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    安倍総理に「戦争する国」の覚悟はあるか

    柳澤協二(元防衛省幹部、国際地政学研究所理事長) 安保法制は戦争法か平和・安全法か 昨年成立した安保法制をめぐって、政府・与党は、戦争をしないための「平和・安全法」だと言い、反対派は日本を戦争する国に変える「戦争法」と言う。これは、どちらも正しいとは言えない。 安保法制が平和に役立つという論理には、二つの側面がある。一つは、自衛隊派遣と武器使用の枠組みを拡大することによって、国際秩序の維持に日本が貢献することになるから、というものであり、もう一つは、アメリカと一体化することによって抑止力を高め、日本に対する攻撃を防ぐことができる、ということである。南シナ海に展開する米空母ロナルド・レーガン(米海軍提供) 一方、国際秩序維持の目的で武器を使うことは、すなわち国際秩序に従うことを相手に強制することであるから、それは、武力によって相手を強制するという意味の戦争にほかならない。また、アメリカと一体化することで抑止力を高めるという論理は、日本を攻撃すればアメリカが出てくることを相手に認識させることによって攻撃を思いとどまらせるという発想だが、同時に、アメリカが行う戦争に進んで一体化することを意味している。 安保法制の背景にある自衛隊の海外任務拡大とアメリカと一体化する抑止力の論理は、ともに、これまで禁じてきた戦争を法律上選択できるようにすることによって国際秩序を維持し、日本を脅かすかもしれない近隣の敵にアメリカの怖さを意識させることによって平和と安全を維持しようという発想に立脚している。 すなわち、安保法制は、戦争をもって秩序を維持し、戦争の威嚇によって戦争を防ごうとするものであって、その動機に着目すれば平和のための法制かも知れないが、その手段に着目すれば、戦争法以外の何物でもない。そして、戦争に伴うリスクを計算に入れるならば、少なくとも安全とは両立しない。戦争とは何か、平和とは何か戦争とは何か、平和とは何か 戦争とは、国家が、国家のもとに組織化され正当性を与えられた暴力によって、自らの意志を他者に強制する行為である。これが犯罪と認識されないのは、個人の動機ではなく国家の意志を実現する手段だからである。 抑止とは、そのような戦争を企てる可能性がある相手に対して、より強力な暴力によって相手を粉砕する意志と能力があることを知らしめ、戦争を思いとどまらせる作用である。中国・新華社通信が配信した南シナ海を飛行する中国のH6K新型爆撃機(AP) こうした敵対する国家の相互作用の中で戦争が起こっていない状態を、「抑止が効いている」という。しかしそれは、安全な状態でもなければ、平和な状態でもない。それを平和と呼びたければ呼んでもいいが、少なくとも国を挙げて追及すべき究極の目標としての平和ではないだろう。 戦争と平和が課題となる背景には、対立する国家の存在がある。国家の対立を解消するためには、妥協と譲歩という方法もある。戦争にならなければ平和だと言うなら、妥協すればよい。しかし、そのような平和は独立と相いれない。妥協できなければ戦う以外にないが、それは、安全と相いれない。 一方、国は、すべて自分の思い通りに主張を通せるものでもない。どこかで妥協することも必要であるし、場合によっては一戦交えることも必要になる。言い換えれば、戦争するためには当然覚悟が必要だが、平和であるためにも覚悟が要るのだ。日本はどこで妥協し、どこで戦うのか、そのために何を失う覚悟が要るのか。それを議論しないから、安保法制によってこの政権が何をしたいのか、野党は、これを廃棄して何をしたいのか、訳が分からないままになっている。欠陥の安保法制欠陥の安保法制 ところで、安保法制は、本当に使いモノになるのだろうか。 安保法制では、自衛隊が海外で武装勢力相手に武器を使うことを「戦闘行為」とは言っていない。戦闘行為とは、「国際紛争の一環として人を殺傷し、又は物を破壊する行為」と定義されている。自衛隊の武器使用は、なぜ国際紛争ではないのか。それは、相手が国際政治の主体として認定されるような「国」ではないからだ。 憲法9条は、国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇または武力の行使を禁じている。相手が国でなければ、それと戦うことは国際紛争ではない、という論理だ。それなら、いっそ「国家意志による武力行使」と言えばいいのだが、政府は、武力の行使は、「我が国が武力攻撃を受けるなどの存立危機事態」に限られると解釈している。輸送艦とわだ型の3番艦「はまな」。補給能力は護衛艦4、5隻分といわれている(海上自衛隊提供) そこで、海外で武装勢力相手に撃ち合いをすることを、法律上は国家意思による戦闘行為ではなく、「自衛官個人の武器使用権限」と定義している。軍隊の世界に警察法の論理を持ち込んでいる。そこに、大きな矛盾がある。 国家の意志を体現する軍隊の行動であれば、軍法に従う限り、個別の「殺傷や破壊」に対して、それを実行した兵士が責任を問われることはない。だが、自衛官個人の権限というのであれば、殺傷や破壊の責任は権限を持った個人、すなわち、現場の自衛官が負わなければならなくなる。 国の命令によって海外に派遣され、安保法制に従って武器を使用した結果、相手が死ねば、自衛官個人が殺人罪に問われることになる。こんな矛盾を抱えた法律が使いモノになるとは到底思えない。 これは、軍隊の存在を認めない現憲法の下では、解消しようがない矛盾である。 自衛隊に海外で武器を使わせようとするのであれば、憲法を変えなければならないということだ。それが今後提示される憲法改正の狙いであれば、論理的には一貫する。だが、その前に、安保法制の欠陥を認めなければならない。 それは、まさしく、日本が国際標準の軍隊を保有し、海外で軍隊としての戦闘ができるようにする、ということだ。安倍晋三首相に、それを明言する覚悟があるのだろうか。憲法は「政治の技術」ではない憲法は「政治の技術」ではない 参議院選挙で、いわゆる改憲勢力が3分の2の議席を獲得したことを背景に、安倍首相は改憲に意欲を燃やしている。首相は、「わが党の案をベースにしながら3分の2をどう構築していくか。これがまさに政治の技術だ」と述べているが、憲法改正は、政治の技術の問題ではない。 特に9条の改正に関して言えば、問題は、「今の文言では自衛隊の存在がよくわからない」といった解釈技術にあるのではなく、これまで否定されてきた軍隊と戦争を国家の選択肢として公認するという、「国のかたち」に関わることなのだ。 改憲の根拠は、おそらく、「国際情勢が変わったから今までの憲法では国を守れない」ということになるのだろう。あるいは、「軍隊を否定すること自体がおかしい」という、国としての名誉の源泉に関わる価値判断かもしれない。日米共同訓練で、自衛隊のヘリコプターから降りてくる米軍兵=平成22年、北海道・自衛隊上富良野演習場 いずれにせよ、そこで政治が訴えなければならないことは、戦争があれば受けて立つという国民の覚悟だ。自ら戦場に行き、あるいは肉親を戦場に送り出すのは生身の国民であるからだ。その覚悟がない国民に戦争はできない。できないことを書こうとする憲法改正には意味がない。 一方の護憲派にも、戦争を避けるのであれば、戦場で死なない代わりにどのような不利益を覚悟しなければならないのかを国民に訴えることが求められている。戦争しないことにも覚悟は要るのだ。 そして、今一つ、忘れてはならない論点がある。戦後70年間、日本が戦禍に見舞われることがなかった背景には、アメリカの抑止力がある。実は、自衛隊であろうが国防軍であろうが、アメリカの核抑止力に代替することは不可能だ。そこで、日本は、アメリカへの依存と軍隊の駐留を、いわば憲法外の「平和の代償」として受容してきた。 外国軍隊の平時からの大規模な駐留を当たり前のように受け入れることは、主権国家としてあるべき姿なのか。あるいは、広島・長崎の悲劇を繰り返してはならないと誓った日本がアメリカの核抑止力に依存している現状もある。いざとなったらアメリカの核使用を期待するということにほかならないわけだが、こうした矛盾に満ちた現実は、憲法に国防軍を書き込んだだけでは、何ら解決するわけではない。 憲法改正が政権の具体的日程に上った今日、憲法論議そのものを否定する「護憲の祭り」は終わった。この際、戦争の現実と日本の矛盾を見据えて、タブーの無い議論をしなければならないと思う。「政治の技術」で行われるような憲法改正を、私は信用しない。

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    試される安保法制、南シナ海に迫る「キューバ危機」

    能性が出てきた。米中軍事バランスを変えかねないこの動きに、米国は海上封鎖も検討せざるを得ない。日本は安保法制をどう適用するのか。 今年3月、南シナ海に浮かぶスカボロー礁周辺で中国船が測量を行っており、新たな人工島を造成するための埋め立ての兆候が見られることを、米海軍が明らかにした。スカボロー礁は、フィリピン・ルソン島のスービック湾から西へ約200キロに位置し、2012年に中国がフィリピンから実効支配を奪って以降、2隻の中国政府公船が常駐している。4月には5隻の政府公船が確認され、米比など関係国はいつ埋め立て作業が開始されるのかと警戒している。3月13日、韓国・釜山港に入港する米国の原子力空母「ジョン・C・ステニス」 (共同) 中国の南シナ海での領有権主張が国際法に違反するとして、フィリピンが提訴した国際仲裁裁判所の判決がこの夏前にも出ると見込まれており、ハリス米太平洋軍司令官はその前後に埋め立てを始める可能性を指摘している。オバマ政権は人工島の建設が始まってもこれを実力で阻止することはなかったため、中国はオバマ政権の弱腰につけ込み、次期米政権が軌道に乗る前に埋め立てをする可能性が高い。米軍は、おそらく中国による埋め立てを牽制するため、スカボロー礁周辺でA-10攻撃機を飛行させたことを公表した。だが、このような牽制は中国に自衛措置として南シナ海のさらなる軍事化の口実を与えるだけであろう。スカボロー礁を奪取した中国の姑息なやりくち 12年4月、フィリピン海軍がスカボロー礁で違法操業している中国漁船を拿捕したところ、これに対抗して中国が政府公船を派遣した。フィリピン側も海軍に代わって沿岸警備隊を派遣し、中比の政府公船が対峙する状況が続いた。両国は非難の応酬を繰り広げたが、台風シーズンの到来を控え、6月に中国が緊張緩和のために両国の政府公船と漁船の撤収を提案した。フィリピンは自国船を撤収させたが、中国は船を撤収せず、むしろ礁の入り口を塞(ふさ)ぎ、そのまま実効支配を完成させた。 振り返ってみれば、中国が漁船をスカボロー礁に送り込んだ時から、この環礁に人工島を建設し、軍事利用するという壮大な計画がすでにあったと考えるべきである。スカボロー礁は、米軍がすでに利用している旧米海軍基地のスービック湾や、クラーク旧米空軍基地などに近い。 4月下旬に、カーター米国防長官は、中国によるスカボロー礁の埋め立てに強い懸念を示し、「軍事衝突を引き起こし得る」と発言した。スカボロー礁に軍事基地ができれば、スービック湾を含めルソン島の軍事施設を監視し、直接ミサイル攻撃できるようになるからである。埋め立てで戦闘機による防空識別圏の運用も可能となった また、中国が九段線に基づいて南シナ海上空における航空優勢を確立するためには、西沙諸島と南沙諸島に加え、スカボロー礁を埋め立てなければならない。西沙諸島、南沙諸島、そしてスカボロー礁の3カ所に空軍基地を持つことで、九段線内全域の上空監視が可能となり、戦闘機による事実上の防空識別圏の運用も可能となるのである。西沙諸島は3000メートルの滑走路を備え、レーダー施設、対空ミサイル、戦闘機の配備によって事実上の空軍基地となっている。南沙諸島の人工島でも、3000メートルの滑走路が完成し、レーダーの配備も確認され、戦闘機が配備されるのも時間の問題であろう。スカボロー礁が空軍基地となれば、現在は九段線内の盲点となっている北東部をカバーすることができるようになる。 中国は海南島に新型の晋級戦略ミサイル原子力潜水艦を配備しており、長距離ミサイルJL-2が搭載されるのも時間の問題と考えられている。中国は九段線内をこの戦略ミサイル原潜のための「聖域」とする必要があり、スカボロー礁を埋め立てるのは対米核抑止を強化するという戦略的観点からも急務である。南シナ海問題の中核は、中国が陸上配備の移動式大陸間弾道ミサイルの開発に加え、海中配備の核抑止力の保持を目指している点にある。中国が対米核報復(第二撃)能力を向上させるためには、米海軍が常時行っている中国沿岸部での情報収集・偵察・監視活動を阻止しなくてはならない。このため、南シナ海とその上空における優勢を確立するために人工島を建設しているのである。(出所)各種資料を基にウェッジ作成 スカボロー礁の埋め立ては、すぐに米中間の軍事バランスや戦略核バランスを劇的に中国に有利なものにすることはない。有事になれば、米軍は南シナ海の人工島を容易に破壊または奪取できる。また、中国の戦略ミサイル原潜が米本土を攻撃するためには、南シナ海から太平洋の真ん中まで捕捉されずに出ていかなくてはならないし、指揮命令システムも十分に構築されていない。ただ、少なくとも平時において、中国は米軍の監視活動の妨害をしやすくなる。平時の監視活動、特に潜水艦の位置の捕捉は、有事の際に極めて重要である。 米戦略国際問題研究所(CSIS)のクーパー研究員とポリング研究員は、中国がスカボロー礁の埋め立てを強行する場合は、フィリピンが行う「隔離」、つまり海上封鎖を支援するべきであると主張している。「隔離」は、1962年のキューバ危機で、ソ連船がミサイル部品をキューバに海上輸送するのを阻止するために、米海軍がカリブ海で実施した。キューバ危機で米ソは核戦争の一歩手前までいったが、米海軍が「隔離」を実施する中、米ソは威嚇と誤解、対話と譲歩、そして幸運によって危機を回避した。中国がスカボロー礁の埋め立てに着手するなら、フィリピン海軍と沿岸警備隊が中国作業船の領海内への進入を阻止し、米国を中心とする有志連合の政府公船および軍艦が領海外で支援し、埋め立てをあきらめさせるのである。 もちろん、岩礁の埋め立ての阻止のために、中国との軍事衝突を引き起こしかねない海上封鎖など論外というのが一般的な見方であろう。世界を消滅させる可能性があったキューバ危機はわずか13日間であったが、中国が「中国のカリブ海」で行っていることはより長期的な問題で、切迫感はないかもしれない。 だが、国際社会が現状変更を実力で止める覚悟がないことを中国は見抜き、既成事実を作り上げてきた。埋め立てが始まってもこれを看過すれば、南シナ海はいずれ中国の「湖」になる。そうなってからでは手遅れである。国際社会はスカボロー礁の埋め立てが「レッドライン」であることを中国に伝え、それを越えた場合、「隔離」を実施する覚悟を持たなければ、いずれ深刻な危機が訪れるであろう。ホムルズ海峡の答弁踏まえ安保法制をどう適用するかホムルズ海峡の答弁踏まえ安保法制をどう適用するか 仮に米軍が「隔離」を行う場合、日本は、平和安全保障法制の下で、日本の平和と安全に重要な影響を与える重要影響事態に認定するかどうかの判断を迫られる。南シナ海情勢は重要影響事態の対象となり得ることは、安倍首相が国会答弁で言及している。事態認定ができれば、自衛隊による補給、輸送、捜索救難、医療など多岐にわたる後方支援が可能となる。 ただ、キューバ危機では、米海軍の「隔離」に対して、ソ連海軍は潜水艦を派遣し、米海軍がこれを強制浮上させることがあったし、キューバ上空で偵察機U-2が撃墜されることもあった。南シナ海の「隔離」でも、中国が同様の挑発行為をしてくることが想定されるため、自衛隊には米軍の「アセット(装備品等)防護」が求められる。ただ、そのためには米軍が日本の防衛に資する活動をしているという認定が必要である。 さらに、中国が「隔離」を妨害するために機雷を敷設した場合、米海軍は世界一の掃海能力を誇る海上自衛隊に支援を要請するであろう。だが、機雷掃海は武力行使に当たるため、これに応えるためには集団的自衛権を行使が許される存立危機事態の認定が必要となる。また、重要影響事態における船舶検査では、船長の承諾が必要なため、中国船に検査を拒否されれば、実効性は薄まってしまう。強制的な検査実施のためには、やはり存立危機事態の認定が必要である。 南シナ海の「隔離」で日本が役割を果たすためには、存立危機事態の認定が必要である。そのためには、事態が日本の存立を脅かすだけでなく、武力行使以外に方法がない、武力行使は必要最小限という新三要件を満たさなくてはならない。集団的自衛権の行使に関して、政府はホルムズ海峡の封鎖を例にこれまで説明してきた。だが、他に代替ルートのないホルムズ海峡とは違い、南シナ海には代替ルートが存在するため、新三要件に当てはまるかどうか議論が分かれるであろう。政府は平和安全保障法制の目的をどのような事態にも「切れ目なく」対応するためと説明してきたが、南シナ海情勢がその試金石となる可能性がある。●重要影響事態とは   そのまま放置すれば日本に対する直接の武力攻撃に至る恐れのある事態など、日本の平和及び安全に重要な影響を与える事態●存立危機事態とは  日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態●集団的自衛権による武力行使の「新三要件」  ① 存立危機事態であること  ② 日本の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと  ③ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

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    SEALDsに聞きたい「国民の命を守るためには何が必要か」

    山本 みずき 安保法制反対を叫ぶデモの動きが広まる中、ひときわ注目を集めている学生団体がある。自由と民主主義を標榜し、国会前で毎週金曜日に抗議活動を繰り広げている「SEALDs(シールズ、自由と民主主義のための学生緊急行動)」である。私とおおよそ年齢を同じくする現役大学生たちを中心に結成され、ラップ調のコールや、とても政治的主張をするようには見えない洒落た女子たちによる演説など、斬新な手法によって多くの人々を惹きつけている。彼らの発表によれば、今では1万人を超える国民を巻き込んだ活動へと拡大しているという。デモを眺める限り、SEALDsの主張は極めて簡潔だ。そう、彼らは安保法案を声高に「反対」する人々である。 その一方で、SEALDsの抗議活動に触発され、安保法案に賛成する側からも街頭演説で反論する人や、ネット上で激しい誹謗中傷を書き込む人々の姿もしばしば目にする。しかし、SEALDsを含めた抗議活動やそれに対抗する誹謗中傷などを目にするにつれて、私は両者の言動に違和感を覚えることがある。両者ともに「戦争反対」という立場は同じであるはずなのに、なぜ賛成派と反対派の溝は次第に深まっていくのか。理性を忘れて互いに煽り合う、その姿はとても見るに耐えない。そこで私は、率直に彼らに疑問を投げかけることでより建設的な理論を構築したいと考え、本メディアiRONNAを通してSEALDsに対談を申し込んだのだが、結局多忙を理由に断られてしまった。 iRONNAの母体は産経新聞であり、一般的には保守派のメディアと称される。彼らが真剣に自分たちの主張が正しいと思っているのであれば、この対談はSEALDsという組織の活動や、その主張の正当性を広く世に訴えることができる絶好のチャンスにもなり得たはずである。個人的には大変残念であったし、実は後日、Twitterを通して「取材依頼、イベント等の依頼等も是非是非ご連絡いただければと思います。DMかsealdsjpn@gmail.comまでよろしくお願いします」との(SEALDsの)投稿もあり、こちらの依頼をSEALDs側が断ってきたことは、他者の価値観を受け入れようとしない姿勢の表れにも思えてならなかった。 こと安保法案に関しては、既に憲法学者や国際政治学者のみならず、多くの有識者が自らの見解や持論を述べ、真摯にこの問題に向き合っている。同様に、私と同世代の若者たちも、この国の未来を案じて、自ら意思を表明し、政治に参画している。こうした多くの人々の行動に私は敬意を表している。残念ながらSEALDsとの対談は実現しなかったが、世代を同じくする彼らに歩み寄る気持ちで、この場を借りて、彼らへの疑問点と私自身の考えを綴ろうと思う。  安保法案は戦争を招くのか、それとも戦争を抑止するのか。これらは反対派と賛成派それぞれの主張の底流をなす議論である。国会議員を含めて反対派は安保法案を「戦争法案」と呼んでいる一方で、安倍首相はこれを「無責任なレッテル貼り」とした上で「あくまで日本人の命と平和な暮らしを守る為、そのためにあらゆる事態を想定し、切れ目のない備えを行うのが今回の法案」であることを訴えた。さらには「不戦の誓い」を戦後日本が守ってきた崇高な理念であるとして、日本人の誰もが戦争を望んではいないことを強く訴えた。しかし、日本人が戦争を望んではいないというのはさておき、「不戦の誓い」というこの表現は必ずしも適切ではなく、安保法制には日本が戦争に巻き込まれる可能性を高める側面もある。今年5月14日の安倍総理大臣記者会見をみても明らかな通り、安保法案には、抑止力を高めることで他国から攻撃される可能性を低める狙いがある。目的は攻撃される可能性を低めることではあるが、そもそも抑止力とは相手国より優位な立場を不可欠とする、互いの不安を前提に成り立つ理論であり、それによって相手がこちらに攻撃する可能性が皆無であることを保証するものではない。だからと言って、かつての軍国主義を想起し、日本がまた自ら戦争をする国になるといった認識はナンセンスである。「自ら戦争する」のと「自衛する」のとでは意味合いが大きく異なるからだ。つまり現政権の狙いは、「自ら戦争を招く」ことではなく、自国あるいは他国が戦争に巻き込まれた状況での、自国民の命を救済にある。 私がSEALDsに違和感を覚えるのは、第一に国民の命を守ることを主張しながら、同時に自衛隊員のリスクが高まることを批判している点である。例えば、6月12日の抗議行動でマイクを握った男子学生は次のように述べた。 「先日ある新聞のインタビューで「自衛隊が危険な任務につくことを政府は安全だといいますが、どう思われますか」と尋ねられました。そして僕はそんなことに答えなければいけないのか(と思った)。危険な任務を「安全にします」というのはゴミ矛盾でしょ!」 まず私が問いたいのは、国民の命を守るためには首相や政治家はどのような選択を迫られるのか、ということである。SEALDsと同様に首相にとっても国民の命を守ることは尊い理念である。これは、先述の記者会見でも安倍首相自身が述べていることであり異論はないだろう。しかし、それに反して世論のなかには「首相は自衛隊員の命を蔑ろにしていいのか」といった声が散見される。これらの声を聞くと、私はいつも次のことを思う。自衛隊員も国民であり、命を蔑ろにしていいはずは無いが、国民の命を守るためには、一方で国民に命を危険にさらすよう迫る瞬間があることを、多くの人は忘れてしまっているのではないか。戦後の日本では「人権・命」と「軍事力」が対立関係に置かれ、この観念が深く根を下ろしている。それはある局面では正しいが、他方でそうではない局面もあるという考え方が必要なのではないだろうか。なぜなら、軍事力が人の命を奪うこともあれば、人の命を救うこともできるからである。国民の命を救うためにどうしても軍事力が不可欠となる局面があり、そして国民の命を守るために、構成員の一部に命を投げ出してもらうことが必要となる瞬間がある。自衛隊員はその一部に当てはまる存在であり、これを命じるのが政治家や指導者の役目である。決して容易い役目ではない。 先の沖縄戦においてを例にとって説明しよう。舞台は日米最大規模の戦闘とも言われる沖縄戦。ここで貴方が、仮に日本軍の兵士として米軍と闘っていることを想像してほしい。沖縄戦と言えば、日本軍が泣きわめく赤ん坊を射殺していたことが今尚語り継がれている。そして貴方は司令官として、日本軍が窮地に立たされた戦局において、逃げ惑う住民たちを濠に連れ、米軍から隠れて逃げていた。すると不意に、そのなかにいた赤ん坊が泣き出してしまった。米軍は刻一刻とこちらに迫り、濠のなかは息も詰まるほど緊迫した状況である。しかし赤ん坊が泣き止む気配は一向にない。このまま赤ん坊が泣きわめき、米軍に見つかれば住民を含めて全滅する可能性が高い。一方で貴方が赤ん坊を殺めることで99%の命を救うことができるかもしれない。貴方はどちらの決断を下すだろうか。もちろんこれに正解はない。しかしながら、政治家や指導者とは、99%の命を救うために1%の命を殺める決断と勇気を必要とする立場である。 マックス・ウェーバーは政治における倫理を「心情倫理」と「責任倫理」に分けて説明した。心情倫理的に行為する者は、ひたすら行為そのものに固有な価値を認め、結果を度外視して、心情の純粋さをもって行為を正当化する。しかし、他者の命を預かる責任ある者は、心情の純真さだけでは「善い目的」を達成できないときがある。そしてウェーバは言う。「善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。これらのことは古代のキリスト教徒でも非常によく知っていた。これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である」(『職業としての政治』岩波文庫)、と。  そもそも自衛隊とは日本の安全保障を担う存在であり、国民の命を守ることを職務としている。もちろん自衛隊の命を蔑ろにすることは絶対にあってはならないが、一方で自衛することが職務である以上、自分の命を賭する覚悟を持たずして自衛隊員となることは、それもあってはならない。「戦争するような国に住みたくない」と言う気持ちは分かるが、それは皆に共通した想いであり、しかも安保法案の本質をついていない。現実には「国民の命を守ることのできない国に住みたいか、住みたくないか」ではないだろうか。国家が内に向けた「暴力」である警察と、外に向けた「暴力」である軍隊に二重三重に守られておきながら「暴力はいけない」と騒ぐのはあまりにもナンセンスに思える。 加えて言えば、軍事力が無ければ戦争が起こらないというのは幻想に過ぎず、かつての朝鮮戦争では韓国軍の隙を狙って北朝鮮による電光石火の大攻勢がなされた。北朝鮮の狙いは、米国の参戦前に奇襲することで朝鮮半島を制圧できるという目論見であり、軍事力の圧倒的な差によって韓国軍はひたすら敗走を続けたのだった。安保法案には「戦争を招く」のではなく、翻って「戦争を抑止する」、つまり戦争を止められる側面もあり、これが一般的には国際政治の論理とされている。 それから外務性と内務性についても触れておきたい。集団的自衛権の問題に限らず、18歳選挙権や死刑制度などあらゆる問題が議論されるとき、しばしば世界的な潮流が注視される。「他国がやっているから日本にも取り入れるべきだ」というこの手の議論である。しかし世界の潮流に合わせて政策を決定するのは、対象となる問題が外務か内務によって異なる視点を要するものだと私は考えている。 例えば選挙権や成人年齢に関する議論は、その国の価値観に基づいてなされるべきことである。西洋を模倣するといっても、日本と西洋とでは辿ってきた歴史が明らかに異なっているため、結果的に生まれた政策をそのまま模倣することが必ずしも良い結果を生むとは限らない。つまり内務においては、「先進国がやっている」という大義名分に踊らされるのではなく、自国の価値観に基づいた検討が重要となってくる。一方で外務では他国との関係が重視される。国際政治においては他国の存在が自国にとって無関係ではないため、国家間で足並みを揃えることが重要な意味合いを帯びてくる。従って外務政治において「他国がやっているから日本にも取り入れる」というのは理にかなった議論である。 なぜ私がこの話を持ち出したかと言うと、18歳選挙権の成立を主張していた人が「先進国では当たり前のことだから」と言って自らの考えを正当化しておきながら、一方では今回の集団的自衛権の賛否を巡って先進国では当前のことでありながら否定している言説がしばしば散見されたからだ。おそらくは外務と内務に分けて考えるとより良い議論が生まれるのではないかと思った次第である。 私はいま、安保法案の賛否をめぐる国内世論に対して強度のイデオロギーを感じている。それはつまり、ある特定の価値観が自分のなかで支配的になるあまり、他の価値観が排他的になってしまう現象である。SEALDsはまさにその例に当てはまると思うのだ。デモやTwitterでは「憲法を守れ」「安倍は辞めろ」の一辺倒、自分たちに都合の良い学者を取り込むばかりで多様性を重視していない。さらに命令口調で安倍首相をはじめ自民党や賛成派を扇動しているが、本当に自分たちの意見を聞いて欲しいと望むならば命令口調の言葉は使うべきではないし、それはいくら若者であっても、いや若者であるからこそ当然の礼節だと私は思っている。こうした言動の端々から、彼らは本当に安保法案の反対を望んでいるのか、あるいは自己満足の世界に浸っているのか、私は分からなくなるのであった。 ハロルド・ニコルソンが指摘する通り、民主主義とは本来、国民の耐えて怠ることなき関心を必要とする高度な政治体制である。安保法案という大きな変化に接するにあたり、一般民衆の心が混乱することは必然だろうと思う。だからこそ、現政権には更なる説明の努力を重ねていただきたい。また一方で、我々国民は感情的になることなく、この国がより良い政策を選択できるよう、正しいことは認め、間違っていることには的確にメスを入れることのできる主権者として、その務めを果たそうではないか。

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    和解と誇りと希望と新時代の日米同盟へ

    法改正に向け国民的な議論を深めたい憲法改正に向け国民的な議論を深めたい ――いよいよ、平和安全法制(安保法制)の国会審議が始まります 安倍 私がアメリカで平和安全法制の成立を「この夏までに」と申し上げたことに対し、野党が「国会審議もしていないのに約束するとは、国会軽視だ」と反発をしています。 しかし、平和安全法制の整備は、私も自民党も平成24年の衆議院選挙以来、3回の国政選挙で常に公約として掲げて、繰り返し訴えてきたことです。特に昨年12月の衆議院選挙では、集団的自衛権の一部行使を可能にした昨年7月1日の閣議決定を受けて、平和安全法制を速やかに整備することを明確に掲げ、国民の皆さまの審判を受けたわけです。法整備の方針を閣議決定した上で、選挙で公約に掲げた以上、選挙直後の通常国会で実現をはかることは当然のことだと思います。選挙後の第3次安倍内閣の組閣時の記者会見でも、本国会で平和安全法制の成立を図る決意をお示ししたし、本年2月の衆院本会議に於いても、2度にわたって本国会における成立を図る旨、答弁をしております。アメリカ議会で突然申し上げたことではありません。野党がおっしゃるような問題はまったくないと思います。 いわゆるグレーゾーン事態対処から集団的自衛権行使の限定的容認に至るまで、「切れ目のない」対応を可能とする平和安全法制は、まさに国民の命と幸せな生活を守るために必要不可欠です。分かりやすい丁寧な審議に努め、成立に全力を尽くします。 ――日米同盟の強化により、自衛隊の役割は飛躍的に大きくなっていくのではないでしょうか。防衛費増額などの環境整備についてのお考えは 安倍 今回の平和安全法制が、防衛費の増減には直結するわけではありません。まず法制度として切れ目ない対応を可能にするものですね。 一方、防衛費につきましても、安全保障環境の変化や装備品についての変化に対応していくことは大切だと考えています。第2次安倍政権が発足するまでは、防衛費は10年間連続で削減されてきました。これに対して我々は一昨年末、平成30年までの防衛費総額を中期防衛力整備計画(中期防)の中で決定し、毎年、実質0・8%ずつ増やしていくことにしています。 大切なことは、国民の命と幸せな暮らしを守っていくことです。そのために必要な法整備、防衛体制の充実は図っていかねばなりません。 ――平和安全法制整備の先には憲法、特に9条の改正という課題もあります 安倍 第2次安倍政権発足時から、自由民主党の公約として「憲法改正を目指していく」を掲げています。憲法は、国の未来や理想の姿を語るものでもあり、21世紀の日本の理想の姿を私たち自身の手で描いていく精神こそ、未来を切り拓いていくことにつながっていくと思います。国民主権、基本的人権、平和主義という現行憲法の基本的な考え方は大切にしながも、必要な改正は行うべきものだと思います。 まず、国民的な議論をより深めていく、そして広げていく必要があると思っています。憲法改正について分かりやすく解説した冊子を作成するなどして、国民の理解が深まるよう努力していきたいと思います。 野党の一部からは、私の憲法観がおかしいから議論しないという意見が出ていますが、まったく非論理的です。わが党は野党時代に谷垣執行部が中心となって作り上げた条文改正案をお示ししています。私が作ったものではありません。感情的にならず、また反対のための反対をせず、われわれが示した条文ごと、項目ごとに冷静な議論をお願いしたい。憲法改正は日本の将来を考える作業でもあります。改正が必要かどうか、政治家本来の原点に立ち戻って議論を進めていってもらいたいと思います。 ――憲法改正を主張してきた橋下徹・大阪市長(維新の党最高顧問)が、5月17日の市の住民投票でいわゆる「大阪都構想」が否決されたことを受け、市長任期(今年12月)終了後の政界引退を表明しました。これは憲法改正の推進という点では、残念です 安倍 「大阪都構想」については、住民投票で僅差でしたが否決されました。現在の大阪市という体制を維持していくことを大阪市民の皆さんが選んだということではないかと思いますが、あれだけ賛成意見も多かったということを勘案しながら改革を進めて行く必要があるのではないかとも思いました。 橋下市長はこれまで政治家として、リーダーシップをもって新しい試みに挑戦してきました。大阪市を廃止すべきか否かという大きな問題について、住民投票によって市民に賛否を問うという段階まで進めたリーダーシップは注目に値すると思います。 また今おっしゃったように、憲法改正を進めて行くべきだという考えでは、私たちとも一致しています。憲法改正に向けて、強いリーダーシップ、国民に訴えかけていく力を生かしていただきたいと思います。 ――政治家をやめても、その力を生かしていってほしいということでしょうか 安倍 そこはまあ、まだね(笑い)。 ――ありがとうございました(聞き手/月刊正論編集長 小島新一)※このインタビューは5月18日、首相官邸で行われました。安倍晋三 昭和29(1954)年生まれ。成蹊大学卒。会社勤務の後、父、晋太郎元外相の秘書官を務め、平成5年から衆議院議員。内閣官房副長官、自民党幹事長、内閣官房長官などを歴任、平成18年9月、内閣総理大臣に就任。「戦後レジームからの脱却」を唱え、教育改革をはじめ数々の改革に取り組む。24年12月に内閣総理大臣に再就任し、26年12月には第三次安倍内閣が発足。著書に『安倍晋三対論集』(PHP研究所)『美しい国へ』(文春新書)など。