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    語ることは「命拾った者の務め」 現場で被害の元鑑識課係長

     オウム真理教による地下鉄サリン事件から間もなく20年。「オウムって何ですか」と真顔で聞いてくる新人警察官がいるという。警視庁鑑識課係長として現場に駆けつけ、被害に遭った杉山克之(71)は表情を曇らせ、そんな現状を憂う。「事件の教訓を次世代に伝えていく」と語る元警視庁鑑識課係長の杉山克之さん 「時代の流れでは済まされない。俺たち警察は失敗したんだから。警察は『オウムの影』に気付きながら情報共有できず事件を防げなかった。被害者のためにも、その思いは絶対に忘れてはいけないんだ」 平成7年3月20日午前8時過ぎ、東京都千代田区の警視庁鑑識課の一室で、杉山は霞ケ関駅の異常事態を知らせる無線を耳にした。現場は目と鼻の先。すぐに地下3階の同駅ホームに降り立った。 無人の先頭車両内に新聞紙の包みを見つけた。ドロリとした液体が染みだし、かすかに甘い臭いを放っている。特徴を書き留めようとペンを握ったとき、異変に気づいた。腕が動かない。首から下の感覚がない。目の前が真っ暗になり、自分がどこにいるのか分からなくなった。サリンの症状の一つ、瞳孔が極端に縮む「縮瞳(しゅくどう)」だった。 わずかな視界の中で、蛍光灯の淡い光が出口から差す日の光のように見えた。「あそこまで行けば助かる」。おぼろげな意識の中で、部下が叫ぶ声が聞こえた。「係長!」。中学生と高校生、大学生の3人の子供の顔が浮かんだ。「死ねるものか」。そう思ったのを最後に意識が途絶えた。 約2時間半後、杉山は病院のベッドにいた。体の汗をふいたタオルが顔にかかったとき、臭いに息がつまって吐いた。後遺症だった。 新聞で「サリン」「地下鉄」という文字を見る度に吐いて胃の中が空になり、死者が手招きする悪夢に幾度となくうなされた。 それでも、事件から約1カ月後、静岡県富士宮市のオウム真理教関連施設の現場検証に参加した。「自分の手で証拠をつかんでやる」との思いからだ。 16年3月に退職して以降も、幹部を養成する警察大学校などで教壇に立ち、経験を語った。「事件を忘れるな」「苦しみを忘れるな」。17年から23年まで計約30回講義し、被害者を代弁するように3千人以上に自らの経験を伝えた。 「同じ苦しみを味わった自分が語らなければ、犠牲者の苦しさは分からない。命を拾った者の務めだ」。まなざしはなお鋭い。崩れた安全神話 《日比谷線の八丁堀駅。病人2名、気持ちが悪くなったもの。あるいは事件事故等やもしれませんが、詳細判然としません》 平成7年3月20日午前8時21分。警視庁の通信指令本部に入ったこの無線連絡が死者13人、負傷者6千人を超える未曽有のテロ事件の始まりだった。無線情報が錯綜地下鉄サリン事件が発生し、地下鉄八丁堀駅から続々と運び出され、救急隊員から手当てを受ける乗客ら=平成7年3月20日、東京都中央区 各駅からは続々と負傷者の報告が入った。30、40、50と人数は増え、すでに脈拍がない人もいた。「ガソリン」「シンナー」「薬品」「爆発物」…。警視庁の無線情報は錯綜(さくそう)した。 まもなく、警視庁の鑑識課員が発見した不審物が科学捜査研究所に持ち込まれた。科捜研第2化学科主査だった服藤(はらふじ)恵三(57)は午前9時ごろ、白バイ隊員が持ってきたサンプルの鑑定に入った。脱脂綿は薄黄色にぬれていた。隊員は「築地駅の3両目の車両の床を拭き取った」と話していた。 屋内は危険が高い。屋上に部下と向かった。ピンセットで脱脂綿をつまみ、溶媒が入ったフラスコに放り込んだ。溶媒からの抽出液を質量分析計に注入。午前9時34分、コンピューター画面にアルファベットと構造式が示された。 《サリン検出》 「大変なことが起きた。誰が何の目的でこんなことを…」。高まる鼓動。服藤は心を落ち着かせた。「治療にあたる医師らにいち早く伝え、処置に誤りがないようにしなくてはならない」。別の現場から持ち込まれたサンプルも同様の鑑定結果。間違いない。 警視庁はすぐさま原因物質は「サリンの可能性」と発表した。化学兵器サリンによるテロが、日本の中枢部で起きたことが全世界に伝わった瞬間だった。化学部隊を設置 「数々の教訓を残した。警察も意識、組織の両面で大改革を迫られた」。警察幹部は一連のオウム事件の影響をこう振り返る。「テロやカルトの脅威を体感した。安全神話が崩れ、日本もテロの標的となることが浮き彫りになった」とも。 長野県松本市で起きた6年6月の松本サリン事件に続く、サリンを使用した犯罪。核(Nuclear)、生物(Biological)、化学(Chemical)のテロ対策が急務となった。 地下鉄サリン事件から5年後の平成12年、警視庁公安部は、公安機動捜査隊の中にNBCテロ捜査隊を創設した。事件を教訓に物理、化学、生物学などを専攻したエキスパートが、不審物や異臭など、NBCテロの可能性がある事案の初動捜査にあたる。同様の組織は、全国の警察にも配備された。 自衛隊には、化学物質の分析・特定に最先端のノウハウを持つ陸上自衛隊化学学校の「化学教導隊」があり、地下鉄サリン事件で現場を除染した部隊を前身にした「中央特殊武器防護隊」も擁する。十数万種の化学剤を識別する偵察車や、NBC汚染に耐える装備は、素早い対処や被害軽減の武器となる。 テロに対応する“実行力”も強化された。国内外での破壊活動なども想定する陸自の「特殊作戦群」は極めて高い練度を誇るとされる。海上自衛隊も「特別警備隊」を有している。 原発のテロ対策も強化され、東京電力福島第1原発を含む計17カ所の原発には、サブマシンガンなどで重装備した警察の部隊が24時間体制で警備にあたる。知らない世代も 事件後、装備や組織は強固なものになりつつある。だが、それを運用するのは人だ。「オウムが何をしたのか。どういう存在だったのか。実体験として当時を知らない若手が増えていることに危機感もある」。警察幹部はこう話す。 国内のカルト集団が水面下で増幅し、暴発したオウム事件は深い傷を残しながら、記憶の風化も浮き彫りになっている。 一方、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が日本をテロの標的と名指しするなど、日本は新たな脅威にも直面している。元警視庁鑑識課の杉山克之は「テロの最大の脅威は海外にある。最も重要なのは徹底的に海外のテロ組織の情報収集をして対策を立てることだ」との懸念を示す。 国際テロに詳しい公共政策調査会の板橋功(55)は、この20年でテロ対策は進んだとした上で「国際テロリズムの脅威は明らかに高まった。国民全体がテロに敏感にならないといけない。想定されるテロのリスクも多様になった」とし、「風化」「対岸の火事」との意識を改めることを強調した。(敬称略)関連記事■ 日本人よ、この覚悟が理解できるか■ あの日を境に変わった私のメディア認識■ 戦後50年を襲った恐怖 「阪神大震災」と「オウム事件

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    マスゴミよりたちが悪い私刑化社会

    「晒す」という言葉がネットで使われるようになって久しい。何か事件が起きれば、犯人捜しや個人情報を勝手に公開し、私的に制裁する「ネット私刑」も広く知られるようになった。川崎市の中1殺害事件でも、加害少年らの私刑が物議を醸したが、私刑化が進むネット社会に潜む落とし穴とは。

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    少年法の「壁」を考える

    少年による凶悪事件が止まらない。川崎市の中1殺害事件の容疑者も少年グループだった。更生と保護を理念とする少年法の厳罰化の流れが進む中で起きた今回の事件。「18歳選挙権」の成立が確実となった今、20歳を成人と扱う少年法との整合性をどうつけるのか。少年法の「壁」を考えたい。

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    戦後50年を襲った恐怖 「阪神大震災」と「オウム事件

    し、瞬く間に広まったのである。いわば、「携帯元年」と呼んでもいいだろう。 もう一つ、忘れてはならない事件がある。この年の3月20日午前8時ごろ、東京で発生した地下鉄サリン事件のことだ。新興宗教団体のオウム真理教(現・アレフ)が、営団地下鉄(現・東京メトロ)の丸ノ内線、日比谷線、千代田線の3路線の車両内で、化学兵器として使用される神経ガスサリンを散布し、乗客や駅員13人が死亡した事件である。負傷者数は約6300人にのぼった。 首都圏の地下鉄を舞台に実行されたテロ事件として世界中の注目を集めた。また、一般市民に対し、化学兵器が使用されたことでも衝撃的だったとされる。しかし、それでもまだ日本では無差別テロ事件という認識は希薄だった。おかしな思想にとらわれた新興宗教団体による犯罪という側面でしか、捉えなかったのではないか。第六サティアンを「殺人予備」の容疑に切り替えて捜索が新たに行なわれた=上九一色村 1995/ 03/ 31  この事件を契機に、メディアは震災報道からオウム報道一色に様変わりした。メディアも事件の詳細から、オウムの教祖だった麻原彰晃(本名・松本智津夫)のことや、オウムが起こした坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件などを掘り下げる内容になっていった。 個人的なことで恐縮だが、当時業界紙記者だった私は建設省(現・国交省)担当で、妻は団体職員として神谷町に勤務していた。たまたま2人ともこの日は休暇を取っていたため事件に巻き込まれなかったが、もし普段どおり勤務していたらどのような事態に遭遇していたか分からない。そんな恐怖感に包まれたことを、今も鮮烈に覚えている。逮捕され、拘置請求のため東京地裁に向かうオウム真理教の麻原彰晃容疑者=警視庁1995/ 05/ 18  さらに、地下鉄サリン事件の1カ月後、私は縁あって元読売新聞大阪社会部長の黒田清氏(故人)の黒田ジャーナルに転職し、約10カ月におよぶ震災取材を経験した。当初、「いまごろ東京から来て何が分かんねん」と面罵されることもあったが、被災者と共に歩き、共に涙しながら被災者の心情の一端を報じられたと思っている。 戦後50年に、この大災害と大事件が発生したことは、この国の大きな転換期だったと、今振り返ってみて改めて感じている。戦後生まれ、平和な時代に育った者として、この2つの出来事は初めて目の当たりにした“戦争”だったからだ。このような事態に遭遇した際、国はどのように動くのか。もちろん、その都度、政府は法整備を進めていった。 たとえば、5年間の時限立法として阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律をはじめ、被災者生活再建支援改正法など、さまざまな法律ができ、復興支援に向け動いた。 また、破壊活動防止法以外に、オウム新法(団体規制法、正式には「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」)が出来たり、サリンの所持や製造を禁止するサリン防止法などが成立した。 いつ大災害に見舞われるか、どこで無差別テロ事件が起きるか、つまり身近に危険が潜んでいることがはっきりしたのが、95年だった。平和で豊かな国ではない現実を突きつけられた年だったといっていいだろう。 しかし、戦後70年を迎えるいま、防災立国をめざすでもなく、テロ防止が万全といえる状態ではない。その一方で、特定秘密保護法は一般市民やメディアまでも巻き込むことも可能な危うさを孕み、集団的自衛権の憲法解釈容認は時の政権によって大きく舵取りが変わる危険性を持っている。あの20年前のこの国の姿を思い出すと、違う国づくりの必要性が改めて浮かび上がってくるように思えてならない。