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    死刑批判で「バカは私」 寂聴さんが教えてくれた因果の道理

    高橋幸夫(「あすの会」幹事、医師) 日本弁護士連合会(日弁連)は人権擁護大会で「死刑廃止」を宣言した。その大会で、瀬戸内寂聴さんが作家として、出家者として「殺したがるバカども」とビデオメッセージで発言し、大きな話題となっている。私は、その大会に出席しており一部始終、見聞していた。私は14年前、妻を拉致誘拐され犯人が自殺、妻は行方不明のままとなった夫であり、この事件をきっかけに死刑制度に関心を持つようになった精神科医である。48年間の医療経験を重ね合わせて、日弁連や瀬戸内寂聴さんの件に感想を述べようと思う。 私の願いはただ一つ、失われた命を取り戻すことは出来ないが、悲惨な事件が繰り返されぬよう、社会ルールを堅持し、社会に安心、安全を取り戻すことである。そのためにも死刑制度は必要と考えている。 瀬戸内寂聴さんのビデオメッセージに批判の声が多く寄せられ、寂聴さんは、そのメッセージを否定する「バカは私」発言を再びなさった。この一連の流れから察するに、僧侶になろうとも、人の本心は変わらぬことを物語っている。出家し袈裟をかぶり体裁を整え、修行して徳を積み、人様に説教して廻り、傍目には「さすが僧侶」と見えた。しかし、それは表面的なものであり、本心は変わらぬことを自ら、我々に示したのである。瀬戸内寂聴氏 人間は生来持って生まれる生物学的性質と生活環境が、縄のごとくあざなって成長するものである。生活環境とともに、基本の生物学的に規定された性格(DNAレベル)要因が大きく左右し、人格形成がなされてくるのである。いくら良い環境で育とうとも、生物的に規定された性質によっては「反社会性人格障害者」が生まれてくることがある。生まれながらに犯罪(反社会的行為)傾向の強い人と言ってもよい。 これら一部の人たちは、適切な働きかけをしても、本人は反社会的行為だと気づかず、罪を悔いることもなく、残虐な犯罪を繰り返す人たちであり、更生や矯正治療によっても変わり得ないのである。すなわち治療反応性の極めて乏しい人たちである。この事実は、われわれ精神科医が日々痛感するところである。 統計数字から見ても、一般的な再犯率は40%~60%とも言われている。すなわち約半数の者は更生しないし矯正出来てないとも言える。殺人事犯では100人中1~2人は、再び殺人を犯すと言われている。再犯者には、暴力団関係者が目立ち、劣悪な生育環境下にいた者は少なく、相手を殺害するほどの事情がないにもかかわらず、その場の激情や興奮に単純に支配され凶行に及んでいるとの報告がある。 これは、感情が激越的に爆発しやすい性格であり、衝動的に反社会的行為を起こしやすいからである。このような人格障害者の矯正や更生は、とうてい望み難い。死刑廃止論者は、犯罪は社会環境のせいだとするが、社会環境が悪いだけではない。自己責任部分も多いにある。医学的観察や統計数字からみて、全ての人間が人の心の痛みを知り、更生できるとの考え方は、勉強不足というものである。虎も猫も子供のころはみな、かわいい。「冤罪」という課題 しかし、成長するにつれ同じ環境下でも猫は猫、虎は虎に育つものである。死刑廃止論者は、教育すれば、みな牙をむかぬ猫や虎に育つと考えているようであるが、勉強不足も甚だしい。加害者弁護人は「更生の可能性あり」「反省している」との理由づけをするが、その根拠は極めて乏しいものである。再び罪を犯す者が半数いることが、その証左であろう。これは明らかに彼らの誤った判断である。 しかしながら、弁護人や裁判官から、今までこれらの現象についての反省を聞いたことがない。「更生の可能性あり」「反省している」との根拠をどこに求めて判断しているのだろうか。無責任と言う他はない。誤判ともいえるこの現象を、検証することもなく放置し今日に至っている。この風調が、弁護人や裁判官に対して信頼を失ってきている。早く正すべきであろう。理想像や望みを語るだけでは社会秩序は保てない。「バカは私」及び「日弁連の思考」から、思い起こすは「三つ子の魂 百まで」の諺である。 「死刑は執行したら取り返しがつかない刑罰だ。必ず間違いは起きるから死刑制度を廃止しろ」との主張には無理がある。冤罪は死刑制度だけの問題ではない。すべての裁判で起こる可能性はある。冤罪をなくさなければならないのは当然である。だが一方、全く疑う余地のない犯罪もあるのだ。 日弁連は、常套句の如く「免田栄さんのような冤罪事件があるから死刑は廃止だ」と言う。しかし、彼らが冤罪と言っている事件は、半世紀も前の事件である。現在の進歩した科学的捜査手法では起こり得ないことだ。日弁連の主張は、まるで「昔の天気予報は不正確で社会的損失が生じた。だから現在の天気予報を廃止しろ!」と言っているのに等しい。時代錯誤の言いがかりとしか思えない。冤罪を防ぐには、最近の科学的捜査手法と共に「疑わしくは罰せず」を守れば良いだけの話である。死刑廃止の宣言案をめぐり激しい議論が展開された人権擁護大会=10月7日、福井市 すなわち冤罪は、捜査段階での手法や運用の問題であり、死刑制度そのものの欠陥ではない。死刑廃止論者は、「運用の問題」と「制度の問題」を、ごっちゃ混ぜにした勉強不足からのものに他ならない。問題をすり替えようとしているのである。 罪の重さと罰の重さは、常に等しくなければならないにも関わらず、日弁連は「罪刑均衡の原則」には触れようとしない。死刑廃止論に不都合が生じるからであろう。人の命の重さは平等であるというならば、犯人の命を重んずると同等に被害者の命についても語るべきであろう。なぜ日弁連は避けるのか説明がない。このように偏った見方しか出来ない日弁連は極めて危険である。死刑廃止は本当に世界の潮流か 被害者が死刑を求めるのは、復讐心に燃えてのことだと、死刑廃止論者は決めつけている。しかし、そんな単純なものではない。遺族は愛する家族が生きて帰ってくれることを、まず望んでいるのである。事件当初は犯人に死刑をなど思ってもない。犯人を死刑に処しても、愛する家族が生きかえることがないことは、重々承知している。にもかかわらず、なぜ死刑を求めるかは、愛する者の命を犯人の命より軽く扱われることに怒りを感じるからである。 やられたから、やり返すと言う単純な復讐感情だけではない。犯人に死刑を求めるのは、被害者の命を粗末に扱う社会的不平等に対する怒りからであり、愛する家族を供養するきっかけ作りなのである。遺族は死者を供養しながら、再び頑張って生きていこうとする気力を取り戻すのである。それは、赤穂浪士が吉良上野介を討った直後、主君の墓参りをしたのと同じ「供養」の心なのである。 このことで命の平等性が保たれる社会に安心し、理不尽なことなく安全で秩序ある社会維持に繋がるのである。こうした社会秩序維持のための応報感情から、死刑を求めているのである。弱肉強食社会は決して許されるものではない。社会秩序の維持を願ってのことなのである。死刑は遺族に供養の時を与え、遺族の心を支え、遺族の社会復帰に必要な行事なのである。死刑は犯罪への復讐感情にとどまらず、遺族の社会復帰と社会秩序維持のために必要な行事なのである。日弁連は復讐感情と、応報感情の区別も出来ない残念な集団である。 今回の日弁連の宣言は、2020年に日本で刑事司法の専門家が集う国連会議があるため、急きょ用意した外交辞令からのものであり、日本国民を思ってのことではない。日弁連は、数年前から死刑問題について、全社会的議論をしようと提案してきた。しかし集まるのは死刑廃止論者がほとんどで、形式的なものに終わっている。大会出席者の発言からも明らかで、本来の全社会的議論には至っていない。日本国民の多くはそんな議論すら知らない。しかし日弁連執行部は、全社会的議論を行ったことにして、今回「死刑廃止」を決定したのである。それもこれも対外的面子を重んじてのことであろう。 今回の人権大会の決定は、真にお粗末であった。弁護士総数3万7千余人のうち、出席者はたった2%(786人)に過ぎず、その内の賛成者は69%(546人)、反対12%(96人)、棄権18%(144人)であった。たった2%の出席者でもって、日弁連は全総意として決定したのである。余りにも乱暴で無茶苦茶な団体である。驚くほかはない。このような乱暴な団体が、他に有るであろうか?お粗末な限りである。これが民主主義を唱える日弁連の姿であり、警戒せざるを得ない。死刑制度はコストの問題ではない 日弁連には、このような無茶なゴリ押しが他にもある。「死刑廃止は世界の潮流である」との呪縛的文言である。「死刑廃止国が140カ国ある」「日本だけが取り残され後進国になる」「世界の潮流は、今や死刑廃止にあり!日本も遅れてはならぬ」「廃止へ向けて、それ突き進め!」とけしかけ、脅迫じみたものを感じる。 しかしながら、わが国では、国民の8割以上が死刑制度を支持している。当然だが、死刑制度は国民の総意により決めるものであり、他国から強制されるものではない。他国が日本国を安心安全な国にしてくれる訳ではない。死刑廃止国が多いといっても、世界人口の7割は死刑存置国に住んでいるのである。また死刑廃止国の殺人件数は、存置国の数倍も多いと言われている。EU諸国(死刑廃止国)を日本と比べても、日本の2~3倍も治安が悪いのである。「死刑廃止宣言」が採択された後、記者会見する日弁連の幹部ら=10月7日、福井市 EUに入るには、死刑制度を廃止しなければならない。その連合に加わっていた英国は脱退を決めている。その理由は、いろいろ有るのだろうが、移民問題、民族の融和問題、治安問題が含まれている。そうした国の駐日公使を講演者として招き、死刑廃止を説いていた。脱退までしようとしている治安の悪い国が、治安の良い国を指導するとは噴飯ものである。 また、「死刑制度はコストがかかる、執行する薬物入手も困難だ、だから死刑を廃止しろ!」との乱暴な意見を述べる講師もいた。死刑制度はコストの問題ではあるまい。安楽に死刑執行する薬物はいくらでもある。少なくとも麻酔科医や精神科医で知らない者はいない。手に入れることも十分可能である。昔からある極めて安価な薬物でもある。しかし、そんなこととはつゆ知らず、講演される講師がいた。余りにもお粗末であった。 日本は、他国より飛びぬけて治安の良い国であり、殺人事件は減少傾向にある。これは現行制度がうまく機能しているからに他ならない。誇りを持って現状を維持し、さらに治安の良い、安心安全で住みやすい国へと、まい進すればよいのである。お粗末な講演者や他国に惑わされて、制度変更する必要性は全くない。むしろ世界をリードし、世界に安心安全をもたらす役割を負うべきである。 最近、中近東の戦争から欧州へ移民が多くなり、種々の問題が生じている。経済問題、異宗教間問題、民族融和問題、テロ問題など、EU諸国に変化が見られ治安問題に繋がってきている。いわゆる潮目が変わっているのである。日弁連は世界の潮流と言いつつ、潮目を見逃している。それを見抜けぬ日弁連に日本を託すのは将来に禍根を残すだけである。被害者の理解と支援 日弁連は「被害者遺族の厳しい感情は自然であり、被害者支援は社会全体の責務であり、何より心を致さねばならないのは、最愛の人を亡くした遺族の存在だ」と述べるものの、なぜ被害者や遺族を落胆させ、追い打ちをかけるようなことをするのだろうか。被害者の尊厳を無視して被害者支援もあるまい。 死刑を求めるのは、犯人への単なる復讐感情にとどまらず、社会秩序を維持する応報感情から来るもので、遺族は社会秩序の維持を願いながら社会復帰しているのである。犯人を死刑に処することで、遺族は供養の時を得、自らの心を支え、社会復帰しようと努力できるのである。それを支援するのが被害者支援ではないのか。しかし、それを否定するように、日弁連は「死刑廃止」を決めた。瀬戸内寂聴氏 これでは被害者支援どころか、被害者いじめである。犯罪被害に遭っていないからであろう。ならば被害者の声に耳を傾けるのが普通の人間であろう。なぜ無視し逆撫でするのだろうか。私は時に、死刑廃止論者の家族が殺害されることを願う時がある。それで初めて、彼らは被害者の理解と支援策が浮かぶのであろうと思うからである。それは非常に哀しく残念なことである。 「バカども」発言のビデオメッセージに対して、寂聴さんは「日弁連から頼まれ、私は即、収録に応じた発言の流れから、被害者のことではないと聞けるはずである、老体に似合わぬみっともない舌禍事件を起こしてしまった、深く反省している、言葉に敏感な弁護士達は、そのまま流すはずはないだろう」と語っている。しかし話の流れは日弁連の依頼を受けた時から始まっており、文学者なら行間に意を込め表現するのが普通である。読者はその行間を読んで感動してきたのである。 想定外とは言い逃れであり、読者を欺く情けない発言である。僧侶としてもいかがなものか。読者が行間を読んだ事柄が、寂聴さんの本心であり、読者は怒りを覚えたのである。寂聴さんが「言葉に敏感な日弁連は、そのまま流すはずはないだろう」と考え行動するのは、読者を欺くことであり、欺かれたと感じた聴衆が怒るのも当然である。 日弁連は寂聴さんの隙に付け入り、利用したのである。率直な寂聴さんゆえに、狡猾な日弁連に利用されたのであろう。僧侶でも何でもかまわない。利用できるものは何でも利用する達人たちである。寂聴さんは油断しその犠牲者となり気の毒と思う。凶悪犯罪者に更生は望めない これまで文学者として、出家者として被害者のためにも論じ、行動してこられたことは、誰しも知るところである。「耄碌のせいだなどと私は逃げない」「みっともない舌禍事件を起こした」「お心を傷つけた方々には、心底お詫びします」などと陳謝する姿に、被害者は日弁連に利用されたばかりにと、お気の毒だとも思うのである。 しかし、バカども発言で「今もなお死刑制度を続けている国家や、現政府に対してのものだった」が気にかかる。国家や政府は国民の総意で成り立っていることはご存知であろう。その国民の8割は死刑存置を希望しているのである。それへの御発言も頂きたいものである。また、命を奪われた被害者への声掛けは、いかになさるのかもお聞きしたいものである。「過去の私の言行を調べてくれればわかるはずである」とのことで調べさせていただいた。 ところが「別れの辛さに馴れることは決してありません。別れは辛く苦しいものです」の言葉と「人間に与えられた恩寵に‟忘却”がある」「たとえ恋人が死んでも、七回忌を迎える頃には笑っているはず」「忘れなければ生きていけない」等の言葉とがうまくかみ合わない。出家され、徳を積まれ、尊敬される僧侶寂聴さんですら、みっともない本心が残っていたのである。「人は皆変わることが出来る」とは言えないことを94歳になって身をもって示されたのである。 寂聴さんから教わるに「人間は本来持っている思いや思考、性格は変わり得ない」と言うことである。いわんや、凶悪な反社会性人格障害者がいかほど謝罪、贖罪、更生しようとも、我々一般市民が望むような更生は不可能なのである。

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    瀬戸内寂聴「バカども」発言の波紋

    「殺したがるバカどもと戦ってください」。日本弁護士連合会のシンポジウムに寄せた瀬戸内寂聴氏の死刑批判メッセージに波紋が広がった。死刑制度の存廃をめぐる議論は何も今に始まったことではない。ただ、世界的に廃止が主流になりつつある今、物議を醸した寂聴発言を機にその是非について考えてみたい。

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    お詫びで済まない上から目線 寂聴「バカども」発言の傲慢を問う

    杉本吉史(弁護士) 「殺したがるバカどもと戦ってください」 これは、10月6日に福井市内で開かれた日本弁護士連合会(日弁連)主催のシンポジウムで流された瀬戸内寂聴氏のビデオメッセージの一節である。瀬戸内氏は死刑制度を批判した上で、死刑制度廃止を進めようとする開催者を激励するため、このような発言をしたものである。 シンポジウムは、翌日に同市で開催された日弁連第59回人権擁護大会での「2020(平成32)年までに死刑制度の廃止を目指す」とする決議採択に先立って実施されたもので、人権擁護大会での死刑廃止をめざす決議を危惧する犯罪被害者や、その支援に関わる弁護士も多数参加していた。日弁連が開いた人権擁護大会の会場入り口で「死刑制度絶対必要」などと書かれたビラを配る全国犯罪被害者の会(あすの会)のメンバーら=10月7日、福井市(宮沢宗士郎撮影) 犯罪被害者らは、メッセージの瀬戸内氏の発言を聞いて激怒し、発言は新聞にも大きく取り上げられ、SNSでも同氏への批判が相次いだ。 日弁連は翌日の人権大会決議後の記者会見で、「犯罪被害者への配慮がなかったとすれば、おわび申し上げる」とし、「犯罪被害者の方の声にしっかりと耳を傾ける」と謝罪した。 また瀬戸内氏自身も朝日新聞に連載中のエッセーで、メッセージは「今もなお死刑制度を続けている国家や、現政府に対してのものだった」としながら、自身を「誤解を招く言葉を94歳にもなった作家で出家者の身で、口にする大バカ者」であり、「お心を傷つけた方々には、心底お詫びします」との謝罪の言葉を掲載した。 日弁連の会見担当者や瀬戸内氏らとしては、犯罪被害者らが怒るのは誤解であり、そのような事態を招いたことにつき謝罪をしたのであるから、もはや過ぎ去ったことであるとでもいうのであろうか。 しかしながら、これらの出来事については、犯罪被害者やその支援をする弁護士にとっては単なる「誤解」とは思えない経過がある。 今回の人権大会決議の採択理由では、犯罪被害者等基本法を引用して、犯罪被害者はその尊厳にふさわしい処遇を保障される権利を有するとし、犯罪被害者・遺族の支援は重要な課題であるという。 ところがその一方で日弁連は、平成27年10月に会内資料として作成した「死刑事件の弁護のために」と題する手引で、被害感情が法廷に満ちあふれることが裁判員、裁判官をして死刑への判断へ傾かせる可能性があることを認識し、少なくとも否認事件については被害者参加の申し出には反対の意見を述べるよう指導しているのである。 被害者参加制度は、裁判員裁判の6カ月前に導入された犯罪被害者が念願してできた制度である。しかし、日弁連はこの制度に導入当時から反対し続け、導入後も被害者の裁判参加を拒み続ける姿勢を変えていない。 そして、日弁連が犯罪被害者の支援として必要であると決議で掲げているのは、精神的な支援、犯罪被害者等給付金の拡充に限られているのである。 確かに犯罪被害者や遺族にとって、現行の不十分な経済的支援の拡充を望む声は強い。しかしながら、日弁連がいう支援の拡充は、いわば被害者・遺族には金をあてがって黙らせろ、としか聞こえないであろう。死刑判決はほんの一握り 日弁連は平成23年10月に実施された人権擁護大会で、死刑廃止についての全社会的議論を呼びかける宣言を決議し、その決議を受けて多くの単位弁護士会では検討を進めるための委員会やプロジェクトチームが設置された。 しかし、それからの5年間で、日弁連が言うような死刑問題の廃止に向けた全社会的な議論が進んだとは到底言えない。平成32年に世界の国連犯罪防止刑事司法会議が日本で開催されることとなったことを好機とみて、刑罰制度が再び人権大会のテーマに選ばれ、その決議として死刑廃止問題が取り上げられたにすぎない。 しかしながら、平成21年から裁判員裁判が導入され、市民が裁判に関与するようになってからも、内閣府が実施した世論調査においては、死刑制度を容認する市民は約8割を占めている。 他方、裁判員裁判で1審段階で死刑判決が宣告された被告人は、制度導入から平成28年5月末時点で27人、死刑判決が確定した事件は13人。 殺人被告事件などで、多くの遺族らが死刑判決を希望しても、その中で死刑判決が下されるのはほんの一握りなのである。 そのような今の死刑制度の運用の実態や世論の動向、刑事裁判に関わる当事者であるはずの犯罪被害者・遺族の思いを離れて、ただ死刑廃止をめざすと宣言したところで、それがどれだけの説得力を持つと廃止を推進しようとする者は考えているのだろうか。それはただ弁護士と犯罪被害者・遺族との距離をさらに広げる結果しか生まないのではないだろうか。 人権擁護大会決議に先立って東京で開催された日弁連のシンポジウムに、地下鉄サリン事件の遺族である高橋シズヱさんがパネラーで呼ばれた。高橋さんは「死刑制度に反対している人は、何の落ち度もない遺族がどのように暮らしているか、考えたことはあるのでしょうか」と発言し、会見でも「死刑存廃をめぐる議論の中で、被害者遺族が重要な位置を占めていない」と述べられたと報道されているが、決議に先立ってこの発言はどのように扱われたというのであろうか。「上から目線」の傲慢さ 私が共同代表を務める「犯罪被害者支援弁護士フォーラム」は、全国の犯罪被害者支援に関わる弁護士の有志で作った組織である。 フォーラムは、今回の人権大会決議に先立って、日弁連に対し決議には反対である旨の声明を発表した。 その理由は、(1)強制加入団体である日弁連が、死刑制度の是非について、一方の立場から宣言を採択することは、強制加入団体として行うべきではないこと、(2)犯罪被害者の人権や尊厳への配慮がまったくないこと、(3)死刑制度を維持するかどうかは国民の一人一人が、自分の人生観、思想、信条等にしたがって決めるべきこと、の三点である。 そのような声明の存在を認識しながら、瀬戸内氏のメッセージをあえて流すこと自体が、日弁連内の死刑廃止を推し進めようとする勢力にとって、犯罪被害者は目の上のこぶであり、ただ煩わしい存在としか考えていないことを露呈したものと言うほかない。 フォーラムがその声明を発表した際に、会員である弁護士が発言した「偏った正義感の押しつけ」とのフレーズが新聞の見出しで大きく取り上げられたのも、これまでの日弁連の死刑廃止問題についての「上から目線」の傲慢さを感じてのことと思われる。 瀬戸内氏は、謝罪のエッセーの最後に「恨みをもって恨みに報いれば永遠に恨み尽きることなし」との釈迦の言葉を引用した。他方で人権大会決議の理由書の中では「罪を犯した人が犯罪被害者の心の痛みを知り、自らの行為のもたらした結果の重大さを認識することは、自らが尊重される体験を通じて培うよりほかないのである」とまでいう。 犯罪被害者や遺族に恨みを忘れるように説き、被害者の痛みを分かってもらうために加害者を「尊重」する社会が望ましいという発言する彼らは、およそ犯罪の被害についての想像力が欠如しているものと言わざるを得ないであろう。 犯罪という悪に対して、その被害に遭ったものが正義を求めることを禁じられたとき、犯罪被害者はこの社会への信頼を永遠に取り戻すことができないのではないだろうか。

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    朝日新聞の「死刑廃止」社説 弁護士団体の批判こそ言論封じだ

    猪野亨(弁護士)朝日新聞朝刊の10月9日付社説 日弁連が先の人権擁護大会でようやく死刑廃止に向けた宣言を採択しました。被害者遺族の代理人を自負する弁護士たちからは種々の批判がありましたが、どれも感情にまかせただけの到底、法曹としての主張としては聞くに堪えないものばかりでした。この宣言に対し、各種マスコミでも社説を掲載していますが、死刑制度の議論に一石を投じたという趣旨のものがよく目に付きました。 ところで、朝日新聞の社説に対し、犯罪被害者遺族への配慮が足りないと批判している弁護士たちがいます。朝日新聞の社説はこちらです。「(社説)死刑廃止宣言 日弁連が投じた一石」(朝日新聞2016年10月9日) 私は、朝日新聞の社説を読んだとき、非常に真っ当な主張だと思いました。これこそ死刑廃止に向けたごく当たり前のものだからです。 しかし、上記「弁護士団体」は違ったようで、弁護士ドットコム記事によると次のように主張しています。 同フォーラム事務局長の高橋正人弁護士は、弁護士ドットコムニュースの取材に対し「朝日新聞は死刑廃止を当然の前提としているように見えます。あれを読んだ被害者や遺族がどんな気持ちになるかなんて、考えていないのではないでしょうか。被害者側としては、『何で私たちが死刑を望むようになってしまったのか』という心情を理解して欲しいのに、デリカシーがなさすぎます」と、批判した。(中略)「私たちは支援のあり方を散々提言して、被害者参加や損害賠償命令制度などを実現させてきました。朝日新聞はちゃんと取材したのでしょうか。『ただ批判するだけ』なのは、朝日新聞の方ではないでしょうか」(高橋弁護士)朝日新聞「死刑廃止社説」に弁護士団体が猛反論「『ただ批判するだけ』なのは朝日」(弁護士ドットコム) 被害者遺族の気持ちだ、というキーワードを用いているのは言論封じがしたいからなのでしょうか。被害者参加制度を実現させたと言いますが、同制度の導入こそが刑事裁判の在り方を根本的に変えてしまった問題のある制度です。 それはともかくとしても、朝日新聞に対する次の質問には違和感しかありません(前掲弁護士ドットコムより)。・「ただ批判する」とは、犯罪被害者の支援に取り組む弁護士らが何ら根拠なく、感情的に反対しているとの趣旨か・犯罪被害者の支援に取り組む弁護士らが、既に、被害者支援のため、現状や施策につき具体的提案をし続けていることを知っているのか・(社説中の)「死刑廃止を目指すのであれば」とは、凶悪犯罪で家族を殺された被害者遺族や、それを支援する弁護士も、死刑廃止をめざすのが当然という趣旨か。そのような趣旨だとして、なぜ、被害者遺族や支援する弁護士も、死刑廃止を目指さなければならないのか。その理由は何か。・被害者遺族も死刑廃止を目指すべきだと言われて、被害者遺族がどのような気持ちになるか、考えなかったのか この質問の趣旨には当然に犯罪被害者の遺族は死刑を求めているということを前提にしており、死刑の廃止の主張など被害者感情を逆なでするからけしからんと言わんばかりものです。言うべきときは言わなければならない 死刑廃止に向けて、全ての人たちに訴えかけるのは当然のことです。その中には犯罪被害者遺族も含まれています。私は死刑廃止論者であり、ブログ上などでも表明していますが、これに対する批判として「遺族の前でもいえるか」というものがあります。要は面と向かって言えるのかということなのですが、本当にずれた批判です。 言うべきときは言わなければならないのではないですか。それがまさに朝日新聞の社説であり、日弁連の宣言です。物理的に面と向かって言うかどうかというのは、その場で感情を逆なでできるのかというレベルのもので、主張の問題と個別の対話の問題をすり替えただけの暴論でしかありません。朝日新聞の社説はしごく真っ当です。 ところで、日弁連が死刑廃止の宣言を採択したことについて、さっそくFNNが世論調査をしています。 日本弁護士連合会が「死刑廃止」を求める宣言を採択したことに関して尋ねたところ、死刑廃止に「賛成」と答えた人は2割(20.5%)、死刑廃止に「反対」の人は7割(73.3%)を超えた。7割超が死刑制度廃止に「反対」 FNN世論調査(FNN2016年10月17日) 政府の行っている調査とも遠からずということにはなりますが、単に死刑制度に関して聞けばこのような結果になります。しかし、死刑制度については質問の仕方によって、死刑賛成も意味の異なるものになります。エ 将来も死刑存置か 死刑制度に関して,「死刑もやむを得ない」と答えた者(1,467人)に,将来も死刑を廃止しない方がよいと思うか,それとも,状況が変われば,将来的には,死刑を廃止してもよいと思うか聞いたところ,「将来も死刑を廃止しない」と答えた者の割合が57.5%,「状況が変われば,将来的には,死刑を廃止してもよい」と答えた者の割合が40.5%となっている。「基本的法制度に関する世論調査」2.死刑制度に対する意識(平成26年度 内閣府大臣官房政府広報室)(3) 終身刑を導入した場合の死刑制度の存廃 仮釈放のない「終身刑」が新たに導入されるならば,死刑を廃止する方がよいと思うか,それとも,終身刑が導入されても,死刑を廃止しない方がよいと思うか聞いたところ,「死刑を廃止する方がよい」と答えた者の割合が37.7%,「死刑を廃止しない方がよい」と答えた者の割合が51.5%となっている。なお,「わからない・一概には言えない」と答えた者の割合が10.8%となっている。「基本的法制度に関する世論調査」2.死刑制度に対する意識(平成26年度 内閣府大臣官房政府広報室) 死刑制度が当然だという発想は、仇討ちを彷彿させるだけで前近代的と言わざるを得ません。感情として仇を取りたいというのはやむを得ないとしてもそれを死刑制度として存続させることの是非とは全く別です。 廃止に向けた行程を考えることは当然のことであり、その中に犯罪被害者遺族が含まれることも自明のことであり、朝日新聞が社説において呼び掛けたこと自体をまかりならぬというのは、言論封じのための暴論でしかありません。(『弁護士 猪野亨のブログ』より2016年10月19日分を転載)

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    肯定論者の弁護士が問う死刑制度の「本質」

    いただくほかないのですが、ここで死刑冤罪の問題についてだけ、補足して述べたいと思います。 日本の刑事司法制度は、有罪率が極めて高く、有罪率99.9%前後という極端な抑圧的状況を30年以上も続けてきました。このような刑事司法のもとでは、冤罪が正しく救済されることを期待しても、土台無理なことです。だから、死刑冤罪だけをガタガタ言っても、始まらない。われわれは、冤罪で死刑にされたり、無期懲役にされることを覚悟するほかないのですね。裁判所に期待しても99.9%ダメなのですから、それなら、裁判所自体を批判して死んでいったほうがましです。その覚悟ができれば、死刑肯定の立場になり得るし、その覚悟がないのに死刑肯定を言うのは、とんでもないことです。今回の本で提供したような死刑制度についての考え方の材料を全てオープンにし、死刑を根本までさかのぼり判断すれば、死刑を良しと判断する人は非常に少なくなるとは思います。死刑肯定論の確たる根拠はいくつもあるわけではないですから。 実際、裁判員制度が始まってから死刑判決は平均で年4件程度しか出ていない。それがたとえば、毎年0件か1件と数年続けば、死刑廃止の方向になりうる。というのは、裁判員の判断は、この問題に直面して考えた場合の具体的な民意と言えるので、世論調査の結果がどうであれそういう方向にもなりうると思うのです。――死刑を肯定する論拠として、我々はつい被害者感情を考えてしまいがちです。森:それは議論する材料が少ないだけだと思います。私が不満に思っているのは、思想哲学の世界で、死刑についてまともに取り上げてもらえないことです。法律学、特に刑法学は、思想哲学の下位の学問ですから、思想哲学で論じられたことを前提として組み立てられている。もしかしたら、思想哲学の世界では、死刑制度は法律の世界の問題だとなっているのかもしれません。あるいは、死刑廃止論の中に閉じこもっているのかもしれません。――思想哲学を専門する方々の他に、どんな人たちに関心を持ってもらいたいでしょうか?森:本来ならば多くの人たちに関心を持っていただくのが一番ですが、なかなか今の状況では期待できません。ですから刑事弁護を専門にしている弁護士に、裁判員裁判に参考になるなと思ってもらえるといいですね。繰り返しになりますが、裁判員裁判は死刑制度があることを前提に判断されていますが、それでは本当はまずいのです。死刑の根拠がどこにあるのかどうかという制度論まで議論を深めてもらえればと思います。

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    死刑をなくせば殺人もなくなる? 常識の押し付けでは何も解決しない

    中村幸嗣(元自衛隊医官) また痛ましい事故が起きました。(釧路通り魔1人刺殺、3人けが 殺人未遂容疑で本紙配達員を逮捕)被害者にお悔やみ申し上げます。今回の事件を元に考えていきたいことがあります。6月21日、男が女性4人を包丁で刺す事件が起きた「イオンモール釧路昭和」。1人死亡、3人が負傷した 犯人は精神疾患(統合失調症?)を患い通院中。普段は新聞配達、以前は食堂でしっかり仕事もされていたようです。原因は家族との口論というネット記事もありました。最初名前は出ていませんでしたが途中から実名で報道されています。 『とくダネ!』でデーブさんがアメリカ銃撃事件を例に出し解説した後、小倉さんが「勝手に死ねばいいのに」と発言されていました。私も疾患がどうあれ被害者のことを考えると本当そう思いますし、刑法を改正することも検討すべきだと思います。人権派弁護士は当然反対でしょうが。 それでもこういう事件でよくある動機が以下の発言です。「僕の人生を終わらせたくて、殺人が一番死刑になると思って、人を刺した」。 深澤真紀コメンテーターが「死刑制度が問題、死刑制度があるからこのような無差別殺人が起きる」と発言されていました。殺しても死刑にはならないとなれば、死刑を受ける目的での殺人がなくなるという発想です。まあ平和な方ですね。 「殺人をしても死刑にはなりませんよ。だから殺人はやめましょう」と言って殺人をやめるような人なら、最初から殺人はしないでしょうに。まして罰が軽ければ、別の殺人が増えるでしょうに。 まず精神疾患の程度はどうであったのか。それこそ淡路で起きたように服薬ができていなかったことはないのかなども問題としてでてきます。(治療を受けない自由;加害者の人権と被害者の人権 精神科医療と情報)でも正直病のコントロールは難しく、(それこそこの間書いたキラーストレスの影響もあるでしょうが)しっかり服薬していても個別の突然の悪化を防ぐことはほとんど不可能です。 では周りのサポートはというと、家族も行方がわからなって心配してすぐに捜索していたとのことですので、今回の事案は正直防ぐことが難しい一つの思想のないテロ事案と考えていいと思います。そうするとソフトターゲットのテロ防止みたいに、外国のようにモールに入るのに金属探知機が必要でしょうか。(それでも包丁でしたからこの被害者の人数ですが)警備員の配置をもっと増やすべきでしょうか。新幹線事案と問題は共通です。(新幹線炎上自殺 防ぐことは可能?) ISの時、常識が通用しない人に倫理を求めても意味がないと書いてきました。彼らにとってジハードは聖なる行為であり、西洋の常識の押し付けに防御効果はありません。また本日北朝鮮が2発ミサイルを打ち上げました。世界の常識が通用しない国にいくら倫理を求めてもやめてくれません。 もう一度言います。常識は各国、各地域、各人で異なりその中で世界があるわけです。自分たちの常識の押し付けで他国、他人を制御することは基本できません。ました常識が通用しない人に他の常識を持ってきても何の解決にもなりません。ただ常識を共有化できれば本当に社会の安全は担保できます。それが今までの日本でした。 自分たちが相手を傷つけなければ相手も傷つけたりしない、戦争しなければ他国も戦争しなくなるという憲法9条の理想と現実と少し似ていると思っています。(「中村ゆきつぐのブログ」より2016年6月22日分を転載)

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    死刑存廃めぐる日弁連バトル! 寂聴「バカども」発言が炎上したワケ

    篠田博之(月刊「創」編集長) 10月6日、日本弁護士連合会(日弁連)が人権擁護大会前日のシンポジウム会場で流した瀬戸内寂聴さんのメッセージビデオが思わぬ騒動になった。死刑廃止を訴えるなかで、「殺したがるバカどもと戦ってください」と語ったのが問題になったのだが、ご本人は10月14日付の朝日新聞で真意を説明して謝罪した。この騒動、何が問題だったのか検証しておこう。 私は日本ペンクラブの言論表現委員会副委員長を務めており、そのペンクラブ主催の瀬戸内さんの講演に関わったこともあるが、その時に感心したのは瀬戸内さんの、まさに「法話」で鍛えられた話術だった。講演もさることながら、その後の会場との質疑応答がなかなかすごい。批判的な質問が出ても、それに絶妙に答えて笑いも取り、会場全体を熱気にまきこんでいくのだ。 だから、今回の死刑に関するメッセージも、会場で直接話していたら、その場の空気を読み取りながらフォローし、どぎつい表現を笑いで包んで喝采を浴びたかもしれない。ただ、実際には、94歳の高齢ゆえに、事前にビデオ収録を行ってのメッセージとなった。しかも当日、ビデオを前半・後半とふたつに分けて流したというから、全体の真意がうまく伝わらない恐れがあった。瀬戸内寂聴氏 瀬戸内さん自身は事前にどのくらい説明を受けていたかわからないが、実は福井市で開催されたその大会での死刑をめぐる取り組みは、日弁連にとっても歴史的なものだった。大会の場で「死刑廃止宣言」を打ち出す予定にしており、それが事前に報道され話題にもなったために、その方針に反対する弁護士も会場につめかけるなど、緊迫した状況だったのだ。企画した側は、死刑廃止へ向けた瀬戸内さんのスピーチを追い風にしたいと思ったのだろうが、賛成反対双方がピリピリしたムードでいる中で、「殺したがるバカども」発言が飛び出すという、ちょっと危ないシチュエーションになってしまったのだった。 実行委員会も収録されたビデオを大会前に見て、たぶんちょっと不安は感じたと思う。しかし、瀬戸内さんという大御所の作家の発言を一部カットするなどありえない。だからそのまま流したのだが、案の定、会場から反発が出ることになった。猛烈に批判した犯罪被害者団体 大会前日の6日の段階から会場には報道陣も詰め掛けており、瀬戸内さんのメッセージの波紋を7日朝にいち早く報道したのが産経新聞と、ネットニュースの産経WESTだった。このネットの配信記事が大きな反響を呼んだようだ。(http://www.sankei.com/west/news/161007/wst1610070012-n1.html)札幌地裁の法廷 正確さを期すために、記事の後半を引用しよう。 《日弁連は7日に同市内で開く人権擁護大会で「平成32年までに死刑制度の廃止を目指す」とする宣言案を提出する。この日のシンポジウムでは、国内外の研究者らが死刑の存廃をめぐる国際的潮流について報告。瀬戸内さんのビデオメッセージはプログラムの冒頭と終盤の2回にわたって流された。この中で瀬戸内さんは「人間が人間の罪を決めることは難しい。日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」と指摘。「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」と述べた》 そして記事は最後に、全国犯罪被害者の会「あすの会」顧問の岡村勲弁護士のコメントで結んでいた。 《瀬戸内さんの発言について、あすの会顧問の岡村勲弁護士は「被害者はみんな加害者に命をもって償ってもらいたいと思っている。そのどこが悪いのか。ばか呼ばわりされるいわれはない」と話した。》 「死刑廃止宣言」をめぐって激論が予想されていた7日朝の報道だから、大会実行委員会側からすれば、バトルが始まる前に戦闘モードに火をつけた記事と映ったろう。案の定、「死刑廃止宣言」に反対する犯罪被害者支援に関わる複数の弁護士から瀬戸内発言に言及がなされ、その場で実行委員長の加毛修弁護士から、瀬戸内さんの発言は、決して犯罪被害者を指して言ったものではないという趣旨の説明が行われる事態となった。 ちなみに10月7日の人権擁護大会は議論するテーマが3つあり、死刑廃止問題は3番目だったが、最も時間がさかれることになった。採決は既に報道されている通り、「死刑廃止宣言」が786人の参加者の7割弱にあたる546人の賛成で可決したのだが、反対が96人、棄権が144人もいた。8日の新聞報道も「『死刑は人権侵害』廃止宣言『遺族の気持ちは』 大会紛糾 やじ飛び交う」(産経新聞)、「死刑廃止 日弁連にも溝 賛否激論144人棄権」(毎日新聞)などと激論の模様を伝えていた。死刑廃止は世界の流れ 前述のように、その後、瀬戸内さんは10月14日付け朝日新聞に掲載された「寂聴残された日々17」の中で「バカは私 恨みを繰り返さぬために」と題して、自ら真意の説明と謝罪をしたためた。一部引用しよう。 《私の気持ちは、殺したがっているのは、今もなお死刑制度を続けている国家や、現政府に対してのものだった。常日頃、書いたり、口にしたりしている私の死刑制度反対の考えから、当然、今も世界の趨勢(すうせい)に遅れ、死刑制度をつづけている我が国の政府に対して、人権擁護の立場から発した意見であった。バカという言葉は94歳の作家で老尼の口にする言葉ではないと、深く反省しているものの、発言の流れからしても「バカども」は当然、被害者のことではないと聞けるはずである。》 《でなければ、言葉に敏感な弁護士たちが、そのまま流すはずはないだろう。これまでも私は文学者としても出家者としても被害者のために論じ、行動してきている。過去の私の言行を調べてくれればわかるはずである。それを私が犯罪被害者たちをバカ呼ばわりしたととられ、ネットで炎上して、私への非難が燃え上がっているという。秘書から炎上を知らされた時、真っ先に浮かんだのは「もの言えば唇寒し秋の風」であり、「だから長生きは厭(いや)なんだ」であった。そんな誤解を招く言葉を94歳にもなった作家で出家者の身で、口にする大バカ者こそ、さっさと死ねばいいのである。耄碌(もうろく)のせいだなどと私は逃げない。お心を傷つけた方々には、心底お詫びします。「恨みをもって恨みに報いれば永遠に恨み尽きることなし」という釈迦の言葉を忘れないままに》 率直でわかりやすい説明だ。これで一応、一件落着といってよいだろう。「殺したがるバカども」は確かに際どい表現とはいえ、大騒動になったのは、背景に死刑、あるいは日弁連の「死刑廃止宣言」をめぐるいろいろな意見の対立があったからだろう。 世界全体を見ると死刑廃止の流れは大きな趨勢なのだが、日本では先進国のなかでは例外的に、世論調査で8割が死刑制度維持を表明している。そういう状況の中で、日弁連としては死刑廃止へ向けて鮮明な姿勢を打ち出して、状況を打開したいと考えたのではないか。ただ廃止賛成の意見が多数を占めるとは言え、そうでない意見も少なくない。そうした中で明確な「死刑廃止宣言」を出したわけだから、ある意味で画期的と言えるかもしれない。 ただ日弁連は強制加入の組織だから、当然、内部には宣言を出すことに反発する弁護士もいる。しかも、被害者支援を訴えるそうした弁護士たちも、日弁連でそれなりの影響力を持っている。今回の宣言は、そういう中で出されたものだ。死刑が罪を償えるか疑問 私自身は、どちらかといえば将来的に死刑はなくしてもよいという考えだから、日弁連の今回の方針を、大変な状況の中でよく決断したと受け止めている。ただ一方で、この問題が、賛成か反対かといった単純な二者択一では片付かないとも思っている。何よりも、死刑や死刑囚の実態がほとんど社会に知られていない。今は死刑執行がなされた場合は法務大臣が直接公表しているが、以前は執行が行われたこと自体、公表されてはいなかった。 私自身は賛否について「どちらかというと…」という少し曖昧な答えになるのだが、二者択一の議論にはいつも違和感を抱いてきた。具体的な死刑囚とつきあいもあって思うのだが、彼らは社会と遮断され、その実情は世間にはなかなか知らされていない。 連続幼女殺害事件の宮崎勤死刑囚(既に執行)とは12年間つきあい、面会も何度も行った。和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも事件当時からの十数年のつきあいだ。奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(既に執行)とも約1年間だったが、毎月顔を合わせていた。そのほかにも冤罪で死刑台から生還した松山事件の斎藤幸夫さん(既に死去)始め、取材で知り合った死刑囚は何人もいる。幼女連続誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚 死刑になるために殺人を犯したという土浦事件の金川真大死刑囚(既に執行)や、死刑を望むと法廷で一貫して訴えていた小林薫死刑囚らと接して、死刑が世間で思われているように罪を償うことになるのかについては、疑問も感じてきた。個々の事件、個々の死刑囚において事情は全く違うし、そういう具体的な死刑囚の実情から離れて死刑制度の賛否が論じられることには常に違和感を抱いてきた。 今回の瀬戸内さんの発言にしろ、日弁連の「死刑廃止宣言」にしろ、それが死刑問題について議論するきっかけになればよいと思う。

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    日本で採用の絞首刑 執行現場の様子を元刑務官が重い口開く

     死刑執行数が、自民党政権に移って1年余で8人とハイペースになっている。オウム真理教元幹部・平田信被告の裁判に同じく幹部だった死刑囚たちが証言を行うなどしたこともあり、死刑制度への関心が高まっているが、日本の死刑に関する基本的な事項をおさらいしておこう。 死刑が行なわれるのは刑務所ではない。高松を除く全国7か所の高裁所在地の拘置所内に刑場が設けられており、そこで死刑執行が行なわれる。高松には死刑台はなく、大阪拘置所で執行される。 死刑囚は、死そのものが刑であるため、執行までは拘置所に収容されており、懲役囚のような刑務作業はない。死刑が確定すると例外なく単独房に拘禁され、他の収容者との接触は許されない。冒頭に述べた平田信被告の裁判には3人の死刑囚が出廷したわけだが、それが異例だったことから大きな話題になった。 死刑執行は法務大臣が署名捺印した執行命令書によって行なわれる。拘置所長には約1か月前から死刑執行に関する内々の情報が入るが、一般刑務官には数日前、本人には当日直前まで知らされない。 執行に関わった経験を持つ西日本の元刑務官が重い口を開いてこういう。「執行前に死刑囚の身長と体重を測り、同じ体重の砂袋を作って何回も実験します。踏み板からドンと落ちた瞬間に衝撃で首が30センチくらい伸びる。それを考慮して、ロープの長さなどをセッティングしておくわけです。先輩刑務官からは、首が締まって死ぬのではなく脊髄が一気に切れるから、痛みを感じずに死ねるんだと教えられました」 別の刑務官はこんな証言をする。「首を吊ると失禁するといわれているが、私はそういうケースに当たったことがない。ただ、高齢でない男の場合、射精することは少なくない。やっぱり人間の本能なんだろう」 世界を見渡すと、絞首刑を採用する国は減っている。「そもそも死刑自体を存続しているOECD加盟国は日本とアメリカだけです。しかも米国では3分の1の州で死刑を法律で廃止している。ヨーロッパを見ると、死刑廃止はEUの加盟条件でもある。2012年の日本の死刑執行数は世界ワースト10位という多さです」(アムネスティ・インターナショナル日本事務局長の若林秀樹氏) アムネスティの資料によれば、絞首刑を採用しているのはアフガニスタン、バングラデシュ、ボツワナ、スーダンなど決して先進国とはいえない国ばかり。アメリカで死刑を存置している州でも絞首刑は廃止され、致死薬注射が一般的だ。関連記事■ 死刑囚との対話や執行立ち会い等の体験描くノンフィクション■ 麻原彰晃死刑囚の「Xデー」 法務省のメンツで年内に来るか■ 赤軍、オウム、林真須美ら死刑囚78人の肉筆を週刊誌が掲載■ 殺人事件で死刑判決受けた元少年らに取材 死刑を考える本■ 安倍内閣がかたずを呑む「谷垣法相で麻原死刑執行」の決断

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    国民の8割が支持する死刑制度と被害者感情について

     わが国は先進国でも珍しく死刑制度を維持している。国民の支持も高い。なぜなのか。死刑制度反対論者のコラムニスト・オバタカズユキ氏が考える。* * * 自分の妻子が何の罪もなく誰かに殺されたらどうするか。凶悪事件や無差別殺人事件がおきたとき、よくそんなことを考える。 妻子を殺した殺人犯は逮捕された。裁判で死刑がくだされた。実際に刑も執行された。さて、それで自分の暴れる感情はおさまるだろうか……。 先日、日本弁護士連合会(日弁連)が死刑制度の廃止を掲げることを決めた。10月の「人権擁護大会」にて、「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言案」を提出する。日弁連はかねてより死刑制度に批判的だったが、明確に廃止を打ち出すのは初めてのことらしい。 私は死刑廃止論者だ。けれども、日弁連の動きには唐突を感じる。相次ぐ冤罪や世界的潮流を受けて、ということだが、冤罪はそんなに増えている? 世界的にそうだから自分たちもそうする? もっと分からないのは、宣言案の勝算をどう見積もっているかだ。死刑制度存続の声がまったく減っていない日本で、どう説得的に廃止の同意を得ようというのか。日弁連だけが国民の中で浮いてやしないか。 死刑制度の是非について、大規模に行われた調査に、平成26年度の「基本的法制度に関する世論調査」(内閣府)がある。それによると、「死刑もやむを得ない」と答えた者の割合が80.3%、「死刑は廃止すべきである」は9.7%。「やむを得ない」という消極的選択肢は、「すべきである」という積極的選択肢よりも選びやすい。その問題があるにしても、8:1の差はすごい。他の調査でも、この国の死刑制度は一貫して支持されている。 冤罪の怖さや、殺人事件が増えていないデータや、死刑制度がたいして殺人の抑止効果をもたない現実などを、死刑廃止論者がいくら訴えても、存続支持の世論は揺らいだことがなかった。 先進国では死刑制度を廃止した国のほうが多いのに、なぜ日本では支持が強いのか。これも「基本的法制度に関する世論調査」が調べている。 死刑制度に関して、「死刑もやむを得ない」と答えた者にその理由を聞いたところ、「死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」を挙げた者の割合が53.4%、「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」が52.9%(複数回答可)。被害者遺族はどうしたらいいのか 命を奪った者は命をもって償え、より少しだけ、被害者家族感情のために、という理由のほうが多い。そう答えた人たちの少なからずはおそらく、私のように「もし自分の家族が殺されたら」と想像したのではないか。そして、「家族が殺されたのに、殺した犯人が生かされている」状態が頭の中に見えた瞬間、「冗談じゃない、死刑にしてくれ!」と思ったのではないか。 私の頭はちょっとネジが外れているので、犯人が死刑になるくらいでは気が済まない。死刑判決が出て、死刑が執行されたら、逆に「なに勝手に法律ごときが俺の大問題に決着つけてんだよ!」と怒りを増幅させるだろう。 ならば、自ら犯人に復讐すれば気が済むのか。自分が殺人犯となって牢屋に入ることくらいは構わない。しかし、妻子を殺めた者を私が殺めても、自分の妻子が生き返るわけじゃない。私は、天国の存在を信じられないので、妻子がお空の上で「仕返しをしてくれてありがとう」と微笑む絵を描けない。「死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」という理由で死刑存続を支持する人だって、自分の家族を殺めた犯人が死刑になることで救われるわけでもないだろう。「良かったね」と墓前に報告して事がおさまるほど、人間の感情は簡単か。そういかないから、殺人は「取り返しのつかない犯罪」なのだ。 では、被害者遺族はいったいどうしたらいいのだろう。ここで一冊の本を紹介したい。今年の6月に出版されたアントワーヌ・レリス著の『ぼくは君たちを憎まないことにした』。去年の11月13日の夜、パリ同時多発テロで妻をなくした男が著した本だ。 男は、〈妻が事件に巻き込まれたことを知った時から、行方を捜し、亡骸とむきあい、葬儀を行い、最後に息子と二人でお墓にいく日まで〉の二週間を綴った。職業はジャーナリスト。客観的事実と、自分の内面を、暴れる感情を抑えつつ、冷静に記そうとしている。 男の妻を殺した犯人グループの3人は、フランス国家警察の特殊部隊によって1人が射殺され、2人が自爆により死亡した。が、これは組織的犯行なので、3人を指揮した者がいる。妻を殺めた者たちは、過激派組織ISとして、今も世界中で誰かの命を狙っている。男が「憎まないことにした」。その思い けれども、男は「君たちを憎まないことにした」。その思いは、こうだ。パリ同時多発テロで妻をなくしたアントワーヌ・レリスさんのフェイスブック〈もちろん、非難すべき相手がいること、怒りをぶつける相手がいることで、半開きになったドアからすり抜けるように、苦悩を少しでもかわすことができるかもしれない。犯罪がおぞましいものであればあるほど、罪人は完璧な悪人となり、憎しみはより正当なものになる。人は自分自身から考えをそらすために、犯人のことを考え、自分の人生を嫌悪しないため、犯人を憎む。犯人の死だけを喜んで、残された人々に微笑みかけることを忘れる〉〈だから、ぼくは君たちに憎しみを贈ることはしない。君たちはそれが目的なのかもしれないが、憎悪に怒りで応じることは、君たちと同じ無知に陥ることになるから。君たちはぼくが恐怖を抱き、他人を疑いの目で見、安全のために自由を犠牲にすることを望んでいる。でも、君たちの負けだ。ぼくたちは今までどおりの暮らしを続ける〉〈息子とぼくは二人になった。でも、ぼくたちは世界のどんな軍隊より強い。それにもう君たちに関わっている時間はないんだ。昼寝から覚める息子のところへ行かなければならない。メルヴィルはまだやっと十七カ月。いつもと同じようにおやつを食べ、いつもと同じように遊ぶ。この幼い子供が、幸福に、自由に暮らすことで、君たちは恥じ入るだろう。君たちはあの子の憎しみも手に入れることはできないのだから〉 さて、どうお感じだろう。男は高い知性の持ち主である。犯人と同じ土俵にのぼらないことが、犯人を負かす唯一の道とし、それを実践しようとしている。最大のテーマは、自分の中にある憎しみの感情との戦いだ。憎しみにかられて、現実を見失ってはいけない。 そう自身に言い聞かせる、自身を説き伏せる文章が、薄い一冊の中に詰まっている。知的苦悩の軌跡をまとめた本ともいえよう。 一読を薦めたい好著だが、でも、私たちはみんなこれほど知的でいられるか。男には、妻との間にできた一歳五か月の息子が残された。ママ、パパ、まんま。まだ三つの言葉しか言えない保育園児。男には、その世話の役割がある。ママがやっていた育児を自分が代わりにやらなければならない。それは重い責任だが、男にとっての幸いでもある。 なぜって、もし妻だけでなく息子も殺されていたら、この男はもう〈今までどおりの暮らしを続ける〉ことができないから。自分一人だけ残されたとしたら、この男だって過激派組織ISと戦う別の過激派になっていてもおかしくない。あるいは心を病む。高い知性もその位には頼りないものだと思う。 日弁連の「宣言案」では、被害者支援の重要さも説くという。そこはなにより重要だ。とってつけじゃない支援の方法を提示してほしい。支援しきれない被害者感情があることも踏まえてほしい。その上で、死刑廃止の議論を喚起してもらいたい。関連記事■ 殺人事件で死刑判決受けた元少年らに取材 死刑を考える本■ 赤軍、オウム、林真須美ら死刑囚78人の肉筆を週刊誌が掲載■ 安倍内閣がかたずを呑む「谷垣法相で麻原死刑執行」の決断■ 死刑囚との対話や執行立ち会い等の体験描くノンフィクション■ ビートたけし無差別殺傷事件を語る 死刑=最高刑はもう古い