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    私が慶大で出会った広告学研究会という滑稽な「リア充」たち

    鈴木涼美(社会学者) 「すみません、ミス慶応の出場者を募ってる者なんですが、ぜひ出て下さい!」と当時大学に入って間もない私に声をかけてきたのはTシャツにシャツを羽織ってちょっとしたネックレスをつけた男だった。もちろん「あ、でも君の場合は勿論あれです。エントリー写真は顔のアップじゃなくて乳の谷間のアップで」というオチつきで。失礼な。 そういう、大して面白くはないけれどその場は盛り上がるような笑いを彼らは持っていた。その数ヶ月前、入学式の翌日、日吉でも三田でもない辺境のキャンパスで広告研究会の「キャンスト班」の新歓お茶会にも行った。先輩たちが飲めよ食べよその代わりぜひ入ってね、とやる例のやつである。テーブルで話題になるのは去年の海の家で誰と誰がヤッたとか付き合ったとか、一昨日の三田との合同のバーベキューで誰と誰がヤッたとか付き合ったとか、夏は誰々がクルーザーを借りるらしいとか、誰々の親はなんちゃら株式会社の社長だとか。暴行問題で揺れる慶応大学日吉キャンパス=13日、横浜市港北区  どれもこれも別にすごく面白くはないが、場がしらけずに湧く。時は2002年。ちょうど早稲田の有名サークルのトップが逮捕されたことが話題になっていた頃である。慶応の広研はそれよりは随分上品に、けれども若さで想定しうるありきたりなことはすべて内包していた。セックス、恋愛、お酒、オシャレ、不真面目、オカネ儲け、嫉妬、仲間、遊び、遊び、社会、悪意、ノリ、リアル。どれをとっても別に特別なことではない。特別なことではないが、どれも真剣に全うしようとすると結構時間と手間がかかる。 2002年当時はまだ「リア充」なんていう便利なコトバは一般的ではなかった。その代わり、慶応の辺境であるSFCには暗い、マニアック、オタク、真面目っぽい、ダサい、キモいで形容されるような在り方はたくさんあった。その対義語、アンチテーゼとして彼ら広告学研究会らの佇まいはあった。私はここ10年「リア充」というコトバが一般名詞として使用される度に、なんとなく広研の人らを想起する。 この度、そのリア充集団である広研は未成年の飲酒問題で伝統あるイベントのミスコンを中止にしてしまったことを発端とし、集団レイプ疑惑やら美人局疑惑まで浮上し、ポリティカリー・インコレクトな存在として不名誉な脚光を浴びているらしい。私は失礼なミスコンスカウトや入学直後のちょっとした飲み会などの縁しかない同サークルを擁護する義理も愛も何もないし、そもそも法律を破った人らに肩入れする熱意のある異端派でもない。ただ、彼らをただの鬼畜で非人道的な犯罪者集団として説明してしまうような安易さは、後々自分自身の首を締めるのではないかとちょっと懸念しているだけだ。おそらく杞憂に終わるし、おそらく気のせいだが、あまりにコレクトネスにとらわれると、逆に正しさへの自然な敬意を失うこともある。「若気の至り」の境目 「非リア」に対するやや批判的なニュアンスを含んで肯定されていた「リア充」という流行語だが、「非リア」という言葉の利用のされ方が当事者たちによる自己愛的な自虐である場合が多いのに対し、「リア充」は表面的には羨望として、内実はちょっとした嘲笑とともに、あるいは軽い冗談として他者を指す。フェイスブックで「いいね!」の数がものすごい量だとか、土日のスケジュールが3ヶ月先まで埋まっているとか、自分の誕生日に100人規模のパーティーをするとか、LINEの友達数が異様に多いとか。多くの非リアは自分を非リアで非モテだと自虐しながら、リア充の必死さを嘲笑う。確かにちょっと滑稽なのだ。無理して社交的であらんとしている人たちの姿というのは。画像はイメージです なぜだろうか。リアルが充実している、ということ自体は何よりも重要なことに思える。虚構が充実していて助かるのは女優や芸術家であって、この世を生きる多くの人間にとってリアルより重要なことなどないのだ。ただし、社会性をもって都会的であって充実して楽しいというのは作り出すものではなく、演出するものでもない。過剰にそれをアピールしている「リア充」はバランス感覚が悪い。 ヤンキー漫画のヒーローたちがあれだけめちゃくちゃに暴れて殴りまくってもどこか牧歌的なのは、間違いなく子供の頃から暴れて殴り殴られまくっているからだ。どれくらい殴っていいのか、知らぬ間に肌が覚えこんでいる。若さというのはそれだけでとてつもない価値があるが、間違えれば狂気や痛々しさにもなりうる。「若気の至り」の境目を生身の手の感触で探り当てる子供時代は絶対に必要だ。 強制わいせつや美人局を「若気の至り」なんていって許容する社会は危なすぎる。今回の騒動がすべて事実ならそれは糾弾されるに値する罪だ。しかし、その彼らをなぜ若さと犯罪の区別もつかない大馬鹿野郎に育ててしまったのかは一考の余地がある。 私が6歳まで育った中央区月島のマンションには付帯施設の公園があり、タイヤや丸太を駆使したアスレチックの吊橋部分から落下した時に切ったおでこの傷は今も注意深く見れば分かる程度に残っている。私がお酒を飲んで初めて吐いたのは高校時代の体育祭の打ち上げで行った安いサワーを樽で出すような高田馬場の飲み屋だった。店主が「絶対に急アルにはなるな。そうしたらもうこの店で飲み会はできなくなるんだから」と飲み会前に演説するような店だった。月島のマンションも高田馬場の雑居ビルも健在だが、アスレチック遊具もその居酒屋もいつの間にかなくなっていた。 集団レイプを若さなんていう免罪符で許容するような緩みは必要ない。しかし、子どものパックリ割れたおでこや高校生のゲロで汚れたトイレを一切の予断なく切り捨てる緩みのなさは、結果的に若さの許容範囲を理解することもなく美人局をしたり、ひたすらフェイスブックの「いいね!」のために味もわからない店の高い料理を頼む滑稽な若者たちを生み出していることには、もっと自覚的でなければならないと思う。

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    なぜ「ヤリサー」は消えないのか オンナを性の道具と見下す男の心理

    原田隆之(目白大学教授) 名門慶応大学に通う未成年の女子学生が、有名サークルの男子学生に性的暴行を受けたと被害届を提出したことが報じられている。報道によれば、彼女は合宿所に呼び出され、無理やり酒を飲まされた挙句、複数の男子学生から性的な暴行を加えられたうえ、その様子を動画で撮影されたという。これが真実であるならば、まさに「鬼畜の所業」と言わずして何であろう。 この事件の報を聞いて、先月に行われた東京大学の男子学生による性的暴行事件の裁判を思い出した人も多いだろう。この事件でも、女性に飲酒を強要し、前後不覚になった被害者を凌辱した。両事件に共通することは、まるでゲームか何かのように、1人の人間を弄び心身に大きな傷を負わせても平気であったということだ。被害者が受けたはかり知れない傷の大きさを思うとき、これら加害者の「軽さ」に愕然とする。東京大学 これらの事件によって、「名門大学生による性犯罪が増えている」などと言うのは早計である。また、「名門大学生がなぜ」などと言う疑問にもあまり意味はない。確かに立て続けの感はあるが、名門大学生がこの時期に挙って悪党になったわけでもなければ、名門大学の教育が性犯罪者を生んでいるわけでもない。報じられないだけで、名門大学生によらない性犯罪のほうがはるかに多い。 要は、これらの事件では、卑劣な性犯罪者がたまたま名門大学生であったということであり、立て続けに同じような事件が起こったというのは偶然でしかない。確かに、東京大学の事件で犯人は「相手は自分より頭が悪いと見下していた」という内容のことを述べており、彼の歪んだ特権意識が一因であったことも事実である。しかし、それは事件の本質ではない。性犯罪は「ある種」の人間が犯すもの 卑劣な性犯罪は、名門大学生であろうとなかろうと、「ある種」の人間が犯すものであり、今回の男子学生たちにもそれが当てはまる。つまり、この種の性犯罪者の特徴として第一に挙げられるのは、女性に対する著しく歪んだ認知である。彼らは、女性を自分と同じ人格を持った人間として尊重する認知を有していない。そもそもそのように見ることができない。そのため、相手がどれだけ傷つき、苦しむかということが想像できない。 「女性は産む機械」と発言して物議を醸した大臣がいたが、程度の差こそあれ、これも似たような認知の類である。つまり、「女性は性の道具」としか見ることのできない人間が、残念ながら世の中には存在し、彼らがこのような性犯罪を起こす。酒を飲ませ、まさに人格を失わせてから行為に及んだ犯行の態様を見ても、彼らにとって相手の人格は邪魔でしかなかったことが明らかである。 かつて私は痴漢で懲役刑となった性犯罪者に対し、刑務所で調査をしたことがある。その結果からは、彼らの女性に対する露骨な認知の歪みが浮かび上がり、愕然とさせられた。彼らの多くは、「女性のほうも痴漢をされたがっている」「痴漢をされても声を上げないのは、OKの印」などと本気で考えていた。このような認知を有しているからこそ、公共の場である電車内で、誰憚らず見知らぬ他人の体に触れるという行為に出ることができるのである。 痴漢行為が卑劣な性犯罪であることは間違いないが、今回の一連の性犯罪では、はるかに悪質な数々の非人間的行動に至っている。したがって、彼らの認知の歪みもはるかに悪質であることは想像に難くない。 また、このような性犯罪者の特徴として、四六時中「性的妄想」に耽っているということも挙げられる。彼らは、女性を見ればあたかも白日夢のようにすぐさま性的なファンタジーに耽り、次はどのようにして相手を陥れ、どのような行為をしようかということばかり考えている。薬物依存者が、弱い薬物が効かなくなるとより強い薬物を求めるように、より刺激的な性行為を夢想し、エスカレートしていく。報じられているように、被害者に尿をかけたり、動画に撮影したりという倒錯的な性行動に出たのはそのためである。 これらの要因に加え、集団であったからエスカレートしたということも、彼らの心理の一面としては当たっている。ここで重要なことは、リーダー的な「首謀者」の存在である。私はかつて、早稲田大学の「スーパーフリー事件」の際に、主犯の男に面接をしたことがあるが、あの事件は、上述のような性犯罪者の特徴をすべて兼ね備えた男が主導し、周囲の共犯者が同調したものであった。アダルトビデオは要因ではない 本件を含め多くの集団犯罪がそうであるように、1人のきわめて異常な、そしてある意味カリスマ的な首謀者の存在がなければ、これらの事件は起こっていなかっただろう。とはいえ、そもそもそうした反社会的な者に嫌悪感や危機感を抱いて距離を置くのが「正常な」人間だとすれば、逆にそのような危険な人物に魅了され、付き合いを深めていた同調者たちにも、程度の差こそあれ同様の「歪み」があったことは確かである。今回の事件でも同じ合宿所にいながら、これらの行為に加担しなかった男子学生もいたということであるから、同じ状況にあっても、すべての者が同調するわけではないのである。慶大広告学研究会が合宿していた集会所=神奈川県葉山町 しかし、それでは彼らの「歪み」は、どのようにして生じたのだろうか。多くの人は、世に氾濫するアダルトビデオなどの影響を想定するかもしれない。世の中には「強姦モノ」「痴漢モノ」などの性犯罪を扱ったアダルトビデオが数多く存在する。しかし、これまでの研究によれば、こうした性的コンテンツは、そのような性的嗜好を既に有している者たちの逸脱を助長することはあっても、元来そのような嗜好を有しない者に、逸脱した性的嗜好を植え付けるものではないことがわかっている。 代わりにまず挙げられるのは、生理学的な要因である。男性ホルモンであるテストステロンの血中濃度の高さは、攻撃性や性的衝動が強めることが知られているが、このような者が性犯罪者にも一定程度存在する。環境的要因としては、家庭や友人など彼らを取り巻く環境の影響も無視できない。例えば、そこで女性を見下すような価値観が共有されていたという可能性が挙げられるだろう。 しかし、何より彼らの歪んだ心理の根底にあるものは、救いようのないほどの男性としての自信のなさである。彼らは心の底では、女性を下に見ているどころか、実は著しい劣等感を抱いている。そしてその一方で、「男は女より上でなくてはならない」という価値観にがんじがらめになっている。そのため、力で女性を押さえつけ、凌辱することで自分の優位性を得ようとする。しかし、他人を貶め、傷つけることで一時の優越感を得たとしても、当然のことながら現実的に彼らは何も高められてはいない。彼らの「歪んだゲーム」には果てがないのだ。

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    ブスは相手にしないミスコンを「見なくてよい自由」はないのか

    北条かや(著述家) 卑劣で難しい問題である。「ミス慶応コンテスト」を主催する慶応大の「広告学研究会」の男子学生らが、同大の女子学生に集団で性的暴行を加えたとされるニュース。被害にあった女子学生はどれだけ苦しかっただろう。 「不祥事」というにはあまりにも卑劣な暴力事件のために、今年のミス慶応コンテストは中止になった。当然というほかないし、もし性暴力を楽しむような「伝統」が同サークルに受け継がれているとしたら、それが「ミスコン」という「女性を容姿(≒性的魅力)によってランク付けするイベント」の主催団体であることに、直感的な嫌悪を感じた人もいるのではないか。大学におけるミスコンが、そのような「伝統」と一切無関係であると言い切れるのか。2006年、ミス慶応に輝いたテレビ朝日の竹内由恵アナウンサー 個人的な立場を明らかにしておくと、筆者は大学で行われるミス・コンテストのすべてには反対していない。が、賛成でもないし、積極的にやるべきではないという立場である。どっちつかずの曖昧さを残しているのは、「自由」をたてにされると何も反論できないからだ。 「ミスコンに参加する女性たちの自由はどうなる」「イベントを開催する学生の自由はどうなる」そのとおり。自由は最上位に置かれるべき価値観だ。やりたい人はやればよい。が、筆者は個人的な意見として、女子大生が容姿によって序列化される品評会がまるで「一世一代のイベント」のように報じられ、場合によっては景品や広告提供などの名目で巨額のスポンサーがつく現実は「あまり見たくない」と思う。 これは好みの問題で、筆者はできるだけ、その喧騒に巻き込まれたくないのである。大学では容姿のことなど忘れて学問に集中したいから、という理由もある。冒頭で述べたように、今回の慶応大サークルのように「性暴力を当然とする風土」をもつ団体が、ミスコンを主催していたという現実もあまり直視したくない。性暴力とミスコンが、どこかでつながってしまう気がするからだ。見たくもないものを、無理やり見せられているような気分になる。 「考え過ぎ」「そこまで言わなくても」という意見もあるだろうが、そういう直感をもつ人間もいるということだ。ミスコンが人気を集める一方で、「ミスターコンテスト」が圧倒的に少ないのは、外見による序列化が男性より女性に優位に働くことを示している。そして、その序列化を当然とする態度が、ときに性暴力を当然とする態度につながる可能性はある。そこに直感的な怖さを感じる人間もいるのだ。国公立大の「ミスキャンパス」に反対の理由 「ミスコンを主催する自由、参加する自由」があるというなら、こちら側の「見なくてよい自由」も保障してほしい。ただし、これは言い換えれば「見なくてよい自由」=「間接的にでもかかわらなくてよい自由」が保障されている限り、ミスコンには反対できないということでもある。大学主催のミスコンが「いちサークルの主催で行われる学園祭のいちイベント」であれば文句は言えない。こちらは、ただ黙って目を背けるだけである。 しかし、これが私たちの税金によって運営される団体によるものであれば、話は違ってくる。たとえば京都大学では度々、ミスコンが企画されては潰れるという「事件」が起きているが、国立大の公認サークルが企画するというのであれば、当然私たちの税金が一部でもミスコンに使われる可能性があるわけで、「関わらない自由」があやうくなる。国公立大学でのミスコンは基本的に反対だ。税金をつぎ込んで女性の外見を品評するくらいなら、奨学金の充実や研究費に充てた方がよほど社会のためになるであろう。 余談だが、この論理からいえば、地方自治体の実質的なミスコンである「何とか美人」「何とか大使」みたいなものもやめるべきだということになる。美しい女性が地方のPRになる、と言いたいのは理解できないこともないが、生身の人間を使うのはやめておくべきだ。どうしてもやりたいなら、2次元の美しいキャラクターに代わってもらえばよい。 筆者の主張は単純だ。民間団体が主催するミスコンには反対こそできないが、「見なくてよい自由」を保障してほしい。こちらが見なくてよいミスコンであれば、どんどんやればいい。成人雑誌のゾーニングのように、あちら側とこちら側を分かつものがあればよい。が、そんなミスコンがありえるだろうか。大学で開催されるミスコンはもはや年中行事と化しているし、特に首都圏のそれは週刊誌やネットメディアから注目を集め、大々的に報道される。 「ミス・キャンパスコンテスト」が、我々の視界から消えることはないだろう。つまりそれを見たくない人の自由は、ギリギリのところであやうい。ここまで肥大化したミス・キャンパスに、成人雑誌のようなゾーニングは難しいだろう。見たくない者は、鼻をつまんで目をそむけるしかない。自由という価値観が最上位にある限り、「ミスコンを廃止せよ」と叫ぶことの正当性は薄い。それでも我々には、「ある種のミスコン」に違和感を唱える権利があるし、女子学生を品評するその土俵がいつかまた、今回のような暴力事件と結びつかないことを祈る「自由」もある。

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    「ヤリサー」主催のミスコンなんてもういらない

    女子アナの登竜門として知られる「ミス慶応コンテスト」の主催サークルに集団レイプ疑惑が浮上した。しかも突然のミスコン中止に波紋が広がった矢先である。関係者の証言からは、その実態がセックス目的の「ヤリサー」だったとの声も聞こえてくる。もう金輪際、バカ学生が牛耳るミスコンなんてやらない方がいい。

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    早大生の停電デマ、慶大生の女性中傷 驚愕の「デジタルネイティブ」たち

    【ネット炎上のかけらを拾いに】網尾歩 (ライター) 週刊誌『AERA』10月8日発売号の第一特集は「早稲田vs.慶應」。たびたび話題になる私大の2強を取り上げた企画だったが、皮肉なことにネット上では両大学の学生による“不名誉争い”といってもいいような騒動が巻き起こっていた。停電に乗じた差別的デマをつぶやいたのは、早稲田大学在学中と思われる人物。一方、慶應大学では集団強姦容疑での捜査が報じられていることに関連し、複数の学生が女性を中傷する内容のツイートを行っている。デマを問われ「お口にチャックです」 プロフィール欄に「早稲田大学」、さらに所属学部名を書いた人物がデマをつぶやいたのは10月12日。都内で停電が起こったことに乗じて、「新宿のBURB〇RRYにいるんだけど停電発生 中国人がバックを掴んで逃走→自動ドア開かず、全力で衝突→気絶して警備員取り押さえ→客の悲鳴」(原文ママ、以下同)などと書き込んだ。ツイートは速いスピードで拡散されたが、当初からデマではないかと疑う人もいた。 その後、ニュースサイトBuzzFeedが検証を行い、デマであることを確定(※参考:【更新】「停電時に中国人が火事場泥棒」デマ、投稿者は取材拒否の後に投稿削除)。ここまでであれば、たまに現れる悪質な愉快犯的ユーザーだ。しかしここからがひどかった。 BuzzFeedの記者がこのユーザーに取材を申し込むと、「バズ何とかのトラフィックに貢献するのが嫌なのでお口にチャックです」と拒否し、さらに 「どうでしょう、BuzzFeedで、もう二本程、現状をテーマに記事を書いてみては。デマと噂されるツイートと、それに群がる人達をうまく記事にできませんか?」 などと、どこから目線なのかわからない提案。記者が「まず第一に(略)ツイートが真実であったのか否かをお答えいただきたいと考えております」と投げかけると、 「うーむ、それが通るのは本当に素人だけだとおもいますよ。まずはお互いにwin-winな状況をそちらが見せてくれないと、私は動きたくないですね」と返答した。 念のためにもう一度説明するが、このユーザーはデマの発信源である。熊本地震直後には、動物園からライオンが逃げ出したというデマをツイートして後に偽計業務妨害で逮捕された男がいたが(過去記事参照)、緊急時のデマは非常に危険であることは言うまでもない。自分のデマを指摘されてのこの態度はあまりにも図々しい。その後、この人物はアカウントを非公開にし、裏アカウント(サブ用のアカウント)も非公開にしたままだが、こちらには現在も大学名と所属学部をしっかりと書いている。 また、このユーザーが過去に障がい者や被爆者を中傷するような内容や、「女をレイプしろ 警察を殺せ」「尊師と飯食いながら、小学生の女の子どうやってレイプするか相談すんの楽しかったし、またやる必要ありだな」など、犯罪を示唆するツイートも行っていたことがわかっている。 プロフィールにウソの大学名を書いている可能性もあり得るが、この人物の場合、これまでの友人とのやり取りや画像から、早稲田大学の学生である可能性が極めて高い。 眉をひそめた方は、次でさらにあ然とするかもしれない。倫理よりもノリを重視 慶應大生のツイートの数々倫理よりもノリを重視慶應大生のツイートの数々 ミスコンが中止となり、その原因が広告研究会の集団強姦だったのではないかと報道された慶應義塾大学。警察が捜査を開始したことも報じられている。この件に関連して、アイドル活動を行う同大の女子学生が、ミスコンに参加した際の面接でセクハラを受けたことをツイッターで訴えた。 このツイートは現在までに数千回RTされているが、これを見た一部の慶應大生が、女子学生への中傷を開始。「ぶっ〇したくない?」「ぶち込んでやって下さい」といった、暴力を示唆するようなツイートさえあった。さらに、女子学生本人がこれを見つけて反論を行うと、攻撃はさらにエスカレート。他ユーザーからの非難をあざ笑うかのような態度を取り、最後はツイートを勝手に「晒された」と責任を女性に押し付けるようなつぶやきまで行った。 また、この学生とは異なるグループの慶應大生は、集団強姦の際に自分が撮影役だったという「冗談」を投稿。このツイートが拡散されると調子に乗ったのかさらに悪ふざけを続け、 「(セクハラをツイッターで訴えた女子学生を)叩けば本人が直々に晒してくれてフォロワー増えるってマジ? 牛丼は反応してくれないしこっちに浮気しようかな」(※牛丼は別の女子学生に対する揶揄) 「取り敢えず(同女子学生を)叩くことで注目を集めたい僕(略)お、おっ、おっぱい!!」 と女性の画像の一部を加工・強調してツイートをした。 この学生は過去に、 「女子小学生がたまらんかわいすぎて20になって顔写真付きで報道される前に逮捕覚悟で誘拐したい」 「痴漢魔の友人に座右の銘を聞いたら思い立ったが吉日と即答されてすごい納得した」 「おは幼女 今日も朝から女子中学生見学会に行ってきたんだけど野球部しか練習してなくて体育館まで潜入するかなぁとなっている」 といったツイートを投稿。実際に小学校の正門や校庭を撮影したツイートもあった。 筆者が驚いたのは、当然ながら非難されたこれらの学生に対し、他のユーザーは「(炎上に)負けずに頑張って下さい」などと応援したり、同じようにセクハラ的なツイートを行ったり、窘める人を煽ったり、集団強姦の被害者を「レイプされに行ったやつ」と表現したりしていたことだ。 プロフィール欄に慶應大学と書き、学部や学科名も出し、大学構内で撮影した風景や友人の画像を頻繁にアップしている状態で、だ。友人から本人の画像がアップされている場合もあった。匿名とはいえ簡単に個人を特定できるような状態で、こういったツイートをしているのだ。 問題のあるツイートは、探さなくても目に入ってくるほど多かった。ツイートは多くの「いいね」がついているものもあり、仲間内では顰蹙を買うどころか「ウケる」ツイートとして受け入れられていたようだ。 広告研究会の集団強姦が事実であったとすれば、こういった「倫理よりもノリ」を重視するキャンパス内の雰囲気も原因の一つではなかっただろうか。「小女子事件」や内定取り消し騒動を知らないのか「小女子事件」や内定取り消し騒動を知らないのか 少し前に流行ったデジタルネイティブという言葉がある。1990年代以降生まれを指すことが多く、生まれたときからITに触れ合う環境があったことを意味する。デジタルネイティブは「ITを直感的に使いこなす」「SNSでの距離感が絶妙にうまい」「ネット上での自己プロデュースがうまい」など、ポジティブなイメージを持っていた人も多いだろう。 バカッターという言葉があるように、バイトでの不正行為をツイートして若者が次々と炎上する現象もあったが、これもいったん収まり、数々の屍を踏み台としてインターネットの世界は教訓を得たと思われていた。しかし、このような大学生のツイートを見ると過去の炎上や、ネット上の犯行予告で逮捕者が相次いだことを知らない層もいるのかもしれない。 数年前には「小女子を焼き〇す」「おいしくいただいちゃいます」と書き込んだ男が逮捕されたり、立教大学の学生が起こしたレイプ事件について「別に悪いと思わない」「女がわりー」などと書き込んだ同大生が炎上して内定先企業が内定取り消しをしたと思われる発表を行ったりしたことがあったが、今の学生はこういった例を知らないのだろうか。リアルで言えないことを言うのがツイッターであり、悪乗りにノレないユーザーはKY。そんな、かつての2ちゃんねるのような空気を、一部の学生は感じてしまっているのかもしれない。 学生がこういったツイートをしてしまう背景にある他の要因として、狭い世界で周囲から受け入れられていると錯覚してしまう点があるのだろう。普通なら顰蹙を買うようなツイートが、仲間内からは「いいね」されたり、「また言ってるww」と苦笑を返されたりする。本当は画面の向こうで眉をひそめている人がいるのかもしれないが、相手がアクションを取らない限り、それはネット上ではなかったことになる。自分に好意的な反応だけを目にしているうちに、それに応えるために徐々に過激なツイートをしてしまう現象は確かにある。また受け手側も、周囲が「いいね」を押しているからアリなのだと錯覚し、感覚が麻痺していくのだろう。 ツイートが炎上した場合、かつては即刻アカウントを削除する人が多かった。しかし今回紹介した学生たちは皆、すぐにはアカウントを消さずに粘ろうとしていた。さらに「凍結された場合はこちら」と最初からサブ用のアカウントへ誘導していることもある。いったんやり過ごせば、次第に炎上の注目度は下がると知っているのかもしれない。もしくは炎上してもなおアカウントを消せないほど、そこでのつながりにしがみついているのかもしれない。

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    美人に生まれるのは本当のところ得ですか?

    林真理子(作家)中沢沙理(2016ミス・ユニバース日本代表)美人に生まれるって、本当のところ、得なの損なの? 林真理子さんの最新小説『ビューティーキャンプ』の登場人物は美女ばかり。刊行を記念して開かれたGINGER STYLE セミナーで対談の相手を務めるのも、2016ミス・ユニバース日本代表に選ばれたばかりの日本一の美女・中沢沙理さん。世界に通用する美とはどのように培われるのか。圧倒的な美が周囲にもたらすものとは。(撮影:岡村大輔)ミス・ユニバース・ジャパンが選ばれるまで林真理子(以下、林) こんばんは。今日はお集まりいただきありがとうございます。今年のミス・ユニバース日本代表中沢沙理さんです。中沢沙理(以下、中沢) 皆様こんばんは。3月1日に開かれました日本大会にて2016年ミス・ユニバース・ジャパンに選んでいただきました。今日は皆様と楽しい時間を過ごせたらと思います。よろしくお願いいたします。2016年ミス・ユニバース・ジャパンの中沢沙理さん(南雲都撮影)林 あまりにお綺麗で、今、「おぉっ」と会場からどよめきが起きましたけれども、どうですか? 日本代表に選ばれる自信はありました?中沢 100%の自信はなかったんですが、ずっと以前よりミス・ユニバースに憧れていて、特にこの半年間は集中して取り組んできましたので、自分の可能性を信じてとにかくベストを尽くそう。そう思って臨みました。林 今回私は本を書いた仕上げとして初めて日本大会の審査員を務めましたが、大会は一次審査、二次審査とありまして……。中沢 全国47都道府県からそれぞれの代表が集まり、一次はダンス審査と、大会前に行われた2週間のビューティーキャンプでの生活態度などの結果で、まずは46人から16人に絞られました。林 47都道府県のうち、唯一棄権が出たのが、私の故郷、山梨。それで46人。まぁ、それはどうでもいいんですが。でもミス・ユニバースの苛酷なところは、なんといっても1位が選ばれる瞬間ではないですか。中沢 二次審査で選ばれた5人のうちから、4位、3位、2位と発表されて、最後残されるのが1位と5位。林 二人が手を取り合い向かい合って、その時を待つ。今回、中沢さんと向かい合った方はとても背が高くて。中沢 182センチくらいありました。林 中沢さんがとっても華奢で小さく見えたので、世界大会に行くのは背の高い子かしらと思ったんですけど。選ばれて、どんな思いでしたか。中沢 びっくりしました。身長が高い方が世界大会で有利だと多くの人が思っていらっしゃるでしょうし、それでも「選ばれたい」という気持ちが自分の中にありまして。ひらすら祈ってました。林 最後にああやって二人が向かい合うってイヤなことじゃないですか。中沢 12月から少しずつトレーニングが始まって、ファイナリストはライバルでありながら仲間でもあったので、最後は誰が選ばれても「おめでとう」と言えるようでありたいとはずっと思ってました。実際のビューティーキャンプは小説より苛酷?実際のビューティーキャンプは小説より苛酷?林 『ビューティーキャンプ』はお読みいただいているかしら?中沢 もちろんです。林 この小説はミス・ユニバースの舞台裏を取材して、「ビューティーキャンプ」という2週間の非常に苛酷な、アスリートのような合宿の模様を描きましたが、実際に体験してどうでしたか?中沢 小説と近いものがありました。実際、朝7時のジョギングから始まって夜中までダンスレッスンがある。体力的にも精神的にも大変でした。林 小説にはエルザという美の伝道師が出てきて、美しい人たちに向かって、「あなたたちは今まで美しいことで辛い目に遭ってきたでしょう」と問いかける。小中学生くらいだと「首が長い」「背が高い」と苛められ、高校生くらいになると「色目使ってる」「イヤらしい」と責められる。中沢さんはそうした経験はされたのかしら?中沢 直接的に苛められることはありませんでしたが、身長が高くて目立っていたので男の子は全然来てくれませんし、男の先生と話していると女の先生がイヤな目で見てくるとか、そういうことは確かにありました。林 いくつくらいで、“自分っていけてる"って自覚するものですか?中沢 はっきりした自覚の記憶はないのです。でも自信をもっとつけたいと思い始めたのは中学生の時でしょうか。中1で165センチはありました。林 「沙理ちゃん綺麗」って、みんなから言われたでしょう。中沢 「かわいいね」と言われたことはありますが、「調子に乗り過ぎちゃダメ」と母にずっと言われてまして。褒められた時は、素直に「ありがとう」という気持ちでいました。林 中沢さんは今歯科医を目指していて、勉強にも励んでいる。それはただ綺麗な人と言われるのがイヤだからとか?中沢 そんなことはないんですが、単純に身体や人に興味があったので勉強を続けてきたら、ここまで来ました。美しすぎる女は男からも女からも敬遠される美しすぎる女は男からも女からも敬遠される林真理子氏林 先ほど控え室で意地悪な質問をしたんですよね。ミス・ユニバースのファイナリストレベルに綺麗だと逆にモテないんじゃないかって。私も小説を書くにあたってたくさんの元ファイナリストたちから話を聞いたんですが、みんな本当に綺麗で。ある時、青山で取材して、皆さんが店の外まで見送ってくれたんですけど、他にも女の人がたくさんいる中で彼女たちだけに光が燦々と当たっている感じだった。すごい輝き。でも、彼女たちの半分以上は外国の方と結婚している。これだけ綺麗だと、日本人の男性は怯えちゃうんじゃないかな。だから、ファイナリストレベルになると、男性に対して実はあまり得してないような。中沢 男性からちやほやされた経験は本当にないです。林 モテないなんて、信じられない。高校は共学?中沢 共学で、理系コースだったので3分の2以上が男の子でした。それでもクラス内で付き合うってこともなく。大学も理系で1クラスで6年間ずっと一緒なんですが、やっぱりなにもないんです。林 学校に行く時はヒールを履いたりなさる?中沢 履きます。ヒールを履くと180センチを超えてしまうので、男性と歩く時は履かないようにとも思いますが、気を遣うのもしんどくて。林 このレベルでの美しさだと、声をかけづらいのかしら。小説『ビューティーキャンプ』のエルザは「美しさは不当に貶められている」と言います。聡明さや優秀さは努力して身につけたものだから賞賛されるけど、「美人」「かわいい」は生まれつきだから評価されにくいと。「どうせ美人だからうまくいったんでしょう?」みたいな言われ方はされたことあります?中沢 「笑っておけばなんとかなるよ」というお言葉をいただいたことがあって。半分は褒めて下さってるのかなと思いながらも、中身をきちんと見てほしいという気持ちもあります。林 ビューティーキャンプでは協調性とか前向きであるとか、そうしたことも審査対象になるんですか?中沢 そうですね。50時間ほどの講義には常にカメラが入ってまして、先生方からの評価もあるので、全く気を抜けませんでした。少しでもイメージが下がると上げるのが難しいので。その他大勢にならないよう、自分のカラーを他の人に伝えるためにはどうしたらいいか、ということをずっと考えていました。林 大会本番ではスピーチ審査もあるんですよね。中沢さんが本番で受けた質問は?中沢 あなたの人生にもっとも影響を与えた人物は誰ですか? という質問だったので、ずっと憧れていた女優のオードリー・ヘップバーンについて話しました。誰が見ても美しい女優ですが、晩年にはチャリティー活動をされてまして。外見だけではなく行動でも多くの人を魅了したところに惹かれています。林 スイスのローザンヌに旅行した時、案内の方がどうってことのないお墓の前で車を停めてくれて。それがオードリー・ヘップバーンのお墓でした。あの方は顔もほとんどいじってなくて。あえてシワなどもそのままにしてて、白人の女性にしては珍しい。ところで中沢さんは女の友達は多いのかしら?中沢 私はかわいい女の子が好きで、みつけるとすぐに声をかける方です。林 かわいい女の子同士でつるむ?中沢 そういうわけじゃないんですけど。いろいろな方と知り合いたくて、キャリアを積んでる方から、専業主婦になってお子さんもいらっしゃる方までいます。林 モデルさんって同じくらいの美しさの人たちと一緒にいるのが楽で、普通の人とは群れないって、ご本人たちからお聞きしたことがあります。中沢 確かに特殊な仕事なので、お互いの環境を言い合えるという意味では落ち着きます。でも私の場合は好奇心の方が勝ってるかもしれません。林 今日びっくりしましたが、まだ22歳? この威厳。この落ち着き。2012年のミス・ユニバース日本代表の原綾子さんにお目にかかった時、彼女も若いのに、辺りを睥睨するような威厳があって。女王のようなオーラを発していた。ビューティーキャンプで身につくものなのかしら?中沢 ビューティーキャンプを始めとするミス・ユニバースの活動を通じて、考えはぶれないようになってきたとは思います。完璧な肉体美は偏見をもはねのける完璧な肉体美は偏見をもはねのける林 この間の日本大会を見てると、舞台上の皆さんがすごく楽しそうで。水着姿だけど、羞恥心なんて皆無。音楽に合わせてリズムにのって、「私を見て」って歩く。ターンする姿も、一朝一夕で作れるものではなくて圧巻でした。 そんなことと比べるなと言われそうですが、昨夜テレビで女芸人たちが、それこそ恥ずかしげもなくお腹を見せて笑いをとっていて。その対極がミス・ユニバースなわけですが。贅肉のひとかけらもないボディに、完璧に伸びた脚とくびれ。イヤらしい目で見ることができないくらいの肉体美。80年代にミスコン批判がありましたけど、そうした偏見をはねのけるほどでした。中沢 私自身、普段は肌をだすことに抵抗があって、女友達と行く温泉さえイヤなんですが、今回ミス・ユニバースに参加するにあたって、水着に着替える時間が限られており、そんなことにこだわっている場合じゃなくて、全員の裸を見飽きるくらいに吹っ切れました。苛酷な2週間の最後の締めくくりだから、舞台の裏で「みんなで盛り上げよう」と円陣を組んで臨みました。林 今後は歯医者さんのお勉強も続けていく?中沢 軸は変わってません。勉強は最後までやりたいですし、それに加えてミス・ユニバースという新しいブランドや知識を取り入れて美容と健康も伝えていけるようになりたいです。もともとファッションが好きなので、メークや服の着こなしなども発信していきたいと思ってます。林 今日のメークはご自分でされたとか? 今日の方が、大会の時より綺麗。中沢 大会時はプロのメークさんにミス・ユニバースらしいメークをしていただきました。今はミス・ユニバースのブランドイメージと、2016年の新しい私にしかない魅力を伝えられるメークを研究中です。強くてゴージャス。世界で通用する美とは林 数年前の日本大会ではたかの友梨さんが審査員でした。「あの子かわいいですね」と言ったら、「確かにかわいいけど、世界大会でどうなんでしょう」とおっしゃって。それが印象に残って小説で使わせてもらいました。難しいですね。世界が求める美しさは強くてゴージャス。日本人はそういうのがわりと苦手のようで。中沢 今回、本を読ませていただき、そのシーンはとても印象に残りました。実際のキャンプ中でも、かわいらしくて日本人が好きそうなタイプの方もたくさんいて、でも目標は世界なので、世界でどうアピールできるかを、私も小柄な方ではありますが、ずっと考えてます。林 中沢さんはアジアンビューティーだからアジアとか日本を前面に出すのはどうですか。中沢 日本人として育ってきましたので、日本の良さをアピールすることは大事だと思ってます。日本と日本人女性の良さを伝えていきたいです。林 これまでだと知花くららさんは日本人だったら誰もが好きなタイプで、その後の森理世さんは強烈な個性を放って世界一の美女になった。世界に通用する美を手にするのは大変なこと。中沢 世界大会は80カ国くらいから集まってきて、国によって美の基準もバラバラ、肌の色も違う。そんな中で単純に日本人が見て顔がかわいいとかスタイルがいいというだけでは世界で目立てない。内面も含めて世界基準で誰もにいいと思っていただけるようにならなくては。林 日本の男性は狭量で、自分よりも背が高い女性とか強い個性を持つ女性を敬遠する傾向があって。そうした男性と合わせ鏡にある日本の女性はいつまで経っても「かわいい」を第一に考えるところがあると、『ビューティーキャンプ』の書評にありました。中沢 日本の男性が望むのは、自分の一歩後ろをついてくる気の優しい女性なのかなと思いますし、そういうふうに実感する場面もたくさんあります。でも世界で、日本でももちろんそうですが、活躍するためには、自分を出していかないといけないと思ってます。そうしないと成長も難しいのかな、と。林 私が取材でお会いした日本人男性と結婚した元ファイナリストたちの多くが離婚されてましたよ。男性側が受け止めきれないんでしょうね。でもいいじゃないですか。世界に羽ばたいて外国の方と結婚するというのも。中沢 そうですね。結婚願望はありますので、世界でいろいろな方と出会える機会が今後あるとすると楽しみです。起き抜けの白湯とストレッチ、フルーツの効用起き抜けの白湯とストレッチ、フルーツの効用3月8日、滋賀県の三日月大造知事(手前)を表敬訪問、談笑する中沢沙理さん林 これだけの美しさを保つために気をつけてらっしゃることがあれば、最後に教えて下さい。聞いても無駄なような気がしますけど(笑)。お肌のためにやっていることとか?中沢 日焼け止めは、春先も冬も、肌に負担のない範囲でつけてます。林 ダイエットはなさったりする?中沢 ビューティーキャンプの時は体力的に厳しくて、一日三食プラス補食を2回とか食べてました。もともと食べることが好きで、東京で美味しいものを探すのが趣味です。小さい頃は新体操と水泳、中学高校はバレーボール部、今はヨガを中心にジムに通ってます。ダイエットをやるというより、運動して食べる感じです。林 この間対談で堀北真希ちゃんにお会いしたら、中学時代にジャージ姿のところをスカウトされたそうで。ジャージ姿から今日の彼女の美しさがわかるなんてすごい。中沢さんもスカウトされたとか。中沢 高校時代にたまたま東京に遊びに来ていた時でした。林 どこを歩くとスカウトされるのかしら?中沢 表参道です。林 ヒエー。やっぱり綺麗だったんでしょうね。普段はお水などにも気をつけてらっしゃる?中沢 水分をたくさん摂ろうとは思ってます。起き抜けに白湯を一杯飲んでから動くようにしてます。その後軽くストレッチして、フルーツを少し食べる。それはこの5、6年続けています。林 世界大会に向けてそろそろ準備も本格的に始まりますか? 数年前に取材の一環で、ラスベガスで行われた世界大会を見に行きましたが、中南米の人たちの応援がすごかった。彼らは世界一になると一族郎党がお金に困らないくらいのお金持ちになれる。日本だと賞金もないそうですけど。プレッシャーをかけるわけじゃないですが、そのくらい国を懸けてやってる人たちとの競争は大変ですね。ぜひ頑張っていただきたいです。中沢 楽しんでやりたいと思います。林 ここにいる皆さんも応援してます。頑張ってください。はやし・まりこ 1954年山梨県生まれ。82年エッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』でデビュー。86年『最終便に間に合えば/京都まで』で直木賞を受賞。95年『白蓮れんれん』で柴田錬三郎賞を、98年『みんなの秘密』で吉川英治文学賞を受賞。週刊誌や女性誌の連載エッセイも人気で『野心のすすめ』は大ベストセラーとなる。近著は『中島ハルコの恋愛相談室』『マイストーリー 私の物語』など。なかざわ・さり 1993年滋賀県生まれ。2016ミス・ユニバース日本代表。現在、都内の医療大学に通う。身長171センチ。関連記事■ 人はなぜ“苦しい恋愛”にハマるのか?■ 「忙しくて整理ができない」の悪循環から抜け出すには■ 戦争は体験してない。なのに身体に沁み込んでしまった戦争の記憶

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    3年夏が山場 女子アナ志望就活生の合言葉は「ミスコン出る?」

     厳しい大学生の就職戦線のなかでも、群を抜いて熾烈なのが「女子アナ」の採用試験である。 民放キー局(日本テレビ、テレビ朝日、TBS、テレビ東京、フジテレビ)の昨年の女子アナ採用人数はわずか7人。少ない“枠”を目指し、競い合う就職活動は過酷だ。 女子アナ就活の最初の山場は、3年の夏に訪れる。各テレビ局が実施する「1日アナウンサー体験」のようなセミナーである。 そして、セミナーが行なわれるのと同じ時期、女子アナ就活生の間では「ミスコン出る?」が合言葉になる。 ニュースキャスターに憧れ、昨年、キー局入社を目指したAさん(23)がいう。「女子アナにはミスコン出身者が多いので、選ばれれば箔づけになる。私はニュースキャスター志望だったので違和感を感じて出なかったけど、周りの子たちは真剣にエントリーするか悩んでいました」 ちなみにミスコン出身者の女子アナは、「ミス慶應」の中野美奈子(元フジ)や青木裕子(元TBS)、「ミス青学」で準ミスだった田中みな実(TBS)など多数いる。

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    「不当に責められすぎている」 性犯罪者はなぜ反省できないのか

    碓井真史(新潟青陵大学大学院教授) 強姦致傷の容疑で逮捕されていた高畑裕太氏は、被害者との示談も成立し、不起訴処分となり釈放されました。釈放時の仰々しい謝罪の仕方が芝居がかっているとか、集まったマスコミ人をにらみつけているように見えるなど、様々な報道がされています。会見冒頭、頭を下げる高畑淳子さん=8月26日、東京都千代田区(三尾郁恵撮影) これで、裁判が開かれることはなくなり、事実が裁判で明らかにされることもなくなりました。高畑裕太氏が今何を感じているのかも、わかりません。 ただ、一般的に性犯罪者は反省することが難しく、再犯率も高いとされています。なぜ、性犯罪者は反省しにくいのでしょう。強姦か同意か 強姦は、暴行や脅迫による性器の挿入ですが、性交自体は同意なら犯罪ではありません。ただ、この「同意」がよくわかりません。ある犯罪者は、女性をどんなに脅し、殴っても、最後に女性が「はい」と言えばそれは同意だと本気で思っていました。彼の最初の性体験は、強姦でした。 法的には、加害者が同意だと思い込んでいただけなら罪に問えるでしょうが、多くの人が同意と思っても無理はないとなれば、強姦罪が成立するかどうかは微妙でしょう。 さらに性犯罪者の多くは、認知がゆがんでいます。普通の人なら、たとえ女性がはっきり「ノー」と言っていない時でも、拒絶しているとわかるのに、彼らにはわからないことがあります。女性が苦しんでいたり、恐怖を感じていても、彼らは共感することが難しいのです。「同意だと思った」というのは、嘘であり裁判での言い訳という場合もありますが、誤解して思い込んでいる場合もあるのです。これでは、なかなか反省できないでしょう。共感されにくい性犯罪被害 ある女性が、尊敬する男性の別荘に行った。男性は女性にキスを迫る。女性は拒むのだが、拒みきれずキスされ、さらにホテルに誘われる。もしもこのような出来事があれば、どうでしょうか。 たとえどのような関係の男女がどこにいても、同意なしの性的行為は許されません。けれども、世間ではなかなか納得しない人もいるでしょう。別荘に行った女性が悪い、キスぐらいで騒ぐなという人もいるでしょう。 性犯罪は、刑法上は軽いわいせつ行為でも、被害者は人生が左右されるほどに深く傷つくこともあります。しかし、体の怪我や金銭被害に比べて、心の傷はわかりにくいのです。 見知らぬ人からの行為で傷つこともあれば、身近な人による行為で傷つくこともあります。交際中の男性に無理やりセックスさせられる「デートレイプ」で深く傷つく女性たちもたくさんいます。 わいせつ行為ではなく強姦ですら、乱暴な男性の中には、「減るものじゃなし」などという人もいます。強姦は、魂の殺人とさえ言われているのにです。 女性が強姦される恐怖は、男性が去勢される恐怖だと言う人もいます。男性が、誰かに男根を切断された時に、女性たちが「そんなものなくても生きていける」などと語ったらどうでしょうか。 加害者自身の共感性が弱く、世間の被害者への共感も低いなら、加害者が反省できなくても不思議ではありません。裁判、そして示談裁判 少年が強姦事件を起こした場合などは、関係者一同が本人を反省させようとすることが一般的ですが、大人の裁判では違います。検察側と弁護側が戦います。 被害者とされる女性が、いかに普段から性的に奔放だったかとか、事件発生時も男性を誘うかのような行為をとったかなどが指摘されることもよくあるでしょう。 これが例えば路上強盗事件なら、いかに被害者が強欲だったかとか、当日どれほど高価なスーツを着て偉そうに歩いていたかなどは、問われないでしょう。 たしかにケースとしては、女性が同意していたのに、後から男性を訴えることもあるでしょう。これで逮捕有罪となれば、冤罪です。しかし本当に強姦なのに、女性側の責任が問われるような裁判のスタイルは、加害者男性の反省には悪影響でしょう。示談 強姦罪は、親告罪です。強姦致傷や集団強姦は、違います。強姦罪が親告罪なのは、裁判を始めることが被害者にとって不利益になることがあるとの配慮でしょう。 本当は100パーセントの被害者でも、性犯罪被害者は不当に責められ、傷つくことが多くあります。弁護士の中には、その点を強調し、示談を迫る人もいると言われます。 強姦罪で一度は逮捕されても、示談が成立して釈放となれば、反省をしない加害者もいることでしょう。 以前、ある教育系の大学で、6人の男子学生が19歳の女性学生への集団準強姦罪で逮捕される事件がありました。サークルの宴会で、酔った女性を別部屋に連れ込み、6人の男性が次々と襲ったとされた事件です。集団準強姦罪も集団強姦罪も刑の重さは同じです。大学は、彼らを停学処分にしましたが、被害者女性は後に示談に応じました。 この事件を、検察は不起訴としました。不起訴にも種類がありますが、このケースでは、「起訴猶予」でした。起訴猶予とは、被疑事実は明白でも、様々な状況から訴追を必要としない(公判が維持できない、有罪にできる見込みがない等)と判断されたものです。 学生側は、起訴猶予処分を受けて、停学処分を下した大学の処分が不当として民事裁判を起こします。一審は、被害者女性が証言台に立つこともなく、学生側勝訴でした。学生は、疑いが晴れたと喜びの涙を流し、弁護士は「ある意味、刑事事件での無罪にあたる」とコメントしています。 しかし、その後の二審の高裁判決では、大学の行なった処分は教員養成大学の社会的責任として合理的な措置であるとして、地裁の判断を大きく見直す判決が下されています。 この学生らによる事件も、今回の「高畑事件」も、示談や不起訴が絡む事件です。どちらも、様々な推測はできるものの、事実は闇の中です。多くの場合当事者しかいない性犯罪、強姦事件は、事実の解明が困難です。被害者女性が不利益を被りかねない現状では、捜査や裁判への協力が得られなくても、女性を責められません。 示談成立、不起訴でも、深く反省できる人はいるでしょうが、示談と不起訴で、自分はやはり悪くなかったと感じる人もいることでしょう。 「疑わしきは罰せず」ですし、たとえ事実があっても、家族や弁護士が、当人を守るのは当然です。示談を求め、不起訴や無罪判決を願うのは、当然です。しかし、本当に当人を守るとは、事実があるとするなら反省させ、更生させることではないでしょうか。性犯罪加害者の反省と更生のために性犯罪加害者の反省と更生のために 刑事事件としては、不起訴や無罪でも、社会的制裁を受けることはあります。完全に冤罪であるならば、社会的制裁も受けるべきではありませんが、有罪判決は出なくてもルール違反や不道徳な行為はあった場合は、学校や会社が処罰を下すのは、一般的です。 さらに、起訴されれば正式な処分が下され、有罪となれば社会的生命が奪われることも多いでしょう。 問題は、これで加害者が反省するかどうかです。多くの加害者は、自分が不当に責められすぎていると感じています。 彼らの中には、女性蔑視の思いがあったり、男女の人間関係の感覚がゆがんでいたり、世の中全体を見る目がゆがんでいることもあります。大切なのは、彼らの価値観を正し、認知の歪みを取ることです。 犯罪者を甘やかすべきではないと思います。しかし、不当に責められていると思っている人を責め立てるだけでは、彼らの心はさらに固くなり、反省がかえって難しくなったり、形だけの反省になったりします。 彼らに深い罪の意識を持ってもらうためには、時にカウンセリング的なアプローチが必要です。彼らの言い分を一度は傾聴し、その上で、自分の考え方の歪みを自覚してもらう方法です。 このような性犯罪者への更生プログラムは、再犯防止に効果を上げています。 性犯罪者を反省更生させるためには、有罪になってもならなくても、更生プログラムを受けることが大切だと思います。さらにその前提として、罪を憎むと同時に、たとえ罪を犯してもやり直す価値はあると感じさせること、そして社会全体で被害者への共感と支援の思いを強めることが大切でしょう。(「Yahoo!ニュース個人」より2016年9月13日分を転載)

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    エロ本に目隠しフィルム 堺市が踏み込んだ「道徳規制」という一線

    長岡義幸(フリーランス記者) 法と道徳、ないしは法と倫理の分離は、近代の大原則だと教わってきた。不倫や近親相姦などの“不道徳”を刑法で裁けるわけがないし、法律をもって親を敬えとか、高齢者を大事にしろなどと強制することもあり得ない。 犯罪たる殺人や不倫関係にある男女の性愛を描いた小説やマンガ、ドラマ、映画も数多流通している。フィクションばかりではない。現実の出来事をなぞった実録モノもそこいら中にある。これらの表現すべてが法の下で規制の対象になってしまったら、笑い話ではすまされない。公権力による「表現の自由」の侵害である。あるいは、殺人を夢想しようが、テロを思い描こうが、行為を伴わない限り、何を思ってもかまわないという「内心の自由」の干犯にもつながっていくのではないか。 ところが、成人向け図書の販売規制は、青少年の健全育成なるものを大義名分に、まるで法と道徳の分離や表現の自由、内心の自由の埒外として扱われているかのようだ。 長野県を除く46都道府県には、青少年健全育成条例が制定されている。一般には、性的描写などの「著しく性的感情を刺激し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められる」図書類を、民間人を交えた審議会での検討を経て、行政が「有害」図書や「不健全」図書に指定し、小売店は指定図書を「成人コーナー」などに区分陳列したり、包装をして中身を見えなくしたりして、18歳未満の青少年の目に触れないようにしなければならないという制度だ。もし18歳未満に指定図書を販売すれば、一定の手続きを経て、小売業者は警察の摘発を受け、刑罰が科されてしまうことになってしまう。成人向け雑誌の表紙を隠す取り組みを始めた「ファミリーマートなかもず駅北口店」=堺市北区 ではなぜ、成人向け図書の販売規制が容認されるのか。「岐阜県青少年保護育成条例違反事件」での最高裁判決は「本条例の定めるような有害図書が一般に思慮分別の未熟な青少年の性に関する価値観に悪い影響を及ぼし、性的な逸脱行為や残虐な行為を容認する風潮の助長につながるものであって、青少年の健全な育成に有害であることは、既に社会共通の認識になっているといってよい」(1989年9月19日)としか言っていない。青少年条例による販売規制にお墨付きを与えはしたものの、「悪影響」「風潮」なる理由で“有害だから有害だ”と言うだけであった。一歩踏み込んだ“道徳規制” 青少年条例そのものに、私は疑義があるのだけれど、大阪の堺市は、さらに一歩踏み込んだ“道徳規制”に乗り出した。3月16日、堺市とファミリーマートは「有害図書類を青少年に見せない環境づくりに関する協定」を結び、コンビニに並ぶ成人向け図書の表紙が子どもや女性に見えないよう、フィルムで包む取り組みを進めることにした。具体的には、雑誌の中央を緑色のビニールカバーで覆い、「成人コーナー」の下部には子どもの視線を遮るために横長の板を設置し、「堺市では、女性や子どもに対する暴力のない安全なまちづくり事業〈堺セーフシティ・プログラム推進事業〉に取り組んでいます」という表示を掲げるというものだ。店頭には「女性と子どもにやさしい店」というシールも貼られているという。 販売規制の対象は、大阪府青少年条例によって指定された「有害」図書らしい。ただし、大阪府は2010年以降、タイトルを明示した個別の「有害」指定を実施していない。府条例では「全裸又は半裸での卑わいな姿態、性交又はこれに類する性行為で下記の内容を掲載するページ(表紙を含む)の数が、総ページの10分の1以上又は10ページ以上を占めるもの」を自動的に「有害」図書と見なす「包括指定」制度も設けており、堺市は「包括指定」図書を主な販売規制の対象にしているようである。 だが、大阪府条例の場合は、曲がりなりにも条例による法的規制というかたちをとり、販売方法も条文中に書き込んでいる。にもかかわらず、堺市は府条例をも踏み越え、法的根拠なしに、販売規制を行った。日本雑誌協会と日本書籍出版協会が「今回の措置は、大阪府条例の規定を逸脱するものであり、我々は堺市が締結したこの協定は、図書類への恣意的な規制強化につながるものとして大いに懸念しています」という見解を明らかにしているが、至極もっともなことだ。竹山修身堺市長 青少年の健全育成なるものは、本来であれば価値中立であるべき行政が関与できない、まさに道徳そのものである。青少年条例はそれを逸脱した制度だとは思うものの、かりそめにも行政が直接、成人図書の撲滅などの環境浄化運動を行えないということは理解していたはずだ。浄化運動の多くを肩代わりしてきたのは、(行政主導ではあるものの)建前上は行政の外にある「青少年育成県民会議」「青少年育成市民会議」などの名称で活動している官民一体の団体であったことが、その表れだ(余談ながら、これら地方組織のまとめ役だった内閣府の外郭団体「青少年育成国民会議」は、2009年に解散している。構成団体からは使途不明金の存在を疑う声が上がり、乱脈もあったのではないかと噂されたものだった)。行政の本分を忘れ、一線を逸脱したのが、堺市の取り組みと言えないだろうか。 その上、さらなる逸脱が加わる。青少年条例では、18歳以上の者が性的内容を含む図書類を「読む・読まない」「買う・買わない」自由までは規制していない。行政が「女性のため」「お母さんのため」を標榜して図書類の販売規制に踏み込むのは、はじめての事例になりそうだ。まさしく法と道徳、法と倫理の融合である。 堺市の竹山修身市長は、3月31日の定例記者会見で「子どもやお母さん、保護者の皆さん方が気楽に入れるコンビニの中で、いわゆる有害図書というのが置かれていることが、本当にいいのだろうか」「皆さん方も、お子さんや妻さんがコンビニに行って、そのような有害雑誌が陳列されている状態だったら、何だこれと思われるのではないか」「公権力の行使ではなく、自主協定である」などと説明したという。 首長といえど、素朴な道徳観を個人的に開陳するのはまったくの自由だ。しかし、たとえ住民の一部が喝采しようが、道徳の強制は行政の役割ではない。

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    エロ雑誌は規制に関係なく勝手に滅びていくだけだ

    安田理央(ライター、アダルトメディア研究家) 大阪・堺市が、コンビニエンスストアに陳列されている成人向け雑誌を半透明の色付きビニール袋に入れて表紙の中央部を覆うことで、子供たちの目に入らないようにするという取り組みを始めるという。さらに「堺市は女性や子供に対する暴力のない安全なまちづくり(堺セーフシティ・プログラム推進事業)に取り組んでいます」などと書かれた大きなプラスティック板をコーナーに設置する。 現在、コンビニでは既に成人向け雑誌は一般雑誌と区分し、二箇所のテープを貼ることによって立ち読みが出来ない状況になっているが、それでもまだ表紙が目に入ってしまうので、それもガードしよう、というわけだ。 エロ本から青少年を守ろうとする動きは21世紀に入ってから本格化している。まず2001年に東京都青少年健全育成条例が改正されて、コンビニや書店などで「青少年に好ましくない雑誌」を成人コーナーに隔離する区分販売が義務付けられた。 そして2004年には中身が閲覧できないように表紙と裏表紙をテープで小口留めすることが決定される。さらに2005年には一箇所のテープ留めでは、中身が読めてしまうという指摘から、テープを二箇所にすることになる。これでコンビニでエロ本を立ち読みすることは不可能となった。 そればかりが原因というわけではないが、00年代後半からエロ本の売上は大幅に下がり、現在は、ほぼ壊滅したと言ってもよい状況である。コンビニには、まだたくさんエロ本があるではないかと思う人もいるかもしれないが、よく見てみると、そのほとんどがAVメーカーから写真や動画を借りて安価で作ったDVD付ムックであることに気づくだろう。昔ながらのグラビアを撮り下ろしたエロ本は、ごくわずかしか残っていない。多くのエロ本出版社は実写系エロ本から撤退し、エロ漫画誌やファッション誌、パズル誌などの一般誌に主力を移している。雑誌「フォーマット」はもう過去のもの エロ漫画誌は、実写系エロ本に比べるとまだ状況は悪くないようだが、やはり発行部数23万部(日本雑誌協会調べ、ちなみにこれはビッグコミックスピリッツ誌を遥かに上回る数字だ)の「COMIC快楽天」(ワニマガジン)などの好調な一部の雑誌を除くと減少傾向にある。 ただし、これはエロに限らず雑誌全体に見られる傾向であり(雑誌全体の総売上は1998年から前年比マイナスが続いていて、現在は当時からほぼ半分の数字になっている)、雑誌というフォーマットが既に過去のものとなっていることを証明している。 その中でもエロ雑誌の落ち込みは特に激しく、正直なところを言えば、このまま放置しておいても、勝手に滅びるのではないか、という状況なのである。2020年の東京オリンピックに向けて、エロメディアに対する規制が厳しくなるだろうと予測されるが、むしろ2020年まで保たないのではないか、とまで筆者は思っている。 エロ本の人気が急落した最も大きな理由は、やはりインターネットの普及であろう。手軽に無料で画像や動画が見られるインターネットは、あっという間にアダルトメディアの王者になってしまった。特にスマートフォンの普及はそれに拍車をかけた。 現在、若者(男性、女性に関わらず)が性的好奇心を満たす手段として見ているのは、ほとんどがネット上のコンテンツだ。エロ本はもちろん、DVDすらも見たことがないという若者は多い。 かろうじて生き延びているエロ本を支えているのは、40代以上の男性読者である。編集部に話を聞くと、20代の読者はほとんどおらず、30代もかなり少ない。40代、50代が読者のメインなのである。 エロ本は、ネットが出来ない、あるいは苦手だという人の救済手段となっているのが現状だ。そういう意味では、まだスマートフォンを持たせてもらっていない子供が、仕方なくエロ本に手を出すということも考えられなくもないが。 本当に青少年を「有害な」コンテンツから守りたいというなら、現時点ではネットでの対策を考えた方が有効なはずだ。現状のフィルタリングなどは、まだまだ抜け道があり、完璧な対策とはいえない。とりあえず目立たなくしておきたい 今回の堺市のようなコンビニにおけるエロ本規制は「とりあえず目立たなくしておきたい」という発想から生まれたものだろう。 表紙の中央を幅12センチの濃い緑色のカバーで覆うというこの対策は、立ち読み出来ないようにしたテープ留めの手法を、さらに推し進めたものだ。これが「表現の自由」を侵害するものではないかと、抗議をする動きもある。しかし当のエロ本の現場では、そうは考えてはいないだろう。規制に対して抗議するよりも、その規制にひっかからないようにして、いかにエロくするかを考えるのがエロ業界の発想だからだ。 2004年のテープ留めの時は、立ち読みが出来ないなら、表紙で内容がわかるようにしなければならない、という対策が取られた。その結果、内容を表したキャッチコピーがごちゃごちゃと表紙を埋め尽くした雑誌ばかりになってしまった。アート誌やファッション誌と見間違えてしまうほどに洗練されたデザインの表紙が印象的だった「URECCO」(ミリオン出版)も、テープ留め規制以降は、他のエロ本と同じくキャッチコピーに埋め尽くされた下世話な表紙となった末に休刊した。 おそらく、今度は幅12センチのカバーに覆われない部分だけで、どう目立つかに勝負をかけることになるのだろう。わずか幅数センチのスペースに扇情的な語句を詰め込んだ表紙がズラリと並ぶ、そんな成人コーナーの有様が目に浮かぶ。 しかし、いずれはコンビニから、エロ本は完全に撤去されてしまうだろう。その流れは止められない。 コンビニで売れないならば、書店で売ればいいではないか、そもそもコンビニのような日常的に利用する店でエロ本を販売するのが、間違いなのだ。そういう意見もあるかもしれない。 だが、その書店は毎日2軒のペースで街から消えている。新規にオープンする書店もあるが、そのほとんどが大型書店であり、そうした店にはエロ本コーナーは存在しない。そもそもエロ本の場合、書店とコンビニの販売では部数は10倍ほど変わってくる。コンビニから締め出されて、書店に活路を見出すという選択肢は、難しいのだ。 今回の堺市の試みが、全国に広がっていった場合、既に瀕死であるエロ本にとって、それはとどめとなるだろう。 しかし、既に中高年の読み物であるエロ本を世の中から排除したとしても、青少年の「正常な育成」には、あまり影響はないのではないか。そう思えてならないのだ。

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    コンビニのエロ本規制とおバカな人権感覚

    過剰な性的描写を含む成人雑誌の販売をめぐり、堺市が今年3月からコンビニと協力して「目隠し」する規制に賛否が渦巻いている。性表現の在り方をめぐり国内では出版業界とのバトルが続いているが、この規制の裏にはどうも国連のおバカな人権感覚もプンプン漂ってくるのですが…。

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    コンビニの成人向け雑誌に「目隠しカバー」は法的に許されるのか

    園田寿(甲南大学法科大学院教授、弁護士)   報道によると、大阪府堺市がコンビニで売られている成人向け雑誌(いわゆる有害図書)に対して、95万円の予算を計上して半透明の色つきビニール袋で雑誌を覆う取り組みを始めるというこです。 コンビニエンスストアに陳列された成人向け雑誌を子供たちが目にする機会を減らすため、堺市は新年度、コンビニに協力を求め、市内店舗で、半透明の色つきビニール袋で雑誌を覆う取り組みを始める。また雑誌棚を子供の目に入りにくい場所に移動してもらうとともに、小さな子供の視線が雑誌に行きにくいよう棚の下側に横長のプラスチック製板を設ける。 市市民協働課によると、こうした取り組みは全国でも珍しいという。府内では府条例で18歳未満の青少年に対し、指定された「有害図書類」の販売・閲覧を禁止しており、コンビニなどでは区分陳列されている。対象となるのはこうした区分陳列された雑誌類。雑誌を覆うビニール袋の色は未定だが、縦12センチの半透明で、腹巻きのように雑誌の中央部分を覆い、表紙の写真などを見えにくくする。上部の雑誌名の部分と下部は覆わず見えるようにする。十数万枚の購入を予定している。 産経WEST 2016.2.17より引用 従来から、大阪府の場合、青少年の自由な出入りを物理的に禁止するスペースに有害図書を陳列する場合や、レジの後ろの棚のように、青少年が有害図書を直接手に取って見ることができないような場所に陳列する場合以外では、ビニールやひも掛けによる個別包装が義務付けられてきました。この場合の「ビニール包装」は、透明なビニールで包装されたもので、表紙はそのまま見えていました。ところが、今回、堺市が実施しようとしている方策は、これを一歩進めて、半透明のビニールで雑誌を覆って表紙の一部を隠す方法なのです。 有害図書規制は、出版や表現行為、あるいは知る権利に対する制約ですので、厳格な法的根拠が必要なのですが、今回の堺市の取組みが従来からの有害図書規制の法的枠組みを逸脱していないかどうかが問題となります。大阪府における有害図書規制 大阪府では、青少年健全育成条例(以下「条例」)第15条と同施行規則(以下「規則」)第6条で区分陳列や個別包装などの措置が規定されています。これは、有害図書類の販売やレンタルなどの営業をする者に対して、18才未満の青少年が有害図書類を買ったり、閲覧したりすることを防止するための措置であって、次のいずれかの方法によって、他の図書類と区別して陳列したり、店員の目が届く場所に陳列することを義務づけるものです。(陳列方法その1)青少年を自由に出入りさせないための間仕切り等で仕切り、内部を容易に見通すことができない措置がとられた場所に陳列する(下図1)。(陳列方法その2)ビニール包装、ひも掛け、テープによる2点留めにより、容易に閲覧できない状態にした有害図書類を次のイからニの方法により陳列する(下図2)。(イ)他の陳列棚と60cm以上話して設置した棚に陳列する。(ロ)10cm以上張り出す仕切り不透明の板を設け、その間に陳列する。(ハ)床面から150cm以上の高さの位置に背表紙のみが見えるように陳列する。(ニ)図書類の販売又は貸付けに従事する者が常駐する場所から5mいないにあり、当該者が直接見て監視できる場所に陳列する。(陳列方法その3)図書類の販売、貸付け、又は閲覧等に従事する者が常駐するカウンターの上、又は内部に図書類を購入等する者が有害図書類に直接触れることができない状態にして陳列する(下図3)。 さらに、設置スペースの問題から(陳列方法その2)によるときは、「ビニール包装」または「ひも掛け」を行うことが必要です。そして、決められた区分陳列の方法に従っていない場合、その事業者又は有害図書類を管理する者に対して期限を定めて改善の勧告を行い、従わない場合は、従わなかった者の氏名又は名称・勧告内容等が公表され、それでも改善されない場合は大阪府知事が命令を行います。また、公表後1年以内に再度違反した場合は勧告、公表を経ず、命令が行われます。そして、それでも守らない場合に初めて30万円以下の罰金に処せられます。大阪府のパンフレット「大人の責任」より(区分陳列の方法等)なぜ堺市の取組みは法的に問題ないのか 堺市の取組みについては、私は有害図書に対する従来の法的規制を超えるものではないかと思っています。理由は3つあります。 第一に、規則第6条2号は、「ビニール包装」か「ひも掛け」のいずれかによって有害図書類の閲覧が防止されていればよいと規定していることから、規則は表紙までを隠すことは求めていないと解されます。つまり、区分陳列とは、出版物の内容の閲覧を制限する措置であり、表紙は「内容」とは区別されるものであると解されるのです。もちろん、業者自らが表紙も隠して陳列することは構わないと思いますが、行政として公権力がこのような陳列方法を業者に要求することは、従来の有害図書規制を逸脱するものではないかと思います。 第二に、コンビニで区分陳列されている雑誌類は、必ずしもすべてが有害指定されているとは限りません。行政が有害指定せず、法的には「有害図書」ではないものも含まれている可能性があります。だとすると、そのような雑誌に対して行政が表紙を隠すことを要求することも問題だと言えるでしょう。 第三に、堺市の担当者は「日本では成人向け雑誌がむき出しの状態で売られている。子供の教育という観点とともに、訪日外国人も増えており、今回試みることにした」と説明しているとのことです(上記、産経WEST)。有害図書規制の目的・根拠は、「青少年を取り巻く社会環境を整備し、及び青少年をその健全な成長を阻害する行為から保護し、もって青少年の健全な育成を図ること」にあります(条例第1条)。ここには、訪日外国人に対する社会環境の整備といった目的は含まれていません。この点も過剰な規制であると言わざるを得ません。 有害図書規制は、出版・表現の自由に対する制約ですので、条例や規則の解釈は厳格になされなければならないと思います。(了)大阪府青少年健全育成条例大阪府青少年健全育成条例施行規則【追記】(2016年3月11日) 本日(2016年3月11日)、堺市のホームページに、堺市とファミリーマートとの間で締結される予定の「有害図書類を青少年に見せない環境づくりに関する協定(案)」が公表されました。「協定(案)」によると、以下のような「表示板」を陳列棚に取り付け、以下のような「フィルム」で包装を行うということです。具体的な作業はファミリーマートが行い、堺市はその表示板やフィルムなどの資材を提供することになっています。堺市のホームページより(Yahoo!個人 20016年3月9日分を転載)

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    コンビニの成人向け雑誌を利用する堺市の「人権」パフォーマンス

    昼間たかし(ルポライター) 大阪府堺市が3月から始めたコンビニエンスストアの成人向け雑誌に対する新たな「規制」をめぐり、出版業界との間に深刻な対立が起こっている。「人権」が絡んだ途端に思考停止する堺市行政の体質が原因なのか、既に2カ月あまりに及ぶ問題に解決の糸口は見えていない。  問題の発端となったのは、3月16日に堺市が始めた「有害図書類を青少年に見せない環境づくりに関する協定」だ。これは、堺市の呼びかけで市内のコンビニエンスストアの成人雑誌陳列棚に同市が制作した目隠しを取付け、個別の包装の実施を行うというもの。堺市の呼びかけに市内のファミリーマート11店舗が、これに応じた。 この施策の発端となったのは堺市が取り組んでいる女性や子供が暮らしやすい「堺セーフシティ・プログラム推進事業」。この施策の中で、堺市は2014年からUNWomen(ジェンダー平等と女性のエンパワーメントのための国連機関)が取り組むセーフシティーズ・グローバル・イニシアティブに参加。その中で実施された、現状と問題点を報告する「スコーピング・スタディ・レポート」で「コンビニエンスストアに性暴力を主題としたものを含むポルノ漫画やポルノ雑誌が、目につく形で展示されている」という批判がなされたのを受け、コンビニエンスストアを対象にした協定を実施することになったという。成人雑誌にカバーをつけた陳列イメージ。下は子供の視線を遮る横長の板(堺市提供)  まず問題となるのは、この協定で目隠しを取り付けた棚に陳列され、シール包装すべき対象となる雑誌・書籍だ。堺市とファミリーマートが結んだ協定では「大阪府が府青少年健全育成条例で定める有害図書」が対象だと記されている。現在、長野県を除く46都道府県には「青少年健全育成条例」による「有害図書(東京都のみ「不健全図書」と呼称)指定」制度が存在する。この条例の目的は、過度な性表現や暴力を扱う雑誌・書籍が青少年に悪影響を及ぼすものとして18歳未満への販売を禁じ、店頭では棚を区分陳列し包装や目隠しなどを施すことを定めるものだ。 制度自体は、ほぼ全国に存在するが、まともに運用されているのは東京都だけ。東京都では1964年の条例制定以来「個別指定」制度を導入。これは、都の職員が書店などで指定されるべき候補を購入し毎月一回開催される東京都青少年健全育成審議会(都議や業界団体代表、識者などで構成)に判断を仰ぐものだ。 これに対して、大阪府をはじめとする多くの道府県が実施しているのは「包括指定」と呼ばれる制度。これは性や暴力表現が条例の定める基準を超えたものが、自動的に「有害図書」になるという制度だ。大阪府の条例では「全裸又は半裸での卑わいな姿態、性交又はこれに類する性行為で下記の内容を掲載するページ(表紙を含む)の数が、総ページの10分の1以上又は10ページ以上を占めるもの」とされている。つまり、現状でも大阪府では書店やコンビニエンスストアが「全裸又は半裸での卑わいな姿態」か否かを判断し「総ページの10分の1以上又は10ページ以上」かを数えなければならないことになっている。とりわけ「卑わいな姿態」の判断は、極めて主観的だ。これを補う目的で、大阪府は数年に一度「個別指定」を行って判断基準を示すことになっているのだが、2010年を最後に実施されていない。「自主規制」にタダ乗りしようとする堺市 「有害図書」がなにか曖昧なままに、実施される堺市の施策。結局、コンビニエンスストアが堺市から送付されるフィルムで包装しているのは「2点シール止め」を施した雑誌になっている。 出版業界がもっとも憤慨するのは、ここである。 「2点シール止め(または「小口シール止め」と呼称)」は、2004年から出版業界が導入した「自主規制」だ。これは、書店やコンビニエンスストアで青少年が立ち読みできないようにするために行われているものだ。 ゲームソフトやアダルトビデオが販売前に倫理団体の審査を受けるのに対して、出版は倫理団体を持たない。そのためパッと見は野放図な印象を持たれるが、様々な形で自主規制が行われている。 出版業界の自主規制のための組織として、日本雑誌協会・日本書籍出版協会・日本出版取次協会・日本出版物小売業組合全国連合会の業界4団体による出版倫理協議会がある。この協議会に設置された出版ゾーニング委員会には、アダルト系出版社の業界団体である出版倫理懇話会も参加している。日本出版取次協会も参加していることから、雑誌・書籍の流通システム上、出版倫理協議会の決定にはすべての出版社は従うことになる。 現状、前述の「2点シール止め」に加えて、出版社では過激な性表現を扱う雑誌・書籍は最初から「18禁」「成人向け」の自主規制を行う。「18禁」の場合、取り扱う書店は最初から心得た限られた書店になる。 こうした自主規制や組織が存在する背景には、出版業界が戦後70年あまりにわたって、幾度となく「俗悪」と批判されたり、国や地方自治体による法規制に抗してきた歴史の積み重ねがある。「2点シール止め」もまた、出版業界にとっては苦渋の決断だった。なぜなら、一冊数百円の雑誌に対してシール止めは20円あまりの工賃がかかる。文字通り、出版社が身銭を切って行っている自主規制なのだ。堺市の施策は、そこにタダ乗りしようとするものである。 加えて問題となっているのは大阪府の条例からの逸脱だ。大阪府の青少年健全育成条例施行規則では、「有害図書」の区分陳列の方法として「ビニール包装、ひも掛けその他これらに準ずるものとして知事が認める方法により有害図書類を容易に閲覧できない状態」としている。大阪府では「2点シール止め」は「その他」に該当すると判断している。これに対して、堺市のフィルムは幅12センチにも及ぶもので、雑誌・書籍の表紙の大部分が見えなくなる。府の条例から逸脱した施策が「協定」という形で議会にも諮ることなく実施されているのである。的を射ていないのはどちらだ 堺市の協定に対して日本雑誌協会と日本書籍出版協会では、3月18日にこれらの問題点を追及した公開質問状を送付した。堺市は3月31日に回答したが「協定は民間企業との間で実施しているもので、府条例からは逸脱しない」「民間の取り組みで、離脱することもできる」とし、施策に問題はなく変更はないという態度を示した。さらに、回答に先立って堺市の竹山修身市長はTwitterで「雑誌協会等の言う表現の自由侵害はF社との自主協定であり失当(註:的外れの意)です」と、半ば嘲笑するような発言を行った。二月定例会を終え定例記者会見です。提案の議案は全て可決頂きました。記者連から有害図書のコンビニ掲示、相次ぐ政務活動費監査請求、政令市十年の総括等の質問がありました。雑誌協会等の言う表現の自由侵害はF社との自主協定であり失当です。 pic.twitter.com/mcLDLNPhEM— 竹山おさみ(堺市長) (@osamit_sakai) 2016年3月25日  こうした堺市の態度は、さらに出版業界の反発を呼んだ。日本雑誌協会編集倫理委員長の高沼英樹氏は筆者の取材に「的を射ていないのはどちらでしょうか。あなたたちこそ、そうでしょうと言いたい」と怒りを隠さず、堺市の回答に対しては「声明を出して終わる問題じゃない! 徹底的にやりますよ」と話した。 回答の後、両協会では4月4日に「協定」の即刻解除を要求する声明を発表。対して、竹山市長は定例記者会見で「(ほかのコンビニでも進めていきたいという考えに)変わりない」と発言。これを受けて、両協会は新たに申入書を送付しているが、以降堺市からの返答はない。 そこで、堺市に返答しない理由を尋ねてみたところ、こんな答えが返ってきた。 「(申入書は)特に回答を求めているのはないので、頂いたということで……様々なご意見を頂いてはいますが協定を解除する予定はありません」 堺市には、出版業界の努力を踏みにじる過度な規制が、言論・表現の自由の侵害へと繋がっていくことへの想像力が欠けているようだ。協定による施策を実施しているファミリーマートは、現在も11店舗のまま増減はないという。11店舗で成人向け雑誌を包装したことで女性や子供が暮らしやすい都市ができると、本気で考えているのだろうか。「人権問題になると、基本的に思考停止してしまう」 ここで思い出されるのが、2008年に堺市で起こったボーイズラブ(BL、主に女性読者を対象とした男性同性愛を描く作品)図書撤去問題だ。これは堺市立の4図書館がBL小説を書棚に置いていたことに対して市民から「セクハラではないか」「子どもに悪影響を与える」と苦情が寄せられたことに端を発する。これに対して堺市は「今度は、収集および保存、青少年への提供を行わないことといたします」と回答し書庫に収蔵する措置を取った。ところが、この問題が全国紙でも報道されると、今度は市民から「図書館には実に多様な資料が収集され、利用者に提供されています。それらの資料の中には、ある人にとって気に入らない資料が含まれています」となどとする批判が殺到。結局、堺市では条例の「有害図書」にあたらない、として書庫への収蔵や貸し出し制限は行わないことを決めた。平成28年度当初予算案の記者会見に臨む堺市の竹山修身市長=2016年2月10日 筆者もこの騒動の渦中で、現地を訪れて多くの関係者に取材した。市民のための図書館はどうあるべきか。娯楽本やポルノを公共図書館は収蔵すべきかなど論点は尽きなかった。だが、その中で気になったのは市立図書館の関係者に取材した時である。 「まずは、なにがBL図書にあたるのか洗い出し作業を行っています」 そう話す担当者が見せてくれた資料には、明らかにBLではないジャンルの小説までもが、いくつも記載されていたのである。そこには「とりあえず、嵐が過ぎ去るまで、なにかをやっているフリ」が匂っていた。 その匂いの正体を教えてくれたのは、日本図書館協会・図書館の自由委員会委員長の西河内靖泰氏である。西河内氏が堺市が迷走した背景として、様々な人権問題が行政闘争によって解決されてきた歴史を語り、こう指摘した。 「堺市は人権問題になると、基本的に思考停止してしまう。ほとんど正常な理屈が通らなくなってしまう行政の体質があるんです」 この時の取材から導き出されるのは、堺市では「人権」への取り組みが市民に対する大きなパフォーマンスになると行政が考えていることである。堺市はファミリーマートと協定を結んだことを大々的にアピールするが、施策を実施している店舗は11店だ。電話帳で調べたところ堺市内のファミリーマートは34店。コンビニエンスストアは288店舗である。 これだけで、堺市の行政も、出版業界を挑発する竹山市長も、本気で女性や子供が暮らしやすい街を目指しているとは思えない。出版業界からの声明、申入書にも動じないのは、言論・表現の自由に無理解だからではない。本気で「人権」のことなど考える気すら持っていないからである。 粗悪な「人権」パフォーマンスを自画自賛する堺市。きっと、市民から「協定」に対する苦情が寄せられた途端に、また迷走するだろう。その姿が目に浮かぶ。 だが、最後に歩みを留めて考えたい。社会的に「弱者」とされる側に寄り添うふりをして、錦の御旗を得たかのように振る舞う姿を見るのは、ここだけではないということを。 「弱者」だとか「被差別」とされる側と社会との関わりは、一様ではない。そこには複雑な関係が絡み合っていてなにが真なのか、回答などない。その複雑な社会や人間というものを描くためにも、やっぱり言論・表現の自由は限界まで制限されるべきではないと考える。

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    海外の厳しい性表現規制が「クール・ジャパン」に水を差す?

    (THE PAGEより2013年5月13日分を転載) 海外へ日本発のコンテンツを発信する「クール・ジャパン戦略」が政府主導で進む中、アニメやマンガの表現規制問題が、いま改めてクローズアップされています。日本のマンガは「児童ポルノ」? 諸外国では一般に、日本より厳しい表現規制が敷かれており、暴力表現や性描写、特定の宗教・人種を戯画的に描く表現などは厳しくチェックされるのが通例です。未成年者の性的魅力をアピールする表現は「児童ポルノ」として認めない姿勢をとる国も少なくありません。 たとえばスウェーデンでは、2009年、自宅のパソコンに日本のマンガの画像を保存していた男性が、児童ポルノ所持の容疑で逮捕されるという事件が発生。最高裁まで争った末にこの男性は無罪となりましたが、表現規制の厳しさを象徴する例となりました。 こうしたことから、「クール・ジャパン」を海外発信する際にも、表現上の配慮が必要だと指摘する声もあります。(画像と本文は関係ありません) 経済産業省商務情報制作室クリエイティブ産業課クール・ジャパン海外戦略室長補佐の小田切未来氏は、5/1付CNET Japanのインタビューで、「日本のアニメには、(表現によっては)海外でポルノ同様に扱われることで、ビジネスチャンスの可能性が狭まるものもあったということを聞いたことがあります。そういった点も含めて基準を設けないといけないでしょう」と述べ、クール・ジャパン戦略の支援対象には、表現上の基準を設ける必要があるという認識を示しました。日本でも表現規制が進む? 日本でも、欧米諸国のような規制を求める動きが活発になっています。自民党政調会長の高市早苗衆院議員らは、児童ポルノ禁止法改正案を議員立法として近く国会へ提出する見込みです。この改正案は、児童ポルノの販売だけでなく所持も禁止することを盛り込んでいるほか、マンガ・アニメなどの二次元の児童ポルノ的表現についても、その影響を調査研究した上で、施行後3年をめどに規制を検討することとしています。 こうした動きに対し、懸念の声も上がっています。みんなの党の山田太郎参院議員は、5月8日の参議院予算委員会でこの問題を取り上げ、「マンガやアニメの中で想像上の登場人物の肌が少しでも見えていたら行き過ぎた自主規制が行われて、日本の漫画やアニメが面白くなくなる、また廃れてしまうのではないか」と発言しました。 現在、クール・ジャパン戦略を統括する稲田朋美内閣府特命担当大臣は、かねてより児童ポルノ問題に熱心に取り組んできたことで知られています。稲田大臣は、5月14日の会見で記者の質問に答え、表現の自由は憲法上の重要な権利だと認めつつも、「全て無制限というわけではないというふうにも思います」と述べました。 日本のアニメやマンガは、諸外国よりも緩やかな表現規制のなかで創造性を発揮してきた歴史があります。規制と、表現の自由との折り合いをどうつけていくのか。今後の議論の行方が注目されます。

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    性表現漫画を制限する都条例 際立つ「健全」と「不健全」の曖昧さ

    (THE PAGEより2014年5月28日分を転載)  東京都が青少年育成条例にもとづき、漫画『妹ぱらだいす!2』(KADOKAWA)を「不健全図書」に指定したことで、「表現の自由」が侵されるのではないかと話題になっています。不健全図書とは、行政側が「性的感情を著しく刺激する」と判断した漫画やアニメを18歳未満が購入できないようにシール止めや成人コーナーへの移動を義務付けるもので、特に作品中の「擬音」や「体液」の多さが問題視されます。 しかし、今回の指定で問題になったのは「わいせつ性」だけではありません。東京都の青少年育成条例は2010年に一部改正され、婚姻が禁止されている近親者間の性行為など社会規範に反する表現も不健全図書の指定基準に加わりました。『妹ぱらだいす!2』は主人公が妹5人と同居して性行為に及ぶ作品です。今回はこの“新基準”が適用された初めてのケースで、そのため今後は「妹」を題材にするだけで不健全図書の烙印を押されてしまうのではないか、と心配する声が上がっているのです。 新基準は本当に「表現の自由」を制限するものなのでしょうか。[図表]憲法が規定する「表現の自由」と東京都の「不健全図書」の指定基準 憲法21条は表現の自由の保障を規定しています。表現の自由とは、“人の内面の精神作用を外部に発表する自由”のことです。過去には、D・H・ローレンスの『チャタレー夫人の恋人』の日本語訳をめぐって作家・伊藤整と出版社社長がわいせつ物頒布罪に問われた裁判、マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』の日本語訳で作家・澁澤龍彦と出版社社長がわいせつ罪に問われた裁判などをはじめ、「わいせつ性」と「表現の自由」をめぐる議論が何度も行われてきました。 国会で実務者協議が行われている児童ポルノ法をめぐっても同様の議論があります。東京都が今回の新基準を制定したときも、やはり表現の自由との兼ね合いが問題になりました。 そこで、東京都青少年・治安対策本部はこうした漫画規制について、漫画を描くことや出版することは自由であり、あくまでも規制は「青少年への販売・閲覧を行わないこと」だとし、新基準の対象を次のように限定しました。(1)漫画やアニメなど「画像により」(2)「刑罰法規に触れる」または「婚姻を禁止されている近親者間の」(3)「性交、または性交類似行為」を(4)「不当に賛美したり誇張するような描写、または表現したもの」――。新基準の対象はこの4つ全部に該当するものだけで、「表現の自由の侵害するものではない」と主張しているのです。恣意的な運用が表現の自由を侵害する恐れ 今回の『妹ぱらだいす!2』の場合、こうした不健全図書の指定基準に関する出版元のKADOKAWAの対応に原因があると指摘する声もあります。もともと、この作品は18禁ゲームのコミカライズ版で、当初連載していたのも表紙に「成年コミックマーク」のある同社グループのアダルトゲーム雑誌でした。単行本化するときに、全年齢向けではなく「18禁」にしていれば今回のような問題にならなかったとの見方もあります。KADOKAWAは、2年前にも「18禁」の雑誌に掲載された漫画作品を全年齢向けの単行本として販売し、“旧基準”での不健全図書の指定を受けています。 とはいえ、それでも『妹ぱらだいす!2』の不健全図書指定に表現の自由の観点から懸念を示す意見があるのも事実です。たとえば、なぜ新基準の初適用が『妹ぱらだいす!2』だったのか、という問題です。新基準が施行されてからすでに2年以上が経過しています。先の4つに当てはまる漫画もあったにもかかわらず、これまで新基準によって指定された「不健全図書」は1冊もありませんでした。 また、新基準の4つの条件にしても、近親相姦の「不当な賛美」「不当な誇張」とは具体的にどういうものかなど、あいまいで主観的な部分が少なくありません。それもあって、恣意的に運用して表現の自由を制限するのでは、と心配されているのです。 行政当局がわいせつな表現や社会規範に反する表現を規制できるとしても、どこまでが「健全」でどこからが「不健全」かの線引がわからないと、権力を持つ側が勝手にマンガ表現を規制できることになります。『妹ぱらだいす!2』の問題をきっかけに、青少年育成条例の不健全図書指定がどのように運用されているのか、しっかりチェックしていくことが大切かもしれません。

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    皇室典範を「女性蔑視」とほざく愚昧な人々

    国連が日本の国柄や伝統を無視して皇室典範にいちゃもんをつけたのは記憶に新しい。皇室典範を「差別的規定」と決めつけた国連の一方的な見解は許しがたいが、そもそも今回の騒動の裏には反日・左派勢力の長年にわたる組織的活動があったともされる。日本人よ、国連の横暴に今こそ怒りの声を上げよ!

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    国連委員会の勧告なんて聞き流すのが「世界の常識」

    八幡和郎(徳島文理大教授、評論家) 日本の皇位継承が男系男子に限定されていることをやめるように国連女子差別撤廃委員会が勧告しようとしたが、日本政府代表部の抗議で中止されたと報じられた。慰安婦問題では動きが鈍かった外務省も、さすがに今度は素早く動いたようだ。いつも、こうあって欲しい。 このニュースを聞いて、保守派は激怒し、中韓の意を汲んだ人も含めて反天皇制をもくろむ勢力は、何か利用できないかほくそ笑んでいる。 しかし、大事なことは冷静な議論である。ポイントは三つだ。(1)国連委員会がこのような勧告をするのはヨーロッパでの王位継承原則の変更の動向もあるので国際的常識として無茶苦茶なことではない(2)しかし、日本の天皇制とヨーロッパの君主制の違いを理解すれば同じ扱いをする必要は無い(3)そもそも、国連の委員会の勧告などたいした権威は無いので一喜一憂すべきでないという三点を説明したいと思う。 男子優先をやめる方向のヨーロッパ王室 ヨーロッパのロイヤル・ファミリー事情については、『世界の王室うんちく大全』(平凡社新書)という本を書いて、それぞれの王位継承がどのようにされてきたかを紹介したことがある。この方面ではいちばん詳しい本である。 歴史的には、フランスのブルボン家のように男子男系にこだわってきたところもあるが、これは、英仏百年戦争でイギリス王家に乗っ取られかかった記憶がゆえである。イギリスは、女系も女子もいいが男子優先だった。またデンマークでは、女系はいいが女王はダメということになっていた。 ところが、多くの国で年長の子供を男女に限らず優先にするようになってきている。イギリスは、エリザベス女王のあとチャールズ、ウィリアムの次はウィリアムの長子ということになっていたが、男子のジョージが生まれたので三代男王が続くことになるが、スウェーデンは女王になった。 ただし、ヨーロッパの条約などで強制されたのではなく、各国の自主判断の結果である。そういう意味で、国連の委員会が何を言おうが、それに従うかは各国の問題だ。 それに、おかしいといえばおかしいのは、男子優先がいけないなら長子優先はどうしてよいのか理由がない。国連の委員会はうちの管轄ではないとでも言うのだろうが。また、ヨーロッパの王位継承は、特定の宗教の信者であることが条件になっていることが多い。イギリスでもオランダでもカトリックは排除されているが、これは信教の自由に反しないのだろうか。 いずれにしろ、国連の女子差別撤廃委員会などというものは、総合的な判断をしている場ではないし、自分の立場からの意見を気ままにいうだけの機関だ。ヨーロッパの王位継承は財産相続でしかないヨーロッパの王位継承は財産相続でしかない 男子優先をヨーロッパの王室がやめる方向なので日本もそうしたらということを、外国人が思うことくらいはそんなに目くじらを立てることではない。ただ、日本とヨーロッパの君主制の性格の違いを説明し、きちんと反論すべきである。 ヨーロッパの国王というのは、江戸時代の大名などと同じ封建領主である。したがって、領土は個人財産なのである。そこで、フランク族のサリカ法典に女性は財産を引き継げないと書いてあったことを理由に、フランク王国を継承する国では男系男子が原則とされたのである。 この理屈は、フランスでイギリス王が女系でフランス王の孫であることを理由に王位を要求してきたときに援用されたもので、王位を失ったのちも、ブルボン家の当主は10世紀のユーグ・カペー王からいまのパリ伯爵アンリ7世にいたるまで、男子男系嫡出の原則を守っている。 したがって、サリカ法典を継承する立場にないイギリスやスペインでは、もともと女系も女王もありだったと言うだけのことである。 それに対して、日本の皇位は、人々のかすかな記憶のはてにある神武天皇以来、少なくとも3世紀における崇神天皇による日本国家の成立と、4世紀の仲哀天皇による国家統一からのち、男系による同一家系からしか天皇を出さないという原則をもって国家としての統一の破壊を防いできた。 そうした正統性の維持は、もし恣意的に皇位継承原則を変えれば、より脆弱なものになることが予想される。 それなら、男系の女帝はよいのでないかといわれれば、女帝を想定していないのは、中継ぎの天皇というものを排除した結果であって、男女差別とは関係ないといえばよい。また、伝統的に女帝は独身の女性か天皇の未亡人に限られてきたことも言えば良い。 いずれにせよ、基本的には私有財産の継承論理であるヨーロッパの王位継承とは本質的に違うのであるし、それを丁寧に説明して、国連の委員会が不愉快な干渉をすることをやめるように説得すればいいのである。 ちなみに、私は女帝にも女系にも絶対的に反対していないのだが、一方で、こういった継承原則は、誰にも異論をとなえにくい場合にのみ変更されるものでないと、正統性が弱くなるし、それは国会の独立と統一の維持に悪影響を及ぼすと思う。 したがって、さまざまな努力をしても従来の原則をどうしても崩さざるを得ない場合においてのみ、許されるという立場だ。具体的には、将来において現在の皇族の男系男子の子孫がいなくなった場合に備えて、旧皇族の復帰をスムーズに行える可能性を探り準備もし(たとえば旧皇族のなかから適当な男子を宮家の継承者とするとか)、それでもうまくいかなかったときに、はじめて女帝女系は選択肢に入ると考えている。国連委員会の勧告を有り難がるのは田舎者国連委員会の勧告を有り難がるのは田舎者 日本人は国際機関のいうことを有り難がりすぎるが、これもひとつの例なので紹介しておく。 フランス議会下院は、昨年11月のパリ同時多発テロを受けて発令された非常事態宣言を3カ月延長する法案を賛成212、反対31の賛成多数で可決し、非常事態宣言は5月26日まで延長されている。 これについて、国連の人権問題専門家5人が1月に「過剰でバランスを欠く」として、これ以上延長しないよう求める共同声明を出したそうだが、左翼のオランド政権は、まったく無視し、圧倒的多数で延長が決まった。 対ISの戦いは戦争だという認識から当然だ。国連の委員会などのいうことを有り難がる人など、フランスであろうがアメリカであろうがほとんどいないし、左翼政権であってもそうだ。 あるいは、内部告発サイト「ウィキリークス」創設者のアサンジ容疑者が在英エクアドル大使館で約3年半籠城していることにつき、国連人権委員会作業部会は、「不当拘束に当たる」と裁定した。 しかし、イギリス、アメリカ、スウェーデンは当然のことのように無視している。この委員会は慰安婦で「日本は責任を公式に認めて謝罪し、元慰安婦らに『完全な賠償』をするように」という寝ぼけた勧告をしたことがある。 従えと田舎者の国連崇拝論者は騒いでいたが、国連の委員会の権威は英米やスウェーデンにすら鼻であしらわれるようなものなのだ  少し前に、「署名も批准もするな! TPP署名式の直前に国連が各国政府にたいして異例の呼びかけ」という見出しのHPをTPP反対派がばらまいて悦にいっていた。これも、国連人権理事会の「独立専門家(Independent Expert)」であるアルフレッド・デ・サヤス氏が、TPPの署名式が直前に迫っている2016年2月2日に、関係各国政府に署名も批准も拒否するよう要請したそうだが、理事会の「独立専門家」の要請が「国連の要請」になってしまうのも困る。 国連総会の決議でもアメリカなど相手にしてないくらいであるのに、委員会とか、あるいは単なる専門家がなに言おうが気にする必要ないのだ。 私は、国連の委員会というものについて、一概に批判しているのではない。彼らはその分野の専門家として意見を言っているのであって、それはそれとして価値がある。 たとえば、国内でも少年法についての委員会が、罪を犯した少年を過度に保護するような勧告を出してもいいのであって、ただ、それを社会的に採用するかは別の観点からの検討をすればいいだけだ。 世界でも日本でも、専門家はしばしばマフィア化し、偏っているのも事実だ。そういうものとしてバランス良く彼らの活動を評価すればいいだけのことだ。少なくとも鵜呑みにする必要はない。 国連の委員会など大して有り難がられているわけでないことを、英米仏などの馬耳東風ぶりからも認識しておくと良い事だけは間違いない。

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    「天皇の原理」に難癖をつける国連委の日本差別

    織として設置され、外部専門家の委員によって構成されている。このような国連機関が、日本の皇位継承制度は性差別であると指摘することは、多くの日本人が想像もしていなかったことと思う。 この点につき安倍晋三総理は十四日の参議院予算委員会で「わが国の皇位継承のあり方は条約のいう女子に対する差別を目的とするものではないことは明らかだ。撤廃委が皇室典範について取り上げることは全く適当ではない」と不快感を顕わにし、「わが国の皇室制度も諸外国の王室制度もそれぞれの国の歴史や伝統が背景にあり、国民の支持を得て今日に至っている」と発言した。当然であろう。 日本は、二千年以上の長きにわたり、例外なく皇位は男系により継承されてきた。かつて百二十五代の歴代天皇のなかには、十代の女性天皇の例があるが、「先帝の娘」など、いずれも男系の女子であり、女帝の子が即位した事例はない。そのため、男系の血筋を受け継がない者が即位した例はない。国柄の根本を「国体」というが、皇位継承の原理は日本国の国体原理そのものである。したがって、これを国連などにとやかく言われる筋合いはない。 確かに国連憲章第一条に、国連の目的の一つとして人権の尊重が掲げられているが、国民の自決、主権国家としての自決は、国連成立以前から国際社会で尊重されてきた基本事項である。果たして女子差別委員会は日本の皇室制度に文句を付けるにあたり、日本の文化や伝統を尊重し、あるいは敬意を表した形跡はあるだろうか。日本の国柄の根幹である皇室を尊重する態度を持っていただろうか。否、日本政府から抗議を受けて取り下げたことから、十分な検討を経ずに書き込まれたものであると思える。天皇になるのは「権利」なのか? そもそも、皇位の男系継承が女子差別であるというのはあまりに短絡的な意見である。皇室制度の内容を理解すればそのような結論に至ることはあり得ない。女子差別撤回委員会の考えは、「女子だからといって天皇になれないのは可哀想」というものである。これは、天皇になるのが何かの権利であるという前提に立っているが、果たして天皇になるのは「権利」なのであろうか。 よく「皇位継承権」という言葉が使われ、皇太子殿下以下、皇族男子に番号が付けられているので誤解されやすいが、天皇に即位するのは「権利」ではなく「義務」である。天皇には、一般国民が憲法で保障されている人権というものがほとんどない。たとえば、選挙権、被選挙権、居住移転の自由、言論の自由、宗教の自由、政治活動の自由等々、天皇にあるわけもないし、一度天皇に即位すると、天皇を辞める自由もない。 にもかかわらず、その星に生まれた者が運命を背負って皇位に就き、民の父母として、国民一人ひとりの幸せを祈るのが尊いのである。中国清朝の皇帝や、フランスのルイ王朝の王のように、権力闘争の末に王座に就き権勢を振るうのと同じものとして天皇をとらえると、大きな間違いを犯すことになる。日本の皇室のことを知る者は「天皇になれなくて可哀想」と思うことはない。皇居(東京都千代田区) 世の中に様々な種類の職業や地位がある。実際にその職業に就けるかどうかは、本人の実力や運など、多くの要素に左右されるが、いかなる職業や地位にも就く方法は必ずあるだろう。しかし「天皇」だけには「成る方法」は存在しない。つまり、いかに頭が良くても、人気があっても、努力しても、人格が優れていても、「天皇」だけには「成る方法」はない。天皇になる運命の者が、その宿命を粛々と背負っていくから、天皇は尊いのである。したがって、天皇を何か甘い汁を吸える地位であるかのような話をするのは、女子差別撤廃委員会が、天皇を理解していない証であろう。 つまり、天皇は「血統の原理」なのであって、天皇から血統を取り上げてしまったら、それはもはや「天皇」と呼べるものではなくなってしまうと考えなくてはいけないのである。皇統はなぜ男系で継承されるのか では男系継承の制度趣旨は何であろうか。これについては様々な角度から解説されてきたが、ここでは決定的なことを一点だけ述べておきたい。 男系継承は宮廷から女子を締め出すのが目的ではなく、実際はその逆で、宮廷から男子を締め出すのが主旨である。皇室は確認できるだけでも一八〇〇年以上、蘇我氏、藤原氏、足利氏をはじめ、おおくの民間出身の女子を后として受け入れてきた。近代以降でも明治天皇・大正天皇・今上天皇の后はいずれも民間出身であらせられる。だが、民間出身の男子を皇族に迎え入れたことは、日本の歴史上、唯の一度の先例もない。民間の女性は皇族との結婚で皇族となる可能性があるが、民間の男性が皇族になる可能性はないのである。皇位の男系継承は、女子差別には当たらない。男女の性別の問題ではない 男系による皇位継承は、男女の性別の問題ではなく、家の領域の問題というべきである。男系継承とは「皇室の方に天皇になってもらう」ことに尽き、それは皇族以外の人が天皇になることを拒否することに他ならない。愛子内親王殿下の即位までは歴史が許すが、たとえば田中さんとご結婚あそばしたなら、その子は田中君であって、皇室に属する人ではない。もし田中君が即位すれば、父系を辿っても歴代天皇に行きつくことのない、原理の異なる天皇が成立することになる。これは男系による皇位継承が途切れたことを意味する。 民間であっても、息子の子に家を継がせるのが自然で、娘の子たる外孫に継がせるのは不自然である。しかし民間なら、継承者不在で外孫を養子にとって家を継がせることもあるだろう。あるいは外から養子を迎えることもある。これにより、たとえ血統は途絶えても、家は残すことができる。 しかし、皇室はそれができない。なぜなら、天皇が継承するのは、その地位や三種の神器だけではなく、むしろ血統が本質であるからだ。また、先述のように、民間男子を皇室に迎え入れることになる。皇位継承者がいなくなる度に養子を取り、あるいは民間の男子を皇族にしてその子が即位するようなことがあれば、伝統的な血統の原理に基づかない、天皇が成立することになり、それはもはや天皇ではないのである。 一点理由を述べたが、本来「天皇の皇位がなぜ男系によって継承されてきたか」という設問に答えるのは容易ではない。そもそも、人々の経験と英知に基づいて成長してきたものは、その存在理由を言語で説明することはできない。なぜなら、特定の理論に基づいて成立したのではないからだ。天皇そのものが理屈で説明できないように、その血統の原理も理屈で説明することはできないのである。 だが、理論よりも前に、存在する事実がある。男系継承の原理は、最も短く見積もっても二千年来、変更されることなく現在まで貫徹されてきた。これを重く捉えなくてはいけない。例えば、現存する世界最古の木造建築である法隆寺は、その学問的価値の内容にかかわらず、最古故にこれを簡単に立て替えてはいけない。同様に、天皇は男系により継承されてきた世界最古の血統であり、これを断絶させてはいけないのである。 もはや理由などどうでもよい。男系により継承されてきた皇統は、特定の目的のために作られたものよりも、深く、複雑な存在理由が秘められていると考えなくてはいけない。 とはいえ、学者のなかには、父を辿っていっても永遠に歴代天皇に辿り着かない、いわゆる「女系天皇」が成立しても、それは正統だと主張する人もいる。たとえ男系継承が途切れたとしても、天皇の子孫が皇位を継承しているなら、それだけで正統だという意見は、男系継承こそが正統という私の意見とは真っ向から対立するものである。何を正統な天皇とするかの議論は、一般の人には分かりにくい議論かもしれない。「女性天皇」の問題点 ところが、もし男系継承が途切れたら、学問的論争とは全く別の次元で、日本の国を揺るがす大きな問題が生じる。現在の天皇陛下が天皇であられることは、何人も疑問を差し挟むことはできないであろう。今上天皇を差し当り「非の打ち所のない天皇」と申し上げておく。それに対して、もし「女系天皇」なるものが成立したら、その天皇は、全く原理の異なる天皇でるが故に、ある人は認め、またある人は認めないという事態が生じる。つまり、その天皇は「非の打ち所のある天皇」になってしまうのである。 「非の打ち所のない天皇」が「非の打ち所のある天皇」になってしまうのは、大問題である。日本国憲法第一条は、天皇が「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」として機能することを求めている。「非の打ち所のある天皇」が日本国や日本国民統合を象徴できるはずはない。もしそうなったら、日本の国体が破壊されたことを意味する。 もしそうなったら、旧皇族の子孫には、歴代天皇の男系男子が複数いるのであるから、将来「女系天皇は正統ではないから、旧皇族から天皇を擁立すべきだ」という運動が起きないとも限らない。二つの朝廷が並び立つという、南北朝の再来ともいえる事態に陥る可能性もある。 もはや、皇位の男系継承は、我が国の基本原理であって、これはいかなり理由によっても決して動かしてはいけないものなのである。もはや学問的理由や、正当性の議論はなど、どうでもよいというべきであろう。「女性天皇」の問題点 さて、これまで皇位の男系継承の意義について述べてきたが、「女性天皇」、つまり女性が天皇になることの問題点を一つ指摘しておきたい。 天皇と皇后では、お役割が異なり、もし女帝天皇が成立すると、その天皇は、天皇のお役割と皇后のお役割の両方を一手に担うことになってしまう。そして、その両方を全うすることは、全く不可能なことである。 皇后固有のお役割とは、分かりやすくいえば「将来の天皇の子を産み育てること」である。無論、民間人であれば出産しない自由は認められるが、皇后にはそのような自由は実質的に認められない。 天皇陛下が皇后を兼ねていらっしゃったら、また皇后陛下が天皇を兼ねていらっしゃったら、どうであったか。皇后陛下は失語症になられたこともあった。しかし、見事に克服あそばし、立派に皇后としてのお役割を全うされていらっしゃる。このように、皇后だけでも大変なお役割であって、一人の女性が天皇と 皇后の両方のお役割を担うとしたら、それは無理というべきだろう。天皇が皇后を兼務することも然りである。日本差別ではないのか 女性に生まれたから全う不能な職務を背負わせられるとしたら、それこそ女性天皇は「女性差別」であると言わねばならぬ。国連機関が女性天皇を奨励するなど、差別撤廃に真っ向から刃向かうことであり、国連の理念に反する主張である。これまで一二五代の天皇があったが、その内女性天皇は僅か十代に過ぎない。歴史的に、男性が天皇になることを原則とし、女性天皇は極めて特殊な事情がある場合に限られてきたのは、そういった意味合いもあったことと思う。日本差別ではないのか 次に、国連女子差別撤廃委員会が皇室制度に言及しようとしたことにつき、総理がいみじくも「国民の支持を得て今に至るものである」と指摘した点についても触れておきたい。よく皇室制度の歴史は明治からであるといわれる。たしかに皇室制度が法律の条文に規定されたのは明治時代のことだが、それは二千年以上継承されてきた皇室の慣習法を、条文に書き起こしたのであるから、皇室制度自体が明治時代に創設されたものではない。 日本では、いつの時代をとっても、国民が天皇を支えながら歴史を刻んできた。もし日本人にとって皇室が不要なものであれば、とっくに皇室は滅びていたに違いない。そして、現在も国民の圧倒的多数が皇室に親しみを持ち、皇室を支持しているのである。天皇と国民の繋がりは「国体」そものといえる。日本から「天皇」を取り払ってしまったら、それはもはや「日本」ではないといえば大げさに聞こえるかもしれないが、それほど、天皇と国民の繋がりは日本の国柄の根本を形成しているのである。 女子差別撤廃委員会が男系継承の皇室典範を改定するように勧告することは、古事記と日本書紀の原理を変更するように求めるのと同じで、これは日本が日本であるのを止めるように勧告するに等しい。「聖書やコーランに差別的なことが書いてあるから書き換えろ」と言うのに等しいと表現すれば分かりやすいだろうか。 今回、同委員会は日本の皇室制度について勧告しようとしたが、では彼等はバチカンやアラブの君主国に「女子が王や法王になれないのは女子差別だ」と勧告したことがあったか。無論、他の君主国の王と日本の天皇は成立背景も意味合いも全く異なるので同列に比較することはできないが、もし日本だけにそのように勧告するのなら、それは「日本差別」であると反論すべきである。林陽子委員長を国会で尋問すべき また本件では、日本を攻撃する道具として国連が政治的に利用された可能性が高い点も見逃せない。皇室典範に関する話題が委員会で一度も提示されていなかったにもかかわらず、何の前触れもなく最終見解案に書き込まれた。これは、日本の反論権も無視するもので、水面下で何らかの工作がなされたものと思われる。一体誰が何のために、明らかな手続違反をしてまで皇室典範を盛りこむ必要があったのだろうか。 その答えは委員会の顔ぶれから見えてくるように思う。日本向け勧告をとりまとめた同委員会の副委員長は中国人だった。中国が国として関与した可能性も想定しておくべきであろう。 しかも、同委員会の委員長は日本人であることは、あまり報道されていない。林陽子という人物で、フェミニズム運動に取り組む弁護士である。林氏は昨年二月から二年の任期で、委員長として全ての議事を司る責任を負う立場にある。また、日本から大勢のNGO団体が参加した。皇室典範の改定など、日本人の入れ知恵がなければ議論に登ることもなかったであろう。国連女性差別撤廃委員会の対日審査会合 =2月16日、ジュネーブの国連欧州本部 つまり、告発者である日本のNGOと、日本人委員長、そこに中国人副委員長が力を合わせて皇室典範改定の勧告を作り上げたという背景が見えてくる。では林委員長は一体何をやっていたのだろうか。対日最終見解案に皇室典範のことが記載されたことを、知らなかったとは考えにくい。 私は、国会が林陽子氏を参考人として招致し、皇室典範のことが最終見解案に書き込まれた経緯を説明させるべきであると思う。皇室典範のことを知らなかったのであれば、まじめに仕事をしていなかったことを意味する。また、知っていたのであれば、なぜ日本の立場を説明して回避する努力をしなかったのか、大いに疑問を呈すべきであろう。 日本政府が抗議しただけで取り下げたのであるから、日本人の委員長が説明すれば、簡単に皇室典範への言及を削除させることができたはずだ。あるいは、林氏自身が皇室制度を変えようとする中心人物だったと考えれば辻褄が合うのだが、真相は国会で追及して欲しいと思う。もしそうだとすれば、本件は委員長自身が国連機関を政治利用した由々しき事件だったことになる。 男系継承の原理は簡単に言語で説明できるものではないが、この原理を守ってきた日本が、世界で最も長く王朝を維持し現在に至ることは事実である。皇室はだてに二千年以上も続いてきたわけではない。歴史的な皇室制度の完成度は高く、その原理を変更するには余程慎重になるべきである。今を生きる日本人は、先祖から国体を預かり、子孫に受け継ぐ義務がある。国体の継承は私たちの責務であると考えなくてはならない。(本稿は、『正論』平成二十八年五月号「君は日本を誇れるか~皇室典範に口を挟む国連」に大幅に加筆したものです)

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    土足で踏み入る「家庭内干渉」 危うく改正を逃れた皇室典範

    階で想定外のハプニングが起きた。最終見解(案)に前兆もなしに、皇位継承権が男系男子の皇族だけなのは女性差別だから、女系女子(男系女子である愛子内親王の長女を想定?)にも継承権を与えるよう皇室典範を改正すべきだという条項が入ったのである。 数日前にこの案を示されて仰天した政府は、現地の公使を通じ撤廃委の鄒暁巧副委員長へ削除するよう申し入れた。産経新聞の報道によると、内容は変更できないが伝えておくとの返事だったところ、3月7日の最終見解では消えていた。ではこの条項を入れ込もうと発案したのは誰か。 撤廃委は取材を拒否しているので推測するしかない。ただ、中国の鄒委員か林委員長以外には、日本人でも理解困難な女系女性に思い及ぶ委員は見当たらない。 いずれにせよ、日本国憲法第1章と下位法の皇室典範に土足で踏み入る内政、家庭内干渉だから、委員長は職権で事前に排除できたはずだ。 さすがに林氏への不満は各界から噴出した。3月17日、片山さつき議員は参議院の委員会で過去の反政府的言動に触れ、彼女を撤廃委の委員に推した外務省の責任を追及した。複数の民間団体は林氏の国会喚問、即時リコールを決議している。彼女は沈黙を守ったままだが、記者会見を開き、事情説明するよう望みたい。

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    あまりにも無知で粗雑! 皇位継承まで口を出す国連委の非常識

    継承が可能となるよう皇室典範を改正すべきだ」との勧告がなされていたというのである。記者会見する国連女性差別撤廃委員会のジャハン委員 =3月7日、ジュネーブ この情報を入手した日本政府はただちに委員会側に抗議し、この部分の削除を強く要請、その結果、最終的には皇室典範に言及した箇所は削除された。菅義偉官房長官はこの日の記者会見で「わが国の皇室制度も諸外国の王室制度も、それぞれの国の歴史や伝統が背景にあり、国民の支持を得て今日に至っている。わが国の皇室制度の在り方は、女子差別撤廃条約でいう差別を目的としていないのは明らかであり、委員会側がわが国の皇室典範について取り上げることは全く適当ではない」と答弁している。 安倍晋三首相も14日の参院予算委員会で同旨の批判を述べ、さらに「今回のような事案が二度と発生しないように、女子差別撤廃委員会をはじめとする国連及び各種委員会にあらゆる機会をとらえて働きかけていきたい」と強調した。 至極真っ当な見解であり、迅速かつ適切な対応であって、これ以上つけ加える必要はないが、この機会にわが国の皇位継承について改めて考えてみることも意昧なきことではあるまい。周知のように、わが国の皇位経承は男系によって堅持されてきた。皇室における男系とは、父方を通して歴代天皇の系譜につながる方々を指し、女系とは、母方を通してしか歴代天皇の系譜につながることのできない方々を指す。この原則は第2代の綏靖天皇から百二十五代の今上天皇まで二千余年にわたって脈々と受け継がれ、この揺るぎなき伝統を「万世一系」と称する。 したがって、女系による皇位継承はこの定めに背反し、皇統の断絶をきたすものと老えられてきた。これは、力づくによるものではないにしろ、中国の歴史に頻発した易姓革命に類似する王朝の交替と同視されたからである。 本原則は、もともと建国以来の「不文の大法」に基づくものであったが、明治になって憲法および皇室典範において成文化され、日本国憲法の下でも継承されている。憲法第2条は「皇位は世襲のものであって…」とあり、必ずしも男系に限定していないかのように解する向きもあるが、現憲法の制定に際しての政府側答弁でも「男系を意味する」と明言されている。これを受けて現典範は第1条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と規定し、旧典範第1条「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」を踏襲していることは明白である。わが国の歴史、伝統に無知かつ非常識 この点に関してよく言われることだが、「わが国にも過去に女性天皇がおられたではないか」という反問について簡単に触れる。たしかに、わが国には八方・十代の女帝(女性天皇)がおられたが、すべて男系であり、しかも、これらの方々の大半は皇嗣が幼少であるなどの事情に基づく「中継ぎ」の即位であって、あくまでも一時的・例外的な存在である。また、過去の女帝は、元皇后または皇太子妃の場合、すべて未亡人であり、未婚の方は生涯独身を通され、配偶者を有されたままで皇位につかれたことは皆無であった。 以上、ごく簡単にわが国の皇位雑承について述べてきたが、国連の勧告がいかにわが国の歴史、伝統に無知かつ非常識な代物であるばかりではなく、論の立て方自体が粗雑に過ぎよう。というのは、勧告は「女性差別撤廃」の視点から「男系男子」と「女系女子」を単純に対比させて、後者にも皇位継承権を与えよと主張しているが、「男系女子」「女系男子」については何の言及もないからである(過去の女帝の存在は全く視野に入っていない)。また、勧告の根拠となっている国連の人権宣言は「人種、皮膚の色、性別」にとどまらず、「宗教、政治上の意見」などの差別を無くすことを謳っているが、今回のような恣意的なものが過去にもあったのか、あらためて検証してみる必要があろう。皇室典範に関する有識者会議で最終報告書を小泉純一郎首相(右)に手渡す吉川弘之座長=2005年11月24日、首相官邸  翻ってみれば、小泉純一郎内閣において女系導入も辞さない皇室典範改定が拙速に推進されようとしたことがあった。女性天皇と女系天皇の違いも明瞭ではない首相の独走に対して少なからぬ国民が反発したため、次の安倍首相によって法案は白紙に戻ったという経緯がある。 その意味で今回はあまり心配しなくてもよいかもしれないが、悠仁親王の世代に男子皇族がほかにおられないという皇統の危機は厳としてある。政府は男系主義を維持しつつ、これに対処する方策(昭和22年にGHQの経済的圧迫によって皇籍の離脱を余儀なくされた方の子孫による皇籍の取得)を速やかに講じていただきたい。

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    万葉集にみる皇位継承へのおおらかな真情

    (元衆院議員) この度、国連女子差別撤廃委員会の対日審査で、 「我が国の皇位の男系男子による継承が女性差別である」 とする内容が原案段階にあったという。 これは、日本のこころと伝統を大切にする観点から看過できない。 思うに、国連とは、第二次世界大戦を戦った「連合国」のことであり、その有力メンバー国には、日本を解体して共産化するために天皇を廃止することを戦略目標に掲げたコミンテルンが入っている。 また、昭和二十年九月二日から、我が国を占領した連合国(GHQ、主にアメリカ)は、日本の脅威は、天皇を戴く歴史と伝統から生み出されると判断して、占領当初、その天皇の廃止を日本側に求めた。 その時、それを阻止したのは、民社党初代委員長となった西尾末広らである(梅澤昇平著「皇室を戴く社会主義」展転社)。 このように、もともと国連(連合国)には、一方的な自分勝手な理屈で、もしくはコミンテルン戦略によって、日本の歴史と伝統を危険視・敵視して解体するというコミンテルン的日本分断の衝動(遺伝子)がある。 そこに、同じコミンテルン的衝動をもついろいろな国籍の者が入り込んで、国連に元々あった遺伝子を再活性化している。 (その国連の運営に巨額の国費をつぎ込んで、彼らの給料を支払っているのが我が国という訳だ)  近年においても国連は、朝日新聞の虚報・捏造報道に飛びついて、日本軍が朝鮮人女性を強制連行して性奴隷にしたというおぞましい見解を公表して我が国の名誉を毀損したが、この度の、国連の委員会による我が国の皇位継承の伝統を一方的に女性差別とする原案作成もこの国連のコミンテルン的日本分断衝動と無関係ではない。  我が国政府は、この国連の委員会の構成員とその素性を調査して発表し、国民が国連の本質を知る機会と材料を提供するべきである。 この国連の委員会の動きに対する安倍総理の判断と答弁は適切であり、ここで筆を止めて安倍内閣の対処に待ち、以下は私の付け加えたいことを記す。 それは、皇室典範と万葉集についてである。 現行の「皇室典範」は、GHQの占領統治下である昭和二十二年に、日本国憲法の付属法として法律として制定された。 従って、皇位の継承の在り方は、国会における多数決で決めることができると思われがちである。 しかし、それは戦後体制という一時期の思い込みである。皇室典範とは、法律ではない  皇室典範とは、そもそも「皇家の成典」であり、法律ではない。  つまり皇室典範とは、天照大神の「天壌無窮の神勅」に発する神武天皇以来の「皇室の家訓」である。 その神武天皇以来の「家訓」を、大日本帝国憲法発布の日である明治二十二年二月十一日に、「皇室典範制定の勅語」によって「勅定」されたものが皇室典範である。  すなわち、その勅語にあるとおり、 「今の時に当たり、宜しく遺訓を明徴し、皇家の成典を成立し、 以て丕基(ひき)を永遠に鞏固にすへし」 として制定された神武天皇以来の二千六百七十六年にわたる天皇家の「遺訓」が皇室典範であり、皇位は「皇男子孫之を継承す」と定められている。「万葉集」(桂宮本)=「日本の歴史」(暁教育図書) これが太古から今に至る万世一系の天皇を戴く我が国の歴史と伝統である。ここから「日本のこころ」が湧き上がる。このような国は、我が国以外、世界にはない。つまり、我が国は山鹿素行の言うとおり「万邦無比の國」である。 では、「皇男子孫之を継承す」の姿とは何か。そこで、世界に誇る日本のこころである万葉集を観よう。 万葉集第一巻冒頭の歌、すなわち、万葉開幕冒頭の歌、それは、泊瀨の朝倉宮におられた第二十一代雄略天皇ののどかな春の岡で、菜を摘む美しい乙女を眺めて詠まれた、おおらかで雄大な求愛の御製である。   籠(こ)もよ み籠もち ふくしもよ    みぶくし持ち この岡に 菜つます児   家告(の)らせ 名告らせ    そらみつ 大和の國は、押しなべて 我こそ居れ    しきなべて 我こそいませ    我こそば 告らめ 家をも名をも そして、この天皇の求愛に応えたであろう娘の歌が作者不詳で第十三巻に載せられている。   隠口(こもりく)の 泊瀬小國に 結婚(よばひ)せす    我が天皇(すめろき)よ    奧床に 母は寝(い)ねたり 外床に 父は寝ねたり   起きたたば 母知りぬべし    出でて行かば 父知りぬべし    ぬばたまの 夜は明け行きぬ    ここだくも 思ふごとならぬ 隠(こも)り夫(つま)かも この天皇の御製と娘の歌は、ながく詠われ続けてきて、伝承発展をとげ、宮廷の大歌として、舞などともなってのこされたものであろう(犬養 孝博士)。  さて、菜を摘んでいた娘の歌で明らかなことは、古代日本の社会では、明らかに女性が上位であるということだ。 なにしろ、娘の家の奧には母が寝ていて、父は外に寝ている。しかも、天皇でさえ、娘の同意がなければ家の中に入れない。そして、娘は、父母を気にしてなかなか天皇を家の中に入れない。 それ故、天皇は、あの雄略天皇が、娘の家の外で、夜が明けてくるまで、じっと待っている。  とはいえ、天皇と娘が結ばれた時のことを考えよう。 つまり、この第二十一代の天皇の時代、天皇と娘が結ばれて、娘に男子が産まれればどうなる。  生まれた男子は皇位継承権をもつ。天皇になるのだ。これが男系の継承である。  すなわち、日本の全ての女性が「天皇の母」になりうる伝統が男系の継承である。この岡で菜を摘んでいた娘が、天皇の母となる。なんと、おおらかな、ほほえましい、自然なことであろうか。 そう、日本の全ての女性が「天皇の母」になる体制が男系継承なのだ。それ故、万世一系、百二十五代の現在に続いてきた。世界に、我が国以外にこの類(たぐい)なし。  万葉集は、第一巻の冒頭に、雄大な雄略天皇の求愛の御製を載せて日本の一番大切な皇位継承における、おおらかな真情に基づく伝統を歌いあげているのではなかろうか。そういう気がしてならない。  このどこに女性差別があろうか。(2016年03月16日 「西村眞悟の時事通信」より転載)

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    社会で輝く!いま現代女性が求めていることは何か

    著者 吉沢尊文(兵庫県) いまや女性が社会に出て働くことは、ごく普通のことになりました。また近年、女性の意識は大きく変わりつつあり、「働くならやりがいがあって成長できる仕事に就きたい」と望む女性が急増しています。 典型的なものが「女性管理者・女性管理職」で、テレビや雑誌などのメディアで大きく伝えられてきました。「男性顔負けの活躍」が現代の象徴になりつつあると言っても過言ではありません。それを、後押しするのが今の日本の政府であると言えます。 2014年3月28日に首相官邸で「輝く女性応援会議」が開催されました。「輝く女性応援会議」はすべての女性が輝く社会を目指す活動です。輝く女性、輝こうとする女性たちを応援する各界のリーダーたちの輪を広げ、どんな分野でもどんどん結果を残せるように、そして家庭での経験も活かし、またいつからでも働けるように。そんな社会を実現することを目的としたのが「輝く女性応援会議」であります。 そこで私は、女性が輝くためには、いま仕事に就いている女性の労働に対する現状を知る必要があると考え、実際に大阪市内で20~30代の女性50人に無作為にアンケートをとりました。  アンケートは「あなたが仕事を選択するとき最も重視しているものは何ですか?」という内容で、回答は「賃金」「労働時間」「やりがい」「人間関係」「その他」の5つの選択肢から選んでもらいました。結果は「やりがい」と答えた方が20人、「人間関係」17人、「賃金」11人、「労働時間」2人でした。(回答者の職業は、アパレル関係、飲食関係、画廊勤務、ミュージカル女優、保育園の先生、寿司屋店員、銀行員、営業職、歯医者受付、コールセンター勤務、パチンコ店員、法律事務所勤務ほか)。 「やりがい」と答えた方では、「毎日、同じ仕事をすることを考えると自分が好きな仕事でないと出来ない」「例え賃金が高くても、やりがいがないと毎日同じ仕事をやっていくのは難しい」と、人生を長期的な目線で考えている人が多くいました。「人間関係」と答えた方では、「嫌な先輩(男女問わず)がいる職場では毎日ストレスがたまるので絶対に勤務は無理」と全員がはっきり答えてくれました。さらに「人間関係さえよかったら賃金の高さは求めない」とさえ語る方もいました。 そして、「賃金」と答えた方では、結婚するまでの貯金やマンション購入といった明確な目標を強く語っていました。彼女たちの意見から感じたのは、目標を定め前進するんだという強い気持ちでした。しかし同時に、今の仕事は目的を達成するための仕事であることも強く伝わってきました。 最後に、「労働時間」と答えてくれた方は、「資格取得を目指している」「結婚したい」といった願望がある方々でした。前者の方は「大学卒業資格を取るため、勉強時間が必要だから労働時間が一番重要で、残業がないことが前提である」、また後者の方は「仕事ではなく、あくまで結婚が人生の一番の目的であるから、労働時間は短時間で良い」と強く話していました。この点は、限定正社員という制度が生かされるのではないかと考えます。 これらの結果から言えることは、女性がいかに仕事に対してやりがいを求めているか、賃金が高くてもやりがいがなければその仕事は彼女たちにとって決して満足のいく仕事ではないという事実でした。 つまり、やりがいがあり人間関係は良好というのが、現代の女性の求めるライフスタイルであり、女性がもっと輝ける社会の始まりではないかと考えます。したがって、現代の女性が生きやすい社会・仕事環境をつくることこそが、いまの社会で求められている本質ではないか。この「やりがい」を求める女性がいかに仕事場で活躍できるかは政府の方針にかかっていると思います。そういった意味では、女性か活躍する社会をつくり出そうとしている安倍総理は正しい方向に向かっていると考えます。  そのために、例えば、職場で女性への暴力(セクハラやマタハラ・言葉の暴力など)、がある場合はそれを一切根絶していかないといけません。また、女性の敵は男性ではなく、女性の味方は常に男性であるといった社会をつくっていかなければいけません。今、女性が仕事にやりがいを求めている時代こそ、皆で明るい未来を作りましょう。

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    何サマですか? 国連の上から目線が許せない

    国連とはいったい何サマなのか? 皇位継承権が男系男子の皇族だけにあるのは女性差別と指摘した女子差別委員会の見解に多くの日本人が仰天しただろう。慰安婦問題でもそうだったが、日本の主権や尊厳をないがしろにする国連の無神経な介入と「上から目線」を許してはならない!

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    いざ左派系団体の独壇場へ! 慰安婦問題「国連攻防」杉田水脈レポート

    立場なのです。 実際に国連の委員会に参加して気付いたのですが、そこで発言しているのは日弁連や、日本女性差別撤廃条約NGOネットワークといった左派系の団体でした。我々が国連で発言するまでは彼ら左派系団体の独壇場だったのです。独壇場を奪われた左派系団体の焦り 昨年から始まった私たちの国連委員会での発言で、独壇場を奪われた格好の左派系団体はとても焦っています。そして、今まで波風を立てず、その場しのぎを続けていた外務省も同じように焦っているのではないでしょうか。その焦りが日韓合意の中に「国連」と明記するに至った原因ではないかというのが、私の考えです。 国際社会で定着した慰安婦問題の虚構を突き崩そうと動き出した保守民間団体を牽制することで、国連での激しい議論になるのを阻止し、自分たちが慰安婦問題にこれ以上関わらずにすむよう防御線を張ったのではないか。そのために、わざわざ「国連での非難、批判を控える」としたのではないかと思えてなりません。国連女子差別撤廃委員会に先だって開かれた委員会とNGOの非公式会合の会場に集まった日本からのNGO =2月15日、スイス・ジュネーブの国連欧州本部(田北真樹子撮影) 政府や外務省が、国連で日本を貶めてきた左派系団体と議論するのを避けているのではないかという不信の念を抱くのには理由があります。 CEDAWへの政府回答書は、各省庁からの報告が取りまとめられた後、内閣府の監視専門調査会で監査が行われます。監査にあたる有識者の多くが、実はこの国連の委員会に出席していた民間団体のメンバーなのです。もちろん調査会には外務省の担当者も参加しています。左派系民間団体と政府、外務省との蜜月関係を疑いたくなる状況なのです。 また、内閣府が2月4日、東京で開催した「第4次男女共同参画基本計画及び第7・8回報告審査に関する女子差別撤廃委員会からの質問事項に対する回答等について聞く会」に出席した方の話を聞き、不信はさらに強まりました。 今年3月の国連・女性の地位向上委員会(CSW:ニューヨーク)会合のサイドイベントとして、日本政府と日本女性差別撤廃条約NGOネットワークが公式イベントを共同開催するというのです。テーマは主に女性が直面する経済格差ですが、慰安婦問題についても言及するというのです。 日本政府と左翼系NGOの蜜月状態がここまで来ているのかと正直驚きました。日韓合意が国連回答に影響 話がそれましたが、慰安婦問題での日本政府回答書が議論されるCEDAWのセッション開催が迫っていた1月末、衝撃的な情報が飛び込んできました。《11月末に提出されてと思っていた回答が実は提出されていなかった》というのです。 このことについては2月1日付の産経新聞でジャーナリストの櫻井よしこ氏がコラム「美しき勁き国へ」で詳しく報告されていますが、私の把握した経緯もほぼ同じです。 それによると、当初の回答は、朝日新聞が誤報を認めたことを説明し、吉田清治氏の「慰安婦狩り」証言は嘘であり強制連行を示す証拠は存在しないこと、慰安婦と挺身隊と混同したために20万人という数字が出てきたことをはっきりと記述。クマラスワミ報告書についても「一方的で裏打ちのない内容が記載され」ていると反論している内容でした。韓国が世界にばらまいてきた「朝鮮半島において20万人を強制連行し、性奴隷にした」という嘘を明確に否定していたのです。日本が先に日韓合意を破ったと言われたくない ところが、昨年末の日韓合意の後、それが「国連等国際社会では非難、批判し合わない」といった合意内容をそのまま記した文章に差し替えられようとしていた──とのこと。官邸筋が異を唱え、「強制連行を示す書類は見つかっていない」という短い文章をなんとか付け加えた回答書が提出されたのです。 回答が差し替えられた経緯の詳細は現在もわかっていません。国連のHPに英文で公表されている政府のCEDAWあて報告書の最後には、[Note] The replies in this document (except Question 9) are as of December 8, 2015. とあります。12月8日付でもともとの回答を提出して、日韓合意の後に9(慰安婦問題の部分)を書き直して再提出したのか。元々の回答は送ってなかったのか。そして現在国連サイトで公表されている回答はいったいいつ提出されたのか。経緯を調べるため、「日本のこころを大切にする党」の和田政宗参議院議員から質問主意書を提出していただき、政府からの回答を待っています。「私たちの努力で掴んだ日本の名誉回復のチャンスをなぜみすみす放棄しようとするのか」と落胆しましたが、私なりに取材を進めるうちに、その大きな原因が見えてきました。日韓合意が影響していたのです。画像はイメージです 日韓合意の真の目的とは何だったのでしょうか。 アメリカをはじめとする第三国に保証人になってもらい、日本と韓国両政府が、合意内容をもとに「慰安婦問題」を「最終的かつ不可逆的に解決する」ことだと私は考えています。合意の内容は多少相手に譲ったとしても、これが「最終的かつ不可逆的に解決」であることが大切なはずです。 その合意がなされたばかりというタイミングでのCEDAW日本セッションです。これまでであれば、「謝罪しています」「賠償しています」で済んでいたのでしょうが、今回はそうはいきません。委員会が「『強制連行はなかった』という意見を聴取した」として回答を求めているからです。日本政府として「強制連行があった」と国連の場で嘘をつく訳にもいきません。一方で「強制連行はなかった」、「20万人の性奴隷」は嘘だと答えれば「日本が先に日韓合意を破った」と指摘される可能性があります。不満そうな様子を見せた「捏造派」 これまで日本が国際社会において全く否定も反論もせず、「謝罪しています」で逃げ続けた結果、アメリカには多くの慰安婦碑そして像が立ち、国際世論は『嘘』の方を信じています。今回の合意に「軍の関与の下」という文言が入った結果、日本政府の思いとは裏腹に『嘘』の流布に拍車をかける結果となりました。そんな中で強硬にその嘘に反論するとどうなるか。きっと「日本の方が先に合意を破った」というジャッジメントを国際社会から受けてしまうのではないか─。 そんな懸念が外務省をはじめ日本政府を弱腰対応に駆り立てたのでしょう。現に今回の回答が公表されると真っ先に韓国のマスコミが「合意を破った」と書き立てました。「真実を発言する」ことは合意の「非難・批判」には当たらないと、外務省の官僚も与党の政治家も口をそろえて言いますが、その一方で今は強く主張するタイミングではないという見解も聞こえてきます。 ともかく日本政府は毅然とした態度で真実を主張しました。会場を埋め尽くした「捏造派」の人たちは非常に不満そうな様子で、彼らの記者会見は長時間にわたっていました。このような国内の反日左派をはじめ、韓国、中国などからの反発も予想されます。 アメリカ各地に建立されている慰安婦像(碑)に刻まれている「強制連行、20万人、性奴隷」を否定したわけですから、アメリカの議会なども反応することでしょう。 今はまだ、「捏造派」の方が大きな勢力です。長年活動してきている分だけ、国際社会での戦い方も上手です。 我々はあきらめず、真実を情報発信し続けます。英霊にかけられたいわれのない汚名を晴らすことができるまで、ぶれずにつづけます。まずは、国内外のメディアがこのことをどのように報じるのかを注視していきたいと思っています。すぎた・みお 昭和42年、兵庫県出身。平成2年、鳥取大学農学部卒業。積水ハウス木造を経て、平成4年、西宮市役所入所。平成22年退職し、平成24年、衆議院議員に初当選。衆議院内閣委員会委員、予算委員会委員。日本維新の会復興推進本部事務局長、歴史問題検証プロジェクトチーム事務局長などを務めた。

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    日本に厳しい国連 日本のリベラル系団体の溜まり場に

    継承を定める皇室典範」に対しての言及もあった (日本政府の抗議で最終見解からは削除)。 同団体は、女性差別を禁止するために1982年に設立。女子差別撤廃条約の締結国が選出した委員23人で構成され、年3回、スイス・ジュネーブで会合を開くという。最終見解を読むと日本が差別大国であるかのような印象を受ける。 気になるのは、彼らは何をもとに審査や見解をまとめているのか、という点だ。その歪な構造に疑義を呈したのが漫画家・小林よしのり氏である。同誌は現在発売中の雑誌『SAPIO』の連載『ゴーマニズム宣言』にて解説をしているが、要旨は次の通りだ。 同委員会は各国民間機関の意見を積極的に受け入れている。ジュネーブで行う会合では民間団体のロビー活動が開かれる。わざわざ同地まで足を運ぶ民間団体は少ない。今回の最終報告には、日本のある市民団体の主張がそのまま反映されている……。 この構図、何かに似てないか。慰安婦問題にせよ、靖国参拝問題にせよ、最初の火種を起こし、それを海外に持ち込んだのは日本の市民団体や一部のメディアだった。それが事実ならともかく、慰安婦問題でいうなら一昨年の朝日誤報問題で綻びが明らかになっている。今年の国連の対日報告書では、子どもの人身売買やポルノ問題に関し、日本はJKビジネス(女子高生らによる男性の接待行為)の禁止勧告を受けている。これについては昨年10月、同勧告に携わった国連のオランダ人報告者が日本に視察に訪れ、「女子生徒の13%が援助交際をしている」と発言したことをご記憶の方も多いだろう。日本政府が正式に抗議すると、同報告者は「裏付ける公的かつ最近のデータはない」と回答。 日本視察時、誰が報告者に「13%」という怪情報をもたらしたかは定かではないが、それが国連の禁止勧告に繋がっているとしたら、由々しき事態だ(JKビジネスは当然、禁止すべきだが、それは日本自体が、正確な状況把握に基づき真摯に取り組むべき問題である)。 今年2月、国連女子差別撤廃委員会を視察するためジュネーブを訪れた前衆議院議員・杉田水脈氏が語る。 「国連はいま、日本のリベラル系団体の溜まり場のようになっています。そこで日本の保守系団体が(国連の)会合に参加できれば彼らの“ロビー活動”を阻止できる。しかし、保守系団体は国連外交にそこまで注目してこなかった。国連の認定がないと議論への全面的な参加が許されませんが、保守系団体はこの資格をあまり持っていません」 風評は立ちやすく、消えづらい。遠いスイスの地で、日本の信用が不当に貶められているとすれば、事態は深刻である。関連記事■国連の日本視察者が紹介した「女子高生の13%が援交」の真偽■韓国紙 外相が国連総会で安倍首相の足引っ張るかで沸き立つ■「従軍慰安婦=性奴隷」説を世界中に広めたのは日本人弁護士■韓国紙デスク 韓国メディアが朝日新聞を大好きな理由を解説■中韓歴史博物館 日本人自ら過ち認めた証拠に日本の新聞使う

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    「赤い国連」、そして家族破壊者たちとの闘い

    岡本明子(ジャーナリスト) 「遥か海の彼方に住んでいる国連の官僚から、何故私たちの暮らし方を決めてもらわなくてはならないの?」「どうやって子育てをするべきか、どんな手段で家を暖めるかということを、一々国連から指図を受ける必要はないという理念を浸透させるべきだと思うわ」。アメリカの「草の根保守(grass-roots conservative)」のオピニオン・リーダーとして長年フェミニストと戦ってきたミセス・フィリス・シュラフリーは、国連とフェミニズムの関係について尋ねると、こう述べた。地に足の着いた力強い言葉だった。 わが国では、女子差別撤廃条約とそれに基づいて制定された男女共同参画基本法、及び児童の権利条約を根拠に、関連条例が次々と制定され、国及び地方自治体の施策が進められている。フェミニズムや偏った人権思想に影響された国連及び国内の行政権力が、私たちの働き方や学校教育、家庭、親子関係にさえ介入して、一人ひとりの人生をも変えている-そうした危機感を持っているのは日本の我々だけではない、海を越えて共有できると確信した瞬間だった。 国の主権を侵害し家族を崩壊させようとする国連の人権諸条約を何とかしなければならないという思いは強まる一方だ。しかし国連・政府(各省庁の官僚)・反日NGOでガッチリ固められた壁を前にして、正直な所それをどう突破すればよいのか展望が掴めない中で、アメリカの草の根保守運動のリーダーたちがどう戦って来たのか、戦っているのか聞いてみたいという思いでアメリカに向かった。 最大の具体的収穫は、ヘリテージ財団のパトリック・フェイガン博士から齎(もたら)された。「日本の国連信仰は深刻で、例えば、少子化で悩んでいるわが国では、国連の『女性が働きに出ている国ほど出生率が高い』という分析が、そのまま国内の施策に反映されている」と述べた私に、即座に博士は「Myth(神話)だ!」と指摘して、ハワード・センターのアラン・カールソン博士が既にそれを論破していると教えてくれた。更に、このアラン・カールソン博士が「World Congress of Families」(家族のための世界会議。以下、WCFと表記)を主宰して、1994年から3回の世界会議を開催しているという情報を提供してくれたのだ。フェイガン博士自身もこの会議に賛同参加している一人である。帰国してジェットラグも忘れて、WCFについてインターネットで調べて、世界会議での発表資料を読み込んだ。 アラン・カールソン博士は、保守シンクタンク、ロックフォードインスティチュートの副所長を経て、現在はハワード・センターでWCFを主宰している。世界会議には、世界の全大陸から、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒、議員、大学の教授、草の根運動家、様々な人たちが集っている。第1回会議は1997年にプラハで行われ、前回第3回会議は2004年にメキシコで約3000人を集めて開催されたという。WCFのウェブサイトのトップページには、札幌オリンピックで人気を呼んだフィギュアスケートの選手ジャネット・リンさんが、アラン教授の論文に心動かされて、キャリアよりも結婚の道を選び5人の子供を育てたというコメントを寄せている。彼女を初めとして、会議に集う人たちの共通の価値観は、pro-family、pro-life(家族保護、生命保護)である。主に国連を媒介として近代国家を襲っている左翼思想、フェミニズムによる家族解体、生命軽視の大きな世界的潮流を押し戻そうと立ち上がったのである。WCFの会議及びセミナーでは貴重で上質な情報が伝えられており、家族崩壊の世界的危機に際して、広く実態を伝え、出来るだけ緊急に対処しなければならないというアラン博士らの思いが伝わって来る。我が国においては、WCFの情報は、日本政府の家族政策の間違いを鋭く指摘するものとなるだろう。以下その情報の一部を紹介し、安倍新内閣に家族政策の是正を強く求めたいと思っている。「女性の就労と出生率」神話「女性の就労と出生率」神話(WCF「SWEDEN AND THE FAILURE OF EUROPEAN FAMILY POLICY」より) 出生率の低下は、我が国を含めて先進国共通の病と言えるだろう。我が国の男女共同参画局は、「女性労働率が高い国ほど合計特殊出生率が高いという関係にある」という国連世界人口政策担当が2000年に発表した分析を根拠として、政府が少子化対策を「最重要課題」と位置づける中で、その解決の切り札として、女性の就労と家庭と仕事の両立支援を促進している。9月15日にも、内閣府が「働いている女性の率が高い地域ほど出生率も高い」という国内の統計分析を発表している。 日本と同じく深刻な出生率低下に悩む欧州でも、やはり、この「出生率神話」がスウェーデン政府主導で政策に取り入れられているという。2004年にスウェーデン政府は欧州連合に対して、「スウェーデンは、ヨーロッパで男女平等実現のペースを上げることに対して特別の責任を持っている」として、「家庭生活と職業生活が一体になる現代的家族政策がヨーロッパの直面する出生率低下に対抗するために必要である」という「スウェーデンモデル」を提起している。 しかし実はスウェーデンでの特殊合計出生率は、1991年の2・11をピークに下降を始めて、03年には1・53という他の欧州各国と同じような数値になっている。スウェーデンは「両親保険」によって、休業直前の8割の所得(98年以前は9割)を390労働日にわたり保障している。加えて、2年半以内に次の子を産むと、先の子の出産の休業直前の所得の8割が育児休業中に再び保障される「スピードプレミアム制度」が80年に導入されている。その頃から91年までの間、第一子と第二子の出産時期の接近効果で出生率は上昇したが、それは「スピードプレミアム制度」による一時的効果であり、女性の就業率には一切無関係であったことは出生率の数値が明らかにしてくれている。 更に欧州でも「スウェーデンモデル」の破綻に気づく人たちが出てきている。「Science」誌03年3月号には、「Europe's Population at a Turning Point」というアナリストチームの記事が掲載されている。この中で、「スウェーデンモデル」を構成する、男女平等教育や結婚の脱構築という要素は、実は高出生率だった発展途上国において、女性の出生率の劇的低下を招いた要素と全く同じであるという分析が掲載されているのだ。 また04年初め、国連経済社会局人口部部長であるJoseph Chamieは、「多くの政府、NGO等が、基本原則と望ましいゴールとして、就労におけるジェンダー平等や、家庭での男女平等を強く支持しても…労働力、子育て、家事への男女の平等参加が、出生率アップに繋がるかどうかは全く明白ではない。それどころか…人口置換に相応しくないと言える」という趣旨のことを述べている。国連の人口担当者がどういう意図で、どういう文脈で、こうした結論を発表したのかは疑問の残る所であるが、いずれにしても、国連による「女性労働率が高い国ほど出生率が高い」という分析を、国連の高官自身が否定しているのだ。 では、この問題の具体的解決策はあるのか? アラン博士は「アメリカモデル」を提案している。米国は2000年時点で2・14という先進国の中で最も高い特殊合計出生率に達している。この要因は、一つはヒスパニック系移民の高い出生率に拠るものである。もう一つは婚外子が多いということである。しかし、米国の高出生率は、移民や婚外子ばかりに頼っているのではないと、博士は強調する。従来の米国民で正式な結婚をしている夫婦の間でも、出生率は上がっているのだ。その出生率アップの要因とは何か? 一つは、アメリカの公教育の問題に関連している。NEAという全米教員組織は、日教組と同じように国家や親や従来の家族制度を否定する立場を取り続けている。これに対して、親たちは動機は様々ながら、70年代中ごろから「ホームスクーリング」(家庭で教育を施すこと)運動を始めた。各州政府と敵対しながら長年かけて、90年代には50州全てで、その権利を勝ち取り、04年までに200万人以上の子供がホームスクーリングで学んでいる。そして、ホームスクーリングの家庭を調査した時、ホームスクーリングと出生率の間に大きな関連性があることが分かった。 まず、ホームスクーリングを行っている家は、全て正式に結婚した家庭であり、77%が専業主婦だった。そして出生率がかなり高かったのだ。3人以上の子供を持つ家庭が62%(全国的には20%)、4人以上の子供のいる家庭は33・5%(全国的には6%)に上るという結果が出たのだ。 またアメリカでは、「スウェーデンモデル」のような幼児手当と有給育児休暇制度ではなく、子供が増える度に税控除を行うという政策がとられている。米国内の調査によれば、税の免除が1%増えると、出生の可能性が1%増えるそうだ。更に、アメリカにはユタ州のような信仰共同体が残っており、こうした地方の出生率は4・0と高い数値を示している。これらの要素に加えてアラン博士が指摘するのは、アメリカは、「スウェーデン化」されたヨーロッパ人よりも、フェミニズムに染まってはいないということだ。調査でも多くのアメリカ女性はフェミニズムという言葉に嫌悪感を持っていると答えている。 つまり、親子関係が緊密で信頼と秩序が保たれるホームスクーリング効果、結婚と家族擁護に敏感な税制度、宗教的信念、妻と夫が互いに補完関係にあることを肯定することが、家族を強くしているのだ。これが、「アメリカモデル」なのである。 我が国で、アメリカのホームスクーリングをそのまま真似ることは出来ないが、家族を破壊してしまうような現在のフェミニズム的家族政策では少子化は解消されないし、国の力を弱めるばかりだということを、安倍政権には是非認識して頂きたい。国連の政策を歪めた者たち国連の政策を歪めた者たち(WCF「A HISTORY OF ・THE FAMILY' IN THE UNITED NATIONS」より) 国連の女子差別撤廃条約や児童の権利条約等における家族破壊の方針は、いつ頃、誰によってどのようにもたらされたのだろうか。 1948年の国連「世界人権宣言」では、「家族は社会の自然で基本的なグループ単位であって、社会と国によって保護される」と家族の重要性が謳われている。国連は発足時から、米ソによる冷戦構造などの争いに晒されていたが、家族政策においてはキリスト教民主主義(Christian Democracy)が支配しており、その世界観が反映されたものが世界人権宣言なのである。キリスト教民主主義の世界観とは、「創造主によって贈られた人間の尊厳と神聖さを信じ、将来の子孫を守るために結束し援助し合う構造としての結婚と家族を信じる」というものであった。 しかし、国連の中には徐々に社会主義が浸透していた。国連初代事務総長トリグブ・リーは、アメリカ政府高官で国連発足会議では議長を務めながら実はソビエト諜報機関の工作員だったアルジャー・ヒスらの暗躍もあり、事務総長に就任した。彼はノルウェーの共産党メンバーではなかったが、ボルシェビズムに早くから関心を持ち、1921年にモスクワに旅行してレーニンに会っている。彼はソビエトに強い共感を持ち続けた。そしてソビエト政府は自らの国連への野心のために、リーを道具として使った。 跡を継いだ二代目事務総長、ダグ・ハマーショルドはスウェーデンの官僚出身で左翼社会主義者であり、スウェーデンを高度社会福祉国家に変えるシナリオを書いた人物である。リーもハマーショルドも左翼イデオロギーを、国連事務局内部に確実に浸透させて行った。それに加えて重要な役割を演じたのが、リー事務総長が抜擢したスウェーデンのアルバ・ミュルダルである。彼女は、30年代のスウェーデンの出生率低下に際して、出生率引き上げのための唯一の方法として「子供をもうけることのコストと重荷を社会化する」という、積極的な社会主義政策を行って、現在のスウェーデンの福祉制度の土台を作ったのである。彼女の理論は「ミュルダル・ライン」としてノルウェーでも採用されて、大きな影響力を持った。アルバ・ミュルダルは30年代に次のような理論を述べている。 「19世紀から受け継がれている既存の伝統的な家族は、殆ど…病理学的であり…破滅する運命にある。それは、女性が労働の場で『同志』として男性と共に立つ新しい家族モデルと取り替えられるべきである。子供たちは…生まれた直後から扶養とデイケア、衣類、食事等の全てを、国からの助成金で賄われるべきである。…家族はリプロダクション(子作り)以外の残りの機能は全て捨て…子供達には妊娠中絶法を教え、早期の性教育を行うべきだ。そして親による子供への躾は不健全であるとみなされるべきだ」「男女平等は、『自然』なものを含む全ての制度、伝統、文化的構造の地ならしを要求する。男女間の自然の『大きな基本的な違い』さえも取り除かれなければならない」 彼女の理論が今日の「ジェンダーフリー」思想そのものであること、そしてこれが30年代に考えられていたことに筆者とともに驚く人も多いだろう。そして彼女は積極的に、国連に「ジェンダーフリー」、社会主義フェミニズム思想を浸透させようとした。彼女が国連に入った時、彼女の同志に宛てて「社会主義の女性たちが、国連事務局で何の邪魔も無く話す機会が与えられて影響力を持てることは大きな喜びです。国連の中枢にいて、女性グループが望んでいた福祉制度が形成できるのです。国連の社会部門の重要ポストは、人間社会を変える最高の機会を私たちに与えたのです」という手紙を書き送っている。 彼女は、49年に経済社会理事会(ECOSCO)で仕事を始め、その後ユネスコに移り、社会科学部門のトップになった。そして、性的役割分担の抑制、母親による育児の否定、性教育の奨励を行い、国連の家族についての認識を、「世界人権宣言」にあるような「社会の基本的単位」であるというものから、家族制度は時代遅れで抑圧的であるという概念や急進的フェミニズム個人主義思想に基づくものへとシフトさせていく上で大きな影響力を持ったのである。西側諸国の途上国対策西側諸国の途上国対策(WCF「KEEPING FAMILY IN THE UN'S AGENDA」より) 現在の国連において、フェミニズム的思想が力を持ちえた事情は、前項で述べたように、社会主義者やフェミニストが国連を洗脳することに成功したためだけではない。 1994年、カイロにおいて国連国際人口開発会議が行われ、リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康の向上の権利)が、今後の人口政策の大きな柱となることが合意された。つまり、妊娠中絶・堕胎がオーソライズされた会議だったのである。会議は表向きには、「世界の人口爆発に対する危機感を背景として、人口政策を討議」したと言われているが、その背景には、西側諸国の或る思惑が存在していたのだ。カナダの保守系女性団体で国連特殊諮問資格NGO「REAL Women」副代表で弁護士のグウェンドリン・ランドルト女史は、「国連カイロ国際人口開発会議で大きな変化が起こった。世界中で自然の家族を徐々に蝕む試みが国連で最初に行われたのは、この会議だった…国連で自然の家族を徐々に蝕む試みの背景にある理由は、人口統計が西側諸国の人口の著しい低下を明らかにし始めたという事実による。西側が世界の政治的経済的バランスオブパワーを保つことが困難になったことを予告されて、この事実が西側の国に大きな警鐘を鳴らしたのだ」と述べている。 西側、主に欧州の人口低下と途上国の高出生率によって生じるバランスオブパワーの揺らぎを防ぎ、移民を抑止するために、そして途上国の天然資源を確保し続ける為に、発展途上国に人口抑制を強制するのが、この国際人口開発会議の真の姿だったのである。しかし発展途上国の多くは、この反生命・反家族の方針を拒否した。そこで国連や西側諸国は、発展途上国の抵抗を弱めるために、世界銀行のような国連機関からの援助を交渉ツールに使うとともに、フェミニズムを発展途上国に輸出するという新たな戦略を考えたのである。途上国の女性にフェミニズムによる洗脳を行い、女性たちが自主的に家族や子供から離れるように仕向けたのである。 ここで、西側先進国の思惑とフェミニズムが手を組み、フェミニズムは国連で大きな位置を占めることになった。そして、家族破壊のために働く軍団がフェミニストNGOたちなのである。ランドルト女史は自らの国連会議出席の体験を踏まえて、フェミニストNGOが国連において如何に優遇され、権力を振るっているかを次のように述べている。 「国連は、多くの反家族NGO(大部分はフェミニスト)を、西側政府の反家族政策を進める熱心なパートナーとして用いた。西側諸国の政府は、これらのNGOに多くの助成金を支給して、国連の中で彼らに政治権力の中枢に易々と参加させている…無責任なNGOは、国連で巨大な影響力を持っている…カイロの人口開発会議で、ニューヨークを拠点にしたアメリカのフェミニストであるベラ・アブズーグが…カイロのアクションプランは、自分達が書いた文書であると宣言するのを聞いて、私はショックを受けた。少数のフェミニストに、世界中の何億もの人々の命に影響を及ぼす国際的文書を変える力をもたせる国連は明らかに間違っている!」「フェミニストNGOは、時々彼らの国の代表派遣団のメンバーにもなる。カナダ政府が行っているように、NGOに発展途上国の代表に働きかけをさせるために、NGOの会議出席費用は政府が負担しているのだ」 日本政府も、こうした画策をする「西側諸国」の一員であるのかどうか、また、反日NGOの会議出席費用を負担しているのかどうか確認する必要があるだろう。それにしても、先進国の、発展途上国への遣り口は植民地時代と全く変わらないものではないだろうか。「人権」「平和」という一見美しい理想を掲げている国連の欺瞞性を、まざまざと見せ付けられる思いである。 尚、カイロ会議で暗躍したベラ・アブズーグは元米国下院議員で95年の北京女性会議でも大きな役割を演じた。その北京会議では「ジェンダーの主流化」が決定されている。これについて日本のフェミニストらは、女性だけではなく男性にも配慮した視点で、男女が平等なパートナーとなる施策を行うことになったと伝えているが、ランドルト女史は「北京会議の行動綱領の『ジェンダー』という言葉の包含する意味について、闘いが勃発した。国連の戦略家は、全社会共通の男女間の役割分担が生物学的違いに基づくのではなく、社会的文化的に作られたものと考えるべきであるとした」と批判している。 「ジェンダー」は数年前から国内でも問題視されるようになったが、フェミニストらが「ジェンダー」という言葉を使った真の目的は、男女のパートナーシップなどではなく、生物学的な男女の区別を無くすことにあったことが確認頂けると思う。05年の男女共同参画基本計画の改定にあたって、フェミストらは「中立的な概念である」「国際的に『ジェンダー』という言葉が問題になっているということは聞き及んでいない」(男女共同参画基本計画に関する専門調査会)などと強硬に主張、最終的に「ジェンダー」が計画に残されることになったが、ランドルト女史の指摘は、その欺瞞性をも浮き彫りにしている。家族の守りは国の守りである WCFによる国際的な家族擁護運動は、このように国連がフェミニズムや左翼思想に支配された状況下で始まった。彼らは会議を開くだけでなく、国連の中で家族擁護のために戦っている。私達が今回アメリカで会った草の根保守女性団体・CWAのジャニス・ショー・クラゥズ博士はブッシュ大統領のスピーチライターをしていた女性で、ブッシュ政権から2003年の子供サミットへ米国公式代表に任命された人である。彼女は国連女性の地位委員会にも出席しているが、フェミニストから随分嫌がらせと中傷を受けながらも戦っている。また、国連第60回会期(04年3-4月)で、同性愛保護のために世界人権宣言の文言を変更する決議案が提出された時にも、家族擁護のNGOが、この改正案に反対するロビー活動を展開して阻止したという。プロチョイス(妊娠中絶支持)に傾きつつある国連に、プロライフのロビー活動を展開して、国連がこれ以上家族破壊へ進むことにストップをかけているのがWCFのメンバーなのである。 アラン博士は、国連の歴史を学ぶ中で得たことは「思想は結果を持つ」ことだと述べている。キリスト教民主主義の小さなサークルで発展した考えの結果が、国連機構を家族支持にした。そして次に、スカンジナビアの社会主義の小さな集まりの中で発展した考えが、国連を反家族にした。そして今我々が行うべきことは、家族擁護/妊娠中絶合法化反対の新たな展望を作り、その思想を結果として国連に反映させることなのである。 トリグブ・リー、ダグ・ハマーショルド、アルバ・ミュルダルは、国連に社会主義的世界観を入れ込むことに最終的に勝利した。我々もまた、家族に対する攻撃を弱らせ防ぐためにNGOとして積極的に国連に参加して、国連事務局内にいる「家族の支持者」を擁護し助けて、そして、国連で社会政策に影響を与えることのできる国際的運動を構築しようと、アラン博士は呼びかけている。 博士の「家族の道徳観を基礎とする全ての宗教的なものを抱きしめねばならない」という言葉に、私は深く揺り動かされた。WCFの家族擁護の運動は、「家族を大事にする」という価値観を大切にするが故に、キリスト教もイスラム教もユダヤ教も、宗教も宗教ではないものも全てを超えて結び付いている。WCFのその精神は、アラン博士の、世界の全ての文化や伝統を守らなければならないという言葉にも表れている。 CWAのクラゥズ博士は、1920年代、英国の人類学者J・D・アンウィンの86の社会を対象にした調査で、放埓なセックス開放時代の1世代後に、その社会の文化は内側から崩壊してしまうという結果を紹介して、アメリカも数十年、セックス開放の時代を過ごしたと述べた上で、「国は、不可侵の結婚制度に基づいて作られる強い健康な家族なしで、長く持ちこたえることができない…あらゆる世代は、真実を維持するために戦わなければならない。我々の戦争は結婚制度を保護して、社会の強い基盤としての家族を建て直すことである。我々の挑戦は文化的戦争であり…そして、最も熱心に最も断固とした意思を持って継続させる人たちが制する戦争である。文化戦争は、我々の国の魂と我々の子供たちの将来のための戦いである…人々の歴史には、(過去の過ちに対して)清算しなければならない時代がある…清算すべきは我々の時代である」と述べている。 アメリカの草の根保守運動に携わる方々に接して、「国は家族が作るものであり、家族の守りは国の守りである」という自覚と信念を感じた。この信念は筆者を含めた多くの日本人に欠けているものではないだろうか。国の礎である「家族」を守るという明確な意思を持ち、来年ワルシャワで行われるWorld Congress of Families Ⅳに同志と共に参加して、世界的な保守の連帯の中で国連の問題に取り組んでいきたいと考えている。 最後に、日本政府は出生率を上げたいのならば、国連の出生率神話に踊らされて女性の社会進出と子育ての社会化を促すような政策を即刻止めるべきである。そして子供から親への尊敬と信頼を奪う現在の教育を改革して、親子の絆を強くする教育のあり方を考えるべきである。国の主権を守るために、根拠の無い国連信仰は止めて、「遥か海の彼方に住んでいる国連の官僚」から、私たちの暮らし方を決められることに「ノー」と言うべきである。安倍新内閣には、家族政策を含めた過去の誤った政策のすべての清算を断固として行って頂きたい。おかもと・あきこ 主婦、ジャーナリスト。今年4月に「児童の健全な育成を守るNGOネットワーク」を結成。神奈川県在住。共著に『ちょっとまって!夫婦別姓』(日本教育新聞社出版局)『まれに見るバカ女との闘い』(宝島社)『家庭教育の再生』(学事出版)など。(※iRONNA編集部注:肩書き等は『月刊正論』掲載当時のものです)

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    過激派操る「国連」に騙された日本の男女共同参画

    に破壊することが、理想社会を建設するために必要である」と主張した過激派である。その過激派が、国連が女性差別撤廃条約を作り、五年ごとに世界女性会議を開催して様々な宣言を出してフェミニズムを推進していることを評価しているのである。「この条約は過激派ご推奨のフェミニズム条約である」と証言しているのである。 こうして、国連は、フェミニズムという革命思想を条約として制度化し、正統思想に仕上げたのである。 CEDAWは一九七九年十二月十八日、国連で採択され、一九八一年に発効、日本はいち早く一九八〇年七月十七日に署名、一九八五年六月二十五日に批准した。二〇〇四年十二月一日現在、締約国は百七十九力国に達している。 国連がフェミニズムの化身のような条約を作った背景には、アメリカのフェミニズム運動がある。 国連はアメリカ・ニューヨークに本部を置いている。そのアメリカで一九六三年、ベティー・フリーダンの『女性神話』(the Feminine Mystique)が世に出て、現代フェミニズムのイデオロギーが生まれた。その後フェミニズム思想は急速に普及し、かつ過激化していった。 フリーダンは、『女性神話』出版当時、黒人差別撤廃のための怒濤のような公民権運動の成功に着目し、一九六六年に少人数のフェミニスト・グループで全米女性同盟(NOW:National Organization for Women)を結成、政治的活動を開始した。 アメリカは当時、ケネディ大統領(民主党)の暗殺(一九六三年)を経てジョンソン大統領(民主党)の時代であり、一九六五年頃から高まったべトナム反戦運動と並行してマーチン・ルーサー・キング牧師率いる公民権運動が展開された激動の時代であった。ケネディの名声と相俟って民主党系のリべラル思想がアメリ力を席巻し、リべラル派が推進する女性差別撤廃運動も急速に全国的に波及した。ヒッピー集団のフリーセックスは反戦の象徴だったが、フェミニズム運動の象徴でもあった。 全国女性連盟を中心とするフェミニズム団体は、黒人の公民権運動との相乗効果で急速に支持を広げ、巨大な政治的勢力に成長した。一九七〇年代に入ると女性差別を根絶すると称する憲法修正案(ERA)を要求した。 アメリカでは次回に述べるように、 ERAをめぐって、一九七二年から八二年までの十年間にわたってフェミニスト側とアンチフェミニスト側との間の大論争がマスコミや州議会を舞台に展開された。その結果、フェミニズムの主張はデタラメな根拠と嘘の上に成り立っていることが赤裸々に暴露され、 ERAは廃案となった。公開論争を通じてフェミニズムが過激な革命思想であることを大多数のアメリカ国民が知ることになり、 ERAを拒否したのだ。当然ながら、アメリ力はフェミニズムを体現したCEDAWを(民主党政権下でさえも)批准していない。 こうしたアメリカ国内の経過と国連の関連を直接検証できる資料はないが、国連の人権委員会の官僚、特に、条約を作成した「女性の地位委員会(the Commission on the Status of Women CSW)の官僚はニューヨークの国連本部で具(つぶさ)にこの動きを見ていたはずである。 国連は、 CEDAW採択にいたる背景を文書「CEDAW小史」で、こう説明している(要旨)。 基本的人権の促進は国連の基本的任務の一つであり、国連発足以来今日まで活動を行ってきた。女性の人権については、一九四六年、経済社会理事会の人権委員会の下に「女性の地位に関する小委員会」が設置され、女性の政治的権利、結婚の最低年齢、国籍問題、など個別の問題に関する条約を作ってきた。 一九六三年、国連総会は、これらの個別の成果を一つの文書にまとめる決議を採択し、このプロセスは「国連内外の女性活動家(women activists)により支持された」(引用)。こうして、一九六七年、総会で「女性差別撤廃宣言」が採択されたが、これは道義的政治的宣言で条約としての拘束力が無かった。その後、「一九六〇年代の新たな女性差別への関心の高揚」(同)を踏まえCSWが主導して一九七四年、「一本化した包括的な国際的に拘束力のある女性差別撤廃のための文書」(同)の作成を決定、この作業は、一九七五年のメキシコでの「国連婦人の十年世界会議」が女性差別撤廃条約の作成を求めたこと及び、国連総会が、一九八〇年にコペンハーゲンで開催される同世界会議の中間レビュー会議までに条約草案を完成することを要請したことにより促進され、一九七九年、国連総会で条約が採択された。 この説明では、フェミニズムあるいはフェミニストという用語は一切使っていない。しかし、「60年代の女性差別への意識の高揚」が「フェミニズム運動」、「国連内外の女性活動家」が「フェミニスト」であることは、アメリカのフェミニズム運動との時系列上の重なりから容易に読み取れるのである。本性を隠して世界革命を遂行本性を隠して世界革命を遂行 その後五年ごとに開催されてきた世界女性会議の文書にも、一切フェミニズムという文言は出てこない。国連は、フェミニズム思想に基づいてCEDAWを作ったことを認めれば、アメリカの経過と同じようにこのイデオロギーの過激性と嘘がばれることを十分承知していたのである。 その上で、国連はCEDAWの本性を隠蔽し、世界人権宣言(一九四八年)以来の人権思想で言う「男女平等」の枠内の差別撤廃であると偽装した。この点が、この条約理解の核心である。 CEDAW前文は次のように始まる。「この条約の締結国は、国際連合憲章が基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の権利の平等に関する信念を改めて確認していることに留意し、世界人権宣言が、差別は容認することができないものであるとの原則を確認していること(中略)すべての人は性による差別その他いかなる差別もなしに同宣言に掲げるすべての権利及び自由を享有することができることに留意し…」このように「普遍的人権思想」に基づく条約であることを装ってはいるのだが、その偽装は、世界人権宣言を通覧すれば直ちに露呈する。同宣言第16条(3)は「家族は、自然に形成された社会の基盤的単位であり、社会及び国家に保護される権利がある」、すなわち「家族は国家及び社会から不可侵の領域である」という自由主義社会の原則を明示しているのである。 これに対し、 CEDAWは、この原則とまったく相容れない家族破壊思想を条文化したのである。 その条文は、各国の法律、慣行や慣習といった固有の伝統や文化、さらに思想・行動の自由という私的自治権を見事に蹂躙している。第二条(f)「女子に対する差別となる既存の法律、規則、慣習及び慣行を修正し又は廃止するためのすべての適当な措置(立法を含む。)をとること」あるいは、第五条(a)「両性のいずれかの劣等性若しくは優越性の観念又は男女の定型化された役割に基づく偏見及び慣習その他あらゆる慣行の撤廃を実現するため、男女の社会的及び文化的な行動様式を修正すること」と定めているからである。 何より問題なのは、「差別」や「偏見」の定義がCEDAWには具体的には定められておらず、恣意的に拡大される可能性があり、実際にそうされてきたということである。 例えば、一九九五年に北京で開催された世界女性会議が採択した「北京宣言」に、「ジェンダー」という文言が初めて登場した。ジェンダーは政府の説明では社会的、文化的性差と訳されているが、ジェンダーこそ現代フェミニズム思想の中核であり、フェミニズムの戦略的概念である(ジェンダー概念についての説明は回を改める)。この概念をフェミニストは恣意的に解釈して差別概念を無限に拡大する鍵となっている。 こうして、ジエンダー概念を公然と使用してCEDAWはフェミニズムのイデオロギーに基づいていることを公然化したのである。その後、 CEDAW第十七条に基づき国連に設置された「女子に対する差別の撤廃に関する委員会」(以下、撤廃委)は「ジェンダー」という文言を公文書に平然と使い、後述の同委員会のコメントに見るように、フェミニストが言うがままの要求を締約国に倣慢に突きつけるようになった。 日本でいえば、「間接差別」が現在最も注意を要する差別の「拡大概念」である。間接差別とは、「身長や体重など一見、性別と関係のない中立な基準や条件であっても結果的に多数の女性が不利になる制度」とされる。例えば身長一七五センチ以上という採用基準があるとしよう。言葉上は女性を排除するものではないが、高身長化した現代女性でも、この基準を満たす者は殆どいない。これが差別とされかねないのである。企業が正社員とパート、世帯主と非世帯主との間で待遇に差をつけるのも男性のみを優遇する措置ではないが、現状でパートや非世帯主の多数を占める女性が不利になるため「差別」とされかねない。この間接差別を「合理性や正統性がない限り」禁止する男女雇用機会均等法の改正案が来年の通常国会に提案されようとしているのである。 均等法の改正が実現すれば経済界に与える影響の大きさは計り知れない。にもかかわらず法改正にかかわる議論は厚生労働省が所管する労働政策審議会など大多数の国民の預かり知らぬ所でひっそりと行われているだけである。この間接差別の禁止も、後述する「指令システム」によって国連が法令に盛り込むよう日本政府に勧告してきたものなのだ。 「間接差別」禁止の影響は労働問題にとどまらない。夫婦同姓を維持している現行民法は男女どちらの姓でも選択できるため性差別とは全く関係ない。ところが、現状は男性つまり夫側の姓を選択する夫婦が圧倒的であり、「間接差別」とされる可能性が強い。 このように「差別」の概念が際限なく拡大していく事情を、アメリカの共和党系シンクタンク、ヘリテージ財団はこう分析し、国連を批判する。自由主義社会を破壊する革命の「指令システム」「国連の委員会は、国際協定の解釈を変更して各国の主権を目立たないうちに侵害する方法を生み出した。国連は、五年、十年毎に『女子差別撤廃条約』や『子供の権利条約』の世界会議を開き、条約の再評価を行い、締約国の解釈や実施のやり方を変更させている。委員会は、年々、結婚している家族、両親の役割(特に専業主婦)、宗教的規範に対してますます敵対的な解釈を編み出している…条約は締約国間で注意深く協議して作成したものであるにも関わらず、新しい課題に対応する目的で、絶えず解釈を変更しているのである」(「家族、宗教及び国家主権を蝕む女子差別撤廃条約と子供の権利条約」)。 フェミニズムによる「姿の見えぬ革命」は、こうして撤廃委の勧告などを通じて地球規模で進行している。この点を日本国民は重々承知すべきだ、ということを強調したい。日本の政治家は無知により、あるいは無責任に易々と国連に騙されたのだ。自由主義社会を破壊する革命の「指令システム」 次にCEDAWによるフェミニズム革命の「指令システム」を見ていこう。 CEDAW第十八条は、原則として四年に一回、「この条約のためにとった立法上、司法上、行政上その他の措置等」に関する報告を国連事務総長に提出することを締結国に義務として課している。さらに第二十一条に基づき、撤廃委は、各国の報告について提案及び勧告をすることとなっている。これが、国連が「世界革命」を推進する有力なシステムとなっているのである。 では、世界各国に対して委員会はどんな勧告等をしているのか。その内容は、CEDAWの正体が過激思想であることを歴然と示している。以下、一部を例示したい(各抜粋。ヘリテージ財団の分析資料による)。◎対ベラルーシ「国連は、伝統的な女性の役割を推奨するような『母の日』や『母親賞』に象徴される性別固定的役割分担の考え方が支配していることを憂慮する。このような固定的役割分担を排除することを目的とする人権並びにジェンダー教育の導入が効果的に実施されているのかどうか憂慮する」(二〇〇〇年)◎対アイルランド「国連は、政府に対して、家族計画と避妊器具の入手方法を改善し、十代の女性や若い女性にも入手できるようにすることを要請する」◎対ベリーズ「女性の60%は労働市場に参加していない。育児施設が不足するため女性が労働市場で不利な立場にある(ことを委員会は憂慮する)」(一九九九年)◎対中国「(国連は)政府に対して、売春の合法化を勧告する」(一九九九年)◎対クロアチア「委員会は、クロアチアの法律において、女性の母親として及び育児者としての役割を一貫して強調していることを特に憂慮する」(一九九八年)「(国連は)医師の良心的反対を理由にいくつかの病院で堕胎を拒否していることに憂慮を表明する。(国連は)この事実はリプロダクティブ・ライツ(堕胎権)の侵害であると考える」(一九九八年)◎対チェコ共和国「委員会は、妊娠及び母親に対する過度の保護措置が増加していることを憂慮して留意する…女性の家族における役割を文化として賞賛しているが、これは、女性に関する経済的な合理性を求める政策に対する否定的効果をさらに悪化させる可能性があることを留意する」(一九九八年)◎対ジョージア「委員会は、家父長制的文化の根強い存在、女性の母親としての役割を強調する振る舞いや態度を基礎とする政府の政策、家庭、公的生活における女性の固定的役割が広く認められることを憂慮して留意する」(一九九九年)◎対インドネシア「国連は、既存の社会的、宗教的、文化的規範が、男は家族の長であり稼ぎ手であり、女は妻と母親の役割に限定しており、またこれが各般の法律に反映されていることに重大な憂慮の意を表明する」(一九九五年)「委員会は、ジェンダー・イクウォリティの価値を反映するために政府が教科書改訂に努力していることに関して情報を提供するよう要請する」(一九九九年) 例示すればきりがないが、これで十分であろう。 CEDAWに加入している限り、優しい母親はこの世から消え去り、女たちは十代になればフリーセックスを謳歌し、家族を放り出して外に出て働き、子供たちは「母の手厚い愛」を失って不良化し、夫族は呆れて離婚し、貧困母子家庭が増加し、町に売春婦が溢れるのは当たり前なのだ。女性たちもこれで幸せなのか。条約がこういう世界の実現を目指していることを日本の政治家は承知しているのか。実に不可解である。国連に額ずく日本政府国連に額ずく日本政府 では、日本は、この委員会とどんなやり取りをしているのか。 筆者は、「夫婦別姓制度」は一部の跳ね上がり議員の仕業と即断していた。ところが、実は政府が条約履行の一環として推進し(政府の取り組みについては、本誌昨年八月号掲載の岡本明子「『少子化対策としての夫婦別姓』の嘘に騙されるな」に詳しい)、その背後で、「世界革命」の本拠地である女子差別撤廃委員会がそれを実施せよ、と命令しているのだ。 日本政府は一九八五年のCEDAW批准以来、第十八条に基づき、国連にこれまで五回、「条約の実施のために執った立法上、司法上、行政上その他の措置」を報告している。これを見れば日本で起こるフェミニズムにまつわる問題は、全て条約遂行のために起きていることが分かる。この報告(平成十四年九月)はA4文書で目次を除き五十ページに及び、現在政府が実施している恐るべきフェミニズム政策が一覧できる。 最新版は第五回報告だが、その中で特に注目すべきものは、(1)男女共同参画基本法の公布・施行(2)従軍慰安婦問題(3)女子差別撤廃条約選択議定書(4)民法改正の検討(5)人権擁護法案(6)間接差別(前述)である。 この報告に対して、撤廃委は二〇〇三年(平成十五年)七月十八日にコメントを出した。 (1)について。基本法という「革命綱領」の制定成功に「祝福する」との賛辞を呈し、国及び全都道府県での「男女共同参画基本計画」(=革命実践の計画)策定を称賛しながらも、計画がすべての市町村で策定されていないことに「留意する」と未策定の自治体への政府圧力を促している。「革命の大義」の前には、地方自治権も侵害される。 (2)についてはノーコメント。もともと条約に関係ないことに委員会がちょっかいを出したもの。結局諦めたか? (3)について、政府報告が「締結の是非について、真剣かつ慎重に検討している」としたのに対し、委員会は、「締約国が条約の選択的議定書の批准の検討を継続することを奨励する」と尻を叩いている。この議定書は、個人、団体が直接国連の委員会に権利侵害を通報する仕組みを作るものだ。革命本部は革命支部の報告を信用せず、世界中にスパイのネットワークを張ることを狙っている。そこにあるのは政府=公権力に対する不信感であり、国連によるフェミニズム世界革命にはNG0を称するフェミニストたち(CEDAW採択時には「女性活動家」と称されていたことを思い出して頂きたい)の意向が強く働いていることを示唆している。 (4)政府報告「夫婦の氏については…制度の導入に向けて努力が続けられている」に対し、委員会は、「民法が、婚姻最低年齢、離婚後の女性の再婚禁止期間、夫婦の氏の選択などに関する、差別的規定を依然として含んでいることに懸念を表明する」と言う。早くやれと言っているのだ。現行法制では、氏は夫妻のどちらのものになるにせよ選択は夫婦に任せている。何故差別だ? 委員会は差別概念を無限に拡大しようとしている。 (5)の人権擁護法案は法務省が今国会に提案しようとしたが、人権侵害の定義の曖昧さや「人権擁護委員」選任基準の不透明さ、「人権委員会」の強権などに自民党内から批判が噴出、本稿を執筆している三月十八日段階では提案されるかどうか結論は出ていない。 この法案について政府は、「現行の人権擁護制度を抜本的に改革するため、二〇〇二年三月、人権擁護法案を国会に提出した。この法案は、性別による差別的取り扱いやセクシュアル・ハラスメントを含む差別・虐待等の人権侵害を禁止するとともに、新たな独立行政委員会として設置する人権委員会を主たる担い手とする新しい人権救済制度を創設し、人権侵害による被害の適正かつ迅速な救済・実効的な『予防』等を図ることとしている」と報告していた。 これに対して、撤廃委は、「人権擁護法案を国会に提出したことに満足をもって留意しつつ、委員会は、法務省の下に設置されている『人権委員会の独立性』について懸念を表明する」「『人権委員会』が、『独立の機関』として、女性の人権が適切に対処することが確保されるよう、国内人権機構の地位に関する原則(いわゆる『パリ原則』)に基づいて設置されることを勧告する」とコメントした。「国連信仰」の呪縛を解け フェミニズム革命を遂行する国連は先ず、内閣府に「男女共同参画局」「男女共同参画会議」という日本革命支部の設置に成功し、次に、「歪曲された男女平等概念(ジェンダー・イクォリティ)」への司法権からの妨害を阻止するため司法権から独立した「革命監視委員会」の設置を目論んでいるのだ。もちろん、人権委員会は「女性差別」だけを取り扱うことを目的とした機関ではないが、設置されればフェミニズム革命を遂行する国内機構はほぼ完成する。フェミニズム政策を唱える人物を批判すれば、人権委員会により女性差別者として弾劾されかねない。あるいは「反革命」として。人権の名の下に、かつての共産圏社会と同類の恐怖社会が出現する。 付言すれば、人権委員会を法務省所管とする人権擁護法の法務省案に反対しているのは、日本の左派リベラルの政党や市民団体(NGO)である。彼らとまったく同じ意見が撤廃委の勧告に盛り込まれていることは、国連にNGOの意向が反映されるパイプがあるということである。 国連と日本政府の力関係をよく物語っているのが、内閣府男女共同参画局が発行しているメールマガジン「男女共同参画情報メール」第八十三号(平成十七年三月四日付)に掲載された「マンハッタンから始まる男女共同参画の未来」と題する一文である。筆者は同局男女共同参画推進官、高安雄一氏。ニューヨークの国連本部で三月十一日に開幕した「北京+10」(第四十九回国連婦人の地位委員会閣僚級会議)のリポートである。 「ハイレベル一般討論では、世界190力国から集まる男女共同参画を担当する大臣級がそれぞれの国のステートメントを発表します。ステートメントには各国が男女共同参画を進めるために、この10年間に行ってきた取組を盛り込むことが求められています。男女共同参画行政に携わる者としては、このステートメントに世界に誇れる取組を盛り込みたいとの思いで日々の業務に励んでいます」 「聴衆の反応は極めて正直で、素晴らしいステートメントには惜しみない拍手がなされる反面、場合によってはブーイングもなされかねません(中略)日本国政府代表団に段々と緊張感が高まってきました」 「総会議場を埋め尽くした各国大臣 NGO、国連幹部などの注目を受けつつ、西銘首席代表から高らかに発表されるのを目の当たりにして、私は感動を禁じ得ませんでした。ステートメントが読み上げられた直後の会場の様子は、我が国の10年間の動きが世界に誇れるものであったことを物語っていました」 このリポートから読み取れるのは一種の宗教的陶酔感、あるいは革命党本部の総括を待つ活動家の緊張感である。そこには、国益を代表し、例えブーイングが起きても冷静に対処すべき外交官としての姿は伺えない。政府は挙げてフェミニズム革命に熱狂しているようにさえ見える。恐ろしいことではないか。「国連信仰」の呪縛を解け 「北京+10」のような国連の世界女性会議は一九七五年以降、五年あるいは十年毎に開催されている。そこで、NGOを称する世界中のフェミニスト団体が各国政府代表に圧力をかけ、あるいは協力して、フェミニストの要求が恰も世界中の女性の支持があるかの如く仮装して、会議毎に出す様々な宣言を正当化し、世界のフェミニズム化を進めているのである。 以上見てきたように、国連が、各国の司法、行政、立法に国民をすっぽかしてずかずか介入することを許容していいのか。明らかに主権を国連に簒奪されている。主権者は日本国民である。政府にも国会にも、国民の主権を国連に譲渡する権限はない。 外務省は、条約批准時の国会答弁で嘘をついて国民を騙し(回を改めて解説)、フェミニズムのイデオロギーや国連の実態を知らない政治家の目を盗んでCEDAWを批准に持ち込んで日本国の主権を放棄した国賊集団である。フェミニズム革命日本支部である内閣府男女共同参画局と男女共同参画会議の解体、外務省の抜本的組織改善、そしてCEDAWの批准撤回を要求する。 国連はフェミニズムのイデオロギーを取り入れて得体の知れない「妖怪」になったと言っていい。それを「平和の使徒」と崇める日本の「国連信仰」は愚の骨頂である。即刻捨てさらねばならない。みつはら・まさし 昭和十五(一九四〇)年、鹿児島県出身。四十一年東大経済学部卒業、郵政省入省。平成五年退官後郵政貯金振興会理事、 TVQ九州放送北九州本社代表などを歴任。教育を考える会会員。(※iRONNA編集部注:肩書き等は『月刊正論』掲載当時のものです)

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    真実の拡散を恐れる反日団体 大量の嫌がらせ電話とファクスにあきれた!

    トニー・マラーノ(米在住評論家)  ハ~イ! みなさん。 世界中で展開されている理不尽な反日プロパガンダに立ち向かうため、俺たちは先週、討論会「テキサス☆ナイト in ニューヨーク」を開催した。昨年に続いて2回目で、熱心な参加者と一緒に貴重な時間を過ごすことができた。 ニューヨークで長年暮らしている「ニューヨーク正論の会」の鈴木規正氏が中心になって準備を進めてくれた。パネリストは「論破プロジェクト」の藤井実彦氏、「なでしこアクション」の山本優美子氏、親友のシュン(=テキサス親父日本事務局の藤木俊一事務局長)らだ。 国連などでの反日活動の現状を確認し、日本人や米国人の心構え、今後どう行動すべきかについて話し合った。とても盛り上がったぜ。参加者とパネリスト、スタッフの方々には心から感謝したい。ありがとう。米国国立公文書館で発見した慰安婦の資料を持つ トニー・マラーノ氏(提供画像) 討論会の開催にあたり、反日団体や活動家による卑劣な妨害工作があったので報告したい。彼らの邪悪な本性が実によく分かるぜ。 今年の会場は「アルメニア教会」だった。昨年の討論会では、反日活動家らの脅迫行為を受けて、会場側が直前になって使用をキャンセルしてきた。そこで、「どんな脅しにも屈しない場所」として、苦難の歴史にも負けなかったアルメニアの人々の教会を選んだ。 今回も嫌がらせの電話やファクスが大量に届いたそうだ。教会側は「SP2人を入り口に配置すること」「100万ドル(約1億1370万円)の保険に入ること」を条件にしたが、「言論の自由」「表現の自由」を守り通してくれた。 反日団体や活動家は、よほど俺たちに「真実を拡散される」ことが脅威のようだな。俺たちは、彼らがそこでどんな会合を開いても構わないし、彼らのような卑怯な妨害工作などしない。ただ、事実無根のウソを吹聴していたら、証拠を示して冷静に反論していく。これが民主主義の基盤である「言論の自由」だぜ。 ところが、反日活動家らは意見の違う人々に対し、「ナチスだ!」「ヒトラーだ!」「ファシストだ!」などとレッテルを貼り、自由な言論すらも妨害しようとする。彼らの方がファシストだろ? 米国にも似たような動きはあるが、化けの皮がはがれてきているぜ。 日本でも最近、「ヘイトスピーチ(憎悪表現)を規制しろ」と主張している人々がいると聞いたが、それは確実に言論封殺につながるぜ。この活動家たちの思考回路そのものだ。特定の国家や団体、活動家が背後にいるんじゃないか? 日本を中国のような「言論の自由のない国」にしないためにも、十分気をつけた方がいい。 親愛なるみなさんと、日本と米国に神のご加護がありますように。世界各国で日本を貶めて、自分たちが優位に立とうとしている国家や団体、活動家による憎悪表現こそ、問題にすべきだぜ。

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    国連委発言の2日後に「遺憾」報じた朝日新聞の開き直り

     「国連委発言で慰安婦報道言及 本社、外務省に申し入れ」 19日付朝日新聞朝刊4面にこんな見出しが掲載された。朝日新聞東京本社報道局が18日に外務省に「遺憾である」との文書を提出したことを紹介する記事だ。 朝日が「遺憾」としたのは、日本政府代表の外務審議官、杉山晋輔がジュネーブで開かれた16日の国連女子差別撤廃委員会で、慰安婦問題に関し朝日報道が「国際社会に大きな影響を与えた」と発言したこと。朝日は「根拠を示さない発言」と断じた。 杉山はこの場で4回にわたり朝日に言及した。 「強制連行説は慰安婦狩りに関わったとする吉田清治(故人)による虚偽の事実の捏造(ねつぞう)で、朝日新聞社により事実であるかのように大きく報道され、日本、韓国の世論のみならず、国際社会にも大きな影響を与えた」 「朝日新聞自身も累次にわたり記事を掲載し事実関係の誤りを認め、正式に読者に謝罪した」 「朝日新聞は平成26年8月5日付の記事で20万人の数字のもとになったのは女子挺身(ていしん)隊と慰安婦を誤って混同したことにあると自ら認めている」 日本政府が朝日報道に関して国連の場で説明するのは初めてだった。朝日新聞記者は現地などで取材し17、18両日付朝刊で同委員会について報道したが、自社に関する杉山の発言については一切触れなかった。 朝日は申し入れ書で国際的な影響については、慰安婦報道を検証した第三者委員会でも見解が分かれたと説明。杉山発言の「根拠が示されなかった」と主張した。慰安婦「20万人」については「女子挺身隊と慰安婦の混同がもとになったと報じていない」とした。 慰安婦問題で朝日報道を批判してきた有識者からなる独立検証委員会は、朝日報道が米国と韓国のメディアに多大な影響を与えたことを実証している。副委員長で東京基督教大教授の西岡力は「吉田清治を世に出したのは朝日新聞だ。朝日は第三者委員会で見解が分かれたというが、それは委員会の中でも影響があると認めた人がいたということではないか」と指摘。朝日の姿勢をこう批判した。 「朝日は外務省に申し入れたことで初めて自社の責任に言及した杉山発言を報じた。ファクト(事実)を報じる新聞の役割を果たしていない。(誤報を)本当に反省しているのなら、自ら国際社会に発信すべきではないか」 朝日新聞社広報部は産経新聞の問い合わせに「記事に書いてある以上はお答えできない」と回答した。日韓合意で一変「幻の回答」に 昨年12月末、日韓両政府は慰安婦問題について「最終的かつ不可逆的に解決する」と合意。国連を含む国際社会でお互いに非難、批判を控えると申し合わせた。このことは女子差別撤廃委員会に対する日本政府の回答にも影響を与えた。慰安婦問題を広げた朝日などに力点が置かれるようになったのだ。政府高官はこう強調した。 「朝日に責任があるのは明白だと国際社会に知ってもらう必要がある。朝日に(日本政府が拠出する10億円の半分の)5億円を出してもらいたいぐらいだ」 日本政府は昨年8月、国連女子差別撤廃委員会から慰安婦問題に関する質問を受けた。それ以降、回答内容について検討作業を続け当初は11月中旬に提出する方針だった。政府関係者によるとその頃までに準備したのは「A4用紙10枚以上で、完璧な内容だった」。 回答案は慰安婦問題が政治問題化した経緯を詳述した。慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話作成時の事務方トップ、元官房副長官、石原信雄が26年2月の衆院予算委員会で軍や官憲による強制的な女性募集を裏付ける客観的資料がないと証言したことに言及。「慰安婦狩り」を証言した吉田清治や朝日新聞についても説明した。 ただ、分量が多く簡潔にする必要があると練り直した。それでも「誤った事実関係が(国連人権委員会に提出された)クマラスワミ報告書における事実に反する記述や人権諸条約の委員会による懸念表明や勧告の有力な根拠となっているのは大変残念である」との踏み込んだ表現は残った。 しかし、結果として“幻の回答”となる。昨年12月28日の日韓合意で状況が一変したからだ。 「日韓合意を破棄しない」。この不文律の下で行われた再調整の結果、回答は外相、岸田文雄が昨年12月28日に行った記者発表の内容を記しただけとなった。これに首相補佐官の衛藤晟一が異論を唱えた。 「日韓合意の内容だけでは委員会からの質問に答えていない」 衛藤は提出予定日の1月22日朝、外務省の担当者に電話し待ったをかけた。官房副長官の萩生田光一も同調。首相、安倍晋三は外務省に再調整を指示した。その結果、吉田清治や朝日新聞について、委員からの質問の有無にかかわらず外務審議官の杉山が口頭で説明する方針が固まった。オーストリア出身の女性委員が牽制 16日に行われた女子差別撤廃委員会。冒頭、「女子差別撤廃条約締結(昭和60年)以前に生じた慰安婦問題を取り上げるのは適切ではない」と杉山が述べると委員からは反発が出た。口火を切ったのはオーストリア出身の女性委員、リリアン・ホフマイスターだ。 「委員会が慰安婦問題を取り上げるのは人権侵害が続いているからだ。被害者が納得のいく結果にならなければいけない」と杉山を牽制(けんせい)した。杉山が強制連行を示す証拠はなかったなどの見解を示すと反応したのは慰安婦問題を担当する一人、中国出身の女性委員、鄒暁巧だった。 「政府代表の発言は残念で落胆させられた。受け入れられない。たとえ70年前に起こった出来事とはいえ歴史的事実を変えたり、否定することはできない」 鄒は日本政府が慰安婦問題を否定していると断じた上で「日本政府に第二次大戦中に何が起こったかを認識してほしい」と締めくくった。“歴史修正主義者”というレッテルを貼ろうとする中国の常套(じょうとう)手段だ。杉山がすぐに反論した。 「非常に残念なことにいずれの点においても日本政府として受け入れられるものではないだけではなく、事実に反することを発言されたと残念ながら申し上げざるを得ない」 杉山が発言している間、鄒はあきれたように首を振り、机の上のパソコンを閉じた。 休憩中、鄒は日本政府への怒りを隠さなかった。 「安倍政権が発足してからこういうことは想定していた。だからこの3年間、国連の場では慰安婦問題について強い言葉が使われるようになっている」 対日審査を踏まえた委員会の最終見解は3月7日に発表される。鄒らの発言をみると、日本政府を強く批判する内容になる可能性が高い。それでも今回、日本政府が初めての試みとして慰安婦問題に関する事実関係を包括的に説明した意義は大きい。杉山は終了後、記者団にこう語った。 「誤解だと思われる点はさらに発信し、分からせる努力が一層必要だ」(敬称略)

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    なに! 今まで「強制連行は捏造だ」と説明しなかったのか!

    西村眞悟(前衆院議員) 本通信の表題の冒頭に、二日連続して「なに!」と書くことになった。その理由は、書かざるをえないからだ。  「泣き叫ぶ二十万人の若き朝鮮人女子を、我が日本政府や日本軍が強制的に連行して日本軍兵士の性奴隷にした」 このようなおぞましい事実が、あったのか、なかったのか。このことに関して、日本政府と日本国民は、大東亜戦争中から戦後七十一年を迎える本年までの八十年になんなんとする間、一貫して、そのような事実はなかったと認識してきた。  七十年以上前の時代を現実に生きた人々は、日本軍兵士のみならず朝鮮人も、慰安所で働く朝鮮人婦女子が日本軍や日本政府に強制連行されて性奴隷としてそこにいるのではないことを当然のように知っていた。 ところが、現実に戦時に生きた人々が高齢化して、その人口が減少してきた頃に、吉田清治という人物が「慰安婦狩り」をしたと強制連行を捏造した本を出版するや、朝日新聞がそれを大きく報道し、その報道に併せて韓国に強制連行されたという老女が現れ、日本を韓国政府と共に非難し始めた。 ところが、吉田清治が慰安婦狩りをしたと本に書いた韓国済州島において、そのような事実はないことが直ちに判明した。にも、関わらず吉田清治に続いて日本側に、韓国の対日非難に配慮して、不可解にも、あたかも強制連行を認めたかのような談話を発表する官房長官が現れた。 しかし、ないものはないのであるから、日本政府がいくら当時の記録を探しても「強制連行」を裏付けるものはなく、反対に強制連行をしていないことを示すものがあるのみだった。 即ち、日本政府および外務省は、吉田清治が捏造しても、朝日新聞が捏造記事を書いても、 河野官房長官談話が「あやふや」でも、韓国がアメリカやソウルの日本大使館前に、「二十万人を日本政府が強制連行して性奴隷にした」というプレートを貼った慰安婦像を建てても、強制連行は捏造であり事実ではないことを一貫して知っていた。国連女子差別撤廃委員会に出席する外務省の杉山晋輔外務審議官ら =2月 16日 、ジュネーブの国連欧州本部(田北真樹子撮影) しかしながら、日本政府及び外務省は、国際社会に「強制連行は捏造だ」と一言も説明しなかった。その結果、どうなったか。国連はもとより、欧米も世界も、日本軍は二十万人を強制連行して性奴隷にしたと認識した。 そのあげく、昨年十二月二十八日、我が国外務大臣が韓国に慌ただしく飛び、韓国外務大臣との間で、従軍慰安婦に関して訳の分からん「最終的かつ不可逆的な解決」に達し、同時に総理大臣が韓国大統領に電話をして「反省と謝罪」を表明した。河野談話や村山富市談話と同じだ。 そして、こうなってから。昨日二月十六日、我が国外務省の杉山外審(ナンバー2)が、ジュネーブの国連欧州本部で開かれた女子差別撤廃委員会の対日審査で、 始めて、慰安婦強制連行は捏造だと説明したのだ。日本政府と日本国民は、これが捏造だと知っている。しかし、欧米や世界は、二十年以上にわたって強制連行を叫ぶ韓国の対日非難は認識しているが、 今になって、始めて、「それは捏造です」という日本外務省の説明に接したのだ。   「なに!今まで、説明しなかったのか!」とあっけにとられていると言わざるをえない。 これは、今になって外務省よく言った、と好意的に受け取れない。  外務省が黙って説明しなかったこの二十年間の間に国際社会のなかで、日本国と日本国民の無念にも奪われた名誉の重さを思えば、あらゆる証拠があるのに頑なに否認してきた犯罪者が、最後になって「自白」しても、その情状を評価できないのと同じだ。  国家と民族の名誉のために、外務省を非情に鞭打たねばならない。

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    「日本死ね!!!」に子供を持つママたちは何を思ったのか

     入学、入園、新年度を控えたこの時期、「保育園落ちた 日本死ね!!!」と題した、はてな匿名ダイアリーへの書き込みが話題を呼んでいる。《何なんだよ日本。一億総活躍社会じゃねーのかよ。昨日見事に保育園落ちたわ。どうすんだよ 私 活躍出来ねーじゃねーか。》(中略)不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。まじいい加減にしろ日本。》(原文ママ) 情報番組『とくダネ!』(フジテレビ系)では、書き込んだ本人に直撃。投稿者は都内に住む30代前半の女性で、3月で1才になる息子がいるという。育児休暇が終わって働こうとしたら保育園に落ち、「理不尽さを感じて」投稿したという。 激しい言葉が並び、一見すると過激な文章にも読める。でも、これを読んだママたちからは続々と共感の声があがっている。都内に住む35才のA子さんは、息子を認可外保育園に通わせている。 「私も保活、大変でした。息子が生まれる直前にいくつもの園に申し込みをして、やっと決まったのが今の保育園。本当は認可保育園がよかったけど、落ちちゃった。ママ友たちは、出産がわかってすぐに保育園選びをしていたみたいです。私も、区役所に申し込みに行ったら、“もうすぐ生まれるんですか? のんびりしてますね”みたいなことを言われました。でもそれっておかしくないですか?」 保活とは、保育園探し活動のことで、熾烈を極める戦いが繰り広げられる。その背景にあるのは、これまでも繰り返し指摘されている、保育士不足、保育園不足による待機児童問題だ。待機児童の数は2009年以降減少していたが、2015年は前年に比べて増加。そもそも、出生数が減少しているのだから、減少は極めて自然な流れだろう。しかも、政府は2001年、待機児童の数え方に大きなカラクリを用いた。 待機児童の数え方の定義について、それまで「認可保育所に入所申請したのに入れなかった人数」だったものを、「認可外保育園に入っている人数は除いてもいい」とした。 するとどうなったか? 2002年、“本来”なら3万9881人の待機児童の数は、2万5447人に“減少”したのだ。 保活の世界は、完全なる“点数制”だ。希望の保育園に入るためには、点数を多く稼ぐ必要がある。子育て・家族問題に詳しい、作家の石川結貴さんが言う。 「実家が遠い、共働きかどうか、フルタイムかパートか、週に何回働いているか、介護をしなければいけない家族がいるか、他に面倒を見なければいけない幼いきょうだいがいるか、など細かく点数がつきます。高得点であることが大前提ですが、点数だけではかれない事情もあるので、自治体によっては申込書には自由記入欄があって、そこに個々の事情を書き込むことができます」 自由業だったり、収入が少しでも高いと減点され、ハードルは高くなる。育休中でも減点されるのだ。メーカー勤務のB子さん(34才)は、“子供と一緒の時間を多く過ごす”か、“保育園に入れるか”を迫られた。 「うちの会社は、娘を産んで1年間は育休を取ることができました。でも、私が育休中だと保育園に入りにくくなる。育休が明けるのを1年待つと、娘は1才になってしまって、それもまた入りにくくなる。結局、育休を半年繰り上げて、都が認可する認証保育園に入れることができました」関連記事■ 待機児童問題 2015年の新制度前に保育園に申込み殺到か■ 待機児童が減らぬ理由 保育園のブラック化や住民の開園反対も■ 公立保育園申し込み小雪に「セレブはどうぞ幼稚園に」の声も■ 2.5万人と言われている待機児童数 潜在数は85万人との推計■ 働く女性と専業主婦 月額39万円の「子育て差別」がある例も

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    安倍政権「女性活躍」に透けて見える「どうせ女だろ?」的価値観

    分だ。男性一〇〇に対して女性九十数ポイントで大騒ぎしているヨーロッパの国々からすればとてつもない「女性差別」がまかり通る国である。 女性たちは怒っている。しかし、それは何も保育園の問題だけではない。はからずも安倍政権が「女性の活躍」なんて言い出してくれたおかげで、長年放置されてきた、或いはこの社会が見ないようにしていた、そして女性たちも諦めていた数々の問題が白日のもとに晒され始めている。そして「声を上げていいのだ」と気づき始めている。 女性たちの声は今、無視できないものになっている。地に足のついた生活者である女性たちの叫びに、政権はどう答えるのか。注視していきたい。

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    女性は「オス化」しているのか

    女性の「オス化」現象がまたも話題になっている。働く女性の中からも自覚のある人も少なくないようだ。今に始まったことではないのか、それとも気のせいなのか…。女性は本当に「オス化」しているの?

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    ヒゲ、ずぼら、ガサツ…66%の女性がオス化「自覚あり」

     働き過ぎの女はヒゲが生える!? 言動がガサツになったのは女性ホルモンが減ったから!? 荒唐無稽に聞こえる「女性のオス化」現象がネットなどで取り沙汰されている。産経新聞女子特区の調査でも、30、40代の働き盛りを中心に「オス化」を自覚する女性が6割を超えた。男女雇用機会均等法施行から約30年。勝ち取った社会進出とともに男性並みの激務やストレス解消の深酒も当たり前となり、生物として女であり続けることへの不安感が女心に影を落とす。平成の新語「オス化」。それって本当?66%が「自覚あり」 アンケートに協力してくれた職業や勤務形態の異なる20~60代の女性65人のうち66%が「オス化している」と回答している。 「バリバリ働いているとき、あごにヒゲが生えてきた」と答えるのは福島県郡山市のスポーツジムインストラクター(38)だ。オス化する女子って? 整理されていない机で仕事をする女性(写真はイメージ、長尾みなみ撮影)  同じく「ヒゲが生えてきた」と答えるのは新聞社勤務独身女性(32)。深夜勤務、休みも不定期。「もともと性格は男っぽかったが25を過ぎてからオス化が進んだ」と言う。 「掃除が雑になった。最近は半年に1回化粧すればいいほう」と、ズボラになったことを自身のオス化現象とするのは神奈川県小田原市の会社役員(31)。 大阪市の独身会社役員(49)は「家事を担ってくれる人がほしい」と言い、東京都葛飾区の会社員(33)も「デートより仕事を優先させてしまう」と回答した。 「女性が荷物を持っていると、私力持ちだから持ちますと言ってしまう」=東京都港区の秘書(36)。「プライベートで男性からおごるよと言われても、私も稼いでるし!対等だし!と割り勘に。逆におごることも多くなった」という会社員(29)も。 男女平等教育の成果なのか自立心なのか、「女性=弱い、守るべきもの」という図式はあてはまらない。 一方、子供を持つ主婦は「オス化していない」という回答が多かった。妊娠出産子育ては「女」の最たるもの。「オス化」を意識しない傾向にあるようだ。 「子育てに適した洋服を選んでいるだけ」と話すのは、結婚を機に仕事を辞め2歳の息子の子育てに没頭する静岡市の主婦(34)だ。出産前はおしゃれが大好きだったが今はデニムパンツにTシャツで過ごすことがほとんどという。 オス化していると言う主婦もいる。夫、子1人の東京都墨田区の会計事務所勤務(32)は「子育てより稼ぎたいという母性本能を欠く考えが生まれた」と答えた。女性の起業を支援する「起業準備セミナー」に参加した横浜市の主婦(38)は「低成長時代、夫に頼っていられない。自分が稼ぎ手になって家族を支えていこうと思うところは男性的だ」と話す。増えるメス化男子 オス化の背景として多かったのが「女性の社会進出」「男性の草食化」だ。 周囲のメス化男子を挙げてもらうと、「女性よりも飲まない、食べない」から「化粧水を洗顔後3分以内につけ、携帯を鏡にして自分の顔をチェックしている」「二日酔いで(隠すために)ファンデーションをしている」といった“女子力男子”が散見。「1人で飲み会の集合場所にも行けない」「すぐに群れ、“女の子”のようにじゃれる」「リスクをとらない」「でも、だってを連発する」…。観察眼が光る。裏返しのおしゃれ 誰もが認める「きれいなお姉さん」の東京都町田市の会社員(28)は仕事に忙殺されているときほど女性らしい洋服を着て、美容に気をつける。 「ホルモンバランスの乱れが身体の不調につながると思うから。自分のための女性らしい言動、行動です」 オス化していると自覚しているからこそ、それを避けるために女子力を高める。 既婚子持ちの相模原市のパート職員(46)は、服や赤いリップグロスなどおしゃれに気を使う。こちらも表面的には女性だが、「夫以外の男性に恋愛対象を求めるアグレッシブ(積極的)さはオス化かもしれない」と過激なコメントが飛び出した。 「収入があればどちらが家計の大黒柱でも問題ない」という京都市の大学職員(42)のように、「オス化」を自認し収入がある場合は大黒柱になるのはいとわないだろうと思いきや、約6割のオス化女性が「大黒柱はやはり男であってほしい」と答えた。妊娠・出産が理由の一つだが従来の固定観念から割り切れない思いも見える。 佐賀市の団体職員(63)は性別上の役割の垣根が無くなりつつあるとしたうえで「オス化もメス化も、個人がありのままの姿でいられるようになったからでは」と話した。

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    女子たちよ、「オス化」を恐れるなかれ

    「男スイッチ」の正体 働く女性の「オス化」なる現象が(再び)話題になっているらしい。女性が“男並みに”夜中まで働き、朝まで飲み明かすなどしているうちに、「なんとなく男前になる」、「行動がガサツになる」はたまた「ヒゲが生えてきたり、体毛が濃くなったりする」など、生物学的には女であるはずなのに、男性ホルモンが分泌されたかのような現象が起きること、イコール「女性のオス化」という説明をよく見かける。この「女性のオス化」、なにも今になって始まったことではない。大ヒット漫画『働きマン』は2007年に菅野美穂主演でドラマ化された 2004年から2008年にかけ、講談社のモーニングで連載されていた大ヒット漫画、『働きマン』(安野モヨコ、休載中)では、主人公で、週刊誌の記者としてがむしゃらに働く松方弘子(28歳女性)が、「仕事モードオン、男スイッチ入ります!」と叫ぶ場面が話題になった。このセリフは、弘子が仕事において重要な場面に出くわした際や、重大な事案に取り組む際に発せられる。そういう時、弘子は生身の女でありながら、「男スイッチ」を入れて「男になる」。今風に言えば、弘子は瞬時に「オス化」しているとも捉えられる。「女」のままでいたら、無我夢中で働くことなんてできない。だから、あえて「男スイッチ」を入れる。この場合の「男」とは、生身の男とはまた違う、観念的な存在だ。リスクも顧みず、全力で働く「ふるまい方」のようなものである。 一方で彼女は、「怒るもんか……くそ!! 酒が飲みたい」というセリフ(第1巻)にあるように、理不尽な出来事にあった際、世の男性と同じように(?)、深酒でストレスを紛らわせる。仕事は大変だし、疲れる。プライベートの時間はなく、女の記者は特に、差別やセクハラに遭いやすい。そういう環境を逆手に取って、「女」を売りにして仕事を取るような行為は、絶対にしたくない。弘子は「私にしかできない仕事がある」という、ある種のやりがいとプライドに支えられて働いている。そんな彼女の「男スイッチ」は、女が厳しい労働環境下で働き続けるためのプライドを維持し、気分を上げるキーワードだった。源流は70年代の「飛んでる女」? 女性は元々、社会の変化を受けやすい存在だ。「勤め人」以外の選択肢があまりない男性と比べ、女性たちはめまぐるしく変わる社会情勢とともに、生き方のバリエーションをどんどん多様化させてきた。よって、女性は男性よりも、そのライフスタイルが「カテゴライズ化(類型化)」されやすい存在である。 70年代には、自由な生き方を模索する「飛んでる女」が注目された。バブル期にはマガジンハウス創刊の雑誌『Hanako』が、「キャリアとケッコンだけじゃ、いや」とぶちあげ、都市部在住で可処分所得が高く、流行に敏感な女たちが、仕事で稼いだお金で海外旅行やブランド品の消費を楽しんだ。「消費社会×女」の新たな生き方が話題になる一方、彼女たちの「結婚」は後回しになり、平均初婚年齢は上昇を続けた。 90年代になると、おじさんのように赤ちょうちんで飲み明かす「オヤジギャル」が流行した。そうかと思えば、優雅な専業主婦ライフを送る「シロガネーゼ」や「コマダム」も憧れの対象に。00年代には再び「働きマン」が一定の支持を集め、最近では「草食化」する男性に対して、異性に積極的な「肉食女子」、その対極の「干物女」や「こじらせ女子」なども現れた。仕事とファッション、恋愛など、人生すべてを楽しむ「キラキラ女子」や、細く長いキャリアを追求する「ゆるキャリ」女子など、現代の女性を表すキーワードは枚挙にいとまがない。というわけで、「バリバリ働く女性たち」の容姿や内面が「オス化」しているという類型化は、「何をいまさら」なのである。その源流は70年代の「飛んでる女」にもあったし、バブル期の「オヤジギャル」、00年代の「働きマン」にも、確実にあったのだから。「自分をカテゴライズしたい」という欲求 様々な類型化がなされてきた一方、女性には「自らをカテゴライズして安心したい」という心理もある。たとえば、「私は『こじらせ女子』です」と表明することで、女らしさから距離を取ることができ「ラクになった」という女性がいる。「バリキャリ系の女上司がいるけど、ああはなりたくない」という女性もいる。様々な「カテゴリー」に属する他人を見て、「私とは違う」と感じたり、「自分と似ているかも」と納得したりしながら、自らを特定のカテゴリーに当てはめて安心したい。女性たちの一部には、そんな気分もある。 もし、「オス化」を自認する女性がいるとすれば、「男女平等」とは名ばかりの厳しい労働環境下で疲れきっている「私」を、半ば自虐的に「『オス化』しちゃってるな~」と、認識しているのかもしれない。「オス」+「化」という言葉には、「生物学的には間違いなく私は女だけど、仕事のストレスやら何やらで、オスのようになっている」というニュアンスがある。その背景には、「今は『オス』みたいになっているけど、ちょっと意識すれば、『女』を取り戻すことは可能だ」という意識もある。 女らしさは仕事やストレスですり減ってしまうけれど、そんなもの、「女らしい」スカートやハイヒールを履いたり、綺麗なネイルアートを施したり、美容に気を使ったりすれば、すぐに取り戻せるもの。要は仕事上で他人に見せる「女らしさ」など、コスプレのようなものなのだ。だって「女らしさ」なんて、ちょっとした行動で「装う」ことができるものだから。「オス化」というキーワードには、現代の働く女性たちの、そんな「女らしさ観」が凝縮されている。女子たちよ、「オス化」を恐れるなかれ。

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    ステレオタイプを裏切る企画 次々生み出したい

     産経新聞の女子特区紙面は2年前に開設された。 平成25年6月7日付の第1回は「働く妻を伸す男たち」と題して、安倍内閣の2人の女性閣僚、稲田朋美さん(当時行政改革担当相)と森雅子さん(当時少子化・消費者担当相)の夫の支えぶりを特集した。 続いて、「女子力」の本質を見極めようと、男性の職場とされる佐川急便で働く「佐川女子」。「なでしこ防災」「婚活」、「働くおかあさんが輝くには…」「テレワーク」「家事ハラスメント」なども取り上げた。少しやわらかいテーマでは「カープ女子」「競馬女子」、「女子マネって?」。 自分が所属する部局を超えて記事、レイアウト、デザイン、写真、ほぼ女性で作りあげる。部局を超えて、ほぼ女性で紙面企画を作りあげる「産経女子特区」。目が離せない企画を次々に生み出そうと日々苦闘中だ(写真はイメージ) 新聞社が部局をこえてチームを編成し、大型の連載企画やキャンペーンを展開することは、必ずしも珍しいことではない。しかし女性というキーワードで部局を超えて、紙面を作る試みはほとんどなかったといってよいのではないだろうか。 ただし、「今さら女子?」という思いも当初はあった。募集、採用などに男女差をつけることを禁止した1999年の男女雇用機会均等改正法施行後の世代だからこそ、「女性」と性別に色分けされるのを意識的に避けてきたからだ。 産経新聞もまだ、女性の社員は少数派だが、それでも、男性の持ち場とされてきた、いわゆるサツ回りという事件担当を女性がすることは珍しくなくなっている。「女子」の定義 男性は32歳、女性は43歳 「女子」という言葉に対しては、「何歳までが女子と言えるのか?」という素朴な疑問もある。 サンケイリビング新聞が10~70代の男女300人の読者を対象に調査によると「女子」として、男性が許すのは32歳まで、女性は43歳までだった。男女で10歳以上も差が開く。 「おばさん」は平均47・5歳。ただし子供がいない女性は50代、60代でも「おばさん」と呼ばれるのは許せない傾向がある。  産経女子特区の担当者は20代~40代である。 自ら「女子」と呼ぶにはためらいがあるが、「女子会しよう!」と飲み会を企画するときの女子会には違和感はない。70歳すぎの我が母親も、友達との食事会を「女子会よ」などと、苦笑しつつも口にする。  とすると、女子特区の「女子」もよいではないか、という気になってくる。時代の変遷 5月15日に掲載した女性の「オス化」の企画では、女性を表す言葉の時代の変遷を紹介した。 子連れ出勤をめぐるアグネス論争、平成元年には裁判でセクシャルハラスメントが認められ、参院選には社会党女性候補が圧勝し、「オバタリアン、マドンナ旋風」が吹き荒れた。 片耳に赤鉛筆をはさみ、競馬新聞を読み、居酒屋で焼酎を頼み、くだをまく。いわゆる「オヤジギャル」が登場し、このときは、女性の側からも「はしたない」と批判の嵐がおこった。 未婚、子なしは「負け犬」と定義してみせたエッセー「負け犬の遠吠え」(酒井順子著)。仕事に生きるがんばり女性を描いた漫画から「働きマン」、一方で、恋愛に意欲をみせない「草食男子」。その正反対の恋愛に積極的な「肉食女子」…。 最近は、女性よりもこまめに肌の手入れをして脱毛もするといった男性も登場し、「女子力男子」と呼ばれている。ただし、外見は女性的だが、「ロールキャベツ」の場合もある。女性にもてるため外見に気を遣っているが、見た目とは裏腹に心はオオカミという場合もあるからだ。女性は歓迎されている?されていない? 「嫉妬(しっと)」「妬(ねた)む」「姦(かしま)しい」など、女がつく漢字の形容詞は、ネガティブなものがほとんど。出世を目指す社会では、男性の嫉妬は女性の比ではないだろうし、これらの形容詞も女性の専売特許ではないのにどうしてなのか。これまで疑問に思ってきたことだ。 アベノミクスでは女性の力を活用するという。だが、女性の幹部登用の数値目標を設定することには「女性だけ特別扱いでずるい」「不公平、不平等」と感じている男性も少なからずいる。一方、少子高齢化による人口減少だから女性を労働力として期待するというのも、今のままの状況ではムシがよいように思う。女性だからといって特別扱いされることも、かといって性別を無視されるのも、どちらも釈然としない。 コラムニストの深澤真紀さんからは「女子特区」について、「産経と女子って、最もかけ離れた一番おさまりが悪い言葉の組み合わせだと思っていたけど、産経にもこういう流れがあると知って心強いですね」という言葉をいただいた。 その励ましに恥じないよう、少々とんがっていても、目が離せない企画紙面を次々に生み出していきたい。(産経新聞女子特区担当 杉浦美香)

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    「草食男子」提唱者の深澤真紀、オス化は「気のせいでしょう」

     「女性のオス化」が話題になるのはどうしてなのか。そもそも「女性のオス化」現象は本当にあるのか。コラムニストで「草食男子」の名付け親でもある深澤真紀さん(48)は「気のせいでしょう」「言葉遊びの一つぐらいに受け止めたら」と語る。でも、どうして気になってしまうのか。深澤さんにもう少し詳しく背景をうかがった。◇ 「女性のオス化」に根拠はなく、「気のせい」のようなものでしょう。ヒゲだって昔から小6くらいの第二次性徴期の女の子でも、濃いうぶ毛が生えていたし(今は母親が剃ってくれることも多いようですが)、肌が脂ぎるのも日本の熱帯化のせいでしょうし。女性の美容意識が上がり過ぎた結果、細かい所まで気付くようになっただけ。今、女性のメイクでは「毛穴を消す」ことが人気ですが、毛とか汗とか、美容上ジャマなもの、人間らしいところがオスっぽく見えてきてしまっているのでしょう。 過労やストレスによるホルモンの乱れで生理が止まったとかは健康上の別問題。「オス化」って、女性誌などのメディアがいい始めた脅迫のようなものですよ。 日本の女性誌はよく作られているぶん、多くの女性の生き方に影響力を持つようになりました。そして、女性誌を作っている女性編集者やライター自身が過労死しそうなほど働いているから、働き過ぎとか深酒とか、自分のどこかにストップをかけないと「このままだとヒゲが生える」みたいな危機感がある。そんな“あるあるネタ”や“自分ツッコミ”の最たるものが「オス化」。読者もNGワードに自罰的に反応して自分を律しようとしているんです。 同じ男性化を示す言葉でも、日本の女には自分で自分のことを「ハンサムウーマン」っていうようなずうずうしさはない。(米大統領選の出馬を決めた)ヒラリー・クリントンさんだったら、自分のことをそう思っているかもしれませんが(笑)。 この30年、女性の社会進出とともに女性誌は発展した。アジア唯一の先進国で女のロールモデルがないところに自分たちの手本を作ろうと頑張って、海外にない独自の女性誌文化を作り上げた。女が女を鼓舞するために作ったメディア、いわば自主憲法が、今は自家中毒を起こしているようだ。 女性誌の黎明期である1980年代には、野心的なマドンナや林真理子さんが登場し、「女の時代」といわれたが、当時の女性たちはまだ男の目線を気にしていた。メークも性的な象徴である唇で男を誘う、ルージュの時代だった。 それが2000年代は女同士の関係性が重要になる「女子の時代」になり、女ウケはいいけど、男ウケは悪いアイメークやネイルアートが流行、男から「そんなのかわいくないよ」などといわれようものなら、「はぁ? あんたたちにウケようなんて思ってないよ」と言い返すくらいです。 「美魔女」なんて、女の“女装”であり、マニア化の極地で、女という趣味であり娯楽なのです。 でも、女性は仕事も家事も育児も忙しい。そのうえで女という趣味を表現するためには、見えない所で手を抜かざるをえない。それはズボラ化です。女のなかにあるマニアとズボラのバランスがちょっとおかしくなったと感じたときに、「ハッ、私オス化してるかも」という反省が起きるのでしょう。でもそんな反省はしなくてもいいのです。 一方で男性のメス化が進んでいる? いいことですよ。本当は昔の方がよっぽど男は女々しかった。団塊やバブル世代の男は、男というだけで下駄を履かされていただけ。下駄がなくなった今は、逆にいうと男女同じ目線でものが見えるようなったんです。能力も個性も男女差じゃなくて個体差だよって。だから、女より男らしくない男がいるのは当たり前。男性も解放されてきたという証でしょう。 今はまだ過渡期です。たとえば職場で女として見られるのは不快なんだけど、一方で女として扱われなくてもなんとなく不満に思ってしまう。仕事なんだから、女扱いなんかされないほうがいいと思い切ってしまえばいいのです。 性別によって役割を押しつけられたり、役割を制限されていた時代が続いていたわけですが、やっといろいろな生き方が多様化してきたのです。「オス化」は言葉遊びのひとつとして、面白がるくらいでちょうどいい。ふかざわ・まき 東京都生まれ。早稲田大学卒業後、出版社勤務を経て独立。平成18年に「草食男子」「肉食女子」を命名。3年後に「草食男子」が流行語大賞トップテンを受賞した。著書に『日本の女は、100年たっても面白い。』など。コラムニスト、淑徳大学客員教授。

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    初の「同性パートナー条例」 国内での議論の行方は

    に「バベルの謎-ヤハウィストの冒険」「からごころ-日本精神の逆説」など。関連記事■ 女性専用車両は男性差別か?■ 櫻井よしこの視点  目配り欠く安倍政権の女性政策■ 女性も「育児より働け」法案に異議あり

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    寛容と偏見、同性婚を問う

    同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、証明書を発行する全国初の条例が今年4月、東京都渋谷区で施行された。性的マイノリティーの権利を保障する動きは世界に広がっているが、家族制度をめぐる議論にも直結するだけに慎重な意見が根強い。寛容か偏見か。同性婚について考えたい。

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    保守はなぜ同性愛に不寛容なのか~渋谷パートナー条例をめぐる怪

    古谷経衡(著述家)LGBTを嫌悪する保守派 渋谷区でのパートナーシップ条例が同区議会に提出されるやいなや、いわゆる保守界隈や、右派から、この条例が猛烈な抗議の対象となっていることは、知っている方も多いと思う。 この条例には、「結婚に相当する関係」を同性カップルに対し証明する証明書の発行が可能となる条項が含まれているのだが、このことに対し、保守派からの猛烈な抗議の声はとどまることを知らない。東京都渋谷区の「同性パートナーシップ条例」の制定をめぐっては、反対派がデモ行進で条例成立阻止を叫ぶ場面もみられた=3月、東京都渋谷区役所周辺 3月10日には、右派系市民団体である「頑張れ日本!全国行動委員会」(以下、同委員会)が、JR渋谷駅前の広場で”渋谷区「同性パートナーシップ条例」絶対反対緊急行動”と題して、大々的な反対の抗議街宣を行い、話題となった。同会は、右派系のCS放送局である「日本文化チャンネル桜」(スカパー528ch)と密接に関連する政治団体である。 同委員会は、2014年2月に投開票された東京都知事選挙で、元航空幕僚長の田母神俊雄氏を擁立した最大の支持母体として知られ、いわゆる保守・右派界隈では、大きな行動力を持つ行動組織として認知されている。同委員会が、保守、右派の全てを代表しているとは言わないものの、保守、右派界隈全般の空気感を如実に代弁する存在であることは確かだ。 同性愛、同性婚をめぐる問題は、日本においては一貫して保守派、右派が「我が国の伝統的な家族観を破壊する」と称して、反対の立場を鮮明にしている場合が圧倒的である。 同委員会が3月10日に行った渋谷駅前での抗議活動について、同会の幹事長らは、スカパーの番組内で次のような趣旨で、重ねて渋谷区のパートナーシップ条例への激烈な反対の意見を鮮明にした。 ・「(この渋谷区のパートナーシップ条例は)ジェンダ―フリーの流れで、左翼の人たちがやっている」 ・「日本の伝統的な家族観が破壊されていく」 この見解はおおよそ、忠実に保守派、右派の同性愛・同性婚への嫌悪の感情をトレースしたものであると言って良い。これに先立つこと約2年前の2013年12月7日、当時の石原慎太郎知東京都自治は「(同性愛者は)どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」と発言して、大きな問題になった。 言わずもがなその後、石原氏は都知事を辞職して「太陽の党」を立ち上げ、橋下徹氏率いる維新の会に合流。その後、「次世代の党」として分離した同氏は、保守系論壇誌などに精力的に登場し、保守派、右派の中心的論客として知られるキーマンである。このことからも分かるように、保守、右派全般が同性愛やLGBTに嫌悪や偏見のニュアンスを少なからず抱いていることは、疑いようもない。 渋谷区のパートナーシップ条例が話題に上がってから、多くの保守系活動家や言論人が、「感情的」と形容するのにふさわしいほどに、この渋谷区のパートナーシップ条例に対し、反対の声、ないしは嫌悪の感情を表明していることは疑いようがない。「伝統」と相容れない保守派の同性愛、LGBT嫌悪 私個人としては、渋谷区のパートナーシップ条例は、自治体の条例のレベルなのだから手放しで大絶賛するほどのことではないにせよ、別段、問題だとは思わない。制定するなら、私は微温的に支持しようと考えている(私は残念ながら区民ではないが)。同性愛、LGBTの人々が、絶対数は少ないにせよ、異性結婚と同等の権利を欲するのは、別段不自然なことではない。同性が同性を好きになり、事実上の家族関係を有することに、なにか大きな社会的弊害が発生するとは到底思えない。 そんな私は、前述した「日本の伝統的な家族観が破壊されていく」という保守派による、この条例へのトリッキーな反対の姿勢が、よく理解できないでいた。「日本の伝統的な家族観が破壊されていく」という理屈は、「同性愛やLGBTは、日本の伝統的な家族観とは相容れない」と言っていることに等しい。 が、言わずもがな織田信長と森乱(森蘭丸)&前田利家や武田信玄&高坂昌信など、ややもすればBL(ボーイズラブ)のネタにされそうな、(余りにも有名な)日本の中世期における同性愛関係をなんとするのだろうか。或いは、江戸幕府三代将軍の徳川家光の性癖をなんと解釈するのか、など、日本の「伝統」を持ち出すのならば、現在の保守派や右派による同性愛やLGBTへの嫌悪や禁忌の情は、全くその「伝統」を踏まえない異質のものであると思う。「伝統」を殊更となえるのなら、「衆道」の伝統を踏まえないのは、嘘だろう。 だから、なぜ現在の保守派や右派がここまで激烈に同性愛やLGBTを嫌悪するのか、彼らのささやかな権利獲得に、ここまで苛烈に反駁するのはなぜなのか、それが、私を含め多くの人にとっては謎だと思うのである。保守派が同性愛を嫌悪する理由保守派が同性愛を嫌悪する理由 1)保守の高齢化が原因 保守派や右派がここえまで激烈に同性愛やLGBTを嫌悪する理由には、大きく別けて二つの理由がある、と私は考えている。一つは、大前提的に保守派、右派の高齢化がその要因である。YAHOOニュースの過去エントリーや、拙著『若者は本当に右傾化しているのか』に詳述しているとおり、現在の保守派や右派は高齢化が着実に進展している。 彼らの主要な支持層は、40代以上の中・高年であり、場合によってはボリュームゾーンは50代や60代以上である。これらの中・高年が世代的な風潮として、同性愛者やLGBTに対し、辛辣な姿勢を堅持しているのは、時代的な要請とはいえ、しかたのないことだろう。現在、60代の世代が青春時代を迎えた1960年代から1970年代の高度成長期は、まだまだ前近代的な差別と古い因習がこの国の中に残置されていたのは、言うまでもないからだ。 特に地方では、明治時代から続くような、旧い因習としきたりが支配的だった。このような世代の人々が、同性愛やLGBTを禁忌のもの、としてとらえ、「正常な恋愛の形ではない異常なもの」とみなすのは、世代的な要因が大であると思う。現在の保守派や右派の年齢的ボリュームゾーンを考えると、理屈としてそのような性的マイノリティーに対する差別的感情が根強いのは、得心が行くものといえよう。保守派が同性愛を嫌悪する理由 2)宗教右派からの照射 もう一つの理由だが、その前に今一度、上記の「ジェンダ―フリーの流れで、左翼の人たちがやっている」「日本の伝統的な家族観が破壊されていく」という、保守派・右派による反対理由を少し検証してみることにする。この考え方は、「ジェンダフリー(教育・政策)」に強い反対の立場を採る「日本会議」の思想的影響を強く受けていることは間違いはない。  「日本会議」は、保守系最大の行動団体として、旧軍遺族会やその他旧軍関係団体を始め、神社本庁や仏教系宗教団体など、おもに「宗教右派」とよばれる保守的な傾向を持つ宗教団体によって形成されている。さらにこの日本会議が、主に自民党のタカ派議員を支援したり、自民党のタカ派議員自らが会員となっている例は、公然の事実である。 また、保守系の論客や文化人などの講演会などを頻繁に行うなど、保守業界のありとあらゆるところに「日本会議」は入り込んでいる。「日本会議」が、保守や保守運動に有形無形の形で絶大な影響力を与えていることは、紛れも無い事実だ。 勿論、現在、渋谷区のパートナーシップ条例に反対の立場を採る人や団体の全てが、「日本会議」と直接の人的・物的なつながりがあるわけではない。が、保守、保守運動団体の背後に、隠然たる影響力を行使し続ける日本会議の思想的源流をたどることで、保守がなぜ同性愛に不寛容なのか、その答えが見えてくるのだ。保守派が同性愛を嫌悪する理由 3)戦後新宗教と同性愛 特に、「日本会議」の中枢をなすのは、神道系の「神社本庁」の他に、「霊友会」、「念法眞教」、「新生佛教教団」、「佛所護念会」、「生長の家」など、大なり小なり仏教を源流とする仏教系新宗教団体である。「日本会議」における仏教系宗教団体の力は、非常に大きいものがあるのは、誰しも認める所だ。 しかし本来、仏教の教えは「同性愛には至極寛容」であることを根本とする。事実、敬虔な仏教国であるタイ王国は、同性愛者に寛容な気風であることは、広く知られている。仏教の開祖ブッダは、出家する前まで、インドの地方豪族の皇子として自由奔放な生活を行ってきた。「伝統的な家族観」をそもそもブッダ自身が体現していないのだが、なぜかことさら、日本の仏教系新宗教を主力としてから構成される「日本会議」は、仏教本来の教えを部分的にせよ照射されているはずなのに、この仏教の「伝統」を否定しているようにも思える。 ともあれ、この仏教を源流とするこれら仏教系の「宗教右派」の支持の上に成り立っている日本会議は、「伝統的家族観」を最重要視し、従前から「夫婦別姓反対」「ジェンダーフリー反対」、の立場を堅持してきた。つまり、現在、保守派や右派が渋谷区のパートナーシップ条例に反対するロジックとして使用している、前述の「ジェンダフリーの流れで…」の基本的な反対の構造は、正しくこの「日本会議」の一貫した姿勢を忠実にトレースしたものと同じものなのである。保守派が同性愛を嫌悪する理由 4)儒教と保守 なぜ、本来仏教系団体を基礎とする「日本会議」が、ジェンダーフリーや、ひいては同性愛に不寛容なのか。 これについて私は、宗教問題に詳しく、仏教関係で数多くの著作がある著述家の星飛雄馬氏に詳しい話を伺った。星氏によれば、 1.そもそも日本の仏教は、元来のインド仏教の理念以外に、その伝播の過程で朝鮮半島や大陸から来た儒教の影響を強く受けている 2.そのため、元々インド仏教にあった「輪廻」(生まれ変わり)の思想になじみのない日本では、儒教などに由来する祖霊崇拝の傾向が強く、家父長制度を基礎とした長男継嗣の「墓守り」の思想がある 3.それゆえ、現在でも地方などでは仮に家督を継ぐべき長男がゲイだとすると、「誰が先祖の墓を守るのか!」と問題視されるような話もあるという 4.つまり、日本の仏教系の新宗教では、儒教の家父長思想の影響を色濃く受けているがゆえに、本来の仏教の教えとは外れた、同性愛への蔑視や禁忌の発想が生まれるのではないか ということなのである。なるほど、日本のみならず、朝鮮半島や中国など、いわゆる「儒教文化圏」では、同性愛に対する社会的差別が温存されているのは、このせいかと納得した。 こうした日本における宗教勢力、とくに保守や保守運動に隠然たる影響を与えてきた「宗教右派」としての「日本会議」が、仏教と儒教の混交体として、家父長制の思想を元にした、同性愛に対して辛辣な思想的源流が、有形無形の形となって保守と保守運動に照射されているのが、現在の状況を読み解く上でのカギとなるのは間違いはない。 繰り返すように、上記で例示した保守運動組織や団体が、「日本会議」の傘下にあるといっているのではなく、書類上は別個の存在であっても、「日本会議」に多くの保守系の政治家や文化人が集う現状を鑑み、この動きが一種、大きな保守界隈の潮流となって、無意識的にも、各人に強い影響を与えていることは間違いのない事実なのである。 ここで断っておくが、私はこのような、仏教徒儒教が混交した日本の仏教系新宗教のあり方や「日本会議」の構成要素を、「悪い」と言っているのではない。あくまでも、事実としてそのような傾向があると、指摘しているだけだ。宗教化する保守~アメリカ「福音派」と日本の保守宗教化する保守~アメリカ「福音派」と日本の保守 今回、渋谷区のパートナーシップ条例への保守派、右派の激烈な反対の姿勢は、ある意味、日本の戦後保守を考える上での分水嶺的事件になり得ると、私は考えている。 何故ならば、戦後における日本の保守は、一貫してして「反共保守」というイデオロギーの産物だった、ということだ。「反共保守」とは、読んで字のごとく反共産主義、つまりアンチ・ソ連だが、ソ連が崩壊して消滅した後、「反共保守」は敵を失い、漂流するに至った。 その過程で、つまり新しい敵を見つけるための運動が起こったのが、「ポスト・反共保守」以後の保守や右派界隈の動きである。その中から登場してきたのが、いわゆる「嫌中・嫌韓」のたぐいだった。 しかし、この度の渋谷区のパートナーシップ条例反対という動きは、これまでのイデオロギーに染め上げられ、イデオロギーの理屈で行動してきた保守・右派の中にあって、きわめて異質な、観念が優先する宗教色が強い姿勢であると言わなければならない。そこにあるのは、理屈抜きにして、宗教的で、観念的な感情である。 アメリカの「宗教保守」といえば、聖書原理主義者の「福音派」を指すことが多い。彼らは、「同性結婚」、ひいてはLGBTの問題に対し、激烈な反対の姿勢を示す原理主義者で、その大多数は、保守派である共和党の支持基盤になっている。科学的な理屈、政治的なイデオロギーよりも、宗教性が優先されるという、福音派にまま垣間見える性質が、いま、確実に日本の保守、右派の中に芽生えようとしている。 仏教と儒教の混交として生まれた日本の「宗教右派」と保守・右派の関係は、その両者を書類上は別個の存在としながらも、あきらかに同一する形で進んでいる。日本の右派も、アメリカの「福音派」のようなエッセンスが、いままさに一気呵成に注入されようとする、その契機を迎えていると私は感じている。 それが「良いことだ」とか「悪いことだ」とか言うつもりはない。ただし現状が、そうなっているの疑いが強いと、多くの人に知ってもらいたい、ただそれだけである。 願わくば性的マイノリティーの人々が、雑音に惑わされることなく、慎ましやかな生活を送れることができるよう、祈るよりほかない。(『Yahoo!ニュース個人』より転載)関連記事■ 沖縄基地問題で問われる「保守」のカタチ■ 「我が軍」と呼べば呼ぶほど憲法改正は遠ざかる(かも知れない)■ 木村草太が考える 日本国憲法とは何か?

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    「同性婚」支持者のどこが間違いか

    の思考について、ここでは読者とともに考えたい。 人間は誰でも「価値」を有する存在であり、民族、宗教、性差などの理由からその価値、人権が蹂躙されてはならない。これは「世界人権宣言」の中にも記述されている内容だ。 (「世界人権宣言」第2条「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」)ロンドンで行われた同性愛の男性のコーラスグループによるゲイ・プライド・パレード ところで、ジェンダー・フリーを主張する人々は男女の「性差」による区別を「差別」と指摘し糾弾する。例えば、欧州では同じ仕事をしているにもかかわらず男性の給料と女性のそれとに差がある時、女性側から男女平等の給料を要求する声が当然出てくる。この場合、「性差」の区別は「差別」だという主張に一理ある。  「差別」という用語は本来、社会学用語だ。「性差」の区別を「差別」と受け取るジェンダー・フリーの人々がその「差別」を撤回するために社会運動に乗り出すのは当然だろう。「差別」は社会によってもたらされた現象と考えるからだ。フランスの実存主義者シモーヌ・ボーヴォワールはその著書「第2の性」の中で「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」と書いているが、それに通じる考えだ。 もちろん、ジェンダー・フリーの人々も「性差」が生物的に選択の余地なく、否定できないという認識はあるが、その「性差」による社会的区別は「差別」であり、「悪」と受け取るから、独裁下の弾圧に反対するように、その撤廃のために様々な社会運動を行う。 問題は次だ。「性差」の区別からもたらされた「差別」を撤回しようと腐心するあまり、「性差」と「差別」が引っ付き、「性差」まで「悪」のように考えてしまう傾向が見られることだ。「性差」も「差別」と考えれば、それを撤回しなければならない。その思考の延長線上に同性婚容認の動きが出てくる。 「性差」は「差別」ではない。「性差」は生物学的に厳に存在する事実だ。「世界人権宣言」を想起するまでもなく、「性差」に関係なく、男も女も人間としての価値は等しい。「性差」には価値の「差別」はない。あるとすれば、「性差」による社会的、経済的、生物的な「位置」の違いだろう。そして、位置の違いは「差別」ではないのだ。 ジェンダー・フリーを主張する人々が「価値」の平等だけではなく、「位置」の平等まで要求すれば、問題が生じてくる。なぜならば、全ての人が同じ位置を占めることはできないからだ。簡単な例を挙げてみる。体力の弱い女性に「位置」の平等を訴えて、強靭な体力を要する仕事を課せば、「性差」の撤回どころか、人権蹂躙で訴えられるだろう。一般的に考えてみる。会社で社長という位置に部長が「位置」の平等を訴えて反旗を翻せば、会社は経営できなくなるだろう。 「位置」の平等はその組織、そして人間の存続を脅かす。同性婚が世界の過半数を占めた場合、人類は果たして存続できるだろうか。「主体」が存在すれば、本来、必然的に「対象」が生まれてくる。そして「主体」と「対象」が円満な関係を構築できれば、両者は作用し、存続し、繁栄できる。その「主体」と「対象」の関係を、対立、搾取・差別の関係と考える思考の背後には、共産主義思想の残滓がある。 ジェンダー・フリーを主張する人々は、「価値」と「位置」を同列視し、後者に前者が享受している平等を付与すべきだと要求しているのではないか。繰り返すが、「価値」は等しいが、「位置」(位置が要求する役割)は必然的に異ならざるを得ないのだ。(ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より)関連記事■ 「天下の朝日」の新しい友達探し■ 女性専用車両は男性差別か?■ 日本人の「社会の心」はどこへ

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    同性婚と憲法改正

    な議論が進むことを願っています。(『Yahoo!ニュース個人』より転載)関連記事■ 女性専用車両は男性差別か?■ 櫻井よしこの視点  目配り欠く安倍政権の女性政策■ 女性も「育児より働け」法案に異議あり

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    同性カップルの証明書発行は渋谷区の憲法違反

    その周りを明るくする、そうアマテラスオオミカミ様のような存在なのです。 日教組は学校教育の中で男女の性差別をなくすために、男の子に対しても「さん」と呼ぶようにしました。「君」と「さん」と男女で呼び換えるのは男女差別に繋がるという理由からです。 では、どうして神様は男と女、オスとメスを作ったのでしょう。下等な動物には性の区別がないものがあります。 でも、人間は高等動物だと思うのは私だけでしょうか? 体も女性は赤ちゃんを産む機能を備え、子宮を護るために腹壁が発達し、外部の衝撃や刺激からお腹の赤ちゃんを護るようにできています。男性の身体の機能は筋肉は発達しますが、内臓を守る機能は女性に比べて乏しく、ちょっと強いストレスで下痢を起こす人がたくさんいます。しかし、男性は人のために命を捨てることも辞さない例が多くみられ、逆に女性は母体保護のために、なんとしても自分は生き延びるという本能が備わっているそうです。 体つきも全く違います。役割も違います。そして機能も違うのです。そしてそれぞれを役割を果たしながら家庭を持ち、子供を産み育て子々孫々まで繁栄をしようとするのです。これが動物としての人間の本能であり、だから家族といる時に人間は一番幸福感を感じるのです。 同性愛に生まれた着いたのは不幸なことかもしれません。でも、明るく生きている人もいるのです。周りが気を配り、人間としてのその努力を認めたうえで、普通に付き合っているのです。 ちょっと自分の周りを見渡してください。きっとそういう人に出会うはずです。  その人たちは決して自分は同性愛者だとは公言していないと思います。ひっそりとでもちゃんと人間としての幸福を追求しながら努力していきていると思います。それをわざわざ暴いてあいつはホモだからと差別する人間は人間としてクズだと言わざるを得ません。  逆に自分たちからわざわざホモカップルだと公言する必要も、それを公的に証明する必要もないでしょう。 渋谷区の区長はこれで引退するそうです。でも、産経新聞によるとその他にもたくさんの疑惑があります。私は産経の今後の記事に注目しています。そして渋谷区長がどのような人物なのかをきちんと確かめたいと思います。フェミニスト団体が男女共同参画法の次に日本弱体化計画の一環として仕組んでいるものだと思います。 法的弱者と呼んでいますが、日陰者は日陰者らしく過ごしてもらえば、私たちも惻隠の情を持って穏便に接します。それこそ、多様性の文化といえるのではないでしょうか。 この新しい流れを認めることが識者の役目という人もいますが、私は思いません。識者は識者らしく、常識をきちんともってことを判断する範を示すことが肝要かと思われます。 決して神の摂理つまり自然の摂理に逆らう人たちの大ぴらに求める権利を認めてあげることではないと思います。(井上政典ブログより転載)

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    明治神宮が「同性婚の聖地」になる日

    否定されているトンデモ学説に依拠したものだ。それによれば、「男らしさ」「女らしさ」という社会的文化的性差(ジェンダー)の意識が生物学的性差(セックス)を規定しているのだという。 男女共同参画社会基本法の原案を作成したとされる東京大学教授の大沢真理氏もその信奉者で、「セックスが基礎でその上にジェンダーがあるのではなくて、ジェンダーがまずあって、それがあいまいなセックスまで二分法で規定的な力を与えている、けれど本当はあなたのセックスはわかりません、ということ」としながら「女で妊娠したことがある人だったらメスだと言えるかもしれないけれども、私などは妊娠したことがないから、自分がメスだと言い切る自信はない」(『上野千鶴子対談集 ラディカルに語れば』平凡社、2001年)と言い放っていた。 このように男女に生物学的な違いもほとんどないとするならば、結婚を男女の組み合わせに限る必要はない。男と男、女と女の組み合わせだってあっていい。ジェンダーフリーは同性愛に基づく「結婚」をも認めるべきだという主張に行き着く。 東京都渋谷区が3月区議会に提案した「男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例(案)」は、同性愛に基づくカップルを「結婚に相当する関係」と位置づけ、区民や事業者にも同性愛者を含む「性的少数者」に対するあらゆる「差別」を禁止するものだが、これはジェンダーフリーの進化形と言っていい。ジェンダーフリーという発想に本来的に織り込み済みのものに他ならず、その破壊的な要素が遂に顕になったということなのだ。 この広義のジェンダーフリー条例は当然のことながら我が国の家族観、結婚観を大きく揺るがす内容を有している。本稿の締め切り時点では条例案の行末は不透明だが、渋谷区に追随する動きをみせている自治体もある。ここではこの条例の持つ問題点を明らかにし、条例の制定に慎重もしくは反対の姿勢を示したい。論理の飛躍だ!条例案の提案理由 この条例案の内容が一般に伝えられたのは今年2月中旬のことだったが、その際、報道では、渋谷区が「同性カップルを『結婚に相当する関係』と認め、証明書を発行する条例案を盛り込んだ2015年度予算案を発表した」とし、条例が必要とされる理由について「同性カップルがアパートの入居や病院での面会を、家族ではないとして断られるケースを問題視し、区民や事業者に、証明書を持つ同性カップルを夫婦と同等に扱うよう求める方針だ」としている(共同通信2月12日配信)。 同区が報道機関に発表したものをベースにした記事であろうが、ここで先ず問題にしたいのは、個別の具体的問題と一般原則が混同されているということだ。世の中には同性愛者が一定程度存在し、同性カップルも存在する。その人たちの人権への配慮は必要だ。アパートへの入居や病院での面会を、家族でないとして断られるケースがあるとするならば、その不利益は救済されるべきである。ただそれは、そのレベルで救済すればよく、入居や面会を家族以外に広げるような個別の施策を実施すれば済む話であり、何も同性カップルを「結婚に相当する関係」と認める、すなわち後述するような憲法や民法にも抵触し、国民の家族観、結婚観を揺るがすような大きな話にする必要はない。 その前に、現在、アパートへの入居や病院での面会を家族でないとして断るケースがそれほどあるのか疑問だ。「アパート」という言い方も一昔前のものであるが、若者の間では他人が部屋を分けて同居する「シェアハウス」が流行している。結婚前の男女が同棲するケースも珍しくない。病院での面会も独居や身寄りのない老人が増える中、家族に限定しているところは多くないはずだ。どこか作り話の臭いがする。 繰り返すが、仮にそのようなケースがあるとしても、何も一般原則を変更しなくても解決できる問題なのである。ここに論理の飛躍がある。夫婦別姓もそうだが、小さなところで解決できる問題を大きな問題に仕立て上げ、社会の原則自体を大きく変えようとするのは、このジェンダーフリー、同性婚推進を含む左翼運動の常套手段だ。「結婚は男女による」ことを含意した憲法24条に抵触「結婚は男女による」ことを含意した憲法24条に抵触 この条例案が問題である理由を三つ述べたい。第一は、条例案は憲法に抵触する可能性が高いということだ。憲法第24条は、第1項で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とし、第2項で家族法制は「両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と規定している。明らかに婚姻=結婚は「両性」すなわち男女によるものと想定し、同性婚は排除している。民法もその前提に立っている。同性パートナー条例成立を受け、会見する東京都渋谷区の桑原敏武区長=3月31日、渋谷区役所 学界の一部には「24条は婚姻をかつての『家制度』から解放することが主眼で同性婚を排除していない」との見解もあるが、多数説を形成していない。一般的には「婚姻とは『子どもを産み・育てる』ためのものだという観念がある」ので、「民法は、婚姻の当事者は性別を異にすることを前提にしている。同性では子どもが生まれないので、同性カップルの共同生活は婚姻とはいえないということだろう。民法典の起草者は書くまでもない当然のことを考えていたので、明文の規定は置かれていない。(中略)少なくとも現段階では、同性婚を認めたり、性転換者の婚姻を認めることは困難だと思うが、同性カップルに対して契約的な保護を拒む必要はないだろう」(大村敦士『家族法〔第3版〕』有斐閣、2010年、大村氏は東京大学法学部教授)とする見解が支配的だ。 渋谷区は「いや、法律上の婚姻とは区別している。あくまで『結婚に相当する関係』だ」と反論するかも知れないが、「相当する」とは、それそのものではないけれども、限りなくそれに近いものをいう。少なくとも実態としては法律上の結婚に準ずるものとして取り扱われる。憲法24条に抵触する可能性は高い。「条例は法律の範囲内」とする憲法94条にも抵触 条例案はまた、憲法94条に抵触する。94条は条例の制定は「法律の範囲内」とする。地方自治権は国の行政権の一部が委譲されたものと考えるからだが、条例案は、国のレベルで認められていない制度を渋谷区という自治体レベルで実現しようとしている。明らかに94条に違反する越権行為だ。 ここで想起されるのは、自治基本条例や民主党政権で唱えられた「地域主権」だ。その発想の背景には、基礎自治体が国に先んじて存在するとする倒錯した理論がある。政治学者・松下圭一氏が提唱し、自治労関係者が広めているが、これも内閣法制局や裁判所も認めない異端の学説でしかない。何より、こんな国民全体の家族観や結婚観を揺るがすような内容の条例を一自治体のレベルで制定しようというのは常軌を逸している。ことは自治体レベルの問題ではない。広く国民で議論を尽くし、国会でも議論して、その上で実施の賛否を決定する大きな問題だ。条例案は二重の意味で憲法に抵触している。不透明な制定手続き 第二は、条例制定の手法が民主的ではないということだ。後にも述べるように、この条例案は、同性愛者だけが関係するのではない。渋谷区に在住する者や同区に事業所を置く事業者全てを対象にしている。区民や事業者の価値観や利益に関わる大きな政策の変更であるにもかかわらず、条例案の公開も不十分で区役所のホームページにさえ公開されていない。区民の声を聴くパブリック・コメント等も行われず、ほとんどの区民は条例案の内容すら知ることができていない状態だ。2月中旬にいきなり公表され、内容も報道レベルでしか知らされない。議会に内容が示されたのも直近になってのことだ。3月議会で成立、4月1日施行を目指すという拙速な手法は「ゲリラ的」とも言うべきだ。 条例制定の前段階として渋谷区では「『(仮称)渋谷区多様性社会推進条例』制定検討会」(委員長・海老原暁子元立教女学院短期大学教授)を設置し、昨年7月から今年1月まで9回の会議を開いている。議事録は公開されていないが、議事要旨は一部墨塗りで公開された。会議では推進派の区議会議員や性的少数者、推進派の民法学者などの意見を聴いている。異論が唱えられた形跡はない。イケイケどんどんで、ブレーキを踏む者は不在のようだ。 気になるは「事務局アドバイザー」に諸橋泰樹氏の名前があることだ。諸橋氏はフェリス女学院大学教授で専門はジェンダー研究、各地の自治体で男女共同参画関係の役職に就いており、渋谷区でも男女共同参画アドバイザーを務めている。事務局に推進派の確信犯を置いて司令塔とし、密室で議論し、ゲリラ的に条例の制定を目指している。始めに結論ありきで、議論を尽くそうという姿勢は窺えない。法が保護する家族制度を破壊する毒法が保護する家族制度を破壊する毒 第三は、条例案の中身についてだ。内容そのものにも問題は多い。「同性愛カップルが被る不利益の解消」という表面上の趣旨を越えて、日本の家族制度、婚姻制度(法律婚)の形骸化を目指し、思想・信条の自由、信教の自由、表現の自由、経済活動の自由までも侵害するかのような内容になっている。結果として、区民・事業者の不利益を招く可能性すらあるということだ。具体的に条例案を紹介しつつ問題点を指摘していこう。 第2条(定義)の6に「性的指向 人の恋愛や性愛がどういう対象に向かうかを示す指向(異性に向かう異性愛、同性に向かう同性愛及び男女両方に向かう両性愛並びにいかなる他者も恋愛や性愛の対象としない無性愛)をいう」という部分がある。8には「パートナーシップ 男女の婚姻関係と異ならない程度の実質を備える戸籍上の性別が同一である二者間の社会生活関係をいう」という部分がある。 ここでは、異性愛、同性愛、両性愛、無性愛をすべて同列に並べている。前述のように憲法や民法では、次世代を生み出す男女の法律婚を特別に重視、保護していることは明らかだ。上位法である憲法、民法の法律婚尊重の原則に反する条文だ。また、生物学的にも同性同士が「男女の婚姻関係と異ならない程度の実質」を備えることは不可能であり、法令の条文として不適当だ。「人権の暴走」―偏った教育や外部団体介入を招かないか 第4条(性的少数者の人権の尊重)の3に「学校教育、生涯学習その他の教育の場において、性的少数者に対する理解を深め、当事者に対する具体的な対応を行うなどの取組がされること」とある。ここでいう「性的少数者」とは「同性愛者、両性愛者及び無性愛者である者並びに性同一性障害を含め性別違和がある者」(第2条)とのことだが、特に性同一性障害を持つ子供がいじめの対象になっていることはかねて指摘されており、文部科学省もその対応策を検討し始めたところだ。しかし、渋谷区の動きは国の動きに先行しようとしている。独自の副読本などが作成され、区内の小中学校などで使用される可能性が高い。かつての過激な性教育のように、男女の法律上の結婚の意義などを無視し、多様な性愛を全て同等に扱う偏った内容になることは十分考えられる。自治体が暴走しないよう、文部科学省も性的少数者の人権に配慮した教育はどうあるべきかについてのガイドラインを作成する必要があるのではないか。 第5条(区及び公共的団体等の責務)の2として「区は、男女平等と多様性を尊重する社会を推進するに当たり、区民、事業者、国及び他の地方公共団体その他関係団体と協働するものとする」との規定がある。問題は、「関係団体と協働するものとする」との義務規定の下で「性的少数者の人権を尊重する」との名目で各種人権団体が区の行政に介入する虞れがあるということだ。かつて広島県の一般行政・教育行政が一部の同和団体のコントロール下に置かれた時、その根拠になったのは、差別事件の解決に当たっては「関係団体と連携する」とした合意文書だった。「協働」の名の下に外部団体が介入し、区が主体性を失うことにならないのか検討を要する。思想・信条・表現・経済活動の自由を侵害しないか 第6条(区民の責務)の2として「区民は、区が実施する男女平等と多様性を尊重する社会を推進する施策に協力するよう努めるものとする」との規定もある。これにより、必ずしも国民的合意が得られていない価値観とそれに伴う施策を区民が強制される可能性があるということだ。例えば、先の学校教育の問題とあいまって、親が伝統的な家族観を持っていた場合に、その価値観から見て偏っていると感じた学校教育に不満を述べると「区の施策に非協力的」と見なされることになる。渋谷区長選で当選し、拳を突き上げて喜ぶ長谷部健氏(左)=4月26日 次は事業者の問題だ。第7条(事業者の責務)の2は、「事業者は、男女平等と多様性を尊重する社会を推進するため、採用、待遇、昇進、賃金等における就業条件の整備において、この条例の趣旨を遵守しなければならない」とし、3は、「事業者は、男女の別による、または性的少数者であることによる一切の差別を行ってはならない」と規定する。禁止事項だ。これにより、経済活動の自由を侵害する可能性は高い。どういう人材を雇用するかは憲法が保障する経済活動の自由の一環であることは最高裁判決でも示されているところだ(三菱樹脂事件判決、昭和48年12月12日)。ここでも条例案は憲法や法律に先んじた形になっている。「法的拘束力はない」と説明されているが、後述の15条で行政による勧告や、事業者名の公表など社会的制裁があり得ることが示されており、強制性があることは明らかだ。 「一切の差別を行ってはならない」とするが、区別も差別と見なされる可能性は高い。事業者とは、渋谷区内に何らかの事業所を置く企業等のことだ。本社を置く大きな会社もある。宗教団体や私立学校など、法人の性格や活動において男女の差異が重要な要素の一つとなる場合に不自由を強いられることも考えられる。例えば、渋谷区には全国の神社を統括する神社本庁や明治神宮がある。同性愛を禁じるカトリックの教会もある。宗教法人が母体となった私立の学校もある。これらも当然、対象となる。この条例が制定されれば、明治神宮でもカトリック教会でも同性愛カップルの結婚式を挙げなければならなくなる。拒否すれば「差別」ということになり、勧告や名前の公表など社会的制裁を受けることになる。私立の学校では同性愛を許容する教育をしなければ、「差別」とされることになる。 第8条には(禁止事項)として「何人も、区が実施する男女平等と多様性を尊重する社会を推進する施策を不当に妨げる行為をしてはならない」とし、2では「区、区民及び事業者は、性別による固定的な役割分担の意識を助長し、若しくはこれを是認させる行為又は性的少数者を差別する行為をしてはならない」と規定する。これにより、区が推進する政策に反対して「男らしさ」「女らしさ」や伝統的な家庭のあり方を教えるような講演会、啓蒙活動、言論活動なども禁じられる可能性がある。少なくとも渋谷区の公共施設での開催は難しくなるだろう。思想・信条の自由、言論の自由などを侵害する危険性の高い内容だ。 第11条(区が行うパートナーシップ証明)は問題とされる証明書に関する規定で「区民及び事業者は、その社会活動の中で、区が行うパートナーシップ証明を最大限配慮しなければならない」と規定する。この「パートナーシップ証明」を示されれば、不動産業者は部屋を必ず貸さなければならない。神社も教会も結婚式を拒否できない。 第14条は「男女平等と多様性を尊重する社会の推進について調査し、または審議するため、区長の付属機関として、渋谷区男女平等・多様性社会推進会議(以下「推進会議」という。)を置く」と規定する。構成、運営等は区規則で定めるとするが、推進会議は区民の意識形成や区長に意見を述べるなど区政に深く関わる立場だ。構成員の選定基準などが不透明なままでは大いに問題がある。第5条の規定と同様に一部の団体が行政に介入する道筋をつくる可能性が高い。甦る「人権擁護法」の悪夢甦る「人権擁護法」の悪夢 第15条(相談及び苦情への対応)は「区民及び事業者は、区長に対して、この条例及び区が実施する男女平等と多様性を尊重する社会を推進する施策に関して相談を行い、又は苦情の申し立てを行うことができる」とし、2は「区長は…(略)…必要に応じて調査を行うとともに、相談者、苦情の申し立て人又は相談若しくは苦情の相手方、相手方事業者等(以下この条において「関係者」という。)に対して適切な助言又は指導を行い、当該相談事項又は苦情の解決を支援するものとする」とし、3は「区長は、前項の指導を受けた関係者が当該指導に従わず、この条例の目的、趣旨に著しく反する行為を引き続き行っている場合は、推進会議の意見を聴いて、当該関係者に対して、当該行為の是正について勧告を行うことができる」とし、4は「区長は、関係者が前項の勧告に従わないときは、関係者名その他の事項を公表することができる」と規定する。 かつて、「人権擁護法(案)」や「人権侵害救済機関設置法(案)」と呼ばれる法律が制定されかけたことがあった。「人権の名のもとに組織される《人権委員会》によって、強権・恣意的に各種の権利や自由が抑圧されるのではないか」との反対が根強く、制定には至らなかったが、今回の渋谷区の条例は、その「人権擁護法案」の内容をも同時に実施しようということだ。「法的拘束力」はないと言いながら、区の施策に従わなければ、指導、勧告、さらには関係者名等を公表して社会的な制裁を加えるとしている。これは事実上の拘束力を持たせようということだ。更に、その過程に「推進会議」が関与するとなっており、会議の構成によっては、恣意的な勧告が行われる可能性も否定できない。 同種の条例は、世田谷区や横浜市でも制定への動きがある。繰り返すが、性的少数者の不利益を救済するにはこのような包括的な条例を制定する必要はない。個々の施策で救済すべきものだ。日本は伝統的に同性愛に寛容な文化を持つが、そのことと制度をどうするのかは次元が異なる話だ。性的少数者の人権には配慮しつつ、同時に次世代を産み育てる機能を有する男女の結婚を他の人的関係よりも制度として優遇する。二つのことは対立するものではない。関係者には拙速は避け、くれぐれも慎重な対応を望みたい。やぎ・ひでつぐ 昭和37(1962)年、広島県生まれ。早稲田大学法学部卒業。同大学院政治学研究科博士課程中退。専攻は憲法学、思想史。著書に『日本国憲法とは何か』(PHP新書)、『憲法改正がなぜ必要か』(PHPパブリッシング)など。平成14年に正論新風賞受賞。教育再生実行会議、法務省相続法制検討WTの各委員。

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    女性専用車両は必要ですか?

    世の中にあまたある女性優遇施策の中でも、とりわけ鉄道事業者が痴漢対策として導入する「女性専用車両」に複雑な思いを抱く男性も多いのではないでしょうか。痴漢が卑劣な犯罪とはいえ、冤罪による被害者がいるのもまた事実。みなさまにお尋ねします。女性専用車両は本当に必要ですか?

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    弱者は女性だけじゃない! 女性専用車両の不思議

     みなさん今日は。出羽の守代表の@May_Romaです。普段延々とネトウヨの悪口をいっているワタクシがこの媒体に出てしまうのはどう考えても炎上目的なんじゃないかという気がするのでありますが、本日は女性専用車両について考えてみたいと思います。 海外の方が日本に来てびっくりすることの一つが女性専用車両の存在であります。ワタクシは日本と欧州を往復しておりまして、時々外国人駐在員や出張者の世話などをやくこともあるのですが、「ええ!俺はこれに乗っちゃいけないのか。俺は痴漢ではない!!オーノーガッデム!!」と大騒ぎする外国の方を「まあまあ」となだめるのは面倒なので、そろそろアレは辞めて頂きたいと思っていたりします。 ちなみにサウジアラビアやチュニジアの人が日本に来ても、アレをみて凍ります。サウジの方はこうおっしゃりました。「日本はコンビニや街にエロ広告やエロい本が溢れている!でもまるで我が国の様じゃないか!そうか日本も実はイスラム教国だったのだね!!我々はトモダチだ。石油をもっと売ってやるぞ。ガハハハ」 その他にも辞めてしまえと思っている理由があります。弱者は女性だけじゃないんですよ。世の中。なのになぜ女性だけ沢山のコストをかけた車両をあてがわれて、まるで障碍者の様に扱われるのか? ワタクシの身内には事故や病気の後遺症で体に問題があるわけですが、仕事でも公共交通機関でも特に配慮されるわけではありません。見るからに具合が悪くても、血族や同じ会社の人間以外には気を使わないこの日本と言う島国では実態はそんなもんです。 健康体で仕事も適当にやっている様な女性と、事故の後遺症や病気で一年365日体が痛いけど働かざる得ない男のどっちが弱者かと言ったら、それは後者なんですよ。体が痛い人間も女性専用車両には乗れるんですけどね、視線に耐えられなくて諦めちゃう人が多いんです。これホントの話。 人道的観点から考えたらね、ホントに必要なのは女性専用車両じゃなく一年365日体が痛い人間用の車両なんですけども、どうも議論はそうならない。女性は弱者、弱者は隔離しよう、弱者は守ろう、という話になってしまう。足がない人間や心臓にペースメーカーが入っている人間だって殺人的に混む電車で通勤しているのに、彼らには専用車両はないわけです。欧州の大都市に女性専用車両がない理由 ところで欧州だと女性専用車両なんてありません。ロンドンで地下鉄で性犯罪があったから作れって話もありましたが、色々反対意見があってポシャりました。なぜないか?だって電車には女性以外にも様々な弱者がいます。老人、障碍者、字が読めない人。女性だけ特別配慮するのはその人達に対する差別になってしまう。電車に乗る様な女の大半は口があって歩けて殴れます。彼女達は人工心臓を付けた人や、事故で脳が半分になってしまった人に比べたら弱者ではありません。 さらに、欧州の場合、痴漢にあったら凄い勢いで罵声を浴びせたりグーで殴ります。男をグーで殴るんです。特にイギリスなんて女も体が巨大なので、身長180センチとか体重が150キロなんてのがゴロゴロしています。だから女性専用車両なんていらない。殴られるのがわかっているので痴漢をしないんです。痴漢して有罪にでもなったら会社は首ですからそれも怖い。 通勤電車も日本の大都市ほど混まないので痴漢のしようがない。これはロンドン、パリ、ローマ、マドリッド、フランクフルトなど、欧州の大都市どこも同じです。瞬間的に混むこともありますけど、その密度は日本よりもうんと低い。そしてラッシュの時間も短い。なぜかというと、そもそも人口が分散する街作りになっているので、日本ほど首都圏に人が集中しないからです。コスト削減に熱心なので家賃の安い郊外に移転している会社も少なくありません。 通信インフラは日本に比べたらボロボロですけど、ネットを活用した在宅勤務の人も多いのです。在宅だから通勤しないんです。そもそも同僚が嫌いだし会社には一秒もいたくないから在宅は大歓迎。 労働時間も短くて家に帰るのが早いので夜8時台で電車はガラガラ。サービス残業なんてないので自分の仕事が終わったら家にさっさと帰ります。帰ったら家事をやるんです。男性も家事をやらなかったら離婚です。旦那が家事をやらない、なんて愚痴は垂れません。「やらないからムカつく、じゃあ離婚」大変単純です。嫌なことは我慢しません。 仕事が適当なのでストレスが溜まらず、通勤も日本ほど大変ではないので、電車で性的欲求を解消しなくちゃならない人も多くはない。そもそも気に入った女性がいたら、直接ナンパした方が早いわけですけど。触ってどうするという話です。 日本の女性には女性専用車両の存在意義に関して議論するとか、「私は差別されている」と延々と言い張るのではなく、そもそも、なぜ日本の通勤電車はあんなに混むのか、混雑を解消するのはどうするべきなのか、なぜ痴漢してしまう人がいるのかを考える活動に取り組んで欲しいと考えております。 本当に生産的なのは、私は被害者だと延々ということではなく、男性と恊働しながら何かを提案する活動です。女性専用車両に乗り組んでくる男性を糾弾しても何も良くならないのです。関連記事■ 元AV記者の社会学者が分析 「俺はとってもリベラル」争いこそ滑稽■ 橋下市長vs在特会にみるエンタメ報道■ 中国人に狙われる生活保護の実態

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    女性専用車両は男性差別か?

     ジェンダー論の話をしていると男性から必ずと言っていいくらい、「女性専用車両とレディースデーは男性差別ではないのですか?」という質問が来ます。世の中に女性差別など残っていないと勘違いしている人ほど、こういう質問をしてくる傾向が強いように思われ、いつもため息が出ます。「逆差別」か否かが問題となるのですが、これは痴漢が歴史的には比較的新しい存在で、まだ「犯罪」としての理解が進んでいないから起きるのかもしれません。 「痴漢は犯罪です」という駅のポスター、私は最初に見たとき、「はぁ?」と思ってしまいました。「強盗は犯罪です」というポスターはないでしょう。なぜそれと同じような犯罪を「犯罪だ」とわざわざ強調し、啓発しなければならないのでしょうか? 女性専用車両の歴史は古く、1912年の中央線にさかのぼります(その後廃止されたわけですが)。当時は女子学生が増え、また「婦人」が男性と近接する状況自体を避けるべきと考えたからで、かなり古典的な空間感覚です。現代はもっと男性と女性の体が密着しています。 電車の優先席は「健常者差別」だと思いますか?もしそうでないとすれば、犯罪に特に遭遇しやすい人たちのために、空間を確保するというのは、優先席と同様に社会が認めるべきことではないでしょうか。日本の性犯罪の現況と痴漢 女性専用車両が問題でした。話をそこに戻す前に、日本の性犯罪の現況について少し確認しておきましょう。日本の強姦の認知件数は2012年に1240件。もちろんこれは、あくまで警察が把握した件数です。 強姦は親告罪といって、被害者が立件を要求しない場合、件数にはカウントされません。したがって、認知件数と実際の発生件数との乖離が常に指摘されています。 ただそれでも、1964年に戦後最高の6854件を記録し、最近のピークでは2003年に2472件だったものが、10年ほどで半分に減ったとすれば、実際の発生件数も減ったと考えるのが妥当ではないでしょうか。2003年と比べて、泣き寝入りをする人が2倍以上になったと考えるのは、どう考えても無理があるはずです。 日本は世界的に見ても、殺人や強姦の極めて少ない社会で、その点に関しては統計的にも、世界一安全な社会と言ってよいでしょう。もちろん女性が夜道を、男性とは少し異なる緊張感を持って歩いていることは、忘れてはならないことですが。 本題に戻りましょう。つまり日本の性犯罪の最大の問題点は、毎日、数限りなく起きているであろう痴漢なのです。これはたとえばアメリカのように、地下鉄はあっても満員電車のない社会では起きません。そもそもアメリカの地下鉄で、あんなぎゅうぎゅうづめが起きれば、懸念されるのは痴漢よりも、スリでしょう。たとえばナイフで肩ひもを切って、カバンごと取られるといったことがあっても不思議ではありません。 そういう意味では、痴漢は人口密度の高い地域固有の犯罪ということもできます。でもゼミの複数の留学生曰く、中国人なら(日本でも)その瞬間に女性がぐっと手をにぎって上に上げたり、ガンと足で踏んだりするそうです。女性専用車両は、優先席と同様に必要痴漢成立の歴史 鉄道に詳しい研究者として有名な原武史さんは、痴漢の成立を1950年代とした上で、その重要な条件として「和装から洋装への変化」と「スカートの中への幻想の変化」を挙げています(『鉄道ひとつ話ばなし』講談社)。前者はともかく、「スカートの中への幻想」って? これについては井上章一さんが『パンツが見える』(朝日選書)で詳細な議論を展開しています。パンチラを見たいという欲望自体が、社会的・歴史的に作られたものなのです。 和装からズロースへと移行した時代には、下着が見えることに対して、女性も羞恥心を感じていなかったのに、洋装とパンティの普及が、隠されるべきものとしてのパンティを立ち上げ、「パンチラという性欲」を作りだしたとされるのです。そして、それに触れることへの「過剰な欲望」が誕生し、痴漢と結びついたということになります。 痴漢は刑法上「強制わいせつ罪」にあたります。ですが、法律運用の実務では、下着の中に手を入れたケースを強制わいせつとして立件し、下着の上から触る場合や盗撮は、各都道府県の「迷惑防止条例」違反として、取り扱われています。女性専用車両は、優先席と同様に必要 それもあって、満員電車の車内アナウンスで「痴漢等の迷惑行為を見かけた場合は……」などと言う場合があるのですが、痴漢は「迷惑行為」ではなく、女性の人格を否定する「犯罪」です。なぜこんな重篤な人権侵害に、かくも無神経な男性がいるのでしょう。 「欲望」の成立自体が戦後のことで、「いたずら」程度の認識しかないからなのでしょうか? 強制わいせつの認知件数は、2012年に7263件。毎朝の痴漢が日本中で20件しかないわけがないはずです。 痴漢の冤罪事件があるのは確かです。両手を挙げた状態にして、疑いをかけられないようにする男性がたくさんいるのも事実で、男性の乗客の中で、痴漢をしている比率というのは、そうとう低いでしょう。でも、だとすればなおのこと、そのような可能性のない空間を確保するのは、必要不可欠な手段ではないでしょうか。 セクハラを含めて、性犯罪の定義権は、一義的には被害者にあります。つまり何をセクハラと考えるか、何を痴漢と感じるかは、被害者に最大の決定権があるのです。同じ行為を受けたとしても、好きな人なら「犯罪」とならないわけで、犯罪行為を外形的に定義するのが難しいからです。しかしそのことが、同様の行為を誰もが試してみてよい、ということを意味しないのは当然です。 「婦人専用車両」が導入された100年前とは異なり、今、女性と男性は、電車、職場、学校を共有しています。だからこそ、少なくとも優先席と同程度には、女性専用車両の必要性が認められるべきだと思うのです。国交省の資料を調べたところ、実は量的にも1編成の電車の総座席数に占める優先席の比率は、女性専用車両の座席数の比率とほぼ同じ。お年寄りに席を譲るのと同じ気持ちで、女性専用車両を認めるべきではないでしょうか。 男性のみなさん、毎朝通勤するたびに、体の特定の部位を触られるという恐怖感を想像してみてください。それを防ぐための措置を「差別」と呼ぶのですか? 私は中学の頃に電車で一度だけ痴漢に遭ったことがあるのですが、本当に不愉快な記憶です。関連記事■ 「清廉性」による内定取り消しはメディアの自殺行為だ■ 女性の活躍 男中心の企業文化を排せ■ 法規制の是非「自由は無制限ではない」「表現の自由を死守せよ」

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    女性専用車両がつくる「断絶」が被害への理解を阻む

     今年に入り、電車内での痴漢被害など性犯罪に関する記事をネット上でいくつか書きました。これらの記事をきっかけに今回、「女性専用車両について」寄稿依頼をいただいたのだと思います。 女性専用車両についての意見を聞かれれば、メリットもあり、デメリットもあると考えています。メリットは、痴漢被害から女性や子どもを守る効果がいくらかはあるということです(ただ、女性被害者に比べると少ないですが男性の痴漢被害者もいるので、彼らは無視されているとも思います)。 一方デメリットは、男性と女性との間に本来無用なはずの断絶をつくってしまっていることです。女性専用車両がつくる「断絶」が、被害への理解を阻む 少し前に、「いまの女子大生が5年後安心して母になれる社会をつくる」ことをビジョンとして掲げて活動している学生団体の代表をしている女子大生に取材しました。彼女が言っていたこんな言葉が心に残っています。最近よく耳にする、電車内でのベビーカー論争の話になったときのことです。 「(子どもがいる人といない人の間に)断絶がありますよね。しかも断絶があると余計断絶しようとする。知る機会がないから、『ベビーカー専用車両作れば?』という話になってしまう。でもそうやって断絶の連鎖が続いたら、子どもを育てられない社会になってしまいます」(引用:「お母さんの自己肯定感は子どもに伝わる」―女子大学生が考え始めたこれからの子育て:ウートピ) この言葉を聞いて、なるほどなあと思いました。専用車両があるからこそ断絶してしまうというのは、女性専用車両の話にぴったり当てはまります。 女性専用車両は本来、性犯罪から被害者を守るという目的があり、断絶があるべきなのは「加害者と被害者」のはずなのですが、現状では「男性と女性」の間に断絶をつくってしまっています。 女性専用車両によって2つの性別のうちの一方が「優先」されたことにより、「事情はわかるけれど全員が痴漢を行うわけではないのに何だか理不尽だ」という気持ちになる人もいるでしょう。人の考え方はさまざまなので、もちろん全く不満を感じない人もいると思います。でも逆に大きな不満を感じる人もいます。その「不満」が、実際に痴漢に遭う被害者に対しての理解を阻んでしまっていないかと懸念します。男性が男性から強制的に体を触られたら男性が男性から強制的に体を触られたら こういう言い方をすると女性からお叱りを受けることがあるのですが、痴漢被害に遭うことが少ない男性が痴漢被害の実態を想像できないことは、ある意味「仕方ない」ことです。ほとんどの男性にとっては自分の身に危険が及んだことがないからです。また、自ら被害を語ろうとする性犯罪被害者はまだ少数です。よほどの信頼関係がない限り、男性に対して被害を語ろうとする女性は少ないでしょう。 自分の家族が電車内で強制わいせつの被害に遭ったことがある男性を取材した際、その男性はこんなことを言っていました。 「私は家族が被害に遭ったことで加害者に対して激しい怒りを感じていますが、痴漢被害そのものよりも痴漢冤罪に怒っている男性も多い。本来多くの男性は、自分が痴漢被害に遭うことを想像するのは難しいのだと思います。女性が男性から受ける性被害は、男性が女性から性被害を受けるというイメージでは想像できない。男性が自分よりも強そうな男性から強制的に体を触られるということの方が近いのではないでしょうか」 性犯罪は加害者が「自分より弱い者」へ行う行為で、性欲のほかに支配欲が関係しているのではないかとも言われます。一般的に男性より女性の方が力が弱いため女性が被害に遭いやすく、被害に遭ったときに抵抗しづらいという恐怖があります。抵抗できない恐怖を想像するには、この男性が言うように「男性が自分よりも強そうな男性から強制的に体を触られる」と考えた方が想像しやすいかもしれません。痴漢を怖がると「自意識過剰」、被害に遭うと「隙があったから」 被害に遭う確率が女性よりも少なく、被害内容を聞くことも稀。想像するのもなかなか難しい。このため、男性にとっては被害者たちの感じた恐怖や屈辱よりも、繰り返し報道される痴漢冤罪や、「女性専用車両を我が物顔で使うオバサンたち」のイメージの方がリアルだったりします。 ネット上で有名な画像の一つに、女性専用車両についての街頭インタビューで「私は特にどこでもいいです」と答えた女性と「(ある方が)安心」と答えた女性たちのルックスの違いを比較するようなものがあります。この画像から感じられる「嘲笑」がまさしく、女性専用車両が作り出してしまった男女間の壁を表していると思います。 女性専用車両が必要だという女性を自意識過剰かのように言う一部の風潮の背景にあるものは、「実態に対する認識の差」です。女性と男性とでは、見えているものが違います。 「認識の差がある」と言うと男性から「仕方ないだろ」「男を責めるな」と言われ、「認識の差があるのは仕方ない」と言うと女性から「仕方ないという言い方はもやもやする」と言われることがあるので、本当になかなか難しい問題ですが、言いたいのは認識の差を前提に議論することが必要だということです。以前書いた記事に対して、「ほとんどの男性は痴漢なんてしないし、ほとんどの女性は痴漢でっちあげなんてしない。大多数の善良な男女で協力すればいいのに、うまくいかない不思議」という内容のコメントがありました。全く同感です。 得をするのは痴漢加害者だけ男女が対立したとき、得をするのは痴漢加害者だけ 置かれた立場の違う人が断絶することなく、お互いへの想像力を持つためには、本当は女性専用車両がない方が良いのだと思います。女性専用車両がない状態でも、電車内で性犯罪に遭わないことが一番です。仮にも先進国と言われる日本で、痴漢対策として女性専用車両を採用しなければならなかったことは恥ずかしいことです。わざわざルールを設けなければ最低限のモラルが守られなかったのです。 2011年に警察庁がまとめた「電車内の痴漢撲滅に向けた取組みに関する報告書」によれば、2009年における電車内での強制わいせつの認知件数は340件。迷惑防止条例違反で立件される痴漢行為の検挙件数は3880件でした(どちらも全国)。ただし、同調査では被害に遭った人のうち警察に届けた割合は10分の1という結果もあり、犯罪の性質上、認知・検挙件数ともに実態を正確に反映した数とは言えません。 電車内での強制わいせつとは、これまでの例では「下着の中まで手や指を入れること」「露出した陰部を被害者の手などに押し当てること」などがそれにあたるとされています。 私は都内の高校に通っていた頃、電車内で何度も痴漢に遭いました。下着の中に手を入れられ、性器の中に指を入れられることもありました。被害に遭っていたのは私だけではなく、同級生の中には精液をかけられたり、2人の男性から同時に被害を受けたりした友人もいました。私も友人の多くも、親や警察に相談していません。大事にしたくない、恥ずかしいという気持ちもありましたが、理由の一つは痴漢被害があまりに日常茶飯事だったからです。 今、自分が子どもを持つ年齢になって、女子高生が電車という公共の場で日常的に性犯罪に遭うということが、いかに異常なのかと感じます。被害の内容を記事に書くと、「隙があったのだろう」「被害に遭う方が異常だ」と言われることがありますが、こういう声がある限り、被害の実態を伝えていかなければいけないと思っています。今、被害に遭っているけれど声をあげられない人に代わって、声をあげられる元被害者が訴えていく必要があります。 繰り返しになりますが、痴漢犯罪は男性対女性の問題ではなく、加害者対それ以外の問題であり、加害者ではない人たちが協力する必要があります。また、子どもが被害に遭うことも多くあり、子どもを被害から守れないのであればそれは大人対子どもの問題です。痴漢加害者に対する怒りが女性に対する怒りにすり替えられたとき、得をするのは加害者だけです。痴漢犯罪を根絶するためには、電車内でおきている痴漢行為がどれだけ卑劣であってはならないことなのかをまず知ってもらうことが必要です。 女性専用車両をつくりだしたのは女性ではない女性専用車両をつくりだしたのは女性ではない 痴漢被害の内容を記事に書くと、「痴漢冤罪についても調べろ」「女性専用車両から身体障碍者を追い出す女性乗客の存在を無視して一方的に痴漢被害の深刻さを語られてもふーんとしか感じられませんが」といったコメントが届くことがあります。でも、被害を訴えることは、男性全体を敵視することでも、痴漢冤罪や女性専用車両の使い方を間違える女性の存在を無視することでもありません。また、痴漢犯罪が減れば、痴漢冤罪も減ります(痴漢冤罪には取り違えとでっちあげの2種類があるとされますが、少なくとも前者は減ります)。 女性専用車両をつくりだしたのは女性ではなく、痴漢加害者です。女性が被害を訴えなければ、女性が権利を主張しなければ女性専用車両はなかったというのであれば、被害者は黙っておけという話になってしまいます。 先進国と言われる日本で、なぜ女性専用車両が存在するのでしょうか。女性専用車両には一定の効果が期待できますが、根本的な解決策ではありません。電車内で誰も性被害に遭わせないモラル、性犯罪を絶対に許さないという意識が今よりも必要です。「東京の電車は殺人的混雑だから仕方ない」と言われることがあります。確かに首都圏の通勤電車の混雑は異常ですが、「混んでいるから仕方ない」という免罪符をわざわざ加害者に与える必要もないとも思います。  今後の被害を防ぐためにも、被害経験のある者が口をつぐんではならないと思っています。被害を減らしていくために、今後どのような課題に取り組むべきかについては、「電車内での「強制わいせつ」が年間340件起こっている日本(わかっているだけで)」(Yahoo!個人)で書きました。ご興味のある方は読んでいただければ幸いです。関連記事■ ベビーカーマーク「若い母親甘やかし過ぎ」と年配女性が苦情■ 女性の活躍 男中心の企業文化を排せ■ 女性も「育児より働け」法案に異議あり

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    「清廉性」による内定取り消しはメディアの自殺行為だ

    も、参与観察に基づいた論文があります。 結論からいうと、日本テレビの内定取り消しは、大変な時代錯誤と性差別に基づくものだと私は考えます。大学院を含めて私のゼミには今まで、広義のセックスワーク(性労働)と呼ばれるものにアルバイトで関わる学生さんが複数いました。「広義の」と表現したのは、セックスワークを買売春に限定せず、AV女優、キャバクラ、バニーガール、ホステスなどを広く含めて考えるからです。ホステスは「セックスワーク」なのか このセックスワーク、実は定義をしようとするとかなりやっかいです。何らかの意味で「性的サービス」が金銭を対価として提供されることを指すわけですが、身体接触がないものについてどのように判断するかは、学問上の概念としても、合意された基準があるわけではなく、そのときの議論によって違いが生じます。 今回問題となったホステス。いわゆる水商売と言われるものですが、銀座にある普通のクラブのようですので、顧客との身体接触は原則としてはなく、あくまで客との対話が重視されるはずです。このケースで女性の「性」が取引されたと見るのかについては、議論の余地があるでしょう。むしろこの仕事で重要なのは、相手の話を受け止め、楽しませる対話力のようなもので、「性的魅力とは無関係」との立場もあり得ます。アナウンサーのトレーニングに向いているかもしれません。 ただ、だとすると日本テレビの判断は、セックスワークですらないものについてまで「前科」を問うことになり、その立場はより広い範囲の職業について問題視しているということになります。ここでは、女性の外見を含めた「性」がホステスという「商品」の重要な一部であったと考えることにして、これを広義の意味でのセックスワークに含めて、議論してみましょう。あえて、日本テレビ側から見て「より『重罪』である」という仮定に立って議論をするのです。 セックスワークという概念は、そもそもジェンダー論の中でこれを認めるかどうかについて、議論が分かれます。女性の性が男性によって買われているという点を深刻視する立場に立つ人たちは、これを「ワーク(労働)」とは認めず、搾取であると考えます。「セックスワークを認める」という議論自体が実は、最低限の「自己決定」が、働く当事者の側にある、ということを前提とするのです。私はその立場に立ちます。 今回のケースでは女性は、人に頼まれてこのアルバイトをしたと仄聞していますが、いずれにせよ、(強制ではないという意味では)自分の意思で就労しています。この「自己決定」を前提とする議論が登場したことで、買売春やその他のセックスワークに関する議論は、難しい判断を迫られるようになりました。自ら「望んで」売春をしたり、アダルトビデオに出たりしたのだとしたら、そこには「労働」があるだけで、性差別はないのか? 男が女を買う、という問題を消去してこの問題を論じてよいのか、といった批判を、セックスワーク論に立つ私は、受けることになるわけです。 しかし日本テレビが今回取った立場は、そういったフェミニズムやジェンダー論の一部からある反対意見とは180度方向の違う反対論です。日本テレビは、アナウンサーには「高度な清廉性」が求められ、ホステスという職歴はそれにそぐわないと主張したのですが、この「清廉性」とは一体何なのでしょうか? 1956年の売春防止法制定にいたるまでの議論の中には、「売春は性差別である」という婦人解放論からの主張とは別に、キリスト教矯風会などを中心とする女性たちから「売春は道徳的に許されない」との強い売春反対論がありました。彼女たちは(キリスト教的な)道徳から考えて、性を売ることは許されず、売春婦というのは、(意に反した場合もあるとはいえ)堕落した、もしくは救済すべき存在だと考えたのです。売春をする女性を「醜業婦」と呼んだのは、そうした考えを反映するものです。キャバクラ通いの男子学生もアナウンサーNGに? そして今回の日本テレビの「清廉性」という発想は、このキリスト教矯風会の「醜業婦」という視線を思い起こさせる時代錯誤的なもので、非常に差別的な考え方であると考えます。そもそも何をもって「清廉性」と呼ぶのでしょうか? 「職業に貴賎はない」などというのは当然のことです。ホステスが仮にセックスワークだったとして、それが「清廉性」に欠けるというのであれば、セックスワークに従事する人たちすべてを差別するものです。よりによって報道に携わるアナウンサーについて、そうした視点から内定を取り消すというのは、メディアとしての自殺行為であると考えます。 また、性別を逆にして考えれば、仮にキャバクラでアルバイトをしたことのある女子学生が、アナウンサーとして不適格なのなら、キャバクラに通っていた男子学生も、アナウンサーとして不適格なのではないでしょうか? 売る側と買う側で評価を変える理由がどこにあるのでしょうか? テレビ局は志望する男子学生にどのような風俗産業に通ったかを申告させるのでしょうか? 風俗で仕事として働く側とときおり行くだけの客とは違う、との反論も受けましたが、週1回働く人と、週1回通う客はどう違うのでしょうか? それが2回になったからといって何か違うでしょうか? もし「清廉性は女性のみに求められる」と言うのであれば、それこそ性差別であるはずです。 あくまでも、問題なのは女子学生のアルバイト歴ではなく、特定の職業を貶めた日本テレビの姿勢にあるのです。「醜業婦」のごとく見なす視線と、買う側の男性を不問とする性差別。なぜ女性のアナウンサーにのみ、内実の不明な「清廉性」なるものを求めるのか、こうした発想が時代錯誤であり、性差別であることが、今回確認されたと考えます。

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    「AV記者で何が悪い」は性差別?

    マエであって、ホンネはどうなんでしょう? ウーマノミクスと呼ばれる女性活躍に注目が集まる今、「職業と性差別」の問題について改めて考えたい。