検索ワード:安全保障/279件ヒットしました

  • Thumbnail

    記事

    徴兵制につながる→☓ 安保法案の疑問わかりやすく答えます

     集団的自衛権の行使容認を含む安全保障関連法案が成立する見通しとなった。その内容、背景、意義をQ&A形式でまとめた。 Q そもそも集団的自衛権とは何か A 日本は従来、「個別的自衛権」の行使しか認めてこなかった。これは敵国の軍隊が日本を侵略しようと攻め込んできた場合に、自衛隊が敵部隊を撃退することだ。これに対して「集団的自衛権」というのは、日本が直接攻撃を受けていなくても、米国など他国が攻撃を受けたとき、自衛隊が一緒に敵部隊を撃退することだ。 小規模な軍隊しか持たない国が、軍事大国に攻撃されればひとたまりもない。だから、小規模な国にしてみれば、軍事大国に侵略されないように、隣国や仲の良い国とお互いに助け合えるようにしたい。国際社会では集団的自衛権が行使できるのは当たり前と考えられている。 Q 戦争を未然に防ぐには外交努力が先では A 日本は先の大戦から70年間、一度も戦争をしていない。今後もあってはならない。そのためには他国からの攻撃を外交努力で未然に防ぐことが重要だ。しかし、万一への「備え」は必要だ。自分の国を守れない国だとみられれば、軍事力によって現状を変更したい国の不法行為を誘発しやすくなる。しっかりした軍事面の備えがないと、外交でも相手に足元を見られかねない。 日本が平和でいられたのは「憲法9条があったからだ」と主張する人がいるが、それは現実的な見方ではない。日米同盟という存在が、日本を他国の侵略から守る強力な「抑止力」であり続けたからだ。 Q 日本を攻撃しようとしている国があるのか A 日本の周辺では見逃してはならない危険な動きがたくさんある。 隣国の中国は、軍事費を過去10年間で3.6倍に増やして軍事大国になっている。その膨大な予算で性能の高い戦闘機や軍艦をたくさん造っている。日本の領空に戦闘機が接近したり、中国の船が尖閣諸島(沖縄県石垣市)付近への領海に入ってきたり、危険な行動を続けている。 領有権をめぐって周辺国と対立している南シナ海では、岩礁を埋め立てて“軍事拠点化”しようとしている。 北朝鮮は、日本の領土の大半を射程に入れる数百発の弾道ミサイルを持っている。核実験も繰り返していて、このままでは日本を核ミサイルで攻撃できる能力を持つのは時間の問題だ。 Q 一部の野党やマスコミは「戦争法案」と批判しているが A 全くの間違いだ。安保関連法案のポイントは、いかに戦争を未然に防ぐかだ。 集団的自衛権の行使によって、米軍と自衛隊が互いに守り合う関係になれば信頼関係はより深まる。「日本に手を出せば世界最強の米軍が黙っていない」と思わせることで、戦争を仕掛けられる危険が減る。まさに、日本の平和と国民の安全を守るための法律だ。 Q 「米国の戦争に巻き込まれる」という指摘もある A その指摘も違っている。日本が集団的自衛権を行使するには、かなり厳しい条件がつけられている。安保関連法案で「日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求権が根底から覆される」場合と規定されているように、日本が直接攻撃を受けることと同程度の事態にならないと、集団的自衛権は行使できないようになっている。 これは世界でも類を見ないほど厳しい条件だ。だから、米国がどこかで戦争を起こしても、日本の安全と関係なければ自衛隊が行くことはできない。 Q 例を挙げると A 米国本土が攻撃されても、自衛隊が米国本土まで戦いに行くことはない。それは「他国防衛」に当たるからだ。だが、日本に飛んでくるかもしれない北朝鮮のミサイルを迎撃するため警戒している米艦艇が攻撃された場合は、自衛隊は米艦艇を守ることができる。 日本の安全が脅かされている事態であり、米艦艇が沈没されれば、日本がミサイル攻撃を受けるかもしれないからだ。こうした「自国防衛」に限って、集団的自衛権の行使は認められている。 そもそも自衛隊が持っている武器は、日本が攻撃を受けたときを想定しているものだ。他国まで行って空から地上を爆撃したり、大規模な地上戦を行ったりするような能力は持っていない。 Q 徴兵制につながると心配している母親たちがいる A 安保関連法案は徴兵制とは無関係だ。政府は徴兵制を禁じる憲法解釈を堅持している。安倍晋三首相は何度も「導入はない」と明確に否定している。 自衛隊にとっても、徴兵制を導入するのは意味がない。最近ではハイテク兵器が主役だ。たくさんの教育訓練が必要で、徴兵したところで育成できない。専門性の低い大量の自衛隊員を維持する必要性も低い。 だから、米国や英国など主要7カ国(G7)はいずれも徴兵制ではなく自分の考えで軍隊に入隊する志願制を採用している。徴兵制は国際的な潮流からも逆行している。 Q 安保関連法案は憲法違反なのか A 確かに、憲法学者でも安保関連法案を「憲法違反」だと解釈する人は多い。しかし、憲法解釈の変更は、これまでも行われてきた。戦後間もないころは、当時の吉田茂首相は「憲法9条は自衛のための戦争も否定している」という見解を国会で示していた。要は、日本が敵国に攻められても自衛すらできないという意味だ。 しかし、昭和29年に自衛隊が創設され、政府は「自衛のために必要な実力組織を持つことは憲法に違反しない」と解釈を変えている。ちなみに、今回の安全保障関連法案を違憲だという憲法学者の中には、今でも自衛隊を憲法違反だと主張している人が少なくない。 Q 野党は自衛隊のリスクは高まるといっている A 今回の法制では自衛隊に新たな任務が加わるため、その分のリスクは増えると指摘することもできる。ただ、今でも自衛隊にはリスクの高い任務がある。自衛隊はリスクを最小化し、任務を完遂するために日々厳しい訓練を行っている。この点は法整備後も変わらない。 そもそも自衛官は「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえる」と宣誓して入隊している。リスクは覚悟の上だ。忘れてはいけないのは、自衛官がリスクを背負うことと引き換えに、日本の平和や安全に及ぶリスクが格段に下がるということだ。 Q 安保関連法案に反対する野党が多いが、安倍首相が望むから法整備するのか A 安倍首相が安全保障政策に意欲的なのは確かだ。でも、集団的自衛権の行使容認をめぐる議論は以前からされてきた。安倍首相は平成18年に発足した第1次政権でも、この問題に取り組んできた。 確かに民主党などは安保関連法案に反対の立場だ。岡田克也代表は6月の党首討論で「集団的自衛権はいらない」と断言したが、岡田氏や野田佳彦元首相はかつて「集団的自衛権の行使を容認すべきだ」と主張していた。 前原誠司元外相に至っては、6月の衆院平和安全法制特別委員会で質問に立ち、集団的自衛権の行使について「一部認める立場だ」と明言している。 Q 米国の核兵器も自衛隊が輸送するのか A 自衛隊の後方支援として他国軍の弾薬や物資を輸送できるようになるが、核兵器を輸送することはない。日本は国是として非核三原則を掲げている。安倍首相も「政策的にあり得ない」と述べている。そもそも、米国が核兵器の運搬を他国に委ねることは考えにくい。「机上の空論」だ。 民主党などは安保関連法案の整備により自衛隊が核輸送する可能性を指摘するが、現行法制で核運搬を禁じる条文はない。民主党政権下でも法律上は核運搬が可能だったことになるが、それを禁止する措置を取らなかった。民主党の指摘は批判のための批判としか思えない。

  • Thumbnail

    記事

    安保法制を敵視する 感情的な「反日リベラリズム」

    府側の努力にもかかわらず、具体的なシナリオや現実の脅威認識について理解が広がっていないきらいもある。安全保障は本来、国家や国民の生存にかかわる重大事であり、例示により理解が進むとは限らず、国際社会の実態と展望を率直に説明した方がよい場合もある。 他方、社会には自分にとって嫌なことや、ずっと将来のことはできれば考えたくないと思いながら生きている人が多い。 60年安保反対闘争は今や、昔の話になったが、あの運動に当時の若者を駆りたてた動因は反米ナショナリズムであったと思う。こんな条約を結んで日本は米国の属国になってよいのかという感情が共感を呼んだのである。しかし、若者たちは条約文さえ読んでなかったし、どの条文を修正したら賛成できるといった議論もなかったであろう。 ただ、歴史を振り返ると日米安保体制がその後半世紀にわたる日本の安全と経済繁栄の基礎になったことは明らかであり、今や、安保反対闘争に加わった人を含めて国民の7割以上が日米安保に賛成している。 今、安保法制の反対者を動かしている動因は反米ナショナリズムではなく、反日リベラリズムといえるのではないか。すなわち、学生には今の日本はかつての道に踏み込む恐れがあり、安保法制を成立させるような日本の方向には賛成できないという見方が強い。安保関連法案が参院特別委で可決された国会前には、夜になっても法案に反対する大勢の人たちとそれを囲む警察官の姿があった=2015年9月17日 また、これは真のリベラリズムとはいえず、反政府活動に駆りたてられた感情的なリベラリズムである。法案の内容を理解せず、反対を主張するだけの感情論は後で振り返ると間違っていたということにならないのか。顕在化する北東アジアのリスク 安保法制はアジアのリスクに対し、日本の安全を確保する手段である。国際社会は依然、混沌(こんとん)としており、ウクライナ情勢や「イスラム国」、シリア、イラクを含む中東湾岸情勢は深刻で解決の道のりは見えない。 北東アジアの潜在的不安はもっと深刻である。北朝鮮は2006年、09年、12年と3年ごとに弾道ミサイル実験を行い国際社会から制裁を受けて反発し、その都度、核実験を行った。今年はさらにその3年後にあたり発射台の拡張を行っている。6者会合は動かず北朝鮮による核兵器・弾道ミサイル開発の時間稼ぎが続いている。周辺への挑発活動も続いており、その意図も不明瞭である。 今般、南北間で起きた緊張は一応収まっているかにみえるが、今後、何が起こるか予想できない。明確なことは、北朝鮮が核兵器と日本にいつでも発射できる数百発の弾道ミサイルを保有しているということである。 北朝鮮が急迫する短期的脅威とすれば、中国は中期的なリスクである。南シナ海や東シナ海における力による現状変更は、やがて周辺との武力衝突という形で顕在化するであろう。 しかし国連は機能しない。しかも軍事的脅威にとどまらず国際経済に与える影響は重大である。あるいは国内の経済破綻から軍事的挑発が引き起こされるシナリオもあり得る。一国平和主義は成り立たない こうした東アジアのリスクに対応するため米国だけに依存できる状態にはない。 日本が米国のみならず他国の軍事活動を支援することは日本の安全にとっても不可欠の手段である。一国平和主義は到底、成り立たないのである。 安保法制は日米安保の片務性を解消できる道でもある。日米安保体制は米国が日本の防衛義務を負う片務性をもっている。日米同盟が真のイコールパートナーにならない理由はこの点にある。 この片務性をできる限り解消して日米同盟を真の同盟関係に近づけつつ、日本の安全を確実にすることは安保法制の重要な目的である。特に、安保法制で可能となる一定要件下における集団的自衛権行使、米軍のアセット防護や米軍に対する広範な後方支援はそれを可能とする。 しかも、それにより北朝鮮や中国に対する日米同盟の抑止機能を格段に向上させることができるのであり、米国はこの点を高く評価している。もちろん、これを効率的に実施するためには日本の政治が果たす責任は大きく、自衛隊のリスク管理や態勢の整備も必要となる。国家の安全を果たすにはリスクが付き物である。 それを回避していたのでは平和も安全も繁栄も期待できない。将来を展望すれば今、日本に求められているのは、日本の平和と発展のため危機に対応する強い責任感と覚悟である。もりもと・さとし 昭和16年、東京都出身。防衛大学校卒業後、航空自衛隊を経て外務省安全保障課に出向。外務省入省後、情報調査局安全保障政策室長などを歴任。拓殖大海外事情研究所長や初代の防衛相補佐官などを務め、平成24年6月に野田佳彦政権下で民間人初の防衛相(11代)に就任。

  • Thumbnail

    記事

    安保法案はギリギリで折り合いをつけた日本存立の切り札だ

    中西輝政(京都大学名誉教授) 現在、国会で審議中のいわゆる安全保障関連法案の一日も早い成立が望まれる。これは間違いなく日本にとって、またアジアと世界の平和にとって、きわめて重要な意義を持つものだからである。「護憲派」の的外れな批判 周知の通り、同法案は5月26日に衆院特別委員会で審議入りし、目下、序盤戦とも言える段階で与野党の論戦は早くも熱を帯び始めている。例によってと言うべきか、「この法案が通れば日本が戦争に巻き込まれる」とか「徴兵制に道を開くことになる」あるいは何だかよくわからないが「とにかく違憲だ」といった声がまたぞろ出始めている。 これらは、従来の安保政策に重要な変化をもたらすとみられた法案や政策が問題になると、それに反対する陣営からつねに喧伝(けんでん)されてきた常套(じょうとう)句と言ってもよいが、この法案の重要性と日本周辺の危機の切迫に鑑みれば、こうした声に対して単に「またいつものことか」とばかりは言っておれないのである。中国の「抗日戦争勝利70年記念」の軍事パレードに登場した弾道ミサイルDF21。米国を挑発しているのか=9月3日(新華社=共同) 「好事魔多し」というべきか。たとえば年金情報の流出問題などによって今国会後半のスケジュールが見通せなくなったり、声高な反対メディアの喧伝のせいか現時点での各種世論調査など気がかりな要素も見られたりしている。また、6月4日の衆院憲法審査会で自民推薦の参考人がこの法案を「憲法違反」と断じたことが波紋を引き起こした。 しかしこの参考人は、いわゆる「護憲派」として以前からこの法案に反対する団体の活動に従事しており、またこの10日前の新聞紙上で安倍晋三首相のポツダム宣言をめぐる発言に対しても的外れな批判をしていた人物だった。 単純な「人選ミス」ともいえるが、従来日本の保守政党や保守陣営は学者の世界の事情にことのほか疎く、およそ学界というものに対し危ういくらい無知なことが多かった。他方、野党や一部メディアはこれを鬼の首でもとったかのように「痛快」がって見せたが、裏を返せば正面からの攻め手に事欠いていたということだろう。限定的集団的自衛権に余地 この参考人は「(同法案は)従来の政府見解の基本的論理では説明できないし、法的安定性を大きく揺るがす」とするが、これはまさに昨年7月の閣議決定の際の論議の蒸し返しである。この法案では、いわゆる集団的自衛権の行使には「新三要件」として、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」など、きわめて厳しい限定条件が付されている。 これは1959年の最高裁判所の出した「砂川判決」がつとに認めた、主権国家としての「固有の自衛権」(個別的自衛権ではない)に収まるものである。また60年3月に当時の岸信介首相が参議院予算委員会で答弁しているように「一切の集団的自衛権を(憲法上)持たないというのは言い過ぎ」で、集団的自衛権というのは「他国にまで出かけていって(その国を)守る、ということに尽きるものではない」として、現憲法の枠内での限定的な集団的自衛権の成立する余地を認めてきたのである。この法理は、もとより安倍首相が岸元首相の孫にあたるということとは何の関係もない普遍的なものである。 また昨年5月15日に出された安保法制懇(第2次)の最終報告書が言う通り、一般に集団的自衛権の行使を禁じたとされる内閣法制局の見解に対しては、我が国の存立と国民の生命を守る上で不可欠な必要最小限の自衛権とは必ずしも個別的自衛権のみを意味するとはかぎらない、という論点にも再度注意を払う必要があろう。急速に悪化する国際情勢 そしてこの「必要最小限」について具体的に考えるとき、現下の国際情勢とりわけ日本を取り巻く安全保障環境の激変というか、その急速な悪化にこそ目が向けられるべきだろう。もちろん理想的には憲法の改正によって議論の余地ない体制を整えてやるのがよいに決まっている。 しかし憲法の改正に必要な発議を行う当の国会の憲法審査会の開催を長年阻んできたのは、まさに現在この法案に反対している人々だったのである。とすれば、今日の急迫する東シナ海や南シナ海をめぐる情勢と中国の軍事的脅威の増大、進行する米軍の抑止力の低下傾向を見たとき、この法案はまさに法治国家としての国是を踏まえ、ギリギリで折り合いをつけた日本存立のための「切り札」と言わなければならないのである。 今や尖閣諸島の安全が日々、脅かされている状態が続いており、この4月27日には日米間でようやく新ガイドライン(防衛協力のための指針)が調印され、日米同盟による対中抑止力は格段に高まろうとしている。しかし、それにはこの安保法案の成立が大前提になっているのである。 南シナ海の情勢は一層緊迫の度を増している。この法案にアジアと世界の平和がかかっているといっても決して大げさではない。(なかにし てるまさ)

  • Thumbnail

    記事

    成立後でも考える なぜいま安保法案が必要なのか

    権が必要とされてきているのか、行使できないままだとどうなるのかもよく考える必要がある。 現在、日本の安全保障上最も差し迫った危機は、中国が「核心的利益」とまで位置づける尖閣諸島である。中国は急速な軍備拡大を背景に海洋進出の姿勢を鮮明にし、実際に南シナ海でも強硬姿勢を見せている。 中国に武力行使をしても利益にならないと思わせるために最も重要なことは、日本が確固たる防衛力を持ち、武力による尖閣奪取が不可能だと思わせることだ。そのためには、米軍の支援の有無が重要なポイントとなる。支援を取り付ける意味でも、米軍と自衛隊の連携を高める意味でも、集団的自衛権の容認は非常に有効である。 第二に国際社会を味方に付けることである。日本だけでなく欧米各国からも非難を受け経済制裁を受けるならば中国にとっても耐えがたい打撃となり、不利益が上回ることとなる。そのため中国も尖閣問題を歴史問題とリンクさせるなど国際世論工作に懸命だ。「国家の存立の危機」が発生したときでも危険な仕事は他国任せ、後方支援すらしないというのでは、欧米の積極的な支持を得ることは到底望めない。国際社会では集団的自衛権は当たり前のものであり、有事の際に常識的な行動を取れるようにしておく必要がある。 これらの抑止力が不十分だと、中国はいつでも武力行使によって尖閣を手中にできるという状態になる。そうなると日本が話し合いで平和を守りたいと思っても、中国からすれば戦争によって尖閣が手に入るのだから、合意や譲歩など全く期待できない。日本が大人しく尖閣を明け渡さないなら、戦争が始まるのは時間の問題となってしまう。米中を筆頭に国際社会は現在でも軍事力に依存していて、それぞれにとっての「正義の戦争」が存在している。中国が台頭した中において、日本だけがその現実を無視していては外交も平和も成り立たなくなるのだ。 実際に軍事的優位を狙う中国は、アメリカに対して「太平洋は二つの大国を受け入れる十分な空間がある」と新大国間関係を提唱している。これは「米軍が東アジアに介入し中国とにらみ合うのは互いのためにならない」とアメリカに促すものだ。くしくも、内向き傾向のアメリカは「世界の警察官をやめた」とも言われており、米軍の活動を削減する分、同盟国に負担増を求めている。日本がこれに応じなければ、アメリカがこの「新大国間関係」に乗ることは十分ありうる。アメリカを東アジアにつなぎとめておくには同盟国としての日本の価値を高める必要があり、このタイミングで安保法制の整備は、戦略的に見て全く理に適ったことである。 このような国際情勢の変化に対応しなくとも日米安保が将来に渡って維持されるというわけではない。在日米軍基地の存在価値がさらに低くなり、その時点で日本は基地を提供してきただけの存在で同盟国として確かな実績がないならば、あっさり見捨てられてしまうだろう。現在でもアメリカ政界では日米安保の片務性に対する不満が渦巻いているのだ。日本の厳しい安保環境で自主防衛となると気の遠くなるような予算が必要となり、現在の日本の財政状況では相当厳しい。そのときにギリシャのような財政危機にでもなっていれば全くどうしようもない。 そうなると尖閣だけでは話は済まない。武力衝突が起きても勝利が見込めるとなれば、中国は日本との戦争を恐れることはなくなる。世界各国が中国の顔色をうかがい、アメリカに見捨てられた日本の言うことなど聞く耳を持たないという状況であれば、中国としては自己正当化もしやすいし、挑発的行動も取りやすい。反日同盟を組む韓国は対馬を本気で狙い始めるだろうし、ロシアや北朝鮮も何をしてくるか分からない。戦争発生のリスクは飛躍的に高まり、そのときに自衛隊員がさらされるリスクの大きさは後方支援どころの話ではない。また、そのような状況では日本はまともな外交が成り立つはずもなく、何もなくともアジアにおいて中国が断然有利の仕組みが構築されていくだろう。 一方で中東などでアメリカの戦争に加担すればテロのリスクが高まる、という懸念もある。確かに、こちらも事態の推移によっては大きなリスクになりうる。明らかに筋が悪いような場合には参加しないということも必要だろう。ただ中東に関して言えば、地理的に言っても、歴史から言っても、後方支援という役割から言っても、日本の持つリスクが欧米よりはるかに小さいことは間違いない。潜在的なリスクの大きさを比較すれば、日米同盟が弱体化したときの外交・安全保障上のリスクの方がはるかに大きいと言える。周囲に野心的な大国や気ちがいじみた反日国家を抱える日本としては、ある程度アメリカの求めに応じていく他、選択の余地はないのである。

  • Thumbnail

    記事

    ヒゲの隊長が答える いまさら聞けない安保法制Q&A

    物はないが既に軍艦も寄港し、レーダー施設が建設されると思う。南シナ海で中国の軍事力が強くなれば日本の安全保障にも大きな影響が及びます。マラッカ海峡を経た貨物船や米軍を近寄らせないようにし、行動を制限することが避けられません。 南シナ海での出来事が東シナ海で起きないとは言えません。尖閣では領海侵入、領空侵犯が後を絶ちませんし、海上自衛隊の護衛艦へのレーダー照射もありました。東シナ海に防空識別圈を一方的に設け、ガス田をめぐって大きな海洋ステーション―海洋基地のようなもの―を乱立しています。 資源エネルギー庁はこの辺りはそれほど多くの石油埋蔵量があるとは思えないと説明しています。ならばなぜ、これだけの海洋基地を増やす必要があるのか。レーダー施設やヘリポートを建設するといった軍事利用の思惑が感じられます。 朝鮮半島も見逃せません。そもそも1950年の朝鮮戦争、これはまだ終わっていません。ここはあくまで休戦に過ぎず、戦争は続いているのです。正規兵だけで北朝鮮約145万、韓国約65万、これがにらみ合っている。 韓国には長期的に滞在している在留邦人が約3万7千人います。旅行者や出張者等の短期渡航者数などを含めると、平均で約5万6千人の日本人がいる。邦人だけではありません。フィリピンやベトナム、米国の方もいて一朝有事のさいには数十万人が日本に避難すると予測されている。その安全を一体どうやって確保するのか。 北朝鮮は日本を射程に収めた数百発の弾道ミサイル、ノドンミサイルあるいはムスダンと言われますが、これは日本用という見方をする方もいて、間違いなく精度をあげています。弾道ミサイルに核が搭載されると大変やっかいですが、そうした事態から日本人を守る「ミサイル防衛」をどうするか、が喫緊の課題です。 ミサイル発射前に叩けばいいが、テポドンのような発射台に乗ったミサイルと異なり、日本を射程に入れる、ノドンミサイルは車に搭載できます。それが数百発あるというのです。50台の車が自在に動いて撃ってくる。事前にたたくのは困難です。 日本国民を守るには、北朝鮮が発射したミサイルがどこから撃たれたか、弾道を瞬時に正確に割り出し、飛んでくるミサイルを着弾前に破壊する以外方法はありません。 それが出来るのはイージス艦です。日本を全て守るために迎撃用のイージス艦が最低3隻必要です。ところが海自にあるのは4隻で1隻か2隻は常に整備されている。米軍第七艦隊には5隻あって海自でカバーできないときは、日米で連携する。そのことが不可欠なのです。 日本の危機はわかっているだけでもきわめて具体的に横たわっています。危機は常に想定を超える形で訪れることもしっかりわかっておかなければなりませんし、危機そのものをまだ実感できない国民も多いかもしれません。しかし、尖閣諸島を行政区に持つ石垣市の市議会がこの7月14日、次の意見書を決議しました。これが国境最前線の危機感であり叫びだということをしっかり認識しなければなりません。《…我が国を取り巻く安全保障環境は一層厳しさを増しており、私たちの住む石垣市の行政区域の尖閣諸島においても中国公船の領海侵犯が日常茶飯事の状態にあり、漁業者のみならず一般市民も大きな不安を感じている。こうした状況から、国民の生命と安全、平和な暮らしを守るのは、国、政府の最も重要な責務となっている。平時からあらゆる事態に対処できる切れ目のない法制を整備する必要がある。よって、国におかれては、我が国の安全と国民の生命、そして国際社会の安全を確保するための平和安全法制について徹底した議論を進め、平和安全法制の今国会での成立を図るように要望する》他国の戦争に巻き込まれるのではないのですか? 危機があることはわかりました。しかし、なぜそれが集団的自衛権の行使につながるのでしょうか。他国の戦争に巻き込まれるのではないのですか? 平和憲法が根底から崩れませんか。 では集団的自衛権について説明しましょう。先ほど述べたクリミアを奪われたウクライナはNATOに加盟していませんでした。米国や英国、フランスなどの集団的自衛権の対象国ではありませんでした。では、国連はウクライナを助けるべく何か具体的に動いただろうか。ロシアは常任理事国の一カ国です。国連も実際に有効に動くことはなかったのです。ウクライナは、国連からの支援も得られず集団的自衛権の対象国でもなかった、それで結果的にクリミアはロシアに編入されてしまったのです。 ベトナムはどうでしょう。いくら抗議しても国連が動けたか。中国は常任理事国です。有効には動かない。また助けを求めても、頼りになる集団的自衛権の対象国もいませんでした。フィリピンも同じです。米軍が撤退した後、抑止力が利かない。集団的自衛権に基づき実質的に動いた国はありませんでした。 こうした例をみると一国だけでは守れないケースでも何カ国かが互いに手を携え、共同で外敵から守る―これが集団的自衛権ですが―意義の大きさがわかるのではないでしょうか。ある国が脅かされた場合にその国だけでなく仲間の国も一斉に行動する。そうすることで何よりも抑止力を高めることができるのです。 抑止力というのは、相手に「やったらもっと自分がやられる」とか「やっても意味がない」と思わせることにほかなりません。そうでなければ抑止にならない。抑止の壁を高くすることが大事なのです。 現行憲法が許しているのは、あくまで我が国の存立を全うし、国民の命と平和な暮らしを守るための自衛の措置だけです。外交努力で解決を最後まで重ねていく。これは今後も揺らぎません。武力行使の「新三要件」も憲法上の歯止めといっていいでしょう。しかし、万一の事態に備えて自衛の措置を十分に―つまり、集団的自衛権が行使できるように―することで、それだけ紛争は予防され、日本が戦争に巻き込まれるリスクは少なくなるのです。 現行法では国家国民を守ることができない、自衛隊が任務を果たせない場面が出てくるという話がありました。具体的にどういう場面が考えられるのですか? 先ほど述べた朝鮮半島の有事を例に考えます。緊張の高まった朝鮮半島では5万人の邦人が取り残され、日本人以外も含めるとベトナム人ら数十万人を避難させなければなりません。爆弾テロが起き、高まる緊張のなか米軍も対処しています。 これは日本の存立が脅かされる―たとえ日本国内に戦火が及んでいなくても―事態なのではないでしょうか。しかし、この時点の前に個別的自衛権に基づき自衛隊が直ちに武力が使えるわけではないのです。 突然ミサイルが日本に向けられる事態はどうでしょうか。日本にあらかじめ宣戦布告があれば別ですが、いきなりズドンと撃たれた場合―それは紛れもなく日本の存立を脅かす危機ですが、これも着弾するまでは戦火が我が国に発生したわけではないのです―そうした事態を前にした場合も自衛隊が直ちに武力が使えるわけではありません。 現在の法体系では日本に対する攻撃だということが明白に言えたうえで、個別的自衛権に基づく防衛出動がなければ自衛隊は武力を行使できないのです。尖閣に武装勢力が上陸した場合もそうですが、武装勢力の出自国籍がわかって、どこの国からの攻撃で、それが国家による意思であるか否か…など従前の枠組みでは要件が厳格に定められて、それらをクリアにしなければ自衛隊は有効に動けないのです。 このように平時から有事の間には日本に重要な影響を与えたり、紛れもなく我が国の存立を脅かすのだが、武力で対処できない局面が存在します(これを有事でもないが平時でもないという意味でグレーゾーン事態といいます)。 そこで、グレーゾーン事態を細かく分け、今までは日本に戦火が及んでいない、自衛隊がこれまで武力を使えないとされてきた事態でも、米軍を守らなければ、武力で対処しなければ日本の存立が脅かされる、こういう局面を新たに「存立危機事態」と位置づけ、限定的とはいえ、集団的自衛権を行使し、武力行使で対処できるようにしたのです。 平和安全法制が整備されれば、平素から米軍の艦艇等を防護できます。自衛隊と米軍が連携して警戒態勢等を強化できるわけです。事態が悪化して重要影響事態になっても米軍への支援が可能です。そして存立危機事態になれば、自衛隊と米軍の一層緊密な協力が可能となる。ミサイルが着弾前でも、戦火が及んでいなくても、日本のミサイル防衛に当たっている米国の船を防衛出動前でも自衛隊が守れるわけです。 さらに、これらの新たな活動を効果的に遂行するため、平素から幅広い種類の訓練や演習ができるようになります。様々な危機に日米の共同対処能力が飛躍的に向上するでしょう。 では数十万人の民間人が日本に避難してきたらそうなるでしょうか。これは大変な輸送オペレーションです。民間航空機、民間船舶をいくら動員しても足りませんが、少し緊張が高まれば民間航空機はまず飛ばないことを前提に考えなければならない。軍用機で輸送することも当然、視野にいれなければならないのです。 昭和60年、イラン・イラク戦争の時もそうでした。フセインがイラク上空に飛ぶ飛行機は民間機もふくめてすべて撃墜すると宣言しました。各国が次々と自国民の救出に全力を尽くすなか、邦人215人がテヘランに取り残されてしまいました。このときも日本の航空機は全く飛ばず、救いの手を伸ばしてくれたのはトルコ航空でした。 邦人保護にいかに対処するか。自衛隊ははじめ憲法を理由に何もできませんでした。それが少しずつ改善され、まず現地の空港までは自衛官が行けるようになりました。ただし、空港までは邦人が自ら逃げてこなければなりませんでした。 昨年になって邦人のもとに自衛官が車で行って輸送できるようになりました。しかし、武器使用は依然制限されています。正当防衛などの範囲―自己保存型といって簡単にいえば、自分の身に危険が降りかかってくる場面―でしか武器は使えません。 するとこういう事態が考えられます。例えば空港から離れたホテルに邦人が取り残されている。それで自衛隊が現地に飛び、ホテルに車両で向かう。ところが途上、武装勢力がバリケードを築いていた。迂回路はない。いかにしてバリケードを突破して邦人のもとに向かうか。この場合、現行法では武装勢力が自衛隊を襲ってくれなければ、武器が使えずバリケードを排除できないのです。 ホテルの前に武装勢力がいても同様。排除できません。冗談みたいな話ですが法律が認めていないのだから仕方ありません。 しかし、それはやはりおかしい。邦人を輸送するという任務や責任を果たすために不可欠な場面では武器の使用を認めるよう(これを任務遂行型といいます)に見直すべきですし、今回の平和安全法制でもそこは改善され、邦人の警護や救出が可能になります。 サマワにいたとき、忘れられない出来事がありました。実は邦人の輸送の第一号はマスコミでした。ただ、先ほどもいったように当時は邦人輸送について、陸上輸送は危ない、として認められておらず、空輸だけしか認められていませんでした。サマワの治安が悪くなって邦人記者2人が殺害されるなど緊迫して早急に引き揚げてもらう必要がありました。 しかし、サマワのキャンプから空港までどういう理由をつけて運ぶか、が問題になりました。陸上の邦人輸送が任務になかったからでした。知恵を絞ってプレスの人たちは広報活動、私たちのPRをしていると理由をつけました。「広報支援」なら私たちの任務に位置づけがある。だから法的な問題はギリギリクリアされるという理屈です。そういう理由で私たちは完全武装で彼らを運んだのです。では今回の法改正で何が可能になるのでしょうか? では今回の法改正で何が可能になるのでしょうか? 重要影響事態になった時点で自衛隊は必要があれば米軍以外の外国軍隊等への後方支援ができます。活動範囲も我が国の領域等に限っていないので、民間人を輸送する他国軍の艦艇に公海上で補給等の支援が可能です。また、自衛隊は米軍等の部隊の武器等防護もできます。 実は今までは米軍のイージス艦―もちろん、ミサイルの警戒に当たっています―に海上自衛隊が給油するさい、一々ミサイル警戒を解き、日本の領海へ戻ってきてもらわなければできませんでした。それが公海でもできるようになったのです。 さらに事態が進んで存立危機事態―武力攻撃が発生し、それが我が国にも非常に影響が出る場合―に至るとどうなるか。もはやこの段階になると、在韓米軍が攻撃されたり、民間人や邦人等の輸送も軍用機や軍艦でなければ難しいでしょう。取り残された邦人を運んでくれている米艦艇を防護しなければなりません。新三要件に該当すれば武力が行使できるようになることはさきほど述べたとおりです。このような朝鮮半島などの近隣有事について「集団的自衛権の行使は必要ない」「周辺事態法に基づき日本の領海内での補給支援だけでいい」あるいは「警察権に基づく権限で米艦防護をやればいい」といった意見も耳にします。 しかし、これらの法整備は日本人の命を守るための措置です。現実問題としてミサイルが発射された場合、日本人の命が守れない場合がある。そういう危機感が我々にはあります。だからこそ、今回この法整備で態勢を盤石にし抑止力につなげたいと考えています。弾道ミサイル防衛も、アメリカの衛星システムなどを駆使して対処しています。相手は武力を使ってくるのです。 それに警察権で対応する、これはまさにミサイルにピストルで立ち向かう極めて非現実的な危険な議論だと思います。憲法違反のおそれすらある現場の自衛隊員に十分な権限を与えず、不法な武力攻撃に身をさらす。これは隊員の生命を不必要なリスクにさらしますし、なおかつ日本を守り、日本人の命を守るよう彼らに課すことがどれほど酷な話かを考えてほしい。 現場の自衛官は常にそうした法律上の制約に悩まされています。サマワでの話をもうひとつしましょう。宿営地をつくるためにコンテナがたくさん届いていました。どうやって運ぶか。インドやバングラデシュのコンボイで運ぶのだが、民間の車両ですから我々が警護しなければ、危険で運べないわけです。 しかし、私たちの任務に警護は書いてありません。といって目の前のコンテナを運ばなければ宿営地などいつまで経ってもできない。 サマワに宿営地をつくる第一歩から大いに悩まされました。それで「コンボイが道を迷わないように私たちが水先案内人を引き受けます」としたのです。先頭と最後尾に自衛隊の装甲車がつき、その間にコンボイが入る車列を組んで宿営地まで運んだのです。外形的には誰が見ても完全武装の「警護」でしたが、最後の最後まで私たちは「いいえ。私たちは道案内しているだけです」で通しました。 東ティモールで暴動が起こったときも邦人の調理人が助けを求めてきました。助けなければいけないが「駆けつけ警護」の任務は私たちに当時、与えられていませんでした。何とかしたいが、一歩間違うと法律違反に問われるなかで私たちはどう対処したか。 休暇を取った隊員を迎えにいくふりをして出かけたのでした。そこでたまたま調理人のSOSを聞きつけ助けたのだ。だから駆けつけ警護ではないのだ。こういう理屈で何とか任務への違反がないようにしました。カンボジアの選挙監視のさいも投票所が襲撃される恐れがありました。民間ボランティアが多数活動していましたが、不測の事態から彼らを守らなければならない。そこで我々はどうしたか。情報収集という名の下に投票所に自衛官がついたのです。そういう経験を現場は沢山味わっています。そのたびに知恵を絞ってスレスレでしのいでいるのです。 自衛隊が繰り出す現場ではいろんなことが起こります。リスクを下げるといっても自衛官の任務はそもそもどんな任務でもリスクを伴うものです。リスクから逃げたがる心構えでは自衛官として困ります。ですが、国会議員が実のある議論を怠って間尺にあわない法律が現場を無用の混乱に陥れたり、無理を強いるのは困ります。隊員を不必要な危険に晒すような法律は許されないのです。さとう・まさひさ 昭和35(1960)年、福島県生まれ。防衛大学校卒業(27期)。国連PKOゴラン高原派遣輸送隊初代隊長、イラク復興業務支援隊初代隊長、第7普通科連隊長兼福知山駐屯地司令などを歴任。平成19年に退官(退官時は1等陸佐)、参議院議員初当選、自民党「影の内閣」防衛副大臣。著書に『ヒゲの隊長のリーダー論』(並木書房)など。

  • Thumbnail

    記事

    安保法制の政治的対立 戦後日本の自画像をめぐる闘いだ

    本のごまかしの象徴であった日米安保体制は、国民から支持を集めて定着し、官僚的に高度化されていきます。安全保障の根幹を日米同盟に依存しつつ、そのことにはなるべく触れずに、平和にための諸制限を自らに課していく戦後日本の自画像が完成したのでした。実を捨てて名をとった自民党 安保法制を推進する保守的な政治勢力には、戦後長きにわたって日陰に追いやられてきたという感覚があります。戦後の日本社会は、自らの自画像を守るためにそこからの逸脱に対して厳しく対処してきました。戦前的なるものの排除の中で、世界規模では常識的と認識されている、現実的な安全保障政策までもが排除の対象とされました。そのような主張を展開する者は、踏絵を迫られ、社会的に排除されてきたのです。 冷戦が終わり、長い不況に苦しみ、政権交代とその挫折を経て、政権を奪還した自民党で権力の中枢に身を置いたのは、そのような体験を共有する勢力でした。3年前の自民党の総裁選において決選投票に進んだ安倍総理も石破大臣も、そのような政治勢力を象徴するリーダーです。厳しさを増す国際環境の変化も、彼らが志向する政策変更を正当化するものでした。それに対して、国民も継続して高い支持を与えました。 自民党の一部には、リベラル勢力に対して「倍返し」したいという誘因が燻っています。かつての自民党であれば日の目を見ることは無かっただろうと思われる方も、出張っています。それでも、自民党は戦後政治の伝統にのっとり、抑制的な案を出してきたと思います。安保法制のきっかけとなった安保法制懇の提言を踏まえれば、もっと踏み込んだ政策変更も想定されたはずです。しかし、実際の政府案は、いわゆる新3要件を通じて殆ど使うことが想定し得ないものとなりました。 「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合とは、ほぼ確実に個別的自衛権の発動が許容される事態です。政府と自民党は、安保法制を通じて一種の政治象徴性を勝ち取ったに過ぎないのです。実を捨てて名をとったとも言えるかもしれません。戦後日本的なるもの こと安全保障に関する限り、私は戦後日本的なるものに相当程度懐疑的です。そこには、リベラル勢力の欺瞞があり、保守勢力の憎しみと倍返しの感情があり、左右双方に視野狭窄があります。ごまかしに立脚した憲法解釈の微細加工という方法論にそもそも限界があるとも思っています。もちろん、外交や安全保障の世界には一定程度の建前や偽善がつきものです。それを許容することは、成熟の一つの形ではあります。たちが悪いのは、欺瞞の中でも、自己欺瞞であり、欺瞞であることさえ忘れてしまうことです。 同時に、戦後日本的なるものは我々の血肉となり、現代の社会を支えています。活力ある経済も、男女の平等も、教育や福祉の充実も戦後日本の成果です。安保法制をめぐる活発な議論も、戦後リベラリズムが築き上げた言論の自由という台座の上ではじめて可能となったものです。 政治の世界において、戦後的なるものの中には、いくつかのタブーを除き、ある種の寛容性がありました。それは、自民党という政権政党の中に存在したことで特に意義深いものでした。選良を見抜く良識というものもありました。民意とは別の次元で、一種の知的な伝統として、ゴロツキやイデオローグ達は、権力の中枢から排除されてきました。 安保法制が有している政治性についてもっとも強く感じることは、現実的な安全保障政策と戦前的なるものは同一視されるべきではないということです。この点については、浅薄なレッテル貼りを行う左派勢力とも、不届きな発言を行う右派勢力とも一線を画する必要があります。 安保法制は、政治的には、日本にとっては戦後日本的なるものを乗り越える一つの試練です。それは、必要な試練だと思っています。ただし、その過程で、戦後日本的なるものの成果については、いささかも揺るがせにしてはならないのです。(ブログ『山猫日記』2015年7月22日分より転載)

  • Thumbnail

    記事

    急がれる「安保関連法案」の成立 憲法学者の変節と無責任を問う

    明も必ずしも説得力のあるものとはいえず、いまだに国民多数の理解を得るに至っていない。 しかしながら、安全保障関連法案を速やかに成立させないかぎり、次の課題である憲法改正に取り掛かることはできない。また、憲法改正が容易でないなか、日本の防衛と安全のためいますぐにでもできることは何か。それが「集団的自衛権」に関する従来の政府見解を変更し、法律の整備をすることである。したがって、この問題はきわめて重大である。混乱の張本人は船田元議員 ところが、6月4日の衆議院憲法審査会に呼んだ参考人が、事もあろうに自民党が推薦した学者まで含めて、3人全員が集団的自衛権の行使を憲法違反としてしまった。そのため、野党や護憲派のマスメディアがすっかり勢いづいてしまった。 聞くところによれば、自民党の理事会では参考人候補として筆者の名前も出たが、船田元議員が「色が付きすぎている」とかよくわからない理由で反対し、違憲論者を呼んでしまうことになった。この混乱を惹き起こした張本人は船田議員である。 その後、菅義偉官房長官が記者会見の折、「合憲つまり憲法違反ではないとする憲法学者もたくさんいる」と答えたところ、それは誰かが問題とされ、国会で名前を訊かれた菅官房長官が、西修・駒澤大学名誉教授や筆者ら3人の名前を挙げた。そのため一躍、渦中に引き込まれることになった。日本記者クラブで記者会見する、憲法学者の百地章日大教授(左)と西修駒沢大名誉教授=2015年5月19日午後、東京・内幸町 じつは、筆者の呼び掛けで10人の憲法学者が名乗り出てくれたのだが、それ以外にも「賛成だが名前を出さないでほしい」と答えた著名な国立大学の教授などもいた。憲法学界には依然として自衛隊違憲論者が多く、「憲法改正に賛成」などといおうものなら、それだけで警戒されたり、排除されかねない雰囲気がいまだに存在する。そのため、はっきり意見が表明しにくい状況にある。 これがきっかけとなって、6月19日には日本記者クラブで、同29日には外国特派員協会で、西修先生とともに記者会見をすることになった。そこで、憲法と国際法をもとに集団的自衛権の行使が合憲である理由を詳しく述べたところ、テレビや新聞各紙が意外と丁寧に報道してくれることになった。また、外国特派員協会での会見は、その後『ニコニコ動画』や『YouTube』でもけっこう話題になったようで、7月12日には思いがけず、NHK総合テレビの『日曜討論』にも出演することになった。 違憲論者が多いなかで、筆者らの見解がかえって新鮮に受け取られたのかもしれない。しかし、ごく常識的なことを述べただけだから、それだけ憲法学界が世間の常識とズレている証拠でもあろう。集団的自衛権は国際法上の権利 さて、集団的自衛権であるが、これは「自国と密接な関係にある国に対して武力攻撃がなされたときは、それを自国の平和と安全を害するものとみなして、対抗措置をとる権利」のことである。そのポイントは、他国への攻撃を「自国に対する攻撃とみなして対処する」ことにある。つまり、戦争をするためではなく、それによって武力攻撃を「抑止」することに狙いがある。 このことは、集団的自衛権の行使を認めた各種条約から明らかである。たとえば、北大西洋条約には「欧州または北米における締約国に対する武力攻撃をすべての締約国に対する攻撃とみなし……集団的自衛権を行使する」(5条)とあり、全米相互援助条約なども同じである。 また、集団的自衛権と個別的自衛権は不可分一体の権利であると考えられている。このことは、刑法の「正当防衛」(36条)と比較したらよくわかる。というのは、国内法上、個人に認められた「正当防衛権」に相当するのが、国際社会における国家の「自衛権」と考えられるからである。 刑法36条は、次のように規定している。「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない」と。つまり「正当防衛」とは「急迫不正の侵害」が発生した場合、「自分」だけでなく一緒にいた「他人の権利」を防衛することができる、というものである。 であれば、国際法上の自衛権についても、個別的自衛権と集団的自衛権を不可分一体のものと考えるのが自然であろう。 また、集団的自衛権の行使を文字どおり「自国に対する攻撃」とみなせるような場合に限定すれば、アメリカに追従して地球の裏側まで行くなどといったことはありえない。それゆえ、集団的自衛権の行使の範囲を新政府見解のいうように「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合に限定すれば、「必要最小限度の自衛権の行使は可能」としてきた従来の政府答弁との整合性も保たれると思われる。国際社会では国際法が優位 集団的自衛権は、国連憲章51条によってすべての国連加盟国に認められた国際法上の「固有の権利」(フランス語訳では「自然権」)である。それゆえ、たとえ憲法に明記されていなくても、わが国が国際法上、集団的自衛権を保有し行使できるのは当然である。 ところが、集団的自衛権が国際法上の権利であり、米英各国をはじめ世界中の国々が国連憲章に従ってこの権利を行使していることに気付かない憲法学者がいる。彼らは、必死になって日本国憲法を眺め、どこにも集団的自衛権の規定が見つけられないため、わが国では集団的自衛権の行使など認められない、と憲法解釈の変更に反対する。なかには、憲法のなかに集団的自衛権を見つけ出すことは、「ネス湖でネッシーを探し出すより難しい」などと無知をさらけ出している者もいる。それならば、アメリカ、フランス、ドイツなど、諸外国の憲法を調べてみればよかろう。わざわざ憲法に集団的自衛権を明記している国など、寡聞にして知らない。 つまり、通説に従えば条約よりも憲法が優位する国内と異なり、国際社会においては、憲法よりも国際法(条約、慣習国際法)が優先され、国家は国際法に基づいて行動する。それゆえ、集団的自衛権の行使についても、わが国は国連憲章51条によって、すべての加盟国に認められたこの「固有の権利」を行使することができるわけである。 同じ事は、「領土権」についてもいえよう。領土権も国際法によって認められた主権国家に固有の権利であるから、憲法に規定があろうがなかろうが、当然認められる。それゆえ、各国とも国際法に基づいて領土権を主張している。この点、憲法には明文規定がないから、わが国には領土権は認められず、したがってわが国は領空や領海を侵犯する外国機・外国船を排除することなどできない、と主張する憲法学者はいないであろう。日本国憲法には禁止規定なし このように、集団的自衛権は国連憲章によってすべての主権国家に認められた「固有の権利」であるが、憲法で集団的自衛権の行使を「禁止」したり「制約」することは可能である。また、国連加盟に当たって、集団的自衛権の行使について何らかの「留保」をなすこともできる。 しかしながら、日本国憲法の憲法9条1、2項をみても、集団的自衛権の行使を「禁止」したり直接「制約」したりする明文の規定は見当たらない。つまり、集団的自衛権の行使を「憲法違反」とする明示的規定は存在しない。また、わが国が国連加盟に当たって集団的自衛権の行使を「留保」したなどという事実もない。それゆえ、わが国が他の加盟国と同様、国連憲章に従って集団的自衛権を「行使」しうることは当然のことであって、憲法違反ではない。 ちなみに、京都大学の大石眞教授も、筆者と同様の見解を表明している。教授は「私は、憲法に明確な禁止規定がないにもかかわらず、集団的自衛権を当然に否認する議論にはくみしない」として集団的自衛権の行使を容認している(「日本国憲法と集団的自衛権」『ジュリスト』2007年10月15日号)。 とすれば、「わが国は集団的自衛権を保有するが、行使することはできない」などという奇妙な昭和47(1972)年の政府見解は、国際法および憲法からの論理的な帰結ではなく、あくまで当時の内閣法制局が考え出した制約にすぎない。これについて西修教授は、当時の政治状況のなかから生み出された妥協の産物にすぎない、と指摘している(「集団的自衛権は違憲といえるか」『産経新聞』平成27年6月12日付)。それゆえ、政府がこのような不自然な解釈にいつまでも拘束される理由は存在しない。 この点、最高裁も、昭和34(1959)年12月の砂川事件判決で次のように述べている。「憲法9条は、わが国が主権国家としてもつ固有の自衛権を否定していないこと」そして「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な措置をとりうることは、当然である」と。判決を見れば明らかなように、この「固有の自衛権」のなかには個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権も含まれている。 つまり、憲法81条により、憲法解釈について最終的な判断権を有する最高裁が集団的自衛権を射程に入れた判決のなかでこのように述べているのであるから、憲法違反の問題はクリアできていると考えるべきである。 それゆえ、わが国が集団的自衛権を行使できることは、国際法および憲法に照らして明らかであり、最高裁もこれを認めているのだから、「集団的自衛権の行使」を認めた政府の新見解は、何ら問題ない。 とはいうものの、憲法9条2項は「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を定めており、その限りで集団的自衛権の行使が「制限」されることはありえよう。そのため、政府の新見解も、集団的自衛権の行使を「限定的に容認」することになった。したがって、政府の新見解は「憲法9条の枠内の変更」であって、まったく問題はないし、憲法に違反しないと考えられる。説得力を欠く憲法学者たちの違憲論説得力を欠く憲法学者たちの違憲論 以上述べてきたように、憲法および国際法の常識に従えば、わが国が従来の政府見解を変更して集団的自衛権の限定的行使を認めても、憲法違反ということにはならない。 ところが、テレビ朝日の『報道ステーション』が行なったアンケート調査によれば、安保法制に関する憲法学者の見解は、151名の回答者中、憲法違反が132名、合憲はわずか4名であった(6月15日放映)。また、『東京新聞』の調査でも回答者204人中、法案を違憲とする者が184人、合憲は7人(7月9、11日付)、『朝日新聞』の調査では122名の回答者中、違憲とする者104人、合憲とする者2名であった(7月11日付)。 野党や護憲派マスメディアは早速これに飛び付き、専門の憲法学者たちはほとんど憲法違反としているではないか、と政府を批判しだした。 しかし、その違憲理由たるや「従来の政府見解を超えるもので許されない」「法的安定性を欠く」「立憲主義に反する」といったきわめて曖昧なものであって、どう見ても説得力に欠けている。そこで、6月4日の衆院憲法審査会で違憲論を述べた3人の憲法学者の意見を検討することにしよう。 まず、早稲田大学大学院法務研究科の長谷部恭男教授によれば、(1)集団的自衛権の限定的行使を認めた政府の新見解は、集団的自衛権の行使は許されないとしてきた従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない、(2)このような解釈の変更は、法的安定性を揺るがす、(3)新見解は外国軍隊の武力行使との一体化につながるのではないか、ということが憲法違反の理由として挙げられている。 しかしながら、新見解を違憲とするためには、たんに「従来の政府見解の枠を超える」だけでは足りず、それが「憲法の枠を超える」ことの説明が必要である。しかし、その説明はどこにも見当たらない。また「法的安定性の確保」はもちろん大切なことだが、やむをえない場合もあり、それだけでは憲法違反の理由にはならない。 また、政府見解がこれまで「武力行使との一体化」を禁止してきたこととの整合性であるが、「武力行使との一体化」論は、もともと自衛権の発動とは別の話である。つまり、「武力行使との一体化」論は、「他国軍への後方支援活動」の際の判断基準である。それに対して、集団的自衛権の発動は、「武力行使そのもの」に繋がるものであるから、これは「集団的自衛権の行使」を違憲とする理由にはならない。 ちなみに、長谷部教授は自著のなかで、「国家とは、つきつめれば我々の頭の中にしかない約束事であるから、国家の存在を認めないこともできる」といい、「国家に固有の自衛権があるという議論はさほど説得力があるものではない」などといっている(『憲法』)。個別的自衛権さえ疑っており、このような人物に集団的自衛権について問うこと自体無意味であろう。 また、長谷部氏は、小林節・慶應義塾大学名誉教授との対談のなかで尖閣諸島問題に触れ、「あんな小島のために米軍が動くと本気で思っているんですかね」と放言するような御仁でもある(『週刊朝日』平成27年6月26日号)。小林節教授の度重なる変節 小林節教授は、かつて『憲法守って国滅ぶ』(平成4年、ベストセラーズ)のなかで、次のように述べていた。 「わが国〔が〕自衛戦争と自衛軍の保持までも自ら禁止したのだという意味に9条を読まなければならない理由はない。……それは、しばしば皮肉を込めて呼ばれている『理想主義』などではなく、もはや、愚かな『空想主義』または卑怯な『敗北主義』と呼ばれるべきものであろう」 「冷静に世界史の現実を見詰める限り、世界平和も各国の安全もすべて諸国の軍事的バランスの上に成り立っていることは明らかである。したがって、わが国が今後もたかが道具にすぎない日本国憲法の中に読み取れる『空想主義』を盾にして無責任を決め込んでいく限り、早晩、わが国は国際社会の仲間外れにされてしまうに違いない」と。 9条の下で、政府見解のいう「自衛力」どころか、「自衛軍」まで保持可能とし、憲法を「たかが道具にすぎない」と述べていた氏は、現在、集団的自衛権の限定的行使でさえ憲法違反とする急先鋒であり、憲法は「権力者をしばるもの」であることのみ強調している。衆院本会議で民主党などが退席するなか安保関連法案が可決した=2015年9月16日午後、国会内(三尾郁恵撮影) たしかに、この本が出てから約20年がたっており、それをいまさら持ち出されても、というかもしれない。であれば、次に述べる「集団的自衛権」についての「変節」については、どのように釈明するのであろうか。 小林氏は2008年には集団的自衛権の行使を「違憲」、2013年には「合憲」、そして2014年になると再び「違憲」としている。 (1)「集団的自衛は海外派兵を当然の前提にしている。この点で、集団的自衛権の行使は上述の憲法上の禁止に触れてしまう」(「自衛隊の海外派兵に疑義あり」月刊『TIMES』2008年1月号) (2)――「集団的自衛権の考え方については、どうですか」。小林節氏「自衛権を持つ独立主権国家が『個別的自衛権』と『集団的自衛権』の両方を持っていると考えるのは、国際法の常識です。……だから、改めて『日本は集団的自衛権を持っている』と解釈を変更するべきでしょう」 ――「憲法を改正しなくても、集団的自衛権は現段階でも解釈次第で行使することができるというわけですね」。小林節氏「できます」(「『憲法改正』でどう変わる? 日本と日本人【第2回】」『Diamond Online』2013年7月26日) (3)「現行憲法の条文をそのままにして(つまり、憲法改正を行わずに)、解釈の変更として集団的自衛権の行使を解禁することは、私は無理だと思う」(「“解釈改憲”で乗り切れるのか」月刊『TIMES』2014年1月号) 氏は、日本記者クラブでの記者会見でも「安倍独裁」を連発し、「安倍内閣は憲法を無視した政治を行う以上、これは独裁の始まりだ」と力説している。たとえ気に食わないからといって、いやしくも憲法学者と称する人物が、議院内閣制のもと、国会によって指名され天皇に任命された首相を一方的に「独裁」呼ばわりするのはいかがなものであろうか。 最後に、笹田栄司・早稲田大学法科大学院教授だが、氏も長谷部氏と同様、集団的自衛権の行使を認めた政府の新見解は、「従来の定義を踏み越えている」ことを理由に、憲法違反としている。しかし、それだけでは違憲の理由とはなりえない。国家論なき戦後の憲法学者たち 自衛隊違憲論者に共通しているのは、国家観ないし国家論の不在であろう。 筆者は、かつて『憲法の常識 常識の憲法』(文春新書)のなかで、次のようなことを述べたことがある。 政府見解や砂川事件最高裁判決は憲法典以前に「国家」というものを考え、それを前提に憲法解釈を行なおうとする現実的な姿勢がうかがわれる。つまり国家には、当然、固有の権利としての自衛権があるから、どこの国であれ、自国の独立と安全を守るために、自衛権の発動としての武力行使ができないはずはない。したがって、仮に憲法典が自衛権の発動を禁止しているように見えたとしても、不文の憲法ないし条理に基づき、自衛権の発動が可能となるような解釈を展開せざるをえない。なぜなら、「国家は死滅しても憲法典を守るべし」などと、不文の憲法が命じているはずがないからである。それに前文や9条が夢想するような国際社会など、当分実現するはずがない。このような判断が暗黙のうちに働いているように思われる。 これに対して、少なくとも自衛隊違憲論者たちは憲法典至上主義に立ち、あくまで条文の厳格な文理解釈に固執する。つまり「国家不在」の憲法論である。それとともに、よくいえば理想主義、悪くいえば現実無視の観念論を振りかざす。したがって、現実的妥当性を重視するなどといった大人の常識は通用しない。 同じ事が、集団的自衛権違憲論者たちにもいえるかどうかはわからない。しかし集団的自衛権違憲論者のなかには、水島朝穂・早稲田大学法学学術院教授などのように自衛隊違憲論者も少なくない。 先に紹介した『朝日新聞』の調査では、回答者122名中、「自衛隊を憲法違反と考える」憲法学者が50名、「憲法違反の可能性がある」とする者が27名もいた(『朝日新聞DIGITAL』2015年7月11日)。なんと回答者の3分の2近くが自衛隊を違憲ないし違憲の疑いありと考えているわけである。これが憲法学界の現状である。 このことを考えれば、確たる国家観をもたなかったり、国家意識の希薄な憲法学者が多数いたとしても不思議ではなかろう。 国際法に基づき、集団的自衛権の限定的行使に踏み切るのか、それとも国家意識なき無責任な憲法学者たちの言辞に翻弄され、国家的危機に目を閉ざしつづけるのか、いまこそ国民各自の見識が問われている。ももち・あきら 1946年、静岡県生まれ。京都大学大学院法学研究科修士課程修了(専攻は憲法学)。法学博士。愛媛大学法文学部教授を経て、現在、日本大学法学部教授、国士舘大学大学院客員教授。著書に、『「人権擁護法」と言論の危機』(明成社)、『憲法の常識 常識の憲法』(文春新書)など多数。関連記事■ なぜ憲法論議には歴史認識が必要なのか■ 憲法議論の前に知っておきたい「憲法の3つの顔」■ 中国は本気で「核戦争」を考えている

  • Thumbnail

    記事

    列島緊迫「安保国会」フィナーレ

    9・16 ドキュメント  今国会最大の焦点となった安全保障関連法案の審議が大詰めを迎えた。16日中の特別委採決を目指す与党に対し、野党は徹底抗戦。攻防は“日付変更線”を越え、17日未明まで続いた。【16日午前】 8・00 自民党の谷垣禎一、公明党の井上義久両幹事長が都内で会談し、週内の安全保障関連法案成立を重ねて確認 9・40 自民党の佐藤勉国対委員長が若手衆院議員を集めた会合で「いよいよ、今国会のフィナーレが近づいている」 10・00 参院本会議で琵琶湖再生法などが可決、成立。本会議は散会 10・01 民主党の安住淳国対委員長代理が記者会見。「ありとあらゆる手段を講じ、可能な限りの抵抗をする」 10・25 参院平和安全法制特別委員会理事らが、地方公聴会が行われる横浜市へ出発 10・30 自民、公明両党と次世代の党、日本を元気にする会、新党改革の野党3党の党首が会談、自衛隊の海外派遣の歯止め策として国関与の強化で合意 同  民主党が全党所属国会議員を集めて緊急集会を開催。岡田克也代表は「私たちの後ろには7000万人、1億人がいる」 11・05 公明党の山口那津男代表が国会内で記者団に「法案採決の前提は整っている」【16日午後】 1・00 横浜市で特別委地方公聴会開始 3・00 民主党、維新の党、共産党、社民党、生活の党と山本太郎となかまたちの5野党国対委員長会談で、特別委開催阻止を再確認 3・15 民主党の枝野幸男幹事長が記者会見。「数で劣勢のわれわれは手の内はさらさない。状況をみながら、その都度有効な対策を取っていく」 3・40 特別委の地方公聴会が終了 5・00 5野党党首会談で、特別委採決を前提とした締めくくり総括質疑は認めない、採決を強行した場合の内閣不信任決議案、首相問責決議案などの提出などで成立阻止を図る方針を確認。共産党の志位和夫委員長は記者団に「院外(国会の外)の戦いと連携して、最後まで頑張り抜きたい」 5・39 衆院議院運営委員会理事会で、17日午後1時からの本会議開催を林幹雄委員長の職権で決定 6・16 特別委の鴻池祥肇委員長が国会内の理事会室に向かうが、安保関連法案の成立阻止を目指す多数の野党議員に阻まれ入室できず 6・24 鴻池氏が理事会室に入室成功 6・32 特別委理事会が開かれるが、休憩と再開を繰り返す。このころ国会周辺ではデモがヒートアップ。枝野氏は「まともな国民の声がまともに通じる、まともな議会にしていくために頑張る」 8・43 安倍首相が法案を審議する参院第1委員会室に入る 10・01 参院の衛視が通路確保のため野党議員の排除を開始 11・7 安倍首相が第1委員会室を出る【17日午前】 0・11 安倍首相が第1委員会室に戻る。 同  特別委の理事会が再開されるも、約10分で休憩入り。国会前の安保法案反対デモに対し、2重のバリケードを設置する警備に当たる警察=9月16日、国会前(早坂洋祐撮影)安保関連法案に反対し、国会前に集まった市民らと押し合う警備の警官隊=16日夜安保関連法案に反対する集会で、プラカードを掲げて気勢を上げる人たち=16日夜、国会前表の喧噪をよそに行われている参院平和安全法制特別委員会の理事会 中央が鴻池委員長=16日午後、国会内(鈴木健児撮影)理事会が休憩に入り、理事会室を後にする民主党の福山哲郎理事(中央)=16日午後、国会内(酒巻俊介撮影)なかなか始まらない参院平和安全法制特別委員会の総括質疑を待つ(左から)安倍晋三首相、中谷元防衛相、岸田文雄外相=16日午後、国会・参院第1委員会室(斎藤良雄撮影)参院の理事会室前でもみ合う与野党の議員と衛視=16日午後日が落ちても続く、国会前の安保法案反対デモ。学生団体「SEALDs(シールズ)」のメンバーらも参加した=16日、国会前(早坂洋祐撮影休憩のため参院の理事会室を出る鴻池委員長(中央)=17日午前1時23分参院平和安全法制特別委の締めくくり質疑が行われないまま理事会が朝まで休憩となり、委員会室から引き揚げる与野党の議員=17日午前3時9・17ドキュメント  安全保障関連法案をめぐる与野党攻防は17日、最終局面に入った。与党は参院平和安全法制特別委員会での採決に踏み切ったが、民主党など野党側は“肉弾戦”を展開するなど徹底抗戦の構え。中川雅治参院議運委員長の解任決議案などを次々と提出した。【17日午前】 3・26 特別委理事会を休憩し、午前8時50分に再開することを鴻池氏の職権で決定 8・50 安倍晋三首相が参院第1委員会室に入る。特別委理事会を第1委員会室で再開 9・10 鴻池氏が特別委開始を宣言。民主党理事らが委員長席に詰め寄り「だまし討ちだ」「ダメだってこんなの!」 9・45 一旦休憩していた特別委が再開。野党が鴻池氏の不信任動議を提出。鴻池氏は「私に対する不信任の動議がただいま手渡されました。佐藤(正久・自民党筆頭理事)に委員長の職務を委託します」と発言して退席 9・50 佐藤氏が特別委の休憩を宣言【17日午後】 1・00 特別委が再開。民主党の福山哲郎幹事長代理が約40分にわたり不信任動議の趣旨説明。長時間の演説で議事進行を遅らせる「フィリバスター」戦術 4・27 特別委で民主党が提出した鴻池氏に対する不信任動議を反対多数により否決。首相が第1委員会室に入る 4・28 鴻池氏が委員長席に着く。与野党の委員が続々と委員長席に詰めかけ混乱状態の中、安保関連法案の質疑打ち切り動議が与党の賛成多数で可決 4・31 首相が第1委員会室を退室 4・34 委員長に飛びかかる野党議員まで現れる中、安保関連法案が与党などの賛成多数により可決。自衛隊派遣をめぐり、政府に国会関与の強化を求める内容の付帯決議も採択 5・09 法案に反対した民主、維新、共産、社民、生活の野党5党が参院国対委員長会談を開催。その後、山崎正昭参院議長に対し「特別委採決は無効だ」と申し入れ 6・34 自民党参院議員総会で溝手顕正参院議員会長が「久しぶりのエクササイズで大変だったでしょうが、本当にご苦労さまでした」 6・42 民主党が参院議院運営委員会理事会で、安保関連法案を緊急上程する参院本会議開催に反発し、中川議運委員長の解任決議案を提出 8・00 民主、維新、共産、社民、生活の野党5党の国対委員長会談。共同で内閣不信任決議案を提出することで合意 9・05 民主党が中谷元・防衛相の問責決議案を提出 9・26 参院本会議で中川氏の解任決議案が与党の反対多数で否決 11・00 参院本会議で山崎議長が、日付をまたいで本会議を継続するための延会を宣言【18日午前】 0・10 中谷氏の問責決議案を審議する参院本会議始まる 参院平和安全法制特別委の委員会室で、委員長と野党議員のやりとりを見守る安倍首相=17日午前9時3分参院平和安全法制特別委で、野党が提出した鴻池委員長への不信任動議について書かれた紙を手にする議員=17日参院平和安全法制特別委で、自らの不信任動議が否決され、委員長席に向かう鴻池委員長=17日午後4時参院平和安全法制特別委員会で行われた安保関連法案の採決。野党議員らは鴻池祥肇委員長に詰め寄り、激しくもみ合った=17日午後、参院第1委員会室(斎藤良雄撮影)警察官が警備する中、安保関連法案に反対し、国会前に集まった大勢の市民ら=17日午後安保関連法案が参院特別委で可決された国会正門前の通りには、反対派などによるデモ警備のため、多数の警察車両が隙間なく並べられた=17日夜国会前で安保関連法案反対を訴えるタレントの石田純一さん=17日夜参院本会議で議運委員長の解任決議案を反対多数で否決、一礼する中川雅治議運委員長=17日午後、国会・参院本会議場(酒巻俊介撮影)首相官邸に入る安倍首相=18日午前安保関連法案の採決に抗議する韓国の左派系市民団体メンバー=18日、ソウルの日本大使館前(共同)北京市内の新聞スタンドで、日本の安保法案の記事を1面で報道する中国紙を求める市民=18日(共同)役員連絡会であいさつする高村正彦副総裁(中央右)=18日午前、国会内(酒巻俊介撮影)参院本会議で、山崎正昭議長の不信任決議案の投票をする議員=18日午前参院平和安全法制特別委員会の乱闘で負傷、右手の小指と薬指に包帯を巻いて参院本会議に臨む自民党の大沼瑞穂氏=18日午後、国会・参院本会議場(酒巻俊介撮影)安倍内閣不信任決議案を大島理森衆院議長(左)に共同提出する野党5党。右から生活の党と山本太郎となかまたちの玉城デニー幹事長、社民党の照屋寛徳国対委員長、共産党の志位和夫委員長、維新の党の松野頼久代表、民主党の岡田克也代表=18日午後、国会内(酒巻俊介撮影)参院本会議での自身の問責決議案の討論を、厳しい表情で聞く安倍首相=18日午後安保関連法案に反対し、国会前で声を上げる人たち=18日午後参院本会議の安倍晋三首相の問責決議案の投票で、議員に向かい手を合わせるなど一人牛歩戦術を行う、生活の党と山本太郎となかまたちの山本太郎氏(右)=18日午後、国会・参院本会議場(斎藤良雄撮影)参院本会議で安倍晋三首相問責決議案の記名投票に、ひとり牛歩で投票に臨む生活の党と山本太郎となかまたちの山本太郎代表。山崎正昭参院議長からすみやかに投票するよう促され、「投票します!」と宣言=18日午後、国会・参院本会議場(酒巻俊介撮影)内閣不信任案の衆院本会議審議で、民主党の枝野幹事長(手前)の趣旨説明を聞く(奥右から)安倍首相、麻生財務相、甘利経済再生相、菅官房長官、岸田外相、中谷防衛相=18日午後

  • Thumbnail

    記事

    日本国民よ、いま一度認識せよ 平和は「作り出す」ものである

     平和安全保障法制の制定が議論されているが、多くの国民は日本が置かれている情勢についてどれだけ認識しているのだろうか。 まず、「日本は平和な国なのだろうか」という疑問がある。領土を侵略されている国家を平和であると言えるだろうか。1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾する意思を示し武装解除した直後に、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島の北方四島はソ連による侵攻を受けた。当時、北方四島には1万7千人の日本人が暮らしていたが、島民はすべて島を追われた。この時、ソ連兵の侵入による混乱で多くの人命が失われている。また、サンフランシスコ平和条約において、「竹島」が日本の領土として認められると、韓国は竹島を自国の専管水域の中に組み込み武装占領した。当時、日本海南西部で漁を行っていた人々は漁場を奪われ、韓国当局により数人の人命が奪われ、多くの人が傷つけられたのだ。現在も、北方領土や竹島は、ロシア、韓国に占領されたままである。当時の日本は、敗戦により国民、国土を守る力=防衛力を失ってしまった。防衛力を失った国家の犠牲者が、北方四島や竹島周辺海域から命を奪われ、傷つけられ、締め出された人々である。さらなる侵略をかろうじて防ぐことができたのは、自衛隊の創設と日米安全保障条約の締結によって防衛力を備えたことによるものである。 現在では中国が日本の領土、領海を脅かしている。2010年以降、中国警備船が尖閣諸島近海に頻繁に領海に侵入するようになり、東シナ海の平穏が崩されてしまったのだ。多くの日本人が「平和」と考えている現状さえ危ういのである。 また、グローバル化が進む現状において、日本は、自国のことだけを考えずにアジア全域の海洋安全保障についても考えなければならない。東南アジアの国々は、日本の安全保障に向けた動向に注目している。9月15日、参議院で平和安全保障法制に関し与野党の攻防が続いているさ中、安倍晋三首相は、ベトナムの最高指導者グエン・フー・チョン共産党書記長と会談し、ベトナムの海上警備能力の向上のため巡視船艇を供与する方針を表明した。ベトナムへは、既に6隻の中古の巡視船(漁業取り締まり船)を供与しているが、さらに数隻を供与することで、同国の海上警備力を高め、南シナ海の海洋安全保障体制を支援する姿勢を示したのだ。 9月3日、中国政府は「抗日勝利70年式典」に際し、習近平国家主席は、中国人民解放軍の人員削減の方針を示した。中国の軍事戦略は、大量の兵員を擁する陸軍中心の戦略から、海軍、空軍を充実させる質の向上へと変貌を目指しているのだ。南シナ海では、人工島において港湾建設とともに、空軍の拠点ともなる滑走路を造り、機動力を持った体制を目指している。このような中国の強引な海洋侵出に対し、南シナ海沿岸国であるベトナム、フィリピン、マレーシア、インドネシアなどは、日本の平和安全保障法制の制定を歓迎し、アジア海域の平和に向けて日本が積極的にその責務を果たすことを求めているのである。2014年、日本が、南シナ海に面した国々と南シナ海航路を利用して行った貿易額は、輸出入合わせて、約2000億ドルに上ると推定される。そのため南シナ海の紛争は、日本経済に与える影響も多く、「我が国の存立の危機」といえる。アジアの国々も求めがあれば、日本も海洋安全保障のため貢献しなければならないのだ。東シナ海でも同様の戦略であり、日中の中間線に近いガス田のプラットホーム上に10数基のヘリポートを作った。さらに東シナ海に面した温州に港湾と航空施設を持った中国海警局の大規模基地を建設する計画を進めている。また、中国海警局は、1万トンを超える大型警備船を複数建造し、東シナ海に配備する予定だ。この大型警備船は、ヘリコプターを搭載しており、ガス田のヘリポートと温州の基地を結ぶ洋上拠点となり、上空も含め東シナ海全域を管轄下に置こうとしているのだ。中国の海上警備力の増強計画は、日本の海上保安庁が進めている12隻の巡視船による尖閣諸島専従部隊の配備を見越して変化しているのである。さらに中国の大型警備船には、軍艦並の10キロの有効射程距離を持つ76ミリ機関砲を装備していることも考慮し、日本は新たな海洋警備計画を作らなければならないのだ。10年前にすでに日中中間線付近で中国はガス田開発を進めていた。生産開始を示す炎の変わりに中国国旗が、はためいていた=平成17年12月、東シナ海(本社機から) また、昨年来、南シナ海パラセル諸島(中国名・西沙諸島)周辺海域では、武装した中国船らしき船舶にベトナムの漁船が襲撃され、漁獲した水産物や網などの漁具、航海に必要な計器などが奪われる事件が頻発している。この海域の島々の多くは、かつてベトナムが領有していたが、ベトナム戦争時に中国軍により占領され、今も中国の実効支配が続くが、現在もベトナムと中国、台湾の三国が領有権を主張しているのだ。特に地理的にもベトナムに近く、ベトナムの漁師の生活の海となっている。この海域でベトナム漁船が頻繁に襲われているのだ。今年7月、操業中のベトナム漁船が3隻の中国船とみられる船に衝突され、沈没する事件が発生した。漁船に乗っていた11名の漁師は海に投げ出されたところを他のベトナム漁船に救助されたが、衝突した船は漁民を救助することなく逃亡したという。ベトナム国内の報道では、今年に入り8月までに38隻のベトナム漁船が、中国船とみなれる船から襲撃されている。今回の事件は、あきらかな海賊行為であり、アジアの国々は「アジア海賊対策地域協力協定」の精神に基づき、共同で対処することも検討すべきだ。南シナ海は重要な日本のシーレーンであり、この海域の安全確保し海賊を排除するために日本の海上保安庁の巡視船によるパトロールも求められるであろう。 東シナ海でも中国漁船の動向から目が離せない。1000隻を超える漁船が東シナ海全域に展開し日本の漁船を締め出しているのだ。また、2014年秋には、サンゴの密漁船といわれる200隻を超える漁船が小笠原諸島海域を荒らしたことは記憶に新しい。相手が漁民である以上、自衛隊が出動することできず、現実的に防衛体制がとれないグレーゾーンとなっているのだ。アジア海域の安全確保も含め、海保と海上自衛隊の連携体制のさらなる強化など検討しなければならない。 国民は今一度、「平和は与えられるものではなく、作り出すものである」という認識をもつべきである。そして、これからは、日本のみならず世界の安定を考え、国際法の下、積極的に「海の平和」を守る活動をしなければならないのである。

  • Thumbnail

    テーマ

    緊急特集! 国を守るって何ですか?

    参院特別委で審議されている安保法案をめぐり、与野党の対立がピークに達した。根強い世論の反対を押し切って法案成立を目指す政府の方針に反対するデモも激しさを増す。政府がいま法案成立を急ぐのなぜか。春香クリスティーンが「ポスト安倍」の呼び声が高い石破茂地方創生相に直撃した。

  • Thumbnail

    記事

    佐野眞一氏 「SEALDs」らのデモと「60年安保」の違いを分析

     国会前を若者たちが埋め尽くした。戦後を知る者の脳裏をかすめるのは、今から55年前、「60年安保」として記憶される季節ではないか。当時首相の岸信介が強行した日米安保改定に抵抗した全学連(全日本学生自治会総連合)、その委員長が唐牛(かろうじ)健太郎だった。9月14日発売の週刊ポスト(9月25日・10月2日号)で、ノンフィクション作家の佐野眞一氏が、唐牛の生涯を辿りながら戦後日本を照射する連載を開始した。佐野氏はその冒頭で、2つの安保闘争の差異についてこう綴っている。 * * * こんな光景を間近に見たのは、半世紀ぶりだろうか。青山墓地にほど近い青山公園。旧陸軍の射撃場跡地と引揚者住宅跡地を整備した公園を出発地点として8月23日、安保法制化に反対するデモが開かれた。 普段、集会は国会議事堂前でも開かれる。この青山公園のデモは、主催者発表で6500人だったが、翌週日曜日の8月30日の国会前の抗議行動には、主催者側発表で12万人もの参加者が集まった(例によって警察発表はこれよりずっと少ない3万人)。 この集会を企画した中心メンバーは、「SEALDs」という10代から20代の都内の学生組織である。大学教授などの学者グループや子育て世代の女性たちも参加しており、ベビーカーを押す主婦たちも目についた。また、杖をついた年配者も少なくなかった。 若者たちは鐘やドラムを叩き、そのリズムに合わせて「戦争法案いますぐ廃案」というラップ調のシュプレヒコールをあげる。 何もかも50年以上前の安保闘争とは様変わりしていた。デモを規制する警官隊は数名いたが、デモにつきものの機動隊員の姿はなかった。道路脇の装甲車の中で休んでいる機動隊員たちの姿が、このおとなしいデモを象徴していた。私などの世代はデモ=乱闘というイメージがあるが、彼らは整然と行進し、渋谷で流れ解散となった。 60年安保では、出発するや先頭に立って警官隊と対峙したデモ隊員は必ず逮捕された。「ワッショイ」の掛け声とともに、警官隊は間髪容れず「逮捕」の命令を出した。それだけに先頭のデモ隊員の目は血走り、誰もが青ざめて思いつめた顔をしていた。ところが、「SEALDs」のメンバーの中にそんな表情をした者は誰もいなかった。夕方前から人が集まる、国会前の安保法案反対デモ=9月16日、国会前(早坂洋祐撮影) 服装もまったく様変わりしていた。60年安保闘争時代は、ほとんど全員が学生服姿だったが、「SEALDs」のメンバーは、Tシャツなどカジュアルな服装ばかりだった。女子学生らしい若者が雑談するのが聞こえた。「みんな戦後70年を迎えたといっているけれど、このままいったら今が戦前になっちゃうかもしれないじゃん」 60年安保当時、私は東京・下町の中学に入学したばかりだった。家では買ったばかりのテレビの前で、国会前を埋め尽くした学生デモの映像ばかりにかじりついた。どんなドラマよりも、安保闘争の映像の方がアドレナリンをたっぷり放出させてくれたからである。 「SEALDs」のスローガンは、「安保反対! 安倍はやめろ」とごく穏当だったが、60年安保のスローガンは「安保粉砕! 岸(信介)を倒せ」と殺気だっていた。いや、「岸を倒せ」というシュプレヒコールはむしろ少数派で、「岸を殺せ!」という声の方が多かった。 黒々とした国会議事堂をバックに学生たちが蟻のように国会周辺に群がる姿は、いま自分は日本が変わる瞬間を見ているんだ、という興奮を呼び覚まし、居ても立ってもいられなかったことを今でも鮮明に覚えている。『警察庁長官の戦後史』(鈴木卓郎・ビジネス社)によると、60年安保闘争に参加したのは全国で約463万7千人、一日の最大動員数は約50万人、出動した警察部隊は約90万人、逮捕者約900人、警察官の負傷者は約2千400人に達したという。 13歳になったばかりの私は、幼稚な思いかもしれないが、「これはもしかすると本当に日本に革命が起きるかもしれない」と考えて異常に興奮し、眠れない夜を幾晩も過ごした。 今にしてみれば、60年安保は私が日本という不思議な国を考える最初のきっかけとなった。関連記事■ デモは出会いの場 全共闘世代の武勇伝に女子大生「すごい」■ SAPIO人気連載・業田良家氏4コマ「例え話国会」■ 安保法案に反対する学者たちが「ケンカを買った」 その余波■ 60年安保の運動家 「今でも1300人の仲間と連絡取れる」■ SAPIO人気連載・業田良家4コママンガ【1/2】「集団的自衛権」

  • Thumbnail

    記事

    デモは出会いの場 全共闘世代の武勇伝に女子大生「すごい」

     参院で審議中の安保法案にNOを突きつけるデモがますます活発化している。国会前で集会を開く学生団体「SEALDs(シールズ)」に加えて、毎週土曜日に東京・巣鴨に集結する60~70代主体の「OLDs(オールズ)」、さらに30~60代からなる「MIDDLEs(ミドルズ)」というグループも立ち上がり、大きなうねりとなっている。 8月30日には「戦争法案廃案!安倍政権退陣!」を謳う「国会10万人・全国100万人大行動」への参加がネットやSNSを通じて呼びかけられており、大群衆が国会に押し寄せるとみられている。 懸念されるのは、警察とデモ隊の衝突だ。衆院で安保法案が強行採決された7月15日には約5万人の人々が国会前に集まったが、そこまで大規模のデモ隊を警察がコントロールするのは容易ではないようだ。当日、デモに参加した40代の男性が語る。「歩道から溢れたデモ隊を、大勢の警察官が移動式の柵を設けて抑えていましたが、全共闘世代と思われる60代の男性が隙あらば柵の外に出ようとして何度も警察官に注意されていた。機動隊の指揮車の上に立ってマイクで誘導するDJポリスも『歩道の上に上がってください』などと普通に注意するだけで気の利いたことを言えず、全く機能していなかった」 一方で、デモは世代を超えた“出会いの場”にもなっている。「全共闘世代が70年安保の時の武勇伝を語ると、参加者の女子大生たちが『すごい』と目を輝かせる。デモの後の飲み会では父と娘ほど年の離れた男女が親密に語り合う光景も見られます」(同前) 安保法案同様、反対デモに対しても賛否両論が渦巻いているが、参加者が20万とも30万とも予想される8月最後の日曜日に国会前で何が起きるか。

  • Thumbnail

    記事

    SEALDs奥田愛基氏ら「主体的に動き始めた人はもう止まらない」

     16日午後、安全保障関連法案の委員会採決を前に、SEALDsの奥田愛基氏、本間信和氏、柴田万奈氏が日本外国特派員協会で会見を開き、海外メディアに向け改めて反対を訴えた。(左から)本間信和氏、奥田愛基氏、柴田万奈氏 まず、柴田氏が英語でSEALDsという組織について説明、続いて奥田氏がこれまでの活動や今後の展開について、動画も交えながら説明した。 奥田氏の冒頭発言 奥田氏:日本語でSEALDsとは…っていうのを話していきたいと思います。SEALDsとは、自由と民主主義のための学生緊急行動。さっきも言っていましたけど、Students Emergency Action for Liberal Democracy – sの頭文字からSEALDsです。  今回の問題というのは、単純に安保法制の問題だけではなくて、憲法をないがしろにしたままに法律を作ってしまうと。昨日の公聴会でも小林節先生がおっしゃっていたんですけど、「法の支配ではなく、法律の支配」という言葉を安倍首相が使っていて。  つまり、法律と憲法は、どちらの方が優勢を持っているか。どちらの方が最高法規であるかっていうことを現政権は理解していないと。  「対案を用意しろ」とか「安全保障上の議論があるので」って話もたくさんあると思います。しかし、憲法上に大きな問題を抱えている法律がその中に含まれています。11個の法案を2つにまとめて審議してしまったがために、安全保障上の議論がまともに出来なくなっている状況になっていると思います。  まとめられている状況下の中では、憲法の理念や根幹的な発想が理解出来る人であれば、この安保法制には反対せざるを得ないと思っています。  現在では、関西、沖縄、東海、東北でSEALDsは活動していて、人数は全体で300人近い人がいます。  YouTubeに上がっているものなんですけど、これまでの動きを簡単にまとめた動画があるのでご覧ください。  SEALs自体は今年5月3日に始まっていまして。ずっと前からあったような感じもするんですけど、活動期間というのは、この4ヶ月間。実際に抗議を毎週金曜日に国会前でやり始めたのは6月なので、大体この3ヶ月間、活動してきたということです。  はじめは、参加者は数百人しかいませんでした。それが今では10万人近い方が抗議に来られるような規模まで、反対の運動というのが拡大しています。よく言われることなんですが、SEALDsは若者がやっていて、デザイン性だったり、動画があるから、人々が集まっているという見方もあると思うんです。  でも実際には、僕の感覚としては、この政権のおかしさとか、説明不足であったりとか、この法案の欠陥というものが、これだけ人々の怒りに火をつけていると思っています。  ちょっと簡単に、安全保障関連法案に反対する理由を述べたいと思うんですけど、先ほどから言ってますように、憲法上の問題ですね。集団的自衛権の行使容認も、後方支援も、武器等防護にしても、これは明確に他国の領域においての武力行使なので、これらは全て現行の憲法に照らし合わせると、憲法上で問題があると。  最高裁元判事の方も、昨日中央公聴会に来て、意見を述べられていましたけど、ある程度の憲法学、もしくは法律のトレーニングを受けている方の90%以上の人は、明確にこれは違憲であると、日本では言っています。  国連憲章に書いてあるから、日本でも認められている権利だとおっしゃる方もいますけど、それはたった数%の、この法案に賛成している憲法学の人です。一言で言ってしまえば、国連憲章で認められているが、日本国憲法では認められていないと。それは小学生でも分かることだと思います。  またこれは、法案の条文レベルでも問題がありまして、例えば、新3要件の第1要件の存立危機事態については、よく話されているのですが、第2要件、第3要件について、明文化されていません。  自衛隊法95条の改正によると、主語が自衛官になっていると。現場の自衛官が総合的に判断して武器の使用もするということなんですけど、実際には現場の自衛官が一人でイージス艦に立ち向かうなんてことはないわけですよね。そこだけを見ても、この法案は条文レベルで欠陥があると言わざるをえない。  その他にも、法案の中身を色々追っていくと、欠陥が見えてくるのですが、それもこれも憲法改正せず、このようなムリな法案を作っているので、条文上、実際にはありえないシチュエーションや政府の説明とは食い違った法案の中身になっていると。  また政策レベルにおいても、軍事費をこれ以上あげないとおっしゃっているわけですが、兵站活動もして、他国に自衛隊を送って、防衛費を上げないのであれば、結果的に自国の防衛という点では、手薄になるのではないかと考えています。  このようなことは僕らでなくても、色んな方が会見で話しているので、これ以上詳しくは話しませんけど、法案は明確に憲法違反であって、これは単純に海外で武力行使が出来る国になるよりも、問題が深いと思っています。まさにブレーキのない車状態で、このまま武力行使をしていいのかという危惧があります。  もう少し、SEALsの団体というか、日本国内で何が起こっているのかについて話したいと思います。SEALsが独自に新聞やインターネットの記事を通じて、日本中でどれぐらい抗議活動が行われているかを調べました。  調べた結果、全国でこの数ヶ月間に2000ヶ所以上。累計すると、130万人以上の人がデモに参加していることになります。  特に先日の8月30日の国会前抗議には10万人来たということが記憶に新しいと思うのですが、その前後で、8月30日に合わせて、全国各地で1000回以上の抗議が行われていました。  10代~20代の比較的若い人たちがオーガナイズしているデモとか集会について調べてみましたら、全国22ヶ所以上で、そういう動きが、今年の5月からありました。これは、8月22日段階なんですけど、現在では、これの倍近くになっているという報告を受けています。  あともう1つ特徴的なのが、彼らは自分たちで告知のフライヤーのデザインを作っていることです。日本国でも、若者はスマートフォンをいじってばっかりで、外に目が向かないだとかゲームばっかりしているという偏見があるんですけども、逆にスマートフォンやパソコンの普及のおかげで、こういうデザインのものが、簡単に誰でも出来るようになりました。  また、僕達がデザインしたものっていうのを、インターネット上で公開していたり、日本のコンビニのネットプリントという形で、番号だけ入力すると、日本全国のどのコンビニでも印刷できるようになっています。  全国各地で同じようなデザインのプラカードを使っているわけなんですけど、それがなぜ出来ているかと。今の日本の社会運動のインフラは何なのかと言われたら、コンビニのネットプリントなんじゃないかなと、最近思っています。  こういうデザインのものが、全部ネットに上がっていて、誰でも印刷出来るようになっています。YouTubeで抗議の様子や、なぜ反対しているかという、法案反対の論点を解説したものを上げたりしているのですが、それを見た若者たちがまた、全然僕達が感知しないところで、こういうやり方であれば、自分たちも出来るんじゃないかなということで、立ち上がっていると。  確かに、立ち上がっている若者達っていうのが、人口比や数が多いのかと言われれば、そうでもないのかもしれません。ですが、日本の問題だった点というのは、実際、賛成の人も反対の人もいるわけなんですけど、思ってはいるけど、声に出さない、社会に表出させないという人がいた。それで、きっかけはSEALsだったのかもしれませんが、自分たちの声として、自分たちの思いを路上に出て行って見える形で声をあげ始めました。  なので、日本における一番の変化というのは、一定層考えている人や、おかしいなと思っている人は、常にいたと思うんですけど、それが目に見える形で表出して来ていると。「こういうことを言ってもいいんだ」と。そういうカルチャーが少しずつ、日本の中でも出来つつあるなと思っています。  今年の7月に作った動画なんですけど、これも見ていただけたらと思います。  というように、若者のカルチャーとして、新しい動きが少しずつ出来ているのかなと思います。まだ台湾と香港の学生たちぐらい出来ているかどうかは分からないんですけど、日常の中で自分たちの出来ることを出来る範囲でやっているという感覚はすごいあります。  なので、革命を起こそうとか、そういう気持ちは全くありません、普通に大学に行って、当たり前のことを当たり前に言う。ただ、それだけなのかなと思っています。  時間が来ているので、これぐらいで締めたいと思うのですが、今日の夜には委員会で採決され、明日には本会議という話になっているんですけど。何が日本社会で変わったかと。  1つは、2015年9月段階で、デモっていうのは、珍しいものでもなんでも無くなっているということ。それと、野党の方もほぼ毎週来ていたんですが、僕が昨日、中央公聴会に呼ばれて国会で話しました。今はもう日本の路上で動いていることや声を上げていることが、単純に政治と分離されたところで動いているものではなくて、政治に影響を与えるものとして、今、抗議活動が行われていると思います。  もう1つは、別に僕らが命令というか、呼びかけて「みんな来てくれ!」というから、来てくれるというよりも、僕たちが全然感知していないところで、日本全国で動いていることが重要だと思っています。つまりそれは、個人が主体的に動き始めていることを意味するからです。  この法案の結末がどうなろうが、主体的に動き始めた人はもう止まらないと思います。  というわけで、とりあえず終わりたいと思います。ありがとうございました。賛成議員を落選させようというのが合言葉のようになりつつあるーこの運動がどのように続いて、どのような影響を与えていくと思うか  奥田氏:これがどうのように続いていくか。これは大学生の夏休みだけの活動ではないということを強調したいです。  実際に抗議に来てもらえればわかるんですけど、来ている方は人口そのままというか、20代もいれば30代もいれば40代、50代、60代、70代もいるというような抗議です。ということは、その6分の1でしかないわけですね、私たちは。  先程から強調しているように、日本各地で起こっているわけで、これは世代を越えて、また地域を越えて人々が声を上げています。このつながりが僕はそのまま選挙にも影響を与えると思っています。  つまり我々は世代を越えて、もしくはある程度の支持政党とか、そういう政治思想的なことを越えてある、一点の目的、目標を掲げて共闘することが可能です。  そしてまた、毎週ほぼ全てとは言いませんが、主要野党の政党の方が来ていただいているので、それがうまく選挙で協力していただければ、我々としてもかなり次の選挙を応援しやすくなるのではないかと思います。  現在では、(安全保障関連法案への)賛成議員を落選させようというのが合言葉のように使われています。いわゆる法案が通るまでの運動とは違うものに今なりつつあるのではないかと思っています。 次の選挙に影響を与えることになりますよ ーおわかりだと思うんですけれど、まったく立憲主義に反していない、"合憲"という解釈があるんです。次に問題なのが、議会制民主主義ですから、当然、議会の中でどのくらいの多数を取るか。いま現在、自民党だけではなくて、公明党とか次世代とか5党がほぼ賛成しています。ですから、それはもちろん当然、認めないといけないと思うんですね。  ですから、これから、奥田さんにとって残念ながら、法案は通ると思います。これからどういうふうにやって政権交代とか持って行こうという戦略があるのか。議会制民主主義の中で…  司会:質問をお願いします。  奥田氏:…早くしてもらってもいいですか。  先程から言っているとおり、日本では9割以上の、憲法学に精通した人がこの法案に対して"違憲だ"と言っているわけですね。元最高裁の判事もおっしゃっていましたども、まともに法案が読める方であれば、法案は違憲であると。そのことに関しては僕は議論が尽くされていると思います。  昨日の中央公聴会でも言ったんですが、政府は、"基本的な論理が変わっていないから合憲である"と言っているんですね。ですが、基本的な論理が変わっていなければ、同じ問いを投げかければ同じ答えが返ってくるはずです。今回、同じ問いをかけてみれば、回答が変わっているわけでですから、それは論理が変わっているというのが正しい日本語であると思うわけです。  また、世論調査を見れば明らかなように、この法案に日本国民の多数が納得しているとは思いません。だいたい平均して考えれば、2〜3割の人が賛成していて、6〜7割の人が反対しているというのが現状だと思います。  また、前回の選挙のときに、菅官房長官がおっしゃっていたように、集団的自衛権というのは争点になっていません。  議会制民主主義は大事だと思うんですけど、その議会制民主主義を支えている、法的根拠があるのは憲法なので、憲法を大事にしていただきたいと思います。また、自民党の総得票数というのは、全国比例で2割弱しかないわけです。ぜひ、僕も議会制民主主義が大事だと思うので、選挙に行っていただきたいと思うわけです。  この法案はそれでも議会制民主主義の中で通ってしまうでしょう。しかしですね、議会制民主主義、議会の中で多数派だからなんでもしてもいいのか、というところは、よくよく考えていただきたいと思うんですけれど、今も現政府の方が口を揃えて"国民が理解しているとは到底言えないが通さなければいけないことだから通す"と言っているわけです。  それに対して言えることは、本当にそれでいいのでしょうかと。絶対にこれは次の選挙に影響を与えることになりますよと、この状況での採決はありえないのではないでしょうかと、私たちは今日も声を上げます。 政治政党を作る気は全くありません ー先週、菅直人元総理がここで会見を行い、SELADsのような活動が政党などと結びついていくことで、あらたな政治勢力になることを期待感を示していました。菅氏のような人達と、そのような話をしているか。  奥田氏:スペインのポデモスみたいな政党のことを見て、ある種羨ましいと思うこともあるんです。ですけど、僕は政治政党を作る気は全くありません。何故かと言うと、まだその段階に来ていないということと、日本ではまた違った形で、今の動きが政治に影響を与えるのではないかと思っているからです。  一つのチョイスとしてはあると思いますが、2011年以降、これだけ政党がある種乱立するかのようにできている中で、新しい政治政党ができたからといって日本の現状が変わるわけではないと思っているので。それより社会の中でやるべきことがあると思っています。  まずは政治に対して主体的な人がもっともっと増えるべきだと思っています。 "高校生は政治に興味がない"という言説には信ぴょう性がないー18歳で選挙権が得られることになるが、それでどのような影響があると思うか 本間氏:例えば日本社会が、日本の若者が右傾化しているというような言説もある一方で、僕なんか最初デモに参加した時に、大学の友達だったりから"デモに行くってちょっと怖い"とか、そういう印象を聞いていたんですけど、ここ3か月くらいでリアクションも全然変わってきていますし、安保法制に限って言えば、デモというものが世論を動かしているという印象も持っていますし、政治運動にもっと主体的に参加していくこともありかなっていう風に、かなり考え方というか、政治に対するイメージも変わって来ているのかなと思っています。  またですね、デモをやっていて、たとえば自分たちは大学生として、SEALDsとして活動していますけど、当日来てみると制服を着た高校生たちが参加している姿も見られます。  なので、高校生が日本の政治政治に興味がないという言説は信ぴょう性がないのではないかと思っていて、かなり多くの人が言いづらいけど気にしている状況があるのかなって思っています。  また高校生が政治に興味を持っている中で、ただ政治について語ることがまだちょっと怖いとか、言い出しづらいという雰囲気がある中で、個人の意見ではあるんですけど、高等教育の段階の中で、自分の頭で考えたりとか、上から知識注入されるというだけではなく、自分がどう考えているかを共有したり、議論したりすることを学校教育に取り入れていくことが重要ではないかと思っています。  ーSEALDsの映像を見てても、テレビを見ていても、反対している人たちは、いわゆるエモーショナル・ランゲージ、感情で"戦争法案反対"、あるいは"安倍は暴走している"とか、ほとんど理性的な言葉を遣っていないんですね、  その典型が8月30日の…  司会:質問をお願いします。  ー戦争と平和を語るためにどうしても欠かせない人物がいます、一人はエモーショナル・ランゲージを使って、国民を戦争へと駆り立てるくらいやった。とくにラジオでもって、最も影響力のあった1920年代から30年代からのリーダーです。それはだれなんだ。あなたがたへのクエスチョンです。それからもう一人は…  司会:…質問は1問でお願いします。  奥田氏:わかんないです、おわりです。(会場から笑いが起こる)  ーそれで平和と戦争を語る資格があると思いますか?  奥田氏:次の質問お願いします。(会場から笑い)  ーソーシャルメディア上で、右翼的な人々からの攻撃を受けていることとと思うが。  奥田氏:先ほどの、2つの点の意見の異なる方からの質問だったと思うんですけど、そういうので思うことは、それだけではなくて、ネット上では"SEALDsをやっているのは在日朝鮮人なんじゃないか"とか、僕の名前を検索すると出てくるんですけど、かなり個人情報的なところで、"髪型が"とか"顔が"とか、関係ないところで(笑)言ってくる人達がたくさん居ます。むしろそういうカルチャーに怯えてというか、なにかこういうことを発言すると、叩かれたりすることで何か不利益があるんじゃないかと、なかなか日本では政治参加とか発言がしにくかったと思うんです。実際そういうところで、負けていたところもたくさんあると思います。  一体どちらかが感情的なのかと考えてしまうわけなんですが、ただ、そういうものに負けないカルチャーを作らないといけないと思っています。 国家にとってかなり根幹的なものが問題になっている ー社会問題や政治について、大学内で語りにくい雰囲気があると思ったと思うが、安保法制をきっかけに声を上げるようになったのはなぜだと思うか。  奥田氏:先程も言ったんですけど、思っていたことは思っていたと思うんです。考えていなかったわけではないと思うんです。それが言ってもいい雰囲気ができてきたことと、もうひとつは、憲法とか民主主義とかそういうもの自体が問題になっている。つまり国家にとってかなり根幹的なものが問題になっている。安全保障もそうかもしれないですけど。逆に政治家の人も、学者の方も、我々一般市民も同じ土俵で議論ができる。そういうことが起こっているのではないかと思います。 実際、じゃ大学自体どういう雰囲気かというと、僕を大学内で見つけたら、こういう活動していると多分わかんないと思います(笑)。普通に遊んで、友達と話して、その中に少しだけでも政治のことが話せる、まあそういう感じなんじゃないかなと思います。アジアの中でのデモクラシーがどうあるべきなのか話し合った ー先程、奥田さんは香港や台湾の学生運動のことに言及されましたが、あなたたちの学生生活の中で、日本の学生というのは世界一従順とかおとなしいとか非政治的とか長い間言われていましたけど、たとえばアラブの動きとか、オキュパイ・ウォールストリートというニューヨークでの動きや、あるいは香港でのアンブレラ革命とか、台湾でのひまわり運動とか、ああいう同世代の人達の動きに何かインスパイアされたことはありますか。  奥田氏:もちろん影響を受けたことは多分にあると思います。"Tell me what democracy looks like"というコールがあったと思うんですけど、あれはオキュパイ・ウォールストリートとか世界中で使われていると思うんですけど、そういうものをここでやる前から、YouTubeやUstreamで観ていました。トルコのゲジ公園守れっていう運動も、オキュパイ・ウォールストリートも、インターネット上でほぼリアルタイムに流れていました。Facebook上で海外の友達が流しているものも観ていました。  その彼らが考えていること、とくに香港、台湾ではデモクラシーがすごくイシューとしてあったので、実際に留学生が日本に留学していたり、日本の留学生が向こうに留学していたりと、交流があったので、アジアの中でのデモクラシーがどうあるべきなのかって話し合っていたりしました。 中国からの留学生が、生活レベルの危機感もあると言っていたー法案が通ったら、みなさんには将来どういう影響があると思うか。また、大学で、中韓の留学生にどう見ているか、聞いたことはありますか。 本間:まず一点目の質問についてなのですが、例えば法案の問題点で、条文レベルで責任の所在が自衛隊ではなく自衛官になっているという指摘があったと思います。  なので、例えば自衛官が紛争地域に派兵された時に非常にリスクが高まるということは言えるのではないかなという風に思います。  また、今回の安保法案だけでなくて、憲法解釈、政府の解釈によって憲法が変えられてしまう前例が作られてしまうので、今後、憲法というものが軽んじられる風潮が作られてしまう事自体が非常に大きな問題だという風に思っています。  具体的な状況を想定することは難しいですけれども、やはり憲法が蔑ろにされることが常態化してしまうことは、どのような国家にとっても危険なことなのではないかと思います。  奥田:端的に言って、中国の危機だというところで、国会でも対中国脅威論ということで言っていて、そういう中で中国の留学生が、このまま対立していたら戦争にまで行ってしまうのか、ということを、強い危機感をもって話しかけてくれる人もいます。  また、日本国内でヘイトスピーチが起こっている中で、より他国の脅威を煽ることがもっと差別的なものにつながらないのか、生活レベルの危機感もあると彼らは言っていました。 ---会見終了後、奥田氏に質問を投げかけた男性が、会場を後にする奥田氏に、「奥田君、さっきの答えは、ヒトラーだよ。…今やっていることはヒトラーだよ。」と声をかけていた。THE PAGE

  • Thumbnail

    記事

    「立憲主義なんて知らない!」 姑息な安倍総理はやはり信頼できない

    阪口正二郎(一橋大大学院法学研究科教授)「立憲主義なんてよく知らない」?参院平和安全法制特別委員会で民主党の福山哲郎氏の質問に答えるため挙手する礒崎陽輔首相補佐官=2015年8月3日(酒巻俊介撮影) 自民党が2012年4月に発表した「日本国憲法改正草案」(以下、「改正草案」とする)を発表したが、この「改正草案」に対しては「立憲主義を理解していない」とする批判がなされた。それに対して自民党の憲法改正推進本部の事務局長にある礒崎陽輔氏は「意味不明な批判」だ、「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません」とTwitter上で「つぶやき」物議を醸したことは記憶に新しい。礒崎氏は学部時代真面目に憲法の講義を聞いていたのかという、皮肉めいた批判がなされたが、礒崎氏が学生時代に憲法の講義を真面目に聞いていたのかどうかは大した問題ではない。本質的な問題は、自民党で「改正草案」の作成に中心的な役割を果たしたはずの人物が、「立憲主義」という概念についてよく知らないと堂々と答えたことにある。「立憲主義」をよく知らない人が憲法改正の草案を作成していることが深刻な問題である。歴史の知恵としての「立憲主義」 立憲主義には広い理解と狭い理解がある。広い意味では、立憲主義とは国家権力を法(=憲法)によって縛ることを意味する。この意味での立憲主義の起源は、中世から存在している。しかし、現在問題になる「立憲主義」とは、たんに国家権力を法によって縛ることを意味するのではなく、その場合の法(=憲法)の中味が問題となる。「立憲主義」とは、人が人であるというだけで権利(=人権)を有し、その権利は多数者の意思によってでも侵害できないということを前提とした憲法によって国家権力を縛ることを意味する。「人権」という原理は近代の産物である。その意味で、こうした立憲主義とは特に近代立憲主義と呼ばれることが多い。 近代立憲主義が生まれたきっかけはヨーロッパの宗教戦争にある。人はふつう自分が良いと思うものを他者にも勧めたがる。それは人の性である。しかもことが宗教の場合、それはたんに良いものではなく、相手を救うために強く勧める必要がある。しかし、相手が別の信仰を有している場合、それは「お節介」ではすまない。ある人にとっての信仰は別の人にとっては邪教である。それを押し付けようとすれば、弾圧になるか、弾圧に抗して闘争、そして戦争にまで発展する。異なった信仰を有する人々がどのようにすれば戦争をしないで平和的に共存することが可能か。その問いに対する答えが、信仰に関しては、可能な限り、個人が自分で決定し、みんなで決めることはしない、つまり信教の自由を保障することであった。これが、近代ヨーロッパが血塗られた宗教戦争を経て生み出した知恵である。 だが、人にとって譲れない価値は何も信仰だけとは限らない。それぞれの人にとって何が善い生き方かは異なる。信仰に一生を捧げる人生もあれば、愛する人と暮らすことが最良の人生だと考える人もいる。どの人生が最良の人生かを決めるものさしなど存在しない。そのように考えたとき、信仰に限らず誰でもが大切だと思う、生き方に関わるような価値については、「人権」という形で、可能な限り、その人が自分で決められる領域を確保し、その領域についてはみんなで決めることをしないという約束事が必要となる。この約束事が「人権」というコンセプトであり、立憲主義はそうした「人権」の保障を前提としたものとなった。 いま、世界ではこうした意味での近代立憲主義が花盛りである。1989年の東欧革命を経て社会主義体制から自由主義体制に転換した東欧諸国は、相次いで憲法を制定したが、その憲法には「人権」が刻印されている。「人権」を前提とする近代立憲主義は今ではグローバル・スタンダードである。「訣別宣言」としての自民改正草案 ところが、自民党の「改正草案」はこれとは異なった考え方に立脚している。「改正草案」は、三つの意味での「訣別宣言」だと読める。(1)個人主義からの訣別 第一は、「個人主義」からの「訣別宣言」である。そのことが、端的に見られるのは13条の条文の改正である。日本国憲法において「どの条文が一番大事だと思いますか?」と聞かれると、私は「13条だ」と答えることにしている。憲法13条は、「すべての国民は、個人として尊重される」ということを明確にした条文である。それに対して「改正草案」の13条では、巧みに「個人」というものを落としている。改正草案は「すべて国民は、人として尊重される」としており、「個人」ではなくて「人」として尊重されることに変更されている。 「個人」と「人」は、同じではないかと考える方がいるかもしれない。しかし、「個人」と「人」は異なる。「個人」は、多様で異質な存在である。それを丸ごと可能な限り保護しようというのが、現在の憲法13条があらわしている「個人の尊重」である。それに対して、「改正草案」が掲げる「人」とは、多様性ではなくて、同質性を強調するものであるように思われる。「個人」としては多様だけれど「人」としては同じであるという考え方に「改正草案」の13条は立っているように思える。社会契約論、基本的人権からの訣別(2)社会契約論、基本的人権からの訣別 第二の訣別は、国家と個人の関係に関してこれまで日本国憲法がとってきた考え方からの訣別である。日本国憲法は、いわゆる「社会契約」論に基づいている。それは、ロックやホッブズがつくった国家観で、国家がない状態を「自然状態」として想定し、そこは、「万人の万人に対する闘争」といわれるように互いの力関係が支配する状態で、安定した秩序が保てず、自由も十分に確保できない状態である。そこで、秩序を確保し自由を保障するために、みんなで契約して国家を創るというのが社会契約論である。その場合、国家はあくまでも、契約によって作られる人為的な存在であり、国家を創る最大の目的は個人の自由の確保である。しかし、一旦設けられた国家は、秩序を維持できるだけの大きな権限を持っているので、今度はそれ自体が個人にとっては大きな脅威となる。その脅威としての国家を縛ろうというのが憲法である。ここで大事なことは、国家はあくまで人為的、人工的な存在で、実体的な存在ではないということである。 ところが今回の自民党の「改正草案」前文における国家や憲法の位置づけは、それとは大きく異なっている。まず、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」であり、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」とされている。最後に、「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するために」憲法を制定すると書いてある。 これは単に人工的、人為的な国家ではなくて、長い歴史、固有の文化、伝統を持った実体的な日本国という国家であり、憲法が保障する自由とは、そうした国の国民の権利であると考えている節がある。たしかに改正草案は、「基本的人権」という言葉自体を削除しようとはしていない。ただし、ここで考えられている「基本的人権」は、社会契約論的な基本的人権、つまり1789年のフランスの人権宣言以来確立されてきた、人が人であるというだけで有する基本的人権という考え方ではなくて、固有の歴史、伝統、文化を持った日本人の権利であるように思われる。 今回自民党はこの「改正草案」のQ&Aを作成しているが、そこでは、「権利は、共同体の歴史、伝統、文化の中で徐々に生成されてきたものです。したがって、人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました」と明記されている(Q&A14頁)。天賦人権説は、アメリカなど「神」という概念を前提とする国家では造物主によって与えられた権利を意味するが、多くの場合は「人は人であるというだけで人権を有する」という基本的人権の考え方を意味する。こうした天賦人権説を斥けて、固有の歴史、伝統、文化を持った、日本国の国民にふさわしい権利にしたいというのが自民党の狙いではないのか。 しかし、これは危険な考え方である。ここでの「日本人」というのは、日本国籍とは関係がない。日本国籍を有している、有していないに関わらず、権力の側が定義する「固有の歴史、文化、伝統」があり、それに見合った人にのみ権利は保障されるということになりそうである。権力の側にとって、「固有の歴史、文化、伝統」を共有しない人は、たとえ日本国籍を有する人であろうと、権利は保障する必要がないということになる。これが危険なことは、戦前の「非国民」というレッテルを貼っての排除と弾圧の経験を見れば明らかである。(3)普遍主義からの訣別 第三は、普遍主義からの訣別である。今回の「改正草案」は現在の日本国憲法の97条を削除している。97条では、基本的人権は、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」として「現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたもの」と規定されている。ここで大切なのは、基本的人権を「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」としていることである。日本だけではない、全人類が頑張って努力して獲得してきたのが基本的人権である、だからこれをきちんと継承し、保障するというのが現在の日本国憲法の立場である。改正草案で考えている基本的人権が、日本の固有の歴史、伝統、文化にのっとっているのだとすれば、普遍的な西欧の人権思想は嫌だから、97条は削除する必要があったのだろうと思われる。2012年4月27日、自民党の憲法改正草案を手に記者会見する谷垣禎一総裁(酒巻俊介撮影) 誤解を恐れずに言えば、大日本帝国憲法、すなわち明治憲法の起草者たちよりも、今度の「改正草案」を作った人たちは劣化しているように思える。それは、大日本帝国憲法の中味が、今回の「改正草案」と比べてどうこうという話ではない。そうではなく、大日本帝国憲法をつくった人たちは、かなり苦労して西欧の憲法思想を取り入れようとしたということである。それに対して、そういう努力を放棄して特殊日本に回帰しようするのが、今回の「改正草案」ではないのか。 1876年に「大日本帝国憲法を制定せよ」という天皇の勅語が出されているが、そこでは「朕爰ニ我カ建国ノ体ニ基キ広ク海外各国ノ成法ヲ斟酌シ以テ国憲ヲ定メントス」とされている。「国憲」というのは国の憲法のことである。大切なのは、二つのことを考えながら大日本帝国憲法をつくりなさいと天皇が勅語で命じていることである。一つは「建国ノ体」、後に「国体」と呼ばれる、特殊日本の神権天皇制である。ただし、それだけで大日本帝国憲法をつくるのではなく、もう一つの「広ク海外各国ノ成法」――これはまさに西欧近代の憲法思想に盛り込まれた普遍的原理のことである――考慮して、特殊日本と普遍的な西欧思想の両方をにらみながら憲法をつくるよう命じている。 実際に、これを受けて伊藤博文らはヨーロッパに行って、ヨーロッパの憲法を勉強して大日本帝国憲法をつくり上げる。大日本帝国憲法というのは、この二つの要素を両方取り込んだ憲法である。もちろん1931年の満州事変以降は、「建国ノ体」のほうが軍部の台頭によって強くなり、天皇制のほうが圧倒的に強くなるわけだが、「海外各国の成法」、つまり西欧近代の憲法思想が取り込まれている部分が大日本帝国憲法にはたくさんある。 このように、大日本帝国憲法は、特殊日本ということだけにこだわるのではなく、なるべく普遍的なものを入れようとした。それに比べると今回の自民党の「改正草案」は、こうした努力はしない、もうやめましょうという話だろうと思われる。 以上のような意味で「改正草案」は三つの意味での「訣別宣言」であると読むことができる。こうした「改正草案」に対して「立憲主義を理解していない」との批判がなされるのは至極当然な話である。礒崎氏が大学で何を勉強したのかは問わない。歴史が生み出した知恵である「立憲主義」がグローバル化し、広く共有されつつあるいまの世界の状況において、「立憲主義なんてよく知らない」と明言する人間が「改正草案」を作成していることは、私には悲劇としか思えない。 もっともこうした人物を憲法改正作業の中核に据えているいまの政権が、歴代内閣が堅持してきた、集団的自衛権は現在の憲法9条の下では行使しえないとの憲法解釈の変更を、憲法9条の改正というきちんとした手段によるのではなく、一内閣による憲法解釈の変更という姑息な手段に訴えて行おうとしていることは理解しやすい。安倍首相は何かにつけて、私が総合的に判断するから信じて下さいと言う。しかし国家権力は信頼できないというのが歴史の教訓であり、「人権」を基本とする立憲主義によって国家権力を縛るというのが歴史から得たわれわれ人間の知恵である。

  • Thumbnail

    記事

    SEALDsはなぜデモをするのか~奥田愛基氏が語る「運動論」

    BLOGOS編集部中心メンバー・奥田愛基さんが語る「運動論」 安保法案に反対するデモが盛り上がりを見せるなか、新しい動きとして注目されているのが、10代、20代の学生のグループ「SEALDs」だ。国会前で、ヒップホップの音楽を流しながらリズミカルに掛け声(コール)をかけたり、若者らしいファッションで自分の言葉で語りかけるスピーチなどが話題になり、その活動がメディアで頻繁に紹介されるようになった。 (左から)奥田愛基氏、津田大介氏 このSEALDsは、正式名称を「Students Emergency Action for Liberal Democracy - s(自由と民主主義のための学生緊急行動)」というが、どんな学生が、どのような経緯で立ち上げ、どのように活動しているのかーー。SEALDsの中心メンバーであり、その母体であるSASPLの立ち上げメンバーでもある明治学院大学4年の奥田愛基さんが、8月9日に東京・代官山で開かれたトークイベント(主催・69の会)に登壇し、活動の歴史を語った。  司会は、ジャーナリストの津田大介さんがつとめ、コラムニストの松沢呉一さんとともに、奥田さんに質問を投げかけていった。それに答えて、奥田さんは「なぜデモをやるのか」という理由を明かした。(取材・構成:亀松太郎) 特定秘密保護法の成立がきっかけだった奥田氏 津田:SEALDsの元になった「SASPL」が生まれた経緯を教えてください。  奥田:SASPLは「Students Against Secret Protection Law」の略で、「特定秘密保護法に反対する学生有志の会」。特定秘密保護法を意識しているんですね。  それまでは僕も、「(原発の問題などについて)みんなでもっと考えていけば、いい社会になる」とか、「賛成も反対も両方あって、一緒に考えたらもっと良くなる」と、なんとなく、そう思っていたんですよ。そういう会もいっぱいあって、「賛成も反対も両方あって、今日も考えました。引き続き、みなさんで考えていきましょう」みたいな感じで。  そういうのも全然いいと思っていたんですけど、気がついたら、2012年の終わりに自民党が大勝する選挙があって、いままで考えてきたものってなんだったんだろう、と。「考えるきっかけになった」とみんな言ったけど、その結果がこれか、と。政党なんかも、よくわからなかった。民主党、社民党、共産党、維新の党、未来の党・・・。これ何が違うの、という感じなのに、みんな協力できず、小選挙区制の中で負けていくというか。  そういうのがあって、「考えましょうの結果がこれか」という感じで、ちょっと考えるのがしんどくなった。ちょっとブレイクダウンというか、自分のなかで勉強したり、吸収するだけの時間にしようと。  そうだったんですけど、ちょっと時間がたって、2013年の12月に特定秘密保護法が通るとなったときに、法案を友達に教えてもらって、自分でも調べてみたら、「これ、たしかにすごい法律だ」と思って。  津田:その教えてくれた友達は、SEALDsのメンバーでもあるんですか?  奥田:そうです。同じ大学の友達で、そいつから「この法案はこういうふうに使われるかもよ」と。別に国家が情報を管理することが全部ダメだとは思わないんですけど、日本って結構、情報の管理が適当なんですよね。公文書の管理とか、情報の公開とかが、ものすごく問題があると言われ続けたなかで、この法案はどうなんだと思って、国会前のデモを見に行ったんですよ。  賛成も反対もなく、みんなでちょっと見に行った。そのあと、日比谷公園に集まってしゃべったりしたんですけど、その夜にツイッターとかを見てたら、報道ステーションで古舘さんが「今日、民主主義が終わりました」とか言ってて。「民主主義が終わったらしいぞ」「マジかよ」みたいな(笑)。  知る権利が侵害されるとか、デモができなくなるとか、みんな言ってたんですけど、はたして知る権利って、みんなそんなに使ってたの、と。デモとか言うけど、表現の自由って、みんな使ってたの。デモもやったことがないし。考えるのは大事で、それは全然否定されることじゃないけど、ずっと考えていてもしょうがないな、と。 最初「デモをやりたい」と言ったら、シラーッとなった松沢呉一氏 津田:特定秘密保護法が出てきて、国会で可決されたというタイミングで、ちゃんと声をパブリックな場所であげようと考えた、と。  奥田:普通は可決されるまでの運動なんですよ。「法案を阻止するぞ」みたいな。「可決されるまでがんばろう」という感じなんですよ。僕らはなぜか、可決された夜に「民主主義が終わった」と言われて、「じゃ、始めなきゃ」と思った。  津田:なるほど。面白いですね。もう決まってしまったと思ったら、それが火をつけるきっかけになった、というのが。 松沢:だいたい運動って、そこ(可決)で終わるわけですよ。そこから始まるというのは、実はものすごく正しかったと思うんだけど、彼らがやってきたことは、テーマはともあれ、民主主義を取り返すとか、始めるということだったわけじゃないですか。それが、そこから始まっているというのは、すごく象徴的。で、そのときは、どうやって人を集めたんですか?  奥田:初めは、特定秘密保護法に反対する会とか、勉強会とかを各大学でやっていたんですよ。あまり話題にもならなかったんですが、ICU(国際基督教大学)に300人が集まったりとか。  あのときも、学者の会みたいのがあって、各大学で勉強会をやっていて、それに参加したり、手伝っていた子たちはだいたいわかっていた。その友達の友達とか、先生にも直接言ってゼミ生を紹介してもらったりして、中心メンバーが10人くらい集まった。国会前にも15人くらいで行った。  津田:今のSEALDsの中心メンバーが10人ぐらいで集まった最初の会合で話した話題って、どういうものか覚えていますか?  奥田:そのときは終電を逃して、家に帰れなかったんですが、「俺は絶対反対と言いたい」と言いました。「ちゃんと調べて、一人でしゃべれるくらいやったうえで、デモとかをやりたい」と言ったんですよ。  そうしたら、みんな、シラーッとなって。「え、デモ?」みたいな。「なに、言ってるんだ」と。「学生、政治、デモ、絶対ダメ」みたいな。  津田:シールズも最初はそんな感じだったんですね。面白い。 デモに行くような「動く100人」がいるほうがいい9月6日、新宿で 松沢:デモに賛成したのは何人ぐらい?  奥田:半分ぐらいでした。いまは僕ら「安倍はやめろ」と言ってるんですけど、そのときは「自民党の人も説得するような感じじゃないとダメだ」とか。あと、「いままでそれで成功した人が、一人でもいるのか」とか。学生でデモをやっても、メディアで取り上げられることはまずないし、それでカッコいいとか、学生が満足したというのを聞いたことがない。20万人ぐらい来たらいいけど、100人も集まるのか、と。  でも、「シンポジウムとかやって考えましょう」とか言ってもしょうがないじゃん、逆にそちらのほうがつまらないよ、と言って。むしろ、ちゃんと「こういう論点でおかしいと思うんだけど、どうだ?」というのを社会に問うほうがいい。考えましょうとか、議論があるとかではなく、もっと突きつけないと。 中立的にやったほうがメディア受けがいいのは、間違いなかったんですよ。賛成も反対もあるシンポジウムで、若者が「こういう意見もありますね」という感じで言うと、「この学生はバランスがとれていて、えらい」となるじゃないですか。ただ、「中立」と言われるところが、だんだんおかしなことになっている。いまは、現行の憲法を読もうものなら左翼みたいに言われる。憲法の勉強会をやろうとしたら、ダメになったりとか。  でも、日本国憲法って、現状のありとあらゆる法律の根拠、最高法規なわけで、それが何も言えなくなったら、法治国家としてやばい。「憲法って政治的だ」という感じになっちゃうんですけど、公民の教科書に日本国憲法のことが書いてあったら、それは政治的なのか、と。おかしくなっちゃうんですよ、そんなことになったら。  松沢:こういう運動をやるときに「デモなんかやっても、どうせ変わらないよ」という意見があるけど、SASPLやSEALDsがいま、そこを変えている。デモをやったり抗議をやることで、メディアは動くぞ、それに影響された人たちもみんな立ち上がるぞ、政治家までくるぞ、と。その成功体験をいま作っているというのが、ものすごく大きいんだけど、最初のときに「変えられる」という人が、よく半数いたよね、逆に言えば。  奥田:僕も含めて、その3日前までは「やらないほうがいいんじゃないか」という話もあったんですよね(笑)。ただ、発想としては、100人集まってデモをやって社会を変えられたら、そのほうが怖い。シンポジウムをやったって、社会は変えられないし。0か100で考えるのはやめよう、と。  いま一番、何をやりたいのか。ふわっとなんとなく来て「考える人」が増えるのがいいのか、それとも、デモぐらい来ちゃうぜという「動く100人」がいるほうがいいのか。どっちがいいかと言ったら、それは「動く100人」がいたほうがいいね、と。  津田:その説得の仕方は、なかなか感動的ですね。 もともとは「2016年の選挙」を目標にしていた津田氏 奥田:だから、初めから、全部が全部、変わるとは思っていないんですよ。若者は政治に関心がないと言われて、投票にいく若者は3割しかいないと言われるけど、一定数はいるんです。(やろうとしていることが)正しいかどうかわからないし、うまくいくかどうかもわからないけど、一応、メディアリリースや記者会見までやって、ちゃんと取材してくださいねとお願いしたりして、いろいろ動いてきた。  津田:なるほど。よく考えられていますね。でもそれって、学生が主体となった運動にしては、すごく用意周到じゃないですか。普通の人は、デモをやろうと思っても、メディアにリリースを送って「取材に来てください」なんて発想にならないはず。PRとはどのようなものか知っているプロの発想です。そこはどういう流れでそういうことをやろうという話になったんですか?  奥田:一発やって終わるのは嫌だという話になって、デモをやってもいいけど、5手先ぐらい先を読んでおかないとダメだと言っていました。  津田:デモを広げていったり、具体的な運動論とかで、参考にした人の話とか本はなにかありますか?  奥田:あのときは、普通に飲みながら、こういうことをやったらいいんじゃね、みたいな感じで話してました。そのときに思っていたのは、社会って、もっと声を出す人がいてもいいし、そのバランスが取れていないと、おかしなほうに一気にいってしまうということ。何かあったらデモをやるのもいいし、もうちょっと政党のバランスがとれているようになってほしい。  そのためには、2016年の選挙のときに、あのときは衆参ダブル選挙と言われていたんですが、そのときぐらいまでに、若者が全国で2000人ぐらい立ち上がったらいいよね、と。  津田:なるほど。そもそもSASPLやSEALDsの活動というのは、2016年の参院選をターゲットにした地道な活動だったんですね。ところがこの安保法制議論の盛り上 がりの余波で一気にメインストリームに乗ってしまった、と。  奥田:そういうことを考えると、名前と顔がわかる「動ける人」たちが大事だし、それを「伝える人」たちが大事。動く人だけじゃなく、そういう人に巻き込まれて、ちょっと行ってみようかと思って行った人たちが、また感化されるような仕掛けが重要。  それが自分たちにとっては、ビジュアル的なものだった。白黒で、Wordで作ったみたいなフライヤーって、普通、デパ地下とかで、もらわないですよね。ヒカリエとかだと、めっちゃ、オシャレなやつとかが配られるじゃないですか。ちゃんとAdobeのソフトとかで作られている。  ふと考えたら、なんで、デモとか社会運動はそうなっていないんだろう、と。なんで、これでいいやと思うんだろう。本当に変えたいと思って、本当に伝えたいと思ったら、伝える努力をしなきゃと思った。  松沢:最初のメンバーのなかに、いわゆる市民運動とか、社会運動の経験者というのはいたの?  奥田:初めはあまり、いなかった。震災以後に、原発関係でおかしいんじゃないのかとハンガーストライキをやった子たちが1人か、2人いた。それと、音楽を聴いていて、イベントとかをやっているやつ。  津田:最初から、メンバーの中に音楽のイベントに慣れている人がいたことが、ちゃんとデモに生きている、と。  奥田:そいつがもう、ひたすら「これまでにないことをやりたい」「伝え方を一新したい」ということを言っていて、最初のデモが終わったときに、すごい微妙な顔をして、「アキさぁ、すごいカッコいいことをやりたいと言ったけど、これ、デモじゃん?」とか言って。僕のほうは「デモだよ、デモやるって言ったじゃん!」と(笑)。「この程度だったら、まだダメだね、20点」と言われて、すげームカつくと思いながら。  津田:1回目のときは、どんな感じで、どんな場所でやったんですか?  奥田:最初のデモは、新宿の柏木公園から新宿駅までで、500人ぐらい。自分たちが想定したよりも多くて、「やっぱりいるじゃん」「ちゃんとくるんだ」という感じだった。少なくともいまはゼロだから、自分たちが受け皿になっていかないといけない、と。フライヤーの文字が「コンマ数ミリ」ズレても気になる7月17日、国会前で 松沢:それから、まだ1年数か月だよね。そこから、規模がものすごい勢いで大きくなって。メンバーは、いま何人?  奥田:いまは、関東が190人ぐらいいて、東北が30人ぐらいで、関西が130人か140人。あと、沖縄も。  津田:これはネットでシェアされて、なるほどと思ったんですが、「SEALDsのメンバーは学業もちゃんとやりましょう」というスタンスなんですね。文武両道みたいに、なるべくなら単位を落とさないようにするという。そのあたり、お互いの共通ルールは決めたりしているんですか?  奥田:「デモをやって学校を休むぐらいなら、学校に行け」と言っています。規約とかは、口座を作るときに作らなければいけないので、形式上はあると思うんですけど、ただ、自分たちで共有しているのは、3つだけ。そのうちの1つは「ポジティブ」。「どうせやっても意味ないじゃん」とか、「こんなこと言われる」と言ってもしょうがない。なんかやったら言われるからしょうがないし。やってもないことを心配してもしょうがない。やっちゃったことはやっちゃったからしょうがない。ネガティブなやつが世界を変えても、ネガティブな世界になるから、と。  津田:そういう話を伺うと、SEALDsの意思決定システムが気になります。そのあたりはどうしているんですか?  奥田:意思決定で大事なのは、その企画のクオリティが高いかどうか。バンと企画が出て、みんなでチェックするとき、みんなが適当なことを言うけど、だいたい、いい企画は誰も何も言わないんですよ。「いいじゃん!」みたいな感じになって、盛り上がったら、それはやろう、と。多数決とかは、ないですね。  津田:多数決というよりも、その場のグルーブ、ノリを大事にしているんですね。  奥田:そうですね。グルーヴみたいな感じで。あと、フライヤーとかを作るときも、フォントが気に食わないとか、コンマ数ミリ、左に寄っているとか。誰がそれを気にするのかとも思うんですけど、俺ら的には、気にするやつは絶対いると。俺らの同世代で、それがコンマ数ミリずれていたら、「やっぱりSEALDsって、全然そういうの関心ないんだ」と思われたら嫌だ、と。  津田:政治的にどうこう言われるのはしょうがないけど、「ダサい」とは言われたくない?  奥田:そうですね。ダサいと言われたくないし、政治的にも、実は、言葉にすごく気を使っています。たとえば、「安倍政権」と言っている企画書と、「現政権」と言っている企画書の違い。各政党にロビーイングに行って、企画書を出すときは、全部「現政権」と統一するとか。名指しすると厳しい感じになるので。「9条の問題」というか、「憲法の問題」というか、「立憲主義の問題」というのも、どういうところに出すのかによって、ちゃんとチェックしている。  津田:SEALDsは、学者の会とかとも連携して、いろんな学者の先生がきて、スピーチをしていますよね。そういう学者の先生をゲストに招いた勉強会なんかかもやっているんですか?  奥田:やってますね。法律の研究家とか、弁護士とか、もともと政策を作っていた人を招いて、どういう条文で、どこがどう間違っているのか、とか。ただ、それを全員がシェアしているかというと、一応、みんなが入っているのもあるんですけど、特化している部隊もあって、デザインに特化している部隊とかがある。  津田:なるほど。理論武装部隊があって、デザイン部隊もあって、イベント企画部隊もある。そんな感じで、勝手にメンバーの中でクラスタができてきているんですね。  奥田:そうです。おのおのが希望で、入りたいところに入る。僕は全部に入らされているんですが(笑) SEALDsに「代表」がいない理由 松沢:そもそも、奥田くんは代表ではないの?  奥田:代表じゃないです。  津田:代表的役職を作ったり、「お前が代表になれよ」という話はなかったんですか?  奥田:「代表を作っちゃえよ」という話もあったんですけど、自分が思っている憲法観とか、意見とか、細かいところでいうと、たぶん、みんな違うと思うんですよね。  「SEALDs」と、最後に複数形の「s」をつけているのも、一人ひとり、感覚とかが違うし、個人個人で参加していいと、個人個人として考えている。ただ、大枠で「憲法は守ったほうがいい」「戦争はしないほうがいい」ということでは、もう完全に一致しているから、そこは統一しましょう、と。  津田:デモのやり方を変えたということでいえば、SEALDsは「コール」も特徴的ですよね。「民主主義ってなんだ?」とコールすると「なんだ?」とレスポンスが返ってくる。どんどん新しいコールが出てくるし、なんならスピーチした人の印象的なフレーズがそのままコールになったり。  奥田:あれも、淘汰されていくというか、受けないやつがあるんですよね。「あ、これはやめておこう」と。  松沢:たとえば、受けなかったのは、どんなのですか?  奥田:まず、「激おこプンプン丸」というのですね。高校生がいまやったら、「高校生は新しい」と言われたりしているんですけど、SASPLがやったときは、もう全然だめでした。大学生と高校生の違いがある。  松沢:高校生も、SEALDsに来ていたんですよね?  奥田:SEALDsはいま、めちゃくちゃ攻撃されていて、僕なんか、ツイッターでつぶやくだけで、2ちゃんねるのまとめができるんですよ。そういうところに、未成年の子はどうなのか、と。大学1年生だったら、自分で生きていく力もあると思うけど、高校1年生だったらまだちょっとと思って、断ってたんですよ。「高校生はごめんなさい」と。  でも、ずっと断っていたら、勝手に高校生グループができていた。気がついたら、高校生5000人デモとか。そうしたら、俺より攻撃され始めて・・・。なんか悪いことしたなと思いながらも、それはそれでいいな、と。おのおのが自分たちのやり方でやっていけばいいな、と。 10年先の高校生が参考になることをやっていきたい 津田:本来は2016年の7月までに、少しずつ学生たちが集まって意見を表明できるように自分たちのプレゼンスを築いていって、「話せる場所を作ろうよ」という地道な活動だったはずのSEALDsが、今はもう、具体的に現政権に影響を与えるくらいの力をもっていて、かつ広がりももっている。その渦の中心にいて、大変なことも多いと思いますが、今後、どうしていきたいのか。この力をどういう方向に生かしていきたいのか教えてください。  奥田:僕は、問題がない社会はありえないと思うんですよ。たぶん、安保法制のことが廃案になっても、なにかあるんですよ。それが10年先なのか、来年なのかわからないですけど、もっとやばい問題がくるとなったときに、なにか参考になるものがあるといい。自分の同世代が言っているカルチャーが1ミリもなかったところで、10年先の学生とか高校生がYouTubeを見て、「こんなやり方で、こんなことを言っていいんだ」というのをやったらいいな、と思っている。それがちょっとでもできているならいいと思う。  でも、逆に言うと、10年後にそれを言っているのは、俺じゃなくてもいいと思うんですよ。というか、明日にでも、俺じゃなくてもいいと思うんですけど。  津田:先ほどの話を受ければ、既にこの半年間で、「高校生にバトンが受け渡されている」という言い方もできそうですね。  奥田:高校生デモにいったら、「SEALDsの方は後ろで」と言われました。「ごめんなさい、僕、もう23歳で、大学4年生ですみません」と(笑)。そういう感じなんですけど、それはそれで、とてもいいことだと思うんですよね。未来につながっていくことが希望というか、次の世代に生きていくことなので。  ただ、誰の問題なのかというときに、「若者の問題だ」という感じでスピーチされる方もいるんですが、それは結構しんどい。あなたの問題でもあるでしょ、と。  いまは20代の、娘や息子のいない同世代のメンバーが、将来の自分の子どもに向けてスピーチをしているんですよ。自分の子どもができたとき、子どもからなんと言われるだろう、どういうふうにこの時代が評価されるだろう、ということを言っている。特に女性のメンバーは、そういうことを言っている。  どの世代であっても自分たちの問題だと思うし、一人ひとりが考えていかなきゃいけないんですけど、いま僕がここでしゃべっているのも、一つの現象でしかない。たまたま2015年に、一歩踏み出したやつ、言いだしっぺが俺だったというぐらいのことでしかない、と思うんですよね。  高橋源一郎さんが最近、古代ギリシアのデモクラシーの話をしていて、古代ギリシアではクジ引きで政治家が決められていた、と。デモクラシーだからしょうがないといって、選ばれたやつはやらなきゃいけなかった。  SEALDsのメンバーも、「俺がやらなくてもいいんだけど、しょうがない。民主主義国家だから仕方ない」と言いながら、国会前に行ってたりします。僕もクジ引きみたいに、今はたまたま選ばれているのかな、と。だから、SEALDsとして今後どうしていくのかというと、早く解散できるのなら解散して、みんなおのおのの人生を歩んでいけたら、それはそれでいいと思う。  津田:もう一つ、これは「デモで社会が変わるのか」という話でもあるんですけど、これだけクリアに主張があって、ロビー活動もやられている。そこまでやるなら「もう政治家になっちゃえよ」という話もあると思うんですけど。  奥田:政治家は絶対に嫌ですね(笑)。政治家の人には申し訳ないですが、あまり幸せそうではない感じがします。なんか、すごく面倒くさい話を毎回、持っている感じがあって。いまは政治家に興味があるというよりも、政治家を作る社会のほうに興味がある。  松沢:そこもいろいろで、SEALDSの中には「政治家に行こうかな」というのも、実際にはいますよね?  奥田:います、います。自民党から出たいというやつが。「お前、自民党に行って、崩壊させてこい」と言ってますけど。  松沢:まだまだできることはたくさんあると思うけど、いま、SEALDsの主要メンバーは飽和状態。連日、対談やデモやイベントで「なんにもしない一日がほしい」と聞いたことがある。そんな彼らに代わって、彼らができないことをサポートするというのはどうですか? 7月6日、国会前で 奥田:国会前でやっているのは、こんな僕みたいので、誰でもできるんですよ。「学生たちはここができていない」と思ったら、どんどん勝手にやってほしい。できない理由を探さないでほしい。  津田:難しいことがわからなくても、「安保法制ってどう思う?」と日常で会話するだけでも変わってくるかもしれない。それ以上に一歩を踏み出したい人は国会前に来るという方法もある。奥田さん自身、そんなに多くのことは望んでいないんですね。  奥田:できることを、できる人が、できるかぎりやればいい、ということですね。  関連記事「ホットライン がつながらない!」 中国の冷たい対応に焦る韓国サウジアラビアとイランはなぜ対立するのか - 村上拓哉 / 国際関係論【衆院予算委】山尾議員、安倍総理の基本的考えと社会認識とのずれを指摘解散後の「SMAP」という商標の行方アベノミクスを襲う中国減速・原油安・暖冬

  • Thumbnail

    記事

    【緊急対談】わが国の安全保障はリアリズムに徹すべきだ

    国民世論の風向きは逆風ですが春香クリスティーン(以下、春香) いま、参議院で安全保障関連法案の審議が大詰めを迎えています。国会前では、学生団体SEALDsをはじめ、安保法案に反対する人たちによるデモ活動がより勢いを増しています。安倍晋三首相は否定していますが、反対派の人たちは安保法案が憲法違反であるとか、戦争する国にするための『戦争法案』であるとの主張を繰り返しています。国民世論の風向きは逆風ともいえますが、政府としてはどう受け止めているのでしょうか。石破茂・地方創生相(以下、石破) 振り返れば、いわゆる有事法制を審議した時やイラクに自衛隊を派遣した時も『戦争法案だ』『憲法違反だ』と言われました。私は防衛庁長官や防衛大臣としてどちらの時も担当しましたから、『有事法制は戦争を起こさせないための法律なんですよ』『イラク派遣と言っても、戦争をしに行くのではなく、イラクの復興を支援するのです』と一生懸命ご説明をして、最後は賛成が反対を上回った、ということがありました。(瀧誠四郎撮影)春香 やはり、6月4日の衆院憲法審査会の参考人質疑で自民党を含む各党が推薦した3人の憲法学者が違憲だと発言した辺りから流れが変わったということでしょうか。その後も自民党の大西(英男衆院議員)さんが安保法案に批判的な報道について『懲らしめなければいけないんじゃないか』という発言をしたり、礒崎(陽輔)首相補佐官が『法的安定性は関係ない』と発言してしまうなど、自民党議員の発言が批判の的になりましたよね。石破さんにしてみれば、正直もう足を引っ張らないでほしいという思いはなかったんですか?石破 政府全体として、最初の想定とは違った部分があったかもしれません。足を引っ張るも引っ張らないも、政府与党は一体ですから、あれこれ言っても何もならないんですよね。色々あって、もしダメージが起きたとするならば、それを全体としてカバーしていくのが政府与党というものでしょう。例えば、300小選挙区には原則すべて自民党の支部があって支部長が居るわけですから、それぞれが自分の受け持っている選挙区で、この法案をどう説明するか、っていうようなこともしなければならない。私はいろんな議員さんの国政報告会やパーティーに週に4、5回は行っていますが、だいたいそこで安保法制の話もします。それぞれがお預かりしている選挙区はそれぞれの国会議員の責任でご説明すべきものですから、報道がどうあれ、本質論を地元でちゃんとする、ということだと思います。ダメージがあった時にどうやって、自民党の議員みんなでそれをカバーするか。もちろん全てをカバーするのは難しいかもしれないけれど、もっともっとみんなで努力しよう、ということなのではないでしょうか。先日、世論調査の結果を受けて、『国民の理解が進んでいると言える自信はない』と会見で発言したら、新聞などはすぐに『内閣批判だ』って書かれましたが、これはまさに『そういう数字だからみんなで努力しないといけないね』ということを言いたかったんです。それを『石破大臣が批判』とか『次期総裁選に意欲』なんて報道されるのは心外ですね。春香 なかなか答えづらいかもしれないですけど、自民党の中でも今回の法案について、実は反対だったり、違憲なんじゃないかと思う議員っていたのでしょうか?石破 いないと思います。たとえ考え方が少し違っても、決まったら皆で実行する。そういうものです。議論を尽くして、決まった結論には、みんなで責任を持たなければいけません。春香 さきほど、話が出た大西さんや礒崎さんの発言だったり、国民の目から見ると、なんとなく自民党自身も一枚岩になれていないのではと思うことがあります。石破 一枚岩かどうかということより、この法案の内容をどれだけの人がきちんと正確に理解して、説明できていますかっていうことなんだろうと思います。例えば、さっき申し上げたイラクへの自衛隊派遣の時も、海上自衛隊をインド洋に派遣していたテロ特措法の期限が切れて、一回撤退を余儀なくされて、その後、衆議院で3分の2の再議決をした時も、渋谷などで街頭演説会をやりました。福田内閣でテロ特措法を延長した時は、高村(正彦)外務大臣、町村(信孝)官房長官、防衛大臣が私で、3人そろって新宿や渋谷の街頭に立ったんです。それはある意味、本気度っていうかな、そういうものを明示的に表したい、ということだったんだと思うんです。だから今回も、国会で安倍総理や中谷(元)防衛大臣ががんばればいいや、ということだけではないんですよね。春香 メディアの特性なのかもしれないですけど、揚げ足を取るっていうのは絶対あると思いますが、法案審議の流れを見ていて、自民党側からボロが出てしまうというのは、なんとなく気がかりなんですよね。石破 そうですね。安倍総裁が政権を奪還した時の衆院選、2年前の参院選、去年の衆院選と、多くのご支持を頂いてきたということと、民主党が未だにあまり国民の理解を得ていないということ、そういう状況に少し驕りや緩みが出てきてしまう、ということには気を付けないといけないでしょうね。日本では安全保障を考える素地がない日本では安全保障を考える素地がない春香 いまの政局を傍からみれば、自民与党は野党に比べて圧倒的に数の上で有利じゃないですか。それでも、こと安保法案に関しては、世論調査の数字とかを見る限り、国民の理解が進んでいないという結果が散見されますよね。それはなぜだと思いますか。石破 まずは、そもそも安全保障を考える素地の違い、というのがあるんだと思います。 何度もあちこちで言っていますが、私は徴兵制を日本において採るべきだとは全く思っていません。それとは別の話として、スイスやオーストリア、日本の一部の方々が大好きな『永世中立』の国は、永世中立であるが故に徴兵制を国民投票で決め、基本法で定めて維持をしている。それは、国家の独立を維持するために何をしなきゃいけないのかっていうことを真剣に考えてきた結果です。そもそも市民国家って何なんだろう、どうして我々スイス人、オーストリア人は、この国家を国王の手から我々市民の手に取り返したのか。それは税と戦争を王の好き勝手にはさせない、という決意によるものです。そして国家を守るために必要な軍隊は、国民の軍隊だから国民が参加するんだ、ということです。 有事法制が国会で審議されていた時に、スイスの『民間防衛』というテキストを何度も何度も読みました。それはどの家にも一冊あり、皆が読んでいるというもので、一般市民が有事の際にどう行動すべきかが書いてあります。スイスだけでなく、アメリカもドイツも、それぞれの国がそれぞれの成り立ちを踏まえて、国家とは何か、軍隊とは何か、国を守るってどういうことか、小さい時からきちんと教わっている。ところが、私は一応大学まで出ているけど、国家とは何かとか、軍隊と警察とは何が違うかって、小学校でも中学校でも高校でも大学でも習わなかったですよ。 日本の大学における憲法学の主流の説では、今でも自衛隊は憲法違反です。私は大学でほとんど(成績が)Aでしたが、自説を書いたら憲法だけCだった。憲法についても、安全保障についても、小学校から高校までは教わらない、大学の法学部で学んだ人は、自衛隊は憲法違反っていう通説を習う、だから素地がないわけですよね。(瀧誠四郎撮影)春香 となると、安保法案に関する国民の理解が進まないのは、日本の教育上の問題もあるということなんでしょうか?石破 根本の問題としては教育もある、ということでしょう。ただ、いま現在、この法案の理解を得るためには、内閣も与党も努力に努力を重ねているけれど、集団的自衛権ってそもそもなんだろうねっていう、イロハのイからお話を始めるっていうのも大事なことかもしれません。 一般的に日本人が親和性というか親近感というか、信頼感を感じているのが国連、『ユナイテッド・ネーションズ』ですよね。『国連のお墨付きがある』って言うと、そうだそうだ、ということになります。では皆さん、なぜその国連憲章にわざわざ『集団的自衛権』が書いてあるんでしょうね、っていう話を、私は少なくとも自分が講演する時にはしています。 第一次世界大戦で多くの犠牲が出て、もう二度とこんな戦争は嫌だっていうので国際連盟が出来ました。でもこの時は、言いだしっぺだったはずのアメリカは参加しませんでした。 それだけが理由ではないけど、この国際連盟は第二次世界大戦を防ぐ事はできませんでした。第二次世界大戦ではもっと多くの犠牲が出ました。その反省を踏まえて、今度つくる国際連合には、アメリカやソ連のような大国には必ず入ってもらわないと意味がないね、ということになった。それで、大国に入ってもらうために、『拒否権』というものを与えようということになった。『他の国が全部賛成って言ってもアメリカが反対したら、国連は動きません』というのが拒否権です。これをアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中華民国に与えて、だから入ってと。じゃあ入ってやろうじゃないかっていうことになったわけです。 国連憲章では、『戦争』というのは違法化されています。侵略戦争はダメ、国際法上違法ですよ、ということです。じゃあ、悪い国が侵略してきたらどうするの、っていうと、その時は国連軍が来て、悪い国は追い払うから安心してくれと。でもここで、さっきの『拒否権』の問題になるわけです。ちょっと待て、アメリカが反対したら国連って来てくれないらしいぞ。アメリカどころか、ソ連もイギリスもフランスも中華民国も、この5カ国のうち1カ国でも反対したら、国連って来てくれないんだってよ、と。それじゃあ困るっていうんで、国連が来てくれるまでの間、自分の国は自分で守っていいですよ、それが個別的自衛権。関係の深い国々同士がお互いに守り合っていいですよ、それが集団的自衛権。これが国連憲章で集団的自衛権をわざわざ認めた意味なんですよ、って言うと、かなりの方々が分かってくださいます。『そうなんだ、国連ってそういうものなんだ』と。 たとえば仮に、ある国が日本に攻撃をしかけたとして、ロシアが反対と言ったら。春香 そうなると、アメリカというか、国連軍は来てくれない訳ですよね。『必要最小限』の『あてはめ』は情勢の変化で変わる『必要最小限』の『あてはめ』は情勢の変化で変わる石破 そう、国連軍は来ない。だから集団的自衛権があるんです。それは『大国と一緒になって世界を侵略する権利』では全くなくて、『大国の横暴から小国が身を守る為にできた権利』なんです。この説明は、かなりご理解頂けていると思います。 『憲法違反だ』という指摘については憲法9条をよく読みましょう、ということに尽きます。 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 このどこに『集団的自衛権はいけない』って書いてあるんですか。どこにも書いてないです。それで、どこが憲法違反なんですかっていうことです。(瀧誠四郎撮影)春香 でも、これまで歴代の法制局長官たちはそう言ってきたような気がしますが…石破 そう、今までそう言ってきた。法制局はそう解釈してきたわけです。武力行使は自国を守るための必要最小限でなくてはならず、集団的自衛権というのはその必要最小限を超えるから、ダメなんだと。しかし、憲法をよく読めば、その『必要最小限』というのも憲法9条には書いていない。それは国際慣習法で定められた自衛権の3要件、①急迫性の武力攻撃があること(即時性)、②他に取るべき手段がないこと(必要性)、③必要最小限度の武力行使に留まること(均衡性)、というものが前提としてあるわけです。憲法9条の『国際紛争を解決する手段としては』っていうところは、『侵略戦争はダメだけど自衛戦争はいいんだよね』っていうことの確認です。自衛権の行使であれば3要件。で、3要件にいう『必要最小限度』というのは、向こうが強ければ上がるし、向こうが弱ければ下がるし、あくまで量的概念であって、質的な概念ではないのです。 そこで、さて、いま皆さんのいる日本を取り巻いている状況っていうのはどうなんでしょう、という『あてはめ』が必要になってくる。要するに自衛権行使のあり方にいう『必要最小限』っていうのは、その時々の状況によって変わってくるものなんです。春香 そういう意味でも、昔と今と比べると条件や状況が変わっているんですね。石破 まさにそういうことです。例えば、日露戦争で機関銃が発明されて、一遍に大勢の犠牲者が出るようになった。第一次世界大戦で飛行機が発明されて、それまでは敵が来るまで何カ月も何週間も時間的な余裕があったのが、何時間か何分かで来るようになってしまった。そして第二次世界大戦でとうとう核兵器ができて、一遍に何十万人、何百万人の犠牲が出るようになり、また量的に拡大した。ましてや今のサイバーの時代はパソコンのキーを叩くだけで、何秒かで国家の機能が停止する。ウチは関係ないもんねって言っているうちに瞬時にして、自分の国に対する重大な攻撃に変わりうる時代なんですよ。 だから解釈変更と言うけれども、法制局の解釈でも『必要最小限』という解釈は変えていない。ただ、『あてはめ』の部分が、このような情勢の変化によって変わるということです。今までは、集団的自衛権はこの『必要最小限』を超えちゃうからダメだと言ってきた、だけど、それって他の国の話だよねなんて言っているうちに、あっと言う間に自分の国に降りかかって来るような時代になったのだから、今まで『必要最小限』を超えると言ってきた集団的自衛権を『必要最小限』の中に入れて、守りを固めないとまずくないか、ということなんです。春香 それでも、法制局長官が国会で『集団的自衛権の行使は認められない』と答えてきたのはなぜでしょうか?石破 法律を作るのが立法、解釈をするのが司法、法制局は行政において法解釈をする立場ですから、実際の事象に照らした『あてはめ』を積極的にするのは彼らの仕事ではなかった、ということかもしれません。 純粋に法律の解釈のみに基づいて言っている人でも、『憲法違反だ』って言うのには二つの流れがあります。日本の大学で教えている通説のように『自衛隊そのものが憲法違反だ』という立場に立っている人は、個別的自衛権もダメなんです。一方、法制局が言っているのは、『個別的自衛権はいいけど集団的自衛権はダメ』っていうことです。この二つの流派があるのに、それがごっちゃになって『反対』と言っている。8月26日には大学の偉い先生方がたくさん集まって反対反対とおっしゃっていた、そこに宮崎(礼壹)元法制局長官など歴代二人の法制局長官が出られてましたが、多分このお二人は後者の流派、『個別的自衛権はいいけど集団的自衛権はダメ』な立場だと思います。一方で、他の大学の先生方の半分以上は、多分『個別的自衛権もダメ』っていう立場ですよ。春香 それぞれ、いろんな立場の人が、いろんな主張をしているけど、なんとなくこう、ごちゃごちゃとしている状況がまさに今なんですね。石破 反対派もそこまで統一しようと思うと分かれてしまうから、漠然と『憲法違反の戦争法案』というレッテルを貼る。だけど、皆さんにはちゃんと考えてほしいんです。戦争戦争と言っているけれど、国連憲章を読んだことはあるんですか。国連憲章において『戦争』はもはや違法なんです。『戦争はしちゃいけない』っていうのは国際ルールなんです。じゃあなんでそんな事を言うんですかっていう話です。『憲法違反』って言われたら、そうおっしゃる貴方はどちらの立場ですか、個別的自衛権もダメという立場ですか、と問うべきでしょう。少なくとも民主党は『そうです』とは言えないでしょうね。社民党、共産党はどうなのか、ちょっと私は分かりませんが、どういう立場でこの人は反対と言っているのかなってことも、よく分析しないといけない。そのように政府も今までやって来たと思うけど、これから先も、成立までみんなで努力する、ということです。理解してもらえなくても諦めたらダメ理解してもらえなくても諦めたらダメ白岩賢太編集長(以下、白岩) いきなり横から入ってすみません。とはいえ、わが国には軍隊はそもそも『悪』だと思っている人もたくさんいます。そういう価値観を持った人たちに今回の安保法案の意味を理解させるというのは至難の業のような気がしてならない。日本史を遡れば、日本人の心の奥底には『軍隊は穢れである』みたいな感覚がどこかにある。よく、作家の井沢元彦さんがおっしゃっていますが、そもそも平安貴族にとって、都を守る武士は『穢れ』そのものであり、決して近づけようとしなかった。いまの時代で言えば、自衛隊というのは、平安時代の武士のような感覚で毛嫌いする人も結構いて、自衛隊という存在をそもそも生理的に受けつけない人が果たして安保法案をどこまで理解できるのか。いや、もしかして永遠に理解されないことだってあり得るという気はしませんか?(瀧誠四郎撮影)石破 軍隊と警察の違い、というのも、防衛庁長官の頃から折に触れて講演してきたことではあります。国の独立を守るのが軍隊であり、国民の生命財産や公の秩序を守るのが警察なんです。似たようなものに見えるかも知れないけど、全く違うのです。軍隊は国の独立を守るためのものだから、その力は国の外に向かってしか使っちゃいけない、軍隊の力は絶対国民に対しては使っちゃいけないものです。一方、警察は国内にいる悪い人から国民の生命財産や公の秩序を守るものだから、特別な協定がない限り、東京警視庁が北京に行って活躍してはいけない。日本にニューヨーク市警が来て活躍しないのと一緒で、日本の警察が外国に向けてその力を発揮することはない。つまり、国内的なものが警察で、対外的なものが軍隊です、何故なら守るものが違うからです、っていうことです。 国の独立を守るって何ですか。国家というのは領土と、国民と、統治機構でできているから、それらが侵された時にそれを排除するということです。それがなくて、どうして国の独立が守れるんですか。だから、『軍隊はいらない』っていっている人は、『独立はいらない』って言っているのと一緒だと思います。 じゃあ、何で独立が必要なんだ。例えば、日本においては、産経新聞が何を書こうが、朝日新聞や東京新聞が何を書こうが、言論の自由は保障されています。どんな神様を信じても、信教の自由は保障されています。基本的人権といわれるもの、あるいは言論の自由、報道の自由、結社の自由、それを守れるのは日本国、国家だけです。日本人の権利や自由を、他の国が守ってくれることはありえない。国民一人一人の権利や自由を守るために国家は存在するのです。その国家自体が外敵から侵された時に、それを排除しなければ、国民の権利や自由は誰が守ってくれるの。 向こうが武力で来たら武力で抗するしかない。だから急迫不正の武力攻撃がなければ、自衛権は発動しちゃいけないし、外交交渉で解決できるものがあれば、外交交渉によるのであって、だからこそ『他に取るべき手段のない時』って言っているわけじゃないですか。『倍返しだ』なんてことは言っちゃいけない、必要最小限度のものしか使っちゃいけないよ、ってなっているんです。軍隊が穢れだなんてとんでもない話で、国民一人一人の権利や自由を守ってくれるのは国家、その国家を守るために軍隊はあるのです。皆さん方、この国会でいろんな事をおっしゃる。安倍政権に対して罵倒的なことまでおっしゃる。でもそれはきちんと保障されている、それは国家があるからでしょう。白岩 なるほど。僕自身は理解できますが、やはり軍隊を『悪』だと決めつけている人は、それでも理解できないかもしれません。石破 でもね、変わらないって諦めたらダメなんですよ。説得するっていうのはそういうことなんじゃないかと思います。軍隊は国家権力を笠に着て国民を苛めるものだと思っていませんか、と。今の自衛権の3要件を見てください、法案をちゃんと読んで、国連憲章を読んでください。昔の特高警察や憲兵のように、国内に向かって力を使うようなことはできません。『いつか来た道』にはなりません。今、自衛隊は、国外から侵略して来た勢力に対してしかその力を使いません。それは国民の自由、権利を守ってくれる国家そのものを守るためなんです。と、今までこういう風に色々なところで説明してきて、説得力のある反論をされたことはないと思いますよ。有事法制は一般市民を戦場から避難させるための法律有事法制は一般市民を戦場から避難させるための法律春香 じゃあ、今まさに国会前でデモをしているSEALDsのような、反対派の人たちに対して大臣自身が何か訴えるとしたら、何を一番伝えたいですか?(瀧誠四郎撮影)石破 『安保法案は戦争をしないための法案です』っていうことじゃないでしょうか。さきほどから言うように、有事法制の時にも『戦争法案、戦争法案』って言われて、私も何度も国会で答弁しました。これは、『なんで大東亜戦争で大勢の民間人が犠牲になったのか』ということに通じる話なんです。沖縄でもそうだけれども、『戦場』に民間人がいたからです。当時の日本人、沖縄の人たちも、『軍隊さんと一緒にいれば安全だ』って思ってしまって、軍隊と共に行動してしまって、亡くなってしまった。戦争の時には軍隊と行動しちゃいけない、そもそも市民は戦場にいちゃいけないんです。それを国として、政府として徹底しなかった。東京大空襲の時も防空法ってあったのに、内務省が所管するのか陸軍省が所管するのかって大喧嘩ばっかりして、民間人の避難を進められなかった。雨あられと爆弾が落ちた時に、疎開という名で地方に避難できていたのは子供達だけでした。女性も老人も、いわゆる非戦闘員がいっぱい残っていて、大勢の人が亡くなった。 戦後、なんでこんなにたくさんの人が死んだんだとアメリカのほうが疑問に思って、『戦略爆撃調査団』っていうのを日本に送ったんです。たとえば、私の地元である鳥取市では、アメリカは空襲をいついつやりますってビラを撒いたそうです。『みんな避難しなさい、アメリカは罪の無い市民を殺すつもりはありません、何月何日に鳥取市を爆撃しますよ』と。それはみんな憲兵隊に回収されて、結局、罪もない人たちが大勢亡くなった。 有事法制っていうのは、そういう時に一般市民、民間人を戦場から避難させるための法律なんです。そして有事法制がなければ、戦車も赤信号で止まらなきゃいけなかった。道路交通法に例外規定がなかったからです。阪神大震災の時にパトカーも救急車も消防車も赤信号を無視して突っ切る中で、自衛隊車両は全部赤信号で止まった。自衛隊の車は緊急車両じゃないですから。クルクル回る赤いランプは付いてませんし、サイレンも鳴らしていませんから。そんな馬鹿なことは直さなきゃいけない。有事の際に、自衛隊が最前線に出られなかったらどうするんだ。日本に攻めて来た国の戦車は赤信号では止まらないんですから。あるいは、大勢の人が怪我したので野戦病院を作りたくても、有事法制がなければ野戦病院を作るのに厚生労働大臣の許可を取らなければいけなかった。まあ一カ月はかかりますよね。それじゃあ、助かるはずの人も死んでしまう。 仮に、日本を武力で攻撃してやろうっていう意図のある国があったとして、自衛隊はこんな状態で最優先で戦場には出てきません、あるいは戦場には市民がうろうろしていて格好の標的です、だったらやってしまおうか、という『隙』を与えるわけですね。そうじゃない、そんなことになったら、市民は戦場にいないよ、自衛隊は速やかに対応するよ、そうしたらその国は『やっても勝てない』と思って諦めるかもしれない。それを拒否的抑止力といいますが、有事法制ってそういうものなんですよ、っていう説得を、私は延々と国会でしていたわけです。この時は、最後は民主党も賛成して、有事法制が成立しました。白岩 集団的自衛権については今回、限定的な容認について議論しているわけじゃないですか。そもそも、なぜ限定的になったのか? 石破さんご自身の中には、もしかすると忸怩たる思いみたいな感情はあったのでしょうか。これは失礼な言い方かもしれませんが、結局は妥協の産物だったという見方はやっぱり言い過ぎですか?石破 『集団的自衛権』という言葉自体に国民的な反発も凄く強いから、本当に日本国民の平和と権利を根底から覆されかねない場合、つまりみんながどう考えても使わなければ国民の権利や生命財産が守れないと思う場合に限って行使を容認しましょうと。だから国際標準の集団的自衛権の概念からは少し違うものになっているけど、それは悪意に基づくものでもなんでもなく、せめてこれだけは必要でしょ、という考え方なんじゃないでしょうか。春香 だったら憲法を改正して集団的自衛権の行使を認めるようにすればいいじゃないかって、よく言われますけど、たとえ限定的ではあっても、いま進めなければならないってことですか?石破 繰り返しになりますが、私たちの考え方として、従来の自衛権についての憲法解釈のコアな部分、つまり『必要最小限』という部分は変えていないんです。今まではその中に『集団的自衛権』は入らない、としていたけれども、いまはその『必要最小限』の中にも『集団的自衛権』と国際法上言われるもののごく一部が含まれるんじゃないでしょうか、ということなので、憲法の改正は必要ないと思っています。しかし今の法案の話とはまた別の話として、そもそも日本国憲法は日本国が独立していない時にできた憲法なので、独立を維持するために必要な『軍隊』について条文に書いてないのは、ある意味当たり前のことなんです。 だから独立して3年後に結成された自由民主党が憲法改正を党是に掲げたのは、独立してない時に出来た憲法だから、条文に軍隊が盛り込まれていないので、そこをちゃんと補充しようよと訴えたという、すごく論理的な話だと思います。今のままでは憲法改正を実現するのは無理今のままでは憲法改正を実現するのは無理(瀧誠四郎撮影)春香 安全保障に関する議論をこれから先も続けていく上で、やっぱり日本国憲法が足枷になるのは目に見えている。たとえ憲法改正が自民党の党是ではあっても、今のままでは憲法改正を実現するのは無理ですよね。石破 そうですね。でも無理だって諦めてしまったら何にもできないんですよ。私ももう十数年ずっと『なぜ憲法改正が必要なのか』という話をしてきています。独立国家とは国民の権利をきちんと守る事ができる国家のことなのだから、独立国家たる日本に相応しい憲法が必要だ、ということです。『国家というのは悪で、国民の権利を蹂躙するものだ』という反対論がありますよね。そうじゃありません、国民の権利を守るための国家なのです、それは考え方が全く違います。軍隊を持たない国というとコスタリカが挙がりますが、そもそも軍隊を持てるだけの状況にない、あるいは周囲に全く脅威がなく持つ必要がない、という違いを考えなければいけない。小国でも例えば2002年に独立を果した東ティモールには軍隊があります。日本は独立当時PKO任務で多くの自衛官を派遣していました。東ティモールが独立する時の大統領で今、首相を務めるシャナナ・グスマン氏とは、国家の独立とは何かという話を随分としました。国民の権利を守るための国家、その国家を守るための軍隊、これを一人一人なるべく多くの国民のみなさんに話していくしかないでしょう。春香 なるほど。でも、日本にいる限りは、リアリティがないと感じることがあります。だって戦後70年、一度だって日本が他国から侵略されたという事実はないわけですから。石破 でもリアリティを持ったら終わりですよね?春香 そうなんですよ。だからリアリティを感じたら終わりだってことを分かっていながら、どうしても理解できない。戦後70年間、一度も他国に侵略されなかったから、おそらく今後100年たっても侵略される事はないだろうって、どこか安心感みたいなものがある。多くの国民にとっても、実はこれがリアルな感情なのかなと思ってしまうことがあります。石破 そうすると歴史のイロハのイまで戻らないといけない。春香 そうなんですよ。結局は歴史の勉強になってしまう。戦争のネタはこの世の中いくらでもある戦争のネタはこの世の中いくらでもある石破 人類の歴史って戦争の歴史でしたよね。たまたまここ70年、世界的な大戦争が起こってないだけの話で、戦争のネタはいっぱいある。日本人は12月24日のクリスマス・イヴにクリスマスおめでとうと言い、一週間経つと大晦日で除夜の鐘を突き、その足で初詣に行くわけだから、一週間に三つの宗教行事をこなす不思議な国民なんですよ。そして私は何回聞いても、イスラムのスンニ派とシーア派のどこが違うかよく分からないんですよ。春香 なるほど。石破 同じイスラム同士で殺し合いをするわけですよね。宗教をめぐって戦は起こる。日本人が鈍感なだけのことです。領土をめぐっても戦は起こる。アルゼンチンにフォークランドを取られたら、イギリスは大艦隊を送って大戦争を起こして取り返した。民族が違っても戦争が起こる。政治体制が違っても戦争が起こる。経済間格差があれば戦争が起こる。戦争のネタっていうのは、この世の中いくらでもあります。冷戦の時代は、世界はアメリカに付くものとソ連に付くものとに大体二つに分かれました。しかしそれぞれの親分である米ソ両国は核兵器を何千発と持っていて、お互いが撃ち合ったら地球が何回滅びても足りないと分かっていたから、とても恐くて戦争なんかできないということで「冷戦」だったわけです。でもソ連が崩壊してアメリカ一強になったら湾岸戦争が起こり、イラク戦争が起こり、あっちこっちでやれ民族だ、やれ宗教だ、やれ領土だと戦が起こるようになった。なんで『今まで戦がなかったからこれからもない』なんて言えるんですか、違うでしょう。ましてや9.11以降は、国家ですらないテロリスト、テロ集団が、従来は国家にしかできなかったような大規模な破壊行為を行えるようになってしまった。大変な時代なんですよ。だからこそ、あのときから営々と政府は有事法制を整備し、テロ特措法を作り、イラク特措法を作ってやってきた。その延長線上に今回の法制はあるんです。それはリアリティがないからこそ、平和な時にやらなきゃいけない。戦争の時になって法案作っても遅いんです。白岩 日本の歴史をひも解けば、リアリティを感じた時に初めて国民が軍隊の必要性に気づいたという歴史的事実はあった。例えるなら、鎌倉時代に元寇という国難があったとき、多くの民は元の侵略を退けた武士が頼りになる存在だと実感した。自分が本当の危機にさらされない限り、それが分からないという感覚も、人間の本能というか、感情なのではないでしょうか? 『平和ボケ』って言葉で片付けてしまえばそうなのかもしれない。石破 だから、先ほど言ったように、なぜドイツが長く徴兵制を維持してきたのか、なぜ永世中立を唱えるオーストリアやスイスが徴兵制を維持しているのかを考えることが大切なんです。これらの国では、平和はみんなが努力しなければ保てないものなんだ、きれいごとの世界じゃない、ということを徹底して教え込まれている。ドイツが日本と同じ敗戦国でありながら徴兵制を維持してきたのは、軍隊は市民の中にあらねばならず、市民と軍隊が乖離したからナチスが台頭したという反省に基づき、常に軍隊は『軍人である前に市民であれ』という意識を徹底しているからです。さすがにハイテクの塊のような現代の軍隊で素人を使う徴兵制を続けるのは難しいので今は停止されていて、フランスも同じ理由で徴兵制をやめましたが、フランスには『国防の日』という制度があって、徴兵年齢に達した男女がフランスの安全保障政策や軍の考え、装備などを学ぶ。これをしないと大学の入学資格も運転免許ももらえないんですよ。これが、皆が『自由と平等と博愛の国』と言ってるフランスです。平和の憧れのスイスは徴兵制です。そういえばスイスのパンはおいしくないですよね(笑)。春香 そんな事はないと思いますよ(笑)。(瀧誠四郎撮影)石破 たぶん、おいしくないんです(笑)。これには理由があって、スイスではその年に取れた小麦ではパンを焼かないんだそうです。一年分は備蓄するからです。農林水産大臣だった時、スイスのロイタードという女性大臣と議論した時に聞きました。スイスの卵は高いんだそうです。隣のフランスから輸入すれば安く手に入るのに、スイス人はスイスの高い卵しか買わない。その理由は、フランスの卵を買ったら罰金があるとかいうわけではなくて、スイスの卵を作っている農家があってこそスイスの独立があるんだと教育しているからだそうです。国を守るのは軍隊だけの問題ではないと。春香 自分達の国を、農家を守りたいっていうことなんですね。石破 そういうことですよね。本当の話だからね、これ(笑)。こういうね、皆が憧れるスイス、皆が憧れるフランスはどうしてるんだっていうことも、もっときちんと広めるべきだと思うんです。春香 そうやって考えると、日本人とフランス人の意識も、歴史的な背景や地の利の部分もあるのかもしれないですけど、まったく違いますよね。石破 違いますね。日本人は、最後はアメリカが何とかしてくれると思ってるんじゃないでしょうか。でもアメリカだって、自国の国益に適わなければ戦わない。その時に気がついても遅いんですよ。私はそんな事態にはしたくないから、ずっとこの仕事をやってきたんです。春香 今回の安保法制の問題で言えば、アメリカが内向きな考えに変わったことで、日米同盟や日米安保が揺らいでいるという見方がありますよね。実はそういう背景もあって、安倍総理が法案成立を急いでいるという指摘はいかがでしょうか?石破 別にアメリカの力が落ちてきたからそれを補うために集団的自衛権の話をしてるわけじゃありませんよ。もしそうであれば、日本は部分的ではなく、フルスペックの集団的自衛権を認めなければ意味がないでしょうね。そうでないと論理が通りません。それだけが理由だったら、『何だアメリカの理屈かよ』って話になるでしょう。そうじゃなくて、我が国の独立と平和をこれからも維持するために必要だから成立をめざしているんです。春香 わが国の安全を守るためには、やっぱりアメリカが日本離れになってしまっては困るわけですよね。石破 同盟には、『同盟のジレンマ』っていうのがあります。『巻き込まれる危険』と『見捨てられる危険』、同盟っていうのは常にそのジレンマを抱えるものです。自分は関係ないのに相手の戦争に巻き込まれるのは嫌。でも、自分が危機に瀕しているのに見捨てられるのも嫌。どうやってそのジレンマを解消していくかが同盟のハンドリングです。それは同盟というものが、単なる紙切れ、条約一枚ではないことと同義なんですね。お互いの努力がなければ同盟関係は良好に維持できない。日本国を守ることがアメリカの利益でもあるとアメリカが思わない限り、日米同盟は継続できません。どの国も自分の利益、自国の国益が第一に決まってます。だから、集団的自衛権を限定的に認めることによって、アメリカが『やっぱり日本は守った方がいいな』と思えばそれはそれで良いこと。だけど、法案の集団的自衛権の目的はあくまでも日本国の防衛であって、同盟だけが理由ではないということです。国民がどんな議員を選ぶかにかかっている国民がどんな議員を選ぶかにかかっている春香 いまさら愚問かもしれないですけど、今回の限定的容認によるメリットとデメリット、逆に国民にとってはリスクというか、こういう事に巻き込まれてしまう危険性というのは何でしょうか?石破 メリットは、抑止力が向上して、日本がこれからも平和でいられる環境を整えられること。巻き込まれるかどうか、という議論は、本質的には同盟がもともと持っているものだから、集団的自衛権の行使と直接関係するわけではないと思います。でも状況を判断して、このままでは日本国の存立自体が危うくなる、だから集団的自衛権を行使しなければならない、となったら、最終的には議会が承認するかどうかにかかってますからね。ということは、どんな議員を選ぶかにかかっているということです。本当に軍事について見識があり、国益をきちんと認識している、そういう議員を国民が選出していれば、ただ巻き込まれるだけのような戦争に集団的自衛権を行使して参加したりはしないでしょう。春香 いくら法律が良くても、それをどういう人が操るかによって左右されるということですよね。石破 そうです。その議員を選ぶのは国民ですから、歯止めといえばそれが最大の歯止めです。猪瀬直樹さんが著書『昭和16年夏の敗戦』で書いていることは、多くの方に知っておいていただきたいと思うんです。『昭和20年夏』ではなく、『昭和16年夏』です。その昭和16年の夏に、当時の陸軍、海軍、大蔵省、外務省、内務省などの主要な官庁、日本銀行、同盟通信など主要な企業の三十代の最も優秀な人を集めて、今のザ・キャピトルホテル 東急の辺りに総力戦研究所というのを作って、内閣が今で言うシミュレーションをやらせたんです。そこで出た結論は、対米戦争は絶対に負ける、何をやっても勝てない、ゆえにいかなる理由があってもこの戦争はしてはならない、というものでした。それでも大日本帝国は対米開戦した。何故でしょうね。春香 止められなかったんですね。石破 そうです。もうここまで来たらやむを得ないと。陸軍は陸軍で、海軍は海軍で、戦争なんかできませんと言ったらもう予算をやらないと言われていた。これだけ莫大な国家予算を注ぎ込んで陸海軍を作ってきたのは何のためだと。 アメリカと戦争できない陸海軍だったら予算はやらないと。その時に陸軍大臣の東条英機が言ったと言われる言葉が残っていて、『戦は時の運。やってみなければ分からない』。だけど当時の一般国民は、日本の国力がどれほどで、アメリカの国力がどれほどかを知っていたか。春香 知らなかったですよね。石破 知らなかったですよ。むしろ言われていたのは『鬼畜米英』、アメリカは鬼だ、イギリスは獣だ、叩くべきだと。そしてアメリカなんぞは民主主義の国だから、一回最初に叩いてしまえば、怖気づいた国民が戦争反対となって和平に持ち込めるんだ、などという出鱈目を国民に教えて、二百万人が犠牲になった。(瀧誠四郎撮影)春香 そういう事態にならないためにも何が必要ですか?石破 主権者たる国民に、きちんとした情報を開示して、知識をもってもらうことです。そして感情的に煽らないことです。煽るのが一番危険ですよ。それで戦争になったのですから。春香 その当時は国民が知らなかった訳ですよね。今というか、どの状況でもそうですけど。国民がそれを正しいかどうか判断するのってなかなか容易ではないと思います。石破 だから報道機関の役割は大事なんでしょう。まっとうな情報と知識を伝えるのが報道機関の役割であって、煽る事じゃないでしょう。そこはさっきも申し上げたけれど、例えて言えば、どれだけ産経新聞をいわゆる左派の人に読んでもらうかというような努力ではないでしょうか。『煽らない』というのは、いわゆる左派でも、極端な右派でも同じことだと思います。そういう意味では、単なる感情論的な中国や韓国への反対論もそうです。中華人民共和国という国が分裂・崩壊したら、我が国もそれこそただでは済みません。しかし、経済が資本主義で政治が一党独裁という国家形態は、安定的でサステナブルなものとは言い難い。資本主義は貧富の格差を生み、権力と資本の癒着を生むものです。そうならないために一般的な資本主義国家においては福祉システムを整備して格差を縮小し、三権分立や独占禁止法など様々な手段によって権力と資本との癒着を防いでいる。果たして中国においてそれが可能なのか。中国という国家の崩壊、核兵器を持った国の分裂は、ソ連の末期を考えればどれほど危険なことか想像がつくと思います。だから政治家も含めて実務家には、中国が好きだとか嫌いだとか言う余裕はないんです。我々が考えるべきは、あの国が安定的に発展し、海外に覇権を求めず、資源と食糧を求めて海外に出ないために何ができるんだっていうことです。安全保障というのはリアリズムに徹すべきものであって、イデオロギーの世界ではないんです。

  • Thumbnail

    記事

    一色正春の直言! 安保法制「まっとうな反対論」とは何か

     まっとうな反対論を述べるのであれば、自衛隊の法的地位は避けては通れない問題であり、それこそが日本の安全保障における最大の問題点です。違憲か合憲かを問うのであれば自衛隊の存在自体を問うべきなのです。それを曖昧にしたまま自衛隊を海外に送り出すから、自衛官が国内では非軍人、国外では軍人として扱われるという奇妙な事態が生じるのです。これは自衛官が国際法に従えば国内法に違反し、国内法に従えば国際法に違反するという事態を招きかねず、自衛官のリスクを論じるのであれば、真っ先に論じられなければいけない問題点です。 そして、この法案のどこが不完全なのかと言いますと、国際的な平和維持活動など自衛隊の活動範囲が広がり、それに合わせて一部武器使用の要件も緩和されましたが、その根拠は警察権の域を出ていません。これでは万が一自衛隊が紛争に巻き込まれた場合、日本だけが手足を縛られたまま戦わなければならなくなります。政府は、「だから自衛隊は危険区域では活動しない」と言いますが、100パーセント安全なところで、道路や橋をつくったり、物品を輸送したりするのであれば、民間の土建業者や運送会社に任せれば良いだけの話です。そもそも100パーセント安全な派遣先などあるはずがないのですから、机上の空論で自衛官の安全を語るのではなく、実情に沿った装備(法的なものを含む)を整えたうえで自衛隊を海外に送り出すべきなのですが、今回の法案では、それが不十分に感じられます。 それに「自衛隊が○○をするには当該外国等の同意があること」などと、在外邦人の保護などを行う場合は、その国の政府機能が正常に働いていることを前提とした活動条件を定めていますが、本当に自衛隊の力が必要とされるのは、派遣先の国内に混乱が生じ、その国の政府機能が麻痺しているようなときです。例えば朝鮮半島で、戦争が再開されれば、前回のように政府機能がまともに働かない事態が予想されます。たとえ彼の国の政府機能がまともに動いていたとしても、彼らは自衛隊が自国の領域に入ってくることを拒むでしょう。そのようなときに、我が国は観光客を含めて数万人の在韓邦人や北朝鮮に囚われている拉致被害者を見殺しにするのでしょうか。今回の安保法制に足りないのが、このような現実的な視点での自衛官を含む自国民の生命の保護という観点です。 一国の軍隊の行動は、その国の姿勢をあらわします。自衛隊が、海外では軍隊とみられているにも関わらず、安全な区域でしか活動しないということは、日本という国は危険なことは他国任せにする無責任な国であるとの誹りを受けても仕方がありません。世界中の国の中で日本だけが軍隊ではなく、なぜ自衛隊なのか、なぜ自衛隊でなければいけないのか、今一度、我々日本人はこの安保法制をきっかけに自衛隊というものを見つめなおす必要があるのではないでしょうか。

  • Thumbnail

    テーマ

    「戦争法案」と叫ぶ平和ボケ論者に問う

    政府が今国会での成立を目指す安保法案をめぐり、与野党の攻防が一段と激しくなっている。国会前では「戦争法案反対」と主張する学生らのデモが続く。日本を取り巻く脅威には目を背け、まるでお経のように「護憲」と「恒久平和」を唱える人々に問いたい。もう机上の空論はやめませんか?

  • Thumbnail

    記事

    自衛隊員の本音を聞け~災害派遣とPKO活動の現場から

    覚える。  むしろ急務なのは、“国防最前線”の自衛隊の行動についての法的基盤やROEを定め、安全保障体制を構築することではないだろうか。それこそが“普通の国ニッポン”になることではないか、と筆者は信じる。 せら・みつひろ 1959年、福岡県出身。中央大学文学部フランス語文学文化専攻卒。時事通信社を退職後、集英社フリー編集者を経て、99年に独立し現在に至る。現場第一主義でフィリピン革命や天安門事件、湾岸戦争などをはじめとして世界の紛争地を回り、ルポを発表する。著書に『世界のPKO部隊』(三修社、共著)、『坂井三郎の零戦操縦(増補版)』(並木書房)など多数。

  • Thumbnail

    記事

    安保法制で考えておくべきこと…国会議員の安保への無知

    )肩書はいずれも当時 自衛隊の最高指揮官である総理大臣も、指揮命令をする防衛大臣も、本来ならば外交、安全保障に精通していなければいけない。しかし、当時の橋本総理は、軍事オタクと言われる石破茂元防衛大臣を上回る軍事知識を持っていたが、そんな政治家は稀だということもわかった。選挙で外交や安全保障の見識が問われない、いや、それでは票にならない。この事実は政治家にとって宿命的なものなのだ。 「シビリアン・コントロール」と称して、政治が自衛隊をコントロールするという建前にはなっているが、知識や経験のない政治家がそれをまっとうできるわけもない。実際に軍事行動を経験していない自衛隊自身も、海外で他国軍と共同でオペレーションできる能力はまだまだ不十分だし、その戦略も机上でのそれにすぎない。専守防衛を旨としているが、自衛隊も世界からみると、ある意味「軍隊」とみられてもやむをえないことを考えると、その指揮命令をこの程度の政治家にゆだねることなど危険極まりないと思ったのが、いまの私の原点なのである。 安保は、理想を語れば良いというものではない。ましてや、「机上の空論」であってもいけない。仮に理屈や論理では正しくても、現実には、その通りにいかないのも安保である。だからこそ、自衛隊の海外活動には、しっかりとした歯止めをかけなければならないのだ。 戦争というのは、言うまでもなく「人と人の殺し合い」だ。特に罪のない民衆、弱い者に悲惨な結末をもたらす。本来、ぎりぎりの外交的手段を尽くし、それでもだめなら、最終最後の手段としてやむを得ず行使されるべきものだ。そして、その場合も、「自衛権の行使(自衛戦争)」か「国連決議による場合」に限られるという、国際社会のルールにのっとらなければならない。 今年は戦後70年。あらためて苦難の人生を歩まれた先人たちに思いを致し、その上に立って幸福を享受している我々世代の責任を深く自覚し、後の世代に恥じない日本をしっかり遺していかなければならない。

  • Thumbnail

    記事

    「安保法案」成立で永遠に不可能になるかもしれない憲法9条改正

    古谷経衡(著述家)   「持っているが使えない」の異様さを梃子として 所謂「安保法案」が16日、衆議院を通過、参院に送られた。これにより同法案の成立は確実となった。国会の内外で喧々諤々の論争が巻き起こる中、私はこの採決の様子を万感迫る思いで見つめていた。安保法案の成立によって、日本の防衛力は着実に増強の方向にすすむだろう。2014年の集団的自衛権の憲法解釈変更と合わせて、私は一定程度、この安保法案の通過を評価する立場にある。 しかし一方で、これで憲法(9条)の改正は相当、遠ざかるだろう。いやもう永遠に無理かもしれない。そのような思いから、私は安保法案の通過を複雑な心境で見つめていた。衆院本会議で可決した「安保法案」に拍手する安倍総理と石破氏(写真:ロイター/アフロ) 「我が国は国際法上、集団的自衛権を保有するが、その行使は許されない」との政府見解が出された鈴木善幸内閣の1981年以来、約30年に亘って続いてきたこの解釈は既に述べたとおり2014年に変更された。しかし、この「持っているが使えない」という集団的自衛権に関する珍妙な解釈は、この間、憲法改正を目指す保守派(以下改憲派)にとって、「憲法9条改正の理由」として必ず引き合いに出されるロジックであった。 「集団的自衛権は、国連憲章に書いてあるように、国家が生来持つ自然権である」という自然権説を改憲派は必ず引用し、「だのに、日本がそれを行使できないというのは、異常である」と現行憲法の「特殊性・異常性」を指摘し、「異常だからこそ、憲法9条を改正するべきなのだ」と長年主張してきた。『日本人のための集団的自衛権入門』(新潮新書)の中で石破茂は、JRの座席指定券の例を出し、鈴木内閣以来の集団的自衛権解釈の「矛盾」を以下のように形容する。 あなたがJRの指定券を持って、指定された席に座っていたとします。その席に座るのは当然指定券を買ったあなたの権利であり、その権利の行使として実際そこに座っています。そこへ突然誰かがやってきて、「ここに座っているのはたしかに君の権利だが、しかし座ることは出来ないのだ。私に席を譲りなさい」と言われたとしたら、いったい何がなんだか分からなくなりはしないでしょうか。出典:『日本人のための集団的自衛権入門』(新潮新書 石破茂著 P.71) 確かに、こう言われれば明確な理論展開だ。権利の保有は行使と普通イコールと考えられるのだから、「持っているのに使えません」というのは、常識的な皮膚感覚の中では、異様な解釈のように思える。この「異様性」を強調して、「だからこそ、(異様な)憲法9条を改正するべき」という改憲派の主張には、この間、一定の説得力があったように私には思える。盛り下がる改憲機運の理由 図は、日経リサーチ社による、直近10余年における憲法改正に関する世論調査(各4月)の推移を筆者がまとめたものである(数値は全てパーセント)。これを見ても分かる通り、調査開始年の2004年(小泉内閣)時代、赤字で示した「改憲」と青字で示した「護憲」は、約2倍の開きがあって改憲派が相当優勢であった。実際には、調査方法や媒体にもよるが、概ね改憲を志向する世論は、1990年を過ぎてから一貫して護憲を上回るようになっている。 これは所謂、金だけを拠出してクウェートによる感謝状に日本の名前が載らなかった「湾岸戦争ショック」を始めとして、冷戦後の国際情勢の変化に際して世論が敏感に反応したことと、既に述べたように改憲派が現行憲法を「異様」なものであると訴え、現行憲法のままでは集団的自衛権の行使が不能であり、よって国際社会から日本が孤立化することを盛んに喧伝した効果が含まれていよう。 繰り返すように、先にあげた石破の「指定席の話」に代表されるロジックには、相応の説得力があったので、このような改憲の傾向はゼロ年代にあっても、上下はあるものの2014年の第二次安倍政権下でも強いものがあった。日経の調査によれば、最も改憲機運が高いのが2013年4月の調査であり、「尖閣諸島沖漁船衝突事件」(2010年)等に代表される「中国脅威論」などが影響していると思われる。 しかしこのような「改憲優勢」の機運は、図を見てもわかるように2015年の4月の最新調査で、僅差だがここ10数年で初めて護憲が改憲を上回った。他に各社世論調査の最新動向によると、「憲法改正不要48%、必要43%」(朝日新聞5月1日報)、「憲法改正賛成42%、反対41%」(読売新聞3月15日報)など、ここ十数年の「改憲優勢」の世論が、初めて逆転するか拮抗するかの情勢となっていることが明らかである。 つまりこの世論の動きは、「現行憲法が異様であるから、日本国憲法を改正するべきだ」という従来改憲派が繰り返して来た改憲のためのロジックが、昨今の集団的自衛権の解釈変更と、安保法案の成立により「解消された」と評価されているということだ。よりわかりやすく言えば、「現行憲法下で集団的自衛権が行使できるということになれば、わざわざ憲法を改正するまでもないのではないか」という、これまた普通の感覚で改憲派のロジックが弱体化してしまった結果なのである。「最良の時代」であり、「最悪の時代」でもある これまで護憲派は、主に「現行憲法を変える必要はない。なぜなら、解釈改憲でこれまでも通用してきたからだ」と改憲派を牽制してきた。それに対して改憲派は、「解釈改憲では限界がある。例えば集団的自衛権があるではないか」と、反論してきた。今回、安保法案が成立したことで改憲派は集団的自衛権を担保とした改憲ロジックを事実上、封印されたことになる。憲法を変えないまま、集団的自衛権の解釈を変更し安保法制が成立したとなれば、「何のために憲法を変えるのか」という疑問に抗しきれない。 先に引用した石破は、「現行憲法下で集団的自衛権の解釈変更は可能だ(2014年2月)」と明言し、「集団的自衛権の行使の根拠は憲法ではなく、政策判断にすぎない」として、(集団的自衛権の行使を)憲法にその根拠を求めてしまったこと自体が誤りではなかったのでしょうか。憲法9条のどこを読んでも、「集団的自衛権は行使できない」という理論的根拠を見出すことは出来ません。そもそも解釈が間違っている、いない、という論争ではなく、これは政策判断であったのだとすれば、何も憲法を改正しなくても行使は可能となるはずだ、と私は考えています。出典:前掲書P.78、括弧内筆者 としている。確かに、石破の指摘通り政策判断にすぎないとなれば憲法改正の必要性はない。しかし、長年改憲派が依拠してきた憲法改正の重要な根拠は、「持っているのに行使できない」という政府の憲法解釈を日本国憲法の異様性に結びつけることで成り立っており、その部分が達成された(解消された)となると、いみじくも石破の指摘の通り「何も憲法を改正しなくとも…」という結論に達し、改憲機運は弱まるのは自然だ。 改憲派は憲法9条によって日本が手足を縛られ、冷戦後の国際環境下では日米同盟にヒビが入り、日本の存立をも危うくなることを盛んに喧伝して憲法改正を訴えてきた。今回の安保法制の通過(成立)によって、改憲派が唱えていた最大の理論的支柱が失われ、憲法改正の国民的機運は急速に衰えているのは既に示したとおりである。むろん、政府は集団的自衛権の解釈変更と安保法制の成立をもってしても、「憲法9条の縛り」があることを強調しているが、その理屈は相対的に弱まってしまうのは必然だ。 「戦後レジームからの脱却」を掲げ、その最大の争点を岸総理からの「憲法改正(自主憲法制定)」として捉えてきた安倍総理と改憲派にとって、今回の安保法制は実質的な意味では憲法改正に近いものであるが、名目的には却って、憲法改正が著しく遠ざかったことを意味する。 安倍総理は就任翌年、「96条の改正」(改憲要件緩和)を目指したが肝心の改憲派・保守層からも批判にさらされ、参議院選挙の争点とすることを断念した。思えばこの時に既に、安部総理は、名目上の憲法改正を断念していたのかもしれない。 「憲法9条改正」は、自民党にとって、保守派にとって、最大の悲願であり目標であった。それは現在も変わっていないものの、実質を取って名目を捨てた(ように思える)安倍政権は、「中国の脅威が増す中で、やむを得ない現実主義」と形容されるのか、はたまた「永遠に憲法改正の可能性を摘んでしまった」と形容されるのかは、後世の歴史家の評価に委ねられるだろう。 しかし私流に、現在という時代を観測すれば、それはディケンズの『二都物語』の言葉を借りて次のように評するよりほかない。 「それは(保守派にとって)最良の時代であり、また最悪の時代であり…」

  • Thumbnail

    記事

    なぜ憲法学者は「集団的自衛権」違憲説で一致するか?  

    PAGEより転載) 憲法学者の長谷部恭男・早稲田大教授と小林節・慶応大名誉教授が、衆院憲法審査会で安全保障関連法案を「違憲」と指摘した。長谷部教授は「95%を超える憲法学者が違憲だと考えているのではないか」とも語る。憲法学者による疑義に対し、菅官房長官は、「安保法制を合憲と考える学者もたくさんいる」と反発したが、後日、「数(の問題)ではない」と述べ、事実上前言を撤回した。そもそも、なぜ圧倒的多数の憲法学者が集団的自衛権を違憲と考えるのだろうか。憲法が専門の木村草太・首都大学東京准教授に寄稿してもらった。1.集団的自衛権はなぜ違憲なのか 6月4日の憲法審査会で、参考人の憲法学者が集団的自衛権行使容認を違憲と断じた。このことの影響は大きく、政府・与党は釈明に追われている。もっとも、集団的自衛権行使容認違憲説は、ほとんどの憲法学者が一致して支持する学界通説である。まずは、「なぜ学説が集団的自衛権違憲説で一致するのか」確認しておこう。 日本国憲法では、憲法9条1項で戦争・武力行使が禁じられ、9条2項では「軍」の編成と「戦力」不保持が規定される。このため、外国政府への武力行使は原則として違憲であり、例外的に外国政府への武力行使をしようとするなら、9条の例外を認めるための根拠となる規定を示す必要がある。 「9条の例外を認めた規定はない」と考えるなら、個別的自衛権違憲説になる。改憲論者の多くは、この見解を前提に、日本防衛のために改憲が必要だと言う。 では、個別的自衛権合憲説は、どのようなロジックによるのか。憲法13条は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は「国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定める。 つまり、政府には、国内の安全を確保する義務が課されている。また、国内の主権を維持する活動は防衛「行政」であり、内閣の持つ行政権(憲法65条、73条)の範囲と説明することもできる。とすれば、自衛のための必要最小限度の実力行使は、9条の例外として許容される。これは、従来の政府見解であり、筆者もこの解釈は、十分な説得力があると考えている。 では、集団的自衛権の行使を基礎付ける憲法の条文は存在するか。これは、ネッシーを探すのと同じくらいに無理がある。国際法尊重や国際協調を宣言する文言はあるものの、これは、あくまで外国政府の尊重を宣言するものに過ぎない。「外国を防衛する義務」を政府に課す規定は、どこにも存在しない。 また、外国の防衛を援助するための武力行使は、「防衛行政」や「外交協力」の範囲には含まれず、「軍事」活動になるだろう。ところが、政府の権限を列挙した憲法73条には、「行政」と「外交」の権限があるだけで「軍事」の規定がない。政府が集団的自衛権を行使するのは、憲法で附与されていない軍事権の行使となり、越権行為になるだろう。 つまり、日本国憲法の下では、自衛隊が外国の政府との関係でなしうる活動は、防衛行政としての個別的自衛権の行使と、外交協力として専門技術者として派遣されるPKO活動などに限定せざるを得ない。 以上のように、個別的自衛権すら違憲と理解する憲法学者はもちろん、個別的自衛権は合憲と理解する憲法学者であっても、集団的自衛権の行使は違憲と解釈している。憲法学者の圧倒的多数は、解釈ロジックを明示してきたかどうかはともかく、集団的自衛権が違憲であると解釈していた。さらに、従来の政府も集団的自衛権は違憲だと説明してきたし、多くの国民もそう考えていた。だからこそ、集団的自衛権の行使を容認すべきだとする政治家や有識者は、改憲を訴えてきたのだ。2.集団的自衛権を合憲とする人たちの論拠 これに対し、政府・与党は、従来の政府見解を覆し、集団的自衛権の行使は合憲だといろいろと反論してきた。その反論は、ある意味、とても味わい深いものである。記者会見で安全保障関連法案の廃案を求める声明を発表した「国民安保法制懇」の憲法学者ら=2015年7月13 日午後、東京・内幸町 まず、菅官房長官は、6月4日の憲法審査会の直後の記者会見で、「全く違憲でないと言う著名な憲法学者もたくさんいる」と述べた。しかし、解釈学的に見て、集団的自衛権を合憲とすることは不可能であり、合憲論者が「たくさん」と言えるほどいるはずがない。もちろん、合憲論者を一定数見つけることもできるが、それは、「ネッシーがいると信じている人」を探すのは、ネッシーそのものを探すよりは簡単だという現象に近い。数日後の報道を見る限り、菅官房長官は発言を事実上撤回したと言えるだろう。 ちなみに、合憲論者として政府・与党が名前を挙げた人のほとんどは、憲法9条をかなり厳格に解釈した上で、「許される武力行使の範囲が狭すぎる」という理由で改正を訴えてきた人たちである。改憲論の前提としての厳格な9条解釈と集団的自衛権行使合憲論を整合させるのは困難であり、当人の中でも論理的一貫性を保てていない場合が多いだろう。 また、合憲論の論拠は、主として、次の四つにまとめられるが、いずれも極めて薄弱である。 第一に、合憲論者は、しばしば、「憲法に集団的自衛権の規定がない」から、合憲だという。つまり、禁止と書いてないから合憲という論理だ。一部の憲法学者も、この論理で合憲説を唱えたことがある。しかし、先に述べたとおり、憲法9条には、武力行使やそのため戦力保有は禁止だと書いてある。いかなる名目であれ、「武力行使」一般が原則として禁止されているのだ。合憲論を唱えるなら、例外を認める条文を積極的に提示せねばならない。「憲法に集団的自衛権の規定がない」ことは、むしろ、違憲の理由だ。 第二に、合憲論者は、国際法で集団的自衛権が認められているのだから、その行使は合憲だという。昨年5月にまとめられた安保法制懇の報告書も、そのような論理を採用している。しかし、集団的自衛権の行使は、国際法上の義務ではない。つまり、集団的自衛権の行使を自国の憲法で制約することは、国際法上、当然合法である。国際法が集団的自衛権の行使を許容していることは、日本国憲法の下でそれが許容されることの根拠にはなりえない。 第三に、「自衛のための必要最小限度」や「日本の自衛の措置」に集団的自衛権の行使も含まれる、と主張する論者もいる。憲法審査会でも、公明党の北側議員がそう発言した。しかし、集団的「自衛権」というのがミスリーディングな用語であり、「他衛」のための権利であるというのは、国際法理解の基本だ。それにもかかわらず「自衛」だと強弁するのは、集団的自衛権の名の下に、日本への武力攻撃の着手もない段階で外国を攻撃する「先制攻撃」となろう。集団的自衛権は、本来、国際平和への貢献として他国のために行使するものだ。そこを正面から議論しない政府・与党は、「先制攻撃も憲法上許される自衛の措置だ」との解釈を前提としてしまうことに気付くべきだろう。 第四に、合憲論者は、最高裁砂川事件判決で、集団的自衛権の行使は合憲だと認められたと言う。これは、自民党の高村副総裁が好む論理で、安倍首相も同判決に言及して違憲説に反論した。しかし、この判決は、日本の自衛の措置として米軍駐留を認めることの合憲性を判断したものにすぎない。さらに、この判決は「憲法がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として」と述べるなど、自衛隊を編成して個別的自衛権を行使することの合憲性すら判断を留保しており、どう考えても、集団的自衛権の合憲性を認めたものだとは言い難い。3.「まさか」の展開 このように、政府・与党の要人の発言は、不自然なほど突っ込みどころに溢れている。なぜ、こんな穴だらけの議論を展開するのだろうか。本当に日本の安全を強化するために法案を通したいなら、「集団的自衛権」という言葉にこだわらずに、「個別的自衛権」でできることを丁寧に検証していけばいいはずだ。 まさか、わざと穴のある議論を展開し、「国内の反対」を理由にアメリカの要請を断ろうと目論んででもいるのだろうか。なんとも不可解だ。 ちなみに、集団的自衛権を行使する要件とされる「存立危機事態」の文言は、憲法のみならず、国際法の観点からも問題がある。 国際司法裁判所の判決によれば、集団的自衛権を行使できるのは、武力攻撃を受けた被害国が侵略を受けたことを宣言し、第三国に援助を要請した場合に限られる。ところが、今回の法案では、被害国からの要請は、「存立危機事態」の要件になっていない。もちろん、関連条文にその趣旨を読み込むこともできなくはないが、集団的自衛権を本気で行使したいのであれば、それを明示しないのは不自然だ。 まさか、法解釈学に精通した誰かが、集団的自衛権の行使を個別的自衛権の行使として説明できる範囲に限定する解釈をとらせるために、あえて集団的自衛権の行使に必要とされる国際法上の要件をはずしたのではないか。 そんな「まさか」を想定したくなるほど、今回の法案で集団的自衛権の行使を可能にすることには無理がある。こうした「まさか」は、山崎豊子先生の小説なみにスリリングで楽しいのだが、これを楽しむには、あまりに専門的な法体系の理解が必要だ。そんなものを国民が望んでいるはずはない。いや、国民は、それもすべて承知の上で、憲法学者の苦労を楽しんでいるのか? やれやれ。 いずれにしても、これだけは憲法学者として断言しよう。「個別的自衛権の範囲を超えた集団的自衛権の行使は違憲です。」きむら・そうた 1980年生まれ。東京大学法学部卒。同助手を経て、現在、首都大学東京准教授。助手論文を基に『平等なき平等条項論』(東京大学出版会)を上梓。法科大学院での講義をまとめた『憲法の急所』(羽鳥書店)は「東大生協で最も売れている本」と話題に。著書に『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)、『憲法の創造力』(NHK出版新書)、『憲法学再入門』(西村裕一先生との共著・有斐閣)、『未完の憲法』(奥平康弘先生との共著・潮出版社)、『テレビが伝えない憲法の話』(PHP新書)、『憲法の条件――戦後70年から考える』(大澤真幸先生との共著・NHK出版新書)などがある。

  • Thumbnail

    記事

    文化人になり損ねた「進歩的大衆人」なる新しい妖怪

    著者 田中一成(東京都) 今から半世紀前、論壇で進歩的文化人という“妖怪”が跋扈(ばっこ)していた。その知的な雰囲気やソフト語り口で、若者から絶大な支持を得たのである。彼らはソ連共産主義に迎合し、日本の独立を妨げる非現実的な全面講和を説いた。竹内洋氏の『メディアと知識人』によるとその系譜には2つあって、丸山真男東大教授に代表される官学知識人と、評論家の清水幾太郎などのメディア知識人だという。両者は60年安保反対闘争で挫折して官学知識人は研究室へ撤退し、メディア知識人の一部は転向して保守の旗手になった。メディア知識人の悲劇は「いつもウケていたいという宿痾(しゅくあ)」があり、良心的ポーズでコメントを連発するテレビ文化人の今に通じる。いや、巷(ちまた)では、文化人になり損ねた「進歩的大衆人」というそうだ。進歩的大衆人の病理は政治家にもあって、うつろいがちな「民意」をタテにポピュリズム政治を積み上げていく。民主党の鳩山・菅氏や社民党の福島氏に見られる「ウケていたい症候群」につながるのである。大阪維新の会代表の橋下徹大阪市長 以前に野田佳彦政権は「原発ゼロ」を打ち出しながら、非現実性がつぎつぎに露呈してエネルギー・環境戦略の閣議決定を見送った。原発ゼロを目標にしてみたが、経済への影響や、立地自治体や海外との信頼関係を失う懸念から、戦略そのものの破綻を危惧したのだ。この「原発ゼロ」の理想論を聞くと、普天間飛行場の移転先を「最低でも県外に」との幻想を振りまいた鳩山由紀夫政権の悪夢が思い出される。普天間周辺が市街化して危険が増し、日米両政府が苦心の末に、沖縄県中部にある辺野古沿岸部への移設で合意していた。 それを鳩山元首相がアテもないのに「県外」を公約して行き詰まり、結局は辺野古沿岸に戻った。ムダになったのは多くの時間であり、失われたのは地元との信頼関係であった。普天間か辺野古に、安全を確認した新型輸送機MV22オスプレイを配備すれば、尖閣諸島を狙う中国への有効な抑止力になる。 もっとも「大衆人」願望には、左だけでなく右にもあるから、ここでは彼らを「保守的大衆人」と呼ぶ。野田首相が消費税増税法案を通せば、「近いうち」に解散・総選挙を約束したのに、実行が長引いた。焦った自民党は、自分で同意した3党合意を非難する問責決議に賛成してしまった。政策ビジョンと大衆ウケのはざまで揺れ動いた。 二大政党のふがいなさに、今度は橋下徹大阪市長率いる日本維新の会が旋風を巻き起こしている。この間まで、政治家になることをつゆほども考えなかった人々が、ある朝目覚めると保守的大衆人になった。実現可能性はともかく憲法改正は「参院廃止を視野」におき、集団的自衛権行使を「権利あれば当たり前」と容認し、韓国が主張する慰安婦問題は「軍に暴行、脅迫で連れてこられた証拠はない」と明快だ。ただ、橋下政治はメールを駆使した「政治のマーケティング」で政策を決めるから、世論のうつろいに振り回されかねない。原発の稼働再開に反対していた橋下市長が、一転して条件付きで再稼働に転じたのはその例ではないか。これが政治の信念でなく、「ウケていたい症候群」の“業”でなければよいのだが。

  • Thumbnail

    記事

    「戦争法案反対」は戦争したい国の思う壺

    まで「切れ目のない安保法制」と呼ばれてきた。正確には「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制」。安倍晋三政権は「その整備について」昨年七月一日、閣議決定した。それが「平和安全法制」となり、名称から「保障」が消え、「平和」がついた。「戦争法案」とレッテルを貼られたからであろう。ちなみに護憲派が問題視する「集団的自衛権」の6文字はどの条文にもない。 英語のsecurityは、ラテン語のsecuritasが語源であり、本来の意味は「安全保障」でも「安全」でもなく「安心」である。「《古》過ぎた安心、油断」の意もあり(『リーダーズ英和辞典(第3版)』研究社)、シェイクスピア劇『マクベス』では「(油断)大敵」と使われた。国連の「Security Council」を日本は「安全保障理事会」と訳すが、中国語では「安全理事会」。等々を詳述した拙著『日本人が知らない安全保障学』(中公新書ラクレ)をお読みくださり、「安全保障法制」から「保障」を削除したなら著者として光栄だが、たぶん「戦争法案」に対抗しただけであろう。 動機はともかく残念な名称である。本来のキーワードは「切れ目のない」。語源は「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)。そのキーワード「シームレス(seamless)」を、日本政府が「切れ目のない」と訳した。憲法9条以下、関連法制は英語で論じたほうが分かりやすい。 シーム(seam)がないからシームレス。シームとは「縫い目、継ぎ目」。「弱点、隙」との意味もある(前出辞典)。それがない。つまり「縫い目のない」「継ぎ目のない」「一体となった」「スムーズな」「完璧な」状態を差す(同前)。「切れ目のない」と言ってもよい。 逆に言えば、現行法制には「切れ目」があり、スムーズな対応ができない。日本防衛上も隙があり、それが弱点となっている。だから切れ目をなくしてシームレスな対応を可能とする安保法制を整備する。政府与党は今年四月まで、そう説明してきた。 ところが、出来た法案はどうか。名実とも「切れ目のない安全保障法制」ではなかった。安全保障関連法案の可決について報じる2015年7月16日付の中国各紙(共同) 政府資料「『平和安全法制』の概要」の副題「我が国及び国際社会の平和及び安全のための切れ目のない体制の整備」には、辛うじて「切れ目のない」というキーワードは副題で残されたものの、「法制」ではなく「体制」と書かれた。想像できる理由は単純。グレーゾーン事態における「切れ目のない」対応を可能とするための法整備が見送りとなったから。法案すらなくなったのに、「法制」とは呼べない。そういう次第であろう。 法整備を断念した政府はどうしたか。 今年五月十四日、平安法案に加え、グレーゾーン事態についての対処を閣議決定した。要点は「治安出動・海上警備行動等の発令手続の迅速化」。これにより「電話等により各国務大臣の了解を得て閣議決定を行う」ことができるようになった。電話しても「連絡を取ることができなかった国務大臣に対しては、事後速やかに連絡を行う」。それでよしとされた。 皮肉を込めて護憲派に問う。以上は閣議の軽視ではないのか。「内閣がその職権を行うのは、閣議によるものとする」と明記した内閣法4条が空文化する。文民統制が形骸化する。「いつか来た道」だ。立憲主義に反する。なぜ、そう批判しないのか。「こんな大事なことを一内閣の閣議決定で決めてよいのか」となぜ、いつもの調子で非難しないのか。 グレーゾーン事態は存立危機事態(集団的自衛権)より生起する蓋然性が格段に高い。にもかかわらず、野党や一部マスコミは後者ばかり論じている。これで「切れ目のない体制」? 政府与党にも問う。電話閣議や事後連絡で「発令手続の迅速化」を図るのではなく、「領域警備法」を制定し、平時から自衛隊に領域警備の任務と権限を付与すべきではなかったのか。憲法上の要請に加え、そのほうが実務上の要請にも叶う。なぜなら電話閣議の時間すら致命傷となり得るからだ。 さらなる問題は「治安出動・海上警備行動等の発令」後である。海警行動が発令されると、海上保安庁法20条2項が適用され(自衛隊法93条)、武器使用権限が拡大する。ただし同条は武器使用の対象となる「外国船舶」について「軍艦及び各国政府が所有し又は運航する船舶であつて非商業的目的のみに使用されるものを除く」と明記する。 したがって日本領海を・有害航行・する中国の軍艦は適用除外。つまり武器を使用できない。警告射撃も許されない。いくら発令手続を迅速化しても武器を使えない以上、対処には限界がある。潜没航行する中国潜水艦も同様である。日本政府の方針は、海警行動発令後「自衛隊が当該潜水艦に対して、海面上を航行し、かつその旗を揚げる旨要求すること及び当該潜水艦がこれに応じない場合にはわが国の領海外への退去要求を行う」。それはよいが、海自の「要求」に応じない中国原潜に、どう対処するのか。 同様の疑問は中国の「海警」にも当てはまる。「外国政府が所有し又は運航する船舶」である以上、前記条文により武器使用できない。これでも「切れ目のない体制」と呼べるのだろうか。 中国「海警」を含め、想定されるグレーゾーン事態の相手は「警察」かもしれない。ならば当方も、一義的に警察や海上保安庁が対処することになる。政府がいう「切れ目のない体制の整備」には、法整備に加え、海保を含む警察力を向上させていく必要がある。そうしないと警察力と防衛力の間に「切れ目」が残ってしまう(自衛隊の能力を下げれば、切れ目はなくなるが、それでは本末転倒)。 だが他ならぬ日本の法律が、それを阻んでいる。たとえば海上保安庁法。「この法律のいかなる規定も海上保安庁又はその職員が軍隊として組織され、訓練され、又は軍隊の機能を営むことを認めるものとこれを解釈してはならない」(25条)。憲法9条に配慮した条文であろう。本来こうした条文もすべて改正すべきであった。たとえば「国家安全保障基本法」を制定して。 そもそも国際法上、軍艦や政府船舶は「いずれの国の管轄権からも完全に免除される」(国連海洋法条約)。それを「警察権」(法執行権)で対処しようとするから無理が生じる。国際法上は警察権ではなく「自衛権」として説明しないと、警告射撃以上の措置は取れない。同様に今回、自衛隊による邦人救出も警察権と説明され、「領域国政府の同意」がある場合に限られた。「同意」が得られない場合、平安法は邦人を見殺しにする。 治安出動時も同様である。警察官の武器使用は(有名な)警察官職務執行法7条が適用されるが、自衛官は加えて隊法90条が適用されるため鎮圧などの権限が拡大する。治安出動時に警察官の武器使用を、今後も平時と同じ要件で縛る合理的な理由はなにか。ぜひ聞かせてほしい。 それだけではない。新たに制定される「国際平和支援法」により自衛隊を派遣する際には例外なき事前の国会承認が必要となった。公明党の要求に自民党が屈した結果である。政治に妥協や譲歩は不可避だが、今回は一線を越え、筋を曲げた。私はそう懸念する。 国会閉会中や衆院が解散されている場合、迅速に対応できない。どうしてもタイムラグが生じる。対応に「切れ目」が生まれる。特措法制定に伴う「切れ目」をなくすべく一般法(恒久法)として国際平和支援法を整備するはずだったのが、連立与党やマスコミ世論に屈し「歯止め」を設けた結果、「切れ目」が残った。そういうことであろう。平和ボケの批判/現場の不満平和ボケの批判/現場の不満 護憲派が問題視する「重要影響事態」も例外でない。彼らは「周辺」という言葉が外れ、地球の裏側まで自衛隊が「後方支援」で派兵されると非難するが、元々「周辺」は地理的概念ではない。彼らの「懸念」は無視し、実務上の懸念を挙げよう。 現行の「周辺事態に際して実施する船舶検査活動に関する法律」は「重要影響事態等に際して実施する船舶検査活動に関する法律」に改正される。弾薬提供が可能になるなど、現行法制よりは多少ましだが、依然として抜本改正とは程遠い。 たとえば、現行法の「別表(第五条関係)」は改正されない。ゆえに「乗船しての検査、確認」できる船舶は「軍艦等を除く」。しかも「当該船舶の停止を求め、船長等の承諾を得て」からしか乗船検査できない。 相手が停船の「求め」に応じない場合どうするか。法は「これに応じるよう説得を行うこと」。なら「説得」に応じない場合どうすべきか。現行法すなわち平安法が許すのは「説得を行うため必要な限度において、当該船舶に対し、接近、追尾、伴走及び進路前方における待機を行うこと」。警告射撃すら許されない。法改正が検討されたが、公明党が難色を示し、実現できなかったという。 そもそも「国家安全保障基本法」の制定を主張してきた自民党が、公明党の要求に譲歩を重ねた結果が現在の有り様である。膨大な平安法案となり、「重要影響事態」や「存立危機事態」など新概念が乱立している。 善かれあしかれ「右向け、右」や「撃て」といった簡潔な命令で動く自衛隊を規律すべき法制度としては複雑に過ぎよう。すでに現場からは戸惑いの声が出ている。今後、現場は混乱するに違いない。とくに「事態」が重なるケースや、ある「事態」から別の「事態」に秒単位で移行するケースで混乱する。どちらのケースも十分あり得る。 要するに「撃ってよいのか」。それが明示されなければ現場は必ず逡巡する。たとえ「撃て」と言われても、月村了衛著『土漠の花』(幻冬舎)が描いた通り、逡巡する隊員も少なくあるまい。だからこそ、法律要件を具体化した「ROE(交戦規定・武器使用基準)」を策定する必要がある。そのためにも国会質疑で法律要件を具体化すべきなのに、「平和主義に反する、立憲主義に反する」といった(質問ならぬ)結論ありきの主張だけが繰り広げられている。「戦争法案」と叫ぶわりには、平和ボケした間抜けな連中ではないか。 いわゆる集団的自衛権の行使要件も世界で最も厳しい。一言で評すれば、×(違憲)との憲法解釈を、△(限定容認)に変更しただけ。自国軍の活動を、ここまで厳格に縛っている法令が海外にあるだろうか。 私がくだす安保法制への評価は△である。決して◎でも、○でもないが、少なくとも×ではない。「ないよりはマシ」。この春にそう「夕刊フジ」の連載に書いた。だが、その評価すら甘いのかもしれない。「○なら欲しいが、△なら要らない」――それが現場の本音である。すでに「こんな法制なら要らない」と不満が漏れ出した。「ないほうがマシ」と断言した幹部もいる。こんな平和安全法制に誰がした。結局「歯止め」が増えただけではないか。私は悔しい。 この程度の平安法なのに「戦争法案」と誹謗する政党がある。朝日新聞も「国際平和支援法」という名称には「戦争支援という実態を糊塗する意図があるのではないか」と勘ぐった(4月16日付社説)。 だが、集団安全保障措置(としての協力支援)は「戦争(支援)」ではない。それどころか国連憲章上の責務でもある(25条)。朝日社説は「なにより、自衛隊の海外派遣は慎重であるべきだ」とも書いたが、国際法上の義務に「慎重であるべき」と主張する感覚は真っ当でない。名実とも権利である集団的自衛権とは話が違う。相変わらず両者の違いを理解していない。南シナ海は、今そこにある危機 閣議決定翌朝の朝日一面ヘッドラインは「政権 安保政策を大転換」(5月15日付)。毎日も「安保政策 歴史的転換」。NHKも「戦後日本の安全保障政策の大きな転換」と報じた。およそ同じ法案を読んだ人間の評価とは思えない。以上のどこが「大転換」なのか。彼らは平気でウソをつく。昨年来その姿勢に変化はない(拙著『ウソが栄えりゃ、国が亡びる――間違いだらけの集団的自衛権報道』ベストセラーズ)。 最近では、五月二十日付朝日社説が「南シナ海問題―安保法制適用の危うさ」と題し、南シナ海で「将来的に海上自衛隊が警戒監視活動を担う可能性がある」と書いた。社説の最後を「万が一にも軍事衝突にいたれば、日中両国は壊滅的な打撃を被る。その現実感を欠いた安保論議は危うい」と締めた。その限りで大きな異論はない。事実すでに米海軍第7艦隊のトーマス司令官や太平洋軍のハリス司令官が海自の警戒監視活動へ期待を表明した。六月下旬には、南シナ海で海自とフィリピン軍による初の本格的な共同訓練がある。 さて実際に海自が南シナ海で警戒監視活動を行えば、どうなるか。間違いなく中国は対抗措置をとるだろう。まず「中国の軍事警戒区域から出て行け」と脅す(今春、米軍機にそう明言した)。パイロットの視界を奪うべく強い光を当てる(フィリピン機に実行した)。その他、危険な近接飛行や火器管制レーダー照射(ロックオン)等々(両者とも中国に前科があり、被害者は自衛隊)。それらを「軍事衝突」と呼んでいいなら、その確率は「万が一」どころか確実である。 ただ現状、南シナ海に派遣し、常続的に警戒監視するのは、海自哨戒機P3―Cの航続距離を考えれば容易でない。他方、海賊対処の部隊を含め海自艦艇は南シナ海を航行している。その際、わざと速度を落とす。漂泊する。停泊する。護衛艦から哨戒機を発艦させる…等々なら比較的容易である。 かりに海自がそうすれば、中国側はどうするか。中国は南シナ海にも防空識別区を設定し、当局の指示に従わなければ、防御性緊急措置をとる方針であろう。実際にスクランブル発進するつもりなのか。先日、人民解放軍(中国軍)の将官らに聞いてみた。案の定、対抗措置を否定しなかった。そのとき軍事的な緊張は一気に高まる。北京の天安門前をパレードする中国人民解放軍の女性兵士=9月3日(共同) いたずらに脅威を煽っているのではない。中国外務省の陸慷報道官は六月十六日、南シナ海の南沙諸島で中国が進めてきた浅瀬の埋め立てが「近く完了する」と会見した。翌週アメリカで開催される米中戦略対話や九月の習近平国家主席訪米を睨み、沈静化と同時に既成事実化を図った発言であろう。中国紙「環球時報」は「アメリカが埋め立て停止を求めるなら、一戦は避けられない」と強硬姿勢を露わにしていた(5月25日付)。その中共政府が、自衛隊の警戒監視を容認するはずがない。解放軍は確実に対抗措置をとるであろう。 日本政府はどうするつもりなのか。これも防衛大臣に聞いてみた。答えは「警戒監視を行なうかは、『防衛省の所掌事務の遂行に必要な範囲』かどうかという観点で決められる」。中谷元大臣は「具体的な計画はない」とする一方「今後の課題と認識しています」と語った(「Voice」四月号)。つまり海自が南シナ海で警戒監視する可能性を否定しなかった。中国は埋め立てが完了すれば軍事基地建設に動く。この問題こそ「今そこにある危機」ではないだろうか。 以上を前提として、先の社説に話を戻す。問題は朝日がこう書いたことだ。「政府は今回の安保法制で周辺事態法から『周辺』の概念を外す抜本改正をめざしており、重要影響事態法という新しい枠組みの中では、南シナ海も適用対象となる」何でも安倍総理のせい?何でも安倍総理のせい? くどいようだが「周辺」を外しても警告射撃すらできない。それを「抜本改正」と呼べるのか。百歩譲って、そこは立場の違いと認めてもよい。視点が違えば、見える風景も変わる。私が許せないのは、朝日ら護憲派が南シナ海問題を「今回の安保法制」として論じていることだ。 朝日は「将来的に海上自衛隊が警戒監視活動を担う可能性がある」というが、防衛大臣が認めたとおり、現行の防衛省設置法を根拠に「所掌事務の遂行に必要な調査及び研究」(4条)として、いつでも活動できる。現に今も東シナ海などで警戒監視している。 かつて9・11の同時多発テロ直後、横須賀から出港する米空母を、海自の護衛艦が名実とも・護衛・したが、その際の法的根拠もこの「調査研究」名目だった。これに「その事態に応じ合理的に必要と判断される限度で武器を使用することができる」と明記した自衛隊法95条の「武器等の防護のための武器の使用」を併用すれば、選択肢は際限なく広がる(かもしれない)。当時そう朝日新聞紙上で、「歯止めのない拡大解釈につながる危険がある」と批判したのは他ならぬ私である(2001年9月25日付)。 朝日陣営が一貫して、そう批判し続けてきたのなら咎めないが、今や誰もそうは批判しない。他方で存立危機事態(集団的自衛権)や重要影響事態の「危険」は言い続ける。「立憲主義や平和主義が揺らぐ」と批判する。それは、いかなる理由からなのか。 想像できる理由は一つ。そもそも現行法制を理解していないから。証拠を加えよう。 五月二十六日の「報道ステーション」(テレビ朝日)は「国の形を変える論戦が始まった」と国会審議を報じた。コメンテーターの立野純二・朝日新聞論説副主幹が「平和主義の原則を変える重要な法案なのに説明があらっぽい」など定番の独演をしたが、問題は中国の国防白書を報じた次のコーナー。立野副主幹がこうコメントした。「この安保法制が出来た後に自衛隊が南シナ海の警戒監視に行くことになるかもしれません。その際にもし米軍の艦船に攻撃があったら自衛隊はどうするんでしょうか。その米艦船を守るんでしょうか。そうなれば南シナ海の米中の衝突に日本が巻き込まれるという可能性は十分ある。こういったことも論議してほしい」南シナ海の南沙諸島にあるスービ礁=2015年8月1日撮影(デジタルグローブ提供・ゲッティ=共同) 六日前の朝日社説(前出)は、彼が書いたのかもしれない。どちらにせよ、間違っている。「この安保法制が出来た後」どころか、廃案になっても、自衛隊が南シナ海の警戒監視に行くかもしれない。そうなれば、「米艦船を守る」前に、中国軍の威嚇や挑発を受ける。それは「米中の衝突に日本が巻き込まれるという可能性」より、桁違いに大きな蓋然性である。なぜ、そのリスクは黙認するのか。頼むから、何でもかんでも、平安法の問題にするのは止めてほしい。 あと二例だけ挙げよう。「安保法制国会―リスクを語らぬ不誠実」と題した五月二十八日付朝日社説はこう書いた。「戦闘現場になりそうな場合は休止、中断し、武器を使って反撃しながらの支援継続はしないと説明するが、休止の判断は的確になされるか、それで本当に安全が確保されるのか」 一般論なら右の疑問はあり得る。ただし平安法(固有)の問題ではない。なぜなら現行の周辺事態法や過去の特措法にも当てはまるからである。たとえばイラク派遣でも。逆に言えば「リスクを語らぬ不誠実」は派遣当時の小泉純一郎内閣にも当てはまる。同様に、その前日付朝日社説「真価問われる国会―なし崩しは認められない」もこう書いた。《不意を突く砲撃や仕掛けられた爆弾などによる被害を百%防ぐことなど不可能ではないか。前線の他国軍を置いて自衛隊だけが「危ないので帰ります」などと本当に言えるのだろうか》 これも現行法や過去の特措法に当てはまる疑問である。いいかげん、何でもかんでも、平安法の問題にするのは止めてほしい。学者よりも現場の声を彼らに誇りを! 護憲派は重要影響事態や存立危機事態のリスクは喧伝するくせに、なぜか国連PKOのリスクは語らない。日本人警察官の犠牲者が出たにもかかわらず。多数の外国軍人が犠牲になってきたにもかかわらず。 私は自衛隊派遣に反対しているのではない。逆である。高いリスクがあるからこそ、民間人でも警察官でもなく、自衛隊を派遣すべきなのだ。今までもリスクはあったし、今もある。たとえば南スーダンPKOや海賊対処の現場において。 そもそも武器弾薬を扱うのだ。常にリスクはある。それなのに、野党やマスコミは、存立危機事態(や重要影響事態)のリスクばかり言いつのる。対照的に政府はリスクを正面から認めない。マスコミには左右両極の元自衛官ばかり登場する。いつも現場は置いてきぼりだ。 もはや報道はどうでもいい。与野党の全国会議員に直訴する。 国会で憲法学者の話を聞く暇があるなら、一度でいいから現場の声も聴いてほしい。できれば、日米が一体化している現場を見てほしい。憲法学者や法制局の「一体化論」が無意味だと分かるはずだ。 平安法案を閣議決定した五月十四日の会見で(テレビ朝日の足立)記者の質問を、総理はこうかわした。「PKO活動(略)を広げていくという、新たな拡大を行っていくということではない。(略)南シナ海における件におきましては、これは全く私も承知しておりませんので、コメントのしようがないわけであります。そしてまた、例えばISILに関しましては、我々がここで後方支援をするということはありません。これははっきり申し上げておきたいと思います」 すべて本心から出た言葉なのか。今後PKO活動は拡大しないのか。南シナ海の件を本当に知らなかったのか。対ISIL作戦の後方支援すらしないのか。万一そうだとしても、なぜそう「はっきり」言う必要があったのか。正直まるで理解できない。以上すべて高いリスクを伴う活動だからなのか。ならば、総理の姿勢は間違っている。リスクを認め、活動の意義を説くべきだ。国民にも部下隊員にも率直に。たとえば以下のごとく。「建軍の根幹である犠牲的精神、すなわち、名誉ある犠牲心はわれわれの美的概念とも道徳的概念ともきわめてよく合致する。それゆえに、哲学も宗教もこの概念を常に理想としてきた」「今こそ、精鋭の軍人は自らの重き使命を自覚し、戦いの一事に専念し、頭をあげ、高い理想を見つめる時である。剣の刃先を鋭く研ぎすますために今こそ、精鋭の軍人は己にふさわしい哲学をうちたてる時である。そうすれば、そこから、より高次の展望と、自らの使命に対する誇りと国民の尊敬が生まれてくる。栄光の日の訪れを待つ、有為の人士が手にする唯一の報酬は、この誇りと国民の与える尊敬だけである」(シャルル・ド・ゴール『剣の刃』文春学藝ライブラリー) 宰相が語るべきは「平和」でも憲法論でもない。それらは役人や学者に任せておけばよい。最高指導者が語るべきは右のような「理想」や「哲学」である。日本には戦後一貫それがない。 総理は部下隊員に「報酬」を与える責務がある。「誇りと国民の尊敬」という報酬を。それがなければ、誰がどんな法整備をしても空しい。安倍総理なら、できるはずだ。うしお・まさと 昭和35(1960)年生まれ。早稲田大学法学部卒。旧防衛庁・航空自衛隊に入隊。大学院研修(早大院法学研究科博士前期課程修了)、長官官房などを経て3等空佐で退官。現在、東海大学海洋学部非常勤講師(海洋安全保障論)も務める。   

  • Thumbnail

    記事

    SEALDs大規模デモ 主催者に利用され続けたメディア

     8月30日、国会前広場で大規模な反政府デモが行われた。これは中核派など反社会的勢力を含む日本全国の様々な反政府組織や団体などが連携して行ったものである。一部メディアなどは「反政府学生組織SEALDs」を中心に取り上げているが、実態としては共産党や労組による組織動員がメインであり、学生運動世代が中心となって行ったものであるといえよう。 また、今回のデモにおいては、その報道のあり方に大きな疑問符が付けられるものであったともいえる。メディアを通じて、嘘が全国や世界に垂れ流された側面があり、悪質な宣伝活動に加担したメディアの存在が明確化したものであったともいえる。今回のデモの参加者人数であるが、主催者は12万人、SEALDsはTwitterで35万人、警察は3万人としているわけだが、主催者発表だけを報じていたメディアが多数存在したのである。 国会前の広場は公開空間であり、劇場のように出入口が決まっていないため、明確な人数を測ることは難しい。しかし、実は面積からおおよその収容限度を計算することが出来るのである。国会前の広場の面積は約4万平米。そこから池や樹木など人が立てない部分を除くと3割程度になり1.2万平米が有効面積であるといえる。この1.2万平米に平米あたりの収容人数をかければ自ずから収容限度が導き出されるのである。国会前で行われた安保法案反対デモ=8月30日、東京都千代田区の国会前(早坂洋祐撮影) 収容限度は部屋や電車など壁のある密閉空間と公開空間で計算基準が大きく異なるわけだが、警察などが用いる公開空間の算定基準では混雑で平米1.2人であり、平米3人を超えると行列が止まりだし、将棋倒しなどの危険が生じるとされている。このため、混雑状態では回転が期待できるがそれを超えると回転しなくなるという構造であるため、精々3-4万人が国会前の物理的収容限度であるといえる。 つまり、4万人を大きく超える数字は科学的に嘘であるといえるのだ。1リットルのペットボトルに3リットルの水は入らない。これは子供でもわかることである。主催者発表だけを垂れ流す報道は1リットルのペットボトルに3リットルの水が入ると宣伝しているようなものなのである。 そして、メディアの問題はこれだけにどどまらない。今回のデモであるが、その主催者と責任が不明確であり、この点に関して疑問を呈したメディアが存在しなかったことは大きな問題である。どんなイベントでも主催者には、善管注意義務や安全管理義務などの責任が存在する。そして、事故が起きた時などの責任の所在を明らかにする義務がある。またカンパなど資金集めを行っているため、その資金の透明性と会計の責任を明示する必要もある。これは任意団体だから許されるものではない。今回のデモの主催者は「総がかり行動実行委員会」とされているものの、HPを見る限り、複数の任意団体の集合体であり、ガバナンス体制などが全くわからないのである。 また、今回のデモに対して、反社会的勢力でありテロ組織である中核派がHPなどを通じて参加を呼びかけていたこともわかっている。このような危険を排除するのは主催者の義務であり、これが不完全であることを報じるのが本来のメディアの役割であるといえる。今回、これに関する報道は皆無であったと言っても良いだろう。 また、本質的な問題として、デモの日時や場所について疑問を呈さないのも大きな問題である。基本的に日曜の国会にいるのは、僅かな数の見学者と国会を守る衛視さんぐらいのものである。国会周辺にはデパート等商業施設はなく、図書館があるぐらいでほとんど人は居ない。また、日曜は審議がないため、国会議員はいないに等しい。知られていない問題や自らの意見を社会の知らしめるという本来のデモの意味からすれば、日曜に国会前でデモを行うことは単なる自己満足に過ぎず間違っているといえよう。 しかし、彼らはこのデモに意味を持たすことが出来た。何故ならば、メディアを利用することを前提に考えていたとおもわれるからである。これは呼びかけ団体の一つである共産党の機関紙「しんぶん赤旗」のHPを見れば一目瞭然であり、事前報道も含め国内外のメディアの取り上げ方を大きく報じており、一つの実績として宣伝しているからである。 これに関しては、記者や報道機関が自ら連携したのかそれとも単に利用されただけなのかわからないが、このような行為は本来の報道の役割を大きく逸脱したものであり、これを批判する報道がないことが日本の大きな問題であると思われる。 すでに、インターネットにより報道のあり方も変わらざる得ない時代が訪れているのも事実である。今回のデモに関して、空撮写真から国会前の人数を数えた人がおり、あくまでも瞬間的な数字でしかないがほぼピーク時でも4500人程度しかいなかったということが明らかにされている。そして、この事実が証拠写真とともにTwitterにより拡散され、主催者と一部メディアへの嘲笑の対象になっているのである。すでに、情報は一部のメディアの独占物ではなくなり、嘘が簡単に暴かれる時代になっているのである。そして、この傾向はどんどん強まってゆくだろう。 最後に、子供の頃、祖父から繰り返し言われた言葉で締めたいと思う。 「嘘付きは泥棒の始まり、お天道さまはいつも見ている」

  • Thumbnail

    記事

    3万人も12万も同じ ネット時代のデモを考える

    新井克弥(関東学院大学文学部教授)3万人?12万人? 8月30日、参院で審議中の安全保障関連法案に反対するグループ(学生グループ『SEALDs』が中心)が国会前で大規模なデモ(「安保反対10万人デモ」)を繰り広げた。主催者側発表は13万人(周辺も合わせるとのべで35万人)、警察発表で3万人が参加したと言われている。主催者側と警察側の発表数があまりにかけ離れているので空撮写真から計算する者も現れる始末。で、ここで問題になっているのは、つまり「参加者の数が多ければ多いほど、運動が盛り上がっている」という基準だ。だから主催者は盛るし、警察側は削る。 さて、実際のところどうなんだろう?と思う方もおられるかもしれないが、現代では実は3万人だろうが12万人だろうが、こういった運動の盛り上がりを示す指標には必ずしもならない、つまりどちらでも同じと僕は考えている。ちなみに、僕は安保法案反対である。だから、ここでデモをやってくれた人たちにはエールを贈りたいとは思う。しかし、「いまどきのデモ」がどういう意味を持っているかについては冷静に考える必要がある。 ポイントは、ここに集まった人々が母集団を忠実に反映しているかどうかだ。恐らく、かつてであるならば、ある程度は反映していたと言えるだろう(60年安保、70年安保の際、やはり学生たちが暴れ回ったが、これに親密性を抱いていた一般人は多かったはずだ。ま、中身が問題ではあったけれど)。ところが、最近ではちょっと確信を持ってこう断言はできなくなっている。所属集団と準拠集団、分離の加速 社会学には「所属集団」と「準拠集団」という二つの考え方がある。所属集団とは社会的に認定された集団。共同体、組織、企業、グループなどがこれに該当する。所属集団内の人間は一定空間に拘束された状態(村落共同体など)だったり、あるいは所属していることを外部から認定されている状況にある。例えば、僕であるならば大学教員ゆえ、赴任先の大学が所属集団になる。児童であるのならば小学校が、生徒であるのならば中学や高校が所属集団だ。国会正門前の道路を埋め尽くし、安保法案反対を訴える大勢の人たち=8月30日午後、東京都千代田区 一方、準拠集団とは個人の信念や行動の拠り所とする集団。つまり、その集団の考え方や行動のパターンを規範とするような集団。空間的な縛りとか、社会的な認定とかを必要としない。アタマのなかで「自分がここに所属している」、つまりアイデンティファイしていると考えるイメージとしての集団だ。かつては所属集団と準拠集団は重なっているという状況が大半だったが、現在では必ずしもそうはなっていない。たとえば大学に所属している学生の所属集団はもちろん大学だが、大学を四年間の腰掛けとしか思っておらず、四年間のモラトリアムを使って好きなことをするために利用しているだけで、その他の活動に精を出していて「心ここにあらず」としたら、この若者の準拠集団はアイデンティファイする側、つまり学生が精を出すパラダイム=拠り所にある。そして、所属集団と準拠集団、どんどんと一致しなくなっているのが現代なのだ。 所属集団と準拠集団の分離はイメージ、具体的にはメディアによって媒介される。メディアを通じて認識した世界にアイデンティファイすれば、それは所属集団の軛から逃れることが出来るようになる。そして、メディアの発達によって任意に情報を入手する可能性が広がれば、一定の準拠集団に所属する人間はますます空間に制限されることがなくなっていく。この流れは明治以降のマスメディアの発達、人口の流動性の高まりによって始まるが、これを加速させているのが60年代ならTV、そして現代ならインターネットなのだ。準拠集団へのアイデンティファイを加速させるインターネット インターネットはどこにいても任意の準拠集団にアクセスできる。例えば僕は今、タイにいるけれど、こうやってブログ書いているし、朝の「あまちゃん」の再放送も見ている(時差二時間ゆえ、朝5時起きですが(笑))。今日イチローが二安打したことも知っている。つまり、僕はタイにいながら日本人という準拠集団へ向けてアクセスし続けているわけだ。 さて、「あまちゃん」やイチローはさておき、ネットはもっともっとトリビアなものでも準拠集団を作ることができる。以前にも書いておいたけれど、僕はポルトガルワイン・オタクである。フランス、イタリア、チリ、アメリカ、スペインならわかるけど、こんなワインを常飲している輩などどう見てもマイノリティだ。でも、これもネットを紐解けば、ちゃーんと販売しているお店にたどり着くし、そこでオタクなポルトガルワイン談義も可能だ。 で、こういったトリビアな世界というのは、以前は人間同士がつながるにはかなり大変だった。やれないことはないけれど、ものすごく労力がかかったからだ(これがやれたのは、かつてだったら宗教団体とかユダヤ人とかだったのではないか。つまり教義というメディア=準拠集団で、空間に拘束されることなく互いが結びつく)。ところが、今では簡単だ。なんのことはない、ググれば一発でトリビアな世界に入り込むことが出来る。日本中、あるいは世界中に点在する同好の士とつながりを持つことが出来るのだ。 同好の士の間の共通関心はトリビアだけにディープだ。自分のトリビアな趣向など周囲の人はわからないから、これが見つかった瞬間、互いのコミュニケーションは「即、本題」つまり深い内容に入り込んでいく。当然、こうやって関わったならば実に楽しい。そして今度はオフ会が待っている。参加率が高くなることは言うまでもないだろう。で、日本中に点在する人間が1カ所でオフ会をやったらどうなるか。これは結構な数字になるわけで。頻発する大規模イベント で、最近、こういった大規模イベントとか集会があっちこっちで開催されている。つまり10万人規模なんてのが平気で存在するのだ。全国に点在する同好の士がかなりの確率で参加するんだから。そう、こうやって結構な数が集まるのがネット社会の特徴だ。だから3万人であれ12万人であれ、その規模を議論したところで、それだけではあまり意味がない。 ちなみに、こういった大規模な集会、実は以前から一部で存在した。それは宗教団体の大会とか総会とか呼ばれているものだ。10万人規模なんてあたりまえ。スゴイ感じがするが、準拠集団としての宗教、つまりアイデンティファイするイメージ空間ゆえ、その参加率は否応にも高くなる(つまりオフ会)。でも、こういった宗教での大会での参加数が膨大であるからといって、これがメディアに取り上げられることはない。当該の宗教団体が発行する機関紙やら新聞が大きく取り上げるだけだ。なぜか?それらの参加者の母集団が国民ではないからだ。数が多くても、それは国民全体を反映していない。あそこにいた人たちは国民を反映しているか? さて国会前のデモに戻ろう。 こうやって考えてみると、あそこに集まった人々が国民、そして世論を反映しているかどうかは定かではない。ただの改憲反対オタクの集団かもしれないからだ。もしそうであったとしても10万人程度の人間はネットでの拡散を通して簡単に集まるはずだ。ただし、その反対を考えることも可能だ。つまり、参加者は国民という母集団をキチッと反映している、と。そのどちらかは数だけではわからない。ただし一つだけ必ず言えることがある。それが、今回のイタイコト、つまり「3万人であれ12万人であれ、数字だけを取り上げて盛り上がっているだとか盛り上がっていないだとか判断することには意味がない」。 橋下徹がこの件について「日本の有権者数は1億人。国会前のデモはそのうちの何パーセントなんだ?こんな人数のデモで国家の意思が決定されるなら、サザンのコンサートで意思決定する方がよほど民主主義だ」と批判しているが、これは前述した可能性の前者だったら当たりだし、後者だったらハズレだ。そして、根拠もなく前者と決めつけている点で、やはり「数字というトリック」に惑わされていることについては、主催者がは12万人を標榜し、これに力があると信じ込んでいることと全く変わりはない。反対運動は、今回のデモで始まったばかりと考えるべき繰り返し言うが、こんなことを書いている僕だけれど、安保法案は反対だ。だからこそ言いたい。「デモの参加者の人数なんて数えている場合じゃない」と。そして、こちらの立場からすれば、今回のデモを基点としてあちこちでこういった運動が起こってくれることを期待している。しかもスゴイ勢いで。もし、それが実際に起こったのであるのならば、それは結果としてデモ参加者は国民の意思を反映していると言うことの傍証になるだろうし(ルーマニアのチャウセスク政権が崩壊した時は、まさにこの図式だった)、これが打ち上げ花火だったら一部の法案反対者による集会ということの傍証になるだろう。 なので、問題はこれから。結果はいずれついてくる。 オマケ:ちなみにメディアがこの報道をスルーする傾向があるというのは別の問題だが(2012年に行われた「さようなら原発10万人集会は、今回以上に取り上げが小さかった)、これについては場所をあらためて、いずれ考えてみたい。(ブログ「勝手にメディア社会論」より2015年9月3日分を転載)あらい・かつや メディア研究者。関東学院大学文学部教授。ブログ「勝手にメディア社会論」を展開中。メディア論、記号論、社会心理学の立場から、現代のさまざまな問題を分析。アップル、ディズニー、バックパッカー、若者文化についての情報も。

  • Thumbnail

    記事

    大新聞 安保法制反対デモは報じるが世界の賛成の声は報じず

    時として不思議なことが起こる。政府が9月中旬までの法案成立を目指し、参議院で大詰めの審議を迎えている安全保障法案に関する報道だ。8月下旬、安保法案に反対するデモが全国で行われると、一斉にこう報じられた。〈安保法案 一斉「NO」〉〈「ウォッチ安保国会」若者発デモ、悩んで学んで〉(ともに朝日新聞8月24日付朝刊)〈黙っていたら「戦争法案」採決される 全国一斉デモ 64カ所〉(毎日新聞8月24日付朝刊) さらに、各地の地方版でも、〈学生ら安保法案反対訴える〉(朝日新聞同日付、宮城県版) 〈安保法案「9条を壊すな」1100人参加し集会  岐阜〉(毎日新聞同日付、岐阜県版)などと、反対の声が報じられた。 デモが行われたことは確かにニュースではある。だが、朝日の8月の世論調査では30%、読売調査では31%いるはずの「賛成」派の声は、ほとんど聞こえてこない。 報道が持つ役割の一つに「権力の監視」があることは論を俟たない。だからといって「反対」の声ばかりが取り上げられ、3人に1人はいるはずの「賛成」の声が黙殺されているのは不可思議だ。普段は「少数派の声」を取り上げるのが得意な朝日が、今回に限ってどうしてそれを無視するのか。国会前で行われた安保法案反対デモ=8月30日、東京都千代田区の国会前(早坂洋祐撮影) 賛成派がなぜ安保法案を必要と考えているのか、あるいは賛成でも反対でもない人々が法案や国会審議をどう見ているのかをすくい上げ、国民的議論にすることが必要であるはずだ。 その意味でさらに不可解なのは、新聞各紙が海外の安保法案賛成の声をほとんど伝えていないことである。 目の前の南シナ海で中国の脅威を肌で感じているフィリピンのアキノ大統領は、6月に参院で演説し、「日本との関係は地域の自由を確保するための最前線にある」「日本は平和維持のため、国際社会に責任を果たす上でより積極的な立場を取っている」と安保法案を評価した。やはり南シナ海で中国の攻勢に晒されているベトナム、マレーシアも、「日本の平和への貢献を歓迎」すると表明している。 ほかにもアメリカはもちろん、イギリス、フランス、オーストラリアなど先進国各国が安保法案に賛成の立場を示しており、ドイツのメルケル首相は「国際社会の平和に積極的に貢献していこうとする姿勢を100%支持する」とまで述べている。 5月に開かれた日EU定期首脳協議の共同声明では、〈「積極的平和主義」に示された世界の平和と安全の促進と維持における取組を歓迎し、支持する〉との評価が盛り込まれた。そうした国々をはじめ、世界40か国以上が安保法案や日本が掲げた「積極的平和主義」を支持するとしている。 アキノ大統領の参院演説についてはさすがに朝日や毎日も報じたが、日本各地の反対デモを逐一報じるように、「世界の賛成の声」を詳細に報じた記事は見当たらない。 本誌は、憲法を形骸化させる安倍政権の手法には賛成できない。憲法を都合良く解釈し、小手先の法改正で国を守るあり方を変えようする強引な姿勢は、日本の針路を危うくするものだと考える。 ただ、だからこそ今、日本国内の声とともに、法案に賛成している国はどのような理由で賛成しているのか、そして、日本に期待されている国際的な役割は何なのかを海外の声からすくい上げ、議論の材料にすることが必要なのではないか。それがないまま議論を進めても、いつまでもイデオロギー対立を繰り返すばかりだ。関連記事■ 安保法案に反対する学者たちが「ケンカを買った」 その余波■ デモは出会いの場 全共闘世代の武勇伝に女子大生「すごい」■ 安倍政権に異議の元公明党町議 離党するも学会員支持し当選■ 自民党執行部 党内やメディアに厳重な「言論戒厳令」を敷いた■ SAPIO人気連載・業田良家4コママンガ【1/2】「集団的自衛権」

  • Thumbnail

    テーマ

    SEALDsの「仮面」を剥ぐ

    参院で審議中の安保法案への抗議活動を続ける学生団体「SEALDs」。デモの参加者を水増ししたり、現政権を口汚く罵ったりする彼らは、権力と対峙し、反体制を謳う「反骨」な自分に酔いしれているだけではないのか。SEALDsの「仮面」を剥ぐ。

  • Thumbnail

    記事

    学生たちに理性と良心の放擲をそそのかすサヨクな大人ども

     学生団体「SEALDs(シールズ、自由と民主主義のための学生緊急行動)」が、8月30日の国会正門前「戦争法案反対」デモに、警察発表で3万人の動員に成功したそうだ。かつての安保闘争の時代ならいざ知らず、若者が今時それだけのことを成し遂げるとは、それだけでも称賛に値する。学生たちが自らのそうした行動力を伸び伸びと健全に成長させることに、我々大人たちが適切に手を貸してやれるのであれば、いくら少子高齢化などと騒がれていても日本の未来は安泰だ。 しかし現実は、そうした理想から程遠い。彼らに群がるサヨクな大人どもは、学生たちの行き過ぎや悪事を咎めるどころか、テロや差別をそそのかし、「革命」等の自らの歪んだ目的のために若い芽をスポイルすることに余念がない。 デモの動員目標人数を10万人と事前に大風呂敷を広げていたせいか、警察発表人数の4倍もの12万人を「主催者発表」人数として「大勝利」を宣言したことも、それだけであれば若気の至りとして見逃せる程度のことだ。本来であれば、学生に群がるサヨクな大人どもが、過剰な目標人数設定の見通しの甘さと、まるでかつての大本営による戦果発表のような希望的観測のみに基づいた無根拠な水増しした数字を元に「大勝利」と騒ぎ立てることを諌めるべきなのであろうが、そこまでは求めまい。何しろ、そのサヨクな大人ども自身が、伸び伸びと増殖し続けている支那による南京大虐殺被害者数のごとく、常日頃デモや集会の「主催者発表」を十倍以上も水増しして自らの戦果を誇る不誠実さを本能とするような連中なのだから。国会前で行われた安保法案反対デモ=8月30日、東京都千代田区の国会前(早坂洋祐撮影) そんなサヨクな大人どもの邪悪さは留まるところを知らない。当初主催者発表で12万人だった参加人数が、誰が水増しをしたのか、その日のうちに35万人と、警察発表のなんと12倍まで急膨張したのだから驚きだ。SEALDsのツイッターアカウントのつぶやきは「今日の国会前抗議、のべ人数35万人だそうです!!!!!」となっており、「だそうです」ということは誰かが学生たちの「12万」という過大な数字を諌めるどころか、更に空想的な数字を吹き込んだことを示唆している。理性と良心を説くべき大人が、逆にそれらの放擲を煽っているのだ。 デモに参加したサヨクな大人たちの中でも、法政大学教授という教育者の立場にある山口二郎の言動は特に、学生たちに理性と良心の放擲をそそのかす、驚くべきものであった。何と彼は学生たちの前で、「安倍に言いたい!お前は人間じゃない!叩き斬ってやる」と、差別やヘイトスピーチどころか、殺人を宣言したのだ。しかも山口は信じられぬことに、法学部の教授だというのだから開いた口がふさがらない。その場でこの人殺し宣言を聞いていた参加者はもちろんのこと、デモを肯定的に報じる朝日新聞等のサヨクメディアも、山口のこの恐るべき発言を全く批判していない。今後在特会等が「支那人、朝鮮人は人間じゃない!叩き斬ってやる!」と言ったとしたら、どのようなロジックで彼らの行動を諌められるというのか。少なくとも、山口や彼の発言を見てみぬふりをしている朝日新聞等のサヨク連中には、在特会を批判する資格など永遠に失われたことは、幼児の目にも明らかであろう。 しかし問題はそんなことではない。我が国の、いや世界の未来を担うべき学生たちにまでそのような邪悪な言動をお手本として見せつけることが、人類の未来にとってどれほどの損失、いやマイナスになるか計り知れない。 山口は8月26日にツイッターでこうつぶやいている。 「日本政治の目下の対立軸は、文明対野蛮、道理対無理、知性対反知性である。日本に生きる人間が人間であり続けたいならば、安保法制に反対しなければならない」 呆れた思い上がりだ。自分こそが「文明」であり「道理」であり「知性」であり、そのオレサマに反対するやつらはことごとく「野蛮」な「反知性」だと言うのだ。幼児にさえも通じないであろうそのような野蛮なタワゴトで学生たちをたぶらかすサヨクな大人どもこそ、人類の敵である。余談ながら、山口の「反知性」という用語の使い方自体、私を含め最近多くの人々が指摘しているよう、「反知性主義」という概念を提唱したリチャード・ホフスタッターの定義からかけはなれた、恣意的で間違ったものである。学者としての能力や良心にも疑問を持たざるを得ない。 学生たちに理性と良心の放擲をそそのかすサヨクな大人どものこの種の言動は、他にも一々列挙していけば、本一冊に余りある。デモそれ自体が、デマで学生たちに道を踏み外させるための暴力装置と化していたと言っても過言ではない。 ただ残念なのは、保守勢力からの国会前デモ批判の多くが、学生たちに対する批判や揶揄に留まっているという事実である。サヨクな大人どもが将来ある学生たちを容易にたぶらかし悪の道へ誘うことができるのは、保守勢力が学生たちに対し、魅力的な活動の場を提示できていないからではなかろうか。何も政治活動の場を提供しろと言うわけではない。学業やアルバイト、恋愛、友達付き合い等、今の学生たちが安心して充実した学生生活を送れる条件が、果たして十分整っているだろうか。ブラックバイトやうなぎのぼりの学費、生活費、卒業後重くのしかかる「奨学金」という名の借金等、我々大人たちは、彼ら学生たちを余りにも蔑ろにし続けてきたのではなかろうか。 国会前デモは、「戦争法案」に反対する行動と見るべきではない。将来を担う学生たちに注意を払って来なかった我々大人たちに対する異議申し立てとして捉えるべき事件なのだ。

  • Thumbnail

    記事

    SEALDsの歴史的意味を過小評価するな

    値を守りたいという理念を共有している。特定のイシュー(問題、論争点)に特化するのではなく、立憲主義、安全保障、生活保障など、包括的なアクションを目指して活動している。いわゆる「改憲か護憲か」という議論ではなく「立憲主義」という近代国家に不可欠な価値を根拠に、自民党改憲草案や解釈改憲に反対していくという。 SEALDsの前身団体がSASPL(サスプル:Students Against Secret Protection Law/特定秘密保護法に反対する学生有志の会)だ。彼らは街頭での抗議行動だけでなく、映像や文章による宣伝、イベントや解説サイトの作成などを行ってきた。2014年10月に主催した渋谷のデモでは学生を中心に2000人が集まっている。法施行日前日から抗議の声を上げ合計3000人を越える人たちが集まり、数十年ぶりに大手新聞3社で学生デモが新聞の一面を飾った。以上の基礎的データは、SEALDsが記者会見のために準備した文書とその後の取材による。 SEALDsは、2015年6月27日に東京・渋谷のハチ公前で集団的自衛権行使の解釈改憲に反対する集会を開いた。わたしは写真家の藤原新也さんたちと現場に行った。藤原さんの関心は、どんな若者がそこに集まってくるかにあった。香港の「雨傘革命」を目撃した藤原さんは、日本での兆候を自分の眼で確認したかったのだろう。8月30日に国会周辺で行われた集会に行った藤原さんによれば、集会参加者でもなく、取材者でもなく、「空気」のような立場で現場に立ち会ったという。渋谷でもそうした視点だったのだろう。 「どうでしたか」と聞くと、「集会の周りを歩いているような若者がもっといるかと思った」という感想が戻ってきた。渋谷集会でマイクを持ち、スピーチをする学生たちには、明らかに知性を感じさせた。就職前の学生もいただろう。彼らは自ら名乗って堂々と、あるいは大きな深呼吸をしてスピーチをしていた。政治家たちに交じって語る彼らを見ていて小さな発見があった。スピーチ内容を紙に書いて手にしていたのはたった一人。みんなスマートフォンを左手に持ち、ときおりそこに眼をやりながら語っている。わたしは院内集会で一度だけスマートフォンを手にスピーチをしてみた。難しいというより、おそらく新しい機器に対する世代感覚と慣れの違いなのだろう。発言内容を事前にメモして語る旧来の方法がずっとやりやすかった。国会前で安保法案反対を訴え、声を上げる「SEALDs」の奥田愛基さん=8月30日午後 組合など組織が前面に出たデモや集会では、いまもかつてもこんな光景が日常的だ。「シュプレヒコール!」「おーっ!」「われわれは○○を許さないぞー!」――こうしたアピールは、戦前、戦後から変わることなく続いてきた。ところがSEALDsはそうではない。ラップ調のリズム感あふれたかけ声はとても新鮮だ。渋谷で行われた高校生のデモ(8月2日)で、中年女性がそのスタイルを真似していたが、テンポがとても追いつかない。近くで聞いていて御愛嬌だった。SEALDsは戦後の日本で続いてきた社会運動の文化を確実に変えている。 6月24日に参議院議員議員会館でSEALDsが記者会見を開いたとき、入り口でパンフレットを配っていた。そこには細かい文字でなぜ集団的自衛権行使の解釈改憲に反対するのかが、詳細に分析されていた。余談だが記者会見の開始が遅れた。しばらくして中心メンバーが慌ただしく会議室に入ってきた。どうしたのかと問うメンバーに彼は答えた――「授業だったんだから仕方ないだろ」。SEALDsの象徴的な素顔だ。国会正門前で毎週金曜日の19時半から21時半まで行われている集会の様子を聞いて、ときに過激な発言があることをことさら批判するむきもある。運動とはそういうものだ。問題があれば批判をすればいい。誤解してはならないのは、感情の発露の背後には彼らなりの分析と理論があるということである。 スローガンやシュプレヒコールは論文ではない。現場の言葉は「なまもの」であって「干物」ではない。ひとの心に届く言葉とは単純にして明解でなければならない。確信ある言葉でなければ届く前に揮発してしまう。SEALDsの多くの学生たちが本気で運動に参加していることは、その様子を観察していればすぐにわかる。国会前の集会でムードを作ってきたのは、SEALDsの持つ時代の流れに沿った勢いなのだ。もちろん戦後の長きにわたって、いまでは中高老年の年齢になった世代の、何十年にもわたる民主主義を実現するための地道な営みがあったことを忘れてはならない。その土壌のなかから新しい社会運動としてのSEALDsが誕生した。意図せずして時代の先端に押し上げられたSEALDsの歴史的意味を、たとえ嫉妬や批判があったにしても、過小評価するべきではない。

  • Thumbnail

    テーマ

    SEALDsというヘイトな人々

    審議が進む安保法案をめぐり、国会前で声高に反対を叫ぶ若者たちがいる。デモを主催するのは学生団体「SEALDs(シールズ)」。「政治に無関心な学生が立ち上がった」と評価する声がある一方、特定の政治団体とのつながりを指摘する声もある。結局のところ、彼らは何者なのか。

  • Thumbnail

    記事

    裸の首相 裸だと指摘する者はメディアでも子供でも黙らす

     アンデルセンの童話『裸の王様』の最後の場面では、小さな子供の「王様は裸だ」という言葉をきっかけに人々が笑い出す中、王様が最後まで裸のまま従者たちとパレードを続ける。しかし、この国の“裸の首相”は、自分を裸だという者は議員であろうとメディアであろうと、たとえ子供であろうと容赦なく黙らせる。 自民党勉強会での「マスコミを懲らしめろ」発言問題だけではない。今国会で公職選挙法改正案が成立し、来夏の参院選から高校生を含む18歳以上に選挙権が与えられる。 海外では選挙の際に選挙権を持たない生徒たちに学校で争点を議論させ、実際の候補者への模擬投票をさせて有権者としての自覚を育てる「主権者教育」を行なっている国が少なくない。70年談話を発表し、記者会見する安倍晋三首相=8月14日午後、首相官邸(斎藤良雄撮影) ところが、自民党は逆に18歳選挙権実施にあたって高校生の政治議論や活動を制限する方針を打ち出した。さる6月25日、同党文科部会は「学校が政治闘争の場になることを避けなければならない」「高校生の政治活動について、学校の内外で抑制的であるべきだという指導を高校が行なえるよう、政府として見解を示すべきだ」とする提言案をまとめ、教育公務員特例法の改正などを求めたのだ。 背景にあるのは大学生、高校生が安保法案反対を掲げて今年5月に結成した「SEALDs」(自由と民主主義のための学生緊急行動)の動きだ。SEALDsは国会前で抗議活動を行なっており、6月27日にはネットで渋谷ハチ公前でのデモを呼びかけて数千人を集める影響力を見せた。これに安倍首相は神経を尖らせているという。官邸の安倍側近筋が語る。「総理がSEALDsを非常に気にしている。これまでネットの意見で若い世代に憲法改正を望む声が強いことから、総理は自分の路線が若者に支持されていると考えていた。選挙権の年齢引き下げも自民党に有利に働くとの読みがあった。 しかし、渋谷のデモに多くの若者が参加するなど、予想に反する動きが広がっている。このままでは70年安保の新宿フォークゲリラ、神田カルチェ・ラタン(※注)のように、今後は渋谷が若者の反対運動拠点になりかねないと心配している」【※注/1960年代後半、ベトナム戦争やアメリカ寄りの安保政策に反対し、学生が様々な政治闘争を行なった。東京・新宿には警察の集会禁止に対抗してゲリラ的に反戦平和のフォークソングを歌う若者が集まったり(1969年6月)、大学が多い神田駿河台では新左翼の学生らがバリケードを築き機動隊と衝突する(1968年6月)などの事件が起きた。後者は教育機関が数多く集まるパリのカルチェ・ラタン(地域名)にちなみ神田カルチェ・ラタン闘争と呼ばれる】「安倍支持」だと考えたから18歳以上に選挙権を与えたが、若者の批判が政権に向かうや、“俺のやることに反対は許さん”と、一転して高校生を“政治弾圧”しようというのである。

  • Thumbnail

    記事

    「政治はブスがやるもの」というイメージ変えたSEALDs女子のオーラ

    井戸まさえ(前衆院議員、元経済ジャーナリスト)誤解を恐れず言えば。女性の政治参加が進まない一因に「政治はブスがやるもの」イメージの浸透、というのがあると思う。もしくは「自己顕示欲の強いミスコンorタレント崩れの、中途半端に自力で『美人オーラ』を放つオンナ」・・みたいな(笑)(もちろん実際にはかわいくて素直で能力の高い議員も沢山いますが、あくまで一般的なイメージとして、です)まあ、リア充してたら、「社会に不満を持つきっかけ」や「政治に関心を持つ機会」も少ないという傾向はあるのだろうし、「こっちの世界に入っちゃったら、二度と戻れない」みたいな迫力を、おしゃもじおばさんたちが発するのを見て、ちょっと行けないな、と思う若者たちがいても不思議とは思わない。つまりは・・・政治活動をすると「圧倒的にモテなさそう」なので、それとつるむと自分も「モテなくなりそう」。たぶん多くの「恋愛もしたいし、結婚もしたい」と思っている若い女の子たちには敷居が高い分野だったのだと思う。ところが。「SEALDs」女子の登場は、そこを良い意味で裏切ってくれた。以前にも書いたけど、リア充な若者は政治について不満を持つことはない。が、安保法制はそれを越えた、彼らの生活に大きな不安をもたらている、というのが大きいのだろう。国会前に多くの若者らが集まった「SEALDs(シールズ)」の抗議集会彼女たちは美人であろうが、かわいかろうが、その活動は別に自己顕示欲でやっているわけでないところも受け入れられるんだと思う。つまり、ちょっと可愛い女子が政治業界に登場すると。どこかに「自己顕示欲」の悪臭…香水つけ過ぎ、プンプン・・一緒に3分もいられない!というのがあって、特に同性はそういうことを敏感に感じるので、輪が広がらない。が、「SEALDs」の彼女たちが醸し出すオーラはそれとは違い、「もっと一緒にいたい」と思わせるもので、「彼女たちと友だち」というのはステイタスになる。そういう意味では安保法制という実に残念な形ではあるものの、「女性の政治参加」などとお題目を唱えなくとも、こうして新たな人材の芽が伸びて来てくれていることには希望を感じるのである。ただでも、まさにここから、なんだと思う。まっすぐ育ってほしいと思うけど、狡猾な大人たちに利用されたり、下手に「アイドル」的祭り上げられ方して舞い上がったり。内部分裂(たいていは恋愛のこじれから笑)して互いを批判し合ったり・・そんなことにならないようにと願っております☆彼女たちの年齢見ると、意外には幅広なんだね。10代から20代後半まで。26歳の子の演説聞きながら、自分のその頃考えたら、結婚して子ども産んでたな〜と思うと、年齢的な縛りで人生の選択をしなくてよくなっていることは、行動の幅や機会も拡げているんだろうな、と率直な感想として思う。※「井戸まさえ」日誌 2015年7月21日記事より転載。

  • Thumbnail

    記事

    SEALDsは共産党や中核派と混同されても仕方ない

    !のヘッドラインに転載され、私自身も「偏向報道」の被害を当事者として受けました。国会前で集会を開き、安全保障関連法案反対を訴える「SEALDs」参加者 多くの取材攻勢を通じて、「特定の層」は意図を持って動いているように感じました。記者たちを含む実社会の動きを振り返るに、イデオロギー的に対立する層が警戒しているのが何であるか、おぼろげながら見えてきました。 このテーマにおける左翼の反応は、異常なレベルでありました。web上でも盛り上がっておりましたが、リアルへの広がりのほうが大きかったように思う。多くの紙媒体が反論、擁護を行いました。なんと国会でも野党が取り上げています。ではネットの反応がどうかと言えば、発端となった当方のブログのfacebookのいいね!は7000弱、tweetも4000台。いいね!が1万を超えることもしばしばある中、アクセスとしては決して多いものではありませんでした。頂いた意見・反応も8割方が賛同の意見。批判もなく、ほどほどのアクセスであり炎上もしておりません。実際、そのように報道されたこともありません。  言い換えれば、ネット上の左派勢力よりも、実社会における左翼が注目したテーマなのです。「SEALDsと就職」というテーマは、中高年層を主力とする実社会の左翼を惹きつけるのでしょうか。大きなトピックとなったのはなぜか。一つには、ある最高裁判例の存在と密接な関係があるように考えています政治活動が就職活動に与える影響 「SEALDsのデモ活動が就職活動に与える影響」についてですが、一人の政治家として「影響はない」と思いたいし、発信したい。ただし「SEALDsのデモ活動」が主語であれば、です。これが「SEALDsの活動を通じてある誤解を受けた場合」となれば、影響があると考えています。ひどく微妙な言い回しに感じたかと思いますが、この違いこそが全ての議論の最重要ポイントです。 この両者は極めて似ていますが、絶対に混同してはならぬ部分です。逆にSEALDsの学生たちに伝えたいことでもありました。ネット上の保守層にも是非、理解して頂きたい重要な差異であります。 混同されがちな部分ですので、最初に宣言しておきます。「政治活動が就職活動に与える影響」についてでありますが、私は「ない」と断言したいのです。実際には影響はあるのかも知れませんが、私はそれを認めたくはありません。ゆえに「ないと断言したい」というフレーズを選択しました。政治活動が就職活動に影響を与えるなど、あってはなりませんし、そのようなことはないと信じたいのです。  学生が政治活動に参加することを、私は推奨いたしません。しかし、実はとても嬉しいのです。こんなことを書くと保守層からは怒られそうですが、仮に「安保法案に反対」であったとしても、同様に嬉しい。それほどに若者たちが政治を真剣に考えてくれるという現実、一期も務め上げぬ市議ではありますが、一人の政治家として素直に嬉しい。それらの政治活動が就職に影響を及ぼす等、それが賛成側であれ反対側であれ、あってはならないと考えているのです。  とは言え学生の本分は学業です。政治活動に身を投じることは、本心では嬉しいと述べました。しかし、学業に精を出して頂きたいということも同様に述べておきたい。また、恋愛であったり、バイトを通じて学ぶこともあるだろうし、社会人となりルーチンワークに埋没していく前に、モラトリアムを充分に謳歌して頂きたい。私自身、そんなに良い学生ではなかったからですが、人生を振り返るに無駄な経験ばかりではありませんでした。 どんどんやりなさいと推奨はしませんが、どちらの陣営であれ新たな参加者については歓迎したい。その上で、「新たな参加者」たちには、賛成派・反対派を問わず、伝えておきたいことがある。三菱樹脂事件の最高裁判例三菱樹脂事件の最高裁判例 どちらの陣営であれ、新たな参加者たちに伝えたい線引きがあります。それは「政治活動の領域」と「過激派・公安監視対象団体に混同される領域」は明確に違うということです。私たち議員を含め、実際に政治活動を行っている大人たちは、この線引きを明確に意識しています。警察などの公権力も明確に区分していますし、就職活動に影響する民間企業も区分しています。この区分は、絶対に覚えてください。取り返しのつかないことになってしまいます。 冒頭に述べた「ある最高裁判例」とは、「三菱樹脂事件」を指します。これは学生闘争に身を投じていたことを伏せて面接をパスした学生が、試用期間中に企業側に発覚したのです。結果、本採用されず、訴訟に発展しました。最高裁は「企業側の採用の自由」を認め、学生側が敗訴しています。  ここで注意して頂きたいのですが、就活生であった原告は、政治活動を行っていたのでしょうか? つまり学生闘争を「政治活動」と呼んでいいのか、ということです。飛び交う火炎瓶、燃える警察車両、ついに突破される機動隊。現在、行動系と呼ばれる団体も、対になるカウンター勢も、まったくもって比較になりません。私は、「学生闘争」は「過激派・公安監視対象団体の領域」と分類し、政治活動とは切り分けて認識しています。この差は非常に大きい。政治活動を行っている大人たちは、それが保守であれ左派であれ、同じ認識かと思います。少なくとも公権力においても同様の扱いかと思います。新たな参加者たちにも、是非とも線引きをして欲しい点だ。 政治活動であれば、就職に影響はないと述べました。あってはならぬという信念を持っています。しかし、「過激派・公安監視対象団体」と混同された場合には、影響が出てくると考えています。正しくは「影響が出た事例」があると言うべきでしょう。いま述べている三菱樹脂事件の最高裁判例がそれにあたります。実際に、面接をパスし、試用期間を経たにも関わらず本採用が見送られているのですから。そして、この民間企業の判断は、問題ないという判決となっています。 この判決を「おかしい!」と責める者もいるでしょう。しかし、それを政治家に言っても仕方ない。実際に内定が取り消された等の状況に陥れば、それは政治分野ではなく司法分野の動きとなるためです。世の中には三権分立というものがあり、異なる権の者に言っても仕方がありません。 採用の自由を認めた最高裁判例でありますが、学生側や一般の方の観点以外から考えるとわかりやすい。企業側から見れば、採用面接とは億単位の契約なのです。残念ながら終身雇用は崩れつつありますけど、定年まで務め上げた場合の賃金は億を超える。選ぶ側の企業からすれば、それは億単位の契約とも言えるのです。最終面接においては、社長・役員クラスが立ち会う例も多い。上場企業の役員級とは一日あたり数百万もの利益を上げる人材であり、当然凄まじく多忙な方々です。 組織の維持、そして組織の利益のため、「新たな参加者」を企業側は必死に選ぶ。おかしな者を選んでしまえば、人事部門の沽券にも関わるだろう。最終面接に残し、社長・役員級の時間を割くことは許されない。人事部門も組織の一員であり、なにより仕事であるためだ。 企業側にも「選ぶ自由」があるのです。それが最高裁の判断です。アベノミクスにより景気は回復を見せ、少なくとも就職戦線においてはかなりの改善を見せてはいます。しかし、まだまだ就活生側の売り手市場とは言えはしないでしょう。 過激派・公安監視対象団体と目された場合には、仮に企業側が拒絶したとしても抗議することは難しい。試用期間に入っていた学生の本採用を見送っても違法性はないという判例が出ているからです。内定が取り消されたとしても、不思議ではないし同じく抗議は難しいだろう。本格的に抗議の意思表示を行うとは、それは訴訟を指しますが、基本的に敗訴するためです。 最高裁判例の重みを説明します。Aさんが(甲)という行為をした場合、「あ」という判断が下されたとしよう。同じくBさんが(甲)という行為をした場合、「い」という判断が下されては不公平です。同じ(甲)という行為に対しては、同じ「あ」という結果が下されるべきだ。ゆえに訴訟においては過去の判例が重視されます。当然ながら、最高裁判例は最も重視されます。 仮に「過激派・公安監視対象団体」と混同され、内定が取り消されたとしましょう。その場合は、最高裁判例が出ている以上、勝つことはほぼ不可能です。万が一、勝訴した場合は、最高裁の判例が覆った歴史的瞬間ということになる。トップニュースになるでしょう。 万に一つの可能性を求め、この訴訟にチャレンジするのは自由ですが、凄まじく時間がかかることでしょう。最高裁判例を地裁・高裁でひっくり返すことは余り想像できないからです。企業側も最高裁判例を軸に戦うでしょうから、本当に勝訴するためには最高裁まで戦う必要があるからです。  よって、「過激派・公安監視対象団体の領域」に入ってしまえば、就職活動には影響が出ます。それは司法分野の判断であり、民間企業はそのルールに則って動くためです。 重視している点ですから、繰り返し強調しておきます。政治活動の範疇であれば、影響はないと断言したい。しかし、過激派・公安監視対象団体と混同された場合には影響がある。この両者は一見似ていますが、まったく異なるものである。SEALDsの背後関係SEALDsの背後関係 私は、SEALDsは「政治活動」の範疇だと考えていました。少なくともスタートにおいては、そうであったと確信しています。また、批判する立場にもありません。私は、安保法制の推進派であるため対峙する陣営でありますが、一人の政治家として政治を真剣に考える学生たちにエールを送りたいほどです。 しかしながら、指揮・采配に対しては大きな失敗しているな、という思いも抱いています。それは背後関係を疑われる点が多々あり、余りに軽率に感じます。ここまで述べてきた「政治活動」の線引きがあやふやであり、周囲の大人たちがそれを伝えていないゆえの結果であろう。学生側の責任ではないと考えますが、すでに混同されつつあると言ってもいいだろう。 私自身は、スタートにおいては「政治活動の範疇であった」と考えています。しかし「社会がどう認識しているか」と問われれば、政治活動の領域を逸脱しつつある団体と認識しているように考えています。 その最たるものが共産党の関与です。共産党のHPには「各地の行動予定」というページがあり、ここにSEALDsの日程も告知されております。これは政党から、少なくとも広報支援を受けているという事実であります。実態としては動員協力を受けていると言われても否定は難しいだろう。 政党が、政治活動を支援することは構わない。それ自体を問題視するつもりはないが、その場合は、特定政党の「政党活動」ということになる。単なる政治活動とは、扱われ方は変わってきます。 国会前では中核派の騒動もありました。チラシを配布して良いか否か、トラブルがあったようでネット上でも注目を集めました。また7月15日、安保法案に反対する活動に参加していた男性2名が公務執行妨害で逮捕されていますが、60代の中核派であったとの報道。学生闘争に参加していた一般と認識されるべきでしょう。これをもってSEALDs=中核派と述べるつもりはありませんが、過激派・公安監視対象団体の領域であると混同されても仕方ありません。 他にも、民青の動きも注目すべきです。民青とは、日本民主青年同盟の略称で、共産党の関連の深い団体です。共産党と同一の組織ではありませんが、かつては「日本共産党のみちびきをうけ科学的社会主義と党綱領を学ぶ」とあり、党の指導を受けることが明確化されておりました。 共産党と関連の深い民青でありますが、民青幹部がSEALDsのデモ隊の先導をしていたことが発覚しており、ネット上でも拡散され、周知され尽くしている。SEALDsと民青の関連も否定は難しい状況です。 では、上記の集団とSEALDsの関連はどうなのでしょう。正直、私は関連はないと考えています。しかし、混同されつつある、とも考えています。実態としては、党組織の若返りが悲願の共産党であったり、もしくは過激派などがSEALDsに近づいている程度のものでしょう。ネットでは多事総論ありますが、実は「ほとんど関係ない」というのが現実なのだと思います。 とは言え、SEALDsの車両が共産党のそれであったり、明確に関係性を示す物証が続々と出てきています。デモにしてもノウハウが必要であり、安保法案反対という同じ活動方針ゆえ「融通しあったり、助け合ったり」しただけなのだろう。 その際の、意思決定フローにおいて、線引きが余りにあやふやであった、それだけではないだろうか。私は、この点は極めて軽率であったと思う。対立する陣営に塩を送り、そして恨まれるであろうことも覚悟の上で発信してきた。その理由は見ていて危なっかしかったから、という一点に尽きる。政治活動における指揮能力の欠如・自壊するSEALDs政治活動における指揮能力の欠如・自壊するSEALDs 「政治活動」であれば、影響はないと述べた。そして影響はあってはならぬという信念を持つ。その上でSEALDsと就職活動という論点から言えば、影響は出てしまう状況に移行したと考えています。SEALDs自身が各種団体との距離感を見誤り、結果として混同されつつある状況にあるためだ。これは学生側の問題というよりも、周囲にいた大人たちの責任だと考えています。組織論から言えばSEALDs側の指揮采配のミスですが、彼らが「新たな参加者」である以上、配慮が求めれるのは大人たちであったように思う。 一部の参加者は余りにも激しい文言を用いており、SEALDs自体のイメージが急速に悪化しつつある点にも注目したい。組織維持の一環として、ブランディングとしてSEALDsの指揮官級が指揮・判断すべき案件ですが、それらの指揮能力を学生に求めるのは酷というものだろう。政治活動の経験不足ゆえ、組織防衛のノウハウを持たぬゆえの悲劇です。  例えば、SEALDs参加女性が国会議員に対して「てめーの身体のすべての穴に五寸釘ぶち込むぞ」と述べました。この女性は、別のtweetにおいて北海道の民青として行くことや、浪人中であり親からも心配されている件などを述べています。 同様の発言は多々ありますが、結果としてSEALDsのブランドは凄まじい勢いで崩壊しつつある。すでに止めることは不可能であり、その意味ではブランドは崩壊しつくしたと言っても過言ではありません。初期においてメディアが喧伝してきたお洒落な集団というイメージは、すでに崩壊してしまったのです。 混同されつつある状況を鑑みれば、影響は出てくるように思う。三菱樹脂事件との関連のみならず、イメージ悪化による影響もあるだろう。現時点での私の認識だが、企業の採用担当・人事部門は良い認識は持ってはいないと考えている。むしろ、貴方はどう思うのかを問いたい。答えは同じものではないだろうか。 過激派・公安監視対象団体の領域に軽々に踏み込んでしまったSELADs側の判断。またブランドイメージを守るという組織防衛が行えなかったこと。その全ては、政治活動における指揮能力の欠如によるものです。  とは言え、同情すべき点もあるのです。かなりの難易度が求められる。常に交代がきくわけではないが、チームで動く際はメンバーそれぞれの余力には注意を払う必要がある。前に立たせ続ければ、疲弊していく。配慮やフォローは必要だし、厳しい局面があればサポートする判断も必要だ。前述のブランドイメージを守ることも肝要であるし、法令との整合性も視野に入れて動く必要がある。  これらの指揮・采配の能力は、一朝一夕において身に着くわけではない。長年の経験あってのことで、特に精神的な打たれ強さなどは場数で増していくものである。 初めて前に立てば、昂揚感から「まだやれる!」と思ってしまうこともしばしばだ。新人は、退く判断が往々にして遅れる。注意が必要だ。精神の高揚から、体力的な限界を認識できず倒れてしまったり、逆に肉体的な負荷が精神的な高揚につながってミスにつながる場合もある。 これは保守陣営・左派陣営に関わらず、両陣営に共通するものだろう。私自身も多くの失敗もしてきたし、先輩方の指導があってこの場がある。ゆえに、左派陣営にしても、これら初歩的な事項は熟知していると考えている。 ネット上では五寸釘発言の娘を嘲る声が多数だが、私は本当に可哀想なことをしたと思う。「普通の学生」であることを前に出すことは、安保法案に反対する陣営からすれば、効果的な手段だったのだろう。しかし、20代前後の学生を、そこまで露出させれば精神的な負担は相当なものだ。政治家である私にしても、意図を捻じ曲げられてYahoo!のヘッドラインに掲載された際は、相当に苦しんだ。とは言え、落ち込んだのは一日だけであったが。 私が耐えることができたのは、30代であること、公人であり度胸もついてきたこと、またブログの訪問者数が月に60万人おり、露出に慣れていたゆえのことだ。  普通の人間なら、心に傷を負っても仕方がない。罵声のようなコメントに日頃から晒されてきた学生などいるはずもないし、精神的にストレスを抱え爆発するほうが正常だとも言える。前に立たせ、露出を浴びることは、相当につらいことだ。尋常ならざる常人とは異なるレベルの強い精神力が求められる。壊れての暴言であったと思うが、壊れるのは当たり前なのだ。 誰も、彼女を見ていてあげなかったのか。結果として、ネット上の良い玩具となってしまった。デジタルタトゥーを背負わされ、もう引き返せないところまで来てしまったのだろう。 前述の暴言は、許されるものではない。平和を訴えつつも、なんと攻撃的なことか。私はそう述べねばならない立場だが、対峙する陣営とは言え、政治活動に身を置いたこともある年長者として、手をひいてあげる者がいなかったのかと悲しく思う。 似た例は、続発していくのだろう。これは構造上の問題だと考えるためだ。内部事情に明るいわけではないが、指揮采配の経験が浅い学生に対し、陣営としてのサポートが甘いことが原因に思えてならない。 前に立たせるならば、もっとしてやれることはなかったのか。例の五寸釘の方は、「民青が唯一の息抜きみたいな笑」というコメントも残している。支える能力が欠如しているのか、または最初から支える気などなく使い捨てるつもりなのか。続発するであろうことが、悲しくてたまらない。メディアの取材攻勢メディアの取材攻勢 私が受けた取材について触れたい。これだけのアクションが実社会においてはあったのだ。敢えて取材活動ではなく、取材攻勢と表記させて頂く。記者の多くが、ある言質を取りに来たからだ。それは、保守系議員である私が「政治活動=就職に影響」という論理展開を行ったという確認、その言質を取ろうとしつこいほどに確認をとられた。 なぜ、そのような取材が必要であったかと言えば、私は取材を受けたBlogの記事において一度も「政治活動」という単語を用いていないためだ。これは繰り返し述べてきた、政治活動は就職活動に影響しない、してはならないという思いゆえのことだ。 また、それが学生であれ、異なる立場であれ、日本国民であれば政治活動の自由は保障されるべきだ。ここに制限を加えることは憲法に抵触すると認識している。ゆえに公職として、本当に気を付けて述べてきた。だからこそ記者たちが取材を申し込んできた記事においては、「政治活動」という言葉は用いていない。 私が「政治活動で就職活動に影響」と認めれば、保守系議員による「憲法違反」とでも報じたかったのだろう。 冒頭において、ネット上ではなく、実社会での反響のほうが大きかったと述べました。野党より国会で質疑にまで発展している。繰り返しになるが、いいね!の数・tweetの数ともに私のブログの中では反響は少ないほうであり、web上では賛同コメントのほうが遥かに多く、また各種のまとめサイト等をはじめ炎上という事態には陥っていない。 しかしながら、実社会においては報道を始めとして大きな反響を生じた。それはなぜか。執拗なまでの取材攻勢を通じて、あることが見えてきた。 それは一重に、私の記事が「三菱樹脂事件」の最高裁の判例をベースとしていたからだろう。ネットでは知らぬ方も多いのだろうが、実社会の一定の年齢を超えた左派には周知の事実であるためだ。彼らは、場合によっては就職活動に大きな影響を与えることを承知していたためだろう。つまり学生闘争をリアルタイムに体験した世代にとっては、非常に耳に痛い話であったということだ。 言い換えれば、安保法案に反対している大人たちは、影響が出る可能性を当初より予期していたのではないか、ということだ。そして、それを学生側にはひた隠しにしてきた。だからこそ、条件反射のように潰しにかかったのだろう。私にはそう思えてならない。 署名記事ゆえ記者名も記すが、毎日新聞の山本紀子記者は凄まじかった。取材依頼の時点で、条件を提示したところ非常に不服な反応。その条件とは、政治活動への言及を私は行っていない点、過激派・公安監視対象団体との混同について論じている点、その論拠として三菱樹脂事件が根底にあるというものだ。また、政治活動への参画自体は、本心では嬉しいという点も取材を受けるにあたっての条件とした。これに対し不服そうな反応であった時点で意図が透けて見える。条件提示後、再度の連絡があり条件を飲むと言われた。 その取材においては、冒頭より「左ですから」と明言。不偏不党はどこに行ったのだろう。市役所の記者クラブに在籍しているが、イデオロギーに拠って喧嘩腰の記者は珍しいそうだ。その日の夕刻において、明日の朝刊に掲載が決定との連絡を受ける。その際には、「叩き気味の記事、バッシング方向ですけど。お楽しみに」と発言。何度か連絡を頂いたが、その電話の際、周囲に他の議員がおりスピーカーで一緒に聴いていた。唖然としていた。 紙面としては、条件を守った内容であったが、私のコメントを紹介しつつその文中において弁護士の見解を付記して否定的に報じる。なんとか批判的な内容にしたかったのだろうが、紙面としてはパンチに欠ける部分もあった。とは言え条件は守っている、それは彼女なりの記者魂なのだろう、私は評価している。 工夫したのだろう、見出しに大きく「FBに行橋・小坪市議」と掲載。まるで選挙リーフレットかのようだ、印象操作というものだろう。タイトルは「安保デモ参加」「就活生 面接残れぬ」というもの。なんとか打撃を加えたいという意図が読み取れる。 私は刑法に違反したわけでもないし、政治倫理に抵触したわけでもない。学生の就職活動について、不真面目な学生であった自らを恥じつつ、就職氷河期を越えてきた者として論じたのみだ。賛同コメントが圧倒的であり、炎上したわけでもない。自らのイデオロギー的な部分、その対立を明言しての取材、結果としての記事なのである。これが地方版の紙面として相応しいのか。私は、ペンの暴力ではないかと思うのだが、その判断は周囲が行うものだろう。 とは言え、周囲に他の議員がおり、やり取りを聴いていたことは誤算ではないだろうか。市役所に所属の記者としては珍しい、議員間では噂となっている。 さらにひどいのがJ-CASTだ。前述の山本紀子記者でさえ守った点がある。取材攻勢の激しさという一例として紹介はしたが、私としては責めているつもりもない。分析し論じたのみであり、彼女と同じことをしたまでだ。取材時にこちらも宣言し、彼女も同意している。私が国会議員であれば、力の差ゆえこのようなことは許されないのだろうが、一介の新人市議と、選挙区の地方版をこのように用いる者であれば、言及し論じることは許されるように思う。 J-castからは、私は取材を受けていない。にも関わらず、まったくの真逆の取り違え。主たる主張である「政治活動の領域」について大誤報。特に許せない発言としては以下。 『福岡県行橋市の小坪慎也市議だ。小坪市議は15年7月26日に投稿した「#SEALDsの皆さんへ 就職できなくて#ふるえる」と題するブログ記事で、デモの参加者を「腐った蜜柑」と表現』という文言。ここまで読んで頂けた方は理解して頂けると思うが、デモは政治活動であり影響があるとは私は主張していない。そもそもそれは憲法違反だ。特に気を付けて書いた点で、論理構成の根幹をなす部分だ。 また「腐った蜜柑」という単語はあるが、それは「過激派・公安監視対象団体」や「混同された者」であり、学生を指してのものではない。シリーズを通して徹頭徹尾一貫して書いており、各紙の取材においても「三菱樹脂事件が根底にある」ことを述べた上で、否定している。同訴訟の原告が参加したのは学生闘争であり、政治活動とは一線を画すという主張だ。そもそも学生側に立って発信し続けており、その私が「学生=腐った蜜柑」と表現はするはずもない。 しかもこれはYahoo!への配信記事であり、凄まじいアクセスをもって、言ってもいないこと、むしろ主張とは真逆のことをばらまかれた。それこそ人権侵害であり、断じて許せることではない。本件に関しては、場合によっては法的対応をも視野にいれ、対応を協議中である。学生たちは、日本の財産学生たちは、日本の財産 これは安保法案に賛成する層、多くは保守陣営かと思うが、皆様にも今一度認識して頂きたい点である。誰がなんと言おうと、将来を担う学生たちは日本の財産である。大学を出たから偉いとは言わないが、高度教育を施された者が日本の財産であることは疑いない。 それが対峙する陣営であろうと、イデオロギーが真逆であろうと、この一点に関しては強く訴えたい。賛成派・保守層にも同じ認識を共有して頂きたいし、同じく反対派の大人たちにも同じ認識を共有して頂きたい。これは本心からだ。 彼らは日本の大事な人材だ。そして就職活動を控えた身である。小中高と親御さんが手塩にかけ、本人の努力もあったとは思うが、学校関係者や周囲の協力があって学生という立場にある。新卒主義の日本において、一度きりのチャンス、切符を手にしている。多くの支えがあって、彼ら学生を大切に思う多くの人々の祈りを受けてその場にいる。 学生自身は、その重みを理解はしていないだろう。少なくとも私は、当時はまったく理解できなかった。いま当時を振り返るに、本当に恥ずかしい。大人となった今、社会人として先輩としての自覚を持ち始めた今は、かつての自分を恥じつつ、異なる思いも持っている。多くの大人たちは、この重みを理解して頂けると信じたい。ゆえに、両陣営ともに配慮をお願いしたい。学生たちに配慮を。  これは左派のみを責めているのではない。例えば、素晴らしい保守活動があったとしよう、従軍慰安婦の虚構を追及し、朝日新聞を糾弾する保守好みの活動だ。しかし、それが赤報隊の主催であれば、私は参加することはない。赤報隊は、明確に「過激派・公安監視対象団体の領域」だからだ。仮に後輩たちが参加しようとすれば、必死で説得を試みる。最後は本人の判断のため、強制はできないが、必死に止めることだろう。  論じつづけている「違い」について、わかっている大人は相当数いるはずだ。それゆえの取材攻勢であり、だからこその実社会への影響だと認識している。 学生とは言え、選挙権も持つようになる。彼らを子供扱いせよとは言わないが、社会人として飛び立つ寸前の若鳥たちだ。社会に受け入れるにあたっては、イデオロギーの如何によらず、社会の先輩として一定の配慮をお願いしたい。  本当の悪者は誰か。なんとか私を悪者にしたい勢力がいたように思うが、振り返ると同じ動きをしていたように思えてならない。私を悪者としたかったのは、私が「都合の悪い者」だったからではないだろうか。結論になるが、左派の大人たちは三菱樹脂事件が明瞭に記憶されており、特定条件においては就職に影響すると認識していたのだろう。それを学生らには伝えていなかった。それを正面から論じた私は「都合の悪い者」だったのだろう。 苦い記憶として明瞭に記憶されているがゆえの、過剰反応だ。 悪いのは誰か。それは、法案のみを主軸として捉える者ではないだろうか。もっと言わせて頂ければ「学生=道具」と看做す者が一番悪い。両陣営に言えることだ。法案反対派のみならず、賛成派・保守層にも言える。「法案に反対」だから、私に抗議する者、「法案に賛成」だから、私を応援する者。私は、どちらもおかしいと思う。 「反対するための便利な道具」として認識しているがゆえ、効果的なツールの稼働率が落ちると危惧し、私を批判した勢力。また、私を援護した層は、「法案に反対する武器」として学生を見るがゆえ、稼働率が下がることを期待して私を支持したように思う。どちらもズレている。 なぜなら「学生、学生、学生」と喧伝しつつも、誰も彼らを学生としては扱っていないからだ。ただの道具扱い、効果的な武器という認識に思えてならないからだ。違う、彼らはこれからの日本を支えて行く人材であり、日本の大切な財産に他ならない。口うるさいと嫌われるのだろうが、年長者らの責任として手をひいて行く必要があったように思う。  国の将来を憂い、政策を論じる者たちだからこそ、どちらの陣営であれ同じ思いを共有して頂けると信じたい。思想やイデオロギー、政策よりも大切なものがある。それは国の将来であり、それを担う若者たちだ。大切な大切な、これから私たちが迎える新しい社会人たちを「道具」として認識しているのであれば、私はそれこそ悪者だと思う。 学生は、学生である。政治活動に身を投じたばかりの、その道に関しては経験の浅い者たちだ。子供扱いせよとは言わないが、新たな参加者を迎えるにあたり、政治活動の現場に在り続けた者は一定の配慮をすべきだろう。 SEALDsを取り巻く議論は、なんとも不毛な言い争いとなってしまった感がある。極めて建設的ではない。正直、私にとっては後味の悪いものであった。参加した学生らが、国を憂いてのものであればなおさらだ。スタートが純粋な思いゆえのものであれば、なおさらだ。後味の悪さから学べることは、今後、学生たちが政治活動に身を投じる際、両陣営において受け入れ態勢の完備、及び就活を控えていることへの配慮が必要という反省点のみである。

  • Thumbnail

    記事

    反対派だけが人民ではない。安保法案に賛成する人間も国民だ

    岩田温(政治学者) 早稲田大学の水島朝穂教授が、安保法案に反対するSEALDsのデモに参加して、次のように発言したという。 「今、新しい民主主義が国会前で始まっている。それはなにか。今まで私が、45年前、高校生でここでデモをやった時、どっちかというと後ろからついていったデモだったんですけど、全然違うの。今日、先頭で、学生といわゆる学者が一緒に歩いたんですよ。 そして、『民主主義って何だ』って彼らが問うたら、『これだ』と言ったんですよ。私、初めて、憲法やって33年、飯食って来ましたが、今日、初めて、憲法って何だって分かりました。これなんですよ。 俺たちが人民なんです。だから、それに反対するあそこにいる政権には退陣を願いましょう。廃案しかない。廃案しかあり得ない。がんばりましょう」 学生と学者が歩くのがそんなに感動的なのかどうかしらないが、それは個人の感性の問題だから、どうでもいい。しかし、どうしても気になるのが後半の部分だ。「民主主義って何だ」「これだ」 要するにこのデモこそが民主主義だといいたいらしい。 さらに、33年間研究してきたという憲法も、「これ」だということが分かったという。 こんなに酷い民主主義解釈も、憲法解釈もないだろう。いくら、興奮した状態の発言とはいえ、これは酷すぎる。33年間、本当に研究してきたのだろうかと疑わざるを得ない。次の発言に至っては、もう驚くしかない。国会前での抗議行動参加者が掲げる「強行採決 絶対反対」などと書かれたプラカード=7月16日 「俺たちが人民なんです。だから、それに反対するあそこにいる政権には退陣を願いましょう。」 この水島教授の論法に従えば、安保法案に反対するデモこそが、民主主義であり、憲法であり、さらに人民なのだという。では、安保法案に賛成する人間は、全て「反民主主義」であり、「非憲法」であり、「非人民」ということになるのだろうか。 私はここに正義に陶酔する政治的イデオローグたちの危うさを見る。かつて『逆説の政治哲学』という本を書いたときに、サブタイトルを「正義が人を殺すとき」にした。 フランス革命にせよ、ロシア革命にせよ、ナチズムにせよ、大量殺戮に手を染めた人々の中には「正義」の観念が宿る場合が多い。自分たちだけが正義を体現しているのであって、自分たちに逆らうのは、「正義」に対する拒絶、すなわち、「不正義」に他ならないという論法だ。 正義に溺れる政治的イデオローグを描いた作品として、アナトール・フランスの『神々は渇く』が有名だが、直近の作品では、「デス・ノート」をあげることが出来るだろう。私は漫画やアニメの類が苦手なので、映画で観たのだが、よく出来ていて面白かった。この主人公は決して、悪人ではない。もともとは善人なのだ。 日本におけるあさま山荘事件もそうだが、彼ら一人一人は、決して真面目で、純粋な人間なのだろう。 しかし、「正義」の観念に取りつかれて、反対派を悪魔化して大量殺戮に至るのだ。  安保法案に反対するのは自由だし、デモも自由だ。そういう自由を侵害するつもりは全くない。  だが、反対派の人々にも覚えておいてもらいたいのは、この国には、賛成派も存在するという事実だ。  以前、芸能人のつるの剛士さんが、ツイッターで次のように呟いたことがあった。『反対反対』ばかりで『賛成』の意見や声も聞きたいなぁって報道やニュース観ていていつも思う。賛成派だって反対派だって平和への想い、戦争反対の想いは同じ。大切なコトたからこそ若い子達だって感情的、短絡的な意見にならないために色んなこと公平に一緒に考えたいよね これは多くの国民が感じていることなのではないだろうか。反対派が存在するのは事実だが、賛成派が存在するのも事実だ。まるで賛成派を悪魔化して、戦争を好む人々やナチス呼ばわりするような非難は、あまりに極端ではないだろうか。日本の平和と繁栄、そして国際貢献を願うからこそ、今回の法案に賛同する人が存在するのだ。 「俺たちが人民なんです」というが、「国民」はあなたたちだけではない。大声をあげることはないかもしれないが、静かに安倍内閣を支持し、今回の安保法案にも賛成している国民も数多く存在するのだ。「俺たちの声もきけ」というなら理解できるが、「俺たちの声こそが人民の声だ」とばかりに、自らに反対する人々の存在を無視するかのような発言は、極端に傲慢な発言だし、みずからの正義に溺れる人間の発言だといわざるをえないだろう。※「岩田温の備忘録」より転載。

  • Thumbnail

    記事

    なぜ「SEALDs」を目の前にすると左右両極は理性を失うのか

    古谷経衡(著述家)絶賛か全否定か-極端すぎる評価 「SEALDs」(自由と民主主義のための学生緊急行動)について、左は絶賛、右は全否定、という極端な論評が続いている。折しも、武藤貴也代議士がツイッター上で「SEALDs」を「利己的」などと評して大きな批判を受けた。同議員は直後、週刊誌で報じられた未公開株を巡る不祥事で自民党を離党。またある地方議員は「SEALDsのデモに参加すると就職に不利」などと自身のブログに書き込んだ所、これまた多くの批判を受け、同氏が所属する市議会に抗議の声が殺到しているという。一方、「SEALDs」を「英霊の生まれ変わり」とまで賞賛する、やや度が過ぎた礼賛の声も聞こえてくる。そこまで持ちあげるのは、流石に如何なものかという気もしないではない。 「SEALDs」を巡る論調で問題なのは、その内容の精度ではなく、極端にすぎること。この一点につきよう。評価できるところは評価し、批判するべきところは批判する。「是々非々」という物事に対する当たり前の態度が、「SEALDs」を前にすると崩れ去る人が居るようだ。 「SEALDs」を目の前にすると何故人は理性を失うのだろう。何故正当な評価ができなくなるのだろう。それは彼らが正真正銘の若者だからだ。若者は無知で馬鹿で何事にも無関心、という従来流布され続けてきた若者を巡る定形イメージは、「SEALDs」には通用しないことは確かだ。羊のように大人しく、かつ無害である、と思っていた人物が突然アクティブになると人は動揺する。こいつは一体何なんだ、と分析してみたく成る。若者とはこんなものだ、と日常の中での皮膚感覚を有していればその動揺は起こらないが、普段からそのような思考の「訓練」をしていないと、被写体との適正距離を取ることは難しい。左は距離が近すぎ、右は距離が遠すぎる。どちらも「若者とはこんなものだ」という皮膚感覚が衰えているからこそ、崇めるように絶賛し、或いは親の仇のように呪詛する。この関係性は健康的ではない。瞠目すべき評価点と批判点 さて、私は右寄りのタカ派だし、所謂「安保法制」もその成立を支持している立場で、微温的な安倍政権支持者だが、だからといって「SEALDs」を徹底的に貶して良い理由には当然ならない。まず彼らが若い、ことは既に述べたとおりだが、以下、瞠目するべき評価点をいくつかあげさせていただく。イ)デモや抗議集会のやり方が洗練されているロ)告知や広報に使用するフライヤーやウェブサイトのデザイン性が優れているハ)抗議集会ではジャーゴン(組織内言語)を忌避し、若者言葉、わかりやすい平易な言葉を発するよう心がけている この三つは、いずれも右派の抗議集会やデモにはみられないもので(だからこそ右派には猛省を促したい)、ここだけを切り取って評するのなら100点、というところだが、当然批判点も以下のようにある。「SEALDs(シールズ)」の抗議集会でプラカードを掲げる若者たち=7月17日夜、国会前イ)所謂「安保法制」に反対する理論根拠が薄弱ロ)イ)に関連して、スローガン、シュプレヒコールに説得力がないハ)平易な言葉を使いすぎていて、理論的ではないとの印象を受けるニ)実際の政治的効果はいかほどなのか疑問である などであろう。「SEALDs」の抗議集会に集まってくる人々には、元来「反安倍」という政治色が濃いことは、想像に難くない。実際、彼らの抗議集会を訪れても、「辺野古移設反対」「ジュゴンの海を守れ」など、安保法制とは直接関係のないアマチュア活動家のような人々が所々にひしめいていた。元来「反安倍」の性質を持っている人は、「SEALDs」のシュプレヒコールに抵抗はないだろう。ところが、そうではなければ「ヤメロ」「NO」の連呼ばかりではちと心もとない。何故安保法制が危険なのか、何故安倍政権がダメなのか、その理論を彼らの口から聞きたかったが、理論展開は幕間に登壇するリベラル言論人や議員、或いは学者が補強していたようなきらいがあった。たとえそれが稚拙であったとしても、何故危険で何故ダメなのか。その理屈を、彼ら「SEALDs」の口から、長々聞いてみたいと思うのは私だけではあるまい。 「SEALDs」のアクションが、どれほどの政治的効果を持つのかも、疑問である。安倍内閣の支持率は安保法制衆院通過前後で、はじめて支持率が不支持と逆転されるなど動揺したが、「70年談話」以降は持ち直してきている。また、政党支持率でも自民党は微減か横ばいにとどまっており、対して「安保法制」に喧々囂々の批判の声を上げた民主党、社民党、共産党のそれは上がるかとおもいきやそのような兆候はなく、芳しくない。自民一強、の状況は何ら変わっていない。今解散しても、自民党は悠々280議席くらいは取ってくるだろうし、公明党と合わせて与党300議席超は変わり様もない。世論は冷静に、この国会内外の「喧騒」を傍観していた、という結論に到達せざるを得ない。なぜ右も左も理性を失うのか もちろん「SEALDs」のアクションが無意味である、と無慈悲に切り捨てる意図はない。政治的実効性はともかく、声を上げることは重要である、という意見には大きく賛同する。声が届いていないこと=無意味ならば、公民権運動も奴隷制反対も、最初の段階でやめたほうが良かった、ということに成る。 その主張の内容はともかく、声を上げる人を冷笑したり罵倒したりするのは適当な態度ではない。例えば「SEALDs」の背景に既存の政党の支配が見え隠れする、というまことしやかな言説。若者が政治活動をするにあたって、既存の政党から有形無形の援助や影響をうけるのは、右も左も同様だし、その疑いに合理的な証拠が存在していないから無効だ。 或いは、「金をもらってやっているんだろう」という負け惜しみにも似た罵声。こちらはもっと宜しくない。「金をもらってやっているんだろう」という説の裏返しは、「金をもらわなければやらない」という事になるが、現代の政治活動とはそのほとんどが損得を超越した地点での強烈な思い入れ(或いは思い込み)を原初としており、だからこそ、我の強い人たちが一箇所に同居することで、団体内での内紛や軋轢が起こるのだ。損得論ほど無意味なことはないし、いまどきデモの参加者全員に金一封を渡せるほど豊かな財源を持った政党や団体は居ないだろう。 どうも「SEALDs」を目の前にすると理性が吹き飛ぶ人が、右にも左にも多い。大学生の時、貴方はどうだったのか?と少し冷静になって振り返れば、おのずと答えは簡単だ。「政治に興味が無いことはなかったが、そんなことよりもバイトと単位とサークルと麻雀、どうやったら異性にモテるか。そればかりを考えていた」というのが正解だろう。その、怠惰で、永遠に続くかに思える青春のモラトリアムの退屈な日常空間を超えて、国会前に集まる大学生を「優秀」と評するのか、はたまた「異形」と評するのかは、読者の皮膚感覚にお任せしたい。

  • Thumbnail

    記事

    核攻撃から日本人を守る5つの方策

    本国土の66%を占める「山林」を、石油に頼らずに「豊饒化」しておくことは可能であり、それが日本の食料安全保障の最捷径である。英国モデルは、わが国の参考にはならない(その理由も上掲拙著で縷説した)。 山林を豊饒化するための研究開発に集中投資することも有益だ。 一例のみを挙げれば、地中に成る豆の一種である「アピオス/ホドイモ」と、北海道南部以南の日本の森林で旺盛に増殖する「葛」は、同じマメ科の植物だ。しかも染色体数は等しい(n=22)ので、ハイブリッド種が作り易いはずだ。 放任で勝手に山林中に増殖する「救荒植物」を選び、改善し、育てねばならない。食料危機がやってきたとき、いつでも山の地面を掘りさえすれば、そこに豆や芋がある、という状態にしておくのだ。これを農林水産省がやりたくないというのならば、防衛省が自衛隊の演習場を使ってパイロット事業として推進すべきである。「遊撃部隊」の山中自活用だと説明すれば、誰からも文句は出ないであろう。フィリピンと日本は地政学的な同盟国 次に、「フィリピンに対して機雷敷設戦力を大量に無償供与する」こと。 フィリピンと日本は、中共の海洋冒険主義の危険に最も近くさらされている、地政学的な同盟国、運命共同体だといえる。 インドのように独自に核武装ができているのなら、中共からの核攻撃に対して単独で核報復もできるので、中共とのあいだに相互核抑止の関係を成立させることができよう。 しかし独自に核武装ができない日本やフィリピンは、中共体制を亡ぼしてしまう以外に、中共の水爆の脅威から自国の人民を安全にする道はない。これは数学的な結論である。(イージス艦などによるミサイル・ディフェンスが中共の中~長距離核ミサイルに対して無効であることは、過去の拙著で何度も説明したから、略そう。) 中共体制が亡びることは、全アジア人民の自由にとっての利益であるものの、地域の余所者である米国指導層は、悪の体制であっても自分たちがそこから経済的な利潤を得られるのならば黙認してやろうという立場である。これは地政学的にはしかたのないことで、誰も地球の反対側の悪党を退治するためにじぶんの命を危険にさらす者などいやしないのだ。 だから、中共体制を亡ぼすアクションは、日本とフィリピンが、単独で、または連合して、米国政府の意向とは無関係に起こすしかない。これも数学的な結論である。 そしてさいわいにも、中共は「機雷に対して最も弱い」体制である。日本もしくはフィリピン軍が、水深26mよりも浅い大陸棚に沈底機雷を敷設することにより、中共という体制そのものがひっくりかえってくれる。その機序は、拙著『こんなに弱い中国人民解放軍』で解説したので、そちらを参照されたい。 おしまいに、「儒教圏からの捏造歴史宣伝に対しては、主として英文による世界規模の十二分の反論を、即時的・反復的・常続的に実施する」ことを挙げて、しめくくろう。 継続してこのような努力をすることを怠ると、「そうか、日本人はそんなに悪いやつらだったのだから、いま中共の水爆で1000万人ばかり焼き殺されても、それも過去の歴史の報いであって、しかたのない話だろう」という世界世論ができてしまう。 それでは、海外の世論が少しも、水爆保有国による非核日本への「核脅迫」を抑止してくれないことになるのである。

  • Thumbnail

    記事

    憲法を聖典と心得る阿呆ども

    九段靖之介憲法に沿うか沿わないかの堂々巡り 安保法制をめぐって、国会で神学論争が続いている。 「おっしゃることが、よくわからない」 「それでは答えになっていない」 ラチもない質疑の繰り返しだ。詰まるところ、憲法に沿うか沿わないか、それをめぐって堂々巡り。いつ果てるともしれない。 会期を延長したところで、議論は尽きない。結局は例によっての強行採決となろう。それが野党の狙いで、これまた例によって「多数の横暴だ」「立憲主義に反する史上稀に見る暴挙だ」などと言い立てて、「安倍独裁」を印象づける算段だ。 この議論、大方の日本人にはわかるまい。いや、わかろうともしない。どうでもいい議論、所詮は野党のパフォーマンスと冷ややかに見ている。それもそのはず、この種の神学論争に日本人ほど無縁な民族も珍しい。 古来、西欧や中東では、聖書やコーランの解釈をめぐって血みどろの抗争が続いてきた。聖典の解釈権を独占した者が、人間を内心から縛り上げるほどの権力を得る。実態は権力闘争で、それと知らない善男善女が踊らされて血みどろの抗争となる。ちなみに、英語で宗教を意味する religion の語源は、ラテン語の religio=「縛る」からくる。 くらべて日本には聖典に当たるものがない。神道には教典もなければ教祖もいない。そんなものは要らないよ、と大方の日本人は思って暮らしてきた。よって聖典をめぐる抗争は起こりようがない。たまさか仏典の解釈権をめぐって宗派間の争いがあっても、大方の日本人はそれをヨソ目に知らんふりだ。野党の緊急院内集会に臨む、(右から)民主党の岡田克也代表、共産党の志位和夫委員長、「生活の党と山本太郎となかまたち」の玉城デニー幹事長。後ろはテレビに映る、記者団の質問に答える安倍晋三首相=7月16日午後、国会内(長尾みなみ撮影) 目下の国会のラチもない論争は、憲法を聖典と心得るところからくる。かつて明治憲法は「不磨の大典」とされ、天皇は「現人神」で、その「御心」に沿うかどうかをめぐって権力闘争が展開され、挙げ句は「八月十五日の悲劇」に至った。明治憲法を策定した伊藤博文の曰く、 「西洋にはキリスト教なるものがあって、これが国の機軸をなすが、日本にはそれに相当するものがない。よって皇室をもって機軸とし、あえて西欧流の三権分立制を取らず」(帝国議会における説明) 「現人神」を擬制することによって、内に忠誠心を調達し、二百余州を束ねて外に対抗する。軍服を着た三代の天皇は、日本史上きわめてヘテロ(異質)な時代だが、これによって西力東漸をハネ返し、歴史家トインビーにいわせれば「アジアで羊のごとく毛を刈り取られることのなかった唯一の国」たり得た。本来、憲法は一種の慣習法 明治憲法は支払うものも大きかったが、得たところも大きい。メリットとデメリットを併せ持つシステムだったといえる。国のシステムの長所を活かし、短所を減じることができるのは議会の他にはない。最大の短所は軍の統帥権で、議会はそれと気づきながら改変の勇気と努力を欠き、挙げ句は機能不全に陥り、「八月十五日」に至った。 憲法を「不磨の大典」、アンタッチャブルなものにしてはいけない。本来、憲法は一種の慣習法で、国の構成員(国民)の多数が集団生活のルールとして諒とする約束事で、これを時代に即応して内に向けても外に向けても自在に変えていくのは当然で、何の不都合もないはずだ。 アメリカ憲法は二十七回、ドイツ基本法(憲法)は数十回も修正されている。一代の論客・福田恆存は現行憲法を「当用憲法」と呼んだが、憲法を含めて法律のあらかたは「当座の用に間に合わせるもの」で、これを不磨のプリンシプル(原理・原則)とすれば、時代に即した動きができなくなる。民主党が何かと遅延行為を繰り返す理由 鉄血宰相ビスマルクの箴言がある。 「政治においてプリンシプルを振り回すのは、長い棒を口にくわえて森の中を駆け回るようなものだ(口が裂けて怪我をする)」 日本を取り巻く国際環境は日々に厳しくなっている。早い話、いまの憲法を抱えたままで中国の脅威に対抗できるか。元幕僚長から聞いたことがある。 「いまの自衛隊は引き金に指をかけながら、憲法違反になるかどうか考える、そんな状態で国を守れますか」 目下、衆院で共産党と社民党を除く超党派の議員連盟五十人によって、憲法改正を視野に入れた憲法審査会が始まっている。改正の原案作りを目指すが、議論は入り口で頓挫し、一向に原案作りに進まない。最大のブレーキは民主党だ。民主党が何かと遅延行為を繰り返すのは、原案作りが具体化すれば、それをめぐって党内分裂が生じるからだ。 さきごろ「政界引退」を表明した橋下徹が、自らのツイッターでこう言っている。 「民主党は日本にとって良くない政党です」  

  • Thumbnail

    テーマ

    憲法学者の間違った「憲法論」

    憲法を聖典よろしく盲信し、「安保法制は違憲だ」と批判する憲法学者たち。国家は如何にあるべきかなぞ頭になく、憲法条文の字面との整合性しか考えていない彼らの意見など、気に留める必要はまったくない。

  • Thumbnail

    記事

    正当な自衛権に「歯止め」など百害あって一利なし

    青柳武彦(国際大学グローコム客員教授(元教授)学術博士)筋が通らない野党、平和主義者の主張 安全保障関連法案審議のために平成27年6月5日に開かれた衆議院憲法審査会において、自民・公明両党推薦の長谷部恭男早大教授、民主党推薦の小林節慶大名誉教授、および維新の党推薦の笹田栄司早大教授の三人が参考人として出席した。参考人質疑において、なんと与党推薦の長谷部氏を含めた三人全員が「安全保障関連法案は憲法違反である」と批判した。 野党は鬼の首でも取ったように勢いづいてしまって、違憲の法案は撤回するようにと要求する始末。平和安全特別委員会は紛糾してしまったので、当初予定していた会期中に法案を通過させることは難しくなったと考えざるを得ない。6月10日、衆院平和安全法制特別委で、民主党の辻元清美氏(左下)の質問に答える菅官房長官 菅義偉官房長官が談話で「合憲と考える憲法学者もいる」と述べたが、辻元清美委員から言葉尻を捉えられて「それは誰か、何人か」と迫られた。「西修駒澤大名誉教授、百地章日大教授、長尾一紘中央大名誉教授」と答えたが、「たったの三人か」と逆襲された。菅官房長官は「数ではない」と苦しい答弁をした。くだらないやり取りだが、一般の国民は政府に不信感を持ったであろう。 自民党の佐藤勉国会対策委員長はこの人選ミスに激怒して、同党の船田元審査会筆頭幹事に「参考人の人選には十分配慮してほしい」と申し入れた。単なるミスでは済まされない、全くお粗末な一幕であった。 与党が推薦した長谷部氏は筋金入りの護憲派で、もともと集団的自衛権には反対なのだから、この発言は予想できたはずだ。氏は、宮沢俊義から芦部信喜と続くエスタブリッシュメント憲法学者ラインの中心である。芦部氏の葬儀の折には、長谷部氏が葬儀委員長を務めたほどである。 長谷部氏は宮沢・芦部両氏の憲法論を若干修正して、次項に述べる憲法の性格や自然法との関連についても詳しく論じている。しかし、いざ現実への応用のための条文解釈になると、一般法(民法、刑法、商法などの実定法)の解釈論から一歩も出ていない。憲法九条の条文と現実との整合性に捉われてしまっているのだ。 長谷部氏は、立憲主義と絶対平和主義は両立し得ないとまで言って、「国民全員が無抵抗で殺されてでも九条を護れ」などという絶対平和主義に対しては厳しく批判をしている。かつて『構造と力』を著して、ニュー・アカデミズムの代表とまでいわれた浅田彰京都造形芸術大学教授が若かった京都大学準教授時代に、「(九条は)侵略があれば全滅してもよいという覚悟を語っているのだから、平和憲法はラディカルだ」といったことを思い出させる。 野党やいわゆる平和主義者が、「他国から侵略されたら殺されてもよい」と覚悟をしているのなら筋が通っている。彼らが覚悟をするのは勝手だが、それを他人に押し付けないでほしい。もし覚悟がないのなら筋が通らないので、主張がメチャクチャだ。 長谷部氏は以前から、現行憲法でも個別的自衛権で武力は行使できると解釈すべきであるとの意見表明をしていたので、自民党の人選担当者が間違ってしまったものだろう。しかし、制限的な武力行使は専守防衛に行き着くから、決して勝ってはいけないことを法律で定めるに等しい。 敵は撃退されてもその都度、体制を整え直して何度でも安全に攻めてくることができるから、日本は決して勝つことができない。負けて殺されてしまうわけだから、長谷部氏の平和主義批判は中途半端で貫徹できないことになる。殺されたくないのであれば、憲法に何と書いてあろうとも、自衛隊には「歯止め」なしに全力で抵抗してもらわなければならないのだ。 長谷部氏は、個別的自衛権までは容認するにしても、集団的自衛権には反対だった。本法案を「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」と批判し、「どこまで武力行使が新たに許容されるのかはっきりしていない」と述べた。要は「歯止め不十分論」である。 審査会で長谷部氏の発言を引き出した民主党の中川正春元文部科学相は、党代議士会で「憲法審査会で久しぶりに痛快な思いをした」と満足げに語ったという。日本が滅びてしまったら、もっと満足なのだろうか。「歯止め」論は百害あって一利なし 与党はこれまで、集団的自衛権を容認させるために、自衛権に十分な歯止めをかけて集団的自衛権を容認させようという作戦を取ってきた。そして今回、その根拠法となる法案を成立させておこうとしている。長い間の空想的平和主義者の力が強かった状況のなかで、何とか集団的自衛権を容認させるためのものだ。現実と妥協したやむを得ない政治的判断だったのだろう。 しかし筆者に言わせれば、その作戦こそがボタンの掛け違いの始まりであった。そろそろ憲法とは何か、現行の憲法成立の経緯、第九条の合憲性(?)、という正面突破作戦に移行する必要がある。正当な自衛権にはそもそも「歯止め」などは不要で、百害あって一利なしなのである。 長谷部氏の言うとおり、「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」のは事実である。しかし、もっと重要なのは、変転する国際情勢のなかにおいて、有効に平和と安全を確保するためには日本は如何にあるべきかを考えることであった。憲法九条の条文との整合性にこだわって、「歯止め」論中心に議論を進めるべきではなかったのである。 坂元一哉大阪大学教授は、平成19~20年の日本の集団的自衛権保持の可能性について考える安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の有識者委員を務め、常に傾聴に値する正論を吐いてきた学者である。 しかし彼でさえも、6月8日の産経新聞において「特に大切な『歯止め』議論」という一文を発表した。本稿が提案する、今後の長期的な正面突破作戦の足を引っ張るものだ。 坂元教授は「憲法の平和主義と、安全保障の実効性を両立させる観点から、(『歯止め』議論は)とくに大切な議論だと思う」とし、「憲法の平和主義は、わが国の武力行使を、自衛のための必要最小限のそれに限っている」と指摘、その歯止めの代表例として「海外での武力行使を一般に禁じる政府の解釈」(昭和29年の参議院決議)があり、これは簡単に外せるものではないと述べている。 さらに、「私は新法案が、自衛隊派遣に国会の事前承認を例外なく義務づけたことを評価する」とまで述べている。 海外派遣の派遣地にしても、政府は「戦闘状態ではないと判断される地域」のみと説明しているが、そんな地域があるわけがない。その地域が戦争になったら一目散に逃げるだけなのか、駆け付け警護に来てくれた同盟軍が、もし別の時に危機に襲われた時に日本の自衛隊は助けに行けないのか。そんな国際的に軽蔑されるような品格の欠如した法律を自衛隊に押し付けて良いのか。 武力行使の新三要件などは、いくら反対派を黙らせるためとはいえ、自衛隊を不必要に束縛して日本人の名誉を傷つけるものだ。要は、国内でも海外でも、日本が他国にしてほしいことを日本もできるようにすることだ。「歯止め」論こそ、自衛隊のリスクを増大させる この安全保障関連法案は自衛隊のリスクを増大させる戦争法案だ、などとわけのわからない反対論をぶつ人間がいるのも困ったものだ。新しい任務ができれば、それに伴う新しいリスクが生じるのは当たり前だ。しかし、集団的自衛権を行使できるようになれば抑止力は増すから、戦争が起こる危険性は減少する。つまり、自衛隊のリスクの総量は減少するというのが理屈だ。 しかし何よりもここで強調しておきたいのは、本当に自衛隊のリスクを増すのは「歯止め」論である。制限的・限定的自衛権を唱えて「歯止め」論を振りかざしている輩こそが、自衛隊員のリスクを増やしているのだ。 こうした「歯止め」論の前提は下記の三つの想定を根拠としている、と筆者は考える。三つながらにして事実誤認で、全く根拠がない想定だ。しかも自分勝手で卑怯だから、日本を貶めることになる。 第一の前提は、現在の自衛隊の戦力は世界に比類のないほど強大なので、どんな歯止めを掛けても掛け過ぎることはないし、十分、国防の任を果たすことができるという想定だ。 根拠のない希望的な期待だから盲信といってよい。一旦戦争になったら、互いに技術の粋を尽くしてのハイテク戦争となって「死ぬか生きるか」の戦いになるのだから、「歯止め」などを掛けていたら話にならない。自衛隊の戦力を削ぐのではなく、支援増強する策が必要なのだ。 第二の前提は、日本国民は歯止めなしにはすぐに侵略戦争に乗り出しかねない好戦的な国民だという想定だ。特に他国における武力行使は、よほどのことがない限り原則禁止にしておくべきであるというものだ。自尊心も名誉もかなぐり捨てた卑しい想定である。日本国民をこれほど侮辱した発想はないだろう。 憲法第九条は、日本が二度と復活して国際舞台に登場してくることができないようにするために、ポツダム宣言(占領相手国の法律を力で変更させてはならない)に違反してまで連合国が押し付けた条項である。日本側(松本委員会)がこれに抵抗しようとしたら、マッカーサーにそれでは日本の国体維持を保証することはできないと恫喝されて呑まされた条項である。 第三の前提は、日本に対して武力で侵略してくる国はないか、あってもすぐに撤退してしまうだろうという想定だ。現状の国際情勢に全くの音痴の前提としか言いようがない。中国が天安門広場で、ウイグルで、チベットで何をしてきたか。さらには、東シナ海と南シナ海で現在何をしているかを見ればすぐ分かることだ。 甚だしい事実誤認だから官邸、外務省、防衛省、自衛隊も国民に対して現状をよく説明すべきである。 つまり、三つの前提とも極めて非現実的な想定で成立しないのだから、残るは憲法第九条の字面と現状との整合性の問題だけである。現状との整合性の問題は、政策の妥当性や国家の安全性などの価値判断分野とは何の関係もない。新法案はポジティブ方式からネガティブ方式に切り替えよ 今次の安全保障関連法案は「自衛隊法」などの十本の法律改正案と一本の新法、すなわち「国際平和支援法」から成り立っている膨大なものである。筆者は、この法案は是非とも通過させることを願っている者であるが、あくまでもこれは憲法改正までの間に集団的自衛権に法律的根拠を与えるための経過措置的な法整備と考えている。 しかもこれらの法律の本質は、自衛隊の戦力を縛るための「歯止め」論である。ポジティブリスト方式(許可されることを列挙して他は全て禁止)であるから、現実には臨機応変の対応は不可能である。たとえ許可される行動を予め何千例、何万例挙げておいても、全てのケースを網羅することはできないし、現場の指揮官が全ての法定許可事項を瞬時に判断することなどもできない。 坂元教授が評価する「自衛隊派遣に国会の事前承認を例外なく義務づけた」などは、極めて現実を無視した暴論だ。事前承認を取る暇がなかったら何もしないのだろうか、自衛隊に超法規的処置を迅速に取るように期待するのだろうか、それともそんなケースは起こり得ないとでもいうのだろうか。 したがって将来、めでたく憲法改正(特に第九条)が成就した暁には全部をいったん無効として、改めて一本にまとめてほしいと考えている。要は、「武力行使が生じたら絶対に勝つこと、国際法に違反すること以外は何をやってもよいこと、及び具体的判断は全て現場の指揮官に任せること」を明らかにして、あとは手続き論を定めておけば良いのだから、一本にまとめることはそう難しくないはずだ。 とにかく、現場の自衛隊と十分に打ち合せを行って実効性のあるものに作り直していただきたい。作り直す新法律は、是非とも他国と同様なネガティブ方式(国際法違反などの禁止事項のみを決めておいて、他は現場指揮官の判断に任せる)というものにしてほしい。 “下衆の勘繰り”かもしれないが、筆者はこんな大部の法律案ができてしまったのは、怠け者の官僚の責任転嫁精神の産物ではないかと疑っている。田母神俊雄元自衛隊航空幕僚長が近著『田母神「自衛隊問答」』のなかで語っておられるが、「自衛隊が縛られる理由として、(官僚は)何かあったときに自分たちがトラブルに巻き込まれないよう、あらかじめ先手を打ち、文句をいいそうなところにお伺いをたてておく体質が染みついていることが大きいと思うようになりました。(中略。官僚に疑問点を)聞いたら必ず向こうに縛られる。だから『規則に書いてあることを、私はこう解釈してやりました』といえ」と命令したとのことだ。 昭和53年(1978)に自衛隊のトップである栗栖弘臣統幕議長が「現行法制では有事の際、超法規的に行動せざるを得ない」と発言して、当時の金丸信防衛庁長官から解任されてしまったことがある。 この事件の大方の受け取り方は、シビリアン・コントロール原則に違反するというものだったが、栗栖氏の真意は「こんな自衛隊の手足を縛る法律ばかりでは動きが取れないから、いっそ何もないほうが自由に動けるから効果的だ」というものだったろう。憲法学者ほど憲法を知らない憲法学者ほど憲法を知らない 憲法は自然法に基づいて、国家のあり方の基本を規定する法律である。刑法、民法、商法などの一般法とは全く性格が異なる。ところが、日本の多くの憲法学者は自然法、法哲学、法理、立法論などの分野に全く疎いという大問題がある。裁判官、検事、弁護士などの職業的法律家もそうだから、司法試験制度の弊害なのかもしれない。 これは、現在の憲法学者がかつて教えを受けた当時の憲法学者の権威たちが、GHQが日本国民に押し付けたWGIP(戦争責任情報プログラム)の影響を受けて、自虐的な憲法理論を展開してきたことに遠因があるといって良いだろう。 当時、国際法の世界的権威と目されていた横田喜三郎東京帝国大学教授(当時)は、驚くことに東京裁判が正統なものであったと論じた。 彼は『戦争犯罪論』を書いて東京裁判史観を無批判に受け入れ、かつ「ほとんどすべての国家の間で、侵略戦争を国際犯罪と見ようとする強い意向のあることは、疑いを入れない」とまで述べた。安全保障関連法案の廃案を求める声明を発表する小沢隆一・東京慈恵医大教授(中央)ら=7月3日午前、東京・永田町 憲法学者を含む当時の多くのエスタブリッシュメント法律学者も雪崩の如く、これに追随してしまった。かく言う筆者は憲法学者ではないが、学位は法律論(情報法)で取得したのでまるっきりのド素人というわけでもないし、法哲学はカバーしてきたつもりだ。 いろいろな意見が飛び交うのが当然のこうした問題で、こうも多数の憲法学者の意見が違憲であると一致してしまうのは異常としかいいようがない。 日本の憲法学者のほとんどは一般法と同じ法律的アプローチで、つまり一般法の法解釈学をそのまま援用して憲法解釈を行う。したがって、憲法は如何にあるべきかという立法論的発想は全く欠落しているし、自然法の法理のほうが優先するなどとは夢にも思わない。この意味で、日本の憲法学者の多くは間違った憲法論を展開していると断じざるを得ない。 米国の最高裁には、憲法のある条文全体を実質的に無効にしてしまうような判例を打ち立ててしまった例がある。米国の修正憲法第一条は言論の自由の絶対的自由を定めているが、米・最高裁のホームズ判事は「あらゆる自由や権利は互いに競合するのだから絶対的な自由も権利も存在しない」というのが法理であるとして、「明白かつ現在の危機(Clear and present danger。現在は『明白かつ切迫した危険』に改定)がある場合には言論の自由を制限しても違憲ではない」という判例を確立した。 これは、修正憲法第一条全体を実質的にほとんど無効にしてしまうものであった(本誌の昨年8月号拙論「内閣法制局の体質改善を!」をご参照願いたい)。憲法九条で基本的人権を守ることはできない 日本の憲法の根幹は主権在民平和主義、および基本的人権の尊重である。この点については筆者も異論はない。しかし現実の条文の構成には、それとは整合性がない部分が多い。 たとえば、第九条の文言をそのまま実行したら、主権者たる国民の生命と財産を有効に護ることも、国民の基本的人権を護ることもできない。したがって、自然法が優先するという法理に従えば、第九条全体が無効であると言わねばならない。 つまり、まともな憲法学者ならば「現行憲法は主権者たる国民の生命と財産を護らないから自然法に反し、したがって無効である」と言わなければならないのだ。少なくとも、第九条は制限的・限定的に読むべきではなく、自然法の趣旨を活かす方向、つまり積極的かつ広範囲に解釈すべきである。「歯止め」などは“憲法の根幹”に背くものなのだ。 しかし、現在まで最高法規として通用させてきてしまったという現実があるから、それとは妥協しなければならないだろう。その経過措置としての法律的手続きが今回の安全保障関連法案なのだ、と筆者は解釈している。したがって、後述するように憲法改正が行われたらさっさと無効化して、“憲法の根幹”に添ったものに作り直してほしいと考えている。 6月11日の憲法審査会において、自民党の高村正彦副総裁(弁護士出身)は「自衛隊ができた時にも日米安全保障条約ができた時にも、日本の憲法学者のほとんどは反対であった。憲法学者の言うとおりにしていたら、今頃は自衛隊も日米安全保障条約も存在しない」と反論した。 憲法学者は選挙で選ばれた国民の代表ではないし、憲法の番人でもない。それに彼らが問題にする合憲性というのは、現行の法律制度と現行憲法の条文の字面との間に整合性があるかどうかを意味するだけである。国際情勢や政治情勢と日本の現状の間に整合性があるかどうかを意味するものではない。合憲だからと言っても、安全保障上の価値があるわけではない。砂川判決での基本原理 某野党議員はテレビで、「砂川判決のような“古い見当違いの判決”を持ち出すのはおかしい」と発言して、自らの無知と不勉強さを露呈した。分からないのだったら発言しないでほしい。長谷部教授や民主党の枝野幸男幹事長(弁護士出身)は、砂川判決は日米安全保障条約に基づく米軍駐留の合憲性についての判決であって集団的自衛権を認めたものではない、と主張をしているが当たらない。 憲法はその第81条において、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」と規定している。憲法問題についての最終判断は最高裁が行うもので、政治家や憲法学者が行うものではない。 日本は米国と同じ、付随的違憲審査制といって具体的案件についての訴訟が生じた時にのみ、最高裁が違憲審査を行う制度を採用している。つまり、・手掛かり・となる具体的な訴訟がまだ提起されてもいないのに、予め憲法およびその他の法律上の問題が発生するであろうと最高裁が予測して、予め判断を下すことはないのだ。他の、憲法裁判所があって抽象的違憲審査制を採用しているオーストリア、ドイツ、イタリアなどのヨーロッパ大陸の国々や韓国とは異なる点である。 たしかに長谷部氏の指摘するとおり、砂川訴訟は米軍駐留という具体的案件についてであった。最高裁は日米安全保障条約については統治行為論を援用して判断を避けたが、下した判決の主要な点は「自国の存立のために必要な自衛措置は認められると」という基本的原理についてだ。 この基本的原理こそが重要なのだ。米軍駐留の合憲性という具体的案件についての判断は、単なる付随的なものである。“手掛かり”としての具体的案件については、判断が下されないことさえある。 最高裁が示す基本的原理の汎用性については、警察予備隊の合憲性が争われたケースがある。 昭和25年(1950)8月に創設された警察予備隊が憲法第九条に反するので違憲であることを、日本社会党の鈴木茂三郎が最高裁判所に訴えた。最高裁大法廷は全員一致で、具体的案件の“手掛かり”性を否定して訴えを却下した。訴訟目的の警察予備隊の違憲性については、判決には一切言及されていない。判決が示した基本原理は「自国の存立のために必要な自衛措置は認められる」というもので、警察予備隊の合憲性を暗に示唆している。 問題の砂川判決は、米軍駐留という具体的案件を“手掛かり”にして、「自国の存立のために必要な自衛措置は認められる」という基本的原理を決めた極めて重要な最高裁の判例であるから、“古い見当違いの判決”でも何でもない。現行憲法は即時、全面的に廃棄すべき 誤った立憲主義の解釈に、「憲法というのは政権を縛るものであるから、縛られる立場の政権が憲法を変えるというのはおかしい」がある。たしかに、憲法の歴史的成立過程においてはそうした一面があったのは事実である。しかし現在では、一国の法律体系を律する最高法規という位置づけのほうが中心となっている。 憲法は国の在り方についての根本的な姿を定めるものだ。したがって、先ず国を取り巻く国際的環境はどうか、政治的社会的環境はどうかなどという問題と国の姿との間に整合性があるかどうかこそが重要なのだ。 つまり、本当の立憲主義とは条文の字面に捉われることではなく、激変する国際的・政治的社会的情勢のなかで、憲法を変遷せしめて最高法規としての規範性を保つことだ。これこそが真の護憲の姿勢だ。 たとえば、道路の舗装も自動車の性能も悪かった時代には、速度制限が時速40キロであっても合理性がある。しかし道路事情が格段に整備されて自動車の性能も良くなったら、たとえば100キロ制限に改正するのが合理的であり、社会情勢の変化に即応している。 40キロ制限のままでは誰も法律を護らなくなる。法律を改正せずに「悪法も法なり」としてスピード違反を取り締まるのでは、法としての規範性が保てない。 憲法の条文自体の変更はしないが、解釈を変えることによってその規範的意味が修正されることを「憲法の解釈変更による変遷」という。解釈変更による憲法の変遷は姑息な手段であり、法を蔑ろにしているとの批判があるが、これは全く当たらない。改正規定があまりにも厳しい場合には、解釈の変更によって憲法を実質的に変遷せしめることによって、憲法の最高法規としての規範性を維持するしかない。 基本的には、筆者は現行の憲法は連合国による強制的押し付けによって制定されたものであるから正統性がないので、即時に全面的に廃棄して日本独自の憲法を作るべきであるという意見である。しかし、制定してから現在に至るまでの長きにわたって、日本の最高法規として有効に機能してきた事実が厳として存在するので、その事実とは妥協しなければならないとも思っている。 現状では緊急の事態が迫っているにもかかわらず、硬性憲法および政治的混乱の故をもって迅速な対応ができないままでいる。したがって已むを得ざる妥協策として、解釈変更による対応も現実的であると考えている。「安全保障関連法案は、先ず憲法改正を行ってから提出するのが順序ではないか」というのはもっともらしく響くが、実は反対のための反対に過ぎない。 筆者が「歯止め論抜き」の完全な集団的自衛権を持つべきであると主張するのは、日本は究極的には米国と組んでアジア太平洋地域の安全保障のために、北大西洋条約機構(NATO)をモデルとした太平洋条約機構を作るべきだ、と考えているからである。 現状の国連・安保常任理事会はロシアと中国の拒否権のおかげで機能不全であり、アジア太平洋地域の安全保障には何の寄与もしていない。それどころか、国連憲章上は日本は「敵国」の位置づけだ。さらに、人権理事会は韓国からの慰安婦問題を鵜呑みにして、日本を非難攻撃している。 そういう国連に、日本は米国に次ぐ多額の財政上の負担をしているのだからお人よしにも程がある。日本は国連の現状が改まらないのであればさっさと脱退して、アジア太平洋諸国の集団的自衛権を糾合し、太平洋条約機構の構想推進に邁進すべきである。そのためには、まず日本がフルセットの自衛権を持たなければ話にならない。  

  • Thumbnail

    記事

    平和主義は「無防備」ではない 集団的自衛権の本質突く議論を

    坂元一哉(大阪大学大学院教授) 国会で審議されている安保関連法案について、多くの憲法学者から、たとえ限定的であっても、集団的自衛権の行使を容認する法律は、憲法違反ではないかとの批判が出ている。 政府と与党が、長い時間をかけて慎重に検討した重要法案だけに、そうした基礎的なところに批判が出たことは、残念というしかない。だが、専門家がそう批判する以上、政府は、集団的自衛権の限定行使を容認する新しい憲法解釈に基づく法律が、なぜ憲法違反ではないのか、国民に対し、より一層、丁寧かつ分かりやすく説明する必要があるだろう。平和主義は「無防備」ではない いうまでもないことだが、ある法律が憲法違反にあたるかどうかを最終的に判断するのは、最高裁判所の仕事である。その意味で、いま政府が、集団的自衛権の限定行使を容認する法案が憲法違反にあたらないとするのは、学者の批判が正しいか正しくないかは別にして、この法案が国会の審議を経て現実に法律になり、その法律に関連して訴訟が起こっても、最高裁判所が憲法違反の判決を下すことはない。そう判断している、ということだろう。 その判断の根拠は何か。政府が説明に使う最高裁の砂川事件に関する差し戻し判決(1959年)は、憲法の平和主義が「決して無防備、無抵抗を定めたものではない」と述べたうえで、わが国が「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」だとしている。 またこの判決は、たとえば安保条約が違憲かどうかというような「主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有する」問題は、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外」との判断も示している。 この砂川判決を前提にすれば、将来、最高裁判所が政府がいう意味での集団的自衛権の限定行使について違憲判決を出すようなことはない。政府はそう判断しているのだろうが、私には、ごく当然の判断のように思える。議論混乱させた舌足らずの説明 というのも、政府が新しい憲法解釈でできるとする集団的自衛権の限定行使のための武力行使は、あくまで砂川判決にいう、国の「存立を全うする」ための、「自衛のための措置」としての武力行使、それも必要最小限の武力行使だからである。それが「他衛」にもなるからといって、最高裁が「一見極めて明白に違憲無効」と認めるとは考えにくい。 むろん、この安保関連法案が、国会審議を経て法律になった後、万一、最高裁がその法律を違憲だと認めれば、法律は、改正しなければならない。その前提で法案を審議するのが立憲主義のルールだろう。6月22日の衆院平和安全法制特別委で意見を述べる宮崎礼壹・元内閣法制局長官 最高裁の砂川判決に関連して、憲法学者のなかには、この判決でいう「自衛のための措置」は個別的自衛権のことであって、集団的自衛権は含まれない、と議論する人がいる。国際法上の集団的自衛権の意味を誤解した議論だと思う。「自衛のための措置」とはもちろん自国を守るための措置のことだが、個別的自衛権も集団的自衛権も、どちらも自国を守るための措置として、国家に認められた国際法上の権利だからである。 この点、国会に参考人として呼ばれた元内閣法制局長官が、集団的自衛権の本質は「他国防衛」だ、と述べたことには考えさせられた。歴代政府のそういう舌足らずの説明こそが、議論を混乱させてきたのではないだろうか。死活的な地域の防衛は自衛措置 もし集団的自衛権の本質が他国防衛なら、なぜその権利を「自衛」権と呼ぶのか。また日米安保条約では米国は、この権利に基づき日本を助ける(武力攻撃に共同対処する)ことになっているが、それは日本への武力攻撃が米国の「平和及び安全を危うくする」(第5条)からである。米国にとって日本防衛は「自衛のための措置」ではないのか。 集団的自衛権という言葉は、個別的自衛権と同じく、国連憲章(45年)ではじめて使われた言葉である。だがこの権利の考え方自体は、それ以前から存在していた。それがよく分かるのは、英国が、国際紛争解決の手段としての戦争を禁じた不戦条約(28年)を結ぶ際に、自衛権に関して付けた留保である。そのなかで英国政府は、世界には英国の平和と安全に「特別で死活的な利害関係」のある地域があるが、それらの地域を攻撃から守ることは、英国にとって「一つの自衛措置」だと明確に述べている。 集団的自衛権の本質は「自衛のための措置」としての他国防衛なのである。従来の舌足らずの説明を修正して、国の「存立を全うする」ため、他に適当な手段がない場合に限り、必要最小限、この「自衛のための措置」をとりうるようにする。それが、新しい政府憲法解釈の要点である。さかもと・かずや 1956年、福岡県出身。京都大学大学院修士課程修了、三重大学助教授などを経て大阪大学大学院法学研究科教授。「戦後日本外交史」で吉田茂賞、「日米同盟の絆」でサントリー学芸賞、正論新風賞(2008年)など日米関係に関する活発な評論活動で知られる。 

  • Thumbnail

    記事

    政治主導で一閣僚に解釈委ねていたのに 護憲唱える「パリサイ人」たち

    法解釈変更は「日本が立憲主義や法の支配を失う国となりかねない」と主張し、来週中に報告書を出す政府の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)についてこう批判する。 「通説的な憲法学者が一人も参加していない」 この行為にも、イエスのことを人心を惑わすとして当時の支配国だったローマ政府に訴えたパリサイ人を連想した。民主党の長島昭久元防衛副大臣がツイッターで「属国でもあるまいし、嘆かわしい」とつぶやいたのももっともだろう。 結局、オバマ氏は集団的自衛権見直しの取り組みに「歓迎と支持」を表明したのだから、彼らは二重に恥をかいたことになる。 彼らは安倍晋三首相が「(憲法解釈に関する)政府答弁については、(内閣法制局長官ではなく)私が責任を持つ」と述べたことについて、「憲法は権力を縛るもの」という立憲主義の否定だと批判する。参院予算委員会で質問に答える枝野幸男経産相(当時)=2012年3月13日(酒巻俊介撮影)民主政権の時は… 内閣の一部局にすぎない内閣法制局を首相の上に置くような議論も倒錯しているが、そもそも彼ら自身が権力の座(与党)にいるときはどうだったか。 民主党政権は「政治主導」の名の下に内閣法制局長官の国会答弁自体を認めず代わりに法令解釈担当相を設けた。自分たちが政権を運営しているときには一閣僚に憲法解釈の権限を委ねておきながら、野党になると首相にすらそれは認めず「憲法破壊だ」などと言い募っている。また現在、盛んに安倍政権を批判する憲法学者らが民主党政権時代にも同様に、あるいは今以上に警鐘を鳴らしていたとは寡聞にして知らない。結局、自分たちの意向やイデオロギーに沿うかどうかで対応は変わるのだろう。 「みずからの正義について多弁を弄する一切の者たちを信用するな!(中略)彼らが自分自身を『善にして義なる者たち』と称するとき、忘れるな、パリサイの徒たるべく、彼らに欠けているのは-ただ権力だけであることを!」 哲学者、ニーチェはこう喝破している。権力を持ったときは好き勝手に振る舞い、権力を失うと正義の仮面をつけて反権力を気取るのだ。パリサイ人には現在、「偽善者」「形式主義者」という意味もある。この種の人には気をつけたい。

  • Thumbnail

    記事

    有事に戦えぬ自衛隊を変えるには戦死者出すしか、と内部の声

    三首相は「自衛隊による在外邦人救出のための法整備」に意欲を示した。集団的自衛権の行使容認を軸に日本の安全保障政策が大きな転換期を迎えようとする中、自衛隊員たちは何を考えているのか、ジャーナリストの田上順唯氏がレポートする。* * *「今まさに国民が殺されようとしているのに、われわれは見ているだけで何もできない。これほど辛いことはない」 イスラム国に拘束された湯川遥菜さんと後藤健二さんの殺害が報じられた直後、30代前半の2等陸曹は唇を噛み締めこう呟いた。部隊の班長として若手隊員をリードする彼が自衛隊に志願したのは10代のころ。多感な時期に発生した北朝鮮工作船事件(2001年)や米国の同時多発テロ(同)がきっかけだった。「阪神大震災の災害派遣で献身的に任務を遂行する自衛官に憧れていたこともありますが、北朝鮮の不穏な動きや対テロ戦争を目の当たりにし、いつか日本にも有事が迫るという危機感を持つようになったのです。われわれの世代から下は、『いざというときに国民の楯になる』という強い意志と覚悟を持って自衛官になった者がとても多い。 ところが現状では、武力による国民の奪還すらできません。国民の生命が危機に晒されたとき、国家として自衛隊を活用するというオプションは当然必要だと考えています」 こうした若手自衛隊員の“リアルな戦争”に対する意識の高まりは、韓国の反日暴走や中国の軍事挑発がエスカレートしたこの10年間で一気に膨張し、陸・海・空全部隊に浸透したと言われている。陸上自衛隊海田駐屯地の記念行事で雨の中を行進する陸上自衛官 防衛省幹部は「あくまで現場レベルの話ではあるが」と前置きした上でこう語る。「尖閣を巡る中国軍の執拗な挑発に業を煮やし、『やれるものならやってみろ』、『われわれのほうが錬度は上だ』といった声が上がっているのは事実だ。“命令されればやる、やるなと言われればやらない”という組織としての高度な意識は徹底されているものの、『周辺国にここまで挑発されて沈黙を守る市ヶ谷(防衛省)を変えるには、戦死者を出す以外に方法はない』という過激な声もある」 その言葉通り、現場では“有事に戦えない”自衛隊に対する不満が燻っていた。「市ヶ谷は20年の東京五輪を前に制服の一新を計画しているが、平和ボケとしか言いようがない。現場では必要な装備品や人員が慢性的に不足している。日本を巡る安全保障が急激に悪化する中、自衛隊が現実に即した『実力集団』になるためにも、ある種の“危機”が必要と考える隊員は少なくない。余暇を利用し、戦技・戦術を隊員同士で研究、訓練することは、もはや一般部隊でも日常的光景だ」(20代の陸曹長)関連記事■ イラクで活躍「ヒゲの隊長」 震災後の自衛隊の活躍を報告■ 女性自衛官1.2万人 ヘアカラーやネイルはどこまで許される?■ 山崎豊子氏遺作は戦争しない軍隊・自衛隊を描いた未完の大作■ 日米合同軍事演習を終え海兵隊員と陸自隊員が笑顔で肩を組む■ 元防衛大臣・北澤俊美氏が震災時の自衛隊の働きを解説した書

  • Thumbnail

    記事

    加速する中国の海洋覇権拡大 新安保法案の議論に戦略感覚を

    西原正(平和安全保障研究所理事長) 中国の東・南シナ海における海洋覇権拡大の動きが加速化している。東シナ海における海洋プラットホーム建設も南シナ海の帰属未定の島嶼(とうしょ)や岩礁の人工島化も軍事拠点となる様相が強い。力による現状変更であり、両海域の力の均衡に影響を与える動きだ。ここ数カ月の米国の対中批判は厳しいものになっており、南シナ海ではすでに艦船や偵察機でパトロールをし、中国の妨害に遭っている。 しかし国会の新安保関連法案の審議を聞いていると、安全保障問題をあまりにも開けっぴろげで議論しており、これで本当に安全保障政策が維持できるのか不安になる。3点提起したい。機微にわたる質問は控えよ まず第1に、一国の安全保障政策とは、軍事的脅威に対して最悪の事態を考慮して対応策を練っておくことである。その対応策を準備するにあたっては、敵性国に知らしめない機密の部分を秘めているのでなければ、効果ある政策にはならない。その意味で政策のどこの部分を公開しないかという戦略的感覚が必要になる。ところが、国会の議論は存立危機事態や重要影響事態がどの地域で起きやすいのか政府の見解を公然と要求したり、またその際、自衛隊はどんな役割を果たすべきかを法律で規制したりしようとしている。 自衛隊の行動を原則的に法律で規定しておくのは必要であるが、どういう事態に、どこで何をする、あるいはしないを規制するのは、政策の選択肢を狭めることになり、日本の安全を弱めることになる。この辺の戦略感覚が与野党ともに不十分なのは残念である。 衆議院の審議段階で、野党は「自衛隊の海外派兵はしない」ということを法律に書くべきだと主張したが、これも自衛隊の行動を縛ることになる。今回の法案下では、日本の原則は個別的自衛権の行使に重点をおき、基本は専守防衛にあるが、同盟国ないし友好国との間で集団的自衛権を限定的に行使することにある。民主党などはこの点の原則的理解ができれば、機微にわたる部分の公開での質問は控えるべきである。機雷掃海の場所明言は残念 野党は政府に対して「南シナ海で自衛隊は機雷掃海をするのか」とか「朝鮮半島近辺で邦人輸送中の米艦船が武力攻撃を受けた場合は自衛隊は米艦船を守るのか」といった点なども、一定の原則的説明を受けたあとはそれ以上の議論を公開の場ではすべきでない。 5月28日の衆院平和安全法制特別委員会の議論では、安倍晋三首相自らが「自衛隊が機雷掃海するのはホルムズ海峡であって、南シナ海では想定していない」と明言した。首相は存立危機事態を説明するために例示的に出した方が野党やテレビを視聴している国民の理解を助けると考えてそうした答弁をしたのであろう。しかし中国はこれをどう受け止めるだろうか。中国は「日本は南シナ海では機雷掃海はしないから、自分たちは安心して機雷を敷設できそうだ」と判断するのではないか。 安倍首相は「自衛隊が南シナ海で機雷掃海をするかどうかについて明言するのは避けたい」とか、「南シナ海で自衛隊がどういう行動をとるかは事態の進展によって決定する」と答弁すべきであった。こうすることで中国などの動きを牽制(けんせい)、抑止できる。一定の機密性が必要だ 第2に、首相は南シナ海で機雷が敷設されれば「(スマトラやジャワ島の南を通るなど)さまざまな迂回(うかい)路があり得る」と答弁した。もし南シナ海に機雷が敷設されたとなれば、ほとんどの商船は迂回するであろう。しかし首相は、海上自衛隊は南シナ海で機雷掃海をする必要はないという意味でこう答弁したのである。共同訓練のため、海上自衛隊のP3C哨戒機に乗り込む海自隊員とフィリピン軍要員=6月23日、フィリピン西部パラワン島のプエルトプリンセサ(共同) もし敵性国が南シナ海に機雷を敷設すれば、米軍は日本とともに掃海作戦に臨むことを期待するであろう。その時に、日本が機雷掃海作戦に加わらないとなれば、米国はこれで同盟関係なのかと失望するであろう。同時に自分たちの経済活動や安全保障に影響を与える東南アジア諸国連合(ASEAN)からも苦情が出そうである。 第3に、米国は南シナ海で日米が合同パトロールをすることに関心があるようだ。こうしたパトロールを実施するには、周辺国の了解が必要になるであろうし、安倍内閣もその必要性を強調している。また艦船は何隻必要になるのか、燃料の補給はどこで行うのか、そしてパトロール隊が敵性国から妨害ないし武力攻撃を受けた場合はどう対応すべきかなどの点を、日米ないし関係国間で協議しておく必要がある。 幸いフィリピンのアキノ大統領は、自衛隊にスービック湾の軍事施設を使用するよう促している。日米はASEAN諸国、特にベトナムとフィリピンの了解と支持を得て実施することが肝要である。 安全保障政策の議論には、国民の理解を深めるためにもできるだけ高い透明性が必要であるが、同時に政策の有効性を高めるためには一定の機密性も必要になる。国会議員が戦略感覚をもって法案を審議してくれることを念じたい。にしはら・まさし 平和・安全保障研究所理事長。京都大学法学部卒業。米国ミシガン大学から政治学で博士号を取得。京都産業大学国際関係論助教授、教授を経て、77年から00年まで防衛大学校国際関係論教授。その間、米国ロックフェラー財団客員研究員、防衛研究所第一研究部長を務める。00年から第7代目防衛大学校長。06年退任、同年6月より現職。ASEAN地域フォーラム有識者グループメンバー。領土・主権をめぐる内外発信に関する有識者懇談会座長。13年産経新聞「正論」大賞受賞。

  • Thumbnail

    記事

    安保関連法案は再び同じ間違いをしないための第一歩だ

    著者 石原秀和(兵庫県) 武器の使用の必要がなかった縄文時代から、出雲の国譲り、十七条憲法、自然の力によって元寇から守られ、最高の武力を保持した状態での鎖国など、平和な暮らしが当たり前であったこの日本国を、否応なくその平穏な眠りから叩き起したのは、欧米によるアジア侵略であった。 日本とタイ以外の国は、悉く欧米列強によって侵略され、日本はその侵略から自国を守る為、不平等条約をのみ開国、明治維新を果たし、一刻の猶予もなく欧米のルールに沿った近代化を成し遂げなければならず、貧しい予算を割いて富国強兵にがむしゃらに突き進んできた。 幸い日清戦争を経て更に国家存亡を掛けた日露戦争へと辛うじて勝ち進む事が出来たのは、当時世界を制する英国との同盟があり、米国も扶けてくれたからであり、日本には力強い味方が居たという事実があったからだ。おかげで不平等条約の解消も叶えることが出来た。昨年4月の日米首脳会談で日米同盟の結束を確認した安倍首相(右)とオバマ米大統領=東京・元赤坂の迎賓館(代表撮影) ところが、連戦連勝に舞い上がり、その後の第一次大戦で、それまで加勢をしてくれていた同盟国のイギリスが危機に瀕して要請した軍事援助を断るという大きな間違いを犯した得手勝手な日本は、先生であるイギリスからは愛想を尽かされた。 人種偏見を受けるアジアの国として、国際連盟の常任理事国にまで仲間入りをさせて貰っていた日本は、声高らかに人種差別の撤廃を提案したが、それは英米のルールには相反するものであったので退けられた。 人口増加で食糧難に喘ぐ日本がそれまで未開発の地である満洲へ開拓の手を伸ばした事も英米の気に入らない事であり、日本の努力を無にする要求が突きつけられた。その要求が呑めない日本は遂に国際連盟を脱退し、孤立への道をまっしぐらに突き進んでしまった。当時の日本国民は、その破滅への道を憂えるどころか、なんと大歓迎したのだった。 日露戦争で台頭した日本が目障りになったアメリカはその2年後に日本を叩きつぶすためのオレンジ計画を作成したが、第一次大戦では日英同盟が邪魔をしてうまく実行にうつせなかった。そこで、日英同盟を解消する策を練ったが、同盟国を扶けようとしない日本に愛想をつかせていた英国を日本から引き離すことは比較的容易であった。 かくして、日本は全く孤立状態になり、アメリカのオレンジ計画は着実に進み、経済封鎖を経て、結局最初から勝ち目の無い大東亜戦争に引きずり込まれる事になった。結果敗戦、GHQにより、日本が二度と刃向かう事の出来ないようにするための日本大改造が矢継ぎ早に推し進められた。 その効果は絶大で、特に日本国憲法の第九条は、もともと多神教で性善説に立ち、平和を愛する日本国民の心に嵌まり込んでしまい、アメリカの巧みな日本属国化政策と相まって、一神教で性悪説が当たり前の世界情勢にも拘らず、一種の九条平和教とも言える信奉者で日本を埋め尽くしてしまった。 戦後70年の現在、日本を取り巻く状況は日に日に悪化しており、また日本に駐留するアメリカの軍事力も衰えてきている。日本を危機から守る為には、現在唯一の同盟国であるアメリカとの関係強化が必要で、アメリカが望む集団的自衛権の行使は、先の日英同盟の時の大失敗を教訓に、早急にその環境を整備し、万全なものにする必要があると思われる。 日露戦争後は、日本を潰そうとするアメリカが日英の同盟関係を分断する事に成功し、日本を敗戦に導いた。今現在は、日本を侵略しようとする中国が日米の同盟関係を分断しようと画策しているのだ。日本を守る道は殆ど崩れかけている日米同盟の再構築とその強化しかない。 経済交流だけでは弱い他国との繋がりも、集団的自衛権の行使によってより緊密な関係を築く事が出来、日本の孤立を防ぎ、抑止力を高める大きな力となるのは間違いないであろう。 現内閣で安倍首相が世界中を駆け巡り、諸外国との関係強化を行い、そのうえでの集団的自衛権行使の為の法案に力を入れているのは、この平和を愛する日本国、例え軍隊があっても武士道精神と隠忍自重で極力戦力の使用を抑え、肝心な時でも兵力を出し渋って大失敗をしてきた日本国が、再び同じ間違いをしないための第一歩だと思う。

  • Thumbnail

    テーマ

    そんなに自衛官を殺したいのか

    「首相は自衛官の命を軽くみている」。安保法案が衆院を通過し、野党や護憲派メディアの間では相変わらずこんな論調が目立つ。自衛隊の活動拡大による「仮想リスク」ばかりをことさら強調するが、そもそも国民の「リスク」には目を向ける必要はないのか。政争の具と化した自衛官のリスク論争を考える。

  • Thumbnail

    記事

    何もしないで欧米が日本の側には立ってくれない

    なくなってくる。 日本は中国、ロシア、韓国、北朝鮮という、友好的でも紳士的でもない国に囲まれており、安全保障環境は極めて厳しい。特に日本の経済力が低下し中国が台頭した現在では、アメリカの国力・軍事力という後ろ盾なくして外交は成り立たないし、何もしないで欧米が日本の側に立ってくれるわけでもない。中国の不興を買ってでも支持するだけの価値が日本にあるのかが問われる。その意味では、価値観を共有していて、かつ実際に貢献できるということを示さなければならない。日本が軍事的に期待できないと見れば、東南アジア諸国も中国に傾斜していくだろう。離島防衛のための共同訓練を行う陸上自衛隊と米海兵隊の隊員 この日中のパワーバランスの変化やグローバル化の中でも「一国平和主義」を貫いていくというならば、有事のときでも他国に頼らず自分の身は自力で守るという覚悟と能力が必要だ。実際、「永世中立国」をうたって集団的自衛権を認めていないスイスは、現在でも国民の7割の支持の下で徴兵制を保持し、有事の際の民兵を確保している。 しかし、日本の安保環境では、徴兵制の導入や軍備増強による独力での防衛は非現実的である。時代の変化に対応して日本の平和と安定、外交力を保つには、集団的自衛権を認めて、米軍との連携強化や、欧米が求めている軍事的貢献を行っていくしかないのだ。憲法改正の見通しが立たない以上、憲法解釈の変更という手段を取ることもやむを得ない。今回の安保法案では活動の拡大はかなり限定的だが、姿勢だけでも見せておく必要がある。 現に、集団的自衛権の行使容認による日米同盟の強化が進められて以降、日中首脳会談や財務対話が開かれるなど、中国は軟化してきた。民主党政権下で日米同盟が弱体化したときには尖閣問題が浮上し、韓国大統領の竹島訪問、ロシア大統領の北方領土訪問が強行された。このような現実が無視され、非合理的な精神論がはびこり、国際的に孤立し、中国に叩きのめされるというのでは、戦前の過ちの繰り返しである。叩きのめされてから日米同盟の重要さに気づいてももう遅い、アメリカに高い代償を払わされるか、完全に見捨てられ中国・韓国・北朝鮮・ロシアに好き放題にやられるか、どちらかとなるだろう。

  • Thumbnail

    記事

    切れ目なきグレーゾーン対処という切れ目

    委員) 大東亜戦争(1941~45年)を反省する必要はないが、敗因分析=総括は不可欠である。しかし、安全保障関係の現法体系に、総括していない国家的怠慢の動かぬ証拠を看る。「こうあるべき」と、希望的に観測した戦況の青写真に沿い戦略・作戦を立案した、大日本帝國陸海軍の甘さが敗因の一つと指摘される。自衛隊は楽観的シナリオに拠る作戦立案を戒めているが、作戦を担保する法律は「こうあるべき」論に支配される。例えば歴代日本政府は、戦争やテロが整然と時系列で激化していくと確信。戦域拡大もないと固く信じる。そうでなくては、戦闘機やミサイルの進化に目をつぶり《非戦闘地域》なる未来永劫戦闘のない“聖域”を設定。《平時》→《朝鮮半島・台湾有事=周辺事態》→《日本有事》などと将来の戦況を画定→線引きした、工程表の如き法律群の制定理由に説明がつかぬ。減らす立法作業に舵を 安全保障の現実を正視する安倍晋三政権になり、集団的自衛権の一部行使や日米防衛協力の指針(ガイドライン)再改定が視野に入り、法整備を控える。その際「こうあるべき」情勢とは無縁の法体系を目指すべく、国内法を増やすのではなく、減らす立法作業に舵を切るべきだ。 おびただしい時間とエネルギーをかけ、造語を駆使した条文を増やそうが、情勢変化や兵器の進歩で次々と想定外が襲ってくる。「法匪国家」と決別し、政治の決断・監視の下、国際の法や慣習を味方に付け「新種の危機」を乗り切る、成熟した法治国家が国家主権や国民の生命・財産を守る。 周辺事態とは《放置すれば武力攻撃を受ける恐れのある、日本の平和・安全に重要な影響を与える事態》。非戦闘地域とは《現に戦闘が行われておらず、且つ、活動期間を通じても行われることがない地域》だとか。周辺事態=朝鮮半島・台湾有事が日本に飛び火せぬよう、非戦闘地域に該当する後方地域などで、自衛隊が米海軍への給油といった限定的支援を可能にしたのが《周辺事態法》だった。 周辺事態法成立(1999年)前後、米政府に送った内部文書には《HI-SENTOUCHIIKI》とあった。国際法上の《非武装/中立/安全》の各地帯と異なり、日本が勝手に「安全宣言」した地域を英単語に置換できなかったのだが、笑えなかった。「専守防衛を国是」とするなら尚のこと、非戦闘地域を攻撃し戦闘地域にするか否かを決める、生殺与奪の権は敵国側に有るのだ。割り込んだ「周辺事態」 日本領域を含む後方地域こそ、破壊活動で日本を威嚇し、米軍支援より手を引かせる特殊作戦部隊や工作員による騒擾(そうじょう)の舞台。ミサイルの攻撃目標にもなる。戦域拡大とともに、後方地域=非戦闘地域は一夜にして戦闘地域=日本有事に変わる。だのに、自衛隊の武力行使を唯一可能にする《防衛出動》のハードルは異様に高く、警察力のみで圧倒的優勢な火力や化学兵器を警戒する下策さえ強いられる。防衛出動下令には自衛隊法+国会答弁で《他国のわが国に対する計画的、組織的攻撃》が対象となるためだ。自衛隊が2014年5月に行った離島上陸訓練=鹿児島県奄美大島周辺 法制の欠陥を熟知する敵なら、防衛出動を下令させないよう策動する。各地の線路に石を置き列車を転覆させれば、わが国は大混乱に。事故かイタズラか不明。外国の特殊作戦部隊や工作員、テロ集団は名乗らない。国内過激派だと偽るかもしれない。国家と承認されぬ、正規軍並みの兵器を持つ《イスラム国》系も排除できない。 しかも、時系列も地域も烈度・規模もモザイク状に入り乱れ、変幻自在に行ったり来たりを繰り返す。北海道は“有事”で九州は“平時”。“平時”と“周辺事態”と“有事”が混在し法律上、事態を断定できない危機が続く。自衛隊に対テロ・ゲリラ《治安出動》が発せられるだろうが、武器使用は一定限度を超える敵の武力が確認されぬ限り警察と同じ《正当防衛か緊急避難》時だけ。 平時と有事の間に周辺事態が割り込んだのには理由がある。「自衛隊の暴発」を邪推し、平時は警察、有事は自衛隊と、高い壁で自衛隊を長きにわたり隔離した。ただし、朝鮮半島・台湾有事は日本有事とは違う。といって、平時でもないグレーゾーン。斯くして、平時/有事を隔てた1本の境界線は周辺事態の創作で、平時/周辺事態/有事の2本に。伴って、法律もまた一つ加わった。軍権限は原則無制限 グレーゾーン要素の多い島嶼防衛で、自衛隊に切れ目のない対処をさせようと《領域警備法》を制定しても、戦闘行為を含め柔軟な即応権限を予め付与しない限り、新たな「穴」は空き続ける。グレーゾーンの穴を埋めた後はライト・グレーゾーン→ミディアム・グレーゾーン→チャコール・グレーゾーン…が出現、比例して法律が増殖していく。法の継ぎ足しは本館-新館-別館を迷路のような廊下でつないでいく、巨大温泉ホテルの建て増しのよう。建築・消防・観光関係法をクリアしても、出火時には死傷者を出す。 ミサイルが数分で着弾する時代。自衛隊の現場指揮官は、複雑な法体系を前に「法律家」の能力まで要求される。滑稽では済まされぬ、歪(いびつ)な法体系ができ上がった源流に、自衛隊の前身=警察予備隊・保安隊の生い立ちがある。予備隊・保安隊は警察の対応が不可能か、著しく困難な場合の補完組織として法制上位置付けられた。ところが、自衛隊になっても法律で同じ位置付けが引き継がれた。 軍は外敵への備えで、国民の自由・権利侵害を前提としない。従って、軍の権限は《原則無制限》で、国際法などで禁じられる行為・行動以外は実施できる《ネガティブ・リスト》に基づく。これに比べ警察活動は、逮捕に象徴されるが、国民の自由・権利を制限する局面があり《原則制限=ポジティブ・リスト》となっている。だのに、自衛隊は警察同様ポジ・リストで、行為・行動を一つ一つ国内法で縛られた。 できることを羅列する現行法は、自衛隊が実施不可能な作戦を敵に通報するに等しい。自衛隊最高司令官の安倍首相も自ら、集団的自衛権を理解できない国民に、何ができるか具体的に例示してしまった。恐ろしいことに国を挙げて無意識に「利敵行為」を犯している。 中国軍の高笑いが聞こえる。

  • Thumbnail

    記事

    安保「進展」でも変わらぬ自衛官軽視という病

    ことは、現実に即した具体的な行動論と、そのための法的基盤の整備。それだけです。私は、現実を踏まえた、安全保障政策の立て直しを進めてまいります。… 最高指揮官として、大切なお子さんを自衛隊に送り出してくださった皆さんに、この場を借りて、心から感謝申し上げたいと思います。お預かりする以上、しっかりと任務が遂行できるよう万全を期し、皆さんが誇れるような自衛官に育てあげることをお約束いたします》 全世界に向かって集団的自衛権行使の容認を明言し、行使の主体となる自衛官の15年前の行為を称え、卒業生に覚悟を促し、家族に敬意を表したこの訓示は、歴史に残るでしょう。私はこの名演説に接し、15年前の自衛官に対する「加害者としての非難」と85年前の軍人に対する「英雄としての美談」を思い出しました。 狭山の墜落事故翌日の平成11年11月23日付朝日新聞は「空自機墜落、高圧線切る」「交通・ATM乱れる」「その時、街が止まった」「信号が消え、改札口は閉じたまま、手術も中断」「吸入器停止、2人病院へ」などと自衛隊を非難する見出しだけを並べ、自らを犠牲にして住民を守った二人の自衛官に対する敬意や哀悼の意の表明はありませんでした。身を低く構え、離島に上陸する訓練に臨む陸上自衛官隊員=2014年5月、鹿児島県・奄美大島の江仁屋離島 当時の互力防衛庁長官は「高圧電線を切断し広範囲に停電させたこととあわせ、誠に遺憾で関係省庁に迷惑をかけたことをおわびする」(24日付朝日新聞夕刊)と陳謝し、葬送式を欠席しました。また、ある商店主が「我々は命懸けで商売をしているのに停電で迷惑した」と非難している場面を放映したテレビがありました。私は思わず画面に向かって「命を懸けたのは自衛官だ、お前は生きているではないか」と、叫びました。 中川二佐(事故当時)は将補に、門屋三佐(同)は一佐に、二階級特別昇進しました。平成8年、ペルーの日本大使公邸がテロリストに占拠された事件は、翌9年にペルー軍が突入して解決されました。このとき戦死した中佐は大佐に昇進、日本政府は勲三等旭日中綬章を授与しました。中川将補と門屋一佐には、殉職から1年後、ともに勲四等瑞宝章が授与されました。自衛官に授与する勲章が外国軍人に授与するものよりも格段に下とは不思議です。 事故から15年経って、防大卒業式訓示の冒頭で殉職者に対し哀悼の辞を述べたことに対し、亡くなった二人のパイロットは叙勲以上の感銘を受けたものと推察します。しかし、安倍首相の訓示を卒業式当日放映したNHKも翌日報じた全国紙も、なぜか、冒頭部分を無視しました。 昭和4年、空中戦闘法研究のため、英国留学中の小林淑人海軍大尉の飛行訓練中に類似の事態が生じました。その状況を真珠湾攻撃の機動部隊の航空参謀、のちに航空幕僚長を務めた源田實氏の著書『海軍航空隊始末記』(昭和36年 文藝春秋新社)から紹介します。《ある日、戰闘機シスキンに搭乘して、上昇スピンの訓練をやっていたが、突如として、發動機から火を噴き出した。直ちに、落下傘降下を企圖したが、下方を見ると、丁度運惡く、人家の集團があった。… 大尉は飛行機の姿勢を維持しながら、數分間の水平飛行を續けた。操縦席の中に、災が入って來た。操縦桿を持つ右手、スロットルを持つ左手、共に手袋を通して皮膚が燒けただれた。飛行帽の下の眉毛は燒け落ちた。それでも、大尉は齒を喰いしばって我慢した。やがて、前方に原野が開けて來た。…バンドを解いて、機外に飛び出した。 小林大尉のこの美談は、當時の英國の各新聞に掲載せられ、日本海軍軍人の聲價を高めた。…英國の多くの家庭において、毎朝母親は子供に尋ねた。「あなたは、小林大尉を知っていますか」「はい、知っております」「どうした人ですか」「多くの人々を救けるために、自分の身の危險を顧みず、燃える飛行機を操縦して、安全な所まで飛び續け、そこで落下傘降下をした人です」という工合に、小林大尉は、當時の英國において、英雄として取り扱われた》 源田空幕長の記述は、安倍首相の訓示とほぼ同じ、否、安倍首相の訓示が源田空将の記述と奇しくも同じでした。私がこの著書を読んだのは防大の4年生のときでした。自衛隊を「税金泥棒」と呼んでいる我が国と比べて大違いであり、大変感動しました。 安倍首相の日頃の言動と行動から、その狙いは我が国を戦後体制から脱却させ、普通の国、主権国家にする、との熱意を強く感じます。そのための手段が安倍内閣の安保、外交政策で、四本柱は「国家安全保障会議」(日本版NSC)の設立、「特定秘密保護法」の制定、「集団的自衛権行使」の容認、憲法を改正して自衛隊の「国防軍」への位置付けです。 第一歩として昨年「国家安全保障会議」創設関連法と「特定秘密保護法」を成立させ、現在、中間目標である「集団的自衛権の行使」に向けて邁進中、最終目標は占領軍に押し付けられた「日本国憲法」(占領憲法)の改正でしょう。 その四本柱のいずれにおいても軍隊(自衛隊)、軍人(自衛官)が中核として任を果たすべきであることは論を待ちません。だから、安倍首相は訓示で卒業生に覚悟を促すとともに、それに見合うものとして、春の叙勲で元統合幕僚会議議長(現、統合幕僚長)に対して瑞宝大綬章(旧、勲一等瑞宝章)を授与したのでしょう。元自衛官の勲一等は、内務官僚出身の初代統幕議長が退官後、自治医大理事長の肩書で勲一等瑞宝章、元日赤社長の肩書で勲一等旭日大綬章はありますが、それ以降、陸士、海兵、防大出身者を含めて初めてです。因みに今回、一川保夫元防衛相に授与したのが旭日重光章(旧、勲二等旭日重光章)です。安倍首相の決意の程がうかがえます。 しかし、政治家、高級官僚、有識者などは、安倍首相の決意を理解せず、NSC、特定秘密保護法、集団的自衛権の行使をめぐる議論において、中核になるべき自衛官を従来どおり軽く扱っています。自衛官を「歩」扱いする国家安全保障局自衛官を「歩」扱いする国家安全保障局 国家安全保障会議には、外交・安全保障政策の基本方針を決定する首相、官房長官、外相、防衛相からなる「四大臣会合」、文民統制機能を維持する「九大臣会合」、重大な緊急事態に対処する「緊急事態大臣会合」があり、昨年12月4日に発足しました。そして、NSCを恒常的にサポートする事務局「国家安全保障局」(安保局)が1月7日、67人体制で設置されました。自衛隊OBで構成する「隊友会」が発行する『隊友』(3月15日付、4月15日付)によれば、メンバーの半数である33人が防衛省から、その内、自衛官が13人(将補1人、一佐6人、二佐6人)、文官が20人です。 安保局は、局長が外交官出身、局次長が防衛官僚と外務官僚出身の2人、審議官が防衛官僚、外務官僚、自衛官の3人、その下に次に示す6個班(人員数は『隊友』から)があります。(1)総括・調整班(19名、長:防衛官僚、自衛官2名)、局内の総括、NSCの事務を担当。(2)政策第一班(8名、長:外務官僚、自衛官2名)、米国、欧州などを担当。(3)政策第二班(8名、長:外務官僚、自衛官2名)、北東アジア、ロシアを担当。(4)政策第三班(7名、長:防衛官僚、自衛官2名)、中東、アフリカなどを担当。(5)戦略企画班(8名、長:防衛官僚、自衛官2名)、防衛計画の大綱などを担当。(6)情報班(11名、長:警察官僚、自衛官2名)。 メンバー67人の内、班長以上のポストが12人ですから、メンバーの半数を占める防衛省に局次長、審議官2人、班長3人の計6人を割り当てたのでしょう。ところが、この6ポストの内、5人が官僚、自衛官は1人にすぎません。外務省、警察庁は全て官僚ですから、班長以上12人中、「文官」11人に対して「武官」は1人だけです。全般のバランス上、自衛官5人を班長以上にし、かつ防衛省職員の33人の内、少なくても20人を自衛官にすべきだったのではないでしょうか。 自衛官は防衛官僚や外務官僚や警察官僚の配下に置かれ、将棋の“歩”扱いです。海外派遣や災害派遣など緊張感の高い現場で任務に当たるのは自衛官、集団的自衛権が行使され戦死するのも自衛官、すなわち、種を蒔くのは自衛官、果実を味わうのは官僚、これは文民統制ではなく、官僚統制です。自衛官には現場を経験した適任者は沢山います。なぜ、遠ざけるのでしょうか。自衛官に不平、不満が鬱積、禍根を残すことになるでしょう。特定秘密保護法も自衛隊だけを圧迫 特定秘密保護法にいう「特定秘密」とは、特定秘密保護法で別表に掲げる(1)防衛に関する事項(2)外交に関する事項(3)特定有害活動の防止に関する事項(4)テロリズムの防止に関する事項――に関する情報であって、「公になっていないもののうち、その漏えいが我が国の安全保障に著しい支障を与えるおそれがあるため、特に秘匿することが必要であるもの」が指定されます。罰則は「特定秘密の取扱いの業務に従事する者がその業務により知得した特定秘密を漏らしたときは、十年以下の懲役に処し、又は情状により十年以下の懲役及び千万円以下の罰金に処する。特定秘密の取扱いの業務に従事しなくなった後においても、同様とする」などと定められています。 外交、防衛に関して表現する場合の一般的順序は「外交、防衛」ですが、本法では「外交」よりも「防衛」を先に挙げています。また、我が国のマスコミは通常「警察、消防、自衛隊」の順序で扱いますが、本法においては外国並みに「警察」よりも「自衛隊(軍)」を先に挙げています。防衛を先にしたのは次の二つの理由から当然です。 一つは、防衛省が保持する特定秘密は、防衛省以外の省庁が保持するものよりも国家安全保障上、極めて重要だからです。外国が侵攻してきた場合、自衛隊がどのような行動をとるのか、保持している装備の性能はどうか、防衛力をどのように整備するのか、武器、弾薬、航空機の研究開発状況など、中国などの外国は喉から手が出るほど欲しがっているでしょう。知る権利を優先させ、反日的あるいは国家意識欠如の国民や団体に知らせれば、直ちに外国にご注進となり、国の防衛が成り立たなくなります。 二つは、特定秘密を取り扱う職員数は、防衛省が防衛省以外の省庁より極端に多いことです。特定秘密保護法によって指定される特定秘密は、現行の「特別管理秘密」に該当する情報から選ばれるでしょう。現在、政府が保持する特別管理秘密(防衛省の場合は「防衛秘密」)は約42万件あり、その内の9割が衛星写真、衛星写真以外の情報である暗号や装備品の性能など、ほとんどは防衛省が保持しています。これら防衛省の特別管理秘密がそのまま特定秘密に移行するでしょうが、防衛省以外の省庁では特別管理秘密を絞ったものになると思われます。 従って、特定秘密を取り扱う職員は、防衛省以外の省庁では高級官僚や特定職域の職員に限定されますが、自衛隊では“下士官・兵”にも及びます。 ちなみに特別管理秘密を取り扱う人数も朝日新聞(1月6日付)によれば、防衛省が約6万480人、外務省が2014人、警察庁が553人、内閣官房が519人、海上保安庁が310人、公安調査庁が154人、経済産業省が89人、総務省が22人、国土交通省が13人、宮内庁が4人で、防衛省が全体の94%余りを占め、外務省が3%、警察庁は1%以下に過ぎません。 すなわち、この法律によって、最も制約を受けるのは、自衛隊員、特に自衛官なのです。にもかかわらず、自衛官の身になった議論は見当たりません。因みに、「自衛隊員」とは自衛官の他、事務次官、防大校長などの「文官」、防大の学生なども含みます。 そして、最大の問題は特定秘密に対する国会議員の認識です。国家防衛のため、如何にして秘密の漏洩を防止するかよりも、「秘密指定の監視」「知る権利」「報道の自由」を優先させています。防衛秘密のチェックは素人には無理防衛秘密のチェックは素人には無理 「特定秘密保護法」国会審議の過程で、野党から特定秘密の指定の妥当性などを検証するための「第三者機関」を設置すべしとの意見がでて、内閣官房に「保全監視委員会」を、内閣府に「独立公文書管理監」、「情報保全監察室」を、有識者による「情報保全諮問会議」の設置をきめ、「情報保全諮問会議」はすでに活動を開始しました。これらとは別に、国会法を改正して国会内に「監視機関」を特定秘密保護法が施行される今年の12月までに設置する方向で検討がなされています。 第三者機関には大きな問題があります。例えば、「防衛に関する事項」の特定秘密についていえば、これらの機関の委員である政治家、官僚、有識者などは、ほとんどが兵役の経験がなく、鉄砲にすら触れたこともなく、命を懸けて国家のために任務を遂行したことがない人たちです。どこが秘密になるのか判断できるとは思えません。 自衛隊員ではない人たちの秘密保全意識は自衛隊員と比べて低いと思われ、漏洩する可能性が少なくないと思います。と言いますのは、自衛隊員は入隊すれば通常定年まで勤務し、国家に対する忠誠心があります。入隊に際し、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に努め」と「宣誓」しますが、警察官、海上保安官、検察官を含め一般の公務員は、このような文言の入った宣誓をしません、最高指揮官の首相、防衛大臣、同副大臣、政務官を含め政治家や民間人は「宣誓」すらしません。「免責特権」とは「特権意識」なり 第三者機関の中でも特に問題なのは、国会の「監視機関」でしょう。自公両党は、衆参両院に常設の「情報監視審査会」を設け、秘密指定の妥当性を監視し、必要があると判断した場合、強制力はないが政府に改善を勧告できるとする与党案を決めました。 防衛省の特定秘密についていえば、政治家には秘密指定の妥当性の判断はできないでしょう。「反日的」議員もいます。彼らが職権を濫用して鬼の首でも取ったように何を言い出すか分かりません。 何よりも問題なのは、監視機関構成員が特定秘密の提供を受け、それを漏らした場合の罰則が最長5年の懲役にすぎないことです。自衛官や公務員が漏らせば最長が10年ですから、国会議員も当然最長10年、否それ以上の罰則を科すべきです。政治家が支持者の会合や宴席で票目当てに「○○大臣は二つのことを知っていればいい」などと得意顔で国家の秘密をぺらぺらしゃべった場合は厳罰に処すべきが当然です。 ところが驚くべきことに、森雅子同法案担当相は「憲法の免責特権は大変重い」(平成25年11月15日付朝日新聞夕刊)と答弁しています。日本維新の会も「監視機関の議員に守秘義務を課し、発言の自由を制限することは法制上、無理がある」(松野頼久国会議員団幹事長)(12月14日付産経新聞)と反発しました。 安倍首相も今年の1月31日、衆院予算委員会で、「秘密漏えいについては、米国とドイツにおいては、例えば、議員に対する免責特権もこの秘密会においてはないということになっているわけであります。まあ、日本においては、それは憲法において保障されておりますから、そういうことにはならないわけであります」と、安倍首相にしては、原稿を見ながらの、回りくどい歯切れの悪い、理解するのに骨の折れる発言をしました。 これらの発言は、憲法第五十一条「両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない」に基づくと思われますが、この条文は個人や団体の名誉、プライバシーなどを侵害した場合に当てはまるものであり、国家機密の垂れ流しには当てはまらないのは当然でしょう。我が国よりもはるかに国家意識、国防意識を保持していると思われるアメリカ、ドイツの政治家にすら、安倍首相の発言にあるように「免責特権」がないのです。 軍人は世界共通です。特に同盟国においては絆が強く、自衛隊の一佐(外国軍の大佐相当)に米軍の中佐は敬礼します。自衛隊の二佐(中佐相当)は米軍の大佐に敬礼します。米軍は仲間意識から自衛官を信頼しています。それ故、外国の軍人は、政治家や官僚に教えない情報を自衛官には教えてくれるのです。大使館に防衛駐在官(大使館付武官)が必要なのはそのためです。 しかし、国会議員に免責特権があると知れわたれば、自衛官に話した情報が国会議員から漏れることをおそれて情報を教えてくれなくなり、「特定秘密保護法」を作ったが故に、今まで以上に情報が入らなくなるという本末転倒の状況となります。 自衛官や公務員は秘密を漏らせば厳罰で、自分たち政治家は漏らしても罪を免れるとの主張は、思い上がった「特権意識」ではないでしょうか。シビリアン・コントロールとか国民の代表とか、聞いて呆れる話です。国会議員が「免責特権」を根拠に国会の本会議や委員会で秘密を話しても刑事罰が科せられないのであれば、特定秘密を知らせてはならない国民は唯一、国会議員ということになります。ただちに為されるべき5つの自衛官処遇改善策ただちに為されるべき5つの自衛官処遇改善策 特定秘密保護法は自衛隊員に一段と厳しい罰則を科しました。さらに集団的自衛権の行使となれば、一段と任務が増えるのは自衛官で、戦死者もでるのは間違いないでしょう。義務に見合った処遇は当然、自衛隊を軍隊、自衛官を軍人にすることです。自民党は憲法を改正して、国防軍へ位置付けるとしていますが、直ちに改正するのは困難でしょう。ならば、改憲を待たずしてできる以下のことを直ちに実施すべきです。(1)統合幕僚長、陸上幕僚長、海上幕僚長、航空幕僚長、陸上自衛隊の方面総監、海上自衛隊の自衛艦隊司令官、航空自衛隊の航空総隊司令官を認証官にすべきです。(2)今回の叙勲で、元統幕議長に瑞宝大綬章を授与したのは評価されますが、統合幕僚長に限定せず、(1)で挙げた職に対する桐花大綬章、旭日大綬章をはじめ、全自衛官に現役中に勲章を授与すべきです。現在、大半の自衛官は定年まで勤務しても生存者叙勲すら授与されません。私の防大同期生(陸上要員)の受章者は20-30%です。軍人に現役中に勲章を授与しない国、まして定年まで勤務しても勲章を与えない国は、世界中で日本だけでしょう。(3)主要国では軍人が軍事機密を漏らした場合、軍法会議が裁きますが、我が国では、自衛官が特定秘密を漏らした場合、今までの例から、自衛隊の警務隊ではなく、警察が捜査し、検察が捜査、起訴、求刑するでしょう。が、役人たる警察官や検察官に自衛官を捜査、起訴、求刑させるべきではなく、捜査、起訴、求刑、裁判権を自衛官に与えるべきです。しかし、憲法に「特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない」とありますから、裁判は現行通りとしても、最低限、捜査、起訴、求刑の権限を自衛隊に与えるべきでしょう。(4)自衛官に戦死者が出た場合、靖国神社に合祀し、首相以下全閣僚が参拝すべきです。自衛官は天皇陛下のご親拝を賜ることも願っていることでしょう。(5)防大校長を自衛官にすべきです。外国では通常、士官学校長は軍人です。初代校長の槇智雄氏『防衛の務め』には、「この学校は昔の陸軍士官学校と海軍兵学校を一つにしたもので、本来ならば当然軍人が校長であるが、吉田首相は今回は軍人でなく、しかも民間から選びたいと決意された」と慶應大学教授、理事などを務めた槇氏を初代校長に選んだ当時の吉田茂首相の意向を明らかにしています。が、二代目以降においても吉田氏の考えにも反して未だ自衛官が校長に就いていません。 集団的自衛権行使に関して、自民党の中には、中国などの脅威が目前に迫る中、如何にして国を守るかよりも、選挙公約に反して、公明党の支持団体の票ほしさに同党に擦り寄ったり、中国に媚を売ったりする見苦しい議員すらいます。 政治家、特に与党議員は、安倍首相の防大卒業式の訓示、「安保法制懇報告書」受領直後の会見発言や日米共同声明を熟読玩味して猛省すべきです。集団的自衛権の行使を含め、安倍首相の安全保障政策に反対を唱える自民党議員は議員辞職か離党をすべきで、公明党は反対を貫くのであれば、与党を離脱すべきが筋ではないでしょうか。かきや・いさお 昭和13(1938)年、石川県生まれ。防衛大学校卒業と同時に陸上自衛隊入隊。大阪大学大学院修士課程(精密機械学)修了。陸上自衛隊幹部学校戦略教官、陸上幕僚監部教育訓練部教範・教養班長、西部方面武器隊長、防衛大学校教授などを歴任し、平成5年に退官(陸将補)。著書に『自衛隊が軍隊になる日』『徴兵制が日本を救う』。

  • Thumbnail

    記事

    自衛隊員「任務で命を落としたら靖国に祀ってもらえるのか」

     現在国会では、与野党が安保法制を巡って論戦を繰り広げている。しかし、当事者となる現役自衛隊員たちが考える争点は別の所にあるという。ジャーナリスト・田上順唯氏がレポートする。* * * 自衛隊の海外派遣が始まってすでに20年以上が経過したが、隊員が戦死した場合の処遇については何も議論されず、いまだ決まっていないのが現実だ。 「国会でも『もし戦死者が出たら……』と争点になりますが、有事になれば戦死者は当然出るでしょう。我々が気になるのは、もし任務で命を落としたら、靖国神社に祀ってもらえるのか? 勲章のひとつももらえるのか? といった国家に命を捧げた者の名誉の担保や『死んだ後のこと』を一切議論していないことです」(陸自1曹) 靖国に合祀するとなれば、中韓やマスコミが問題視することは確実と、議論を避けているフシがある。自衛隊員への顕彰として自衛隊内部では、退官後も終身保有できる「防衛功労章」や諸外国の勲章の略綬(リボン)に相当する「防衛記念章」があるが、有事で死傷した場合の扱いは「戦死傷時の基準はなく現状では不明」(防衛省大臣官房広報室)だ。さらに、こんな不安を挙げる。 「はたして見舞金や共済組合の保険金だけで残された家族は生活できるのか、子供を育て上げられるのか。いざ自分が撃たれたら、最期の瞬間に『家のローンは大丈夫か?』と考えるかもしれませんね」(陸自1曹) 戦死したあとに残される家族のことが、自衛隊員にとって一番の気がかりなのだ。関連記事■ 安保論議の最中に「命令あらば実戦で任務遂行」と現役自衛官■ 元防衛大臣・北澤俊美氏が震災時の自衛隊の働きを解説した書■ イラクで活躍「ヒゲの隊長」 震災後の自衛隊の活躍を報告■ 女性自衛官1.2万人 ヘアカラーやネイルはどこまで許される?■ 日米合同軍事演習を終え海兵隊員と陸自隊員が笑顔で肩を組む