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    元少年A 仕事を始めても「酒鬼薔薇らしい」と噂立ち職を転々

     6月11日に発売された元少年Aによる手記『絶歌』(太田出版)。遺族は猛抗議し、世間からは批判が噴出している。著者として公の立場に身を置くことが、世間の大きな注目や批判を浴び、自らの生活を脅かす危険があることも当然理解していたはずだ。それなのになぜ今、彼はこの手記を発表したのか。 Aが強硬に手記を出版した理由は、手記の後書きで綴った「精神崩壊の危機感」が大きかったのだろう。しかし、逮捕から今日までの彼の動向を追うと、それだけではない別の事情も見えてくる。 1998年3月から関東医療少年院に入ったAには、そこで精神科医3人と統括官1人による「育て直し」教育が施された。これは、精神科医や統括官がそれぞれ父、母、兄などの“模擬家族”を演じ、文字通りAを「赤ちゃんから育て直す」という徹底した矯正教育だった。「この手法はAにも功を奏し、一時は母役を演じた女性医師に恋心を抱くまでになりました。破壊衝動と性的快感が結びついていた事件当時と比べ、徐々に通常の思春期男性の精神状態に近づいて行ったんです」(法務省関係者) 2001年になると被害者遺族への謝罪を口にするようになったというAは、2004年3月、法務省に「再犯の可能性はない」と判断され、仮退院する。 6年間という異例の長期入院だったが、矯正教育の結果、21才になったAからは、快楽殺人者の面影は消えていた。しかし、出所後にAを待ち受けていたのは過酷な日々だった。「更生保護施設に入居し、日雇いの仕事も始めたのですが、どこかで必ず“あいつは酒鬼薔薇らしい”という噂が立ってしまうんです。 彼は常に、“いつ正体がばれるか”という恐怖と隣り合わせの日常を送っていました。そのため、不穏な空気を感じるとすぐに仕事を辞め、職を転々としたそうです」(前出・法務省関係者)(写真と本文は関係ありません) 2005年1月に保護観察期間が終わり、更生保護施設を出てからもビル清掃や廃品回収など、日給6000~8000円の仕事で全国各地を漂流する生活に、Aは貧困を極めた。 東京都A市、鹿児島県B市、北海道C市、広島県D市、埼玉県E市、神奈川県F市…。 退院後のAの所在地として、これまで数多の地名が噂されてきた。その全ての地を本誌は訪れたが、多くは噂の域を出ることはなく、実際にAの所在を確認するまでには至らなかった。 しかし、確かにAの存在を感じさせる地もあった。「一時、Aは宅配会社で働いていたのですが、そのときは埼玉県E市にいたという話が根強く出ていました。具体的な宅配会社名も出て、働きぶりも聞こえてきましたからね。 実際、その当時、E市のある小学校では、“Aが近くに住んでいるという情報があり、子供の安全のためにも法務省に情報開示を呼びかけるべきだ”と、PTAが学校に掛け合うという騒動が起きています」(全国紙記者) 事件から何年経とうとも、世間にとって、Aの存在は、怪物に変わりなかった。関連記事■ 作家になりたいと語っていた少年A 18歳で書いた小説の内容■ 酒鬼薔薇 同年代の恋人女性と同棲証言あるも日本脱出は困難か■ 秋葉原アイドルが「ライブ会場で自殺未遂」 騒動の凄惨現場■ 酒鬼薔薇の手記 家族に関する記述だけは敢えて嘘を書いたか■ 少年Aの手記 いかにも文学青年崩れ的な文章でゴースト説も

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    『絶歌』を批判する人に決定的に欠けている視点

    に対して、大変なバッシングが起きている。 もちろんだと思うし、何よりそうあるべきだ。私自身、もともと少年犯罪に対して厳しい態度をとってきた人間なので、発売翌日には本屋に走り、このブログ上で徹底的に叩きのめしてやろうと思ってこの本を購入してきた。要は資料として、だ。 しかし、前回のブログにも示したように、実際に読んでみると、考えていた内容と違った。読めば読むほど、これは、ひょっとしたら意義のあるものなのではないか?という考えが頭をよぎり、(この本は2部構成になっているのだが)第2部を読み終えた段階で、なぜ批判を覚悟で…と言うよりも、批判されることを分かっていたにもかかわらず、大田出版が出版に踏みきったのかも、少し理解できた気がした。 結論から言う。この本の出版も、この本自体も、そもそも元少年Aも、厳しく否定されるべきである。それは前回のブログにも記したとおりだ。 このような出版物を出すにあたって、犯罪被害者に許可をとりもせずに黙って出版はありえない。言うまでもなく、バッシングされるべきだし、今起きている批判は当然のことである。しかし、その点を除けば、批判的意見の中に、私は決定的に欠けている視点が存在すると感じる。そこを提示したことが、この本の意義だと感じているのだが、以下に、この元少年Aの本を批判する方々に『決定的に欠けている視点』を僭越ながら指摘させていただきたい。 前回の私のブログには大変多くのお叱りのコメントを頂いた。それらの批判コメントの中に、「長谷川は、自分の子供たちが被害にあったら同じように言えるのか?」というものがあったが、では、私から逆に問う。この『絶歌』を批判している、自称『正義の味方君たち』に問う。悪をネット上で叩きのめすコメントを書き込み、悦に入っている、そこの貴方だ。 「あなた方は、加害者になったときに、同じように質問してくるのか?」 答えていただきたい。私のブログに汚い言葉でいろいろ書いてきた人間、全員答えていただきたい。もう一度聞こう。答えていただきたい。 「あなた方は、『加害者の側になる可能性がある』のだが、それは考えたことがないのか?」 きわめてシンプルな質問だ。大半の「ええカッコしいの偽善者」はこの質問に対して「考えていない」のだ。住民票をお花畑に変更することをお勧めする。自分は一切巻き込まれないとでもカン違いしているのだろうか? この元少年Aの著書は、前半と後半に分かれている。前半部分、この元少年Aがどのように狂ってゆき、どのような変調を来たし、どのような兆候が見られ、「ごくごくありふれた当たり前の家庭」から、「完全に病気と後に診断される殺人者が生まれる」までの過程を克明につづられている。私がこの第1部で感じた感想、それは… 私の子供たちだって、そうなる可能性がある ということだった。日本中、誰でも子供がいれば感じる気持ちのはずだ。中には、私に「長谷川は独身なのか」とネットをググれば2秒で答えの分かる低レベルな質問をしてきたバカがいたが、私には3人の子供がいる。親として感じたのだ。 元少年Aの家族に、誰でもなる可能性があるのだ。 この視点を、この本は明確に提示しているのだ。同時に、平和ボケした日本人には、この視点がとても足りないのだ。被害者が語り、被害者が涙を流し、被害者の立場を慮る(おもんばかる)ことは、現代の日本ではとても多くのシーンで目にすることがあるのだが、「加害者側」は日本では、くさいものとして扱われ、蓋をされるために何もしゃべることを許されないのだ。 日陰で暮らすしかなくなるのだ。 関係のない人間が寄ってたかってリンチするからだ。 しかし、何故みんな気づかないのだろう?「被害者になる可能性」と「全く同じ数」の「加害者になる可能性」がある、という事実に。批判している人の気持ちは分かるが、もう少し視野を広げるべきだ。 自分は正常だ?いや、子供がそうなる可能性があるじゃないか。 自分はちゃんと子育てしてる?いや、元少年Aの家族もいたって正常だしちゃんと子育てしてる。この本、読んでくれ。 この元少年Aは、のちに国が決めた超専門家たちによって徹底的な分析が行われ、その結果、明確に「病気である」と診断されている。なので「医療少年院」に送致されているのだが、 病気というものは…誰でもなる可能性はあるものなのだ。 カン違いしないでいただきたい。この元少年Aは「殺人鬼」ではなく「病気」だったと診断されているのだ。この判断に文句があるのであれば、それはその診断をした専門家に言ってくれ。私にドーノコーノと言ってくるな。 さらに「被害者の家族のことを考えろ!」というコメントを頂戴したが…もちろん、そんなこと分かった上で、前回のブログは書いている。被害者家族の思いとは、100人に聞いても200人に聞いても同じである。そう。たった一つだ。 もう、二度と同じような悲劇を繰り返させないでほしい。この一点だ。これは全員が同じことを言うのだ。 犯人を恨んでしまう人も多い。生きる気力を失ってしまうことも多い。だが、何を言っても、もう亡くなった人は帰ってこない。被害者家族を救うべく、我々がするべきことは一つだ。 「同じような悲劇を繰り返させないこと」だ。 その為に必要なことは「知識」だ。それも出来るだけ「正確」な「知識」だ。日本では、加害者側からの告白…特に、このように人を2人も殺しておいて病気だと診断され、治療を受け、その後社会復帰している、という人間は、実はほぼ存在しない。そもそも、人を2人殺した段階で、ほぼ死刑だからだ。 しかし、元少年Aは、生きている。確かに存在している。しかも、専門の医師たちが「病気は治った」と判断できた状態で。 この証言は、まぎれもなく、今の無菌状態大好き日本において「極めて珍しい情報源」だ。 この本の第1部には、元少年の人格が次第に壊れていき、どんどん狂っていき、その過程で、どんな兆候が表れたのか、どんな言動になっていったのかを克明に記してある。性的な興奮を求めて、猫を殺し、エスカレートしていく過程などを、とにかく逃げずに描写してある。 皆さんのそばに、似た兆候の人間はいないだろうか? 情報があれば、人間は対処できる。全部とは言わないが、対処できる可能性が広がることは確かだ。元少年Aはまぎれもなく異常状態だった。完全な病気だった。普通の家庭に、異常な少年が生まれただけだ。何度も私のブログで書いていることだが、1億2700万人も人間がいたら『不良品』は存在する。これは事実だ。 私は、メディアにいる人間なので、被害者の味方をすることで、ええかっこしいをするつもりはない。既にそこに悲劇はあった。で、あるならば、その事実から何かを学ばなくて、どうする?被害者家族に同じことが出来るのか?そんな悲劇があったのに、冷静に分析なんてできる訳ないだろう。我々、まだ一歩引いた目線に立てる人間が、冷静に分析しなくてどうする。 私たちこそが、被害者側にも、加害者側にも立たずに、未来の犯罪を減らすために冷静さをもって分析すべきなのだ。少なくとも、私はそう思っているので、正直な感想を書いたまでだ。 この本には、周囲に潜む可能性のある「異常人間」たちを見抜くヒントが多数記されている。読めば、犯罪の予見につながる可能性が高い。それほどリアルに描いてある。 この本の後半には、犯罪予備軍が読めば、「絶対に犯罪なんてしないでおこう…」と感じてしまう、「犯罪者のリアルな出所後」が記されている。これを読んだ直後に「よし!犯罪するぞ!」となる人間はかなり少ないと思う。こちらも、あまりに苦しい状況がちゃんと書いてある。 印税で儲けようとしている、という想像力豊かな人間が多数いるようだが、それもこの本を読めば、ちゃんと書いてある。この元少年Aは金のためにこの本を書いたんじゃない。いや、むしろ、金に執着がとにかく無い方の人間だ。ご遺族への送金か、迷惑をかけた家族への送金にするのだろう。とにかく儲けたくて書いたわけじゃない。それは明確に書いてある。 以上から、私は、出版社のミスは間違いなく糾弾されるべきだと思いながらも、この本は「最低限の意義」は感じられるものとなっている、と判断した。 以上だ。(長谷川豊公式ブログ『本気論 本音論』(http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/)より転載)関連記事■ なぜ被害者「実名」、加害者「匿名」なのか?の答え■ 「ノエル」少年の心と行動を読み解く■ 少年事件を前にして私たち大人は何をすべきか

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    もう匿名「元少年A」のままでは許されないのではないか?

    読売新聞) =2015年6月10日(水)18時12分配信 この記事によると、「太田出版の岡聡社長は「少年犯罪の当事者が当時、どう考えていたかを社会は知るべきだ」と話した。」と言いますが、これに対し、 「次男(当時11歳)を亡くした土師(はせ)守さん(59)は手記出版について「なぜ私たちを苦しめるようなことをするのか理解できない」などとするコメントを出した。土師さんは以前から加害男性側に手記などを出版しないよう求めていたという。男性側から事前の連絡はなかったといい、「先月、彼の手紙を読み、彼なりに分析した結果をつづってもらえ、これ以上はもういいのではないかと考えていたが、手記出版は私たちの思いを踏みにじるものでした」」とのことです。 遺族が怒るのも当然ですね。 遺族の立場からするとこうなりますよね。自分の子どもの殺人の経緯を書かれた本を、公開されれも良いと考える遺族は、ほとんどいないと思います。 「今回の手記出版は、そのような私たちの思いを踏みにじるものでした。結局、文字だけの謝罪であり、遺族に対して悪いことをしたという気持ちがないことが、今回の件でよく理解できました。 もし、少しでも遺族に対して悪いことをしたという気持ちがあるのなら、今すぐに、出版を中止し、本を回収してほしいと思っています。」=小学6年の土師淳君(=当時(11))の息子を殺された土師さんのコメント⇒神戸新聞|加害男性の手記「今すぐ出版中止を」土師さん 神戸連続殺傷事件=2015/6/10 13:01「何事にも順序というものがあり、本来なら当事者である私たち遺族や被害者が最初に知るべき重要な事柄が、このように間接的な形で知らされたことは非常に残念に思います」⇒神戸連続児童殺傷「何のため手記出版か」彩花ちゃんの母コメント全文(神戸新聞)=2015年6月10日(水)19時16分配信  こちらは娘彩花(小学4年=当時(10))ちゃんを殺されたお母さんのコメントです。 自ら本を出す以上、少年時代の犯罪という点で、将来の更生のために与えられてきた「少年A」という「匿名」特権も許されることはないでしょう。 逆に、表現する側の者として、著者である「元少年A」のことを、「知る権利」が国民の側にも出てくると思います。そうでないと、国民は「著者」への批判ができないことになります。 それが「表現の自由」の「自己責任」の帰結です。 今回の書籍「絶歌」の筆者名は、「元少年A」で出してはいますが、自ら匿名で「更生」の機会を得る権利を放棄したも同様というほかありません。 少年Aが自ら出版を持ちかけたというなら、なお一層です。神戸新聞|神戸事件手記、加害男性持ちかけ=2015/6/10 21:07 「加害男性が自ら出版を希望し、仲介者を通じて同社に持ちかけたことを明らかにした。初版は10万部だという」(弁護士紀藤正樹のLINC TOP NEWS-BLOG版 『もう匿名は許されないのではないか?=元少年A「神戸連続児童殺傷事件」手記出版の波紋』より転載)関連記事■ なぜ被害者「実名」、加害者「匿名」なのか?の答え■ 「ノエル」少年の心と行動を読み解く■ オウムの失敗に学んだ「イスラム国」と失敗に学ばない日本

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    『絶歌』に猟奇的犯罪を見た 猛毒にもなればワクチンにもなりうる

     神戸連続児童殺傷事件。その家裁決定文の全文が雑誌に公表された騒動の最中に、人々の不意を突くようにして元少年Aによる手記、『絶歌』が出版されました。そしてその是非をめぐる議論が渦巻いたのです。本稿では、私の臨床犯罪心理の視点から、あの猟奇的犯罪の謎の一端に迫りたいと思います。結論を先取りして書けば、『絶歌』は、猛毒にもなれば、ワクチンにもなりうる、となります。動機なき少年事件の共通項 これから書くことによって、ある人は私を非難し、ある人は「目から鱗」と言うでしょう。それだけ重大なことを書く覚悟を決めていることは、読者にあらかじめ知ってもらわなければなりません。 この神戸事件以降も、動機に了解不能な点が多い少年事件が続発しています。「人を殺してみたかった」、「誰でもよかった」、「達成感があった」などと言う彼(彼女)らは、多くは成績のよい、まじめで大人しい生徒でした。私は加害少年の資料を集め、新しい精神医学・臨床心理学の知見に、日々の実践体験を溶け込ませながら、ある仮説を構築していました。別件の例を挙げて解説を試みましょう。 今年の1月28日、名古屋大学理学部の女子学生(19歳)が主婦を殺害し、「人が死ぬ過程を見たかった」と、その動機を語りました。高校生の時に級友に硫酸タリウムを含ませ、大学入学後に他人の家に放火していたこともわかりました。いずれも「死を見てみたい」との衝動から行われたものでした。 女子大生が使用していたTwitterのアカウントは「thallium123」で、毒性の強いタリウムに、多くの犠牲者を出した日航機墜落事故(1985年)の便名である123が付いたものです。タリウムへのこだわりは特別のようで、ここに彼女の衝動の原点を探ることができそうです。Twitterには、『グレアム・ヤング毒殺日記』という本の画像が載せられ、「実は読んだことがありまして笑笑」(2014年9月23日)と書かれていました。『毒殺日記』(アンソニー・ホールデン著)は、イギリスのグレアム・ヤングが14歳の時から始めた継母などに対する連続毒物混入殺害事件の犯行の様子を綴った本で、1997年に邦訳されています。ヤングが用いた毒物の中にタリウムがありました。 タリウムといえば、静岡県伊豆の国市で発生したいわゆる「タリウム事件」が衝撃的でした。2005年10月31日、高校1年の女子生徒(16歳)が母親に酢酸タリウムを含ませ、意識不明の重体に陥らせたのです。そして母親が毒に侵されていく過程は日記のように克明に記録されていました。彼女は、グレアム・ヤングの『毒殺日記』を愛読していました。彼女の7月3日のブログ(6月27日開設)には、「今日は本の紹介します。グレアム・ヤング毒殺日記 尊敬する人の伝記、彼は14歳で人を殺した。酒石酸アンチモンカリウムで、毒殺した」と記されていました。 これら3つの事件は、偶然のように一本の線でつながるのです。『毒殺日記』が日本で発売されたとき、伊豆の国市の女子高生は8歳でした。彼女は、その後に本に接し、中学生になる頃には、毒物・劇物への傾倒を示していました。名大生が伊豆の国市の事件報道に触れたのは、10歳のときになります。そして『毒殺日記』の存在を知り、同じように読み耽り、傾倒していったのです。 ヤングは小学生の頃から毒物が人体に与える影響に関心があったといわれていますが、そのきっかけは残念ながらわかりません。年齢は8歳から12歳の間であると推定されます。ヤングに魅せられた女子高生と女子大生には共通して学力が高い反面、対人関係では困難さを抱いていたようです。グレアム・ヤングに端を発するタリウムは、日本の二人の前思春期の少女の心を次々と虜にするという連鎖現象を引き起こしたのでした。 昨年7月26日の夜、佐世保市で起きた高校1年の女子生徒(15歳)の級友殺害・遺体損壊事件の場合は、7~12歳の間、母親に連れられて何度か農場体験に行き、家畜の豚を食肉にする過程の説明を受けています。家で孤独を過ごしていた少女は、インターネットで食肉化を調べたことでしょう。そして、動物の内臓の画像に異様な興奮を覚えたのでしょう。解剖行為の空想を繰り返すうちに抑制がきかなくなり、中学生の頃には猫の解剖をするまでにその衝動は高まったのでした。彼女も勉強ができ、中学3年のときには版画の作品で県知事賞を受けるなどの才能を発揮していました。少年Aが太田出版から出した手記「絶歌」 少し遡り、2003年7月1日に発生した長崎男児誘拐殺害事件では、中1の加害少年(12歳)は中学でトップクラスの成績を残していたそうです。8歳の時に友人から股間を強く蹴られ、病院に行っています。蹴られたときに「へんな気持ちになった」と語ったとされ、それから男性性器に興味を持ち、高じて男児の性器へのいたずらを繰り返すようになっていったのでした。 翌2004年6月1日の、佐世保市で起きた級友殺害事件では、小6の加害女児(12歳)が「バトルロワイヤル」、すなわち中学生同士が殺し合うゲームに巻き込まれるストーリーの映画に強い関心を抱いていました。2000年公開の「バトルロワイヤル」は8歳のとき、2003年公開の「バトルロワイヤルⅡ」は11歳のときになります。彼女も、クラスで上位の成績を残していました。このような視点で調べていくと、動機に首をかしげるような少年事件に、一定の法則性があることに気づきます。それらにサディズムやサイコパスといった言葉を当てはめるのは意味のないラベリングに過ぎません。「なぜ?」を問う姿勢を、最後まで崩してはならないと考えています。 加害少年らについて、さらに重要な情報があります。2000年以降、精神鑑定医や彼らを診ていた精神科医たちは、高機能広汎性発達障害やアスペルガー症候群など(発達障害の一カテゴリー)を指摘しており、そのうちかなりの割合で家庭裁判所がそれを認定し保護処分を決定していることです。長崎の事件(2003年)で診断名が大きく報じられたことを契機に、発達障害が犯罪に繋がるとの誤解が広がることが懸念され、以降は、自主的な報道規制がなされてきました。なお、これらの診断名は、2013年の米国精神医学会編纂のDSM-Ⅴへの改訂(日本語版は2014年)で、自閉スペクトラム症に統一されています。 自閉スペクトラム症は、(1)対人関係やコミュニケーションの質的な問題、(2)限定的な興味や関心、この2つの特徴を主とし、これに社会生活上の不適応が伴うことによってはじめて診断の対象となります。併せて適応の程度も記載するよう定められています。固着への階層 いくつかの少年事件をあげて、自閉スペクトラム症が指摘される傾向があること、8~12歳の間に事件につながる強い刺激に曝されていること、といった共通項を述べました。もう一つ、これらに挟まれて重要な条件が存在しています。傍目には教育的な、ときに立派と称される家庭で、幼少期から厳しくしつけられたり、勉強や習い事を強いられたりすることで、子どもらしく伸び伸びと過ごすことができなかったというものです。 多くの少年は、内心親に怯えながらも、可能な範囲で期待に添おうとし、学習などで成果を残してきました。この「やらされた人生」というのは、少年たちによって様々に表現され、たとえばタリウム事件の女子高生はネットの日記に「薇仕掛けの人形師」と題して二重のコントロール下に置かれた自分の姿を描写しています。自覚されるコンプレックスの裏に抑圧された負の感情が、のちに事件行動のエネルギーとして動員されてしまうのだと私は考えています。 自閉スペクトラム症が犯罪に直接つながるわけではありません。三つの階層に分けることで、犯罪生起の仕組みを理解する一助となるでしょう。・第一の層 自閉スペクトラム症の2つの症状(先天性) 第一の特徴である対人関係の質的な問題は、親子だけでなく、友人や教師との関係においても、様々な軋轢を生じさせるリスク要因となります。いじめの被害に遭う場合もあります。また、他人の内面を推察したり、自分が他人にどのように映っているかに思いを巡らせたりすることも苦手で、無頓着になるか、主観と客観がずれてしまうことも多いのです。被害者や遺族の心に響くような反省がうまくできないのも、脳機能に一因があるのです。 第二の特徴である限定的な関心は、一人悶々と考えたり、不安を打ち消すための常同行動を生じさせたりするので、それらもしばしばしつけや指導の対象となり、子どもにとっては強いストレスとなります。このため、愛着や信頼関係の形成がうまくいかないことも起こります。・第二の層 被支配的で抑圧的な生育環境(幼児期から児童期)・第三の層 犯罪につながる事柄との遭遇(前思春期:8~12歳) 例にあげてきた『毒殺日記』や「バトルロワイヤル」、「食肉加工」(解剖)など、衝撃的な事柄との出会いは、それがたとえ一回だったとしても、かなり固定的な執着に展開していくことがあります。「固着」と呼ばれる現象です。自閉スペクトラム症の第二の特徴と関わっており、それはスペクトラムの弱い子どもたちよりも生じやすいものです。固着は、その衝撃的体験によって脳が興奮して喜ぶ、つまり快感ホルモンが大量に放出されるため、脳がその再現を求めて習慣化するという現象です。脳で自動的に進む機能なので、本人の意思や努力だけで制御するのは困難です。これが前思春期に起きやすいのは、第二次性徴に由来する「はじめての性的快感」と、衝撃がもたらす快類似体験が結びついてしまうためだと考えられます。男子の場合には、勃起や精通といった身体の変化として本人の自覚が可能ですが、女子にも類似した脳の反応が伴っていると思われます。 男子の固着は、相手の身体への攻撃を伴う場合には性的サディズムとして、幼児に向かう場合は小児性愛として、物に向かう場合にはフェティシズムとして認知されます。女子の場合は、初期の性的満足が明らかな身体的変化を伴っていないため、同様のメカニズムであっても、本人による捉え方が男子とはやや異なってきます。名大生は、殺害を実行したあとTwitterに「ついにやった」と書き、取調べでは「達成感があった」と述べました。それだけ欲求の深い充足が生じたと解されます。 固着は、その対象を繰り返し想像させます。そしてこの繰り返しが想像をいっそう豊かで、具体的に高め、やがて行動の段階へと移行していきます。行動の繰り返しがさらに強い欲求充足を求め、ハードルを高みへと上げてしまうといった現象が起きます。虫や小動物で試した後で人へ向かうプロセスを辿りやすいのは、脳が欲する快の水準が上がっていってしまうからなのです。元少年Aも固着への階層を辿った元少年Aの場合 さて、このような仮説を持っていた私のところに、『絶歌』が届きました。そして、驚愕の事実を見出しました。それはまさしく元少年Aも、この固着への階層を辿っていたように読み取れたからです。 P22、23に記されていたのは、Aが前思春期から虜になっていた対象です。映画『羊たちの沈黙』に始まり、『週刊マーダーケースブック』、ロバート・K・レスラーやコリン・ウィルソンの著書でした。『羊たちの沈黙』は1991年、彼が9歳のときに公開されました(実際に観たのは、レンタルDVDなどで、もう少し後かもしれません)。『週刊マーダーケースブック』は、1995年、つまり13歳のときから刊行され、第2号ではパリ人肉事件の佐川一政が取り上げられています。ロバート・K・レスラーの『FBI心理分析官~異常殺人者たちの素顔に迫る衝撃の手記~』は1994年、12歳時の発行です。 彼はこう書いています。 クラスの男子が好きなアイドルのプロフィールを覚えるように、僕はキャラの立った殺人鬼ひとりひとりの少年期のトラウマ、犯行の手口、死体の処理方法、逮捕されたきっかけ、裁判の経緯などを片っ端から頭に詰め込んだ。クラスの女子たちがジャニーズとのデートコースを何パターンも考えている間、僕は人を殺す方法を何パターンも考えた。 「透明な存在」と形容するほどに自己感に乏しいAにとって、猟奇的犯罪者と同一視することは、その空想世界を一気に生き生きとしたものに変容させたのでしょう。その歪んだ空想が、現実での出来事と同期したことは、不幸を助長したと思います。彼は、人生が変わった契機を次のように書いています(P35)。 僕の人生が少しずつ脇道へ逸れていくことになった最初のきっかけは、最愛の祖母の死だった。 1992年4月。僕は小学5年に上がったばかりで、10歳だった。 同期と書きましたが、祖母の死が先か、猟奇殺人者への同一視が先か、これは明確にはわかりません。しかし読み耽ったとして列挙された書物は、1994、1995年以降のものですから、祖母の死後だったと考えたほうがよいでしょう。 さて、この本の最大のクライマックスが、「原罪」と見出しがつけられた節にやってきます。「そのこと」は、精神鑑定でも、医療少年院でのカウンセリングでも、誰にも打ち明けることができなかったということです。 彼の言う原罪とは、祖母の死後しばらくして、祖母の位牌の前に正座し、祖母のことを想いながら、祖母の愛用していた電気按摩器を使って性器を刺激し、精通を経験したことなのでした。 僕のなかで、「性」と「死」が「罪悪感」という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった。 10歳時に起きたこの結合が、まさに固着が生じた瞬間となったと理解できます。その日以降、彼は「冒涜の儀式」を繰り返すのです。Aは、「その快楽のドラッグはあまりに中毒性が強く、もうそれなしでは生きていけなくなるほど僕の心と身体を蝕んだ」と書いています。そしてこの頃から、ナメクジ集めを始め、瓶に入れて懐中電灯を当てて眺めながら、「この愛らしい生き物のことをもっと知ってみたい」と思い、解剖を始めました。Aにとって解剖(攻撃=死)の対象は、祖母の代償として「愛らしい」ものだったからこそ、意味があったのでしょう。彼は解剖について「命に触れる喜びを感じた。殺したかったのではない。自分を惹きつけてやまない命に、ただ触れてみたかった」と書いています。 その年の冬、祖母の愛犬だったサスケが死に、そして間もなく、最初の猫殺しが起こります。意を決した瞬間、Aの心身を支配したのが性衝動だったのでした。「死を間近に感じないと性的に興奮できない身体になっていた」と自ら明かします。しかし「快楽はドラッグと同じで耐性がある」と書き、同じ行為では十分なエクスタシーが得られなくなります。中学に上がる頃には飽きてしまいました。次に「自分と同じ人間を壊してみたい。その時にどんな感触がするのかこの手で確かめたい」との思いに駆られ、そのことばかりを考えるようになりました。超えるべきハードルが少しずつ上がってしまうのです。恐らくこの段階では猟奇殺人者の本を読み漁り、具体的な殺人の方法を考えていたのだと思われます。 彼のケースも、本稿で解説した「三層説」に合致するのでしょうか? 私はそうだと考えています。すなわち、(1)自閉スペクトラム症の特徴を持ち、(2)親からの愛を知らずに育ち、社会的には異質感に苛まれ、そして、(3)祖母の死後、電気按摩器を使用して初めての性的快感を覚えてから死と快が結びつく固着が生じた…。もちろんこの仮説は、彼が自閉スペクトラム症であることを調べる客観的証拠によって担保されなくてはなりません。関東連続幼女殺害事件の宮崎勤元死刑囚の場合も、もしかしたらそうなのかもしれません(3つの意見に割れた精神鑑定の結果は、当時、発達障害に対する理解が進んでいなかったために引き起こされたものかもしれないということです)。宮崎元死刑囚は、「殺害行為は嫌い。解剖行為はいいこと」と、何度も私に言いました。 ここであらためて確認させてください。このようなあまりにも悲劇的な三層の連結は、まれにしかおきないこと、つまり、自閉スペクトラム症の子どもが猟奇的犯罪に走ることは滅多にないという事実を、誤解して理解されては困るのです。ただしその逆の論法は成り立つかもしれません。猟奇的なあるいは動機の理解が困難な犯罪が起きた場合、第一の層として自閉スペクトラム症が存在している確率は高いだろうということです。 『絶歌』は、因習的に性的サディズムとして片づけられてきた精神病理を、新たな知見で検証し直す資料としては価値のあるものだと感じます。ただしこれは「一次資料」であり、書いた本人の主観の羅列に過ぎません。一次資料は、犯罪の解明と防止に携わる専門家の目によって咀嚼されてから社会に還元されるべき性質を持つと考えます。 私にとって大きな懸念は、グレアム・ヤングの『毒殺日記』と同じような連鎖現象が今後起きるリスクを孕む点です。Aの描写は現実の犯行をあまりにもリアルに再現しています。そのまま手に取った前思春期の子どもたちにどのような波紋を及ぼすか、予測がつきません。特に、全人口の1~3%程度の割合で存在するとされる自閉スペクトラム症という私たちの仲間は、ここに描かれた世界に衝撃を受け、広義の性がもたらす快と繋がる固着を生じさせてしまうかもしれません。だから、使いようによって猛毒にもなるし、生きたワクチンにもなるということなのです。更生をめぐって 末尾に「被害者のご家族の皆様へ」との見出しで、7ページにわたってお詫びのような文が載せられています。悲しいかな、このパートはAの言い訳のように映ります。 ……でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。 自分の「犯したこと」を書くことへ固着が生じているかのようです。その衝動に向き合い、マネジメントしようとする理性は完敗です。頼もしい理性は、出版することの是非を慎重に検討する姿勢を醸し出したでしょう。あるいは描写をオブラートに包み、優しいものに変換する緩衝材になったでしょう。その兆しが読み取れません。 彼は確かに、同様な犯罪には走っていません。しかし彼の本質は変わっていない…。真の更生は、他人の心を想い、そして自分をも慈しみ、謝罪の気持ちと向き合いながら生かされた命を精一杯に生きられるよう誰かが専門的に働きかけること、その後もソーシャル・サポートを維持することではないでしょうか。彼が自閉スペクトラム症だったとすれば、それは容易なことではありませんが、それでもゆっくり成長する力を信じ続けるべきでした。強い自己愛性を感じさせる本書からは、元少年Aの社会復帰宣言は早すぎたと思います。 また、更生が不十分だということは、この本からある重要な部分が抜け落ちていることによっても示されています。彼は祖母から愛されと強調しますが、親のことは「母親に叱られる」程度で、祖母と対比するために添えられているだけです。彼が本当は愛されたかった親……。どんな辛い経験をもち、その感情とどう向き合ったのでしょう。親子関係の課題から目を背けていては、祖母との甘い記憶、祖母愛用の電気按摩器を性と結びつけた原罪は、払拭されません。 最後に、『絶歌』の最大の問題点を挙げたいと思います。それは、彼がこれを書くことで、あの忌まわしき欲求充足へと回帰してしまわないか、ということです。描きながらリアルな追体験をし、その空想に酔いしれたとすれば、仮封印されていた秘密の箱がまた開いてしまうことも。2000年7月29日に、母親を金属バットで殺害した山口の16歳の少年は、母親殺害のあとシャワーで血を洗い流しているときに射精していたことに気づいたそうです。彼は中等少年院に送られますが、更生を終えたとして2004年3月に本退院しました。しかしその1年半後の2005年11月17日、大阪で27歳と19歳の姉妹を殺害・強姦したのです。裁判長は、アスペルガー障害との鑑定結果を退け死刑判決を言い渡し、2009年7月28日に執行されました。 更生は、誰によってどのように判定できるというのでしょう。関連記事■ 「ノエル」少年の心と行動を読み解く■ 少年の凶悪犯罪に思考停止してしまった新聞報道■ 少年を導く能力を持たなかった普通の大人たち

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    篠田博之が考察 『絶歌』への反発はなぜこれほど広がったのか

     神戸連続児童殺傷事件の元少年Aの手記『絶歌』(太田出版)への反発は予想以上に広がり、いまだに収まっていない。アマゾンの読者レビューを見ると「金になればいいのか?太田出版」などと、著者や出版社への非難があふれている。被害者遺族の悲しみが癒えていないのに、殺人を行った当人が罰せられることもなく、のうのうと社会復帰しているように見えることへの反発、さらにその本が初版10万をほぼ売り切って5万部の増刷という「商売として儲かった」事実も、多くの人の怒りをさらに加速した。 これまで殺人を犯した者が本を著すというのは、私の編集した宮﨑勤死刑囚(既に執行)の『夢のなか』『夢のなか、いまも』もそうだし、秋葉原事件・加藤智大死刑囚も何冊も本を出している。今回、最初に元少年Aが出版を持ちかけた幻冬舎からは、市橋達也受刑者の『逮捕されるまで』も刊行されている。 それらに比して今回の本への反発が大きいのは、たぶん元少年Aが明確な処罰を受けずに社会復帰していることが大きいのだと思う。似た例としては、パリ人肉事件の佐川一政氏のケースがある。彼もオランダ人の女子留学生をパリで殺害し、その肉を食べるという衝撃的な事件を犯しながら、フランスでの精神鑑定で精神障害を認定され、罪に問われることなく日本に送還され、その後社会復帰した。 奇しくも今回の『絶歌』を非難した『週刊新潮』6月25日号の見出しは「気を付けろ!元『少年A』が歩いている!」だった。言うまでもなく、かつて佐川氏を扱った記事のタイトル「気を付けろ!佐川君が歩いている!」をもじったものだ。殺人を犯した者が罪に問われることなく、自分たちと同じ市民社会に復帰していることを指弾したタイトルだ。 今回は、そのタイトルの脇に「遺族感情を逆なでして手記の印税1500万円!」と書かれている。記事の突っ込み具合では同日発売の『週刊文春』に負けているが、『週刊新潮』のこういう市民感情を煽りたてる編集感覚はなかなか巧妙だ。 それは理屈を超えた市民感情で、少年法の精神というものを理屈では理解しているつもりでも、いざ具体的な実例に直面すると釈然としないという多くの市民の感じる気持ちだろう。逆に言えば、我々は、少年法に則った犯罪者の社会復帰というのがどういうものか、特にこの事件のような重大事件の場合について具体的にどのように進行していくのか、今回のように実例に接する経験がこれまでなかったといえる。今回はその初めての体験かもしれない。 被害者遺族が怒って発売中止を訴えるのも、当事者としては当然だと思う。また地元の神戸市などがそれなりに気を配るのもやむをえないと思う。ただ、明石市など行政が書店に販売自粛を匂わせる要請を送ったりするのは、行き過ぎだと思う。出版を非難することと、その出版を行政などの力で封印することとは別のことであることを認識しないと、「出版の自由」を根底から危うくするとんでもないことになりかねない。 幾つかの書店チェーンが販売自粛を決めたことや、地元図書館が閉架などの閲覧制限でなく、本を置くことそのものを拒否したことなども、きちんと議論し検証しないといけないと思う。 そういう出版や販売・閲覧をめぐる今回の問題については、私は共同通信記事のコメントや東京新聞の記事に書いたし、7月7日発売の『創』8月号にも詳述したので、本稿では、もう少し『絶歌』の内容に踏み込んでみたい。 というのも、『絶歌』の構成自体が、元少年に医療少年院でいったいどういう治療がなされたかほとんど書いていないし、それゆえ彼自身が自分の犯した罪についてどう向き合い克服したのか、あまり書かれていないからだ。恐らくそのことも、今回の本が大きな社会的反発を招いた一因だと思う。 例えば元少年Aは、自分の犯した2つの殺人については直接的な記述をすっぽり省いている。彼なりの遺族への配慮なのだろうが、一方で、自分がその殺人行為に突き進んでいく過程での猫殺しやナメクジ解剖については詳細に記述している。特に猫殺しについての描写は、人によっては読むに堪えない部分だろう。それを割愛してしまっては、自分がなぜあの犯罪に突っ走ったか何も説明しないことになってしまうという判断なのだろうが、気になるのは、そうは言ってもその描写が事細かで、書いている者の痛みが感じられないことだ。一見すると、その行為を肯定的に描いているようにも見える。 犯罪を犯した者が、自分の犯行の描写をどう行うかというのは、その人間が自分の罪をどう捉えているか判断する材料になる。例えば私が編集者として11年間つきあった宮﨑勤死刑囚は、言動全体は社会常識から大きくはずれたものだったが、犯行現場について語る際には、「もうひとりの自分」や「ネズミ人間」といった存在が登場し、その「もうひとりの自分」が犯行を犯すのを自分は眺めていたという描写になる。 彼の場合はある種の精神疾患にかかっていた可能性が高いから、それを考慮する必要はあるが、どう見ても、犯行現場の描写に「もうひとりの自分」を登場させるのは、自分を主語にして犯行の描写ができないことの現れだろう。「うしろめたい」という気持ちからの現実逃避である。 逆に、かつて『創』に掲載した奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(既に執行)の手記については、犯行後に女児の遺体を損壊していく様子を克明に描いていたので、編集者としてそのまま掲載すべきか頭を抱えたものだ(それについては拙著『ドキュメント死刑囚』参照)。小林死刑囚が自分の犯した罪を反省しているのかしていないのかは裁判でも論点になった。 ちなみに前述した佐川一政氏も『霧の中』という本を出版しているが、殺害した女性の人肉を食べた後、主人公は「うまいぞ!」と叫ぶ。物理的な意味でうまいというよりも女性を殺害し食べるという行為が異性を支配・所有したことになるという意味合いだろうが、この描写も恐らく読んだ人は「この人は反省していないのでは」という印象を持ったと思われる。 そうしたことを踏まえて『絶歌』を読むと、児童殺害の記述はないのだが、猫殺しや、児童の遺体をめぐっての描写など、この元少年Aは自分の犯罪をどう克服し得たのか、疑問を感じた読者もいたのではないだろうか。実はこのことは、この『絶歌』という本の本質に関わることだ。あちこちにふんだんに「お詫び」らしい言葉がちりばめられているのだが、この本は全体として元少年Aの「自己肯定」の本という印象を受けるのだ。 例えば多くの論者が批判している、元少年が「なぜ人を殺してはいけないのか?」に答えを出す記述だ。元少年はこう書いている。「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」 殺人を犯すと自分も苦しむのだ、というのは、第三者が言う分にはひとつの答えではあるかもしれない。しかし、殺害した本人がそう言ってしまうと、読んだ多くの人は当然反発するだろう。それを言う前に、まず殺された人間や遺族の痛みや思いになぜ想像力が及ばないのだ、というわけだ。この記述に関する部分は、この本を理解するポイントだ。 そして本の中で、この本の執筆に至る動機についても元少年Aは書いているが、自分を突き動かしているのが「生きたい」という思い、「生」への執着だと吐露している。 これもなかなか重要なポイントで、犯行後、少年院に収容された当初「このまま静かに死なせてほしい」ともっぱら語っていたという元少年に、「生きよう」という気持ちを起させた、そのことは恐らく治療の成果なのだと思う。 幼少期に自己肯定を得られなかった元少年が犯罪を犯した後、治療を受けて自己肯定感を持ち、「生きたい」と思うようになった。それ自体は、まさに少年法の精神に則った治療の成果なのだろう。もしかすると今のように社会に復帰してその中で生きたいともがくこと自体も、元少年にとっての長い治療のプロセスなのかもしれない。 ただ、元少年が自己肯定を語れば語るほど、市民感覚からすれば「いや、そのことと自分なりに罪を償うこととはどういう関係になるのか」という疑問が生じるだろう。少年法は恐らく更生を成し遂げることによって本当の償いを行うという精神なのだろうが、『絶歌』を読む限りでは、元少年が「生きたい」という希望を持つことと、罪を償うという一見相反する2つの事柄についてどう整理できているのかが曖昧なのだ。読んだ多くの人が反発を感じるのはそのためだろうと思う。 ある意味では、元少年はまだ自分が解決すべきテーマと格闘しつつある過程なのかもしれない。元少年が社会に出た後、どういう人がどんなふうにサポートしていったかという社会復帰後の事実経過を書いている第2部は、今までこういう記録がほとんどなかったという意味で貴重な素材だと思う。 その意味でも、気持ちはわかるが、この本は置かないと決めた図書館にはその措置が正しいのかもう一度考えてほしい。そしてまた、出版の是非論争だけでなく、犯罪を犯した人間にとって「罪を償う」とはどういうことなのか、この元少年に対してどんな治療が行われ、その成果をどう考えればよいのか、多くの人が改めて議論してほしいと思う。同時に、元少年には、自分の著書がなぜこれほど大きな社会的反発を招いたのか、改めて考えてほしいと思う。 元少年が14歳であの凶悪な犯罪に突き進んだ経過をどう捉えるべきなのか、当時の少年はわかりやすく言えばある種の病気だったのか、もしそうだとすればそれはどうやって克服されようとしているのか。そういう疑問は『絶歌』を読んだだけでは解決できない。 例えばこの本を読んで個人的に驚いたのは、元少年を犯行に駆り立てていく契機になった慕っていた祖母の死、という問題だ。草薙厚子さんの『少年A 矯正2500日全記録』にはそのことが割と詳しく書かれていたが、例えば『文藝春秋』5月号がすっぱ抜いた「少年A家裁審判『決定(判決)』全文」では、本当に簡単にしか触れられていない。 『絶歌』では、その祖母の死がかなり重要なきっかけとして描かれているし、元少年Aが出版社に持ち込んだという幼少期の写真は、その祖母に少年が抱かれているものだ。これとそっくりだと私が驚いたのは、宮﨑勤死刑囚がやはり最初の犯行に至る3カ月前に、慕っていた祖父の死に直面していたことだ。  彼は幼少期の自分への回帰をしばしば語り、その幼少期の表情豊かな写真を、ぜひ載せてほしいと私に希望したのだが(『夢の中、いまも』に掲載)、文中の自筆のイラストでは祖父に手を引かれて歩く自分の姿を描いている。 そしてさらに昨年7月、佐世保市で同級生を殺害し解体した女子高生の場合も、事件の何カ月か前に母親の死に直面している。親しかった人の死が契機になっていることや、殺害後被害者の遺体を解体している点など、これらの事件のあまりの共通性を考えると、それが大きな意味を持っていると考えざるをえない。佐世保事件も元少年Aの事件も、少年法の壁によって詳細な犯行に至る情報が開示されなかったのだが、その元少年が自ら社会に向けて語り始めたというのは、私は記録としては貴重だと思う。 遺族の感情はもちろん理解しなければならないし、本を出版して大金を手に入れた元少年Aを許せないという市民感情も理解できる。しかし衝撃的だったあの神戸の事件を解明するためには、元少年Aに語ってもらうことも、意味のないことではないのではないか、と思うのだ。関連記事■ なぜ被害者「実名」、加害者「匿名」なのか?の答え■ 少年を導く能力を持たなかった普通の大人たち■ 小林よしのり×香山リカ アイヌと差別をめぐる対決対談

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    「ノエル」少年の心と行動を読み解く

     不謹慎な動画を投稿し続け、これまで何度も警察から厳重注意を受けていた15歳の少年が、浅草神社の三社祭でドローンを飛ばすとの発言をインターネット上に投稿したとして、5月21日、威力業務妨害容疑で逮捕されました。彼をここまで暴走させたものは何なのでしょう。やや専門的な考察を含みますが、近年の少年単独で行われた事件に普遍的に指摘できる点も多々あり、その一部を記したいと思います。彼自身が「ニコニコ生放送」で中継した動画やツイッターが大量に残っており、私はかなりの時間を割いてそれらを見ました。 ノエル少年は、誰の目にも奇異に映る「ファッション」を貫いていました。マスクが常に眼鏡の下、鼻を覆う部分にあります。その「定位置」からずり落ちないように、あるいは喋りやすいようにマスクを半分に折り畳んでいますが、口の部分はよく見えるのでプライバシー保持には役立っていません。自宅からの配信で全裸と思われる(立ち上がった時には下半身にバスタオルを巻いていた)ものがありましたが、画面に映り込んだ背景は「そのまま」で、いかにも無防備です。外見上の彼独特の「こだわり」とは乖離している感を覚えるのですが、それは他者からどのように見られているかという視点が欠落しているために生じています。鋭い視線は関心事に固定され、緩やかな動きを見せておらず、視野の狭い特徴もうかがえます。 私たちは一般に、程度の差はあれ、他者の眼差しを気にします。そして「変」に思われないよう工夫をしています。逆に気にしすぎることで悩みが深まる人が多くいるのも実際ですが。 他者の視点で自分を顧みることが苦手な点は、彼の様々な言動によく表れています。ニコニコ生放送では視聴者との間でリアルタイムのやりとりができますが、画面に流れるコメントに過敏に反応し、目に留まった質問には躊躇なく答えてしまうのです。そこに冷静な判断がバイパスしているようには見えません。その結果、プライバシーを自ら曝すことになってしまいました。家族との「けんか」も生中継され、これは家族にとって大迷惑だったでしょう。川崎市で起きた上村遼太君殺害事件の被疑少年の自宅前、上村君の葬儀の生中継をはじめ、他人の迷惑や気持ちへの配慮がうかがえないことは、自己保全ができないという側面と裏腹であると理解することが必要です。 警察との揉め事、「ニコニコ動画」を運営するドワンゴへの苦情申し立て等の動画から、年齢を考慮して一定水準以上の言語能力を有していると考えられます。しかし自分が15歳の少年であるという認識が足りません。立場を顧みず、自分の言い分の正しさに固執し、相手の諭しの隙を突くような外形的理屈、いわゆる屁理屈で攻撃を畳みかけます。彼の用いる言葉にバリエーションの豊かさが感じられません。警察官に対し、「警察手帳の提示が義務づけられています」、「これは任意ですか? (任意なら)拒否します」、「ドローン禁止と明記してないじゃないですか!」、「痛い、痛い、ぼく今、警察に誘拐されています!」等と、限られた言葉を連呼しています。 話は一旦飛びますが、ニコニコ動画の配信が生中継であることは、「何が起こるかわからない」という魅力を視聴者に与える効果があります。また、普段から格差社会に対して不信を抱いている人にとっては、権力の象徴に果敢に立ち向かうノエル少年に感情移入し、応援しながら見守るという状況にもなります。自分では実行できない分を彼に託し、生中継を続けてほしいという期待から、「囲い」(資金提供者)と呼ばれる人たちが現れてきます。彼は大口の囲いを「超越者」と呼ぶなどして、その人たちの特権意識を刺激し、また囲い同士で支援額を競わせるようにしたとの報道も見受けますが、そこまで計画的に行ったようには思えません。仮にそうだとすれば、別の大人の入れ知恵があったのかもしれません。いずれにしても、生動画配信のフィールドで一部の大人が彼を「神」のように奉り、ノエル少年の自己万能感は肥大していきました。彼自身、「神の子」、「ノエル」と刻まれたグッズ等も作成し、それを購入する人も現れました。これは、彼は深いコンプレックスを抱えていることを物語ります。反動形成としてネット配信の世界で「神」というヒーローになってしまったのですが、その過程で視聴者との相互作用が不可欠だったということです。逮捕までの三つの転機逮捕までの三つの転機 私はノエル少年が「ドローンで逮捕」に至るまでに、三つの転機を通過していると考えています。 第一のそれは、昨年10月上旬「ノエル放送局」と題してニコニコ生放送を開始したことです。名門私立中学を退学させられ、公立中学に転校した後、学校にうまくなじめない最中でした(初期の僅かな期間、放送中のマスクは正しく装着されていました)。視聴者に自己中心的で挑発的な言葉を吐き、そのキャラクターが彼を一躍世に知らしめ、この「仕事」への執着が始まったのです。家族は「10月まではいい子だった」という趣旨の話をしているようです。 11月22日に「中学生 驚異のアスペ診断」として、視聴者がノエル少年のネット言動を見て、自閉症スペクトラム指数(AQ)尺度に答えて採点するという動画がアップされました。結果は37点で、カットオフポイント(それを超えると可能性を疑うという基準点)である33点を超えたのですが、彼は「お前ら(視聴者)がアスペだ」と豪語したのです。ほどなくして答えていた視聴者の一人から電話が入り、「ノエルのことを客観的に答えたのであって、アスペはノエルのことだ」と説得するのですが、彼には理解されないままで終わりました。 ここで誤解されないよう念を押しますが、AQ尺度で正確に自閉症スペクトラムを測定することはできません。そして、「アスペ」と差別語のように呼び捨てにすること、ましてや動画にコメントされたような異常者であるかのような捉え方をするのは大きな誤りです。何らかの発達障がいを有する人々の多くは、辛い経験をしながらも、社会の中で一生懸命に生活しています。 第二の転機は、12月3日にYouTubeにアップロードされた「ノエル 家に帰らされPC投げる」と題した動画の中にあります。しばらく家を空けて帰ったところ、パソコンのモニターが無くなっていることに気づき、ひどく落ち込んでいるところから放送が始まります。おそらくニコニコ生放送を止めさせるために、家族がどこかに仕舞い込んだのでしょう。視聴者の冷たい反応に触れ、母親の言葉にも刺激され、徐々に興奮し、絶叫し、台所にいる母親に「返して!」と訴え続けます。興奮が高まると手当たり次第に自分の持ち物を投げつけ、そして台所に行ってマヨネーズをまき散らしました。その様子は、明らかに「パニック」の状態です。予期せぬ不利な事態への遭遇は、彼のような傾向をもつ人にとってはパニックへの琴線とも言える重大なことなのです。この体験が、彼の溜め混んでいた怒りの感情を増幅したと、私は考えています。その後、ノエル少年の生放送は、部屋から外へと湧出し、悪質性が増していくのです。 第三の転機は、4月22日、永田町の首相官邸屋上に落下していたドローンが発見され、すぐに自首逮捕された40歳の容疑者が反原発を訴えるためだった等の供述が報じられたことに関わります。ノエル少年は、4月29日に初めてドローンから空撮を行う生放送に成功し、強い達成感に喚起の声を上げるのでした。この動画中「4月9日に飛ばした際に故障した」と言っていますが、永田町の事件が世間を大きく騒がしたことが彼のモチベーションを高めただろうと推察されます。「どっかの配信者はドローンを飛ばしただけで撮影はしていない」とも言い、記念すべきドローン空撮生配信第一号になったことが、その後の「ドローン撮影放送」へのこだわりを強めたのです。 これらの転機はいずれも、「強い執着を起こさせた」と理解することによって、彼の行動理解の助けとなります。私たちが専門用語で「固着」と呼ぶ現象で、限られた体験であっても、脳に劇的な反応(快感ホルモンの放出)を引き起こし、脳がその再現を求めることで同じ言動が繰り返されるのです。一旦固着が生じるとなかなか解消されにくいという特徴もありますが、丁寧に時間をかけて新しい快体験に接することで、弱めることは可能です。 ここまでノエル少年の簡単な心理分析を試みましたが、性格特徴を纏めると以下のようになります。ここに、三つの転機が加わることでノエル少年の暴走に至ったというのが、私の考察の一部です。・他人の視点に立って考えることが苦手・強いこだわり思考とこだわり行動を持つ・現実世界での柔軟な対人関係が苦手である・会話は理屈の羅列に終始しやすい・予期せぬ事態でパニックに陥ることがある・負の感情を蓄積しており、他人に攻撃的である・低い自尊心の反動形成として、自己愛傾向や自己万能感が強い これらは、先天的な特徴と、生育環境及びそれまでの社会での対人関係が輻輳することによって助長されると考えられます。社会との相互作用の中で何に「固着」を起こすかによって、時には反社会的な行動に走ることがあるのです。 最後に、彼が逮捕に至るまでに「助けられなかったのか?」という観点から検証してみることも重要だと考えています。というのも、公立中学に転校してから、学校は彼の不適応状態を把握していたし、家族は彼が起こすトラブルに困っていたという事実があります。学校と家族が連携し、専門機関の支援を仰いでいたら、ここまで重大な局面を迎えることはなかったのではないか、そう考えると彼一人の問題に帰してしまうのは誤りで、社会全体に自らの眼差しを問う必要性を痛感するのです。それは「囲い」や「生放送視聴者」だけの問題ではありません。関連記事■ ネットで「スイッチが入る」瞬間■ デジタルタトゥーで人生台無し「ネットに匿名性はない」 ■ 川崎殺害で私刑と実況動画アップ疑惑

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    少年を導く能力を持たなかった普通の大人たち

    赤木智弘(フリーライター) インターネット上での生放送を利用して、浅草三社祭でドローンを飛ばすことを示唆したとして、15歳の少年が威力業務妨害の疑いで逮捕された。 この少年は以前から横浜のランドマークタワーでパンツ一丁になったり、講座を受講しては無許可配信をしたりと、迷惑な生放送を繰り返しては警察の注意を受けていた。 今年の2月には、マスコミに混じって川崎市で発生した中学1年生殺害事件の容疑者宅の生配信を行い、これがマスコミで問題行動として報じられ、名前を知られる存在となった。 5月になると、4月に発覚した首相官邸にドローンが落ちた事件に刺激を受けたのか、善光寺の敷地内でドローンを飛ばして落下させ「ドローン少年」と呼ばれるようになった。そして幾度かドローンを飛ばそうとして警察に注意をされ続け、三社祭への参加をほのめかしたところで、今回の逮捕となった。 逮捕後にわかったこととしては、彼は度重なる問題行動から、家族からはPCを取り上げられたり、お小遣いをなくされたりしていたが、少年はネットでグッズを販売したり、活動のサポートを募るなどして、お金を集めていた。そのお金でドローンやPCを購入していたという。 そうしたことから、本人の周囲の迷惑を顧みない活動以上に、彼に資金を与えていた人たちの無責任さが批判されている。ネットの向こうの大人たち 少年の配信を追いかけていたわけではないので、真偽の程は不明だが、ネット上で少年の活動などをまとめた記録を見るに、少年は中学校をドロップアウトして、高校には通っていないという。 学校からはじき出されてしまった少年が、ネットでの生配信を通じて多くの人の興味を引き、お金を集めて自立する。ストーリーラインだけをなぞれば、サクセスストーリーにもなりそうな話が、どうして少年の逮捕という結果を招いてしまったのだろうか? 僕はその原因として、少年の周囲に彼を導くことのできる大人がいなかったことが原因だと考えている。 とはいえ、彼らは決して悪い大人では無かった。彼らは至って普通の大人だった。 幾度と無く警察の厄介になる子供を叱り、PCを取り上げたり、小遣いを与えないようになったのは、親としては当然の態度であったと思う。しかし残念ながら、親としての厳しい対応は、結局は少年を自分を認めてくれるネットの世界に逃げ込ませるきっかけにもなってしまった。自分を認めてくれない家族と、自分を認めてお金まで与えてくれるネットの向こうの誰か。少年がネットの向こうを選択するのは必然であったと言えよう。 では、ネットの向こうの大人はどうだったのか。彼らもまた普通の大人であった。 ネット上では、少年に金銭などを与えていた人たちに対して「大人たちが少年をドローンのように操っていた」と批判されている。「うまいことをいうなぁ」とは思うのだが、しかしそうした大人というのは、ネットに限らず現実世界にも存在して、金のない若者にお金を与えているのである。現実世界ではそうした人たちを「タニマチ」や「パトロン」と呼ぶ。 ネット上のコンテンツにはお金を払わないというのが常識とも言える中で、素人が作ったコンテンツにちゃんとお金を出してくれる大人の存在というのは非常に重要である。そうした意味では、世の中の多くの大人たちよりは、彼らのほうがよほど成熟した大人であったといえるのかもしれない。 だが、それもまた、少年の放送の過激さと引き換えのものだった。彼らは少年の過激な放送にお金を出すことで、少年の過激さを煽る役割を果たした。少年がドローンを飛ばしたのも、騒がれることをしたほうが、多くの人が集まり、お金を稼げると考えたからだろう。そしてその過激さには歯止めが効かなくなった。少年がネットで認められ続け、お金を得続けるためには「過激なネット配信」という仕事を続けるしか無くなってしまったのではないかと、僕は考えている。デタラメが当たり前になったネット環境デタラメが当たり前になったネット環境 僕はインターネットを1994年ごろから利用している。 その頃はまだ、インターネット上にコンテンツが少なかったから、決して有用と言えないコンテンツではあっても、ウェブサイトを開設しているというだけで誰かから注目をあつめることができた。数少ないネット仲間同士の交流も盛んだった。 しかし、徐々にインターネットが世間に浸透し、多くの人が個人で情報発信を行うようになると、そのテクニックは高度化し、素晴らしいコンテンツを作れるごく一部の人しか注目されなくなっていった。 さらに、アフィリエイト等の収入に直接関わりのあるシステムが普及すると、ページビューを集めるために、嘘やデタラメや過激な煽りを意図的に使用する人たちが増えてきた。現在15歳の少年がネットを利用する頃には、こうしたネット環境が当たり前になっていた。彼は注目を得るために、意図的に騒ぎを起こしていたのだろう。騒ぎのための道具が、今回のドローンだった。 しかし一方で、こうは考えられないだろうか? 善光寺にしても、三社祭にしても、なんとか主催側の許可を得ることができなかったのだろうかと。 中学をドロップアウトした15歳の少年が、祭りのダイナミクスを伝えるためにドローンを用いて生中継を行うということを、公式とタッグを組んでちゃんとアナウンスをして行えば、それはとても見どころのある放送になったはずだ。 少年は過激であるためにゲリラ的な放送を続けていたが、これをちゃんとしたビジネスに転化できなかったのかと。そしてなにより、そうした筋道をつけてくれる大人がいなかったのかと。アングラを捨てた「ニコ動」 僕はふと「ニコニコ動画」を思い出した。 ニコニコ動画は、元々はyoutube等の動画投稿サイトから動画を借用して、その上にコメントを流すシステムを提供するサイトだった。 ところが、ニコニコ動画が多くの人に知られ、youtubeへの負荷が増えるようになると、youtubeはニコニコ動画からのアクセスを遮断した。つまりニコニコ動画上で動画が見られなくなった。 そこで、ニコニコ動画は自前の動画アップロードのシステムを提供するようになるのだが、この頃のニコニコ動画は、まだまだアニメの動画が無許可でアップロードされたり、深夜にエロ動画がアップされては消されるような、よくあるアングラ動画サイトの1つとしてしか、ネットユーザーに認識されていなかった。かくいう僕も、当時は東京では見られない地方のアニメを試聴するために、ニコニコ動画を利用していた。 しかしニコニコ動画はアングラであり続けることを良しとはしなかった。JASRACとの包括契約を結んで、JASRACが管理する楽曲を合法的に使用できるようにしたり、ニコニコチャンネルを用意してコンテンツホルダー側がお金をとって動画を配信できる環境を整え、ニコニコ大会議などを通して、様々な団体とのパイプを組み上げてきた。 そして、アングラ動画サイトであったニコニコ動画は、今やネット動画というジャンルにおいて、無くてはならないサイトとなっている。彼はまだ取り返しが付く 少年についても全く同じことが言える。 今はまだ、子供の作った過激な配信であるに過ぎないが、コンテンツを配信したい側と繋がることによって、彼の活動は本格的なビジネスに繋がる可能性もあったのではないかと思う。まだまだ新しい技術であるドローンによる撮影と、その生配信という技術を望んでいる人はどこかにいるはずなのだ。 誰か彼の周囲にいる大人が、彼をビジネスに利用することを考えてあげることができれば、彼にとってもその家族にとっても、幸福な方向に進む可能性はあったと言えよう。 だが、彼の周りの大人達はそうした能力を持たない、普通の大人だった。少年は逮捕され、ちょっとした色が付いてしまった。彼を単純にビジネスの場に立たせるのは難しくなった。 けれども、彼はまだ取り返しの付く年齢だ。今回の件を反省し、多くの人たちと繋がって一緒にコンテンツを作り上げることを覚えれば、いくらでも社会の中で自立することはできるだろう。がんばって欲しい。関連記事■ その「気軽な」書き込みが犯罪です■ 「ネット後発組」が日本社会を後ろ向きに変えている■ 川崎殺害で私刑と実況動画アップ疑惑

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    川崎殺害 被害者が辿った場所を順にスマホ撮影する人も

     川崎市川崎区の多摩川河川敷で中学1年生の上村遼太さん(享年13)が殺害された事件は、加害少年が逮捕されるなど徐々に事件の真相が明らかになってきている。上村さんを失った悲しみは、家族や友人だけにとどまらず、近隣住民などにも広がりをみせている。しかし、悲しみの輪が広がるにつれて、殺害現場には異様な光景が見られるようになったという…。容疑者逮捕から一夜経ち、遺体発見現場では献花に訪れる人たち=28日午前、神奈川県川崎市 2月20日に遺体が発見されてから約3週間。現場となった河川敷には、神奈川県内だけではなく、日本中から多くの人が手を合わせに訪れ、中には涙を流す人もいる。しかし今この地で、驚くべき行動に出る人が急増していた。 花や手紙が手向けられているのは、上村くんの遺体が放置されていた場所ではない。そこから約20mほど川に近い背の低い草の生えた場所に、上村くんは横たわっていたとされる。さらに、そこから10mほどにあるアスファルトの護岸箇所のフェンスのそばに、上村くんが首を切られたときに滴り落ちた血だまりや、凶器のカッターナイフの刃が落ちていたという。 これらの場所を順に巡っては、自身のスマホでひとつひとつ写真に収めていく人がいるのだ。 彼らは、逮捕後に少年Aが「殺害前に、上村くんを全裸にして川で泳がせた」「上村くんのスマホを川に投げ捨てた」と供述したことも理由にあるのか、最後は川縁に立ちシャッターを切っていた。 もちろん、訪れるすべての人がこういった行いをするわけではないが、そういった人はかなりの数にのぼり、まるで現場は順路のある観光地のようになっているのだ。関連記事■ 中1殺害事件、実況動画アップ疑惑と私刑 ネットで広がる波紋■ 川崎中1殺害 少年法適用されるため殺人でも刑期は10~15年■ 中1殺害 逮捕に1週間要した背景に神奈川県警の信用失墜懸念■ 中1殺害逮捕少年「弁護士同伴出頭」と父親証言変化の違和感■ フジ中村光宏アナ母「生野さんがお嫁にきてくれたら嬉しい」

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    川崎殺害で私刑と実況動画アップ疑惑

     神奈川県川崎市の多摩川河川敷で中学1年生・上村遼太さん(享年13)の遺体が発見された事件で、不良グループのリーダー格・A(18才)、Aの中学時代のクラスメートのB(17才)、AとBの1つ下の学年にあたるC(17才)の3人が殺人容疑で逮捕された。 首を刃物で切りつけるという残忍な殺害方法が衝撃を与えているが、さらなる疑惑が話題となっている。 上村さんの死亡推定時刻の2月20日深夜2時頃、ツイッター上で気になるやりとりがあったのだ。(本文と写真は関係ありません) その会話は、Aたちと接点があった少年Dが20日深夜2時39分に、《びーん》と綴ったことから始まる。これに対して、別の少年が《あれ?自殺に追い込ませた?》と問いかけると、Dは《一人死んだ》と返答した。「“びーん”は6秒の動画を投稿できるサイト『Vine』を指していると思われます。今回逮捕された少年の1人が、このサイトのアカウントを持っていました。Dはツイートすることで何か動画がアップされたことを周囲に知らせた。それを見た別の少年が、人の死を想起させられたとなれば、自ずと上村くんとの関連を疑ってしまいます。殺害にまつわる動画や、もしかしたら、Aが上村くんの首を切る瞬間の実況動画だったのかもしれません」(捜査関係者) もしそうだとしたら、「イスラム国を真似た犯行」という説も、信憑性を帯びてくる。 遺体が上村さんと確認されてから、インターネット上には、《上村くんを殺害した犯人はこいつらだ》という真偽不明の情報が流れ始めた。中には、顔写真とともに実名や住所が晒され、ツイッターでリツイート(転送)される事態にもなっていた。ネットメディアに詳しい中川淳一郎氏が解説する。「野次馬精神もありますが、それ以上に、悪い奴をこらしめたいというのがあるんですよね。今回の一件でも、“上村くんがかわいそうだ”“なんとしてでも犯人を追い詰めねば”という正義感から、“ネット私刑”をくだそうとした人が多くいたんです。一方で“おれは情報通なんだ”“犯人の写真を発見したぞ”と優越感に浸りたいタイプもいる」 とはいえ、ネットやツイッターの情報は信憑性が低く、過去には滋賀県大津市で起きた中学生のいじめ自殺で、無関係な女性が“いじめの首謀者の母親”として取り上げられたこともあった。 一方、ツイッターでの情報の拡散が奏功したケースもある。2012年にアイルランドで迷子になっていた犬を見つけた駅員が、写真とともに飼い主を探すつぶやきをすると、みるみる拡散されてその日のうちに飼い主にたどり着いたことがあった。 今回の事件では、上村さんを知る多くの人がテレビや週刊誌の取材にこたえてくれた。Aに対して「報復が怖い」と思っていた人もいただろうが、そこには、ツイッターで拡散していく情報に勇気づけられた一面もあったことだろう。関連記事■ 世界をうならせたツイッター創始者、ナイキ創業者の敗者復活■ 「化粧を落とすと別人」と小6娘にツイートされ笑い者の母親■ 個人投資家にはツイッターと「夜のトレード大会議」が便利■ ネットの名誉毀損や個人情報漏洩 実例を挙げた弁護士解説本■ 金子哲雄氏 ヤフー・トピックスの拡散力の速さと威力を実感

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    少年事件を前にして私たち大人は何をすべきか

    ご意見等々。ただここで一点申し上げたいのは、法務省の「犯罪白書」によれば、1980年代をピークにして少年犯罪は減少しているのであり、殺人強盗放火などの重大犯罪に限って言えば、ピークであった年の四分の一以下まで減少している点である。すなわち昨今少年犯罪が増加又は凶悪化しているという事実はないのであり、少年犯罪の増加及び凶悪化を厳罰化の理由とすることは誤りである。おそらくこれは重大少年犯罪が発生すると、繰り返し大々的に報道されるため、少年犯罪が増加し凶悪化している印象を受けてしまっているのではないかと思われる。 罪を犯した少年を厳罰に処すれば、それで全てが解決するのか。私は、現代の日本社会がどんどん過ちを犯した者に対し寛容性を失っているようで、危惧感を感じている。それは、罪を犯した大人に対しても同じだ。犯罪者のレッテルを押して、社会から隔絶してしまう。理解しがたいモンスターとみなして、「なかったこと」にしてしまう。その人、その少年が今後、やり直し、生まれ変わる可能性があることに期待し、手を差し伸べようとしない。それで本当にいいのだろうか。社会復帰の難しさが再犯率を高めてしまってはいないだろうか。 少年事件を犯してしまった少年は、自分が虐待を受けていたり、ネグレクトされていた等、その生育過程に問題があったケースが多い。私が担当した少年も、再婚した母親から育児放棄され、小学生低学年の頃から毎日ずっと一人でコンビニ弁当を買って食べていた。親の愛情を知らずに育ったため、他者との関係がうまく築けず相手を傷つけてしまった子、自分に自信が持てずに犯罪に走ってしまった子。彼らが必要としているのは、犯した罪に対して刑罰で懲らしめることではなく、もう一度、「育ち直す」機会を与えることなのではないか。もう一度、人から愛されることで自分に自信を持ち、人と信頼しあうと言う関係を学びなおすことなのではないか。マザーテレサは「この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。だれからも自分は必要とされていない、と感じることです。」と言った。私もそんな風に思うのである。 1989年に国連で採択され、1994年に日本も批准した子どもの権利条約は、子どもの「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」を定めている。この少年たちは、果たしてこれらの権利を親から、社会から享受していたのであろうか。罪を犯した少年を目の前にしたとき、私はこの社会の矛盾を感じざるを得なくなる。世の中の矛盾は弱い者へ弱い者へと集中する。しかし弱者である少年は無力であり、この世の中の矛盾を正すことは出来ない。言ってみれば少年事件はこの社会の縮図である。少年達は、わずか10数年前に全く罪のない赤ん坊として生まれたばかりである。私たち大人は、罪を犯した少年を懲らしめることよりも、彼らに「育ちなおす」機会を与え、もっと社会の根本的な害悪と向き合うべきではないだろうか。(弁護士法人 パートナーズ法律事務所 『法律コラム』第4回より転載)関連記事■ いま少年法の理念が揺らいでいる■ 「小4なりすまし」擁護論も登場、炎上続く■ 誰のための「親」なのか ―泣きわめく赤ちゃんと大人たち

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    少年の凶悪犯罪に思考停止してしまった新聞報道

    象づける供述をするようになった。世間がさらに怒りに包まれたのも無理はないだろう。 同時に、私は新聞の少年犯罪報道に、今昔の感を覚えている。ヒステリックに加害少年の人権擁護を書きたててきた新聞がすっかり影を潜めているのだ。そして、実名報道に対する姿勢にも、大きな変化が生じている。 少年法第61条には、加害少年の氏名や写真の掲載を禁ずる条項がある。しかし、かつて新聞は、浅沼稲次郎(当時社会党委員長)を刺殺した17歳の山口二矢(おとや)(逮捕後自殺)や、19歳の連続射殺犯・永山則夫(のりお)(元死刑囚)ら少年犯罪者の実名を堂々と報じてきた歴史がある。容疑者の少年を送検するため、警察車両に乗せる際、ブルーシートで車を覆う神奈川県警伊勢佐木署員ら=横浜市中区 なぜ新聞は実名報道をおこなっていたのか。それは、少年法の総則第1条に根拠がある。そこには、少年法が〈少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して〉定められたものであることが明記されているからだ。つまり、少年法の対象は、あくまで〈非行のある少年〉であり、無残な殺人行為が〈非行〉の範囲であるはずがないと新聞は考えていたのである。それは新聞だけでなく、世間の常識でもあっただろう。 実際に家庭裁判所に送られた加害少年は検察に逆送され、起訴された段階で、刑事訴訟法に基づき公開法廷で裁かれる。法廷には、手錠腰縄(こしなわ)つきで傍聴者の前に少年が現れるのである。 だが、いつの頃からか、新聞は非行を越えたこの少年の凶悪犯罪に対しても実名報道を控えるようになった。いや、それどころか、是々非々で実名報道を続ける雑誌に対して、〈ひとりよがりの正義感〉〈売らんかなの姿勢は許されない〉という憎悪に満ちた社説を掲げるようになった。それまでの自分たちの実名報道を棚に上げ、ヒステリックに非難したのである。 加害少年の利益を過剰に擁護することを「人権」と勘違いした新聞は、思考停止に陥り、それが世の不良たちをのさばらせ、平穏に暮らす少年少女たちの命を危険にさらしていることに気づこうともしなかったのだ。 だが今回、一部雑誌による少年の実名報道に対して、新聞の感情的な批判記事は皆無だった。うわべだけの正義を論じる「偽善」と「思考停止」から、新聞は抜け出そうとしているのだろうか。守るべき真の人権さえ見据(みす)えることができなかった新聞が今後、どんな論調を掲げていくのか、興味深い。関連記事■ 2015年は生き残りをかけて新聞が“二極化”する■ ジャーナリストが権力を批判して何が悪いのか■ あの日を境に変わった私のメディア認識

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    その「気軽な」書き込みが犯罪です

    最所義一(弁護士)「気軽な」投稿の責任 とある掲示板に書かれていた投稿を、他の掲示板にコピペ。 誰もが「気軽に」行ってしまいがちな行動ですが、その行為が重大な結果を招くことがあります。 高裁判例の中には、コピペによって「新たにより広範に情報を広め、控訴人の社会的評価をより低下させたものと認められる」と判断したものもありますので、コピペだからと言って、名誉毀損の成立が直ちに否定されるものではありません。 コピペした投稿が、名誉毀損に該当するような表現であれば、コピペをした人も責任を問われることになります。 名誉毀損罪について定める刑法230条は「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する」と規定しています。 この条文を見る限り、名誉毀損罪は「その事実の有無にかかわらず」成立することになります。 つまり、名誉毀損表現を行った場合には、その記載内容が真実であるか否かに拘わらず、「原則的に」成立することになるのです。真実であることが大前提 名誉毀損表現が、例外的に許される場合があります。 その例外的なケースについては、刑法230条の2に規定されています。 刑法230条の2第1項は「公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったときは、これを罰しない」と規定しています。 この規定によれば、表現内容が、公共の利害に関する事実(1)であり、表現することに公益目的があり(2)、記載内容が真実である場合(3)には、例外的に許されることになります。 さらに、(1)の公共の利害に関しては、同じ条文の第2項に「公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす。」との規定がありますので、人の犯罪行為に関する事実に関しては、その表現行為に公益目的があって(2)、記載内容が真実である(3)場合には、名誉毀損罪は成立しないことになります。 名誉毀損罪の成立に関して言えば、刑法230条の2第2項は、成年者であるか未成年者であるかを区別してはいません。そのため、少年の犯罪行為に関する事実であっても、公共の利害に関する事実(1)に該当します。したがって、その記載内容が、真実である場合(3)には、その表現行為に公益目的が認められる(2)限りにおいて、名誉毀損罪の成立は否定されることになるでしょう。 ただ、同時に、少年法61条は、少年の場合の推知報道を禁止しています。 少年法が、明文で推知報道を禁止している以上、少年の犯罪に関する記載が許容される為には、それ相応の公益目的が要求されることになるでしょう。 公益目的の判断においては、その表現方法や表現内容も判断要素となりますので、表現方法や内容によっては、公益目的を欠くとして、名誉毀損罪の成立が認められるケースも十分に考えられると思います。 名誉毀損罪の成立が否定される為には、まずもって、その記載内容が真実であることが大前提です。仮に、事件とは無関係である人物をあたかも事件に関わった人物であるかのように記載した場合には、名誉毀損罪が成立してしまうことになります。 この場合に、処罰を免れるためには、相当な根拠をもって真実と信じたことが必要ですが、単に、ネット上に記載されているから正しいと信じたという程度では、まず、認められることはないでしょう。裁判所の判断としても、この免責の判断は極めて厳格になされています。背後に「繋がって」いる多数の人背後に「繋がって」いる多数の人 インターネット上の掲示板に投稿する場合、パソコンの画面やスマホの画面を見ながら、投稿するのが通常だと思います。その場合、見ているのは、目の前のパソコン画面や、スマホの画面に過ぎません。 しかしながら、その画面の背後には、何千、何万という人がインターネットを通じて「繋がって」います。 満員の東京ドームのオーロラビジョンに、リアルタイムに投稿した内容が表示されることをイメージして下さい。そのときの観客の驚き、熱狂、叫びを想像してみて下さい。 その熱狂した観客の前に、誹謗中傷を受けた一人の人間が立たされることになるのです。 インターネット上の掲示板へ投稿することの影響は、計り知れません。 名誉毀損行為を行ったとされた場合、その事実について記載することは「犯罪行為に関する事実」に該当することになります。その場合、原則として、名誉毀損罪は成立しません。そうなった場合、今度は、逆に、名誉毀損行為を行った人に対する表現が広く許容されることになります。まさに、逆の立場に置かれる可能性も否定はできません。 私が投稿者を特定した事件で、投稿者は、その動機について「興味があり、広く情報を集めるために投稿した」と説明したケースがありました。このケースは、投稿者が興味本位で行ったケースのようですが、その代償は極めて大きなものとなります。 裁判例の中には、被害者が被った実害の外に、調査費用として100万円程度の請求を認めるものも多数存在しています。 「気軽な」投稿の結果、その代償は、時として、非常に大きなものとなります。 インターネットの発達によって、誰もが気軽に情報発信ができるようになりました。そのことは、非常に素晴らしいことですが、同時に、情報発信には、重大な責任を伴う可能性があること、そのことは、しっかり認識しなければならないと思います。さいしょ・よしかず 弁護士法人港国際法律事務所 湘南平塚事務所所長弁護士(横浜弁護士会所属)。東大農学部卒業後、病院勤務を経て、中央大学法科大学院修了。ITと医療分野に詳しい。ネット上での誹謗中傷、名誉棄損問題に取り組む。関連記事■ 女性専用車両がつくる「断絶」が被害への理解を阻む■ 「小4なりすまし」擁護論も登場、炎上続く■ いま少年法の理念が揺らいでいる

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    容疑者を許すな!─広がる「私刑」の危うさ

    清水 陽平(弁護士) 川崎市の中学1年性の男子生徒が殺害された事件の「犯人(と思われる人)の情報」として、特定の人物の写真や家族の情報などがネットには多数書き込まれています。 「犯人を絶対に許すな」「徹底的に追いつめろ」などの書き込みも散見され、容疑者の画像や情報を投稿したり、それを拡散する人が後を絶ちません。中には犯人の自宅と思われる場所まで行き、住所や写真を掲載するなど「私刑」とも言える行為が繰り広げられています。 逮捕された被疑者らは未成年であり、メディアではこの少年らの氏名等は公表していませんが、ネット上を中心にこのような行為が多くされています。 このような書込みをすることは、実は法的に様々な問題があります。名誉毀損の問題がある まず、実際にネットに書かれた人物が犯人ではなかった場合、特に何の問題もなく名誉毀損が成立することになります。 人の社会的評価の低下をさせることが名誉毀損となりますが、犯人であるとされれば、当然社会的評価が低下することになります。 そして、名誉毀損が成立しなくなるケースとしては、(1)公共性、(2)公益性、(3)真実性、(3)’真実相当性を、いずれも満たすことが必要です。 犯人ではなかったという場合、真実ではない以上、真実相当性があるかどうかという問題になります。真実相当性というのは、真実と信じる相当な理由があることをいうのですが、軽々しく信じるだけでは不足で、相当な証拠をもって信じる必要があります。 「みんなが書いていて犯人であると信じました」とか、「ネットで調べて…」といった程度では全く不足で、これが認められるのはかなりの調査をしたケースです。 したがって、犯人でなければ名誉毀損が成立することになるのです。正しい犯人の情報であっても違法になる可能性 次に、実際に最終的に犯人であることが確定された場合はどうでしょうか。 この場合、一般的には名誉毀損の成立は難しくなってくるとは思います。 しかし、別途、プライバシー権の侵害はあり得ます。犯人であるからどのような情報であっても公開してよいということには、当然なりません。そのため、安易に情報をネット上に流してしまえば、その責任を問われる可能性があります。 特に本件では、犯人が未成年の可能性があるわけなので、少年法61条の問題があります。少年法61条の問題とは 少年法61条は、「氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない」としています。 この推知報道の禁止はネット情報にも適用され得るもので、少年についての推知報道は原則としては違法になります。 ただ、判例上、「保護されるべき少年の権利ないし法的利益よりも、明らかに社会的利益を擁護する要請が強く優先されるべきであるなどの特段の事情が存する場合に限って違法性が阻却され免責される」とされています。 本件においては、たしかにひどい事件だとは思います。しかし、しばしば「少年事件が凶悪化している」とか「少年の凶悪事件が増えている」といったことが言われますが、それはデータ上全く正しくなく、上記特段の事情があるといえるかは何とも言えないところです。 なお、犯人であると認められたということがどういうことかを誤解している人が非常に多いと感じるのですが、これは「有罪判決を受け、それが確定したとき」です。決して「逮捕」が決め手にはなりません。 そのため、現時点で書込みをしている人たちは非常に危ういということいなるのではないでしょうか。 家族の情報については書き込む正当な理由はない さらに、家族等の情報も晒されているようです。 少年が犯罪を犯しているケースでは、生育環境などに問題があるケースはたしかに少なくないという印象はあります。しかし、だからといって家族の情報を晒してよいかというと、そんなことはありません。 家族の情報を晒すことはプライバシー侵害の問題を生じるでしょうし、書き込む内容によっては名誉毀損の問題も生じます。 このように安易な書込みは種々の問題を生じることになります。 また、情報をコピー&ペーストして書き込んだり、リンクを貼るだけであっても責任を問われる可能性は否定できないものです。したがって、自分なりの「正義感」を振りかざした安易な拡散はするべきではないでしょう。  しみず・ようへい 2007年弁護士登録(東京弁護士会)。都内法律事務所、都内コンサルティング会社を経て、法律事務所アルシエンを開設(共同代表パートナー)。2ちゃんねるをはじめとしたインターネット上でされる誹謗中傷への対策、炎上対策のほか、名誉・プライバシー関連訴訟、各種規約・契約書の作成、労務問題等の企業法務についても対応。関連記事■ 「小4なりすまし」擁護論も登場、炎上続く■ 誰のための「親」なのか ―泣きわめく赤ちゃんと大人たち■ 社会が知らない「最貧困女子」の実態

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    いま少年法の理念が揺らいでいる

     少年法の第1条は、「この法律は、少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行うとともに、少年の刑事事件について特別の措置を講ずることを目的とする」としている。 一方、刑事訴訟法第1条は、「この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。」としている。 成人事件対象の刑事訴訟法では、「事案の真相を明らか」「刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現する」という目的に対し、少年法では、「少年の健全な育成を期す」「非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行う」のが目的となっている。 「事案の真相を明らか」という刑事訴訟法の目的が、少年法にないことは、いわゆる前科がつき、レッテルが張られることによって更生の妨げになることを防ぐ意図である。少年法第61条 は「・・・氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない。」とし、いわゆる推知報道・実名報道を禁止している。 また、「刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現する」とする刑事訴訟法の目的に対し、少年法では、「少年の健全な育成を期す」「非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行う」となっているのは、少年法の目的が、刑罰を科すことでなく、「育成」「矯正」「環境の調整」と少年の更生であることを表している。 少年事件は、すべて、まず家庭裁判所に送致され、家庭裁判所の調査の結果、刑事処分が相当であると判断し、検察官に事件を送致(逆送)された場合のみ、刑事訴訟手続きに組み入れられる。それ以外は、保護処分(保護観察・少年院送致・児童自立支援施設等送致)や児童相談所長送致などの処分が行われる。 なお、平成12年の法改正により、従来16歳以上に限定されていた刑事処分の可能年齢が撤廃されたため、犯行時14歳以上の少年であれば、逆送できることになった。また、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪の事件で、犯行時16歳以上の少年は、逆送されることが原則となった。なお、犯行時18歳未満であった少年が重罪を犯した場合には、死刑相当の場合には無期刑とし、無期刑相当の場合でも10年以上15年以下の懲役または禁錮とする。以上のように、少年法は、少年の更生に期待した丁寧な手続きが定められている。 今、少年の更生を期待した少年法の理念や趣旨が、揺らいできている。 少年法の理想は理解できるが、それが現実の事件と照らし合わせた時に、少年法の枠の中で処分することが、適当であると言い難い事件が、続いているのである。つまようじ事件や名大生事件、そして今、世間の注目を集める川崎の少年刺殺事件などの事件に直面した時に、本当にこのままでいいのか? もっと厳罰化するべきではないか? といった意見が強まってくるのである。もちろん、特定の事件によって、全体の理念が揺らぐことがあってはならない。  しかし、特定の事件に限らず、少年法の規定全体が甘いという世論も根強い。これは被害者の立場にたって考えると、加害者である少年が少年法によって守られ過ぎているのではないかとの批判でもある。しかし、この批判は、少年法の目的の少年の更生を、成人の刑事手続きの目的の刑罰を科すことに置き換えようとするもので、少年法の理念や趣旨には、著しく反するものである。この批判が妥当であるとすると、少年法の理念や趣旨を根本から考え直さなければならないのである。まさに、少年法の理念や趣旨が揺らいでいるのである。 さらに、ここにきて選挙権が付与される年齢を18歳に引き下げる、公職選挙法改正案が成立する見込みとなり、民法などとともに少年法の適用年齢も見直すべきとの意見もある。権利と義務は裏表の関係であることからすると、選挙権付与とともに、少年法の対象を18歳未満とするのも自然な流れともいえる。なお、国連で採択された「子どもの権利条約」は、子どもを18歳未満と定義している。 一方、日弁連は2月26日、少年法は現在のまま「20歳未満」を適用対象とすべきだという意見書を法務大臣に提出。対象年齢を18歳未満に引き下げれば、「少年の立ち直り・成長支援と再犯防止を阻害する」と批判している。18歳や19歳の若者の事件が通常の刑事手続きで扱われるようになれば、「犯罪の背景・要因となった若者の資質や環境上の問題点に関する調査・分析」や、少年が立ち直るための「手当がなされないまま手続きが終わることにある」と危惧している。 筆者は、少年法の適用範囲を18歳未満にするのには賛成だが、丁寧な手続きなしに起訴猶予になってしまえば、再犯の危険も高まり、本人のためにも社会の為にも良くないとも考える。悩ましいところである。 このように、少年法の理念や趣旨、適用範囲は岐路に立たされているのである。国民的な議論が望まれる。関連記事■ 自分の言葉で話す大人になりたい■ 「清廉性」による内定取り消しはメディアの自殺行為だ■ なぜ、台湾の若年層は韓国を嫌うのか~現地座談会から

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    なぜ被害者「実名」、加害者「匿名」なのか?の答え

     少し前の弁護士ドットコムの記事に 「佐世保女子高生殺害「報道」のナゾ――なぜ被害者「実名」、加害者「匿名」なのか?」 っていう、ほーーって記事が出てまして…。皆さんご興味あるのか、そこそこ長い間ブロゴスの閲覧数も1位になってましたね。一応、これは僕の分かる範囲なのでお話しできそうです。 まず僕がなるほどーって思ったのは 「そういう風にとらえられるんだ~」 って所でした。ええ。なるほど。確かに、被害にあってるにもかかわらず、被害者は実名報道されて、加害者は20歳未満だった場合、「匿名報道」になりますよね。言われてみれば、被害者の方が報道被害にあっちゃいそうです。 考えたことなかったですけど、今はネットも含めて、色んな情報が悪用されるし拡散されるから気をつけるって意味では、匿名性を強めた方がいいんでしょうかね…。 いえ、これはですね、単純な話なんです。そもそもメディアの報道って…原則が「実名」だから が今回の答えです。すみません、単純で。加害者とか被害者とかあんまり考えてないです。ニュースは実名が基本です。 メディアだとかマスコミだって言っても、その立ち位置って、国民の「知る権利」のためにあるんです。国民は日本中、毎日見回してる訳じゃないですよね?沖縄の人が北海道のニュースってなかなか普通じゃ知れないじゃないですか? でも、例えば、沖縄県に住むAさんが不幸な事件に巻き込まれた、として、そのAさんのご友人が北海道に住んでらっしゃる可能性ってあると思うんです。 そんな遠く離れた地にでも、沖縄で起きた事実が届くように、Aさんのご友人がその不幸をいち早く耳にすることが出来るように。基本はすべての報道を実名でするのがそもそも原則なんです。 じゃあ加害者はって話なんですが、佐世保の件に関しては容疑者が未成年でしたからね…。これは弁護士ドットコムさんに書いてある通りの理由です。はい、少年法61条です。我らマスコミにとても有名な61条です。 個人的には、未成年であってもそこに悲劇はあるし悲しみはあるので、なんでそんなに守らないといけないかな~って思いも当然あったりするのが本音なんですが、少年法がある以上、それに逆らってもしょうがないので、佐世保の事件では… 原則通り被害者は→「実名」 61条があるので加害者は→「匿名」 での報道となっています。 ただ、弁護士ドットコムの記事のラストにあった 「加害者側、被害者側双方ですが、犯罪と被害の背景・原因を検証し、将来の改善策につなげるために、『個人の識別情報』を、社会が必要としているとはいえないと思います」 と言うご指摘は確かにその通りだと思います。容疑者や被害者の顔写真の事を 「がん首(がんくび)」 と僕たちは呼びます。他局に先駆けて「がん首」を取ることは上司から徹底的に叩き込まれます。これも、今の普通の方々の感覚とは違っていると思います。 それが無かったとして、視聴率はコンマ1%も変わらない事でしょう。単なる他局へのあてつけであったりイヤミであるケースがほとんどです。俺たち、取材、進んでるんだぜ~的な。 でも、新聞やテレビ局の「報道セクション」って結構閉鎖的な組織だったりします。なかなか正論ってのはこれからも通らないかも知れないですね。(長谷川豊公式ブログ『本気論 本音論』(http://blog.livedoor.jp/hasegawa_yutaka/)より転載)関連記事■ 自分の言葉で話す大人になりたい■ アナウンサーには「清廉さ」は間違いなく必要です■ 正義を騙る詐欺師…サヨク勢力に気を許すな