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    坂本龍馬が「新国家」に託したもの

    幕末の志士、坂本龍馬はどんな「日本の夜明け」を夢見ていたのか。暗殺される5日前に記した書簡は、この謎に迫る第一級の発見である。あの時代に、幕府や公儀という言葉ではなく、なぜ「国家」という新しい政体を意味する二文字を使ったのか。龍馬が専心した新政府樹立の意義を考えてみたい。

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    龍馬暗殺5日前の書状からにじむ「新国家」への執念と先見力

    することになる。中根は松平春嶽の側近であり、穏健な尊王思想をもち、幕臣や諸藩の重臣とも交流が豊富で、幕末史のすべてをよく知っていたようだ。 中根雪江はのちに『丁卯日記』(丁卯は慶応3年のこと)を記して大政奉還後の京都・朝廷の様子を詳細に書き残した。高い理想と権力闘争とが混交したこの時期の京都政界の内情を我々に知らせてくれるのがこの中根の記録なのである。 中根は慶応4年8月には新政府を辞めて福井に隠遁することになるのだが、明治になって蓑笠に釣竿を持った「釣り人スタイル」の写真を残している(そんな古写真を他に見たことがない)。この写真には新政府内部の権力闘争に対する中根の厳しい不満・批判が込められているように筆者には感じられるのである。 今回見つかった手紙は龍馬の新出書簡として歴史的価値がきわめて高いものであり、越前福井藩と龍馬の関わりなどを含め今後の研究の進展が期待される一通である。手紙の本紙は縦16.3㎝、横92.5㎝。和紙に墨書である。

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    新発見から龍馬の「新国家」構想と暗殺の「黒幕」を妄想する

    績を知っていて、本書簡を重んじていた人物の筆になるものと思われる。文字の用例、字体や和紙の様子から、幕末・明治の付箋のように思われるが、現物をみていないので確かなことは言えない。 さて封紙には、「越前御藩邸 中根雪江様」「御直披」「才谷楳太郎」と書かれていて、これは龍馬の直筆と考えてよいであろう。「藩邸」は、江戸時代中期の新井白石の『折りたく柴の記』にも用例があるので、問題はない。幕末の史料には「貴藩」や「弊藩」などという用語が頻出する。京都の福井藩邸(二条城大手門前)に居た中根にあてて、龍馬が書いた書簡の封紙であることが理解される。 そして龍馬は、封紙には「才谷楳太郎」と署名し、本紙では「龍馬」と書いている。宛名は、封紙は「中根雪江様」「御直披」として中根が直接開封するように指定し、本紙では「中根先生 左右」として、中根の側近・縁者などが見ることも想定している。 つまり、本書簡は、龍馬が「才谷楳太郎」として内々に中根に宛てて書いたもので、さらに中根から周辺の人々、特に龍馬として知らせたい人などにも見せる・読ませることを想定したものである。見る、読むだけではなく、龍馬としてはある計画を実行に移すために行動を起こすことを依頼したものと言える書簡である(詳しくは後述)。まず、そうした点が外見からも確認しうることを指摘しておきたい。 ついでに言えば、龍馬のみならず有名人の書簡は、封紙が外されて、本紙だけになり、本紙が軸装されて掛け軸や巻物の本紙になってしまうことが多いので、封紙が残っていることが、すこぶる貴重である。外見からわかることがらは、とても大事なのである。 内容は、メデイア諸媒体などが伝える通り、ではあるが、行論の都合もあるので、私なりに解説しておく。最初は、「一筆啓上仕候」、どこにでもある一般的な書き出しだが、龍馬は、親族や友人などには、いきなり用件を書き始めることも多い。「一筆啓上仕候」は、慶応3年に限ると、木戸孝允や兄権平、佐々木高行、渡辺弥久馬(斎藤利行)、山本只一郎など、目上で、幾分あらたまった内容に使っているように思う(宮地佐一郎『龍馬の手紙』講談社学術文庫、2003年)。新国家構想の実現へ高揚していた龍馬 本書簡の宛先、中根は龍馬よりも28歳も年上で、春嶽に近い存在なので、この一文からは龍馬の中根へのレスペクト(尊敬)が見られる。そして、この度、春嶽公の御上京は「千万の兵を得た」気持ちだという。これは、来るべき新政権構想を話し合うための諸侯会議のために春嶽が出京することを喜び、それこそ中根のおかげと感謝している。越前福井前藩主の松平春嶽(霊山歴史館提供) この書簡以前に、龍馬は10月28日に土佐山内容堂の春嶽宛の手紙を持って福井に到着した(後藤象二郎宛龍馬書簡「越行の記」高知県立坂本龍馬記念館寄託)。あいにく春嶽本人には会えなかったが、手紙は春嶽の側近などに渡せたし、春嶽からの返事ももらえた。容堂の手紙も春嶽の返事も中身は伝わらないが、知られている歴史的文脈から、おそらく容堂の春嶽への出京依頼に春嶽が許可を与えたものと思われる。 さらに、龍馬は福井で、謹慎中の三岡八郎こと由利公正に逢って、新政権の構想を語り合った。そしてますます、三岡を新政権の財政担当者に招聘すべきと意を強くした。そこで中根に三岡の宥免と出京を働きかけた。 それゆえ「先ごろ直接申上げた三岡の出京、出仕の件は、緊急を要する案件で、どうか早々にご許可いただきたいのです。三岡の出京が一日遅れれば、遅れるだけ、それだけ『新国家』の家計が一日先になってしまうのです。したがってこの件に集中してご尽力をお願いしたいのです」とかなり切実である。新政権の予算・財政は、一にも二にも三岡にかかっていると言っている。 この龍馬の働きかけとおそらく中根やその周辺(春嶽など)の尽力で、龍馬暗殺の一ヶ月後になるが、三岡は12月18日朝廷から参与に任命された。三岡は、主に朝廷の予算・財政を司り、三井や小野などの有力商人や中小の商人などから、御用金(寄付金)を募り、3月2日から閏4月8日まで、895名から16万両以上を集めるのに成功したのである(小美濃清明『龍馬の遺言』藤原書店、2015年)。初期明治新政府の財政を安定させ、戊辰戦争の遂行を可能にしたのは、龍馬・中根等の尽力で三岡が新政府に参画したからということを示しており、本書簡はすこぶる重要である。 なお、「新国家」と書いてある書簡は、この書簡以外にない点(宮川禎一氏の本書簡に関する一連のコメント)も重要だ。「新国家」は、私が思うに、新政権、おそらく、天皇を中心として、徳川慶喜も取り込んだ、新しい朝廷を指すものと思われる。この点で、青山忠正氏は、「新国家」を今後の研究課題としながらも「『あらたな主君』や『天皇』を意味した可能性もある」(産経WEST 2017年1月13日)とコメントされている。 私も現時点では、課題だと思うが、本書簡の追伸の中で、慶喜側近の幕府若年寄、永井尚志と「談じたき天下の議論」がたくさんあると言っているので、龍馬の中では「新国家」=「天下」=新政権=オールジャパンの新政権構想だと思う。そして、龍馬は、この時期、まさに新国家構想が実現可能とみる高揚したハイテンションの最中にあったのではないかと思われる。それゆえ、追伸がまたとても重要だ。龍馬が三岡にこだわったわけ ではあらためて、追伸を見てみよう。「今日、すなわち11月10日に永井玄蕃頭(尚志)の屋敷に出向いたが、あいにく会えませんでした。論じたい天下の議論が数々あって、明日また面会する所存であります」として、どうやら、翌日には永井と議論ができる可能性が高かったようだ。 おそらく、翌日は会おうという永井の色よい返事をもらっていたのであろう。それゆえ、「あなた(中根)も御同行いただければ、実に幸せです」と書く。すなわち、中根にも同行を求め、ここでも2人で、三岡の財政担当者としての出仕を実現しようとしたのだと考えられる。 龍馬がここまで三岡にこだわるのは、龍馬が、財政問題特に貨幣鋳造権を江戸の幕府から京都の朝廷の傘下に置くことで、徳川幕府を有名無実化し、京都の朝廷を新政権として自立させたかったからに他ならない。10月10日の後藤象二郎宛書簡で龍馬は、「江戸の銀座を京師にうつし候事」が重要で「此一ケ条さへ」行われれば「将軍職はそのままにも、名ありて実なければ恐るるにたらす」と言っていること(岩下哲典「坂本龍馬、その天下・国家・異国観」『龍馬の世界認識』藤原書店、2010年)をまさに実現しようとしているのである(前掲、小美濃書)。 龍馬にとって、新国家の中心的課題は財政であり、そのもっとも核心的な部分は貨幣鋳造権であった。だれが新国家の中心であろうとも、貨幣鋳造権さえ掌握すれば、新国家は成立すると考えたのである。 これは実に正しい認識だ。ある国家が独立しているからその国家の貨幣が鋳造される。そしてその国家が信用されるから、その国家の発行する貨幣が流通する。流通すれば財政が安定する。貨幣は国家独立の証であり、国家信用の証である。財政問題が解決・安定すれば、戦争も政治も可能なのだ。これが龍馬が到達した「新国家」なのである。 もちろんこれに気付いていたのは龍馬だけではない。西洋事情に詳しいものであれば、西洋の独立国家がいずれも、貨幣鋳造権を有し独自の貨幣を流通させ、国家を運用している。それは、19世紀初頭の長崎でもよく知られた事実であった。「新国家」で意気投合した龍馬と永井 さてこの「新国家」構想はどうなるのか。書簡の翌日11月11日朝、龍馬は確かに永井と面会した。中根が同行したかは不明であるが、同行した可能性は高い。なぜなら、龍馬と永井が「新国家」に関して意気投合したからだ。 龍馬は、大坂に居た薩摩藩士(元広島藩士)林謙三に宛てた書簡で「今朝、永井の屋敷に行っていろいろ話し合いました。天下のことは、実現するかどうかわからないし、また困った状態で、なんとも言葉にできないでいます。あなたも今しばらく命を大切にしていただきたいが、しかし実は今が大事で、為すべき時は今かもしれません。私も早く方針を定めて修羅場でも極楽でも御供致します」と述べている(前掲、宮地書)。 さらに龍馬は、永井は自分と「ヒタ同心ニテ候」と追伸で書いている。永井と意見がぴったり一致したというのである。いささかユーモアで書いたこの書簡の4日後、龍馬は中岡慎太郎と一緒に京都近江屋の離れ土蔵の2階で、幕府京都見廻組、佐々木只三郎以下に襲撃され、まさに修羅場の中で絶命する。 龍馬の意志を継いだ三岡が、新政府で財政担当するのは龍馬暗殺から約1か月後の12月18日、同月9日の王政復古の直後である。龍馬の暗殺をめぐって様々な風説が飛び交ったことから、新出の本書簡は、中根の関係者などが、誤解が生じかねないと「他見ヲ憚ルモノ也」と朱書きしたのかもしれない。坂本龍馬の新政府綱領八策(複製・霊山歴史館蔵、原本・国会図書館) いずれにしても、本書簡は、龍馬暗殺直前の龍馬の「新国家」構想、実態は全国的な貨幣鋳造権と流通の確立、そのための三岡の新政府入り実現に龍馬自身や中根が奔走していたこと、幕府若年寄永井尚志とも龍馬は逢い、構想を語り協力を求めていたことを示す点、すなわち、オールジャパン政権を構想していた点で興味深い。 なぜオールジャパンでなければならないのかといえば、貨幣の全国的流通には、全諸侯の結集が必要だったからに他ならない。龍馬にとって、慶喜を含めた諸侯のうちだれが欠けてもだめなのだ。「新政府綱領八策」で「○○公、盟主となり」は、誰でもよかったが、だれか欠けてもだめなものだったのである。由利公正と永井尚志の生涯由利公正と永井尚志 ここでは、由利公正と永井尚志の生涯と龍馬との接点を探り、書簡へのさらなる理解を深めたい。まず、三岡八郎こと、由利公正は、文政12年、1829年生まれで、龍馬とは6歳違いである(伴五十嗣郎「由利公正」『日本歴史大事典』小学館、カシオEX-word電子辞書版)。もともと三岡姓で、石五郎とか八郎と称した。明治維新後、由利姓となった。福井藩士である。 横井小楠に傾倒し、富国強兵・殖産興業を念頭に藩財政の立て直しに尽力した。安政元年(1854)には兵器製造掛となり、銃砲・火薬の量産を推進した。また、長崎オランダ商館と交渉して藩内特産物の輸出に業績をあげた。文久3年(1863)5月に龍馬と知り合いになった。同年8月挙藩上洛を強硬に推進しようとして、翌月失脚、4年間にわたって蟄居となる。 龍馬は、慶応3年の10月末に福井で、「大政奉還」後の新政権構想を由利と16時間にわたって話し合い、意気投合した(前掲小美濃『龍馬の遺言』)。そこで、一刻も早く由利の新政権財政担当者への就任を中根などの福井藩関係者や新政権関係者(薩摩・長州等)に働きかけた。 財政の重要性を良く知った上での行動だったが、こうした行動は、同じく財政の重要性を認識する大久保や西郷などにはどのように映っただろうか。「大政奉還」以後の政局は、だれが財政を握るかという観点から読み直すべきかもしれない。 ともかく由利は、王政復古後の12月18日、参与に任ぜられ、財政担当者として新政府の財務を一手に担い、前述したように戊辰戦争の戦費調達に尽力した。また、太政官札など金札の発行も担当し、土佐藩士福岡孝弟とともに五箇条の御誓文原案起草も行った。 しかし、太政官札の評判が芳しくなく、明治2年官を辞した。おそらく、薩長の有力者から疎まれたのであろう。有力な後ろ盾がなく官にはとどまることができなかったのであろう。 その後、同4年には東京府知事に返り咲いた。同5年岩倉使節団に随行、明治7年には、板垣退助らと民撰議院設立建白書を提出した。元老院議官、子爵、貴族院議員、麝香間祗候を歴任した。これらの役職は、実務担当者ではなく名誉職のようなもので、由利にとっては愉快なものではなかったと思われる。明治42年(1909)80歳で没した。 龍馬と由利の福井会談から始まった新政府の財政構想、特に全国的な貨幣鋳造権と流通は明治4年の大坂造幣局の開局・稼働に結実したと小美濃氏は言うが、その通りであろう(同上)。大坂造幣局の印刷機械は、遠くイギリス総督府の香港造幣局から運ばれてきた中古品だったが、その払い下げ情報を知り、入手に尽力したのは薩摩藩士小松帯刀や上野敬介、トーマス・ウォートレスなど薩摩人脈であった。ここでも薩摩が新政府の財政に深くコミットしていることが理解できる。よって立つ基盤が同じ三人 永井尚志に関しては、高村直助氏の『永井尚志』(ミネルヴァ書房、2015年)が、現在最も詳しく、参考になる。その年譜を見ると、さまざまなことに気付く。 永井は、文化13年(1816)生まれなので、由利より一回り年上、龍馬とは20歳ほども違う。慶応3年には52歳の老練な政治家だ。もともと永井は、三河譜代の大名大給松平家の生まれだ。ただの幕臣ではない。大名家から、同じ大名家の加納藩主永井家の分家である旗本永井家に養子に入ったのだ。 俊才ゆえに昌平坂学問所で頭角を現し、弘化4年(1847)小姓組番士となり、嘉永3年(1850)には甲府徽典館(学問所)の学頭に任ぜられた。同6年には徒頭、ほどなく目付、翌安政元年(1854)海防掛兼帯、台場・鋳砲・造船所用取扱、長崎在勤となり長崎に赴任し、さらに翌年長崎海軍伝習指揮を命じられた。勝海舟も永井の指揮下だった。 由利も兵器製造掛、二人とも西洋列強に対して国土をいかに防衛するかを真剣に憂い、具体的方法を模索し実行する困難な実務的役職にあったといえる。龍馬も神戸海軍操練所頭取、勝の塾生であり、由利や永井と同じ基礎教養を身につけていた。そのような三人なのである。よって立つ基盤が同じなのだ。 永井はその後、安政4年には江戸築地の軍艦教授所総督、ついで勘定奉行、翌年外国奉行、神奈川奉行兼帯、安政6年軍艦奉行となるも、免職・俸禄没収・差し控えとなってしまう。文久2年(1862)軍艦操練所御用となり、その後、京都町奉行として困難な京都の治安維持を担った。同3年、禁裏御用となるも、閉門。元治元年(1864)大目付で在京、禁門の変を起こした長州藩への詰問使となっている。 こうしてみると永井は、さまざまな役職を経験しながら、免職や閉門などの辛酸も舐めている。由利も4年にわたる謹慎、龍馬も脱藩して逃亡生活をした時期もあり、三人はそうした点でも共通の話題がある。新たに見つかった坂本龍馬が暗殺5日前に書いた直筆の書状=1月13日 さて長州戦争では、永井は総督、徳川慶勝の目付役でもあった。慶応元年(1865)依願免職、ほどなく大目付、外国奉行兼帯、第二次長州戦争でも広島まで赴いた。慶応3年若年寄格、以後、慶喜の側近として、土佐藩のいわゆる「大政奉還」路線、当時の慶喜の言葉では「政権奉帰」路線への道筋をつけた。 その上での同11月14日の龍馬との会見であった。永井も龍馬の構想に賛同し、慶喜を入れた形のオールジャパンの新政権を構築すべく動こうとしたが、龍馬が暗殺されて、すべての目論見が狂っていった。 結局、慶喜も永井も、いきり立つ大坂城の幕臣や徳川シンパの大名たちを抑えることはできず、鳥羽・伏見の戦いに突入し、慶喜が江戸に去ったあと、永井は紀州藩を頼るが、自力で江戸に帰還し、罷免・登城停止・逼塞を命じられる。その後は、品川沖からの脱走した榎本武揚艦隊に身を投じ、榎本と行動を共にし、明治2年(1869)箱館五稜郭の戦いで降伏、収監された。 明治5年に特赦により出獄、すぐに開拓使御用掛、左院少議官、元老院権大書記官を最後に官を辞した。これらの役職はどの程度実務をしたのかわからないが、永井にとって面白い役目ではなかったようだ。以後文雅に生き、明治24年、76歳で死去した。 慶応3年11月、意見を同じゅうした龍馬は凶刃に倒れ、由利は新政府に出仕、その後辞任。永井は箱館で新政府に対抗した。龍馬が暗殺されたことで2人の運命も大きく変わらざるを得なかった。龍馬が生きていて、由利・永井がともにどのように新政権に関わったのか、もう一つの別の明治維新を見てみたかったように思うのは私だけではあるまい。龍馬暗殺の背後に見える者たち龍馬暗殺の背後に見える者たち さきに見たように、龍馬は、山内容堂と松平春嶽との仲立ちをして、土佐藩と福井藩の藩ぐるみの連携を進め、さらに慶喜側近の永井と意見が一致したことで、慶喜を取り込んだオールジャパンの「新国家」政権を構想していた。おそらく、薩摩・長州の突出を抑える対抗勢力の均衡によりオールジャパン政権を構想したのだと理解するのが自然である。それのみならず、全国的な貨幣鋳造権と流通にはオールジャパンが不可欠だった。鹿児島市にある大久保利通の銅像 ところがこの構想は、それまで政局を主導してきた薩摩・長州の激派(一部の武力討幕派)にとっては、特に長州藩にとってみれば、禁門の変以来敵対してきた慶喜を中に取り込まざるを得ないことは同意できないし、薩摩藩にとっては第二次長州戦争以来敵対してきたあの慶喜に政局の主導権を取られかねないという点でまことに都合が悪く、彼らが主導権を握るためには、このまま龍馬に活動されては問題だと考え始めたと思われる。 加えて薩摩も長州も領内の軍事機密などを龍馬に見られており、というか見せてしまっていた。たとえば薩摩は軍事機密のオンパレード集成館事業、長州は個別の村々での軍事教練の様子や領内の軍事拠点などを龍馬に見られたり、軍艦さえも貸与して運用させており、対旧幕府戦争を想定した時、旧幕府側に龍馬がいれば、それだけでたいへんな脅威になるのである。 したがってこのタイミングで龍馬を亡き者にしたいと思っても何の不思議もない。しかし、自分たちが直接手を下すことは、龍馬のシンパ(土佐藩・福井藩等)を敵に回すことになり、あまりにもリスクが高い。 であれば、龍馬に強い恨みを持つ強力な戦闘組織なり、個人に対して、龍馬の居場所情報を漏らせば、それらが首尾よくやってくれる。そう考えるのが自然ではないかと思う。 かくして、私自身は、龍馬が福井藩や旧幕府側の永井と頻繁に接触しているのに危機感を抱いた、薩摩藩の一部の武力討幕派が、龍馬の居場所を京都見廻組にそれとなくわからないように漏らしたのだと考える。もちろん見廻組独自で情報収集は可能だが、より確実な情報をもとに決行したと考える。 なぜ薩摩藩なのかは、やはり龍馬が自ら薩摩藩士、林謙三に書簡を送って情報をもらしていることから、かく考えるものである。また薩摩藩士、大久保利通が、11月15日入京し、18日には後藤象二郎が入京、23日には薩摩藩主、島津忠義が、岩下方平・西郷隆盛を従え入京、23日には広島藩主浅野長勲が京に入った(井上勲『王政復古』中公新書、1991年)。30日には左大臣近衛忠房、右大臣一条実良が辞任し、王政復古への道が開かれる。すなわち、慶喜を排除した王政復古の道筋が敷かれることになったのである。 龍馬の構想したオールジャパン「新国家」政権は、その死と共に葬られ、薩長と一部の公家中心の王政復古になったことを考えると、龍馬暗殺の背後に薩摩藩等の影を見ることは、そうおかしなことでもあるまい。龍馬暗殺で一番得をしたのは薩長の武力討幕派である。 今回見つかった龍馬の書簡からは、福井藩や旧幕府人脈にシフトしたように見える龍馬の姿が垣間見られ、それを十分に自覚せずに薩摩や長州に無邪気にそれを伝えてしまった龍馬の姿も想像できる。龍馬は多くの人から歓迎されながら、多くの人から狙われる存在でもあったのだ。武力討幕派のスケープ・ゴート、それが龍馬だったのである。龍馬暗殺「実行犯」の動静から龍馬暗殺「実行犯」の動静から  最後に、龍馬暗殺下手人のただ一人の生き残り、今井信郎の動向を新史料から紹介する。坂本龍馬が暗殺された近江屋跡に建つ石碑=京都市中京区 最近幕末三舟の一人高橋泥舟(岩下哲典『高邁なる幕臣 高橋泥舟』教育評論社、2012年)の明治4年の日記「公雑筆記」(岩下・高橋泥舟史料研究会編『高橋泥舟関係史料集』第二輯・日記類二、2015年)を読んでいたところ、今井信郎が泥舟の家に来て酔っ払い、翌朝、詫びに来たことが書かれていた。今井は、箱館五稜郭戦争で新政府軍に捕縛され、龍馬暗殺を自白した。ただし、本人は見張り役であったという。 今井は、明治3年9月に司法省から禁固3年・静岡県預かりになっており、すなわち箱館降伏人として静岡に居住していた。ところが、泥舟の日記によると、明治4年2月10日、今井と連れの1人が、あろうことか泥酔状態で泥舟の家にやってきた。その後、旧幕臣の高月と天野もやってきた。翌日、今井が、昨日は申し訳ないと詫びに来たという。 なぜ、今井が詫びに来るほど酔っていたのか、一緒に来たもう一人が誰なのか、日記の記述だけではわからない。その9日後の19日夕方、今度は山岡鉄舟が静岡からやって来て、その夜に今井と旧幕臣、信太歌之助もやってきたという。何を話したのか、泥舟の日記からは何もわからないが、話は坂本龍馬のことにも及んだかもしれない。泥舟も鉄舟も龍馬とは知り合いだし、ましてや今井は龍馬暗殺の実行犯である。 さらに注目すべきは、今井の刑期が切れるのは、本来、明治6年のはずであるが、2年も前の4年の段階でこのように泥酔してくだを巻くほど比較的自由に暮らしていたことである。他県に行くような大きな移動は難しかったと思われるが、静岡と田中(現在の藤枝市)ぐらいの移動は大目に見られていたのだろう。 また、あくまでも見張り役だったこともあろうが、新政府に逆らって箱館戦争を戦った者への待遇として、静岡藩はまったく緩かったとしか言いようがない。前述したように永井尚志が明治5年まで兵部省糾問所牢獄に収監されていた。この違いはかなり大きいのではあるまいか。 その後今井は、明治5年に特赦を受けたとされるが、実質はすでにほぼ自由の身であった。つまり私は、今井は新政府と何らかの取引をしたのではないかと思う。もちろん証拠はない。しかし、今井が比較的自由に暮らせたのは何か理由がないと説明がつかない。今は指摘するにとどめるが、何か割り切れないものがある。 そしてその後、今井は初倉村(現、島田市)に移り、村長等を勤め、大正7年、1918年まで、77歳の天寿を全うした。 はたして龍馬を暗殺した黒幕はいったい誰だったのか。心は騒ぐが、新たな関係史料が見つかることを祈念したい。そして、2017年の丁酉はどんな時代の幕開けになるのかも、とても気になるところである。

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    坂本龍馬の「アイドル伝説」はここから始まった!

    ったのは、成熟した証しではないか。 歴史人物の人気投票が行われると、必ず上位にランキングされるのが、幕末の「志士」坂本龍馬だ。政財界でも、「尊敬する人」として龍馬の名を挙げる人は多い。それどころか、自分がまるで龍馬の生まれ変わりであるかのように振る舞う人もいる始末。いい年をした大人が現実逃避し、龍馬に理想を託して拝んでいるのも、いかがなものかと思う。坂本龍馬が暗殺された近江屋跡に建つ石碑(魚眼レンズ使用) =京都市中京区 京都において龍馬が暗殺されたのは慶応3(1867)年11月15日のこと。享年33。その翌月には、王政復古の大号令が発せられて徳川政権が消滅し、翌年の9月には「明治」と改元された。 かつて、幕府を倒す運動に参加し、生命を落とした者たちは「逆賊」だった。ところが明治維新の政権交代が行われるや、一転して「志士」として崇められるようになる。 明治の初めころ、「志士」に対する世間の関心が高まるや、幾通りもの「志士」の列伝が出版された。『報国者絵入伝記』(明治7年)、『近世正義人名像伝』(同)、『義烈回天百首』(同)、『近世遺勲高名像伝』(明治12年)などで、大抵は錦絵風の肖像画に、詩歌や略歴が添えられている。 ところが、である。これらの列伝の中に、龍馬は一度たりとも登場しないのだ。安政の大獄で弾圧された吉田松陰や梅田雲浜、桜田門外で大老井伊直弼を討った水戸浪士などは、どの列伝にも紹介されている。だが、現代ならトップ当選間違い無しの龍馬が、「志士」のベスト100にも入っていない。どうやら当時、龍馬はほとんど無名に近い人物だったようだ。 にもかかわらず一躍有名になったのは、龍馬の故郷高知で起こった自由民権運動と深く関係する。明治16年1月より高知の地方紙「土陽新聞」に、龍馬を主人公にした『汗血千里駒』という講談小説が連載された。書いたのは坂崎紫瀾という、自由民権運動の論客である。 そのころ、坂崎は薩長を中心とする明治政府を激しく非難したため、官憲から政治演説を禁じられていた。そこで、坂崎は十数年前に亡くなった、手垢の着いていない龍馬を引っ張り出して来て、自分たちの主義主張を語らせたのが『汗血千里駒』だ。史料による龍馬の正確な伝記を著すのが目的ではないから、我田引水も目につく。龍馬の第一級の史料は百数十通の手紙 坂崎が描く龍馬は「天賦同等の感情に胸の炎を焦しつつ、其門閥を憎み階級を軽んずる勢ひ既になれる折柄」だと、自由と平等を求めて戦うヒーローである。将軍徳川慶喜に向かい「大音声」で「憚る処なく」、大政奉還の決断を迫るといった荒唐無稽な場面もある。そのような上下関係の無い、誰でも政治に参加出来る日本国を、坂崎たちは築きたかったのだ。 『汗血千里駒』は連載完結後、単行本として出版されるや一大ベストセラーとなる。自由民権云々という以前に、講談小説として抜群に面白かったのだろう。こうして龍馬の名は、一躍全国版になった。さらには『汗血千里駒』の亜流のような龍馬物語が量産され、虚像の一人歩きは止まらない。犬猿の仲だった薩長を一喝して手を結ばせたとか、近代国家の青写真である「船中八策」を示したとか、『万国公法』で海難事故を処理したとか、尾ヒレや背ビレも加わってゆく。坂本龍馬(左)と中岡慎太郎の像=円山公園(京都市) 海援隊を率いたことから、日露戦争時には、近代海軍の先駆者といった評価まで加味された。戦時中、高知桂浜の龍馬銅像が供出されなかったのは、海軍のシンボルだったからだという。ならば、終戦とともに龍馬の名は歴史上から抹殺されたかと言えば、そうではない。戦後はまたも自由と平等の先駆者、あるいは平和主義者としてよみがえるから、なかなかしぶとい。 そして、坂崎の遺伝子を受け継いだ作家の司馬遼太郎により、龍馬物語は現代風にアレンジされ、昭和30年代の終わり、ついに大河小説『竜馬がゆく』が誕生する。地位も金も無い若者が、日本を大きく変えてゆく物語は、高度経済成長期のサラリーマンを鼓舞し、学生運動の闘士を奮起させた。あるいはバブル経済のころは、ベンチャーのお手本のごとく語られ、ビジネス雑誌が競うように龍馬特集を組んだりもした。 龍馬の実像を伝える第一級の史料は、なんと言っても本人が書いた百数十通の手紙だ。それらを読むと、巷間流布しているイメージとは、ずいぶん異なる龍馬像が見えて来る。大胆な発想や、ずば抜けた行動力を備えていたのは確かだが、はったり屋で、ずる賢い面も見え隠れする。意外なほど封建的な考えも根深く、藩意識からも抜け出し切れていないし、戦争だって辞す気はない。しかし、そこにこそ時代の過渡期を懸命に生きた、龍馬の人間としての魅力がある。 近年、ようやく史料から龍馬の実像を検証しようといった動きが起こっているようだ。先日も未公開の手紙が見つかったというニュースが、駆け巡った。大人たちもそろそろ、心の中の肥大し切ったアイドルを切り裂き、生身の龍馬に近づいてみる必要があるのではないか。

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    坂本龍馬の船中八策はフィクションだった?

    松浦光修(皇學館大学 文学部国史学科教授)龍馬のもっとも有名な文章とは? 坂本龍馬といえば、「幕末の志士」のなかでは、戦後、もっとも広く知られている人物です。 それでは、「龍馬の書き遺したもので、有名な文章とは?」と問われると、ふつうの人なら、たぶん「船中八策」と答えるでしょう。 それについて、これまでいわれてきたことは、こうです。慶応3年6月、龍馬が長崎から京都・大坂に向かう「夕顔丸」という船のなかで、後藤象二郎と相談し、その結果を、長岡謙吉に書き取らせた文書が「船中八策」である……。 もちろん、その文書を「船中八策」と呼ぶようになったのは、ずっとあとの大正時代になってからのことですが、龍馬といえば「船中八策」を連想するのは、ずいぶん長いあいだ、日本人の常識のようになってきました。それはいったい、どのような文書なのか、まずはその全文をあげてみましょう。 いわゆる「船中八策」一、日本全体の政権を、まずは朝廷にお返しし、政治上の命令は、すべて朝廷から出るようにしなければなりません。一、上・下の議政局という議会を設けて、それぞれに議員を置き、政治上の重要な問題を決めるさいは、必ず議員たちで議論するようにし、すべての政治上の重要な問題は、公に開かれた議論によって、決定されるようにしなければなりません。一、有能な公家や大名、あるいは世の中のすぐれた人材を、顧問というかたちで引き立てて、官職や官位を与えます。その一方で、かたちばかり残っていて、中身のない役職は廃止しなければなりません。一、外国と交際する方法は、広く国際的に認められているものにしたがい、さらに、これからは、そのことについても、新しく道理の通った規則をつくっていかなければなりません。一、わが国に古くからある法律を参考にしつつ、しかし新しく、永遠に通用するような大典(憲法)をつくらなければなりません。一、海軍は、増強しなければなりません。一、皇室に直属する軍隊を設置し、天皇さまのいらっしゃる都を、大切にお守りしなければなりません。一、金・銀の値段は、外国と等しいものになるよう、法律で定めなければれなりません。特別展覧会の会場に設置された坂本龍馬像 =2016年10月14日、京都市の京都国立博物館 以上の8つの策は、今のわが国の情勢と、世界の国々のありさまを考えると、もはやこれ以外の方策で、急いでわが国を救う方法はない、とさえ思われるものです。もしも、これらの策を断行するなら、天皇国・日本の運命は、ふたたび盛り返し、わが国の勢いが世界に拡張していき、やがて今の世界の列強と対等の国になる……ということも、むずかしいことではないでしょう。そこで以上のことを、どうしてもお願いしたいのです。公平で明確で、そして正しく大きい道理にもとづき、一つの大英断によって、全国の人々とともに、わが国を一新してまいりましょう。  なるほど、これなら誰しも「卓越した議論」(松浦玲『坂本龍馬』)、「卓抜な議論」(佐々木克『坂本龍馬とその時代』)などと、たたえるほかない内容です。さらに、今のところもっとも新しい『坂本龍馬全集』(増補四訂版)でも、こう、たたえられています。「船中八策」は「薩土盟約」や「大政奉還」に関する建白書」の「基案となり、明治維新政府の綱領『五箇条の御誓文』にもつながり、維新史上、注目すべき文書である」。 こうした見解を受けてのことでしょう、今は学校教育の現場でも、「船中八策」が高く評価されています。たとえば、日本史の受験勉強でおなじみの『日本史用語集』(山川出版社・平成26年版)にも、「船中八策」という項目があり、そこには、「坂本龍馬が一八六七年に起草した国家体制論。上下議政局からなる二院制議会と朝廷中心の大名会議が権力を持つ統一国家構想。八カ条にわたる」とあります。「船中八策」はフィクションだった?「船中八策」はフィクションだった? ところが、この「船中八策」という文書……、じつは今、かなり〝あやしい”といわれはじめているのです。なにしろ「原本」がありません。「原本を読んだ」という同時代人の証言もありません。また、その文中に「どうしてもお願いしたいのです(原文・「伏して願わくは」)」とありますが、いったい龍馬が、誰にそのようなお願いをしているのかも、じつはよくわかりません。 そのため、これまでにも「いわゆる『船中八策』の謎」(松浦玲『坂本龍馬』)という言い方をする研究者もいたわけですが、いずれにしても「まさか、ニセ文書というわけでもなかろう」というのが、これまでの研究者の通念で、私自身も、つい最近まで、そう思っていました。ところが平成25年、知野文哉さんという方が、『「坂本龍馬」の誕生│船中八策と坂崎紫瀾』という本を出版され、この本によって、それまでの研究者の通念が、根底からくつがえされてしまったのです。 その本の「著者紹介」によると、知野さんという方は今、東京のテレビ局勤務の方だそうですが、幼いころからの「龍馬好き」が高じて、本務のかたわら、今、大学院の通信教育で日本史を勉強されているそうです。知野さんが書いたその本は、私が読むかぎり、今、世間でしばしば見られるような歴史学の素人による、奇をてらったトンデモ歴史本ではありません。 今の世の中、明治維新や志士を否定的に語り、口汚く罵る本が、かなり出回っています。それらの本のせいで、幕末の志士たちを、平気で「テロリスト」呼ばわりしている人々もいますが、それは、かなり幼稚で、しかも粗雑な歴史認識です。幕末の志士たちは、何の関係もない一般市民を無差別に殺傷したりはしていません。そういう志士たちを、平気で「テロリスト」と呼ぶ人々は、たとえば、大東亜戦争中の「特攻」とイスラム過激派の「自爆テロ」の区別も、たぶんできない人々なのでしょう。 かつて小林秀雄は、「明治維新の歴史は、普通の人間なら涙なくして読む事は決して出来ないていのものだ」(「歴史と文学」)と書いています。「涙」とまではいかなくとも、たしかに「普通の人間」なら、たとえ薩長側の人物に対してであろうと、幕府側の人物に対してであろうと、その人が、その人なりの「義」に生き、戦い、散ったのであれば、わけへだてなく哀惜の念くらいはもつはずです。それこそが日本人で、その点、いつまでも「恨み」つづけることをよし、とする民族とはちがいます。そういう意味で、今の日本には、「普通の人間」ではない人が、増えているのかもしれません。 話をもとにもどします。知野文哉さんの『「坂本龍馬」の誕生―船中八策と坂崎紫瀾』という本は、今どき、よくあるトンデモ歴史本ではない、というお話をしました。 その本は、関係する文献を広く、かつ誠実に調査し検討し、冷静に考証し、結論も、おおむね妥当です。さらにその本には、詳しい「注」までついていますから、それは、読み物というかたちはとっていますが、「歴史学の専門書」といってよいでしょう。もうひとつの「八策」 詳しい考証の過程は、その本を読んでいただくとして、ここでは、知野さんの本の結論の一文のみを引用させていただきます。 「坂本龍馬は、船中八策という文書は作成しておらず、船中八策は、明治以降の龍馬の伝記のなかで、しだいに形成されていったフィクションである」(同書)とはいっても、知野さんは、何もその文書に書かれていることが、まったく龍馬の考え方から、かけはなれている……といっているわけではありません。知野さんは、こうも書いています。 「『船中八策』がフィクションであるにしても、それは龍馬が後藤に対して、大政奉還を建言しなかったということではないし、『船中八策』に記された国家構想が龍馬と無関係なものであることも意味しない。極端な話、『船中八策』自体は存在しなくても、龍馬が全く同内容のプランを『口頭』で後藤に建言した可能性だってあるのである」(同書) つまり、その文書そのものは龍馬が書いたものではないが、しかしそこに書かれていることは龍馬の考え方そのものということになります。ややこしい話ですが、つまり、龍馬のことをよく知っている人なら、「なるほど龍馬なら、こういうことを考えていただろう……」と思わせる文書が、いつのまにか「龍馬自身が書いたもの」に化けてしまった……という話です。 それにしても龍馬が、長崎から京都・大坂へ向かう夕顔丸という船のなかで、近代日本を先取りした画期的な国家構想を、滔々と語り……サラサラと書き取らせるという名場面は、知野さんの考証によって、じつは「事実ではない」ということになったのですから、龍馬が好きな人にとっては、いささかガッカリかもしれません。しかし、そのようなことは、歴史学の研究をしていくと、しばしばおこることです。 私自身も、かつて「明治維新の思想的リーダーの一人」のようにいわれていた学者・思想家について、十数年も研究したあげく、たどりついた結論が、「どうも……そうではないらしい」ということになった経験があります。自分が長年かけて苦労して導いた結論ながら、いささかガッカリしたものです。坂本龍馬の新政府綱領八策 しかし、「船中八策」が「フィクション」ということになると、本書は、タイトルに『龍馬の「八策」』とうたっているわけですから、読者のなかには、「看板に偽りあり……ではないか」と思われる向きもあるかもしれません。しかし龍馬には、「船中八策」のほかに、じつはもう一つ、タイトルに「八策」という言葉を入れて呼ばれている有名な文書があるのです。それは今、一般に「新政府綱領八策」(あるいは「新政府綱領八義」)と呼ばれています。 もちろん、この文書のタイトルそのものは、「船中八策」と同じく、後世の人がつけたものですが、以下、本書では、そのもう一つの「八策」を「新政府八策」と呼んでいくことにします。なにしろ、「新政府綱領八策」のほうは、日付も署名も、しっかり入った龍馬の筆跡の文書が、2つも残っているのですから、これは、まちがいありません。(中略)「龍馬アホ説」龍馬アホ説? ちなみに、近ごろは「新政府八策」まで龍馬の「発案」ではない、などといっている歴史学者もいます。その理由は、こういうものです。龍馬の「文体は、同時期に一般的であった書簡様文体と比較して、異様」で、それは「彼の学習経歴から見て、書簡様文体を使いこなせなかったため」にちがいない。つまり龍馬は、「国家の政体構想にかかわるような抽象的な概念を、完全には理解」できない男であり、「坂本は、その文体と言語において、抽象的な概念を駆使することはなかった。意図的にそうしたわけではなく、必要であるべきときでも、できなかったと見るべきである。この意味からすれば、いわゆる『新政府綱領八策』なども坂本の発案とは考えにくい」(青山忠正『明治維新の言語と史料』)。 これは暗に「龍馬には、そんな高級なことを提案できる知能はなかった」といっていることと同じです(以下、これを「龍馬アホ説」と呼びます)。しかし、この「龍馬アホ説」は、その前提からしてまちがっています。 おそらく今の日本の歴史学者で、龍馬の手紙に関する研究で、もっとも成果をあげているのは、宮川禎一さんでしょう。その宮川さんは、龍馬が慶応3年6月24日付で、兄・権平にあてた手紙について、「手紙文の定型」を守っているとしつつ、こう断言しています。「これを読めば、龍馬が定型的な手紙文を、書かなかったわけではないことがわかる」(『龍馬を読む愉しさ』)。また、平成28年、京都国立博物館の特別展覧会で、「現存する最古の龍馬の手紙」(相良屋源三郎にあてた安政3年9月29日付のもの)の実物が初公開されています。これも、当時としては「常識的」な礼状です。「書簡様文体を使いこなせなかった」というのが、「龍馬アホ説」の前提ですが、その前提が、そもそも成り立ちません。 その上、たとえば龍馬は、慶応3年4月23日の夜におこった海難事故(「いろは丸沈没事件」)にさいしては、『万国公法』を手に入れています(慶応3年5月11日付の秋山某あての龍馬の手紙)。そして、それにもとづいて事故を処理しようとしているのです。結果的に、その事故処理はみごとなもので、船乗りたちから、日本の航路規則を定めたものとたたえられ、その詳しい経緯を聞きに来る人も、たくさんいました(慶応3年6月24日付の坂本権平あての龍馬の手紙)。そもそも「抽象的な概念」を「駆使」できない「アホ」に、そんなことができるでしょうか。疑う必要のないものまでを疑う ただし、「龍馬アホ説」には、逃げ道が用意してあります。「発案」ではない、という言い方です。「新政府八策」は、龍馬の署名入りの自筆の文書が、複数残っています。ですから、いくら「龍馬アホ説」を唱える人でも、「龍馬が書いたものではない」とはいえないので、龍馬の「発案」ではない、という微妙な言い方になっているのでしょう。岬神社内の坂本龍馬像 =京都市中京区 しかし、そもそも政治的な「発案」に、完全に個人のオリジナルといえるものが、はたして、どれほどあるでしょうか。たとえば、「大政奉還」という「発案」は、少なくとも200年ほどにわたる無数の人々の学問的・思想的な蓄積があって、はじめてかたちになったものです。 ある政治的なアイデアの「発案者」が、ある「個人」に厳密に限定される……という例は、歴史上、それほど多くはないでしょう。たとえ独創的と思える「発案」でも、その背後には、さまざまな学問と思想の、長い歴史的な積み重ねがある……というのがふつうです。 その上、「新政府八策」に書かれていることは、そのころの政治家たちからすれば、それほどビックリするような内容ではなく、その当時は、ある意味ではふつうの政権構想で、また、そうでなければ、さまざま政治勢力の合意形成など、そもそもできなかったでしょう。もしも龍馬が、そのようなふつうの政権構想さえ「発案」できないような「アホ」であるなら、どうして、そのころ幕府、薩摩藩、長州藩、土佐藩、越前藩など、さまざまな政治グループの中心にいる人たちが、生きるか死ぬかという緊迫した政治状況のもと、あれほど龍馬を信頼し、重んじたのでしょうか? 常識的に考えて、ありえない話です。「龍馬アホ説」にもとづいている「新政府八策は龍馬の発案ではない」という見解は、私には、今のところいいかがりとしか思えません。 もちろん歴史の研究をする上で、それまでの通説を疑うということは、大切なことです。しかし、疑う必要のないものまでを疑うというのは、よくありません。そんなことをしていると、かえって人は歴史の真実から、どんどん遠ざかっていくのではないでしょうか。 「過ぎたるは、なお及ばざるがごとし」(『論語』)という金言もあります。 まつうら・みつのぶ 皇學館大学 文学部国史学科教授。昭和34年、熊本市生まれ。皇學館大学文学部を卒業後、同大学大学院博士課程に学ぶ。現在、皇學館大学文学部教授。博士(神道学)。専門の日本思想史の研究のかたわら、歴史、文学、宗教、教育、社会に関する評論、また随筆など幅広く執筆。著書に、『【新訳】南洲翁遺訓──西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え』『【新訳】留魂録──吉田松陰の「死生観」』『【新釈】講孟余話──吉田松陰、かく語りき』(以上、PHP研究所)、『大国隆正の研究』(神道文化会)、『やまと心のシンフォニー』(国書刊行会)、『夜の神々』(慧文社)、『日本の心に目覚める五つの話』(明成社)、『日本は天皇の祈りに守られている』(致知出版)など。関連記事■昭憲皇太后の夢にあらわれた坂本龍馬の「留魂」■西郷隆盛はなぜ西南戦争を戦ったのか■長州男児の肝っ玉・高杉の功山寺挙兵

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    坂本龍馬フリーメイソン説、日本代表者の見解は?

    側が戦っていますが、両者にメイソンがいます。彼らは昼間戦い、夜はロッジで談笑することもあります。──幕末の志士・坂本龍馬はフリーメイソンだったスコットランド出身の商人、トーマス・グラバーに操られており、明治維新はメイソンによるクーデターだという陰謀論が日本では有名ですが……。 猪俣氏:あくまで一次資料を欠く推測で根拠がありませんが、逆に坂本龍馬がメイソンではなかったという証拠もない。ロマンは残しておいていいかなと思います(笑)。関連記事■ フリーメイソン 安倍内閣にもメンバーがいた■ 鳩山太郎氏「何を隠そう、私はフリーメイソンです」■ フリーメイソン 「昇級」に必要なこととは何か■ 「秘密のある結社」フリーメイソンは震災支援も行う■ 東京タワー近くのフリーメイソン日本総本部に潜入

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    坂本龍馬 逸話と一致する点が多く「ADHDだった」説も

    物に付着する寄生虫卵から、中間宿主である魚の種類までわかるようになっている。 死に至る病ではないが、幕末志士の坂本龍馬はADHD(注意欠陥多動性障害)であったとする説がある。ADHDとは発達障害の一種で、集中できない、じっとしていられないなど感情のコントロールができにくいケースがある反面、類まれな行動力や創造性を発揮するという特徴がある。これが、龍馬の逸話と一致する点が多いのだ。 こうしてみると、病が歴史の変化をもたらした事例は枚挙に暇がない。病は歴史を揺り動かしてきたと言える。足利尊氏は、矢傷からの細菌感染により52歳で世を去った。南北朝の動乱を長引かせた尊氏の突然の死は、尊氏だけでなく日本の歴史にとっても予期せぬものだったに違いない。 歴史に「たられば」が許されるなら、という夢想話で名前が挙がるのが武田信玄であろう。天下にその名を轟かせた信玄だったが、胃がんと思われる病で急激に体調を崩し、まさにこれからというところで51年の生涯に幕を下ろす。 それが武田家にとってどれほどのことだったかは、信玄自らが「没後3年の間は秘匿せよ」と遺言を残したことからも想像がつく。事実、武田家は信玄の死後10年も経たず滅亡した。 信玄が病に斃れなければ、死の2年後に起きた長篠の戦いで織田・徳川連合軍に惨敗する結果とはならなかったかもしれない。長篠の戦いを率いた子の勝頼は、有名な織田の「三段銃陣」に対し正面突破する戦略で甚大な被害を受け、武田家滅亡のきっかけを作ったが、戦略家の信玄が健在だったら別の選択をした可能性は十分あるだろう。関連記事■ 武田家16代当主「『真田丸』は勝頼公自害の回だけ見てない」■ 信玄(甲斐)と謙信(越後)の2人の銅像が建つのは何県か?■ 『少女に何が起ったか』『101回目』他 あまちゃんの小ネタ■ ふるさと納税でモンテディオ山形社長に 選手に訓示もできる■ “美のカリスマ”武田久美子 美しすぎる43才の肢体を独占撮

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    幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!

    し」 嘉永5年(1852)、薩摩藩は鉄製大砲などを鋳造するための反射炉の築造に着手しました。その際、幕末きっての開明派と謳われた薩摩藩主・島津斉彬は、技術者たちを一堂に集めて、そう激励したといいます(『島津斉彬言行録』所収)。 反射炉といえば、薩摩や韮山(静岡県伊豆の国市)のものが有名です。しかし、最初に築いたのは、実は佐賀藩でした(嘉永3年〈1850〉)。当時、佐賀藩の大砲鋳造成功を聞いた斉彬は、「佐賀人」を「西洋人」と並べて、「西洋人も佐賀人も同じ人間である。我々薩摩人にできないことはない」と藩士たちに呼びかけ、鼓舞したのでしょう。 幕末、近代化を推し進めた藩といえば、薩摩藩などを連想する方が多いかもしれませんが、冒頭の斉彬の言葉が示す通り、佐賀藩こそが「近代化のトップランナー」だったのです。 昨年平成27年(2015)にユネスコ世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成要素の中に、佐賀の「三重津海軍所跡」が含まれています。佐賀県の三重津海軍所跡。昨年、世界遺産に登録された(写真提供:佐賀県) その他にも、佐賀市内には、日本で初めて鉄製大砲鋳造に成功した「築地反射炉」や幕府注文の大砲を鋳造した「多布施反射炉」(公儀石火矢築立所)、蒸気機関・写真・ガラスなどを研究した理化学研究所「精煉方(せいれんかた)」など、幕末佐賀藩の「産業革命」の拠点となった場所があります。作家の司馬遼太郎氏も、「幕末、佐賀ほどモダンな藩はない」と、佐賀藩の先進性を評しました(『アームストロング砲』〈講談社文庫〉)。 ではなぜ、佐賀藩は他藩に先んじて近代化を成し遂げることができたのでしょうか。それはまず、10代藩主・鍋島直正の先進性、マネジメント力、リーダーシップを抜きには語れませんが、ここでは佐賀藩の歴史と、置かれた環境を紐解きながら、「近代化のトップランナー」となった背景を紹介していきましょう。「近代化のトップランナー」の背景「近代化のトップランナー」の背景 佐賀藩といえば、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の一節で有名な『葉隠れ』のイメージが強いかもしれません。しかし、実は蘭学の登場も他藩より早く、安永3年(1774)に杉田玄白と前野良沢が『解体新書』を翻訳した頃には、すでに島本良順が藩内に蘭方医の看板を掲げ、その門下からやがて伊東玄朴、大石良英、山村良哲らの名医が育っています。 背景には江戸時代初期より、佐賀藩が幕府より命じられていた長崎警固役がありました。 江戸時代の日本の対外関係は、その多くの時期が〈長崎口〉〈対馬口〉〈薩摩・琉球口〉〈松前口〉の4つの窓口を持つ、いわゆる「四つの口」体制を採っていました。〈長崎口〉は長崎における中国人・オランダ人との通商関係、〈対馬口〉は対馬藩を仲介役とした朝鮮国との交隣関係(通交関係)、〈薩摩・琉球口〉は薩摩藩を通じた琉球王国(日中両属)との宗属関係、〈松前口〉は松前藩を通じたアイヌ民族との関係を言いますが、いずれも中国(明国・清国)を中心とした冊封体制(東アジア朝貢体制)の周縁部にありました。〈長崎口〉は「西洋」を垣間見る唯一の窓口でした。 このような「四つの口」体制になる前に、16世紀から盛んに通商を行なっていたのがポルトガルです。寛永17年(1640)、ポルトガルは通商再開を求めて、長崎へと使節船を派遣しましたが、幕府はポルトガル船を焼き払うなど拒絶します。そして、時の3代将軍家光が、ポルトガルの報復を恐れて設けたのが長崎警固役でした。 長崎警固役とは、長崎警備の軍役のことで、寛永18年(1641)に福岡藩に命じられ、次いで翌寛永19年(1642)に佐賀藩にも命じられ、1年交代で軍役を務めました。佐賀藩が、この長崎警固役を命じられたことは、その後の佐賀藩の進路に影響を与えました。迫りくる列強の脅威を前に 長崎警固役は、大きな財政負担を要しますが、一方で「異国」「西洋」に接する機会がありました。『阿蘭陀風説書』『唐船風説書』を佐賀藩、福岡藩は内々に読むことができました。また、長崎に詰めていた佐賀藩士は、西洋人や、長崎に留学していた知識人と会うこともできたでしょう。佐賀藩の国際感覚は、こうした背景から醸成されたものと思われます。 18世紀後半のイギリスから始まった産業革命の波は、すぐにヨーロッパ各国やアメリカ大陸に及びました。産業革命は、紡績業の発展や製鉄技術の向上、蒸気機関の実用化と蒸気車・蒸気船の開発などをもたらしました。すなわち、欧米列強諸国は、鉄製大砲と蒸気船を手にし、国外の市場や植民地の獲得を目指して、アジア侵出を開始したのです。 また、16世紀後半以来のロシアの東方進出・南下政策も機を一(いつ)にしてこの時期に日本や東アジアに及びました。 文化5年(1808)の英国軍艦フェートン号の長崎港侵入事件(フェートン号事件)も、その流れの中で起こった事件ですが、長崎奉行松平康英は責任をとって切腹し、大きな政治問題になりました。同年に長崎警備を担当していた佐賀藩は、番頭千葉三郎右衛門・蒲原次右衛門を切腹に処すなどの関係者の処分を行ないましたが、幕府から9代藩主鍋島斉直が100日間に及ぶ逼塞(ひっそく)の処分を受けるなど、大きな衝撃を受けました。長崎警固役の緊張感が薄れ、惰性に陥っていたことが、この失敗を招いたものと思います。 よく一般に、幕末佐賀藩にとっての「黒船来航」はフェートン号事件で、ペリー来航よりも45年も早く外圧にさらされた、と言われることがあります。しかしながら、実は、その後20年余り、佐賀藩でも近代化に向けての目立った動きはありませんでした。 9代藩主斉直の時代は、長崎の台場の一部強化などを行ないますが、何より藩財政の破綻が大きな問題となりました。しかしながら、藩主自身の奢侈も改まらず、藩士は世子貞丸(直正)に期待する状況でした。稀有なリーダー・鍋島直正稀有なリーダー・鍋島直正 佐賀藩の財政改革と近代化政策の取り組みは、鍋島直正が10代藩主となった天保元年(1830)が起点となります。 直正は、なぜ近代化を推し進めることができたのか。それは、彼自身の国際感覚と進取の気性、マネジメント力とリーダーシップによるものと思います。その背景には傅役であった古賀穀堂の薫陶がありました。 直正は、藩主となって初めて帰藩した直後に長崎警備を視察し、その際にオランダ商船に自ら乗り込み船内を見学しました。藩主として「前代未聞」の行動です。神ノ島・四郎島填海工事図。佐賀藩が長崎警固役のために嘉永5〜6年(1851〜52)に自力で行なった埋め立て工事の様子を描いたもの。この砲台には、築地反射炉で製造された鉄製大砲が配備された(公益財団法人鍋島報效会蔵) 危険を伴なう蘭船乗り込みは長崎奉行所の特別の許可を得て実現しましたが、以後、直正のオランダ船乗り込みは恒例となりました。アヘン戦争(1840〜42年)後の天保15年(1844)に開国勧告のため来日したオランダ軍艦パレンバン号にも直正は乗船し、艦内を隈なく視察しました。 藩主でありながら身の危険を伴う行動の妥当性は措いて、兎にも角も天保期には既すでに、直正は自らの目で西洋の進んだ文明を実見し、体感していたのです。直正は、オランダ船の頑丈な構造を実見するとともに、海上から陸地を見渡すことで、改めて海防感覚を磨いたことだろうと思います。また、若き藩主の実行力やリーダーシップに藩士たちも感化されていったことでしょう。「近代」=「西洋」に負けないため さらに、アヘン戦争の衝撃も欠かすことができません。東アジア社会に君臨した中国が、欧米の砲艦外交に為すすべもなく敗れ、その後、植民地として蚕食されていく端緒になりますが、この衝撃は日本国内を震撼させました。そして、これに最も敏感に反応したのが直正でした。 「近代」=「西洋」に負けないように、それを誰よりもよく知る直正が出した答えが、鉄製大砲と蒸気船を自力で開発することだったのです。だからこそ、黒船来航(嘉永6年〈1853〉)の時に、唯一佐賀藩だけが鉄製大砲製造が間に合い、日本初の実用蒸気船製造も実現したのだと思います。  日本の近代化のトップランナーだった佐賀藩。その躍進は、藩主鍋島直正の存在を抜きには語れません。●「三重津海軍所跡」公式HPhttp://mietsu-sekaiisan.jp/関連記事■ 真田信繁―家康の私欲に真田の兵法で挑む!陽性で懐の深い智将の魅力■ 「歴史街道」3月号●鍋島直正と近代化に挑んだ男たち■ 幕末を体感!驚きの世界遺産・三重津海軍所跡

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    知られざる幕末佐賀藩の「産業革命」

    幕末、西洋近代化を推し進めた藩といえば、薩摩藩が有名だが、開明派の薩摩藩主、島津斉彬が、その先進性を模範とした藩こそ、佐賀藩であった。幕末佐賀藩が「近代化のトップランナー」とも言うべき存在へ躍進したのはなぜだったのか。

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    若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」

    植松三十里(作家) 幕末、17歳にして佐賀藩主に就いた直正は、投錨中だった長崎のオランダ船に自ら乗り、衝撃を受ける。その肌で、日本と西洋列強との軍事技術の差の大きさを感じたのだ。そして若き藩士たちとともに、近代化に向けたプロジェクトに挑んでゆくのであったが…。大砲鋳造の図。直正のもと、嘉永3年(1850)から建設された築地反射炉の様子を描いている。築地反射炉は薩摩や韮山に先駆けた日本初の洋式反射炉であった(公益財団法人鍋島報效会蔵) 若き藩主の改革と決意 鍋島直正は江戸藩邸の生まれ育ちで、17歳の時に藩主の座につき、初めてのお国入りとして佐賀に向かうことになった。ところが大名行列の出発に際し、醤油屋や酒屋などが売掛金の支払いを求めて藩邸に押しかけ、出発を延期しなければならなくなった。 佐賀藩邸は現在の日比谷公園の一角で、周囲はそうそうたる大名屋敷。出発の遅れは、すぐに噂になっただろうし、直正は初のお国入りという晴れがましい出だしから、屈辱を味わわされてしまった。 それでも佐賀に着くと、すぐに長崎の視察に出た。これを進言したのは儒学者の古賀穀堂だろう。儒学者というと守旧派のイメージがあるが、長年、長崎警備を務めてきた佐賀藩の学者だけに、特に西洋事情に通じていた。 古賀は、直正が6歳の時から御側頭を務め、翌年からは学問を教えた。直正はフェートン号事件の6年後に誕生しており、対外的な危機感や佐賀藩の責任を教えこんだのも穀堂だ。 直正は長崎に赴くと、投錨中だったオランダ船に乗せてもらい、西洋との軍事技術の差を実感する。毎年、来航していたオランダ船は商船ではあるものの、海賊対策として大砲を装備していたし、船体の大きさが和船とは格段に違った。 一方、佐賀藩が守るべき湾口の台場は、旧式な小型青銅砲が置かれているのみ。もしも、再びフェートン号のような無法な異国船が来航したら、防ぎようがなかった。 なんとしても充分な備えが必要だったが、江戸藩邸の売掛金にも困るほど、藩は膨大な借金を抱えており、先立つものがない。そのために、直正はまず財政改革を目指した。しかし父の代からの重臣たちが反対勢力になり、倹約策程度しか実現できなかった。 天保4年(1833)、直正が22歳の時に、佐賀城の二の丸が火事で全焼。藩庁として使っていた建物だけに、もはや政務を執る場所もない状態に至った。だが、ここまで来たら誰も文句は言うなとばかりに、直正は改革実行に転じた。 古賀穀堂の助言を得て制度を見直し、思い切って人員を整理する一方で、幕府から2万両を借り受けた。主家からの借金は、江戸や大坂の豪商たちから借りるよりも、はるかに低利だった。直正の正妻は将軍家の姫であり、その縁を頼ったのだろう。 その後、直正は、オランダ陸軍少将のヒュゲニンが著した『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』という蘭書を手に入れた。鉄製大型砲の鋳造方法を解説した書物だ。反射炉の図面も載っており、これを佐賀で造ろうと決意する。プロジェクトチーム、発足 プロジェクトチーム、発足 ただし、プロジェクトをスタートさせるまでには、なお10数年の歳月が必要だった。その間、教育に力を入れて人材育成に務め、見どころのある若者は、積極的に江戸や長崎に留学させた。 また天保8年(1837)には、松江の松平家に妹の光姫を嫁がせた。松江藩内の奥出雲は、日本有数の鉄の産地だった。それまで藩主の姉妹や娘たちは、重臣に嫁ぐことが多かったが、大量の鉄材を融通してもらう布石だったのだろう。 天保11年(1840)になると、中国で阿片戦争が勃発。長年にわたって、さまざまな技術や文化の手本となってきた中国が、イギリスに敗北したことは衝撃だった。 その影響で長崎の町年寄、高島秋帆が新流派を築いた西洋砲術が、幕府に採用された。しかし翌年には秋帆は弾圧を受けて失脚。西洋式への抵抗は大きく、武術や技術の改革は慎重に進めなければならなかった。 藩内では次第に人材育成の成果が現われ、杉谷雍助という若い蘭学者が、ヒュゲニンの書を和訳するに至った。ただ何分にも専門書で、まして日本人が未経験の分野だけに、わからない部分が多かったことだろう。江戸や長崎の蘭学者に意見を聞き合わせるなどして、杉谷は正確を期した。 また直正の側近だった本島藤太夫は砲術を修め、新型青銅砲の鋳造技術も身につけた。 さらに直正は、城下の鋳物師や刀鍛冶など優れた職人を用いて、嘉永年(1850)、大銃製造方というプロジェクトチームを正式に発足させた。当初のメンバーは8人で、反射炉建設に着手。場所は築地といって、佐賀城下の職人町の裏手だった。 プロジェクト開始に際しては、ふたたび幕府から10万両を借りた。火事の際の2万両が前例になったのは疑いない。また幕府の老中たちは、海防に大改革が必要なことは心得ていた。だが幕府は組織が大きすぎて、思い切った新事業には動き出せなかった。そのため資金は出すから、長崎の海防は佐賀藩に任せるという姿勢を取った。佐賀藩の技術が最先端であることを、幕府はよく理解していたのだ。日本一の先端技術革新日本一の先端技術革新 反射炉とは耐火レンガの炉で、煙突の頂上まで含めると、高さ15メートルほど。佐賀には伊万里焼など焼物の技術があり、領内の土の質も、焼物師たちが熟知していた。その技術を活かし、珪藻土という白い粘土を用いて耐火レンガを焼いた。 炉の内部は天井がドーム型で、炭や石炭を燃やす焚口と、鉄材を投入する鋳口とが少し離れている。燃料を燃やした熱がドーム天井に反射して、鉄材を溶かす仕組みであり、そこから反射炉といった。 それまでの鋳物はこしき炉を用い、鉄材を、真っ赤に燃える炭と混ぜて溶かした。しかし、そうすると鉄に炭素が取り込まれて、もろい鉄しかできない。鉄の鍋釜なら、それでもすんだが、大型大砲には向かなかった。反射炉では鉄材と燃料を離すことで、炭素の問題を解消したのだ。佐賀県佐賀市長瀬町の築地反射炉跡の記念碑。1850年に建設、51年に日本初の鉄製大砲を鋳造した(Wikimedia) そんな理屈がわかっても、1冊の蘭書だけが頼りでは、不明な点は山ほどあったことだろう。開国の前だけに、明治以降のようにお雇い外国人の力を借りるわけにはいかない。何度も試作を繰り返し、そのたびに失敗した記録が残る。 本島や杉谷など大銃製造方は、とうとう不可能と判断し、切腹して責任を取りたいと願い出た。だが直正は言葉をつくして続行を望み、本島たちも、それを受け入れた。まさに命がけのプロジェクトだったのだ。 とうとう5度めの試作で鉄が溶け、鉄製大砲が、ようやく形になった。ところが試射で、あっけなく砲身が炸裂。鋳物は、最初に完成品と同寸の木型を作り、それをもとにして砂と粘土で外側の鋳型を作る。そして鋳型の中に、溶けた鉄を流しこむのだ。ただ当初は、砲弾が通過する砲道部分に、中子という鋳型を用いていた。中子と外側の鋳型の隙間に、鉄を流しこんだのだ。だが、そうすると気泡が入りやすくなり、そこから炸裂した。 それを解消するためには、無垢の大砲型を鋳立て、穴をくりぬく必要があった。くりぬく刃物は刀鍛冶の技術で作ることはできたが、回転させる動力が問題だった。最初は人力で、後には水車を用いたが、それでも3カ月近くを要した。 西洋では蒸気機関の動力を用い、はるかに早くくりぬく。そのために直正は嘉永5年(1852)、精煉方という新たなプロジェクトチームを立ち上げて、蒸気機関の開発にも着手。いずれは蒸気船や機関車にも用いることも想定した壮大な計画であり、諸藩はもちろん、幕府にも先んじた日本一の先端技術革新だった。ペリー来航、しかし… ペリー来航、しかし… そして嘉永6年(1853)のペリー来航までには、長崎湾口の台場が整備され、反射炉で鋳造した25ポンドや35ポンドの鉄製大型砲を含め、60門もの大砲が据えつけられた。 浦賀沖にペリー艦隊が来航すると、幕閣の中には、彼らを長崎に回航させて、佐賀藩の台場と一戦を交えさせよと主張した者もいたという。もちろん、ペリーがそんなことに応じるはずもなく、開国勧告の正式文書を幕府側に渡すと、翌年の再来航を予告して出航していった。 これに備えるために、すぐさま幕府は江戸湾の台場建設に着手。現在のお台場を含め、品川から深川まで11箇所を埋め立てて、砲台場を造る計画だった。 ここに据える50門の鉄製大砲を、幕府は佐賀藩に発注。これに応じるために佐賀では、築地反射炉の北側にあたる多布施という地に、新たな反射炉を建設。完成した大砲から随時、船で江戸湾に運び、台場に設置した。 だがペリー艦隊は予想よりも早く、品川寄りの数カ所ができた段階で再来航。そのために幕府は強い態度に出られず、アメリカの要求を受け入れて日米和親条約を結んだ。  この後、幕府は予定の約半分、6カ所を完成させただけで、あとは中止してしまった。もう条約を結んでしまったからには、台場など不要だと考えたのだ。  台場の建設資金は、江戸の豪商たちに出させていただけに、そんな中途半端なものに大金を出させられたのかと、不満が高まった。ペリーに対する弱腰に、この台場建設中止が重なり、幕府は権威を失墜。佐賀藩としては十二分に責任を果たしたが、支えるべき幕府が力を失っていったのだった。しかし、直正の挑戦は、その後も続いていく。関連記事■ 幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!■ 幕末を体感!驚きの世界遺産・三重津海軍所跡■ 「歴史街道」3月号●鍋島直正と近代化に挑んだ男たち

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    海軍育成と造船所建設、そして実用蒸気船「凌風丸」誕生へ

    植松三十里(作家) 幕末の佐賀藩主・鍋島直正まさのもと、近代化に挑戦した精煉方をはじめとする幕末佐賀の男たち。そんな彼らにとって最大の課題が、蒸気機関の製造であった。佐野常民や田中久重、中牟田倉之助を中心に、他藩に先駆けた未曾有の挑戦が行なわれた。三重津海軍所絵図。電流丸や皐月丸など佐賀藩所有の蒸気船、帆船が繋留する艦隊根拠地としての三重津海軍所を描いており、日本初の実用的蒸気船・凌風丸の姿も見える(公益財団法人鍋島報效会蔵)プロジェクトチーム・精煉方、始動 鍋島直正は反射炉で鉄製大砲を製造させるかたわら、嘉永年(1852)、精煉方という、いわゆる理化学研究所を、佐賀城下に発足させた。精煉方では化学薬品の研究や、カメラ、電信機、ガラスなどの製作も行なったが、最大の課題は蒸気機関の製造だった。 精煉方がスタートした翌年、長崎で蘭学塾を開いていた佐野常民という藩士が、佐賀に呼び戻されて、これに加わった。 佐野は明治以降に日本赤十字社を創設したことで知られるが、もとは佐賀城下から南東に6キロほど離れた三重津(佐賀市川副町)という村で生まれ育った。16歳の時に江戸に出て、古賀侗庵に入門。直正が学んだ古賀穀堂の弟で、海防に詳しい儒学者だ。その後、佐野は京都や大坂、長崎など、各地で蘭学の修行をした。特に大坂では緒方洪庵の適塾で学んだ。福澤諭吉など全国から精鋭が集った塾だ。 そして32歳の時に、佐賀に呼び戻されたのだ。佐野は精煉方の責任者になると、他国出身者でも用いるべきだと、直正に進言。その結果、修行時代の仲間だった蘭学者の石黒寛次や、後に東芝の創業者となる田中儀右衛門など、優れた人材が集まり、研究に弾みがついた。 その後、ペリーが浦賀に来航すると、ようやく幕府は海軍創設に動き出し、長崎のオランダ商館に協力を求めた。それに応えて、ファビウスという海軍中尉が、オランダ領だったジャワから長崎に来航。 安政元年(1854)の夏と翌年夏、それぞれ3カ月ほど出島に滞在し、スンビン号(観光丸)というオランダ軍艦を使って海軍の仮伝習を行なってみせた。幕府としては初めてのことだけに、実際に見てみないと、海軍教育の何たるかが理解しにくかったのだ。 長年の長崎警備の縁もあり、佐賀藩と福岡藩から、藩士と水夫、あわせて十数名ずつが仮伝習を受けた。これに本島藤太夫や杉谷雍助など、大銃製造方の主要メンバーが加わった。伝習によって軍艦の操船だけでなく、最新の砲術の習得も期待していたのだろう。2年目には佐野常民が加わった。 また鍋島直正も長崎に出向き、みずからスンビン号に乗り込んで仮伝習を視察。その場でファビウスに、スンビン号を売ってもらえないかと申し出た。蒸気機関製造のモデルにしたかったのだろう。さすがに丁重に断られたが、その後、改めて新造船を発注する。 実は直正は、17歳でオランダ商船に乗った後も、長崎に来航したオランダ軍艦に乗り込んで、軍事調練を見せてもらった経験があった。このフットワークの軽さこそが、直正ならではの個性だ。 その後、諸藩も海軍創設に向かい始め、長崎まで洋船買いつけに出向くようになった。だが藩主自身が買いつけ交渉を行なうなど、佐賀藩以外ではありえない。直正が自分の目で見て知識を蓄え、それに基づいて即決できたからこそ、反射炉や精煉方のような未曾有の大事業も、短期間で滞りなく進んだのだ。他藩に先駆けた改革 他藩に先駆けた改革 幕府は仮伝習後、オランダから正式な海軍教官団を招き、安政2年(1855)十月、長崎に海軍伝習所を開いた。江戸から幕臣48名が1期生として入所し、諸藩にも門戸を開いた。 佐賀藩からも佐野常民ら48名が入所。この人数は諸藩の中で突出しており、幕臣と同数だ。直正としては、もっと大人数を送り込みたかったところを、幕府に遠慮して抑えたのかもしれない。 当時の海軍は軍艦の操船とともに、造船が重要課題だった。蒸気機関に海水を用いていたために傷みやすく、常にメンテナンスが必要で、そのためにも造船所が必要だったのだ。 もともと佐賀藩の洋式造船への着手は、かなり早かった。ペリー来航の6年前、弘化年(1847)には、長崎の出島でバッテーラと呼ぶボートを建造させた。幕府の禁止令があったために、小型ではあったが、構造は洋式だった。 なぜ洋式構造の船が必要だったかといえば、大砲を積載するためだ。和船は船底が平らで、喫水線から下が浅い。そのために大砲発射の際の揺れに弱かった。これに対して洋船は喫水線から下が深く、とがった船底に重りを載の せるために、起き上がり小法師のように揺れに耐えられるのだ。 嘉永6年(1853)にペリー艦隊が来航すると、幕府は大型船建造の禁止令を解き、幕府の出先機関である浦賀奉行所や、水戸藩、薩摩藩などで、いっせいに洋船建造をスタート。当時の船大工の技術は高く、初めての体験にもかかわらず、どこも数カ月から2年半ほどの短期間で完成に至っている。 だが、この時、佐賀藩の視線は、すでに船体の建造ではなく、その先の蒸気機関に向いていた。精煉方の佐野常民たちが、蒸気機関車の雛形を造っていたのだ。全長40センチ弱ながら、自走できる雛形だった。 安政4年(1857)になると、幕府は海軍伝習を進めるかたわら、オランダからハルデスという技術者を招き、工作機械も輸入して、長崎に本格的な造船所を建設した。これは後に岩崎弥太郎に払い下げられ、今も三菱重工の造船所として稼働している。 翌安政5年、佐賀藩は、三重津に御船手稽古所という洋式海軍の教育施設を設けた。この地に着目したのは、三重津の生まれ育ちだった佐野常民だろう。 現在、佐賀県と福岡県の県境には、筑後川が流れている。筑後川は河口近くで、早津江川に分流して海に注ぐ。早津江川が大きく蛇行する地点が三重津だ。蛇行する淀みの部分に、古くから藩の御用船の船着場があり、それを転用したのだ。 御船手稽古所では、佐野以下、長崎の伝習所の卒業生たちが後進を指導。さらに同じ場所で造船所建設も目指した。いよいよ精煉方でつちかった技術を活かす場だった。凌風丸絵図。佐賀藩が造った、日本初の実用的な蒸気船。慶応元年(1865)に完成した(佐嘉神社蔵) 近代化に挑んだ佐賀の男たち、そして…近代化に挑んだ佐賀の男たち、そして… 長崎海軍伝習所の1期生に、中牟田倉之助という藩士がいた。彼は佐野と一緒に卒業して国元に帰ってから、また長崎に戻り、2期生としても伝習を続けた。 いったん帰った際に、三重津の造船所計画に加わり、その後、オランダ人から情報を得つつ、国元の佐野と連携したのだろう。中牟田ら2期生は、長崎でスループという小型帆船も実作している。 一方、幕府は、江戸築地の軍艦操練所が軌道に乗ると、長崎海軍伝習所の閉鎖を決定。安政6年4月には、幕臣たちが江戸に引き上げ、諸藩も伝習生を国元に戻した。 オランダ人教官団は帰国船の出航を待って、なお5カ月ほど長崎に滞在した。この時、佐賀藩士たちは最後まで伝習を受け、できる限り知識の吸収に務めた。長崎海軍伝習所の恩恵を、最大に活かしたのは、佐賀藩だったといえる。三重津海軍所跡。奥は大野島(Wikimedia) とうとう三重津に造船所が建設され、佐野や中牟田たちの手で、蒸気機関の製造が始まった。ただしボイラーからの蒸気漏れを防ぐのが難しく、7年もの歳月を費やしたが、慶応元年(1865)には、日本で初めて充分な出力を持つ蒸気船──すなわち、凌風丸が完成。 また千代田形という幕府軍艦のためにも、蒸気機関を製作した。江戸湾の台場用に鉄製大砲を造ったのと同じく、幕府の軍備の西洋化は、佐賀藩が先導する形だった。 三重津は藩の近代的海軍の拠点となり、幕末までにオランダ製の輸入軍艦や、帆走船も合わせて、13隻の艦隊が組織された。佐賀藩なくして為し得なかった維新 佐賀藩なくして為し得なかった維新 幕末の佐賀藩が、それほどまでに輝かしい業績を持ちながらも、現在、あまり語られることがないのは、なぜなのだろうか。 少し年月が戻るが、文久年間に入ると、各地で尊王攘夷の動きが激化した。それまで直正は、国元の統治と技術改革に専念していたが、大砲製造や蒸気船造船などの高い軍事技術を持つがゆえに、朝廷、幕府、両方から味方につくように求められた。 そこで文久元年(1861)、長男で16歳になった直大に家督を譲り、騒乱の京都や江戸に出た。藩主として下手な行動に出ると、御家断絶などの危機に見舞われかねない。だからこそ隠居して、身軽な立場になったのだ。ただし将軍臣下の大名家という立場をわきまえ、あくまでも幕府寄りだった。 やがて慶応4年(1868)、最後の将軍慶喜が鳥羽伏見の戦いに負けて江戸に戻り、幕府崩壊は確実になった。 佐賀藩が官軍への味方を明らかにしたのは、鳥羽伏見の戦いの、ほぼ1カ月後だ。幕府が朝廷に抵抗せず、大きな内乱が避けられたのを見極めてから、官軍に加わったのだ。 官軍側としては「薩長土」の後に、肥前佐賀を意味する「肥」を続けて「薩長土肥」にしたかった。日本最高峰の軍事技術が幕府方にある限り、倒幕は不可能だったのだ。 そのため佐賀藩が早く加担しなかったことに苛立ち、直正を日和見と評した。藩主は現代の大企業の社長のようなものであり、状況を見極めてから、進退を決めるのは当然のことなのだが。そんな評判が影響して、幕末における佐賀藩の技術改革までも、顧みられなくなったのかもしれない。それでも直正の人材育成は身を結び、大隈重信、副島種臣など、そうそうたる人物が明治の世に力を発揮した。関連記事■ 若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(前編)■ 幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!■ 「歴史街道」3月号●鍋島直正と近代化に挑んだ男たち

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    アームストロング砲をいち早く造った佐賀藩の「ものづくり力」

    機関の製作」、「スームビング号の江戸回航」、そして佐賀藩の「アームストロング砲」だった。 余談だが、幕末には伊豆の韮山や佐賀の反射炉は立派なものだった、それに続こうと諸藩が急ごしらえで作った反射炉には役立たずもあった。たとえば長州藩の萩にも反射炉があったが、筆者が詳しい調査したところによると、萩市の反射炉には火を入れた形跡はなかった。下関戦争で使った青銅砲も砲弾もともに輸入品と思われる。 製鉄と言えば、安政2年にイギリス国のベッセマーが転炉を発明している。19世紀の初め、トレヴィシクの発明した高圧蒸気機関発明は巨大な鉄の容器を求めたのでイギリス国の鉄工業は隆盛を極めていて、それがベッセマーの転炉の発明につながる。 この製鉄の技術は戦闘用武器の発展に結びつき、ヨーロッパの軍事力を飛躍的に高めていった。これに対して、アジア・アフリカで追従できる国は日本以外にはただの1カ国も存在しなかった。 「近代鉄鋼技術の罪」は重い。それはヨーロッパ、アメリカにとっては「優れた」技術だったが、アジア、アフリカ人にとっては「悪魔の」技術になった。技術とは、かくも難しいものである。技術の話と言えば白人しか視野に入っていないが、本当の意味の「技術の受け手」は白人の数倍の人口を要していた有色人種だったのである。 鉄鋼の技術を擁して、ヨーロッパ列強がアジア・アフリカを席巻し植民地化した勢いから考えれば、開国からまもなくして、日本が植民地になるのは確実と思われた。 日本というこの小さな東洋の島国は、250年にわたって鎖国を続け、蒸気機関や火力の強い武器もなく、サムライと呼ばれる刀を差し、甲冑に抜刀という弓矢で戦う武士軍団を形成していた。 それらはヨーロッパの圧倒的火力の前に、これまでのアジアの諸国と同様、たちまち植民地となり傀儡政権ができて何らの不思議もない。北海道はロシア、本州はアメリカ、四国はイギリス、そして九州はオランダに分割統治されるであろうと感じるのは当然でもあった。  イギリスが中国を理不尽な理由で攻めたアヘン戦争の激戦、鎮江の戦いでは、イギリス軍の損害37名に対し、清国は1600名の損害をこうむっている。それが19世紀のヨーロッパ列強とアジア諸国との間の戦いの哀しい現実であったのだから、日本の植民地化は時間の問題だった。(「武田邦彦ホームページ」より2010年10月6日分を転載)

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    独力で最強海軍を創設 佐賀藩「火術方」は日本一のハイテク研究所

     肥前佐賀藩主・鍋島直正は幕府から命じられた長崎御番(ごばん)(警備)という大役に真正面から向き合い、「日本の国難に佐賀藩としていかに備えるか」という課題に生涯熱中した。藩主に就任して10年目に起きたアヘン戦争(1840~42)に最も鋭く反応した日本人の1人でもあった。 大国・清が英国の凶暴な軍事力に手もなく打ちのめされ、半植民地状態に転落する様を長崎に来たオランダや清国船の風説書(ふうせつがき)で知った直正は弘化元(1844)年、オランダ国王の使節が開国勧告に長崎に来航したときは、オランダの軍艦パレンバン号に乗り込み、船内を見学。鉄製大砲の国産化を決意した。 まず、「火術方(かじゅつかた)」を新設する。西洋砲術家はもとより洋学者・和算家・刀鍛冶・鋳物師まで総動員し、火器の開発研究と製造、砲術・銃隊の訓練に着手。さらに、佐賀出身で昌平坂学問所教授の古賀侗庵(とうあん)の国防策『海防臆測(おくそく)』を基に、長崎港防衛のため新台場を築造して高性能の洋式鉄製大砲一〇〇門を配備する壮大な計画を立てた。財政難などから福岡藩、幕府が尻込みすると、直正は幕府の許可を取り、佐賀藩単独で製造、築造に取り組む。わずか一冊の蘭書を頼りに独学と手探りで洋式反射炉建設と鉄製大砲製造に満2年でこぎつけた佐賀藩火術方の奮闘は、日本の科学技術史上の快挙とされている。佐賀藩の海軍基地となった三重津の船手稽古所の図=鍋島報效会蔵(佐賀城本丸歴史館提供) この成功と同じ嘉永5(1852)年には、藩直属の理化学研究所ともいうべき「精煉方(せいれんかた)」を開設。大坂の適塾(緒方洪庵塾)をへて江戸の象先(しょうせん)堂(伊東玄朴塾)塾頭になっていた藩士・佐野常民(つねたみ)を呼び戻す。佐野は帰藩に際して「からくり儀右衛門」とはやされた異能の器械師・田中久重父子や蘭方科学者・石黒寛次、物理・化学者の中村奇輔の在野4人を同伴。彼らは蒸気機関の模型をはじめ、雷管・電信機・火薬・機械・金属・ガラス・薬品など多彩な技術開発に成果を上げる。精煉方はハイテク日本の先駆けとなる超一流の研究機関で、その人材は明治に引き継がれる。 黒船の来航で開国に踏み切った幕府は安政2(1855)年、海軍近代化のためオランダの協力で長崎「西の奉行所」(現在の長崎県庁、出島の北側)に「海軍伝習所」を置き、オランダ国王から将軍に贈られた気帆船スンビン号(日本名「観光丸」=全長53メートル、720トンの木製外輪蒸気船)を操る実地訓練を開始することになった。伝習生は計130人。幕府からは勝海舟や榎本武揚(たけあき)ら40人の幕臣が派遣されたが、佐賀藩からは佐野、石黒ら火術、精錬方の俊秀48人が送り込まれ、伝習所はさながら幕府と佐賀藩のための訓練所になった。 直正はこの伝習所も視察し、オランダ人教官たちと交流している。伝習隊長のカッテンディーケの記録『長崎海軍伝習所の日々』には、直正が伝習所の士官たちを長崎湾を見下ろす別荘に招待し、旺盛な好奇心と知識欲、オランダに対する親近感などを示したことが生き生きと描かれている。 2年後、佐野は直正に「佐賀藩海軍創設建白書」を提出。翌安政5年、佐野の郷里でもある三重津(みえつ)(佐賀市川副町・諸富町)に「船手稽古所(ふなてけいこしょ)(海軍学校)」を仮設し、藩独自の伝習と造船が始まる。三重津には佐賀藩が購入した艦船が続々と集結し、近代日本海軍発祥の地となった。慶応元(1865)年には国産初の蒸気船「凌風(りょうふう)丸」(長さ18㍍、幅3・3㍍、10馬力)がここで進水する。 佐賀藩海軍は明治2(1869)年、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘となった箱館(函館)戦争(五稜郭の戦い)に政府軍として出動し、榎本武揚率いる旧幕艦隊と激突する。派遣した3隻のうち「朝陽丸」は旧幕府軍の砲撃で火薬庫が爆発を起こして沈没、艦長の中牟田倉之助(のち海軍中将)が重傷、乗員51人が即死するという大惨事に遭うが、海戦には勝利し、戊辰(ぼしん)戦争の幕を引いた。「薩長土」に「肥」が並んだのである。

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    幕末当時の海軍所を「体感」できる三重津の世界遺産

    らしています。来訪された方は、隣接する佐野常民記念館で借りることができるVRスコープを持って歩けば、幕末当時の海軍所を〝体感〟できるでしょう。 また、佐野常民記念館の3階では発掘や文書の調査成果も展示しており、跡地と併せて2時間以上かけてじっくりと見て回って、堪能される方も少なくなく、ご好評をいただいています。現在は単なる草地になっている三重津海軍所跡=2015年9月6日、佐賀市 私は、世界遺産調査室室長として遺跡発掘や文書調査に携わりました。そして、幕末、西洋列強の脅威が忍び寄る中で創設された海軍の様子や、日本の伝統技術によって造られたドライドック(船渠)の実像に触れることで、三重津海軍所は日本の近代化の過渡期を象徴する存在だと強く感じたものです。同時に、遺跡発掘や文書調査を行なうことで、実に様々なことが分かるのだということを、改めて教えられました。 たとえば、三重津海軍所の特徴のひとつに、ドライドックがあります。これは現時点で現存が確認できる日本最古のドックで、存在自体は以前より認識されていました。しかしそのスケールや構造、周囲に製作場などの様々な施設があったことは、平成21年(2009)に発掘を行なってはじめて分かったことです。文書などの記録で残るものと、現地に残るものを組み合わせることで、色々なことが見えてくるのだと肌で感じることができました。発掘の最中、ドックの一部を掘り当てた時の驚きは、今でも鮮明に覚えています。昨年(平成27年〈2015〉)10月からは、出土した遺跡の大きな写真パネルを、実際に埋まっている位置の上に置くことで、調査成果を〝体感〟していただく新たな試みを始めています。また、VRスコープを用いた仕掛けも、他の文化遺産に先駆けたものだと思います。  文化財に関心を抱いている方も、世界遺産の雰囲気を味わいたい方も楽しむことができる――三重津海軍所跡は、そんな史跡を目指しています。関連記事■ 若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(前編)■ 若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(後編)■ 幕末、「近代化のトップランナー」は佐賀藩だった!

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    「花燃ゆ」よりよくわかる吉田松陰

    「民を救い日本を守るにはどうすればいいのか」。時に脱藩して海防視察にあたり、時に国禁を犯し黒船密航を試みた。そこにあるのは「私利私欲なく日本を守りたい」という一念のみ。維新の英傑を育て上げた稀代の兵学者、吉田松陰の純粋な志に迫る。

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    松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは

    文化センターなど生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『西郷隆盛伝説の虚実』(日本経済新聞出版社)『幕末維新 消された歴史』(日経文芸文庫)『山本覚馬』(PHP文庫)などがある。関連記事■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 久坂・高杉・伊藤―松下村塾に集まった若者たち■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    久坂・高杉・伊藤-松下村塾に集まった若者たち

    込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    幕末の日本人に見る進取の気性

    1857年版)」=霊山歴史館蔵). もちろん、オランダから情報が提供されていたこともあるが、ここでは幕末日本人による国際認識の事例として、嘉永3(1850)年に長州の萩から平戸、長崎、熊本に遊学した吉田松陰を取り上げてみたい。 松陰は遊学先で清国やオランダから持ち込まれた文献の漢訳本を片っ端から読破するが、その一つにフランスの砲将ペグサンが著した『百幾撤私(ペキサンス)』がある。そこには蒸気船の優位性とともに、ペグサン開発のボンベ・カノン(ペグサン砲)が紹介されていた。 従来の大砲は誤爆の危険もあり、軍艦に搭載する大砲の玉は内部に火薬を詰め込まない単なる鉄球だったが、新式大砲は火薬入りの玉を安全に発射できる。 若き兵学者は刮目(かつもく)して筆録した。「葛農(カノン)蒸気船は何方の風にも、又風なきも、皆意に従ひて港内に出入し得るなり。…水浅けれども渡行すべく、檣(ほばしら)を建てず、帆を揚げず、近きに至らざれば認め難し。故に盆鼈葛農(ボンベカノン)を備へ、敵に一驚を食(くら)はしむべし」と。 この時松陰は21歳、ペリー来航の3年前のことである。無名の若者がこれだけの情報を得ていたのだから、幕府の役人が知っていて当然なのである。 異なる文明に接して衝撃を受けながらも、一方で可能なかぎりの最新知識を身につけて対応した幕末日本人の進取の気性。──われわれもあやかりたいものである。(中村学園大学教授 占部賢志)関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 久坂・高杉・伊藤―松下村塾に集まった若者たち

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    底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心

    幕末から学ぶ現在(いま)】吉田松陰・番外編山内昌之(東大教授) 晩秋の10月も押し迫ってから長州萩に出かけてきた。萩博物館で「世界史のなかの吉田松陰」と題して講演するためである。 萩は現在でも、古地図さながらに由緒ある街並みと武家屋敷のたたずまいを残している。この静かで穏やかな住人に接すると、幕末に狂気をはらむエネルギーを発散させた長州人と共通するものがないかに見える。萩市役所や博物館の皆さんはどこまでも物静かで親切このうえもない人たちだからである。 しかし、講演が終わって質疑に移ると、穏健な萩人の内面にひそむ歴史への誇りと先人への奥ゆかしい尊敬心がにじみ出てくる。こと歴史となると、人びとは熱く過去を語り現在に及ぶのである。なかでも「松陰先生」と必ず敬称をつけるのがならいの地では、松陰への敬愛の念が自然ににじみ出てくる人も多く、職業柄歴史上の人物を呼び捨てにする私などはいかにも“異邦人”めいた存在というほかない。それでも、外から来た人間、それもイスラムや中東を本来の専門とする学者の松陰論を虚心坦懐(きょしんたんかい)に聞いてくれるあたりに萩人の懐の深さがあるといえよう。 松陰の生きた時代は、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への加盟交渉への参加すら逡巡(しゅんじゅん)し、円高・金融不安に揺れながら、まかりまちがえば沖縄県民の離反を招きかねない日米関係の歪(ゆが)みが進行する現在と共通する点も少なくない。 松陰は、外国人の圧迫で日本が消滅しかねない危機の深化のなかで、日本史と世界史が人びとの日常生活から外交安全保障に至る多領域で切迫した危機を最初に意識した日本人の一人である。焦りにも似た義務感 浦賀にペリーの黒船到来と聞くと、松陰は矢も盾もたまらず夜に船を出したが船脚は遅く、風も潮も思わしくなく翌朝10時にやっと品川に着いた。すぐに上陸し陸路で目的地に向かい、夜10時にたどり着いた。明治維新の精神的指導者、吉田松陰の肖像(国立国会図書館蔵) この行動力こそ現代人が松陰から学ぶべき点である。船の方が理屈では早く着き、身体にも疲れが残らないはずだ。しかし自分だけの楽や、わがままを求めないのが松陰なのだ。 風も潮流も順調でなく思いや気だけはせく一方である。それでも、浦賀に寸秒も遅れずに見るべきものがあると信じるからこそ、自分の目で見届けたいのだ。何をおいても気迫が理屈に勝るのが松陰なのである。 自分の見聞が一秒でも遅れるなら、国の滅びもそれだけ早まると考えるのが松陰の発想であった。この焦りにも似た義務感が松陰に陸路をとらせ昼夜兼行の強行軍となった原因である。松陰も初めて見た蒸気船の威容に度肝を抜かれた。 松陰は、日本の台場(砲台)にある大砲の数もすこぶる少ないと地団太(じだんだ)を踏んでくやしがる。こうした混乱状況で松陰の師筋たる佐久間象山と塾生たちも多数集まってきたが、「議論紛々に御座候」と師たちも周章狼狽(しゅうしょうろうばい)するありさまが手にとるように分かる。松陰が幕府の老中など門閥大名はもとより象山とも違うのは、国際情勢など冷静に分析し、何故に日本がかかる事態に陥ったのかを学び、何をなすべきかを検討するあたりであろう。松陰といえば熱情をすぐに連想するが、緻密な冷静さでも際立っていたのである。東アジアの国際戦略 松陰は、遅れた軍事力を抱えたまま国際政治のパワーポリティクスに対面した日本が外国軍艦の襲来に対処できる道筋を考えた。第一は西洋兵学の採用による軍事的近代化と貿易勧業による富国強兵への道である。第二は、「帝国主義の時代」が近づく19世紀半ばの東アジアで国際戦略を作りあげることだった。 松陰は、養家の吉田家が山鹿流兵学を教える師範であり、軍事戦略にも関心を示したのも当然である。吉田寅次郎こと松陰は、わずか10歳で藩校明倫館で兵学を講義し、11歳で御前講義をした神童の誉れ高い少年であった。それでいて才に溺れ傲慢になることもない。西洋式の大砲や軍艦の購入や製造から洋式訓練や陣立の導入、外国語教育の実施など説く方向は多岐に渡っていた。 松陰は人に向かって説教するだけでなく、自らも西洋兵法を学ぶことを決意した。懸案があれば、教師でありながら生徒として新たに学ぼうとするのだ。松陰の底知れぬ謙虚さはいつも向学心に結びつくのである。TPPの問題などに直面して狼狽する政治家に必要なのは、松陰のように「教えながら学ぶ」「学びながら教える」といった柔軟な姿勢であろう。歴史を学習する政治家 松陰は、黒船来航を機にめまぐるしく変転する幕末の状況を、世界史における西洋の衝撃(ウエスタン・インパクト)を受けた日本の危機としてとらえた。 松陰は危機を抽象的な世界観でなく、歴史で人間に示された具体的な行為のなかで理解しようとした。純粋な理屈でなく事実に即して人びとにリアルに訴えるほうが、効果も大きく切実に納得してもらえると信じたからだ。 哲学的観念論でなく賢人や豪傑の仕事ぶりを実例で学ぶ作業のほうが、危機の説明として分かりやすいという主張は現代にも通じる。 松陰は代表作『講孟余話(こうもうよわ)』のなかで、いつも歴史書を読んで古人の仕事を学び自分の志を励ますことを勧めながら、「是亦(則)故而已矣の意なり」という有名な言葉を残した。「これまた故(こ)に則(のっと)るのみ」とは、自分の行いもすべて歴史の故事や偉人の振る舞いに学んだという意味にほかならない。しかし行動派でもある松陰は、西欧に侵略された清帝国やオスマン帝国が洋務運動やタンジマート改革の近代化を始めた動機にもまして、日本の行く末にもっと切迫感をもっていた。その結果、彼は守勢一辺倒でなく積極攻勢に出て侵略をはねかえすべきだと信じるにいたった。軍事政略と通商航海の結合 安政5(1858)年に入って修好通商条約の締結が日程に上ると、世上の論議もかまびすしくなるが、条約を拒否する主戦論者の説は古典的な鎖国論にとどまり、平和論者の航海貿易策は欧米諸国に屈従しかねない避戦論であり、一種の“ねじれ”が生じていた。松陰神社の桜=東京都世田谷区 この矛盾を解くために松陰は、「雄略」というアイデアで軍事政略と通商航海とを有機的に結合し、大攘夷(じょうい)や開国攘夷と称される遠大な戦略デザインを構想した。 彼のデザインは、大艦をつくって海軍を伝習調練し国内各地を往来して航海に習熟した後に、朝鮮・満州や清国とも交渉を始め、広東・ジャガタラ(ジャワ)・喜望峰・オーストラリアに居館をつくり将士を置いて、四方の情勢を分析しながら通商貿易で利をあげるというスケールの大きなものだった。吉野誠氏の要約に従えば、この事業を3年ほどで終わらせた後、米国のカリフォルニアに赴いて交渉に入り、日本にやってきたペリーら使節らの努力に酬いて条約を結べば、「国体」を失わずに列強争覇の世界で日本の独立を堅持できるというのが松陰の壮大な構想なのである(『明治維新と征韓論』明石書店)。 何というスケールの大きさであろうか。全然萎縮したところも卑屈な点もない。この構想は未完に終わったが、松陰独特の開国攘夷論は単純なアジア侵略の第一歩だったとは必ずしも言えない。松陰の未完の言説には少なくとも、明治政府成立から日清戦争や日露戦争に向かう時代の政治感覚との連続性だけで議論できないセンスや志が含まれているからだ。 政治外交の懸案解決策として武力攘夷や武力遠征だけに頼る愚をたしなめた松陰にとっては、むしろ東アジアからそれを越える大アジアの国々との連携や同盟さえ見えていた可能性も高いからだ。彼が生き永らえ大好きだった歴史への関心を、中国や朝鮮だけでなく、インドやイスラムの世界にまで視野を広げていたなら、同時代の欧米人とは異なる独特な歴史解釈を発展させていたかもしれない。松陰が欧米によるアジアやアフリカの植民地化の動きに単純に追随し模倣したとは思えないのだ。 29歳の若さで刑死した吉田松陰は、「空言」(抽象的言辞)よりも「行事(こうじ)」(具体的仕事)で考える歴史的思考法を大事にした孔子の言葉に何度も触れている。松陰は、孔子が歴史の名著『春秋』を作り、孟子も聖人と賢人の業績について事実を挙げながら具体的に称賛した面を高く評価したからである。「観察者」であり「行為者」に 政治と歴史を常に結びつけて発想した松陰は、歴史を学習すれば世のために2つの面で役立つと強調した。 第一は、歴史家が時事をきちんと遠慮せずに書くために、官僚も畏怖して不正をおこさないことだ。第二は、時事のプラスマイナスや施策の善悪をきちんと学べば、別の政策を考える場合にも大いに役立つからである。いまの政治家や官僚には是非に耳を傾けてほしい言葉なのだ。 松陰の考えは、歴史的な実例を手本にすれば宗教と世俗のいずれでも有益な効果をあげられると述べたチュニジア生まれのイブン・ハルドゥーンの言説にも似ている。『歴史序説』を書いた14世紀アラブの歴史家と19世紀の吉田松陰が時空を超えて問題関心を天才的に共有していた点は興味をそそられる。いずれにせよ、政治家と歴史家は、事物の観察スタイルにおいて似通った面がある。それは、過去と現在の人間のいずれを重視するかの違いがあるにせよ、人間の行為の「観察者」であると同時に「行為者」でもあることだ。 政治家は歴史家にもまして、自然科学のような外的な観察でなく、内側から理解する能力がないと務まらない職業なのだ。歴史家に要求されるのは、人びとや物事の動機・態度・意図・出来事を順序だてて整理できる能力である。そして、歴史で重要なポイントを無駄なく指し示せる歴史家の仕事は、政治をできるだけ複雑にせず紛糾させない政治家の営みによく似ている。私が最新著『リーダーシップ』(新潮新書)で強調したように、政治家に過去の偉大な歴史家の古典的書物に接してほしいと願うのはこの点にあるのだ。関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 久坂・高杉・伊藤―松下村塾に集まった若者たち■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒

     幕末を駆け、時代を維新へと導いた吉田松陰。ご存じだろうか。松陰という先覚者をはぐくむ「揺籃(ゆりかご)」となったのは、彼が旅した雪深きみちのくの大地であり、そこでのさまざまな出会いと別れであったことを。南は勿来(なこそ)の関(福島県いわき市)から北は津軽半島まで、また後の東日本大震災の被災地を含む広範な地域を踏破した松陰。それでは、彼と盟友たちのみちのりをたどることにしよう。(東北特派員 関厚夫)◇ 「東北・北陸は土地広く山峻(けわ)しくして、古(いにしえ)より英雄割拠し、奸兇巣穴(かんきょうそうけつ)する。かつ西は満州に連なり、北はロシアに隣する。国家経営の大計に最も関わり、学ぶべき成功と失敗の歴史の地である。だが残念至極、自分はまだ東北を知らない」 だから、ゆくのだ-。 嘉永4(1851)年末(旧暦)、満21歳の吉田松陰は『東北遊日記』の冒頭にそう記している。 松陰が奥州の起点・勿来の関を越えたのは翌年1月23日のこと。ここに至るために彼は、長州藩のエリートコースから逸脱するばかりか、藩主を見限る脱藩という大罪をおかしていた。 旅の前半は雪また雪。《雪の深さ幾丈か測ることできず》とは会津から新潟に向かう山中の漢詩だ。 そして佐渡へ。金山の採鉱現場を訪ね、頑健な者でも数年で「体が動かなくなるか、死に至る」という過酷な労働環境を知る。 その後北上し、津軽では数々の義憤に駆られた。まずアイヌを人扱いせず酷使する悪徳商人がいた。また近年、津軽海峡を国籍不明の外国船が往来しているにもかかわらず、当局者は見て見ぬふりだったからだ。「黒船来航」は約1年半後のことである。 松陰の旅は続く。 盛岡城の西北にある厨川(くりやがわ)の古戦場では、源氏と戦って「実に八百年前」に滅亡した俘囚(ふしゅう)(帰順した蝦夷(えみし))の長、安倍氏を追想。その後南下し、平泉・中尊寺で奥州藤原氏をしのんだ。 以降、南東に道を取り、石巻から塩竃(しおがま)神社、多賀城跡を経て仙台へ。松陰は当時、無名の若者で、見方によっては「お尋ね者」だった。しかし、みちのくはどこも彼に温かかった。仙台藩では藩校・養賢堂の学頭で、西洋学問所や庶民の教育所を開設した重鎮、大槻習斎が快く迎えた。■ ■ ■ 松陰の本名は「矩方(のりかた)」。通称は寅(大)次郎。「松陰」は雅号である。彼は別に「二十一回猛士」という雅号を「松陰」以上に愛した。 これは、生涯で21回の猛(「常識を覆す壮挙」とでも訳すべきか)を発する武士という意味である。松陰は、脱藩・東北行を猛の「第1回」とした。みちのくへの思いが史上の志士「松陰」を生んだといえようか。 松陰はこの旅を10歳年上の熊本藩兵学師範、宮部鼎蔵(ていぞう)、また博覧強記の元盛岡南部藩士で3歳上の那珂通高(なか・みちたか)とともに計画。長州藩は当初、松陰の東北行を認めていたが、直前になって「不可」とした。 同行する那珂が敵討ちを計画しており、松陰がそれに助太刀する覚悟であることを察知したからだとされる。松陰には脱藩するしか、友への誠を証明するみちはなかった。■ ■ ■ 《宮部痛哭(つうこく)し、五蔵(ごぞう)(那珂の変名)五蔵と呼ぶこと数声、余(松陰)も亦(また)嗚咽(おえつ)して言ふ能はず。五蔵顧みずして去る》 残念ながらNHK大河ドラマ『花燃ゆ』では割愛されたようだ。が、嘉永5年1月28日、福島県白河市郊外で、助太刀を申し出る松陰と宮部を振り切り、一人ゆく那珂。その描写は『東北遊日記』の絶唱である。 しかし…。 那珂いわく《屡(しばしば)機会を失》っている間に、南部藩の重臣だった敵(かたき)は失脚し、敵討ちはうやむやのうちに終わる。「武士の鑑(かがみ)」から一転、那珂は失望と中傷の的となった。 那珂の後半生は数奇である。1859年、安政の大獄で松陰が刑死するのに前後して南部藩に復帰、藩校教授に登用される。そして戊辰戦争では藩参謀格として、皮肉にも松陰の弟子たちが率いる「官軍」と刃を交えた結果、幽閉される。《遺恨、勤王の心撤せず(中略)受ける逆臣の名》とはその無念を詠んだ漢詩である。 その後、那珂は新政府の官吏に。「低い地位だったが、当時、文部省から出る教科書は一々那珂通高閲とあって、文部省の送り仮名の元祖だった」(金田一京助)ことで才能の片鱗(へんりん)をみせたが、明治12(1879)年、急逝した。51年と半年の生涯だった。■ ■ ■ 松陰と那珂の交遊は年々薄くなっていった。しかし、郷土史家、高野豊四郎さん(70)は「那珂と松陰は後々も友情を保っていた。進む道は違ってしまったが、通高はひとすじに道を歩む松陰を終生、認めていたはず」と話す。 松陰と那珂の「志士のみち」は対照的となったが、教育者としてはともに門弟に恵まれた。ご存じの通り、松下村塾からは幕末維新の英才が輩出。一方で「那珂門下」も偉才を発揮した。 その一人が原敬である。「平民宰相」となる前年、故郷・盛岡で開かれた戊辰戦争後50年の追悼式典で、彼は「逆臣」とされた人々の無念を代弁する格好で、「(東北人の)勤王の心は昔も今も変わらない」などと述べたうえでこう断言した。 《戊辰戦役は政見の異同のみ。当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり、其(その)真相を語るものなり》◇ ◇ ◇陽気で草木も芽が出たいと思うが「おめでたい」なり 《不忠不孝の重罪人恙(つつが)なく今日帰着仕(つかまつ)り候》 脱藩から東北行を経て故郷に送還された嘉永5年5月、妹婿となる小田村伊之助-ではなく、門下生に送った吉田松陰の手紙だ。同じころ宮部鼎蔵には「天気晴朗だが内心憂鬱、でも時に持ち前の諧謔(かいぎゃく)を発揮している」としたためている。松陰の妹の文、後の楫取美和子 諧謔とは滑稽、ユーモアのこと。松陰はどんな逆境にあっても、明るさを失わない人だった。 「目というのは目玉の事ではない。目玉どもが元日から出たらろくな事ではあるまい。目というのは木の芽、草の芽の事じゃわい。冬至から一日一日と陽気(はるのき)が生ずるに従って草も木も萌(もえ)出づる。この陽気は物を育てる気で、人の仁愛慈悲の心と同様、天地にとっても人間にとっても好ましき気なり。ゆえに陽気が生じて草も木も芽が出たいと思うのが『おめでたい』なり」 これは安政2年元日、獄中から末妹の文(ふみ)-ではなく長妹の千代にあてた手紙。「あけましておめでとう」を説き明かした一節だ。 2歳下の千代は松陰と一番親しかった妹(文は13歳年下)。おそらく『花燃ゆ』の主人公「文」は、文と千代の2人を投影した人物像だろう。でも、「史実と違う」と目くじらをたてるのはやぼというもの。史上の名画『シンドラーのリスト』の名脇役「シュターン」も、実在した何人かの人物の「合作」とされる。 少々横道にそれたが、最後にもう一つ、お正月にちなんだ松陰の別の手紙を。以下は、やはり獄中から千代にあてた一節である。 「神前で柏手(かしわで)を打ち、立身出世や長命富貴を祈るのはみな大間違いなり。神と申すものは正直なる事、清浄なる事を好みたまう。それゆえ神を拝むにはまず己(おの)が心を正直にし、己が体を清浄にしてほかに何の心もなく、ただ謹み拝むべし。これを誠の神信心という」関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 久坂・高杉・伊藤―松下村塾に集まった若者たち■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    今の日本人が誰よりも忘れるべきでない男

    込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 幕末の日本人に見る進取の気性

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    松陰24歳 佐渡屋の長逗留から

    2135石もの酒造石高をほこったこともあった。主人は代々、「徳兵衛」を名乗っていた。 この佐渡屋に、幕末の嘉永6(1853)年2月14日から3月末まで、のべにして22日間も、ひとりの若者が滞在した。 長州藩士、吉田寅次郎、24歳。のちに「松陰」号を名乗り、倒幕に向けて動きだした長州藩の最大の思想家であり、行動家(アクティヴィスト)でもあった。*  *  * 「旅行は、実に彼の活(い)ける学問たりき」。明治の政論家、徳富蘇峰が明治26年に書いた名著『吉田松陰』の一節である。 幕末維新の激動で、高杉晋作や久坂玄瑞ら松陰の門下生の多くは、死んでしまった。このため、松陰の名前も一時、歴史から消えかかった。 それを発掘したのが蘇峰である。その点では、土佐の坂本龍馬と似ている。龍馬も行動家だったが、松陰の「行動」はもっぱら同志と知り合い、師を探すための旅であった。その足跡はハンパではない。 嘉永3年の九州北部一帯の旅からはじまり、わずか4年間ほどで、中国地方はもちろん、京、大坂など畿内一帯、東海道、中央道、東北と、北海道と南九州をのぞく、日本の主要地域を、ほぼ踏破している。東北では竜飛崎まで足をのばし、新潟では佐渡島にもわたっている。幕末には吉田松陰も滞在した仲村家住宅=大阪府富田林市 畿内を訪れたのは大和五條に住む儒者、森田節斎の塾で学ぶためである。ところが節斎は松陰が訪れたとき、所用で佐渡屋に行く約束をしていた。 松陰は五條から葛城山越えで富田林に入り、もっぱら佐渡屋で、節斎から厳密な文法に従った文章術の教えを受けた。萩にある家元には「節斎文律を論ずる精緻、毫厘(ごうりん)を析(ひら)き、而も大眼、全局を一視す、最も其の長ずる所なり」と感激したように書きおくっている。*  *  * 松陰は佐渡屋を「拠点」がわりにし、堺や岸和田まで足をのばした。行く先々で同じ志を持った武士たちと夜を徹して、論争した。 節斎もいくぶんかは、持てあまし気味だったらしい。なにしろ駕籠(かご)に乗った節斎の横にぴたりと伴走し、質問しつづけたほどである。 節斎が佐渡屋に長逗留したのは、同家の息子の結婚にまつわるモメ事を解決するためだったらしい。だが徳兵衛にとっては、節斎は「先生」だが、いつもぴたりとついてくる松陰はたんなる同伴者である。 徳兵衛は文化的な造詣も深く、空海の書や雪舟の画なども収集していた。寺内町でも文化サロンのような場所で、さまざまな文人が出入りしていた。 松陰について、佐渡屋の記録には、「長洲浪人吉田と申すもの」が長逗留したと記載されているだけである。 下アゴがほそくとがり、つねに激したようなつり上がった細い眼をした若者は、佐渡屋の邸内でも異彩をはなっていたはずである。酒造りの職人などは、「けったいな、やっちゃな--」とウワサしあっていたかもしれない。 大坂を離れた松陰は江戸にむかった。着いた直後、ペリーの黒船が浦賀に来航し、国交を開くことを求めた。松陰は驚愕(きょうがく)した。翌7年3月、伊豆・下田に再来航した米国艦船に乗り込もうとしたイキサツは、あまりにも有名なのではぶく。 このとき、萩から江戸に向かう途中の京で、松陰は1年ぶりに節斎とあった。松陰の渡航計画にたいし、節斎は「暴挙」だと諭した。だが松陰は無視し、のちに「先生には二度と会うことはない」という手紙を送りつけた。少々、無礼な態度である。 蘇峰は「彼は維新革命における、一箇の革命的急先鋒なり」と評した。節斎は、その革命性を見抜くことができなかったのであろう。(福嶋敏雄) 関連記事■ 松陰が魂を込めて遺した『留魂録』とは■ 志士の道・みちのく「猛士松陰」覚醒■ 底知れぬ謙虚さ 松陰の向学心■ 幕末の日本人に見る進取の気性