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    人口減少危機から日本を救う「新労働力」はこれしかない!

    加谷珪一(経済評論家) 人口減少が日本の社会や経済に極めて大きな影響を与えていることについて知らないという人はほとんどいないだろう。だが、ひとくちに人口減少といっても、その動きは単純なものではなく、社会や経済への波及経路も様々である。本稿では日本の人口動態について分析し、人口減少社会に対してどう向き合えばよいのか考察してみたい。 日本における2016年12月1日現在の総人口は1億2692万人(総務省統計局による概算値)となっており、前年比で約16万人、率にして0.13%減少した。日本では人口減少という言葉が一人歩きしているので、急激に人口が減っているとイメージする人もいるが実際はそうでもない。 2000年の人口は約1億2693万人、2010年の人口は1億2806万人だったので、総人口そのものはあまり変化していない。過去15年間は「人口減少社会」というよりは「人口横ばい社会」だったというのが正しい認識である。 だが、人口が横ばいだからといって社会や経済に対する影響が軽微というわけではない。総人口が変わらなくても高齢化が進み、若年層人口の比率が減少することで、社会のあちこちに歪みが生じるからである。 過去15年間で34歳以下の人口は約22%減少したが、一方、60歳以上の人口は43%も増加した。長期にわたって不景気が続いているにもかかわらず、企業では人手不足が深刻な状況だが、その主な理由は、若年層の労働人口が急激に減っているからである。 最近、注目を集めている長時間労働の是正など、いわゆる働き方改革についても、実は若年層労働人口の減少が大きく関係している。特に外食や小売といった業界は、労働力の中心が若年層労働者であることから影響は大きい。 牛丼チェーンの「すき家」は2014年、深夜の1人運営体制(いわゆるワンオペ)において過重労働が横行しているとの指摘を受け、深夜営業の大幅な見直しに追い込まれた。過重労働が常態化したのは同社の体質にも原因があるが、労働市場で人を確保できないという状況が背景となっている。ワンオペが指摘され営業時間の見直しに追い込まれた「すき家」 昨年末には、「ガスト」や「ジョナサン」を展開する「すかいらーく」が深夜営業を大幅に縮小すると発表し、ロイヤルホストを運営するロイヤルホールディングスも24時間営業の廃止を決定している。これについても事の本質は人手不足である。24時間営業をこなすために必要となる人員の確保が難しくなっており、採算が悪化したことが最大の原因である。 では、今後も同じような傾向が続き、企業は引き続き若年層労働力の確保に苦労するのかというとそうではない。総人口の減少はこれから本格化することになるのだが、人口構成の変化についても、これまでとは大きく様変わりする可能性が高いのだ。 国立社会保障・人口問題研究所の将来推計によると、2040年の総人口は1億728万人と現在より15%ほど減少する見込みである。しかし、60歳以上の人口はまだまだ増加が続き、2040年には今より374万人多い4646万人になる。 一方で、企業の労働力の中核となっている35歳から59歳までの人口は、現在との比較で何と26%も減少してしまう。次の20年間、日本社会は中核労働力の減少という大きな問題に直面することになる。豊かさを維持するには人工知能しかない 若年層労働力が22%減少した結果、外食や小売といった分野では人不足が深刻化し、サービス残業など社会問題を深刻化させる結果となった。同じようなレベルのインパクトが、今度は一般的な企業の業務にも及ぶことになる。企業の中には、従来のビジネスモデルについて見直しを迫られるところも出てくるだろう。 もし労働力の不足に対応できない場合、不本意ながら生産を縮小する企業が出てくる可能性がある。そうなってくると、労働力不足が供給を制限し、これがインフレを誘発。結果として消費者の購買力が縮小し、需要不足から経済がさらにシュリンクするという負のスパイラルに陥る可能性も否定できない。※写真はイメージ そのような状態にならないためには、企業は生産性を向上させ、少ない人数で同じアウトプットを実現できるよう、業務プロセスを改善していく必要がある。 幸い過去の20年間とは異なり、今の時代にはAI(人工知能)という強い味方がいる。AIについては、人間の仕事を奪ってしまうのではないかというネガティブなイメージを持つ人も多いが、マクロ的に見た場合には、必ずしもそうとは言い切れない。 社会で中核となる労働者の人口が今後、急激に減少することを考えると、AIを積極的に活用し、人間の仕事をうまく機械に代替させなければ、社会の維持に必要な生産を維持することさえ難しくなる。AIに仕事を奪われるというよりも、むしろAIをフル活用しなければ、現在の豊かさを維持できないといった方が正しいだろう。 ただAIを本格的に社会に導入するためには、適材適所に人を再配置する必要が出てくる。同じ組織で同じ仕事をしながら高齢者になるまで、漫然と時間を過ごすといったキャリアプランは描きにくくなる。 AIを活用して人口減少時代をうまく乗り切るためには、時間や場所などにこだわらない、多様性のある働き方が必要となる。政府は従来の労働政策をあらため、副業の本格的な解禁に向けて舵を切ろうとしているが、これは日本人の働き方を変えるひとつのきっかけとなるかもしれない。人口減少をネガティブな要因とは考えず、複線的なキャリアプランを構築するよいきっかけと受け止め、企業での働き方をもっと柔軟に捉えるべきである。

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    ついに始まった人口減少クライシス

    96万2607人。この数字は、過去5年間で減少した日本の総人口である。かたや、昨年生まれた子供の数は、1899年の統計開始以来初めて100万人の大台を割った。2つの数字は、日本が本格的な人口減少時代に突入したことを意味する。私たちは未来を揺るがすこの危機とどう向き合えばいいのか。

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    ヤンキーも逃げ出す「超おバカ社会」がニッポンにやってくる

    山田順(ジャーナリスト) 今年(2017年)になって再び、人口減社会が大きくクローズアップされている。それは、昨年10月、総務省が発表した2015年国勢調査の確定値で、日本の総人口が初めて減少に転じたことが明らかになったからだろう。すでに、住民基本台帳による調査人口は、2008年をピークに減少に転じていた。しかし、今回の発表でそれが決定的になったのである。 国立社会保障・人口問題研究所の推計によると、日本の人口2040年代に1億人を割り込み、2060年に8674万人に減少するという。 人口減社会に関しては、「楽観論」と「悲観論」が交錯している。楽観論では、人口が減っても経済成長は望める、今後のイノベーションによって生産性が向上すれば経済は維持できるという。日本はその潜在力が十分にあるという。 しかし、これは少数意見であり、悲観論のほうが圧倒的に強い。人口減少は経済成長を不可能にし、なにより税収減により社会保障とインフラ維持を困難にさせる。日本はこのままでは衰退せざるをえないというのだ。 日本政府も悲観論の立場で、そのため、なんとか現状を維持できないかという対策を取ってきた。しかし、それは消費税の増税や年金支給額の縮小など、ほとんどが単なる対処療法だから根本的な解決にはなっていない。女性が活躍する社会、高齢者の活用なども同じだ。 また、成長戦略というのも、成長しそうな分野に税金を投入するという旧態依然たるバラマキだから、ほとんど期待できない。 かくして、年々、悲観論が強まってきた。 2年前に元総務相の増田寛也・東大客員教授が座長を務める日本創成会議が、2040年には全国の市区町村の半分にあたる896自治体が人口減により消滅の危機を迎えるという予測を発表して以後は、とくにそういうムードになっている。いまのところ、2020年に東京オリンピックがあるということで、悲観的未来は先送りされているが、それは見たくないものは見ないですませたいという心理があるからにすぎない。未来は、まったく明るくない。2014年7月、佐賀県唐津市で行われた全国知事会で各知事と意見交換する日本創生会議の増田寛也座長(前列左端) じつは、私も悲観論に立っている。というより、このままだとそうならざるをえないと考えている。そこで本稿では、徹底的な悲観論で、日本の人口減社会の行く末を考えてみたい。地方創生で分かれる勝ち組、負け組 これまでに私は、人口減社会を扱った本を2冊書いている。1冊は『人口が減り 教育レベルが落ち 仕事がなくなる日本』(2014、PHP研究所)で、もう1冊は『地方創生の罠』(2016、イーストプレス)だ。このうち、後者では、人口減で衰退する地方が、現状ではどうやっても衰退を免れない。アベノミクスで掲げた「地方創生」策は、完全な愚策で、地方の衰退を速めるだけだということを指摘した。 これまで、日本中で「まちおこし」や「地域活性化」が行われてきた。アベノミクスはこれを言い換えて、「地方創生」としたが、なんら有効な手は打っていない。というか、有効な手、アイデアなどないと言っていい。 人口減を食い止め、市町村がさびれていく現状を食い止めるには、端的に言って「女性がもっと子供を産む」か「他地域から住民を引っ張ってくる」(移住促進)しかない。しかし、経済が衰退していくなかで、子供を育てることが高コスト、高リスクになる社会では、女性は子供を産まない。 移住促進と言っても、たとえそれに成功したとしても、それは日本国内の人口移動に過ぎない。国外からの移民ではないのだから、日本全体としては人口減が解消しない。 現在、日本中で地方創生が行われている。その結果、「ゆるキャラ」が乱立し、「B級グルメ」が全国規模で誕生した。「ふるさと納税」などというバカバカしい制度(税金を右から左に移すだけ)もでき、さらに「地域振興」と称して「プレミアム商品券」というマヤカシにすぎない金券がばらまかれるようになった。 また、中央からコンサルや代理店が出向き、シャッター通りの活性化案、地方発のベンチャー支援策、移住促進プランなどを提案すると、それに自治体は予算をつけて、かえって財政の悪化を招いてきた。JR水戸駅北口から続く商店街もシャッターが目立ち、人通りは少ない=2015年6月(桐原正道撮影) これが行き着く先は、一部の「勝ち組」自治体と、多くの「負け組」自治体の誕生だ。全国規模で同じ競争をやれば、必然的にこうなる。そして、負け組自治体からますます人が出て行き、衰退が速まるだろう。2007年に財政破綻した夕張市がいい例だ。 楽観論者に言わせると、人口減少は一時的なもので、社会の変化により、また人口が増えるときがやってくるという。たしかに19世紀までの歴史ではそうなっている。しかし、それ以後、産業革命と資本主義によって人類人口が爆発的に増え、その結果として、20世紀後半から先進国で少子化が起こった。そして、その最先端を行く日本で人口減少が始まった。 つまり、今後、同じ歴史は繰り返されない。イノベーションはさらに進み、資本主義は続くのだから、人口減少は止まらないと考えた方がいい。しかも、IT革命、第4次産業革命(インダストリー4.0)が進むなか、もはや人間自体が価値を失いつつある。 AIとロボットがなんでもやってくれる世の中で、労働力としての大量の人間が必要だろうか。必要なのは労働力としてのロボットであり、頭脳としてのAIだ。この先、シンギュラリティに突入していくなかで、機械が雇用を奪うとすれば、人口が増える理由が見当たらない。人口減少に逆らっている若者たち 日銀の「黒田バズーカ」による量的緩和が効かないのも、人口減のせいとも言える。いくらカネを刷って市中に供給しても、使う人間が年々減っている。なにしろ、年間20〜30万人の人口が失われている。これは、中規模の都市が一つなくなるのと同じことだ。 銀行にしても預金者が減るのだから、もう業務を縮小せざるをえない。金融緩和になど付き合っていれば、確実に破綻する。 すでに過疎化は進み、鉄道路線、公共交通網は縮小されている。乗客が年々、減っているからだ。そんななかで、整備新幹線だけはまだまだ拡張され、リニア新幹線の建設も始まった。東京−名古屋を1時間ほどで結ぶことに、なにか意味があるのだろうか。それにしてもこのような乗り物にいったい誰が乗るのだろうか。名古屋から東京に通勤する人間が誕生するというのか。 人口減が進むなか、中央アルプスの地下を乗客がまばらな弾丸特急が走るという未来に、なぜ多額の税金を投入する必要があるのだろうか。 すでに地方では、人口減により、学校が減り、病院が減り、飲食店も減った。書店はピークの半分以下、スタバもマックも減り始めた。地方都市の郊外にできたイオンモールのようなSCも、最近では不採算店からクローズされるようになった。 地方都市では結婚式場がなくなったため、若者たちは結婚式を挙げなくなり、またお寺は檀家が減ったために消滅の危機にある。 今後は、Eコマースが進み、流通は自動運転によるトラック輸送やドローンになるから、生活自体が困ることはない。ただし、人口減少はますます進む。 ところで、日本の人口減少に逆らっている若者たちがいる。地方都市や大都市圏の郊外にいる「マイルドヤンキー」たちだ。ひと昔前、ヤンキーと言えば「暴走族」「不良」とほぼ同義だったが、いまは違う。 マイルドヤンキーたちは、日本と郷土をこよなく愛し、地元を離れずに職に就き、同じよう育った仲間たちと暮らすことを好んでいる。彼らの特徴は、20歳そこそこで「早婚」「デキ婚」し、子どもには「キラキラネーム」をつけることだ。そして、子どもをたくさんつくる。 したがって、博報堂ブランドデザイン若者研究所のアナリスト原田曜平氏は、著書『ヤンキー経済-消費の主役・新保守層の正体』(幻冬舎新書)で、彼らを今後の消費の主体、日本経済の新しい担い手とした。  厚労省のデータによると、高学歴女性ほど子どもをつくらない。母親の学歴に反比例して子どもの数が減っている。かつては「貧乏人の子だくさん」という言葉があった。貧困層は貧困ゆえに労働力を必要とし、そのいちばん簡単な解決策としてたくさん子どもをつくった。しかし、社会が成熟し、貧困層が減ると子どもは必然的に減った。 ところが、マイルドヤンキーたちだけが、いまでも子どもをたくさんつくっているのだ。「B級のホラ話」を笑えない日本の未来 少子化のなかで、このような層だけがたくさん子どもをつくっていくとどうなるだろうか。残念だが、ヤンキーたちの多くが勉強嫌いか、勉強が得意ではない。知能程度も低い。彼らが好きなのは、LINEやツイッターなどのSNSやユーチーブの投稿動画だ。最近は、コンビニ店員を脅かして喜ぶ「おでんツンツン男」というユーチューバーも出現している。 こうした子だくさんヤンキーたちが「大活躍」する未来を描いた映画がある。アメリカ映画だが、日本にも当てはまるので紹介したい。 2006年にアメリカで公開され、わずか数週間で上映が打ち切られたB級コメディSF映画『IDIOCRACY(イデオクラシー)(日本タイトル『26世紀青年 ばかたち』)だ。完全にB級のホラ話で、笑いも寒いので、とても見るに耐えないが、よく考えるとホラ話とは言えない。 物語は簡単に言うと、人工冬眠の実験台にされた平凡な男が500年後に目覚めると、アメリカには知能指数50以下のバカしかいなかった―ということ。 主人公のジョー・バウアーズは、軍に勤務する平凡な兵士。アメリカ人の典型で、本など読まず、ジャンクフードばかり食べ、スポーツ好きで女好き。つまり、あまりにも平凡だったので、そこに目をつけられて軍の秘密プロジェクトの実験台にさせられてしまう。 このプロジェクトというのは、冷凍カプセルで1年間の冬眠をし、その後の変化を見ようというものだった。しかし、責任者が売春容疑で逮捕されたことからプロジェクトは忘れられ、なんと彼は、500年間も冬眠してしまう。彼と一緒に一般人のリタという女性(じつは売春婦)も冷凍カプセルに入れられたが、2人は目覚めてびっくり仰天する。 なんと、彼らが目覚めた2505年の社会は、あらゆる人々の知的水準が著しく低下した世界だった。人々は、誰ひとり本を読まず、朝から晩までトイレつきの椅子に座ってジャンクフードを食べながらすごしている。男はスポーツ、女はファッションにしか興味がなく、テレビではお笑いバラエティ番組とスポーツ番組しかやっていない。しかも、ニュースといえば、FOXニュースしか放送してないのだ。 さらに、医者や弁護士もとんでもないバカばかりで、裁判は完全な見世物ショーになっていた。死刑になると、スタジアムでモンスター・トラックと戦わされるという有様だった。「私が日本の若者だったら国を出る」 つまり、アメリカは「バカによるバカのためのアメリカ」が完全にできあがった「超おバカ社会」になっていた。ここでジョーは、社会の異常さに目覚めて病院に行く。すると、自己証明用の刺青がなかったことで警察に逮捕され、刑務所に送られる。しかし、刑務所で知能テストを受けると、なんと彼がこの世界では最高の知性を持っていることが判明する。これを知った元プロレスラーでポルノ男優上がりのカマーチョ大統領は、彼に世界の問題(食料危機、経済停滞、ゴミ問題)を解決するように頼んでくる―。 エリート層、中間層が子どもをつくらず、おバカな低所得層だけが子どもをつくる。その先にある未来が、こうならないと、誰が言い切ることができるだろうか。 映画のタイトル『イデオクラシー』は、「イデオ」(idiot:おバカ)と「クラシー」(cracy)の造語である。クラシーと言えば、デモクラシー(民主政体、民主主義はクラシーが主義の意味でないので誤訳)でわかるように、政治形態のことで、「デモ」(demo)は大衆だから、合わせて「民主政体」となる。だから、「イデオ」+「クラシー」は、「おバカ政体」(衆愚政治)となり、この映画は、現代の人口減社会の行き着く先が、衆愚社会であることを暗示しているとも言えるのだ。 はたして、私たちの社会はこのような方向に向かっているのだろうか。あるいは、すでにそうなりつつあるのか。 フランスの歴史人口学者エマニュエル・トッドは、かねてから「日本の最大の問題は人口減である」と言っている。またシンガポールの故リー・クアンユー首相は、日本があまりに保守的な政策を続けて移民を受け入れないことを批判して、「私が日本の若者だったら国を出る」と言っていた。 さらに投資家のジム・ロジャーズ氏もこれまで、将来の日本の財政破綻は確実として、「若者なら国は出るだろう」と言ってきた。 人口減により、この先、国家の借金はますます増え、そのツケはすべて若者たちに回される。ヤンキーたちまで逃げ出すようになったら、この国は本当に終わってしまうだろう。

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    3千人の命を預かった老医師の「頓死」が意味するもの

    上昌広(医療ガバナンス研究所理事長) 年をとれば、誰もが病を患う。健康は高齢者の最大の関心と言っていい。では、高齢社会で医療はどうなるだろう。 メディアで、「医療費を抑制しなければならない」、「医師や看護師が足りない」というニュースや記事を見かけない日は、いまや珍しい。我が国の医療が崩壊の瀬戸際にあるというのは、国民的なコンセンサスといっていいだろう。 ただ、このようなマクロのニュースを読んでも、多くの読者は実感がわかないのではないだろうか。自分の住んでいる町がどうなるかを示されないと、イメージがわかないだろう。 最近、将来の日本の地方都市の医療崩壊のモデルとなるようなケースがあった。舞台は、福島県広野町だ。 広野町は、福島県浜通りに位置する。江戸時代には浜街道の宿場町として栄えた。21世紀に入っても、町内には東京電力の広野火力発電所があり、財政的に豊かだった。2010年度の財政力指数は1.12で、福島県内では大熊町(1.44)についで2位、全国では愛知県の小牧市と並び23位だった。福島県楢葉町と広野町にまたがるサッカーのトレーニング施設「Jヴィレッジ」のスタジアム。福島第1原発事故の収束作業にあたる関係者の中継基地になっており、フィールドには原発事故対応に当たる作業員らの宿舎が立ち並ぶ=2013年2月20日 冬場も雪が降らない温暖な気候のため、1997年にはJヴィレッジが設立された。日本サッカー協会、Jリーグ、福島県、東京電力が共同で出資した、日本サッカー界で初めてのナショナルトレーニングセンターである。 この地域を東日本大震災・津波・原発事故が襲った。緊急時避難準備区域に認定され、住民は避難を余儀なくされた。この認定は2011年9月30日まで続き、広野町役場が元の場所に戻ったのは、2012年3月1日だった。震災前の2010年には5418人いた町民は5042人に減った。このうち、広野町で生活しているのは2849人だ。実に47%の人口減である。 これからご紹介する高野病院は、広野町で唯一の病院だ。福島第一原発の南22キロに存在する慢性期病院で、1980年に高野英男氏が設立した。病床は内科65床、精神科53床で、毎日20名程度の外来患者や、数名の急患を引き受けていた。 高野病院は高台にあったため、津波の被害は免れた。高野院長は「地域医療を守る」と言って、震災後も診療を続けた。震災前、双葉郡には5つの病院があったが、高野病院以外は閉鎖され、高野病院は双葉郡で操業する唯一の病院となった。 震災前、二人いた常勤医のうち、一人は去った。この結果、高野院長は双葉郡で唯一人の「常勤医」となった。高野院長は孤軍奮闘した。病院の敷地内に住み、数名の非常勤医師とともに診療に従事した。 この高野院長が12月30日に亡くなった。享年81才だった。娘で、事務長・理事長を務める高野己保さんは「寝たばこが原因の焼死です」と言う。過労が原因だろう。「福島県は支援に及び腰」 病院が存続するためには、常勤の院長が必要だ。高野院長が亡くなったことで、高野病院は閉院せざるを得なくなった。高野病院が閉鎖すれば、双葉郡からは病院がなくなる。97名の職員は職を失うことになる。このうち看護師は43人、介護士は17人だ。生活するためには、この地域から出て行かざるを得ない。 政府も広野町も住民の帰還を推奨してきた。昨年9月には、遠藤智・広野町長は、今年の3月末までに全町民の8割(約4000人)が帰還すると予想していた。病院は欠かすことの出来ないライフラインだ。高野病院が閉院すれば、絵に描いた餅になりかねない。  お嬢さんの高野己保事務長は、元旦には、広野町の遠藤智町長に対して「患者・職員を助けて下さい。私はどうなっても構いません。病院と敷地を寄附するつもりです」と伝えた。 遠藤町長も事態の深刻さを理解し、福島県および周辺の自治体に支援を求めた。南相馬市立総合病院は即座に協力を表明し、外科医である尾崎章彦医師を中心に「高野病院を支援する会」を結成した。大勢の若手医師がボランティアで診療に従事した。高野病院の診療継続のため開かれた緊急対策会議 =1月6日、福島県広野町 行政も動いた。6日には、福島県・広野町・高野病院などで会議を開いた。翌日の福島民友は一面トップで「医師派遣や財政支援 高野病院診療体制維持へ県 福医大と連携」と報じた。 このような動きを知ると、関係者が一致団結して、問題解決に取り組んでいるように見える。ところが、実態は違う。 この会合に参加した坪倉正治医師は、「福島県は支援に及び腰でした」という。会議の冒頭で、安達豪希・福島県保健福祉部次長は「双葉地方の地域医療と高野病院の話は別です」と発言した。広野町で高野病院が果たしてきた役割を考えれば、こんな理屈は通じない。 福島医大にも危機感はなかった。代表者は「常勤医を出すことはできない」と明言した。筆者が入手した福島県の報告書には「全県的な人材不足の中で、一民間病院に、県立医大から常勤医を派遣することは困難」と記されている。 実は、この説明は虚偽である。福島医大は、星総合病院など県内の複数の民間医療機関から寄付金をもらい、「寄附講座」の枠組みで常勤医師を派遣している。 また、福島第一原発の北の南相馬市原町区に位置する公益財団法人金森和心会雲雀ヶ丘病院には、災害医療支援講座から複数の専門医を派遣していた。約1000億円の新設病院 高野病院も雲雀ヶ丘病院も、原発周辺に位置する民間の精神科病院という意味では全く同じだ。福島医大関係者は「故高野院長は福島医大の医局員でなかったので、震災後も支援されなかったのでしょう」という。被災地で、こんな議論がなされていると、国民は想像もつかないだろう。 東日本大震災以降、福島県浜通りの医療支援を継続してきた小松秀樹医師は、「福島医大のやっているのは火事場泥棒だ」と憤る。小松医師が問題視するのは、復興予算の使途だ。福島民報2011年9月20日号によれば、福島県と福島医大は、約1000億円を投じ、放射線医学県民管理センターなど5つの施設を5年間に新設すると発表した。 2017年1月現在、福島県立医大には、ふくしま国際医療科学センター(放射線医学県民健康管理センター、県民健康管理センターデジタルアーカイブ、先端臨床研究センター、医療-産業トランスレーショナルリサーチセンター、先端診療部門)、ふくしま子ども・女性医療支援センター、災害医療総合学習センターなどが新設されている。先端診療部門には新たに建設された5階建てのみらい棟と呼ばれる壮大な建物が含まれている。高野病院を見捨て、中通りに位置する福島医大に、こんなものを作る意味がどこにあるのだろうか。 福島県・福島医大の暴走は、これだけではない。2018年4月には、福島第一原発から約10キロの富岡町に二次救急病院「ふたば医療センター(仮称)」が開設される。病床数は30だ。 問題は経費だ。総工費24億円で、1床あたり8000万円になる。病院の建設費は、1床あたり、民間病院平均1600万円、公立病院平均3300万円だ。馬鹿たかい。 しかも、この病院は最大5年で閉鎖される。双葉郡の避難指示が解除されると、双葉郡内の県立病院が再開されるからだ。高野病院へはカネは出せないが、県立病院には湯水のようにカネを使う。福島県関係者は「人が住んでいないところに、急性期病院を建てて、どれくらい役にたつかわかりませんが、もう後戻りはできません」という。 なぜ、こんなことになるのだろうか。それは、行政には行政の都合があるからだ。福島県が、このような対応をとったのは、高野病院のケースが初めてではない。福島県のケースは特別ではない 原発事故後、政府は民間業者向けの救済スキームを作った。ところが、福島県は運用の仕方が悪かった。例えば、避難地域の病院経営者は「救済措置を受けるには、営業を再開しなければならなかった。病院を閉鎖している間は支援されず、東電の賠償金でなんとかしろという態度だった」という。勿論、東電の賠償金は十分ではないし、「法人税で三割持っていかれる(前出の経営者)」という。福島県広野町の高野病院=1月6日 さらに、病院を再開しようにも、福島県が策定した地域医療計画が立ちはだかる。「移転が認められるのは、原発被害にあった相双地区か、150キロも離れた南会津だけだった。隣接するいわきでの再開は認められなかった(前出の病院経営者)」そうだ。杓子定規な対応に呆れはてる。 福島県にとっては、民間に補助金を出すより、県直営の機関を作った方が権限とポストが増えるのだろう。彼らにとっては「合理的」な選択かもしれない。 行政を監視するのは、本来、議会とメディアの役割だ。福島県の場合、地元紙が「実態」を報じないのだから、議会もチェックしようがない。県民は何も知らされないまま、事態は進んでいく。 この間、民間病院は内部留保を切り崩し、資産を切り売りして、窮状を凌ぐしかない。しかしながら、それも限界がある。このままでは、早晩、「倒産」するしかない。 読者の皆さんは「福島県のケースは特別」とお考えの方が多いだろう。確かに原発事故が各地で起こるわけではない。その意味で特殊ではある。しかしながら、高野病院の苦境は、原発事故だけが理由ではない。我が国が抱える構造的な問題を反映している。それは地域では民間病院が「構造的不況業種」になりつつあるからだ。 病院の経営は、診療収入に依存している。診療収入は診療単価と患者数のかけ算だ。厚労省は、高齢化に伴い患者数が増加し、医療費が増えると主張している。財政破綻を避けるために、診療報酬を引き下げてきた。確かに、マクロでみれば、この政策は正しい。ただ、例外もある。それは地方都市だ。 高度成長期、団塊世代が地方都市から中核都市に移動した。東京や大阪は、団塊世代が高齢化し、医療・介護需要が逼迫する。一方、地方都市では団塊世代の親世代が亡くなりつつある。中核都市では、総人口は減るが、高齢者人口は増えるのに対し、地方都市では総人口も高齢者人口も減少する。医療機関の収入は急速に減少する。地域医療は「頓死」する 一方、中核都市での医療ニーズが高まるため、地方都市での医師調達コストは高まる。東京から福島県浜通りにアルバイトの医師を呼ぶ場合、その費用は、週末の二泊三日の当直で30万円を超える。東日本大震災以降、アルバイト料は更にあがった。 さらに消費税は患者に転化できないため、医療機関にとっては損税となる。厚労省は、診療報酬で対応しているというが、十分ではない。地方の中小都市の医療機関の経営は急速に悪化する。 このような影響は、すべての医療機関に同じように出るわけではない。対応の仕方が異なるからだ。例えば、開業医は、日本医師会の政治力を使い、診療報酬の引き下げを最小限にしようとする。国公立が多い急性期病院は赤字が出ても、税金で補填される。もっとも影響を蒙ったのが、中小の民間病院だ。彼らも業界団体を形成し、厚労省や与党に陳情しているが、その影響力は日本医師会とは比べるべくもない。高野英男さん(高野病院提供) 我が国では200床未満の民間病院が、全病院数の過半数を占める。つまり、彼らが地域医療を支えている。高野病院は、このような中小民間病院の典型だ。 高野病院では、院長が病院の敷地内に住み、24時間365日対応することで、コスト削減に努めてきた。過労がたたり、3月に体調を崩した。そして、今回の急死となった。壮絶な戦死だ。 実は、このような病院は珍しくない。日紫喜光良医師(東邦大学)の推計によれば、20床以上の日本の病院の約9%が「一人院長病院」だ。多くの院長は高齢だろう。いつ倒れてもおかしくない。高野病院のように、地域で唯一の病院の場合、地域医療は「頓死」する。 今後、このような事態は益々増えるだろう。どのような救済スキームを準備すればいいのだろう。医療機関が国公立だろうが、民間だろうが関係ない。住民視点にたち、ソフトランディングの仕方を議論すべきだ。

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    人口減少に打ち勝て! 観光が日本の未来を救う

    修繕を行なう小西美術工藝社の社長を務めるという異色の経歴の持ち主である。 アトキンソン氏は受賞作で、少子高齢化による人口減少が日本の経済成長に及ぼすマイナスの影響について指摘し、「観光こそがこれからの日本を救うもっとも重要な分野である」と位置付けている。元アナリストらしく、各種のデータに基づく分析と提言は説得力に富む。その一方で、観光に対する日本人の思い違いを正している部分には、来日25年の氏ならではの鋭い“日本批判”が感じられる。聞き手=Voice編集部効果のある観光戦略を打ち出していない ――山本七平賞の受賞、おめでとうございます。アトキンソン ありがとうございます。 ――2030年に日本は観光立国として外国人観光客が8200万人になり、50兆円規模の経済効果を上げる、という試算をされています。この数字は「むしろ保守的で、現実よりも少々控えめな数値」(「日本の観光客数はマレーシアの約半分 豊かな『潜在力』を活かせ」『2016年の論点100』文藝春秋)ということで、日本人にとっては心強い限りです。ただ、心配なのは、それだけの成長を支える人材が観光業界にいるかどうかです。もともと観光業界というと、休みが不定期なわりに給与水準はけっして高くなく、一流大学の卒業生の就職先としては、敬遠されがちなイメージがあります。アトキンソン そもそも観光業界にそれほど学歴の高い人材が必要なのか、疑問に思いますね。衛星を設計したり半導体を生産するわけではなく、接客業ですから。お客さんに観光地まで来てもらって、楽しんでもらえればそれでよいわけです。それこそ政府や自治体には一流大学出身の方もいますので、彼らが大まかな方針や戦略を立てて、管理していけばいいのではないか、という気がします。家主がいなくなり、道路沿いには老朽化した空き家が並ぶ=2016年2月21日、群馬県南牧村(伊藤弘一郎撮影) ――受賞作では、外国人観光客に向けて情報発信をしたり、集客のためのマーケティングを行なう「地域デザイナー」の必要性を説かれています。そうなると、一定の語学力が必要ですし、マーケティングのセンスも必要です。そうした人材が日本には足りていないのでは?アトキンソン そうでしょうか。日本には国全体の観光戦略を担う観光庁があり、都道府県、市町村、ほとんどの自治体に観光課があります。東京都には一つひとつの区ごとに、観光に携わる役人がいるんですよ。さらに各地域には観光振興協会があります。ですから、人材が足りていない、ということはないでしょう。もし問題があるとすれば、効果のある観光戦略を打ち出していない、という点に尽きます。たとえば「くまモン」のようなゆるキャラをつくり、イベントを行なうことがほんとうに観光客の集客につながるのか。実質的に、これは日本人同士の“お仲間イベント”にすぎないと思います。 スキルのレベルアップと成果の検証の話でしょう。たとえば語学力は筋肉と一緒で、使って鍛えられるものです。幼児でもできるものなのですが、観光客があまり来ていないので、語学力も足りていないと思います。 ――「くまモン」を見て癒やされる日本人は多いと思いますが、外国人には通用しない?アトキンソン 無理でしょう(笑)。軽い負担で来られるアジアの観光客と違って、遠い国から来る人にはあまり効果はないと思います。じつは日本全国で、観光誘致のための予算は合計3000億円もあるそうです。私も最近知った数字で、少々驚きました。つまり、日本は観光に人もお金も掛けている。しかし、効果が上がっていないのです。こうしたパターンの問題が、日本には多い気がします。 たとえば、博物館や美術館をつくると、よく“箱モノ”と批判されますが、ほんとうに無駄なのか。たんに、それらを生かせていないだけなのかもしれません。先日、ある博物館に行きました。展示に外国人向けの英語の解説がないかというと、一応あります。しかし、それはたんにローマ字で書いてあるだけで、意味がある文章になっていませんでした。日本でよく見掛ける例です。「江戸」を「Edo」にしただけでは“お役所仕事” ――ご著書でも触れられていますが、「江戸」をたんに「Edo」とローマ字表記にしただけでは、外国人に意味が伝わるはずがない。まさに“お役所仕事”で、そうした例が多いとすれば、残念というほかありません。アトキンソン そもそも、翻訳は必ずネイティブのチェックを受けるべきです。しかも、その人は日本の文化や歴史に詳しくなければならない。文化財の解説は、その辺りの留学生に気軽に頼んでいい仕事ではないはずです。繰り返しますが、こうしたお粗末な例が日本にはあまりに多い。 ――アトキンソンさんからすれば、日本は当たり前のことができていない、ということですね。受賞作では、京都の二条城には詳しい展示パネルがないため、外国人にはその「すごさ」が伝わらないと書かれていました。その後、何か改善の動きがありましたか。アトキンソン 私がいつも二条城の例を出すため、先方もそうとう意識されているようですね(笑)。先日行ってみたら、見事に展示パネルが増えていました。ただ、「虎の間」を説明するのに「虎と豹の絵が描かれている」というような説明だけでは不十分です。それは見ればわかります(笑)。 ――さらに文化的な背景まで詳しく説明する必要がある、ということですね。アトキンソン 案内板をつくることだけが目的になってしまっているのではないでしょうか。結果的に、日本の歴史文化をきちんと学べる場所になっていない。じつにもったいないと思います。 ――最近は、文化施設や自治体も観光のために熱心にホームページをつくっているようですが。アトキンソン ええ。しかし、私が信じられないと思うのは、それが時として10年以上前の技術によって制作されていることです。地図をクリックすると、いきなりPDFが出てきて、これはいったい、いつの時代のホームページなのか(笑)。日本の各観光地でつくっているから、自分のところでもやりました、というだけの話です。なぜ、そうなってしまうのか。初めから「戦略的に考えて効果を出せ」と指示していないからでしょうか。 ――ヨソでもやっているから、ウチもやる。日本人特有の横並び意識。耳の痛いご指摘が続きます。アトキンソン ある日本の旅行代理店は、集客のための文化イベントをフランスで実施しています。しかし、発信の仕方も広告も、全部日本の会社がやっている。私はよくいうんです。「逆を考えてみてください」と。もし、フランスの大学で日本語学科を出たフランス人がネイティブのチェックも受けずに日本語で広告をつくり、それまで日本に来たことのないフランスのイベント会社が日本で「フランスに来てください」というイベントを行なった場合、日本人はどう思うでしょうか。「馬鹿にされている」と感じるはずです。それと同じ事を、日本の旅行代理店はフランスでやっている。日本は観光に人もお金も掛けています。しかし、中身が十分に伴っていない。だから効果が出ない。私にいわせれば、まだまだ本気になっていないんです。ビジネスプランとは呼べない目標ビジネスプランとは呼べない目標 ――観光分野において、日本は明らかに後進国のようです。明治の日本は、議会制度に始まり、鉄道、造船、あるいは文学に至るまで、アトキンソンさんの母国イギリスに学べ、でした。海軍などは、食事の内容まで英国海軍の真似をしています。現代日本も、観光のやり方は1からヨーロッパに学んだほうが早いかもしれません。アトキンソン 明治時代とは、また極端な例を持ち出しましたね。教えるも何も、それほど難しい話ではありません。たとえば地域デザインといっても、誰をどの駅まで運び、どの場所に誘導して施設を生かしていこう、というだけの話で、子供でもできます。東大を出ている必要はない(笑)。 北海道のニセコのスキー場は、オーストラリアやニュージーランドから多くの観光客が訪れて「リトル・オーストラリア」と呼ばれるほど賑わっています。大きな貢献を果たしたのが、1992年からニセコに移住したオーストラリア人のロス・フィンドレー氏です。彼が大学で観光学を専門に学んだかというと、そうではない。巨額な投資をしたわけでもありません。やるべきことを地道に、真面目に取り組んで、それをお金に換えていったのです。 ――受賞作でも、日本は観光立国に必要な4条件(「気候」「自然」「食事」「文化」)が揃っていると述べられています。その好条件を生かしきれていない。アトキンソン そうです。政府が掲げている「2020年までに訪日外国人2000万人」「2030年までに3000万人」という目標にしても、いかにも官僚がつくったもので、とてもビジネスプランとは呼べないでしょう。本来であれば、国別の目標人数、さらに収入の目標金額など総合的に目標を設定すべきで、そのためにどんな戦略を実行すべきか。それがいまの日本に求められていることです。 私は、観光業の基本はトヨタにあり、と考えています。トヨタの経営は日本人だけで成り立っているかというと、そうではない。海外の販売網の構築では、現地の会社をうまく使っている。日本の会社のなかでは、トヨタはこのようなコラボレーションがもっとも成功している企業だと思います。 さらにトヨタが販売しているクルマをみれば、富裕層向けのレクサスがあり、スポーツカーもあれば、ファミリー向けのクルマもある。日本で売れるクルマもあれば、東南アジアでよく売れるクルマもある。要するに、さまざまな属性を相手にしている。観光も同じで、あらゆる属性の人びとに万遍なく日本に来てもらう必要がある。そうでなければ、大きな産業にならないからです。 ――受賞作の『新・観光立国論』に寄せられたであろう日本人からの反論で想像がつくのは、「超富裕層向けのサービスやコンテンツの充実」です。諸外国に比べて、日本には大金持ちが少なく、ちょっと現実離れしていると思いました。アトキンソン 誤解してほしくないのは、「超富裕層向けのサービスやコンテンツの充実」というのは、あくまで一つの例を示したのであって、これだけをやればよい、というものではありません。観光業で問われるのはあくまで多様性であり、階段に例えれば、超富裕層向けを頂点として、その下にさらに続く階段があるかどうかです。私がいま困っているのは、日本人が観光戦略について、あまりにシンプルな解を求めることです。 そのうえで申し上げれば、たとえばビル・ゲイツ氏が来日した際、ビジネスホテルに泊まるかといえば、泊まらないでしょう。世界で高級ホテルというのは、1泊400万~600万円の価格帯をいうのであって、超富裕層は世界のホテルチェーンを選ぶので日本のホテルや旅館にはまず泊まりません。日本がほんとうに観光立国をめざすのであれば、具体的にどの国から、どの属性の人を呼び、総額でいくら使ってほしいのか、もっと緻密なマーケティングが必要です。抽象的で、情緒的な議論のオンパレード抽象的で、情緒的な議論のオンパレード ――アトキンソンさんは受賞作のなかで、20年余りに及ぶ日本でのアナリスト人生を振り返り、「事実を客観的に分析して、その結果がどんなに都合が悪くても、人間関係を悪化させようとも、建設的な話ができると信じて指摘した結果、反発を招く」ことの繰り返しだった、と書かれています。山本七平氏は代表作の一つである『空気の研究』において、日本人の判断基準になっているものは合理的な分析やデータではなく、空気としかいいようのないものであり、こうした行動様式は第2次大戦の敗戦でも変わらなかった、という意味のことを書いています。もし日本人が合理性を重んじる国民だったら、約70年前、中国、アメリカ、イギリスを相手に同時に戦争をする、という選択は取らなかったでしょう。アトキンソン 石破茂さん(地方創生大臣)がそういうことをおっしゃっていますね。日米開戦の直前、30代のエリートが集まって戦争の見通しを議論した際、絶対にやめるべきだという結論になったらしいですね。 ――1941年(昭和16年)の段階で、緒戦は勝ってもやがて劣勢に陥り、最後はソ連の参戦を招いて敗北すると予測されており、実際にそうなってしまいました。大戦中、物量不足を糊塗するために日本軍で連呼されたのが「必勝の精神」です。日本人はこうした抽象的で、情緒的な言葉に酔いやすい傾向がある。『新・観光立国論』で指摘されているように、「おもてなしの文化」を自慢する無意味さに似ていると思います。アトキンソン おもてなしのアピールの一つの動機は、自己満足でしょう。じつは、いまの日本企業でも似た例があると思います。新聞を読んでいるだけでは具合が悪いから、何かをしなければいけない。しかし、本格的なことはやるつもりはない。要は成果を求められていないから、形だけやっているフリをする。真の成果主義になっていないことが問題でしょう。 もう一つの動機は、こういうと反感を買うかもしれませんが、汗をかくのを嫌がっているのです。マスコミは「日本は技術大国」「農耕民族」「勤勉で手先が器用」などといった、根拠を検証もせずにまさに抽象的で、情緒的な議論が多い。あるいは「これからの観光戦略はインバウンド」とか、「ツーリストからトラベラーと変わって、いまは体験コレクターだ」などと、流行り言葉を並べているだけ。こういうのは、ただの時間つぶし戦略だと私は思っています。 ――日本人にしか通用しない内向きの議論。少なくとも、外国の方には意味不明でしょう。アトキンソン 地方の自治体もよくシンポジウムをやっていますが、地元のいつものホテルで、お友だちの新聞記者を呼んで、記事になりました、といって喜んでいる。参加者は旅行代理店にノルマを課して無理やり集客し、「アトキンソンさん、講演で1時間話して残りは対談でお願いします」などといわれる。昼間に延々とシンポジウムを行ない、夜は懇親会。しかし、その日だけたくさんの人が集まっても、あとが続かない。世界遺産も同様です。先ほどもいいましたが、観光戦略というのは、どの国からどんな人を呼ぶかを考えて、何を楽しんでもらうかを地道に実行するだけです。いまの日本で求められているのは、ある意味でこうした低次元の戦略なのです。でも、皆さんは何か高次元なことをやっているようにみせたいのでしょう。 90年代の不良債権のときも同じでした。不良債権の処理を実際にやろうとすると、大変なことになるから、代わりにシンポジウムを開いて、朝から晩まで不良債権について「ああでもない、こうでもない」とやっていた。いずれ世の中が解決してくれると思って時間稼ぎをしていたんです。 ――まさに“空気”が変わるのを待っていた。日本人にはそういう悪いところがあります。「文化スポーツ観光省」をつくれ「文化スポーツ観光省」をつくれ ――受賞作では、人口減少が日本の経済成長に及ぶ影響について詳しく言及されています。それは同時に、日本が観光立国をめざすべき理由になっています。アトキンソン 私の本を読んだ人のなかには「あなたは反日か」という人がいますが、たんに事実を指摘しているだけです。たとえば、「一人当たりの名目GDP」という指標でみると、日本は世界28位です。2015年10月5日にスタートしたスポーツ庁(大西正純撮影) ――意外に低くて驚きます。アトキンソン そう、事実として低い。しかし、それに気付いている日本人は少ないでしょう。先進国ではない中国を除くと、GDPの世界順位は、アメリカ、日本、ドイツ、フランス、イギリスです。ところが、この順番を技術の違いや働き方の違いなど、優劣の問題だと勘違いしている日本人が多いのではないでしょうか。 ――たしかに、「世界第3の経済大国」と聞いたとき、それを自分たちの優秀さの証明だと思っている日本人は多いかもしれません。アトキンソン この前もテレビを見ていたら、戦後の日本は追い付き、追い越せでやってきた、そしてヨーロッパを追い越した、と語っていました。しかし反感を承知でいえば、戦後の日本経済が急成長した大きな理由の一つは、子づくりに専念したからです。日本の高度経済成長は、ベビーブームに象徴される人口の激増が大きく関係しています。これは先進国では例のない現象なのですが、日本の経済の教科書をみても、こうした議論はほとんど目にしません。なかには私に対して、「イギリスは日本の技術なしでは成り立たない」といってくる方もいますが、「その技術は誰が教えたのですか」と言い返したくなります(笑)。 ――日本の近代化はイギリスをはじめ、ヨーロッパが手本になったことは間違いありません。アトキンソン もちろん私は、日本の技術が優れていることを否定しているわけではありません。先進国同士を比較した場合、GDPの大きさは、技術力以外の人口など他の要因が大きく関係している、という客観的な事実について述べているだけなのです。 そしてご存じのとおり、日本では少子高齢化が始まっています。当社のお得意先であるお寺や神社にも、「このまま放っておくと、拝観収入が半減しますよ」といっています。たいてい「えっ」という反応が返ってきますが、日本は現役世代が減っていくのですから、当然のことです。 拝観収入を維持するためには、国内のリピーター客を増やすか、一人当たりの客単価を上げるか、外国から客を呼んでくるしかありません。そうした戦略を考えるのは、私のいまの本業ではありませんが、たまたまビジネス上、日本の人口減が当社のお得意先のマイナスに直結するため、また相手の観光客は外国人なので、私が外国人観光客を呼ぶための戦略を提供しているのです。私は評論家ではありません。私の提案がたんに「興味深い議論でした」で終わってしまうのであれば、残念としかいいようがありませんね。 ――大事なのは、まさに実践ですね。アトキンソン 実際に日本は観光分野において、潜在的な競争力で非常に恵まれています。業界としても、順調に伸びてきている。そうでありながら、まだまだやるべきことは多い。目の前には宝の山が眠っています。 これから私が一つポイントになると考えているのは、観光庁が予算を増やすかどうかです。それと同時に、文化財というコンテンツの管理を担う文化庁が予算を増やすか。こうした点に、日本の本気度が表れるでしょう。さらにいえば、なぜ観光「庁」、文化「庁」なのか。日本がほんとうに観光立国をめざすのであれば、両者に加えて、さらにスポーツ庁を一つにまとめ、「文化スポーツ観光省」に昇格させるべきでしょう。関連記事■ 地方経済を再生させる「企業とまちのたたみ方」〔1〕■ ローカルアベノミクスで地方は再生するのか〔1〕■ 松下幸之助さんの人の話を聞く姿はすさまじかった

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    少子高齢化で日本経済が迎える黄金時代

    きに読み解く経済の裏側】塚崎公義 (久留米大学商学部教授) 「日本経済は、人口減少で衰退して行くし、少子高齢化で年金も破綻しそうだし、明るい展望など持ちようもない」と考えている人は多いと思います。しかし、少子高齢化にも悪い面と良い面があります。筆者は、今後10年間は少子高齢化の良い面が表面化し、日本経済は明るい時代を迎えると考えています。 少数説ですから、「非常識だ」と考える読者も多いと思いますが、「どこが間違えているのだろう?」と考えながら御読み頂ければ幸いです。読者の頭の体操になれば幸いですし、結果として読者が筆者の誤りを発見できずに、筆者に賛同していただければ、さらに幸いです(笑)。iStockバブル崩壊後の諸問題の源は失業だった バブル崩壊後、日本経済は長期停滞に陥りましたが、その根幹は失業問題でした。失業が多い(労働力の供給超過)ので、賃金が下がり、デフレになり、それが景気を更に悪化させました。失業者が不幸であるのみならず、「辞表を出せば失業する」という恐怖からブラック企業の社員が辞表を出せず、結果としてブラック企業が存続、増加してしまいました。 企業は、いつでも労働力が確保出来るという安心感から、正社員を減らして非正規社員を増やしました。労働力を囲い込む必要を感じなくなったからです。この結果、正社員になれずに非正規職員として生計を立てざるを得ない人が増え、「ワーキング・プア」と呼ばれる人々も出現しました。ワーキング・プアは、結婚できなかったり、結婚しても子供が産めなかったりしたため、少子化に拍車をかける要因となりました。 財政赤字が膨らんだのは、失業対策として公共投資などを行なったことに加え、「増税すると景気が悪化して失業が増えてしまう」という反対論が強かったからです。そして実際に増税して景気が悪化して財政赤字がむしろ悪化してしまったこともありました。景気は「税収という金の卵を産む鶏」であるのに、それを殺してしまったからです。 失業が問題であった真の原因は、日本人が勤勉で倹約家であることでした。勤勉に物を作り、倹約に務めたことで物が余ったのです。余った物は輸出をしましたが、それにより円高を招いてしまい、際限なく輸出を増やすことは出来なかったのです。そこで企業は人を雇わなくなり、失業が増えた、というわけです。今後は失業より労働力不足が問題となる今後は失業より労働力不足が問題となる 少子高齢化によって、現役世代の人口(作る人)が急激に減りますが、総人口(使う人)の減り方は緩やかです。そうなると、失業問題は自動的に解決し、労働力不足が問題となってきます。現在の日本経済は、まさに移行期で需要と供給のバランスが良い時期にあるのです。そして、今後は少しずつ労働力不足の時代になっていきますが、じつは労働力は少し足りないくらいが経済にとって活力になるのです。 非正規労働者の待遇は、労働力の需給を素直に反映するので、労働力が不足すると、非正規労働者の待遇が順調に改善して行くでしょう。そうなれば、非正規労働によって生計を立てている人々の生活が改善し、ワーキング・プアが消滅します。そうなれば、非正規同志が結婚しても子供が産めるようになり、少子化も緩やかになるかも知れません。 1日4時間しか働けない高齢者や子育て中の女性なども、仕事を探せば簡単に見つかるようになります。まさに「一億総活躍社会」ですね(笑)。子育て世代は消費性向が高いので、所得の増加が消費に直結しやすいですし、高齢者も、仕事を見つけられるようになれば、老後の不安が和らぎ、消費が増えることも期待されます。需要が増えれば供給が増える 現在、経済成長率がほとんどゼロなのに、労働力が不足しています。これを見て、「日本経済は労働力不足なので成長出来ない(潜在成長率がゼロである)」と心配している人も多いようですが、これはバックミラーを見ながら運転するようなもので、将来予測としては正しくありません。 心配要りません。需要が増えれば供給も増えるからです。日本企業は、これまで省力化投資を怠って来ました。安い労働力が自由に使えたからです。しかし、これからは労働力不足の時代になるので、企業は省力化投資を迫られることになるでしょう。「省力化投資の必要が無かったから投資をしてこなかった時代」に投資が行われなかったというデータを用いて、今後の投資を予測するのはミスリーディングなのです。 ここで明るい材料は、これまでサボって来た分だけ、日本経済には「少しだけ省力化投資をすれば大幅に省力化できる余地」が充分にあるということです。これは、今後は設備投資が増えて景気が上向くという需要面と、労働力不足でも供給力は増やせるという供給面と、両方で明るい材料です。財政赤字問題も悪化しない財政赤字問題も悪化しない 少子高齢化は財政を悪化させると多くの人が考えていますが、そうでもないでしょう。これまで、「増税をすると景気が悪化して失業が増え、失業対策で財政が悪化する」ということで増税が難しかったわけですが、今後は景気が悪化しても失業が増えないので、「気軽に」増税できるようになるでしょう。 むしろ、インフレ対策として金融引き締めより増税が用いられるようになるかもしれません。金融引き締めで金利が上がると政府の利払いが増加してしまいますから、ポリシーミックスとして「金融は緩和したままにして、景気過熱を増税で抑え込む」ということになるはずです。そうなれば、増税は財政再建とインフレ対策の一石二鳥という事になります。 最期に、本当の極論です。財政は破綻しません。少子化が進むと、日本人の人口は減り続け、最後は一人になります。その人は、1700兆円の個人金融資産を相続します。国の借金が1000兆円あるので、同額の税金を徴収されるでしょうが、手元に700兆円あるので、豊かな一生が送れるはずです。 「財政赤字は、将来世代に増税することになるので世代間の不公平だ」と言われます。その部分だけを切り取れば、その通りですが、日本人の高齢者は(平均すれば)多額の資産を残したまま他界し、遺産を遺します。それも考慮すれば、世代間不公平など存在しないのです。 問題は、遺産が相続できる子と相続できない子がいる、という「世代内不公平」なのです。これをどうするか、相続税や累進課税を増税すべきか否かは、政治の問題なので、本稿で議論するのはやめておきましょう。

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    国連の総合富裕度で日本1位 人口減少でも稼ぐ力ある

     日本の株式市場に「棚ぼたバブル」をもたらしている円安だが、当然いつかは局面が変わる。円安が終わり、円高になれば株価が下落し、輸出・外需依存度の高い日本経済は失速する──と不安視する声もあるが、「それは大間違いだ」というのは、投資銀行家のぐっちーさんこと山口正洋氏である。「すでに日本からの輸出品は円高でも競争力のある高度な技術が求められる製品ばかり。円高で輸出企業が打撃を受けるという論はあまりに安直です。円高で輸入産業は潤い、内需型の株式が買われる。何より日本国民の購買力はどんどん上がる。現在でもGDPの6割は個人消費であり、それが伸びることで経済成長に繋がります」 円安では外貨を集めることができ、円高に振れた時に内需が拡大。円安バブル時に資金を溜め込んでおけば、国内消費の増加率も上がる。より円高の恩恵を受けやすい。「国連はGDPだけでは把握しきれない本当の豊かさを表わす指標として、『総合的な富裕度報告書』という経済統計を発表しています。経済生産を生み出す主体は人であり、その能力の高さを示す『人的資本』、これまで構築されてきたインフラや安全な環境といった『生産資本』、農業や鉱物資源を中心とした『天然資本』などを評価したもので、その最新のランキング(2012年)によれば日本は1位。 この指標が物語るのは、今後人口が減少しても、日本は世界が求める付加価値を生み出す余力がまだある。継続して稼ぐ力がある、ということです。円が強くなった時、日本が今以上に豊かになるのです」(山口氏) 棚ぼたバブルを利用して力を蓄えることで、その後の日本経済は長期にわたり「最強」であり続けるのだ。関連記事■ 円バブルの日本、「外貨」「日本株」「不動産」への投資が吉■ メディアが円高警戒報道するのは「スポンサーが困るから」■ 円高=悪はウソ 東京電力は1ドル80円で年間利益1400億円増■ 韓国への経済制裁 日本からの輸出止めれば失業率30~40%説■ 【書評】異色エコノミストと若き哲学者が経済を徹底討論

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    労働力人口減少と経済成長は無関係、高齢化は技術革新の元

     人口減少・高齢化による日本経済の衰退を不安視する向きは多い。だが、立正大学教授の吉川洋氏は「労働力人口の減少と経済成長は無関係」と、社会に蔓延する悲観論を一蹴する。* * * 現在約1億2700万人の日本の人口は、ある試算では2110年に4286万人まで減少する。今後、社会保障、国家財政、地方過疎など様々なリスクが増大することになる。 しかし、「日本はこの先、人口が減るから経済は右肩下がりになる」という悲観は間違いだ。先進国において、労働力人口の増減と、1国で1年間に作られるモノやサービスの付加価値の総計を表すGDP(国内総生産)は無関係なのである。 実際、日本経済は高度成長期(1955~1970年)に年約10%成長したが、この間の労働力人口の伸びはわずか年1%ほどだった。それでは何が、差し引き9%の成長を支えたのか? その答えは、「労働生産性の上昇」である。すなわち、1人あたりの労働者が作り出す付加価値が増えれば、経済は成長するのだ。 労働生産性の上昇をもたらすものこそ、広い意味での「イノベーション」(技術革新)に他ならない。 労働力人口と経済成長を結びつける者は、ツルハシやシャベルを持った労働者が額に汗して働くイメージを持つ。確かにこの工事現場では、労働者の数が工事の進捗に直結するだろう。 しかし、先進国では、ツルハシとシャベルの現場にブルドーザーやクレーンというイノベーションが起き、100人で行っていた仕事が10人でできるようになった。新しい機械の発明、それへの設備投資、さらに労働者の技術力向上があいまって、生産性が上昇して経済は成長するのである。 人口減と共に進行する超高齢化も実は日本にとって大チャンスとなる。 2015年の日本の高齢化率は26.7%で、国民の約4人に1人が65歳以上の高齢者だ。現役世代と高齢者の人口比は、現在の約3対1から今世紀中頃に1.3対1まで低下する。 高齢者が増えると、社会には様々な「困ったこと」が生じるが「必要は発明の母」との言葉通り、「困ったこと」は新たなニーズを生み出して、イノベーションの元となる。 例えば、電気洗濯機のアイデアを出したのは、洗濯物に苦労していたシカゴの主婦と言われている。主婦のヒントによって企業が潜在的なニーズを発見し、アイデアを製品化したのだ。 日本でもすでに高齢化に対応している産業がある。その典型である自動車産業では、安心・安全な「スマートカー」が出ている。運転に不安の生じる高齢者にとって、「ドライブ・ア・カー」(車を運転する)から「ドリブン・バイ・カー」(車に動かしてもらう)への転換が行われている。 イノベーションはスマートカーなどハードの技術だけではない。「コンセプト」の刷新など、ソフト面での技術進歩も立派なイノベーションとなる。 好例が、赤ちゃん用紙おむつ市場に登場した高齢者用紙おむつだ。生産技術に革新的な進化があったのではなく、「高齢者が使う紙おむつ」という新しいコンセプトを思いついただけで、子供用紙おむつの出荷量を凌ぐ大ヒット商品となった。【PROFILE】よしかわ・ひろし●1951年生まれ。東京都出身。東京大学経済学部卒業後、イェール大学大学院博士課程修了。ニューヨーク州立大学助教授、大阪大学社会経済研究所助教授、東京大学助教授、東京大学大学院教授を歴任。現、立正大学教授、東京大学名誉教授。専攻はマクロ経済学。近著に『人口と日本経済』(中公新書)がある。関連記事■ 地方の人口減少や都市の高齢者激増等の今後の対策を考える本■ 団塊世代の引退で年金を支える側と支えられる側の人口比逆転■ 「東京オリンピック後日本の地価が3分の1になる」と説く本■ 就労可能生活保護受給者に職業訓練施し移民不要と三橋貴明氏■ 年金制度未整備の中国 60歳以上人口2億人超で財政に不安も

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    子供はみんなで育てないのがニッポン流?

    千葉県市川市で計画中だった保育園建設が地元住民の反対で白紙撤回に追い込まれた。「付近の道が狭く危険」「子供の声が気になる」…。地域の事情があったとはいえ、この問題は今も広がりをみせる。「子供はみんなで育てるもの」というコンセンサスはもう、現代ニッポンの非常識になったのか?

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    「保育園をつくるな」論争にみた戦後ニッポンの悲しい必然

    北条かや(著述家) 今やすっかりお馴染みの議論になってしまった、「子どもの声は騒音か」問題。先日は、待機児童問題が深刻な千葉県市川市で、4月に開園予定だった私立保育園が近隣住民の反対を受け開園できなくなった。周辺は静かな住宅街で、高齢世帯が多いエリアだそうだ。報道によると、社会福祉法人の説明会が複数回なされたが、「子どもの声は騒音になる」「保育所が面する道路が狭くて危険」などの意見が根強く、断念した。反対運動を起こした住民たちに対しては、「子どもは社会で育てるべきなのに、受け入れないとは何事か」という批判も寄せられているようだ。しかし、批判の前に「大前提」を確認しておく必要があるのではないか。「地域コミュニティの衰退」では不十分 私は子どもが好きだが、やはり子どもの声は「うるさい」。物心つきはじめる4~6歳くらいの子どもたちと遊んでいると癒やされるが、時に彼らは突然「キャーッ!」と叫んだり、耳をつんざくような泣き声をあげたりする。心身ともに疲れている時には、とても相手ができない……こともある。しかし、子どもとは元々そういうものだ。うるさいし、はしゃぐし、それが集団になればすさまじきこと限りない。彼らはただ全力で生きているだけで、そのあり方は何百年も変わっていない。ではなぜ近年、一部の大人が「子どもの声は『騒音』で『迷惑』」と主張するようになったのか。 問題は14年、神戸市の保育所をめぐり、近隣の70代男性が「子どもたちの声がうるさい」として訴訟を起こしたあたりから騒がしくなった。14年末からマスコミも取り上げ始め、NHKはクローズアップ現代で「子どもって迷惑?~急増する保育所と住民のトラブル~」と報じている(2014年10月29日放送)。 今のところ、住民と保育所側の対立要因として挙がっているのは、「送迎の車による事故の危険性が増す」「子どもの声が騒音になる」など、住民たちが抱える環境変化への不安。そして、その背景には「地域コミュニティの衰退」や、「社会の寛容性が失われたことがある」などと説明される。私はこうした議論に今ひとつ、納得がいかない。納得がいかないというより、問題の背景説明としては不十分である。 「地域コミュニティが衰退し、社会の寛容性が失われた」と嘆く論調は、たとえばこんなふうだ。 「昔なら路地裏で子どもたちが大声で遊んでいても、誰もなにも言わなかった。となり近所の顔が見える地域コミュニティが機能しており、地域全体で子どもを暖かく見守っていた。それが核家族化――に加え、時には“行き過ぎた個人主義”によって――地域コミュニティが崩壊し、子どもを異質なものとみなす住民が増えた。社会の寛容性がなくなり、――これまた時には“行き過ぎた個人主義”によって――我慢せずに個人の権利を主張することが当たり前になった。だから子どもの声に対しても寛容性を示さず、自らの権利を訴える人々が増えているのだろう」(※“行き過ぎた個人主義”の是正は、現政権が憲法改正の俎上に乗せたいところでもあるから、あえて強調しておいた。ここで深くは議論しないが、問題が「戦後日本の『自由』と『個人主義』」を反転させる方向へ転がっていかないよう、願ってはいる)国の「思惑」が少子化につながった国の「思惑」が少子化につながった まず事実として、戦後日本における「保育所」の出現がある。1947年に児童福祉法が制定され、「保育に欠ける」子どもを預かる施設に予算を投入するシステムが完成した。それまでは、工場の託児所があったり、大家族の中で支えあって面倒を見たりと、保護者が働いている間の「子どもたちへの待遇」はバラバラだった。重要なのは今と比べて、戦中期から戦後直後のベビーブーム時、1人の母親が産む子どもの数が異様に多かったということだ。10人きょうだいなど珍しくもなんともなく、「人生50年」の間に子を産んでは育て、産んでは育て、そして働く母親が大多数だったのである。 大きく変わったのは戦後。ベビーブーム以降、政府は食糧難の解消や福祉サービスの向上を目指して、「少なく産んでお金をかけて、家庭で大切に育てましょう」というふうに仕向けたのである。仕向けたとは大袈裟だが、そう表現するしかない。高度成長期には、祖父母らと同居する「拡大家族」とは異なる新しい家族=「専業主婦の妻とサラリーマンの夫、子ども2人」が「標準世帯」とされた。三歳児神話がまかり通り、「専業主婦の母親がつきっきりで子を見るのが当たり前」との考えが広まった。 日本の経済成長にともなう専業主婦の増加(=男性賃金の上昇)、戦後の保育所が「保育に欠ける」子どものために作られていたこと、母親が家庭で、少人数の子どもを大切に育てる理想モデル、そして少子化。すべてつながっている。子どもを社会で育てず、核家族内で母親が育てる。これが戦後日本における理想のシステムだったのだ。今さら「社会で育てよう」といっても、急に叶うものではない。新たな寛容性とは 私たちはそもそも「子どもは社会で育てるべき」という考え方を(ホンネの部分では)理解していないのである。「子どもの声は騒音だから、保育所を作るな」の議論が巻き起こるのは、戦後日本社会の悲しい必然だ。 平成になってからはご存知のように、不況や女性の社会進出で、専業主婦モデルが崩れている。共働き世帯の増加に、保育所の増加が追いつかないから、それまで保育所がなかった狭い土地にも保育所を作らなければならない。今までなかった場所に、その環境を大きく変える施設が出現すれば、なんらかの議論は起きる。保育所反対運動が増えるのは、新築マンションブームの裏で、マンションの建設反対運動が盛り上がる構図と似ている。 さらに近年、ものすごい勢いで高齢化が進んでいる。今や4人に1人が65歳以上の高齢者。これだけ社会にお年寄りが増えたのだから、「社会の寛容性」が上がった、下がったのとは無関係に、高齢層の声が大きくなるのは必然だ。 「保育所作るな問題」は、戦後日本の家族システムの問題点が明るみに出た「だけ」ともいえる。と同時にこの問題は、日本の福祉制度が転換期にあることをも示している。社会の寛容性やコミュニティの衰退以前の、単純な、そして重要な社会現象だ。「保育所作るな」という声に、どう向き合うかによって、私たちは「これからどんな社会を理想とするのか」を問われている。そこに新たな寛容性が生まれる素地は、きっとあるはずだ。私は希望を託したいと思う、この社会の一員として。 

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    子供の声はうるさい? ドイツでは法改正し「騒音」から除外

    この法律によって、ドイツ全土で子どもが発する騒音については除外し、賠償請求がなされないこととなった。少子高齢化と共に、貧困家庭における子どもの育成が社会問題となっているドイツにおいて、子育て環境の整備は重要な政策課題であり、訴訟リスクにより児童保育施設の整備・充実が阻害されることは望ましくないという考えが、政治的にも一定の広がりをみせた。 当初、高齢者など子育て世代以外からは、子どもの発する騒音を特権化することに対して、「騒音に良い騒音も悪い騒音もない」「権利を持っているのは子どもだけではない。高齢者も権利を持っている」といった異論も出たという。 連邦イミシオン法では、「児童保育施設、児童遊戯施設、およびそれに類する球技場等の施設から子どもによって発せられる騒音の影響は、通常の場合においては、有害な環境効果ではない。このような騒音の影響について判断を行う際に、排出上限及び排出基準に依拠することは許されない」(22条1a)、と記されている。 こうしてドイツでは、「子どもから発生する騒音」を規制から除くことになったわけだが、この「子どもから発生する騒音」とは、子どもが発するあらゆる大声(話し声、歌声、笑い声、泣き声、叫び声等)の他、遊戯、かけっこ、跳躍、そして、子ども自身による騒音だけでなく、保育施設等の場合には、そこに勤務し、子どもの世話に従事している職員が発する音も含まれることになっている。 日本でも「子どもたちの声」をめぐる訴訟が生まれている。ドイツを参考に、とくに自治体からこうした取り組みを始めるべきではないだろうか。東京都でも環境確保条例を見直し東京都でも環境確保条例が見直された 東京都でも、「子どもの声」に関して、都民の健康と安全を確保する環境に関する条例(平成12年東京都条例第215号。以下「環境確保条例」)が2014年に変更された。条例第百三十六条に「別表第十三に掲げる規制基準」を加え、その別表第十三「日常生活等に適用する規制基準(第百三十六条関係)」を以下のようにした。保育所その他の規則で定める場所において、子供(六歳に達する日以後の最初の三月三十一日までの間にある者をいう)及び子供と共にいる保育者並びにそれらの者と共に遊び、保育等の活動に参加する者が発する次に掲げる音については、この規制基準は、適用しない。(一) 声 (二) 足音、拍手の音その他の動作に伴う音 (三) 玩具、遊具、スポーツ用具その他これらに類するものの使用に伴う音 (四) 音響機器等の使用に伴う音 また、騒音規制の特例として、規則第七十二条の二にその特例場所を、認定こども園も含めた保育所、幼稚園、児童厚生施設、公園のほか、知事が認める場所と位置付けた。検討の過程では、子どもの声を巡る問題として、「苦情を受けて、保育所等では園庭活動を縮小する等の対策をとっている事例もある。また、子供の声等に対する苦情が保育所等を新たに設置する際の妨げとなっているという意見もある。また、子供の声を巡る訴訟では、騒音規制法(昭和43年法律第98号)や各自治体の条例に規定する規制基準を基に、不法行為責任が争われている事例もある」とした上で、子どもの健やかな成長・育成への配慮の必要性として、「規制基準を遵守するように子供の声を抑制することは、心身の発達段階にある子供にとってストレスになり、発育上も望ましくないという意見がある」としている。 こうした背景を持っているのは、決して東京都だけではない。むしろ東京都だけで環境が整備されることになれば、川を挟んだ市川市では、さらに子育て環境の格差が生じてしまう。 市川市は、これまでも、川を挟んだ江戸川区での子育て支援に対し、財政状況の差を理由に挙げてきた。しかし、こうした条例による環境整備には、財政状況は影響しない。むしろ現場を持つ基礎自治体ごとに工夫があっていいのではないかと思う。 基礎自治体には何ができるのか、都道府県のような広域行政で何を行うべきなのかを考えていく必要がある。「保育園落ちた日本死ね」とは何だったのか 今回の市川市における社会福祉法人の判断はもっともであり、こんな状況で無理やり開設したところで、住民とトラブルになってしまっては、お互いにとって不幸になる可能性もある。第一、子どもたちが可哀想である。 ただ、ニュースを見てまず感じたのは、「保育園落ちた日本死ね」とは何だったのかということだ。結局のところ自分のことしか考えてない そもそも匿名で書かれたブログを国会での質問材料にすることや、子どもに「死ね」なんて言葉を使うなと言っている立場からすると、こうした言葉を使うことにも違和感があった。 こうなってくると、「保育園落ちた日本死ね」と言った人も、「子どもの声がうるさい」と言っている人たちも、結局のところ自分のことしか考えてないんじゃないのかとすら感じてしまう。 もちろん、待機児童解消の重要性は認識している。2010年に出した著書『世代間格差ってなんだ 若者はなぜ損をするのか?』(PHP新書)では、以下のように書いた。 女性の労働環境の整備とともに、仕事と出産・育児の両立が可能となるような柔軟な働き方を実現するための支援政策が必要だということだ。こうしたことからも保育ニーズに対する対応はいっそう進めていく必要がある。 近年の都市部では、少子化に歯止めがかからない一方で、保育ニーズは年々増えている。もちろん女性の社会進出や経済状況により共働きせざるを得ない状況になっていることも考慮しなければならないが、これまで保育ニーズに表れていなかった新たな層まで保育ニーズが拡大していると考えるべきである。 保育園は、保育に欠ける子どもに対する育児の補完的な役割とされてきたが、核家族化やコミュニティの崩壊など、子育ての負担が両親、とくに母親に偏ってしまう傾向にある。こうした構造は過度に子育てを負担に感じてしまう状況を生み出しており、専業主婦でいるより社会に出たい、専業主婦であっても一時的に子どもを預けられる状況が欲しいという保育ニーズを反映している。 実際現在でも二・五万人の待機児童がいるといわれており、こうした保育ニーズは今後もさらに加速していくことが予想され、まさに子育てを社会全体で支えていくことが求められる。待機児童解消のため、まずは保育サービスへの企業の参入規制を抜本的に緩和するとともに、幼稚園と保育園の幼保一元化などを行うべきである。 また、フランスで合計特殊出生率が回復した少子化対策の一つとして、自宅で保育経験者などが保育する保育ママ制度が頻繁に紹介されるが、仕事との両立支援としての保育の時間延長や、病児病後児保育の整備をしていくとともに、働き方の多様化や保育ニーズの多様化に合わせて、延長保育や一時保育、保育ママ制度など保育園だけでない保育ニーズに細かく応じた対策が求められる。その意味でも、当事者の声を直接反映した仕組みづくりが必要である。 6年前に書いたわりには、まだまだ新しいこと、今になってようやく皆さんの共感を呼ぶこともあるのではないかと思う。当時は「奇抜過ぎる」と指摘された我々の「ワカモノ・マニフェスト」も、いまや多くの政党の政策に反映されるようになった。参院選に向けて、みなさんにももう一度手に取ってもらえればと思う。なぜ市川市議会議員は黙っているのか?なぜ市川市議会議員は黙っているのか? 最後に一つ気になるのは、今回の「(仮称)ししの子保育園市川」の開園断念について、市川市議会議員がネット上でほとんど発言してないことだ。英語に「NIMBY(ニンビー)」という言葉がある。NIMBYとは、「Not In My Back Yard(自分の裏庭や近所以外なら)」の略語で、「施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建てないでくれ」と主張する住民たちや、その態度を指す言葉だ。 私は自治体などに呼ばれて、職員や幹部の研修で、「PI(Public Involvement = 住民参画・市民参画)」について話をすることがある。近年、こうしたPIの重要性が言われ、様々なプロセスでの住民参加の必要性が求められるようになってきた。パブリックコメントなどが取られるようになったのもこの流れからだ だが、一方で、住民の意見を聞こうとアンケート調査などを行うと、非常に表層的な声ばかりが集まることがある。何の情報共有もなく、意見を求められると、どうしても利己的な要求になりがちだからだ。2013年に、内閣府特定地域再生事業の補助金を取って、埼玉県内の自治体で、無作為抽出した市民による「未来政策会議」のプロジェクトを、自治体コンサルとして提案、実施したことがある。学校の跡地利用や公共施設再編について議論したのだが、公共施設再編について市民に意見を求めると、まさに「NIMBY」になる。「公共施設再編の必要性は理解できるが、うちの前の公民館は潰すな」といった具合だ。 ところが、市の財政状況を共有し、公共施設のファシリティ・マネージメントを共に考え始めると状況は一変する。市役所職員と市民が一緒になって市の全体利益を考えるようになる。今回の問題も、報道で誇張されるような「子どもの声がうるさい」という表層的な理由だけでなく、「保育園が面する道路は狭いので危険だ」といった地理的な要因をはじめ様々な要素が交わっているのだろう。PPP(Public Private Partnership)や新しい公共の視点から、これまで行政や政治家に依存していた部分を、市民が共に担っていく仕組みを整備していく必要はもちろんだが、同時にこうした市民ニーズが交錯する問題の中で、市全体の利益を考え、将来を見据えたビジョンと責任を持って決断し、方向性を定めることも、政治家の大きな役目でないかと思う。 統一地方選挙の際に『統一地方選挙の候補者選定に、「政治とカネ」「議会の議員構成」「自治体の共通課題」を考えてみてはどうか』でも触れたが、市川市議会は、政務活動費で切手を大量購入し現金化したとの疑惑が未だに解決できていないほか、この問題で2つの百条委員会ができてしまったことなど、最も質の低い議会ではないかと思われるような状況を全国に発信してしまった経緯もある。こうした一つひとつの問題に対して、身近な人の声だけでなく、住民の声なき声にまで耳を傾けながら、市川市の未来のためのビジョンを描き、決断し、責任を持って行動してもらえるよう期待したい。(Yahoo!個人 2016年4月14日分を転載)

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    「子育て」にきびしい国は、みんなが貧しくなる国だ

    境 治(コピーライター/メディアコンサルタント)保育園問題を実感しにくい中高年にこそ読んでほしい 保育園の問題がこのところ巻き起こっている。2月の「保育園落ちた日本死ね」の匿名ブログがきっかけとなり、3月には国会での議論に広がった一方で、4月には市川市で保育園開設が反対運動で中止に至った。 私は、保育園は首都圏で圧倒的に不足しているので、開設計画は無条件で賛成すべきだ、という立場だ。いくらなんでも「日本死ね」はないだろう、と言う人には、そう言いたくなるくらい保育園は足りないのだと言いたい。 ちなみに私は50代で子どもたちは大学生と高校生。とうに保育時代は終えており、そもそも妻は専業主婦で保育園ではなく幼稚園に通わせた。そんな私がなぜ一方的に子育て世代の肩を持つようなことを主張するのか。そのことの説明を通じて、保育園問題に共感できない人に少しでも状況を理解してもらえないものか。この原稿はそんな思いで書いている。 私は主にメディアがこれからどうなるかを中心にブログなどで情報発信してきた。そんな中で時折世の中の気になったことも書いており、2014年1月にたまたま保育と社会について「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」というブログを書いた。ハフィントンポストに転載されたら、18万という驚くべき数の「いいね!」がついた。・「赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない」(ハフィントンポスト) 私は決して今でいう“イクメン”ではなかったが、妻との子育てを通して、これは母親一人でできるものではないし、そもそも核家族は子育てに向いていない形態だと認識していた。そのことを書いたら、ものすごい数の「いいね!」がついたのだ。ということは、それだけいまの母親たちが孤独な子育てを強いられているのだと知った。 その後、様々な独自の保育活動をする女性たちを取材してさらに書き進めていった。その内容は、先のブログのタイトルを書名にした本にまとめて一度出版している。・赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない。(三輪舎) そして去年は保育園への反対運動について取材していった。その過程で、実際に保活をした親たちの体験談もインタビューした。そうした情報収集で、私はかなり状況がよくわかった。年配の男性にはわかりにくいと思う。私もあまり理解できてなかった。いまの親たちの置かれている状況は我々の頃とまったくちがう。そこを知らないと、保育園問題がどうにもわからないと思う。今後は共働きが必須なのに首都圏の保育園は少なすぎる今後は共働きが必須なのに首都圏の保育園は少なすぎる いま共働きの夫婦が増えている。私たちの若い頃、80年代から90年代にかけても男女雇用機会均等法ができて、共働きは増えた。ダブルインカムノーキッズ、DINKSなどともてはやされた。だが子どもができると、わが家もそうだったが、妻は会社を辞めて専業主婦になった。当時は、バブルがはじけてからもGDPは伸びていて、給料も同じ会社にいれば自然に上がるものだった。だったら辞めてもなんとかなるでしょ、ということで子育てに専念する女性がずっと多かった。 いまはどうだろう。どう見ても、奥さんも働き続けたほうがいい。子育てで会社を辞めてしまうと、ほとんどの人はもう二度と正社員に戻れないからだ。この点をよく理解してもらうといいだろう。子どもが小学校に上がるくらいまでは子育てに専念したいと言う女性はいまも多い。だが日本の会社社会はそういう長いブランクを許さない。一度正社員の立場を離れてしまうと、その先はずっと非正規しかないのだ。だから、これからの時代は共働きを続けないといけないと私は思う。夫の側も、もう同じ会社にずっといればいい状況ではない。そのうえ、多くの会社がバブル以降やリーマンショック時に給与水準を大きく下げている。上の世代と若い世代で給与体系がまるで違う会社だって多い。子育て世代にとっては、共働きは必須だというのが、20世紀までと大きく違う前提条件だ。 そして、子育てをしながら働くには、都心に近い住まいが必須となる。子どもを迎えに行かないといけないからだ。都心の職場で、例え時短勤務だったとしても、片道一時間以上かかる町に住むとお迎えが大きく遅れるし、その後のスケジュールも全体にものすごく遅くなってしまう。だから都心から30分圏内に住む必要がある。 そういう共働き世帯が、首都圏に急激に増えているのがこの数年だ。リーマンショックがあり、東日本大震災があり、日本経済がもう大きく成長しないことが決定的になり、それでも子育てをしようとすると、都心に近い町に住んで共働きせざるをえないのだ。もちろん地方に行けば保育園は足りているし、楽に共働きできるかもしれないが、そんなに都合よく仕事が見つかるわけはない。少なくとも首都圏で働く男女が出会って結婚して子どもを持ったら、30分圏内の共働きになってしまうのだ。そういう夫婦が急激に増えていることが、保育園の圧倒的不足状況を生んでいる。子育て世代の共働きは“必然”なのだという状況を理解してもらいたい。子どもは迷惑をかけながら育てるもの子どもは迷惑をかけながら育てるもの 市川市の保育園について、いい意味で賛否両論出ていたと思う。子どもがうるさいから反対するのかとか、説明なしに建設を進めるのはよくないとか、道路が狭すぎて子どもたちに危険ではないかとか。どれも正しいと思う。 だが私が強く言いたいのは、議論の前提として「ではどうすればここに保育園がつくれるか」を置くべきでは、ということだ。説明が遅れたからちゃんと説明せよ、それはそうすべきだろう。でも説明不足だから建てるな、ということでいいのだろうか。道路が狭いのは確かに危険だろう。では安全を確保するにはどんなルールが新たに必要か。そういう議論がなされるべきではないのか。開園が断念された保育園の建設予定地=千葉県市川市菅野(大島悠亮撮影) 反対運動をあちこちで取材すると、共通しているのは、反対側は「保育園は必要だが、ここは向いていない」と主張することだ。道が危険だ、騒がしい、とネガティブなことを並べ立てるのだが、そんなことを言いはじめたら、100%問題ない保育園じゃないと建てられなくなる。結局、反対側の人びとは、保育園は必要だろうが自分に迷惑をかけるなと言っているのだ。 誰にも迷惑をかけずに子どもを育てられるはずがない。私はみんなに、そのことに気づいてほしい。子育てするなら迷惑をかけるなという人は、子育てをするなと言っているも同然なのだ。 いや、自分は人様に迷惑をかけずに成長したし、結婚してからも誰にも迷惑をかけずに子どもを一人前に育てた。そう胸を張る中高年は多いだろう。だが、それは大きな勘違いだ。 例えば私は九州出身で、福岡市の郊外の住宅街で育ったが、町中が遊び場だった。公園もあったが、空き地もいっぱいあって友だちと秘密基地をあちこちにつくったものだ。道路も舗装がまだ少なくて、遊び場の中に組み込まれていた。そんな子どもたちを、町は許容していたのだ。いたずらをして知らないおじさんに怒られたことはあっても、遊び回ることそのものを叱る人は一人もいなかった。元気な子どもの迷惑を、迷惑とも思わない社会がそこにはあったのだ。 自分の子育て時代も、小さな子どもたちがたくさんの迷惑をかけた。もちろん親としては迷惑をなるべくかけないように気をつけていたが、「赤ちゃんは泣くのが仕事だからねえ」とたくさんの見知らぬおばさんたちに言ってもらった。その頃住んでたマンションの人びとが私の子どもたちをかわいがってくれたし、コンビニのおじさんは時々子どもたちにオマケしてくれた。 だから私は成長できたし、子育ても楽しくできた。迷惑をいっぱいかけたと思うが、そのことで叱られたことなんてなかった。 保育園に反対する人たちは、それなりのいい住宅街の住人が多く、やっと手に入れたマイホームでようやく老後を過ごそうとしているのだろう。静かな土地だから高いお金を払ったのに、子どもたちの声を毎日我慢しなくてはいけないのかと感じているのだろう。だが考えてほしいのだ。子どもたちが育つ場が必要なら、自分たちでその迷惑を引き受けてみようかと。自分が育つ時、自分が育てる時、町中に助けてもらい、手を貸してもらったからここまで来れた。だったら今度は、若い世代に手を貸してあげてもいいのではないか。静かに過ごすはずが賑やかになってしまうけど、昔笑ってくれたおばあちゃんのように、自分も子どもたちに微笑みかけてあげようと考えてはくれまいか。誰とも交流しない静かな老後より、子どもたちと賑やかに関わる老後のほうが、ずっと幸福だと思う。保育を許容しない国は、力が弱まるだけだ保育を許容しない国は、力が弱まるだけだ 私は保育を取材するようになり、いろいろ得た情報の中で、こんなことが議論になるのは日本くらいらしいと知った。海外で子育てを経験した人は、アメリカでもヨーロッパでも、アジアでも、周囲に助けられて子育てがとてもしやすかったと言うのだ。電車にベビーカーで乗る時に、赤ちゃんが泣き出したらどうしようと心配するのは日本だけだ。  これは総務省統計局発表の、これまでの人口推移と今後の人口推計をグラフにしたものだ。 これを見ると、戦後いかに劇的に人口が増えたか、そしてこれからどれだけ急激に人口が減るか、よくわかるだろう。実は日本の高度成長は、人口の急増と都市化によって国内市場が驚くべき勢いで増えたことが大きい。だとすれば、これから坂を転げ落ちるような経済下降が待っているのは明白だ。人口が減る国は、衰退する国なのだ。  赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない。私が前に書いた記事はそういうタイトルだった。そしていま言いたい。赤ちゃんが増えない国は、みんなが貧しくなる国だ。 保育園を増やすかどうかをなぜ議論するのだろう。保育園を増やさないと、国が貧しくなるだけなのに。保育園の開設は、最大の経済政策だ。私たちの子どもたちに豊かな未来を描いてもらうためにも、保育園は必要なのだ。 考えてみれば当たり前のこのことに、この国が気づくのかどうか。いま、試されている。その中では、あなたの考えや意見も、重要な要素だ。この稿を読んであなたも自分が思ったことを、発信してくれればと思う。

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    古市憲寿氏「ビルの中に保育園建設するための制度を」と提案

     現在の日本では「待機児童」の問題など、保育園と保活に翻弄されるママたちの切実な現状がある。『保育園義務教育化』(小学館)の著書を持ち、これからの保育園の新しいあり方を提案する若手の社会学者、古市憲寿さんに改善策を聞いた。「日本はひとりっこ政策をしてこなかったけど、実質的にしているのと同じ。女性が子育てをしにくい環境をつくっているのは国や社会であることに気づいてほしい」。そう語る彼が提唱する「保育園義務教育化」――その仕組みとはどうなっているのか。「保育園義務教育化」が実現できれば、多くの女性に、“子供を産んでも働けるという安心感”も与えられる。「日本の未婚男女の9割が結婚したいと思っていて、理想の子供の人数は2人から3人です。保育園の義務教育化で子育ての環境が整ったら、多くの女性が安心して出産できます。つまり、出生率が向上して少子化解消につながります」(古市さん、以下「」内同) そして、この制度は子供の将来にとっても有益となるという。「ノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学のヘックマン教授が、“5才までのしつけや環境が人生を決める”と主張しているように、乳幼児教育は子供の人生において決定的に重要です。義務教育化をすることで、すべての保育園の教育レベルが一定水準になります」 さまざまなメリットがありそうな義務教育化だが、実現へのハードルは高い。「義務教育化となれば、保育園を増設しなければいけないし、保育士の待遇の低さを改善しなければいけません」 また保育園の建設場所の確保も問題だ。現在、「園舎は原則2階建て」という厳しい法律があるが、古市さんはこの決まり自体も変えるべきだと言う。「タワーマンションで子育てをしている人もたくさんいるのだから、ビルの中に保育園があってもおかしくないと思っています。ビルといっても自然光が差し込み、充分な広さを確保できるようにすれば、試してみる価値はあるでしょう。そうした保育園を建設するための制度を変えていくべきです」 それらを総合的に考慮した上で、保育園義務教育化は現代の日本に合った制度だ、と古市さんは主張する。「終身雇用で毎年給料が上がっていた時代に正社員と専業主婦という生き方は正解でしたが、時代が変わりました。今は専業主婦は一部の特権階級の人にしかできなくなっている。そのような中、お母さん1人だけに育児を任せるのは負担が大きすぎる。女性が、仕事と子育てを両立できる社会のほうが個人も社会も幸せになれるのです。保育園の義務教育化は日本人全員の将来にかかわります」(古市さん)関連記事■ 保育園義務教育化を提唱する古市憲寿氏「国が悪者になるべき」■ 「プールの日の朝食にかき氷」他 保育士を悩ます保護者実例■ 待機児童問題 2015年の新制度前に保育園に申込み殺到か■ 新しい保育制度 保育認定されても待機児童になる可能性が高い■ 待機児童多い世田谷区内の保育園 見学多すぎ現場運営に支障

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    待機児童多い地域でも子供の声を理由に保育園建設できぬことも

     保育園を必要としながら入れない、働きたいと思いながら働けない、そのような女性が2万人以上もいる日本社会の現実。「子供の声」を理由に保育園新設の理解が進まないケースも出てきた。そんな現状を、保育の問題に詳しいジャーナリストの猪熊弘子氏がリポートする。* * * 整備された静かな住宅街が広がる世田谷区。すでに開園しているところでも、「子供の声がうるさい」という近隣の苦情によって、園庭を使えるのは午前中だけと制限をしたこともある園や、窓を開けられない園もある。それは世田谷区だけではない。私が把握しているだけでも杉並区や大田区で、来年4月に開園予定だった保育園が地域住民の反対で延期になっている。  地域住民の反対で開園予定が延期になった、都内で複数の保育園を経営するある社会福祉法人の理事長はこう語った。「反対運動はある程度予想できたんですが、予想外だったのは、そのことで工事業者の入札がなかったこと。五輪や震災復興で需要があるから、わざわざ反対しているところの工事をやろう、という業者が少ないのです。 うちの区では近隣住民への対処も法人に任せっきり。保育園が必要だという保護者のかたからの応援もいただきますが、このままでは撤退せざるを得ないです」 待機児童数1109人、全国ワースト1が続いている東京・世田谷区。その世田谷区では、保育課の職員が中心になり、地域住民からの反対にも対応している。しかし調整はなかなかスムーズにいかない。保坂展人区長はこう苦渋を明かした。「管轄の職員からは、『保育園を作りたいという区長の気持ちはよくわかるけれど、対応する現場の職員はつらいんですよ』という声も入ってきています。地域住民への対応の難しさについても言われています」 現在の法律では、保育園を建設をするときに地域住民に説明をする義務は、業者にも自治体にもない。横浜市に住む男性が言う。「自宅マンションの隣の土地に建設確認の看板が出て、初めて保育園ができることを知りました。看板に書かれた法人の名前を見て、どんな保育園か調べたところ、庭でたき火をしたり、動物を飼ったりするなんていうことがたくさん書かれていました。静かな環境だからここを選んだのにすごく心配で…。保育園が足りないのは知っていますし、反対するつもりもない。でも、突然こういうことになると、こちらも何か対応策を考えないといけないかと思ってしまいます」 9月には国分寺市の保育園の前で、騒音を訴える近隣住民が斧を振り回すという事件も起きた。兵庫県では訴訟も起きている。 それに対して東京都議会では、「騒音条例の対象の中から子供の声を除外する」という動きもあるが、子供嫌い社会は変わるだろうか。保坂区長が語る。「昔は子供の数も多く、住宅街の路地は子供の遊び場でした。ベーゴマや缶蹴りなどをして遊んだことがある大人は大勢いるんじゃないでしょうか。でも、いつからか、日本の社会は子供の声を聞かない社会になってしまった。それをもう一度、子供の声が聞こえる社会にしていくことは大変です。泣きながら保活をしている親御さんたちを見ていると、どうにかしなければ、と思うのですが…」 少子化と待機児童問題を解決するためには、国でも自治体でもない、実は地域住民の理解がまず大前提なのだ。選挙権もない子供たちの力は弱い。そんな彼ら彼女らが大きくなった時、果たしてこの社会で子供を産み育てたいと思ってくれるだろうか。関連記事■ 新しい保育制度 保育認定されても待機児童になる可能性が高い■ 待機児童問題 2015年の新制度前に保育園に申込み殺到か■ 「プールの日の朝食にかき氷」他 保育士を悩ます保護者実例■ シッター遺棄事件「待機児童ゼロ」宣言した横浜市の責任指摘■ 妊娠発覚した女性 喜びつかの間「保活」タイミング最悪と語る

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    保育園の騒音トラブルは必ず発生する 市川市の開園中止は反面教師

    中嶋よしふみ(シェアーズカフェ・オンライン編集長、ファイナンシャルプランナー)  先日、千葉県市川市で4月に予定されていた保育園の開園が中止されたと報じられた。原因は騒音を理由とした周辺住民の反対によるものだという。「説明会に同席するなどして地域の理解を求めてきた市の担当者は「(住民の反対で)開園が延期したケースは東京都内などであるそうだが、断念は聞いたことがない。残念だ」と言う。<私立保育園>「子供の声うるさい」開園断念 千葉・市川 毎日新聞 2016/4/11」開園が断念された保育園の建設予定地=市川市菅野(大島悠亮撮影) 首都圏にほど近い市川市は東京駅までわずか30分、人口は約48万人、都心部へ通勤する人も多いだろう。 保育園の騒音に関するニュースは度々話題にのぼるが、そのたびに「子供の声をうるさいなんて言う人はおかしい」「自分が子供だった時を忘れたのか」といった批判が起こる。今回も「これじゃあ日本が少子化になるなんて当たり前だ」と多数の批判コメントが寄せられている。しかしこういった批判は完全に的外れだ。今回の開園中止は報道内容を読む限り、当然の結果だと言わざるを得ない。 保育園の騒音問題には多数の誤解や勘違いが含まれており、市川市の開園中止は行政すらまともに騒音問題を理解していなかったことを露呈した。改めて、保育園の騒音問題に関する誤解を一つずつ確認してみたい。なぜ保育園で「騒音問題」が起きるのか 一昔前には、保育園の騒音が報じられることは無かった。もちろんトラブルはゼロでは無かったとは思うが、近年になって多数報じられるようになったことから、この問題を最近になって発生し始めた新しい問題だと考えている人は多いだろう。 そういった視点から「日本人の心が狭くなった」「少子化で子供と接する人が減ったことが原因」といったもっともらしい説明がなされることもある。しかし、ハッキリ言ってどちらもトンチンカンにも程があるという見解だ。 保育園による騒音トラブルが増えた原因は近年都市部に保育園が急激に増えたことが原因である事は明白だ。待機児童の問題は人数が多いことだけではなく、都市部に極端に偏っている事でさらに問題が大きくなっている。これは待機児童は300万人超?園児一人当たりのコストは50万円?「保育園落ちた日本死ね」論争に終止符をでも書いたことだ。 都市部の土地はすでにほぼ開発されつくしており、新しく保育園を作れば民家と隣接せざるを得ない。この状況で多数の保育園を作れば騒音トラブルが発生するのは当然だ。今後も騒音トラブルは今まで以上に増える、そして騒音トラブルは心の問題や気分の問題ではなく、都市部で大量に作られたことによる物理的な問題と考えない限り、解決することは出来ない。当事者にとっては極めて深刻なトラブル 同時に、これは保育園によって起きている問題ではなく「隣人同士の騒音問題」だと考えれば、何十年も前から、おそらくは江戸時代に長屋が出来た時代から発生していたと言えるだろう。 保育園の騒音は「保育園のトラブル」ではなく「騒音トラブル」として考えれば、新しくもなんともない問題である事が分かる。騒音があればどこであろうと、誰であろうとトラブルは発生する。 そして、過去には騒音が原因で殺人事件まで発生しているケースもあり、保育園でも子供の声がうるさいと斧を振り回して逮捕されたケースまである。つまり騒音トラブルは「たかが子どもの声に目くじらを立てるな」などといえるようなものではなく、当事者にとっては極めて深刻なトラブルでもあるということだ。騒音かどうかなんてどうでも良い おそらく子供の声に「騒音」という言葉を使っている時点で不愉快な人は多数いるだろう。しかし、子供の声を不快に思う人は厚生労働省の調査によれば35%にのぼる(2015年・厚生労働省白書)。この数字は一部とも少数派とも言えない。そうでなければこれだけ反対運動が起こるはずもない。国も自治体も保育園を作れば必ず反対運動が起きるという前提で対応すべきだ。 こういった話題で必ず発生する一番多い批判は、子供の声をうるさいと思う人はおかしい、その次がすでに住んでいる人が近くに作る時に文句を言うならまだしも、後から引っ越してきた人が文句を言うな、というものだ。 一つ目についてはこれほど意味の無い批判も無い。ピーマンが嫌いな人になぜお前はピーマンが嫌いなんだ?こんなに体に良い食べ物なのに、と文句を言っても意味が無いことと同じだ。嫌なものは嫌、それだけだ。子供の声をうるさいと思うなといったところで問題は何ら解決しない。クレームを出すなと言ったところで止まる事は無いだろう。 そして、重要なことは子どもの声をうるさいと思う人がいるかいないかに関係なく、保育園の数は増やさないといけないということだ。焦点は保育園の整備を進めることであり、騒音問題では無い。騒音が障害になるのなら粛々とそれを解決するために必要なことをやれば良いだけだ。そういう意味では、今回の市川市のケースで、悪いのは反対住民ではなく遅滞なく建設できなかった自治体ということになる。 私立の保育園であっても国策として保育園を増やすと決めて税金も投入している以上、責任は国や自治体にあるのは当然だ(保育園の建設はあくまで事業者が行うことだが、今回のケースでも住民との話し合いに市の担当者は参加していると報じられている通りだ)。保育園が出来ると資産価値は下落保育園が出来ると資産価値は下落 そしてもう一つのイヤなら引っ越してくるな、という意見だ。今回は新しく作ろうとしたところで住民が反対運動をしたケースだが、それでも関係がある。 好き好んで幼稚園や保育園の隣に引っ越しをする人はいないだろう。オークションと同じで、敬遠する人が増えればそれだけ賃料も価格も下がる。つまり不動産価格に悪影響が発生するから建設反対という人も確実にいるということだ。これもおかしいと文句を言ったところで変わりの無い事実だ。 無責任な事を言うなと批判を受けそうだが、そういう人のほとんどは保育園や幼稚園の隣に住んだ事は無いだろう。自分が現在借りている事務所は幼稚園の隣にある。近くではなく、隣接だ。薄い壁一枚を隔ててすぐ隣が幼稚園で、自分が借りる際には1年近く空き家だったようだ(事務所の環境について詳細は後述する)。子供の声はうるさくない ここまで読んで「コイツは保育園の建設に反対するとんでもないヤツだ」と思われたかもしれないが、以前の記事で東京には数百万人分の保育園が足りないと書いた。自分が問題と指摘していることは、今のような行き当たりばったりの状況では保育園を増やすことはできないということだ。しかし解決策はある。なぜなら子供の声は決してうるさくないからだ。 すでに書いたように、自分は幼稚園の隣に事務所を借りている。午前から午後2時位までは子どもが園庭で遊んでおり、それ以降は子どもを迎えに来たお母さん達が夕方まで園庭でずっと喋り続けていて、子供の声に負けず劣らずという状況だ。お母さんが帰らないのだから当然子どももその場にいてずっと大はしゃぎで遊んでいる。 その隣に事務所があると聞けば、市川市で反対運動をしていた人ならば卒倒しそうな状況だが、室内では驚くほど子供の声は聞こえない。壁の分厚いタワーマンションやごついビルというわけでもなく、エレベーターすらないおんぼろビルだが、子供の声もお母さんの声も全く聞こえない。境目に防音壁などは無く、道路に面した園庭に至っては金網で声はダダ漏れの状況だ。 これは自分が子供の声をうるさいとは思わないとアピールしているわけではなく、仕事で訪れた編集者や相談に訪れたお客さんも、窓を開けると思い出したように「そういえば隣、幼稚園でしたね。こんなに近いのに窓を閉めてると全然聞こえないんですね」と、皆が驚く。工場などでは「消音スピーカー」を使うケースも なぜこんなことが起きるのか。音響マニアの人ならば簡単に分かるだろう。周波数の高い声、つまり子供や女性の声は遮音・防音が簡単だからだ。ドアやコンクリートの壁、あるいはカーテン一枚でもかなり音は防ぐことが出来る。防音対策は何もしていないため通常の壁だけで防音が出来ていることになる(うるさいと文句を言う人は壁の薄いアパートか木造の一軒家なのだろう)。 イメージとは逆に、男性の出す低い声や、工場やクーラーの室外機から出る低音は遮音が難しい。つまり防音設備をキッチリと整備すれば子どもの声を防ぐことは決して難しいことでは無いということだ。 以前、背の高い防音壁が設置された保育園が報道されたときも、子供の遊ぶ庭にこんなものを作るなんて、と批判が多数寄せられていた。しかし、重要な事は保育園をまずは確保することだろう。壁一つで保育園を建設出来るのならいくらでも壁を高くすればいい。 保育園よりもっと大音量の騒音をまき散らす工場や商業施設はどうしているのか。これは消音スピーカーといったものが使われているケースもある。高度な技術により、音を音で打ち消すような仕組みだ。 身近なものではノイズキャンセリング・イヤホンなどにも使われている技術だ。利用したことがある人ならば分かると思うが、ノイズキャンセリング・イヤホンを電車内でつかうと電車の動く音が全く聞こえないくらい効果が出る。道端では車の走行音が聞こえなくて危ないくらいに音楽の世界に入り込める。これはイヤホンで物理的に耳をふさいでいる効果も当然あるが、既に騒音を打ち消す技術はあるということだ。 ただ、これを直ちに保育園や幼稚園に転用は出来ない。工場と保育園・幼稚園では音の性質が全く異なるからだ(先ほど書いた低音と高音の違い)。工場等の騒音は生活のトラブルとして解決する必要があったため開発が進められてきた経緯はあるのではないかと思う。 今後子供の高い声を打ち消す事ができる技術が生まれれば都市部で住宅街のど真ん中に何の心配もなく保育園を建てることも可能だろう。保育園の増加が国策なのであれば、経営危機にある家電メーカーに消音技術の研究開発費でも補助金として出せばいい。稚拙な住民交渉でトラブルが深刻化する 今回の報道で誰も気にしていないが、最も深刻な箇所は先ほど引用した以下の部分だ。「市の担当者は「(住民の反対で)開園が延期したケースは東京都内などであるそうだが、断念は聞いたことがない。残念だ」と言う。」 これが本当に報道の通りならば勉強不足、調査不足にもほどがあるとしか言いようがない。開園が断念されたケースはこれまでにも多数報じられているからだ。例えば以下のケースだ。「さいたま市内では、2011年春の保育所開設を目指した計画も白紙に。断念した社会福祉法人理事長は「住民の反対や地主の貸し渋りであきらめた計画は、他市も含め10以上ある」。隣に保育所、迷惑ですか 騒音・送迎車…各地で建設難航 朝日新聞デジタル 2014/06/3」 延期と断念がどこまで厳密に区分けして報じられているか分からないが、こういった報道は他にも多数ある。東京都内などであるそうだが、といったレベルの話ではない。市川市は他の自治体の成功例・失敗例を知らず、情報不足のまま対応した結果、開園までこぎつける事が出来なかった可能性は無かったのか。説明不足で住民が怒ったと報じられているケースも多い 市川市の問題にとどまらず、国策として保育園を何年も前から増やしているにもかかわらず、どんな手順で工事を初め、どのように住民に説明すれば説得が可能か?といった手順の標準化(マニュアル化)や、各地の自治体が困らないように国が情報共有の手助けをするといったことすら着手していないことも露呈している。保育園の建設反対運動の発端は説明不足で住民が怒ったと報じられているケースも多い。 他にも、保育園の屋上に砂場を作ろうとして周辺住民とトラブルに発展したというデザイナーが暴走しているようなケースや(保育園が足りない 建設めぐり住民と事業者が対立 - Yahoo!ニュース 2015/12/25)、突然保育園の建設を始め「工事の妨害をしたら法的手段を取る」と周辺住民に脅すような文面を建築業者が送りつけて非常識な対応をするケースなど(「憩いの場」に保育園建設…高齢女性の嘆き AERA 2014/11/15)、どう考えても事業者側に問題がある事例も報じられている。保育園に税金が投じられている以上、当然これらのトラブルは全て国や自治体にも責任がある。 既に書いたように建設から開園までにやるべきこと、守るべきルールを標準化し、情報を共有して保育園の設立アドバイザーのような職種を育成・派遣することで不要なトラブルを避ける事は十分可能だ。 保育園不足の原因として財源不足や住民の反対が挙げられるが、行政や立法の怠慢も確実にあるとしか言いようが無い状況だ。※通常、保育園の開園に周辺住民の了承は不要で強行することも可能だが、園児に危害が加えられるような事態を避けるため住民の理解を無視することは当然出来ない。上記の朝日新聞の記事では防音壁や二重窓はもはや当たり前という自治体の声も紹介されている。国は本気ならば「本気の対応」を この記事を書いている最中、沖縄の基地建設に揺れる町に関するドキュメンタリーが放送されていた。その町では国から補償金を貰うべきかどうかで話し合いが持たれ、苦渋の選択として多数決でお金を貰う事にしようと決まった様子が放送されていた。 保育園の周辺で騒音や資産価値下落で困る人がいるのなら、二重窓の工事代金の支払いや補償金の支払いも当然検討してしかるべきだ。反対意見は出るだろうが、それは既に書いた通りピーマンが嫌いな人はおかしいといったレベルの話に過ぎず、耳を傾ける価値は無い。 重要な事は今後も人口の密集した都市部に大量の保育園を作らざるを得ず、一つ作ろうとするたびに住民の反対運動が起きて結局作れませんでした、ということになれば無駄に時間と手間を浪費し、仕事に復帰できないパパやママが大量に生まれるということだ。 今後保育園をスムーズに作るためには予算はもちろん、国がキッチリと関与することが必要だ。保育園の増設には様々なやり方があり、現在のやり方が全て正しいとは思わないが、少なくとも定員の増加は確実に必要だ。そのためには最低限のルールや手順の整備は早急に進める必要がある。 今後は自治体と住民がこれ以上不要なトラブルを起こさないで済むように、国も全国の自治体も市川市の事例を反面教師として環境を整えるべきだろう。【参考記事】■住宅購入の相談に乗っているFPから見た、働くママと会社の関係。|人事のための課題解決サイト jin-jour(ジンジュール)■待機児童は300万人超?園児一人当たりのコストは50万円?「保育園落ちた日本死ね」論争に終止符を。■「資生堂ショック」という勘違いの勘違いについて。■「奨学金のせいで結婚が出来ない」という勘違いについて。■年収240万円で子育てをしながら普通に暮らす方法。

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    「限界マンション」に日本の絶望を見た

    少子高齢化による過疎の波が都心にも迫っている。いま老朽化や空き家の増加により、廃墟と化したマンションが首都圏で急増し、防災上のリスクなどから将来的には公費解体せざるを得ない事態に陥っている。都心に増える「限界マンション」。日本の危機的未来を暗示した「縮図」がそこにあった。

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    廃墟か建て替えか、それとも延命か…老朽マンション「重い決断」

    櫻井幸雄(住宅評論家) マンションの建物は必ず老朽化する。そして、老朽化したときの対応は簡単ではなく、極めて面倒。しかし、マンションを買う人、住んでいる人の多くはそのことを意識していない。  漠然と「鉄筋コンクリート造の建物は半永久的に存在し続ける」と思っているからだ。ところが、実際の建物は半永久的の耐久性を持っているわけではない。  では、実際の耐久性はどれくらいなのか。現在の新築分譲マンションであれば、少なくとも60年から80年、メンテナンスをしっかり行えば、100年に達するほどの耐久性を有すると考えられている。しかし、昭和時代に建設されたマンションの寿命はそれよりずっと短い。 日本にマンションが増え始めたのは昭和30年代から40年代にかけて。その時期に建設された第1世代のマンションが、今、建て替え時期を迎えている。 第1世代のマンションの寿命は40年から50年程度とされている。だから、昭和30年から40年にかけて建設された“第一世代マンション”が、いま続々と建て替えられているわけだ。 この“第一世代マンション”は、寿命が短い一方で、建て替えがしやすいという利点がある。建て替えがしやすい理由は、敷地に対してゆったり建築されていたケースが多く、むずかしい言葉で言うと「容積率に余裕がある」からだ。その場合、建て替えによって従前より戸数を増やすことができ、余剰住戸を一般に分譲することで建設費を捻出。元からの住人は1円も出さず、新しいマンションに移り住むことができた。 これは初期のマンションに限った話。多くのマンションは、建て替えで余剰住戸が生じない。だから、自分たちで建て替え資金を出し合わなければならない。その額は平均的な3LDK住戸1戸あたり2500万円以上とされている。それだけのお金を全住戸が出すことができないと、建て替え計画は暗礁に乗り上げるのだ。 そんなの聞いていない、と思うかもしれない。しかし、「自分でお金を出して建て替えを行う」のは、一戸建てにおいては当たり前のこと。マンションも同様に、お金を出さなければならないのだ。 その際、マンションの問題は「多くの人がお金を出し合わなければならない」ということ。一戸建てならば、1家族の決意で建て替えが実現する。しかし、マンションは多くの住戸の総意をまとめる必要がある。これが大仕事なのだ。 「マンションの建て替えには5分の4の賛成が必要」とされるが、これは、「建て替えの動議が可決するには5分の4の賛成が必要」という意味。5分の4の賛成が得られれば、すんなり建て替えが実現するわけではない。 実際には、動議が可決した後、100%すべての人が「建て替えをしましょう」「お金が必要ならそれを出します」と同意しないと建て替え計画は前に進み出さないのだ。 その結果、「1人でも反対者が残った場合、建て替えはできない」という状況が生まれてしまった。それに対し、現在は最後まで残った少数の反対者住戸を管理組合が強制的に買い取って、建て替えを進める手段が生まれている。いわゆる「強制代執行」だ。建て替えでも廃墟でもない第三の選択肢 ただし、この強制代執行はあくまでも最後の手段=伝家の宝刀のようなもので、1戸か2戸の反対者に対して行われる。反対する人が5人、10人となれば、伝家の宝刀を抜くことはできない。 その結果、建て替えができず、このままでは廃墟になるのを待つしかない、というマンションが日本各地に増え始めている。それが、日本のマンションの実情である。 これは困った問題である。全員でお金を出し合って建て替えるか、廃墟になるのを待つ。この二つしか選択肢がないので、結論を先延ばしにしているマンションが増えているわけだ。 その解決策として、第三の選択肢が生まれている。それは、建て替えではなく、「延命」という方法だ。 「延命」は、3つの段階で行われる。 まず、建物の耐久性を診断し、鉄筋コンクリート造もしくは鉄骨鉄筋コンクリート造の基本構造がしっかりしているかどうかを調べるのが第1段階。これなら、基本構造がまだしっかりしていると診断されたら、共用部にあたる給排水管や建物の外壁、エントランス、玄関ドア、窓などを改修する。これが第2段階で、マンションの見栄えが圧倒的によくなるし、居住性も向上する。 さらに、各住戸内(専有部)も新しくしたい、という人には間取りや設備を一新するリフォームを行う。この第3段階は希望者だけに行うため、資金に余裕のない人は共用部の改修費用だけを負担すればよい。つまり、延命処置ならば、建て替えよりハードルが低くなるわけだ。 もちろん、「延命」した後、いつかは寿命が尽きて「建て替え」ということになる。結論を先延ばしているだけ、とも言えるのだが、長く住み続け、「ここを終の住処にしたい」と考えている高齢者の多くには最良の選択肢になるはずだ。延命したマンションは、少しずつ不動産会社に買い取られ、最後は不動産会社の手によって建て替えられる……そのようなビジネスモデルが今後、増えてゆく可能性が高い。 以上のように、老朽化したマンションの今後を考えると、築30年以上の古い中古マンションを買うことには、リスクがあると言わざるを得ない。もしかしたら、20年後、そのマンションが築40年になったあたりで、建て替えの話が出て、面倒に巻き込まれる可能性があるのだ。 ただし、築30年を超えるようなマンションは、中古価格が安く設定される。安いのはいいのだが、リスクはある。それが、築年数の古い中古マンションの宿命というべきだろう。 リスクがあるが、延命できればラッキー……とはいっても、家族のために買うマイホームで、そのようなリスクを冒すべきではない、という考え方もある。築年数の古いマンションが増えた現在、家探しで新たな迷いが増えてしまった。

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    「住宅すごろく」から様変わり…タワーマンションと高齢化問題

    牧野知弘(不動産コンサルタント) マンションの曙は1956年、東京、新宿区四谷に誕生した四谷コーポラスが始まりと言われている。以降59年間、マンションストックは全国で601万戸となり、日本の居住スタイルとしてすっかり定着した感がある。 昭和の時代までは、マンションは将来一戸建て住宅を取得するまでのステップという意味合いが強かった。いわゆる「住宅すごろく」という考え方である。結婚して賃貸アパートや賃貸マンションに住む。少しお金がたまれば。分譲マンションを買う。そのうちマンションが値上がりするから、マンションを売却して売却益を使って郊外の一戸建てを取得する。定年後はこの住宅で子や孫に囲まれて穏やかな人生を過ごす。こんな絵にかいたような人生を思い描いてきたのが住宅すごろくだった。 ところが、平成になってマンションは「永住する資産」としての認識が急速に広まった。郊外からの通勤が大変であるのは昔も今も変わらないが、都心部のマンションが安くなって買いやすくなり、今更郊外に住むことなく便利なマンションに永住しようとする考え方が主流となったのである。安くなった原因は小泉内閣だった1996年頃に都心部のとりわけ湾岸部を中心に容積率が大幅に緩和(引き上げ)されたこと、また湾岸エリアにあった工場の多くがアジアへ拠点を移し始めたため、タワーマンションとして供給できる土地が数多く手に入るようになったということである。 しかし、このマンションという建物が今、厄介な問題を抱え始めている。建物の老朽化と住民の高齢化である。旧耐震制度のもとで建設されたマンションは都心部を中心に約106万戸存在する。築40年を超えるこのマンション群では現在建物の大規模修繕や建替えを巡って大紛糾する事態が相次いでいる。 マンションは区分所有法に基づき、大規模修繕には管理組合において、議決権を持つ区分所有者の4分の3以上、建替えにあたっては5分の4以上の賛成が必要となる。ところが、マンション住民の多くが高齢化し、子供や孫がこの資産を引き継がない、引き継いでも実際には居住しないという状況のもと、議案をかけても可決できないのである。 特に年金だけが頼りの生活を続ける高齢者は、大規模修繕や建替えに伴う資金の追加負担には耐えられる構造になく、また高齢化に伴い、問題に対する判断能力にも限界が生じ、「今さえ良ければよい」「何もしないでほっておいてくれ」といった問題先送りが繰り返され、健全な組合運営すら困難になっているところが続出しているのである。 こうしたマンションはやがて意識の高い住民から脱出が始まり、メンテナンスが行き届かないマンションでは空き住戸が急増し、やがてはスラム化への道を歩むであろうことは想像に難くない。人気のタワーマンションで起こる別次元の問題 いっぽうで現在さかんに建設されている人気のタワーマンションはどうであろうか。このマンションの住民層はまだ高齢化が著しくはないであろうが問題は別の次元で存在する。住民層の違いだ。 最近分譲されるタワーマンションの多くは、高層部は中国人をはじめとする外国人投資家と、相続対策が必要な個人富裕層が所有している。いずれも自らが居住することを目的としていない「投資」を行っている人たちだ。いっぽうで中・低層部はタワーマンションをエンジョイしようとする「居住」を目的とした人たちだ。 投資を目的とする中国人たちは2020年の東京五輪の前後に売却して利益を取ろうとする人たちである。中国と日本の習慣の違いもあり、管理組合の提示する管理費や修繕積立金に理解を示さない区分所有者が多数出現して問題となっている。相続対策目的の個人富裕層も相続が発生すれば売却することを予定しているため、管理組合の活動に対してはほとんど関心を示さないという。 こうしたタワーマンションが今後、必要な修繕やましてや建替えの決議が可能であろうか。タワーマンションは平成初期に建設されたのが始まりである。実はまだ、大規模修繕のモデルが確立されていないのが実態だ。たとえば外壁修繕を行おうにも、一般のマンションと異なり足場を組むことはできない。高層用エレベーターは、くるまに例えるならば一般のマンションのエレベーターがプリウスであり、タワーマンションのそれはポルシェくらいに違いがある。大規模修繕にかかる費用は数倍にも及ぶ可能性がある。 マンションが「永住用の資産」と考えた場合、現在旧耐震マンションで生じている問題以上に深刻な問題がこのタワーマンションに生じてくる可能性が高いものと懸念される。 あらためて日本は今後、世界最先端の人口減少・年齢構成の激しい高齢化の時代を迎えることを認識する必要がある。一定限度の「新陳代謝」が行われる限りにおいては「資産価値の維持・向上」を続けることが可能であっても、多くのマンションが新陳代謝できずに、区分所有者とともに急速に老朽化しスラム化していく世界が今、目前に迫ってきている。 建物は劣化する。このあたりまえの事象の前にいま高齢化国家日本の憂鬱がある。

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    放置された「限界マンション」は公費で解体するしかない 

    米山秀隆(富士通総研 経済研究所上席主任研究員)  空き家問題は今のところ一戸建てが中心であるが、近い将来、深刻になっていくと予想されるのが分譲マンションである。全国のマンションストックは613万戸(14年末)に達するが、このうち81年6月以前に建設された旧耐震マンションは106万戸、さらに71年4月以前に建設された旧・旧耐震マンションは18万戸ある。 今後マンションの老朽化は急速に進んでいき、築40年超のマンションは、10年後には140万戸、20年後には277万戸に達する(図)。[図] マンションの老朽化 マンションの完成年次別の空室率を見ると、全体の空室率は2.4%に過ぎないが、74年以前完成のマンションでは空室戸数の割合が10%超の物件が増え、69年以前になると空室戸数の割合が15%超の物件が増えていく(国土交通省調べ)。築40年を超えると、マンションの空室率が高まっていくことがわかる。 東京都港区などには、初めてマンションが登場した50年代半ばから60年代にかけて建設された物件が点在している。老朽化マンションに対処する方法の一つは建て替えであるが、建て替えできたものはわずかで、多くはデベロッパー主導によるものである。空室化が進み、管理組合が機能していない例もあり、中にはスラム化しているものもある。 今後はこれまで供給されたマンションの老朽化が進み、同時に居住者の高齢化や空室化が進んで管理が行き届かなくなり、スラム化に至る「限界マンション」が大量に出てくることが予想される。建て替えの限界と解体のハードル 建て替えには、容積率に余裕があって従前よりも多くの部屋を造ることができ、その売却益が見込めなければ、デベロッパーの協力は得られない。筆者がかつて行った試算では、東京都区部では1.6~2.8倍程度容積率を割り増さなければ、採算に合わないとの結果が出た。実際、建て替えできたのは全国で211件、1万6,600戸(15年4月時点)に過ぎない(阪神大震災関連を除く、国土交通省調べ)。 一方、老朽化マンションでは既存不適格物件(建設当時の法令では適法だったが、その後の法改正によって違法となり、従前と同じ容積率で建て替えることができなくなった物件)が多く存在する。既存不適格物件は、70年以前の建設で67%、71~75年の建設で65%もあり(いずれも民間の物件、国土交通省調べ)、これらは建て替えが極めて困難である。 このように建て替えには限界があるため、他の方策も必要になる。マンションの区分所有権を解消し、敷地を売却して終止符を打つ方法がその一つであるが、この場合、区分所有権解消には全員一致が必要という条件がネックになる。この問題は東日本大震災での被災マンションで、全壊判定されたマンションでも解体できない問題として浮上した。これを受け、法改正により、被災マンションについては5分の4の賛成で区分所有権解消が可能とされ(被災マンション法改正)、次いで、耐震不足のマンションについても同様の法改正がなされることになった(マンション建替え円滑化法改正)。最終的には公費解体へ しかし、問題はこれで終わりではない。区分所有権を解消しようとしても、解体費用が捻出できない場合には、老朽化物件が放置される恐れがある。この解決策としては、あらかじめ解体費用を積み立てておくことが考えられる。最近では、修繕積立金の一部が、最後に解体費用として残るよう長期修繕計画を立てる物件も出てきた。 ただし、現在、解体費用を捻出する計画を立てている物件は、立地が良く、敷地が相応の価格で売却できる見通しが立っているケースと考えられる。つまり、一時的に解体費用を負担しても、敷地売却で回収できるケースである。そのような見込みがなければ、解体費用を全額自己負担せざるを得ないが、そこまでの合意ができるとは到底思えない。 解体費用の自主的積み立てが難しいとすれば、次善の策として、固定資産税による解体費用の事前徴収もあり得る。この発想は、今、危険な空き家でも自分で解体してくれないという問題が戸建て、共同住宅を問わず問題になっているが、そうであるならば、住宅を建てた時点から毎年、解体費用を徴収していったらどうかというものである。具体的には、毎年、固定資産税に将来必要になる解体費用を少しずつ上乗せして徴収していくというのが一案である。マンションの場合、特にこうした仕組みが必要かもしれない。しかし、すべての区分所有者の負担が増すため、これも導入は困難が予想される。最終的には公費解体へ 区分所有者が解体の責任を果たさないとすれば、最終的には、行政が買い取って取り壊すという選択肢が必要になる。これは、フランスにおいて、スラム化したマンションで実際に行われた事例がある。もちろん、国土交通省も最終的にマンションがこのような事態に至る可能性に気づいていないはずはなく、関係者の中には、強制収用の仕組みを導入することが将来的に必要との認識を示す人もいる。この場合、すべての物件の強制収用、解体は難しいため、放置しておくことが危険な状態になったものについて、実施するということになるだろう。つまり、現状のままではマンションの最終的な出口は、公費解体ということになる。 区分所有者の中には、ここまで述べてきたことによって、マンションに住み続けること、あるいはマンションを購入したことについて少なからず不安や後悔の念を抱かれた方もいるかもしれない。しかし、現実には本来は所有者が果たすべき責任、つまり寿命が尽きた時の解体の責任は必ずしも厳しく問われるわけではなく、公費解体が最終的な答えになるとすれば、そう心配はしなくてもいいことになる。ただし、そう思われることは、区分所有者のモラルハザードを引き起こすことになるため、今後も国土交通省は管理の重要性を強調していくことには変わりがないだろう。マンション購入者への注意喚起が必要 実際、自分の所有するマンションがスラム化に至るような事態は、できるだけ避けるに越したことはない。そのためには、管理組合を機能させ、必要な修繕を行って資産価値を維持し、中古としても魅力的な物件であるように努力していくことが必要になる。新たな購入希望者が出てくる限り、スラム化に至る可能性は低くなる。ただ、中古としても魅力的な物件であるためには、建物自体に問題はないことはもちろんであるが、立地条件によって大きく左右される。今後は世帯数が減少し、住宅需要は減る一方なので、立地条件の悪い物件はそれだけで不利になる。 また、マンションが建設されある程度の時間が経っていくと、収入に余裕のある層はより条件の良い物件に住み替えたり、一戸建てに移る場合も出てくる。条件の悪いマンションほど、新たな購入者が現れず、新たな購入者が現れたとしても、場合によっては、フランスでスラム化に至ったマンションのように、低所得者層が集まる物件が出てきてもおかしくはない。こうしたところまでは、まだ日本では起こっていないと考えられがちであるが、リゾート物件にはすでにそれに近い現象が起きている。バブル期に大量供給された物件が大幅に値崩れして、数万~数十万円程度で買えるようになり、低所得者層が流入しているケースである。マンション購入者への注意喚起が必要 要するにここまで述べてきたことは、立地条件が良く、敷地に価値がある場合は、老朽化した場合でも建て替えや再利用はもちろん、敷地の買い手も出てくるため、あまり心配はいらない。ところがそうではない大半の物件は、解体費用すら捻出できず、放置される危険性が高いということである。そしてその処理は、現状のままでは最終的には、公費に頼るしかなくなる。公費解体は、区分所有者以外の人々も費用を負担しなければならなくなるため、公平性を欠く。区分所有者が、解体費用を確実に負担する仕組みを確立しておくことが望ましい。 空き家問題との関わりで言えば、今は一戸建ての問題が中心であるが、やがてマンションの問題が深刻化し、そしてその次にはタワーマンションの問題が浮上してくると考えられる。タワーマンションは、当面は、大規模修繕の方式を確立することが課題であるが、やがて来る建て替えや解体の問題は、区分所有者数が多い上、巨額の解体費用を要することから、通常のマンション以上に深刻になる。 通常のマンションにしろ、タワーマンションにしろ、問題が最終的に行き着く先は、解体費用の手当てに集約されると考えられるため、繰り返しになるが、区分所有者が解体費用を負担する仕組みを確立する必要性を強調しておきたい。その場合、現にマンションを保有する人、今後、購入する人の負担は増すことになるが、これまで最終責任について明確に自覚することなく、購入してきたこと自体がおかしかったといえる。マンションを購入する場合は、老朽化した場合のリスクについて、購入時の重要事項説明の中で義務付けることが必要である。

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    全国で深刻化する空き家問題 東京都心で空き家が放置される理由

    本田康博(証券アナリスト・馬主・個人投資家) 先月26日、「平成25年住宅・土地統計調査」の確報値が公表されました。5年ごとに公表されるこの調査は、日本の住宅と土地について、その居住や保有の現状と推移を様々な切り口から明らかにしています。また、その中から住宅数と空き家数にかかわるいくつかの項目を用いることで、空き家率が計算できます。意外に多い? 東京23区の空き家 首都圏の空き家率の推移については、BLOGOS等にも配信されている「マンション・チラシの定点観測」ブログの3月5日の記事「空き家率 1都3県の15年間の変化が分かる地図アニメ」が紹介しています。アニメーションで変化を視覚的に理解できるのは、分かりやすいし、面白いと思います。 記事をご覧になった方は、おそらく、「都心も意外に空き家があるんだなぁ」と、思われたのではないでしょうか? 実際、都心にはたくさん空き家があるのですが、その理由について考えるために、ここでは空室率について少し細かくブレークダウンしてみました。データ時点は2013年10月です。表中の「ボロ」は、元の統計表で「腐朽・破損あり」とされているものです。 こうして細かく見てみることで、いろいろ気づくことがあるものです。例えば、・東京の空き家率は、賃貸物件の空室率の影響が大きい。(23区は全体の52%が賃貸物件、全国では38%。)・賃貸物件の空室率がかなり高い。特に豊島区、大田区、中野区等。・千代田区、港区等、都心の空き家率は高いが、相対的には、特に賃貸以外について顕著な傾向。・江東区はいずれの切り口でも空き家率が低い。・足立区はボロ空き家は多いが、非ボロ空き家は少ない。等々。 こうした気づきを片っ端から深掘りしてみるのも面白いかもしれませんが、ここでは特に都心三区(千代田、中央、港)の空き家率が、特に非賃貸で高い点に注目してみました。なぜ都心で空き家が放置されるのか? 表の右上、賃貸以外の物件の空き家率で上位となったのが、千代田区、中央区、港区の都心三区です。賃貸物件のランキングで中央区だけ空室率が低いように、切り口によっては必ずしも同じ傾向とはなりませんが、賃貸以外の物件に限って言えば、かなり似ています。 結論から言ってしまうと、都心三区で空き家が多いのは、これらの区では活発に不動産開発が行われているからなのです。 空き家が増えているというと過疎化が進むイメージを思い浮かべるのがたぶん普通なのですが、じつはそれとは真逆のことが起こっている場合もあるのです。 例えば、六本木ヒルズの開発では、元々500世帯ほどが住んでいた地区を地上げし、現在の形にするまでに、計画の公表から考えても約17年かかったと言われています。地上げは計画発表前から徐々に進められますし、途中でいったん頓挫して他の業者に引き継がれる場合等もあり、長い場合では数十年もの時間をかけて、その間徐々に、着工に至るまで空き家が増え続けます。 また、六本木ヒルズのような大規模開発ではなくとも、都心では至る所で様々な規模の不動産開発が進行中です。開発が進めば進むほど、一時的には空き家が増加するのです。東京23区の空き家問題とは? ただ、開発は何も都心三区のみで進行しているわけではありません。最も空き家率が低い江東区は、オリンピックに向けて大プロジェクトが目白押しですし、東急による駅周辺の大型開発が計画されている渋谷などもあります。では、なぜこれらの区ではそれほど空き家率が高くないのでしょうか? これは、都心三区では、多くの一般地権者が関係する地区の開発プロジェクトが多いのに対し、江東区では都等が所有する埋め立て地、渋谷区では東急電鉄の鉄道跡地等、地上げの必要がほとんどないような地区が主な開発の対象となっているためでしょう。 グラフは、Googleトレンドで「区名+”開発”」による検索状況を調べた結果(2015/3/6取得)を、別途まとめたものです。(度数は相対的な値です。) 都心三区の開発への関心が相対的に高いのは、明らかでしょう。ただ、おそらくそれは、多くの人が待ちわびているから関心が高いというわけではなく、開発が自分自身に直接関係するという人が多くいるからなのだろうと思います。東京23区の空き家問題とは? 東京都区部では、地方で問題視される戸建ての老朽化した建物が放置されるケースも少なからずあるものの、重要な問題とまでは言えません。もともと割合は小さい上に、その多くは新たな開発に伴うものと考えられるからです。 では、東京都区部では空き家問題が重要ではないのかと言えば、そうではありません。東京には東京で、それとは別の問題があるのです。 東京で本当に問題視すべきなのは、賃貸物件の空室率の高さに象徴される、老朽化した集合住宅の空き家の問題です。老朽化した集合住宅が建て替えできず空室が増えることで、そうした集合住宅がスラム化することも考えられます。 集合住宅は、権利関係者が多いという特徴があります。古い物件の中には現在の建築基準では同じように建て替えできないものも少なくないこともあり、その中で権利関係者間で建て替えの合意に至るというのは、簡単なプロセスではないのです。 空き家が放置される問題では、東京には東京の事情、地方には地方の事情があります。地域特有の問題もいろいろあるでしょう。 空き家問題解決のために何らかの法改正等も期待されるところですが、現状を詳しく吟味することで、そうした様々な事情を汲みつつ、効果的な対策を考えていかなければなりません。 一人一人が当事者として、空き家問題について真剣に考えるべき時が来ているのではないでしょうか。是非、以下の記事も参考にしてください。■ちきりんvsイケダハヤト「通勤手当廃止」論争で語られなかった「住まいの問題」緩和策。 (本田康博 証券アナリスト)http://sharescafe.net/42894098-20150115.html■新相続税制で注目が増す賃貸併用住宅、本当に怖いのは国税庁よりも空室率です。 (本田康博 証券アナリスト)http://sharescafe.net/42770251-20150108.html■話題沸騰「正社員制度をなくしたらどうなるか問題」を、ファイナンス論的に考えてみた。 (本田康博 証券アナリスト)http://sharescafe.net/42781228-20150108.html■一年で3回転職したアラフォー女子、年収倍増は幸運だけが理由じゃなかった。 (本田康博 証券アナリスト)http://sharescafe.net/42650114-20141230.html■借金返済のために風俗店で働く女子学生の問題が、本当は奨学金のせいではない明らかな理由。 (本田康博 証券アナリスト)http://sharescafe.net/42555365-20141225.html■まとめ・最近公表された「平成25年住宅・土地統計調査」確報値で、各地の空き家率の上昇傾向が確認されています。・東京23区は空き家率の高い賃貸物件の割合が高く、全体の空き家率を押し上げています。・都心三区で賃貸以外の空き家率が高い理由は、大勢の権利関係者がいる不動産開発が多いためです。・東京の空き家問題は、老朽化する集合住宅の建て替え問題と大きく係っています。・東京には東京の、地方には地方の空き家問題があり、効果的な対策が必要です。

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    外国人に爆買いされた賃貸マンション入居者が注意すること

    及川修平(司法書士) 中国経済の先行きの不透明感から今後どのような展開を見せるのかわかりませんが、不動産の業界において、日本の不動産が「爆買い」されています。 都心のタワーマンションなどが人気で爆買いされていると言われていますが、私の住んでいる福岡市内でも外国人が投資用のマンションを購入する例は多くなっているという印象があります。 なかには中古のマンションを購入していくケースもありますが、これは入居者側からみると、ある日突然オーナーチェンジとなり、大家さんが外国人に代わるということです。 このようなケースで何が問題となるでしょうか。契約書の書き換えは、契約内容の見直しであることが多い 日頃の業務の中で賃貸契約に関するトラブルの相談を受けることが多いのですが、賃貸物件のオーナーチェンジがあったということはよくあります。 オーナーチェンジとなると、ある日突然、新しい管理会社から「契約書を書き換える必要があるので新しい契約書にサインをしてください」と書類が送られてくることがあります。 これには要注意です。 それまでと同一内容であると安易に考えてサインをしてしまうと、実は契約内容が変更となっていた…というケースが多いからです。 家賃や共益費などの月々発生する費用について変更となっていないと気づきにくいかもしれませんが、実は契約の更新の際に更新料が発生するように変更となっていたり、退去する際に修繕費用の負担に関する部分についての契約条項が変更となっていたりする例もあります。 これが、後々トラブルに発展する…ということもよくあるのです。 契約書の更新のケースでは、新たな契約を締結するわけではないため、不動産仲介業者による重要事項説明がないことがほとんどで、契約内容の変更箇所に気付きにくいのですが、契約書の内容に変更箇所がないか、サインをする前にチェックをすることを忘れないでください。そもそも契約書の書き換えに応じる必要はあるか オーナーチェンジがあった場合、賃貸マンションの契約はどうなるでしょうか。 賃貸マンションの契約は、基本的に新しいオーナーに全て引き継がれます。新しいオーナーは、「以前のオーナーが締結した賃貸契約の付いたマンションを購入した」という取り扱いになるということです。 ですので、本来、契約書の書き換えも必要ありません。 また「契約の書き換えに応じない場合は契約の更新をしない」と言われたとしても、あわてる必要はありません。法律的には、正当な理由がなければ契約の更新をしないなどということはできません。この場合は、以前と同一条件で更新します(法定更新と言われます)。 入居者の立場として契約内容の変更が不利となる場合は、あわてて契約書の書き換えに応じてしまうのではなく、まずは変更点の確認を行い、それからしっかりとした協議をすることが大切です。入居者とのトラブルがより深刻になっていくことも入居者とのトラブルがより深刻になっていくことも 少し古いデータになりますが「民間賃貸住宅を巡る現状と課題(平成21年7月国土交通省住宅局)」という国土交通省が取りまとめた調査があります。そこでは、賃貸住宅に関する修繕計画について、過半数の大家さんが「長期的な修繕計画を作成していない」と回答しているという調査結果となっています。 つまり、既存の賃貸マンションについては、修繕計画に基づいて定期的な修繕を行うというよりも、不具合が出た時点で応急処置的に修繕を行うなどの方法がとられている物件が少なからずあるということです。 また先日国民生活センターから2014年度の消費生活相談の概要に関する資料が発表されていましたが、そこで賃貸借契約をめぐるトラブルの相談は全体の6位に位置されているほど、トラブルの多い分野でもあります。多くは退去時のリフォーム費用の清算をめぐるトラブルです。 外国人に向けて販売されている投資用マンションについて、収益性の算定をするにあたって、大規模修繕等を要する際の費用や個別の物件のリフォーム費用などをどの程度織り込んで算出しているかはわかりませんが、見通しが甘いとそれはやがて入居者とのトラブルに発展する可能性もあります。 例えば、物件の不具合があるにもかかわらず修繕がなされないといったものや退去時のリフォーム費用が過大に請求される…といったトラブルです。 オーナーが日本人であったとしてもトラブルが多いわけですから、これからは外国人オーナーとのトラブルも想定する必要があると思います。 外国人が不動産を爆買いする…というのは、ごく最近の例であって、問題が顕在化するのはこれからかもしれません。外国人に爆買いされた不動産をどのように管理されているのかということについては、今後の動向を注意深く見守っていく必要があります。【関連記事】■司法書士が教える賃貸住宅を退去するときの注意点http://oikawa-office.com/2015/02/20/post-1879/■「敷金返還がスムーズになる」ってホント?http://oikawa-office.com/2015/03/13/post-1892/■現役司法書士が教える「無料法律相談」を過信せずに利用する方法(及川修平 司法書士)http://sharescafe.net/43987078-20150327.html■賃貸住宅を退去するときは「裁判」を意識して書類にサインをする(及川修平 司法書士)http://sharescafe.net/42267839-20141206.html■裁判所で「とりあえず半分でどう?」と言われたらどうする?(及川修平 司法書士)http://sharescafe.net/43559042-20150227.html

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    7戸に1戸が空き家…空き家率が30%超えると町として成立せず

     総務省の「住宅・土地統計調査」(2013年)によれば、全国にある空き家は1958年から右肩上がりの約820万戸。空き家率は13.5%に達し、日本にある住宅の実に7戸に1戸が住人不在の空き家という計算だ。そんな中、「空家対策の推進に関する特別措置法」が適用され、神奈川県横須賀市では、全国初の取り壊しが10月26日に行われた。 空き家は今後も増え続け、野村総研の試算では、25年後の2040年には空き家率が40%以上に達するという。これを受けてテレビ、新聞などでは「空き家問題」という言葉がよく聞かれる。 空き家問題は現状どうなっているのだろうか。そして、将来的に空き家はどうなるのだろうか。空き家列島ニッポンの現在と未来を追った。 そもそも、国の定める「空き家」とは、「居住していないことが常態化」した家のこと。 国のガイドラインでは、1年間誰も居住してないことや電気・水道の使用がないことなどが空き家の目安となる。 前述のとおり、こうした空き家が全国で820万戸を超えるが、その半数はマンションやアパートなどの賃貸用物件で、借り手がおらず空き家になっているもの。より問題なのは、残り4割ほどの「その他」に分類される空き家だと住宅ジャーナリストの山本久美子さんが言う。「『その他』には、“管理されていない空き家”が含まれます。こうした空き家は急速に老朽化が進み、倒壊する恐れがある。空き家対策特措法に基づいて取り壊される木造住宅=2015年10月26日、神奈川県横須賀市 雑草や樹木が伸びて隣宅に侵入したり、ネズミが大量発生したり、臭気が発生するケースもあります。誰も住んでないからと敷地内に大量のゴミが捨てられたり、浮浪者や若者がたむろして犯罪の温床にもなります。 さらに怖いのは、空き家の火事。木造住宅の密集地帯で火事があると、周辺に被害が拡大します。雪国なら、降雪により空き家が倒壊する危険もあります」 実際、ある空き家では庭から伸びた枝木が電線に絡まってあわや火災になりそうになったり、庭が冷蔵庫やパソコンなどさまざまな不用品のゴミ捨て場と化したり、敷地内にヘビやハクビシンが住み着いたこともある。「ゴミ屋敷」ならば少なくとも住人にクレームをつけられるが、空き家では直接、苦情を言う相手がいない。近隣住民にとっては何とも困った話だ。 このまま空き家が増えるとご近所だけでなく、町全体に深刻な影響を与える、と指摘するのは不動産コンサルタントの長嶋修さんだ。「ドイツの研究によると、空き家率が30%を超えると人の住む町として成立しなくなります。人出や税収が減って、上下水道や電気供給など公共的なサービスの効率が悪くなり、治安が悪化して犯罪率が増えると予測されます」 空き家の連鎖が近隣住民を不安にし、ついには町全体を蝕むというのだ。そんな「有害」な空き家がなぜ、野放しになっているのか。『どうする? 親の家の空き家問題』(主婦の友社)の著者の大久保恭子さんは、「持ち主の意識の問題が大きい」と指摘する。「そもそも家を放置する持ち主には、“空き家を維持・管理しなくてはならない”という意識が低い。たとえ意識があっても、空き家から離れた場所に住んでいることが多く、こまめな維持管理が不可能であり、誰に頼めばいいのかもわからない。維持管理する費用がないことも空き家の放置につながります」 税制の問題も大きい。どれほどボロボロでも建物が建っていれば、固定資産税の課税額が更地の6分の1(200平方メートル超の土地は3分の1)になるという税制上の特例措置がある。誰も住んでいなくても、空き家のままにしておけば税金が安くなるため、手付かずで放置しておくのだ。 増大する一方の空き家リスクに、行政もついに重い腰を上げた。今年5月に施行された『空家等対策の推進に関する特別措置法』により、各市町村は倒壊の恐れや衛生上の問題などがある空き家を「特定空家」に指定し、立ち入り調査や持ち主への助言、勧告、命令などができるようになった。 また、空き家の所有者がわからない場合は、自治体が固定資産税などの個人情報を閲覧し、所有者を確認できるようになった。さらに、指導や勧告を無視していると、税制の特例措置を解除することにした。これにより、放置している空き家の固定資産税が一気に6倍になる可能性がある。 いずれも、持ち主に空き家の「適正な維持管理」を促すことが法の目的だ。しかし一方、ここまでしても従わない持ち主には、強制処分が下されることになる。「勧告や命令に従わないでいると、最終的に『行政代執行』という形で法的に行政が空き家を強制的に解体できるようになりました。初めてこの法律を適用した横須賀市のケースでは、固定資産税の情報等で空き家の所有者が特定できず、150万円の費用を市が負担しましたが、所有者が判明した場合は解体費用を所有者から徴収できることになっています」(山本さん) つまり、持ち主が空き家を放置し続けていると、税金が最大6倍にハネ上がり、家を解体された上、その費用も払わなければならないのだ。厳しい処置が取られることとなった空き家問題だが、多くの人が無関係ではいられないと大久保さんが指摘する。 「現在、50代以降の日本人の持ち家率は8割を超えます。これは50~60代の子供世代も、70才を超えるその親世代もともにマイホームを持っているということ。 すると、親が亡くなっても子供が親の家に住まず、必然的に空き家が生じてしまう。これが日本の現実です。“親の家をどうする?”は誰もが避けては通れない問題なのです」関連記事空き家が深刻な「幽霊マンション」建て替え成功は200棟だけマンションが抱える長期修繕問題 後から高額な請求が来る例もマンションの管理に住人以外を入れる「第三者管理方式」とはマンション管理から「コミュニティ形成」の項目が外される?銀座の世界初のカプセル型集合住宅 現在も入居希望者は多数

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    巨大な権力を握る管理組合理事長 「何年も同じ人」は要注意

    榊淳司(住宅ジャーナリスト) 先日、新潟県南魚沼市にあるリゾートマンションの管理組合前理事長が、管理費など総額11億円余りを着服していた疑いがあることが報道された。 私が知る限り、マンション管理組合の横領事件としては過去最高額だ。この理事長、約15年間もその職にあったという。本来の仕事は公認会計士というから、他の区分所有者もすっかり信用してしまったのだろう。 この事件があったマンションの規模は約550戸。管理組合が集める管理費や修繕積立金等の総額は、年間で3億円前後に達するはずだ。管理費の着服が発覚した大型リゾートマンション=新潟県南魚沼市 この物件はスキーリゾートに立地するが、都心や郊外でも500戸、1000戸規模のマンションは珍しくない。 その規模になると、管理組合に集まるお金は数億円規模。その使い道を決めるのは、管理組合の理事会だ。 管理組合の理事会とはマンション内の行政機関のようなもの。そこで行われることは、市町村の役所がやっている行政のミニ版だと考えるべきだ。ただし、その行政力が及ぶのはマンションの敷地内のみ。また、「管理規約」や各種「使用細則」というルールに縛られる。 あまり知られていないが、管理組合の理事長には巨大な権限がある。その理由は、管理組合の最終的な意思決定を行う総会の決議方法にある。 まず、総会に提案する議題を決めるのは理事会だ。理事会で意見を取りまとめるのが理事長。理事と理事長の意見が違った場合、実質的に理事長の承認なしには総会の議案は決められない。なぜなら、多くの総会では区分所有者の大半が「議長一任」の委任状を出す。総会で議長を務める理事長が、その権限を行使すればどんな議案でも否決することができる。 理事長の権限とは、行政組織の長である市区村長や知事が持っている巨大な権力に近い。そして、行政とはすなわち、予算の立案と執行だ。 500戸以上のマンションの理事長は、年間数億円にもなる管理組合収入の使い道を、実質的に独断で決めることができてしまう。理事は、いってみれば地方議員みたいなもの。理事会で意見を言えるが、予算案やその他の議案を提案しても、理事長に反対されると引き下がらざるを得ない。 多くの管理組合では、理事が輪番制になっている。しかし、やりたがらない人が多い。理事長はだいたいの場合、「理事による互選」で選ばれる。つまり、理事たちがお互いに押し付けあって決めているケースがほとんど。しかし、理事長にはかくも巨大な権力がある。そのことに、多くの人は気づかない。 理事長がその権力を悪用しようとすれば、かなりのことができる。また同じ人間が何年も理事長を続けると、大胆に悪用できる。今回の巨額横領事件がいい例だ。 分譲マンションの区分所有者であるなら、自分たちの管理組合の活動に目を光らせるべきだ。特に何年も同じ人間が理事長を続けている場合は要注意。「絶対権力は絶対的に腐敗する」という政治の法則が、利権化した管理組合にもあてはまるからだ。さかき・あつし 住宅ジャーナリスト。同志社大法学部および慶応大文学部卒。不動産の広告・販売戦略立案の現場に20年以上携わる(www.sakakiatsushi.com)。著書に「年収200万円からのマイホーム戦略」(WAVE出版)など。

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    赤ちゃんは迷惑ですか?

    ネット上でたびたび炎上する話題の一つに子育て論争がある。中でも「電車内でベビーカーをたたむべきか」というベビーカー論争は特に有名である。子育てへの理解が乏しいのか、それとも親のモラルの問題なのか。育児の在り方について考えてみたい。

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    ベビーカーマーク「若い母親甘やかし過ぎ」と年配女性が苦情

     国土交通省が「ベビーカーマーク」を公表し、電車やバスの中でベビーカーを折り畳まなくてもよいとしたことに、一部で反発の声があがっている。こうしたベビーカーに対する“批判の急先鋒”になっているのは、実は先輩ママ、つまり中高年のおばさんたちである。  折り畳み式ベビーカーが普及したのは約30年前から。それ以前に子育てをしていた60代前後のおばさま世代は、もっぱらおんぶや抱っこで外出していた。そのせいか、ベビーカーマークを公表した国交省への苦情も、年輩女性からのものが少なくないという。  「若い母親を甘やかし過ぎだという女性からのお叱りがほとんどです。“私たちの時代は苦労した”と子育ての大変さが滲み出ていました」(安心生活政策課)  ただ「抱っこしろ」という意見の裏には、「ベビーカーのおかげで出歩きやすくなり、子育て中といえども着飾っている若いママたちへのやっかみ」があるのではないかという、現役母親世代の意見もある。  乳児の予防接種で朝から混雑した電車に乗らざるを得なかったという40代会社員の母親は、こう反論する。 「首がすわり始めたばかりの乳児を抱えながら、ベビーカーを畳んで必死に乗り込んだ。片手にベビーカーを持ち、子供を抱え上げて踏ん張って立っているのに、前に座ったおばさんは知らん顔。さらには私のヒール靴を見て舌打ち。この後会社に行くから仕方ないのに、思いやりなんてありゃしない。こんな人たちに何だかんだといわれるのが腹立たしい」  派遣社員として働く30代の母親も頷く。 「この国は少子化だと騒ぎながら、子供を産むと本当に育てづらい。それに注意してくるのは、なぜか大体が女性。こちらは十分注意しているのに、“今のママは楽でいいこと。昔はこうだった、ああだった”って話ばかり。あんたの時代とは違うし、手伝ってくれる人もいなくて今だって十分大変なんだって、(喉元を指さして)ここまで出かかりましたよ(苦笑)」関連記事■ ママが階層化 ベビーカー置き場は高級海外ブランド優先で停車■ 電車急停車の危険考えると子供はベビーカーに乗せた方が安全■ オセロ松嶋 オランダ製10.5万円&日本製5万円ベビーカー購入■ 長谷川理恵 「ベビーカーでバギーラン」で炎上も擁護の声も■ ベビーカー邪魔者扱い 温度差の原因は世代間ギャップにあり

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    日本男性がベビーカーを手助けしない理由とは?

    田中 結 (プレスラボ) 駅構内の階段などで、子連れの母親が重そうにベビーカーを運ぶ姿を見たことがある人も多いだろう。そんなとき、あなたは母親に手を貸しますか? それとも見過ごしますか? ネット上で「ベビーカー問題」は炎上しがちなトピックだが、今回炎上してしまったのはビジネス系ウェブマガジン「PRESIDENT Online」が10月6日に公開した、「日本男子は、なぜベビーカー女子を助けないのか」というタイトルの記事。疑問についての回答を男性ライターと女性ライターがそれぞれ述べるという趣旨のコーナーだった。 このコーナーの女性ライターで、女性のライフスタイルやワーキングマザーの事情に詳しい佐藤留美さんは、「日本人男性がベビーカーを手助けしない理由は2つある」と説明。 「日本の男性が置かれた過酷な勤務状況が、その背景にあると思います。(中略)この忙しさでは、周囲の困った人に手をさしのべる余裕を失いがち」という理由と、友人のデンマーク人男性の言葉を借りつつ「積極的に女性を助けたりすると『アイツ、何、気取ってるんだ』とか思われる。それが嫌で、日本人男性は見て見ぬふりをしている」と分析した。 佐藤さんは、この問題の解決法として「日本の女性は、日本の男性に『すみません、ちょっと助けて貰えますか?』って言えばいい」と提案。そして、「日本人は基本的に優しいから、『助けてください』と言ってくる人を素通りすることはない」とし、潜在的には日本人男性もベビーカーの母親を助ける気質があると分析している。※以上(http://president.jp/articles/-/13601?page=3 )から引用 佐藤さんの回答には読者から批判などはそれほど寄せられていない。炎上してしまったのは、ビジネス誌などで執筆する男性ライターの大宮冬洋さんが語る意見。 まずは自身の行動として、「僕は37歳の日本人男性ですが、ベビーカーなどの重そうな荷物を持っている女性を駅構内で手助けすることはあります」と主張。「目の前で困っている人を助けないほど世間知らずではありません。情けは人のためならず、ですからね」。この行動については「ジェントルマン」とも呼べる行動ではないだろうか。 しかし彼は、この主張を「前置き」として次のような“意見”を語り、多くの批判を集めてしまった。 「ベビーカーは親のために開発された「便利な道具」に過ぎませんよね。(中略)当のベビーたちもあの「車」に乗りたいのでしょうか。親からの距離が遠くなって不安だろうし」 「僕には子どもがいないので実感はありませんが、ベビーカーで得をしているのは親たちだけでしょう。どんどん体重が増えて重くなる子どもを抱えずに済むし、密着もしないので夏場も汗ジミができにくい。ついでに子ども用品や自分の荷物も載せたり吊るしたり。」「ベビーカーは必需品とは言えない。だから、運搬を手助けしない日本男子を責めることはできない。この意見、どこか間違っているでしょうか?」※以上(http://president.jp/articles/-/13601?page=3 )から引用 子連れの母親たちからは主に「どこへ行くにも子どもをおぶって移動してみてから言ってほしい」という声、男性からも「電車も便利な乗り物だから、使わずに目的地まで歩いたらどうだ」「年老いたり病気になって、お前は必需品とは言えないと言われたらどう思うのか」といった声があがった。 この記事は10日現在、シェア、RTともに1万を超え、佐藤さんの記事の300リツイート、800シェアと比べると、いかに話題にされているかが分かる。とくに、「僕には子どもがいないので実感はありませんが」という立場からこういう意見が出てしまったことが、炎上につながったものと考えられる。 ネット上で炎上しやすい記事の特徴としてひとつ言えるのは、「立場が異なる人間が相手の事情に対して一方的に意見するもの」であること。事情を知らない人間からの「決めつけ」は「想像力に欠ける」と言われやすい危うさがある。 筆者は独身で子育てをした経験はないが、困っているベビーカーの母親がいたら積極的に手助けをしている。「ベビーカー女子を手助け」した立場から言うと、手助けする自分の労力はわずかなのに、手助けされた側は相当助かるので、手助けしない理由はこれっぽっちもないと思う。 実際、電車内でこんなことがあった。ある女性が、ベビーカーに乗せた幼児と3歳ぐらいの2人の子どもを連れて乗車していた。駅に着き、彼女が車両から降りようとベビーカーを下ろしている間に、子どもが車内の奥に走り出してしまったのだ。とっさに気づいた筆者は、その子を捕まえて一緒に駅に降りた。 もし誰かの助けがなければ、母親は駅のホームに幼児を乗せたベビーカーを置いて子どもを追いかけるわけにもいかないし、扉が閉まってしまえば車内に子どもが取り残されてしまう。想像しただけでもぞっとする。そんな事態を避けられる手助けができて、本当によかったという気持ちになった。 たしかに、男性が見知らぬ女性に「手助けしましょうか?」と声を掛けると、不審者だと思われたり、かっこつけていると思われる可能性もあるだろう。でも、もし男性が手助けをすれば、階段でベビーカーを運んでいる母親がベビーカーごと転落する可能性をかなり低くすることができる。男性が自分のリスクを低くするために手助けをしなかったとしても、目の前で親子が階段から転落する様子を見てしまったら相当後味が悪いはずだ。手助けしなくてもリスクはある。 相手が困っているなら助けましょうという意見ももちろんだが、ちょっとした自分の行動で、社会全体のリスクを下げられるならこんなに効率がいい話はない。それはベビーカー問題だけにとどまらない。 女性ライター佐藤さんの記事の中でも、「困っている人を助けるということは、困っている人の気持ちを想像することでもあります。自分と異なる境遇に置かれた人の立場を考えることは、周囲の人々に配慮しなければいけないのだという「コミットメント(責任)意識の形成」に繋がり、ひいては、少子化や高齢化といった社会問題を考えるといったキッカケにもなりうる」と述べられている。まさにその通りで、とてもいい意見だと筆者は感じた。 ネットの記事の中には、PVを獲得するためにわざと批判を狙う「炎上マーケティング」なるものもある。この大宮さんがそれを狙ったかどうかは分からないが、実際にこの記事はかなりのPVを稼いだのではないだろうか。そして、筆者が「いい記事」と感じた佐藤さんの記事はそれほどシェアをされていない。「この記事の意見に賛成だ」という読者よりも、「この記事に反論がある、もの申したい」と考える読者の方がネット上では活発なユーザーであるからだ。 PVやシェア数だけを指標にしてしまうと、偏った意見の記事、間違った意見の記事ばかりが目立ってしまうことになりかねない。「ベビーカー問題」のほかにも、炎上しやすいトピックを見かけたとき、炎上の影でひっそりと掲載された「いい記事」を見逃さないようにしたいと思う。

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    赤ちゃん連れも舌打ちおじさんも満員電車では同じ弱者

    おおたとしまさ(育児・教育ジャーナリスト)  あえて書く。 SNSを見ていると、電車の中で赤ちゃんが泣いたときに舌打ちをしたおじさんや、ベビーカーで電車に乗ってきた親子に対して露骨に嫌な顔を向けるOLについて非難する投稿を目にすることがある。それに対して、「ひどい!」「そういう人がいるから子育てのしにくい世の中になる」などという共感コメントがたくさん付いて盛り上がる。気持ちはわかる。でも、ちょっと落ち着いて考えてほしい。 泣いている赤ちゃんに舌打ちって行為はそりゃひどい。でも、そういうことがわからない人もいるのも事実。そういう人はそういうことがわからない世界に住んでいる人。こちらのいうことも正論だが、向こうには向こうの正論があるものだ。 相手に変わってもらおうと思っているうちは、何も変わらない。むしろ反発を招き、対立構造を強めてしまう可能性が高い。過去と他人は変えられない。お互いに相手の立場に立ってこそ、相互理解が可能になる。であれば自分から先に相手の立場に立ってあげることが理想ではないか。社会を本気で変えたいなら、そのほうが建設的だ。 「そういう心の狭い人が子育てしにくい世の中をつくる」という理屈は、一見正しいようで実は違う。心理カウンセリング的には、舌打ちをされて、「子育てがしにくい」と感じることを「選択」しているのは、実は誰でもない自分自身であると考える。舌打ちくらいされたって、こっちが気にしなきゃいいのだから。「あのおじさん、よほど嫌なことがあってやさぐれているんだろう、気の毒に……」くらいに思っておいてあげればいいのだ。 また、「子連れの大変さに対する想像力が足りない!」と非難する側にも、いささか想像力が欠ける部分がありはしないか。「どうしてそういうひどい仕打ちをするの!」と舌打ちおじさんを責めたくなったとき、「あの人はどうしてそういうひどい仕打ちをしてしまうんだろう?」という疑問型に置き直してみてはどうだろう(これは、いうことを聞かない子どもに困ってしまったときにも使えるテクニック)。もしかしたら、得意先で散々にいじめられてやさぐれているのかもしれないし、家のローンの返済が滞っていて大ピンチなのかもしれないし、突然リストラされてやけになっているのかもしれないし。もしかしたら、夫婦で不妊治療をしている最中でとてもつらい思いをしているのかもしれないし、奥さんに流産経験があるのかもしれないし、孫を亡くしたばかりなのかもしれない。 もっといえば、舌打ちという行為が悪いのであって、その人はそのほかの部分ではとってもいい人かもしれない。一部分だけをとらえてその人の人格を否定してはいけない。罪を憎んで人を憎まずというように。そんな舌打ちをするおじさんも、両親から祝福されて生まれ、赤ちゃんのころはみんなから「かわいい、かわいい」と言われたのだろうし、家に帰れば頼もしい優しいお父さんなのかもしれない。それなのに、たまたまそのとき、虫の居所が悪かっただけかもしれない。 私にも経験がある。父がクモ膜下出血で倒れたとき、一報を聞いて病院へ急行した。地下鉄に揺られていても気が気でない。普通に会話をし笑っている人たちに対して内心「こんなときに何ヘラヘラ笑ってんだよ」と思った。改札でもたもたしている人に対して「こんなときにもたもたしてんじゃねーよ」と内心思った。口には出さないだけで、心の中では悪態をつきまくっていた。こういうのを魔が差すというのでないかと思う。もちろん本心ではない。あまりに心がとげとげして視野が狭くなっていると、人は誰でもそういう「罪」を犯してしまう可能性があるのではないか。悪い状況が重なれば、誰だってそうなってしまう可能性はある。そんな状態を脱することができない自分に対する苛立ちを、赤の他人に転嫁しているとも考えられる。 不満いっぱいで毎朝満員電車に乗り込まなければならないおじさんの気持ちも似たようなものかもしれない。大変ながらも希望をもって子育てしている親よりも、彼らのほうが弱者なのかもしれない。だって実際、自ら命を絶ってしまうおじさんは多いのだから。だから人身事故で電車がしょっちゅう止まるのだから。目の前のおじさんも、それくらい追い込まれているのかもしれないのだ。大都会で暮らしていれば、1日に何百人、何千人という人々とすれ違うことになるのだから、赤ちゃんに舌打ちしたくなるほどやさぐれた人に出くわしても不思議ではない。弱者同士でお互いを削り合うのはやめよう。心の余裕をなくしている人の悲しい挑発に乗ってはいけない。 子育てとは、私的に見えて極めて公的な営みである。子どもは社会の宝であり、みんなで育てるべきものである(だからこそ、親がわが子を私物化することも許されないのだが)。赤ちゃんが泣くのは当たり前だし、そういうことを迷惑として切り捨てるのではなく、社会全体で受け止めていかなきゃいけない。堂々と子育てをすることは権利であるともいえる。もっと褒めてもらっていいことである。でも、権利は主張するものではなく、認め合うもの。人間がそれぞれに自分の権利を主張し始めたら、あっという間に戦争になるに違いない。みんながお互いの権利を認め合っているからこそ、社会が成り立っているのだ。そのことを忘れてはいけない。 誰だって、ため息をつくべきでないときにため息をついてしまったことがあるだろう。怒鳴るべきでないときに思わず怒鳴ってしまったことがあるだろう。特に子育て中の親ならそういうシーンの連続であるはずだ。つまり、立場が変わればお互い様だったりする。極論すれば、舌打ちしたくなるような散々な状況にある人が、つい舌打ちをしてしまう気持ちもちょっとは理解してあげなきゃいけない。きれい事に聞こえるというのであれば、心の中では「ざけんなよ!おやじ!」と思いつつ、すまなそうな顔だけしておけばいい。それが親としてのしたたかさ。 舌打ちされてムッとした顔で応じてしまえば、「だから最近の親はなってない」なんて自己正当化に利用されかねない。向こうの思うつぼだ。しかしこちらが丁重にしていれば、「あ、この親御さん、いい人だったんだ。舌打ちなんてみっともないまねしなきゃ良かった」と、もしかしたら内心反省してくれるかもしれない。私はそう信じたい。 似たようなことを、そういえば前にも書いたな。「新幹線で泣く子、舌打ち、ホリエモン」。その中から、今回の話とも通じるところだけ抜粋しておく。 <親のすべきこと>・「子どもは泣くもの」ではあるけれど、それを理解してもらえないことも多い現実は踏まえるべき。「そこのけそこのけ泣く子が通る」という開き直った態度では余計に敵を増やし、自らの居場所を狭めるだけ。心の中では「しょうがないじゃん!」と思いつつも、子どものためと思ってひと肌脱いで、舌打ちが聞こえてくる前に先手を打って、「すみません」とまわりに気をつかうそぶりだけでもするのが、できる親のしたたかさ。・もし舌打ちされてしまっても、「あの人はたまたま今日嫌なことでもあったのだろう」と思い、気にしないようにする。・子どもが怖がったり、傷ついていたりするようなら、ちょっと場所を移動して、「大丈夫だよ。あの人、きっと今日嫌なことがあって、ご機嫌斜めなんだよ。気の毒だね」とかなんとか笑いとばしてあげればいい。そこで親も怒ってしまうと子どもはますます不安になる。 <まわりのひとたちがすべきこと>←ここ重要!少しでも気持ちに余裕があるならば、「大丈夫ですよ!気にしないでね!」という想いを込めてにこりとほほえみかけたり、子どもにいないいないばあをしてあげたりすると、それだけで場が和む。万が一近くにイラついている乗客がいても、その人の気持ちも多少は和らぐ。もしくは多勢に無勢と感じれば舌打ちできなくなる。そうやってまわりの大人の力で、親子を守ってあげてほしい。こういうことがとっさにできる人が増えると、社会全体が少しずつおおらかになっていくのだと思う。 ※ただし、舌打ちでは終わらず、声を荒げて親子を威嚇したり、暴力を振るいそうになったりするのなら話は別。周りの良識ある大人が毅然とした態度で守ってあげないといけない。  「みんなで声を上げて舌打ちおやじを社会から追放しよう!おー!」なんて、親サイドにとって都合のいいことを威勢良く書いておいたほうが、世知辛い世の中でストレスをため込んでいるたくさんの親から支持を得て、たくさんの「いいね!」がもらえるのだと思うし、実際そういう記事を結構見かけるけど、それって実は同じ立場にいる人たちだけで自分たちの正当性を確認し合っているだけ。産後クライシスを「夫のせい」として盛り上げるキャンペーンも同様だった。そうやっているうちは、隣の国の国民をdisって、「そうだそうだ!」と付和雷同している輩とさほど変わらない。結局は反対勢力との対立構造を強めることになりかねない。本当の意味で社会のためになることではない。だからあえて書いた。こういうところで「嘘も方便」ができない私……。

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    なぜ?海外ママが「日本の子育ては海外より10倍辛い」と語る理由

    マダム・リリー  海外で子育てをする海外在住日本人ママが口を揃えて言うことがある。それは、「日本に比べたら海外での子育ては本当に楽」、「日本で子育てしている友人と話すと、海外での子育てがいかに楽かがわかる」というものだ。 平成21年の内閣府政策統括官によって行われた、海外での子育て経験のあるパパ・ママ100人インタビュー調査によると、海外子育て経験者の多くが、日本に比べて海外では「赤ちゃんや子連れに優しい社会」であると実感している。 私自身はまだ子どもがいないので、実際に海外の子育てと日本の子育ての違いを比べられるわけではないが、子どもがいないからこそ社会をよりニュートラルに見つめられると思う。そんな母親でもない私から見てもやっぱり日本は「子育てがしにくい国」だと思うし、それでも立派に日本で子育てをしているママたちを尊敬する。 しかしなぜ、海外在住ママたちはこうも申し合わせたように海外は「子連れに優しい社会」だと言うのか。日本との違いとは何だろうか。  先ほどの調査結果によると、海外で子育て経験のある親は外出時における周囲の人による移動手伝い、妊婦や赤ちゃんへの「声掛け」や「温かいまなざし」などであり、その結果、「子育てが楽しい」と感じているという。日本と海外の子育て環境を比較した場合、もっとも大きな違いは「子連れや妊婦に対する社会の温かいまなざし」の有無であり、それらが具体的な行動を伴っていることである。 そんな日本と海外の子育てを取り巻く社会の違いを如実に表しているのが、ベビーカー利用に関するルールである。 日本では国土交通省が、鉄道やバスでのベビーカー利用に関するルールの全国統一化に乗り出した。混雑時は折りたたむことを求めるなど、ルールが曖昧なままで、ベビーカー利用者と周囲とのトラブルになるケースも少なくなかったそうだ。電車やバスにベビーカーを広げたまま乗車するママに対する批判の声も多い。 「畳むべきだ」「我慢が足りない」「子育ては優先と勘違いしている」といったことで、「荷物をベビーカーに置いて広げたままは非常識」(46歳女性)、「ママ友3人が車内でベビーカーを広げたままで通路を塞いでいた」(39歳女性)といった声だ。 確かにこれらの意見もわからなくはない。私自身、混雑時に場所をとるベビーカーを邪魔に感じてしまうこともある。ただ、海外の場合はこういった論争は存在しない。ベビーカーを電車やバスに乗せることは赤ちゃんを持つ親の権利として認められているので、肩身の狭い思いをすることはないという。 フランスでもベビーカーを電車やバスに乗車させようとしている人がいる場合、誰彼ともなく、頼まれたわけでもない周りの人がベビーカーを持ち上げて手伝ってくれる。赤ちゃんを抱っこしたママがバスに乗車すると、全くの赤の他人が「ほら、あなたはこっちに座りなさい」と手招きされ、席を確保してくれることもある。赤ちゃんを連れたママに席を譲ってあげるのは当たり前で、席を譲るのは子どもが生まれる前の妊娠中から始まるそうだ。 他にもママには嬉しい待遇がある。病院や市役所など待ち時間が長い場所では、赤ちゃんを連れた人は優先番号を貰うことができ、普通の人に比べて待ち時間が少ない。ママと子どもはその場にいる単なる「2人」という単位ではなく、確実に別待遇。もちろん時と場合により程度の違いはあるが、混雑しているバスの中でも一人子ども連れのママがいるだけで何となくその場があたたかく和む。赤の他人同士の「助け合い」を目にするたびに、私の心はいつもホッとあたたかくなる。  ここでいくつかの疑問が浮かぶ。日本を訪れた外国人は「日本人はとても親切だった」と褒め称えるのに、なぜその日本人はこんなにも子連れに冷たいのだろうか。少子化で子どもが少ない今だからこそ、子どもを大切にしようと暖かく見守る社会ができあがってもおかしくないはずなのに、なぜ日本の子ども連れは邪魔者扱いされてしまうのだろうか。 核家族化の進行や若者の恋愛離れによる家族観の崩壊など様々な理由が考えられるが、一つには日本社会が「他人に不都合を与える人」に対して異様に厳しい社会だからではないかと思う。相手の迷惑になりたくないから、子連れであろうとなかろうと関係のない人には話しかけない。母親のほうは泣きだす子どもを連れていることがまるで何かの罪のような、肩身の狭い思いを強いられてしまう。 しかし、人間社会と言うのはそもそも互いに「不都合」をかけあって構成されているものではないだろうか。誰にも迷惑をかけずに生きていくことはできないし、満員電車に乗ったベビーカーを煙たがっている人だって、どこかで誰かに不都合を与えているものだ。揺れる車内のなかで子どもと大きな荷物を抱えて立っていることがどれだけ大変なことなのかは誰の目から見ても明白だと思う。それなら、そんなママたちよりも身軽な人がちょっと不都合を被ってあげればいい。それを「助け合い」と呼ぶのではないだろうか。 「困った時には助け合う」こんな当たり前のことが当たり前にできる社会で生きるほうが、どんなに人は幸せになれるだろう。 パリの地下鉄に赤ちゃんを連れたママが、周りの人に笑顔で「メルシー(ありがとう)」と言っている光景を目にするたびしみじみ思う。(マダム・リリー)

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    誰のための「親」なのか ―泣きわめく赤ちゃんと大人たち

     10年ほど前、ある有名な脚本家が手がけたドラマで二枚目俳優が演じる少年鑑別所職員が、自分の娘を虐待した彼氏を庇う母親に「子供を産んだら女捨てろよ!」と一喝するシーンがありました。多くの視聴者はこのセリフにうなづいたのかもしれません。すくなくとも脚本家はそれを意図したのだろうと思います。 唐突にテレビドラマの話をしましたが、今回は赤ちゃんをめぐるトラブルの話です。といっても、親権やDNA鑑定ではなく、「泣き声がうるさい」とか「ベビーカーが邪魔だ」等よくある日常のお話です。そして冒頭のように「自我を捨てることが親になることなのか?」ということを、出産も子育てもしていない私が自分のモノサシで語ります。 私自身、正直に言えば飛行機や特急電車の中で延々と赤ちゃんに泣かれるのは生理的には不快です。電車の扉が開いて入り口にベビーカーが見えると、瞬間的には「面倒くさいなー」と感じます。しかしそれが果たして迷惑なのかというと即座にイエスではないのです。 そもそも迷惑というのは社会的な話です。ここでつまづいてる人が結構多いと思うのですが、生理的に自分が不快なだけで即座に迷惑だとは言えないのです。迷惑とは基本的にやらなくていいことをあえてやることで、他人に不快感や不利益を与えることです。赤ちゃんが泣くのは一般的に周囲にとって快感ではないですが、泣かない赤ちゃんが模範的な赤ちゃんとは限りません。 そこで結局問題になるのはその親のほうです。「親が子供を連れて外出しなければいい。結局は親のエゴだ」という意見もよく聞きます。ベビーカーも往来の邪魔だから抱っこして歩けばいい。むしろ子育てだから家から出なくていいだろう。親たる者は子供と社会のために身を捧げて生きよ。と。特に母親は「献身と自己犠牲の多さでその愛情を試されるもの」だと暗黙のうちに了解されている気がするのです。自分の楽しみや快適さをどこまで我が子のために捨てられるか、そういった態度で社会をどれだけ安心させられるか。他人は減点法でクールかつ無責任に採点しています。 そして冒頭のドラマのように、肥大した社会正義は「母親は女(自分)を捨てろ!」と大声で主張します。言ったほうは気持ちいいでしょうが、これでは子育てなんて苦痛でしかないと思われても仕方ないし、少子化対策に税金投入したところで意味はないでしょう。だいたい、親が自我や性を捨てたところでその子供にとってよい親になるのかどうか、それは社会が一元的に決めることではないと思うのです。献身的な親の姿を見て満足し、さもなければ一方的に罰を与える側に立って安心するのは誰なのかといえば、とっくに大人になった人達です。 私は公共の場で赤ちゃんに泣かれるのは好きではありません。ベビーカーも混雑状況によっては「邪魔だなー」と心の中では思ったりします。しかし、自分が生理的に不快なことと社会的に迷惑であることをイコールとは考えません。「子供を泣きやますことができない親は、もっと申し訳なさそうに生きるべきだ。」とは思いません。ではこの不快感をどう処理するのかといえば、今回はお互いにタイミングが悪かったのだと思うことにしています。根本的な解決にはなりませんが、そもそも最初からここには明白な悪者などいないのです。

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    「女性が輝く日本!」で本当に輝くか

    安倍政権が成長戦略の柱として掲げる女性の社会進出。秋の臨時国会には、管理職など指導的地位を占める女性の割合を2020年までに3割にすることを盛り込んだ「女性活躍法案」が再び審議される見通しだ。

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    いずれ行き詰まる大都市

    河合雅司・産経新聞論説委員 日本の少子高齢化は世界最高水準にある。総務省が公表した国勢調査の速報値によると、総人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)は23・1%。約4人に1人が高齢者だ。15歳未満はわずか13・2%である。 少子高齢化は全国一律に進むわけではない。都道府県別の高齢化率は秋田県が30・2%でトップ。島根県29・2%、山形県28・9%が続く。一方、東京、神奈川、埼玉、千葉の首都圏1都3県は20・4~21・0%。大阪府や愛知県も全国平均を大きく下回る。 ただ、高齢化率だけで「地方で進んでいる」というわけにはいかない。高齢者の増加幅に目を移すと、全く異なる結果が表れるからだ。 平成17年の国勢調査からの5年間で、最も高齢者が増えたのは神奈川県の34万9千人だ。東京都32万3千人、大阪府31万9千人、埼玉県31万5千人と、巨大都市圏の都府県が上位に並ぶ。最少は徳島県で6300人。高知、鳥取、島根各県も7千人程度増えたにすぎない。高齢者は大都市部で激増しているのである。 国立社会保障・人口問題研究所の推計では、2035(平成47)年に東京都は389万5千人で、現在の1・5倍。神奈川県は約90万人増え271万8千人になる。埼玉県約65万人、愛知県約60万人、大阪府は約50万人増える。これに対し、高齢化率の上位3県は、秋田県の2035年は32万1千人で、現在の32万7千人を下回る。島根、山形両県も微減だ。少子高齢化は今後、大都市部で深刻な問題となるのだ。 なぜ、大都市部で高齢者が大幅に増えるのか。現状において若い世代が多いことが理由だ。若い人の多さは、言い換えれば“高齢者予備軍”の多さである。団塊世代が高齢化し増加数が目立ってきたのだ。 大都市部は地方から若者を集めることで出生率の低さを穴埋めし、街としての「若さ」を保ってきたが、皮肉にも、そのことが急速な高齢化を呼び起こすのである。 一方、すでに高齢化が進んだ地方の県においては、亡くなる高齢者も多い。新たに高齢者になる人数と死亡者の人数が同水準であれば、高齢者数は増えないのである。 大都市部では少子化も加速する。今後は地方の若者が激減するためだ。地方の若者を集め「若さ」を保つ“マジック”は使えなくなる。 少子高齢化のスピードが速ければ社会は激変にさらされる。例えば、高齢者が激増すれば社会保障費も急増する。高齢者が暮らしやすい街づくりも求められるだろう。しかし、大都市部の多くは若者中心の街づくりを進めてきた。大幅なつくり替えとなれば莫大(ばくだい)なコストがかかる。 ところが、大都市部では総人口は急速には減らないため、既存の行政コストの大幅削減は難しい。しかも納税者である現役世代が激減する。これでは、高齢者向け政策を展開しようにも財源が確保できない。 財源問題を解決するには、税金や社会保険料のアップ、行政サービスのカット、あるいはその両方の実施が求められる。しかし、高齢者は長期的に増えるのだから一度実施するだけでは済まない。大都市部に住み続ける限り、負担増とサービス低下が繰り返されることになる。 少子高齢化問題への対応に追われ続けるということは、それ以外の行政分野に財源を回すことも困難になるということだ。それでは街としての魅力を失う。やがて多くの人が、住みやすい地方を求めて移動することにもなろう。これは、従来の日本の社会構造や日本人の価値観までをも覆す大きな変化へとつながる。 例えば経済システムだ。これまで大都市部に人口集中させることで生産性を上げてきたが、若い労働力が不足するのだから、こうしたビジネスモデルは通用しなくなる。 少子高齢時代においては、経済規模で競うのではなく、キラリと光る技術力やブランド力をもった分野を数多く作り世界に発信していく。日本勝ち残りのヒントは、高齢者の増加が頭打ちになる「地方」に眠っているかもしれない。

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    出生率・出生数の大幅な上昇実現こそが日本を救う

    小田垣祥一郎(おだがき・しょういちろう) 元・東北管区警察局長 筆者は2003月1月号の「Voice」誌上に「少子化は国を滅ぼす」という一文を筆名で寄稿した者である。誠に残念ながら、その後の約10年間もわが国は少子化克服に向けた真正面からの取組みを避け、及び腰の姿勢に終始した。今日、わが国の人口問題を巡る危機的状況は一段と厳しいものとなってきている。 先般、政府の経済財政諮問会議下の「選択する未来」委員会が国を挙げて抜本的対策をとるため「50年後に人口1億人程度を維持する」との目標を提示する提言をまとめたことが報じられた。人口問題の解決に向け、ようやく大きな一歩を踏み出したものとして評価したい。 しかしながら、その実現のための具体的な諸施策の構築はまさにこれからである。これを契機に少子化に伴うわが国人口問題の抜本的解決に向け、真正面から取り組む気運が全国的に一段と盛り上がっていくことを期待したい。 危機的状況が深刻さを増す日本の人口動態 厚生労働省発表の「将来推計人口」統計等が示すように、わが国の人口動態は一段と加速する少子化、高齢化、人口減によって、ますます危機的状況を呈しつつある。その点に関し、昨今海外では先年の雑誌『The Economist』の日本特集はじめ、随所で厳しい指摘がなされている。 また、中・長期的観点から日本経済の今後に関し、投資関連エコノミストですらずばり人口問題に言及し出している。たとえば、安倍内閣発足直後の2013年1月時点で「人口減が続く日本で潜在的成長力を高めるのは構造的に難しい」(アンドリュウ・ローズ/英シュローダー)、「人口減少を止めること以外に新政権に期待することはない」(ジェイ・タルボット/フィデリテイ投信)。また、シンガポールに拠点を置く世界的投資家ジム・ロジャース氏は日本の課題の一つとして「子供の数を増やすこと」、日本経済の活性化対策は「少子化対策につきる」と述べている。 それに引き換え、わが国内の論調は、いまだ出生率・出生数の上昇策について真正面から論じるものがほとんど見当たらない。 連日、少子化対策の最重点施策となっている待機児童解消施策関連記事が紙面を賑わす一方で、介護・医療施設の拡充等高齢者対策としての社会保障制度のいっそうの整備充実が強調される日々である。また、経済面では、女性・高齢者の社会進出、縮む国内市場との関連で企業の海外展開、最近の景気回復を反映し海外からの人材受入れを論じるものが大半である。さらにこのところ、人口減少社会の制度設計といった観点から、「高齢者」の定義見直しや超高齢化に備えた都市機能の再編といった議論が活発になってきている。 少子化、人口減少社会への対応策の一環としても、「女性・高齢者の活用、海外からの人材受入れ、生産性の向上による対処を」といった主張が盛んである。最近行なわれているいわゆる少子化の持続に伴う「負」の部分・「人口オーナス」論議でも、その対策として、社会保障制度の持続性の確保・信頼度の回復、海外からの人材受入れ、女性・高齢者の労働市場への参入といったことを論じるものがほとんどである。 国民から信頼される社会保障制度を構築することはぜひとも必要なことであり、重要な政策課題である。女性・高齢者の社会進出もそのこと自体、大変重要かつ有意義な今日的課題である。しかし、こうした対策は、少子化の長期に亘る持続により国勢の衰退を招く“日本病”にとってはあくまで対症療法にとどまるものであり、過渡的、部分的な激変緩和効果を有するに過ぎない。 また、景気浮揚の中、建設現場などでの人手不足を反映し、再び海外からの人材受入れ論議が盛んである。それとも関連し、少子化、人口減少社会への対応策として「日本型移民政策」など移民受け入れ論も活発になってきている。 しかし、移民・海外からの人材受入れは、わが国の人口規模の大きさからいって、一時的、部分的効果はあっても、少子化の持続に伴うわが国の人口問題の抜本的解決策となり得るものではなく、安易な期待を持つことは禁物である。さらに、ある程度以上の大規模な移民受け入れは、国の姿を大きく変えることになり政治的、社会的に許容できないものとなる。この点は、ヨーロッパでの事例、最近の東アジア情勢に鑑みてもとくに留意すべきである。 危機的状況を呈しつつあるわが国の人口動態の現状に鑑みるとき、わが国においてなされている、それに関わる論議の大半がいまだ待機児童解消対策や対症療法的観点からの議論に終始しているのは問題であろう。そこには、残念ながら、わが国の未来を担う新しい世代人口の増加策を真正面から論じるものはほとんど見当たらない。 また、“日本病”を根本的に治療するため、出生率・出生数を上げることによって、少子化傾向を克服し、日本国の体質の抜本的改善を図るという取組み姿勢がまったく見えてこない。むしろ、避けている感さえある。 こうした状況は、わが国の国家としての危機管理能力、対処能力に重大な疑問符を投げかけるものである。少子化を克服し、わが国の人口問題を解決するには、長期の期間を要するとともにまさに時間との競争である。国の「今」及び「未来」に責任を有する現世代が、直面するこの国家的危機への対処を誤るようなことになれば、それは後世に取り返しのつかない大きな禍根をもたらすことになりかねない。 もし、実際に日本の人口動態が「将来推計人口」(2012年1月発表)が示すような推移を辿ることになれば、2060年から先の日本はさらに人口減少が加速し、適正な人口規模を維持することは至難のことになるだろう。現在でも、65歳以上の人が3割以上を占める過疎地での生活の厳しさがしばしば報道され、我々は超高齢社会とはどのようなものか、およその見当はつく。わが国がいまから50年後に国民の4割、5人に2人が65歳以上という超高齢社会を本当に迎えるということになれば、日本国民はそこに至るまで暗い見通しの下、激変の苦痛に耐えつつ衰退の道を歩み続けることになるであろう。後世の各世代にどのような申し開きをするのだろうか。 そうした流れ、推移をそのまま「是」、「既定の流れ」とすることは、まさに日本国が座して死を待つ「ゆで蛙」になりかねないということではないか。 この危機に対処するにあたって、希望的観測に甘え、危機に背を向け続けるのか、あるいは真正面から向き合い、国勢の衰退に歯止めをかけ、反転に転じ、流れを変え、そのような事態に立ち至ることのないよう、原因療法による抜本的解決策をとり誤りなきを期すのか。われわれ自身の危機管理能力、対処能力が、いま、まさに問われている。 1994年にエンゼルプラン(今後の子育て支援のための施策の基本方向について)が策定され、わが国の少子化対策がスタートしてすでに20年になる。それ以来、実施されてきた諸施策は、個別の施策としては、それぞれ一定の成果をあげつつある。また、その間、民間レベルでも少子化問題について関心が高まり、多くの提言、アピール等が出され、シンポジュウムやキャンペーンはじめ各種の企画が打ち出されてきた。 しかし、少子化問題の核心たる「出生率」は過去最低の「1.26」となった2005年までほぼ一貫して低下の一途をたどった中、2012年には「1.41」となったものの、ここ十数年は「1.3台」で低迷を続け、顕著な改善、上昇の兆しはまったく見えない。この厳しい現実は、少子化対策の最重点施策として全国的に展開されている待機児童解消対策も含め、これまでのような取組みだけでは、事態の顕著かつ速やかな改善はもはや望めないことを示している。 これまでのわが国の少子化対策は、待機児童解消対策としての保育関連施設の拡充や育児休暇取得促進など「仕事と子育て両立支援」を大きな柱とするものであり、子育てにやさしい環境整備に重点が置かれてきた。それは「出生率の上昇」についての真正面からの取組みを避け、目標管理なきままの個別施策の逐次投入であったといえる。その背景の一つとして、わが国では、結婚や出産は個人の人権や自由に関わる問題ということで、政官民とも少子化対策に対する取組み姿勢にずっと及び腰の面があったことが影響していることは否めない。戦前戦中の「産めよ殖やせよ」への慮りも影響しているとの指摘もある。国民全体の取り組み姿勢にかかっている わが国の少子化を巡る状況は、危機の程度がうんと軽いうちに上昇トレンドに持ち込んだフランスに比べ、はるかに厳しいものになっている。 フランスでは、合計特殊出生率は、1975年に人口静止水準「2.08」を下回った後、1993年、1994年の「1.65」を底として上昇に転じた。12年後の2006年には、合計特殊出生率は、「2.005」と「2台」を回復し、その後もおおむね「2台」を維持している。フランスは少子化に伴う人口問題の解決については、ほぼ目途がついた状況である。 これに対し、わが国の人口ピラミッドは、長期にわたり持続する少子化とハイスピードで進行する高齢化によって、世界の中でも群を抜いて不健全なものになりつつある。わが国の現状はもはや「1.3台」、「1.4台」の出生率を巡って、コンマ以下の数字のアップアンドダウンに一喜一憂しているような状況ではない。 少子化の持続に伴う「負」の連鎖を断ち切り、少子化に伴う人口問題を解決するためには、フランスのとった諸施策を踏襲するだけでは不十分である。それ以上の思い切った画期的な諸施策を、短・中期集中して講じる必要がある。いつまでも希望的観測に依拠するのではなく、いまこそ発想の転換をし、真正面からの抜本的解決策を打ち出すべきである。 わが国の少子化に伴う人口問題を抜本的に解決することを可能にするものは、原因療法となる「出生率・出生数の大幅な上昇」実現であり、それのみである。換言すれば、「出生率・出生数の大幅な上昇」の実現こそが日本を救う。この自明の理をすべての国民は愚直に肝に銘じるべきである。そして、「出生率・出生数の大幅な上昇」実現により、わが国の将来に明るい展望を切り開くことが可能になることを指し示すグランドデザイン(国家戦略)を掲げるときである。 その成否は国全体、国民全体の取組み姿勢、やる気いかんにかかっている。この国のリーダーには、「難問ではあるものの必ず解決できる」ものとして、その実現に向け大きく動き出す気運を国全体に醸成していくことが求められている。われわれは、そんなことは無理難題であるとする悲観論、少子化は先進諸国の大きな流れであり、それに逆らうことは出来ないとする諦観論、このままの状況が続いても女性・高齢者の社会進出、移民や海外からの人材受入れなどで何とかなるだろうといった誤った楽観論に惑わされることがあってはならない。 「為せば成る、成さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなり」 。 上杉鷹山公のこの言葉に思いを致し、政官民ともに立ち上がるときである。 グランドデザイン(国家戦略目標)の構築を 時間との競争が最重要ファクターとなり、待ったなしのこの危機に対処するため、「出生率・出生数の大幅な上昇」の実現を柱とする、少子化に伴う人口問題の抜本的な解決策を指し示すグランドデザイン(国家戦略目標)を構築する必要がある。それによって、国民に国の将来についての明るい展望を提示し、国民が希望と自信を持ってその方向に立ち向かう気運を醸成しなければならない。以下に私案を示す。 まず、グランドデザイン(国家戦略目標)の構築にあたって必要なことは、シミュレーション事例による分析を最大限活用し、出生率・出生数の大幅な上昇を実現できれば少子化に伴うわが国の人口問題を抜本的に解決することが可能になる道筋を示す。 それによって、国民の国の将来に対する不安感、悲観的な見方を払拭し、わが国の将来について、末永く平和かつ安全で、安定し繁栄する国家であり続けることが可能になるとの明るい展望を指し示す内容が盛り込まれることが大切である。 次に、具体的な諸施策は、子育て世代の要望、ニーズを吸い上げるなどしつつ、叡智を結集して策定されるべきものであるが、以下の事項が包含されることが望ましい。<位置付け> 少子化に伴うわが国の人口問題は、わが国の中・長期的観点からする最大の国家的危機管理問題であり、その解決は喫緊の最重要、最優先政策課題として位置付ける。<政策目標の設定> 将来のわが国の総人口の適正規模を模索する中で、まずは、危機的状況にあるわが国の少子化状況を踏まえ、人口動態の激変緩和に努めつつ、少子化に伴う「負」の人口問題を解決し、わが国が末永く平和かつ安全で、安定し豊かで将来に明るい展望が持てる最先進の長寿国として、世界の模範になることをめざす。 少子化対策の最終目標数値(出生率着地点)は、わが国の総人口の適正規模レベルで、人口静止水準である「2.08」とする。 途中段階では、人口動態の激変緩和を図る観点からも、適宜参考目標数値(例:出生率―「2.08」以上の数値を含む、出生数―2割、3割、4割増)を掲げ、政策目標の達成に資する。 政策目標の達成に向けては、諸施策の有効性をきめ細かく点検、評価し、目標達成に効果があると考えられる新しい施策等については、タイミングを失することなく打ち出していくこととする。<「子ども・家庭省」の設置> 縦割り行政の弊を是正し、「子育て・家庭支援」を一元的に担当する組織として、「子ども・家庭省」を設置する。その場合、専任の「子ども・家庭大臣」が少子化対策の政策目標、数値目標の達成について、真の司令塔的役割を果たすことができるように組織や権限の整備を図る。<出産・子育て家庭に対する経済的支援> これについては、以下に挙げる取り組みを行なう。脱少子化へ向けて、社会全体の流れが変わるまでGNPの相当部分を投入する必要があろう。 (1)高齢化社会対策偏重から出産・子育て重視へのウエイトシフトを一段と推進し、より均衡のとれた社会保障制度とする。 (2)出産・子育て家庭に対する経済的支援をするにあたっては、「手当」と「控除等税制上の優遇措置」の両面から支援することにより、出産・子育て家庭に対する経済的支援の徹底振りが一目瞭然となるように配意する。その場合、第2子、とくに第3子以降にメリハリの効いた優遇格差を設ける。さらに大家族優遇制度を整備する。(例:子供の数に応じた税制上の「子ども控除」)。また、公平上の観点から、いわゆるフリーライダーと出産・子育て家庭とのあいだで思い切った税制上の負担是正を図る。 (3)企業社会といわれる今日、企業(団体)の出産・子育て家庭に対する取組み姿勢は、少子化克服の成否に大きく影響する。企業(団体)が出産・子育て支援のための各種取組みを一層実施し易くなるように、国・地方自治体は可能なかぎり税制上等の優遇措置を講じる。とりわけ、「本給一本建」の給与体系から「出産・子育て支援重視」の給与体系への転換が促進されるよう配意する。 (4)子育て環境の整備については、これまで講じられてきた諸施策を踏まえ、待機児童解消や育児休暇取得促進、子育て一段落後の社会・職場復帰促進のための施策等の一層の充実を図る。広報活動にも力を入れるべき こうした諸々の施策に加え、国を挙げて抜本的な少子化対策を講じる必要があることについて全国民のコンセンサスを得るべく、さらなる全国的な広報・啓発活動を展開すべきである。 多くの国民にとっては、日々の生活の中で実感しにくいこともあり、少子化問題が抱える危機的状況の深刻さについての自覚度、危機意識の共有度はいまだ不十分と言わざるを得ない。 たとえば、内閣府の調査結果(2009年12月5日発表)によれば、「結婚しても必ずしも子どもを持つ必要はない」と考える人は、男性が38.7%、女性が46.5%、全体では42.8%となり、その2年前の調査に比し、6%増で過去最高であった(年齢別では、20歳代46.5%、30歳代が59%)。 広報・啓発活動を展開するにあたっては、今日の日本の少子化を巡る状況は、それがたんなる人口減少社会の到来といったことではなく、スノーボールが急坂を転がり落ちていくがごとく、人口減少を制止、コントロールすることが時々刻々難しくなってきている。そういう危機的状況にあることを、わかりやすく説明することにとくに意を用いる。 同時に出生率・出生数の大幅な上昇の実現に向けて、国民の理解を得、意欲を引き出すべく、プラスの仮定数字を使った複数のシミュレーション事例を活用した広報・啓発活動を大々的に展開する。たとえば、もし、出生率・出生数の大幅な上昇が実現したならば、年金・医療等の社会保障の分野での財政見通しの改善、経済分野での国内消費市場の拡大・労働力不足の緩和はじめ各分野で好循環が始まり、明るく、活力あるわが国の未来像を描くことが可能になることを具体的数字によって、わかりやすく説明する。 それによって、前向き志向の政策論議を活発に展開する機会を国民に提供し、少子化に伴う人口問題の抜本的解決にためには、出生率・出生数の大幅な上昇を実現することが必須であり、最も確実な解決策であることをすべての国民があらためて自覚し、その実現に向け、一丸となって動き出す気運の醸成を図る。 「出会い・縁結び支援」の美風復活キャンペーンを推進せよ 晩婚化の進展と未婚率の上昇に歯止めをかけ、少子化問題克服の重要な決め手の1つである結婚率の上昇を図るため、家族・親戚・知人間、地域・職場等における「出会い・縁結び支援」の美風復活に向けた各種キャンペーンを国、地方自治体が率先して推進する。それに応じ、企業(団体)等民間レベルにおいても「出会い・縁結び支援」の美風復活に向けた取組みを積極的に展開することが望まれる。 自由恋愛の時代と言われる今日ではあるが、晩婚化のいっそうの進展、未婚率のさらなる上昇が少子化克服への大きな障害となりつつある。民間営利企業、NPO法人、地方自治体等による婚活活動が年々盛んになってきているが、いまだ流れを変えるまでの成果は得られていない。 かってそうであったように、各人が積極的に縁結びの神様役になろう。そういう気運が社会全体に出てくれば、経費・予算やプライバシー保護の問題に、より煩わされず、「出会い・縁結び支援」を広範に行なうことが可能になる。 「出会い・縁結び支援」の美風が社会全体に復活することによって、少子化に伴うわが国の人口問題解決の決め手の1つである結婚率の上昇、ひいては出生率・出生数の大幅な上昇につながることをめざすのである。小田垣祥一郎(おだがき・しょういちろう) 元・東北管区警察局長1936年、京都市生まれ。京都大学法学部卒。ジョンズホプキンス大学院修士。東北管区警察局長、日本鉄道建設公団監事、明治安田生命保険(相)顧問などを歴任

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    中核層の時代に向けて~自らの人生と社会を選びとる人々

    をより深く知る人のみが、より遠くまでを見通せることを忘れてはならない。 日本社会が直面しているのは、少子高齢化と財政危機である。2010年に1億2806万人であった日本の人口は、2060年には8674万人になり、とくに生産年齢(15~64歳)人口は3755万人減少し、年少(0~14歳)人口も893万人減少すると予測されている(国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口〈平成24年1月推計〉」)。結果として、老齢(65歳以上)人口割合は23%から40%に上昇し、それに伴う医療・介護サービスの不足や社会保障負担の増大が深刻な問題となる。 ただし、問題の表れ方は全国で一様ではない。今後日本社会全体としてみれば、2040年ころまでは高齢人口が増加するが(第1ステージ)、その後は安定し(第2ステージ)、2060年ころ以降はむしろ減少に転じる(第3ステージ)。その場合も、これから老齢人口の急激な増加が見られるのは主として都市部であり、地方の多くではすでに第2、さらには第3ステージに突入している。 結果として、今後東京圏など都市部においては、75歳以上の人口が倍増する地域も多く、医療と介護のいずれも圧倒的な不足が予測されている。現在、世界はかつてない都市化の時代を迎え、グローバルな都市間競争も激しくなっているが、このような状況を放置すれば、日本の都市の致命的なアキレス腱となりかねない。後述するように、日本の都市は知の集積地としても、エネルギー効率においてもきわめて優れているが、その優位性を活かすためにも、高齢化問題を避けて通ることはできない。 また、日本の多様性の源であり、子育てや環境面でも重要な存在である日本の地域社会をどのように維持・発展させていくかも、劣らぬ難問である。人口が減少していくなか、いかに地域社会の活力を保持し、新たなコミュニティづくりの拠点として発展させていくか。今後、都市と地方のそれぞれの未来像をいかに描くかが、日本全体の今後を考える上でもきわめて重要な意味をもってくるだろう。 他方、高度経済成長時代が終わりを迎えようとしながら「福祉元年」と社会保障の拡充を図った1970年代、行財政改革の一環として「活力ある福祉社会」をめざした1980年代とは異なって、本格的な高齢化社会を迎えた今日の日本を取り巻く財政状況は危機的な水準にあり、給付減を含めた国民負担の増加は避けて通れない。 「景気回復なくして財政再建なし」というスローガンはプライマリー・バランスを達成するための喫緊の課題として正しいかもしれないが、内閣府の試算によれば、今後10年(2013~2022年度)の平均成長率が実質2%程度、名目3%程度となる「経済再生」を仮定した場合においても、2020年度における国・地方の公債等残高(GDP比)は185%と依然高い水準にあり、その後も横ばい圏内で推移するとされている(内閣府「中長期の経済財政に関する試算」、平成26年1月20日経済財政諮問会議提出)。 とはいえ、これらをただ悲観的に捉えるのも一面的であろう。というのも、以上の予測からもわかるように、老齢人口の増加は永遠に続くものではない。今後20年こそ深刻な局面が続くものの、その後は人口減少に歯止めをかけられれば、世代間のバランスを回復することも不可能ではない。むしろ中国をはじめ世界の多くの国々が、今後かつてない規模での高齢化の時期を迎えることを考えれば、いち早く正念場を迎える日本が問題克服への道筋を提示すれば、世界に対してモデルを提供することもできる。 そうだとすれば、これからの20年から30年を見据え、日本社会の実効性のある未来像を描くことにはきわめて大きな意義がある。眼前の課題に対応するだけで精一杯であり、未来への指針を得られずにいることが、現在の日本を支配する閉塞感の大きな原因となっているとすれば、いまこそ、私たちは自らの視線をより高く、より遠いところへと向けなければならない。 もちろん、少子高齢化と財政危機という日本社会の基本条件を克服することはけっして容易でない。とくに、国民に社会保障負担の増加を求める一方で、サービス給付についてはよりメリハリをつける必要があることは、民主主義そのもののあり方を問い直すことにもつながる。負担は増えるがサービスも増える(北欧型福祉国家モデル)、もしくはサービスは少ないがその分負担も少ない(アメリカ型自己責任モデル)という二者択一ならば、あるいは選択も可能かもしれない。 これに対し、負担は増えるが逆にサービスは減るという厳しい条件を、民主主義は受け止めることができるのだろうか。 成長社会における民主主義は、成長の果実を国民のあいだで分かち合うことで多くの問題を解決してきた。これに対し、成熟社会を迎え、さらには縮小時代に入った民主主義は、むしろ増大するリスクや負担を国民のあいだに再配分していかねばならない。 しかしながら、誰もがリスクや負担の増大を望まない以上、民主主義は問題を前にして特有の決定不能状態に陥りかねない。はたして縮小時代の民主主義は自らの責任を回避せず、問題に立ち向かっていくことができるのだろうか。 日本社会の未来像を描くこと、そして新たな日本社会における新たな生き方を模索することが本稿の課題である。自らの未来を決定できずにいる日本社会と、自らの生き方を選び取ることができずに閉塞感に陥っている人びととは、同じコインの表裏をなしている。自分で選んだという自覚をもつからこそ、自らの生き方と社会のあり方に責任をとることもできる。鍵は、日本社会に生きる人びとがあらためて、自らの人生を選び取り、組織や社会との関わりを再認識することにある。日本社会の未来像 日本社会の未来像を、最後に本格的に検討したのはいつのことだろうか。1980年に提出された「大平総理の政策研究会」報告書があるいはそれかもしれない。この研究会は大平正芳首相のイニシアティブの下に設立されたものであり、延べ200人以上の若手の研究者や官僚を中心に、「文化の時代」「田園都市構想」「環太平洋連帯」など9つのテーマごとにグループがつくられた。報告書は大平首相の突然の死去によって政治的には大きな意味をもつことがなかったが、その意義はけっして小さなものではない。 大平首相の問題意識は、ローマ・クラブによる『成長の限界』(1972年)や、第四次中東戦争勃発(1973年)によって始まった石油危機を受け、経済成長に代わるべき日本社会の目標を見出すことにあった。とくに西洋をモデルとした「キャッチアップ」型の近代化を脱却し、日本社会の歴史や現状を踏まえた新たな社会像の確立が大きな課題とされた。経済成長に代わる「文化の時代」や、都市化に対する「地方の時代」、さらにそれを担うべき「中間層」の重視は、グローバル化とIT化の時代を予感させる「環太平洋連帯」や「ソフトパワー」の強調と合わせ、その先見性を示していたといえるだろう。 実際、この研究会の主力となったメンバーを中心に、『文明としてのイエ社会』(村上泰亮・佐藤誠三郎・公文俊平)や、『柔らかい個人主義の誕生』(山崎正和)などの著作が執筆されている。これらの研究に特徴的なのは、日本社会に見られる個人や組織のあり方を、世界史的に再評価している点にある。このことは、それ以前の日本の社会科学が、日本社会に残る伝統的要素をむしろ、近代化によって乗り越えるべき後進性と見なしたのと対照的である。その後に活発に論じられることになった「日本型組織」論の源流も、ここに見出すことができる。 「キャッチアップ」型の近代化に代わる新たな日本社会の未来像、そしてグローバル化が進むなかで、地域や環境、文化を重視した新たな個人の生き方を模索する必要性は、ある意味でこの1980年の段階ですでに明らかであったといえる。問題は、その後30年以上を経過したいまの日本社会が、この報告書によって示された課題に対し、十分な答えを示したのかどうかである。いたずらに時間ばかりが経過して、課題はむしろ深刻化したという評価は、はたして酷にすぎるのだろうか。 「大平総理の政策研究会」が活動したのは、いまだ日本経済の発展が続き、日本社会が「一億総中流」社会の出現を前に、むしろその成熟を迎えつつあった時期である。日本社会のあり方に根底的な疑問を投げかけた大平首相であるが、皮肉なことに、その当時、日本企業はむしろ世界に先駆けて石油危機を克服するなど、その優位性が世界的に注目されつつあった。ハーヴァード大学教授であったエズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出版したのは1979年のことである。 これに対し現在の日本は、すでに述べてきたように人口減少と財政危機を迎えたうえ、グローバル化とIT化の進む世界のなかで、新たな社会や組織のあり方をめぐって、いまだ再編のただ中にある。経済学者の青木昌彦は、日本社会が1993年に始まった大いなる制度改革の時代、すなわち「移りゆく30年」の途上にあるという(『青木昌彦の経済学入門――制度論の地平を拡げる』)。 ものづくりの伝統に支えられた製造業をはじめ、日本はいまだ国際的に比較優位に立つ部門を多くもっている。にもかかわらず、現場に蓄積された技術や知を、新たなグローバル化とIT化に向けて戦略的に再編するという課題は、いまだに明確な指針を得られずにいる。サービス部門についても、繊細さや協調といった日本独自の価値を、国際的に優位性をもった産業へと十分に発展させる余地はなお大きい。いまや閉鎖性や硬直性の象徴のようにいわれるようになった「日本型組織」を、21世紀型に再編するために私たちに残された時間は短い。 たしかに「キャッチアップ」型近代化の時代においては、中央集権化の下、資源と人材を一カ所に集中することは効率的であった。教育や行政を全国一律にすることで、同質的な国民と組織を育てることにも意味があった。これに対し、新たな社会的価値を創造していくことが求められる成熟社会においては、これらの特質は逆に否定的な作用をもたらしかねない。むしろ、多様性に富み、世界に開かれた知識創造社会を形成することこそが求められる。 いまだ東京への人口や情報の一極集中が続くばかりで、地域の多様性や自律性がむしろ失われつつある今日、地域に根差した新たな文化的価値の創造や、人材の育成をうたった「大平総理の政策研究会」報告書の提言を、あらためて真剣に受け止める必要があるのではなかろうか。 本稿では以下、以上の考察に基づいて、めざすべき新たな社会像を「信頼社会」として定式化するとともに、それを担うべき主体として「中核層」という概念を提案したい。信頼社会の構築に向けて それではなぜ、グローバル化とIT化の進む世界のなかで、かつてあれほど賞賛された「日本型組織」はむしろその閉鎖性や硬直性が批判されるようになったのか。このことを考える上で鍵となるのが信頼という概念である。 何らかの選択をするにあたって、他人をどこまで信じることができるだろうか。誰もが必ず約束を守ってくれると信じるのはナイーブだとしても、逆にすべての人を疑ってしまえば何もできなくなる。一般的な信頼関係が存在しなければ、すべてを物理的強制力に頼るしかなくなり、社会全体として巨大な非効率となる。この意味での信頼の存在を、アメリカの政治学者フランシス・フクヤマは健全な民主主義と資本主義の発展に不可欠であると論じ(『「信」無くば立たず』)、同じくロバート・パットナムは「社会関係資本(social capital)」と呼んだ(『孤独なボウリング』)。 それでは、これまでの日本社会に、どのような信頼関係が存在したのだろうか。近年、グローバル化による社会の流動化によって安定した人間関係が失われ、信頼が急速に失われつつあると指摘される。しかしながら、これはむしろ日本的な「安心社会」の崩壊であって、信頼とは別問題であると社会心理学者の山岸俊男は指摘する(『安心社会から信頼社会へ:日本型システムの行方』)。たとえば、これまで日本企業では終身雇用と年功序列に基づく安定した雇用関係が存在し、企業のあいだにも継続的な取引関係が存在した。日常生活においても、低い離婚率に示されるように安定した人間関係が存在し、人びとはそこで「安心」していることができた。長期的に組織や関係にコミットすることで、さまざまな不確実性を減らすのが「安心社会」の特徴であった。 しかしながら、ひとたび慣れ親しんだ組織や関係の外に出ると、一般的な社会的信頼が必ずしも高くないのも日本社会の特徴であった。統計数理研究所の調査結果によれば、日本人よりもアメリカ人のほうが他者一般への信頼は強い。一例を挙げると、アメリカ人の47%が「たいていの人は信頼できる」と回答しているのに対し、日本人で同じ答えをしたのは26%にすぎない。一般的な社会的信頼が低いからこそ、特定の組織や関係への関与を深めるというのが、これまで日本社会に多くみられた行動パターンである。 そうだとすれば、一般的な社会的信頼が低いままに、「安心社会」が崩壊し始めたとすればどうなるか。ある意味で、現在の日本で起きているのはまさにこのような事態である。人びとはもはや、一度大企業に就職すれば、定年までの雇用が保証されるとは期待していない。組織にコミットすれば、必ず長期的に報いてくれるとも信じていない。とはいえ、組織を飛び出すことはあまりにもリスクが高い。結果として、安定的な組織や関係への幻想がつのり参入をめぐる競争が激化する一方、組織に残った人間も、不満があっても組織を出るに出られないという不毛な状況になっている。 山岸の調査によれば、日本人の多くは「自分自身は集団主義的な考えをしていないが、周りの人たちは集団主義的な考え方の持ち主である」と思っている(『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』)。それゆえに、自分だけが個人主義的に行動すれば不利であると考え、結果として集団主義的に行動してしまう。ある種の不毛なジレンマ状況に自ら陥ってしまうのである。 そうだとすれば、求められているのは何であろうか。それは真の意味での「信頼社会」の構築であろう。信頼とは本来、人を所属する組織で判断するのではなく、その人物自身を信じてよいのか、一人ひとりが主体的に判断していくものである。そうである以上、今後の日本社会においては、これまでのように閉ざされた関係内部での安心を求めるのではなく、開かれた環境で集団を超えた人と人とのつながりを築いていくことが重要になる。言い換えれば、社会的な不確実性を前提に、だからこそ信頼できるネットワークを自らつくり出していくのである。 そのような信頼のネットワークは、「あなたがいつか力になってくれると思うから、いまあなたの力になろう」という互恵的な利他主義によって生み出される。それは明示的な契約関係によるものではなく、関係者が相互の義務を尊重するであろうという信頼に支えられている。アメリカで「フリーエージェント社会」の到来を提唱し、IT化の影響により働き方の中心が組織から個人へと移動すると主張するダニエル・ピンクは、そのような社会においてこそ信頼が重要になると指摘している(『フリーエージェント社会の到来:「雇われない生き方」は何を変えるのか』)。 さらに寿命が長くなった現代日本社会においては、ある個人の一生が一つの組織のなかで完結することは、むしろ稀になっていくだろう。多くの人は定年後も、あるいはそれ以前から、それまで属した組織や業界を超えて活動することになる。その場合、各個人が新たな信頼を構築していくスキルや、そのための社会的仕組みを整備することが、きわめて重要になる。一人ひとりが生涯にわたって学び、信頼を構築し続ける社会こそが、リスクに強い、発展的な社会なのである。逆に組織にとっても、信頼社会の一員となる主体的な人材によって自らを再編することが、グローバル社会における自らの競争力強化につながるであろう。 もちろん、「イエ社会」の強い伝統をもつ日本において、「安心社会」が完全に消滅することはありえないし、望ましいことでもない。個人と組織の長期的な関係を大切にすることで、メンバーのコミットメントを引き出す「安心社会」のモデルは、形を変えながら続いていくはずだ。とはいえ、このまま「安心社会」が失われる一方で新たな信頼社会を構築することができなければ、日本はたんに無縁社会となる。より風通しの良い新たな「安心社会」とそれを支える「信頼社会」の新たなベストミックスを構築しなければ、人びとは孤立していくばかりであろう。 そのためにも、組織は自らの内へと閉じるのではなく、外に開かれていくことが求められる。また、組織を飛び出したり、あるいはそもそも組織に属したりしないという生き方が可能になるよう、社会全体としてルールの透明性や情報の共有を実現し、人びとが主体的に信頼を構築できるようにすることが必要である。重要なのは、「安心社会」を唯一のモデルとすることなく、それを「信頼社会」によって包み込んでいくことである。中核層とは誰か このような「信頼社会」の主人公となっていくのは、どのような人たちであろうか。本稿では新たな人間像として「中核層(コア・シティズン)」という概念を提唱したい。とはいえ、この「中核層」とは、これまでもしばしば語られてきた「中間層(ミドルクラス)」とどのように異なるのか。 「(新)中間層」とは文字どおり「中間(middle)」であり、「上」でもなければ「下」でもないという消極的な定義に基づくものである。実際、日本社会では自らの生活水準をこの意味での「中」に分類する人が九割を超え、それが日本社会を支える「分厚い中間層」と考えられてきた。これに対し、本稿でいう「中核層」とは上下の階層や所属する組織との関係で定義されるものではない。自らの生き方を主体的に選択し、それゆえに積極的に社会を支えようとする自負と責任感をもった人間像こそが、「中核層」である。それはまさしく社会の「中核(core)」を担う存在である。 他方で、「中核層」はエリートとも区別される。あるいはエリートを含む、より大きな層を指す。エリートがあくまで組織を上から指導する少数の人間を指すとすれば、「中核層」とはより広く、現場にあって、そこで得られる知識や体験をもとにイノベーションを実現していく人びとである。 経営学者の野中郁次郎らは企業が持続的に成長していくためには、トップだけではなく全社員が現場の「実践知」を備えたリーダーにならねばならないという(野中郁次郎・児玉充・廣瀬文乃「知識ベースの変革を促進するダイナミック・フラクタル組織:組織理論の新たなパラダイム」)。企業のビジョンを具体的なコンセプトや計画に落とし込み、現場において対話や実践の場を醸成することで組織的に知を生み出す「実践知」の担い手が、自律分散的に存在する企業こそがしなやかな強さをもつ。逆に停滞する企業の多くは、現場と本社との物理的・精神的距離が広がり、有効なコミュニケーションがとれずにいることが多い。このような距離を縮めるのも「中核層」の役割である。 このような考え方は、経営のみならず、広く社会一般にも適用可能であろう。企業や行政、NPOやコミュニティなどに広く現場の「実践知」に基づくイノベーターを養成していくことが、「中核層」を実現していく上での第一歩となる。高齢者を含むあらゆる世代のすべての男女がイノベーションの担い手になりうる社会こそが、知識創造社会にほかならない。 しかしながら、イノベーターだけが「中核層」ではない。「中核層」の第二のイメージとなるのはネットワーカーである。イノベーションが相互に孤立したままでは、大きな社会的な力とはなりえない。イノベーションとイノベーションを結び付け、またノード(後述)とノードをつないで有機的な連携をつくり出していくのがネットワーカーである。あるいはむしろ、人と人、人とアイディア、さらには人と場をつなぐことから、イノベーションが生まれるというべきだろう。 そもそもIT化とは、たんにインターネットなどの技術的普及だけを指すものではない。その背景にあるのは、これまで企業が独占していたコンピュータや通信手段を個人にも所有可能なものとし、個人と個人の知をつなぐことで社会的諸問題を解決していくという理念にある。そのような知のネットワークはテクノロジーによって自動的に実現されるものではなく、あくまでそれを媒介する人間によって可能になる。 『創発』などの著作で知られるアメリカの著作家スティーブン・ジョンソンは、近著で「ピア・ネットワーク」を提唱している(“Future Perfect:The Case for Progress in a Networked Age”)。「ピア」とは仲間や同等者を指す言葉であり、社会の革新は大きな政府や大企業ではなく、仲間・同等者のネットワークから生じるという。社会において満たされないニーズが発生したとき、一部の専門家が上から画一的な指示を出すのではなく、ピア・ネットワークのなかでメンバー自身が自由なアイディアの交換を通じて問題を解決していく。その意味で、ネットワーカーの役割は今後ますます大きくなっていくはずである。 「中核層」の第三のイメージは、社会の結節点としてさまざまな局面で個人のケアを担う「コミュニティ・ノード」である。ノードとは「結び(nodus)」を語源とする、ネットワークを構成する一つ一つの要素、いわばネットワークの結び目を指す。働き方の中心が組織から個人へと移動する時代だからこそ、コミュニティのネットワークを張り直し、一人ひとりの個人が孤立に陥ることを防ぎ、感情面を含め支えていくことが重要である。その意味で、コーチングやカウンセリングが時代のキーワードになることには必然性がある。医療や介護などケア・ワークに従事する人びとはもちろん、各種の教育者もまた、ここでいうノードに相当するであろう。人びとをケアし、その成長を支援する役割は、自らイノベーションを生み出す役割に劣らない。 このように、イノベーター、ネットワーカー、コミュニティ・ノードに代表される新たな「中核層」は、地域や組織の中心を担い、社会に貢献することで自己実現を図っていく人びとである。彼ら、彼女らは、社会のなかに確固とした「持ち場」をみつけ、自分たちこそが、組織やコミュニティを支えているという気概をもつ。このような「中核層」に権限を与えることで、自らを律し、社会に対して責任と自覚をもつ人びとによって支えられる新たな「信頼社会」が可能になるだろう。グローバル都市とコミュニティ 以上、深刻な少子高齢化と財政危機と向き合うためにも、これまでの日本社会を支えた「安心社会」から「信頼社会」へのパラダイムチェンジを進め、それを担う「中核層」を強化していく必要性を論じてきた。このような社会において、若者から高齢者まで、すべての世代の男女が生涯にわたって知的創造を行ない、社会的イノベーションの担い手となることが期待される。また、これまで必ずしも活かされてこなかった人材も、より適切な場とネットワークと出合うことで活躍していくだろう。 都市部と地方の関係についてはどうだろうか。これまで両者のあいだでは財政調整によって富の再配分が行なわれてきた。また均衡ある国土の発展の名の下に、都市部の発展を抑制してきた。しかしながら、現在、世界各地で都市化が進み、いわばグローバルなレベルでの都市間競争が進んでいる。人と情報が集積する創造的な都市の発展なしに、地域全体の発展もありえないだろう。 トロント大学のリチャード・フロリダは、創造力ある人間が集まる創造力ある都市こそが経済成長の源であるとし、日本についてとくに「広域東京圏」「大阪=名古屋」「九州北部」「広域札幌圏」に注目している(『クリエイティブ都市論:創造性は居心地のよい場所を求める』)。この知的集積は、世界的にみても巨大である。またアナリストの増田悦佐によれば、日本の都市は、鉄道網が充実していることが自動車中心の社会に比べ、エネルギー効率においてはるかに優れている(『高度成長は世界都市東京から:反・日本列島改造論』)。日本の都市を競争的に連携させることで、世界的な優位を確立すべきである。日本の都市は世界に向かうべきである。東京は香港やシンガポール、上海などアジアのグローバル都市と競争すべきであるし、グローバル都市になる可能性を秘めた日本の都市は、東京だけではない。 他方、多様な個性と伝統をもつ日本の各地域を活性化することなしに、日本全体の回復がありえない。そのためには地域の歴史、文化、価値観といったソフト資源を新たな技術と結び付け、地域の魅力を高めていく必要がある。そのためにも、日本の地域は自らの伝統を大切にし、人びとに心のよりどころを提供すると同時に、他の地域からの人びとを受け入れ、多様性に対応していく必要があるだろう。開かれた、ダイナミックな地域コミュニティを発展させていくことが、都市部との有効な相互補完関係を生み出す。 本稿の冒頭でも述べたように、現代日本社会を覆っているのは、根拠なき楽観と展望なき悲観である。これに対し私たちは、根拠ある、賢明な進歩主義(プログレッシブ)でありたい。たしかに現代日本社会が直面している課題は多く、それを乗り越えるのは容易ではない。とはいえ、すでに指摘したスティーブン・ジョンソンも強調しているように、目には付きにくいものの、現場では今日も新たな取り組みがなされ、社会全体として少しずつ前進していることを忘れてはならない。今後に期待される民主主義とは、すべての個人に、それぞれの「持ち場」でのイノベーションを実現する機会を保証するものでなければならない。私たちが本当に大切にしなければならないのは、目に見えやすい「改革」や「革命」の劇的変化よりも、日々の漸進的なイノベーションの蓄積なのである。 現在日本が向き合っているのは世界的な課題である。これからの日本の取り組みが、世界に対してもっとも有効な発信となることを忘れてはならない。これからの20年、30年先の社会をどのようにデザインするのか。次世代にどのような日本を伝えるのか。一人ひとりの個人が自らの人生を選び取ったと実感でき、それゆえに社会を支えようとする気概をもてる日本を構築していくために、いまこそが正念場なのである。宇野重規(うの・しげき) 東京大学社会科学研究所教授法学博士(東京大学)。専門は政治思想史、政治哲学。著書に『政治哲学へ―現代フランスとの対話』(東京大学出版会、渋沢・クローデル賞LVJ特別賞)、『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社、サントリー学芸賞)など。谷口将紀(たにぐち・まさき) 東京大学大学院法学政治学研究科教授博士(法学)(東京大学)。専門は政治学、現代日本政治論。総務省政治資金適正化委員会委員、日本政治学会理事を歴任。著書に『現代日本の選挙政治―選挙制度改革を検証する』(東京大学出版会)、『政党支持の理論』(岩波書店)など。牛尾治朗(うしお・じろう) 総合研究開発機構〈NIRA〉会長、ウシオ電機会長東京大学法学部卒。卒業後東京銀行に入行。カリフォルニア大学大学院留学を経てウシオ電機を設立。経済同友会代表幹事、内閣府経済財政諮問会議議員、日本生産性本部会長などを歴任。著書に『わが経営に刻む言葉』(到知出版社)など。

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    「早く結婚しろよ」批判報道が封殺したこと

    東京都議 鈴木章浩/麗澤大学教授 八木秀次/ジャーナリスト 細川珠生 東京都議会で6月、少子化などを議論していた独身の塩村文夏議員に「早く結婚したほうがいいんじゃないか」などとヤジが飛んだことが、セクハラヤジとして社会問題化しました。――最初に名乗り出て謝罪した鈴木章浩議員は、新聞やテレビで非難を浴びたわけですが、少子化が進む日本でそんなに問題のある発言でしょうか。ぜひ議論していただきたいと思います。無論、ヤジは上品とはいえません。まずは改めて鈴木議員に、この点について考えをうかがいたいと思います。 鈴木 私の事務所にも、様々な誹謗ファクスが来ますが、住民の方かと思って、よくよく見ると、共産党の女性区議の事務所の名前が入っていることもあります。 鈴木 私自身、議会では不適切な発言であり、不必要な発言であったと深く反省しています。そのことについては本当にお詫びしたいと思っております。「セクハラ」という見方をされることを否定もできません。塩村さんが私の言葉に傷ついたとおっしゃっているので、改めて心からお詫びを申し上げたい。また、配慮を欠いた私の発言で多くの方にご心痛を与えてしまったことにも、改めてお詫びを申し上げます。申し訳ございませんでした。 八木 鈴木議員はこう言っていますが、この問題を考える上で、議会において、ヤジは言論の一つであるということは認識しておくべきです。議会は有り体に言えば、言論による政治闘争の場ですから、ヤジは禁止されていない。そこが、一般には認知されていないのかなとは思います。 細川 ただ、議員には品位が求められます。野放しになっているとすれば、鈴木議員の御発言の内容は別として、議会のあり方を考え直すいい機会です。私が過去に国会を取材した時、ヤジでほとんど何も聞こえないぐらいだったのを覚えています。フリーのジャーナリストは、後ろの方の一般傍聴席に座るからかもしれませんが、過剰なヤジは問題だと思いました。どこかスパイスのきいたヤジは効果的かもしれませんが、単に騒いでいる議場の雰囲気はいかがなものでしょうか。 鈴木 申し訳ございません。ただ、あのとき私は、晩婚化、少子化などについて質疑していた塩村さんに対して、素朴に「早く結婚することが大切なのではないか」と感じ、それを言葉にしてしまいました。議会というのは議論を闘わせるところであり、私の真意が封殺されてしまったことには、正直、残念な思いもあります。 ――真意を伝えたいなら初めから名乗り出るべきだったのでは? しばらく名乗り出ず、「ヤジは辞職に値する」とまで発言されていましたね。後から名乗り出た議員よりは遙かに早かったにしても、その時点では嘘をついたことになります。 鈴木 名乗り出るのが遅くなり、また、結果的にウソをついてしまったことも反省しております。 八木 鈴木議員をかばうわけではないけれど、私が自民党関係者に聞いたところでは、すぐに名乗り出られない事情が、内部でいろいろあったそうです。いろいろ検討された結果、あのタイミングになったと聞きました。同時期に、自民党東京都連会長である石原伸晃環境相が、福島県をめぐって失言した問題もありました。鈴木議員が名乗り出たお陰で、石原環境相の謝罪報道は、比較的小さくなっています。その辺りの真相を、ぜひ聞かせてもらいたいですね。 鈴木 そういうことについては、私は何も述べられません。とにかく、改めてお詫び申し上げさせて下さい。 八木 ご本人としてはそうとしか言えないのかも知れませんが、それでは批判が続きますよ。私がマスコミから聞いたところでは、「ヤジは辞職に値する」と答えたのにも事情があったそうですね。当時、塩村議員のプライベートなことについてもヤジがあったといわれていて、そのことまであわせて記者から質問されたため、そんなことまでヤジった議員がいたとしたら辞職に値するというニュアンスだったと聞きましたよ。ほかに自民党以外からも品のないヤジはありませんでしたか。その辺もきちんと説明すべきでしょう。 鈴木 …。私が言えることは、塩村議員側の人たちは後になって声紋分析をするなどと騒いでいましたが、ご本人が聞いていたのですから、その場で議員の名前を挙げて議事録に残すとか確認をするとか、そういうことをしていただければ、よかったのではないかということだけです。その方が、より議会の改善に繋がっていったんだろうと思います。その機会を逸してしまったというのは、もったいないなと思っています。 八木 塩村議員はヤジを受けた時、少子化問題と不妊治療のことを質問していたわけですが、鈴木議員だけではなく質疑を聞いていたほかの自民党議員らの間にも、「そういう一般論を述べる前に、あなた当事者意識を持ってはいかがですか」という雰囲気があった。少子化、人口減少は本当に深刻だというのが、あの場にいる人たちの了解事項だったのに、ヤジによって彼女が傷つけられたという部分だけをセクハラとして問題にするのは、私は違和感がありますね。 細川 「早く結婚しろ」というのがセクハラだとすれば、私自身もセクハラは受けてきたと言うべきでしょう。私は30歳で結婚し、36歳で長男を産んだのですが、その間、「早く子供を」とよく言われました。そんなこと言われなくても分かっている―という感情はありましたが、「まあ、それも笑顔で返すぐらいの度量が必要だ」と。少なくとも、世間一般はそう思うのですから。まして塩村さんは公人である以上、そこは受け止めるべきではないでしょうか。そこをかわせるだけの能力がないと議員を務める資格があるのかなと思います。女性でも、がんばってもどうにもならないものがあるという場合、そういう発言にとても傷つくことは事実ですが、一方で、自分の責任において結婚、出産していないこともある。正直言って、私は、塩村さんは35歳というご年齢ですから、まず、結婚して子供を産むことを、議員活動よりも優先した方がよいと思います。 八木 「早く結婚を」という言葉をセクハラだから不適切だとして封殺するのは、一種の「ポリティカル・コレクト」です。自分たちから見た政治的な正しさから言葉狩り、言論封殺で政治運動を行うわけです。現にヤジ問題は「セクハラ」問題として、フェミニストたちにより意図的に、拡大されました。7月7日も女性と大学の教員ら約90人の集まりがありましたが、そこでは「セクハラを許さない」という声が上がり、都議会に要請文を出すということでした。「これで終わりにしてはならない」という意図がはっきりあります。ヤジが「セクハラヤジ」と呼ばれ、「セクハラ」そのものになる。これは恐ろしい。なぜなら、ただの発言などたいしたことないことでも、物理的に体を触ったり卑猥なことをしたり、そういうことと同じカテゴリーでくくられると、世間のイメージは途端に悪くなるからです。鈴木議員もダメージを受けたのではないですか。 鈴木 女性が多い会合とか青少年関係の会合とかは、出席しないでくれと言われています。もちろん、支持者の方には、「よくよく考えれば、たいしたことないじゃないか」と言われることが多いです。ありがたいことに。 八木 大田区(東京都)の女性区議から、議員辞職を求める声明を出されていましたね(笑)。セクハラやじの処分要求書を手に取材に応じる塩村都議=2014年6月八木「セクハラは嫌いな人を弾圧する道具」 八木 「セクハラ」という概念が何より恐ろしいのは、相手の女性が不快に感じたら、それがセクハラになるという点です。まったく嫌がらせの意図が無くても、相手女性に「セクハラ」と決めつけられれば悪者になります。ということは、「セクハラ」の概念を使うことによって、全女性は主導権を握ることができるようになるのです。とにかく、気にくわない奴を「セクハラだ」と言えば、懲らしめることができるわけですから。 いま、日本のさまざまな組織に「セクハラ委員会」という組織がありますが、共産主義国家の公安委員会のように、一部の人が気に入らない人を弾圧するための道具になり得るのです。日本社会全体にはセクハラ委員会はありませんが、「セクハラ」という名の下に言論統制が行われていないでしょうか。テレビのコメンテーターも、みんな同じきれい事しか言わない。顔つきを見ていると、本音を言っていないけれど、「ああ、こう言わざるを得ないんだろうな」と感じさせます。 細川 みんな、気にしすぎですね。洋服を褒めるとか、「きょうもキレイだね」とか、そういうこともセクハラだというのでしょう。そんな会話も出来ないようでは、毎日がつまらないですね。 鈴木 そんな世の中でいいのかと思います。 八木 今回のヤジについては、塩村議員個人の問題が途中から「女性の人権」問題にすり替えられました。結婚できない事情、子供が産めない事情、そういう特殊な事情を抱えた女性をすべて一般化して、あたかも全女性がそういう問題を抱えているという前提で論理を展開したのです。すると、「早く結婚したほうがいい」「産まないのか」という発言は、「女性の人権」に反するということになり、許されなくなってしまいます。実際は、多くの女性が結婚もできるし子供も産めるにも関わらずそうしていないだけなのに、あたかも全女性が「したいのに、できない」という立場で、それを鈴木議員がいじめているような構図にした。そこには、戦略があったのではないでしょうか。実際に、話がどんどん大きくなっていったわけですから。しかし、そもそも塩村議員に結婚や出産ができない事情があったのでしょうか。 細川 彼女の男性交際や国会議員との関係を報じた週刊誌報道を信じるかは別として、かつて明石家さんまさんが司会をしていたテレビ番組「恋のから騒ぎ」で恋愛遍歴を自慢していたようですから、結婚をしようと思うのであれば不可能ではないでしょう。 八木 出産はどうですか。自分は被曝二世だと公表していますが、だから妊娠できないということはあるでしょうか。被曝二世の方で子供をもうけている方はたくさんいらっしゃいます。 細川 報道も、「女性の人権」ということにデリケートになりすぎて、少子化の問題などを伝えきれないのかもしれませんね。こういう傾向は報道だけではなく、家庭や日常生活にも、みられます。かつて私は、母親から「早く結婚しなさい」とよく言われたものですが、最近では、親も子供に「早く結婚しなさい」とは言わなくなっていると聞きます。職場では、女性に、腫れ物に触るように接するようになっています。 八木 「セクハラ」という言葉が発明されたことで、女性が腫れ物になったという一面もあります。しかし、少子化が進んで悠長なことを言っていられるような時代ではなくなってきて、早く結婚して子供を産んでくれという時代になってきた。それをシャットアウトする言葉として、また「セクハラ」が使われているんですね。 ――日本では一九八〇年代から、「結婚しないのか」「産まないのか」というのは可哀想だという風潮が強くなってきました。 八木 それはフェミニズムの影響です。結婚するしない、産む産まないは個人の自由だとか、自己決定だとか、フェミニストたちが言い始めたためです。性差を否定するジェンダーフリーという考え方も大きく影響しているでしょう。彼女たちの考え方によれば、妊娠、出産するというのは自分を拘束するものでしかないわけです。妊娠、出産は「女性の奴隷化」だと考えるため、結婚もせず子供も産まず―というのが、一番女性にとって自由な生き方だと信じるわけです。もちろん、そんなことをしていれば、人類は滅びます。 細川 ただ、幸いにも多くの女性はそこまでは考えていない。大したことでもないのに「セクハラだ」と騒ぎ立てるようなことをする人も、女性の中では一部に過ぎないと思うのです。 八木 確かにヤジをセクハラと決めつけて大騒ぎする報道についても、多くの女性達は違和感を持っているようですよ。塩村議員に対する女性の反発もかなり大きいと思いますよ。 鈴木 しかし、マスコミの報道にのせられて、信じていらっしゃる方も多いのですが…。ヤジ問題で隠された河野談話の検証報告 八木 私はこの問題が大きくなったのには、もう一つ、裏があるのだと考えています。都議会のヤジは六月十八日にあったのですが、初めはそれほど大きな報道ではなかったのです。翌十九日付朝刊で報じた朝日新聞などは、東京地方版に掲載していたのです。それがその後、どんどん大きくなっていった。何があったか。六月二十日に慰安婦問題の河野談話について、慰安婦募集の強制性を認めた根拠がなかったことを示す政府の検証結果が発表されたのです。慰安婦問題がここまで大きくなったのは、朝日新聞の報道と、フェミニズム団体が「女性の人権」などといって騒いだことが発端ですから、この検証結果によって、国民の怒りの矛先が自分たちに向けられるのを心配したはずです。そんなときに、ちょうどヤジ問題があったのです。実際、この問題が大きくなると同時に、河野談話の検証結果についての報道は一切なくなったのです。 細川 なるほど。 八木 中国や韓国が、自国政府に対する国民の不満を逸らすために日本という敵を作るように、セクハラヤジという敵を作ったのです。二十一日付の朝日新聞の社説には、河野談話と都議会ヤジの二つのテーマが並んでいます。慰安婦をめぐる河野談話については「もう談話に疑義をはさむのはやめるべきだ」と書いてあり、ヤジの方には「都議会の暴言 うやむやは許されない」と見出しにあります。しかし、うやむやが許されないのは、慰安婦をめぐる朝日の報道の方なのです。 細川 (笑)。朝日新聞は、慰安婦の方だけ、うやむやでいいと言っているわけですね。 八木 都議会のヤジは、初めに名乗り出た鈴木議員以外にも複数の発言があり、「産めないのか」というヤジもあったと報道されたのですが、朝日新聞とテレビ朝日が音声を分析してみると、発言が違っていて、「自分が産んでから」と言っていたのです。細かい話のようですが、意味は全く違います。そうやって、ありもしない発言の犯人捜しに、朝日以外のメディアも便乗して、話がどんどん大きく仕立ててられていったわけです。それに、日本嫌いの欧米メディアの記者も飛びついて、日本叩きに利用しました。 細川 塩村議員自身が外国人特派員協会で会見しましたね。公人であるなら、あそこで話すことが世界へ向けてどれくらい影響力を持つということなのか考えるべきですが、塩村議員は、考えた上で臨まれたのでしょうか。 そして何より、新聞は、セクハラばかり強調して、根幹にある少子化や晩婚化、報道のあり方について一切言葉を発しないというのは公正さに欠くと思いますね。集団的自衛権の議論で、朝日新聞やテレビなどの多くのメディアが、世の中の人みんなが行使容認反対というふうに報道していたのと同じです。マスコミはきちんと日本という国がどうあるべきか考えて報道してほしいし、テレビのスポンサーである企業にも、番組の質をきちんと判断していただきたいものです。 鈴木 お二人のように、ジェンダーフリーやフェミニズムを厳しく批判して、正論を述べて下さる方は少ないですよね。 八木 (笑)以前はもっと少なかったですよ。しかし、少子化の時代、日本人は気づくべきなのです。フェミニストは男女を「同等」ではなく、「同質」なものであると考えたがる。だから性差を前提にした結婚、出産を女性の奴隷化と見るのです。東京大学の大沢真理教授は、日本のフェミニズムの代表的な人物である上野千鶴子氏との対談で「女で妊娠したことがある人だったらメスと言えるかも知れないけれども、私などは妊娠したことがないから、自分がメスだと言い切る自信はない」(『上野千鶴子対談集 ラディカルに語れば…』)と発言しています。 細川 (笑)私から見ると可哀想な人ですね。 八木 こういう人が高校の家庭科教科書に携わっているのです。米国のウーマン・リブの旗手、ベティ・フリーダンは『新しい女性の創造』を書いた後、恋愛し、結婚して、以前書いていたことを否定する『セカンド・ステージ 新しい家族の創造』という本を書いています。女性のセカンド・ステージに、結婚があり、そこに幸せがあるという意味ですが、日本のフェミニストたちは、この改心に学ぼうとしないですね。 細川 フェミニズムがここまで広がったのは、内閣府の男女共同参画局の影響力も大きいのではないかと、私は思います。廃止すべきです。都道府県レベルを中心に各自治体に同じような組織が設置され、税金で無駄な施設を建てたり、いろいろ研究に公費を投じたり。あの予算を教育に使えば、どれだけ日本のためになるかと思います。 私も仕事をしていますが、結婚、出産という価値も大切だと思ってきました。母からは、これからの時代は女性も仕事を持って生きていくべきだという考えで育てられたのですが、一方で、「父親に花嫁姿を見せないと一生後悔するわよ」と半ば、脅しのように言われていましたから。女性はいかに働き、いかに結婚すべきか 八木 女性の社会進出を否定するわけではありませんが、「育児より働け」という風潮には問題があります。それは、残念ながら、いまの政府にもあるのです。二〇二〇年までに女性を役員、管理職、高度の専門性が求められる職業その他の「指導的地位」に三割以上就ける現実的な計画がなければ、公共事業の受注や補助金の支給が受けられなくするという政府の案まであります。 細川 女性に下駄を履かせて、出世させるというような手法は無意味だと思います。女性でも男性でも、たくましくないと、本当の自分のやりたい仕事はできない。まして女性が「セクハラだ」とか集団で押しかけていって、権利を主張するようなことをやっているかぎり、自分たちが社会で本当に必要とされる人材にはなれないと思います。女性が仕事と家庭、両方をやっていくのは大変ですが、苦労しながらも両方やっていく覚悟がなければ、どちらかの選択しかないのです。 鈴木 仕事を持っていて、子育てが困難であるという人を応援することが、私は大事なことだと思っています。 細川 いま女性問題を論じましたが、少子化については男性の問題が大きいと思います。五十歳男性で結婚未経験の率は二〇%です。結婚生活がうまくいかず離婚するというのは残念なことですが、男性の五人に一人は、そもそも結婚すらしていない。これでは子供は減りますよ。もっと女性をデートに誘うとか、積極的になるとか、男性が頑張らなければいけない。みんなスマホをいじることに満足していてはいけないのです。 八木 アニメやゲームなど、二次元の架空女性がいいという男性も多くなっていますよね。 細川 若い人も男性がおとなしく、入社試験でも上位は女性ばかりだそうです。能力のある男性が減ると、女性はますます苦労します。それから非正規雇用の問題も解決すべきです。経済力がなければ結婚できませんから、お父さんにしっかり給与が払われる社会でなければなりません。 八木 産めよ、増やせよでないと、国が滅びる時代になっているということを、いま、私たちは考えなければなりません。 細川 ただ、国のために産むとか、国が滅びるから産むという気持ちにはなかなかならないので、自分の人生が楽しくなる、大変だけど育てたい、そういう喜びや価値を女性が実感できるようにならないといけない。子供は人生を豊かにしてくれるものだということは間違いないですから。 八木 逆に言えば、子供のいない人生は寂しいものです。と、いうと、フェミニストたちは、またこれがセクハラだというかもしれません。 細川 子供ができないならできないで、人生に別の価値を見いだすことはできると思います。私も、子供ができなかったときに品川区(東京都)の教育委員になり、神様から「自分に子供がなくても、世の中の子供のために働きなさい」と言われていると思って決意しました。ただし、産む努力はしないと後悔すると思います。私もその後、息子に恵まれました。 八木 家族のいない後半生の寂しさは実際にあるわけです。煩わしく思うこともありますが、煩わしいところもまた、面白さです。 細川 自分一人で我が儘に生きていく人生より、格段に自分自身を成長させることができます。 鈴木 家族の価値を見直すべきです。お父さんが家の大黒柱だとか、そういう日本の伝統的な考え方があったからこそ、日本人というのは先輩への尊敬の念を持つとか、困っている人に手を差し伸べるとか、惻隠の情だとかが芽生えてきたのだと思います。そういうものが失われていってもいいのでしょうか。 八木 まあ、あのヤジで、そこまで伝えようとするのは無理でしょう(笑)。もう一度、真意を釈明しておいた方がいいのではないですか。 鈴木 政治家として少子化対策を訴えるのならまずご自分が結婚されて、その経験をもとに語るべきではないか。そういう思いだったのです。私の配慮を欠いた不適切発言により、塩村議員をはじめ多くの方に、ご心痛を与えてしまったことに、改めてお詫び申し上げます。政治家として自らが発した言葉に責任を持つことは当然であります。少子化問題は深刻であり、夫婦が子供を持ちやすく、女性が働きながら子育てしやすい、そうした東京を目指して参ります。■鈴木章浩氏 昭和37(1962)年、東京都大田区生まれ。青山学院大法学部在学中に父親が死去し、家業のクリーニング会社「光伸舎」に入社。大田区議2期を経て平成19年、都議補欠選で初当選。現在3期目。今年6月、都議会ヤジ問題で謝罪し、自民党会派離脱。■八木秀次氏 昭和37(1962)年、広島県生まれ。早稲田大学法学部卒業。同大学院政治学研究科博士課程中退。専攻は憲法学。著書に『憲法改正がなぜ必要か』など。平成14年、第2回正論新風賞受賞。教育再生実行会議、法務省相続法制検討WTの各委員。■細川珠生氏 昭和43(1968)年、東京生まれ。聖心女子大英文科卒。父親の故細川隆一郎氏との父娘関係を綴った「娘のいいぶん~がんこ親父にうまく育てられる法」で日本文芸大賞女流文学新人賞。平成7年より「細川珠生のモーニングトーク」(ラジオ日本)に出演中。

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    人口減少時代の自治体像 ~不都合な現実を直視せよ

     今年1月1日現在の住民基本台帳に基づく全国人口は、1億2643万人と発表された。これは前年マイナス24万人あまりで、5年連続の減少となった。全国1748市区町村の82.4%を占める1440自治体で人口が減少。3大都市圏をみても人口増を続けているのは東京圏のみになっている。 このままいくと2040年には1748市区町村中、49.8%にあたる896市区町村が「消滅可能性都市」になる、とする衝撃的な推計結果が5月に発表された。増田寛也元総務大臣が座長を務める「日本創成会議」が明らかにした試算は、「増田リスト」とも呼ばれて自治体関係者にショックを与えた。 この試算は、人口を維持するうえで「20~39歳女性の数」に着目したことが特徴である。この年代が2040年までに半減する自治体では、人口の再生産力が失われ将来的には消滅するおそれが高いとした。高齢化の進展で地域の雇用が維持できず、若い世代が大都市とりわけ東京圏に流出する社会移動の趨勢が、今後も収まらないと想定したことにより、従来の人口推計よりも厳しい見立てとなった。 東京がブラックホールのように全国から人口を吸い上げる「極点社会」を回避するためには、「地域拠点都市」を核とする集積を形成して、人口流出の防波堤をつくることが必要だと増田氏は指摘する。 従来の人口推計では、2050年にはわが国の総人口は1億人を割り込み、約9700万人になると予測されている(国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口」平成24年1月中位推計)。政府は6月にまとめた「骨太の方針」で「50年後に1億人程度の安定した人口構造を保持する」とし、はじめて人口減少社会への対応を盛り込んだ。 国土交通省が2050年を見据えてとりまとめを進める「国土のグランドデザイン骨子」は、人口減少とともに地理的偏在が加速すると指摘する。現在は、国土面積の約5割に人が居住しているが、その約6割で人口が半減以下となり、うち約2割は人が住まなくなると予測している。人口規模別にみても、全国平均の減少率マイナス24%に対して、人口1万から5万でマイナス37%、1万未満ではマイナス48%と推計されている。地方圏では、人口減少時代から自治体消滅時代に突入することがここでも明らかだ。 こうした地域の将来像について、骨子は「地方都市は、周辺の市町村と相互に機能を分担し、補完し合う関係に」と指摘。「生活の拠点となる人口10万人以上の都市から交通1時間圏内にある、複数の市町村からなる人口30~50万人程度の都市圏等」として「高次地方都市連合」という概念を提示している。注釈には、「平日はブロック中枢都市で働き、休日は田舎で両親の介護を行うなど、ブロック内での地域間の連携により東京への人口移動の防波堤にも」という文言がある。急激な人口減少で引き起こされる国土利用の歪みを少しでも緩和するための望ましいライフスタイルと読み取ることができそうだ。 総務省においても、5万人規模の市を中心市とする「定住自立圏」に加えて、20万以上の市を中心とする「地方中枢拠点都市」が検討されている。地方自治法には、今年新たに市町村間の「連携協約」が制度化された。また、過疎地や離島など一定規模の母都市が存在しない地域で、府県などによる垂直補完も可能にする「事務の代替執行」も導入された。 人口減少の加速は、市町村や都道府県に意識変革を促している。ひと言でいえば自治体間の「垣根を取り払う」時代が到来したということだ。わが国の市町村自治の歴史は、数次の合併を通じたフルセット型自治の充実強化であった。しかし、本格的な人口減少時代を迎えた今、自治体像の歴史的転換が求められている。その際、新たな制度の枠組みを用意することはもちろん必要であるが、それを上手に活用できるか否かは、自治体の長や議員、職員、ひいては住民も含めて、現実を直視した意識改革が進むかにかかっている。