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    大川隆法の「イイシラセ」清水富美加に感じたシンパシーの遠因

    島田裕巳(宗教学者) 女優の清水富美加さんが、芸能界を引退し、幸福の科学に出家するということで大きな騒ぎになっている。「幸福の科学」に出家した清水富美加 幸福の科学は、宗教のなかでは一般に「新宗教」に分類されている。新宗教をいったいいかなる宗教集団としてとらえるかについては、学界でも議論があり、一時幸福の科学は新宗教よりもさらに新しい「新新宗教」に分類されていたこともあった。 新新宗教とは、戦後の高度経済成長が終わり、オイルショックを景気に低成長、安定成長の時代に入ったことを象徴する宗教のことである。 従来の新宗教が病気治しや「現世利益」の実現を約束するのに対して、終末論やそうした事態を乗り越えるための超能力の獲得を宗教活動の中心に据えるものが新新宗教であるととらえられてきた。 そうした新新宗教のなかで、1980年代後半からのバブルの時代に台頭したのが、幸福の科学であり、当時はそのライバルと言われることも多かったオウム真理教である。 幸福の科学が社会的に注目されたのは、1991(平成3)年のことである。その年の7月7日には、教団の総裁である大川隆法氏の誕生日を祝う「ご誕生祭」が東京ドームで開かれ、事前にテレビで相当に派手な宣伝が行われた。私も、実際にこの祭典を取材に出かけたが、急成長する教団の存在を社会に向かって強くアピールしようとするような内容になっていた。 ただ、その一方で、講談社の出版物が教団とその信者の名誉を甚だしく毀損する記事を掲載したとして、当時信者であった作家の景山民夫氏や女優の小川知子氏などが被害者の会を結成し、講談社に対して強硬な抗議活動を行ったことでも、この教団は注目されることとなった。 講談社に対しては、膨大な抗議のファックスが送られ、また、教団や信者が講談社などに対して億単位の訴訟が行われた。ちょうとこの時期は、オウム真理教が進出した地域で住民とトラブルになっており、両者あいまって、社会的な注目を集めざるを得なかった。麻原彰晃とは対象的な「育ち方」 おそらく、幸福の科学の存在が一般の人々に強く印象づけられたのは、この時期のことだろう。ただ、それ以降は、幸福の科学に関連してそれほど大きな話題や出来事はなかったので、若い世代になれば、今回のことが起こるまで、幸福の科学の存在自体を認識していなかったという人も少なくないのではないだろうか。 幸福の科学がオウム真理教と同じ時期に注目を集めたからといって、そのあり方や宗教としての中身は大きく隔たっている。ともに仏教教団であると称している点では共通するが、仏教に対するとらえ方も大きく異なるし、幸福の科学の特徴である大川氏の「霊言」のようなものはオウム真理教にはない。逆に、オウム真理教の最大の特徴であるヨーガの実践も、幸福の科学では行われていない。 オウム真理教が1984年という象徴的な年(ジョージ・オーウェルの近未来小説『1984年』や村上春樹の『1Q84』が思い起こされる)に誕生したのに対して、幸福の科学はその2年後の86年に誕生している。 総裁の大川氏は、東京大学の法学部を出たエリートで、その点でも盲学校しか出ていない麻原彰晃とは対象的である。ただ、大川氏の父親は宗教家であり、大川氏はその影響を強く受けながら成長した。その点で彼は、「教祖二世」なのである。 東大を卒業した大川氏は、大手総合商社のトーメン(現在の豊田通商)に入社するが、入社直前の1981年には、宗教体験をしている。それは、鎌倉時代の宗教家、日蓮の弟子の一人、日興の霊が降り、大川氏の手が勝手に動いて、「イイシラセ、イイシラセ」と書きはじめたというものである。 その後も、彼はさまざまな霊と交信を行ったとされるが、ここで注目されるのは、まず日興の教えを受け継ぐものは日蓮宗のなかで富士門流と呼ばれ、創価学会が、それこそ幸福の科学とオウム真理教のことが社会的に注目される1991年まで信奉してきた日蓮正宗につながるということである。 また、「イイシラセ」とは、キリスト教で言えば「福音」のことである。ここには、幸福の科学が、創価学会やキリスト教などの既存の宗教からさまざまに影響を受けていることが示されている。さらに、生長の家やGLAの影響もある。なぜ「覚悟」を求めたのか 大川氏自身は自らのことを「再誕の仏陀」ととらえているが、その再誕の仏陀は、幸福の科学の本尊である「エル・カンターレ」とも重ね合わされている。エル・カンターレに最初に言及したのは、GLAの開祖である高橋信次であった。幸福の科学の大川隆法総裁=2012年12月撮影 結局のところ、大川氏はトーメンを退社し、その後宗教家としての道を歩みはじめるわけだが、大川氏に降ったとされる各種の著名人の霊言ということが教団活動の中心に位置づけられている。 現在では、「守護霊インタビュー」と呼ばれ、信者に対して公開で行われている。それは、信者ならインターネットを通しても見ることができるし、追って書籍化され、一般の人間でもそれを読むことができる。 霊言や守護霊と言うと、一般にはおどろおどろしいものを感じさせたりするが、幸福の科学の霊言は、守護霊が本人の本音を語るというようなもので、公開の場では、守護霊の正体を聞き手となった教団の人間が追求していくというところがやま場になっている。それは、信者にとっての楽しみであり、守護霊インタビューはエンターテイメントの要素をもっている。 今回の騒動では、『女優清水富美加の可能性』という守護霊インタビューがクローズアップされたが、この本の前書きでは、大川氏自身が清水さん本人に対して「覚悟」を求めるメッセージを発しており、また、引退騒動に教団の幹部や弁護士が直接乗り出してきたことでも異例の展開を示している。 教団が、一信者のためにそれだけ積極的に出てきたのは、統一教会の合同結婚式をめぐって、元新体操の選手、山崎浩子氏の脱会騒動があったときくらいではないだろうか。 なぜ大川氏は、清水さんに覚悟を求めたのか。おそらくそこに、この騒動の根本的な原因があるのだろうが、清水さんも信者としては二世であり、その点で教祖二世の大川氏と重なる。そして、父親の影響が色濃いという点でも似ている。あるいはそこに、大川氏が彼女に対して強いシンパシーを感じた遠因があるのかもしれない。

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    【上祐史浩緊急寄稿】清水富美加が幸福の科学に「プチ出家」した意味

    家者が守るべき戒律を授かり、俗世・家庭生活から離れて、修行と布教に専念するというものではなく、いわば宗教法人幸福の科学の専属職員となることなのです。 教団の表現では、「見た目は普通の社会人と変わらない。家族と暮らし、自宅から通う者もいれば(中略)、服装も常識の範囲内で各自に任されている。普通の仕事との違いは、中略(幸福の科学の)「法」によって人々の魂を救う仕事に専念していること」だそうです。そうした方は約2千人いるとされ、「僧職給として日々の生計の糧を支給する」そうで、その金額の水準は非公開だそうです(おそらくそれほど多くはないと思います)。清水富美加さん=2013年4月5日、東京・銀座 私のように、初期仏教型の出家を経験した者からすれば、「出家」と言うよりは、「転職」と表現すべきかなとも思います。さらに言えば、清水さんのご両親が、幸福の科学の信者であり、その影響で彼女が信者となった経緯を考えると、オウム真理教でも注目された若者が親から離れるという出家ではなくて、その逆に、むしろ芸能界から親の元に戻ったという意味で「入家」なのかもしれません。 この幸福の科学独自の「出家」制度は、1991年にオウム真理教と幸福の科学が、新新宗教として共に話題を集めた時から、私は聞いていました。そして、これが、出家に限らず、幸福の科学の特徴全体を象徴するものだと思います。つまり、オウム真理教は、いい意味でも悪い意味でも、初期仏教的に、ストイックで真面目「すぎる」のですが、幸福の科学は、オウムよりも「ゆるい」のが、特徴だと思います。そして、歴史上の様々な宗教が戦争やテロに至る場合にそうであるように、オウムは、真面目過ぎて、それが逆に災いして、事件を起こした結果となったというのが、私が田原総一朗氏とオウム真理教を振り返った共著の結論でもあります。 もちろん、これは、オウム真理教との比較の問題であり、幸福の科学も、社会に対して攻撃的な部分はありました。1991年には、教団を批判する記事を掲載した講談社への信者多数によるファックス攻撃が話題になりました。2009年に幸福実現党として選挙に出た際の教祖の言動には、マスコミが自分たちの候補者を具体的な根拠もなく不当に泡沫候補扱いしていると批判する言動があったと聞いています。また、知り合いの宗教学者によれば、数年前の時点でも、教祖の妄想的な陰謀論的な言説があったと聞いています。 しかし、大局的に見れば、教団は高齢化し、昔とは変わって、大分オープンになったという宗教学者の見解もあります。実際、宗教も、その他の運動も、若者が多い時には過激であっても、高齢化とともに穏便になっていくのが常だと思いますし、幸福の科学も例外ではないのではないかと思います。「悟り世代」と宗教 なお、清水さんは両親の影響で、若いころから信者として熱心に活動してきました。しかし、私がオウム真理教で経験したところでは、幼い時に、両親の影響で信仰を行い、反社会的な思想を一時的に形成したとしても、清水さんのように、一般の学校での友人とのふれあいや、芸能活動などの社会生活の経験が確保される限りは、本人の意思で、その影響は、解消され得ると思います。その意味で、清水さんは、親の影響で信者になったにしても、今現在も信者であり続けている以上、本人の性格や性質が、(善悪は別として)信仰に向いていたのだろうと思います。女優の清水富美加さん =2016年9月22日、東京都港区(撮影・高橋朋彦) さて、世間一般では、清水さんに対して、宗教自体を否定する視点から「洗脳から目を覚ましてほしい」という意見や、また、突然辞めて仕事を途中で放り出し迷惑をかけるという視点から「無責任である」である、という批判がなされていると思います。しかし、これに対して、一部の人からは、「批判しかできない人たち」「清水さんの気持ちを理解していない」といった反発もあるようです。これは、今日の同世代の若者のメンタリティが複雑であることを示しているように思います。 まず、1994年に生まれた清水富美加さんの世代とは、何の因縁か、ちょうどオウム真理教事件とも重なる世代です。彼らは、高度成長が終わり、オウム真理教の事件とその教団の崩壊と時期をほぼ同じくして、日本のバブル経済の崩壊が始まった頃に生まれ、その後のデフレの時代に育ちました。そして、一部には、ワーキングプアーという言葉から、最近は物欲が乏しい「悟り世代」という表現もあるようです。 よって、お金や名誉を求める従来の価値観が、必ずしも自分が生きる価値にならない若者が増えているのではないかと思います。すると、はなから主流の価値観が正しく、宗教を洗脳と断じる視点で批判すれば、望ましくない分裂が生じるかもしれません。実際、清水さんのコメントには、長年の葛藤があったことや、洗脳と思われることを予期しつつ決断したことが述べられています。 次に、突然辞める無責任さに関しては、私自身が、宇宙開発事業団の職員でありながら、オウム真理教に出家した時に経験があるので、その経験に基づいて考えると、おそらく彼女は、芸能事務所には、いくら話しても理解してもらえない中で、仕事の整理をつける一定期間、それに耐えることが、非常に辛く感じられたのだと思います。私の場合は、初期の研修期間中にやめてしまったので、整理すべき残った仕事がありませんでしたから、彼女のような問題はなかったのですが、相当辛いだろうなとは思います。 もちろん、その自分の弱さと闘うことが責任ある行動なのですが、本人としては耐えられなかったのではないでしょうか。彼女の告白の中に、嫌な仕事を断ると干されるのが怖くて断れなかったという趣旨のものがあります。芸能人として多くの人に愛されることを長らく求めてきた彼女だからこそ、それが一転して否定・批判の目に晒されることは、非常に辛く感じられたのかもしれません。いわゆるナイーブというか、辛口な表現をすれば、自己愛ということでしょうか。清水富美加は幸福の科学の高齢化対策に効果あり? そうした中で、私は、今回富美加さんができなかったことが、将来再び彼女にとって問題にならないかを心配します。なお、今回の問題に関して、一部の人は、芸能人も自分一人で事務所と対峙するのは難しいだろうから、芸能人も組合を作ったらどうかという意見を出していますが、宗教団体では、組合はできないだろうし、宗教的な奉仕の面が強く、労働基準法も有効ではないでしょう。  私の経験では、家族・仕事場に迷惑をかけて突然出家し、その後幹部にもなったのに、その後、教団に迷惑をかける形で、突然に飛び出す人がいました。また、自分がそうならなくても、自分の友人の出家者(専属社員)が、自分たちにひどく迷惑をかける形で、突然辞める行動に出るかもしれません。そうした時、彼女は、そうした友人を過去の自分の投影と見て許せるだろうか。私は、こうした経験があるため、遠くからではありますが、今後の彼女の動向を見守りたいと本当に思っています。女優の清水富美加さん=2013年4月5日、中央区銀座 なお、これに関連しているかはわかりませんが、最近の若者には、突然、切れたように仕事をやめる人がいると聞きました。清水さんの場合は、やめたい思いが募る中で、一人で切れてやめたのではなく、それを教団が後押しした形になったのでしょう。これは、もちろん望ましくないのですが、切れる側もしたくでそうするわけではないでしょう。そして、そうした現象が社会全体で目立ってきているのであれば、単に無責任を批判するだけでなく、その背景の心理的な要因を理解することが、企業にも必要な時代になってきたのかもしれません。  次に、今回の件で、清水さんが教団に広告塔に使われているのでは、という見方について考えてみたいと思います。実は、私が今回の件で、最も違和感を感じたのも、この点でした。芸能活動からは引退するにせよ、教団が関与せずに、本人とその家族が独力で実行できなかったのか。教団は、本人の意思に添わない内容の活動を薄給の下で強いられ、ドクターストップがかかるまで精神的に追い詰められたとしているが、それを救済するのが、なぜ幸福の科学教団(への出家)であり、教団の広報担当や弁護士が記者会見して、瞬く間に教団出版社から告白本が発刊されるのか。やはり、教団が彼女を広告塔としようとした感が否めません。 その背景には、一部の宗教学者の方が指摘しているように、幸福の科学の信者が既に高齢化しており、教団としては、若い世代の獲得に苦労している状況があると思います。私は先日、某所でのトークイベントで清水さんと同世代の宗教に関心のある若者から話を聞きましたが、「教団が若者を入信させようと盛んに活動しているが、若者の方の反応は鈍いと思う。清水さんは親が信者だから幸福の科学だったのだろうが、今の若者の多くは、ああしたタイプのカリスマ型教祖の教団に入るとは思えない」と言っていました。今年はオウム、幸福の科学からちょうど30年 こうしてみると、教団は、苦しい中で手持ちの中の最高のカードを切ったのかもしれません。しかし、今回の件が、さほど状況を変化させるかは疑問です。清水さんは、「自らの天命が『暗黒の海を照らす灯台の光となり、一人でも多くの人を救済していく』ことにあると確信し、『魂の救済のために24時間を捧げる』宗教者となるべく、出家を決意」したとコメントしています。しかし、実際の清水さんは、「緊急救済の観点から受け入れを決めた」と教団が言うように、自分で問題を解決できず、精神的に参ってしまい、教団に保護されたわけです。 これは、強靭な精神で悟りと布教にまい進する出家僧というよりは、オウム真理教の出家の際にも一部で言われたように、「駆け込み寺」に入った信者のようにも見えます。清水さんと同じように、仕事で苦しかったら、幸福の科学に駆け込んでね、というアピールにはなるのでしょうが、1990年代に統一教会の合同結婚式に参加した芸能人やオウム真理教の出家した芸能人と比較しても、本当の意味で、教団に利益をもたらす広告塔としてスタートと切ったとは言えないのではないでしょうか。そして、こうしたことは教団も分かっていると思います。しかし、なおかつ、それをやったということから、教団がおかれた状況を推察できるようにも思います。 さて、最後になりますが、今回の件と関連して、一つ気になることを述べたいと思います。それは、私には、今回の清水富美加さんの件が、単なる単発の現象ではないように感じられる部分があることです。もちろん、それは、彼女を追って、幸福の科学への若者の出家が続発すると言うことではありません。 しかし、前に述べたように、清水さんと同じ、今現在、20代前半の人には、生まれる前に、既に高度成長が終わり、デフレ時代を生きてきました。そのため、彼らは、お金や競争の勝利といったものが、自分の生きる価値にはなりにくい世代ではないでしょうか。そうした彼らが、今後、精神面で、何か新しい時代を求めて、作っていくように思うのです。それが、どういう形になるのは、分かりません。しかし、もしかすると、今年2017年が、後から見ると、その始まりだったと思われる年になるかもしれないと思います。 ちょうど今から、30年前の1987年にオウム真理教、1986年に幸福の科学が設立されました。そして、2年後の1989年には昭和天皇が崩御され、平成の時代が始まりました。その直後、世界は米ソ冷戦が終結し、共産主義が後退し、世界は、科学合理主義が浸透するかと思いきや、1990年代になると、宗教の復活が目立ってきました。たとえば、イスラム世界でのイスラム原理主義、米国でのキリスト教保守主義、南米・アフリカではカトリック教会が強まりました。日本でも1991年に、オウム真理教・幸福の科学といった新新宗教ブームが注目を集めました。オウム真理教での失敗の教訓 そして、今時代は、色々な意味で似たような変化の時にあるように思います。あと数年のうちには今上天皇の退位で平成が終わる見通しとなっています。世界の政治も、トランプ大統領の登場、英国のEU離脱、欧州の極右政党の台頭など、冷戦後一貫して進められてきた市場原理主義・グローバル経済の流れに対して、大きな変化が生じています。冷戦終結によって後退した共産主義に続いて、今回は、資本主義の行き詰まりとポスト資本主義の思想を唱える識者も出てきました。そうした中で、人々の意識は、お金・物質的な利益に限らず、精神的な幸福を求める流れが強まる可能性があるのではないでしょうか。そして、今年前後から始まる新しい精神的な流れが、2020年代には、世の中に知られる大きな流れになるのかもしれません。外国特派員協会で会見するオウム真理教の上祐史浩外報部長(当時) =1995年4月3日 この現象を好ましくない視点から見るならば、日本社会における若者を中心とした極端な思想・宗教の動きは、30~40年代の国家神道の戦争、60~70年代の極左共産主義の学生運動、90年代のオウム真理教などと、数十年の間隔で繰り返されてきた歴史的な事実があります。ほども述べましたが、90年代も統一教会の合同結婚式やオウム真理教への出家で話題を集めた芸能人がいました。そして、私は、鈴木邦男氏などとの共著「終わらないオウム」などの中で、これらが、一見して異なるようで、本質的には似た性質をもった精神的な現象の周期的な繰り返しではないかと述べました。 さらに言えば、それは、一種の精神的な感染現象ではないかと考えています。感染症は、その菌に対する抗体を持っていない人が増えると、ワクチンによる予防をしていなければ、再び広がることを繰り返します。そして、私は、極端な思想・宗教の拡大というのは、一種の精神的な感染症だと思うのです。例えば、カルト宗教の事例で言えば、私は、冷静な教祖が、信者を巧みに洗脳するという世間の見方は間違っていると思います。カルト宗教を専門とするジャーナリストの有田芳生氏(民主党参院議員)と対談した時にも確認しましたが、カルト宗教の専門家であれば、教祖がまず自分を救世主だと思う盲信に自ら陥り、救世主を待望する傾向のある人たちが、教祖の盲信に感染する(幻想を共有する)ことを知っています。 だからこそ、歴史から学ばぬ者は歴史を繰り返すと言うのだと思います。そこで私は今、私のオウム真理教での失敗の教訓が、今後の若者が作り出す、次の精神的・宗教的な現象において、似たような感染を予防するワクチンになればと思って活動しています。そして、30年前とは比較にならないほど、ネットなどによって、オウム真理教の情報が提供されているとこともあって、今度こそ、同じことの繰り返しはないだろうと思いますし、そのようになるように微力ながら自分なりに努めています。 こうして、近代日本において繰り返されてきた数十年単位の政治・経済・社会の変化と連動した、若者の思想的・宗教的な大きな波が、今度こそ、これまでのものとは異なり、一皮むけた、真に有意義なものとなることを信じています。それが、2020年代以降に現れてくるならば、次なる日本の年号と、その前後の開催される東京五輪という「平和の祭典」とシンクロしたものになるのかもしれません。そうなったら素晴らしいだろうなと思います。

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    清水富美加「出家騒動」を考えまする。

    女優、清水富美加が突然、宗教団体「幸福の科学」に出家した騒動をめぐり、波紋が広がっている。「今日、出家しまする。」と記した暴露本は飛ぶように売れ、これがさらなる火付けになった感は否めない。芸能界を震撼させた宗教スキャンダル。iRONNAが総力特集でお届けする。

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    前世はベガ星人? ハイパー教団で出家した清水富美加に残る一抹の不安

    首相=昭和58年10月 「霊言」とは「守護霊」インタビューと同様に大川総裁の口を借りて、神的存在や大宗教家が「語る」もので、これまで、イエス・キリスト、大天使ガブリエル、ノア、モーセ、ユダ、釈迦、舎利弗、ヤショーダラ、文殊菩薩、天照大神、大国主命、卑弥呼、神武天皇、ムハンマド、カリフ・アリー、孔子、朱子、荘子、ゼウス、アポロン、ガイア、艮の金神、天台智顗、空海、親鸞、一遍、日蓮、安倍晴明、中山みき、出口なお、谷口雅春、戸田城聖、庭野日敬、ノストラダムスなどなど、これまでに多数の「霊言本」が刊行されている。 以上からも推察できるように、幸福の科学はキリスト教、神道、イスラム教、仏教、儒教、ギリシャ神話、日本の諸新宗教など多種多様な宗教文化を、自在に摂取した宗教的世界観を有している。こうした、属する社会の宗教伝統との関係が希薄で異文化宗教の要素をハイブリッド的に自由に取り込んだタイプのポスト近代的宗教を、宗教学者の井上順孝は「ハイパー宗教」と呼んでいる。 幸福の科学は、一定規模以上の新宗教教団としては、最も新しい教団である(1986年10月教団設立)。幸福の科学は既存の新宗教の分派教団ではなく、独自に創立されたものといえるが、GLA(創設者:高橋信次、1969年設立)と生長の家(創設者:谷口雅治、1930年設立)という二つ教団の影響を強く受けている。 大川総裁とともに教団を設立した大川の父善川三郎(本名:中川忠義)はGLAへの入信経験を有する。宗教学者の井上順孝や塚田穂高は、霊界観や転生観の点ではGLAの、出版物の講読を中心とした活動・布教の面においては生長の家の影響が強いとしている。 GLAと生長の家は、心霊主義的特徴と世界の諸宗教を総合的・統合的に取り扱う「万教帰一」的な特徴の両者を共通して有しているが、近代日本における新宗教運動の展開の系譜からいえば、その源流はかつて大正デモクラシー期の一大オカルトブームとともに教勢を伸ばした大本(創設者:出口なお・出口王仁三郎、1900年前身組織設立)にある。大本は、心霊主義や国際主義的な「万教帰一」的性格を有した近代日本における「ハイパー宗教」の先駆けであった。オカルトと世界観が共通する幸福の科学 現在の幸福の科学に至る宗教運動の対外的活動の端緒は、1985年7月『日蓮聖人の霊言―今、一切の宗派を超えて』(潮文社)の出版である。翌年の教団発足後、幸福の科学は教勢を一気に拡大、1990年代初頭においてオウム真理教とともに宗教ブーム再到来の代表格として社会的注目を集めた。 幸福の科学設立やその教義の背景には、1970年代から断続的に継続し90年代半ばにオウム真理教事件を契機として終息するまで続いたオカルトブームがある。社会的なオカルトブームと教勢の急速な伸びという関係において、大正期の大本との共通性が指摘できるであろう。講演するグループ創始者兼総裁の大川隆法氏=2014年8日 1973年に五島勉『ノストラダムスの大予言』(祥伝社)がベストセラーとなり、翌年にはユリ・ゲラーの「フォーク曲げ」が『木曜スペシャル』(日本テレビ)で放送され、「超能力の実在」として全国に衝撃を与えた。オカルトブームの雰囲気は、70年生まれの私とってはちょうど幼少期のことであり、強く鮮明な記憶として残っている。 当時、心霊・超能力・UFO・超自然現象などは日常的話題としてそこかしこで語られるものであった。真昼間からテレビで流れるドキュメンタリー形式の心霊番組「あなたの知らない世界」(日本テレビ)は小学生の私にとってはまさに「ドキュメンタリー」であったし、小学校4年生の時全国を席巻した「口裂け女」の噂話が私の学校にも伝わると、掌に「しせいどう」(「ポマード」ではなかった)とマジックで書き(そうすれば口裂け女から逃れられるとされた)心底震えながら振り返り振り返り登下校した。 こうした70年代オカルトブーム時代の状況は、若い世代には想像し難いかもしれない。初見健一は当時を「各メディアのコンテンツの「王道」に、オカルトなネタがデーンとのさばって、大人も子どもも、もっと言えばお年寄りから幼児までが、ごく自然に「お茶の間の娯楽」として享受」するような「イカレた時代」であったと総括している(『ぼくらの昭和オカルト大百科―70年代オカルトブーム再考』大空出版、2012年)。 これらのブームの火付け役の一つ、つのだじろうによる心霊マンガ「うしろの百太郎」(1973年連載開始、『週刊少年マガジン』・『月刊少年マガジン』)は「霊界」「守護霊」「前世」といった概念を少年少女たちに一般化した。少女マンガにおいても、現代日本に転生した前世が異星人である主人公たちという設定の日渡早紀「ぼくの地球を守って」(1986年連載開始、『花とゆめ』)が大ヒットしている。 当時の「前世」の普及ぶりを示す例として、「転生戦士」や「前世少女」の出現を挙げることができる。「転生戦士」・「前世少女」とは、オカルトブームを象徴するメディアといえる雑誌『ムー』(学習研究社、1979創刊)の読者投稿コーナーに1983年頃から見られるようになった、「戦士、巫女、天使、妖精、金星人、竜族の民の方、是非お手紙ください」とか、「前世アトランティスの戦士だった方、石の塔の戦いを覚えている方、最終戦士の方、エリア・ジェイ・マイナ・ライジャ・カルラの名を知っている方などと」とか、「前世が古代エジプトの王の人」とか、「前世(前生)でヴィシュヌ神、シバ神、インドラ神、ミカエル大天使、アポロンなどと一緒に行動していたと思われる方」などのメッセージを掲載して文通相手(ペンパル)募集していた中高生を中心とした人々である。 現在、ホームページ「バーチャルアイドルちゆ12歳」内の「「ムー」の前世少女」にこれらのメッセージが時系列的にまとめられているが、1970年代以降のオカルトブームと、幸福の科学に共通する世界観を看取することができるであろう。 1989年の夏、「前世仲間」による集団自殺ごっこ事件が生じたことを踏まえ、日渡早紀は『ぼくの地球を守って』第8巻(白泉社)のコラムにおいて、読者に自らの「前世」マンガがフィクションであり現実ではないことを、ためらいながらもはっきりと説いた。 「前世」ブームの過熱化は、「前世」マンガの作者自身に、ファンへの鎮静化を呼び掛ける行為を強いたのである。それを読んだ日渡の読者が「洗脳されて上等」と反論したかどうかは、詳らかにしない。

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    やっぱり幸福の科学「炎上商法」のネタにされた清水富美加

    碓井真史(新潟青陵大学大学院教授) 女優の清水富美加さんと宗教団体「幸福の科学」に関する報道が続いている。これまでの仕事を辞めて幸福の科学に「出家」するという清水さんに対して、多くの芸能関係者が苦言を呈している。芸能人としては、関係者一同に多大の迷惑をかける掟破りの行動ということだろう。しかし、私たちには信教の自由があり、職業選択の自由がある。ただそれでも、清水富美加さんの行動には様々な疑問があることも事実だろう。(写真はイメージです) 宗教が批判的に扱われるときに使われる言葉として、まず「新興宗教」がある。新興宗教は伝統宗教に対して新しいという意味で、本来は善悪の価値は含まない。ただ一般的には、新興宗教というと怪しげなイメージが伴うだろう。 ある宗教団体を非難するときに、「異端」と言われることもある。異端は、「正統」とは異なる教義を主張するものである。その新しい宗教の中で、釈迦やキリストが登場することがよくあるが、伝統的な正当の仏教やキリスト教から見れば、異端だろう。しかしこれは、その宗教の中の話であり、外の人間にとってはあまり関係のないことも多い。ただ、その新興宗教が「新しい真実が示された」などと主張しても、宗教家や宗教学者から見れば稚拙で誤りだらけと評価されることが多いことは、私たちも知っていて良いだろう。 「カルト」と言われて宗教が非難されることもある。カルトの本来の意味は、少数の熱烈な信奉者のことであり、カルト映画、カルトクイズなどと使われることもある。この場合は、強いこだわりを持つ「オタク」「マニアック」の意味に近いだろう。だから、カルトは変わり者かもしれないが、悪いことではない。 しかし現代では、カルトは悪い意味で使われることが多い。「カルト宗教」は危険な宗教という意味で使われている。そこで研究者らは悪い意味で使うときには「破壊的カルト」と表現することもあるが、一般的には「カルト宗教」「カルト団体」などと表現されている。またカルト集団が大きくなるともはや少数とは言えないという意味で、「セクト」と呼ばれることもある。 私たちには信教の自由がある、どんなに奇妙な少数派の教えでも、信仰する自由がある。しかし、悪い意味のカルト(破壊的カルト)は社会に害を与え、個人の人生を破壊する。宗教だからという理由だけで、全てが許されるわけではない。 悪い意味のカルト集団とは、マインドコントロールなどの悪質な手法で信者を獲得し、本人や家族や社会全体に害を与える集団である。 フランスのセクト(カルト)構成要件によれば、カルトの特徴として、精神の不安定化、法外な金銭的要求、住み慣れた生活環境からの断絶、反社会的な言説などが挙げられている。ただし、各団体がカルトなのかどうかは微妙な部分があり、意見が分かれることも多い。かつてのオウム真理教はカルトだが、当時マスコミに登場した信者は、自信にあふれ明るく元気に見えたことだろう。「幸福の科学」を支える秀逸なメディア戦略 「幸福の科学」は1986年に発足した後に急成長し、現在公称1200万人の信者を抱える巨大新興宗教だ。そのメディア戦略は秀逸であり、幸福実現党による政治活動や、多くの映画や出版物がある。 教祖大川隆法氏は、有名人の「守護霊」を呼び出すことができるとされ、守護霊へのインタビューが「霊言本」として次々と出版されている。宮崎駿、前田敦子、星野源、スティーブ・ジョブズ、ウォルト・ディズニー、明治天皇、昭和天皇、ガンジー、マザー・テレサ、トランプ大統領、時代も分野も様々な有名人が登場する。 本の表紙には、各人の名前や顔写真が大きく載るので、よく知らない人が見れば、本人の本にも見えるだろう。幸福の科学が『ニュースキャスター膳場貴子のスピリチュアル政治対話』を2013年に出版した際の本の帯には、「私が考えるマスコミの正義。マスコミ人だから言えること」とあった。あたかも本人が語っているようである。そのため、当時出演していたTBS「ニュース23」のホームページ上で、次のような注意が掲載された。 「幸福の科学出版から出版される『ニュースキャスター膳場貴子のスピリチュアル政治対話』という書籍については、当番組ならびに当番組の膳場貴子キャスターとは一切関係ありません。膳場貴子キャスターの肖像を使用することも許諾しておりませんし、内容的にも全く関知しておりません」。 手塚治虫に関する『手塚治虫の霊言』が昨年2016年に出版されたときには、「こんな言いぶりするわけない」と遺族が困惑しているとも報道されている。ただし、どんなに本人や遺族が不快に思う内容だったとしても、名誉毀損などで法的に問題にすることは、難しいらしい。 今回話題になっている清水富美加さんの霊言本も今月2月3日出版された。『女優・清水富美加の可能性:守護霊インタビュー』である。内容を見ると、前半は普通の芸能インタビューのように見える。彼女の女優としての思いが語られる形になっている。後半になると、「タレント・清水富美加の過去世に迫る」など、宗教的な話になる。 この本によれば、清水さんは清水富美加として生まれる前から歴史上で大活躍し、今も「千手観音」のようなみんなを救う特別な使命を与えられているとされている。終始ほめているので、信者である清水さんが読めば、感動的な内容だろう。ファンが読んでも、不快感がない人もいるだろう。 芸能人で宗教活動を行なっている人は、少なくない。浮き沈みの激しい芸能界で生きていく上で、何かの支えが欲しいと感じる人は多いようだ。それが、宗教になる人もいるだろう。「炎上商法」か「成り行き任せ」か 宗教団体、特に新宗教、新興宗教にとって、有名人芸能人の存在意義は大きい。いわゆる広告塔として教団内外に強い影響力を与えることができる。そこで、宗教団体としては入信した芸能人を大切にする。たとえば、普通の信者なら直接会うこともできない教祖と直接対面し、言葉をかけてもらえる。 仮に芸能界での人気が落ちてきたとしても、その宗教団体の中では、相変わらず特別扱いを受け、教祖からも信者からも大切にされ続けることもある。 さらにどんなに売れていても、芸能活動に強いストレスや虚しさや疑問を感じている芸能人にとっては、教祖が語る正義、真実、世界の救済といった言葉は、一般の人以上に魅力的に映るだろう。清水富美加さんも、仕事に心が追いつかなかった、死にたい気持ちだったと語っている。 今回の騒動に関して、何が起きたのか。想像するしかないが、幸福の科学による一種の炎上商法と言う人もいる。一方、清水富美加さんを活用しようとはしていただろうが、今回の騒動は想定外だったろうと推測する人もいる。 先日、あるメディアから幸福の科学の関係者を含めた数人による対談の企画について打診を受けた。結果的には、幸福の科学側との折衝がうまくいかず実現しなかったと聞いている。今回、幸福の科学側の動きが素早いと感じる部分と、とまどいや準備不足を感じる部分がある。 霊言本で誰を取り上げるのをどのように決めているのかも、外部の人間には計り知れない。教祖が一人で決めているかもしれないし、幹部による相談で決めているのかもしれない。 今回も、全てが準備された上で『女優・清水富美加の可能性:守護霊インタビュー』が出版され、本人も予定通りの行動をとったのかもしれない。本人執筆の本『全部、言っちゃうね。:本名・清水富美加、今日、出家しまする。』も、出家者としての千眼美子の名前で、実に素早く2月17日に幸福の科学から出版された。幸福の科学出版の書店では清水富美加の告白本「全部、言っちゃうね。」が売り切れとなった=東京・赤坂 あるいは、教祖一人の思いによって霊言本が出版され、本人が思いの外に迅速な行動をとってしまったのかもしれない。その場合、教祖が否定すれば本人も翻意するだろうが、教祖が肯定すれば、教団としても後を追っていくしかなくなるだろう。今回の芸能人としての常識や、契約などの法的に見て問題の多い行動が、どこまで計画されていたのかはわからない。 カルト研究者によれば、一般的に破壊的カルトのような悪い宗教には次のような特徴があるとされる。 完全主義で他の考えを認めない。批判的な考えは否定され、批判能力が脅かされる。これまでの人間関係や大切な過去を否定する。全体として調和していない。経済的、精神的に教団から搾取される。 一方、破壊的カルトではない良い宗教には、次のような特徴がある。 信仰のシステムは開放的で、他の思想にも耳を傾ける。批判能力はそのままか、強められる。自主性はそのままか、強められる。価値観や生活や目標が、信仰と一体化し、調和している。 今後、清水富美加さんがどのような活動を行い、どのような人生を歩んでいくのか。幸福の科学の活動と共に注目していきたい。

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    清水富美加 仕事打ち合わせ3日後、教団側弁護士登場で急転

    《私、清水富美加は幸福の科学という宗教に出家しました》。一際大きく綴られたその文字が、目に飛び込んでくる。2月12日、清水富美加(22才)は《ファンの皆様・報道関係者の皆様へ》と題した手書きの文書で芸能界から姿を消すことを明かした。清水富美加の出家騒動について見解を示す、所属事務所の顧問弁護士の山縣敦彦氏(左)と塩川泰子氏=東京・目黒 4月に立て続けに公開される映画『暗黒女子』と『笑う招き猫』ではどちらも主演。さらに人気コミックを実写化した今夏公開予定の『東京喰種 トーキョーグール』でヒロイン。『にじいろジーン』(フジテレビ系)と『シブヤノオト』(NHK)でレギュラーを務め、コスモ石油と花王『NIVEAニベア』のCMを抱える彼女の突然の“退場”劇に、テレビや映画、広告代理店業界は大混乱に陥っている。「レギュラー番組は降板の方向です。公開前の映画3本すべて主役級なので、舞台挨拶や、テレビ番組や雑誌での宣伝プロモーションに引っ張りだこの予定でしたが、すべてキャンセルせざるを得ない」(広告代理店関係者) 13日には、花王の公式サイトから清水の写真と動画が削除された。騒動の発端は1月19日、『幸福の科学』の公式サイトに1本のインタビュー動画がアップされたことだった。「大川隆法総裁はこれまで、対象人物の守護霊を呼び出し、自身の口から語る『守護霊インタビュー』を行ってきました。過去にはビートたけし(70才)や安倍晋三首相(62才)といった著名人のほか、“STAP細胞”の小保方晴子氏(33才)やドナルド・トランプ米大統領(70才)、さらにはアインシュタインや西郷隆盛といった歴史上の人物の名も並びます。その人の潜在意識にアクセスし“本心”が語られると説明されています」(全国紙記者) 清水の“守護霊”が赤裸々に語る97分にも及ぶ動画は、当然清水の所属事務所関係者の目に触れることになった。「清水さん本人に動画のことを尋ねると、父親が『幸福の科学』の信者であると同時に、“私も信者なんです”と明かしたそうです。もちろん事務所としてはタレントの信教を咎める理由はありません。清水さん自身も総裁に守護霊インタビューをしてもらえることは大変に幸せなことなんだと周囲に話していたそうです。その場では特に変わった様子はなく、翌日以降もいつも通り仕事をこなしていました」(芸能関係者) この時はまだ仕事の打ち合わせに姿を見せると「もっと頑張ります」と前向きな姿勢を見せていたという。「仕事が楽しい、こんな仕事をしたい、と現場で口にすることもありました」(テレビ局関係者) 長期的な仕事のオファーが届いていることに、喜びの表情を見せていたという。だが、それからたった3日後、事態は急変する。突如現れた2人の教団弁護士と、清水が流した涙突如現れた2人の教団弁護士と、清水が流した涙 1月28日、仕事を終えた清水は女性マネジャーと共に都内のホテルにいた。ロビーで合流したのは、『幸福の科学』の名刺を持つ弁護士2人だった。同ホテルの一室で、清水の口から衝撃の言葉が発せられた。「“仕事を辞めて出家します。『幸福の科学』のために働きたい”と話したそうです。続けて弁護士が“事務所との契約を終了したい”と告げたそうです。マネジャーはどのような宗教を信じても、出家しても構わないが、仕事は辞めなくてもいいだろう、宗教と仕事を両立する方法はないのかと提案したそうです。でも、弁護士は“両立はできない”と言い切りました」(前出・芸能関係者) 同時に弁護士は、契約に関する一切の内容に関して、清水本人と交渉しないよう注文したという。「そのマネジャーは、ブレーク前から清水さんを親身になって支えてきた存在でした。最後に清水さんに“これまでの努力や、トップ女優になるという夢はウソだったの?”と問いかけた。すると清水さんは“ウソじゃない…。だけど、それよりも大切なものができた”と涙を流したそうです」(前出・芸能関係者) 関係者によると、翌日以降も、清水は普段の様子で仕事現場に姿を現し、屈託のない笑顔を見せていたという。2月3日には前述の『守護霊インタビュー』がまとめられた本が出版された。そして、6日に仕事をこなした後、一切の連絡がつかなくなったという。予定されていた仕事は体調不良やインフルエンザなどを理由にキャンセル。実際には、事務所は清水がどこで何をしているかも把握できない状態だったという。「事務所側は“すでに入っている仕事はしっかりとやってもらい、新しい仕事は入れない”というソフトランディングの方法を模索していたそうです。ですが、2月12日、『幸福の科学』が急きょ会見を開いたことでその道も絶たれてしまった」(前出・芸能関係者)関連記事■ 幸福の科学 清水富美加の5万円は「月給」、年収は把握せず■ 石田純一が明かす、元妻・松原千明「死にたい」発言の真相■ 名門女子中進学の芦田愛菜 中高6年は休業状態か■ トランプ氏の守護霊インタビュー動画「OK, OK. Not so bad」■ 久松郁実 太陽の下で輝くFカップ絶景ボディ

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    「洗脳上等だよ」清水富美加と能年玲奈を救えなかった傲慢レプロの罪

    平本淳也(元ジャニーズ所属タレント) オマエんち宗教どこ? うち創価学会だよ、そーなんだ? 南無妙法蓮華経、言える? すげーじゃん! オレはクリスチャンだよ! 食事前とか祈るの? へぇ~。 思えばジャニーズ内でこんな会話もめずらしくなかった。タレントとはいえ、一般的な宗教に関わっていることは不思議ではないが、基本的に「親が」「家が」というのが通例だった。 この場合、信仰心とまでは言い難いレベルだが、中には熱心な信者もいて布教にも似た活動をしている同僚もいた。だが、それは稀なケースで、活動が露骨だと友達が離れていくことがわかっているだけに、巻き込んだり、あるいは迷惑をかけたりするようなことはしていない。 今、その宗教問題で注目されているのが清水富美加だ。彼女を否定して業界を擁護するわけではないが、本人が「迷惑をかけた」と発信しているのは確かであり、わざわざ「大迷惑」をかけてまで問題にしたのはどんな意図があったのか。 世間を騒がせている相手は「幸福の科学」である。人気女優の清水が出家(宣告)した有名な宗教団体だが、問題は幸福の科学という宗教団体ではなく突然の「出家」がクローズアップされているようだ。講演する大川隆法総裁 それがなぜ、今なのか。この辞め方には大きな疑問をいくつも残している。人気女優であり、多くの仕事を中断してまで急がなければならなかったのか。ただ、結果的には事務所を辞めて幸福の科学に出家という形で「移籍」したということがうかがえる。 いずれにせよ今回の事態は異例尽くしなのだ。収入や仕事の内容に対する不満について「ギリギリ状態」という清水だが、それを理由に「辞めます」、「辞めました」って一方的な都合放棄は理解し難く、それを容易に受け入れる幸福の科学側の対応にも違和感がある。 いわゆる「引き抜き」にも似た今回の騒動は他に例がない。洗脳されて連れていかれたといった類なら時折見られるが、本人から発信されたメッセージと関係双方が会見まで開いて言い分を発表するのは異例のことで、「宗教団体VS芸能プロダクション」という構図もめずらしい。 ただ、芸能人の宗教に関する問題は少なくない。「統一教会」の合同結婚式に参加し、世間の注目を集めた歌手の桜田淳子や、自らが広告塔になり世にも広く知らしめた幸福の科学の小川知子あたりは有名な話であろう。 しかし、プロダクションとの対立は表面化されておらず、あくまで本人の主張と行動によるものだ。清水の場合は所属事務所に対する不満を公にして、それを理由に出家という行動を取ったのは、何らか意図があったと考えざるを得ない。 故意に問題を大きくしているとしか思えないのだ。問題を起こして話題を作りメディアを使った宣伝なのか、少なくてもこのやり方で幸福の科学側に「メリット」が生じたようにみえる。 一方、攻撃されたレプロエンタテインメント側にはメリットなどあるはずもなく、騒ぎを止めたいレプロは「(清水)本人を尊重する」というコメントを出し、折れる姿勢を打ち出した。これはスポンサーや業界内に向けたメッセージであることもうかがえる。能年玲奈と共通する事務所への不満 能年玲奈の洗脳-退社、マギーの不倫、そして清水と、短期間に多くのスキャンダルを連発していることから事務所としての立場や評判をこれ以上悪くしたくない思いが強く、まだ隠された真実や表面化されると困る何かが露呈する前に収めたかったのだろう。 能年と清水の発言は、薄給が共通しているうえ、仕事の選択においても自由が奪われていることも含め「助けてくれた」のは事務所ではなく他の何かを指しており、事務所に信用も信頼もないということを表現している。 だが、行動として裏切ったのは清水のほうだ。事務所的には問題を大きくしたくないだけに、当初は真っ向勝負の姿勢だったが、「優しさ溢れる善い人」に転換したようだ。とはいえ、世間的な印象は「事務所=悪」が浸透している。女優ののん 信仰の自由は当然であり、その気持ちや考えを否定したり愚弄することは決してしてはならないし、それを誰も責めたりしないが、幸福の科学側が宣戦布告的な姿勢で挑むのは違和感を覚える。まさに「喧嘩上等!」といった雰囲気にも思えるし、もはや幸福どころではない。 そもそも信仰心を持つタレントは少なくなく、それを隠すこともしていない。しかし、宗教色が強くなるとイメージ的な問題や役柄にも問われる面が多々あるので仕事に影響しない程度として常識の範囲を認識している。それに政治も絡むと面倒なのでタレントとしてはその色を出したくないのだ。 また、タレント同士で宗教の話題がのぼることはあまりなく、勧誘することもほとんどない。だが、「相手が興味を示したらすかさず誘い込む」技は多くが持ち合わせている。というのも「心底信じている宗教だからその魅力は伝えやすい」ので爽やかに「今度、一緒に行ってみる?」なんて美味しいものを食べに行く感覚で誘われたら「イヤ」と答える友人は少ないだろう。 表立った布教という活動を熱心にやらないし、無理な勧誘もない。言い方を変えれば「趣味への誘い」的な軽い感覚ならそんな悪い気はしない。誘われた方は、例え断っても嫌な顔もされず、むしろ断る方が気を遣うだろう。ただ断り方が酷いと断絶されることもあるが、芸能人は基本的に自分の立場を理解しているところがある。 それ以前に自分が「どこぞの信者です」的なアピールはあまりしない。諸外国と違って信仰心の薄い日本では多少なりともこの手の会話が流行ることはないだろうし、皆を誘って日曜日の活動を熱心に行うタレントも多くはない。友達相手に特定宗教団体の新聞の勧誘さえしないのが一般的なレベルだ。 それだけに清水の場合は、「騙されている」とか「洗脳されている」といった言葉を頭ごなしに投げつけられ、物凄い拒否反応を示したのではないか。信じているものを疑われたときの怒りは計り知れない。清水の信仰心を妨げる何かが生じたのだろうと考えれば、その反抗姿勢から今回の騒動に至ったのも頷ける。やっかいな宗教団体との対立 しかし、対宗教団体という芸能プロダクションの立場は想像以上にやっかいなものになる。レプロに対する同情の声も多く聞かれるが、最もトラブルを起こしたくない相手とも言え、タレントの扱いにも慎重さが増して疲弊する。今後、こういった問題も出てくるのかと思うとタレントの扱いには相当の慎重さを要することになる。清水富美加さん 欧米ではプロフィール欄に信仰・宗教を明記する場所があり、タレントに限らず一般企業においても重要視している。氏名や性別と合わせて宗教までを性格として認識して受け入れるのが筋であり、また同胞同盟や仲間、友人関係から婚姻に至るまでそれは強く関係してくる。 身近なところでは世界的なSNS『Facebook』にもその欄はあり、世界の多くはこれを重要と捉えているが、日本では馴染みが薄い。性別にしても「性同一障害」というしっかりとした言葉と病名があり、日本でもようやく認識した程度でこの手の話題や活動も極端に少ない。 つまり、日本人には信仰する宗教や性差、個性といったものを受け入れる十分な器量がなく、これらを重視しない習慣が今回のようなトラブルを引き起こす要因となっている。レプロの「清水を尊重する」といったコメントは「宗教に対する誤解」を改善したいという強い決意かとも感じた。 思えば、SMAPの解散騒動のとき海外メディアからの取材も受けたが、その質問の多くはSMAPに関することよりも「日本の芸能界」と「芸能(タレント)プロダクション」の体質に関することだった。 日本の芸能界は海外、特に欧米から見て特殊で「タレント<プロダクション」という構図に映るらしい。タレントから自由を奪って「奴隷」的に扱っている日本の芸能界は「オカシイ」と認識しているのである。 昨今ではSNSの影響もあって、多くの問題が個人から直接発信されてニュースになっているが、こういった事情から芸能界やプロダクションのあり方、あるいは古い体質が否定され、改善に向けて動くことも期待されているように感じる。今回の騒動をきっかけに、職業としての「タレント」の価値が見直され、向上していくことを切に願う。

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    清水富美加 両親の離婚で父子家庭、父の会社は倒産

     宗教法人『幸福の科学』に出家した女優の清水富美加(22才)。レギュラー番組やCM契約があり、数本の出演映画の公開を控えていたということもあり、芸能界に衝撃が走っている。 1994年に三姉妹の末っ子として都内で生まれた清水は、自ら希望して芸能界の門を叩いた。2008年、事務所主催のオーディションを受けてグッドキャラクター賞を受賞しデビュー。当時14才だった彼女は、その後、女子小中学生向けファッション誌の専属モデルなどを務めた。2010年に「ミス少年マガジン」に選ばれると、翌2011年に福士蒼汰(23才)主演の『仮面ライダーフォーゼ』(テレビ朝日系)に出演。2015年にはNHK連続テレビ小説『まれ』でヒロイン・津村希(土屋太鳳、22才)の同級生・蔵本一子役を好演し、一躍ブレークを果たした。「順風満帆な仕事とは裏腹に、プライベートでは難しいこともありました。もともと、富美加ちゃんの両親もお姉さんたちも『幸福の科学』の熱心な信者で仲のいい一家だったんですが、彼女の仕事が軌道に乗り始めた高校1年生のときに両親が離婚。三姉妹の親権はお父さんに渡ったそうですが、お姉さんたちはお母さんと暮らし、富美加ちゃんはお父さんとの“父子家庭”になったんです」(清水の知人) だが、母親や姉とは断絶状態に陥ったわけではなく、頻繁に連絡を取り合い母親が暮らす家を訪れることも多くあったという。「今から2年くらい前でしょうか、お母さんが再婚することになったって明るく話していました。でも、お父さんのことを考えるといろいろ思うところもあったんじゃないですかね」(前出・清水の知人) 女優・モデルとして頭角を現し始めていた清水はそのときすでに父親の元を離れ、事務所が用意した寮での生活を始めていた。三姉妹の中で自分だけが父親の元に残ったことで、自分が父親を支えるという気持ちがより強くなっていったのかもしれない。 清水の父親は、ホームページやパソコンのソフトウエア開発、また輸入雑貨の販売などを行う会社を経営していた。「他に従業員はいなくて、富美加ちゃんのお父さんがひとりで切り盛りしていたんですが、あまり順調とはいえなかったようです。借金も5000万円ほどまでに膨らんでしまったこともあったようで、それは富美加ちゃんもかなり心配していたそうです。その後、富美加ちゃんも協力して借金を減らしたんですけど、どうにもならなかったみたいで」(前出・清水の知人) 父親の経営する会社は昨年11月16日に破産。父親は多額の負債を抱えたという。清水がブレークしてからも、一家の信仰は表に出てこなかった。ところが、熱心な信者である父の会社の倒産から2か月後、突然行われた「守護霊インタビュー」と本の出版、そして娘の出家──父娘に一体何があったのか。 宗教団体にとって出版事業は大きな収入源の1つだ。実際、大川総裁の著作は計約2000点で、一説には総発行部数が4500万部にものぼるという。今回、清水にまつわる本は発行部数が数万部とされる。多くの信者が大川総裁の著作を購入し、さらに騒動が話題を呼んでいる現状では、かなりの売上が見込めるだろう。関連記事■ 幸福の科学 清水富美加の5万円は「月給」、年収は把握せず■ 清水富美加 仕事打ち合わせ3日後、教団側弁護士登場で急転■ 元お天気お姉さん・小松美咲、陽だまりの中の妖艶ビキニ姿■ 久松郁実 太陽の下で輝くFカップ絶景ボディ■ 名門女子中進学の芦田愛菜 中高6年は休業状態か

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    芸能界と新興宗教のただならぬ関係

    iRONNAでは前回、新年最初のテーマで「人はなぜ宗教に狂うのか」をお届けした。宗教と信仰の関係性を総論的に読み解き、宗教にすがる人間の本質に迫るのが最大の狙いだった。そして、シリーズ第二弾は芸能界と新興宗教。なぜ芸能人は深みにハマりやすいのか。その理由と背景に焦点を当ててみる。

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    「現世利益」を求める芸能界と新宗教の持ちつ持たれつの関係性

    ル/ローグ・ネイション」のワールドプレミア会場に現れたトム・クルーズ(ロイター) これまでも芸能人と宗教の関係はしばしばメディアに取り上げられてきた。戦後日本において主として取り上げられてきた教団は、創価学会、真如苑、霊友会、統一教会(家庭連合)、幸福の科学、モルモン教などである。 むろん芸能人の中には、伝統宗教の信仰を有する者もいると考えられるが、それらは社会的な関心がほぼ寄せられない。『新宗教事典』(弘文堂)は、マスコミが新宗教に関心を寄せる理由として、その社会的影響力の大きさと「事件性」の二つを挙げ、「マスコミが新宗教に抱く興味のあり方は、けっして宗教文化への関心といったような類のものではない。実態が不明瞭な集団に対する覗き趣味的な関心とでもいったものが主流を占める」と述べているが、芸能人と宗教の関係に寄せられる人々の関心には、確かにこうした傾向が認められる。 一方、事件や社会的問題にかかわる出来事が生じ、それに宗教が関係する場合、メディアが関心を寄せることは自然なことである。教団の側が芸能人を「広告塔」として積極的に利用する場合もある。 新宗教と有名人(広義の芸能人)との関係が戦後初めて取り上げられたのは、璽宇と元横綱の双葉山、名人棋士(囲碁)の呉清源の関係であるが、その契機は1946年に璽宇が東京の破滅予言をしたことによる。 1991年には講談社『フライデー』に対する幸福の科学の大規模な抗議運動(フライデー事件)が生じ、同教団と作家の影山民夫、女優の小川知子の関係が取り上げられた。1992年には、統一教会の合同結婚式に、歌手の桜田淳子、元新体操選手の山崎浩子、元バドミントン選手の徳田敦子が参加したことが話題となった。 オウム真理教の坂本堤弁護士一家「失踪」事件以降の疑惑報道においては、歌手の鹿島とも子が1994年に「芸能界引退・オウム出家」記者会見を開いたことが社会の注目を集めている。 このような状況に際して、しばしば「なぜ芸能人が(新)宗教にハマるのか?」というテーマが語られるが、芸能人がそうでない人々と比べ(新)宗教にハマりやすい傾向があるということは学術的には裏付けられていない。 一般的に、新宗教への入信の動機は、古くは「貧・病・争」(貧困・病気・人間関係のトラブル)のような剥奪状況で説明され、オイルショック期以降においてはそれに近代物質文明・合理主義に対する反発や「自分探し」のような説明も加わる。ファンと芸能人は信仰関係の一種 芸能人もそうでない人と同様、社会に生きる人間であることに変わりはなく、個人の状況によって新宗教に心惹かれ、入信する者もいれば、そうでない者もいるであろう。以上はいわゆる一世信者としての入信に関することであるが、新宗教の中には成立後一定以上の時間を経過している教団も多く、生まれたときからの信者(二世)が芸能人となることもある。つまり、芸能人が新宗教にハマるという状況を、そうでない人のケースと分けて考えられるか否か自体、明らかとは言えない。 それを前提に、あえて芸能人が新宗教に入信する、そうでない人とは異なる特殊要因を仮説的に考えてみるならば、まず芸能界での実力や成功は人気や運というつかみどころのないものに影響される部分が大きいと考えられており、成功に至る方法論・手続き論がその他の職業に比して不明瞭であることがあげられよう。 演技力や歌唱力やルックスが良いからと言って、売れるわけではないのが芸能界である。新宗教の特徴の一つは現世利益の強調であり、「どうすれば成功するのかわからない」状況にいる芸能人に対して、信仰に励めばよい結果が出るという新宗教の提示するオルタナティブな方法論が魅力的に映ることはありうる。 また、当該新宗教がすでに大きな規模を有している場合、新宗教共同体のネットワークが、芸能人をサポートできるファン層や芸能界内のツテ・コネを提供する世俗的ネットワークとなり得ることも芸能人と新宗教を接近させる要因の一つと考えられる。 以上のような仮説が一定の説明として成り立つことは、逆に、「あの芸能人がなぜ売れたのだ」という問いに対して、○○の信者だからだ、という説明が(実態はともかく)一定の説得力を持つことを同時に意味する。 アイドルという言葉がもともと「偶像」「崇拝される人や物」という意味を持つように、ファンと芸能人の関係は、信仰関係の一種ともいえる。芸能人はメディアを通じて我々の日常に近しくかかわりつつ、一方でその人物のすべてがわれわれに晒されることはなく、常に秘密を孕む存在である。近しくかかわりながら秘密を有する存在について、もっと詳しく知りたいと思うことは、人間の本能であろう。 そして本能によってもたらされる知りたいという人々の欲求に答えることは、メディアの本性である。インターネットの発達によって、マスメディアに依らない芸能人に関する情報が流通しやすくなった状況もある。 個人の信仰は基本的にプライバシーの領域に含まれるが、芸能人という存在は自らの公開性を飯のタネにすることによって成り立っているため、プライバシーの境界についての取り扱いが難しい。一般人の信仰が事件とのかかわりでもない限りほとんど社会的関心を呼ばないことに対して、芸能人の信仰が「事件性」とのかかわりがなくても人々の関心を呼び続けるのは、このような理由によるのである。

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    プリンスもMJも救いを求めた新宗教はいずれ「消滅」する

    島田裕巳(宗教学者) 芸能人が新宗教に多く入っているというのは、よく聞かれる話である。インターネットを検索してみると、そのリストを掲げているようなものもある。 これは、何も日本にだけ限られた現象ではなく、アメリカでも見られることである。 たとえば、2016年4月に急死したカリスマ的なロック・ミュージシャンであるプリンスの場合には、「エホバの証人」の信者になっていた。エホバの証人は、「ものみの塔」とも呼ばれるが、家庭を廻って伝道活動を行うことで知られている。2015年11月、音楽賞「アメリカン・ミュージック・アワード」の式典に参加したプリンス(AP=共同) プリンスは、鎮痛剤であるフェンタニルの過剰投与によって中毒死したという検視報告書が出されているが、彼は深刻な股関節の疾患を抱えていたとされる。ところが、エホバの証人では、よく知られているように、輸血を禁じているため、プリンスは鎮痛剤に頼らざるを得なかったのである。 ほかに、エホバの証人であったミュージシャンとしては、マイケル・ジャクソンのことがよく知られている。彼は途中で教団を離れるが、それ以前には、顔を隠して布教活動にあたっていた。 他に、SF作家であるL・ロン・ハバードが創始した「サイエントロジー」には、ハリウッド・スターのトム・クルーズやジョン・トラボルタが信者になっているとされる。 ただ、アメリカは、最近になって衰退の兆しも見えているが、一般的なキリスト教の信仰が広まっており、キリスト教の信仰をもつ芸能人は無数に存在する。ミュージシャンの場合には、神について歌うことも少なくない。 ロックの世界でも、神について歌うミュージシャンが少なくない。代表的なのは、ロックンロールの開拓者、エルビス・プレスリーで、彼は、ゴスペル・ソングをこよなく愛していた。エルビスは3度グラミー賞を獲得しているものの、すべてゴスペル部門においてである。売れっ子でも宗教に救いを求める理由 ロック・ミュージシャンの場合には、子どもの頃に音楽の才能を示すと、教会の聖歌隊やオルガン弾きにスカウトされ、そこでゴスペルに浸る。 後に、ヒット曲を飛ばして、スターにのし上がると、世界的にも有名になり、巨額の富を手にすることができるが、その地位を保つことは難しく、精神的に不安定になって、アルコールや薬物に依存することが多くなる。2006年11月、来日公演で華麗なギターテクニックを見せるエリック・クラプトン=大阪城ホール(河田一成撮影) そのとき、依存症から立ち直るきっかけを与えるのがキリスト教の信仰で、自らの罪深さを自覚することで、神の存在を改めて自覚し、子どもの頃に親しんだゴスペルの世界に回帰していく。 それが、一つのパターンになっており、一例をあげれば、演劇的なステージを展開するアリス・クーパーや、一時、「ディスコ・クイーン」として名を馳せたドナ・サマーなどが、このパターンをたどった。イギリスのミュージシャンだが、エリック・クラプトンも、その道をたどった。 さしずめ、覚醒剤の使用容疑で逮捕されたASKAが、日本ではなくアメリカで生まれていれば、この道をたどることで、薬物依存から立ち直ることができるかもしれない。 日本の場合には、キリスト教が社会的に広まっていないため、神のことを歌うミュージシャンはいないが、アメリカでは、「クリスチャン・ロック」が一つの分野として確立されている。 日本の芸能人が、宗教に救いを求めようとするのは、やはり、その立場が不安定だからである。今は売れっ子でも、いつか人気を失い、仕事もなくなるかもしれない。売れっ子になって、一度いい目にあっていれば、かえって不安は増大していく。 しかも、日本の場合には、組織社会であり、多くの人たちがなんらかの組織に所属し、そこに、経済的な基盤を求めるだけではなく、心の拠り所を求めている。 ところが、芸能人には、この組織が存在しない。芸能事務所は、マネジメントを担ってくれるだけで、通常の組織とは異なる。芸能事務所は、なんとか仕事をとってこようとするが、それも、その芸能人に売る価値がある間のことで、それを失ってしまえば、積極的には仕事を開拓してはくれなくなる。創価学会に「隠れ信者」は存在しない 戦後、日本で新宗教が爆発的に伸びたのは、高度経済成長によって、地方から都市部への大規模な人口の移動が起こり、都市部には、地方にはあった人間関係のネットワークを外れた人間が大量に生まれたからである。そうした人間たちを、新宗教は組織の力で救ったのである。 現在の企業は大きく変容し、非正規雇用も増えてきたが、昔は、終身雇用、年功序列を基本とする「日本的経営」が特徴で、社員の冠婚葬祭までもになっていた。つまり、企業は一つの「村」だったわけである。 地方の村から出てきた人間が、企業という村に組み込まれれば、安心感を得ることができたが、芸能人にはその村がなかった。そこで、新宗教に村を求めたのである。 ただ、最近ではたいぶ様相が変わってきている。 たしかに、今でも新宗教に入っている芸能人はいるし、創価学会に所属するタレントが多く出演しているテレビ番組などもある。 だが、最近では、新宗教に入っている芸能人のリストなども更新されなくなったし、若い芸能人が入信しているという話も聞かなくなった。 それは隠れているだけだと言う人もいるかもしれないが、たとえば、創価学会の場合、支部の集まりなどに出て公然とした活動を展開しなければ、入信している意味がなく、周囲の信者からも仲間とは見なされない。「隠れ信者」など存在しないのだ。 そこには、私が『宗教消滅』(SB新書)でも指摘したように、新宗教の全般的な衰退という事態が関係している。新宗教の教団は軒並み信者数を減らし、この20年間で半減しているところが少なくない。 創価学会にしても、高齢化が進んでいるし、若い会員は年配の会員に比べて、熱心には活動しない傾向がある。 唯一、新宗教のなかで伸びているのは真如苑だが、ここは、組織としての活動が弱く、従来の新宗教と同列に扱うことができない。 その点で、芸能人も、現在では宗教にすがらなくなっていると言えよう。新宗教は組織活動の場を提供することで、心の拠り所となってきたが、現代の人間は、組織活動を嫌う。芸能人なら、なおさらその傾向が強い。新宗教の時代は、基本的に終焉に向かっているのである。

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    「おまえの生き方が悪い!」ストイックな教義に芸能人がハマる理由

    に直結しないということにおいて、常に不安と二人三脚でもあるということだ。芸能人やミュージシャンが新興宗教や自己啓発セミナーなどにハマり、世間の耳目を集めたりするのは、彼らが置かれた立場を考えれば理解できる。 これまでのそうした経験を踏まえ、以下、私の「体験的新興宗教論」である。新興宗教の定義はさまざまあり、真摯に活動している教団も少なくないが、私が論じる新興宗教とは、「神・仏・霊」を引き合いにする「カルト的・ビジネス的教団」の総称であることをお断りしておく。 まず、いかにして信者を獲得するか。心理術から見た事例からご紹介しよう。 東日本某県の仏教系霊能教団で、こんな光景を目にした。線香の匂いが立ちこめる薄暗い一室で、中年女性が男性教祖に切々と夫の浮気について悩みを訴えていたときのことだ。黙って聞いていた教祖がスーッと腕をかざしたかと思うと、女性をピタリと指さして、「その肩に水子が二体!」凛とした声に、女性がハッと息を呑む。図星だったのだろう。すがりつくような目で、相談者が教祖を見た。 この教祖は相談者が女性の場合、「水子が二体!」をやる。外れたら相談者はあきれて二度と来ないが、もし当たったら虜になる。ズバリと言い切るのがポイントで、繰り返していれば何人かは当たる。その上で「供養すれば、あなたは救われる」と展開していくのだ。 あるいは、都内の神道系新興教団でのことだ。子供の病気相談に来た女性に、初老の女性教祖は神前に手を合わせてから、厳かに告げる。「5代前のご先祖が、不成仏霊になってさまよっています」 相談者の顔に安堵の色が浮かんだ。 ポイントは、病気の原因は「不成仏霊」であって、「あなたは悪くない」にある。「これに相談者は救われるんです」――とは、元広告代理店で働いていたという教団の参謀役の弁である。 ブラジルはカソリック大国として知られるが、ここに進出した新興教団は「よりよいカソリック教徒になるために」という〝大義〟を掲げて布教した――と、現地に赴いた私に旧知のメディア幹部はあきれてみせた。「ここまでやるか」ではなく、ここまでやるからビジネスとして成立するということになる。 このほか、「おまえの生き方が悪い!」と罵倒する教祖もいる。〝ストイックな教義〟で精神的に追い込むため、信者を「落とす」(退会)ことが少なくないが、ハマれば熱烈な信者になる。不確かな不安の正体 一方、新興宗教にのめり込む側はどうか。 「明日は不確かなものである」という〝人生の真理〟を生きる私たちは、常に不安がつきまとう。雇用をめぐる諸問題から子育て、年金、健康……等々、不安だらけだが、その正体をつきつめていけば、「明日」という不確かな近未来に対する漠然とした不安であることがわかる。だが、どんな苦しみも、「一年後に解放される」とわかっていれば何とか耐えることができる。すなわち、苦しみの正体は「現在の苦」にあるのではなく、「この苦しみがいつまで続くのか」という「不確かな明日」にあるのだ。 不安から逃れる方法の一つは「努力」だ。スポーツ選手は練習に練習を重ね、「これほど苦しい練習をしてきたのだ」と自分に言い聞かせることで不安をねじ伏せようとする。ルーチンという儀式を通じて、気持ちを平静に保とうとする選手もいる。ビジネスパーソンであれば、努力してスキルを磨き、上司との人間関係に心を砕くだろう。 苦しいのは芸能人だ。「一夜明ければシンデレラ」という僥倖に恵まれるということは、スポーツ選手やビジネスパーソンのように、目標に向かって階段をよじ登っていくような努力が通じにくいということでもある。暖簾に拳を打ち込むようなもので、努力が実感を伴う成果としてハネ返ってこない。スターになれたとしても、人気という不確かなものに支えられている以上、不安から解放されることはない。 週刊誌記者時代、有名力士と女性人気歌手の対談を私が担当したとき、歌手はこんなことを言った。「お相撲さんはいいですね。稽古して強くなれば勝てるんですから。芸能界はそうじゃない。努力したからといって勝てる世界じゃないんです。それが苦しい」 だから芸能人は新興宗教に走る――と言えば短絡に過ぎるが、不安を努力で打ち消すことができない立場や状況に置かれれば、神・仏・霊といった新興宗教に救いを求めたくなる気持ちは理解できるだろう。すなわち、芸能人が抱えるであろう不安は、私たちが苛まれる不安の象徴であると、私自身は捉えている。 いま韓国は「崔順実スキャンダル」に揺れている。母親を狙撃事件で亡くした傷心の朴槿恵に、崔順実の父・崔太敏が「私の霊的能力を通じて母親に会うことができる」と言って篭絡したと伝えられる。「人の心の弱さ」は、一国の大統領も、芸能人も、そしてこの私たちも等しく抱えるものであることに、あらためて気づかされる。 明日に不安を感じ、新興宗教の〝救い〟に気持ちが動いたとき、「心の弱さを、わが身に問いなさい」と私は説法で言う。心の弱さを認めることこそ、心を強くする唯一の方法であると、逆説的に考えるのだ。

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    山本リンダ、久本雅美らが大幹部 創価学会芸術部の存在意義

    仰体験を語り、学会理解の輪を大きく広げている〉と、彼らが学会内部で果たす役割について触れている。  宗教学者の島田裕巳氏は、タレント学会員を「内向きの存在」とみる。「かつては芸能人信者を教勢拡大のための“広告塔”と見る向きがあったが、現在ではあまりそうした効果はない。創価学会に限らず、新宗教はどこでも信者数が伸び悩んでいる。 そうした中で、学会のタレント信者はむしろ、身内の学会員を激励する役割を果たしている。たとえば学会のプロスポーツ選手が活躍すれば、聖教新聞などで大きく取り上げられる。仲間の活躍は学会員にとって誇らしいこと。一般の学会員を勇気づけるだろう。組織全体が内向きになっていると見たほうがいい」(島田氏)※SAPIO2015年1月号■ 参道・鳥居の“真ん中”は神様の通る道なので歩いてはダメ■ 金沢の「トイレの神様人形」 良縁にご利益あると女性に人気■ 関ジャニ∞ 丸山は嘘つきの神、安田はトイレの神様との談■ 母娘確執を乗り超えた 松田聖子、辺見えみり、泰葉のいま■ 植村花菜 「祖母との思い出」が名曲『トイレの神様』を生んだ

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    ベッキーは「無宗教」だから図太い? 干される恐怖と芸能人の信仰心

    半年ほど前、以前から取材者として何度も顔を合わせている女性タレントと食事する機会があった。彼女は新興宗教団体の信者ながら世間ではそのことがほとんど知られていないため、思いきってその話題を出してみた。 「あ、知っていましたか…この仕事をしてなかったら隠すこともないんですけど…」と答えた彼女が何を信じようがそれは自由だが、その宗教団体は「良いことが起きるのは信仰のおかげで、悪いことが起きるのは信仰が足りなかったせい」というような教義を説いており、意地悪な見方をすれば都合の良い後付けの論理とも思えるため、その見解を聞いてみた。 「いやいや片岡さん、理屈じゃなくて体験が先なんですよ。ここ触れた直後にすごい体験をしたんです」と彼女。それが具体的に何かは教えてもらえなかったが、「理屈じゃなく」と言うのは、なぜその「すごい体験」が起こったかは考えない思考停止という風にも見える。 事実、この女性タレントは宗教の歴史はおろか、神社と寺の区別もついていないような人で、キリスト教や仏教の基本的なことも何も知らなかった。選択の余地なく入信しているわけだが、「他の宗教行事に参加してはいけない」とされている教義に反して他宗派の神社に初詣に行くなど矛盾もある。「信者がいい人たちばかりなの!」と目を輝かす彼女の宗教活動は信仰というよりサークルのようなものにも見えた。 ただ、彼女が特別におかしな感覚だとも思わない。過去、国内の新興宗教を多数取材してきたが、多くの信者は彼女同様、宗教に無知だった。仏教系の団体に属して多額の寄付までしているのに、大乗仏教と上座部仏教の違いも知らなかったりした。本来であれば宗教団体こそが活動の中でそういったものを学ばせるべきではないかと思うが、信者を広く募集する団体の多くはそれ自体が目的であるため、奇跡体験とか信仰の効果ばかりを伝える。これが日本の宗教に対する不信を生み、世間では「宗教活動をしている」というだけで異様な目で見られる。 しかし、世界で見れば人類の約3割はキリスト教信者で、2割ほどがイスラム教、ヒンドゥー教や仏教、その他の宗教を合わせた信仰人口は9割近いとされる。海外に出ても宗教の色を感じずに出歩くことはまず不可能で、世界遺産の建造物から紛争の原因に至るまで宗教は人類に根付いている。 日本では団体側の申告数を鵜呑みにすると信者が2億人を超えてしまうので信者数を誇張しているのが一目瞭然だが、体感的には「私は信者です」と名乗って過ごす人は1割以下だろう。世論調査でも約8割の人が「宗教を信じていない」と回答しているほど。一方、「私は無宗教です」と言いながら、初詣など参拝もするし祭りも参加、お守りを買うという習慣的な宗教行事をしていて、神仏混合の歴史もある日本の特殊な宗教環境があるといえる。 全国各地で山とか海、古木や太陽や海産物や建築物にまで「神様がいる」という言い伝えがあったり、八百万の神なんて伝説もあるから、次々に登場する新興宗教もまた、七福神の仲間に加える程度の感覚があるのかもしれない。そのあたり筆者は宗教の専門学者ではないから正しい学説は専門家に任せるが、宗教観に緩い国民性に付け込んでいるのが一部の新興宗教団体であるのは間違いなく、巨額の霊感商法やマインドコントロールで信者を散財させるカルト団体も少なくない。その反発で国民の間には宗教そのものへの嫌悪感があるのも事実だ。 本来、信仰は人々が苦難の人生を生きていく上で、その気を楽にするための方法論でもあり、何を信じようがそれで当人が健やかに過ごせるのなら良く、「神様なんていない」と思っていても、大ピンチに陥れば神頼みをしたくなるのが人間というもの。亡くなった大切な人が死後の世界から自分を見守ってくれているんじゃないか、と思う方が救われる。気の迷いから悪いことをしてしまったアメリカ人が教会に行って「神よ、お許しください」と懺悔するのも、実のところ罪悪感を薄めるための気休めであるように見える。 そんな視点から見れば、信仰心は悪質なカルト団体に付け入るスキを与えるほどに、心の弱さの克服や依存心でもあるわけだが、日本の芸能人にやたら信者が多いのは、彼らが弱いからなのだろうか。一見して芸能人は誰よりもド派手な舞台で煌びやかに振舞う勝ち組の象徴みたいな存在だ。そこそこ成功すれば一般的な勤め人ではとても手にできない大きな報酬を手にすることができる。一方、その立場の危うさに満ちているのが芸能界でもある。足を引っ張りあうから寄り添う仲間が欠かせない2016年10月、ラジオの生放送のためにTOKYO FMに入り、報道陣に一言あいさつするベッキー(蔵賢斗撮影) 日本の芸能界はもともと芸能プロが暴力団組織の直属にあった背景から、タレントが所属事務所との力関係で隷属的になっている。どんなに売れっ子でも、業界の有力者を敵にすればすぐに「干される」異様な世界。一般社会ではありえないような「業界追放」は、タレントたちをもっとも恐れさせるものだ。それは「売れている」のではなく「売れさせてもらっている」からでもある。 バラエティ番組の収録現場ではスタッフが身の回りの世話を焼いてくれ、送迎やヘアメイクまでケア、収録はおよそ非現実的な金ピカのステージに上げてもらいスター扱いしてくれる。筆者のような無名ジャーナリストでもテレビ出演時は丁重に扱われるのだから「こりゃ勘違いする人が増えるの当然だわ」と思ったりする。 しかし、そんなステージに上がっても実際には自分のスキルが急にアップしているなんてことはない。各ゲスト出演者は程よくコメントさせる司会者の手腕と、ディレクターが書いた台本に乗せられているだけである。その世界で確かな成功をするのは、チャンスを得た間に浮かれずスキルアップできた一部の人だけで、多くは大成功した錯覚に陥って浮かれてしまい、次の瞬間にはお役目終了となっている。その浮き沈みの激しさを体感すれば戸惑いを持たない方がおかしい。 一般社会でなら「ひとりでも営業をこなせるようになったぞ」とか「やっと一人前の仕事がこなせるようになった私」とか、仕事で身に着けたスキルの成果を自覚できるが、芸能人の場合はその目安を把握するのが難しく、ピコ太郎のように急に世界的スターになったタレントも、自分の実力と評価のアンバランスさに驚いている。こんな世界でまったく病みもせず続けられる人は、相当に図太い神経の持ち主。世間に犯罪者のごとくバッシングを受けてもメディアの前にニコニコ顔で出てこられるベッキーのような人種は、むしろ信仰なんぞ不必要な話で、実際に彼女は過去、無宗教を公言していた。 梅沢富美男は先日、情報番組で「芸能界に友達なんていない。みんな足を引っ張りあってますから。人を蹴落としてでも自分が出るのが芸能界」と言い切っていたが、そのとおりだ。番組内で和気あいあいやっているのはあくまで収録時だけ。終わった途端、軽い会釈だけしてスタジオからさっさと消えていくタレントの方が圧倒多数だ。 そんなわけで、宗教に依存するタレントたちを怪訝な目で見る人も多いだろうが、そのタレントたちはむしろ我々一般人に近い心の弱さを持っている人々といえる。おそらくは宗教にもさほど詳しくはないはず。組織に属さなくても信仰はできるところ団体活動をしているのは、寄り添う仲間が欠かせない弱者的スタンスがあるといえるかもしれない。

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    辺見マリが騙された「洗脳詐欺」 安心させる3つのテクニック

     「この中で、私は絶対に洗脳なんてされないと思っている人いる? その人はもう洗脳の入り口にいます。危険よ」──。9月14日放送の『しくじり先生』(テレビ朝日系)に出演した辺見マリ(64才)は、『あなたが洗脳されて人生を棒に振らない授業』というテーマに“先生役”として臨み、開口一番こう言い放った。 辺見が過去の「洗脳詐欺騒動」についてテレビで洗いざらいしゃべるのは、これが初めてのことだった。彼女が奪われた金は実に5億円。いまだに1円も戻ってきていないという。離婚会見をする辺見マリ=東京・赤坂・TBS 1969年に歌手としてデビューした辺見は1972年に西郷輝彦(68才)と結婚。長男と長女・えみり(38才)をもうけるも、1981年に離婚した。 慰謝料はなく仕事も激減するなか、周囲からの「辺見マリってもう古くない?」という声に落ち込み、精神不安が長く続いた。 そんな辺見にマネジャーがかけた言葉が彼女の人生を一変させた。「ぼくの知り合いで神様と話せる人がいるんですけど、会ってみませんか」。1988年、辺見が37才の時のことだった。 辺見が紹介されたのは、祈祷や霊視などで人の悩みを解決する「拝み屋」のKという女性だった。指定された都内ホテルに赴いた辺見を、Kは夫と子供と共に家族で出迎えたという。「Kは当時42才くらい。普通のおばさんでした。私は構えていました。壺を買わされる? お札を買わされる? でも、実際は違いました」この時、Kは神様のことは一切口に出さず、辺見の悩みや不安に黙って耳を傾けた。安心した辺見はKに頻繁に相談するようになっていった。感謝の気持ちとしてお金を渡そうとしても、Kは拒否し続けたという。・家族を帯同する・神様の話をしない・悩みを否定せず聞く これらはすべて相手を安心させるためのKのテクニックだったのだが、当時の辺見が見抜けるはずもなかった。 ある日、いつものように相談に訪れた辺見にKはいきなり「神様の声が聞こえました。娘さんの目が見えなくなりますよ」と言ったという。帰宅後、辺見がえみりの視力を測ると1.5から0.1に低下していた。他にも家族しか知らない話を次々と言いあてられた辺見は、徐々に「本当に神様の声が聞こえているのかもしれない」と思い込むようになった。 この時を境にKの金銭要求が始まった。「他ならぬ神様がお金を欲している」──。相談のたびに1万~2万円を払わされるようになり、いつしか要求される金額も跳ね上がっていった。「このままだと子供がグレる。10万円払えば救える」と言われれば、あっさり支払うほど心酔していた。日本脱カルト協会代表理事で、霊感商法に詳しい立正大学心理学部の西田公昭教授が語る。「家族のことを次々と当てていったのは、近い人物からあらかじめ情報を入手していたと考えられます。最初から彼女をだますつもりだったんでしょう。しっかり者で現実主義的な人ほど、予言の的中といった不思議な出来事に遭遇すると、普通の人以上に動揺し、一気にのめり込んでしまうんです」 辺見はいつしか100万円単位の金を渡すようになっていったという。※女性セブン2015年10月8日号■ 参道・鳥居の“真ん中”は神様の通る道なので歩いてはダメ■ 金沢の「トイレの神様人形」 良縁にご利益あると女性に人気■ 関ジャニ∞ 丸山は嘘つきの神、安田はトイレの神様との談■ 母娘確執を乗り超えた 松田聖子、辺見えみり、泰葉のいま■ 植村花菜 「祖母との思い出」が名曲『トイレの神様』を生んだ

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    人はなぜ宗教に狂うのか

    は元旦にあり。新年を迎えると、神社仏閣に参拝してその年の幸福を願うのは日本古来の習わしである。それは宗教が日本人の生活に深く根づいた表れとも言えるが、時に宗教は人を惑わせ、狂わせる。なぜ人は宗教にのめり込むのか。2017年、iRONNAはこのテーマと真正面から向き合う。

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    創価学会信者を虜にする池田大作の「話術」と支配力

    島田裕巳(宗教学者) 信仰をもたない一般の人間からすれば、なぜあれほど多くの信者が新宗教に引きつけられ、熱心に活動し、さらには多額の献金をするのか、それが理解できない。 そのために、新宗教の信者は「洗脳」されているのだという憶測も生まれる。新宗教の教団には、それまで信仰を持っていなかった人間を信者に変える特別なテクニックが存在しているというわけである。 そうした憶測が生まれるのは、一つには、外部の人間には新宗教の内側でどういったことが行われているのか、それが分からないからである。信者に勧誘されたときに、それに乗って、教団の本部でも訪れてみれば、その一端にふれることができるかもしれないが、なかなかその勇気は湧いてこない。 信者を引きつけるのは、なんといっても新宗教の開祖、教祖の「話術」である。 たとえば、日本最大の新宗教の教団、創価学会の池田大作氏の場合には、まだ元気で会員の前に姿をあらわしていた時代には、本部幹部会で講演するのが習わしになっていた。その様子は衛星中継され、会員はそれぞれの支部でそれを視聴した。そうした中継は、学会内部では「同報」と呼ばれる。2008年5月8日、創価学会の池田大作名誉会長(左)を迎える、中国の胡錦濤国家主席 私も、同報を見たことがあるが、1994年に見たときには、池田氏が発揮するカリスマ性にふれたように思った。 まず、池田氏は幹部会に途中から登場するのだが、そのとき、幹部会の空気も、それを見ている支部の会館の空気も一気に変わる。テンションが急に高まるのだ。 その上で、池田氏は話をはじめるが、まずは芸能人が多く加入している「芸術部」のメンバーをいじくる。 「歌いたいなら、歌いなさい」と、冗談めかして、いささか投げやりに促すと、芸術部のメンバーは喜々として歌い出す。 これによって緊張感は溶け、場の雰囲気が和む。池田氏は、その場の空気を支配しているのだ。 そして、話のなかで、人材は逆境や障害のなかでこそ生まれると言った後、突然、「創価学会には、一人もいない」と真顔で言い放った。 壇上の池田氏の横には、当時の秋谷会長をはじめ幹部が並んでいる。池田氏の発言は、そうした幹部であっても、決して有為な人材としては認められないと言っているようなものである。 こうした幹部批判は、いつもくり返されていることで、会長など相当激しく池田氏から批判されることがあったらしい。 要は、一般の会員に対する「ガス抜き」でもあるが、それは池田氏がいかに会員のこころをつかむ力を持っているかを示している。 あるいは、九州に善隣教(かつては善隣会)という中規模の新宗教がある。その初代教祖である力久辰斎とその息子で二代目を継いだ力久隆積氏については、かつてNHKがドキュメンタリー番組を制作している。「踊る宗教」女性教組の痛快な「歌説法」 この善隣教の講習会では、信者が教祖におすがりをして、病気が治ったことをその場で発表することがクライマックスになっている。その前後には教祖が講習会に集まった人間たちに教えを説くのだが、なかなかの名調子で、話の内容はとても分かりやすい。 善隣教の場合には、初代と二代目の教祖は、煉瓦を背負って歩き続けるとか、護摩を寝ずに焚き続けるといった厳しい修行を実践してきている。それが裏づけになり、信者は教祖の力に全幅の信頼を置いているのだ。 創価学会の池田氏の場合にも、大阪での参議院選挙の折には選挙違反で逮捕されたり、「言論出版妨害事件」の際には、世間からの厳しいバッシングを受けるなど、修羅場をくぐり抜けている。それが、幹部たちに厳しいことばを投げつけても、反目を買わない原因になっている。天照皇大神宮教の教祖、北村サヨ ほかにも、戦後「踊る宗教」として注目された天照皇大神宮教の北村サヨの場合には、男物の背広を着て、やはり浪花節調で「歌説法」なるものを延々とやった。これは、世相を厳しく批判するもので、戦後生活苦にあえいでいた庶民には痛快なものに響いた。 逆に、創価学会とはライバル関係にあった立正佼成会の庭野日敬の場合には、穏やかに教えを説き、その点で池田氏とは対照的だが、土地の売買をめぐって教団に批判的な報道を行った読売新聞を「菩薩」ととらえ、自分たちの戒めとしたところには、バッシングを逆に活用する巧みさが示されていた。 どの教祖にしても、常人には考えられないほど精力的である。池田氏は全国を、さらには全世界を駆け回り、会って話した会員のことはしっかりと記憶していたという。 北村サヨの場合にも、海外布教に出て行ったが、ハワイに着いたときには、着くやいなや波止場で歌説法をはじめた。 新宗教としては歴史の古い岡山の金光教の場合には、教祖は代々、365日、神殿で朝の3時半から信者の願い事を聞く「取次」を実践している。 新宗教の教祖になれば、金儲けができると思っている人も少なくないかもしれない。 だが、一度教祖になれば、365日24時間教祖でいなければならないわけで、自由は大幅に制限される。 すべてを教団のため、信者のために費やす。その覚悟がなければ、新宗教の教祖にはなれないし、話術で信者を魅了することもできないのである。

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    宗教団体の政治進出は何を「警戒」すべきか

    づく他国依存ではない外交戦略の構築が欠かせないだろう。 国内に目を転じれば、一昨年と昨年、塚田穂高『宗教と政治の転轍点』(花伝社)、青木理『日本会議の正体』(平凡社新書)、菅野完『日本会議の研究』(扶桑社新書)などの著作が相次いで刊行され、現内閣と日本会議との関係が耳目を集めている。 特に青木や菅野は日本会議の影響力の増大状況を民主主義の危機としてとらえている点で特徴的であるが、その主張は論理的に難があるようにも思われる。確かに日本会議の主張は反「戦後民主主義」的であるが、それが「地道な草の根運動」や民主制の回路を通じて拡大したとするならば、その状況も民主主義的にもたらされたものといえるからである。 もっとも、現政権の経済政策、家族・女性政策、外交政策、「移民」政策などを見る限り、日本会議的価値観の影響は限定的であるように思われるのだが。 鑑みれば、戦後の日本において、1955年の地方選と翌年の参院選創価学会の政治進出、1990年のオウム真理教の真理党の結成、2009年の幸福の科学による幸福実現党の結成などが社会的に注目を集めてきた。目指すところは政治も宗教も同じ 宗教団体の政治進出には、しばしば懐疑の目が向けられるが、自由民主主義社会の原理から言えば、どのような(宗教的理念に基づいた)政治的主張といえども、原則としてそれを主張する機会の平等は与えられるべき、ということになる。 仮に、ある信仰を有した者の政治参加(被選挙権)や、ある(宗教的理念に基づいた)政治的主張を政治から排除することを是とするならば、それは宗教(信仰)に基づく差別の肯定を意味するからである。集団参拝を終えた「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の尾辻秀久会長(中央手前)ら=東京・九段北 先進諸国の中で最も厳格な政教分離国とされるフランスにおいても、カトリックの国教化を主張する政党や、キリスト教民主主義政党は存在する。「政教分離国」とされるアメリカにおいても、いわゆる宗教右派の政治的影響力の強さは近年よく知られるようになってきている。 フランスに次いで厳格な政教分離を規定したと評される日本国憲法も、宗教団体の政治活動を禁じてはいないし、その下でクリスチャン首相も複数誕生している。 もっとも、自由民主的社会において宗教の政治進出が許容すべき前提であるとしても、社会がそれに対して無警戒でよいということではない。宗教集団は一般的に真理の独占を前提とし、そのドミナントストーリーの共有を拡大しようとする。それが独善性や排他性に連なっていることも珍しくない。 国家権力が、そのような独善的・排他的理念に基づいて行使される危険性は、自由民主的社会の観点から当然警戒されなければならない(日本国憲法は、宗教団体が国家権力を行使することは禁止している)。その警戒を、どの段階でいかなる手段で行っていくべきか。基本的に「思想言論の自由市場」にゆだねるべきか。  ここで念のため確認すべきは、独善的で排他的な理念に基づく権力行使に対する警戒は、宗教的なものに対してではなく、政治的な思想に対しても同様に必要である点である。イデオロギーを狭義に解すれば政治的思想を意味するが、広義に解すれば宗教的思想も包含する。民主主義を否定する自由を認めないという戦後ドイツの「戦う民主主義」が抱え込む自由と民主の相克というアポリアは身近なわれわれの問題である。 政治と宗教のかかわりは、一般に考えられているよりは深くて強い。アリストテレスは「人間はポリス的動物である」と定義したが、それは、人間は善く生きるために共同体をつくる本質的性格を有する存在という意味である。 政治も宗教も「われわれ」が「善く生きる」ための考え方をともに提示し、それへの同調・参加を求める点で共通する。そうである以上、両者は様々な局面で結びつき時に衝突する。政治と宗教のかかわりは、人間の本質的性格に根差す必然的なものなのである。

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    【独占インタビュー】謎多き宗教家、深見東州とは何者か

    深見東州(ワールドメイト代表) 宗教というのは暗くて地味なものではなく、特に神道は明るく、楽しい、面白いものだということを皆さんに知ってもらいたいんです。宗教が暗くて閉鎖的で反社会的というイメージは、本当の宗教を知らない無知な人の観念なんですよ。 我々の宗教法人「ワールドメイト」が各地の支部を「バッチバッチグー・千葉エリア本部」、「宇宙戦艦トヤマ支部」なんて名前にしたり、私自身がコスプレをやったり、至る所にギャグをちりばめているのも、暗い閉鎖的なイメージを払拭したいという強い思いが理由の一つです。日本ではこうした偏見が強い傾向がありますから、そのアンチテーゼなんですよ。「神道は明るく、楽しい、面白いものだということを知ってもらいたい」と語る深見東州氏 今日の宗教というのは国際的で、自由経済の一端を担い、民主的なものになってきています。こうした宗教がこれからの時代の宗教なんですよということを少しずつでも知ってもらうために、時間をかけてさまざまな活動をしてきました。 例えばビジネス。予備校運営は38年、高級時計の輸入販売も36年、今、オーストラリアの観光会社、ヨットのマリーナと牧場も持っています。さらに、イギリスにホテルと観光会社もありますよ。日本にももちろん観光会社と出版社、ファーマシーと公益財団などがあり、計13社ぐらいの社長をしています。 それゆえにビジネスの範囲は限りなく広がり、国際的な活動も何でもできる基盤ができた。カンボジアには大学も作りましたからね。さらに、テレビ局とラジオ局を持っています。病院もあります。そういう基盤っていうのは日本人の誰もができるわけではないからこそ、宗教的世界の日本代表としてやれているわけです。 では、なぜビジネスに取り組むかというと、その時代、時代の優れた宗教者は人々と共に生き、その苦しみや悲しみを共有してその中から救済の法を説きました。現代は、武家社会の鎌倉時代でもなく、貴族社会の平安時代でもありません。労働者の8割がサラリーマン、OLの時代だからこそ、自らビジネスの世界に身を置くわけです。無論、これは歴代の宗祖たちと同じように、天啓によって行っているのです。 そうすることで金銭の尊さを日々実感しているんです。ビジネス社会で、人々が何を大切にし、何に苦しんでるのか。それを、いつも肌で感じるからこそ、多くの著作に説得力を持たせ、人々に共感してもらえるのではないでしょうか。宗教とビジネスは矛盾するものではない宗教とビジネスは矛盾するものではない 時代は変わり、社会は変わっても、人々と同じ立場に身を置き、痛みを実感し、 説く教えの大切さは変わりません。そして、時代を反映すると同時に、時代を超えた普遍性があるのが、本当の宗教者であり、そこから生まれる教えが、本当に生きた教えだと思っています。 とはいえ、 これらのビジネスを信仰と混同することはありません。ワールドメイトが予備校を布教に使うこともない。それは「聖と俗を区別して共存させる」という、神道古来の特質に由来しているからです。宗教とビジネスについて語る深見氏 著名なカリスマ経営者は普遍的な神仏への信仰を持ち、ビジネスと区別して共存させているじゃないですか。出光興産創業者の出光佐三氏は宗像大社の熱心な崇敬者です。 西武グループ創始者の堤康次郎氏は箱根神社の熱心な崇敬者。「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助氏は会社の敷地内に「根源の社」を建立し、 自身は辮天宗の総代も務めていましたよ。東芝の社長・会長を歴任した土光敏夫氏は、熱心な法華経崇敬者でした。 また、京セラ創業者の稲盛和夫氏や、協和発酵の創業者である加藤絣三郎氏、エスエス製薬の創業者の泰道照山氏も、熱心な仏教者ですね。特に泰道照山は、 天台宗の僧侶で、出家得度した人物として知られます。そして「Canon」(キャノン)が「観音」から来てることは、あまりにも有名でしょう。角川書店の社長だった角川春樹氏は、群馬に宗教法人「明日香宮」を創設した教祖で、宮司でありながら、角川書店の社長もしていた。 どの経営者も、信仰を自身の拠り所としつつ、信仰と経営を混同させず、はっきり区別して共存させたのです。これらは、聖と俗を区別して共存させる好例なんです。ですから、宗教とビジネスは矛盾するものではありません。 また、こうした活動をすることによって、さまざまな雑誌などのメディアに取り上げられるようになり、私がやっていることを知る人が多くなったのは良いことだと思っているんです。雑誌や本を見て我々のワールドメイトに入りたいという人はそれでいいし、嫌だと思う人は他の宗教に行けばいい。 ワールドメイトは、神道がベースです。神道の思想は、神社を見れば分かりますが、「来る者拒まず、去る者追わず」で、本来強制がない。だから、ワールドメイトも神道の伝統に則り、社会性を大切にするわけです。ワールドメイトに合う人だけ来ればいい信仰がないよりはある方がベター  「新日本宗教団体連合会」(新宗連)というのがあって、アンチ創価学会でつくった立正佼成会が中心となった新興宗教の集まりがあります。現在60団体ぐらいが加盟している。その新宗連には4つの柱があります。 一つは政教分離。これは創価学会へのアンチテーゼで、宗教と政治を分離すると憲法にありますから。それから信教の自由。あとは宗教協力。宗教団体が協力して世界平和を実現しなければならない。もちろんWCRP(世界宗教者平和会議)もそうなんです。WCRPは、現在「Religions for Peace」に名称変更してますが。最後は、「国民皆信仰」という考え方です。「ワールドメイトがいいなと思う人だけ来ればいい」と語る深見氏 その国民皆信仰という概念が、新宗連の4番目の柱ですが、我々も国民皆信仰に賛同しています。どんな考え方かというと、一つの宗教団体がすべての人を賄うことはできないということなんです。日本人といってもたくさんいますから、一つの宗教団体が、すべての日本国民を変えることはできないと考えるのです。 ならば、どこかの宗教団体に入って、それが嫌ならどこか別の宗教団体に移ればいい。要は自分に合うところに行けばいい。無神論で信仰を持たないよりは、どこか信仰を持っていた方が、信仰がないよりはベターだという考え方、これが国民皆信仰です。信仰がまったくない人間よりも信仰がある人間の方が、孤独とか不安に強くなり、安心立命が得られる。つまり、最終的に自分の力で自分を救っていく力があるわけです。それが、宗教の持つ社会的役割でしょう。 ワールドメイトもそうなんです。だから、はっきりと宗教団体としてのカラーを打ち出して、それでいいなという人が来てくれたらいいわけです。どの道、カラーに合わない人は辞めますから。入退会は自由、強制もしない。 もちろん、暗くて閉鎖的でまじめな宗教がいいという人は、そういうところへいけばいい。日本だけでもたくさん宗教団体があるので、創価学会へ行ってもいいし、立正佼成会に行ってもいい。ワールドメイトだけで全てのニーズは賄いきれませんから。だから、ワールドメイトに合う人だけ来ればいいし、嫌なら辞めたらいいんです。 この考え方は運営している予備校「みすず学苑」も同じ精神です。はっきり言うと、合う人だけ来たらいい。予備校は予備校らしくあらねばならないという人は、そういう予備校に行けばいいわけなんです。新興宗教は閉鎖的?だからこそ逆を行く新興宗教は閉鎖的?だからこそ逆を行く 新宗連の4本目の柱の「国民皆信仰」という概念は、非常に重要だと感じています。それが、今の新しいこの時代の宗教性だと思っているからです。私は新新宗教の御三家と言われたんです。それはワールドメイトの私と大川隆法氏、オウム真理教の麻原彰晃氏です。宗教学者の島田裕巳氏は、麻原彰晃と深見東州は平成の宗教改革者だと言っています。 ただし、「あまり社会の軋礫を恐れすぎたら伸びないですよ」っていうような ことを、皮肉っぽく書かれています。でも、まあおっしゃった通りになりましたよ。かたや死刑囚、かたやこのように世間の軋礫を恐れず、明るく楽しくやる神道ですから。島田氏はそれだけ宗教のことを研究しているので、島田氏にいくら言われても全然うれしいですね。宗教のことをよく知っている人ですからね。 オウム事件なんかがあって、特に新興宗教は先ほども触れたように、閉鎖的で排他的で怪しいというイメージが先行しているんです。テレビなんかは宗教団体が撮影してはダメだとかいうところを、意図的に撮ろうとして怪しい雰囲気を醸し出すものです。 だからこそ、我々ワールドメイトはその逆を行くんです。テレビが来たら、もう何でも取材してもらう。どうぞどうぞって。フレンドリーで明るくて、そんな場面ばっかりだったら、面白くないからテレビは放映しないんです。 ワールドメイトも、かつて「ビジネスと宗教が一緒になってるのではないか」と疑われて、マルサが来たこともありました。でも、結局何の問題もなかったことが証明され、かえって私たちの活動の正しさを知らしめることができたんです。反社会的でも閉鎖的でもなく、要は叩かれようがないんです。元は神道、生業と家とコミュニティーを繁栄させる精神や教えですからね。マルサの強制捜査を受け、七福神のコスプレで記者会見を行う深見氏(左から3人目)ら=平成6年10月8日 時代を超えた、普遍的な宗教性を貫くことは、旧態依然とした活動を続けることではありません。社会が変容してる以上、その時代の、社会に即した救済方法が必要だと思っています。それは、旧時代から見れば、異端や革新的に見えるものです。  やはり、強調したいのは普遍的宗教性ですね。これがないものは、やっぱり閉鎖的になりがちです。宗教の殻に閉じこもっているわけですから。宗教は神の一部なのに、宗教家が一番神の事を知っていると思う傲慢さがある。 宗教宗教にしかできない役割と働きがあります。しかし、「美」の要素の芸術も、神の一部だし、「真」である科学も神の一局面ですね。経営も社会科学ですからね。そして、「善」は宗教そのものであり、教育や福祉、スポーツもそうです。それだから、「真・善・美」を全部やってるわけです。真善美を全部やって、初めて神を正しく受け取れるし、神を正しく実行できると思っているんです。 だからこそ、私は宗教やビジネスだけでなく、作詞や作曲、文芸全般、絵画、オペラ、ジャズ、ロック、能楽、京劇、パントマイム、演劇など、あらゆる芸術文化に積極的に取り組んでるわけです。感性の極みである芸術が、最も神に近いと思うからです。信者じゃない人から敬われてこそ本当の宗教家信者じゃない人から敬われてこそ本当の宗教家 宗教団体というのは、そこの宗教に入っている人にとっては、派手な着物を着たおばさんの教祖なんかに額衝(ぬかず)くでしょ。外から見たら、このおばさん何を言ってんだってことにしかならない。重要なのは、その宗教の信者じゃない人からも、敬われるのが本物だということです。 お釈迦様って別に仏教徒じゃなくても、皆尊敬するでしょ。イエス・キリストもクリスチャンじゃなくても尊敬する。マホメットも、マホメットの価値はイスラム教徒でなくても認めますよね。孔子とか老子とかも、別に儒者や道教の信奉者でなくても学びますよね。 信者じゃなくても尊敬するし、生きるヒントにするわけです。それが、やっぱり普遍的な本当の宗教性を持ってる人と言えます。だから、その信者は敬うけども、信者じゃない人からは変な目で見られ、全く相手にされないっていうのはダメなんですよ。  信者からも敬われ、信者じゃない人からも敬われてこそ、本当の宗教家だと思うわけです。要するに、普遍性が大切なのです。真理とは何かと考えたら、いろいろと定義はあるでしょうが、普遍性というふうに置き換えられると思っています。 だからこそ、ワールドメイトの活動は、どこよりも斬新で現代的である一方で、その中には宗派や宗教の枠を越えた、普遍的な宗教性を持たせようとしている。そして、あらゆる誤解を乗り越えて、会員の幸せを第一に考え、法的にも人道的にも、社会的にも信頼に足る宗教団体をめざしているのです。(聞き手、iRONNA編集部・溝川好男、松田穣)ふかみ・とうしゅう 本名は半田晴久。1951年、兵庫県生まれ。同志社大学経済学部卒。武蔵野音楽大学特修科(マスタークラス)声楽専攻卒業。西オーストラリア州立エディスコーエン大学芸術学部大学院修了(MA)。中国国立清華大学美術学院美術学学科博士課程修了(Ph.D)。中国国立浙江大学大学院中文学部博士課程修了(Ph.D)。現在は神道系宗教法人「ワールドメイト」(静岡県伊豆の国市)の代表を務める傍ら、企業経営や芸術、福祉活動などに取り組んでいる。

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    明るくて楽しい「宗教」って何だ? 深見東州を私なりに考えてみた

    いのか、どう理解していいのか、分からなかった。 有名な人だから昔から名前は知っていた。ただ、変わった宗教の代表。というくらいの認識だった。僕の友人にワールドメイトに入っている人がいた。また、深見氏の本を愛読している人もいた。「これは面白い」「楽しい本だ」と言われても、正直、関心がなかった。「明るく楽しい宗教」というのが信じられなかったからだ。マスコミに大きく取り上げられるのも胡散臭いと思っていた。宗教家ならば、もっと深刻な顔をして山の中で苦行しているはずだ。「明るく楽しい」なんて、おかしい。そう思い込んでいた。 でも、新聞を見ても、電車に座っても深見氏の情報が目につく。こっちは関心がないのに、どこまでも追っかけてくる。そんな感じだった。宗教家だと思ったが、どうもそんな枠は飛び越えているようだ。絵を描き、書を描き、オペラまでやる。と思うと世界の大政治家たちを呼んで、一緒になって世界平和を論じている。一体、この人は何なんだと思った。僕の理解なんか、とっくに超えている。まあ、いいや。どうせ僕には理解できない人だ。遠い世界の人だと思っていた。どうせ接点などないんだし。と思っていた。 ところが、この小さなすずめが巨大な大鳥に出会ったのだ。今から6年前の2010年(平成22年)の1月14日、僕が属している一水会の勉強会(一水会フォーラム)に深見氏が来た。ワールドメイトリーダーの深見東州が講師で、演題は「中村武彦とワールドメイト。そして人生の本義」だった。これにはビックリした。一水会は新右翼と呼ばれることが多い。だから一水会フォーラムも講師は右翼的な先生や政治運動をしている人が多い。それなのに何故、ワールドメイトなのか。何故、深見氏なのか。「世界の一水会」になった 一水会は1972年、右翼の学生運動をしていた人間が中心になってつくられた。僕もその創設メンバーの一人だった。だが、最年長というだけで代表にされた。一水会代表は1972年から1999年まで30年近くも続いた。ただ、余りに勝手なことを言い、勝手なことをやるので右系の内外から顰蹙を買い、大変なバッシングを受けた。それで、一水会は組織を一変し、生まれ変わりを計った。 木村三浩氏を新代表にし、僕は顧問に退いた。2000年から木村新体制がスタートした。21世紀の右翼・民族派運動だ。僕と違い、木村氏は国際的な視野を持ち、世界中を回り、各国のナショナリストとの連帯も拡げていった。反グローバリズム、反米の闘いも進め、イラクには何度も行った。僕も初めて行った。現地で反戦集会、反戦デモに参加した。 2003年、木村氏が団長になり36人でイラクへ行った。でも、ここに参加したのは右翼だけではない。元赤軍派議長の塩見孝也さん。ミュージシャンのPANTAさん。お笑い芸人の大川豊さんらも参加していた。この1カ月後の3月18日~21日は、木村氏に連れられてフランスのニースに行った。フランス国民戦線30周年大会に木村氏が招待され、僕もついて行ったのだ。 この年はタイや北朝鮮にも行った。1970年に日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に渡った人々とはぜひ会ってみたいと思い、それが実現した。「よど号」グループの一人・田中義三さんはひそかにカンボジアに脱出し、日本帰国への資金作りをしていた。しかし逮捕され、タイで裁判を受けていた。タイでニセ米ドルを使ったという容疑だった。「これは冤罪だ。田中を釈放しろ」という運動が宮崎学さんたちを中心に起こり、僕も何回かタイに行き、田中さんにも面会した。 木村氏が代表になって一水会は急に「世界の一水会」になった。おかげで僕も海外に出る機会が増えた。木村氏はほかにも、ロシア、インドなど世界をまわり、世界のナショナリストとの連帯を深めていた。僕も、必死に勉強し、なんとかついていこうとした。そんな国際化の中で、深見氏の講演会は行われた。深見氏も木村氏も日本を飛び出して世界で活躍している。その中で二人は知り合ったのだろうか。「新右翼」とワールドメイトの接点は? また、一水会幹部の中に、以前ワールドメイトに入って運動していた人もいる。その関係で来てくれたのか、僕も不思議に思っていた。当日集まった満員の人々も面くらっていたようだった。「新右翼」とワールドメイト、深見東州氏、まったく接点はない。でも、どんな関係があるのか、なぜ一水会は深見氏を呼ぶのか。この何故、何故があって、推理小説を読むような気分で来た人も多かったようだ。僕自身もそうだ。歌唱中の深見氏=2015年7月5日   深見氏の講演会が始まると、まずはじめに歌をうたう。皆の度肝を抜く。うまい、凄い声量だ。オペラを歌い、さらに、何と「君が代」を歌う。実に感動的だった。よくサッカーなどの国際試合が始まる前に歌手が君が代を歌う。しかし、みんなうまくない。それだけ「君が代」は難しい歌なのだ。それなのに堂々と歌う。うまい。多芸多才な人なんだと思った。深見氏の演題の「中村先生」はもう亡くなられたが、右翼の先生だ。僕らも大変お世話になった。一水会を作るずっと前から知っていて、お世話になっている。その中村先生に、深見氏もお世話になったという。中村先生の集まりにもよく行っていたという。だとしたら、その頃、僕らは会っていたのだ。あれ、こんなに近いところにいたのか、と思った。我々は中村先生の「教え子」だ。その点では同じ「弟子」だ。昔の同級生に会ったような気がした。木村氏は深見氏とはいろんな分野で会い、お世話になっているようだった。   深見氏は「中村先生にはとてもお世話になった。その恩返しをしたい」という。でも、中村先生は亡くなっているし、だから同じ中村先生の弟子たちにご恩を返すという。一水会や、そこに集まる人たちは(古い人は)、皆中村先生の教え子であり、弟子だ。その人たちが今、頑張っているので、お手伝いしたいという。それからしばらくして、「伝統と革新」という雑誌が、たちばな出版から出された。今の右派の人たちが書いて主張する場をつくったのだ。 一水会フォーラムで深見氏が講演してから7カ月後、誰もがアッと驚くイベントが行われた。(2010年)8月12、13日に東京のフォーシーズンズホテル椿山荘国際会議場で行われた「世界平和をもたらす愛国者の集い」だ。来日したのはフランス、イギリス、スペインなど欧州8ヶ国。20人の国会議員、欧州議員だ。これには本当に驚いた。僕が一水会代表をやっていた時なら全く考えられなかったことだ。それに20人の議員を外国から呼んで会議を開くなんて、いくら頑張ってもできないことだ。それも、右派議員だけが集まって話し合っているのではない。どうしたら戦争のない世界をつくることができるか、それを話し合うのだ。この大会には莫大な金がかかったらしい。深見氏にもスポンサーの一人になってもらったという。こんな奇抜なことを考えるなんて、多分、このプラン自体から相談してたのだろう。そうじゃないととても出来ない。遊就館を訪れて それに、宗教的なものを感じたからだ。集まった20人の議員は、ほとんどがキリスト教徒だ。だからEUを作ったり、欧州議会を作る時にも共通の基盤として、それがプラスに作用したのだろう。宗教があることによって対立するのではなく、寛容になり、対立を乗り越えるバネになっている。そんなことを感じて、8月12、13日の全体会議の時にもそれを感じたが、終わった後に特に感じた。14日に靖国神社参拝、15日は明治神宮参拝、そして16日からは京都、奈良を回り、京都御所も訪れた。 靖国神社は日本側からは何も言ってない。日本人が参拝しただけで外国から抗議がくるぐらいだから、日程には入ってない。ところが外人議員の方から、ぜひ靖国神社に行きたいという強い要望があって実現したのだ。中まで入り、昇殿参拝もした。宮司さんから、参拝の方法を聞き、それを厳守して参拝していた。ほとんどの人がキリスト教徒なのに…と驚いた。 この日は日本のマスコミも大勢取材に来ていた。フランス、イギリスなど、さきの大戦での「戦勝国」だ。それなのになぜ、敵国の神社に参拝するのか。それにここはA級戦犯が祀られているのに…という質問があった。これに対し、フランス国民戦線のルペン氏はこう答えていた。「国のために亡くなった人に敬意を示すのは当然ではないか」と。どこの国に行っても、その国のやり方に従って、敬意を表している。ユダヤ教の国ではユダヤ教のやり方で、イスラム教の国ではイスラム教のやり方で敬意を表し、慰霊しているという。これには驚いた。日本人でも宗教が違うからとか、理由をつけて靖国神社に行かない人はいる。それなのに「戦勝国」のキリスト教の議員たちが参拝してくれた。 さらに遊就館に案内した。ここはかなりイデオロギー的な説明が多い。フランスやイギリスなど西欧列強はアジアを侵略し、それに危機感をもって日本は自衛のため、アジア解放のために立ち上がって戦争したと書かれている。英文の説明もあるし、英語でも説明していた。この説明や時代背景は「戦勝国」の議員にとっては愉快ではないはずだ。「歴史の偽造だ!」「とり外せ」と文句を言われても仕方ない。ところが彼らは「そう思われても仕方ない」「そんな面もあった」「我々がアジアを侵略したのは事実だし」と言う。日本人よりも彼らのほうがずっと寛容だ。宗教か右派運動か また、会議の中ではEUに対する不満やグローバリズムへの危機感などが話し合われた。移民によって自国の文化がなくなるのでは…という心配もあった。愛国者の人たちがまず、これを考え、そして他国と話し合う。それが戦争を防ぐものになる。だって戦争が起こる時、「国難」に対してまず愛国者が声を上げ、立ち上がる。そしてメディアが応援し、戦争が始まる。誤った判断や情報に基づいて、戦争になることも多い。 普段から「愛国者」同士が連絡をとっていれば、こうした誤った情報に基づく戦争を阻止することができる。では愛国者の努力にかかわらず戦争が始まった場合、どうなるのか。この話も出た。「その時は国のために闘う」「いや、非国民と言われてもいいから戦争に反対する」と。もし戦争を阻止できなかったら、「国と国」という全面戦争にしないで、「愛国者」と「愛国者」の戦いにとどめることを考えてもいいのではないか。という人もいた。これは凄いと思った。「愛国者」というと、各国の中で最も戦闘的で、いつも戦争をアジっていると思っていたが、違うのだ。それに、この集会は「愛国者の大会」ではない。「世界平和をもたらす」愛国者の大会だ。随分と取材も来ていた。「これは愛国者インターナショナルだ」とか「反戦平和の集会だ」と書いたところが多かった。これはかなり前の段階から深見氏の理想や哲学が入っているのではないか、と思ったほどだ。2015年3月に開催した個展でテープカットする深見氏(写真中央)   初めに「宗教団体」ありきで、そこに集まる数多くの人と多くの資金がある。その上で深見氏は、オペラ、ゴルフコンペ、政治家とのトーク、などをやってきたのだろうと思っていた。でも、この考えは間違っていた。しょせん「燕雀」の考えに過ぎなかった。むしろ、「深見東州」という才能がまずあって、そこからいろんな動きが生まれてきた。 ライブやトークや出版や、その一つとして「宗教」もある。だからそこに集まった人からの金でいろんな活動をしているわけではない。そのことが分かった。いろんな人たちに聞いて分かったのだ。だから、「宗教部門」はなくとも構わないのだろう。そして思った。そうか、そういう方法があったのか、と。 学生時代、僕は「生長の家」の運動をしていた。それを基にして右派学生運動をつくった。大学を卒業してから、プロ的な活動家になるか、あるいは「生長の家」の本部に入り宗教活動をするか、迷った。宗教活動にもひかれたが、「自分」を出せない。すでにある「教義」を人々に知らせることに専念し、自分の解釈や自分の考えを出してはいけない。それでは、自分の生きる意味もないと思った。だから、少しでも自分の考え、自分を出せる右派運動の方を選んだ。 でも、今、考えると、そうか、この方法があったのかと思ったのだ。深見氏のやり方を見て、同じように悔しがっている人は多いと思う。もちろん、これも「燕雀」の考えだ。深見氏はその余りある才能があったので初めてできた。それなのに「もしかしたら俺たちだって出来たのかもしれない」などと一瞬でも考えた自分が愚かだったと思う。ただ、深見氏に対する理解が少しだけ進んだような気がする。

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    「異端」と「カルト」の違いとは? 宗教が危険になるとき

    で次のように報道しています。 千葉県の神社に液体をかけた疑いで逮捕状が出た男(52)が、自ら創立した宗教団体内で「神社仏閣には悪い霊がいて、日本人の心を縛っている。油でこれを清める」と話していたことが、関係者への取材でわかった。~ 米国在住の日本人医師で、キリスト教系を標榜(ひょうぼう)する宗教団体を立ち上げている。~男は偶像崇拝を否定。「神社仏閣には悪い霊がいる。油でこれを清め、日本人の心を解放する」という趣旨の説明をしていたという。朝日新聞6月2日「「神社仏閣、油で清める」 逮捕状の男、教団内で語る 」 朝日新聞同日の大阪版には、次のような情報も追加されています。 関係者によると、男は油をかける場所について「朝、聖霊さまが教えてくれる」と説明。誰にも事前に伝えず、かけた後に神社仏閣など一部の場所を信者らに明かしていたという。 このようなマスコミの報道から、彼のことを新興カルト宗教の教祖といった誤解をしている人もいるようです。そこで、前の記事でこの事件について解説をしました(「聖霊さま」などの用語解説も)。神社油まき清め男の正体:カルト宗教でもなく異常者でもないからこその社会的問題 ただ、やはりわかりにくい部分があり、彼は「カルト教祖の異常者だ」といったご意見もいただきました。カルト宗教とは・新興宗教とは 新興宗教とは、新しく起きた宗教という意味で、本来価値判断を含まない表現です。ただし、「新興宗教」というと何か怪しげなニュアンスを感じる人はいるでしょう。 カルト宗教とは、多くの人とは異なる変わった内容を信じる少数派による宗教という意味です。「カルト的人気を誇る映画」といった表現で使われる「カルト」です。一般受けはしないけれども、少数の人には熱狂的支持を得ます。 私たちには、信教の自由があります。どれほど奇妙に思える信仰でも、信じる自由があります。他の法律を犯したり、人々に危害を加えないのであれば、UFOを信仰しても、パワースポットを信仰しても自由です。だから、「カルト宗教」は本来は悪い意味ではありません。 しかし一般的に「カルト宗教」というと、悪い意味で使われるでしょう。奇妙な教えで人をだましたり、信者からお金や人生を奪い取る悪徳宗教といった意味でカルト宗教と言われます。 マインドコントロールなどの研究をしている心理学者や被害者保護活動をしている弁護士らは、ただの珍しい信仰団体とは区別するために、「破壊的カルト宗教」と表現することもあります。信者や社会全体を破壊するのが、破壊的カルト宗教です。新興宗教、異端、カルト異端とは 歴史の授業で、「異端裁判」などが出てきますが、異端とは正統な信仰から外れた信仰のことです。異端は、その宗教の中では大問題です。たとえば、キリスト教を名乗っていたとしても、三位一体を否定し、キリストは神ではないと主張したり、自分がよみがえったキリストだと主張すれば、異端だとされるでしょう。 細かい部分を見れば、キリスト教も仏教も教団教派宗派によって違いがあり、特徴があります。それぞれ自分の団体が最も良いと思うのは当然です。違いがあることで、互いに学びあえることもあるでしょう。その場合は、議論をすることはあっても互いに同じ仏教、キリスト教と認め合います。根本的な部分で正統的な信仰と外れると、異端とされるわけです。 新興宗教の中には、教祖の枕元にキリストとお釈迦様が現れて真実を教えてくれたなどと主張するものがありますが、どちらの宗教を名乗っても、異端だとされます。 しかしどのような教義でも、その団体が問題を起こさない限りは、異端であるかどうかは宗教外の人から見ればあまり関係のない話です。社会のなかでは自由な信仰と活動が保証されるでしょう。ただし、異端の団体がキリスト教、仏教、イスラム教と名乗れば、伝統的な団体は、それは違うと主張するでしょう。 以前は、マスコミ報道でも、その団体が名乗っていればキリスト教団体仏教団体と紹介されましたが、近年では問題を起こした団体を「○○教を標榜する」と報道することもあります。新興宗教、異端、カルト それぞれ本来は自由なのですが、社会問題化する宗教の中には、新興宗教であり、異端のカルトであり、そしてマインドコントロールや洗脳を使う破壊的カルトであるケースも見られます。個人の犯罪 残念ながら、破壊的カルトではなくても、問題を起こすことはあります。信仰内容も宗教団体も問題はなかったものの、そこの僧侶や神主牧師神父が、犯罪を犯して逮捕されてしまうことはあります。 ある宗教者が酒気帯び運転や脱税で捕まったり、殺人や性犯罪を犯したからといって、その団体や宗派が、異端とかカルト宗教ということはないでしょう。また、犯罪心理学、精神医学的に見て、これらの犯罪者が診断名のつく異常な人とは限りません。 今回逮捕状が出た男性の信仰内容も、所属団体も、原理主義的な部分はあるものの、異端、カルトではないと思います。偶像礼拝の否定も、キリスト教の普通の教えです。また彼は立派な仕事もしていました。だからこそ、彼は多くの場所に招かれました。カルト化:宗教が危険になるときカルト化:宗教が危険になるとき すいません、少しややこしい問題です。その宗教団体の教義自体は伝統的内容であっても、その団体内の人間関係に歪みが生じ、まるで破壊的カルトの教祖がしているような問題行動が起きてしまうことがあります。 破壊的カルト問題の研究者、実践者の中には、「カルト化」と呼び、警鐘を鳴らしている人もいます。 キリスト教などの一神教では、神のみが絶対であり、完全に正しい人間などはいないはずです。本来の一神教は、「私たち人間の理解や考えが常に不十分だと思い起こさせるもの」です(「一神教は危険か:世界の常識キリスト教・イスラム教・ユダヤ教を知り、現代を理解するために」)。 それなのに、世俗的な領土問題や民族問題が入り込むと、テロリストたちが生まれます。 また、宗教団体の中で、牧師神父僧侶などが神仏のような絶対的存在として信者を支配し始めると、カルト化が始まります。本当に悪い指導者で犯罪行為をすることもありますが、中には善意と信念によってカルト化が進んでしまうこともあります。 朝日新聞6月6日大阪版では、次のような記事がありました。 カルト教団による被害救済に取り組む「日本キリスト教異端相談所」は~「キリスト教信者にとっては大きな迷惑だ」~「教義に従わない者は排除する傾向が強く、文化財に油をかけて破壊する犯罪行為をいとわないのもカルトの典型」と指摘。カルト教団からの脱会を支援する「アッセンブリー京都教会」(京都市)の村上密(ひそか)牧師も「自分の信じる教義を違法な行為に結びつける団体で悪質だ」と話した。 異端か、カルトかどうかは微妙なところもあります。彼の設立した団体は、新しい宗教や教会ではありません。この部分は、やや誤解を招く表現だと思います。村上密牧師は、以前から伝統宗教内の「カルト化」の問題提起をされてきた先生です。 宗教は人類の福祉におきな貢献をしてきました。 今回の事件が、明らかな破壊的カルトによる犯罪であれば、恐ろしいことではありますが、わかりやすい犯罪とも言えたでしょう。しかしそうではなくて、「カルト化」が進み、立派だったはずの個人がまるで破壊的カルトのような違法活動を行ってしまったことが、むしろ大きな社会問題と感じられます。 「熱心な宗教心や政治思想が悪いわけではありません。しかし、自分の言動が第三者から見たときにどう思われるのかという客観性と「愛」を失ったとき、カルト化の道は始まるのです」(神社油まき清め男の正体:カルト宗教でもなく異常者でもないからこその社会的問題)。(「Yahoo!ニュース個人」より2015年6月6日分を転載)

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    山師が僧侶になった理由 得度とは蛸壺から抜け出すことと見つけたり

    込むことは素晴らしいことですが一般的な価値観で計ると大した「得」はないという人の方が多いでしょう。「宗教法人は無税」だから「坊主丸儲け」で大得をしている筈だと云っている人が居ますが、私が見聞する限り約7万5000の寺院(僧侶人口は約31万人)で一部の観光寺院を除いて、経済合理性から判断すると何の「利益」もないのが実体です。事実、裕福な寺院は減ってゆく一方ですから寺院の経営は大変だと思います。 ウィキぺディアで調べていると「セレンディピティ」の真逆の言葉に、「ゼンブラニティ(Zemblanity)」という言葉があるのを発見しました。「ゼンブラニティ」とは、イギリスの作家・ウィリアム・ボイドが著書『Armadillo』のなかで用いた造語で、冷たく不毛なところで「セレンディピティ」が起こりそうもない島の名前が「ゼンブラ」だったことに由来しているようです。 こちらはマイナス思考の典型で何でも物事を悪く考える、懐疑心が強いために人を信じる事が出来ない、自分の情報は人には言わないから何時も孤独に思い悩む、しかも不幸や不運にあった時にステレオタイプの考え方しか出来ないので悪化の一途を辿るパターンになります。得度をするとは蛸壺から顔を出すこと得度をするとは蛸壺から顔を出すこと このゼンブラニティの考え方に嵌りこむのは一番、「損な考え方」なのですが、いったん、そのような発想パターンと云うか「蛸壺思考」に陥ってしまうと悪循環になってにっちもさっちも行かなくなります。もはや視野が狭まっているので余裕もなくなっています。こうした悪循環を断ち切るには、まず蛸壺から顔を出すことから始めるしかありません。 蛸壺から顔を出すと新しい風景が見えてきます。新しい景色を見ていると好奇心も湧いてくるし、思わぬ出来事やチャンスがやってくるかもしれません。蛸壺の中で思い悩み考え込んでも何も起こらないばかりかマイナス思考のとりこになるのがせいぜいです。経済用語に「機会損失」という言葉があります。セレンディピティ―の原因を追究しているうちに気がついたことは「機会損失」を「機会利益」に変換することでした。 得度をしたから偶然の出会い(セレンディピティ)が増えているのは「おい、新しい『仏縁』に早く気がつきなさい」「人さまとのご縁を大事にしなさい」と(誰かから)教えられているような気がしてきます。得度式を終えて1カ月ほど経ちますがこれからは更にポジティブに人さまとのご縁(機会利益)を追求しながら残りの人生に挑戦してゆきたいと考えています。

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    安倍内閣の閣僚20人中19人がメンバー 神道政治連盟とは?

                        * * * この8月の内閣改造で安倍政権の背後にある一つの“宗教イデオロギー”の存在がくっきり浮かび上がった。神社本庁を母体とする「神道政治連盟」は、なぜ永田町に大きな影響力を持つようになったのか。第3次安倍内閣の初閣議を終え、記念撮影に臨む安倍首相(前列中央)と閣僚ら 皇居での認証式を終えて官邸のひな壇に並んだ大臣たち。安倍首相を含む大臣20人中19人が「神道政治連盟国会議員懇談会」(神道議連)のメンバーなのである。例外は創価学会を支持基盤とする公明党の石井啓一・国土交通相だけだ。 神道政治連盟(神政連)は全国約8万社の神社を傘下に置く包括宗教法人「神社本庁」を母体とする団体。同連盟のウェブサイトには、〈誇りの持てる新憲法の制定〉、〈靖国の英霊に対する国家儀礼の確立〉などの取り組みが掲げられ、天皇男系維持、女性宮家創設反対、東京裁判の否定、夫婦別姓反対などの主張を展開している。思想的に安倍政権と親和性が高い。 それもそのはずで、安倍首相は若手議員時代から神政連に賛同する議員団体・神道議連の事務局長などを歴任し、現在は自ら会長を務めている。毎年、都内のホテルで開かれる総会にもほとんど出席してきた。まさに首相が手塩にかけて拡大してきた議連であり、いまや自民党を中心に301人の国会議員が参加する政界の一大勢力となっている。 今年の正月、全国の神社の初詣に“異変”が起きた。 有力な神社の境内に〈憲法は私たちのもの〉などと書かれた幟が立てられ、憲法改正に賛同する署名活動が行われたのだ。神社本庁や日本会議などが推進する憲法改正のための「1000万人ネットワーク」運動の一環で、署名用紙の紹介者の欄には神社の名前があった。地方では宮司が氏子らに「GHQに押しつけられた憲法を今こそ変えなければならない」と署名への協力を要請し、総代が地域を回って署名を集めたケースもある。 地域の神社が改憲運動の“先頭”に立つという大きな変化だった。その中心が神政連だ。神社本庁の前身は戦前の内務省神社局(後の神祇院)で国家機関だった。明治期には、いわゆる「国家神道」化が行われた。宗教界の眠れる巨人「神社本庁」 戦後は宗教法人の神社本庁となり、国家機関ではなくなったが、地方機関である都道府県の神社庁を通じて全国約8万社の神社を包括し、宮司など神職約2万人、信者約8000万人を擁するネットワークはそのまま残っている。全国各地の祭りも神社の行事(神事)が中心にあり、氏子総代会、保存会が担い手となっている。 神政連の中核はそうした神職たちで、各県の神社庁ごとに地方組織が置かれ、地方議員連盟も組織されている。 国家神道時代の組織力、ネットワークを引き継いだ神道政治連盟が長い“眠り”から覚めて政治力を発揮すれば、その潜在的パワーは他の教団の比ではない。実際、前述の憲法改正署名運動は今年5月の憲法記念日時点で700万筆を超えたと発表されている。 神職の中にはそうした変化に戸惑いもある。東京のある神社の宮司が語る。 「いまは戦前の国家神道の時代とは違う。神社の祭りは様々な宗教を信じる氏子や地域の住民がボランティアで担ってくれるし、参拝者の宗教も思想も様々です。だから神社本庁としての政治的立場、主張はあっても、各神社は参拝者に声高に叫ぶことはしなかった。 それが安倍政権になって、とくにこの1~2年、政治性が非常に強くなってきた。神社のネットワークは全国に張り巡らされているだけに、あまり政治色が強くなると反発を招くのではないかと心配している」 宗教界の“眠れる巨人”とも言える神社本庁と神道政治連盟が政治活動を活発化させたきっかけとして見逃せないのは、安倍首相の強力なバックボーンとして発言力を強めている前述の保守系国民運動団体「日本会議」との密接な関係だろう。 日本会議では神社本庁統理の北白川道久氏(旧皇族)、伊勢神宮大宮司の鷹司尚武氏が顧問を務め、神社本庁総長の田中恆清氏が副会長を務めているほか、神政連会長などが代表委員を務めている。神社本庁は日本会議の中核構成メンバーの一つと言える。 日本会議にも神政連とは別に国会議員懇談会があり、こちらも安倍首相が特別顧問を務め、メンバーの重複も多い。    関連記事    ■ 安倍首相 伊勢志摩サミットは神道系団体への最高の選挙PR    ■ 駐日外交団長が「日本が世界から尊敬される理由」を語る一冊    ■ 神社本庁 職員に被災地用米配布理由「職員苦労してたから」    ■ SAPIO人気連載・業田良家4コママンガ「憲法学者」    ■ 旧皇族が国を代表する組織のトップを務める理由とは

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    宗教行為がネット販売されると本当に困るのは誰なのか?

    林数馬(株式会社「おぼうさんどっとこむ」代表取締役、僧侶)  宗教行為のネット販売は是が非かと問われるなら、私は間違いなく非と答える。今回のAmazonでのチケット販売に端を発した一連の騒動。そこには真の仏教は存在しない。なぜなら真の仏教はそんなことにかかずらわないからだ。 あくまでかかずらっているのは、仏教者・仏教会であり、対相手も仏教ではなくネット販売業者であるからだ。要するに人と人との意見の相違であり、そんなことは生きていれば日常茶飯事に起こることである。それこそ仏教的に言えば、「かかずらうな」である。 なのに、かかずらって、こだわって、お互いの立場に執着しているのはなぜなのか?双方共に仏教とはかけ離れたところで、自分たちの立場を正しいとかかずらい、相手との立場の違いを鮮明にするためなのか、無用である不安から出る言葉を贈り合ってもいる。 この有り様を見て、お釈迦様なら何とおっしゃるだろうか。その言質を借りて申し上げれば、受け取られない贈り物は誰のものか?という話ではないのだろうか。 お互いを責め合い、いずれか片方が勝利するまで続けることが、真の仏教であるか否か。そんなバカげた問いを投げかける必要もないだろう。なぜなら、その果はいずれをも成功や失敗、勝利や敗北と分かたない。ひとつの時代の、ひとつの出来事に過ぎないのだから。 しかしながら今、そのかかずらい合いに、批判も恐れず私見を申し上げれば、くだらない。ただその一言である。でも、これでは話が終わってしまうので、以下の通りに書いてみた。読むも読まぬも、読者のみなさましだいであるが。◇     ◇ まずもってこの題に沿って話を進めるのは、あくまでも私の私見であることをご諒解いただきたく存じます。この問題の原因は、仏教者・仏教会側は、仏教の前に「寺」を置き、ネット販売する側は、お客様、僧侶(総じて人)の前に「儲け」を置いていることにあると思います。そしてこの問題の責任は私にもあると思っています。 この日本から仏教が廃れてしまうという思いから、警鐘を鳴らすべく、僧侶派遣という仕組みを以って、「社会に信用される僧侶としての新しい形」の実現を目指し、世の中に信を問う事業を立ち上げて12年。10年ひと昔と言われる世の流れは、5年いや3年、もっと言えば1年1年と、世の中の変化速度が上がり続け、人心の変化もそれに伴いネット上に氾濫する過多な情報に振り回される始末。 私が株式会社おぼうさんどっとこむを起業して3年半は、借金がかさみ、自死までを考える苦しい状況が続いていました。そんな中、ある新聞紙面へと記事が掲載されると共に、世の多くの方におぼうさんどっとこむが知られることとなり、その後の依頼の多さで、お布施と呼ばれる不明瞭でいくら納めればいいものかと不安にさせる金銭の支払いに、悩まれている方がたくさんいることも分かることとなりました。 その後もマスコミ各社に、弊社おぼうさんどっとこむを取り上げていただき、多くのお客様、ご利用者様に依頼をいただくこととなった反面、弊社の取り組みは儲かるとでも思ったのでしょうか、仏教のぶの字も知らないであろうネット業者による模倣、もしくは弊社の名前をもじって誤認せしめる組織の乱立を生み、創業時に懸念していた、いかがわしい業者、ニセ坊主、無資格僧侶の排除は非常に困難な状況ともなって参りました。 しかし、弊社はこれからもその煩わしさを排除せず、従前通り面接を通して、その人柄と僧籍、教師資格の確認を怠ることなく、またお客様、ご利用者様の想いの一言一句を丁寧に聴き取り、そしてそれに応える提案をするべく、1件1件に心を籠めて対応して参ります。仏教がこの国から廃れないために 私は、仏教とは“時の世を生きる人の下支えなる教え”と位置付け、あえて税制優遇された宗教法人と言う立場でなく、事業活動法人である株式会社として、前述の考え方を基に仏教を弘める活動を行なっています。 釈迦創始と言われる仏教は、その根本に縁起を示し、諸行無常を説きます。変化は自然にして起こることをも示唆しているのです。現状を見渡せば、仏教者・仏教会側は、寺の為になる仏教を使い、ネット販売側も儲けの為にインターネットという仕組みを使い、世の為になる、時の世を生きる人の為になる、を蔑ろにしているものと思われてなりません。 そもそも仏教の担いは、生き方を自ら創り出す「人」のための支えになる理念を弘めることにありました。しかしながら、今から約400年前の江戸幕府の施策により、多くの人の死後の担いをも受け持つことになったのです。そこから400年を経る中で、我が国日本は、住まい方、暮らし方がその時代とは大きく変容してしまいました。それは日本だけにすぎず、世界ともその場その時に繋がれるインターネットの普及により大量な情報がやり取りされる時代ともなった訳です。 人ひとりが一日で移動できるのが、約十里四方であったろう江戸時代の仏教の担いは、寺を中心とした地域において、異教とされるキリスト教を締め出し、民衆の管理をさせるには非常に都合よく、それはそれは十分に機能した時代だったことでしょう。 しかし、死後の担いを仏教に委ねた結果、仏教者は当初の教えの目的である「生き方の創出の支え」を伝える役目を忘れ、収益につながる死後の担いのみに注力し、さらにそれは仏教者の堕落に繋がり、その為の努力精進を放棄してしまったことが見えてきます。 さらにそれは、明治維新以降の「世襲」の流れで顕著になり、戦後においては宗教法人法の庇護の下、経済復興期とバブル期という好況の世に在っては、仏教の担いは完全に死後のものと誤認されてしまう始末。さらには死後の免罪符的な商品化された戒名も、高額であればあるほど良いものと錯誤する輩も現れ、最初はそれを授けるのを憚っていた仏教者の方々も、寺院維持管理の費用に充当できるならと、それも寺院への貢献の一つの方法と、安易に方向転換をし、高額な戒名を授与することに何のためらいもなくなってしまったようにも思われます。そんな中、バブル経済は崩壊し、平成不況と言われる時の世が到来します。 ところで私は、仏教会側、ネット販売側、どちらが良いか悪いかを即座には判断できないし、するつもりもありません。ただ、冒頭にも述べた通り、いずれも自分たち側の都合が正しく、それ以外は誤りだ、間違いだと言い過ぎるのではないかと思うのです。特に仏教会側の不安が大きいのは、ネット上のやり取りを見ていても火を見るよりも明らかです。 しかしながらその「不安」を増幅させる原因が、仏教者、仏教会側にあると本気では思っておらず、反省の弁を述べながらも、必ず相手側を批判、批難しているように思えてなりません。そしてその間は、「まだこのままで何とかなる」と、心底からの自戒、反省には至らないものとも思えてしまいます。 「この公益財団法人全日本仏教会に名を連ねる宗旨宗派宗門の一寺院、一僧侶が、各檀家、信者に迷惑や不安を与える者が1人もいない社会を目指し、その行為を厳重に取り締まり、改善のなされない場合は、所轄監督官庁の定めるところにより、その者とその寺院、そして所属する包括法人及び宗旨宗派宗門を除名する覚悟で、問題の解決に尽力します」くらい公言できなければ、このままだらだらと現況を繰り返し、仏教の教えに背く寺院、僧侶を世に作り続けることになるでしょう。 そして、今はそちら側からの批難と罵声を浴びながらも、自らの生き方の創出を支えるという思いで運営している、弊社おぼうさんどっとこむの在り方やり方が、このままでいいとも決して思ってはおりません。その時の世、神仏天、自然なる宇宙なる目に見えない大きな力により、不要なものとなれば淘汰されると考えてもおります。 今は先述の通りネット社会の時代。各宗派宗門及び各寺院も、ホームページを持たれ、宗派の在り方、社会奉仕、社会貢献をされている姿をアピールされています。素晴らしいことだと思います。私ども、株式会社おぼうさんどっとこむも、ホームページを作成し、その在り方、社会奉仕、社会貢献を外部に発信しています。 なので、組織の名称も、おぼうさんどっとこむ と、ひらがな10文字、お子様にも読んでいただけるようにとの思いと、.comと、ネット上でのアクセス、コミュニケートを意識したネーミングともなっております。仏教をより身近に。より触れやすくするために。と、この会社を設立しました。あれから12年。お客様の為に、仏教者の為に、そして仏教がこの国から廃れないために、まだまだ創造すべきことがたくさんありそうです。 その創造すべきこととはいったい何なのか? 円柱を真横から見れば長方形にしか見えません。また、真上から見れば円にしか見えません。仏教者・仏教会側からの正論は、ネット販売事業者にとっては戯言にしか聞こえないもの。またその逆も真なりであります。見る位置や角度を変え、また先入観を排除した上で、いかに時の世を生きる人の下支えになるかを徹底的に問い続け、寺でなく、ネットでなく、時の世を生きる「人」として、その在り方が、必ずや日本仏教の未来を創ることにつながると信じ、今を創造し続けたいと思います。愛を以って、喜びを以って、心豊かな人があふれる社会を創りたいと思っています。

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    坊主丸儲けなんてとんでもない! 「檀家」と「お布施」の困った現実

    加しやすいイベントを実施したりしております。若林唯人氏 こうした活動の代表をしている僧侶の視点から「宗教行為のネット販売」についての論考を、とご依頼があり、このたび寄稿させていただく運びとなりました。特別なことは何も言えませんが、お付き合いいただければ幸いです。 「お坊さん便」を始めてくださって、有り難いなと思っています。第一には、僧侶も含め、多くの方々とご一緒に、これからのお葬式のあり方、これからの僧侶・寺院とのご縁のあり方について、考えるきっかけを与えてくださったからです。 このサービスを始められた背景は、「みんれび」のウェブサイトによれば、(1)「法事・法要などで読経をしてもらいたいものの、お寺とのお付き合いがない」(2)「お布施は何代をいくら包めば良いのか相場がわからず不安」などの時代のニーズがあるとのことです。 いずれもその通りだなと思う理由で、私自身も時代の要請に充分に応えられておらず、申し訳ないと思っています。拙稿では、主にこの2点について、思うところを書かせていただきます。 私は僧侶として登録しておらず、Amazonで「商品」としてクリックされ、僧侶として先方に伺うことを想像すると、違和感があるのが正直なところです。「返品については出品者のリンクからご確認ください。この出品商品にはコンビニ・ATM・ネットバンキング・電子マネー払いが利用できます」などのAmazonのページの文言を見ると、複雑な気持ちにもなります(笑)。とはいえ、私も書籍の購入などでAmazonをよく利用させていただいているし、時勢を鑑みるに、インターネットを介して僧侶とのご縁を持つこともこれからは当たり前のことになってくると思います。お寺はなぜ「お付き合い」を持てていないのか  なぜ、お寺は「お付き合い」を持てていないのか。その原因の一端を探ってみます。この記事をお読みいただいている方は、今お住まいの家にお仏壇はないけれども、他方でご実家にはお仏壇があるという方が多いのではないかと思います。お寺は「檀家さん」という「閉じたコミュニティ」に対しては、代々ご縁を育んできました。江戸時代、キリシタン禁制のための幕府の政策として「寺檀制度」がしかれ、寺院は戸籍の管理も任されて、「役所」の役割も果たしていました。すべての家が、いずれかの寺院に所属することが義務づけられていたのです。そのため、檀家を増やすことは、言わば「どこかのお寺の檀家を奪う」ことでもありました。そのタブー意識が現代においても残っているからか、「どうすれば檀家さんの次の世代も、お寺と関係をもってくださるか」は考えても、どのお寺とも関係をもっていない方にアプローチすることには積極的になれない感覚が、いまだにあるのだと思います。 とはいえ、最近になってようやく、お寺の側も意識が変わり始めているように感じています。明治以降も「家を継ぐ」という「家」意識によって、制度としては無くなったけれども実質的に「寺檀制度」は残りました。しかし、戦後の高度経済成長期以降、社会移動が進み、家族のあり方も核家族へ、そして最近では単身世帯が増える中で、「家」意識を生きた最後の世代の方々が世を去るのが目前に控え、やっとお寺の意識が変わり始めたのだと思います。 若い世代の僧侶ほど意識が変わり始めており、檀家さん以外にも開かれたお寺となり、様々な方にご縁を結んでいただこうと努めておられる僧侶が増えてきています。とはいえ、私たちの努力だけでは足りない部分を、このサービスが補ってくださっている。このことも有り難いことだと思うし、ご縁を望まれる方々のために、私たちもネットでの発信に力を入れていかなければならないと励みにもなっています。以上が(1)についての所感です。 次に、(2)についてですが、このサービスの仏教側との最大の争点は「お布施が定額であること」です。 「布施」とは、仏道修行の一つで、仏教の大切な教えの一つです。なので、上記の「僧侶とのご縁の結び方」とは本質的に異なり、核心的な問題であると言えます。「お布施が定額」ということに私も違和感がありますが、それでも「定額」でも良いと思うし、「目安」であればなお良いのでは、と私は思っています。理由は、以下の通りです。 「お布施は、お気持ちで」と耳にされたことがあると思います。布施とはまさに「お気持ちで」するものであり、本来の意味からすれば金額を提示すべきものではありません。ですが以前、檀家さんから「お気持ちでと言われたら、安く包んだらあかんと脅迫されてるように聞こえるねんで」と教えていただいたことがありました。それほどの「不安」なのだと檀家さんの立場から想像させていただけたご縁でした。布施には「財施」「法施」「無畏施」の三種があると説かれており、それぞれ「金銭や衣服や食料」「仏教の教え」「安心」を与えることです。僧侶は「不安を取り除き、安心を与える」よう努めなければならない。「お布施の相場がわからない」ことは不安だけれども、「定額」だと安心していただけるのであれば、そうしていただきたいと私は思うのです。僧侶も「お布施されるに足る」存在であれ また、これまでも純粋に「お気持ちで」お布施をされていたかというと、多くはそうではないと思います。各地域・各宗派で「相場」があり、僧侶が直接答えずとも、村の誰かに聞けば「相場」を教えてもらえた。ただ、現代において、特に都市部で暮らす方々は、「相場」を聞く相手がいなくなった。だからこそ「不安」になられるのだと思うし、その「村の誰か」の代わりを葬儀社の方がしていただいているのだと思います。 さらには、布施は「三輪清浄」でなければならないとも説かれています。施す者・施しを受ける者・施す物自体の三つが、清浄でなければならない。すなわち、見返りや欲といった執着、自分にとって都合の良い考え方を離れなければならないということです。「これだけお布施したのに」とか、「これだけしかお布施されなかった」という思いを離れて、布施と呼べる。「定額」であっても、それがそのまま「お気持ち」であることには変わりないし、まずは受け取る僧侶側が「サービスの対価」としてではなく、清浄なお布施として見ることから始めた方がいいのではないかなと思っています。 とはいえやはり、お布施が定額であることの問題点も残ります。小学生と社会人とでは1,000円の価値が違うように、いくらであっても定額にすれば「自分がお布施するには高すぎる」という方がおられると思います(逆もまたしかりです)。そうした方は、他のサイトをあたるなど、「定額」のサービスを利用しないのだと思いますが、例えば「イオンのお葬式」のように、「目安」として「相場」を提示することが一つの良案なのだろうと私は思います。先の「不安」のことを考えると、それぞれのご事情をお聞きし相談することによって幅を持たせつつも、なんらかの形で相場を提示することの方を重視すべきだと思うからです。  ところで、メディアでの取り上げられ方の影響からか、僧侶と言えば、厳しい修行をしているか、坊主丸儲けかという両極端のイメージがあると思います。「お坊さんは税金を納めていない」とこれまで何度も耳にしてきたましたが、「お布施」がそのまま僧侶個人の収入になるわけではありません。「お布施」は、仏さまに対して、宗教法人である寺院に対して収められるもので、仏教の道場である寺院の護持や、檀家さんをはじめとしたご縁のある方々のために役立てられるものです(ちなみに、住職は寺院から「お給料」をいただいて生活しており、所得税や市民税、国民健康保険料などは一般の方々と同じく収めています)。 知人の僧侶によれば、こうしたサービスの「お布施」の平均4割ほどが、「紹介手数料」として仲介業者に支払われると聞いたことがあります。ですが、「お布施」の中からそれが支払われるのは、おかしいと思うのです。もちろん、諸々の運営費がかかることから「紹介手数料」が支払われること自体はあって当然だと思いますが、それは「お布施」の細目からではなく、別項目として分けていただきたいです。少なくともウェブサイトを見る限りそのようには明示されておらず、お申し込みされる方が「お布施」と思って収められる金額の中から「紹介手数料」が差し引かれることは、先の「お布施」の目的から外れると思ったためです。 他方で、財施をいただく僧侶も、当然ながら「お布施されるに足る」存在であることが求められます。法施と無畏施、すなわち教えを説き、安心を与えることが僧侶の務めですが、かつての檀家さんのように、ご住職との継続的な関わりの中で仏事や仏教の教えに親しんでいる方だけの場であれば、葬儀の場で改めて何も言わずとも伝わっていたことも、そうしたご縁がほとんどない現代の方にとっては、例えばお経の意味をはじめ、分からないことだらけだろうと思います。時間が限られた場ではありますが、そうした方たちのために、私たち僧侶は精一杯の努力をしなければなりません。出来る限り人に、悲しみに寄り添う 静岡県伊豆の国市の渡邉元浄ご住職は以前、フリーマガジンの特集記事に、ご自身がなされている、実に「温かみのある」お葬式について寄稿してくださいました。訃報が入ると、法衣に着替えご遺体のあるご自宅へ向かわれます。夕方の6時。お部屋の照明を消し、ロウソクの灯だけに包まれた室内で、読経をされた後、ご遺族は渡邉さんのお念珠を順番に手に持って、目の前の亡き方への想いや、今の心境を語られる時間を持たれるとのことでした。お通夜・お葬式の会場は、お寺の本堂。祭壇の脇には故人が生前描かれた絵手紙や、趣味のフラダンスの衣装を並べられます。また、会葬者の方たちには、お通夜とお葬式に際しそれぞれ12ページにわたる冊子を毎回手作りされています。 拝見させていただきましたが、お通夜やお葬式の意味が懇切に示され、式中に読まれるお経にはふりがなと和訳を添えておられて、またその方の法名の由来や、お寺の旅行でご一緒された際の故人のお写真もあり、実に行き届いた冊子だと感じ入りました。さらには、グリーフケア、すなわち大切な方を失われたことによって生じる、悲歎をはじめとした様々な感情のケアにも積極的に取り組まれておられ、お通夜・お葬式だけでなく、四十九日・月命日・一周忌・三回忌などご法事のご縁も重ねられる中で、「喪の伴走者」としてご遺族とともに歩まれているお方です。 人に寄り添う、悲しみに寄り添うことは、私たち人間には限界がありますが、渡邉さんをお手本として、安心を与えられるよう、出来うる限りのことをさせていただかなくてはならないと改めて思わせていただいたご縁でした。 また、法話で仏教の教えをお話させていただくことも、僧侶が関わる葬儀ならではの良さだと思っています。ここでも同様に、初めて法話を聞く方、初めて仏教に触れる方にとっても分かりやすいように、私たち僧侶は努めなければなりません。冒頭で書いたように私は浄土真宗の僧侶ですが、私の先輩の僧侶が次のようにおっしゃっておられました。「お浄土があって良かった。お寺の仕事が忙しくて、父親の見舞いに十分に行くことができず、後悔の中でお通夜を迎えた。でもその時の法話の中で、改めてお浄土で再会することを味わった。最期のお見舞いもそうだし、生きているうちに出来なかった親孝行を、お浄土で存分にさせていただける。また会える世界があって良かった」。 浄土と聞くと、科学的な価値観からは受け入れられないかと思いますが、その世界観の中に生きるからこその安心があることもたしかだと、私自身も感じています。葬儀に際して極力伝わりやすいように努めはしますが、すぐには共感することは難しいだろうとも思うので、できれば生前中から仏教に親しんでいただけたらなと思います。仏教の世界観を生きることで、ご自身の死、ご家族との別れの意味はむなしいものではなくなり、仏教ならではの安心も与えられると思うからです。 長くなりましたが、以上が(2)についての所感です。互いに批判せず、お互いを敬おう これまで記してきたように、私たち僧侶は、これからは特に、一般の方々の視点に立つ意識を持たねばならない、一般の方々の思いに寄り添わなくてはならないと思っています。以前は、決まった檀家さんと長きに亘ってご縁を育んできたため、何も言わずともご理解いただいている部分が多かったように思います。そこに甘えたまま、ご縁のなかった方に同じように接したら、供給者目線が強すぎることになる。受け手の視点に立つためにも、一般の方々の声に耳を傾け続けなければならないだろうし、また、僧侶だけで考えるのではなく、葬儀社の方や、一般の方々とパートナーになって、一緒に考え、行動していくことが必要だろうと思います。 「寺子屋ブッダ」という、お寺イベントの情報サイトを運営している組織があります。お寺がもっと身近で楽しく、あたたかな場所であるために、様々なクリエイターと僧侶が一緒になって活動をしているチームです。以前、フリーマガジンの別の号で特集した佐々木教道ご住職は、このクリエイターの方々と一緒に考え、様々な活動に取り組まれている方でした。「仏教の本質でありながら、一般の方々にも響く言葉」を見つけるために、合宿を何度も重ねられたとのことです。こうしたお話をお聞きする中で私が深く感じ入ったのは、佐々木ご住職も一般の方々のことを理解しようとし、クリエイターの方々も仏教のことを理解しようとする、双方がお互いをリスペクトするあたたかさでした。 お葬式も、僧侶だけではなく、葬儀社の方々のご協力の元で、そしてご遺族や会葬者が集われる中で執り行われます。「お布施」の問題にしても、あるいは「ご縁の結び方」にしてもそうだし、互いに批判するのではなくて、お互いを敬いながら、「どうすれば三者のいずれにとっても良いお葬式になるか」を、一緒に考える時間を持ち、協働していけたらと思っています。みんなでつくるお葬式、いいですよね。 仏教はまだまだ縁遠い存在のため、考えても分からないこと、動き出さないと分からないことがいっぱいあると思います。この度の「お坊さん便」も、動き始めたからこそコミュニケーションが生まれました。これからの更なる対話を通して、多くの方にとって安心が増えるように、私自身も努めていきたいと思っています。わかばやし・ただと 浄土真宗本願寺派僧侶。1982年生まれ。京都大学大学院修士課程修了(社会学専攻)。光照寺(大阪市東淀川区)衆徒。2015年4月より「フリースタイルな僧侶たち」代表を務める。「フリースタイルな僧侶たちフリーマガジン」オンライン版http://www.freemonk.net/http://p.booklog.jp/users/freemonk

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    「罰当たり」アマゾンの拝金主義を問う

    ネット通販大手のアマゾンから申し込める僧侶の派遣サービス「お坊さん便」をめぐり波紋が広がっている。宗教行為の「商品化」への反発が仏教界から上がるが、一方で日本人の「お寺離れ」を食い止めるチャンスと期待する声もある。日本人の心をも金儲けのネタにするアマゾンの拝金主義を問う。

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    「注文」される僧侶が明かすアマゾン僧侶派遣サービスの実態

    るようになりましたが、「高額なお布施をとって外車に乗って贅沢している坊さん」や「京都の祇園で飲み歩く宗教貴族」というのは存在はしていますがごく一部で、実際のところは住職の過半はそれだけでは生活が成り立たず「兼業」しているわけです。田舎で育った方は、学校の先生がお寺の住職さんだった、なんて経験を持っている方は少なく無いでしょう。しかも寺の基盤は原則世襲され、他の土地に移ることも容易ではありません。 最近は格差の固定化ということが社会の問題として話題になることが多いのですが、住職の世界はそれよりずっと階層化され固定化された格差社会と言うことも出来ますし、私のように外からこの世界に入った人間には不思議なのですが、なぜかこの格差を是正しようと言う取り組みや問題提起は仏教界からほとんどなされることがありません。 だからといって別に卑屈になったりしているわけではありません。私が所属している宗旨は浄土真宗(真宗大谷派)ですが、元々宗祖の親鸞聖人は山を降りて民衆と共に歩まれた方ですから、一人の労働者として生計を立てつつ、住職として御門徒(いわゆる檀家のこと)と一緒にお念仏の道を歩むということを、かえって大切に思っている住職も多いのです。 とは言え現代ではそれが困難になりつつあるのも実態です。何しろ生計の成り立たない寺は地方の人口減少地にあることが多く、そこでは働き口を見つけるのも大変ですし、兼業では雇い主の理解をうるのも簡単ではないでしょう。 家族の中に他に僧侶がいてうまく仕事を分担できればいいのですが、それが出来ないと平日は都市部の会社に通って、土日は田舎に帰って寺の仕事という一年中休みなしの生活。葬式が入れば上司に頭を下げて仕事を休んで駆けつけるという住職も少なくありません。 この手の苦労話は働き盛りの年代の住職が集まればよく話題になります。お寺のことをもっと一生懸命にやりたいと思っていても経済的な事情がそれを許さないのです。 そして、私もそんな中のひとりだったわけです。ウェブサービスの受託開発という副業をしながら住職をしていた私にとっては、こうした派遣だろうと定額だろうとなんだろうと「お坊さんとしての仕事をしながら家族を養える」可能性のあるサービスは魅力的に思えました。意外だった「僧侶派遣サービス」の実態意外だった「僧侶派遣サービス」の実態 そんなわけで登録した「僧侶派遣」ですが、早速矢継ぎ早に依頼が入ってきて東奔西走の毎日が始まりました。 当初こういうサービスを選ぶ人というのは、坊さんなんか付き合いたくもないけど儀式上仕方なしに呼んでいるのだ、と思っていました。実際にこれらのサービスの中には「檀家になる必要がなく一回限りのご縁」ということを「売り」にしているものもあるのです。 しかしそれは勘違いでした。通夜や法事では通常法話をしますが、みなさん本当に関心を持って頷いて聞かれ、様々なことを相談して来られるし、少なくない方がその後の法事の依頼もされます。手紙を頂いたりもっと話を聞きたいと言われる方も少なくありませんでした。 よくよく考えれば地元の付き合い寺との関係やしがらみもないのに、数万円という安くないお金を払われてこうした「サービス」を申し込むというのは、仏教のことを大事に思っているという証拠です。 「仏教が大事なんじゃなくて、亡くなられた方のことを思ってのことだろう」と言われる方もあるかもしれませんが、お葬式はともかく法事はお坊さん無しでする人も今は多く、わざわざネットで探して依頼するというのは、そこに何かしら仏教への気持ちがあるのだと思うのです。 何しろ随分いろんなところに行きましたから、その中から近くのお寺の法話に参詣されたり、仏教書を読まれる方も出てこられました。浄土真宗の法話案内というこのインターネットの法話案内サイトや、響流書房という仏教書の電子出版の取り組みも、こうした人達との交流から必要性を感じて始まったものです。寄せられる批判の声 こうした「派遣で坊さんしています」という話は隠さずいろんな人に話したのですが、住職仲間からは相当批判されました。結構激しい喧嘩になったこともあります。 批判する人の思いはよく理解できます。おおまかに言うと、(1)お布施が定額というのは本来の姿に反している。(2)業者へのお布施のキックバックの問題。(3)葬送儀式が疎かになるのではないか。 というだいたいこの三点に集約されるように思います。中でも一番は(1)の問題で、お布施はそもそも自由意志によるものだという原理原則論です。額が決められてしまったらそれは法要儀式の商品化に繋がるし、払えない人は排除されてしまうのではないかという懸念です。 これについては慎重な議論が必要ですが、実際のところはお布施は自由意志とはいいながら結構「定額」になっている部分も少なくないのです。例えば多くの寺院が取り組んでいる「納骨堂」はどこも大きさによって「◯◯万円以上」とお布施額が決められていますし、トップである本山そのものが「割り当てられたお布施」を末寺に課している事実もあり、「院号」の申請も定額です。 それらをこの問題と一緒にはならないと思いますが、少なくともお布施は自由意志という「原理原則」は、かえってこちらの都合で割りと勝手に破られてきたようにも思います。 依頼される方についても大体はお気持ちというよりも、親戚やお寺に詳しい人に聞いたり、ネットで「相場」を調べたりして額を決めているのではないでしょうか。 額を決めると払えない人が排除されるというのはその通りです。ただ、ネットでこういうサービスを申し込んだ人は、お寺とのつながりが無いがゆえに、どこに頼んだらいいのかもわからず、更に僧侶を呼んだら法外なお布施を要求されるのではないかという恐れがあり、その不安からためらっていた人が多いのです。 一部ネットで言われるように「戒名に百万円請求された」なんて事は「そんなのマジかよ絶対にありえねぇ!」「そんなのはごく一部だろ、一緒にするな!!」と思う僧侶がほとんどでしょう。しかし、事実としてそういうことをした僧侶はいたわけで、不安を与えてきた私達の有様は事実です。 額を決めることで排除される人もいれば、額を決めないことで排除される人もいるのです。定額が僧侶を呼ぶ不安を軽減して仏教に出遇う道を開いたのなら、それもひとつのお布施のあり方として認めてもいいのではないでしょうか。 (2)のキックバックの問題については、私は業者を紹介料を払うのは当然だと思っていますが、少なくとも依頼者に対しては、どこまでがお布施でどこまでが紹介料であるのかを明示するべきだと思っています。 以前はこのどこまでが紹介料でどこまでがお布施なのかということが明示してある業者もあったのですが、現在は消えているようです。なのでここであえて明らかにしますが、皆さんがこれらのサービスを利用して僧侶に「お布施」を払うと、その中から通常3割から5割、平均で4割くらいがキックバックとして僧侶から仲介業者に払われます。 (3)の葬儀儀式が疎かになるというのは儀式を執行する僧侶次第という面もありますが、経験上これらの業者による葬儀式は設備の回転を高めるために無茶な組まれ方をすることが多く、確かに指摘は当たっていると思います。法事にしてはその限りではないでしょう。共感する僧侶共感する僧侶 そんな中で色々と喧嘩しながらもやって来ましたが、「俺達のシマを荒らすのか」みたいな明らかに理不尽な批判は数えるほどで、批判する人は殆どが葬儀を大切に思って、なんとかご遺族の悲しみに向き合う場を維持したいという思いにあふれた人ばかりでした。それらのこだわりや優しさに触れることが出来たのは自分の僧侶人生の中でも特に得難いことでした。 一方で、共感してくださる方もあったのです。これは「開教寺院」と言われる、最近になって建立されたお寺の方々です。開教寺院は門徒さんゼロか極少ない段階からスタートしますが、戸別訪問して布教するというような形態はとれませんから、多くのお寺はお葬式を通じて門徒さんを増やしていくのです。 こうしたお寺は地元の葬儀屋さんと良好な関係を維持して、葬儀を紹介してもらう中で仏教を伝えていきます。つまり葬儀が布教の場ということです。 そう言われると嫌な感情を持たれる方も少なく無いと思いますが、私たちはご遺族の言葉にならない程深い悲しみの場に何度も身をおくと、人間の「寄り添い」の限界を感じますし、それを知らされる度に、本当の仏様の慈悲を伝えたいとやはり思うのです。 開教寺院の人もずっと定額のお布施やキックバックという問題に悩んできました。しかしある意味で、仏法を伝えるという大きな使命の前にそのことをあえて「呑んできた」人たちです。名刺を持って葬儀屋さんに営業に出かけて頭を下げて来た人たちです。だから様々な問題は問題として共有しながらも、お互い共感と苦労話は尽きることはありませんでした。 私はある研修会で大寺院の住職さんから「葬儀屋に頭を下げて門徒を増やすようなみっともないマネはしたくない」と言われたことがあります。しかし、みっともなくてももっと大事な事があるからするのです。何もしなくても葬儀法要の依頼が入り、ハイヤーで寺に迎えに来てもらえるような人には、到底わからないでしょうが。 私はこういうお坊さんがいることを知ってほしし、これらの人もまた、一人ひとりの仏道を歩んできた尊い人です。批判する人も、賛同する人も、共に如来に動かされて来た人たちです。僧侶としての歩み 最近知り合ったある住職さんは、「それでも自分にはお布施の額を言わないというのは自分にとっての最後の砦なんだ。やっぱり定額は受け入れられない」といいました。葬儀のお布施を開けたら5,000円だった時も文句ひとつ言わなかったそうです。 私たちは僧侶であるにもかかわらず、出家もしてないし酒は飲むし結婚はするし、自分の生活のことも考えるし子どもを学校にも行かせなければなりません。会社でデスクを並べて仕事をしている人の中にも僧侶がいるかもしれません。もちろん宗派によっては一定期間修行をしたり剃髪したりということもあるでしょうが、普段の生活において僧侶でない人と僧侶にはほとんど差異はありません。 そんな私たちになぜ何万円も払って法事に呼んでくださるのか。それはそこに深い仏教の教えがあるとどこかで感じてくださっているからだろうと思います。 だから私に限って言えば別に商品と思っていただいても構いません。Amazonの「みんれび」をはじめとする僧侶派遣サービスには大きな問題のあることを認めつつ、「でも、求められたら私は行き、出来る限り悲しみに向き合い、その中で仏法を伝えるために最大限の努力をします」という事になります。 それが受け入れられないという人がダメだと言っているのではありません。何処に「僧侶」「住職」としての私を置くかという問題だと思うのです。 そして、こうしたネットでの僧侶派遣サービスというのは、寺院間の固定化された経済格差をある程度解消し、お寺の仕事で生計を立てて仏法を弘めたいと思っていてもなかなか叶わなかった人に、突破口を与える機会になるのではないか、という期待もあるのです。 もちろん上に上げたような問題性や、地域性の問題もありそう簡単には行かないだろうという現実も知っています。しかし世の中のあらゆるサービスがインターネットを窓口とした大資本に収斂されることは、猛烈な勢いで進行中の事実で、お寺だけがそれで無縁でいられるとは思いません。 ならば今度はそのフィールドで自分のできることをするというのも、ひとつの住職としての生き方ではないでしょうか。最後に 最後に、これを読まれている一般の方へ。僧侶から法外なお布施を要求されるなんてことは、話題になりがちですが本当にごく一部の話です。 各宗派の本山に電話してくだされば地元のお寺を紹介してもらえます。敷居が高いのは申し訳ないかぎりですが、amazonでクリックする前にこちらも是非検討してみてください。私の所属する真宗大谷派はこちら。http://www.higashihonganji.or.jp/link/kyoumusho/浄土真宗の法話案内を構成するメンバーは浄土真宗の僧侶ですが、それで良ければもちろんいつでも相談は伺っています。下記メールアドレスまでいつでも連絡ください。support@shinshuhouwa.info(法話案内ブログ「私はAMAZONで「注文」される僧侶【瓜生崇】」を転載しました)

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    嫌われる電子世界の「アマゾン教」

    化から格安合戦にいたるまで様々な展開が繰り広げられている。祈りの歴史からの開放 人類の過去の歴史は、宗教と非常に密接しており、生活の主要な一部というよりも、働くこと以外は、ずっと祈り続け、将来の不安を払拭してきた歴史である。しかし、産業革命以降、工場で働き、会社に通うという習慣の中で、「祈り」という行為そのものが、生産的効率的なものとは思われなくなってきた。かくして、今日の日本においての祈りは一部の人を除いて、先祖への祈りしか存在していない状況となった。 「祈り」は日常から、非日常へと変化し、お盆や命日などの特別な日と歳事による慣習のものへと変化した。同時に、誰もが「祈り」が本来のものではなく、行事化、イベント化しているので、中身よりも、形式を重んじるようになってきたともとらえることができる。僧侶との付き合いも、感謝の念を生産物がない人は、金銭でお渡しすることしかできないので、自分の収入に見合わせて考えるのではなく、お布施の「相場」というものが登場する。僧侶が「相場」で判断され、サービスが売買されている時点で、有り難みという尊さは無くなっていると筆者は考える。 また、僧侶も人生の糧としてのお布施だから、経営的に成立する価格を求めはしないが、期待することだろう。「電子」という名の安物感「電子」という名の安物感 今回のAmazonの「お坊さん便」の一番のメリットは、「相場」だったものを「定価」にすることのわかりやすさだ。しかし、「ありがたい行為」だから相場だった僧侶が、定価による「サービス」化がなされたことで、当然有り難みは希薄になる。しかし、実際に「効果」がまったく同じであれば、「相場」よりも「定価」の方が安心だろう。まだ、実際に「お坊さん便」によって、先祖の供養の満足度が落ちたという報告は現れていない。通販でお坊さんを呼ぶ、通販で呼ばれるお坊さんに対して、我々が慣れていないだけなのかもしれない。 「メール」といえば、手紙を指す言葉ではなく、「電子メール」のことを言う。「ギター」といえば、エレキギターのことを言う。生ギターやアコースティックという言葉をわざわざ置き換えるようになった。Amazonもかつては、「電子商取引」と呼ばれ、今や「ネットショップ」の大手である。しかし、「電子」や「ネット」と呼ばれている間は、まだ本流ではないのだ。「商店」という名称も、今後は「ネット商店」が主流になると、「リアル商店」「リアルスーパー」とかでないと通用しなくなるだろう。かつての「デパート」の響きの持つ、楽しいワクワクした百貨店のイメージはもうどこにもない。それだけ選択肢が増え、多様化しているからだ。同時に、電子やネットの持つ、安物感も、慣れ親しんだ歴史が重ねられることによって、希薄になりつつある。図書館の限られた書物で検索するのとGoogleで検索するのとどちらがフレッシュなのか?とか利用目的によって、情報の価値は大きく変化する。 ネットでお坊さんを呼ぶのと、電話帳で調べて、電話でお坊さんを呼ぶのと実はあまり大差がないのだ。違いがあるとするならば、弔いたいと思っている人が、簡単に便利にしたいのか、懇切丁寧に弔いたいと思う違いだけだと思う。それは、僧侶の仕事ではなく、あなたがた親族の仕事だと思う。

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    「お坊さん便」は宗教活動と言えないのに、仏教界はなぜ反発するのか

    島田裕巳(宗教学者) 「みんれび」という葬儀会社がアマゾンを通してはじめた「お坊さん便」というものが注目を集め、また騒ぎを引き起こしている。 お坊さん便は、法事・法要の際に僧侶を手配するというサービスである。何よりものウリは、費用というか、布施の額が決まっていることで、一律税込みで3万5000円である。 みんれびのホームページを通して申し込むと、この3万5000円の「お布施」は直接僧侶に渡すことになるが、アマゾンを通すとチケットを買うようになっていて、依頼する側が紹介された僧侶と打ち合わせを行うことになる。 これはあくまで初七日以降の法事・法要のための僧侶の手配であって、葬儀の際のものではない。ただ、みんれびのホームページでは、葬儀の際の僧侶については5万5000円以上で手配するとしている。ほかに、戒名については2万円でアマゾンからチケットが販売されている。 注目しなければならないのは、その注意書きのなかにある「菩提寺とのお付き合いがある方はご利用になれませんので事前にご確認ください」の箇所である。 ここにこのサービスが生まれた何よりもの理由があるわけで、お坊さん便は、特定の寺に墓がなく、壇家関係を結んでいない家をターゲットにしている。檀家になっていないので、法事・法要に呼ぶ僧侶がいないのだ。 それも、現代の社会では、とくに都市部を中心にそうした家が増えているからである。新たに墓を設けるという場合、寺院墓地にそれを求め、檀家になるという家は少ない。なにしろ檀家になれば、寺のスポンサーになるわけで、建物を修理するなどという際には、かなりの額の布施を求められる。 そこで多くの人たちは、いわゆる「民間霊園」に墓を求める。こうした民間霊園の母体はたいがい寺なのだが、石材業者やデベロッパーが管理運営しており、「宗教宗派を問わず」という形で募集され、檀家になることを求められない。寺が母体になるのは、宗教法人ではないと墓地の許可が下りないからだ。 お坊さん便は、布施の額を一律にしたことで、布施の額をどうするかで悩む人たちの不安を解消している。布施は本来なら、出す側が、自分の信仰心や経済力を勘案して額を決めるものだが、一方で「相場」というものがある。相場よりも安い布施だと、坊さんから突っ返されるなどという話も聞く。 しかも、3万5000円はそれほど高いわけではない。2万円の戒名なら安い。そういう受け取り方をされているはずだ。 ところが、お坊さん便に対しては、仏教界がかみついた。各宗派の集まりである全日本仏教会は、「宗教行為を定額の商品として販売することに大いなる疑問を感じる。定額にすることによって『お布施』本来の宗教性を損なう」として、アマゾンにお坊さん便の中止を要請した。 仏教界にとって一番困るのは、お坊さん便が定額であることで、それが信仰心を伴う布施ではなく、料金の支払いと見なされることである。そうなると、僧侶が法事・法要を営むことが、宗教行為ではなく、商売としてとらえられる恐れが出てくる。「お坊さん便」のシステムは別に革新的ではない それは、たんに認識やイメージの問題にとどまらず、課税にも結びついていく可能性がある。それぞれの寺は、宗教法人として認証されており、宗教活動については課税されない。一方で、宗教法人を維持するために行われる事業、たとえば駐車場の経営などは、収益事業と見なされ、そちらには法人税が課税される(軽減税率だが)。 おそらく、一般の人たちは宗教法人に対してはまったく課税されないと思っているかもしれないが、僧侶は宗教法人に雇われた形になっていて、源泉徴収もされる。一般の勤め人と変わらないのだ。 それでも、宗教活動にまで課税されれば、それは、宗教法人としての寺にとって困ったことになる。 実際、お坊さん便のシステム全体を見ていくと、これでは、とても宗教活動とは言えないように思えてくる。 だいたい、みんれびのホームページでは、税込みとされているし、アマゾンでは関東への配送料無料となっている。いったいここで言う税込みとは何のことだろうか。布施なら消費税などかからないはずだ。その点では、全日本仏教会が抗議するのももっともだ。 しかし、お坊さん便のシステムが革新的なものかと言えば、そうではない。 葬儀の場合、檀家になっていない家は、葬儀会社に導師となる僧侶を紹介してもらうのが一般的だ。それに、最近は葬儀を頼む側が、ネットで調べて安い葬儀会社を選ぶことが多い。その点で、お坊さん便と変わらない。 面白いのは、お坊さん便が、僧侶との関係がその時限りのものであることを強調している点である。仏教界はむしろここを批判すべきかもしれない。お坊さん便で法事・法要をしてもらったことを契機に、依頼する側が仏教に対する信仰をもつようになることが望まれるはずだからである。 結局のところ、お坊さん便は、現代における葬式仏教のあり方を、一つのビジネス・モデルとして表現したものに過ぎないのではないか。 ビジネス・モデルが作れるということは、それだけ、一般の人とお寺なり、仏教なりとの距離が、極めてドライなものになっていることを意味する。 お坊さん便は、宗教家を呼ぶものではなく、何かの専門家、たとえば、修理屋や庭師、電気屋や水道屋を呼ぶのと変わらないものになっている。 もしこれに需要があるとすれば、多くの人たちがそれでいいと考えている証になる。 仏教界がそれでは困ると考えても、現状はすでにそうなってしまっている。しかも、お坊さん便がはじまると、自分もお坊さん便になりたいと希望する僧侶が殺到したと聞く。 仏教界は抗議をする前に、なぜこうしたシステムが生まれたのか、徹底してそれを分析する必要があるのではないだろうか。

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    大阪・西淀川のおもしろ住職は人気者 地域に根ざし「こころ塾」

    感謝の意を述べた。だが、ここに至るまでは様々な紆余曲折があったという。DJは宮司・住職・牧師 ── 宗教を超えたラジオ番組話題に西栄寺東京別院の榎本勝彦さん、空手を教えている多彩な活動を繰り広げて地域に貢献 「西栄寺」は異端とも言える実践型のお寺だ。8年前から山田博泰住職が西栄寺大阪本坊内の西栄寺会館で「こころ塾」を始めた。毎月第4水曜日の開催だが、今年7月で100回目となった。 100回目の時、挨拶に立った山田住職は「第1回目は次元が低かった。でも、ここに来れば、いろんな出会いがあり、ぬくもりがある。今日は100回目、1回目からずっと来ておられる方もいます。4名の方が皆勤賞です。こうして皆さんの温かいご支援で100回を迎えることができました」と話した。山田博泰住職、多彩な活動で地域に貢献 イベントでは僧侶たちの西栄寺バンド生演奏で住職がサックスを吹くなど、会場を盛り上げた。同寺では葬儀やお墓などのよろず相談をはじめ、相続問題など無料法律相談、さらにカラオケ同好会、空手道場、囲碁クラブといった多彩な活動を繰り広げて地域に貢献している。ここに至るまでにいろんなドラマがあった「こころ塾」100回目のイベント、バンド生演奏で盛り上げる、サックスを吹くのは山田住職 東京にも進出し、現在、大阪で4つ(大阪本坊、尼崎本坊、堺支坊、西宮支坊)、東京で1つ(東京別院)を展開し、「お寺のフランチャイズみたいなもの。お寺の広がりとともに様々な活動も広がっています。こういう展開をしている寺はどこにもないでしょう」と、東京別院の責任者、榎本勝彦さんは語る。 僧侶でありながら、空手も教え、「365日、24時間体制でやっている。大阪から東京に進出したわけですが、大阪と東京の文化の違いはある。関西人は会った瞬間から引き合いますが、関東は互いの距離を大切にする。ただ、人間の根本は同じです」と語った。 大阪本坊は3つ目の場所であり、「8年前、ここに来た時から『こころ塾』を始めました。ここに至るまでにいろんなドラマがあった。周りから嫌がらせを受けたこともありましたが、我々はきちっとやっていこうと思った。我々の活動を一般の方々が認めて下さった。寄付とか副業とかではなく、お布施をお預かりしてやってきし、逆境を跳ね返して、それをバネに一歩一歩歩んできました」(榎本さん)と、これまでを振り返った。これから200回を目指します また、「お寺は高い位置にあると思われがちですが、うちは同じ目線で市民に寄り添う形のお寺です。今の時代、いかに地域の方の要望に応えられるか、それによってお寺の発展が決まる」とも。 新しいことが大好きな山田住職は「これから200回を目指します。そして地域に貢献させて頂く。来年、介護センターを開業します。決してお金儲けではない。苦労なさっている人への手助けになればと思っています」と、意気込みを述べた。(文責/フリーライター・北代靖典)

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    アマゾンが始めた「お坊さん便」 そのシステムと利用者の感想

     インターネット通販大手・amazonは、本や家電、食品などあらゆるものが買える便利サイトだ。12月8日、ついに「お坊さん」までがそのラインアップに加わり、ワンクリックで注文、「お布施」はクレジットカードで決済できるようになった──。 その名称は「お坊さん便」。四十九日や一周忌といった法事(法要)の際に、読経を行なう僧侶の手配サービスだ。 料金は、自宅など手配先への訪問のみなら3万5000円。自宅から墓地など手配先からの移動を含む場合は4万5000円。プラス2万円で戒名を授与するプランもあり、全国どこにでも手配が可能だという。 法事や葬儀の際に僧侶に払う「お布施」は、金額が決まっているものではない。そんな中、2009年に流通大手のイオンが葬儀の仲介業を始め、お布施の目安を公開。これが人気を呼び、明朗会計を謳う仲介業者に対するニーズが拡大している。「お坊さん便」を運営する「みんれび」も、そんな仲介業者の一つだ。同社の取締役副社長・秋田将志氏がいう。 「都市部では菩提寺がなかったり、不明朗な料金体系に不安を抱く人が少なくありません。そうした声に応える形で金額を明示した『お坊さん便』を始めたのは2013年5月。現在は浄土真宗、曹洞宗、真言宗など7宗派、約400人のお坊さんを手配可能です。 今回、amazonに出品したことで、より多くのニーズに応え、購入者がサイトに感想を書き込むレビュー(評価)によってサービスの向上を図っています」 どうやって僧侶は“配送”されるのか。まずはamazonで商品を購入する。支払いはクレジットカードの他、コンビニ決済やネットバンキングなども利用可能。みんれびから確認のメールが送られ、日時や目的、宗派を返信すると、注文内容が書かれたチケットが郵送で届く。 その後、僧侶本人から購入者に電話があり、待ち合わせ場所の確認、故人についてのヒアリングが行なわれる。そして当日、指定場所まで僧侶が来て、法事が執り行なわれる。お布施以外の車代や御膳料(食事代)なども料金に含まれており、追加料金は一切かからない。 最近、「1時間配送」を始めたamazonだが、「お坊さん便」は事前打ち合わせなどが必要となるため、最短で2週間前からの購入となる。また初回は宗派の指定はできるが、僧侶の指名はできない。2回目の利用から僧侶の個人名で“注文”できる。「お坊さん便」を利用した神奈川県在住の男性(64歳)はこう語る。 「妻の一周忌で利用しました。初めて会った僧侶が妻を供養してくれたことに違和感はありませんでした。地方出身者で菩提寺がない、お坊さんとの個人的な付き合いもない人には、利用価値はあると思いました」関連記事■ 伊藤淳史が僧侶を演じる映画公開へ 山本美月、溝端淳平も挨拶■ H本大量保管の祖父のため葬式で「棺の中にH本を」と僧侶■ 月9主演中の山下智久 ドラマの最終的な展開はまだ知らない■ 戒名は本来生前につけるもの 自分自身で決めても構わない■ 動物のために出家したペット霊園僧侶 動物専用火葬炉を調達

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    滝行にマリア観音? 寺改革で檀家数を3倍にした愛知の住職

    はん)図や、水滴の反響音を楽しむ水琴窟を置いた。マリア様は“マリア観音”として「祈る心はみんな一緒。宗教に隔たりはない」と、ストレス社会に生きる人たちを、広くサポートする。滝行に臨む参加者ら(妙乗院提供) 改革の象徴的なものは、滝行ができる滝場。6年前、同所の庭に整備するとマスコミからの注目を集め、今では月に80人ほどが利用するようになった。 「改革に取り組み始めたころは、檀家さんから『変なことをしない方がいい』と言われた」そうだが、寺のファンを増やすなど成果が現れるにつれて「認めてくれた」という。それを裏付けるのが、現在の檀家数。改革を始める10年前に比べて3倍の600に増えた。 これらの取り組みなどが評価され、英字新聞「The Japan Times」が、「2015―2016 アジアにおける100人の次世代リーダーたち」の1人に酒井さんを選んだ。 そのインタビューで語った夢は東南アジアの発展途上国に児童養護施設を作ること。その夢の実現のため、現在の住職という地位を捨てる意向を表明し、従来の寺運営に悩む住職には、これまでの改革のノウハウを踏まえた助言をする考えも示した。 「私は多くの人が将来への希望が持てるようにお手伝いしたい。子どもたちの笑い声は大人に希望を与える。その子どもにチャンスを与えたい」と、未来を描く。(斉藤理/MOTIVA)