検索ワード:家族/28件ヒットしました

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    松居一代が教えてくれた夫婦のカタチ

    この夫婦の泥沼劇はいつまで続くのか。女優、松居一代と俳優、船越英一郎夫妻の離婚騒動が連日のようにネタにされている。「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」とは言うけれど、ここまでこじれにこじれてしまったら、もう止まらない。それにしてもつくづく思うのは、「夫婦のカタチ」っていったい何なんでしょう?

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    「愛なき結婚は不幸」松居一代が教えてくれた現代ニッポンの幻想

    佐伯順子(同志社大大学院教授、女性文化史研究家) 「君子の交わりは、淡きこと水の若し」とは、『荘子』の言葉であり、相手に立ち入りすぎない冷静な人間関係は、「淡交」(たんこう)という茶の湯の精神にも生かされている。 この理想が最も大切なのは、実は夫婦の間柄ではなかろうか―。メディアをにぎわせる松居一代さんの夫婦関係をみると、そう痛感させられる。彼女が夫とのなれそめをトーク番組で熱く語っていたとき、視聴者の多くは、彼女の熱烈な愛が報われたと思ったのではなかろうか。結婚式で笑顔をみせる松居一代さん(右)と船越英一郎さん ただ、今の状況は、「可愛さ余って憎さ百倍」という言い回しそのものであり、そのギャップに視聴者は驚きながらも関心を抱いてしまい、情報番組のネタにもなってしまう。 だが、相手に執着がなければ、女性の側も、自ら情報発信してまで、トラブルをさらすはずがない。憎しみという形であれ、愛着が残っているからこそ、相手のことに触れたくなってしまうのである。 愛が心底さめてしまえば、相手のことなどどうでもよくなり、無関心に落ち着く。逆説的であるが、相手を大事に思えばこそ、長く一緒にいたいのであれば、愛しすぎるのも考えもの、ということになる。 そもそも、夫婦関係に「愛」という感情的な高まりを明確に必要条件として入れたのは、日本では明治の近代化以降である。それまでは、結婚は家の継続、出産による子孫の確保が第一目的であって、当事者の感情の高まりなど、その目的のためには邪魔でしかなかった。 身分を超えた恋を自由にされたら、社会的立場に応じた家の存続は保証できない。ドラマが描く戦国時代の政略結婚をみれば、結婚に愛など必要とされていなかったことがよくわかる。 だが、愛なき結婚は不幸であり、身分社会は封建的な抑圧である、誰もが平等であり、誰とでも恋愛して結婚できるのが、自由な近代社会である、と明治の知識人は信じた。そうした考え方が多くの人に広まり、現代人の多くは、結婚には愛が必要だと思い、今に至っている。 しかし、恋愛結婚だから離婚しないという保証がないことは、現代の離婚率からも明らかなのであり、むしろ古いと思われる見合い結婚のほうが、最初から結婚相手としてふさわしいかどうかという冷静な判断にもとづいて相手を決めるので、情熱恋愛はないとしても、関係が長続きするという考え方が、復活のきざしをみせている。旅行会社のパンフに婚活ツアーという文言が踊るのも、それゆえであろう。過度な愛着が危険を呼ぶ いや、そもそも結婚という行為自体が、人生に必要なのか、という考え方さえ台頭している。日本社会における生涯未婚率は上昇しており、結婚しない人生も珍しくはなくなった。歴史的にみれば、長男以外の男性は結婚しにくい時代もあったのであり、人間全員結婚するのが常識、という皆婚(かいこん)社会は、普遍的なものではない。 歴史に照らせば、未婚化もあながち特殊とはいえず、当事者が結婚の必要を感じなければ、この価値観の多様化した時代に、結婚を強制される筋あいもなくなる。キリスト教はさすがに、人間、神様が命じてくれないと、結婚しなくても生きていけると気づいてしまうと、あらかじめ予測していて、神の名のもとに夫婦愛しあい、子孫を残すことを奨励したのではないか。※写真はイメージ 逆に仏教の考え方によれば、釈迦は妻子を捨てて出家し悟りを開いたのであるから、家庭は執着のもとであり、結婚なんぞしないほうがいい、いっそのこと子供ができない男色がいいと、江戸時代にはおおっぴらに言われていたほどだ。 そのような歴史的背景のある日本社会で、未婚化が進んでいるのは必然とも思われるのだが、一方で、高齢化社会を迎え、何歳になっても恋愛、結婚に前向きな人が増えているというニュースもある。 著名な女優さんや文筆家の方が六十代で結婚されたという情報もメディアをにぎわせている。熟年期の結婚は、家の存続や子孫の確保という過去の結婚目的とは異なり、パートナーと一緒にいたいという感情の純粋な発露といえようか。 少女漫画でロマンチックな恋愛、結婚観を刷り込まれた世代としても、こうした現象は理解できるし、国際社会を見渡しても、現フランス大統領夫妻の例は、男性の経済力と女性の若さや性的魅力の交換という打算的結婚とは異質である。 ドラマから映画化もされた『昼顔』が描く夫婦像では、逆に夫には経済力だけを求め、感情的、性的満足を婚外恋愛に求めるパートナーシップも描かれているが、少女漫画世代としては、それも殺伐と映る。 経済成長が滞り、男性の安定収入に依存しきれない社会においては、むしろ夫婦間の精神的絆の価値が見直され、それは熟年結婚という形で具体化しているようにもみえる。相手への過度な愛着がかえって危険であることも、熟年だからこそ悟っているのではないか。 結婚、恋愛観がかくも多様化している時代、大事な相手と末永く一緒にいるためには、流れる水のようにさらりと付き合うことが幸せの秘訣かもしれない。

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    夫婦って何? 松居一代と船越英一郎の「泥沼離婚」が問うもの

    碓井真史(新潟青陵大学大学院教授) 夫婦は憎み合うものなのでしょう。夫婦は激しく対立し、いがみ合い、裁判沙汰(ざた)になり、時に殺し合いさえします。なぜなら、夫婦は最も近くにいる他人であり、そして本来は愛し合う運命共同体だからです。おしどり夫婦といわれた芸能人夫婦が破綻などすれば、世間はそれをドラマのように楽しみ、また教科書のように自分の教材とする人もいるでしょう。松居一代さん 恋愛はすばらしいものです。しかし、感情は心理学的に言えば一時的です。恋愛感情も一時的です。一緒にいるだけで幸福感を覚え、見つめられるだけで心臓がドキドキするような感覚がずっと続いたら、日常生活ができません。 親しい二人の人間関係には友情もあります。友情は好意的な感情だけですが、恋愛感情は、もとから愛と憎しみが入り交じった複雑な感情です。友情は、時間がたつほど深くなります。ところが、恋愛感情は時間がたつほど薄くなるものです。だから、結婚は感情だけでは続けられません。 結婚は、恋愛関係とは異なる契約関係です。法律の話を持ち出さなくても、結婚式には誓いを立てます。「病めるときも健やかなるときも、貧しきときも富めるときも、生涯愛し続けると誓いますか」と結婚式では決心を迫られます。どんなに大恋愛中の二人でも、今の気持ちだけでは結婚生活を続けられないので、互いに誓い合う契約関係が結婚なのです。 契約関係なのですが、事前に明確な契約書を交わすわけではありません。互いに、何となく相手に期待しているだけです。その期待通りに相手が動いてくれればよいのですが、そうとは限りません。恋愛中は、彼女のおしゃべりを楽しく聞けた男性も、結婚後になると妻のおしゃべりがうるさく感じて聞こうとしないこともあります。新婚当初は毎日手間暇かけて作っていた愛妻弁当も、次第に作らなくなることもあります。思っていたのとは異なる結婚生活が始まるのです。 仕事も家事も子育ても、二人で話し合って二人で協力し合うことが必要です。しかし問題は、会社のような上司と部下の関係ではないことです。学級会のように多数決で決めることもできません。平等な関係の対等な男女が二人いるだけなのです。王子様なんてどこにいる? 妻も夫も相手に期待しているものがあります。理想の妻として「昼は淑女のように。夜は娼婦(しょうふ)のように」といった言葉もありますが、実現は難しいでしょう。私の王子様だと思って結婚したのに、王子様とは程遠い男の生活ぶりに幻滅する妻もいるでしょう。 愛していて、期待していたからこそ、裏切られたときの失望はとてつもなく大きなものになります。勝手にイメージしていただけなのですが、相手に失望し、結婚生活に絶望することもあるでしょう。 現代人は、昔と比べて大量の情報を持つようになりました。自由に行動できることも増えました。同時に、人間関係能力は下がってきました。そんな現代の男女二人が共同生活をするのですから、トラブルも当然です。かつては妻の当然の義務とされていた事柄が、現代社会では義務だとは考えられません。夫は昔ながらに妻の義務だと感じていて、妻は義務ではないと感じていれば、衝突は激しくなるでしょう。本当は話し合いが必要なのですが、それには高い人間関係能力が必要になります。 話し合うためには、聞くことと話すことが必要になります。男性は、自分の思いを話す「自己開示」が少なく、女性のそれは多いといわれています。男性はひと言足りなくて失敗し、女性はひと言多くて失敗することがあるでしょう。男性は自分の不満を話さずに怒りをため込み、爆発することがあります。女性は、自己開示の量が過剰でタイミングが悪いこともあります。 疲れ果てて帰ってきた夫をつかまえ、猛烈な勢いで語る妻。夫は、妻の話が聞けなくなり、拒絶します。人は心を開いて話しているときに拒絶されると激しく傷つきます。気が強い人なら怒り出し、気の弱い人なら泣き出すでしょう。 また、女性は話し合うことで問題を解決しようとし、男性は話さないことで問題を解決しようとします。妻から問題の話題をふられると、夫は「オレがせっかく忘れようと思っているのに、なぜ蒸し返すのだ!」と腹が立ち、聞こうとしません。そうすると、妻は「せっかく解決しようと思っているのに、なぜ逃げるの!」と怒ったり悲しんだりします。本当は二人とも問題解決を願っているのに、互いに相手が問題解決を願っていないように感じるのです。男たちは苦しんでいないのか さまざまな面で異なる男女が一緒に暮らすのですから、すれ違いも当然です。このストレスを、人は他の人に話すことで解消してきました。男たちは会社帰りの赤ちょうちんなどで憂さを晴らし、女たちは井戸端会議でグチをこぼしてきました。ところが、今この二つとも少なくなってきています。 そこで、インターネットが登場します。「だんなデスノート」がその代表でしょう。「だんな、死ね」といった文章がたくさん並びます。ここに書き込むことでストレス発散になっている人もいるでしょう。また苦しいのは自分だけではないと、慰められている人もいるでしょう。ただし、井戸端会議とは異なり、匿名の世界だという問題があります。(画像はイメージです) 匿名の世界では言葉が乱暴になります。また少数の仲間に話すのではなく、不特定多数に話すことになります。仲間内のおしゃべりはストレス解消になりやすいのですが、このようなネットの世界で語ることは、時にますます怒りや攻撃心が高まるきっかけになることもあるので、要注意です。ただ男性としては、妻たちがこれほど怒り苦しんでいることは知るべきでしょう。 では、男たちは苦しんでいないのでしょうか。妻たちの中には、私がこれほど泣いたり怒ったりしているのに、夫は何とも思っていないと感じてさらに感情的になる人もいます。しかし、男の中には泣きも怒鳴りもしないけれども、心の中では傷ついている人もいるのです。ただ、その思いを表現していないだけの男もいるのです。 心理学的には、より良い夫婦を望むなら、次の事柄が大切だといわれています。まず、相手への感謝の言葉を言い続けること。相手の目標達成を具体的に応援すること。そして、実現不可能な夢を求めるのではなく、実現可能な目標を立てて一歩ずつ進むことです。最後に、これらのことを相手の態度に関わらず、自分の側が努力することです。 そのようにすべきだと説教するつもりはありません。ひどい相手もいます。離婚も現代では普通です。ただ、より良い夫婦であることを願うなら、これらのことが効果的です。夫婦関係が難しい現代だからこそ、私たちは学び、互いに努力することが必要なのでしょう。

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    「爆発妻」となった松居一代に残された選択肢は二つしかない

    いのは夫であって、私は正しい。好きでキレたわけではなく、夫が私をキレさせた。(2)「私は今までずっと家族のために頑張ってきた!」 家事や育児といった日常生活での細かい部分を全面的に担ってきたのは私。私が時間とお金を犠牲にして頑張ってきたからこそ、夫だって自分の仕事に集中できたはずなのに!(3)「私の存在のありがたみを理解してほしい!」 家庭がうまく回っているのは私の努力のおかげ。それなのに、感謝もされなければ、女性として扱ってくれる機会もめっきり減った。私がいなければ困るクセに! このような言い分の元、抑えきれない感情の高ぶりが「爆発妻」を誕生させると言っていいでしょう。 ちなみに、爆発妻ほどの激しさやエネルギーは持っていないものの、「それでも誰かに一言、夫のグチを言いたい。わかってもらいたい」という女性が投稿する『だんなデスノート』というサイトがあります。自分の夫への不平不満を匿名で投稿し、ストレス解消の一助にしているという女性も増えています。愚痴が過熱しすぎて… ただし、言葉の過激さにつられて自分の中の負の感情をコントロールすることができず、自分で自分の気持ちをヒートアップさせてしまった揚げ句、「もうこんな夫とは離婚するしかない!」と思い詰めるケースもあるのでSNSの活用法には注意が必要です。あくまでも「笑い」に変えることのできる範囲内の表現でグチを吐き出すのがポイントでしょう。夫で俳優の船越英一郎との離婚報道を否定した、女優の松居一代=2016年1月13日、東京都世田谷区 いずれにしても、爆発妻となって、自分の感情を含んだ夫への悪口雑言をぶちまけ、それが夫の知るところとなった場合、妻に与えられた選択肢は2つあります。「妻の言い分が通り、夫との関係が改善される」「夫婦関係に決定的なヒビが入り、修復不可能な領域に突入する」という天国か地獄のどちらかが待っています。 自分の中にくすぶっていた感情をぶちまけるのは必ずしも問題解決にはなりません。むしろ、次の大きな問題を生むこともあるのです。実際に、妻の暴言がきっかけで離婚に至ったケースをこれまでにいくつも見てきました。 かつては「誰のおかげで生活ができると思っているんだ?」「専業主婦のお前に何がわかるんだ?」といったモラルハラスメントに代表される男性の暴言が目立っていましたが、最近は女性側の暴言による夫婦間のトラブルも増えています。誰でも気軽に意見を発信することができるというのはSNSの良いところではあります。ところが、よかれと思って自由奔放に発言したことが、めぐりめぐって「離婚」という形で跳ね返ってくることもあるのです。 一般的には、離婚をする場合、お互いに話し合って離婚に合意する「協議離婚」という形をとることがほとんどです。話し合いが決裂したときは、家庭裁判所で話し合い「調停離婚」で結論を出し、それでも決まらない時は、「裁判離婚」となって争うことになります。 実際に、協議離婚の段階では「暴言があったかどうか」よりも「不倫の事実を知っていたかどうか」がもめる原因となるケースが多いようです夫の浮気が暴言の一因に 例えば、妻が暴言を吐くきっかけとなった理由の1つに夫の不倫があるとします。つまり、妻が夫の不倫を知っていて協議離婚になったケースでは、妻は「勝手に不倫をしておきながら、離婚をして自分だけが幸せになるなんて許せない!」と、離婚に対してなかなか納得することができません。夫の不倫を知らずに別の理由で協議離婚にいたったケースとは異なり、そこには「浮気夫」への恨みつらみが別の感情として新たに加わるため、「裁判までもつれたとしても、絶対に別れないから!」とこじれることが多い、と専門家からも聞いています。通夜に参列した松居一代=2012年11月1日、兵庫県西宮市(彦野公太朗撮影) 協議離婚と調停離婚が不調に終わると、次は裁判離婚になります。裁判離婚は係争が数年に及ぶことも珍しくないなど、長引くことが前提とされています。また、結婚生活の長さや夫婦がともに築いてきた財産の多さなどによっても争点が変わるため、落としどころが難しいとも言われています。 例えば、結婚後に築いた夫婦の共有財産については、「夫が仕事で成功をつかんだ背景に、妻のひたむきな努力があった」ということも考慮され、離婚の際には折半しなければなりません。今回の松居さんと船越さん夫婦の場合、莫大(ばくだい)な財産をどうするか、ということが大きな問題になります。さらに、そこに「感情面でどう折り合いをつけるか」というやっかいな問題もプラスされるのは明らかでしょう。 「裁判離婚は、お金と感情が絡めば絡むほど長引くもの」とは、業界でささやかれている暗黙のルールです。お互いの妥協点を見いだすためにも、事情を理解した弁護士をつけることが裁判の流れを変えるカギになるかもしれません。 離婚は、こじれた夫婦関係を解決する唯一の選択肢ではありません。しかし、離婚という道をかたくなに拒むことで得られる幸せが大きいか、というとそこにも疑問が残ります。 大切なのは、爆発妻のいたらなさを責めたり、妻を満足させられなかった夫に罰を与えたり、といったことではありません。「どういう生き方をしたら、これから自分自身が幸せに心穏やかに毎日を過ごしていくことができるのか」ということを、夫婦がお互いに思いやりを持って考えることです。そうすれば、その先に必ず希望の光は降り注いでいるはずです。

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    だんなDEATH NOTE 運営者・死神さんに開設理由聞いた

    「今すぐ死ね」「地獄に落ちればいいのに」…。名前を書かれた人は死に至るという、マンガ『DEATH NOTE』に登場した「デスノート」を模した投稿サイト「だんなDEATH NOTE」。そのあまりの闇っぷりが話題になっている。書き込むのは夫に死んでほしい妻たち。夫に対する嫌悪と殺意に満ちた過激な内容に反発し、ついにはラブラブ夫婦の書き込みサイトまで登場する騒ぎに。夫へ死んで欲しいという願いを書くホームページ「だんなデスノート」のトップページ「6月末に“オフ会をやる”ということが周知され、『旦那を殺す相談か。何を考えてんだ!』と非難轟々、アクセス数が急上昇したんです」 サイト運営者の“死神”さんは、30代半ばの独身男性だ。「現在、サイトに登録している会員は約1万人。投稿を含む1日のアクセス数は5万ほどです。投稿に対するコメントは、誹謗中傷やネガティブな内容のものについては、ぼくが全部削除しています」 子供の頃、母から父の悪口を聞かされて育ったトラウマとホスト勤務の経験から妻向けサイトを立ち上げたという。「女性って、悩みを相談するときに、実は解決策も共感も求めていないんですよね。話を黙って聞いてくれるだけでよかったりする。投稿で、少しでも吐き出してもらえれば…と。嫌悪の裏には、夫へのねじれた愛情もある気もしますけれどね」(死神さん) 「今の時代、このようなサイトが流行るのはよくわかる」と言うのは、心理学者で『どうしても「許せない」人』(ベストセラーズ刊)などの著書がある加藤諦三さんだ。「投稿をしている人には2タイプあると思います。1つは本気で死んでしまえと思っている人、もう1つは、夫への敵意に依存心が潜んでいるケースです。つまり、殺してやりたいほど憎いのだけれど、本当に死んでもらっては困る。悩む人にとって最大の救いは“悩み続けること”ですから、投稿することで少し溜飲が下がる。しかし、『私はこの問題を解決できない』という無力感は深刻化する。 それを夫のせいにして憎しみで蓋をする。人間の心理的成長とは、問題解決能力の成長です。まず、自分と向き合うこと。問題解決に向けて一歩踏み出す勇気を持たない限り、幸せにはなれません」(加藤さん)関連記事■ 中国の豚骨スープと喫煙に関するあまりにもひどいジョーク■ 米で人気の素人カップル動画投稿サイト 登録・投稿は5ドル■ 作家デビューの近道か 『ビリギャル』産んだ自伝投稿サイト■ 内職系仕事 ツイッター1クリック1円~動画投稿1万回千円~■ 「素人H写真投稿は平和だがAVはある意味残酷」と杉作J太郎

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    松居一代だけじゃない!「復讐予備軍」の妻たちはこんなにもいる

    継ぐが、孫ができようがひ孫ができようが、夫婦だけはどこまでいっても他人のままなのだ。ただ、「夫婦」「家族」とくくられてしまうため、「他人ではない関係」と当人たちも思い込む。そこで生じるのが、「愛情に名を借りた支配」なのではないだろうか。 実際、夫を束縛し、その束縛から逃れようとする夫を支配し、最後には復讐に至った妻たちに取材をしたことがある。「なんとなく夫の様子がおかしい、浮気しているんじゃないかと疑った時期がありました。疑心暗鬼になって夫の携帯電話をこっそり見て…。決定的な浮気の証拠ではないけど、どうやら親しい女性はいるみたいで、SNSのメッセージのやりとりを見て、頭に来ちゃって。自分がないがしろにされている気がしたんです」 キョウコさん(40歳)は、ため息をつきながらそう言った。夫は外で好きなことをし、自分は3人の子を育てながらパートで働く身。自分ばかりが損をしているという日常的な不満がベースにある。夫を「抹殺」するわけにはいかない 彼女は夫と自分のスマートフォンを操作し、夫に来るメールやメッセージを自分も見られるようにした。もちろんGPSで夫の居場所も常に分かる。幸い、夫はスマホ操作が苦手だし、キョウコさんがスマホに詳しいことも知らない。「仕事かプライベートか知りませんが、繁華街に繰り出したり女性と食事したりしていることが分かって、ますます腹が立ちました。証拠を全部まとめて夫に突きつけたんです。でも夫は認めない。私はますます証拠探しに躍起になって、ある日、子供たちを母に見てもらって退社後の夫を尾行しました」 夫はとあるレストランで女性と待ち合わせし、軽く食事をするとタクシーで移動、女性を駅で降ろして一人で別のダイニングバーに入った。1時間ほどで女性と身を寄せ合うようにして出てきたところを捕まえた。「夫は私を見るとあっけにとられたような顔をして、『なんだよ』って。『あなたこそ何よ、何人の女とつきあっているわけ!?』と殴りかかると、女性はそそくさと逃げていく。待ちなさいよと叫んでつかみかかってしまいました。悔しくてたまらなかった」 夫は二人とも仕事の関係で会っていただけだと釈明したが、キョウコさんには信じられなかった。さらに夫のスマホを分析、ついに不倫相手を特定した。そして彼女が勤める会社に「お宅は家庭ある男と不倫密会を重ねる女を雇っているのか」と文書を送りつけたり、彼女の住んでいるマンションの周りに「不倫女」と書いた写真付きのビラを貼ったりした。「もちろん彼女のSNSに、みんなが見えるように『あなた、不倫なんてやめたほうがいいですよ、彼の奥さんと子供が泣いてますよ』と匿名でコメントもしました。単に私が嫌がらせするくらいじゃ気持ちがすまない。彼女の社会的抹殺を図りたかったんです」 悪いのは自分の夫だと彼女は分かっている。だが、夫を社会的に抹殺するわけにはいかない。生活がかかっているのだから。 キョウコさんは大恋愛で結婚したという。それなのに十数年の結婚生活で、夫は他に女性を作ってしまった。自分だけを見てくれているはずだったのに、そういう約束を交わしたのに…と歯がみする夜が何度あったことか、と彼女は唇をかんだ。 結局、夫は不倫を認めなかったが、どうやら女性とは別れた様子。ただそれ以来、妻への不信感は募っているようで、冷戦状態が続いている。「旦那死ね」は浮気だけじゃない 恋に落ちてこの人と離れたくないと強く思い、結婚に至ったはずなのに、夫婦となった瞬間、恋愛感情は薄れていく。愛情を育むことを忘れて、互いをわかりきっているつもりになり、パワーバランスが乱れていく。 30代主婦たちが中心になっている「旦那死ねサイト」には、夫に死んでほしいと願っている妻たちがさまざまな書き込みをしている。自分の手を下す気はないが、出先で夫に死んでほしいと願う妻たち。もちろん、心の底からそう思っているかどうかは別として、夫からのストレスが大きいのは確かなようだ。「旦那死ね」に対して激しく共感している妻たちが多いことに、世の夫たちは真剣に向き合った方がいいのではないだろうか。「浮気だけじゃないですよ、私たちが『夫がいなくなればいい』と思うのは」 子育て真っ最中のリナさん(37歳)は、怒ったような表情でそう言う。「仕事を言い訳にして子育てしない、家事をしない。私だって働いているのに自分がかまってもらえないと子供よりひどい駄々をこねる。こんな夫、いらないと思うことが多々あります」 子供が大切だから家庭の形は壊さないでおくが、リナさんはいつか復讐してやると息巻く。「知り合いの70代女性は、夫が体の自由が利かなくなったので、若いころの恨みつらみを今、夫にぶつけているのだそうです。浮気ざんまいで家を顧みず、あげくお金でも苦労させられたから、これからは自分が復讐する番よ、とうれしそうに話していました。それを聞いたとき、ああはなりたくないと思いながら、私もそうなると確実に感じましたね」 「復讐予備軍」の妻たちはたくさんいるのである。

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    不倫調査を探偵に依頼する女性、箱入り娘から慰謝料目的へ

    『調査報告書』と書かれたA4用紙28枚のレポートをめくると、“不貞の証”が克明に記録されている。愛人の自宅マンションの出入り、食事の様子、手をつないで歩く姿、そして路上でのキス…。膨大な数の写真が、妙齢男女のプライベートを映し出す。「クロですね。スケジュール、滞在先も含めて、ほぼ事前情報通りでした。明日、報告書を依頼人にお渡しした段階で、われわれの仕事は終了です」 7月初旬の昼下がり、東京都内の喫茶店で本誌・女性セブン記者に淡々と話すのは、ある探偵会社の社長だ。その1週間前、本誌は彼らの調査に密着していた。東京から京都へ、東西360kmを行き来する2日間の密着取材だった。今回の依頼人は都内在住の40代専業主婦・A子さん。「商社に勤める5才上の夫が京都で愛人と不倫している。証拠が欲しい」 そう話し、夫の定宿の情報も探偵会社に提示していた。予想を上回る蜜月ぶりに、この結果を妻が知ればさぞ落胆するだろうと思っていると、社長がこともなげにこう言い放った。「依頼人にとっては想定内の結果なので、特に悲しまないと思いますよ。おそらくこれで離婚裁判も有利に進められるでしょうから」 不倫探偵の日常が、日本の夫婦の変質をまざまざと表していた──。 昨年のゲス不倫から始まったブームは今年も続き、渡辺謙(57才)と大阪の元ホステス、仲間由紀恵(37才)の夫・田中哲司(51才)と美人スタイリスト、と著名人の不倫報道が相次いだ。 そして今、最も世間を騒がせているのが、松居一代(60才)である。夫・船越英一郎(57才)の不倫疑惑をYouTubeで暴露するという前代未聞の行動に、国民の好奇な目が向けられている。なかでも注目を集めたのは、彼女の執拗な“独自調査”だ。「業者に頼んで船越さんの別宅マンションの鍵を開け、浮気の証拠とされる“恐怖のノート”や船越さんのパスポートを手に入れた。夫の不倫相手だとする女性が住むハワイを訪れて証拠探しまで敢行した」(スポーツ紙記者) 松居の行動力には《探偵も真っ青》《さながら不倫探偵》と驚嘆する声がネットにあふれたが、一方で芸能界のご意見番こと和田アキ子(67才)は「浮気の証拠が欲しいなら探偵でもいいのにね」と松居の行動を非難した。 松居への賛否はさておき、夫に不倫疑惑があれば、どんな手を使ってでも調べたいと思うのは当然のことかもしれない。現に、最近は不倫調査の依頼が増えた、と前出の探偵会社の社長は声を潜める。「松居さんの影響かどうかはわかりませんが(苦笑い)、このひと月は増えましたね。依頼者のほとんどは女性で、30~50代の主婦が多い」 同社によれば、現在、年間100日は不倫調査をしているという。昔に比べて依頼者の質も大きく変わった。「私が探偵を始めた30年前は、お金持ちの箱入り娘からの依頼が多かった。“自分は何もできないので、主人の真実を調べてください”と。実際に夫の不倫が発覚しても、胸に秘めて耐え忍んでいました。ところが今は、“裁判を有利に進める証拠が欲しい”というケースばかり。慰謝料や親権、養育費を得るための証拠固めとしての依頼です。ドライな夫婦関係が増えた気がします」(社長) スマホの普及やLINEをはじめとするSNSの発達で、昔より不倫の証拠集めが容易になった。昨今は証拠集めまで“DIY”(自分自身でやる)という女性が目立つ。「依頼前に、ある程度の証拠を集めているかたが多い。プリクラやメールといった定番だけでなく、夫がパソコンでラブホテルを検索していた履歴や、カーナビの目的地履歴などを持ち寄る人もいるほど。昔より妻の情報収集能力が格段に上がりました」(社長) 冒頭の依頼人・A子さんは、まさにその世相を表す女性だった。結婚22年目の主婦で、大学1年生のひとり息子がいる。商社勤めの夫・B氏の不倫には3年前から薄々気づいており、これまで地道に証拠集めを続けてきた。 夫婦間の愛情はすでに皆無。子供がひとり立ちした時点で離婚の意思を固めており、“詰めの一手”として、ママ友から紹介された探偵会社に連絡したという。「電話やメールで連絡をいただいたら、必ず1~2時間ほど面談して調査内容や対象者について深く話を聞きます。不倫調査なら、『異性との接点の確認』にとどめるか、『不貞行為の確認』や『不倫相手の特定』にまで踏み込むかで調査手段や値段が変わります。不貞確認の場合は“お泊まり”の現場を押さえる必要があり、日数がかかって費用が跳ね上がります」(社長) 調査員は徒歩と車かバイクの2人1組が基本。料金は1時間2万8000円で、3日間の調査でおおよそ40万円程度。調査員が1人増えるごとに1時間あたり1万2000円追加となる。A子さんは社長との面談で「不貞行為の有無」と「不倫相手の特定」を希望していた。関連記事■ 妻の不倫調査 48分と70分の短時間不倫に夫は気づかなかった■ 探偵会社の不倫調査2日間に完全密着 証拠はすべて録画■ 探偵が見た浮気の修羅場「愛人は実姉」「揺れる車に妻乱入」■ 不倫のプロが指南 絶対に妻にバレない「不倫の掟」■ 松居一代は入れないはず 船越の部屋から消えた恐怖のノート

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    もしサザエさん一家が3世代同居をやめたら

    放送開始から今年で48年目の長寿番組『サザエさん』。理想の家族像という設定も今は昔、最近は視聴率の低下がもっぱらネタにされ、ちょっと寂しい。それでもサザエさん一家をよーく観察してみると、実は古くて新しい発見が多々ある。もし磯野家が3世代同居じゃなかったとしたら? そんな想像を膨らませながら日本の家族の在り方を考えてみる。

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    なぜ波平の髪は一本だけ残ったのか 「欠点」だらけサザエさん一家の謎

    碓井真史(新潟青陵大学大学院教授) 「サザエさん」は、理想の家族である。ただし、みんなが「サザエさん」を目指せば良いわけではない。アンケート調査によると、「サザエさん」が理想の家族としたのは24パーセント、理想ではないとする回答が74パーセントだった(wotopi世論調査)。 ただし、ここで理想的ではないとするのは、家族が多すぎるとか、同居や専業主婦というあり方を問題にしている人が多いようである。「サザエさん」が理想的であるというのは、もっと心の問題だ。「サザエさん」は愛に満ちた家庭なのである。サザエさん一家の茶の間に自分自身を描き起こしてもらう、世界で1枚のセル画を手に入れられるという、三越伊勢丹が売り出した2015年の福袋(寺河内美奈撮影) たまにはケンカをすることもあるものの、「サザエさん」の家族には愛があふれている。近代社会における家族は、単に家系の存続、子孫繁栄のためにあるのではなく、愛によって結ばれた人間関係が基本だ。その意味で、「サザエさん」は家族そのものである。 ただし現代における家族の機能は、以前よりも小さくなりつつある。以前なら家族の役割だったことが、家族外の専門家に任せるようになったからだ。幼い子の昼間の子育ては、保育園。高齢者はデイサービス。食事も外食が増え、コンビニの弁当やおにぎりを食べる機会も増えている。子どもの勉強は、学校と塾だ。 その点では、「サザエさん」は古風なところが残っている。タラちゃんは保育園に行っていない(お母さんが専業主婦だから行けはしないが)。カツオもわかめも、塾にもお稽古事にも行っていない。カツオが宿題が出来ないとなれば、お父さんの波平が鉢巻をして手伝っている。「サザエさん」のアニメで、コンビニ弁当をみんなで食べるシーンはないだろう。 「サザエさん」は、古き良き日本の理想の家族と言えるだろう。波平が帰宅すると、妻のフネは、玄関に出迎える。会社に行くときは、身支度の準備も手伝っている。かつての日本では見られた風景だ。心理学の本でも読んでいるかのような理想像 理想の家族としての「サザエさん」は、時代に合わせて進化もしている。「サザエさん」は理想の家族ではないと考える人の中には、波平が厳格すぎるという意見もある。たしかに、カツオに説教するときには、畳の上に正座させて「バカもん!」と怒鳴りつける。これは、今時なかなかいない父親だ。 ただし、波平は怖いだけではない。子どもたちを深く愛しているのはもちろんだが、さらにどこかユーモラスである。厳格なだけではなく、そそっかしいところもあり、失敗もする。波平は失敗を素直に認め、照れ笑いしたりする。子どもたちは、怒られる時には怖い父親であっても、日常的に父親を怖がっているわけではない。 あまりに完璧すぎる家庭は、立派な家庭であっても、子どもの息がつまる。どこか抜けている部分がある家庭こそがすばらしい。心理学的に言えば、「ほどよい親」こそが良い親だ。 波平は、厳格だが優しく理解もある。父親参観日には、必ず学校にも行く。ある日のストーリーには、こんな話もあった。ワカメの父親参観日の授業が、ワカメの苦手な体育の跳び箱になった。ワカメは悩み、カツオが一肌脱ぐ。父親参観日を目指し、カツオの指導のもと、ワカメは跳び箱の特訓だ。 さて、父親参観日当日。ワカメは一生懸命チャレンジしたが、結局は失敗。学校から帰った後、ワカメはうつむいてお父さんに謝る。こんな時、波平が怒ったり不機嫌になったりするわけがない。娘の努力を認め、優しい言葉をかける。物事の結果ではなくプロセスこそほめるべきなのは、現代心理学でも提唱されている大切なポイントだ。 波平は、頑固な面もあるが、妻に対する配慮もできる。ある日、フネが言う。「私、英会話を習おうと思うの」。フネと英会話。これはミスマッチだ。普通の男なら、からかって笑ったり、反対したりするかもしれない。しかし、波平は決してそんなことはしない。「それは良いことだ」と認め、母さんが安心して英会話教室に通えるように家事も引き受けようと言う。娘婿のマスオも「ボクも協力します」と語る。年だから、女だから、主婦だから、だから英会話などするなとは、誰も考えないのがサザエさん一家だ。心理学の研究でも、夫婦が互いに相手の目標達成を具体的に応援することが大切だとされている。サザエさん一家は、心理学の本でも読んでいるかのように、私たちにあるべき夫婦像、親子像を示す。私たちが「サザエさん」から最も学ぶべきこと 「サザエさん」は理想の家族だ。今月も赤字だと嘆くシーンはあっても、辛い仕事を無理にしている様子はない。お父さんの会社は、自社ビルを持っているほどの会社だ。時々、うなぎを出前してもらったりもする。世田谷の一等地に、贅沢にも庭付き平屋一戸建てだ。大きなイベントには、家族みんなで出かけたりもする。 波平の頭はかなり薄いが、最後にてっぺんに残った1本は決して抜けない。家族は誰も大病しない。リストラもされない。泥棒が入ることはあるが、深刻な被害が出ることもない。子どもがゲーム依存になることもないし、LINEトラブルに巻き込まれることもない。家事も地震も津波も来ない。子どもたちはいつまでも小さくて可愛く、祖父母が認知症になったり要介護になったりすることもない。「サザエさん」は理想の家族であり、これからも変わらずに理想の家族であり続ける。 「サザエさん」は理想の家族。見習うことは多々ある。ただし、目指して良い「サザエさん」と目指してはいけない「サザエさん」がある。 「サザエさん」は、漫画(アニメ)だ。メルヘンの世界だ。「サザエさん」を理想として、あの家族を目指しすぎることは、かえって家族を迷わせる。現実の家族は、深刻な問題が次々とやってくるし、いつも笑顔ではいられない。男性が妻に対して、完璧なフネのような態度を求めるなら、うまくいくわけがない。 「サザエさん」は、基本的には古き良き日本の理想の家族を描くマンガなのだ。単純に目標にしてはいけない。私たちが家族に求めるものは、昔と今は異なっている。すでに、古き日本の姿を良きものとは見ない人もいるだろう。ただそれでも、私たちは家族に期待する。 私たちが「サザエさん」から最も学ぶべきことは、理想的な面ではなく、むしろ「ドタバタ」の面かもしれない。みんなそれぞれ欠点があり、失敗し、ドタバタしながら家族は進んでいく。現実の家庭は、深刻な問題が起き、変化し続ける。「サザエさん」の家だって、軽いトラブルは起き続ける。それでも、私たちの家族は「今日もいい天気」なのだ(「サザエさん」オープニングテーマ曲より)。

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    「絶滅危惧種」の磯野家に込めた長谷川町子の家族観がスゴすぎる!

    の激しかった戦後28年間なのである。敗戦によってアメリカ風の生活様式が奔流のように流入し、新憲法・新家族法(民法)が社会規範を変え、経済的繁栄は労働意識に影響を与えた。 長谷川町子はこうした社会変化を巧みに素材として取り込んだ。そうでありながら磯野家の家族構成は基本的に変わっていない。それで読者に違和感を与えないのは、読者とともに変化を受け容れつつ時代を歩む磯野一家が描かれているからだろう。長谷川町子さん=1970年11月19日 サザエは、単行本収録の第一話で、いかにも戦後期の明るくお茶目な若い女性として登場する。読者に紹介されるシーンで、ふすまを足で開けて現れるのだ。いささか不作法だが笑い話ですむ程度、むしろあけっぴろっげなうっかりぶりが好感を持たれる。この微妙なバランスが象徴的である。 サザエの結婚も終戦期としては多数派であった見合結婚である。しかし、両家がしかるべき紹介者を通して釣り書きを交わし、興信所で身辺調査をし・・・という名家の固苦しい見合結婚ではない。公開見合と称する紹介婚である。 日本人の結婚において恋愛結婚が多数派になったのは、1960年代後半からである。1959年、皇太子(今上天皇)の結婚が「テニスコートの恋」として大きな話題になった。しかし、記者会見で宮内庁の公報官は、これは恋愛結婚ではないと強調した。戦後まもなく「マスオさん現象」を見据えていた長谷川町子 名家の頂点に立つ天皇家が恋愛結婚などというはしたないことをするわけがない、という含意である。それならば、平安期の天皇の恋愛や結婚はどうなるか、という反論が予想されるところだ。 おそらく、そういう議論を避けるためだろうか、お二人は良家の子女として知り合い交流を重ねるうちに信頼と愛情がはぐくまれた、という説明があった。通常、それを恋愛結婚という。それでも、恋愛結婚という「刺激的な言葉」を避けたのである。 1960年代前半までは、恋愛をめぐる教養書がいくつもの出版社から出ている。社会思想社の現代教養文庫から1961年、哲学者の巻正平(まきしょうへい)が『恋愛の方法』という一冊を出している。 古今の哲学者・文学者の言説を引用し、恋愛とは何かを論じている。そうまでして恋愛の「方法」を解説しなければいけないのかと、現代人なら思うところだが、半世紀前はそんな風であった。私の手元にある同書は、1980年の第53刷である。実に1980年においてこのような本の重版が続き、しかもその時点で53刷に達していたのである。 サザエはマスオと結婚し、二人の間にタラオという息子がいる。サザエはフグ田マスオと結婚しマスオの姓を名乗っているから、正確には磯野家の一員ではない。ただし、磯野波平の家に二世代同居しているので、磯野家と言っても間違いというほどではない。写真はイメージ マスオは婿養子ではないのだが、実質的には婿養子のようなものである。こういう家族形態を2000年代に入ってから「マスオさん現象」と呼ぶようになった。地価の変動や家族構成の変化の中で生じた新現象だが、それは既に1950年前後に磯野家には胚胎していたのである。 『サザエさん』は、このように戦後の28年間、さらには連載終了後の21世紀でも、日本人の生活観・家族観を巧みに包み込んでいる。詳しく見れば時代の変化に合わなくなった描写もある。 サザエのパーマは、戦後10年もすればもう見なくなった強いカールである。ワカメのおかっぱ頭、カツオの丸刈り頭も、1960年代半ばには絶滅した。それなのに、今なおテレビアニメで不自然に感じない。一つにはそれがキャラクターとして確立されている、という面もある。しかし、変化を包み込むような家族観が描かれていたことが大きいだろう。これは長谷川町子の家族観であったかもしれない。

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    進化するカツオに隠された秘密、理想じゃない磯野家が長続きするワケ

    鳥越皓之(大手前大学 学長) 現代人の目からみれば、サザエさんの家族は「フツ―の家族」ではなく、「少し古いタイプの家族」と言えるでしょうか。三世代が同居しているし、サザエさんは働きに出ない専業主婦です。 古いのは当然です。サザエさんのマンガが最初に発表されてからすでに65年もたっているのです。それでも、なぜ、マンガからテレビのアニメに移行しつつ、そのまま長寿番組であり得ているのでしょうか。 実は「サザエさん」は65年の間に静かにその内容を変化させています。その変化のもっとも顕著なのはカツオです。彼は当初の単純ないたずらっ子から別の人格へと変貌を遂げているのです。第二次世界大戦後しばらくして経済の高度成長期を迎えた我が国は、その結果、社会の著しい変化に直面します。この段階に至って、作者の長谷川町子はカツオに別の人格を与え、あることを主張しなければならないと実感したのだろうと推察されます。そして、その後のアニメの作者たちもこのカツオの新しい人格を忠実に表現し続けました。 その新しい人格とは、「平凡教育の申し子」と言えばよいでしょうか。民俗学者の柳田国男は、教育というものを「平凡教育」と「非凡教育」に分類しました。平凡教育とは、村などのコミュニティーで生きていくためにみんなが同じようにマスターしなければならない内容のものです。昔の村で言えば、田畑の耕し方、魚の採り方、神様や目上の人に対する礼儀、異性への対し方、集まりでの雰囲気の作り方など、一言でいえば、「生きるための智恵」とも言えるものです。 それに対し「非凡教育」とは、他人と異なるように差別化し、競争を是とする考え方です。近代になって発達したこの考え方は、現在の社会では当たり前のように受け入れられています。そしてそれは学校教育に典型的に見られます。「知り合いのA君よりもよい成績をとりなさい」というように差別化していくことが非凡教育です。この非凡教育が教室内にとどまらず社会全体に広がると、人間関係はともすればギクシャクしがちになります。変貌するカツオ アニメ「サザエさん」から一例を挙げてみましょう。学校の運動会について、ワカメが駆けっこはビリになるから好きではないと、非凡教育にのっとった発言をします。それに対してカツオが、順位なんか気にすることはない、後で紅白まんじゅうがもらえるから、そっちのほうがよいではないかと、反論を展開します。これは、順位には重きを置かないという平凡教育的発言なのです。「サザエさん」のマンガやアニメには、現代社会に蔓延している非凡教育的発言が最初にあり、それに対するカツオの平凡教育的反論がしばしば登場します。このように「サザエさん」には、時代の情況に対してカツオの変貌で物申しているところがあります。 しかしながら、「サザエさん」では家族構成やその役割を根本的に変化させてはいません。「三世代同居の大家族、サザエさんは専業主婦」という枠は固定されています。一方、現代社会では次のような考え方が主流になりつつあります。確かに三世代家族はにぎやかでよい。けれども両親との同居は息が詰まって望ましくない。それよりも、親子二世代の夫婦家族は、親としての自分は生活が拘束されず自由でよい。ただ、自分たちの親(おじいさん、おばあさん)が近くにいると子供を預けたり、子育てのよいヒントをもらったりと便利である。つまり、理想は三世代近場居住型であると考えられつつあるのです。 専業主婦の方はどうでしょうか。現在の女性は働くことに積極的ですし、その親たちも娘が働くことに否定的ではありません。少なくとも子供ができるまでは働きたいということは当たり前の感覚となり、裏返せば、若い夫婦は共働きでないと生活が成り立ちにくくなってきたという社会的現実があります。 そうするとやはり、「サザエさん」の「三世代同居の大家族、夫は会社で働き妻は専業主婦」という家族形態は、理想像としてはすでに時代遅れのものとなっているということになります。その結果でしょうか、最近、テレビの「サザエさん」の視聴率が下がってきたという指摘も耳にします。なぜ「サザエさん」は続いているのか では、なぜ依然として「サザエさん」の番組は続いているのでしょうか。それは「サザエさん」は理想像ではすでにないのですが、やはりくつろいだ気持ちでこの番組にチャンネルを合わせ、家族で視聴して楽しめるからです。その理由は、私は「サザエさん」の持つ「間違いのなさ」ということではないかと考えています。楽しんで見ながら、そうだな、やはりそうでなくてはいけないよな、という、自分たちの共感できる、「間違いのない」「生きるための智恵」がそこに示されているのだと思います。 先ほど、カツオの変貌ということを述べました。「平凡教育」で教えてくれるようなこととは、私たちが「生きるための智恵」として大切にしなければならないものでもあります。三世代が同居し、一緒に食卓を囲み、会話のある家族。それは小さなコミュニティーであり、そこで演じられる内容には、「生きるための智恵」が示されやすいのです。「サザエさん」は「平凡教育」を正面から掲げて、それを伝えようとし続けているように思います。「生きるための智恵」に根ざしたストーリー、だから私たちはそれを見て心が落ち着くのです。 「サザエさん」は理想の家族像ではなくなった後も、理想のミニコミュニティー像として生きていると言えばよいでしょうか。それが今も「サザエさん」にチャンネルを合わせる理由ともなっているのではないでしょうか。

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    「サザエさん」の視聴率が急降下した本当の理由

    「サザエさんに心理的な共感を得られない」ことが一つの要因であると考えている。 サザエさん(磯野家)の家族構成は祖父母(波平・フネ)・父母(マスオ・サザエ)・兄妹(カツオ・ワカメ)・子(タラオ)という3世代同居の大家族である。男性陣はサラリーマンとして働き、女性陣は専業主婦(サザエさんがパート労働している回もある)として家庭を守っているという役割分担である。イメージしづらいサザエさんの世界 そもそも、アニメを多く見ている若年層としては、3世代同居の大家族というイメージは描きづらいだろう。「平成18年版少子化社会白書」(内閣府)によれば、「「三世代世帯」の割合は、2005年は6.1%である一方、「核家族世帯」の割合は57.9%となっている。圧倒的に多数派は核家族世帯だ。また、「単独世帯」の増加が顕著であり、同年29.5%である。 このことは、未婚化・晩婚化を背景に単身者が増加していることや、高齢化の進行に伴い高齢者の単身者が増加していることを反映している。現在では3世代同居どころか3割近い人が家族とすら同居していないのだ。大家族の姿はとうの昔に一般的でなくなっている、といえよう。 また、「2012年度男女共同参画に関する世論調査(内閣府)」によると、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に反対と答えた人は45.1%であり、1992年の34.0%から11ポイント程度上昇している。すなわち、磯野家の働き方に半数近くの人「NO」と言っているのだ。 さらに、労働力調査(総務省統計局)によれば、「夫婦のいる世帯数」に占める「夫が雇用者、妻が無業者の世帯」の割合をみると、2002年は31.1%だが、それ以降は低下傾向にあり2012年では27.0%となっている。 一方、「夫婦のいる世帯数」に占める「共働き世帯」の割合は、2002年では32.9%だが、2003年以降はほぼ上昇傾向にあり、2012年では35.8%と、共働き世帯が増える傾向が読み取れる。もはや家事の一切を切り盛りするおちゃめなサザエさんの姿は、少数派になりつつある。 サザエさんでは、波平や町内の頑固おやじがカツオたちを怒鳴り散らすシーンがよく見られるが、現在では「児童虐待だ」などと言われかねない。昨今は迷子の子供に善意で声をかければ「変質者」扱いされることもあると聞く。「知らない大人に叱られる」という経験自体が少なくなっているのだ。 カツオたちの遊びは野球などのスポーツが中心だが、都会の公園では危険防止のため球技が禁止となっていることも多い。「騒音禁止」と、子どもの声を制限するところさえある。また、サザエさんは原作の世界観から、スマホはおろかPCやTVゲームなどもほとんど描かれない。カツオに至っては学帽をかぶって通学しているくらいだ。アニメの視聴者層である子どもからしてみれば、実生活とのかい離に面食らってしまうだろう。 サザエさんの生活、例えば買い物では、魚屋さんや八百屋さんなど、いわゆる屋号のつく個人商店でのやりとりが多く描かれる。しかし、いまや大型ショッピングモールやコンビニで、また自宅に居ながらネットスーパーで買い物を済ませる時代だ。平成初期の生まれがアラサーになりつつあるなか、このような日常生活の描写の何から何まで、若い世代から見ればピンと来ないのだ。サザエさんはどこに向かうべきかサザエさんはどこに向かうべきか それでは、サザエさんの時代設定を現在に合致させれば視聴率は回復するのだろうか。波平は定年後の再雇用で嘱託として年下の部下の下で働く。マスオさんは職場と家庭のストレスでメンタル的に不調気味。代わりに家計を助けるべくサザエさんが派遣社員として働くも、熱を出したタラオの世話で欠勤しがちとなり契約更新がなされない。カツオは中学受験に失敗し、そんな兄を反面教師に受験勉強に勤しむワカメ。タラオは待機児童となりフネが面倒を見ている… 残念ながら、そのようなサザエさんを見ていても日常の疲れやストレスが溜まるだけで、誰も見たいと思わないだろう。現代の若者に迎合しても、どうも共感は得られなそうだ。近年サザエさんに「ギャル男」のようなキャラクターが出てきたり、堀川君(ワカメの同級生)の奇行がネット上で話題となっているが、そのような奇をてらった演出には限界があるといえる。 そもそも、原作の漫画のストーリーとアニメのそれは性質が異なるという指摘もある。漫画ではサザエさんが選挙活動を手伝ったり、波平とマスオが料理や洗濯に取り組むも失敗するなど、男尊女卑を風刺するような描写が目立つ。これはサザエさんの原作が戦後間もなく連載開始されたという時代背景もあるが、サザエさんは元来、単なるお茶目な若いお母さんではないのだ。一方アニメでは、フネさんを「日本のお母さん」と扱うような場面が描かれ、さながら「古き良き日本の家族」という位置づけを狙っているようにも見える。 しかし、理想の家族像は個々の家族の価値観や判断に任されるべきものであり、国家やメディアによって示されるようなものではない。前述したように家族のあり方は多様化しており、例えば子育てについていえば、祖父母の支援がある家庭もあれば、保育園やベビーシッターなど外部のサービスを利用しながら、仕事などに忙殺されている家庭もある。部屋はぐちゃぐちゃ、髪形や化粧が乱れるそんな生活においても、子供の寝顔にふっと癒される。それも家族における現状の一つである。 サザエさんがあるべき家族像を押し付けている、とは言わないまでも、長年にわたり不変の家族像を描き続ける物語が、ややもするとステレオタイプ的な印象を与えているとは言えまいか。「これが我が国の理想の家族なんだ」と上から目線で説教されている感覚に近いのかもしれない。仮にそうであるとするならば、サザエさんで描くべき家族の在り方とはいったい何なのか、立ち止まって分析し、一考する余地はあるだろう。【参考記事】■「圧迫面接」は御社の経営を「圧迫」します!(後藤和也 産業カウンセラー/キャリアコンサルタント)http://sharescafe.net/48964354-20160629.html■やっつけの社員研修が死ぬほど勿体ない理由。 (後藤和也 産業カウンセラー/キャリアコンサルタント)http://sharescafe.net/48789835-20160607.html■我々が就活生を応援すべき理由。 (後藤和也 産業カウンセラー/キャリアコンサルタント)http://sharescafe.net/48765717-20160604.html■「みんな同じで、みんな良い」社会の暑苦しさとは。 (後藤和也 産業カウンセラー/キャリアコンサルタント)http://sharescafe.net/48677243-20160524.html■「育休でもボーナス満額」で男性の育休取得は促進されるのか。(後藤和也 産業カウンセラー/キャリアコンサルタント)http://sharescafe.net/48294119-20160406.html

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    タラちゃんどうなる、サザエさんが働きに出た!

    く、女性が働くことが当たり前になってきたことの反映といえます。 サザエさんのおうちは、今では珍しい大家族。タラちゃんも最初はさみしいかもしれませんが、うちにフネさんがいて、カツオ、ワカメちゃんも学校から帰ってくれば面倒をみてくれる存在です。だからこそ、本来はサザエさんが働きやすい家のはずです。 保育園を探すサザエさん、お友達と楽しく遊ぶタラちゃんがたくましく成長し、むしろ働くサザエさんを励ます姿などがあれば、明日からまた会社だわ、と思っている日曜の夜の全国のお母さんをほっとさせてくれるに違いありません。 サザエさんのスポンサーをしている東芝は、女性を支援する家電を作るメーカーでもあり、女性活躍推進にも積極的な企業です。働く女性の救いとなる最先端の家電を使いこなし、いきいきと働きながら大家族の中タラちゃんを育てるサザエさんも見てみたいと思うのは私だけでしょうか。《参考記事》■「大丈夫」じゃないのはお母さんだけじゃない。 (小紫恵美子 中小企業診断士)http://sharescafe.net/42520618-20141222.html■子育てしながら働き続けることを決めた女性に伝えたい、「大変な今」の過ごし方(小紫恵美子 中小企業診断士)http://sharescafe.net/43392651-20150215.html■「女性活躍推進」すら着手しない企業で成長はムリ。(小紫恵美子 中小企業診断士)http://sharescafe.net/42290659-20141208.html■「ニッポンのお母さん」はレベル高すぎ?OfficeCOM(小紫恵美子)ブログhttp://officecom-ek.com/?p=206■結局「女性活用」って何すればいいの? 小紫恵美子http://sharescafe.net/38770445-20140511.html

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    「親子断絶防止法」が制定された時の備えは出来ているか

    絶防止法案がどの程度認識されているか分からないが、親子断絶防止法が成立すれば最高裁が動くはずである。家族法の分野が、今、大きく動こうとしている。多分、裁判所はそのことを意識し始めているはずである。子供ファーストであることが何より大切 さて、司法の一翼を担っていると自負している弁護士会はどうか。弁護士会としての取り組みを始めているところは、まだどこにもない。そもそも親子断絶防止法の仕組みを理解し、あるいは理解しようと努めている人が殆どいない。日本の司法の最先端にいる、と自負している人が弁護士会には多いはずだが、実は立法府よりも行政府よりも、さらには裁判所よりも後れていると言わざるを得ない一面がある。 親子断絶防止法は、明らかにその一つである。先日、親子断絶防止弁護団が発足した、という記事を書いておいたが、親子断絶防止に取り組む弁護士の数は弁護士の中ではまだ圧倒的に少ない、というのが実態である。親子断絶防止法が成立すれば、弁護士会としても何らかの取り組みを始めるはずだが、どうせ始めるなら早い方がいい。 まずは、親子断絶防止法策を考える小委員会を司法問題委員会や法制委員会、弁護士業務改革委員会などに設置することだ。担当委員会が決まれば、必ずシンポジウムを開くことになる。まずは、どういう問題があるのかを知ることである。親子断絶防止法案は、「父母の離婚や別居の後も、子供が両親と継続的に関係を持つことが「子の最善の利益に資する」という基本理念を掲げている。 子供ファースト、ということだ。大人は、親の都合で勝手に物事を取り決めてしまうことが多いが、子供にとって何が最善か、ということを、一旦立ち止まって考えましょうよ、とみんなに呼び掛けているのがいい。まあ、どういう法案についても反対意見が出てくるのが、言論の自由が保障された開かれた日本のいいところだが、私はこの親子断絶防止法が全会一致で成立するのを待っている。読売が投げた一石が、日本の家族関係の在り方を変える切っ掛けになりますように。私は、そう願っている。(早川忠孝公式ブログ 2016年8月21日分を転載)

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    「理想の孫」 タラちゃんのような孫はどうすれば育つのか

    まさに理想の孫」なのだという。どうすればこんな孫が育つのか。 「サザエさん一家は3世代7人が同居する家族。マンガの連載が始まった当時は1世帯の平均人数が約5人でしたから、そう不思議ではありません。そのなかで波平とフネは、基本的な孫の教育はマスオやサザエに任せ、口出しはしないけれど見守っているというスタンスをとっています」 と話すのは、東京サザエさん学会会長で慶応大学名誉教授の岩松研吉郎氏。祖父母が干渉しなくても、大家族のなかでタラちゃんは自然に人間関係を知り、社会性を学んでいるという。 「カツオやワカメが育っていく過程や、怒られている姿を見ているので、『こういうことをしたらいけないんだな』と自然にわかる」(タラオ役声優・貴家堂子さん) では、祖父は孫とどう接すればいいのか。前出の永井氏はこういう。「サザエ一家にはクーラーも車も何もない。でも、タラちゃんは幸せなんです。おじいちゃんが孫を甘やかして、親を超えて余計なことをしてしまうのは考えもの。挨拶とか、靴はちゃんと揃えるとか、そういった生活の基本、小さなことをきちんと教えていくことが大切だと思います」関連記事■ 韓国では「サザエさん韓国人説」が流布し真に受けている人も■ アニメ好き愛子様 声優の「サザエでございま~す」聞かれる■ マスオさん 30代の正社員で係長だからスピード出世といえる■ サザエさん新キャラ「大工のジミー」人気の理由を元Pが解説■ フジ新番組軒並み低迷 「ひな壇番組はもう終わった」の声も

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    磯野家の30年後 カツオがチェックすべきは「波平の借金」

    場合、『財産のすべてを相続する』意向だと見なされます。この『財産』には借金も含まれるので、波平さんが家族に借金を隠していた場合、カツオさんは思わぬ負債を背負い込むことになります」(みずほ中央法律事務所の三平聡史・弁護士) しかも、片づけにタッチしていないフネ、サザエ、ワカメが相続放棄すれば、借金はカツオ一人で返さなくてはならなくなる。「ひどいよ姉さん……」と愚痴っても取り返しはつかない。兄弟とて相続では非情な決断が珍しくないのだ。 では、波平の借金を調べるにはどうすれば良いのか。三平氏が続ける。「貸金事業者、クレジット事業者等からの借金は、信用情報機関である『日本信用情報機構(JICC)』などで開示請求ができます。滞納通知が来るかどうか様子を見るのも有効です」●「片づけ業者に任せればいい」に待った! 幸い波平に借金はなかったことが確認できた。四十九日までには部屋を綺麗にしたいと思っているカツオだが、相変わらずサザエとワカメは非協力的で、しまいにはサザエが「ゴミばっかりなんだから早く処分しましょうよ。今はやってくれる業者もあるんだし」と言い出す。カツオもそれで仕方ないかと首をタテに振る……が、渡部氏はこれにも待ったをかける。「業者に頼むと処分費用がかさむうえ貴重な財産をゴミとして捨てられるケースがあります。美術品やコイン、切手は専門業者に鑑定してもらうと高値がつくこともある」 アニメのなかで、波平は趣味で骨董の壺を買うものの目が利かず、家族のヒンシュクを買ってばかりいた。しかし、家族も詳しくはないわけで、中にはお宝が眠っている可能性があるのだ。関連記事■ 磯野家30年後シミュレーション 世田谷の自宅相続税は?■ 磯野家の先祖におはぎを38個食べ大評判になった武士が存在■ 「カツオが不漁」のニュースを磯野家の一大事と勘違いする妻■ 美肌にいいと話題のカツオの心臓「ちちこ」串焼き2千本即完売■ 子供に片づけさせる方法 親の手助け厳禁で見守る我慢必要

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    家族を成立させるセーフティネットは大丈夫か

    面楚歌に陥っている子育て環境。これは「どげんかせんといかん」(東国原英夫)状況である。言いかえれば、家族をきちんと成立させるためのセーフティネットを要しなければならない。だが、それは家族の中だけで解決できる問題では決してない。周辺の協力、そして家族の構成員が家族から出でて、周辺とのコミュニケーション、関わり合いを持たなければ不可能な問題だ。ではどうするか。これには、いろいろと面白い仕掛けが出現し始めているので、これを最後に紹介しておこう。 一つは、よく知られたことばだが「公園デビュー」である。小さな子どもを抱えた母親たちが公園に集まり、子どもをメディアにコミュニケーション空間を形成する。これは、もっともわかりやすいセイフティネットといえる。一人で身も知らぬ人間の中に入り込むのはちょっと精神的にキツい。しかし、子どもを連れていれば、これが記号となって、後援で集まっているママさんたちが呼び止めてくれる、というわけだ。写真はイメージ この母親たちは「子育て」という共通のジレンマを抱えている。そこで、お互いが子育てをテーマにして議論し合う(その間子どもたちは公園の中で遊んでいるというわけだ)。子どもネタ中心だが、もちろん子どものことだけをネタとしなくてもいい。近くのケーキ屋さんやテレビネタでもかまわない。そうやって関わっていく中で、子育て技術お互いに交換しあうとともに、仲間としてのコミュニケーション空間を形成していく。つまり、子どもをダシに、友達を作っていく。こうなると母親は寂しくないし、子どもへのストレス解消、子どもに対する対処法の学習も可能となるわけだ。というわけで「公園デビュー」は家族、そして子育てのためにきわめて重要なチャンスなのである。 ところが、話はこんなに簡単ではない。公園デビューですらおっくうだという親も多いからだ。公園の母親たちは凶暴そう。しかもしがらみができてうざったい。こんな風に考えている親も多い、というかかなりいるらしい。こうなると「公園」はセイフティネットとしては機能しない。別のセイフティネットが必要だ。これを用意するNPOが最近は結構存在する。ネットを媒介に子育てを互助する インターネット上で展開されている活動ワイヤーママがそれだ。(http://www.wire.co.jp/)これは子育てをネタ=メディアにしつつネット上でママ同士のネットワークを構築しようとするものだ。ウエッブサイトには子育て情報が満載されている。ただし、前回書いたようにこれだけではマニュアルの域を出ない。具体的なナマの情報、しかもフェイス・トゥ・フェイスのそれが、やはり子育てには重要。そこで、ワイヤーママでは、ネットを媒介に人と人、つまりママとママの直接的なコミュニケーションを紹介するのだ。言いかえると子育ての互助というわけだ。写真はイメージ ただし、これはあくまでも表面上の目的。実は、このサイト、ママたちの子育てネットワークというより、寂しいままの友だち捜しになっているところがミソ。で、コミュニケーションには共通の話題となるネタが必要。それが「子育て」なのだ。つまり、まずママが楽しむこと、そしてその先に子育てがくっついてくる、こんな仕掛けになっている。 で、そのマッチングをワイヤーママは斡旋してくれている。近くの気の合いそうなママを探すというわけだ。つまり子どもを介した友人作りの斡旋=見合いを提供している。こうなると、公園デビューよりは敷居が下がってくるというわけだ。これはワガママ勝手をしていたいけど寂しがりの現代人にはぴったりだ。 まだまだ規模は大きくないので、これからどうなるかはわからないが、少なくともインターネットというヴァーチャルな世界を利用しつつ、リアルな世界への着地、リアルな世界の活性化をめざす。そしてそれが新しい子育てのかたち、つまり「楽しい子育て」「楽しみながら子育てスキルを身につける」という試みとしては期待できるのではないだろうか。(新井克弥公式ブログ 2008年3月18日分を転載)

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    過激派操る「国連」に騙された日本の男女共同参画

    税制・年金改革など多方面にわたる政策が実施されているのである。 その一例が、内閣府国民生活局所管の「家族とライフスタイルに関する研究会」報告書(平成十三年六月二十二日)である。一読して、フェミニズムのイデオロギーにあまりに忠実に作成されていることに驚く。 例えば、報告書は、これからの夫婦関係は「『経済的依存関係』から独立の所得を前提とした『精神的依存関係』へ」変化することが望ましい、とする。必然的に「独立した所得」を得られない専業主婦は「撲滅」すべき存在と位置付けられ、報告書は、専業主婦を優遇する税制や社会保障制度を廃止せよと提言している。既に政府は提言通り、配偶者特別控除を一部廃止した。次は特別控除の全廃、配偶者控除の廃止、公的年金の世帯配慮をなくす個人単位化(全個人が自ら負担する)である。 恐ろしいのは報告書が遺族年金制度廃止まで提言していることである。稼ぎ手である夫が亡くなっても専業主婦は一円の年金も貰えないことになるのだ。専業主婦「撲滅」と書いたが、大袈裟な表現でないことが分かっていただけるだろう。 報告書はさらに、「他人の権利を侵害しない限り個人のライフスタイルの選択は出来る限り自由」とも謳い、選択的夫婦別氏(姓)の導入や再婚禁止期間短縮、離婚における破綻主義や財産分与基準の明確化、非嫡出子法定相続の見直しなどの社会制度改革を提言している。 これらの分析・提言に通底しているのは、「育児よりも家事よりも、働くことのほうが価値は高い」「父親と母親が揃った家庭の相対化」という家族破壊思想を根本とするフェミニズムのテーゼである。 「独立した所得を前提とする『精神的依存関係』」などともっともらしいことを述べているが、そこには、家族は「経済的関係や抽象的な概念で簡単に分析できる代物ではない」という敬虔な態度は一片も見られない。家族関係はまず「愛情の関係」であり、喜びと悲しみを共有し、生命の誕生と育成という深遠な関係であり、死を見つめ、先祖から子孫へ繋ぐ歴史的存在であり、そして人間の最後の隠れ家なのである。経済的依存関係だの精神的依存関係だのと単純に整理する幼稚さ、独善ぶりには呆れるしかない。 また、「他人の権利を侵害しない限り自由」とは、「健全な家庭を営み社会の構成員としての義務を果たすことなど考えなくてもよい」というフェミニズムの破壊的本性を聞こえよく表現したに過ぎない。片親家庭、非婚、事実婚、そして恐らくは同性愛結婚も積極的に認めるべきであり、両親と子供が揃った家庭と同等の権利を保障すべき(あるいはいずれの家庭にも権利を保障しない)だという態度を表明しているのである。 報告書はまさに、フェミニズムによって家族のあり方を変革していくという「革命宣言」である。こうした政策をフェミニストが勝手に主張しているのなら構わない。しかし、これは政府の文書である。この文書の本質を国民が認識すれば大多数は容認しないはずである。研究会は八代尚宏・日本経済研究センター理事長を座長とし、フェミニストを含むたった八人のメンバーであり、僅か三力月余の間に二時間の会合を五回開いただけで報告書を作成している。 審議会や研究会を隠れ蓑に、少数のフェミニストが国民の知らないところで社会制度の変更を企図し、国民の生き方や家族・家庭のあり方に干渉しているのである。政府権力が人間の生き方に関わる問題を軽々しく決め付けていいのか。主権者たる国民を無視している。 過激な性教育も相変わらずである。先述の参院予算委で、中山成彬文科大臣が「一斉実態調査を検討する」と答弁、小泉総理も驚いて、「これはちょっとひどい。性教育など受けたことはない。それでもそんなことは自然に覚えた」と珍しくまともな反応をした。過激派が称賛する条約 しかし、平成十四年には厚生労働省所管の財団法人がピルを勧める冊子を全中学生に配布していた(その後一部回収)のである。 フェミニストは性教育で羞恥心や品位や情操という精神の高貴性を傷つけても恬として恥じない。男女関係の神秘を剥ぎ取れば、家庭破壊の劇薬であるフリーセックスに対する心理的障壁が取り除かれる。これはフェミニズムのイデオロギーが要求しているのである。厚生労働省の団体が中学生にピルを飲まそうと考えたのもフェミニストが裏で暗躍しているからである。 摘示したらきりがない。政府はフェミニストに乗っ取られていると思わざるを得ない。 このまま国民が事態を黙認すれば、前記報告書通りの政策が着々と展開され、国民が気付いたときには、フェニミズム先進国アメリカと同様に、離婚率が急上昇して貧困母子家庭が増えるであろう(今年一月二十日付読売新聞によれば、一九九八年から二〇〇三年の五年間で離婚が原因で母子家庭・父子家庭となった世帯は一・五倍に急増、既にその兆候が現れている。母子家庭の平均年収二百十二万円)。子供たちは「育児の社会化」の名のもとに公・私立の育児センターに預けられ、「母親の手厚い愛情」から引き離されて情緒不安定になって荒れ、薬物中毒や犯罪に走ることになる蓋然性も極めて高い。 家庭が崩壊したら、男も女も最も私的な生存基盤を破壊され、荒涼たる原野に投げ出されることになるだろう。そうなれば世界的にも類まれな、思いやりのある優しい我が国の国民性が消滅することは必至である。 こうなったのは、政府が、「男女共同参画」「ジェンダー」などという曖昧な用語を使って意味論的な混乱に導き、基本法が求めているのは実は「常識的な男女平等ではなく家族・社会の解体である」という核心的事実を隠蔽しているからである。その為、国民は事態の重大性を認識できず、異議を唱えることもできなかった。こうして姿の見えない「無血革命」が進行しているのである。 基本法はフェミニズム(日本ではジェンダーフリーと言い換えられてきた)、つまり家族破壊を目指す過激なイデオロギー(ユートピア論)を体現したものである。そして、この革命的イデオロギーを世界中に拡散させているのがCEDAWである。 政府がこのジェンダーフリー条約の批准を基に社会のジェンダーフリー化を進めて二十年が経過している。さらに、ジェンダーフリー法ができて五年が経過している。もはや手遅れの感があるが、我が国は民主主義の国である。果たして、このような事態は多くの国民が了解できるのか公開の場で大いに議論されなければならない。過激派が称賛する条約 男女共同参画社会基本法は平成十一年(一九九九年)に衆参両院で可決され成立した。大多数の国民は殆ど何が議論されているのか分らないまま、淡々と密やかに、ノンストップで法律となった。一方、「女子差別撤廃条約」(CEDAW)は昭和六十年(一九八五年)に批准された。 基本法はCEDAWに対応する国内法である。 CEDAWは第十八条で、締約国政府に「この条約の実施のためにとった立法上、司法上、行政上その他の措置」を定期的に国連事務総長に報告することを義務付けている。日本政府はその第五回報告(平成十四年)で、男女共同参画社会基本法制定を条約に則って実施した措置として報告している。つまり、基本法の制定は日本にとってはCEDAWの義務遂行の一環だったのである。 ところが、条約批准や基本法制定の際の国会論議では、驚いたことに、フェミニズム思想について何ら触れられていない。基本法の原案を作った男女共同参画審議会(旧)に関わるフェミニスト官僚や学者たちの暗躍も報道されているが、それだけで基本法が突出して成立したわけではない。背景に一九六〇年代からのフェミニズムの世界的な潮流があり、国連を仲介して世界的にその思想が制度化されていったという歴史的事実がある。フェミニズムイデオロギーと条約の関係について、有名なアメリカの過激派フェミニスト、ケイト・ミレットKate Millettはその著書「性の政治学(Sexual Politics)」(一九六九年)の二〇〇〇年版の序文で次の通り述べている。初版出版以来30年が経過し、この間、アメリカ及び広く西欧諸国に多くの偉大な変化がもたらされ、フェミニズム運動の第二波が大きく盛り上がった。だが同時に、『国連』がグローバル・フェミニズ厶に対応して着実に家父長制の改革を進めているにも拘らず、大きなバックラッシュと反動を引き起こした」(傍線筆者)「家父長制」(patriarchy)は、ミレッ卜の思想の中核概念である。彼女は「家族も社会も国家も家父長制である」といい、「結婚制度と自然にできた家族を完全に破壊することが、理想社会を建設するために必要である」と主張した過激派である。その過激派が、国連が女性差別撤廃条約を作り、五年ごとに世界女性会議を開催して様々な宣言を出してフェミニズムを推進していることを評価しているのである。「この条約は過激派ご推奨のフェミニズム条約である」と証言しているのである。 こうして、国連は、フェミニズムという革命思想を条約として制度化し、正統思想に仕上げたのである。 CEDAWは一九七九年十二月十八日、国連で採択され、一九八一年に発効、日本はいち早く一九八〇年七月十七日に署名、一九八五年六月二十五日に批准した。二〇〇四年十二月一日現在、締約国は百七十九力国に達している。 国連がフェミニズムの化身のような条約を作った背景には、アメリカのフェミニズム運動がある。 国連はアメリカ・ニューヨークに本部を置いている。そのアメリカで一九六三年、ベティー・フリーダンの『女性神話』(the Feminine Mystique)が世に出て、現代フェミニズムのイデオロギーが生まれた。その後フェミニズム思想は急速に普及し、かつ過激化していった。 フリーダンは、『女性神話』出版当時、黒人差別撤廃のための怒濤のような公民権運動の成功に着目し、一九六六年に少人数のフェミニスト・グループで全米女性同盟(NOW:National Organization for Women)を結成、政治的活動を開始した。 アメリカは当時、ケネディ大統領(民主党)の暗殺(一九六三年)を経てジョンソン大統領(民主党)の時代であり、一九六五年頃から高まったべトナム反戦運動と並行してマーチン・ルーサー・キング牧師率いる公民権運動が展開された激動の時代であった。ケネディの名声と相俟って民主党系のリべラル思想がアメリ力を席巻し、リべラル派が推進する女性差別撤廃運動も急速に全国的に波及した。ヒッピー集団のフリーセックスは反戦の象徴だったが、フェミニズム運動の象徴でもあった。 全国女性連盟を中心とするフェミニズム団体は、黒人の公民権運動との相乗効果で急速に支持を広げ、巨大な政治的勢力に成長した。一九七〇年代に入ると女性差別を根絶すると称する憲法修正案(ERA)を要求した。 アメリカでは次回に述べるように、 ERAをめぐって、一九七二年から八二年までの十年間にわたってフェミニスト側とアンチフェミニスト側との間の大論争がマスコミや州議会を舞台に展開された。その結果、フェミニズムの主張はデタラメな根拠と嘘の上に成り立っていることが赤裸々に暴露され、 ERAは廃案となった。公開論争を通じてフェミニズムが過激な革命思想であることを大多数のアメリカ国民が知ることになり、 ERAを拒否したのだ。当然ながら、アメリ力はフェミニズムを体現したCEDAWを(民主党政権下でさえも)批准していない。 こうしたアメリカ国内の経過と国連の関連を直接検証できる資料はないが、国連の人権委員会の官僚、特に、条約を作成した「女性の地位委員会(the Commission on the Status of Women CSW)の官僚はニューヨークの国連本部で具(つぶさ)にこの動きを見ていたはずである。 国連は、 CEDAW採択にいたる背景を文書「CEDAW小史」で、こう説明している(要旨)。 基本的人権の促進は国連の基本的任務の一つであり、国連発足以来今日まで活動を行ってきた。女性の人権については、一九四六年、経済社会理事会の人権委員会の下に「女性の地位に関する小委員会」が設置され、女性の政治的権利、結婚の最低年齢、国籍問題、など個別の問題に関する条約を作ってきた。 一九六三年、国連総会は、これらの個別の成果を一つの文書にまとめる決議を採択し、このプロセスは「国連内外の女性活動家(women activists)により支持された」(引用)。こうして、一九六七年、総会で「女性差別撤廃宣言」が採択されたが、これは道義的政治的宣言で条約としての拘束力が無かった。その後、「一九六〇年代の新たな女性差別への関心の高揚」(同)を踏まえCSWが主導して一九七四年、「一本化した包括的な国際的に拘束力のある女性差別撤廃のための文書」(同)の作成を決定、この作業は、一九七五年のメキシコでの「国連婦人の十年世界会議」が女性差別撤廃条約の作成を求めたこと及び、国連総会が、一九八〇年にコペンハーゲンで開催される同世界会議の中間レビュー会議までに条約草案を完成することを要請したことにより促進され、一九七九年、国連総会で条約が採択された。 この説明では、フェミニズムあるいはフェミニストという用語は一切使っていない。しかし、「60年代の女性差別への意識の高揚」が「フェミニズム運動」、「国連内外の女性活動家」が「フェミニスト」であることは、アメリカのフェミニズム運動との時系列上の重なりから容易に読み取れるのである。本性を隠して世界革命を遂行本性を隠して世界革命を遂行 その後五年ごとに開催されてきた世界女性会議の文書にも、一切フェミニズムという文言は出てこない。国連は、フェミニズム思想に基づいてCEDAWを作ったことを認めれば、アメリカの経過と同じようにこのイデオロギーの過激性と嘘がばれることを十分承知していたのである。 その上で、国連はCEDAWの本性を隠蔽し、世界人権宣言(一九四八年)以来の人権思想で言う「男女平等」の枠内の差別撤廃であると偽装した。この点が、この条約理解の核心である。 CEDAW前文は次のように始まる。「この条約の締結国は、国際連合憲章が基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の権利の平等に関する信念を改めて確認していることに留意し、世界人権宣言が、差別は容認することができないものであるとの原則を確認していること(中略)すべての人は性による差別その他いかなる差別もなしに同宣言に掲げるすべての権利及び自由を享有することができることに留意し…」このように「普遍的人権思想」に基づく条約であることを装ってはいるのだが、その偽装は、世界人権宣言を通覧すれば直ちに露呈する。同宣言第16条(3)は「家族は、自然に形成された社会の基盤的単位であり、社会及び国家に保護される権利がある」、すなわち「家族は国家及び社会から不可侵の領域である」という自由主義社会の原則を明示しているのである。 これに対し、 CEDAWは、この原則とまったく相容れない家族破壊思想を条文化したのである。 その条文は、各国の法律、慣行や慣習といった固有の伝統や文化、さらに思想・行動の自由という私的自治権を見事に蹂躙している。第二条(f)「女子に対する差別となる既存の法律、規則、慣習及び慣行を修正し又は廃止するためのすべての適当な措置(立法を含む。)をとること」あるいは、第五条(a)「両性のいずれかの劣等性若しくは優越性の観念又は男女の定型化された役割に基づく偏見及び慣習その他あらゆる慣行の撤廃を実現するため、男女の社会的及び文化的な行動様式を修正すること」と定めているからである。 何より問題なのは、「差別」や「偏見」の定義がCEDAWには具体的には定められておらず、恣意的に拡大される可能性があり、実際にそうされてきたということである。 例えば、一九九五年に北京で開催された世界女性会議が採択した「北京宣言」に、「ジェンダー」という文言が初めて登場した。ジェンダーは政府の説明では社会的、文化的性差と訳されているが、ジェンダーこそ現代フェミニズム思想の中核であり、フェミニズムの戦略的概念である(ジェンダー概念についての説明は回を改める)。この概念をフェミニストは恣意的に解釈して差別概念を無限に拡大する鍵となっている。 こうして、ジエンダー概念を公然と使用してCEDAWはフェミニズムのイデオロギーに基づいていることを公然化したのである。その後、 CEDAW第十七条に基づき国連に設置された「女子に対する差別の撤廃に関する委員会」(以下、撤廃委)は「ジェンダー」という文言を公文書に平然と使い、後述の同委員会のコメントに見るように、フェミニストが言うがままの要求を締約国に倣慢に突きつけるようになった。 日本でいえば、「間接差別」が現在最も注意を要する差別の「拡大概念」である。間接差別とは、「身長や体重など一見、性別と関係のない中立な基準や条件であっても結果的に多数の女性が不利になる制度」とされる。例えば身長一七五センチ以上という採用基準があるとしよう。言葉上は女性を排除するものではないが、高身長化した現代女性でも、この基準を満たす者は殆どいない。これが差別とされかねないのである。企業が正社員とパート、世帯主と非世帯主との間で待遇に差をつけるのも男性のみを優遇する措置ではないが、現状でパートや非世帯主の多数を占める女性が不利になるため「差別」とされかねない。この間接差別を「合理性や正統性がない限り」禁止する男女雇用機会均等法の改正案が来年の通常国会に提案されようとしているのである。 均等法の改正が実現すれば経済界に与える影響の大きさは計り知れない。にもかかわらず法改正にかかわる議論は厚生労働省が所管する労働政策審議会など大多数の国民の預かり知らぬ所でひっそりと行われているだけである。この間接差別の禁止も、後述する「指令システム」によって国連が法令に盛り込むよう日本政府に勧告してきたものなのだ。 「間接差別」禁止の影響は労働問題にとどまらない。夫婦同姓を維持している現行民法は男女どちらの姓でも選択できるため性差別とは全く関係ない。ところが、現状は男性つまり夫側の姓を選択する夫婦が圧倒的であり、「間接差別」とされる可能性が強い。 このように「差別」の概念が際限なく拡大していく事情を、アメリカの共和党系シンクタンク、ヘリテージ財団はこう分析し、国連を批判する。自由主義社会を破壊する革命の「指令システム」「国連の委員会は、国際協定の解釈を変更して各国の主権を目立たないうちに侵害する方法を生み出した。国連は、五年、十年毎に『女子差別撤廃条約』や『子供の権利条約』の世界会議を開き、条約の再評価を行い、締約国の解釈や実施のやり方を変更させている。委員会は、年々、結婚している家族、両親の役割(特に専業主婦)、宗教的規範に対してますます敵対的な解釈を編み出している…条約は締約国間で注意深く協議して作成したものであるにも関わらず、新しい課題に対応する目的で、絶えず解釈を変更しているのである」(「家族、宗教及び国家主権を蝕む女子差別撤廃条約と子供の権利条約」)。 フェミニズムによる「姿の見えぬ革命」は、こうして撤廃委の勧告などを通じて地球規模で進行している。この点を日本国民は重々承知すべきだ、ということを強調したい。日本の政治家は無知により、あるいは無責任に易々と国連に騙されたのだ。自由主義社会を破壊する革命の「指令システム」 次にCEDAWによるフェミニズム革命の「指令システム」を見ていこう。 CEDAW第十八条は、原則として四年に一回、「この条約のためにとった立法上、司法上、行政上その他の措置等」に関する報告を国連事務総長に提出することを締結国に義務として課している。さらに第二十一条に基づき、撤廃委は、各国の報告について提案及び勧告をすることとなっている。これが、国連が「世界革命」を推進する有力なシステムとなっているのである。 では、世界各国に対して委員会はどんな勧告等をしているのか。その内容は、CEDAWの正体が過激思想であることを歴然と示している。以下、一部を例示したい(各抜粋。ヘリテージ財団の分析資料による)。◎対ベラルーシ「国連は、伝統的な女性の役割を推奨するような『母の日』や『母親賞』に象徴される性別固定的役割分担の考え方が支配していることを憂慮する。このような固定的役割分担を排除することを目的とする人権並びにジェンダー教育の導入が効果的に実施されているのかどうか憂慮する」(二〇〇〇年)◎対アイルランド「国連は、政府に対して、家族計画と避妊器具の入手方法を改善し、十代の女性や若い女性にも入手できるようにすることを要請する」◎対ベリーズ「女性の60%は労働市場に参加していない。育児施設が不足するため女性が労働市場で不利な立場にある(ことを委員会は憂慮する)」(一九九九年)◎対中国「(国連は)政府に対して、売春の合法化を勧告する」(一九九九年)◎対クロアチア「委員会は、クロアチアの法律において、女性の母親として及び育児者としての役割を一貫して強調していることを特に憂慮する」(一九九八年)「(国連は)医師の良心的反対を理由にいくつかの病院で堕胎を拒否していることに憂慮を表明する。(国連は)この事実はリプロダクティブ・ライツ(堕胎権)の侵害であると考える」(一九九八年)◎対チェコ共和国「委員会は、妊娠及び母親に対する過度の保護措置が増加していることを憂慮して留意する…女性の家族における役割を文化として賞賛しているが、これは、女性に関する経済的な合理性を求める政策に対する否定的効果をさらに悪化させる可能性があることを留意する」(一九九八年)◎対ジョージア「委員会は、家父長制的文化の根強い存在、女性の母親としての役割を強調する振る舞いや態度を基礎とする政府の政策、家庭、公的生活における女性の固定的役割が広く認められることを憂慮して留意する」(一九九九年)◎対インドネシア「国連は、既存の社会的、宗教的、文化的規範が、男は家族の長であり稼ぎ手であり、女は妻と母親の役割に限定しており、またこれが各般の法律に反映されていることに重大な憂慮の意を表明する」(一九九五年)「委員会は、ジェンダー・イクウォリティの価値を反映するために政府が教科書改訂に努力していることに関して情報を提供するよう要請する」(一九九九年) 例示すればきりがないが、これで十分であろう。 CEDAWに加入している限り、優しい母親はこの世から消え去り、女たちは十代になればフリーセックスを謳歌し、家族を放り出して外に出て働き、子供たちは「母の手厚い愛」を失って不良化し、夫族は呆れて離婚し、貧困母子家庭が増加し、町に売春婦が溢れるのは当たり前なのだ。女性たちもこれで幸せなのか。条約がこういう世界の実現を目指していることを日本の政治家は承知しているのか。実に不可解である。国連に額ずく日本政府国連に額ずく日本政府 では、日本は、この委員会とどんなやり取りをしているのか。 筆者は、「夫婦別姓制度」は一部の跳ね上がり議員の仕業と即断していた。ところが、実は政府が条約履行の一環として推進し(政府の取り組みについては、本誌昨年八月号掲載の岡本明子「『少子化対策としての夫婦別姓』の嘘に騙されるな」に詳しい)、その背後で、「世界革命」の本拠地である女子差別撤廃委員会がそれを実施せよ、と命令しているのだ。 日本政府は一九八五年のCEDAW批准以来、第十八条に基づき、国連にこれまで五回、「条約の実施のために執った立法上、司法上、行政上その他の措置」を報告している。これを見れば日本で起こるフェミニズムにまつわる問題は、全て条約遂行のために起きていることが分かる。この報告(平成十四年九月)はA4文書で目次を除き五十ページに及び、現在政府が実施している恐るべきフェミニズム政策が一覧できる。 最新版は第五回報告だが、その中で特に注目すべきものは、(1)男女共同参画基本法の公布・施行(2)従軍慰安婦問題(3)女子差別撤廃条約選択議定書(4)民法改正の検討(5)人権擁護法案(6)間接差別(前述)である。 この報告に対して、撤廃委は二〇〇三年(平成十五年)七月十八日にコメントを出した。 (1)について。基本法という「革命綱領」の制定成功に「祝福する」との賛辞を呈し、国及び全都道府県での「男女共同参画基本計画」(=革命実践の計画)策定を称賛しながらも、計画がすべての市町村で策定されていないことに「留意する」と未策定の自治体への政府圧力を促している。「革命の大義」の前には、地方自治権も侵害される。 (2)についてはノーコメント。もともと条約に関係ないことに委員会がちょっかいを出したもの。結局諦めたか? (3)について、政府報告が「締結の是非について、真剣かつ慎重に検討している」としたのに対し、委員会は、「締約国が条約の選択的議定書の批准の検討を継続することを奨励する」と尻を叩いている。この議定書は、個人、団体が直接国連の委員会に権利侵害を通報する仕組みを作るものだ。革命本部は革命支部の報告を信用せず、世界中にスパイのネットワークを張ることを狙っている。そこにあるのは政府=公権力に対する不信感であり、国連によるフェミニズム世界革命にはNG0を称するフェミニストたち(CEDAW採択時には「女性活動家」と称されていたことを思い出して頂きたい)の意向が強く働いていることを示唆している。 (4)政府報告「夫婦の氏については…制度の導入に向けて努力が続けられている」に対し、委員会は、「民法が、婚姻最低年齢、離婚後の女性の再婚禁止期間、夫婦の氏の選択などに関する、差別的規定を依然として含んでいることに懸念を表明する」と言う。早くやれと言っているのだ。現行法制では、氏は夫妻のどちらのものになるにせよ選択は夫婦に任せている。何故差別だ? 委員会は差別概念を無限に拡大しようとしている。 (5)の人権擁護法案は法務省が今国会に提案しようとしたが、人権侵害の定義の曖昧さや「人権擁護委員」選任基準の不透明さ、「人権委員会」の強権などに自民党内から批判が噴出、本稿を執筆している三月十八日段階では提案されるかどうか結論は出ていない。 この法案について政府は、「現行の人権擁護制度を抜本的に改革するため、二〇〇二年三月、人権擁護法案を国会に提出した。この法案は、性別による差別的取り扱いやセクシュアル・ハラスメントを含む差別・虐待等の人権侵害を禁止するとともに、新たな独立行政委員会として設置する人権委員会を主たる担い手とする新しい人権救済制度を創設し、人権侵害による被害の適正かつ迅速な救済・実効的な『予防』等を図ることとしている」と報告していた。 これに対して、撤廃委は、「人権擁護法案を国会に提出したことに満足をもって留意しつつ、委員会は、法務省の下に設置されている『人権委員会の独立性』について懸念を表明する」「『人権委員会』が、『独立の機関』として、女性の人権が適切に対処することが確保されるよう、国内人権機構の地位に関する原則(いわゆる『パリ原則』)に基づいて設置されることを勧告する」とコメントした。「国連信仰」の呪縛を解け フェミニズム革命を遂行する国連は先ず、内閣府に「男女共同参画局」「男女共同参画会議」という日本革命支部の設置に成功し、次に、「歪曲された男女平等概念(ジェンダー・イクォリティ)」への司法権からの妨害を阻止するため司法権から独立した「革命監視委員会」の設置を目論んでいるのだ。もちろん、人権委員会は「女性差別」だけを取り扱うことを目的とした機関ではないが、設置されればフェミニズム革命を遂行する国内機構はほぼ完成する。フェミニズム政策を唱える人物を批判すれば、人権委員会により女性差別者として弾劾されかねない。あるいは「反革命」として。人権の名の下に、かつての共産圏社会と同類の恐怖社会が出現する。 付言すれば、人権委員会を法務省所管とする人権擁護法の法務省案に反対しているのは、日本の左派リベラルの政党や市民団体(NGO)である。彼らとまったく同じ意見が撤廃委の勧告に盛り込まれていることは、国連にNGOの意向が反映されるパイプがあるということである。 国連と日本政府の力関係をよく物語っているのが、内閣府男女共同参画局が発行しているメールマガジン「男女共同参画情報メール」第八十三号(平成十七年三月四日付)に掲載された「マンハッタンから始まる男女共同参画の未来」と題する一文である。筆者は同局男女共同参画推進官、高安雄一氏。ニューヨークの国連本部で三月十一日に開幕した「北京+10」(第四十九回国連婦人の地位委員会閣僚級会議)のリポートである。 「ハイレベル一般討論では、世界190力国から集まる男女共同参画を担当する大臣級がそれぞれの国のステートメントを発表します。ステートメントには各国が男女共同参画を進めるために、この10年間に行ってきた取組を盛り込むことが求められています。男女共同参画行政に携わる者としては、このステートメントに世界に誇れる取組を盛り込みたいとの思いで日々の業務に励んでいます」 「聴衆の反応は極めて正直で、素晴らしいステートメントには惜しみない拍手がなされる反面、場合によってはブーイングもなされかねません(中略)日本国政府代表団に段々と緊張感が高まってきました」 「総会議場を埋め尽くした各国大臣 NGO、国連幹部などの注目を受けつつ、西銘首席代表から高らかに発表されるのを目の当たりにして、私は感動を禁じ得ませんでした。ステートメントが読み上げられた直後の会場の様子は、我が国の10年間の動きが世界に誇れるものであったことを物語っていました」 このリポートから読み取れるのは一種の宗教的陶酔感、あるいは革命党本部の総括を待つ活動家の緊張感である。そこには、国益を代表し、例えブーイングが起きても冷静に対処すべき外交官としての姿は伺えない。政府は挙げてフェミニズム革命に熱狂しているようにさえ見える。恐ろしいことではないか。「国連信仰」の呪縛を解け 「北京+10」のような国連の世界女性会議は一九七五年以降、五年あるいは十年毎に開催されている。そこで、NGOを称する世界中のフェミニスト団体が各国政府代表に圧力をかけ、あるいは協力して、フェミニストの要求が恰も世界中の女性の支持があるかの如く仮装して、会議毎に出す様々な宣言を正当化し、世界のフェミニズム化を進めているのである。 以上見てきたように、国連が、各国の司法、行政、立法に国民をすっぽかしてずかずか介入することを許容していいのか。明らかに主権を国連に簒奪されている。主権者は日本国民である。政府にも国会にも、国民の主権を国連に譲渡する権限はない。 外務省は、条約批准時の国会答弁で嘘をついて国民を騙し(回を改めて解説)、フェミニズムのイデオロギーや国連の実態を知らない政治家の目を盗んでCEDAWを批准に持ち込んで日本国の主権を放棄した国賊集団である。フェミニズム革命日本支部である内閣府男女共同参画局と男女共同参画会議の解体、外務省の抜本的組織改善、そしてCEDAWの批准撤回を要求する。 国連はフェミニズムのイデオロギーを取り入れて得体の知れない「妖怪」になったと言っていい。それを「平和の使徒」と崇める日本の「国連信仰」は愚の骨頂である。即刻捨てさらねばならない。みつはら・まさし 昭和十五(一九四〇)年、鹿児島県出身。四十一年東大経済学部卒業、郵政省入省。平成五年退官後郵政貯金振興会理事、 TVQ九州放送北九州本社代表などを歴任。教育を考える会会員。(※iRONNA編集部注:肩書き等は『月刊正論』掲載当時のものです)

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    「赤い国連」、そして家族破壊者たちとの闘い

    を持っているのは日本の我々だけではない、海を越えて共有できると確信した瞬間だった。 国の主権を侵害し家族を崩壊させようとする国連の人権諸条約を何とかしなければならないという思いは強まる一方だ。しかし国連・政府(各省庁の官僚)・反日NGOでガッチリ固められた壁を前にして、正直な所それをどう突破すればよいのか展望が掴めない中で、アメリカの草の根保守運動のリーダーたちがどう戦って来たのか、戦っているのか聞いてみたいという思いでアメリカに向かった。 最大の具体的収穫は、ヘリテージ財団のパトリック・フェイガン博士から齎(もたら)された。「日本の国連信仰は深刻で、例えば、少子化で悩んでいるわが国では、国連の『女性が働きに出ている国ほど出生率が高い』という分析が、そのまま国内の施策に反映されている」と述べた私に、即座に博士は「Myth(神話)だ!」と指摘して、ハワード・センターのアラン・カールソン博士が既にそれを論破していると教えてくれた。更に、このアラン・カールソン博士が「World Congress of Families」(家族のための世界会議。以下、WCFと表記)を主宰して、1994年から3回の世界会議を開催しているという情報を提供してくれたのだ。フェイガン博士自身もこの会議に賛同参加している一人である。帰国してジェットラグも忘れて、WCFについてインターネットで調べて、世界会議での発表資料を読み込んだ。 アラン・カールソン博士は、保守シンクタンク、ロックフォードインスティチュートの副所長を経て、現在はハワード・センターでWCFを主宰している。世界会議には、世界の全大陸から、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、議員、大学の教授、草の根運動家、様々な人たちが集っている。第1回会議は1997年にプラハで行われ、前回第3回会議は2004年にメキシコで約3000人を集めて開催されたという。WCFのウェブサイトのトップページには、札幌オリンピックで人気を呼んだフィギュアスケートの選手ジャネット・リンさんが、アラン教授の論文に心動かされて、キャリアよりも結婚の道を選び5人の子供を育てたというコメントを寄せている。彼女を初めとして、会議に集う人たちの共通の価値観は、pro-family、pro-life(家族保護、生命保護)である。主に国連を媒介として近代国家を襲っている左翼思想、フェミニズムによる家族解体、生命軽視の大きな世界的潮流を押し戻そうと立ち上がったのである。WCFの会議及びセミナーでは貴重で上質な情報が伝えられており、家族崩壊の世界的危機に際して、広く実態を伝え、出来るだけ緊急に対処しなければならないというアラン博士らの思いが伝わって来る。我が国においては、WCFの情報は、日本政府の家族政策の間違いを鋭く指摘するものとなるだろう。以下その情報の一部を紹介し、安倍新内閣に家族政策の是正を強く求めたいと思っている。「女性の就労と出生率」神話「女性の就労と出生率」神話(WCF「SWEDEN AND THE FAILURE OF EUROPEAN FAMILY POLICY」より) 出生率の低下は、我が国を含めて先進国共通の病と言えるだろう。我が国の男女共同参画局は、「女性労働率が高い国ほど合計特殊出生率が高いという関係にある」という国連世界人口政策担当が2000年に発表した分析を根拠として、政府が少子化対策を「最重要課題」と位置づける中で、その解決の切り札として、女性の就労と家庭と仕事の両立支援を促進している。9月15日にも、内閣府が「働いている女性の率が高い地域ほど出生率も高い」という国内の統計分析を発表している。 日本と同じく深刻な出生率低下に悩む欧州でも、やはり、この「出生率神話」がスウェーデン政府主導で政策に取り入れられているという。2004年にスウェーデン政府は欧州連合に対して、「スウェーデンは、ヨーロッパで男女平等実現のペースを上げることに対して特別の責任を持っている」として、「家庭生活と職業生活が一体になる現代的家族政策がヨーロッパの直面する出生率低下に対抗するために必要である」という「スウェーデンモデル」を提起している。 しかし実はスウェーデンでの特殊合計出生率は、1991年の2・11をピークに下降を始めて、03年には1・53という他の欧州各国と同じような数値になっている。スウェーデンは「両親保険」によって、休業直前の8割の所得(98年以前は9割)を390労働日にわたり保障している。加えて、2年半以内に次の子を産むと、先の子の出産の休業直前の所得の8割が育児休業中に再び保障される「スピードプレミアム制度」が80年に導入されている。その頃から91年までの間、第一子と第二子の出産時期の接近効果で出生率は上昇したが、それは「スピードプレミアム制度」による一時的効果であり、女性の就業率には一切無関係であったことは出生率の数値が明らかにしてくれている。 更に欧州でも「スウェーデンモデル」の破綻に気づく人たちが出てきている。「Science」誌03年3月号には、「Europe's Population at a Turning Point」というアナリストチームの記事が掲載されている。この中で、「スウェーデンモデル」を構成する、男女平等教育や結婚の脱構築という要素は、実は高出生率だった発展途上国において、女性の出生率の劇的低下を招いた要素と全く同じであるという分析が掲載されているのだ。 また04年初め、国連経済社会局人口部部長であるJoseph Chamieは、「多くの政府、NGO等が、基本原則と望ましいゴールとして、就労におけるジェンダー平等や、家庭での男女平等を強く支持しても…労働力、子育て、家事への男女の平等参加が、出生率アップに繋がるかどうかは全く明白ではない。それどころか…人口置換に相応しくないと言える」という趣旨のことを述べている。国連の人口担当者がどういう意図で、どういう文脈で、こうした結論を発表したのかは疑問の残る所であるが、いずれにしても、国連による「女性労働率が高い国ほど出生率が高い」という分析を、国連の高官自身が否定しているのだ。 では、この問題の具体的解決策はあるのか? アラン博士は「アメリカモデル」を提案している。米国は2000年時点で2・14という先進国の中で最も高い特殊合計出生率に達している。この要因は、一つはヒスパニック系移民の高い出生率に拠るものである。もう一つは婚外子が多いということである。しかし、米国の高出生率は、移民や婚外子ばかりに頼っているのではないと、博士は強調する。従来の米国民で正式な結婚をしている夫婦の間でも、出生率は上がっているのだ。その出生率アップの要因とは何か? 一つは、アメリカの公教育の問題に関連している。NEAという全米教員組織は、日教組と同じように国家や親や従来の家族制度を否定する立場を取り続けている。これに対して、親たちは動機は様々ながら、70年代中ごろから「ホームスクーリング」(家庭で教育を施すこと)運動を始めた。各州政府と敵対しながら長年かけて、90年代には50州全てで、その権利を勝ち取り、04年までに200万人以上の子供がホームスクーリングで学んでいる。そして、ホームスクーリングの家庭を調査した時、ホームスクーリングと出生率の間に大きな関連性があることが分かった。 まず、ホームスクーリングを行っている家は、全て正式に結婚した家庭であり、77%が専業主婦だった。そして出生率がかなり高かったのだ。3人以上の子供を持つ家庭が62%(全国的には20%)、4人以上の子供のいる家庭は33・5%(全国的には6%)に上るという結果が出たのだ。 またアメリカでは、「スウェーデンモデル」のような幼児手当と有給育児休暇制度ではなく、子供が増える度に税控除を行うという政策がとられている。米国内の調査によれば、税の免除が1%増えると、出生の可能性が1%増えるそうだ。更に、アメリカにはユタ州のような信仰共同体が残っており、こうした地方の出生率は4・0と高い数値を示している。これらの要素に加えてアラン博士が指摘するのは、アメリカは、「スウェーデン化」されたヨーロッパ人よりも、フェミニズムに染まってはいないということだ。調査でも多くのアメリカ女性はフェミニズムという言葉に嫌悪感を持っていると答えている。 つまり、親子関係が緊密で信頼と秩序が保たれるホームスクーリング効果、結婚と家族擁護に敏感な税制度、宗教的信念、妻と夫が互いに補完関係にあることを肯定することが、家族を強くしているのだ。これが、「アメリカモデル」なのである。 我が国で、アメリカのホームスクーリングをそのまま真似ることは出来ないが、家族を破壊してしまうような現在のフェミニズム的家族政策では少子化は解消されないし、国の力を弱めるばかりだということを、安倍政権には是非認識して頂きたい。国連の政策を歪めた者たち国連の政策を歪めた者たち(WCF「A HISTORY OF ・THE FAMILY' IN THE UNITED NATIONS」より) 国連の女子差別撤廃条約や児童の権利条約等における家族破壊の方針は、いつ頃、誰によってどのようにもたらされたのだろうか。 1948年の国連「世界人権宣言」では、「家族は社会の自然で基本的なグループ単位であって、社会と国によって保護される」と家族の重要性が謳われている。国連は発足時から、米ソによる冷戦構造などの争いに晒されていたが、家族政策においてはキリスト教民主主義(Christian Democracy)が支配しており、その世界観が反映されたものが世界人権宣言なのである。キリスト教民主主義の世界観とは、「創造主によって贈られた人間の尊厳と神聖さを信じ、将来の子孫を守るために結束し援助し合う構造としての結婚と家族を信じる」というものであった。 しかし、国連の中には徐々に社会主義が浸透していた。国連初代事務総長トリグブ・リーは、アメリカ政府高官で国連発足会議では議長を務めながら実はソビエト諜報機関の工作員だったアルジャー・ヒスらの暗躍もあり、事務総長に就任した。彼はノルウェーの共産党メンバーではなかったが、ボルシェビズムに早くから関心を持ち、1921年にモスクワに旅行してレーニンに会っている。彼はソビエトに強い共感を持ち続けた。そしてソビエト政府は自らの国連への野心のために、リーを道具として使った。 跡を継いだ二代目事務総長、ダグ・ハマーショルドはスウェーデンの官僚出身で左翼社会主義者であり、スウェーデンを高度社会福祉国家に変えるシナリオを書いた人物である。リーもハマーショルドも左翼イデオロギーを、国連事務局内部に確実に浸透させて行った。それに加えて重要な役割を演じたのが、リー事務総長が抜擢したスウェーデンのアルバ・ミュルダルである。彼女は、30年代のスウェーデンの出生率低下に際して、出生率引き上げのための唯一の方法として「子供をもうけることのコストと重荷を社会化する」という、積極的な社会主義政策を行って、現在のスウェーデンの福祉制度の土台を作ったのである。彼女の理論は「ミュルダル・ライン」としてノルウェーでも採用されて、大きな影響力を持った。アルバ・ミュルダルは30年代に次のような理論を述べている。 「19世紀から受け継がれている既存の伝統的な家族は、殆ど…病理学的であり…破滅する運命にある。それは、女性が労働の場で『同志』として男性と共に立つ新しい家族モデルと取り替えられるべきである。子供たちは…生まれた直後から扶養とデイケア、衣類、食事等の全てを、国からの助成金で賄われるべきである。…家族はリプロダクション(子作り)以外の残りの機能は全て捨て…子供達には妊娠中絶法を教え、早期の性教育を行うべきだ。そして親による子供への躾は不健全であるとみなされるべきだ」「男女平等は、『自然』なものを含む全ての制度、伝統、文化的構造の地ならしを要求する。男女間の自然の『大きな基本的な違い』さえも取り除かれなければならない」 彼女の理論が今日の「ジェンダーフリー」思想そのものであること、そしてこれが30年代に考えられていたことに筆者とともに驚く人も多いだろう。そして彼女は積極的に、国連に「ジェンダーフリー」、社会主義フェミニズム思想を浸透させようとした。彼女が国連に入った時、彼女の同志に宛てて「社会主義の女性たちが、国連事務局で何の邪魔も無く話す機会が与えられて影響力を持てることは大きな喜びです。国連の中枢にいて、女性グループが望んでいた福祉制度が形成できるのです。国連の社会部門の重要ポストは、人間社会を変える最高の機会を私たちに与えたのです」という手紙を書き送っている。 彼女は、49年に経済社会理事会(ECOSCO)で仕事を始め、その後ユネスコに移り、社会科学部門のトップになった。そして、性的役割分担の抑制、母親による育児の否定、性教育の奨励を行い、国連の家族についての認識を、「世界人権宣言」にあるような「社会の基本的単位」であるというものから、家族制度は時代遅れで抑圧的であるという概念や急進的フェミニズム個人主義思想に基づくものへとシフトさせていく上で大きな影響力を持ったのである。西側諸国の途上国対策西側諸国の途上国対策(WCF「KEEPING FAMILY IN THE UN'S AGENDA」より) 現在の国連において、フェミニズム的思想が力を持ちえた事情は、前項で述べたように、社会主義者やフェミニストが国連を洗脳することに成功したためだけではない。 1994年、カイロにおいて国連国際人口開発会議が行われ、リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康の向上の権利)が、今後の人口政策の大きな柱となることが合意された。つまり、妊娠中絶・堕胎がオーソライズされた会議だったのである。会議は表向きには、「世界の人口爆発に対する危機感を背景として、人口政策を討議」したと言われているが、その背景には、西側諸国の或る思惑が存在していたのだ。カナダの保守系女性団体で国連特殊諮問資格NGO「REAL Women」副代表で弁護士のグウェンドリン・ランドルト女史は、「国連カイロ国際人口開発会議で大きな変化が起こった。世界中で自然の家族を徐々に蝕む試みが国連で最初に行われたのは、この会議だった…国連で自然の家族を徐々に蝕む試みの背景にある理由は、人口統計が西側諸国の人口の著しい低下を明らかにし始めたという事実による。西側が世界の政治的経済的バランスオブパワーを保つことが困難になったことを予告されて、この事実が西側の国に大きな警鐘を鳴らしたのだ」と述べている。 西側、主に欧州の人口低下と途上国の高出生率によって生じるバランスオブパワーの揺らぎを防ぎ、移民を抑止するために、そして途上国の天然資源を確保し続ける為に、発展途上国に人口抑制を強制するのが、この国際人口開発会議の真の姿だったのである。しかし発展途上国の多くは、この反生命・反家族の方針を拒否した。そこで国連や西側諸国は、発展途上国の抵抗を弱めるために、世界銀行のような国連機関からの援助を交渉ツールに使うとともに、フェミニズムを発展途上国に輸出するという新たな戦略を考えたのである。途上国の女性にフェミニズムによる洗脳を行い、女性たちが自主的に家族や子供から離れるように仕向けたのである。 ここで、西側先進国の思惑とフェミニズムが手を組み、フェミニズムは国連で大きな位置を占めることになった。そして、家族破壊のために働く軍団がフェミニストNGOたちなのである。ランドルト女史は自らの国連会議出席の体験を踏まえて、フェミニストNGOが国連において如何に優遇され、権力を振るっているかを次のように述べている。 「国連は、多くの反家族NGO(大部分はフェミニスト)を、西側政府の反家族政策を進める熱心なパートナーとして用いた。西側諸国の政府は、これらのNGOに多くの助成金を支給して、国連の中で彼らに政治権力の中枢に易々と参加させている…無責任なNGOは、国連で巨大な影響力を持っている…カイロの人口開発会議で、ニューヨークを拠点にしたアメリカのフェミニストであるベラ・アブズーグが…カイロのアクションプランは、自分達が書いた文書であると宣言するのを聞いて、私はショックを受けた。少数のフェミニストに、世界中の何億もの人々の命に影響を及ぼす国際的文書を変える力をもたせる国連は明らかに間違っている!」「フェミニストNGOは、時々彼らの国の代表派遣団のメンバーにもなる。カナダ政府が行っているように、NGOに発展途上国の代表に働きかけをさせるために、NGOの会議出席費用は政府が負担しているのだ」 日本政府も、こうした画策をする「西側諸国」の一員であるのかどうか、また、反日NGOの会議出席費用を負担しているのかどうか確認する必要があるだろう。それにしても、先進国の、発展途上国への遣り口は植民地時代と全く変わらないものではないだろうか。「人権」「平和」という一見美しい理想を掲げている国連の欺瞞性を、まざまざと見せ付けられる思いである。 尚、カイロ会議で暗躍したベラ・アブズーグは元米国下院議員で95年の北京女性会議でも大きな役割を演じた。その北京会議では「ジェンダーの主流化」が決定されている。これについて日本のフェミニストらは、女性だけではなく男性にも配慮した視点で、男女が平等なパートナーとなる施策を行うことになったと伝えているが、ランドルト女史は「北京会議の行動綱領の『ジェンダー』という言葉の包含する意味について、闘いが勃発した。国連の戦略家は、全社会共通の男女間の役割分担が生物学的違いに基づくのではなく、社会的文化的に作られたものと考えるべきであるとした」と批判している。 「ジェンダー」は数年前から国内でも問題視されるようになったが、フェミニストらが「ジェンダー」という言葉を使った真の目的は、男女のパートナーシップなどではなく、生物学的な男女の区別を無くすことにあったことが確認頂けると思う。05年の男女共同参画基本計画の改定にあたって、フェミストらは「中立的な概念である」「国際的に『ジェンダー』という言葉が問題になっているということは聞き及んでいない」(男女共同参画基本計画に関する専門調査会)などと強硬に主張、最終的に「ジェンダー」が計画に残されることになったが、ランドルト女史の指摘は、その欺瞞性をも浮き彫りにしている。家族の守りは国の守りである WCFによる国際的な家族擁護運動は、このように国連がフェミニズムや左翼思想に支配された状況下で始まった。彼らは会議を開くだけでなく、国連の中で家族擁護のために戦っている。私達が今回アメリカで会った草の根保守女性団体・CWAのジャニス・ショー・クラゥズ博士はブッシュ大統領のスピーチライターをしていた女性で、ブッシュ政権から2003年の子供サミットへ米国公式代表に任命された人である。彼女は国連女性の地位委員会にも出席しているが、フェミニストから随分嫌がらせと中傷を受けながらも戦っている。また、国連第60回会期(04年3-4月)で、同性愛保護のために世界人権宣言の文言を変更する決議案が提出された時にも、家族擁護のNGOが、この改正案に反対するロビー活動を展開して阻止したという。プロチョイス(妊娠中絶支持)に傾きつつある国連に、プロライフのロビー活動を展開して、国連がこれ以上家族破壊へ進むことにストップをかけているのがWCFのメンバーなのである。 アラン博士は、国連の歴史を学ぶ中で得たことは「思想は結果を持つ」ことだと述べている。キリスト教民主主義の小さなサークルで発展した考えの結果が、国連機構を家族支持にした。そして次に、スカンジナビアの社会主義の小さな集まりの中で発展した考えが、国連を反家族にした。そして今我々が行うべきことは、家族擁護/妊娠中絶合法化反対の新たな展望を作り、その思想を結果として国連に反映させることなのである。 トリグブ・リー、ダグ・ハマーショルド、アルバ・ミュルダルは、国連に社会主義的世界観を入れ込むことに最終的に勝利した。我々もまた、家族に対する攻撃を弱らせ防ぐためにNGOとして積極的に国連に参加して、国連事務局内にいる「家族の支持者」を擁護し助けて、そして、国連で社会政策に影響を与えることのできる国際的運動を構築しようと、アラン博士は呼びかけている。 博士の「家族の道徳観を基礎とする全ての宗教的なものを抱きしめねばならない」という言葉に、私は深く揺り動かされた。WCFの家族擁護の運動は、「家族を大事にする」という価値観を大切にするが故に、キリスト教もイスラム教もユダヤ教も、宗教も宗教ではないものも全てを超えて結び付いている。WCFのその精神は、アラン博士の、世界の全ての文化や伝統を守らなければならないという言葉にも表れている。 CWAのクラゥズ博士は、1920年代、英国の人類学者J・D・アンウィンの86の社会を対象にした調査で、放埓なセックス開放時代の1世代後に、その社会の文化は内側から崩壊してしまうという結果を紹介して、アメリカも数十年、セックス開放の時代を過ごしたと述べた上で、「国は、不可侵の結婚制度に基づいて作られる強い健康な家族なしで、長く持ちこたえることができない…あらゆる世代は、真実を維持するために戦わなければならない。我々の戦争は結婚制度を保護して、社会の強い基盤としての家族を建て直すことである。我々の挑戦は文化的戦争であり…そして、最も熱心に最も断固とした意思を持って継続させる人たちが制する戦争である。文化戦争は、我々の国の魂と我々の子供たちの将来のための戦いである…人々の歴史には、(過去の過ちに対して)清算しなければならない時代がある…清算すべきは我々の時代である」と述べている。 アメリカの草の根保守運動に携わる方々に接して、「国は家族が作るものであり、家族の守りは国の守りである」という自覚と信念を感じた。この信念は筆者を含めた多くの日本人に欠けているものではないだろうか。国の礎である「家族」を守るという明確な意思を持ち、来年ワルシャワで行われるWorld Congress of Families Ⅳに同志と共に参加して、世界的な保守の連帯の中で国連の問題に取り組んでいきたいと考えている。 最後に、日本政府は出生率を上げたいのならば、国連の出生率神話に踊らされて女性の社会進出と子育ての社会化を促すような政策を即刻止めるべきである。そして子供から親への尊敬と信頼を奪う現在の教育を改革して、親子の絆を強くする教育のあり方を考えるべきである。国の主権を守るために、根拠の無い国連信仰は止めて、「遥か海の彼方に住んでいる国連の官僚」から、私たちの暮らし方を決められることに「ノー」と言うべきである。安倍新内閣には、家族政策を含めた過去の誤った政策のすべての清算を断固として行って頂きたい。おかもと・あきこ 主婦、ジャーナリスト。今年4月に「児童の健全な育成を守るNGOネットワーク」を結成。神奈川県在住。共著に『ちょっとまって!夫婦別姓』(日本教育新聞社出版局)『まれに見るバカ女との闘い』(宝島社)『家庭教育の再生』(学事出版)など。(※iRONNA編集部注:肩書き等は『月刊正論』掲載当時のものです)

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    同性婚は子供のためになるか 民法論議に欠けていること

    と考えるか認めないと考えるかは、単に個人の嗜好や個人の自由権の範囲に留まらない、子どもを含めた法的な家族制度全般に響いてくる問題といえる。 今回は「子ども」との関係に着目しつつ、同性婚の問題点について探っていきたいと思う。結婚制度は何のためか 同性婚を認めるか認めないかという議論の根底にあるものは、「婚姻制度」をどのように考えるかという定義と直結している。そもそも婚姻制度は一体何のために存在してきたのであろうか。「結婚は社会的な制度である」(Monte N. Stewart & William C. Duncan, Marriage and the Betrayal of Perez and Loving, 2005 BYU Law Review 560(2005))とも言われる。結婚とは子どもや社会の利益の為に、カップルによる性行為、出産、子育てが責任をもってなされるように社会が承認する制度として存在してきた(Maggie Gallagher, What is Marriage for? The Public Purposes of Marriage Law, 62 Louisiana Law Review 9 (2001))。生まれてくる子どもの福祉、実の親との安定した親子関係を保護することを第一の目的とするがゆえに、実の子どもを出産することが不可能な同性カップルは、婚姻の概念自体から当然に除外され、結婚をするカップルは男女であることが必須とされた。 そして、「婚姻は男女に特有の結合体であり、・安全な性的関係、・責任ある出産、・最善の子育て、・健全な人間関係の発達、・妻や母という役割の保護をしつつ、長期的な家族としての関係を保っていく為のものである」と定義されてきたのである(Lynn D. Wardle, The Boundaries of Belonging, 25 BYU Journal of Public Law 299(2010))。 その結果として、社会から承認された制度の中でのみ性的行為をし、子どもを責任持って生み育てるという義務が生じ、生まれた子どもは誰が自分の本当の両親かを知ることができ、血の繋がった両親に育ててもらうことができるのである。それゆえ、結婚では基本的には一夫一婦制や貞操義務が夫婦としての当然の前提となり、さらにそのことが、生まれてくる子ども達の健全な発育を助け、社会の秩序を確保する最適な手段ともなってきたのである。 実の両親との繋がりを強くするという子ども達の福祉に直結しているからこそ、婚姻制度は重要であるとされ、また国家が婚姻制度を保護すると同時に規制もしている。 しかし、同性婚賛成者達は同性愛カップルも婚姻可能とするために、結婚から「子どもの福祉」という視点を完全に抜き去り、婚姻の定義を次のように修正しようとしている「結婚とは2人の人間(それが異性であるか同性であるかを問わず)の共同体であり、お互いに愛し合い、日常生活において利益も負担も共有する。」「結婚は本質的には自らの幸福のためになされる私的で親密で情緒的な関係であり、カップル自身によって、カップル自身の為になされるものである。」(Sherif Girgis et al., What is Marriage?, 34 Harvard Journal of Law & Public Policy 246(2011)) 以上のような修正は、どのような問題をもたらすだろうか。「結婚=個人の自由」の限界「結婚=個人の自由」の限界 同性婚賛成者による婚姻の定義は、個人の自由や自己決定をより前面に出しており、一見すれば個人主義の考え方に合致しているように見える。例えば、今回のアメリカ連邦最高裁判決において、アンソニー・ケネディ判事が婚姻について述べた部分に、次の一節がある。「人と人との様々な結びつきの中で、婚姻以上に深い結びつきがあろうか。何故なら婚姻とは、愛の、忠誠の、献身の、自分を犠牲にしてでも守りたい気持ちの、最後に目指す極みであり、家族を抱くことである。婚姻関係を結ぶことで、二人の個人は、いままでの自分をはるかに超えて深みのある人間になる。」 美しい文章であると評判になった一節だが、残念ながら「婚姻当事者2人の現在の幸せ」が軸となるのみで、そこには「子どもを含めた世代を超えた継続性」への視点が見えてこない。 もし結婚が「本質的には自らの幸福のためになされる私的で親密で情緒的な関係であり、カップル自身によって、カップル自身の為になされるもの」であるならば、現実に2人が生活を共にすれば良いだけの話ではないのか。何故、2人の幸せの為に「結婚証明書」が必要なのだろうか。多数意見の他の部分においても、(同性婚を認めても)「異性カップルの選択や思想・信条等は軽視しておらず、異性カップルに対して何ら危害を加えていない」として異性カップルに対する配慮を示してはいるが、より重要な婚姻制度のあり方や子ども達のことまで考慮が及んでいないようである。 同性婚を認めるということは、このような婚姻の定義の修正を認めるということになるが、これは同性同士のみならず、通常の結婚のあり方を転換させることを意味する。そして、その転換によって、家族は崩壊を引き起こす。なぜなら、結婚の主役はカップルのみであり、カップルの現在の選択の自由のみが尊重されているからである。 もしも、現在の選択の自由のみを尊重するなら、結婚したくないカップルは同棲すれば良いし、結婚しても親密な感情がなくなれば離婚すれば良いという安易な発想になりかねず、社会制度全体が、結婚率のさらなる低下や離婚率の上昇を招く方向に向かわざるを得なくなる。 さらに現在の社会通念上、非難される、または許されない行為も、自由の名の下に、論理的には認められ得る。例えば、婚姻中もお互いの了承があれば不倫をしてもかまわない、当事者が同意しているのならば、一夫多妻制や近親相姦も何故いけないのかという発想にも繋がるかもしれない。その上、生命倫理上の問題も複雑化する。結婚相手はいらないが子どもは欲しい場合や、同性愛者のカップルの場合で子どもが欲しい場合、他人の精子・卵子を購入して子どもをつくることさえ、自己決定の1つと解釈されてしまいかねない。 ただでさえ、日本社会においてもアメリカ社会においても1960年代以降、家族の崩壊は著しい。例えば、アメリカ社会の1960年と2010年を比較すると、15歳以上の女性千人あたりの年間結婚件数は半分以下に減少しているのに対し、離婚件数は2倍以上となっている。同棲も1960年の44万件が、2011年には760万件へと17倍以上になったと推定され、非嫡出子の出生率は5・3%から40・7%へと大幅に上昇した。日本においても、1962年と2013年を比較すると結婚件数が92万8千件から66万1千件に減少しているのに対し、離婚は7万1千件から23万1千件と3倍以上増加、2010年の18歳未満の子どもがいる片親世帯は125万4千世帯に上るとされる。 以前に比べてより多くの人々が離婚を選択したり、結婚もせずに同棲し子どもさえ生んだりしてしまうという現状がある。もし婚姻の定義を「婚姻の主役はカップル自身であって、カップル自身の幸福のためだけになされる私的な行為」と解釈するようになれば、このような家庭崩壊は益々加速することになろう。 たとえ家族の崩壊が加速しても、個々のカップルにはすべてが自由の方が良いかもしれない。しかし、子どもにはどう影響するのであろうか。婚姻の概念から、本来その制度の根本思想であった責任ある出産と育児が切り離され、子どもの情緒的な発育にとって必須とされている母親と父親の存在がなくなってしまう。自分の血縁上の親の存在自体が分からないことは、自らのアイデンティティ形成上、多大な不利益をもたらすことは言うまでもない。また、両親がどちらも不倫をしていたり、いつ離婚するか分からなかったりする家庭は、子どもが健全に育つのに良い環境だと考える人は誰もいないであろう。 婚姻の当事者はカップルのみだが、婚姻の結果、多くの場合、その後に子どもが家族の構成員に加わる。子どもは、婚姻をしたカップルとは違って、家庭を選べず、大人へと成熟するには時間もかかるのである。その間には出来る限り、血の繋がった仲の良い両親に養育されることが望ましく、愛情あふれる継続した家庭がどうしても必要なのである。それゆえ、婚姻を同性婚賛成者の定義で考えるのではなく、「社会的な制度」として「子どもや社会の利益の為に、男女のカップルによる性行為、出産、子育てに責任を持たせるよう社会的に承認するもの」と解釈し、生まれてくる子どもの福祉、実の親との安定した親子関係を保護することを第一の目的とすべきなのである。次世代を担う子ども達のため次世代を担う子ども達のため これまでも子どもの発育上、心理的にも社会学的にも「特定の大人(通常は親)との関係を継続すること」「両親は子どもにとって一体的な存在であるので、喧嘩や不倫をしないこと」「血の繋がった両親に育てられること」「父親と母親は両方必要な存在であって、子どもに対して負っている役割は違うこと」等は、とても重要なこととされてきた(子供が安心して暮らし、健全に育つためには、父親と母親の下での安定した親子関係が不可欠であることを論ずる文献は数多い。一例として、母子関係について John Bowlby, Attachment and loss(1969)、離婚による子ども達への影響について Judith S. Wallerstein & Sandra Blakeslee, Second Chances(1989)、父子関係の重要性について David Popenoe, Life Without Father(1995)、継続し安定した親子関係の重要性について Joseph Goldstein et al., Beyond the best interests of the child(1979))。出来る限り、生まれた時から実の両親に育てられ、不倫や離婚のない愛情あふれる安定した家庭に育つことが、子どもにとっても健全な大人へと繋がっていく。しかし、カップルの自己決定のみにその存在がかかる同性婚賛成者の婚姻の概念では、カップルはいつ何時でも婚姻を解消することが出来る壊れやすい存在となるのは当然であり、子どもの健全な発育は難しくなってしまうのである。 また、結婚の定義の問題とは別に、同性婚が子どもに影響する点として、次の6点も問題視されている。 第1に、同性カップルの実態は異性カップルと全く違うとの指摘には注意を払わなければならない。例えば最近の様々な研究によれば、同性カップルは異性カップルに比べて・カップルでいる継続期間が短い、・決まった相手以外とも性交渉する、・一度に複数の相手と性交渉する、・性病にかかりやすい、・暴力行為の割合が高い、・うつ病等の精神的な問題を抱えている割合が高い、・薬物乱用やアルコール中毒等の割合が高い、・育てている子どもに対して性的虐待をする割合が高い、という傾向が現れている(Timothy J. Dailey, Homosexual Parenting: Placeing Children at Risk, Family Research Council-Issue No.238(2001))。 特に問題となってくるのは、「同性カップルは一時的な関係であって一生涯生活を共にすることを前提とはしていないこと」「親密な相手がいても性交渉は別で複数の違った相手とも性交渉すること」「育てている子どもに対して性的虐待をする割合が高いこと」であろう。性的虐待は言うに及ばないが、自分の両親がいつ離婚するか分からない不安定な家庭環境、両親が常時お互いに平然と不倫をしているという家庭環境は、子どもが健全に成長するには大変厳しい環境である。 もちろん、これらの研究結果がどの程度、真実をついているのか現時点では分からない。けれども、同性カップルに育てられた子どもへの影響を実際に調べるとなれば、多くの同性カップルに育てられた子ども達が大人になるまで待たねばならず、現時点では真実までたどり着くのは難しいのである。1つはっきりと言えるのは、少なくとも、同性同士の結婚を認めることによって、責任ある出産と育児が切り離され、子どもの情緒的な発育にとって必須とされている母親と父親の存在が両方そろうという環境がなくなってしまうことは事実である。例えば父親が2人いたとしても、父親の役割と母親の役割は違うものであり、母親の役割までカバー出来るか微妙なところである。母親2人の場合も同じであろう。父親2人もしくは母親2人の家庭と、父親・母親そろった家庭が変わらないという見解もあるが、もし男性と女性が全く同じというならば、そもそも性同一性障害の問題など起こらないはずである。普通の子育てが公言できない普通の子育てが公言できない 第2に、もし同性婚カップルが子どもの両親とはならないとしても、同性同士が結婚出来ること自体が、異性同士では当然と考えられてきた一夫一婦制や貞操義務の規範を揺るがすのではないかと指摘されている。同性愛カップルが前述のように「一時的な関係であって一生涯生活を共にすることを前提とはしていない」「親密な相手がいても性交渉は別で複数の違った相手とも性交渉する」という傾向が強いとすれば、たとえ、結婚出来るようになったからといって、行動パターンがすぐに変わるはずもない。むしろ婚姻の本質は自らの幸福の為になされる私的で親密で情緒的な関係と捉えている以上、婚姻概念の方を自らの行動パターンに合わせる可能性が高い。婚姻制度から一夫一婦制や貞操義務を排除しようと運動することも十分考えられる。そうなれば、子どもがいる多くの異性カップルにも影響を及ぼすことは必至である。 第3に、婚姻制度に同性カップルを含むとなれば、もともと血縁の両親に育てられるように意図された社会と子どものための婚姻制度の意義が、法理論のうえだけではなく実際の社会感覚として、揺らいでしまう恐れがある。その結果、家族は社会制度として、子どもや社会に資する制度であるという感覚すらなくなって、婚姻制度は当事者の選択によりいつでも解消出来る不安定な制度になりかねない。そうなれば、今以上に離婚率が高くなり、そのしわ寄せを受けるのは子ども達である。 第4として、前述した生命倫理にも関わることだが、親子関係の複雑化や、親が生まれてくる子どもを取捨選択するという傾向が強まる恐れがある。 結婚を認められた同性カップルが異性カップル同様に子どもをもうけることは自然の摂理には反するが、昨今の医学の進歩により、その希望をかなえることは可能になった。 例えば、女性同士のカップルでも精子を精子バンクから買い取り、どちらかの卵子と受精させて、子どもを産むことも可能となってしまったが、このことは生まれた子どもにとって、カップルのどちらかは血の繋がった母親だが、他方は全くの他人で、この世のどこかに血の繋がった父親が存在するという現実を生じさせる。さらには精子を買い取る時に、目や髪の色を選んだり、学歴の高い男性の精子を希望したりすることさえ出来るようになるのである。 第5に、同性婚を法的に認めることによって、男女間における結婚や血縁の家族の良さを強調することが出来なくなる。 法には一律性と強制力があるが故に、同性においても結婚を認めるということは、同性カップルも異性カップルと法的にも事実上も同等に取り扱うべきことを強制されるということを意味する。そうなれば、「父親と母親の揃った子育てこそ子どもの発育に最善である」という自明の事実さえ公言することも難しくなる。同性婚合法化の背後には、異性カップルのみならず同性カップルも親としての能力は変わらないという趣旨が暗に含まれてしまっている。それは、本来の子育ての理想である「血の繋がった両親による子育ての重要性」を覆い隠してしまう。逆に、学校や家庭においても子ども達に対して、同性同士も異性同士と同じであって、結婚できることを教えなければならなくなる。「同性婚も異性婚も平等」となれば、少子化もさらに進むであろう。 第6には、宗教活動の自由との関係でも問題となりうる。例えば、アメリカでは、本来、同性婚を認めていないキリスト教の関連団体が大学、病院、養子縁組の斡旋、社会奉仕活動等、様々な活動を行っているが、教義に反して、同性婚カップルに養子縁組の斡旋を行わなければ、裁判に訴えられて損害賠償を請求されるかもしれない、政府からの補助金も打ち切られるかもしれないという事態に追い込まれている。このように、国が正式に同性婚を認めることで、宗教活動を現実に阻害するという指摘も存在している。夫婦別姓、再婚禁止期間廃止…家族の多様化がもたらすもの夫婦別姓、再婚禁止期間廃止…家族の多様化がもたらすもの「家族の多様化」は、一見すれば大変魅力的な言葉である。 たとえ家族というものが社会の根底を支える制度であるとしても、様々な形があっても良いではないかという考えも聞かれる。例えば、「同性カップルであっても異性カップル同様に親密な関係があり、しかも本人同士が希望しているにも関わらず、政府が性別によって結婚を否定することは、結婚する権利の侵害であり、性別による平等原則違反であり、(性的な嗜好による)少数派の人権を蔑ろにしている」というのが、同性婚賛成論者の主張であり、今回のアメリカ連邦最高裁判所の多数意見の見解でもあった。 確かに、同性同士であっても、異性間同様に家族同然の親しい関係は存在するかもしれない。税金等の経済的な面に関しては、家族同様に日々扶養しあっている関係があるならば、法律上も考慮すべきであると思う。けれども、それは法的な婚姻の定義を変えずとも、同性カップルに対して、それに対応する別の法制度を整えることでも可能である。 同性婚というテーマのみならず、家族に関する法制度においては、どこまで個人の自己決定を尊重すべきなのかという点で、共通の難しさが存在する。 誰と婚姻が許され、誰と誰が法的な親子となり、どの範囲を家族と考えるかという問題は、本人同士の意向を全く無視することは出来ないが、同時に、個人の自己決定のみで全てを片付けることも出来ない。残念ながら、婚姻当事者(親)の自由を広げれば広げるほど家庭の存続は不安定なものとなり、子どもはもちろん、さらには家庭という制度によってこれまで保護されてきた障害者、老齢者等の将来まで不安定なものとなる。その意味で、子どものいない夫婦だからといって無関係なことではない。 婚姻を社会的な制度と考え、国が保護、規制するのは、家族には世代を超えた繋がりがあり、結婚する当事者の意思のみならず、特に将来生まれてくる子どもには不利益にならないようにしなければならないという配慮が生まれているからである。しかし、昨今の民法論議では、こうした家族の存続や子どもの視点を前提とした「社会的制度としての家族」という見方よりも、婚姻当事者の「個人的な選択の問題」として婚姻を捉える者が多くなっていることは、懸念すべき事態だといわねばならない。 最高裁で11月4日に弁論が開かれることになっている女性の再婚禁止180日規定廃止、夫婦別姓についても、同様の指摘が当てはまり得る。婚姻当事者の選択の自由を広げることを重視するのみで、子どもが自分の母親を推定することを容易にする180日の再婚禁止規定や、子どもが両親、家族と同じ姓を名乗る夫婦同姓の重要性が、あまり議論されていないのである。 また、非嫡出子の相続については最高裁がすでに嫡出子の半分とする民法規定を違憲とする判決を出し、法務省は民法の改正作業を余儀なくされているが、子ども、家族の視点が重要なことはいうまでもない。  確かに家族には個々の構成員がおり、出来る限りの個人の自由や自己決定は尊重すべきだ。しかしながら同時に、家族は継続性を前提とした上での助け合いのシステムである。しかも夫婦間だけではなく、老齢者、障害者、特に子どもにとっては成長していく上で、欠くことの出来ない場である。そしてその子どもたちが安定し継続した家庭で一人前に成長し、次世代の私たちの社会を支えていくことになる。立場の強い親の現在の希望を尊重することだけを考えるのではなく、次世代を担う子ども達に何が一番必要かということを第一に考える婚姻制度を今後も守っていくべきではなかろうか。 いけや・かずこ 昭和47(1972)年、横浜市生まれ。東洋大学法学部卒業、同大大学院法学研究科公法学専攻修了。博士(法学)。東洋大法学部非常勤講師などを経て、平成25年4月から長崎大教育学部准教授。著書に『アメリカ児童虐待防止法制度の研究』(樹芸書房)。

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    選択制夫婦別姓 賛成の人が増えても必要性を感じない

    ぜ反対するのですか? 選ぶ本人はいいかもしれません。でもその子どもはどうなりますか? ただでさえ、核家族化が進み、家族崩壊が崩壊していく時代。両親がそれぞれ「選択して」違う苗字を名乗る家庭で、子どものアイデンティティはどうなるのでしょう? 今の状態よりよくなる事は考えられません。むしろ離婚は増え、もっと家族崩壊は進むと考えられます。今でも離婚率は3割を超えています。生活保護と同様、母子家庭の支援に投じる予算は増加の一途です。それも皆さんの税金です。離婚は個人の問題です。それを税金で救済しているのが今の現状です。8.今は「選択性夫婦別姓」になっていないから、相手の姓になりたくない場合は籍を入れないまま事実婚をするしかない。こんな状態で生まれた子どもは可哀想。 「相手の姓になるのが嫌」なら、その人と結婚しないことをお薦めします。事実婚をして、子どもを作るくらい相手が好きなのに「相手の姓になりたくない」とかたくなに言う人がそんなにたくさん存在するとは思えません。子どもは確かにかわいそうです。そのかわいそうな状況を作っているのはかたくなな親であって、国でも法律でもありません。 主な質問は以上です。 最後に「政治家を目指すのだったら、もっと人の話を聞いたほうがいいですよ。」とアドバイスをいただきました。 私は人の話をたくさん聞いてきました。賛成派の方も反対派の方も。そして今日も皆さんのお話をしっかり聞かせていただきました。それでも私の考えは「選択性夫婦別姓には反対」です。今日の議論が始まる前と変わりません。 と、お答えすると、「もういいです。この話は終わりましょう」と言われてしまいました。 いつも思うのですが「話を聞く」=「同調する」ではありません。いくら話を聞いてもやはり自分の考えは変わらないこともあります。逆に、いい意見だなと思ったら次から自分の考えに取り入れさせていだきますし、「自分が間違ってました。ごめんなさい。」という場合もあります。 いつもいつも相手の話に同調する人間がいたら、そんな人は信用できません。続いて、外国人参政権の話に移りかけたのですが、時間切れとなりました。外国人参政権。うちの党は明確に「反対」と言っています。もちろん私も反対です。(「杉田水脈公式ブログ」より2015年12月7日分を転載)

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    夫婦別姓導入は少子化を加速させる「社会実験」だ

    加藤彰彦(明治大学教授) 「家族の復権」と題された本特集で、編集部より私に求められた課題は、伝統的家族と出生率の関係について、家族人口学の観点から考察することである。いうまでもなく、こうした課題設定の前提には、少子化・人口減少が我々の家族と社会にもたらす危機という認識があるので、まずはこれがどのような危機なのか、簡単な人口ピラミッドのグラフを使って概観することからはじめたい。なお、この小論では、出生率よりも普遍的な概念である出生力という言葉を中心に使用する。いわゆる合計特殊出生率は、社会全体の出生力の水準を表す数多くの指標の1つにすぎないからである。少子化・人口減少の危機 図1と図2は、国立社会保障・人口問題研究所(社人研)の最新のデータを用いて、それぞれ2012年(実測値)と2060年(平成24年推計値)の人口ピラミッドを描いたものである。この図では、年齢各歳人口を男女別に積み上げている(補助線については後述)。2012年のグラフにみられる60歳代の出っ張りは団塊世代、40歳前後の出っ張りは団塊ジュニア世代である。現在の年間出生数はちょうど100万人。団塊ジュニア世代(1970年代前半生まれ)の年間200万人からは半減し、ずいぶんと高齢化が進んできたとはいえ、この世代がまだ中年期にいるので、グラフからは、構造としての安定性が感じられる。 一方、半世紀後の2060年には、出生数はさらに半減して48万人、総人口も8600万人まで減少すると予測されている(この年の合計特殊出生率は1・35、出生中位・死亡中位推計)。この時点ですでに、人口ピラミッドは細長い逆ピラミッド型へと変化を遂げており、外から大きな力が加われば簡単に倒れるような不安定な構造になる。 社人研の推計は複雑な計算にもとづいているが、基本的には現在の出生力水準を将来に延長したものといってよい。図2は全国のグラフであるが、地方によっては2060年よりもずっと早い時期に逆ピラミッド型の人口構成に変化する。昨年話題になった日本創成会議による「消滅可能性」リストに掲げられた市町村がそうした地域である。 周知のように、人口を維持する(再生産する)ためには、大人世代が平均して2人の子どもを生み育てなければならない。孫については内孫2人+外孫2人の4人が必要である。図1では、子ども人口を基準に縦方向に補助線を引いた。この点線で挟まれた幹の部分の人口が、平均2人の子どもをもち、4人の孫をもった人びと――すなわち家族を再生産した人びと――に相当する。古い表現を使って、家を絶やさずに継承した人びとといってもよい。当たり前のことだが、このように確実に家族を再生産する人びとのみで、社会保障制度をつくれば、年金・医療・福祉が破綻することはなく、持続可能なものとなり、支払う保険料も安くてすむ。 それゆえ少子化・人口減少の危機とは、家族が再生産されないために社会保障・社会福祉が破綻していく危機として、あるいは家が絶えていくことで、地方社会・地域社会が消滅し、やがては国家が消滅していく危機として理解することができる。伝統的家族の出生力伝統的家族の出生力 少子化・人口減少が、家族が再生産されずに、家が絶えていく問題であるならば、家族をつくって次世代に生命のバトンを渡していこうとする人びと、家系をつないでいこうとする家族ほど、出生力が高いはずである。実際、結婚時から親と同居する夫婦(1950―69年生まれ)は、別居する夫婦に比べて、第1子で20%、第2子で26%、第3子で39%、出生確率が高くなるという分析結果が全国家族調査データ(日本家族社会学会)を用いた計量分析によって得られている(拙著「少子化・人口減少の歴史的意味」、『比較家族史研究』2010年)。近居でも(同居ほどではないものの)似た傾向がみられる。 とはいえ、結婚時から同居するような夫婦は少なくなり、最近では子どもが小学生高学年になったころに途中同居する傾向(二世帯住宅取得)にシフトしたので、居住実態だけでなく意識のレベルでもみた方がよいだろう。 表1は伝統的な家族観と出生意欲の関連を分析した結果を、社人研の『第14回出生動向基本調査第・報告書』(調査年次は2010年)から引用したものである。ここでは、伝統的家族観を支持している夫婦と支持していない夫婦の理想の子ども数・予定の子ども数が比較されている(集計対象は結婚年数5年未満の夫婦)。一見して明らかなように、6つの項目のいずれにおいても支持派夫婦の理想・予定子ども数が不支持派を凌駕している。この調査では、伝統的/非伝統的家族観の指標として11項目が調査されているが、すべての項目で伝統支持派の出生意欲が不支持派を上回っている(6項目に絞ったのは紙幅の都合)。 とはいえ、平均値の差は0・4~0・1人なので小さいと感じる向きもあるかもしれない。そこでわかりやすくこの差を子ども数に換算して示すと次のようになる。2010年の全夫婦(妻50歳未満)の出生順位別完結出生児数(結婚15~19年の子ども数)の分布――0人が6・4%、1人が15・9%、2人が56・2%、3人以上が21・6%で、平均1・96人――を前提にすれば、平均子ども数2・4人とは、夫婦の約40%が3人以上の子どもをもつ水準に相当する(『平成25年版厚生労働白書』の試算では43・5%が3人以上をもつ水準)。これは平均子ども数2・0人の場合の2倍の水準であり、決して小さな差ではない。 一般にはあまり知られていないが、2000年代以降、日本人の家族意識は脱伝統から伝統回帰へと転換する傾向をみせている。表2に示したように、伝統的家族観の6項目中4項目で支持率の反転上昇を確認できる。「子どもは持つべき」のみ減少傾向が続いているが、これには晩産化に伴う不妊夫婦の増加が影響しているのかもしれない。 伝統回帰は若い世代でより顕著であり、とくに1985年以降生まれの妻では全11項目中8項目で支持率が上昇している(未婚者でも似た傾向。同第・報告書を参照)。専門的には「脱家族化から再家族化への変化」と呼ばれるこうした傾向は、他の複数の社会調査でも確認されている統計的事実である(再家族化の動きはヨーロッパでも始まっている)。 上記の分析結果が示しているように、伝統的家族観を保持する女性ほど出生意欲も強い。それゆえ、出生率を上昇させるためには、家族志向・多子志向の女性たちに照準して、財源を集中させて支援し、過去の脱家族化政策によって棄損されてしまった、家族をなして人の親になることの価値を再生していくことが必要である。しかしながら、従来の少子化対策は、どのような人びとが出生率回復の鍵を握るかという視点を欠いたままに、もっぱら総花的な福祉政策に終始してきた。こうした政策は、間接的に出生に働きかけようとするものだったため、その効果は限定的であり、福祉は向上したものの出生数の減少に歯止めをかけることはできなかった。もし現政権が「希望出生率1・8」を実現したいと本気で望むのであれば、再家族化の流れに乗って、より積極的な出生政策を実行することが不可欠である。 しかしながら、このような出生促進策を提案すると、即座に脱家族化の立場から「結婚しない自由」「出産しない自由」を主張して、戦前のような「産めよ殖やせよ政策」だと批判する人びとが現れる。彼らは、社会的地位が高く声も大きいため、相対的に立場の弱い家族志向・多子志向の庶民の声をかき消すだけでなく、不幸なことに家族志向の人びとに自分たちの方が時代遅れの存在であると思わせてしまう。出生促進策を否定する人びとには、戦前の合計特殊出生率は低いときでも4程度の水準が維持されていたこと(データのある1940年は4・11)、それゆえ、当時は少子化・人口減少の危機にはなかった、という基本的事実をまず知る必要がある。そのうえで図2をみればわかるように、現在の我々には、年間100万人出生数を維持するだけでも困難なこと、増やすなど夢物語であることを理解してほしい――そもそも「産めよ殖やせよ」と批判するより前に、日本を取り巻く地政学的状況の悪化と気候変動や地震・火山による災害増加を踏まえれば、はたして年間50万人出生数で志願制の自衛隊を維持できるか否かを問うべきであろう。そのうえで、責任を伴わない行き過ぎた自由がどのような帰結をもたらしつつあるかを理解していただく必要がある。世代間格差の真実世代間格差の真実 少子化・人口減少の危機は、ある意味で地球温暖化の問題に似ている。地球温暖化が単純な気温上昇ではなく、地球の熱分布の変化により大きな気候変動を引き起こすということは、すでに四半世紀以上前から予測されてきた。しかしながら、多くの人びとが言葉としては知っていた気候変動の意味を、実感として理解するようになったのは、猛暑と豪雪、豪雨と洪水、スーパー台風と線状降水帯に直面せざるを得なくなった最近のことである。これと同じように、近い将来、誰もが少子化・人口減少の危機を肌身で理解することになるだろう。 図3は、前述した社人研のデータを用いて、2040年の人口ピラミッドを描いたものである(出生中位・死亡中位推計)。60歳代後半の出っ張りは団塊ジュニア世代――現在すでに40歳代に突入したこの世代では、約3割の人びとが無子に終わることが決定的となった。同世代の人口規模が巨大なだけに、「老後破産」する人口も巨大になると予想される。補助線で示した幹の部分は図1と同じく、平均2人の子ども、4人の孫を生み育てた人口、すなわち家族を再生産した人口に当たるが、図1に比べてずいぶんと細くなっている。 このグラフからは一見して大きな世代間格差が存在することを読み取れる。平成生まれは、頭上にある巨大な高齢者人口の老後を、年金、医療、介護、生活保護などの社会保障・社会福祉のかたちで負担しなければならない(さらにいえば現在1000兆円を超えた国の借金を返済するのも平成生まれである)。 ここ数年政府によって進められている「社会保障と税の一体改革」では、こうした負担の重さが「肩車型」社会の比喩――現在は平均的に現役世代2・4人で高齢者1人を支えているが、半世紀後には現役世代1・2人で高齢者1人を支えなければならない――によって説明されてきた。このような「肩車」になってしまうのは、平成生まれの親たちが属する高齢世代に、未婚者・無子者が数多く存在するからであり、もし平成生まれが自分たちの親の老後の面倒だけを集合的にみることができれば、負担は大幅に軽減される。いいかえれば、平成生まれにとっては、親孝行の方が経済的に合理的である。 同じことを、親世代の側からみるならば、手塩にかけて育てた自らの子どもたちが同世代内の未婚・無子高齢者の生活を、年金や税金によって支えなければならないということでもある。「子育ての重い負担を免れたおひとりさまたちの老後を、なぜウチの息子や娘が支えなければならないのか」「結婚しない自由・出産しない自由は認められるとしても、老後によそのウチの子の世話になる自由はあるのか」という疑問をもつ人びとが今後増加していくことだろう。エコノミストたちは、1人の子どもを育て上げるには、2000万円から3000万円ものお金がかかると推計している(これに膨大な労力と精神的負担が加わる)。「社会保障と税の一体改革」からは、こうした再生産コストの圧倒的な不平等という視点が見事に抜け落ちている。少子化・人口減少の危機と選択的夫婦別姓制度少子化・人口減少の危機と選択的夫婦別姓制度選択的夫婦別姓をめぐって弁論が行われた最高裁大法廷=11月4日、東京都千代田区の最高裁判所(荻窪佳撮影) 最後に、本特集のテーマの1つになっている選択的夫婦別姓(別氏)制度の導入が、少子化・人口減少の危機の中で、どのような意味をもっているか考えてみたい。 まず、夫婦別姓制度の導入は、親子関係だけでなく、祖父母・孫関係を混乱させることによって、出生率を大きく低下させる危険性が高い。前述した社人研の出生動向基本調査によると、最初の子どもが3歳になるまでに、夫妻の母親(子にとっての祖母)から「ひんぱんに」「日常的に」子育ての支援を受けた育児期夫婦(結婚10年未満)の割合は、妻が就業を継続している夫婦では65%に達し、専業主婦ないしパート主婦(再就業型)の夫婦でも52%に及ぶ。近年では、共働きを続けるために妻方に近居して子育て支援を受けつづける傾向や、育児期には妻方近居であっても、子どもが成長して個室が必要になると、夫方から土地・家屋の提供や金銭贈与を受けて、二世帯住宅に改築のうえ共住したり、近くに持ち家を取得する傾向が強まっているが(拙著「直系家族の現在」社会学雑誌2009年)、こうした多様な三世代関係が可能になるのは、外孫(姓を異にする孫)と内孫(姓を共有する孫)の分別が存在するからである。 つまり、夫方祖父母が、かわいい盛りの孫たちを妻方祖父母に安心して託すことができるのは、孫たちと姓を共有することで最終的な所属が夫方にあることが慣習によって担保されているからである(それゆえ孫をとられる不安を感じている祖父母には「○○家の孫」であることを強調してあげるとよい)。いいかえれば、夫方祖父母が「名」をとり、妻方祖父母が「実」をとることで、両家の利害を調整している。少子化により、孫の数が減り続け、孫を持つこと自体が希少価値となって、夫方と妻方の間で孫の奪い合いが生じやすくなっている現状では、このように痛み分けによって親族関係を調整する慣習法は、ますますその重要性を高めているといってよい。 ところが、夫婦別姓制度の導入は、外孫・内孫の分別を失わせて、力に訴えれば名も実も獲得できるという競争的状況をつくりだすことになる。夫方と妻方の親族関係を調整する慣習法の破壊は、祖父母という重要なサポート源を失わせることで子育て環境を悪化させて、次子を生み育てようとする意欲を低下させる可能性が高い。実際、専業主婦であっても、第1子において孫育てなどの支援がない夫婦は予定子ども数が低くなる傾向が指摘されている(出生動向基本調査)。 選択的夫婦別姓制度の導入は、少子化を加速させるリスクの高い社会実験なのである。 さらにいえば、両家の対立は夫婦関係をも不安定化させ離婚確率を上昇させて、母子家庭や父子家庭を増加させるだけでなく、家族・親族関係の混乱と緊張が子どもの心理的発達を阻害してDVや児童虐待など暴力の源泉となる可能性を否定できない。実験に失敗して問題が多発した場合の社会的・経済的コストは決して小さいものではなく、少なくともそれを誰がどのように負担するのかを考えておく必要がある。 前述したように、団塊ジュニア世代の約3割が無子に終わることがほぼ確実となり、この中から巨大な「老後破産」人口が生まれてくる可能性は高い。日本国憲法第25条に従って、彼らの老後の生存を生活保護などのかたちで保障しなければならないのは、図3をみれば明らかなように平成生まれであり、「自分の個性や生き方を半分犠牲にしつつ」彼らを生み育てた家族である。残念ながら、我々にはもはやこれ以上の負担を背負う余力はない。 結婚しない自由・出産しない自由をはじめとする再生産にかかわる自由は、伝統的家族観を保持して、次世代再生産の責任を自らの家族の再生産以上に果たす多子家族によって担保されてきた。いいかえれば、再生産水準(合計特殊出生率2・1)を維持するためには、子ども数0人と1人は、子ども数3人・4人によって埋め合わされなければならない。無子と少子の自由を保障するのは、子どもを3人以上もつ伝統的な多子家族なのである。現状では、再生産の自由が責任を極端に超過してしまっている。  それゆえ、夫婦別姓制度の導入というハイリスクな社会実験は、合計特殊出生率が2・1近くを回復して社会の再生産が確実になるまで延期すべきである。それまでは、伝統的な婿養子慣行の再生(歴史的には武家においてでさえ盛んであった)によって対応するのが望ましい。 最高裁判所には、わが国の歴史に禍根を残すことのないよう、少子化・人口減少の危機を精確に理解したうえで、後世の評価に耐えうる判断を求めたい。かとう・あきひこ 昭和39(1964)年、東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。同大大学院文学研究科社会学専攻満期退学。博士(文学)。専門は家族人口学。明治大学助教授などを経て現職。著書に『現代家族の構造と変容』(共著)など。

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    的外れな論旨が多い朝日新聞の夫婦別姓賛成論

    特に朝日新聞はかなり露骨な賛成論を展開している。今の時代にそぐわない? たとえば11月7日の社説は「家族の一体感が損なわれるなどを理由とした」反対論は、「今の時代にそぐわないのは明らかだ」とあっさり切って捨てる。そして推進派に立つ理由を次々に列挙するが、的外れの論旨が多い。 好例は「海外でも夫婦に同姓を義務づける国はほとんどなく」のくだりだ。わが国の世論は「先進諸国の大勢」とか「グローバルな基準」のような「神託」に弱く簡単に説得されてしまう傾向がある。これもその一例だが、そもそも全国一律の戸籍制度を完備してきた国は日本以外はほとんどないから、次元の違う制度比較は空論になってしまう。 キリスト教国の多くは、誕生も結婚も教会に登録され、横の連絡網が欠けるので家系をたどりにくく、わが国ではありえない重婚(の罪)も起きる。姓名の変更も欧米では法的規制が緩やかで、極端に言えば自由自在に近い。たとえば結合姓であるヒラリー(洗礼名)・ロダム(父の姓)・クリントン(夫の姓)は、大統領選を意識してか、洗礼名のみのヒラリーに変え、最近はヒラリー・クリントンと名乗っている。 ミャンマーは姓を持たぬ国で、アウンサンスーチーは父と祖母と母の名の一部ずつから合成した名だというから、世界の姓名事情がいかに多彩かわかるし「女性差別」とは無関係だ。問題の核心は「親子別姓」 差別といえば現行民法では、夫婦は「夫又は妻の氏を称する」と規定しているが、実際には96・1%が夫の姓を選んでいるのを、朝日社説は「実質的に女性が姓の変更を強いられており、正当化できない」ときめつけているが、果たしてそうか。 だが、この高い比率にはトリックがある。筆者の高校卒業名簿から推すと、10%前後いる養子による改姓が除外されている。また20歳代のカップルが、姓の選択をめぐって激論になったという話は聞いたことがないが、もし女性からお願いされれば受けいれる男性は意外に多いと思われる。筆者も電話などで難読の姓の字体を説明する煩にうんざりしていたので、お願いされれば応じたろう。 それに男が年長である場合が多く、カップルの大多数は無意識に男の姓を選んでいるので、姉さん女房が増えると改姓の男女比は五分五分に近づくかもしれない。 ところで別姓反対者の論拠は「家族の一体感を損なう」としか報じられないが、問題の核心は夫婦別姓が親子別姓を意味する点にあると筆者は考える。ここで、結婚の態様を整理してみると、(1)同姓婚(通称併用は可)(2)別姓婚(3)事実婚(4)新姓創造(結合姓を含む)(5)通称拡大(戸籍法の裏付け)-となる。現状は(1)だが、(5)の方向へ進みつつある。(4)の結合姓(一例は関・谷・三郎)は日本人の姓名になじまないのは一目瞭然で、賛同者はいないと思う。理念倒れにならぬ判断を (2)を採用した際の難点は、子の姓を決めるすっきりした名案が見つからぬことだろう。2001年の森山真弓法相時代に別姓実現の一歩前で、(5)を推す高市早苗議員(現総務相)の奔走により流れたことがある。このとき法案の作成を命じられた法務省官僚は、子の姓について、あちらを立てればこちら立たずで、条文化に苦慮した。ジャンケンで決めようとか、交互に姓を分けたらとか、成人後の子に最終選択権(1回だけ)を与えたら、というような諸案が検討されたようだ。 しかし最終案は、別姓での結婚時にカップルが協議して子たちの統一姓を決め、登録しないと結婚届を受理しないという「荒業」に落ち着いた。双方の親も加わる協議がまとまらないと事実婚(内縁)状態が続き子は自動的に母親の姓になるが、と法務省の担当者に聞くと「少数のわがまま女性はそれが狙いかも」とやけ気味の返答だったのを覚えている。 最近の世論調査では別姓容認と反対は35%前後で拮抗しているが、容認しても実行する人は「百人に一人」(野田聖子議員)という見方もある一方、同姓から別姓に切り替える夫婦が多いと経費増が心配だという声もある。いずれにせよ、しわ寄せが子(や孫)に集まる事情に変わりはない。 最高裁は予見される実務上の波及効果も念頭に置いて、理念倒れにならぬ判断を下してほしい。

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    「夫婦別姓」憲法判断、家族の在り方を問う

    制度の在り方は国会で論じられるべきだ」とも付言し、政治判断に委ねた。賛否が渦巻く夫婦別姓。いま日本の家族の在り方が問われている。

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    夫婦別姓容認は家族の呼称廃止を意味する

    している。 弁論を行うのはこれまでの判例の変更や憲法判断する場合だ。12月の最高裁の判断で、わが国の家族制度が大きく揺らぐ事態とならないことを願いたい。「姓」は家族共同体の名称 夫婦別姓の主張は3種類ある。(1)結婚により夫婦の一方が姓を変更するのは多くの手続きが必要で、仕事上の連続性もなくなる(2)結婚で一方の家名がなくなる(3)姓を変えることで自分が失われてしまう気がする-というものだ。 別姓の主張の大部分は(1)だが、今日では職場などでの旧姓の通称使用が普及している。女性の政治家の多くは旧姓を通称使用し、現在ではパスポートでも旧姓の併記が可能になった。民法を改正する必要はない。(2)は子供が娘1人といった場合に強く主張されたが、さらに次の世代(孫)を養子にして家名を継がせればよく、どのみち孫が複数生まれなければ家名の継承者はいなくなる。別姓での解決は不可能だ。(3)は少数だが根強く、裁判の原告の主張もこれだ。 夫婦同姓の制度は戸籍制度と一体不可分だ。結婚すると夫婦は同じ戸籍に登載される。その間に生まれた子供も同様だ。つまり、姓(法律上は氏)は夫婦とその間に生まれた子供からなる家族共同体の名称という意味を持つ。別姓になれば、姓は共同体の名称ではなくなる。軽視すべきでない精神的一体感 同姓にしたい人は同姓に、別姓にしたい人は別姓に、すなわち選択制にしたらよいという主張もある。しかし、選択制であれ、制度として別姓を認めると氏名の性格が根本的に変わる。氏名は家族共同体の名称(姓・氏)に個人の名称(名)を加えたものだが、別姓を認めると、家族の呼称を持たない存在を認めることになり、氏名は純然たる個人の呼称となる。 選択的夫婦別姓制を認めた平成8年の法制審議会答申に法務省民事局参事官として関わった小池信行氏は「結局、制度としての家族の氏は廃止せざるを得ないことになる。つまり、氏というのは純然たる個人をあらわすもの、というふうに変質する」と問題点を指摘している(『法の苑』第50号、2009年春)。当然、戸籍制度にも影響は及ぶ。 家族の呼称が廃止されることから夫婦の間に生まれた子供の姓(氏)をどうするのかという問題も生じる。夫と妻のどちらの姓を名乗るのか、どの時点で決めるのか、複数生まれた場合はどうするのか、さまざまな問題が生じてくる。そこに双方の祖父母が関わる。慎重な検討が必要となる。 家族が同じ姓を名乗る、すなわち家族の呼称を持つことで家族としての精神的な一体感が生ずるという点も軽視してはならない。多くの人が自らは別姓を選ばない理由はここにある。別姓の容認は家族の呼称の廃止を意味し、家族の一体感をも損なうことになる。合理性ある女性の再婚禁止期間 女性の再婚禁止期間は生まれた子供の父が誰かの判断を混乱させないための措置だ。民法は「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」(772条1項)、「婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する」(同2項)と規定する。 重要なのは「推定」という文言で、国(法律)としてはあくまで夫の子と推定するにとどまり、真実に夫の子であるかどうかには関与しない。結婚している間に妻が宿した子供は夫の子であるだろうと推定し、夫に父親としての責任を負わせるのが法の趣旨だ。 女性にだけ再婚禁止期間があるのは女性しか妊娠できないからだ。再婚禁止期間の廃止や短縮も主張されているが、そうなれば、子の父が誰であるかについての紛争が増える。DNA鑑定すればよいとの指摘もあるが、法は真実は詮索せず、法律上の父親を早めに決めて監護養育の責任を負わせるのが趣旨だ。 DNA鑑定により数代前からの親子関係、親族関係がひっくり返る可能性もあり、影響は相続関係にも及ぶ。再婚禁止期間中に現在の夫との間で妊娠した子も前夫の子と推定されることから、出生届を出さずに無戸籍となる子供の救済は再婚禁止期間の見直しとは別に行えばよく、民法の問題ではない。 憲法は合理的な根拠のある差別は許容する、とするのが最高裁の判例の立場でもある。夫婦同姓も女性の再婚禁止期間も十分な合理性がある。

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    夫婦同姓も中絶禁止もその価値観を他人に強制することではない

    は時代の流れでもあり世界の趨勢です。これに敢えて反対し、絶対にダメだとする理由こそ見つかりません。 家族の絆だ、などというお題目は全くもって意味がないだけでなく、家に縛り付けるだけの概念でしかありません。絆といいながら日本でも着実に離婚も増加し、高齢夫婦の離婚も社会現象になっているのですから、苗字が同じになったら絆が深まるなどというのはあまりに短絡的です。このような時代錯誤の発想で次の世代を縛ることは本当にやめてもらいたいものです。 離婚数、離婚率は増え続けてきましたが、近年、それも減少傾向と言われていますが、婚姻数そのものも減少しています。今まで日本では離婚数が少なかったのは絆があったからではなく、そもそも婚姻制度の妻側が縛り付けられてきたからに過ぎません。厚労省ホームページより もっとも自分は別姓にはしないが69.8%というのも別次元では問題を含んでいます。自分は別姓にしないという場合、自分は相手の苗字に変えますからという意味であれば、まだ自己決定と言えますが、自分ではなく配偶者になる人には変えることを求めているのであれば、夫婦別姓に賛成とは実は矛盾する態度とも言えます。保守派の本音は「家制度の維持」 他人の夫婦は勝手だが、自分のところの別姓は許さない、では夫婦別姓に反対する高齢者たちと、似たり寄ったりの発想でしかなくなります。そうなると仮に選択制が導入されても、個別の夫婦では一方が変更を強いられるような場合はまだまだ残ることが懸念されます。 もっとも、そのような姓にこだわり、相手に変更を求めるような人とは結婚しない方が良かったりもするのかもしれません。 本来であれば、夫婦別姓であるべきであり、そうでなければ選択を強いられることにならざるをえません。自由意思により選択できる状態が理想だとしても、自分は利用しないが69.8%では、過半数が別姓に賛成と言っても、どうにも心許ないものがあります。 それにしても高齢者は世代の違いというものもあるでしょうが、保守・反動一派からは、執拗に反対論が展開されています。その根拠は上述したような家族の絆なのですが、本音は家制度の維持です。 家を中心とした制度により国民支配を貫徹するためのものであり、精神的に従属させようというものです。このような保守派の主張は全くもって取るに足らないものです。 ところで米国では中絶を巡って、保守派が頑強に反対しており世論調査も二分しています。しかし、これも同じで個人の持つ宗教観を他人に押しつけているだけのことであり、キリスト教徒でもなければ無神論者として母体に問題がなければ中絶することは当然に自己決定権の範ちゅうものです。中絶政策に反対する男性たち=2015年5月、米ノースカロライナ州 自分は自分の価値観(宗教観)から中絶はしない、というのであれば勝手ですが、それを他人に押しつけるようなことは明らかに横暴です。 米国では、中絶を実施している医療機関が襲撃され、医療関係者が殺されたりしていますが、これは宗教的価値観に基づくテロであり、「イスラム国」と同じレベルのものです。 どの宗教を信仰しようとその人の勝手ですが(子に強要するのは勝手とも言えません)、何故、どこの宗教もそうですが、他人に価値観を押しつけようとするのでしょうか。ましてや襲撃など論外です。 夫婦別姓にしても中絶にしても、それぞれが選択すべきものであって、他人が価値観を強制することなど、許されるものではありません。 (「弁護士 猪野 亨のブログ」より2015年12月16日分を転載)

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    選択的夫婦別姓は基本的人権 「個」のアイデンティティ守る重要性

    ないかとの批判もある。 1998年、法務省法制審議会は選択的夫婦別姓制度の導入を答申したが、『伝統的家族観が崩れる』などの世論もあって法改正には至らなかった。 その後、日本は国連の女性差別撤廃委員会から繰返し法改正の勧告を受けているが、2012年の内閣府「家族の法制に関する世論調査」でも、同制度の導入に向けた法改正についての賛否は割れていた。 一方、今月実施された朝日新聞社の電話による全国世論調査では「賛成」が52%と「反対」の34%を上回っている。 夫婦別姓の利点は、結婚後も自分のアイデンティティとなっている姓を男女が共に維持できることだ。少子化に伴い実家の姓を残すことを希望する人も大勢いるだろう。 一方、前述の内閣府世論調査では同制度の導入が「子どもにとって好ましくない影響があると思う」との回答が7割近くに上るなどデメリットとして「家族の一体感を損なう」と指摘する意見も聞かれる。 選択的夫婦別姓制度は、婚姻による同姓を強制するのではなく、希望する夫婦には別姓を認めるという新たな選択肢だ。 世界的には同性婚の広がりなどがみられるように結婚観が多様になり、家族のあり方として夫婦が同じ姓を名乗ることを全ての夫婦に対して法律が一律に規定することが妥当なのかどうかが問われているのではないだろうか。 夫婦同姓であれば、夫であれ妻であれ、必ず一方は改姓しなければならず、他方は自らのアイデンティティを失う可能性がある。夫婦として同姓を名乗ることが自らのアイデンティティにつながると考える場合は、夫婦同姓でも特に支障はない。 だが、自己のアイデンティティを守ることで配偶者のアイデンティティを損なうことになれば、夫婦が相互の人権侵害をすることになりはしないだろうか。 夫婦のいずれか、もしくは双方がアイデンティティを喪失しないためには、一人ひとりが「個」のアイデンティティを守る制度が必要だ。 ライフスタイルや家族のあり方が多様化した成熟社会では、同姓もしくは別姓を選べる選択的夫婦別姓制度は基本的人権を守る上で不可欠だと思われる。(ニッセイ基礎研究所「研究員の眼」より2015年11月17日分を転載)

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    夫婦別姓に同性婚 最高裁は日本人を新しい家族観へ導けるか

     いま私たちは家族の有り様を改めて考える、大きな節目を迎えていると思う。その推進役となっているのが、現在の最高裁判所だ。 この2、3年の間で、最高裁が民法の家族法について大きな判断を下したり、憲法判断をする判決・決定が相次いでいる。選択的夫婦別姓をめぐって弁論が行われた最高裁大法廷=11月4日、東京都千代田区(荻窪佳撮影) まず最高裁は2013年9月、「遺産分割審判に対する抗告棄却決定に対する特別抗告事件」において、嫡出でない子と嫡出子の法定相続分を同等とし、嫡出でない子の相続分を嫡出子の相続分の2分の1と定めた民法900条4号ただし書を憲法14条の平等原則に反するとして違憲無効にした。 これは従来の最高裁判例を変更する大きな決定で、法務省は民法を書き換えた。妥当な判断だと思う。 さらに同年12月には、「戸籍訂正許可申立て却下審判に対する抗告棄却決定に対する許可抗告事件」という事件について決定が下された。 事件はこうだ。性同一性障害により女性から戸籍変更した男性と、女性の夫婦の間に「子ども」が出来た。子どもは妻が第三者から体外受精して授かったものだった。しかし出生届を受けた区役所が、子どもは性同一性障害で女性から男性になった人物の実子ではないことが明らかとして、「父親」欄を空欄にした。この人物が子どもの戸籍欄に自分の名前を記載するように求め、最高裁はそれを認めた。 もともと性同一性障害者は、平成16年に施行された「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」によって、しかるべき要件を備えた場合は、戸籍の性別を変更して以降、その性別としてみなすことになっている。実子でなくとも、戸籍欄に「父」と記載したい気持ちは当然であり、これも妥当だろう。 2つとも最高裁は訴えた側の主張を認めた。通底するのは家族観の実態を見据え、古い家族観から脱却しようとする姿勢である。 寺田逸郎・最高裁長官は今年の年頭所感で、 「家族の在りようの多様化も,少子高齢化の進展と相まって,解決困難な事件の増加をもたらしています。施行から3年目を迎えた家事事件手続法に基づく実務の運用の定着を図りつつ,法的観点を踏まえた紛争解決機能の充実に向けた取組を引き続き強化することに努める必要があります」 と語って家族問題について取り組む姿勢をにじませた。その言葉通り、最高裁は今年2月中旬に「夫婦の別姓は認めない」「女性は離婚後6カ月間は再婚できない」という規定について争われている裁判で、大法廷で審理することを決めた。両規定について初めて憲法判断するものと見られている。 こうした動きについて保守派からは、「夫婦別姓を認めれば夫婦の一体感が失われる」という反対意見がある。 何十年前の感覚だろうか。少なくとも仕事面では、結婚しても旧姓のまま働き続ける女性は多い。私の妻もそうだ。というか、結婚を機に名刺の名字を変えました、という女性を私は知らない。私の周りの話をして恐縮だが、大方の読者の「周り」もそんな感じではないか。それで「お前の家庭の一体感は失われていないのか」と訊ねられれば黙って俯くしかないが、それは私の家庭の個別的事情で夫婦別姓とは関係がない。 そもそも「夫婦別姓」はわざわざ最高裁の憲法判断を仰ぐより、国会が立法的に解決すべき問題ではなかったか。公明党の山口那津男代表が「夫婦別姓」について、「判決が下ってから動くのではなく、改正へ向け政治が自覚的にどうするか議論すべきだ。(選択的夫婦別姓を)肯定的に考えている」(日経新聞2月24日) と語ったのは、全く正しい態度である。 家族関係を取り巻く法律で、「最後の山」といえるのが同性婚だろう。3月、渋谷区は同性カップルを結婚に相当すると認め、パートナーとして証明する条例案を区議会に提出した。全国の自治体で初めての試みである。世田谷区も前向きな姿勢を示している。 世界的には同性婚を認めたり法的保護を与える国がオランダ、アメリカの一部の州などに広がっており、ベトナムでも同性婚を禁じた法律を撤廃、容認への姿勢を打ち出している。 だが安倍晋三首相は同性婚について、「現行憲法の下では、同性カップルの婚姻の成立を認めることは想定されていない」と述べた。(朝日新聞2月18日) これは憲法24条1項の「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」という文言を念頭に置いての発言とみられる。 では憲法は安倍首相の言う通り、同性婚を認めていないのだろうか。同性婚について裁判所が憲法判断を下したケースはまだない。だが憲法24条の立法趣旨が家父長制度の否定を主眼としていること、憲法13条で「個人の尊重」を規定していることなどから、憲法24条が同性婚を「禁止している」とまでは言えない、という学説もある。つまり、民法を改正して同性婚を認めたとしても憲法違反ではない。「家族」は社会の最少の組織単位であり、さまざまな形のファミリーが生まれることは、この社会の多元的な価値観、豊かな生き方の土壌になる。立法府の前向きな決断を待ちたい。●文/神田憲行(フリーライター)関連記事■ ブラピ&アンジー 同性婚認めぬ米国への抗議で外国で挙式か■ 1票の格差訴訟 最高裁で「選挙無効」判決出る可能性を指摘■ 同性愛者がなぜ必ずクラスに1人いるのかという謎に迫った本■ 「記者クラブ問題」「地デジ移行」上杉隆が40字で驚きの事実解説■ 元最高裁裁判官が日本の裁判所と裁判官の問題を告発した書