏み切った。 九月二十二日午後三時二十分、県警本部は山村辰雄、打越信夫以下両組関係者五人を暴行容疑で逮捕した。これを機会に一挙に両組織を壊滅させようという作戦である。 「これで広島も静かになるだろう」 山村辰雄、打越信夫の逮捕で警察も市民も安堵(あんど)の胸をなでおろした。 両方の組長をおさえておけば抗争は自然消滅するであろう。だれもが、そう思った。しかし、その見通しは甘かった。お互いの憎悪は、もはやぬきさしならぬところまできていたのである。 山村辰雄、打越信夫が逮捕された翌二十三日の午後九時半ごろ、神戸山口組事務所がダイナマイトで爆破された。 爆破箇所は事務所の地下便所付近で大事には至らなかった。山村、打越両組長の逮捕直後の事件だけに、県警側も色めきたった。 さらに、二十四日午前五時ごろ、広島市の鶴見橋西詰付近を走行中のタクシーから拳銃が発射されている。もし、流れ弾が一般市民に危害を与えていたらどうなったであろうか。 しかも、その早朝、呉市北迫町の山村辰雄宅の庭先にダイナマイト入りの罐(かん)が仕掛けられていた。導火線は途中で消えていて、爆破は未遂に終わっているが、暗闘はそれだけにとどまらなかった。 同日午前零時五十分ごろ、神戸本多会事務所前を黒塗り乗用車が徐行したと思うと、事務所内部へむけて猟銃弾が撃ち込まれた。広島戦争はまだまだ流動していた。 九月二十五日、呉市阿賀町に本拠をおく反山村組の小原組(小原光男組長)の組員五人が、山村組襲撃のため賀茂郡黒瀬町の山中で拳銃の発砲訓練をしていたことが発覚、翌二十六日、手入れを受けている。 捜査当局はそれまでに数十回におよぶ手入れで、山村、打越両組関係者を百十余名逮捕した。 両組の勢力はともに半減したかたちになってはいたが、しかし、不穏な抗争事件がいつまた火を噴いてもおかしくない状態にある。 「最後の一兵まで投じても戦う」という両者の対立は、もはや執念以外のなにものでもなかった。 不気味な鳴動は、はたして爆発の前兆であった。十月十三日、岡組(岡清登組長)の最高幹部・藤井幸一が射殺された。 その夜十時二十分ごろ、藤井は自宅裏の炊事場で顔を洗っていた。 その背後へ、音もなく黒い影が寄り添ってきた。 「幸ちゃん」 呼ばれて、藤井はふり返った。その瞬間、藤井幸一は至近距離から射たれている。 弾は腹部から臀部(でんぶ)を貫通し、藤井幸一は同夜十一時すぎ、付近の病院で絶命した。 藤井の親分・岡清登は、さきに可部温泉で射殺された西友会会長・岡友秋の実兄である。 岡兄弟はともに打越会派であっただけに、藤井を殺(や)ったのは当初、山村組かと推測されたが、藤井は息を引きとるまぎわに、 「野村に殺られた」 といっている。 野村というのは、打越会系河井組(河井勝治組長)の幹部・野村博である。 野村は、事件発生から三時間後に河井組長の自宅付近で逮捕された。広島戦争の終焉(しゅうえん)戦力後退 この事件は打越信夫にとっては衝撃であった。おなじ系列下の、いわば味方同士の反目から起きた殺害事件だからだ。 抗争の原因は両者の縄張り争いで、些細(ささい)なケンカをきっかけに殺しをひき起こしたのである。 〈こんなつまらんことで、内部分裂が起こらなければよいが……〉 打越信夫は、ひそかにそれをおそれた。 岡組も河井組も、つまらない争いごとで反目している場合ではない。当面の敵は山村組という地下帝国である。大同団結して鉄の結束がのぞまれるとき、この不測の事態はなんとも苦々(にがにが)しかった。 岡組対河井組の内部闘争に進展するかにみえたこの殺害事件は、警察の封じ込め作戦で暴発はまぬがれたものの、打越信夫にとっては薄氷を踏む思いがあった。 抗争は下火となった。 当局の強硬な取締りに、ようやく両者は出血の大きさを思い知らされるようになったからである。 どんな小さないさかいでも県警本部は容赦(ようしゃ)なく取締りにでて、そのつど両者の戦力は大きく後退させられた。 遅まきながら自戒の念が高まって、両者は一歩退き合って睨(にら)み合うかたちとなった。 だが、山村辰雄はその間に戦力と資金の立て直しを図っていた。 翌昭和三十九年五月二十日、山村辰雄は同志を糾合(きゅうごう)して政治結社「共政会」を発足させ、勢力の挽回(ばんかい)にでたのである。 その傘下に集まったのは、山村組二百五十人をはじめ、かつて宿敵関係にあった村上組百四十人を迎え入れ、さらに浜本組四十人、山口(英弘)組四十人、徳山の浜部組二十人などを加え、準構成員を合わせると傘下七百人という中国地方第一の大組織を結成したのである。 本部を広島市昭和町に設置し、会長の座には山村辰雄自身が坐った。副会長には村上組の幹部・村上正明を据(す)え、理事長、幹事長には服部武、山口英弘、栗栖照巳らの実力者が名をつらねた。 山村組は以前を上回る大勢力をもって、打越会との差を大きく開こうとしたのである。 一方、これに対して打越会は、たびかさなる抗争で山村組以上に戦力は逼迫(ひっぱく)し、組員百十人のほか友好団体は西の岡組、西友会、河井組の各二十人、美能組六十人、小原組百人、地道組二十人、計六団体三百六十人にすぎなかった。 それでも打越会は、広島市三川町の通りを境界線に山村側と鋭く対峙(たいじ)していた。 だが、力の均衡からみれば、やはり共政会を発足させた山村側に分(ぶ)があった。勢力は大きく開いた感があり、しかも共政会は力の差を背景にして、市内東部一帯の打越会の縄張りを侵食しはじめる一方、打越会から組員の引き抜きをはじめるなど攻勢にでてきた。 両者の間にまたしても険悪な空気が醸成(じょうせい)され、八月三十一日、血戦は再開された。 午前零時半すぎ、共政会山口(英弘)組の楠本富夫、西本義則らの三人がキャバレー「グランド・パレス」前でタクシーを降りようとしたとき、いきなり打越会の島田鞆夫、井上正三、沖扶美男の三人に襲撃されて拳銃四発を乱射された。 楠本はタクシー内で胸部二カ所を撃たれて即死。西本も車内で両腕を撃ちぬかれて三カ月の重傷を負った。 広島の盛り場でまたしても血の抗争がはじまった。殺傷された楠本も西本も、もともと打越会組員であったが、共政会に引き抜かれて打越会を去っていった者たちである。 「背広一着ぐらいで寝返った裏切り者め」 と島田らの反感を買い、たまたま事件発生の三十分前、路上で双方が口論となり、それが凶行に発展したのである。広島戦争の終焉(しゅうえん) この殺傷事件は両者の憎悪を如実に示したものであるが、十月三日、こんどは呉で共政会住吉組組長・住吉辰三が打越会系小原組組員に射殺されている。 その日の夕方、住吉辰三は近所の公衆浴場「衛生湯」からでてきた。 住吉辰三は共政会の実力者、服部武理事長の舎弟である。 組員七、八人であらたに住吉組を結成して間もなかったが、呉の新興勢力として住吉組の動向は注目されつつあった。 「衛生湯」から濡れタオルをさげ、ぞうり履(ば)きででてきた住吉は、ゆっくりと帰宅の途についた。 それを待ち伏せていたように「衛生湯」の横手から、一人の若い男が住吉のあとをつける。市電通りの坂道をのぼり、十五丁目停留所から右へ折れると住吉の自宅である。途中、若い尾行者は路上で待ち伏せていた二人組と合流し、三人で住吉殺害の機会をうかがっていた。 住吉は暗殺者に狙われていることなどつゆしらず、おそらく湯あがりの火照(ほて)った肌を秋風になぶらせ、いい気分であったろう。 市電通りから右へ折れ、上田ドレメ学院前まできたとき、住吉は背後から左背部、左後頭部に二発の凶弾を受けて即死した。午後五時すこし前であった。 広島戦争は、六年間の長きにわたって抗争をくり返したが、住吉辰三の殺害事件を最後に、流血沙汰(ざた)はようやく終りをつげる。 この間に中国地方五県警の扱った検挙者数はじつに三千二百六十五人、五千百七十三件であり、いかにはげしい抗争であったか、そしていかに徹底的な取締りであったかがわかる。 昭和四十年六月九日、山村は引退し、共政会二代目会長に服部武が就任した。 同年八月二十三日、打越信夫は侠道会会長・森田幸吉の世話で山口英弘と手打ちを行ない、ようやく両者の歩み寄りとなった。 共政会と打越会の手打ちが行なわれ、広島戦争に一応のピリオドを打っのは昭和四十二年八月二十五日(当時、共政会理事長は山田久)のことである。場所は広島市内の料亭「芙蓉別館」、世話人は海生逸一である。 打越信夫は熾烈(しれつ)、非情だった広島戦争をふり返ってつぎのように述懐している。 「広島戦争は終結までに六年を要したが、昭和三十八年から三十九年にかけての約一年間が抗争のピークであった。 その一年間で、わたしは戦費に一億円は使っていると思う。 山村組もうちも、戦闘服はカーキ色の作業衣だった。抗争当時の事務所の雰囲気は組員全員が血走っていて、目にはいるものすべてが敵にみえた。わたしの自宅付近は警察のジープが二台で、五、六人の警官がいつも偵察していたし、約一年間は当局に見張られていたように思う。 そのころは自宅には二十人、事務所のほうには五十人を常駐させていたので、出前のソバ屋まで恐がってはいれなかったほど殺気だっていた。 わたしも本当に夜、ゆっくり眠れた日は一日もない。 美能幸三が『仁義なき戦い』という本を書いているが、本人は抗争のもっともはげしいときに刑務所入りしているので、抗争そのものの事情についてはあまり知らないはずである。 それにだ、いくら不満のあった親分であろうと、あんなに親をけなしてはいかん。『泣いた』だの『押入れに逃げた』だのと、あれでは山村は踏んだり蹴ったりだ。あの本によって、広島のやくざ、ひいては全国の極道があんなものかと思われると恥ずかしい気がする」(※徳間文庫カレッジ『完本 山口組三代目 田岡一雄自伝』第三部 仁義篇より転載)  

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    司忍・六代目山口組組長が語っていた「弘道会の強さの秘密」

     司忍・六代目山口組組長、高山清司・若頭を輩出した組織としても名高い名古屋の「弘道会」。暴力団を40年にわたり取材してきた溝口敦氏は、新刊『抗争』(小学館101新書)の中で、1988年に司忍組長をインタビューした際、彼が語っていた弘道会の強さの秘密について、こう紹介している。(文中敬称略)* * *出所後、JR新神戸駅に到着した山口組六代目の篠田建市組長(中央)=2011年4月9日司「うちに強いというイメージがあるとしたら、結局、われわれが神戸から中京に入って行ったときには『なんや山口組? どこの組や?』いう時代だったでしょう。しかも警察の圧力、地元の団体の圧力にたえずさらされておった。 それからうちの一組で五つも六つも地元の組織とやり合って、ずーっと来てるから。今回みたいな大きな抗争(山口組・一和会抗争)になっても、手弁当で喧嘩するいう意識が残ってる。ゼニはないけど、握り飯食ってでも喧嘩やるぞという気持ちがあるから。うちは貧乏してる組だから、手弁当で『よっしゃ、喧嘩するんや』といういいとこは残っとるわね、田舎の出の人間が多いもんでね(中略)。 まあ極端にいえば、われわれ山口組の者が、日本全国どこも山口組の縄張りなんや、と。よそ様の費場所で飯を食わしてもらっとるんだという意識は、われわれは持ってないわけですな。開拓したとこは城なんやと、そういう気持ちでおるもんで、そこら辺のギャップというか、やっぱりあるわな」※溝口敦/著『抗争』より関連記事■ 暴排条例対策で山口組 破門状は郵送からファクスに切り替え■ 38年ぶりに新創刊の山口組新報 俳句や川柳、釣り特集もあり■ 名古屋繁華街の飲食店をまとめあげた山口組若頭の「経営手腕」■ 山口組組長実子挙式 大物政治家や大スター列席の時代あった■ 佐野眞一氏 山口組社内報の仕事誘われ心動かされた過去告白

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    名古屋繁華街の飲食店をまとめあげた山口組若頭の「経営手腕」

     司忍・六代目山口組組長、高山清司・若頭を輩出した組織としても名高い名古屋の「弘道会」。暴力団を40年にわたり取材してきた溝口敦氏の新刊『抗争』(小学館101新書)には、弘道会が名古屋で力を持った背景に高山の手腕があるとの地元組長の証言が紹介されている。(文中敬称略)* * *弘道会会長の高山清司被告=平成22年11月、京都市内 名古屋の繁華街である栄や錦には風俗店が密集し、地元勢のいい費場所だったが、おおよそバブル期には弘道会の管理下に入ったという。 「弘道会の若頭だった高山清司が考え出したことだが、飲食店や風俗店から月々組合費を集める。それをもともとその地を費場所にしていた地元組織に分ける。地元勢としては集める手間もトラブルも要らない。これはいいとなった。弘道会としても組合費からカスリを取れる。一挙両得のわけで、栄や錦三(錦三丁目)も弘道会の手に落ちたわけだ」(地元組長)※溝口敦/著『抗争』より関連記事■ 暴力団幹部 犬をバカにされ「わび入れろ」と怒鳴り逮捕される■ 司忍・六代目山口組組長が語っていた「弘道会の強さの秘密」■ 愛知おでん名店 絶品大根は八丁味噌つゆで煮込み1人1個まで■ 東北の避難所で暴力団が3万円入りの茶封筒配り住民を懐柔■ スガキヤ冷しラーメン 「マヨネーズと相性抜群」と同社広報

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    「大阪戦争」山口組トップ狙撃事件の首謀者が真相激白

     日本最大の暴力団「山口組」のトップが狙撃される前代未聞の事件が37年前、京都のナイトクラブで起きた。事件の首謀者は、松田組系「大日本正義団」2代目会長だった吉田芳幸さん(72)。武闘派とまで呼ばれた親分だったが、後にキリスト教に回心し、神の教えを説く伝道者となった人物だ。裕福な家庭に生まれながらも、父親が経営していた会社の倒産で貧しい幼少期を送り、「日本一のヤクザになる」と極道の世界へ。山口組との熾烈(しれつ)な暴力団抗争を繰り広げた末に逮捕され、刑務所の中でさえ山口組関係者から常に命を狙われた。日本中を震え上がらせた抗争事件の裏に何があったのか。産経新聞の取材に対し、吉田さんが重い口を開いた。裕福な生活から極貧へ 「タンスの中にお金がたくさんあって、それを盗んでは友達にあげていた」 昭和18年1月、大阪府布施市(現東大阪市)でも屈指の資産家の家に生まれた。父親は糸工場の経営を番頭に任せ、ずっと家を留守にした放蕩三昧(ほうとうざんまい)。工場の経営はみるみるうちに傾き、小学3年のとき、倒産した。 「税務署の人が家にやってきて、全部持っていかれた。残ったのは火鉢だけ。冬も兄弟で薄い蚊帳(かや)をかぶって寒さをしのいでいた」 待っていたのは極貧の生活だった。1玉のうどんにしょうゆをかけ、それを家族で分け合って食べていたほど。3つ年が離れた兄の芳弘氏が新聞配達を始めると、自分も新聞配達や牛乳配達をしながら家計を助けた。一方、「不良とよくけんかをしたが、弱い者はいじめたりしない。正義のヒーローだった」とも振り返る。 そんなとき、芳弘氏が「不良をやめてヤクザになる」と言い出した。自分が進学した工業高校のラグビー部の先輩にも暴力団関係者がいた。 「ヤクザは美人を伴っていて、ワニ皮の財布の中に札束を入れていた」闇取引で巨万の富 腕っぷしには自信があった。仲間の一人が松田組の組員とけんかして、大阪・西成の組事務所に連れ込まれたと聞くや否や、仲間を助けたい一心で組事務所に乗り込んだ。 「ええ根性しとんのう」。たまたま居合わせた松田組系宮本組の親分に根性を買われ、「うちに来い」と〝スカウト〟され決心。高校を中退し、組事務所での下積み生活が始まった。 「おれは日本一のヤクザになってやる。どうせやるならトップだ」 そう心に誓い、夜も明けきらぬうちから大阪の中央卸売市場の青果店でアルバイトし、組事務所での「お務め」が終われば博打(ばくち)場で下足番をして稼いだ。市場で芳弘氏がけんかの末に刺されれば、“犯人”を捕まえて「ぼこぼこにいわせた」。 23歳の若さで家を建て、24歳になると「がま」と呼ばれる入れ墨を背中に入れた。「体を汚すということは親と縁を切るということ。親分は自分の親であり、一生ヤクザをするという気持ちの表れ」だった。 海外にも渡航し、拳銃や覚醒剤の闇取引で巨万の富を得た。「罪悪感はあるが、金を持っている方がヤクザは上。金もうけしたろと…」。極道の世界では何よりも金がものを言った。香港で高級時計の偽物を1つ3500円で仕入れると、日本では10万円で売れたという。「仇(かたき)は山口組3代目」 40年前の昭和50年7月26日、後に「大阪戦争」と呼ばれる暴力団抗争の火ぶたが切られた。賭場でのトラブルから、大阪府豊中市の喫茶店「ジュテーム」で、山口組直系佐々木組傘下の組員3人を、松田組傘下の溝口組組員らが射殺したのだ。山口組トップ狙撃事件について語る牧師の吉田芳幸さん。当時は武闘派と呼ばれ、山口組組員に射殺された兄の復讐のため、命を捨てる覚悟で山口組との“全面戦争”に踏み切ったという=大阪府東大阪市 報復合戦は熾烈を極めた。51年10月、大阪・日本橋の商店街で松田組系の大日本正義団の初代会長を務めていた芳弘氏が山口組系組員に射殺される。35歳だった。跡目は吉田さんが継ぎ、2代目会長に就いた。 「仇は組織の頂点。山口組3代目、田岡一雄組長。よし、全面戦争だ。このままでは絶対終わらせない」 吉田さんは復讐(ふくしゅう)を誓い、配下の組員らは芳弘氏の遺骨を懐中に忍ばせた。 ただ、山口組は当時で1万人超の組織。自分の配下の組員は約70人だった。「人数ではとても勝てないが、兄貴は日本一の組長だった…」。命を捨てる覚悟を固めた。 芳弘氏の死から2年近くの歳月を経たある日。京都・京阪三条駅前のナイトクラブ「ベラミ」に、田岡組長が立ち寄っているとの情報を得た。配下の組員と近くのマンションの一室を借りて網を張り、毎晩、作戦会議を繰り返した。 田岡組長のボディーガードは20~30人。それに対抗しようと、射撃が得意な組員を川に連れては水面に向かって撃たせた。組員らに客を装ってベラミに日参させたという。ベラミ事件の真相 「来ました!」 ついにその日が訪れる。53年7月11日、蒸し暑い夜だった。 店内に潜入していた鳴海清組員=当時(26)=から一報が入ると、吉田さんは「10分間待て」とだけ伝え、配下の幹部2人を車で向かわせた。 しかし、車はベラミに向かう途中でパンク。2人が約30分遅れて到着すると、ちょうど鳴海組員が店内から出てきたところだった。 「どないした! 殺(や)ったんか」。幹部が声を張り上げると、鳴海組員は「取った。手応えはあった」と話した。鳴海組員を車に乗せるまで、山口組の追っ手は来なかった。 銃弾は確かに田岡組長の首を貫通したが、奇跡的に一命を取り留めた。テレビニュースを見て復讐が失敗に終わったことを知った鳴海組員はその場で泣き崩れたという。 「あの2人が間に合っていたら、完全に取っていた(殺していた)だろう」。吉田さんは今でもそう思う。「1万人超組織」からの逃避 山口組の報復は執拗(しつよう)で残忍だったとされ、「捜索能力は警察よりも確実」と評されることもあった。にもかかわらず、逃亡先に選んだのは、山口組のおひざ元、神戸市だった。「一人でも多く殺して、死んでやるという思いだった」 鳴海組員はサングラスや帽子で変装し、神戸の夜を出歩いた。だが、大胆とも思える行動が影響したのか、鳴海組員はその年の9月17日、六甲山中(兵庫県)で腐乱死体で発見される。遺体には激しい暴行の痕があった。遺体の背中に残った入れ墨をもとに身元が特定された。 「自分の命をほって(捨てて)くれた。残念だと思うが、仕方がない」。吉田さんは静かに語る。この事件は未解決のままとなっている。 吉田さんは、警察と山口組関係者の追っ手から逃れるように隠れ家を岡山に移したが、兄弟分の組員に連絡をとったことで足がつき、ベラミ事件から3カ月後、大阪府警に殺人未遂容疑で逮捕された。「まだ戦う気だった。悔しかった」 警察は総力を挙げ、報復抗争にかかわった山口組の主要幹部ら282人を摘発し、傘下の7組織を解散させた。大阪戦争は53年11月、山口組が一方的に「抗争終結」を宣言し、終わりを迎えた。 吉田さんは懲役5年の実刑判決を受け、札幌刑務所に収監された。 北海道なら山口組の影響力が及ばないとみられたからだ。しかし、収監先が札幌刑務所という情報はすぐに広がり、山口組系の組員は札幌で次々と事件を起こし、約30人が札幌刑務所に送り込まれてきた。 「はじめから腹をくくっていたから、いつ殺されてもいいが、黙って殺されはしないぞ、と思っていた」 吉田さんは「五舎」と呼ばれる独居房から一歩も外に出ることが許されない生活を強いられた。キリスト教への回心 吉田さんは出所後、韓国へ渡った。事件前に知り合ったクリスチャンの韓国人女性に会うためだった。 女性は吉田さんの子を産み、育てていた。「刑務所を出てきたときには娘は幼稚園に上がっていた。妊娠していたとは知らなかった」。その後、吉田さんの人生は大きく変化する。 帰国後、結婚。「神さんは弱い者が頼るものや」と、クリスチャンの妻に暴力を振るったこともあった。かつては数十億円の現金を動かしていたのに、何をやってもうまくいかず、数百円にも事欠くありさまだった。 だが、「不思議なことに、妻が神に祈ると難問は次々に解決した」。病に伏せていた親類が一気に快方に向かうなど、数々の奇跡を目の当たりにした。「彼女は神様の声が聞こえる」と次第に考えるようになった。 そして「平穏な暮らしをしたい。夫をクリスチャンに」という妻の願い通り、40代半ばで極道の世界から足を洗った。数年後には自ら洗礼を受けた。新約聖書に出てくる悪党の「バラバ」に自分の姿を重ね合わせた。バラバは死刑が決まっていたが、悪の限りを尽くしたバラバに変わってイエスが罪を受けたとされたからだ。あらゆる悪に手を染めた自らを悔い改めた。 「私の場合、イエス様を信じたら、みんなも私を信じてくれるようになり、人生が変わった」 吉田さんは今、キリスト教の牧師、信徒代表の長老として、東大阪市の「ベタニヤチャーチ」をはじめ、世界各国で伝道を続けている。 大阪戦争から40年がたち、暴力団を取り巻く社会情勢は大きく変わった。 吉田さんは「ヤクザのときは自分の力や金がすべてだった」とつぶやき、自戒の念を込めてこう続けた。 「時代は変わった。あのままヤクザを続けていたら、今ごろまた刑務所の中か、もう死んでいたかもしれない」

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    無関心が問題、社会全体で子供を見守るべき 寝屋川事件の教訓

     大阪府寝屋川市で発生した2人の中学生殺害事件──。中学1年生の平田奈津美さん(享年13)と星野凌斗くん(享年12)の遺体が見つかり、契約社員の山田浩二容疑者(45才)が逮捕された。 山田容疑者と2人は8月13日明け方5時の京阪寝屋川市駅周辺で接触したとされる。そして、防犯カメラには、事件に巻き込まれる直前の2人の様子が映っていた。深夜の商店街を行ったり来たりしている奈津美さんと凌斗くん──。 子供の外泊や夜間外出は現代では決して他人ごとではない。事件を知って、「ウチも…」と感じた親は少なくないのではないか。国立鳴門教育大学の阪根健二教授(学校教育学)はライフスタイルの変化が大きな要因だと指摘する。「24時間営業のコンビニやファミレスの登場で子供のライフスタイルも変わり、子供が夜中に集う場所ができた。子供が夜中に外出しても社会的な違和感がなくなりつつある」 携帯電話やLINEの普及も環境を大きく変えた。「昔は一家に一台の固定電話しかなく、子供同士が連絡するには相手の自宅に電話をする必要があった。今は携帯やLINEで夜中でも手軽に連絡が取れるため、子供同士で集まれ、親が子供の動向を把握しきれない」(阪根教授) 今回の事件でも奈津美さんは深夜3時過ぎまで友達とLINEをしていたが、今時の中学生としては決してめずらしくない行為だ。今年2月に起きた神奈川・川崎の中1殺害事件でも、少年少女はLINEを駆使し、大人の知らないところで複雑な関係を築いていた。 女性の社会進出が進んだことやシングルマザーが増加したことも一因だ。40代のシングルマザーが証言する。「働きながら中学生の息子と小学校低学年の娘を育てていますが、夜9時を過ぎるなど帰りが遅くなる時にお金を渡して、“妹を連れてご飯を食べて先に寝てなさい”と言うこともあります。子供には悪いけど、働かないと食べられないので…」 塾通いなどで一般家庭でも子供の深夜外出のハードルが年々、低くなっている。「子供は中学生ですが、高校受験のために夜10時まで塾に通っています。普段は送り迎えしていますが、1人で帰らせる時もあります。本人が集中できるというので、深夜近くまでファミレスで勉強することも…。夜間に子供が外出することの抵抗感は少なくなっている」(40代主婦) 最大の問題は「大人の無関心」だと阪根教授は強調する。「コンビニ、携帯電話など、さまざまな要因が重なり、親が子供の深夜の外出に関知しづらくなり、子供が深夜徘徊していても、周囲の大人が注意しなくなった。今回の事件でわかるように、大人の無関心が最大の問題です。親だけでなく、社会全体で子供を見守る必要があります」 悲劇を繰り返さないためにも、今回の事件から学ぶことは多い。関連記事■ 小中学生 携帯電話の代金が最も高いのは中学2年生の5395円■ ママ友LINE事情 大企業夫持つ美人ママには即レスの傾向あり■ 名簿情報 30代、40代より、50代以上の高齢者が人気を集める■ 大人とは違う子供のうつ病の症例 暴力的になることもある■ 体中に絵の具塗る人間魚拓 持ち帰り可で一生の思い出になる

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    大阪中1殺害 子供保護強化の法整備を

    大西宏(ビジネスラボ代表取締役) 寝屋川市の平田さんと星野くんが山田容疑者に殺害された事件はほんとうに痛ましく、犯人の残虐さには怒りがこみ上げてきます。テレビに繰り返しおふたりの画像が流されていましたが、まだほんとうにあどけなく、そのことがなおさら事件の痛ましさを感じさせます。若くして命を奪われたおふたりに心からご冥福をお祈りします。 寝屋川市といえば、「火花」で芥川賞を受賞された又吉直樹さんや米国のレッドソックスで活躍している上原浩治投手の出身地です。「火花」のなかで頻繁にでてくる方言はまさに寝屋川市近辺でつかわれる北河内弁を感じさせています。もうずいぶん昔の話になりますが、この地域の子どもたちにラグビーを教えていたこともあって身近な地域で、肩肘の張らない、庶民的な土地柄でした。 それだからよけいに、心の隙も生まれたのでしょう。まだ幼いふたりが、無邪気に深夜の商店街を歩く姿、また近隣で子供たちが日常的に深夜に群れている様子が報道され、また猫爺なる人物も登場していましたが、そこに映されていたのは安全を信じきっている子どもたちの姿です。 しかし、この事件は、ほんとうに身近な、ごく日常の世界に潜んでいるという現実を思い知らせたのです。しかも、山田浩二容疑者は、2002年に同じ寝屋川市で、手錠をかけ男子中学生を車中に監禁し逮捕された過去、また男子高校生を粘着テープで縛り監禁し再逮捕された過去を持っていたとなると、誰もが安全だと信じている街に、ほんとうは危険が潜んでいたのです。大阪・高槻の中1殺害:容疑者、中高生監禁で02年に逮捕歴 - 毎日新聞 この痛ましい事件の詳細は今後の捜査であきらかになっていくのでしょが、子供の安全保護に対する対策強化の動きにつながってくれればと思います。今回の防犯カメラ画像を解析する捜査はたいへんな手間がかかったと思いますが、平田さんの遺体発見からは速いといえる逮捕につながりました。警察の捜査力が示されたと感じます。事件の全容もおいおい判明してくるのでしょうが、やはり事件は未然に防がないといけません。星野凌斗くんの遺体が発見された現場=8月24日午後、大阪府柏原市(甘利慈撮影) まだ幼い子供が深夜に保護者なしに街を彷徨するというのはどう考えても異常です。この種の事件だけでなく、炎天下の車中に子供を放置し、命を落とすという事件もありますが、親や社会の保護責任をより明確にする法律を整備する必要があるのではないでしょうか。諸外国にくらべ、保護責任を果たさなかった時の処罰も明確でないように感じます。 すくなくとも、深夜に子供だけで外出させることは親の保護責任の放棄でしょうし、深夜に子供がたむろしているのを目撃して通報しないのは社会の保護責任放棄じゃないかと思います。 しかし、法律でルール化しておかなけば、近隣の友達と一緒なら大丈夫と思ってしまいがちでしょうし、また深夜に子供を目撃してもおそらく通報する人はないと思います。 かつて中高生の監禁事件があり、その犯人がいまだに近辺に住んでいることを、おそらく周辺住民にどれだけ周知されていたかも疑問で、行政に周知徹底させる義務を追わせれば、また子供の保護強化につながります。ぜひ国と地方が連携して、家庭と社会が子供をまもることにとりくんでいただきたいものです 。(「大西 宏のマーケティング・エッセンス」2015年08月22日より転載)

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    皆で考えましょう。子供の深夜外出、親の責任

     全容は分かっていませんが、痛ましい事件が私たちの心を痛めています。 大阪府寝屋川市の中学生の男の子と女の子、2人が巻き込まれている事件です。すでに女の子は、13日に高槻市内で無残な姿で見つかりました。もう1人の少年については、まだ行方が分からないというのが現状です。 こうした事件が起きても、私たちはこれからの捜査を見守っていくしかできませんが、なぜこのような残忍な犯行になったのかについては、警察が犯人をしっかりと検挙をして、そして今後の社会の教訓にしていく必要があると思います。 当然、事件は犯人が悪いわけです。これが大前提で、その上でこうした機会に考えなければならないことがあります。 テレビコメントなどでは遠慮されてなかなか発言は無いようですが、中学生などまだまだ小さな子供が真夜中に出歩くということについて、家庭も社会もそして地域も考える必要があると思います。 過去をあえて持ち出しますが、横浜市長を務めていた平成15年に”夜間外出禁止令”を提案したことがあります。 これは、当時の東京都・石原知事、埼玉県・上田知事など首都圏八都県市の首長が集まる首脳サミットで「子供達が夜間に出歩いて事件や事故に巻き込まれたりすることについて、親はもっと責任を持たなければいけない。そのためには親が子供をきちんと保護することについて罰則化も検討すべきではないか」と発言したものです。 これには伏線があります。 神奈川県や他のほとんどの自治体には当時から青少年保護育成条例というものがあり「午後11時から午前4時まで保護者は子どもを外出させてはならない」とされていました。 (ただし、例えば社会的慣例の盆踊りや、指導者がいるキャンプ、夜間学校の通学、早朝の行事などは例外にしています)ところが、この条例の存在は私の感覚ではほとんど誰も知りませんし、また、親の規範が崩れてきてもいました。 実際に、次のような例も多くありました。 子供が真夜中にうろうろしていたので警察官が保護する ↓ 保護した警察官が、親に電話を入れる 「お宅の息子さん(あるいは娘さん)を保護しています。ぜひご家庭で迎えに来てください。」 ↓ 親が電話口で答える 「こっちは今寝てるんです。うちの子がなんか悪いことしましたか?してないんだったらそのままにしておいてください。」 このような例は明らかに親としての責任を放棄しています。 私はこのような実態をよく見聞きしていたので、あえて八都県市首脳会議で「青少年の深夜の外出に対する保護者への罰則規定」を議題として挙げたわけです。結局、罰則などは設けることはありませんでしたが、私は罰則化が目的ではなく問題提起することによって世の中がもう一度、意識しなおすきっかけにしたかったのです。 今回の高槻市の事件がこのようなケースに該当するはわかりません。そして事態はこれからしっかりと解明していくしかありません。 ただし、私たちはこの事件も教訓に、まだまだ保護が必要な未成年を抱えている家庭、また地域のおいて、子供に外を出歩く時間でない時はしっかりとそう伝えていくことが必要だと思います。 今回私が本ブログで申し上げていることは、この事件で悲惨な状況に巻き込まれている保護者を責めるものではありません。 私には事件の全容はわかりません。 その上で私たち皆が、こうした機会に再度考えましょうと申し上げておきたいと思います。 まだ犯人は捕まっておりません。警察には一刻も早い逮捕をお願いします。※「中田宏公式WEBサイト」2015年8月21日より転載。

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    大阪中1殺害、なぜ事件は防げなかったのか

    痛ましい事件が起きるたびに、考えさせられることがある。なぜ事件は防げなかったのかと。大阪府寝屋川市の中学1年の少年少女が遺棄された事件もまた、社会に重い課題を突き付けた凄惨な事件だった。

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    肥大した欲望を抑えるだけの社会との絆はなかったのか

    碓井真史(新潟青陵大学大学院教授) 不可解な部分が多い事件である。逮捕された山田浩二容疑者は、容疑を否認している。ここでは、容疑者が二人の中学生を殺害、遺棄したと仮定して、いくつかの点について考えられる可能性について述べてみたい。 なぜ二人の中学生を殺害したのか。殺人事件で最も多い動機は、人間関係のからみである。怒りや恨みによる犯行である。しかし、容疑者と被害者に人間関係はなさそうである。金銭目当てでもない。何か別の重大な犯罪を目撃されたわけでもないだろう。強姦目的でもなさそうである。 そうすると、殺すこと自体が目的だったのではないかと考えられる。容疑者は、以前にも少年を誘拐し、拘束する事件を起こして逮捕されている。被害者を苦しめること、殺すこと自体に、何らかの快感があったのかもしれない。いわゆる「快楽殺人者」は、殺人や遺体損壊に性的快感を感じる殺人である。今回の事件が、快楽殺人だったのかどうかはまだわからない。平田奈津美さんの遺体が見つかった現場には、メッセージの書かれた花束が供えられた=2015年8月22日午前、大阪府高槻市(安元雄太撮影) 被害者の男子中学生の遺体は、林の中に遺棄しているにもかかわらず、女子中学生の遺体は人目につきやすい駐車場に遺棄されている。彼は、通常の犯罪者のように全力で犯行発覚を防ぐ気持ちはなかったのだろう。二人の被害者の遺体の扱いが大きく異なるのは、連れ去った最初の段階から、男女二人に対する思いが違ったからなのかもしれない。 男子中学生の遺体は発見を遅らせたいと考え、女子中学生の遺体はむしろ早く発見して欲しいと願っているかのような遺棄の仕方である。可能性としては、遺体を早く発見させ遺族に返したいと思ったのかもしれない。あるいは、深い傷跡が残る遺体を見せつけたかったのかもしれない。 怒りや金銭目的など通常の動機とは異なる、異様な動機で行われる猟奇的殺人事件。これらの犯人たちの多くは、歪んだ空想を膨らませすぎた人々である。たとえば、殺人や血が噴き出す場面に快感を感じる。あるいは、少女を誘拐してまるで夫婦のような生活をする。このような想像をしながら、彼らは楽しんでいる。 さらに想像だけではもの足らなくなると、写真やビデオで満足しようとする。この段階で止まっているならば、大きな犯罪にはならないのだが、異様な空想が膨らみすぎると、犯行を実行しないではいられなくなってしまう。 多くの異様な欲求を持つ人々は、自分の異様な欲求を飼い慣らし、自分の行動をコントロールしている。そして、社会的に認められる範囲内で、欲求を満たしている。しかし、欲求が強すぎる場合、あるいは社会の中で地道に生きていく意欲を失った場合、そして狙いやすい被害者の登場など犯行を実行できる環境が整った場合に、犯罪は実行される。 今回の容疑者は、前科があるものの仕事をして、社会生活を営んでいた。彼のフェイスブックを見ると、一見楽しそうな日常生活が浮かび上がってくる。しかし、たとえば先月彼が母校の中学校を訪問した際の投稿がある。そこで彼は、次のように述べている。 「卒業してからメッチャ波瀾万丈の人生を歩んで来た俺!!(卒業前までも普通じゃないくらいメッチャ波瀾万丈やったけど)。俺は思いもしない生き方を送るようになる。当時の俺はこんな人生になるとは夢にも思わなかったはず。どこで間違ったんだろう」 彼は、高校には進学していない。投稿文では、元気すぎる中学生だったようにも読めるが、同級生たちの印象では、変わった子どもであり、危ないタイプに映っていたようである。彼は、中学校で上手くいかず、高校生進学もせず、大人になった後は逮捕されている。彼にとっては、不本意な人生だったことだろう。「自分の人生はこんなはずではなかった」という思いを持っていたのではないだろうか。 大きな犯罪を犯す犯人には、「こんなはずではなかった」と感じている人も多い。人は、幸せにななって理想に近づくために、努力して一歩一歩目標に近づいていく。しかし、その地道な努力ができないと思い込むと、絶望して引きこもったり、自殺を考えたり、あるいは最後の「一発大逆転」を考える。それは、大それた犯罪であることもある。 大きな事件を起こし、満足な逃亡計画も立てないような犯罪者の行動を、重罰だけでは抑えられない。大切な仕事や家族といった社会との絆(ソーシャル・ボンド)が、犯罪のブレーキとなる。彼には、肥大した自分の欲望を抑えるだけの社会的絆がなかったのかもしれない。 彼は、幸せになりたかったのだろう。フェイスブックの文章は、明るく元気で、周囲から高く評価されたいと願っているように感じられる。彼は、子どもの頃、親から盗んだ金や、万引きした品物を友人に配っていたとの証言もある。何とかして周囲に良く思われたいと願っている様子は、子どもの時も大人になってもあまり変わっていないようにも感じられる。 犯行後も彼のフェイスブック投稿は続いている。有名なカレー店に行き、とても美味しかったと写真付きの投稿をしている。これらの行動は、疑いを持たれないために平静を装い、今まで通りの行動を続けていたとも考えられる。 あるいは、通常の殺人者なら感じるはずの良心の呵責を感じていなかったのかもしれない。普通は、乱暴な殺人者も、殺害後は眠れなくなったり食事が取れなくなったりするという。しかし彼は、睡眠も食欲も問題なかったのかもしれない。平静を装ったのではなく、本当に平静だったのかもしれない。彼は、女子中学生の腕に何十カ所もの深い傷をつけている。彼は、平静な状態どころか、殺害後にむしろ高揚感があったのかもしれない。 あるいは、フェイスブックの投稿に毎回少数ながらもらっていた「いいね」を、殺人実行後も、もらいたかったのかもしれない。 彼の行動は、よく言えば若者のようであり、悪く言えば幼児性を感じる。事件の隠蔽を図っているように思える点もあれば、まるで早く見つけて欲しいかのような行動もとっている。 被害者の「LINE」なりすましも、すぐに本人ではないと見破られている。事件後に、知人に「大変なことをしてしまった」と語っている。遺体遺棄現場に舞い戻ってもいる。 単に稚拙な隠蔽工作なのかもしれない。あるいは、彼は捕まりたくないと思いつつ、同時に早く捕まえて欲しいと願っていたのかもしれない。たとえば、性犯罪者の多くは、逮捕を恐れながらも、自分で自分がコントロールできないことに悩んでいる。異様な欲望から犯罪を繰り返す加害者は、犯行を隠蔽し逮捕されることを恐れつつ、同時に心の底では誰かに早く止めて欲しいと願っていることもある。 今回の容疑者がどんな動機で殺害し、どのような思いで遺体を遺棄したのか。供述を待たなければわからないことも多い。いや、供述が始まり供述調書が出来上がっても、彼の心の底はまだ見えないかもしれない。刑事とは異なる立場の、鑑定医のような人が、彼の立場に立ってじっくりと話を聞かない限りは、彼の心の中は見えないかもしれない。今はまだ、彼自身さえ、わからないのかもしれない。 加害者を安易にかばうつもりはない。しかし、加害者の心を知ることが、類似事件の防止につながるだろう。容疑者は、13年前にも少年に対する事件を起こしている。このとき、もう少し彼の内面に立ち入り、治療的なアプローチができていれば、今回の事件も起きなかったかもしれないのだ。

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    中1が深夜に出歩くことの異常さ─子供を守る大人の責任とは

    石井昌浩(教育評論家、元国立市教育長) 夏休みが終わろうとする時、何とも悲しい事件が起きてしまいました。顔を粘着テープで何重にも巻かれ、両手を縛られた寝屋川市立中学1年の男女生徒の痛ましい遺体は、凄惨な犯行をもろに示しています。これからの長い人生を一瞬にして奪われた、年若い二人の無念と、残された家族の悲しみを思うと心が痛みます。 犯人は、なぜこんなむごたらしい事件を大都会の街中で起こせたのでしょうか。まだ警察の捜査と容疑者の取り調べが進行中ですから推測の域を出ませんが、多分、犯人は優しそうな物腰で言葉巧みに声をかけて車に乗るのを誘ったのだと思います。リラックスした雰囲気のまましばらく乗り回してから、突然本性を現して鬼のような恐ろしげな形相と野太い声で脅し上げ、恐怖で二人を身動きできなくさせ、抵抗不能な状況に追い込んだのではないでしょうか。星野凌斗(りょうと)くんの遺体が発見された現場で献花し、手を合わせる人ら=2015年8月24日午後、大阪府柏原市(甘利慈撮影) 死者に鞭打つようなことになるのですが、中学1年の子供二人が深夜に外を出歩くことの異常さが、犯人に付け入る余地を与えてしまったことは否定できないと思います。二人は、簡易テントを持ち出して何度か野宿をしていたと言います。24時間灯りの消えることのない街に慣れ親しんだ若者には、自らの身を危険にさらす闇が見えにくくなっていたのかも知れません。また、残された家族を責めるような形になるのですが、中1の我が子の深夜徘徊を日頃見過ごしていた家庭にもかなり問題があったのではないかと思います。今の時代、子供たちは無防備のまま雑多な情報にさらされ、矛盾に満ちた社会の本当の姿を教えられることもなく、いわば「お客様扱い」されたままで過ごしています。子供たちは、いきなり社会の荒波に投げ出され、もがくことになりはしないでしょうか。何と言っても子供の教育の基盤は家庭にあります。 このような悲しく卑劣な事件を繰り返させないために学校に何が出来るでしょうか。事件のアフターケアとして、いつも提案されるのは「心のケア」です。しかし、この考えに私は疑問をもっています。子供は大人が案ずるほどにはひ弱ではありません。癒し系の心のケアと並行して犯罪から身を守る心構えが大切ではないでしょうか。犯罪から身を守るすべを子供に教えるといっても容易なことではありません。防犯対策には大人に騙されない心構えを具体的に教えるのが効果的だと思います。その心構えを先生が担当するのは難しいと思います。先生という職業は普段、怪しげな人を相手にすることが少ないからです。普通の人を相手にしている先生が子供に注意を促したところで所詮パンチに欠けます。危ない人、時には犯罪者も相手にする警察の防犯係の専門家に教えて貰うのが一番でしょう。その際、何百人も体育館に集めてというスタイルではダメです。教室ごとにきめ細かく伝える必要があります。学校には、子供たちが自分の頭で筋道を立て、事態に即応してどうしたらいいかを考える、自立できる力を与えて欲しいのです。 防犯カメラ、特に時刻機能の付いた防犯カメラの映像の効果が犯罪捜査に有効なことは今度の事件でも立証されました。しかしまだ、抑止力としては必ずしも十分とは言えません。防犯カメラの抑止力の及ばないところは人間に頼って子供を犯罪から守る以外にないと思います。「家庭・学校・地域の連携」とお題目のように言われ続けていながら、家庭も学校も地域もそれぞれに難題を抱えていて自分の守備範囲だけで手一杯で、連携がうまく進んでいません。おまけに学校が知り得る情報は、昨今の個人情報保護の壁もあって制限が多く、家庭での子供の生活状況が把握しにくくなっています。プライバシー保護を理由に、最近では表札の無い家庭も珍しくありません。かつて一般に行われていた家庭訪問すら実施できない地域が増えています。地域の大人が子供に声をかけようという動きも高まってはいますが、しかし、下手に声をかけると「オヤジ狩り」にあって命まで奪われかねないケースもあり、情けないことに気軽に声をかけられないのが実態と言えましょう。 この2月、川崎市立中学1年の上村亮太君が多摩川べりで殺害された事件がありました。上村君の場合にも、「安全な居場所」がどこにも用意されていませんでした。携帯電話の無料通信アプリ「LINE(ライン)」などを活用してネット社会の中では濃密に子供同士がつながっているのですが、肝心の直接心を通わせる交流は乏しくなっています。おまけに、子供同士の交友関係は、大人が簡単に入り込めるほどのヤワなものではありません。子供同士の情報空間は外部に閉ざされ、密室化しています。小学生には「学童保育」などのそれなりの受け皿がありますが、中学生になるとまるで盲点のように、気軽に入れる居場所や施設が地域のどこにも見当たりません。今は、塾や稽古ごとにも通っていない中学生にとっては「ネット依存症」になりがちな誘惑に満ちた社会と言えます。 子供を守るのは大人の責任です。悲しいことに大人の社会には、油断するとトンデモナイ目に合う危険な落とし穴が隠されていることを子供に伝えなければなりません。子供にも危険を察知して身を守る覚悟を求める必要があります。「人間とは何か」「社会の一員としてどう生きていくのか」「何を求めて人生を生きるのか」について、自ら問いを立て、自ら考え、自ら答えを見いだす力を授けるのが子供を守る大人の責任ではないでしょうか。

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    猟奇性に目を奪われるな 山田容疑者の心理を推察する

     私はこの事件について、今の段階で書くのはまだ早いのではないかと考えています。警察発表と関係者や知人からの情報が錯綜し、事実の把握にまだ流動的な部分が残り、それに基づくプロファイルにはリスクが伴うからです。そのような条件の下で、今回は事件日の出来事の推移から、容疑者の心理を推察してみたいと思います。平田奈津美さんと星野凌斗君の姿が防犯カメラに写っていた、京阪寝屋川市駅前の商店街=2015年8月25日午前、大阪府寝屋川市 振り返ると、まず8月12日から13日にかけて平田さんと星野君が自宅に帰らず、繁華街にいたということは明らかです。午前5時10分ごろ、2人が商店街の防犯カメラに映った直後に山田容疑者のものとみられる車が複数回映り、それ以降2人の姿を捕捉していません。5時11分と17分の直後、少なくとも1時間以内に2人をなんらかの誘い文句で車に乗せたと考えられます。誘い方について、山田容疑者が2002年の前歴では脅迫めいた言葉を使っていましたが、今回は2人の様子をうかがっている点があり、時間も考慮すると、困っている2人を助けてあげる優しいおじさんを装った可能性もあると思っています。最初から脅迫的な態度で臨めば、中1生の2人を同時に車に乗せることは難しいのです。「泊まるところはないの?」、「どこか行きたいところがある?」などの言葉をかけて車に乗せた可能性があります。 1時間以内に車に乗せたというのは、6時半頃に平田さんの端末から、LINEで友人に「今から星野と電車で京都に行く」と書いていることから導き出されます。これが山田容疑者の作文ではないかと考えるのは、行き先と移動方法など必要事項が一文で網羅されているからです。中1生なら、「京都行くで」、「なんで行くんや?」、「電車で行く」など短文のやり取りの中で書かれるのが一般で、この一文は子どもらしくありません。この時点で容疑者の偽装工作、アリバイ工作が始まっていると見ています。ただし、この一文を平田さんに指示して書かせたのか、容疑者自身が書いたのかはわかりません。強制的に書かせたのかもしれないし、それとも良好な関係を保ちつつ、「『おじさんに連れってもらう』と書くと怪しまれて、心配をかけちゃうから、『電車で行く』って書いたほうがええんちゃう?」というように促したのかもしれません。この辺りの実際は、本人の供述でしか把握しようがありません。 午前11時半ごろ、山田容疑者は堺市の大阪刑務所に行き、義父に5秒間だけ面会をしたとされています。刑務所の受刑者への面会は親族なら可能ですが、月に数回の制限があります。頻繁に行けるわけがないにもかかわらず、2人を乗せた状態でその日に面会に行く合理性に欠ける点から、この行動もアリバイ工作ではないかと思います。実際に面会に行ったという客観記録が残ります。その日に撮ったという刑務所の外観写真とともに、「面会に行った」というコメントをLINEで知人にわざわざ知らせています。アリバイ工作は平田さんにLINEを送らせたところから始まっているとすると、2人を乗せた時から山田容疑者は事件を起こそうという決意が固まっていたと見ますが、殺人まで含まれていたとは考えにくいものです。 その後山田容疑者は午後0時40分ごろに柏原市のコンビニで粘着テープを購入しています。私は当初、縛ったりしないで2人を自由な状態にさせていたと考えていたのですが、すでに手持ちの粘着テープなどを利用して2人の自由をある程度奪っていたかもしれません。ところが乗せていたのが2人だったこと、平田さんがナイフで切られていたことから、非常に暴れたり、大声を出す状態が続いたりしたために、テープが足りなくなり、補充のために買った可能性もあります。ここで、この時点までの容疑者と少年らとの関係性に、二つの可能性が浮上します。一つは山田容疑者が少年らと良好な関係を装っていた、つまり京都に行くまでにあちこち寄ったあと、コンビニでも「ジュースを買ってくる」などと言って外へ出て、2人は車から外へ出ないで待っていたということ。もう一つは手、足、口などをある程度縛った上で、ドアのチャイルドロックも掛けておき、少年たちは逃げたくても外に出られなかったということ。いずれにしても、コンビニ立ち寄り後にテープで拘束を補強したに違いありません。 平田さんの死亡推定時刻は午後7時ごろで、司法解剖の結果、死因は窒息死と判明しています。警察は平田さんの顔をテープでぐるぐる巻きにされて窒息したと考えているのですが、では、なぜ切り傷があったのかという疑問が生じてきます。いまのところ星野くんの死因や遺体の傷の有無は特定できていません。平田さんの切り傷は肩から腰のあたりまで左半身だけ30カ所以上あったということです。ここで刺し傷ではなく切り傷だということは、ポイントの一つとして挙げられます。私は、平田さんが抵抗し、暴れて、後部座席の下に落ちたのではないかと推測しています。山田容疑者は、運転席側から後部座席に向かって、左側が上になって横たわり、暴れる平田さんをおとなしくさせるために、ナイフで切りつけたのではないかと見ています。もし平田さんの殺害を目的として刃物を使うとすれば、致命的となる首を狙ったり、胸や腹を刺したりするはずです。山田容疑者が過去に起こした事件では、脅すと大人しく従うという傾向がありました。ところが今回、脅したもののおとなしくならず、山田容疑者の興奮状態が高まり、切るに至ったのではないか、それが左側だけに切り傷がある理由だと考えています。猟奇性に目を奪われるのは誤っている猟奇性に目を奪われるのは誤っている 午後3時ごろ、星野くんの自転車が寝屋川市駅前の駐輪場に止められています。警察は山田容疑者が駅前に戻ってきて移動させたと見ているようですが、これは粘着テープを買った3時間後で、平田さんの死亡推定時刻の4時間前にあたります。平田さんを幾重にも縛った上で刃物を行使したのがこの行動の前か後かどちらなのかわからず、推測になりますが、死亡推定時刻が午後7時ということから、3時前に窒息死するというのは早すぎる気がします。山田容疑者は少年らに電車で京都に行くことにすると伝えていますので、「自転車を置いておくことで親や友人たちが安心するから」と2人に言い聞かせて、自らが自転車を置いた可能性は否定できません。そうなると、山田容疑者は自転車駐輪の時点ですでに粘着テープを用意していますが、拘束するなどの険悪な関係には陥っておらず、協力的な関係が保たれていた可能性があるのです。反対に、もし自転車駐輪が2人をテープでぐるぐる巻きにした後だとすれば、「今から京都に電車で行く」とLINEを送った事実と整合性を保つために行ったことになりますが、どちらかはわかりません。 私の推理では、自転車移動の後に、山田容疑者は殺害と遺棄に走ったわけです。容疑者の軽ワゴン車の左右と後部の窓には黒のスモークフィルムが貼ってありましたが、前席の窓から見ようと思えば2人が見えるので、明るいうちに実行するのは避けたかったと思われます。ですから、外が暗くなる午後6時過ぎに、人気のない場所に行き、犯行に及んだのではないかと考えました。過去の事件の場合、山田容疑者は、縛って監禁状態にしたうえで現金を奪い、それで満足してしまえば拘束状態のままで被害者を解放していましたが、今回は初めて殺害に至りました。2人だったこともあり、少年らの抵抗が激しく、必要以上にテープを巻き、結果として窒息死させてしまった。つまり、確定的な殺意を持っていなっていなかったのではないかと考えているのです。殺意があれば、当初から刃物で殺害していたでしょう。平田さんの切り傷について、当初は猟奇性を感じさせましたが、前述のようにおとなしくさせるためのものであったとすれば、猟奇性に目を奪われるのは誤っているでしょう。猟奇性は、遺体の一部を切断したり、下腹部を狙ったりすることで犯人の欲求が充足されることで見てとれますが、そのような兆候は見られません。山田容疑者の目的は、思春期の少年を拘束状態に置き、自分のいいなりにさせる、つまり完全支配下に置くことで満足を得る、そこにあったのではないかと考えるのです。 過去に、同様の目的で逮捕された山田容疑者は昨年10月に出所したそうです。13年前の監禁等の事件で十数年間服役するというのは考えられず、公にされていませんが、おそらく別の事件も起こしているためだと考えられます。服役中に知人に宛てた手紙には、自分は獄中結婚していて、子供がいることが書かれていました。子供は被害少年と同年齢になるのですが、13年前に獄中結婚した人との間で設けた子供であれば、生まれた時期が合致しません。もしかすると、13年前のその事件の前で知り合った人なのかもしれません。つまり、公になっている13年前の事件の前にもすでに前歴があり、その時に何らかのかたちで知り合った相手との獄中結婚だった可能性もうかがえます。あるいは、手紙を送った知人に、子供思いの優しい父親をアピールするために書いた、虚偽であるかもしれません。 平田さんの死亡推定時刻の約3時間後、山田容疑者は午後10時に枚方市のガソリンスタンドで給油しています。山田容疑者は平田さんの遺体を捨てた約15分後に帰宅したとみられています。従って、給油の前に、比較的遠方の柏原市の竹林まで行って星野くんの遺体を遺棄し、その後に自宅の近くへ戻り、平田さんを遺棄したことになります。私は星野くんの遺棄のほうが、山田容疑者にとっては重要度が高かったと考えていて、これは数々の謎を解く重要な鍵になるポイントです。山田容疑者は、思春期の頃から男の子に関心が高いと噂されていましたし、過去の犯行やいたずらも男子生徒に対するものが中心でした。実際にマスコミが報じた前歴も、男子中高生が被害者です。同性愛傾向を持つとか、男子少年に対して興味を抱いている者の犯罪ではないかと警察がみれば、星野くんの遺体が見つかることで、自分が警察の捜査線上に浮上するのではないかと考え、こうして星野くんの遺体を発見されにくい場所に置いたと考えられます。平田さんの遺体も一緒に置くのが合理的なのですが、自分が疑われないために、少女に対する性癖を持つ人間の仕業だと思い込ませるために、あえて平田さんの遺体はその場に遺棄せず、竹林から30キロ近くも離れ、視界の開けた駐車場に置いたのではないかと考えます。発見してもらうために平田さんの遺体をわざと人目に付きやすいところに置いたというわけです。こう考えれば、2人の遺体遺棄現場の差異が理解できます。 以上、指摘してきた点をまとめると次の通りになります。・犯行を思い立ったのは、13日午前5時に山田容疑者が2人の少年少女を発見した時点である・死亡してしまったのは予想外だったかもしれない。その前後を含めてアリバイ工作に走っている・刑務所への面会や自転車の駐輪など、あちこちでアリバイの工作をしており、遺体遺棄についてもなんらかの工作が推察され、平田さんの遺体はあえてすぐに見つかる駐車場に置いた 13日夜に平田さんの遺体が発見されたとの報道を耳にした山田容疑者は、内心焦りながらも想定通りだと思ったことでしょう。社会も女子中学生あるいは少女に関心のある性癖を持った者の猟奇的犯行であろうと捉えました。そこで山田容疑者が次に行ったことは、自分が事件と無関係であることを示唆する様々な行為の証拠残しでした。除染作業のために福島に戻ったり、道中で立ち寄った千葉のカレー店での食事様子をFacebookに書き込んだりしていました。高速道路の通行証や領収書を撮影して友人に送っていますが、普通はこんな無意味なことはしないでしょう。これは、犯人であれば普通は隠れたり逃げたりするのではないかという心理の逆をついたつもりでいるものです。 しかしそのうちに山田容疑者にとって心配なことが起きます。防犯カメラが公開されて、実は平田さんは星野くんと一緒にいたことが明らかになり、星野くんは一体どこにいるのかということが捜査当局や社会の関心になっていったからです。もし星野くんの遺体が見つかったら男子中学生に関心のある者の犯行だと思われるようになり、自分がマークされる不安が持ち上がります。その不安、つまり星野くんの遺体がすでに警察に発見されていないかどうかを確認するため、山田容疑者は21日、星野くんを遺棄した竹林に確認しに戻ったのではないでしょうか。よく遺体を再度見に行くことで欲求が満たされたりすると言われます。1997年の神戸連続児童殺傷事件では、加害少年は殺害した男子児童の遺体を隠した場所に戻って、遺体に対して手を加えています。しかし、山田容疑者は刃物や拘束器具、撮影道具など一切持たずにただ見に行き、数分いただけで戻ってきたということです。星野くんの遺体があることだけを確認して戻ってきたからでしょう。そして、警察は星野くんを見つけていないので自分と直結することはまだないと、山田容疑者は一時的に安堵したかもしれません。 この間、山田容疑者は尾行されていることに気づかなかったと思いますが、この点も今回の事件で重要な特徴です。山田容疑者は一本線のような行動ルートの計画は立てられますが、この線から外れてしまうと、視野を向けることができない、すなわち多角的に物事を捉えることが苦手なのではないでしょうか。例えば、車を動かしていれば、商店街やコンビニ、ガソリンスタンドなど至る所にある防犯カメラに映るのですが、そのリスクを全く考えていません。竹林に行く際にも、警察が自分を尾行しているかもしれないという警戒心が欠けています。山田浩二容疑者が取り押さえられた現場。山田容疑者のグレーの軽ワゴン車がバス停の前に止まっている=2015年8月21日午後8時40分ごろ、大阪市城東区(住民提供、一部画像処理しています) 竹林に戻るという行動により、警察が星野くんの遺体を発見し、山田容疑者は逮捕されたわけですが、当初の供述では平田さんのことだけを話していました。「星野くんがやったのかもしれない」とも言いました。ここでも、男子中学生に関心のある者の事件であることを出さないようにと意識する傾向が伺えます。その後、星野くんの遺体が、自分が見に行ったことで発見されたという予想外の展開で、言い逃れができない状況に追い込まれ、完全黙秘に転じたのだろうと考えます。山田容疑者は黙秘をしばらく続けていますが、私はいずれ正直に話す時期が訪れるのではないかと思っています。和歌山毒物カレー事件の林真須美死刑囚のような強靭なパーソナリティを持っているか、黙秘を勧める強力な弁護士がつかない限りは、取調べ状況で黙秘を維持することは困難なのです。(聞き手 iRONNA編集部 松田穣)

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    中1殺害 お仕着せの安全では子供は守れない

    赤木智弘(フリーライター) 大阪府高槻市で女子中学生の遺体が遺棄されているのが発見された事件は、行動を共にしていたと思われていた男子中学生も、同府柏原市で遺体で発見されるという悲しい結末となった。 今回の事件は、そもそも中学生の男女が家を出て深夜に出歩いていたことを発端にしている。報道などによると、女子中学生はこれまでも友人たちとテントを張ったり駅前のベンチで夜を過ごすなどの外泊行為が常態化していたと言われている。学校の側も事態を把握はしていたが、特別な指導などはなかったという。 容疑者の男も逮捕され、今後事件の概要がハッキリして行くにつれ、徐々に「親や学校は何をしていたのか!」「子供が夜に外出なんてとんでもない!」という被害者や関係者批判の声が大きくなってきている。メディアではしたり顔の識者が「もっと家庭や学校が子供たちを守らなければいけない」などと話すのだろう。 しかし、そうした場当たり的な対応が、むしろ子供たちを危険に晒すのではないか。今回の事件を受けて、同じような状況にいる子供たちの安全安心を守れとばかりに、深夜の見回りなどによって、子供たちが無理矢理、家に連れ返されるようなことがあるのではないかと、僕は心配している。 まず、今の子供たちを取り巻く現状を簡単に説明しよう。 大前提として、殺人による被害者数は昭和30年ごろと比べれば大幅に減っている。戦後の統計を見ると、昭和30年の殺人事件被害者数は2119人だが、平成24年では383人となっている。人口10万人あたりの数値で見ても、昭和30年頃は2人以上が殺されていたが、ここ最近は0.4人以下になっている。 この傾向は子供(13歳未満)でも同じで、子供が殺人事件の被害者になる件数も、一貫して右肩下がりである。したがって、マスメディアでささやかれるような「私たちの子供の頃はこんな事件はなかった、最近の子供はいつも危険に晒されている」などというような事実は存在しない。中1女子殺害・遺棄事件で、大阪府警高槻署に集まった大勢の報道陣=2015年8月21日午後7時57分、大阪府高槻市(共同) また、今回の事件の容疑者は、被害にあった中学生男女とは面識がなかったと思われる。こうした事件が起きると必ずと言っていいほど「知らない人が子供を殺す。親の近くにいれば子供は安全なのだ」と主張する人が現れるのだが、平成25年の殺人における被害者と被疑者の関係性を見るに、53.5%が親族によって行われている。一方で面識無しなのは10.3%と、ほぼ1割である。また平成25年に殺人被害となった子供(13歳未満)は68人。うち、32人が両親等の虐待によって殺されている。 つまり、子供を一番殺しているのは両親であり「親元にいれば子供は安全」などということは、全く言えないのである。 さて。少し想像力を働かせてみて欲しいのだが、人が人を殺す理由とはなんだろうか? 少し考えてみれば「相手に強い恨みを持つから」という平凡な答えを導くことができるはずだ。そしてそれは子供を取り巻く環境においても同じである。子供に対して強い憎しみを抱きやすい人間は誰か。それは当然、いつも子供のそばにいる「親」である。だから、子供が親に殺される。 もちろん、いきなり殺すという段階などに飛ぶことはほとんどない。たいていの親は一時的に子供を嫌ったとしても、そのストレスを食事やショッピングで解消したり、自分のパートナーや周囲の信頼できる大人に相談して、子供のことを好きになったり、もしくは嫌いなままでも社会的役割として子供を育てていくことを選ぶのである。 じゃあ、一方で子供はどうか。今回の被害者の女子生徒も家庭内でうまく行っていなかったのだろう、小さな家出を繰り返して、親友たちと語らうなど、親や先生たちには話せないことを相談したりしていた。ただし、親友たちは決して適切なアドバイザーではなかった。問題は十分に解消されないまま、彼女は家出を繰り返し、やがて今回の不運に出会ってしまった。 こうした時に必要だったのは、決して彼女を家に帰すことではなかったし、学校が彼女に対して聞き取り調査をすることでもなかった。必要だったのは、親でもなく、学校でもない、信頼できる第三者としての大人であった。親や学校におもねるのではなく、必要とあれば親や学校に対峙して子供の側に立つことができる、そんな大人がいれば、彼女たちはもっと安全に家族との距離を保つことができたのではないかと思う。 しかし、こうした事件が起きてしまうと、たいていは「子供を親元や学校に閉じ込めろ!」という世論ばかりが大きく響く。その結果、家や学校と適切な距離を保つことのできない子供は、家出のような過剰な対応をしないと、逃げることができなくなってしまう。 近年では国や自治体でも、学校にスクールカウンセラーを配置するなど、子供の悩みを早いうちに聞き取り、解決しようと動いている。しかし、それはそれでやはり行政や学校寄りの大人にしか思えないという感は強いし、また制度として配置された大人を、子供が信頼してくれるかどうかといえば、保証などできるはずもない。 「信頼できる大人」は結局、子供たち自身が探すしかない。 そのためには、子供自身が別の大人と数多く接触することで、自分自身にとっての「信頼できる大人」を選別していくしかない。そうした反復をするには「子供を親元や学校に閉じ込めておけば安全安心」という風潮は邪魔である。子供を閉じ込めれば閉じ込めるほど、子供は限られた大人としか接触できなくなってしまう。その中に適切な大人がいなければ、子供は大人に恨みを貯めるしか無くなってしまう。それでは元の木阿弥だ。 そうならないためにも、大人たちは子供たちのために、子供たちが親や学校を含めたより多くの大人と会話できる環境を生み出していくしかないのである。 そうした中で、当然子供たちが信頼に値しない大人と出会うこともあるだろう、時には犯罪の被害に合うこともあるかもしれない。しかし、そうして多くの大人と接触する中で、子供自身が経験を積み、他人を見る目を養う事こそが、最終的に子供が納得した形で安全安心な応対を、自分の周囲に保つことができるようになれば、誰かの生み出したものではない、子供たち自身にとっての「自立した安全安心」という最良の状況に行き着くことができるのではないだろうか。 他人が考えたお仕着せの安全安心では、本質的な意味で子供を守ることなどできないと、僕は考えている。参考資料・殺人事件被害者数・平成26年版 犯罪白書 被害者と被疑者の関係・平成26年版 犯罪白書 児童虐待犯罪

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    少年Aは本当に更生したのか

    神戸連続児童殺傷事件の被疑者だった元少年Aの手記『絶歌』の出版をめぐり、賛否が渦巻いている。「被害遺族への配慮を欠く」「出版の自由は守られるべき」…。ベストセラーとなった本書は、本当に彼自身の「自己救済」が目的だったのか。またも社会を揺るがせた元少年Aと出版騒動について考える。

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    誰か僕を止めてください!

    各地で小型無人機「ドローン」を飛ばし、トラブルを起こした「ノエル」こと横浜市の15歳の少年が逮捕された。少年が挑発的な言動を繰り返した背景には、「囲い」と呼ばれる無責任な大人の存在も浮かぶ。無法地帯と化すネット世界。歪んだ暴走を止めることができるか。

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    わが師、麻原彰晃への「訣別状」

    上祐史浩(「ひかりの輪」代表) この機会に、改めて、事件で被害に遭われた皆さまに、深くお詫びを申しあげます。取り返しのつかない被害の深刻さを思えば、お詫びの言葉も見つかりません。 その中で、まずは2009年から、私が代表を務めるひかりの輪が締結した賠償契約のお支払いを今後とも履行していきたいと考えております。なお、3月18日にも、その一環として、賠償金の一部を振り込ませていただきました。地下鉄サリン20年「大きな変化の予感」 数字を見れば事件から20年ですが、内実を見れば高橋克也被告の裁判が継続中で、まだ麻原の死刑執行も未了であり、一つの節目に過ぎないと感じています。外国特派員協会で会見した上祐史浩氏(当時・オウム真理教外報部長)。一連のサリン事件などの疑惑を否定した=1995年4月3日、東京・有楽町 今から3年前に、平田信・菊地直子・高橋克也といった逃亡犯がすべて収監されました。その結果、来月4月までに、最後のオウム裁判とされる高橋被告の裁判の一審が終わる予定です。そして、向こう数年のうちに麻原彰晃の死刑が執行されると思います。こうしたより大きな節目に対して、今年は、その始まりの年のように思います。 また、オウム真理教は10年、20年単位で変化してきました。1985年にオウム真理教の前身団体「オウム神仙の会」が発足し、87年にオウム真理教が発足しました。95年にサリン事件が発生し、97年までに宗教法人としてのオウム真理教が破産し、2005年に後継団体である宗教団体「アレフ」(旧オウム真理教)の分裂が始まり、2007年には私と信徒65人がアレフから脱会し、「ひかりの輪」として独立しました。 そして今年、事件から20年の年に、アレフの内部では、麻原の後継者の在り方を巡って、教団が再分裂していると言われています。この意味でも、遠くない麻原の死刑執行に向け、今年はより大きな変化の始まりと感じています。麻原の精神病理とカリスマ性 私が麻原とその教義に関して、大きな疑問を持ち始めたのは、その終末予言が実現せず、麻原が不規則発言を始め、教団と連絡を取らなくなった1997年前後でした。その後、麻原への信仰は相対化していきましたが、様々な呪縛が残っており、完全に抜け出したのは、10年後の2007年(アレフを脱会した年)となりました。逮捕され、拘置請求のため東京地裁に向かうオウム真理教の麻原彰晃容疑者=1995年5月、警視庁 いま現在は、麻原は一言でいえば、誇大妄想・被害妄想を伴う精神病理的なカリスマだったと解釈しています。その精神病理は、幼少期の身体障害(弱視)、盲学校への不本意な入学と親への恨み、学業・事業・人間関係などでの相次ぐ挫折と深いコンプレックスの苦しみを背景としていたと思います。それが、その後にヨガの教師としてブレークした際に、「自分が不遇だったのは、自分が弾圧される救世主だからだ」という妄想として現れたのだと思います。 再発防止の視点から、誤解を恐れずに、なるべく実態を率直にお伝えすれば、一党一派を率いる能力やカリスマ性を有しつつ、その一方で深い精神病理を抱え、一世風靡したと思えば、たちまち犯罪者や極悪人に転落するケースは、他にも事例が見られるそうであり、心理学上では「誇大自己症候群」などの人格障害と位置づけられるそうです。 今後、再発防止の観点から、こうした人物の扱いには、よく注意すべきであり、こうした事実をなるべく社会全体に、次世代に伝えていきたいと思います。それは単に、若者が騙されないようにという意味だけでなく、麻原のような人間自体が育つことを予防したいという願いによるものです。ひかりの輪は宗教団体ではなく学習教室 ひかりの輪は2007年にそれまでアレフにいた私と私の友人たちが、麻原・オウム信仰を払しょくして、アレフから脱会・独立して発足させた団体です。これは、何か特定の人物・神・経典などを絶対視して崇拝することはなく、宗教団体ではなくて思想哲学の学習教室です。 学習の対象は、西洋の心理学もありますが、東洋思想、特に仏教の人生哲学・心理学が多いので、一言でわかりやすく言えば、仏教系哲学サークルと言えるかもしれません。以前のような集団居住の出家教団はすでに解消されており、学ぶ際に入会する必要もありません。その詳細は、ひかりの輪のHPにご報告しています。 オウムは、自分たちを善、既存社会を悪とする善悪二元論に基づいて、暴力手段を正当化して狂信的・自滅的な末路に至りました。私たちは、このオウムの問題は、オウムに限らず、歴史上の多くの宗教・思想団体が繰り返してきたと考えていります。そして、その心理状態を予防するための必要な思想や実践(いわばオウム的なものへのワクチン)を自分たちの経験を活かして、提供したいと考えています。 たとえば、宗教を盲信して呪縛される要因となる1.現代社会の人々が抱えるコンプレックスや自尊心の渇き2.死や死後・来世の恐怖3.霊性・霊能力・陰謀説・終末予言などの盲信といった問題に対して、宗教に依存せずに、それを乗り越える人生哲学・実践法を提供しています。 そして、こうした私たちのあり方は、これまでに多くの識者やメディア関係者の理解を得てきたと考えていますが、公安当局は、私たちを依然としてアレフと同じ、麻原を信仰する団体と位置づけているという状況があります。 これについて、私は過去の深刻な事件のイメージと、それによる国民の不安に対処するための当局の政治的な対応だと考えていますが、当然、事実に反するものです。とはいえ、仮に私が公安当局であったならば、同じように対処する可能性もあると思う面もあり、今後とも、落ち着いて社会の誤解を解く努力を継続したいと思います。麻原回帰するアレフ麻原回帰するアレフ 私たちが8年前にアレフを脱会して以来、アレフは麻原を絶対とする思想に回帰したといわれています。その中で、事件を知らない若者を中心として新しい仲間を増やすために、アレフであることを明かさない覆面ヨーガ教室などで勧誘を始め、死後の恐怖や、オウム事件は陰謀であるという嘘説を吹き込んだ上で、アレフと明かして入会させることを繰り返しています。 地下鉄サリン事件で有毒ガスにより倒れ、路上で手当てを受ける乗客ら=1995年3月20日、東京都中央区築地 これに対して、私たちは、専用のHPを立ち上げて、その実態・手口や、アレフ・オウム信仰の問題点・裏表、脱却方法などを紹介するとともに、個人相談に応じています。これまでに100人以上の方の脱会をお手伝いしましたが、残念ながら、アレフに入る人の方が多く、今後とも、報道機関と協力しながら、今後とも努力したいと思います。 しかし、教祖や主力幹部が去ったアレフに、多くの若者が入会する事実は、社会側にも弱み、すなわち、アレフの信者が増やえる基本的な土壌があると言わざるを得ないのではないでしょうか。繰り返しになりますが、コンプレックス・自尊心の悩み、死・死後の世界の不安・恐怖、さらには、霊能力・終末予言・陰謀説に関する多くのメディア情報が広がっています。 よって、こうした問題の解決は、アレフに限らない、カルト問題全体の枠組みの中で、社会全体として、いっそうの取り組みが必要かと思います。 また、アレフに関しては、被害者団体との法的なトラブルがあり、今現在、東京地裁で調停が行われています。それは、アレフ側の賠償契約の不履行(および賠償契約更改の拒絶)や、今は被害者団体の財産となったオウム真理教著作物をアレフが無断使用している(著作権侵害)という疑いです。 そして、これらの法的な問題は、今後のアレフに大きな影響を与えると思われますが、この解決に関しても、過去の経験を活かして、なるべく協力させていただきたいと考えています。じょうゆう ふみひろ 1962年福岡県出身。78年に早稲田大学高等学院入学、87年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程卒業。宇宙開発事業団(現宇宙航空研究開発構)入団。87年5月同事業団を退社、オウム真理教に出家。94年オウム真理教のロシア現地法人設立、同代表に就任。95年10月偽証罪で逮捕・起訴、有罪判決(懲役3年)を受け広島刑務所に服役。99年12月出所し、オウム真理教に復帰。2000年2月オウム真理教を「アレフ」に改名。02年1月アレフの代表に就任。04年11月アレフ内で、改革を目指す代表派を形成。07年3月麻原・オウム信仰を捨て、アレフを脱会。07年5月 新しい智恵の学びの場を目指し、「ひかりの輪」を設立、その代表に就任、現在に至る。関連記事■ 戦後50年を襲った恐怖 「阪神大震災」と「オウム事件」■ 無秩序時代の到来と米国の役割■ 日本人よ、この覚悟が理解できるか

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    あの時、なぜ私は「死刑」と言えなかったのか

     地下鉄サリン事件の実行犯5人のうちで唯一、無期懲役判決となった林郁夫受刑者。1998年5月、その判決を言い渡したのが当時の東京地裁裁判長、山室惠氏。後の実行犯の裁判でも、極刑が不当である理由として、自身が言い渡した判決を引き合いに出されることがあったという。地下鉄サリンから20年。あの時、なぜ死刑を言い渡さなかったのか。その問いを山室氏にぶつけた。(iRONNA編集部 川畑希望) 林郁夫の1審の裁判長を引き受けた時は、当然死刑だと思っていました。地下鉄千代田線にサリンを散布した実行犯でしたから。1997年の12月10日、林被告が証言台の下に身を潜り込ませて大泣きした有名な「慟哭の法廷」の時も、泣いたってしょうがないだろうと思いました。泣こうが騒ごうがわめこうが、彼がやったことを考えたら死刑だと、冷めた目で見ていましたね。 地下鉄サリン事件など6事件で殺人などの罪に問われたオウム真理教元幹部、林郁夫受刑者。 慶大医学部を卒業後、米国の名門病院などで勤務し、国立病院の医長を務めた経歴を持つ元心臓外科医。誠実さと手術の技量の高さが評判だったという。昭和の大スター、石原裕次郎さんの治療に当たったこともあった。 麻原死刑囚の著書を読んで平成元年に教団に入信し、翌年に家族4人で出家。優秀な医師としての手腕を買われて「治療省」大臣を務めた。脱会や戒律違反を摘発するため、麻酔薬で半覚醒状態にした信者に尋問する「ナルコ」という方法を考案。頭部に電流を流し、教団に都合の悪い記憶を消す「ニューナルコ」も考え出した。 地下鉄サリン事件では実行犯グループの一人として、地下鉄千代田線内でサリン入りのビニール袋を傘の先端部分で刺し、サリンを発散させた。 私は、林に同情したから無期懲役の判決を下したのではありません。そもそも同情はしていません。基本的に裁判は「理」のもの。感情というのは反対に属するものだから。感情的にどんなに許せなくたって法律的に許さなきゃいけないこともあるし、その逆もある。私は、許さないと思っていたし、許したから無期、というわけではありません。林郁夫被告の判決傍聴券の抽選結果を見る希望者たち=1998年5月26日 ただ、法廷を通じて、林被告の反省の色はあらゆるところから感じました。演技だという人はいるが、演技だと思わせるような材料はなかった。泣き方といい、泣くタイミングといい、使っている言葉といい、反省は本物だと思いました。 検察の求刑が無期懲役だったことはやはり重かった。それをひっくり返して、死刑というのはなかなかできるものではない。それは勇気があるかないかの問題で済む話ではありません。検察側とすると、司法取引を認めるような、先取りするような形で事案解明に貢献したと。しかし、それを裁判所として正面から理由づけにするわけにはいかない。そこで、被告が非常に強く反省しているということ、そして地下鉄サリン事件の遺族である高橋シズヱさんと、菱沼美智子さんが必ずしも死刑を望んでいないことを強調しました。 無期懲役の判決理由は下記の通りです。 「本件はあまりにも重大であり、被告の行った犯罪自体に着目するならば、極刑以外の結論はあろうはずがないが、他方、被告の真しな反省の態度、地下鉄サリン事件に関する自首、その後の供述態度、供述内容、教団の行った犯罪の解明に対する貢献、教団による将来の犯罪の防止に対する貢献その他叙上の諸事情が存在し、これらの事情に鑑みると、死刑だけが本件における正当な結論とはいい難く、無期懲役刑をもって臨むことも刑事司法の一つのあり方として許されないわけではないと考えられる」元東京地裁裁判長の山室惠氏 私は、林受刑者は一生出てはいけないと思っています。判決からまだ17年です。いまは有期刑は最長で30年ですから。ずっと入っていなければという気持ちは強い。林受刑者がほかのサリン事件の実行犯だった死刑因と比べて罪が軽いものであるとは思っていません。 今後も、しっかり事件を検証する作業は怠ってはいけない。簡単ではないけど、二度と起こさないようにするにはどうすればいいかというのは考えつづけなければならない。 いまになっても、若干の疑念というのはずっと引きずってはいますが、いま、あの当時に戻ることができても、あの判決しかないと思っています。リクルート事件をはじめ、さまざまな裁判を担当してきて、林被告の裁判もあくまでその中の一つです。しかし、自分の下した判決が正しかったのか、正しくなかったのか、これほど自問自答し続けた裁判はほかにありません。 林受刑者は逮捕後、完全黙秘の姿勢をみせたが、取調官から「人の命を救うのが医師ではないか」と言われ、泣き崩れた。その後、「私が地下鉄でサリンをまきました」と供述し、サリン事件の全容解明の突破口となった。 平成10年3月、東京地裁での論告求刑公判で検察側は「被告人の自首によって真相の究明がなされ、その全容解明等に果たした被告人の役割は大きい」と判断、死刑でなく無期懲役を求刑。5月26日の判決で山室裁判長も自首を考慮し、求刑通り無期懲役を言い渡した。 林受刑者も控訴せず、判決通り無期懲役が確定し、現在は千葉刑務所で服役中だ。地下鉄事件の散布実行犯として唯一極刑を免れている。山室 惠(やまむろ めぐみ)日本の元裁判官、弁護士(弁護士法人 瓜生・糸賀法律事務所顧問)。男性。裁判官としては、主に刑事事件を担当した。警察庁「捜査手法、取調べの高度化を図るための研究会」委員。関連記事■ 戦後50年を襲った恐怖 「阪神大震災」と「オウム事件」■ 少年事件を前にして私たち大人は何をすべきか■ 日本人よ、この覚悟が理解できるか

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    わが師、麻原彰晃への「訣別状」

    日本の犯罪史上例を見ない無差別テロとなった地下鉄サリン事件からきょうで20年を迎えた。わが国の社会秩序を根底から覆した事件の戦慄は今も消えない。オウム真理教とは何だったのか。かつて、教祖・麻原彰晃を尊師と仰いだ元教団最高幹部、上祐史浩氏がiRONNA編集部に独占手記を寄せた。

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    なぜ若者は今もオウムに取り込まれていくのか

    世間が持ち続けている大きな誤解 1995年3月20日に都心で起きた地下鉄サリン事件は死者13人、被害者6000人を超える被害を出した。あれから20年がすぎた。いまでも当日の朝から夜までの記憶は鮮明だ。遅くに池袋のバーに行った。カウンターにいた知人たちの話題も地下鉄で起きた事件のことばかりだった。わたしが「あれはオウム真理教による犯行ですよ」と言ったが、誰も信用しなかった。問題ある宗教団体として知られていても、まさか地下鉄で事件を起こすとまでは思われていなかったのだ。麻原被告の初公判を終えて地裁を出る有田芳生氏=1996年4月24日 いま最後の逃走犯・高橋克也被告の裁判員裁判が続いている。この裁判が終われば、1995年秋からはじまったオウム裁判はすべて終了となる。法務当局には麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚に対する刑執行の強い意思がある。そのときオウム報道は最後の盛り上がりを見せるだろう。しかしそれでオウム問題は終わるのか。決してそうではない。 世間には事件発生からいまにいたるまで大きな誤解がある。それは地下鉄サリン事件、松本サリン事件、坂本弁護士一家殺人事件などなど、一連の非道は、特殊な集団に、特殊な人物たちが入り、起こしたものだという理解である。もしそうならば、事件を起こした教祖をはじめ実行犯が逮捕、起訴され、判決を受け、さらに教団が消滅すれば、すべて解決ということになる。そうではないのだ。たとえばオウム残党で麻原彰晃を絶対化するアレフなどの組織に入る者は、いまでも北海道、近畿を中心に年間で約150人もいる。いちばん多いのは35歳以下の世代だ。このこと一つをみてもオウム問題はいまだ続いている。 何が問題なのだろうか。それは日本社会がオウム問題を事件のレベルでのみ捉えてきたことである。どこにでもいる若者たちが人生のふとした狭間でオウム真理教に入信し、教祖によるマインドコントロール(社会心理学の適用によって精神を支配すること)によって凶悪事件に関わってしまったのだ。ちなみにマインドコントロールは物理的に精神を変容させる洗脳とは異なる。マインドコントロールには定まった概念がないといまでも言われているが、一般的了解というものはある。親切にされたらそれに応えるといった「返報性の原理」など、人間心理を利用して行動をコントロールしていく手法である。カルト(熱狂集団)は、他者を巻き込むために、人間心理を効果的かつ巧妙に利用している。オウム真理教もまたそうした組織のひとつだった。 山梨県の旧上九一色村で「サティアン」と呼ばれる宗教施設を建設する際に集められたとみられる信者たち。コンテナのような狭い空間で窮屈そうに寝入っている。1990年前後の撮影とみられる(顔をモザイク加工しています) そのオウム真理教とて、最初はヨーガのサークルだった。地下鉄サリン事件当時、オウム真理教の信者は、出家、在家の総計で1万人を超えている。入信の動機はさまざまだ。1984年に麻原彰晃が東京・世田谷で立ち上げたのは、オウムの会というヨーガのサークルだった。そこに集った者は、多くがヨーガの修行を通じて健康を維持したい、あるいは回復したいというものだった。やがて麻原彰晃の「空中浮遊」が雑誌で紹介されると、超能力を身につけたいという動機を持った会員が増えていく。のちに滝本太郎弁護士が試み、麻原彰晃よりも高く「浮かんだ」ように、「空中浮遊」とは、いわば胡座をかいてのジャンプだった。若者たちはそれに魅かれてしまった。たとえば坂本弁護士事件やサリン事件にかかわった中川智正死刑囚(京都府立医大時代に入信)も、関心を持ったきっかけは「空中浮遊」だった。 オウムの会から名称を変更したオウム神仙の会は、1989年に東京都の認証を受けてオウム真理教という宗教法人に発展する。教祖となった麻原彰晃は、仏教、密教、さらにはキリスト教など、さまざまな宗教を混合していく。それにともない入信の動機も広がっていった。たとえば地下鉄サリン事件で死刑判決を受けた井上嘉浩の場合は、高校生のときにオウムに関わる。動機は社会変革である。歌手の尾崎豊に惹かれた井上は、レールに乗ったような人生に疑問を覚える。進学し、社会に出て、サラリーマンとなり、満員電車に揺られて暮らすことに疑問を抱いたのだ。そうではなく修行をすることで悟りを開く。そして他人を勧誘し、その相手が悟りを開く。こうして悟った人間が増えていけば、この濁った社会は徐々に、あるいは急激に変えることができる。そう思ったのだ。 しかしこのようにさまざまな動機で麻原彰晃に接近していった者も、教団の変質に巻き込まれていくことになる。そのきっかけが教団施設における信者の死亡である。脱会を試みた信者の殺人事件も起きる。1989年8月に宗教法人となったオウム真理教だが、強引な勧誘が問題となり、坂本堤弁護士たちが、教団の問題点を指摘するようになる。信者の死亡事故や事件を隠していたことがわかれば、宗教法人の認証が取り消される恐れがある。麻原彰晃はそれを避けなければならないと判断した。そして1989年11月3日未明に坂本弁護士一家殺害事件が6人の信者によって実行された。 こうして秘密の共有という一部信者の秘密結社化とともに、麻原彰晃の攻撃性は強まっていく。松本サリン事件まであと5年である。ここまでくれば、事件に関与した信者はもはや「どこにでもいる」人間とはいえない。しかし信者が殺人を犯すことを目的としてオウムの会やオウム真理教に入ったのではないことを再度強調しておくのは、オウム問題は過去の問題ではないからである。何が日本社会の課題なのか。それはカルトに入る者には、一般的な傾向があることを知り、対策を取る必要があることだ。 まず家族問題だ。多くの信者は入信の背景として父親あるいは母親との軋轢を抱えている。かつて上祐史浩に、麻原彰晃とはどういう存在かと問うたことがある。いつもは冗舌で「あー言えばジョーユー」と揶揄されるほどだった彼が、しばし黙り込んだことをいまでも覚えている。口を開いて出てきた言葉はこういうものだった。「尊師は目標であり、父のような存在です」。坂本弁護士事件の実行犯のひとり、岡崎一明死刑囚は、麻原彰晃について「父や母のような存在でした」と裁判で語っていた。「両親の代わりとしての教祖」である。上祐は、父のような教祖は「わたしが何をしなければならないのかをテキパキと指示してくれる」と語った。社会的価値観を教えてくれる存在としての父性の欠如だ。 家族問題だけではない。結論だけをいえば、反抗期の欠如、社会性の欠如などが背景に存在していた。井上死刑囚の父にこう聞いたことがある。「息子さんに反抗期はありましたか」。即座に戻ってきた言葉は「ありませんでした」だった。一般的に人間は成長の過程で反抗期を通っていく。霊感商法や合同結婚式で知られる統一教会の元信者たちにも、反抗期を経験しなかった者が多いように思える。オウムにしても統一教会にしても、わたしが知るかぎり、親や兄弟姉妹に優しい人物が多い。反抗期がないことは、対人関係において抵抗感がないことなのかも知れない。この問題もオウム=カルト問題を解く課題のひとつなのだ。「酒鬼薔薇聖斗」に作用したオウム事件「酒鬼薔薇聖斗」に作用したオウム事件 こうして細かく入信の背景を見ていけば、オウム真理教の信者は、わたしたちとそう遠くない存在であることがわかるはずだ。ところが人類史ではじめて都市部でサリン散布の経験をした日本では、特殊な問題として置き去りにしてきた。神戸・連続児童殺傷事件の現場となった竜の山(通称・タンク山)にある慰霊碑に花束を供え、手を合わせる大学院生=2007年5月24日(撮影・山田哲司) オウム事件から2年後の1997年。神戸ではいわゆる「酒鬼薔薇聖斗」事件が発生した。2人の子供が殺害された猟奇的事件で、日本を震撼させた。逮捕されたのは、当時14歳の中学2年生だった。わたしは少年を精神鑑定した専門家に取材した。「オウム事件の影響はありましたか」と聞いたところ、すかさず「ありました」と言われてしまった。では何が影響したのか。テレビの影響である。少年は「あの程度のことは許される」と思い込んだそうだ。なぜか。それはサリン事件を起こしたに違いないと思われている教団幹部が、テレビに出て堂々と発言しているからであった。 ことはそれで終わらなかった。1999年から2000年にかけて、日本全国で「17歳の犯罪」が続発した。「人を殺す経験がしたかった」と供述する少年がいた。名古屋で最近起きた殺人事件で逮捕された19歳の女子大生の供述と同じである。なかには生徒手帳に「酒鬼薔薇聖斗」事件の少年の顔写真(写真誌に掲載された)を貼っている者がいた。またある少年は犯行前に神戸市須磨区にある「酒鬼薔薇聖斗」の自宅を訪れていた。オウム事件の影響で神戸事件が起き、さらに「17歳の犯罪」へと連なっていった。神戸事件の少年と同世代の犯行である(詳細は有田芳生『メディアに心を蝕まれる子どもたち』角川SSC新書)。 なぜオウム真理教だったのか。若者たちがカルト集団に取り込まれていく社会的要因を分析し、公教育や家庭にまで教訓が浸透し、生かされなければ、これからも同じような問題は起きていくだろう。日本社会の遅れだ。とくに最近のネット社会の広がりと深まりは、それに反比例した判断力の低下とともに深刻な問題を引き起こしている。 わたしがここ数年取り組んでいるヘイトスピーチ(差別の煽動)問題では、ありもしない「在日特権」を振りかざし、ネットから街頭へと跳び出してきた在特会(在日特権を許さない市民の会)も、架空の「現実」を信じ込み、たえず人を傷つけている。評論家までがネットやラジオなどで根拠のないデマを振りまき続けている。しかも事実でないと具体的に批判されても訂正も謝罪もしないから、ネット上では誤った言説がいまでも流通している。メディアリテラシーといった言葉がしばしば使われるが、充分な判断力を持たない者が、ネットの言説に躍らされている現実は変わらない。 オウム真理教の残党であるアレフがいまだ新規の信者を増やしている背景にはこうした現実がある。主たる方法はネットを通じた勧誘である。若い世代の入信が多いのは、もはや20年前の事件ゆえに実感としてのオウム真理教ではないからだ。しかもヨーガのサークルなどなら、そこには警戒感も生じない。やがて麻原彰晃を教祖としていることを知らされても「事件は陰謀で、オウム真理教によるものではない」と教えられれば、それを無批判に信じてしまう。陰謀論は現実の背景に隠れている「真実」を知ったとして、むしろ積極的な信じ込みの動機となる。1995年の地下鉄サリン事件に至る、オウム真理教に入信した者たちと内面は変わっていないのだ。日本の現実を批判するオウム真理教に対して、日本政府やアメリカ政府は攻撃を仕掛けてきている。その後ろにいるのはフリーメーソンという秘密結社だーーそう教えこまれれば、基礎的な社会科学的判断力を持たない者は、社会の秘密を知ったと思い込み、のめり込んでいった。ネット時代にあって根拠なき言説はかつてと比較にならないほど膨大に流通している。地下鉄サリン事件から20年。オウム真理教はなくなったが、それを生み、拡大させた社会的要因は変わっていない。(敬称略)関連記事■ 日本人の「社会の心」はどこへ■ いま少年法の理念が揺らいでいる■ 日本人よ、この覚悟が理解できるか

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    オウムの失敗に学んだ「イスラム国」と失敗に学ばない日本

    紀藤正樹(弁護士) 本年2015年3月20日は、地下鉄サリン事件から20年目の節目です。 最後のオウムの刑事裁判である高橋哲也の刑事裁判も、東京地方裁判所で審理が進み、4月中にも判決が出る見通しとなっています。 世界を見渡せば、20年前のオウム真理教の失敗に学んだのか、まず先に、兵站を伸ばさずに、領土を確保し、領土内に住む人間を人質としていく中で、国家組織を作り上げた、IS(イスラム国)なるテロカルトも出てきました。 仮にですが、20年前、オウム真理教が、地下鉄サリン事件を引き起こさず、サリンを保有して、上九一色村(当時)の住民を人質として立てこもるという判断をしたたら、まさに20年前の日本で、既に1994年6月には、省庁制をとっていたオウム真理教という”国家内国家”と、日本国との全面戦争となり、我が国の当時の体制では、簡単に、強制捜査はできなかったと思いますし、さらに警察官、住民、さらには投入された自衛官も含めて、さらに多くの犠牲者を生んだ可能性があります。ヘッドギアと呼ばれる器具を着けたオウム真理教の出家信者。山梨県の旧上九一色村にあった教団施設が、1995年3月の強制捜査を受けた際の写真とみられる(信者の顔をモザイク加工しています) 20年前、IS(イスラム国)と同様、省庁制まで引いていたオウム真理教が、兵站を伸ばして首都東京に対して、地下鉄サリン事件というテロ行為を引き起こしたことは、まさに松本智津夫被告らの思い付きに基づく、歴史的偶然にすぎない感を強くします。 このインターネット時代、このオウム真理教の失敗を、ISは学んだのか、まずISは、先に住民たちを人質として、国家組織を作り上げました。住民が人質ですから、米欧が、簡単に、ISを空爆で攻撃できないのは、それが理由です。 そのため、ISを解体するには、陸戦しか方法がない状態です。しかも子どもたちも含む人質の命を守りながら陸戦を展開するのは非常に難しいのが、戦争という現実です。 テロの論理を許してはいけないのは当然の前提ですが、今の日本は、政府を含めて、オウム真理教事件から20年をたっても、カルトの存在理由やカルトの信者の論理や思考方法を学ぼうとしていません。 この歴史的偶然について、僕以外に指摘する見解がないのも、カルトの思考方法についての理解が、一般のテロの評論家と呼ばれる人たちにないのが、その理由です。テロの評論家にないのだから、政府や国会議員にないのもやむを得ないのかもしれません。「イスラム国」が公開したビデオ声明。前列右がアヤト・ブメディアン容疑者と指摘されている人物(動画投稿サイトより) オバマ大統領は、ついにこの2月、IS=ISIS=ISILに対し、はっきりと「カルト」と評するようになっています⇒.. http://fb.me/77V6X5nYA 紀藤も、ISは、メンバーの勧誘形態(現実のISの実態を教えずに、イスラム教の理想だけを教え込んでいく手法)、そのメンバーに対する支配方法、及び、命令一下の組織の構造、こうした実態を命を賭して従うメンバーの思考形態が、いわゆる破壊的カルトと同じと評価できると考えています。 今や、我が国のみならず、世界において、カルト問題はさらに深刻化し、その現状は深刻であり、あまりに憂うべきものがあります。 対し、日本政府(国会議員も含めて)は、このオウム真理教事件の反省や教訓を検証できないままにあります。 いまだに世界が驚いた化学兵器テロである。20年前のオウム真理教事件について、政府報告書や議会報告書がないのが、日本の不幸な現実です。 ひるがえって2011年に起きた原発事故については、政府も議会も民間も、事故調査報告書を出しているのに、です。 したがって我が国において、当然に、ISのようなテロリストカルトの論理や思考方法への理解は遅れ、対策が遅れるのも当然です。 今からでもとにかく、できるだけ早く、オウム真理教事件の全容について、なぜ事件が引き起こされてしまったのか、今後このような事件を引き起こさないためにはどうすればよいのか、一般人をカルト信者にしてしまう勧誘方法、カルト信者の思考方法等について、そのメカニズムの解明に関し、政府や議会による調査報告書を作成し、世に問い、政府も議会も国民を、再発防止策を真剣に検討する時期に来ていると思います。 そしてこの時期、マスコミの検証番組が相次ぐ中、市民もマスコミも、もっと政府に意見をいうべき時期に来ているのだろうと思います。 僕のような提言がほとんどないこと自体、我が国=日本国の平和ボケのような現状を反映し、とても寂しいことです。(弁護士紀藤正樹のLINC TOP NEWS-BLOG版 『地下鉄サリン事件20年の節目にテロとの戦いに思う!=「オウム真理教事件(1995年)」の失敗を学んだ「IS(イスラム国)」と、失敗に学ばない「日本国」』より転載)関連記事■ 日本人よ、この覚悟が理解できるか■ 戦後50年を襲った恐怖 「阪神大震災」と「オウム事件」■  「アル=カーイダ3.0」世代と変わるグローバル・ジハード

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    語ることは「命拾った者の務め」 現場で被害の元鑑識課係長

     オウム真理教による地下鉄サリン事件から間もなく20年。「オウムって何ですか」と真顔で聞いてくる新人警察官がいるという。警視庁鑑識課係長として現場に駆けつけ、被害に遭った杉山克之(71)は表情を曇らせ、そんな現状を憂う。「事件の教訓を次世代に伝えていく」と語る元警視庁鑑識課係長の杉山克之さん 「時代の流れでは済まされない。俺たち警察は失敗したんだから。警察は『オウムの影』に気付きながら情報共有できず事件を防げなかった。被害者のためにも、その思いは絶対に忘れてはいけないんだ」 平成7年3月20日午前8時過ぎ、東京都千代田区の警視庁鑑識課の一室で、杉山は霞ケ関駅の異常事態を知らせる無線を耳にした。現場は目と鼻の先。すぐに地下3階の同駅ホームに降り立った。 無人の先頭車両内に新聞紙の包みを見つけた。ドロリとした液体が染みだし、かすかに甘い臭いを放っている。特徴を書き留めようとペンを握ったとき、異変に気づいた。腕が動かない。首から下の感覚がない。目の前が真っ暗になり、自分がどこにいるのか分からなくなった。サリンの症状の一つ、瞳孔が極端に縮む「縮瞳(しゅくどう)」だった。 わずかな視界の中で、蛍光灯の淡い光が出口から差す日の光のように見えた。「あそこまで行けば助かる」。おぼろげな意識の中で、部下が叫ぶ声が聞こえた。「係長!」。中学生と高校生、大学生の3人の子供の顔が浮かんだ。「死ねるものか」。そう思ったのを最後に意識が途絶えた。 約2時間半後、杉山は病院のベッドにいた。体の汗をふいたタオルが顔にかかったとき、臭いに息がつまって吐いた。後遺症だった。 新聞で「サリン」「地下鉄」という文字を見る度に吐いて胃の中が空になり、死者が手招きする悪夢に幾度となくうなされた。 それでも、事件から約1カ月後、静岡県富士宮市のオウム真理教関連施設の現場検証に参加した。「自分の手で証拠をつかんでやる」との思いからだ。 16年3月に退職して以降も、幹部を養成する警察大学校などで教壇に立ち、経験を語った。「事件を忘れるな」「苦しみを忘れるな」。17年から23年まで計約30回講義し、被害者を代弁するように3千人以上に自らの経験を伝えた。 「同じ苦しみを味わった自分が語らなければ、犠牲者の苦しさは分からない。命を拾った者の務めだ」。まなざしはなお鋭い。崩れた安全神話 《日比谷線の八丁堀駅。病人2名、気持ちが悪くなったもの。あるいは事件事故等やもしれませんが、詳細判然としません》 平成7年3月20日午前8時21分。警視庁の通信指令本部に入ったこの無線連絡が死者13人、負傷者6千人を超える未曽有のテロ事件の始まりだった。無線情報が錯綜地下鉄サリン事件が発生し、地下鉄八丁堀駅から続々と運び出され、救急隊員から手当てを受ける乗客ら=平成7年3月20日、東京都中央区 各駅からは続々と負傷者の報告が入った。30、40、50と人数は増え、すでに脈拍がない人もいた。「ガソリン」「シンナー」「薬品」「爆発物」…。警視庁の無線情報は錯綜(さくそう)した。 まもなく、警視庁の鑑識課員が発見した不審物が科学捜査研究所に持ち込まれた。科捜研第2化学科主査だった服藤(はらふじ)恵三(57)は午前9時ごろ、白バイ隊員が持ってきたサンプルの鑑定に入った。脱脂綿は薄黄色にぬれていた。隊員は「築地駅の3両目の車両の床を拭き取った」と話していた。 屋内は危険が高い。屋上に部下と向かった。ピンセットで脱脂綿をつまみ、溶媒が入ったフラスコに放り込んだ。溶媒からの抽出液を質量分析計に注入。午前9時34分、コンピューター画面にアルファベットと構造式が示された。 《サリン検出》 「大変なことが起きた。誰が何の目的でこんなことを…」。高まる鼓動。服藤は心を落ち着かせた。「治療にあたる医師らにいち早く伝え、処置に誤りがないようにしなくてはならない」。別の現場から持ち込まれたサンプルも同様の鑑定結果。間違いない。 警視庁はすぐさま原因物質は「サリンの可能性」と発表した。化学兵器サリンによるテロが、日本の中枢部で起きたことが全世界に伝わった瞬間だった。化学部隊を設置 「数々の教訓を残した。警察も意識、組織の両面で大改革を迫られた」。警察幹部は一連のオウム事件の影響をこう振り返る。「テロやカルトの脅威を体感した。安全神話が崩れ、日本もテロの標的となることが浮き彫りになった」とも。 長野県松本市で起きた6年6月の松本サリン事件に続く、サリンを使用した犯罪。核(Nuclear)、生物(Biological)、化学(Chemical)のテロ対策が急務となった。 地下鉄サリン事件から5年後の平成12年、警視庁公安部は、公安機動捜査隊の中にNBCテロ捜査隊を創設した。事件を教訓に物理、化学、生物学などを専攻したエキスパートが、不審物や異臭など、NBCテロの可能性がある事案の初動捜査にあたる。同様の組織は、全国の警察にも配備された。 自衛隊には、化学物質の分析・特定に最先端のノウハウを持つ陸上自衛隊化学学校の「化学教導隊」があり、地下鉄サリン事件で現場を除染した部隊を前身にした「中央特殊武器防護隊」も擁する。十数万種の化学剤を識別する偵察車や、NBC汚染に耐える装備は、素早い対処や被害軽減の武器となる。 テロに対応する“実行力”も強化された。国内外での破壊活動なども想定する陸自の「特殊作戦群」は極めて高い練度を誇るとされる。海上自衛隊も「特別警備隊」を有している。 原発のテロ対策も強化され、東京電力福島第1原発を含む計17カ所の原発には、サブマシンガンなどで重装備した警察の部隊が24時間体制で警備にあたる。知らない世代も 事件後、装備や組織は強固なものになりつつある。だが、それを運用するのは人だ。「オウムが何をしたのか。どういう存在だったのか。実体験として当時を知らない若手が増えていることに危機感もある」。警察幹部はこう話す。 国内のカルト集団が水面下で増幅し、暴発したオウム事件は深い傷を残しながら、記憶の風化も浮き彫りになっている。 一方、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が日本をテロの標的と名指しするなど、日本は新たな脅威にも直面している。元警視庁鑑識課の杉山克之は「テロの最大の脅威は海外にある。最も重要なのは徹底的に海外のテロ組織の情報収集をして対策を立てることだ」との懸念を示す。 国際テロに詳しい公共政策調査会の板橋功(55)は、この20年でテロ対策は進んだとした上で「国際テロリズムの脅威は明らかに高まった。国民全体がテロに敏感にならないといけない。想定されるテロのリスクも多様になった」とし、「風化」「対岸の火事」との意識を改めることを強調した。(敬称略)関連記事■ 日本人よ、この覚悟が理解できるか■ あの日を境に変わった私のメディア認識■ 戦後50年を襲った恐怖 「阪神大震災」と「オウム事件

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    「今日、いいことが起きている」麻原は四女に告げ、笑った

     オウム真理教による一連の事件を首謀した教祖、麻原彰晃(60)=本名・松本智津夫。その四女(25)が地下鉄サリン事件の発生から20年を控え、産経新聞の取材に応じた。麻原彰晃死刑囚が逮捕された山梨県旧上九一色村の教団施設「第6サティアン」(中央の写真は逮捕時、平成7年5月16日撮影)。現在の跡地は草が生い茂り、世界を震撼(しんかん)させた現場を想起させるものは残されていない=3月14日、山梨県富士河口湖町(奈須稔撮影)  平成7年3月20日、教団最大の拠点があった山梨県旧上九一色村。その建物群の一つ、麻原ファミリーが暮らす重要施設「第6サティアン」の麻原の部屋の前で、四女は父と立ち話をしていた。 「今日はいいことが起きているんだよ」 麻原はこう言い、冷たく笑った。その直後、教団幹部らが緊張した面持ちで現れた。「向こうに行っていろ」。四女は父に追い払われ、父と幹部らは部屋の中に消えていった。 この日朝、東京都心で地下鉄サリン事件が起きた。このとき、四女は5歳。父との立ち話は、幼少期の鮮烈な記憶となっている。“最後の別れ”はせず その2日後、警視庁などによる強制捜査が始まる。「麻原、どこだ!」。連日のように捜査員の声がこだました。約2カ月後の5月16日、第6サティアンにあった隠し部屋で、現金を抱えた麻原が発見された。「尊師(麻原)が捕まる」。近くにいた信者に“最後の別れ”をしに行くよう促されたが、なぜか足が動かなかった。 「逮捕される父の姿を見たくなかったのか、立ち話のときの父に嫌悪感を抱いていたのか」。今も四女は父に会いに行かなかった理由を整理できていない。 事件については「父にとって自己保身。自分に迫る強制捜査を攪乱(かくらん)したかった。一般人や信者がどうなっても構わなかった。自分と自分を神聖化する教団を守りたかったに違いない」と理解している。「子供は親選べない」 四女は元年に静岡県富士宮市の教団施設で生まれた。2歳ごろに旧上九一色村に移り、3歳で立位礼拝(りついらいはい)=立ち上がったり体を床にはわせたりする修行=を2時間こなすなど、幼少期は修行三昧の日々だった。 「子供は親を選べない。私がオウムを選んだこともない。ただ、昨日生きていた人が今日死んでいる状況はつらかった。洗脳される以外に生き残る道はなかった。『ここはおかしい。いつか脱出しよう』と思っていた」 麻原逮捕後、家族は関東の教団施設などを転々とする。行く先々で就学拒否など住民の反対にあった。 「宗教弾圧だ」。信者らからそう聞かされてきた四女は、15歳になるまで地下鉄サリン事件をはじめ教団の犯罪をまったく知らなかった。テレビや新聞、雑誌を見ていなかったからだ。麻原彰晃死刑囚 1審で麻原に死刑判決が出た後のことだ。中学校で法律について学んだ際に「宗教弾圧で死刑になるのだろうか」と疑問に思い、インターネットなどで調べて初めて事実を知った。 教団関係者から生活費が出ていた一家。「父の娘であることで生きていくのが、いやになった。被害者の賠償に充てられるべきお金で生活したくない」。固く決意し、16歳で家出した。その後、職を転々としながら自活している。 麻原の四女は家出した際、幹部信者から父の「獄中メッセージ」と呼ばれる文書を手渡された。弁護士が接見で聞き取り、教団へ伝言したもので、必要に応じて信者に伝えられた。一定のステージ(位)以上の者はその全文を見ることができる。 「父は逮捕後も教団に指示を出していた」。麻原が平成7年5月から約2年の間に発したメッセージに、教団は従ったという。 産経新聞が四女から入手した文書によると、7年11月には、教団が任意団体に移行するとした上で「尊師は新しい任意団体の名称を下記の通り指示」とし、続いて「『アレフ』とする」という文字が記されている。教団がアレフに名称を変える4年以上前のことだ。 8年2月には「取調官の言葉の意味そのものを全く理解しない(中略)、音としてすら認識しなかったとしたら(中略)、一切の苦しみから解放されることになる。これが解脱です」とのメッセージを発し、逮捕された幹部を黙秘に転じさせた。 8年6月には「教祖-長男、次男」の記載がある。教団は同月、当時3歳の長男(22)と同2歳の次男(21)を「教祖」とする新体制を発表した。ただ、アレフに名称を変更したと同時に「教祖を置かない」と規定しており、表向きには「教祖」と位置づけていない。 アレフは昨年3月、麻原の生誕祭を過去最大規模となる700人以上で行った。麻原への帰依心が強まる一方、教祖の世代交代を模索する動きも出ている。 公安調査庁によると、アレフ内では昨年、成人した次男を正式に教祖に迎えようとする動きがあったが、三女(31)が反対した。これを機に、三女に同調した幹部が除名されるなど、教団運営が混乱しているという。 後継者待望論には、理由がある。麻原が拘置所にいるため高位の信者をステージアップできず、出家信者の教団離れにつながっている。元アレフ幹部は「代わりを務められるのは後継指名を受けた長男か次男しかいない」と言い切る。小学生向けに教材…信者の若返り図る小学生向けに教材 アレフは「教祖」の世代交代を意図する一方、信者の若返り、若年層への教育に力を入れているようだ。オウム真理教主流派「アレフ」の小学生向け音声教材「小学生の真理」=平成26年(公安調査庁「内外情勢の回顧と展望」から) 「こんにちは。小学生の皆さん。麻原彰晃です」。アレフの小学生向け音声教材「小学生の真理」は、麻原の肉声によるこんなフレーズで始まる。「君たちは『カルマ』という言葉を知っているかな」「1日1円でもいいからお布施をすると、半年後にはきっといいことが返ってくる」。麻原がやさしい言葉遣いで教義や修行について語りかける。 公安庁によると、主流派アレフと分派したひかりの輪の昨年11月末時点の国内の信者数は3年前より150人増え、計1650人。このうちアレフだけで1450人を占める。増加した信者の6割以上が35歳未満の若い世代だった。 公安庁は、信者となった親に連れられ、アレフの施設を訪れた子供たちが修行している姿を確認している。年端もいかない子供たちの口から「教祖に帰依する」「出家するしかない」といった言葉が出るという。 さらに低年齢向けの「よい子の真理」もあり、オウムの次世代は着実に育っている。公安庁幹部は「過去の事件を知らず、純粋培養された世代が育てば、同じ惨事を繰り返す可能性がある」と懸念する。 一方、ひかりの輪は代表の上祐史浩(52)がテレビ番組に出演したり、書籍を出版したりするなどして、麻原からの脱却をアピールしている。しかし、公安庁は、麻原の影響力を払拭したかのように装う「麻原隠し」であることは明らかだとしている。四女「父は詐病だ」 麻原が1審で死刑判決を言い渡された半年後の16年夏、四女は初めて東京・小菅の東京拘置所で父と面会した。面会は6回ほど重ね、19年3月には自分の名前を呼ばれた。最後の20年6月には「きょうは寒いですけど、体は大丈夫ですか」との問いに、麻原は「きょう、けっこう寒いね」と答えたという。 弁護側は麻原が精神的に病み、訴訟能力がないと主張していたが、四女は今でも「父は詐病(さびょう)だ」と信じている。 「父は人間そのものを憎悪していたのではないか。誰も愛することができなかった。一方で、自己愛が強く、詐病で自分を守っているのだろう」。四女は今後も教団から離れ、「贖罪(しょくざい)」の気持ちを抱きながら生きていくという。(敬称・呼称略)関連記事■ 日本人よ、この覚悟が理解できるか■ 戦後50年を襲った恐怖 「阪神大震災」と「オウム事件」■ 「共謀罪」でテロに備えよ

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    マスゴミよりたちが悪い私刑化社会

    「晒す」という言葉がネットで使われるようになって久しい。何か事件が起きれば、犯人捜しや個人情報を勝手に公開し、私的に制裁する「ネット私刑」も広く知られるようになった。川崎市の中1殺害事件でも、加害少年らの私刑が物議を醸したが、私刑化が進むネット社会に潜む落とし穴とは。

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    少年法の「壁」を考える

    少年による凶悪事件が止まらない。川崎市の中1殺害事件の容疑者も少年グループだった。更生と保護を理念とする少年法の厳罰化の流れが進む中で起きた今回の事件。「18歳選挙権」の成立が確実となった今、20歳を成人と扱う少年法との整合性をどうつけるのか。少年法の「壁」を考えたい。

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    戦後50年を襲った恐怖 「阪神大震災」と「オウム事件

    し、瞬く間に広まったのである。いわば、「携帯元年」と呼んでもいいだろう。 もう一つ、忘れてはならない事件がある。この年の3月20日午前8時ごろ、東京で発生した地下鉄サリン事件のことだ。新興宗教団体のオウム真理教(現・アレフ)が、営団地下鉄(現・東京メトロ)の丸ノ内線、日比谷線、千代田線の3路線の車両内で、化学兵器として使用される神経ガスサリンを散布し、乗客や駅員13人が死亡した事件である。負傷者数は約6300人にのぼった。 首都圏の地下鉄を舞台に実行されたテロ事件として世界中の注目を集めた。また、一般市民に対し、化学兵器が使用されたことでも衝撃的だったとされる。しかし、それでもまだ日本では無差別テロ事件という認識は希薄だった。おかしな思想にとらわれた新興宗教団体による犯罪という側面でしか、捉えなかったのではないか。第六サティアンを「殺人予備」の容疑に切り替えて捜索が新たに行なわれた=上九一色村 1995/ 03/ 31  この事件を契機に、メディアは震災報道からオウム報道一色に様変わりした。メディアも事件の詳細から、オウムの教祖だった麻原彰晃(本名・松本智津夫)のことや、オウムが起こした坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件などを掘り下げる内容になっていった。 個人的なことで恐縮だが、当時業界紙記者だった私は建設省(現・国交省)担当で、妻は団体職員として神谷町に勤務していた。たまたま2人ともこの日は休暇を取っていたため事件に巻き込まれなかったが、もし普段どおり勤務していたらどのような事態に遭遇していたか分からない。そんな恐怖感に包まれたことを、今も鮮烈に覚えている。逮捕され、拘置請求のため東京地裁に向かうオウム真理教の麻原彰晃容疑者=警視庁1995/ 05/ 18  さらに、地下鉄サリン事件の1カ月後、私は縁あって元読売新聞大阪社会部長の黒田清氏(故人)の黒田ジャーナルに転職し、約10カ月におよぶ震災取材を経験した。当初、「いまごろ東京から来て何が分かんねん」と面罵されることもあったが、被災者と共に歩き、共に涙しながら被災者の心情の一端を報じられたと思っている。 戦後50年に、この大災害と大事件が発生したことは、この国の大きな転換期だったと、今振り返ってみて改めて感じている。戦後生まれ、平和な時代に育った者として、この2つの出来事は初めて目の当たりにした“戦争”だったからだ。このような事態に遭遇した際、国はどのように動くのか。もちろん、その都度、政府は法整備を進めていった。 たとえば、5年間の時限立法として阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律をはじめ、被災者生活再建支援改正法など、さまざまな法律ができ、復興支援に向け動いた。 また、破壊活動防止法以外に、オウム新法(団体規制法、正式には「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」)が出来たり、サリンの所持や製造を禁止するサリン防止法などが成立した。 いつ大災害に見舞われるか、どこで無差別テロ事件が起きるか、つまり身近に危険が潜んでいることがはっきりしたのが、95年だった。平和で豊かな国ではない現実を突きつけられた年だったといっていいだろう。 しかし、戦後70年を迎えるいま、防災立国をめざすでもなく、テロ防止が万全といえる状態ではない。その一方で、特定秘密保護法は一般市民やメディアまでも巻き込むことも可能な危うさを孕み、集団的自衛権の憲法解釈容認は時の政権によって大きく舵取りが変わる危険性を持っている。あの20年前のこの国の姿を思い出すと、違う国づくりの必要性が改めて浮かび上がってくるように思えてならない。